1: 2012/07/10(火) 23:48:10.60
菫(赤ん坊だった頃のことは覚えていない)

菫(だから、彼女と最初に会ったのがいつだったかも覚えていない)

菫(聞いた話では、私が生まれる瞬間に彼女は立ち会ったそうだ)

菫(つまり、私と彼女の関係は、私が生きてきた時間と同じだけ続いていることになる)

菫(このことはちょっとだけ私の自慢である)

菫(彼女の名前は琴吹紬という。私の仕えるべき主にして、敬愛するお姉ちゃんの名である)

4: 2012/07/10(火) 23:52:26.37
菫(私の記憶に残っている一番古いお姉ちゃんとの想い出は、ピアノコンクールのことだ)

菫(お姉ちゃんは7歳の頃、コンクールで優勝した)

菫(大人たちの拍手を集め、トロフィーを受け取るお姉ちゃんを見て、自分のことのように嬉しかったのを覚えている)

菫(お姉ちゃんはその後も数々のピアノコンクールで受賞、優勝を繰り返した)

菫(私はお姉ちゃんのピアノの練習を見るのが好きだった)

菫(ピアノからちょっと離れたソファが私の特等席)

菫(立ち見していた私を気遣って、お姉ちゃんが旦那様に頼んで用意してくれたソファ)

菫(今でも琴吹家に残っている私の大切な宝物である)

7: 2012/07/10(火) 23:54:24.96
菫(実は、このピアノが私にちょっとした問題をもたらすことになる)

菫(幼稚園に入学した私は、そこたらじゅうでお姉ちゃんの話をした)

菫(ピアノの天才だと言い触らしまわったのだ)

菫(今考えれば嫌な子だったと思う。イジメられても仕方ないぐらいに)

菫(実際に軽いイジメにあった。と言っても遊びに混ぜてもらえない程度の本当に軽いもの)

菫(しかし、幼稚園児の私にとって、それは結構ショッキングな出来事だった)

菫(私が引っ込み思案なのは、その頃の傷をいまだに引っ張り続けているからだと思う)

菫(イジメは軽いものだったが、それとは全く違う形で攻撃されたことが一度だけあった)

菫(公園で遊んでいたある日のこと)

菫(その公園にはクラスのガキ大将を自称するやんちゃな男の子がきていた)

菫(私はその男の子に蹴られて捻挫してしまったのだ)

菫(よく『男の子は好きな子に意地悪してしまう』というが、その男の子には絶対に当てはまらないと思う)

菫(あらゆる子に対して攻撃的だったから)

8: 2012/07/10(火) 23:56:46.82
菫(歩けない私を見て、一緒に遊んでいた友達が家に連絡を入れてくれた)

菫(その電話をとったのが――お姉ちゃんだった)

菫(お姉ちゃんは公園につくと、まず私の怪我を確認)

菫(ただの捻挫だとわかると、私を背負って歩き出した)

菫(当時のお姉ちゃんに、それほど力があるわけもなく、右に左に揺れながら)

菫(私は背中の上で、ただお姉ちゃんの熱を感じることしかできなかった)

菫(そのうち眠ってしまったらしく、気づいたらベッドの上にいた)

菫(たぶんこの時からだと思う。私がお姉ちゃんにべったり懐きはじめたのは)

菫(しかし、この事件はこれだけでは終わらなかった)

9: 2012/07/10(火) 23:59:21.49
菫(翌日、お姉ちゃんはガキ大将を公園に呼び出し、決闘をしかけたのだ)

菫(私は治療のため家にいたので、そのときのことを人づてでしか知らない)

菫(激しい殴り合いの末、お姉ちゃんとガキ大将の戦いは相打ちに終わったそうだ)

菫(その後、大人の介入により、ガキ大将は違う幼稚園に飛ばされた)

菫(自業自得である)

菫(家に帰ってきたお姉ちゃんが『仇はとったからね』と言ってくれたのが印象深い)

菫(そのときは意味がわからなかったけど、一部始終をお父さんに聞いて、お姉ちゃんに深く感謝した)

菫(私の中でお姉ちゃんが『自慢のお姉ちゃん』から、『すごく自慢なお姉ちゃん』に格上げされたのはこの頃だ)

菫(ちなみにお姉ちゃんはこのとき相打ちだったことを悔い、肉体改造に取り組むことになる)

菫(私を守れるぐらい強くなるために)

菫(この肉体改造が後々楽器を運ぶ役に立つのだが、それはまた別の話)

