1: 2011/09/22(木) 23:24:05.17 ID:BqHnIEvz0



……
………

――つまり。

私は、
やっぱりどこか、
皆に嫌に思われている面があったということで。

何よりも恐れていたその事実が、
誰よりも言われたくない人の口から明るみに出た時に、
私は。


唯「……あなたなんか、入部してこなければよかったのに」


私は――

………
……

けいおん!Shuffle 2巻 (まんがタイムKRコミックス)

10: 2011/09/22(木) 23:28:05.00 ID:BqHnIEvz0


梓「――プチ旅行、ですか?」

唯「そうそう。電車で一時間か二時間くらいのところにね、ちょちょいっと」

夏の暑さも忘れかけてきたある日のこと。目の前の先輩二人――唯先輩とムギ先輩は、受験生だというのにそんなことを言い出した。
そんなこと、すなわち「二泊三日のプチ旅行に行かないか」と。

紬「私と唯ちゃんがね、福引で当てちゃって」

唯「引いたのはムギちゃんだよ」

紬「でも福引券は唯ちゃんのだから」

話を聞くと、どうやらちょっとばかり有名な旅館に二泊できるチケット(有効期間は今年中)を一発で当ててしまったらしい。相変わらずいい運をお持ちですね、ムギ先輩。
で、今年中まで有効とはいえ受験生の先輩達は冬休みに遊ぶのはあまりよろしくない。だから秋休み――と勝手に呼んでいるほんのちょっとの連休――に行こう、となったわけだろう。

梓「はぁ……でしたらお二人で行ってくればいいじゃないですか。それとも三人までとか?」

紬「ううん、ペア招待。でも私、今年の秋休みはあまり暇な時間が無くて……そもそも券は唯ちゃんのだし、ってことで唯ちゃんに譲ったの」

唯「譲られたからにはあずにゃんを誘おう、とね」

梓「……先に憂を誘ってあげてくださいよ」

唯「もちろん誘ったよー。ねームギちゃん?」

紬「ねー♪」

13: 2011/09/22(木) 23:31:20.99 ID:BqHnIEvz0
……そこでムギ先輩に同意を求めるってことは、恐らくムギ先輩にも同じように釘を刺されたんだろう。
もっとも、それに唯先輩が何と答えたかまではわからない。本当に私達に釘を刺される前から憂のことを考えていた可能性だってもちろんある。そのくらいには仲良し姉妹だということは私だって身をもって知っているから。
だから、結局はここまでは特に意味の無いやり取り。様式美。
それでも理由をつけるなら、私が憂に遠慮している節がある、ということくらいか。私と同じように唯先輩を慕っていながらも、私と違って長い間ずっとそばで唯先輩を支えている憂に対して。

でも、憂という素晴らしい友人は唯先輩だけでなく、私の事もちゃんと想って行動してくれるものであって。

唯「あずにゃんを誘えば、って言ってくれたのは憂なんだよ」

梓「そう…ですか」

紬「だから何も気にせず、唯ちゃんに付き合って欲しいんだけど…」

唯「ねー? 行こうよあずにゃん」

梓「じゃあ…お言葉に甘えさせてもらいます。ありがとうございます、唯先輩、ムギ先輩」

……どこか憂やムギ先輩に気を遣われたような、そんな違和感を感じなかったこともないけれど。
それでも、私だって嬉しくなかったわけじゃない。誘って貰えたのだから光栄なこと。素直に甘えておこう。

……受験生なのにそんなことしてていいんですか、という言葉は電車の中まで取っておくことにする。

唯「じゃあ一時間後に出発だからね!」

梓「いや秋休みまだですし。あと一週間ありますし」

唯「あずにゃんと旅行なんて楽しみで夜も眠れないよー!」

梓「あと一週間寝ないつもりですか、すごいですね唯先輩」

14: 2011/09/22(木) 23:35:35.19 ID:BqHnIEvz0


――そうして寝不足で迎えた一週間後。秋休み開始日。

唯「はいあずにゃん、プレゼント」

梓「……?」

電車内で、小さめの紙袋に包まれた軽そうな何かを私に差し出す唯先輩。何だろう?

梓「プレゼントって…今日何かありましたっけ?」

唯「んー、二人っきりで旅行できる素敵な日だよ、今日は。そんな日にはプレゼントが必要なのです」

梓「……相変わらずよくわからない理屈ですけど、ただ貰うのは何か悪いですよ」

唯「いーのいーの、たいした値段じゃないし。それにプレゼントを受け取るということはその場で着けてみることが半ば義務だから!」

梓「じゃあ受け取りません」

唯「ああん、大丈夫だって! そんなに恥ずかしがるようなものじゃないし!」

平沢家の感覚は信用ならないけれど、実際小さめの袋に包まれているしそこまで目立つ物でもないのだろう。
それに、よほどの物でない限り、プレゼントを拒むというのは相手の好意を無碍にする行為。少なくとも嫌いではない相手に対してそんな事が出来るほど私は冷たく在れない。
……さっきのはジョークといいますか、その場のノリといいますか。うん。
とりあえず、唯先輩が取り繕っているうちに受け取ろう。悲しい顔はさせたくない。

18: 2011/09/22(木) 23:40:58.59 ID:BqHnIEvz0

梓「……まぁ、中身次第ですけど。開けていいですか?」

唯「むしろ開けてください!」

梓「はいはい……」

セロハンテープ一切れで止められただけの包装を丁寧に剥がし、中身を取り出す。
まぁ、受け取った時の音で中身は大体予想はついてしまっていたのだけど。

唯「はい! 猫ちゃんにぴったり、鈴付きチョーカーです!」

梓「………」

唯「無言で袋に戻さないで!」

梓「じゃあ聞きますけど、これを首につけろと?」

唯「他に何があるの?」

梓「何も無いから却下しようとしてるんですよ」

唯「えぇー!? 名実共にネコちゃんできっと可愛いよ?」

梓「それは 恥 ず か し い と言うんです! 首輪みたいじゃないですか!」

22: 2011/09/22(木) 23:45:51.10 ID:BqHnIEvz0

唯「でもでも、これであずにゃんがどこに行っちゃってもわかるはずだよ!?」

梓「大丈夫ですよ、はぐれたりなんてしません」

唯「あずにゃんはそのつもりでも何があるかわからないじゃん。私が見失う可能性もあるんだし!」

梓「偉そうに言うことですかそれ……」

本当にこの人は先輩なのだろうか。と、こうして呆れるのも何度目かはわからないくらいだ。
でも、明らかに取って付けたような理由とはいえ私の事に気を回してくれたのは少し嬉しい。どんな時でも見つけてくれるというのなら、多少の恥なら我慢しておまじない程度に信じて付けてみてもいいかな、という気持ちにはなる。

プレゼントをあらためて袋から取り出し、眺める。
銀色の綺麗な鈴と、それをぶら下げる小さな鉄の輪。そこに黒いリボン――ではなくバンドのようなものを通してあり、首に回して後ろで留めるのだろう――

梓「ってこれマジックテープじゃないですか! 雑!」

唯「実はそれ100均で買ったんだよね」

「たいした値段じゃない」ってカッコつけたのかと思ったら本当に大した値段じゃなかったようで。
いや、もちろんプレゼントは値段じゃないってわかってるんですけどね。大切なのは唯先輩の心遣いだってわかってるんですけどね。
でも、その、100円のものにあんなにマジメに逡巡してしまったというのは、なんか、こう、ちょっと落ち込みますよ。勿論嬉しくないわけじゃないんですけど!


24: 2011/09/22(木) 23:50:14.75 ID:BqHnIEvz0

唯「まぁそういうわけで安物だから遠慮しないで貰っちゃってよ」

梓「はい……まぁ安物とはいえプレゼントですから、ありがとうございます、一応」

唯「ホントに一応って感じだね」

梓「恥ずかしいことには違いないですし」

唯「マジックテープじゃなくてリボンか何かにしよっか。電車降りたら探してみよ?」

梓「気を遣わせてしまってすいません」

唯「いいよいいよ。あずにゃんのためだもん」

梓「どうせならもっと根本的な問題に気づいて欲しかったですけどね」

唯「ほえ?」


26: 2011/09/22(木) 23:53:10.79 ID:BqHnIEvz0


――電車を降り、駅の構内のお土産屋さんのような小物屋でリボンを買い、銀の鈴をぶら下げる輪に通す。
そして……それを左手首に結びつける。

唯「えー、なんで首につけてくれないのー?」

梓「恥ずかしいって言ってるじゃないですか……これでもちゃんと鈴は鳴るし、見つけてくれますよね?」

唯「うっ……も、もちろん。そうだね、別に首じゃなくても音がすれば安心だよね……」

……私は常識で判断したはずなのに、何故こんなにも罪悪感に襲われるのだろう。悪気のない相手というのは時にやりづらい。
でも、裏表のない人というのはそれだけで信頼に値する、とも言える。少なくとも私は嫌われてはいない。それだけで安心できる。

……嫌われたくない、と思ってしまう程度には、私はこの先輩のことを大切に思っている。
そして罪悪感を感じる程度には、この先輩との時間を大切にしたいと思っている。もうすぐ遠くに行ってしまう、この先輩との時間を。

極力考えないようにしているけど、夏に実感して以来、『孤独な未来』への不安はいつも私を蝕んでいる。
でも、それは表に出してはいけない。私のためにも、先輩たちのためにも。
だから考えないようにしている。もちろん今日も、そんなことなんて考えずに遊び倒すつもりで来た。せっかく誘ってもらえたんだから楽しまないと申し訳ない。

梓「……ほら、行きますよ唯先輩! まず何か食べましょう、早く早く!」

唯「おお、あずにゃんがテンション高い……しょうがないなぁーもう!」


28: 2011/09/22(木) 23:57:52.29 ID:BqHnIEvz0


――どうにか空気も持ち直し、そのまま駅の構内の軽食屋で遅い昼食を摂る事に。連れてきてもらった分、ということで昼食代くらいは私が出したかったのだけど、

唯「その理屈はおかしいよー。別に私があずにゃんより多くお金を払ったわけじゃないんだし」

確かに、宿泊費は二人とも無料だし、電車の切符はそれぞれで買ったし、むしろ100円の鈴に通すリボンの値段がお土産屋さん価格で少し上回った私のほうが多くお金を使ってはいる。

梓「ですけど……なんか悪いですよ」

唯「あずにゃんは真面目さんだねぇ。じゃあ気持ちかカラダで返してくれれば!」

梓「そういうノリは困るんですけど」

唯「身も蓋もない…」

とはいえ、この良くも悪くもお金に執着しない先輩には恩義をお金で返すのは確かに何か間違ってる気もする。
むしろ、そういう形の恩返しなんて求めていないだろう。もっと言うならば気持ちを踏みにじりかねない。
……だからといってカラダで返す、なんて笑えないジョークに乗るつもりも無いけど。どこかで気持ちを返せるような物を買って贈ろう。それがきっと一番。


――そう思っていたら、そのチャンスは意外と早くやって来た。


32: 2011/09/23(金) 00:02:07.83 ID:aH5EQ7QI0


――駅から一歩出たところ、要するに駅の正面入り口の真横で、言い方は悪いが……みすぼらしい格好のお婆さんが、ござを広げて小物を売っていた。
駅の中にも小物屋さんはあったのに、と思ったけれど、値段はそちらより良心的だ。当然といえば当然だけど。
でも見る限り一つも売れていないようだ。というか、きっと皆避けているのだろう。お婆さんの外見が外見だから。

唯「わー、なんかいろいろあるー! ほらほら、あずにゃんもおいで!」

……この人以外は。

梓「……はいはい…」

正直言うと私も関わりたくは無かったけれど、この先輩を見ているとそんな考えを抱いた自分を責めたくなる。
外見で人を判断しない。臆せず人と関わることができる。それは間違いなくこの人の長所で、長所というのは見習うべきものなのだから。

