1: 2010/04/17(土) 19:18:30.09 ID:BZAD06TH0
 夏休みが徐々に迫ってきていた。そんな、ある日のこと。
 
 いつも通りに起きて、いつも通りに家を出て、いつも通りに一番に澪に会う。

 そこまではよかった。

 そこまでは間違いなく“いつも通り”だった。

「律、おはよう」
 
 澪の挨拶にあたしも挨拶を返そうと思って、右手を肩の上まで持ち上げる。

 けど、右手はそこで停止して、あたしの足もその場で止まった。

2: 2010/04/17(土) 19:23:06.53 ID:BZAD06TH0
「律?」

 あたしはしばしの間、驚きのあまり声を発することが出来なかった。

 どう言えばいいのか分からなかった。

 いや、挨拶を返せばよかったのだろうけど、タイミングを見失って言うことが出来なかったんだ。

「どうしたんだよ、律」

「澪……髪……」
 
 それだけを言うので精一杯だった。

3: 2010/04/17(土) 19:26:44.77 ID:BZAD06TH0
「ああ、うん。思い切って切ってみたんだ。やっぱり変かな?」
 
 そう言って、肩にかかるかかからないかほどの髪を触る澪。

 そう、澪のトレードマークとも言えた髪がバッサリと切られていて、目の前の澪はショートカットになっていた。
 
 その突然の変身にあたしは驚いてしまったというわけ。
 
 右手を下ろして、あたしは目をろくに合わせようとしないまま、澪を追い越して、澪より前を歩こうとした。

「律?」

「早く行こう」
 
 澪の顔を見ないまま、あたしは言った。

4: 2010/04/17(土) 19:30:13.59 ID:BZAD06TH0
「お、おい、律」
 
 あたしは歩みを止めない。

 澪の顔を見たくなかった。

 いや、見れなかった。

 ショートカットの澪は、とても、とても可愛かったから。

5: 2010/04/17(土) 19:32:38.50 ID:BZAD06TH0
 結局、学校までの間、あたしと澪の間に会話はなかった。

 幸いなのかどうかは判らないけど、クラスが違うことは今のあたしにとっては有り難いものだった。
 
 だって、同じクラスだったら否が応でも顔を合わせなくちゃならないからな。
 
 問題は放課後の部活の時。

 あたしの席の真ん前が澪なわけで、ずっと目を逸らし続けるのも難しいだろうし、唯か梓と席を代わってもらわないといけない。
 
 そんなことを考えていると、教室に唯が入ってくるのが見えた。

7: 2010/04/17(土) 19:35:45.00 ID:BZAD06TH0
「りっちゃん、おはよー」

「おはよ、唯。寝癖が酷いぞ」

「ええ!? 嘘、本当に?」と言って、自らの頭をわしゃわしゃと大胆にいじる唯。

「ごめん、嘘だよ」

「なんだぁ、嘘かぁ」

「でも、今ので髪形変わったぞ」

「えー!? お、おトイレ行ってきます!」
 
 あたしに鞄を預けると、唯は慌しく教室を出て行った。

9: 2010/04/17(土) 19:38:04.13 ID:BZAD06TH0
「朝から元気だな」
 
 鞄を唯の机の上に置き、再び自分の席へ戻る。

 既に教室の半数以上の生徒が登校していて、朝だというのに電話のベル並みの音量でそこかしこで談話が繰り広げられていた。

 なんとなく机に突っ伏して目を閉じていると、登校時に一瞬見た澪の顔が思い浮かんで胸を締めつけられるような感じがして、その不明瞭な感覚があたしから落ち着きを奪っていくような気がした。

