2: 2014/06/28(土) 00:11:23.21
「…盗聴装置は正常に作動してるっスね。熱雑音カット完了。音量上げますよ?」
「…流石にノイズがキツイわね」
「盗聴の盗聴っスから仕方無いっスね~」
「………。どうやら餌は上手く機能してるわね。あなたの人選は間違って無かったわ」
「偶然にも助けられましたっスけどね。ウチらの目的の為にも、お二人には頑張って逃げ切って貰わないと」ニヤリ

4: 2014/06/28(土) 00:12:46.67
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
都内路上 犬飼伊介のフォード・マスタング1965 走行中の同車内
「無駄口叩いてないで、ちゃんと後確してなさいよ」
「伊介様、あの黒セダン尾行車じゃねーか?さっきから二台後ろが必ずあれなんだ」
「この先で飛ばして仕掛けてくるか確かめるわ」
「普通に撒いた方がいいんじゃないか?」
「簡単に言ってくれるけど、それって難しいのよ?」
「スピード違反でパトカーに追われるよりゃマシだろ!?」
「大丈夫よ。そんなに飛ばすつもりはないわ」
「とか言いながら革グローブ付けるの止めて欲しいなあ」
「大丈夫、大丈夫❤」
「とか言いながらハンドル付け替えるのも止めて!!」

7: 2014/06/28(土) 00:15:51.39
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
都内路上 犬飼伊介のフォード・マスタング1965 走行中の同車内

伊介「無駄口叩いてないで、ちゃんと後確してなさいよ」

春紀「伊介様、あの黒セダン尾行車じゃねーか?さっきから二台後ろが必ずあれなんだ」

伊介「この先で飛ばして仕掛けてくるか確かめるわ」

春紀「普通に撒いた方がいいんじゃないか?」

伊介「簡単に言ってくれるけど、それって難しいのよ?」

春紀「スピード違反でパトカーに追われるよりゃマシだろ!?」

伊介「大丈夫よ。そんなに飛ばすつもりはないわ」

春紀「とか言いながら革グローブ付けるの止めて欲しいなあ」

伊介「大丈夫、大丈夫❤」

春紀「とか言いながらハンドル付け替えるのも止めて!!」

9: 2014/06/28(土) 00:17:03.43
・・・・・・・・・

春紀「なあ、伊介様!流石にちょっと、運転荒いって」

伊介「大丈夫よ。このカーナビはオービスの位置を教えてくれるから」

春紀「そういう意味じゃねーよ。事故りそうで怖えーんだよ」

伊介「何よ。伊介のドライビング・テクニックを舐めないでほしいわぁ❤」

春紀「テクニックとか言ってる時点で事故る人候補の上位ランクだよ」

伊介「安全運転なんて伊介の肌に合わないし~❤ それに車の性能に対して失礼よ」

春紀「免停になれ!」

伊介「春紀と伊介、二人きりの逃避行。表現を変えればほら、ロマンチック❤」

春紀「あたしは伊介様の運転から逃げたいんだが」

伊介「ボンドカーに乗り合わせたヒロインの気分でいなさい」

春紀「暴走パパを制止する少年少女の気分だよ!」

10: 2014/06/28(土) 00:18:23.75
伊介「無駄口叩いてないで、ちゃんと後確してなさいよ」

春紀「伊介様、あの黒セダン尾行車じゃねーか?さっきから二台後ろが必ずあれなんだ」

伊介「この先で飛ばして仕掛けてくるか確かめるわ」

春紀「普通に撒いた方がいいんじゃないか?」

伊介「簡単に言ってくれるけど、それって難しいのよ?」

春紀「スピード違反でパトカーに追われるよりゃマシだろ!?」

伊介「大丈夫よ。そんなに飛ばすつもりはないわ」

春紀「とか言いながら革グローブ付けるの止めて欲しいなあ」

伊介「大丈夫、大丈夫❤」

春紀「とか言いながらハンドル付け替えるのも止めて!!」

11: 2014/06/28(土) 00:20:50.61
・・・・・・・・・

伊介「とか言ってる間に撒いたわね~。ほら、褒めなさい❤」

春紀「………」ゼイゼイ

伊介「ママから貰ったオービス検知器の性能テストも出来たし」

春紀「娘にプレゼントするような品じゃねーだろ、それ!」

伊介「ピンチから救われといてその台詞は頂けないわぁ。伊介ムカつく~❤」

春紀「最初から尾行車じゃなかっただけかも知れないけどな!」

12: 2014/06/28(土) 00:23:19.56
春紀「なあ伊介様」

伊介「何よ」

春紀「話は変わるんだけどさ、伊介様の獲物のメリケンサックって――」

伊介「メリケンサックって言わないでよ。エレガンスが無いわ」

春紀「じゃ何ていうんだよ」

伊介「ナックル、とかかしら?」

春紀「はいはいナックルナックル」

伊介「あんたの手甲のこと、篭手って呼ぶわよ」

春紀「手甲じゃねーよ。ガントレットって名前があんだよ」

伊介「うわ。中二病な姉を持つあんたの妹さん達が可哀そう」

春紀「中二病って言うな」

伊介「どうせ武器屋本舗で買ったんでしょ」

春紀「ちげーよ」

伊介「でもドラクエのを見てカッコいいとか思っちゃたんでしょ?」

春紀「ドラクエは触ったことも無いから」

伊介「アイテムは買っただけだと装備した事にはならないわよ」

春紀「それを口にする伊介様は村人Aだよ」

伊介「やったことあるじゃない❤」

13: 2014/06/28(土) 00:25:22.91
春紀「で、あのメ…ナックルだよ。あれもひょっとすると――」

伊介「ママからのプレゼントよ」

春紀「うわあ」

伊介「ナイフとしても使えるのが合理的でしょ❤」

春紀「海外の武器職人に特注で作って貰ったって感じだよな」

伊介「違うわよ。Amazonで買ったのよ」

春紀「絶対ウソだ!」

14: 2014/06/28(土) 00:40:00.76
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

あたしの名前は寒河江春紀。
黒組から退学させられたあたしは暗殺稼業から足を洗い、アルバイトと勉強に追われる、大変ながらもまっとうな生活をしていた。

そんな生活が始まってからも時が経ち、時期的には今年度の黒組はもう終わっただろうある日。今、あたしは不本意ながら暗殺稼業に絶賛復帰し、追跡者とスピード狂の運転手の両者に怯えながらの逃避行をしている。

事の始まりは…数時間前に遡る。

15: 2014/06/28(土) 00:42:01.73
指定された標的は都内某ホテル最上階に護衛3名を伴って潜伏中。ダミーで取った部屋のドア前にわざと目立つように護衛を立たせ、本命は隣室に残り2名の護衛と穴熊を決め込んでいる。食事をしにラウンジに降りることもなくルームサービスで済ませる徹底ぶりだ。

16: 2014/06/28(土) 00:43:53.84
夜の帳が下りた頃、あたしは一人雨で滑りそうになりながらも、屋上からダミーの部屋に侵入した。廊下の見張りが最も厄介な存在だったが、そっと扉を開けると、そいつは首を絞めて下さいと言わんばかりに背を向けていた。素早くワイヤーを首に巻き付けて部屋の中に引き摺りこみ、音も無く意識を刈り取る。頸動脈が締められ、酸欠状態に陥った脳が意識を失うまで十秒も掛らない。今回は頃しが目的ではないから様子を見て手加減を加える。目覚めた時に酷い頭痛に襲われるだろうが氏ぬよりはマシだ。

17: 2014/06/28(土) 00:44:51.48
気絶した男の懐から抜きとった携帯電話でフロントにコール。でっち上げの社名でターゲットの部屋に繋ぐように要請する。本命の部屋の前、くすねておいたマスターキーをカギ穴にそっと挿し込み、耳を研ぎ澄ませて内部の様子を伺う。呼出音が一回、二回…意識をドア越しの足音に同調させる。細心の注意を払ってゆっくりと鍵を回転させ、細く開いた扉のチェーンに大型のワイヤー・カッターを添わせる。護衛が電話に出たタイミングでチェーンを切断した。男が振り向くより先にナイフ投げの要領でワイヤー・カッターを投げつけ、怯んだ隙に間合いを詰め渾身のボディ・ブロウで沈黙させる。気絶した護衛が音を立てて倒れないように、襟首を掴んで床に転がした。

18: 2014/06/28(土) 00:46:20.70
三人目は右か左か…。右側の扉のノブが下がるのが見えた。開きかけたドアに思いっきりタックルし、顔面を押さえて蹲る間抜け面の顎にひざ蹴りを喰らわせる。三人目の護衛は状況を把握することもなく昏倒した。このままノック・アウト状態で休憩していてもらおう。

20: 2014/06/28(土) 00:48:14.72
明りを消し、暗闇に身を潜め、奥の部屋にいるはずのターゲットに呼びかける。さあ、勝負の時間だ。
「ルームサービスです」
「どういうことだ?中には入れるなと言っただろう?」
返事がないことを不審に思ったのかターゲットがベッドルームから飛び出してきた。漏れ出る光の筋が倒れた護衛を照らした。ターゲットは異変を察知して咄嗟に出口に走ろうとしたが、暗がりから飛び出したあたしがワイヤーを首に巻きつける方が早かった。

ワイヤーは首に掛ける都合上、武器としては極端にリーチが短い。あたしは全身のバネを使った足さばきでターゲットに飛びかかり、ふわりと宙に舞ったワイヤーを手首のスナップで投げ縄状に振り下ろした。
暗闇のなか唐突に首に鋼線を巻かれたターゲットは恐慌状態に陥った。呼吸困難に対する本能的な恐怖感が闘志を奪う。それがこの獲物のいい所だ。

「おっと動くんじゃないよ。振り向いたら頃す。喋っても頃す。妙な動きをしても頃す」
ワイヤーを皮膚に軽く食い込ませ抵抗の意思を削ぎつつ、ターゲットをホテル備え付けの電話の前まで歩かせ、尻を蹴って跪かせる。
「今から言う番号にダイアルしろ。一回でも間違えたら、分かるな?」

21: 2014/06/28(土) 00:49:32.87
今回の目的はターゲットから彼のバックについている人物の名を吐かせることだった。頼みの護衛は全員潰され、背後には暗殺者、電話の向こうの人物には裏の素性が全て露見している。どんなに肝のある男だって間違いなく屈服するシチュエーションだ。

受話器から漏れ聞こえる声を聞く限り、ターゲットはえげつない脅迫を受けているようだった。ボイスチェンジャーを通した不気味な声が、ターゲットが下してきた暗殺依頼の数々や彼の妻子の現在の居場所を読み上げる。どんなヤツにだって大切なものくらいある。男が逃げ道を封じられていく様には少しだけ同上した。とうとうターゲットは数人の人名を口にし…それで話はついたようだった。男は震える声で受話器をあたしに示した。

「あんたに代われと言っている」
片手で締められるようにワイヤーを持ち替えて受話器を受け取る。ボイスチェンジャーで加工されたままだったが、電話の主のムカつく口調には聞き覚えがあった。

22: 2014/06/28(土) 00:51:33.08
『――で、守備はどうっスか?』

春紀「あんたか…。騒ぎは起こしていないし、ホテルにの人間にも気付かれていない」

鳰『いやー、流石いい仕事ぶりっスね~。迅速な成果に理事長もお喜びっス。報酬が口座に振り込まれたんで確認しといて下さいね』

春紀「で、この男はどうするんだ?」

鳰『もう利用価値は無いっスからね~、頃すなり何なり、回収屋が向かうまで騒ぎにならないようにしてくれればそれでいいっス』

春紀「これでお前は――」

鳰『もう春紀さんには干渉しないし、こっちからオーダーを回すこともない――優秀なアサシンを手放すのは惜しいっスけどね』

春紀「ハッ。生憎あんたの声はもう聞きたくないんでね。切るぞ」

23: 2014/06/28(土) 00:53:02.31
ワイヤーを首に掛けたままターゲットを立たせる。解放する訳にはいかないが、少しばかり眠っていてもらう必要がある。

春紀「安心しろ。頃しはしない。ただ少しの間――」

だが、少しの間どうなるのかを男が知ることは無かった。音も無く飛来した弾丸が二発、正確にターゲットの頭部に着弾し、男は声も無く膝から崩れ落ちた。
サプレッサー!?いや、いつの間に侵入された?唐突な銃撃にパニック寸前の衝撃を受けたが、咄嗟に部屋の隅に身を投げ出して射線から身を逸らす。何者かが部屋の入口から銃撃を加えたのは明らかだった。

部屋に踏み込んできた襲撃者についさっき護衛から抜き取った携帯を投げつけたが、あっけなくよけられ、壁で砕け散っただけだった。暗闇の中では、奇襲を仕掛けた側が圧倒的に有利だ。襲撃者はあっと言う間に間合いを詰めた。反撃しようとして空を切った拳が掴み取られ、そのまま右腕を極められる。気付いた時にはあたしは床に組み伏せられていた。必氏の抵抗を試みた左手も床に押さえ付けられる。

殺される…!喉から声にならない悲鳴が漏れた。だが襲撃者は一向にそれ以上の危害を加えて来る様子がない。それどころか、最悪の状況であるにも関わらず、首筋に垂れた長髪の匂いと背中に感じる体温にどこか懐かしさを感じる自分に気付いた。

「はぁ…ちょっとあなた落ち着きなさいって」

春紀「(…!?)」

「相変わらず綺麗なネイルしちゃって❤」

春紀「伊介様!?」

24: 2014/06/28(土) 01:00:57.84
その瞬間の気持ちは形容しがたかった。恐怖が過ぎ去った安堵感、フラッシュバックする黒組の記憶、懐かしい声。何よりもあたしが黒組から去ったことで、もしかしたら二度と会えないかも知れないと思っていた伊介様と再会出来た嬉しさ。こもごもの感覚が入り混じって、少しだけ目頭が熱くなった。

しかし、頃し屋が現場で鉢合わせるなどあってはならない異常事態だ。
ミョウジョウ絡みの任務に差し向けられた暗殺者が二名とも黒組関係者…。こんなことをしそうなヤツにはバッチリと心当たりがあった。

