1:◆1t9LRTPWKRYF 2011/08/28(日) 17:01:22.72

 足音をひそませて階段を登りきると、突き当たった窓に背を向けて廊下を歩き、彼は自室を目指した。
 静かな夜の屋内では、自分の足音さえも大きく響く。ドアノブを捻り、体を扉の内側に滑り込ませてから、彼は息をつき安堵した。

 暗い部屋の中で彼が最初にしたのは、電気をつけることではなく、鍵を閉めることだった。 
 彼の部屋には、そもそも鍵といえる鍵がついていなかった。ドアにはシンプルなノブだけがあり、他には何もない。
 自分でつけるという選択もあっただろうが、彼はその手間を惜しんだ。部屋にはちょうど手頃な高さの本棚があり、それを利用することにしたのだ。
 
 多少の高さの違いはあったが、本棚は軽く動かしやすいものだった。その上に本を何冊か乗せて、ドアノブに噛ませる。
 ノブが動かなければドアが開くこともない。こうして彼は、何一つ労することなく鍵を手に入れたのだ。

 あるいは、この本棚さえなければ、自分の人生ももっと違ったものになったかもしれない、と彼は考えかけて、やめた。
 
 暗い部屋の中で、パソコンのモニターだけが自己主張を続けている。彼はデスクの前の椅子に腰掛けてモニターを睨んだ。
 適当なニュースサイトを巡って暇潰しをする。リエイトの張られた情報サイトの、リンクからリンクへと記事を辿る。
 この手のニュースサイト巡りには果てが無い。経験から、彼はそれを知っていた。けれど同様に、彼の退屈もまた、果てのないものなのだ。時間潰しには最適だろう。

2: 2011/08/28(日) 17:07:29.44

 彼は取り上げられた記事を見て、笑ったり、腹を立てたり、ときどき泣いたりもする。さまざまな情報を目に入れることに、ただ没頭する。
 長時間ネットサーフィンを続けていると、奇妙な感覚に陥ることがある。ネットの中に埋没している、という感覚だ。
 夢中になってさまざまな情報を取り込んでいくと、現実に存在している自分とは違う自分が生まれたような錯覚がする。
 実際、彼はネットをやっている最中だけ、ひどく快活であり、あるいは気が強く、物怖じせず、さまざまな意見を発露することができた。

 そして、あるとき不意に現実に帰る。それはネットの中の情報がそうさせる場合もあるし、単に興味を引くリンクを見尽くしただけということもあった。
 そうなると彼はひどく困った。するべきことが見当たらないのである。
 パソコンの電源を切ってしまうと、あとはすることがなくなる。ではパソコンをつけたまま何かをしようかと思うと、何も浮かばないのだ。

 しばらく、デスクトップの背景だけを映したモニターを、彼は見つめていた。
 それからひどく空しくなって、なんだか息が詰まるような苦しみを感じ、彼はパソコンの電源を落とす。
 ベッドの上に体を投げ込むようにして毛布をかぶり、瞼を強く瞑る。

3: 2011/08/28(日) 17:10:40.89

 そして怯えながら眠れない夜を過ごす。半分開いたカーテンが、窓の外の月の姿を曝している。そのことに彼は気付かない。
 もう大丈夫だ、と自分に言い聞かせながら、ゆっくりと目を開く。コンピュータの駆動音が部屋から消え失せていた。
 モニターの光がなくなると部屋の中は真っ暗になる。目を開けても閉じても、彼には同じような景色しか見えなかった。

 いつまでこんなことを続けるのだろう、と不意に考える。
 ここ最近、頭を過ぎるのはそんなことばかりだった。

 自分はこれからどうすればいいのだろう。いつまでこんなことを続けるのだろう。
 思考は堂々巡りを繰り返し、最後にはこの世のすべてが嫌になって、不貞寝するように寝入るのだ。

 以前はこうはいかなかった。半年前に考えていたのは「これから」のことではなく「これまで」のことだった。
 自分はどうしてこうなったのだろう。自分はなぜこんなところにいるのだろう。
 そんなことばかりを考え続けていた。今思えば、そんなことを考えてもどうしようもないのだけれど、そのときは必氏だった。

4: 2011/08/28(日) 17:15:11.52

 どうすれば他の道があったのか? 自分はどうしてこんなことをしているのだろう?
 いつからおかしくなったのだ? そんな問いを何度も繰り返し、そのたびに言いようのない不安感に悩まされた。 

 問いの形は変わったけれど、今でもその不安感だけは変わらない。
 まるで胃の中に石でも紛れ込んでいるように、その不安感は消えてくれない。
 夜になるたびにうねりをあげて自分を責め立てる不安の渦に、彼はいつも怯えていた。

 その不安が目を覚ましたときまで続いていれば何かの発展性もあろうものだが、それは朝になるとどこかになくなっているのだ。
 翌朝、といってももう昼近い時間だが、彼が次に目を覚ましたときも、それは変わらなかった。

 彼はいつものように、家中の者が皆、学校やら仕事やらに出かけてしまってから目を覚ました。
 目覚めてからもしばらくは動く気になれず、目を瞑ったまま体をじっと動かさない。

5: 2011/08/28(日) 17:18:54.72

 しばらくしてから、寝起きの口の中や髪が不快になり起き上がる。誰もいない家には、ただ安心だけが充満していた。
 彼は太陽に照らされて明るくなった部屋を見渡す。いくつかの本棚にぎっしりと詰まった小説。パソコンデスク。
 部屋の隅に置かれたギタースタンドと安いエレキギター。何もない部屋だと彼は思った。
 
「鍵」を外して部屋を出た。ベランダに繋がる南側の窓から太陽の光が差し込んでいるのを見て、彼は時刻が昼近いことを知った。
 階段を下りてリビングに出ると、やはり誰もいなかった。当然と言えば当然のことだ。今、この家には自分しかいないのだから。

 冷蔵庫の中には何も入っていなかった。彼は流しの食器入れのなかからマグカップを取り出し、インスタント粉末を入れてコーヒーを作った。
 それを持って、また二階にある自室に戻る。彼はこの行為を一日のうちで何度も繰り返す。

 彼は腹を空かせてもものをろくに口にしなかった。ときどき食パンを見つけて食べることはあっても、それ以外はほとんどない。
 一日のほとんどで彼が口にするのはブラックのコーヒーのみである。だが彼は、ときにして一日で十数杯のコーヒーを呑むこともあった。
 ときどき、どうして自分はこんなにもコーヒーを飲むのだろうと考えることもあった。そしてすぐに、どうでもいいことだと思考をとめる。
 
 考え事に没頭していると、いつのまにか思いも寄らない方向に考えが及ぶことがある。彼は経験上それを知っていた。

6: 2011/08/28(日) 17:24:32.63

 部屋に戻ってからコーヒーをデスクの上に置く。パソコンの電源を入れずに、まだ呼んでいない小説を本棚から取り出した。

 もっぱら、昼間の暇な時間を、彼は睡眠と読書に当てていた。インターネットは没頭しはじめると果てがなく、大抵の場合得るものがない。
 その点小説ならば、と彼は考えたのだ。とはいえ、それによって生活の何かが変化したかと言えば、そういうわけでもないのだが。

 読書をしながらコーヒーをすすり、マグカップの中身が尽きれば、またコーヒーを入れにリビングに降りる。
 それを何度も繰り返して、彼は退屈な時間を誤魔化す。
 こうして本を読んでいる時間が、彼の生活において一番満たされた時間だと言える。
 
 本を一冊読み終えて、彼が達成感と余韻に浸る頃には、窓から差す日は赤く変わり、時刻は夕方近くなっている。
 そうなれば、日没も夜も近くなる。それを思うと、彼はいつも憂鬱になった。両親や姉が帰ってくるたびに、いたたまれない気持ちにさせられるのだ。

 もちろん、自分が悪いということは承知している。誰もせいでもなく、ただ自分が臆病だっただけなのだと気付いている。
 そして、この生活から抜け出すかどうかも、自分の意志ひとつで変わる問題なのだと。
 けれど、分かっていることは何の解決にもならない。なかば開き直りのような気持ちで引き籠もり続けるこの生活に、彼は疲れ始めていた。

7: 2011/08/28(日) 17:28:43.51

 もし本当に可能ならば、このまま毎日、ずっと小さな部屋にこもり、本を読み、ネットをして、眠る、それだけの生活を送りたい。
 そしてそれが不可能ならば、自分が何か変わらなければいけないことは明白だ。
 どう変わればいいのだろう、と、近頃彼は思い悩んでいた。
 
 彼も、彼なりに自分を変えたいと思っていた。鬱屈した思考や肥大した自意識は何も生み出さないことに気付きかけていたからだ。
 とはいえ、そのためにどうすればいいのか分からない。何かを変えなければ、という気持ちだけが先行し、結局また、気付くと堂々巡りの思考を繰り返しているのだ。

 六時頃に母と姉は帰ってきた。姉は今年の頭に就職し、社会人となった。学生時代はまだ子供のようだった彼女も、今年になってからひどく大人になった。
 特に、考え方の面では、学生時代とはまるで変わってしまった。
 月々に支払う金のこと、しなければならない手続きのこと、そんなことをいくつもこなしていく内、以前までとは違う「大人」の仲間入りをしてしまったのだ。

 働くようになった姉を見ると、彼はいつも自責めいた後悔と、焦燥じみた恐怖を感じる。いつか自分の同級生達も、こうして社会人になるのだろう。
 そのとき自分は何をしているのだろう。そのときも、こんな子供めいた反抗を続けているのだろうか?

 彼は、家族の前では快活に振る舞った。表向き何も考えていないように、何の悩みもなく、ただ怠惰から外に出なくなったかのように振る舞った。

 それでも彼の心から、何か恐ろしく巨大なものが、いつも自分を睨んでいるような錯覚が消えることはなかった。

8: 2011/08/28(日) 17:35:00.31

 父親が帰ってくるのはいつも八時頃だった。彼はそれを避けて、七時の食事を終えてから、すぐに部屋に戻る。
 母や姉にはやりたいことがあると言って誤魔化しているが、二人がそれを快く思っていないのは明白だった。

 とにかく彼は、またコーヒーを入れて部屋に戻り、鍵をかけてからパソコンの電源を入れた。待機時間中もじっとモニターを眺める。
 その最中ですら、彼の頭を薄暗い思考が支配する。自分はこれからどうすればいいのだろう。
 いつもと同じようにデスクに向かい、モニターを睨む。一心にマウスを操作して、ただ情報の海に溺れる。

 しばらくそれを続けると、暗い没入感が彼を支配する。自分は何をやっているのだろう。
 いや、その実、何もしていないのではないだろうか、と。
 その日もまた、彼は夜をネットサーフィンに費やした。何も得るもののない生活に、少しずつ自分が慣れていっているのを感じる。
 
 そのことを、心のどこかでおそれていることにも、彼は気付いていた。

9: 2011/08/28(日) 17:39:34.49

 今年の春、彼は十八になった。十八。そして愕然とする。自分はもう、そんなにも長い時間を、この無為にしか思えない時間に使っていたのだ。
 それを思うと、もはや取り返しのつかないような気持ちになる。何をしても手遅れだと感じてしまう。

 十八。今年で、同級生たちも高校を卒業する。みんなそれぞれを道を歩き出すし、そのうちにいろいろなことを知っていく。
 立ち止まって思考の堂々巡りに付き合わされているのは自分だけなのだ。みんな与えられることを次々とこなしていき、いずれその喜びを手に入れる。

 自分は、どうなるだろう。
 引き籠もりはじめた二年前から、何も変わっていないのではないだろうか。なんの成長もしていないのではないか。

 彼は自分なりの考えを持って、この部屋にこもった。けれど一歩引いた目で見れば、そんなのは子供の言い訳で、屁理屈でしかない。
 十八。もう、子供でいられる時間はない。長々と言い訳を連ねたところで、それは何も生み出さないのだ。

 一歩踏み出してみればいいのかもしれない、と何度も思った。何かを始めれば、この堂々巡りから抜け出せるはずなのだ。
 彼はそんな考えにとらわれては、泣き出したい気持ちになる。子供のまま成長することを拒んでしまった自分に、後悔を抱く。

 未だに手ぶらなままの自分と、何かを少しずつ手に入れていく同級生たち。
 取り残されているのは自分だけで、気付けばどこにも居場所なんていない。

10: 2011/08/28(日) 17:45:11.57

 彼が引き籠もりを始めたのは高一の春だった。入学式から一週間、まだ誰にも名前を覚えられていないような時期に、彼は本棚をドアノブに噛ませた。
 そうなったのにはさまざまな要因があったが、結局のところ、彼は新しい環境というものに上手く親和できなかったのだ。
 また、溶け込む努力をしなかった、という見方もできるかもしれない。それも的を射ている、と彼自身も思っていた。

 引き籠もりを始めた当初は良かった。
 毎日のように学校に通い、帰り、眠り、朝起きては学校に向かう。
 そういった、繰り返し、焼き増しとしか思えない日々に彼は飽き飽きしていたし、好きなことを好きなだけやっていていいというのは、それだけで心が浮き立つことだった。

 中学の同級生たちとも、その頃は連絡を取っていた。皆、特に言いたいこともないようで、彼が「面倒だからやめた」と言うと、「バカじゃないの?」と冗談交じりにいってくれた。
 本当に馬鹿だったのだ。

 様子がおかしくなったのは夏頃だった。この頃になると、何をやっても楽しく感じなくなった自分に気がつく。
 毎日を家の中で過ごし、日を浴びていないせいで肌が病的に白くなっていることに気付いたのも、この頃だった。
 このままではさすがにまずい、と彼は思った。けれど、同時に愕然とする。
 
 外に出ることが恐ろしいのだ。

11: 2011/08/28(日) 17:51:23.58

 たとえば少し暇になって、コンビニに行くか、ということができない。
 自分を見る他人の目が気になって仕方なく、自分がおかしくないだろうか、何か変ではないかと、不安に思い、緊張してしまう。

 そのことに気付いてからはどうしようもなかった。明確に、自分が外に出ることをおそれていることに気付いたのだ。

 昔の友人たちも、高校に入ってそれぞれに交友関係を広げ、なかなか連絡をよこさなくなった。
 自分がとうとう置き去りにされたのだと、彼が気付いたのはその頃だ。

 ではどうするか、と彼は考えた。この頃の彼はまだ多少楽観的であり、そのうちどうにかできるだろうという甘えた部分が抜けなかった。
 それが結果、この引き籠もり生活を二年以上に引き延ばした原因とも言えるだろう。

 焦燥のような感覚に襲われながらも、彼は自堕落な生活を続けた。やがて誰からも連絡が来なくなり、彼は友人と言える友人を失った。

 昼、退屈を誤魔化し、夜、娯楽に耽り、そして深夜、叫び出したいほどの不安に駆られる。

12: 2011/08/28(日) 17:57:31.85

 表面的には、彼は毎日、自堕落に、好き勝手に生きているようにも思えた。事実、大半の時間はそうやって消化されていた。
 けれどふとしたとき、たとえばネット上のニュースサイトで、学歴や無職などの記事を見つけると、そのたびに暗い思いがわき出してくる。 
 それらは日常のさまざまな時間を浸食しては、彼を責め立てた。

 彼の毎日は薄められたコーヒーのように味気なく、その大半が無意味だった。
 意味があるのは一ヶ月に数時間程度のもので、それ以外の時間、彼は常に一カ所に停滞していた。
 部屋からほとんど出ない生活。

 とはいえ、用を足すのにはトイレにいかなければならないし、食事を取るにはリビングに降りた。
 たまには本屋に出かけて中古本を買いにいくこともあった。出かけるときは、決まって夜だった。

 曜日の感覚や日付は、彼の生活にはほとんど存在しなかった。ただ毎日をやり過ごし、消化していく。

 そしてふとしたときに考える。
 いつまでやり過ごすのだろう。
 いつまで、こんな生活を続けるのだろう。

 こういう考えに一度とりつかれると、後は悲惨だった。

13: 2011/08/28(日) 18:07:42.17

 とにかく彼の頭の中は、ごちゃごちゃと混沌としていて、理路整然としたものがひとつたりともなかった。
 不意にこれまでの人生を振り返ると、彼は言葉を失う。自分はなにひとつ、自分ひとりで決めたものを持たなかった。
 高校の進学も周囲がそうするから、そうするのが普通だからという理由でしかなかったし、高校も深く考えずに近い場所を選んだ。

 自分が入れそうだから、という理由で。事実、それは当たりで、ろくに勉強せずに、そこそこの高校に入ることができた。
 このことが、彼の自意識を肥大させ、過剰な自信とプライドを作り、社会生活に戻ろうというやる気を削ぎ落としたのは言うまでもない。

 とにかく彼は、毎日を必氏に消化し続けた。いろいろなことを考えた。青臭い似非哲学に、何度も思考を委ねた。
 
 一年目の冬、彼は服毒自殺を試みた。なんだかすべてが空しくなったのだ。
 いつか氏ぬならば、今氏ぬのでも大差ない。そう考えた彼は、持病の発作を押さえるナントカという薬を九錠飲んだ。
 自分でも不思議だが、そのときだけは鍵を開けていた。そうすることで、彼はどうにか一命を取り留めた。

 目を覚ましたときの景色はぼんやりとしていて、ひどく曖昧だった。いつ意識が戻ったのかも、よく分からなかった。
 いつのまにか目を覚ましていて、いつのまにか意識がはっきりしていた。最初に目にしたのは医者の顔だった。

14: 2011/08/28(日) 18:16:59.66

 医者は彼に、どうして薬を飲んだのかと聞いた。彼は嘘をついた。誤って飲んだんです。飲んだら、どうなるのか、知りたかったんです。
 医者はそれを信じなかったが、彼にはそんなことはどうでもよかった。あれは脳に作用する薬なので、二度とこのようなことはしていけない、と医者は言った。

