2: 2013/02/23(土) 23:13:44.06 ID:w0gkWU8YP
年越しライブという大仕事を終え、休暇が目前に迫っている。
そのため事務所全体がゆるい雰囲気に包まれている。
候補生たちには短いものの年始の休暇が与えられ、今日事務所に出勤しているのは俺と小鳥さん、律子、それに社長だけだ。
残っている仕事も簡単なデスクワークのみで、明日から数日間は事務員も休みをとる予定になっている。

4: 2013/02/23(土) 23:17:48.53 ID:w0gkWU8YP
午後三時を少しまわった頃、仕事が一段落した。
今年の仕事もようやく終わった。
背もたれに背中を預け、肩を回す。
周囲を見回すと、律子は書類に目を通しており、小鳥さんはPCのキーボードを叩いていた。
出勤している面々を誘って飲みに行こうかと思っていたが、彼女らの仕事はまだしばらく終わらないように見える。
それに皆疲れているかもしれない。
俺は独りで帰ることにした。
一同に挨拶し、事務所を出る。これから特に予定もないので、リサーチも兼ねてCDショップへ出向くことにした。

7: 2013/02/23(土) 23:24:51.92 ID:w0gkWU8YP
CDショップまではそう遠くない。
俺は人足もまばらな通りを歩きだす。
外はまさに冬の盛りと言うべき寒さで、通りを行く人達はコートの襟を寄せたり、マフラーに顔を埋めたりして足早に歩いている。
それにしても久しぶりの休みだ。
肺一杯に冷たい空気を吸い込む。
普段なら冷たさに顔をしかめるところだが、今日は澄んだ冬の空気をすがすがしく感じる。

8: 2013/02/23(土) 23:30:08.10 ID:w0gkWU8YP
CDショップ内は暖房がよく効いていた。
上着を脱いで、売り場を一通り見て回る。
今はレゲエが密かにブームとなっているらしい。
うちのアイドルに挑戦させてみるのも面白いかもしれない。
店内でも一際華やかな装飾がなされている一角、アイドル音楽のコーナーは特に重点的にチェックする。
陳列棚には俺がプロデュースしたアイドルのCDも並んでいる。
それらを眺めていると、自然と頬が緩んでしまう。
端からは気持ち悪い種類の人間に見えるかもしれないが、こればかりは仕方がない。

9: 2013/02/23(土) 23:36:49.42 ID:w0gkWU8YP
リサーチを終え、そろそろ帰ろうかというとき、視聴コーナーに見知った後ろ姿を見つけた。
綺麗なストレートのロングヘアーは腰にかかりそうなほど長く、細い体を青を基調とした簡素な服で包んでいる。

P「千早…」

声をかけ顔を確認したところで、俺は面食らった。
ヘッドホンを両手で抑え、一心不乱に音楽に耳を傾けている千早の目からは、涙が流れている。

10: 2013/02/23(土) 23:42:07.37 ID:w0gkWU8YP
千早「プロデューサー?」

千早は俺の顔を見ながら数秒の間沈黙した後、ハンカチで涙をぬぐう。ヘッドホンを外し、一礼する。

千早「お久し振りです。プロデューサー。」

P「久し振りだな千早。元気にしていたか?」

千早「はい。お陰様で…」

千早はそう言って視線を横に逸らす。
彼女がものを考えるときによく見せる仕草だ。暫くの間そうした後、千早は俺の方に向き直り、俺の目をじっと見つめながら言った。

千早「あの…もしよろしければ、これから少し、お時間頂けませんか?」

12: 2013/02/23(土) 23:48:17.86 ID:w0gkWU8YP
俺達は近くの喫茶店へ移動した。
店内は暖かく、控え目な音量で緩やかな音楽が流れている。
照明は暖色。
木製のテーブルと椅子、濃いブラウンの壁が、落ち着いた雰囲気を与えている。
店内はそう広くはないが、他に客はいない。
俺たちは四人掛けのテーブルに座る。
俺は革の仕事鞄とコートを、千早は小さなクリーム色のバッグと紺色のコートを、それぞれ空いている席に置く。
ウェイターが注文を取りに来た。
俺はコーヒーを、千早は少し迷った末紅茶を頼んだ。

