1: 2017/03/25(土) 14:57:37.90
太陽は今日も元気いっぱいだった。
ちょっとは休んでもいいんだよ、って半分本気で念じてみる。
見上げた空にいっとう眩しく浮かぶ彼は、涼しい顔で燃えていた。
……なかなか器用なやつだ。
生まれ育った街だろうと何だろうと、東京の夏は氏ぬほど暑い。
慣れっこなんてない。むしろ年々酷くなってる気さえしてくる。
「はぁ……」
零した溜息まで何となく熱っぽい。
ぼんやりとハナコの姿を思い出して、今度トリミングしてあげようと決意した。
スカートが脚へ張り付く。ブラウスがお腹へ張り付く。
一刻も早く空調の効いた事務所へ辿り着きたくて、でも急ぐと余計に暑い。
急ぐと暑い。急がなくとも暑い。そっか、これが地獄か。
結局、茹だり出した頭は『事務所が来い』という結論を導き出した。
その時にはもう、事務所は目の前だった。
https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1490421457/
2: 2017/03/25(土) 15:05:41.65
「あれ、珍しいね。一雨くるかな」
「来てくれた方がいいよ。涼しくなるし」
「おーい加蓮。ガムシロ……お、凛も来たのか。アイスコーヒー要るか?」
「お願いシンデレラ……」
「皮肉かよ。へいへい」
そっか、ここが天国か。
足を踏み入れた途端、全身を爽やかな冷気が駆け抜けていく。
自然と深くなった呼吸に身を任せて、鞄を適当にソファへ放った。
腰掛けたはいいけど、ブラウスがぴたりと肌へ張り付いてちょっと気持ち悪い。
プロデューサーと会う前に着替えなくちゃね。もうレッスンの準備しよっかな。
「今年度に入って初観測だね、結い凛」
「去年の夏は計2回だけだったよな。ほい」
「ありがと。というかなに二人して観測してるの」
奈緒から手渡されたグラスに両手を添える。
差したストローを咥えると、擦れ合う氷がからりと鳴った。
そして喉元を存分に冷やし、ようやく私も一息。
3: 2017/03/25(土) 15:35:56.47
「そんなに面白いもんでもないでしょ」
「いや、割と面白いよ」
「凛もさ、もーちょい髪型いじったら? ほら、今ならポニー結えばお揃いだよ」
「奈緒も結ぶんならね」
「あたしが言うのも何だけどさぁ、すごい事になるぞ」
エアコンの操作パネルと向かい合う。
すぐ脇には『大切にね』とちひろさんのメモ用紙が貼られていた。
どうして『電気を』が抜けてるのか考えないようにしつつ、諦めてソファに座り直す。
「流石に今日の暑さじゃ意地も張れないよ」
「意地?」
「……別に、何でも」
「……ふーん? 意地、ねぇ?」
結い上げた頭を触りながら目を逸らす。
視界の端にニヤけた加蓮。加蓮め。
「ねぇ凛。それ、誰の為に張ってる意地?」
「じゃあミーティング始めようか」
「横暴なリーダーにはついていかないぞー」
「そうだそうだー。もっと言ってやれ奈緒ー」
奈緒まで調子づいてきた。
後で目にものをみせてやろう。うん。
4: 2017/03/25(土) 16:02:10.23
「とまぁ冗談はともかく。確かに珍しいよな。凛が髪纏めてるの」
「っひゃんっ」
5: 2017/03/25(土) 16:30:32.23
エアコンの駆動音がよく聞こえた。
どこからか漏れた犬の悲鳴めいた声が、静かに静かに溶けて消える。
気付くと私は両手で口を覆っていて。
「…………凛?」
「…………どうかした?」
「いや、どうかしたじゃなくて……ひゃんって」
「何の話? 変な奈緒」
まぁ、奈緒はこれでいい。
私の背中をつついた件は後で審問に掛けるとして、うん。
問題は。
「…………♪」
……目を爛々と輝かせ始めたコイツだ。
6: 2017/03/25(土) 16:30:58.84
” 渋谷凛は背中が弱い ”
