1: 2014/03/28(金)22:02:15
僕ら人間は神様から『ねがい』をもらうことができる。
もちろん、みんながみんな『ねがい』をもらえるわけじゃない。
ひとつの家族につき、ひとり。
多くてふたりぐらい。
うちの家族だと、最初に『ねがい』をもらったのは妹だった。
もっとも僕は彼女の具体的な『ねがい』がなんなのか知らない。
僕も神様から『ねがい』をもらった。
十九歳になる三日前のことだった。
そうして、僕は『ねがい』を使った。
幼馴染をひとり、文字通り増やしてしまったんだ。
3: 2014/03/28(金)22:06:03
いちおう言い訳させて欲しい。
こんなことになるなんて、夢にも思わなかったんだよ。
べつに『ねがい』を信じなかったわけじゃない。
ただ、こんなムチャクチャな『ねがい』が叶うなんて、予想できなかった。
そもそも神様からもらえる『ねがい』っていうのは、人それぞれバラバラらしいんだ。
『ある人の気持ちを少しだけ変える』とか。
『ほしいものをひとつだけ手に入れられる』とか。
『嫌いな食べ物を一個だけ好きになれる』とか。
僕の場合はとても曖昧な『ねがい』だった。
『人をひとりだけ復活させられる』っていう『ねがい』だった。
5: 2014/03/28(金)22:11:06
神様から『ねがい』をもらったと認識するのは、本当に唐突なんだ。
気づいたら、『ねがい』を神様からもらったと認識している。
その『ねがい』の内容まで、いつの間にか知っているんだ。
『ひとりだけ復活させられる』
おそらく、この『ねがい』は相当価値があるはずだ。
だってそうだろ?
ようは氏んでいる人間を生き返らせることができるんだから。
だけど僕にとっては、なんの価値もない『ねがい』だった。
もちろん会いたい人はいたよ。
でも、氏者を生き返らせるってことに僕は強い嫌悪感を抱いていた。
6: 2014/03/28(金)22:17:52
だから僕はその『ねがい』を、このまま使わないでおこうと思った。
もらった『ねがい』は、使わなければ二十歳になるまでには消失するらしいし。
でもやっぱり、もったいないなって思った。
せっかくもらえたものだ。
使ってみたいって思うのが人情だ。
僕は少しだけ考えてみた。すぐに浮かんだ。
真夜中の冬のベランダ。
そこで僕は星を眺めながら、その『ねがい』を口にした。
群青色の空はあまりに透き通っていて、星の輝きがいつもよりまぶしく見えた。
『オレを好きだったころの幼馴染を復活させてほしい』
言ってから自分で笑ってしまったね。
なんてバカな『ねがい』なんだろうって。
誰にも聞かれているわけもないのに、思わずキョロキョロしてしまった。
8: 2014/03/28(金)22:21:36
そのあとは何事もなかったようにベッドに入った。
『ねがい』っていうのは、効果がきちんと発揮されないと使ったことにはならないそうだ。
だから『ねがい』は叶わずに、なにごともなく終わると思った。
まどろみが訪れるころには、完全に『ねがい』のことは忘れていた。
正直神様を侮っていたんだ、僕は。
太陽の光がカーテンのすき間から入ってくる頃、僕はそのことを知った。
9: 2014/03/28(金)22:26:08
「起きてってば」
声が上からふってくる。
最初は夢でも見てるのかと思った。
布団にくるまっている僕をゆするのは幼馴染だけだったから。
布団の中に入っている状態でゆすられるというのも、一年以上経験してなかった。
僕の幼馴染について少しだけ説明する。
世話好き。
礼儀正しい。
周囲の信頼も非常に厚い。
まるで、漫画にでも出てきそうな幼馴染。
僕の人生で一番自慢できることと言ったら、彼女と幼馴染であるっていうことかも。
10: 2014/03/28(金)22:31:00
彼女と僕は幼稚園のころからの付き合いだった。
高校一年の夏頃まで、持病があった僕を両親や妹と一緒に面倒を見てくれたんだ。
面倒見がよすぎて、僕以上に僕のことに詳しかったかもしれない。
幼いころには結婚の約束こそしなかったけど……キスしたこともあった。
ほっぺにだけど。
僕の母なんかは特に彼女のことを気に入っていた。
なにかと理由をつけて僕との結婚を勧めた。
その度に顔を赤くする僕は、よく妹にからかわれたな。
そう、彼女は僕の妹ともすごく仲がよかったんだ。
近所の人たちから姉妹みたいだってよく言われてたよ。
11: 2014/03/28(金)22:34:04
でもまあ結局、僕と彼女は付き合うことさえなかった。
それどころか高校生活が終わるころには、会話そのものが珍しいものになっていた。
「なにをそんなにビックリしてるの?」
だから布団から顔を出したときは、夢でも見てるのかと思ったよ。
寝起きで状況がつかめない僕を見て、安心したように笑ったんだ。
彼女が。幼馴染のハヅキが。
「なんでハヅキがオレの部屋にいるの?」
僕がそう聞くとハヅキは困惑ぎみに、
「わたしが聞きたいよ」って眉を少し曲げてみせた。
なぜか僕の知っている彼女より少し幼く見えた。
12: 2014/03/28(金)22:38:42
ハヅキは記憶を探るように話しはじめた。
気づいたら僕の部屋にいたらしい。
それまでの記憶が曖昧で、とりあえず眠っている僕を起こすことにしたそうだ。
手振り身振りを交えて話すハヅキを見ているうちに、記憶にかかったモヤが晴れていく。
不意に僕は『ねがい』を思い出して、声をあげそうになった。
「どうしたの?」
「いや……」
途中から感じていた違和感の正体に気づいたんだ。
ハヅキが妙に幼く見えた理由もわかった。
13: 2014/03/28(金)22:43:04
僕はハヅキにことわって、その場で電話をかけた。
休日の早朝にも関わらず、電話の相手はすぐに出てくれた。
『もしもし』
「もしもし。ハヅキだよね?」
『そうだけど……こんな朝早くにどうしたの?』
電話越しに聞こえた声は、目の前で正座している女の子と同じ声だった。
目の前のハヅキが僕を見て首をかしげた。
まあ当たり前の反応だ。
僕は適当なところで彼女との会話を切って、改めてハヅキを見た。
17: 2014/03/28(金)22:47:58
どうしてハヅキが幼く見えたのか。
『オレを好きだったころの幼馴染を復活させてほしい』
神様は僕の『ねがい』を叶えてしまったんだ。
叶うと思っていなかった『ねがい』が叶ってしまった。
持病が治ったとき以来じゃないかな、ここまで混乱したのは。
「ごめんちょっと待ってて!」
僕はいったん顔を洗って状況を整理しようと思った。
ハヅキの返事も聞かずに僕は洗面所に駆けこみ、そのまま顔を洗った。
たぶんこのときの僕の感情は、本当にチグハグしたものだったんだ。
18: 2014/03/28(金)22:54:46
そもそもこの『ねがい』って、ハヅキが僕を好きじゃなかったら成立しなかったわけだ。
だから素直に嬉しかった。
僕がハヅキに向けていた気持ちを、ハヅキも僕に向けていてくれたんだから。
でも同時に、ショックなことにも気づいた。
僕の前に現れたハヅキは、今のハヅキよりも幼い。
つまり今の彼女は、僕のことを好きじゃないってことだ。
洗った顔をタオルで拭いて、鏡に映った自分の顔を確認する。
眉間にはやたらシワがよってるくせに、口もとは妙に緩んでいる。
失敗した福笑いみたいな顔が、鏡の向こうにあった。
19: 2014/03/28(金)22:59:22
顔を洗って思考がクリアになると、おのずと僕は自分が直面している問題に気づいた。
状況を飲みこめていないハヅキを連れて、僕は家を出た。
途中でハヅキがいろいろ聞いてきたけど、とにかく家を出ることを優先した。
ある意味、今日『ねがい』が叶ったのは幸運だった。
母親は夜勤で、まだ家に帰ってきてなかった。
父親はとっくに仕事に出ている。
妹は妹で、友達の家に泊まっていた。
おかげで誰にもハヅキを見られずにすんだ。
20: 2014/03/28(金)23:07:26
僕は今の状況をいちおう自分なりに把握しているつもりだった。
まずいことが起きている、と。
冬の町はあたり一面霜に覆われていた。
冬の冷気が服越しに肌をつついてくるのに、不思議なことに寒さをあまり感じなかった。
身につけていたコートが重く感じるぐらいだった。
家を出た僕は、すぐにタクシーを捕まえることに成功した。
そのまま最寄駅まで乗せてもらい、ハヅキといっしょに無人改札をくぐる。
21: 2014/03/28(金)23:11:49
「ねえ。いいかげんなにが起きてるか、説明してよ」
ハヅキの質問に対しては「オレもよくわからない」とはぐらかした。
状況を説明できるなら、僕だってすぐしていたよ。
でも、するわけにはいかなかったんだ。
『ねがい』を使った人間には、守らなければいけない約束がある。
『ねがい』を使ってからは、それの内容について話すことは禁止されているんだ。
『ねがい』について誰かに話すと。
なんらかの災いが起きると、僕らは幼いころから教えられていた。
具体的にどんなことが起こるのかは知らない。
『ねがい』を使う前なら話してもいいらしい。
だけど、それだってリスクは低くない。
23: 2014/03/28(金)23:17:52
だから『ねがい』をもらっても、秘密にする人は全然珍しくないんだ。
特に僕の場合は、ハヅキに事情を話すこと=『ねがい』の暴露だったからなおさらだった。
くたびれた駅の小さなホームには、僕とハヅキしかいない。
錆びれたベンチに座る僕らの間には、溝でもあるかのように少しだけ距離があった。
沈黙がつめたい風にかわって僕らの間をすり抜ける。
隣にいるハヅキがなにを考えているのか、まったくわからなかった。
でもそれは、ハヅキも同じだったんだろうね。
結局電車が来るまで、僕らは一度も口をきかなかった。
24: 2014/03/28(金)23:24:32
列車が甲高い音とともにゆっくりと動き出す。
二年ぐらい前までは、ハヅキと電車に乗って学校に通うのがあたり前だった。
田舎の電車でも、朝は人でいっぱいになるんだ。
僕らはつり革につかまって、小声でよく話をしてた。
女子にしてはハヅキは背が高かった。
僕は男子にしては背が低かった。加えて猫背ぎみだった。
僕とハヅキでは、彼女のほうが背が高かったんだ。
だから僕は電車に乗るたびに、密かに彼女と背比べをしてた。
大学生になるころには、まあまあ身長は伸びてたけど。
でも今の僕が、今のハヅキより背が高いのかどうかはわからない。
25: 2014/03/28(金)23:28:07
電車が大きく揺れると、となりにいるハヅキの肩と僕の肩が接触した。
そういえば、座ってふたりで並ぶのは初めてかもしれない。
そのことに気づいたときには、口が勝手に動いていた。
「はじめてだな」
「なんの話?」
ハヅキの顔が僕のほうに向いた。
会話のきっかけってホント、ささいなことなんだな。
たぶん、僕がハヅキの顔を本当に見たのは、この瞬間だったと思う。
26: 2014/03/28(金)23:30:39
一瞬自分が高校生に戻ったのかと錯覚しそうになった。
僕の隣にいるハヅキは、間違いなく高校時代の彼女だった。
人間って唖然とすると、普段出せない声が出るんだ。
喉から出た、できそこないの口笛みたいな音をごまかすために、僕は早口で言った。
「ふたりで電車に座って乗るの。なにげに初めてだよね?」
「言われてみれば、たしかにそうかもね」
「なんか不思議だな」
列車の窓から流れていく冬の景色は、実に退屈なものだった。
窓の外を過ぎていく色あせた田んぼに、アクセントのようにポツポツと佇んでいる民家が混じるだけの風景。
高校時代、外の景色をろくに見ていなかった理由がわかった気がした。
27: 2014/03/28(金)23:36:19
「ていうか景色は今はいいでしょ。それよりどこに向かってるの?」
「家だよ」
「家? 誰の?」
ハヅキが小首をかしげる。
僕はしまったと内心で舌打ちした。
僕は自分が思っているよりも、ずっと冷静じゃないらしい。
「あとで教える」と僕はまたもやはぐらかすはめになった。
再び沈黙がおとずれる。
なぜかレールの立てる規則正しい音が救いのように思えたね。
どうも僕とハヅキの間には、僕が思っている以上に距離があるらしかった。
ある意味当然と言えば、当然なんだけど。
28: 2014/03/28(金)23:43:18
二回ほど電車を乗り換えて、僕が今住んでいる町に着いた。
「なにここ……すごい田舎だね」
ハヅキが目を丸くしてあたりを見回す。
誰が見ても、ハヅキが初めてここに来たとわかる。
「オレたちが住んでるところと、そんなちがわないだろ」
「そうだけど。さすがに改札がない駅に来たのは初めて」
「開かない扉があってびっくりしてたな」
