1: ◆m03zzdT6fs 2016/04/10(日) 21:06:05.92 ID:qn31rgISo
モバマス、鷺沢文香さんのSSです。 公式設定等無視の勝手設定、P視点に偏重していますので鷺沢さんのSSというと語弊があるかもしれません。
もし以前のものをご存知の方がおられましたら、内容が変わっている部分があります。目を瞑っていただけると幸いです。
もし以前のものをご存知の方がおられましたら、内容が変わっている部分があります。目を瞑っていただけると幸いです。
2: 2016/04/10(日) 21:07:08.76 ID:qn31rgISo
――僕は、ある“夢”を見た。とても荒唐無稽で、どだいあり得ない”夢”。そう、自分の好きなことだけを成して生きていく、幸せな人生を。
それがどれだけ困難な道のりで、どれだけ大変な選択で、どれだけ限られた人間しか成しえないことだと、理解できないはずもない。その上で僕は”夢”を見たのだ。
だから僕は選んだ。好きなことだけを成していくだけの人生を。おかげで大学にも行かなかった。専門学校にも行かなかった。高校さえ、行かなかった。
世間的に見れば、中卒なんていうどうしようもない最終学歴。馬鹿みたいだと、自分でも思う。でも僕は、この人生を悔いてなどいない。
何故?
そんなの簡単だ。馬鹿みたいに、ただ好きなことを追っていられる。それが幸せでないはずがないのだから。
僕は自分の好きなことをただやり続けるだけの人間。”好きなこと”をやり続ける意欲と、”好きなこと”をやり続ける根性があっただけの人間。そして”好きなこと”の数が多かった人間。
だから僕は、全ての時間をよりたくさんの”好きなこと”に注ぎ込もうと思った。二兎どころじゃあない。三兎、四兎、五兎……。捕まえられる限りたくさんの兎を捕まえようとしている、大馬鹿者。
何故?
そんなの簡単だ。だって、一つの好きなことを追って、それが成し得なかったら? 嫌だ、そんなのは。ほかにもやりたいことがあったのに。僕という人生に、何一つ価値がなかった。そんなのは、とても嫌だ。
だからたくさんの”兎”を追う。どれか一つでも成し得るために。欲を言えば、全てを成し得るために。気概だけとはいえ、そのつもりでいる。
それがどれだけ困難な道のりで、どれだけ大変な選択で、どれだけ限られた人間しか成しえないことだと、理解できないはずもない。その上で僕は”夢”を見たのだ。
だから僕は選んだ。好きなことだけを成していくだけの人生を。おかげで大学にも行かなかった。専門学校にも行かなかった。高校さえ、行かなかった。
世間的に見れば、中卒なんていうどうしようもない最終学歴。馬鹿みたいだと、自分でも思う。でも僕は、この人生を悔いてなどいない。
何故?
そんなの簡単だ。馬鹿みたいに、ただ好きなことを追っていられる。それが幸せでないはずがないのだから。
僕は自分の好きなことをただやり続けるだけの人間。”好きなこと”をやり続ける意欲と、”好きなこと”をやり続ける根性があっただけの人間。そして”好きなこと”の数が多かった人間。
だから僕は、全ての時間をよりたくさんの”好きなこと”に注ぎ込もうと思った。二兎どころじゃあない。三兎、四兎、五兎……。捕まえられる限りたくさんの兎を捕まえようとしている、大馬鹿者。
何故?
そんなの簡単だ。だって、一つの好きなことを追って、それが成し得なかったら? 嫌だ、そんなのは。ほかにもやりたいことがあったのに。僕という人生に、何一つ価値がなかった。そんなのは、とても嫌だ。
だからたくさんの”兎”を追う。どれか一つでも成し得るために。欲を言えば、全てを成し得るために。気概だけとはいえ、そのつもりでいる。
3: 2016/04/10(日) 21:07:45.30 ID:qn31rgISo
『二兎を追う者は、一兎をも得ず』とはよく言った物で。旧い人たちはきっと、一人の人間が一生でいくつもの事を成し得るわけではない、と戒めたかったのだろう。
だから、誰も彼もが出来るわけことではないからこそ、分を弁えて行動するという格言を残した。
でも二兎を追って、そして捕まえられた人は世の中にいる。
例えば、オリンピックのメダルを取りながら、大学の教授になっている人がいる。天才的な実業家で、同時に研究者としても一流の人もいる。
一年で何億って金を稼ぐスポーツ選手でありながら、一年で何億って金を稼ぐファッションブランドを立ち上げている人もいる。歴史を見れば国を救った軍人でありながら、国を救った政治家だった人もいるだろう。
僕がそういった、ごくごく選ばれた人になれるとは思わない。社会的に見れば、ただの放蕩者だと思う。
それでも、僕は”夢”を見る。
――何故?
そんなの簡単だ。”好き”だから。理由がなんてそれだけしかない。それだけしかいらない。”夢”という名の強欲な願いのために、僕は多分、いろいろ捨てたのだ。僕にはそのつもりがなくとも、他の人にはそう見えるぐらいには。
だから、誰も彼もが出来るわけことではないからこそ、分を弁えて行動するという格言を残した。
でも二兎を追って、そして捕まえられた人は世の中にいる。
例えば、オリンピックのメダルを取りながら、大学の教授になっている人がいる。天才的な実業家で、同時に研究者としても一流の人もいる。
一年で何億って金を稼ぐスポーツ選手でありながら、一年で何億って金を稼ぐファッションブランドを立ち上げている人もいる。歴史を見れば国を救った軍人でありながら、国を救った政治家だった人もいるだろう。
僕がそういった、ごくごく選ばれた人になれるとは思わない。社会的に見れば、ただの放蕩者だと思う。
それでも、僕は”夢”を見る。
――何故?
そんなの簡単だ。”好き”だから。理由がなんてそれだけしかない。それだけしかいらない。”夢”という名の強欲な願いのために、僕は多分、いろいろ捨てたのだ。僕にはそのつもりがなくとも、他の人にはそう見えるぐらいには。
4: 2016/04/10(日) 21:08:29.22 ID:qn31rgISo
だから、少なくとも僕は普通の人間じゃあない。もちろん悪い意味で、だ。普通の人なら”一兎”だけを追う。だって”二兎”を追っても格言の通りになるだけだから。それが普通のことだから。
なのに僕は”二兎”を選んだ。そうだ、本当の馬鹿正直みたいに”一兎”を追えばよかったのに、ひねくれたただの馬鹿となって僕は”二兎”……いや、見える限りの”兎”を追っている。
ああそうとも、知っているよ。人生は有限だ。だから”一兎”を追うべきだ。普通の人と比べて、”一兎”あたりの追える時間は少ないのだから。
でもこれでいい。この人生が、幸せでないはずがない。好きなことをずっとしていられる人生が、幸せなものでないはずがない。
そうさ。少なくとも人生が終わるその時に。
『もっと好きなことが出来たかもしれない』
なんて、思わないですむだろうから。
「……それでも。少しぐらい、ほんの少しくらいは、体を気遣っても」
うん、それは正しい。正論だと思う。ぐうの音も出ないくらいに。何一つ言い返すことができないぐらいに。
だから僕は言い返さない。言い返すことなんてできないし、する必要もない。喋っている暇も休んでいる暇も、きっとない。こんな人生を選んだ僕に、それが赦されるはずがない。
言っただろう? 人生は有限なんだ。だったらなおの事、時間を無駄にはできない。その結果、例え短い命になるとしても、それでいい。今日を生きるために、全力を尽くした証拠だから。
今日という日を、ただひたすらに限界まで生き抜く。そんな戦国時代のサムライみたいな考え方、今の世の中じゃあ流行らないけれどね。
なのに僕は”二兎”を選んだ。そうだ、本当の馬鹿正直みたいに”一兎”を追えばよかったのに、ひねくれたただの馬鹿となって僕は”二兎”……いや、見える限りの”兎”を追っている。
ああそうとも、知っているよ。人生は有限だ。だから”一兎”を追うべきだ。普通の人と比べて、”一兎”あたりの追える時間は少ないのだから。
でもこれでいい。この人生が、幸せでないはずがない。好きなことをずっとしていられる人生が、幸せなものでないはずがない。
そうさ。少なくとも人生が終わるその時に。
『もっと好きなことが出来たかもしれない』
なんて、思わないですむだろうから。
「……それでも。少しぐらい、ほんの少しくらいは、体を気遣っても」
うん、それは正しい。正論だと思う。ぐうの音も出ないくらいに。何一つ言い返すことができないぐらいに。
だから僕は言い返さない。言い返すことなんてできないし、する必要もない。喋っている暇も休んでいる暇も、きっとない。こんな人生を選んだ僕に、それが赦されるはずがない。
言っただろう? 人生は有限なんだ。だったらなおの事、時間を無駄にはできない。その結果、例え短い命になるとしても、それでいい。今日を生きるために、全力を尽くした証拠だから。
今日という日を、ただひたすらに限界まで生き抜く。そんな戦国時代のサムライみたいな考え方、今の世の中じゃあ流行らないけれどね。
5: 2016/04/10(日) 21:08:55.55 ID:qn31rgISo
……はは、僕の言っていること、わからないよね。
じゃあ人生を読書に例えてみよう。これならきっと、分かってもらえると思う。
きっと君は、一冊の本を一章ずつ。あるいはひと段落ずつ。ちょっとずつ読み進めては、栞を挟んでいく。そして一生をかけてその本を読みつくす。そんな人生だと思う。
今日はここまで読んだから、また明日。明日はここまで読もう。きっと、それが普通の人の人生なんだって思うよ。
人生という名の本を、ゆっくりゆっくり読み進めていく。慌てず、騒がず、じっくりと一文字を吟味し、堪能して。その先にある見たこともない文字を咀嚼して、自分のものにして。
それで……”栞”を挟む。そう、”栞”。誰も彼もが持ち合わせている人生の休憩時間。
けれど、僕は違う。僕は本の先へと行きたい。本の全てを早く、読み切りたい。『次の本』を読みたくてたまらないから。じっくりなんて、読んでいられないから。読みたい本がたくさんあるんだ、僕には。
だから僕は、ただひたすらに読み進める。この身が果てるその瞬間まで、ただただ、ひたすらに。何かの拍子に、本が読めなくなってしまうかもしれないから。
僕の本に”栞”は要らない。休憩なんて、している暇はない。
僕は――”二兎追い人”だから。
じゃあ人生を読書に例えてみよう。これならきっと、分かってもらえると思う。
きっと君は、一冊の本を一章ずつ。あるいはひと段落ずつ。ちょっとずつ読み進めては、栞を挟んでいく。そして一生をかけてその本を読みつくす。そんな人生だと思う。
今日はここまで読んだから、また明日。明日はここまで読もう。きっと、それが普通の人の人生なんだって思うよ。
人生という名の本を、ゆっくりゆっくり読み進めていく。慌てず、騒がず、じっくりと一文字を吟味し、堪能して。その先にある見たこともない文字を咀嚼して、自分のものにして。
それで……”栞”を挟む。そう、”栞”。誰も彼もが持ち合わせている人生の休憩時間。
けれど、僕は違う。僕は本の先へと行きたい。本の全てを早く、読み切りたい。『次の本』を読みたくてたまらないから。じっくりなんて、読んでいられないから。読みたい本がたくさんあるんだ、僕には。
だから僕は、ただひたすらに読み進める。この身が果てるその瞬間まで、ただただ、ひたすらに。何かの拍子に、本が読めなくなってしまうかもしれないから。
僕の本に”栞”は要らない。休憩なんて、している暇はない。
僕は――”二兎追い人”だから。
6: 2016/04/10(日) 21:09:31.79 ID:qn31rgISo
□ ―― □ ―― □
……寒さで、目が覚めた。はあ、と吐いた呼気が酷く白い。ただ、おかげで寝覚めは悪くない。いや、一般的に言えば悪いのかもしれないけれども、眠気はすでに吹き飛んでしまっている。僕にとっては、それは寝覚めがいい事に他ならない。
横になったまま、ふと触った腕は、まるで氷のように冷たくて。布団に潜り込んでいたはずの足や体も、冷え冷えとしている。そもそも、部屋の中の温度自体が異様だった。外気温と大して変わらないのではないだろうか。
まあ、そんなことはいつものことだ。このアパートに来てから七度目の冬。都心からちょっと外れたワンルーム。お家賃、二万九千円。風呂、空調などついているはずもなく、トイレも共用の値段相応。
なんとも、僕にお似合いの物件じゃないか。そんなことを思いながら、ゆっくりと時計を見る。時計は午前六時を指そうとしていた。
床に入ったのが三時過ぎだから、二時間半ほど寝たことになる。何となく、いつも通りの睡眠時間。もはや慣れてしまった。ふと窓の外を見ると、まだ暗い。
『……蛍雪の功ってわけではないんだろうけれど』
僕はなんとも薄っぺらい煎餅布団から起き上がると、ごわごわのファージャケットを着こんで、小さな電気スタンドの電源を入れた。空調なんてないから、部屋の中でも厚着しないと本当に凍氏しそうになる。
ちかり、ちかりと二度ほど明滅を繰り返して、折り畳み式のちゃぶ台の上が明るくなると、ほぼ同時に置いていたスマートフォンの画面がちかり、と点滅した。メールが届いていたらしい。見ると、世話になっている出版社からのメールだった。
メールを確認すると、どうやら原稿データを直接持ってきてほしいらしい。それで、今日が原稿の受け渡し日であり、稿料の受領日だったということに気付く。
傍にあった眼鏡に手を伸ばし、詳しい内容を確認する。予定時刻は十一時。このアパートから徒歩十五分の位置にある駅から、電車で十分か十五分くらいの都心にある出版社だから、九時過ぎに出れば十分間に合うだろう。
……寒さで、目が覚めた。はあ、と吐いた呼気が酷く白い。ただ、おかげで寝覚めは悪くない。いや、一般的に言えば悪いのかもしれないけれども、眠気はすでに吹き飛んでしまっている。僕にとっては、それは寝覚めがいい事に他ならない。
横になったまま、ふと触った腕は、まるで氷のように冷たくて。布団に潜り込んでいたはずの足や体も、冷え冷えとしている。そもそも、部屋の中の温度自体が異様だった。外気温と大して変わらないのではないだろうか。
まあ、そんなことはいつものことだ。このアパートに来てから七度目の冬。都心からちょっと外れたワンルーム。お家賃、二万九千円。風呂、空調などついているはずもなく、トイレも共用の値段相応。
なんとも、僕にお似合いの物件じゃないか。そんなことを思いながら、ゆっくりと時計を見る。時計は午前六時を指そうとしていた。
床に入ったのが三時過ぎだから、二時間半ほど寝たことになる。何となく、いつも通りの睡眠時間。もはや慣れてしまった。ふと窓の外を見ると、まだ暗い。
『……蛍雪の功ってわけではないんだろうけれど』
僕はなんとも薄っぺらい煎餅布団から起き上がると、ごわごわのファージャケットを着こんで、小さな電気スタンドの電源を入れた。空調なんてないから、部屋の中でも厚着しないと本当に凍氏しそうになる。
ちかり、ちかりと二度ほど明滅を繰り返して、折り畳み式のちゃぶ台の上が明るくなると、ほぼ同時に置いていたスマートフォンの画面がちかり、と点滅した。メールが届いていたらしい。見ると、世話になっている出版社からのメールだった。
メールを確認すると、どうやら原稿データを直接持ってきてほしいらしい。それで、今日が原稿の受け渡し日であり、稿料の受領日だったということに気付く。
傍にあった眼鏡に手を伸ばし、詳しい内容を確認する。予定時刻は十一時。このアパートから徒歩十五分の位置にある駅から、電車で十分か十五分くらいの都心にある出版社だから、九時過ぎに出れば十分間に合うだろう。
7: 2016/04/10(日) 21:10:10.81 ID:qn31rgISo
(九時、か。三時間ほど、どうするかな)
今、請け負っている『仕事』はほかになかった。ひとえに『仕事』といっても、いろいろとある。フリーライターの真似事、システムエンジニアの真似事、Webデザイナーの真似事。どれもこれも、僕の『趣味』が転じたものだ。
だから稼ぎは良くないし、仕事もあまり来ない。事務所を構えているわけでもなければどこかに雇われていたこともない。中卒の僕を正社員で雇ってくれるトコなんてそうそうないから。せいぜいが下請け派遣かアルバイトだ。
そんなわけで、名が売れているわけではないし、これといった代名詞となるモノもない。何か大きなプロジェクトに携わったわけでもない。当然の帰結だろう。
だけど、これでいいと思う。ただ好きなことをやっていられるからそれでいい。舐めた考えと周りの人に嗤われていたし、今もきっとそうなのだろうけれど。
でもこれが、自分の選んだ道だった。だから貧困に不満はない。むしろ僕には分相応だろう。満足さえしているぐらいだ。
何かを書くことも、何かを弄ることも、何かを作ることも、どれも好きなことだ。例え対価が安くとも、断ったことなんてない。『趣味』にお金をくれるのだから、断るはずもない。
今、請け負っている『仕事』はほかになかった。ひとえに『仕事』といっても、いろいろとある。フリーライターの真似事、システムエンジニアの真似事、Webデザイナーの真似事。どれもこれも、僕の『趣味』が転じたものだ。
だから稼ぎは良くないし、仕事もあまり来ない。事務所を構えているわけでもなければどこかに雇われていたこともない。中卒の僕を正社員で雇ってくれるトコなんてそうそうないから。せいぜいが下請け派遣かアルバイトだ。
そんなわけで、名が売れているわけではないし、これといった代名詞となるモノもない。何か大きなプロジェクトに携わったわけでもない。当然の帰結だろう。
だけど、これでいいと思う。ただ好きなことをやっていられるからそれでいい。舐めた考えと周りの人に嗤われていたし、今もきっとそうなのだろうけれど。
でもこれが、自分の選んだ道だった。だから貧困に不満はない。むしろ僕には分相応だろう。満足さえしているぐらいだ。
何かを書くことも、何かを弄ることも、何かを作ることも、どれも好きなことだ。例え対価が安くとも、断ったことなんてない。『趣味』にお金をくれるのだから、断るはずもない。
9: 2016/04/10(日) 21:10:37.55 ID:qn31rgISo
それに……僕には本があった。流石に、こっちは仕事には出来なかったけれども。それでも中卒の僕には心強い知識の源泉。僕の心の支えとも言っていい。お蔭で、中卒の分際で知識はある……と思う。
その上、何度か見てくれについて言及されたこともあるが、どうやら僕は”知的”に見えるらしい。学歴からすればお笑い種なお話だ。もし本当にそう見えるなら、本とくたびれた眼鏡のおかげだろう。
その本も、手持ちのものではもう読めるものがほとんどなくなってしまっている。ふと後ろを振り返ってみれば、うずたかく積み上げられた本の山。
本棚に入れられることもなく、乱雑に積み上げられているように見えて、僕の中ではきちんと整理されている本たちは、決して広くはないアパートの一室の、それでも壁一面を埋め尽くさんと積まれていて。
もう全部読み切ってしまったそれらの中から、僕はふと一冊の本を選んだ。もちろん、題名を見てのことではない。ただ何となく選んだだけ。それだけだ。
手元に持ってきてから、電気スタンドでその本の表紙を照らしてみる。書かれていたタイトルは、王道ファンタジーの金字塔的作品で、もう半世紀以上も前の作品になる。
だが僕にとっては思い出深い、大好きな作品だった。中学の入学祝いに、親父が買ってくれたハードカバー版は今も実家にあるはずだから、ここにあるのは上京してから買った文庫本。
中学を卒業して、高校にも行かないで部屋に引きこもって。そして親戚の反対を押し切って、社会に出て、このアパートを借りて。そして、本の山が出来始めた初期のころに、中古屋で買った覚えがある。
良くも悪くも……僕と共に歩んできた作品だと、そう言えるのかもしれない。
その上、何度か見てくれについて言及されたこともあるが、どうやら僕は”知的”に見えるらしい。学歴からすればお笑い種なお話だ。もし本当にそう見えるなら、本とくたびれた眼鏡のおかげだろう。
その本も、手持ちのものではもう読めるものがほとんどなくなってしまっている。ふと後ろを振り返ってみれば、うずたかく積み上げられた本の山。
本棚に入れられることもなく、乱雑に積み上げられているように見えて、僕の中ではきちんと整理されている本たちは、決して広くはないアパートの一室の、それでも壁一面を埋め尽くさんと積まれていて。
もう全部読み切ってしまったそれらの中から、僕はふと一冊の本を選んだ。もちろん、題名を見てのことではない。ただ何となく選んだだけ。それだけだ。
手元に持ってきてから、電気スタンドでその本の表紙を照らしてみる。書かれていたタイトルは、王道ファンタジーの金字塔的作品で、もう半世紀以上も前の作品になる。
だが僕にとっては思い出深い、大好きな作品だった。中学の入学祝いに、親父が買ってくれたハードカバー版は今も実家にあるはずだから、ここにあるのは上京してから買った文庫本。
中学を卒業して、高校にも行かないで部屋に引きこもって。そして親戚の反対を押し切って、社会に出て、このアパートを借りて。そして、本の山が出来始めた初期のころに、中古屋で買った覚えがある。
良くも悪くも……僕と共に歩んできた作品だと、そう言えるのかもしれない。
10: 2016/04/10(日) 21:11:05.01 ID:qn31rgISo
『久しぶりに読んでみるかな……。うん、そうしよう』
思い立てば、それをちゃぶ台の上へと置いた。ちょうど、三部作の一作目、その一巻だったから、というのもある。これが別の巻だったら、別の本を選んでいたかもしれない。
やがて、かれこれ五年ほど酷使している、型落ちもいいところのノートパソコンを開いて、起動ボタンを押した。四色窓のアイコンが表示され、かりかり、とハードディスクが回転する音が聞こえる。
その間、特にすることもないから、コーヒーでも沸かそうかと思って、キッチンへと向かう。電気ケトルに水を入れてスイッチを入れれば、傍の缶から安物のインスタントコーヒーの粉をカップへと放り込んだ。
もう、こんな生活が七年。部屋に引きこもって、ひたすら読書とプログラミングばかりやっていた二年を含めれば、最後に学校という場所へ行ってから九年。
