1: 2009/12/20(日) 14:38:17.38 ID:aZvLa4Y80 BE:346404724-2BP(2050)
私には 取り得 というものがあった
才能だとか
長所だとか
そういった大げさなものではなくて
ただ単に 得意なことがあった
それで得るものもあれば
必然 失うものもある
私にとって それは――
――どちらが 大きかったのだろうか
才能だとか
長所だとか
そういった大げさなものではなくて
ただ単に 得意なことがあった
それで得るものもあれば
必然 失うものもある
私にとって それは――
――どちらが 大きかったのだろうか
6: 2009/12/20(日) 14:47:11.76 ID:aZvLa4Y80 BE:519606926-2BP(2050)
――音楽準備室には、ふたつの香りが漂っている。
ひとつは、琴吹紬が持ってきたクッキーの香り。
バターやミルク、その他の材料全てにこだわってできたそれは、私たち庶民がおそらく一生
食べられないほどに香ばしい。
ふんわりとした卵の旨みが口内に広がる。
噛めば噛むほど味が出る、というチープな表現を思わず使ってしまいそうなほどに美味しい。
「どう? りっちゃん」
「うーまーいーぞー!!」
「うふっ。それならよかったわ」
二つ目の香りは、今淹れている紅茶の香りだ。
いつもは紬が淹れている紅茶だが、今日はどういうわけか唯が淹れている。
先日、紬の昔話を聞いてから唯は紬だけに負担をかけないように、紅茶の淹れ方を覚えた
のだ。
まだ。手付きは怪しいが、素材が素材なので、不味くなることはないだろう。
ひとつは、琴吹紬が持ってきたクッキーの香り。
バターやミルク、その他の材料全てにこだわってできたそれは、私たち庶民がおそらく一生
食べられないほどに香ばしい。
ふんわりとした卵の旨みが口内に広がる。
噛めば噛むほど味が出る、というチープな表現を思わず使ってしまいそうなほどに美味しい。
「どう? りっちゃん」
「うーまーいーぞー!!」
「うふっ。それならよかったわ」
二つ目の香りは、今淹れている紅茶の香りだ。
いつもは紬が淹れている紅茶だが、今日はどういうわけか唯が淹れている。
先日、紬の昔話を聞いてから唯は紬だけに負担をかけないように、紅茶の淹れ方を覚えた
のだ。
まだ。手付きは怪しいが、素材が素材なので、不味くなることはないだろう。
7: 2009/12/20(日) 14:48:19.84 ID:aZvLa4Y80 BE:692807982-2BP(2050)
「お茶が入ったよ。はい」
「サンキューな。ところで、ムギのおふくろさん。経過はどうなんだ?」
「順調よ。ブラックジャック先生が定期的に診てくださってるから、安心安心」
にこりと笑って、紬は答える。
彼女の、今までの人生は孤独だった。
――それを彼女は、私たちに教えてくれた。
「なら――そうだな」
次は、私の番だろう。
「サンキューな。ところで、ムギのおふくろさん。経過はどうなんだ?」
「順調よ。ブラックジャック先生が定期的に診てくださってるから、安心安心」
にこりと笑って、紬は答える。
彼女の、今までの人生は孤独だった。
――それを彼女は、私たちに教えてくれた。
「なら――そうだな」
次は、私の番だろう。
9: 2009/12/20(日) 14:52:57.31 ID:aZvLa4Y80 BE:779409836-2BP(2050)
「私の昔話、聞きたいか?」
ふいに、そんなことが口に出た。
唯はおぼつかない手で紅茶を配っている。
梓はクッキーを、まるで小動物のようにかじっている。
紬は唯が淹れた紅茶を、頷きながら口に運んでいる。
――澪は。
澪だけは、私の目をしっかりと見ていた。
その目は……。
あの目は『いいのか?』と私に問う目だ。
構わない、と目で合図する。
アイコンタクトが出来るまでに親しくなったのは、果たして喜ぶべきなのか。
「聞いて、いいの?」
「律先輩、話したがらなかったじゃないですか」
「そうだったな。
でもさ、ムギが話してくれたんだから。私も話すよ」
――そう。
私の、得たものと失ったものの――等価交換の話を――。
ふいに、そんなことが口に出た。
唯はおぼつかない手で紅茶を配っている。
梓はクッキーを、まるで小動物のようにかじっている。
紬は唯が淹れた紅茶を、頷きながら口に運んでいる。
――澪は。
澪だけは、私の目をしっかりと見ていた。
その目は……。
あの目は『いいのか?』と私に問う目だ。
構わない、と目で合図する。
アイコンタクトが出来るまでに親しくなったのは、果たして喜ぶべきなのか。
「聞いて、いいの?」
「律先輩、話したがらなかったじゃないですか」
「そうだったな。
でもさ、ムギが話してくれたんだから。私も話すよ」
――そう。
私の、得たものと失ったものの――等価交換の話を――。
11: 2009/12/20(日) 15:00:45.48 ID:aZvLa4Y80 BE:389705033-2BP(2050)
『田井中律』という人間は、昔から破天荒だった。
よく覚えている。
5歳のころ、同い年の男の子を泣かして、先生に怒られたこと。
きっかけは些細なことだ。
男の子――ゆうすけは、私と友達が作っていた砂のお城を踏み壊したのだ。
――友達は泣いた。
だって、園児にとってそれは、自分が積み重ねた結果だったのだから。
小さな手で、考え足らずの頭で。かけがえのない友達と作ったものなのだから。
だから、私は立ち上がってゆうすけを突き飛ばした。
ゆうすけは砂場で足をとられ、顔から転んだ。
口に入ってしまった砂を吐き出しながら、捻ってしまった足を抑えながら、ゆうすけも泣いた。
よく覚えている。
5歳のころ、同い年の男の子を泣かして、先生に怒られたこと。
きっかけは些細なことだ。
男の子――ゆうすけは、私と友達が作っていた砂のお城を踏み壊したのだ。
――友達は泣いた。
だって、園児にとってそれは、自分が積み重ねた結果だったのだから。
小さな手で、考え足らずの頭で。かけがえのない友達と作ったものなのだから。
だから、私は立ち上がってゆうすけを突き飛ばした。
ゆうすけは砂場で足をとられ、顔から転んだ。
口に入ってしまった砂を吐き出しながら、捻ってしまった足を抑えながら、ゆうすけも泣いた。
12: 2009/12/20(日) 15:02:10.37 ID:aZvLa4Y80 BE:259803623-2BP(2050)
「お茶が入ったよ。はい」
「サンキューな。ところで、ムギのおふくろさん。経過はどうなんだ?」
「順調よ。ブラックジャック先生が定期的に診てくださってるから、安心安心」
にこりと笑って、紬は答える。
彼女の、今までの人生は孤独だった。
――それを彼女は、私たちに教えてくれた。
「なら――そうだな」
次は、私の番だろう。
13: 2009/12/20(日) 15:03:44.01 ID:aZvLa4Y80 BE:1818621476-2BP(2050)
――飛んでくるのは幼稚園の先生。
開口一番『どうしてこんなことをしたの?』
私も答える『ゆうすけくんが、お城を壊したの』
先生曰く『だからって、突き飛ばすことはないでしょう? りっちゃんは女の子なんだから』
……納得がいかなかった。
女だと、女の子だと。
どんなことをされても、ニコニコと笑っていろというのか? と。
悔しい。
悲しいのではない。先生に怒られることなんて、悲しいわけがない。
ただ、悔しかった。
私が女だから。
どんなに男の子と張り合っても、抑え込まれてしまう。
自分の性が、悔しかったのだ。
開口一番『どうしてこんなことをしたの?』
私も答える『ゆうすけくんが、お城を壊したの』
先生曰く『だからって、突き飛ばすことはないでしょう? りっちゃんは女の子なんだから』
……納得がいかなかった。
女だと、女の子だと。
どんなことをされても、ニコニコと笑っていろというのか? と。
悔しい。
悲しいのではない。先生に怒られることなんて、悲しいわけがない。
ただ、悔しかった。
私が女だから。
どんなに男の子と張り合っても、抑え込まれてしまう。
自分の性が、悔しかったのだ。
17: 2009/12/20(日) 15:08:25.82 ID:aZvLa4Y80 BE:866010645-2BP(2050)
母が、ゆうすけの両親に謝っている。
ゆうすけの表情は『僕を心配してくれ』と言っているようで、無性に腹がたった。
だってそうだろう。
自分から仕掛けてきて、返り討ちにあって。
情けなくて、それでもどうにもならないからこうして力が大きい人に縋っている。
だというのに。
それなのに、彼は勝ち誇ったような顔も見せている。
――負けだ。
お前は、私に負けたんだよ。
そう、言ってしまいたかった。
母の手を握る手に、力が込められる。
それに気がついたのか、母も私の手を強く握る。
……その温かさに、こんな小さな男のことなんてどうでもよくなった。
「りっちゃんは、今日なにが食べたい?」
「りつはね、シチューがいいなあ!」
夕日がさす帰り道。
おなかが大きくなった母と歩いた帰り道。
もうすぐお姉ちゃんになるからね。
そう言われて、誇らしい気持ちになった。5歳の秋だった。
ゆうすけの表情は『僕を心配してくれ』と言っているようで、無性に腹がたった。
だってそうだろう。
自分から仕掛けてきて、返り討ちにあって。
情けなくて、それでもどうにもならないからこうして力が大きい人に縋っている。
だというのに。
それなのに、彼は勝ち誇ったような顔も見せている。
――負けだ。
お前は、私に負けたんだよ。
そう、言ってしまいたかった。
母の手を握る手に、力が込められる。
それに気がついたのか、母も私の手を強く握る。
……その温かさに、こんな小さな男のことなんてどうでもよくなった。
「りっちゃんは、今日なにが食べたい?」
「りつはね、シチューがいいなあ!」
夕日がさす帰り道。
おなかが大きくなった母と歩いた帰り道。
もうすぐお姉ちゃんになるからね。
そう言われて、誇らしい気持ちになった。5歳の秋だった。
19: 2009/12/20(日) 15:13:48.80 ID:aZvLa4Y80 BE:259803623-2BP(2050)
「律は、弟と妹。どっちがいい?」
夕食時、父にそんなコトを尋ねられた。
湯気がたちこめるシチューに目が行っていた私は少し考える。
……イマイチ、よくわからなかった。
私は女の子だけれど、男の子よりも強い。
でも、父は私よりも力がある。
性というものがわからなかった。
おままごとをしたり、ヒーローごっこをしたりと男の子らしい遊び、女の子らしい遊びはたくさん
ある。けれども、私はそれをどちらも楽しいと思っている。
むずむずする。
私は女の子だ。
だから、お姉ちゃんなんだ。
でも――
「わかんない……。でも、りつは強いお姉ちゃんになる!」
父はそれを聞いて、少しだけ驚いた顔をして――
「律は大きくなったな。
弟でも妹でも、律が守ってあげるんだぞ」
そう言って、頭をなでてくれた。
夕食時、父にそんなコトを尋ねられた。
湯気がたちこめるシチューに目が行っていた私は少し考える。
……イマイチ、よくわからなかった。
私は女の子だけれど、男の子よりも強い。
でも、父は私よりも力がある。
性というものがわからなかった。
おままごとをしたり、ヒーローごっこをしたりと男の子らしい遊び、女の子らしい遊びはたくさん
ある。けれども、私はそれをどちらも楽しいと思っている。
むずむずする。
私は女の子だ。
だから、お姉ちゃんなんだ。
でも――
「わかんない……。でも、りつは強いお姉ちゃんになる!」
父はそれを聞いて、少しだけ驚いた顔をして――
「律は大きくなったな。
弟でも妹でも、律が守ってあげるんだぞ」
そう言って、頭をなでてくれた。
22: 2009/12/20(日) 15:30:16.64 ID:aZvLa4Y80 BE:519606926-2BP(2050)
「ゆいちゃんってカスタネット上手だね~」
「えへへ~」
いつものように、友達と砂のお城を作っている最中、そんな声が聞こえた。
声の方向を振り向くと、とぼけた女の子と凛々しい女の子が話をしていた。
……見たところ、私と同じ年の子だ。
ふわふわとした雰囲気の女の子は、照れくさそうに笑っている。
その表情は、どうにも馬鹿っぽくて、どうにもドジくさい。
つまるところ、その女の子は私とは逆のタイプで、守ってあげたくなる子なのだろう。私は無論、
そういったタイプではない。
「おねえちゃん!」
「あ、ういー」
小さな子が、とぼけた子のもとに駆けていく。
よく似た顔をしている。
……そうか。二人は姉妹なのだ。
ぼんやりと三人を眺める。
ああいうのが、女の子なのだろう。
私は――いったいなんなのだろうか。
「えへへ~」
いつものように、友達と砂のお城を作っている最中、そんな声が聞こえた。
声の方向を振り向くと、とぼけた女の子と凛々しい女の子が話をしていた。
……見たところ、私と同じ年の子だ。
ふわふわとした雰囲気の女の子は、照れくさそうに笑っている。
その表情は、どうにも馬鹿っぽくて、どうにもドジくさい。
つまるところ、その女の子は私とは逆のタイプで、守ってあげたくなる子なのだろう。私は無論、
そういったタイプではない。
「おねえちゃん!」
「あ、ういー」
小さな子が、とぼけた子のもとに駆けていく。
よく似た顔をしている。
……そうか。二人は姉妹なのだ。
ぼんやりと三人を眺める。
ああいうのが、女の子なのだろう。
私は――いったいなんなのだろうか。
27: 2009/12/20(日) 15:35:53.36 ID:aZvLa4Y80 BE:606208027-2BP(2050)
私は、果たして姉に成りうる存在なのだろうか。
子供ながらに、そんな哲学的なコトを考えると、母が迎えに来てくれた。
「りっちゃ~ん。帰るわよ~」
「……あ。は~い。じゃあね、てらちゃん!」
腕を千切れるかのような勢いで振り回す。
母の顔を見ると、先刻まで考えていたつまらない思考も吹き飛んでしまった。
上着を羽織って、鞄をロッカーから取り出す。
今日のご飯はなんだろう。
私の単細胞じみた頭は、すでにそんなことを考えていた。
「――! 田井中さん!? 田井中さん!?」
背後からドン、というなにかが落ちた音と先生の声。
振り返ると――
「い、た……い……あ……あ」
今まで見たことない。
苦しそうな顔をした母の姿があった。
子供ながらに、そんな哲学的なコトを考えると、母が迎えに来てくれた。
「りっちゃ~ん。帰るわよ~」
「……あ。は~い。じゃあね、てらちゃん!」
腕を千切れるかのような勢いで振り回す。
母の顔を見ると、先刻まで考えていたつまらない思考も吹き飛んでしまった。
上着を羽織って、鞄をロッカーから取り出す。
今日のご飯はなんだろう。
私の単細胞じみた頭は、すでにそんなことを考えていた。
「――! 田井中さん!? 田井中さん!?」
背後からドン、というなにかが落ちた音と先生の声。
振り返ると――
「い、た……い……あ……あ」
今まで見たことない。
苦しそうな顔をした母の姿があった。
32: 2009/12/20(日) 15:41:50.21 ID:aZvLa4Y80 BE:866010645-2BP(2050)
「りっちゃんはここでテレビを見て、お留守番しててね。今から先生がお母さんを病院に連れて
いくからね」
「りつも行く!」
「ごめんね。りっちゃんはここでお留守番よ」
先生の切羽詰まった顔。
園長先生が私の頭を優しく撫でる。
置き去りにされる自分。
――それで、察した。
その時が来たのだと。
私が姉になる日が、とうとう来たのだと。
いくからね」
「りつも行く!」
「ごめんね。りっちゃんはここでお留守番よ」
先生の切羽詰まった顔。
園長先生が私の頭を優しく撫でる。
置き去りにされる自分。
――それで、察した。
その時が来たのだと。
私が姉になる日が、とうとう来たのだと。
33: 2009/12/20(日) 15:42:51.44 ID:aZvLa4Y80 BE:2078424386-2BP(2050)
「……わかった。りつ、ここで待ってる」
「いい子だ。園長先生とお菓子食べようね」
大福が手のひらに置かれる。
小さな手よりも、ほんの少しだけ大きい白い物体。
口に運ぶと、酸っぱい味がした。
見ると、赤いイチゴが入っていた。