「知らなかったんだもん」
ハヅキがくちびるをとがらせる。
久々に見る彼女の姿に、僕の胸は知らず知らずのうちに高鳴っていた。
29: 2014/03/28(金)23:47:19
ホームを降りると、僕らは駐輪場へと向かった。
「乗ってよ」
「え?」
「『え?』じゃなくて」
「だって、ふたり乗りするってことでしょ? ダメだよ、そんなことしちゃ」
「だいじょうぶだよ。おまわりさんとか、全然いないし」
「そういう問題じゃないでしょ。わかってる? ふたり乗りっていうのは……」
基本的にハヅキはまじめなんだ。
学校なんかでも、規則を破ることとは無縁だった。
30: 2014/03/28(金)23:52:16
それでも僕はなんとかハヅキを説得した。
おそらく、僕がここまでハヅキに対して食い下がったのは初めてじゃないかな。
「本当はダメなんだよ? 危ないし……それに、ふたり乗りなんてできるの?」
心配げな口調。
「大丈夫だって。ほら、いくぞ」
「さっきからなんにも教えてくれないし、なんかいつもと様子がちがうし……」
そう文句を言いつつも、最後には僕の強引な頼みに折れた。
自分でも、どうしてここまでふたり乗りにこだわるのか、よくわからなかった。
「それで? どうやって乗ればいいの?」
「オレがこぎだしたら、荷台に飛び乗ればいいんだよ」
「飛び乗るの……?」
不安げに大きな瞳を揺らすハヅキを見るのは、めずらしいことじゃなかった。
むしろ、昔は日常茶飯事だったと言っていい。
31: 2014/03/28(金)23:55:20
結局荷台にハヅキを乗せた状態で、僕は自転車を発進させた。
ふたり乗りに慣れないハヅキは、僕の背中で悲鳴みたいな声をあげた。
バランスがうまくとれないらしい。
「お尻痛いし手をどこにやればいいのかわかんないっ!」
悲鳴混じりの文句が後ろから聴こえてくるのも新鮮だった。
なぜか笑いがこみあげてきた。
「手は肩にでも、腹でもどこでもいいから。とりあえずどっかつかんで!」
僕がそう言うと、ハヅキは遠慮がちに肩に手を置いた。
ペダルを勢いよくこぐ。
そうすると僕の肩をつかむ握力が強くなるので、調子に乗ってさらにこいだ。
32: 2014/03/28(金)23:58:29
それまでぎこちなかった僕らの会話は、急に弾みだした。
ハヅキが声を張りあげる。
「ほんとに二度としないからね」
「なにを?」
「ふたり乗り!」
「なんで? 楽しいじゃん」
「楽しくない!」
「どうして? 風は気持ちいいし、ハヅキは乗ってるだけだかららくだろ!?」
僕がそう叫ぶと、「ちょっと楽しいけど」と小さな声がした。
すぐに風にさらわれちゃったけど。
33: 2014/03/29(土)00:01:44
僕も彼女ほどでないにしろ、いい子だった。
ハヅキにふたり乗りをすすめておいてこう言うのもなんだけど。
周りの人たちは僕とハヅキを比べて、こんなふうに言っていた気がする。
ハヅキは『優秀ないい子』。
僕は『おバカないい子』って。
生まれたときから極端にからだが弱かった僕だけど、性格はすごい明るかったんだ。
妙に人懐こくて、ムダにおしゃべり。
誰とでもすぐ打ち解けられたし、愛想もよかった。
そのうえ、輪にかけてのんびり屋さんだったな。
だから周りのみんなは、僕のことをよく世話してくれた。
小学校高学年にあがるまでは、出席と欠席の日数がほとんど同じだったにも関わらず、
クラスに自然となじめていたのはハヅキとこの性格のおかげだと思う。
34: 2014/03/29(土)00:07:11
でも今になって思うと、その性格は幼い僕が身につけた天然の処世術だったのかも。
弱っちい僕が、自分を守るための。
敵を作らないために身につけた武器とでも言うのかな。
常にキビキビと行動して、周りを引っ張っていくタイプのハヅキとは真逆そのものだった。
仮に病気か、この性格のどちらかが欠けていたら。
僕とハヅキの関係が終わるのは、もっと早かったんじゃないかな。
中学にあがるまでは、ハヅキは僕の中で姉のような存在だった。
だけど、ずっといっしょにいるうちに。
いつしか気づいたら意識してしまう大切な人になっていた。
ハヅキに頼る僕から、ハヅキに頼られる僕になりたいとねがっていた。
だけど、高校生活が終わるころには、すっかり僕らの関係は変わってしまった。
その思いがハヅキに伝わることもなければ、伝えることもできなかったんだ。
結局、僕らはべつべつの進路を進むことになってしまった。
35: 2014/03/29(土)00:11:32
広がる田園地帯の隙間を縫うように敷かれたアスファルト。
僕らはそのうえを風といっしょに走り抜ける。
風は朝露に濡れたアスファルトと土のにおいを含んでいて、少しだけ鼻がむずむずした。
「なんか背中、大きくなった?」
ふたり乗りに慣れてきたのか、ハヅキが僕の背中を指でつついた。
「そうかもね」
「それに肩も、前よりガッシリしてる気がするし……からだ鍛えてるの?」
「ちょっとだけね!」
「へえ。すごいね!」
ハヅキが僕の変化に気づいてくれたのが、本気で嬉しかった。
ハンドルを握る手に、自然と力が入る。
36: 2014/03/29(土)00:12:20
ハヅキと自転車に乗っている。
それだけで僕には色あせた田舎の風景が輝いて見えたんだ。
ハヅキが自分の背中にしがみついているってことが、僕にとってはなにより嬉しいことだった。
頼られてるような気がするんだよ。
自転車にふたりで乗ろうと言ったのは、思いつきだったけど。
きっと僕はハヅキとこうすることを望んでたんだろうな。
47: 2014/03/29(土)21:18:13
僕が一人暮らしをするようになったのは、大学生になってから。
実家からは電車で一時間もかからない距離にあるアパート。
そんな距離で下宿する意味があるのかと問われると、うなずくのをためらってしまう。
親に「男なら一度は一人暮らしを経験しておけ」と言われてそうすることにしただけだし。
でも一時間で帰れるから、わりと高い頻度で帰ってる。
「二度とこんなことしないから」
ハヅキが自転車を降りて最初に放った一言がこれだ。
言葉ではそう言ってたけど、ハヅキとは十年以上の付き合いだ。
彼女が怒っていないことは簡単に見抜けた。
48: 2014/03/29(土)21:18:53
僕の部屋に入るとハヅキはますます困惑したようだった。
この部屋は誰の部屋なの、という疑問からから次々とハヅキは質問してきた。
なんとかそれっぽいウソの説明をこころみたけど、ハヅキは当然納得しなかった。
それでも「わかった」と言ってくれたのは助かった。
現時点では僕がハヅキの疑問に答えないと、さとったんだろうね。
それからしばらく僕は、ベランダに出てこれからどうするか考えてみることにした。
ハヅキにはとりあえず、てきとうに漫画本を読んでもらうことにした。
でも全然いいアイディアは出てこなかった。
というより、理性と感情が全然べつの方向を向いていたんだと思う。
考えることを放棄して、僕は今すぐにでもハヅキと遊びに行きたかったんだ。
50: 2014/03/29(土)21:20:14
まったくアイディアは出てこなかった。
冬の風にさらされたからだは、かわりにくしゃみをよこしてくれた。
結局十五分もしないうちに、僕は部屋に入った。
考えがまとまらない理由はもうひとつあった。
自分の部屋にハヅキがいるということ。
幼馴染とはいえ女の子を部屋に連れこんでいるんだと思うと、落ち着けない。
「わかった。わかりました」
なにも事情を話さないだけじゃなく、自分の目の前をうろうろする僕に我慢ができなくなったんだろうね。
「どこかに連れてってよ。近いところでいいから」
ハヅキはそう言うと、僕の腕をとった。
51: 2014/03/29(土)21:21:09
「どこかってどこだよ?」
「わたしに聞かないでよ。この町はわたしにとっては、未開拓地だし」
僕が望んでいたことをハヅキが言ってくれたのに、いざ言われると困ってしまう。
「この部屋にいてもなにもないでしょ。ほら」
「そうだけど。いいの?」
「なにが?」
「いや、その……」
「どうせ聞いてもなにも答えてくれないんでしょ。だったら今はいいよ」
もう一度彼女は同じことを言った。
「どこかに連れてってよ」
52: 2014/03/29(土)21:22:32
どこかに連れてって、と言われても僕の住む町には本当になにもないんだ。
あるのはのどかな田園風景。
スーパーと喫茶店。
それから個人経営のコンビニがいくつか。
大学が近いのと家賃が格安という理由で選んだ町に、時間をつぶせるような場所は存在しない。
電車で隣町にでも行くかと聞いたけど、ハヅキは散歩がしたいとだけ答えた。
理由はあえて聞かないことにした。
そんな小さなねがいなら、僕でもかなえられるしね。
最終的に僕たちは、歩いて二十分ほどで着く海に行くことにした。
53: 2014/03/29(土)21:23:37
透き通るような淡い冬の空には、めずらしく雲がなかった。
太陽の光も穏やかで、散歩には絶好の日だと思ったけど潮風は普段より強かった。
「風、強いね」
からだを縮こまらせて、ハヅキは言った。
「海が近いから風が強いんだよな」
「今ならまだ引き返せるよ」と僕が言うと、ハヅキは首をふった。
「いいよ、わたしが言い出したことだし」
ふたりで並んで歩くことに、なぜか違和感のようなものを覚えた。
久々だからかな、と思ったけどそれもちがう気がする。
54: 2014/03/29(土)21:24:46
「本当になにもないんだね」
「静かで人が少ないことぐらいしかいいところがないからな、ここ」
「わたしは好きだよ。こういうところ」
「オレもきらいじゃないよ」
海から流れてくる重く冷たい風が、ハヅキの前髪を揺らす。
「寒いのと風が強いのが難点だけど」
気が利く海風はひときわ強く吹いて、ハヅキと僕を寄り添わせた。
「でもやっぱり好き」
「やっぱり好きだ」と僕もうなずいた。
55: 2014/03/29(土)21:25:40
「背、縮んだ?」
並んで歩いていて、僕は気づいたことをハヅキに言ってみた。
「わたしが縮んだんじゃなくて、そっちが伸びたんでしょ」
「今はハヅキのほうがチビだな」
てっきりハヅキは怒るかと思ったけど、なぜか嬉しそうに「そうだね」とほほえんだ。
どうして怒らないか不思議だった。
そういえば、ハヅキはチビだった僕に昔から『牛乳を飲め』とうるさかった気がする。
僕の背が伸びたことが嬉しかったのかな。
理由はどうでもよかった。
単純な僕は、ハヅキが笑ってくれるだけで満たされるんだから。
56: 2014/03/29(土)21:27:37
「こうやって並んで歩いてるからかな」
「ん?」
「なんか違和感あるよね?」
ハヅキも僕と同じように感じていたらしい。
それだけのことで僕の胸はおどった。
自分のことながら改めて単純だと思う。
「いつも、わたしのほうが少し前を歩いてたからかな」
言われて僕は納得してしまった。
「こんなふうに肩が触れることなんて絶対になかったもん」
のんびり屋だった僕は、いつもハヅキの背中を見て歩いていたんだ。
そのことを思い出すと、少しだけ僕の歩くペースははやくなった。
57: 2014/03/29(土)21:29:07
道路から海を見おろすとハヅキが声をあげた。
「海だあ」
ふりそそぐ太陽をあびて、鈍くかがやく海が目の前に広がっていた。
「冬に見る海って少し変わってるかも」
ハヅキの言ってることは、僕にもなんとなくわかった。
冬の海は夏のそれに比べると、油を含んでいるように重たげで、波の揺れもよどんで見える。
「海に絵の具の黒を入れたみたいだね」
となりでハヅキが僕を見あげる。
ハヅキは昔から「~みたい」と微妙な喩えをすることがよくあった。
彼女がびみょうな喩えを口にするたびに、僕は首をかしげたものだった。
また懐かしさがこみあげてきて、僕の口もとはゆるんだ。
「なにがおかしいのよ?」とハヅキがにらんできたので、「全部」と返した。
口に出したら今度は笑いがこみあげてきた。
58: 2014/03/29(土)21:30:21
ハヅキが隣にいるってだけで、僕は本当に幸せだったんだ。
そんな僕を見たハヅキも少し顔を赤くしつつも、最終的には笑ってくれた。
それで僕はまた幸せな気持ちになる。
幸せが幸せを呼ぶっていうのは、本当なのかもしれないと思ったね。
「そういえば、けっこう前にも冬の海に来たよね」
道路の柵から身を乗り出してハヅキが言った。
僕にとってそれは苦い思い出だった。
高校受験が終わった僕は、ハヅキをデートにさそった。
ハヅキには詳しい説明はしなかったんだよな、たしか。
「どこかへ連れてってあげる」とだけ言ったんだ。
なぜ冬に海に行こうと思ったのかって?