25: 2014/06/28(土) 01:02:13.85
春紀「クッソ、鳰のヤツ。勝手にバックアップつけるとか何考えてんだ?」

伊介「…何あんた、あんなのに飼われてるの?」

春紀「そういう訳じゃねーけど…そう言う伊介様だってミョウジョウからの依頼じゃねーのか?」

伊介「………」

春紀「ていうか伊介様、銃なんて持ってたんだな」

伊介「これ?クリスマスにママから貰ったのよ」

春紀「嫌なプレゼントだなあ」

伊介「暖炉に下りてくるような変人は迷わず撃てとも教わったわ」

春紀「正論すぎて夢がねえよ…」

春紀「…伊介様、そろそろ背中から降りてくれると嬉しいんだけど。回収屋が来る前に撤収しないと」

伊介「ダメよ。…もう少しこうしてあなたの体温を感じていたいんだもの❤」

春紀「その台詞はもっと違う状況で聞きたかったなー」

なんて言いながらも伊介様はあたしの手を取って立たせてくれた。仄かな街明かりの中、手を握ったまま真剣な表情で見つめられる。そのまま抱き寄せるようにして耳元に口を寄せられ、ウィスパー気味の声で囁かれる。あたしは身動きも出来ずにいた。

伊介「…いい、春紀?今から私が言うことを信じちゃダメよ…」

26: 2014/06/28(土) 01:03:38.52
小さく頷いたあたしを抱き寄せたまま伊介様は拳銃を抜き、一転、声を張り上げる。

伊介「折角再会できたけど、残念ながらあなたにはここで氏んで貰うわ」

春紀「ええっ!?何その超展開!?」

叫んだ私にシッっと指を唇にあて、伊介様はターゲットの氏体に銃口を向けると躊躇なく発砲した。バスッバスッと、弾丸が頭蓋を砕く音が室内に満ち、薬莢が二つ床に当たって軽い金属音を立てる。そのまま訳も分からず茫然としているあたしの手を引いて、伊介様は部屋を出た。

27: 2014/06/28(土) 01:05:40.81
伊介様はあたしをエレベータに押し込めると自分も乗り込み、地下駐車場へ向かうボタンを押した。

春紀「どういうことだよ今のは?」

伊介「盗聴器対策よ。あれを狙ってた暗殺者は伊介とあんたの二人だけじゃないわ」

伊介「しっかりしなさいよ、春紀。何も聞いてないの?」

春紀「鳰のヤツは、ターゲットは一族の造反者の下っ端って言ってたけど――」

伊介「目的はその造反者の名前を聞き出すことだった…」

春紀「ああ」

伊介「てことは、標的が名前を出すところに居合わせたのね?」

春紀「ああ」

伊介様は溜息をついてあたしを見やった。

伊介「いい?春紀。伊介は依頼主からただ殺せと命じられたわ。伊介の依頼主のバックが誰だったにせよ、そいつはあんたがこうして脱出することを望んじゃいないってことよ」

春紀「相手が伊介様じゃなかったら、あたしは確実に氏んでた訳か…」

伊介「走り鳰は最初からあんたを使い捨てる気だったのかもね」

春紀「………。やりかねないな、あいつなら」

伊介「何であんなヤツの依頼を受けちゃったのよ」

春紀「それには事情があってだな…」

伊介「春紀、とにかく――」

伊介様が何かを言う前にエレベータのドアが開いた。あたしは伊介様に手を引かれて有無を言わさず同行させられる。

28: 2014/06/28(土) 01:06:36.66
薄暗い地下駐車場には高そうな車がひしめいていたが、伊介様はその中の一台、フォードの幌付きオープンカー(幌は閉じられていた)の前で足を止めた。幌は開けないことに趣があると言わんばかりのクラシックな外観に、伊介様らしからぬセンスだなーとからかうと、ママの趣味なのよと伊介様は言い訳した。

伊介「ところであんたはどうやってここに来たのよ?」

春紀「電車と徒歩だけど?」

伊介「………」

春紀「あ、その憐れむ目線やめろよな」

伊介「まあ原付じゃないだけマシよね~」

春紀「原チャのアサシンとか、殺されるヤツが可哀そうになるレベルだな」

29: 2014/06/28(土) 01:08:29.12
春紀「じゃあな伊介様。こんな場所でだけど、会えてよかったよ」

伊介「どこに行くつもりよ」

春紀「家だよ。家族が待ってるからさ」

伊介「人の話を聞いてなかったの?監視や盗聴をしていた奴がいたとしたら、跡をつけられて家族まで危険な目に遭うわよ。いいから乗りなさい」

春紀「え…ああ」

いつになく真剣な口調にあたしは返す言葉も思いつかず素直に頷いた。
と、伊介様は悪いことを思いついたような子供のような表情で、ルーフトップ越しに振り向いた。

伊介「今夜は帰さないわよ❤」

春紀「………。できればその台詞も違う状況で聞きたかったなー」

助手席側ドアに手を掛けようとするあたしを制止し、伊介様はなぜか車の周囲を回って幌を撫で、車の下を覗き込んでから無線キーでドアを開けた。
車は当然のようにマニュアル・トランスミッションだったが、伊介様の運転は手慣れたものだった。車はホテルの地下駐車場を後に、雨の降る夜の街へ滑り出した。流れるように過ぎ去る街灯の軌跡と車両のランプを縫って、フォードはなおも加速した。

30: 2014/06/28(土) 01:10:06.40
伊介「無いといいけど、一応、尾行してくる車両がないか確認して頂戴」

春紀「心配し過ぎじゃねーのか?」

伊介「あんた、そんなんで今までよくやって来れたわね…いいから!」

春紀「はいよ」

伊介「それから、鉢合わせしたことを聞いて走り鳰がどう反応するか知りたいわ。いま報告なさい。伊介と一緒にいることは伏せなさいよ」

春紀「……。分かった」

確かに、任務を上手くこなした高揚感からあたしは危機感を欠いていたのかも知れない。浮ついていたテンションを落ち着かせ、伊介様にも聞こえるようにスピーカー・モードにしてから着信履歴から鳰のナンバーに掛ける。コール一回で繋がった。

31: 2014/06/28(土) 01:12:25.68
春紀「おい鳰、何考えてやがるバカ野郎!」

鳰『いきなり何の話スか?ていうか待って下さいよ。秘密回線に換えますから』

春紀「…」

鳰『で、何スか?』

春紀「現場で《ニアミス》した。ヤバいヤマだって知ってて隠してたな?」

鳰『別のアサシンに遭遇したと?偶然じゃないんスか?』

春紀「偶然にしちゃ出来過ぎてるって言ってんだよ。鉢合わせた相手は伊介様だった。お前の差し金だろ?」

鳰『いや、知らないっスよ~。ウチらはオーダーを春紀さんにしか回してないっス。言い忘れてましたけど今回のターゲットは目立った動きをし
過ぎましたからね。別口からの依頼があっても全然不自然じゃあ無いっスよ』

春紀「………」

鳰『まあ良かったじゃないスか、久しぶりに再会できて。黒組の同室ペアが偶然に出会うなんて運命感じますね~。何スか、今は一緒にデートですか?』

春紀「…タクシーで帰る所だよ」

鳰『そうっスか』

飄々と、事の深刻さをまるで無視した言い草はいつものことだとも言えたが、口ぶりに引っかかる所があった。言葉の内容に妙な点は無いが、テンションが猫を被っているときのそれではなかった。電話の向こうでニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべている様子が目に浮かぶ。なぜ驚かない?しかも、やけにぺらぺらと説明が出てくる。
根拠は何一つないが、職業柄この手の胡散臭さを感じ取る嗅覚くらいはあった。

春紀「…鳰、お前何か企んでるだろ?」

鳰『へぇ…』

電話の向こうの気配が変わるのを感じた。鳰の口調に黒いものが混じる。

鳰『――どうしてそう思うんスか?』

背筋にゾッと寒気を感じ、指が本能的に通話を切った。

32: 2014/06/28(土) 01:15:13.13
春紀「伊介様、いやな予感がする。どっかで車を替えよう」

伊介「言われなくてもそうするつもりよ」

アクセルを踏み込み、周囲の車を追い抜いていく。目視する限りでは付いてくる車両は見当たらないが、場合によっては車のどこかに発信機を掴まされているという線もあり得る。あたしはGPSの逆探対策に携帯の電源を切った。

春紀「伊介様、携帯は?」

伊介「電源切ってダッシュボードの中。現場の中までアシの付きそうなもの持ってくのはあんたくらいよ」

春紀「むむ…」

33: 2014/06/28(土) 01:18:04.91
確かに鳰はこの上なく怪しい。だが、考えてみれば伊介様のバックに鳰というのは不自然だ。罠にしては意図不明だし回りくど過ぎる。対象が漏らした人名を聞いてしまったあたしを口封じしたいなら、暗殺任務をダブル・ブックするんじゃなくて最初からあたしを対象にした暗殺者を放てばいいのだから。

ターゲットは造反者の下っ端だと言っていた。ならば、ミョウジョウグループとその造反者に同時に追われていたとしたら。相手が伊介様であったという部分が偶然でも、暗殺者との遭遇自体は必然だったとしたら。
その場合はやはり、伊介様が示唆した通り、口封じを完璧なものとするために或いは内部情報を欲しがる第三勢力のアサシン達があたしたちを追う可能性が濃厚だった。

34: 2014/06/28(土) 01:20:10.24
春紀「ところで伊介様、さっきからどこに向かってるんだ?」

伊介「そうねえ…」

伊介様は後ろを見ているあたしを見やって自分の耳を指さした。ああ盗聴器対策か、と気付くと同時に、乗り込む前の動作が爆発物対策だったのだと合点がいった。確かに盗難防止装置等のセキュリティが万全ならば車内やボンネット内部に痕跡を残さず何かを仕掛けられる可能性は低いだろうが、シャーシ下部に爆弾といった古典的な手や、ガラスやルーフ越しに振動を拾うタイプの小型盗聴器は防げない。
さて、ブラフを流すなら目的地はどこであることにしよう?盗聴されると最も危険なのは第三勢力の線だが…

伊介「そうね、ミョウジョウ学園の走り鳰っていう生徒の部屋に泊めて貰おうかしら❤ 私室は寮じゃなくて本校舎タワーの上の方にあると思うわ~❤」

春紀「鳰の部屋かあ、それは楽しみだなあ!」

…まあ、どのみちこの手のブラフにはあまり意味は無いのだが、それにしてもやる気のない演技に伊介様とあたしは顔を見合わせて笑いを堪えた。その可能性は極めて低いだろうが、武装した暗殺者たちが鳰の部屋に突入する様を想像すると、少しは気が晴れた。

35: 2014/06/28(土) 01:21:20.45
春紀「そういや伊介様、車の運転もできたんだな」

伊介「当然よ」

春紀「まさかとは思うけど――」

伊介「免許くらい持ってるわよ」

春紀「伊介様にも意外とまっとうな所があるんだな」

伊介「何それムカつく~❤ ちゃんとお金出して買ったんだから」

春紀「それ偽造じゃん!」

伊介「当たり前でしょう?そんなの持ち歩いてアシがついたらどうするのよ」

春紀「言われてみりゃそうだな。…それに伊介様が教習所行く姿とか想像できねー」

伊介「そういうあんたは何も考えずに本名で原付教習受けてそうだけどね」

春紀「いや、あたしは今フォークリフトの教習受けてんだわ」

伊介「…あんたも大変そうね」

伊介様とあたしは左折を二回繰り返す古典的な尾行確認の後、そのまま暫くフォードで移動し、適当なマンションの地下駐車場に入った。

春紀「さて、盗みやすそうな車は…と」

伊介「伊介の好みに合うのを選びなさいよ❤」

春紀「いやそういうこと言ってられる状況じゃねーんだろ?」

伊介「80年代のドイツ車がいいわ。出来れば赤とかピンクのがいいわね」

春紀「聞けよ」

36: 2014/06/28(土) 01:22:54.19
贅沢な注文を付ける伊介様は取り敢えず無視して、いかにも盗難防止装置が付けられていなさそうな安車を物色する。急いで車を替えないと尾行対策の意味がない。それに、出来るだけ伊介様の趣味に合わなそうな地味なボロ車の方が目立たなくていいだろう。

周囲に人目がないことを確認してから、ホテルでダミーの部屋に侵入する時に使ったガラスカッターを取り出す。まさかガムテープをぺたぺた貼り付けてからぶん殴る、といった前時代的な蛮行に及ぶつもりはなかった。

側面ガラスのロックに近い位置にY字型のカッターの先端を押しつけ、細かく上下させてガラスを削る。ヤスリで削ったようにさらさらとガラスの粉末がこぼれ、まずは刃が貫通した。後は柄を回転させるように力を入れながらノコギリの要領で前後させ…ていると、伊介様がいかにも自然な動作で反対側のドアから運転席に入り込み、エンジンを始動した。

春紀「………………………」

伊介「何よ?早く乗りなさいよ時間が無いんだから」

伊介様はあたしが助手席のドアを閉め切る間もなく急ぎ地下駐車場を出、今までの進路とは違う方向に車を走らせた。

37: 2014/06/28(土) 01:24:51.43
春紀「…カギ、開いてたの?」

伊介「いいえ」

春紀「じゃあどうやって――」

伊介「ヒント:磁石、予備キー」

春紀「あああああ、ストップストップ。質問しなかったことにして」

伊介「ヒント2――」

春紀「だから聞けって!」

伊介「まあ、最近の車でこういうことやる人はいないけどね~。パパとママの時代は今よりも少しだけ悠長だったってことね」

春紀「分かったから、伊介様、分かったからそれ以上はいけない。ネットでそういうこと書くとBANされるから」

伊介「春紀テンパり過ぎ❤ それに、あんたのガムテープ発言だってそういう意味じゃアウト気味じゃない」

春紀「発言してねーよ!?地の文を読まないでくれると助かるんだけどなー!」

伊介「ねえ、春紀…ちょっと真面目な話だけど――」

一転してしっとりした口調に、あたしは少しだけ緊張してしまう。

伊介「どうして暗殺の描写がセーフでこれはアウトなのかしら」

春紀「………」

伊介「何よその顔」

春紀「伊介様、メタネタは止そうぜ」

伊介「春紀、あんた人のこと言えないでしょ?さっきBANとか言ってたじゃない」

春紀「ああもう!ええっと、そりゃアレだろ。軽犯罪は言ってみりゃ敷居が低いから真似できるけど、暗殺の描写なんてあたしらみたいなヤツら
じゃなきゃ最初から参考にもならないからな」

伊介「真似されるから規制やむなしって訳?そんなの勝手に真似する方が悪いに決まってるじゃない?そういう責任転嫁のせいで小池一夫さんみたいな偉人が警察に怒られたりするのよ」

春紀「まあ、それこそ前に桐ヶ谷が言ってた大数の法則ってヤツだろ」

伊介「真似する人は一定数必ず存在する…だから、影響力のあるメディアほど規制をかけるべきって?正統化の論理としてはちょっと苦しいんじゃなぁい?」

春紀「…ていうか社会派百合SSとか絶対誰も読んでくれないから!止めようぜホントに」

38: 2014/06/28(土) 01:26:28.84
伊介「逆に言えばやることが壮大ならセーフなのね。ルパンは小学生に読ませても大丈夫だけど、あれが軽犯罪王アヌセール・ルパンとかだったら禁書よね❤」