 また、医者は彼に、カウンセラーに会ってみないかとも言った。
 どうでもいいことだったが、自分の心の動きを推測され、もっともらしいことを言われるのは据わりが悪いと思い、断った。
 見舞いにきた家族は、彼に何を言えばいいのか分からず、ひどく戸惑っていたのだろう。結局、日常の延長のような世間話をするだけだった。

 数日後に退院してから、彼はまたもとの生活に戻った。何の意味もない行為だった。けれど入院中は、あの恐ろしい不安はやってこなかった。
 彼はまた数日すると、すべてが空しく感じられたが、薬はもう二度と飲まなかった。確実に[ピーーー]ないことが分かったからだ。
 量を増やしたところで、吐きだしてしまったら意味はない。鍵をかけてしまえばあるいは、とは思うが、それでもどうなるかは分からない。

 どう作用したのかは分からないが、彼はその少し後、一応は明るさを取り戻した。
 何の思考も襲ってこなかったし、小説は以前よりも面白く感じられた。くだらないことでも、なんだか笑ってしまうようになった。

 両親は、一度危険なことがあったからか、彼の生活になんの口出しもできなくなった。
 また、多少はかつての快活さを取り戻した彼に、このままいい方向に動いてくれればという期待もあっただろう。

17: 2011/08/28(日) 18:41:40.46

 それも誤りだった。彼は結局、そのまま停滞した日々を過ごした。多少外に出ることはあっても、結局一日の大半を部屋の中で過ごす引き籠もりに。
 そして実に二年近い歳月を、ただただ無為に消費し続けたのである。この事実を振り返るたびに、彼は重苦しい気持ちに襲われる。
 この二年で、自分と同じ歳のものはどんどんと先に進んだはずだ。その流れの横に、自分は置き去りにされている。

 中学時代、彼はよく人生のことを考えた。
 毎日続く、焼き増しの日々。それが大人になれば、今度は仕事が取って代わり、やはりまた毎日のように憂鬱の襲われる日々が続くのだろうか、と。
 それを考えると、自分の人生というものが心底無意味に思えて、彼はすべてを投げ出してしまいたい気持ちになった。

 流されるだけの人生は嫌だ、と流れに棹を差してみたものの、結局無駄だったんじゃないか。
 強い後悔が、自分の判断が誤りだったと認めているような気がした。
 流されるだけではないのだ。焼き増しでくだらなく思えても、それを謳歌している人間もいる。

 行列に並ぶのが嫌だと抜け出してみたものの、皆、並びながらも自分の足で歩いている。
 そんな中で、彼はひとりだけ立ち止まってしまった。

 今まで隣を歩いていたものはとっくに先を行ってしまい、後を追いかけてきたものも彼を追い越していってしまう。

 ふたたび行列に並び直すより、ここでずっと立ちつくすか、あるいは、ひと思いに氏んでしまうほうが楽に思えるのも無理はない。

19: 2011/08/28(日) 18:47:57.39

 そんな屈折した思考にとらわれながら、彼はそれでも氏のうとは思っていなかった。それどころか、どうすればいいかをひたすらに考え続けていた。
 思考が何ももたらさないと知っている人々は、まず行動を起こすことが肝要だと口々に言うが、彼はそう気付くには若く、幼すぎた。

 姉はバイトをすることを勧めた。とにかくなにかをはじめて見てはどうかと言うのだ。
 彼は、それが正論であり、同時に分かりやすい解決にたどり着ける手段だと判断しながらも、働くことを嫌った。
 
 単に面倒だったというのもある。
 二年以上に及ぶ自堕落な生活の末に、彼が時間的な制約を嫌がるのは自然なことだった。ただの怠惰と言えば、それまでの話だが。

 けれど同時に、何かに参加する、というのが、ひどく恐ろしいものに感じられた。
 たとえばアルバイトを始めたとして、その店員には自分よりも年下の者がいるかもしれない。その人物よりも自分が劣っていると気付くのが、何より恐ろしかった。

 この期に及んで彼は、自分が他者よりも劣っているとは考えていなかった。彼の心は、肥大したプライドと強い劣等感の狭間で揺れ動いていた。
 それは常に運動を続けている。自分がここで終わるべきではない傑物だと感じることもあれば、今氏んでも誰も気にしないような凡人であるとも感じた。

 いずれにせよ姉の助言を実践するには、彼は精神的に幼すぎた。
 状況を上手く理解できていないというのもあるだろう。山嶺のように高くそびえるプライドを捨ててしまえば、もっと楽に生きる道はあったはずだった。

20: 2011/08/28(日) 18:55:03.60

 このままではいけない、と彼は考えている。
 日々の中でその考えを思い出すことはほとんどなかった。それは不意に現れては、彼の心に小さな傷をつくって消えていく。
 彼は堂々巡りの思考をやめて、何も考えないことにした。そうすると今度は、時間が流れていくことを不安に思った。

 以前まで馬鹿にしていた何かのように、朝が来るのを呪った日もあった。彼はついに憔悴しきり、どうにかなってしまいそうになる。
 何の益にもならない妄想に一日を費やしたこともあった。
 あの高校入学後の一週間、自分が別の行動を取っていれば。あるいは、もっと前、別の選択をしていたならば。
 
 そんなことを考えていても仕方ないと気付いているのに、考えずには居られない。
 ベッドの上で毛布を被りながら、眠る前に神に祈ったこともあった。
 どうか、時間を戻してください。その願いが聞き届けられることは、当然、なかった。

21: 2011/08/28(日) 18:58:50.39

 季節の変化に疎くなった。日々の中で楽しいと思えることがなくなった。実感できるような自分の成長がなくなった。
 感情を表現することが難しく感じるようになった。窓の外の景色を、風景画か何かのように認識することになった。
 昼間、外に出ることが怖くなった。他人からどう見られているかが異常に気になるようになった。コンビニのレジに並ぶことすら億劫だ。

 ここ二年で訪れた明確な変化に、彼は泣き出したいような気持ちになる。
 そのたびに考える。このままではいけない。

 彼は今年、十八歳になった。もう子供ではいられない。失敗をおそれてばかりでもいられない。
 そう考えたものの、何を始めればいいのか、皆目分からない。

 そうとばかりはいってられない、と彼は思い、言い訳をやめてバイトを探すことにした。
 あまり近場では知り合いに会ってしまう。通勤に難がなく、あまり知り合いも来ないような場所がいい。

 そう考えた彼は、積極的に出かけることにした。行くのはもっぱら本屋とコンビニだったが、それでもいくつかバイト募集の張り紙をしているところがあった。

22: 2011/08/28(日) 19:05:25.54

 姉や母が、そういった張り紙をしている店を教えてくれることもあった。何の文句も言わず、穀潰しでしかない自分を認めてくれていたことを、改めてありがたく思った。
 その感謝の気持ちに、彼は最初、ひどく戸惑った。中学時代は親などは所詮他人でしかないと考えていたが、今では自然と、感謝を向けることができる。

 家族をつくり、働くことで守っている父にも、それまでにないような偉大さを感じた。同じことをしろと言われても、自分には絶対にできないだろう。

 履歴書と証明写真の準備をして、張り紙に書いてある番号に電話する。
 電話をするにはかなりの勇気を要した。あるいは、高校受験のときよりも緊張したかもしれない。

 彼は電話口で、下手な敬語を使い、多少どもりながらも、なんとか用件を伝えた。
 バイト募集の張り紙を見たこと、アルバイトをさせてほしいということ、希望する勤務時間と連絡先を聞かれて答える。質問に答えるのは、自分で何か言うよりも気が楽だった。

 結果から言えば、彼は受け入れられることがなかった。バイトは既に埋まっていて、人員は補充する必要がないのだと言う。
 彼は落胆しながらも、どこか安心していた。本音を言ってしまえば、働きたくないのだ。言い訳ができる、と彼は思った。
 そんな自分の心の動きに気付き、軽蔑した。結局、こんな行動でさえ、自分にとっては一種のポーズでしかなかったのだ。

23: 2011/08/28(日) 19:11:56.45

 よせばいいのに、彼はふたたび堂々巡りの思考に舞い戻った。落胆と達成感、安堵と軽蔑が、それぞれ彼の心を責め立てた。
 ここにきて、また自分のことを考え始めた。自分はどうすればいいのだろう。どこに向かえばいいのだろう。

 何かひとつでも目標があれば違ったのかもしれない。熱中できることを持っている人は、生きる意味など考えないのかもしれない。
 けれど自分にはそれがないのだ。人生の明確な指針が存在しない。それはつまり、どこも目指していないということ。

 目指すべき理想や、かなえたい夢や、辿り着きたい場所がないなら、その人生には何一つ意味がないのではないかと、彼はそんなことを考えた。

 一応は行動を起こした彼を、家族は責めることができなかった。彼に行動を起こさせるには、家族は優しすぎた。また、そのことがさらに彼を苛む種にもなった。

 いっそ誰からも忘れられて消えることができれば、と彼は何度も考える。そのたびに悲しくなる。
 いずれにせよ、自分の氏を悼む人など、そう多くはいないのだ。

 そのたびにまた、生きることのすべてが空しくなり、悲しみに暮れた。

24: 2011/08/28(日) 19:20:03.91

 バイトを探し、電話をした。三度。季節は夏から秋へと映り、もう冬が近づいていた。
 彼は以前として堂々巡りから抜け出せていなかった。連絡した店は、いずれも彼が働こうとするのを受け入れなかった。
 
 身だしなみも整え、なるべく真摯な態度を取ったつもりだった。
 星の巡りが悪いのか、あるいは彼が気付いていない原因でもあったのか。断られた原因は彼には分からない。

 秋になると、母がどこか遠くに旅行に行こうと提案した。決まってからはすぐだった。予定の摺り合わせはすぐに行われ、翌週末に父の車で海に行った。
 姉はひさびさの遠出で浮き足立っていた。母も父も同様だろう。いい気晴らしになるはずだ。

 父や母や姉は、彼のことを気にかけてはいたものの、四六時中そればかりではない。職場にも人間関係はあるだろうし、それ以外の悩みだってあるだろう。
 彼自身も、家族の前ではなるべく明るく振る舞うようにしていた。それが作用したのかは分からないが、道中はなごやかだった。

 海沿いの通りにある駐車場に車を止めて、付近を歩く。通りに軒先を連ねた店は、食べ物屋や土産物屋が入っており、名産物を使った食べ物屋が特に多かった。

 家族全員で歩道を歩きながら、店に入っては何かを食べる。あれは美味しかった、あれは口に合わない、そんな会話をしながら、家族たちは楽しそうだった。
 彼もまた、最初はその行楽を楽しんでいた。けれど徐々に、その感情は薄れていき、やがてぽっかりと抜け落ちたように消えていった。

 自分はなぜこんなところにいるのだろう。
 自分はここで何をしているのだろう。

 不意に生まれたその疑問に、彼はまた暗い思考が蠢くのを感じた。

25: 2011/08/28(日) 19:26:57.16

 夕方頃、車に乗り帰路についた。姉と母は車内で眠っていたけれど、彼は考え事を続けていた。
 何かを変えよう、と思う。毎日のように、そう考えている。
 けれど結果は何も変えることができていない。本当は自分は、このままの生活を続けたいのだから。
 
 そうとばかりは言っていられないから行動を起こしているだけで、本当は何もしたくないのだ。
 そんな自分に気付くと、また憂鬱が彼を襲う。泣き出したい気持ちになる。どうすればいいのだろう。

 ひょっとしたら、ずっとこのままなのだろうか、と彼は思った。
 
 たとえばバイトを始めたとして、自分はそれを続けることができるだろうか。
 高校のときのようにすぐに辞めてしまうのではないか。
 考え出すと止まらなくなる。自分のなかの劣等感が、呼応するように弾け出す。

 それは一度始まると止まらない。不安や焦燥が胸の内側で暴れ出す。
 彼はその心の動きを抑え込みながら、何かをしなければならない、と改めて思った。

26: 2011/08/28(日) 19:36:42.67

 秋が終わり、冬がやってきた頃、彼は何もかもをやめてしまおうかと思った。このまま引き籠もりの生活を続けるのも悪くない。半ば開き直るようにそう思った。
 彼の心がどう動こうと、客観的に見れば、二年前も今も変わらない。同じような行動しかしていない。ただ無為に日々を過ごしているだけだ。
 
 それを変えようとするのにも疲れてしまった。一度立ち止まってから、再び歩き出すのには、ただ歩き続けるよりも強い勇気が必要だった。
 
 ある日、彼の心境はまったく予兆もなく唐突に変わった。それというのも、自分が十八歳だということを思い出したからだ。
 もう自動車免許を取得できる年齢だ。どうせ生きているなら、取った方がいい。その考えを両親に告げると、すぐに認めてもらえた。

 姉が通っていた自動車学校は、車で十分程度のところにあった。親と職員が勝手に手続きを進めるのを聞きながら、周囲を見回す。
 少し後悔しているのは、思い立ったのが冬だったということだ。十二月の半ばには、同じ歳の高校生たちが大勢で話をしていた。
 
 とにかく、来た以上は免許を取ってやろうと彼は意気込んだ。誰にだって取れるものだし、誰にだって出来ることだ。
 才能は必要とされない。ちょっとした努力と、あとは慣れの問題だ。引き籠もりにだって出来る。

 緊張しなかったわけではないが、彼は逃げ出す気にはなれなかった。怖くなくなったのではない。むしろその逆だった。
 また逃げ出してしまえば、もう後はない、と考えたのだ。ここでまで逃げ出してしまえば、自分はもう何にも立ち向かえなくなってしまうだろう。
 それだけは、想像するだけでも恐ろしいことだった。

27: 2011/08/28(日) 19:50:48.12

 学科、受講、教習券、予約、みきわめ、仮免許。それらの単語は、彼の心に暗い影を差した。わずらわしいシステムが、彼は何よりも苦手だからだ。
 それでも、元来は真面目な性分だからか、彼はそれらを必氏にこなした。平日は毎日空いていたので、あまり日数はかからない計算だった。

 毎日の学科講習と、空いた時間に入れた教習。彼はマニュアル自動車の免許取得を目指した。
 平日の昼間には、学生達はほとんどいない。夕方近くなると増え始めるが、その頃には彼は帰路についている。
 人の居ない待合室の雰囲気は、彼の気性にはよく合った。

 少女と出会ったのは、彼が半クラッチや断続クラッチと言った操作に頭を悩ませながら、なんとか問題なく教習のコマを進めていた数日目の夕方のことだった。
 少女は、彼の中学時代の同級生だった。とはいえ言葉を交わしたことがなく、顔を見たことがある程度の中でしかない。

 声をかけてきたのは少女の方だった。大勢の学生達が、仮免許試験やエンストや教官の態度の悪さなどを話している中で、彼女はひとりで本を読んでいた。

 声をかけられた、といっても、何かを話したというわけではない。ただ「ひょっとして」と名前を言われ、自分が頷いただけのことだった。
 彼女は自分と同い年の学生が大声で騒いでいるのに辟易していたようだった。本を読むのにも集中できずに、辺りを見回したときに彼に気付いたのだろう。

29: 2011/08/29(月) 11:41:50.91

 待合室の長椅子に座る。増え始めた人々にまぎれて、横目で彼女の様子を見た。
 どうにかして手の中の文庫本に集中しようとしていたが、周囲が騒がしく読書が捗らないらしい。
 だんだん苛々してきたようで、見ているこっちが落ち着かない気持ちにさせられる。

 少しして、彼女は続きを読むことを諦めたらしく、膝の上で文庫本を閉じた。

 彼女――ムラサキは、彼の中学時代に男子からの人気を集めていた女子の一人だった。
 口数が少なく男子とはあまり言葉を交わさなかったが、容姿が端麗であることや、成績が優秀であること、また、ちょっとした仕草が大人びていたことから、あまり表立って話しかけられたりはしなかったが、大勢の注目を集めていた。
 そして彼もまた、ムラサキに憧れているうちの一人だった。

 ちょっと考えてから、彼は彼女に話しかけてみることにした。名前を確認しただけで別れるのでは不自然だと思ったからだ。

「何読んでるの?」

 何の緊張もなく言葉を吐き出せたことに、彼は自分でも驚きが隠せなかった。
 家族以外に話しかけることなんて、もう二年以上なかったのだ。にも関わらずすんなりと声が出た。
 なぜだろう、と考えてみるが、思い当たることはない。

30: 2011/08/29(月) 11:42:36.46

 ムラサキは、まさか話を振られるとは思っていなかったのか、少なからず驚いていた。
 その様子を見て彼の胸のうちに初めて緊張が走る。上手く話ができるだろうか。

 あまり間をおかず、彼女は質問に、作家名だけで答えた。彼も何冊か読んでいる、流行のミステリー作家だ。
 本のタイトルを訊ねると、読んだことのあるものだった。

「ああ」

 と彼は頷く。「どう? 面白い?」と訊ねてみると、ムラサキは「そこそこ」と答えた。彼の感想とほとんど同じだ。
 どう言葉を繋げていいか分からず、彼はそのまま押し黙る。落ち着かないように指先で本の背表紙を撫でている彼女を見て、話しかけたのは失敗だったかと後悔した。

「学校」

 けれど、言葉を繋いだのはムラサキのほうだった。

「やめたって聞いたけど」

 どうして彼女が知っているのだろうと考え、引き篭り始めた当初に中学時代の友人と連絡を取っていたことを思い出す。
 少し考えてから、彼は頷いた。こういった話は、どこからか、いつのまにか広まっているものなのだろう。

 ムラサキは彼の答えを聞いて困ったように表情を強張らせた。たしかに反応するのが難しい話題かもしれない。

 やがて学科講習が始まる時間になり、彼女は簡単に別れの挨拶を投げかけて、教室のある階段を登っていった。
 彼の方も送迎バスが出る時間になったので、ふたりはそれっきり何も話をしなかった。