ある曲の歌詞に憧れてたんだよ、僕は。
59: 2014/03/29(土)21:32:32
冬の海辺をあてもなく歩いて、ふたりで貝殻集めて……。
今でもその曲を聴くだけで顔が熱くなる。
しかもかなり遠い海を選んだんだよね。
そのせいで、目的地に着いたときにはお互いに疲れきっていた。
冬の海って時点でそうとうアレなんだけど、当時の僕はそれを本気でロマンチックだと思ってたんだ。
海に着いてからハヅキが怒るのには、一分もかからなかった。
結局僕はハヅキにひたすら謝って許してもらったけど、当時は釈然としなかったね。
今なら彼女が怒ったわけもわかる。
かなり遠いところを選んだこと。
両親に海に行くと伝えていなかったこと。
ハヅキは病弱だった僕を心配して怒ったんだ。
そしてこの話にはオチがある。
ハヅキを海に連れてくきっかけになった曲。
その曲の歌詞の内容が、失恋に近い状況を描いたものだってことだ。
60: 2014/03/29(土)21:34:16
「前から思ってたけど、ガンコだよね」
「誰が?」と聞き返すとハヅキは、僕を指さした。
「海に行ったときも、最後まで行き先を教えてくれなかったし」
海を見るハヅキの横顔は楽しそうだった。
それからハヅキは僕のガンコに関連したエピソードを話しはじめた。
ハヅキに教えられて、僕は思わず頬をかいた。
天然でのんびり屋であったはずの僕に、そんなにガンコな一面があったのかと。
「なんだっけ? なにかの映画を見に行こうとしたら『絶対にイヤ』って聞かなかったよね」
それについては僕も覚えがあった。
その映画については、タイトルはよく思い出せない。
けど、病気かなにかで大切な人と氏別するって展開があったんだ。
なぜか、そのことだけは知ってたんだよね。
だから絶対に見に行きたくない、と僕はハヅキの話を聞かなかった。
61: 2014/03/29(土)21:36:32
僕は『病気で大切な人と氏別する話を感動的に描く』みたいな物語が大っ嫌いだった。
『命をかけて大切な人を守る』といった話にも強い抵抗があった。
生まれつき病弱だったせいかもしれない。
バカな僕でも昔からわかってたことがある。
家族やハヅキ、周りの人にたくさんお世話になって、自分は生きているんだって。
命を放り出すような真似は本気で許せないって思ってる。
だから、この先なにがあっても自殺だけはしないって僕は決めていた。
62: 2014/03/29(土)21:36:54
「ほんと、いろいろあったね」
ハヅキが僕によりかかってくる。
「昔は、こうすることもできなかったよね」
「たしかに。昔のオレなら、このままたおされちゃってるかもな」
「たぶん、立場が逆だっただろうね」
肩に感じるハヅキの重みが心地よかった。
63: 2014/03/29(土)21:38:01
さらにハヅキは話を続けた。
幼少期に、病弱だった僕にハヅキがよくしたおでことおでこをくっつけるおまじないの話。
妹が反抗期になったとき、僕の筆箱に生卵をぶちまけた話。
ふたりで受験勉強したときのくだらないケンカの話。
僕が覚えてたことから忘れてたことまで、ハヅキは様々なことを話してくれた。
「わたしのほうがいっぱいしゃべるって、めずらしいよね?」
どちらかと言えば僕のほうがよくしゃべっていたな、昔は。
しかも話し好きのくせに、話す内容はまとまりがなかったり、肝心なことは話さない。
聞き手からすると、最低な話し手だった。
不意に沈黙が訪れる。さざ波の優しい音。
潮風が強く吹くと、つられたようにハヅキが口を開いた。
「なんかお互いに変だね」
「うん、お互いに変だな」
少しして、どちらからともなく笑いだした。
64: 2014/03/29(土)21:39:03
それから僕らは海をあとにして、また歩きはじめた。
とちゅうで喫茶店によって、コーヒーとランチをてきとうに楽しんで。
それが終わったらまた散歩して。
ハヅキはずっと歩き回って疲れたのか、家に戻ると僕のベッドで寝てしまった。
それから僕は大学の課題をやって、ハヅキが起きるまで時間をつぶした。
課題にあきたらハヅキの寝顔を眺めて休憩して、また課題をやる。
ハヅキが起きたら、今度はスーパーに行って買い物して。
また家に帰ったらふたりで料理して、それを食べて。
冬の海のような穏やかな時間は心地よかった。
久々にハヅキと過ごした時間は、あまりにも短かくて。
ハヅキが寝てからも、しばらく僕は眠れなかった。
65: 2014/03/29(土)21:41:16
背中の痛みで目が覚めた。
ハヅキの寝姿を確認して、僕は顔を洗いに行った。
ハヅキの寝顔を見るのも、すごい久しぶりなんだよな。
この日は、ひとつだけ用事があった。
ハヅキが起きたあと、簡単な朝食をとった。
朝ごはんは簡単なものだったけど、ハヅキが作ってくれた。
ハヅキの作る料理は味が薄いのが特徴で、濃い味が好きな僕の好みとは真逆なんだ。
だけど、朝ごはんにはちょうどよかった。
66: 2014/03/29(土)21:43:02
「病院に行くって……再発したの!?」
相変わらず駅のホームは閑散としていて、ハヅキの声はよく響いた。
僕は首を横にふった。
「病気が治った今でも、検査だけは受けてるんだよ」
「いきなり病院行くって言うんだもん。心臓がドラムになるかと思った」
かなりびみょうな比喩に、僕は苦笑いした。
67: 2014/03/29(土)21:44:06
病院に行って、血液検査を受けて担当医の診察を受ける。
ハヅキには外で待ってもらっていた。
担当の医者は、かっぷくのいい中年のおじさんで、あなたが病院に行けと言いたくなる体型をしている。
その医者が血液検査の記録を指差す。
「因子もインヒビターも完全に正常です。それから肝臓にも問題なしだね。この三ヶ月で出血はあった?」
「いえ、まったくないです」
「今回の記録はまだ完全には出てないけど、まあ間違いなく問題はないでしょ」
医者は感心したように言った。
68: 2014/03/29(土)21:44:33
「本来治らないはずの病気が治った、これはほとんど奇跡だ」
「ボクもそう思います」
「神様がきみの日頃の行いを見ていたのかもね」
医者がカルテになにかよくわからない文字を書く。
おそらくこの人も、ある可能性を考えているんだろう。
69: 2014/03/29(土)21:45:04
「製剤はまだ家にあるんだっけ?」
「四回分だけ残ってます。半年前にもらったやつですけど」
「半年前だと、まだ小型化されてないタイプかな」
「たぶん」
「今は薬の小型化が進んでてね。つくりやすくなったし、持ち運びも便利になった」
「そうらしいですね。あとすみません、これおねがいします」
「小児慢性の書類ね、書いておくよ。ちなみに来年からはどうするの?」
「……えっと、どうしたらいいんでしょう?」
「まあ、この病気が治るってことが前代未聞だからね。
今後のことはまた今度来たときに話そう」
「はい。今日はありがとうございました」
70: 2014/03/29(土)21:46:20
病院を出て、僕は大きく伸びをした。
病院を出ると、ついついやってしまうクセのようなものだった。
「本当に病気のことは大丈夫なんだよね?」
不安そうに聞いてくるハヅキに、僕は笑ってみせた。
「だーかーら、大丈夫だって。今ならフルマラソンにだって出られるよ」
「それ本当?」
ハヅキが目を丸くする。
どうも本気で信じてるっぽい。
「冗談だよ」と言うと、ハヅキは頬をふくらませた。
高校一年の夏、僕の持病はなんの前触れもなく治った。
僕の治らないはずの病が、どうして治ったのか。
どんなに血液検査をしても、その答えは結局判明していない。
でも僕は知ってるんだ。
ハヅキが僕の病気を治してくれたってことを。
71: 2014/03/29(土)21:47:46
僕の病気が治ったと判明した前日の朝。
ハヅキから電話があったんだ。
病院へ行く日を聞いてきてさ。
一週間後だって答えると、明日にしてとか急に言い出して。
わけがわからなかったけど、ハヅキの口調は真剣そのものだったから。
僕は病院に連絡して、定期検診の日を変えてもらった。
それで、病院で血液検査を受けたら僕の病が治っていることが判明した。
僕以上に、医者や看護師のほうが驚いていた。
そのあともう一度採血を受けて、尿検査とかもやって、
僕のからだが完全に健常者のそれと変わらないことが証明されたんだ。
いったいなにが起きたのか、よくわからなかった。
ハヅキが電話してきて、はじめて僕はある可能性に気づいた。
ハヅキが『ねがい』を使って、僕の病気を治したっていう可能性に。
72: 2014/03/29(土)21:49:59
思い返してみると、ハヅキからの電話があった三日前ぐらいから妹の様子もおかしかったな。
どこか落ち着きがなかったというか。
僕のほうをチラチラうかがっていたというか。
もしかしたら妹は、ハヅキから相談を受けていたのかもしれない。
一週間前あたりから、妹は『ねがい』をもらっていたらしいので、
そわそわしていたのは、僕のこととは全然関係ないのかもしれないけど。
ハヅキにはその場で結果を伝えなかった。
会いたいとケータイ越しに言って、直接会ってから病気が治ったことを伝えた。
僕がお礼を言ったら、ハヅキは泣き出してしまったんだよ。
それでようやくハヅキが『ねがい』を使ったことを確信できた。
正直病気が治ったこと以上に、ハヅキが僕のために泣いてくれたことのほうが嬉しかったな。
その日は病気が治ったってことで、親も奮発してくれてすごい豪華な夕食になったんだよ。
僕の家族とハヅキで、派手にお祝いしたんだ。
『ねがい』を口にするわけにはいかなかったから、事情を説明するのには少し苦労したけどね。
73: 2014/03/29(土)21:51:37
病院が終わると、僕らは電車に乗って街へ繰り出した。
さすがにあの町で、二日目を楽しむのは無理だろうと思ったからだ。
あまりお金に余裕はなかったから、そんなに派手には遊べなかった。
でもやっぱりハヅキがとなりにいるってだけで、僕はむだにはしゃいでいた気がする。
ハヅキも、子どものようにはしゃぐことがあった。
「そういや、電話の電源ずっと切ったままだったな」
ふと、家族に無断でアパートに戻ったことを思い出した。
ハヅキといる時間を誰にもジャマされたくないと思って、そうしたんだ。
電源を入れると案の定、妹から大量のメールが送られていた。
最後に来たメールを開く。
『今すぐ電話しろ!』と非常に簡潔な文面がディスプレイに表示される。
妹が電話をよこせと言うときは、そこそこ重要なイベントがあるときだった。
74: 2014/03/29(土)21:53:00
「兄ちゃん、なに勝手に帰ってんだよ!」
電話をすると、いきなり耳をつんざくような怒鳴り声が出た。
よほど大きい声だったのか、となりのハヅキがくすくすと笑った。
明日の僕の誕生日パーティーを今日にやるから、今すぐ帰ってこいとのことだった。
僕ら兄妹はけっこう仲がいいのだけど、立場的には僕のほうが下。
「絶対に帰ってきてよ。ぜぇったいにね!」
僕が詳しい事情を聞く前にそれだけ言うと、妹は電話を切ってしまった。
日もかたむいてきたので、僕らはいったんアパートに戻ることにした。
「レミちゃんが帰ってこいって言ってるんでしょ?
だったら帰ったほうがいいよ」
アパートに戻ると、ハヅキはそう言ってくれた。
75: 2014/03/29(土)21:54:06
レミ、というのは僕の妹の名前。
ハヅキと妹は大の仲良しだった。
「でも……」と渋る僕は、
「遅くても、明日には帰って来れるんでしょ?
レミちゃんが帰ってきてって言ってるんだから戻ってあげなよ」
そう説得されて結局実家に帰ることになった。
「行ってきます」とハヅキに言ってアパートを出る。
ボロアパートのドアがバタンとしまると、同時に定時サイレンの音が町中に響きわたる。
『遠くで響いてる鐘は何かの終わりと始まりを告げている』
その歌詞がなぜか脳裏をよぎった。
76: 2014/03/29(土)21:55:08
実家の玄関ドアを開くと、妹が満面の笑みを浮かべて出迎えてくれた。
もとからパーティーとかイベントごとが好きな妹だ。
だけど、笑顔の理由はそれだけではないと僕は直感した。
「ったく。急にいなくなったから心配したんだよ」
「ごめんごめん、どうしても外せない用事があってさ」
「そうだとしても。連絡はきちんとしなさいっ」
そう僕を注意する妹の口調は、内容とは裏腹にとても愉快そうだった。
なにがそんなに楽しいんだろ。
その疑問の答えは、リビングに入ってすぐわかった。
ハヅキがいた。
77: 2014/03/29(土)22:04:56
今のハヅキだ。
台所で母親といっしょに料理を作っているその姿は。
さっきまで僕のとなりにいたハヅキよりも、大人びて見えた。
ハヅキは僕に気づくと、
「おかえり」
と言ったあとで「その前に久しぶり、が先だったね」とほほえんだ。
さっきまでいっしょにいたハヅキの笑顔と、
目の前の笑顔はまったく同じだったのに、なにかがちがうと思った。
84: 2014/03/30(日)01:39:47
そのあとの記憶はひどくあいまいだった。
誕生日ケーキがチョコケーキだったってこと。
父が仕事でいなかったってこと。
妹がつくったピカタが、塩辛かったってこと。
それぐらいしか覚えていなかった。
母に「ハヅキちゃんを送ってあげなさい」と言われたので、
僕はハヅキを今で送っていくことになった。
家を出たとき、「ふたり乗りしてくか?」と聞いたけど、彼女は首をふった。
僕も無理強いはしなかった。
「久しぶりだね、こうやってふたりで歩くの」
「そうだな」
気づいたら、僕は少しだけハヅキのうしろを歩いていた。
86: 2014/03/30(日)01:41:17
「大学はどう? サークルとか入ってるの?」
ハヅキが僕をふりかえる。
ハヅキに質問されると、僕の口は勝手に動き出した。
言葉があふれてくる。
いろいろなことを話した。
聞かれたことから、聞かれてないことまで。
ハヅキはそんな僕の言葉に相槌をうってくれた。
「からだのほうはいいの?」
「病気のこと?」
「うん。今でも病院には行ってるんでしょ」
「検査のためにな。今はおかげさまで、なにもないよ」
「じゃあもう、おまじないはいらないね」とハヅキがちいさくつぶやく。
冷たい風が僕とハヅキの間をすっとすり抜けた。
87: 2014/03/30(日)01:42:08
「ここまででいいよ」
ハヅキがちょうど街灯のあたりで立ち止まった。
頼りなく揺れる灯に照らされるハヅキ。
今のハヅキはやはり『彼女』とはちがった。
化粧そしているとか、髪を染めたとかそういうことではなくて。
身にまとう雰囲気が全然ちがったんだ。
気づいたら声が出せなくなっていた。
喉の奥で言葉がつかえて出てこなくなってしまった。
なにか言わなければいけない。
そう思えばそう思うほど、喉と胸が痛いほど締めつけられた。
ハヅキはハヅキでなにも言わなかった。
88: 2014/03/30(日)01:42:56
とまどいが沈黙にかわって、僕らに重くのしかかる。
「今日はありがと」とようやく言葉を搾り出せた。
ハヅキはひかえめにわらった。
「どういたしまして。今日はたのしかった」