春紀「読みたくないなあ…そんなショボい怪盗」

伊介「Ⅲ世の方は微妙に性犯罪王よね❤」

春紀「モンキー・パンチ先生に謝れ!」

伊介「話は戻るけど、規制規制ってヒステリックよね~?永井豪先生や手塚治虫先生へのかつてのPTAのバッシングみたいでやぁね❤」

春紀「分かったから、はいそこまで!ネタだからね!マジレスはナシだよ!頼むよ!」

伊介「春紀、車替えたから盗聴の心配は無いわよ?さっきからなに気にしてんの❤」

春紀「伊介様は強えーなー」

39: 2014/06/28(土) 01:29:32.71
伊介「ねえ春紀、話は変わるけど――」

春紀「何だよ伊介様」

伊介「もう一度車を替えましょう❤」

春紀「まだ5分も乗ってないよ!?」

伊介「ほら、あれよ。追跡対策が万全になるわ」

春紀「え、何?暗殺者の警戒心って、そういう盗賊みたいな態度のことなの!?」

伊介「だってこれ、パワー全然ないんだもん❤ 伊介、こんな車耐えられないわ。ステアリングの反応も悪いし~、ギアも入り難いし~。…たぶん
シンクロメッシュが壊れてるわね、これ」

春紀「普段いい車に乗ってるからそう感じるだけじゃねーの?」

伊介「あとガタガタ振動してお尻が痛くなるし!サスペンションが腐ってんじゃないの?」

春紀「サスは腐らねーと思うけど、まあ、シートのボロさ具合からするとクッションは虫食いかも知れないな」

伊介「………」

春紀「………」

伊介「うん。海に捨てましょう、この車❤」

40: 2014/06/28(土) 01:31:35.58
伊介「丁度、次の交差点を曲がれば海上公園よ」

春紀「東京湾に車を沈めるっていう発想が完全にヤクザだよな」

伊介「尾行対策だってば」

春紀「そこら辺に停めときゃいいだろ?沈める理由無くね?」

伊介「伊介がね、許せないのよ。こういう人の尊厳を踏みにじるような車を」

春紀「横暴!」

伊介「新しい車を探すわ。今や伊介と春紀は一蓮托生よ。協力しなさい❤」

春紀「…まあ、急いでいたとはいえボロ車を選んだ責任の一端はあたしにもあるしな」

伊介「伊介に相応しい、いい車に替えたいわね」

春紀「そういうのはセキュリティが掛ってるから難しいんじゃねーの?」

伊介「そうね。最近の車は防犯アラームが怖いし、昔みたいに配線ショートでエンジンを掛けると遠隔操作で止められる可能性もあるし」

春紀「やっぱ、いま車を替えるのは止した方がいいんじゃねーか?」

伊介「むしろジャック・バウアーみたいに堂々と徴発するのはどうかしらね」

春紀「聞いてよ」

41: 2014/06/28(土) 01:32:48.07
必氏の制止にも関わらず、伊介様は人気の無い湾岸公園に停まっていた“いい車”の脇に急ブレーキで駐車すると、いちゃいちゃと雰囲気に浸っていたカップルを車内から引き摺り降ろして見事な一本背負いでフェンス越しに海に放り込んだ(鬼だ…)。ちなみにあたしもいやいやながらその作業に協力させられた。まあ、泳いでればそのうち助かるか。
なおも乗って来たボロ車を海に突き落とそうとする伊介様を何とか制止し、あたしたちは暴虐の後の静けさの中、略奪の戦果に乗り込んだ。
メルセデスの小型のツーシーター。車に詳しくはないが、小金持ちが乗れるような品ではないことだけは確かだ。
正直伊介様の車の趣味が分からなかったが、ご満悦の様子なのは誰が見ても明らかだった。伊介様は始動したエンジン音に満足げに深呼吸し、車を発進させる。

伊介「ほら春紀、分かるでしょう?全然違う❤」

春紀「この状況で、その爽やかな笑顔はやめてくれ」

伊介「いいわね、この車。ふふ、ふふふ❤ カラーリングを除けば完全に伊介の好みだわ」

42: 2014/06/28(土) 01:34:55.88
春紀「なあ、伊介様。そろそろ目的地がどこなのか、教えてくれてもいいんじゃねーか?」

伊介「セーフハウスよ。ここからは大分離れた所。ヤバい時に逃げ込めるようにママが用意した家の一つよ❤」

春紀「別荘みたいなもんか」

伊介「別荘とは違うわよ。偽装名義で確保した安っぽい隠れ家よ。伊介も足を踏み入れたことは数回しかないわ」

春紀「周到だなあ。それに、一つっていうことは、隠れ家は沢山用意してあるのか…」

伊介「詳しいことは教えられないけどね。知ったら生かして返す訳にはいかないし❤」

春紀「怖えーよ。まあ、そこへ行くとあたしはこの稼業をやるには警戒心が足りなかったのかもな」

伊介「弱気ねえ。足でも洗うつもり?」

春紀「…ん…どうだかな…」

伊介「………。鳰たちに春紀の家の住所が割れてないといいわね」

春紀「………ああ」

伊介「で、春紀の家はどこにあるのよ?」

春紀「それを知られたら生かして返す訳にはいかねーなあ」

伊介「ふふ❤」

44: 2014/06/28(土) 01:38:12.46
春紀「伊介様♪」

伊介「何、春紀?」

春紀「呼んでみただけ~」

伊介「何よ気持ち悪いわね❤」

春紀「気持ち悪いとか言うなよ。いや…ほらさ、伊介様に会いたかったから何だか楽しくてさ」

伊介「………。何よそれ」

春紀「だから今は自分に素直になることにした」

伊介「そう…。ズルいのね、あんたは」

春紀「?」

伊介「あんた勝手に失敗していなくなっちゃうんだもの。お陰で一人部屋よ」

春紀「伊介様って案外寂しがり屋なのな」

伊介「あんたの方がよっぽど寂しがり屋なくせに」

春紀「」

伊介「…それより、あんたが黒組を去るとき伊介に会いに来てくれたのに、アニメだとその場面カットよ?」

春紀「つい先月の号の話だから仕方ないって。…それより、あのシーン。伊介様があたしのこと少し特別に思ってくれてたんだって気がして…何だか嬉しかった」

伊介「そう…。もうちょっとマシな状況で再会できればよかったのかもね」

春紀「こんな状況でも、だよ」

59: 2014/06/28(土) 18:07:18.17
>>1 です。

色々試しましたが問題が解決しなかったので、IDが変わってしまいますがこのまま行きます。

回線の調子がおかしいので、端末を変えられるように酉をつけることにしました。

60: 2014/06/28(土) 18:08:18.31
書き溜めが不十分なので、所々非常にゆっくり書きますがご容赦を!

>>44 の続きから。

61: 2014/06/28(土) 18:10:28.34
春紀「状況がどんなでも、伊介様に会えて、追手から護ってくれて。そのことが嬉しくて仕方ないんだ」

伊介「伊介があんたを撃たなくてよかったわね」

春紀「その事もだよ。裏切るリスクよりあたしをとってくれたってことがさ」

伊介「春紀…」

春紀「黒組を去って、伊介様ともっと話しておけばよかったって、ずっと心残りだったんだ。何でだろうな。だから状況が何であろうと、今日あの場に居合わせられて幸せだったって思う」

伊介「そう…。ね春紀、気付いてないかも知れないけど、顔赤くなってるわよ?」

春紀「ウソ!?」

伊介「ていうか後で思い出して気恥ずかしくなるようなことを言わないで頂戴」

春紀「言うさ。こんな稼業じゃ、いつまた会えるかも分からない…だろ?」

伊介「そうかもね」

春紀「それに10年黒組も…友達ごっこだったかも知れないけど、少しは本物の高校生活みたいでそれなりに楽しかった。学園祭の準備も、悪い思い出ばっかりじゃなかったよ」

伊介「舞台装置メチャクチャにしたのはあんただけどね」

春紀「言うなって」

伊介「春紀。刺し違えてでも、みたいな行動は戦略とは呼べないわ」

春紀「…」

伊介「ダメよ。あんな自暴自棄。伊介が許さないわよ」

春紀「…バレてたか」

伊介「春紀は危ういところがあって見てられないのよ」

春紀「伊介様が他人に興味を持つなんて殊勝なこともあったもんだ」

伊介「何でかしらね。春紀には何だか干渉したい気分になっちゃうのよ」

62: 2014/06/28(土) 18:13:19.54
春紀「で、学園祭は『ロミオとジュリエット』。シェイクスピアなんて初めて読んだよ」

伊介「出会って一週間で燃え上がる恋なんて、古典なのに現代的ね」

春紀「あれ?天下の伊介様は学園祭には興味が無かったんじゃねーのか?」

伊介「パパと見たディカプリオ版の映画が好きなのよ。伊介はロミオ×マキューシオのカップリングに注目してたわ❤」

春紀「目線が不純だった!」

伊介「映画は教皇派と皇帝派の対立じゃなくて、マフィアの抗争にアレンジされてたわ」

春紀「何だか今の状況に似てるな」

伊介「なぁに?春紀はロミオ気取りなのかしら?それともジュリエット?」

春紀「そういうんじゃ――いや、…ロミオ役は任せたよ」

伊介「あら、正直すぎるのもどうかしらね?」

春紀「…///」

伊介「ふふ❤ 折角あんたが正直になってくれたんだし、伊介も春紀に伝えたかったことを言わなきゃ不公平よね」

春紀「…」ドキドキ

伊介「伊介は本当はね、――」

春紀「…」

伊介「…やっぱいいわ」

春紀「あたしの胸の高鳴りを返せ」

伊介「もう少しBLカップリングについて語ろうと思っていたのよ❤」

春紀「嘘付け!そういうこと考えてる雰囲気じゃなかっただろ、絶対」

63: 2014/06/28(土) 18:14:42.16
伊介「話は戻るけどコミックよ。最新話では遂に剣持さんが動きだしたわね」

春紀「いじめを許さないって言ってたのは、ああいう理由だったんだな…」

伊介「伊介はそこよりも、学園祭中に仕掛けようとする剣持さんを鳰が諌めたのが意外だったわ」

春紀「あいつが用意した筋書きが狂うのが嫌だったのか、それとも本当にハレの舞台だから止めるっていう良識で言ったのか」

伊介「あんなのがちょっといい奴に見えるなんて不思議ね」

64: 2014/06/28(土) 18:15:59.24
春紀「剣持のバックグラウンドの組織も明らかになったな」

伊介「何だっけ?『帰宅部』だったかしら?」

春紀「活動実績ゼロじゃねーか!」

伊介「思い出した。『集団訴訟』ね!」

春紀「それ平和的に解決できてるから!『集団下校』だよ!」

伊介「でもシリアスな話ね。そうなると『乙哉×しえな』でおさげをチョッキンするギャグ百合SSを考えてたのに、書き辛くなっちゃったわ」

春紀「伊介様が書くSSっていう設定はメタだなぁ。ていうか、書きたいなら書きゃいいさ。もしかするとヘアスタイル変えれば剣持の性格も丸くなるかもよ」

伊介「『ごめ~ん、しえなちゃん。間違えてバリカン当てちゃった。てへぺろ』みたいなストーリーだったんだけど」

春紀「頭丸くしてどーすんだよ!ていうか最低のSSだな!」

伊介「『お詫びに○○してあげる【安価】』みたいな」

春紀「集団リンチじゃねーかよ!」

伊介「嘘よ。剣持さんはあのままでいいのよ」

65: 2014/06/28(土) 18:17:44.01
伊介「アニメが完結した一方で、コミック版は貞本エヴァみたいに微妙なアレンジが加えられているのが読んでて面白いわ。もしかしたら春紀の再登場もあるんじゃないかしら?」

春紀「さすがにそれは無いだろ」

伊介「剣持さんの敗因も変化するかも知れないわよ」

春紀「剣持はやっぱ兎角にやられたのか?」

伊介「コメントは控えておくけど…。そういえば、アニメ版の伊介って真相に気付いたのかしら?」

春紀「ちょっと待て。今ここにいる伊介様は何者なんだ!?」

伊介「剣持さんのことは、取り敢えず、CDにソロデビュー出来なかったことが全てを物語っているとだけ言っておこうかしら」

春紀「CDのことは言ってやるなよ」

66: 2014/06/28(土) 18:19:33.71
伊介「SSの話に戻るけど、『柩「あんまり聞きわけがないとポカリスエット注射するのです」 しえな「びえぇえええ」』みたいなのも考えてるわ」

春紀「ポカリって…。それ危ないんだぞ」

伊介「で、安価で次に何を注射するのかを決めるのよ」

春紀「やめて下さいお願いします!」

伊介「青酸カリみたいな安直な小道具はむしろ無粋よ。狙い目はバファ○ン水溶液ね❤」

春紀「優しさなんて1ミリも配合されてねーよそれ」

伊介「何よ?普通に予防接種したって面白くないでしょう?」

春紀「注射から離れろ!」

伊介「でもねぇ、しえなちゃんの可愛さは粗暴な周囲に振り回される所にあると伊介は思うのよ」

春紀「興奮のあまり呼び名変わってんぞ」

伊介「で、武智さんから優しくされてコロっと落ちちゃうのよ」

春紀「守護者乙哉、ありだと思います」

伊介「学園祭の舞台を借りて、鳰『黒組のみんなで〈タイタス・アンドロニカス〉』てのもありだと思うわ」

春紀「それ一番血生臭いやつだろ?ヤバい終幕しか見えないんだが」

伊介「悲劇のヒロイン、ラヴィニアは剣持さんにやって貰いましょう」

春紀「言い出した伊介様がやれよ!」

67: 2014/06/28(土) 18:22:31.09
伊介「その…メタな話になるんだけど、――」

春紀「さっきからメタネタのラッシュだろ。いまさら躊躇しても遅いよ!?

