1: 2012/04/23(月) 18:56:23.67 ID:QIXqOO8O0

こんにちは、鈴木純です。
私もファンクラブが欲しい! ……なんて思いにふける、この頃な純ちゃんです。

ある日の放課後、いつもどおり部室でお茶をしていたら奥田さんが壊れました。



2: 2012/04/23(月) 18:57:45.86 ID:QIXqOO8O0
化学部のクラスメイトから借りてきたのか、化学実験室から拝借してきたのか、白衣を羽織った奥田さんが両手を広げて雄叫びを上げる。

直「憂先輩、今日こそは年貢の納め時です!」

憂「え? 奥田さんどうしたの?」

直「問答無用、勝負してもらいます!」

かわいそうな憂。
可愛がっていた後輩からの何の脈絡もない制裁宣言に憂は目を丸くして、梓やらスミーレやらへしきりに怯えた顔を向けている。
私も縋るような目で見られたけど、奥田さんの意図なんて知らないし何もしてあげられない。
そもそも『今日こそは』も何も、今日初めて言われたわけだし。
薬品の染みが付き、ヨレヨレになった白衣を振り乱して奥田さんは突き付けるようにして憂を指差した。
あー、先輩を指差すのは私感心しないなぁ。
普段も結構ネジが緩んでいる部分のある奥田さんだけど今日はメガネがむやみに怪しく光ったりして危ない雰囲気だ。
しょうがない、割って入るか。
けいおん! 1巻 (まんがタイムKRコミックス)
3: 2012/04/23(月) 18:59:25.28 ID:QIXqOO8O0

純「まぁまぁ、奥田さん。落ち着きなって。私のドーナツをちょっとあげよう」

本日のお茶のお供であるドーナツをちょんびりとちぎって口元へ運んであげる。

直「ペイッ!」

純「なっ!?」

ドーナツ! 私のドーーーナッツが!
私を魅了してやまないその欠片が無情にも床にこぼれ落ちる。
なんて後輩だ、私の人生の友であるドーナツを……。
ドーナツが無駄に欠けてしまったということは、私の人生も無駄に欠けてしまったということ。

私は声もなく、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。

直「あと純先輩、私のことは奥田博士と呼んでください、まったく失礼な」

先輩に対するこの仕打ち、この上、博士呼びしろとのたまうか、けしからん。
後輩の暴挙にすっかり怯えている憂と、新たなドーナツを手に入れるまでは立ち直れそうにない私に代わり、梓が前に進み出た。
よっ、さすが部長!

梓「奥田さん」

直「奥田博士です!」

すかさず本人から呼び直しの要求が入れられる。
博士、こだわっているのか。

4: 2012/04/23(月) 19:01:13.85 ID:QIXqOO8O0

ちょっとたじろいで梓が仕切り直す。

梓「じゃあ奥田博士」

直「よろしい、なんですか」

梓「どうして憂をそんなに目の敵にするの?」

それだよね、気になっているのは。
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの顔をしてメガネをクイッとする。
みんなはイラッとする。

直「なぜ憂先輩を狙うかって? それは私が『平沢憂先輩の弱点を探そうの会』の奥田博士だからです」

菫「ハァ?」

つい疑問の声が飛び出てしまい慌てて口を押さえたスミーレだけど、奥田さん……奥田博士以外は概ね同じ気分だろう。
憂の弱点を探そうの会ってなんだ、だいたいなんで「探そう」というレッツゴーみたいな言い方なんだ? 
いつだったか、奥田博士が憂の優秀ぶりに執着して妙な嫉妬心を燃やしたことがあったけど、その件はうまく解決したはずだ。
と、そこである一つの可能性が浮かんだ。

純「奥田博士さぁ、その会ってどんな人たちが会員になれるの?」

直「憂先輩に好意的なら誰でも会員の資格を有しますよ」
 
結構本気で家に帰りたくなった。
それ、ただの憂のファンクラブだ。
秘密結社っぽい看板を掲げているけど、単なる憂のファンクラブだった。
とても無害だ。
実態を知ってしまい、割と後悔している。
どさくさ紛れに私の名前も挿入して「憂純の弱点を探そうの会」にしてもらえないかなぁ。
ライブの時なんかはそういう黄色い声援を受けるモチベーションがないと私は働かないよ。