結局僕は、言わなければいけない言葉を見つけることができなかった。
ハヅキの影を見送って、僕は自分の家に帰った。
89: 2014/03/30(日)01:43:53
「久々にハヅキちゃんといっしょに過ごせた感想は?」
家に帰ると妹がニコニコして聞いてた。
僕は感謝の言葉を言ったけど、やっぱり気持ちって顔に出るんだな。
レミはため息をついた。
「やっぱりあたしもついてくべきだったかな」
「お前が来たら、よけいに台無しになるだろ」
そう言ったけど、正直そうしてもらえばよかったと後悔していた。
「いいんだよ。今日はひさびさにみんなで過ごせたんだ。楽しかったよ」
「あたしの誕生日のときは期待してるよ」
レミがウインクしてきたので、僕は軽く小突いてやった。
90: 2014/03/30(日)01:44:51
ふと僕は気になったことを聞いてみた。
「お前って『ねがい』、使ったの?」
僕の妹は天真爛漫な性格をしているけど、バカじゃない。
だからあえて聞いてみた。
「んー、なんで今そんなことを聞く?」
「なんとなく」
少しだけレミは考えたようだけど、
「秘密」とだけ言って、リビングにひっこんでしまった。
どうしてレミに『ねがい』について聞いたんだろ。
自分でもよくわからなかった。
93: 2014/03/30(日)01:52:15
次の日、僕は始発でアパートに戻った。
昨日のハヅキのことは頭のかたすみに残っていたけど、極力考えないようにした。
「ハヅキ?」
てっきり眠っているだろうと思ったハヅキは、テレビを見ていた。
ハヅキの首がゆっくりとこちらを向く。
彼女の目は赤く充血していた。
ここにきて、僕はようやくハヅキの様子がおかしいことに気づいたんだ。
「どういうことなの?」
ハヅキの声はふるえていた。
「わたし、どうなってるの?」
104: 2014/03/30(日)17:23:23
『ハヅキ』のその言葉でようやく僕は理解できたんだよ。
なにが起きているのか。
テレビの音がやけにうるさく聞こえてさ。
無意識にリモコンをとって電源を落としたんだ、僕は。
けどそれは、八つ当たりにちかいものだったんだと思う。
『ハヅキ』が、自分のおかれた状況が奇妙であると気づくのに、
ソイツは一役買ったにちがいないから。
まるで魔法がとけたような。
どん底に叩き落とされたような気持ちになったね。
でも、本当は僕だって気づいていたよ。
こうなることはわかりきっていたんだ。
105: 2014/03/30(日)17:24:44
なんとか僕は『ハヅキ』を落ち着かせた。
自分でも不思議なんだけどさ。
今のハヅキのときとちがって。
昔の『ハヅキ』と接するときは不思議と冷静でいられたんだよ。
ハヅキの話をまとめると。
昨晩、僕がアパートから出ると急に『ハヅキ』の意識ははっきりとしたらしい。
どこかぼんやりしていた思考がクリアになった。
それで今の状況を知ろうとして、テレビを見たらしい。
かしこい『ハヅキ』のことだ。
ワイドショーやなんらかの番組を見て、
おかしな状況に陥ってると、すぐに理解したんだろうね。
よくよく考えれば、この二日間のハヅキは僕にとって都合がよすぎる存在だった。
ひょっとすると、それは『ねがい』のおまけのようなものだったのかもしれない。
106: 2014/03/30(日)17:26:48
『ハヅキ』が冷静さを失った理由は、それだけじゃない。
親に電話したそうだ。
無断外泊を二日間もしたから、『ハヅキ』はその事情を親に説明しようとした。
でも、全然話がかみ合わなかった。
いないはずの自分のことを、親が勝手に話し出したあたりで、
『ハヅキ』は自分がおかれている状況の深刻さを完全に把握した。
しかも『ハヅキ』の親は、僕のパーティーのことまで話したらしい。
ハヅキに「なにか知ってるよね?」とすがるように詰め寄られる。
だけど、どう答えたらいいのか見当もつかなかった。
いや、やるべきことはわかっていたよ。
僕の『ねがい』について話す。ただそれだけのこと。
でも『ねがい』を口にすることの危険性を考えたら、ためらわずにはいられなかった。
それに。そのことを説明したとき『ハヅキ』の顔に浮かぶものがなんなのか。
それを考えると、僕は押し黙ることしかできなかった。
107: 2014/03/30(日)17:30:59
「少し待って」とだけ言ってベランダに出る。逃げるように。
『ハヅキ』の顔を直視することなんて、できるわけがなかった。
だけど三分もたたないうちに、僕は部屋に戻ってしまった。
二日前は、寒さはそこまで気にならなかったのに、
今はかじかんだ指先が痛くてしかたがない。
部屋の中も凍りついたみたいに冷えきっていたから、中に戻った意味はまるでなかったけど。
『ハヅキ』はなにも映っていないテレビをベッドを背もたれにして、
ぼんやりと眺めていた。
その横顔が、不意に誰かとかぶる。今のハヅキだ。
気づいたときには、僕は『ハヅキ』の真正面に座っていた。
『ハヅキ』の濡れた瞳をのぞきこむようにして、僕は話しだした。
108: 2014/03/30(日)17:36:31
一言目を発すると、堰を切ったように言葉があふれでた。
僕の『ねがい』で『ハヅキ』が生まれてしまったこと。
ハヅキを好きだから、こんなバカげたねがいをしてしまったこと。
僕はなにもかもを吐き出した。
『ハヅキ』はしばらくなにも言わなかった。
僕は次の彼女の言葉を待つ。
「たしかめさせて。今日中には帰ってくる」
「ここで待っていて」と言った『ハヅキ』の声は、感情が抜け落ちたように淡々としていた。
『ハヅキ』がアパートを出て、帰ってくるまでの間、僕はなにも考えられなかったんだ。
脳みその芯が麻痺したみたいになってさ。
とりとめのない考えが、けむりみたいに頭の中を行ったり来たりするだけで。
時間の感覚も消え失せてたね、完全に。
全身の血が抜けたみたいに、からだに力が入らない。
結局『ハヅキ』がアパートに戻ってくるまで、僕はずっと白い壁を見つめていた。
109: 2014/03/30(日)17:48:32
「ただいま」という声を聞いて、僕は意識を取り戻した。
部屋の中は暗闇に沈んでいて『ハヅキ』の姿も、にじんだようにぼんやりしていた。
「自分の家に行って、たしかめてきた」
それ以上『ハヅキ』は説明しなかった。
というより、できなかったんだ。
『ハヅキ』は膝からくずおれて、僕の腕を両手でつかんで泣いた。
僕は『ハヅキ』がこんなにも泣くのを初めて見た。
『ハヅキ』はずっとなにかを言っていた。
嗚咽混じりのせいで、僕には聞き取れない。
そして、僕もずっと「ごめん」と謝り続けることしかできなかった。
いつのまにか自分も泣いていることに気づいた。
110: 2014/03/30(日)17:51:51
「からだの水分に限界があってよかった」
『ハヅキ』がはなをすすって言った。
また僕は「ごめん」とかえす。
部屋の中は真っ暗だったし、ハヅキの表情はやっぱりぼやけている。
「ていうか、なんでそっちが泣いてるの」
『ハヅキ』の言うとおりだった。
泣きたいのは彼女のほうなのに。
しかも今の僕は、『ハヅキ』より年上なんだぞ。
「わたし……たくさん、ひどいこと、言ったけど……わかった?」
『ハヅキ』の声に、わずかに嗚咽が混じる。
僕は横に首をふった。
111: 2014/03/30(日)17:54:54
「今、19歳になったんだっけ?」
それから『ハヅキ』は僕にたくさん、質問してきた。
それは悲しみをごまかすためだったのかな。
もしくは、まったくべつの意図があったのかな。
本当に僕はバカだよ。
『ハヅキ』の気持ちを、少しも汲み取ることができないんだから。
「わたしってすごいね」
会話のとちゅうで『ハヅキ』はそんなことを言った。
「だってわたし、未来に来たんだよ。みんなに自慢したいね」
「頭おかしいと思われるかもよ」
「そしたら未来に見てろって言う」
また僕は首をひねってしまった。
でも真っ暗だったから、『ハヅキ』は気づかなかったみたい。
112: 2014/03/30(日)18:07:15
「あのときわたしに言った言葉どおり、頼りになる人になったのかと思ったけど」
「言った言葉?」
ふと彼女が口にしたことが引っかかった。
「覚えてないの? わたしに宣言したこと」
僕がハヅキに宣言したことなんて、それこそ数え切れないぐらいある。
いったいどれのことだろ?
「いっぱい泣いていっぱい話したら、疲れちゃった」
『ハヅキ』が僕の右腕に体重をあずける。
「寝て、それで起きたら、わたしまた泣くかもしれないけど許してね」
「オレの胸で泣いていいよ」と少しどもりながら言うと、『ハヅキ』は小さく吹き出した。
114: 2014/03/30(日)18:27:20
次の日。
僕も『ハヅキ』もお互いにほとんど眠れていないことは、わかっていた。
ふたりとも寝不足だったせいかひどい顔をしてた。
「あっ……」
『ハヅキ』がなにかに気づいたように声をあげたのは、
僕が顔を洗って、洗面所から出てきたときだった。
「『ねがい』を口にしたよね?」
『ハヅキ』の頬は完全に血の気が失せていた。
『ねがい』を他人に話すと、よくないことが起きる。
これに関して言えば『ハヅキ』に『ねがい』を話した時点で覚悟はしてたんだ。
115: 2014/03/30(日)18:41:18
『ハヅキ』は少し考えて、僕に外を出るのはひかえようと提案してきた。
なにが起きるかわからない。
だから、家の中でおとなしくしていようって。
ほかにどうしようもなかったんだよ。
家の中には満足な食料もなかったけど、ふたりとも食欲はなかったし。
これからのことについてどうするか、という話も。
『ハヅキ』が「は考えたくない」と拒否して、うやむやになった。
暖房で生ぬるくなった部屋で、僕と『ハヅキ』は互いに寄りそってまた口を閉ざした。
気づいたときには、僕は眠っていたんだ。
いくら寝不足だからって、なんで僕は眠ってしまったんだろうと思う。
夢から覚めたら、『ハヅキ』が部屋からいなくなっていた。
117: 2014/03/30(日)19:02:36
気づいたら部屋を飛び出してたよ。
冷静さを完全に失ってた。
ただなんとなく外出しただけかもしれない。
気分転換に外の空気をすいに行っただけかもしれない。
その可能性は十分考えられたし、実際に考えた。
それでも得体の知れない不安が、墨汁のように胸の中に広がると僕はもうダメだった。
ひたすらアテもなく走った。
とちゅうで少しだけ冷静になって、『ハヅキ』に電話をかけようとした。
でも、電話をかけても出る相手が今のハヅキであるのは、
冷静さを失った僕でも判断がついた。
どれぐらい走ったんだろう。
酷使しすぎて足も肺も、悲鳴をあげててバス停で立ち止まったんだ。
呼吸が多少ととのったあたりで、
ふと30メートルぐらい先の交差点に、人だかりができてることに気づいた。
118: 2014/03/30(日)19:13:08
人の集まり。
道路に中途半端にとまっている車。
遠くから聞こえる救急車のサイレン。
状況は断片的にしか頭に入ってこないのに、なにが起きているのかわかってしまう。
僕は無意識に走っていた。
人と人のすき間をうかがう。
全てのものの色が抜けおいていく。
なのに道路に横たわっている『ハヅキ』の姿だけは、色鮮やかに僕の目に焼きついた。
119: 2014/03/30(日)19:18:48
このとき僕は初めて、ある可能性を思いついた。
いや、確信したと言っていい。
『ねがい』を使ってから、それについて誰かに聞かせるとよくないことが起きる。
僕はてっきりこのよくないことが、
『ねがい』を使った本人に起きるんだと思っていた。
でもちがったんだ。
この『よくないこと』が起きる対象は、『ねがい』を使った人間じゃない。
『ねがい』の対象なんだ。
130: 2014/03/31(月)02:49:05
『ハヅキ』の姿が目に飛びこんできたときには、僕は人だかりを押しのけていた。
横たわる『ハヅキ』の肩をつかんで、彼女の名前を叫んだ。
周りの人たちが「ゆらすな」とか「触るな」とか言っていたけど、
そんな言葉を聞き入られるような状態じゃなかった。
だけど、結果だけから見ると僕の行動は間違ってはいなかったんだ。
『ハヅキ』は目を開けた。
次の瞬間には、僕の視界はにじんじゃってさ。
でも『ハヅキ』は僕とちがって冷静だったな。
からだを起こそうとしたとき、一瞬だけ表情が変わったけど。
駆けつけた救急隊の人や、周りの人たちに大丈夫だと『ハヅキ』は伝えて、
「腰がぬけちゃったから、おぶってくれる?」
と僕の腕をつかんだ。
131: 2014/03/31(月)02:50:26
僕は『ハヅキ』をおぶって、その場をはなれた。
何人かの人に引き止められたけど、「大丈夫ですから」と『ハヅキ』は何度も頭を下げた。
『ハヅキ』をおぶって五分ぐらいしたところで、ベンチを見つけた。
そこに『ハヅキ』をおろして僕はこうたずねた。
「どうして病院に連れてってもらわなかったんだよ」
どうして病院に行くことを拒んだのか、僕にはわからなかった。
「あのまま病院に搬送されてたら、わたしのことバレてたよ」
「どういうことだよ」と僕は聞きかえしてしまう。
「病院で検査とか受けたら、お父さんやお母さんに来てもらわなきゃダメでしょ?」
そこまで言われて、僕は初めて『ハヅキ』の意図がわかったんだよ。
『ハヅキ』の言うとおりだった。
病院に行けば、ハヅキの両親を呼び出すことになる。
『ハヅキ』はそれを避けるために、あの行動に出たんだ。
132: 2014/03/31(月)02:51:32
「だけど大丈夫か? あんなとこでたおれるって、なにがあったんだよ?」
僕の質問に『ハヅキ』は「よくわからない」とかえす。
『ハヅキ』の声は、普段のそれに比べると低かった。
『ハヅキ』はアパートを自分でもよくわからないまま、出ていたらしい。
そうして知らないうちに、道路を歩いていて、気づいたら意識を失っていた。
「でも、もう大丈夫だから」
言葉とは裏腹に、『ハヅキ』の笑顔には力がなかった。
基本的に鈍い僕だけど、
このときだけは『ハヅキ』に異変が起きていることには気づけたんだよ。
「ちがうだろ。ほかにもなにかあるんでしょ?」
『ハヅキ』が顔をうつむけて、自分の右足に手を置いた。
それだけで、彼女になにが起きたのかわかってしまった。
「足がね、動かないの」
足におかれた手は、真っ白になっていた。
133: 2014/03/31(月)02:52:51
予感は完全に確信になった、この瞬間に。
本来、誰にも話してはいけない『ねがい』が。
ほかの人間に伝わったことで『のろい』にかわってしまった。
僕でも気づけたことだ。
たぶん『ハヅキ』もすでに気づいてるだろう。
『のろい』の対象が『ねがい』を使った人間じゃなく、
『ねがい』の対象であるってことに。
それでも『ハヅキ』は気丈だった。
「わたしをおんぶして、お城まで連れて行ってくださる?」って、わざとらしくおどけてみせた。
それどころか、僕が口を開こうとするより前に、
「口じゃなくて、からだをうごかすの」
と言って僕の「ごめん」って言葉をさえぎったんだ。
134: 2014/03/31(月)02:53:54