10: 2012/07/11(水) 00:03:06.86
菫(お姉ちゃんが中学校に入っても、それほど大きな変化は起きなかった)

菫(小学校の中学年・高学年になると、私も物心がつき、以前よりは上手に人間関係を築けるようになってきた)

菫(お姉ちゃんのほうも、中学の合唱部に入り、部員たちに慕われていたようだ)

菫(ただ、この頃のお姉ちゃんには自由があまりなかった。旦那様の方針である)

菫(男の友達を作ることは禁止されていたし、漫画や小説を買うことまで制限されていた)

菫(そのため、私が漫画を買ってきて、こっそりお姉ちゃんに読ませてあげた)

菫(お姉ちゃんにとっては辛い状況だったと思うけど、私にとってはちょっとだけ嬉しい状況だった)

菫(お姉ちゃんの役に立つことができたから)

菫(お姉ちゃんに読んでもらう漫画の中に、何冊か姉妹百合モノを混ぜるのも忘れなかった)

菫(別にそうなりたいと思っていたわけではないけど、そうなることに抵抗もなかった)

11: 2012/07/11(水) 00:07:38.75
菫(この頃から私に対する『侍女』としての訓練もはじまることになる)

菫(私の先生役はお爺ちゃんだ)

菫(私がこなさなければならない課題は多岐に渡った)

菫(料理、洗濯、掃除といった基本はもちろん、紅茶やコーヒーの入れ方から、立ち振舞に至るまで)

菫(今考えてみると、小学生の施す教育としては度を超えていたとさえ思う)

菫(私はそれほど物覚えの良い子ではなかったから、なかなか課題をこなすことができなかった)

菫(そんな私を救ってくれたのは、これまたお姉ちゃんだ)

菫(私が課題をこなすため家のことをやっている間、お姉ちゃんは遊び相手がいなくて退屈していた)

菫(そんな退屈を紛らわすためか、それとも純粋に私のためか、お姉ちゃんは私と一緒に仕事をしてくれた)

菫(料理はもちろん、掃除や洗濯といった本来お嬢様がこなすべきではない仕事まで、全て)

菫(特に紅茶のいれかたはすぐに習得し、私に懇切丁寧に教えてくれた)

菫(祖父はそんな私達を、ちょっと困った顔で見守っていた)

12: 2012/07/11(水) 00:11:25.80
菫(時は流れ、お姉ちゃんは高校に、私は中学校に入学することになる)

菫(私は、お姉ちゃんは高校でも合唱部に入るものだと思っていた)

菫(だけど、お姉ちゃんは軽音楽部に入った。キーボード担当として)

菫(お姉ちゃんがピアノを弾かないなんてもったいないなぁと思った)

菫(お姉ちゃんの才能はピアノでこそ生きるのだから)

14: 2012/07/11(水) 00:17:07.26
菫(軽音楽部に入ってからお姉ちゃんは明らかに変わっていった)

菫(ある日のことだ――)

菫(お姉ちゃんが友達と電話で話しているのを見てしまった)

菫(そのときのお姉ちゃんの様子は今でも覚えている)

菫(砕けた口調で、とても楽しそうに、親しそうに話していた)

菫(中学生の頃もお姉ちゃんには友達がいたが、あんなに楽しそうに話をしていたことはなかった)

菫(あんなに親しげな口調で話すのは、私に対してだけだった)

菫(お姉ちゃんが親しい仲間を作っていくのを見て、私は寂しさを覚えた)

菫(けれども、仕方ないことだとも思っていた)

菫(お姉ちゃんだって人間なのだから、いつか恋人を作ってしまう)

菫(いつか私もお姉ちゃんから独り立ちしなければならない)

菫(そうわかっていたから)

15: 2012/07/11(水) 00:21:08.83
菫(しかし、お姉ちゃんの軽音楽部への傾倒はかなりのもので、私の心は更に悩まされることになる)

菫(クリスマス、クリスマスパーティーで挨拶が終わると同時に出て行ったり)

菫(夏休み、夏祭りで焼きそばを食べるために帰省をとりやめたり)

菫(平日、ピアノの練習時間が減り、キーボードの練習時間が増えたり)

菫(列挙しようとすればキリがないほどお姉ちゃんは軽音楽部にのめり込んでいた)

菫(私はどうしようもない苛立ちを感じていた)

菫(しかし、それを決してお姉ちゃんの前では出さないようにしていた)

