1: 2008/07/16(水) 01:23:59.39 ID:rWUo/kw90

―――――まず1人



―――――残りは4人



―――――もうすぐ…  もうすぐ……









 病院の一室。



「氏ね!!出てけ!!」

 言葉と同時に、カメラが飛んでくる。
がしゃんと音を立てて、病室のドアのガラスが割れた。

2: 2008/07/16(水) 01:25:01.52 ID:rWUo/kw90

「やめなさい、めぐちゃん!!」
 ヒュンとゴミ箱が飛んでくる。
「ひっ」
 ガコッと壁にぶつかり、もともと亀裂の入っていたそれが、
ぱっくりと二つに割れる。
「佐原さんに分かるわけないわ!」
「めぐちゃ…」
 写真立てが、佐原と呼ばれた看護士に当たる。
「出てって!!出てってよ!!」
 そう言って、めぐが病院食の器に手を掛ける。
「わ、分かったわ!出てくから!だからもう投げないで!!」
「じゃあさっさとしなさいよ!」
 言い終わらない内に、佐原は逃げるように病室から出ていった。


3: 2008/07/16(水) 01:28:14.11 ID:rWUo/kw90

「…………」
 夕日のオレンジが、床に飛び散ったガラス片をきらきらと輝かせている。
 ベッドの上。黒ずんだ瞳から、白く涙の跡が見えている。
「………」
 柿崎めぐは、横になったまま、徐々に紅く染まってゆく落日を見つめていた。
「水銀燈」
 かすれた声。
「いるんでしょ?出てきなさいよ」
「………」
 しばらく間があった。
「影、見えてるから」
「………」
 窓の影から、ひょこっと第1ドールの水銀燈が顔を出した。
「最近趣味が悪いわね」
 視線を動かさないめぐ。
「……何が?」
 じっとめぐを見据える水銀燈。
「人のヒステリー盗み聞きして、楽しい?」


5: 2008/07/16(水) 01:31:35.04 ID:rWUo/kw90

「………」
 水銀燈は視線を動かさない。
「…何でもないわ。忘れて。私、ちょっとおかしくなってるの」
「…………」
 そう言って、めぐは天井に視線を移す。
「おかしくなんかないわよ」
「…え?」
 めぐが再び水銀燈を見やる。
「いつもの事じゃない」
 言いながら、割れたままのゴミ箱を指さす。
「5回くらい投げてるでしょ、それも」
「………」
 ゴミ箱を見つめたままのめぐ。
「ふふ、そうね、いつも通りね、私…何も」
「…何も?」
「変わらないわ」
「どういう意味?」
 ヒュウッと風が吹き込んでくる。


7: 2008/07/16(水) 01:37:00.01 ID:rWUo/kw90

「水銀燈、今何時?」
「え」
 言われて、水銀燈は病室の時計を見る。
「…18時…42分…」
「7月のこの時間になるとね」
「……?」
「夕日がだんだん紅く染まって、凄く綺麗なの」
「……」
「それは毎年一緒。この病室から見る景色は」
 半身を起こすめぐ。
「私の命も、変わらない」
 水銀燈がめぐを見つめる。
「いつまで経っても氏ねない」
「……」
「何なのかしら、これ」
「………」
「何か悪い事、したのかしら、私」
 ぼふっとベッドに倒れ込む。
「生まれてこない方が良かったのに」
「やめなさい、めぐ」
 窓から、病室へと入ってくる水銀燈。


9: 2008/07/16(水) 01:41:15.39 ID:rWUo/kw90

 少しうつむき加減の彼女を見て、めぐが少し笑う。
「優しいのね」
「…は?」
 顔を上げる。
「ね、水銀燈、これ見て」
 ベッドから降り、スリッパを履いて、ガラス片の中にあるカメラを
拾う。
「なぁに、それ」
「父が昔くれたの」
 言いながら、カメラを水銀燈に向ける。
「はは、見て、これ一枚も減ってないの」
「え?」
「今まで、なあんにも撮るものなんて無かったから」
 虚ろな目になる。


12: 2008/07/16(水) 01:46:16.78 ID:rWUo/kw90

「ねえ」
「ん?」
「何するの?」
「写真よ」
「シャシン?」
 怪訝な顔つきになる。
「知らないの?」
「ええ」
「…そう、ま、実際にやってみましょうか」
「……」
 ぼふっとベッドに座るめぐ。
「水銀燈、こっち来て」
 ぽふぽふと膝の上を叩く。
「何言ってるの、嫌よ」
 ぷいと横を向く。
 めぐはそれを見て目を丸くする。
「あら、貴女がここに来ないと出来ないのよ?面白いのになぁ」
 ふう、とため息をつく。
「………」
「ね、来て。ちょっとだけだから」
「……」
 しばらく横を向いていた水銀燈は大きくため息をつき、やがて渋々めぐの膝へとよじ登った。

13: 2008/07/16(水) 01:50:07.51 ID:rWUo/kw90

 一瞬フラッシュが光り、次いでジィィ~と紙が出てくる。
「ん……」
 思わずそれを覗き込む水銀燈。
 嬉しそうに微笑んでいるめぐ。その膝の上で、口を尖らせた自分が写っている。
「……鏡?」
 水銀燈が呟く。
「いいえ、違うけど…姿が映る、っていう点では同じね」
 めぐが嬉しそうに、写真をじいっと見つめる。
「ね、水銀燈」
「何?」
めぐは立ち上がり、床に転がっている
写真立てを手に取る。
「これ、飾っちゃっていいかしら」
「………」
「ね、いいでしょ、お願い」
「…好きにすれば」
 顔を背ける水銀燈。めぐは再び微笑む。


 その背後で、ほんの少し、鏡が揺らめいた。


14: 2008/07/16(水) 01:54:44.49 ID:rWUo/kw90




 ガチャリ、とリビングのドアが開いた。
「お」
 ダイニングの椅子に座っているジュンが振り向く。
「おはよう、ジュン」
 ステッキをドアノブから外し、第5ドールの真紅が口を開く。
「おはよ」
「あっ、真紅おはようかしら」
 ソファの上から、第2ドール金糸雀の声。
「もう始まるですよ」
 その隣、第3ドールの翠星石がリモコンをピッ、ピッ、と動かす。
「のりはまだなの?」
 きょろきょろと見回す真紅。
「うん、今日は遅いな…」
 真紅がため息をつく。
「しょうがないわね、ジュン、紅茶を淹れて頂戴」
「はぁ?何で朝っぱらから僕がそんな事…痛でっ!」
 ジュンの顎をツインテールが弾き、椅子ごと床に倒れ込むジュン。
「うるさいわね、早くしなさい」
「お…お前…この…」
「な~にやってるですか、気が散るですぅ」
 翠星石がため息をついた。

16: 2008/07/16(水) 01:59:00.00 ID:rWUo/kw90

 午前8時を回っても、一向にのりは下りてこなかった。
「おかしいな」
 ぐぅぅ~、と音がした。
「ん?誰だ今の」
 ジュンがソファを見る。
「翠星石は違うですぅ」
 隣の二人を見やる翠星石。
「…金糸雀ね、はしたないわよ金糸雀」
「カナはお腹なんて鳴ってないかしら」
 右端の金糸雀がきょとんとしている。
「………」
「…………」
 きゅううぅぅ~、と音がする。
「あっ、真紅、お腹減ってるのですか?」
「何だ、お前か。人のせいにするなよ、みっともない」
「う、うるさいわねっ!」
「………」
 3人が真紅を見つめている。
「わ、私、ちょっとのりの様子を見てくるから」
 お腹をさすりながら、そそくさと出ていく真紅。
「…相変わらずだな…」
 バタンと音がした後、ジュンはハア、と息を吐いた。

17: 2008/07/16(水) 02:03:53.39 ID:rWUo/kw90
「全く…レディに朝っぱらから恥をかかせるなんて…」
 文字通り真っ赤に染まった真紅は、ぶつぶつ言いながら
階段を上る。
 のりの部屋の前に立ち、コンコン、とノックする。
「のり」
 返事はない。
 もう一度、コンコン、とノックする真紅。
「のり、起きなさい」
 数秒待っても反応はない。
「…入るわよ。ごめんなさい」
 真紅が部屋に入ると、ベッドでのりが寝ているのが分かった。
「うっ…」
 つんと鼻をつく臭い。
「寝てるの?学校遅れるわよ」
 近づいていく。
 ふと、床に何かこびりついているのが見える。
「?」
 更に臭いが酷くなる。思わず鼻をつまむ真紅。
「のり…」
 顔を覗き込んだ真紅の目に映る、ベッドからだらんと垂れ下がった左手。
「!?」
「はっ…はっ…」
 のりが苦しそうに震えている。
 口元から見えている黄色い液体が、吐瀉物であると理解出来るのに、
数秒を要した。

19: 2008/07/16(水) 02:09:56.14 ID:rWUo/kw90

 ピーポーピーポー、と救急車の音が遠ざかっていく。
「………」
「びっくりしたかしら…」
 二階の窓から、翠星石と金糸雀が、心配そうに見送っている。
「心配ですぅ…」
「うん…」
 ぎゅっと拳を握りしめる金糸雀。
「翠星石」
「………」
 今にも泣き出しそうになっている。
「……」
「だ、大丈夫かしら、ほら、ジュン君も真紅もついてったし。
元気になって帰ってくるかしら」
「……」
 答えない。
「す…翠星石…?」
「わかってるですぅ」
 顔を上げる翠星石。
「でも…翠星石は…これ以上誰かを失いたくは…」
 レースの裾をぎゅっとつかむ。

20: 2008/07/16(水) 02:12:39.16 ID:rWUo/kw90
「翠星石…」
「チビ苺も…蒼星石も…」
 翠星石が目をごしごしとこする。
 金糸雀はそれを見て、雛苺の最期の姿を思い出す。


 緑色の眼球が二つ、床に転がっている。

 赤い靴が放り捨てられ、その横には、ピンク色のリボンとドレス。

 その少し向こう。

 白いイバラに覆われた肢体の傍らで光る、ピンク色の人工精霊。
 
 かつての主の抜けがらを、ただ見ているだけしか出来ない。

 その抜けがらを何度も撫で、楽しそうに笑っている、白薔薇の少女人形。



 ぞくっと背中を震わせ、金糸雀はぶんぶんと首を振った。
 ベリーベルが自分と真紅に見せた光景。いつか自分も、ああなる
時が来るかもしれない。

22: 2008/07/16(水) 02:15:40.35 ID:rWUo/kw90
>>21
四つん這いになるんで勘弁して下さい><

23: 2008/07/16(水) 02:19:12.40 ID:rWUo/kw90
「どうしたですか…?」
 いつの間にか、両肘を抱えて震えているのに気がついた。
そんな自分を、翠星石が不思議そうに見つめている。
「な、何でもないかしら」
 再びぶんぶんと首を振り、金糸雀は一階へと下りていく。
「……」
 翠星石はしばらく出ていったドアを見つめ、ふうっと息を吐く。
 窓の外を見上げると、真っ青な空が視界に飛び込んでくる。
「………妹…か」
 吸い込まれそうになる青。
「蒼星石……」
 ふと、既に動かなくなった妹の名を口にする。
 瞼を閉じると、やんちゃな自分に向ける困った笑顔が
鮮明に思い出される。
「う……ぅ…」
 翠星石は目頭を押さえた。じんわりとこみ上げる熱いものを、
何とか、何とか鎮めようとする。
「………」
 目を開けると、先ほどの青い空。
 それを見つめたまま、翠星石はしばらく動けなかった。




27: 2008/07/16(水) 02:24:25.34 ID:rWUo/kw90



 エアコンの効いた病室。
ドアの破損部分に段ボールが張られている。
「……」
 壁を背に座りこんだ水銀燈。
 ちらっと、寝ているめぐを見やる。
「うぅ……」
 くぐもった声。
「めぐ」
 思わず立ち上がる。
 傍に寄ると、汗だくになっているのが分かった。
 かたかた、と少し震えている。
「……」
 水銀燈は、思わずめぐの左手を握る。
自分の左手と、めぐの薬指の指輪が反応し、紫色の光を放ち始める。

29: 2008/07/16(水) 02:28:35.52 ID:rWUo/kw90
「………」
 めぐの呼吸が落ち着いてきた。
「ふう…」
 水銀燈は安堵の表情を浮かべる。
「…水銀燈?」
 名前を呼ばれ、顔を上げる。
「ありがとう…」
「え…あっ」
 ぱっと左手を離す。めぐはそれを見て優しく笑う。
「傍にいてくれたんだ」
「や、私は別に…」
「………」
 しばらく沈黙が流れる。
「…ちょっと嫌な夢を見たの」
「夢?」
「ええ」
 めぐが左手を伸ばしてくる。
「たまに見るのよ、同じ夢を」
「……」

30: 2008/07/16(水) 02:31:14.78 ID:rWUo/kw90
「私はここのベッドに寝ているの」
 その手が水銀燈の手に触れる。
「横に、パパが立ってて」
 めぐの触れた手を、じっと見つめる水銀燈。
「クマのぬいぐるみだったかしら、最初は。はしゃぐ私を見て、パパは笑ってた」
「…」
「次はオルゴール。何だったかな…イングランドの民謡だったわ。
嬉しそうな私を、パパがじっと見つめてた」
 声がかすれている。
「次は絵本をくれたわ。パパはここに来る度、しゃがんで読み聞かせてくれた」
「…」
「おかしいわよね、小さい頃の事は、よく憶えているのに」
「…」
「私も女の子だったのね。そのうち胸が膨らんできて」
「…」
「普通の女の子と同じで、12歳頃に生理がきた」
「…」
「私まだ、生きてるんだなって思えたわ。でも」
「…でも?」
「嬉しくなかった」
 声のトーンが下がる。

32: 2008/07/16(水) 02:33:17.97 ID:rWUo/kw90

「いつの頃からか、パパは私の傍に、座ってくれなくなった」
「…」
「笑ってもくれない。それに」
 声が震えている。
「私の顔も、見てくれない」
「…」
「何も感じてくれない」
「めぐ…」
「私を置き去りにしたまま…」
「……」
「ねえ…水銀燈」
「…なぁに…」
「早く私を連れてってよ…早く…」
 そこまで言うと、めぐは顔を覆い、鼻をすすり始めた。

33: 2008/07/16(水) 02:35:59.16 ID:rWUo/kw90
「よしなさい、めぐ」
「うっ…うっ…」
「私は天使なんかじゃない。貴女を連れてなんていけない」
「うぅ……」
「貴女に伝えたかしら、私」
「…」
「私はお人形。お父様に会うために、姉妹と闘っている。
そのために、貴女から力をもらっているだけ…」
 ベッドによじ登る。
「もう動かなくなった妹もいる。でも」
 窓の外から、ピーポーピーポーと音が聞こえてくる。
救急車が入ってきたようだ。
「私はそれに関して、何とも思っていない」
「…」
「私には私の目的がある。そのために、周りを利用しているだけ」
「…水銀燈」
「結局人は、何かにすがってもどうしようもないのよ」
 めぐが両手を離す。

35: 2008/07/16(水) 02:41:54.18 ID:rWUo/kw90
「ねえめぐ、氏にたいなら、私の指輪に貴女を取り込もうと思えば、簡単に取り込める」
「…じゃあ、早く」
 めぐの左手が再び伸びてくる。
「でも」
 手がぴくっと止まる。
「もう少し自分を見つめ直してみたらどう?めぐ」
「…は?」
「本当に氏にたいのなら、とっくにそこの窓から飛び降りてると思うわ」
「…どういう意味?」
「貴女は氏にたいんじゃない。今の状況から逃げたいだけ…」
「……」
「だから、逃がしてくれそうな私にすがっている」
「…違うわ、知った風な口きかないで」
 半身を起こすめぐ。
「違わないわ。だって」
「だって?何?」
「貴女は、自分のお父様の事を夢に見るし、鮮明に憶えてるじゃない」

37: 2008/07/16(水) 02:45:48.73 ID:rWUo/kw90
「…パパは関係ないわ」
「嘘。私に話したのは、じゃあ何?私に知ってほしいからじゃないの?
『私はパパに愛されていたはずなのに、それなのに置き去りにされてる。どうしたらいいの』って」
「………」
「貴女が本当に求めているのは」
「知った風な口きかないで!!」
 言葉と同時に、枕が飛んできた。

「きゃあ!」
 顔面にモロに食らい、バランスを崩した水銀燈が、床に頭から落ちた。
 ゴン、という音が響く。
「痛っ…」
 頭を押さえ、顔をしかめる。
「貴女に何が分かるっていうの!!」
「…な、何すんのよ!」
「私は貴女みたいに強くないのよ」
 水銀燈は、はっと気づく。
 めぐはぼろぼろと涙を流していた。

38: 2008/07/16(水) 02:48:47.90 ID:rWUo/kw90
「使えない心臓よ」
「…」
「私はクズよ。入院費も手術費も無駄なのよ。無駄。
佐原さんたちも平気で困らせるクズよ。クズなのよ」
「……」
「貴女みたいに、どこへでも飛んでいけて、
誰かと喧嘩したりなんて」
「……」
「貴女には分からないわよ!気休めはよして!
人形の貴女なんかに…」
 めぐの言葉が止まる。
 水銀燈が悲しそうな顔で、うつむいていた。
「……ごめんなさい、めぐ」
「……」

42: 2008/07/16(水) 02:52:33.02 ID:rWUo/kw90
「私が悪かった」
「……」
「傷つけるつもりはなかったのよ」
「…」
 水銀燈はそれだけ言うと、窓際に立つ。
「ごめんなさいね、さようなら」
「あ、待っ…」
 水銀燈は病室を飛び出した。
「待って!!言い過ぎたわ!!」
 めぐが慌てて窓辺に駆け寄る。
「待って!!水銀燈!待って!!」
 その声はもう、水銀燈に届いていなかった。

43: 2008/07/16(水) 02:54:51.78 ID:rWUo/kw90
「………」
 めぐはベッドの上で体育座りをしたまま、顔を伏せていた。
「ああ、またやっちゃった…」
 悲しそうな顔を思い出す。
「傷つけてしまったのは私…」
 めぐは自分自身が、非常に下らない人間だと思った。
馬鹿だと思ったし、幼稚だと感じていた。
「私なんて氏ねばいいのに」
 一度口に出すと、何かどうでもいい気分になってくる。
「私、氏ね、氏ね氏ね氏ね。めぐ氏ね。柿崎めぐなんてさっさと氏ね。氏ね氏ね」
 枕をつかみ、勢いよく壁にぶつける。
「氏ね。氏ね。氏ね氏ね氏ね」

46: 2008/07/16(水) 02:58:43.22 ID:rWUo/kw90
 しばらくその姿勢でいた後、めぐは仰向けに倒れ込んだ。
時計の針をぼんやりと見つめる。
「9時…26分…」
 どうでもいい事が頭に入ってくる。いや、頭に入れてないと、どうにかなってしまう。
そんな思いがあったのかもしれない。
 ふと横に目を転じると、昨日二人で撮った写真が立て掛けてある。
 自分が嬉しそうに笑っている膝の上で、水銀燈が不満そうに口を尖らせている。
「………プッ」
 めぐは自嘲気味に笑った。
「そうよね。当たり前よね」
 胸の奥が熱くなる。
「私といたって楽しいわけないじゃない。バッカみたい」
 吐く息が大きく震える。
「何一人ではしゃいでたのかしら。水銀燈もごめんね」
 涙が流れ出てくる。
「迷惑よね。あは」
 写真を抜きとり、額縁を壁に思い切り投げつける。
ゴッ、という音、次いでカランカランと音がした。
「ごめんなさいね。水銀燈。ごめんなさいね。写真の中の私」
 泣きながら、めぐはその写真を千切り始める。
 ビリッ、ビッ、という音が、病室に響いた。

49: 2008/07/16(水) 03:02:40.52 ID:rWUo/kw90
「………」
 細かく千切った写真を、めぐは呆けたように見つめていた。それでも、水銀燈の
顔部分だけは、破く事が出来なかったのだ。
「水銀燈…」
 捨てるゴミ箱は、壊れてしまっている。
 右手で写真の紙を持ち、おもむろにベッドを降りる。
「…」
 窓から外を眺める。自分の心とは違い、外は真っ青な空が広がっている。
「ごめんね」
 めぐは思い切り右手を振り下ろした。
 3階から舞う紙吹雪は、太陽にきらきらと反射していた。

56: 2008/07/16(水) 03:07:25.03 ID:rWUo/kw90




「嘔吐下痢症ですね、今日は点滴打っておきましょう」
「えっ」
 待合室のジュンと真紅に、医師が告げる。
「……」
「しばらくは自宅でも近付かないで下さい。
手洗い、うがいもしっかりとして下さいね。すぐうつりますから」
 淡々と述べる医師と裏腹に、ジュンは不安な表情になる。
「大丈夫なんですか」
「まあ、別に生命に関わるとか、そういうのではないんで。
ただし治りかけが一番大事ですから。弟さんも気をつけて下さい」
「………」
「点滴は2種類しますんで、ちょっと時間掛かりますよ」
「…どれくらいですか?」
「そうですねぇ」
 ちらっと時計を見る医師。
「2時間くらいでしょうか」

59: 2008/07/16(水) 03:10:40.75 ID:rWUo/kw90
>>57使えるネタは何でも使うぜ

60: 2008/07/16(水) 03:11:11.85 ID:rWUo/kw90
「今9時過ぎかー。昼前になるな。お前大丈夫か、真紅?」
 抱っこされた真紅は、お腹を押さえたまま動かない。
「………」
 代わりにじろっとジュンを睨む。
「ああ、いや、ごめん、訊いた僕が悪かった。コンビニ行こう」
「……」
 財布の中身を確認するジュン。
その腕の中で、きゅぅぅ、と真紅のお腹が鳴った。

62: 2008/07/16(水) 03:11:40.74 ID:rWUo/kw90
 病院の中庭を歩きながら、ジュンはふと空を見上げる。
「うわ…」
 目の覚めるような真っ青の空。
「今日は暑くなるな…」
「ええ…」
 突然、茂みがガササッと動いた。
「きゃあっ!!」
 真紅の身体がびくっと跳ねる。
 丸々と太った三毛猫が飛び出してきたのだ。
「ひいいい、ジュ、ジュン、な、何とかして!ひいっ!!」
 猫はしばらくこちらを警戒しながら、素早く別の茂みに飛び込んだ。
「ああぁぁぁあ……」
 がたがたと震える真紅。
「…お前」
 ジュンは真紅を抱き直し、頭を撫でてやった。
「ううう、もうダメよ、怖くて目なんか開けてられないわ」
「…じゃあ空でも見てろよ」
「ううう」
 言いながら、ジュンは天を仰ぐ。真っ青な空が、真上から果てまで、ずうっと広がっている。
 ふと、その青を見つめ、ジュンは思い出したように呟く。
「翠星石さ」
「?」
 真紅が視線をジュンに向ける。

64: 2008/07/16(水) 03:15:37.64 ID:rWUo/kw90
「もう…大丈夫かな」
「あら」
 意外そうに相槌を打つ真紅。
「気にしてたの?」
「そりゃ、蒼星石があんな事になって…」
 頬をぽりぽりとかくジュン。
「気にするよ、いくら僕でも」
「そうね」
 真紅がほうっとため息をつく。

 ジュンが立ち止まる。
「…どうしたの?」
 見上げる真紅。ジュンは硬直し、前を見つめたまま動かない。
「…何でもない」
 嘘だ、と真紅は思った。自分を抱く腕がかたかたと震えている。
 その視線の先。5、6人ほどがこちらに歩いてきている。
 家族連れだろうか。ワイワイと楽しそうに、車椅子の老人を取り囲んで、
談笑しながら近づいてくる。

65: 2008/07/16(水) 03:18:19.41 ID:rWUo/kw90
「ジュン」
「……」
 ふらりとジュンが傾いた。
「ジュン」
 もう一度呼ぶ。それに呼応したかのように、体勢を立て直す。
「ああ、ごめん、何でもないよ」
「そこにベンチがあるわ」
 言いながら指差す真紅。
「少し、休んでいきましょう」
「…何でもないんだ、ホントに。腹減ってるんだろ?真紅」
 言葉とは裏腹に、腕の震えが止まらない。
「いいわよ別に。誰も無理してまでコンビニに行って欲しいなんて、思ってないから」
「……」
「ジュン、大丈夫よ」
 首筋に頭を寄せ、何度もジュンの胸を撫でる。
「大丈夫。だから、少し休んでいきましょう、ね?」

68: 2008/07/16(水) 03:21:26.68 ID:rWUo/kw90
 ベンチに座り、震えが少し小さくなったような気がする。
「落ち着いた?」
 ジュンの右手を両手で包み、真紅が問いかける。
「……」
 答えない。ジュンは少しうつむいたまま、虚空を見つめ続けている。
「……」
 真紅はそれ以上質問するのを止めた。代わりに、何度もその胸をさすった。
 まともに外に出るのが久し振りなのは分かっていた。だから、自分はジュンに
今日、ついてきたのだ。
 医師との会話で、何かジュンが拒否反応を見せる事はなかった。だが、
先ほどの家族連れを見て、心の触れてほしくない部分に、何かが触れたのだろう。
 ジュンを慰めようと思ったわけではない。
 ただ、震えるジュンは、見ていたくなかった。