5: 2012/04/23(月) 19:02:44.21 ID:QIXqOO8O0

ようやく立ち直った憂が奥田博士に疑問をぶつける。

憂「でも、奥田さんは私の弱点とかはもう気にしないことにしたんじゃなかった?」

直「仲良くならせてもらいましたが、それはそれ、これはこれ」

二つの箱を別々に置く身振りをして弱点探求は終わっていなかったとアピールする。
憂は再び「ひっ」と身を震わせた。

こういうときの憂は、なんだか子犬がビクビクしているようでおもしろい。
芝居がかった動作で踏み出た奥田博士が天井を仰いで嘆きを上げる。
悲劇の博士になりきっているらしい。

直「ですが、どれほど研究を重ねても憂先輩には弱点らしい弱点が見当たらなかったのです!」

まぁね。

梓とスミーレもそうだろう、としみじみと頷いている。

直「そこで私はもう弱点なんぞクソくらえだ、と悟ったのです」

会員のみなさんに同情したくなる。
弱点を探そうの会はアイデンティティクライシスに陥っていた。
名簿にいかほど名を連ねているか知らないながら会員のみなさんが不憫で仕方ない。
一刻も早く会の名をファンクラブに改めるか、私のファンクラブを新しく立ち上げてそちらに移籍することが望まれる。

6: 2012/04/23(月) 19:05:11.15 ID:QIXqOO8O0

梓「悪いけど弱点もなしに攻めたところで奥田さんが憂に勝てるとは思えないよ」

梓が奥田博士を諭す。
沈痛な面持ちで語りかけるあたり、梓もかなりノッている。
意地を張ってはいても、梓も先代の軽音部のお気楽な遺伝子を知らずのうちに引き継いでいるんだろう。
教えると恥ずかしがって叩いてくるから言わないけど。

直「誰が私自身が挑むと言いましたか! 憂先輩を倒すのは……この子です!」

バーカバーカと言いながら奥田博士が後ろの方に置いてあった物体に手をかける。
漫画やら雑誌やら脱ぎ捨てられたジャージやらと最近は雑多になりつつある部室なので今の今まで存在に気が付かなかったなぁ。
六割は私の私物らしいのも気が付かなかったなぁ。
ドラム缶ほどの大きさのそれを奥田博士がぐるりと回して向きを変える。

梓「何これ」

憂「ロボット?」

菫「しかも、これは憂先輩じゃありませんか?」

薬局の前にでも据え付けられていそうなそれは、ネジがあったり、溶接されていたり、ブリキのおもちゃみたいだったりするものの、栗色の髪を小さなポニーテールに纏めた女の子の姿をしていて、つまりは憂だった。

7: 2012/04/23(月) 19:06:13.80 ID:QIXqOO8O0

奥田博士がその憂を叩きながら顎を突き出して得意面になる。

直「名付けて憂ロボです!」

別に無理して名付けなくても憂ロボと呼ばれそうな見た目だった。
商店街の入り口に置ける愛嬌があるというか、マスコットらしく寸胴で全体的に太い。
憂がちょっと嫌そうな顔をした。
あぁ、ちょっと嫌なのか。
私も同様に純ロボになった自分を想像してみたせいで苦い気持ちになる。
こんな物を勝手にでっちあげられた上に本人から微妙な顔をされて弱点の会のみなさんかわいそう。
スミーレが恐る恐る奥田博士を見た。