「りっちゃん、おはよう。今日も暑いよね」
 
 頭上からムギの声が降ってきて、あたしは咄嗟に顔を上げる。

「ああ、ムギ、おはよう」

10: 2010/04/17(土) 19:42:21.02 ID:BZAD06TH0
「大丈夫? なんだか、顔色が悪い気がするけど」

「へっ!? そ、そそ、そんなことないぞ! 元気元気!」
 
 ムギの勘の良さに声が上ずってしまった。

 それとも本当に顔色が悪いのだろうか。

 鏡がない今は確認することは出来ない。

 小さな鏡なら鞄に入ってはいるけど、出すのが面倒だった。

「ならいいんだけど。唯ちゃんはどこに行ったのかしら。鞄は置いてあるけど」

「唯ならトイレだよ、髪直しに行った」

「そう、じゃあ、りっちゃんお話しましょ」

12: 2010/04/17(土) 19:44:52.69 ID:BZAD06TH0
 断る必要もなかったので、予鈴が鳴るまであたしはムギとくだらない話をした。 
 
 途中、唯が鼻水を垂らしながら帰ってきたときにはムギと一緒に笑ってしまった。
 
 ああ、垂らしてたと言っても、床にボタボタと垂らしていたわけじゃなくて、鼻の下までずずっと垂れていたってこと。

13: 2010/04/17(土) 19:49:03.90 ID:BZAD06TH0
 帰りのHRを終えて、放課後の誰もいない部室でぽつんと独りで座っていた。
 
 席の位置は梓がいつも座っているところだ。

 室内はむっとした息苦しさを感じさせる空気で充満している。

 ムギと唯は澪を迎えに行くと言ったので、あたしは教室の前で別れた。

 何も今日に限ってそんなこと言い出さなくていいのにと思う。

 いつもなら授業が終われば部室に行って待つのに。
 
 することもないので窓越しに外を見てみる。夏特有の深い青々とした空が、綿のようにふわふわした雲と共に天に張っていた。

14: 2010/04/17(土) 19:51:45.38 ID:BZAD06TH0
 窓でも開けようと席を立ったとき、部室の扉が開いた音がした。

「あれ、律先輩だけですか?」
 
 一瞬、澪達が来たんじゃないかとひやりとしたけど、入ってきたのは梓だった。

「なんだ、梓かー」

「なんだってなんですか? まるで私じゃいけないみたいですね」

「いや、梓で良かったよ」

「はぁ・・・・・・?」
 
 でも、次に来るのは確実に澪達だろう。他に軽音部に来るのは、さわちゃんとか和とかは毎日来るわけじゃないし、確率は高くない。

15: 2010/04/17(土) 19:53:59.35 ID:BZAD06TH0
 ソファーに通学用バッグを置いて、その横に梓が腰を下ろす。
 
 あたしは窓を開けて、外の空気を入れてみた。

「うわっ……気持ちわりい」
 
 そんな感想を抱かせるほど蒸していて生温い風が、顔の両端をかすめて室内に入り込んでくる。

「窓開けても無駄ですよ。扇風機とかクーラーじゃないと、とてもじゃないですけど、この暑さには敵いません」
 
 真面目な梓が弱音ともとれることを言う。

「じゃ、閉めるわ」と言って、あたしは窓を閉めた。

 当然ながら暑いのは変わらない。

16: 2010/04/17(土) 19:56:41.84 ID:BZAD06TH0
 暑いのと澪の件で、なんだか頭が痛くなってきた。
 
 額に手を置きながら梓の席に無断で座ると、今度こそ本当に澪達が扉を開けてやってくるのが見えた。

「ねえねえねえ! りっちゅっあん! 大変だよ! 大事件大事件!」
 
 どこかで火事を目撃してテンションが上がって野次馬のように、唯が小走りであたしの元へ寄ってきた。

「どうかしたんですか?」
 
 大事件と聞いて気になったのか、梓が言う。

「それがねそれがね、なんと! 澪ちゃんがじゃじゃーん!」と、唯は振り返って澪の横で片膝を立ててしゃがむと、主役登場と言わんばかりに両手をパタパタとはためかす。

「わわっ……澪先輩……ですよね……」
 
 澪好きな梓でも、ショートカット姿の澪を前にしては途切れ途切れに言うのがやっとらしい。

17: 2010/04/17(土) 19:57:39.07 ID:BZAD06TH0
「なんか……なんか……」
 
 だよな、可愛いよな澪は。梓もそう思うよな。

 あたしは梓がこれから言う言葉を先読みしてみて、勝手に同意見であることを悟った。

「カッコいいですね!!」
 
 あれ?