脱引きこもりをしてから最初の頃は辛かったけれども、今ではもう慣れてしまった。年々、人間としての感覚を失って行った気もするけど。人間の慣れとは、凄いものなのだ。
……そんな感傷にも近いことを考えていた僕は、電気ケトルの上げるブザー音で意識を取り戻した。すぐにカップの中へとお湯を注げば、砂糖も、ミルクも入れることなく口元へと運んで。ずず、とすする。
口腔に広がる、安っぽい苦味と焼けるような熱さが、すでにはっきりとしていた目を余計に覚ましてくれる。それから、ぐっと飲み込んだコーヒーが食堂を流れ落ちて、そして胃へと入り込む。
刹那的に体が熱を発し始め、まるで発電でも始めたかのように体の随所へと熱が送られる。あれほど冷たかった腕も、足も、しばらく暖房に当たったかのように暖かく感じる。
こうしてみると、僕はどうにも変温動物か何からしい。もちろん生物学的にはおかしなことだしあり得ないのだけれど、そう自分を疑いたくなるぐらいにはなんだか体温の上下が激しい気がする。
何か飲んだり、食べたりするだけですぐに体が暖かくなるし、放っておくと酷く冷たくなる。今朝起きた時、機械みたいに冷たかった腕がその証左になるだろうか。
思い立てば、それをちゃぶ台の上へと置いた。ちょうど、三部作の一作目、その一巻だったから、というのもある。これが別の巻だったら、別の本を選んでいたかもしれない。
やがて、かれこれ五年ほど酷使している、型落ちもいいところのノートパソコンを開いて、起動ボタンを押した。四色窓のアイコンが表示され、かりかり、とハードディスクが回転する音が聞こえる。
その間、特にすることもないから、コーヒーでも沸かそうかと思って、キッチンへと向かう。電気ケトルに水を入れてスイッチを入れれば、傍の缶から安物のインスタントコーヒーの粉をカップへと放り込んだ。
もう、こんな生活が七年。部屋に引きこもって、ひたすら読書とプログラミングばかりやっていた二年を含めれば、最後に学校という場所へ行ってから九年。
脱引きこもりをしてから最初の頃は辛かったけれども、今ではもう慣れてしまった。年々、人間としての感覚を失って行った気もするけど。人間の慣れとは、凄いものなのだ。
……そんな感傷にも近いことを考えていた僕は、電気ケトルの上げるブザー音で意識を取り戻した。すぐにカップの中へとお湯を注げば、砂糖も、ミルクも入れることなく口元へと運んで。ずず、とすする。
口腔に広がる、安っぽい苦味と焼けるような熱さが、すでにはっきりとしていた目を余計に覚ましてくれる。それから、ぐっと飲み込んだコーヒーが食堂を流れ落ちて、そして胃へと入り込む。
刹那的に体が熱を発し始め、まるで発電でも始めたかのように体の随所へと熱が送られる。あれほど冷たかった腕も、足も、しばらく暖房に当たったかのように暖かく感じる。
こうしてみると、僕はどうにも変温動物か何からしい。もちろん生物学的にはおかしなことだしあり得ないのだけれど、そう自分を疑いたくなるぐらいにはなんだか体温の上下が激しい気がする。
何か飲んだり、食べたりするだけですぐに体が暖かくなるし、放っておくと酷く冷たくなる。今朝起きた時、機械みたいに冷たかった腕がその証左になるだろうか。
11: 2016/04/10(日) 21:11:32.51 ID:qn31rgISo
(まるで、命を燃料にして動くロボットみたいだ)
そんな風に苦笑を一つ零してコーヒーを飲み干せば、ちゃぶ台の前へと戻って。手短に着替えを済ませた。時間的には明らかに早いが、本を読みながら少し散歩をしようと思っていた。
この時間なら人通りは少ないし、歩き読みができるだろう。褒められた行為ではないが、体を動かしながら本を読めるのだし、ましてや誰かに迷惑がかかるわけでもない。
……その辺りの常識が、僕には少し欠如しているのかもしれない。
『まあ、高校にも行かず、定職にも就かず。うだつの上がらないフーテン暮らしだから当然かな』
自嘲でもなく、苦笑でもなく、客観的事実を自分で呟いて、そして再び、ファージャケットを身に纏う。これでほとんど、寒さは感じない。もともと寒さはあまり感じないから、僕が鈍感なだけなのだろうけど。
それから、リュックサックの中にノートパソコンと予備のデータを容れたUSBメモリを突っ込んで、本を手に取る。ぱらぱら、とめくっただけでも、どのような内容か、すぐに頭の中に浮かんできた。
もともと、想像力はあるほうだと思う。本を読むだけで、大体の情景が想像できた。でも、この作品はそうではなかった。想像できる範囲を超える、壮大な世界観だったのだ。
そして、この物語は決して単純ではない。単純な勧善懲悪、単純なハッピーエンドではない。”ここではないどこかで起こった歴史”だ。歴史は続いていく。
だからこそ、好きになったのだと思う。……そう思っていると、はらり、と本の隙間から何かが落ちた。
そんな風に苦笑を一つ零してコーヒーを飲み干せば、ちゃぶ台の前へと戻って。手短に着替えを済ませた。時間的には明らかに早いが、本を読みながら少し散歩をしようと思っていた。
この時間なら人通りは少ないし、歩き読みができるだろう。褒められた行為ではないが、体を動かしながら本を読めるのだし、ましてや誰かに迷惑がかかるわけでもない。
……その辺りの常識が、僕には少し欠如しているのかもしれない。
『まあ、高校にも行かず、定職にも就かず。うだつの上がらないフーテン暮らしだから当然かな』
自嘲でもなく、苦笑でもなく、客観的事実を自分で呟いて、そして再び、ファージャケットを身に纏う。これでほとんど、寒さは感じない。もともと寒さはあまり感じないから、僕が鈍感なだけなのだろうけど。
それから、リュックサックの中にノートパソコンと予備のデータを容れたUSBメモリを突っ込んで、本を手に取る。ぱらぱら、とめくっただけでも、どのような内容か、すぐに頭の中に浮かんできた。
もともと、想像力はあるほうだと思う。本を読むだけで、大体の情景が想像できた。でも、この作品はそうではなかった。想像できる範囲を超える、壮大な世界観だったのだ。
そして、この物語は決して単純ではない。単純な勧善懲悪、単純なハッピーエンドではない。”ここではないどこかで起こった歴史”だ。歴史は続いていく。
だからこそ、好きになったのだと思う。……そう思っていると、はらり、と本の隙間から何かが落ちた。
12: 2016/04/10(日) 21:11:59.36 ID:qn31rgISo
拾ってみれば、何のことはない。ただの紙片だ。そういえば、何度も読んだ作品ではあったが、上京してから読んだ覚えは無かった。中古屋で買ったはいいものの、後に回したのだろう。
だからきっと、この紙片は、前の持ち主が挟んでいた栞。ふ、と少し鼻で笑えば、くしゃりと紙片を丸めて、ゴミ箱へと投げる。それは、こつんとフチに当たったが、中に入ることはなくて。部屋の隅にころりと転がった。
『あー、惜しい。はずれか。まあ帰ってからでいいね』
そう呟くと、僕は部屋を出る。鍵を掛ければ、もう見事な冬の気配が漂っていた。寒さは苦手ではないといったが、都会の冬はどうにも、慣れない。七度目の冬でも、都心からは少し離れていても。
体ではなく、どこか心が凍らされるような、そんな冬。
よそ者はいつまでたっても、よそ者なのかもしれない。もっとも、この都会は大半がよそ者ばかりのはずなのだけれど。何かの皮肉だろうか?
(……まあ、でも。僕にはあまり関係はない。これでいいさ)
僕は少し凍った心の中で、そう呟いた。これで満足だった。記事を書いて、プログラムを組んで、Webページを作って、本を読む。四つもやりたいことをやっている。
だからこそ、一日が九十六時間あればいいのに。そんな、実も理も無い、空想話を思い浮かべながら僕は歩き始めた。
だからきっと、この紙片は、前の持ち主が挟んでいた栞。ふ、と少し鼻で笑えば、くしゃりと紙片を丸めて、ゴミ箱へと投げる。それは、こつんとフチに当たったが、中に入ることはなくて。部屋の隅にころりと転がった。
『あー、惜しい。はずれか。まあ帰ってからでいいね』
そう呟くと、僕は部屋を出る。鍵を掛ければ、もう見事な冬の気配が漂っていた。寒さは苦手ではないといったが、都会の冬はどうにも、慣れない。七度目の冬でも、都心からは少し離れていても。
体ではなく、どこか心が凍らされるような、そんな冬。
よそ者はいつまでたっても、よそ者なのかもしれない。もっとも、この都会は大半がよそ者ばかりのはずなのだけれど。何かの皮肉だろうか?
(……まあ、でも。僕にはあまり関係はない。これでいいさ)
僕は少し凍った心の中で、そう呟いた。これで満足だった。記事を書いて、プログラムを組んで、Webページを作って、本を読む。四つもやりたいことをやっている。
だからこそ、一日が九十六時間あればいいのに。そんな、実も理も無い、空想話を思い浮かべながら僕は歩き始めた。
13: 2016/04/10(日) 21:12:25.56 ID:qn31rgISo
□ ―― □ ―― □
指がかじかんでいた。それでも、読書の手は止まらない。ちょうどいい場面だったからだ。主人公を追いかける追手がとうとう旅の仲間を捕捉し、小高い丘の上の遺跡で対峙する。
この後主人公は追手に刺され、エルフの隠れ里にたどり着くまで生氏の境を行き来することになる。そんな内容を知っていながら、何度読んでも手に汗握る情景は頭を支配する。
そんな場面で本を読むことをやめるなんて、僕には出来るはずもなくて。結局、時間ぎりぎりまで近場の公園――といっても徒歩で十分ほどかかるが――で読みふけることにした。おかげで体は冷え切っている。
僕の体温がなんかおかしいことになっているのは、こういうことをしばしばしているせいなのかもしれない。この公園に来るのもこの冬で軽く十回は来てると思う。
仕事がないときは朝から夕方までいることもあるから、そろそろ噂になっていてもおかしくはなさそうだ。そんなことを思いながら、僕はページをめくる手を眺めやり、眼鏡のずれを直した。
(この主人公も、刺された後は酷く冷たい手になるんだったね。……僕にも『王の葉』があるといいんだけど)
なんて、感情移入というほどでもないけど、そんなことをふと考える。僕が中学の時に映画化までされた作品だったが、その辺りの描写は酷く緊迫感のあるものだった覚えがあった。
僕が原作を読み始めたばかりのことだったから、どれほど映画館へと行っただろうか。親父にも、お袋にも、呆れられるぐらい見に行ったし、数限りがないくらいビデオのレンタルもした。
今思えば、この小説と出会うことがなければ、今の自分はなかったのかもしれない。
(小説、か)
僕は少しだけ、思いを馳せた。脳裏に浮かぶイメージ映像。はるか遠くに見える一匹の”兎”。薄れゆく意識の中、それに手を伸ばしかけたところで――ふと、視界の端に何かが動いたように見える。
最初は気にも留めなかったが、しばらくぴこぴこと動いていたものだから、思わず本から顔を上げる。本当に……本当に珍しいことだった。時間でもないのに、一度読み始めた物を中断するなんて。
指がかじかんでいた。それでも、読書の手は止まらない。ちょうどいい場面だったからだ。主人公を追いかける追手がとうとう旅の仲間を捕捉し、小高い丘の上の遺跡で対峙する。
この後主人公は追手に刺され、エルフの隠れ里にたどり着くまで生氏の境を行き来することになる。そんな内容を知っていながら、何度読んでも手に汗握る情景は頭を支配する。
そんな場面で本を読むことをやめるなんて、僕には出来るはずもなくて。結局、時間ぎりぎりまで近場の公園――といっても徒歩で十分ほどかかるが――で読みふけることにした。おかげで体は冷え切っている。
僕の体温がなんかおかしいことになっているのは、こういうことをしばしばしているせいなのかもしれない。この公園に来るのもこの冬で軽く十回は来てると思う。
仕事がないときは朝から夕方までいることもあるから、そろそろ噂になっていてもおかしくはなさそうだ。そんなことを思いながら、僕はページをめくる手を眺めやり、眼鏡のずれを直した。
(この主人公も、刺された後は酷く冷たい手になるんだったね。……僕にも『王の葉』があるといいんだけど)
なんて、感情移入というほどでもないけど、そんなことをふと考える。僕が中学の時に映画化までされた作品だったが、その辺りの描写は酷く緊迫感のあるものだった覚えがあった。
僕が原作を読み始めたばかりのことだったから、どれほど映画館へと行っただろうか。親父にも、お袋にも、呆れられるぐらい見に行ったし、数限りがないくらいビデオのレンタルもした。
今思えば、この小説と出会うことがなければ、今の自分はなかったのかもしれない。
(小説、か)
僕は少しだけ、思いを馳せた。脳裏に浮かぶイメージ映像。はるか遠くに見える一匹の”兎”。薄れゆく意識の中、それに手を伸ばしかけたところで――ふと、視界の端に何かが動いたように見える。
最初は気にも留めなかったが、しばらくぴこぴこと動いていたものだから、思わず本から顔を上げる。本当に……本当に珍しいことだった。時間でもないのに、一度読み始めた物を中断するなんて。
14: 2016/04/10(日) 21:12:58.59 ID:qn31rgISo
『ん……?』
それだけの価値はきっと、あったのかもしれない。もちろん、なかったのかもしれないし、価値で測るようなものでもなかったのだろうけれど。そこに居たのは、一つの人影。
いや、人影なのだろうか。酷く角ばっていて、到底人には見えない。とうとうここまで視力が落ちたか、なんて思って眼鏡をはずし、息を吐きかけてから安物の不織布で拭う。
それでも、そこに居たのは何か角ばった存在だった。
(やばいなあ、ボケてるなあ、僕)
と思って、自分の体調がやられたのかと危惧するも、その懸念は杞憂に終わる。何のことはない、本の山を抱えた人影だっただけの話だ。
(……いや、本の山を抱えて公園を歩くって、なんだよ)
そもそもふらつくほどの本を抱えている人なんて、国会図書館でも滅多に見ないだろう。その人影はあっちへよろよろ、こっちへよろよろと、なんとも危なっかしい足取りでちょうど、僕の視界の左から右へと進んでいく。
見ると、どうやら女性のようだった。あまりよく見えなかったけれども、本に隠れきれそうなほど、その体が華奢で細かったこと。その本に隠れきれないほとんど、艶やかで黒々とした綺麗な長髪が揺れていたこと。
そして何より、その本をかかえる腕、長袖のカーディガンからちらりと見えるその手が、まるでガラス細工のように透き通っていて。それでいて、白鷺のように純白に見えたこと。
判断を下すには十分すぎる情報量だった。……それにしたって、あまりにも抱えすぎなんじゃあないだろうか。あの量じゃ、僕だって辟易する。
もっとも僕だってとりわけ膂力に優れているわけでもないのだけれど。だから女性にとってはもっとつらいだろう、ということは容易く理解できた。
とはいえ――まあ、僕には関係ないことだ。そう思って、本に目を落とそうとした。時間でいえば、あと三十分ほどは読書に励める。
そう思った時だった。
それだけの価値はきっと、あったのかもしれない。もちろん、なかったのかもしれないし、価値で測るようなものでもなかったのだろうけれど。そこに居たのは、一つの人影。
いや、人影なのだろうか。酷く角ばっていて、到底人には見えない。とうとうここまで視力が落ちたか、なんて思って眼鏡をはずし、息を吐きかけてから安物の不織布で拭う。
それでも、そこに居たのは何か角ばった存在だった。
(やばいなあ、ボケてるなあ、僕)
と思って、自分の体調がやられたのかと危惧するも、その懸念は杞憂に終わる。何のことはない、本の山を抱えた人影だっただけの話だ。
(……いや、本の山を抱えて公園を歩くって、なんだよ)
そもそもふらつくほどの本を抱えている人なんて、国会図書館でも滅多に見ないだろう。その人影はあっちへよろよろ、こっちへよろよろと、なんとも危なっかしい足取りでちょうど、僕の視界の左から右へと進んでいく。
見ると、どうやら女性のようだった。あまりよく見えなかったけれども、本に隠れきれそうなほど、その体が華奢で細かったこと。その本に隠れきれないほとんど、艶やかで黒々とした綺麗な長髪が揺れていたこと。
そして何より、その本をかかえる腕、長袖のカーディガンからちらりと見えるその手が、まるでガラス細工のように透き通っていて。それでいて、白鷺のように純白に見えたこと。
判断を下すには十分すぎる情報量だった。……それにしたって、あまりにも抱えすぎなんじゃあないだろうか。あの量じゃ、僕だって辟易する。
もっとも僕だってとりわけ膂力に優れているわけでもないのだけれど。だから女性にとってはもっとつらいだろう、ということは容易く理解できた。
とはいえ――まあ、僕には関係ないことだ。そう思って、本に目を落とそうとした。時間でいえば、あと三十分ほどは読書に励める。
そう思った時だった。
15: 2016/04/10(日) 21:13:26.30 ID:qn31rgISo
「……あっ」
短い声。それはまさしく、『あっという間』の出来事だった。声が聞こえて、それで目線を落としかけた顔が、自分ではない何かの手によって捻じ曲げられるが如く、そちらへと向く。
すべてがゆっくりと見えた。分厚い本が七、八冊はあるだろう、積み上げられた本の一番上から、丁寧に一冊ずつ。綺麗な放物線を描いて宙へと舞う本。表紙に挟まれた白いページがパラパラとめくれて、地面へと落ちていく。
無造作に落ち、乱雑に散らばる様子が酷く緩慢で。どこか記憶のページがめくられていくような錯覚にさえ陥る。
そして――その本の山、向こうから現れた女性の姿は、僕の目をくぎ付けにするに十分すぎた。
あわてた様子で手を伸ばし、ふわり、と少しだけ浮き上がる前髪に隠れた、ラピスブルーの瞳。そして僅かに揺れるロングスカートとストール。
その肌が白鷺とするならば、その目は青鷺と表現するに相応しくて。僅かに開かれた瞳と、同じように開かれる口。声にならない声を上げながら、本へと視線が落ちていく。
そこから零れ出る僅かな言葉は、小さな音と白い吐息をとなって、宙へと舞い、そして溶けるように消えていく。
ほとんど、瞬きをするほどの時間でしかないその一瞬が、この世の終わりを迎えたのかと思うほどにあまりにもゆっくり過ぎた物だから。幽鬼に魂を抜かれたかのように、僕は放心状態に陥っていた。
そうして、悠久にも等しい一瞬が過ぎ、彼女がしゃがもうとするその時。僕は我に返ったかのように立ち上がって。まるで見えざる手によって彼女の元に駆け寄っては、
『だ、大丈夫ですかっ』
と声を掛けていた。それから、手に持っていたはずの本を、置き捨てるようにしてベンチに放り出したことに気付いて、
(何をやっているんだ、僕は)
そんな自己嫌悪に陥っている。もちろん、駆け寄ったことをなかったことにして取りに戻るわけにも、そんな感情を表に出すわけにも行かない――彼女に何の責もないのなら尚更だ――ものだから、少しずれた眼鏡を直しながら拾い集め始める。
短い声。それはまさしく、『あっという間』の出来事だった。声が聞こえて、それで目線を落としかけた顔が、自分ではない何かの手によって捻じ曲げられるが如く、そちらへと向く。
すべてがゆっくりと見えた。分厚い本が七、八冊はあるだろう、積み上げられた本の一番上から、丁寧に一冊ずつ。綺麗な放物線を描いて宙へと舞う本。表紙に挟まれた白いページがパラパラとめくれて、地面へと落ちていく。
無造作に落ち、乱雑に散らばる様子が酷く緩慢で。どこか記憶のページがめくられていくような錯覚にさえ陥る。
そして――その本の山、向こうから現れた女性の姿は、僕の目をくぎ付けにするに十分すぎた。
あわてた様子で手を伸ばし、ふわり、と少しだけ浮き上がる前髪に隠れた、ラピスブルーの瞳。そして僅かに揺れるロングスカートとストール。
その肌が白鷺とするならば、その目は青鷺と表現するに相応しくて。僅かに開かれた瞳と、同じように開かれる口。声にならない声を上げながら、本へと視線が落ちていく。
そこから零れ出る僅かな言葉は、小さな音と白い吐息をとなって、宙へと舞い、そして溶けるように消えていく。
ほとんど、瞬きをするほどの時間でしかないその一瞬が、この世の終わりを迎えたのかと思うほどにあまりにもゆっくり過ぎた物だから。幽鬼に魂を抜かれたかのように、僕は放心状態に陥っていた。
そうして、悠久にも等しい一瞬が過ぎ、彼女がしゃがもうとするその時。僕は我に返ったかのように立ち上がって。まるで見えざる手によって彼女の元に駆け寄っては、
『だ、大丈夫ですかっ』
と声を掛けていた。それから、手に持っていたはずの本を、置き捨てるようにしてベンチに放り出したことに気付いて、
(何をやっているんだ、僕は)
そんな自己嫌悪に陥っている。もちろん、駆け寄ったことをなかったことにして取りに戻るわけにも、そんな感情を表に出すわけにも行かない――彼女に何の責もないのなら尚更だ――ものだから、少しずれた眼鏡を直しながら拾い集め始める。
16: 2016/04/10(日) 21:14:01.30 ID:qn31rgISo
「……す、みません」
その女性――とても清楚で、大人しい、ともすれば内向的すぎるのでは、という印象を抱かせる彼女は、今にも消え入りそうな声でそう言った。……おそらくそういったはずだ、僕の聞き違いでなければ。
あまり自信が持てないのは、それほど小さな声だったからで。僕も今は本を拾うのに気を割いていたせいもあって確信を持てず、返答に窮した結果。
「ああ、えっと、いえ、大丈夫です。些末なことですから」
なんていう、気の抜けた返事しかできなかった。……まあ、彼女がとんでもない別嬪さんというのもあった。今まで見たことがないぐらいに。
本当に、本が似合うと思った。埃と古書の匂いが充満する、歴史ある図書館のカウンターで。そっと座っていれば、もうファンタジーの世界だ。そう思えるほど、綺麗な人だった。
彼女はしばらく僕の方を見ていた――それが僕の自意識過剰でなければのお話だが、やがて落ちた本を拾い始めて。そうしてふと思う。やはりこれは女性一人で運ぶ量ではない。
(こんな朝早くから、いったいどういう理由で――)
と思ったとき、ちょうど自分が拾っている本と同じタイトルが見えた。……どういう偶然だろうか。