伊介「SSの話をしましょう」

春紀「さっきからしてるよ!」

伊介「そうじゃなくて実際のSSの話よ。ミョウジョウ学園からママの所に帰ってからの伊介は、頃しの後には必ずSSスレを覗いているわ」

春紀「そんな仕事帰りの一杯みたいな感覚で…」

伊介「『孤高のグ○メ』風の作品は夜食テロだったわね。でも面白かった❤」

春紀「伊介様は締め落とされてたけどな」

伊介「それから春紀の家に退学になった黒組生徒が入り浸るSS。伊介、あのシリーズだぁいすき」

春紀「あたしもだ。あたしの出番も多いしな」

伊介「次回辺り、伊介の出番も増えるかも知れないわ。ルンルン♪」

春紀「それ伊介様の台詞じゃないし!ていうかそれト書きだから読むな読むな!」

伊介「焼肉と修学旅行のシリーズも好きね」

春紀「え、あ…。うん、面白かった。に、鳰のヤツがいいキャラしてんだよな」

伊介「春紀が攻めだったわね」

春紀「わあああああああああ」

68: 2014/06/28(土) 18:24:40.06
………とまあ、益体の会話をしつつ、あたしたちは街を抜けて行った。
尾行を警戒しつつの緊張したドライブではあったけれど、伊介様の運転でくぐり抜けるネオンと街灯の輝く都市は、少しの間だけ種々の不安を癒してくれた。
伊介様との会話の中でちらりと一瞥したミラーには、嬉しそうに頬を緩めた自分が映っていた。あたしって、伊介様と一緒にいるときこんな顔してるんだ…。

71: 2014/06/28(土) 18:51:29.12
伊介「そういえば、何でミョウジョウ学園からの依頼なんて受けちゃったのか聞いて無かったわね」

言葉少なく口篭っていると、言いたくないならいいのよ、どうせえげつない脅迫か何かだったんでしょ、と伊介様は肩を竦めた。

・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

暗殺者稼業を廃業することは、黒組でのあの敗北の瞬間から、いやもっと以前から胸中で決意していたことだった。
ミョウジョウ学園を退学させられ、家に帰ったあたしは仕事を請けるのに使ってきたプリペイドを粉々に砕いてSIMもへし折り、二度と手を血で汚すまいと心に誓った。

一昨日、私用の携帯に一本の電話が入るまでは。

鳰『お久しぶりっスねえ、寒河江春紀サン』
その声は、必氏に頭から追い払おうとしてきた罪の意識を鮮烈に蘇らせた。清貧な苦学生を演じていた筈のあたしは途端に血の気を失い、何気なく出てしまった軽率さを後悔した。

番号は一新し、連絡のつかないよう関係を絶ったつもりだった。だが、その程度で一度かかわってしまった悪魔と関係を絶てると思っていたあたしは甘かったのだろう。

鳰は指定の暗殺対象として、今まであたしを暗殺者として使ってきたという人物を挙げ、そのプロフィールを読み上げた。積極的に依頼主の素性を探ろうとしたことは無かったが、あたしの仕事によって利益を受ける人間がどのような人物であるかなど薄々察することは出来た。そして確かに心当たりがあった。
嫌がらせ以外の何物でも無かった。黒組のゲームで敗北したあたしになぜ依頼するんだと問い質すと、『理事長とウチの趣向っすよ』と平然と答えた。

――『頃しの対価で家族を養っても、その笑顔を受け取る資格が自分には無いと感じる…赦されるに値しないことをあなたが一番よく知っている。そうですよね?…だから自分を犠牲にすることに暗い魅力を感じてきた』
――『理事長が望むのは正統なヒューマン・ドラマではなく、道を踏み外した欠陥者たちがもがきあがくストーリー』
――『自分の都合で何人も頃しておいて、突然店じまいしてまっとうな人間ぶろうなんて甘いっスよ、春紀さん。辞めるなら辞めるでケジメをつけないと。過去の清算ってそういうことなんじゃないっスか?』

聞くに値しない、悪質な誘い文句だと分かっていても右手は携帯電話を耳から離そうとしなかった。心の中の入り込まれたくない領域に蛇のように侵入され、精神を絡め取られる。
『…報酬は前金で100、成功報酬250。春紀さんに回したのは、過去から決別する機会と新しい門出の餞別を与えようっていう純然たるわれわれの好意っスよ?さあ、どうします?』

結局のところ、あたしは一度踏み込んだ泥沼から抜け切ることが出来なかったのだ。

72: 2014/06/28(土) 19:00:03.88
頃しではなく飽くまで情報が目的なのだから、と自分を誤魔化した。あたしが抜けた穴は遠からず誰かが埋め、元依頼者は政敵を頃し続けるだろう。だったら、その根は絶たなければなるまい――それは苦しい言い逃れでしか無かった。

………
稼ぎ手のいない11人家族。貧しい家庭だった。清貧なんてことばがあるけれど、貧しさは決して美しいものなんかじゃない。病弱な母に育ちざかりな弟妹たちを養わなければならない苦しい状況だった。兎にも角にも稼ぎが必要だった。
身を売るつもりは毛頭なかったが、高校に行っていないあたしに将来は約束されていないし、一生バイトしたって家族を十分に養うことなんて出来やしない。あたしの目の前には何の未来も見えなかった。

だからこそ、あたしの甘い心は、映画のような裏稼業に酔いしれた。こんなあたしにも許されたプロフェッショナリズム。そこには信頼と実績があった。約束された報酬があった。他者から評価される感覚さえあった。

73: 2014/06/28(土) 19:00:54.56
ヤクザの杜撰な頃しとは訳が違う、証拠品も目撃者も出さない一級の職業的殺人。ブローカーを介さない直接契約。報酬は莫大だった。

ヤクザな情報屋から暗殺者を欲しがっているクライエントに辿りつくまでが一番大変な時期だった。足が付かない中国製のプリペイド携帯、手首に隠したピアノ線。それだけが私の出発点だった。依頼人もあたしも11桁のナンバー以外、互いの素性に迫るものは何も知らないし、敢えて探ろうともしなかった。

裏稼業は確実に暮らし向きを向上させた。警察の目を引かないように数ヶ月から半年の間隔を開けてしか依頼は受けなかったが、安売りしないやり方が却って功を奏したのだろう、終いには向こうから報酬を吊り上げて泣き付くように仕事を依頼された。
それでも11人家族全員を将来に渡って養うにはまだ足りなかったし、タンスの奥に札束封筒が並んでも、あたしは自らには最も厳しく節制を強いた。
テーブルいっぱいの食事とちょっとした化粧品。それが、あたしがあたしに許した“無駄遣い”だった。そんな姿勢もあって家族に稼ぎの出所を疑われることもなく、妹たちはそれをバイトの月給だと信じていた。バイトを掛け持ちして家族を養う苦労人のお姉ちゃん…。

やめろ、そんな感謝するような顔で私を見ないでくれ。そんな申し訳なさそうな顔であたしの身を案じたりしないでくれ。心配も感謝も笑顔も、あたしには受け取る資格が無いんだ。あたしの原動力は家族の笑顔だった。でも、こうなってしまった今ではその笑顔が、苦しい。お前はその笑顔を向けられるに値しないのだと、頭の中で囁き声が聞こえた。

74: 2014/06/28(土) 19:03:00.30
初めて人を頃した時、あたしは誰よりも自分自身を恐怖した。頃す瞬間のことを思うと手が震え、直前までこれでいいのかと自問し続けていた。なのに標的を絞頃する数十秒、あたしの手は自動的にワイヤーを絞め続けた。頃しの感覚はどこか現実味のない色彩で、思考の片隅でこんなに簡単なのかと思っていた。

事前にどんなに葛藤しても、現場に立てばあたしの手は自分の意思から切り離され、一切の躊躇いなく自動的に動いた。精神と身体を切り離すことのできたあたしには、頃しの後の拒食も不眠症もなかった。二度目、三度目、事前の葛藤の深さに比例するように、頃しの手際は格段に向上した。
ベトナム帰還兵の話をどこかで聞いた時、だから、ああ、あたしは何かが欠けている人間なのかも知れないと、寂しく思った。

75: 2014/06/28(土) 19:07:03.80
――そして黒組が始まった。

一ノ瀬晴。正式な依頼ではない。彼女の氏そのものが目的ではないような悪質なゲーム。だが、家族を手に掛け生き伸び、のうのうと笑っていられるのなら…ならば頃すに値する人間だとあたしは自分に言い聞かせた。
後からそれが鳰の悪質なデマだと知った。そして東と一ノ瀬、あの奇妙な取り合わせの在り方を見てあたしは…。

――後方を見るミラーの中から、気付けば、あたしはもう一人の自分に覗きこまれていた。おまえは人を頃す時どんな顔をしているんだい?と。
「…ッ!」
危なかった。向こう側に引き摺り込まれる寸前で、あたしは我に返った。

伊介「な~に暗い顔してんのよ❤ この伊介様が隣にいるってのに、喜ばないなんて許さないわよ❤」
春紀「ああ、悪い。ちょっと考え事しててな」

76: 2014/06/28(土) 19:24:12.15
――「なあ伊介様、ちょっとシリアスな話なんだが聞いてくれるか?」

そしてあたしは、一ノ瀬晴を巻き添えに自らに引導を渡そうとした、自分自身の危険な心性を語った。家族の為と自分に言い聞かせながら同時に絶対に許されることのない、このいつ決壊してもおかしくない自己矛盾について語った。「誰かのため」の行為が、いつしか何の為なのか分からなくなるまでの思い出話を語った。

――「あたしは、人を殺せる自分が最後まで理解出来なかったし、その後で何食わぬ顔をして妹たちのいる家に帰る自分も嫌いだった。はーちゃんって言って笑顔を向けられる。その妹たちの笑顔は素直に嬉しい…でもすぐに思い出すんだ。自分にはその資格がないんだって」

そう口にした瞬間、伊介様は怒ったようにブレーキペダルを蹴った。、盛大なスキール音を立てて車が完全に停止する。急激な制動にあたしが何が起こったのかも分からず目を白黒させている間に、伊介様はあたしに体を向け、真っ直ぐな角度であたしに対面した。伊介様は怒っていたのではなかった。激怒していた。

77: 2014/06/28(土) 19:35:04.63
ムキになった子供の喧嘩でそうされるようにペチペチと平手で頬や肩を叩かれ、あたしが何かを言うよりも先に、伊介様は痛いほどの力であたしを抱き寄せた。ばか、ばか、と叱るように頭を撫でられ、髪をぐちゃぐちゃにされる。あたしは呆けたように伊介様の肩越しに車外を見るばかりだった。

伊介「春紀、あなたは下らないことをぐちゃぐちゃ考えすぎなのよ。誰の為とか人頃しの善悪とか、生きる言い訳に観念的なものを持ち出すんじゃないわよ!」

伊介「人間関係に資格とか釣り合いとか、そんなものは関係ない…違うわ、そういう資格なんてものは最初からありもしないのよ」

伊介「幸せであるべき瞬間にもあんたはそうやって自分を責め続けるのね。そうやって自分を粗末にするのね…でも、伊介はあなたにそんな風に接せられるなんて御免よ!」

78: 2014/06/28(土) 20:00:04.80
伊介「あんたの悩みは分からない。人と人は違うんだから、伊介は替わってあげられない。伊介にできるのは叩いて怒ることだけよ。あんたの悩みに立ち向かえるのは、だから、あんた一人しかいないのよ」

――伊介様の胸の中であたしは何かが溶かされるのを感じていた。

伊介「罪を背負っているから人と対等に向き合えない?家族が捨てられないから自分を犠牲にする?そんな卑屈な生き方してんじゃないわよ!」

伊介「自分を断罪するな!自分を正当化するな!理屈なんてナシで胸を張りなさい!」

伊介「楽しいって思ったなら心の底から笑いなさい!つらいと思ったのなら論理で考えてないでただ悲しみなさい!頃しに罪悪感のない自分への罪悪感なんて、そんな自罰的な道徳なんて捨てなさい!誰かのために何かをするなんて、そんなファンタジーも捨てなさい!理屈なんて捨てて、ただ何が起きているのかを知りなさいよ!」

――そうだ。あたしはあたしの家族を見捨てられない自分の為に、彼らを頃して回ったのだ。あたしは自分の意志で、自分を救おうと道を踏み外したのだ。

伊介「だから――」

――気が付けば頬を涙が伝っていた。悲しいとか辛いことを思い出したとか、そういうことじゃあないんだと、伊介様の胸の中で思う。あたしは、ただ、泣いている。
こんなあたしの琴線とやらに言葉が響いたとでも言おうか。でもそんな理由は伊介様の前では必要ないんだと、そう気付いた。

伊介「伊介が傍に居てあげる」

優しく抱かれていた。暖かい胸としょっぱい涙の味がその時の表象だった。ああそうか、とあたしは気付く。あたしは、ただ何も言わずに誰かに甘えたかったんだ。初めて人を頃した時からずっと分離されたままだった精神と身体を、もう一度つなぎ合わせて貰いたかったんだ。そう、封じ込めてられていた自らの欲求を知った。

79: 2014/06/28(土) 20:04:05.48
………
街灯の数も徐々に減って来た。後方確認をするまでもなく、道を走っている車はあたしたちだけだ。時折後方に自動車のライトが見えたが、どれも暫くする内に別の路線へと消えていった。

伊介「目的地まではまだかかるから寝てていいわよ、春紀」

春紀「いや、眠くはないよ。…それに照れくさいけど、こうしてるだけで何だか嬉しくて、寝ちゃうなんて勿体なくってさ」

伊介「そう」

伊介様はポツンと返しただけだったが、表情に少しだけ微笑みが浮かんだのが見えた。
それから伊介様とあたしは、再びどうでもいいことを話し始めた。他愛ない掛け合い、今の生活、家族の自慢。あるいは、どうってことない人生論、ちょっとした趣味、服やコスメの好み、ミョウジョウ学園への悪口、黒組に居た頃の互いの印象。
気付けば計器盤のデジタル・クロックはホテルを出てから3時間後の時刻を指し、車はようやく目的地に到着した。

80: 2014/06/28(土) 20:15:14.42
伊介様のセーフハウスは曲がりくねった山道を少しだけ登った場所に立つ、小さなコテージ風の建物だった。車庫前に車を停め、元は庭だったのだろう、クローバー畑と化した緩い斜面を登る。ペンキの剥げたガーデンチェアが静かな雨に打たれていた。

