1: 2011/03/27(日) 22:07:31.79
唯「このお菓子、おかしーし! どう? 私のダジャレ?」

澪「いや、どうって言われても……」

律「下手なシャレはやめなしゃれ」

唯「おお! 上手いねりっちゃん」

律「……ダジャレを褒められるのってなんか恥ずかしいな。ていうか、何で急にダジャレなんて言い出したんだ?」

唯「いやー、実は昨日読んだ本にさ……うっ」ズキンッ!

5: 2011/03/27(日) 22:16:07.04
唯「あ、あれ?」
 
梓「どうしたんですか? 唯先輩」
 
唯「う、うう……い……痛い」ガタッ
 
紬「どうしたの? 大丈夫? 唯ちゃん!」
 
唯「う……あ……」
 
澪「ゆ、唯!」

律「誰か、えっと、梓! 先生よんでこい!」

梓「は、はい!」ダッ


6: 2011/03/27(日) 22:22:52.58
1月14日

 平沢唯は少々不機嫌だった。急に心臓が痛くなって倒れた後、気がついたときには鼻に妙な形のチューブが付けられていた。
確か、カニューレとかいった名前だったはずだ。看護師さんがそう呼んでいるのを聞いた気がする。
 
 鼻がかゆい、チューブのせいだ。腕もかゆい、点滴のせいだ。頭が重い、病室独特の雰囲気のせいだ。

 今日の昼には、両親と憂がお見舞いに来てくれることになっている。そのときに自分の病気についても説明されるはずだ。
まあ、自分は健康優良なので、それほど重い病気ではないはずだ。大丈夫、大丈夫。

「大丈夫……だよね……」

7: 2011/03/27(日) 22:27:09.87
1月19日

 平沢唯が突然倒れて病院に搬送されてから数日がたった。

 ガヤガヤとうるさい休み時間の教室で、律と紬は間に机を一つはさんで向かい合って座っている。

「なあムギ、唯の病気って、やっぱり重い病気なのか? 病名を聞いても私にはさっぱりなんだけど……」
律のいつもの元気の良さはなりを潜めている。表情もどこか暗い。

「……軽くはない、いえ、そうね……重い病気だわ。心臓病だもの」

「重いって……でも、あれだろ? 手術すれば治るんだろ?」

 焦燥感が押し寄せる。律は背中に氷の塊でも突っ込まれた様に、ぞくりとした。急に酸素が薄くなったみたいに呼吸がしづらい。

「治るわ。治るに決まってる」紬は自分に言い聞かせるかのように呟いた。

「だ、だよな。あー、良かった。うん、唯は治るに決まってる! 大丈夫だ!」

「ええ、そうよ。治るのよ。そう決まってるんだもの」

 紬の瞳には、妙な迫力があった。その瞳をみて、律は不思議と安心している自分に気づいた。


10: 2011/03/27(日) 22:32:03.69
1月24日

「ねえ、憂」唯はベッドに寝転んだままの態勢で、妹に話しかけた。

「なあに? お姉ちゃん」

「私、氏ぬのかな?」

「……そんなこと言っちゃダメだよ。大丈夫、治るよ」

 憂の言葉には何の保証もない。医者による自分の病気についての説明は正直言って半分も理解できなかったが、
それでも難病であることはかろうじてわかった。どうやら心臓移植が必要であるらしいことも。

「ドナーが見つかって、心臓移植を受けられれば、また学校にも通えるようになるよ」

 憂は必氏に励まそうとしてくれているが、日本で心臓移植を受けるのが難しいことなんて日本人なら誰でも知ってる常識だ。
ならば海外に行けばいいのかと言えばそういうわけでもない。心臓移植を待っている患者に対して、ドナーが圧倒的に少ないのだ。
自分が氏ぬ前にドナーが現れる可能性なんて、1%にも満たないはずだ。

「憂、ごめん……一人にしてくれるかな」

「お姉ちゃん……私、漫画買ってくるね。お姉ちゃんの好きなやつ!」

 マンガなんて読んでも気分が晴れる気はしなかったが、憂の気遣いがうれしかった。



12: 2011/03/27(日) 22:39:34.38
2月5日

 ギターを弾きたいと、唯は入院生活が始まってから節に思うようになった。

 好きな時にギターを弾ける日常というのは、存外素敵で、大切なものだったようだ。

 お菓子が食べたい、特にムギちゃんが用意してくれるおいしいケーキ。自分たちのバンド名の由来にもなった
放課後のティータイムは唯にとって最上のひと時だったようだ。

 もっと生きたい、氏にたくない。病院にいると、氏がとても身近なもののように感じるのだ。氏にたくない。もっと生きたい、もっともっと生きたい。
人はいつか氏ぬからこそ、生きたいと思うんだ。それが、わかった気がした。まるで悟りの境地に達した気分だ。