広げられている商品をいろいろ見てみると、意外……といっては失礼かもしれないが丁寧な作りの物ばかりで、値段と照らし合わせると破格と言って差し支えない。誰一人見向きもしないのが実に勿体ないほど。
いや、見向きされたら駅内の小物屋さんが商売上がったりになるだろうし、これでいいのかもしれないけど。
唯先輩も私と同じように出来を非常に評価しているらしく、身を乗り出してもはや凝視といったレベルで観察している。
私も唯先輩ほどではないにしろ、他者からの目なんて忘れるくらいには熱中して様々なアクセサリーに目を走らせて――

梓「あ……」

そんな中の一つ、金に彩られた三日月のあしらわれたネックレスに目が留まる。
値段も値段だし恐らくメッキだろうけど、不思議と輝きを放っていて。私の顔が綺麗に反射して映るほどに磨かれていて。
私はしばし、それに見入ってしまった。いや、むしろ私が魅入られた、とも言えるかもしれない。それほどに目が離せなかった。

34: 2011/09/23(金) 00:08:54.38 ID:aH5EQ7QI0

……そして、どれほど経ったかはわからないけれど、そんな時間は唐突に終わりを告げた。

唯「んー? あずにゃんが見てるのコレかな? きれーい」

唯先輩がそのネックレスをひょいっと持ち上げてしまった。私の視線はそれに追われながらも、でも唯先輩の言葉自体は右から左へ抜けていく程度にはまだ魅入られていて。

唯「……おーい、あずにゃーん? おーーい」

梓「…あ、すいません。えっと、何ですか?」

何度呼びかけてくれたのだろう、と思いつつも、変に思われたくないのでそこは問い返さない。
いや、私が唯先輩の言葉を聞き流すあたり、既に変なのは間違いないんだけれど。
さすがの唯先輩も少し怪訝な顔をしていたので、無理矢理話題を持っていくことにする。

梓「唯先輩も、それ綺麗だと思います?」

唯「え? うん、あずにゃんがずっと見てたから手に取ってみたけど、確かに綺麗だね。買うの?」

梓「いえ、私より唯先輩に似合うと思いますよ」

唯「そうかなぁ? でも、なんか悪いよ。先に見つけたのはあずにゃんなのに」

36: 2011/09/23(金) 00:13:44.89 ID:aH5EQ7QI0

梓「私には、これがありますから」

言って、左手を小さく掲げる。
左手首に光る銀の鈴が小さく音を立てると、唯先輩は嬉しそうに顔を綻ばせる。
……あー、恥ずかしい事言っちゃったかな……

唯「じゃあ、私が買っていい?」

梓「はい。いい買い物だと思いますよ、それ」

唯先輩に似合うだろうとは素直に思うし、私も不思議と目が離せなかったし、買わない選択肢はなかった。
アクセサリーとの運命の出会い……なんて少し思い上がってしまったくらいだ。この時は。

唯「おばちゃん、これちょうだい!」

婆「   」

問われたお婆さんは口をパクパクと動かし、値札を指差す。
この人、もしかして…?

唯「……?」

……首をかしげる唯先輩を尻目に、素早く財布から硬貨を取り出してお婆さんに手渡した。

梓「はい、行きましょうか、唯先輩」

41: 2011/09/23(金) 00:19:21.93 ID:aH5EQ7QI0

唯「え? え? あ、うん、あずにゃんお金……」

梓「いいですよ。プレゼントということで。連れてきてもらったのと、これのお礼です」

唯「い、いいの? ありがとー!!」

鈴の音にお礼を言いながら満面の笑みで飛びついてくる唯先輩。街中でそういうノリをされるのは困るけれど、だからといって避けるわけにもいかず。
そして、何よりその笑顔を見ていると抗う気も失せてしまうというもの。
……うん、やっぱりこういう形で返すほうがよかったんだ。私の判断は間違ってなかった。

梓「っていうか秋とはいえくっつかれると暑いんですが」

唯「えー、いいじゃん。あずにゃんの真心で心は暖かいんだから次は身体だよ!」

梓「 あ つ い って言ってるんです! ……あと、唯先輩、それ」

唯「うん?」

梓「……プレゼント、なんですから」

唯「……つけていい?」

無言で頷くと、ようやく離れてくれた。
できれば問い返さないで欲しかったものだけれど。全く、デリカシーのない……

44: 2011/09/23(金) 00:24:36.02 ID:aH5EQ7QI0

唯「よいしょ、っと……」

……デリカシーはないけれど、首の後ろに手を回してモゾモゾやる唯先輩は、ちょっと色っぽかった。
って何を考えてるんだ私。

唯「……よし、どうかな、あずにゃん」

梓「似合ってると思いますよ」

唯「感情がこもってなーい」

直前に考えていたことがアレですからね……極力感情は頃しましたよ。
とはいえ似合ってると思ったのは事実。まだギリギリ軽装の秋だからこそ、胸元に光るワンポイントは輝けるものだから。
どことなく、買う前より輝きが増したようにも見えるほど。

唯「…まぁ、いっか。あずにゃんが選んでくれたんだもん、似合ってなくても外さないよ」

梓「似合ってますってば、本当に」

唯「はいはい、もうどっちでもいいですよーだ。こういうのは最初が肝心なんだからねっ」

梓「うっ……」

……すごく勿体ないことをしたような気持ちになる。気持ちの流れ的に仕方のないことだったとはいえ、後悔しないかと言われれば疑問が残る。

47: 2011/09/23(金) 00:28:44.55 ID:aH5EQ7QI0

そんな私を一瞬だけ盗み見て、唯先輩は話題を変えた。

唯「……んふふ。じゃあ行こっか、あずにゃん」

梓「……そうですね」

きっと見抜かれているのだろう。ごく稀に、本当に稀に、この人は真実を見抜く。誰もが気づかないことを、何でもないようなことのように容易く。実にズルくて、いやらしい。
……そんないやらしい先輩は、歩を進めようと提案したにも関わらず、何故か今は私の隣で硬直しているけど。

唯「……えっと…」

梓「まさか行き先がわからないなんてベタなオチはないですよね」

唯「ちゃんと調べてきたもんねー。えっとねー…」

……正直、そんなオチも想定してました。ごめんなさい。ちょっと見直しました。
まぁ「全部任せんしゃい」という唯先輩の言葉に甘えて何も調べなかった私は実際そんなオチがついても責められない立場なのだけれど。

唯「えっと、こっからバスの……モニョモニョ…行きのバスに乗って――」

梓「……はい?」

携帯電話を開いてにらめっこする唯先輩。すごいしかめっ面かと思ったら、次は情けなく眉尻を下げた顔でこちらを見て。

唯「……漢字読めない」

梓「………」

48: 2011/09/23(金) 00:34:40.12 ID:aH5EQ7QI0

……まぁ、仕方ないことかもしれない。電車で一時間強も揺られて来たこの街は、知らない街といっても過言ではない。
外出するよりは家でのんびりギターを弾いていることが多い私達なら尚更。アルバイトもしてないから遠出する余裕もないし。

梓「……漢字さえわかれば乗れないこともないですけど…念の為です、駅員さんに尋ねてきましょうか」

唯「はい……ソウデスネ…」



――駅に戻り、駅員さん達に乗るべきバスを尋ね、更に念のため地図を買い。
バスを乗り継いで更に歩いて少しだけ山の方に入り、ようやく件の旅館へ辿り着いた頃、ちょうど日が暮れた。

梓「……要するに二泊三日の初日は何も出来なかった、と」

唯「……ごめんなさい。こんなに遠いなんて思いませんでした」

梓「そしてそれは転じて二泊三日の最終日も何も出来ずに終わる可能性が高い、と」

唯「本当にごめんなさいぃぃ!!」

梓「いえ、まぁいいんですけどね。立地条件のせいなら仕方ないですし、来るまでに面白そうな店はいくつかありましたし」

それに今日が潰れたのは「一時間ちょっとで着くくらいの距離なら集合もゆっくりでいいよね」と言いつつしっかり寝坊かました唯先輩のせいでもある。最終日は私がちゃんと起こせばきっと少しは時間は作れるだろう。
更に言うならこんなに遠いとは私も思ってなかった。目的地はテレビでCMやるくらいには有名な旅館なのだが、そのCMでもこんな奥地にあるなんて言ってなかったし。

51: 2011/09/23(金) 00:40:10.16 ID:aH5EQ7QI0

唯「……ごめんねぇ…」

梓「…もういいですって。それよりも…もっと別の問題がありますよ」

唯「……そうだね…こっちもあずにゃんに謝らないといけないかも…」

梓「いや…これは流石に唯先輩は悪くないです」

眼前に佇む、件の有名な旅館。
……否、有名なはずの旅館。有名で、繁盛していると聞いていたはずの旅館。
一応、情報どおりの木造平屋の建築物ではある。旅館の名前も、確かに聞いていたものと一致するのだけど。

唯「……オンボロやないかーぃ…」



――唯先輩が思わず漏らしてしまった本音通り、外観はとても綺麗と呼べたものではなく、木造の家屋にツタは這い、塗装は剥げ、看板は傾き、これでもかと言わんくらいにイメージ通りのオンボロ旅館。
しかし意外にも一歩門をくぐってみれば言うほどでもなく、内装は綺麗だし従業員も沢山いて皆いい人そうで。そのギャップが人気の秘訣なのかもしれない、と私達は納得することにした。
ただ、ここでまた問題が発生するのが私達らしいというか、唯先輩らしいというか。

員「申し訳ありません、只今満室でございまして……角部屋しか空いていないのですが」

唯「え~」

評判通り繁盛もしているらしい。あんな外観で。

53: 2011/09/23(金) 00:45:35.67 ID:aH5EQ7QI0

梓「私達が来るのが遅かったからでしょうに……すいません、店員さん。その部屋で充分です」

員「申し訳ありません」

あくまで丁寧な従業員さんに唯先輩がチケットを渡し、部屋に案内してもらう。
角部屋という通りかなり奥まった所にあったけれど、トイレは部屋にあるし食事も届けてくれるとのことなので不便なのはお風呂くらいだろう。

員「では、失礼します」

唯「ありがとうございましたー」

梓「ありがとうございました」

唯「……さて!」

……従業員さんが去ったのを見届け、唯先輩がなにやら目を輝かせた。
イヤな予感しかしない。

梓「…何を始めるつもりですか?」

唯「掛け軸や絵を一個一個捲って裏のお札の有無を――」

梓「一応有名旅館なんですしやめましょうね!?」


55: 2011/09/23(金) 00:50:12.19 ID:aH5EQ7QI0


――その後、昼食が軽いものだったせいか、荷物を片付けている最中で唯先輩が泣き言を言い出した。

唯「おなかすいたー…」

梓「まぁ、確かに早い家なら夕食食べていてもおかしくない時間ですけど……」

唯「おなかすいたー!」

部屋の真ん中で大の字になって寝転んで動かない。まったく、本当に子供みたいな人だ。
ちなみに荷物の片付けなんていっても荷物と呼べるほどの大仰なものはほとんど持ってきていない。二回分の着替えを手頃な大きさのバッグに入れてそれぞれ持ってきただけだ。
要するに、たったそれだけの荷物を片付けることもせずにこの人は寝転がっている事になる。というか二人分私が片付けた。どれだけ堪え性が無いんだろうか。

梓「はぁ……じゃあ食事をお願いしてきますから、せめてこう、もっと端っこにいてくださいよ?」

唯「えー、私も行く!」

梓「片づけを私にさせたくせに今起き上がったら怒りますよ?」

唯「うっ……いや、あれはその、働くあずにゃんを見ていたかったと言うか…」

梓「そんなくだらない理由で押し付けたんだとしたらもっと怒りますよ?」

まぁ実際のところは別に重労働でもないんだし怒るつもりは無いけれど、それでも何でもかんでも人に押し付けるのはいただけない。
私はともかくとして、そろそろ憂の気苦労は減らしてあげたいし。
……いや、憂も憂で唯先輩の世話をするのを純粋に楽しんでるフシがあるからなぁ……余計なお世話なのかな?