「か、カッコいい?」と、澪もその返事は予期していなかったのか、眉間にシワを寄せた戸惑いの表情を見せる。
 
 更にあれ? 普通に澪の顔を見れてしまったことに、あたしは首を傾げる。

19: 2010/04/17(土) 20:01:39.79 ID:BZAD06TH0
「ええー、あずにゃん違うよー。澪ちゃんは可愛いんだよ」

「違います。カッコいいです!」
 
 可愛い派とカッコいい派に別れた唯と梓を無視して、ムギがあたしの元へやってくる。

「りっちゃん、どうして黙ってたの? どうせなら朝の内に教えてくれたらよかったのに」

「ああ、うん、ごめんごめん」

「ショートカットも似合うよね、澪ちゃんは。りっちゃんもそう思うでしょ?」

「は? あえう、と、さ、さあな、ハハッ」
 
 我ながら苦しい返事だと思う。

20: 2010/04/17(土) 20:07:52.04 ID:BZAD06TH0
「で、今日のお菓子はなんなんだ?」
 
 ムギにこれ以上突っ込まれたらたまらないし、話題を変えてみる。

 ムギは机の上にお菓子が入った箱を置くと、優しい手付きで開封していく。

 開いた箱を上から覗いてみると、今日も都会のケーキ屋に並んでそうな高級ケーキが六つ入っているのが確認出来た。

「唯ちゃん、ケーキ食べない?」
 
 ムギの問いかけに唯は梓との論戦をあっさり放棄して、だらしない顔をしながら寄ってくる。

「待ってました! 今日は何がいいかなぁ~」
 
 紅茶を淹れる準備をするムギを他所に、唯は椅子にどかっと座り、早くも臨戦体勢。

 ケーキを食べる時が一番輝いている気がするな、本当。

22: 2010/04/17(土) 20:14:17.94 ID:BZAD06TH0
 相手を失った梓は私の近くに来ると、

「あれ、律先輩はそこに座るんですか?」

「偶にはいいかなって」

「はあ、そうですか」
 
 梓はそれで納得したらしく、最終的にあたしの反対方向、普段あたしが座る席の右、澪から見れば左側に着席した。

「ん、りっちゃん。なんで、そこに座ってるの? そこはあずにゃんの席にゃんだよ」
 
 普段と違う配置に気付いたらしい唯が、フォークを握りしめながら言う。

24: 2010/04/17(土) 20:22:16.05 ID:BZAD06TH0
「別にいいだろ、どこに座ったって」

「えー、あずにゃんが隣にいないと落ち着かないよー」

「だったら、隣の空いてる席に座ってもらえばいいじゃんよ」

「あ、そっか。あずにゃーん、ちっちちち」と、唯は主がいない椅子を手でポンポンと叩きながら、梓を呼び寄せようとする。

「え? なんです、それ?」

 唯の謎の行動を読み解けない梓。

「あずにゃん、こっちおいでー」

「私はここでいいです」

26: 2010/04/17(土) 20:31:34.69 ID:BZAD06TH0
「りっちゃん、どうしよう!? あずにゃんに避けられてるよ私!」

「梓は反抗期だから仕方ないんじゃないか」

「反抗期じゃありません!」
 
 あ、怒った。

「律先輩こそ、子どもみたいじゃないですか」

「残念でしたー。そんな子どもみたいな挑発に、部長である私は乗らないぞー」

「私、子どもじゃないもん!」

「お前が乗るのかよ!」と、唯にツッコミを入れる。
 
 撒き餌に食いつかないあたしと、下手なボケをかます唯に、梓はこれ以上関わる気はないとばかりに視線を逸らした。

27: 2010/04/17(土) 20:36:44.32 ID:BZAD06TH0
 それはそうと、澪は部室に入ってきてから一度もあたしと話そうとしていない。
 
 やっぱり、朝のことが気にかかってるのか。

 ちらりと澪の方を見てみると、梓と何か話しているところだった。

 長い髪でいたときよりも顔の輪郭、頭の形がはっきりと見てとることが出来る。
 
 ここにいる誰よりも女の子っぽく、ここにいる誰よりも女っぽい顔をしているとあたしは思う。

 そのぐらい、ショートカットの澪は可愛い。

 もちろん、そんなことを面と向かって言えるわけがないし、言うつもりもない。

 絶対に言わない。

28: 2010/04/17(土) 20:38:53.52 ID:BZAD06TH0
「――りっちゃん――りっちゃん――」

「へっ?」
 