菫「まさかその憂ロボで憂先輩と闘うつもりなの?」

直「そう、そのまさかよ! この憂ロボで憂先輩にひと泡吹かせてやります!」

どうでもいいけど短時間のうちに、憂、憂、と繰り返されてうるさい。

憂ロボ「アズサチャーン!」

梓「え、私!? は、ハイ、何かな」

憂ロボが両手を挙げて咆哮した。
どういうことか梓の名前を呼んで、その梓は声が裏返って動揺する。
しっかりしろ。

8: 2012/04/23(月) 19:07:05.46 ID:QIXqOO8O0

直「今のは鳴き声なので意味はないんです」

梓「あ、そうなんだ……」

すごく残念そうだった。
憂ロボは梓にとって好みの部類に入るのかもしれない。
思いのほかしょげる梓を尻目に奥田博士が憂に向き直る。

直「なんでもいいから勝負です、憂先輩!」

憂「う、うん。わかったよ!」

あぁもう、人が良いなぁ。
憂が奥田博士の勝負を二つ返事で受けた。

9: 2012/04/23(月) 19:08:07.80 ID:QIXqOO8O0

奥田博士が突き付けてきたのは三本勝負で、それぞれ数学の暗算と、料理の皮むきと、奥田博士の私生活について、という組み合わせだった。
一番目と二番目も事前に練った感じがありありと臭うけど、とりわけ三番目の勝負のインチキ臭がすごい。
勝負事にしていいのかという出発点で既に怪しい。
きっと憂でなくたって誰も知らないし、別段知らなくてもいいと思う。
しかし憂は素直にそれらの胡散臭い勝負を受けてしまう、健気な子だった。
普段から私にいかがわしい通販にはくれぐれも騙されないようにね、と気を配ってくれている子だとは信じられない。
後輩に甘いね。

10: 2012/04/23(月) 19:09:06.44 ID:QIXqOO8O0

始められた勝負はひと言で言うなら、せこかった。
奥田博士もっと頑張れ、と言いたい心境にさせられた。
まず暗算だけど、机に問題用紙を広げて数字を睨む憂に対して、「ピ・ポ・パ・ポ」と効果音を出す憂ロボのお腹の蓋がパカッと開いて、中から電卓が出てきた。
この時点で私たちは例外なく「えぇー……」と不満の声を漏らしたけど、更にひどいのは電卓を叩くのが奥田博士自身という人力だったことだ。
そこはロボットらしく憂ロボが全自動でやろうよ。
電卓を打つのに手間取って最後には憂にあわやの所まで追い縋られていたし。
だいたい電卓を持ち出したんだから暗算になっていない。

憂「速すぎるよぉ……」

途中そう泣きごとを口にした憂だけど、むしろ勝ちそうになった憂が速すぎるよぉ。

11: 2012/04/23(月) 19:10:33.99 ID:QIXqOO8O0

次に皮むきとなり、梓もスミーレも私も嫌な予感を隠すこともなく揃って面倒くさそうな顔をした。
その期待を裏切らず、憂ロボのお腹から出てきたのは手回し式の皮むき機だった。
ロボットとか関係なく単なる台所の便利グッズだ。
電卓からこう続くと、一歩間違えれば憂ロボじゃなくて雑貨憂といった方がマシなくらいだ。
対して本物の憂は包丁を使い、掴んだリンゴを回して器用に薄皮の蛇を作っていく。
相変わらず果肉を無駄に捨てない綺麗で手際の良い包丁遣いだ。

直「おりゃー!」

奥田博士は憂ロボのお腹の台に載せた皮むき機にリンゴを固定すると、叫びながら勢いよくハンドルを回す。
回転するリンゴの表面に刃が当たって上から下へと皮を削り取っていく。
リンゴ肌が露わになっていく様に恍惚として顔を緩める。
苦手な皮むきに疲れていた主婦の歓喜に見える。
その喜びようたるや通販番組で商品の体験談を語る人に打って付けかもしれない。

12: 2012/04/23(月) 19:11:54.82 ID:QIXqOO8O0

それにしてもねぇ。

菫「あのぉ、純先輩。正直憂ロボって必要あるんですか?」

やっぱりスミーレも思うよね。
そう言わずにはいられないスミーレに「さぁねぇ……」と呟くほかない。
憂ロボ自体は何ができるんだろう。
ジュンチャーンとかスミーレチャーンとか呼んでくれるのか。
もしも私だけジューンだったらどうしよう、舐められている。

憂「速すぎるよぉ……」

先にリンゴをむき終えた憂ロボと奥田博士を見て憂が驚く。
その手には三分の二も皮がむかれたリンゴ。

それにしたって憂も速すぎるよぉ。
しかし、なんだ。

純「いちいちせこい」
梓「いちいちせこい」

思わず梓とハモってしまった。

13: 2012/04/23(月) 19:14:25.29 ID:QIXqOO8O0

憂「ふぇぇ~……」

甚だ疑問が残る結果だけど二本先取された憂が倒れてしまう。

正確には一回膝を突くと「あ、いけない」とつぶやいて、倒れる場所に毛布を運んで敷き始め、それから改めて倒れた。

あぁ、じかに寝転がると寒いもんね。

別に倒されなくてもいいのにそうするのは、憂なりの奥田博士とのコミュニケーションのはずだからだった。
なんだか後輩思いな子だ。

と、憂がこちらに目配せする。

梓「あ……えーと、憂がやられた!?」

梓が想定外だとでも言いたげに仰天する。
こうやって奥田博士に付き合っている所を見ると、頭は硬いけど案外乗せやすいタイプだということをますます確信する。
私でも操縦できそうだ。
近いうちにやってみよう。