 普通で退屈で変わり映えがなくて、だけど素敵で刺激的で楽しい、そんな日々にもっと感謝しておけば良かった。感謝しなければならなかった。

「ギー太、どうしてるかな?」

 今日の夕方、軽音部のみんながお見舞いに来てくれることになっている。その時にギー太を持ってきてもらうことにしよう。

「病院では、ギター弾いちゃダメだろうけどね」

15: 2011/03/27(日) 22:53:08.66
2月10日

「ねえ……お母さん」

 唯はベッド脇の丸椅子に座っている母親に話しかけた。

「なに? 唯」母は自分の手を唯の手に重ねながら、優しい声音で答える。

「私、ちゃんと氏ねるのかな? ほら、氏ぬのなんて初めてだし」

「……唯、冗談でもそんなこと言わないでちょうだい」

「あはは、病人専用ギャグだよ」唯は目を細めながら、母の顔を眺めた。

 唯の笑い声は乾ききっていて、生気が感じられない。その顔に無理やり浮かべられた笑顔をみて、
唯の母は心を締めつけられたような感覚をおぼえた。

「……唯、病気が治ったらどこかにでかけましょう? お父さんと憂と、それに和ちゃんと、軽音部のお友達も連れて」

「どこかって、どこ?」

「どこでもいいわよ? 唯の好きなところ」

「……良いなあ、行きたいなあ……」

 本当に行けるだろうか、本当に私の病気は治るだろうか。

 どこか頼りなく鼓動のリズムを刻む自分の心臓を信じることは、唯にはできそうになかった。


17: 2011/03/27(日) 23:03:40.08
2月15日

 唯は音楽室で、ギー太を肩に下げて立っていた、傍らには軽音部の面々も一緒だ。

 紬がいつも入れてくれる紅茶の葉の香りがかすかに漂っていて、唯はなんだか気分が落ち着くのを感じた。
久しぶりにギー太の弦を弾いてみると、妙に懐かしい気分になった。

「ほんの一カ月弾かなかっただけなのにね。ひさしぶり、ギー太!」

 もっと弾きたい、もっと練習しよう。そうだ、ムギちゃんの紅茶が飲みたい、ケーキも。

「ねえ、ムギちゃん、今日のケーキはなに?」

「唯ちゃん、唯ちゃんは、まだケーキ食べちゃダメよ」

「え? どうして?」



――――だって、唯ちゃんは――――

20: 2011/03/27(日) 23:08:25.30
 唯はそこで目が覚めた。どうやら楽しい夢を見ていただけのようだ。

 目頭が熱くなり涙が出そうになったが、必氏でこらえた。今日もみんながお見舞いに来てくれるはずだ、
泣き腫らした目を見せて心配させるわけにはいかなかった。



「……儚いものだね、人生なんて……」

 人生は儚い。けれど、儚いからこそキラキラと光り輝いて見えるのかもしれない。

 そう、まるで、カゲロウのように。

28: 2011/03/27(日) 23:16:42.47
 2月16日

 夜、琴吹家の自室で、紬は深いため息をついた。そばには執事である斎藤の姿もある。

「それで、結局バチスタ手術はどうなの? 理屈は良いわ。 結論を教えてちょうだい」

 普段の穏やかな表情とは違い、紬の眉間には深いシワが寄っている。

「バチスタ手術では、遠隔心不全回避率が低く、術後3年の心不全回避率は25%前後であると報告されています。
しかし、平沢唯様のご病気の治療法はバチスタ手術以外には……心臓移植しか」

「心臓移植……ね」

「はい、しかし、それは……」斎藤は顔を俯かせて口ごもる。

「現実的ではない、と」紬はまるで鷹のような眼で斎藤を射抜く。

30: 2011/03/27(日) 23:24:27.15
「ねえ、斎藤? あるでしょう? ひとつだけ、すぐにでも心臓移植手術を受ける方法が」紬の口調は冷静だが、若干いらだちの色を帯びている。