菫(なぜなら桜ヶ丘高校の文化祭で演奏しているお姉ちゃんは、とても楽しそうだったから)

菫(本当にいい笑顔で部員たちと一緒に演奏を楽しんでいたから)

菫(それを壊すことなど、絶対にしてはいけないと思っていたのだ)

17: 2012/07/11(水) 00:26:50.56
菫(高校を卒業する直前、私はお姉ちゃんから寮住まいになると伝えられた)

菫(なんとなくそうなるんじゃないかと覚悟はしていたけど、実際に聞かされるとショックは大きかった)

菫(お姉ちゃんの前で決してそれを見せまいと、私は必氏に涙をこらえた)

菫(その甲斐あって、お姉ちゃんに悟られることはなかった)

菫(だけど本当は気づいて欲しかった)

菫(私の心がパンク寸前だって)

菫(お姉ちゃんに傍にいて欲しいって)

菫(寮になんて行かないで欲しいって)

菫(ずっとずっと一緒にいたいって)

19: 2012/07/11(水) 00:33:49.74
菫(私が高校に入学し、お姉ちゃんが大学に入ると、私のストレスは臨界に達した)

菫(原因はいくつかある)

菫(まず、祖父による教育が厳しくなったこと)

菫(高校に入ると私の侍女としての訓練が本格的に始まった)

菫(祖父は私にプロの使用人と同じレベルを要求した)

菫(仕事が遅かったり、粗かったりすると、容赦なく厳しい言葉を浴びせられた)

菫(当時の私にはこれが本当に苦痛だった)

菫(『侍女』という仕事に魅力を感じていなかったから)

菫(お姉ちゃんに会えない寂しさも相まって、私の精神は本当に参ってしまっていた)

菫(一通のメールがお姉ちゃんから届いたのは、そんな時だった)

21: 2012/07/11(水) 00:41:10.64
菫(メールの内容はこうだ)

菫(極秘で、誰にも悟られず、一人で、軽音楽部の部室からティーセットと食器棚を回収して欲しい)

菫(久しぶりのお姉ちゃんとの接点である)

菫(私はさっそく軽音楽部の部室に潜入し、食器棚の回収を試みた)

菫(食器棚はすぐに見つかった。私は棚を引っ張って持ちだそうとした)

菫(冷静に考えてみると、無謀な行いだったのは明らかだ)

菫(引っ張ることさえ困難な棚を一人で持ち帰るなんて絶対に不可能)

菫(久しぶりのお姉ちゃんからのお願いで、舞い上がってしまっていたのだろう。私は冷静さを欠いていた)

22: 2012/07/11(水) 00:46:58.78
菫(頑張って引っ張っている途中で軽音楽部の部員がやってきた)

菫(棚を回収しているところを部員の人たちに見られてしまったのだ)

菫(そこで私はティーセットを回収する隙を見つけるべく、軽音楽部に入部することにした)

菫(思えばこれがターニングポイントだった)

菫(軽音楽部に入った私は、楽器を弾くことになった)

菫(私が選んだ楽器は、もちろんドラムである)

菫(ものを叩くというのは、原始的なストレス解消法である)

菫(壁パンなどというものが流行っているらしいが、きっとそれも同じ理屈だろう)

菫(……本音を言うと、お姉ちゃんと同じキーボードをやりたいという気持ちも少しだけあった)

菫(だけど、それは無理なのだ)

菫(どれだけ練習しても私のピアノが上達しないのは確認済だから)

25: 2012/07/11(水) 00:57:48.20
菫(軽音部に入ってから、私のストレスは急速に解消されることになる)

菫(と言っても、ドラムにストレスを叩きつけたからではない)

菫(楽しいことを見つけたからだ)

菫(まず紅茶を入れる楽しみを知った)

菫(お姉ちゃんと同じように、軽音部の部室でお茶を振る舞う)

菫(「美味しい」と言ってもらえるのは何より嬉しかった)

菫(お姉ちゃんと同じ様に活躍できていることも嬉しかった)

菫(そして、仲間もできた)

菫(まず梓先輩。この先輩は去年までお姉ちゃんと一緒に活動していた人だ)

菫(梓先輩は、時々お姉ちゃんのことを話してくれる)

菫(そして、その話は概ね好意的なものだったので、私はちょっと誇らしかった)

菫(次に純先輩。私にスミーレという渾名をつけた張本人だ)

菫(とても元気な先輩で、軽音部のムードメーカーである)

菫(私のお茶を一番美味しそうに飲んでくれるのは純先輩である)

