1: 2009/12/11(金) 22:34:40.72 ID:AbwRFI2b0
憂「くっ、こ、これが……、こんなことが……」

紬「琴吹グループ関連会社の一流造形師に作らせた最高傑作よ。世界に二つとないわ」

憂「いいでしょう、紬さん。そちらの条件を伺います」

紬「ふふ、話が早くて助かるわ。実はね……」

憂「すごい、スカートの中まで精巧に作りこまれているッ!」

紬「訊いて憂ちゃん」

憂「ふ、うふふ。嗚呼、お姉ちゃん、可愛いなぁお姉ちゃん……」

紬「訊けよ」

 桜高の制服を纏った二人の少女が校舎の屋上で密談を交わしていた。
 一方の名を琴吹紬。座右の銘は『男が来たら頃すのよ』。
 もう一方の名を平沢憂。座右の銘は『お姉ちゃん お姉ちゃん うーるわしのー』。
 なんら接点の無いような二人ではあるが、今この瞬間、両者の間にはひとつの契約が結ばれようとしていた。
けいおん!college (まんがタイムKRコミックス)
3: 2009/12/11(金) 22:36:33.82 ID:AbwRFI2b0
憂「ふ、ふふふふ」

 1/10スケール平沢唯ドール。
 思わぬ収穫を得た私は、小躍りしながら家路を辿っていた。
 琴吹紬。ただの百合好きな沢庵では無いとは思っていたが、まさかこれ程のものを提供してこようとは。正直侮っていた。
 見ろ、この造形美。人懐っこい表情、柔らかな癖っ毛、しなやかな肢体に至るまで、まるでお姉ちゃんをそのまま縮小したかのような完璧な再現性。
 着ている衣装は全て実物と同じ素材を使うという手の込み様。思わず頬擦りしたくなる。
 そして、このドールには驚くべき秘密がある、らしい。
 らしいと言うのは、私がそう聞及んだだけであって、信用に足る証拠、根拠が一切無い為だ。
 早い話が、その秘密に関しては眉唾物であろうと疑っているのである。

 そしてこのドールを交換条件に、紬さんが持ちかけてきた条件というのが、その秘密の検証だった。
 所謂実験台という事なのだが、成功しようが失敗しようがこのドールは私の物となる訳で、そんなおいしい話を蹴る理由はどこにもなかった。

憂「それにしても可愛いなぁ……」

 あまりの可愛らしさに胸がきゅんきゅんする。
 家に着いたら、8:2の割合でいかがわしい行為を交えつつ目一杯愛でてあげよう。
 昂ぶるリビドーに腰をうねらせていると、帰宅途中の小学生に奇異の眼差しを向けられたが、ガン無視して腰をうねらせた。

7: 2009/12/11(金) 22:42:27.84 ID:AbwRFI2b0
梓「こんにちはー」

 適当に挨拶を交わして、いつも通りに自分の席へと座る。
 それからいつも通りに他愛も無い会話に華を咲かせて、いつも通りにムギ先輩の美味しいお菓子を頂く。
 ああ、変わらない日常って素敵だなぁ。練習はどうしたこのやろう。という無粋な突っ込みをしてはいけない。
 例えるならば、そう。今この空間は、授業という名の荒涼した砂漠を歩きぬいた果てにあるオアシス。
 見てください、唯先輩の溌剌とした笑顔を。この無防備とも言える純真さ。いつまでも失わないで欲しいものです。
 なんて年寄りくさい感慨を抱きながら、無意識に引き出しの中に手を入れると、なぜかB5程度の紙切れが入っていた。

梓「?」

 不審に思いつつ、私がその紙切れを机の上に置く。

梓「……」

律「……」

 期せずして、私と同様の行動をとる律先輩。彼女もまた、紙切れを引き出しから取り出していた。
 思わず顔を見合わせる。

10: 2009/12/11(金) 22:48:41.78 ID:AbwRFI2b0
紬「どうしたの、二人とも?」

梓「いや、なんか紙切れ入ってたんですけど」

律「こっちにも」

唯「なに? 宝の地図?」

澪「んなわけあるか」

梓「えっと……」

 『キスしなさい』

梓「誰と!?」

 叫んだ。
 他にもっと突っ込みようがあるだろうとは思ったが、どうやらこのあたりが私の限界らしい。

澪「律の方は?」

律「えーと……」

 『梓ちゃん→唯ちゃん、澪ちゃん→りっちゃん、でお願いします』

律「だ、そうだ」

 こともなげに言いのけると、律先輩はキラリと白い歯を見せた。澪先輩が渋い顔をしていた。
 対照的に犯人と思しき人物は菩薩のような笑みを浮かべている。
 彼女を問いただす前に、私は意中の人物の顔色を窺うつもりで左斜め前方に視線を移すと、その人物は数字の「3」のように唇を尖らせて、私の真横に迫っていた。

11: 2009/12/11(金) 22:54:09.75 ID:AbwRFI2b0
唯「あずにゃ~ん」

梓「ちょ、唯せんぱ、わー! 待て待て待て! 私からって書いてますから! 私から! ほ、ほら! ルックルック!」

唯「あ、そっか……」

 顔と顔の距離、凡そ20センチといった距離で静止した先輩を前に、私は小さく息を吐く。
 そんな私を尻目に、唯先輩はそのままの姿勢で、頬を朱に染め上げて瞳を閉じた。

梓「あ、いや……」

 私は狼狽するが、しかし同時に欲望の波が打ち寄せる。
 目の前には、瑞々しくて柔らかそうな唇。あったかくて、良い匂いで、それで――

律「梓、顔真っ赤だぞ」

梓「あ、う……」

 私はぶんぶん、と首を左右に振った。
 しかしどれだけ風をあてたところで、頬の火照りは冷めてはくれない。
 断じて嫌では無いし、寧ろ、願ってもない展開だとさえ思う。
 落とした小銭を拾おうとして追いかけていった先に、束になった諭吉さんが鎮座しているくらい願っても無い展開――って、なんだその比喩。
 沸騰しきった私の脳は、比喩すらもまともに吐き出せないでいた。

13: 2009/12/11(金) 23:00:04.71 ID:AbwRFI2b0
梓「こ、こ……」

 けれど、違うのだ。

澪「こ?」

 これは私が求めているシチュエーションとは違う。

梓「心の準備が……って、なんで律儀にこんな紙切れに従おうとしてるんですか!?」

 だから、机をバンバン叩きながらキレた。

澪「落ち着け梓。従おうとしてるのは唯と梓だけだぞ」

 なん……だと?

 我に返った私は、気を取り直して犯人の方へと向き直る。

梓「何考えてるんですか、ムギ先輩……」

 突き刺すようなジト目を送るも、ムギ先輩は、哀切に満ちた瞳で「残念だ」と訴えるばかりで、どう贔屓目に見ても反省の色は無かった。

14: 2009/12/11(金) 23:07:18.70 ID:AbwRFI2b0
唯「あずにゃん、してくれないんだ……」

 目下の選択から逃げるようにムギ先輩に視線を向けていた私に、雷にでも撃たれたかのような衝撃が走る。

梓「ち、違うんですよ唯先輩、私はただ、こんなシチュエーションで――」

唯「むぅ。もういいもん、わかったもん、そんなこと言うんだったら私からぎゅってしちゃうから!」

 必氏のフォローも徒労に終わり、唯先輩はぶーたれた。
 キスはともかく、ハグには慣れっ子だ。拒否する理由はどこにもない。
 ならば、どう返す?
 『やめてください、恥ずかしいです』 ……これじゃいつもと同じだし、いつもと同じではダメなんだ。
 どう答えたところで、この人は抱きついてきてくれるのだろうけど、キスを避けてしまった後ろめたさが、その回答を否定する。

 だったら――

 脳内でシミュレートする。

 ――よし、完璧だ。

 私は頬の赤を更に深めると、両手を広げて腰を落とした。

梓「望むところです!!」

 さあ! さあ! さあ!!
 どうぞ先輩!! 私の胸へ――!!

唯「えへへ、恥ずかしがるあずにゃんかわい――超受け入れ体勢っ!?」

 唯先輩が飛び退いた。

16: 2009/12/11(金) 23:17:09.57 ID:AbwRFI2b0
唯「そ、そんなあずにゃん、あずにゃんじゃない……」

梓「え、いや……そんなショックなんですか」

 いじらしく膝を抱えてその場にうずくまる唯先輩。
 嗚呼……なんて可愛らし、いや、言ってる場合じゃなくて。

梓「ご、ごめんなさい唯先輩。その、ちょっとした出来心で……」

唯「……」

梓「えっと……」

唯「ごめんにゃさいにゃん、大好きですにゃん唯先輩」

梓「え?」

唯「って言って」

梓「……え?」

唯「言って」

梓「……」

唯「……」

19: 2009/12/11(金) 23:24:28.95 ID:AbwRFI2b0
梓「えーっとですね、唯先輩。私がそんな恥ずかしい台詞を言えるとでも――ムギ先輩こっち見すぎです」

 その笑みは多分人を殺せます。20人くらい。

紬「……」

 そんで何も言わんのかい。
 嘘でもいいから否定とかしてくださいよ。

唯「あずにゃん!」

梓「は、はひ!?」

唯「……言ってくれないの?」

 両目に大粒の涙を溜めて、ハンカチを噛む唯先輩。
 こんな澄んだ瞳でおねだりされて、それを無碍にできる人間が果たしてどれだけいるのだろう?
 嗚呼、体面も外聞もかなぐり捨てて、今すぐにでもこの人を抱きしめたい。
 それができないのは、僅かな意地か、つまらぬ矜持か。

梓「……」

 違った。
 迫られていたのは、件の台詞を言うか言わないかの二択だ。
 なのに、どうして抱くか抱かないかの二択に昇華させた挙句思い悩んでいるんだ。色魔か私は。色魔か。
 抱く抱かないの二択に比べたら、件の台詞に対する羞恥なんて、ちっぽけなものに思えてきた。
 元はといえばあんな益体の無い行動に打って出た己に非があるのだ。

 答えはすぐに出た。

21: 2009/12/11(金) 23:29:50.14 ID:AbwRFI2b0
 私は静かに深呼吸して、覚悟を決める。

梓「ご、……ごめんにゃさいにゃ…大好…ですにゃ…唯先輩」

唯「……ふ、ふふふ」

梓「……っ」

紬「あらあら、顔が真っ赤よ、梓ちゃん」

梓「うるさいです。わかってますもん、そんなこと……」

 わかった上でやっているのだから、救いようが無かった。

唯「あぁん、あずにゃあぁぁん!!」

 はちきれんばかりの笑顔で抱きついてくる唯先輩。
 バカなことやるんじゃなかったと、自戒の二文字を脳裏に刻みつつも、他の先輩方に気付かれない程度に抱き返す。
 私の思わぬ反撃に、驚いたように身を震わせた唯先輩だったが、それも一瞬だけだった。後は済崩しに、さっき実現できなかったキスへと移行する。

 とか頭では考えても決して実践できないチキンハート。

澪「見てて飽きないな、あの二人は」

紬「二人ともヘタレ攻でいて、かつ誘い受けの気があるからかしらね、鬩ぎ合いがたまらないわ」

律「お前は何を言っているんだ」

22: 2009/12/11(金) 23:38:00.93 ID:AbwRFI2b0
 冬の冷たい空気とは裏腹に、私の頬は熱を帯びていた。
 穴があったら入りたいって、こういう時に使うんだろうなー。なんて、取るに足らないことを考える。
 思い出し笑いならぬ、思い出し恥ずかし。いや、ねえよそんな言葉。

 相も変わらず妄想に耽っていると、隣を歩く唯先輩がびくりと体を振るわせた。

梓「? どうしたんですか、唯先輩?」

唯「え!? あ、ううん、ちょっと寒気がしただけ……」

梓「風邪でも引いたんじゃないですか?」

唯「大丈夫だよー。私あんまり風邪とか引かないし」

梓「気をつけてくださいよ。先輩に風邪引かれると……、その、私が、困るんですから」

唯「あずにゃん、心配してくれてるんだ~?」

梓「ち、違います。ただ同じバンドのメンバーとして……」

唯「照れなくてもいいのに」

梓「て、照れてなんか……」

唯「えへへ、可愛いなぁ、あずにゃんは」

梓「あ、う……、そんなにくっつかないでくださいよ~」

25: 2009/12/11(金) 23:47:17.52 ID:AbwRFI2b0
 またか。またこの流れなのか。
 今更気付いたのかとか思わなくもないけど、どうやら私、唯先輩と二人きりの時に自分のペースを握るのが苦手らしい。
 いつだって唯先輩のペースで、振り回されて、かき乱される。
 たまには私のペースで、唯先輩を振り回すという展開も見てみたいのだけど。見てみたいという要望があるような気がするのだけど。
 こういうことは一人で考えるより、誰かに相談してみたほうが良い案がでるかもしれないな……。
 ほら、例えば――

梓「……ダメだ」

 ――脳裏に浮かんだシスコンのマイフレンドと黄色い沢庵は、簀巻きにして神社に奉納した。

唯「なにがダメなの?」

梓「やっぱり澪先輩ですね」

唯「ガーン!?」

梓「え?」

唯「あ、あずにゃんは私より澪ちゃんの方が良いんだ……う、うわぁああああん!!」

梓「あ、いや……」

 抜群の快走を披露しながら、唯先輩は私の視界から遠ざかっていった。
 取り残された私はただ呆然とするばかりで……、なに、なんなんですかこの誤解フラグ。そんなバカな。
 これはまずいと思う。まずいですよね? うん、満場一致でまずい。

梓「待ってください誤解ですってばーーーーっ!!」

 私は全力で先輩を追い縋った。

28: 2009/12/11(金) 23:57:58.65 ID:AbwRFI2b0
憂「……スーハースーハー」

 ひとしきり人形遊び及びいかがわしい行為を堪能した私は、あるものを探してお姉ちゃんの部屋を徘徊していた。
 しかし、気がつけば探し物等そっちのけで脱ぎ散らかされたお姉ちゃんのパジャマを嗅いでいた。
 フリース生地に僅かに残っているような気がするぬくもりと残り香を全身に感じながら、両足をバタバタさせる。

憂「……しまった」

 なんてこった。
 この部屋には誘惑がいっぱいだ。ワォ、イッツアドゥリームラヴィリンス。

憂「髪の毛かぁ……」

 探し物というのは他でもない、お姉ちゃんの髪の毛だった。
 精巧に作られた平沢唯ドール。
 紬さんの話によれば、紛い物の髪の毛の中に本人の髪の毛を一本含めることで、傀儡として存在を確立できるということらしい。
 所謂『操り人形』という物だ。
 例えば、傀儡となったドールに私が触れる。
 すると、お姉ちゃん本人にも、誰かに触れられたかのような感覚が伝わる、ということだ。
 ふふ、想像しただけでぞくぞくする。
 本来呪術的意味合いの強いそれは、しかし私が用いる分には呪いになど成り得ない。
 紬さんがどういう目的を持ってこんなものを作らせたのか、何を企んでいるのか。
 そんなことは私にとっては些事なのだ。
 私はただ今以上にお姉ちゃんを愛でることができれば、それで全てをよしとするのだから。

30: 2009/12/12(土) 00:06:31.24 ID:rdfhcZ6D0
憂「見ーつけた」

 明るい栗色の髪の毛が一本。
 素人目には私の髪の毛と区別がつかないかもしれないが、私レベルのお姉ちゃんフリークであればその見分けは容易い。
 枕元からそれを拾い上げて、私は自室へと向かった。



憂「これで、よしっと……」

 ドールの髪にお姉ちゃんの髪の毛を一本結びつける。
 紬さんの言っていることが本当なら、この時点でこのドールはお姉ちゃんとリンクしている筈なのだが……。

憂「お姉ちゃんが来ないと検証できないよね」
 
 独りごちてから、ふと時計を見上げた。
 18時か。お姉ちゃんもそろそろ帰ってくるだろうし、夕飯の支度をしなくては。

31: 2009/12/12(土) 00:19:00.19 ID:rdfhcZ6D0
梓「はぁっ、はぁっ……!」

 唯先輩を追い縋ること10分。
 私は一つの真相にたどり着いた。

 あの人、運動神経鈍そうに見えて意外と足速い。

梓「そんなこと言ってる場合じゃないぞー、私」

 冷たい空気が肺に入り込んで、走るのが辛い。
 だからと言ってここで追いかけるのを諦めるわけにはいかない。
 とにかく追いついて誤解を解かなくちゃ……。

 閑静な住宅街が続く。夕暮れ時ということもあって、周囲に喧騒は無い。
 紅く色付いていた木々も冬の到来と共に葉を落とし、地面に落ち葉の絨毯を敷いていた。
 その絨毯の踏み心地を楽しむこともなく、それらを乱雑に踏みつけて通りの角を折れる。

 ――ようやく、追いつくことができた。

梓「追いついたっていうか、まぁ……先輩の家に着いちゃっただけなんですけどね」 

 私の呟きに呼応するかのように、カラスが『ア……アァ』と鳴いた。
 バカにされているみたいで腹が立つ。なんなんだ。ちゃんと鳴けよ。
 睨みつけようと声の方向を見上げると、――物凄い数のカラスが集まっていた。

梓「な、なにこれ……」

 その異質な光景にどっと恐怖心が押し寄せてきて、私は唯先輩の家の扉を必氏に叩いた。

35: 2009/12/12(土) 00:27:53.88 ID:rdfhcZ6D0
 お姉ちゃんは帰宅すると同時に、私の胸に飛び込んできた。

唯「うい~~~~!」

 私はそれを優しく抱きしめて、過剰なまでに息を吸い込みながら、

憂「ど、どうひは、うっ、けほっ、けほっ」

 吸い込みすぎてむせた。

唯「……だ、大丈夫?」

憂「うん。それよりどうしたの、お姉ちゃん?」

唯「あずにゃんがね、私より澪ちゃんの方が良いんだって……」

憂「……」 

 あの雌猫。言うにことかいてなんてことを。
 ……ん? いや、しかし妙だな。
 私には及ばないにしても、梓ちゃんは相当ハイランカーのお姉ちゃんフリークだったはずだが。
 そんな彼女が、お姉ちゃんを傷つけるような台詞を吐くだろうか?

憂「ねえ、お姉ちゃん。それってもしかして――」

 ドンドン、と乱雑に玄関の扉が叩かれる音がした。

憂「……、見てくるね」

唯「あ、待って憂、私も行くよ」

38: 2009/12/12(土) 00:35:14.97 ID:rdfhcZ6D0
 二人、手を握って階段を降りる。
 扉を叩く音は依然として続いていて、そこからはひしひしと焦燥感が伝わってくる。
 覗き穴から外を窺うと、そこに居たのは渦中の人物だった。

憂「梓ちゃんだよ、お姉ちゃん」

唯「……」

憂「多分、だけど……。誤解だったんじゃないかな?」

唯「でもハッキリ言ってたもん。私じゃダメだって。やっぱり澪先輩ですね、って」

憂「……話だけでも訊いてあげなよ。ここまで必氏に追いかけてきたみたいだし」

唯「……」

 お姉ちゃんが頷いたのを確認してから、私は玄関を開ける。
 すると、梓ちゃんが一目散に飛び込んできた。

梓「唯せんぱ――うわぁ!?」

 残念。それは私だ。
 両手を広げた私は飛び込んできた梓ちゃんをしっかりと抱きしめて、その矮躯を必要以上に撫でくり回す。

梓「か、カラスが、ちょ、憂、どこ触って……唯先輩、さっきのは誤解なんです!!」

憂「落ち着いて、梓ちゃん」

 君はお姉ちゃんの前にいるのだ。

39: 2009/12/12(土) 00:48:56.70 ID:rdfhcZ6D0
コーラスウォーターこぼした

42: 2009/12/12(土) 00:56:46.48 ID:rdfhcZ6D0
梓「家の外に、物凄い数のカラスが――!」

憂「カラス? ……ちょっと見てくるね」

 梓ちゃんをお姉ちゃんと二人きりにする意味も兼ねて、私は一旦家の外へと出た。
 玄関の扉を後ろ手に閉めて、空を見上げる。

 カラス……。
 確かに不気味なまでに家の上空に犇いている。
 心当たりがあるとすれば、……傀儡か?
 いずれにしろこのまま蝟集させて置くのは第三者からの心象を損なう恐れがあるし、何より我が家の景観が損なわれる。
 連中を追い払う方法は無くもない。
 この間お姉ちゃんと二人で観た映画の、最後の最後で使われた飛びっきりの方法だ。

 静かに、けれど大きく息を吸い込んでから、私はその言霊を口にする。



憂「バルス!!」




 カラスはぴくりともしなかった。


45: 2009/12/12(土) 00:59:13.80 ID:rdfhcZ6D0
ノリで書いてるから小説文とか言われてもリアクションに困るな
やめた方がいいならやめるが

50: 2009/12/12(土) 01:06:29.65 ID:rdfhcZ6D0
 憂が外に出て行ったのを見計らって、私は切り出した。

梓「あの、唯先輩」

唯「なに?」

梓「さっきのは、その誤解なんですよ」

唯「……あずにゃんは、私より澪ちゃんが好きなんでしょ?」

梓「ち、違います、いや、澪先輩は澪先輩で好きですけど」

唯「ほらやっぱり」

梓「だけどそれは尊敬する先輩としてであって……、私が本当に好きなのは唯先輩なんです!」

唯「……」

梓「あの、だから……」

唯「……」

梓「唯先輩?」

51: 2009/12/12(土) 01:12:48.18 ID:rdfhcZ6D0
唯「ふ、ふふ」

 先程まで剥れていた唯先輩の口元が、僅かにほころんだ。あれ? 笑ってらっしゃる。

唯「今のって、告白だよね?」

梓「あ……」

 その言葉の意味を理解した瞬間、急激に顔が熱を帯びた。耳の先まで熱くなる。
 私は咄嗟に俯いて、上気した頬を押し隠す。
 しかしそんな努力も、「えへへ」と嬉しそうに笑うこの人の前には意味を成さずに、

唯「私も好きだよぉ、あずにゃ~~ん!」

 蕩けそうなぬくもりと、鼻腔をくすぐる僅かな甘い香りに意識が混沌としていく。
 私はただその抱擁に身を委ねて、背中に触れる二つの柔らかな感触を堪能――ん? 背中?
 バカな。唯先輩は私の正面にいるんだから背中には誰も……。
 いや、約一名心当たりがあるけれどさ。
 だけどこういう時って空気読むじゃない? 読むよね?
 み、いくら憂と言えど、私と唯先輩の、み、愛の抱擁を、耳、邪魔するなんて、くっ、耳を。

梓「耳を舐めるなーーーっ!!」

憂「真っ赤だったから冷ましてあげようと思って」

 逆効果だよちくしょう。

唯「あずにゃ~ん、うい~、ぎゅ~~っ!」

 効果覿面だよちくしょう。

62: 2009/12/12(土) 01:25:22.87 ID:rdfhcZ6D0
 梓ちゃんを板ばさみにしてお姉ちゃんを愛撫した後、私は二人と共に食卓を囲んでいた。
 お姉ちゃんと梓ちゃんが配膳を手伝ってくれたおかげで、少しだけ楽ができた。
 後でご褒美ちゅっちゅをしなくてはなるまい。

唯「んまーい!」

 お味噌汁に手をつけたお姉ちゃんが開口一番、叫ぶ。

憂「もう、大袈裟だよお姉ちゃんは」

梓「ううん。私も普通に美味しいと思うよ」

憂「そうかなぁ? えへへ……」

唯「なんていうか、憂も所帯染みてきたよねぇ」

梓「先輩のせいでしょうに」

唯「えー、私だって家事手伝ってるもん」

 所帯染みてきた?
 それはつまり、言い換えると夫婦っぽいということであって、私とお姉ちゃんの関係が夫婦っぽいことだ。
 しかもその発言をしたのがお姉ちゃんであるという事実。これ即ち、愛の告白と受け取っても相違あるまい。

憂「不束者ですがよろしくお願いします」

唯「え?」
梓「え?」

憂「……え?」

69: 2009/12/12(土) 01:38:10.06 ID:rdfhcZ6D0
梓「あー、えっと。……すみません、夕飯までご馳走になっちゃって」

唯「いいんだよー、気にしないで。ご飯は皆で食べた方が楽しいからね」

梓「憂もごめんね、突然押しかけちゃって」

憂「ううん、今日はちょっと作りすぎちゃったから。むしろ助かったよ」

梓「そっか、ありがと」

 梓ちゃんは嬉しそうにはにかんだ。

梓「あ、そういえば、結局カラスはどうなったの?」

憂「どうにも。そのうちいなくなるとは思うんだけど……」

 あれだけのカラスが、傀儡を要因として群れているのだとすれば……。
 紬さんの話も幾分信憑性を帯びてきたような気がする。

 そろそろ試してみるか。
 梓ちゃんも一緒になってしまったが問題は無い。愛でる対象が二人になっただけのことだ。

71: 2009/12/12(土) 01:43:13.16 ID:rdfhcZ6D0
憂「ごちそうさま」

唯「今日は食べるの早いね?」

憂「うん、テスト勉強しなくちゃだしね。……お姉ちゃん、ご飯粒ついてるよ」

唯「え、どこ?」

 指で口の周りをぺたぺたと探すお姉ちゃん。
 取れるはずが無い。元々ご飯粒なんかついていないのだから。
 私はお姉ちゃんの正面にそっと這い寄って、その唇をぺろりと舐めた。

唯「わっ!?」

梓「なっ!?」

憂「えへへ、嘘でした」

唯「もー、憂ったらー!」

憂「食事終わったら教えてね。片付けは私がやるから」

 呆然とする梓ちゃんと、照れ笑いを浮かべるお姉ちゃんにそう告げて、私は自分の部屋へと向かった。

72: 2009/12/12(土) 01:48:13.15 ID:rdfhcZ6D0
 さて、と。

憂「……効果、あるのかな」

 私はドールを手にとって、少し思い悩む。
 二人の前でこれを弄くりまわす訳にはいかない。そんなことをすれば即座にバレる。
 ならば、まずは階段の辺りから二人の会話だけで反応を窺ってみるとしよう。

 足音を立てないように、静かに階段へと向かう。
 しばらく進むと、二人が楽しそうにお喋りする声が聞こえてきた。
 距離的にはこの辺りで十分だろう。

憂「……」

 息を呑む。
 私は意を決して、ドールの胸部にそっと手を触れた。

74: 2009/12/12(土) 01:49:37.77 ID:rdfhcZ6D0
唯「ひゃっ!?」

梓「唯先輩?」

唯「な、なんだろう。今の感じ……」

梓「どうかしたんですか? 突然胸押さえたりして」

唯「ううん、なんでもな――きゃあ!?」

梓「……?」



憂「……」

 すげえ。
 なにこれすげえ。
 オゥ、ファンタスティコ! 効果は抜群だ!