 ムギの声にあたしは間抜けな声を出してしまった。

「さっきから澪ちゃんのことじーっと見てたけど……」

「み、見てない。澪なんか見てない!」

「ん、私がどうかしたのか?」
 
 会話が聞こえたのか、澪があたしとムギを交互に見遣った。

 あたしは視線をティーカップの紅に注いで逃げる。

29: 2010/04/17(土) 20:42:53.67 ID:BZAD06TH0
「りっちゃんが澪ちゃんのことを見てたの。まるで、こう獲物を見るような目で」
 
 両手の指を折って猫のように胸の前に出し、目は半眼。

 ムギなりに一生懸命に獰猛な獣のポーズをしているらしい。

 でも、全然恐くないし、全然凶暴そうに見えない。

 それと共に、あたしは余計なことを言わないでいいのにと、自分勝手に考えてしまう。

「ムギちゃん、それ何のポーズ? クジラ?」
 
 唯、クジラに手はないぞ。

 てか、どう見たらクジラに見えるんだよと、心の中でツッコミ。

「え、えっと、あ、あれよあれ」
 
 名前を思い出そうとするムギ。判らずにやっていたのか。

33: 2010/04/17(土) 20:47:49.65 ID:BZAD06TH0
「も、もしかして、ゴゴゴ!?」
 
 唯がムギの脳内でも読んだのか読んでいないのか、意味不明な言葉を発する。

 ゴゴゴってなんだ? ゴゴゴって?

「そう! ゴリラ! ゴリラのポーズ! 唯ちゃん凄い!」

「…………」
 
 唯とムギ以外の全員の反応が今の文字で表現できた。だ、誰かツッコんでやってくれよ。
 
 目の前ではムギと唯、二人だけが通じ合っていた。

 い、一体、こいつらのゴリラ像はどのようなもんなんだか。
 
 ああ、もう駄目、我慢の限界。

35: 2010/04/17(土) 20:51:05.76 ID:BZAD06TH0
「ちょっと待ったー!」
 
 あたしは叫ぶと同時に勢いよく席を立ち上がり、自分の鞄の置いてあるソファーへ行き、鞄の中からノートとシャープペンを取り出して席に戻る。

「さあ唯、ゴリラを描いてみようか」
 
 唯の前にまだ何も書いていないページを探してノートを広げ、シャープペンを渡す。

「へ、なんでー?」

「いいから描いてみろって」
 
 唯は食べかけのケーキを名残惜しそうに見ながらも、大人しく従ってシャープペンを手に取った。

 ノートに徐々に唯のゴリラが形作られていく。

36: 2010/04/17(土) 20:52:09.61 ID:BZAD06TH0
 そしてノートに一体の、

「これはゴリラじゃない! ゴジラだっ!? それと、ちゃっかりモスラも書くなー!」

「でへへ」と、褒めてないのに褒められたように笑う唯。

「はい、次はムギ!」

「私も描くの?」

「むしろ、ムギがメインだからな」

「頑張る!」
 
 ノートとシャープペンが唯からガッツポーズ中のムギへ移る。
 
 ムギは真剣な表情でノートにペンを走らせる。

 その動きは中々止まろうとしなかった。

 これは力作の予感。

37: 2010/04/17(土) 20:53:35.98 ID:BZAD06TH0
「描けましたー」
 
 ムギが机の中央にティーポッドを避けてノートを広げる。

 ムギ以外の四人が身を乗り出して、ムギ作ゴリラを一目見ようとする。
 
 最初に口を開いたのは梓だった。

「これ……なんですか? 澪先輩判ります?」

「ううん、判らない。判りたくもない。だって気持ち悪くないか、これ」と、澪。

「ムギちゃん、これってさー」
 
 唯は何か判ったらしい。

「うん、それはね――」
 
 言うな。言わなくていい。言わないでくれ。

 お願いだから、言うんじゃないムギ。

38: 2010/04/17(土) 20:55:09.43 ID:BZAD06TH0
「ビオランテです」

「……」
 
 ※ビオランテ(Biollante)は、日本の特撮映画『ゴジラvsビオランテ』に登場する架空の怪獣。(Wikipediaより引用)

 この世にまた一つのトリビアが生まれた。

 ――ビオランテを描ける女子高生がいる。へぇ~。

39: 2010/04/17(土) 20:56:55.45 ID:BZAD06TH0
「おまえらゴジラから離れろよ。ってか、なんでムギがこんなもの知ってるんだよ!?」