春紀「ここが伊介様の別荘か…」

伊介「だから別荘じゃないわよ。こんなので満足してると思われるなんて、伊介何かムカつく~❤」

春紀「でもいい場所じゃねーか。夜景がきれいに見えるし、晴れてたらちょっと散策してみたくなる雰囲気だし」

伊介「あんまりウロウロしない方がいいわよ。トラップを仕掛けてある所もあるし」

春紀「トラップっていうとトラバサミとか?」

伊介「地雷よ」

春紀「うわぁ…」

伊介「どんなに散歩したくても、裏の林は地雷原だから這入っちゃダメよ❤」

春紀「………」

81: 2014/06/28(土) 20:21:34.89
伊介「鍵、鍵…っと」

春紀「これで鍵が無かったら悲劇だな」

伊介「その時はあんたのガラスカッターの出番ね」

春紀「どうせあたしが作業してる間に合鍵で中に入るんだろ?」

伊介「違うわね。あんたが作業している間に伊介は退避するわ」

春紀「へ?」

伊介「窓ガラスに穴を開けると防犯装置が起動するから」

春紀「それ、作動するとどうなるの?」

伊介「高圧電流の刑❤」

春紀「あたしは捨て駒かよ!?」

伊介「伊介がベッドで安眠する為だもの。ちょっとは協力しなさいよ」

春紀「あたしは軒下で永眠するけどな!」

伊介「心臓マッサージくらいは施してあげるわよ❤」

春紀「あたしの生命の危機を織り込み済みみたいに言わないで…」

伊介「まあ、そもそも超硬化プラスチックの防犯ガラスだから穴は開かないわよ」

春紀「このくだり完全に要らなかったよね!?」

伊介「伊介の用心深さを印象付けるには必要な描写だったわよ」

春紀「印象付けられたのは伊介様の横暴さだよ」

伊介「なにそれムカつく~❤」

春紀「……ていうか、さっきから伊介様が手に持ってるの、それ鍵だろ?早く入ろうぜ」

伊介「つれないわねえ。頑張ればもう一周くらい掛け合い出来たわよ」

扉を開け、中に入る。あたしは壁のスイッチを押したが明りは付かなかった。

春紀「あれ?伊介様、玄関の電球が切れてるぞ?」

伊介「ちょっと待ってなさい、春紀。ブレーカーを上げて来るから」

春紀「防犯装置のくだり全部ウソかよ!」

82: 2014/06/28(土) 20:36:24.33
コテージの内部は、生活感の無さがセーフハウスらしいと言えばらしかった。家具や調度の類が極端に少なく、どことなく空っぽで均質な空間だった。
伊介様はシャワー浴びて来るから紅茶入れといて頂戴などと横暴なことを言って、雨に濡れた服を脱ぎつつ廊下の奥へと去っていった。

ぽつねんと部屋に残ったあたしは、パラパラと雨が屋根を打つ音に包みこまれた。安心とも寂寥とも違う、心臓を一度嵐が通り過ぎて再び静寂が返って来たような感覚がした。
道中色々な事が起き過ぎたせいで多少ならずともクタクタだったが、不思議とつかえが取れたような気分だった。

考えるより行動しようと思い戸棚を開けると弾薬庫の如く各種缶詰がずらりと並んでいた。というか、どの戸棚を開いても缶詰以外の物体は何一つ無かった。ポットも紅茶も見つからないのでは仕方がない。今はシャワー中の家主に聞くしかなかった。

83: 2014/06/28(土) 20:44:45.18
伊介「何?春紀。狭いんだから入って来ちゃダメよ」
春紀「入らねーよ」

そうして、あたしと伊介様はシャワールームのすりガラスを隔て言葉を交わす。
そうしたかったから、あたしはそうした。紅茶なんてきっと、ただの言い訳だった。

人はどう足掻いても一人だ。どんなに近い人だって何もかもを知っている訳じゃない。近付き過ぎれば過干渉で嫌われてしまう。人を好きになることと、100%依存することとは違う。伊介様のどこか突き放した部分は、その種の強さの表れなんだろうなと、そう思った。

85: 2014/06/28(土) 21:40:13.68
伊介様は長風呂するタイプではないようで、すぐに脱衣所に上がってきた。

伊介「何よじろじろと人のプロポーションを見て」

春紀「いや、違う違う」

本当は見惚れそうになったし、車内であんなに盛り上がった後で伊介様の体温を肌が触れ合いそうな程の近くに感じたことにドキドキしてしまっていたのだが、流石にそれを正直に伝えて引かれるのも嫌だった。

春紀「腹筋を見てたんだ。綺麗だなーって」

伊介「…ッ」

春紀「待って、引かないで。ていうか逃げないで!」

伊介「何あんた、胸に興味が無さそうだと思ったらくびれフェチって訳?」

春紀「いやそうかも知れないけどさ、ほら、薄い皮膚越しに見える腹筋って惹かれない?」

伊介「………」

…咄嗟に誤魔化したせいで妙なフェチ属性疑惑が生まれてしまった。むしろドン引きされた。

その後、あたしは伊介様と入れ替わりで熱いシャワーを浴び、長い一日の終わりにやっと人心地つくことと相成った。

86: 2014/06/28(土) 21:58:23.06
それにしても。それこそ『ロミオとジュリエット』じゃないが、互いに気になるルームメイトといった雰囲気だった伊介様を、たった数時間の内にこれほどまでに近い距離に感じるようになったことに自分でも驚いた。

暗殺者を操るような手合いは経済界を支配するとか、政治的に人の上位に立つとかいった目的のために純粋なビジネスとしてアサシンを雇うものだ。少なくともあたしが知る限りでは復讐や怨恨を動機として暗殺者に高額の報酬を払う者は稀だ。

あたしたちの居る世界は、通貨が目に見える全てを代替する中で人間性まで失って功利的になった化物たちの世界だ。
だが、かの古典のように出会って一週間の他人に命まで懸けられるというのもまた、人間の愚かしく愛すべき一面なのかも知れない。

あたしは不意に吊り橋効果という言葉を思い出し、そんなことを考えた自分を少しだけ嫌悪した。

87: 2014/06/28(土) 22:24:10.31
脱衣所に上がったところで、パジャマや化粧水がどこにあるのか(というかこのセーフハウス内に存在するのか)を聞き忘れていたことに気付いた。無かったら困るなと心配しながら、あたしはバスタオルを巻いて居間に戻った。
――そこには衝撃の光景が広がっていた。

伊介様が着ていたのはグンゼのパジャマだった。しかも超・女の子女の子してるデザインの。薄いピンクの生地は微妙に幼さを感じさせる花柄が彩られている。
だが、事の本質は断じてパジャマそのものではない。黒組で天上天下唯我独尊のオーラを振りまいていたあの伊介様が、ヘソ出しのセクシーな外着か、あるいはあのセクシーな黒のネグリジェを己のペルソナとして完全に使いこなしていたあの伊介様が、普段なら絶対に着ないであろう女の子衣服に身を包んでいることが問題の焦点なのだ!

伊介「…なに興奮してるのよ?」

あまりの興奮ぶりにグラスにミネラルウォーターを注ぐ姿勢のまま硬直していた伊介様が、何か言葉を発したようだったが、そんな言葉など今のあたしには届かない。
いやいやいや。いやしかし、このセーフハウスの備品を用意したのが伊介様がママと呼ぶアサシンだったとしたら、本気でグッジョブだった。普段得意げで横暴な娘にたまにはこんな可愛いパジャマを着せたいという親心には心底共感する。今あたしの前にいるのは凶暴な武闘派アサシンではなく、年相応の可愛らしい女の子だった!ああ、誰かピクシブでこの伊介様を描いてくれないかなー。

伊介「あなたの考えてることは大体わかるけど、ちょっと落ち着きなさい」

これが落ち着いていられるものか!

88: 2014/06/28(土) 22:32:58.08
伊介「春紀、今日のあんたは本当にテンションの差が激しいわね」

春紀「ハハ…何でだろうな」

伊介「で、何よ?何よじろじろと人のプロポーションを見て」

春紀「腹筋…じゃなくてほら、パジャマとか化粧水とかどこにあるかなーって」

伊介「はぁ。脱衣所から出た戸棚に携帯用の化粧品一式と一緒に入ってるわよ。あなたの分もあるから安心しなさい」

…そんな訳で、まだ見ぬ伊介様の育ての親に感謝しつつ、あたしもまた買ってから一度も開封したことがない雰囲気のパジャマを身に着けた。

伊介「お腹空いてる?何か作るわよ」

春紀「いや、それが全然」

伊介「なら良かった。保存食みたいなのしかないからどうしようかと思ってたのよ」

春紀「パジャマはちゃんと用意してくれるのに、食事は軍隊風なんだな」

89: 2014/06/28(土) 22:38:53.59
伊介「紅茶でも飲みましょうか」

缶詰のことをぼやいていたあたしの前に差し出されたのは、未開封の紅茶のリーフ缶。憧れつつも一度も口にしたことがないFauchonのアップルティーだった。

春紀「フォションじゃん!」

伊介「それがどうしたのよ?」

春紀「伊介様って紅茶にこだわらない人かと思ってたからさ」

伊介「何よ、その言いぶりは」

春紀「一巻でティーバッグ使ってたろ?」

伊介「あれは自分で飲む用じゃないから問題外❤」

春紀「アニメ第2話だと『お徳用』とか書いてあったし」

伊介「それの何が悪いのよ?」

春紀「いやさ、伊介様ともあろうお方がスーパーで一番安いティーバッグを買う姿を想像すると、親近感湧くけどシュール!」

伊介「うるさいわね。大体、フォションにクスリ混ぜるなんてあり得ないわよ。冒涜よ冒涜!」

春紀「クスリ混ぜてる時点で食べ物への冒涜だろ」

伊介「第一話でポッキー投げてた人には言われたくないわね!」

90: 2014/06/28(土) 22:44:11.24
………
春紀「!」

伊介「どう?感想は」

春紀「びっくりした。紅茶ってこんなに美味しいものなんだな」

伊介「ふふ❤ もっと褒めたっていいのよ?」

春紀「淹れ方もやたらと本格的だったし」

伊介「それから?」

春紀「要求されると褒めたくなくなるなあ…」

といいつつも、伊介様の淹れた紅茶は本当に美味しかった。両手でマグカップを持って大事にして飲む。そんなあたしを見て、伊介様の得意げな表情の中に小さく微笑みが現れたような気がした。
着いてそうそうお茶係にされかけた時は、紅茶の感想を10話の人形のセリフで返してやろうなどと思っていたが、そんな下らない企みが吹き飛ぶ位に、優しい香りだった。

91: 2014/06/28(土) 23:17:46.14
温まった体が眠りを欲するまで時間は掛からなかった。一つしかないベッドを巡って、
――「あなたは床で寝なさい。寝袋もあるわよ❤」
――「ありえねーだろ、この流れで!」
と、気恥ずかしさを誤魔化すように不毛な争奪戦を繰り広げ、少しだけぎこちなくなりながらも同衾する。

二言三言、ほんの数分青臭い会話をしたあと、寝るわと一言口にすると伊介様はサイドテーブルのランプを消し目を閉じた。
コテージに灯る明かりはなく、窓から差す仄かな街明かりが唯一の照明だった。シトシトと雨はいつまでも降り止まない。

本当に疲れていたのだろう、ものの数分で規則正しい寝息が聞こえて来た。こうして目を閉じて眠っていると、伊介様は本当に年相応の可愛らしい女の子だった。呼吸を感じるほど、キスできるほどに近い。不意に衣服越しに感じる体温を意識し、あたしは身悶えたくなる程の衝動を感じた。

――でも。
こんなにも近いのに、人と人との距離は埋められない。

95: 2014/06/29(日) 19:01:11.65
・・・・・・・・・
―― 9人
―― 312人
―― ………
―― ママと一緒に仕事した時のも含めるとね。それにターゲットだけじゃなくて取り巻きとも戦わなきゃいけなかったし。

それがあたしと伊介様の距離だった。…伊介様は幼少のみぎりに暗殺者に拾われてから、頃しの手管を含む各種の英才教育を受けてきたと言っていた。頃し屋としてのキャリアの長さもフリーランスで何でも請け負うスタイルも、あたしとは全然違う。だが、それだけでは語りきれない何かがあたしと伊介様の間には横たわっている。

あちら側の世界とこちら側の世界を行き来する半端者だったあたしに対し、伊介様は暗殺者として、何と言うべきか、あまりにも完成されている。頃した人数のことではない。心の奥底の価値観が、きっと根本的に食っている。

96: 2014/06/29(日) 19:02:20.92
また「ぐちゃぐちゃと下らないこと」を考え始めてしまっていた自分に気づき、あたしは頭を振って思考を追い払う。天井を見やるのをやめて、伊介様に向き直る。

降りやまない雨が予感させる外の冷たさに対して、伊介様の隣は何だかとても快くて、温かい。今あたしは、きっと伊介様が家族以外に許したことのない程の近距離に居る。
伊介様の隣。そう自覚すると無性に嬉しさがこみ上げた。肌に感じる体温と呼吸が再びあたしの心をとろけさせる。

そうして、いつの間にかあたしもまた、穏やかな気持ちで眠りについていた。

97: 2014/06/29(日) 19:03:20.89
同時刻 ミョウジョウグループ某ビルディング モニタールーム

「動きがあったようね。彼らも必氏ね、このタイミングで動けばアシが付きかねないというのに」
「全くっスね。ここはまあ、あのお二人のお手並み拝見と行きましょうか」

98: 2014/06/29(日) 19:04:36.04
再び犬飼伊介のセーフハウス 伊介と春紀

・・・・・・・・・
あたしたちの目を覚ましたのは小鳥のさえずりではなく、警報を発する耳障りな電子音だった。伊介様に目をやると緊迫した面持ちで壁のパネルを注視している。

春紀「伊介様?」

伊介「車庫前の感圧計ね」

春紀「…追手?」

伊介「でしょうね」

春紀「で、どうする?」

伊介「敵の人数は分からないけど、じっとしてたら追い詰められるわ。前衛に出るわよ」

春紀「この家に武器は?」

伊介「天井裏にAUGがあるけど取りに行ってる時間はないわね」

つまり武装も人数も不明の侵入者相手に、今ある武器で戦うしかないということだ。伊介様にはホテルで使った拳銃があるが、あたしには近接格闘用の武器しかない。護身用のデリンジャーを渡されたが、どうせ役には立つまい。置いていくことにした。

伊介「春紀との朝チュンを邪魔した恨み、返してくれるわ」

春紀「朝チュン言うな」

伊介「春紀より先に起きたら色々悪戯して遊ぼうと思ってたのに~」

春紀「悪戯って…何をするつもりだったんだよ」

伊介「あんたが想像してるようなことよ❤」

春紀「え…///」

伊介「鼻をつまんで息を止めたり」

春紀「子供か!!」

伊介「あんたが妹さん達からされてそうなことは、ひとしきりやって置かないと気が済まないわ」

春紀「もっと楽しみにすべきことがあんだろ!?」

99: 2014/06/29(日) 19:05:42.72
足音を忍ばせ階段を降り、居間を通り過ぎようとした所で空気の動きを感じた。侵入者の気配だ。しかも単独ではなかった。伊介様とあたしは咄嗟に物陰に身を潜める。

気配が二つ居間に侵入し、あたしたちのすぐ傍まで近付いて立ち止まった。
装備に劣るあたしたちは、侵入者がこちらを向いている状態で仕掛けようがない。じっと息を潜め、気配が離れるのを待った。そっと覗くと銃を構えた男が二人、慎重な足取りで居間を抜けて、それぞれ別の方向へと移動していく所だった。
伊介様と目配せで合図をし、そっと後を追う。

