1: 2011/09/15(木) 07:11:04.23
梓「……ん……あつぃ……」

いつの間にか眠っていたらしい。
さっきまで日陰だったはずなのに、傾き始めた太陽の光がじりじり肌を焼いている。

梓「あーっ!焼けてる……。今年は絶対黒くならないようにって気をつけてたのに……」

ひりひりする鼻をちょっと触って、溜息を吐いて、えいやっと起き上がる。
かたわらに置いた飲みかけの缶ビールを一口含んでみる。

梓「……ぬる」

思わず顔をしかめて、缶を元の場所に戻した。
母に言いつけられた物置の片付けは、まだ半分くらいしか進んでいない。

梓「っていうかお母さん、ガラクタ溜め込み過ぎだよ」

アレ全部捨てちゃっていいんじゃない?と呟いて、
小さな庭の隅で開けっ放しの物置を睨んで、また溜息を落とす。

2: 2011/09/15(木) 07:12:03.75
 「病欠のくせにビール飲んで昼寝とか、結構なご身分ですね中野君?」

わざとらしい作り声に顔を上げたら、
門扉からひょっこり顔を出した純がコンビニ袋を掲げて、よぅ、と口角を上げた。

梓「……純」

純「お邪魔していい?」

梓「うん、鍵開いてるから」

純「玄関の鍵は掛けておきなよ、不用心だなあ」

そう言いながら、純は遠慮なく玄関に入ってリビングを横切り、
庭に面した部屋ーー私がいま座っているココ、までやってきた。

3: 2011/09/15(木) 07:12:46.36
純「ほい、お見舞い」

ぴと、と冷たい感触が首筋に触れて、にゃうっ!と声が出た。

純「はは、ほんと猫だね梓は」

梓「うるさい。っていうかビール?」

純「胃痛が治まってるなら一緒に飲んであげようと思って買ってきたのだよ」

梓「……それはどうも」

純は私と同じように掃き出し窓の桟に腰掛け、
ビニール袋からもう1本缶ビールを取り出した。

純「まいいや、んじゃおつかれー」

梓「……ん」

べこん、と缶をぶつけて、ちびちびと飲む。
いちばん近いコンビニで買ってきてくれたんだろう、ビールはよく冷えていた。

4: 2011/09/15(木) 07:13:39.41
純「ぷはぁ!くぁーっ、うめえ!」

梓「オヤジくさいよ」

おっとこりゃ失礼、と言いながら手の甲で口元を拭って純が笑う。

純「ねえ、さっきのモノマネ似てた?」

梓「編集長でしょ……。胃が痛くなるくらい似てたよ」

純「う、なんかごめん」

梓「ううん……。っていうか純、まだ仕事中なんじゃないの?」

そう聞いたら、純は缶を持つ手を止めて私を見た。
ちょっと困った顔で言い淀んで、ふう、とひとつ息を吐いてから口を開く。

純「昨日できなかった唯先輩のインタビュー、さっき時間作ってもらって済ませてきたよ」

唯先輩。
その名前を聞いて、お腹の奥がきりりと痛んだ。





5: 2011/09/15(木) 07:15:30.13
先輩たちの中で、唯先輩だけが音楽の道に進むことを選んだ。

大学時代、5人で出演したライブを偶然観に来ていたマネジメント会社の人が
メジャーデビューを視野に入れた活動を熱心にすすめてくれたのだけど、
5人で何度も何度も話し合って、澪先輩とムギ先輩は就職という堅実な道を選択した。

律先輩は就職せず、今もバイトでお金を貯めては色々な国を旅しているらしい。
いわゆるバックパッカーというやつだ。


先輩たちから1年遅れて大学を卒業した私も唯先輩と同様に音楽の道を選び、
父の音楽仲間に紹介していただいたスタジオミュージシャンに弟子入りした。

父より少しだけ年下のそのギタリストは私を娘のように可愛がってくれて、
「習うより盗め」が常識の業界にも関わらず、色々なことを教えてくれた。

6: 2011/09/15(木) 07:16:17.97
お師匠さんの下で雑用をこなしながらギターの腕を磨く毎日。
貧乏暇無しの言葉通りだったけれど、それでも楽しかった。