14: 2012/04/23(月) 19:15:42.79 ID:QIXqOO8O0

スミーレがどうしましょう、と見つめてきたので適当に乗っておくといいよ、と合図する。
奥田博士が白衣の裾を摘んで、風にはためいているのを演出した。
楽しそう。

直「ククク、さしもの憂先輩も憂ロボには勝てなかったですね」

もはや悪者の口ぶりすぎて指摘すべきなのか、それとも水を差したりしないほうがいいのかわからない。

憂ロボ「アズサチャーン!」

梓「はい」

憂ロボが咆哮する。
梓も微妙に嬉しそうにするんじゃないよ。
いけない、もう何がなんだかさっぱりになってきた。
憂は倒されたけど実際は憂ロボがすごい訳ではなくて、奥田博士がせこくて、憂ロボは必要だとかいらないとか、ファンクラブはどうするんだとか……。

唯「こんにちは~」

あぁもう憂のおねーちゃんが扉を開けて入ってきたし面倒くさい。

15: 2012/04/23(月) 19:16:55.17 ID:QIXqOO8O0

おい、待て。
誰が来たって? 
スミーレが興奮の声を張る。

菫「すごいタイミングですごい人が来ましたね!」

おかしいな、ごく当たり前のように唯先輩が部室に存在している。
掃除当番で遅れちゃったよぉ、と頭を掻きながら腰を低くしてそそくさと歩いているみたいに、その場に混ざってきて違和感がない。
この人がいるのはおかしいのかおかしくないのか自問してしまうほど紛らわしくて困る。
こんにちは~、と現れたのは憂のおねーちゃんである唯先輩だった。
その瞬間、やられていた筈の憂がパッチリと目を開き、起きあがろうとしたけれど、唯先輩と目を合わせると、すぐにまたその場に倒れ込んだ。

……今何か、一瞬のうちに膨大な量のやりとりが交わされたような気がするよ、この姉妹の間で。

16: 2012/04/23(月) 19:18:25.91 ID:QIXqOO8O0

驚いた梓が唯先輩に駆け寄る。

梓「ゆ、唯先輩どうしてここに」

唯「いやー、なんか憂のピンチみたいな? そーゆーの私わかるんだよね」

腕を組んでうんうん、と深く頷いて、とても自慢げに眉が持ち上がっている。
というか部室に入ってきたのが自然すぎて逆に落ち着けない。
唯先輩は大学生で、卒業している、それで合っているんだよね。
じっとしてでもいなければ私も、遅かったじゃーん、と肩を組みにいきそうで頭が混乱してくる。
あー、どうなっているんだ。
そうだ、憂はどうだろう。
唯先輩と目と目で会話したあと、再び倒れ込んだ憂だけど、今はお日様の光を浴びてウトウトとお昼寝しかけていた。すっかり安心しきった表情。
なんだかかわいい。

18: 2012/04/23(月) 19:20:56.43 ID:QIXqOO8O0

菫「すごい、私憧れちゃいます!」

唯「でへへ、そうかなぁ?」

写真でしか知らなかった唯先輩にスミーレは好意的な眼差しを向ける。

スミーレはムギ先輩と姉妹のように育ったというし、唯先輩と憂との間に流れる何かが興味深いのかもしれない。
ただ、スミーレに褒められた唯先輩は照れくさそうに頭を抱えて身をくねらせているので、残念ながら威厳に満ちているというようなことは全くない。
どちらかといえばもっと褒めてーとか言い出しそうだ。
けれど唯先輩の珍妙なそれを、梓の悲鳴のような大声が遮った。

梓「唯先輩危ない!」

唯「はい?」

唯先輩の登場によって割とどうでもよくなっていた奥田博士の存在なんだけど、すぐさま憂から唯先輩へ標的を変えて襲いかかる。

直「しゃらくさい、やってしまえ憂ロボ!」

憂ロボ「ナンデヤネーン!」

どう聞いても博士くずれのワルモノの台詞だった。
ついでに憂ロボが人名以外の鳴き声も出せると判明した。
非常に偏ったボキャブラリーしか収録されていそうにないのが気にかかる。