31: 2011/08/29(月) 11:43:23.43

 自動車学校に通うことで、彼は少しずつ冷静な考えを取り戻し始めた。
 とにかくこれ以上、部屋に引き篭もり続けるという選択だけはしたくなかった。
 どうにかして現状から抜け出すのだという気負いとも言える意気込みもあった。

 とりあえずバイトでも初めてしまえば彼はただの引き篭もりではなく、フリーターになることができる。
 他人から見ればどちらも不名誉なものかもしれないが、彼からすればその違いはかなり大きかった。

 何よりも、自動車学校に通っている間も、彼の劣等感は消えることなく燻っていたのだ。
 とにかく這い上がりたい。正常な自分を取り戻したい。

 その願望が、自動車の運転がなかなか上達しないことや、いっそ怒鳴りつけてやりたいほどに腹が立つ教官の態度に投げ出しそうになる気持ちをなんとか抑え付けていた。



32: 2011/08/29(月) 11:44:34.31

 教習券を買い、予約を取り、学科講習を受け、教習所の狭い道路を走ることにも徐々に慣れていき、次第に自然と振る舞うことができるようになってきた。
 待ち時間は本を読んで過ごす。教官と車内で世間話をしたりもする。夕方になると騒々しくなり始めて憂鬱になるが、彼はそもそも以前から喧騒や人ごみを嫌うタチだった。

 何かをしているという実感が沸いてくると、今度は今までならなんとも思わなかったようなことで楽しい気分になったりもした。
 彼は徐々に落ち着きを取り戻し、自動車教習に対して前向きになった。
 けれど、腹の底に何か暗いものが凝り固まっているのは変わらない。

 免許をとったとして、それで――そのあとは、どうすればいいのだろう。
 彼は意識的に考えないようにしていたが、ふとした瞬間に湧き出るその不安に、明確な答えを返せなかった。

33: 2011/08/29(月) 11:45:00.65

 その日、彼は騒々しさに煩わしさを感じながら、教習所の待合室で本を読んでいた。
 とにかく時間を潰すなら何でもいいと思っていたせいで、よりにもよって恐ろしく読みづらい翻訳書を持ってきてしまった彼は、読書にあまり集中できず、時間の流れを遅く感じていた。

 仕方なしに立ち上がり、自販機で飲み物を買うことにする。
 あと八回ほど乗れば仮免許試験を受けられるということで、学科の模擬試験を受けておいて欲しいと受付で言われたことを思い出す。
 模擬テストの予約も取っておかなければならない。明日、来てすぐにとればいいだろう。

 ペットボトルのお茶に口をつけながら、彼は帰りのバスが出る時刻を待った。

 こんなことが以前にもあったな、と彼は考えた。
 少なくとも自動車学校でではない。いつだろうと思い出そうとしてみるが、なかなか記憶に引っかからない。

 ようやく何かを思い出しかけたところで、誰かが彼の肩を叩いた。

34: 2011/08/29(月) 11:45:26.88

「よう」

 背の高い男だった。どこかの高校の制服を着ていて、親密そうな笑みを浮かべている。うしろには数人の少年が控えている。この男の友人だろう。
 彼が黙っていると、男は少し不安そうな顔になった。

「……あれ、人違いかな」

 そう言ってから、男は不安そうにひとつの名前を告げて確認した。それは間違いなく彼のものだった。
 彼もまた、その声音に聞き覚えがあることに気付く。

 ヤマトだ、と彼は思った。

 中学時代の同級生で、目立つグループに属していた。文化祭でバンド演奏をしたり、運動会では応援団長を務めていたりもした。
 高校でもバンドを組んだりはしていたらしく、そこそこ悩みのある、そこそこ充実した日々を送っていたようだ。

 その事実を彼が知っているのは、ヤマトが携帯から作成できる簡易のホームページで日記を綴っていたからだ。
 ときどき妙に空しくなったとき、中学時代の同級生が公開している日記を見る。
 自分でも気持ち悪く、屈折していると思ったが、ときどき見ると奇妙な安心を見出すことができる。

 ああ、進んだといっても、こいつらはこの程度なのだ、と。そう考えた彼は、やはり歪んでいたかも知れない。

35: 2011/08/29(月) 11:45:52.79

 たとえば「○○は××だ」という文章を書くとき、ヤマトの日記では「○○ゎ××だ」と記されていた。
 一般的な高校生がこのような書き方をするかどうかは分からないが、ヤマトがそういう文章を書くことは、彼にとってはひどく大きなことだった。

 日記にはさまざまなことが記されていた。
 将来、音楽に携わった仕事につきたいということ、簡単に言えば、バンドで生計を立てていきたいと思っていること。
 
 それもまた、彼を安堵させる一要素だった。絶対に無理だとは言わない。けれど、困難で絵空事のような夢なのだから。

 大丈夫だ、こいつも成長していない、と、彼は歪んだ安堵が自分の中で生まれていることを自覚していた。

「おまえ、学校辞めたんだって?」

 卒業以来言葉を交わしていないヤマトも、やはりその事実を知っていた。
 彼は曖昧に頷いた。あまり話したいことでもない。
 ヤマトと話していると、彼はひどく据わりの悪い気持ちにさせられた。

36: 2011/08/29(月) 11:46:19.30

 こうして実際に会ってみると、内面はともかく、さまざまな面でヤマトが変わったことに気付いた。

 まず、前はどんなにくだらない言葉にも笑顔を見せる人物だったのに、今は笑わなくなった。
 後ろに居並ぶ友人たちにかける口調も、少し違うものに聞こえる。
 中学では中心にいた彼も、高校でまでそうはいかなかったのか、あるいは高校では、そんな区別の意味がなくなってしまうのか。
 
 ろくに高校に通っていない彼には、その判断はつかなかった。
 こうしたコンプレックスは、常々彼を悩ませていた。結局のところ、自分が不利なることを、自分で行っただけではないのか。
 そんな考えに包まれることも一度や二度ではないし、実際、その通りだと彼も認めていた。

 ヤマトはこれから入学の手続きをしに行くのだと言いながら、なかなか彼の元から離れようとしなかった。
 話でもしたいのかと怪訝に思いヤマトを見る。彼は何かを言いたげに立ち止まっていた。

 そうこうしているうちに時間が経ち、彼が乗るバスが出る時間になる。
 ヤマトはまだ何かを言いたげにしていたが、彼はそれにかまわずバスへと向かった。

「それじゃあ、俺は行くから」

 彼がはっきりと言うと、ヤマトは少し戸惑った表情で「ああ、またな」と返事をした。

37: 2011/08/29(月) 11:46:45.58

 自分の中で落ち着き始めていた劣等感が、またうねり始めたのを彼は感じた。
 帰りのバスのなかで、彼は文庫本を広げたが、目が滑っているかのように文章の意味が頭に入ってこない。
  
 落ち着かない気持ちで、自分以外に乗るもののいない車内を見回す。
 居場所のない感覚、社会に対する非属感が、また鎌首をもたげてきた。

 何もかもやめてしまおうかと、また考える。
 さっきまでの由来の知れない充足感は消えうせ、彼にはもう、世界のすべてが無意味に思えて仕方なかった。

 とにかく、この世のすべてが、自分を悩ませる種でしかなく、楽しいことなどひとつもないのだ。
 どこにいたっていつも不安に駆られるし、将来を絶望視して氏んでしまいたくなる。

 ふとした瞬間、他の人間はなんとも思わないような場面で、けれどそれは現れる。
 悲しいのではなく、苦しいのではなく、疲れたわけでもなく、ただ彼には、楽しく思えることが何もなかったのだ。

 バスから降りて自宅に帰る途中で、彼は泣き出したい気持ちになった。

38: 2011/08/29(月) 11:47:11.96

 家についてから階段を駆け上がり、また自室に篭る。鍵を噛ませて、床に荷物を投げ捨ててベッドの上に体を投げ込む。

 ことあるごとに、この不安は身を貫くように暗い穴倉から這い出してくる。

 みんな、こんな不安を抱えながら生きているのだろうか、このむなしさを、それぞれ身の内側に抱えて、なんとか耐えているのだろうか。
 何をやっても満たされず、何をするにも恐ろしく、根拠もなく降りかかる絶望じみた不安を、それぞれ耐え抜いているのか。

 あるいはこれは自分だけなのか。
 こんな馬鹿らしい感傷し、行動まで支配されているのは、自分だけなのかもしれない。

 そう考えると彼はいつも悲しい。自分が、ひととしての重大な欠陥を抱えているような気分になるからだ。

 人によっては、これをある種の自己陶酔だと一笑に付すかも知れない。それを、彼も自覚していた。
 
 実感を伴った苦痛というものに彼は上手に対処できなかった。
 今度こそは平気だ、二度とあんな馬鹿げたものには呑まれない。
 毎回そんなふうに考えては、またいつもの不安に襲われる。

 彼は瞼を瞑りながら必氏に考えた。
 自分はこれからどうすればいいのだろう。
 どうすることができるのだろう。

 そんな思考だけが、ぐるぐると頭で回り続け、とうとう何も生み出すことがなかった。

39: 2011/08/29(月) 11:47:38.55

 夕方を過ぎると、仕事が早く終わったらしい姉が帰ってきた。
 なんとなく誰かに会いたい気持ちになって、彼がリビングに降りると、姉は冷蔵庫からジュースを取り出していた。
 
 姉は彼の表情を見て、何かを察したのか、不審そうに眉をひそめた。
 それに対して何も答えず、彼はリビングのソファに体を投げ込む。

 落ち込むのなら、部屋でひとりで落ち込めばいいのに、と自分で考えた。
 それでもなんとなく、誰かに傍にいて欲しいような気持ちだったのだ。

 翌日も教習所の予約は入っていたが、彼は電話を入れてそれをなくしてもらった。
 家族には何も言わずに、鍵を噛ませて部屋の中で過ごす。
 なんだかひどく疲れていたけれど、眠ることはできずにベッドから身を起こした。
 天気は良かったが、少し肌寒く、室内でも暖房なしに過ごすのはつらい。

 彼は何をしようかを迷った。教習所に通っていなかったときは、どうやって暇を潰していたかを思い出せない。

40: 2011/08/29(月) 11:48:05.20

 本でも読もうかとページをめくるが、やはり頭には何も入ってこない。

 ぐるぐると堂々巡りを続けている。これはひょっとして、ずっと続くのではないだろうか。
 仮に社会復帰できたとしても、また何かが起これば、すぐにこうして部屋にこもりたくなるのではないか。
 
 自分はやはり、劣等な人間でしかないのではないか。

 思考がマイナス方面に流れていることに気付いた彼は、そこで考えるのをやめた。
 
 今日は体調が優れなかったから休んだだけだ。そういうことにしておこう。
 そう思うと少しだけ気が楽になった。

 そして、落ち着いて考えてみる。
 徐々に、少しずつでいい。一気に何かを変えようとしなくていい。
 何かをしようと考えられることは、以前に比べれば格段の進歩と言えるのだ。
 
 動きがないように見えても、変化は続いている。

41: 2011/08/29(月) 11:48:36.16

 ――本当に? 

 頭の中で自分を疑う声がした。耳を貸すな、と彼は胸中で呟く。

 ――本当に、自分は変わっているのだろうか。何かをやっている振りをして、今をやり過ごしているだけではないのか。
 以前から何も成長していないのではないだろうか。

 一度湧き出した不安が、彼の心の支配権を一気に握った。

「じゃあどうすればよかったんだ?」

 こらえきれず、彼は思いを口にした。

「嫌なことは嫌だし、やりたくないことはやりたくない。分からないことは分からない。それじゃ駄目なのか?」

 それでは駄目だと言う自分に、彼はとっくに気付いていた。
 気付いていたけれど、堰きとめられていた言葉は、一度決壊した理性では抑えられなかった。

「じゃあどうすればよかったんだ? 俺は何かを間違ったのか? それは取り返しのつかないミスなのか?」

 一度道を踏み外したものは、本来必要だった労力よりも遥かに多い苦痛を課せられるものなのか。
 そうだとして、そのルールは誰が決めているのだ?

 今更、やり直せない。彼はそんなことにはとっくに気付いていた。

42: 2011/08/29(月) 11:49:12.21

「俺は確かに怠惰だった。苦労を背負うのが嫌で、全部投げ出した。でも、これはなんだ?」

 あるいは、自分が思っているほど、現状は絶望的ではないのだろうか。
 誰でも簡単に抜け出せるような場所なのか。それとも、こんなのは問題にすらならないのだろうか。
 
 実際に彼を悩ませているものなど、ただの未来に対する不安でしかない。現在、彼を拘束しているものは何一つ無い。
 それでも彼は、何かの一歩踏み出すことに心底恐怖を感じていた。

 ――必氏になってもう一度歩き始めたところで、その結果、何も楽しめなかったら、俺はどうすればいいんだ?

 彼の不安は、つまるところそこに集約された。

 彼の世界には楽しいことは何一つ存在せず、だからこそ、必氏になってまで生きようとする理由を、彼は持ち合わせていなかった。

 それは自分のせいなのだろうか。

 ――俺のせいなのだろうか。

「俺のせいじゃないだろ」

 部屋の中に、彼の声が静かに響いたが、その声を聞くものはいなかった。

43: 2011/08/29(月) 11:49:42.67

 絶対に、自分のせいじゃない。
 でも、現状から抜け出そうとするならば、自分が労力を負わなければならない。
 苦労してまで、あのわずらわしい社会に回帰する理由はあるだろうか?

 学校生活でさえ、彼には単調で耐え難いものだったのに、それ以上の苦労をこなすことができるか?
 そうまでして生きていたいのか?

 ――俺は、どうすればいいんだろう。

 どうすればいいんだろう。
 どうすることができるんだろう。

 彼の頭では、ぐるぐるとそんな言葉が回っていた。

 確かに、彼は自分から抜け出すことを選んだ。それは、この世に価値のあることなんて何一つないように思えたからだ。
 客観的になれば身勝手な言い分かもしれない。けれど彼には、どうにもその意思が正当性のある主張に感じられる。

 彼は、自分から望んでこの場所に立っている。
 
 ――でも。

「――だったら、俺が悪いのかよ!」

 全部が全部、自分の責任でしかないのだろうか。
 自分の責任で道を選んだ以上、誰の助けも借りず、この場所から這い出さなければいけないのだろうか。

 そんなのはおかしい、と彼は思う。
 鬱屈した感情が、目に映る光景を暗く染め上げていく。

44: 2011/08/29(月) 11:50:11.16

 どうすればいいのだろうと、脳裏に再び言葉が過ぎった。

 叫びだしたい衝動を抑え付け、彼は歯を食いしばった。

 ――どうやって、この悲しみをやり過ごせばいいんだろう。
 
 他力本願かもしれない。図々しく身勝手かもしれない。
 それでも彼は、自分をここから救い出してくれる神様のような存在を求めていた。

 次に彼が目を覚ましたとき、昼下がりと言ってもいい時間だった。
 いつのまにか眠ってしまったらしいが、起きていたとしても何かをできたとは思えない。

 むしろ、眠れたことで頭がすっきりとして、思考が理路整然とした。

 眠る前の自分の思考を追いかけて、さまざまな矛盾や暴論が連なっていたことに気付く。

45: 2011/08/29(月) 11:50:37.58

 思考というのはそういうものなのだと彼は感じた。
 考えているそのときは理路整然として正論であるかのように見えるが、客観視すると大抵の場合は矛盾を孕んでいる。

 とにかく、理屈を考えるには、時間を置くことが必要なのだ。
 
 体を動かすのがなんとなく億劫で、彼はベッドの上でまた考え事を始めた。

 もうこんなのは嫌だ。とにかくなんとかしなくちゃいけない。

 毎日のようにそんなことを考え続けた。それなのに、時間が経てば経つほど焦りが募るばかりで、何も解決しない。

 ――俺はこれからどうすればいいのだろう。
 
 何もかもを無条件で解決できるような手段がないことは分かっている。
 そのことが、何よりも彼の気を重くさせた。


 結局、彼は翌日も自動車学校を休んだ。体調が悪いと電話を入れると、受付の女性はインフルエンザが流行っているからと前置きして、お大事に、と告げて電話を切った。
 自分は何も求められていないのだ、と思うと、また途方もないむなしさが彼を襲った。

47: 2011/08/30(火) 15:19:34.66

                   ◆

 ――恐れ。

 それが、彼の思考を蝕み始めていた。
 深い霧に覆われたように、彼の頭の中は曖昧にぼやけている。思考は既に破綻しかけていた。

 気付けば彼は、暗い部屋でひとり立ち尽くしていた。
 真っ暗だ。何も見えない。何もない。

 何もない、と、彼は口に出してみた。何もない、暗い部屋の中に、言葉が生まれた。
 何もない場所に言葉が生まれると、今度は意味が失われていることに気付く。
 そこに意味を付与しなければならない。何もない、という言葉に、意味を与えなければならない。

 思考が混乱をきたしていることに、彼は気付いた。
 
 自分は今どこにいるのだろう。
 どこに向かっているのだろう。
 いや、本当にどこかに向かっているのだろうか。


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48: 2011/08/30(火) 15:20:15.92

 ただ不安と恐怖だけが体を支配している。
 
 何かを失ってしまった、と彼は思った。

 何を失ってしまったのだろう?
 どこかに何か欠けた部分が落ちてはいないだろうか?