そんな生活が1年半続いたある日、お師匠さんがアメリカのジャズバンドに誘われて
しばらく向こうで生活することになった。
ついて行くことは叶わず、その代わりにと沢山の知り合いに声を掛けて下さり、
私はまだ未熟ながらミュージシャンとして独り立ちをした。


その頃、インディーズレーベルで活動していた唯先輩は着実にファンを増やしていて、
インディーズチャート上位に名前を連ねるほどになっていた。





7: 2011/09/15(木) 07:19:51.77
純「ねえ梓、今日のライブ行かないつもり?」

梓「……」

純「仕事抜きにしてもさ、唯先輩の地元凱旋ライブだよ?」

梓「……」

純「……。で、理由聞いていい?」

静かな声で問われ、缶ビールを持つ指に力が入る。

純「昨日、なんで急に帰ったりしたの?ていうかあれ、逃げ出してたよね?」

梓「……」

純「唯先輩びっくりしてたよ。梓、逢うの楽しみにしてたじゃん」

梓「……うん」

純「唯先輩と何かあった?」

ふるふると首を横に振る。
純はしばらく黙って、はあ、と大きな溜息を吐いた。

8: 2011/09/15(木) 07:21:31.92
純「あのね梓、こういう質問形式ってものすごく面倒くさいんだよね」

梓「……」

純「だから、できれば、梓から話してほしいんだけど?」

ごもっともです。
ゴメンと口の中で呟いたら、謝んなくていいから、と純が苦笑いした。

梓「…………いたの」

純「へ? いた、って?」

梓「あのギターの人……」

きり、と胃が捻られた気がした。思わず眉をしかめてお腹を押さえる。

純「ギター?バックバンドの?」

声を出せず、頷いてこたえる。

純「あの人がどうかし……あっ!」

梓「……」

純「もしかして、梓がギター弾けなくなった原因の……?」

黙ったままもういちど頷く。
純は合点がいった様子で、それでか、と呟いて眉間に皺を寄せた。

9: 2011/09/15(木) 07:22:37.01



ミュージシャンとして独り立ちしてすぐは、さすがに順風満帆とは言えなかった。

それでも小さな仕事をコツコツと受けていくうちに色々な人たちと知り合って、
少しずつだけれど、レコーディングやライブの単発サポートで声を掛けてもらえるようになった。

そんな折、ある歌手のライブツアーに同行することになった。
バックバンドはドラム、キーボード、ベース、リードギター、リズムギターの5人編成で、
私はリズムギターとして他のメンバーに紹介された。