 味を占めた私は、間髪いれずにドールの至る所に舌を這わせる。

76: 2009/12/12(土) 01:51:22.74 ID:rdfhcZ6D0
唯「っ!?」

梓「あ、あの、先輩?」

唯「なに、これえぇ……、ぁっ……」

梓「だ、大丈夫ですか!?」

唯「わ、わかんない……けど、ムズムズする」

梓「ムズムズって、どこが……って、ふぐぅ!?」


憂「……」

 ふぐぅ? なんだその呻き声。
 梓ちゃんの身に何が?
 気になるところだが、ここからじゃ二人の様子は見えない。
 思春期の中高生男子は、声だけでその状況の120%を妄想で再現できるという。
 凡庸な一端の女子高生でしかない私には、羨望の的たるスタンドだ。
 しかし、今この状況で無いもの強請りをしていても仕方が無い。
 虎穴に入らずんば、虎子を得ず。
 この場合の虎穴とは、二人にドールの存在がバレる危険性。
 そして虎子とは二人の(特にお姉ちゃんの)悶える様子だ。

 天秤にかけたところで、私の心は決まっていた。

105: 2009/12/12(土) 09:20:14.10 ID:rdfhcZ6D0
 唯先輩が悶え出した。
 食事中に突然喘ぎ声をあげて、涙目で私に『ムズムズする』と訴えかけてきたかと思えば、
 今度は立ち上がって私から距離を置くように内股で歩き出したのだ。
 
 何を言っているのかわからないと思うけど、私にも何が起きているのかわからなかった。
 私は唯先輩とそんな淫靡な関係を望んでる訳じゃないけれど、しかしそれでもその一連の行動は、私の理性を跳ね飛ばすのに十分な破壊力を秘めていた。
 
梓「ゆ、唯先輩……」

 一歩、前進する。

唯「……」

 一歩、後退された。
 いや、なんで私を警戒するんですか。

梓「一体、どうしたって言うんですか?」

 一歩、近付く。

唯「わ、私、あっ、おかしくなっちゃったの、かな……」

 一歩、遠退かれる。
 ちくしょう。なんなんだこの状況。なんで私が悪いみたいになってるんだ。
 ていうかこれ以上喘がないでください。ああ、飛んでゆく。理性が。自制心が。

106: 2009/12/12(土) 09:24:35.32 ID:rdfhcZ6D0
 素数だ、素数を数えるんだ。
 ここは……ほら、アレだ。
 使いたくは無かったが、アレを使ってこの場を収める他無い。

梓「……」

 私は自分のスクールバッグからごそごそとアレを取り出すと、頭にセットした。

梓「……ほ、ほら、唯先輩、大丈夫ですにゃん、あ、あずにゃんですにゃん……」

唯「!!」

 唯先輩の表情がぱぁっと明るくなった。
 こんな状況においても、ネコミミの効果は絶大らしい。

唯「あ、あずにゃぁぁぁ――きゃっ、ひゃ、あははは! そ、そこはダメ! や、やめ、きゃはははは!」

 私の方に飛び込んでくるかと思いきや、唯先輩は走りながら大きく右に反れてそのまま床に転がって悶え始めた。

梓「……」

 なんなんだ。
 何がしたいだこの人は。
 まるで誰かにくすぐられているようなリアクションだけど。どう見ても唯先輩一人しかいない。
 小さく息をついてから、ふと視線を感じて階段の方に目をやると、憂がガン見していた。

107: 2009/12/12(土) 09:27:53.61 ID:rdfhcZ6D0
梓「……憂?」

憂「え?」

梓「何してるの?」

憂「見てるだけだよ」

梓「……」

 怪しい。
 いつにも増して真摯な顔立ちになっているのが尚更怪しい。
 ていうかテスト勉強するんじゃなかったのか。

梓「なんで見てるだけなの?」

憂「そこはまぁ、いいじゃない」

 ちっとも良くないけど、それはあからさまに何かを隠しているリアクションだ。
 唯先輩に何かしたとすれば、憂しか考えられない……と思う。

108: 2009/12/12(土) 09:36:59.44 ID:rdfhcZ6D0
梓「……そんなところにいないで、こっち来たら?」

憂「え? ダメだよ。私はお姉ちゃん一筋だもん」

梓「どこをどう曲解したらそうなるのよ」

憂「梓ちゃんがそこまでいうなら、私としてもやぶさかではないけど」

梓「私がやぶさかだよ。唯先輩一筋じゃないんかい」

 なんなんだ、その斜め上のポジティブシンキング。

梓「いいから、隠れてないでこっち来て」

憂「……」

 憂は顔を引っ込めて、階段を駆け上がっていった。
 はぁはぁ言いながら床に転がる唯先輩がさっきから気になってしかたないが、
 必氏の思いで理性を奮い起こして、私は憂の後を追った。

110: 2009/12/12(土) 09:41:56.55 ID:rdfhcZ6D0
 まずい。こんなに早く気付かれるとは思わなかった。
 猫を自称するだけのことはある。梓ちゃんを少々嘗めすぎた。実際、耳舐めたけど。
 とにかく部屋に逃げ込んでドールを隠さなくては。

梓「憂!」

憂「!」

梓「どうして逃げるの? ……唯先輩に何をしたの!?」

 鋭いなぁ。というか、階段上るの速いなぁ。
 本当に猫なんじゃないだろうかこの娘。

梓「止まって憂。今背中に隠してる物を見せて」

憂「……断ると言ったら?」

梓「実力行使」

憂「ふっ」

梓「ムカっ! なにその含み笑い!?」

憂「いいよ、かかっておいで」

梓「にゃっ、言ったなー!?」

111: 2009/12/12(土) 09:42:45.54 ID:rdfhcZ6D0
 頭に血を上らせた梓ちゃんは、まっすぐに私に向かってくる。
 私はそれを避けるでもなく、去なすでもなく、抱きしめるようにしてガッチリ固定した。
 これで彼女の動きは完全に封じた。蛇に睨まれた蛙だ。ペロペロしてやる。

梓「っ!?」

憂「ふふ。梓ちゃんたら直情的なんだから」

梓「く、なんて真っ直ぐな眼差し……、ホンモノだ、この子ッ!!」

 じたばたと抵抗を見せる梓ちゃんだが、執拗に絡ませた私の腕からは逃れられない。

梓「あ。その人形……、唯先輩にそっくり」

憂「……」

 攻防の最中、左手の自由を得るために、持っていたドールを胸元に挟み込んだのだから、必然的にそれは彼女の視界に入る。
 失念していた訳ではないし、ドールの存在をバラさないことが優先事項であることに変わりは無い。
 しかしサーモンピンクと百合色のグラデーションで構成された脳細胞は、最優先事項を『梓ちゃんペロペロ』で上書きしたのだ。

梓「ひにゃっ!? ちょ、やっ、待って憂ー!?」

112: 2009/12/12(土) 09:43:48.64 ID:rdfhcZ6D0
憂「何?」

梓「ゆ、唯先輩に言いつけちゃうよ?」

憂「いいよ?」

梓「にゃぁぁっ!? 間髪いれずにほっぺた舐めるなーっ!!」

 にゃあにゃあ言いながらも、梓ちゃんは決して抵抗をやめることは無かった。
 尚も私に向けられる眼光は、まさしく獲物に狙いを定めたハンターそのもの。
 その視線に、私は言い知れぬ恍惚を覚える。

梓「……わかった」

憂「?」

梓「その、憂の気持ちはわかったから」

 梓ちゃんは薄紅色に頬を染めて、上目遣いに私を見据えた。
 抵抗の意思は折れたのか?
 ははぁん、なるほど。
 『初めてだから優しくしてね』と、そういうことか。
 ふふ、よろしい。ならば遠慮なくいただきま―――

130: 2009/12/12(土) 11:31:43.79 ID:rdfhcZ6D0
梓「もらったぁ!」

憂「――ひゃあ!?」

 梓ちゃんはロックされた両腕を徐々に自分側に引き戻していたのだ。
 オーバーとも取れるリアクションは、それを悟られないようにするためのカモフラージュ。
 そして、手首を私の脇腹に届く範囲にまで引き戻したら、くすぐって束縛から逃れる。
 完全に意表を突かれた形となった。

 ドールが私の手から離れて、梓ちゃんがそれを掴む。
 掴み所がアレだったのか、二階からお姉ちゃんの『ぁん』という艶っぽい声がして激しく欲情した。
 しかしそれは私だけではなかったようで、梓ちゃんの動きも停止していた。

 立ち直りが早いのは、私だった。
 当然の結果だ。生まれてから今日までずっとお姉ちゃんの傍にいたのだから。
 その隙を突いて、ドールの上半身を右手で掴む。
 依然としてドールの下半身は梓ちゃんが掴んだまま――。

132: 2009/12/12(土) 11:35:39.54 ID:rdfhcZ6D0
梓「っ!?」

憂「梓ちゃん、その手を離して」

梓「嫌だ。憂はこの人形で唯先輩に悪戯してるんだ!」

憂「何を言ってるの? そんな人形がある訳ないじゃない」

梓「嘘だよ。唯先輩はまるで誰かに身体を触られているような反応をしてた。それも、憂が食卓の席から離れてからずっと!」

憂「……」

梓「教えて憂。どうすれば唯先輩を元に戻せるの?」

憂「……」

 教える訳にはいかない。
 お姉ちゃんの喘ぐ姿を見られる。たったそれだけのことが、私にとっては何事にも変えがたい悦楽なのだから。
 それに、まだまだこのドールを使って試してみたいこともある。
 だから、ごめん梓ちゃん。それだけは、できないの。

梓「キスしてあげるから教えて」

憂「ドールから本物のお姉ちゃんの髪の毛を外せばもd――しまったぁぁっ!?」

梓「なるほど、これね」



 私の野望は潰えた。

134: 2009/12/12(土) 11:47:16.17 ID:rdfhcZ6D0
 全く油断も隙もあったものじゃない。
 さっきまでの唯先輩の異常な行動は、全て憂の仕業だったわけだ。
 どうやらこの人形、一度結びつけた髪の毛を解いてしまうと、二度と効果は得られないらしい。
 実際試したところで、唯先輩は全く反応しなかった。
 そんな現実を目の当たりにした憂は、未だかつて見たことのないような暗澹とした表情で、氏んだ魚みたいな目をしていた。
 適当な理由をこじつけて人形も私の物にしてもよかったのだけど、そんな顔を見せられてはできる筈もなかった。

唯「カラス、居なくなってよかったね」

梓「そうですね」

 まだ居てくれたら、泊まる口実もできたのだが。
 居たら居たでそれは怖いものがあるし、所詮は鳥類だ。
 期待するだけ野暮ってものだろう。

梓「……それじゃ唯先輩、おやすみです」

唯「うん、また明日ね。あずにゃん」

梓「はい」

憂「……」

梓「……憂もまたね」

憂「……」

135: 2009/12/12(土) 11:51:42.71 ID:rdfhcZ6D0
唯「あ。あずにゃん!」

梓「なんですか?」

唯「おやすみのちゅーは?」

梓「……、今夜は憂にしてあげてください」

 まるで、毎日おやすみのちゅーをしているような言い回しだが、断じてそんなことは無い。
 言ってみたかっただけの台詞である。

憂「!」

唯「?」

梓「それではまた」

唯「ばいばーい」

136: 2009/12/12(土) 11:53:58.33 ID:rdfhcZ6D0
 少々惜しいことをした気もするが、憂にあそこまで悄然とされては夢見が悪い。
 無垢な笑顔で手を振る唯先輩に別れを告げて、私は一人帰路に就いた。

 来る時には堪能できなかった落ち葉の絨毯を、今度はくしゃりくしゃりと小気味良い音を鳴らして歩く。
 やがて、数枚の落ち葉がぱらぱらと、冷たい風にさらわれて南の空に消えていった。
 宙に舞うそれらを目で追うと、そこには冬の大三角と呼ばれる星々が煌いていた。

梓「(あそこが天の川……だっけ)」

 しばし見惚れる。
 一年に一度しか逢えない辛さと、いつか必ず来る別れの辛さ。
 本当に辛いのはどっちだろうか?
 例え望んでいなくても、時間は誰にでも平等に訪れる。
 私達はいつまで一緒にいられるんだろう?

梓「(らしくないこと、考えてるなぁ……)」

 白い吐息を闇夜に広げて、私は止めていた歩みを再び進める。
 寒空の下、月はまるで私を導くかのように、その行く先を明るく照らしていた。

137: 2009/12/12(土) 12:01:50.35 ID:rdfhcZ6D0
 寒い。冬の朝は寒いものだけど、今日はいつにも増して寒い。
 羽毛布団を頭まで被り直して丸くなる。
 こんな日は、お姉ちゃんの布団に潜り込んで暖をとる振りをしつつ、ぎゅっと抱きしめて摩擦で火がつく程頬擦りしたい。
 ……したいのは山々なんだけど、私の体内時計がそれは無理だと告げていた。
 そろそろ起床しなくてはいけない時間だから、と。

『………………』

 布団の外から気配がする。
 私の良く知る、私の大好きな人の気配が。

『…………』

憂「お姉ちゃん!?」

 がばっと、勢い良く跳ね起きた。
 しかし、お姉ちゃんの姿はどこにも見当たらない。

憂「あ、あれ……?」

138: 2009/12/12(土) 12:08:56.15 ID:rdfhcZ6D0
『………………』

 まただ。
 確かに気配はある。
 お姉ちゃんの為なら、喜び勇んで尻からコキュートスにダイブする私だからこそ感じることのできる、お姉ちゃんの気配。
 私はきょろきょろと、周囲を見回す。

憂「ど、どこにいるの、お姉ちゃん?」

 くいっと、パジャマの袖を引っ張られた。

憂「え……?」

 自分の腕の先を目で追う。
 そこに居たのは、昨日傀儡としての役割を終えたドールの姿……って、あれ、こんなに等身低かったっけこの人形?
 ドールは私と目が合うと、腰に手を当てて、リスみたいにぷくぅと頬を膨らませた。
 まだ眠い目を擦って、二度見する。
 小さな身体を精一杯使って、「今私不機嫌なんです」とアピールするその姿は、お姉ちゃんの容姿も伴って犯罪級の可愛らしさなのだが。
 しかし、理解が追いつかない。

139: 2009/12/12(土) 12:12:14.36 ID:rdfhcZ6D0
憂「え、ええ……?」

 ドールは地団太を踏んでいた。なんで怒ってるの、この子?
 いや、それ以前に……。

憂「……なんで動いてるの?」

 直球を投げかけた。

『…………』

 その問いに、ドールは必氏に何かを訴えようと私の瞳を見つめる。

憂「……」

 なにせ外見はデフォルメされたお姉ちゃんなのだ。
 そんな生き物にじっと見つめられたら、私の理性が耐えれるはずも無い。

憂「可愛いぃぃぃぃぃぃっ!!」

『!?』

 とはいえ、相手は小さな人形。何が出来るわけでもなく、とりあえず思いっきり抱きしめた。
 無駄に高まった色欲は、後にお姉ちゃんか梓ちゃんで発散させていただくとしよう。

140: 2009/12/12(土) 12:16:37.32 ID:rdfhcZ6D0
 私は着替えを終えてキッチンに居た。
 ドールにはそのままベッドに居てもらおうかと思ったのだけれど、
 私が何処かへ行ってしまうとわかると、ベッドから転げ落ちてまで、必氏に追い縋ってきた。
 そんな行動をとられて放っておける程、私は冷徹な人間ではないのだ。
 相変わらず、動いていることには納得がいかないが、しかしこの子を見ていると、そんな些細なことはどうでもいいとさえ思えるようになっていた。

『……』

 ドールが不思議そうな顔で私を覗き込む。
 まるで、何をしてるの? とでも訊きたそうな表情だ。

憂「朝食を作ってるんだよ」

 私が答えると、ドールはこてん、と小首を傾げた。
 そう簡単に意思疎通できれば世話は無い。

憂「……お姉ちゃん、今日は食べてくれるといいなぁ」

 今度は完全な独白となる。
 私としては毎日一緒に食べたい所なのだけど、如何せんお姉ちゃんは朝に弱い。
 起きるのがギリギリになれば、当然食べる暇が無い。
 そんな理由で、折角二人分作っても食べてくれない日がままあるのだ。

141: 2009/12/12(土) 12:19:56.01 ID:rdfhcZ6D0
『……』

 ドールは、そんな私を心配そうに見つめて、やがて、ぽん、と両手を叩いた。
 そして、腕伝いに私の肩に飛び乗ると、大きく右手を挙げる。

憂「え? ……起こしにいけってこと?」

『……』

 力強く二回頷くドール。
 確かに私はお姉ちゃんと一緒の朝食を望んではいるが、しかし幸せそうに眠るお姉ちゃんを起こすという行為には良心の呵責が伴う。
 早い話、ギリギリまで寝かせてあげたいという気持ちが勝ってしまうのだ。
 私が思い悩んでいると、ドールは薄い胸を張って、ふふん、と息を吐いた。
 どうやら、私に任せろ、ということらしい。
 私の意志を確認する間もなく、ドールは肩からぴょん、と飛び降りて、リビングの方へ走っていってしまった。

憂「……」

 ああ、なんて愛らしい……。
 よし、落ち着け私。まて、落ち着けと言っているだろう私。
 目頭を押さえて首を横に振る。
 人形に欲情するなバカやろう。理性を、あらん限りの理性を奮い起こせ。

 私はまな板に頭突きした。

憂「ふぅ……」

 ……あれ? そういえばあの子階段上れるのか?

142: 2009/12/12(土) 12:24:19.66 ID:rdfhcZ6D0
憂「……」

 気になって追いかけてみると、ドールは案の定、階段の前で膝を抱えていた。

憂「上れなかったのね」

『……』

 泣きそうである。

憂「全く、しょうがないなぁ……」

 手を差し出すと、今度は一転して華が咲いたような笑顔を向けてくる。
 全くもって表情が豊かなことだ。
 私は手から肩へとドールを移して、お姉ちゃんの部屋へと向かった。

145: 2009/12/12(土) 12:37:24.01 ID:rdfhcZ6D0
 扉を開けば、鼻腔を微かに擽る女の子の香り。
 お姉ちゃんの部屋。通称エデンの園。
 私はここに足を踏み入れる度、痴情に溺れた下劣な心と氏闘を繰り広げるハメになるのだが、その戦績はイマイチ揮わない。
 今年に入って23勝1274敗。
 桁多!? とか思うなかれ。もうすぐ師走の半ばであることを踏まえれば、四桁は妥当である。

憂「お姉ちゃん、そろそろ起きないと遅刻だよ?」

唯「ん……うぅ……」

 私が起こすの! と目で訴えてくるドールを、お姉ちゃんの枕元にそっと降ろす。

唯「んぅ……、ダメだよぅ……あずにゃぁん」

憂「!」

 バカな。お姉ちゃんが夢の中で梓ちゃんとキャッキャうふふだと……?
 なんて羨ましい……、くそ、どうすれば……どうすれば私はその世界へ赴ける?
 割りと本気で考えていると、ドールがお姉ちゃんのほっぺたでぷにぷにと遊び始めた。

唯「あぅ、あずにゃ、うにゅうにゅうぅぅ……、んあ、……?」

『……』

唯「……」

『……』

唯「……どちらさま!?」

146: 2009/12/12(土) 12:42:52.94 ID:rdfhcZ6D0
 がばっと飛び起きるお姉ちゃん。
 私とリアクションが似てる辺り、さすがは姉妹だと痛感する。
 それにしても、今日も見事な寝癖だ。

唯「ち、ちっちゃい、私!!」

 ドールを指差して、お姉ちゃんが叫んだ。
 一方のドールはその声に驚いて、尻餅をついていた。
 あぁ、二人とも可愛いなぁ……。

唯「……」

『……』

唯「ちっちゃくてかわいい……」

 そう呟いて、お姉ちゃんはドールを抱きしめた。
 考えてみれば、さっきの私の行動と大差ないのだが、しかし自分をそのまま小さくデフォルメしたようなドールに対して、平気で『かわいい』とかのたまう辺り、やっぱりお姉ちゃんは偉大だと思う。
 そんな光景を見せられたら、今宵夜這いを仕掛けるか、或いは、今宵夜這いを仕掛けるか位しか私には術が無い。 

憂「おはよう、お姉ちゃん」

唯「あ、憂。おはよー」

憂「ご飯できてるよ」

唯「うん。ところでこの子誰?」

憂「えーと……食べながら説明するよ」

151: 2009/12/12(土) 13:16:43.96 ID:rdfhcZ6D0
 着替えを済ませてリビングに下りてきたお姉ちゃんと、三人で朝食をとる。
 ドールは何も食べないだろうと思っていたが、お姉ちゃんが玉子焼きを小さく切り分けて差し出すと、もしゃもしゃと頬張っていた。
 どこまでも人間らしい人形だ。

唯「ふーん、ムギちゃんの会社の人が作ったんだ?」

憂「う、うん……」

 まさかこれまでの経緯を偽り無く説明するわけにもいかず、
 『昨日紬さんからもらった人形が、朝起きたら勝手に動き出した』
 と、お姉ちゃんには、要所要所を端折って説明した。

唯「凄いね。良く出来てる……」

 じっと見つめるお姉ちゃんに対して、きょとんとした表情で見つめ返すドール。
 お姉ちゃんが、『良い子良い子』と優しく微笑みかけて、指先でそっと頭を撫でると、ドールはくすぐったそうに目を細めた。

唯「ねえ憂。私のがあるってことは、他のみんなの人形もあるのかな?」

 期待の眼差しを向けられる。
 嘘で塗り固めた心の壁を溶かすような純真な瞳。
 常人が同じ状況に置かれたら、眩しすぎて直視できないことだろう。

 しかしそこをあえてガン見するのが、お姉ちゃんフリークとしての嗜みだ。

152: 2009/12/12(土) 13:20:51.71 ID:rdfhcZ6D0
憂「無いんじゃないかな。そこまで精巧に作るのは簡単なことじゃないだろうし……」

 ガン見はできたが、嘘を重ねることはできなかった。
 このドールは傀儡実験の為に試験的に作られたのだ。
 お姉ちゃんをモデルにしているのは、最も紬さんに近しい存在(変態的な意味で)である私の嗜好に合わたため。
 だから作られたのは、お姉ちゃんの人形、ただ一体となる。

唯「そっかぁ……。残念だね、お友達が増えたかもしれないのに」

 お姉ちゃんの言葉は、やっぱりこの子には通じていないのだろう。
 ドールは、ただクエスチョンマークを浮かべながら、テーブルの上でお姉ちゃんの制服の袖を握り締めていた。

唯「でも大丈夫、君は独りじゃないからね」

 今日から私と憂が君の家族だよ、と付け加えてお姉ちゃんは笑った。
 その意図が通じたのか、ドールも嬉しそうに笑った。
 そんな二人につられて、気付けば私も笑っていた。

唯「ねえ、憂。この子、名前はつけてないの?」

憂「うん、まだだけど……。折角だから、お姉ちゃんが決めてよ」

唯「うーん、でもこの子私だしなぁ……」

 腕を組んで唸るお姉ちゃん。そんな姿が一際可愛い。

153: 2009/12/12(土) 13:27:46.34 ID:rdfhcZ6D0
唯「……よし、じゃあ、君の名前は『ゆい』だ!」

憂「そ、そのままだー……」

唯「ちがうよー、この子は平仮名で『ゆい』。私は漢字だもん!」

 細かいことにこだわるお姉ちゃん。そんな姿が一際可愛い。

憂「なるほど、さすがお姉ちゃん」

唯「えへへ。ゆい、これからよろしくね」

 お姉ちゃんが握手代わりに指を差し出すと、ゆいは嬉しそうに身体全体を使ってその指に飛びついた。

154: 2009/12/12(土) 13:30:07.67 ID:rdfhcZ6D0
唯「なんか、自分の名前を呼ぶのって変な感じ」

憂「ふふ、だったら変える?」

唯「いいの! この子はゆいなの!」

憂「はいはい、わかりましたよ」

唯「ねえ、ういー、この子、学校連れてくの?」

憂「う~ん、一人でお留守番っていうのも可哀想だよね……」

 学校であまり騒ぎになるのは好ましくないのだが。
 しかしこの子はきっとついて来るだろうし、放っては置けない。
 この辺は私の性分なんだろうか。

憂「学校では大人しくしてるんだよ、ゆい?」

『……』

 そして私の言葉に、ゆいはやっぱり小首を傾げたのだった。

155: 2009/12/12(土) 13:42:13.71 ID:rdfhcZ6D0
梓「おはよー、憂」

憂「おはよう、梓ちゃん」

梓「どう? 少しは元気でた?」

憂「え? 何が?」

梓「……まぁ、忘れてるくらいなら大丈夫か」

 梓ちゃんが何のことを言っているのかは分からなかった。
 というか、今の私はそれどころではないのだ。
 学校では大人しくしてて、と言い聞かせてはいたものの、やっぱりゆいには通じていなかった。
 それは現在進行形で、カバンの中でごそごそと、その存在をこれ見よがしにアピールしてしまっている。
 梓ちゃんや純ちゃんにバレる程度なら構わないけれど、クラス全体に見付かって大騒ぎになることは避けたい。
 こんな私でも、一応クラス内での体面は気にしているし、なにより、騒ぎにしてしまっては紬さんに申し訳がない。

 だから、ファスナー開けてひょっこり顔を出すのはやめて。
 目を輝かせてキョロキョロしないで。
 あ、ファスナー閉めるんだ。そうそう、そこで大人しくしててね、良い子だから。
 開けるなよ。なんでさっき閉めたんだよ。そしたらいっそ開けとけよ。
 ちがう、そうじゃなくて。いや、出てこないでお願いだから。
 わー、こらこら、梓ちゃんのスカート引っ張っちゃ……いや、良いな、もっとやれ。
 そうだ。よし、いいぞ、カモン、ストロベリーキャンディ!
 そのまま摺り下ろして純白のデルタ地帯を白日の下に! 私の未来に一筋の曙光を!!