 人間というものについて、彼はよく考える。

 たとえば技能や知識がどれだけ積み重ねられようと、人間は所詮一個の人間でしかない。
 それは基準という意味で、イチと表現される。

 では、ある人よりも技能や知識の少ない人物は、ゼロになるだろうか。

 そうではないと彼は思う。技能や知識がない人物も、またイチなのだ。
 人間はどこまで行っても一個の人間でしかない。プラスになることもマイナスになることもない。

 では――プラスとはなんだろう。
 それはつまり、誰かと一緒にいる、ということではないだろうか。

 イチとイチが合わさればニになる。
 ニとイチが合わさればサンになる。
 サンにさらにイチが加われば、ヨンになる。

 それはつまり、一人ではない、ということだ。

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49: 2011/08/30(火) 15:20:46.02

 とはいえ、その数え方は、あくまで集団を表現するものに過ぎない。
 個人はどれだけのものを積み重ねようとイチであり、それ以上になることはない。

 では――ゼロとはなんだろう。

 氏、だろうか。

 氏がゼロならば、それが本来の姿、ということにはならないだろうか。
 イチからイチを引けば、ゼロになる。それはなくなってしまうということだ。
 
 ゼロとは「無い」ということ。
 では「無い」とはなんなのか。

 イチからイチが引かれること。
 イチと、マイナスイチが足されること。

 では――マイナスとはなんだろう。

「在る」と「無い」の違いはどこにあるのだろう。
 ――いや、そのふたつに、本当に違いなんてものが「在る」のだろうか。

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50: 2011/08/30(火) 15:21:12.18

 気付けば、彼は夜の街を歩いていた。
 本当にごく自然に、彼の意識は――あるいは存在と言い換えることもできるかもしれないが――唐突にこの場に現れた。

 赤ら顔で大声を出すサラリーマンが夜の街を闊歩している。
 凍てつくように冷え込んだ冬の街には大勢の人がいた。
 人々は木から木へと飛び移る鳥の群れのように、店から店へ、道から道へ、歩いていた。

 彼は雑踏にまぎれて街を歩いていた。なぜだろう。――なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。
 浮かんだ疑問を頭の中で練り回してみても、思うような答えは出なかった。

 騒がしい夜の通りの中、彼は歩いていた。どこかを目指しているのだろうか? その答えを、彼自身持ち合わせていなかった。

 思考は混乱をきたしている。――いや、思考だけではないかもしれない。
 行動も、言葉も、思想も、あるいは運命さえもが、ひずみ、崩れかけているように思えた。

 自分はどうすればいいのだろうと、彼はまた考えた。考え続けながらも、まだ歩いている。
 どうしてこんな場所にいるのだろう。冬の夜の野外は、ひどく肌寒い。
 
 彼は自分が厚着をしていないことに気付いた。何をやっているのだろう。本当に、何をやっているのだろう。

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51: 2011/08/30(火) 15:21:44.31

 吐き出した溜息が空気を染め上げ、白く立ち上って消えていく。
 
 何かが失われている、と彼は感じた。
 自らの溜息を追いかけて見上げた空から、白い粒が降りてきたのを視界に捉える。

 ――雪。ユキ。

 それはなんだったか。記憶の隅で何かがうごめくのを感じた。それに気付かない振りをして、彼はふたたび歩き始める。
 その瞬間、彼はようやく、自分がいつの間にか立ち止まっていたことに気付いた。

 自分はどうしてここにいるのだろう。
 どうして自分はここにいるのだろう。
 ここにどうしているのだろう自分は。
 どうして自分はいるのだろうここに。

 思考が空転している。意味の無い言葉だけを並べている。
 またおかしくなっている、と彼は思った。何かが足りない。何か? なんだろう。それは大事なものであったはずだ。
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52: 2011/08/30(火) 15:22:12.12

 息が詰まるような閉塞感に襲われている。

 友人は多かった、と、彼は唐突に考えた。以前は何人も仲の良い人間がいたし、我ながら上手くやれていたと思う。
 確執が起こることはあったけれど、それでも何とかやれていた。

 それでも、一番仲の良かった友人は誰か、と訊かれると答えられない。
 自分のことを、それだと挙げてくれる友人も、きっといなかっただろうことに気付いていた。 

 このざまはなんだろう。なにひとつ上手くいかない。何も手に入れられていない。気付けばいろいろなものを失っている。

 これが自分の目指したものなのだろうか?

 とてもではないが、そうは思えない。
 どこかで道を誤ったとしか思えない。

 ――どこでだ?

 雪。ユキ。記憶の中で誰かが笑っていた。なんだろう。この記憶はいつのものだろう。
 分からない。夢を見ているように思考が曖昧で、もう何も思い出せない。

 熱に浮かされたような気分で、彼は街を歩き続ける。
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53: 2011/08/30(火) 15:22:38.24

 街、町、マチ。さまざまな音が溢れた街。いろいろなものがある町。
 にもかかわらず、何もないマチ。
 何もない場所、何の音もない空間、何も響かないところ。そこに意味はあるだろうか?

 頭の隅で、痛むような熱が燻っている。恐怖からか、不安からか、あるいは、あるいは――。

 どこから生まれたかも分からない感情に翻弄されて、疲弊した彼は近くのビルの壁にもたれた。
 
 正常ではない、と彼は思う。何かが狂ってしまっているのだ。 

 目覚めなければ、と思う。
 これが悪い夢ならば、目覚めなければ、どうにかして、現実に帰らなくては。
 でも――どうやって?

 攻撃的なほどの寒さに身を震わせて、彼は空を見上げた。
 空は高く、月は遠く霞み、雪は少しずつ下界に迫っている。ひょっとして、自分は何かを見失ってしまったのだろうか?

 現実はどこまでも空虚で、生まれた希望さえもが鼻で笑われてしまう。
 それを思うと、彼は笑い出したい気持ちになる。

 どうせ何も手に入れられないなら、いっそ、すべてを壊してしまいたい――と。

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54: 2011/08/30(火) 15:23:49.73

                     ◆

 翌日、彼は朝早くに目を覚ました。
 妙に頭がぼんやりとしていた。ひょっとしたら風邪かもしれないと思い熱を測ってみたが、熱はない。
 念のために朝食のあとに風邪薬を飲んだ。多少は楽になったが、妙に落ち着かない気持ちはなくならなかった。
 
 週末の日曜なので、予定は何もなかった。もっとも、入ったとしても自動車学校以外には何もないのだが。
 両親は用事で出かけており、姉も適当にどこかをぶらつきに行ったようだ。

 家に一人取り残された彼は、時間を持て余し、さてどうして過ごしたものかと頭を抱えることになる。

 とにかく、読書でもしようかと部屋に篭って読書をしていると、正午近くにめったに鳴らない携帯が鳴った。

 着信音のあと、すぐに携帯を開いた。アキラからのメールだ。

 アキラは彼の中学時代からの友人で、引き篭もりになってからも最後まで連絡を取っていた人物だった。
 アキラはどうやら、ヤマトから、彼が自動車学校に通っていることを聞いたらしい。
 情報網というのは、どういう形でも繋がっているものだ。

 何度かメールを交わすうち、アキラは久々に会わないかと提案してきた。彼も、誰かと会いたい気分だったので、それを受けた。
 暗い影が落ちたような気分をごまかすのに、旧知の友人と会うのもいいだろう。

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55: 2011/08/30(火) 15:24:29.90

 会う場所はアキラの家に決まり、彼は一時過ぎに家を出て自転車を走らせた。 
 そう遠くはない距離だ。それでも、二十分弱はかかるのだが、中間地点に待ち合わせられるような場所がないので仕方ない。

 自転車を漕いでいると、冬の空気の冷たさを久しぶりに感じた。そういえばこんなふうに出かけるのも久しぶりかもしれない。
 どうしてこんなに簡単に外に出ることができるんだろう。彼はそのことを疑問に思ったが、深くは考えなかった。

 ひょっとしたら、社会と自分との間の溝は、自分が思っているよりも大きくないのかも知れない。

 かじかんだ手をあたためるため、彼は途中でコンビニにより、中華まんと缶コーヒーを買い求めた。
 店内では、なぜだか流行のロックバンドの新曲が流れていた。くだらない、と彼は感じる。

 やかましいだけのギター、節操のないベース、妙に跳ね回るドラム、何よりも粘着質なボーカルの声。
 生理的嫌悪感とでもいうべきものが、彼の背中を撫で上げた。

 趣味に合わない。彼は内心で毒づきながら店を出た。最近の音楽というのは、特に良く分からない。
 引き篭もる以前からそうだった。人気の音楽というのが、なぜだかインスタントなものに思えてしまうのだ。
 半年もすれば忘れられるような音の群れ。

 中華まんをかじりながら自転車を漕ぐ。アキラの家についたのは、その少しあとだった。

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56: 2011/08/30(火) 15:24:56.05

 会うのは久しぶりだったが、彼の目から見てもアキラの様子は以前とほとんど変わらなかった。
 愛嬌のある表情も、親しみの沸く雰囲気も、中学時代と同じだ。体格はがっしりとしていたがそれでも彼には以前と同じように感じられた。

 アキラの部屋に案内されてから、彼らは二人で話をした。
 話すことはたいしてなかった。彼からは何も話すことはないし、アキラの方も言いたいことはないだろう。
 自然と、話は自動車学校のことや、ヤマトのことになった。

 彼は誕生日が十二月で、時間が空いたので今頃から教習を受けに行こうと思っていたのだという。
 早いものは夏休み頃から余裕を持って教習を受けていると聞いて、二週間ほどで仮免許取得に到達できる自分がいかに時間を持て余しているかを意識させられた。

 それ以外でも、アキラの言葉の節々には、三年近い歳月をかけた成長や、社会に出ることに対する不安のようなものが窺えた。
 そのことに気付くたびに、彼は少しだけ暗澹とした気持ちになった。自分は何も成長していないし、何も不安を抱くようなことがないからだ。

 とはいえ、彼がずっと暗い気持ちでいたかといえばそうではない。
 むしろアキラと話している間、彼は普段にないほど快活になっていた。

 それというのも、もう何年も直接会って話していない友人と会って、それが特別仲の良い友人だったからといって、こんなにも会話が弾むものだろうかと考えたのだ。
 彼は、自分が自然にアキラと話せたことが、たとえようもなく嬉しかったのだ。

 三年近い引き篭もりの歳月の中、家族以外の人間とはほとんど言葉を交わさなかった。
 それなのに、今アキラとの会話に、気まずさや居心地の悪さを感じることはない。

 これはアキラの性格ゆえか、あるいは、自分が思っていたように、社会と自分との間の溝は思うより大きくなかったということなのか。

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57: 2011/08/30(火) 15:25:31.40

 世間話を続けていると、アキラが不意にヤマトの名前を出した。

「ヤマトから、おまえのことを聞いたんだよ。最近会ったって」

 そのことには彼も気付いていた。アキラは少し照れくさそうに鼻の頭を掻いた。

「迷ったんだけど、やっぱり連絡してよかった」

 彼の中で、今まで自分が感じていた引け目のようなものが、少しずつ溶けて行った。
 彼はアキラからさまざまな話を聞いた。アキラ自身が今までどのような生活をしていたか、ヤマトや、他の友人たちのこと。
 仲の良い友人の一人だったミシマが高校を辞め、今は定時制高校に通っているという話を彼は初めて聞いた。

 アキラから、ヤマトのことも聞かされた。最近、彼にもどうやら悩みがあるのだという。
 彼は自分が一方的に周囲を軽蔑し、敬遠していたことに気付き、自分が恥ずかしくなった。
 
 誰にでもその人なりの悩みがあるのは当然だ。彼は今まで、それを無視していたのだ。

 結局その日は、半日をアキラの家で過ごした。
 翌日には自動車学校の予約が入っていた。明日はいかなければならないと彼は思った。

 前向きになりはじめている。
 それでも、彼は夜が来るたびにまた、強い不安に苛まれた。
 これはいつか消えてなくなるのだろうか。 
 毎夜、そんなことばかりを考えている。

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60: 2011/08/31(水) 19:20:17.69

 彼の不安を裏付けるように、日常に回帰してしまうと、いつもの退屈じみた暗い気持ちが蘇った。
 我ながら面倒な奴だと自嘲する。あと四日ほど乗れば仮免許試験を受けられるが、彼は予約をなるべく詰めずに入れた。
 
 教習車に乗って隘路を走る。こんな道、実際にあるだろうかと考えると、なんとなく無意味なことをさせられているような気分になった。
 坂道発進、踏み切り、信号、車線変更。
 
 ぐるぐると目的地もなくルートを走る。
 ぐるぐると回り続ける。何の意味もないようなことを続ける。
 時折停まり、また走り出す。そのうち疲れ果てたように停まる。中に誰もいなくなる。

 気付く。それは生活に似ているのだ。朝起きて、昼に動き、夜に眠る。
 部屋の扉を出て、廊下を歩き、階段を下りて、リビングに向かい、コーヒーを入れて、
 リビングから出て、階段を登り、廊下を歩き、部屋に戻り、鍵を閉める。

 ひとつの繰り返し。延々と続くループ。変化のない生活。
 それは果てのない螺旋階段を登っているようなものだ。
 回転している。降りている。登っている。あるいは沈んでいる。浮かんでいる。ここはどこだろう。
 

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61: 2011/08/31(水) 19:20:44.43

 実地を終えて待合室に戻る。窓から茜色の日差しが差し込んでいた。
 冬の空は膜がかかったようにぼんやりとしていることが多いが、今日はいやにさわやかな晴れ空だと彼は感じた。

 そういえば先日、初雪が降ったことを思い出す。寒さはより深刻になっていく。積もれば運転にも支障が出るかもしれない。
 あるいは、教習所で経験しておけるのだから、逆に良いのかもしれない。
 彼が考えごとをしながら空いている席を探し待合室を見渡すと、その途中で知った顔を見つけた。

 また中学時代の同級生だ。近頃、こういうことが多い気がする。
 女二人は並んで長椅子に陣取り、小さな声で言葉を交わしているようだった。
 その片方がムラサキであることに気付いて、彼は咄嗟に彼女らに声をかけた。

「ハルノ」

 ――が、もう一人の女の名前だった。
 名を呼ばれて彼を見上げたハルノは、少し怪訝そうな表情になったが、すぐに誰だか気づいたらしく、表情を緩ませた。
 

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62: 2011/08/31(水) 19:21:10.41

 ハルノはムラサキと仲の良かった女子で、けれどムラサキとは違い、男子に対しても積極的に話しかけるタイプだった。
 彼女は隣に座るムラサキとは違い、高校の制服ではなく、普段着だった。
 そのことが彼をなんとなく不安にさせる。なぜ普段着なのだろう。高校に通っていれば制服を着ているはずだ。
 単に着替えてきただけなのか、私服登校の学校なのか、あるいは……あるいは。

 彼は、その疑問の答えをあえて知ろうとはしなかった。

「久しぶり」
 
 ハルノの表情は以前と変わらない。際立った変化は見られない。
 体型や見た目の印象などは多少変わったが、それでも別人と見違えるほどではない。
 
 際立った変化はない。短くない時間、さまざまなことを見ないで来た彼は、周囲が激変していることを覚悟していた。
 それなのに実際に外に出てみれば、変化と言えるような変化はない。
 そのことがひどく彼を戸惑わせた。変化。変化とはなんだろう。

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63: 2011/08/31(水) 19:21:47.37

 たった二年、三年の間とはいえ、人は充分に変化できるものであるはずだ。 
 ムラサキも、ヤマトも、アキラも、ハルノも、皆そうであるはずだし、彼自身もまたその余地があるはずだった。

 それなのにこれはなんだろう? 三年という時間は短くない期間であるはずだ。にも関わらず、誰も変化していない。
 いや、些細な変化はある。年輪を重ねている。だがそれは表面上には現れない。そういうことなのだろう。

 ……そうだろうか。本当に、みんな成長しているのだろうか。みんな変化しているのだろうか?
 まるで――百年前だろうと、百年後だろうと、変化などというものは一切存在しないように感じられる。

 現実から乖離した発想が思考に紛れ込んだことに気付いて、彼はかぶりを振った。近頃は何かがおかしい。
 思考を論理的に作動させる部分が、何者かによって意図的に奪われたようだった。
 あるいは、そんなものは最初からなかったのか。



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64: 2011/08/31(水) 19:22:14.87

 彼女たちふたりに混ざり、たわいも無い世間話をする。何の意味も無い会話の中に、ふとした変化が潜んでいる。
 みんなそうだ。一見しただけでは分からない。けれど離れて、再び近付いたときになって気付く変化を隠し持っている。

 けれど、それは本当に変化だろうか? 些細な変化。だってそれは絶対的な変化ではないのだ。
 ハルノが彼のことを忘れたわけではないし、彼がハルノのことを忘れたわけでもない。それは変化と言えるほどのものだろうか?
 彼には、そんなものは変化だとは思えなかった。
 
 人間がどこまでいっても人間でしかないように、個人はどこまでいっても個人でしかない。
 個から別の個になるならともかく、同一の個が多少の変化を広げたところで、それがなんだというのだろう?

 また混乱している。

 私服姿のハルノは席を立って彼とムラサキに別れを告げた。彼女は軽快なステップでこの場所を去っていく。
 ――ところで、ハルノはなぜこんな場所にいたのだろう?