「お嬢様……それは」

「合法かどうかなんてどうだって良いのよ。大切なのは唯ちゃんが助かるかどうか、ただそれだけ。すぐに手配しなさい、斎藤」

 紬が幼いころから傍仕えとして見守り続けてきた斎藤には、今の紬には何を言っても無駄であるということが手に取るようにわかった。

「……かしこまりました。お嬢様のご随意に」そう言ってうなずいた斎藤は、足早に部屋をあとにした。


 唯の病気は心臓移植を受けられれば劇的な回復が望める。
 
 しかし、心臓を提供するドナーは世界的に不足しており、特に日本では心臓移植手術を受けるのは絶望的とされている。
ならばどうすればいいのか? 答えは簡単だ。


――――ドナーを用意すればいい――――


「待っててね、唯ちゃん。 全ド協なら、すぐにドナーが見つかるわ……」

32: 2011/03/27(日) 23:34:19.84
3月15日

 平沢唯はとても上機嫌だった。急転直下、一発逆転、自分に適合するドナーが見つかったのだ。

 まさかこんなに早くドナーが見つかるなんて。自分はなんて幸運なのだろうか。

 数日前には氏にたくない、もっと生きたい、そんなことばかり考えていたというのに。
 
 今は、もっと設備の整った病院に転院するためにストレッチャーに乗せられた状態で車に乗りこんでいるのだが、
付き添いで同乗するお医者さんが中々やってこないので待ちぼうけを食わされている状態だ。ああ、早くお医者さん来ないかな、
などと考えていると、白衣姿で年のころは40くらいの男が車の助手席に乗り込んできた。

「フーッ」男は車に乗り込むと急いでドアを閉めて、大きく安堵の息をついた。

「遅かったですね、待ちくたびれちゃったよ、先生」

「え? せ、せんせい?」男は驚いて少々どもりながら唯の方へと振り向いた。

34: 2011/03/27(日) 23:39:58.22
「先生じゃないの? 白衣着てるのに」

「あ! えっと、そう、先生なんだけどね。うん、僕はお医者先生なんだけど、ちょっと乗る車を間違えちゃったみたいだ」

 男はなぜかとても慌てているようだ。気が動転しているのか、必氏に手をおたおたと動かすしぐさは、ちょっとコミカルで面白い。

「そっか、じゃあまだまだ私は待ちぼうけだね。主治医の先生が中々こないんですよー。なんかね、トランスターミナルっていう
最新設備の整ったとこに連れてってくれるらしいんですけど……」

「トランスターミナル? 奇遇だね、僕もトランスターミナルに行くんだよ。今から」

「ホントに? トランスターミナルってどんな病院なんですか? 主治医の先生は詳しく教えてくれないんです。最先端の医療が受けられるところだって言われたんですけど……」

 唯の質問に男は顎に手を当てて数秒考え込んだ後、あっけらかんと答えた。

「ごめん。僕もよく知らないんだ」

「え? お医者先生なのに?」

「うん、お医者先生なのに」男はスパっと断言する。

35: 2011/03/27(日) 23:49:46.82
「うーむ、変わった先生ですなあ」ストレッチャーに寝ころんだ態勢で、唯は腕を組んでぼやく。
腕を組む時に点滴のチューブが揺れてちょっと痛かった。

「ハハ……あのさ、君、名前は?」

「唯ですよ。平沢唯」

「僕はやす……安田です。よろしく」

「安田先生かあ、下の名前は?」

「……ヤスオです」

「安田ヤスオ?」

 語呂合わせのような名前に唯は吹き出しそうになった。語呂のよさが気に入ったのか「やーすだー♪ やーすおー♪」と節をつけて口ずさんでいる。

「平沢さんは、その、どういう病気というか……」

「唯で良いですよ。そのかわり先生のことヤスヤス先生って呼ばせてね」

「や、ヤスヤス先生? えっと、じゃあ唯ちゃんはどこが悪いの?」

「しんぞーです。なんかしんぞーがビヨーンってなる病気なんだって」

「ビヨーン?」

「そう、ビヨーン」唯は両手をゴムを引っ張るように広げた。腕を動かすとまた点滴のチューブが揺れて痛かった。
もう腕を動かすのはやめよう、と少し反省した。

36: 2011/03/27(日) 23:54:37.29
「なんかね、心臓移植の手術を受けなきゃいけないらしいんですよ。で、その手術を受けられるのは、トランスターミナルだけなんだって」