56: 2011/09/23(金) 00:55:20.13 ID:aH5EQ7QI0

唯「え、えっと、それよりあずにゃん!」

梓「はい? 何ですか?」

唯「わ、わざわざ行かなくても内線みたいなもので呼べたりしないのかなぁ?」

梓「あー、言われてみれば確かにあってもおかしくない――」

と唯先輩の必氏の話題逸らしに乗ってあげていると、ブザー音のようなものが部屋に響いた。
どうやら唯先輩の言う通り内線はあるらしい。部屋を見渡し、入り口のすぐ傍の壁にあった受話器を取る。

梓「はい、もしもし」

員『あ、失礼します。そろそろお食事の方お持ちいたしましょうか?』

梓「…は、はい、それじゃお願いしてもいいですか?」

員『かしこまりました。少々お待ちくださいませ』

……なんというタイミング。

唯「あずにゃん、何て電話?」

梓「ご飯持ってきてくれるそうですよ。よかったですね」

唯「ホント!? やったー! どんなのだろうね?」

梓「どんなのでしょうね…」

58: 2011/09/23(金) 00:59:38.28 ID:aH5EQ7QI0

唯「海に近い旅館なら海の幸がメインって聞いたけど、ここはどっちかといえば山に近いし、山の幸なのかなぁ? あー楽しみ!」

梓「………」

……唯先輩は盛り上がっているけど、私はどこか薄気味悪さを覚えていた。まるで私達の行動を見ているかのようなこのタイミングに。
唯先輩がお腹を空かせているのを見抜いたかのように。唯先輩が内線の話をしたのを聞いていたかのように。私がフロントまで出向こうとしているのを見ていたかのように、タイミングとしては完璧すぎた。

……考えすぎだよね。これが有名旅館の一流の接客なんだよね。



――ほどほどに山の幸の活かされた夕食を食べ、寝転がる唯先輩を起こし、お風呂へ向かい。
一応パジャマは持ってきていたけれど浴衣の貸し出しもしているとの事なので、今日は浴衣を借りることにして。
お風呂上がり、唯先輩の「浴衣に下着はつけない」とかいうセクハラ――もしかしたら本人はセクハラではなく素で信じていたのかもしれないけど――を黙頃して着替えて部屋に戻った。

唯「ふぃー、いい湯だったねー」

梓「山に近いからですかね、静かでいい露天風呂でした」

唯「虫がいないのが不思議だったね!」

梓「そういうこと言わないでくださいよ…明日気にしちゃうじゃないですか」

唯「あずにゃんに近づく悪い虫は私が追い払ってあげましょう」

梓「はいはい…」

59: 2011/09/23(金) 01:02:03.72 ID:aH5EQ7QI0

馬鹿馬鹿しい会話に終止符を打つように立ち上がって部屋の窓を開けてみる。
山特有の澄んだ冷たい空気が流れ込んできて私の髪を揺らす。お風呂上がりなど、縛っていない状態だとこういう時に少し鬱陶しい。
……空気も冷たいし、やっぱり窓は閉めよう。唯先輩が風邪ひいたら大変だ。

唯「そういえばあずにゃん、鈴は?」

梓「ちゃんとポケットに入ってます。大丈夫ですよ、無くしたりしません」

唯「そーじゃなくて、つけてくれないの?」

梓「……いや、もう夜ですし、あとは寝るだけですし、つける必要ないじゃないですか――」

と言いつつも、浴衣の唯先輩の胸元に光る月を見ると嬉しくなる反面申し訳なくなる。
そんなに嬉しかったのだろうか。私も嬉しくなかったといえば嘘になるけど、四六時中つけておくほどには素直になれない。

梓「……寝るときは外さないと危ないですよ」

唯「えー、やだー」

梓「私はつけませんからね。寝ている時に外れて無くしたりしちゃったらそれこそ申し訳が立ちませんし」

唯先輩が喜んでずっとつけてくれているのは嬉しいけれど、私も同じようにつければ唯先輩もきっと喜ぶのだろうけれど。
それでも私には恥ずかしいし、無くすのを恐れているのもまた私の本音だ。

60: 2011/09/23(金) 01:05:48.79 ID:aH5EQ7QI0


……とはいえ、ちょっとだけ唯先輩を否定するような言い方になってしまい、返答が怖かった。
けれど当の唯先輩は何故か目を輝かせていて。

唯「申し訳って……たった100円の物にそんなに真剣になってくれるなんて、やっぱりあずにゃんはいい子だねー」

梓「ね、値段なんて関係ないじゃないですか! 貰い物を無くすなんてそんな不義理なこと出来ないってだけです!」

唯「いい子いい子ー。よしよし」

梓「だから何かにつけて抱きつこうと、撫でようとしないでくださいっ!!!」



――せっかくお風呂に入ったのに唯先輩を押し返すのに少しだけ汗をかいてしまい、何と言うか、これ以上起きているべきではないのかもしれないという結論に至った。

梓「はぁ…布団敷きますか……」

唯「えー? 夜はこれからだよー」

梓「夜更かししてまですることは何もないでしょう」

62: 2011/09/23(金) 01:12:46.83 ID:aH5EQ7QI0

唯「……コイバナ?」

梓「二人でですか?」

唯「旅行の夜と言ったらそれじゃない?」

梓「修学旅行みたいですね」

唯「じゃあ枕投げ?」

梓「二人でですか?」

唯「旅行の夜と言ったらそれじゃない?」

梓「修学旅行みたいですね」

唯「じゃあ――」

梓「いや、もういいですから寝ましょうよ」

63: 2011/09/23(金) 01:17:01.34 ID:aH5EQ7QI0

まだ時間は早いけど、意外にも身体に疲れは溜まっている。いろいろバタバタしたし、慣れない地でもあるし、考えてみれば当然ではあるけれど。
問題は唯先輩をどうやって寝かしつけるか。憂に聞いてくるべきだったなぁ。

梓「っていうか唯先輩って早寝のイメージがあったんですけどね」

唯「んー、まぁ否定はしないけど、あずにゃんと二人っきりなんだもん、早く寝るのはもったいないよ!」

梓「でも特にする事もないでしょう」

唯「そうだけど、もったいないったらもったいないよ!」

梓「……夜更かししたせいで寝坊して、明日一緒に遊びに行ける時間が減るのとどっちが勿体ないと思います?」

唯「じゃあ寝よっか! おやすみあずにゃん!」

梓「早っ!」

ちょろい人だった。っていうか布団敷くの手伝ってくださいよ……


65: 2011/09/23(金) 01:23:30.47 ID:aH5EQ7QI0



梓「――ん、んっ…?」

……何時頃かわからないけど、不意に目が覚めた。やっぱり少し早く寝すぎたようで。
とりあえず枕元を探り、財布と携帯電話、そしてそれに結び付けてある鈴を確認する。なんだかんだで私も現代っ子、携帯電話は常に持ち歩くだろうから、という理由で朝の着替えまでは結び付けておくことにしたのだ。
携帯電話を手に取ると、またチリンと音がする。その音を聴くたび嬉しくなるけど、隣で寝ている唯先輩を起こすわけにはいかない。鈴を手の平で包み込んで音を頃し、折りたたみ式の本体を開く。

梓「……二時半…うわぁ、丑三つ時…」

草木も眠る丑三つ時。意外とその時間帯については細かいところで諸説あったような気もするけど、私は少なくとも午前二時前後は間違いなく含まれるんじゃないかな、という程度の認識にしている。
ともあれ、そんな時間に目覚めてしまったのはちょっとイヤな気分になるけれど、もう一眠り出来そうな程度には頭もぼーっとしている。大丈夫だろう。

梓「……その前にトイレ行っとこ…」



――トイレから戻ってくると、隣の、窓際の布団で寝ている唯先輩が月明かりに照らされているのが目に入った。

梓「………」

実は寝る前に「一緒に寝よう!」とか言い出すかと思ったけど案外そんなことはなくて、あっさり布団に入って寝てしまったことに実は拍子抜けしていたりもするのだけれど。
いや言われても勿論断るのだけれど。それでも予想が外れるとちょっと悔しいというか。意外と私はこの人をあまりわかっていないのかな、と思いたくなるような。それとも私は『何か』から目を背けていて、勝手な唯先輩像を押し付けているのかな、とか。
まぁとにかく、そういうよくわからないことを悶々と考えながら唯先輩を眺めていると、胸元に光るものが目に入り。

67: 2011/09/23(金) 01:28:02.89 ID:aH5EQ7QI0

梓「…もう、危ないって言ったのに…」

言いながらも、やっぱり嬉しくなる自分が抑えられなくて。それもなんか癪だから、と自分の布団に潜り込んで。
それでもちょっとだけ昂ぶってしまった気持ちが寝付くことを許さなくて。結局布団の中で何度も寝返りを打った挙句、枕元の携帯電話に手を伸ばし、鈴を指先で転がす私がいた。

「これじゃ名実共に猫みたいじゃないか」と頭を抱えるのと同時に、気がついた。気がついてしまった。


……隣の、気配に。


梓「…あ、お、起こしちゃいました? すいません」

唯「………」

梓「……唯先輩?」

気恥ずかしさ半分で取り繕うように身体を起こし、振り返るけれど、当の唯先輩はボーっとしたまま私に視線を合わせずに。
でも無表情というわけでもなく、何かの『目的』を持ったような目をして立ち上がる。

唯「………」

梓「…あの…?」

私を一瞥すらせずに歩き出す。
私みたいにトイレかな? とも思ったけれど、部屋の扉に手をかけたあたりでさすがに様子がおかしいと思い至り、先刻まで弄っていた携帯電話をポケットに捻じ込んで後を追った。

69: 2011/09/23(金) 01:35:40.11 ID:aH5EQ7QI0


梓「――唯先輩っ! 待ってください、どこ行くんですか!?」

唯「………」

梓「唯先輩っ!!」

唯「………」

梓「待ってくださいよ!! どうしちゃったんですか!?」

廊下をただ歩くだけの唯先輩に追いつくこと自体は容易だったが、引き留める事は難しかった。
呼びかけには全く応えないし、浴衣の袖を摘むくらいでは自然と振り払われてしまう。思い切って腕まで掴んでも、力任せに振るわれると体格で劣る私には成す術もなかった。

……ダメだ、このままじゃ唯先輩がどこかに行ってしまう。そして、きっと二度と会えない。

私は予感めいたものを感じていた。何故とか何処へとか、そういう事までは頭が回らなかったけれど、行かせてはいけない。それだけは確信を持っていた。
唯先輩の正面に回り、腰に手を回し、踏ん張りながら全体重をかける。そこまでしてようやく唯先輩の歩みは止まった。

梓「ッ……誰か! 誰か助けてください!!!」

動きを止めたはいいけど、それ以上の事は出来ない。そう自覚していた私は、夜中だというのに声を張り上げて助けを呼ぶ。
誰かが出てきて、唯先輩を押さえつけてくれることを期待した。多少手荒だけど、このまま私と唯先輩が面と向かって押し合ってもきっと私が先にバテてしまう。
唯先輩も決して運動が出来る方ではないはずだけど、今の唯先輩はきっと自身の意識の外にいる。疲れとか顔見知り相手の遠慮とかには無縁だろうから、より確実な方法を採って動きを封じなければならない。

71: 2011/09/23(金) 01:42:34.15 ID:aH5EQ7QI0

だから叫んで人を呼んだ。なのに……

梓「なんでっ……なんで誰も出てきてくれないの!?」

出てきてくれないどころか人のいる気配さえしない気がする。私達の居た場所は角部屋だったけれど、唯先輩を引き留めようとあれこれしている間に確実に数部屋は通り過ぎた。
従業員さんも満室だと言っていたし私も私なりにだいぶ大声で叫んでいるのに、顔を覗かせてくれる人がいないどころかどの部屋からも物音一つしないなんて!?

