ストーカーされていると分かったのに、
どうして……しずくちゃんは平然としているのだろう。
まるで気にしていないといった様子なのだろう。

――気味悪く思わないの?

思わず、そんな馬鹿正直に聞いてしまう。

流石に直球過ぎたようで、
しずくちゃんは面を食らったように驚いた顔をして。

「……正直、お洗濯物の匂いを特定されるとは思ってませんでした」

たったハンカチ一枚から、そんなことが出来るだなんて誰が想像できるだろうか。
もちろん、自分は出来るけれど、普通は考えもしないはずだ。

しずくちゃんは悩ましそうな表情を見せると「でも……」と呟く。

「私、楽しかったんです……お兄さんがそういう人だと分かっても、だから離れようって……思えなかったんです……」


764: 2022/05/31(火) 00:19:46.70
――――――――――――

>>674から分岐】

――――――――――――

しずくちゃんは訴えるように言うと、ぐっと堪えるようにして息を吐く。
そうして、しずくちゃんはゆっくりとこっちを見つめてきた。
瞳は潤んでいて、今にも泣きだしてしまいそうで。

選択を間違ってしまったんだと思わせるような悲痛な表情で――

「でも……私……それでもお兄さんが好きです……っ」

しずくちゃんは、身を乗り出すような勢いでそう言った。

思いもよらない告白にこっちが戸惑ってしまう一方、
もう歯止めがきかないといった様子で、
しずくちゃんは少しだけ、こっちに近づいてくる。

「楽しかったんです。嬉しかったんです……幸せだったんです……お兄さんとの時間が、とっても……」

しずくちゃんはそう言いながら「おかしいですよね……」と、呟いて。
それでもなお、近づいてきて
ついに真正面へと向かい合うように立って、しずくちゃんはこっちの袖の辺りをぎゅっと掴む。

「お兄さんがストーカーしてたこと……全部許してあげます。色々言いたいことはありますけど、でも……お兄さんを責めたくない」

しずくちゃんはきっと自分がストーカー行為を責めたら、
関係の全てが終わってしまうことになると思っているのだろう。

でも実際に、責められたら否定はできない。
してきたことは事実だし、しずくちゃんが嫌だと言うのなら
たとえ、守るためだったと言っても、それは許されないことになってしまうからだ。

「……好きになっちゃったんです。お兄さんのこと」

しずくちゃんは、恥ずかしそうに、困った様子で……繰り返した。

775: 2022/05/31(火) 06:58:24.37
「お兄さん」

しずくちゃんは視線を誘導するように袖を引き、顔を上げて。
視線を下げると、しずくちゃんはこっちをまっすぐ見つめてきて、
目が合ったかと思えば、にこりと笑う。

「お兄さんだって、私のこと……」

好きなんですよね? と、問いかけるようなしずくちゃんの表情。

スクールアイドルのしずくちゃんのファンで、
しずくちゃんのことを追いかけてここまで来て、
ハンカチから匂いを探し出して自分の匂いにしていたりして。

そんなことをしているのに、好きじゃないなんて。そんなわけがないと思うし、
しずくちゃんもそう思っているからこそ、確信があるといった様子で。
だから。

――好きだよ。と、答える。

初めて見た時から……ずっと。
あの赤色に魅せられて、忘れられなくなって……それは、間違いなく一目惚れで。

「ほら、やっぱり……お兄さん、私のことすっごく好きですよね? 匂いを調べちゃうくらい、大好きなんですよね?」

しずくちゃんは、こっちがしずくちゃんのことを好きだと認めた瞬間、
凄く嬉しそうな声で、急き立てるかのように訊ねてきて、
もう今更隠せるわけがないからと、正直に頷いて、好きだよ。と肯定する。