初めてのライブツアーサポート。
どの会場もそんなに大きな規模ではないけれど、私にとっては初めての大きな仕事だった。

嬉しくて、純や憂、もちろん先輩方にも報告した。
特に唯先輩は自分のことみたいに喜んで、
近くの会場でやる時には絶対観に行くよ、と約束してくれた。


……けれど、ワクワクする心はすぐに打ちのめされてしまった。
私はギターを弾くことが出来なくなって、逃げるように桜が丘に戻ってきた。



10: 2011/09/15(木) 07:23:54.83
純「あの人だったんだ」

梓「……うん」

純「そっか……。それなら、うん、納得した」

梓「……」


地元に帰ってからは誰とも連絡を取らず、ほとんど引き蘢り状態だった私に
救いの手を差し伸べてくれたのは純だった。

純は自身が編集者として働いている地元情報誌の編集長に頼み込んでくれて、
音楽コンテンツの編集アシスタントとして編集部に入れてもらえることになった。

資料の準備やインタビューの文字起こしといった、必要とされた時だけ働く
いわば雑用係だけれど、それでも、やっぱり音楽に関われるのは嬉しかった。

与えられた仕事をこなしていくうちに少しずつ心がほぐれてきて、しばらくして、
唯先輩の凱旋ライブの取材をすると純から告げられた。

11: 2011/09/15(木) 07:24:50.53

梓「……ごめんね、純」

純「昨日のことはしょうがないよ。だから謝んなくていい」

梓「折角、編集部にも入れてもらったのに……ホントにごめん」

純「謝んないでってば。もっかいゴメンって言ったら叩くよ?」

梓「……」

純「今日のライブはやっぱり行けそうにない?」

梓「うん……ごめん無理」

ばしっ!
答えた瞬間、思い切り頭をはたかれた。

梓「ぁ痛ッ?!」

純「言ったでしょ、ゴメンって言ったら叩くって」

梓「うぅ……」

純「はぁ……。じゃあこれ」

そう言って、純は鞄のポケットからSDカードを取り出した。

12: 2011/09/15(木) 07:25:47.91
純「唯先輩のインタビューが入ってるから。なるべく今夜中に文字起こししといて」

梓「今夜中? でも〆切はまだ……」

純「他の仕事が詰まってんの。なるはやで、頼んだよ?」

梓「……わかった」

頷いて、SDカードを受け取る。
純は残りのビールを一気に飲み干して、ぷは、と息を吐いた。

純「じゃ、私はそろそろ行くよ」

梓「うん。憂と、唯先輩によろしく伝えて」

純は一瞬だけ寂しそうな目をして、けれどすぐに笑顔を作って
お邪魔しました~とひらひら手を振りながら私に背を向けた。




13: 2011/09/15(木) 07:26:55.05
ーーーーー



お風呂で汗を流して、冷えた麦茶を飲む。
鼻の頭がヒリヒリ痛んで、やっぱり日焼けしたなぁと少し落ち込む。

リビングの掛け時計を見ると、もうすぐライブが始まる時間を指していた。


梓「……やるか、文字起こし」

グラスに麦茶を注ぎ足してから自室に向かう。

SDカードに入った音声ファイルをPCにコピーする間、
キーボードの手前にメモ用のノートを置いて、ヘッドフォンを着ける。

ファイルをして再生すると、ゴソゴソと擦れるような雑音のあと、
質問する純の声と、甘くて柔らかい唯先輩の声が耳をくすぐった。

14: 2011/09/15(木) 07:28:09.30



ーー初の地元凱旋ライブということになりますが、今のお気持ちは

唯『嬉しいかな、やっぱり地元だもんね。
  友達もいっぱい来てくれるみたいで、私もすっごい楽しみにしてたよ。
  ……なんだか照れるねえ、純ちゃんにインタビューされるって』

ーーはい、私もなんだか変に緊張してます……コホン、
  先月3枚目のアルバムが出ましたが、今回のコンセプトを教えてください

唯『今回はねえ、ちょっと初心に戻ってみたんだ。
  5人で放課後ティータイムをやってた頃の事思い出して……あっ、
  放課後ティータイムのことは説明したほうがいい?』

ーーこちらで注釈を入れるから大丈夫ですけど、
  唯先輩……唯さんのほうからも紹介していただけると助かります

唯『そっか、うん。えと……放課後ティータイムっていうのは
  私が通っていた桜が丘高校の軽音部で結成したバンドで、
  りっちゃん、澪ちゃん、ムギちゃん、それからひとつ後輩のあずにゃんと
  私の5人で、私と同級生の3人が大学を卒業するまでやってました』

15: 2011/09/15(木) 07:29:27.22
唯『高校の時は毎日部室でムギちゃんの淹れてくれたお茶を飲みながら、
  みんなでおしゃべりしたり、遊んだり、美味しいお菓子食べたり……』

ーーあの、練習は?

唯『あはっ、練習しろってよく澪ちゃんとあずにゃんに怒られてたなぁ。なつかし』

ーーあはは、その頃の話は梓からも聞いてます
  ……その頃のことを思い出しながら曲作りをされたんですか?

唯『うん、あの頃のこと思い出したら、毎日よく笑ってたなあって。
  それに、5人で音を合わせたら、なんていうか、世界がすっごくきらきらしたの。
  その、きらきらした感じを歌にできたら素敵だなって…………



いつの間にかキーを叩く手は止まってしまって、
ぽろぽろとこぼれる涙がノートに大きな染みを作っていた。
視界がひどく濡れて、モニタの文字を読むこともままならない。

それでも音声ファイルを止める気にはなれなくて、
しゃくり上げながら唯先輩の声を聞き続けた。

16: 2011/09/15(木) 07:30:39.65



ーー……それでは、最後に読者へのメッセージをお願いします

唯『はぁい。
  地元でのライブ、嬉しいです。年に100回くらい、ココでやりたいです!
  んと、そんで、新しいアルバムはこの街で暮らしてた頃のワクワクとかきらきらを
  一杯詰め込みました。毎日楽しいって人も、今はちょっと元気が足りないって人も、
  これを聴いてワクワクッて楽しい気持ちになってくれるととても嬉しいです!』

ーー今日は本番前のお忙しいところ、ありがとうございました
  今夜のライブも楽しみにしていますね!