7: 2017/03/25(土) 16:31:55.64
― = ― ≡ ― = ―
「……ん? あー……これマスター盤じゃ」
「プロっ、助け、プロデューサーっ!!」
「ぅおわぁぁっ!? え、なに、何だよ!?」
「凛ーっ! 往生際が悪ーいっ!」
「おーいかれーん……あ、Pさんもう来てたのか」
命からがら逃げ込んだレッスンルームには見慣れた姿。
慌てて隠れた背中の前に、獰猛な猟犬と化した加蓮が立ちはだかっている。
「はぁっ、はぁ……やっちゃって、プロデューサー……!」
「すまん、意味が分からん」
「ねね、PさんPさん♪」
「ん?」
「あー……凛の背中が弱いって話だよ」
「はっ?」
「こら奈緒っ! あれバラすよっ!?」
「どれだよ!?」
「池袋のとらナントカで――」
「やめろ!!」
「とりあえず全員落ち着け」
8: 2017/03/25(土) 16:51:13.28
荒く息を繰り返す三人の間で、プロデューサーがどう、どうと手を掲げる。
犬じゃないってば。
「つまり纏めるとだな、凛の背中が弱くて?」
「つっつくと楽しいの♪」
「なるほど。っはは、あの凛がなー」
「つねるよ」
「たたたたた抓ってるつねってるたた脇腹はったたた」
スーツ越しにお腹のお肉をつまんでやる。
……ん。ちょっと太った?
ダメだよ、プロデューサーはスマートでいてくれないと。
「とりいっあえずな」
「うん」
「早めに集まったんだいっしレッスンしないか」
「……はーい」
「やれやれ」
「おい凛いっ長い長いもういいだろいっ」
とりあえず、奈緒のアレは後でバラすとしよう。
9: 2017/03/25(土) 17:05:36.59
― = ― ≡ ― = ―
ネットワークっていうのは恐ろしいもので。
『渋谷凛は背中が弱い』なる怪文書は半日と経たずにプロダクション中へ知れ渡って。
おのれ加蓮。
でも奈緒のアレも一緒に流してたからちょっとだけ許そう。うん。
「……」
「なので、竜胆の……凛さん?」
いや、私だけが特段弱いワケじゃない筈だ。
普段は自分も他人も触らない以上、ロングの娘なら誰だって弱い筈だ。
試しに奈緒をつっつきまくっても駄目だったけど。あんなにモジャモジャなのに。
ズルい。いやアレは例外だ。普段からワサワサしてるから鍛えられたに違いない。
その筈なのに。
「えぇと、もしかして……例の、それ……ですか?」
幾ら背中を指でつついても、肇は特にどうともならない。
どうして。肇も一緒にきゃって言おうよ。言わなきゃ嘘だよ。
レッスン後のジャージ越しにつつく肇の背は若干あったかいだけだった。
「……肇」
「は、はい」
「普段、どんな髪型してたの? 今まで」
「髪型……は、昔からこうですが……手拭いで適当に纏めたりも」
「……あ」
10: 2017/03/25(土) 17:22:54.54
なるほど。
ろくろを抱えたとき、肇の髪だと触れるかどうかの長さだ。
背の高いやつとかを捏ねる場合は縛ったりするのか。
「……はぁ。ごめんぅっ!?」
がくりと曲げた背が瞬く間に伸びる。
何が起きたか理解できなくて、すぐに理解して、じとりと横目を向けてやる。
「…………肇?」
「ご、ごめんなさい……実際に聞いてみたくて……つい」
「……ふんっ。お詫びにミルクレープ奢ったげようと思ってたのに」
「ごめんなさい……その、本当に――」
……まぁ、奈緒といい、中にはこういう人も居るんだろう、うん。
別にまだ私の背中が特別弱いと決まったワケじゃない。まだ。
次にいこう。次に。
11: 2017/03/25(土) 17:40:01.69
― = ― ≡ ― = ―
「…………」
しめた。絶好の獲物だ。
みんながみんな、何故か私の背中をつつこうとして。
お陰でここまで来るのにも随分と苦労しちゃった。
頃し屋でもないのにどうして背後へ気を配らなきゃならないのか。