「赤ちゃんも、こういう風にママのお腹の中にいるのかな」
「そうかもしれないね。
りっちゃんはお姉さんになるんだから、いい子にしてないとね」
……私は、テレビの内容もわからないほどに考え込んだ。
良いお姉さん、というものを。
「いい子だ。園長先生とお菓子食べようね」
大福が手のひらに置かれる。
小さな手よりも、ほんの少しだけ大きい白い物体。
口に運ぶと、酸っぱい味がした。
見ると、赤いイチゴが入っていた。
「赤ちゃんも、こういう風にママのお腹の中にいるのかな」
「そうかもしれないね。
りっちゃんはお姉さんになるんだから、いい子にしてないとね」
……私は、テレビの内容もわからないほどに考え込んだ。
良いお姉さん、というものを。
37: 2009/12/20(日) 15:48:14.92 ID:aZvLa4Y80 BE:1039212083-2BP(2050)
――しばらくして、職員室の電話が鳴った。
園長先生は受話器を持ち、話し始める。
はい、はいと頷き、こちらを見る。
……寒気がした。
嫌な予感、とでもいえる。
園長先生の顔は険しい。
「わかりました。お子さんは私が――はい。それでは……」
受話器が置かれ、園長先生は私のまえにかがむ。
優しい笑顔。
父もそうなのだが、男の人はどうしてこんなにも気持ちがいい笑い方ができるのだろうか。母の
笑顔は、心が安らぐ。
でも、父や園長先生の笑顔は――どういうわけか私も笑顔になる。
「今日は園長先生とおうちに泊まることになったから、帰ろうか」
手をとられて、幼稚園の隣の園長先生の自宅に招かれる。
――その日食べたカレーライスの味がわからなくなるほど、私は混乱していた。
園長先生は受話器を持ち、話し始める。
はい、はいと頷き、こちらを見る。
……寒気がした。
嫌な予感、とでもいえる。
園長先生の顔は険しい。
「わかりました。お子さんは私が――はい。それでは……」
受話器が置かれ、園長先生は私のまえにかがむ。
優しい笑顔。
父もそうなのだが、男の人はどうしてこんなにも気持ちがいい笑い方ができるのだろうか。母の
笑顔は、心が安らぐ。
でも、父や園長先生の笑顔は――どういうわけか私も笑顔になる。
「今日は園長先生とおうちに泊まることになったから、帰ろうか」
手をとられて、幼稚園の隣の園長先生の自宅に招かれる。
――その日食べたカレーライスの味がわからなくなるほど、私は混乱していた。
42: 2009/12/20(日) 15:54:23.56 ID:aZvLa4Y80 BE:259803432-2BP(2050)
それからのことは、なにも覚えていない。
ただただ、思考の海に呑まれていた。
私は姉でいいのか。
私は女なのか。
どうしていいか、わからない。
なにをすればいいのかもわからない。
眠っているのだろうか。
起きているのだろうか。
それすらもわからない。
ただ、わかることがあるとするならば――
――朝日がさす病院で、小さな。本当に小さな弟を眺めていたことだけだ。
名前は『聡』。
聡明な人間。という願いをかけて付けられた名前。
私の――たった1人の弟である。
ただただ、思考の海に呑まれていた。
私は姉でいいのか。
私は女なのか。
どうしていいか、わからない。
なにをすればいいのかもわからない。
眠っているのだろうか。
起きているのだろうか。
それすらもわからない。
ただ、わかることがあるとするならば――
――朝日がさす病院で、小さな。本当に小さな弟を眺めていたことだけだ。
名前は『聡』。
聡明な人間。という願いをかけて付けられた名前。
私の――たった1人の弟である。
46: 2009/12/20(日) 16:02:28.82 ID:aZvLa4Y80 BE:1212414274-2BP(2050)
それから二年経って、私は小学生になった。
桜ケ丘第二小学校に入学した私は、入学初日に面白い子に出会った。
「あー! 綺麗な髪だねー!」
「ふあっ!」
綺麗な、暗闇に溶けてしまいそうなほどに黒く、長い髪を持った少女。
会っていきなり、その綺麗な髪を褒めると彼女は真っ赤な顔をして手を頭にのせた。隠している
つもりなのだろうが。そうはいかない。
闇色の髪は日の光を浴びてさらに艶やかに光る。
私の茶色がかった髪ではありえない光の反射だ。
……にかり、と笑いかける。
「私ね、田井中律っていうの。君の名前は?」
「……澪。
秋山、澪っていうの」
「澪ちゃんか~! よろしくね! 私のことは律でもりっちゃんでもなんでもいいから!」
澪はべそをかいた目を擦って、口元を緩ませる。
「……よろしくね。りっちゃん」
外では桜が舞っていた。
もうすぐ終ってしまうであろう桜が舞っていた。
これから先も、ずっとずっと一緒にいる親友とは、そんな日に出会った。
桜ケ丘第二小学校に入学した私は、入学初日に面白い子に出会った。
「あー! 綺麗な髪だねー!」
「ふあっ!」
綺麗な、暗闇に溶けてしまいそうなほどに黒く、長い髪を持った少女。
会っていきなり、その綺麗な髪を褒めると彼女は真っ赤な顔をして手を頭にのせた。隠している
つもりなのだろうが。そうはいかない。
闇色の髪は日の光を浴びてさらに艶やかに光る。
私の茶色がかった髪ではありえない光の反射だ。
……にかり、と笑いかける。
「私ね、田井中律っていうの。君の名前は?」
「……澪。
秋山、澪っていうの」
「澪ちゃんか~! よろしくね! 私のことは律でもりっちゃんでもなんでもいいから!」
澪はべそをかいた目を擦って、口元を緩ませる。
「……よろしくね。りっちゃん」
外では桜が舞っていた。
もうすぐ終ってしまうであろう桜が舞っていた。
これから先も、ずっとずっと一緒にいる親友とは、そんな日に出会った。
48: 2009/12/20(日) 16:10:04.18 ID:aZvLa4Y80 BE:173202522-2BP(2050)
――澪は、昔から恥ずかしがり屋の怖がりだった。
なにをするにも自信がなくて、なにをしようにも怖がって。
黒いつり目は、ことあるごとに涙でうるうると揺れていた。
「澪ちゃんはすごいんだから! もっと自信持った方がいいよ!」
「でも……間違えちゃったら……」
「いいじゃん! 別に間違えたって!」
「間違えたら、みんなに嫌なこと言われるんだもん」
なにをするにもマイナス思考で、
なにをしようにもネガティブで、
この世に自分よりもダメな人間はいないと思ってて、
いつも涙目で、いつも弱音を吐いていた。
それが、幼いころの澪だった。
別にそれが嫌いだったわけではない。
むしろ可愛らしいと思う。
なにも考えず、絶対に止まらずに行動する私よりも、ずっと女の子らしい。
ただ、少し彼女は消極的すぎるのだ。
なにをするにも自信がなくて、なにをしようにも怖がって。
黒いつり目は、ことあるごとに涙でうるうると揺れていた。
「澪ちゃんはすごいんだから! もっと自信持った方がいいよ!」
「でも……間違えちゃったら……」
「いいじゃん! 別に間違えたって!」
「間違えたら、みんなに嫌なこと言われるんだもん」
なにをするにもマイナス思考で、
なにをしようにもネガティブで、
この世に自分よりもダメな人間はいないと思ってて、
いつも涙目で、いつも弱音を吐いていた。
それが、幼いころの澪だった。
別にそれが嫌いだったわけではない。
むしろ可愛らしいと思う。
なにも考えず、絶対に止まらずに行動する私よりも、ずっと女の子らしい。
ただ、少し彼女は消極的すぎるのだ。
55: 2009/12/20(日) 16:19:21.86 ID:aZvLa4Y80 BE:519606634-2BP(2050)
「秋山ァ! てめえかけっこでビリだったじゃねえか!」
「ひっ!」
体育の時間が終って、着替えている時だ。
クラスの中でもひときわ体の大きい井上が、澪に絡んでくる。
先刻の体育はかけっこだった。
小学生にとって、身体能力というのはそのままクラス内の地位に繋がる。
幼い故に、考えが動物的で、腕力が強ければ偉いという見方になるからだ。
井上は、その典型だ。
自分に力があるから、それに過信して、そればかり誇りにする。
だから、劣る人間を下に見ている。見る以外に、彼の在り方はないからだ。
「なんとかいえよう!」
「や、やめ……」
井上が澪の体操服を引っ張る。
裾が伸びてしまうほどの力だ。体格で劣る澪はすぐに転ばされてしまう。
びたん、という大きな音。
それに気が付き、クラスの視線がこちらに向く。
しかし、誰も助けない。
井上には勝てないことを、皆が知っているからだ。
「ひっ!」
体育の時間が終って、着替えている時だ。
クラスの中でもひときわ体の大きい井上が、澪に絡んでくる。
先刻の体育はかけっこだった。
小学生にとって、身体能力というのはそのままクラス内の地位に繋がる。
幼い故に、考えが動物的で、腕力が強ければ偉いという見方になるからだ。
井上は、その典型だ。
自分に力があるから、それに過信して、そればかり誇りにする。
だから、劣る人間を下に見ている。見る以外に、彼の在り方はないからだ。
「なんとかいえよう!」
「や、やめ……」
井上が澪の体操服を引っ張る。
裾が伸びてしまうほどの力だ。体格で劣る澪はすぐに転ばされてしまう。
びたん、という大きな音。
それに気が付き、クラスの視線がこちらに向く。
しかし、誰も助けない。
井上には勝てないことを、皆が知っているからだ。
57: 2009/12/20(日) 16:20:12.31 ID:aZvLa4Y80 BE:1732020285-2BP(2050)
「りっちゃん……」
私も、立っているだけだ。
澪の悲しげな瞳が、私を見る。
だから――
だったら――することなんて決まっている。
「やめてよ――!!」
井上を、突き飛ばした。
井上ゆうすけを机に向って思い切り。
私も、立っているだけだ。
澪の悲しげな瞳が、私を見る。
だから――
だったら――することなんて決まっている。
「やめてよ――!!」
井上を、突き飛ばした。
井上ゆうすけを机に向って思い切り。
64: 2009/12/20(日) 16:33:22.35 ID:aZvLa4Y80 BE:692807982-2BP(2050)
「な、なにすんだよ! 先生に言うぞ!」
「それはお前だ!
澪ちゃんのこと、なにも知らないくせに!」
机が倒れ、井上も倒れる。
幼稚園児だったころから変わらない。
自分から危害を加えておいて、自分が害を被ったら被害者の顔をする。
そんな井上が、昔から大嫌いだった。
変わらないところは、私も同じだが。
……それでも、聡が生まれてからは大人しくしていた。
お姉さんというモノは、女というモノは大人しくしているものなのだと先生に聞かされたから
だ。良いお姉さんになるために、私は頭にきても我慢していた。
――でも。
今回のことは許せない。
大事な友達を馬鹿にされた。
大事な友達が叩かれた。
大事な友達が泣いている。
だったら、私は女の子らしさなんていらない。
――誰も守れない強さに、意味なんてないと思うから。
「それはお前だ!
澪ちゃんのこと、なにも知らないくせに!」
机が倒れ、井上も倒れる。
幼稚園児だったころから変わらない。
自分から危害を加えておいて、自分が害を被ったら被害者の顔をする。
そんな井上が、昔から大嫌いだった。
変わらないところは、私も同じだが。
……それでも、聡が生まれてからは大人しくしていた。
お姉さんというモノは、女というモノは大人しくしているものなのだと先生に聞かされたから
だ。良いお姉さんになるために、私は頭にきても我慢していた。
――でも。
今回のことは許せない。
大事な友達を馬鹿にされた。
大事な友達が叩かれた。
大事な友達が泣いている。
だったら、私は女の子らしさなんていらない。
――誰も守れない強さに、意味なんてないと思うから。
65: 2009/12/20(日) 16:34:27.38 ID:aZvLa4Y80 BE:2424828487-2BP(2050)
「澪ちゃんはすごいんだ! 頭もいいし可愛いし左利きだし――お前たちとは違うんだ!」
「足が遅いじゃねえかよ!」
「それがなんだ! 澪ちゃんは――澪ちゃんは――」
……なんだか、泣きたくなってきた。
頭の中がグルグルして、目がじんわりと熱い。
澪のことを守りたいと思った。
そのためなら、女らしさなんていらない。
でも――それを失ってしまえば、私はいいお姉さんにはなれない。
「それでも――私は澪ちゃんが好きだ!!」
教室全部に響くように、私は叫んだ。
それ以来、澪はあまり泣かなくなった。
というより、少しだけ泣くのを我慢するようになったのだ。
「足が遅いじゃねえかよ!」
「それがなんだ! 澪ちゃんは――澪ちゃんは――」
……なんだか、泣きたくなってきた。
頭の中がグルグルして、目がじんわりと熱い。
澪のことを守りたいと思った。
そのためなら、女らしさなんていらない。
でも――それを失ってしまえば、私はいいお姉さんにはなれない。
「それでも――私は澪ちゃんが好きだ!!」
教室全部に響くように、私は叫んだ。
それ以来、澪はあまり泣かなくなった。
というより、少しだけ泣くのを我慢するようになったのだ。
76: 2009/12/20(日) 17:21:38.25 ID:aZvLa4Y80 BE:1082513055-2BP(2050)
止んだようなので再開する
77: 2009/12/20(日) 17:27:12.70 ID:aZvLa4Y80 BE:779410229-2BP(2050)
「ねえ、りっちゃん」
学校からの帰り道、澪は心配そうな顔で私の顔をずっと見ていた。
……当然と言えば当然だろう。
私の顔には頬、鼻、デコの三か所に絆創膏が貼られており、腕にも擦り傷が残っている。痛い
話が苦手な澪にとって、私は言うならば歩くホラーとでも言えようか。
「痛くなんてないからな。みおちゃんが痛い思いするよりも、ずっとずっといいから」
「そ、そんなこと……。
りっちゃんが痛いことされるの、私はいやだ」
「そうなのか? へへ、ありがとな。みおちゃん。
だから――泣きやんでよ。ね」
澪の頬に両手を添える。
ひんやりとして、冷たい頬は柔らかくて気持ちがよかった。
なんだか、澪とならずっとずっと仲良くしていられる。
そんな気がしたんだ。
「今日、うちに遊びに来ない? 聡の誕生日なんだぁ!」
「そうなの? じゃあ、遊びに行くね」
夕日に照らされた澪は、本当に綺麗だったんだ。
私が理想とする、女の子の姿だったんだ。
学校からの帰り道、澪は心配そうな顔で私の顔をずっと見ていた。
……当然と言えば当然だろう。
私の顔には頬、鼻、デコの三か所に絆創膏が貼られており、腕にも擦り傷が残っている。痛い
話が苦手な澪にとって、私は言うならば歩くホラーとでも言えようか。
「痛くなんてないからな。みおちゃんが痛い思いするよりも、ずっとずっといいから」
「そ、そんなこと……。
りっちゃんが痛いことされるの、私はいやだ」
「そうなのか? へへ、ありがとな。みおちゃん。
だから――泣きやんでよ。ね」
澪の頬に両手を添える。
ひんやりとして、冷たい頬は柔らかくて気持ちがよかった。
なんだか、澪とならずっとずっと仲良くしていられる。
そんな気がしたんだ。
「今日、うちに遊びに来ない? 聡の誕生日なんだぁ!」
「そうなの? じゃあ、遊びに行くね」
夕日に照らされた澪は、本当に綺麗だったんだ。
私が理想とする、女の子の姿だったんだ。
79: 2009/12/20(日) 17:35:56.29 ID:aZvLa4Y80 BE:1818621667-2BP(2050)
「ただいまー!」
「おじゃまします……」
「あら、みおちゃん。いらっしゃい」
家に入ると、母がキッチンから出てくる。
ケーキの香りがする。
お店のケーキとは違って、すこし不器用な香り。
私はその香りで、誕生日のパーティーの楽しさを感じる。
そのうえ、今日は大好きな弟の誕生日なのだ。気持ちが昂ぶって、居ても立っても居られない。
「ケーキ、私も手伝っていい?」
「ええ。澪ちゃんはどうする?」
「えと……。えと……。やってみたい……」
まるで蚊の泣くような声で、顔を真っ赤にして、俯いて澪は答える。
それと同時に、私はエプロンを用意した。
右手にはオレンジ色の、ひまわりの絵が刺繍してあるエプロン。
左手にはピンク色の、ハートの絵が縫ってあるエプロン。
どっちが着たい?