『あの、これ』
思わず、彼女に聞いていた。同じタイトルだが、装丁がまるで違う。ずいぶん年季が入っているし、印刷もかなり豪勢に見える。まあ僕の持っている物が文庫本だからというのもあるのだろう。
「……やはり、ご存じなのですか?」
すると、彼女がこちらを見ながらそう言った。より正確に言うなら、見ているように思う、と言ったように思う、だけれど。”やはり”というのは、そこそこ有名なタイトルだからだろう。
さっき、一瞬垣間見えたラピスブルーの瞳は、彼女の前髪で隠されて今は見えなかった。
その女性――とても清楚で、大人しい、ともすれば内向的すぎるのでは、という印象を抱かせる彼女は、今にも消え入りそうな声でそう言った。……おそらくそういったはずだ、僕の聞き違いでなければ。
あまり自信が持てないのは、それほど小さな声だったからで。僕も今は本を拾うのに気を割いていたせいもあって確信を持てず、返答に窮した結果。
「ああ、えっと、いえ、大丈夫です。些末なことですから」
なんていう、気の抜けた返事しかできなかった。……まあ、彼女がとんでもない別嬪さんというのもあった。今まで見たことがないぐらいに。
本当に、本が似合うと思った。埃と古書の匂いが充満する、歴史ある図書館のカウンターで。そっと座っていれば、もうファンタジーの世界だ。そう思えるほど、綺麗な人だった。
彼女はしばらく僕の方を見ていた――それが僕の自意識過剰でなければのお話だが、やがて落ちた本を拾い始めて。そうしてふと思う。やはりこれは女性一人で運ぶ量ではない。
(こんな朝早くから、いったいどういう理由で――)
と思ったとき、ちょうど自分が拾っている本と同じタイトルが見えた。……どういう偶然だろうか。
『あの、これ』
思わず、彼女に聞いていた。同じタイトルだが、装丁がまるで違う。ずいぶん年季が入っているし、印刷もかなり豪勢に見える。まあ僕の持っている物が文庫本だからというのもあるのだろう。
「……やはり、ご存じなのですか?」
すると、彼女がこちらを見ながらそう言った。より正確に言うなら、見ているように思う、と言ったように思う、だけれど。”やはり”というのは、そこそこ有名なタイトルだからだろう。
さっき、一瞬垣間見えたラピスブルーの瞳は、彼女の前髪で隠されて今は見えなかった。
17: 2016/04/10(日) 21:14:39.62 ID:qn31rgISo
『今読んでる本がまるっきり、同じ物なもので。……それにしても、凄い、古そうですね、この本』
「……はい。……不要だとのことで、買い取りに。何度も読んだのですが……もう売っていない版だと、聞いて。売り物ですが……折角ですし、読んでみようと思って」
彼女はそう、答えてくれた。蚊の鳴くような声には相違なかったけれども、どこか先ほどよりも声が大きかった気が、しないでもない。僕は思わず少し笑って、
『よほど、この作品が好きなんですね。ひとりで運ぶのは大変だったでしょうに』
と返す。すると、彼女はこくり、と頷いた。
(僕よりも、きっと本が好きなのだろうな)
僕も大概、本と生きてきた人間だけれども、ほかにも好きなものを見つけている。でもきっと彼女は、本一筋なのだろう。何となくそう思った。
彼女の目の前にはきっと、”一兎”だけしか現れることがなかったのだろう。そして自ら望んで、ただ”一兎”を追い続ける者となったのだ。
そんな彼女が、どこか眩しく感じて。胸の中に疼くのは、羨望か、妬心か。……いったい何に対して? これ以上ないくらい、現状に満足しているはずだろう。
そんな訳の分からない感情が沸き上がってくるからこそ、妙にこの場を離れたくて。そうして、そそくさと立ち上がれば。
『……これで、全部ですね。あまり、無理されないで』
なんて、気の利かないことを言いつつ、彼女に本を渡す。再び彼女の手に戻った本は、やはりその華奢な腕に余るほどの圧力をかけているだろうけれど。
「……はい。……不要だとのことで、買い取りに。何度も読んだのですが……もう売っていない版だと、聞いて。売り物ですが……折角ですし、読んでみようと思って」
彼女はそう、答えてくれた。蚊の鳴くような声には相違なかったけれども、どこか先ほどよりも声が大きかった気が、しないでもない。僕は思わず少し笑って、
『よほど、この作品が好きなんですね。ひとりで運ぶのは大変だったでしょうに』
と返す。すると、彼女はこくり、と頷いた。
(僕よりも、きっと本が好きなのだろうな)
僕も大概、本と生きてきた人間だけれども、ほかにも好きなものを見つけている。でもきっと彼女は、本一筋なのだろう。何となくそう思った。
彼女の目の前にはきっと、”一兎”だけしか現れることがなかったのだろう。そして自ら望んで、ただ”一兎”を追い続ける者となったのだ。
そんな彼女が、どこか眩しく感じて。胸の中に疼くのは、羨望か、妬心か。……いったい何に対して? これ以上ないくらい、現状に満足しているはずだろう。
そんな訳の分からない感情が沸き上がってくるからこそ、妙にこの場を離れたくて。そうして、そそくさと立ち上がれば。
『……これで、全部ですね。あまり、無理されないで』
なんて、気の利かないことを言いつつ、彼女に本を渡す。再び彼女の手に戻った本は、やはりその華奢な腕に余るほどの圧力をかけているだろうけれど。
18: 2016/04/10(日) 21:15:27.62 ID:qn31rgISo
(『運びますよ』ぐらい、気の利いたことを言えばよかったかな……)
そんな、僅かな後悔を振り払うようにして、僕は自分の座っていたベンチへと戻る。置き捨てられる様にあった自分の本を手に取れば、ぽんぽんと表紙を手ではたいて。
少し、早い時間だけれど、出版社へと向かおう。そう思って、ふう、と息を吐き、踵を返した瞬間だった。
「……あの」
じゃり、と靴底が地面を擦る音に紛れて、背後から聞こえた声。僅かに首を捻じ曲げ、声の聞こえた方を見る。
彼女が、傍のベンチに本をおいて、こちらを見ていた。そして、ゆっくりと。しかししっかりと。深々としたお辞儀を僕へと向けて。
「……ご心配をおかけして、すみません。それと……助けてくれて……ありがとう、ございます、Pさん」
そんな風に、お礼をされる価値なんて、僕にはないはずだ。ただ、居合わせただけなのだから。
だが、そんなことよりも――その儚げな、華奢な、可憐な姿が目に焼き付いて離れず。うんとも、すんともいえず。
ただ、僕もぺこり、お辞儀を返すことしかできなくて。そして、僕は足早に歩き始める。なんて、失礼な奴だろうか。心の中で自分を殴りたいほどの衝動に駆られながら、
(馬鹿らしい)
と悪態をつく。良くわからない、もどかしい感情がうねりと共に胸の中で渦巻いている。奇妙な違和感と共にとぐろを巻いているこの感情はなんだろうか。それを確かめるかのように、僕は一瞬振り返る。
遠くの方で、重そうにしながらも再び本を抱えて、よろよろと歩き始めている彼女の姿が見えた。やはり、どこか危なっかしい足取りで。だからかもしれない。どうしようもないほどの後悔と、呵責の念が押し寄せる。
やっぱり、運んであげた方が良かった。そう思っても、もう遅いのだろう。やはり、僕は礼を言われるようなことはしていない。
思えば、一途な人に思えた。とても綺麗で、可憐で、ひっそりと咲く虞美人草のような彼女は、きっとこの先も一つの物を追い続けるのだろう。僕とは大違いだ。
そんな、僅かな後悔を振り払うようにして、僕は自分の座っていたベンチへと戻る。置き捨てられる様にあった自分の本を手に取れば、ぽんぽんと表紙を手ではたいて。
少し、早い時間だけれど、出版社へと向かおう。そう思って、ふう、と息を吐き、踵を返した瞬間だった。
「……あの」
じゃり、と靴底が地面を擦る音に紛れて、背後から聞こえた声。僅かに首を捻じ曲げ、声の聞こえた方を見る。
彼女が、傍のベンチに本をおいて、こちらを見ていた。そして、ゆっくりと。しかししっかりと。深々としたお辞儀を僕へと向けて。
「……ご心配をおかけして、すみません。それと……助けてくれて……ありがとう、ございます、Pさん」
そんな風に、お礼をされる価値なんて、僕にはないはずだ。ただ、居合わせただけなのだから。
だが、そんなことよりも――その儚げな、華奢な、可憐な姿が目に焼き付いて離れず。うんとも、すんともいえず。
ただ、僕もぺこり、お辞儀を返すことしかできなくて。そして、僕は足早に歩き始める。なんて、失礼な奴だろうか。心の中で自分を殴りたいほどの衝動に駆られながら、
(馬鹿らしい)
と悪態をつく。良くわからない、もどかしい感情がうねりと共に胸の中で渦巻いている。奇妙な違和感と共にとぐろを巻いているこの感情はなんだろうか。それを確かめるかのように、僕は一瞬振り返る。
遠くの方で、重そうにしながらも再び本を抱えて、よろよろと歩き始めている彼女の姿が見えた。やはり、どこか危なっかしい足取りで。だからかもしれない。どうしようもないほどの後悔と、呵責の念が押し寄せる。
やっぱり、運んであげた方が良かった。そう思っても、もう遅いのだろう。やはり、僕は礼を言われるようなことはしていない。
思えば、一途な人に思えた。とても綺麗で、可憐で、ひっそりと咲く虞美人草のような彼女は、きっとこの先も一つの物を追い続けるのだろう。僕とは大違いだ。
19: 2016/04/10(日) 21:15:54.43 ID:qn31rgISo
『……はっ』
自嘲するかのように、僕は鼻で笑って頭を振って、彼女の姿を頭から追い出そうとする。だが、何度そうやっても、僕の頭のスクリーンには彼女の姿が映ったままで。
僕はゆっくりと手元の本を開いた。どこまで、読んだものだったっけな。そう思っても、なかなかその場面を見つけ出すことが出来ない。
ああ、そうか。”栞”を使っていないから当然のことだ。だから僕は、目を閉じてどこまで読んだか、思い出そうとする。
――刹那的に浮かんだ、彼女の残像はまだ、消えない。
自嘲するかのように、僕は鼻で笑って頭を振って、彼女の姿を頭から追い出そうとする。だが、何度そうやっても、僕の頭のスクリーンには彼女の姿が映ったままで。
僕はゆっくりと手元の本を開いた。どこまで、読んだものだったっけな。そう思っても、なかなかその場面を見つけ出すことが出来ない。
ああ、そうか。”栞”を使っていないから当然のことだ。だから僕は、目を閉じてどこまで読んだか、思い出そうとする。
――刹那的に浮かんだ、彼女の残像はまだ、消えない。
30: 2016/04/12(火) 22:46:12.13 ID:k7FwQOIQo
□ ―― □ ―― □
「今回の経済コラム、読ませてもらったよ。良くできてる、まあ誤字とか、表現の一部はこっちで変えさせてもらったけどね。確認してくれるか」
『ああ、はい。わかりました』
「よろしく頼むよ。これの中に入ってるからね。あと、今回と前回の分、まとめて稿料だ。明細とあと、年末調整用の書類も入ってる」
午前十一時過ぎ。僕は出版社の応接室に居た。目の前にいるのは四十代そこらか、まだ行っていないぐらいの若い編集長。
上京してから二年ほどたって、いろんなルートを伝って出会った人だ。当時はただのライターだったが、食うに困って書いた記事を妙に気に入られてそれからの付き合いになる。
そんな編集長は実家が本屋らしく、高校卒業後に業界へと飛び込んだのだという。今では一年ほど前に新設された『Webニュース部門』の統括役に抜擢されていた。
継いだ本屋は趣味半分で今も続けているそうで、なんだか僕と少し似ているようにも見える。そこから統括役になる辺りは僕と大きく違うけれども。彼もまた、”一兎”を追った者なのだろう、と思ったものだ。
そんな人が、初めて会ったとき以来結構な頻度で僕に記事の執筆依頼を投げてくれる。なんでも、
「君くらいの文章を書ける人間が在野にいるんだ、使わん訳がない」
と、妙に手放しで褒めてくれるのだ。まあ、悪い人ではないだろうし、きっと本心からそう言ってくれているのだろうけれど。それでも、僕自身はその評価に首を傾げざるを得ない。
もちろん、まるきり無能ではないと自分でも信じている。そうでないとこんな仕事を引き受けたりなんてしない。
だが、それでも『趣味』の延長線上に近しいのだ。プロ根性なんて、あるはずもない。
「今回の経済コラム、読ませてもらったよ。良くできてる、まあ誤字とか、表現の一部はこっちで変えさせてもらったけどね。確認してくれるか」
『ああ、はい。わかりました』
「よろしく頼むよ。これの中に入ってるからね。あと、今回と前回の分、まとめて稿料だ。明細とあと、年末調整用の書類も入ってる」
午前十一時過ぎ。僕は出版社の応接室に居た。目の前にいるのは四十代そこらか、まだ行っていないぐらいの若い編集長。
上京してから二年ほどたって、いろんなルートを伝って出会った人だ。当時はただのライターだったが、食うに困って書いた記事を妙に気に入られてそれからの付き合いになる。
そんな編集長は実家が本屋らしく、高校卒業後に業界へと飛び込んだのだという。今では一年ほど前に新設された『Webニュース部門』の統括役に抜擢されていた。
継いだ本屋は趣味半分で今も続けているそうで、なんだか僕と少し似ているようにも見える。そこから統括役になる辺りは僕と大きく違うけれども。彼もまた、”一兎”を追った者なのだろう、と思ったものだ。
そんな人が、初めて会ったとき以来結構な頻度で僕に記事の執筆依頼を投げてくれる。なんでも、
「君くらいの文章を書ける人間が在野にいるんだ、使わん訳がない」
と、妙に手放しで褒めてくれるのだ。まあ、悪い人ではないだろうし、きっと本心からそう言ってくれているのだろうけれど。それでも、僕自身はその評価に首を傾げざるを得ない。
もちろん、まるきり無能ではないと自分でも信じている。そうでないとこんな仕事を引き受けたりなんてしない。
だが、それでも『趣味』の延長線上に近しいのだ。プロ根性なんて、あるはずもない。
31: 2016/04/12(火) 22:46:48.76 ID:k7FwQOIQo
(ここまで褒められるほどのものじゃないと思うんだけどね……)
内心そう思ったところで、ニコニコ顔の編集長に言うわけにもいかず、僕は受け取ったタブレットから自分の書いたコラムを読み始める。
書いていることは他愛もないことだ。僕の知っていること、本を読んで知ったことを、つらつらと書き連ねただけ。円安だとか、原油価格だとか。専門家からすれば、何をいまさらな内容で。
もちろんただの”レポート”になるとまずいから、引用可能な論文に掲載されている統計データや、官公庁が発行している公文書を引用しつつ、自分なりの私見も入れて説明している。それが、読者からは好評らしい。
思えば経済だけじゃなくて、政治のことも、スポーツのことも、サブカルチャーのことも。いろいろな記事を書いていた。もうこの出版社だけでも四十本以上は書いているのではないか。
ただまあ、詳しい専門的な話なんて僕にできるはずもない。だから、普通の人が調べるには少しばかり面倒な内容を、時にはユーモアを交えながら評論しつつ解説しているだけ。
言ってしまえば居酒屋談義に近しい。それでも、編集長は手放しで称賛してくれる。もちろん評価されることが嬉しくないわけではないのだが……。
内心そう思ったところで、ニコニコ顔の編集長に言うわけにもいかず、僕は受け取ったタブレットから自分の書いたコラムを読み始める。
書いていることは他愛もないことだ。僕の知っていること、本を読んで知ったことを、つらつらと書き連ねただけ。円安だとか、原油価格だとか。専門家からすれば、何をいまさらな内容で。
もちろんただの”レポート”になるとまずいから、引用可能な論文に掲載されている統計データや、官公庁が発行している公文書を引用しつつ、自分なりの私見も入れて説明している。それが、読者からは好評らしい。
思えば経済だけじゃなくて、政治のことも、スポーツのことも、サブカルチャーのことも。いろいろな記事を書いていた。もうこの出版社だけでも四十本以上は書いているのではないか。
ただまあ、詳しい専門的な話なんて僕にできるはずもない。だから、普通の人が調べるには少しばかり面倒な内容を、時にはユーモアを交えながら評論しつつ解説しているだけ。
言ってしまえば居酒屋談義に近しい。それでも、編集長は手放しで称賛してくれる。もちろん評価されることが嬉しくないわけではないのだが……。
32: 2016/04/12(火) 22:47:16.71 ID:k7FwQOIQo
『……はい、これで問題ありません。すみません、いつもお手数をおかけして』
「なに、こういうのが編集者の醍醐味だからね。全く校正の必要がないなんて、それこそつまらん。俺の存在意義を奪わんでくれよ、はっはは」
タブレットを返しつつ僕が言えば、編集長は酷く上機嫌な様子でそう返す。それに、僕は苦笑というか、愛想笑いというか、なんとも微妙な笑みで返しながら、稿料と書類の入った封筒の中身も確認せず、リュックに突っ込んだ。
どうやら、この笑顔はあまり評判が良くないらしい。良く”諦めている笑み”と言われた。僕はそんなつもりはないのだけれど、酷く覇気の無い顔に見えるようだ。
ぶっちゃけ、そんなもの生まれつきなのだろうから、僕の知ったことではない。そう言えればいいのだけれど、まあ、波風立てるわけにもいかないのでまた、この笑顔でごまかすしかないというわけで。
そんなわけで、結局嫌われる笑顔で誤魔化すしかないのだからどうしようもない。仲の良い知人というのはほとんどいなかったりする。なんとも僕らしいことだろうか。
「ああ、そういやPくん。今、別件で仕事はやっていたっけか? ちょっと変わり種なんだが、一つ相談があってね」
そうして、渡すものも渡したし、受け取る物も受け取った。暇そうに見えてきっと、尋常ではないぐらい忙しい編集長をいつまでも僕が拘束するわけにはいかない。
そう思って帰り支度を整えていた僕を、呼び止めるように編集長が言った。僕はリュックのジッパーを閉める手を止めて、顔を上げる。
「なに、こういうのが編集者の醍醐味だからね。全く校正の必要がないなんて、それこそつまらん。俺の存在意義を奪わんでくれよ、はっはは」
タブレットを返しつつ僕が言えば、編集長は酷く上機嫌な様子でそう返す。それに、僕は苦笑というか、愛想笑いというか、なんとも微妙な笑みで返しながら、稿料と書類の入った封筒の中身も確認せず、リュックに突っ込んだ。
どうやら、この笑顔はあまり評判が良くないらしい。良く”諦めている笑み”と言われた。僕はそんなつもりはないのだけれど、酷く覇気の無い顔に見えるようだ。
ぶっちゃけ、そんなもの生まれつきなのだろうから、僕の知ったことではない。そう言えればいいのだけれど、まあ、波風立てるわけにもいかないのでまた、この笑顔でごまかすしかないというわけで。
そんなわけで、結局嫌われる笑顔で誤魔化すしかないのだからどうしようもない。仲の良い知人というのはほとんどいなかったりする。なんとも僕らしいことだろうか。
「ああ、そういやPくん。今、別件で仕事はやっていたっけか? ちょっと変わり種なんだが、一つ相談があってね」
そうして、渡すものも渡したし、受け取る物も受け取った。暇そうに見えてきっと、尋常ではないぐらい忙しい編集長をいつまでも僕が拘束するわけにはいかない。
そう思って帰り支度を整えていた僕を、呼び止めるように編集長が言った。僕はリュックのジッパーを閉める手を止めて、顔を上げる。
33: 2016/04/12(火) 22:47:44.75 ID:k7FwQOIQo
『ええと、特には。……変わり種っていうのは?』
僕が訝しむような表情をしていると、編集長は少し笑って、
「はは、そうびくつかんでもいい。マグロ漁船に乗せようってんじゃないさ。実は俺の古い友達が最近妙なことを始めてね」
そう言うのだ。どことなく、彼もまた訝しんでいる様子ではあったが。
『妙なこと、ですか』
僕はそう返す。編集長の様子を見る限り、どうも詳しくまでは知らないらしい。なんだか嫌な臭いがプンプンする。とはいえ、世話になっているわけだし、無下にするわけにも行かない。
(時間の無駄じゃなければ、受けてもいいか……。しばらくは、本を読む時間が取れると思ったけれども)
何となくそんな気分になりながら、少しずれた眼鏡を直して。そうして編集長の顔を見る。すっと、目が合った。「聞くかね?」と聞かれた気がするから、目で『はい』と返す。
すると編集長は、ポケットに入っていたスマートフォンを取り出すと、何やら幾分か操作を初めて。そして、一通のメールを見せてくれた。
少しだけ目を細めて、それを読む。書いていることは、至極短かった。理解もたやすい。
『――”おい、物が書けて、プログラムも出来て……あとそうだな、ホームページが作れる人間を知らないか? うんと扱いづらいじゃじゃ馬だったらなお、面白いんだが”。……なんですか、これ』
ただ、それが何を意味しているかまでは分からなかった。じゃじゃ馬? 面白い? 何が何やら。
僕が訝しむような表情をしていると、編集長は少し笑って、
「はは、そうびくつかんでもいい。マグロ漁船に乗せようってんじゃないさ。実は俺の古い友達が最近妙なことを始めてね」
そう言うのだ。どことなく、彼もまた訝しんでいる様子ではあったが。
『妙なこと、ですか』
僕はそう返す。編集長の様子を見る限り、どうも詳しくまでは知らないらしい。なんだか嫌な臭いがプンプンする。とはいえ、世話になっているわけだし、無下にするわけにも行かない。
(時間の無駄じゃなければ、受けてもいいか……。しばらくは、本を読む時間が取れると思ったけれども)
何となくそんな気分になりながら、少しずれた眼鏡を直して。そうして編集長の顔を見る。すっと、目が合った。「聞くかね?」と聞かれた気がするから、目で『はい』と返す。
すると編集長は、ポケットに入っていたスマートフォンを取り出すと、何やら幾分か操作を初めて。そして、一通のメールを見せてくれた。
少しだけ目を細めて、それを読む。書いていることは、至極短かった。理解もたやすい。
『――”おい、物が書けて、プログラムも出来て……あとそうだな、ホームページが作れる人間を知らないか? うんと扱いづらいじゃじゃ馬だったらなお、面白いんだが”。……なんですか、これ』