156: 2009/12/12(土) 13:44:08.48 ID:rdfhcZ6D0
梓「な、なに?」

 ゆいと梓ちゃんの目が合った。

梓「え!? この人形って昨日の……」

『……』

梓「ってなんで動いてるの!?」

 私はとりあえず、ゆいと梓ちゃんの首根っこを鷲掴みにして人目のつかない廊下へと連れ出した。


憂「――というわけで、動いてました」

梓「……」

 梓ちゃんがこめかみを押さえながら項垂れた。

梓「えーっと、このことを唯先輩は……」

憂「勿論知ってるよ? 『ゆい』って名付けたのもお姉ちゃんだし」

梓「そっか。まぁ、平然と自分の名前付けるあたり唯先輩らしいけど」

 梓ちゃんの口元が僅かに綻ぶ。分かりやすい子だ。

157: 2009/12/12(土) 13:51:13.61 ID:rdfhcZ6D0
憂「とにかく、あんまり騒ぎにはしたくないから、協力して欲しいんだけど」

梓「良いよ。出来る限りフォローするね」

憂「ありがとう、梓ちゃん!」

 言いつつ、抱きつく。

梓「いえいえ、どういたしまし――にゃっ!? 自然に胸を触るなーっ!!」

 怒られた。

 梓ちゃんのジト目が私の胸に突き刺さる。
 違うの梓ちゃん。別にわざとやった訳じゃないの。気がついたら手が勝手に動いていただけなのよ。
 だからお願いその目を止めて。止めてくれないと私は貴女に対して必要以上の性的興奮を覚えてしまう。

158: 2009/12/12(土) 14:00:02.90 ID:rdfhcZ6D0
梓「まったく……」

 うんざりした顔で一つ溜息をついてから、梓ちゃんはゆいに手を伸ばした。
 おいで、と優しく声をかけて、ゆいを左手に乗せる。
 そして、今度は右手で優しくほっぺたに触れた。
 ゆいは嫌がっているのか嬉しがっているのか良く分からないリアクションで梓ちゃんの指と戯れていた。

梓「本当、可愛いねこの子」

憂「そりゃ、お姉ちゃんがモデルだもん」

梓「……」

憂「なんで照れるの?」

梓「な、なんでもない」

 ニヤニヤが止まらない。

憂「そろそろ授業始まるし、戻ろっか」

梓「うん」

憂「ゆい、お願いだから授業中は大人しくしててね」

『?』

 私の言葉は、それでも通じていないようだった。

161: 2009/12/12(土) 14:30:00.96 ID:rdfhcZ6D0
 ――きゃーーー! かわいーーー!!
 ――ちょっと、次私に触らせてよ!
 ――何言ってるの、私の方が先に並んでたんだから!
 ――これって平沢さんのお姉さんの人形でしょー?
 ――見てみて、笑ったよー、ちょー可愛いんだけど!
 ――ねえねえ、写メ撮っていい?
 ――いい?って聞きながらもう撮ってるじゃん。ちょーうける。
 ――え、あんたって平沢先輩のこと好きなの? 学際のときから? うそ、マジで?
 ――私は断然澪先輩派かなー。
 ――ああ、分かる分かる、秋山先輩美人だもんねー。
 ――報われない恋って素敵ね。燃えるわー。


憂「……」

梓「……」

 これだから女子高ってやつは。
 あと、今お姉ちゃんのこと好きって言った奴氏ね。
 教壇に左足ぶつけて氏ね。
 お前には髪の毛一本くれてやらん。

憂「最悪だ……」

梓「仕方ないよ、人形があれだけ自然に動いたら誰でも驚くもん」

162: 2009/12/12(土) 14:35:18.44 ID:rdfhcZ6D0
 そう。悪いのはゆいだ。
 あれほど授業中は大人しくしててって言いきかせていたのに。
 ゆいは気がつけばカバンから抜け出し、教室内を我が物顔で闊歩していた。
 梓ちゃんが必氏に誤魔化そうとしてくれたけど、どう考えても手遅れだった。
 私に至っては、お姉ちゃんの入浴を克明に妄想していて、全くゆいに気が付かないという体たらく。
 唯一の救いは、教師に気付かれなかったことだが……。
 しかし、ゆいの存在は周りに完全にバレて、休み時間になった途端にこの惨状、というわけである。

純「大変そうだね、憂」

憂「純ちゃん……もう、帰りたいよー」

純「おー、よしよし」

 机に突っ伏す私をなでなでしてくれる純ちゃん。

163: 2009/12/12(土) 14:35:59.26 ID:rdfhcZ6D0
梓「まぁ、次の授業終われば放課後だし、チャイム鳴ってすぐ逃げれば――」

 梓ちゃんとの会話に割り込んで、クラスメイトが私の視界を塞ぐ。

生徒A「ねえ平沢さん。次の授業終わったらまたこの人形触らせてね!」

憂「あ、ええと……」

生徒B「あんたはまたそうやって抜け駆けする! 順番からしたら次はあたしでしょ?」

 梓ちゃんが見えないからどっか行け。
 とは思っても口には出さない。出したら色々終わるから。
 生徒同士の醜い争いを呆れ顔で眺めていると、ガラガラッ、と音を立てて教室の扉が開かれた。

教師「よーし、授業始めるぞー」

 その瞬間、襤褸雑巾のようにもみくちゃにされたゆいが、私の机の上に乱雑に放られた。

『……』

憂「全く……、だから大人しくしててっていったのに」

『……』

 心なしか、ゆいの瞳は反省の色を浮かべているようにも見えた。

167: 2009/12/12(土) 14:54:41.06 ID:rdfhcZ6D0
 6時間目は英語。
 一応得意科目ではあるのだけど、どうしても勉強に身が入らなかった。
 私の席は窓際だから、入り口からは最も遠い。
 終業のチャイムと同時に逃げ出したとしても、ドアにたどり着く前に捕まるのは目に見えている。
 早めに抜け出して紬さんと話をしたいところなのだけど……。

 シャーペンをくるくる回しながら外を眺めていると、机の上に紙切れが飛んできた。
 私はきょろきょろと周囲を見渡して、手紙の主を探す。

 目が合った。

 うん、わかっていたよ。いとしの梓ちゃん。

169: 2009/12/12(土) 14:55:22.19 ID:rdfhcZ6D0
 『チャイムが鳴ったら、みんな憂のところに集まるだろうから、その隙に私はゆいを連れて音楽室へ行くね。
  ゆいが居ないって分かれば憂もすぐに解放されるだろうから、そしたら音楽室で合流しよう』

 なるほど、妙案だ。
 梓ちゃんの席は私の斜め前。決して遠くは無い位置だが、問題はどうやって梓ちゃんにゆいを預かってもらうか、だ。
 その過程を他の人に見られてしまっては元も子も無い。

 とにかく、手紙を返さねば。
 
 私は、一字一句丁寧に文字を躍らせて、梓ちゃんに紙切れを投げ返した。


梓「……」



 『 愛 し て る 』




 粉々に破かれた。

170: 2009/12/12(土) 14:56:51.47 ID:rdfhcZ6D0
 授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
 作戦通り、梓ちゃんはゆいをスクールバッグに忍ばせてそそくさと教室を抜け出した。
 そして、私の席にはクラスメイト達が群がる。

生徒C「憂ちゃーん、さっきの人形はー?」

憂「実は、その……。持ってないんだ」

 私は両手を挙げて降参のポーズを取りながら、短く舌を出した。

生徒C「嘘! そんなはず……」

生徒B「なに? どうしたの?」

生徒A「平沢さん、あの人形持ってないみたいなの」

生徒B「なにぃ!?」

生徒D「あ、私見たよ。さっきの授業中梓ちゃんが消しゴム落として、その時憂ちゃん、あの人形を梓ちゃんに渡してた」

「「「くっ、やられた!」」」

純「はいはい、そういうことだから、皆散った散った」

 純ちゃんの一言で、クラスメイト達はぶつぶつ言いながらも離れていく。

171: 2009/12/12(土) 14:57:33.14 ID:rdfhcZ6D0
憂「ありがとね、純ちゃん」

純「どういたしまして。さーて、私も部活に行かないとなー」

憂「純ちゃん」

純「なに?」

憂「軽音部」

純「……なにがよ?」

憂「入ればよかったのに」

純「あー、はいはい、後悔してますよ、梓が羨ましいですよー。だって過ぎちゃったことは仕方ないじゃん!」

 良い子だなぁ。

憂「ふふふ、遊びに来ても良いんだよ?」

純「余計に悲しくなるからやめとく」

憂「そっか、それじゃ私も行くね。バイバイ」

純「うん、またね」

 純ちゃんと別れて、私は音楽室へと向かった。


173: 2009/12/12(土) 15:33:22.75 ID:rdfhcZ6D0
 コンコン。
 静かにノックして、私は音楽室の扉を開いた。

憂「こんにちは」

唯「あ、うい~!」

紬「こんにちは、憂ちゃん」

梓「どう? 大丈夫だった?」

憂「うん、おかげさまで」

 とことこと、嬉しそうに駆け寄って来るゆいを拾い上げて肩に乗せた。

律「しっかし驚いたよな~、人形が勝手に動き出すなんてさ。ある意味ホラーだぜ?」

澪「……」

律「いつもみたいにビビらないの?」

澪「だって、この子は可愛いし。全然ホラーっぽくないからな」

 わざとらしく舌打ちする律さんの頭部にチョップが炸裂した。

174: 2009/12/12(土) 15:34:27.28 ID:rdfhcZ6D0
 ん?
 なんだろう、音楽室のいつもの光景に違和感があるような気がする。
 周囲を、そして皆さんを順に見つめてみる。
 お姉ちゃん……、……律さん、……澪さん、お姉ちゃん……、
 ……紬さん、……梓ちゃん、それからお姉ちゃん……。お姉ちゃん……。

憂「……」

 お姉ちゃんを凝視する時間がやたらと長いのは愛故だが、理由はそれだけではなかった。

憂「なんでお姉ちゃんだけジャージなの?」

唯「さっき体育だったんだよー」

憂「え、でも律さん達は着替えてるのに」

律「唯はギリギリまで和達と話してたからな。HR遅れるぞってあれほど言ったのに」

唯「あはは、めんごめんご」

律「なんかその謝り方ムカつくな。そういう奴には……こうだっ!」

唯「ほわぁあああっ!? りっちゃん手冷たっ!?」

 冷えた両手をお姉ちゃんの頬にぴたん、とくっつける律さん。
 おかえしだー! と叫びながら律さんの顔に手を当てるお姉ちゃん。
 今度は律さんの悲鳴が木霊する。
 それを見たゆいが、私の肩から飛び降りて、お姉ちゃんの足元へと駆け寄る。

175: 2009/12/12(土) 15:35:20.99 ID:rdfhcZ6D0
唯「? どうしたの、ゆい」

 お姉ちゃんがゆいを抱き上げて、机の上へと乗せると、両手を広げて律さんの前に立ち塞がった。
 ……どうやら、お姉ちゃんをいじめるな、ってことらしい。

唯「……」
律「……」

 顔を見合わせる二人。

律「ふふふ、身を呈して唯を庇うか! ならば貴様から葬ってくれるわーー!」

 嫌に感情の篭った台詞を吐きながら、律さんは物凄いロースピードのパンチを放つ。
 ゆいは、それをじっと見て避けると、そのまま加速して律さんにボディアタックを仕掛けた。

律「なにぃ!? ぐわっ、やられたー!」

唯「り、りっちゃーーーーんっ!!」

律「く、ぐはっ。す、すまなかったな、唯。こうするしか、なかったんだ。大魔王梓からお前達を守るためには……」

 なにやら三流の寸劇が始まったが、そんなことにも一生懸命のお姉ちゃんが可愛い。
 故に私にはそれを最後まで見届ける義務がある。

176: 2009/12/12(土) 15:36:12.15 ID:rdfhcZ6D0
唯「そんな、りっちゃん……っ!! おのれ、大魔王あずにゃんにゃん……!」

 悲しそうな(演技の)お姉ちゃんの元に走り寄って、ゆいは泣きそうな表情で何度も頭を下げた。
 その様子を見兼ねてか、律さんががばっと起き上がる。

律「と見せかけて復活ーーーっ!」

唯「りっちゃん! 生きていたんだね、りっちゃんっ!!」

 ひしっ、と抱き合う二人。
 それを見て、ゆいも両手を挙げて喜んでいた。
 大団円である。

澪「……」
紬「……」
梓「……」
憂「……」

 ぱち、ぱち、と疎らな拍手が鳴り響く。
 見れば、手を叩いているのは私と紬さんだけだった。

178: 2009/12/12(土) 16:10:40.89 ID:rdfhcZ6D0
唯「というわけで、りっちゃんは悪い人じゃなんだよ、ゆい?」

 その言葉に、こくこく、と何度も頷くゆい。
 そこへ、梓ちゃんがおずおずと右手を挙げる。

唯「どうしたの、あずにゃん?」

梓「いや、あの、ラスボスが私みたいな展開なんですけど、もしや次から参加しろってことですか?」

唯・律「うん」

梓「ハモんないでもらえますかね」

律「なんだ梓、妬いてんのか?」

梓「っ! そんなことある訳ないでしょう!?」

律「ちっちゃくて可愛いなー」

 投げっぱなしですかよ!? という梓ちゃんのツッコミをスルーして、『ほれほれ』、と言いながら指先でゆいを突っつく律さん。
 ゆいは抵抗を見せながらも、まんざらでもない笑顔でその指先と戦っていた。

179: 2009/12/12(土) 16:11:23.47 ID:rdfhcZ6D0
律「唯もこれくらいちっちゃくて素直なら可愛いのになー」

唯「あー、りっちゃん、それだと私が可愛くないみたいじゃん!」

律「お前、自分で可愛いって主張するつもりかよ」

唯「悪いですか!?」

律「いや、悪かないけど」

唯「かわいくないですか!?」

律「いや、可愛いけど」

唯「りっちゃん愛してるっ!」

律「やめろこらーーーー!!」

 ぽかん、とするゆいを尻目に、じゃれあう二人。
 律さんと話してる時のお姉ちゃんは生き生きしていて、傍目から見ても仲の良さが伝わってくる。
 そしてなにより、二人を見てワナワナしている梓ちゃんが可愛い。

 え、私?
 私は(恋愛感情的な意味で)お姉ちゃんが誰を好きであっても構わない。
 私はただ、お姉ちゃんを愛していられればそれで良い。
 その辺が、私と梓ちゃんの決定的な違いでもある。

181: 2009/12/12(土) 16:37:26.15 ID:rdfhcZ6D0
紬「りっちゃんはあれよ、唯ちゃんも可愛いけど、澪ちゃんの方が可愛いって言いたいのよね?」

 紬さんの突然の発言に、隣で優雅に紅茶を啜っていた澪先輩が盛大に吹いた。

唯「そっかぁ、澪ちゃんなら仕方ないなー」

澪「ちょ、ちょっと待て。私は律とは別になんでもないからな。大体どうして話がそんな方向に……」

紬「あら、誰も澪ちゃんとりっちゃんの関係を言ったつもりはないのだけど」

澪「い、いや、だからそれは……」

 頬を紅潮させててんぱる澪さんと、対照的に水を得た魚のように嬉々として語る紬さん。

律「ちょっとは落ち着け」

澪「いたっ!? な、何するんだよ律!」

律「何って、ここらで止めておかないと、私の方が恥ずかしい」

澪「うっ……」

182: 2009/12/12(土) 16:38:11.05 ID:rdfhcZ6D0
 紬さんは二人の様子を見て、うんうん、と頷くと、今度は梓ちゃんの方へと振り返る。
 ……策士め。

紬「それから、梓ちゃんにとっては、唯ちゃんが一番可愛いのよね?」

梓「は、はい!?」

唯「そうなの、あずにゃん?」

梓「ええ、まぁ、ってちがーーーー……、いや、違わないけど、ああ、違いますってば!」

唯「うわーい!」

梓「わーーー、唯先輩、ダメです、抱きつかないでくださいよー!」

 その様子を終始見守ると、紬さんは朗らかな笑みで私に振り返り、グッ、と親指を立てた。

 『さすがのお手並みです、紬さん』
 『ふふ、間違いなくこの部は楽園へと向かっているわね』
 『そりゃ紬さんにとっては楽園でしょうけど』
 『何? 憂ちゃんもしかして、梓ちゃんに妬いてるの?』
 『いえ、別に。私は二人とも愛してますから』
 『たくましいわね』
 『あんたに言われたくねえ』

 という会話があったかどうかはさておき。
 やはり抜け出すならこのタイミングしかないだろう。

183: 2009/12/12(土) 16:40:24.02 ID:rdfhcZ6D0
紬「ごめんなさい、私ちょっと憂ちゃんと大事なお話があるから」

律「なんだ? 逢引――いでっ!?」

澪「そういう発想しかできないのかお前は」

律「冗談だってばさ。今日はちゃんと練習やるから、早めに戻れよ、ムギ」

紬「ええ」

憂「……お姉ちゃん、ゆいのことお願い」

唯「ほーい、任せといて」

 置いてかないで! と駄々をこねるゆいを、必氏になだめるお姉ちゃんに心の中で謝りながら、私は音楽室を後にした。

196: 2009/12/12(土) 18:25:13.79 ID:rdfhcZ6D0
 冬の日照時間は短い。
 校舎を黄昏色へと塗り替えたその日差しは、私の眼前にも平等に降り注いでいた。
 この夕空もやがて暗闇と混じり合い、そして夜に侵食されていくのだろう。

紬「そう、突然動き出した理由は、憂ちゃんにも分からないのね……」

憂「約束は果たしましたし、あの子はこのままうちに置いてもいいんですよね?」

紬「ええ、それは問題ないわ。……だけど、人形が意思を持つなんて、そんなことがありえるのかしら」

 紬さんはそう呟くと私に背を向けた。
 ふわりと、柔らかな髪が風に靡く。とろけるようなクリーム色は夕日に染まって赤く見えた。

憂「傀儡の時点で大分現実離れしてるとは思いますけど」

紬「憂ちゃんは最初に傀儡って訊いて、どんなものを想像した?」

憂「うーん……、操り人形だとか、呪いの藁人形、ですかね」

紬「『くぐつ』という漢字は、本来『かいらい』と読むのだけど」

憂「知ってます。傀儡政権とか言いますよね」

紬「ええ。人を意のままに操る、という意味合いを持つ訳だから、良いイメージは浮かばないかもしれないわね」

憂「……まぁ、そうですね」

198: 2009/12/12(土) 18:26:27.46 ID:rdfhcZ6D0
紬「傀儡はマリオネットやパペットの別称。元々は糸や指で人形を操って、劇を作ったり、子供達を楽しませる為の人形。だから、決して悪いものではないのよ」

 それは、そんなことはあの子を見ていれば、十分理解できる。
 ゆいは操り人形の『傀儡』として作られた存在だけど、呪いだとか悪いイメージだとか、そんなのとは一切無縁だ。
 あの子はお姉ちゃんに似て、純粋で優しい子なのだから。

憂「……」

紬「傀儡が日本で呪詛的な意味合いを持つのは、それが人形であるから。古来から人形は、人間の穢れや悪意を引き受ける役割を担っていたの」

憂「? えっと……」

 この人は、何を言おうとしているんだ?

紬「今は何も問題ないかもしれないけれど、憂ちゃん。もしかしたら貴女の溢れんばかりの劣情は、あの人形になんらかの影響を与えてしまうかもしれないわ」

憂「……いや、あの、私の何処に劣情が?」

 私の問いに、紬さんは物憂げに溜息をついた。

紬「……さぁ、どこかしら?」

憂「……」

199: 2009/12/12(土) 18:27:14.40 ID:rdfhcZ6D0
紬「……意思を持ったことについては、私の方でその原因を調べさせてみる」

憂「お願い、します」

紬「憂ちゃん」

憂「なんでしょう?」

紬「……」

 紬さんは何かを言いかけて、口をつぐんだ。

紬「……いいえ、なんでもないわ」

 そう答えてから、いつもの優しい笑顔で振り返った。

紬「そろそろ戻らないとね。りっちゃんに怒られちゃうわ」

200: 2009/12/12(土) 18:29:41.89 ID:rdfhcZ6D0
 音楽室に戻ると、お姉ちゃん達は既に演奏の舞台を調えていた。
 どういう経緯でこうなったのかは分からないが、演奏というのもを知らない小さな観客の為に、一曲披露してくれるということらしい。
 これから何が始まるの? と言わんばかりに興味津々のゆいを横目に、私も澪さんの用意してくれた椅子に腰掛ける。
 紬さんが遅れて準備を終えると、律さんがスティックで合図を執った。

 ――。

 決してうまい訳じゃないけれど、ぴったりと息の合った演奏だった。
 ちょっと走り気味の律さんのドラムに、慌てることもなくぴったりと合わせてビートを刻む澪さん。
 阿吽の呼吸で二人が演奏の基盤を作り、サイドギターの梓ちゃんが抜群の安定感でリズム隊にその音色を乗せる。
 ドラムに合わせたカッティングも、ベースに合わせたコードチェンジのタイミングも、寸分の狂いもない。
 アンサンブルに音の厚みを作り、他のメンバーの音域を助けつつ、決して邪魔にはならないバランスでメロディを奏でる紬さんと、
 曲の核となる主旋律を弾きながら、自らボーカルを務め上げるお姉ちゃん。

 目を輝かせながら、身体全体でリズムを取るゆい。
 私もゆいと同じ気持ちで、終始聞き惚れていた。


 ……演奏している時のお姉ちゃんは、どうしてこうも格好良く映るのだろう?

201: 2009/12/12(土) 18:30:24.68 ID:rdfhcZ6D0
 私が椅子から立つのとほぼ同時に、ゆいが走ってお姉ちゃんのところへ駆け寄り、お姉ちゃんがそれを拾い上げる。
 ゆいは嬉しそうにお姉ちゃんのジャージを掴んで頬擦りを……って、私よりお姉ちゃんに懐いてないかこの子?