「……へえ、そっか、そうなんだ」ヤスオは何かに納得したように数回うなずいた。

「突然だけど唯ちゃんって血液型は何型?」

「血液型? AB型※ですよ」

「そっか、なるほどなるほど」

 何がなるほどなの、ヤスヤス先生――と唯が言いかけた時、ふいにドアが細く開いて、隙間からスーツの男がこわばった顔を覗かせた。

「よかった、こちらにいらしたんですね。さ、行きましょう」

 スーツの男に促されたヤスオはシートから降りながら、唯に小さく手を振った。

「じゃあね唯ちゃん。君は頑張るんだよ」

「え? 君はって?」

 怪訝そうな表情の唯にニッと微笑みかけると、ヤスオは急いで車から離れた。




※本来の平沢唯の血液型とは異なります。

37: 2011/03/27(日) 23:59:55.34
3月16日

 トランスターミナルに転院した翌日、唯は一人ベッドの上で寝ころんでいた。

「暇だなー。ヒマでヒマでマヒしそう、なんてね」

「駄洒落かヨ、しかもチョット下手くそネ」いつの間にか唯の部屋に居た大男がぼそっと呟いた。

「うおう! びっくりしたー! だ、誰?」

「看護師だヨ、検温の時間ネ」そう言って看護師は体温計を差し出してきた。唯も慣れた手つきでそれを受け取り脇に挟む。

「もう、部屋に入る前に声かけてよね。看護師さん!」

「かけただロ、キミが聞いてなかっただけヨ」この看護師は純粋な日本人では無いようで、言葉に少々変な訛りが付いている。

「ねえ、看護師さん」

「なんだヨ」

「私、助かるのかな?」

「キミのオペは明日だったネ、大丈夫ヨ。ウチの医師は日本でトップクラスだからナ」

 看護師は右目を閉じてウィンクしながら、唯を安心させるように言った。

39: 2011/03/28(月) 00:10:28.37
「うん、そうだね。お医者先生を信じないとね!」

 そういえば、昨日ちょっとだけ喋ったヤスヤス先生はどうしているだろうか、と少しだけ気になった。

「ねえ看護師さん、安田先生ってどうしてる?」

「ヤスダ先生? ダレダ、ソレは?」

「え? 安田ヤスオ先生だよ、昨日ここに来たと思うんだけど、知らない?」

 看護師は考え込むようにこめかみに人差し指をあてている。そして、数秒なやんだ後にこう答えた。

「ああ、ヤスオ。なるほどネ、彼のことかヨ。アノ人は、アレだ、入院してるヨ」

「え! 入院してる? どこか悪いの?」

「ああ、ワルいといえばワルいが……まあ、キミが気にするようなことじゃないヨ。キミは自分の病気治すことだけかんがえろヨ」

「え、でも」

「この話はオワリ。キミはキミのことだけ心配してればイイヨ」

 看護師の語調には有無を言わせぬものがあった。唯は気になったがこれ以上聞いてもこの看護師は答えてくれないだろうなと
思い、質問するのはやめておいた。


43: 2011/03/28(月) 00:24:25.50
5月21日

 白を基調とした病室で、平沢唯はベッドに座ってマンガを読んでいた。

「うーん、このマンガ飽きちゃったよ。新しいの読みたいなあ」

 その時、スライド式の病室のドアがガラリと開いた。

「おーす、唯! 今日もお見舞いに来てやったぞー」

「あ、りっちゃん! おーす!」

 現れたのは律だった。後ろには軽音部のほかの面々の顔も見える。

「唯先輩、調子はどうですか? 手術からもう二カ月ほど経ちましたが」

 後輩の梓は心配そうに唯の顔を覗き込んだ。しかし、そんな風に心配されるほど体調が悪いわけではないのだ。

「大丈夫だよ! 元気有り余ってるんだもん、それに、もうすぐ退院できるよ!」

 唯は鼻息荒く捲くし立てた。元気だということを示すように、座ったまま空手の正拳突きの真似事をしている。


46: 2011/03/28(月) 00:30:51.90
「だめだぞ、唯。安静にしてなきゃ」澪は唯の体を気遣ってひざ下までめくられていた掛け布団をかけなおした。

「元気そうで何よりだわ、唯ちゃん、退院したらまた一緒にケーキ食べましょうね」

「ありがとうムギちゃん! あー早くケーキ食べたいなあ、お医者さんに止められてるんだよー」

「まったく、唯は入院してても相変わらずだな」

 澪は呆れ混じりに呟いた。しかしその顔には明らかな微笑みが浮かんでいる。

「この分なら今すぐにでも退院できるんじゃないか?」

「うん、すーぐ退院しちゃうからね! みんな、待っててね」

――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――
―――――――――――――――
―――――――