「この前、唯ちゃんからビデオを借りたの」

「借りるなよ! 唯もムギにゴジラなんか貸すことないだろー」

「何言ってんのさ、りっちゃん。ゴジラ面白いじゃん。あ、もしかしてゴジラ観たことないんでしょー。今度、持って来るねー」

「いや、お断りするわ」
 
 駄目だ。ゴリラと言ってるのに、特撮怪獣しか出てこないなんて。難易度的にゴジラよりゴリラの方が簡単なはずなのに。

 こうなったら最終兵器だ。

「はーい、梓。最後はよろしく」

「わ、私ですか。ゴジラなんて観たことないですよ」

「いや、だから、ゴジラじゃなくてゴリラな」
 
 後輩の間違いを正して先を促す。

 描いている間にあたしはケーキを食べ終わり、紅茶を飲み干してしまった。

41: 2010/04/17(土) 20:58:50.64 ID:BZAD06TH0
 しばらくして、梓はペンを机に置いた。

「出来ました。ゴリラです」
 
 ノートの隅っこに描かれた梓作ゴリラ。

 相手を威嚇するような鋭い眼光、肌を覆い隠す墨色の体毛、分厚い皮膚のシワ。
 どこからどう見てもゴリラだった。

「うわ、まとも過ぎてつまんね」

「なな、なんでですか!? 律先輩が描けって言ったんじゃないですか」

「嘘々、冗談だよ」

「もう……」
 
 梓がほっぺを風船のようにぷくりと膨らませて言った。

「ああっーーー!?」
 
 あたしの耳元で唯が叫んだ。

「山田さん!」

「へ、やま、山田さん?」
 
 スルーしたいところだけど、聞いてやることにした。

42: 2010/04/17(土) 21:02:15.41 ID:BZAD06TH0
「これ、山田さんだよ」
 
 梓が描いたゴリラの絵を指差して唯が言う。

「だから誰だよ、それ」

「うちの隣に住んでるゴリラ」

「えーっと、唯の家の隣家に住んでるゴリラの名前が山田さんってことか?」

「りんかって?」

「隣の家ってこと」

「あー。うん、そうだよ」

 澪の冷静で解り易い質問にあっさりと答える唯。

おみくじを引いた直後のように少し溜めて、

「んなわけあるかーっ!」

 ゴリラの所為で興奮していたせいか、あたしは無意識のうちに澪と声を重ねてツッコんでいた。

43: 2010/04/17(土) 21:07:47.69 ID:BZAD06TH0
 おまえの家じゃないだろというツッコミは喉の辺りで押しとどめて「また今度なー」と、軽くあしらっておく。

 唯が言うことを一々本気で聞いてはいられない。

「りっちゃん、紅茶のおかわり如何?」

「いるー!」
 
 ああ、なんか一連の流れで疲れちゃったな。

 これから練習だっていうのに。
 
 唯以外は何事もなかったようにうららかなティータイムの続きに戻っていく。

 唯は未だにゴリラだか山田さん云々言っていたが、みんなが聞いていないと知ると席に腰を落ち着かせて、ティーカップに入った紅茶を冷ますためか、ふーふーと口から微風を吹かせていた。

45: 2010/04/17(土) 21:19:10.67 ID:BZAD06TH0
「唯、それ以上冷ましてどうすんだよ」
 
 とっくに飲める温度にはなっているはずだったので、ムギにおかわりの紅茶を注いでもらいながら言ってみた。

「だって、みんな聞いてくれないんだもん」

 ふーふー続行。子どもかおまえは。

「はい、りっちゃん」

「サンキュー、ムギ」

 ムギに紅茶を淹れてもらったあたしは唯と同様、表面に波紋を作りながら紅茶を冷ます。

 唯のとは違ってまだ熱いからな。

「なあ、律」
 
 口をすぼめている最中に澪の声がした。

「んー?」と、澪を見ずに口だけで返事をする。

46: 2010/04/17(土) 21:23:57.31 ID:BZAD06TH0
「んー?」と、澪を見ずに口だけで返事をする。

「私は描かないでいいのか?」

「何をー?」

「ゴリラ……」

「いいんじゃないの」

「そっか……」
 
 冷ましすぎも良くないのでここで紅茶を口に含む。
 
 さわやかな香りが口内に広がるのと同時に、舌にしっとりと絡みつきながら喉へ流れていく。

 ティーカップをソーサーに静かに置いて、口内に残る香りを一息吐いて澪に理由を訊いてみる。

47: 2010/04/17(土) 21:30:23.43 ID:BZAD06TH0
「なんでそんなこと訊くんだよ」

「だって、いつもの流れなら私にも言ってきそうだから」

「そっかなー」
 
 そうだろうか。

 昨日までのあたしなら澪にゴリラを描かせていただろうか。

 判らない。昨日の自分と今日の自分の違いが判らない。

 そもそも違うのか? 