唯「……か……と…」

梓「!?」

押し合うだけで必氏な私の耳に届いた、微かな呟き。
力を抜くわけにはいかないけれど、どうにか意識だけはそちらに集中させて、聞き届けようとする。すると。

唯「…いかないと…」

梓「っ!?」

どこかに向けたその呟きは、私の悪い予感を肯定していて。
予感を現実にするわけにはいかない。唯先輩と二度と会えないなんて……嫌すぎる。
何が何でも行かせるわけにはいかない、と力を込めなおした時、感じ取ってしまった。


――後ろに、何かいる。


75: 2011/09/23(金) 01:49:02.68 ID:aH5EQ7QI0


恐る恐る、振り返る。やめておけばいいのに振り返ってしまう。
怖い。でも怖いからこそ見ておかないと安心できない、という矛盾。怖いものだからこそ、目を向けずに放置するのは余計に怖い。
人の行動を真っ先に縛ってしまう『恐怖』という感情に動かされた私が、肩越しに目にしたものは。

梓「ッ!?」

……私の背後にいた『それ』は、廊下の窓から差し込む月明かりに蒼く照らされて。

……それでもなお真っ黒に染まった『影』だった。


――『影』は、影であるはずなのに人の形を成していて、顔は無いのに、その口元は確かに釣りあがっていて。

梓「ひいっ!?」

2メートルくらいは離れているにも関わらず、その姿に私は恐怖してしまい――力を抜いてしまう。
その隙を逃がさなかった唯先輩が力を込めて私を押し返す。力負けしてバランスを崩されてしまった私は、あとはされるがまま。
そのまま唯先輩に突き飛ばされ、私は受け身も取れず無様に背中から廊下に転がることとなった。

梓「あうっ……!」

76: 2011/09/23(金) 01:53:56.70 ID:aH5EQ7QI0

そして、気づく。
唯先輩に突き飛ばされた。誰にも暴力を振るわない先輩に、そういうことをされたという事実。それはそれなりにショックのはずだけど、今はそれよりも考えることがあり。
実に、いろんなことがあり。

背中の方に突き飛ばされたということは、きっと今、私のすぐ後ろには『影』がいて。
唯先輩は、きっとそれに向かって進んでいて。私はもう、それを止めることはできなくて。
あの『影』が唯先輩を誘っているのだとしても、そんなオカルト的なモノに対抗する手段なんて、私には無くて。
もしかしたら今すぐにでも、後ろの『影』が私に何か危害を加えようとしているかもしれなくて。
身体が震えて、動かなくて。
怖くて。
怖くて。
もう、どうしようもなくて。

――どこかで、小さな鈴の音を聴いたような気がして。

それがポケットから落ちた携帯電話に手が触れた音だと気づくより先に、それを手に取っていて。
携帯電話より大事な鈴に、もう一度触れて。それの冷たさと暖かさを再認識して。

梓「……っ……イヤだ…!」

……どうしようもない。たったそれだけの理由で、この場を…唯先輩を諦めるなんて絶対に嫌だ。この暖かさを永遠に失うなんて絶対に嫌だ!
そんな思いが沸きあがってきて、私は必氏に思考を巡らせる。
唯先輩の方は押さえ込むのが精一杯でどうしようもない。なら……唯先輩を『動かしているもの』をどうにかするしかない。どうするのかなんてわからなくても、どうにかするしかない!
そう覚悟を決めて立ち上がりながら後ろを振り返る。そこにはもちろん、あの『影』が――

78: 2011/09/23(金) 01:58:43.71 ID:aH5EQ7QI0

梓「……あ、あれ…? いない…?」

まさかと思い再び後ろを振り向くも、そこにも唯先輩しかいない。
そしてその唯先輩もなにやら私の手を……いや、私の手の中の鈴を、ぼーっと見ているようで。
もう一度周囲を見渡して『影』がいないことを確認してから、唯先輩に呼びかけながら鈴を鳴らしてみる。

梓「……唯、先輩…?」

唯「……あ、あれ? あずにゃん、どうしたの?」

梓「……唯先輩、ですよね?」

唯「え? 何言ってるの? あずにゃん」

まるで私がおかしいかのような言い方をされる。うん、間違いない、いつもの唯先輩だ。
そして同時にその反応は、おそらく……

梓「……唯先輩、今まで何してたか覚えてます?」

唯「へ? ……あれ、そういえばなんで私、こんなとこにいるの?」

梓「………」

まぁ、予想通り何も覚えていないようで。
それは同時に、私の予想通り、唯先輩の意思、意識がここにはなかったことを意味する。
つまりこれは、きっとあいつの…『影』の仕業。あいつが唯先輩を操っている。あるいは乗っ取っている。憑依している。私はそう結論を出した。

80: 2011/09/23(金) 02:03:17.23 ID:aH5EQ7QI0

……いつか純から借りたオカルトマンガに、幽霊に取り憑かれた人の話があった。マンガと現実をごっちゃにするなんて愚かしいと言われるかもしれないけれど、唯先輩の行動とかを照らし合わせる限り、間違っているとは思えない。
ちなみにそのマンガでは……結局、取り憑かれた人は氏んでしまった。
唯先輩も……そうなってしまうのだろうか? こんな納得のいかない理不尽な事で命を落としてしまうのだろうか?
オカルトとかホラーとかは、説明のつかない理不尽なものであるからそう呼ばれるのだと、理解はしているけれど。
それでも……そんなこと、認めたくなかった。

梓「……唯先輩、寝惚けて歩いてここまで来たんですよ? 私が何度止めても聞かないし…」

唯「そ、そうなの!? すごい寝相だね、私…」

梓「……まぁ、とにかく部屋に戻りましょう。まだ眠いですよね?」

唯「……たぶん。今何時?」

梓「……三時過ぎですね」

携帯電話を開き、確認する。揺れる鈴が何度も小さな音を鳴らす。小さな、けれど優しくて暖かい音を。
これのおかげで助かったんだよね、私の心は。そしてたぶん唯先輩も。こっちの理屈は全くわからないけど……

唯「鈴……」

梓「…はい?」

81: 2011/09/23(金) 02:08:41.52 ID:aH5EQ7QI0

唯「大事にしてくれてるんだね」

梓「……まぁ、プレゼントですし、一応」

唯「私が居なくなっても大事にしてくれると嬉しいな」

梓「…っ……」

素早く目を逸らす。見たくない現実から目を逸らすように。見たくないモノを見てしまった顔を悟られないように。

……なんで、よりによってこんなタイミングで、そんなことを言うんですか。
私が何よりも考えないようにしていたことを、そんな簡単に言ってのけるんですか。
私が何よりも恐れ、拒んで、振り払うために自分を奮い立たせていた感情を、頭から否定しちゃうんですか。

……ついさっきまで、私の前から居なくなろうとしていた人が、そんなこと口にしないでくださいよ……

唯「私がどんな道に進んでも、あずにゃんとは一年だけお別れだもんね」

梓「……留年の可能性もありますよ。唯先輩ですし」

唯「ヒドっ!? で、でもさわちゃんだし卒業くらいはさせてくれるって! 「経歴に傷がつくのは嫌だ」とか言って!」

梓「…たぶん来年もさわ子先生が顧問でしょうから、私は滅多な事は言わないでおきます」

唯「どうかなぁ? 案外来年あたりに彼氏できて寿退職したりして。そしたら新しい顧問の先生は――」

82: 2011/09/23(金) 02:13:31.43 ID:aH5EQ7QI0

梓「――唯先輩」

少し強めに、唯先輩のくだらない言葉を遮って。
実にくだらない、私にとって何の意味も無い言葉を聞いていたくなくて。

唯「……あずにゃん?」

梓「……早く寝ましょう。明日――いや、もう今日ですけど。いろんな所に行きたいですよね? 連れてってくれますよね?」

唯「う…うん、がんばる……けど…」

梓「じゃあ、早く戻りましょう」

唯「…あ……あずにゃん、何か…怒ってる?」

梓「……いえ、怒ってませんよ」

唯「……本当に?」

梓「本当ですよ」

……本当に微塵も、欠片ほども怒ってはいない。
怒りなんていうくだらない感情に身を任せられるほど、私の心に隙間はなかった。

……この人はわかってくれないのだろうけれど。


84: 2011/09/23(金) 02:18:19.71 ID:aH5EQ7QI0


――青色に染まっていた心は、全てを忘れさせてくれる優しい色の世界に容易く誘われ、その世界の居心地の良さに涙を流す。

ティーンエイジャーの私でも、いやむしろその年齢だからこそ、思い当たる節は多々ある訳で。


梓「――んっ……あさ…? 今何時……って、え? あれ? ええええ!?」

……要するに、目が覚めた時には既に私はひたすら惰眠を貪った後だった。



――驚愕により覚醒した頭で周囲を見渡す。既に陽は高く昇っていそうだが、カーテンはまだ閉められていてあまり光は入ってこない。
特に大きく何かが動かされた形跡などはなく、眠りについたときのままのようだけど……部屋の隅に布団が一組片付けられていて。そして……

梓「ッ!? 唯先輩は!?」

見当たらない、私の隣にいた人の姿。隣で暢気な顔をして眠っていたはずの人の姿。
否、暢気な顔をして眠っていたはずが、深夜……『何か』に誘われ、私の目の前から消えようとした人。

梓「唯先輩!? どこですか!?」

布団から跳ね起き、焦りに任せて部屋の中を駆け回る。勿論、目に見える範囲に探し人の姿は無くて。
……深夜の出来事を思い出す。身体の痛み、心の痛み、そして――全てを埋め尽くす、寂しさ。

85: 2011/09/23(金) 02:24:04.77 ID:aH5EQ7QI0

まさか……行っちゃったの? 私を置き去りにして……

梓「嫌だ…! 待って、唯先ぱ――」

唯「――お、おおっ!?」

梓「――い?」

衝動のまま扉を開けて部屋から飛び出そうとした私の眼前に、私服に着替えた唯先輩の姿があった。
……本物、だよね? いつもの唯先輩は、ちゃんとここにいるよね?