 一瞬後、馬鹿かと自嘲する。ここは学校なのだ。学校なのだから、勉強をするために決まっている。
 ――いや、本当にそうだったか?
 何か思い違いをしていないだろうか。

 ここは自動車学校で、ハルノもムラサキもヤマトも、皆、免許取得の為に時間をかけている。
 そう、そのはずだ。


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65: 2011/08/31(水) 19:22:50.85

 体調が悪いのかも知れない。頭が上手に働かない。

 疲れているのだろうか、と彼は考えた。
 そう、疲れているのだ。ここのところは冷え込みが激しく、夜も寒さで目覚めることがある。
 ろくに睡眠もとれず、疲れているのだ。

 引き篭もっている間は誰にも会わずに済んだ。けれど今は違う。会わざるを得ないし、さらに試されることもある。
 疲弊しているのだ、と彼は思った。日々続く、誰かに試される時間。毎日のように試され、それを達成し、次にまた試される。
 その終わりを考えると、彼は途方もないような気持ちにさせられる。

 いつまで試され続けるのだろう。何の為に試されているのだろう。
 免許取得に、運転技術が試されるのはいい。明確な目標が見えるからだ。
 そのあとはどうなる? いったい、その次は、何を試されるのだろう。
 
 ムラサキは、ハルノが高一で学校をやめ、アルバイトをしながら通信制高校に通っていることを教えてくれた。
 彼女がそうしている間、自分はいったい何をしていたのだろう。そう考えると彼はたまらなくむなしい気持ちになる。

 しばらくのあいだ、ムラサキと会話のない時間を過ごした。しばらくといっても、次のコマにうつるまでの十分に満たない。
 妙に緊張しているせいか、時間の流れが遅く感じた。

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66: 2011/08/31(水) 19:23:21.37

 ――緊張? 彼はそれに気付いて違和感を抱いた。なぜ緊張しているのだろう。ムラサキといるからだろうか?
 ムラサキといると、どうして自分は緊張するのだろう。

 なぜ? 異性と話す機会に恵まれなかったからだろうか。そういえば家族以外の人間と話すのは久しぶりなのだ。
 つい最近からまた話す機会が増えてはいるが、かといって人と話すのが突然得意になったりはしない。

 そう、彼女といると緊張するのは人と話すのが久しぶりだからであって……他の意味は、断じてない。

 そのはずだ。そう思いながらも、彼は何か、奇妙な感情が燻っているのを感じた。

 本当にそうだろうか。ハルノと一緒にいたとき、自分は緊張していただろうか。
 ひょっとしたら、ムラサキとふたりでいるからこそ緊張しているのではないか。
 それは、それはつまり――。

 彼の思考がまた空転しかけたとき、肩を叩かれた。

「よう」

 突然現れたヤマトは彼の隣にすっと腰掛けた。あまりに自然な動作だったために、彼は最初、自分が話しかけられたことに気付かなかったほどだ。


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67: 2011/08/31(水) 19:23:47.94

 ヤマトは彼の隣に座るムラサキに気付き、奇妙な表情になった。意外そうとも取れるし、納得したようにも見える。

 一瞬後、ヤマトは表情を崩し、明朗な笑顔でムラサキに話しかけた。

「おまえも来てたのか」

 その言い方に、彼は違和感を覚えた。妙な気安さ、あるいは親密さとでも言うべきものが、ヤマトの言葉から受け取れた。

 そういえば、ヤマトはムラサキと話をしていた数少ない男子の一人だった。
 極端な見方をすれば、彼以外の男子は、ムラサキと事務的なもの以外の会話をしたことがなかったはずだ。

 ヤマトはハルノと仲が良かった。その結果、ムラサキとも話をしていた。そういえば彼らは、同じ高校に進んだはずだ。
 二人の仲にどのような進展があったのかは知らないが、今の発言をかんがみるに、仲が悪くなったわけではないのだろう。

 ムラサキは曖昧に頷いて押し黙った。どことなくそっけないようにも思える。
 本当に仲が良いのだろうかと疑いかけて、この二人の「普通」を知らない自分がそれを判断できるわけがないことに気付いた。
 ひょっとしたら、いつもこんな感じなのかもしれない。


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68: 2011/08/31(水) 19:24:18.79

 未知の感覚が、彼の胸中で渦を巻き始めた。これはなんだろう。劣等感に近いものだ。でも違う。
 嫉妬――そう、嫉妬だ。彼はヤマトに嫉妬している自分に気付いた。
 友人が多く、快活で人気者で、物怖じせず、リーダーシップを発揮する。いつも輪の中心にいる人気者。 

 嫉妬、羨望、劣等感。彼とヤマトは小学の頃から同じ学校、同じクラスだった。
 彼はいつもヤマトが羨ましかった。
 自分の中で生まれた醜い感情に嫌気が差して、彼は立ち上がった。

「それじゃあ、俺はもう行くから」

 短く告げて、二人に背を向ける。教習所から出ると、冷たい風が彼の体を襲った。
 白い雲が均されたように空中を覆っている。
 結局――いつまでこんなことを続ければいいのだろう。


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69: 2011/08/31(水) 19:25:13.51

                   ◆

 
 また、夜の街にいた。彼は肌寒さを掻き分けるように歩いている。
 街には人が溢れている。大勢ではないが、それでも少なくはない。

 ここにいる人たちは、皆、生きているのが楽しいのだろうか。
 退屈に過ぎるのか、充実しているのか、今に氏んでしまいたいのか。

 いずれにせよ大した違いはない。
 声高に未来は明るいと騒ぐものがいるが、所詮未来は現在の地続きに過ぎない。
 過去の地続きにある現在に、対して明るいと言えることがないのだから、現在の地続きである未来もまた、同じようなものだろう。

 不意に若い男二人の会話が聞こえてきた。彼は意図せずその内容を聞く。
 現代の閉塞感、社会に対する恐れ、それでも生を渇望する素直な感情を歌うロックバンド。
 
 神懸り的だと片方が言った。彼は思わず失笑する。安い神もあったものだ。

 そんなものではない、と彼は感じた。そんな安いものであってはならない。
 
 そのバンドは、努力しても無駄だとか、大人は嘘ばかりだとか、所詮生きるのに意味などないのだから、好きにやれとか、そういうことばかりを言っている。
 そして最後には、それでもまぁがんばれよ、それらしいことを言う。くだらない、と彼は思った。


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70: 2011/08/31(水) 19:25:57.52

 大抵の人は努力をしたくないし、嘘をつくし、なぜ生きているのか分かっていない。
 大多数がそうなのだから、そのバンドが共感を呼ぶのは当然のことだ。

 努力をすれば夢は叶うかもしれない。でもそれは面倒なのだ。だから努力をしても無駄だ、ということにしておく。
 怠惰の言い訳に音楽を使う。笑える冗談だ。そんなものではない、と彼は心の中でもう一度呟いた。

 でも、本当にそうなのだろうか。

 努力をしても叶わない夢だってある。人は空を飛べないし、魔法も使えない。
 近頃の彼には、もう何がなんだか分からなかった。

 考える。自分は夢を見ているのだろうか?
 なぜこんな場所にいるのかが思い出せない。自分はここで何をしているのだろう。

 現実感といえるものが存在しなかった。熱に浮かされたような気分で彼は歩き続ける。

 自分はなぜこんな場所を徘徊しているのだろう。何か意味はあるのだろうか?
 何か目的は? これは夢か? 現実なのだろうか?

 ひどく疲れている。それに、肌寒い。そのくせ、何かが胸の中で激しい主張を続けている。


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71: 2011/08/31(水) 19:26:23.85

 記憶が不意に蘇る。
 
 劣等感、嫉妬、羨望。あいつはいつでもそうだ、と彼は思う。
 自分が必氏になっても手が届かないものを、いつも簡単に手に入れてしまう。
 
 ずっと前からそう。いつだってそうだ。

 暗い感情が渦を巻く。怒り、あるいは憤りとでも呼ぶべき感情が、彼の中で沸騰していた。

 ずきり、と頭が痛む。これはやはり現実なのだろうか。それにしては現実味が薄い。
 どうしてこんなところを歩いているのだろう。思い出せずに彼は立ち止まる。
 近くにあったビルに背をもたれて溜息をつく。自分はひどく疲れている――ひどく、疲れている。

 考える。
 怖くないのだろうか? 
 街を歩く人々は皆、誰かと一緒に楽しそうに笑っていたり、一人で足早に去っていったりとさまざまだ。
 
 そんななかに、自分のように恐怖に取り付かれた様子の人間はいない。

 水槽の中の魚の群れは、一見群れのようでいて、その実ばらばらに動いている。 
 あれは小さな社会だと、彼は感じたことがあった。

 彼は恐怖に襲われている。それを思うと夜も眠れず、叫びだしたいような気持ちになる。
 なぜ自分以外の人間は平然としていられるのだろう。怖くはないのだろうか。
 もしかして――この恐怖を感じているのは自分だけなのか?

 ――どれだけのことをしたって、いつか何もかも消えてしまうのに。


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72: 2011/08/31(水) 19:26:50.41

 これはやっぱり夢なんだろうと彼は思った。こんなにも恐怖を感じることはない。
 誰も彼に興味を持つことなく、ただ行き交っていく。そこに確かなものなんて何もないように思えた。

 頭痛が強まる。自分はいったい何をこんなに恐れているのだろう。
 不安、恐怖、失望、渇望、欠落、不足、諦観、妥協。

 もう諦めてしまえばいいのだろうか。けれど諦めてしまえば――そこに何が残るのだろう。

 叫びだしたい。もう何もかもやめてしまいたい。
 こんな恐怖なら、いっそ……。

 いっそ、なんだというのだろう。彼は自分の思考が上手く回っていないことに気付いた。

 近頃は何かがおかしい。彼はそのことに気付いていた。
 まるで夢の中にいるような浮遊感。……いや、今ここにいることが夢だったか。どうだろう、分からない。
 
 そもそも、夢と現実との間に違いなんてあるのだろうか。

 ……よく分からない。

 何も考えたくなくなって、思考を放り投げる。ずきずきと痛む頭を抑えながら空を見上げる。
 高い空。周囲の喧しい灯りが邪魔して星が見えない。

 見えない。さまざまなものに邪魔されて、見えなくなっていく。

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73: 2011/08/31(水) 19:27:16.57

 ふと、ムラサキのことを考えた。
 彼と話したときのムラサキの表情。それは彼にとって、なんとなく、とても据わりが悪いものだ。

 でも、あいつなら……あいつなら、彼女はもっと別の表情を見せるのだろうか。
 
 不意に、誰かが目の前に現れたことに気付いて、彼は視線を空から戻した。

 女が立っていた。歳は十代の後半というところか。派手な髪の色と濃い化粧が特徴的だった。
 なんのつもりだろうと彼が怪訝に思うと、女はにっこりと人懐っこい笑みを浮かべた。

「ねえ、今暇?」

 暇……? どうだろう。自分は今、退屈しているのだろうか。

 わからない。そんなことはどうでもいいことのような気がする。
 どうせ、どちらにしても大した違いなんてありはしないのだ。


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76: 2011/09/01(木) 21:35:19.90

 その翌日、彼には何の予定もなかった。

 何もやるべきことはなかったし、やりたいこともなかった。
 何もする気になれなかった、というのが正確かもしれない。

 日に日に、自分の中の衝動が強まりつつあることに彼は気付いていた。
 衝動。あるいは恐怖と呼ぶ方がいいだろうか。
 毎日のように自分を襲ういつ止むとも知れない不可解な衝動に、彼は疲弊しきっていた。

 にもかかわらず、その日はなんだか妙に気分良く目が覚めた。なぜだろうと考えて、前日の自分の行動を思い出せないことに気付く。
 彼は少しの間だけなんとか記憶を遡ろうと努めたが、すぐに嫌になってやめた。思い出せないことは、どうせ重要なことではない。

 すっきりとした気分で一日を過ごす。頭は冴えていたが、やはり何かをする気にはなれなかった。
 こうやって一日を過ごしていると、自分を悩ませているものが本当に存在するのかが疑問に思えてくる。


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77: 2011/09/01(木) 21:37:46.77

 ひょっとしたらあの衝動は何かの思い違いで、自分の肥大した妄想か何かなのではないだろうか。彼はそんなことも考えた。
 
 部屋を一歩も出ずに昼下がりまで過ごす。今日は本当に気分がいい。
 何もせずに一日を過ごすなんて普段ならできないことだ。そう考えると、退屈な一日がなんだか特別なものになった気がした。

 いつもならできない。何もせずにいると奇妙な焦燥のようなものが彼を追い立てるからだ。それもまた、恐怖と呼ぶべきものかもしれない。

 何もせずに一日を過ごすのも悪くない。夕方までは、そう思える。
 夜が近付いてしまうとそうもいかない。自分はまた、無駄に時間を過ごしてしまったのだと気付かされる。

 けれど、無駄とはなんだろう? 無駄ではない時間の使い方とはどのようなものだろうか。

 確たる目的や目標があるならともかく、目指すところのない行為はどのようなものも結局無駄とは言えないだろうか。


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78: 2011/09/01(木) 21:38:29.06

 では、目的があれば無駄ではないのか。

 違う。どのような行為も行動も、結局のところすべて無駄なのだ。
 映画スターも芸術家も学者も職人も誰も彼も、どうせいつかは氏んでしまうのだ。

 歴史に名を残す傑物だろうが大悪党だろうが、その歴史がいつまで続くかも分からないのだ。

 無意味といってしまえば、すべてが無意味だ。

 くだらない思考だと自嘲する。いつからこんなことを考えていたんだろう。
 少しでも隙を見せれば、怠惰は理屈をつけて彼の思考を乗っ取る。つまりはそういうことなのだろう。

 ――ところで、俺は今何を考えていたんだっけ?

 それももう、どうでもいいことに思えた。


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79: 2011/09/01(木) 21:39:38.16

                     ◆

 待合室に戻る。ふと、自分はここで何をしているのだろうと考えた。
 
 今日も自動車学校に来ていた。
 今日も? いや、毎日来ているわけではないとはいえ、確かに「今日も」と言える頻度のことだ。おかしなところはない。
 
 待合室はがらんとしていた。平日の昼なのだから当然だ。普段から人は少ない。
 十分休憩を挟んで、また教習車に乗ることになっている。その後に学科を受けて、その頃にはもう夕方だ。

 方向転換の実地を担当した小太りの教官は、無愛想で高圧的なあまり良いとは言えない人物だった。
 教官にもやはり当たり外れのようなものがあり、中には優しかったり辛抱強かったりする人物もいるが、彼だけは傲慢と呼べるほど態度が悪い。

 こういう人物を見ると不思議に思う。これまで生きてきたなかで、トラブルはなかったんだろうか。
 社会経験というものがあればあるほど、人は人間的に成長していくらしい。では彼は?
 つまらないことで怒りを示し、舌打ちをし、相手の気持ちを考慮せず、そんなことで今まで生きてきたのだろうか。

 それを思うと、自分が必氏になって社会に馴染もうとしているのが馬鹿らしく思えてくる。

 叱られた言い訳といえばそうかもしれない。どちらにせよ、もうあの教官とは当たりたくないものだと彼は思った。 


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80: 2011/09/01(木) 21:40:07.30

 長椅子に腰掛ける。もう何度目だろう? 来ていない日も含めて二週間にもなるだろうか。もうすぐ学生たちも冬休みに入る頃だろう。
 待合室のテレビに目を向ける。夕方のニュースが始まっていた。ふと見慣れた地名をテレビの中に見つけた。

 駅前から少し歩いた通りの、居酒屋のチェーン店と古臭いスナックなんかが同居した通り。
 場所はすぐに分かった。この近く。この教習所から車で二十分ほどの場所。

 テレビの中の気の強そうな女はいくつかの言葉を吐いた。遺体。被害。犯人。暴行。殺害。殺害? 氏んだ? この近くで人が氏んだらしい。
 
 不思議なことではない。人は氏ぬ。毎日のように氏んでいる。でも……事件性のあるものは、少なくはないが珍しい。
 彼は思わず画面に見入った。このニュースはいつ頃伝えられたものだろう? 事件が起こったのはいつだろう。
 被害者の名前は? 犯人を突き止められるほど捜査は進展しているのだろうか。

 情報すべてを聞き取る前に休憩が終わり、小太りの教官が彼の名前を呼んだ。
 どうやらまた彼が担当らしい。溜息をひとつついてから立ち上がり、彼は教官のもとに歩いていった。


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81: 2011/09/01(木) 21:40:51.10

 シートベルト、座席の位置、ミラーの向き、エンジン、ギア。
 機械的操作。習慣的繰り返し。

 同じ動作を延々と繰り返す。車はどこかに向かうためのものだが、それならどこに向かうというのだろう?
 教習車は狭い箱庭のような場内を走る。一時停止。ギアをローに。周囲の確認。発進。ギアをセカンドに。

 カーブ。スピードを落とす。ハンドルに親指を差し込まない。直線道路。スピードを上げてギアをサードに。
 クラッチの踏み込みが未だに混乱する。
 
 なぜ自分はこんなことをしているのだろう? ミラーを確認。目視。ウィンカーを出す。車線変更。スピードを落とす。右折。
 
 結局、外に出て何かが変わったのだろうか。繰り返しの内容が変わっただけで、日々が焼き増しにすぎないことは同じじゃないのか。
 彼の中ではそんな徒労感が渦巻いていた。

 どうすればいい? どこにいけばいい?
 教官の指示に従って操作を進めながら、彼はずっとそんなことを考えていた。


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82: 2011/09/01(木) 21:41:24.95

 また待合室に戻る。自分はここで何をしているのだろう。もうそんなことはどうでもよかった。
 この時間になると待合室は学生たちで溢れかえる。居心地の悪さが彼の気持ちを重くする。

 待合室にはムラサキがいた。またか、と彼は思う。偶然以外にはありえないはずだが、偶然というには出来すぎている。
 同じ一日を繰り返しているように芸がない毎日の中、彼は定期的にムラサキと遭遇する。
 もしかしたら、ムラサキと会ったときのことのみを覚えているのかもしれない。
 そのほうがまだ現実的に理解できる。

 ムラサキの隣の腰を下ろす。彼女は一瞬こちらをちらりみて、少し気まずそうに目を逸らした。

「どこまで進んだ?」

 居心地の悪さを感じて話しかける。ムラサキはそっけないながらもすぐに返事を寄越した。

「なにが?」

「実地」

 ああ、と頷いてから、彼女は少し考えるような仕草をして、

「どこまでだっけ」

 困ったような表情で呟いた。大丈夫なのだろうか。


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83: 2011/09/01(木) 21:42:40.33