ただ、それが何を意味しているかまでは分からなかった。じゃじゃ馬? 面白い? 何が何やら。
34: 2016/04/12(火) 22:48:21.67 ID:k7FwQOIQo
「まあ、正直俺も良くわからん。いつも突然連絡が来て、やれこういうものはないのかだの、それこういう奴はいないのかだの、ごり押し千万でね」
今回も数日前にいきなりこのメールが来て、もうてんやわんやさ。そう、編集長は困ったように、しかし嬉しそうに言った。まるで、頼られることがとても嬉しいことのように、だ。
正直、気乗りはしなかった。なんだか、自ら台風のただ中に突っこんでいくようなものだと感じている。それでも――なぜか、引き受けたほうがいいような気が、していたのだ。
『それで僕、ですか』
「難しいか、やっぱり? Pくん、プログラミングも出来るし、Webデザインも出来るし、文章も書けるだろ。前にネット通販のページ作ってくれたじゃないか。なんだかお誂え向きじゃないか、と思ってなんだけれども」
『あれはページビルダーを使いましたら、誰でも出来ることですよ。ひな形だけ作ってあとはお任せした形ですし。それに生憎僕はじゃじゃ馬じゃないですから』
そんな風に言ったが、編集長はにやり、と笑って、
「いいや、じゃじゃ馬だね。さんざん俺の誘いを断って、フリーのままでいるじゃないか。扱いづらいったら、ありゃあしないぜ」
どこかいたずらっぽく、そしてからかうようにして言って、そして笑う。なんとも酷い物言いだ。だが、まあ実際の所。扱いづらいには違いがないのだろうし、言っていることは事実だ。
何度か、編集長は僕のことをスカウトしてくれていた。専属ライターにならないか、と。だけれど、僕はそれを何度も断っている。
理由は至極自分勝手で。好きなことが出来なくなると、そう思ったから。会社に勤めるというのは、そういうものだと思っていたから。
今回も数日前にいきなりこのメールが来て、もうてんやわんやさ。そう、編集長は困ったように、しかし嬉しそうに言った。まるで、頼られることがとても嬉しいことのように、だ。
正直、気乗りはしなかった。なんだか、自ら台風のただ中に突っこんでいくようなものだと感じている。それでも――なぜか、引き受けたほうがいいような気が、していたのだ。
『それで僕、ですか』
「難しいか、やっぱり? Pくん、プログラミングも出来るし、Webデザインも出来るし、文章も書けるだろ。前にネット通販のページ作ってくれたじゃないか。なんだかお誂え向きじゃないか、と思ってなんだけれども」
『あれはページビルダーを使いましたら、誰でも出来ることですよ。ひな形だけ作ってあとはお任せした形ですし。それに生憎僕はじゃじゃ馬じゃないですから』
そんな風に言ったが、編集長はにやり、と笑って、
「いいや、じゃじゃ馬だね。さんざん俺の誘いを断って、フリーのままでいるじゃないか。扱いづらいったら、ありゃあしないぜ」
どこかいたずらっぽく、そしてからかうようにして言って、そして笑う。なんとも酷い物言いだ。だが、まあ実際の所。扱いづらいには違いがないのだろうし、言っていることは事実だ。
何度か、編集長は僕のことをスカウトしてくれていた。専属ライターにならないか、と。だけれど、僕はそれを何度も断っている。
理由は至極自分勝手で。好きなことが出来なくなると、そう思ったから。会社に勤めるというのは、そういうものだと思っていたから。
35: 2016/04/12(火) 22:48:49.77 ID:k7FwQOIQo
(なにせ、好きなことしかやらない我がまま野郎だからなあ……)
人から見れば、そういう僕は人間だ。そして自分でもそう思う。それでいいと思っているのだから、なおの事救いがない。そんな扱いづらい人間を、どうしていつも使ってくれるのかは、良くわからないけれど。
だからこそ、こういう無茶苦茶な話に縁があるのかもしれない。僕は、ゆっくりと息を吐きだして。
『とりあえず、お話だけでも伺ってみようかと。連絡先、いただけますか』
「おう、そうか。ちょっと待っててくれ。ああ、向こうから連絡するように言っておくぜ。こっちから頼んでるんだしな」
『えぇ……? いえ、それはちょっと』
「なに、構いやしない。たまにはあいつを困らせてやりたいんだよ。いつもこっちが困ってばかりだからね。ま、それがいいところでもあるんだがな」
『……ううん、そうですか。では、お言葉に甘えます』
何か、私怨を晴らすダシに使われた気がしないでもない。一本か二本、取られたかな。そんな風に思っているうちに、編集長は適当なメモ用紙に連絡先を記載して僕へと寄越した。
人から見れば、そういう僕は人間だ。そして自分でもそう思う。それでいいと思っているのだから、なおの事救いがない。そんな扱いづらい人間を、どうしていつも使ってくれるのかは、良くわからないけれど。
だからこそ、こういう無茶苦茶な話に縁があるのかもしれない。僕は、ゆっくりと息を吐きだして。
『とりあえず、お話だけでも伺ってみようかと。連絡先、いただけますか』
「おう、そうか。ちょっと待っててくれ。ああ、向こうから連絡するように言っておくぜ。こっちから頼んでるんだしな」
『えぇ……? いえ、それはちょっと』
「なに、構いやしない。たまにはあいつを困らせてやりたいんだよ。いつもこっちが困ってばかりだからね。ま、それがいいところでもあるんだがな」
『……ううん、そうですか。では、お言葉に甘えます』
何か、私怨を晴らすダシに使われた気がしないでもない。一本か二本、取られたかな。そんな風に思っているうちに、編集長は適当なメモ用紙に連絡先を記載して僕へと寄越した。
36: 2016/04/12(火) 22:49:19.93 ID:k7FwQOIQo
「んじゃ、あとでメール送っておくぜ。忙しい奴だから、もしかしたらちょっと連絡がつくのに時間がかかるかもしれないけれど。それでも、数日中には連絡が入るだろうよ」
『はい、ありがとうございます』
僕はぺこり、と頭を下げた。少し眼鏡がずり落ちそうになる。それを右手の中指で押さえつつ、顔を上げて。そして、今度こそお暇しようと立ち上がる。
「ん、そういや年明けてからまだ飲みに行ってないな。今度どうだい、奢るぜ。まあPくんは酒、弱かっただろうからウーロン茶になるだろうが」
『ああ、はは……。時間さえあれば、考えておきます』
「おう、つれないねえ。ま、いいや。んじゃ、また今度な。そうそう、本の読み過ぎには注意しろよ」
彼はそんなあっけらかんとした様子で笑う。誘いを断られたというのに、心配までしてくれるなんて。どうしてそうも鷹揚に笑うことが出来るのだろうか。……まあ、断った僕が言うことではないのだけれど。
そうして、僕は改めてお礼と、別れの挨拶を済ませれば、応接室の扉を開けて、出入り口の方へと歩き始めた。それとほとんど同時に、応接室へと誰かが飛び込んだようで、背後では慌ただしく人の動く気配がする。
きっと、何か問題があったか、緊急の要件が舞い込んだのだろう。よく考えなくとも、Webニュース部門の責任者なのだから、結構偉いし忙しい。それこそ、僕とは天と地の差だ。
ああして話していると、それを忘れそうになる。僕と同じで、好きなことをしている。けれど、僕とは違う。何が違うのか、何が同じなのか。決定的なそれが僕は分からなかった。
きっと分からないからこその今の僕があるのだろう。それぐらいは分かった。そして、分からなくても良いと思った。僕は僕だ。例えそれが言い訳に過ぎないとしても。
こうしてたくさんの”兎”を追いかけていられる。それで満足してしまっている部分があると、少なからず知っている。だから分からないし、分かろうともしないのだ。
ちん、とエレベータの到着する音がする。哲学的思考に陥ろうとしていた僕は、そこで考えることをやめた。
『はい、ありがとうございます』
僕はぺこり、と頭を下げた。少し眼鏡がずり落ちそうになる。それを右手の中指で押さえつつ、顔を上げて。そして、今度こそお暇しようと立ち上がる。
「ん、そういや年明けてからまだ飲みに行ってないな。今度どうだい、奢るぜ。まあPくんは酒、弱かっただろうからウーロン茶になるだろうが」
『ああ、はは……。時間さえあれば、考えておきます』
「おう、つれないねえ。ま、いいや。んじゃ、また今度な。そうそう、本の読み過ぎには注意しろよ」
彼はそんなあっけらかんとした様子で笑う。誘いを断られたというのに、心配までしてくれるなんて。どうしてそうも鷹揚に笑うことが出来るのだろうか。……まあ、断った僕が言うことではないのだけれど。
そうして、僕は改めてお礼と、別れの挨拶を済ませれば、応接室の扉を開けて、出入り口の方へと歩き始めた。それとほとんど同時に、応接室へと誰かが飛び込んだようで、背後では慌ただしく人の動く気配がする。
きっと、何か問題があったか、緊急の要件が舞い込んだのだろう。よく考えなくとも、Webニュース部門の責任者なのだから、結構偉いし忙しい。それこそ、僕とは天と地の差だ。
ああして話していると、それを忘れそうになる。僕と同じで、好きなことをしている。けれど、僕とは違う。何が違うのか、何が同じなのか。決定的なそれが僕は分からなかった。
きっと分からないからこその今の僕があるのだろう。それぐらいは分かった。そして、分からなくても良いと思った。僕は僕だ。例えそれが言い訳に過ぎないとしても。
こうしてたくさんの”兎”を追いかけていられる。それで満足してしまっている部分があると、少なからず知っている。だから分からないし、分かろうともしないのだ。
ちん、とエレベータの到着する音がする。哲学的思考に陥ろうとしていた僕は、そこで考えることをやめた。
38: 2016/04/13(水) 03:28:36.68 ID:MBJxBtU4o
□ ―― □ ―― □
『……? あれ、知らない番号からだ』
出版社の帰り道、相も変わらず歩き読みなどという褒められない行為をしながら歩を進めている最中、ポケットでスマートフォンが震えた。
取り出してみてみると、何やら見覚えのない番号。電話帳に登録している番号なんて片手で足りる僕の交友の狭さを考えれば、僕の番号を知っている知り合いである可能性は限りなく低い。
ついでに言えば、僕の番号なんて利用価値もほとんどないだろうから、業者の類からかかってくることも、年に一度あるかないか。そんなレベルだ。
おかげでここ二年ほどは、基本料金以外の料金を支払った覚えがない。仕事で使うこともあるから、と買ったものではあるが、これならば折り畳み式の旧式携帯――いわゆるガラケーで良かったのでは、と思うほどだ。
とまあ、そんな調子だから表示された番号に対して訝しむのは無理からぬことではないか、なんていう自己弁護を頭の中で投げかけつつ、ぱたんと本を閉じて着信を取る。
『……? あれ、知らない番号からだ』
出版社の帰り道、相も変わらず歩き読みなどという褒められない行為をしながら歩を進めている最中、ポケットでスマートフォンが震えた。
取り出してみてみると、何やら見覚えのない番号。電話帳に登録している番号なんて片手で足りる僕の交友の狭さを考えれば、僕の番号を知っている知り合いである可能性は限りなく低い。
ついでに言えば、僕の番号なんて利用価値もほとんどないだろうから、業者の類からかかってくることも、年に一度あるかないか。そんなレベルだ。
おかげでここ二年ほどは、基本料金以外の料金を支払った覚えがない。仕事で使うこともあるから、と買ったものではあるが、これならば折り畳み式の旧式携帯――いわゆるガラケーで良かったのでは、と思うほどだ。
とまあ、そんな調子だから表示された番号に対して訝しむのは無理からぬことではないか、なんていう自己弁護を頭の中で投げかけつつ、ぱたんと本を閉じて着信を取る。
39: 2016/04/13(水) 03:29:04.53 ID:MBJxBtU4o
『はい、もしもし』
「んむ? 意外とすぐに出るのだな。……ああ、失礼。これはPくんの携帯で合っているかな?」
『え? ああ、はい。そうですが。……失礼ですが、どちら様で?』
スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、壮年か、中年かといったぐらいの年齢だろう男性の声。だみ声というわけでも、ドスの利いた声というわけでもなく、なんとも普通の声というにふさわしいだろう。
だが何かその声の節々に存在する、自信や自負といった堂々としたものを感じ取っては、そんな人知り合いに居たか? なんて考えていて。そもそも、自分より年上の知り合いなんて、地元の親族かあの編集長ぐらいなものだ。
だからなおの事だった。そうしているうちに、再びスピーカーの向こうから声が聞こえてきて、
「ん? あいつから話が通っていないかね。”仕事のできる人を探している”と。先ほどメールで電話番号と名前が届いたからね、こうして連絡をしてみたというわけなのだが」
『ああ……』
そういえば、編集長がそんなことを言っていたな、とその時になって思い出す。いや、忘れていたわけではないのだけれど、さっきの今だから思いつくはずもなかったのだ。
だってまさか、その話をしてから一時間……いや、三十分もしないうちに連絡が来るだなんて、予想ができるはずもないだろう?
「んむ? 意外とすぐに出るのだな。……ああ、失礼。これはPくんの携帯で合っているかな?」
『え? ああ、はい。そうですが。……失礼ですが、どちら様で?』
スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、壮年か、中年かといったぐらいの年齢だろう男性の声。だみ声というわけでも、ドスの利いた声というわけでもなく、なんとも普通の声というにふさわしいだろう。
だが何かその声の節々に存在する、自信や自負といった堂々としたものを感じ取っては、そんな人知り合いに居たか? なんて考えていて。そもそも、自分より年上の知り合いなんて、地元の親族かあの編集長ぐらいなものだ。
だからなおの事だった。そうしているうちに、再びスピーカーの向こうから声が聞こえてきて、
「ん? あいつから話が通っていないかね。”仕事のできる人を探している”と。先ほどメールで電話番号と名前が届いたからね、こうして連絡をしてみたというわけなのだが」
『ああ……』
そういえば、編集長がそんなことを言っていたな、とその時になって思い出す。いや、忘れていたわけではないのだけれど、さっきの今だから思いつくはずもなかったのだ。
だってまさか、その話をしてから一時間……いや、三十分もしないうちに連絡が来るだなんて、予想ができるはずもないだろう?
40: 2016/04/13(水) 03:29:30.84 ID:MBJxBtU4o
ただまあ、連絡が来てしまったものはどうしようもない。少々心の準備が出来ていなかったが、腹を決めて話を聞くことにしては、
『いえ、お話は伺っています。なんでも、ライター兼エンジニアを探しているとか?』
僕はそう答えた。じゃじゃ馬云々はとりあえず伏せておくことにして。そうでないと、もしかしたら編集長の立場が悪くなるかもしれない、とちょっと思ったから。
ところが、スマートフォンの奥から剛毅な笑い声が聞こえたかと思えば、
「わはは、そこまで知っていて平然としてられるのであれば、君はじゃじゃ馬なのだろうね? そして聡明だ。私にじゃじゃ馬云々の話を伏せておいた方がいいと判断できる程度には」
なんて、すっかり見透かしていたようなことを言われてしまい、対面しているわけでもないのに顔が少し熱くなった気がする。……電話越しで、本当に良かった。
その火照りを冷ますがてら、ゆっくりと歩きながら電話することにした僕は、本題を切り出した。そもそも、どういう用件であのような依頼を出したのか、と。
返ってきた言葉は、予想の斜め上だった。
「うむ、実は宣伝文句等も込みで、うちのホームページを作ってくれる人がいないものか探していてな。時間も報酬も融通を利かせることが出来るが、全部ひとりでやってほしいのだよ」
しばらく、開いた口が塞がらなかった。言われていることがどれだけ荒唐無稽なものか、相手は分からないのだろうか?
そのうえ、相手方は情報の追加と言わんばかりに言葉を接いで、
「ああ、うちの会社は芸能プロダクションだ。ついでに言えばアイドル専門にしようと思っている。本格的な始業予定は来年度からだが、稼働自体はもうすぐでね」
と付け加える。
『いえ、お話は伺っています。なんでも、ライター兼エンジニアを探しているとか?』
僕はそう答えた。じゃじゃ馬云々はとりあえず伏せておくことにして。そうでないと、もしかしたら編集長の立場が悪くなるかもしれない、とちょっと思ったから。
ところが、スマートフォンの奥から剛毅な笑い声が聞こえたかと思えば、
「わはは、そこまで知っていて平然としてられるのであれば、君はじゃじゃ馬なのだろうね? そして聡明だ。私にじゃじゃ馬云々の話を伏せておいた方がいいと判断できる程度には」
なんて、すっかり見透かしていたようなことを言われてしまい、対面しているわけでもないのに顔が少し熱くなった気がする。……電話越しで、本当に良かった。
その火照りを冷ますがてら、ゆっくりと歩きながら電話することにした僕は、本題を切り出した。そもそも、どういう用件であのような依頼を出したのか、と。
返ってきた言葉は、予想の斜め上だった。
「うむ、実は宣伝文句等も込みで、うちのホームページを作ってくれる人がいないものか探していてな。時間も報酬も融通を利かせることが出来るが、全部ひとりでやってほしいのだよ」
しばらく、開いた口が塞がらなかった。言われていることがどれだけ荒唐無稽なものか、相手は分からないのだろうか?
そのうえ、相手方は情報の追加と言わんばかりに言葉を接いで、
「ああ、うちの会社は芸能プロダクションだ。ついでに言えばアイドル専門にしようと思っている。本格的な始業予定は来年度からだが、稼働自体はもうすぐでね」
と付け加える。
41: 2016/04/13(水) 03:30:03.08 ID:MBJxBtU4o
そもそも、時間も報酬も融通が利くなら、適当な代理店とデザイナー会社に発注を掛ければいい話だ。併せて百万そこそこ。
芸能プロダクションという特殊性と継続的なメンテナンス費用とサーバー代を合わせたって、上乗せ四十万から五十万と言ったところだろう。
なのに、それらの仕事を全部ひとりの人間が――まあ、継続的なメンテナンスとかは除いたとしても、到底できるはずもない。エンジニアと一括りにしても、その中にはいくつかのジャンルがあるのだから。
そんな専門的な分野に幾つも長じている人なんて、一月いくらぐらいの給料をもらっていることだろうか? 例えば、物語が書けて、絵が描けて、音楽が作れて、なんていう人が仮にいれば?
きっと、その人ひとりでエンターテイメントという物が回ってしまう。そう考えると数十万では足りない。何より、一線級の能力を幾つも持ち合わせている超人が、ゴロゴロ転がっているはずもない。
そういう意味でも、僕は所詮趣味レベルの人間だ。平凡な能力を時間で補っているに過ぎない。だからこの仕事は僕には出来ないだろう――そう思って、断ろうとした時だった。
「まあ、百聞は一見に如かず、だ。電話で話していても分からないことばかりだろう。どうかね? 明日、朝十時。社に来て欲しいのだが。実際の所、今ちょっと時間がなくてな」
そんな風な言葉の後にスピーカーの向こうから、留守番は頼むぞ、だの、手を尽くして掛け合ってくれ、だの、指示というかなんというか、慌ただしい声が聞こえる。おかげで断りの言葉を言い損なってしまった。
そして、最後と言わんばかりに投げかけられた言葉。――どうだ、来てくれるか? それに、僕は答えてしまうのだ。
芸能プロダクションという特殊性と継続的なメンテナンス費用とサーバー代を合わせたって、上乗せ四十万から五十万と言ったところだろう。
なのに、それらの仕事を全部ひとりの人間が――まあ、継続的なメンテナンスとかは除いたとしても、到底できるはずもない。エンジニアと一括りにしても、その中にはいくつかのジャンルがあるのだから。
そんな専門的な分野に幾つも長じている人なんて、一月いくらぐらいの給料をもらっていることだろうか? 例えば、物語が書けて、絵が描けて、音楽が作れて、なんていう人が仮にいれば?
きっと、その人ひとりでエンターテイメントという物が回ってしまう。そう考えると数十万では足りない。何より、一線級の能力を幾つも持ち合わせている超人が、ゴロゴロ転がっているはずもない。
そういう意味でも、僕は所詮趣味レベルの人間だ。平凡な能力を時間で補っているに過ぎない。だからこの仕事は僕には出来ないだろう――そう思って、断ろうとした時だった。
「まあ、百聞は一見に如かず、だ。電話で話していても分からないことばかりだろう。どうかね? 明日、朝十時。社に来て欲しいのだが。実際の所、今ちょっと時間がなくてな」
そんな風な言葉の後にスピーカーの向こうから、留守番は頼むぞ、だの、手を尽くして掛け合ってくれ、だの、指示というかなんというか、慌ただしい声が聞こえる。おかげで断りの言葉を言い損なってしまった。
そして、最後と言わんばかりに投げかけられた言葉。――どうだ、来てくれるか? それに、僕は答えてしまうのだ。
42: 2016/04/13(水) 03:30:30.78 ID:MBJxBtU4o
『……わかりました、とりあえず話だけ。明日の十時ですね』
なんとも押しに弱いものだと、自分でも呆れかえるばかり。いや、こればっかりはどうしようもないだろう。僕が押しに弱いのではなく、向こうの押しが強かっただけだ。責めないでほしいものだ……なんて、誰に対する釈明かも分からないことを内心呟いて。
となると、さっきの慌ただしい対応も何か演技のようにも思えてくる。キャッチセールスか何かで、事務所に連れ込まれて、壺を買わされる……みたいな。
そんなぞっとしない想像をなんとか頭の隅に追いやって、何やら住所らしき言葉の羅列を聞き取って。そして二言三言、言葉を交わして。ようやく僕はスマートフォンの通話終了ボタンをタップすることに成功する。
無論、ここで話が終わりというわけではなくて、次の約束を取り付けられてしまったのだけれども。そこですっかり忘れていたことに気付く。……そういえば、さっきの人は誰なのだろう?