憂「すごく良かったです。お姉ちゃんも素敵だったよ」

唯「えへへ。ありがとー」

律「ぶっつけでやったにしては、良い感じだったな」

澪「そうだな。ただ、ちょっと走りすぎだったけど」

律「あれくらいの方が疾走感がでて良いんだよ」

澪「それに合わせるみんなのことも考えてくれ」

紬「まぁまぁ、憂ちゃんも良かったって言ってくれたことだし……」

澪「……ムギがそういうなら」

律「え、なんか私の時と態度違わない?」

202: 2009/12/12(土) 18:31:12.96 ID:rdfhcZ6D0
梓「唯先輩、ソロ完璧でしたね。難しいのに」

唯「ふふふ、練習したもん!」

梓「でも簡単なところで二回間違えましたよね。初っ端のリフと、サビの手前」

唯「うええっ!? うまく誤魔化せたと思ったのに」

梓「なんで誤魔化すことに力入れてるんですか、後で特訓しますからね」

唯「え~~」

梓「え~~、じゃない」

唯「にゃーん!」

梓「にゃあ!」

唯「……」

梓「……何言わせるんですか」

唯「ふふふ」

 なんなんだ。なんでいちいちそんなに可愛いんだ、お姉ちゃんも梓ちゃんも。
 二人共もはやペロペロでは済まさんから覚えておくといい。
 悶えていると、いつの間にか肩によじ登ってきたゆいに、頬をぷにぷにされた。
 生意気だぞこのやろう、と、反対の手で捕まえて思いっきり頬擦りしてやると、ゆいはぐったりしてしまった。
 ふふ、可愛いやつめ。

203: 2009/12/12(土) 18:32:05.32 ID:rdfhcZ6D0
律「ところで、唯」

唯「なあに?」

律「いつまでジャージでいるつもりだ?」

唯「あ、そっか。忘れてた」

 そう言って、お姉ちゃんはおもむろにジャージを脱ぎ始めた。
 光の速さで梓ちゃんが止めに入るが、そんなことは意に介さない。

唯「なんであずにゃんが照れるの?」

梓「い、いや……。だから、唯先輩はもう少し恥じらいというものをですね……」

 私はお姉ちゃんの生着替えを目と脳裏に焼付けんが如く凝視した。
 律さんだか澪さんだかから受けた「憂ちゃん、見すぎだ」という突っ込みは飄々と受け流す。
 うむ、眼福眼福。

207: 2009/12/12(土) 19:10:29.43 ID:rdfhcZ6D0
 音楽室で会話に華を咲かせていると、あっという間に下校時刻になっていた。
 夕飯の支度が遅くなってしまうことを懸念したが、お姉ちゃんは「遅くても大丈夫だよ」と言ってくれたので、「私も愛してる」、と答えておいた。
 たまにはこんな日があっても良いだろう。
 ゆいも楽しそうにしていたし、なにより生着替えが見れた。それだけで十二分に価値のある時間を過ごせたと言っても過言ではない。

憂「……?」

 一瞬だけ、酷く胸が軋んだような感覚に陥った。……理由は、分からない。
 何故だろうか。今私は凄く幸せなはずなのに、心の中で何かが引っかかってる。

 ――憂ちゃん。もしかしたら貴女の溢れんばかりの劣情は、あの人形になんらかの影響を与えてしまうかもしれないわ。

 あの言葉か?
 ……いや、私らしくもない。
 こういう時はお姉ちゃんを抱きしめつつ、その胸に顔を埋めて悦楽に浸ると◎って今朝の星占いで言ってた。

 気が付くと、隣を歩くのがお姉ちゃんだけになっていた。
 考え事に集中しすぎたあまり、律さんや梓ちゃん達と別れたことにも気付かなかったらしい。
 ふと、ゆいに視線を落とす。
 疲れたのだろう、お姉ちゃんの手袋の上ですぅすぅと寝息を立てていた。

唯「寝ちゃったね」

憂「そうだね。今日は色々あったし、疲れたんだと思うよ」

208: 2009/12/12(土) 19:12:51.57 ID:rdfhcZ6D0
唯「憂」

憂「うん?」

唯「何かあった?」

憂「え?」

唯「ムギちゃんと二人きりで話した後から、ちょっと元気ない気がするよ」

憂「……」

唯「あ、何も無いんだったら気にしないでね。私の杞憂ならそれでいいんだし」

憂「大丈夫、なんでもないよ」

唯「……そっか」

209: 2009/12/12(土) 19:13:33.23 ID:rdfhcZ6D0
 程なくして、我が家に到着する。
 私は足を止めて空を仰いだ。
 西の空に輝いていた夕日は地平線に溶けて、夜の帳が下りている。

唯「どうしたの、憂?」

憂「ううん、日が落ちるの早くなったなーって思って」

唯「冬場はお日様が恋しくなるね~」

憂「そうだね……。うぅ、寒っ」

 不意に吹き付けた風に、ぶるっと身を震わせる。こういうときは炬燵で(と)お姉ちゃんと(で)ぬくぬくするに限る。
 玄関の前で私を待つお姉ちゃんに駆け寄って、二人一緒に扉を開けた。

233: 2009/12/12(土) 23:39:37.42 ID:rdfhcZ6D0
唯・憂「ただいまー」

憂「と言っても、誰もいないんだけど」

唯「お父さん達、帰ってくるの来週だっけ?」

憂「うん、水曜日だったかな」

唯「そっか、じゃあそれまでは二人きりだね」

憂「!」

 よもやお姉ちゃんの口からそんな言葉が飛び出そうとは。 
 これは、そう。きっとフラグ。

 『二人きりだね……二人きりだね……』

 脳内で何度もリフレインさせる。

 『二人きりだね……二人きりだから、憂。私の全てを見て欲しいの……』

 ハラショー! ヤー リュブリュー チビャー!!

唯「ゆいの面倒もしっかり見なくちゃ――って、わぁ!?」

憂「私も! 私も愛してるよ、お姉ちゃん!!」

唯「話が噛みあってないよ!?」

234: 2009/12/12(土) 23:40:46.78 ID:rdfhcZ6D0
 力の限りお姉ちゃんの胸に飛び込んで、そのまま押し倒す。
 そのまま胸に顔を埋めて、スリスリする。これで今日は幸せになれるはずだ。
 いや、既に幸せだ! すげえ! 星占いすげえ!
 そこまで考えたところで、今朝の星占いは見逃していたことを思い出した。

唯「くっ、くすぐったいよ憂っ。どうしたの突然!?」

憂「はあぁぁぁん! お姉ちゃん可愛いよお姉ちゃん!!」

唯「う、憂、ゆいが……!」

憂「!」

 お姉ちゃんは仰向けの体勢のまま、ゆいが強い衝撃を受けないように必氏に庇っていた。
 幸い、起きてはいないようだけど、少々興奮しすぎてしまったようだ。
 断腸の思いでお姉ちゃんから離れる。
 己の愚行を反省するが、しかし後悔は微塵も無かった。

235: 2009/12/12(土) 23:41:44.78 ID:rdfhcZ6D0
憂「ごめん、お姉ちゃん」

唯「だ、大丈夫だよ、ほら、起きてないし」

憂「……私、ゆいをベッドに寝かしつけてくるね」

唯「うん、私もギー太とカバン置いて着替えてこようっと」

 ……着替え……だと?

憂「カバンとギターをお持ちします」

唯「え? なんで?」

憂「なんでも」

唯「う、うん。ありがと、憂……」

 私は懲りもせずに、己の欲望に従った。

236: 2009/12/12(土) 23:46:34.18 ID:rdfhcZ6D0
 リビングで炬燵に潜りながらお姉ちゃんが寛ぐ。私はキッチンで夕食の支度。ゆいは私の部屋で寝ているが、あの子夕飯どうするんだろう?
 朝は玉子焼き食べてたけど、お昼は何も食べていなかった。
 人形ってお腹空いたりするんだろうか? いや、それ以前に疲れたら寝るとか、ご飯食べたりとかって、まるで人間じゃないか。
 うーむ、考えれば考えるほど不思議な存在だ。

憂「ねえ、お姉ちゃん」

唯「んー?」

憂「ゆいって夕飯食べるのかな?」

唯「食べるんじゃないかなー」

憂「でもあの子人形だよ?」

唯「今朝食べてたもん」

 いや、うん。
 お姉ちゃんならそう言うと思ったけど。
 一応、ゆい用に小さく切った物を準備しておくか。

憂「よし、っと」

 後はお皿に盛り付けて完成だ。

憂「お姉ちゃん、そろそろ――」

 ガシャーーーン!!

238: 2009/12/12(土) 23:47:20.61 ID:rdfhcZ6D0
憂・唯「!?」

唯「い、今の音……」

憂「上からだよね」

唯「うん……、もしかしてゆいが――わっ!? 待ってよ、ういー!」

 私はエプロンでそそくさと手を拭いて、駆けつけて来たお姉ちゃんの手を掴んで走る。
 リビング脇の階段を上って三階へ。廊下を通って、私の部屋……の扉が開いてる!?

憂「ゆい!」

唯「ここには、居ないみたいだね」

 となると、お姉ちゃんの部屋、か?

憂「ゆいー!?」

 お姉ちゃんの部屋の扉も、やはり開いていた。
 となれば、ゆいはきっとこの部屋に――。

240: 2009/12/12(土) 23:49:12.12 ID:rdfhcZ6D0
唯「あ、ギー太……」

憂「ゆ……ぐはぁ!?」

 く、抜かった……。私にとってこの部屋の空気は、猫で言うマタタビのようなもの。
 増して隣にお姉ちゃんが居て、かつその手を握っているとなれば、私の情欲も鰻登りだ。
 お、落ち着け私。こんなタイミングで愛に耽溺している場合じゃないぞ!
 はぁはぁ言いながら、理性を振り絞ってゆいの姿を探す。
 お姉ちゃんは既に私の手を離し、ギターの元へと駆け寄って――

 ――いた。

 スタンドから離れてうつ伏せに横たわるギターの横で、ゆいは蹲っていた。

唯「ゆい、大丈夫?」

 お姉ちゃんが優しく声をかけると、ゆいはゆっくりと顔を上げる。
 スタンドに固定されていたギターが倒れているということは、なんらかの力が加わったってことだけど……。
 寝ていたはずのゆいが、私の部屋、そしてお姉ちゃんの部屋の扉を開けて、更にはスタンドによじ登ってギターを倒した……ということか。

憂「ゆい、どうしてこんなことしたの?」

 言葉を発することができないゆいは、ボディジェスチャーで必氏にアピールする。
 ギターを指差して、次にお姉ちゃんを見て、エアギターをするかのような仕草。更には両手を挙げて、自ら床に倒れこむ。ばたん!

 ……可愛い。

241: 2009/12/12(土) 23:51:47.00 ID:rdfhcZ6D0
唯「……ゆいもギー太弾きたかったんだね。それで、私の部屋に来てギー太を手に取ろうとして、そのまま倒しちゃった……」

 っていうことでいいのかな? とお姉ちゃんが問うと、ゆいは、うんうん、と何度も頷いた。
 しかしその様子は、必氏に言い訳して罪を逃れようとしている行動のようにも映る。
 お姉ちゃんはどこまでも優しいから、きっと笑って許してしまうことだろう。

憂「ゆい。言い訳よりも、まずはごめんなさいでしょ?」

 だから私は、しっかりとした口調で言い聞かせる。

唯「大丈夫だよー、ういー。ギー太も傷付いてないみたいだし」

憂「お姉ちゃんはちょっと黙ってて!」

唯「は、はい……」

 萎縮するお姉ちゃん。しまった、語気を強めすぎたか。後で謝りながらぎゅっと抱きしめるとしよう。

憂「良い、ゆい? このギターはお姉ちゃんにとって大事なものなの。もしギターが壊れちゃってたら、お姉ちゃんは悲しむよ。悲しむお姉ちゃんは見たくないよね?」

 ゆいは、自分が諭されていることを察しているのだろう。私を真剣に見つめて、目を逸らそうとはしなかった。

憂「それにね、ギターが倒れた時に、ゆいがもしここに居たら……」

 私はゆいを床に置き、反対の手でギターをゆっくり倒していく。
 ゆいは、自分が潰されると思ったのだろう。必氏に首を横に振って『嫌!』と訴えていた。

憂「ね? 怖いでしょ? ゆいがしたことは危ないことなの。分かった?」

 今度は静かにゆっくりと、ゆいは一度だけ頷いた。

242: 2009/12/12(土) 23:53:29.58 ID:rdfhcZ6D0
憂「はい、お姉ちゃんにごめんなさいして」

 自分の手に乗せて、ゆいをお姉ちゃんの正面に据える。
 ゆいは、私の目を何度か見た後、お姉ちゃんに向けてこくりとお辞儀した。
 お姉ちゃんは『良いよ』と微笑んでから、『よくできたね』と囁きかけて、ゆいの頭をすっと撫でた。

憂「演奏してるときのお姉ちゃん、素敵だったから。ゆいも弾きたくなっちゃったんだよね」

 ちゃんと謝れたからもう怒ってない。
 ゆいにそう伝える為に、柔らかな口調で告げる。

憂「そういう時は勝手に弾こうとしないで、お姉ちゃんに弾きたいって伝えるんだよ。そうすれば、お姉ちゃんはギター弾かせてくれるから、ね?」

 ゆいがこくり、と頷いたのを見て、私はお姉ちゃんに微笑みかけた。

243: 2009/12/12(土) 23:54:12.51 ID:rdfhcZ6D0
唯「ご飯食べたら弾かせてあげよっか。私が左手でコード押さえれば、弾くだけならゆいでもできると思うし」

憂「そうしてあげて。……ごめんねお姉ちゃん」

唯「ううん、私もゆいと一緒に弾きたいからね、気にしなくて良いよー」

憂「……ありがと」

唯「憂、なんかお母さんみたいだね」

憂「そう、かな……?」

唯「ゆいのお母さんみたい」

 そう口にしたお姉ちゃんの笑顔は、どこまでも温かかい。

憂「えへへ……、お母さんか。ちょっと照れる、かな」

 この私が滾る色欲を忘れるほどに、その空間には穏やかな空気が流れていた。

250: 2009/12/13(日) 00:15:47.71 ID:2D7FLZJm0
 お姉ちゃんとゆいと私、三人で公園に遊びに行った。
 ゆいは空を飛ぶ小鳥を追いかけて、そのまま迷子になった。
 お姉ちゃんはゆいを追いかけて、そのまま迷子になった。
 私がお姉ちゃん達を追いかけていくと、二人仲良く冬芝の絨毯に幸せそうに寝転んでいた。
 ずるいよそんなの、と言って私も寝転んだ。
 見上げた空はどこまでも青かった。

 お姉ちゃんとゆいと私、三人でショッピングモールに行った。
 ゆいのサイズに合う人形用の洋服を何着か購入した。
 お姉ちゃんが私も新しい洋服欲しいなーと人差し指を口元にあてたので鼻から血がでた。
 ゆいが物凄い勢いで心配してくれた。

 お姉ちゃんとゆいと私、三人でボードゲームをした。
 ゆいはルールが分かっているのかいないのか、とにかく楽しそうにはしゃいでいた。
 お姉ちゃんが結婚のマスに止まったので、私は生きる気力を失った。
 ゲーム、憂、これゲームだから! と何度も叫ばれて我に返ると、ゆいに思いっきり笑われた。

 お姉ちゃんとゆいと私、三人で同じ布団に入った。
 なかなか寝付かないゆいに、私は絵本を読み聞かせてあげた。
 真剣な眼差しで次は? 次は? とせっつくゆいと、それをにこやかに見守るお姉ちゃん。
 やがてすぅすぅと寝息を立て始めたので、ようやく眠ったかと思って視線を落とすと、船を漕いでいたのはお姉ちゃんだった。
 全く、どっちが子供なんだかわかりゃしない。
 私はゆいと顔を見合わせて微笑んだ。



 ――そんなこんなで一週間が過ぎた。

251: 2009/12/13(日) 00:17:57.76 ID:2D7FLZJm0
 ゆいは平沢家の新しい家族としてなんら違和感無く馴染んでいき、『お母さんみたい』と言われたその日から、ゆいの存在は私の中で日に日に大きくなって、その溺愛っぷりに拍車をかけていた。
 唯一の問題だったクラスメイト達も、時間の経過と共に興味が薄れたのか、深くは干渉せずに、時折頭を撫でたり、手を振ったりする程度にまで落ち着いていた。

梓「うわぁ、今日はまた一段とべったりだ……」

 机に突っ伏しながらゆいを抱きしめて頬擦りする私に、梓ちゃんがぼやいた。

憂「おはよう、梓ちゃん」

梓「おはよ」

憂「安心して、梓ちゃん。母性愛と梓愛はまた別だから」

梓「何一つ安心できない。ていうか変な単語作んないでくれるかな……」

 今日は一段とやさぐれていらっしゃる。


252: 2009/12/13(日) 00:19:01.28 ID:2D7FLZJm0
憂「じゃあ梓ちゃんがお姉ちゃんのことを愛しているという単語は――」

梓「うわぁああああ、ストップ、憂すとーーっぷ!!」

 なぜか必氏な梓ちゃんの頭に、ぱすん、とカバンが降ってきた。

純「朝っぱらからなんて会話してんのよ」

梓「だ、だって、憂が……」

憂「おはよう、純ちゃん」

純「おはよー」

憂「純ちゃん」 

純「なに?」

憂「軽音部」

純「そろそろ怒るぞ」

憂「えへへ」

255: 2009/12/13(日) 00:34:33.63 ID:2D7FLZJm0
純「ところで二人とも、日曜日あいてる?」

梓「ん、私は大丈夫だけど」

憂「ごめん、私はちょっと厳しいかも」

純「何か用事でもあるの?」

憂「ううん、明日からまたお父さん達海外だから。お姉ちゃんも家に居るみたいだし、この子の面倒も見ないといけないからね」

 そう言って、ゆいを指で突っつく。
 ゆいは指に飛びつこうとするが、バランスを崩して転んでしまった。

純「そっかぁ、お母さんは大変だね~」

梓「むしろ唯先輩が家に居ることが重要なんじゃ……」

憂「Exactly(その通りでございます)」

 ゆいのぶつけた膝を優しく撫でながら、どこぞのサイコ野郎の台詞を流用する。

梓「……」

純「と言いつつ、梓も明日憂の家に行くとか言ってなかったっけ」

256: 2009/12/13(日) 00:35:42.19 ID:2D7FLZJm0
梓「わ、私は、部活の延長で……、ただギターを、そう唯先輩にギター教えないといけないから、ほら」

純「私は『憂の家』と言っただけで、唯先輩の名前は出してないんだけど」

梓「うぐっ……、軽音部入らなかったこと後悔してる癖に!」

純「ぐはぁっ!? おのれ梓、そんなこと言っちゃう子には……こうだっ!!」

 オーバーアクションで怯んだ後、純ちゃんは梓ちゃんの首元から冷たい手を入れて、背中にぴたん、とくっつけた。
 そのまま外せばいいのに(ブラのホックを)。

梓「にゃぁあああっ!? やったなこのー!!」

 飛び退いた梓ちゃんが、反撃に出る。

純「きゃっ、はははは、ちょ、くすぐるのは反則……、このっ、私を怒らせたな!!」

梓「きゃぁっ!?」

 こちょこちょの応酬が始まる。
 しかし、私の心はそんなものでは満たされない。

257: 2009/12/13(日) 00:36:25.76 ID:2D7FLZJm0
憂「純ちゃん、そのまま押さえつけといて」

 だから、私が代わりに外してやる(ブラのホックを)。

純「ふふふ、任せなさい」

梓「え、ちょ、うわ、何その手つき、憂、落ち着いて、話せばわk嫌ぁぁぁあああーーーーーー!!」

 ――。

 始業のチャイムが鳴り響く。
 純ちゃんと梓ちゃんは、交互にゆいの髪を撫でて、「それじゃ、今日も一日頑張ろー」「おー!」というよく分からない掛け声と共に席へとついた。

 ……そういえば最近梓ちゃんにセクハラしてなかったな。
 海よりも深く反省しなくては。

258: 2009/12/13(日) 00:48:43.70 ID:2D7FLZJm0
 終業のチャイムが授業の終わりを告げた。
 時間割を見て嘆息する。まだ2時間目。先は長いなー。
 ゆいも退屈そうに大欠伸をひとつ。
 それでも大人しくしているのだから、よっぽど初日のもみくちゃが怖かったんだろう。

梓「憂」

憂「ん~?」

梓「……なんでそんなに眠そうなのよ」

憂「昨日の夜お姉ちゃんと大人の階段を……」

梓「はぁ!? な、なに、どういうこと!? 今度は唯先輩に何したの!?」

憂「嘘だよ。梓ちゃん、必氏すぎるよ」

梓「……」

 梓ちゃんはぷるぷる震えながら俯いた。
 なんて愛らしい。ご褒美ちゅっちゅだよ~、と囁きながら接近したら下敷きでブロックされた。

259: 2009/12/13(日) 00:49:30.43 ID:2D7FLZJm0
梓「まったく……」

憂「梓ちゃん」

梓「うん?」

憂「何か用があったんじゃないの?」

梓「あ、そうだった」

憂「可愛い」

梓「う、うるさいな!」

憂「それで?」

梓「うん、次体育だからさ。唯先輩にゆい預けに行くんでしょ?」

憂「……梓ちゃん」

梓「なに?」

憂「行きたいんだ? お姉ちゃんに会いに」

梓「……いや、別に」

憂「じゃあ、なんで来たの?」

梓「……」

260: 2009/12/13(日) 00:50:58.62 ID:2D7FLZJm0
憂「違うって言うなら私がお姉ちゃんの所に行って、ついでにお姉ちゃんにちゅっちゅしてくるけど」

梓「……」

 椅子から立ち上がった私の肩を、梓ちゃんが両手でがっちり掴んだ。

梓「すいませんでした」

 素直でよろしい。

憂「一緒に行こうか」

梓「……うん」

 梓ちゃんと並んで廊下を歩く。

梓「今日のゆい、静かだね」

憂「授業中はいつも静かにしてくれてるよ」

梓「いや、そうじゃなくて、なんか元気が無いって言うか……」

 その言葉に、私は思わず足を止めた。
 授業中眠そうにしてるのはいつものことだが、休み時間中はクラスメイトと戯れたり、私や梓ちゃん、純ちゃんに擦り寄って来るのが常だ。
 だが、今日はそういう素振りを一切見せず、授業中となんら変わりなく目を擦ったりして、ぼーっとしている。
 風邪でも引いたのだろうか? ドールなのに?
 人間の医者に診てもらうわけにもいかないしなぁ……。
 紬さんにでも訊いてみるか。

332: 2009/12/13(日) 21:50:53.47 ID:2D7FLZJm0
憂「……」

 紬さんという名前から想起されたのは件の台詞。
 仮に私に劣情とやらがあったとして、その影響を受けたゆいが体調不良を起こしているとでも言うのか?
 そんなこと、ありえない。

梓「どうしたの憂、深刻そうな顔して」

憂「梓ちゃん、劣情ってどういうことだと思う?」

梓「……そりゃ、憂が時折唯先輩や私に向けてくる、なんていうか……その、そういう感情のことじゃないの?」

憂「私が劣情を持っている、と?」

梓「至るところから滲み出てるじゃない」

憂「……」

 まじかよ。

梓「なんでそんなに驚くの?」

憂「私は淑女だよ」

梓「程遠いわ」

333: 2009/12/13(日) 21:51:52.84 ID:2D7FLZJm0
憂「……」

 いや、考えすぎだろう。
 元気が無い程度で、まだ病気と決まった訳ではないし、私の感情如きがゆいにそこまでの影響を及ぼすとはやっぱり思えない。
 手の平に乗せたゆいを見据える。
 『どうしたの?』と不思議そうに私を見つめるゆい。

憂「杞憂だよね」

梓「ゆいのこと?」

憂「ちょっと疲れてるだけでしょ」

梓「……そうだね」

 ゆいの話題から、期末テスト、冬休み、そしてクリスマスの話題へと世話しなく移ろい、やがてお姉ちゃん達の教室にたどり着く。
 扉を開けて、最初に私達に気付いてくれたのは律さんだった。

律「おー、憂ちゃんに梓じゃないか」

憂「こんにちは、お姉ちゃんいます?」

律「唯、お客さんだぞー」

唯「ふぇ?」

 その声に、和さんと楽しそうにお喋りしていたお姉ちゃんがこちらを振り向いた。

339: 2009/12/13(日) 22:09:11.60 ID:2D7FLZJm0
唯「あ、ういとあずにゃん! ごめんね和ちゃん、ちょっと待ってて」

和「はいはい、いってらっしゃい」

 ぱらぱらと手を振る和さんに背を向けて、お姉ちゃんが小走りでこちらにやって来る。

唯「どうしたの、二人共?」

憂「会いたかったよ、お姉ちゃん!」

唯「わっ!?」

 とりあえず抱き付いておく。
 そうすることで、後ろにいる梓ちゃんが不機嫌になるのだ。
 というのは表向きの理由で、単純にお姉ちゃんの匂いを堪能したかっただけである。
 
唯「……」

 そのままの体勢で優しく頭を撫でてくれるお姉ちゃん。
 これで後ろにいる梓ちゃんが更に不機嫌になるのだ。
 というのは表向きの理由で、単純にお姉ちゃんの身体を撫でくりまわしたかっただけである。

梓「あ、あの」

唯「えへへ、あずにゃんもおいでよ」

梓「上級生の教室前でそんな恥ずかしいことできません。ていうか憂が占有してるから私が抱きつくスペースが……、じゃなくてですね」

唯「気にすることないのにー」

343: 2009/12/13(日) 22:17:48.02 ID:2D7FLZJm0
梓「私達のクラス、次体育だから、ゆいを預かってもらおうと思って来たんですよ。っていうかそろそろ離れろ!」