家に帰ったときには、僕はじんわりと背中に汗をかいていた。
ベッドにおろすと、『ハヅキ』は僕にお礼を言った。
本当なら、泣きたいほどつらい状況のはずなのに『ハヅキ』は、
「たくましくなったね」って太陽でも見るみたいに目を細めてさ。
「なんでだよ」
気づいたら勝手にそう言ってた。みっともなくふるえる声で。
まともな声なんて出せるわけがなかった。
「なんでオレをせめないんだよ」
自分に非があるときって、人間って責められたほうが気分が軽くなるんだよな。
だから、僕はそう言ったんだ。
「自分でもすごい不思議だよ。
本当なら、昨日みたいに怒り狂うところなんだって思う。
それはわたしもわかってるよ、でもね。
今はまだ魔法にかかってるから、それでこんな状況でも許せるんだと思う」
135: 2014/03/31(月)02:55:02
「魔法ってなんだよ」
そう聞いた僕の声は、やっぱり上ずっていた。
『ハヅキ』は僕を見上げて、でも少しすると目線をそらした。
「わたしがここにいる理由が、その魔法の答えかな」
案の定、僕はまた首をひねることになった。
「でも、魔法なら……いつかとけるよな?」
魔法の正体がわからなくて、僕はそんなふうに言った。
『ハヅキ』がベッドに横たわる。
「そうだね。いつかはとけちゃうだろうね、きっと」
やっぱり僕には『ハヅキ』の意図がつかめない。
でも、たしかなのは『ハヅキ』にかかっている魔法が消える前に、
僕はなんらかの解決の糸口を見つけなければいけないってことだ。
152: 2014/04/01(火)00:04:08
その日の夕食は僕が作ることになった。
病弱だった僕が、ゆいいつ『ハヅキ』よりできることが家事だったんだよ。
『ハヅキ』を見かえしたくて、親にいろいろ教わったんだよな。
『ハヅキ』は僕がつくった料理をおいしそうに食べてくれた。
「味つけ、薄くなった?」って彼女に聞かれて、僕は自分のつくった料理の味が、
普段より薄いことに気づいた。
「無意識にそうしたのかな」
僕は普段通りにつくったつもりだった。
「無意識ね。ふーん」
『ハヅキ』はくちびるをゆるめた。
なぜ無意識にやったことだと嬉しいのか、僕には見当もつかなかった。
昔からそうだったな。
ハヅキは僕の行動や考えを簡単に見抜くのに、僕は全然彼女のことがわからなかった。
153: 2014/04/01(火)00:08:31
不意にインターホンが鳴った。
無視しようかと思ったけど、『ハヅキ』に出たほうがいいって、
言われて僕は玄関のドアを開けた。
うちに来るのは友達以外だと、新聞の勧誘だったり、八百屋の出張販売だったり。
「よっす、兄ちゃん」
だから妹が来るとは夢にも思ってなかったんだ。
レミは僕の家に泊まりに来たらしかった。
どうして僕の家に泊まろうと思ったのかと言うと、単なる思いつき。
今までもときどき、不意打ちで泊まりにくることはあったけど、
よりによって今日に来るなんて予想外だった。
レミは僕の制止も聞かず、勝手に部屋に入った。
「ハヅキちゃん?」
『ハヅキ』の姿を見つけると、レミは予想通りの反応をした。
154: 2014/04/01(火)00:10:11
目を丸くして「え? どういうこと? え?」とかって、ひとりであわてふためいてたな。
でもすぐそのあとに、今度はニンマリと笑うんだよ。
よくここまで考えてることが顔に出るな、って感心する。
誰に似たんだろ。
「なんだ、そういうことか。
ふたりともそういうことなら、言ってくれればいいのに」
僕と『ハヅキ』はお互いの顔を見てしまった。
「ハヅキちゃんも、一言も言ってくれてなかったし」
「びっくりだよ」と言ったレミの語尾が、なにかに気づいたのか小さくなる。
レミの行動は早かった。
ねずみを見つけた猫みたいに『ハヅキ』に飛びついた。
レミは妙に勘が鋭いところがあるんだよ。
『ハヅキ』の顔をのぞきこむと、レミは言った。
「ハヅキちゃん、若返った?」
僕がふたりの会話を割りこもうとするよりも、『ハヅキ』のほうがはやかった。
「こんばんは。未来のレミちゃん」
155: 2014/04/01(火)00:12:55
『ハヅキ』は自分のことを隠すつもりはないようだった。
一瞬だけオレに目配せして、『ハヅキ』はゆっくりと話しだした。
『ハヅキ』が話し終えたあとは、レミのヤツ、めちゃくちゃ混乱してたな。
でも、ハヅキに電話させたら最終的には納得してくれた。
僕がハヅキのことを好きって知ってたのも、理解の助けになったみたいだ。
「でも、なんで『ねがい』について話したの?」
当然レミは、その部分についても聞いてきた。
そこから先は、僕が説明した。
説明しているとき、僕は『ハヅキ』がどうしてレミに事情を話したのか理解した。
片足が使えないとなると、トイレはともかく風呂なんかでは難儀することになる。
男の僕に手伝ってもらうのには抵抗があっただろうし、
レミは『ハヅキ』の頼みなら、喜んで協力するだろう。
そのことに気づいて、僕は改めて自分のしでかしたことを理解した。
胸にうずくまっていたいろんな感情が顔を出したのか、
僕の言葉はとちゅうからとぎれがちになってしまった。
156: 2014/04/01(火)00:15:16
僕の妹は涙もろいんだよ。映画とかでもすぐ泣く。
僕の話を聞いたら、予想通り泣き出した。
レミには泊まってもらうことにした。
正直、ありがたいと思った。
なにひとつ解決してないのに、胸が少しだけ軽くなったような気がした。
僕と『ハヅキ』はもちろん、『ハヅキ』も寝不足だったらしく、
その日は早めに寝床について、一日を短くした。
でも僕は全然寝れなくてさ。
『ハヅキ』が一度だけ悲鳴みたいな声をあげたんだよ。
たぶん、うなされてたんだろうな。
それが耳に入ってきたら完全に目が冴えちゃって、
僕はなにもない町をあてもなく歩くことにした。
「昔だったらこんなにも歩けなかったよな」
声に出したら『ハヅキ』の顔が浮かんできて、急に自分が歩けることに罪悪感がわいた。
157: 2014/04/01(火)00:18:01
陽が昇るころ、僕は帰宅した。
足が悲鳴をあげていたし、からだは凍りついたみたいになってた。
どうしてもっと早く帰らなかったんだ、僕は。
とりあえず太陽に当たろうと思った。
朝日に当たれば、なにかいい考えが浮かぶかもしれない。
そう思ってベランダに出る。
ベランダの窓をしめようとしたら『ハヅキ』の小さなうなされ声が聞こえた。
この先、どうしたらいい?
『ハヅキ』はなにを望んでいる?
僕はどうしたいんだ?
ベッドで寝ている『ハヅキ』とレミの顔を太陽の光が白く照らしていた。
陽の光が僕の胸に浮かびあがらせたのは、希望じゃなかった。
不安だったんだ。
158: 2014/04/01(火)00:23:41
レミは学校に行かずに、『ハヅキ』の面倒を見ると言って聞かなかったけど、
『ハヅキ』に説得されて渋々学校に行った。
「今のわたしって、レミちゃんと同い年なんだよね」
レミがアパートを出ると『ハヅキ』はおかしそうに言った。
「二年後のレミちゃんは、あんまり変わらないね」
「そうだな。相変わらずお前にべったりだし」
「よかった」と『ハヅキ』は安心したように、胸をなでおろす。
ふたりだけの部屋はレミがいたときに比べると広く見えた。
当たり前と言えば、当たり前なんだけど。
ふたりとも黙ると、部屋の中はしずかすぎて耳がうずくようだと思った。
僕は『ハヅキ』に海に行くことを提案した。
「オレがおぶってくから、なっ?」
僕がそう言うと、昨日のことを思い出したのか『ハヅキ』のまゆは少しだけぴくぴくした。
「まあいっか。昨日も同じことしてるしね」
僕の思いこみかもしれないけど『ハヅキ』の声は、どこか投げやりに聞こえた。
159: 2014/04/01(火)00:24:45
昼になっても、相変わらずこの町の空気は冷たかった。
海に着くまでの間に、いろんな人に見られたけど『ハヅキ』はとちゅうから開き直ったんだろうな。
すれちがう人、すれちがう人にあいさつしだした。
都会じゃ見られない光景だろうけど、
田舎者の僕らは誰かに道で会うたびにあいさつするんだよな。
それに『ハヅキ』も僕も、すごいお年寄り受けがいいんだよ。
しかも昨日のことで『ハヅキ』のことは、多少うわさになったんだろうな。
おじいさんやおばあさんから、見舞いの品みたいな物をもらうことまであった。
めずらしく『ハヅキ』はことわらずに、渡された物を受け取ってたな。
少し変だなって僕は思ったけどなにも言わなかった。
海のそばのベンチに『ハヅキ』をおろして、僕は一息ついた。
160: 2014/04/01(火)00:26:11
『ハヅキ』は自分のことより、僕のからだのことが気になったのかな。
昔から心配性のきらいがあるから「本当に大丈夫?」って何度も聞いてきた。
僕はそのたびに「大丈夫だってば」って上着を脱いで力こぶを見せてやった。
話すこともなくなると、『ハヅキ』は僕の右腕によりかかって口をとざした。
部屋の中とちがって、外の世界っていうのは音で満ちあふれてる。
おだやかな波の音が耳に心地よかった。
でも僕の心は全然落ち着いてなんかいなかったんだ。
言いたいことや聞きたいことが、からだの奥で渦まいていた。
あと、むしょうに海に向かって叫びたかった。
『ハヅキ』が「寒いね」って僕のかじかんだ手をにぎって笑った。
僕の手をにぎる『ハヅキ』の指先も、冷え切っていてよけいに寒くなった。
冷静に考えると変なことしてるよな、僕たち。
161: 2014/04/01(火)00:34:47
そろそろ戻るべきやろうなって思って、僕は立ちあがったとよ。
そしたら、えらい色の黒いおじいしゃんに背後から声ばかけられたとよ。
「昨日、道路にたおれてた子でしょ?」って。
『ハヅキ』が「そうばい」って答えると、おじいしゃんは「ちょこっと、時間よかかいな」って言ったとよ。
おじいしゃんの口調はえらいハキハキとしてたな。
おじいしゃんがゆうには。
『ハヅキ』ばおぶる僕の姿がえらく印象に残ったらしく、
なしも、僕らと話してみたかったそうやけん。
えらいも、そうゆうわりにな、話の八割はおじいしゃんのうち語りやったけど。
「家内が去年、肺がんでなくなってね。
仲はじぇんじぇんっよくなかったんばい。
十年ぐらい前にな、アイツの父親の命日にゴルフしに行ったんばい。
もうそんときのケンカはすごかったわ。
離婚しなかったとが不思議やろがなかね」
僕も『ハヅキ』も黙っておじいしゃんの話に耳ばかたむけたとよ。
とゆうか。話の内容的に口ばはしゃむなんて、でけんかったんばい。
162: 2014/04/01(火)00:36:00
おじいしゃんの話はまばい続いたとよ。
妻がいなくなりよったら、仕事への情熱も消え失しぇたらしか。
切り盛りしとった定食屋ばやめて、たいした金にもならなかのに、
住んでいた一軒家ば売り払ったそうやけん。
でもすぐに金は尽きたとよ。
住所不定で働くこともできなくて、困り果てたらしか。
そぎゃん状況で助けてくれたとが、おじいしゃんの息子しゃんやったらしか。
「ほかのことはどうでもよか。ばいけん、家族ばいけは大事にしたほうがよか」
「そうやね」と『ハヅキ』が僕のかわりに答えたとよ。
「家族な、大切とよね」
思わず『ハヅキ』の顔ば見てしもうたとよ。
『ハヅキ』のくちびるは笑ってたけど、血の気が失しぇて真っ青になってたとよ。
これ以上、そんおじいしゃんの話ば聞きたくなかったとよ。
僕は会話ば中断しゃしぇて、『ハヅキ』ばおぶってそん場ばあとにしたとよ。
184: 2014/04/02(水)00:42:02
そろそろ戻るべきだろうなって思って、僕は立ちあがった。
そしたら、すごい色の黒いおじいさんに背後から声をかけられた。
「昨日、道路にたおれてた子でしょ?」って。
『ハヅキ』が「そうです」って答えると、おじいさんは「ちょっとだけ時間いいかな」って言った。
おじいさんの口調は妙にハキハキとしてたな。
おじいさんが言うには。
『ハヅキ』をおぶる僕の姿が非常に印象に残ったらしく、
どうしても、僕らと話してみたかったそうだ。
もっとも、そういうわりには、話の八割はおじいさんの自分語りだったけど。
「家内が去年、肺がんでなくなってね。
仲はぜんぜんっよくなかったんだけどさ。
十年ぐらい前にな、アイツの父親の命日にゴルフしに行ったんだよ。
もうそんときのケンカはすごかったわ。
離婚しなかったのが不思議なぐらいだわ」
僕も『ハヅキ』も黙っておじいさんの話に耳をかたむけた。
というか。話の内容的に口をはさむなんて、できなかった。
185: 2014/04/02(水)00:43:55
おじいさんの話はまだ続いた。
妻がいなくなったら、仕事への情熱も消え失せたらしい。
切り盛りしていた定食屋をやめて、たいした金にもならないのに、
住んでいた一軒家を売り払ったそうだ。
でもすぐに金は尽きた。
住所不定で働くこともできなくて、困り果てたらしい。
そんな状況で助けてくれたのが、おじいさんの息子さんだったらしい。
「ほかのことはどうでもいい。でも、家族だけは大事にしたほうがいい」
「そうですね」と『ハヅキ』が僕のかわりに答えた。
「家族は、大切ですよね」
思わず『ハヅキ』の顔を見てしまった。
『ハヅキ』のくちびるは笑ってたけど、血の気が失せて真っ青になってた。
これ以上、そのおじいさんの話を聞きたくなかった。
僕は会話を中断させて、『ハヅキ』をおぶってその場をあとにした。
186: 2014/04/02(水)00:45:05
家に戻って、レミが帰ってくるまでのあいだ、僕らはほとんど口をきかなかった。
あのおじいさんに言われるまで、
僕は『ハヅキ』の家族について、深く考えてなかったんだ。
もちろん、まったく考えていなかったわけじゃない。
ただ表面的な部分しか見てなかったんだ。
昨日、『ハヅキ』が道路で意識を取り戻したとき、
『ハヅキ』がすぐにあの場をはなれようと提案してきた時点で、気づいてもよかったはずだ。
『ハヅキ』が、自分の家族についてずっと考えていたことに。
一度だけ『ハヅキ』がケータイを取り出したのを、僕は目撃した。
でも彼女はすぐにそれをポケットにしまった。
187: 2014/04/02(水)00:46:35
「今日は部活、サボってきちゃった」
レミは帰ってくるなり、僕に荷物を押しつけて『ハヅキ』に抱きついた。
部活をサボったというわりに帰ってくるのが遅かったのは、
いろいろ買い物してたからみたいだ。
わざわざレンタルビデオ店にまで寄ったのか、荷物にはCDやDVDまで含まれていた。
レミがいるだけで、部屋はにぎやかになった。
その日はレミがピカタをつくった。
簡単にできるとはいえ、つい最近食べたばかりだったので、文句を言いそうになった。
レミのつくったピカタの味が、この前食べたものよりもおいしかったのが少し気になった。
けど、すぐにその引っかかりは消した。
188: 2014/04/02(水)00:48:08
食事を終えて、やるべきことをやって、僕らはその日も早く寝た。
やっぱり眠ることができない。
まどろみはときどき訪れるけど、深い眠りに落ちることはなかった。
視界のかたすみで光が動いた気がして、僕はまた目を覚ました。
寝れそうにないな。
いっそ体力の限界までランニングでもするか?