『……迂闊すぎるでしょ、流石に』
僕は僅かに天を仰いで嘆息した。なんとも、相手のペースに終始巻き込まれっぱなしだった気がする。良くない流れだ。これが詐欺か何かなら僕はもうアウトなのかもしれない。覚悟しないといけないのだろうか。そんな腹は括りたくないけれども。
そうして、いつの間にか結構な距離を歩いていたことに気付く。かれこれ、三十分ほどだろうか。ここから、僕の家の最寄り駅まで徒歩で十分もかからない。
良くも悪くも、時間を忘れさせてくれる相手だった。まあ、電車に乗ったまま電話をするなんてさすがの僕でも憚られるから、ちょうどよかったのかもしれない。今日はこのまま、歩いて帰ろう。そう思った矢先のことだった。
なんとも押しに弱いものだと、自分でも呆れかえるばかり。いや、こればっかりはどうしようもないだろう。僕が押しに弱いのではなく、向こうの押しが強かっただけだ。責めないでほしいものだ……なんて、誰に対する釈明かも分からないことを内心呟いて。
となると、さっきの慌ただしい対応も何か演技のようにも思えてくる。キャッチセールスか何かで、事務所に連れ込まれて、壺を買わされる……みたいな。
そんなぞっとしない想像をなんとか頭の隅に追いやって、何やら住所らしき言葉の羅列を聞き取って。そして二言三言、言葉を交わして。ようやく僕はスマートフォンの通話終了ボタンをタップすることに成功する。
無論、ここで話が終わりというわけではなくて、次の約束を取り付けられてしまったのだけれども。そこですっかり忘れていたことに気付く。……そういえば、さっきの人は誰なのだろう?
『……迂闊すぎるでしょ、流石に』
僕は僅かに天を仰いで嘆息した。なんとも、相手のペースに終始巻き込まれっぱなしだった気がする。良くない流れだ。これが詐欺か何かなら僕はもうアウトなのかもしれない。覚悟しないといけないのだろうか。そんな腹は括りたくないけれども。
そうして、いつの間にか結構な距離を歩いていたことに気付く。かれこれ、三十分ほどだろうか。ここから、僕の家の最寄り駅まで徒歩で十分もかからない。
良くも悪くも、時間を忘れさせてくれる相手だった。まあ、電車に乗ったまま電話をするなんてさすがの僕でも憚られるから、ちょうどよかったのかもしれない。今日はこのまま、歩いて帰ろう。そう思った矢先のことだった。
43: 2016/04/13(水) 03:31:03.28 ID:MBJxBtU4o
『……あれ?』
あまり見かけない、書店がそこにあった。まあ、見かけないのは当然ではある。この辺りに来たことはほとんどないのだから。だけれども、それでもあまり見かけない店構えだ。
いわゆるチェーン書店というわけではなく、かといって個人経営の店というわけでもない。いや個人経営に違いはないのだろうけれど、なんというか……店の軒先に本が見えないのだ。
個人経営だとしても、軒先に雑誌くらいは並べておくだろう。けれどそれがない。じゃあなんで気付いたかっていうと、軒先のビニールテントにうっすらと、何とか古書堂とあったからだ。
書かれていた鷺沢古書堂という文字は所々欠けているように見える。相当年季が入っているので、店自体もかなり古いのかもしれない。
その時点で、普通の本屋じゃないんだろうな、というのに気付いた僕は、何となく。そう、本当に何となくだけれど。
『お邪魔……します?』
からから、と引き戸を開けていた。その引き戸は年季の割にすんなりと開いて。まるで僕を招き入れるような、そんな雰囲気さえ漂わせていた。
だが、僕の心を打ったのは、また別の物だった。
あまり見かけない、書店がそこにあった。まあ、見かけないのは当然ではある。この辺りに来たことはほとんどないのだから。だけれども、それでもあまり見かけない店構えだ。
いわゆるチェーン書店というわけではなく、かといって個人経営の店というわけでもない。いや個人経営に違いはないのだろうけれど、なんというか……店の軒先に本が見えないのだ。
個人経営だとしても、軒先に雑誌くらいは並べておくだろう。けれどそれがない。じゃあなんで気付いたかっていうと、軒先のビニールテントにうっすらと、何とか古書堂とあったからだ。
書かれていた鷺沢古書堂という文字は所々欠けているように見える。相当年季が入っているので、店自体もかなり古いのかもしれない。
その時点で、普通の本屋じゃないんだろうな、というのに気付いた僕は、何となく。そう、本当に何となくだけれど。
『お邪魔……します?』
からから、と引き戸を開けていた。その引き戸は年季の割にすんなりと開いて。まるで僕を招き入れるような、そんな雰囲気さえ漂わせていた。
だが、僕の心を打ったのは、また別の物だった。
44: 2016/04/13(水) 03:31:45.68 ID:MBJxBtU4o
『……いい匂いだ』
入った途端、どことなく大図書館を思わせる様な、心地よい匂いが鼻腔をくすぐる。年季の入った、本の匂いだ。
刷りたての本というのもなかなかいい匂いがすると思う。印刷で使われる、独特のインキの匂いだ。けれど、古書の匂いはそれとはまた違った良さがある。……匂いフェチとか、そういうのではないとは思うけれども。
ただ、好きだった。僕が本を好きなのと同じように、この古書の匂いが堪らなく好きだった。僕の脳髄を痺れさせるぐらい。
その理由は、なぜかは思い出せなかったけれども。どこか遠くの世界、あるいは茫漠とした大海、その先にある何かのように僕の記憶をくすぐっていて。
心地よさと、むず痒さを感じつつ店内に入った僕は、一番近い棚から順番に見ていく。
幾らか薄暗い店内、蛍光灯というか電球は各列に一つか二つ、こぶし大の物があるだけ。まあ、紙焼け対策なのだろう。明るすぎると本……特に古書には良くない。古書堂というだけあって、その辺りはある程度ちゃんとしているらしい。
まあちょっと不用心すぎるところはあるけれども。棚の配置的に、一番入口に近いところなんて万引きされかねない。防犯カメラでも設置しているのだろうか。
そんなことを考えつつ僕は背表紙を撫ぜるようにして、一つの棚をじっくりと、じっくりと眺めていく。僕の知っているような日本の古書から、どこの国のなんの本なのかもわからない古書まで。ありとあらゆるものが並んでいて。
なんというか、酷く落ち着く空間だということだけは分かる。ここは、僕にとって最も居心地のいい空間なのだと。初めて来た場所なのに、十年来の自室のような安心感。
そんなわけだから、財布の紐も少しは緩くなる。ふと見つけた古書の一冊、僕の持っていない本をめくってみれば、栞のように値札がはさまれていた。穿たれていたのは十分手の届く数字で。
入った途端、どことなく大図書館を思わせる様な、心地よい匂いが鼻腔をくすぐる。年季の入った、本の匂いだ。
刷りたての本というのもなかなかいい匂いがすると思う。印刷で使われる、独特のインキの匂いだ。けれど、古書の匂いはそれとはまた違った良さがある。……匂いフェチとか、そういうのではないとは思うけれども。
ただ、好きだった。僕が本を好きなのと同じように、この古書の匂いが堪らなく好きだった。僕の脳髄を痺れさせるぐらい。
その理由は、なぜかは思い出せなかったけれども。どこか遠くの世界、あるいは茫漠とした大海、その先にある何かのように僕の記憶をくすぐっていて。
心地よさと、むず痒さを感じつつ店内に入った僕は、一番近い棚から順番に見ていく。
幾らか薄暗い店内、蛍光灯というか電球は各列に一つか二つ、こぶし大の物があるだけ。まあ、紙焼け対策なのだろう。明るすぎると本……特に古書には良くない。古書堂というだけあって、その辺りはある程度ちゃんとしているらしい。
まあちょっと不用心すぎるところはあるけれども。棚の配置的に、一番入口に近いところなんて万引きされかねない。防犯カメラでも設置しているのだろうか。
そんなことを考えつつ僕は背表紙を撫ぜるようにして、一つの棚をじっくりと、じっくりと眺めていく。僕の知っているような日本の古書から、どこの国のなんの本なのかもわからない古書まで。ありとあらゆるものが並んでいて。
なんというか、酷く落ち着く空間だということだけは分かる。ここは、僕にとって最も居心地のいい空間なのだと。初めて来た場所なのに、十年来の自室のような安心感。
そんなわけだから、財布の紐も少しは緩くなる。ふと見つけた古書の一冊、僕の持っていない本をめくってみれば、栞のように値札がはさまれていた。穿たれていたのは十分手の届く数字で。
45: 2016/04/13(水) 03:32:20.63 ID:MBJxBtU4o
(また、積まれる本が増えるなあ)
なんて、自分に少し呆れつつ僕は棚を一つ曲がり、また一つ曲がり。店の奥、キャッシャーがあるだろう場所へと歩いていく。
ただでさえ、今読んでいる本が三部作で、しかも一部ごとに上下巻のある超大作なのだ。ついでに言えば、前日譚なんかも読み始めれば、向こう一週間ほどは楽に消えるだろう。
部屋の一面を埋め尽くさんばかりの本の割に、積んでいる本は少ない。ほぼ全て読みつくしているとはいえ、気が向けばもう一度読みたい本というのは山ほどある。それを全て消化できるのはいったいいつごろになることやら……。
そんなことを考えていたものだから、ぼうっとし過ぎていたのだ。そう、思った。本棚を曲がった先、カウンターに座る、店員だろう人影があった。
刹那、僕は目を瞬かせて、自分に対して呆れたように、
(……とうとう、幻覚見るようになったか)
と内心で呟いた。
僕は天井を仰いで、ふう、と息を吐く。一呼吸、二呼吸。そうして、再び前を見る。キャッシャーの置かれたカウンター。一つの人影。変わらない。
黒絹のような長い髪。僅かに見える陶磁器のような白い肌。肩に掛けられた紫紺色のストールが、少し揺れて。前髪に隠れた目は、手元の本をじっと眺めている。
まるで、一つの芸術作品のような佇まい。決して動くはずもない彫像を見ているような気分になって。だからこそ、僕は思った。いまだに朝の残像を引きずっているのかもしれない、と。
まったく、馬鹿げている。僕は半ば自棄になったかのように、ゆっくりと歩みを進めて。カウンターの前に立てば、どうにもならない残像を振り払うかのように、言葉を吐く。
なんて、自分に少し呆れつつ僕は棚を一つ曲がり、また一つ曲がり。店の奥、キャッシャーがあるだろう場所へと歩いていく。
ただでさえ、今読んでいる本が三部作で、しかも一部ごとに上下巻のある超大作なのだ。ついでに言えば、前日譚なんかも読み始めれば、向こう一週間ほどは楽に消えるだろう。
部屋の一面を埋め尽くさんばかりの本の割に、積んでいる本は少ない。ほぼ全て読みつくしているとはいえ、気が向けばもう一度読みたい本というのは山ほどある。それを全て消化できるのはいったいいつごろになることやら……。
そんなことを考えていたものだから、ぼうっとし過ぎていたのだ。そう、思った。本棚を曲がった先、カウンターに座る、店員だろう人影があった。
刹那、僕は目を瞬かせて、自分に対して呆れたように、
(……とうとう、幻覚見るようになったか)
と内心で呟いた。
僕は天井を仰いで、ふう、と息を吐く。一呼吸、二呼吸。そうして、再び前を見る。キャッシャーの置かれたカウンター。一つの人影。変わらない。
黒絹のような長い髪。僅かに見える陶磁器のような白い肌。肩に掛けられた紫紺色のストールが、少し揺れて。前髪に隠れた目は、手元の本をじっと眺めている。
まるで、一つの芸術作品のような佇まい。決して動くはずもない彫像を見ているような気分になって。だからこそ、僕は思った。いまだに朝の残像を引きずっているのかもしれない、と。
まったく、馬鹿げている。僕は半ば自棄になったかのように、ゆっくりと歩みを進めて。カウンターの前に立てば、どうにもならない残像を振り払うかのように、言葉を吐く。
46: 2016/04/13(水) 03:32:54.32 ID:MBJxBtU4o
『あの、すみません。これ、頂きたいのですが』
単なる残像だ、動くはずもない。そう思った。
……ゆっくりと、その顔が動いた。残像なんかじゃあ、なかった。じゃあなんだ? 奇妙なほどにまで頭が回らず、ただ、目の前の人物を見ていることしかできない。
僅かに揺れる前髪の隙間から、ブルートパーズのような瞳が見えた。それが、僕の掛けている眼鏡越しに、僕の目を覗き込んでいる。
“深淵を覗き込むとき、深淵もまた、貴方を覗き込んでいるのだ”。そんな言葉が脳裏をよぎる。その宝石のような、綺麗な目に覗き込まれて、そして吸い込まれそうになる。
持ちうる限りのあらゆる理性と意思を総動員することで、僕はようやく明瞭な意識を取り戻した。ただ、もしかすると……それが良くなかったのかもしれない。
『……あ』
おかげで、僕は目の前にいる女性が――今朝、ここからそう離れていない公園で出会ったあの女性であると、確信してしまったのだから。
単なる残像だ、動くはずもない。そう思った。
……ゆっくりと、その顔が動いた。残像なんかじゃあ、なかった。じゃあなんだ? 奇妙なほどにまで頭が回らず、ただ、目の前の人物を見ていることしかできない。
僅かに揺れる前髪の隙間から、ブルートパーズのような瞳が見えた。それが、僕の掛けている眼鏡越しに、僕の目を覗き込んでいる。
“深淵を覗き込むとき、深淵もまた、貴方を覗き込んでいるのだ”。そんな言葉が脳裏をよぎる。その宝石のような、綺麗な目に覗き込まれて、そして吸い込まれそうになる。
持ちうる限りのあらゆる理性と意思を総動員することで、僕はようやく明瞭な意識を取り戻した。ただ、もしかすると……それが良くなかったのかもしれない。
『……あ』
おかげで、僕は目の前にいる女性が――今朝、ここからそう離れていない公園で出会ったあの女性であると、確信してしまったのだから。
47: 2016/04/13(水) 03:33:27.24 ID:MBJxBtU4o
□ ―― □ ―― □
まるで金魚のように、僕がぱくぱくと口を動かして二の句を告げないでいると、彼女はしばらくじっと僕を眺めて。そして今まで読んでいた本の間に栞を挟み、ゆっくりと閉じる。
ぱたん、という音が微かに聞こえ、そしてその陶磁器のような白い手をゆっくりと、僕の方へと伸ばす。
明瞭な意識を取り戻したばかりの僕だったが、蛇ににらまれた蛙のように何もできず、ただその手を眺めていて。
やがて、彼女の手が自らの意識へと飛び込んでくるような幻覚に襲われては、思わず目を閉じた。
「……一三四七円、です」
……気づけば、僅かなピッという音と共に、そんな言葉が聞こえてくる。囁くような、それでいながら耳朶を震わせる声。
どうやら、伸びてきた手は僕の持っていた本を受け取るためのものだったらしい。……冷静に考えれば誰だってわかること。調子が狂うどころの話ではない。
『あっ、えっと。ち、ちょっと待ってくれますか』
そんなもんだから、財布を取り出すことなんか当然忘れている。急いで背負っていたリュックから財布を取り出せば、千円札を二枚取り出して渡して。
まるで金魚のように、僕がぱくぱくと口を動かして二の句を告げないでいると、彼女はしばらくじっと僕を眺めて。そして今まで読んでいた本の間に栞を挟み、ゆっくりと閉じる。
ぱたん、という音が微かに聞こえ、そしてその陶磁器のような白い手をゆっくりと、僕の方へと伸ばす。
明瞭な意識を取り戻したばかりの僕だったが、蛇ににらまれた蛙のように何もできず、ただその手を眺めていて。
やがて、彼女の手が自らの意識へと飛び込んでくるような幻覚に襲われては、思わず目を閉じた。
「……一三四七円、です」
……気づけば、僅かなピッという音と共に、そんな言葉が聞こえてくる。囁くような、それでいながら耳朶を震わせる声。
どうやら、伸びてきた手は僕の持っていた本を受け取るためのものだったらしい。……冷静に考えれば誰だってわかること。調子が狂うどころの話ではない。
『あっ、えっと。ち、ちょっと待ってくれますか』
そんなもんだから、財布を取り出すことなんか当然忘れている。急いで背負っていたリュックから財布を取り出せば、千円札を二枚取り出して渡して。
48: 2016/04/13(水) 03:33:53.42 ID:MBJxBtU4o
「……はい、それでは、二千円から」
彼女は朝と変わらず、とても小さな声でそう言って、少したどたどしい動きでキャッシャーを操作する。ぽち、ぽちとボタンをいくつか押して。そして最後に押したボタンの後、ガシャンと引き出しの開く音がした。
そこから、たどたどしくもたおやかな動きで釣銭をつまんでいくその姿が、どうにもならないほどに眩しく見えて。僕は目を閉じて、天を仰ぐ。
どうにも、朝から様子がおかしい。だが、原因も分からず、思い辺りもなく、自分で自分を訝しむことしかできずにいた。なんとももどかしい限りだった。
そのうえ、朝のことを覚えていなさそうな彼女の素振りに、微かに落胆している自分を発見しては、自分で自分を殴りつけたくなる程度に僕は自己嫌悪に陥っている。
(恩着せがましい奴だな、僕は。ああ、もう)
どうもやはり、僕はおかしいらしい。こんな事、上京してきてから今まで一度もなかったのに。まさか体調不良なのかと思ったものの、ここ数年は風邪さえひいた覚えがない。
だからどうしたというものだろうけれど。それでもやっぱり、単なる体調不良のそれは違うのだと、僕の中の何かが訴えかけている。そういえば今朝であった時から、妙な違和感があるけれどもそのせいだろうか。
もちろんそれが何かは分からなかったし、分かろうとも思っていなかったわけで。どうしようもこうしようもない。おかげで阿呆面を晒しながら棒立ちしていることしかできず。
やがて、彼女の陶磁器のような白い肌の手が僕の方へと伸びてきて、僕に何かを差し出していた。その手に握られていたのは、レシートと釣銭。なんのことはない。店員としてのお仕事だ。
彼女は朝と変わらず、とても小さな声でそう言って、少したどたどしい動きでキャッシャーを操作する。ぽち、ぽちとボタンをいくつか押して。そして最後に押したボタンの後、ガシャンと引き出しの開く音がした。
そこから、たどたどしくもたおやかな動きで釣銭をつまんでいくその姿が、どうにもならないほどに眩しく見えて。僕は目を閉じて、天を仰ぐ。
どうにも、朝から様子がおかしい。だが、原因も分からず、思い辺りもなく、自分で自分を訝しむことしかできずにいた。なんとももどかしい限りだった。
そのうえ、朝のことを覚えていなさそうな彼女の素振りに、微かに落胆している自分を発見しては、自分で自分を殴りつけたくなる程度に僕は自己嫌悪に陥っている。
(恩着せがましい奴だな、僕は。ああ、もう)
どうもやはり、僕はおかしいらしい。こんな事、上京してきてから今まで一度もなかったのに。まさか体調不良なのかと思ったものの、ここ数年は風邪さえひいた覚えがない。
だからどうしたというものだろうけれど。それでもやっぱり、単なる体調不良のそれは違うのだと、僕の中の何かが訴えかけている。そういえば今朝であった時から、妙な違和感があるけれどもそのせいだろうか。
もちろんそれが何かは分からなかったし、分かろうとも思っていなかったわけで。どうしようもこうしようもない。おかげで阿呆面を晒しながら棒立ちしていることしかできず。
やがて、彼女の陶磁器のような白い肌の手が僕の方へと伸びてきて、僕に何かを差し出していた。その手に握られていたのは、レシートと釣銭。なんのことはない。店員としてのお仕事だ。
49: 2016/04/13(水) 03:34:19.62 ID:MBJxBtU4o
「……お返し、六五三円になります」
『あ、ええ。どうも』
「カバーは……お付けになりますか……?」
『ええ、と。お構いなく、じゃなかった。そのままで、はい、大丈夫です』
なんとも締まらないやり取り。いや、店員とただの客なのだからこれぐらいで普通なのかもしれないけれど。ただ、何となく得体のしれない緊張が僕の体を支配していて。
(……何、緊張してんだか、本当に。馬鹿みたいだ)
そんな自分に対する侮蔑と嫌悪に苛まれつつ、僕は釣銭を受け取る。……何となく、彼女の手に触れないように受け取ろうと努力しつつ、そんな風に妙な努力をしている自分を俯瞰して、また自己嫌悪。
なんだか負のスパイラル、無間の蟻地獄に陥っている気さえしてしまった僕は、この店に入ったときの気分の良さはどこへやら。尋常ではない居心地の悪さゆえにそそくさと店を出ようとする。
穴があったら入りたいどころの話じゃあない。穴が無ければ掘ってでも入りたい、ぐらいの勢いで。恥と自嘲とで頭が沸騰しそうになっている。もちろん、そんなことは僕の背後で本を読みに戻っている相手には関係のないこと。
(さっさと家に帰って、今日は早く寝よう)
いつもの自分ではありえないような発想がぽんと出ていることにさえ気づかず、そうして僕は買ったばかりの古書を小脇に抱えて古書棚の間を歩む。
その時だった。
『あ、ええ。どうも』
「カバーは……お付けになりますか……?」
『ええ、と。お構いなく、じゃなかった。そのままで、はい、大丈夫です』
なんとも締まらないやり取り。いや、店員とただの客なのだからこれぐらいで普通なのかもしれないけれど。ただ、何となく得体のしれない緊張が僕の体を支配していて。
(……何、緊張してんだか、本当に。馬鹿みたいだ)
そんな自分に対する侮蔑と嫌悪に苛まれつつ、僕は釣銭を受け取る。……何となく、彼女の手に触れないように受け取ろうと努力しつつ、そんな風に妙な努力をしている自分を俯瞰して、また自己嫌悪。
なんだか負のスパイラル、無間の蟻地獄に陥っている気さえしてしまった僕は、この店に入ったときの気分の良さはどこへやら。尋常ではない居心地の悪さゆえにそそくさと店を出ようとする。
穴があったら入りたいどころの話じゃあない。穴が無ければ掘ってでも入りたい、ぐらいの勢いで。恥と自嘲とで頭が沸騰しそうになっている。もちろん、そんなことは僕の背後で本を読みに戻っている相手には関係のないこと。
(さっさと家に帰って、今日は早く寝よう)