 梓ちゃんに無理やり引き離される私達。
 嗚呼、なんたる悲恋物語。現実はかくも残酷である。

唯「そっか、体育なんだ。ゆい、おいで」

 お姉ちゃんが手を差し出すと、ゆいは嬉しそうにその手に飛び乗った。
 心なしか、さっきより元気になってる気がしてちょっぴりジェラシー。

憂「じゃあ、ゆいのことお願いね」

梓「お願いします」

唯「ほいほーい、任せといて!」

 ばいばーい、と手を振るお姉ちゃんと別れて、私と梓ちゃんは自分達の教室へと向かう……と見せかけて、壁際に身を潜める。

梓「な、なにやってるの、憂?」

憂「しっ、静かに!」

梓「?」

344: 2009/12/13(日) 22:24:17.25 ID:2D7FLZJm0
 壁からそっと顔を出して、お姉ちゃんを見つめる。
 私達の姿が見えなくなったことを確認したお姉ちゃんは、踵を返して教室に入ろうとする――その瞬間。

唯「あ、あれっ……、な、なんで?」

 小さな声が漏れた。
 足を止めて、「ちょっと待ってね」と呟いてゆいを足元に置き、自らの背中に手をまわすお姉ちゃん。

梓「憂、まさか……」

 さすがは梓ちゃん。
 冷静さを保っている振りをしながら、僅かに上気した頬がその興奮を物語っている。
 間違いない。この娘なら分かってくれる。
 そしてブラウス、セーター、ブレザーという三重の壁を突き破ったこの右手の偉業を讃えてくれるに違いないッ!!
 だから私は梓ちゃんに向けて親指をグッと突きたてた。

憂「抱きついた時に外しました(ブラのホックを)」




 怒られた。





345: 2009/12/13(日) 22:30:36.19 ID:2D7FLZJm0
憂「ん~~~っ」

 両手を頭の後ろに組んで、大きく伸びをする。
 日頃運動不足の私にとって、体育の授業はなかなかに酷なものがあった。
 運動自体は別に苦手ではないけれど。

梓「お疲れ様、憂」

 既に制服に着替え終えた梓ちゃんが、声をかけてくる。

憂「早いね、着替えるの」

梓「憂がのんびりしすぎなんだと思うけど」

憂「そうかなー」

 何かを期待しているような眼差しで私を見つめる梓ちゃん。
 言わずもがな。私とて理解はしている。

憂「ゆいを引き取りに行かないとね」

梓「あ! そっか、そうだったね! ほら、休み時間終わっちゃうし、早く着替えて、行こう、憂」

憂「……」

 もうバレバレなんだから隠さなくても良いのに。
 着替えを終えた私は、素直にならない梓ちゃんと共に、お姉ちゃんの教室へと向かう。
 右手をわしわしと開閉させて、お姉ちゃんに抱きついた時の為のイメージトレーニングも欠かさない。

346: 2009/12/13(日) 22:43:06.25 ID:2D7FLZJm0
梓「あ、先輩達だ」

 梓ちゃんの声に、右手に集中していた意識を前方へと向ける。
 そこには、楽しそうに談笑するお姉ちゃん、律さん、澪さん、紬さん、和さんの姿。
 遠目からでは分かり難いが、お姉ちゃんの肩にはちょこん、とゆいが座っていた。

憂「お姉ちゃん!」 梓「先輩!」

唯「あ、おかえり二人ともー」

澪「お、どうやらお迎えが来たみたいだな」

律「澪、氏んじゃうのか?」

澪「そういう意味じゃない!」

律「うっ、うっ……忘れないぞ、澪。私はお前のことは決して忘れな――いででで、嘘、嘘、冗談だってばゴメンナサイ澪ちゃん様!」

347: 2009/12/13(日) 22:44:37.46 ID:2D7FLZJm0
紬「ほら、ゆいちゃん。お母さんが来てくれたわよ」

 お姉ちゃんの肩に乗るゆいに、紬さんが微笑みかけると、ゆいは、満面の笑みを浮かべてお姉ちゃんの頬に抱きついた。

唯「良かったねー、ゆいー。わっ、あはは、くすぐったいってば~」

 ひとしきり抱擁を交わすと、ゆいはお姉ちゃんの髪の毛を引っ張って、『降ろして欲しい』とせっついた。

唯「慌てて走ると危ないよー?」

 お姉ちゃんが廊下に屈みこんで、ゆいをゆっくりと地面に降ろす。
 私は、今すぐにでも駆け寄りたい衝動を抑えて、ゆいがこちらに走ってくるのを待つことにした。
 歩けるようになった子供を見守る心境って、こんな感じなのかもしれない。

 とことこと走ってこちらに向かってくるゆい。

 ……あれ?

 ――なんか、遅くないか?

 気のせい、だよね……?


 ようやく私のところまで走りきったゆいは、やっぱり笑顔だったけれど、
 私の心の隅に存在していた小さな不安は、徐々にその形を現そうとしていた。

402: 2009/12/14(月) 20:33:44.24 ID:uS14Vocc0
唯「おはよー、ういー」

憂「おはよう、お姉ちゃん。すぐご飯の支度するねー」

唯「ふぁーい」

 欠伸をしながらお姉ちゃんが階段を下りて来た。
 時刻は午前の10時。午後から梓ちゃんが遊びに来ることもあってか、頑張って早起きした様子。
 10時を早起きと称するかどうかは、大分怪しいところではあるけれど。

 お姉ちゃんと私とゆい、それに梓ちゃんを交えて団欒を共にできる素敵な休日。
 普段の私なら意気揚々と108通りのセクハラパターンを研鑽しているところではあるが、しかし、今日の私は一味違う。
 今日一日、私は鋼の意志をもって自らの情欲を押し殺そうと思う。
 私の劣情がゆいに悪影響を及ぼしている確証はないし、あるとも思っていない。
 だから、あくまでもこれは保険だ。これ以上ゆいの元気がなくなってしまうのは嫌だし、念の為というやつだ。
 今まで必要が無かったから抑えてこなかっただけで、劣情なんてものは、気持ちの持ち様でどうにでもできる筈なのだ。

403: 2009/12/14(月) 20:34:26.60 ID:uS14Vocc0
憂「それじゃ、私達もご飯食べようか、ゆい」

 二階の掃除、洗濯と大まかな家事を済ませて、肩に乗るゆいに問いかける。
 相も変わらず眠そうにしているゆいが、こくりと頷いた。

 平沢家の朝は基本的にパン派である為、さほど手間はかからない。
 1品。食パンにハムとチーズ、スライスした玉ねぎ、ざくぎりトマトを挟んでトースト。
 2品。少し甘めに味付けしたスクランブルエッグに、バターで炒めたほうれん草とベーコンを添える。
 3品。デザートには、すり潰した苺に砂糖を塗して牛乳をかけただけの簡単イチゴミルク。

憂「はい完成」

 手抜きとか言わない。
 作り終えた食事をリビングへと運ぶと、お姉ちゃんが炬燵で丸くなっていた。

憂「お姉ちゃん、出来たよー」

唯「あーい」

 炬燵から頭だけ出したお姉ちゃんが、もぞもぞと這い出てくる。

 嗚呼、今日もそのだらけっぷりがいとおしい。
 夢現で無防備な姉ちゃんの反対側から炬燵に潜り込んで、ピンク色のベロアパンツをずり降ろして顔を押し付けたい――っておい、バカ。
 妄想を膨らませたところで首を横に振って、ゆいに視線を送る。
 私と目が合うと、ゆいは劣情とは無縁の天真爛漫な笑みを浮かべた。
 私は僅か20分で崩壊の兆しを見せた鋼の意思を必氏に補強した。

405: 2009/12/14(月) 20:51:15.35 ID:uS14Vocc0
唯「美味しいねー」

 もぐもぐと咀嚼しながらお姉ちゃんがゆいに微笑みかける。
 スクランブルエッグをもしゃもしゃと頬張るゆいも、お姉ちゃんに微笑み返す。
 躾に厳しい一般家庭ならば、口の中に物を入れたまま喋るんじゃありませんと叱りつけるのだろうけど、平沢家ではその必要は皆無である。

 何故って、そりゃお姉ちゃんとゆいが可愛いからだろう。

唯「……どうしたの、うい?」

憂「え、ううん、何でもないよ」

唯「?」

 いかん、堪えろ。と自分に言い聞かせてお姉ちゃんから目を逸らす。
 私は誤魔化すようにしてスプーンでイチゴミルクを掬い、ゆいの前に差し出した。
 ゆいは、くんくんと匂いを嗅いだ後、それを一口舐める。

憂「美味しい?」

 いつもみたいにこくりと頷くことはなく、ゆいは一心不乱にイチゴミルクを飲み始めた。
 その仕草に、思わず笑みがこぼれる。

406: 2009/12/14(月) 20:52:16.76 ID:uS14Vocc0
憂「そういえば、梓ちゃん来るって言ってたけど、お姉ちゃん達今日は一日家にいるの?」

唯「うん。この前合わせたときにあずにゃんに怒られちゃったから、今日は特訓なんだってさー」

憂「そっか、ギターもいいけど勉強もしなくちゃだめだよ? 来週から期末なんだし。ね?」

 ゆいに振ってみるも、イチゴミルクに夢中らしく、期待したようなリアクションは得られなかった。

唯「わかってるよ~、ちゃんと勉強も教えてもらうもん」

 勉強なら私が教えてあげるのに……。
 しかし私も一緒に、とは言えない。
 万が一、お姉ちゃんの部屋で梓ちゃんも交えて三つ巴というシチュエーションが成れば、私の鋼の意志は揺らいでしまうだろう。
 右に誘惑、左に誘惑、部屋に誘惑、だ。どう転んでも勝てる気がしない。
 だから、例えお姉ちゃんの方から一緒に勉強しようと言ってきたとしても、断固ノーと回答しなくてはならないのだ。

唯「憂も一緒にやろうよー」

憂「うん、いいよ」

 お姉ちゃんの台詞からは、目的語が抜けている。
 会話の前後関係から推測するなら、そこに入る言葉は、『勉強を』となる。
 しかし、他の単語が入る可能性とて捨て置けない。いかがわしい行為である可能性だって比較的高い。
 ならば答えは断固としてイエスだ。
 私の鋼の意志は、コンニャク並の柔軟性を持っているのだ。

409: 2009/12/14(月) 21:11:39.43 ID:uS14Vocc0
 食事と後片付けを終えてから、私は自分の部屋、そしておねえちゃんの部屋の掃除へと移った。
 ゆいはリビングでお姉ちゃんに遊んでもらっている。
 今のところ、私の中の劣情とやらは脳内だけに留まってくれているし、部屋の掃除さえ乗り切ればなんとかなるだろう。

憂「……期末か」

 自分の部屋に掃除機をかけながら思考する。
 ゆいに構ってばかりで忘れていたけど、最近全然勉強していなかった。
 お姉ちゃんに促すよりも、まずは自分がやらなきゃ駄目だろう。
 梓ちゃん文系得意だし、教えてもらうことだってできるのだ。
 余計な事は考えず、今日は真面目に勉強した方がいいのかもしれない。

 窓を開けて空気を入れ替える。
 冷たい風が吹き込むが、それでも今日は暖かい。
 冬の柔らかな日差しを浴びて、私は大きく伸びをした。

 二階ではお姉ちゃんとゆいが、今も楽しくじゃれあっていることだろう。
 幸せな日々はこれからもずっと続いていくけれど、休日は週に二回しかないのだ。
 一秒だって無駄にしたくは無い。
 早く掃除を終わらせて、私もその幸せを噛み締めるとしよう。

憂「よーし、やるぞー!」

 気合を一つ入れたところで。
 お姉ちゃんの声が――、驚愕と悲痛の入り混じった声が木霊した。

410: 2009/12/14(月) 21:14:21.22 ID:uS14Vocc0
 平和で幸せな日常は、いつだって唐突に終わりを迎える。
 そこに、私の想いは一切関係がないし、お姉ちゃんの願いも決して通じない。

 階段を駆け上がる音が近付いてくる。
 お姉ちゃんの心と同調するかのように、その痛みが伝わってくる。
 胸のうちに押さえ込んでいた得体の知れない焦燥と、言いようの無い不安が急速に膨れ上がった。
 冷や汗が滴り落ちる。

唯「憂! ゆいがっ、ゆいがっ!!」

 振り返ると、お姉ちゃんはもうそこに居た。
 額には薄っすらと涙が浮かんでいて、肩で息をしている。
 愛くるしい大きな瞳に涙を溜めて……、お姉ちゃんは泣きそうだった。
 私はその表情を見て、全てを理解した。

 あの子に何かあったのなら、きっと、それは私のせいなんだ。
 もう、逃れることはできない。

 ……私は、震える心に鞭打って、なんとか言葉を紡ぎだす。

憂「……ゆいが、どうした、の?」

唯「……」

 お姉ちゃんは、私に向けて両手をゆっくりと差し出した。
 戦々恐々としながらも、私はゆっくりと手のひらに視線を落とす。



 ――ゆいが苦しそうに横たわっていた。

414: 2009/12/14(月) 21:24:15.63 ID:uS14Vocc0
唯「ど、どうしよう、救急車呼ばないと……」

憂「駄目だよお姉ちゃん。この子は人形だから、病院ではどうすることもできない」

唯「で、でも!」

憂「紬さんに連絡をお願い」

唯「ムギちゃんに?」

憂「あの人が、一番ゆいの身体のこと解ってると思うから」

唯「……わかった」

 お姉ちゃんは携帯電話で紬さんにコールしながら、一度部屋の外へと出た。
 ゆいをベッドに寝かしつけて、彼女用に作ったフリース生地の布団をかける。
 今も尚苦しそうに布団を握り締めるゆいを見て、私は唇を強く噛む。
 私に出来ることは何もないのか……。

415: 2009/12/14(月) 21:25:46.11 ID:uS14Vocc0
 しばらくして、お姉ちゃんが部屋に入ってくる。 

唯「20分くらいかかっちゃうかもだけど、なるべく急いで来てくれるらしいから」

憂「そう……」

唯「そのまま安静にして、傍にいてあげて、だって」

憂「……うん」

唯「あずにゃんにも、一応連絡しておくよ……。もうすぐ来る頃だし」

憂「……そうだね」

 紬さんと梓ちゃんが家にやってきたのは、それからちょうど30分が過ぎた頃だった。

418: 2009/12/14(月) 21:41:05.16 ID:uS14Vocc0
 前兆はあった。
 昨日の朝から、ずっと眠そうにしていたこと。
 指先でじゃれさせただけで転んだこと。
 私に向かって走る速度が、やけに遅かったこと。
 ゆいが初めて意思を持った日、あの子は私の肩から飛び降りても平然としていた。
 なのに、昨日はお姉ちゃんの肩から飛び降りようとはせず、『降ろして』とせっついた。
 ともすれば、もうあの時既に飛び降りるだけの力が無かったのではないか。
 
 本当は、私だって気付いていた。だけど、何もしてやれなかった。
 どうすればいいのかが分からなかったから、何もできなかった。

憂「(本当に、そう……なの?)」

 私のせいで、私の劣情の影響を受けて、ゆいは苦しんでいるんじゃないのか?
 さっきよりは落ち着いたようだが、ベッドの上で未だ苦しそうな表情を浮かべるゆい。
 なんとかしてあげたいのに。気持ちばかりが焦る。

唯「ゆい……」

紬「そのドール……、ゆいちゃんが意思を持ったのは、十日ほど前だったかしら?」

憂「……」

梓「私が唯先輩の家に行った次の日からですから、正確には九日ですね」

 思考もまともに働かせられない私の代わりに、梓ちゃんが答えてくれた。

419: 2009/12/14(月) 21:51:30.13 ID:uS14Vocc0
紬「そう……」

 重苦しい空気の中、紬さんが渋面で呟いた。

紬「ちょっと、訊いてもらえるかしら」

 お姉ちゃんと梓ちゃんが、静かに頷く。

紬「意思を持つ傀儡。前例が無かった訳じゃないらしいの。……ドールの関係者に調べさせて、明らかになったことが二つ程あるわ」

 二つ。紬さんはそう述べてから言葉を続ける。

紬「一つ目。精巧に作られたドールは、時として人の魂を宿す。どんな想いでも良いのだけれど、その持ち主の意思が強ければ強いほど、魂は宿りやすい」

 紬さんはそこで一旦台詞を区切る。

紬「過去にも数体、意思を持ったというドールが居たらしいわ」

唯「……ゆいの友達、他にもいたんだね」

紬「これは過去の話なの。だから今はもう……」

唯「あ……、そっか……」

紬「ごめんなさい、唯ちゃん」

唯「う、ううん! ムギちゃんが謝ることなんてないよ! ……ただ、ちょっとゆいが可哀想だなって」

紬「唯ちゃん……」

421: 2009/12/14(月) 21:53:52.56 ID:uS14Vocc0
梓「それで、ゆいに宿った魂っていうのは……?」

紬「この子の場合、おそらく憂ちゃんの、唯ちゃんに対する想いね」

唯「……憂の、私への?」

紬「ええ、憂ちゃんのシス……いえ、唯ちゃんへの想いの強さは他の追随を許さない、尋常ではないレベルのモノだと思うの」

梓「そこは概ね同意です」

唯「そんなに言われるとちょっと照れる……」

 お姉ちゃんの言葉に、場の雰囲気が少しだけ和む。

梓「……えっと、ゆいに宿った魂は憂の『唯先輩への想い』っていうのは分かりましたけど、ゆいが倒れたことに何か関係があるんですか?」

紬「梓ちゃん、私は過去の事例を述べているに過ぎないわ」

梓「?」

紬「重要なのは二つ目なの」

 紬さんが語気を強めた。
 何を言おうとしているのかは分からない。
 けれどもう、嫌な予感しかしなかった。
 一秒だってこの場に居たくない。その言葉の先を、訊きたくない。

426: 2009/12/14(月) 22:05:39.16 ID:uS14Vocc0
紬「二週間」

唯「え?」
梓「え?」


 お姉ちゃんと梓ちゃんの声が重なる。




紬「――魂を宿らせたドールは、一件の例外もなく、二週間後に心を失っている」


 心を――なんだって?

 二週間で。

 不意に、視界が滲む。
 
 ――失うと言ったのか?

427: 2009/12/14(月) 22:07:29.46 ID:uS14Vocc0
憂「嫌……」

梓「……」

憂「そんなの嫌だ……」

紬「……」

憂「嫌だよ……」

唯「憂……」

 崩れるように床にへたり込んで、精一杯ゆいを抱きしめる。
 頬を伝う涙を拭うことも忘れて嗚咽を漏らす私に、ゆいはその小さな手を懸命に伸ばそうとする。

 『どうして泣いているの? 泣かないで、うい』

 言葉は伝わらなくても、気持ちは伝わっている。
 本当に苦しいのは私じゃないのに。
 辛くて仕方ないのはゆいのはずなのに。

梓「……」

紬「……」

唯「ねえ、ムギちゃん」

紬「なにかしら?」

430: 2009/12/14(月) 22:22:22.22 ID:uS14Vocc0
唯「まだ二週間が過ぎるまで五日もあるよ? なのにどうして、ゆいはあんなに苦しんでるの?」

紬「……」

唯「ゆいが苦しんでいるのは、他の要因があるような気がするんだけど」

憂「!」

 邪気の無い言葉の一つ一つが、棘となって私の心を穿つ。
 その傷口から侵食されていくかのように、胸に、どす黒い何かが広がった。
 紬さんは警告してくれていたじゃないか。
 なのに、私はそれを気にも留めなかった。
 ゆいをここまで苦しめて、追い詰めているのは……、他ならぬ私自身だ。

紬「それは……」

梓「ムギ先輩、さっき一件の例外なく、って言いましたけど」

 口篭る紬さんに、今度は梓ちゃんが問う。

梓「意思を持った例が数件、つまり数える程しか無かった訳ですよね。それなのに二週間でゆいが消えるなんて、決め付けるのは早くないですか?」

紬「……」

梓「前例が無かったら諦めなきゃいけないんですか? 消えてしまうのは仕方ないから黙って見てなきゃいけないんですか?」

唯「あずにゃん……」

434: 2009/12/14(月) 22:28:39.98 ID:uS14Vocc0
梓「おかしいです、そんなの。私は唯先輩や憂みたいに、ゆいとずっと一緒にいた訳じゃないけど、二人に負けないくらい、ゆいのことが好きなんですよ」

憂「……」

梓「だから私は、諦めたくない。何ができるかわからないけど、何もせずに後悔はしたくない」

紬「梓ちゃん。さっきも言ったけど、私は前例を述べたに過ぎないわ。諦めろだなんて思ってないし、私だって、この子に消えて欲しくなんかない」

梓「え、それじゃあ……」

紬「私も出来る限り協力するわ。ゆいちゃんが心を失わなくても良い方法を探してみる」

梓「ムギ先輩……」

 梓ちゃんは、紬さんの名前の後に何かを呟こうとして、結局口をつぐんだ。
 そして蹲る私の視線の高さまで屈み込むと、優しく背中を叩いてくれた。

梓「ほら、憂。ムギ先輩もああ言ってくれてるんだから、泣いてる場合じゃないよ。ポーカーフェイスでセクハラに及ぶいつもの憂はどこにいったの?」

 そのセクハラが、ゆいを苦しめているのかもしれない。
 だけど――。

 その言葉で、ようやく覚悟が決まった。
 ありがとう、梓ちゃん。
 
 涙を拭け。後悔する暇があるなら思考しろ。
 私の感情ひとつで、ゆいの身体に影響を及ぼすというのなら……、救うことだってできるはずなんだ。
 ゆいを救う方法は必ずある。

435: 2009/12/14(月) 22:32:57.89 ID:uS14Vocc0
憂「紬さん」

紬「……今度は憂ちゃんなのね、なにかしら?」

憂「以前言いましたよね。私の劣情がゆいになんらかの影響を及ぼすかもしれない、って」

紬「ええ。人形は人の邪な心をその身に引き受ける存在、だから……」

憂「だったら、私からその邪な心が無くなれば、ゆいは元気になるってことですよね」

紬「断言はできないけれど、その可能性は否定できないわね」

憂「わかりました」 

 劣情がなんだというのか。
 邪な心がなんだというのか。
 
 お姉ちゃんや梓ちゃんを愛する心は決して捨てない。
 だけど、二人と接することで私の中の劣情が膨れ上がってしまうのならば。

憂「お姉ちゃん、お願いがあるんだけど」

唯「なに?」

憂「今日からしばらく、梓ちゃんの家に泊まって欲しいの」

 そもそも接しなければ良いのだ。

 ――見せてやる。私の覚悟を。

436: 2009/12/14(月) 22:37:03.39 ID:uS14Vocc0
 お姉ちゃんは、最後まで私とゆいのことを心配してくれた。
 どうして私がいちゃ駄目なの? と寂しそうな目をしていた。
 お姉ちゃんなのに、憂の支えになってあげなくちゃ駄目なのに。
 そんな悲壮に満ちたお姉ちゃんの言葉が、何よりも重く胸に突き刺さった。
 逸早く事情を察した梓ちゃんが、そんなお姉ちゃんを嗜めてくれて、二人は家から出て行った。
 ごめんね、二人共。

 身勝手な私を許してください。

紬「ごめんなさい、憂ちゃん」

憂「どうして謝るんですか?」

紬「事の発端は私。私がドールなんか作らせなければ、誰も苦しまずに済んだの」

憂「……違いますよ。紬さんがいなければ、私はゆいに出会えなかった。確かに今は苦しいですけど、まだ終わった訳じゃありませんし」

紬「……」

憂「だから、私は紬さんに感謝こそしますけど、紬さんが私に謝らなくちゃいけない理由なんて何一つないんです」

紬「憂ちゃん……。ごめんなさい、ありがとう」


437: 2009/12/14(月) 22:38:18.81 ID:uS14Vocc0
憂「そういえば、紬さんはどうして傀儡の実験をしようなんて思ったんですか?」

紬「軽音部はパラダイスよ」

憂「やっぱ言わなくていいです」

紬「あら、憂ちゃんならわかってくれると思ったのに」

憂「今の一言で分かってしまったから言わなくていい、と言ったんです」

紬「ああ、そういうこと……」

憂「紬さんは寂しくないんですか?」

紬「どうして?」

憂「律さんと澪さんは幼馴染で仲が良いし、お姉ちゃんと梓ちゃんは、あの通りべったりです。だけど紬さんにそういう相手は、その……」

紬「それは、貴女も同じでしょう」

憂「へ?」

紬「お互い、歪に捻じ曲がってはいるけれど、私と貴女の根底にあるものは一緒のはずよ」

憂「……言ってる意味がよくわかりません」

438: 2009/12/14(月) 22:39:11.00 ID:uS14Vocc0
紬「要するに、好きな人が幸せならそれでいいのよ。貴女の好きのベクトルは唯ちゃんのみに傾いているけど、私はそれが皆に向いている」