 手術は無事成功し、唯の状態は急速に回復へと向かっている。今は術後の経過入院で様子を見ている状態だ。

「はあ、夜はやっぱり暇だよー。皆が病院にお泊りしてくれたら楽しいんだけどなー」

 面会時間が終了すると当然みんな帰ってしまうので、夜は暇で仕方ない。消灯時間も過ぎているので本当は
寝なければならないのだが、どうも目がさえてしまっている。

「うーん、図書室で借りた絵本でも読もうかな」

48: 2011/03/28(月) 00:36:32.98
 ベッド横に置いてある電気スタンドのスイッチを入れて、絵本を開く。タイトルは『ブロスと愉快な仲間たち』だ。

「さーて、どんなお話なのかなーって、あれ? なんだろこの紙」

 絵本を開くと、1ページ目に地図が挟まれていた。地図の裏には『いつかキミがこの病院にいることがどうしても
耐えられなくなったとき、この地図を頼りに異世界へ脱出してごらん』と書かれていた。


「異世界かあ……冒険だね! 面白そう!」

 地図に示された場所はトランスターミナル内の森の奥で、唯の好奇心を存分に刺激した。

「ようし、上着来てー、お菓子もってー、唯隊員しゅっぱつ!」

 善は急げとばかりに唯は病室を飛び出した。廊下は既に消灯されていて薄暗いが、それが余計に冒険心をくすぐる。

50: 2011/03/28(月) 00:41:33.43
「でも外に出るにはどこから行けばいいんだろ? エントランスから出て行ったらさすがに看護師さんにばれちゃうよね」

 悩みながらもとりあえず廊下を進んでいくと、病室とは少し毛色が違う雰囲気のドアから看護師が出てきた。
唯は咄嗟に物陰に隠れてやり過ごす。

「危ない危ないばれちゃうトコだったよ……でもあの看護師さんが出てきた部屋はなにかな? 秘密の通路があったりして」

 好奇心にまかせて唯はその部屋に入っていった。しかし、期待したような通路はなく、そこは普通の病室のような部屋だった。
唯一のベッドには、ごてごてとした機械に繋がれた男性患者の姿があった。

「あ、ご、ごめんなさい! 普通の病室だとは思わなくって! 勝手に入っちゃいました……」

 慌てて唯は謝罪し頭を下げる。

53: 2011/03/28(月) 00:52:10.69
「あれ、もしかして、唯ちゃん?」

 聞き覚えのある声がして、唯は頭をあげて男性患者の顔に視線を合わせた。

「え? あ……ヤスヤス先生!ど、どうしたの! なんか、凄そうな機械にいっぱいつながれてるけど……」

「いや、ちょっとね、人工心臓うめこんじゃったんだよ。あはは……」

 どうということもないという風に、ヤスオは笑顔をこぼした。

「人工心臓って……大丈夫なの? ヤスヤス先生」『人工心臓』という言葉の響きに唯は急に血の気が失せた気がした。

「ああ、大丈夫。すこぶる調子がいいくらいさ。いや、まあ、ちょっとしんどいんだけどね。『調子はいいけど超しんどい』なんてね」

 そう言って笑うヤスオの表情は優しげだった。

「唯ちゃんは、どうしてこんなところに?」

「えっと……ちょっと、冒険に……」

「冒険?」

「うん、地図を見つけたの。それで、その地図に描かれた場所にちょっと行ってみようかなって。この建物から出てすぐのところにある森の奥なんだけど」

54: 2011/03/28(月) 01:01:38.81

「……冒険か……それ、明日にする訳にはいかない?」

「明日? どうして?」

「明日なら、僕も一緒にいけるかなって思ってさ」

「え、で、でもヤスヤス先生、こんなにたくさんの機械に繋がれてるのに大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、明日、そうだな、中庭あたりで待ち合わせしよう。11時、11時を一分過ぎても僕が来なかったら、
悪いんだけど唯ちゃん一人で行ってくれるかい?」

 ヤスオの体調は心配だが、本人がこう言っているのだし、それに冒険の旅は一人でするよりも二人でした方が楽しそうな気がした。

「うん、わかった。11時だね。中庭の大きな木の下で待ってます」

「うん、約束」ヤスオは右手の小指を唯の方へと差し出した。

「えへへ、約束!」

 唯は指切りを交わした後、笑顔で自分の病室へと帰った。

56: 2011/03/28(月) 01:08:12.33
5月22日

 夜11時まであと5分弱、といった時間にヤスオは現れた。

「ヤスヤス先生! 来てくれたんだね」

「あたりまえだろ、唯ちゃん。約束したんだから」

 ヤスオの足取りはしっかりしたものだったが、胸の前に妙なハンドルが付いている。まるで手回し式で氷を削るかき氷機に
ついているようなハンドルだ。ヤスオはそのハンドルを右手でくるくると回転させながら唯の方へと近づいてきた。