70: 2008/07/16(水) 03:23:30.48 ID:rWUo/kw90
「…行こうか」
 ぎゅっと真紅を抱く腕に力がこもり、ジュンがようやく立ち上がった頃には、
9時半を過ぎていた。
「ジュン」
 視線を動かさない真紅。
 ジュンがそれを見下ろす。
「無理しないでね」
 と真紅は言った。
「…ああ、ありがとう」
 そう言って前を向いたジュンの視線の斜め上、
何かがきらきらと降ってくるのが見えた。

72: 2008/07/16(水) 03:28:36.57 ID:rWUo/kw90
「何だあれ」
 走り寄るジュン。
「雪……いえ、紙…?」
 真紅が目を凝らす。
 その言葉で、小さな紙切れがひらひらと舞っているのだ、とジュンは理解した。

 紙吹雪は少し風に流され、芝生の上へと舞い落ちた。
近づき、その中の一枚を拾う。
「う~ん…」
 白い布のようなものが写っている。写真だ、と分かった。
「ジュン」
 ひと際大きなものを拾った真紅が、手招きしている。
「これ、見て」
 ジュンがそれを覗きこむ。
「あっ」
 言葉を失うジュン。
 銀色の髪。口をへの字に曲げた水銀燈が写っていた。

73: 2008/07/16(水) 03:31:33.91 ID:rWUo/kw90
 赤い光が辺りを包み、数十枚の紙切れが次第に形を成していく。
「これでいいわ」
 真紅が、時間のゼンマイを巻き戻したのだ。
「これは病室ね。水銀燈を抱いてるこの子が、マスターなのかしら」
「……」
 顎をかきながら写真を見つめる真紅。
 そしてそれと対照的に、ジュンは目を見開いたまま動けない。
 ジュンはその少女を見た事がある。
 ついでに言うと、その少女の名前が「めぐ」である事も知っていた。

75: 2008/07/16(水) 03:33:08.63 ID:rWUo/kw90
 紐解かれたくない過去。
 ジュンは一度、ノートに同級生の絵を描いた事がある。
 お姫様の格好をした、同じクラスの桑田由奈。
幼馴染である、柏葉巴の凛とした雰囲気とはまた違い、
可愛らしい容姿で人気があった。
 特にその容姿を鼻にかける事もなく、彼女はいつも
楽しそうに笑っていた。

 そしてその絵が全校生徒の目に晒され、描いたのがジュンであると
公表されるまで、そう時間は掛からなかった。

 便器に顔を突っ込み、喉が溶けそうになるまで吐き、
ジュンは眠りの世界に閉じこもった。

76: 2008/07/16(水) 03:36:36.17 ID:rWUo/kw90
 忘れられた世界を彷徨っていると、自分と同じように泣いている少女がいる。
一糸まとわぬ姿でうずくまり、
いつまでも顔を伏せ、涙を流し続けている。
 それが第1ドール、水銀燈だった。
『…誰……?』
 怯えたような表情。
『……お父様……?』
真っ暗闇で何も見えない水銀燈は、自分にすがってきた。

 触れ合った事で、ジュンは水銀燈の記憶を垣間見る。

 病室で彼女の髪をといている、パジャマ姿の少女。
水銀燈は少女の事を、めぐと呼んでいた。

78: 2008/07/16(水) 03:39:08.35 ID:rWUo/kw90


「…ジュン、聞いてるの」
 はっと我に返る。
「水銀燈が、この病院のどこかにいる…?」
 そう言って、紙が降ってきた方向を探している。
「ねえ」
「…あ、ああ」
「私、お腹は我慢するから」
 言いながらお腹をさする。
「この写真の主を、探しに行きましょう」
「……」
「ちょっと聞いてるの、ボケッとしてないで」
「いっ、痛い痛い」
 ジュンの頬をむにむにとつねる。
「ほら、行くわよ」
「ああ」
 ジュンはすっくと立ち上がる。
 ふと、疑問がよぎる。
 どうしてこの写真は千切られていたのだろうか、と。


82: 2008/07/16(水) 03:41:46.84 ID:rWUo/kw90


「う~ん」
 受付の女性が、写真を見てふんふん、と頷く。
「分かりますか」
「さあ…あっ、ちょっと」
 目の前を横切った看護士を呼びとめる。
「佐原さん」
 佐原と呼ばれた看護士が振り向く。
「忙しいのにごめんなさいね。この子知ってる?」
 ひらひらと写真を動かす。
「え…あっ」
 口元を押さえる佐原。
「知ってるんですか?」
 ジュンが尋ねる。
「…え、ええ。貴方お友達?」
 じっとこちらを見つめる。
「え、あ…は、はい」
「…お見舞いにきたのかしら?」
「え、ええ、そうです」
「そう」
 言いながら時計を確認する。
「案内するわ」
「そうですか、ありがとうございます」
 手招きをする佐原。ジュンはそれについていく。

84: 2008/07/16(水) 03:50:31.61 ID:rWUo/kw90
「ここよ」
 『316 柿崎めぐ』と書かれた病室の前で、二人は立ち止まる。
「(段ボール…?)」
 ドアに張られているそれを見て、ジュンは首を傾げる。
 佐原は一息ついた後、コンコン、とドアを叩く。
「めぐちゃん」
「……」
 反応はない。
「めぐちゃん、お友達よ」
 そう言って、もう一度コンコン、と叩く。
「……」
 何も返事はない。
「困ったわねぇ…」
 はあ、とため息をつく。
「寝てるんじゃないですか?」
「そうねぇ…でも…」
「でも?」
「いえ、何でもないわ。…君、ええと」
「桜田です。桜田ジュン」
「そう、桜田君、良かったら貴方が声、掛けてみてくれないかしら」
「えっ、ぼ、僕が!?」
 頓狂な声を上げる。

87: 2008/07/16(水) 03:57:45.34 ID:rWUo/kw90
「しー…。他の患者さんに迷惑よ。静かにね」
「あ、はい。…でも、僕がですか?」
「そうよ、貴方なら、返事してくれるかもしれない」
「…」
 ジュンはしばらく考える。
「わかりました。よっ…と」
 言いながら真紅を廊下の椅子に座らせる。
「こんにちは、柿崎めぐさん」
 ゴンゴン、とドアを叩く。
「……」
 やはり返事はない。
「寝てるのかしら。ごめんなさいね」
「……」
 佐原がドアノブに手を掛ける。
「いや、ちょっと待って下さい。もう一度」
「え?」
 ふう、と息を吐いた後。
「水銀燈と撮った写真を拾いました」
 ジュンはわざと大き目の声を出した。
 ばさっと中から音がする。
「誰!?」
 女性の甲高い声が響いた。

89: 2008/07/16(水) 04:03:25.13 ID:rWUo/kw90
 数秒後、ドアが勢いよく開いた。
「誰!?」
 驚いたような眼で二人を交互に見つめる。
「……っ」
 少女の目が、ジュンの顔からつま先までを
不審そうに何度も上下する。
「あ、あの」
 少女が後ずさる。相変わらずおろおろした態度。
 驚いているにしても、少し敏感過ぎやしないか、とジュンは思った。
「これ」
 ジュンは、すっと写真を差し出す。そこに少女の視線が落ちる。
「………」
「どうして…」
 めぐは突然の出来事に、どうしていいか分からなかった。
 何故写真が修復されている。
 どうして水銀燈の事を知っている。
「……?」
 めぐの視線が止まる。
「それは…」
 ジュンの左手の薬指を指さす。
「ん、あ、ああ…」
 瞬間、ジュンの腕がぐいっと引っ張られる。
「わっ」
「あっ」
 佐原が声を上げたと同時に、バタンとドアが閉められた。

90: 2008/07/16(水) 04:08:04.50 ID:rWUo/kw90
 病室の中に引っ張り込まれ、ジュンは少々驚いていた。
「……」
 ガチャ、とドアが開く。
「どうしたの、めぐちゃん」
 ドアから顔を覗かせる佐原。
「いえ、何でもないのよ佐原さん、私大丈夫だから。出てって」
「……」
 佐原がジュンに視線を送る。ジュンは戸惑いながらも、
「大丈夫です」という風に頷いた。
「…分かったわ。また何かあったら呼んでね」
 そう言って、佐原はドアを閉めた。


92: 2008/07/16(水) 04:13:23.24 ID:rWUo/kw90
「………」
 ベッドの上。めぐが、ジュンと写真を交互に見ている。ジュンは頭をかきながら、
部屋の中を見渡している。
「何か探してるの?」
「いえ……」
 あるのはテレビ、そして本が2冊。棚の上の写真立てと、置時計のみ。
「ふふ」
 めぐが写真を見つめたまま笑う。
「何もないでしょ、この部屋」
「え」
「私が何でもすぐ投げちゃうから」
「……」
「性格悪いのよ、私」
 ジュンは黙っている。
「これを破いて窓から捨てたのも私よ」
 顔を上げるめぐ。
「ありがとう」
 少し穏やかになったような気がする。
「何がですか?」
 ジュンが尋ねる。

93: 2008/07/16(水) 04:17:27.58 ID:rWUo/kw90
「この写真、元に戻してくれて。それはお礼を言っておくわ」
「……」
 ジュンは黙っている。ぽりぽりと頭をかく。
「一つ確認させてもらってもいい?」
「…はい」
「貴方も誰かと契約してるのね?その指輪」
 ジュンが左手に視線を落とす。
「あ、いえ…」
「隠さなくていいわ。水銀燈の名前が出た時点で分かった。それに余計な詮索するつもりはないし」
「………」
「私は水銀燈と契約してるの。柿崎めぐっていうの」
 再び視線を落とすめぐ。
「………」
「……」
 体育座りをしたまま、顔を膝の間に深くうずめる。

117: 2008/07/16(水) 08:06:04.56 ID:rWUo/kw90
寝落ちでしたごめんなさい

119: 2008/07/16(水) 08:09:23.91 ID:rWUo/kw90
「……」
 沈黙が流れる。
「…あ、あの」
「…何?」
「その水銀燈はどこにいるんですか?」
「……」
 会話が再び途切れる。
「私が今朝、怒って追い出しちゃったわ」
「え」
「だって、あの子私を諭すような事ばかり言うんですもの。
『もう少し自分を見つめ直してみたら』ですって。
私が今更、何を見つめ直せっていうのかしら。いい子ちゃんね」
 吐き捨てるめぐ。
「水銀燈がそんな事を…?」
 傍から聞いていて、ジュンは意外な感じがした。
「ええ、私はさっさと氏なせてほしいって言ってるのに」
「………」
「こんなポンコツな心臓いらないのよ、いい加減」
「心臓…?」
「私ね、先天性の心臓病なの」

120: 2008/07/16(水) 08:13:38.47 ID:rWUo/kw90
「………」
「5歳までに氏ぬ」
 ジュンが思わずめぐを見る。
「その次は7歳までに氏ぬ、10歳までに氏ぬ」
「……」
「親たちも、いい加減悲しむのに疲れちゃったみたいよ。
お母さんは出てっちゃったし、お父さんは…」
「………」
 めぐはうつむいたまま、写真立てを手に取る。
「そんな時かしらね、水銀燈と出会ったのは」
 ジュンは黙ってそれを見つめている。
「おかしいのよ。私の命を使い切って欲しいって言うと、
あの子はいつも黙り込む」

122: 2008/07/16(水) 08:17:00.74 ID:rWUo/kw90
「………」
「いつも黙り込んで、窓辺に座って私を見てる」
「あいつが…」
「意外だと思ってるんでしょ」
「え、あ」
「想像つくわよ、あの子の外での立ち居振る舞いくらい」
「……ええ」
「でもね、本当はきっと…」
「?」
「優しい子なのよ。私には勿体ないくらいに、ね」
 口元がほころぶ。
「……」
 嬉しそうに写真を見つめるめぐ。ジュンは、何も言えなかった。

124: 2008/07/16(水) 08:23:43.03 ID:rWUo/kw90
「……」
 会話が途切れ、ジュンが息を吐いた。
「じゃあ、僕はこれで帰りますんで」
 めぐが顔を上げる。
「待って」
「?」
「私ね、この16年間、友だちが一人も出来なかったの」
 2つ上なのか、とジュンは意外に感じた。
「連絡先教えて。たまにでいいから、お話しましょうよ」
「え」
「だめ?お願い出来ないかしら」
「……別にいいですよ」
 言いながら、財布を棚に置き、中から連絡先のメモを取り出す。
「本当?ありがとう」
 ジュンの視界で、めぐが嬉しそうに笑う。
いや、何かほっとしたような、安心したような笑顔。
「え、ええ」
 ジュンもつられて笑った。

125: 2008/07/16(水) 08:31:54.96 ID:rWUo/kw90
「桜田ジュン君…住所が…へえ、ちょっと遠いのね…」
 少し残念そうに呟く。
「ええ、電車で5駅ほど向こうです」
「そう」
 はあ、と息をつくめぐ。
「連絡先は家の電話で…」
「貴方いくつ?」
 ジュンが顔を上げる。
「私と同い年くらいでしょ?そういえば、学校は?」
 訝しげな表情。
「………」
 うつむいたジュンを見て、めぐは言葉を止める。
「ごめんなさいね、忘れて頂戴」
「いえ……」

126: 2008/07/16(水) 08:35:18.12 ID:rWUo/kw90
「ばいばい、またね」
 ベッドから手を振るめぐ。
「はい」
 ジュンが振り向き、小さく手を振る。
「…………はあぁ」
 バタンをドアが閉まり、めぐは小さく肩を震わせる。
何か、身体全体がむず痒く感じる。
「ふうーっ」
 仰向けになり、丸めたタオルケットに抱きつくめぐ。
「………」

 そしてその一部始終を、窓の外から水銀燈が見つめていた。

128: 2008/07/16(水) 08:40:33.49 ID:rWUo/kw90
 病院の屋上。
「……」
 水銀燈が、ぼんやりと空を見上げている。
「めぐ……」
 いつものヒステリーだと分かっていた。自分が戻れば、彼女は
「ごめんなさい」と言って出迎えてくれる。
 いつもの事だと思った。
 だが、そこには初めて見る光景が広がっていたのだ。
「どうして……」
 真紅のマスターがあそこにいた?
 そればかりが頭の中を駆け巡る。
「……」
 めぐは嬉しそうだった。というより、安心しきっているように見えた。
真紅が嗅ぎつけたのだろうか。いや、でもあそこに真紅はいなかった。
違う。
部屋の中にいないからと言って、真紅がめぐの事を勘付いていないとは言えまい。
「………」
 何となく、あの部屋に入れなかった。
水銀燈はぎゅうっと膝を抱え、顔を伏せる。
 めぐが幸せそうなら、それでいい。自分も嬉しいと思うべきだ。
だが―――
「淋しいのでしょう、お姉さま」
 透きとおるような声が響いた。

129: 2008/07/16(水) 08:43:25.08 ID:rWUo/kw90

 ばっと振り向く。
「大切なマスターに追い出され」
 ウェーブのかかった髪が、風でゆらゆらと動いている。
真っ白なドレスに身を包み、金色の左目がこちらを見つめている。
「まるで、居場所を失くしてしまった子どものように」
「…雪華綺晶」
 第7ドール雪華綺晶は、ニッと笑い、近づいてきた。

「それ以上近寄らないで。メイメイ」
 間合いは数メートル。姿勢を低くし、身構える水銀燈。
それと同時に紫色の人工精霊が現れる。
「ちょっと待って。私は争いに来たわけではないのです」
「なぁに?私が貴女を信じると思うの?」
 水銀燈は動かない。
「あの人間、私が排除してあげてもいい」
 水銀燈の眉がぴくっと動く。

138: 2008/07/16(水) 11:17:52.84 ID:rWUo/kw90
「あれ真紅のマスターでしょう、私知ってますわ」
「…だから何?」
「邪魔でしょう?」
 ぷいと視線を逸らす水銀燈。
「ね」
「黙んなさい」
「どうしてですか?」
「何を考えてるのか知らないけど、貴女と話す事なんてないわ」
 水銀燈はそっぽを向いたまま続ける。
 それをじっと観察する雪華綺晶。
「私はあります」
「あっそ」
 ヒュッとその場を飛び立つ。
「ふふ」
 雪華綺晶はその後を追った。

139: 2008/07/16(水) 11:24:31.29 ID:rWUo/kw90
「ついて来ないで。喧嘩売ってるの」
「いいです。そのままで聞いて下さい。私勝手に喋りますから」
「……」
 水銀燈は舌打ちする。
「お姉さまはアリスになるために、ローザミスティカを集めている」
「………」
「当然私も、真紅たちもアリスを目指している」
「………」
「でも私は、ローザミスティカは要らない」
「は?」
 水銀燈が空中で止まり、雪華綺晶を見やる。
「私は別の方法でアリスに孵化する」
「どういう事かしら」
「この先は、お姉様が話を聞いていただけるのであれば…。
ただ、黒薔薇のお姉様に危害は加えない」
「………」
「約束します」
「……」

140: 2008/07/16(水) 11:29:27.50 ID:rWUo/kw90
 水銀燈は、街の一角にある林の中へと舞い降りる。
「話、聞く気になりました?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ええ、一応聞いたげるわ」
「……」
「ローゼンメイデンは7体。うち、第4ドール蒼星石と
 第6ドール雛苺は、既に退場している」
「………」
「ドールのマスターは5人。
 第1ドールは柿崎めぐ、
 第2ドールは草笛みつ、
 第3、第5ドールは桜田ジュン、
 第4ドールは結菱一葉、
 そして私のマスターは、オディール・フォッセー。
 第6ドールは既にマスターとは契約解除している」

141: 2008/07/16(水) 11:33:31.88 ID:rWUo/kw90
 指を折りながら呟く雪華綺晶。
「それが何?」
「私がアリスになるには、マスターたちの力が必要」
 ヒュウッと風が抜けていく。
「キチンと説明なさい」
「5人全員に眠りについてもらう必要がある」
「へえ、つまりめぐを眠らせて力を吸い取ろうってわけ」
 水銀燈の視線が鋭くなる。
「ええ、でもそれじゃ認めてもらえない事くらい承知してますわ」

「代わりに、全員のローザミスティカを差し上げます」
「全員?」
「その力を使えば、柿崎めぐは生き長らえる事が出来るでしょう。
その効果は、蒼星石のでお姉様も理解されているはず」
「…質問するわ、雪華綺晶」
 風が止む。
「何でしょう?」
「どうしてそんな提案をするの?わざわざ面倒くさいプロセスを踏む理由は?」
「私はただ、お姉様を救いたいだけ」
 微笑を浮かべる。

143: 2008/07/16(水) 11:44:09.33 ID:rWUo/kw90
「………」
 はあ、とため息をつく。
「信用ならないわ、ごめんなさいね」
「そうですか」
「仮にそれが通るとして、雛苺のローザミスティカを逃がした理由が分からないわ」
 笑顔が消える。
 水銀燈はそれを見て言葉を続ける。
「悪いけど、一貫性がない話に付き合うつもりはないの」
 やれやれ、という風に広場に向いて歩き始める。雪華綺晶から視線は外さない。
「………」
「……………」
 イラつくほどにいちいち即答してきていた雪華綺晶が、黙り込んだ。
「どうしたの、儲け話はお仕舞いかしら」
 睨んだままの水銀燈。じわじわと距離は離れていく。
「…わかりました。お話ししましょう」
 歩いて水銀燈の後をついていく。
「私は、元々はアストラルの人形」
 水銀燈の足が止まる。
「器が欲しかったのです。こちらの世界に干渉するために」

144: 2008/07/16(水) 11:48:34.82 ID:rWUo/kw90
「……器?」
「お姉様たちにあって、私に足りないものを補うために」
「ちょっと待ちなさい、どういう意味?じゃあ…」
 水銀燈がはっと目を見開く。
「そのために、私は雛苺の身体を奪った」
 優しい隻眼が、こちらを真っ直ぐ見据えている。ぞくりという感覚が
背筋に走る。
「あの時、真紅と金糸雀が迫っていた。こちらの動きがバレてしまえば、
もう器を手に入れるチャンスは少なくなる。だから」
「………」
「あそこでは雛苺の器を、最優先で手に入れなければならなかった」
 表情一つ変えない。
 ふう、と息を吐く水銀燈。
「……それで?」
「私嘘は申してませんわ。つまり」
「器なしでは、nのフィールドから出られない。こちらの世界に直接の干渉は出来ない?」
 水銀燈がわざと大きめの声で遮る。
「……そうですわ」
「じゃあ現実世界に、ローザミスティカなしのアストラル体で放り出された場合、どうなるのかしらぁ」
 雪華綺晶の眉がぴくっと動く。
水銀燈はそれを見逃さない。

145: 2008/07/16(水) 11:52:55.46 ID:rWUo/kw90
「………」
「どうしたの?答えられないの」
「……」
「たとえばローザミスティカを私に全部くれた後で私が攻撃して」
 言いながら水銀燈は踵を返す。
「ぶっちゃけ、勝負は見えてると思うのよぉ」
 タイミングはもう少し。1秒… 2秒…
「ねぇ、どうなるのかしら?」
 ぐりんと不自然なほどに身体を捩じり、水銀燈は振り向いた。
 雪華綺晶の視線が一瞬泳ぐ。
「…どうしたの?」
「………」
 水銀燈は目を見開いた。
 突然雪華綺晶の身体が光り始め、体内からローザミスティカが出現する。
「……さ、行きなさい、お姉様のもとへ」
 ふわりと浮きあがり、水銀燈の身体の中へ消えていく。

146: 2008/07/16(水) 12:14:40.58 ID:rWUo/kw90
「…ふ」
「…信じる気になりました?」
「どうやら本気でいらないみたいねぇ、ローザミスティカ」
「ええ」
「……いいわ、貴女の話に、乗ったげるわ。ただし」
 胸をさすりながら答える。
 雪華綺晶が再びこちらをじっと見つめる。
「条件がある」
「……」
「ローザミスティカを一つ奪う度に、私の所へ持ってくる事」
「……全てお姉さまが取得するまで、マスターはいただけないと?」
「そこまでは言わないわ。そんなの取引じゃないでしょう」
「そうですね。私もそんなの受け入れられませんわ」
「……」
 同時に、ニヤリと笑う。
「今、私の中には2つ。貴女ので3つ目」
「……そうですね」
「4…いや…5つ」
 左手を広げる水銀燈。
「私の中に5つ集まったら、めぐを渡してあげる」

147: 2008/07/16(水) 12:21:33.22 ID:rWUo/kw90
「…」
 無表情の雪華綺晶。
「なぁに?それ以上は譲らないわよぉ」
「…いいですわ。そしたらそれで」
 沈黙。
「また、新たなローザミスティカを手に入れたら、お伺いします」
 雪華綺晶はにこっと微笑み、飛び去った。
「………」
 水銀燈は完全に姿が見えなくなるのを確認し、反対方向に飛び立つ。

『貴女がアリスになった後、めぐは普通に目覚めてくれるのかしら』

 その疑問を口にしなかったのは理由がある。
 ひとつは、向こうに自分を信じ込ませておくため。
そしてもうひとつ。
 おそらく目覚めない、そう思っていたからである。
 ローザミスティカが集まるのは好都合。だが、めぐを失うわけにはいかない。
「どうすれば…」
 太陽が照りつける真夏の空を、水銀燈は飛び続けた。


149: 2008/07/16(水) 12:28:06.16 ID:rWUo/kw90
 桜田家。
「はあーあ、疲れたーあ」
 ベッドに倒れ込み、ジュンがぼやく。
「のりは?」
「2~3日安静にしてれば大丈夫だってさ」
「そう」
 紅茶を飲む真紅。
「で、どうだったの?」
「ん」
「水銀燈のマスターは」
 ジュンが半身を起こして真紅を見る。
「どうって…」
「水銀燈はいたの?」
「…いや、いなかった」
「?」
 真紅が首を傾げた。

157: 2008/07/16(水) 13:20:54.85 ID:rWUo/kw90
「………」
 時計の針が2時を指し、窓から蝉の鳴き声が聞こえる。
「……そう」
 一部始終を聴き終えた真紅が、膝に乗せたカップを見つめている。
「意外だったよ」
「…心臓…」
 ジュンが顔を上げる。
「…氏に憑かれた少女」
「…?」
「ねえ、ジュン」
 カップをお盆に置き、立ち上がる。
「どうした?」
「……」
 おもむろにベッドによじ登る真紅。
「わ」
 ジュンが驚く。
 真紅は慣れた手つきでジュンの膝の形を整え、そこに座り込んだ。
「ジュン…」
 つぶらな瞳がこちらを見上げる。
「し、真紅…」
「ふふ」
 悪戯っぽく笑う。

158: 2008/07/16(水) 13:26:27.61 ID:rWUo/kw90
「な、何だよふざけてんのか」
「いいえ」
 ジュンの胸に手を当てる。
「私ね、淋しくなったり、つらい事があった時は、こうしてると安心するの」
 寄り添ったまま目を閉じる。
「……こそばいから止めろよ」
「ええ、気が済んだら解放してあげるわ」
「………」
「貴方はつらい事があった時、いつもどうしてたかしら、ジュン」
「え?」
 少し顔を離し、もう一度ジュンを見上げる真紅。
「ラプラスに苛められたり、そうね、思い出させて悪いけど、
この間、貴方の学校の先生が来たわね」
「………」
 顔をしかめるジュン。
「私知ってるわ。貴方は毛布をかぶって、自分の部屋に閉じこもってしまった」
「…からかうなら出てけよ」
「もう少しだけ話があるの、それが済んでからね、ごめんなさい」
 そっとジュンの胸を撫で始める。