「運命じゃなくて、ストーカーさんだったのはショックですけど、でも、それだけ好きだってことなら……」

それなら。まぁ……と、しずくちゃんは受け入れようとしているように呟きながら、
ぎゅっと一際強く袖を掴んで。

「色々問題がありますけど……これからも一緒にいてくれますよね?」

776: 2022/05/31(火) 07:12:12.65
ストーカーは、その相手に好意を持っていることがほとんどだ。
もちろん、恨みを抱いていて害するために……という人も中にはいるけれど。

自分の場合は恨みなんかではなく、好意しかなくて。
だからこそ、しずくちゃんも「大好きってことなら……」と割り切ろうと思ってくれるのかもしれない。

けれど、そうなれば「ストーカー」よりも「女子高生」という問題が大きくなる。
一歩間違えれば、大変なことになってしまう肩書き。
それがあるから、自分は踏み込めなかったのに……。

ストーカーを受け入れられてしまったら、
女子高生であることを受け入れないわけにはいかないだろう。

777: 2022/05/31(火) 07:20:57.03
しずくちゃんはそんなことをしないでくれるかもしれないけれど、
受け入れてくれないならストーカーとして訴えます。という脅しだって出来る。

「……ダメ、ですか?」

しずくちゃんは不安そうに訊ねてくる。

ストーカーだとしても……と、
考えてしまうほどに好意を抱いてくれているしずくちゃん。
だから、女子高生だから無理だって断られることが不安で、怖いのかもしれない。

むしろ、こっちが本当にいいの? と、聞きたいくらいなのに。
それくらいにしずくちゃんは可愛くて、優しくて、いい匂いがして……。

そのしずくちゃんがここまで言ってくれているのに、
何を怖じ気付いているんだと、全身に力を入れて。

――ダメじゃないよむしろ、嬉しい。

はっきりと否定して、しずくちゃんが望むようにしようと頷く。
しずくちゃんを傷付けたくないからだ。

779: 2022/05/31(火) 07:29:22.15
「良かった……」

しずくちゃんは安堵したように呟くと、
もう捕まえていなくても逃げたりしないと思ったのか、
掴んでいた袖を手放して、ほっと……息をつく。

とはいえ……と、頭を動かす。
しずくちゃんが女子高生であるということもそうだけれど、
もう一つ別の問題がある。
流石に黙っているのも不義理だろうと思って、
実は……と、切り出す。

一昨日、酔った勢いで会社の先輩と――。

もしかしたら、本当になにもなかったかもしれないけど、
もしかしたら、何かやらかしている可能性もある。
そう言うと……。

「……え……? ……ど、どういう……え……?」

しずくちゃんは酷く混乱していた。

786: 2022/05/31(火) 07:43:38.60
「お、お兄さんは私のことが好きなんですよね……?」

しずくちゃんは「ストーカーしちゃうくらいに好きなんですよね?」と、
確認するように訊ねてきて、悩むまでもなく頷く。

ただ、しずくちゃんが好意を抱いてくれているようで、
それが自分の作為的な運命によるものだという罪悪感があって
悩んでいて……先輩は相談に乗ってくれたのだと話す。

「……私のお酌はだめでその方のお酌は良いってどういうことですか?」

しずくちゃんの意外な切り口に思わず間の抜けた声を漏らしてしまったけれど、
互いにお酒が飲めるから……と、
答えると、「飲めなくても良いじゃないですか」とむっとされてしまう。

789: 2022/05/31(火) 08:20:18.04
今度させてあげるから……と、
それはひとまず置いておいてくれるようにお願いする。

「……約束ですよ?」

しずくちゃんはちょっぴり怒った様子ではあったものの、
悩むように顔を伏せて、少ししてから顔を上げた。

「なら、その方に会わせてください」

なんで!? と思わず大きな声を出してしまうと、
しずくちゃんは「近所迷惑ですよ」と言いつつ「私が聞きます」と言う。

「私が、お兄さんの妹として実際にどうなのかお話を聞きます」

その日に何かがあったのか
それとも、なにもなかったのか。
しずくちゃんはその真相を聞き出すつもりのようで。

「お兄さんのためだけでなく、私のためでもありますから……任せてください」

しずくちゃんはとっても本気で、
拒否権はないといった雰囲気で……頷くしかなかった。

「ということで、連絡できるようにしませんか?」

しずくちゃんは嬉しそうな笑顔と一緒にスマホを取り出してきて、
先輩の話は口実のようなものなのかもしれないと「これでお約束できますねっ」なんて言うしずくちゃんを見てて思う。