「オートマ?」

「うん」

「そう」

 待合室にいると嫌でも耳に入ってくる会話の中で、女子がオートマを選択することが多いことには気付いていた。
 彼女もそのなかの一人ということだろう。

 学科教習を受けなければならないことを思い出して、受付に原簿を取りに行く。
 マスクをした受付の女性は、愛想のない表情できびきびと動く。

 愛想笑いをしないだけで、話してみると愛嬌のあるかわいらしい人物なのだと姉に聞いた。
 でも、どうだろう。他の誰かに対して愛想があっても、自分に対して愛想がないのなら、それは最初からないのと同じではないだろうか。
 だからどうというのではない。むしろ、愛想笑いができないということに彼は身勝手な好感を覚えていた。

 彼は自然な足取りでムラサキの隣に座った。
 嫌がられるかもしれないことは考えなかった。そもそもが赤の他人なのだ。嫌われたところで、疎んじられたところで害はない。これっぽっちもない。


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84: 2011/09/01(木) 21:43:09.85

 テレビではさきほどのニュースを再び取り上げていた。気持ちの悪い事件だと彼は思う。
 暴行。被害者の女性。明言はされていないが、そこにはそういうことが含まれているのだろう。
 このあたりもだいぶ物騒になったものだ。彼はひとつ溜息をついた。疲れているのだろうか。頭がぼんやりする。

 そのまま何の会話もないまま時間が流れた。
 結局のところ、自分はその程度の人間なのだと彼は思った。
 上手くやろうと思わなくていい。ただ消化するのだ。自分がやらなければならないことを、それを繰り返していけばいい。

 ぐるぐるぐるぐる、指示通りの操作を続けるように生活を続ける。
 ときにはむなしく感じるかもしれないが、それは自然なことなのだ。
 
 時間になって、ムラサキは教官に名を呼ばれた。短く挨拶をして彼女と分かれ、彼も学科の教室に向かう。

 学科講義の行われる教室は、プロジェクターを動作させるためにカーテンを閉めて灯りを消し、薄暗くしている。 
 暖房の暖かさとあいまって、どうがんばっても眠気が襲ってくる。


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85: 2011/09/01(木) 21:45:56.24

 眠ってはいけない、と彼は思う。でも眠っている生徒もいた。なぜ彼は眠っていて、俺は起きているのだろう?
 自分の頭に浮かんだ疑問に彼は答えることができない。
 
 それはつまりスタイルの問題なのだ。

 彼は眠っていてもいいスタイルの人間で、自分は眠ってはいけないスタイルの人間なのだ。
 方針、とでも言うべきだろうか。その方針の剥離が、ときどき人と人とを決定的に分ける。
 こういうとき、眠れるほうがいいのだろうか。退屈だし、教科書を開けば書いてあることを再確認しているだけだ。
 
 起きていなくても分かっているような内容だ。にもかかわらず、自分は授業を聞いて理解しようと努めている。
 もう分かっていることを再確認している。なぜだろう?

 なぜ自分はこんなにも必氏になっているのか、それが彼にはわからなかった。

 授業のあと、帰りのバスの時間を待つ。
 
 頭がぼんやりとする。疲れているのだ。久しぶりに毎日のように予定が入って、ちょっと嫌になっているだけなのだろう。
 彼は自分を納得させて窓を見た。
 もう夜に近い時間だ。窓は鏡のようになって彼の表情を映していた。見飽きた顔。彼はなんだかいやになって溜め息をついた。

 いつまでこんなことを続けるのだろう。
 自分は大丈夫だろうか。このまま社会に適応していくことができるだろうか。

 やるしかない。そう感じながらも、彼の心から暗い霧が晴れることはなかった。
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87: 2011/09/03(土) 00:52:46.72

 待合室に戻る。自分はここで何をしているのだろう、と考える。いつものことだ。
 学生たちの群れの中を移動しながら空いている椅子を探すがなかなか見つからない。

 彼は座ることを諦めて、自販機で飲み物を買うために外に出た。ぱらぱらと雨が降りだしている。
 冬の空はひどく曖昧で頼りない。

 沈殿したような冷気に体をさすりながら歩く。咳が出た。やはり風邪だろうか。やけに頭がぼんやりするのも、何事にも集中しづらいのも、それが原因かもしれない。

 疲れながらも、日々をこなしている。消化できている。大丈夫、なんとかなっている。彼は自分に言い聞かせる。
 缶コーヒーががらりという音を立てて取り出し口に落ちた。赤くなった手を暖かな熱で解してからプルタブに指を当てた。

 今日はもう何の予定も無い。帰ってしまっても大丈夫だ。
 ひどく疲れていて体調も優れない。帰ったら眠ってしまおう。
 

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88: 2011/09/03(土) 00:53:13.92

 時間は二種類に分けられると思う。やらなければならないことをこなす時間。何もやることのない時間。
 やらなければならないことがある時間には憂鬱を覚え、何もやることのない時間には退屈を覚える。

 じゃあ満たされた時間はどこにあるのだろう? いつまでその二つの時間を繰り返せばいいのだろう?
 
 くだらない妄念だ。うそ臭い希望が御伽噺でしかないように、あからさまな苦悩もまた御伽噺にすぎない。
 
 とにかくやるしかないのだ、と彼は考えた。
 なんとかやっていくしかない。そのうち何かが分かってくる。それを期待し続けるしかない。

 ――それでも何も見えてこなかったら?

 その疑問の答えを、彼は考えないことにした。
 後で考えればいい。騙し騙しやっていけばいいのだ。

 身を切るような衝動や恐怖や不安から、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げ続けて、それで――どこかにいければ、それでいい。
 もし逃げ切れなくなったら、怖くてたまらなくなって、どうしてもこらえきれなくなってしまったら、そのときは、

 そのときは、氏んでしまえばいい。みっともなく地べたに這いつくばって、氏んでしまえばいいのだ。
 誰かに何かをぶつけてしまうよりはよほどいい。

 大丈夫、自分はまだ正常だ、と彼は思った。


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89: 2011/09/03(土) 00:54:00.29

 不意に肩が叩かれる。既視感が頭をよぎる。案の定、振り向いた先にいたのはヤマトだった。
 腹の底で暗い感情がとぐろを巻き始める。彼に会うたびに沸くこの感情はなんなのだろう。
 彼は内心の悪意を気取られぬように表情を意識的に固くした。

 彼の感情の動きに気付かなかったのか、ヤマトはごく自然に世間話を始めた。
 以前会ったときとどこか違って見えるのは錯覚だろうか。

 学校をやめてから何をしていたのだとヤマトに聞かれ、彼は少しだけ戸惑った。何もしていなかったからだ。
 正直に答えると、ヤマトは怪訝そうな表情を浮かべた。

「なにも?」

「なにも」

 本を読んで、ネットをして、せいぜいそのくらいだ。
 堂々巡りの袋小路。あの生活を思い出すと、彼は少しだけ気分が落ち着くのを感じた。自分は前に進んでいる。

 ヤマトは表情を強張らせた。いったい何を考えているのだろう。


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90: 2011/09/03(土) 00:54:27.34

 沈黙を気まずく思い、今度は彼の方からヤマトに話しかけてみることにした。
 高校生活はどうだったか、他の奴はどうしているのか。疑問は山のように湧き出てくる。
 その質問のひとつひとつに、ヤマトは簡潔に答えた。

 最後にヤマト自身の生活はどうなのかと訊ねると、目の前の男は閉口した。
 自分は何か失言をしてしまっただろうか、と彼は考える。けれど見当たらない。ごく自然の会話の流れだった。
 彼にも、何かがあったのだろうか。

 それを想像すると、一方的な軽蔑を向けていた自分がやはり嫌になって、彼は歯噛みした。

 帰りのバスの時間になった。ヤマトと簡単な別れの言葉を交わして、彼はバスに乗り込む。

 大丈夫、前に進んでいる。そう思うことで、なんとか自分を保つことができた。


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91: 2011/09/03(土) 00:54:57.92

                 ◆


 目を覚ますと、彼は自分の部屋のベッドで横になっていた。
 また記憶が曖昧になっている。何がこんなにも自分を混乱させているのだろう。

 妙に落ち着かない気分にさせられて、出かけようかと考える。時計を見ると時刻は夜九時を回っていた。
 クローゼットから上着を取り出して着替える。今日もまた、彼は夜の街に繰り出す。

 移動時間はさしてかからなかった。通りには酔客やら若者やらが溢れている。
  
 近頃の彼は、自分の中で膨らみつつある大きな感情を持て余していた。

 彼はその事実に気付いて、ひどく憔悴している。なぜならその感情が、ひどく動物的なものだからだ。
 人間の行動を原初的に支配する衝動は何かと彼は考えた。結論はすぐに出る。恐怖と快楽だ。

 果たして自分はどちらの感情に突き動かされているのだろう。
 夜の記憶は常に夢とうつつのどちらともつかない。曖昧にぼやけている。
 頭の中に夜霧がかかっているように、さまざまなものが覆い隠されてしまっている。


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92: 2011/09/03(土) 00:55:54.33

 また、夜の街を歩く。自分はいったい何をしているのだろう、と彼は考えた。どうしてこんなところを歩いているのだろう?
 前後はもう思い出せなくなっていた。彼は足を止めずに通りを歩く。誰も彼を気に留めるものはいない。
 どうだろう、それでいいのではないだろうか。世間から忘れ去られて、隠者のように逃げ暮らす生活も悪くない。

 なぜそれができないのだろう。彼は自分の中のプライドを感じた。未だに、無根拠な自信が彼の行動の幅を狭めている。

 なぜ普通になれないのだろう。誰もが簡単にこなせることに、自分はなぜ躓いてしまうのだろう。
 内省的で無為な思考が彼の脳を支配する。こんなことは今までに何度でもあった。

 不安や恐怖から逃げれば、なんとかなると彼は思っていた。
 逃げて逃げて逃げて逃げて、でもその先に――もし何もなかったら?

 それを思うと彼はたまらなく恐ろしくなる。
 何もないということ。何の意味もないということ。自分という人間が無価値だということ。在っても無くても同じだということ。
 ゼロ。

 誘蛾灯に惹かれて飛ぶ夜虫のように、人の多いところへと向かっていく。
 なぜだろう?

 気付けば彼はまた考えていた。悪い癖だと自嘲する。なぜかを考えないと満足しない性格が、今まで何度災いしたか分からない。

 何も考えないこと。ただ日々をこなすこと。それだけで満足できるなら、それに越したことはないはずだ。

 だが――できるだろうか?


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93: 2011/09/03(土) 00:56:22.27

「ねえ」

 不意にかけられた声に振り返ると、レンタルショップの袋をぶら下げたハルノがいた。
 夜m暇を持て余した彼女は、DVDを借りにこのあたりを歩いていたのだという。
 
 どうやら退屈しているらしい。彼は今日が金曜だということを思い出した。
 ハルノは彼をファミレスに誘った。彼は財布の中の札の数を考えて頷いた。

 交差点をひとつ過ぎた先にあるファミレスを目指す。
 夕方ごろは賑わっているが、夜になるとさほどでもない。少なくはないが多くもない。
 
 適当に商品を頼んで飲み物をすする。ハルノとどうでもいい話をしながら時間を消化していく。
 彼女の話は面白い。基本的には聞き流すだけで済む。
 徹底的に人の話を聞かないからだ。適度な相槌さえしてやれば、ハルノは好き勝手に話を続ける。


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94: 2011/09/03(土) 00:56:48.28

「ねえ」

 不意にかけられた声に振り返ると、レンタルショップの袋をぶら下げたハルノがいた。
 夜、暇を持て余した彼女は、DVDを借りにこのあたりを歩いていたのだという。
 
 どうやら退屈しているらしい。彼は今日が金曜だということを思い出した。
 ハルノは彼をファミレスに誘った。彼は財布の中の札の数を考えて頷いた。

 交差点をひとつ過ぎた先にあるファミレスを目指す。
 夕方ごろは賑わっているが、夜になるとさほどでもない。少なくはないが多くもない。
 
 適当に商品を頼んで飲み物をすする。ハルノとどうでもいい話をしながら時間を消化していく。
 彼女の話は面白い。基本的には聞き流すだけで済む。
 徹底的に人の話を聞かないからだ。適度な相槌さえしてやれば、ハルノは好き勝手に話を続ける。

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95: 2011/09/03(土) 00:57:33.14

 ウェイトレスが運んできた食事を受け取りながらハルノの話を聞く。

「でね、××××が――」

「××××?」

「××××が、×××を××だったって話があったじゃない」

「×××?」

「うん。×××」

「×××?」

「……×××がどうかしたの?」

 ×××。

 誰だっけ。

「×××を、××××が××だったの?」

「うん。あれ、知らなかった?」

「……いや、どうだろう」

 ×××が××××に××れていた。
 ××××が×××を××だった。

 そうだっけ?
 そんなような気もする。


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96: 2011/09/03(土) 00:58:01.39

「でも結局、××××は×××に××できなくてさ」

 ××××は×××に××できなかった。
 ××××は×××に××しようとしていた。

「ま、昔のことなんだけどね」

 目の前に座る×××は××××と×××に関する話を続けた。それは昔のことだという。
 ×××は昔からそういう奴だった。ぼやけた思考の中で彼は考える。

 ×××は××××に××れていた。××××は×××に××しようとした。

 で?

 ××××は×××が好きだった。

 好きだった?
 
 そうだ、と彼は頷く。××××は×××のことが好きだった。それで、×××に告白しようとした。
 そういう話だ。目の前に座る×××の話をまとめるとそういうことになる。それで?

 それでも何もない。××××は×××に告白することができなかった。その結果、進展もなく卒業を迎えた。


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97: 2011/09/03(土) 00:58:33.12

 ×××。

 ×××はそういう奴だ。彼は頭の中で×××の顔を思い出そうとした。
 ×××は、いつも彼が欲しがるものを容易に攫っていく。簡単そうに手に入れる。あげく、もう飽きたと言って簡単に捨てる。
 ×××はそういう奴だ。何度記憶を掘り返しても、×××の顔を彼は思い出せない。

 でもつい最近――×××と会ったばかりだったような気がする。

 ×××と、自動車学校で会った。そのことを彼は思い出す。
 そのとき×××の他に、××××がいたはずだ。
 ××××はどんな表情をしていたっけ?

 そのことが、どうしても思い出せなかった。

 対面の席に座るハルノの顔を見る。彼女は怪訝そうな表情でこちらを見ていた。
 どうかしたのだろうか? いや、この場合、どうかしてしまったのは自分の方だろうか。

 ファミレスを出たのは十一時近くになってからだった。
 ハルノは彼の家に行きたいと言った。彼は少し迷ったが、どうせ大した問題にはならないと思って受け入れることにした。
 
 家までは歩いて十五分ほどの距離がある。夜の野外は肌寒い。彼は外に出たことを少しだけ後悔した。


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98: 2011/09/03(土) 00:59:13.68

 家につく。真っ暗な玄関の壁に触れて電気を探し、ぱちんとスイッチを押すと玄関が薄暗く照らされた。
 ハルノを部屋に迎え入れて、冷蔵庫から冷やしておいた缶を二つ持っていく。
 ハルノは彼の部屋に上がりこんでも飄々としていた。少し呆れながら缶を手渡す。彼女は上着を脱いでから受け取った。。

 ベッドの上に並んで座る。缶のプルタブを開けて口をつける。甘い味、疎ましい苦味の両方が、彼の口の中に広がった。
 酒は苦手だった。それでも飲みたいときがある。飲んでいないとやっていられないような夜がある。そういうときは飲む。
 幸い、冷蔵庫の中にはチューハイがいつも備蓄されていた。他のものは飲まない。どうせ安酒だ。アルコールでさえあればなんでもかまわなかった。

 ハルノはちびちびとチューハイを飲みながらどうでもいい話をはじめた。 
 彼氏の浮気だとか友達との仲違いだとか家族との喧嘩だとか、大半の話は彼の興味を引くものではなかったが、中にはそうではないものもあった。
 ××××に対する劣等感のようなものが窺える話もあった。その話に彼は少しだけ共感を覚えた。

 ××××。×××。××だった。××できなかった。××××。ぐるぐると××××の表情だけが彼の脳裏を過ぎる。
 ××××。彼は彼女のことが好きだった。
 彼の時間はずっと止まったままだった。三年間、時間の経過なんていうものはあってないようなものだった。
 それなのに周囲は明確な変化を続けている。成長し続けている。自分だけが取り残されていく。

 ××××は×××が好きだった。

 彼は××××が好きだった。

 ×××は……×××は、彼が欲しがったものをいつも簡単にさらっていく。



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99: 2011/09/03(土) 00:59:53.10

 昔の話だ。もう関係ない。そのはずだ。だってもう三年以上の月日が流れているのだから。
 ××××はもう×××に対して何も特別な感情を抱いていないだろうし、×××だって××××のことなんてなんとも思っていないだろう。
 
 今更何かがどうなることはない。

 でも自分だけは未だに彼女を好いている。取り残されている。こんな馬鹿げた話があるだろうか。

 彼は考えることをやめた。いつのまにかハルノとの距離が近付く。彼女はいったい何をやっているのだろう。
 こんなところにきて、いったいどうするというのだろう。
 
 缶の中身を飲み干す頃には話題もなくなった。退屈になって部屋の隅においてあったギターを弄る。
 ハルノはさして感心したふうでもなく、虚空を見つめるようなぼんやりとした空っぽな表情で彼の指先を見ていた。

 アンプにつながれていないエレキギターは大した音を出さない。音は確かに出る。でもそれを誰かに聞かせるには中継するものが必要なのだ。
 中継するもの。彼は嫌になってスタンドにギターを立てかける。ベッドに倒れこむ。疲れている、と彼は思った。


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100: 2011/09/03(土) 01:00:42.80

 ×××、×××。
 せっかく忘れられたと思ったのに。
 彼がいなくなった生活を成立させていたのに。
 忘れさせるかとでも言うように×××は現れる。現れて、彼の居場所を奪っていく。いとも簡単に。

 結局のところ逃れられやしないのだと、彼は今更のように思い知った。×××は彼を蝕む。
 ×××がいる限り彼は幸福にはなれない。×××は邪魔者なのだ。

 ハルノは彼の背中に体重を乗せた。シングルベッドの上を身をよじりながら移動して、彼の上に体を乗せる。
 服越しの体温が伝わってくる。ちっとも落ち着かないのはなぜだろう?
 その後、ハルノは何かを言ったし、彼も何かを言い返した。その内容はどうしても思い出せない。

 次に目を覚ましたときには、ハルノは生まれたままの姿で冷たく横たえていた。
 
 最初に彼が考えたのは氏体をどう処理するかだった。

 人一人の身体は大きい。簡単に隠すのは難しい。かといって放置しておけば腐臭を放つ。
 切断してバラバラの場所に棄ててしまおうか? 時間と手間を考えると現実的じゃない。


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101: 2011/09/03(土) 01:01:09.24

 埋める? そうだ、埋めるのはどうだろう。幸い、この家から一番近い他の家まで最短でも二百メートル以上の距離がある。
 庭を深く掘って埋めれば発覚しない。そうではないだろうか? やがて彼女は土に還る。早いか遅いかの違いがあるだけだ。

 頭はとても冴えていた。普段の空転しがちな思考は急に姿を消して、今はただシンプルな思考のみがある。
 まったくもって正常で冷静だ。
 まったくもって正常で冷静だ。まったくもって正常で冷静だ。まったくもって正常で冷静だ。
 まったくもって正常で冷静だ。まったくもって正常で冷静だ。まったくもって正常で冷静だ。

 まったくもって正常で冷静だと彼は頭の中で繰り返した。

 穴を掘るより先に、ハルノの氏体をそのまま放置していいのかを考えた。
 部屋に戻り氏体を観察すると、憐憫とでも呼ぶべき感情が彼の中で沸いた。
 仕方なく服を着せる。力の抜けきった体はひどく重く扱いづらい。彼女の服装は冬服だったからなおさらだ。

 ××××は×××が××だった。
 ××××は×××に××しようとしていた。
 
 頭の中でそんな言葉がいくつも繰り返されていた。


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102: 2011/09/03(土) 01:02:21.86

 結局のところ、自分は××××ではなく×××に執着しているのかもしれない。
 彼よりも優位に立ちたいと考えているのかも知れない。×××は××××に特別な感情を持っていないだろう。

 なぜだろう? コンプレックス? なぜ? 彼に劣るところなどなにひとつないはずなのに?