160: 2008/07/16(水) 13:28:52.81 ID:rWUo/kw90
「私もそう」
 撫でられる胸がくすぐったい。
「腕を水銀燈に引っこ抜かれた時、私は鞄に引き籠ってしまった」
「………」
「もうね、つらくてつらくてしょうがなかったわ」
「……」
「貴方が掛けてくれた言葉を無視して」
「……」
「…落ち着いた?くすぐったかったでしょう、ごめんなさいね、ジュン」
 撫でる手を止める。
「でもね、後から鞄を出て、貴方が繕ってくれた服を着たのは」
「…?」
「貴方があの時、言葉を掛けてくれたから」
 見上げる真紅の顔がほころぶ。
「欠損した状態で服を着る事に抵抗はあったけど、
貴方の言葉が、私の背中を押してくれた」
「真紅…」
「つらい事があった時、ジュンの膝に乗って、こうして全身を預けていると安心する」
 ジュンは照れ臭い気分になる。
「たぶんね、貴方が優しい人間だって知ってるから」

161: 2008/07/16(水) 13:33:39.44 ID:rWUo/kw90
「………」
 真紅はしばらく目を閉じていたが、やがて立ち上がる。
「きっと水銀燈たちもそうじゃないかしら」
 ベッドを降りる。
「お互いが優しいって知ってるから、お互いを必要とする」
「……」
「水銀燈は、たぶん優しいんでしょうね。根っこのところで」
 ふう、とため息をつく。
「ま、私の事は嫌いなんでしょうけど」
 ジュンが変な顔をする。
「また今度行くんでしょう?」
「ん、あ、ああ、多分な」
「私も連れてって」
「え?」
 その場に座る真紅。
「私も話してみたいわ。その柿崎めぐって子と」
「え、でも…」
 カップを持つ。
「いいじゃない、水銀燈がいたって、めぐって子の前で暴れたりはしないでしょう」

162: 2008/07/16(水) 13:34:04.68 ID:rWUo/kw90
「………ん、まぁ…」
「そうね、今度は翠星石とか、金糸雀とか、その辺も一緒に」
「いや、それはお前…」
「冗談よ、そこまでしたら水銀燈だって怒るわ」
 ふふ、と笑い、真紅は紅茶を飲んだ。
 ふと、きょろきょろと部屋を見回すジュン。
「そういえば、翠星石は?」
「?さあ、出掛けたんじゃないかしら。蒼星石の所へでも」
「ああ…」
 ジュンが窓の外を見上げる。
 快晴だった真夏の空を、東から真っ白な入道雲が覆い始めていた。



163: 2008/07/16(水) 13:36:53.62 ID:rWUo/kw90

「あれー?」
 丘の上。結菱家の窓を、翠星石がごんごん、と叩いている。
「おじじ、起きるですぅ、翠星石が来てやったですぅ」
 部屋の中、ベッドに伏せっている一葉は、起きる様子がない。
 おかしい。
「………」
 一度、唇をぎゅっと噛み、翠星石は鞄を両手で持つ。
「おじじ、ちょっと失礼するです」
 次の瞬間、窓に向け、それを思い切り振り下ろした。

165: 2008/07/16(水) 13:40:36.80 ID:rWUo/kw90


 かしゃん、と音を立てて、食器を棚の上に置くめぐ。
「…がと…敬…やめて…気持ち悪い……先……」
 食器のあった場所に便せんを置き、何かを書いている。
「…から…また……」
 ガタッと音がした。
 めぐが窓の方を見やると、翼の生えたシルエットが浮かんでいる。
「!!」
 ベッドから降り、ガラッと窓を開ける。
「水銀燈!!」
 水銀燈は視線を伏せたまま、窓辺に突っ立っている。
「戻ってきてくれたの!」
「………」
 答えない。めぐはそれを見てうつむく。
「ごめんなさい…私…」
「…歌って」
 顔を上げるめぐ。水銀燈が、めぐの髪を小さく撫でる。
「まだ貴女を一人にするわけにはいかないの。だから」
 感情を込めない声、だがどこか優しい表情。
「………」
 めぐは思わず口元を押さえる。
「ごめんね、ごめんね水銀燈」
 その頬に、涙が流れた。

167: 2008/07/16(水) 13:42:50.43 ID:rWUo/kw90
「何を書いているの?」
 窓辺に座った水銀燈が、ベッドの上のめぐに話しかける。
「知りたい?」
「…ちょっと気になっただけよ」
 少し視線を逸らす。
「今日ね、男の子が来てくれたの」
「………」
「驚いたわ。私と同じで、ローゼンメイデンのマスターだった」
「………」
 めぐが手を止める。
「驚かないの?」
「…ごめんなさい、見てたのよ」
「あら」
 再び筆を走らせるめぐ。
「やっぱり貴女、趣味が悪いわ」
「……」
「今度は盗み見なんて」
「…たまたまよ」
「私はね、手紙を書いてるのよ。今日来てくれた、その子にね」
「…」
 コンコン、とドアを叩く音がした。

176: 2008/07/16(水) 14:41:56.12 ID:rWUo/kw90
「はい」
「めぐちゃん、入るわよ」
「……」
 その声を聞いて、水銀燈は窓の外、見えない場所へと移動する。
「食器下げに来たわ。…あら」
 看護士が目を丸くする。
「めぐちゃん、何書いてるの?」
「秘密よ」
 ペンを止めずに答えるめぐ。
「そう…頑張ってね」
「ええ」
 一息つき、食器を持つ看護士。
「あら…」
 食器を見て、思わず声が漏れる。
「何?どうかした?」
「ううん、じゃあ、失礼するわね」
 看護士は一度だけめぐを見やり、すぐに出ていった。

180: 2008/07/16(水) 15:00:57.21 ID:rWUo/kw90
 nのフィールド。

 金色の隻眼が、二つの水晶を嬉しそうに眺めている。

 水晶の中には、それぞれ人影が一つずつ。
片方には、一人で楽しそうに遊ぶ、金髪の少女。
もう片方には、相手のいないテーブルで、一人お茶を飲んでいる老人。
 いずれも指に、薔薇の指輪をしている。


「…オディール、結菱一葉…これで2人…」

 つい先ほど、雪華綺晶は一葉を眠りにつかせ、その精神に
根を張り終えた。

 今は根を張る事で消耗した体力を、回復させているところだ。
今日はもう動けそうにない。
 オディールの時もそうだった。根を張り終えた後はまともに
身体が動かず、丸一日、nのフィールドで身体を休ませなければ
ならなかった。
 加えて、自分のローザミスティカを水銀燈に渡した今、
事は慎重に進めなければならない。

「残り3人……残り…4体……」
 膝を抱え、現状を整理する。

181: 2008/07/16(水) 15:03:18.10 ID:rWUo/kw90
 目的はアリスになる事。

 そのために自分に出来る事。
 自分に出来ない事。

 水銀燈。
 金糸雀。
 翠星石。
 真紅。

 桜田ジュン。
 草笛みつ。
 柿崎めぐ。

 どのドールに何の情報がいっているか。

 考えうる最悪のケース。

 起こりうる、有意な可能性のあるケース。

 それを乗り切るための方法。

 自分の手駒。

 ドールの特技は。強いドールは。弱点は。

183: 2008/07/16(水) 15:04:52.86 ID:rWUo/kw90
 雪華綺晶とて、万能ではない。得意があれば、苦手もある。
それをどう悟らせないようにするか。
 どう避けるか。
 どうやってこちらに引きずり込むか。

 既に優先順位を決めて動いているとはいえ、一抹の不安はあった。
誤算もあった。その中で、選択肢を絞っていく。
「………」
 感情のない隻眼が、二つの水晶を見つめ続けていた。




184: 2008/07/16(水) 15:11:31.12 ID:rWUo/kw90
 2日後、桜田家に一通の手紙が届いた。
「あ」
 ベッドから動けないのりの代わりに、ジュンが玄関先で
それを見つける。
「柿崎さんからだ」
 緑色の80円切手が貼ってある封筒の中央に、丸みを帯びた
女の子らしい「桜田ジュン様」という文字が並んでいる。
 ダイニング・テーブルで封を開け、中身を確認する。
「なぁに、それ」
 向かいの席から真紅が尋ねる。
「手紙だよ」
「手紙?」
 4つ折りの便せん2枚を、ピラピラと広げてゆく。
「なになに……」
「私も読んでみたいわ」
 真紅が便せんを引っ張る。
「んあ?ああ、あとでな」
「今読みたいのよ」
 じっとこちらを見つめてくる。

189: 2008/07/16(水) 15:16:50.08 ID:rWUo/kw90
「……お前宛じゃないだろ」
「何よ、口答えするつもり」
 椅子を降り、ぎゅうっと脛をつねる。
「痛ででで何すんだ!!」
「読ませないからでしょう。せめて抱っこして一緒に読ませて頂戴」
「……しょうがないな」
 はあ、とため息をつくジュン。
「どれどれ…」


   『拝啓って書こうとしたけど、手紙の書式なんて分からないし、間違っていたら
    恥ずかしいので止めました。
     改めましてこんにちは。こないだは写真、ありがとう。あれ、貴方のお人形さんの力で
    直したのかしら?そうだとしたら、廊下の椅子とかで、待ってもらってたのよね?
    ごめんなさいね、今度は、お人形さん連れてきてほしいわ。お礼がしたいから。
     それと、敬語なんてやめて。あれで貴方がマジメなのは分かったけど、
    あんなの気持ち悪いわ。私は部活の先輩じゃないのよ。
     ね、私は貴方を【ジュン君】って呼ぶわ。だから貴方も私を名前で呼んで。
    次に敬語使ったら、スープ投げつけるわよ。

     ごめんなさい、脱線してしまったわね。
    久し振りに同じくらいの歳の子と話せて、ちょっぴり楽しかったわ。
    今度はお茶くらいは出すから、また近々来てね。約束よ。

                            有栖川大学病院 316号室 柿崎めぐ 』


190: 2008/07/16(水) 15:23:19.74 ID:rWUo/kw90
「な、名前で…って」
「あら、意外とモテるのね、ジュン」
 真紅が見上げ、ニヤニヤしている。
「なっ、何が」
「明日また行きましょう。スープ投げつけるなんて発想の出来る子、
話してみたいのだわ」
 仲良く会話する二人。
「………」
 その二人を、廊下から眺める翠星石。

「言うべきですかねぇ…」
 ドアを閉め、壁に寄り掛かる。

192: 2008/07/16(水) 15:25:55.99 ID:rWUo/kw90

 一昨日、結菱家の窓を割って侵入した翠星石を待っていたのは、
起きない一葉、そして、空っぽの蒼星石の鞄だった。
「………」
 翠星石は雪華綺晶を見た事がない。それが7番目のドールだ、という事は
分かっている。だが、雛苺の身体をあの人形が奪った、それ以外、
何も知らない。
「第7ドール…」
 ぶるっと身体を震わせる。水銀燈とはまた違う、
冷たく、残酷な何かを感じた。
 何をしてくるか分からない。残された自分も、眼球をくり抜かれ、
身体を奪われてしまうのだろうか。

 コトリ、と音がした。


193: 2008/07/16(水) 15:30:24.02 ID:rWUo/kw90
「…?」
 キシッ、と、今度は床が軋む音。
 翠星石が顔を上げる。
「あっ」
 そこから動けなくなる。
 視線の先。納戸の入り口に、双子の妹、蒼星石が
立っていた。
「そ…」
 踵を返し、納戸に入っていく。
「待って」
 翠星石が後を追う。
「蒼…!」
 納戸に入ると、ちょうど蒼星石の足が、鏡の中に
消えていくところだった。
「待って!待ってですぅ!」
 翠星石がnのフィールドに飛び込み、鏡が小さく光った。

194: 2008/07/16(水) 15:36:03.79 ID:rWUo/kw90
 飛び続ける翠星石の目に、蒼い人形がだんだん大きく見えてくる。
「蒼星石!!」
 ようやく裾を掴める所まで来たか、という時、蒼星石は不意にこちらを向いた。
「あぷっ」
 スピードを緩めた蒼星石と、翠星石がぶつかり、そこから二人は落下していく。
「きゃうっ!!」
 ドスンと音を立てて、何か柔らかい所に不時着する。

「う…うう……」
 目を回していた翠星石が身体を起こすと、そこは庭園のような場所だと気づく。
「びっくりしたじゃないか。何するんだよ」
 驚いた表情で、妹がこちらを覗きこんでいる。
「え…そ…」
「?」
 怪訝そうな表情でこちらを見る。
「蒼星石…?」
「そうだよ、…どうかしたの?翠星石」
 翠星石の顔がくしゃくしゃになる。
「蒼星石ぃっ!!!うわああぁぁあん!!!」
 がしっと抱きつき、翠星石は泣き始めた。

197: 2008/07/16(水) 16:15:43.05 ID:rWUo/kw90
「ちょっ…」
「うええええええんん!!!うわあぁぁあん!!!」
「参ったな……」
 そう言いながらも蒼星石は笑い、翠星石の背中に手を回した。

「まずは一人…これでいい」
 白い水晶に閉じ込められた翠星石と蒼星石。いずれ自らのネジが切れるまで、
操り人形と化した妹を、姉は愛で続けるだろう。
「ふふ」
 その様子を眺めていた雪華綺晶は、笑みを浮かべ、その場を去った。
 


198: 2008/07/16(水) 16:28:45.52 ID:rWUo/kw90
 次の日。



「翠星石、どこ行ったのかしらね。鞄置いて」
 有栖川大学病院の廊下を、ジュンが歩いている。
「蒼星石のおじいさんの所じゃないのかな」
「…そうだといいけど」
 腕に抱かれた真紅が、胸をぎゅっと握る。

 316号室の前で立ち止まる二人。
「いいか、準備は」
「ええ」
 コンコン、とドアを叩く。
「どうぞ」
 今度は中から声がした。

200: 2008/07/16(水) 16:34:29.85 ID:rWUo/kw90
「こんにちは…あっ」
 ジュンが思わず立ち止まる。
「こんにちは、初めまして」
 真紅は表情一つ変えず挨拶する。
 バサッと、本が床に落ちる。
「あっ、こんにちは、来てくれたんだ」
 ベッドの上、めぐの笑顔とは対照的に、椅子に座って本を
読んでいた水銀燈が、硬直している。
 足元に落ちた本を、拾おうともしない。
「………」
「水銀燈、こんにちは」
 真紅がそれを見つめ、感情を込めずに挨拶する。
「………」
 ジュンの背中に冷や汗が流れる。
「…めぐぅ」
 水銀燈が口を開いた。

202: 2008/07/16(水) 16:39:51.53 ID:rWUo/kw90
「私ちょっと用事があるから、この子と」
 真紅を指さす。
「え、何で?私この子にお礼言わなきゃいけないのよ」
「そう、じゃあ後にして」
「嫌よ、お礼だけなら一瞬で済むじゃない」
「………分かったわ、勝手にしなさぁい」
 そう言って、窓から出て行こうとする。
「待って水銀燈、ちょっと…」
 声を掛けるも、水銀燈はさっさと出て行ってしまった。

203: 2008/07/16(水) 16:45:38.52 ID:rWUo/kw90
「…ごめんなさいね。いつもは…まあ大体あんな感じか」
 はは、と笑うめぐ。
「ねえ、ジュン君」
「はい」
「はい、じゃないでしょ。手紙読んでくれてないの」
 口を尖らせる。
「え、あ」
「敬語禁止って書いたでしょう」
「…ごめん、なさい」
「ごめん、でいいのよ」
「………」
 ジュンは頭をぽりぽりとかく。
「面白い子ね」
 じっと聞いていた真紅が口を開く。
「あら」
「何?」
 めぐが身を乗り出してくる。
「ふふ、こんにちは」
「ええ、こんにちは」
 ジュンの腕から飛び降り、めぐの傍に寄る。

204: 2008/07/16(水) 16:50:37.27 ID:rWUo/kw90
「貴女、名前は?」
「…私は真紅、ローゼンメイデンの第5ドール」
「そう、真紅…紅い、っていう意味の?」
「そうよ」
「………」
 見つめ合う二人。
「ね、真紅ちゃん、ココに座って」
 ぽんぽん、と椅子を叩く。
「お話ししましょうよ」
「………」
「ね、いいでしょ」
「分かったわ」
 そのままお喋りを始める二人。
「………」
 ジュンは10分ほど突っ立っていたが、やがて病室を出ていった。

207: 2008/07/16(水) 16:55:06.74 ID:rWUo/kw90

 水銀燈は屋上の端に座り、足をぶらんぶらんと揺らし続けていた。
「………」
 ぼーっと遠くを見つめる視線とは対照的に、右手はトントントントンと小刻みに
コンクリートを叩き続ける。
 病室はどうなっているだろうか。真紅とめぐが、楽しそうに会話している
様子が浮かぶ。
 ガン、とかかとで壁を蹴る。ガン、ガン、と何度も蹴った。
「…ムカつくわ」
 続いて左手で、背後のフェンスをがしゃんと叩く。
「………」
 視線は相変わらず、空の遠くの方。
 白い入道雲が見える。
 真っ青な空を、その内覆い尽くしてしまうのではないかと思えるような雲。
白いようでいて、その根元は灰色に染まりかけている。

208: 2008/07/16(水) 16:57:52.42 ID:rWUo/kw90
 ここ数日、雪華綺晶は何の音沙汰もない。
雛苺の時のように、誰かのローザミスティカが奪われた感覚もなく、
真紅たちの様子からして、何か干渉があったようにも思えない。
それどころか、のん気にめぐのお見舞いだ。
 馬鹿にしている。
「……」
 はあ、と、水銀燈は大きくため息をついた。
 どうして自分がこんなにイライラしなければならないのか。
あんなのん気なメンツと一緒に話して、めぐは面白いのか。
「ばーか、ばーか。めぐのばーか。真紅のばーか」
 虚ろな両の眼を、中庭に落とす。
「………?」
 中庭を、誰かが歩いている。
「あれは……」
 水銀燈は気づかれないように、そっと飛び降りた。

209: 2008/07/16(水) 17:03:09.89 ID:rWUo/kw90

「あーあ」
 ガニ股歩きでふらふらしているジュン。
「何で女の子って、あんなに勝手なんだろ」
 二人が喋り始めてからの10分間、ジュンは空気化していた。
その場を去っていいのか、立ち尽くしていないといけないのか、
悩んだ末に出した答えが、「部屋を出て中庭を散歩する」というものだった。
「…広いなぁ」
 病院内をうろつくわけにもいかず、とりあえずベンチで休む事にする。
「………」
 ようやく、木陰にあるベンチを見つける。
「はぁーぁ、やる事ないなぁ、帰ろうかなぁ」
 全身を投げだし、ぼやくジュン。
「そうよ、あんな高慢ちきな人形、さっさと持って帰って頂戴、忌々しい」
 がばっと身を起こし、きょろきょろと見回す。
「こ、この声!おい水銀燈!お前か!」
「どこ探してんのよぉ、こっちよ、おバカさん」
 見上げた木の枝に、銀髪の人形が座っていた。

211: 2008/07/16(水) 17:08:17.31 ID:rWUo/kw90
「…お前」
「ぜ~んぶ聞いちゃったわよぉ。相手にしてもらえなかったんでしょぉ」
 ぷっと吹き出す。
「うるさいな、黙れよ」
 顔を伏せ、はあ、とため息をつく。
「あら、失礼ねぇ」
「……お前何で僕に話しかけたんだ?ムカつくからどっか行けよ」
「ああ、ごめんなさいねぇ、あと5分後にどっか行くわぁ」
 イラっとして、水銀燈を睨むジュン。
 そんなジュンを、水銀燈はしばらく見下ろしていたが、やがてジュンの横へと
舞い降りてきた。
「……何だ?」
「別に」
「…何か企んでるのか」
「さぁ、そう見えるのかしら」
 言いながらジュンの横、1メートルくらいの場所へ座る。

213: 2008/07/16(水) 17:16:44.37 ID:rWUo/kw90
「……」
「……………」
 ジイィィィ~、と、蝉が鳴き始めた。
 時おり、ヒュウウ、と風が抜ける。
「……なあ」
 頬づえをつき、前を見つめたままジュンが口を開く。
「…何?」
 同じく前をぼんやり見ながら、水銀燈が問い返す。
「結構、涼しいな、ここ」
「…そうねぇ…私はこういう場所、結構好きよ。のんびり出来て」
「………」
「……」
 ちらっと水銀燈がジュンを見やる。ジュンは変わらず、ぼーっと病院の敷地の向こうを
見つめている。
「…話し相手が欲しかったのよ、あの子は」
 ジュンがこちらを向いた。

214: 2008/07/16(水) 17:21:53.97 ID:rWUo/kw90
「救ってもらいたいなんて、思ってない」
「…?」
「鬱屈した、どろどろになってしまった、とても醜い自分をぶつける相手が」
「…醜い?どこが」
 ふう、とため息をつく水銀燈。
「皆醜くて、どうしようもない自分を持ってるのよ?貴方も」
「な…」
 ジュンは思わず視線を逸らす。
「真紅も」
 水銀燈は立ち上がる。
「私も」
「………」
 ジュンは、無意識の海での出来事を思い出す。
あの時、水銀燈は裸で泣いていた。
「皆それを隠したり、それから眼を背けたりして生きている。逃げている」
「……」

216: 2008/07/16(水) 17:27:08.27 ID:rWUo/kw90
「あの子は、小さい内に、それから逃げる術がない事を知ってしまった。
そして、自分が見捨てられた存在であると、分かってしまった」
 ジュンは黙って聞いている。
「だから誰にも相談しない。頼らないし、聞き入れない」
 自分の胸をつつかれている感覚。
「可哀想な子」
「…そんな風には、見えないけど…」
「そのうち分かるわ」
 空を見上げる。
「貴方はたまたま見つけた、相性のいいオモチャと変わらないってね」
「………」
「さ、5分経ったわ。それじゃね」
 水銀燈はそれだけ言うと、翼を広げて飛び去った。
「水銀燈…」
 飛び去った彼女を、ジュンはしばらく見つめていた。


217: 2008/07/16(水) 17:31:32.33 ID:rWUo/kw90
「…ふうん、そうなんだぁ~」
 病室に響く笑い声。
「あら、笑い事じゃないわ、あの時私は猫に……あああ」
 ぶるっと身体を震わせる真紅。
「うふふ、いいじゃない、今はもう何ともないんでしょう?それなら、
笑ったっていいでしょ」
「…不本意だけど、確かにそうね」
「………」
 ふう、と互いにため息をつき、会話が止まる。
「……」
「ねえ、面白い話してあげましょうか」
 めぐが沈黙を破る。
「何かしら」
「つい最近ね、この病院の10階に」
 写真立てを手に取るめぐ。
「フランス人の女の子が運ばれてきたのよ」
「へえ」
「その子ね、何しても起きないんですって、童話でいう、眠り姫みたいに」
「起きない…?」
「ええ。…私、ずっと氏にたいって思ってたけど、眠り続けるのもキレイかなぁって、
最近思い始めたわ」

218: 2008/07/16(水) 17:36:37.27 ID:rWUo/kw90
「……」
 変な事もあるものだ、と真紅は思った。
「その話水銀燈にしたら、なんて言ったと思う?」
「さあ」
「『あっそ』って言ったのよ、あの子。これ、酷いわよねぇ」
 あはは、と一人で笑うめぐ。
「…私には理解出来ない領域だわ」
 はあ、と真紅はため息をつき、頬づえをついた。

「ねえ、ところで、ジュン君は学校に行ってるの?」
 真紅が顔を上げる。めぐが両肘を頬につき、こちらを覗き込んでいる。
「…どうして?」
 真紅は首を傾げて聞き返し、ある事に気づく。
 めぐの眼が笑っていない。
「だって、まだ7月の中旬でしょ。3日前に来て、今日も来て」
「………」
「行ってないんでしょ?普通に考えたらそうだわ」
 微動だにしないめぐ。

220: 2008/07/16(水) 17:41:09.95 ID:rWUo/kw90
「………」
「……」
 ふう、と真紅は息を吐いた。
「行ってないわ。ジュンは引きこもりよ」
「…何があったの?」
 なおも質問してくる。
「私も知らないわ。その先はジュンに訊いて頂戴」
 視線を伏せる真紅。
「………ねえ」
「…何?」
「行って欲しいと思う?学校に」
 随分と遠慮のない質問をするものだ、と真紅は思った。
「……」
「どう…?」
 真紅はしばらく、天井を仰いだ後、ふ、と息を吐く。
「学校なんて行きたくなければ、行く必要はないでしょう」
「…へえ」

222: 2008/07/16(水) 17:50:18.19 ID:rWUo/kw90
「規律や上下関係、協調性を学ぶ事は、生きていく上で大切な事」
「……」
「でも、だから『学校に行きなさい』『勉強しなさい』なんて、私は言えない」
「……」
「それはジュンが決める事」
「…そう」
「この間、あの子の学校の先生が来たわ」
 めぐは前かがみの姿勢を直し、壁にもたれかかる。
「その後ジュンはトイレで吐いて、部屋に引き籠ってしまった」
「……」
「それからあの子は何日も起きなくなって」
「……」
「私にはどうしようもなかった。枕元にいる事しか、出来なかった」
「……」
「今はこうして、外に出られるくらいにはなったけど」
「………」
「私は何も聞かなかったし、ジュンも何も言わなかった。その時何があったかなんて」
 時計の針が、11時を指した。
 カタン、と音がして、真紅は一瞬そちらを見やる。