19: 2012/04/23(月) 19:22:22.55 ID:QIXqOO8O0

唯「こちらどなた!?」

梓「新入部員で一年生の奥田直ですよ、唯先輩は会うの初めてですよね」

梓は見ず知らずの人物に襲われんとしている唯先輩に回答するが特には助けない。

少し同情した。

唯「よろしい、先輩が相手をしてあげよう。どこからでも……」

そう言い終わらないうちに、憂ロボがひょこひょこと前にでて……唯先輩にぶつかった。

唯「あぁん……」

憂ロボに両手で突かれて、唯先輩がスイカ割りでいつもより多く回されました、みたいに情けなくよろめく。
そこはできれば格好良く避けていただきたかった。
もっとも、唯先輩があまりうまく事を運びすぎても憂が「私の知ってるお姉ちゃんじゃない!」とか泣きついてきそうでややっこしいから多くは望むまい。

純「名乗りの最中に突き飛ばされて終わりとか、何しに出てきたんですか唯先輩!」

私はつい唯先輩に野次を飛ばした。
たいした働きを期待していたわけでもないけど、身体が勝手に突っ込みをしてしまう。
言いたいことを言うとなかなか気持ちいい。

20: 2012/04/23(月) 19:23:48.16 ID:QIXqOO8O0

梓「待って純、唯先輩の様子が……」

息巻く私を梓が抑えて唯先輩に注目した。
へろへろと部室を横断して唯先輩が横になった憂に近付いていく。
それまで安らかに夢の国へ旅立とうとしていた憂だったが、唯先輩が傍に寄ると、再びぱっちりと目を開いた。
唯先輩からは何か憂を刺激する成分でも発散されているんだろうか。
二人の目が絡み合う。

憂「おねぇちゃん……」

唯「う、うい~」

憂の声がか細いのは闘いに傷つき倒れたからで、決して寝ぼけているのではないと思いたい。
そして力尽きたように膝から倒れ伏す唯先輩。
傾いていくその身体は、まるで計算され尽くしたかのようにちょうど憂のことを労り包むように重なる。
決して憂に助けを求めてしがみ付いたのではないと思いたい。

純「うまい具合にダウンした憂の上に覆い被さったわね」

梓「これはアレだよ! これからパワーアップする前兆、みたいな!」

純「それはどうかなぁ……」

気勢が上がる梓を横目に同意しかねる。

21: 2012/04/23(月) 19:25:33.57 ID:QIXqOO8O0

私には単に憂と唯先輩が毛布の上で横になって仲良く抱き合っているように見える。

憂「おねぇちゃん、どうしてここに?」

唯「ふっふ~、憂の危機を察知したんだよ」

いや、間違いなく実際にいちゃついていた。
憂と唯先輩が同じ空間に揃った時点でわかりきっていたけど、さっそくぎゅーっと抱き合っていた。
背中に手が回って、時々二人の位置を入れ替えるようにごろりと転がる。
その表情が緩みっぱなしで憂を助けに来た目的はどこに行ってしまったという気分になってくる。

唯「憂分を吸ってやるぞお」

憂「きゃ~」

組み敷いた憂に襲いかかりガバーッと胸にその頭を抱え込む。
私が知る限り、憂と唯先輩はいつどこで会ってもお互いを熱烈に歓迎している気がする。
それは唯先輩が高校に在学中の頃から今も何ら変わっていなかった。
隙間から見えた憂の顔はとてもくすぐったいもので、あの子一応は憂ロボに倒されたことになっているんだよね、と思った。

22: 2012/04/23(月) 19:27:19.03 ID:QIXqOO8O0

梓「おぉ……見る間に元気になった」

梓が頬ずりしている二人を見て感嘆する。
常に潤いを持っている憂も今はいっそう瑞々しい。
あの調子なら、唯先輩にどれだけ憂分を吸われても尽きることはなさそうだ。
そのとき、横の方から何か金属的な物が軋む音が響いた。