けれど、
そんなしずくちゃんが可愛らしくて、愛おしくて、目が離せなくて。
やっぱり、好きなんだな……と。思った。

792: 2022/05/31(火) 08:38:31.53
少し早めに家を出たとはいえ、
いつまでも立ち止まってはいられないと……しずくちゃんと一緒に駅へと向かう。

時々、こつん……こつん……と腕にしずくちゃんの肩が触れてくる。
その度に、しずくちゃんは「ふふふっ」なんて、嬉しそうに笑う。

もう遠慮しなくてもいい。そんな解放感がしずくちゃんにはあるのかもしれない。
こっちとしては、嬉しさと緊張とであんまり余裕がないのに。

「……手でも繋ぎますか?」

不意にしずくちゃんはそんなことを言い出して、
流石に今のあからさまな格好では……と首を振ると、
しずくちゃんはちょっぴり残念そうに「ですよね……」と微笑む。

「じゃぁ、今度デートするときは握ってくれますか?」

793: 2022/05/31(火) 08:55:05.58
この前はしずくちゃんが袖を掴むだけだったし、
最後にしたのだって、手を繋ぐというよりはただの握手でしかなかった。

だから、しずくちゃんは今度こそはと思っているようで「お願いします」と、
可愛らしく上目遣いにこっちを見てくる。

遠慮が要らない。
だってストーカーしてくるほどなのだから。なんていう
しずくちゃんの切り替えが積極さを増したのだろう。

好きになってしまったから――見限れない。
その辛さを覆い隠したいというのもあるかもしれないけれど。

だからこそ、しずくちゃんの要求は出来る限り応えてあげたいと思う。
傷付かないように、苦しまないように、辛くならないように。

今度ね。と言うと、しずくちゃんは「約束ですよ」と、可愛らしく笑ってくれる。

話さなければ、もっと幸せだったかもしれないし、
話したからこそ、この距離感かもしれない。

いずれにしても、しずくちゃんを幸せにしてあげるべきだと、強く思う。

794: 2022/05/31(火) 08:57:17.83
またのちほど

806: 2022/05/31(火) 18:02:28.28
しずくちゃんと隣り合って電車に乗り、
会社の最寄駅で「お兄さん。またあとで連絡しますね」と、
しずくちゃんに見送って貰いながら、出社する。

しずくちゃんと朝会うだけではなく、常に連絡が取り合えるようになったのは嬉しいことだけれど、
その目的として先輩と話したいから。というものがあるのが少し、気を悪くさせる。