おのれ加蓮……いや今はいい。
事務所の休憩スペースを伺えば、居たのは文香ただ一人。
綺麗な濡羽色を艶めかせつつ、今日も元気に読書中。
ウワサによれば読書中はなかなかこちらへ気付いてくれないらしい。
よし。ゴー。
さらっ。
「……」
そっと髪を撫でてみても、当然ながら私には気付かず。
相変わらず絹糸じみた良い触り心地だ。
でも今日の目標はこっちじゃなくて。
つん。
12: 2017/03/25(土) 18:05:36.75
「……」
……つんっ。
「…………」
つついてもつついても、文庫本のページをめくる手はどこ吹く風。
リズミカルにつついてみたり、三三七拍子でつっついてみたり。
指応えこそあっても手応えはさっぱりだった。
ブルータス、お前もか。
もう少し強めにつついてみようか考えて、やめた。
文香はけっこう好かれるタイプだから出来れば敵に回したくはない。
こわいお姉さん達に噛みつかれる趣味も無いしね。
「……駄目か」
「おはよ。凛と文香だけ?」
後は泉あたりかな、と考えたところで奏がやって来た。
軽く頷き返して、ご覧の通りと文香を指差す。
「ふふ、今日も精が出るわね……お菓子持ってきたの。二人もどう?」
「……え?」
そう言って奏が鞄から取り出したのは栞。
首を傾げていると、奏が文香のそばへ近付いていく。
開かれているページのすぐ裏へ栞をそっと差し込んだら、自分もソファーにすとん。
13: 2017/03/25(土) 18:23:07.02
「……ああ。こんにちは……凛さん、奏さん」
「……なるほど」
これが文香の『起こしかた』か。
単純だけど効果的で、しかもそんなに押し付けがましくない。ちょっと感心した。
「フレデリカからクッキーを貰ったの。文香もどう?」
「そう……ですね。ちょうど――」
覚醒した文香を眺めてる内に、ふと思い当たる。
さっきのは『寝てる』状態で背中をつっついたワケで。
なら、今こうして『起きている』ときにつっついたなら?
うん、案ずるより生むが易し。
「――っや、ぅんっ……!」
これだ。そう、これ。
流石は文香。やっぱりロングの女の子はこうじゃないと。
のんきに頷いていると、どこからかひんやりとした空気が流れてくる。
丸くなりながら震える背の向こうで、奏は穏やかに笑っていた。
あ、やば。奏もそっち側だったっけ。
14: 2017/03/25(土) 18:45:10.80
「ねぇ、凛?」
奏はいつの間にかすぐ隣に居た。
私の髪を指で梳き、ゆっくりと持ち上げる。
「綺麗なストレートね。くせっ毛の身には眩しいわ」
「……」
「私もね、伸ばしてたの。昔は」
風の噂に聞いた事がある。
いつだったか、ばっさりやってしまった、って。
だけど、長髪の彼女を見た人は誰も居ない。
「本当に、綺麗な髪」
「……そうでもないよ」
「担当さんが惚れ込むのも頷けるわ」
「……」
「ああ、ごめんね。言う順番、間違えちゃった……どうして髪、結びたがらないの?」
奏はパーソナルスペースが狭い。
鼻先は私の頬へ今にも触れそうで、吐息が夏よりも熱い。
「……奏、さん」
16: 2017/03/25(土) 19:07:45.29
「……あら。どうかした、文香?」
「私は、特に、どうともしていませんので」
「…………そ」
ちょっとだけ頬が赤いままの文香は、聞き逃しそうなくらいの声で呟く。
頷いた奏が両手を上げてソファーにもたれ掛かる。
むず痒いままの頬を撫でれば、奏も唇に指を当ててほくそ笑んだ。
まったく、厄介なお姉さんだ。
「それじゃ、ティータイムにしましょうか」
「……いえ……その前に」
すっ。
文香が一本、すらりと細い指を立てた。
思わず口元のひくついた私の肩へ、隣から伸びた手ががしりと食い込む。
有無を言わさず背を浮かされて、私は無抵抗のまま立ち上がる。
目の前の奏は、とても気持ちの良い笑顔を浮かべていた。