唯『いえいえこちらこそ!……そんでえっと、純ちゃん』

純『はい?なんですか?』

唯『これ、あずにゃんに聞いてもらうことってできる?』

純『このインタビューの文字起こしは梓に頼みますから、あの子も聞きますよ』

唯『そっか……。えっと、じゃあ、ちょっとひとりごと言ってもいいかな』

純『ひとりごと……ですか?』

唯『うん。インタビューじゃなくって、ひとりごと』

純『……あー、はいどうぞ。私ちょっと、10分くらいお手洗い行ってきますね』

唯『ありがと、純ちゃん』

17: 2011/09/15(木) 07:31:43.36
唯『……。あずにゃん、聞こえてるかな』

梓「唯先輩……」

唯『昨日はどうしちゃったのかな。びっくりしたし、心配だよ』

梓「……」

唯『んと、そんでね。これはまだナイショの話なんだけど』

梓「……」

唯『実は、来年のあたまくらいに、メジャーデビューが決まりました!』

梓「!!」

唯『えへへ、家族以外に言うの、あずにゃんが初めてだよー』

梓「……」

唯『それでね、そのことであずにゃんに言いたいことがあったんだけど
  あずにゃん昨日、急に帰っちゃったから言えなくて……』

梓「……」

18: 2011/09/15(木) 07:33:10.50
唯『あのね、もしあずにゃんがよかったらなんだけど』

梓「……」

唯『サポートしてくれるバンドのメンバーになってくれないかなって』

梓「!?」

唯『……あずにゃんが音楽やめちゃったって話は、憂からもちょっと聞いたよ。
  メールも電話も返してくれないから、どうしてなのかはわかんないけど……』

梓「……」

唯『新しい曲作っててね、みんなのこと思い出して、
  また5人で出来るといいなーなんて思っちゃったりもしたんだけど』

梓「……」

唯『でも、大学生の時、みんなでいっぱい話し合って決めたことだもんね。
  みんな自分で決めたことを一生懸命がんばってるし、私もそれを応援したいし』

梓「……」

唯『そんで……。あずにゃんもすんごくがんばってたの、私もよく聞かせてもらったよね』

梓「……」

19: 2011/09/15(木) 07:34:10.19
唯『私もメジャーデビューしたら、今よりもっともっとがんばりたいし、
  もっともっといい歌をうたいたいから』

梓「……」

唯『一緒に音を合わせてきらきらできる人たちにね、演奏をお願いしたいの』

梓「……」

唯『だから……考えてみてくれないかな?あずにゃん』

梓「……」

唯『以上、ひとりごとでしたっ!
  ……って、コレどうやって止めるんだろう。んと……あれ?
  ……純ちゃんが戻ってくるまでこのまんまでいっか…………




20: 2011/09/15(木) 07:36:18.14
ーーーーー



明け方にようやくインタビュー部分の文字起こしを終えて、純にメールで送った。
聞き直すたびに涙があふれて、いつもよりずいぶんと時間が掛かってしまった。


梓「あー……目痛い……」

やり残していた物置の片付けをこなしながら、
泣き過ぎと寝不足で腫れた瞼を時折濡れタオルで冷やす。

ライブはとても盛り上がったと、昨晩純からメールで教えてもらった。
さわ子先生と和先輩も来ていたそうだ。ちょっと逢いたかったかも。


バイクの音が家の前で停まって、郵便受けがコトンと音を立てた。
室内から玄関へ回って、届いた郵便物を確かめる。

請求書やダイレクトメールに混ざって、
一人暮らしをしていた住所から転送された絵はがきが1枚届いていた。

梓「律先輩、こんどは南米に行ったんだ……」

きれいな風景の写真を眺めて、もう一度宛名の下に書かれたメッセージを読む。
途中で雨に濡れたのか、ところどころ文字が滲んでしまっているけれど
律先輩らしいちょっと雑で跳ねた文字に、懐かしい気持ちになる。