223: 2008/07/16(水) 17:54:41.71 ID:rWUo/kw90
「…私はね、どこかの誰かに、自分を分かったつもりになられるのが一番嫌いなのよ」
 手を遊ばせながら続ける。
「ジュンもきっとそう。あの子の苦しみなんて、あの子にしか分からない。
あの子が乗り越えていくしかないの」
「…そうね、その通りだわ」
「でも、私はジュンに、前を向いてほしい。光は、前を向かないと
自分に射してこないの。だから」
「………」
 めぐがじっと見つめている。
「私はジュンの傍にいる。ピクニックに行くと良さそうな晴れの日でも、
土砂降りの雨の日でも、風がよく抜けて涼しい日でも」
「………」
「あの子が逃げ出したら追っかけていく。一人にならないように。
氏にたがっていたら、落ち着くまで手を握っていてあげる。ずっと」
 両手を膝に落とし、ぎゅっと握りしめる真紅。

226: 2008/07/16(水) 18:17:17.24 ID:rWUo/kw90
「いつかあの子が立ち上がろうとした時に、横にいる私の肩を使って、
支えにして立ってくれれば、私はそれでいいの」
「………」
「少し脱線してしまったわね…ごめんなさい」
「いいえ、そんな事ないわ」
「…別に学校に行ってほしいとは思ってないけど、『私はジュンに、
いつか前を向いて欲しいとは思っている』、これでいいかしら」
 真紅がめぐに視線を向ける。
「…ええ、素晴らしい回答だわ」
 ぱちぱち、とめぐは手を叩いた。


229: 2008/07/16(水) 18:25:15.70 ID:rWUo/kw90

 ガチャリ、とドアが開いて、ジュンが入ってくる。
「あら、ジュン、どこへ行っていたの」
「ん、ちょっと散歩」
「迷子になっても知らないわよ」
「なるわけないだろ」
 やれやれ、といった風に壁に寄り掛かるジュン。
「散歩に行ってたの?」
 めぐが尋ねる。
「ん、ああ。結構そこの中庭、涼しくて気持ちいいよ」
「ね、もう一回、散歩に行く気、ないかしら?」
 ベッドから降りるめぐ。
「え」
 スリッパを履き、タオルケットを折りたたんでゆく。
「もうすぐお昼だから、暑くなる前に、ね?いいでしょう?」
「いや、僕はいいけど…」
 ちらっと廊下を見やるジュン。
「あら、少しの散歩くらいで、いちいち看護士さんは咎めないわよ。気にしないで」
 すたすたとドアの方へ歩いていく。

231: 2008/07/16(水) 18:29:23.55 ID:rWUo/kw90
「ちょ、ちょっと待って」
 ジュンが慌ててそれを追いかけ、二人はドアの向こうに消えた。
「……やれやれ」
 真紅は開きっぱなしのドアを閉め、ベッドの傍へ戻っていく。
「……」
 次の瞬間、ガララッと窓を開けた。
「きゃっ!」
 窓の外、びくっと身体を震わせた水銀燈が胸を押さえている。
「盗み聞きはよくないって、めぐが言ってたわよ」
「………」
「入ってらっしゃい」
 真紅が促し、水銀燈はしぶしぶ病室に入った。


232: 2008/07/16(水) 18:31:22.70 ID:rWUo/kw90


「ん………」
 外に出た所でめぐが顔をしかめる。
「眩しい」
 右手で日光を遮る仕草をする。
「外に出たのなんて、何ヶ月ぶりかしら」
「えっ?」
 ジュンが思わずめぐを見る。
「ふふ、驚いた?」
 中庭の方へ歩き出すめぐ。
「あ、待って」
 ジュンがそれを追いかける。

 ミーン、ミン、ミン、ミーン、と、蝉の鳴き声が聞こえる。

 ヒュウウ、と風が吹き、めぐの長い黒髪が、ふわりと浮き上がる。
「ん………」
 気持ち良さそうに目を閉じ、前髪をかきあげる。
「あ…」
 ジュンはその仕草に、思わずどきっとする。

234: 2008/07/16(水) 18:35:45.87 ID:rWUo/kw90
「………」
 少し先を歩くめぐ。そこから2メートルほど後ろを、ジュンが歩いている。
「暑いわね…」
 めぐが額の汗を拭い、木陰のベンチに座る。
「…ああ」
 めぐは袖で何度も額を拭っている。そんなに暑いのだろうか。
「エアコンの部屋から出てないからよ、これは」
 心を読んだかのように、めぐが答えた。
「エ…エアコン…?」
「人はね、汗をかく生き物なの」
「……」
 立ち尽くしているジュンを見て、めぐがトントンとベンチを叩く。
「ここに座って」
「え、いいよ僕は」
「いいから」
 真っ直ぐ見据えてくるめぐ。

236: 2008/07/16(水) 18:43:34.74 ID:rWUo/kw90
 ジュンが横に座り、めぐは背もたれに思い切り寄り掛かる。
「ふうーーー」
 目を閉じ、大きく息を吐く。
 身体を反らした時、胸が膨らんでいるのに気づく。
「あ………」
 16歳の女の子の胸。すぐに目を逸らす。
「私はホントに、部屋から出たことなかったから…」
 身体を戻し、ふう、と息を吐く。
「かかなきゃいけない汗が、こういう時にドバッと出ちゃうの」
「へ、へえ」
 ジュンは視線を適当な所に向ける。
 ふと、視界の隅、茂みがガサガサ動いているのが見える。
「ん」
 次の瞬間、太った三毛猫が飛び出してくる。
「あ」
「あら…」
 めぐもそれに気付いた。
「おいで、おいで」
 チチチチチ、と口を鳴らし、地面スレスレに手を置いて、
カサカサカサ、と動かす。
 三毛猫はそれにつられ、こちらにト、ト、ト、と近寄ってくる。

237: 2008/07/16(水) 18:46:17.27 ID:rWUo/kw90
「うっぷ、よし、イイ子イイ子」
 膝をつたって飛び乗ってきた猫を、めぐは何度も撫でる。
「……」
 ジュンは意外そうにそれを見つめた。
「人慣れしてるでしょ、この子」
「…うん、びっくりした」
「もう10年になるかしら」
 ゴロゴロ、と喉を鳴らし始めた猫を撫でながら、めぐが視線を落とす。
「この子は捨て猫だったのよ」
「…へえ」
「たまたま病院に猫好きの先生がいて、勝手口の裏のストックハウスで、
この子を飼い始めたの」
「………」
 めぐはふう、と息を吐き、撫でるのを止める。
「ジュン君、面白い話、してあげましょうか」


239: 2008/07/16(水) 18:49:32.11 ID:rWUo/kw90

「何?」
「猫も人間も、いえ、哺乳類はみんな、一生に20億回の鼓動を打つって、
決まっているのよ」
「20億???」
「そうよ、正確には、15億から20億、くらいだったかしら。哺乳類の
心臓はそうなってるらしいわ」
「へえ……」
「高血圧の人は早氏にするケースが多いのは、そういう理由があるの」
 初耳だな、とジュンは思った。
「極端な話、1分間に80回の鼓動を打つ人と、60回の鼓動を打つ人で、
寿命が違うわけね。極端な話よ。全員が全員、そうだというわけじゃないのよ」
 ふふ、と笑う。
「ハツカネズミは、1分間に600~700回打つとか云うし、ゾウなんてのは
1分間に20回くらい。クジラはねえ…何回だと思う?」
「クジラ?」
 言い方からすると、10回前後かな、と考える。
「3回よ。1分間にたったの3回」
「さ、3回!?」
 思わず頓狂な声を上げる。

240: 2008/07/16(水) 18:52:29.13 ID:rWUo/kw90
「びっくりしたでしょ。シロナガスクジラなんかは、それもあって、
120歳くらいまで生きるらしいわよ。計算が合わないのは何でかしらね。
身体が持たないのかしら」
「………」
 めぐの視線がうつむき、猫の喉を鳴らし始める。
「私の」
 はっとするジュン。
「私の身体も、きっとそう…」
 めぐの膝で、猫が寝がえりを打つ。
 それを見て、安心したように笑うめぐ。
「………」
 その眼には、猫の愛くるしい寝顔だけが映り込んでいた。


243: 2008/07/16(水) 19:04:41.75 ID:rWUo/kw90


「意外だったわ」
 ベッドに座った水銀燈と、窓辺に寄り掛かった真紅。
先に口を開いたのは、真紅だった。
「結構、優しいとこあるじゃないの、水銀燈」
「ふん」
「あら、褒めてるのよ。それとも、けなして欲しいのかしら?」
「………」
 じろっと真紅を睨む。
「ここでアリスゲームしたって、私はいいのよぉ、真紅」
 立ち上がり、椅子に右足と右手を掛ける。
「嫌よ、どうしてこんな所で」
「…なら厭味ったらしく喋るくせ、いい加減やめなさぁい」
 ふん、と鼻を鳴らす水銀燈。
「分かったわ。もう少し、私ものんびりしていたいし」
 言いながら、窓の外に視線を移す。

246: 2008/07/16(水) 19:17:52.18 ID:rWUo/kw90
「………」
 水銀燈は、少し考える。
 この様子では、本当に雪華綺晶は、真紅たちに干渉
していない。
 アリスゲームも、残り5体の段階から動いていない。
ローザミスティカの奪い合いがあったのであれば、姉妹全員が感覚で
分かるはずで、その辺りの話も出てきていない。

 否。
 奪い合いだけが、アリスゲームを進める手段だろうか?
そうとは限らない。雪華綺晶は別の手段で進めると明言している。
「………」
 ならば、確認はしておくべきだ。
「真紅」
「…何?」
 真紅がこちらを向いた。


259: 2008/07/16(水) 20:45:01.12 ID:rWUo/kw90

「一つ訊いておきたいのだけど」
「…何かしら?」
 言葉は選ばなければならない。
「最近…」
「?」
「何か、変わった事なかった?」
 少し首を傾げる水銀燈。釣られて真紅も首を傾ける。
「何?どういう事?」
 眉をひそめる真紅。
「何もない?」
「………」
 答えない。代わりに、水銀燈の顔をじっと見ている。
「何もないなら、いいのよぉ、別に」
「…私にはないけど、どうしてそんな質問をするの?」
「いいえ。何でもないわ」
 視線を逸らす水銀燈。

261: 2008/07/16(水) 20:52:06.52 ID:rWUo/kw90
「こっちを向きなさい。水銀燈。貴女が私に質問するなんて、
珍しいじゃない。どういう風の吹き回しかしら」
「………」
 こういう言い方をすれば、大抵喧嘩になる。だが、今日の水銀燈は
逃げるように視線を逸らしているだけであった。
 真紅は一歩踏み込んでみる事にする。
「…そういう質問をするのは、最近貴女に変わった事があったからじゃないの。違う?」
 ぐっ、と水銀燈は唾を飲み込む。
「答えなさい。貴女には答える義務がある」
「………」
 水銀燈は立ち上がり、背中を向けてしまう。
 真紅はそれでピンと来た。
「……白薔薇ね」
 水銀燈の目が見開かれる。
「分かるわよ。その反応からして」



264: 2008/07/16(水) 20:56:31.10 ID:rWUo/kw90


 時計の針が、コッチ、コッチ、と時を刻む。
「…そういう取引をしたわ」
「なるほどね」
 真紅の反応は、意外と淡々としたものだった。
「怒らないのねぇ」
「相手は白薔薇よ。私だって、対峙した時は、きっと誤魔化して、
全員で作戦練る選択肢を採るわ」
「……雪華綺晶」
「…え?」
「第7ドールの、名前よぉ」
「……」
 ぼふっとベッドに座る水銀燈。
 何か考え事をしているようだ。
「変わった事…」
「……」
「昨日から翠星石が帰ってこないわね、そういえば」

267: 2008/07/16(水) 21:03:11.70 ID:rWUo/kw90
 顎に手を当て、一点を見つめる真紅。
「翠星石が?」
「まだ雪華綺晶の仕業と断定は出来ない。蒼星石の所に
行っているだけかもしれない」
「………」
「でも、対策は練っておきたいわ。ここにいない金糸雀だって、
何かされているかもしれない。連絡を取らなきゃね」
「…真紅」
 水銀燈が呟いた。


268: 2008/07/16(水) 21:06:42.13 ID:rWUo/kw90
「あの二人は…?」
 窓の外、中庭を見やる。摺りガラスとはいえ、何を指しているのか
くらいは、真紅にも理解出来る。
「…マスターたちも、ここから先、否応なしにゲームに
巻き込まれていくわ」
「……」
「眠らせて力を奪うのが目的であれば、必ず雪華綺晶は
接触してくる」
「…私、出来たら、今のあの子は、巻き込みたくないのよぉ」
 ベッドに手を置く水銀燈。
「無理よ、どう考えても。取引したんでしょう」
「………」
「雪華綺晶の手が伸びる前に、私たちで防衛線を張る事は
出来るかもしれないけど」
「………」
 水銀燈は、何も言わなかった。

270: 2008/07/16(水) 21:11:49.06 ID:rWUo/kw90


「あら、めぐちゃん」
 めぐの病室の前。
「あ、こんにちは」
 ジュンが頭を下げる。大きなカートを押す手を止め、佐原が
驚いたようにこちらを見つめている。
「珍しいわね、散歩?」
「ええ」
 にこりと笑い、カートに乗せてある食事を見る。
「美味しそうね、この煮魚」
「え」
「これおひたしかしら」
「………」
「ジュン君ごめんなさい、ドアだけ開けてもらってもいい?」
 ひょいと自分の食器を取り、ドアの前に立つめぐ。
「うん」
 ドアを開けると、めぐはさっさと中に入ってしまった。

271: 2008/07/16(水) 21:16:05.42 ID:rWUo/kw90
「………」
「どうしたんですか」
 放心状態の佐原に、ジュンが尋ねる。
「い、いいえ……珍しいな、と思って」
「?」
「ああ、ごめんなさい、何でもないわ」
 我に返り、隣の病室の前へ向かう。
「あ、ねえ」
 部屋に入ろうとしたジュンを、思い出したように呼び止める。
「はい?」
「大事にしてあげてね。優しい子だから」
 そう言ってほほ笑む佐原。
「はあ」
「ジュン君、何してるの?」
 中から声を掛けられ、ジュンは部屋へと入った。

272: 2008/07/16(水) 21:20:07.25 ID:rWUo/kw90

「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「ええ、ありがとう」
 空っぽになった食器を下げ終え、ジュンは立ち上がる。
「………」
 水銀燈がめぐを見つめている。
「真紅」
 抱っこされた真紅が振り返る。
「…これで、私が持っている情報は全て伝えたつもりよぉ」
 ふう、と息をつく水銀燈。
「分かったわ。金糸雀と翠星石にも伝えとくわ」
「ええ」
 ジュンが訝しげな顔をする。
「なんだ?」
「何でもないわ」
「ええ、こちらの話よぉ」
 真紅と水銀燈がそれぞれ答える。
「……ふうん」

274: 2008/07/16(水) 21:22:34.12 ID:rWUo/kw90
 二人が出て行き、バタンと閉まったドアを見やる水銀燈。


 嘘である。
 水銀燈は、一つだけ伝えなかった事がある。
「………」
 雪華綺晶が一瞬だけ、目を泳がせた時のやり取り。
 いざという時の切り札。目的を達成するための。
「(悪いけど、貴女には壊れてもらうわぁ。ごめんなさいねぇ、真紅…)」
 心の中で、水銀燈は呟いた。



401: 2008/07/17(木) 17:37:42.06 ID:8cHvSUei0


 コンコン。

 コンコン。

 コンコン。

 真っ暗な部屋の中。盛り上がっているベッド。
 黒髪の女性が、静かに眠っている。

 ドンドン。

 ドンドン。

 ドンドン。

 窓を叩く音が、少し大きくなる。
「みっちゃあーん」
 金糸雀が、困り果てた顔で何度も窓を叩いている。
 既に空には星が瞬き、金糸雀は30分以上も窓際で粘っていた。

403: 2008/07/17(木) 17:43:56.82 ID:8cHvSUei0

「はあ……」
 一向に起きる気配がない。
「仕事で疲れてるのかしら……」
 言いながら、自分も疲れ果ててしまっている。
「…お腹減ったわ…」
 バルコニーにへたり込み、膝を抱えてうずくまる金糸雀。
「うう…」
 ふと、脇にいたピチカートが何かに反応する。
 キィン、と光りながら、手すりの向こうへ消える。
「あら、ちょっとどこ行くのピチカートー」
 後を追おうとして、手すりの向こうを見る。
「あっ?」
 ピチカートの向こう。赤い光がこちらに近づいてくる。
「あれは……」
 ホーリエだ、と分かった。

405: 2008/07/17(木) 17:50:34.47 ID:8cHvSUei0
「…………」
 桜田家のリビング。のりとジュンは、既に2階へ上がっている。
「そういう事よ、金糸雀」
 二人掛けのソファに座る真紅。
 その向かい、一人掛けのソファに座っているのは、金糸雀。
「………」
 全てを話し終えた真紅に対し、金糸雀はあまり事情を飲み込めていない様子だった。
「雪華綺晶…」
「そう、雛苺の身体を奪った末の妹の名前。彼女は、水銀燈と取引をした」
「……そんな、私たちのローザミスティカを…」
 胸を押さえる。
「翠星石がいなくなった。もうそろそろゼンマイを巻かないといけないのに」
「え」
「おそらく…」
「で、でも、ローザミスティカの奪い合いとかは」
「ええ、翠星石はローザミスティカを奪われたわけじゃないのよ、多分」
「そ、それなら……」
 ぐうぅ~、とお腹が鳴った。
「う…」
「あら」
 拍子抜けした声を出す真紅。

407: 2008/07/17(木) 17:56:14.77 ID:8cHvSUei0
「何も食べてないの?もう8時半なのに」
「みっちゃんが起きないのよ。何回窓叩いても」
 真紅の眉がぴくっと動く。
「だから部屋に入れなくて、困ってるのかしら」
 がたっと音を立て、立ち上がる真紅。
「いつから?それは」
「え、一時間くらい前よ」
「マスターが起きない……起きない……」
 何か、心の中に引っ掛かっている。何か。
「………」
 腕組みをしていた真紅が、顔を上げる。
「金糸雀」
「なぁに、真紅」
「今日は泊まっていきなさい。翠星石の件もあるし、もし雪華綺晶が
仕掛けてきても、2人でジュンの傍にいれば、まだ何とかなるでしょう」
「……ええ…それは別にいいけど…」

408: 2008/07/17(木) 17:58:40.59 ID:8cHvSUei0
 真紅は目を伏せ、時系列を整理する。

 水銀燈と雪華綺晶の接触が3日前。

 翠星石が消えたのは昨日。

 そして今日、金糸雀のマスターに異変(まだ異変とは呼べないかもしれないが)があった。

 ローザミスティカの動きはない。

 ……何かが抜けている。

 そうだ、めぐは今日の昼、何と言った?
「病院に運ばれてきた、決して起きないフランス人の女の子」


411: 2008/07/17(木) 18:05:47.69 ID:8cHvSUei0
「金糸雀」
 立ち上がろうとした金糸雀が動きを止める。
「何かしら…?」
「明日、一緒に来てほしい場所があるの」
「明日…?」
 いや、それでは遅い。おそらく。
「いえ、今からよ。時間がないわ」
「い、今から??」
 返事を聞き終える前に、真紅はすたすたとリビングを出て、2階に上がっていった。
「ちょ、ちょっと待ってかしらー」
 金糸雀は慌てて後を追った。

413: 2008/07/17(木) 18:10:21.31 ID:8cHvSUei0

 真っ暗な薔薇の庭園。
 その中にそびえる屋敷。
 部屋の照明が点きっぱなしだった事が、2体のドールには幸いだった。
「やはり」
 割れた窓から侵入した真紅。
 ベッドで寝ている結菱一葉は、何度も揺するが、起きなかった。
「蒼星石、いないわよー」
 空っぽの鞄を確認する金糸雀。
「予想通りね………」
「へ??」
 部屋の隅、日めくりカレンダーを見た真紅。
 日付は一昨日。つまり、2日前で止まっている。
「金糸雀、よく聞いて頂戴」
「何よ?」
「先に言っておくわ。雪華綺晶はおそらく明日、仕掛けてくる」
「え」
「………」
「ど、どういう事かしら、真紅」
「説明はしないわ。ただの憶測だし」
 困惑する金糸雀を無視し、再び考え込む。
「………」

415: 2008/07/17(木) 18:14:05.56 ID:8cHvSUei0


  結菱一葉は、おそらく2日前に眠らされた。カレンダーが
 そこで止まっている事を考慮し、そう仮説を立てるならば、
 雪華綺晶と水銀燈の接触の次の日から、
 2日目に一葉、3日目に翠星石、そして今日は草笛みつ、と、
 一日毎に一人、異変が起きていると推測出来る。

  病院に搬送されたフランス人の女の子が、仮にオディールだとして、
 彼女は誰のマスターになる。あの指輪は。
  食われる前、雛苺は契約したか分からないと言った。雛苺のマスターでないと
 したら、余っているのは、残り1体しかいない。

  とすると、オディールは利用された。雪華綺晶と契約を「させられた」。
 そして眠らされた。そう考えれば、辻褄は合う。


418: 2008/07/17(木) 18:19:46.37 ID:8cHvSUei0

  もう翠星石もネジが切れている頃だ。雪華綺晶に捕えられたと
 推測するのが自然である。
 
  では、どうして一気に仕掛けてこないのか。
  否、仕掛けられないのか?

  雪華綺晶が時間を掛けているのは、ローザミスティカを水銀燈に与えたために、
 続けて仕掛ける体力がないからではないか。
  こちらがこうして動くのを承知で、徒に時間を掛けているとは
 考えられない。
  つまり、次に動くとしたら、明日。

  残るは水銀燈、金糸雀、真紅、めぐ、ジュン。
 水銀燈との取引を考えるなら、めぐと水銀燈は最後。


420: 2008/07/17(木) 18:24:25.10 ID:8cHvSUei0

  明日は残る3人のうちの誰か。
  みつが眠らされた事を考えると、
 マスターを先に眠らせ、力の供給が断たれた所を
 攻めてくるかもしれない。
 だとすると、次はジュンが眠らされる番だろうか?