と。澪に尋ねると、澪はなにも言わずにピンクのエプロンを指さした。
「こっち? さすがはみおちゃん!」
「おじゃまします……」
「あら、みおちゃん。いらっしゃい」
家に入ると、母がキッチンから出てくる。
ケーキの香りがする。
お店のケーキとは違って、すこし不器用な香り。
私はその香りで、誕生日のパーティーの楽しさを感じる。
そのうえ、今日は大好きな弟の誕生日なのだ。気持ちが昂ぶって、居ても立っても居られない。
「ケーキ、私も手伝っていい?」
「ええ。澪ちゃんはどうする?」
「えと……。えと……。やってみたい……」
まるで蚊の泣くような声で、顔を真っ赤にして、俯いて澪は答える。
それと同時に、私はエプロンを用意した。
右手にはオレンジ色の、ひまわりの絵が刺繍してあるエプロン。
左手にはピンク色の、ハートの絵が縫ってあるエプロン。
どっちが着たい?
と。澪に尋ねると、澪はなにも言わずにピンクのエプロンを指さした。
「こっち? さすがはみおちゃん!」
80: 2009/12/20(日) 17:38:18.77 ID:aZvLa4Y80 BE:519606443-2BP(2050)
「可愛い~」
「か、可愛くなんてないよ……」
いや、ホントに可愛いのだ。
澪はなんというか。なにを着ても似合うのだ。
小学一年生とは思えない雰囲気は、テレビで見る同世代の子供タレントとは違う。アレはテレ
ビに慣れてしまって初々しさがない。
澪は……そうだ。
そういった不慣れな感じが。可愛く思えるのだろう。
「それじゃあ、聡のためにケーキ作ろうか! 澪ちゃんも食べるんだよ!」
「う、うん! がんばるね、りっちゃん!」
「か、可愛くなんてないよ……」
いや、ホントに可愛いのだ。
澪はなんというか。なにを着ても似合うのだ。
小学一年生とは思えない雰囲気は、テレビで見る同世代の子供タレントとは違う。アレはテレ
ビに慣れてしまって初々しさがない。
澪は……そうだ。
そういった不慣れな感じが。可愛く思えるのだろう。
「それじゃあ、聡のためにケーキ作ろうか! 澪ちゃんも食べるんだよ!」
「う、うん! がんばるね、りっちゃん!」
81: 2009/12/20(日) 17:46:41.53 ID:aZvLa4Y80 BE:1212414847-2BP(2050)
「できたー!」
真っ白なイチゴケーキが完成した。
紆余曲折あったが、とにかく、甘酸っぱいイチゴがたくさん乗ったケーキが今ここに完成したので
ある。
家で、母親と共にケーキを焼く。
それは本来ならば、小学生の女の子が何度も体験することであるのだが、私はこういったことは
初めてだった。
料理だとか、そういったことは母の仕事だったからではない。
私はなにをするにも張り切り過ぎてしまうから、加減が大事な料理に向いていないのだ。
だから、母もそれを知って私に手伝いをさせるときは皿を運んだりといった簡単なことしか任せな
かった。別に、それを私は不快に思ったことはない。
皿運びであっても、必要とされているのならそれでもいいと思う。
「やったねみおちゃん!」
「うん。美味しそうだね」
「今は5時か……。それじゃあ、パパが帰ってくるまでに他の料理作ってるわね。
二人は遊んでなさい。聡は寝てるから、起しちゃダメよ」
二人揃って返事をする。
二階の、私の自室にあがってゲームを始める。
――それからほどなくして、父が帰ってきて、聡の誕生会は始まった。
真っ白なイチゴケーキが完成した。
紆余曲折あったが、とにかく、甘酸っぱいイチゴがたくさん乗ったケーキが今ここに完成したので
ある。
家で、母親と共にケーキを焼く。
それは本来ならば、小学生の女の子が何度も体験することであるのだが、私はこういったことは
初めてだった。
料理だとか、そういったことは母の仕事だったからではない。
私はなにをするにも張り切り過ぎてしまうから、加減が大事な料理に向いていないのだ。
だから、母もそれを知って私に手伝いをさせるときは皿を運んだりといった簡単なことしか任せな
かった。別に、それを私は不快に思ったことはない。
皿運びであっても、必要とされているのならそれでもいいと思う。
「やったねみおちゃん!」
「うん。美味しそうだね」
「今は5時か……。それじゃあ、パパが帰ってくるまでに他の料理作ってるわね。
二人は遊んでなさい。聡は寝てるから、起しちゃダメよ」
二人揃って返事をする。
二階の、私の自室にあがってゲームを始める。
――それからほどなくして、父が帰ってきて、聡の誕生会は始まった。
83: 2009/12/20(日) 17:57:45.57 ID:aZvLa4Y80 BE:2078424386-2BP(2050)
四人掛けのテーブルに広がるご馳走。
フライドチキンやちらし寿司。海老フライやトンカツなどの揚げ物と、普段ならば同時に食卓に
は現れない料理が一堂に会していた。
主役の聡は子供の椅子に座らされ、私のその隣に座る。
澪も遠慮がちながらも私の隣に座って、ご馳走に目を輝かせている。
「美味しそうだね。りっちゃん」
「そうだね! 聡は――まだ食べられないか?」
「そうね。でも、これはいくつか聡も食べられるものを作ったからね。
澪ちゃんも、たくさん食べてね」
「律も、たくさん食べるんだぞ」
――ああ。
本当に、幸せだ。
これが、当たり前の家庭だ。
これが、当たり前の日常だ。
だというのに、この幸福感は何なのだろうか。
小学生の私には、素敵な友達と美味しい食事。それに温かい家族があれば幸せだ。
……少なくとも、当時の私はそう考えていた。
フライドチキンやちらし寿司。海老フライやトンカツなどの揚げ物と、普段ならば同時に食卓に
は現れない料理が一堂に会していた。
主役の聡は子供の椅子に座らされ、私のその隣に座る。
澪も遠慮がちながらも私の隣に座って、ご馳走に目を輝かせている。
「美味しそうだね。りっちゃん」
「そうだね! 聡は――まだ食べられないか?」
「そうね。でも、これはいくつか聡も食べられるものを作ったからね。
澪ちゃんも、たくさん食べてね」
「律も、たくさん食べるんだぞ」
――ああ。
本当に、幸せだ。
これが、当たり前の家庭だ。
これが、当たり前の日常だ。
だというのに、この幸福感は何なのだろうか。
小学生の私には、素敵な友達と美味しい食事。それに温かい家族があれば幸せだ。
……少なくとも、当時の私はそう考えていた。
85: 2009/12/20(日) 18:08:07.02 ID:aZvLa4Y80 BE:1169114639-2BP(2050)
人間の成長過程に於いて、女児は基本的に男児よりも先に成熟する。
それ故に、小学校高学年当たりだと女子のほうが男子よりも運動能力に優れる時期が存在す
る。
男子が成長過程に差し掛かる前に、女子が成長していくからだ。
……私にはそれは関係ない。
昔から、田井中律は男の子よりも強かったのだ。
かけっこでも一番だった。
ボールを凄く遠くまで投げることができた。
それを男の子たちは眺めているだけだった。
「すげー! 田井中のやつハットトリックだよ」
「カズダンス~!!」
「りっちゃんかっこいい~!」
運動ができればモテる。
それは小学生が全国共通で持っている認識だ。
理由は簡単だ。思考が動物に近いので、力を持っている人間に寄り添ったほうが有利だとわか
っているからである。
強いライオンが、もっとも子供を残すのはそのためだ。弱い遺伝子は淘汰される。
……その理屈は、男の子にのみ適応されるのではなくて私にも当てはまった。
そう。
バレンタインデーでも、私はあげる側ではなくてもらう側だったのだ。
それ故に、小学校高学年当たりだと女子のほうが男子よりも運動能力に優れる時期が存在す
る。
男子が成長過程に差し掛かる前に、女子が成長していくからだ。
……私にはそれは関係ない。
昔から、田井中律は男の子よりも強かったのだ。
かけっこでも一番だった。
ボールを凄く遠くまで投げることができた。
それを男の子たちは眺めているだけだった。
「すげー! 田井中のやつハットトリックだよ」
「カズダンス~!!」
「りっちゃんかっこいい~!」
運動ができればモテる。
それは小学生が全国共通で持っている認識だ。
理由は簡単だ。思考が動物に近いので、力を持っている人間に寄り添ったほうが有利だとわか
っているからである。
強いライオンが、もっとも子供を残すのはそのためだ。弱い遺伝子は淘汰される。
……その理屈は、男の子にのみ適応されるのではなくて私にも当てはまった。
そう。
バレンタインデーでも、私はあげる側ではなくてもらう側だったのだ。
87: 2009/12/20(日) 18:10:17.07 ID:aZvLa4Y80 BE:909310673-2BP(2050)
「律はモテるな。ホントに」
「チョコは好きだけど……こんなに貰ってもなぁ。
澪は誰かにあげたの?」
「あ、あげられるわけないだろう!」
恥ずかしがり屋の澪の鉄槌。
澪のやつ、運動は苦手のくせに力は強い。
それに――心なしか私よりも背が高くなった。
「6年生にもなって、恋の一つもしてないのか?」
「律だって同じだろ。
……なあ律、あれって……」
澪が指さした方向には、高学年の男の子に囲まれた弟の姿があった。
「チョコは好きだけど……こんなに貰ってもなぁ。
澪は誰かにあげたの?」
「あ、あげられるわけないだろう!」
恥ずかしがり屋の澪の鉄槌。
澪のやつ、運動は苦手のくせに力は強い。
それに――心なしか私よりも背が高くなった。
「6年生にもなって、恋の一つもしてないのか?」
「律だって同じだろ。
……なあ律、あれって……」
澪が指さした方向には、高学年の男の子に囲まれた弟の姿があった。
89: 2009/12/20(日) 18:21:04.44 ID:aZvLa4Y80 BE:2771232588-2BP(2050)
「てめえの姉ちゃんがよぉ! 生意気ィ!」
「し、知らないよ!」
あの身体の大きさ。
あの腹の立つ声。
あの因縁のつけかた。
間違いない。
毎日のように、私に対して嫌がらせを働き、またその回数分私に殴られてきた井上ゆうすけだ。
鉛筆を盗って、消しゴムを折って、ノートに落書きをしてきた。
時には、澪にその手が及ぶこともあった。
私一人なら、パンチ一発で済ませる。
ただ、親友の澪に手を出すのは許せない。
その上――
「聡に手を出すなんて――絶対に絶対に赦せない――!!」
「し、知らないよ!」
あの身体の大きさ。
あの腹の立つ声。
あの因縁のつけかた。
間違いない。
毎日のように、私に対して嫌がらせを働き、またその回数分私に殴られてきた井上ゆうすけだ。
鉛筆を盗って、消しゴムを折って、ノートに落書きをしてきた。
時には、澪にその手が及ぶこともあった。
私一人なら、パンチ一発で済ませる。
ただ、親友の澪に手を出すのは許せない。
その上――
「聡に手を出すなんて――絶対に絶対に赦せない――!!」
90: 2009/12/20(日) 18:22:03.53 ID:aZvLa4Y80 BE:1039212746-2BP(2050)
ランドセルを澪に投げ放る。
両親に買ってもらった赤いランドセルが、音を立てて澪の手に落ちる。
足は空地へ。
顔は――どんな表情をしているのだろうか。
「ちびのくせに生意気なんだよぉ!」
「お、お姉ちゃん!」
「聡――!」
……気がつけば、私はとんでもないことをしてしまっていた。
井上に全治1か月の重傷を負わせてしまったのだ。
両親に買ってもらった赤いランドセルが、音を立てて澪の手に落ちる。
足は空地へ。
顔は――どんな表情をしているのだろうか。
「ちびのくせに生意気なんだよぉ!」
「お、お姉ちゃん!」
「聡――!」
……気がつけば、私はとんでもないことをしてしまっていた。
井上に全治1か月の重傷を負わせてしまったのだ。
102: 2009/12/20(日) 19:32:16.45 ID:aZvLa4Y80 BE:649507853-2BP(2050)
よく覚えていない。
まず、井上に殴りかかった。
右拳は井上の左頬を抉り、井上は地面に叩きつけられた。
聡は動かない。とにかく怯えているだけ。
それは――誰に?
井上か?
子分たちか?
それとも――私か?
わからない。覚えていないというのはそういうこと。
聡が、なにか言った気がした。
それも、わからない。
子分たちが私を制止しようと羽交い絞めにする。
……邪魔だ。私よりも背丈が低いクセに、そんなコトができる筈がない。
羽交い絞めを振り払い、井上に第二の鉄拳を見舞う。
3
4
5
6
数えきれない。
果たして何回、私は井上を殴りつけたのだろうか。
最後に覚えているのは、聡の顔。
悲しそうな顔。
寂しそうな顔。
悔しそうな顔。
――ほどなくして人が来た。
澪が呼んできたのだろう。
そのとき、私には意識なんてなかった。
まず、井上に殴りかかった。
右拳は井上の左頬を抉り、井上は地面に叩きつけられた。
聡は動かない。とにかく怯えているだけ。
それは――誰に?
井上か?
子分たちか?
それとも――私か?