 あたし自身は昨日と変わらずに今日を過ごしていると思う。

 澪の顔を見れないこと以外は至って変わらないはず。

 それだけが唯一違うことであって、それ以外は変わらないでいるはず。
 
 こんなこと考えるなんて馬鹿みたいだし面倒だから、この辺りでやめとこう。

 澪が変なことを言っているだけだ。
 
 あたしは残りの紅茶を数秒で飲み干して席を立つ。

「さっ、練習始めるかー」

48: 2010/04/17(土) 21:33:22.41 ID:BZAD06TH0
 茜色に染まる道にあたしと澪、二人分の影が伸びていた。

 練習を終えて唯達と別れた後、あたし達は言葉を交わすことなく歩くだけ。

 朝と同じように、あたしは澪の前を歩き、澪はあたしの後ろを歩いていた。

 今、澪がどんな顔をして何を考えているのか、あたしには判らない。

 まあ、澪を見ようとしていないのだから当然だけど。

 頭上では電線に乗るカラスのやかましい鳴き声が虫の鳴き声と合わさって、絶え間なく響いていた。

「律……」
 
 澪の声。それもか細い声が聞こえて、あたしとあたしの影は同時に足を止めた。

49: 2010/04/17(土) 21:37:27.20 ID:BZAD06TH0
「今日の律は変だぞ」

「変ってどこが?」
 
 あたしは振り返らず喋る。澪も足を止めているのだろうか。

「朝から私と目を合わせようとしないだろ。なんか避けてるみたい」

「そんなことないよ」

「じゃあ、なんでこっちを向かないんだよ」

「別に向かなくてもいいだろ」

「良くない」

「いいじゃん」

「良くない」

「……なんでだよ」

50: 2010/04/17(土) 21:43:22.59 ID:BZAD06TH0
「律、お願いだから」
 
 なんでお願いされなきゃいけないんだ。

「律……」
 
 あたしの影がゆるりと回れ右をして僅かに形を変える。

「これでいいんだろ」
 
 澪がゆっくりと近づいてきて、あたしの影の中に入る。

「律、私を見ろ」
 
 どうやら年貢の納め時みたいだ。

 これ以上はぐらかすことは無理っぽい。

 腹を決めて、あたしは視線を正面へ向けた。

51: 2010/04/17(土) 21:45:29.93 ID:BZAD06TH0
 澪の顔がすぐそこにあった。

「やっと見た」
 
 どくんと心臓が大きく跳ね上がる感覚。

 それに続いて脈拍が早くなっていき、口の中から水分が失われていく気がした。

 澪があたしを見ていて、あたしは澪を見ている。

 澪の瞳にあたしが映り、あたしの瞳には澪が映っている。

 吐息が届いてきそうなほど近い距離に澪がいる。

54: 2010/04/17(土) 21:47:59.68 ID:BZAD06TH0
「やっぱり気に入らないか?」と、顔を曇らせて澪が言う。

「へっ?」

「朝から目を逸らしてただろ。この髪形が気に入らないのかなって……」

「そんなことないけどさ……」
 
 そんなことあるはずがない。

 似合ってる。

 あたしがドキドキしてしまうほどに似合っている。

 最高に似合ってる。

 それで気に入らないはずがない。

55: 2010/04/17(土) 21:49:13.88 ID:BZAD06TH0
「そうなのか?」
 
 澪の問いに小さく頷く。

「そっか、良かった」
 
 澪がホッと吐息を吐いて肩を上下させながら言った。

「良かった?」

「うん。律には気に入ってもらいたかったんだ」
 
 澪はそう言って頬を緩めて微笑む。

「髪を切ったのも律が理由だしさ」

「あたしが? なんで?」

「覚えてないか? 私にショートカットにしてみたらって言ってただろ」

「そ、そうだっけ……」
 
 そんなこと言った記憶はないけど、言っていたとしても冗談からだろう。

 まさか、澪が本気にするとは思っていなかったと思う。

56: 2010/04/17(土) 21:52:11.58 ID:BZAD06TH0
「律、覚えてないのか?」

「う、うん。ごめん」
 
 なんだか自分が悪いことをした気分だったので、反射的に謝ってしまう。

 いや、あの長い髪を切らせたのは、あたしの冗談からだったのだから謝るべきなんだろう。
 
 それにしても今日一日、息苦しい思いをしたのも全ては自分が原因だなんて馬鹿みたいだな。
 
 結果として澪はショートカットでも問題ないのが幸いだ。