しずくちゃんは何か危ないこととか悪いことはしないだろうけれど、
先輩は不必要に喧嘩を売りそうな気がするというか。

シスコンだなんだと言っていたから、
しずくちゃんにも容赦なかったりするのではないかと、心配になってくる。

いや、流石に子供に対しては……と考え直していると、
しずくちゃんから「よろしくお願いします」という意味を持つスタンプが、送られてきた。

こちらこそよろしく。と、簡潔に返して
すぐに「なんだか簡素じゃないですか?」なんてしずくちゃんからのダメ出しが来て……。

なぜだか、スタンプをプレゼントされてしまった。

807: 2022/05/31(火) 18:14:50.94
昼休みになって、煙草を吸いに行くだろう先輩に声をかける。

少し話せませんか。と、訊ねると、
先輩は「なんだよ急に」と、少し眉を潜めながらも、承諾してくれた。

会社を出てすぐのところにある喫煙所。
その傍には先輩がいつも買っている缶コーヒーを売っている自販機が立っている。

先輩は缶コーヒーを買ってから「で?」と、煙草に火をつける。
それを横目に、実は妹が先輩に会いたがってて……と、
しずくちゃんを妹と設定して切り出す。

答えるよりも先に煙草に口をつけた先輩は、
煙を吐いて「意味不明なんだけど、なんで?」と当たり前のことを聞いてきた。

……この前家に帰らなかったじゃないですか。

理由としてもっとも簡単に通じるそれを口にすると、
先輩は缶コーヒーを開けて一口飲み、また煙草を吹かして。

溜め息をつくと「兄がシスコンなら妹はブラコンかよ……」なんて面倒臭そうに頭を搔く

そうして「しかも馬鹿正直に話したってこと?」と、先輩に言われて頷くと「バカじゃん」と悪態をつかれる。

810: 2022/05/31(火) 18:32:16.27
先輩は「なにも無かったって言ったでしょ」と言うけれど、
もしかしたらあったかもしれないので……と首を振る。

缶コーヒーをぐいっと飲んで「あたしが無いって言ったらないだろ普通……」と、先輩は呆れた様子を見せながらも「わかった」と答えてくれた。

その代わりに「飯奢れよ」と、先輩は言いつつ「あんたをシスコンにしたブラコン妹を見てやるよ」なんてバカにしたように言う。

しずくちゃんが妹だったなら誰でもシスコンになる。
きっと、先輩だってシスコンになるはずだ。
そうさせるようなものがしずくちゃんにはあると思う。

もちろん、そんなことを言えば「シスコンだからだろ」と、冷めた目で見られることになるのだろうけど。

そのあと、しずくちゃんと連絡を取って、今日でも平気かどうかを確認し、
先輩の家が職場の近くにあるということもあって、
しずくちゃんには会社の最寄駅へと来て貰うことになった。

812: 2022/05/31(火) 19:44:05.92
しずくちゃんが部活をしていると言っても、
定時で上がったってしずくちゃんを待たせることになってしまう。

実際、しずくちゃんからは「待ってますね」と、
どこで合流するかを含めた連絡が退勤する約1時間前に来ていて。

仕事をどうにか定時近くで切り上げ、急いで駅へと向かおうとしたけれど、
先輩に「ヒールなんだけど」と怒られて、タクシーで駅に向かう。

タクシーで行くとしずくちゃんに伝えて、
少しだけ合流場所を変えて貰った場所につく。

人がまばらにいる駅前辺りを見て、
先輩が「どれ?」と聞いてきたのとほぼ同時に「お兄さ~ん」という呼び声がかかる。

2人で目を向けた先には、大きなリボンが特徴的な女子高生が手を振っていて
その女子高生――しずくちゃんは駆け足で近付いてきた。

「お兄さん、お疲れ様です」

可愛らしい笑顔を見せてくれるしずくちゃんの一方、
先輩はおぞましいものを見る目付きでこっちを見て「……パパ活?」と、呟いた。

816: 2022/05/31(火) 19:56:43.60
先輩のあんまりにもな発言に動揺してしまって、
いやいやいや何言ってるんですか! と、
むしろそれっぽい否定をしてしまう。