  だが、疑問も残る。
  どうして翠星石のローザミスティカを奪っていないのか。
 蒼星石の身体はどこへ行ってしまったのか。


421: 2008/07/17(木) 18:27:32.44 ID:8cHvSUei0



「ちょっと真紅」
 名前を呼ばれ、我に返る。
「カナを振りまわしてどういうつもり?キチンと説明しなさいよ」
「ええ…ああ」
 真紅は時計を確認する。21時過ぎ。
「………」
 賭けに出るべきだろうか。いや、出ないといけない。
「金糸雀、私の考えを説明するわ」
 真紅が金糸雀を見据え、喋り始めた。


423: 2008/07/17(木) 18:32:31.23 ID:8cHvSUei0

「みっちゃんが眠らされてる…?」
 半ば信じられない、といった様子で、立ち尽くしている。
「あくまでも推測よ。でも、そう考えておいて、間違いはないと思うの」
 少しうつむく真紅。
「………」
 首をかしげている金糸雀。視線が何かを求めるように虚空をさ迷っている。
「この蒼星石のマスターも、同じように起きない。考えられるとしたら、みっちゃんさんも…」
「カ…カナは…」
 真紅が顔を上げる。
「嘘よ。冗談はよしてほしいかしら。今朝はちゃんと起きてたのよ。
カナはちゃんと今日、お話したのよ…」
 一歩後ずさる。
「かな……」
「嘘よ!信じないかしら!!絶対、絶対、そんな事……」
 膝をつき、胸を押さえてカタカタ震える金糸雀。
真紅は、ただ黙ってうつむいている事しか出来なかった。


425: 2008/07/17(木) 18:37:24.97 ID:8cHvSUei0


カチ、カチ、という音。

「……」
 9時半を過ぎ、部屋でジュンがパソコンを見ている。
 カララ、と窓が開いて、鞄に乗った真紅と金糸雀が部屋に入ってきた。
「どこ行ってたんだ?」
 画面から視線を動かさず尋ねるジュン。
「ちょっとね」
「そか」
 ちらっと、横の金糸雀を見やる真紅。
「ね、ねえジュン、今日、金糸雀が泊まっていきたいらしいんだけど、いいかしら」
 少しどもりながら言う。
「ん…別にいいけど」
「そ、そう、ありがとう」
「………」
 黙り込む真紅。
 ジュンにも、全てを説明しないといけない。
たとえ巻き込む事になったとしても。

427: 2008/07/17(木) 18:41:58.71 ID:8cHvSUei0

 カタカタカタ、とキーボードを打ちこむジュン。
「何をしているの?」
「ん、ちょっとな」
「………」
 真紅は視線を伏せ、ベッドに座り込む。ジュンは相変わらず、パソコンに
向かってマウスを動かしたり、キーボードを叩く作業を繰り返している。
 いつもは、頬づえをついて下らないサイトを見たり、勉強している頃だが、
今日は何か調べ物をしているようだった。
「……ねえ」
「なあ、真紅」
 同時に言葉を発する二人。
「あ、ごめん、何?」
 椅子をキッと回し、こちらに向くジュン。
「いいわよ、貴方から言って頂戴。私は長くなるから」
「ああ。そか、悪いな」
「……」

428: 2008/07/17(木) 18:46:33.02 ID:8cHvSUei0
「あのさ、水銀燈のマスターの事なんだけど」
「…ええ、何かしら」
「明日も行こうと思うんだ」
「そう」
 ジュンはこめかみをポリポリとかき、ふう、と息を整える。
「なんか、元気にしてやれる方法ないかな」
「?」
「今日話してみてさ、何か淋しそうだったっていうか…」
「あら…」
 真紅が目を丸くする。
「何か僕に出来る事があれば、してあげられたらな、とか」
「好きになったの?」
「はっ!?」
 ガタッと立ち上がるジュン。
 その反応を見て、真紅は思わずぷっと吹き出した。
「ふふ、まんざらでもないみたいね、ジュン」
「な、何言ってんだ、違うぞ、僕は」
「冗談に決まってるじゃない、何気分出してるの」
「………」
 ジュンは顔を赤くし、椅子に座り直す。それをじっと
見つめる真紅。

429: 2008/07/17(木) 19:06:03.83 ID:8cHvSUei0
 ふと、画面に映し出されているものが、真紅の視界に入る。
「…あの子、ジュンが学校に行ってない事、見抜いてたわよ」
「えっ…」
「色々訊かれたわ。どうして行ってないのか、とか」
「……」
「行ってほしいかどうか、とか。割とお行儀がなってない子ね」
「僕の事を?」
「ええ。何か、自分に近いものでも感じたんじゃないかしら」
「………そ、そっか」
 パソコンに向き直る。
 会話が止まった。
 ジュンはそれから頭をかいたり、天井を仰いだりして、落ち着かない。
「……」
 真紅は数分間、それをじっと観察していた。

430: 2008/07/17(木) 19:15:29.91 ID:8cHvSUei0
「…あれ、そう言えば真紅」
「何?」
「お前、何か言おうとしてなかったっけ」
「いいのよ、やっぱり何でもないわ」
 真紅はジュンと視線を合わさず、一階に下りていった。
「あっ、ちょっと真紅」
 追う金糸雀。
 二人が出て行ってしまった後で、ジュンはパソコンに向き直った。
画面には、『心臓病Q&A』という項目が映し出されている。
「めぐさん…か…」
 ぼんやりと呟いた。


432: 2008/07/17(木) 19:21:40.82 ID:8cHvSUei0

「じゃあ、ホーリエ、ベリーベル。お願いね」
 二つの光が鏡に消える。
「どうするの?」
「雪華綺晶を探してもらうのよ」
 鏡に手を当てたまま答える真紅。
「……ジュン君には言わないの?」
「ええ…」
「どうして?」
 真紅が振り返る。
「さっきは言おうとしたわ。でも」
「…?」
「パソコンに映っているものを見て、私は言うのをやめた」
「何が映ってたの」
「………」
「…」
「それは言えないわ。ただ、こちらから巻き込むような事は、今のあの子に対して
したくないの」

434: 2008/07/17(木) 19:28:57.70 ID:8cHvSUei0
「…でも」
 真紅はその言葉を言い終え、深呼吸をして、
自分の胸に手を置く。

 そうか、と思った。
 水銀燈は同じ事を言おうとしたのだ。
あれだけ自分が嫌っていた姉は、今日、自分と
同じ事を考えていたのだ。

「…金糸雀」
 第2ドールは、呆けたような眼で見つめている。
「みっちゃんは、きっとまた起きてくれるわ。『おはよう』って、
帰ってきた貴女に対して」
「……ええ」
 少しうつむく金糸雀。廊下の明かりが逆光になり、その表情は
暗くて見えない。
「だから、私たちは、そうなるように、頑張りましょう」
 自分の胸を押さえながら、真紅は絞り出すように言った。

435: 2008/07/17(木) 19:33:03.10 ID:8cHvSUei0


 明くる日の早朝。

「じゃあ、僕行ってくるから。お前は行かないのか?」
 ジュンが振り返って尋ねる。
「ええ、ちょっと用事があるのよ。めぐによろしくね」
 にこっと笑い、手を振る真紅。

 見送りが終わり、一息ついた頃だった。
 物置から、ヒューンとベリーベル、ホーリエが現れた。
「見つけたのね」
 真紅は金糸雀に促し、物置へと向かう。

「ベリーベル、あなたは水銀燈の所へ」
 ピンク色の光が窓から出ていくのを見届け、
真紅と金糸雀、ホーリエ、そしてピチカートが鏡の中に
飛び込んだ。


437: 2008/07/17(木) 19:37:24.00 ID:8cHvSUei0

 nのフィールドを一直線に飛び続ける二人。
その二人を先導するホーリエ。
「…」
 真紅は胸元を押さえ、目を閉じる。

 とうとう、ジュンには何も言わずにきてしまった。
言えば良かったのかもしれない、と少しは感じている。マスターがいれば
心強いし、何よりこちらも力を受けられる。
「……」
 どうして何も言わなかったのか、自分でもよく分からない。
「ジュン…」
 

438: 2008/07/17(木) 19:42:20.63 ID:8cHvSUei0
 
 進むにつれ、白い霧が出てきた。
 真紅はホーリエに減速するように促すが、それでも見失いそうになる。
「か、金糸雀…」
 すぐ隣で並んで飛んでいるはずの金糸雀に声を掛ける。
「大丈夫よ、こっちは」
 声はするものの、姿が見えない。
「……!!」

 自分の腕の先が見えなくなってきた。もはやホーリエは見えず、ふと前後左右、どこに
進んでいるのか分からなくなってきた。
「金糸雀!!」
 声を上げる真紅。
 返事が聞こえない。
「金糸雀!!返事しなさい!!ホーリエ!!」
 思わず、真紅は立ち止まろうとする。


440: 2008/07/17(木) 19:47:02.99 ID:8cHvSUei0

 次の瞬間、何かが足に引っ掛かる感覚が起き、真紅は勢いで前方に
すっ転んだ。
「きゃあっ!」
 違う。転んだという表現がおかしい。
 転ぶには地面が必要なはずで。
間髪入れず、しゅるるっと右足に何かが絡みついてくる。
「あっ」
 それは瞬く間に真紅の身体を縛り上げ、ずずず、と引っ張った。
「こ、これは」
 白いイバラ。
「おはようございます、紅薔薇のお姉様」
 そのイバラの先。振り向いた真紅の目に映ったのは、
嬉しそうに笑う雪華綺晶だった。


442: 2008/07/17(木) 19:51:32.11 ID:8cHvSUei0

 波が引くように、白い霧がさあっと晴れていく。
「まさかそちらから来ていただけるとは」
「黙りなさい白薔薇、いいえ雪華綺晶」
 睨む真紅。
「名前で呼んでいただけて光栄です」
「……」
 よく見ると、自分がクモの巣にかかっているのだ、と分かる。
違う。
 クモの巣状に張られたイバラ。
「あっ」
 真紅は目を見開いた。
 倒れた自分の背後に座る、雪華綺晶。両の手から伸びるイバラ。
右手から伸びるイバラは自分を縛っていて、もう片方の手から伸びる
イバラが、金糸雀を縛っている。
「金糸雀!!」
「無駄ですわ」

445: 2008/07/17(木) 19:55:16.36 ID:8cHvSUei0
 金糸雀は顔を上げようとせず、ぐったりと身体を横たえていた。
「ローザミスティカを奪ったの」
「さあ、教える義理はありませんわ」
 にっ、と笑う雪華綺晶。その背後に、4つの白い水晶が並んでいる。
「……!!」
 ぞくっと身体に走るものがあった。
 それぞれの中に、一つずつ見える人影。

 一人でぬいぐるみと遊んでいるオディール。

 お茶を飲んでいる一葉。

 ベッドで寝ているみつ。

 そして、いなくなっていた蒼星石と共に倒れている、翠星石。


「貴女がやったのね」
「ふふ」
 答える代わりに、微笑を浮かべる。

446: 2008/07/17(木) 20:00:27.38 ID:8cHvSUei0
「答えなさい。翠星石のローザミスティカをどうしたの」
「お姉様」
 左手に抱えている金糸雀を離し、かしゃんと倒れる音がした。
 そのまま、雪華綺晶は真紅に近づいてくる。
「ぐっ……」
 引き千切ろうにも、全く身体が動かない。
「?」
 真紅はあるものに気づいた。
 視界の隅。白い水晶の後ろ、雪華綺晶から見えないところに、
黄色い光と、赤い光が見える。
「ホーリエ!!ピチカート!!」
 真紅が叫んだ。
 雪華綺晶が視線をきょろきょろさせる。
「うっ」
 キィン、とまばゆく光ったのはホーリエ。
雪華綺晶の目が眩む。

449: 2008/07/17(木) 20:05:16.60 ID:8cHvSUei0
 隙をついてピチカートが、引き離された金糸雀のイバラを千切り、クモの巣から
金糸雀は落下していった。
それを追い、闇に消えていくピチカート。
「く…」
 元の方角に消えていくホーリエ。
「そうよ、それでいいわ…」
 にっ、と笑う真紅。
「………」
 金糸雀たちが消えた方向を凝視していた雪華綺晶は、
やがて一息つき、もがいている真紅へと近寄っていく。
「別に構いませんわ。アリスになるのは、この私。もうすぐ…」
 真紅の顎を持つ。
「やめなさいこの…」
 歯を食いしばり、睨むのをやめない。
「だから…お姉様のローザミスティカ…もらいますね」
 どつっという音がして、真紅が目を見開く。


452: 2008/07/17(木) 20:07:59.66 ID:8cHvSUei0

 胸に走る、何か温かい感覚。
 ずずず、と、胸の一角が奥へ、奥へと押しやられているような音。
「…あ」
 真紅は震えながら、自分の胸を見やる。
白いイバラが数本、確かに自分の胸を貫いていた。
「ジュ…」
 かた、かた、と震えた後、真紅は目を見開いたまま、動かなくなった。
「……」
 真紅の身体が光り始め、そこから2つの宝石が出現する。
「おやすみなさい、紅薔薇のお姉様」
雪華綺晶は笑ったまま、愛おしそうに真紅の身体を撫で続けた。



 

534: 2008/07/18(金) 00:11:33.39 ID:+uP5qurX0




「あら、おはようジュン君」
 病室のドアを開けると、窓辺で肘をついていためぐが
こちらを向いた。
「ああ、おはよう」
「今日も来てくれたのね。掛けて」
 椅子をぽんぽんと叩く。
 めぐはベッドには上がらず、窓の手すりに座り込んだ。
「どうしたの?」
「え」
「いや、元気だな、と思って…」
 めぐが変な顔をする。
「?ああ」
 自分がこうして立っている事だ、と気づく。

541: 2008/07/18(金) 00:19:29.96 ID:+uP5qurX0
「朝は窓を開けると、涼しい風が入ってくるから」
 そう言って目を閉じる。
「…今日、水銀燈は?」
「水銀燈?いるわよ」
 窓の外、ちょうど右下に当たる部分に視線を落とし、
手招きするめぐ。
「…?」
 首をかしげるジュン。
 少し間をおいて、のっそりと黒い影が現れる。
「………」
「ほら、ジュン君よ」
 気だるげにこちらを見つめる水銀燈。
「……こんにちはぁ…」
 やる気が感じられない。まるで、毎朝低血圧で、一時間目だけ
眠る高校生のようだ。
「ああ、こんにちは」

543: 2008/07/18(金) 00:26:23.25 ID:+uP5qurX0

 窓を閉め、エアコンをつける。
「テレビでも見ましょうか。暇でしょ?割とここって」
「え、いや」
「遠慮しなくていいのよ、私も遠慮するつもりないし」
 パチッと電源を入れる。

 ふと、水銀燈が何かに気づいたように窓を開けた。
「どうしたの、水銀燈」
 めぐが声を掛ける。
「何でもないわ」
 言いながら、カララ、と窓を開ける。
「………」
 ひょいと手すりを乗り越え。水銀燈はさっさと飛び立ってしまった。
「変な子ねえ」
 不思議そうに窓辺を見ているめぐ。
「……?」
 ジュンは首を傾げた。


546: 2008/07/18(金) 00:33:13.77 ID:+uP5qurX0

「奪われた…」
 その感覚は水銀燈にも伝わってきた。
 ローザミスティカが2つ。
雪華綺晶が動いたのだ、と瞬時に理解する。
 誰が退場したのだろう。
真紅か、金糸雀か、翠星石か。
それとも、雛苺のローザミスティカを持っている誰かが倒れたのか。
 いずれにせよ、奪ったのが雪華綺晶なら、彼女はそのうちここに来る。

「………」
 めぐを渡すわけにはいかない。それは大前提である。
手段は考えてある。雪華綺晶を封じ込める手立て。
「……いいわ、いつでも来なさい」
 水銀燈は空を見上げ、ふうーっと大きく息を吐いた。
 

549: 2008/07/18(金) 00:38:42.35 ID:+uP5qurX0
 
 テレビではワイドショーをやっている。
「…」
 ベッドの上。
 めぐが頬づえをつき、ぼんやりと眺めている。
それをチラチラ見るジュン。テレビの内容など頭に入っていない。
面白いのだろうか。
「つまらないわね」
 めぐが口を開く。
「そう思わない?ジュン君」
 そう言ってこちらを向いた。
「…うーん、あんまり面白くは…」
「でしょお?」
 呆れたようにははは、と笑う。

552: 2008/07/18(金) 00:45:31.51 ID:+uP5qurX0

「私こんなのどうでもいいのよ。こんな病室にいたってつまんないし」
 テレビの中で、何かメガネをかけた男性が喋っている。
それにふん、ふんと相槌を打つ女性。キャスターのようだ。
「貴方と散歩がしたい」
タオルケットをまくり、あぐらをかくめぐ。
「えっ?」
 ジュンは口をあんぐり開けた。
「駄目かしら。こうして手を繋いで…」
 近寄ってきて、ジュンの両手を包みこむめぐ。
「あわっ、ちょ、ちょっと」
 思わず手を引っ込める。
「あら、驚いた?別にいいじゃない、手を繋ぐくらい」
 きょとんとしている。
「そ、そうなの?」
「そうよ、それとも何か期待したのかしら」
 膝をベッドから降ろし、ぐっと近づくめぐ。吐息が
ジュンの頬にかかる。

555: 2008/07/18(金) 00:49:33.28 ID:+uP5qurX0
「い、いや、あの…」
「ウブなのねぇ」
 くすくすと笑う。
 一通り笑った後、めぐはベッドに上がり、タオルケットを
ぐしゃぐしゃと丸め始めた。
「たとえば、貴方は週に2回、この病院の316号室までお見舞いに
来てくれるの」
「え」
「何持ってきてくれるのかしら。私、イチゴとか好きよ、この時期なら」
 構わず続けるめぐ。
「でもお菓子は駄目よ。ケーキとか煎餅とか。私は病人だし、
塩分と糖分は、控え目にしなきゃね」
 手を止める。
「そうしてね…っ」
 口を押さえるめぐ。
 瞬間、ごほっ、ごほっ、と何度も咳込み始める。

559: 2008/07/18(金) 00:51:58.84 ID:+uP5qurX0
「うっ、げほっ、げほっ」
 前のめりになり、ベッドに突っ伏す。
「め、めぐさん」
 ガタッと立ち上がるジュン。
「大丈夫よ、ええ、大丈夫」
 口元を押さえたまま、けほ、けほ、と小さく咳込む。
収まってきたようだ。
「…朝の涼しい…そうね、今みたいな時間帯に、
貴方が私と一緒に中庭を歩いてくれている」
 ティッシュで口を拭くめぐ。
「それを水銀燈が見守りながら、飛んでるの」
 枕の脇に、丸めた紙を置く。
「ちょっとぶすくれてる水銀燈に、『ごめんなさいね、もう少ししたら
歌ってあげるから』って私が声をかけるとね、あの子は口を尖らせて」
「……」

561: 2008/07/18(金) 00:54:40.24 ID:+uP5qurX0
「『何言ってんのよ、勝手になさい』とかって吐き捨てるのよ」
 ふふ、と笑うめぐ。ジュンは心配そうに見つめている。
「歩き疲れたら、中庭のベンチに座って、私は疲れて眠っちゃうの」
 顔を上げ、ジュンの目を見つめる。
「その時は、肩くらいは貸して頂戴ね。ジュン君?」
「………」
「…………」
 二人の会話が止まる。ジュンがもう少し慣れた回答をしていたら、
この後の展開は、また違っていたかもしれない。


571: 2008/07/18(金) 01:03:05.54 ID:+uP5qurX0

 めぐの顔色が変わったのは、テレビから「心臓」という言葉が聞こえた時だった。
気づいたジュンがテレビを見ると、
大きく『心臓移植について』というテロップが、画面に映し出されていた。
「………」
 めぐが胸を押さえた。
「ねえ、ジュン君」
 めぐの瞳は、テレビではなく、窓を見ている。
「どうして、心臓移植を外国でする事が多いか知ってる?」
 ジュンが首をかしげる。
「?」
「日本で待ってても、ドナーが現れない可能性が高いからなの」
「………」
 それは何となくわかる気がする。
「日本はね、15歳以下の子からの臓器提供が認められていないの」

576: 2008/07/18(金) 01:10:20.53 ID:+uP5qurX0
「15歳?」
「そうよ。心臓は全身を受け持つポンプだから、同じくらいの年齢の、
同じくらいの機能の心臓じゃなきゃダメなの」
「ポンプ…」
 イメージがつかみにくいが、理屈は分かる。
「だから、15歳から19歳くらいまでで、脳氏判定を受けた人」
「脳氏……脳だけ駄目になるっていう」
「そう。そして、家族の承諾も必要。極端な話、
『二度と目覚めない植物状態から、心臓を抜き取って、生命活動が停止しても
構いません』っていう許しを得なきゃいけない」
「……それって」
「許しをもらっても、心臓が患者に適合するか、調べないといけない」
 そこまで言うと、めぐは両手を組み、うつむいた。
「数が少なすぎるのよ。それだけじゃない…」
「……」
「お金もかかる。日本でやるならおよそ2000万弱。分かるかしら、このお金」
 手遊びを始める。

579: 2008/07/18(金) 01:18:19.60 ID:+uP5qurX0
「テレビで見た事あるのよ。ちょうどこんなワイドショーでね。
 子どもを殺された親がいて、頃した犯人に、裁判で4000万くらいの請求してたのよ」
「4000万…」
「私それ見てショックだったわ」
 両肘を抱えるめぐ。
「人の命って、お金に換えられるんだって。親が決めたのかしら。4000万って。
それとも、弁護士から、『大体相場はコレくらいの額なんです』って言われたのかしら」
「……」
「私には分からない。でも、親は少なくともその額を受け入れてしまった。
納得してしまったんだって」
「……」
 ジュンは何も言えず、ただ聞いているしか出来ない。


581: 2008/07/18(金) 01:24:09.66 ID:+uP5qurX0

「同じよね。私が生きるには、少なくとも誰かが一人氏ななきゃならない」
「………」
「私今から馬鹿な話するから、嫌だったら部屋から出てっていいわよ」
 めぐはベッドにぼふっと倒れ、天井を見つめる。
「私の病気が治るには、数千万のお金をはたいて、どこかの誰かに
『ごめんなさい氏んで下さい』って氏んでもらわないといけない」
「……」
「きっと、パパは私のためなんかに数千万も払いたくないって思ってるわ」
「……」
「こうしてお金に直すとね、分かるのよ。自分の価値が。
そして、生きようとする事がどれだけ難しいか」
 目を閉じる。
「仮に移植したとしても、5人に1人は5年以内に氏んでるのよ。
長生きなんて……」
「そんな……」
 思わずジュンは反応する。

585: 2008/07/18(金) 01:28:02.11 ID:+uP5qurX0
「も、もっと楽しい事、考えようよ、ほら」
「…楽しい事?」
 めぐが首をこちらに向ける。
「水銀燈もいるじゃないか。い、今は外に行ってるけど」
「楽しい事って何?」
 めぐの声が淡々としている。
「………」
「ジュン君、教えて。私にとっての楽しい事って何?」
 半身を起こすめぐ。
「え」
 ジュンは思わず口をつぐんだ。
「どうしたの?教えて。私何をどう楽しめばいいの?」
 目が笑っていない。
「…答えられないのね。どうしたの。反射的に口をついて出た言葉?
病気持ちでもないのに、綺麗事抜かすのはやめてくれない?」
 はは、と呆れたように笑うめぐ。
「ジュン君ごめんなさい、帰ってもらえる?」
 冷たく張りつめた声。ジュンの全身が震えるには、十分な言葉だった。


588: 2008/07/18(金) 01:32:07.19 ID:+uP5qurX0

 何か世界がぐらぐらと揺れている。椅子に座っている感覚も、病院の床の
冷たさも、両の膝に乗せている拳も、全ての感覚が引いていく。
「あ、う」
 怒らせた、と直感で分かっていた。
だが次にどうすればいいか、ジュンには分からない。立ち上がればいいのか、
謝ればいいのか。
 何をしてもこの冷たい感覚は拭えない。変わらない。

 どかっとお腹を殴られたような感覚が襲った。
「うっぷ」
 思わずお腹を押さえ、ごほ、ごほ、と咳込むジュン。
「帰って!!」
 本を投げられたのだ、と分かった。
バサッと、もう一冊本が飛んできて、今度はジュンの顔面に当たった。


593: 2008/07/18(金) 01:37:31.77 ID:+uP5qurX0

 ああ、またか、と水銀燈は思っていた。そして、やっぱりか、とも考えた。
窓越しに見えるその光景は、予想していた通りのものだった。
「はあ」
 ジュンが何か地雷を踏んだのだろう。手当たり次第にジュンに投げつけている
めぐは、看護士とのやり取りを見ている水銀燈には
さして驚くような事ではなかった。
「………」
 病室の外から移動し、中庭の木の枝に座る水銀燈。

 めぐはいつもそうだった。こうやって、与えてくれる人に地雷を教える事もせず、
ただ遠ざけている。
 せっかくの、という言い方がしっくりくる。せっかくの出会いは、こうして
彼女自身が切り離してしまう。
 めぐは諦めている。だから、自分に都合の良い「物」しか受け入れない。
自分に対してもそうだ。自分を氏なせてくれる存在が現れた。白馬の王子様のように、
現実から逃がしてくれる存在が現れた。
 それだけなのだ。めぐは対話など望んでいない。
「………」

598: 2008/07/18(金) 01:42:56.57 ID:+uP5qurX0

 自分たち薔薇乙女はどうだろう、と、水銀燈はふと思った。
自分たちを作ってくれたお父様は、アリスを求めている。7分の1でしかない
自分を、愛してくれているのだろうか。
 腕が飛び、ネジが止まり、胸を貫かれ、奪い合い、敗者は動かなくなる。
動かなくなった6体の人形はガラクタ置場に打ち捨てられ、残りの1体はお父様と
幸せに過ごせるのだろうか。

 変わらない。自分たちは愛されているわけではない。
お父様の都合の良いようにしか扱われない自分たちもまた、「物」でしかない。
 
 真紅がジュンに向けている感情は、一体何だろうか。放っておけない弟を
見るような、ただし、真紅自身も、ジュンに依存しているような関係。
 翠星石が、蒼星石に向ける感情も、相互依存に近かったような気がする。

600: 2008/07/18(金) 01:46:13.26 ID:+uP5qurX0
「………」
 長い時を生きてきた中で、7体それぞれ、経験してきた事は違う。
薔薇乙女としての宿命を捨て、互いを大事にしよう、というような。

 違う。そんな事、考えるような事ではない。
アリスゲームは進んでいる。残っているのは4体か、3体か。
「………」
 ふと、何か光る物体が飛んできているのに気がついた。
「あら?」
 目を凝らすと、それがピンク色なのが分かる。
「ベリーベル…?」
 それは水銀燈の目の前まで来ると、何度もチカチカと光り続けた。


605: 2008/07/18(金) 01:52:57.90 ID:+uP5qurX0
「………」
 病室を追い出されたジュンは、廊下を虚ろな表情で歩いていた。
ふらふらしながら、壁づたいに入口を目指している。


  『あの子は自分が見捨てられた存在であると分かってしまった』

  『鬱屈した、どろどろになってしまった、とても醜い自分をぶつける相手が欲しかったの』

  『救ってもらいたいなんて、思っていない』

  『だから誰にも相談しない。頼らないし、聞き入れない』

  『その内分かるわ。貴方はたまたま見つけた、相性のいいオモチャと変わらないってね』


 水銀燈の言葉が、何度も頭の中でフラッシュバックする。
めぐの、あの冷たい瞳を見た時、まるで凍りついた断崖を目の前にしているかのような
錯覚に陥った。
 昔アルバムか何かで見た、ヒマラヤの、雪と氷の断崖絶壁。
自分ではどうにも出来ない、向こうの見えない壁。

607: 2008/07/18(金) 01:57:08.41 ID:+uP5qurX0
「………」
 自分はちっぽけだ、とジュンは思った。めぐは単純に、感情の問題だけで
生きる事を諦めているのではない。
 数字的な根拠が出てしまえば、人はどうしたって現実を思い知る。

『裁縫やイラスト、ちょっと女性的な趣味を全校生徒の前で晒されたので、
学校に行きたくないです』というのとは、次元が違う、諦め。
「ふう…」
 ジュンは天井を仰ぎ、ため息をつく。。
「……桜田…君…?」
 ふと、自分を呼ぶ声がした。