わからない。覚えていないというのはそういうこと。
聡が、なにか言った気がした。
それも、わからない。
子分たちが私を制止しようと羽交い絞めにする。
……邪魔だ。私よりも背丈が低いクセに、そんなコトができる筈がない。
羽交い絞めを振り払い、井上に第二の鉄拳を見舞う。
3
4
5
6
数えきれない。
果たして何回、私は井上を殴りつけたのだろうか。
最後に覚えているのは、聡の顔。
悲しそうな顔。
寂しそうな顔。
悔しそうな顔。
――ほどなくして人が来た。
澪が呼んできたのだろう。
そのとき、私には意識なんてなかった。
103: 2009/12/20(日) 19:41:12.98 ID:aZvLa4Y80 BE:389705033-2BP(2050)
「律、り、つ」
声がした。
目を開けてみると、そこは病室だった。
見知らぬ天井に溜息を一つだけついて、ベッドの隣に座っている人をぼんやりと見た。身体中が
痛いが、見るくらいはできる。
……二人だ。
椅子は二つあって、それは満席。だったら、私の傍にいるのは二人になるだろう。
「よかった。目が覚めたか。大変だったな、律」
澪が私の頭を撫でる。
怖がりなクセに、こういうときばかりお姉さんになるのは彼女の性質だ。
温かい気持ちになったが、そのかわり身体が痛む。
どうやら、右手を怪我しているみたいだった。
声がした。
目を開けてみると、そこは病室だった。
見知らぬ天井に溜息を一つだけついて、ベッドの隣に座っている人をぼんやりと見た。身体中が
痛いが、見るくらいはできる。
……二人だ。
椅子は二つあって、それは満席。だったら、私の傍にいるのは二人になるだろう。
「よかった。目が覚めたか。大変だったな、律」
澪が私の頭を撫でる。
怖がりなクセに、こういうときばかりお姉さんになるのは彼女の性質だ。
温かい気持ちになったが、そのかわり身体が痛む。
どうやら、右手を怪我しているみたいだった。
105: 2009/12/20(日) 19:43:38.09 ID:aZvLa4Y80 BE:1948522695-2BP(2050)
「お姉ちゃん……」
泣きべそをかいているのは弟の聡。
おいおい、泣きたいのはこっちなんだぞ。と諭す。
すると聡は涙を乱暴に拭いて私を見据える。
5歳年下の弟の目は、私が知っている弟ではなかった。
「俺、きっとおね……。姉ちゃんを守れるようになるから――。だから、もうこんな喧嘩は……」
――ああ。
わかったよ。
そうだ。聡は、もう自分でなんとかできるようになるんだ。
いつまでもお姉ちゃんについてくる弟じゃなくて、男として。
小さな身体に宿った覚悟と決意を確認すると、また眠くなってきた。
澪は、ずっと私の頭をなでてくれていた。
泣きべそをかいているのは弟の聡。
おいおい、泣きたいのはこっちなんだぞ。と諭す。
すると聡は涙を乱暴に拭いて私を見据える。
5歳年下の弟の目は、私が知っている弟ではなかった。
「俺、きっとおね……。姉ちゃんを守れるようになるから――。だから、もうこんな喧嘩は……」
――ああ。
わかったよ。
そうだ。聡は、もう自分でなんとかできるようになるんだ。
いつまでもお姉ちゃんについてくる弟じゃなくて、男として。
小さな身体に宿った覚悟と決意を確認すると、また眠くなってきた。
澪は、ずっと私の頭をなでてくれていた。
106: 2009/12/20(日) 19:56:19.37 ID:aZvLa4Y80 BE:1948522695-2BP(2050)
……怪我も治って学校に帰れば、井上はもういなかった。
療養のために、転校したらしい。
転校というのはリセットと同じだ。
井上は、怪我が治れば向こうの学校でも同じことをする。そうなれば、必然的に被害者ができこ
とになるのだ。
それはだめだ。
自分が助かって人を殺めるとか、そういうのは駄目だ。
ただ、どうにもならなかった。
小学生の私にとって、井上がいる場所はあまりにも遠いのだ。もとより、私はヒーローなどでは
ない。お金だってない。そんな私が、彼を真に裁こうなんてことはできないのだ。
「律、もうすぐ卒業だな」
外には雪が舞っている。
白い。
そして冷たい。
雪は、季節を彩ってくれる。
同時に全てを白に変えてしまう。
――澪は、どうしてかさびしそうな顔をしていた。
療養のために、転校したらしい。
転校というのはリセットと同じだ。
井上は、怪我が治れば向こうの学校でも同じことをする。そうなれば、必然的に被害者ができこ
とになるのだ。
それはだめだ。
自分が助かって人を殺めるとか、そういうのは駄目だ。
ただ、どうにもならなかった。
小学生の私にとって、井上がいる場所はあまりにも遠いのだ。もとより、私はヒーローなどでは
ない。お金だってない。そんな私が、彼を真に裁こうなんてことはできないのだ。
「律、もうすぐ卒業だな」
外には雪が舞っている。
白い。
そして冷たい。
雪は、季節を彩ってくれる。
同時に全てを白に変えてしまう。
――澪は、どうしてかさびしそうな顔をしていた。
107: 2009/12/20(日) 20:01:52.29 ID:aZvLa4Y80 BE:1212414274-2BP(2050)
小学校を卒業して、私は『桜ケ丘第3中学校』に入学した。
もちろん澪も一緒にだ。
新しい制服に身を包み、新生活の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
背も伸びて、生理も来たのだが、いかんせんここは成長してくださらない。
凹凸なしのぺったんこだ。それに比べて――
「律は、なにか部活とかやるのか?」
いつの間にか。
本当にいつの間にか、私を発育という面で追い抜いていった澪。中一だというのに、制服の上
からでもその発育は見てとれた。
「なにもやらなーい。澪ちゃんがひとりになっちゃうだろ」
「……むう」
澪が頬を膨らましてむくれる。
頬をつつくと空気が口から溢れて間抜けな音を出す。
それがなんとなく面白く感じた。
もういい、と澪が黒板の方を向いてしまう。
「律……。
私たちも――恋とか、するのかな?」
振り向き様、そんなことを言った。
もちろん澪も一緒にだ。
新しい制服に身を包み、新生活の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
背も伸びて、生理も来たのだが、いかんせんここは成長してくださらない。
凹凸なしのぺったんこだ。それに比べて――
「律は、なにか部活とかやるのか?」
いつの間にか。
本当にいつの間にか、私を発育という面で追い抜いていった澪。中一だというのに、制服の上
からでもその発育は見てとれた。
「なにもやらなーい。澪ちゃんがひとりになっちゃうだろ」
「……むう」
澪が頬を膨らましてむくれる。
頬をつつくと空気が口から溢れて間抜けな音を出す。
それがなんとなく面白く感じた。
もういい、と澪が黒板の方を向いてしまう。
「律……。
私たちも――恋とか、するのかな?」
振り向き様、そんなことを言った。
110: 2009/12/20(日) 20:09:06.65 ID:aZvLa4Y80 BE:606208027-2BP(2050)
「田井中さんって足はやーい!」
「ホントだ! サラマンダーよりはやーい」
今日の体育は体力テストだ。
50メートル走をはじめとして、ほとんどの競技で最高記録を叩きだしている私に皆は賛美を
言葉をかける。
もちろん、誇らしい気持ちになる。
どんなことでも褒められれば嬉しいし、貶されれば悲しい。
私にとって、褒めるべき点が運動で、注意されることが勉強なのだ。
「田井中。陸上やらないか?」
体育教師の長谷部が勧誘してくる。
体育の時間といい、私が身体能力を披露すると大体がこうだ。
ソフトボールも、水泳も、サッカーも、陸上も。
全部が同じ反応ではつまらないではないか。
私はいつものように『せっかくですが遠慮します』とだけ答えて、50メートルぽっちで息が
上がっている澪の方へと駆けだした。
そう。
この時の私には、澪が一番だった。
その他の、澪に離れてしまうことは全て下らないと思ってしまう程に。
あの時までは。
「ホントだ! サラマンダーよりはやーい」
今日の体育は体力テストだ。
50メートル走をはじめとして、ほとんどの競技で最高記録を叩きだしている私に皆は賛美を
言葉をかける。
もちろん、誇らしい気持ちになる。
どんなことでも褒められれば嬉しいし、貶されれば悲しい。
私にとって、褒めるべき点が運動で、注意されることが勉強なのだ。
「田井中。陸上やらないか?」
体育教師の長谷部が勧誘してくる。
体育の時間といい、私が身体能力を披露すると大体がこうだ。
ソフトボールも、水泳も、サッカーも、陸上も。
全部が同じ反応ではつまらないではないか。
私はいつものように『せっかくですが遠慮します』とだけ答えて、50メートルぽっちで息が
上がっている澪の方へと駆けだした。
そう。
この時の私には、澪が一番だった。
その他の、澪に離れてしまうことは全て下らないと思ってしまう程に。
あの時までは。
112: 2009/12/20(日) 20:16:55.91 ID:aZvLa4Y80 BE:1818621667-2BP(2050)
――私は、恋をした。
今までの私を知っている人には笑われてしまうかもしれない。
でも、私も恋をしてしまったのだ。
同い年の男の子に。
今までは、負かす対象でしかなかった男の子に。
初めて、心を奪われてしまったのだ。
「田井中ー! こいつを止められるかー!」
体育のサッカーでは、私は男子のチームでやっている。
誰も文句は言わないし、女子が相手では話にならないからだ。
私はゴールキーパーとしてゴールを守っている。
陣地は攻め入られ、今や砦となるのは私だけ。
ゴールを穿とうと足を上げている彼は『福山直樹』。陸上部のエースであり、生徒会長を務めて
いる。それだけでも凄いのに、成績もトップクラスというまさにパーフェクト人間(おまけに性格も
いい)。私には接点なんてありえない。
ただ、その人は――
「ちっくしょー! 止められるか! そんな火の玉ボール!」
「俺がサッカーだ!」
ただ一人。
私が勝てなかった男の子だった。
今までの私を知っている人には笑われてしまうかもしれない。
でも、私も恋をしてしまったのだ。
同い年の男の子に。
今までは、負かす対象でしかなかった男の子に。
初めて、心を奪われてしまったのだ。
「田井中ー! こいつを止められるかー!」
体育のサッカーでは、私は男子のチームでやっている。
誰も文句は言わないし、女子が相手では話にならないからだ。
私はゴールキーパーとしてゴールを守っている。
陣地は攻め入られ、今や砦となるのは私だけ。
ゴールを穿とうと足を上げている彼は『福山直樹』。陸上部のエースであり、生徒会長を務めて
いる。それだけでも凄いのに、成績もトップクラスというまさにパーフェクト人間(おまけに性格も
いい)。私には接点なんてありえない。
ただ、その人は――
「ちっくしょー! 止められるか! そんな火の玉ボール!」
「俺がサッカーだ!」
ただ一人。
私が勝てなかった男の子だった。
113: 2009/12/20(日) 20:24:10.20 ID:aZvLa4Y80 BE:1039212364-2BP(2050)
恋をしてしまうと、人はどうにもなにもできなくなる。
中学二年生になった私にとって、恋というのはそれほどまでに甘美だったのだ。
握っているシャーペンで、文字を書くことを忘れる。
話しかけられても、彼の方を気にして上手く話せない。
小さな胸が疼く。
こんなにも、恋というのは気持ちが悪(い)いのか、と。
誰かに相談すれば、少しは樂になるのだろうか。
澪に、否。
こんな私が恋の相談なんて出来る筈がない。
きっと、笑われてしまう。
「前髪、下ろしてみようかな……」
実は、私の前髪は長い。
このヘアースタイルが気に入っているから、カチューシャで持ち上げられなくなったら切る、という
感じなのであまり可愛い髪型にはならない。
……そうだ。
彼が、こんな可愛くない女を好きになってくれる筈がない。
ガサツで。
子供で。
いつまでも意地っ張りで。
それが私だ。
「――」
福山の横顔を見るだけで、こんなにも身体が熱くなってしまうのに。
どうして――手を伸ばせないのだろう。
中学二年生になった私にとって、恋というのはそれほどまでに甘美だったのだ。
握っているシャーペンで、文字を書くことを忘れる。
話しかけられても、彼の方を気にして上手く話せない。
小さな胸が疼く。
こんなにも、恋というのは気持ちが悪(い)いのか、と。
誰かに相談すれば、少しは樂になるのだろうか。
澪に、否。
こんな私が恋の相談なんて出来る筈がない。
きっと、笑われてしまう。
「前髪、下ろしてみようかな……」
実は、私の前髪は長い。
このヘアースタイルが気に入っているから、カチューシャで持ち上げられなくなったら切る、という
感じなのであまり可愛い髪型にはならない。
……そうだ。
彼が、こんな可愛くない女を好きになってくれる筈がない。
ガサツで。
子供で。
いつまでも意地っ張りで。
それが私だ。
「――」
福山の横顔を見るだけで、こんなにも身体が熱くなってしまうのに。
どうして――手を伸ばせないのだろう。
118: 2009/12/20(日) 20:42:55.00 ID:aZvLa4Y80 BE:1732020858-2BP(2050)
家に帰ってきても、悶々とした気持ちは続く。
むしろ暇なぶん、より一層気持ちがざわつく。
ベッドに寝転がる。
……ふわり、と汗のような匂いが鼻腔につく。
「女の子のベッドでは、ないよな」
思春期の男の子のような匂いがする。
棚からファブリーズを持ってきて消臭する。
退屈だ。
なにもすることがない。
勉強なんてできない。集中できないから。
「退屈だなあ。
聡が帰ってきたら、ゲームでもしようかな」
……窓から外を見ると、カップルが歩いている。
あの制服は、桜ケ丘商業高校のものだ。いつか、私も福山とあんなふうに――
「うわー! らしくねえ! こうなったら寝るぞー!」
さっさと寝てしまおう。
そう思って、私は乱暴に布団をかぶって目を閉じた。
むしろ暇なぶん、より一層気持ちがざわつく。
ベッドに寝転がる。
……ふわり、と汗のような匂いが鼻腔につく。
「女の子のベッドでは、ないよな」
思春期の男の子のような匂いがする。
棚からファブリーズを持ってきて消臭する。
退屈だ。
なにもすることがない。
勉強なんてできない。集中できないから。
「退屈だなあ。
聡が帰ってきたら、ゲームでもしようかな」
……窓から外を見ると、カップルが歩いている。
あの制服は、桜ケ丘商業高校のものだ。いつか、私も福山とあんなふうに――
「うわー! らしくねえ! こうなったら寝るぞー!」
さっさと寝てしまおう。
そう思って、私は乱暴に布団をかぶって目を閉じた。
120: 2009/12/20(日) 20:48:48.15 ID:aZvLa4Y80 BE:692809128-2BP(2050)
今まで私は、恋を馬鹿にしていた。
恋なんて、結局はアクセサリーじみたものだと。
自分はあの人が好き、ということで周りと同調するか優越感に浸るかで安心しているだけ。その
感情を恋だとか愛だとか。そういった類いのものと勘違いするから、人は自らに陶酔する。
私は可愛い。
でも、報われない私は可哀想。
誰か私を見てくれないかしら。
そんな構ってほしいという感情こそがホンモノだ。
陶酔しきれない人間は、精神的に支障をきたす。
言ってしまえば、そういう人間がメンヘラと呼ばれる者たちになる。
物事を斜に構えて見ているクセに、実際に自分のこととなると完全に主観的なことしか考え
られない。まるで氏を理解できない動物だ。
だから――そうならないために、人は感情を勘違いする。
私の考えはこれだった。
なんということだ。自分が否定した、人のカタチを。まさに自分が、今ここで陥っているじゃない
か。
ロマンチズムに満ちた自分が、可愛いと思ってしまっている。
鏡を見ると、私は可愛くなんてない。
可愛いというのは、澪のことだ。
私なんて、腰巾着に過ぎないのだ。
恋なんて、結局はアクセサリーじみたものだと。
自分はあの人が好き、ということで周りと同調するか優越感に浸るかで安心しているだけ。その
感情を恋だとか愛だとか。そういった類いのものと勘違いするから、人は自らに陶酔する。
私は可愛い。
でも、報われない私は可哀想。
誰か私を見てくれないかしら。
そんな構ってほしいという感情こそがホンモノだ。
陶酔しきれない人間は、精神的に支障をきたす。
言ってしまえば、そういう人間がメンヘラと呼ばれる者たちになる。
物事を斜に構えて見ているクセに、実際に自分のこととなると完全に主観的なことしか考え
られない。まるで氏を理解できない動物だ。