 服を着せてからハルノの体を外へと運ぶ。
 彼女の表情は、凍てつくような冬空の下に曝されるとよりいっそう冷たさを増したように思えた。

 空っぽの瞳を見たくなくて、彼は彼女の瞼を閉じさせた。鬱血し赤黒く染まっていた顔面も、少しずつ白さを取り戻していく。
 首の皮膚に赤い色が浮き上がって、爪痕が残っている。誰の爪痕だろう? 思考はまったくもって正常で冷静だと彼は思った。

 ガレージからスコップを持ち出して穴を掘った。とにかく土を掘り返す。単純な肉体労働。そこに思考が入り込む隙はない。

 扼氏。ところで、ハルノはいったい誰に殺されたんだろう?
 少し前に氏んだ少女のことを思い出した。夜の街で出会った名前も知らない少女。
 彼女は結局どうして氏んだんだっけ? いや、そもそも氏んだんだっけ?

 体を動かしながら、彼は少しだけそんなことを考えて、すぐにやめた。


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104: 2011/09/05(月) 00:58:45.45


 ××××は×××が好きだった。
 ×××は××××を×××××××××××。

 ××、××××××××××××。
 ×××××××××××。
 

                   ◆

 三十八度五分、だった。
 体温計を枕元に投げて、息苦しさに溜息をつく。インフルエンザが流行っているのだと、どこかで聞いたような気がする。

 毛布にくるまりながら寝返りを打つ。薬を飲んで安静にするのが一番いいとはいえ、喉が痛むうえ洟がひどいので眠る気にもなれない。
 瞼を閉じても眠気はちっともやってこなかった。安静にする、というのが気休めとしか思えなくなって、彼はベッドから起き上がった。
 
 頭が熱でぼんやりしている。彼は部屋を出てリビングに向かった。コップに水を注いで飲み干す。少しだけ喉が楽になった。
 冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して部屋に持ち込む。食欲はほとんどなかった。
 平日、金曜なので家には彼以外に誰もいない。こんなに体調を崩すのはいつぶりだろう。思い出そうとして、すぐに諦めた。
 
 体の震えは寒気からか、冷え込みからか、その両方からか。彼は嫌になってベッドに潜り込む。

 汗がべたべたとまとわりついて気持ち悪い。額に手の甲を当てる。自分はどうしてこんなことをしているのだろう、と考えた。

105: 2011/09/05(月) 00:59:49.48

 突き詰めて考えてみよう。そう思った彼は、今までの記憶を辿ってみることにした。
 どこからがいいだろう。どこで失敗したのだろう。
 
 考えるまでもなく、高校を辞めたことが思い当たった。
 一週間で学校をやめたこと。どう考えても早計だった。何かを判断するにはまだ早すぎた。

 高校を辞めたのは、「ああ、こんなものか」という失望が理由だと当時は思っていた。
 今思えばまるで違う。自分だけが受験に合格し、友人が落ちたことで、彼はひとりになった。
 ひとりはとても不安だった。

 不安に耐える術を彼はしらなかった。だから逃げ出した。逃げ込んだ。そういうことだろう。

 ――それが原因だろうか? 違うと彼は思った。
 高校を中退したって、生きていく術なんていくつでもある。
 バイトでも何でもすればフリーターにはなれる。いまどき二十台のフリーターなんて街に溢れている。
 世間的に弱者であり、ともすれば敗者と受け取られかねないが、それでも生活はできている人が多数だ。

 将来が不安ではないのかと人は問うかもしれないが、そう訊ねる人には、ならば貴方は不安ではないのかと問うのがいいだろう。
 結局、みんな未来が見えないから、どこかで不安を感じているのだ。彼はそう思い、瞼を閉じた。


106: 2011/09/05(月) 01:00:21.61

 どこで間違ったのか、と問えば、転機がどこかにあるというわけではないように見える。

 もともと臆病で、何に対しても真剣でなく、いつも人の陰に立つことを好んでいた。
 ひなたに立つ人間に嫉妬しながらも、重圧から逃れるために日陰にいることを好ましいとすら感じていた。

 物心ついたときからそうだったのだ。彼はようやく思い出す。
 最初から日なたにいた時間なんてなかった。子供のときは分からなかった明と暗の境が、中学に入った頃にはっきりとしはじめただけ。
 
 彼は最初から暗がりにいたのだ。
 鬱屈とした日々、屈折した思考、縮んでいく主張、膨らんでいく自意識、肥大するプライド、さまざまなもの。

 転機を挙げろといわれたら間違いなく高校に入学した直後を挙げるだろう。
 けれどあの前後だけを見たところで、とても彼が高校を辞めた理由は分からないだろう。

 高校を辞めたのは、その積み重ねの結果なのだと彼は思った。
 鬱屈した感情が、新環境に入ると同時に憂鬱を孕んで暴走したのだ。

 あれは転機ではなくひとつの結末だった。

 美しい友情や甘酸っぱい恋愛が青春の条件なら、彼の人生に青春などと呼べるものはなかった。
 そして輝かしい未来もきっと存在しない。
 
 現在は過去の地続きでしかない。過去の地続きの現在がこんなにも鬱積しているのに、現在の地続きの未来にどんな希望を見出せるだろう?


107: 2011/09/05(月) 01:01:10.86

 それでも、と彼は思った。
 それでもやっていくしかない。もう、子供ではないのだから。

 ぼんやりとした頭で過去を振り返っていると、不意にムラサキの顔が浮かんだ。
 一度も話したことがないと思っていた。でも、記憶を辿るとたしかに話したことがある。
 
 何を話したのかは思い出せない。入学し始めたころ、まだ新しい友達もできていなかった時期に、彼女と言葉を交わしたことがある。
 内容はまるで思い出せなかったが、そのとき彼女がどんな表情をしていたかは克明に思い出せた。
 微笑んでいたのだ。まだ初対面の緊張が抜けないながらも、強張りながらも、彼女は微笑していた。
 
 なぜ忘れていたのだろうと彼は思った。あるいは、その後に続く生活が、あまりに期待にそぐわなかったからだ。
 なんの努力もしなかった自分を棚に上げて、なぜ身勝手な期待ばかりをしていたのだろう。
 
 彼は考えることがいやになって眠ろうとした。不思議なことに睡魔はすぐに訪れて、彼を眠りの世界に導いていく。
 ぼんやりとした思考が、最近会ったばかりの人物たちの映像を映していく。
 アキラ、ミシマ。ともだち。
 ムラサキ、ハルノ。縁の無かった女子たち。
 ヤマト。

 ……ヤマト?
 ヤマトは、彼にとってなんなのだろう。
 小学校からの付き合いで、仲がいいとは言えないが、そこそこ話もした。
 

108: 2011/09/05(月) 01:01:36.83

 嫉妬、羨望、敵愾心。
 あんな奴がいなければ、という気持ち。
 
 彼はようやく気付く。日陰者がおこがましいと自分で思うが、彼はヤマトをライバル視していたのだ。
 負けたくないと思っていた。でも勝てなかった。だから諦めて不貞腐れた。
 誰も相手にしてくれなくなった。もっと不貞腐れた。

 ヤマトはどんどん先に進んで、彼はそれでも不貞腐れたままで、そうした過去の地続きで――彼は今ここにいる。

 ヤマトがいなければ、彼の人生はまったく別の方向に進んでいたかもしれない。
 でもそれがなんだ? そんなのは当たり前のことだ。登場するはずの「誰か」がいなくなれば、どんな人間の人生も色を変えてしまう。
 登場人物が足りなくなれば物語はまるで別の結末へと繋がる。それは当然のことだ。

「誰かがいなければ」。無駄な思考だと彼は思った。

 熱に浮かされて思考が空転している。けれどどうしてだろう。普段よりもよほど有意義な思考ができているような気がした。

 とにかく俺はやるしかないのだ、と彼は思った。
 そう思うと、全身の力がすうっと抜けて、今度こそ彼は眠りの中へ落ちていった。

109: 2011/09/05(月) 01:02:02.89

                   ◆

 ――×××が好き?

「そう」

 ――×××。

「……うん」

 ――×××か。

「……」

 ――そろそろ、帰らないか?

「……うん」

 ――もうすぐ、卒業だな。

「うん」

 ――卒業したら、×××は……。

「……そう、だね」


110: 2011/09/05(月) 01:02:29.65

 ――告白、しないのか?

「……」

 ――――。

「……告白したって、一緒にいられるわけじゃないから」

 ――それでもだよ。

「どうせ一緒にいられないなら、したってしなくたって同じじゃない」

 ――それは、逃げじゃないのか。

「そうかもしれない。でも、何かするには遅すぎるよ」

 ――――。

「……遅すぎる」

 ――――。

「…………」

 ――寒いな。

「……うん」

 ――なあ、あれ。

「なに?」

 ――雪、降ってきてないか?


111: 2011/09/05(月) 01:02:59.02

                   ◆
 
                   ◆


 待合室に戻る。自分はここで何をやっているのだろうと彼は思った。
 いつまでこんなことを続けるのだろう。そう考えると同時に疑問が沸いた。
 
 いつまで? それよりも、いつから自分はこんなことを繰り返しているのだろう?
 ただ教習所内で教習車を走らせる日々。繰り返し繰り返し、環の中を回り続ける。
 同じ道を延々と回り続ける。ループ。繰り返し。退屈な日々。生活。

 いつまでこんなことを続けるのだろう? いつから自分はこんなことを繰り返しているのだろう。

 待合室に戻る。自分はここで何をやっているのだろうと彼は思った。
 いつまでこんなことを続けるのだろう。いつからこんなことを続けているのだろう。

 待合室に戻る。夜の街に出る。待合室に戻る。夜の街に出る。待合室に戻る。夜の街に出る。
 待合室に戻る。夜の街に出る。暗い部屋で喚く。待合室に戻る。夜の街に出る。暗い部屋で喚く。
 待合室に戻る。夜の街に出る。待合室に戻る。夜の街に出る。待合室に戻る。夜の街に出る。
 待合室に戻る。夜の街に出る。暗い部屋で喚く。待合室に戻る。夜の街に出る。暗い部屋で喚く。
 待合室に戻る。夜の街で少女を犯す。暗い部屋で喚く。庭に穴を掘る。待合室に戻る。夜の街で何かを探す。暗い部屋で喚く。待合室に戻る。

 そして後には何も残らない。


112: 2011/09/05(月) 01:03:30.88

 待合室には××××と×××が並んで座っている。夜の街には誰もいない。
 待合室では××××と×××が楽しそうに話をしている。夜の街には誰もいない。
 暗い部屋では女が二人すすり泣いている。なぜ泣いているのだろう? 思考はまったくもって正常だと彼は思った。
 夜の街には誰もいない。待合室では××××と×××が性交を続けていた。
 粘膜の擦れあう音が大きく響いている。誰もが平然とその様子を眺めていた。思考はまったくもって正常だと彼は思った。
 待合室では二人の少女が泣いていた。夜の街では××××と×××が腕を組んで歩いている。
 誰かの泣き声が遠くから響いている。思考はまったくもって正常だと彼は何度も繰り返した。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し――
 いつまで? と誰かが呟いた。
 いつまでこんなことを続けるのだろう、と誰かが呟き続けている。
 いつまでもいつまでもいつまでも、「いつまでこんなことを続けるのだろう」と呟き続ける。
 その声は彼がなくなってしまうまで絶えず響き続けるのだ。
 耳朶に届く声。延々と繰り返されるノイズ。いつまでこんなことを続けるのだろう。

 待合室に戻る。学生たちで混雑するなかを歩いて座れる場所を探す。
 ムラサキと誰かが座っていた。誰か? 誰だろう。×××。そう、×××だ。
 ×××がムラサキと並んで座って何かを話していた。それはつまりそういうことだ。

 もうムラサキのことはどうでも良かった。今はもう×××に対する憎悪だけが燃え上がっている。
 ×××は氏んでしまうべきなのだ。彼は世界にとって邪魔者だ。いてはならない存在なのだ。
 ×××を×××で××して××した上で××××を××××して××××に××××で×××す。
 そして×××で×××にした後×××××××××××。×××××××××××。
 ――×××××××××××。
 ――頃してしまえばいいのだ、と彼は思った。


113: 2011/09/05(月) 01:04:18.58

 誰かが耳元でささやき続けている。いつまでこんなことを続けるのだろう。いつからこんなことを続けているのだろう。
 どうでもいい、と彼は思った。
 
 重要なのはそんなことではなく、むしろ が   であるということ。
  が      でしかなくここにいることに        ということ。 
 ×××が××××と話をしているということ。
 
                     。

 つまりこういうことだ。

 彼を頃してしまえばいいのだ。
 彼はこの世界に必要のない人間なのだから。

 ×××を頃してしまえばいいのだ。
 ×××はこの世界に必要のない人間なのだから。

 でも。

 それで? それから?

 ――それから?
 
 思考が混乱していると彼は思った。今重要なのは×××を頃すことであって俺のことじゃない。
 そう、×××を頃すことこそが重要なのであって、自分のことはどうでもいいことなのだ。

 待合室から出ると冷気が彼の体を襲った。誰かが彼の名前を呼んでいる。気のせいだろう。ここに俺の居場所なんてないんだから。
 ××××は×××が××だった。

 ×××はこの世に必要のない人間だ。

 じゃあ俺は?