唯「あ、あずにゃん、起きたの? っていうかどこ行くの? 着替えもしないで」

梓「あ、その……いえ、唯先輩、どこに行ったのかなぁ、って」

唯「ん、私は…朝ご飯ってどうなってるのかなぁって思って、聞きに行ってた」

梓「……は?」

唯「いやぁ、私もついさっき起きたから流石にもう遅いかなぁって思ったけど、電話すれば届けてくれるって。よかったね!」

梓「……あぁ、そうですか……よかったですね。……はぁ…」

……無駄に脱力してしまうくらいに、いつもの唯先輩だった。


87: 2011/09/23(金) 02:29:44.88 ID:aH5EQ7QI0


――せっかくだからと浴衣のまま食事を摂り、じっくり選んで持ってきた私服に着替えて身だしなみを整える。
平静を装っているつもりだけど、上手くやれてるだろうか。

唯「~~♪」

……たぶん大丈夫だよね。うん。
ともあれ『平静を装っている』という言葉が示す通り、私は今もまだ内心でいろいろなことを考えている。

……先程、らしくないほど取り乱してしまった事を反省する…わけではなく。取り乱してしまったというその事実が、私の中に一つの心構えを刻んだのだ。
そうだ。昨夜はあの『影』は消えてくれたけれど、だからといって何も安心はできない。もしかしたらあれで終わりなのかもしれないけれど、実際は終わったという確証なんてない。確証がないからこそ先刻私は取り乱してしまったんだから。

まだ何かが起こる可能性はある。また唯先輩がいなくなってしまう可能性はある。
対策は何も思いつかないけれど、心だけは備えておけ、と自分に言い聞かせる。もちろん諦めろという意味ではなく、何が起こっても諦めない、という意味で。

――大体の準備が終わり、携帯電話で時間を確認しようとすると、ストラップのようにぶら下げられた鈴が目に入る。私達を守ってくれた、繋ぎ止めてくれた、大事な大事な銀の鈴。
手に取って少し悩んだ後、携帯電話から取り外し、身につける。離れ離れにならないようにとおまじないをして。離れ離れになんてなりたくないと願いを込めて。

梓「……行きましょうか、唯先輩」

唯「うん、行こうかあずにゃ――お、おおおぉぉぉっ!?」

梓「あはは……似合います?」

唯「か…可愛いよあずにゃん! やっぱり私の目に狂いはなかったー!!!」

いつものように抱きついてくる唯先輩を、いつものように適当な顔をして受け止める。
首元の鈴が、チリンと小さく音を立てた。

89: 2011/09/23(金) 02:34:57.92 ID:aH5EQ7QI0


梓「――ん、こんなところにお土産屋さんがあったんですね」

唯「あー、来た時は暗かったから気づかなかったのかな?」

梓「それなりに急いでましたしね」

旅館からバス停までの徒歩の区間の終わり際、山に入ろうかどうかという境界線のあたりに小さなお土産屋さんがあった。ちなみにここより旅館側にはコンビニが一軒あるだけで、旅館の周囲は特に閑散としている。それが風情を出していていいんだろうけど。
ともあれ、旅館に泊まった人はここでお土産を買って帰れという戦略なのだろう。旅館の中でもいいような気もするんだけど。

梓「覗いてみます? 明日帰る前でもいいと思いますけど…」

唯「んー、食べ物とかは明日にして、グッズ系のがあったら買っておこうか。ムギちゃん達に」

梓「ええ、特にムギ先輩には何か買っておかないといけませんよね」

特に異論もないので一緒に入店する。
一歩足を踏み入れると、木造建築特有の臭いが鼻を刺す。ちょっと古臭い、天井の低くて薄暗い平屋だ。
だが唯先輩は何とも思わないようで、早くもお菓子コーナーで目を輝かせていた。それは明日でしょうに。
とはいえ、ムギ先輩みたいなお嬢様には何を買って帰れば喜んでもらえるのか全く予想がつかない。大人しく唯先輩に任せるのも手かな。
きっと、唯先輩が選んだものならムギ先輩は何でも喜ぶだろうし。逆も然り。だって……私より一年長く一緒にいるんだから。

……私も一年早く生まれていれば、こんな気持ちになる事も無かったのかな。
いや、それどころかずっと私を悩ませている、唯先輩と私の『先輩後輩』というにはあまりにも不思議で不自然なよくわからない距離感。それを気にすることもなかったのだろう。
あの人はあまりにも先輩らしくなくて、そして先輩をそんな目で見てしまう私も到底後輩らしくなくて。外から見れば先輩と後輩の関係でも、内から見れば時に逆にさえ見えて。

91: 2011/09/23(金) 02:41:21.02 ID:aH5EQ7QI0

……もしかしたら、そんな関係を唯先輩は望んでないんじゃないか、と思う時だってあった。
年下に説教されて嬉しい人なんているはずがない。私だって嫌になるし、そう思うたび気をつけようとは思うのに口が勝手に言葉を紡いでいて。
いつしかお互いにそれに慣れてしまったような感があったけど、唯先輩の心の中なんて私にはわからなくて。だからもしかしたら――

……あぁ、ダメだ。いろいろ考えてしまう。しかも全部後ろ向きな方向に。これじゃダメだ。深夜の一件を引きずっているのは自分でもわかるけど、今はまだ何も起きていないじゃないか。切り替えないと。

唯「ねぇねぇ、あずにゃん! ご当地キーホルダーなんてどうかな?」

梓「…別の県まで来たわけじゃないんですよ、私達。そんな桜が丘でも買える様な物じゃなく――」


……紡ごうとしたその先の言葉は、口から飛び出すことはなく。


唯「――? あずにゃん?」

梓「――なん、で……」


……なんで、『そこ』にいるんだ。



93: 2011/09/23(金) 02:47:21.56 ID:aH5EQ7QI0


――チリン、チリン、と。何度も小さく鈴の音がする。
なに? どうして? どこから?

唯「あずにゃんってば!!」

梓「あ……」

気がつくと、唯先輩に身体を揺さぶられていた。
私の二の腕を掴み、必氏な形相の唯先輩。そして、その背中越しに店の隅に見える……『影』。
ああ、また嗤っている。口なんてないのに、きっと嗤っている。寂しがる私を見て、笑っているんだ。

唯「あずにゃん、大丈夫!?」

梓「……はい、一応…」

唯「一応って…どうしたの? 気分悪い? 戻ろうか?」

梓「大丈夫…大丈夫ですから」

唯「……本当に…?」

梓「……本当です…」

95: 2011/09/23(金) 02:54:52.07 ID:aH5EQ7QI0

勿論嘘だ。あの『影』の存在そのものが、私の心にも不安という名の影を落とす。
眼前で真剣に私を心配してくれるこの先輩が私の前からいなくなる、遠くへ行ってしまう、そんな真っ暗な未来の影を。
だから本当なら強がらず、どこにも行かないで、離れないで、とか言うべきなんだろう。正直に、素直に。でも私に言えるはずもなく。

……ふと、これは今の状況だけでなく、この先の未来においても当て嵌まるなぁ、とか思いつつ。でもやっぱり私に言えるはずもなく。
そもそも年齢差がある時点で、それはどうしようもないことで。言っても唯先輩を困らせるだけで。

だからせめて、せめて『見知らぬ誰か』が唯先輩を奪ってしまわないようにと、私は今も未来も心の中だけで願うのだろう。祈りを言葉にするようなことはしないのだろう。

唯「……出よっか?」

梓「……はい……」

店を出る途中、そっと首元の鈴に触れる。
……大丈夫、私は、私達はまだここに在る。


97: 2011/09/23(金) 03:00:34.60 ID:aH5EQ7QI0
――しかし、私はそれからも何度か『影』を見る羽目になった。

梓(――っ……)

バスでの移動中に外に居たり、

梓(……なんで……)

軽食屋での食事中に遠くの席からこちらを眺めていたり、

梓(なんで……!!)

人の多い通りで人混みの中から縫うようにこちらを眺めていたり。

梓「………」

唯「あずにゃん…?」

やはり精神的に参っていたのだろう。無意識に唯先輩の服の袖を摘んでしまったりもした。

梓「何でもないです……気にしないでください」

唯「う、うん……」

唯先輩が怪訝な顔を見せる。申し訳ないとは思いつつも、どうにも出来なくて。無力な自分が恨めしくて、情けなくて。

梓(……っ……また居る……)

……私の気持ちがブルーになった時に、決まって『影』は現れた。私を嗤いに現れているという説が信憑性を帯びてきてしまった。
そうだとしたら凄く嫌らしいけど、だからといって何も出来ることはないし、怯えて目を逸らすわけにもいかなくて。ただ目を細め、睨みながら、足早にその場を離れることしか出来なかった。

98: 2011/09/23(金) 03:05:46.11 ID:aH5EQ7QI0


――何度も見るうち、いくつか気づいたことがある。
まず『影』は小さな姿をしている。それこそ私と同じくらいの身長を。
そしておそらく他の人には見えていない。あんな異様な存在なのに、誰も気づかないから。
ただ、唯先輩にはどうかわからない。いつも決まって唯先輩を挟んで反対側に現れるから。私も深夜の一件があるから、絶対に唯先輩にそちらを向かせないようにしていたから。
もし唯先輩にも見えていたら、見てしまったら……深夜と同じように、『そちら』へ『いこう』とするかもしれないから。

一応今のところ直接的な危害を加えには来ないけど、それでもまだ何も終わってはいなかった。
それだけで私は、心の底から今日と言う日を楽しむことが出来なくて。だから……

唯「……ごめんね、あずにゃん」

……帰りのバスの中、唯先輩にこんな顔をさせてしまうんだ。


梓「――何が、ですか?」

わかっている。答えなんてわかりきってる。

唯「……つまらなかった、よね、今日…」

梓「…違います。ちょっと、考え事があって……気もそぞろだった私が悪いんです。唯先輩は…何も悪くありません」

そう、何も、何一つ悪くなんてない。そこだけは、ちゃんと伝えないといけない。
たとえ伝えたところで唯先輩の表情が晴れないとしても。

99: 2011/09/23(金) 03:12:00.64 ID:aH5EQ7QI0

唯「……考え事、って?」

梓「それは……その…」

唯「…あずにゃん、昨日…じゃないや、今朝? 深夜から…何かおかしいな、とは思ってたんだけど」

……さすがに、二人きりと言うこの状況。能天気なこの先輩でも感じ取ってしまうようで。
それでも、今までは口に出して問いはしなかった。今日を楽しませることで、私の中の不安を払拭してくれようとしたんだろう、きっと。
でも、それが叶わなかったから……こうして私に頭を下げているんだ。唯先輩は何も悪くなんてないのに。

唯「相談は…してくれない、よね?」

梓「……ごめんなさい」

私を何よりも悩ませているのは、唯先輩を連れて行こうとした『影』。細かく言えばそれだけじゃないような気もするけど当面の問題は間違いなくこれだ。だから唯先輩に相談は出来ない。
解決する術もないのに、当人に「貴女は取り憑かれてる」なんて誰が言えようか。
一緒に解決策を考えれる利点はあるように思えるけど、どう考えても本人に『氏の恐怖』を実感させるデメリットのほうが大きい。唯先輩を怯えさせることなんて、私に出来るはずがない。
まぁこんな突飛な話、そもそも信じてくれない可能性もあるけれど。それならそれでやっぱり相談する意味もない、ということ。

101: 2011/09/23(金) 03:17:01.62 ID:aH5EQ7QI0

……でも、そんな事情、言わずに察してくれというほうが無理な話であって。

唯「…ごめんね、頼りない先輩で」

梓「っ!? それは違います! これは、その……私が解決しないといけないことで、決して唯先輩が頼りないってわけじゃ……」

唯「……うん。そういうことなら…がんばってね。応援してるから」

そう言い、窓際に座る唯先輩は顔を外に向けてしまった。
言葉は、この時の言葉だけは、私の言うことをちゃんと受け止めてくれたようだったけど。


 「……誰だって、面と向かってならそう言うよね」


消え入りそうなその呟きも、私の耳には届いていた。

……唯先輩の胸元の、夕陽を反射する月が眩しい。



103: 2011/09/23(金) 03:22:49.13 ID:aH5EQ7QI0


――どんな時でも感情を素直に表す唯先輩だ、その言葉が私に向けられたものであるならば、場所も状況も関係なく、正面から私にぶつけてくるだろう。
だから、本当にそれは私に向けたものではなくて。私に聞かせようとしたわけじゃなくて。ただ単に、胸の奥から溢れ出て、口から零さずにはいられなかっただけのもので。
でもそれはやっぱり唯先輩の中で確実に芽生えた、私への『不信感』であって。