そのせいか先輩が訝しげで。

「ふふっ……お兄さんってば、それじゃぁ認めちゃってるみたいですよ?」

しずくちゃんはしずくちゃんで、
否定も肯定もせずに楽しそうに笑いながらそう言って、先輩へ目を向ける。

「はじめま――」

そして挨拶……のはずだったけれど、
先輩は「桜坂しずくでしょ?」と、見事に言い当てた。

819: 2022/05/31(火) 20:11:34.89
「ご存知なんですか?」

しずくちゃんは言い当てられてもまったく動揺する様子はなく、
むしろ、知ってて貰えたことが嬉しいというような声色で。

先輩はスクールアイドルや、SIFのことを上げて、
ネットニュースにもなってるから……と、
どうして知っているのかを話して。

どう考えても兄妹じゃないでしょ。と、指摘されてしまう。
否定するべきかそれとも……なんて考えている間にも、
しずくちゃんは平然と笑顔を浮かべていて。

「そうですね……正確には従兄従妹なんです。私、一人っ子なのでお兄さんにはすっごく良くして貰ってて……」

だから。と、しずくちゃんは言いながらこっちに身を寄せてくる。

「お兄さんがつい最近、夜も眠れないような経験をしてしまったって聞いて心配だったんです」

822: 2022/05/31(火) 20:59:12.21
先輩には事前に妹……従妹のしずくちゃんが
何を気にして先輩に会いたがっているのかは説明しているということもあって、
先輩はため息をついて、こっちを見る。

外で立ち話する内容でもないからと、
ひとまず、ファミレスにでも行こうかと言う話になって駅近くにあったお店に入る。

先輩はよくよく煙草を吸う為、
喫煙席の方が良いかもしれないとしずくちゃんに声をかけると、
先輩は「禁煙席で良いから」と、一足先に禁煙席でと店員に声をかけて奥に入っていく。

その後をしずくちゃんと追いかけて、
先輩の対面に自分が来て、自分の隣に、躊躇なくしずくちゃんが座る。

先輩はしずくちゃんにドリンクバーはいるか。何か食べるのか……と、
色々聞いて気遣いながら、こっちにはいつものようにやや適当に聞いてきて、注文をする。

そうして――。

先輩は「で? お兄ちゃんと何かあったら問題でもあるの?」 と、先輩はやっぱり、
不必要に喧嘩腰でしずくちゃんに訊ねた。
対して、しずくちゃんは「お兄さんを困らせないで欲しいんです」と、悲しそうに言う。

「お兄さんがしてしまったことなら仕方がないと思いますけど、でも、もし、本当は何もないのなら、そう言って欲しいんです」

心配そうにしているしずくちゃんを横目に、
先輩は「ほら面倒くさい」とでも言いたげな様子を見せる。
いつもは煙草を吸っているからか、やや手持ち無沙汰に「お兄ちゃんには何にもなかったって言ってるんだけど」と、吐き捨てる。

824: 2022/05/31(火) 21:31:32
「何も、なかったんですか?」

しずくちゃんはちょっぴり驚きながら先輩へと聞き返し、
こっちにも目を向けて「なかったんですか?」と、素知らぬ様子で訊ねてくる。

先輩は「寝たは寝たけどね」と、言わなくてもいいことを言って、
しずくちゃんが「え……?」と、
唖然としたのを一目見て「下着までしか行かなかった」と、笑う。

「……何もなかったんですか?」

なんてこっちに近寄ってくるしずくちゃん。

それを見て苦笑する先輩と、
料理を運んできて気まずそうな高校生くらいの店員。
少しだけ不思議な時間が流れて。
先輩は店員が去ってから「本当に何もなかったよ」と、しずくちゃんを見つめる。

お酒ではないただのソフトドリンクをまるでお酒でも飲むかのように飲みながら、
先輩は「従妹なら、一緒にお風呂に入ったことくらいあるんじゃないの?」なんて、突拍子もないことを言いだす。

しずくちゃんは高校生で、自分とは一回り近く歳が離れている為、
そんなにも仲が良いのなら、幼少期には一緒にお風呂に入っていたんじゃないかと思ったのだろう。
最初、呆然としているようだったしずくちゃんはだんだんと顔を赤くしていって。

「お、覚えてませんっ」

なんて、それはそうだろうと思わざるを得ないことを、
まるで覚えているかのように声を上げて、恥ずかしそうに顔を背ける。
これは確かに、女優を目指して演技を磨いているなぁ……と、他人事のように感心してしまう。