21: 2011/09/15(木) 07:37:19.88



……ふと、視線を感じて顔を上げた。


梓「……」

唯「……」

梓「……」

唯「や、やっほーあずにゃん! アイス買ってきたから一緒に食べよ?」


ギターケースを背負った唯先輩は門扉からぴょこんと顔を覗かせて、
コンビニの袋を揺らしながらニッコリと笑った。



22: 2011/09/15(木) 07:38:43.73
唯「ねえあずにゃん、ここってなんていう名前だっけ」

律先輩からの絵はがきを目の高さに掲げて、
唯先輩が2本目のアイスを頬張りながら聞く。

梓「マツ、マチュ、マチュピツ、ですよ」

唯「あは、言えてないよあずにゃん。マツピツだよ。……あれ?」

梓「唯先輩だって言えてないじゃないですか」

唯「えへへ、そうだね。りっちゃんほんと色んなところに行ってるねえ」

梓「そうですね。そんなにアイス食べたらお腹こわしますよ?」

唯「だいじょーぶだいじょーぶ」

へらりと表情を崩す唯先輩から目を逸らして、私は物置の片付けを再開した。

唯先輩は一昨日の事も昨日の返事も聞こうとせず、
掃き出し窓の桟に腰掛けてニコニコと私を見ている。

23: 2011/09/15(木) 07:39:54.08
唯「あっ!あずにゃんそれ!」

梓「えっ?」

ふいに唯先輩が大きな声を出して、びっくりして振り返る。

唯「それって、ビニールプール?」

梓「あ、はい。ちっちゃい頃に使ってたやつですけど。母がまだ捨ててなくて」

手に持った子供用のビニールプールをちらりと見て、唯先輩にこたえる。

唯「なつかしーねー、うちにもあったよ。ねえ、それ膨らませてみない?」

梓「えっ、これをですか?」

唯「そそっ。そこにポンプもあるし」

梓「はぁ……。長い事このままだったし、膨らみますかね」

両手で広げようとしたら、長い間折り畳まれてくっつき合っていたビニールが
べりべりと耳障りな音を立てた。

24: 2011/09/15(木) 07:40:58.75


しゅこしゅこ、しゅこしゅこ

唯先輩が足踏みポンプを踏む様子を、窓辺に座って眺める。

しゅこしゅこ、しゅこしゅこ

空気を送られたビニールプールは少しずつ膨らんで、
本来の姿を見せ始めている。

しゅこしゅこ、しゅこしゅこ


梓「……代わりましょうか?」

唯「大丈夫だよー、これ結構楽しいし。アイス食べた分、消費できるし」

唯先輩は額に汗を浮かべつつ、ニコリと笑ってみせた。


25: 2011/09/15(木) 07:42:02.52
30分ほどかけてようやく膨らんだビニールプールに、ホースで水を張る。

唯「気持ち良さそうだねー、スイカとか冷やしたくなるねえ」

梓「唯先輩は食べ物のことばっかりですね」

唯「えー、そんなことないけど……。よしっ、入っちゃおう」

梓「えっ」

唯先輩はさっさとジーンズの裾を捲って、
ざぶん、とビニールプールの中に両足を入れた。

唯「うひょお、ひゃっこい!」

梓「ああほら、ジーンズの裾もっと捲らないと、濡れてますよ」

唯「だいじょーぶだよ、すぐ乾くから。あずにゃんもはやくおいで」

ほら、と手を差し伸べられて、反射的にその手を握る。

26: 2011/09/15(木) 07:44:09.99
ざぶざぶと波打つ水面が太陽の光を反射して、きらきら光っている。
サンダルを脱いで、おそるおそる片足を水に浸す。

梓「……つめた」

唯「気持ちいいねー。ほらあずにゃん、もう片方も」

梓「っと、そんなに引っ張らないで下さい、唯先ぱーー」

強く手を引かれたはずみで、先に入れたほうの足がつるりと滑った。
そのまま身体のバランスを失って、唯先輩に抱きつく格好で倒れ込む。

ばしゃーん

27: 2011/09/15(木) 07:45:07.78



梓「……」

唯「……」

梓「……スミマセン」

唯「……こちらこそ」

梓「……」

唯「……ぷっ、くくっ」

梓「……ふふっ」

唯「あずにゃん、やっと笑ってくれた」

梓「えっ」

至近距離で、唯先輩がとても優しい笑顔で私を見ていた。

28: 2011/09/15(木) 07:45:58.52
小さなビニールプールの中に座り込んで、びしょぬれのまま、
唯先輩の両手が私の両手を包み込む。
その手が冷たいのにあったかくて、ずきんと胸が痛む。