憂ロボ「ギギギ……」

憂と唯先輩を見つめる憂ロボが歯ぎしりしている。
勝負の最中は目くらましのハリボテかと思われた憂ロボだけど、唯先輩を突き飛ばしたり恨めしそうにしたりと、役立たない面で器用さを発揮する。
そう考えると頭に刺さっているネジ巻きがにわかに気になってくる。
ゼンマイが動力なのか……?
奥田博士にも憂ロボに何が起きているのかわからないらしく慌てふためく。
作った物には責任ある振る舞いをしてほしい。
そのうちに耳にあたる部分からはおもちゃの蒸気船のようにシュッポ、シュッポと煙が噴き出してガタガタと震え出す。
こんな逃げ場のない狭い室内で爆発とかは勘弁してほしい。
最悪の場合、スミーレと一緒に梓の陰に避難させてもらおう。
さっきから床で春爛漫している姉妹の身は知らん。
どうせ巻き込まれて黒焦げになったって一緒にいれば勝手に完治するだろう。

23: 2012/04/23(月) 19:29:06.03 ID:QIXqOO8O0

憂ロボ「オ、オネーチャーン!」

じりじりと梓の傍へ寄っていくと、突如として限界を迎えた憂ロボが吠えて大きく煙を吐いた。

菫「爆発した!」

籠ったような破裂音に悲鳴を上げるスミーレ。
でも爆発したのは憂ロボの頭部の中でだけみたいだった。

それ以上何かが起きる様子がなくなってから身の安全を確かめつつ、梓の近くまで寄っていた私は、そこからひとまず離れる。
梓に盾代わりにしようとしていた魂胆がバレるとまずい。

憂ロボの目や耳や口からプシュー、と排熱の蒸気が伸びる。
そういえば、異常をきたした憂ロボは熱暴走の直前にオネーチャーン、と叫んでいた。
憂ロボが憂を模したものならば、悲しげな響きもいくらかわかる。
唯先輩に可愛がられる憂を見て、憂ロボはきっと寂しくなったんだと思う。
自分も唯先輩のような人が欲しかった。

憂の弱点を探そうの会の奥田博士が作り上げた憂ロボは、自身の姉にあたる存在がいないばかりに自分の側が弱点を抱えてしまったというのはどこか皮肉なものを感じてしまう。
いつの日か、唯ロボなるものが出現してしまう日が来るのかもしれない。

24: 2012/04/23(月) 19:31:17.93 ID:QIXqOO8O0

直「憂ロボは完璧だったはずなのに、なぜ……」

純「奥田さ……奥田博士。この2人を見てもまだわからない?」

そこには、周囲の喧噪をよそに仲良く抱き合って眠る平沢姉妹の姿があった。
きっと夢の中でも、「あったかあったかだね♪」なんて言い合ってるに違いない。

純「憂は決して一人じゃない、それを忘れたのが敗因だったのさ」

直「はい……」

うなだれる奥田博士の白衣に包まれた肩に手を置いた。
適当に諭して諦めさせる。
完璧を自称している点については面倒くさいから触れてあげないけど、詐称もいい所だった。

奥田博士は悪い呪いから覚めたように、のろのろと汚れた白衣を脱いだ。
深いため息と共にメガネを外した目には寄る辺を失った無常感が漂う。
そんなに衝撃的だったのか。

直「私の研究はいったい何だったんだろう……」

ほろり、と涙が一滴。
何でもなかった、と口から出そうになり慌てて塞ぐ。

25: 2012/04/23(月) 19:32:28.60 ID:QIXqOO8O0

そこへ目に涙を湛えた梓がやってきて膝を突いた奥田博士、いや奥田さんへ歩み寄る。
私は困惑気味のスミーレと目があったので、いいから空気読んでおいて、と合図するが私とスミーレが空気を読めていないわけではないだろう。
私と代わるようにして梓が奥田さんに寄り添う。
その時に上履きが足元の借り物の白衣を踏んづけてしまった粗相は見なかったことにした。