だから――そうならないために、人は感情を勘違いする。
私の考えはこれだった。
なんということだ。自分が否定した、人のカタチを。まさに自分が、今ここで陥っているじゃない
か。
ロマンチズムに満ちた自分が、可愛いと思ってしまっている。
鏡を見ると、私は可愛くなんてない。
可愛いというのは、澪のことだ。
私なんて、腰巾着に過ぎないのだ。
123: 2009/12/20(日) 21:23:17.13 ID:miKh9BXu0 BE:1558819049-2BP(2050)
「りつー! ごはんー!」
「いらなーい!」
ベットで横になっていると、考えることは一つだけ。
福山のことを考えていると本当に胸が痛い。
食欲なんて、どこかにいってしまった。
暗い自室で天井を見て考える。
私には、運動ができることしかない。
性格がいい、と特にいう程ではない。
美人か、というとそうではない。
頭がいいか、といわれると否と答えるだろう。
趣味もない。
そんなつまらない女を、彼は好いてくれるだろうか。
「なってくれるわけ、ないよな……」
と。
ドアをノックする音がする。
「姉ちゃん。入っていい?」
「いらなーい!」
ベットで横になっていると、考えることは一つだけ。
福山のことを考えていると本当に胸が痛い。
食欲なんて、どこかにいってしまった。
暗い自室で天井を見て考える。
私には、運動ができることしかない。
性格がいい、と特にいう程ではない。
美人か、というとそうではない。
頭がいいか、といわれると否と答えるだろう。
趣味もない。
そんなつまらない女を、彼は好いてくれるだろうか。
「なってくれるわけ、ないよな……」
と。
ドアをノックする音がする。
「姉ちゃん。入っていい?」
125: 2009/12/20(日) 21:24:15.29 ID:miKh9BXu0 BE:1818621476-2BP(2050)
聡の声だ。
いいよ、と答えるとドアが開き弟が入ってくる。
小脇に抱えているのはPS2だ。
「テレビ、姉ちゃんの部屋の方が大きいからさ。スト2やらない?」
「飯はどうしたんだ?」
「あとで食べるよ。
姉ちゃんと、さ」
……思わず、口がほころんだ。
コントローラーを手にとって、下らないことを忘れて遊んだ。
いいよ、と答えるとドアが開き弟が入ってくる。
小脇に抱えているのはPS2だ。
「テレビ、姉ちゃんの部屋の方が大きいからさ。スト2やらない?」
「飯はどうしたんだ?」
「あとで食べるよ。
姉ちゃんと、さ」
……思わず、口がほころんだ。
コントローラーを手にとって、下らないことを忘れて遊んだ。
127: 2009/12/20(日) 21:38:06.01 ID:miKh9BXu0 BE:1039213038-2BP(2050)
「よし! 告白をしよう!」
2月11日。バレンタインデー3日前に、私はそんな決断をした。
きっかけはテレビでやっていたドラマである。人が決断するときのきっかけは、大体がくだら
ないことだ。
私もその例に洩れず、ドラマで自分の恋が成就することを夢見て、告白をすることにしたの
だ。
バレンタインデーに、チョコレートをあげて告白をする。古典的で、古臭い方法ではあるが、私
にはそれしか思いつかなかったのだ。なんといっても、私の友達は皆が恋愛事に疎かったから
だ。
「澪とチョコ作ろうっと」
さっそく澪に電話をする。
1のボタンを押せばすぐに澪につながるようになっているため、携帯を開いて5秒後には澪
の声が聞こえた。
……ほとんど一方的に用件を伝える。
そして、切る。
澪は物事を決めるのが少し遅いため、これぐらい強引で丁度いいのだ。
ベッドに横たわって雑誌を開く。
いつもは読み飛ばしていたバレンタイン特集のページをじっくり読んで、その日は床についた。
2月11日。バレンタインデー3日前に、私はそんな決断をした。
きっかけはテレビでやっていたドラマである。人が決断するときのきっかけは、大体がくだら
ないことだ。
私もその例に洩れず、ドラマで自分の恋が成就することを夢見て、告白をすることにしたの
だ。
バレンタインデーに、チョコレートをあげて告白をする。古典的で、古臭い方法ではあるが、私
にはそれしか思いつかなかったのだ。なんといっても、私の友達は皆が恋愛事に疎かったから
だ。
「澪とチョコ作ろうっと」
さっそく澪に電話をする。
1のボタンを押せばすぐに澪につながるようになっているため、携帯を開いて5秒後には澪
の声が聞こえた。
……ほとんど一方的に用件を伝える。
そして、切る。
澪は物事を決めるのが少し遅いため、これぐらい強引で丁度いいのだ。
ベッドに横たわって雑誌を開く。
いつもは読み飛ばしていたバレンタイン特集のページをじっくり読んで、その日は床についた。
128: 2009/12/20(日) 21:46:46.59 ID:miKh9BXu0 BE:779410229-2BP(2050)
「どうしたんだ? 律がいきなりチョコを作りたいだなんて」
「ま、色々あったのさ。私にも」
材料と道具を取り出しながら話をする。
子供のころから変わらない。
澪が家に来た時、料理をするときは決まってピンクのエプロンだ。もちろん子供のころのエプロン
ではないけれど、ピンクのエプロンが澪で、オレンジのエプロンが私だ。
チョコレートの甘い香りが鼻につく。
どんな形にするかは、じっくり考えて決定した。
あまりにも典型的すぎる形であると、私自身も思っているがあの形ほどわかりやすい形もない
だろう。
「聡はどうした?」
「まだ寝てる。たぶん腹空かして降りてくるだろうから、私がチャーハンでも作ってるわ」
「律のチャーハンは美味しいものな」
「ま、色々あったのさ。私にも」
材料と道具を取り出しながら話をする。
子供のころから変わらない。
澪が家に来た時、料理をするときは決まってピンクのエプロンだ。もちろん子供のころのエプロン
ではないけれど、ピンクのエプロンが澪で、オレンジのエプロンが私だ。
チョコレートの甘い香りが鼻につく。
どんな形にするかは、じっくり考えて決定した。
あまりにも典型的すぎる形であると、私自身も思っているがあの形ほどわかりやすい形もない
だろう。
「聡はどうした?」
「まだ寝てる。たぶん腹空かして降りてくるだろうから、私がチャーハンでも作ってるわ」
「律のチャーハンは美味しいものな」
129: 2009/12/20(日) 21:49:26.17 ID:miKh9BXu0 BE:519606926-2BP(2050)
……私は料理は苦手だ。
細かい分量だとか、包丁で食べやすいように、だとか。精密な仕事ができないからであ
る。ただ、チャーハンは簡単だ。総てが目分量でも美味しく出来るからだ。初めてチャーハ
ンを聡と澪に作ったとき、二人は目を丸くした。
それぐらい、私のチャーハンは美味しいらしいのだ。
「じゃあ私はその間にチョコ溶かすためのお湯沸かすよ」
「……チョコ? 澪姉。バレンタインのチョコ作ってるの?
それにしても、腹減った」
案の定、聡が腹を空かして降りてきた。
少し待ってろ、と聡を座らせてチャーハンを作り始めた。
細かい分量だとか、包丁で食べやすいように、だとか。精密な仕事ができないからであ
る。ただ、チャーハンは簡単だ。総てが目分量でも美味しく出来るからだ。初めてチャーハ
ンを聡と澪に作ったとき、二人は目を丸くした。
それぐらい、私のチャーハンは美味しいらしいのだ。
「じゃあ私はその間にチョコ溶かすためのお湯沸かすよ」
「……チョコ? 澪姉。バレンタインのチョコ作ってるの?
それにしても、腹減った」
案の定、聡が腹を空かして降りてきた。
少し待ってろ、と聡を座らせてチャーハンを作り始めた。
131: 2009/12/20(日) 21:55:55.26 ID:miKh9BXu0 BE:1212414274-2BP(2050)
――それから一時間ほどで、チョコの形は完成した。
型に入ったそれは、冷蔵庫の中で固まることを待つだけとなった。
「みおー。ゆっくりだぞー。ゆっくりだからなー」
「わかってるよ。だからそう煽るな」
「私のチョコへ。美味しく固まってください」
「何言ってるんだか……」
かなり本気なのである。
私にとって、あのチョコレートは勝負の道具だ。
剣を研ぐ剣士のように細心でなくてはならない。
恋愛という勝負に勝つために、こういったことに祈りをささげて何が悪い。
……と。
彼の剣豪宮本武蔵は戦に向かう際、仏に祈ろうとした自らに怒ったらしいが。
「明日になれば固まるよな。
それじゃあ澪ー。二階でスト2やろうぜー」
「サード持って来たけど」
「澪姉! 俺にもやらせてよ!」
バレンタインまで、あと2日だ。
私の恋の決戦まで、あと2日なのだ。
型に入ったそれは、冷蔵庫の中で固まることを待つだけとなった。
「みおー。ゆっくりだぞー。ゆっくりだからなー」
「わかってるよ。だからそう煽るな」
「私のチョコへ。美味しく固まってください」
「何言ってるんだか……」
かなり本気なのである。
私にとって、あのチョコレートは勝負の道具だ。
剣を研ぐ剣士のように細心でなくてはならない。
恋愛という勝負に勝つために、こういったことに祈りをささげて何が悪い。
……と。
彼の剣豪宮本武蔵は戦に向かう際、仏に祈ろうとした自らに怒ったらしいが。
「明日になれば固まるよな。
それじゃあ澪ー。二階でスト2やろうぜー」
「サード持って来たけど」
「澪姉! 俺にもやらせてよ!」
バレンタインまで、あと2日だ。
私の恋の決戦まで、あと2日なのだ。
133: 2009/12/20(日) 22:04:41.40 ID:miKh9BXu0 BE:519606926-2BP(2050)
次の日、チョコはしっかり固まっていた。
その後は昨日と同じでサードの時間だ。
楽しい時間がすぎるのは早いもので、日も沈む。
「じゃあな。また明日」
「今度こそ負けないからなー!」
「俺の疾風迅雷が火を噴くぜー!」
靴を履いて、扉を開ける。すると、夕日が開いた扉から差し込んできた。
……思えば、澪との思い出はいつも夕暮れだった。
泣き虫の澪を家に連れてきて。
恥ずかしがり屋の澪と遊んで。
へとへとになるまで一緒に――。
その後は昨日と同じでサードの時間だ。
楽しい時間がすぎるのは早いもので、日も沈む。
「じゃあな。また明日」
「今度こそ負けないからなー!」
「俺の疾風迅雷が火を噴くぜー!」
靴を履いて、扉を開ける。すると、夕日が開いた扉から差し込んできた。
……思えば、澪との思い出はいつも夕暮れだった。
泣き虫の澪を家に連れてきて。
恥ずかしがり屋の澪と遊んで。
へとへとになるまで一緒に――。
135: 2009/12/20(日) 22:06:08.00 ID:miKh9BXu0 BE:1169113493-2BP(2050)
笑顔が――頬が緩んだ。
口元がだらしなくつりあがる。こんなに楽しい時期が、いつまで続くのかと思うと――
「は――はは――」
涙が、出てきた。
明日……私は傷つくかもしれない。
だって、初恋だもの。
怖いよ。
フラれるのは――恐い。
「律……。ちょっと来てくれないか?」
「……え?」
澪はそんなことを言ってきた。
まるで、私の不安を知っているかのように。
口元がだらしなくつりあがる。こんなに楽しい時期が、いつまで続くのかと思うと――
「は――はは――」
涙が、出てきた。
明日……私は傷つくかもしれない。
だって、初恋だもの。
怖いよ。
フラれるのは――恐い。
「律……。ちょっと来てくれないか?」
「……え?」
澪はそんなことを言ってきた。
まるで、私の不安を知っているかのように。
136: 2009/12/20(日) 22:15:09.29 ID:miKh9BXu0 BE:692808544-2BP(2050)
「懐かしいな。この空地……」
「だな。私が聡を守るために井上をボコボコにしたんだよな」
「そうそう。りっちゃんたら、いきなり私にランドセル渡して走っちゃうんだもん。びっくりした」
「昔から、お前をびっくりさせるのは私だったからな」
「――」
間が置かれる。
澪は、そんな昔話をしにつれ出したわけではない。
なにか話すことがなければ、澪は無駄な行動はとらない。
私も少し、ほんの少しだけ大きく呼吸した。
澪の顔は、夕日に照らされて綺麗に光っている。
白い肌に反射して、幾分か眩しく感じる。
「あのさ――」
「うん?」
「……律は、りっちゃんはバレンタイン、誰にあげるつもり?」
「だな。私が聡を守るために井上をボコボコにしたんだよな」
「そうそう。りっちゃんたら、いきなり私にランドセル渡して走っちゃうんだもん。びっくりした」
「昔から、お前をびっくりさせるのは私だったからな」
「――」
間が置かれる。
澪は、そんな昔話をしにつれ出したわけではない。
なにか話すことがなければ、澪は無駄な行動はとらない。
私も少し、ほんの少しだけ大きく呼吸した。
澪の顔は、夕日に照らされて綺麗に光っている。
白い肌に反射して、幾分か眩しく感じる。
「あのさ――」
「うん?」
「……律は、りっちゃんはバレンタイン、誰にあげるつもり?」
137: 2009/12/20(日) 22:16:17.48 ID:miKh9BXu0 BE:519606926-2BP(2050)
「……だよな。
――よし。澪ちゃんにだけは言うよ。私、生徒会長の福山にあげるんだ」
「そっか。りっちゃんも男の子のことが好きになったんだね」
「そうだ。自分でもびっくりしてる。この私が、男の子を好きになるなんて、さ」
恥ずかしい。
てれ隠しに笑ってみせる。
親友とはいえ、好きな人を暴露するのは恥ずかしい。
澪は長い髪をかきわけて、私の眼を見た。
「りっちゃん、可愛いから。大丈夫。
――うん。私のりっちゃんだもん。絶対に大丈夫」
そういって、澪は空地を後にした。
長くのびた影と澪の言葉が、私の不安を少しだけ和らげてくれた。
――よし。澪ちゃんにだけは言うよ。私、生徒会長の福山にあげるんだ」
「そっか。りっちゃんも男の子のことが好きになったんだね」
「そうだ。自分でもびっくりしてる。この私が、男の子を好きになるなんて、さ」
恥ずかしい。
てれ隠しに笑ってみせる。
親友とはいえ、好きな人を暴露するのは恥ずかしい。
澪は長い髪をかきわけて、私の眼を見た。
「りっちゃん、可愛いから。大丈夫。
――うん。私のりっちゃんだもん。絶対に大丈夫」
そういって、澪は空地を後にした。
長くのびた影と澪の言葉が、私の不安を少しだけ和らげてくれた。
139: 2009/12/20(日) 22:21:41.83 ID:miKh9BXu0 BE:2078424768-2BP(2050)
――そうして、来てしまった。
2月14日。
バレンタインデーだ。
朝は早く起きる。これは絶対だ。
当日に努力しても無駄かもしれないが、少しでも可愛い自分でいるためにシャワーを浴びて、
髪をきちんと乾かして整える。
制服も、埃一つ見逃さない覚悟で綺麗にする。
寝不足にならないために、澪が帰ってからすぐに眠った。
――鏡を見る。
完璧だ。
完璧な私。今日の私は最高に可愛い。
カチューシャは……。つけていこう。流石に恥ずかしすぎる。
冷蔵庫からチョコレートを忘れずにカバンに入れる。今日は教科書を全て忘れても、こればかり
は忘れられない。
さあ、開戦だ。
私の恋が実るか。
それとも儚く散るか。
玄関から出ると――
「よう、律。チョコは忘れずに持ってきたんだろうな」
親友の姿が、そこにはあった。
2月14日。
バレンタインデーだ。
朝は早く起きる。これは絶対だ。
当日に努力しても無駄かもしれないが、少しでも可愛い自分でいるためにシャワーを浴びて、
髪をきちんと乾かして整える。
制服も、埃一つ見逃さない覚悟で綺麗にする。
寝不足にならないために、澪が帰ってからすぐに眠った。
――鏡を見る。
完璧だ。
完璧な私。今日の私は最高に可愛い。
カチューシャは……。つけていこう。流石に恥ずかしすぎる。
冷蔵庫からチョコレートを忘れずにカバンに入れる。今日は教科書を全て忘れても、こればかり
は忘れられない。
さあ、開戦だ。
私の恋が実るか。
それとも儚く散るか。
玄関から出ると――
「よう、律。チョコは忘れずに持ってきたんだろうな」
親友の姿が、そこにはあった。
144: 2009/12/20(日) 22:27:20.26 ID:miKh9BXu0 BE:1039212364-2BP(2050)
――通学路は、いつもとは違う雰囲気だった。
挙動不審に周りを見渡している者。
友人に話しかけられただけで大げさに反り返る者。
女子生徒のチョコという単語に反応する者。
挙句の果てには、チョコレート・ディスコを口ずさむ者もいる。
……修羅の国だ。
今まで特別に意識しなかったからだろう。
バレンタインデーという日が、ここまで思春期の男女を惑わすなんて。
この光景をアメリカ人が見たらなんというだろうか。『クレージー』と言われてしまうのだろ