「ヤスヤス先生、その胸についてるの、なんですか?」

「これ? これは、あれだよ、今はやりの手回し式補助人工心臓。名前は『モーリー』っていうんだけどね。『モーリーで元気モリモリ』、なんちゃって」

「あはは、手回し式の心臓なんて聞いたことないよー」

「いやいや、本当なんだけどね。実際このハンドル回すのやめちゃったら、僕氏んじゃうから」ヤスオはなんでもないことのように話すが、その内容は正直言って唯には驚愕だった。

58: 2011/03/28(月) 01:13:24.06
「え、う、嘘! 大丈夫なの? そんな状態で出歩いたりして」

「大丈夫だよ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけで良いから、僕も冒険してみたいんだ」

 そういうヤスオの顔はまるで幼い少年のようなあどけなさだった。

「うーん、わかった。でもちょっとでも体調が悪くなったら言ってね」

「ああ、そうするよ」






 とりあえず、唯とヤスオは地図に従って歩き始めた。冒険の旅の始まりだ。と言っても、所詮は病院の敷地内
でのことなので、目的地にはほんの十数分で到着してしまったのだが。

「ここ、みたいだね」唯が辺りを見回すが、特に変わったところはない。森の奥で、少々開けた原っぱのように
なっているだけだった。ここが、地図に描かれていた異世界というやつなのだろうか。

「唯ちゃん、こっちこっち、大発見だ」

「え?」

60: 2011/03/28(月) 01:19:55.03
「これ、この穴、たぶん防空壕だよ」ヤスオが示した場所には直径1メートルくらいの穴がぽっかりと開いていた。
それはまるで異世界への扉のように唯には思えた。

「ちょっと暗いな、明かりがないと中には入れないかも」

「あ、大丈夫ですよ、懐中電灯持ってきたから」唯はポケットからペンライト型の懐中電灯を取り出し、穴の中を照らしてみた。中は結構広いようだ。

 唯は懐中電灯で照らしながらその穴の中へと入って行った。ヤスオもハンドルをくるくる回しながらそれに続く。

「まるで、秘密基地みたいだな。そういえば子どもの頃、空き地に作った秘密基地のなかでマンガ読んだりしたなあ」ヤスオは昔を懐かしむようにつぶやいた。

「私も私も! 幼馴染の友達と、妹といっしょにダンボールで秘密基地作ったことあります」

 唯とヤスオは隣同士で壁に寄り掛かる形で地面に座り込んだ。

「はは、今思いだすと、すっごくくだらないんだけど、ガキんちょだったときは楽しくてしょうがなかったんだよね」

「私も、すっっっごく楽しかった。日常にありがとうって奴ですね」

「日常にありがとう?」

61: 2011/03/28(月) 01:25:09.90
「うん、私、病気になってから生きてるってことに感謝するようになったの。『明日はもう生きられないかも』って思いながら過ごすと、
一日一日がどんなに大切で、貴重で、特別なのかがよくわかるんですよ。そういうのに気付くと、過去の何でもなかったような日常も、
とっても大切なものだったんだって思えるようになったの」

 生と氏は表と裏なのだ。氏を意識するからこそ、生きていることを、日常を謳歌することができる。

「私ね、高校の軽音部に入ってるんです。病気にかかる前は毎日ギー太弾いてたの」

「ギー太?」

「あ、ギターの名前。私ギターに名前つけてるの」

 ちょっと変わったセンスだけど、唯には不思議と似合っている、とヤスオは思った。

「部活中にお菓子食べたりお茶飲んだりする、ちょっと不真面目なクラブなんだけど、そういう軽音部の友達と
過ごす日々ってね、いざ失くしそうになってみると……途端にとてもとても愛おしくなってくるの」

 唯は両手を組んで胸に当て、朗らかに微笑んだ。

「そっか、えらいな唯ちゃんは、僕はこんな状態になるまで日常の大切さに気付けなかったよ」

「こんな状態?」

「そう、胸にハンドル付けた状態ね」

 ヤスオは右手でハンドルを回転させながら左手の親指で胸を指し示した。

63: 2011/03/28(月) 01:30:44.06
「僕のこのハンドルね、さっきも言ったけど、こうやって回し続けてないと氏んじゃうんだ。つまり『生きたい』と思ってるから
回してるわけ。そうやって考えると生きてるってすごいことなんだなって思うよ。普段は何も意識しなくても心臓は勝手に動い
てくれるわけだからね。今すぐにでも氏んでしまいたいって思ってる人の体の中でもやっぱり心臓は動いてるんだよ。何かが
心臓を動かしてるんだ。その『何か』とは何だろうって考えてみると不思議にならない? 僕はさ、その『何か』ってやつは、
唯ちゃんの言うような『何でもないけど大切なもの』って奴だと思うんだ」