13: 2013/02/23(土) 23:54:04.09 ID:w0gkWU8YP
千早「お恥ずかしい姿をお見せしてしまいましたね…」

少しの沈黙の後、先に口を開いたのは千早だった。

P「ああ。久しぶりに会っていきなり涙を見せられたからな、少し驚いたよ…元気だったか?千早。」

俺はまた同じ質問をしたことに気付いた。

千早「はい。プロデューサーはいかがでしたか?」

14: 2013/02/23(土) 23:59:28.93 ID:w0gkWU8YP
P「おれもまあ、ぼちぼち元気にやってるよ。
でも千早がうちを抜けてもう5年か。
月日が経つのは早いものだなあ。
事務所にとっては結構な痛手だったよ。
もともとそういう契約だったし、千早はもっと充実した環境に身を置くべきだったから、仕方がないことなんだけどな。」

ウェイターが飲み物を運んできた。
千早は彼女が注文した紅茶にストレートのまま一口、口をつけた。
微かに嚥下する音が聞こえる。

千早「先程のことですが…」

千早はカップから口を離し、話し始めた。

15: 2013/02/24(日) 00:01:32.58 ID:JhpTHTOVP
千早「私が聴いていたCDは、私にとって思うところのあるアーティストのものなんです。
小さいころ、まだ弟がいて、家族の仲も保たれていたころは、週末に家族で出掛けることもしばしばありました。
そういったとき、家族の車でよくかかっていたアーティストがあるんです。
お察しの通り、私が先程聴いていたアーティストです。
両親共にこのアーティストを気に入っていたようで、アルバムは全てありました。
といっても、枚数は大したことありませんが。」

千早はカップを傾ける。つられるような形で俺もコーヒーを含んだ。

16: 2013/02/24(日) 00:02:40.50 ID:JhpTHTOVP
千早「このアーティストの曲は、クラシック調の格調高いバックに現代的な繊細なメロディを乗せた、特徴的なものだったんです。
平凡なアーティストが同じことをしてもただの色モノとみなされていたでしょう。
しかし彼女の独特の声と高い歌唱力が、その二つを見事にマッチさせ、独自の世界観を生み出すことに成功していました。
幼い私には、この独特な音楽が印象に残ったのでしょう。よく真似をして歌っていました。
私が歌の勉強を始めたとき、真っ先にクラシックに手を着けたのは、このアーティストによる影響だと思います。
しかし、ちょうど弟が事故に遭ったのと同じくらいの時期から、このアーティストは発表する曲の大幅な路線変更を始めたのです。
当時の彼女の曲は、素人目から見ても完成度の高いものでした。
しかしクラシックの持つ堅苦しいイメージのためか、好んで聴く人はあまり多くなかったようです。
彼女の才能は皆が認めるものでしたが、それが売り上げに直結するわけではない。
業界では期待の新人であった彼女が燻るのはあまりにも惜しと考えたレコード会社は、彼女にポップ路線への転向を勧めたそうです。」

17: 2013/02/24(日) 00:04:07.24 ID:w0gkWU8YP
千早「恐らくですが、彼女はそれまでと同じ路線で曲を作りたいと思ったでしょう。
しかしながら現実の問題として、彼女が活動を続けてゆくためには、ある程度の支持が必要です。
路線変更は仕方のないことだったようです。
ですが、ポップソングをおやったからといって、誰もが一定の支持を得られるとは限りません。
アイドルや声優などの付加価値に頼らなければ、定番のポップソングで大成するのは容易ではないようです。
定番であるということは使い古されたネタである上に、そのジャンルを打ち立てた偉人達と、同じ土俵で戦わなければいけないということです。
そこで成功するのは、やはりごく一部の人間です。
結局、路線変更後に出した数枚のCDも、ヒットすることはありませんでした。
売るための音楽がやりたいわけではない。しかし、アーティストとしての活動を続けるためには売れる音楽をやらなければならない。このジレンマの中で、どれだけ多くの才能ある人達が埋もれていったのでしょうか。」

19: 2013/02/24(日) 00:06:46.10 ID:w0gkWU8YP
このアーティストの境遇について、千早は何かを感じているのかもしれない。
千早が765プロにいる間は、望まない仕事にも手を出さなくてはならなかった。
千早は自身とこのアーティストを重ねているのかもしれない。