そう実感すると、本当に泣いてしまいたくなるほど胸が締め付けられるけれど。
でも、それは私に向けられた言葉じゃない。私に言おうとしたわけじゃない。だから私は、聞かなかったフリをしなくてはいけない。



唯「――ふぃー、ただいまーっと」

梓「旅館にただいまっていうのも何か変ですけどね」

唯「気にしない気にしない。しかし今日も疲れたねぇ。どうするあずにゃん、お風呂入る? それともお腹空いた?」

梓「…先にお風呂がいいですね。唯先輩は食べたらすぐ寝ちゃいそうですし」

唯「むー……確かに昨日はそのまま寝そうだったから否定できない…」

梓「あはは……」

……ダメだ、空気が硬い。
理由はわかっている。悪いのは私だ。唯先輩はいつも通り。少なくともいつも通りに振舞おうとしている。
だから、私がその『いつも通りに振舞おうとする唯先輩』に怯えているのがいけないんだ。いつも通りに振舞おうとする『いつも通りじゃない』唯先輩に。

104: 2011/09/23(金) 03:27:43.25 ID:aH5EQ7QI0

内心で不信感を抱えていながら、いつも通りに振舞える、振舞おうとする唯先輩が怖くて。
唯先輩が心の中で何を考えているのか、想像するのが怖くて。その笑顔の裏で、私をどう思っているのか想像するのが怖くて。
結局は唯先輩も仮面をつけて踊れる人だったという事実が怖くて。

もっとも、全て唯先輩にとっては初めての経験なのかもしれないけれど――
そうだとしたら、そうさせた私の罪は、計り知れないほど重いものになるけれど――

結局、私は『嫌われているかもしれない相手』に、普通通りに振舞うことは出来なかった。


――悪いのは私。全部私。だから、せめてどうにか取り返そうと頑張ってみたりもするけれど。
そういう頑張りは空回りするのが世の常で。余計にぎこちない空気になってしまって。
お風呂まで終えた頃にはもう、唯先輩の口数も少なくなっていた。

今晩は浴衣ではなく、持ってきたパジャマを着て。唯先輩もそれとなく合わせてくれたのかパジャマで。
でもやっぱり会話は少なく、唯先輩の表情もどことなく曇っていて。

……唯先輩は、私と居るのが嫌になってしまったのかもしれない。とうとう愛想を尽かされたのかもしれない。
そんなことないと言い切りたいけど、言い切れないほど今日は散々で。
今までずっと、唯先輩は私を心の底から嫌っていた……とまではさすがに言わないけれど。それでも、今までの日々で私に対して抱いていた小さな不満がふつふつと蘇ってきている状態なのかもしれない。

105: 2011/09/23(金) 03:32:26.18 ID:aH5EQ7QI0

……思い当たる節は、腐るほどある。それほどには私は素直じゃなくて、生意気で、面倒な性格だ。
説教なんて何度したかわからない。音楽用語等の基礎をほとんど知らない暢気なあの人を見下していた感は否めない。頑張れば出来る人なのに、ちゃんとやればかっこいいのに、と。
もしかしたら、なまじ最初の印象が良すぎたからこその失望から来ていたのかもしれないけれど。勝手に私の理想を押し付けていただけなのかもしれないけれど。
ともかく私は嫌われていないのが不思議なくらいで、いつ、どんな拍子で嫌われてもおかしくなくて。
唯先輩にとって、きっと今回がその『拍子』だったのだろう、という話で。

でも、それでも私は、唯先輩を守りたいと思う。
唯先輩が私をどう思っていようと…私はまだ、唯先輩の事は嫌いではないから。




唯「――寝よっか」

梓「……はい」

唯「………」

梓「………」

互いに一言も発さず布団を敷き、横になる。もちろんそんな空気を良しとしたわけじゃないんだけど、だからといって出来る事も何もなくて。
本当なら……何も恐れず、疑わず、素直になれたなら、きっと「一緒に寝ていいですか」とか、それくらいのことは言えたのかもしれないけれど。
でも、唯先輩に拒絶されることを恐れ、唯先輩が私を拒むかもしれないと疑い、そんな気持ちを抱いた上で素直になんかなれるはずもなく。

107: 2011/09/23(金) 03:39:41.18 ID:aH5EQ7QI0

私がモヤモヤしていると、唯先輩は早々に寝返りを打って背中を向けてしまった。
……こういう時でも、私は先輩の背中を見ることしか出来ないのか。先輩とは常に先に居るもので、背中しか見せてくれないもので、私はそれを追うしかできないのか。

そう余計にモヤモヤと考えてしまっていると、しばらくしてから規則正しい小さな吐息が聞こえてきた。
でも、それに安堵なんて出来ない。安堵して寝てしまうわけにはいかない。寝ている間に唯先輩がいなくなってしまうのが何よりも怖いから。
私は徹夜も辞さない覚悟だった。少なくとも今この状況においては唯先輩を守れるのは自分しかいないんだから当然といえば当然なんだけど。



――何度か落ちかけて、でもどうにか耐え、ついに丑三つ時がやってきて。
24時間前の出来事を思い出し、また少し不安になり。携帯電話につけていた銀の鈴を、左手首に結びつける。
……別に首元でもよかったけど、左手首の方が私も見ることが出来るから都合が良かった。唯先輩を感じられるその鈴が目に見える所に在って欲しかった。それほどには不安を感じていた。


――そして、その不安は、予想通りにカタチを成す。


隣で身体を起こす気配と、部屋の入り口の方に『何か居る』気配。
昨日から唯先輩を窓際に、すなわち私よりも入り口から遠くに寝かせておいたのが偶然とはいえ功を奏した。見たくもない入り口の方の気配に背を向け、起き上がった唯先輩に問いかける。

梓「……トイレですか? 唯先輩」

唯「………」

梓「違いますよね。どこに行くんですか?」

108: 2011/09/23(金) 03:43:45.19 ID:aH5EQ7QI0

唯「………」

梓「……行かせませんよ、どこにも」

対策なんて何も無い。行き当たりばったりにすぎない。それでも行かせるわけにはいかない。それだけは確かだから。
自分の中の覚悟に向き合って、決意を新たに立ち上がり、両手を広げて唯先輩の道を塞ぐ。

……左手首の鈴が音を立てるも、今度は唯先輩はそれに見向きもしない。


唯「――あずにゃんさぁ」

梓「……え?」

少し、予想外の一言。
昨日は私に対して見向きもしなかった唯先輩が、私を見て、私に向かって、その聞き慣れたあだ名で呼ぶ。
それが何を意味するのか。いろいろ考えようとして、それでもハッキリとした結論は浮かばなくて。
でも、だからといって私の決意は揺らがない。唯先輩を助ける、その決意だけは。

――事実、揺らぎはしなかったはずだけれど。


唯「あずにゃんはさぁ、なんで『いつもいつも』私の邪魔ばかりするの?」


その一言は、実に的確に、私の心を砕いた。

110: 2011/09/23(金) 03:50:24.19 ID:aH5EQ7QI0


梓「……ゆい……せんぱい?」

唯「いつもだよ、いつも。偉そうにさぁ……」

梓「あ、あの………」

唯「活動初日から生意気だったよねぇ……説教してくれちゃってさ」

梓「っ……あれは、あの時は――」

唯「私よりギター暦が長いから偉いの?」

梓「え…っ?」

唯「私より真面目だから偉いの?」

梓「あ、あの……」

唯「そりゃそんなあずにゃんの言う事は正しいかもしれないけど……気に入らないんだよね」

梓「っ――!」

違う。こんなの唯先輩じゃない。ただ取り憑かれてるだけ。
そう思おうとするけれど。

112: 2011/09/23(金) 04:00:16.72 ID:aH5EQ7QI0

唯「毎日毎日グチグチうるさいんだよね。コード間違ったとか、ソロの入りが遅れたとか。そりゃ私が悪いんだけど、もうちょっと言葉を選んで欲しいんだよねー」

唯先輩の言葉は、私の抱えていた『日頃嫌な思いをさせているのではないか』という不安そのままで。実に的確にそのままで。
それはすなわち『私達しか知らないこと』を口にして私の心を抉るわけで。
仮にこの言葉が唯先輩の意思じゃなかったとしても、取り憑かれているだけだとしても、唯先輩の記憶と心の中にある思いには違いないわけで。
唯先輩という人を形作るモノが生み出した、私に対する不満であって。

唯「同年代の澪ちゃん達に言われたならまだ納得できるんだけどね……実際、それまでは四人でうまく成り立ってたわけだし…」

つまり。

唯「でも去年から入った後輩があまりにも口うるさくて生意気で面倒臭い子でねー」

私は、やっぱりどこか、嫌に思われている面があったということで。
何よりも恐れていたその事実が、誰よりも言われたくない人の口から明るみに出た時に、私は。


唯「……あなたなんか、入部してこなければよかったのに」


私は、立っていることなど、出来るはずがなくて。



114: 2011/09/23(金) 04:07:47.30 ID:aH5EQ7QI0


梓「――ごめ、っ、ごめん…なさい…っ」

――唯先輩を助ける。連れて行かせない。尊く気高かったはずのその決意は、今やまったく真逆のモノに変わっていて。


「偉そうにしてごめんなさい」
                        「生意気でごめんなさい」
「融通利かなくてごめんなさい」
                        「口煩くてごめんなさい」
「分を弁えなくてごめんなさい」
                        「面倒臭くてごめんなさい」
「ギターやっててごめんなさい」
                        「皆の仲を歪めてごめんなさい」


           「軽音部に入部してごめんなさい」




梓「だから…ひぐっ、だから……謝りますから……償いますからっ………だから…行かないで…!」

即ち、唯先輩に置いて行かれたくない、見捨てないで欲しい、そんな惨めで無様な懇願へと変容していて。
――でも、本質は大差ないのかもしれない。ずっとずっと、心の底から願っていたこと。結局は私が唯先輩と一緒に居たいがための我が侭。

梓「なんでも…っ、何でもしますからっ…! お願い…!!」

115: 2011/09/23(金) 04:12:40.82 ID:aH5EQ7QI0

くずおれたまま、ぐちゃぐちゃの顔で、唯先輩のパジャマにしがみついて。
願いが聞き入れられず駄々をこねる子供のように、恥も外聞も無く泣き喚き。

――そう、ただの我が侭だから、今の私はこんなにも醜いんだ。



唯「――本当に、何でもする?」

梓「っ!? な、何でもします! 本当です!!」

唯先輩の声に、ただ縋りつく。
救いを与えてくれる、その声に。救済の言葉に。

唯「じゃあ――」

続く言葉は、天使の誘いか……

唯「――壊しちゃってよ。『あずにゃん』を、さ」

それとも、悪魔の囁きか。


117: 2011/09/23(金) 04:18:13.34 ID:aH5EQ7QI0


梓「……どういう、こと…ですか?」

唯「…ギター弾けなくなればいいんだよ。ギター弾けるから私にも偉そうなんだし、軽音部にも入部したんでしょ?」

梓「っ……!」

唯「あー、それについての反論とかはもういいからね」

梓「……どうすれば、いいんですか…? ギターを捨てるとか…?」

唯「そんなことしても買い直せば一緒だよ。もっと根本的なところから……壊さないと」

梓「根本的なところ――?」

答えが見えない私に、唯先輩は手を突きつけてくる。左手を開き、私の眼前に。
一瞬驚いて身構えたけど、特に何をしてくるでもなくて。
……でも、それの意味するところに気づいた時には、血の気が引いていった。

唯「あずにゃん右利きだもんね。左でいいよ。左がいいよね?」

膝立ちでしがみついていた私は、いつしか床にへたり込んでいて。唯先輩のパジャマを掴んでいた腕は、力なく垂れていて。

118: 2011/09/23(金) 04:24:02.32 ID:aH5EQ7QI0

唯「……出来るかな? あずにゃん」

……その時の唯先輩の顔を、私は『認識できなかった』。
見れなかったわけではない。私は確かに唯先輩の顔を見上げた。ただ、そこに浮かぶ表情を、認めたくなかった。
唯先輩に最も似合わない表情を、最もして欲しくない表情を、見たくなかった。認めたくなかった。必氏に心が目を逸らした。

――でも、そんな表情をさせたのも私。そして、唯先輩はそれを償うチャンスをくれている。
だったら……

梓「……本当に、一緒にいてくれますか? 左手の使えない、ギターの弾けない、軽音部にいる意味も無い後輩でも、ずっと、ずっと仲良くしてくれますか…?」

唯「勿論だよ。あずにゃんを『壊した』責任は取るし、軽音部を辞めろとも言わないよ。ずっと仲良く、大事にしてあげる」

暖かい微笑みと、優しい言葉。盲目的に縋りたくなる、全てを委ねたくなる、そんな雰囲気を醸し出している唯先輩。この人からの寵愛を受けるためなら、左手くらい安いものだ。素直にそう思える。
壊すとか大事にしてあげるとか、まるで私をモノのように扱う言い方だけど、それでいいとさえ思える。

そう、私の意志なんてものがあるから嫌われるんだ。意思持たぬ、ただの『モノ』になれれば、この人を傷つけることもない。

……一体いつから、そしていつの間に、私の中でこの人の存在はここまで大きくなっていたのだろう?
この人の言葉に、感情に、一挙手一投足に一喜一憂するようになってしまったのだろう。
この人に嫌われることをここまで恐れてしまうようになったのだろう?