826: 2022/05/31(火) 21:49:52.29
先輩は照れてしまったしずくちゃんを面白がりながら、
運ばれてきた料理に箸をつけて、1人先に、食べ始める。
しずくちゃんはちらりと先輩を見て、
それからこっちを見てきて、手でぱたぱたと自分を仰ぐ。

「お兄さんとは仲良かったですけど……でも……そういうのは、たぶん……」

照れているのは演技……ではないようだ。
覚えていない。という言葉を選べたのが奇跡的なほどに動揺しているのが、
しずくちゃんの表情から見て取れる。

ひとまず食べちゃおう? と声をかけると「そうですね……」と、
しずくちゃんも食べ始めて。
先輩はそんなしずくちゃんに対して「でもさ。従妹にしては距離近いんじゃない?」と、突っ込んできた。

しずくちゃんはお箸をピタリと止めて、ゆっくりと先輩に目を向けていく。
何かを言おうとしたのかもしれないけれど、

「もしかしてさ……ちょっと特別に思ってんの?」

先輩はあらかじめ用意していたかのように、
先手先手を打って、しずくちゃんの余裕を奪いに来る。

しずくちゃんはお箸を取りこぼし、目を見開いて……
こっちを見たかと思えば、落としてしまったお箸を拾ってから、先輩を見る。

「私にとって特別だったら、お姉さんにとって不都合なんですか?」

店内には子供連れのお客さんなどがいて、
結構な騒がしさがあったはずなのに……まるで、時間が止まってしまったかのように静かに感じられるくらい、
しずくちゃんの声は刺々しく感じられた。

828: 2022/05/31(火) 22:18:06.01
そんな風に返されると思っていなかったようで、
先輩は驚いた様子でしずくちゃんを見つめて笑うと「別に?」と素っ気なく返す。

「酔っても身体許さない程度の相手だし」

先輩はしずくちゃんが一番気にしていたことをあえて引き合いに出しながら、
悪戯っぽく笑って見せたけれど、
しずくちゃんは何にもなかった。と言われていたからか、
もうそんなことはどうでもいいといった様子で、可愛らしく笑う。

「お兄さんですから」

お兄さんだから……? と、引っかかってる自分をよそに、
しずくちゃんと先輩はニコニコと見つめ合う。
けれど、その空気はあまりよろしくなさそうだと戦々恐々としてしまう。
そんな中、しずくちゃんが口を開く。

「お兄さんは特別ですよ。だって、いつも優しくしてくれたから、守ってくれていたから、可愛がってくれていたから。スクールアイドルを応援してくれて、夢を応援してくれていて……高校生と大人になってしまった今でも変わらず、妹のように大切にしてくれていますから」

しずくちゃんは堂々と、胸を張って語る。

妹のように大切にした覚えはないものの、優しくしたし、守ったし、可愛がっていたし、
スクールアイドルのことを応援したりもしていて――。

「でもだからこそ、妹とは思われないような距離感である必要がありそうかな……って、最近は思ってます」

にっこりと笑うしずくちゃん。
あんまりにも堂々としていて、冗談だとか、演技だとか
そう思わせないような雰囲気が感じられて……

「だからもし、お姉さんがお兄さんを欲しいと思っているのなら――覚悟してくださいね?」

流石に、しずくちゃんに軍配が上がったのだと自分でもわかった。

831: 2022/05/31(火) 22:51:06.75
その後は、先輩からしずくちゃん。
しずくちゃんから先輩へと、所謂、口撃のようなものが行われるようなこともなく、
先輩は別れ際に「本当に何もないから安心していいよ」と、改めて言ってくれるだけだった。

電端の方の車両だったからか、運良く座ることが出来て一息つく。
もしかしたら本当は……なんて。
そんな推測はきっと、野暮なのだろうと振り払った。

しずくちゃんとは帰りがほぼ9割同じで、
今はもう、気兼ねなく一緒に帰ることが出来るため、
今日は迎えに来るの? とだけ確認すると、
しずくちゃんは困った顔で「今日はないですよ」と、答える。