「グループの文面では……今一つ、伝わってこなかったもので」
「……ねぇ、文香」
「どうかしましたか、凛さん……?」
無駄と分かりながら背後へ問いかけるのも、意地の一種かもしれない。
17: 2017/03/25(土) 19:21:51.58
「……怒ってる?」
「いえ。特に、どうとも、思っていませんので」
そういえば、風の噂に聞いた事がある。
文香は――怒ると、こわい。
18: 2017/03/25(土) 20:32:01.81
― = ― ≡ ― = ―
「お疲れ」
「うん」
「はは。頃し屋じゃないんだから」
収録も終わり、プロデューサーの回してくれた車に乗り込む。
助手席のドアを開けて、後ろを確かめて、すとん。
念の為だよ、念のため。
「そろそろ下火にはなってきたけどね。加蓮も飽きたっぽいし」
「ま、ここは安全地帯だから安心してくれ。タイプライターは無いけどな」
「……何それ?」
「駄目か……奈緒には通じたんだけどな」
「……」
よし、後で調べておこう。
別に理由は無いけど、何となく。
19: 2017/03/25(土) 20:47:18.93
「まぁ、確かに安全地帯だね。ここは」
「つけ狙われるなんて一流のアイドルだな」
「引退しようかな」
「まだ超一流じゃないだろ」
いつもの帰り道で、いつもの会話。
特別な何かがある訳じゃなくて、でも大事な大事な、私だけの時間。
代わりなんて無いし、代わるつもりも無い。
「ほい到着。お疲れ様、また来週な」
「ん。ありがと」
「ああ、凛。髪に何か付いてるぞ」
「え、どこ?」
「こんなに綺麗なんだから、手入れはしっかりな」
「…………うん」
プロデューサーの方へ後ろを晒す。
久々に褒められて、思わず声が上ずっちゃいそうになった。
20: 2017/03/25(土) 20:48:20.67
「よっ」
「ひゃうっ」
21: 2017/03/25(土) 20:48:54.36
社用車のエンジン音がよく聞こえた。
どこからか漏れた犬の悲鳴めいた声が、静かに静かに溶けて消える。
ゆっくりと振り向くと、プロデューサーは伸ばした指先と私の顔を見比べていた。
視線が何度か往復して私の顔で止まる。
にこりと笑いかけてやれば、答えるように笑い返してくれる。
「いや……ほら。せっかくだし、聞き納めと言うか」
「プロデューサー」
「はい」
「ちょっと、今後について話そうか」
「はい」
ダメだよ、プロデューサー。
せっかく担当アイドルが愛らしい笑顔を見せてあげてるんだから、そんな表情はさ。
「プロデューサーとも、もう長い付き合いになるね」
「……」
「何か、言うべき事があると思わない? プロデューサー」
「…………申し訳ありませんでした」
「うん。まだ誠意が――」
22: 2017/03/25(土) 21:05:21.64
今度のオフでの荷物持ちを確約させて。
ちょうど夕飯どきだったから両親へ挨拶をさせて。
うん、まぁ、ひとまずはこれぐらいでいいかな。
アイドルとプロデューサーは、信頼関係が第一だからね。
「ほら、プロデューサー。梅肉和え、食べられるようになった?」
「……挑戦してみよう」
お互いの良いところも悪いところも。
私たちの強みも弱みも。
これからも補い合って、トップアイドルを目指すんだから。
「意外にいけるもんだな」
「ふふっ」
23: 2017/03/25(土) 21:05:57.76
――私の背中。ちゃんと預けられるくらいになってよね、プロデューサー?
24: 2017/03/25(土) 21:06:31.45
25: 2017/03/25(土) 21:09:13.80
おっつおっつ、やっぱりお前だったかw
引用元: 渋谷凛は背中が弱い
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