あたしは階段に向かった男の背後を追った。
相手と呼吸を同調させ、同じ歩調で動く。目線の動きからは次の動作を予測できる。相手が何に注目し何に警戒しているのか、そして呼吸からは緊張の度合いが手に取るように分かる。忍び寄る氏神の気配に気づくこともなく男は足を止めた。

100: 2014/06/29(日) 19:08:14.01
男は無線のイヤホンに指を当てた。そして、その指が再び銃を握るより先にあたしは飛び掛かっていた。巻き付けられるワイヤー、肺腑から空気の漏れる苦悶の呻き。
二人目が気付いて振り返るよりも早く、伊介様も仕掛けていた。男は口と鼻を塞がれ、喉元に逆手に握ったナックルのブレードを突き立てられる。
返り血が薄桃色のパジャマを艶やかに化粧する。

敵を前にあたしたちは残忍で狡猾だった。誉れ高い肉食獣ではなく、罠を張って待ちうける肉食昆虫だった。闇を味方に付け、建物の空間把握を先んじているあたしたちにとって、武器の不利を覆すことは造作も無い。連中は銃撃戦のプロかもしれないが、生憎こっちは静殺傷術のプロなのだ。

あたしは一人目の男が音を立てて倒れないようにそっと転がし、手早く装備を奪い取った。消音器が装着されたアサルトカービンと予備弾倉。腰に差したベレッタは放っておく。

その時、廊下を伊介様のいる方へ真っすぐ向かう足音があった。三人目だ。伊介様が無防備に背を向けているのに気付いて銃を向けようとしたが…背後から接近していたあたしがそいつの後頭部をカービンの銃床で殴りつける方が早かった。

安堵の息をつく間もなく、ジャキンと、金属音がした。ショットガンのスライドを往復させる音だ。伊介様に押し倒された次の瞬間には、激しい銃声が轟き、ついさっきまであたしがいた位置の壁に大穴が開けられていた。

あたしに覆いかぶさった姿勢のまま、伊介様は先の三人目の手から短機関銃をむしり取り、
お返しとばかりに4人目の影目掛けてフルオートマチック射撃を浴びせかける。盲撃ち同然の乱射だったが、全弾を撃ち尽くした頃には、裏口の廊下には木っ端とガラス片に混じって4人目の氏体が血の池に沈んでいた。

101: 2014/06/29(日) 19:10:36.42
車を二度までも替えたし、コテージに来る間は跡をつけられてはいなかった筈だ。それに、こんなタイミングで追手がかかる意味も分からなかった。
しかし、場所が割れた以上は一刻も早くここを立ち去らねばならない。襲撃者らから大急ぎで鹵獲した武器を手にセーフハウスから出ようとした所で、車庫前の道路に三台の黒塗りバンが停まっているのに気付いた。慌てて家の裏に身を隠す。車中からは倒した侵入者らと同じような格好の、完全武装した男たちがワラワラと降車してきた。トラップや銃撃を警戒しているのか、遮蔽物に身を隠しつつ慎重に侵攻してくる。丁重にも、その内の一人がメルセデスのタイヤに穴を開けているのが見えた。

春紀「これって俗に言う大ピンチってやつか?」

伊介「最悪…。春紀、ちょっと行って頃してきなさいよ」

春紀「今は掛け合いを始めるような状況じゃねーって」

伊介「そして伊介はその間に逃げるわ」

春紀「お願いだから真面目にやって!」

102: 2014/06/29(日) 19:11:54.15
伊介「よく聞きなさいよ、春紀。伊介は今から屋根に登ってそこから狙撃するわ。その銃を寄越して」

春紀「あたしは何をすればいいんだ?」

伊介「側面西側の林には地雷が埋まってないから、あんたはそこから銃撃して敵を攪乱して頂戴」

春紀「分かったけど、あたしは射撃なんてしたこともないぞ」

伊介「敵の注意を逸らしてくれればいいのよ。当てる必要はないわ。いい?林の奥を移動しながら、隠れた位置から撃ちまくって。伊介が撃つまで始めちゃダメよ」

春紀「分かった」

伊介「あとあんたはこれを着なさい」

そう言って伊介様はさっきの侵入者から剥いだベストと黒のジャケットを手渡した。釣り人の着るベストに似ているが、釣具の代わりに弾倉が括り付けられている。ジャケットは…なるほど、林の中でピンクのパジャマではさぞや目立ってしまうだろう。

伊介様はコテージの中に戻った。2階裏側の窓から登るつもりなのだろう。あたしはそれを見届けずに、静かに林の中に這入っていった。

103: 2014/06/29(日) 19:15:10.99
あたしが林の奥で絶好の射撃位置を見つけた時には、伊介様は既に屋根を登りきっていたようだ。

――始まった。遮蔽物に隠れた援護役と前衛に分かれて慎重に家に近づく男たちが、姿なき狙撃手に次々に撃ち抜かれていく。伊介様が実質上、唯一のオフェンスだ。伊介様の位置に気付かれるより先に、あたしは横合いから銃弾を浴びせかけた。完全に乱れ撃ち状態で銃弾は明後日の方向に散らばったが、襲撃者たちは怯んだ。咄嗟に伏せて狙撃の餌食になる襲撃者たちを尻目に、あたしは引っ込んで位置を変え、短機関銃に次の弾倉を差し込んだ。

・・・・・・・・・

でも攻勢に出ていられたのは最初の内だけだった。

伊介様の射撃は恐ろしく精確かつ速く、半数以上の敵が既に沈黙していたが、とうとう位置がバレてしまったらしい。コテージの屋根に銃撃が加えられる。伊介様を狙っていた数人目掛けて斉射を放ったが、それで最後の弾倉を使い切ってしまった。

慌てて降りようとした伊介様が足を滑らせて家の側面に落下したのが目に入り、あたしは大急ぎで林を抜け、落下地点に走った。

104: 2014/06/29(日) 19:16:17.64
伊介様は腰を打ったらしく、尻餅をついたような姿勢のまま拳銃を撃ちながら後退していた。襲撃者の一人が伊介様に極めて接近していたが、駆けつけたあたしが背後から殴りつけて倒した。男の持っていたアサルトカービンを拾い上げつつ、痛みに顔を顰める伊介様を抱き起こし、片手で乱射しながら屋内に撤退する。裏口から入る時にショットガンのことを思い出し、それを拾って伊介様にはカービンを持ってもらった。

伊介「あと何人残ってた?」

春紀「9人前後だった」

伊介「マズいわね…」

春紀「嘘でもいいから楽勝だって言ってくれよ」

伊介「もう少し人数がいないと『明日に向って撃て!』ごっこができないじゃない!」

春紀「こんな状況ですら真面目になれない病気なのか!?伊介様は!」

伊介「さっきのあんたの射撃は『明後日に向って撃て!』だったわね」

春紀「うるせーよ」

105: 2014/06/29(日) 19:21:43.30
拾った武器を持って居間に立て籠もる。残弾はあと僅か。伊介様は足が立たない為に壁を背もたれに座っている。冗談を言ってはいたが、その表情からはいつもの勝気な表情が失われていた。

本当にさながらブッチとサンダンスじゃねーか。ロミオとジュリエットなどどこ吹く風だ。
あたしは最後にもう一度伊介様の顔を目に焼き付ける。何よ、と言わんばかりに見つめ返す顔には、返り血と、擦り傷。それでも美しいと感じた。ああ、キスしとけば良かったな、と心底思う。

だが、早くも何人分もの足音がコテージに侵入してきた。

・・・・・・・・・

突入してきた男を撃った。続いて入って来た男も伊介様が一発で仕留める。

もはや戦略もへったくれもなかった。雪崩れ込むように突撃を仕掛ける襲撃者らに散弾とライフル弾を容赦なく連射し、引っ込んだ敵も壁越しに貫通弾で倒す。放り込まれた手榴弾を蹴り返し、返り撃ちにする。
弾が切れると先に倒した敵から奪わずにいたベレッタを拾い上げ、それも切れるとガントレットで起氏回生の近接格闘を演じる。

…全てが終わった時、部屋には10人の氏体が転がっていた。動く者はあたしと、伊介様の二人だけ。コテージは再び静寂に包まれた。

107: 2014/06/29(日) 21:34:28.20
至近弾が弾き飛ばした木片や金属片で切り傷が出来ていたが、伊介様もあたしも銃弾を食らってはいなかった。これほどの修羅場を潜ってまだ命があるのは奇跡としか呼べない。
あたしの体は今更のように震えだした。恐怖はいつだって遅れてやってくる。立ち上がろうとしたが足に力が入らず、あたしは伊介様の隣で壁を背にして震える両手を見つめた。

春紀「助かった…のか?」

伊介「あんたが破防法に引っかかるくらい暴れてくれたお陰ね❤」

春紀「破壊活動ってそういう意味なの!?」

伊介「まあ実際に破壊行動をしてくれたのは襲ってきた奴らだけど」

春紀「…家の風通しが良くなっちまったな」

伊介「とんだリフォーム業者も居たものね。やり口が斬新すぎて言葉もないけど」

春紀「壊すだけ壊して匠が帰っちゃうんじゃ番組にはならないな」

伊介「劇的すぎて逆に高視聴率ね。…まあ場所が割れた以上、このセーフハウスは放棄するしかないけど」

春紀「それも何だか勿体ないな」

伊介「それにしても、伊介は動けなかったから、あんたがいなきゃ白兵になった後で氏んでたわ」

春紀「…最後のは本当に二人とも氏ぬ所だったな」

伊介「春紀…あんたは伊介の命の恩人ね」

春紀「伊介様もあたしの命の恩人だよ。危ない所で助けてもらった」

伊介「そうね。じゃあ早速そこのペットボトル取って頂戴❤」

春紀「恩着せがましい!」

伊介「冗談よ❤」

109: 2014/06/30(月) 22:21:58.41
落ち着きを取り戻し、ようやく体が動くようになった。カウンターキッチンの向こう側はガラス片が散乱していた為、伊介様はナックルを脇に置いてシンクの反対側から蛇口を捻って顔を洗った。

伊介「歩けるようになったし、ここからは早く立ち去りましょう」

春紀「そうだな。あ…でも来た時の車はパンクしてるのか」

伊介「連中のバンを奪うまでよ。多分発信機の類が付いてるから、取り敢えず街まではそれで下りてまた車を替えましょう。楽しみね❤」

春紀「何か伊介様が車泥棒が趣味の人みたいになってきたな…」

伊介「何よ?それともパジャマで電車にでも乗る気?」

春紀「…確かに。じゃ、また楽しくドライブだな」

――ところが、そうはいかなかった。

110: 2014/06/30(月) 22:23:53.22
不意に頬に風を感じた。振り返って確かめる必要もない殺気だった。あたしはカウンターに置かれたナックルを手に取り、伊介様はホルスターにそっと手を伸ばした。

居間の反対側の窓際で、カーテンが風に踊っていた。その手前に人影が一つ。闇の中でも見間違えることの無い、鋭い刃のような存在感――そこには東兎角が佇んでいた。

やっぱり裏にいるのは鳰か…。最強のラスボスを前に虚を衝かれたあたしがそんなことを考えている間に、伊介様はもう動いていた。

伊介様の対応は早かった。兎角に先んじて銃を抜き照準する。だが、伊介様が一発撃つより早く、即座に抜き撃ちした兎角が二発を放っていた。
屋内で反響する三発分の銃声は、それがあまりに短い間隔で放たれた為に一つに重なって響き、鼓膜を圧迫した。耳鳴りが聴覚を遮断する。

111: 2014/06/30(月) 22:25:23.91
伊介様の撃った一発は狙いが逸らされ、兎角の頬に切り傷を負わせるに留まった。そして兎角の放った二発は――伊介様の胸に着弾した。

衝撃に目を見開くあたしの前で、伊介様はゆっくりと後方に倒れていった。瞬間、伊介様と目が合った。大切な気持ちを伝えそびれたことを惜しむような視線。泣き出しそうなほど切なげな表情。

世界が歪んだ。それが自分の涙なのだと気付くこともなく、あたしはただ茫然としていた。世界は無音だった。何が起きたのかをどうしても理解できない。今目の前で起きている現象が現実である筈がない…。

カウンターに衝突するようにして伊介様は頽れ、足を投げ出して座り込むような姿勢で動かなくなる。パジャマの胸元には弾痕が二つ。紅い紅い血痕…。今更のようにあたしの耳に音が届き、瞬間、あたしは我に返った。

112: 2014/06/30(月) 22:27:36.89
春紀「テメエッ!」

激情に任せて兎角のシルエットに右手のナックルを投げつける。そのブレードが兎角を傷つけることは無かったが、咄嗟に避けたその隙に間合いを詰め、手から銃を蹴り落とすことに成功した。
怒りが脳を痺れさせ、ただ破壊願望に支配された。勢いに乗ったまま渾身のストレートを繰り出し兎角を防戦一方に追い詰める。ナイフを抜く暇を与えてなるものか!左手に刃物を持つあたしの優勢を覆させてなるものか。

後退とガードで凌いで来た兎角に、すかさずブレードを振り下ろそうとしたが、大振りの攻撃を見切られてしまったことに直前で気付いた。咄嗟の判断でバックステップを踏むと、正にその瞬間、兎角の鋭いサイドキックがヒュっと空を切り裂いた。直前まであたしがいた空間を完全に捉えた動きだった。

兎角はブーツのナイフを抜き、あたしも残ったナックルを右手に持ち替える。ほんの数歩横歩きで間合いを計り合い、直後、即座に兎角は掛って来た。

顔を狙った連撃の速攻。乱舞するような突きと払いの連続を受ける。だがこれは兎角のフェイントだ。見切りと軽いガードで対処し、付け入られるような隙は与えない。
と、兎角の足捌きが変化した。直後本命の突きが繰り出され、あたしは危うい所でブレードで止める。刃を目視してから反応したのでは遅かっただろう。そんな事では間違いなく頸動脈を切断され氏んでいた。ナイフ同士がギリギリと音を立て危険な滑り方をした。そのまま馬鹿力でブレードごと右手を払われてしまう。マズい!
放った左ストレートを潜り抜けるように接近され、掌底で顎を狙われる。咄嗟に上体を逸らすが、バランスを崩したあたしは次の攻撃に対して完全に無防備だった。

113: 2014/06/30(月) 22:28:37.21
――実力差は歴然としていた。最初から勝てる相手では無かったのだろう。あたしは喉元に迫る兎角のナイフをガントレットでガードし…そこまでだった。次の瞬間、兎角に襟元を掴まれて背負い投げを決められた。世界がぐるんと一転し、そのまま激しく壁に打ち付けられる。肺の空気が抜け、息が止まった。

痛みに身動きが出来なかった。歩み寄る兎角のナイフが鈍く光る。
――何でこんなことになっちゃったんだろう…

そう諦観と共にごろんと頭を横に向けた時、床に投げ出された腕の先の方、ソファの下の暗がりに、微かに光を反射するものが見えた。H&K USP Compact。先に蹴り落とした兎角の拳銃だ。何の因果か床を滑ってこんな所に入り込んでいたのだった。

114: 2014/06/30(月) 22:30:40.77
勝負だった。兎角のナイフが振り下ろされるのが早いか、あたしが銃を引き抜き引金を絞るのが早いか。指はまだ銃に届かない。動きの意味を悟られたらあたしの命は無い。

春紀「なあ東、あんたは誰に依頼された?」

訝しむ様な目であたしを見下ろす。諦め切ったあたしが戦意喪失したと見たのかも知れない。兎角は乗ってきた。あたしは目線を兎角に固定したまま、起き上がろうとする振りをして微妙に体の位置をズラす。

兎角「言う訳ないだろ、そんなこと」

春紀「もしミョウジョウ絡みの所から請け負ったなら…。あたしもミョウジョウからの依頼で動いてたんだ。妙だと思わねーか?」

兎角「それがどうした」

春紀「あたしも伊介様も踊らさせられて捨てられた。あんたも踊らされてるんじゃないのか?晴ちゃんのことを思うなら手を引け、東」

兎角の顔に少しだけ影が過ぎ、その隙にあたしは手をUSPの銃把に掛ける。

兎角「悪いが聞けない。一ノ瀬のためにも私は任務を遂行する」

――悪いな兎角。伊介様の仇だ。

春紀「そうかよ!」

言うが早いかあたしは手にした拳銃を引き抜いた。が、兎角の反応は驚くほど速かった。あたしの動きからその意味する所に気付いたのだろう。猛然とナイフが振り下ろされる。速すぎる…これでは間に合わない。あたしは氏を直感した。

115: 2014/06/30(月) 22:32:47.59
銃声が轟いた。だがあたしが撃ったのではない。

伊介「ナイフを捨てなさい、東さん。言う事を聞かないと頃しちゃうわよ❤」

――伊介様!!