27: 2012/07/11(水) 01:08:05.03
菫(憂先輩。先代メンバーである唯さんの妹である)

菫(『姉命』な先輩を見ていると、親近感を覚えずにはいられなかった)

菫(憂先輩と私はお姉ちゃん論を交わし合う『同志』となるが、それはまた別の話)

菫(最後に直)

菫(直は私と同じ1年生の子だ)

菫(対等な友達、と呼べるのは彼女だけかもしれない)

菫(ちょっと変わった子だが、仲良くなるにつれ友達想いのとても優しい子だとわかった)

31: 2012/07/11(水) 01:16:26.86
菫(軽音部の仲間と一緒にいると寂しさはなくなった)

菫(また侍女としての訓練も以前より楽しくなった)

菫(人を喜ばせる喜びに目覚めたからだ)

菫(こうして私の悩みは解消されていった)

菫(お姉ちゃんと会えないから感じていたストレスが、きれいになくなってしまったのだ)

菫(といっても、お姉ちゃんのことがどうでもよくなったわけではない)

菫(ネガティブな感情が一掃されると、私の中には純粋なお姉ちゃんへの想いだけが残った)

菫(逢いたいという気持ち)

菫(一緒にいたいという気持ち)

菫(想う気持ちだけが強くなっていった)

菫(しかし、その想いをすぐにお姉ちゃんに伝えたりはしなかった)

菫(文化祭が終わって一区切りしてから伝えることにしたのだ)

菫(仲間たちと演奏する私を見てもらいたかったから)

33: 2012/07/11(水) 01:27:46.61
菫(話は変わるが、お姉ちゃんは私の寂しさにどれくらい気づいていただろうか?)

菫(私の予想では全く理解してくれていなかったと思う)

菫(私があまり元気が無いのは、友達を作るのが下手だからだと思っていたようだ)

菫(軽音楽部に入るように私を誘導したのも、その勘違いが一因なのだろう)

菫(お姉ちゃんに「寂しいから寮住まいは辞めて欲しい」と伝えていたらどうなったのか)

菫(その答えはわからない。でもきっとお姉ちゃんは何か考えてくれた筈だ)

菫(だって――――)

34: 2012/07/11(水) 01:35:55.71
菫(文化祭ライブの後、私はお姉ちゃんに今までの想いを伝えた)

菫(お姉ちゃんに対して感じていた寂しさ)

菫(ずっと感じていた苛立ち)

菫(ストレスで押しつぶされそうになったこと)

菫(軽音部に入って仲間ができたこと)

菫(軽音部の中でたくさんの「楽しい」を見つけたこと)

菫(演奏する喜びを知ったこと)

菫(ライブが最高に楽しかったこと)

菫(ここまで伝えると、お姉ちゃんは「菫、ごめんね」と一言だけ謝り、その後「よかったね」と言ってくれた)

菫(それから私は自分の想いを伝えた)

菫(自分の気持ちを全部)

菫(今まで伝えられなかったものを全部)

_
__
___

35: 2012/07/11(水) 01:41:23.43
菫(その後の話を少しだけしようと思う)

菫(ライブの後、お姉ちゃんは週末になると実家に帰ってくるようになった)

菫(用事があるときは帰ってこないけど、用事がなければ必ず帰ってくる)

菫(私は帰ってきたお姉ちゃんと一緒に料理を作ったり、お出かけして洋服を選んだりする)

菫(夜は一緒のお布団で寝る)

菫(お姉ちゃんが寮に帰る前に、決まってあるお願いをする)

菫(ピアノを弾いてくれるように頼むのだ)

菫(私が特等席に座ると、お姉ちゃんはピアノを弾き始める)

菫(ゆっくりと、力強く、美しい音色)

菫(私を包み込んでくれる、優しく、懐かしい音色)

36: 2012/07/11(水) 01:48:04.34
菫(お姉ちゃんのピアノを聴きながら、私は考える)

菫(私が望めばお姉ちゃんと離れ離れになることはない)

菫(私は侍女で、お姉ちゃんは主人だから)

菫(仮にお姉ちゃんが誰か知らない人と結婚したとしても、私が望めば一緒にいられる)

菫(きっとお姉ちゃんは拒まない)

菫(だから……私は伝えたいと思う)

菫(自分の気持ちを――――――)


菫「お姉ちゃん、大好き!」


おしまいっ!

38: 2012/07/11(水) 02:06:20.59

引用元: 菫「つむぎ」