からだを起こそうとして、部屋の中にぼんやりとした明かりがともっていることに気づく。
ベッドからからだを起こして『ハヅキ』が、ケータイを見てたんだ。
心臓をわしづかみにされたみたいになって、息が止まった。
このままだと、なにかよくないことがさらに起きる。
僕はそう直感した。
数分して部屋が真っ暗になる。
視界のかたすみで光が揺れている気がして、結局僕は眠れなかった。
189: 2014/04/02(水)00:50:03
この日、『ハヅキ』はレミが学校を休むことに反対しなかった。
昨日までの『ハヅキ』は反対したのに、今日の彼女はあっさりと了承した。
『ハヅキ』はかわりに僕に、大学へ行くことを勧めた。
最初こそ行かないと言うつもりだった。
でも大学の図書館だったら、『ねがい』について、
なにか情報が得られるかもと思って、僕はレミに『ハヅキ』をまかせることにした。
結果から言うと、ほとんどなんの情報も得られなかった。
判明したことは、ほとんどない。
『ねがい』が誰かに伝わってよくないことが起きる現象。
僕はそれを『のろい』って表現したけどそれが正しかったってことぐらい。
いや、おそらく僕は前からこの情報は知ってたんだろうな。
本棚に本を無理やり押しこんで、僕は図書館を出た。
190: 2014/04/02(水)00:51:17
ネットとかでも調べてみたけど、やっぱり『ねがい』についての情報はなかった。
なんの成果もあげられないまま、家に帰った。
目がしょぼしょぼして視界がぼんやりしてた。
影をひきずっているみたいに、足取りも重かったな。
家に戻ると『ハヅキ』はベッドに横になっていた。
「兄ちゃんが出ていって一時間もしないうちに、寝ちゃったんだ。
寝たり起きたりをずっと繰りかえしてる」
僕は少し間をおいて、レミに言った。
「ちょっと話したいことがあるんだ。外に出よう」
僕はレミを連れてアパートの外に出た。
部屋を出る直前に、レミは一度だけ『ハヅキ』をふりかえった。
191: 2014/04/02(水)00:52:59
田舎町の風は、空が暗くなるにつれておとなしくなる。
だけど今日の風は、いつも以上に強くて話し声もさらってしまいそうな勢いだった。
「どうしたらいいと思う?」
僕の声は、少し小さかったかもしれない。
でもレミは僕が考えていることがわかってたんだろうな。
「早くなんとかしなきゃ、まずいと思う」ときちんと僕の質問に答えてくれた。
レミが言うには、ハヅキの足の症状は悪化しているらしい。
右足だけじゃなく、左足まで少しずつ感覚がなくなってるそうだ。
『のろい』がさらに強くなったのか。
あるいは、僕の『ねがい』が『ハヅキ』をとおしてレミに伝わったからか。
192: 2014/04/02(水)00:53:37
レミもこのままの状況が続くのが、危険だと感じている。
だけど、どうしたらいいのかわからない。
「もういっそのこと『ハヅキ』を両親に会わせるか?
そうすれば少しは……」
「でも、そうしたら今のハヅキちゃんはどうするの?」
レミの言うとおりだった。
そんなことをすれば、かえって事態はおかしくなる。
193: 2014/04/02(水)00:54:46
どれぐらい話し合ったんだろうな。
たいした時間ではなかったけど、どうすることもできないって結論はすぐに出てきた。
「せめて『ハヅキ』にかかった『のろい』だけでも、消せればな」
そこまで言って、僕はレミの『ねがい』のことを思い出した。
気づいたときには、レミの肩をつかんでた。
自分がこんなことをするなんて、夢にも思わなかったよ。
驚くレミに僕は「おまえの『ねがい』は使えないのか?」と聞く。
「そ、それは……」
レミが言葉をつまらせるのはめずらしかった。
僕はレミの『ねがい』の内容を大まかに知っている。
194: 2014/04/02(水)00:56:03
僕の病気が治ったのと、レミが神様から『ねがい』をもらった時期は近かったな。
「なにかもらえるなら、兄ちゃんならなにがほしい?」
そうレミが聞いてきたのは、今でも覚えてる。
レミは、最初こそは言葉を濁してたけど、察しの悪い僕にムカついたんだろうな。
『ねがい』をもらったことを暴露した。
もちろん具体的な内容は言わなかったけど。
「好きな人でもできた?」って僕が聞くと、レミはため息をついたんだよな。
はっきりとは、レミがもらった『ねがい』はわからない。
だけど、どんな類の『ねがい』かは、そのやりとりで想像がつく。
「『ねがい』は残ってないのか? 残ってるなら……」
レミが顔をうつむける。
その仕草には迷いのようなものが、にじんでいた。
195: 2014/04/02(水)00:58:03
「だいたい、その『ねがい』を使ってどうするんだよ、兄ちゃんは?」
明確なプランはなかった。
だけど『ねがい』があれば、この状況を打開できる可能性はある。
レミは首をふった。『ねがい』はとっくに使ってしまっていた。
世界が閉ざされていくような気がした。
『ねがい』にすがろうとしていたのに、それが無理だってわかると、
立っていられなくなりそうだった。
「なにがダメだったんだろうな」
その言葉が出たのはこの瞬間だったけど、
僕はずっと前から心の中でそう思っていたのかもしれない。
声に出したら、妙にしっくりきて苦笑いしてしまった。
なにがダメだったんだ?
『ハヅキ』に『ねがい』のことを隠しとおさなかったことか?
『ねがい』によって『ハヅキ』を生み出したことか?
ちがう。そうじゃない。
もっと、ずっと前に僕は致命的なミスをしてたんだ。
196: 2014/04/02(水)00:59:24
「オレとハヅキって、いつから仲悪くなったんだろうな」
言ってから、自分が一番知ってるだろって思った。
「兄ちゃんの病気が治って、しばらくしてだね」とレミが目をふせる。
「ついでに、そうなったきっかけは兄ちゃんだよね」
誰よりも一番近くで、僕とハヅキを見てきたレミにそう言われると、
改めて自分が悪かったんだって実感する。
いや、ずっと前から自分が悪いことは知ってたし、重々承知してた。
病気が治った僕は、とにかくスポーツをすることにハマったんだよ。
べつに、病気が治る前からある程度の運動ならできないことはなかった。
血液製剤を投与する、という条件つきだったけど。
それでもやっぱりさ、慣れない動きをしたりすると、
すぐに、からだのどこかを痛めるんだよ。
普通の人が筋肉痛ですむ運動も、僕の場合だと内出血を起こしたりするんだ。
自慢じゃないけど、舌を噛んで入院したことだってある。
197: 2014/04/02(水)01:00:17
そのせいか昔から、危ないことにはすごい敏感だったな。
だから、病気が治った僕はいろんな運動をしまくった。
ハヅキには言わなかったけど、
ときどき市民プールに泳ぎに行ったり、ジョギングとかもはじめてさ。
病気が治った僕は、本当に生まれ変わったような気分だったんだよ。
昔から運動してなかったせいで、やっぱり最初は苦労したけど。
それでも、気持ちとしては以前とはぜんぜん違ったんだ。
だけど、ハヅキは変わらず僕を心配してばかりだった。
僕の持病を治した本人のくせに。
なんかそれがすごい悔しかったんだ。
僕が運動をはじめた一番の理由は、ハヅキに認めてほしかったからなのにさ。
ハヅキの態度は一向に変わらなかったんだ。
198: 2014/04/02(水)01:03:12
たしか、高一の冬だったかな。
ハヅキとふたりで校舎の廊下を歩きながら、なにかを話してたんだ。
そのときに、ハヅキがいつものように、僕を心配してなにかを言ったんだ。
気づいたら「いいかげん、しつこい!」ってハヅキに怒鳴りつてたんだよ。この僕が。
廊下にいたヤツらがみんな、僕たちに注目してたな。
「おまえの世話はもういらない」
あのときのハヅキの顔、あと半世紀は忘れられないだろうな。
十年以上いっしょにいたのに、初めて見る顔をしてた。
本当に伝えたかったことと、実際に口から出た言葉が、
ズレてるっていうのはわかったけど、どうしようもなかった。
あのときから、僕たちの関係は急激に変わっていった。
交わす言葉はなんかギクシャクしてたし、目があうことも減った。
いつもいっしょにいたのに。
気づいたときには、ハヅキは話すことがめずらしい相手になってた。
199: 2014/04/02(水)01:04:55
「そうなんだよな。悪いのはオレなんだよな」
「もう少し言いかたってものがあったよね。
でも、ハヅキちゃんも兄ちゃんも、本当にお互いのことが大好きだから、
今みたいな関係になっちゃったんだよね」
レミの口調は優しかった。
「だってそうでしょ?
兄ちゃんは、大好きなハヅキちゃんに認めてほしくて、
病気治ってからいろいろ頑張ってたじゃん。
ハヅキちゃんはハヅキちゃんで、そんな兄ちゃんの意思を尊重した」
大好きだったから、すれちがっちゃったんだよ。
そのレミの言葉を聞いたとたん、
夕焼けにそまった景色が揺らいで、僕は両頬をおもいっきり叩いた。
200: 2014/04/02(水)01:05:46
「そうだな。そうだよ、好きなんだよな」
一番大切なことを、今の今まで見失っていた気がする。
僕は大きく息を吸った。
どこか海のにおいが混じった風が、肺を満たすと少しだけ気持ちが落ち着いた。
どうやって『ハヅキ』を救うのか。
『ハヅキ』にとっての救いとは?
僕が思いつけるのは『ハヅキ』の足を治すことぐらいだった。
でも、それでさえ今は難しい。
『のろい』を消すことができれば……。
消す、という単語が僕の脳を針のように刺激した。
切り取られた記憶のパノラマが、急き立てるように僕に迫ってくる。
201: 2014/04/02(水)01:07:14
自分の病気のことが脳裏をよぎる。
同時に違和感のようなものが、胸にひっかかる。
「ハヅキは病気を消した……『ねがい』を使って……『ねがい』は秘密を……」
記憶のかけらを拾い集めて、パズルのように組み立てていく。
なんとなく、違和感の正体が読めた。
「お前……ハヅキがオレの病気を治すとき、相談されたりした?」
レミは僕の質問の意図が読めなかったのか、「相談?」と聞きかえした。
「オレの病気が治る、三日前ぐらいだったと思うんだけどさ。
レミ、妙にそわそわしてた気がしてさ。
ハヅキに数日前から、オレの病気のことで相談されてたのかなって思ったんだ」
レミの眉間にわずかにしわがよる。
必氏に僕の考えを見抜こうとしている、それがわかった。
「もちろんだよ。ハヅキちゃんは、あたしに相談したよ、うん」
そして、レミのその言葉で予想は、ほぼ確信に変わった。
202: 2014/04/02(水)01:09:06
僕ら人間がもらえる『ねがい』には、いろいろな『ねがい』がある。
でも、厳守しなきゃいけないルールや、
それを無視したら『のろい』をくらうことは、共通している。
そしてもうひとつ。
この『ねがい』には、共通点がある。
『ねがい』をもらえたときは、無意識にわかるのに、
『ねがい』が消えたかどうかだけは、わからないってことだ。
『ねがい』の結果をみて、初めて僕らはそれが成立したかどうか知ることになる。
だから、勘違いが起きることだってあるはずだ。
少なくとも、僕は今の今までそうだった。
ある種の確信をもって、僕はレミに言った。
「オレの病気を治したのは、お前なんじゃないか?」
203: 2014/04/02(水)01:10:31
レミの目が見開かれる。
だけど、すぐにレミはぶんぶんと首をふった。
「なに言ってんだよ、兄ちゃんの病気を治したのはハヅキちゃんでしょ。
だいたいあたしの『ねがい』じゃ、兄ちゃんの病気は治せないし」
やっぱり人間って、混乱したりすると余計なことまで話しだすんだな。
「レミ、おまえの『ねがい』ってなに?」
答えようとしない妹のかわりに僕は言った。
「おまえの『ねがい』って、誰かになにかをあげる……みたいな『ねがい』なんじゃない?」
おそらくほとんど正解だったんだろうな。
レミは必氏に否定したけど、かえってそれが僕の推測を裏づけることになった。
204: 2014/04/02(水)01:12:01
そもそも、おかしいなって思うべきだったんだ、僕は。
ハヅキがレミに『ねがい』について相談した。
だから、レミは僕が病院の検査に行く数日前から、そわそわしていた。
この前提、そもそもハヅキの性格を考えるとありえないんだよな。
わざわざレミに相談するなんてこと、ハヅキがするわけがなかった。
『ねがい』は、使った本人以外の口から伝わっても『のろい』にかわる。
だからこそ、『ねがい』を使う前にそれについて口にする人が少ないんだ。
当然、ハヅキがレミに相談したとは考えられない。
じゃあレミの落ち着きがなかったのはどういうことか。
今のレミの態度。ハヅキが検査を急かさずにはいられなかったこと。
これらすべてを総合して考えれば、もう答えは出る。
僕の病気を治したのは、レミだって。
ハヅキや僕のやりとりを見ていれば、
ハヅキが『ねがい』を使ったことは気づくことができる。
もちろん、レミは『ねがい』について口にすることはしなかった。
それに、もう一度『ねがい』を試せば、自分の『ねがい』が成立したかは確かめられる。
205: 2014/04/02(水)01:14:34
なん回聞いても、レミは僕の推測を否定した。
それでも僕があんまりにもしつこかったんだろうな。
根負けしたように、レミは僕に訊ねた。
「どうしてあたしが兄ちゃんの病気を治したかって、証明しようとするの?」
「おまえの口から『ねがい』を聞くためだよ」
僕がなにをしようとしているか、なんとなくわかったんだろうな。
「『のろい』は『ねがい』の対象にかかる。
だからおまえにはなんの心配もないよ」
レミの目がわずかに潤んでいたのを、僕は見逃さなかった。
「バカ。兄ちゃんが不幸になるかもしれないのに、あたしにそうしろって言うのかよ」
「これしか『ハヅキ』を助ける方法がないんだよ」と僕はかっこつけた。
うまく笑えたかな。
206: 2014/04/02(水)01:16:32
僕を今まで支えてくれた人に、申し訳なくてしかたがなかった。
でも、これしか方法はないと思った。
「『のろい』にかからなきゃ、ハヅキが『ねがい』を使ってないことを証明できないからな」
レミはうつむいて、しばらくなにも言わなかった。
自分の影を見つめるレミは、こぶしをギュッと握って考えているようだった。
どれぐらい時間がたったんだろ。
レミはなんどか、口を開いたり閉じたりしたあとに言った。
自分の『ねがい』が『誰かにひとつだけ、与えることができる』ということを。
そして、僕の病気を治した方法について。
これは僕の予想の斜めうえだった。
僕の病気は血友病だった。
血液凝固因子が欠けているせいで、血が止まりにくい病。
レミは『ねがい』を使って、僕に欠けた第八因子を与えた。
207: 2014/04/02(水)01:18:03
レミは話し終えると泣きだしてしまった。
なんかいも町中に響くような声で僕を罵って、道行く人がみんな見てたな。
これで『のろい』が僕にかかる。
そうなったら、今のハヅキのもとへ行けばいい。
根本的な解決になっていないのは、わかってるつもり。
でも、少なくとも『ハヅキ』の足を治すことはできるはずだ。
僕はレミの頭に手をおいて謝った。
「許さない、バカ」と言って結局しばらく泣いてたな。
本当に僕はバカだ。
いろんな人のお世話になって、ここまできたのに。
そういう人たちの思いを、全部無駄にするようなまねをしたんだから。
217: 2014/04/02(水)19:09:08
僕に異変が起きたのは、次の日の昼ごろだった。
昨日と同じように『ハヅキ』をおぶって海に行って、
その帰りに足首の違和感に気づいた。なつかしい感覚だった。
僕と同じ病気の人ならわかるだろうけど、血友病の人間って、
痛くなる前兆みたいなものに敏感になるんだよ。
レミに『ハヅキ』をまかせて、僕はすぐにいつもの病院へ行った。
普段とちがって予約していないせいで、ずいぶんと待たされたな。
病院へ行くころには、足首が完全にはれていた。
血液検査をしてわかった結果は、血友病の再発。
しかも、単なる再発に終わらなかった。
今まで使ってきた血液製剤に対する抗体まで復活した。
その日は、どうしようもなくて看護師さんに注射を打ってもらって帰った。
家に帰るころには、油のすり切れたゼンマイ人形みたいな歩き方しかできなかった。
218: 2014/04/02(水)19:10:30
『ハヅキ』には『のろい』のことは隠すつもりだったんだよ。
検査の記録をもらったら、今のハヅキのところへ行くはずだった。
だけど、普通に歩くのが困難なんだ。
そうじゃなくてもハヅキは、
僕が内出血を起こして足をひきずる光景をいやというほど見ている。
バレないわけがなかった。
結局、全部話すことになってしまった。
『ハヅキ』のそのときの顔は、本当になんて言っていいかわからない表情をしてた。
でも同時に見覚えもあった。
『おまえの世話はもういらない』って、僕に言われたときに少し似ていた気がした。
219: 2014/04/02(水)19:12:07
「『のろい』をといて……それで、わたしはどうすればいいの」
『ハヅキ』の言うことはごもっともだった。
「そのあとのことは、そのあとに考えよう」
「いいかげんすぎるよ」
いちおうその先のことについては、考えはあった。
おそらくだけど、今回の『ハヅキ』のような事例はどこかにあるのではないか?