 ヤスオの言葉にこくりとうなずくと唯はまっすぐにヤスオを見た。

「でもねヤスヤス先生、そうやって大切なことに気付くのと同時に、自分がすごく嫌な人間に思える時があるんです。
先生ならわかると思うけど、ドナーが現れるのを待つってことは、誰かが命を落とすのを待つってことでしょ。
自分が生きるために誰かが氏ぬのを望むなんて、心臓をくれた人にすごく申し訳ないなってたまにすごく落ち込む時があるの」

 唯のその言葉に、ヤスオは急に血相を変えて叫んだ。

「唯ちゃん! それはちがうよ! 絶対ちがう!」

 思わず大声になってしまい、ヤスオは慌てて声を低くした。

「僕が保証する。唯ちゃんに心臓をくれた人は、間違いなく心臓をあげてよかったって喜んでるはずだよ……たぶん、天国で」

「どうして『たぶん』なの?」

「いや……天国でたぶん喜んでるだろうなって意味。日本語って難しいよね……『ヘブンでたぶん』なんちゃって」

 そう言って笑いかけたヤスオの表情が途中で固まった。眉間にしわがより脂汗が浮いている。

64: 2011/03/28(月) 01:37:54.17
 ヤスオの異変に気付いた唯が心配そうに顔を覗き込んだ。

「先生大丈夫?」

「ちょっと……疲れちゃったかな」

 ヤスオは緩慢な動作でのそりと起き上った。

「残念、僕の冒険はここで終ってしまった。ちょうどお迎えも来たみたいだし」

「お迎え?」

 突然、穴の中に強い光がさした。唯が穴の入口の方を見るとスーツの男が大きな懐中電灯をもって覗きこんでいた。

「ごめんねキョウヤくん、お手を煩わせて」

「いえ、こんなところにいたんですね、さあ、帰りましょう」

 ヤスオにキョウヤと呼ばれたスーツの男は疲れたような声音で言った。

67: 2011/03/28(月) 01:45:18.75

「ねえ、唯ちゃん」

「なに? ヤスヤス先生」

「僕の冒険はここで終っちゃったけど、君の冒険はこれからもずっと続いて行くことを祈ってるよ」

「……ありがとう、先生」

「じゃあね、唯ちゃん」

 ヤスオは少々ふらつきながらも、キョウヤに傍らで支えられながら歩き出した。

68: 2011/03/28(月) 01:47:21.13
6月8日

 今日も唯は病院のベッドの上でマンガを読んでいた。退院まであとほんの数日だ。唯自身はいますぐ学校にいっても
問題ないと考えているのだが、主治医の話では退院後もゆっくりと体を慣らしていかなければならないらしい。