……その問いに、答えは出せなかった。この感情の名前も含めて、明確にすることは出来なかった。
けれど、私は間違いなくそういう感情を抱いている。とても大きい、私の中のほとんどを占める想いを。

119: 2011/09/23(金) 04:29:36.34 ID:aH5EQ7QI0


梓「……唯先輩……最後に一つ、いいですか?」

最後に。そう、最後に、だ。
この感情は、捨てなければいけない。意思も感情も、心も、全てを捨てて、私は唯先輩に償わないといけないから。
そうすれば……大切にしてくれると、そう言ったから。言ってくれたから。

梓「あなたは……いつも不真面目でいい加減でマイペースで、まぁ、酷い言い方をすれば自分勝手な人でした」

最後なんだ、言いたいことは全部吐き出してしまおう。

梓「到底尊敬なんか出来る人じゃなくて。むしろ私は…その、ギターの人に憧れて軽音部に入った分、ショックもかなり大きくて。本当に……本当に、貴女を見てガッカリしました」

全部吐き出して、左手を差し出して、今までのイヤな自分に別れを告げて、壊してもらおう。

梓「……でも、あなたは、私のそんな気持ちも知らず、いつも明るくて……他のみんなも、それにつられて笑ってて…」

……全部、全部吐き出して。

梓「……私、すごく緊張してたんですよ? 新歓ライブのあったその日の放課後に一人で入部して、次の日からいきなり空気に馴染めなくて先輩たちに迷惑かけて……憧れて入ったはずの部活で、早々にあんなことをやらかして…」

嘘偽りのない気持ちを。ここで。

梓「本当に、本当に悩んだんですよ? …それでも先輩達は、特にあなたは何も変わらず笑ってて……がっかりしたような、ホッとしたような、そんな気持ちだったんですけど……あはは、まぁ、今となっては…そんなこと言っても虚しいだけですけど…」

122: 2011/09/23(金) 04:35:05.34 ID:aH5EQ7QI0

唯「………」

梓「……唯先輩の本当の姿を知ったりして、徐々に私も素の自分が出てきたりしてましたけど……そんな私でも、みなさん変わらず受け入れてくれて……あなたはむしろ、以前より可愛がってくれて……本当に、っ、嬉しかった…!」

ダメだ、泣いちゃダメだ。唯先輩に嫌な思いをさせ続けてきた私が泣いていいわけがない。
でも、その感情は止められそうもなくて。ダメだと思うほどに溢れてきて。だから私は結論を急いだ。

梓「っ…今まで…毎日、楽しかったです……あなたと過ごす時間が、大好きでした……」

左手を持ち上げ、差し出して……手首の鈴が小さな音を立てる。

梓「あ…っ……」

……これを貰った時も、本当はもっと言葉に出したいくらい嬉しかった。そうしておけばよかった。
でも、今となっては……唯先輩からプレゼントをされる権利も、それを身につけている権利も、私なんかには無くて。

鈴を縛り付けているリボンに手を伸ばす。ただの蝶々結びだ、指で摘んで引っ張ればそれで終わり。
終わり…なのに、それだけの動きが私には出来なくて。震える指で震えるリボンの先を摘んだところで動きが止まってしまって。

きっと、今の状況をこの鈴に重ねて見てしまっているせい。
この鈴が、私と唯先輩の『今までの日常』の象徴だから。私が好きでたまらなかった毎日の象徴だから。
唯先輩がくれた大切なもの、全ての象徴だから……手放したくなくて。

123: 2011/09/23(金) 04:40:48.31 ID:aH5EQ7QI0

別れを告げないといけないと、心の中ではわかっているのに……覚悟を決めたはずなのに……
こうもわかりやすい形で目の前に突きつけられてしまうと、私は動けなくて。

梓「っ、っく、ぐすっ……うぅっ……」

イヤだ。やっぱり嫌だ。
私が悪いと、私のせいだとわかってはいるけれど。償わないといけないとわかっているけれど。

梓「やだよぉ…っ……わたしは、ゆい、せんぱいと……いつも、一緒に、笑っていたいよぉ…!!」

わかってる。
わかってるんだ。
それは、自分勝手で最低な、私の我が侭だって。

今の私達の問題だけじゃない。一年の歳の差がある限り、唯先輩が常に一歩前を行く限り、絶対に叶わない我が侭。
私と唯先輩の事情にも、二人を取り巻く世界にも背く我が侭。
絶対に肯定されない、口にしてはいけない我が侭。

そんなものを口にしてしまった自分に、ほとほと嫌気が差して。
皮肉にも、それが私の決意を後押しするカタチになって。
私は、迷う暇すら与えぬように、リボンを摘んだ指を引き――


124: 2011/09/23(金) 04:47:37.86 ID:aH5EQ7QI0


梓「……え?」

唯「………」

蝶々結びが解ける直前で、唯先輩に止められた。

梓「ゆい……せんぱい?」

その表情は見えない。腕だけをこちらに伸ばして俯いているその顔は。
しかし、一向に動く気配は無く。かといって動かそうにも凄い力で動かせず。

……混乱していると、背後から笑い声が聞こえた気がした。

梓「ッ!?」

背後には……すっかり忘れていたけど、あの『影』がいて。
急に声がしたから驚きはしたけれど、でも、今は不思議と恐怖は無くて。きっとその聞こえた笑い声が楽しそうだったからだと思うけど、本当に怖くなくて。

梓「あなたは……誰なの?」

思わず尋ねてみると、『影』は確かに、今までとは違うように『微笑んだ』んだ。

126: 2011/09/23(金) 04:53:29.65 ID:aH5EQ7QI0


『――たまには素直になってみるものでしょ?』


『影』は背を向けて、闇へと溶けていった。
その姿は、どこかで見たような姿形、そして見覚えのある特徴的な髪型をしていたような気がするけれど――

梓「――わわっ、唯先輩!?」

急に全身の力が抜けたかのようにもたれかかってくる唯先輩に気を取られ、そこまで考える余裕は無かった。

梓「唯先輩!? 大丈夫ですか!?」

唯「………」

梓「唯先輩!!!」

唯「……すぅ……むにゃ…」

梓「………」

……寝てるだけ? 今度こそ……終わったの?
前回とは違う終息の仕方に、どことなく、今度こそもう安全なのではないかという思いが浮かんできた。
それに……最後の『影』からも悪意は感じなかったから。きっと、もう大丈夫だよね。


128: 2011/09/23(金) 05:01:43.85 ID:aH5EQ7QI0

梓「……とりあえず、布団まで運ぼう…。少しガマンしてくださいね?」

抱き抱える……のは流石に無理っぽいので、上半身を持ち上げ、引きずるように運ぶ。
運び終えた後、胸元の鈍く光るネックレスを見て、少し胸が痛んだ。


……そうだ。取り憑き事件が解決したとしても、私と唯先輩の問題は……きっと解決していない。




――結果的に間違っていたとはいえ『解決した』と思い込んで眠った昨日と違い、今日は胸の内は半分も晴れておらず。
故に夜更かししたにも拘らず唯先輩より早く目が覚める羽目になった。

梓「……憂鬱だなぁ……」

上半身だけを起こし、俯いて呟く。
憂鬱、という漢字を思い浮かべ、一人の親友の姿が思い浮かぶけど……彼女とも今まで通りに接することができる自信は無い。
彼女の笑顔も、偽りだったのではないかと…無理していたのではないかと、そう思ってしまう。勿論悪いのは私なんだけれど。

私は……どこに行けばいいのだろう。どこに居ればいいのだろう。

憂や純と一緒に居られる自信は無い。二人を親友だとは思ってるけれど、二人から親友だと思われてると断言はできない。
軽音部にも居られる自信は無い。あの嘘をつけない先輩達から嫌われてるとまでは言わないけど、私が居ることが好意的に思われてるだなんて思い上がる事は絶対に出来ない。

みんなみんな、優しいから表に出さないだけで、私の事をどこか疎ましく思っているとしてもおかしくはない。
優しさに包まれ、甘やかされた私は、その人達に優しさを返すことなんてしてこなかったから。

129: 2011/09/23(金) 05:07:14.92 ID:aH5EQ7QI0


梓「っ………」

涙が溢れそうになる。
何故私は甘えっぱなしだったのだろう。我を通すことしか頭に無かったのだろう。それでいいと勘違いしていたんだろう。

後悔は先に立たないから後悔なのであって、結局は自業自得であるということなのだろうけれど。

それでも、その温もりは、優しさは……捨てたくないし、諦めたくないものであって。
でも、それは私が口にしていいことじゃなくて。

だから、私は、内から溢れ出てくる涙を、抑えようとするしかなくて。
抑えようと、無駄な努力をするしかなくて。

梓「っ、ひぐっ……」

……所詮は、無駄な努力で。
決壊して溢れ出てきた水を、一人で抑える術を私は知らなくて――


131: 2011/09/23(金) 05:12:10.92 ID:aH5EQ7QI0


唯「――よしよし」


――そういう時、一人でなければ……誰かがいてくれれば、どんなに救われるか。




梓「っ、ゆ、唯先輩!?」

背中で感じる温もり。振り向かずともわかる、私が今一番、顔を見たくない人。見るのが怖い人。
でもいくら怖くても、後ろから回された左手も、頭を撫でる右手も、振り払うことは出来なくて。

唯「あずにゃん、怖い夢でも見た?」

梓「………」

唯「……まだ、悩んでる?」

梓「っ……なんでも…ないです…!」

唯「…そっか」

精一杯の強がり。通じているとさえ思えないけど……もう、優しさに甘えちゃいけない。
せめて、せめてこれ以上嫌われないようにしないといけない。

132: 2011/09/23(金) 05:17:44.40 ID:aH5EQ7QI0

唯「……昨日も今日も、あずにゃんは私には何も言ってくれないから、何のことかはわからないけど…」

そりゃそうだ。相談できるわけがない。言えるわけがない。
……嫌われていると知ってしまった今なら尚更。距離感というものを、適切な距離というものを考えないといけない。