うか。
だって、日本人は未来に生きてるんだもの。ゲームとキスする時が来てもおかしくなんて、
ない。
「す、すごいな」
「学校についたらもっとすごいぞ。よく見てるんだぞ」
「アレ以上に凄いのかよ……」
学校に着くと、もっと凄いものが見られる。
それは――事実だった。
挙動不審に周りを見渡している者。
友人に話しかけられただけで大げさに反り返る者。
女子生徒のチョコという単語に反応する者。
挙句の果てには、チョコレート・ディスコを口ずさむ者もいる。
……修羅の国だ。
今まで特別に意識しなかったからだろう。
バレンタインデーという日が、ここまで思春期の男女を惑わすなんて。
この光景をアメリカ人が見たらなんというだろうか。『クレージー』と言われてしまうのだろ
うか。
だって、日本人は未来に生きてるんだもの。ゲームとキスする時が来てもおかしくなんて、
ない。
「す、すごいな」
「学校についたらもっとすごいぞ。よく見てるんだぞ」
「アレ以上に凄いのかよ……」
学校に着くと、もっと凄いものが見られる。
それは――事実だった。
145: 2009/12/20(日) 22:32:36.28 ID:miKh9BXu0 BE:649508235-2BP(2050)
パカパカパカパカパカ。
この音は決して某リズムゲームの音ではない。
下駄箱の開け閉めを繰り返している音だ。
……ぎろり、とこちらを睨んでくる。
こちらというよりも澪の方を見ている。
――当然と言えば当然だが、澪は学年でも抜群の美人である。今まで言い寄ってきた男たちを
『恐い』の一言で撫で斬りにしてきた彼女は、いわゆる高嶺の花だった。
下駄箱の男子生徒も、澪に憧れを抱いている一人なのだろう。目が血走っている。
「うう……怖いよぉ……」
当人の澪は私の背中で丸くなっている。
こういうところは相変わらずで、澪のベクトルは基本的に怖いものを避けるという方向に向いて
いる。
つまり、このままだと彼氏なんて夢のまた夢なのである。
「もう、上履きとってやったから教室行くぞー!」
教室も、これまた亜空間だった。
この音は決して某リズムゲームの音ではない。
下駄箱の開け閉めを繰り返している音だ。
……ぎろり、とこちらを睨んでくる。
こちらというよりも澪の方を見ている。
――当然と言えば当然だが、澪は学年でも抜群の美人である。今まで言い寄ってきた男たちを
『恐い』の一言で撫で斬りにしてきた彼女は、いわゆる高嶺の花だった。
下駄箱の男子生徒も、澪に憧れを抱いている一人なのだろう。目が血走っている。
「うう……怖いよぉ……」
当人の澪は私の背中で丸くなっている。
こういうところは相変わらずで、澪のベクトルは基本的に怖いものを避けるという方向に向いて
いる。
つまり、このままだと彼氏なんて夢のまた夢なのである。
「もう、上履きとってやったから教室行くぞー!」
教室も、これまた亜空間だった。
146: 2009/12/20(日) 22:42:37.24 ID:miKh9BXu0 BE:519606162-2BP(2050)
「……チョコの匂いがすごいな」
嗅いでいるだけでお腹がいっぱいになりそうなくらいに、チョコの匂いが充満している。
冬だから、誰も換気のために窓を開けない。どうして冬にバレンタインがあるのかと考えて
しまうが、バレンタインは聖人が何やらかした日だそうなので、冬なのは固定だ。オーストラ
リアならば夏にバレンタインがやってくる。ただ、夏ではチョコが溶けてしまう。
「ファOク!」
机をひっくり返してチェックするのは学級委員の丸山である。
いつもはまじめキャラのくせに、どうしてこんな日にキャラを変えるのだろうか。眼鏡をコンタ
クトに変えて、七三の髪型はワックスで今風の髪型に固めてある。
……もちろん。これも無意味だ。
女の子はチョコレートをあげる人は数日前には絞ってある。そうでないと、チョコが間に合わ
ないからだ。故に、当日や前日に頑張ったところで意味はほとんどゼロなのである。
これが男だと、無駄だと言い切れるのだが今日の私はそれも他人ごとではない。
「よお福山! お前はチョコ何個貰った?」
「よ、よせって。何個貰ったとかは関係ないだろ」
彼が、来た。
嗅いでいるだけでお腹がいっぱいになりそうなくらいに、チョコの匂いが充満している。
冬だから、誰も換気のために窓を開けない。どうして冬にバレンタインがあるのかと考えて
しまうが、バレンタインは聖人が何やらかした日だそうなので、冬なのは固定だ。オーストラ
リアならば夏にバレンタインがやってくる。ただ、夏ではチョコが溶けてしまう。
「ファOク!」
机をひっくり返してチェックするのは学級委員の丸山である。
いつもはまじめキャラのくせに、どうしてこんな日にキャラを変えるのだろうか。眼鏡をコンタ
クトに変えて、七三の髪型はワックスで今風の髪型に固めてある。
……もちろん。これも無意味だ。
女の子はチョコレートをあげる人は数日前には絞ってある。そうでないと、チョコが間に合わ
ないからだ。故に、当日や前日に頑張ったところで意味はほとんどゼロなのである。
これが男だと、無駄だと言い切れるのだが今日の私はそれも他人ごとではない。
「よお福山! お前はチョコ何個貰った?」
「よ、よせって。何個貰ったとかは関係ないだろ」
彼が、来た。
149: 2009/12/20(日) 22:44:42.14 ID:miKh9BXu0 BE:1039213038-2BP(2050)
思わず緊張した。
澪が私を優しい目で見つめる。
……手を握って、頑張ってと耳元で囁く。
「……ああ」
向かうは福山の席。
右手と右足が同時に出ている。これでは、緊張しているのがバレバレだ。
「福山。放課後、体育館裏に来い!」
――言えた。
言えたことに興奮してしまっている。
周りは『果たし合いだ!』だとか『血で血を洗うバレンタインだ』とか『競技はバトルドー
ムか!?』とまで言われている。
震える足を抑えつけて、自分の席に座った。
「頑張ったな、律。さあ、これからだぞ」
澪は、優しく言ってくれた。
澪が私を優しい目で見つめる。
……手を握って、頑張ってと耳元で囁く。
「……ああ」
向かうは福山の席。
右手と右足が同時に出ている。これでは、緊張しているのがバレバレだ。
「福山。放課後、体育館裏に来い!」
――言えた。
言えたことに興奮してしまっている。
周りは『果たし合いだ!』だとか『血で血を洗うバレンタインだ』とか『競技はバトルドー
ムか!?』とまで言われている。
震える足を抑えつけて、自分の席に座った。
「頑張ったな、律。さあ、これからだぞ」
澪は、優しく言ってくれた。
152: 2009/12/20(日) 22:50:17.52 ID:miKh9BXu0 BE:692807982-2BP(2050)
「あ、ああ――!」
がくがくと身体が震える。
誘った側なのだから、先に待ち合わせ場所に来ているのは当然だ。故に私は帰りのHRが
終わったらすぐにここに来た。
澪は、体育館の陰から私も見ていると言ったが断った。
女子生徒が、告白する際に友達を引き連れていくことがある。
あれはだめだ。好きな相手を安心させる対象になりたいのに、どうして集団の圧力をかけ
ているのか。私にはまったく理解ができない。断ったら評判ががた落ちだとわかっている告
白は、もはや告白ではない。脅迫だ。
それ故に、私はそんな卑怯なコトはしない。
もとより、澪では頼りにはならない。男を前にすると逃げ出してしまう彼女が、そういった
係りとして機能するはずがないと考えたからだ。
……歯が震える。
平静を保っているのが不思議なくらいに、心は動揺している。
「田井中。おまたせ」
――背後から声。
振り向くと、そこには福山直樹(あこがれのひと)がいた。
がくがくと身体が震える。
誘った側なのだから、先に待ち合わせ場所に来ているのは当然だ。故に私は帰りのHRが
終わったらすぐにここに来た。
澪は、体育館の陰から私も見ていると言ったが断った。
女子生徒が、告白する際に友達を引き連れていくことがある。
あれはだめだ。好きな相手を安心させる対象になりたいのに、どうして集団の圧力をかけ
ているのか。私にはまったく理解ができない。断ったら評判ががた落ちだとわかっている告
白は、もはや告白ではない。脅迫だ。
それ故に、私はそんな卑怯なコトはしない。
もとより、澪では頼りにはならない。男を前にすると逃げ出してしまう彼女が、そういった
係りとして機能するはずがないと考えたからだ。
……歯が震える。
平静を保っているのが不思議なくらいに、心は動揺している。
「田井中。おまたせ」
――背後から声。
振り向くと、そこには福山直樹(あこがれのひと)がいた。
154: 2009/12/20(日) 22:54:46.57 ID:miKh9BXu0 BE:1212414274-2BP(2050)
「よ、よう。ごめんな。こんなところに呼び出して――」
「いいって。部活もまだ始らないしさ。
もしかして、ホントに勝負でもするの?」
首を振って否定する。
のどが震えて、上手く声が出せない。
見据えた先には彼がいるのに、どうしても目線が下に行く。
……アリがいる。
こういうとき、どうしてどうでもいいところに目が行ってしまうのだろう。
カバンから、生まれて初めて作ったチョコレートを取り出す。割れていないコトを確かめ、福山
に向きなおす。
「こ、ここここここここここ――――これ!!!! やるよ!!!!」
手が震える。
握力が亡くなって、チョコも握れない。
押しつけるように渡すと、言いたい言葉を――しっかりと口にした。
「好きです! 付き合ってください」
「いいって。部活もまだ始らないしさ。
もしかして、ホントに勝負でもするの?」
首を振って否定する。
のどが震えて、上手く声が出せない。
見据えた先には彼がいるのに、どうしても目線が下に行く。
……アリがいる。
こういうとき、どうしてどうでもいいところに目が行ってしまうのだろう。
カバンから、生まれて初めて作ったチョコレートを取り出す。割れていないコトを確かめ、福山
に向きなおす。
「こ、ここここここここここ――――これ!!!! やるよ!!!!」
手が震える。
握力が亡くなって、チョコも握れない。
押しつけるように渡すと、言いたい言葉を――しっかりと口にした。
「好きです! 付き合ってください」
157: 2009/12/20(日) 23:02:23.08 ID:miKh9BXu0 BE:1732020858-2BP(2050)
――沈黙。
永遠にも思える、沈黙。
聞こえるのは、部活動に勤しむ生徒たちの喧騒だけ。
それすらも、私にとってはグワングワンという雪崩にしか聞こえない。
顔を上げるのが怖い。
顔をあげて、彼の顔を見るのが厭だ。
私は、どんな顔をしているんだろう。
きっと、不細工なんだろうな。
「あの――さ」
声を聞いて、顔をあげる。
「――――――――――――――――」
なにも、聞こえない。
聞きたくない。
「だから――俺、秋山が好きなんだ。
だから、ごめんな」
そんな声、キキタクナイ――
永遠にも思える、沈黙。
聞こえるのは、部活動に勤しむ生徒たちの喧騒だけ。
それすらも、私にとってはグワングワンという雪崩にしか聞こえない。
顔を上げるのが怖い。
顔をあげて、彼の顔を見るのが厭だ。
私は、どんな顔をしているんだろう。
きっと、不細工なんだろうな。
「あの――さ」
声を聞いて、顔をあげる。
「――――――――――――――――」
なにも、聞こえない。
聞きたくない。
「だから――俺、秋山が好きなんだ。
だから、ごめんな」
そんな声、キキタクナイ――
160: 2009/12/20(日) 23:05:18.75 ID:miKh9BXu0 BE:2078424768-2BP(2050)
それからの帰り道は、覚えていない。
泣いていたのか。
笑っていたのか。
否、笑ってはいないだろうな。
悲しいことが、あったんだから。
「律!」
澪が走ってくる。
どうやら、私の家の前で待ってくれていたみたいだ。
ホントに、いい子だ。
心配そうな顔で私を見る。察してくれたのか、澪は私を強く抱きしめた。
澪は、泣いていた。
どうしてだろ。恋敵なのに――
どうして――私は振りほどかなかったのだろう。
泣いていたのか。
笑っていたのか。
否、笑ってはいないだろうな。
悲しいことが、あったんだから。
「律!」
澪が走ってくる。
どうやら、私の家の前で待ってくれていたみたいだ。
ホントに、いい子だ。
心配そうな顔で私を見る。察してくれたのか、澪は私を強く抱きしめた。
澪は、泣いていた。
どうしてだろ。恋敵なのに――
どうして――私は振りほどかなかったのだろう。
162: 2009/12/20(日) 23:08:09.22 ID:miKh9BXu0 BE:519606162-2BP(2050)
澪には話さなかった。
澪も、訊かなかった。
聡は部屋に戻った。
きっと、アイツなりに気を使ったんだろう。
母も心配そうに私たちを見ている。
私たちはソファーに並んでいた。
澪は、私を強く抱いて頭をなでて――
私は、その行為にただただ甘えていた。
思えば、澪の前で泣いたのはこれが初めてだった。
こんなにもみっともなく。
こんなにも格好悪く。
こんなにも不細工に。
声をあげて泣いたのは、初めてだったのかもしれない。
澪も、訊かなかった。
聡は部屋に戻った。
きっと、アイツなりに気を使ったんだろう。
母も心配そうに私たちを見ている。
私たちはソファーに並んでいた。
澪は、私を強く抱いて頭をなでて――
私は、その行為にただただ甘えていた。
思えば、澪の前で泣いたのはこれが初めてだった。
こんなにもみっともなく。
こんなにも格好悪く。
こんなにも不細工に。
声をあげて泣いたのは、初めてだったのかもしれない。
165: 2009/12/20(日) 23:13:00.24 ID:miKh9BXu0 BE:1299015465-2BP(2050)
「よしよし。りっちゃんをフッたなんて、福山君ももったいないことしたよ」
「――う……うう……ああ……」
「大丈夫だよ。私がいる。りっちゃん、りっちゃん」
「澪……み……お」
「よしよし。今日はお母さんと私が美味しいご飯作ってあげるからね」
澪は、ずっと声をかけてくれていた。
私の名前を呼んで、私の頭を撫でて。
私も、離れないようにと抱きしめた。
柔らかい。
お母さんみたいに。
母も、私を抱きしめた。
小さなころと同じように、母のいい匂いがする。
「お母さん……。お母さん……」
「りっちゃんが大好きなキャベツチャーハンとキャベツロール。澪ちゃんと作ってあげるからね」
「うん……。うん……………」
夕日差し込めるリビング。
また、思い出は夕日の中だった。
「――う……うう……ああ……」
「大丈夫だよ。私がいる。りっちゃん、りっちゃん」
「澪……み……お」
「よしよし。今日はお母さんと私が美味しいご飯作ってあげるからね」
澪は、ずっと声をかけてくれていた。
私の名前を呼んで、私の頭を撫でて。
私も、離れないようにと抱きしめた。
柔らかい。
お母さんみたいに。
母も、私を抱きしめた。
小さなころと同じように、母のいい匂いがする。
「お母さん……。お母さん……」
「りっちゃんが大好きなキャベツチャーハンとキャベツロール。澪ちゃんと作ってあげるからね」
「うん……。うん……………」
夕日差し込めるリビング。
また、思い出は夕日の中だった。
169: 2009/12/20(日) 23:16:53.51 ID:miKh9BXu0 BE:649507853-2BP(2050)
「出来たわよ。ほら、りっちゃん」
湯気が、温かい。
こんなにも料理が温かいなんて――思わなかった。
澪はいつものピンク色のエプロン。
母も、いつもの笑顔と美味しいごはん。
聡は黙って私にキャベツロールをくれた。
父は、少し乱暴に頭をなでてくれた。
「りっちゃん、今日は私泊まるよ。だって――りっちゃんの傍にいたいもの」
「澪……。ありがと……」
私はもう泣かない。
後悔させてやるんだ。
私をフッたことを――。
湯気が、温かい。
こんなにも料理が温かいなんて――思わなかった。
澪はいつものピンク色のエプロン。
母も、いつもの笑顔と美味しいごはん。
聡は黙って私にキャベツロールをくれた。
父は、少し乱暴に頭をなでてくれた。
「りっちゃん、今日は私泊まるよ。だって――りっちゃんの傍にいたいもの」
「澪……。ありがと……」
私はもう泣かない。
後悔させてやるんだ。
私をフッたことを――。
172: 2009/12/20(日) 23:23:23.44 ID:miKh9BXu0 BE:1732020285-2BP(2050)
澪といる間、私は澪が家から持ってきたDVDを見ていた。
「こういうときは音楽でも聞いて、見て、紛らわそうな」
いつもなら、少し離れて見ていた。