唯「ずっと心配だったんだよ。あずにゃんちっとも笑わないから」

梓「……」

唯「なんで音楽やめちゃったのか……何があったのか、聞いてもいい?」

梓「……」

唯「無理にとは言わないけど……もしよかったら、でいいから」

梓「……わかりました」

29: 2011/09/15(木) 07:47:29.36



……初めて参加したライブツアーのサポートは、最初のうちは順調だった。
知らない街で初めてのお客さんを目の前にして演奏する、刺激的な日々。

ツアーも後半にさしかかった頃、リードギターを担当しているメンバーに言い寄られた。
まったくその気が無かったし波風を立てるのも嫌だったので、できるだけ丁寧に断った。

すると今度は、そのメンバーから嫌がらせを受けるようになった。
最初は小さないたずらじみた内容だったけれど、
徐々に、ライブ本番中にまで行為が及ぶようになってしまった。

すれ違いざまに身体を触る、私のエフェクターを踏む、ギターを倒す……。
他のメンバーには見えないようにやるので、注意されるのはいつも私だった。

それでも、メンバー間の不和が原因でツアーを駄目にしちゃいけない。
そう思って、だんだんとエスカレートしていく彼の行為を、私は我慢し続けた。




30: 2011/09/15(木) 07:49:04.23
梓「今考えれば、早く誰かに助けを求めるべきだったんです」

唯「……」

梓「我慢してるうちに、ストレスで胃を痛めてしまって」

唯「……」

梓「しばらくは薬でごまかせていたんですけど、本番中に倒れちゃって」

唯「……」

梓「動けなくなって、当然演奏もストップしちゃって」

唯「……」

梓「すぐにスタッフさんに助けてもらったんですけど、その時に」

唯「……」

梓「一番前にいた、ちょっと酔っぱらったお客さんが怒っちゃって」

唯「……」

梓「持ってたグラス投げられて、それがオデコに当たって……」

唯「……」

梓「脳しんとう起こしちゃったみたいで、気付いたら病院のベッドでした」

31: 2011/09/15(木) 07:50:51.27
水の中で、握られた手がゆらゆらと揺れている。
唯先輩は何も言わず、ただ静かに私が話すのを聞いてくれている。