なのに、唯先輩は、

唯「……でもね、私はいつだってあずにゃんの味方だから。何も手助けしてあげられないけど、無力で頼りない先輩だけど、悩んでるならずっとそばにいてあげるから」

そう言って、左手でギュッと、強く私を抱き寄せて。
距離を開けることを、距離を取ることを許さないように。

唯「それさえも邪魔だって言うなら…仕方ないけど」


――どうして。


梓「………」

後ろから抱きしめてくる唯先輩は、いつもと何も変わらず温かくて。
あの時……私が暴れてしまった日に私を後ろから包んでくれた温かさと、何も変わらなくて。
とても……とても、落ち着いて。

133: 2011/09/23(金) 05:23:40.58 ID:aH5EQ7QI0


――どうして、あなたはいつも何も変わらず、あたたかいんですか。


それを言葉にはしなかったけど、変わらないのが唯先輩の長所なのかなぁ、なんて漠然と思ったりして。

……そうだ、何があってもこの人は変わらない。私の知る唯先輩はそういう人だ。
良くも悪くもマイペース。歩く速度は人並み以下だけど、いつも同じところを向いている。いつも前だけを向いている。
いつも大切なものだけをちゃんと見つめて、いつも自分が正しいと思うことをする。
いつも自分にとっての最善を迷いなく選んで、掴み取ってしまう人なんだ。

そんな人が、私を嫌わないと言っている。いつでも私の味方でいてくれると言っている。
それはつまり、私を嫌わないということが、唯先輩にとって大切なことであって。
私は、私の考えとは真逆に、ある程度は好かれていて。

少し考えればわかることだった。この人は、嘘をつかない――とは決して言えないが、上手な嘘をつけるほど器用でもない。
妄信していた時期の私ならともかく、付き合いの長い周囲の人にも隠せるほどの嘘は決して吐けない。悪意のある嘘も吐けない。だから好かれる。
私も、妄信するのをやめた私も、そういうところは素直に好感を持っていたのではなかったか。誰よりも信用できる相手だと、心を許していたのではなかったか。


つまり、結局は私が馬鹿だったんだ。
唯先輩を疑った、信じ切れなかった私が、勝手に空回りした一人相撲。

バスの中でのあの言葉も、私に対する不信感じゃなくて、この人は本当にただ自分を責めていただけで。
気を遣われた自分を、本当に情けなく思っていたからで。

それでも、そんな気持ちを抱えながらも、私を支えようとしてくれて。

136: 2011/09/23(金) 05:29:12.03 ID:aH5EQ7QI0

梓「……唯先輩」

唯「……なぁに?」

そんなあたたかい人の言葉に、気持ちに、応えたい。素直にそう思えた。

梓「……一つだけ、聞いてもいいですか?」

唯「……いいよ」

質問は一つでいい。今はまだ、他の言葉を、想いを紡ぐ時じゃない。

梓「……私は、軽音部に居ていいんですか?」

このままの私で、少なくとも表面上は大きな変化なんて何もない、素の私が軽音部に居ていいのか。
そこまで深い意味があることを、唯先輩が理解してくれるかはわからない。でも私の知る唯先輩なら、どちらでも同じ答えを返してくれる。
……私の信じる唯先輩なら、きっとこう言う。


  「……ダメな理由なんて、どこにも無いよ」


……振り返った先には、いつもと変わらぬ笑顔が一つ、輝いている。


137: 2011/09/23(金) 05:36:37.81 ID:aH5EQ7QI0


――帰りの電車の中、唯先輩に一つ、図々しいお願いをしてみる。

梓「……唯先輩、そのネックレス、少しの間だけ私に預からせてくれませんか?」

唯「ん? なんで? 少しってどのくらい?」

梓「えーと……私が高校を卒業するまで」

唯「ええっ!? 長いよ!? あ、でもお金出したのあずにゃんだし、偉そうなことは言えないか…」

梓「あ、いえ、そのあたりは気にしないでください。唯先輩にあげたんですから、それは唯先輩の物ですよ、既に」

唯「じゃあ……なんでか聞かせてくれる?」

梓「えっと、ですね。うまく言えないんですが……この三日間のことを忘れないため、とか…」

唯「……よくわかんない。確かに思い出になるようなモノはこれくらいだけど…」

梓「いえ、もう一つ……これもあります」

首に巻いていた鈴を外し、唯先輩に差し出す。

梓「ネックレスを預からせていただく代わりに、これを預かっていて欲しいんです」

138: 2011/09/23(金) 05:44:00.60 ID:aH5EQ7QI0

唯「……やっぱり、気に入らなかった?」

梓「そんなことありません。高校を卒業したら絶対返してもらいます。それまで頑張るために…預かっていて欲しいんです」

唯「人質みたいだね!」

実に的を射たことを言う。唯先輩が卒業した後に走らなければいけない私にとっては、この鈴はセリヌンティウスだ。
一方、唯先輩のネックレスを預かろうとしたのは、単に私が預けるだけだと唯先輩を勘違いさせて傷つけてしまわないかな、と思ったからなのだけど、

唯「そういうことなら、私もこの子を預けるよ。その子に恥ずかしくないように私も頑張るからね」

と、結果的にお互いに同じ理由を抱えて預けることになったので良しとしよう。

唯先輩に鈴を渡し、ネックレスを受け取り、少し微笑んで、前を向く。前だけを見つめる。

唯「……頑張ろうね、あずにゃん」

梓「……はい」


――前だけを、ずっと見つめて。


139: 2011/09/23(金) 05:50:03.34 ID:aH5EQ7QI0


紬「――二人とも、おかえり!」

電車を降りると、ムギ先輩もいつもの笑みで迎えてくれた。ちなみに何故ここにいるのかと言うと、

唯『今から帰ります!』

紬『じゃあお迎えするね!』

という電話のやり取りが電車に乗る直前に行われていたから。それだけ。
唯先輩と同時に「ただいま」と言うと、「仲良しね」と笑われる。素でこんなことを言えるこの人も唯先輩に似た天然っぽい一面があるとつくづく思う。あくまで一面だけど。

紬「どうだった? ウワサの旅館は」

唯「私は普通に楽しかった…けど…」

梓「……ええ、まぁ、いろいろありました」

タダで行けたのだから文句を言うのはいけないとわかっているんだけど……
でも、結果的には丸く収まったのだからいいかな、と思う。

結局、二つの意味でタダより高いものはない、という言葉の重みを知った三日間だった。
タダだからと調子に乗ると痛い目を見る、という意味でもあるし。
値段を付けることのできない、信頼という感情が何より尊いと思い知ったし。

タダって唯とも書くよね、なんてギャグじゃないですよ、残念ながら。

141: 2011/09/23(金) 05:58:25.90 ID:aH5EQ7QI0

唯「あ、でもねでもね、山の幸はすっごく美味しかったよ!」

梓「そうですね。露天風呂も山の澄んだ空気が美味しくていい感じでした」

唯「外見はオンボロだったけどね……」

梓「それは言っちゃ失礼ですよ……」

ともすれば引き当てたムギ先輩に失礼じゃないですか……と言おうとしたが、そこでムギ先輩が割って入ってきて。

紬「……ちょ、ちょっと待って、二人とも」

梓「はい?」

紬「……あの、旅館の名前……覚えてる?」

唯「? うん、CMしてるあの旅館でしょ? え~っと……」

肝心の名前が出てこない唯先輩に代わって私が告げるけど、ムギ先輩の表情は晴れない。

梓「……どうかしたんですか?」

紬「……変ねぇ。そこ、海の近くにあるはずなんだけど……」

唯「へ?」

梓「へ?」

142: 2011/09/23(金) 06:02:42.91 ID:aH5EQ7QI0

紬「駅からバスで30分くらいの海沿いにある旅館…のはず。ほら見て」

ムギ先輩の差し出した携帯電話の画面には、私達が行った旅館と同じ名前と、海と、小奇麗な外見の旅館が写っていた。
ん? いや、ちょっと待って、この看板の名前……

梓「……ねぇ、唯先輩。これ、私達が泊まったところと漢字が違いません?」

唯「あ! ホントだ! 同音異義語だ!」

梓「異議って……意味は無いでしょう、旅館の名前に。それより、これは……」

……えっと、どういうこと?

紬「……二人はまったく別の旅館に泊まってきちゃった?」

梓「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。仮にそうだとしても何も言われませんでしたし……ねぇ唯先輩?」

唯「う、うん……チケットもちゃんと受け取ってくれたし……」

紬「……あのね、言いにくいんだけど、どっちにしても……そのあたりに他の旅館は無いの」

唯「えっ……」

梓「そんな……まさか……」

だったら私達は……どこに居たというんだろう?

144: 2011/09/23(金) 06:10:12.96 ID:aH5EQ7QI0

考えても答えは出なくて、それ故にどんどん怖くなってくる。
けれど、あそこで過ごした日々は本当だ。ポケットにもちゃんと唯先輩のネックレスはある。生憎、旅館に行った証拠にはならないけれど……

梓「っ、そうだ、何か証拠になるような物は持ってないんですか!?」

唯「……何も…無いよね。お土産も外のお土産屋さんで買ったし…パンフとかも見かけなかったし……」

紬「旅館なのにパンフレットとか地図とか置いてなかったの?」

梓「……言われてみれば……」

唯「変、だよね……あんなオンボロでお客さんがあんなに入ってたのも……」

梓「あんなにお客さんが入るはずがないという事は……あんなに従業員さんを雇えるはずもない、ということですし…」

他にもいろいろ不審な点はあったような気もするけど、それは、結局……
……えっと、どういうことなの、本当に。

まさか、全部……幻?
いや、まさかそんな、馬鹿げたことがあるわけが……

でも他に納得のいく説明なんて出来ない。いや幻と言われても納得なんて到底できないけど。
さすがにこんな現象には前向きな唯先輩も頭のいいムギ先輩も答えなんて出せないはず――

145: 2011/09/23(金) 06:19:46.50 ID:aH5EQ7QI0


唯「あ、ムギちゃんこれお土産ー」

紬「まぁ、ありがとう!」


梓「って二人とも! もうちょっと気にしてくださいよ!!」

唯「えー、だって~」

紬「悩んでも答えは出そうにないし~」


唯「ね~♪」
紬「ね~♪」


梓「………」

いや。いやいや。ちょっと待ってくださいよ。さすがにそれはダメでしょう。
怖いし意味わからないし、そのままにしておいていい事例じゃないでしょう、絶対。


146: 2011/09/23(金) 06:25:29.39 ID:aH5EQ7QI0

っていうかなんでそんなに能天気なんですか。危機感とか無いんですか。
特に唯先輩は、全く覚えてないのだろうけどいろいろあって、まぁ私もいろいろ醜態晒したからそこは覚えてなくてよかったんですけど、ってそうじゃなくて。
本当に、本当に心配したのに。
心配で、不安で、しょうがなかったのに。
なのにこの人は、そんな私の気持ちをわかってるのかわかってないのか、さっぱりわからなくて。
なんか、ちょっと悔しくて。

ええと。
それで。
なんだっけ。

ああ、もう、とりあえず――



梓「――そんなんじゃダメですーっ!!!」



「「うわーっ、キレた!!!」」



147: 2011/09/23(金) 06:26:12.65 ID:aH5EQ7QI0


おわりんこ

148: 2011/09/23(金) 06:33:14.13 ID:mN1rA3Nx0
まじかよ…

149: 2011/09/23(金) 06:35:19.93 ID:HoqlgTzp0

影は梓の不安の具現化したものとかそういうこと?

150: 2011/09/23(金) 06:39:03.89 ID:mN1rA3Nx0
とりあえず乙

ホラーチックな所は面白かったよ

引用元: 梓「ただより高いものは無い」