いつもの自分ではありえないような発想がぽんと出ていることにさえ気づかず、そうして僕は買ったばかりの古書を小脇に抱えて古書棚の間を歩む。
その時だった。
50: 2016/04/13(水) 03:34:46.70 ID:MBJxBtU4o
「……あの」
その棚の先、一つ曲がれば出口というところで何かが、聞こえた気がした。あり得ない。僕はそう考えつつも、歩みを止めて……ゆっくりと振り返ってしまった。
古書棚の間、そう遠くないはずのカウンターで、儚げに立っている少女の姿が見えた。その体が、ゆっくりと倒れるように折り曲がる。深々としたお辞儀。それだけをとっても、見とれるほどに綺麗で。
それから、小さな声が聞こえた。本当に小さな、それでも確かな何かを感じる声。聞き違いでもなく、空耳でも何でもなく、はっきりとそれは聞こえた。
「今朝は、ありがとう、ございました」
刹那的に、僕の心がざわめく。覚えていてくれた、という喜びと、覚えていてくれることを期待していた、浅ましさに。それでも、僕の心はどうにもならないほどの喜びが勝っていた。
この距離だ。今朝聞いた、蚊の鳴くような声からすれば相当に声を張っているのではないだろうか。そこまでして、お礼の言葉を掛けてくれた。どうしようもない違和感が何かは、いまだに分からないけれど。
それだけで、何かが救われた気がする。そして、何かのタガが外れてしまった気も。僕は、踏み込んではならない場所に踏み込んでしまったのではないか。そんな恐怖にも近しいものがどこかにあって。
それでも、それでも――僕は、同じようにゆっくりとお辞儀をして。そして、決して空耳でも、聞き違いでもないように、はっきりと告げるのだ。
その棚の先、一つ曲がれば出口というところで何かが、聞こえた気がした。あり得ない。僕はそう考えつつも、歩みを止めて……ゆっくりと振り返ってしまった。
古書棚の間、そう遠くないはずのカウンターで、儚げに立っている少女の姿が見えた。その体が、ゆっくりと倒れるように折り曲がる。深々としたお辞儀。それだけをとっても、見とれるほどに綺麗で。
それから、小さな声が聞こえた。本当に小さな、それでも確かな何かを感じる声。聞き違いでもなく、空耳でも何でもなく、はっきりとそれは聞こえた。
「今朝は、ありがとう、ございました」
刹那的に、僕の心がざわめく。覚えていてくれた、という喜びと、覚えていてくれることを期待していた、浅ましさに。それでも、僕の心はどうにもならないほどの喜びが勝っていた。
この距離だ。今朝聞いた、蚊の鳴くような声からすれば相当に声を張っているのではないだろうか。そこまでして、お礼の言葉を掛けてくれた。どうしようもない違和感が何かは、いまだに分からないけれど。
それだけで、何かが救われた気がする。そして、何かのタガが外れてしまった気も。僕は、踏み込んではならない場所に踏み込んでしまったのではないか。そんな恐怖にも近しいものがどこかにあって。
それでも、それでも――僕は、同じようにゆっくりとお辞儀をして。そして、決して空耳でも、聞き違いでもないように、はっきりと告げるのだ。
51: 2016/04/13(水) 03:35:14.53 ID:MBJxBtU4o
『いえ、本が好きだったら当然のことです。それとその……ここはいいお店です、きっと、また来ます』
僕はそれだけを告げて、相手の返事を聞くことも、顔を見ることもなく踵を返して。そそくさと古書棚を曲がっては、入口へと早足で向かう。
からら、と開いた引き戸。一気に閉めそうになる手を抑えて、心の底から努めてゆっくりと閉じる。
気が付けば、僕は走り出していた。右手に持った本を決して離さないように、それでいながら全身全霊で駆けて。前髪の隙間から見えた、あの青い瞳が頭から離れない。
初めて会ったときから微かに抱いている違和感、その正体なんてどうでもよく感じていた。吹き出る汗も、ひゅうひゅうと切るような寒さの風も構うことなく。僕はただ走った。
その後のことは、よく覚えていない。
僕はそれだけを告げて、相手の返事を聞くことも、顔を見ることもなく踵を返して。そそくさと古書棚を曲がっては、入口へと早足で向かう。
からら、と開いた引き戸。一気に閉めそうになる手を抑えて、心の底から努めてゆっくりと閉じる。
気が付けば、僕は走り出していた。右手に持った本を決して離さないように、それでいながら全身全霊で駆けて。前髪の隙間から見えた、あの青い瞳が頭から離れない。
初めて会ったときから微かに抱いている違和感、その正体なんてどうでもよく感じていた。吹き出る汗も、ひゅうひゅうと切るような寒さの風も構うことなく。僕はただ走った。
その後のことは、よく覚えていない。
54: 2016/04/18(月) 03:58:19.36 ID:yniCRVjXo
□ ―― □ ―― □
『……ううん』
翌日、朝十時、約五分前。僕は一つの社屋の前にいた。名前を『シンデレラガールズ・プロダクション』という。いわゆる、芸能プロダクション。
ありていに言えば、昨日僕に電話をかけてきた男性がいるらしい場所である。とはいえ、外見は四階建てほどの小奇麗なビルだ。まだ建設中のようで、時折内装業者が出入りをしている。
だから何だ、と言われればそこまでだが、そこまで巨大な規模に見えないのに、社屋が放つ威圧感というか、存在感は酷く大きい。いや何か奇抜なところがあるか、と問われればない、と答えるのだろうけれど。
ただ、どこか典型的な大企業のそれに近しい風格のようなものがあるせいか、僕は入り口付近でまごついていた。当然といえば当然だが、あの出版社以外にこうして会社を訪れたことなど皆無である。
強いて言うならば単発で請け負った仕事の報告に向かうときなどはあるが、せいぜいビルの貸しオフィスがいいところだ。下に見るわけではないけれど、どうしても見劣りはする。
そういうわけで今から三十分も前に到着していたにも関わらず、入口の方を見たり、ビルを見上げたりしているというのは、なんとも情けの無い話ではあるけれど。ただ、まあ、いたずらに過ぎていく時間に焦慮を抱くことしかできなくて。
『……ううん』
翌日、朝十時、約五分前。僕は一つの社屋の前にいた。名前を『シンデレラガールズ・プロダクション』という。いわゆる、芸能プロダクション。
ありていに言えば、昨日僕に電話をかけてきた男性がいるらしい場所である。とはいえ、外見は四階建てほどの小奇麗なビルだ。まだ建設中のようで、時折内装業者が出入りをしている。
だから何だ、と言われればそこまでだが、そこまで巨大な規模に見えないのに、社屋が放つ威圧感というか、存在感は酷く大きい。いや何か奇抜なところがあるか、と問われればない、と答えるのだろうけれど。
ただ、どこか典型的な大企業のそれに近しい風格のようなものがあるせいか、僕は入り口付近でまごついていた。当然といえば当然だが、あの出版社以外にこうして会社を訪れたことなど皆無である。
強いて言うならば単発で請け負った仕事の報告に向かうときなどはあるが、せいぜいビルの貸しオフィスがいいところだ。下に見るわけではないけれど、どうしても見劣りはする。
そういうわけで今から三十分も前に到着していたにも関わらず、入口の方を見たり、ビルを見上げたりしているというのは、なんとも情けの無い話ではあるけれど。ただ、まあ、いたずらに過ぎていく時間に焦慮を抱くことしかできなくて。
55: 2016/04/18(月) 03:58:46.13 ID:yniCRVjXo
ポケットからスマートフォンを取り出せば、もう十時一分前。編集長から
「あんまり気張るんじゃないぞ、楽に行け、楽に。それと気を使わせて悪い、迷惑をかけたらしいな」
なんてメールが届いていたが、そんな内容なんてすっかり忘れている。そもそも後ろ半分の意味は読んだ時も良くわからなかったし今も分かっていない。
僕が迷惑をかけることはあったとしても、迷惑を掛けられたことなどないはずだ。まあ今こうしてこの場所に来ていることを迷惑、とするのであれば話は別なのだろうけど。
(ええい、ままよっ)
意を決し入口へと吶喊するさまは、今日の僕の姿で一番勇ましかったことだろう。何せ、入口をくぐった後の僕は、塩を掛けられたナメクジ宜しく、威圧されっぱなしでしなびていただろうから。
……回転扉を押しのけて、ゆっくりと中に入ったとき。僕の目の前に現れたのは一つのデスクだった。書類や冊子が積み上げられた、事務デスク。
ソファや待合所のテレビはおろか、受付用のカウンターさえ配置されていないエントランスホールにぽつん、と置かれたそれは、明らかに異様でありながら違和感はなくて。
そこにいるだろう誰かは、今はいないらしく。少し湯気の出ているマグカップを見れば、先ほどまではここにいたのだろう。
「あんまり気張るんじゃないぞ、楽に行け、楽に。それと気を使わせて悪い、迷惑をかけたらしいな」
なんてメールが届いていたが、そんな内容なんてすっかり忘れている。そもそも後ろ半分の意味は読んだ時も良くわからなかったし今も分かっていない。
僕が迷惑をかけることはあったとしても、迷惑を掛けられたことなどないはずだ。まあ今こうしてこの場所に来ていることを迷惑、とするのであれば話は別なのだろうけど。
(ええい、ままよっ)
意を決し入口へと吶喊するさまは、今日の僕の姿で一番勇ましかったことだろう。何せ、入口をくぐった後の僕は、塩を掛けられたナメクジ宜しく、威圧されっぱなしでしなびていただろうから。
……回転扉を押しのけて、ゆっくりと中に入ったとき。僕の目の前に現れたのは一つのデスクだった。書類や冊子が積み上げられた、事務デスク。
ソファや待合所のテレビはおろか、受付用のカウンターさえ配置されていないエントランスホールにぽつん、と置かれたそれは、明らかに異様でありながら違和感はなくて。
そこにいるだろう誰かは、今はいないらしく。少し湯気の出ているマグカップを見れば、先ほどまではここにいたのだろう。
56: 2016/04/18(月) 03:59:13.64 ID:yniCRVjXo
「やあ、来てくれたようだね、Pくん? 時間ぴったりとは、関心関心」
『ぅおあっ』
そんな風に、エントランスホールをじっくりと観察していた僕は、背後からいきなり声を掛けられ、一瞬飛び上がる。飛び上がった拍子にずれた眼鏡を指で直しながら、振り返る。
――そこにいたのは、なんというか、”英傑”だった。
一目見て尋常ではない生気と覇気のようなものを溢れさせている、一人の中年男性。いや、きっと時代が時代であれば、”英傑”や”英雄”と呼ぶにふさわしいだろう。
少なくとも、僕にはそう見えた。今風に言えば、敏腕実業家といったところだろうか? まあ何にせよ、僕とは正反対といっても過言ではない人物だろうことに異論はない。
(まるで、おとぎ話の主人公みたいだ)
そんなことを考えながら、ようやく落ち着いてきたところで、
『ええと、昨日お電話をくださった……?』
と話を切り出す。すると目の前の男性は、満面かつ不敵な笑みを浮かべて、
「うむ、いかにもその通りだ。この”シンデレラガールズ・プロダクション”の最高責任者で、取締役社長を務めている。よろしく頼むよ」
胸ポケットのケースから一枚の名刺を取り出す。卸したての真っ白な台紙に、艶々とした黒いエンボス加工で社名の入ったきれいな名刺で。
落ち着きかかっていた僕の心は、それだけで再びてんやわんやとし始める。慌ててリュックサックのポケットから名刺を取り出しては差し出すも、その時点でいろいろとマナー違反なのだが、それを気にしている余裕などなくて。
僕の名刺はただでさえ、二年ほど前に作ってそれっきりの、質素すぎるほどに質素で、少し日に焼けてしまっているものだ。金を貰ってだって欲しくない名刺だろう。
『ぅおあっ』
そんな風に、エントランスホールをじっくりと観察していた僕は、背後からいきなり声を掛けられ、一瞬飛び上がる。飛び上がった拍子にずれた眼鏡を指で直しながら、振り返る。
――そこにいたのは、なんというか、”英傑”だった。
一目見て尋常ではない生気と覇気のようなものを溢れさせている、一人の中年男性。いや、きっと時代が時代であれば、”英傑”や”英雄”と呼ぶにふさわしいだろう。
少なくとも、僕にはそう見えた。今風に言えば、敏腕実業家といったところだろうか? まあ何にせよ、僕とは正反対といっても過言ではない人物だろうことに異論はない。
(まるで、おとぎ話の主人公みたいだ)
そんなことを考えながら、ようやく落ち着いてきたところで、
『ええと、昨日お電話をくださった……?』
と話を切り出す。すると目の前の男性は、満面かつ不敵な笑みを浮かべて、
「うむ、いかにもその通りだ。この”シンデレラガールズ・プロダクション”の最高責任者で、取締役社長を務めている。よろしく頼むよ」
胸ポケットのケースから一枚の名刺を取り出す。卸したての真っ白な台紙に、艶々とした黒いエンボス加工で社名の入ったきれいな名刺で。
落ち着きかかっていた僕の心は、それだけで再びてんやわんやとし始める。慌ててリュックサックのポケットから名刺を取り出しては差し出すも、その時点でいろいろとマナー違反なのだが、それを気にしている余裕などなくて。
僕の名刺はただでさえ、二年ほど前に作ってそれっきりの、質素すぎるほどに質素で、少し日に焼けてしまっているものだ。金を貰ってだって欲しくない名刺だろう。
57: 2016/04/18(月) 03:59:43.31 ID:yniCRVjXo
にもかかわらず、社長はそれをまるで宝物でもしまうかのように名刺入れへと仕舞いこんだ。思わず、こちらが唖然とするほどに、だ。
だが、仕舞いこんだ後は一転、けろっとした表情で僕に一歩近づけば、
「で、だ。Pくんにしてほしい仕事なのだがね」
なんとも素晴らしい切り替えの早さである。わざとやっているのではないか、と思うほどではあったが、いい加減これに振り回されっぱなしではこちらもいろいろと大変すぎる。
『え、ええと。その前に、まず内容をお聞かせいただかないと、安請け合いは出来かねますから』
努めて冷静に、かつ当然といえば当然の要求を社長に投げかける。それを聞いた社長は、さも当然の権利だ、と言わんばかりの顔で。
「うむ、もちろんだ。まずは実際に見てもらったほうが早いだろう。契約内容については応相談だ。仕事内容の後に決めるとしようか」
と言って踵を返せば、まだ動いていないエスカレーターをのそのそと上っていく。
一瞬、ぽかんとしたままそれを眺めていた僕だったが、
「何をしている、Pくん? ついてきたまえ。サーバールームへと案内しよう」
という社長の言葉で我に返ったかのように、びくりと体を震わせば、上っていく社長の後を追ってエスカレーターへと足を踏み入れる。
だが、仕舞いこんだ後は一転、けろっとした表情で僕に一歩近づけば、
「で、だ。Pくんにしてほしい仕事なのだがね」
なんとも素晴らしい切り替えの早さである。わざとやっているのではないか、と思うほどではあったが、いい加減これに振り回されっぱなしではこちらもいろいろと大変すぎる。
『え、ええと。その前に、まず内容をお聞かせいただかないと、安請け合いは出来かねますから』
努めて冷静に、かつ当然といえば当然の要求を社長に投げかける。それを聞いた社長は、さも当然の権利だ、と言わんばかりの顔で。
「うむ、もちろんだ。まずは実際に見てもらったほうが早いだろう。契約内容については応相談だ。仕事内容の後に決めるとしようか」
と言って踵を返せば、まだ動いていないエスカレーターをのそのそと上っていく。
一瞬、ぽかんとしたままそれを眺めていた僕だったが、
「何をしている、Pくん? ついてきたまえ。サーバールームへと案内しよう」
という社長の言葉で我に返ったかのように、びくりと体を震わせば、上っていく社長の後を追ってエスカレーターへと足を踏み入れる。
58: 2016/04/18(月) 04:00:14.67 ID:yniCRVjXo
「なかなかの設備だろう。私は設備投資と運用には自信があってね。まあ、一番得意なものは全く別のものだが」
一つ、二つとエスカレーターを上っていく途中で、社長はそんなことを話してくれた。確かに、一つ一つの設備がきちんと洗練されている。
ちら、と見た案内板では、芸能プロダクションとしても、会社としても、必要であろうものは何もかもがそろっているようにも見えて。一体何者なのだろうか、という疑問が沸き立つ。
すると、それを察したかのように社長は、
「前の私は傾きかかった会社を立て直すことが仕事でね。中には上場にまでもっていったこともある、いわゆる再建請負人という奴だ。もっともこうして自分の会社を持つのは初めてだがね」
と言った。まだ四十代そこそこといった年齢だろうに、とんでもない経歴である。何か自分とは格というか、人間としてのスペックが違うのだな、という感想しか出て来なくて。
『……なんというか、凄いですね』
そんな、今どき小学生の読書感想文でも書かないような感想が漏れ出てしまう。
「適材適所を心がけていたら勝手に立て直っただけのお話だ。私がしたことは、歪んでいた歯車を直して抜けていたネジを締めただけだよ。簡単なことだろう? ……ああ、ここだ、サーバールームは」
一方の社長は驕るでもなく、へりくだるわけでもなく。客観的事実を述べるようにそう言っては僕に同意を求めて。ある意味、それは自信の表れなのかもしれない。
そして、エスカレーターを上った先にあった一つの部屋を指示した。部屋名のネームプレートなどはなく、ただ”Staff Only”というプレートがあるだけの、質素な扉。
社長がその扉についていたソケットにカードキーを通せば、短い電子音の後に開錠の音が続く。そのまま扉を開けて、社長は僕を招き入れた。
一つ、二つとエスカレーターを上っていく途中で、社長はそんなことを話してくれた。確かに、一つ一つの設備がきちんと洗練されている。
ちら、と見た案内板では、芸能プロダクションとしても、会社としても、必要であろうものは何もかもがそろっているようにも見えて。一体何者なのだろうか、という疑問が沸き立つ。
すると、それを察したかのように社長は、
「前の私は傾きかかった会社を立て直すことが仕事でね。中には上場にまでもっていったこともある、いわゆる再建請負人という奴だ。もっともこうして自分の会社を持つのは初めてだがね」
と言った。まだ四十代そこそこといった年齢だろうに、とんでもない経歴である。何か自分とは格というか、人間としてのスペックが違うのだな、という感想しか出て来なくて。
『……なんというか、凄いですね』
そんな、今どき小学生の読書感想文でも書かないような感想が漏れ出てしまう。
「適材適所を心がけていたら勝手に立て直っただけのお話だ。私がしたことは、歪んでいた歯車を直して抜けていたネジを締めただけだよ。簡単なことだろう? ……ああ、ここだ、サーバールームは」
一方の社長は驕るでもなく、へりくだるわけでもなく。客観的事実を述べるようにそう言っては僕に同意を求めて。ある意味、それは自信の表れなのかもしれない。
そして、エスカレーターを上った先にあった一つの部屋を指示した。部屋名のネームプレートなどはなく、ただ”Staff Only”というプレートがあるだけの、質素な扉。
社長がその扉についていたソケットにカードキーを通せば、短い電子音の後に開錠の音が続く。そのまま扉を開けて、社長は僕を招き入れた。
59: 2016/04/18(月) 04:00:44.06 ID:yniCRVjXo
(どうやら、お金がかかっている場所らしい。ハイテクもハイテクだなあ)
まあ、機密情報が入る予定の場所だから当然といえば当然なのだろうけれど。僕はまるで他人事のように思って、それから部屋の中を見た。
……そこには、サーバーのタワーもなく、かといって数多のコンピュータがあるわけでもない。
ついさっき、エントランスホールで見かけたように、部屋の中にポツンとデスクが置かれ、そこにいくつかの書類とコンピュータが置かれていただけだった。
『……あの、これは?』
「わはは、すまんが機材の搬入に遅れが出ていてな。昨日のうちにサーバー等々が入っているはずだったのだが、この様だ。サーバールームの癖にサーバーがないなど、お笑い話だろう?」
社長は細かいことを気にしていないかのようにそう笑い飛ばして、それから部屋の中央に置かれたコンピュータを指示して、
「しょうがないから、昨日君に電話を掛けた後にハイエンドのコンピュータを組んでもらった。このままサーバー管理用にしようと思っているが、取り急ぎこれで作業をしてほしいのだがね」
まあ、それよりも契約条件だ、と社長は言って、コンピュータの隣に置かれていた書類を手に取り、僕へと渡してくる。どうやら契約書らしく、すでに社長のサインは入っていた。
僕はそれをしげしげと眺めて、それからしばらく思考が停止する。……何やら、やけに報酬金が多い気がする。気のせいか? ……いや、気のせいじゃあない。
そこに書かれていた数字は、僕のようなフリーの人間を雇うにしてはあまりにも大きすぎる額で。やっぱりというかなんというか、相場の三倍くらいはあるのではないだろうか。
少なくとも、僕の見間違いでなければケタが七つほどある気がして。
まあ、機密情報が入る予定の場所だから当然といえば当然なのだろうけれど。僕はまるで他人事のように思って、それから部屋の中を見た。
……そこには、サーバーのタワーもなく、かといって数多のコンピュータがあるわけでもない。
ついさっき、エントランスホールで見かけたように、部屋の中にポツンとデスクが置かれ、そこにいくつかの書類とコンピュータが置かれていただけだった。
『……あの、これは?』
「わはは、すまんが機材の搬入に遅れが出ていてな。昨日のうちにサーバー等々が入っているはずだったのだが、この様だ。サーバールームの癖にサーバーがないなど、お笑い話だろう?」
社長は細かいことを気にしていないかのようにそう笑い飛ばして、それから部屋の中央に置かれたコンピュータを指示して、