いちど目をつぶって、深呼吸して、再び口を開く。


梓「その日から、ギターを持つと手が震えるようになっちゃったんです」

唯「……」

梓「お医者さんは、やっぱり精神的なものだって」

唯「……」

梓「当然お仕事も出来なくなって、それでここに帰ってきたんです」


唯「……そんなことがあったんだ」

梓「……はい」

唯「もしかしてだけど、そのギターの人って、今回のバックバンドの……?」

唯先輩の問いに、こくりと頷く。

唯「ああ……。それでこの間は、帰っちゃったんだね」

梓「あの時は……すみませんでした」

謝った私に、唯先輩はふるふると首を横に振った。
濡れた髪から水の粒が散って水面に落ちる。

唯「あずにゃんのせいじゃないよ。あずにゃんは何も悪くない」

32: 2011/09/15(木) 07:52:14.56
こつん。
唯先輩の額が、私の額に触れる。

唯「……大変だったね、あずにゃん。よくがんばったね」

梓「……」

唯「ねえ、あずにゃん」

梓「……はい?」

唯「泣いてもいいんだよ?」

梓「…………ッ」


押し頃していた感情がいっぺんにせり上がって、涙が溢れ出した。
びしょぬれのまますがりついて、子供みたいに大声で泣いた。

唯先輩は何も言わず、私が泣き止むまで優しく背中を撫で続けてくれた。



33: 2011/09/15(木) 07:53:33.00
ーーーーー



梓「……せっかく目の腫れが引いてきてたのに、台無しです」

唯「まあまあ。泣いてすっきりしたならいいじゃないですか。……それに」

梓「それに?」

唯「久し振りにあずにゃんをギュッてできたから、ちょっと嬉しいかも」

梓「何言ってるんですか」

真っ赤になっているだろう私の目を覗き込んで、唯先輩が微笑む。


梓「それより、どうするんですかコレ」

唯「ほぇ?」

梓「下着までびっしょりですよ」

唯「あ……あー、どうしよっか……」

今更のように現状に気付いて、唯先輩の眉が八の字に下がった。

34: 2011/09/15(木) 07:54:35.24
唯「憂は会社に行ってるしなぁ……」

梓「もう、考え無しにこういうことするからですよ?」

唯「えーっ、まさか転ぶなんて思わなかったんだもん」

梓「うっ……。それは……スミマセンでした……」

唯「いえいえ……こちらこそ……」

梓「……」

唯「……」

梓「……ぷっ」

唯「ふふっ、えへへ……」

お互いの顔を寄せて、くすくすと笑う。
初めて会った時から変わらない彼女の笑顔を、とても愛おしく感じる。


35: 2011/09/15(木) 07:55:40.44
梓「とりあえず私が着替えて下着買ってきますから、唯先輩は待っててください」

唯「えー、このまま?」

梓「プールの外に出てもらっても構いませんけど」

唯「んー……折角だからこのまま待とうかな」

梓「……好きにしてください」

ビニールプールから上がってサンダルを引っかけ、びしょぬれのTシャツを絞る。
唯先輩は水面からはみ出した膝小僧をぺちぺち叩きながら、
ねえあずにゃん、と私を呼んだ。

梓「はい、なんですか?」

唯「むったんどうしてる?」

唯先輩の質問に、Tシャツを絞る手が止まった。
視線は合わせずに、額に張り付いた前髪を掻き上げる。

36: 2011/09/15(木) 07:56:45.91
梓「部屋の……クローゼットに入れっぱなしです」

唯「あとで一緒に弾いてみない?ギー太も持ってきたし」

梓「……でも、全然触ってないから…弦錆びてるかも」

唯「替えの弦がなかったら、買いに行こうよ」

梓「ブランクがあるから、うまく指が動かないかもですよ?」

唯「リハビリだと思えばいいよ~」

梓「……手が……。また、震えちゃうかもですよ」

唯「ねえ、あずにゃん」

膝小僧を叩く音がやんだ。
ゆっくりと振り返って、唯先輩と視線を合わせる。


37: 2011/09/15(木) 07:57:57.23
梓「……はい」

唯「大丈夫だよ」

梓「……」

唯「怖くなんかないよ」


何か根拠があってそう言っているのかは、分からない。
唯先輩のことだから、きっと根拠なんてことすら考えていないだろう。


だけど。


唯先輩にそう言われたら、なんでだか、大丈夫って思っちゃうんだ。

むかしっから、そうだった。
この人の優しさに触れたら、いつだってそうだった。

38: 2011/09/15(木) 07:58:58.65
唯「……ね?」

首を傾げてみせた唯先輩に、つい、笑みがこぼれる。


梓「……ビニールプールで体育座りしながら言われても、説得力ありませんよ」

唯「あれぇ? ダメだった?」

梓「適当なところで上がっちゃってくださいね。ホントにお腹こわしますよ?」

さっきアイス食べ過ぎてましたし、と付け足したら、
唯先輩は肌についた水滴をきらきら光らせながら、子供みたいに笑った。

39: 2011/09/15(木) 08:00:49.10



着替えを済ませて、財布と携帯を持って玄関を出る。

庭を覗くと唯先輩はまだビニールプールに入ったままで、
いってらっしゃ~いと間延びした声で手を振った。

いってきます、と私も手を振り返して門を開ける。


コンビニへの道を急ぎながら、携帯を開いて着信履歴を表示する。
最新の番号を選んで耳に押しあてると、5コール目で親友の声が聞こえた。



梓「あ、もしもし純? 昨日はありがとう。……うん。それでね、今……






おしまい

40: 2011/09/15(木) 08:04:02.01
参考曲:JUDY AND MARY「ラッキープール」
http://www.youtube.com/watch?v=VN-jPBkfX9Q

42: 2011/09/15(木) 08:07:08.50
おつ

引用元: 梓「ラッキープール」