いつもなら、スナック菓子を食べて、コーラを飲んで。話しながらDVDを見ていた。
でも。
今はいつもではない。
澪は私をしっかり抱いて、私の小さな身体を温めてくれていた。
上映しているのは『QUEEN』のエイズ撲滅キャンペーンのライブだ。伝説のライブと呼ばれ
ていて、音楽に興味のなかった私が、目を奪われるほどだ。
流れるのは『We are the champions』。ラストの曲らしい。
――僕らがチャンピオンだ。
――友もチャンピオンだ。
そうだ。
これだ。
「これ――だ」
「え?」
「これだよ! これ! 澪! バンドやろう! バンド!!」
それが、私たち。
言ってしまえば『放課後ティータイム』の先駆けとなる言葉だ。
「こういうときは音楽でも聞いて、見て、紛らわそうな」
いつもなら、少し離れて見ていた。
いつもなら、スナック菓子を食べて、コーラを飲んで。話しながらDVDを見ていた。
でも。
今はいつもではない。
澪は私をしっかり抱いて、私の小さな身体を温めてくれていた。
上映しているのは『QUEEN』のエイズ撲滅キャンペーンのライブだ。伝説のライブと呼ばれ
ていて、音楽に興味のなかった私が、目を奪われるほどだ。
流れるのは『We are the champions』。ラストの曲らしい。
――僕らがチャンピオンだ。
――友もチャンピオンだ。
そうだ。
これだ。
「これ――だ」
「え?」
「これだよ! これ! 澪! バンドやろう! バンド!!」
それが、私たち。
言ってしまえば『放課後ティータイム』の先駆けとなる言葉だ。
176: 2009/12/20(日) 23:31:47.44 ID:miKh9BXu0 BE:866010645-2BP(2050)
――その日から、私はドラムの勉強を始めた。
澪も一緒にベースの勉強を始めた。
幸い、今年のおとしだまは一切使っていなかったためこれを温存。
ドラムセットとはいかずとも、電子ドラムを購入しようと考えたからだ。
……とはいえ、ドラムとベースではバンドにはならない。
最低でもギターは必要だからだ。
「ねえ栗山ぁ……。ギター、やらない?」
「ごめんね律。私たちも今年から受験だからね。そういうのはちょっと……」
そうだ。
中学三年生とは、それ即ち受験のシーズンなのである。
私も、澪も例外ではない。
一緒に、桜が丘女子高に行こうと決めた。
男にひっかかるのは、もうごめんだからだ。
福山は、夏にあった陸上の全国大会で優勝していたため高校は三年生になるまえには
すでにほぼ決まっていた。
――そうして、春が来た。
それぞれの思いは交錯する、春がやってきたのである。
澪も一緒にベースの勉強を始めた。
幸い、今年のおとしだまは一切使っていなかったためこれを温存。
ドラムセットとはいかずとも、電子ドラムを購入しようと考えたからだ。
……とはいえ、ドラムとベースではバンドにはならない。
最低でもギターは必要だからだ。
「ねえ栗山ぁ……。ギター、やらない?」
「ごめんね律。私たちも今年から受験だからね。そういうのはちょっと……」
そうだ。
中学三年生とは、それ即ち受験のシーズンなのである。
私も、澪も例外ではない。
一緒に、桜が丘女子高に行こうと決めた。
男にひっかかるのは、もうごめんだからだ。
福山は、夏にあった陸上の全国大会で優勝していたため高校は三年生になるまえには
すでにほぼ決まっていた。
――そうして、春が来た。
それぞれの思いは交錯する、春がやってきたのである。
178: 2009/12/20(日) 23:36:29.60 ID:miKh9BXu0 BE:2424828487-2BP(2050)
――さて、困った。
国語 34
数学 45
英語 2
理科 56
社会 89
「恐ろしい偏り方してるな」
澪の言うこともまったくだ。
桜高は普通科だ。社会科なんていうモノはない。
昔から社会は好きだった。戦争だとか、戦という単語に魅かれたからだろう。
ただ、いかんせん英語が駄目だ。
「This is a pen.」
「僕はペンです」
「違う!」
まったく理解できない。
国語も、数学もボロボロだ。
三年の夏で、これは厳しい。
そんなときだった。
「ねえ、田井中さんは桜高の特別入試は受ける?」
担任の山田に、そんなことを訊かれたのは。
国語 34
数学 45
英語 2
理科 56
社会 89
「恐ろしい偏り方してるな」
澪の言うこともまったくだ。
桜高は普通科だ。社会科なんていうモノはない。
昔から社会は好きだった。戦争だとか、戦という単語に魅かれたからだろう。
ただ、いかんせん英語が駄目だ。
「This is a pen.」
「僕はペンです」
「違う!」
まったく理解できない。
国語も、数学もボロボロだ。
三年の夏で、これは厳しい。
そんなときだった。
「ねえ、田井中さんは桜高の特別入試は受ける?」
担任の山田に、そんなことを訊かれたのは。
179: 2009/12/20(日) 23:43:05.89 ID:miKh9BXu0 BE:3117636689-2BP(2050)
説明を受ける限り、どうやら特別入試というのはこういうことだ。
身体能力を活かして合格しろ。
ようするに体育学部のようなものだ。
スポーツ推薦ともいう。
勉強が駄目だが、運動ならば得意な私にはうってつけのシステムだ。
無論、これを受けない理由はない。
「でもな、澪」
「わかってるよ。陸上部で練習しなきゃならないんだろ」
その通りだ。
私のように、思いつきで受けるような人間を最も効率よく鍛えられるのが陸上競技だ。私に
してみれば、澪と同じ学校に行くためなら数ヵ月の練習なんてなんとも思っていない。
ただ――
「福山君、か」
そう。
特待生として東京の学校に行くことが決まっている福山は、勉強をする必要がない。
つまるところ、彼は8月を以て一般生徒が部活を引退していても、当たり前のように部活を
することになるのだ。
その彼と同じ部活で練習をする。これ以上気まずいことはない。
「でもさ。私はもうアイツのことなんかなんとも思ってない。だから――心配すんなって」
笑って、私は部活の練習に出かけた。
身体能力を活かして合格しろ。
ようするに体育学部のようなものだ。
スポーツ推薦ともいう。
勉強が駄目だが、運動ならば得意な私にはうってつけのシステムだ。
無論、これを受けない理由はない。
「でもな、澪」
「わかってるよ。陸上部で練習しなきゃならないんだろ」
その通りだ。
私のように、思いつきで受けるような人間を最も効率よく鍛えられるのが陸上競技だ。私に
してみれば、澪と同じ学校に行くためなら数ヵ月の練習なんてなんとも思っていない。
ただ――
「福山君、か」
そう。
特待生として東京の学校に行くことが決まっている福山は、勉強をする必要がない。
つまるところ、彼は8月を以て一般生徒が部活を引退していても、当たり前のように部活を
することになるのだ。
その彼と同じ部活で練習をする。これ以上気まずいことはない。
「でもさ。私はもうアイツのことなんかなんとも思ってない。だから――心配すんなって」
笑って、私は部活の練習に出かけた。
183: 2009/12/20(日) 23:49:26.39 ID:miKh9BXu0 BE:1385616948-2BP(2050)
「……」
福山は速い。
100メートルを、まるでチーターのように走り抜ける。
中学生で11秒台フラットをマークする速さは、今や世界中が注目しているジュニアらしい。
顔もよく。頭もいい。
その上、人望もある。
下級生の女子が多いのも、福山の存在があるからこそだ。
私のような途中参加者は、彼女たちの名前を知らないが間違いなく福山が目的だろう。
「福山さんまじかっけー!」
「アイトー!」
――それは、女だけではない。
男にとっても、彼は憧れなのだ。
……期待を両肩に背負わされている。
私には、それが悲しいことにも思えた。
福山は速い。
100メートルを、まるでチーターのように走り抜ける。
中学生で11秒台フラットをマークする速さは、今や世界中が注目しているジュニアらしい。
顔もよく。頭もいい。
その上、人望もある。
下級生の女子が多いのも、福山の存在があるからこそだ。
私のような途中参加者は、彼女たちの名前を知らないが間違いなく福山が目的だろう。
「福山さんまじかっけー!」
「アイトー!」
――それは、女だけではない。
男にとっても、彼は憧れなのだ。
……期待を両肩に背負わされている。
私には、それが悲しいことにも思えた。
185: 2009/12/20(日) 23:54:29.41 ID:miKh9BXu0 BE:649507853-2BP(2050)
家に帰ると、澪はエプロンをしていた。
どうやら両親は出かけたらしい。二人目の弟妹なんていらないというのに。
聡は澪の手伝いをしている。
小学5年生のくせに色気づいて、高いところの皿を取ろうとしている。
「澪の方が背、高いのに」
少し笑う。
結局は届かずに椅子を使っている。我が弟ながら可愛い奴め。
体操服を洗濯籠に放り込む。
鏡に映った自分の肢体を見ると――
「貧相だなあ」
口から出た、素直な感想。
澪と風呂に入ったとき、それはもうすごかった。
バインバインだ。
揉みしだいて吸収してやりたいくらいに半端じゃなかった。
「先に風呂入るぞー!」
少し早いが入ってしまおう。
……うむ。さすがは澪ちゃん。いい湯加減でございます。
どうやら両親は出かけたらしい。二人目の弟妹なんていらないというのに。
聡は澪の手伝いをしている。
小学5年生のくせに色気づいて、高いところの皿を取ろうとしている。
「澪の方が背、高いのに」
少し笑う。
結局は届かずに椅子を使っている。我が弟ながら可愛い奴め。
体操服を洗濯籠に放り込む。
鏡に映った自分の肢体を見ると――
「貧相だなあ」
口から出た、素直な感想。
澪と風呂に入ったとき、それはもうすごかった。
バインバインだ。
揉みしだいて吸収してやりたいくらいに半端じゃなかった。
「先に風呂入るぞー!」
少し早いが入ってしまおう。
……うむ。さすがは澪ちゃん。いい湯加減でございます。
186: 2009/12/20(日) 23:58:04.98 ID:miKh9BXu0 BE:1558818566-2BP(2050)
「あれ? ご飯がないぞ」
「何を言ってるんだ。チャーハンはお前の係りだろ」
「え? そうだっけ?」
「澪姉と俺が他のを作ってるんだから察してくれよ」
「なんだと~!」
「聡も私も食べたいんだよ。律のチャーハン。
略してりっちゃーはんをさ」
……ああ。
なるほど。
「お前たちさ」
「え?」
「それ言いたかっただけだろ」
「……」
なにも言わないで椅子に座りやがった。
わかったよ。作ってやるよ。りっちゃん特製キャベツチャーハンを。
りっちゃーはんを。
語感がいいな。この言葉。
「何を言ってるんだ。チャーハンはお前の係りだろ」
「え? そうだっけ?」
「澪姉と俺が他のを作ってるんだから察してくれよ」
「なんだと~!」
「聡も私も食べたいんだよ。律のチャーハン。
略してりっちゃーはんをさ」
……ああ。
なるほど。
「お前たちさ」
「え?」
「それ言いたかっただけだろ」
「……」
なにも言わないで椅子に座りやがった。
わかったよ。作ってやるよ。りっちゃん特製キャベツチャーハンを。
りっちゃーはんを。
語感がいいな。この言葉。
188: 2009/12/21(月) 00:07:13.08 ID:NadiDLUL0 BE:649507853-2BP(2050)
それからも、私は練習に励んだ。
澪は勉強をして、私は練習をした。
それも一つの努力の形だ。
同じ目標を目指すのに、同じ努力は必要ないのだ。
「姉ちゃん。はい、アクエリ」
「さんきゅ。――かあ! 旨い!」
ランニングから帰ってくると、聡は決まってアクエリアスを渡してくれる。
夏の熱帯夜で絞られた水分が補充されていい気持ちになる。
「姉ちゃん。俺、澪姉も姉ちゃんも大好きだからさ」
月を見上げて、聡はそんな恥ずかしいことを口走った。
それ見て、聡は続ける。
澪は勉強をして、私は練習をした。
それも一つの努力の形だ。
同じ目標を目指すのに、同じ努力は必要ないのだ。
「姉ちゃん。はい、アクエリ」
「さんきゅ。――かあ! 旨い!」
ランニングから帰ってくると、聡は決まってアクエリアスを渡してくれる。
夏の熱帯夜で絞られた水分が補充されていい気持ちになる。
「姉ちゃん。俺、澪姉も姉ちゃんも大好きだからさ」
月を見上げて、聡はそんな恥ずかしいことを口走った。
それ見て、聡は続ける。
189: 2009/12/21(月) 00:08:34.19 ID:NadiDLUL0 BE:1212414847-2BP(2050)
「俺が小さい頃、空地で絡まれてたよな。
あの時、姉ちゃんが助けてくれてホントに嬉しかった。俺のピンチに、姉ちゃんはいつだって
来てくれた。プールで溺れた時も、自転車で転んだ時も。でもさ、それじゃあ駄目だ。俺はいつ
までも弟のままなんだ。
……田井中聡は、ずっとずっと、田井中律の弟だけど。子供じゃない。いつまでも守ってもらって
ばかりじゃあ、俺の気が済まない」
「ハハ、それは前にも聞いたな」
「病院で、初めて思ったんだ。まだ11歳の子供かもしれないけどさ――姉ちゃんも澪姉も、守れる
存在に、なるからさ。
たとえ、相手がだれであっても」
月の光が眩しく感じる。
今日は満月。人の本心が露わになる日だ。
だからだろう。
聡が、ずっと子供だと思ってた弟の姿があんなに大きく見えたのは。
「だな。いつかお前が大きくなったときは、お前が私や澪のヒーローになってくれよな」
「ああ。必ず、さ」
うん。約束だからな。
破るんじゃないぞ。お前は、一生私の『弟』なんだから。
あの時、姉ちゃんが助けてくれてホントに嬉しかった。俺のピンチに、姉ちゃんはいつだって
来てくれた。プールで溺れた時も、自転車で転んだ時も。でもさ、それじゃあ駄目だ。俺はいつ
までも弟のままなんだ。
……田井中聡は、ずっとずっと、田井中律の弟だけど。子供じゃない。いつまでも守ってもらって
ばかりじゃあ、俺の気が済まない」
「ハハ、それは前にも聞いたな」
「病院で、初めて思ったんだ。まだ11歳の子供かもしれないけどさ――姉ちゃんも澪姉も、守れる
存在に、なるからさ。
たとえ、相手がだれであっても」
月の光が眩しく感じる。
今日は満月。人の本心が露わになる日だ。
だからだろう。
聡が、ずっと子供だと思ってた弟の姿があんなに大きく見えたのは。
「だな。いつかお前が大きくなったときは、お前が私や澪のヒーローになってくれよな」
「ああ。必ず、さ」
うん。約束だからな。
破るんじゃないぞ。お前は、一生私の『弟』なんだから。
192: 2009/12/21(月) 00:14:02.58 ID:NadiDLUL0 BE:866010645-2BP(2050)
ある日のことだった。
「あれ? 私のシューズがない……」
陸上部の部室は、そんなに広くはない。
女子専用という名目のため、とりあえずは整理整頓はなされている。
故に、ものがなくなるなんてことはない筈だ。少なくとも、ロッカーの鍵を持ってるのは私だ
けなのだから。そんなことは起きない筈だ。
でも。
実際には起こっている。
私のシューズがなくなっているのだ。
「どうした? 田井中」
「ああ、福山か。
いやさ、私のシューズがなくなってるんだよ」
「どんな色?」
「オレンジ色。私、色を選べる時は基本的にオレンジ色にしてるんだ」
「あれ? 私のシューズがない……」
陸上部の部室は、そんなに広くはない。
女子専用という名目のため、とりあえずは整理整頓はなされている。
故に、ものがなくなるなんてことはない筈だ。少なくとも、ロッカーの鍵を持ってるのは私だ
けなのだから。そんなことは起きない筈だ。
でも。
実際には起こっている。
私のシューズがなくなっているのだ。
「どうした? 田井中」
「ああ、福山か。
いやさ、私のシューズがなくなってるんだよ」
「どんな色?」
「オレンジ色。私、色を選べる時は基本的にオレンジ色にしてるんだ」
193: 2009/12/21(月) 00:16:39.02 ID:NadiDLUL0 BE:1385616948-2BP(2050)
「……へえ」
含みのある言い方。
……まさか
ありえない。
でも。
そんな――
「それは――もしかしなくても、これでしょ?」
福山は、その手に私のシューズを持っていた。
含みのある言い方。
……まさか
ありえない。
でも。
そんな――
「それは――もしかしなくても、これでしょ?」
福山は、その手に私のシューズを持っていた。
194: 2009/12/21(月) 00:22:10.74 ID:NadiDLUL0 BE:3117636689-2BP(2050)
「え?」
「とぼけないでよ。これ、田井中のでしょ?」
「う、うん」
どうして?