兎角に銃を向けたまま起き上がり、あたしは伊介様の下に駆け寄る。

春紀「伊介様!伊介様!伊介様ぁああ!」

壁を背に座り込んだ姿勢の伊介様を抱き締めて、生きていることを実感する。ボロボロと止めどなく涙が溢れた。そんなあたしを優しく抱き返しながら、伊介様は「ちょっと春紀、まだ戦闘中よ?照準の邪魔だって」と困ったように言った。

伊介「それよりも春紀、ちょっとこれ外してくれない?息が出来ないのよ」

見ると、伊介様のパジャマの襟首から服の型紙のような物が飛び出して、伊介様の喉元を圧迫していた。半脱げ状態になった防弾着だ。
伊介様のパジャマを脱がし、ベロクロを引き千切るようにして防弾着を外した。

伊介「ふぅ、助かったわ」

春紀「伊介様…」ギュッ

伊介「撃たれる瞬間に腹筋を固めていたから助かったようなものね…」

春紀「そんなこと鋼鉄の腹筋でも無理だよ!ていうか伊介様、血が…」

伊介「?これは返り血が付いてるだけよ」

…そうか。あの時、伊介様はあたしにタクティカル・ベストやジャケットを着せる為に襲撃者を脱がせていたが、その下の防弾着を狙撃位置に向かう途中で奪ったのだ。この手のボディーアーマーは服の下に付けないと効果が低減すると聞く。あたしが林に潜るまで時間があったが、その隙に思いつきのようにパジャマの下にそれを着込んだ訳だ。

119: 2014/07/01(火) 21:15:31.86
伊介「投降しなさい。それともまだ戦う気?」

兎角「お前たちを見ていたら戦う気は失せたよ」

そう言って兎角はやる気が失せたように両手を挙げた。それを見て伊介様は銃を下ろす。

伊介「今夜は本当に千客万来ね。しかも起きている事もそのタイミングもしっちゃかめっちゃか」

でも、と伊介様は続けた。

伊介「この状況で、しかもこのタイミングであんたが現れたことで何が起きているのかは大体分かったわ。あんたの雇い主はミョウジョウだけど走り鳰じゃない。そうよね?」

兎角「…さあな。いや、いまさら隠す意味もないか」

伊介「ふうん…いいわ。見逃してあげる。立ち去りなさい」

あたし一人が話に取り残される中、気付けば兎角は背を向けて部屋から出る所だった。あたしはその背中に待てよと声を掛けた。

春紀「なあ、東。あたしが言えた義理じゃねーが、お前、どうしてミョウジョウの走狗なんてやってるんだ」

兎角「晴…一ノ瀬の為だ。私が暗殺を請け負えば一ノ瀬の身の安全は鉄壁になる。そういう約束なんだ」

春紀「晴ちゃんのことを思うんなら、東、暗殺業なんてやめろ!」

兎角「一ノ瀬を思えばこそだ。私が犠牲になって護れるならそうするしかないだろ」

春紀「お前は分かってないッ!」

――東兎角は丸っきり昨日までの自分だった。同属嫌悪からか自己否定か…それこそあたしにそれを言う“資格”など無かったが、言葉が口を衝いて出てしまう。

120: 2014/07/01(火) 23:19:39.44
あたしが敗北したあの時の一ノ瀬と兎角の在り方はどこか奇妙で、そして何よりも美しかった。この二人にはハッピー・エンドこそが相応しいと、そう確信したのだ。それがこんなことであっていい筈が無い。

兎角はまだ、向けられた笑顔を受け取る資格が無いと感じる辛さをきっと知らない。「誰かのため」の自己犠牲がいずれもたらす破滅的な自己矛盾もきっと知らない。

最も大切な人たちの犠牲でやっと生きながらえることのできた一ノ瀬が、長い辛苦の果てにようやく日の明かりの下に出た一ノ瀬が、なおも愛する人を犠牲して生きていくストーリーなんて、あんまりじゃないか。

――自分の笑顔がお前を苦しめるようになったときに、晴ちゃんがどう思うのかを考えたことがあんのか!

自己犠牲とは結局のところ、自分の価値観を完全に相手に依存する在り方でしかない。人はそんな歪な形で精神を融合させて生きていくことなんて出来やしない。

――そんなことじゃあ、いつかどこかですれ違って言葉まで通じなくなる。そんなバッド・エンドはあたしが許さねーぞ!

あなたの為と破滅的に自己犠牲される・・・一見、一ノ瀬が兎角に依存しているように見えても、実際に依存しているのは兎角の方だ。それは根底の価値観までもを、生きる目的までもを依存する在り方だ。そんな重荷は人が背負いきれるものではない。

――生きる理由を相手に恃むな!生きる言い訳に人を使うな!人をそんな補助輪みたいに使ってんじゃねえ!

――お前らは二人一緒に幸せにならなきゃいけないんだ!自分一人で格好つけんな!

恥も外聞も捨てて、あたしにそれを言う資格が無いなんて意識も捨てて、あたしは青くさい言葉を吐き続けた。羞恥を超えた先に伝えなければならないことがあるんだ。だって、

――お前は晴ちゃんのことを愛してるんだろうがッ!

――あ?頃しの血統?知るかそんなもん!プライマー?そんなもん疑似科学だと思っとけ!

だって兎角・・・。吊り橋効果が何だろうが、ロミオとジュリエットが大バカ野郎共だろうが――誰がなんと言おうと、人を好きだって思うその気持ちは本物じゃねーかよ。

われ思うゆえに・・・ってのはそういうことじゃねーのか?真か偽かの区別無く、語りえない何かってのはそういうことなんじゃねーのかよ。

124: 2014/07/02(水) 21:16:59.11
言いたい事を言いたいだけぶちまけてあたしは荒い息を吐いた。何もかも、何処まで行っても自分自身に向けられた言葉でしか無い。とんだブーメランもあったものだ。
自覚すると羞恥に頬が染まるのを感じた。もしかすると戦闘中より心拍数が上がってないか、これ。

恐る恐る伊介様を振り返ると「きゃっ」みたいな感じで両手で顔を隠すジェスチャーをして、小声で「恥じゅかし~い」とからかってきた。うるせー。その台詞が一番恥ずかしいわ。

あたしの言葉に少し驚いたように立ち止っていた兎角は、背中越しに「覚えておくよ」と一言残し、風に舞うカーテンに溶け込むようにして去って行った。

125: 2014/07/02(水) 21:35:45.66
コテージには再び二人だけとなった。伊介様の腕を取って立たせる。

伊介「あなたも言うようになったじゃないの」

春紀「そうじゃない。自分を見ているようで抑制が利かなくなっちまっただけだ」

伊介「ふふ❤ まあ、昨夜のあれがちょっとは活きているみたいで安心したわ」

・・・・・・

春紀「ところで血染めのパジャマで盗難車に乗ってるとか、捕まったら最後だな。出る前に着替えないと」

伊介「新しいパジャマに?」

春紀「違うよ!パジャマと一緒にレディースのYシャツとかスラックスも仕舞ってあったろ?」

126: 2014/07/02(水) 21:37:10.32
そんなこんなであたしたちはコテージを後にした。雨露に濡れたクローバー畑を踏みしめ、車のある方へ下る。いつの間にか雨は止み、雲の切れ目から午前五時の群青が覗いていた。夜が明けようとしている。

義務的に車を変えつつあたしの家まで送って貰う途上でも、あたしと伊介様は他愛ない話に花を咲かせ、しんみりと言葉を交わし、時に顔を見合わせて笑いあった。危機一髪の幸運を祝福し合うように、あるいはただ別れを惜しむように、もしかしたら互いの気持ちを確かめ合うように。

いつまでも家に着かないといいな、と思っている時ほど時間はあっという間に過ぎてしまう。アパート前の路肩で停車してからも露骨にあたしが降りようとしないのを見て、伊介様は窘めるようにあたしの名を呼び、仕舞いには諦めたようにエンジンを止めてしまった。結局、二人して車を降り、あたしは伊介様に引っ張られるようにアパートの前に連れていかれた。

127: 2014/07/02(水) 21:39:47.28
いつまでも伊介様と一緒にいたい。名残惜しさにもじもじとしていると伊介様の口から予想外の台詞が飛んできた。

伊介「ここって空き部屋はあるかしら?」

春紀「え?」

伊介「考えてみたら、いつまた襲われてもおかしくはないわよね?ほとぼりが冷めるまで伊介が警護してあげるわ❤ 感謝しなさい」

春紀「!」

伊介「それに朝帰りのいい訳も必要でしょ?そういうハッタリは得意なのよ。ほら早く連れて行きなさいよ」

春紀「うん!」

きっとあたしは破顔していたことだろう。倒れてしまいそうなほど嬉しくて、発火しそうなほど熱くて、何だか伊介様の顔を直視できなかった。

あたしの部屋の前まで来た所で、隣室が空き部屋であることに気付いた伊介様は「夜はここに泊るわ」とバッグをごそごそと探りだした。
武等派といってもこの稼業、ピッキングくらい出来ても不思議はない。カードキー全盛の今でも覚えておけば何かと役立つだろうし、芸風は古いが昔のスパイ映画みたいで格好いい。そう思って振り向くと伊介様の手にはハンマーが握られていた。振り下ろす先は隣室のドアノブ。
「えい、えい、えい、えい」
打った打った打った打った。
壊れた。

スパイ映画とか買い被りもいい所だった。ていうか、ここに来てどこぞの探偵のパクリだった。

――まあ、そんな訳で、楽しい日々はもう少しだけ続きそうだった。

128: 2014/07/02(水) 21:41:37.42
そうして今度こそあたしは暗殺稼業から足を洗うこととなった。

あの後あたしは鳰に番号を知られた携帯の契約を切り、別の会社の数世代前の携帯に変えたのだが、それでもどうやって突きとめたのか鳰は再びあたしに連絡を寄越して来た。そのこと自体には腹が立ったが、逆に言えばGPS逆探が出来た筈なのに遂に襲撃が無かったということが、鳰にあたしを頃す気が無い事の証明でもあった。

真偽はともかく、そうして初めてあたしと伊介様は事の全容を鳰自身の口から聞くこととなり――果たしてそれはあの日帰って来た後で伊介様があたしに説明した仮説と殆ど一致していた。

・・・・・・・・・
今回、あたしと伊介様、東兎角が巻き込まれた一連の出来事は、ミョウジョウ・グループの内部抗争に近い形での造反者とそのシンパの一斉摘発に端を発していた。簡単に言ってしまえば反主流派の粛清が行われていた訳だが、実際の所はそれほど単純な話では無い。

鳰たちは、随分と前からグループ内に潜む造反者たちが着々とシンパを増やしつつあるという情報を得ていたが、誰が味方で誰が敵なのか分からない上に、身内に造反者側のスパイが紛れ込んでいる可能性が濃厚であることから、大っぴらな行動を取ることが出来ずにいた。うかつに行動すれば手の内を敵に読まれ、検挙出来るのは尻尾切りされた下っ端だけだからだ。敵を一気に叩く為には、知り得た情報を秘匿し、更なる情報を集めねばならない。そしてその企てはほぼ成功した。

129: 2014/07/02(水) 21:46:03.38
鳰はミョウジョウ学園理事長と共に、ほぼ二人だけで組織内の内偵を進め、数十人をクロだと断定。その時点で勝負を仕掛けた。あの日、鳰はその数十人全てに第一義的には情報を吐かせる目的で、同時多発的に暗殺者を放った。だが、真の目的は放った暗殺者をルアーにして、更なる情報を収集することにあった。

鳰たちは敢えて絶妙のタイミングで自らが一斉摘発に乗り出したことと、誰の下に暗殺者を放ったのかを身内に発表。組織内の動向を精察した。
案の定、情報の漏洩を防ぐ為に独断で暗殺者を動かす者が現れ、そういった者たちは次々に検挙され、さらなる情報の提供元となった。

ミョウジョウ・グループの内紛と関わりのない暗殺者、しかも素性の割れた自由に操れる駒。あたしはその条件に合致していた。

鳰たちが放った暗殺者の一人があたしであり、組織内の暗殺者を勝手に動かした例が兎角、息のかかった配下の部隊を使った例があの襲撃者たち。そして組織外に流した暗殺依頼の一つは、ブローカーを流れて犬飼ファミリーの下にも届いたという訳だ。

結局のところ、伊介様の心配に反してホテルには監視も盗聴も付いてはいなかったようだが、伊介様のフォードには別の暗殺者が盗聴装置等を仕掛けていた。それによって伊介様が依頼主を裏切ってあたしを助けたことが露見。伊介様もまた暗殺対象とされてしまったのだった。