 これでもしも最悪の出来だったら、冗談が小さな悲劇に発展したかもしれないのだから。

 ああ、本当に馬鹿だな。冗談を言ったのが自分なのも、冗談を本気にする澪も、見慣れている幼馴染にドキドキして目を見られなくなるのも、み~んな馬鹿みたいだ。

 段々笑えてきた。

 澪の顔を見ていると余計に可笑しくなってきて、終いには声に出して笑ってしまう。

57: 2010/04/17(土) 21:54:49.34 ID:BZAD06TH0
「え、なに、どうしかしたのか律」
 
 突然笑い出してしまった為か、澪が不思議そうに言う。

「ううん、なんでもない……アハハッ」

「何がそんなに可笑しいんだ?」

「だから、なんでもないよ」
 
 笑ったらなんかスッキリした。

 澪と目を合わせても、ドキッとするようなことはなくなっていたぐらいだ。

 いつものあたしだ。

「さっさと帰ろうぜ、澪」
 
 あたしは澪に背を向けて歩き出す。後ろから追いかけてくる澪の足音が聞こえてくる。

58: 2010/04/17(土) 21:56:02.47 ID:BZAD06TH0
 ああ、これだけは言っておくか。そのぐらいの責任は果たさないとな。
 
 歩きながら一瞬だけ振り返る。澪はそんなあたしをしっかりと見る。

 あたしも澪をしっかりと目で捉えて言う。

「似合ってるよ、澪」
 
 それだけ言って再び背を向ける。

「ありがとう、律」
 
 今まで生きてきた中で最も恥ずかしいセリフを言ったかもしれない自分に、澪は極めてシンプルな言葉を返してくれた。
 
 おそらく、今のあたし達はお互い顔を真っ赤にしてると思う。

 相手がいくら親友でも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 普段冗談を言い合う仲だからこそ、本当に思っていることは言いづらい。
 
 でも、だからこそ、澪の「ありがとう」はいつになく嬉しかった。今までのどんなありがとうとも違う、それは特別なものだった。

59: 2010/04/17(土) 21:57:27.69 ID:BZAD06TH0
 日はもうすぐ完全に沈みそうで、辺りも暗くなり始めている。
 
 あたしは澪の前を歩く。澪はあたしの後ろを歩く。

 そういえば、澪にまだ言っていないことがあった。

 けど言ってやらない。

 恥ずかしいし、照れくさいし、いつも思っていることだから。

 だから、澪は可愛い、と心の中だけで呟いてみる。

 そう、澪は可愛い。

 ショートカットの澪も、ロングヘアーの澪もどちらも可愛い。

 そんなの今更考える必要もない。

 元々澪は可愛いんだから。

 ああ、今日は本当に馬鹿みたいで楽しい一日だったと思う。

 そう思うと自然と顔がほころんだ。

 夕闇の中を今日もあたしと澪は、一日の終わりに向かって並んで歩いている。


          お   わ   り

60: 2010/04/17(土) 21:58:32.39 ID:BZAD06TH0
 おまけ1

 後日、唯が言っていたゴリラをあたし達は見に行った。

「唯、どこにいるんだ?」
「んーとね、あそこ」
 
 唯が指差す先を四人は見る。
そこにあったのはゴリラの、

「ああー、ぬいぐるみですね」と梓。
「ぬいぐるみなの!?」
 
 唯の残念な告白にあたしと澪は、勢いよくツッコむ。

「知らんかったんかい!」

61: 2010/04/17(土) 21:59:26.31 ID:BZAD06TH0
 おまけ2

 ショートカットの澪を見ていたら、猛烈に頭を触りたくなった。

「澪、頭触らせて」
「え、あ、やめっ!」
 
 澪の返事を待たずにあたしは頭にタッチした。
そしたら、ずるっと澪の頭が外れた。正確にはヅラが取れた。

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「あ、あたしは何も見てないぞ!」
 
 あたしは思わず走って逃げ出した。
 そのうちに走るのをやめて右手を見ると、そこには澪のヅラが握られていた。

62: 2010/04/17(土) 22:00:26.24 ID:BZAD06TH0
以上

また会おう

63: 2010/04/17(土) 22:00:42.90 ID:NETOS+4C0
おっつ

引用元: 律「ショートカット澪ちゃん」