憂「紬さんは、軽音部の皆さんが幸せそうにしているのを見られればそれでいいってことですか?」

紬「大当たり♪」

 悪戯っぽく舌を出す紬さん。

紬「そして、貴女は唯ちゃんが幸せならそれで全てを善とできる」

憂「……大当たり、と言いたい所ですけど、それじゃ60点ですね」

紬「? ああ、梓ちゃんね。彼女も含めて……」

憂「いいえ。それだけじゃ満点はあげれません」

紬「えっと……」

憂「ゆいですよ。当たり前じゃないですか」

 得心行った、という風に紬さんは頷いた。

439: 2009/12/14(月) 22:40:16.07 ID:uS14Vocc0
紬「それじゃあ私はそろそろ失礼するわね」

憂「すみません。折角の休みに……」

紬「いいのよ。ゆいちゃんも大分落ち着いてきたみたいだけど、また何かあったらすぐに連絡してね」

憂「はい、ありがとうございます」

紬「それと……、今日一日はその子の傍にいてあげること」

憂「勿論そのつもりですけど」

紬「傀儡である彼女は、貴女の意思を栄養として生きている。傍にいてあげることが、回復への近道だと思うわ」

 私の意志を栄養として……。
 だから私の心に劣情が含まれると体調を崩す、ということか。

憂「わかりました」

 何故だかは分からないけれど、この時私は会話のどこかに違和感を感じた。

444: 2009/12/14(月) 23:00:44.18 ID:uS14Vocc0
 翌日。
 ゆいの体調は安定しなかった。
 時折苦しそうな表情を浮かべては、私の服の袖をぎゅっと握り締める。
 私はその度に、「大丈夫だよ、ちゃんと傍にいるから」と言い聞かせて、ゆいの髪を指先で撫でた。

憂「……」

 お姉ちゃんの居ない家は、やっぱり寂しかった。
 心にぽっかりと穴が開いたみたいな淡い寂寥感。
 美味しそうに食べてくれる人が居ないと、料理にも作り甲斐を感じない。
 まさかたったの一日で暗礁に乗り上げるとは思わなかったが、だからといって挫けている暇は無い。
 せめてゆいが回復するまでは、この生活を続けていかなければ。

 長時間ゆいから離れている訳にもいかず、朝昼と、有り合わせの食事で我慢した。
 自室に篭って、ゆいの様子を気にかけながらテスト勉強に打ち込む。
 そういえば、先週の今頃は公園に行ってたんだっけ。
 今頃お姉ちゃん、何してるんだろう。

446: 2009/12/14(月) 23:02:12.10 ID:uS14Vocc0
憂「ねえ、ゆい?」

 多少落ち着いた様子のゆいに、シャーペンの尖ってない方を使って優しく小突く。
 ゆいは、それにじゃれつこうとして起き上がろうとするものの、またすぐにこてん、と転んでしまった。
 やはりまだ回復には程遠いらしい。

 澄み渡るような青空に輝いていた太陽は、いつの間にか厚い雲に隠れていた。
 カーテンの隙間から差し込む光が描き出した灰色の影も、部屋の暗さに飲まれて姿を消した。
 それが、なんだか私とお姉ちゃんの関係みたいで、少しだけ切なくなった。
 光が無ければ影は存在できないのだから。

憂「頑張ろう」

 私にできることは、これしかないのだ。
 耐えろ、ゆいの為だ。
 紬さんが心を失わなくて済む方法を見つけてくれるまでは――。


448: 2009/12/14(月) 23:19:47.16 ID:uS14Vocc0
 二日が過ぎた。
 学校でも極力梓ちゃんとの接触を避けなければならないのだが、幸いにも今はテスト期間中。
 午前中だけ凌ぎきれば家に帰れるし、テストに集中することで、余計な雑念を捨てることができる。
 ゆいとはずっと傍にいなくてはならないため、布団に包んでブレザーの胸ポケットに落ち着けた。

純「ねえ、憂」

憂「な、なに?」

純「もしかして、徹夜?」

憂「テスト前にそんなことしないよ」

純「じゃあどうしたのよ、憔悴しきった顔してるけど」

憂「あー、まぁ、色々とありまして」

純「梓と喧嘩でもしたの?」

憂「まさか」

純「なんかお互い距離置いちゃってるし、何かあったならそれくらいしか思い当たらないんだけど」

憂「説明すると物凄く時間がかかるから、今はテスト勉強に集中した方がいいと思うよ」

純「たかだか10分の悪あがきじゃ点数に大差ないって」


449: 2009/12/14(月) 23:20:59.46 ID:uS14Vocc0
憂「10分あれば教科書2ページ分くらいは暗記できるのに」

純「それは憂だけだと思う」

憂「そうかな、お姉ちゃんもやればできそうだけど」

純「いや、だから、あんたら姉妹は脳の作りがちょっとおかしいんだってば」

 はぁ、と一つ溜息をついて、純ちゃんは私の胸ポケットのゆいを見つめた。

純「ゆい、苦しそうだけど」

憂「……うん」

純「大丈夫なの?」

憂「あんまり、かな」

 そう。ゆいの体調は一向に回復していなかった。
 しかし、同時に悪化もしていないように思えたから、症状の進行は抑止できているのかもしれないが。

憂「……」

 いつもの癖、とでも言うのだろうか。
 私は不意に、梓ちゃんの方へ視線を送ってしまった。
 梓ちゃんも同様にこちらを見ていたようで、二人の視線が重なった。

梓「……っ!」

451: 2009/12/14(月) 23:23:02.36 ID:uS14Vocc0
 梓ちゃんは慌てて目を逸らした。
 彼女にはある程度の事情は説明してあるし、私が距離を置かなくてはならない理由も察している。
 だけどそれでも、ゆいのことが心配で仕方ないのだろう。
 苦しいのはきっと、私だけじゃない。梓ちゃんも紬さんも、それに、お姉ちゃんだって……。
 お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。
 お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。

憂「!」

 思わずぶんぶんと首を横に振る。……いかん。禁断症状出てきた。

純「ちょっと、憂?」

憂「え?」

純「今、一瞬目開けたよ、この子」

憂「? 起こしちゃったかな」

純「あ、あれ、また寝ちゃった」

憂「気のせいじゃないの?」

純「うーん、起きたと思ったんだけどなー」

憂「それよりいいの? 勉強しなくて」

純「あはは、古典は苦手なのだー」

憂「諦めてるのね……」

454: 2009/12/14(月) 23:28:46.91 ID:uS14Vocc0
 テストが終わり、教室を飛び出すようにして帰路へ就く。
 期間中は部活動が無いため、下手すればお姉ちゃんとバッタリ出くわす可能性もあるのだ。
 理性なんて気休めにもならないだろう。
 今お姉ちゃんを前にしたら、自分でも何を仕出かすかわからない。
 それほどまでに、渇望していた。

 そんなことになったら、ゆいはきっと……。
 薄ら寒い想像をして、自己嫌悪に陥る。

憂「そんなこと考えてる時に限って、出くわしちゃったりするんだよね」

 独りごちてから、はっと後ろを振り返ってみる。
 だけどそこに人影は無く、どうやら無事に家にたどり着けそうだった。

455: 2009/12/14(月) 23:29:58.18 ID:uS14Vocc0
憂「ただいまー……、って言っても独りか」

 殆ど寝たきりのゆいは、その声に反応することもない。
 お姉ちゃんのいない家なんて、もはや家でもなんでもない、寒さを凌ぐ為の空間に過ぎなかった。
 ただ広いだけのその空間に取り残され、孤独と同居を始めてから既に三日が経過していた。
 ゆいの為に! と意気込んでいた私は今はもう完全に鳴りを潜めてしまっている。

 それでも意思を曲げなかったのは、愛する娘を救いたいが為か。

憂「愛する娘、とか言っちゃって」

 脳内ナレーションに、お気に召す単語を見つけて思わず頬が緩む。
 寂しい寂しいとは思いつつも、どこまでもポジティブなのが私が私である所以だ。

 ゆいをベッドに寝かしつけてから、着替えを済ませ、明日の準備に取り掛かる。

憂「明日は現国と日本史と……」

 本当に、今がテスト期間中で良かったと思う。
 教科書と問題集をテーブルの上に広げて、私は黙々と知識を頭に詰め込み始めた。

 今日は頭の冴えが良い。スラスラとペンが進んだ為、時間を忘れて学力向上に勤しんだ。
 勉強は調子の良い時に一気にやるべし。
 お姉ちゃんもそういうタイプだし、平沢家は短期集中型なのかもしれない。
 勉強のタイプにそんな言葉があるのかどうかは知らないけれど。

456: 2009/12/14(月) 23:36:49.00 ID:uS14Vocc0
憂「ん~~」

 充足感と共に軽く伸びをした瞬間、不意に喉の渇きに気がついた。
 いや、喉の渇きを忘れるほど没頭とかどんだけよ、と突っ込みを入れてから、私は時計を確認した。 

憂「……」

 三時間も過ぎていた。
 さすがにちょっと休憩を入れようと立ち上がった私は、ついでに、ゆいの症状を確認しようとベッドに近付く。

憂「……え?」

 思考が。呼吸が。
 一瞬だけ完全に停止した。

 ゆいが、もがいている。
 苦しそうな顔で、自分の胸を必氏に押さえて。
 布団なんか跳ね除けて、激しくのた打ち回るその姿は、痛々しくて直視できない程だった。

憂「嘘……、ゆい? ゆい!?」

 暗然とする。

 噴き出る冷や汗が止まらない。

 悪化しないんじゃなかったのか?

 劣情を持たなければ、大丈夫なんじゃなかったのか?

457: 2009/12/14(月) 23:39:54.06 ID:uS14Vocc0
 慢心していた。
 三日間なんともなかったからって、気を抜いていた。

 二週間で消える――。
 今日は何日目だ? カレンダーを目で追う。
 焦りだけが先行して、今日の日付がなかなか見付けられない。
 ……あった! ……12日目。大丈夫、後二日はある。ゆいはまだ消えない筈だ。

 落ち着け、落ち着け私。
 とにかく、紬さんに連絡を――。

 ピンポーン。

 携帯を手に取ったその瞬間、家のチャイムが鳴った。

憂「こんな時にっ!」

 私は紬さんにコールしながら、慌てて階段を駆け下りる。
 本当は、絶対にゆいから離れるべきではないのだが、この時の私には完全に冷静さを欠いていた。

458: 2009/12/14(月) 23:40:37.43 ID:uS14Vocc0
 『――……った電話は、電波の届かない所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』

憂「なんでっ!?」

 何かあったらすぐ連絡して、って言ってたじゃないかっ!
 いつでも出れるようにしといてよ、役立たずっ!!
 荒ぶる感情を抑えようともせずに、階段を下りきって玄関を目指す。
 勧誘とかセールスだったら玄関にある花瓶で思いっきり脛をどついてやる。

 ピンポーン。

 煩い、一回鳴らせば分かる!
 何度も鳴らすな! ハエのようにうるさいやつね!
 力任せに玄関の扉を開く。

憂「ごめんなさい、今忙しいんで――」

唯「えへへ、着替えを取りにまいりましたー」

 グッバイ リーズン。
 (さよなら、理性)
 ハロー セクシャルディザイア。
 (こんにちは、性欲)

461: 2009/12/15(火) 00:00:13.34 ID:cVmK9VXk0
 お肌ツルッツル。活力に満ち溢れた私は、今この瞬間、世界中の誰よりも良い顔で佇んでいた。

憂「……って」

 うわぁ、やっちゃった……。
 茫然自失。膝をついて、がっくりと項垂れる。
 胸を支配するのは、悔恨の情と自責の念。
 と、とにかく、ゆいを、ゆいの様子を看に戻らなくては……。
 重い足取りで階段を上る。

 ごめんね、ゆい。
 ごめんね、お姉ちゃん。
 私、最低だ。母親失格だ。妹失格だ。
 だから、お願いお姉ちゃん。私を罵って。罵詈雑言で私を詰って。
 お姉ちゃんに詰られる想像をしたら足取りが軽くなった。

憂「……」
 
 ちっとも懲りてない己に自嘲する。

462: 2009/12/15(火) 00:01:18.79 ID:cVmK9VXk0
 ゆいの安否を確認しに部屋に戻った私は、思わず驚嘆の声を上げた。
 その容態は、意外にも落ち着いていたのだ。

憂「ゆ、ゆい、大丈夫なの!?」

 起き上がることはできないものの、それでもさっきの悶え方が嘘のように、呼吸も安定していた。
 その様子に、一先ずは安堵する。
 だけど、この状況……。

憂「……どういう、こと?」

 半ば、諦めていた。
 だけど、ゆいは……なんとも、ない?

 お姉ちゃんや梓ちゃんと距離を置いて、劣情を押し頃す生活を続けて三日間。 
 ゆいの症状は決して回復しなかったし、治まったとはいえ、悪化の兆候も見られた。

 今朝、純ちゃんと話した時、寝ていたはずのゆいが僅かに目を開いた。
 ……お姉ちゃんのことを考えていたから?

 体育の時間の前、元気のなかったゆいは、お姉ちゃんに預ける時、少しだけ元気になった。
 ……その直前に、私がお姉ちゃんに抱きついていたから?

 軽音部の演奏を聴いたあの日の夕刻、疲れて眠っていたはずのゆいが目を覚まして、ギターを倒した。
 ……家に帰った直後に、お姉ちゃんを押し倒してその胸に顔を埋めていたから?

 決定打となったのは、今しがたのお姉ちゃんへ愛のコミュニケーション。
 あれだけの色欲を前面に押し出して、ゆいの症状は悪化するどころか、寧ろ回復の兆しを見せた。

463: 2009/12/15(火) 00:02:32.86 ID:cVmK9VXk0
 ――人形は人の邪な心をその身に引き受ける存在。

 ……そうか。

 紬さんも私も、大きな勘違いをしていた。
 考えても見ろ。
 そもそもゆいが意思をもった切欠はなんだ?
 あの日、傀儡としてお姉ちゃんの身体を間接的に撫で繰り回し、その翌日にゆいは覚醒した。
 お姉ちゃんへの強い想い、それが、純粋で奇麗な愛だと錯覚したのがそもそもの間違いなのだ。
 生まれた切欠となった意思が、既に劣情で満たされていたとすれば。
 欲望や穢れといった劣情を、人形が引き受けたその結果、魂が宿ったとするならば……。

 私の劣情はゆいの栄養にこそなれど、毒にはなりえない。
 偶然とはいえ、私は自分でそれを証明してみせたのだ。
 
憂「あれ……でも」

 やっぱりそれだと少し変だ。
 ゆいの性格が純真過ぎる。穢れや悪意から成っているのならば、あんな性格にはならないのではないか。
 それに、お姉ちゃんへのいかがわしい行為は、ゆいが倒れるまで毎日欠かしたつもりはなかった。
 にも関わらず、徐々に体調を崩し、結果としてゆいは倒れた。
 栄養が、私のお姉ちゃんへの想いが足りていなかった?
 いや、それはありえない。私の愛はマントルよりも内核よりも深いのだから。

464: 2009/12/15(火) 00:04:41.29 ID:cVmK9VXk0
 考えられるとすれば、ゆいが体調を崩した直接的な原因は体育の時間だろうか。
 お姉ちゃんにゆいを預けているため、一時間余りゆいから離れてしまっている。
 だから、一時的にゆいへの栄養供給が絶たれてしまった。

 しかしそれ以前にも体育の時間はあったわけで、私とゆいが離れているケースは他にもある。
 ならば、二週間で意思を失うという前例に則り、その影響で苦しんでいるという考えはどうか?
 お姉ちゃんは、まだ二週間経っていないのに、と否定していたが、可能性は否定できないと思う。
 その前例とやらで、他のドールも同様に苦しんだのかどうかが分かれば、すぐに答えが出せるのだけど。
 この辺は紬さんが分からなければどうしようもない。

 うーん、なんだろう。この変な気持ち。
 何かが、引っかかってるんだよなぁ。

 最初にこの違和感を覚えたのは確か……。
 記憶の糸を手繰る。

 ――傀儡である彼女は、貴女の意思を栄養として生きている。傍にいてあげることが、回復への近道だと思うわ。

 そう、その台詞の後だ。
 ゆいは私の心を栄養として生きている。だから私と離れてはいけない。
 なんだろう、おかしな所は特に思い当たらない。
 もう少しだけ、遡ってみる。

 ――ええ、憂ちゃんのシス……いえ、唯ちゃんへの想いの強さは他の追随を許さない、尋常ではないレベルのモノだと思うの。 

 当たり前だ。私がどれだけお姉ちゃんを愛していると思っている。
 ゆいへの栄養供給が足りていない筈は無い。

465: 2009/12/15(火) 00:07:44.07 ID:cVmK9VXk0
 ――この子の場合、おそらく憂ちゃんの唯ちゃんへの想いね。

 私のお姉ちゃんへの想い。それが傀儡に魂を吹き込んだ。
 ゆいが意思を持ったのは12日前の朝方。朝方に意思を持つ、ということは、私はお姉ちゃんを溺愛する夢でも見たのか?
 だとすれば、ゆいのあの純真な性格の説明も……、いや、見ていない。
 見ていたら二度と忘れぬよう、大学ノート20ページに渡ってびっしりと夢の内容を書き綴っているはずだ。
 第一それでは、劣情により生まれたという前提が覆ってしまう。

 そもそもゆいが意思を持ったのは本当に朝方だったのか?
 私が気付いたのが朝だったというだけのことじゃないのか?
 ゆいは確かあの時……。そうだ、あの時ゆいは怒っていたんだ。

 怒る?

 決して長くはない期間だけど、ずっと一緒に過ごしてきて、ゆいが怒ったことなんて他にあったか?
 いや、無い。ただの一度きり、あの時だけだ。ゆいは滅多なことで怒らない。温厚な子なのだ。

 そんなゆいが、どうして怒っていた?

 人形にとって一番嫌なことはなんだろうか?
 人形の本文は人に愛でてもらうことだ。ゆいは抱きしめたり撫でてあげると、本当に嬉しそうに笑った。
 だから、愛でてもらうのはあの子にとって一番の幸せなのだ。

 その対極にあるのは……、蔑ろにされて、捨てられてしまうこと、か。
 存在を忘れられ、押入れの中に閉じ込められたらぬいぐるみや人形は、きっと心で泣いている。
 捨てられてしまったら、彼らの人生は終わりなのだ。それは悲しいことだろう。

 ……気付いてもらえなかった?

 もしかして、ゆいはもっとずっと早くから意思を持っていて、気付いてほしかったのに私が気付かなかったから……だから怒っていたんじゃないのか?

466: 2009/12/15(火) 00:09:32.16 ID:cVmK9VXk0
 ――貴女の好きのベクトルは唯ちゃんのみに傾いているけど、私はそれが皆に向いている。

 全く関係ないような台詞が浮かんだ。
 私の好きのベクトルがお姉ちゃんに向いているのは当たり前のことで……。

 ……好きの、ベクトル?

憂「……あ」

 そういう、ことか……。
 完全に見落としていた。
 ゆいに宿ったのは、『お姉ちゃんへの想い』だ。
 第三者が、私と同じ気持ちのベクトルを持っていたとしたら。その気持ちが、私と同じように人並み外れていたとしたら。

 ――精巧に作られたドールは、時として人の魂を宿す。どんな想いでも良いのだけれど、その持ち主の意思が強ければ強いほど、魂は宿りやすい。 

 他人を自分の意図で操るために作られた傀儡。
 お姉ちゃんの髪の毛をセットしただけで、抜群の効果を発揮していた傀儡。
 それが、髪の毛が一度外れただけで、再び付け直しても機能しなくなった理由。
 操り人形として機能しなくなった理由が、人形が魂を持ってしまったからだとするのならば――。

 きっと心が宿ったのは、あの瞬間。
 ……ドールを奪い合ったじゃないか。私と同じくらい、お姉ちゃんを強く想う人間と共に。

 ゆいに宿ったのは、二人の心。
 お姉ちゃんを想う、私の愛とずば抜けた劣情。
 そして、――梓ちゃんの純粋な恋心!

 ゆいが体調を崩したのは、栄養供給が足りていなかったからで間違いなかったんだ。
 私からの供給は行き届いていた。けれど、梓ちゃんから離れている時間が長すぎた――!

468: 2009/12/15(火) 00:10:37.39 ID:cVmK9VXk0
憂「お姉ちゃん!!」

 ばっ、と振り返る。
 お姉ちゃんは、毛布一枚で身体を隠して、部屋の隅っこでガタガタ震えていた。

唯「は、はいっ、ごめんなさい!?」

憂「……」

 いや、うん。
 過去は振り返るまい。

憂「お姉ちゃん、もういいの。家に帰ってきて」

唯「え、でも……、私がいたらゆいが……」

憂「違うのお姉ちゃん、ゆいはもう大丈夫なの。そもそもお姉ちゃんが出て行く必要なんてどこにもなかった」

唯「そ、そうなの? 良かった……」

 心の中で静かに侘びる。
 お姉ちゃんにはまだ真実を伝える訳にはいかなかった。

470: 2009/12/15(火) 00:11:19.85 ID:cVmK9VXk0
唯「それじゃ、あずにゃんにも教えてあげなくちゃ……」

憂「待ってお姉ちゃん。梓ちゃんには私が連絡するよ」

唯「え? ……うん、わかったよ」

 それから紬さんにも。
 いくつか確認しなくてはならないことがある。

唯「あ、あの、憂……」

憂「なに?」

唯「ふ、服、返して……」


 グッバイ リーズン。
 (さよなら、理性)
 ハロー セクシャルディザイア。
 (こんにちは、性欲)

527: 2009/12/15(火) 20:55:34.02 ID:cVmK9VXk0
梓「……えっと、ごめん、うまく聞き取れなかったみたい。もう一回言ってくれるかな?」

 よかろう。
 何度だって言ってやる。

憂「今宵、お姉ちゃんに夜這いをかけます」

梓「……は?」

憂「お姉ちゃんを助けたくば、至急平沢家に急行されたし」

梓「……」

憂「……」

梓「ちょっと、意味がわからない」

憂「私が、お姉ちゃんの寝込みを襲います」

梓「言い方変えただけだ、それは」

憂「お姉ちゃんのパジャマを脱がせて、いかがわしい行為に走ります」

梓「だからそうじゃなく……、ぬ、脱がせる? 唯先輩の……いかがわしい……」

憂「梓ちゃん?」

梓「い、いやいやいや、なんでもない、なんでもないから……。なんでそんなことするのよ?」

528: 2009/12/15(火) 20:57:58.26 ID:cVmK9VXk0
憂「ゆいの為なの」

梓「余計に意味がわからない」

憂「説明すると長くなるんだけど……」

 私は梓ちゃんに包み隠さず説明した。
 梓ちゃんの相槌は分かりやすくて心地良い。
 電話越しとはいえ、今どんな顔をしているのかが容易く想像できる。

憂「……というわけで」

梓「私の想いも、ゆいに魂が宿った要因の一つ……」

 にわかには信じがたい、といった口調で梓ちゃんは呟いた。

梓「その仮説が正しいとしてもさ……。別に、わざわざ唯先輩を襲う必要ないんじゃないの?」

憂「どうして?」

梓「だって、私と憂がゆいの傍にずっと居て、唯先輩のことを想ってさえいれば良いってことでしょ?」

憂「それをずっと続けていたら、ゆいはそもそも体調を崩したりはしなかったんだよ」

梓「私と離れている時間が長すぎて、少しずつ栄養が不足していったってことだよね」

529: 2009/12/15(火) 20:59:01.01 ID:cVmK9VXk0
憂「うん。ゆいの症状を回復させるには、もっとこう、莫大なエネルギーが要ると思うの」

梓「……莫大なエネルギーとやらを、そっち方向に持っていくのはなんか違うと思うんだけど」

憂「わからずや!!」

梓「キレた!?」

憂「ごめん、冗談だけど」

梓「うん、分かってる」

憂「とーにーかーくー、今すぐ来なさい」

梓「べ、別に行くのは構わないけど」

憂「泊まりで勉強会という名目で、今すぐ来なさい」

梓「どうでもいいけどなんでそんなに上から目線なのよ」

憂「40秒で支度しな!」

 それだけ叫んで、私は電話を切った。
 梓ちゃんは問題あるまい。体面を気にして真っ当な人格を装ってはいるが、アレはアレで結構な変態だ。
 学園都市ならレベル3くらいの変態だ。
 え? 私?
 私はあれだ。頭から花を生やした娘の声だけで欲情するレベルだ。
 かの幻想頃しですら、それを無効化することはできない。

 どうでも良いことを考えながら、私は紬さんの番号をアドレス帳から呼び出し、コールした。

533: 2009/12/15(火) 21:13:34.00 ID:cVmK9VXk0
 時刻は午後の10時。
 誘惑に負けてのこのこやってきた梓ちゃんと、何も知らないお姉ちゃんと三人でテーブルを囲んでいる。
 私の仮説が正しければ、この三人が同じ部屋に居る以上、ゆいの体調が崩れることはありえない。

 期末テストは明日で最終日。
 私はお姉ちゃんの居ない寂しさを、テスト勉強で紛らわせていた為、これ以上頭に詰め込むことは何も無かった。
 だから、お姉ちゃんに教えることに集中していた。