608: 2008/07/18(金) 02:02:10.18 ID:+uP5qurX0
「え」
 ジュンは声の聞こえた方向を見る。
 栗毛のセミロングにセーラー服。
「桜田君…だよね」
 一瞬よく分からなかった。
「あ」
 次の瞬間、ジュンの全身に震えが走る。
「久し振りね、去年の10月以来かな」
 ぞわわ、と鳥肌が立つ。忌わしい記憶。
「分からない?同じクラスの桑田」
 分かる、桑田由奈だ。
 紛れもない。
 何故?
 どうして彼女がここにいる?
 病院に何をしに?
「ねえ……」
 その先、ジュンは何をしたか、憶えていない。

612: 2008/07/18(金) 02:05:33.84 ID:+uP5qurX0

 土石流のような吐き気に襲われ、必氏で口を押さえ、とにかく走った。
 頭の中が真っ白だった。
桑田由奈の言葉も、廊下でびっくりしてよける患者も、驚いたように見ていた
入口の車椅子の老人も、ジュンの頭には入って来なかった。


613: 2008/07/18(金) 02:07:00.60 ID:+uP5qurX0

「そう、真紅と金糸雀が…」
 ベリーベルから、あらかたの事情を聴き終えた水銀燈は、頭の中を整理する。
金糸雀は1つ、真紅の中には、雛苺のローザミスティカ含め、2つ。
ローザミスティカは2つ、誰かに奪われた。
 つまり、3体目の退場は真紅、という事になる。
「…おバカさんねぇ…」
 ちくりと心が痛んだ。雪華綺晶を、現実世界に引きずり出せば、何とかなったかも
しれない。その情報を、自分は意図的に伏せたのだ。
「………」
 向こうから、誰かが走ってきている。
「あら…あれは」
 ジュンだった。様子がおかしい。
ふらふらと蛇行したかと思うと、彼は水銀燈のいる木から
3本ほど向こうのベンチの傍に倒れ込んだ。
「…?」
 水銀燈はゆっくりと近づいていく。


615: 2008/07/18(金) 02:13:50.36 ID:+uP5qurX0

「ぉ………」
 胃の中から溶けるような逆流が起き、ジュンは涙を流す。
 びちゃ、びちゃ、と何度も吐く。
「ごほっ、げほっ」
 顔を上げる事が出来ない。
 立ち上がる事も、何故か身体が拒否している。
「…うぅ…うぅ…」
 吐瀉物を前に、ジュンは突っ伏している事しか出来なかった。
ジィィ~という蝉の鳴き声が、ジュンの世界に響き続ける。
 自分をまるで嘲笑っているかのように。

616: 2008/07/18(金) 02:14:59.49 ID:+uP5qurX0
「どうしたのぉ?」
 甘ったるい声が、ジュンの耳に届いた。




 事情を断片的ながらも聞き出し、水銀燈はベンチに
体育座りをしていた。
 その傍らで横になったジュンは、つらそうな顔をして寝転んでいる。
「…」
 涙を流し終え、焦点の合わない虚ろな目。
今の水銀燈には、こうして横で体育座りをしている事しか出来なかった。
 雪華綺晶が来る。めぐを奪いに。
だが、今のジュンを放ってはおけない。

618: 2008/07/18(金) 02:17:26.73 ID:+uP5qurX0

「ごめんな…」
 30分ほど経っただろうか。ジュンが口を開いた。
 水銀燈が横を見ると、幾分呼吸の落ち着いたジュンが、視線だけを
こちらに向けていた。
「もう少し寝てなさい。どうせ時間は…」
 いや、そんなに残されていない。
「………いいよ、もう。一人で帰れる…」
 身体を起こし、震えながらもジュンは腰を上げる。
「…そう、じゃあ家まで頑張んなさいな」
 真紅の事を言おうかとも思ったが、やめておいた。
いずれ分かる事とはいえ、今のジュンにそれは酷い仕打ちだ、と考えたのだ。



620: 2008/07/18(金) 02:18:38.52 ID:+uP5qurX0

 遠ざかるジュンの姿を見て、水銀燈は胸の奥がちくちくと
痛いのを実感していた。
 これはアリスゲームだ。自分がとった行動は正しい。
マスターを守るため。そして、アリスになるための。
 
 白と灰色の混ざった入道雲が、空をだんだんと覆い始めている。
昼が近付いているはずなのに、足元が暗くなってきた気がする。
「………」
 自分の中のローザミスティカは3つ。
 今、雪華綺晶がどう動いているのか、分からない。
だが、めぐを守るためには、放ってはおけない。

 サアア、と風が吹き始めた。ゴゴゴ、という音は、入道雲の辺りから
聞こえる。白く純粋な、しかし確実に空を侵食していく大自然。
「…荒れそうねぇ」

 ぽつりと、水銀燈は呟いた。






670: 2008/07/18(金) 13:18:24.39 ID:+uP5qurX0
おはよう 保守乙
投下するぜ

675: 2008/07/18(金) 13:22:28.84 ID:+uP5qurX0



「違う…」
 ガチャリ、バタン、ガチャリ、バタン、と繰り返される音。
「いない……」
 もう数十枚は開閉しただろうか。
 雪華綺晶は、nのフィールドの扉を、片っぱしから開けていた。
金糸雀の落ちて行った方向をすぐに追ったものの、
nのフィールド内で探索を続けるのは限界があった。

 水銀燈の所に向かう前に、どうしても金糸雀を捕まえておく
必要があった。より確実な方法を採るために。
「………」
 だが、この調子では、何日もかかってしまう。それは避けたかった。
見通しが立たないのであれば、先にしておくべき事がある。
 もうそろそろ、だ。
「いない、見つからない……」
 ガチャリ、バタン、ガチャリ、バタン、と無機質な音が響き続けた。


677: 2008/07/18(金) 13:27:23.57 ID:+uP5qurX0

 ガララ、と窓を開ける水銀燈。
 部屋の中央、ベッドの上で、タオルケットが丸く盛り上がっている。
「めぐ…」
 声を掛けるも、反応がない。
「……」
 水銀燈は諦めて壁にもたれかかった。いつもの事だ。
めぐはヒステリーを起こした後、必ずこうして布団をかぶる。
 拗ねているのではない。
彼女の心は、この時後悔と自己嫌悪で埋め尽くされている。
幼稚な自分に、そこから動けない自分に対しての。

 そういう時、水銀燈はいつもこうして病室の中にいる。
一度声を掛け、反応があれば話を聞いてやる。
反応がなければ、ずっとそのまま傍にいる。
 いつの頃からか、水銀燈が決めた事だった。

680: 2008/07/18(金) 13:33:08.17 ID:+uP5qurX0
「……」
 ぎしっ、と音を立てて、ベッドの上の、丸まった物体が
動いた。
「水銀燈…?」
 めぐが泣き腫らした目で、こちらを見つめている。焦点が
合ってない。
「少し寝てなさい。みっともないわ」
「…そうね、私…」
 めぐは体育座りをし、マントのようにタオルケットを羽織る。
「私馬鹿だわ」
 憔悴しきった顔を、膝にこすりつける。


682: 2008/07/18(金) 13:39:00.46 ID:+uP5qurX0

「またやっちゃったんでしょう」
「……」
 水銀燈の問いに、答えない。
「…ローゼンメイデン…」
「え?」
 膝に顎を乗せ、両肘を抱えたまま、めぐはため息をつく。
「あの子は私と同じ…」
「同じ?」
 水銀燈が問い返す。
「私は現実から逃げている。受け入れたくない現実があるから」
「?何を言い出すの、めぐ」
「あの子もそう」
 それには答えず続けるめぐ。
「現実から逃げて、世界から外れた場所で生きている」
「……」
「私ね、水銀燈」
「何?」
「あの子と契約している真紅、という人形を見て思ったわ」
 膝を抱えるめぐ。

685: 2008/07/18(金) 13:43:47.68 ID:+uP5qurX0
「真紅はジュン君を大切に思っている」
「……」
「何とか前を向いてもらいたい。でも」
 スウウ、と病室が影に覆われる。窓の外を見ると、
灰色の雲が広がってきているのが分かる。
「本当はね、人はそんなに強くないのよ」
「……」
「たった一人で立ち上がれる人なんて、この世に殆どいないと思うの」
 遠くで、ゴロゴロ、という音が聞こえる。
「立ち上がれる人は、きっと、もう他人を信頼出来なくなってしまった人」
 膝を握る手に力を込める。
「真紅は、ジュン君が立ち上がろうとしたその時に、私の肩を使ってくれればいい、
それまでずっと、私はあの子の傍にいる、そう言ったわ」
「……」
 水銀燈は目を背けた。
「それが、人を助けるっていう事だと、私は思うのよ」

688: 2008/07/18(金) 13:50:06.32 ID:+uP5qurX0
「……」
「ほんのちょっと、肩を貸してあげるだけでいいのよ。それだけで、
人は頑張れる生き物だもの」
「…」
「ジュン君は、きっとそうして、誰かに救ってほしいって、思ってるんだわ」
「…どこが同じなの?氏にたいって」
 からからと窓を開け、外を眺める水銀燈。
「貴女は全てを拒絶して」
 生ぬるい風が吹き込んできて、思わず水銀燈は身震いする。
「違うの、ごめんなさい」
 水銀燈の背中に声を掛けるめぐ。
「貴女には随分天邪鬼な事をしてしまった」
 水銀燈が振り返る。
「ごめんなさい、私、氏にたくなんてない」
 めぐの肩が小さく震えている。
「独りで淋しく氏んでいくなんて、本当はとても怖い」
「めぐ…」
「私だって誰かに手を取ってほしい、引っ張っていってほしい」
 顔を伏せるめぐ。
「誰かに……」
 嗚咽が漏れ始める。
「ごめんなさい……ジュン君……」
 ぽつ、ぽつ、と、雨音が聞こえ始めた。


692: 2008/07/18(金) 13:55:37.71 ID:+uP5qurX0


 ざあああ、と雨が降り続ける。
「……う……」
 うっすらと開く、二つの瞳。
 頬に、何かちくちくとこそばゆい感覚。
「ここは…」
 金糸雀は身体を起こし、きょろきょろと周囲を見回す。
「みっちゃんの…マンション…?」
 視線の先、ベッドに、自分のマスターのみつが眠っている。
「みっちゃん」
 ふらふらしながらも、近づいていく。
「みっちゃん」
 ベッドによじ登り、ゆさゆさと揺する金糸雀。
「……」
 返事はない。
 ただ、呼吸による身体の動きが、生きている事を示している。
「ごめんね、みっちゃん…」
 徐々に記憶が甦ってくる。

695: 2008/07/18(金) 14:02:53.10 ID:+uP5qurX0

 nのフィールド、白い水晶の中で、みつが眠っていた。
 驚いて駆け寄る金糸雀の全身をたちまちイバラが縛り、首を締め上げられ、
意識を失った。そこまでの記憶だった。
 チカチカ、と、黄色い光が目の前を飛んでいる。
「ピチカート」
 何度も頷く金糸雀の顔が、次第に凍りついていく。

「…真紅が」
 金糸雀は肩を落とした。
 真紅のローザミスティカがおそらく奪われた事、
ピチカートが、落下していく金糸雀を追い続け、その先にある扉から
この部屋まで連れてきた事。
 それが終わり、nのフィールドに繋がる、この部屋の鏡をピチカートが割って、
入口を遮断した事。
「ありがとうかしら、ピチカート…」


697: 2008/07/18(金) 14:07:15.36 ID:+uP5qurX0

 翠星石が事実上離脱し、マスターも3人囚われている現状。
真紅は、あとは水銀燈のマスターと、ジュンだけだと言った。
「……」
 雪華綺晶は、今何をしているのだろう。
 水銀燈の所に向かったのか、それとも、逃した自分を、
必氏になって探しているのか。
 とにかく、自分だけではどうしようもなかった。
ジュンか水銀燈に、助けを求めに行かなくてはならない。
「行かなきゃ…」
 窓を開け、傘を広げる。
 自分にやれる事。みっちゃんを取り戻すために。
「待ってて…!」
 雨が降りしきる中、金糸雀は勢いよく飛び立った。


700: 2008/07/18(金) 14:12:18.15 ID:+uP5qurX0
「………」
 赤い光が水銀燈の傍を飛び回っている。
 事情を聴き終えた水銀燈は、じっと腕組みをしていた。
 ベッドの上では、先ほどの嗚咽が嘘のように、めぐが静かに
眠り続けている。
「…まずは、そうね…」
 nのフィールドに入り、金糸雀を探さなければならない。きっと、
雪華綺晶も彼女を探しているはずだ。
 後はここに来るだけとはいえ、厄介な攻撃をしてくる金糸雀を、
あの狡猾な妹が放っておくわけがない。
「……」
 それは逆に言うと、金糸雀を味方につけておけばある程度の
策を練る事が出来る、という事でもある。
「でも…」
 ちらっとめぐを見やる水銀燈。
 今、めぐを一人にしておくのは危険だ。
 とすると、金糸雀の捜索は諦めなければならない。
 ゴンゴン、と窓を叩く音。
 水銀燈は思わず振り向く。
「開けてほしいかしらー!」
 びしょ濡れの金糸雀が、何度も窓を叩いていた。

702: 2008/07/18(金) 14:14:20.28 ID:+uP5qurX0

「そういう事よ、金糸雀。雪華綺晶は必ずここに来る。だから、
今言った事を踏まえて攻撃してほしいの」
 窓を背にする金糸雀を、ベッドに座った水銀燈が見つめている。
「……でも、本当にそれ大丈夫なのかしら。現実世界も、
nのフィールドも、関係ないような気がするけど…」
「あの子は、器なしでは、nのフィールドから出られないと言ったわ」
「……」
「だったら、現実世界で器を攻撃すれば」
「でも…」
 金糸雀はうつむく。
「でもじゃないわよ、やんなきゃ貴女のマスターだって、帰ってこないのよ」
「あれは、ヒナの身体…」
「………」
 水銀燈はイライラを隠せない。

703: 2008/07/18(金) 14:17:06.31 ID:+uP5qurX0
「あのねえ、あんたの気持ちは分かるわよ。でも、雛苺は自分から、
真紅にローザミスティカを託したんでしょう。もう自分がこの世界に
いられないから」
「……」
「だったら――」
「あっ」
 金糸雀が声を上げた。
「え」
 瞬間、しゅるる、という音がして、自分の身体がイバラに縛られているのが分かる。
 めぐも同様に、いつの間にか身体をイバラに覆われている。
「しまっ………」
 伸びているのは鏡の中から。その瞬間、凄まじい力で水銀燈とめぐは
鏡の中に引きずり込まれた。

「水銀燈!」
 金糸雀はすぐさまその後を追い、続いて5体の人工精霊が鏡に飛び込んだ。


706: 2008/07/18(金) 14:21:43.27 ID:+uP5qurX0


「あっ、ぐっ…」
 苦しそうにもがく水銀燈。
「お姉様、取引しましょう」
「な、何が」
 鏡の向こうには、白い水晶が5つ。その中央、自分たちを縛っているイバラの先に、
雪華綺晶が座っていた。
「今、私の中には、彼女から奪ったローザミスティカが2つある」
 すっと、右端の水晶を指さす。
「し……」
 四肢をバラバラにされた真紅が、こちらを睨んでいる。
「雪華綺晶…あんた…」
 身動きが取れない。
「素直にマスターを渡していただけるのであれば、このローザミスティカは差し上げます。
ただ、それが難しいのでしたら、私は―――」
 キュイイイイイ、と音がして、次の瞬間、後ろから衝撃波が襲った。
「あっ」
「くっ」
 雪華綺晶が吹っ飛び、めぐと水銀燈を縛っていたイバラが千切れ飛ぶ。
「めぐっ」
 めぐは幸い吹っ飛ぶ事もなく、5体の人工精霊が彼女を守っていた。
「メイメイ…レンピカ…」
 軽く後方に吹き飛ばされた水銀燈が、体勢を立て直す。
目の前を黄色い影が横切り、ギイイイイイ、と今度は鈍い音がした。

708: 2008/07/18(金) 14:25:49.54 ID:+uP5qurX0
「ぶっ」
 真正面からまともに衝撃波を食らい、雪華綺晶は更に奥へと吹き飛んだ。
「みっちゃん、返してもらうかしら!!」
 バイオリンを持った金糸雀が、雪華綺晶の前へと立ちはだかる。
「……」
 雪華綺晶はくるくると回って姿勢を取り直し、金糸雀を凝視している。
「終わりのない追走曲!!」
 再び衝撃波。だが、雪華綺晶は落ち着いてそれを避ける。
「くっ」
 弾き続ける金糸雀。
「金糸雀、いい事教えてあげましょうか」
 ヒュン、ヒュン、とよけ続ける雪華綺晶。
 金色の目が、心なしか鋭くなったような気がする。


711: 2008/07/18(金) 14:30:32.81 ID:+uP5qurX0

「めぐ」
 金糸雀たちを横目で追いながら、めぐをゆさゆさと揺する水銀燈。
だが、一向に起きない。
「どうしたの…?めぐ…?」
 マスターが眠らされている以上、金糸雀とて、そう攻撃は続けられない。
 水銀燈の頬に、冷や汗が流れた。


713: 2008/07/18(金) 14:33:37.99 ID:+uP5qurX0

「どっ、どうして当たらないの」
 何度も衝撃波を飛ばす金糸雀。
「どうして翠星石を閉じ込めたか」
 徐々にこちらに近づいているような気がする。
「どうして、一人でいる貴女を、先に襲わなかったのか、いいえ」
 すれすれの所でよけ続ける雪華綺晶。
だが、それはまるで遊んでいるかのようだ。
「どうして貴女のローザミスティカを残したか」

「はぁっ、はぁっ」
「私は最後に、貴女が手に入れば良かった」
 嬉しそうに笑う。
「だって、貴女の能力があれば、誰にだって勝てるもの」
「み、みっちゃん…」
 イバラがヒュンッ、と飛んできた。

717: 2008/07/18(金) 14:39:11.36 ID:+uP5qurX0
「あっ」
 ガランガラン、と遠くに飛ばされるバイオリン。
「たとえ水銀燈と取引したって」
「う…」
「そう、今の貴女のように、使い方さえ間違えなければ」
 しゅるる、とイバラが伸び、金糸雀を拘束する。
「マスターを先に眠らせたのはこのため。どう?
もう力が湧いてこないでしょう」
 もがく金糸雀に、コツ、コツ、と近づいていく。
「!!」
 瞬間、雪華綺晶は飛び上がった。左足に、黒い羽根が数本刺さる。
「痛ッ…」
 次の瞬間、左半身に衝撃が跳ねた。

720: 2008/07/18(金) 14:42:12.18 ID:+uP5qurX0
「あっ」
 大きくのけぞり、雪華綺晶は吹っ飛んだ。
「……」
 金糸雀は驚いて、飛んでいったのと反対方向を見やる。
「金糸雀!何やってるの!早くしなさい!!」
 水銀燈が駆け寄ってきて、イバラをほどき始める。


722: 2008/07/18(金) 14:47:49.18 ID:+uP5qurX0

 ほどき終えた所で、吹っ飛んだ雪華綺晶を追う水銀燈。
「水銀燈!」
 後を追おうとするが、めぐから目を離すわけにはいかない。
「……」
 ギッ、と音がした。自らのネジが切れようとしているのが分かる。
「使えて…あと一回って、とこかしら…」
 バイオリンを握りしめる。
 その刹那、ドッと音がして、金糸雀の身体が揺れた。



724: 2008/07/18(金) 14:54:36.26 ID:+uP5qurX0

 水銀燈は、雪華綺晶を追って飛び続けていた。
 おかしい。
 吹っ飛んだ方向のどこにも雪華綺晶が見当たらない。
「何故…?」
 こんな事はあり得ない。どこかで体勢を立て直して、自分に向かってくるのが――
「自分に…?」
 水銀燈は後ろを振り返る。
 自分が雪華綺晶ならどうするだろう。本当に自分に、真っ向勝負を挑んでくるだろうか。
「いえ――」
 違う。雪華綺晶の狙いは―――
「!!」
 水銀燈は身を翻し、元来た方向に全速で向かった。


726: 2008/07/18(金) 14:57:01.04 ID:+uP5qurX0

 水銀燈が元の場所に着いた時には、イバラに貫かれ、倒れている金糸雀を横目に、
雪華綺晶がめぐを愛おしそうに撫で続けていた。
「なっ……」
 黒い羽根の突き刺さった左腕をだらんと垂らし、雪華綺晶がこちらを見やる。
「約束の刻ですわ、黒薔薇のお姉様」
「めぐ!!起きて!!そんな奴に惑わされないで!!」
「無駄ですわ。彼女は」
「無駄…?貴女めぐに何をしたの」
 じり、と一歩近づく水銀燈。
「それ以上近づけば、首を引き千切りますわ」
 首に回しているイバラを指さす。

728: 2008/07/18(金) 14:58:30.76 ID:+uP5qurX0
「くっ……」
「彼女の方から、この世界に迷い込んできたのです、お姉様」
「はっ?」
「酷く悲しそうで、迷子になって、自分の名前すら思い出せない」
「…な、何ですって…」
「だから彼女は、自分から眠る事を選んだ。力を使う必要はなかった」
 めぐの寝顔を見つめる雪華綺晶。
 ふと、水銀燈は視界の隅で動くものに気づく。
「夢の世界を選んだ人間を、現実世界に―――」
 雪華綺晶の言葉がそこで途切れ、身体が白い水晶に打ちつけられる。
衝撃で、だらんと垂れていた左腕が引き千切れた。
「金糸雀!」
 倒れた姿勢で、なおバイオリンを構えた金糸雀が、こちらに笑顔を向けた。
「逃げて!!早く…!!逃げ…!」
 めぐに駆け寄る水銀燈。
「逃がしませんわ」
 残った右手から、雪華綺晶がイバラを放つ。
めぐを捕え、そのイバラは水銀燈の胸を狙う。
「……っ!!」 
 尻もちをつき、水銀燈は思わず目を閉じた。

730: 2008/07/18(金) 15:00:43.32 ID:+uP5qurX0
「…?」
 何ともない。
「ちっ…」
 5体の人工精霊が、水銀燈のイバラを防いでいる。
「あ…あんたたち……」
「水銀燈!!」金糸雀が水銀燈の腕を引っ張り、蹴飛ばした。
「きゃあっ」
 バランスを崩し、nのフィールドを落下してゆく水銀燈。
「ああああああぁぁあああぁぁ……」
 遠ざかってゆく、白い水晶。
「めぐぅ!!めぐっ……!!」
 何度も叫び続けるが、次第に周りが霧に包まれてゆく。
ドンッ、という音と共に、全身に衝撃が走り、水銀燈は気を失った。



742: 2008/07/18(金) 16:51:44.65 ID:+uP5qurX0
戻ったぜ 投下開始するぜ

744: 2008/07/18(金) 16:54:09.46 ID:+uP5qurX0



「………」
 ぐいっと金糸雀の頭をつかむ雪華綺晶。
 喉を貫いているイバラ。目を見開いて停止している金糸雀の身体が
光り始め、ローザミスティカが現れた。
「く……」
 それを手に入れ、負傷を確認する。
 左腕は、もう使い物になりそうもない。左の脇腹と、足に刺さった羽根を抜く。
球体関節を集中的にやられたせいで、左足も動かない。
 だが、手にした物もある。
 命令の遂行を終え、ホーリエ、ベリーベル、ピチカートは自分のものになった。
そして、4人目のマスター、柿崎めぐ。
これで、残る水銀燈も、限りある力をやすやすとは使えまい。
 ギシ、と身体に痛みが走る。
「しばらく動けそうにはないですわね…」
 焦る事はない。残るは桜田ジュン、そして水銀燈のみである。
無理に今日、こちらが動く必要はない。
 雪華綺晶は安心したように笑い、横になって目を閉じた。


747: 2008/07/18(金) 16:58:24.10 ID:+uP5qurX0

「う………」


 ゆっくりと開く瞼。

 水銀燈は、ぼんやりと思考を取り戻していく。

 映るのは、暗闇の中、かすかに見える天井。

「…?」
 病院ではない。何か、埃っぽい。
 鈍い痛みを感じながら、半身を起こす。
「ここは…」
 目の前に、大きな鏡がある。だが、自分の姿がよく見えない。
きょろきょろと見渡しても、何が何やら分からなかった。
「…めぐ…金糸雀…?」
 何の反応もない。代わりに、ぷんとカビ臭いニオイが鼻をついた。
「めぐ?めぐ??」
 慌て始める水銀燈。
「ど、どこなの。返事して!めぐ!!」
 鏡が揺らめき、蒼と紫の発光体が、それぞれ飛び出してきた。

749: 2008/07/18(金) 17:01:54.54 ID:+uP5qurX0

「メイメイ!レンピカ…!」
 その光で、何やら物置らしき場所だと分かる。
メイメイがチカチカと光り続ける。
「……何ですって」
 水銀燈は信じられないといった風に、いやいやと首を振った。

「…どうして」
 金糸雀のローザミスティカは奪われ、めぐも眠りにつかされた。
ホーリエたちは雪華綺晶につき従い、あとに残されたのは自分だけ。
「…私のせいだというの?」
 結果的に、自分が雪華綺晶の誘いに乗り、真紅を見頃しにした事で、
このザマである。
 自分がアリスになるため。そして、めぐを守るため。
そのための行動だったはずだ。