「しょうがないから、昨日君に電話を掛けた後にハイエンドのコンピュータを組んでもらった。このままサーバー管理用にしようと思っているが、取り急ぎこれで作業をしてほしいのだがね」
まあ、それよりも契約条件だ、と社長は言って、コンピュータの隣に置かれていた書類を手に取り、僕へと渡してくる。どうやら契約書らしく、すでに社長のサインは入っていた。
僕はそれをしげしげと眺めて、それからしばらく思考が停止する。……何やら、やけに報酬金が多い気がする。気のせいか? ……いや、気のせいじゃあない。
そこに書かれていた数字は、僕のようなフリーの人間を雇うにしてはあまりにも大きすぎる額で。やっぱりというかなんというか、相場の三倍くらいはあるのではないだろうか。
少なくとも、僕の見間違いでなければケタが七つほどある気がして。
60: 2016/04/18(月) 04:01:11.81 ID:yniCRVjXo
『あの……これ、報酬金ですけど、額が大きい気が』
書面上は黙っておいてもいいことなのだろうけれど、なんだかどうしても確認しておかないと気が済まなくて。僕はそう尋ねる。当然印字ミスなのだろうと、そのつもりで。
だが、社長から返ってきたのはあまりにも意外過ぎる言葉だった。
「ああ、印字ミスではない。君に対して支払う報酬としては、正当なものと考えている。もっとも、報酬に釣られるような人間ではないとは聞いているのだがね」
それでも、初対面の君に見せられる誠意としては、一番わかりやすい物ではないかな。社長はそう続けて、それで? という顔で僕を見てくる。つまり……引き受けるかどうか、ということ。
僕は半ば急かされるように――もちろん、社長から急かされたわけでも何でもないにもかかわらず、契約書を一気にさらって読む。業務内容、従業時間、期間、厚生福祉、報酬、備考欄。
どこを見ても、明らかに怪しげなところは何もない。いや、報酬に関しては明らかに異彩を放っているけれども、それでも書面上はなにも問題はなくて。
だからこそ、ここまで良すぎる話を僕は疑ってしまう。たとえあの編集長からの紹介だったとしても、だ。
気が付けば僕は。
書面上は黙っておいてもいいことなのだろうけれど、なんだかどうしても確認しておかないと気が済まなくて。僕はそう尋ねる。当然印字ミスなのだろうと、そのつもりで。
だが、社長から返ってきたのはあまりにも意外過ぎる言葉だった。
「ああ、印字ミスではない。君に対して支払う報酬としては、正当なものと考えている。もっとも、報酬に釣られるような人間ではないとは聞いているのだがね」
それでも、初対面の君に見せられる誠意としては、一番わかりやすい物ではないかな。社長はそう続けて、それで? という顔で僕を見てくる。つまり……引き受けるかどうか、ということ。
僕は半ば急かされるように――もちろん、社長から急かされたわけでも何でもないにもかかわらず、契約書を一気にさらって読む。業務内容、従業時間、期間、厚生福祉、報酬、備考欄。
どこを見ても、明らかに怪しげなところは何もない。いや、報酬に関しては明らかに異彩を放っているけれども、それでも書面上はなにも問題はなくて。
だからこそ、ここまで良すぎる話を僕は疑ってしまう。たとえあの編集長からの紹介だったとしても、だ。
気が付けば僕は。
61: 2016/04/18(月) 04:01:38.21 ID:yniCRVjXo
『……ここまで僕を、評価してくださるのは何故なんですか』
そう尋ねてしまっていた。もしかしなくとも、きっと気分を害させるのだろう。相手を信用していないと、言っているようなものなのだから。
だが、社長はそれに対しても。そんな無礼な質問に対しても。不敵な笑みと共に、鷹揚に笑って。
「なに、君に支払う報酬と同じ額で人材派遣会社に募集を掛けたところで、たかが知れている。採用経費というのもなかなか馬鹿にならなくてね。その報酬と同じ程度じゃあ、良い人材は滅多に見つからん」
そんな風に言った。この中途半端な時期に中途採用で見つけられる人間で、そうそうまともな人間は居ないらしい。まともなレベルの人材が手に入る場所で求人をしようとすると、一月辺りン十万は余裕で飛ぶのだとか。
社長はそれから、続けるように言った。
「それなら信頼できる筋から、君のような面白い奴の紹介を受けたほうが、よほど見込みがある。そう思わんかな、Pくん?」
まるで僕を試す様に。そして僕を挑発するように。まっすぐ僕の眼を見て。その視線は威圧的なものではあったけれど。その奥にある何かが、僕の胸をちりり、と微かに焦がした。
なんだか、ここ数日は妙に胸が騒ぐ。あの女性といい、目の前の社長といい。僕の変わらない生き方に異を唱えるようで。
思わず――そう、僕の中の何かが言わせたかのように。
そう尋ねてしまっていた。もしかしなくとも、きっと気分を害させるのだろう。相手を信用していないと、言っているようなものなのだから。
だが、社長はそれに対しても。そんな無礼な質問に対しても。不敵な笑みと共に、鷹揚に笑って。
「なに、君に支払う報酬と同じ額で人材派遣会社に募集を掛けたところで、たかが知れている。採用経費というのもなかなか馬鹿にならなくてね。その報酬と同じ程度じゃあ、良い人材は滅多に見つからん」
そんな風に言った。この中途半端な時期に中途採用で見つけられる人間で、そうそうまともな人間は居ないらしい。まともなレベルの人材が手に入る場所で求人をしようとすると、一月辺りン十万は余裕で飛ぶのだとか。
社長はそれから、続けるように言った。
「それなら信頼できる筋から、君のような面白い奴の紹介を受けたほうが、よほど見込みがある。そう思わんかな、Pくん?」
まるで僕を試す様に。そして僕を挑発するように。まっすぐ僕の眼を見て。その視線は威圧的なものではあったけれど。その奥にある何かが、僕の胸をちりり、と微かに焦がした。
なんだか、ここ数日は妙に胸が騒ぐ。あの女性といい、目の前の社長といい。僕の変わらない生き方に異を唱えるようで。
思わず――そう、僕の中の何かが言わせたかのように。
62: 2016/04/18(月) 04:02:08.89 ID:yniCRVjXo
『……わかりました、やります』
そう言ってしまっていた。
……まったく、覆水盆に返らず、だ。僕が、僕自身の言った言葉に気付いた時。それは刹那的に満面の笑みへと表情が変わった社長が、僕の手を取った瞬間と同じで。
「よっしゃ、取った」
なんて、魚を釣り上げた釣り人のように、喜びの声を爆発させていて。全く、人をなんだと思っているんだ、なんていうちょっとした憤りを感じる始末。
とはいえ――心の中では、新しい『仕事』に対してちょっとした期待感があるのも事実で。ついさっきまではほとんど乗り気でなかったにもかかわらず、早速レイアウトを考え始めている自分が居て。
「では、よろしく頼むよ、Pくん? 期待しているからね」
そんなことまで言われてしまえば、まあ、
『……ええ、精一杯務めさせていただきます。分からない部分、必要な部分はその都度お伺いさせていただきます』
そんなやる気に満ち溢れた、と受け取られても仕方がない言葉を返してしまう――。
そう言ってしまっていた。
……まったく、覆水盆に返らず、だ。僕が、僕自身の言った言葉に気付いた時。それは刹那的に満面の笑みへと表情が変わった社長が、僕の手を取った瞬間と同じで。
「よっしゃ、取った」
なんて、魚を釣り上げた釣り人のように、喜びの声を爆発させていて。全く、人をなんだと思っているんだ、なんていうちょっとした憤りを感じる始末。
とはいえ――心の中では、新しい『仕事』に対してちょっとした期待感があるのも事実で。ついさっきまではほとんど乗り気でなかったにもかかわらず、早速レイアウトを考え始めている自分が居て。
「では、よろしく頼むよ、Pくん? 期待しているからね」
そんなことまで言われてしまえば、まあ、
『……ええ、精一杯務めさせていただきます。分からない部分、必要な部分はその都度お伺いさせていただきます』
そんなやる気に満ち溢れた、と受け取られても仕方がない言葉を返してしまう――。
68: 2016/04/25(月) 03:47:20.05 ID:WHoHVITeo
□ ―― □ ―― □
――僕が、シンデレラガールズのサイトを作り始めてからもう二週間ほど経つだろうか。作業は順調も順調、異様なペースといっても過言ではない。
というのも僕の手元には仕様書とか、設計書とか、そういうものは一切ない。あるのは、この会社の資料と初期所属となるらしいアイドルのプロフィールだけだ。
「私からの注文はただ一つだ。”シンデレラガールズに相応しいサイトを創ってくれ”。指示は特にない、君に任せよう。いいか、”作る”のではないぞ。”創って”ほしい。プロデュース&クリエイトだ」
……どういうものを作れば良いのか、と伺ったときの回答がこれだったのだから、僕は参ってしまった。僕の好きに創っていい、と社長は仰せになったのだ
そんな馬鹿な話があるかといったところだろうけれど、結論から言えば僕に課せられた職分は、実は”作る”ではなく、”創る”――今はまるで影形の無い物を生み出す行為だったらしい。
正直、僕のような作業者にとっては氏活問題だ。この時点で依頼を引き受けるべきではなかったと後悔したといっても過言ではない。
ではなぜ、順調なのか?
これに関しては誠に僥倖なことだったんだけれど、僕は意外と”創る”仕事に向いていたらしい。自分の好きに創っていいと言われたその日のうちに、簡易的な設計図を書き上げて。
それを明確な文書に書きだす暇もないと思っていたから、仕様書を頭の中で組み上げて。必要なものが何かというのを割り出せば、あとはそれを社長に用意してもらった。
ビルダーのシステム上、設計した通りに作れないことが判明するというトラブルに見舞われて、新しいアセットを購入するべきか悩んだけれど。
――僕が、シンデレラガールズのサイトを作り始めてからもう二週間ほど経つだろうか。作業は順調も順調、異様なペースといっても過言ではない。
というのも僕の手元には仕様書とか、設計書とか、そういうものは一切ない。あるのは、この会社の資料と初期所属となるらしいアイドルのプロフィールだけだ。
「私からの注文はただ一つだ。”シンデレラガールズに相応しいサイトを創ってくれ”。指示は特にない、君に任せよう。いいか、”作る”のではないぞ。”創って”ほしい。プロデュース&クリエイトだ」
……どういうものを作れば良いのか、と伺ったときの回答がこれだったのだから、僕は参ってしまった。僕の好きに創っていい、と社長は仰せになったのだ
そんな馬鹿な話があるかといったところだろうけれど、結論から言えば僕に課せられた職分は、実は”作る”ではなく、”創る”――今はまるで影形の無い物を生み出す行為だったらしい。
正直、僕のような作業者にとっては氏活問題だ。この時点で依頼を引き受けるべきではなかったと後悔したといっても過言ではない。
ではなぜ、順調なのか?
これに関しては誠に僥倖なことだったんだけれど、僕は意外と”創る”仕事に向いていたらしい。自分の好きに創っていいと言われたその日のうちに、簡易的な設計図を書き上げて。
それを明確な文書に書きだす暇もないと思っていたから、仕様書を頭の中で組み上げて。必要なものが何かというのを割り出せば、あとはそれを社長に用意してもらった。
ビルダーのシステム上、設計した通りに作れないことが判明するというトラブルに見舞われて、新しいアセットを購入するべきか悩んだけれど。
69: 2016/04/25(月) 03:47:45.80 ID:WHoHVITeo
(ソースの方を書き換えてしまおう)
なんて、ビルドシステムのソースを書き換えて、自前のシステムを組み込むというあまり褒められたやり方で事なきを得た。
絵素材やらをすべてかき集めてくれば、あとはただひたすら組み続けるだけ。かれこれ、もう一日ずっとコンピュータの前に張り付いている。ついでに言えば、この二週間で家には四回ほどしか帰っていない。
というのも、
「必要であれば、シャワールームを使ってくれてもいい。仮眠室もな」
なんて申し出があったせいで、もう家に帰る必要がほとんどなくなってしまったのだ。帰ったのも、洗濯と息抜きのための読書をするためで。もはや、住み込みといっても過言ではなかった。
社長には大方一月かかると伝えていた工期も、気づけばあと数日中で完了するかもしれない、という次第である。確認作業を含めても一週間以内……いや数日中には終わるだろう。
もっとも肝心のサイトの構成を気に入ってもらえるかは別問題ではあるけれども。ちなみに社長はといえば、
「ではスカウトにでも行ってくるから、しばらくは帰らない。まあ、一月後くらいには帰ってくるから、心配の必要はないぞ」
なんて言って、どこかへ行ってしまった。それ以来、このプロダクションにいるのは、若いプロデューサーらしい人と、事務員が一人だけだ。
なんて、ビルドシステムのソースを書き換えて、自前のシステムを組み込むというあまり褒められたやり方で事なきを得た。
絵素材やらをすべてかき集めてくれば、あとはただひたすら組み続けるだけ。かれこれ、もう一日ずっとコンピュータの前に張り付いている。ついでに言えば、この二週間で家には四回ほどしか帰っていない。
というのも、
「必要であれば、シャワールームを使ってくれてもいい。仮眠室もな」
なんて申し出があったせいで、もう家に帰る必要がほとんどなくなってしまったのだ。帰ったのも、洗濯と息抜きのための読書をするためで。もはや、住み込みといっても過言ではなかった。
社長には大方一月かかると伝えていた工期も、気づけばあと数日中で完了するかもしれない、という次第である。確認作業を含めても一週間以内……いや数日中には終わるだろう。
もっとも肝心のサイトの構成を気に入ってもらえるかは別問題ではあるけれども。ちなみに社長はといえば、
「ではスカウトにでも行ってくるから、しばらくは帰らない。まあ、一月後くらいには帰ってくるから、心配の必要はないぞ」
なんて言って、どこかへ行ってしまった。それ以来、このプロダクションにいるのは、若いプロデューサーらしい人と、事務員が一人だけだ。
70: 2016/04/25(月) 03:48:15.20 ID:WHoHVITeo
「いつものことですから、気になさらないでくださいね、Pさん」
ここの制服なのか、それとも自前の服なのか。良く映える緑の制服を着た事務員の女性は、満面の笑みでそう言っていた気がする。
『ん……ぐぅ……っ、あぁ、もうこんな時間か』
ぐにゃり、と少しばかり視界が歪んだのを契機に、僕は壁に掛けられた時計を見る。気づけば、もう夕方の四時だった。最後に休憩を取ったのが朝の九時だから、七時間もぶっ通しで作業していたらしい。
なんだか、社会的に見れば酷い労働環境にも見える。もっとも自分で招いているのだから責める相手などいないし、そんなつもりはないけれども。
ともかく、少し休憩しよう……と思って、傍に置いていた本を手に取ったところで、その本はすでに読み終わっていたことに気付く。
王道ファンタジーの金字塔ともいえるその作品。すでに最終局面へと内容は移っていて、王が不在の都で世界の存亡を懸けた戦いが始まろうというところ。
そこに颯爽と王たる資格を持つ旅の仲間が帰還する――。本で読んでも、映画で見ても、鳥肌が立つそのシーンはやはり王道ファンタジーの素地となっただけあって素晴らしいと思う。
(……家に帰って、読むかな)
そう思い立てば、作業状況を保存して、コンピュータの電源を落とす。それから社長より預かったカードキーを忘れずに持てば、自前のリュックサックを背負って。
サーバールームから出た後、オートで掛かる鍵の音を聞きながら、まだ動いていないエスカレーターを一歩、また一歩と下っていく。
何やら視界が少しぼやけて、地面が揺れている気がする。一昨日くらいから、こんな調子だ。まあ、大したことではない。根を詰めて作業をすると、いつもこうなるのだ。
ここの制服なのか、それとも自前の服なのか。良く映える緑の制服を着た事務員の女性は、満面の笑みでそう言っていた気がする。
『ん……ぐぅ……っ、あぁ、もうこんな時間か』
ぐにゃり、と少しばかり視界が歪んだのを契機に、僕は壁に掛けられた時計を見る。気づけば、もう夕方の四時だった。最後に休憩を取ったのが朝の九時だから、七時間もぶっ通しで作業していたらしい。
なんだか、社会的に見れば酷い労働環境にも見える。もっとも自分で招いているのだから責める相手などいないし、そんなつもりはないけれども。
ともかく、少し休憩しよう……と思って、傍に置いていた本を手に取ったところで、その本はすでに読み終わっていたことに気付く。
王道ファンタジーの金字塔ともいえるその作品。すでに最終局面へと内容は移っていて、王が不在の都で世界の存亡を懸けた戦いが始まろうというところ。
そこに颯爽と王たる資格を持つ旅の仲間が帰還する――。本で読んでも、映画で見ても、鳥肌が立つそのシーンはやはり王道ファンタジーの素地となっただけあって素晴らしいと思う。
(……家に帰って、読むかな)
そう思い立てば、作業状況を保存して、コンピュータの電源を落とす。それから社長より預かったカードキーを忘れずに持てば、自前のリュックサックを背負って。
サーバールームから出た後、オートで掛かる鍵の音を聞きながら、まだ動いていないエスカレーターを一歩、また一歩と下っていく。
何やら視界が少しぼやけて、地面が揺れている気がする。一昨日くらいから、こんな調子だ。まあ、大したことではない。根を詰めて作業をすると、いつもこうなるのだ。
71: 2016/04/25(月) 03:48:41.47 ID:WHoHVITeo
もちろん幾らかしんどいとは思うし、意識が飛びそうになるときもあるけれど。これまでやって来れたのだから気にするほどのこともない、と思ってそのまま下っていくと、
「……大丈夫ですか、Pさん? ちょっと、顔色が酷いですよ」
エントランスホールのデスクで、一人仕事をしていた青年……つまり、今のところこのプロダクションに在籍する唯一のプロデューサーが、僕の方を見てそういった。
幾分か僕より年下というのもあって、普段は丁寧に話しかけてくれる彼だったが、今日に限ってはどうも、ぎょっとした表情と幾分か強い口調でそう言ってくる。
ちなみに、なんでそんなところで仕事をしているのかと聞いたことがあるけれど、基本的にいつも社長がいないものだから、工事とか配送とかの折衝をしなければいけなかったらしい。
そのうえ諸々の書類仕事を全部やっているのだから大したものだと思う。よっぽど僕より働き者だよ、本当。
『え? ああ、はは、大丈夫です。酷い顔はいつものことですよ』
そんな、少し冗談っぽい言葉で返すと、困ったような、訝しむような、怒ったような表情のまま、
「いや、ちょっと冗談ではないですよ。なんだか、血の気が引いているっていうか、土気色っていうか。これ、千川さんを呼んだ方がいいですよ、本当に。いや、病院とかに行った方が」
と、どこか狼狽するような何かが含まれていて。そこまで言われると、なんだか本当にそんな気がしてくるというのが、人間の不思議だね。
「……大丈夫ですか、Pさん? ちょっと、顔色が酷いですよ」
エントランスホールのデスクで、一人仕事をしていた青年……つまり、今のところこのプロダクションに在籍する唯一のプロデューサーが、僕の方を見てそういった。
幾分か僕より年下というのもあって、普段は丁寧に話しかけてくれる彼だったが、今日に限ってはどうも、ぎょっとした表情と幾分か強い口調でそう言ってくる。
ちなみに、なんでそんなところで仕事をしているのかと聞いたことがあるけれど、基本的にいつも社長がいないものだから、工事とか配送とかの折衝をしなければいけなかったらしい。
そのうえ諸々の書類仕事を全部やっているのだから大したものだと思う。よっぽど僕より働き者だよ、本当。
『え? ああ、はは、大丈夫です。酷い顔はいつものことですよ』
そんな、少し冗談っぽい言葉で返すと、困ったような、訝しむような、怒ったような表情のまま、
「いや、ちょっと冗談ではないですよ。なんだか、血の気が引いているっていうか、土気色っていうか。これ、千川さんを呼んだ方がいいですよ、本当に。いや、病院とかに行った方が」
と、どこか狼狽するような何かが含まれていて。そこまで言われると、なんだか本当にそんな気がしてくるというのが、人間の不思議だね。
72: 2016/04/25(月) 03:49:09.56 ID:WHoHVITeo
『……そう、ですか? まあ、今から家に帰りますので、ちょっとゆっくりしますよ』
僕は僅かに口の端を歪めて、そう言った。なんだか、僅かに口の端が痙攣している気がする。心なしか気分も悪いような、気のせいのような。病は気からとはよくいった物だ。
「ええ、是非そうしてください。いつもPさん、僕が来るよりも早く来てて、僕が帰るよりも遅く残ってるんですから。絶対いつか倒れます、というか仮眠されたほうが」
半分泊まり込みみたいな状況だった、なんて相手の様子を見れば口が裂けても言えない。何とか、愛想笑いで追及をかわしつつ、彼の言葉を尻目に僕は帰路へと就く。
帰路は、徒歩だ。電車には乗らなくなった。運動不足の解消……なんて言う建前は一応、あるけれど。もちろん、そうではない。それは僕自身が、良く知っている。
歩き始めて、三十分。僅かに揺れる世界の中、僕はあの古書堂へと足を運ぶ。からら、という音を立てて開く引き戸。僅かに香る古書の匂い。
いつもどおり、いらっしゃいませの言葉もないけれど、勝手知ったる我が家の如く棚の間を通り抜けながら本を眺めていく。
(……ここは、本当に落ち着く)
シンデレラガールズでの仕事が始まって、四回家に帰っているけれども。その全てで僕はこの古書堂に足を運んでいた。あの女性がいる、ということも理由の一つだろう。それを認められないほど、僕は天邪鬼じゃあない。