21: 2013/02/24(日) 00:09:14.58 ID:JhpTHTOVP
千早「このアーティストの初期の曲は、私にとって参考になる部分が多くよく聴きました。
しかし定番のポップに手を出してからは、私が興味のある分野からは遠ざかっていったので、聴かなくなりました。
お店でもあまり見かけなくなり、情報もすっかり耳に入ってこなくなりました。
そんな状況が長く続いていましたが、今日、CDショップの棚に新譜が並べられているのを偶然見つけたんです。
このアーティストのことはずっと忘れていましたが、懐かしさから私はそのCDを手に取ってみました。
CDのジャケットを見ると、そこには原点回帰と書かれていました。
その文字を見て、私の中に急に予感めいたものが沸き起こったのです。
私はこのCDのことが気になって、近くの店員さんを呼び止め、発売したのはいつごろかと尋ねました。
店員さんによると、そのCDが発売したのはごく最近のことだそうです。
店員さんはそのCDが視聴コーナーで試聴できることも教えてくれました。私は急いで視聴コーナーに向かいました。
そして視聴してみると、流れてきたのはあの懐かしい音楽だったのです。」

22: 2013/02/24(日) 00:12:00.53 ID:JhpTHTOVP
千早はバッグからCDを取りだし、テーブルに置く。
そしてCDにそっと手を添える。
ふと窓の外に視線を流す。
俺も釣られて外を見る。
西日の差す通りを歩く人は昼間よりもずいぶん多くなっている。
近くで年始のイベントがあるのかもしれない。

24: 2013/02/24(日) 00:14:14.59 ID:JhpTHTOVP
千早「プロデューサー、私は最近、よく昔のことを思い出すのです。
弟が生きていて、家族で楽しく暮らしていた頃のこと。
あの頃は私が幼かったこともあるでしょうが、毎日が楽しく、不安を感じることなどありませんでした。
765プロにいたときのこともよく思い出します。
満足に仕事が得られず、環境も良くない中、それでも信頼しあえる人達と一緒に、必氏に泥臭く頑張った日々。
今になって思い返すと、懐かしく、かけがえのない時間であったと思います。
でも、あの日々には戻ることはできないし、戻ろうとも思いません。
いや、戻りたいとい気持ちはあるかもしれませんが、実際に戻る手段を与えられたとしても、私は戻らないでしょう。
初めは色々とありましたが、長い道のりの末、私は自分の目指す音楽を続けてゆける立場まで辿り着きました。
今の生活はとても充実したものです。
思い出は思い出のまま、大切にしまっておきます。

この頃はそういったことをよく考えていましたから、あの音楽を聴いたとき、頭が言葉では言い表せない感情で一杯になり、気づけば涙が流れていました。
私も一人の人間です。自分で選んだ道ですが、私は心のどこかで、変わることを怖がっているのかもしれません。」

26: 2013/02/24(日) 00:18:24.15 ID:JhpTHTOVP
言い終えて、千早は長く息を吐いた。
沈黙。
この沈黙を、俺は、そして多分千早も、心地よく思っている。
ややあって、残っていた紅茶を静かに飲み干す。
おかわりを注文するか尋ねたが、千早は断った。
千早は時計を見る。

28: 2013/02/24(日) 00:23:00.19 ID:JhpTHTOVP
P「時間か?」

千早「そうですね…少し話しすぎました。」


千早の提案で、代金は割り勘になる。
二人は店を出る。


別れ際に、千早は唐突に尋ねた。


千早「プロデューサー、数年ぶりに私に会って、何を感じましたか?
私を、相変わらずの私だと思いましたか?それとも変わったと思いましたか?
変わらないことに安堵はありましたか?変わったことに失望はありましたか?
環境が変わったことで、かつてあなたと過ごした私は消えてなくなってしまったのでしょうか?」

29: 2013/02/24(日) 00:25:43.32 ID:JhpTHTOVP
質問があまりに唐突であったから、俺は千早の顔をまじまじと見つめてしまった。


千早「私は、あなたが変わらずにいたことにとても安心感を覚えてしまいました。
このCDを聴いたときとは、比べ物にならないほどに。
そのことを、最後に付け加えておきます。」


そう言って、千早はたくさんの人が行きかう交差点へと消えていった。

30: 2013/02/24(日) 00:27:08.24 ID:JhpTHTOVP
終わりです。
支援して下さった方、ありがとうございました。

32: 2013/02/24(日) 00:34:39.06 ID:u8lAYCUv0
地の文詰めすぎてて読みづらい気もしたが乙

引用元: 千早「変わる私と、変わらないひと」