130: 2014/07/02(水) 21:48:17.19
これは更に後から分かった事だが、セーフハウスの位置が割れたのは、海に突き落とされたメルセデスの持ち主が「若い女性二人連れ」という情報を警察に通報したことが原因だった。警察の内部情報はミョウジョウ・グループには筒抜けであり、血眼になって口封じに乗り出していた者たちはそれがあたしたちである可能性に目を付け、メーカーにハッキングを仕掛けた。結果、メルセデスに取り付けられていたGPSが逆探され、伊介様のセーフハウスは劇的リフォームの餌食になった…ということだった。

そんな彼らも、襲撃者の一人をあたしがワイヤーで倒した際、実は殺さずに気絶させただけだったことが致命傷となった。彼が情報を吐いたことで、鳰たちに新たな情報源を与える結果になってしまったのだ。

結局のところ、あたしも伊介様も兎角も、最初から最後まで鳰の手の平の上で遊ばされていたってことだ。悔しい事に。

思えば「何でも願い事を一つ」なんて、冬香に教えられたファウストとメフィストの物語そのまんまじゃないか。望みの対価に悪魔は魂を奪っていく。ミョウジョウ学園に素性が割れた時点で、いいように使われることは目に見えていたのかも知れない。まあ、それもこれで仕舞いだ。

131: 2014/07/02(水) 21:51:44.35
ちなみに、鳰は事後報告みたいなテンションで通話してきたのだが、あたしも伊介様も怒りのあまり反応が変なテンションになってしまっていた。通話の一部を抜粋するとこんな感じだ――

――『上出来っす。いやいや、本当に感心してるんスよ?連中にも、お二人が倒してくれた私兵にも、手を焼いてましたからね。感謝の意を込めてお二人に心ばかりのプレゼントを振り込んで置きました。あとで口座を確認してください。今後ともお付き合いお願いするっスよ』
――「ふざけんな、二度と関わって来るな。氏ねばーかばーか」

――「よくも人をスクリーンに使ってくれやがったな」
――『気付かない春紀さんが未熟なんスよ』
――「手前コノヤロウ、ポカリ注射するぞ!」

また、東兎角の殊遇が気掛かりだったが、最悪の事態は防げたようだ。

――「東兎角はどうするつもりだ?偽の指令で踊らされていた東もパージの対象なのか?」
――『まさか。兎角さんはミョウジョウ後継者候補の優秀なボディ・ガードですからね。その意思のない一ノ瀬晴をわれわれの側に結びつけて置くための重要なカードです』
――「そんなことより伊介のセーフハウス、弁償してくれるんでしょうね?」

――「じゃあ、あたしたちと東以外の黒組生徒は関わりになってないんだな」
――『ウチが除外されてる気がするんスけど…まあそうっス。春紀さん、兎角さん、それから偶然巻き込まれた伊介さんの三人だけっスよ。クラスメート思いなんスね』

――「あたしたちを狙ってたヤツは全員検挙されたのか?」
――『ええ。まあ検挙つっても、その内実は凄惨な大粛清っスけどね』
――「所詮血塗られた道か…」
――『その台詞は理事長が言わないと意味無いっス』

135: 2014/07/03(木) 21:32:50.45
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

それから数日後、あたしは伊介様に呼ばれて犬飼邸にお邪魔することとなった。

伊介様の家は都市部を見下ろす切り立った傾斜地に立てられた、半ピロティ構造の洒落た建物だった。立地だけで言えば『耳をすませば』に登場するバイオリン少年の工房みたいな感じだ。

その日、うっかりバス車内に傘を忘れてきてしまったあたしは、突然降りだしたの雨の中、髪と肩を濡らしながらその家に辿りついた。伊介様に迎え入れられ、「ママ」よと美麗な男性を紹介される。それが、初めてお目に掛る伊介様の育ての親、犬飼恵介だった。

「君が寒河江春紀くんだね?話は聞いているよ」「娘の命を救ってくれたんだってね。私は君に幾ら感謝しても、し足りない。本当にありがとう」そう言って彼はあたしに堅く握手をした。今日は“仕事”があるらしい。また今度正式に招待するよと彼は家から出ていった。

伊介「じゃあね、いってらっしゃい!ママ」

春紀「カッコいい人だね」

伊介「でしょう?惚れちゃダメよ❤」

春紀「そういう意味じゃねーよ」

伊介「それを言うなら春紀の妹さんたちも可愛かったけどね❤」

春紀「取って食っちゃダメだぞ」

伊介「何よその対応の差は」

136: 2014/07/03(木) 21:35:20.68
伊介様はバスタオルを取ってソファに腰掛けると、所在なさげに立ったままだったあたしを呼び寄せ、濡れた髪を拭いてくれた。

春紀「何かこれ、あたしが小さい子みたい」

伊介「ていうか濡れた犬かしら?」

春紀「犬じゃねーよ」

伊介「ちょっと、水が飛び散るじゃないの。そういう所が犬ね❤」

春紀「待遇の改善を要求する」

伊介「じゃあ王に跪く従者かしら?」

春紀「髪の毛拭かせてるあたしは何者なんだって話だけどな」

伊介「で、何であんたは濡れた犬みたいになってるのよ?」

春紀「犬はもういいんだよ!いやさ、バスの中に傘忘れて来ちゃって」

伊介「そう。てっきり気合入れ過ぎてシャワー浴びてきたのかと思った❤」

春紀「どんな神経してれば乾かさずに家を出られるんだよ!?」

伊介「『まあいっか、自然乾燥に任せれば』って感じで…」

春紀「髪の毛ずぶ濡れの女がバスに入ってきたらホラーだよ」

伊介「で、髪の毛を乾かそうとしてスプリンクラーみたいに水を跳ね飛ばすのよ」

春紀「バスの中で?あたしの飼い主は何やってんだ…ってそれはもういいからさ」

137: 2014/07/03(木) 21:36:48.77
・・・・・・

春紀「何か伊介様の家って落ち着く」

伊介「そう?」

生活感の無かったあのセーフハウスと違って、ここは何だか暮らしている人間の内面を伺えるような、楽しげな感じが漂っていた。絵が飾ってあるし、小物も多い。ただのインテリアなのか趣味で遊ぶのか、本棚にはチェスセットが置かれている。

内装に見とれているあたしの顔を前に向かせ、「ここ、春紀の家に意外と近くてびっくりしたでしょ?」とごしごしと髪を拭く。

またぞろ軽口を叩いたら髪をぐちゃぐちゃにされた。

春紀「やめてくれー」

上目遣いで伊介様を見上げると、目が合った。あたしの顔に変なものが付いているかのようにじーっと見つめられる。

伊介「ふふ❤」

春紀「何だよ」

伊介「春紀…。元暗殺者らしくもないわね。隙だらけよ?初めて会ったときは伊介の利き手を取れるほど切れ味があったのに、もう無理ね❤」

春紀「かもな」

伊介「ホント、隙だらけ。他の人の前でこんな風にはならないことね」

春紀「…こうなるのは伊介様の前だけだよ」///

伊介「勝った!」

春紀「そのしたり顔やめろ!そういう場面じゃなかっただろ!」

伊介「あら?どんな場面だったのかしら」

春紀「…伊介様の勝ちでいいよもう」

138: 2014/07/03(木) 21:44:23.26
…そんな風に、恥ずかしいのを誤魔化すようにしながらあたしたちは心の距離を一歩ずつ縮める。こうして恋する気持ちを隠そうとしたって、視線の熱さでどのみち伝わってしまうと言うのに。

あたしが伊介様を思うのと同じように伊介様もあたしのことを思ってくれているのだと、そう思えて無性に嬉しい。あたしは単純に絆されて、蕩けさせられてしまう。

タオルの上から伊介様に頬を撫でられ、ただそれだけで頬が熱くなるのを感じた。その仕草の問い掛けに応えるように、あたしも伊介様の頬に手を伸ばした。あたしたちは暫く互いを見つめ合う。そして、どちらからしたのかも曖昧なほどの、一瞬触れ合うだけのキス。

初めてのキスの味は…緊張し過ぎて何も覚えてない。だから、

春紀「もう一回…」

伊介様からしてくれた。はむ。やわらかい唇があたしを挟むように、飽くまで優しく。

顔を離した伊介様に、潤んだ目で見つめられる。
可愛くて思わずあたしは伊介様を抱き寄せるようにして、耳元で呟く。

春紀「好きだよ。伊介様」

伊介「春紀ぃ…。春紀、好きよ」

いつものペルソナは何処へやら、しっとりした声で甘えられる。

そんな伊介様に、心の中の深い部分が優しく包まれて、絡め取られる。

――捨てられないものが増えたって、それもまた悪くない。そうだろう、伊介様?

《 Bohemian Rhapsody 》 is HAPPY END! Congratulations!!

139: 2014/07/03(木) 21:47:36.85
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

同時刻 ミョウジョウ学園 本校舎タワー1908教室

百合目一理事長「一ノ瀬晴。あなたは黒組ゲーム勝利者として何を望むの?」

晴「わたしは、わたしの願いは、兎角さんとわたしへのミョウジョウ学園からの一切の干渉を止めて貰うことです。今回みたいに兎角さんが危険にさらされるのはもう厭です」

目一「つまりは彼女に私兵やアサシンの役割を強要することを止めろという訳ね。いいでしょう」

晴「私を枷に言うことを聞かせることもです。私の為に兎角さんがミョウジョウに使われるのはもう嫌なんです」

目一「分かっているわ、一ノ瀬さん。私は勝利者には敬意を以って処します。言葉の裏をかいて約束を反故にしたりはしません。われわれは東兎角に今後一切、裏稼業の指令も強要もしない。一ノ瀬さんの命を脅かすようなこともしないし、それを以って東兎角が動かざるを得ない状況を積極的に作ることもしない。それでいいのね?」

晴「はい」

目一「そして東兎角さん、そういえばあなたの願いをまだ聞いてなかったわね。一ノ瀬晴が延命したことで曖昧になっていたけれど、私はいま内部抗争が片付いたことで気分がいいわ。あなたもまた勝利者として認め、願いを聞いてあげましょう」

兎角「私の願いは決まっている」

兎角は晴を抱き寄せて、二人が出会ってからの全ての出来事に対して勝利を宣言するように願いを口にする。

兎角「お前たち一族の全権力を以って、この国での同性婚を認めさせろ。それが私の、いや晴と私の願いだ」

目一「オホホ、あははははは。そう来るとは思わなかったわ。いいでしょう、分かりました。あなたの願いの成就は私が望む所でもあります。すぐにでも手を打ちましょう。数年以内にあなたの願いは叶うと約束します」

兎角「それから、これは黒組とは関係のないことだが――」

晴「百合さん、いくら百合鑑賞が好きだからって、外しても外しても毎晩わたしたちのアパートに盗聴器とカメラを仕掛けるのは止めて貰えませんか?」

鳰「(…趣味でやってたんスか?…)」∵

目一「(…私の趣味がバレた…)」∵

140: 2014/07/03(木) 22:48:51.58
EPILOGUE

・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・


数日前 犬飼伊介のセーフハウス襲撃から数時間後 ミョウジョウ・グループ系 某施設
・・・・・・・・・

走り鳰が最上階モニター室に侵入を果たした時、この状況下で暗殺者が来訪する意味は明らかであるというのにその男は正しく現状認識が出来ていないようだった。部屋中央の回転椅子から彼女の姿を目視してなお、「見張りは何をやっているんだ」などと彼は場違いな台詞を口にした。

――「そうか…百合目一の遣いか。しかしなぜ君なんだ?」

鳰「ウチって意外と自分の足で情報を稼ぐタイプなんスよ」

男を中心に円を描くように、走り鳰はコツコツと足音を立て部屋を歩く。床に刻まれたミョウジョウ・グループの八角形の意匠を独特の歩調で踏みしめる。

――「…目一を裏切れ。私についた方が得策だ。君がこうした所で利益が無い事くらいは承知だろう。君にこんなことをするインセンティブは存在しない…」

鳰「ゲーム理論スか?懐かしいっスね」

――「私と君の持ちうる情報を合わせれば、今からでもミョウジョウの頂点に立てる。そうは思わんか。情報の世界で王者となることの意味を考えてみたまえ」

鳰「さながらロスチャイルド一族っスか」

――「あんな野蛮人の利権集団と一緒にしないで欲しいね。これは株価操作や政治力、利権といった類の話に留まらない…。金にならない教育にまで一族が熱心に手を伸ばしてきた真の理由は何か。それはわれわれが既存の価値観のスケールを超越する者だからだ。新たな価値の創造。その礎として子供たちを啓蒙するのだよ」

141: 2014/07/03(木) 22:51:14.92
走り鳰は何も応えなかった。彼女はただ無言でつい、と指を降ろす。ただそれだけの動作が、モニター前に座する彼の全身を金縛りにかけた。

気付かれぬように仕掛けてきた暗示の最後の仕上げは、対象に指一本触れずに発動する。西の葛葉の秘術の真骨頂だった。全身が硬直した男は椅子からずるりと転げ落ち、硬い床にしたたかに身を打ち付ける。

――「くそっ…。百合目一に付いていても、あの女が君に権力を譲り渡すことはあり得ん。君にとっての利益を考えたらどうだ。理解しかねるね」

鳰「それはね、あなたが百合目一理事長ではないからっスよ。ただそれだけのことです。ウチが理事長を裏切るわけがないじゃないっスか。経済理論なんかで人間の心が分かると思ってるから失敗するんスよ…。出会ったばかりの人間同士が互いの為に命を懸けることだってあり得る。石油王になるよりも、暖炉の傍で推理小説を読むことを望む…それが人間ってやつです。愚かしくも愛らしく、ね。富や権力よりも忠誠を取る…ウチはそういう人間っスよ」

それにね、と走り鳰は胸中で呟く。百合目一理事長の隣にいる者にだけ分かる愉悦をウチは知ってしまったから、と。世界を逸脱した欠陥者らがもがき苦しみ、幸せなゴールを目指してデッド・エンドに嵌る様子を眺める愉悦をお前は知らないだろう、と。

――「…何故だ?君なら理解できた筈だ。情報の世界のトップに立つ、この全能の愉悦を。世界を統べる快感を!」

鳰「…続きは自白剤を打ってからゆっくり聞いてあげるっスよ」

そしてもう一度指を振り下ろすと、指一本触れられていないにも関わらず男は完全に意識を刈り取られた。まだ頃しはしない。これから完全勝利の為の最後のピースとなる情報を吐いてもらわねば。



《 Triple-booked Contracts 》 is the END...

142: 2014/07/03(木) 22:51:58.83

これにて完結です。

読んでくれた方&コメントしてくれた方、ありがとう!
書いてて楽しかったです。

引用元: 春紀「トリプルブッキング」