探せば見つかるかもしれないし、なにより僕は『ハヅキ』に生きてほしかった。
あとはレミと同じような反応だった。
僕を怒って、泣いて。
自分のやらかしたことが、本当に最低極まりない行為だって、そう思い知らされたよ。
220: 2014/04/02(水)19:14:18
本当にひさびさに幼馴染の説教を受けたんだよ。
あんな宣言してたくせに、情けないったらありゃしない。
不謹慎だけど、それでも少し嬉しかったな。
自分を思って、泣いてくれる人がいるってことが。
でもそんなふうに想ってくれる彼女の意思を、僕は踏みにじったんだよな。
そう考えたら、足の痛みがよけいにひどくなったような気がした。
抗体が復活したからと言って、薬がまったく効かないわけじゃない。
僕はレミに冷蔵庫から注射をとってもらって、残った製剤を全部打つことにした。
三年ぶりに注射を組み立てたのに、手が完全に覚えてたから、あっさりとつくれた。
あとは注射を打って、製剤を流しこむだけ。
駆血帯で腕をしばって、浮きでた血管に0.6ミリの針を通す。
実に簡単なことだ。
でも。自分でも驚いたんだけど、失敗したんだ。
221: 2014/04/02(水)19:16:16
注射の針を血管に通すのって、慣れるとミスするのが難しいぐらいに簡単なんだよ。
なのに、三回連続でミスした。
いくらブランクがあるからって、信じられなかった。
三つ目の針を肌から抜いて駆血帯をほどいた。
気づいたら、そのまま駆血帯をぶん投げてた。
僕はそこで初めて気づいたんだよ。
自分の手がふるえてるってことに。
自分が『病人』に戻ったことに、本気でショックを受けているってことに。
覚悟してたつもりだった。
『のろい』によって薬に抗体ができる可能性だって考えてた。
むしろこの程度ですんでよかった。
そう思ってたつもりだったんだ。
「ごめん」って言って、なんとか笑おうとしたけど、
自分でもうまく笑えていないっていうのはわかった。
222: 2014/04/02(水)19:19:09
『ハヅキ』にだけは、こんな姿を見せちゃいけなかったのに。
本当に僕はなにをやってるんだ。
「もう一度、挑戦してみよう。今度は右手で」
『ハヅキ』は僕の右腕をつかんだ。
注射の針を通すのは簡単だって言ったけど、
僕は左腕の関節の部分にしか打ったことがないんだよ。
さすがに三回も打ったせいで駆血帯でしばるわけにもいかず、
『ハヅキ』の言ったとおりにすることにした。
駆血帯を取りに行こうとしたけど、
『ハヅキ』が僕の腕をつかんで「わたしがこうしたほうが成功するよ」って笑った。
ハヅキのまつげは、まだ涙で濡れてて光ってたな。
僕は『ハヅキ』に腕を握られたまま、注射することにした。
僕の腕をつかむ『ハヅキ』の手は、やっぱり冷たかった。
慣れない場所での注射は少し痛かった。
でも、注射の針はきちんと血管をとおった。
223: 2014/04/02(水)19:25:23
注射を通常の二倍の量を打って、
さらにシップを張って足首をあげて寝たのが、よかったんだろうな。
次の日には足首のはれはきちんと引いてた。
かわりに痣ができてて、足だけゾンビみたいな色になってたけど。
レミが卒倒しそうになってたけど、僕は「大丈夫だってば」って笑った。
痣ができるってことは、出血が止まりかけてるってことだから。
『ハヅキ』も心配してたけど、そのことを教えると少しだけ安心した。
赤と紫と緑色を混ぜたみたいな色をした、自分の足を見てたら、
ハヅキのある喩えを思い出した。
人生って道とかで、たとえるのが普通だと思うんだ。
でもハヅキは、人生のことを絵の具で喩えたんだよ。
224: 2014/04/02(水)19:28:11
「人生って色みたいなものだと思うんだ。
わたしたちって、生きてるうちにいろんな色を知るでしょ?」
お約束、僕は首をひねって「なに言ってんだ」って顔をしたな。
でもハヅキは僕の反応にはかまわなかったな。
僕に聞かせるっていうより、ひとりごとみたいに続けた。
「それで、知った色をどんどん足していって、自分なりの色をつくっていく。
みんな、自分の理想の色を目指すんだけど、
たぶんほとんどの人が、理想とはかけはなれた色をつくっちゃうと思うの。
それでも、自分の理想の色をがんばって追い求める。
人生ってそういうものなんじゃないかな?」
僕が「うん、意味不明」とうなずいたら、ハヅキは怒った。
「赤から黄色、白から黒を目指してがんばるんだよ」って言われて、
そのときは、ハヅキの言葉について考えるのを完全に放棄したんだよな。
225: 2014/04/02(水)19:30:02
でも、今なら少しわかる気がする。
このみにくい痣の色は、僕がよかれと思って生み出したものだ。
「ほんと、オレはダメなヤツだよな」
無意識に口から出た言葉に、『ハヅキ』もレミも深くうなずいた。
「それじゃ、行こっか」
そう言ったのは、僕じゃなかった。『ハヅキ』だった。
「なんで? 『ハヅキ』とレミは家で待ってろよ」
「でも、それで『わたし』を説得できるの?」
たしかに。『ハヅキ』の指摘は正しかった。
さんざん迷ったあげく、僕は『ハヅキ』を連れて行くことにした。
レミも状況説明のために必要という結論になり、
三人で今のハヅキのもとへ行くことになった。
226: 2014/04/02(水)19:32:03
僕と『ハヅキ』の足のことを考えて、ハヅキのもとへはタクシーで行くことにした。
もちろん、全額僕がはらった。
『ハヅキ』はタクシーに乗ってる間、ずっと窓から外を眺めていた。
これから、もうひとりの自分に会うってことで緊張しているのかもしれない。
もしくはもっと先のことを考えているのかもしれない。
レミはずっと、タクシーの料金メーターをにらんでたな。
料金があがるたびに「兄ちゃん、あがった」といちいち報告してきた。
恥ずかしいヤツめ。
だけど昔の僕もタクシーに乗るたびに、親にそんなことしてたなと思い出して、
苦笑いしてしまった。
228: 2014/04/02(水)20:44:33
タクシーを降りて目的の場所について、レミに電話させた。
ハヅキの家も、僕の家も今日は両親がいるため、
人目につかない公園で落ちあわせることにした。
錆びれた滑り台と砂場、それからボロボロのベンチしかない、殺風景な場所。
公園、というよりは空き地といったほうがいいかもしれない。
ハヅキは指定した時間の十分前に来た。
昔の『ハヅキ』のほうが見慣れてしまったせいか、今のハヅキを見ると、
急に自分が未来に来たような錯覚を覚えた。
ベンチに座っている『ハヅキ』に気づくと、息が詰まったように立ちすくんだ。
『ハヅキ』は『ハヅキ』で、未来の自分を食い入るように見ていた。
でも、『ハヅキ』はもうひとりの自分を見たあと、
なぜか今度は僕のほうをうかがってたな。
同じ人間がふたりいるという光景は、想像以上に衝撃的な光景だった。
レミなんかは、ずっとふたりを交互に見比べてたな。
229: 2014/04/02(水)20:49:00
時間が止まったみたいに、かたまっていたハヅキが、僕に向かって言った。
「そっくりさん、じゃないよね。
……もしかして、神様におねがいした?」
うなずこうとした僕より先に、『ハヅキ』が答える。
「そうだよ。そうですよ? ……えっと、もうひとりのわたし?」
『ハヅキ』も少し混乱してるみたいだった。
「どういうことか、説明してもらっていいかな」とハヅキ。
今度こそ説明しようと、僕はベンチから身を乗り出したけど、
『ハヅキ』がまた僕より先に口を開いた。
「わたしに説明させてくれないかな」
「できればふたりっきりがいい」ともうひとりの自分を見て、『ハヅキ』は続けた。
230: 2014/04/02(水)20:53:25
ハヅキは少し間をおいて、こう言った。
「わたしもそうしたいな。ふたりだけで話させてくれる?」
ふたりのハヅキに同時に見られて、僕は目をそらした。
冷蔵庫で極限まで冷やした製剤を血管にとおしたときと同じような寒気が、一瞬だけした。
ふたりのハヅキには、ふたりにしか通じないものがあるのだろうか。
同じ人間。今と昔のハヅキ。
「オレが話すべきだと思うんだけど」
『ハヅキ』は「どうしても話したいことがあるの、わたしと」と未来の自分を見た。
視線を感じて、僕はハヅキに目を向けた。
一瞬だけ視線があったけど、彼女はすぐにもうひとりの自分へと向き直る。
「じゃあ話が終わったら、あたしのケータイに連絡してね」
レミがそう言うと、ふたりは同時にうなずいた。
なぜか右腕の関節が、チクリと痛んだ気がした。
231: 2014/04/02(水)21:00:10
「落ち着きなよ。そんなに歩くとまた足が痛くなるよ」
「わかってるよ」
「わかってるなら、動くのやめなよ」
僕らは公園のそばのコンビニの駐車場で、ハヅキたちを待っていた。
「冷たいし、さむい!」
レミは冬にも関わらず、アイスを頬張っていた。
あのふたりがどんな会話をしているのか。
それが気になってしかたがなかった。
しかもすでに、一時間もたっている。
「兄ちゃんさ、ハヅキちゃんのこともそうだけど、
自分のことは考えてんの?」
「いちおうな」と僕はそっけなく答えた。
232: 2014/04/02(水)21:17:19
昔から積み重ねてきたものは、全部なくなってしまったわけだ。
また注射に世話になる生活がはじまる。
親にもまた、迷惑をかけることになる。
「レミ」
「なに?」
「ごめんな。おまえがせっかくオレのために『ねがい』を使ってくれたのに」
レミは、食べ終わったアイスをゴミ箱に入れた。
「ホント、おバカなんだから。
許してほしかったら、神様のかわりにあたしのねがいをかなえてね?」
「神様のかわり、か」
僕のつぶやきをかき消すように、レミのケータイが鳴る。
ふたりのハヅキの話し合いは終わったみたいだ。
233: 2014/04/02(水)21:46:30
ふたりのハヅキは、ベンチに腰かけてなにかを話していた。
遠目から眺めていると、ふたりの区別はまったくできなかった。
ハヅキは「用事があるから、先に帰るね」と僕に言った。
やっぱり僕とハヅキの目があうことはなかった。
それで、よくわからないけど不安になったんだろうな。
「ハヅキ」って僕は彼女のことを呼び止めていた。
ハヅキの背中は僕をふりかえらなかった。
「なに?」
「その……たのんだ」
「『ハヅキ』を」と続けるつもりだった。
でも彼女の背中はその言葉を拒否する気がした。
僕は口をにごした。
そのあとハヅキがなにか言ったけど、
冷たい風がその言葉をさらっていってしまった。
また僕は、彼女の影を見送ることしかできなかった。
236: 2014/04/03(木)01:30:54
それから行きと同じようにタクシーに乗って、僕らはアパートに戻った。
タクシーに乗ってる間、ずっとハヅキの後姿がチラついてたのかな。
少しだけ胸が重くなった気がした。
『ハヅキ』も疲れたのか、帰りは眠ってたな。
『ハヅキ』の寝顔は、
今まで見た中で一番あどけなくて、一番無防備なものに見えた。
『のろい』がとけるってわかって安心したのかな。
行きは料金メーターとずっとにらめっこしてたレミも、
あきたのか、帰りはずっと窓の外の景色を見ていた。
237: 2014/04/03(木)01:31:57
家に帰ってからは、これまでどおり。
『ハヅキ』の表情も、昨日に比べると明るかった。
未来への問題は山積みだったけど、
昨日に比べれば先は明るいように思えた。
食事、風呂、その他のやるべきことを終えて、僕たちは眠りについた。
今日はレミも『ハヅキ』もよくしゃべってたからかな。
寝静まった部屋の音が妙に気になって、僕はなかなか眠れなかった。
なんとか寝ようと思って、
まぶたをきつく閉じてみるんだけど、今度は見覚えのある背中が浮かんできてさ。
今すぐに寝るのは無理そうだと思って、僕はからだをおこした。
238: 2014/04/03(木)01:33:30
ハヅキは、もう『ねがい』を使ってくれたのか、とか。
明日からはどうするか、とか。
いろいろ考えてたら、完全に目がさえちゃったんだよ。
「起きてる?」
てっきり『ハヅキ』は眠っているものだと思ったけど、僕と同じで眠れたかったらしい。
「海に連れていって」
「今から?」
「今から」
『ハヅキ』の足はまだもとにはもどってないらしい。
『ねがい』を使ってから、叶うまでには、
ある程度のタイムラグがあるのは僕も知っていた。
どうせ眠れないし、彼女に頼まれて僕がことわれるわけがなかった。
239: 2014/04/03(木)01:34:19
真夜中の町は、あまりにしずかで風の音すらしなかった。
ひょっとすると、今この世界にいるのは僕と『ハヅキ』だけなのかもしれない。
「レミちゃんは少なくともいるでしょ」