でもそれと同じくらい、僕はこの匂いが恋しかった。とても好きだった。あまりにも懐かしすぎた。忘れた物を思い出させてくれそうだった。
そう、僕はこの匂いを知っている。セピア色の記憶の向こうにある、何かを。もう一歩で、手が届く。そう、もう一歩――。
僕は僅かに口の端を歪めて、そう言った。なんだか、僅かに口の端が痙攣している気がする。心なしか気分も悪いような、気のせいのような。病は気からとはよくいった物だ。
「ええ、是非そうしてください。いつもPさん、僕が来るよりも早く来てて、僕が帰るよりも遅く残ってるんですから。絶対いつか倒れます、というか仮眠されたほうが」
半分泊まり込みみたいな状況だった、なんて相手の様子を見れば口が裂けても言えない。何とか、愛想笑いで追及をかわしつつ、彼の言葉を尻目に僕は帰路へと就く。
帰路は、徒歩だ。電車には乗らなくなった。運動不足の解消……なんて言う建前は一応、あるけれど。もちろん、そうではない。それは僕自身が、良く知っている。
歩き始めて、三十分。僅かに揺れる世界の中、僕はあの古書堂へと足を運ぶ。からら、という音を立てて開く引き戸。僅かに香る古書の匂い。
いつもどおり、いらっしゃいませの言葉もないけれど、勝手知ったる我が家の如く棚の間を通り抜けながら本を眺めていく。
(……ここは、本当に落ち着く)
シンデレラガールズでの仕事が始まって、四回家に帰っているけれども。その全てで僕はこの古書堂に足を運んでいた。あの女性がいる、ということも理由の一つだろう。それを認められないほど、僕は天邪鬼じゃあない。
でもそれと同じくらい、僕はこの匂いが恋しかった。とても好きだった。あまりにも懐かしすぎた。忘れた物を思い出させてくれそうだった。
そう、僕はこの匂いを知っている。セピア色の記憶の向こうにある、何かを。もう一歩で、手が届く。そう、もう一歩――。
73: 2016/04/25(月) 03:49:38.11 ID:WHoHVITeo
……刹那、がくんと体が揺れる。一気に崩れた体勢を立て直そうとして、失敗して。僕は古書堂の床に膝をついていた。どうやら、一瞬本当に意識を持っていかれていたらしい。
「……あの、大丈夫、ですか?」
ぱた、ぱた、ぱたと、奥のカウンターの方から人が歩いてくる気配があって、床に膝をついている僕に声を掛けてくる。
『ああ、すみません。少し、体勢を崩してしまって』
僕はいつもと変わらない、”諦めた笑み”と他人に形容される笑みを浮かべて、そう答えた。黒真珠のように黒い前髪の隙間から、ブルートパーズのような瞳で僕を覗き込むように見下ろしているのは、あの女性。
文香さん、という名前であることを知ったのはついこの間のことだ。今では初めて会ったあの日の、僕の狼狽ぶりはどこへやら。もう彼女と普通に話せる程度にはなっていて。
もちろん、名前を呼ぶほど親しいわけではない。呼ぶときはただ、店員さんとしか呼ばない。文香さんも僕の名前を知らないから、お客さんとしか呼ばない。
以前、どこかで僕の名前を呼ばれた気はする。でもそれは気のせいだろう。だって、僕は名前を名乗っていないんだから。会ったこともない人の名前を知っているなんてあり得ない。
つまり僕たちは、時折本の話をする客と店員。それだけの間柄だった。
僕の好きな本。彼女の好きな本。読んだ本の感想。おすすめの本。そんな、とりとめのない話をするだけの間柄。
「……あの、大丈夫、ですか?」
ぱた、ぱた、ぱたと、奥のカウンターの方から人が歩いてくる気配があって、床に膝をついている僕に声を掛けてくる。
『ああ、すみません。少し、体勢を崩してしまって』
僕はいつもと変わらない、”諦めた笑み”と他人に形容される笑みを浮かべて、そう答えた。黒真珠のように黒い前髪の隙間から、ブルートパーズのような瞳で僕を覗き込むように見下ろしているのは、あの女性。
文香さん、という名前であることを知ったのはついこの間のことだ。今では初めて会ったあの日の、僕の狼狽ぶりはどこへやら。もう彼女と普通に話せる程度にはなっていて。
もちろん、名前を呼ぶほど親しいわけではない。呼ぶときはただ、店員さんとしか呼ばない。文香さんも僕の名前を知らないから、お客さんとしか呼ばない。
以前、どこかで僕の名前を呼ばれた気はする。でもそれは気のせいだろう。だって、僕は名前を名乗っていないんだから。会ったこともない人の名前を知っているなんてあり得ない。
つまり僕たちは、時折本の話をする客と店員。それだけの間柄だった。
僕の好きな本。彼女の好きな本。読んだ本の感想。おすすめの本。そんな、とりとめのない話をするだけの間柄。
74: 2016/04/25(月) 03:50:03.94 ID:WHoHVITeo
でもそれでよかった。正直に言えば――惚れている、と思う。その一挙手一投足の全てに、僕は目を奪われていたのだから。今でもそうだった。
とはいえ、それを表に出しはしない。決して僕と彼女とではつり合いは取れないから。目に見えて分かっている。捕まえられない兎を捕まえようとすることほど、無駄なことはないだろう。
だから、こうして本の話ができる知人、出来れば友人として付き合っていければいい――。それさえ過ぎた願いではあると思うけれども。
今はそうなりつつある……はずだ。少なくとも嫌われてはいないと思いたい。
『仕事帰りなものですから、ちょっとだけ疲れていたようです。すみません、店員さんの読書の邪魔をして』
「……いえ。ご無事なら、それで……」
ぺこり、と文香さんはきれいなお辞儀をすると、ぱた、ぱた、ぱたと、再びカウンターの方へと戻っていった。
『……文香さんが様子を見に来るぐらい、大きな音、立てちゃったのかな』
僕は額に手を置くと、僅かに息を吐いて。それからゆっくりと立ち上がる。まだ世界は少し揺れているが、これぐらいはいつもの事だ。仮眠を取れば、すぐに治る。
取り急ぎ、幾らか年季の入った文庫本を買って帰ろう。そう思って本棚を一つ、また一つと見ていく。
その矢先だった。
とはいえ、それを表に出しはしない。決して僕と彼女とではつり合いは取れないから。目に見えて分かっている。捕まえられない兎を捕まえようとすることほど、無駄なことはないだろう。
だから、こうして本の話ができる知人、出来れば友人として付き合っていければいい――。それさえ過ぎた願いではあると思うけれども。
今はそうなりつつある……はずだ。少なくとも嫌われてはいないと思いたい。
『仕事帰りなものですから、ちょっとだけ疲れていたようです。すみません、店員さんの読書の邪魔をして』
「……いえ。ご無事なら、それで……」
ぺこり、と文香さんはきれいなお辞儀をすると、ぱた、ぱた、ぱたと、再びカウンターの方へと戻っていった。
『……文香さんが様子を見に来るぐらい、大きな音、立てちゃったのかな』
僕は額に手を置くと、僅かに息を吐いて。それからゆっくりと立ち上がる。まだ世界は少し揺れているが、これぐらいはいつもの事だ。仮眠を取れば、すぐに治る。
取り急ぎ、幾らか年季の入った文庫本を買って帰ろう。そう思って本棚を一つ、また一つと見ていく。
その矢先だった。
75: 2016/04/25(月) 03:50:30.41 ID:WHoHVITeo
(あ、れ……?)
ぐらり、と世界がまた揺れた。天と地が逆転するような感覚。目の前が明滅し、重力が上へと向き、地面が天井に、天井が地面になっていた。
気づけば僕は本棚に身を預けて、必氏に倒れないように踏ん張っていた。幸いにして、倒れることはなかったけれども、一歩間違えれば強く体を打っていたかもしれない。
『……参ったな、本格的にちょっと、きてるのかも』
いくら頭が命じても、体が言うことを聞いてくれないこの感覚は初めてだった。ただ似た経験はある。あの時は貧血だったか、低血圧だったか。そんな診断を下されたと思う。
だから心配はいらないと僕は判断していた。対処法は良く知っている。深く深く息を吸って、そして息を止めて。意識して頭に血を上らせようとする。
少しすれば世界の揺れも収まってきて、そうなればもう、大丈夫だ。本棚に手を付いたまま、ふぅぅと長く、長く息を吐いて。それからゆっくりと目を開いた。
『っ!?』
その瞬間、目の前に飛び込んできたのは……ブルートパーズのように青い瞳。さっき、僕を見下ろしていたその瞳が、今度は僕を見上げていた。
「その……やっぱり、お疲れ……なのかと思いまして。差し出がましいようですけれども……これを」
僕の目の前に立って、湯気の上がるマグカップを両手で持っていた文香さんは、おずおずといった様子でそれを僕に差し出した。中からは、微かに甘酸っぱい匂いがしている。
それがホットレモンティーだということに気付くのに、それほど長い時間が掛かることはなくて。僕は口の端を歪めて、僅かに笑みのようなものを浮かべては。
ぐらり、と世界がまた揺れた。天と地が逆転するような感覚。目の前が明滅し、重力が上へと向き、地面が天井に、天井が地面になっていた。
気づけば僕は本棚に身を預けて、必氏に倒れないように踏ん張っていた。幸いにして、倒れることはなかったけれども、一歩間違えれば強く体を打っていたかもしれない。
『……参ったな、本格的にちょっと、きてるのかも』
いくら頭が命じても、体が言うことを聞いてくれないこの感覚は初めてだった。ただ似た経験はある。あの時は貧血だったか、低血圧だったか。そんな診断を下されたと思う。
だから心配はいらないと僕は判断していた。対処法は良く知っている。深く深く息を吸って、そして息を止めて。意識して頭に血を上らせようとする。
少しすれば世界の揺れも収まってきて、そうなればもう、大丈夫だ。本棚に手を付いたまま、ふぅぅと長く、長く息を吐いて。それからゆっくりと目を開いた。
『っ!?』
その瞬間、目の前に飛び込んできたのは……ブルートパーズのように青い瞳。さっき、僕を見下ろしていたその瞳が、今度は僕を見上げていた。
「その……やっぱり、お疲れ……なのかと思いまして。差し出がましいようですけれども……これを」
僕の目の前に立って、湯気の上がるマグカップを両手で持っていた文香さんは、おずおずといった様子でそれを僕に差し出した。中からは、微かに甘酸っぱい匂いがしている。
それがホットレモンティーだということに気付くのに、それほど長い時間が掛かることはなくて。僕は口の端を歪めて、僅かに笑みのようなものを浮かべては。
76: 2016/04/25(月) 03:50:57.79 ID:WHoHVITeo
『……あ、ええと。その。すみません、わざわざ。こんなものまでご用意いただいて』
「いえ……」
文香さんからマグカップを受け取り、僕は好意に甘えることにした。ずず、と僅かにすすったレモンティーの甘酸っぱさとさわやかさが、爆発するように口腔へと広がっていく。
次いで、火傷しそうなほど熱いそれが舌の上を転がり、喉を通って食道を駆け下りていく。一瞬で冷えた僕の体が熱を発し始める感覚があった。飲み干してしまうのに、それほどの時間は必要ではなかった。
『すみません、店員さん。ごちそうになりました。とても美味しかったです』
世界の揺れは、完全に収まっていた。思えば昨日の夜からほぼ一日、お茶ぐらいしか飲んでいなかった気がする。きっとそのせいだろう。
そう思って、僕は文香さんにマグカップを返す。
「いえ……このくらい、助けていただいたことに比べれば」
文香さんは僕からマグカップを受け取ると、そう言った。そしてそのまま、僕の前でじっと佇んでいる。カウンターの方へと帰らずに、だ。
「……。……その」
そうして、十秒ほどたった頃だろうか。僕が少し訝しみ始めたとき、文香さんが小さな声で何かを言おうとした。そしてゆっくりと言葉が紡がれる。
「どうして、それほど……頑張ってらっしゃるのですか」
単なる質問だったのだろう。それも漠然とし過ぎた質問。だが僕にはそれが酷く胸に突き刺さる詰問に聞こえて。
そして僕はなぜか言葉を返せずにいた。
「いえ……」
文香さんからマグカップを受け取り、僕は好意に甘えることにした。ずず、と僅かにすすったレモンティーの甘酸っぱさとさわやかさが、爆発するように口腔へと広がっていく。
次いで、火傷しそうなほど熱いそれが舌の上を転がり、喉を通って食道を駆け下りていく。一瞬で冷えた僕の体が熱を発し始める感覚があった。飲み干してしまうのに、それほどの時間は必要ではなかった。
『すみません、店員さん。ごちそうになりました。とても美味しかったです』
世界の揺れは、完全に収まっていた。思えば昨日の夜からほぼ一日、お茶ぐらいしか飲んでいなかった気がする。きっとそのせいだろう。
そう思って、僕は文香さんにマグカップを返す。
「いえ……このくらい、助けていただいたことに比べれば」
文香さんは僕からマグカップを受け取ると、そう言った。そしてそのまま、僕の前でじっと佇んでいる。カウンターの方へと帰らずに、だ。
「……。……その」
そうして、十秒ほどたった頃だろうか。僕が少し訝しみ始めたとき、文香さんが小さな声で何かを言おうとした。そしてゆっくりと言葉が紡がれる。
「どうして、それほど……頑張ってらっしゃるのですか」
単なる質問だったのだろう。それも漠然とし過ぎた質問。だが僕にはそれが酷く胸に突き刺さる詰問に聞こえて。
そして僕はなぜか言葉を返せずにいた。
77: 2016/04/25(月) 03:51:26.85 ID:WHoHVITeo
『……”好きだから”、ですかね』
僕はそう答えた。漠然な質問に対する、漠然とした答え。もちろん相手の質問の意図に沿っていない可能性はある。それでも僕は、その質問に対してこう答えるしかなかった。
そしてこれ以上に適切な言葉はないだろう。そう思っていた。
だが、それに対する質問――あるいは、反論ともいえる言葉は、一瞬で僕の思考回路の全てを焼き切った。
「……体を犠牲にしてまですることが……本当に、”好き”なのですか……?」
――例えるならば、百点満点を確信して提出した答案が赤点だったとか。完璧と思ってコンパイルしたソースがエラーを吐き出しまくったとか。それに近しい感覚が僕を襲っていた。
きっと、文香さんに悪意などない。それどころか心配してくれているのだろう。それ自体には、小躍りしたくなるほどの喜びを感じている自分がいる。それは事実だった。
だがその言葉ともたらした結果は鋭い剣、あるいは棘となって僕の精神を串刺しにしていた。否定……いや否定でないにしても、疑問を持たれた。だがそれだったらまだよかった。救いがあった。
本当に救いがなかったのは――その疑問に対して、僕が即座に否定出来なかったことだった。
頭は否定している。それは違うと訴えかけている。でも心がその訴えを棄却していた。理由なんてわからない。だけど僕はそれを否定できなかった。それが事実だった。
――もしも。そう、もしもだ。仮定の話だ。
仮に僕が、”好き”でこんな人生を送っているのでないならば。なぜこんな人生を送っているのだろうか?
今まで考えたこともない仮定がどうしても頭を離れない。ループバグのように答えを出せないまま、どのくらいの時間が経っただろうか。
悠久のような一瞬、時間にして一分もなかったのだろうけれど。僕は振り絞るような思いで告げる。諦めたようなって嫌われている笑みを精一杯、浮かべて。
僕はそう答えた。漠然な質問に対する、漠然とした答え。もちろん相手の質問の意図に沿っていない可能性はある。それでも僕は、その質問に対してこう答えるしかなかった。
そしてこれ以上に適切な言葉はないだろう。そう思っていた。
だが、それに対する質問――あるいは、反論ともいえる言葉は、一瞬で僕の思考回路の全てを焼き切った。
「……体を犠牲にしてまですることが……本当に、”好き”なのですか……?」
――例えるならば、百点満点を確信して提出した答案が赤点だったとか。完璧と思ってコンパイルしたソースがエラーを吐き出しまくったとか。それに近しい感覚が僕を襲っていた。
きっと、文香さんに悪意などない。それどころか心配してくれているのだろう。それ自体には、小躍りしたくなるほどの喜びを感じている自分がいる。それは事実だった。
だがその言葉ともたらした結果は鋭い剣、あるいは棘となって僕の精神を串刺しにしていた。否定……いや否定でないにしても、疑問を持たれた。だがそれだったらまだよかった。救いがあった。
本当に救いがなかったのは――その疑問に対して、僕が即座に否定出来なかったことだった。
頭は否定している。それは違うと訴えかけている。でも心がその訴えを棄却していた。理由なんてわからない。だけど僕はそれを否定できなかった。それが事実だった。
――もしも。そう、もしもだ。仮定の話だ。
仮に僕が、”好き”でこんな人生を送っているのでないならば。なぜこんな人生を送っているのだろうか?
今まで考えたこともない仮定がどうしても頭を離れない。ループバグのように答えを出せないまま、どのくらいの時間が経っただろうか。
悠久のような一瞬、時間にして一分もなかったのだろうけれど。僕は振り絞るような思いで告げる。諦めたようなって嫌われている笑みを精一杯、浮かべて。
78: 2016/04/25(月) 03:52:03.10 ID:WHoHVITeo
『……ええ、”好き”ですよ。僕は今、とても幸せなんです』
明確だが、あまりにも遅すぎた否定の言葉。今の僕に、それがしっくりくるはずもなく。それでも、僕は考えを変えなかった。
僕は好きでやってる。身を犠牲にして、命を削って、それでもいいから、と好きなことをやる道を選んだ。そのはずだ。
だってそうじゃなければ――本当にどうしようもない人生じゃないか。
そんな僕の思いが届いたのか、それとも食い下がるために引いただけなのか。それ以上文香さんが言及ことはなかった。
「……それでも。少しぐらい、ほんの少しくらいは、体を気遣っても」
それから次いで告げられた言葉は、純粋な心配の言葉で。だからこそ僕は薄笑いを浮かべたまま言うのだ。
『僕に、”栞”は要りませんから』
傍から聞けば意味不明な言葉だろう。いい歳していわゆる”厨二病”なんだと思われてもおかしくはない。けれど、僕にとってはそれが最適解。模範解答。
告げた言葉の真意が文香さんに届いたのか、届かなかったのか。おそらくは後者なのだろうけれど。そうして僕はぺこり、とお辞儀をした。
『レモンティーありがとうございました、店員さん。今日はちょっと、早めに帰って休むことにします。すみません、また』
僕は逃げるようにして古書堂を後にする。振り返ることはなかった。きっと文香さんは訳も分からず混乱していることだろう。
それを申し訳なく思う気持ちは確かにあった。けれども、それ以上になぜか不安定になっている自分がいた。
今日はもう、寝よう。たまには長く寝ることも大事だ。頭をリセットしよう。そう思った。
――二時間半後、いつも通りの睡眠時間。僕は薄っぺらい煎餅布団の中で、幾ばくかの動悸と息切れ、冷や汗と共に目を醒ます。
心のわだかまりはまだ無くなっていない。
明確だが、あまりにも遅すぎた否定の言葉。今の僕に、それがしっくりくるはずもなく。それでも、僕は考えを変えなかった。
僕は好きでやってる。身を犠牲にして、命を削って、それでもいいから、と好きなことをやる道を選んだ。そのはずだ。
だってそうじゃなければ――本当にどうしようもない人生じゃないか。
そんな僕の思いが届いたのか、それとも食い下がるために引いただけなのか。それ以上文香さんが言及ことはなかった。
「……それでも。少しぐらい、ほんの少しくらいは、体を気遣っても」
それから次いで告げられた言葉は、純粋な心配の言葉で。だからこそ僕は薄笑いを浮かべたまま言うのだ。
『僕に、”栞”は要りませんから』
傍から聞けば意味不明な言葉だろう。いい歳していわゆる”厨二病”なんだと思われてもおかしくはない。けれど、僕にとってはそれが最適解。模範解答。
告げた言葉の真意が文香さんに届いたのか、届かなかったのか。おそらくは後者なのだろうけれど。そうして僕はぺこり、とお辞儀をした。
『レモンティーありがとうございました、店員さん。今日はちょっと、早めに帰って休むことにします。すみません、また』
僕は逃げるようにして古書堂を後にする。振り返ることはなかった。きっと文香さんは訳も分からず混乱していることだろう。
それを申し訳なく思う気持ちは確かにあった。けれども、それ以上になぜか不安定になっている自分がいた。
今日はもう、寝よう。たまには長く寝ることも大事だ。頭をリセットしよう。そう思った。
――二時間半後、いつも通りの睡眠時間。僕は薄っぺらい煎餅布団の中で、幾ばくかの動悸と息切れ、冷や汗と共に目を醒ます。
心のわだかまりはまだ無くなっていない。
79: 2016/04/25(月) 03:56:51.36 ID:WHoHVITeo
本日の更新は以上です。次回も同じく一週間以内を目途にしています。
ご要望がありましたので過去作品のリンクを一応付記しておきます。
それではありがとうございました。
モバP「七人目の正直」
モバP「七夕祭りの願い」
モバP「Happy New Year, Happy Birthday」
モバP「凡人と第六感」
モバP「五光年先の星空」
モバP「四面楚歌と遊び人」
モバP「表裏比興の三枚目」
ご要望がありましたので過去作品のリンクを一応付記しておきます。
それではありがとうございました。
モバP「七人目の正直」
モバP「七夕祭りの願い」
モバP「Happy New Year, Happy Birthday」
モバP「凡人と第六感」
モバP「五光年先の星空」
モバP「四面楚歌と遊び人」
モバP「表裏比興の三枚目」
80: 2016/04/25(月) 11:29:01.28 ID:C7cD3RAcO
おつ
引用元: モバP「二兎追い人の栞」
コメントは節度を持った内容でお願いします、 荒らし行為や過度な暴言、NG避けを行った場合はBAN 悪質な場合はIPホストの開示、さらにプロバイダに通報する事もあります