福山の目は――私を蔑んでいる。
私のことが、嫌いな目だ。
足が震える。
どうして、私はいつも福山の前では足が震えているのだろうか。
「おいおい福山ァ。まわりくどいことしてんじゃあねえぞ」
「そうだぜ。こいつが福山さんの恋を邪魔してんだから、よ」
「梅原に大貫か。確かにな。こいつは邪魔なんだよ」
……耳を疑った。
福山は、私を邪魔といった。
手に握られているのは、澪と一緒に選んだシューズだ。
それを、福山は知っているのだろうか。
福山が好きな、秋山澪が選んだ靴を――
「……つまんねえな。おい、こいつ好きにしていいよ。俺は問題起こすわけにもいかねえしな」
「……は? 何勘違いしてんの天才君。
俺らがムカついてんのは田井中じゃなくて、てめえだよ」
瞬間。梅原の膝が、福山の腹部を蹴り抜いた。
「とぼけないでよ。これ、田井中のでしょ?」
「う、うん」
どうして?
福山の目は――私を蔑んでいる。
私のことが、嫌いな目だ。
足が震える。
どうして、私はいつも福山の前では足が震えているのだろうか。
「おいおい福山ァ。まわりくどいことしてんじゃあねえぞ」
「そうだぜ。こいつが福山さんの恋を邪魔してんだから、よ」
「梅原に大貫か。確かにな。こいつは邪魔なんだよ」
……耳を疑った。
福山は、私を邪魔といった。
手に握られているのは、澪と一緒に選んだシューズだ。
それを、福山は知っているのだろうか。
福山が好きな、秋山澪が選んだ靴を――
「……つまんねえな。おい、こいつ好きにしていいよ。俺は問題起こすわけにもいかねえしな」
「……は? 何勘違いしてんの天才君。
俺らがムカついてんのは田井中じゃなくて、てめえだよ」
瞬間。梅原の膝が、福山の腹部を蹴り抜いた。
198: 2009/12/21(月) 00:28:20.96 ID:NadiDLUL0 BE:649508235-2BP(2050)
福山は不意を突かれた攻撃に対応できず、仰向けに倒れる。
倒れるさなかに、大貫が叩き伏せる。
福山も抵抗じみた攻撃をするが、それも無駄に終わる。
二人は、この学校でも札付きの不良だ。いくら運動神経がいいとはいっても、喧嘩慣れして
いる二人に勝てるわけがない。
加えてこの状況。一方的に倒れた福山を蹴り、殴っている。
――これは喧嘩ではない。
一方的な暴力だ。
こんなことを、認めるわけにはいかない。
「……あ」
でも。
止める必要があるのか、と考える。
福山は私のシューズを、澪と一緒に買ったシューズを盗んだのだ。
これは彼の報いなのだ、と握った拳を解く。
――わからない。
誰が悪いのか。
誰が悪くないのか。
私は福山の邪魔をしている?
そんなつもりはない。澪は男が嫌いなだけだ。
「答えろ福山! 澪が、私がお前になにをしたっていうんだ!」
倒れるさなかに、大貫が叩き伏せる。
福山も抵抗じみた攻撃をするが、それも無駄に終わる。
二人は、この学校でも札付きの不良だ。いくら運動神経がいいとはいっても、喧嘩慣れして
いる二人に勝てるわけがない。
加えてこの状況。一方的に倒れた福山を蹴り、殴っている。
――これは喧嘩ではない。
一方的な暴力だ。
こんなことを、認めるわけにはいかない。
「……あ」
でも。
止める必要があるのか、と考える。
福山は私のシューズを、澪と一緒に買ったシューズを盗んだのだ。
これは彼の報いなのだ、と握った拳を解く。
――わからない。
誰が悪いのか。
誰が悪くないのか。
私は福山の邪魔をしている?
そんなつもりはない。澪は男が嫌いなだけだ。
「答えろ福山! 澪が、私がお前になにをしたっていうんだ!」
200: 2009/12/21(月) 00:35:00.11 ID:NadiDLUL0 BE:1818621476-2BP(2050)
「おいこら、訊かれてんぞ」
「……うう」
梅原と大貫は一旦殴る手を止めて、私の方へ福山を向ける。
顔は腫れて、立つこともままならない彼は、私が知っている彼ではなかった。
そこにいるのはボロ雑巾じみた、情けない男だ。
「おまえは……俺の気持ちを知っているのに。
知っているのに! どうして協力しなかったんだ! 俺の気持ちを――」
「……なにを、言っているんだ? お前は」
「協力しろよ! 好きな男が恋に悩んでるんだから!」
「だとよ。
要するに、こいつは秋山が自分に振り向くように動かなかったお前を恨んでるんだと!」
そんな。
そんな、逆恨みがあるか。
私も澪も関係ないじゃないか。
自分の中で都合のいいシナリオ作って、実行されないからって――
「卑怯だ! お前は与えられるのが当たり前になってるんだ! 足が速いから、頭がいいから、
だから、世界は自分を中心に回ってなきゃ気が済まないんだ。他者とは、自分に都合のいい
ものを与えるためにあるんじゃない。どんなことも共有するためにあるんだ!」
「……うう」
梅原と大貫は一旦殴る手を止めて、私の方へ福山を向ける。
顔は腫れて、立つこともままならない彼は、私が知っている彼ではなかった。
そこにいるのはボロ雑巾じみた、情けない男だ。
「おまえは……俺の気持ちを知っているのに。
知っているのに! どうして協力しなかったんだ! 俺の気持ちを――」
「……なにを、言っているんだ? お前は」
「協力しろよ! 好きな男が恋に悩んでるんだから!」
「だとよ。
要するに、こいつは秋山が自分に振り向くように動かなかったお前を恨んでるんだと!」
そんな。
そんな、逆恨みがあるか。
私も澪も関係ないじゃないか。
自分の中で都合のいいシナリオ作って、実行されないからって――
「卑怯だ! お前は与えられるのが当たり前になってるんだ! 足が速いから、頭がいいから、
だから、世界は自分を中心に回ってなきゃ気が済まないんだ。他者とは、自分に都合のいい
ものを与えるためにあるんじゃない。どんなことも共有するためにあるんだ!」
202: 2009/12/21(月) 00:36:22.73 ID:NadiDLUL0 BE:389705033-2BP(2050)
澪は、私にとってそうだった。
嬉しいことがあったら二倍になって。
悲しいことがあったら半分になった。
それが、友達だ。親友なんだ。
――期待が重かった? そんな言い訳なんて聞きたくもない。
私は――そんな人でなしを背にその場を後にした。
後ろで、人が殴られている音なんて聞こえない。
それがお前の報いなんだと知れ。
嬉しいことがあったら二倍になって。
悲しいことがあったら半分になった。
それが、友達だ。親友なんだ。
――期待が重かった? そんな言い訳なんて聞きたくもない。
私は――そんな人でなしを背にその場を後にした。
後ろで、人が殴られている音なんて聞こえない。
それがお前の報いなんだと知れ。
210: 2009/12/21(月) 00:40:05.06 ID:NadiDLUL0 BE:346404342-2BP(2050)
私にとって、男というのはそういうものなのだ。
利己的で。
自分主義で。
わがままで。
家に帰ってくると、いつものように澪がリビングでテレビを見ていた。
まるで、新婚生活みたいだ。
澪が私の頭を撫でる。
突然にだ。
「な、なんだよー」
「……なんか、律がさびそうだったから」
流石は親友だ。
鋭い。
話をしてもよかったが、澪が怖がるからやめておこう。
風呂に入って、澪と母の美味しい食事を食べよう。
そうだ。普通が一番。
そんな日常を繰り返していくと――入試の日が近づいてくる。
二人が、違った形で同じ目標にたどりつく日だ。
利己的で。
自分主義で。
わがままで。
家に帰ってくると、いつものように澪がリビングでテレビを見ていた。
まるで、新婚生活みたいだ。
澪が私の頭を撫でる。
突然にだ。
「な、なんだよー」
「……なんか、律がさびそうだったから」
流石は親友だ。
鋭い。
話をしてもよかったが、澪が怖がるからやめておこう。
風呂に入って、澪と母の美味しい食事を食べよう。
そうだ。普通が一番。
そんな日常を繰り返していくと――入試の日が近づいてくる。
二人が、違った形で同じ目標にたどりつく日だ。
213: 2009/12/21(月) 00:46:10.98 ID:NadiDLUL0 BE:346404342-2BP(2050)
――試験は怖いくらいにつつがなく終了した。
100メートル走も幅跳びも、ほとんどすべての競技で私は一番の成績だった。
つまり合格確実っていうコトだ。
澪も同じく、5教科の自己採点は合計にして479点。まず落ちない点数だ。
試験会場で、やたらととぼけた女の子がいた話を澪から聞いた。
今どき、そんな奴がいるのかと思ったが澪が言うのだから実在しているのだろう。
「さて、これから始まるな」
「……ああ。私たちの高校生活」
「あ、そういえば。スポーツ推薦の人は部活に入らなきゃいけないんじゃ……」
「……やべえ」
そんなことがあって、高校生活は始まった。
合格発表の日、帰り道はやっぱり夕暮れの中だった。
100メートル走も幅跳びも、ほとんどすべての競技で私は一番の成績だった。
つまり合格確実っていうコトだ。
澪も同じく、5教科の自己採点は合計にして479点。まず落ちない点数だ。
試験会場で、やたらととぼけた女の子がいた話を澪から聞いた。
今どき、そんな奴がいるのかと思ったが澪が言うのだから実在しているのだろう。
「さて、これから始まるな」
「……ああ。私たちの高校生活」
「あ、そういえば。スポーツ推薦の人は部活に入らなきゃいけないんじゃ……」
「……やべえ」
そんなことがあって、高校生活は始まった。
合格発表の日、帰り道はやっぱり夕暮れの中だった。
214: 2009/12/21(月) 00:49:44.00 ID:NadiDLUL0 BE:519606926-2BP(2050)
「みーおー! クラブ見学行こうぜ!」
「私は文学部に入ろうかなって」
「なんでさ!」
「だって、律は運動部に……」
「いや、部活ならなんでもいいんだってさ。だから軽音部行こうぜ!」
澪の手をとって廊下を走る。
憧れの学校を、走る。
憧れの人の手をとって。
私は、今でもきっと男まさりだ。
それでもいいさ。
私は、私なんだしさ。
「もしかして、あなたが平沢唯さん!?」
――あの日、幼稚園で会った子はこの子だったんだ。
とぼけた子。だけど、私が夢見た理想の女の子像。
――まあ、それも関係ない。
私は――得るものがあったから。
失ったモノは小さくはないけど。
私は、幸せなのだから――それで、いいよ。
「私は文学部に入ろうかなって」
「なんでさ!」
「だって、律は運動部に……」
「いや、部活ならなんでもいいんだってさ。だから軽音部行こうぜ!」
澪の手をとって廊下を走る。
憧れの学校を、走る。
憧れの人の手をとって。
私は、今でもきっと男まさりだ。
それでもいいさ。
私は、私なんだしさ。
「もしかして、あなたが平沢唯さん!?」
――あの日、幼稚園で会った子はこの子だったんだ。
とぼけた子。だけど、私が夢見た理想の女の子像。
――まあ、それも関係ない。
私は――得るものがあったから。
失ったモノは小さくはないけど。
私は、幸せなのだから――それで、いいよ。
221: 2009/12/21(月) 00:56:13.04 ID:NadiDLUL0 BE:2727932279-2BP(2050)
「……と、まあこれが私の過去ってやつさ!」
つまらなくも永い。独白じみた昔話だ。
みんなは退屈そうに聞いているだろうに、と思った。
だが、皆は椅子に座って私の話に聞き入っていた。
「それで、福山って人はどうなったんですか?」
「奴なら去年膝を壊して陸上辞めたんだとさ。栗山に聞いた」
期待を言い訳にして、人を思うがままにしようとしてた彼は、結局は自らの重みに負けたのだ。
一つのことしかできない彼は、これから先どうやって生きていくのか。
私には関係のないことだ。興味もない。
ただ、少しだけ可哀想なのかもな。
つまらなくも永い。独白じみた昔話だ。
みんなは退屈そうに聞いているだろうに、と思った。
だが、皆は椅子に座って私の話に聞き入っていた。
「それで、福山って人はどうなったんですか?」
「奴なら去年膝を壊して陸上辞めたんだとさ。栗山に聞いた」
期待を言い訳にして、人を思うがままにしようとしてた彼は、結局は自らの重みに負けたのだ。
一つのことしかできない彼は、これから先どうやって生きていくのか。
私には関係のないことだ。興味もない。
ただ、少しだけ可哀想なのかもな。
223: 2009/12/21(月) 00:56:52.98 ID:NadiDLUL0 BE:1385616184-2BP(2050)
「りっちゃんと私って、昔に会ってたんだね~」
「私も、どうやらみんなに会ってたみたいよ」
紅茶を口に運ぼうとすると、カップにはもう紅茶はなかった。
いつのまにか、飲みほしていたようだ。
「律、飲むよな」
澪がお代わりを淹れてくれる。
笑顔で感謝を言うと、澪は――
「――!?」
「み、澪ちゃんがりっちゃんに――」
「キスしましたですー!!」
「あらあらうふふ」
そんなこんなで、私は今日も頑張ってるよ。
お茶とお菓子の香り漂う、いつもの音楽準備室で、さ。
「私も、どうやらみんなに会ってたみたいよ」
紅茶を口に運ぼうとすると、カップにはもう紅茶はなかった。
いつのまにか、飲みほしていたようだ。
「律、飲むよな」
澪がお代わりを淹れてくれる。
笑顔で感謝を言うと、澪は――
「――!?」
「み、澪ちゃんがりっちゃんに――」
「キスしましたですー!!」
「あらあらうふふ」
そんなこんなで、私は今日も頑張ってるよ。
お茶とお菓子の香り漂う、いつもの音楽準備室で、さ。
224: 2009/12/21(月) 01:00:49.32 ID:NadiDLUL0 BE:779409836-2BP(2050)
Epilogue
彼女がつけているのはピンクのエプロン。
今までは、たまにしか見られなかった。
あんなに可愛らしい姿を、毎日見られなかった。
でもさ、今日からは毎日見られるぞ。
新しい住まいと、新しい生活。
――そして、新しい同居人。
ずっと支えてくれた。
ずっと支えてきた。
二人だから――出来るコトだ。
「よっしゃ! 今日はりっちゃーはん作ってやるぞ!」
FIN
前作
唯「中学生のころの話しようよ!」紬「じゃあ、まずは私からね」
彼女がつけているのはピンクのエプロン。
今までは、たまにしか見られなかった。
あんなに可愛らしい姿を、毎日見られなかった。
でもさ、今日からは毎日見られるぞ。
新しい住まいと、新しい生活。
――そして、新しい同居人。
ずっと支えてくれた。
ずっと支えてきた。
二人だから――出来るコトだ。
「よっしゃ! 今日はりっちゃーはん作ってやるぞ!」
FIN
前作
唯「中学生のころの話しようよ!」紬「じゃあ、まずは私からね」
225: 2009/12/21(月) 01:02:09.08 ID:QYjqqbJ40
面白かった乙
226: 2009/12/21(月) 01:02:14.56 ID:QZqcjNTH0
うん。乙



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