憂「えっと、ここは前半の英文から訳して……」

唯「ほぉほぉ」

梓「……」

唯「ねぇ、あずにゃん。明日帰りにさー」

梓「はい?」

唯「コンビニの肉まんはどこが一番美味しいのか食べ比べようと思うんだ」

梓「……夕飯食べれなくなりますよ?」

唯「うん、だからあずにゃんも食べるんだよ」

梓「はぁ、別にいいですけど」

唯「なんかノリ悪いな」

梓「すいません、今暗記に必氏だったので……」

534: 2009/12/15(火) 21:14:23.41 ID:cVmK9VXk0
唯「日本史?」

梓「日本史です」

唯「鳴くよ鶯!」

梓「平安京」

唯「すげえ」

梓「バカにしてんのか」

唯「あ、あずにゃんが怒った……」

梓「先輩が掲載誌一緒だからって安易に他人のネタパクるからです」

憂「はいはい、梓ちゃんの邪魔しちゃ駄目だよお姉ちゃん、続きやろうねー」

唯「は~い」

 残念そうに声を出すお姉ちゃん。
 梓ちゃんが暗記の為にブツブツと呟く。
 私が英文を教えて、お姉ちゃんがスラスラとペンを走らせる。
 ゆいがすぅすぅと寝息を立てる。

 静けさという意味では一人で勉強していた時と大差無い。
 けれど、もう寂しくは無かった。

536: 2009/12/15(火) 21:31:34.01 ID:cVmK9VXk0
 やがて、お姉ちゃんがぱたり、と後方に大の字に倒れた。

唯「つ、つかれた」

 その様子を見て、梓ちゃんもペンを置く。

梓「今日はこれくらいにしときましょうか。私も疲れちゃいました」

 時計を見れば、既に日付は変わっていた。
 これだけやれば、赤点の心配は無いだろう。なかなかに充実した時間を過ごせた。

憂「お風呂沸いてるよ、お姉ちゃん」

唯「ほーい。じゃあじゃあ、二人共一緒に入ろうよ~」

憂「入りたい所ではあるんだけどね、私はゆいの面倒看なくちゃいけないから」

梓「わ、私もだめです! えっと、ほら、もうちょっと勉強しとかないと、不安ですし!」

唯「ちぇ~、連れないなぁー……」

 ブツクサ言いながら、お姉ちゃんは部屋を出て行った。

537: 2009/12/15(火) 21:33:44.34 ID:cVmK9VXk0
梓「……はぁ」

 お姉ちゃんの足音が遠ざかって聞こえなくなったのを確認してから、梓ちゃんが息を吐く。

梓「本当にやるの?」

憂「やらなきゃゆいが回復しない」

梓「……」

憂「顔赤いよ?」

梓「演技と分かってても、恥ずかしいものは恥ずかしいもん」

憂「梓ちゃんは良いじゃない、正義のヒロインなんだから」

梓「だって、唯先輩を騙す訳でしょ? 憂は罪悪感とかそういうの無いの?」

憂「無いよ」

梓「うわ、即答……」

憂「だって、愛を確かめ合うだけだもの」

梓「よくそういうことを平然と言えるよね、やってることは変態的なのに」

539: 2009/12/15(火) 21:36:52.22 ID:cVmK9VXk0
憂「レベル3に言われたくないよ」

梓「レベル? 何の話?」

 なんでもない、と首を横に振る。

憂「明日が最終日だもん、ゆいには元気になってもらわなくちゃ」

梓「え? テストのこと? ……まぁ、そうだね。私もこの子には早く元気になって欲しいよ」

 二人並んで、ゆいの寝顔を覗き込む。
 安らかだった。まるで人形のような、白くて綺麗な――、いや、人形だよ。
 何を言っているんだ、私は。
 意思を持っているだけで、元々人形なのだ。この子は、まだ……。

梓「私と憂の意思を半分ずつってことはさ……」

憂「お察しの通り、私と梓ちゃんの子供です」

梓「怖いこと言わないでもらえるかな……」

540: 2009/12/15(火) 21:37:38.59 ID:cVmK9VXk0
憂「梓ちゃん」

梓「な、なに?」

憂「少しの間、ゆいをお願い」

梓「いいけど、どうしたの?」

憂「ムラムラしてきたからお風呂行ってくる」

梓「分かった。いってらっしゃ――待てい」

 がしっと、手首を掴まれる。
 なかなかの反射神経だ。ふふふ、こやつめ。

憂「ここから先へ進みたければ、私を倒していけと、そういうこと?」

梓「違うけど行かせない」

 そしてキャットファイトが幕を開けた。

542: 2009/12/15(火) 21:53:02.20 ID:cVmK9VXk0
唯「すっきりすっきり。お風呂あいたよー……って、なにしてるの?」

 戻ってきたお姉ちゃんが、ドアを開けて立ち尽くした。
 その視線の先には、ブラジリアン柔術の寝技を仕掛けてマウントを取る私と、その下で枕を使って本気で私をブッ叩く梓ちゃん。
 お風呂上りのお姉ちゃんに匹敵するほど、私と梓ちゃんの身体からは湯気が立ち昇っていた。

唯「二人が私に隠れて、こんなことをしていたなんて……っ!」

 お姉ちゃんは膝から崩れ落ちて、女の子座りの姿勢で両の手を床についた。

憂「待ってお姉ちゃん、これは違うの」

梓「そ、そうそう。憂がまたバカなこと言い出したから私は止めようとしただけで……」

唯「ふーん……。仲良いんだねー」

 ああんっ! 拗ねていらっしゃる!?
 いけない、これでは私の計画が!!

梓「ご、誤解ですからね唯先輩! 前にも言いましたけど、私は先輩のことしか、ジト目やめてください、可愛らしすぎます。凶器ですそれは」

唯「私がお風呂誘ったのに、二人共断ったくせにさ」

 だがしかし、拗ねた様子が一段と可愛らしい。

憂「……」
梓「……」

543: 2009/12/15(火) 21:54:48.65 ID:cVmK9VXk0
唯「いいもん、私はもう寝るから。二人で仲良くしたらいいじゃない」

憂「お姉ちゃんがそういうのであれば、仕方ない」

唯「……え?」

 梓ちゃんとアイコンタクトを取る。
 一秒、二秒、……把握した。お互いに頷く。

憂「今だ!!」

梓「う、うわあ!?」

 ――もはや、夜這いである必要は無い。ていうか時間的に見れば十分夜這いである。
 私は隠し持っていたロープで梓ちゃんを縛り付けた。
 あくまでも演技であり、簡単に解けるよう結び目は緩めておく。

唯「ちょ、ちょっと、憂! なにしてるの!?」

梓「し、しまった……!」

憂「さて、邪魔者は居なくなったよ、お姉ちゃん」

唯「きゃっ!? う、うわあっ、憂、目が怖――」

憂「さあ、お姉ちゃん」

 両の目をくわっと見開いて、お姉ちゃんに迫る。

544: 2009/12/15(火) 21:57:16.36 ID:cVmK9VXk0
唯「な、なに……かな?」

 じりじりと、壁際に追い詰める。
 やがて、お姉ちゃんの背中が壁に触れた。

唯「ひっ!?」

憂「逃げられないよ、お姉ちゃん」

唯「う、憂、落ち着こう? ね? 私が大人げなかったです、拗ねてごめんなさ――」

梓「唯先輩! 逃げてください! 今の憂は――ッ!!」

憂「WRYYYYYY!」

唯「あうっ!? ……ま、またですか?」

憂「お姉ちゃんが可愛いから悪いんだよ」

梓「ちょっと待て。またってどういうこと?」

 梓ちゃんが素になっていた。

憂「昼過ぎに同じ展開を少々」

梓「あんたって子は……」

 私は慣れた手付きで、お姉ちゃんのパジャマをずり下ろす。
 梓ちゃんが過剰に反応していた。

545: 2009/12/15(火) 21:58:01.96 ID:cVmK9VXk0
 ――そろそろ動いていい?
 ――ダメ。下着までずり下ろしてから。
 ――憂、それ本当に演技?
 ――言ってる意味が分からない。
 ――こ、こいつ……。

唯「い、嫌っ、助けて、あずにゃ――んぅっ!?」

 お喋りな口には唇を重ねて蓋をする。

 さてさて。いとしのいとしのお姉ちゃん。

 昼間の続きを致しましょうか――。

唯「んぅーーーー!? んんんんーーーーーーーっ!?」

 はぁぁぁん。
 これこそが私の求めた悦楽の時。
 愛しています、お姉ちゃん。

 梓ちゃんの方から凄まじい殺気を感じるけど、気にしない。
 だって、演技だもの。

547: 2009/12/15(火) 22:01:12.97 ID:cVmK9VXk0
梓「んにゃあぁぁぁーーーーっ!!」

憂「ごぶぁっ!? なっ、いつの間に!?」

 アメフト顔負けのタックルを真横から食らって、私はそのまま弾き飛ばされた。

唯「あ、あずにゃん!」

梓「許さない! いくら憂でも許さない!!」

 梓ちゃんは私からマウントポジションを奪うと、そのまま引っ掻く。引っ掻く。
 泣きながら引っ掻、いた、痛い、痛い痛い痛いちょ、ちょっと待て、それ本気。梓ちゃんそれ本気。

梓「これ以上唯先輩に酷いことするなっ! 先輩は私が守る!」

憂「くっ、ここまでね……」

 辛うじて搾り出した決氏の捨て台詞と共に、フーフー言いながら荒ぶる梓ちゃんから逃げるようにして、私は部屋から退場する。
 なんだよこの役回り。
 言いだしっぺの私が一番の貧乏くじじゃん。

 だけど、これも全てゆいの為。
 ……後は二人に任せよう。

548: 2009/12/15(火) 22:15:43.90 ID:cVmK9VXk0
 小鳥の囀りが聞こえる。
 カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日は、私に穏やかな目覚めを齎した。

憂「……おはよ」

 枕元にはゆいが居る。
 私が起きたことに気がつくと、お日様みたいな明るい笑みで、私の顔に飛びついてきた。

憂「ふふふ、くすぐったいってば」

 私の劣情と、梓ちゃんの純粋な想い。
 二つを融合させた見事な作戦だった。
 梓ちゃんには演技と伝えていたが、私は本気でお姉ちゃんに欲情していたし、梓ちゃんは本気でそれを阻止しようとした。
 計算通りといえば計算通りで、ゆいも回復しているのだから、満点のデキだった筈なんだけど……。

 どうして私はこんなにも凹んでいるのか。

 お姉ちゃんと梓ちゃんが同じベッドでいちゃこらしてる間、私は一人、涙で枕を濡らした。
 これも日頃絶やすことのないセクハラへの報いか。

549: 2009/12/15(火) 22:16:24.81 ID:cVmK9VXk0
憂「……とにかく、まずは誤解を解かないとね」

 このままでは、いくらなんでも私が可哀想すぎる。
 着替えもせずに、カーディガンだけ羽織ってお姉ちゃんの部屋へ赴いた。

 胸を張って、堂々と扉を開、開、あ、ちくしょう、鍵かけられてる。
 だけど、鍵なんて私の前には無力よ。
 フフンと胸を張ってから、私は隠し持っていた合鍵で堂々と扉を開いた。

 なに、臆することはない。
 私は、決して間違ったことはしていないのだから。
 ゆいの為という大義名分を掲げて、私とはお姉ちゃんのベッドの前で仁王立ちする。

憂「お姉ちゃん!」

 私の声に、梓ちゃんが気まずそうな顔をして起き上がった。

唯「……」
梓「……」

憂「ごめんなさい!」
梓「ごめんなさい!」

 そして二人並んで土下座した。

552: 2009/12/15(火) 22:33:20.42 ID:cVmK9VXk0
憂「……という訳で、昨日のアレは全部ゆいの為だったの」

 実際にゆいが回復したというアドバンテージをそれとなく振りかざし、誠心誠意込めて説明する。

唯「……あずにゃんも、共犯だったってこと?」

梓「わ、私は最初は反対したんですよ? だけど、他に方法がないからって言われて仕方なく……」

 なっ、こやつ……、この期に及んで自分だけ罪を軽くするおつもりかっ!?

唯「じゃあ、先輩は私が守るって言ってくれたのも……」

梓「そ、それは……」

 俯いて赤くなる梓ちゃん。
 
梓「そこは台本にないです」

 台本なんて元々ねえよ!
 知らぬ間にしたたかになりやがった梓ちゃんを睨みつけると、頬をかきながら視線を逸らされた。

553: 2009/12/15(火) 22:35:17.56 ID:cVmK9VXk0
唯「……」

 一方で、やっぱり俯いて赤くなるお姉ちゃん。
 普段この程度のことでは照れないお姉ちゃんが照れるとは……。
 やはり相思相愛なのか。もう結婚しちゃえばいいのに。お姉ちゃんと梓ちゃんと私が同居する夢の空間。愛の巣。平沢家改め桃源郷。
 ――ういー、おはようのキスだよー。
 ――嗚呼っ、愛してる、お姉ちゃん!
 ――私もだよ、ういー。
 ――あーっ、唯先輩、私というものがありながら!
 ――こうすれば、間接キッスだよ、梓ちゃん。
 ――う、憂……。
 
 そんなバカな妄想に全力で頬を緩めていると、ゆいにぱちん! と叩かれた。
 我に返った私は、再びお姉ちゃんに頭を下げた。

憂「もうこんなことしないから。お願い、許してお姉ちゃん!」

唯「……ううん、いいよ。そういう事情があったのなら仕方ないもん」

梓「その事情を作り出した根源が、そもそも穢れてるんですけ――痛い痛い痛い」

 余計な事を口走る梓ちゃんの頬を、微笑みながらつねる。
 そんな様子を見て、お姉ちゃんが笑った。

唯「ただ、もっと早く教えて欲しかったかな。私にだけ事情教えてくれないなんて、そんなの寂しいよ」

憂「……ごめん」

 だけど、お姉ちゃんに全てを伝えてしまっていたら、私はあそこまで欲情していなかったし、梓ちゃんも本気でキレたりはしなかった。
 罪悪感こそあれど、私は自分の行いが間違っていたとは思わない。

554: 2009/12/15(火) 22:35:57.84 ID:cVmK9VXk0
 梓ちゃんの膝の上に座っていたゆいが、そこからぴょんと飛び降りた。
 そして私とお姉ちゃんのちょうど中間あたりまで歩いて、お姉ちゃんにこくりと頭を下げた。

唯「良かったね、ゆい。二人がゆいの為に頑張ってくれたおかげで、ゆいの病気は治ったんだよ?」

 そう言って、ゆいの癖っ毛を優しく撫でるお姉ちゃんに、ゆいは満面の笑みで答えた。

梓「唯先輩、あの、昨日のことは……」

唯「ん?」

梓「律先輩達、というか主にムギ先輩には黙っていて欲しいんですけど」

唯「え~、どうしようかな~?」

梓「な、なんでもしますから……」

唯「本当に? なんでも?」

梓「なんでも」

555: 2009/12/15(火) 22:37:27.31 ID:cVmK9VXk0
唯「猫耳」

梓「え?」

唯「今日一日、私の前では猫耳着用、語尾に『にゃあ』ってつけて」

梓「……」

唯「返事は?」

梓「わ、わかりました」

唯「わかってないじゃん!」

梓「にゃ、にゃあ……」

唯「ふふふ、おいで。あずにゃん」

梓「にゃあ」

 恐る恐る近付く梓ちゃんを、思い切り抱きしめるお姉ちゃん。
 この様子なら、二人共もう大丈夫だろう。
 私のおバカな発案で、気まずくなられては後味が悪い。
 お姉ちゃんにはまた怒られてしまうけれど、やっぱり二人には笑っていて欲しいから。


 後は、私の問題だ。

556: 2009/12/15(火) 22:48:42.23 ID:cVmK9VXk0
 テスト最終日。
 昨日の一件で、詰め込んだ知識がぶっ飛ばなくて良かった。

 そもそも憂があんなこと言い出さなければ私がこんな目にあう必要なんてなかったのに。
 あぁ、でも結果的にゆいは助かったし、唯先輩との仲も進行したように思うし、これはこれで良かったのか。
 憂は用事があるとかで、私にゆいを預けてどこかへ行ってしまった。
 一緒にいないといけないんじゃないんかい、『い』を気持ち多めに使って突っ込んでみたが、昨日のアレは想像以上に効果があったらしく、今は離れても問題ないということらしい。

 昨日のアレ。
 うーん。唯先輩、可愛かったなぁ……。

梓「……」

 だ、駄目よ梓、思い出しちゃ駄目!! あれは、そう、夢、全部夢だったんだ!
 やばい、顔が熱くなってきた。どうしよう、顔熱い。
 ちょ、やめ、やめてゆい。今頬っぺた突っつかないで! バレるから! 唯先輩にバレるから!!

 顔を真っ赤に染め上げて、猫耳を着用している挙句、人形に顔を突っつかれながら、それでも頬を隠そうと必氏な私は、傍から見たら相当に痛い子である。

唯「あずにゃん?」

梓「え、なんですか? ……にゃん」

唯「よしよし」

梓「猫扱いしないでください……にゃん」

律「ていうか、なんで猫耳つけてるんだ?」

澪「語尾もおかしいぞ」

557: 2009/12/15(火) 22:51:52.02 ID:cVmK9VXk0
梓「やむにやまれぬ事情がありまして、にゃん」

澪「別にいいんじゃないか? 私は可愛いと思うよ」

梓「あ、ありがとうございます……。そ、それより、ムギ先輩はどうしたんですか?」

 唯先輩のジト目に耐えられず、私は渋々にゃんを付け加えた。

律「用事があるから遅れるとか言ってたけど」

 ムギ先輩も用事か。珍しいこともあるものだ。

律「ま、とにかく久々の部活だ。今日は目一杯駄弁ろうぜ!」

澪「そうだな、目一杯だべr――練習だろそこは!」

唯「おー!」

澪「唯も乗っかるなー!」

 この光景も、なんだか懐かしい感じだ。
 テスト期間という僅かな間、離れていただけだというのに。
 唯先輩とはずっと一緒だった気もするけど、やっぱり心の底から落ち着ける場所は、ここなんだなって改めて思う。

 ゆいを視線で追う。
 机の上を元気に走り回っていた。
 勢い良くジャンプして、唯先輩に抱きついて、今度は律先輩の方へ走っていったり……。
 次は澪先輩のところに――と思ったらこっちへ走ってきたので、頭を撫でてやる。満面の笑みだ。
 この子の無垢な笑みを見せられると、どうしても釣られて笑顔になってしまう。
 ……良かったね、元気になって。

558: 2009/12/15(火) 22:54:31.78 ID:cVmK9VXk0
 しばらくして、ムギ先輩がやってきた。

紬「こんにちは」

唯「あ、遅いよムギちゃんー」

紬「ごめんなさい、遅れてしまって。あ、唯ちゃん。今日のおやつはケーキよ」

唯「本当!? うわーい!!」

律「子供かよ」

澪「そういう律もずいぶん嬉しそうに見えるけど」

律「ち、違う、私は全員揃ったことが嬉しいんだ」
澪「ほう」 唯「ほう」

律「や、やめろ、そんな目で見るな、あ、梓、お前も何かいってやれよ」
梓「ほう」

律「む、ムギー」
紬「ほう」

律「ゆ、ゆい。お前だけは私の味方だよな?」

 最終的に人形であるゆいに縋る律先輩。しかし、ゆいはつん、とそっぽを向いて唯先輩の腕にしがみついた。

律「くっ、わかったよー! 嬉しいよ、ケーキ食べれて嬉しいよ! これでいいんだろ!?」

 こんちくしょう、なんなんだよその団結力はー! と嘆きながら律先輩が机に突っ伏した。

559: 2009/12/15(火) 23:01:44.87 ID:cVmK9VXk0
律「……、なんか腹立つな」

 だがしかし、こんなことで諦める律先輩ではなかった。
 狙いを定めるスナイパーのように、澪先輩を見据える。
 この瞳を私は知っている。
 そう、憂が私を眼前にして、いかがわしいことを企んでいる時の瞳だ。

澪「な、なんだよ……」

律「みーおー」

澪「だから、なんだよ」

律「見てくれ! 指のささくれ剥いたら思いのほか深くまで剥けちゃって」

澪「ひぃっ!? み、見せるなー、そんなのー!!」

律「嘘だよん」

澪「……」

 律先輩の頭部に手刀が炸裂した。
 うん、いつもの光景だ。

紬「梓ちゃん、今度はあなたの番よ?」

梓「はい?」

560: 2009/12/15(火) 23:02:45.87 ID:cVmK9VXk0
紬「ほら、唯ちゃんに何か仕掛けないと」

梓「いえ、いいです。昨日や――あっ! いや、なんでもないです」

紬「なっ、なんですって!?」

 後の祭り。
 よりもよって、なんでこの人にバラしてんだ。

紬「なに? 昨日何があったの!? 唯ちゃん!?」

唯「うぇ!? 痛たたたた、落ち着いてムギちゃん、手首ぐねってなってる! 手首ぐねってなってる!」

梓「いや、あの、なんでもないですからね? 泊まりには行きましたけど、特に何もしてませんから」

紬「嗚呼、なんてこと。テスト期間中に二人は結ばれていたのね……、どうして私を立ち合わせてくれなかったの、どうして……っ!!」

 ガンッ!ガンッ! と何度も机に頭を打ち付けるムギ先輩。
 もはや人の話なんぞ聞いちゃいなかった。
 それを見たゆいがあたふたし始めるが、危ないから離れましょうね、と律先輩が引き離してくれた。


562: 2009/12/15(火) 23:03:50.53 ID:cVmK9VXk0
唯「あずにゃん」

梓「なんですか?」

唯「抱きついてもいい?」

梓「今まで許可なんかとったことないじゃないですか」

唯「なんとなく、そんな気分なの!」

梓「い、いいですよ、勿論」

唯「えへへ、あ~ず~にゃ~~ん」

梓「……」

 少しばかり、テンションがおかしくなってはいたけれど、軽音部は概ねいつも通りだった。
 何も変わらない、日常。
 平和で、皆が幸せな、あったかい日々が、ずっとずっと続いていくんだ。 

 先輩達が、卒業するまでは、ずっと……。


564: 2009/12/15(火) 23:09:43.09 ID:cVmK9VXk0
 二週間。
 久しぶりの部活を終えて、部屋でぼーっとカレンダーを眺めていた私は、あることに気がついた。
 今日はゆいが意思を持ったあの日からちょうど二週間後に当たるのだ。
 私と憂は、常にゆいの近くにいなくてはならないはずだが、今私は一人で自宅にいる。
 いいのか? 行かなくて?
 憂はもう大丈夫、と言った。けれど、こんな日々を繰り返した結果、ゆいは体調を崩したのではなかったか。
 なんだろう、何か落ち着かない。

梓「電話、してみようかな……」

 携帯電話を手に取り、呼び出し履歴から唯先輩の番号を呼び出して、そこで私の手は止まった。

梓「なんて言ったらいいんだろう」

 素直にゆいが心配で、とでも言えばいいのだろうか。
 いや、それなら唯先輩じゃなくて憂に連絡を取るのが普通だ。

梓「……って、違う違う」

 一緒に寝たってだけで、別にやましいことは何もしてないじゃないか。
 何を変に意識しているんだ。いつもみたいに普通に、軽いノリで電話したらいいんだよ。しっかりしろ梓!