751: 2008/07/18(金) 17:08:20.66 ID:+uP5qurX0

 真紅も、翠星石も、蒼星石も、金糸雀も、雛苺も、めぐも、
全て奪われた。
「…………」
 後悔と、絶望。
「…私」
 何よりも、自責。
「……私は」
 放心状態で座り込んでいる水銀燈。
 チカ、チカ、と瞬く人工精霊たち。
「…何?」
 狭い部屋の奥に、扉がついている。
「………」
 水銀燈はゆっくりと立ち上がり、扉を開けた。


753: 2008/07/18(金) 17:13:37.06 ID:+uP5qurX0

 薄暗い廊下。左手に幅の狭い扉があり、正面にまた扉。右手からうっすら光が
差し込んでいて、ざあざあという音が聞こえる。
 家だ、と分かった。どこかで見た事のある。
「…真紅たちの家?」
 右に曲がると、階段があった。

 トン、トン、トン、と、上がっていくと、扉が4つついている。
先行して、メイメイが飛んでいく。
「あ、ちょっと…」
 メイメイが止まった扉の前。
「……?」
 中から、何か呻くような声が聞こえた。
「何?」
「………ぅ…」
 この声は。
「……桜田…ジュン…?」
 慎重にドアノブを回し、水銀燈はカチャリと開けた。


755: 2008/07/18(金) 17:22:42.02 ID:+uP5qurX0

 暗闇の中で、ベッドの上の毛布が盛り上がっている。
「う……うぅ……」
「…」
 水銀燈はゆっくり近づき、顔を覗こうとする。
だが、頭まですっぽりかぶってしまっているらしく、
表情は確認出来なかった。
「ジュン…」
「………」
「どうしたの」
 声を掛けると、ジュンが毛布をめくる。
「……」
「どうしたの?」
「…水…銀…燈?」
 目が赤い。
「泣いているの?」
「……何で、ここに…?」
「え」
 水銀燈は視線を伏せる。

759: 2008/07/18(金) 17:28:59.67 ID:+uP5qurX0
「ああ、何でもない…ごめんな…今日は…」
 再び布団をかぶる。
「僕のせいで、めぐさん傷つけちゃってさ」
「……」
「真紅たちも、どっか行っちゃったみたいだし…」
「………」
「やっぱり、僕は外に出ちゃいけなかったんだよ」
「…そんな事」
「クラスメイトに会っただけで、また吐いて」
「…違うわ」
「いいんだ、帰ってくれ、今日はもう誰とも話したくない」
「待って、違うのよジュン」
 毛布をゆさゆさと揺らす水銀燈。


761: 2008/07/18(金) 17:35:03.47 ID:+uP5qurX0

「私が全部悪いのよ!!真紅の事も!何もかも!!」
 必氏になって叫ぶ水銀燈。
「…真紅の事?」
「私、雪華綺晶と会ったわ」
「え」
「7番目のドール。そして、雛苺の身体を奪った張本人」
「…どういう」
「それは全部説明する。時間がないの」
 ジュンが、ようやく半身を起こした。


766: 2008/07/18(金) 17:40:17.06 ID:+uP5qurX0

「…………」
 呆然とした表情で、ジュンが固まっている。
「…う…嘘…だろ?」
「嘘じゃないわ。これはさっきまであった本当の事よ」
 うつむいたまま、水銀燈は顔を上げようとしない。
「真紅が…バラバラにされて…」
「そうよ」
「翠星石が囚われて…」
「…そうよ」
「金糸雀も、めぐさんも、捕まって…」
「…もう、ドールもマスターたちも、私と貴方しか残っていないの」
「……」
「それは全部私のせい」
「…でも」
「お願い、私は…」
「…無理だよ、僕は頑張れない」
「え」
 再び毛布をかぶってしまう。

768: 2008/07/18(金) 17:42:23.99 ID:+uP5qurX0
「僕は弱いんだ。真紅たちが助けてくれたって、結局こうだ。
今更、そんな得体の知れない人形相手に、僕が何を出来るっていうんだよ」
「そんな事ないわ」
 ベッドによじ登り、揺する水銀燈。
「やめろよ、やめてくれ」
「やめないわ。そんな事言わせない」
「嫌だ、やめろったら!」
 毛布越しに、思い切り右腕を振り回すジュン。
「きゃっ」
 水銀燈は勢いで床に転げ落ち、後頭部を打った。
「はっ…」
 ジュンは身体を起こし、水銀燈を見やる。
「うぅ…」
「ご、ごめん…でも…」
「……ジュン」
 震えながら起き上がる。
「……あの後ね、めぐは言ってたわよ」


769: 2008/07/18(金) 17:44:09.43 ID:+uP5qurX0
「…?」
「あの子は、私と同じだって…」
 再びベッドに登り、ジュンの傍へ寄る。
「水銀燈…やめてくれ」
「受け入れたくない現実があるから、逃げている。
世界から外れた場所で生きている」
 目を背けるジュン。
「人はそんなに強くない」
「……っ」
「真紅が言ってたそうよ。雪華綺晶に壊される前、
病室で」
「『ジュンの苦しみなんて、ジュンにしか分からない。
あの子が乗り越えていくしかないの』」
「いいよそんな言葉は。僕には無理だって言ってんだろ」
「『私はジュンの傍にいる』」
「……」
「『あの子が逃げ出したら追っかけていく。一人にならないように。
氏にたがっていたら、落ち着くまで手を握っていてあげる』」
「……」

772: 2008/07/18(金) 17:46:59.96 ID:+uP5qurX0
 水銀燈はジュンの肩をつかむ。
「わ…」
 振り向かせたジュンの両手を握りしめる水銀燈。
「『いつかあの子が立ち上がろうとした時に、私の肩を使って、支えにして、
立ち上がってくれれば、それでいい』」
「………」
「もう一度言うわ、人はそんなに強くない」
「……」
「貴方は、きっと、誰かに救ってほしいって、思ってるんだわ」
「………」
「私だって、誰かに手を取ってほしい、引っ張っていってほしい」
「……」
「ごめんなさい」
「………」
 水銀燈はジュンの顔を見上げる。
「それがめぐの言葉」

776: 2008/07/18(金) 17:53:00.03 ID:+uP5qurX0
「………」
「ね、お願い、あの子は貴方を必要としているの」
「やめてくれよ、そんなの…」
 水銀燈の手を振りほどく。
「助けて、お願い」
 なおも水銀燈はジュンの肩をつかんでいる。
「助けて。お願いだから助けてよ」
 涙声になっている。
「私がいけないの。私が」
 鼻をすする。
「真紅もめぐも、奪われてしまった」
「……」
 シャツをぎゅうっとつかみ、必氏にこちらを向かせようとする。
「助けて。ジュン助けて」
 ぐいっと肩口を引っ張る。
「わ」
 バランスを崩し、仰向けに倒れ込むジュン。

778: 2008/07/18(金) 17:59:26.30 ID:+uP5qurX0

「お願い、私に…」
 ジュンの胸の上に登り、かたかた震えながら泣き続ける水銀燈。
「私に…私に出来る事なら何でもするから…」
「……」
「うぅ…ううう……っ」
「…」
「だから助けて、助けて…」
 大粒の涙が落ちる。
「………」
「…どうして答えてくれないの」
「……」
 ジュンは目を逸らしてしまう。
「どうして何も言ってくれないの、ジュン」
「………」
「どうして……」
 水銀燈は顔を伏せ、声を上げて泣き続けた。




780: 2008/07/18(金) 18:03:18.42 ID:+uP5qurX0



 部屋の隅。
「………」
 すっかり暗くなり、雨も止んでいるようだ。
 水銀燈が膝を抱え、赤い目をこすろうともせず、床に視線を向けている。
「………」
 ジュンはベッドに横になり、壁を見つめていた。
「…帰るわぁ」
 おもむろに立ち上がり、部屋を出ていく水銀燈。
「………」
 バタンという音と共に、部屋が真っ暗になった。
 ジュンは目を閉じる。



782: 2008/07/18(金) 18:07:03.70 ID:+uP5qurX0

――――私ね、淋しくなったり、つらい事があった時は、こうしてると安心するの


――――つらい事があった時、ジュンの膝に乗って、こうして全身を預けていると安心する


――――たぶんね、貴方が優しい人間だって知ってるから




784: 2008/07/18(金) 18:10:49.40 ID:+uP5qurX0

――――貴方と散歩がしたい


――――駄目かしら。こうして手を繋いで


――――朝の涼しい…そうね、今みたいな時間帯に
 

――――貴方が私と一緒に中庭を歩いてくれている


――――歩き疲れたら、中庭のベンチに座って、私は疲れて眠っちゃうの


――――その時は、肩くらいは貸して頂戴ね




――――ね、ジュン君?


788: 2008/07/18(金) 18:19:16.74 ID:+uP5qurX0



 物置の鏡の前。
レンピカとメイメイが飛び交う中心に、水銀燈が立っている。
「……めぐ、待ってなさい」
 胸に決意を秘め、進み始める。
「待てよ」
 突然後ろから声がした。
「僕も行く」
 水銀燈が振り返る。赤い目をこすりながら、ジュンがその眼を
見据えていた。


789: 2008/07/18(金) 18:21:24.30 ID:+uP5qurX0
 
「ジュン……!」
「ごめんな、水銀燈」
 たたた、と駆けよる水銀燈。しゃがみ込むジュン。
「わぷ」
 水銀燈は、ジュンの首に手を回した。
肩口に顔をこすりつけ、ぎゅっと両手に力をこめる。
「ぷ…ど、どうしたんだ」
「しばらくこうさせて頂戴」
「え……」
「そしたら、私戦えるから」
 そう言って、目を閉じる水銀燈。
「……」
 ジュンは何も云わず、彼女の行為に身を任せた。


792: 2008/07/18(金) 18:26:23.94 ID:+uP5qurX0

 数分ほどそうしていただろうか。
「……」
 水銀燈はジュンから身体を離し、しばらくジュンの眼を見つめる。
「…な、何?」
「………」
 ふう、と息を吐き、その場に座り込む。
「今から作戦を説明するから、頭に叩き込んでもらえるかしら」
「え」
「気を抜いたら駄目よ。いいわね」
 鋭い瞳に、ジュンは言葉を発せられなかった。



843: 2008/07/18(金) 22:25:02.11 ID:+uP5qurX0
ごめんなさい 今戻りました。投下するよ。
間に合わなければ次スレ立てるよ!!

849: 2008/07/18(金) 22:29:10.40 ID:+uP5qurX0

「本当に上手くいくのかな」
 水銀燈に手を引かれ、nのフィールドを飛び続けるジュン。
「あら、信用出来ないの。なら、代案くらいは用意出来てるんでしょうね」
 じろりと睨む水銀燈。
「い、いや、言ってみただけだよ」
「そう」
 先を行くレンピカ、メイメイが、チカ、チカと輝いた。
「近いわ」


853: 2008/07/18(金) 22:33:43.65 ID:+uP5qurX0
 
 6つの白く巨大な水晶を背後に、雪華綺晶がうずくまっている。
「……」
 人工精霊3体がかりでも、左足を直すのに手間取っていた。
「…これでは」
 少し焦りが滲む。殆ど回復していない身体。今、水銀燈たちが襲ってきたとしたら。
「……」
 後ろで停止している翠星石のローザミスティカを奪おうかとも考えたが、
水晶を消すにも力を使う。
 何より、壊れた部分を直すのに必氏で、他の事をしている余裕はない。
ローザミスティカは3対3。金糸雀の力があれば、五分以上に戦える。
「いざとなれば……」
 背後で眠るめぐに視線を送り、ニィ、と笑う。
その直後、雪華綺晶は、何かが空気をつんざく音を聞いた。



858: 2008/07/18(金) 22:38:29.99 ID:+uP5qurX0


 瞬間、ダラララッと音がして、雪華綺晶の身体が回転する。
「あっ」
 5メートルほど吹っ飛び、雪華綺晶には何が何だか分からなかった。
見ると、自分の左半身に、黒い羽根が無数に突き刺さっている。
「くっ」
 水銀燈だ。
 雪華綺晶は体勢を整え、飛ぼうとする。
「きゃあっ」
 がくっと身体が左に傾き、視界の隅に、千切れた足が見えた。
「な……」
 白いブーツを履いた足。見れば自分の左足がない。
吹っ飛ばされたのだ、と理解するまでに、数秒かかった。
「こっちだ雪華綺晶!!」
 視線の先に、桜田ジュンが映る。6つの水晶の中央付近で、こちらを向いて
大声で叫んでいる。

862: 2008/07/18(金) 22:43:12.59 ID:+uP5qurX0

 瞬時にバイオリンを構え、そちらに飛びかかってゆく。
ヒュッと蒼い光が視界を遮り、ひと際キィン、ときらめいた。
「ああっ!!!」
 目が眩み、思わずバイオリンを持った手で目を押さえる。
「……!!」
 姑息。
 いや、重要なのはそこではない。
「こっちだ!!」
 声がする。雪華綺晶はそちらに向けて、弦を思い切り弾いた。
 発せられた衝撃波が、ズンッ、と、何かに当たる感触。
ようやくチカチカしながらも、目を開く。
「!!!」
 その先にあったのはジュンではなく、自分が作り上げた白い水晶。
根元がピキピキ、と割れ、ついには雪華綺晶の方へと倒れ込んできた。


864: 2008/07/18(金) 22:46:21.86 ID:+uP5qurX0

「ちっ」
 まだチカチカする目を我慢しながら、雪華綺晶は背後に飛び上がる。
「かかったわね!!」
「!?」
 声のする方向に一瞬水銀燈が見え、更に空気を裂くような音。
「ひっ」
 反射的に右手で顔を庇い、カカカッと右手、上半身、右足に羽根が刺さる。
「痛ッ……」
 ドカッと腹に大きな衝撃が走る。蹴られたのだ、と感じるも、
吹っ飛んでいく自分を止める手立てが、ない。
 何とかしなければ。何とか。
「あぐっ」
 ドゥンッ、と音がして、雪華綺晶は壁に叩きつけられた。



867: 2008/07/18(金) 22:51:36.91 ID:+uP5qurX0



「ぐ……」
 身体中に激痛が走る。立ち上がれない。
いや、そもそも左腕と左足がないのだ。
 目を開くと、真っ白なベッド、純白のカーテンに、薄暗い天井が見えた。
「……病室?」
 ほどなくして、目の前の手洗いの鏡から、水銀燈とジュンが出てきた。

 動けない雪華綺晶を確認し、水銀燈は鏡を羽根で割った。
「さあ」
 床で苦痛に顔を歪める雪華綺晶を、水銀燈は冷たく見下ろしている。
「終わりの始まりよぉ、7番目」




872: 2008/07/18(金) 22:57:26.48 ID:+uP5qurX0

 右腕。

 右足。
 
 左肩。

 腰の左側。

 馬乗りの体勢で、水銀燈は雪華綺晶を押さえ込んだ。
「………」
 雪華綺晶の瞳は、観念した様子で水銀燈、ジュンと
視線を移した。
「……雪華綺晶」
 どこか淋しそうに見えたその瞳。ジュンは思わず声を漏らす。
「…ここは?」
 ぼそりと呟く。
「現実世界よ。有栖川病院の316号室、貴女が何度も盗み見てた、ね」
 水銀燈は吐き捨てるように言った。


877: 2008/07/18(金) 23:08:20.90 ID:+uP5qurX0

「…私を」
 更に続ける。
「…ここで消滅させるのですか」
「そうよ?何か問題でも?」
 その冷徹な瞳は、窓からの逆光で暗く沈んでいる。
「……そうですか」
「メイメイは優秀でね、貴女の吹っ飛んだ方向にこの扉を
設けさせたのよ。凄いでしょう?どう?」
 ハッ、と水銀燈は嘲笑った。
「その前に、一つ…うっ」
 水銀燈の右手が、雪華綺晶の喉をつかんだ。
「何をほざく気かしら。今更この口が」
「……ぐ」
「お、おい水銀燈」
「すっこんでなさいジュン」
「……」
「この子は自分のために、雛苺の身体を奪った。
翠星石の優しさを利用した。動かなくなった蒼星石を操った。
真紅の身体をバラバラにした。金糸雀の喉を貫いた」
 右手に力を込める。
「私は許さない」

883: 2008/07/18(金) 23:13:38.01 ID:+uP5qurX0

「……」
 雪華綺晶の右手が、何かを求めるように動いた。
「…たし…は…」
「……は?」
「そうです…私は…自分がアリスになるためだけに……」
 反射的に右手を緩める。
「利用出来るものは利用した…踏み台にした……でも」
「…何よ、言って御覧なさい」
「…それの…何が悪いのですか…?黒薔薇のお姉様…?」
 水銀燈の目がピクッと動く。
「私には…正直理解出来ない…のです…」
「何が」
「私は器を与えられなかった…でも、お父様に会いたかった…だから…」
「……」
「そのために自分に出来る事をした…」
「………」
「今ここで、私を消滅させるのなら、私はそれで構いません…。
手足の無い人形など、お父様は望んでいないでしょうから…」
 水銀燈の力が緩み、雪華綺晶は幾分落ち着いた表情で喋り続ける。
「でも……」
 抵抗する様子はない。

890: 2008/07/18(金) 23:24:39.26 ID:+uP5qurX0
「お姉様…貴女のマスターは」
「…」
「彼女は今、夢を見ている」
「…夢、ですって…」
「夢の中で、自分の父親、貴女、そして、そこにいる、桜田ジュンと、
幸せな時を過ごしている」
 名前を呼ばれ、ジュンはハッとする。
「私が見せているのです」
「……」
「彼女は現実に絶望して、自らこの世界を放棄した」
「違う、めぐはそんな事する子じゃないわ」
「違わない…」
 バキッと雪華綺晶を殴る水銀燈。
「ふざけないで!!どんなに自暴自棄になったって、あの子は…!」
「…眠らせたマスターの力、奪ったローザミスティカの力」
「やめなさい、雪華綺晶」
「私が力を送っている限り、彼女は幸せを感じながら、このまま
生き長らえる事が出来る」
「……」


『こうしてお金に直すとね、分かるのよ。自分の価値が。
そして、生きようとする事がどれだけ難しいか』


 ジュンはようやく気付いた。

893: 2008/07/18(金) 23:30:03.97 ID:+uP5qurX0

 自分や水銀燈が思っているよりも、ずっとめぐは頑張っていたのだ。
生きようとしていたのだ、と。

『心臓が弱いのなら、移植の手立てはないのか』

 そうして調べたのが、あの言葉。

『たとえ心臓が弱くても、日常生活に気をつけていれば―――』

 それを研究して、出てきたのが、あの何気ない言葉。


 今更ながらに、めぐの一言一言が、ジュンに重く突き刺さってくる。


897: 2008/07/18(金) 23:38:49.61 ID:+uP5qurX0

「…桜田ジュン」
 ジュンが顔をあげる。
「どうするのかしら、貴方は」
「…何」
「娘の顔すらまともに見ようとしない、父親」
「………」
「一歩間違えば侮蔑、でも言葉上は憐憫の眼差しを向けている、第1ドール」
「な……」
「過去に縛られ、現実から逃げ出してしまった、貴方」
 雪華綺晶は無機質な目で、ジュンを見つめた。
「あの子は幸せな夢を見続けている。届いてほしかったものに手がようやく、
ようやく届いた」
「……」

899: 2008/07/18(金) 23:39:27.27 ID:+uP5qurX0
 水銀燈の肩が震えている。
「誰もいない、この世界に呼び戻すつもり?何のため?」
「…僕は」
「下らない正義感?それとも、幼稚で一時的な感情のために?」
「…黙りなさい、雪華綺晶」
 レンピカを呼び、黄金色の鋏を召喚する。
「桜田ジュン」
 水銀燈が鋏をピタリと喉に当てる。
「貴方はどうせまた逃げる。そうすれば、あの子は一人、淋しく氏んでいくだけ」
 ぐっと押し当てられる切っ先。
 水銀燈は深呼吸をした。
「冷たい肉の塊になってしまった頃に、ようやく巡回の看護士が発見するのよ」
 水銀燈は力を込め、その切っ先を思い切り喉に押し込んだ。





915: 2008/07/19(土) 00:01:22.19 ID:GsULn9tf0
エピローグ


1: 2008/07/19(土) 00:00:34.80 ID:GsULn9tf0



『こんにちは。この間はごめんなさい。水銀燈から話は聞きました。
貴方が私を救いに来てくれたのだと、彼女は言っていました。
 他にも、色々あったのだと。だから、水銀燈は、手紙を書いてあげてと
私に助言をしてくれました。何かしら、私の知らない所で何があったのかしら。
隠し事は良くないわ。キチンとお姉さんに教えなさい。
 でも、疲れたのならしっかり休んでね。16歳の私でさえ、佐原さんたちと
話すのが嫌でしょうがなかったんですもの。
 貴方はまだ14歳ですものね。
いいのよ、ゆっくり休んで、水でも飲んだらいいわ。

 でも、一つだけお願いしちゃっていいかしら。
近いうち、またこの病院のこの部屋に来てほしいの。
貴方はまたしんどい思いをしてしまうかもしれない。

 でもね、今度は違うわ。
疲れたら、私のベッドに座っていいのよ。寝転がってもいい。
でもね、変な気起こしちゃダメよ。私の心臓は繊細なのよ。
ちゃんと優しく扱ってね。


4: 2008/07/19(土) 00:02:02.99 ID:GsULn9tf0


 嘘よ。
 嘘ばっかりよこんなの。
 私にそんな器量、あるわけないじゃない。調子こいてたわ、
ごめんなさい。
 私は知っての通り、身体が弱くて、心も狭くて、ただの淋しがりよ。
だから本当は…寄り添ってほしい。私に。
 私は貴方と一緒にいたい。

 別に変な意味ではありません。
 ジュン君にならおっOい揉まれてもいいです、とか、そういう
変態チックな事を伝えたいのではありません。
 思春期の貴方には自制してもらって、私は好き勝手させてもらうわ。
じゃあね、また、ちゃんと来てね。
 
                    有栖川病院 316号室 柿崎めぐ  』



14: 2008/07/19(土) 00:11:59.00 ID:GsULn9tf0


10日後。



 自室のベッドに座り、ジュンが手紙を読んでいる。
「何してるです?」
 パソコンを弄りながら翠星石が尋ねる。
「ん」
 ペラッと2枚目をめくるジュン。
「手紙」
「誰からです?」
「お前の知らない人」
 その言葉に頬を膨らませた翠星石は、椅子を降り、ベッドに
よじ登ってジュンから手紙を奪おうとする。
「おい、何すんだよ、見づらいだろ」
「いぃーから見せろです。翠星石も読みたいですぅ」
 ぐぎぎ、と紙を引っ張る。
「わかった、一緒に読もう、それでいいだろ」
 やれやれ、とジュンはため息をついた。


18: 2008/07/19(土) 00:20:08.22 ID:GsULn9tf0
 
 あの時、喉を貫いた所で、雪華綺晶は消滅した。
そこから出てきたローザミスティカは、本来水銀燈の物に
なるはずであったが、水銀燈はそれを拒否した。

 理由は未だに分からない。あれほどアリスゲームにこだわっていた
水銀燈に、何が起きたというのだろうか。

 話の見えないジュンをしり目に、水銀燈は3つのローザミスティカを持って、
nのフィールドに向かい、金糸雀、真紅のそれぞれに、
ローザミスティカを戻してしまった。

 四肢をバラバラにされた真紅、喉に風穴が開いていた金糸雀が
それで目覚めるはずもなく、二人はジュンの部屋の鞄の中で眠っている。

 唯一ローザミスティカを奪われずに残っていた翠星石を、次に起こし、
その翠星石の力を借りて、マスターたちを起こしていった。

 ジュンはその時の事を思い出す。


24: 2008/07/19(土) 00:33:34.28 ID:GsULn9tf0
「………ここは…?」
 めぐがうっすらを目を開ける。
「めぐ」
 水銀燈は上から覗き込み、不安そうな表情になる。
「……水銀燈?私…」
「喋らないで」
 顔が横を向き、ジュンと目が合った。
「あら……」
「め、めぐさん」
「私…ベッドに寝てたんじゃ……」
「え」
 半身を起こすめぐ。
「パパは?今日家に連れて帰ってくれるって言ってたのに」
 きょろきょろと見回す。
「……パ……」
 驚きが、徐々に諦めに変わっていく。
「そっか……」
 その沈んだ瞳を、ジュンは忘れられない。時おり見せた、
あの笑っていない眼差し。
「………」

『誰もいない、この世界に呼び戻すつもり?何のため?』

 フラッシュバックする、雪華綺晶の言葉。

26: 2008/07/19(土) 00:38:56.37 ID:GsULn9tf0



 翌日。

 ジュンは病院の入り口に立っていた。
「………」
 だが、正直どの面下げて会いに行けばいいのか、分からない。
 ドクン、と、桑田由奈の顔が思い出される。
「う…」
 視界がぐらつく。

 違う、自分はめぐに会いに来たのだ。

 ぶんぶんと首を振り、そう言い聞かせて、ジュンは中に入っていった。


29: 2008/07/19(土) 00:45:38.15 ID:GsULn9tf0

「あら」
 ちょうど病室の中には、看護士の佐原が食事を運んできていた。
「あ、いらっしゃいジュン君」
 ベッドの上から、めぐが手を振る。
「それじゃね、めぐちゃん」
 にこっと手を振り、佐原が廊下へ消える。