僕におぶられていた『ハヅキ』が、そう言った。
耳もとに彼女の息がかかって、少しだけくすぐったい。
そういえば、この声をうしろから聞くってけっこうめずらしいな。
歩いてるとちゅう、『ハヅキ』が一度だけ僕の足について聞いてきたけど、
「大丈夫だよ」って答えるとそれっきりなにも聞いてこなかった。
海の音が近づいてくる。
どうしてか、胸が苦しくなった。
240: 2014/04/03(木)01:35:17
海のそばのベンチに腰をおろすと、『ハヅキ』は僕にお礼を言った。
「わたしのわがままを聞いてくれて、ありがとね」
「『ハヅキ』のわがままなんて、そう聞けないからな。特別だよ」
骨まで染みるような冷たい風に、僕と『ハヅキ』は自然と寄りそった。
「でも、本当にめずらしいよな。
お前がこんなこと言うなんて。
夜の海のそばに行くなんて危ないって言いそうなのに」
「べつに海に入るわけじゃないからね。
それに、冬の夜の海なんて、ロマンチックでしょ?」
ハヅキは目の前の真っ黒な海に目を細めた。
今までふたりで見てきた海とちがい、
黒いそれは、月をぼんやりと浮かび上がらせて、しずかに広がっていた。
241: 2014/04/03(木)01:36:11
『ハヅキ』は自分の手に白くなった息をかけて、
「寒いね」と僕の右手に左手をそえて笑った。
『ハヅキ』の左手はやっぱり冷たかったけど、僕の右手は少しだけあったまった。
「ロマンチックと言えばさ」と『ハヅキ』は前置きする。
「仮に、これから世界が終わるとしたらどうする?」
「急になんの話だよ」
「いいから、答えてよ。
……そうだね、これから日の出とともに世界が終わるってなったら、どうする?」
波の音が遠くなった気がした。
世界が終わるとき、人はどうするんだろ。
そして、僕は……。
242: 2014/04/03(木)01:37:34
想像してみた。
世界が終わる光景は頭に浮かばなかったけど、
自分がどうするのかは、なんとなく想像がついた。
「たぶん、世界が終わる前になったらさ。
最期の五分ぐらい前までは、こんなふうに落ち着いていられると思うんだ、オレ」
『ハヅキ』が先を促したので、僕は続けた。
「でも四分前になったら、今までのことをふりかえってさ。
で、三分前になったら、急に泣き出すと思うんだ。
二分前になったら、もう来世のことなんて考え出してさ。
そんでもって、一分前になったら来世の来世のことまで考えて。
最期の三秒で、『もっと生きてえ!』って海に向かって叫んでると思う」
『ハヅキ』は「ぽいね」と言って、ちょっとだけ吹きだした。
243: 2014/04/03(木)01:38:46
僕によりかかっていた『ハヅキ』が、
からだを起こして、雲ひとつない空を見あげる。
僕は『ハヅキ』の横顔を見た。
群青を吸いこんだ瞳は、星を散りばめたみたいに輝いていて、
気づいたら、僕は彼女の左手を握っていた。
『ハヅキ』は言った。
「どっちがいいんだろうね。
もう思い残すことがないって思える人生と。
もっと生きたいって思える人生って」
目の前の海のように、答えが無限にある疑問。
『ハヅキ』はどっちと答えるのか気になったけど、
僕は聞くことができなかった。
244: 2014/04/03(木)01:39:57
「オレは、もっと生きたいって思える人生がいいなって。
みっともなくても、見苦しくてもいいからさ」
「生きることに貪欲なんだよね、きっと」
「うん、流れてる血のせいだろうな」
「それに、石みたいにすごいガンコだし」
「オレが石だったら、そっちはなんだよ?」
「水、かな」
僕が石で、ハヅキが水。
わかるようで、わからない彼女の言葉。
いや、本当にわからないのは言葉じゃない。気持ちだ。
僕はいつだってハヅキの気持ちの半分も理解できてなかったんだ。
今だってそうだ。
245: 2014/04/03(木)01:44:17
僕と『ハヅキ』は顔を見合わせた。
腹をかかえて笑いたい気分だったのに、同時に声をあげて泣きたくなった。
「ひとつ聞いていい?」と僕は右隣にいる『ハヅキ』に訊ねる。
『ハヅキ』が小さくうなずく気配がしたので、僕は口を開いた。
「公園でなにを話したんだ? ……もうひとりのハヅキと」
「わたしたちふたりでしか、話せないことかな。
わたしが知らないこと、わたしが知ってたこと。
とにかく、いろんなことを話したんだよ」
「いろんなことって?」
「いろんなことだよ。教えてほしい?」
「全部じゃなくていいから、少しだけ教えてほしいな」
そう言うと、『ハヅキ』は身を乗り出して僕をふりかえった。
246: 2014/04/03(木)01:44:51
「でもそれって、べつにわたしから聞かなくてもいいよね?」
「ほかに誰が教えてくれるんだよ」と僕。
「未来のわたし」と『ハヅキ』に言われて僕は、彼女の顔を見た。
『ハヅキ』は少しだけ悲しそうにつぶやく。
「あの公園でふたりを見たとき、なんとなくわかっちゃったの」
僕はそうか、としか言えなかった。
波の音が僕を笑ってる気がした。
247: 2014/04/03(木)01:45:59
「オレのせいなんだ。
オレのせいで、ハヅキとは今みたいになっちゃったんだよ」
僕の声はふるえていた。
「オレがハヅキに、あんなこと言ったから……」
「『おまえの世話はもういらない』……だったよね?」
思わず目を見開いてしまう。
そうだ、目の前の『ハヅキ』も僕に同じことを言われていたんだ。
気づいたら、言葉が勝手にあふれていた。
「ずっと認めてほしかったんだ。
オレって、いつもハヅキに頼ってばかりで……そんな自分がなさけなくて。
病気が治ってさ。ハヅキを頼る自分から。
ハヅキに頼られる自分になろうと思ったんだよ」
目頭が熱くなって、僕はまぶたをきつく閉じた。
まぶたの裏にあらわれたのは、僕がずっと追っている後ろ姿だった。
248: 2014/04/03(木)01:48:01
とちゅうから、自分でもなにを話しているのか、わからなくなる。
あふれでる想いを、断片的に言葉にしていく。
「本当に言いたかったのは、もっとちがうことだったんだよ。
本当にハヅキに言わなきゃいけないのは、あんな言葉じゃなかった。
ずっと前に見つけてたんだよ、オレ。
あいつに言わなきゃいけない、本当の言葉を」
ずっと言わなきゃいけない。
そう思ってたのにすれちがったまま、ここまで来てしまった。
「知ってたよ、わたし」と彼女は、僕に微笑んでみせた。
「なにを考えてたのかも。
なにを思って、あんなことを言ったのかも。
全部知ってたよ。
わたしのことを鬱陶しいと思って、あんなこと言ったんじゃないって」
波の音が聞こえなくなっていた。
249: 2014/04/03(木)01:48:59
「でもね、できればその言葉を口にだして言ってほしいんだ」
僕の開きかけたくちびるに、『ハヅキ』は指をあてて、首をふった。
「わたし、じゃない。みらいのわたしに、ね」
『ハヅキ』の瞳が潤んで見えるのは、僕の思いこみなのか。
ふたりのハヅキの表情が重なる。
「どんな想いも自信も、時間がたてば絵の具みたいに色あせちゃうし、いつかは消える。
だけど、わたしたちはまだ間に合うよ」
『ハヅキ』の言葉のひとつひとつが白い息になって、僕の胸に染みこんでいく。
僕は『ハヅキ』がどうして、
ハヅキとふたりだけで話をしたのか、唐突にわかってしまった。
250: 2014/04/03(木)01:50:10
『ハヅキ』の左手が、僕の右手からはなれる。
僕がなにかを言う前に『ハヅキ』は、僕の頬を両手で包んだ。
そして、僕のおでこにじぶんのそれをくっつけた。
それは。
子どものころ、ハヅキが僕にやってくれた『おまじない』だった。
「すれちがっちゃったんだよね。神様にねがったせいで。
でも会おうって思えば、また会えるから――」
『ハヅキ』の手が僕の耳をふさぐ。
なにも聞こえなくなる。
僕の鼻のしたで、『ハヅキ』の唇が動く。
なにを言ったかはわからなかった。
251: 2014/04/03(木)01:58:59
『ハヅキ』が僕からはなれる。
呆然とする僕に向かって、彼女は舌をだして笑ってみせた。
なにかを言おうと思ったのに、出てくるのは声じゃなかった。
頬を伝う涙を止められなかった。
「なんで泣いてるの?」
「だって……!」
声を詰まらせる僕の頭を『ハヅキ』は撫でる。
「これからまた、はじまるんだよ」
「ほら」と言って、彼女は海を見た。
252: 2014/04/03(木)02:03:01
『ハヅキ』の白い頬があわく染まる。
僕も彼女にならう。
空にかがやく星を、水平線から顔をだした太陽が呑みこんでいく。
空が白みはじめていることに、僕はようやく気づいた。
風が吹きはじめた。
世界は終わらない。
新しい一日がはじまる。
でも。
僕の右隣にはもう『ハヅキ』はいなかった。
254: 2014/04/03(木)02:12:05
道路から海を見おろすと、ハヅキが僕の左隣で遠慮がちに言った。
「海だ」
僕とハヅキはふたりで海に来ていた。
ふりそそぐ太陽をあびて、鈍くかがやく海が目の前に広がっていた。
僕はふと、右隣を見た。
もちろん、誰もいるわけがなかった。
僕は無意識に右腕をおさえてしまった。
世界は『ハヅキ』を忘れた。
彼女のことを覚えているのは、僕だけになったんだ。
「冬に見る海って少し変わってるかも」
ハヅキが彼女と同じことを言ったから、僕は思わず笑ってしまった。
255: 2014/04/03(木)02:15:03
ふたりのハヅキがどのような会話を交わして、
『ねがい』について話し合ったのかはわからない。
でも、ハヅキもレミも、彼女のことは完全に忘れてしまっていた。
ハヅキの『ねがい』は、なにかひとつを消すことができるというものだった。
これは僕の完全な推測だけど、おそらく彼女は存在ごと消したんじゃないかな。
どうして彼女がそんな選択をしたのかって?
すれちがった僕たちのため。
そして、ガンコな僕のためだったんだろうな。
そして、もうひとつ。
僕の血友病はまた、完全に治ったんだ。
257: 2014/04/03(木)02:29:59
そう、僕は『ねがい』を使えるのはハヅキしか無理だって思ってた。
でもそんなことはないんだよな。
だって『ハヅキ』だって『ねがい』をもらって、
そしてそれは使ってなかったんだから。
どうして僕だけが、彼女のことを覚えているのか。
それはわからない。
『ねがい』のおまけのようなものかもしれない。
もしくは、小さなほころびのようなものなのかも。
あるいは……。
ふと、右腕の関節が針に刺されたようにチクリと痛んだ。
258: 2014/04/03(木)02:37:17
風が強く吹いて、ハヅキが僕によりかかる。
でもすぐにハヅキは僕からはなれた。
相変わらず僕とハヅキの間には、溝のようなものがあるらしい。
ハヅキはどうしていいか、わからないといった感じで、
「そろそろ行こっか、寒いし」と言った。
それから僕たちはしばらく、海をあとにしてひたすら歩いた。
お互いになにも話さなかった。
「病気は、大丈夫なんだよね?」
ふと、ハヅキが思い出したように言った。
言ったあとで、「あっ」と口もとをおさえた。
僕はかわいたくちびるを舐めた。
少しだけ緊張しているみたいだ。
でも、彼女との約束だし、僕はずっと前から言うって決めていた。
僕はうなずいた。
259: 2014/04/03(木)02:43:31
「もうひとりで大丈夫だから」
たったこれだけの言葉を言うのに、何年かかったんだろう。
ハヅキはわずかに目を見開いて、それからほほえんだ。
ずっと見たかった笑顔がそこにはあった。
「知ってるよ。ずっと前から」
僕とハヅキはいつのまにか並んで歩いていた。
やっぱり僕とハヅキの肩が触れることはないし、
僕らの間をすり抜ける風は、冷たいままだ。
260: 2014/04/03(木)02:45:15
それでも僕たちは、並んで歩く。
神様にねがったせいで、僕たちはすれちがった。
でも、僕たちはまためぐりあえた。
「なんか、ひさびさにハヅキの顔を見た気がするよ」
僕がそう言うと、「わたしも」とハヅキは笑って僕を見あげた。
おわり
261: 2014/04/03(木)02:47:17
ここまで読んでくださってありがとうございました
262: 2014/04/03(木)02:53:12
分からん部分もあるけどよかった
ちょっとうるっと来てまったわww
ちょっとうるっと来てまったわww
263: 2014/04/03(木)02:58:12
久々にいい文を見た気がする
二人は結ばれるんかね
あの歌詞通りだとすると…
乙
二人は結ばれるんかね
あの歌詞通りだとすると…
乙
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