 彼はその続きを考えないことにした。


114: 2011/09/05(月) 01:04:48.15

                   ◆

 待合室に戻る。風邪が治ってからは、思考が妙な方向に流れ出すことはなくなった。
 彼はそのことを不思議に思わなかった。たぶん、それは当然のことなのだ。

 彼は今までどうでもいいことで悩みすぎた。根拠のない劣等感に悩まされていた。
 でも本来はそんなことはどうでもいいことなのだ。苦悩は常に自己陶酔でしかない。

 妙に晴れ晴れとした気持ちで、彼は長椅子に座る。窓の外から赤い西日が差し込んでいる。
 足音に気付いて顔をあげると、ムラサキがいた。

「……隣、いい?」

 多少怪訝に思いながらも彼は頷いた。隣に座ってからというもの、ムラサキは何をするでもなくただ落ち着かなさそうにしていた。

 彼女はしばらく押し黙っていた。彼は何も言えなかった。結局、沈黙が横たえる。
 こういうことだ、つまり。何がどうなるかは誰にも分からない。次に何があるかも誰にも分からない。
 ただ刻一刻と変化は続いていく。何かが変わり続けるのだ。

 ムラサキが隣のやってくるように。
 そうしてすぐにいなくなるように。
 
 彼女がふと顔をあげた。それまで何かを思いつめたような表情をしていたにも関わらず、彼女の表情に深刻そうな色はなかった。
 かといって楽しそうでもない。苦しそうでもない。ただただ無表情で無感情なのだ。

 ムラサキは口を開いて、すぐに閉じた。
 言いたい言葉がようやく見つかったのに、それをすぐに失ってしまったみたいに。

115: 2011/09/05(月) 01:05:10.86

 それでも、彼女は沈黙を繰り返すことだけはしなかった。

「学校」

 彼女はまた言葉を繋いだ。そうしなければならないとでも言うみたいに。

「やめた、んだよね」

 以前にもした会話。そのことをあえて指摘せず、彼は頷いた。

「どうするの? これから」

「どうする?」

「うん」

 ……どうするのだろう。どうすることができるのだろう。
 とにかく何かを始めるしかない。そのうち何かが見えてくるかもしれない。これからなのだ。
 その先がどうなるかは、まさに神のみぞ知るとでも言うべきだろうか。

「分からない」

 彼は正直に答えた。そうすることが必要だと感じたし、そうするべきだと感じた。待合室の暖房は古い石油ストーブだけで、距離があると肌寒い。
 体を揺すりながら彼はこれからのことを考えた。どうしよう? とにかくどうにかしなければならない。

 彼はムラサキの表情を横目で盗み見た。何かを言いたげでもあるし、何にも興味を払っていないようにも見える。
 彼女はしばらくぼんやりと虚空を眺めていたが、不意にその瞳が何かを捉えたらしい。
 視線を追いかけた先にはヤマトがいた。待合室に戻ってきたヤマト。
 一瞬、目が合ったように感じたが、ヤマトは人ごみの中を抜けて彼らの前を通り、声をかけてくるでもなく教習所から出て行った。

「ヤマト」

 最後に彼が名前を呼んだが、ヤマトが振り返ることはとうとうなかった。

116: 2011/09/05(月) 01:05:37.03

                   ◆


 彼は公園のベンチに座っていた。寒空の下で何もせずぼーっとしていると、自分がなぜこんなことをしているのかが不意に分からなくなるときがある。
 考えないことにする。それもひとつの選択なのかもしれないと、彼は思いはじめていた。
 考えるべきことは何もなかった。ただ時間を消化するだけでよかった。待つだけ。そこに退屈はなかった。

 彼は×××を呼び出した。
 ×××は間もなくここに来るだろう。

 するべきことが既に決まっていること。何の問題もない、ということ。
 それなのに彼は、自分が結局×××をどうしたいのか、まったくわかっていなかった。

 少しすると待ち人はやってきた。
 ×××は面を上げて彼と目を合わせた。友人に向けるような表情。その顔が、彼をたまらなく居心地悪くさせた。

 ×××は彼の隣に腰掛けた。微妙に距離がある。当然といえば当然かもしれない。特別仲のいい友人というわけでもなかった。
 ×××と自分は友人でもなんでもないのだから。

 彼は少しの間言葉を発さなかった。×××も同様に何も言わなかった。沈黙だけが重くのしかかってくる。
 何を言えばいいだろう、と彼は考える。どう言えば伝わるだろう。
 そもそも、何を伝えたいんだろう。

「なあ」

 彼が口を開くと、×××は少しだけ身を強張らせた。何かを予感しているのかもしれない。
 
「おまえは、これからどうするんだ?」

 ×××は困ったように眉を寄せた。その仕草が彼を苛立たせる。
 いつだってこうなのだ。
 こいつはいつだってこうなのだ。
 
「分からない」

 しばらくの沈黙の後、×××はそう呟いた。その声は十二月の空に静かに溶けていく。
 雪が溶けて地面に沁みていくみたいに、その呟きは空間に静かに解けていった。
 馬鹿らしいと彼は思う。そんなことはどうでもいいことだ。

117: 2011/09/05(月) 01:06:04.05

「俺はおまえが大嫌いだ」

 吐き捨てるように彼が言うと、隣に座る男が驚いたように顔を上げた。

「いつだって邪魔だった。頃してやりたかった」

 それでも、今になってようやく分かったこともある。
 ×××だって彼と同じだ。

「結局、おまえだって俺とおんなじだよ」

 呪いでもかけるみたいに、彼は続けた。

「どうせ逃げられないんだ」
 
 彼は奇妙な充足感に包まれていた。これはなんだろう?
 彼はいつからこんなことを続けていたのだろう。でももういい。
 辞めてしまえばいいのだ、こんなことは。

 彼は立ち上がった。
 誰だっておんなじだ。どうせこいつだっていつかは氏んでしまう。
 どうでもいい。ハルノは氏んでしまったし、ムラサキもここにはいない。
 誰もいない、と彼は思った。


118: 2011/09/05(月) 01:06:30.40

 ×××は何を言い返せばいいのか分からないような表情でぼんやりと彼を見ていた。
 彼にとってはその変化ももうどうでもいいことだ。どうでもいいことだ、と彼は頭の中で繰り返した。

 その場を立ち去ってから、しばらくあてどもなく歩く。
 どこにもいく必要はない。何もしなくてもいい。つまりそういうことだ。
 
 誰ともすれ違わずに歩いていると、自然と少し前の出来事に記憶が戻っていった。
 それをどうにか辿ろうとするが、何かが邪魔して上手くいかない。
 どうでもいいか、と彼は思った。どうせ大したことじゃない。

 彼はさまざまなことから興味を失った。もうどうでもいいのだ。全部捨ててしまえばいい。それで充分ではないだろうか?

 ひとつ溜息をつくと、白く染まった息が真冬の空へと立ち上っていった。それを追いかけて顔を上げたとき、彼は雪が降り始めていることに気付いた。

 こういうことだ。
 誰がいなくなろうと雪は降るし、世界は回る。何もおかしなことなんてない。
 どうせ、みんな必要ない人間なのだ。


119: 2011/09/05(月) 01:06:55.96

                   ◆


 ヤマトから連絡が来たのは、体調がよくなった数日後、自動車学校に行った翌日のことだった。
 その前日も自動車学校で見かけたのだが、声をかけてもヤマトは反応しなかった。
 何かあったのだろうかと考えていたところだったので、彼は奇妙に納得しながら彼のメールに応じた。

 話があるから会いたいという内容のメール。かまわないと返信をすると、彼はすぐに待ち合わせ場所と時間を指定してきた。
 
 時間に余裕を持って向かったつもりだったが、待ち合わせ場所の公園には、ヤマトは既にいた。
 ベンチに座る彼を見て、なんとなく安心する。ちょっと前に話しかけても返事をもらえなかったからだろうか。
 けれど、彼はヤマトの表情を見て愕然とした。
 
 ヤマトの顔には感情がまるで浮かんでいなかった。色という色が抜け落ちていた。疲れきったような空白の表情。
 彼は 怪訝に思いながら彼の隣に腰掛ける。一瞬、ヤマトが警戒するように身を強張らせるのを感じた。

 彼は何も声をかけられなかった。今のヤマトの異常さがそうさせたのかもしれない。
 とにかく、自分からは何も言い出せず、ヤマトの言葉をただ待ち続けた。他にできることがなかった。

 ヤマトの話とはなんなのだろう? 自分に関係のある話だろうか?
 そうに決まっていると思いながらも、彼は話の内容がまるで想像できなかった。

120: 2011/09/05(月) 01:07:22.46

「なあ」

 少ししてから、何の前触れもなくヤマトは口を開いた。
 彼はその声音に恐怖を抱く。この感覚はなんだろう?

「おまえは、これからどうするんだ?」

 声が耳に届いて、頭が意味を理解する。ごく短い時間で行われる情報の処理。
 ムラサキにもされた質問。その質問の答えを聞いて、ヤマトはどうするつもりなのだろう?

 彼は考え込んだ。これからどうすればいいのだろう? 未だにその答えが見つからない。
 あるいは答えなど、ずっと見つからなくてもいいのかもしれない。

 それでも考えて、考えて、できる限りの答えを返そうとする。
 でも何も浮かばない。いつもそうだ。考えることは何も生み出さないのだ。

 とにかく行動して、行動して、行動することでしか道は開かれない。
 仮に、考えて、考えて、考えることで何かの道にたどり着いたとしても、それは彼が目指す場所に向かうものではないのだ。

「分からない」

 しばらくの沈黙の後、彼は答えた。
 いつもの自問自答と同じ答え。でも意味は決定的に違った。
 もう考えない、と、彼は答えたのだ。


121: 2011/09/05(月) 01:07:50.71

「俺はおまえが大嫌いだ」

 少しの沈黙のあと、ヤマトは吐き捨てるみたいに言った。その言葉自体よりも、それを言ったヤマトの表情がひどく苦しげであることが、彼の胸を強く締め付けた。
 
「いつだって邪魔だった。頃してやりたかった」

 言葉が続けば続くほど、ヤマトの表情は歪んでいった。彼の表情は涙に歪んでいる。なぜこんなにも苦しそうなのだろう、と、彼は場違いにも思った。
 ヤマトの放った言葉は、彼にはちっとも聞こえなかった。それらは何の広がりも持たず、ただ空間に沈殿して、いつのまにか消えてなくなっている。

 いつのまにか降り、いつのまにか止んだ雪が、地面に溶けて染み入るように。
 それならばあるいは、何か残るものはあるかも知れない。
 けれどヤマトの言葉は何も残さなかった。すっかりと消えてしまった。なぜこんなにも彼の言葉は心に響かないのだろう。
 
 彼はそんな言葉よりも、彼の泣き顔にこそ言葉を失った。

「結局、おまえだって俺とおんなじだよ」

 呪いでもかけるみたいに、彼は続けた。

「どうせ逃げられないんだ」

 疲れきったような表情で、ヤマトはそう呟いた。その声は十二月の空に静かに溶けていく。
 雪が溶けて地面に沁みていくみたいに、その呟きは空間に静かに解けていった。
 馬鹿らしいと彼は思う。そんなことはどうでもいいことだ。
 

122: 2011/09/05(月) 01:08:25.51

 少しして、ヤマトは立ち上がった。さっきまでとはうってかわってすっきりとした表情をしている。
 彼はその顔を見て何も言えなくなった。ヤマトの背中にのしかかっていた重く冷たい氷が、今融けて消えてしまったのだ。
 ヤマトは何かを思い悩んでいたのだと、彼は今更のように気付く。
 そしてそれはたった今なくなってしまった。

 それは良いことのはずだ。でも、なぜだろう。彼はとても不安に思う。

 ヤマトはベンチから立ちあがると、こちらを振り返りもせず公園から去っていった。
 好き放題に言い散らかしていなくなった。彼の話。なぜ今こんな話をしたのだろう。

 彼は何を目指していたのだろう。
 分かるのは、ヤマトのあの言葉は長い時間の中で培われたものだということだけだ。

 これまでに経験したさまざまな出来事が溶け合い、彼の心に暗い渦をつくった。
 その渦に、ふとした瞬間に飲み込まれそうになるのだ。必氏になっても逃れられないことがあるのだ。
 
 抵抗を諦めてしまえば楽になる。そう思ってやめてしまいたくなる。
 でも、と彼は思う。それはしてはいけないことなのだ。
 とにかく抗って、抗って、抗い続けなければならないものなのだ。

 冬の公園のベンチに、ひとり取り残されていることに彼は気付く。
 ひとりぼっちで、誰もいない、と彼は口の中で呟いた。

 でもみんなそんなものだ。
 とにかく立ち上がらないことには、どこに向かうべきかも見えてこない。
 彼はひとつ溜息をついてから、ベンチから立ち上がった。

 

123: 2011/09/05(月) 01:08:52.35

                   ◆
 

                   ◆

 
 週末に、彼は仮免許試験を通った。多数の人間と行動を共にするのはひどく骨が折れることだった。
 集団行動などというものはもう三年ととっていなかったのだから無理もない。

 二段階の学科や教習の説明を受けたあと、彼は心地良い疲労感に身をあずけながら待合室の長椅子に腰をかけていた。
 
 ヤマトの姿はあれ以来見ていない。不思議なことではない。そもそも今までがおかしかったのだ。
 あんなに何度も知り合いに会うなんてことはなかなかない。とはいえ、冬休みに入ればそういった機会も増えるだろう。
 ちょうど、学生は休みに入った頃のはずだ。彼は内心で安堵していた。
 
 人が増える。それがおかしいことではなくなる。自分がその中に溶け込める。
 やっぱり自分は日陰者なのだなとふと思う。それも悪くはないかもしれない。根源から変わろうとしなくてもいいのだ。

 少しすると、待合室にムラサキが現れた。彼女は彼の姿を見つけて近付いてくる。
 確認もせずに隣に座る。どうしてだろうと彼は思った。

 彼はムラサキのことが好きだった。
 ひょっとしたら、今でも好きかもしれない。

 でもそれはどうすることもできない感情なのだ。
 自分はもう学生ではなくて、何の経歴もなければ経験もない。
 恋愛などというものに関われるような人種ではなくなってしまった。 
 だからこの感情をどうすることもできない。ムラサキだって相手にしないだろう。

 そう考えて、彼は少し安心する。結局逃げたいだけかもしれないと感じる。それでもまぁ、言っていることは間違っていないだろう。


124: 2011/09/05(月) 01:09:19.14

 とにかく少しずつ方向を正していかなければいけないのだ。
 少しずつ。世間から白い目で見られても仕方ない。それはもう自業自得なのだ。

 やがて彼が帰る時間になった。立ち上がると、ムラサキはそれを追って顔を上げる。

「それじゃあ」と彼は言った。
「じゃあね」とムラサキが答えた。それでおしまい。
 
 彼は帰りのバスの中でこれからどうするべきかを悩んだ。
 バイト。たいそう悩んだ結果は、ありきたりな上に陳腐な答えだった。
 いろいろ調べてみるのもいいだろう。道はいくらでもある。
 高卒の資格を取る方法だってあるし、そうなれば大学だっていけないことはない。

 どうにでもなる、と彼は思った。

 バスが家の近くにつく。「ありがとうございました」と短く告げると、「はいはい」と愛嬌のある口調で担当の教官が応えた。

 暖房であたためられた車内から降りると、外の空気はひどく冷たく感じた。
 いつのまにか、雪が降り出していたらしい。そろそろ積もりそうだと彼は心中で呟いた。


125: 2011/09/05(月) 01:09:44.75

                   ◆

 
 彼は暗い部屋にいた。誰かからもらったマフラーを見つめている。
 誰か? 誰かって誰だっけ? 
 どうでもいいやと彼は思う。どうせすべてに意味なんてないのだ。

 暗い部屋。閉められたドア。鍵。この部屋には何もない。何もないのにこんなにも満たされている。
 簡単なことだったのだと彼は思った。

 誰かからもらったマフラー。それを手に取る。少しのあいだ何かを思い出そうとするが、記憶に引っかかる部分はない。
 思考はまったくもって正常だと彼は思った。

 彼は掌中のマフラーから視線をはずし、カーテンのレールに目を付けた。

 最後の手段。
 早いか遅いかの違いだけだ。そう思って、彼は口元を醜く歪めた。


126: 2011/09/05(月) 01:10:10.55

                   ◆

 理由もなく本屋を訪れると、期せずミシマと出会った。
 ミシマは以前となんら変わりなく彼と接した。そういえばアキラから、彼は学校をやめて定時制高校に通っているのだと聞いたのを思い出す。

 思いがけず遭遇した旧友と話が弾んで、彼らは帰り道を一緒に歩くことにした。

 ミシマは、今どうしているのかと彼に尋ねた。
 彼は簡単に答えた。今は自動車学校に通っていること、何かを始めようと思っていること。
 定時制の高校はどうだと彼が聞くと、ミシマは首をかしげた。どうだもない。やるしかないのだ。

 ミシマの言葉を彼は頭の中で繰り返した。やるしかないのだ。

 ミシマは不意に、彼の方を見て大真面目な顔をした。
 どうした、と彼が聞くと、ミシマは眉間を寄せる。

「どうしておまえは考え事をしすぎるのかな」

 自分の生来の悪癖を見抜かれて、彼はごまかすように笑った。

127: 2011/09/05(月) 01:10:36.72

 普段は馬鹿ばかりやっていたミシマは、ときどき鋭いことを言う。以前と変わらない。彼は少しだけ嬉しく思った。

「おまえだってそうじゃないか」

 彼は負け惜しみのようにそう答えた。ミシマは鼻で笑った。

「俺は根っからのオプティミストだよ」

 分かれ道に差し掛かったとき、ミシマが不意に顔をあげた。

「今度、また会おうか。アキラも一緒に」

 悪くない考えだと彼は思った。

「それじゃあ、また今度」

 彼が言い切る頃には、ミシマは背を向けて歩き始めていた。


128: 2011/09/05(月) 01:11:02.76

 帰り道の途中で家の近くのコンビニに寄ると、バイト募集の張り紙がしてあった。
 携帯電話で電話番号を登録しておく。募集要項をメモする。それからすぐに面倒になって、写真機能で画像として保存した。
 暖かい飲み物を買ってすぐに店を出る。また雪が降り始めていた。

 家にはまだ誰も帰ってきていなかった。時計は四時半を指している。どうだろう。いいとも悪いとも言えない。そもそも基準が分からなかった。
 リビングに荷物を投げ出して階段を登る。部屋に戻って画像の要項をコピー用紙に書き出した。ついでに自分の携帯の番号も書き写しておく。

 彼は寒さで赤くなった指先を軽く揉んでから、携帯電話を手にして番号をプッシュしておく。
 一度押し間違えて、プッシュした内容が消去されてしまう。再びやり直して、番号を入力し切った。

 さて、と彼は思った。とにかくやるしかないわけだ。
 彼は静かに通話ボタンを押した。

 コール音は数回続いた。プルルルル、プルルルル、プルルルル、プルルルル、プルルルル、

 ガチャ。耳に誰かの声が届いてから、彼は言うべき内容をまったく考えていなかったことを思い出す。
 まぁ、駄目だったら仕方ない。そう割り切って口を開く。

 敬語の使い方なんて分からない。間違ってたら間違っていたで仕方ない。どうせコンビニなんて星の数ほどあるのだ。 

「バイト募集の張り紙を見てお電話させていただいたんですが――」

 とにかく、やるしかないのだと彼は思った。


129: 2011/09/05(月) 01:11:30.36
おしまい

130: 2011/09/05(月) 01:18:22.07
お疲れ様でした!

引用元: 男「だったら俺が悪いのかよ!」