「水銀燈は?」
「ここよ」
 真下を指さす。
「へ?」
「出てらっしゃい、水銀燈」
 言葉の後、ずりずりと水銀燈が、ベッドの下から
這い出てきた。
「…どうして私がこんな事……」
 口を尖らせている水銀燈。めぐは気にせず煮つけを頬張っている。

「ふうーっ」
 食事を終え、めぐは食器を片づけに廊下に出ていく。

33: 2008/07/19(土) 00:53:21.74 ID:GsULn9tf0

「…なあ」
 二人きりになった所で、ジュンが口を開く。
「…一つ訊きたかったんだけど、いいか?」
 壁際の水銀燈が、視線をジュンに向けてくる。
「ええ、どうぞ」
「どうして、真紅たちのローザミスティカを奪わなかったんだ?」
「………」
 水銀燈は少し、何か考えているように見えた。
「…どうした?」
「答えた方が、いいかしらぁ?」
「ああ、いや、何となく訊いてみたかっただけなんだ。答えたくないなら、
それでいいよ、僕は」
「………」
 ジュンは諦め、椅子に座り直す。
「私、気づいちゃったのよ」
 不意に水銀燈が口を開いた。
「え?」
 ガチャリ、とドアが開き、めぐが戻ってくる。
「ねぇねぇ、牛乳1パック余ってたから、もらって来ちゃった」
「えぇ?」
「ジュン君飲む?」
「いや、僕は」
「あらそう」

37: 2008/07/19(土) 00:58:15.98 ID:GsULn9tf0


「じゃあ、水銀燈あげるわ。貴方いつもカリカリしてるから、こういう乳製品、
摂った方がいいんじゃないかしら」
「お黙りなさいめぐ。どの口がそんな事言ってるのかしら」
 ふん、と窓の方に目を向ける。
「あら、怖い」
「………」
 いつもこんなやり取りをしてるのだろうか。
「あ、ねえ、ジュン君、時間あるかしら?」
 布団を畳みながら、めぐが問いかけてくる。
「え、ん、んん」
「そう、じゃあ」
 ベッドから降りるめぐ。

「ちょっと、散歩しない?」



41: 2008/07/19(土) 01:05:12.75 ID:GsULn9tf0

 中庭の蝉は、より一層うるさく鳴き続けている。
「凄い鳴き声だな」
「そうね」
 二人は並んで、並木道を歩き続ける。
「でもね、ジュン君」
「何?」
「蝉はね、成虫になって、一週間で氏んじゃうじゃない?」
「…うん」
「だから、一生懸命鳴いているのよ、きっと」
 前を向くめぐ。正面、南からの日差しが、めぐの笑顔を、一層
引き立てている。
「僕はここにいる。私はここで、一生懸命に生きている」
「……」
 ジュンはめぐの横顔をじっと見つめる。
「私には、そう言っているように聞こえるわ」
「めぐ…さん…」
 立ち止まるめぐ。
「どうしたの」
「ふふ」
 めぐは微笑んだまま、すっと右手を差し出してきた。
「手、繋ぎましょうか」


51: 2008/07/19(土) 01:15:00.33 ID:GsULn9tf0
「…………」
 二人の姿を、向かいから来る患者らしき人が、ちらちらと
見ながら通り過ぎていく。
「………」
 ジュンは些か恥ずかしい気分になる。
「ねえ、ジュン君」
「うん?」
「私はね、目覚めたあの時」
 少しうつむくめぐ。
「ああ、この世界に戻ってきてしまったんだ、って、
思ってしまったのよ」
「……」
 やはりあの時の表情は、そういう意味だったのだ、と確信するジュン。
「私は本当は、パパに甘えたかった。優しくしてもらいたかった」
「……」
「水銀燈がいて、貴方がいて」
「………」
「私はこんな病気を持っていなくて、いつまでも楽しく、幸せに過ごせる日々」
「めぐさん…」
「でもね、私最近思うのよ」
 胸を押さえるめぐ。
「皆、いつか終わりが来るから、一所懸命に生きるんだなぁって」
「……」
「氏にたくなるほどのどん底があるから、人は幸せを幸せと捉える事が出来る」

59: 2008/07/19(土) 01:25:35.04 ID:GsULn9tf0

「……」
 ジュンは少しうつむき加減になる。
「ジュン君、ちょっと休みましょう」
 はあ、はぁ、とめぐが息を荒げ、ベンチに座り込む。
「ふうーっ」
 天を仰ぎ、大きく息を吐く。
「うっ」
 途端、めぐは胸を押さえ、苦しそうな顔になる。
「え、ちょ、ちょっとめぐさん、大丈夫?しっかり!!」
「うう、うう」
「わ、ど、どうすれば」
「なーんちゃって」
 伸びをしながら、あははは、と笑うめぐ。
「な、か、からかわないでよ!」
「あはは、ごめんなさいね、面白かったから」
 楽しそうに笑うめぐ。


66: 2008/07/19(土) 01:35:08.60 ID:GsULn9tf0
「……ねえ」
 呼吸を整え、めぐが口を開く。
「ん」
「ジュン君、私、幸せに見える?」
「えっ?」
 身を乗り出し、ジュンを上目遣いに見てくる。
「わ、わ」
 首筋にめぐの吐息がかかり、ジュンはぞくっと身体を震わせる。
「どう?」
「ど、どうって言っても…」
「私はね、幸せよ。貴方とこうして手を繋いでいられて」
 ぎゅっと手を握りしめる。

70: 2008/07/19(土) 01:38:20.81 ID:GsULn9tf0
「ちょ、ちょっと、また引っ掛けようったって」
「あら、この目が嘘ついてるように見えるのかしら」
「……」
「よく見て」
 更に二人の顔が近付く。
「ちょ……」
「もっと」
 めぐの手が、ジュンの両肩に置かれる。
「う…」
「もっと……」
 フウ、フウ、という、息の音まで聞こえる距離。
「………」
 めぐが瞳を閉じる。
「………」
 
 ジュンの唇に、何かとても柔らかいものが触れた。
何か温かく、それでいて、ぬめっとした感触。んぷ、んぷ、と、
妙な音が何度も聞こえた。

81: 2008/07/19(土) 01:45:34.84 ID:GsULn9tf0

「……………」
 昼が近付き、ジュンはぼーっと遠くを眺めていた。
自分の肩で、めぐが寝息を立てている。
 まるで小さな子どものように、めぐが呼吸をする度に、
彼女の柔らかさが伝わってくる。
「……………」
 頭の中は、真っ白なようでいて、何かふわふわとしたものが
花畑の中を舞っている。
 この感覚は何だろう、とか、ジュンはそういった疑問すら
浮かんでこなかった。

 ただ、そこから一歩も動く気は起きなかったし、きっと隣で
寝ているめぐも、同じ事を考えていただろう、と、ジュンは感じていた。


99: 2008/07/19(土) 02:05:15.05 ID:GsULn9tf0


「真紅たちを?」
 椅子に座ったジュンが、驚いたように言う。
「ええ、そうよ」
 めぐがベッドの上から答える。
「大丈夫よ、貴方は私が壊した人形の魂を、自身の手で
呼び戻してみせたじゃないの。私知ってるのよ」
「あ……」
「ローザミスティカは金糸雀、真紅の中にある。それを貴方が直す」
「…僕に…」
「ジュン君、よく聞いて」
 顔を上げるジュン。
「私は真紅と話したわ。色んな事を」
「………」
「貴方にはあの子が必要なのよ。きっとこれから訪れる、
色んな局面で」
「……真紅」
「だから、直してあげて。あの子たちの魂も、きっとそれを望んでると思うから」
 ふふ、とめぐは笑う。

104: 2008/07/19(土) 02:12:59.21 ID:GsULn9tf0
「……」
 ジュンは目を閉じる。
 自分がつらい時、倒れそうになった時。
いつも傍にいてくれた少女。胸の奥が苦しい時は、胸をさすってくれた。
布団にくるまっている自分を、部屋の外で、ずっと見守っていてくれた。

 ローゼンメイデンの第5ドール、真紅。

 そして今、彼女が迷子になっている。自分を守るために犠牲となって、
暗闇の世界を彷徨っている。

「ジュン」
 壁際、水銀燈が呟いた。
「迎えに行って、あげなさい」
 そう言って、少し笑った。
「…うん、分かったよ」
 ジュンはこくりと頷く。
「その代わり」
 めぐは言葉を続ける。


108: 2008/07/19(土) 02:19:44.23 ID:GsULn9tf0

「あの子たちが直るまで、ここには来ないで、ジュン君」
「え?」
 ジュンは思わず声を上げる。
「……」
 水銀燈が、視線を伏せる。
「もう一度ここに来る時は、真紅を連れてきて欲しいの」
「そ、それはどうして」
 めぐは少し首をかしげ、諭すように呟く。
「あの子には、お礼を言わないといけないの。私は」
「お礼?」
「そう、こんなに幸せにしてくれた、お礼を」
「……」
「それに、貴方の扱い方も、勉強しておきたい」
「あっ……」
 扱い方。
「なぁに、勉強しちゃまずい事なのかしら。貴方の扱い方を分かっている人と、
全然分かってない人、どっちがいい?」
 意地悪っぽく笑うめぐ。
「えっ……あ」
 真っ赤になるジュン。


113: 2008/07/19(土) 02:24:21.46 ID:GsULn9tf0

「決まりね」
 めぐは視線を少し下に向け、安心したように笑う。
「ね」
 手を組み、遊ばせながら呟くめぐ。
「直したら、真紅と一緒にここへ来て…」
 ジュンはその様子を見つめている。
「また、手を繋いで、お散歩しましょう」
 そう言って、右手を出す。
「約束」
「ああ、必ずまた来るよ」
 頷いたジュンはめぐの手を取り、力強く握手した。
「………」
 水銀燈はその様子を見ていたが、やがて窓の外に
視線を移す。
 窓の外は、蝉の鳴き声がいつまでも続いていた。





119: 2008/07/19(土) 02:31:57.89 ID:GsULn9tf0




 それから4ヶ月が過ぎ、季節は肌寒い冬。

 ジュンはめぐに、手紙を書いていた。
「……ジュン」
 背後から、紅色の人形が声を掛ける。
「何をしているの?」
「ん、ああ」
 カリカリ、という音。
「めぐさんに、手紙を書いてるんだよ」
「手紙?」
「ああ、ちょっと病室で手紙を取れなくなったらしいんで、
住所は別なんだけど」
「へえ、そうなの」
「ねえ、しんくー、ヒナのクレヨンどこ行ったか知らない?」
 ドアの隙間から、雛苺が入ってきた。
「知らないに決まってるでしょ。雛苺、少しは片づけというものを
覚えなさい」
「う~、わかったの」
 ととと、と二階へと上がっていく。

124: 2008/07/19(土) 02:39:41.08 ID:GsULn9tf0

 雪華綺晶が消滅した器を使い、ジュンは雛苺までを復元する事に成功した。
蒼星石は無理だったが、翠星石は、それについては納得してくれた。

 今日は、直ったという知らせ、そして、いつ遊びに行けばいいかを
書いている。
 これはめぐからのリクエストで、『直ったら手紙で連絡下さい』と言われて
いたためだ。


 そして投函してから一週間後。
 

129: 2008/07/19(土) 02:46:01.96 ID:GsULn9tf0


 ジュンは有栖川大学病院の入り口にいた。
「う~、寒い」
 コンビニ帰りの道、そこにこの大学病院は位置している。

「あら」
 入口で、佐原と出くわした。
「こんにちは、桜田君」
「こんにちは」
 ジュンを見て、ふと首をかしげる佐原。
「桜田君、身長伸びたかしら」
「え?え…どうだったですかね…」
「ええ、まあよく分からないけど、何だかカッコよくなったわよ」
 ははは、と笑う二人。


136: 2008/07/19(土) 02:57:52.95 ID:GsULn9tf0

「ところで、今日はどうしたの?」
「え」
 不思議そうに見つめてくる。
「あ、あの、柿崎めぐさんに会いに」
「…え?」
 突然佐原の表情が訝しげになる。
「最近会ってなかったから」
「……さく…最近?」
「ええ、ここ4ヶ月くらい」
「………桜田君」
「少し前から手紙も返ってこなかったんで、どうし」
「桜田君こっち来て」
 言葉を途中で遮り、中庭にジュンを引っ張っていく佐原。

「な…ど、どうしたんですか」
「あの子は2ヶ月前に亡くなったわ」


157: 2008/07/19(土) 03:15:48.26 ID:GsULn9tf0

 ビュオオオオオ、と、木枯らしが吹き荒れる。

「…え?」
 ジュンは、一瞬目の前の女性の言葉が理解出来なかった。
「発作が、その少し前から悪化してて」
 何。何?
 何を言っている。
 この佐原という看護士は何を言っている。

 コンビニの袋が、どさりと地面に落ちた。

162: 2008/07/19(土) 03:20:17.04 ID:GsULn9tf0

 ジュンはメモを持って走り続けていた。
「はっ、はっ」
 閑静な住宅街を突っ切り、小高い山の麓にある教会。
人が住んでいるような形跡はあるものの、庭は荒れ放題である。

「はっ、はっ」
 それはつまり、誰かが忍び込んで宿にしていても、おかしくない、という事だ。
 玄関口に、黒い羽根。
「水銀燈!!」
 ジュンはありったけの声で叫んだ。
「出て来い!!水銀燈!!」
 反応はない。
「水銀燈出て来い!!ふざけんなこの馬鹿野郎!!ふざけんな!!」
 ジュンは涙が溢れてくるのを感じた。
「何で教えてくんなかったんだ!!お前分かってたんだろ!!」
 物音ひとつしない。
「おい!!答えろよ!!答えろよこの!!」
 ガチャガチャと門を揺するジュン。

「ジュン」

 透き通った声が聞こえた。

166: 2008/07/19(土) 03:26:10.57 ID:GsULn9tf0


 上空から、黒翼の天使が舞い降りてきた。

「――――水銀燈」
 涙と鼻水でくしゃくしゃになったジュンの顔を、悲しそうに見つめる
第1ドール。
「ジュン」
 何かを通り過ぎてしまったような、その氏んだ眼に、ジュンは言葉をつぐんだ。
「………」
「……」
 しばらくの沈黙。


「―――良かったわ、今日会えて」
 破ったのは水銀燈だった。


172: 2008/07/19(土) 03:35:12.32 ID:GsULn9tf0

「今日、渡しに行こうと思ってたの」
 そう言って、懐から封筒を取り出す。切手などは貼っていない。
「………」
「気づいてしまったのね」
「………」
「ごめんなさい…ずっと、黙っていて」
 その瞬間、水銀燈の胸倉をつかむ。
「きゃ…!」
「ふざけんな!!何がごめんなさいだよ。何が!!!」
 喉の奥から、何か熱いものがこみ上げてくる。
「何が……う……」
 水銀燈をつかんだ手を離し、ジュンはその場に崩れ落ちる。
「どうして、どうして……」
「ジュン…」
「何で、何で何で何だよおおおおおおおおあああぁぁぁぁっっっっ!!!!!」
 ジュンはその場に突っ伏し、嗚咽を漏らし始める。

「ジュン……」
 水銀燈は口元を押さえ、その場にへたり込んだ。
「ああ、ああ、ああ、ごめんなさい、ごめんなさい、めぐ、めぐ」
 ぶるぶると震えながら、水銀燈は何度も鼻をすすった。


177: 2008/07/19(土) 03:42:12.37 ID:GsULn9tf0

―――ごめんなさい


―――今の私には、こうして


―――貴方の胸元にいてあげる事しか出来ない


―――許して


―――どうか許して


180: 2008/07/19(土) 03:45:29.59 ID:GsULn9tf0

―――あの頃から、めぐの息切れが早まったの


―――きっとあの子も、もう気づいていたと思うわ


―――敏感な子だもの


―――何でも分かってしまう


―――分かり過ぎるから


―――9月に入って、めぐは別れの手紙を書き始めた


―――集中治療室に運ばれる回数も増えた


―――胸を押さえる回数が増えて


―――まともに喋れなくなって


―――食事もまた食べなくなった

185: 2008/07/19(土) 03:50:26.43 ID:GsULn9tf0

―――ベッドの衣ずれが、「痛い、痛い」って


―――何度も貴方に言おうと思ったわ


―――でも、めぐはその度に


―――言ったら舌噛んでここで今氏ぬわよって


―――絶対それは許さないって


―――胸を押さえながら言うの


―――真紅たちが直ったっていう報告が来るまで


―――教えないでほしいと


―――報告が来たら、私の氏を教えてほしい


―――あの子には、真紅が必要なのよ

191: 2008/07/19(土) 03:55:25.13 ID:GsULn9tf0

―――私は氏ぬ


―――でも、ジュン君は生きている


―――だったら、これから生き続ける人たちと


―――幸せになって欲しいから


―――その時に、手紙を渡してあげてほしい


―――もうすぐ書き終わるから


―――貴女はどこへでも飛んでいきなさい


―――貴女は生きている


―――野良猫になってしまっては駄目


―――キチンと幸せになりなさい

195: 2008/07/19(土) 04:00:12.99 ID:GsULn9tf0

―――生きるっていうのは、つらいわよ


―――正直、5歳で氏んでれば


―――つらい事の大半は、経験しなくて済んだのよ


―――首を吊ろうとしてみたり


―――親を騙して、睡眠薬を飲んでみたり


―――剃刀で手首を切ろうとしたり


―――でもね、よっぽど深く切らないと


―――氏ぬような勢いで血は出ないの


―――睡眠薬も、ホントに大量に飲まないと駄目


―――首なんて、キチンと準備しないと苦しくて氏ねない

196: 2008/07/19(土) 04:02:56.80 ID:GsULn9tf0

―――そうしてね


―――人は、自分が氏ねなかったと自覚した時


―――どうしようもない絶望を知る


―――でもね、生きてて、私は今良かったって思えるの




「それは、私たちに出会えたから」

 壁を背に座り込み、ジュンは泣きながら水銀燈を
撫でている。
「…そう、めぐは言っていた」
 水銀燈は何度もジュンの胸をさすりながら、すん、すん、と
鼻をすすっている。
「ねえ、ジュン」
 眼を閉じ、かすれた声で呟く水銀燈。

200: 2008/07/19(土) 04:10:08.55 ID:GsULn9tf0


「私、別のどこかへ行こうと思うの」
 すん、と鼻を鳴らす。
「別のどこか……?」
「ええ……どこか遠く。どこか…とても遠い所に」
 ジュンはしばらく水銀燈を撫でていたが、
やがてその手を止め、身体を離す。


 水銀燈は塀の上に立ち、一度ジュンを振り返る。
「行くのか…?」
「ええ…また、縁があれば、どこかで会いましょう」
 水銀燈はごしごし、と鼻をこすり、ティッシュで拭く。
「………」
 震えながら、水銀燈は一度大きく深呼吸をし、
くしゃくしゃの顔に笑顔を作って見せる。


203: 2008/07/19(土) 04:17:43.26 ID:GsULn9tf0

「さようなら、桜田ジュン。私はめぐを救えなかった。
自分の事しか考えていなかった。
蒼星石も、雪華綺晶も、私が壊したの。
全ては私のワガママから始まった。
めぐを巻き込まないなんて、都合のよい話はどこにもなかった。
私があの子と契約しなければ良かったのかもしれない。

貴方はそんな事ないって言うかもしれない。
でも、私の心の中を、後悔がいつも彷徨っている。

だから私は、この街から消える事にするわ。

でもね、これだけは間違えないで。
めぐは幸せそうに氏んでいったわ。貴方にお礼を言っておいてと。

私が傍で泣き続けているのに、あの子はずうっと笑ってた。
そうして頭を撫でてくれた。
仲良くなってた看護士さんも誰も呼ばずに、そのまま…。


207: 2008/07/19(土) 04:20:44.99 ID:GsULn9tf0

最後にね…めぐはこう言っていたわ。
『いつか、どこかで、また逢いましょう』

それじゃね、バイバイ」



 水銀燈は翼を広げて飛び上がり、そのまま冬の、
灰色の空へと消えていった。

 木枯らしが吹き抜ける中、舞い落ちる黒い羽根が、ジュンの
周りへと降り注いでいた。






212: 2008/07/19(土) 04:29:32.53 ID:GsULn9tf0

 ベッドの上に、手紙が広げられていた。

 数枚の便せんに、びっしりと書かれた文字。
ところどころ、何か震えてペンが走ったような跡があったり、
くしゃくしゃになっている部分がある。
 けれど、文字は一文字一文字が、しっかり丁寧に、
書き綴られていた。





215: 2008/07/19(土) 04:30:37.29 ID:GsULn9tf0


桜田ジュン君へ

 最初に言っておきます。この手紙が、私からの最後の言葉になります。
ごめんなさい、私はもう貴方とは会えません。
遠くへ行く事になりました。
あの316号室から、私は引っ越さないといけなくなりました。
本当は貴方にキチンと会って、謝るべきなのだと思っていましたが。

 心配しないで。私は貴方の気持ちを十分分かっているつもりよ。
最初の私は、貴方にどう映っていたのかしら。
今となっては、私には推測しか出来ません。
貴方のシャツの裾を引っ張って、脇腹をつねりながら
「ねえ、私ってどんな感じだった?」なんて尋ねる事はもう出来ない。
 でもあれから何度も来てくれた貴方の御蔭で、
私は幸せでした。きっと。


216: 2008/07/19(土) 04:31:17.19 ID:GsULn9tf0

 あれから病院食もキチンと食べた。
ほうれん草のおひたしも、噛めば噛むほど味が滲み出てきて、
割と美味しかったわ。知ってる?
うちの病院食ってね、1Fの集中調理室で作ってて、盛り付けしてる時には
60度を超えてるの。熱すぎじゃない?正直。
でもね、それには理由があって、私たちの所に届く頃には、
食べやすい温度になっているんですって。ちょっと意外で、知らなかったわ。
本当は、私の知らない所で、皆が優しかった。

私、佐原さんに時計投げつけてケガさせちゃった事があるの。
でもね、佐原さん怒らなかった。あの人優しかったでしょ。仕事だからっていうのもあるのかもしれないけど、
多分そういう性格なんだろうなぁ、って、今になって思うの。
 私が水銀燈を追いだした時もそう。別に彼女は同情していたわけじゃない。
私に真正面から向き合っていただけ。
 私はそれに気付かなかった。有栖川大学病院の316号室で、じっと
一人でうずくまっていただけ。

 正直気づくのが遅すぎた気がしています。私の人生は、限られていた。
貴方たちよりもずっと。だったら、私を見守っている小さな世界だけにでも、
キチンと向き合うべきだった。
 けれど私は、後悔なんてしていない。


219: 2008/07/19(土) 04:32:37.43 ID:GsULn9tf0

これは諦めじゃない。冒頭で書いたけど、あれはウソです。
私はこの手紙で終わりにするつもりなんてない。


 でも私はこれから、ずっと先まで話せなくなる
この身体はじき動かなくなって、冷たく腐ってゆく。そうなる前に
私は焼かれ、骨になって箱に入れられる。

 こうなる事はずうっと昔から分かっていた事。
でもね私は貴方に出会えて、前を向く事が出来た。
負け犬同士だったけど、私は少しでも、そこから
這い上がれたかしら。

 生きてる意味なんてないと思ってた。
水銀燈も真紅という人形も同じ。いずれ絶望して
滅んでしまうのなら、楽しむ必要なんてない。生きてる意味なんてない。

 違ったの。皆そう、生きてる意味なんて皆知らない。
必氏になって自分が生きてる意味を探す。探しあてようとする。
そのために生きているんだって分かったわ。


221: 2008/07/19(土) 04:33:27.94 ID:GsULn9tf0

 私は氏ぬわけじゃない。先に向こうの世界に行くだけ。
しばらく会えなくなるだけ。またこの世界で貴方に会うために。
 追いかけてきちゃダメよ。 貴方はキチンとこの世界で、
幸せになって頂戴。
 学校に行けば女の子だっていっぱいいるし、
男の子の友達だってまた出来ると思うわ。

   10年も経てば貴方は仕事に就いて、結婚相手を探している頃かも
しれないわね。
いいのよそれで。幸せになる事を忘れないで。
そうしてこの別れが美しい思い出に変わる頃にでも、私はまたこの世界に戻ってくるわ。
今度出会えたらもっとお話ししましょう。その時傍に水銀燈がいてくれるか
分からないけれど。 


222: 2008/07/19(土) 04:34:06.74 ID:GsULn9tf0

 今、私の横で、水銀燈が泣いています。バカみたいに
わんわん泣いているのよ。ホント、バッカみたい。
 ごめんね、ごめんなさいね、こんな事しか書けなくて。
もう何を書いていいか分からない。どうしていいか分からない。
でも、これだけは言える。ありがとう、桜田君。
またいつかめぐり会える時が来たなら…
私はまた、あの316号室で、待ってるから。

だから…… 身体には気をつけてね また逢いましょう この世界で

                          柿崎めぐ





【完】







223: 2008/07/19(土) 04:35:05.17 ID:7mIijxxe0
おつでした・・・

228: 2008/07/19(土) 04:36:51.69 ID:iMlmXnZTO
おつ…でいいよな?

引用元: ローゼンメイデンの話「316号室のめぐ」