梓「これからは電気ポットとして憂ロボを平和利用していこうよ」

直「梓先輩……」

やっぱり憂ロボの体型を眺めて電気ポットを連想していたか。
あの寸胴らしさはお湯汲みに最適に思える。
スミーレも気を取り直して駆け寄っていく。

菫「直ならできるよ!」

名前呼びによる励ましの言葉。
天然でやっているのかどうか知らないけどこれは強力だ。
駄目押しの一手を受けた奥田さんはその目に力を取り戻し、拳を握り締める。

直「はい! 私やります!」

26: 2012/04/23(月) 19:34:17.35 ID:QIXqOO8O0

ふと平沢姉妹の方へ目をやると、憂がお姉ちゃんの胸に顔を埋めて眠っている。
普段は完璧な憂が滅多に見せることのない無防備な表情で、姉に甘える妹の姿だ。

純「しあわせそうな顔しちゃって」

梓「この2人は、いくつになっても変わらないね」

梓と2人で顔を見合わせて笑う。

直「……み、見つけた」

菫「直、何を見つけたの?」

直「弱点だよ。……お姉さんこそが、憂先輩の、唯一無二の弱点!」

はぁ。まだ続いてたらしい、憂の弱点探し。

27: 2012/04/23(月) 19:35:29.89 ID:QIXqOO8O0

ところで唯先輩がいらしたということは、他の御三方がお越しになってもおかしくわないわけで。
唐突に素っ頓狂な声が室内を駆け抜ける。

律「じゃじゃーん!」

わざとらしくそんな効果音を口にして扉を開け放ったのは、先代部長の律先輩。

澪「こんにちは」

紬「こんにちは~、唯ちゃん来てるかしら?」

続いて澪先輩、ムギ先輩が申し訳なさそうに入ってくる。
この三人の先輩は私たちの中に混ざってくればすぐにわかった。
やっぱり唯先輩の違和感の無さがおかしい。

28: 2012/04/23(月) 19:36:30.00 ID:QIXqOO8O0

梓「せ、先輩方!」

梓も奥田さんと絡んですっかり出来上がっているものの、勢ぞろいした先輩たちに混乱しているらしい。
おう、と軽く応えて律先輩が部室を見回す。
奥の方に寝転がり、憂とのシエスタを楽しんでいる唯先輩を発見する。

律「ほーら、起きろ唯、帰るよ」

唯「あぁん、いけずぅ……」

むんずと掴まれ首根っこから引っ張られているのに唯先輩は憂からやすやすとは離れない。
引っぺがそうとする律先輩と踏ん張る唯先輩では、意外にも唯先輩が上回っている。
そこまで頑張れるなら憂ロボにへろへろと負けないでください。

憂の方から唯先輩を剥がしてくれれば簡単なんだろうけど。
そう考えていると澪先輩が揉める三人に混ざっていく。

澪「憂ちゃん、唯が迷惑かけてすまなかったね」

憂「あ、澪さんこんにちは!」

唯先輩に絡みつかれて転がっていた憂は、澪先輩に話しかけられた拍子に折り目よく正座に直って頭を下げた。
その隙に今だ、と引きずられる唯先輩。
さすがは澪先輩。
憂の礼儀正しい習性を利用して、自分から挨拶をすることで憂が自然に唯先輩を手放すようにした。

29: 2012/04/23(月) 19:38:17.94 ID:QIXqOO8O0

唯先輩を確保したあとの律先輩たちの行動は早かった。
逃げ出したサルを網で掬ったあとの飼育員のようなやりきった顔できびきびと撤収にかかる。
そこへスミーレと談笑していたムギ先輩も話を切り上げて加わる。

あたたかな笑顔を浮かべて小さく手を振る憂に比べて唯先輩は泣きべそをかいているけどいいんだろうか。

でも、そのまま連れ去られるかと思われた唯先輩が、ふと奥田さんへ声をかける。

唯「あ、そうそう……直ちゃん、だっけ?」

次の瞬間、唯先輩が消えた。
その動作には何か言う間がなかった。
律先輩にがっちりと掴まれて出口へ連れていかれたはずなのに、どうなっているのか、唯先輩は拘束をいともたやすくほどいて奥田さんの元へ歩いていく。
縄抜けかと思うくらい呆気なくて、逃してしまった律先輩がおかしいなぁ、と眉をひそめる。

私とて早業であることしか理解できなかった。
たまに妙な力を発揮する人だ。

30: 2012/04/23(月) 19:39:33.61 ID:QIXqOO8O0

向かってくる足音に振り返った奥田さんの顔が唯先輩の両手に優しく挟まれた。
憂と同じ色彩の目が笑う。

唯「憂はとーっても優しくて怒らないけど……憂のこと、泣かせたりしないでね? 私いちおー、憂のお姉ちゃんだからさー」

すうっと奥田さんから手が離れる。

そういう台詞はもう少し活躍してからじゃないと意味がないような気がするけどね。
そもそも、そんな甘い声で囁かれても、奥田さんでなくたって何の効果もなさそうだ。
梓も、まったくもう、唯先輩は仕方ないですね、なんて呟きながら、のほほんとした唯先輩の様子に呆れてため息をつく。