梓「自然に、自然に……」

 発信ボタンに指をかけた瞬間、着信メロディが鳴った。

梓「わわっ!?」

 2、3回お手玉をした後で、慌てて携帯をキャッチする。
 落とさなかったことに安堵しつつ、液晶に表示された名前を見る。

565: 2009/12/15(火) 23:12:41.06 ID:cVmK9VXk0
梓「……は、はい」

唯『あずにゃーん?』

梓「どうしたんですか?」

唯『憂がね、ゆいが治った記念に皆で遊ぼうって言ってくれたんだけどさ』

梓「憂が?」

唯『うん。あずにゃん来れる?』

梓「も、勿論です。断る理由がありません」

唯『うわーい! それじゃ待ってるね、あずにゃん!』

梓「はい、それでは」

 電話を切った後、私は小さくガッツポーズをつくった。
 そしてクッションを抱きしめて、クッションに頬擦りしたところで気がついた。


 よくよく考えたら、二人きりでもなんでもねえ。


梓「まぁ、いっか」

 唯先輩に会えることに変わりはないわけだし。
 意気揚々とコートに袖を通し、私は自宅を後にした。

567: 2009/12/15(火) 23:28:12.12 ID:cVmK9VXk0
梓「こんばんはー」

憂「いらっしゃい、梓ちゃん」

 玄関には見覚えのある靴がいくつも並んでいた。
 憂の用意してくれたスリッパに履き替えてから、二人並んで二階へと向かう。

梓「先輩達も、来てるんだ?」

憂「うん」

梓「あ、そうだ」

憂「どうしたの?」

梓「ゆいって、もう大丈夫なんだよね?」

憂「うん、この通り」

 憂の手の平には、いつものようにゆいが座っていた。
 ゆいは私の顔を見つめて、びしっと敬礼した。
 なんでだよ。普通に挨拶しようよ。これ絶対教えたの唯先輩だろ。

568: 2009/12/15(火) 23:30:03.52 ID:cVmK9VXk0
梓「そっか、良かった。さっきカレンダー見たら、今日でちょうど二週間だったから……もしかして、って思っちゃって」

憂「大丈夫だよ。私達が、傍にいてあげれば、この子は大丈夫」
  
梓「うん、そうだね。ごめん、変なこと訊いた」 

憂「そういう自覚があるのなら罰としてこの場でスカートを脱ごうか」

梓「先に二階行ってるよ」

憂「……」

 概ね、いつも通りのやりとりだった。

570: 2009/12/15(火) 23:47:48.86 ID:cVmK9VXk0
 尽きぬ会話と美味しい料理。
 漫才のような掛け合いを見せる唯先輩と律先輩、それに乗っかるゆい。
 呆れながらも笑みをこぼす澪先輩と、必氏に突っ込みを入れる私。その光景を見て笑うムギ先輩と憂。
 テスト終わりの解放感からか、皆頗るテンションが高い。

梓「唯せんぱーーーい!」

唯「んぉ? んおおおお!? あずにゃんの方からまさかのハグ!?」

律「うぉい、テンション高いな梓!」

梓「期末終わりましたからね、解放感ってやつです!」

紬「それじゃ、みんなでコレやりましょ?」

唯「そ、それは!」

律「で、伝説の……!」

唯「……」

律「……」

梓「ボケを譲り合わないでくださいよ!」

澪「ほら、憂ちゃんも一緒にやろう」

憂「はい、それじゃあ食器片付けてきますね」

571: 2009/12/15(火) 23:49:39.15 ID:cVmK9VXk0
唯「私この前これでゆいに負けちゃってさー」

澪「へぇ、ゆいちゃん強いんだな」

 その言葉に、えっへん、と胸を張るゆい。

律「言ってなさい、勝つのは私だ」

紬「最下位の人には罰ゲームでもやってもらおうかしら」

梓「ろくな思い出が無いんでやめてください」

紬「トランプもあるわよ?」

梓「……絵札見せてもらっていいですか?」

紬「どうぞ」

梓「……」

唯「あずにゃん、どしたの?」

梓「……なんでもないです。トランプはまた今度にしましょう」

紬「そんなぁ~」

 至極残念そうなムギ先輩を尻目に、超・人生すごろくの幕が開けた。
 場には笑いが絶えず、私の瞳には、そこに居る誰もが幸せそうに映った。


572: 2009/12/15(火) 23:57:04.53 ID:cVmK9VXk0
 ――。

梓「自分の番が終わる度に、速攻炬燵行きとは、さすがですね」
唯「だって寒いもんー。ほれほれ、あずにゃんも丸くなりなよー」
梓「いや、猫じゃないんですから」
唯「……」
梓「……」
唯「あずにゃん」
梓「なんでしょう?」
唯「今日、私の前では猫耳で語尾に『にゃん』じゃなかったっけ」
梓「……思い出さなくてよかったのに」
唯「あーーっ! 覚えたのに黙ってたの!?」
梓「忘れる方が悪いんですにゃん」
紬「梓ちゃんの番よー」
梓「はーい!」
唯「逃げるなー!」


紬「梓ちゃんがこのマスで3以上を出したらトランプしましょう」
梓「どんだけやりたいんですかトランプ」

573: 2009/12/16(水) 00:00:58.13 ID:tXL145ZX0
 ――。

澪「いや、あのな、憂ちゃん」
憂「なんですか?」
澪「唯のことが好きなのは分かるが、その……私達の目の前でそういうことはやめてほしいというかなんというか」
憂「そういうこと?」
澪「い、いや、だから……」
律「なんだよ澪、普通に言ったらいいじゃんか」
澪「い、言えるか!!」
梓「憂っ、いいから離れて!」
憂「ああん、梓ちゃん酷い!」
律「ていうか、なんで唯はそんだけされてきょとんとしてられるんだよ」
唯「いつものことだよ?」
「「「平沢家すげえ!?」」」

紬「あっ、ほら、ゆいちゃんが手品師に転職したわ! 記念にトランプしましょう!」
梓「しませんから!」

574: 2009/12/16(水) 00:01:48.06 ID:tXL145ZX0
 ――。

律「好きなプレイヤーからサイの目*500円もらえる」
唯「はてさて、ゆいは誰を選ぶのでしょうかっ」
憂「ほら。ゆい、搾取したい憎き相手の前に移動して」
梓「憎きとかつけなくていいから」
澪「順位からしたら2位の憂ちゃんが妥当だよな」
憂「え?」
梓「おめでとう、憂」
憂「ゆい、ちょっと落ち着こうか。好きな人の所に行けって言ったんじゃないんだよ? 搾取したい人の所に」
律「はっはっはー、諦めろ、憂ちゃん!」
憂「うわああん、慰めて、お姉ちゃん!」
唯「よしよし、良い子良い――ひゃっ!? ちょっ、憂、やっ、くすぐったいってば――」
梓「やめんか!」
紬「やめなくていいわっ!」
梓「痛っ!? ちょ、ムギ先輩なにを――!」
紬「トランプ、しましょ?」
梓「しねえよ!?」

576: 2009/12/16(水) 00:02:32.87 ID:tXL145ZX0
 宴も程よくたけなわ。
 遊びつかれて炬燵でだれる唯先輩と、その真似をして隣に転がるムギ先輩。
 律先輩はマンガを読み始め、澪先輩は詩を書いていた。

紬「そろそろ、帰らなくちゃね」

唯「えー、もう帰っちゃうの?」

紬「ええ、夜半から降るみたいだし」

澪「そうだな。濡れたくはないし、律、私達もそろそろ帰ろう」

律「えー、まだ平気だよー」

澪「あんまり遅くまでいると、憂ちゃんに迷惑だろ」

唯「澪ちゃん、私もいるんだけど」

澪「唯は何もしてないだろう」

唯「し、してるよー! お風呂掃除とか、憂が二階掃除してるとき邪魔にならないように自分の部屋に移動したりとか」

澪「後ろのは全くしてないと言うん……ああ、分かった、分かったからそんな仔犬みたいな目で縋りつくな! りつーー!」

律「うん。そいじゃ、あと10分……」

澪「寝起きかよ! ……あーいいよ、それじゃ私はムギと先に帰るからな!」

律「方向違うじゃん」

577: 2009/12/16(水) 00:03:22.97 ID:cVmK9VXk0
澪「う……。と、途中まで、一緒に帰るもん」

紬「りっちゃん、ダメよ。澪ちゃんを一人で帰すつもり?」

律「うん、だからあと10分だってば」

紬「りっちゃん」

律「……だー、はいはい。帰るよ、帰りますとも」

紬「うふふ」

澪「梓はどうするんだ?」

梓「わ、私はもう少しだけ。用事があるので……」

律「ふ~ん」

梓「したり顔やめてください、別になにもないですから」

律「ふふふ。ま、がんばれよ」

唯「あ、玄関まで送るよー」

 玄関まで先輩達を見送る。
 外の空気は室内とは比べ物にならないくらいに冷え込んでいた。

578: 2009/12/16(水) 00:04:16.60 ID:tXL145ZX0
唯「うわ、外寒いねー」

澪「ムギ、降るって言ってたけど、もしかして雪のことか?」

紬「どうかしら? 天気予報では雨だったけれど」

憂「これだけ寒かったら雪になるかもしれないですね」

梓「空気を読んでクリスマスにも降ってくれればいいんですけど」

律「おーおー、乙女だねぇ」

梓「うるさいですよ」

律「なんだよ、褒めてんのに」

梓「からかわれたようにしか聞こえません!」

律「あはは、悪かった悪かった。さて、それじゃ帰るかー」

澪「うん。唯、憂ちゃん、梓、それにゆいちゃんも、またな」
紬「おやすみなさい」

唯「うん、ばいばーい」
憂「はい、また来てくださいね」
梓「おやすみなさい」

 頭の上で大きく手を振る唯先輩とゆい。肩の辺りで小さく手を振る憂と私。
 視界に映る先輩達はどんどん小さくなって行き、やがて見えなくなった。

580: 2009/12/16(水) 00:05:38.68 ID:tXL145ZX0
唯「憂、どうしたの?」

憂「ううん、なんとなく。雪降ったらいいなぁーなんて」

唯「そうだね、雪合戦とかできるもんね!」

梓「子供じゃないですか」

唯「絶対楽しいよ~」

梓「……まぁ、唯先輩がやりたいって言うなら付き合いますけどね」

唯「えへへ、ありがと~」

 その眩しい笑顔を直視できずに、私は唯先輩から目を逸らすようにして空を仰ぐ。
 見上げた空は、厚い雲に覆われて、月も星も見えなかった。
 ……この様子なら、本当に降るかもしれないな。
 降ってたら泊めてもらおう。うん、それがいい。

唯「うぅ~、寒い~。そろそろ戻ろうよ」

梓「そうですね」

憂「あ、お姉ちゃん達は先に戻ってて。私はもう少し、ここにいるから」

唯「……憂?」

581: 2009/12/16(水) 00:06:36.37 ID:tXL145ZX0
梓「……」

唯「わかった。私、先に戻ってるね」

憂「うん」

 言って、唯先輩は家の中へと戻っていった。

梓「……憂」

憂「なに? 梓ちゃん」

梓「何か、隠してるよね」

憂「ポケットの中のお姉ちゃんの下着のこと?」

梓「茶化さないで」

憂「……」

梓「……」

憂「ねえ、梓ちゃん」





憂「ゆいは、さ……。ゆいは……今日までの二週間、幸せだったのかな?」

630: 2009/12/16(水) 20:10:18.99 ID:tXL145ZX0
梓「ちょ、ちょっと待って。それってどういう……」

憂「梓ちゃんが考えてる通りだよ。ゆいは、――もうすぐ消える」

梓「う、嘘……。だって、ゆいは元気に手を振ってたし、今だって……」

 憂の肩に座っていたゆいは、私の視線に気がつくと、私に向けてにっこり微笑んで、


 ――力なく落下した。


梓「ゆ、ゆい!?」

 落下するゆいを、憂は手の平で優しく受けとめる。

憂「時間、みたいだね」

梓「二週間。……やっぱり、そうなんだ」

憂「ドールの中に魂が存在できる期間はキッカリ二週間。言い換えれば、これがゆいの寿命」

631: 2009/12/16(水) 20:11:02.43 ID:tXL145ZX0
梓「いつから、知ってたの?」

憂「紬さんからはっきり告げられたのは昨日。だけど本当は、初めて宣告された時から気付いていたのかもしれない。救う方法なんか無かったって……」

 ムギ先輩の口から事例が無いことを聞かされた段階で覚悟しなければいけないことだった。
 だけど、私……私達は、ゆいの病気に問題を摩り替えていた。
 ゆいが回復さえすれば、それで全てが解決だって、ゆいは消えなくて済むんだって、勝手に思い込んでいた。

 ムギ先輩は、最初から全てを知っていたんだ。
 知っていた上で、それを私達に悟られぬように振舞った。
 ……あの時。
 諦めたくないなんて綺麗事を並べて、僅かな可能性にでも縋ろうとする私に、真実を告げることができなかったんだと思う。
 あの人は、誰よりも優しい人だから。
 それは、どれだけ辛いことなんだろう?
 大切な人達を騙し続けることは、どれだけ悲しいことなんだろう?
 私には分からなかった。

635: 2009/12/16(水) 20:37:23.36 ID:tXL145ZX0
梓「どうして、先輩達に言ってあげなかったの? 唯先輩にまで隠して……」

 手の上のゆいを見つめながら、憂はゆっくりと口を開いた。
 ゆいの目は、もう殆ど閉じてしまっている。

憂「私がね、ゆいの立場だったらどう思うかなって、考えたんだ」

梓「……」

憂「別れを惜しんで、悲しんで。そういうのって辛いと思うの。私だったら、最後は楽しい思い出を一杯作って、皆と笑顔でお別れしたいから」

梓「皆を集めたのは最後の思い出作りって訳? ゆいを悲しませたくないから? 憂自信が辛くて辛くて仕方ないのに、ずっと我慢してたって言うの!?」

 憂の言いたい事は私にだって分かってる。
 病気のことがなかったら、もっとゆいに沢山の思い出を作ってあげれたかもしれない。
 昨日、あんな力押しの作戦を選んだのも、残された一日を、思う存分楽しませてあげたいが為。
 それなのに憂が顔を曇らせていたんじゃ、ゆいは心から楽しむことなんてできないから。

 だけど、それじゃ……それじゃあ、憂が苦しいままじゃないか。

638: 2009/12/16(水) 20:52:22.11 ID:tXL145ZX0
憂「ゆいの幸せが、私の一番の幸せなんだよ、梓ちゃん」

梓「違うよ……、憂は何もわかってない。……目の前で憂が悲しんでるんだよ? ゆいが悲しくないはずないじゃない……っ!」

憂「わかってないのは梓ちゃんだよ。だって、私はゆいの為だったら笑っていられるから。悲しんでなんか……いないから」

梓「嘘だよ……、だったら……だったらどうして泣いてるの!?」

憂「……泣いてる? 涙なんか出てないよ?」

梓「さっきからずっと泣いてるじゃない!! 悲しいよ、別れたくないよって!! 憂の心はもう、ぼろぼろじゃないかっ!!」

憂「……ダメだよ、梓ちゃん。梓ちゃんが泣いてちゃ、笑ってお別れできない」

梓「わ、私は……悲しいから、泣いてるんだよ。……ゆいと別れたくないから……、泣いてるんだよ……!!」

憂「……ごめん、ごめんね、梓ちゃん。……だけど私は、大丈夫だから」

梓「どう、して……。私にくらい、話してくれたって……、なんでっ、一人で、抱え込んで……」

 胸が締め付けられるみたいに苦しい。
 涙と鼻水で、顔はぐちゃぐちゃだった。
 言葉が、浮かばない訳じゃない。
 嗚咽する声が邪魔をして、その先が伝えられなかった。

憂「梓ちゃんは素直すぎるから。これでお別れって知ってしまったら、きっとさっきみたいに素敵な時間は過ごせなかった」

梓「……そう、かも……しれ、ないけどっ!」

憂「……お願い、ゆいと二人だけにしてほしいの」

640: 2009/12/16(水) 20:56:10.36 ID:tXL145ZX0
 閉じたはずの家の扉が、ゆっくりと開いた。
 内側から扉を開けれる人物なんて、一人しかいなかった。
 随分、泣き叫んじゃったからなぁ……。
 こんな、顔、こんな、ぐちゃぐちゃの顔、あなたには、見せたくなかったのに……。

梓「……唯、先輩」

唯「ごめんね、あずにゃんの声、大きかったから。立ち聞きするつもりはなかったんだ」

梓「あ……」

 ……だけど、先輩は。

唯「間違ってないよ、あずにゃんは。何も、間違ってない」

 いつもみたいに、優しく抱きしめてくれた。
 凍えきった自分の心が、融けていくみたいだった。
 言い様の無い苦しみに荒んだ心が、癒されていくみたいだった。
 ――あったかい。

唯「だけどね」

梓「……」

唯「今は、憂の気持ちを汲んであげて」

梓「で、でも……」

641: 2009/12/16(水) 20:57:36.67 ID:tXL145ZX0
唯「私も、悲しいお別れがいけないことだなんて思わない」

梓「だったらどうして……!」

唯「憂だって本当は泣きたいの。泣きたくて泣きたくて仕方ない。でも泣けないんだよ……ゆいが、泣けないから」

梓「……っ!」

 物を食べたり、眠ったり、ゆいはどこまでも人間に近い存在だった。
 だから、泣くこともできると思ってた。
 それはきっと憂も同じだったから、あの子は一度だけ、ゆいの前で涙を見せた。
 だけど、ゆいはそれを見て泣かなかった。泣けなかった。
 その時、気付いてしまったんだろう。
 ゆいは、笑ったり悲しんだりの感情表現はできても、涙はでないんだって。
 泣きたくても泣けない苦しみ。
 ゆいが、泣けないのに、自分だけが泣く訳にはいかない。
 だから、憂は……。

唯「それにね、あずにゃん」

 我が子を慈しむかのような、穏やかな口調だった。

唯「憂は、ゆいのお母さんなんだよ」

梓「……」

唯「憂は、ゆいを不安にさせたくないの。『お母さんは大丈夫だから、心配しないで行ってらっしゃい』って、優しく送り出してあげたいんだよ」

梓「憂が……、そんなの、憂が可哀想じゃ、ないですか……」

642: 2009/12/16(水) 20:58:18.02 ID:tXL145ZX0
唯「言ってたじゃない。ゆいの幸せが、あの子の幸せなんだって」

 そう答えた唯先輩の声は、震えていた。
 バカみたいだ。
 私ひとりで、子供みたいに感情を爆発させて。
 憂や唯先輩の方が、私よりもずっとずっと悲しいはずなのに。
 それでも誰かの為に自分の感情を押し頃しているなんて……。

梓「う、うぁぁぁあああああっ!!」

唯「……ごめんね、あずにゃん」

 唯先輩の胸に必氏に縋りついて、私は一人、むせび泣く。


 どうしてこんなに悲しいのか。


 理由はすぐに分かった。


 ゆいとの別れに自分を重ねてしまったから――。


 三月になったら、先輩達は居なくなる。
 私は、一人取り残されて――。

 そんなの、嫌だ。

 唯先輩、あなたと離れたくない――。

643: 2009/12/16(水) 21:00:03.01 ID:tXL145ZX0
憂「ゆい、寒くない? 大丈夫?」

 手の上のゆいは、ゆっくりと静かに頷く。

憂「ごめんね、もっと早く治してあげられていたら……」

 違う。
 こんなことが言いたいんじゃない。
 最後なんだ、これが最後なんだぞ……。
 伝えたいことは沢山あったはずなのに。

憂「ゆい……」

 視界がぼやけるのだろう。
 ゆいは必氏に両目をこすって、私の顔をその小さな瞳に映し出そうとしていた。
 その行動は、溢れ出る涙を必氏に拭っているように思えて……ゆいは涙なんか、流せないのに。

 月明かりは届かない。
 今にも泣き出しそうな悲愁の空は、どこか私に似ていた。
 やがて、黒一色に塗りつぶされたその空間で、ゆいの周りだけが淡く煌き始めた。

 それでもう、お別れなんだなって、分かった。

644: 2009/12/16(水) 21:01:54.14 ID:tXL145ZX0
 僅かに震える小さな体を、私はぎゅっと抱きしめる。
 私は、こんなにもゆいのことを愛しているんだよって、伝えてあげたい。
 体温なんかなくたって、ゆいのぬくもりは私に届いているのだから。
 言葉なんかなくたって、私の想いはきっとゆいに届いてる。


 ゆいは、最後に笑ってくれた。


 二週間なんて、短すぎるよ……。
 もっと一緒に居たかった。
 もっと遊んであげたかった。
 お姉ちゃんとゆいと私で、ずっと一緒に……。

 『う』

 『い』

憂「!!」

645: 2009/12/16(水) 21:02:37.65 ID:tXL145ZX0
 場は変わらず静寂に支配されていた。
 けれど確かに聞こえたその声に。


 『ありがと……うい』


 優しい雫が、頬を濡らした。
 限界を迎えた灰色の空が、一滴、また一滴と、大きな雨粒を零していく。

 ――ゆいが、静かに目を閉じる。

 不思議と、心は温かかった。

 私は空を見上げて、目を瞑る。

 ありがとう。

 私は、いつまでもあなたのことを愛しているから……。

 ばいばい……、ゆい。

 ずっとずっと、忘れない……。

648: 2009/12/16(水) 21:04:26.41 ID:tXL145ZX0
 ゆっくり近付くその気配に、私は静かに目を開けた。

 怒られるかなって、思った。

 嘘、ついちゃったもんね。

 また、隠し事しちゃったもんね。

 だけど、この人は、私が何を考えていたかなんて、本当はとっくにお見通しで。

 普段いい加減で、頼りにならないのに。

 なんで、こんな時だけ……。

憂「おねえ、ちゃん……」

唯「もう、我慢しなくて良いんだよ、憂」

憂「……っ! うっ、うあっ、うああああああああああっ!」

656: 2009/12/16(水) 21:24:43.48 ID:tXL145ZX0
 降りしきっていた雨は朝方には上がり、朝露に反射する光が澄んだ空気を透かしてキラキラ輝いていた。
 結局気温は下がりきらず、雨が雪に変わる事は無かった。
 泣き疲れて、そのまま寝ちゃったんだな……、私。

梓「憂、起きた?」

憂「うん。梓ちゃん、私結局答え聞いてないんだけど」

梓「なんの?」

憂「愛の告白」

梓「されてないよ! されたとしても断固ノーだよ!?」

憂「さすがの私も今のは傷ついた」

梓「あ、その……、ごめん……」

憂「筈もなく、私は今日もセクハラに及ぶのでした」

梓「うぉぉい! 唯先輩にそれ以上くっつくな!!」

憂「と言うわけで、おはよう」

梓「おはよ。朝一の会話にしては濃厚すぎると思うな……」

657: 2009/12/16(水) 21:25:31.80 ID:tXL145ZX0
憂「大丈夫。これくらいじゃ、お姉ちゃん起きないから」

梓「変なことしなかったでしょうね?」

憂「しないよ。傷心しきって尚変態行為に及ぶとか、私は万年発情期か」

梓「……憂、一晩中泣いてたもんねー」

憂「梓ちゃんだって負けないくらいの大号泣だったじゃない」

梓「うぐ、……まぁ、ここは、痛み分けってことでひとつ」

憂「……」

梓「寝顔は子供みたいなのにね」

憂「お姉ちゃんのこと?」

梓「普段の振る舞いだって、憂の方がよっぽどしっかりしてるし」

憂「しっかりした変態ってどうなの?」

梓「最近、変態を自覚しだしたよね。どうって訊かれても困るけど」

659: 2009/12/16(水) 21:44:13.39 ID:tXL145ZX0
憂「格好良いでしょ、ああいうときのお姉ちゃん」

梓「……うん」

憂「普段とのギャップにグッとくるよね」

梓「……うん」

憂「セクハラしたくなるよね」

梓「……う――ちげえ!! 何言わそうとしてんの!」

憂「梓ちゃん、お姉ちゃんのこと好き?」

梓「……知ってるくせに」

憂「梓ちゃんの口から直接訊きたいんだよ」

梓「……好き」

憂「梓ちゃんが想っている以上に、私はお姉ちゃんのこと好きだから」

梓「なにそれ」

660: 2009/12/16(水) 21:44:54.28 ID:tXL145ZX0
憂「梓ちゃんなら許す、とか思ってたけどやっぱり許さない」

梓「はぁ?」

憂「お姉ちゃんは私だけのもの」

梓「シスコン」

憂「うるさい貧乳」

梓「なっ!? わ、私はこれから大きくなるの!」

憂「ふふふ……」

梓「ふ、ふふふ……」

661: 2009/12/16(水) 21:45:53.39 ID:tXL145ZX0
梓「それで、答えってなんのこと?」

憂「訊いたでしょ? ゆいは幸せだったのかな、って」

梓「なんだ、そんなこと」

憂「……そんなことって」

梓「決まってるじゃない。幸せだったんだよ。あんなに愛されてたんだもん」

憂「……そうなの、かな?」

梓「じゃあ訊くけど、憂はゆいと過ごして幸せだった?」

憂「あ、当たり前だよ、そんなの!」

梓「ほらね。ゆいのお母さんである憂が幸せだったんだから、ゆいも幸せだったに決まってるでしょ」

憂「……」

梓「憂が、ゆいの幸せが自分の幸せだ、って言ってたように、ゆいにとってもそうなんだよ。だから……」

憂「梓ちゃん」

梓「な、なに?」

憂「やっぱり愛してる」

梓「私は別に愛してないからーー! やめろ、くっつくなー!!」

664: 2009/12/16(水) 21:53:31.64 ID:tXL145ZX0
憂「じゃあお姉ちゃんに」

梓「それもダメー!!」

唯「ん……」

梓「!」
憂「!」

梓「(ほら、起きちゃった)」

憂「(梓ちゃんの声の大きさが原因だと思うけど)」

唯「うい~、ゆい~、あずにゃ……」

梓「……」

憂「……」

唯「好き~……」

憂「!」
梓「!」

憂「梓ちゃん、なんで顔赤くしてるの?」

梓「それはこっちの台詞だよ! ていうか、憂が照れるとか、変態の癖に初心とか、ふ、ふふ……」

憂「! 梓ちゃんは私を怒らせた」

665: 2009/12/16(水) 21:55:03.62 ID:tXL145ZX0
梓「じょ、冗談だってば、ほんのお茶目な――うわあっ!? ちょ、傷心はどこいったのよ、変態行為はしないんじゃ……」

憂「ごめんなさいは?」

梓「ご、ごめんなさい」

憂「上だけで許してあげる」

梓「嫌ぁぁあああっ!」

唯「ん……、あずにゃん?」

梓「お、おはようございます唯先輩」


 もう、悲しくはなかった。
 だって、ゆいは私の中にずっと生き続けるから。

 もう、寂しくはなかった。
 だって、私の周りにはこんなにも素敵な人達がいるのだから。


憂「おはようお姉ちゃん! 愛してる!!」


 爽やかな朝、爽やかな笑顔を振りまいて、今日も私はセクハラに及ぶ。



 ~おしまい~

667: 2009/12/16(水) 21:58:31.37 ID:HE4zvoJ0O

673: 2009/12/16(水) 22:05:08.27 ID:tXL145ZX0
終わったwwwww

保守・支援部隊と読んでくれた方に最大限の感謝を
長引かせた割に最後微妙だよ!って方にはゴメンナサイ
だけど個人的には完結できたので満足してたり

ではでは、お疲れ様でした

678: 2009/12/16(水) 22:17:27.39 ID:yct4fntPO

とても面白かったです

引用元: 唯「く」 梓「ぐ」 憂「つ」