 コンコンと、ふいに病室のドアがノックされた。唯は「どうぞ」と答える。

「こんにちは」

「……こんにちは」

 ノックの主はあの夜にヤスオを迎えに来た男、キョウヤだった。今日はスーツではなく、医者が着るような白衣を着ている。

「ちょっといいかな?」というと、キョウヤはそばの丸椅子をベッド脇に引き寄せ、ゆっくりと腰をおろした。

 唯は軽くうなずいた後、読んでいたマンガをぱたりと閉じた。

「なに読んでたの?」

「マンガです。『BECK』っていうやつ」

「『BECK』? ああ、僕も読んだことあるよ。ギターのリュースケってキャラが格好いいんだよね」

69: 2011/03/28(月) 01:52:47.92
「あの、なんの用ですか?」

「特別用があるわけでもないんだけど、ヤスヤス先生がよろしく伝えてくれって言ってたもんだからさ」

 『ヤスヤス先生』という言葉を聞くと、唯は二、三度瞬きをした。

「今どうしてるんですか? ヤスヤス先生、あれから病室に会いにいってもどこにもいなかったんですけど」

「いま日本のあちこちに行ってるみたいだよ」

「あちこちでなにしてるの?」

「さあ、そこまで深く聞かなかったから、わからないや」

「……そっか」唯は少し声の調子を落として呟き、残念そうにうつむいた。

70: 2011/03/28(月) 01:55:42.87
 キョウヤは間をつなごうと辺りを見回し、ふと唯が手に持っている漫画に目をやった。

「『BECK』好きなの?」

「好きですよ」

「そっか、軽音部だもんね」

 唯は少し驚いてキョウヤに向き直った。

「何で知ってるの? ヤスヤス先生に聞いたんですか?」

「いや、聞く暇なんてなかったよ。僕ね、人の心が読めるんだ。独身だけに読心術、なんちゃって」

「変な人ー」

唯は小さく笑みをこぼした。

「じゃあ、私がギターにつけてる名前は? 心が読めるんならわかるよね?」

「うーん、ヘンドリックス?」

72: 2011/03/28(月) 01:58:45.12
「ブッブー不正解」

「変だなぁ、ヘンドリックスだけに変だぞ。あ、わかった『ギー太』だ」

「え、うそ……まさか。でまかせで言っただけだよね? それともやっぱりヤスヤス先生に聞いてたんでしょ」

 唯は目を丸くした。

「まさかマッカーサー、でまかせで負かせ」

「あはは、やっぱり変な人だ」

 唯はついに声をあげて笑いだした。

「そんな変な人からひとつお願いです!」

73: 2011/03/28(月) 02:01:31.89
 キョウヤは深く息を吸い、厳かな口調で言った。

「君の心臓の音、聴かせてくれないかな?」

戸惑う表情を浮かべた唯に、キョウヤは慌てた様子で付け加えた。

「いや、もちろん服の上からでいいから」

「それは気にしないけど」

 唯はベッドの上で正座すると、パジャマのボタンを外して【キョウヤ】に体を向けた。


「……失礼します」

 キョウヤはひとつ咳払いすると、聴診器をゆっくりと唯のはダリ鎖骨下あたりに当てた。

 気管を通る呼吸の音に混じり、心臓が鼓動を刻むリズミカルな音がキョウヤの鼓膜を震わせた。

 耳を澄まし、じっと心臓の音に聞き入るキョウヤの目からひとすじの涙がこぼれた。唯が不思議そうに首を傾げた。

「どうして……泣いてるんですか?」

79: 2011/03/28(月) 02:10:02.48
Report
大東泰雄(安田ヤスオ)の臓器・組織等は日本各地のレシピエントに移植された。

・左腎臓
レシピエント名:梶山元子

・肝臓
レシピエント名:本山信二

・右下肢
レシピエント名:沢向亮介

・両上肢
レシピエント名:森島健伍

81: 2011/03/28(月) 02:13:08.21
・心臓
レシピエント名:平沢唯

・脳
レシピエント名:京谷貴志

83: 2011/03/28(月) 02:17:42.93
唯「――――っていうSSを書いてみました! 入院中ヒマだったので!」

和「いや……心臓病って……あんた、たしか盲腸で入院したんじゃなかったかしら?」

唯「そうだよ。盲腸だけにもう、超痛い、なんちゃって」

和「……」

和「ところで、心臓がビヨーンとなる病気ってなによ」

唯「原作のヒロインは拡張型心筋症なんだけどね、拡張型心筋症は体への負担を考慮してある程度の
就労制限はかけた方が良いものの立派に働くこともできる病気なんだ。当然、病状の進行具合によって
は辛い闘病生活をしいられている人もいるんだけど、SSの中での私のように発病後すぐに心臓移植が
必要というわけでもないんだよ。当然、患者によって個人差はあるけどね。まあ、無用な誤解を避ける
ためにもSS内で病名を明言するのはやめておいたんだ」

和「そ、そう……(意外と考えてるのね)」

87: 2011/03/28(月) 02:25:09.08
和「それはそうと、あんた水嶋ヒロのファンだったの? 『KAGEROU』の二次創作なんて書いちゃって」

唯「うん、天道総司の頃からのファンだよ」

和「へぇ、知らなかったわ……(天道総司ってなにかしら?)」

唯「私のSSを読んだだけではヤスオの境遇とかがわからなかっただろうから、興味がわいたんだったら
和ちゃんも『KAGEROU』を試しに読んでみると良いよ。巷では文章が下手だって言われてるけど、
私の書いたSSよりは当然上手だし、難しい表現が無いから子供でも読めるよ。
さらに言うなら、水嶋ヒロ物語、私小説として読んでみると意外と面白いと思うよ」

和「そう、じゃあ気が向いたら読んでみるわ」

唯「内臓が無いぞう、なんちゃって   おわり!」



89: 2011/03/28(月) 02:27:13.88

カゲロウってこういう話なのか

90: 2011/03/28(月) 02:46:32.10
グロスレと思って開いたら違った、と思ってたら強ち間違いでもなかった

なにはともあれ乙

92: 2011/03/28(月) 03:09:45.11
KAGEROUってこんな話なの?

引用元: 唯「内臓が無いぞう、なんちゃって」