唯先輩の真正面にいる奥田さんには、さぞかしかわいい顔が拝めたに違いない。

だけど、唯先輩が離れたその瞬間、奥田さんの表情はなぜか青ざめ、ぼんやりと口を開いたまま固まっていた。

31: 2012/04/23(月) 19:41:37.33 ID:QIXqOO8O0

純「ん? 奥田さん、どうかした?」

直「……え、えっ!? あ……いえ、その」

純「?」

直「……少しわかった気がしたんです」

純「何が?」

直「憂先輩にとってお姉さんは、弱点かもしれないけど、それ以上に」

純・梓「「強さのひみつ?」」

思わず再びハモった、私と梓。

直「へ?」

純「ふふん。憂のことなら、大抵のことはわかってるつもりだよ」

梓「まあ、唯先輩にはかなわないけどね」

直「ず、ずるいです、ずるいです~!」

駄々をこねる奥田さんに私は、へぇ、と声が出て腕組みをした。
憂もなかなか慕われているようじゃないか。

ただ、次第に奥田さんの眉はしょんぼりと下がって、小さな肩が小刻みに震える。

純「だいじょうぶ?」

直「なんだか怖かったです。憂先輩のお姉さん。優しい表情なのに」

なんとなくピコピコハンマーで叩いてみたい表情だと思いながら奥田さんの頭をわしゃわしゃと撫でてやると、多少は安心したようで身体の緊張を解いた。

ひょっとして唯先輩、目だけでずぶりと釘を刺したんだろうか。
そんな真似は唯先輩には至難の業に思えるけど。
たまに唯先輩はわからなくなる。

32: 2012/04/23(月) 19:42:49.21 ID:QIXqOO8O0
唯「えへへ。それじゃね~」

そうこうしている間に、唯先輩は憂とひとしきり別れの抱擁を交わし終え、私たちに軽く手を振りながら、待っている律先輩たちの中へ戻っていく。

気のせいか、その背中が颯爽として私は一瞬見惚れた。

憂が、やる時にはやる人です、と断言していたのも理解できるかもしれない。

唯「りっちゃん巡査、すみませんでした」

律「うむ。逃げたら罪は重くなるんだ。これ以上妹さんを泣かせるな」

唯「そんな! そんなつもりはなかったんです」

律「逃げた人はみんなそう言うんだぞ」

唯先輩、見直しました、と言おうとした矢先にお縄につき、珍妙な小芝居が始まっていた。

ああ、これが軽音部の伝統か。

33: 2012/04/23(月) 19:43:44.91 ID:QIXqOO8O0

澪「騒がせて悪かったね、それじゃ」

紬「お邪魔しましたー」

最後に澪先輩とムギ先輩が一同に笑顔をくれて去っていった。
去り際に、犯人を乗せたパトカーよろしく閉まる扉の向こうからは、

律「ホームシックになったからって寮を飛び出して妹の所へ駆け込む奴があるか!」

唯「でも憂は喜んでたもんね! いいんだもんね!」

などと聞こえてきた。

ほんと、何しに来たんだろう。

34: 2012/04/23(月) 19:46:26.71 ID:QIXqOO8O0

憂「ありがとう、お姉ちゃん」

憂の微笑みに振り返って見渡す。
唯先輩がいなくなったのをいいことに立ち直った奥田さんたちがやかましい。

私はどうしたものかと頭を掻いて憂に近寄り、なぜか前が開けられているブレザーのボタンをしっかりと留めてあげる。
あちらでは憂ロボの今後の処遇が決まって梓たちが沸き立つ。

純「それでなんだ、ごちゃごちゃやって……最終的に新しい電気ポットが一丁上がったわけか」

憂「うん!」

純「そうかそうか……プッ」

憂「純ちゃん?」

純「ク、クク……」

数日のうちには、だばーっとお湯を出す憂ロボが見られるんだそうだ。

壊れた憂ロボのブリキ光沢と、憂の屈託ない笑顔が眩しくて、私は腰に片手をやり、それでもお腹から込み上げてくる笑いが耐えられなくて、腕に憂の首を捕まえ気の赴くままに大口を開けた。













おしまい!

36: 2012/04/23(月) 19:48:36.66 ID:QIXqOO8O0
読んでくれた方、ありがとうございました。

引用元: 純「ういろう? じゃなくて憂ロボか」