迎えに来てくれた方が良かったのだろうか。
一緒に帰るのはそこまで嬉しくないのだろうか。
それとも――と、考えている間に、しずくちゃんは「ごめんなさい」と、言う。

「お兄さんの会社での立場悪くしちゃったかもしれません……」

先輩とのやり取りは、少し激しいのではと感じさせられるような場面もあって、
そんな妹……従妹がいるような兄とはちょっと。なんて、先輩が避けるようになり、
噂が広まって……となる可能性をしずくちゃんは考えたのかもしれない。

先輩が挑発するようなこと言ってたからだし……と、しずくちゃんのことをフォローする。
けれど、しずくちゃんは首を振りながら、そうっと体を寄せてくる。

「お兄さんからしてみれば、社会的に気兼ねなくお付き合いできるあのお姉さんの方が良いのかもしれないと思ったら……つい」

しずくちゃんは「我儘だったんです」と、呟く。
色々な問題などを考えれば、しずくとの関係はデメリットが大きすぎる。
だから、ちょっとしたことでも離れて行ってしまう可能性があると思ってしまって。
それで……思っていた以上に刺々しくなってしまったのだと、しずくちゃんは零す。

833: 2022/05/31(火) 23:15:01.52
確かに、しずくちゃんが言っている通りかもしれないけれど、
そんなメリットデメリットを考えられるような人ならストーカーにはならない。
自分のことではあるけれど、
いや、だからこそ……これははっきりと断言することが出来る。

ストーカーだよ?

たった一言。
けれど、しずくちゃんから先輩へと……
社会的な諸問題くらいで鞍替えするはずがないと確信して貰える言葉。
それを、堂々と口にすると、しずくちゃんは「そうですね」と、小さく笑った。

「そうですよね……お兄さんは、私のことをとっても大好きなんですから……」

でも、だから……と、しずくちゃんはこっちを見つめてきて。

「私、もっとお兄さんのことを好きになりたいです……お兄さんと同じくらいに好きになりたいです」

ストーカーしてしまうほどの好意。
それをしずくちゃんも抱きたいと言うその言葉は、
そんなに無理をしなくても……と、思わず言いたくなってしまうようなものだったけれど、
実際に口にしてしまったら、しずくちゃんを傷つけてしまいそうな気がして。

ただ、笑って。
それにはまず、どこぞのお兄さんがしずくちゃんくらい魅力的にならなきゃいけないなぁ。と、冗談めかして言う。

「そうなったら、他の人がお兄さんのストーカーするからダメです」

冗談だったのにしずくちゃんからは断固拒否されてしまって、
その代わりにと、しずくちゃんは「デートしてください」と、要求してくる。

――もちろん。と、答えながら、
寄り添ってくるしずくちゃんの体を受け入れて
もう暫くは電車を降りる必要もない。だから、少しだけ……と、目を瞑った。

839: 2022/06/01(水) 06:21:42.26
鎌倉駅にしずくちゃんのお父さんが迎えに来ているということもなく、
行きとは逆の順番で電車に乗り換えて、家路につく。
横須賀線ではまだ、人も多く感じられるようなものがあったけれど、
江ノ島電鉄に乗り換えると、もう、まばらもまばらという感じだった。

七里ヶ浜駅で降り、ぐぐっと体を伸ばすと、
しずくちゃんは隣で小さく笑って「マッサージでもしてあげましょうか?」なんて、
頷きたくなるようなことを言いながら、見つめてくる。

「でも、今日は出来ませんよ? また、今度です」

しずくちゃんは「残念ですけどね」と、
茶化すようにではなく、しずくちゃん自身もちょっぴり残念だと思っているかのように
可愛らしく、残念そうに笑いながら言う。

しずくちゃんの小さく、短く、早くも遅くもない歩みに合わせながら、
暗くなった夜道を歩いていると、
当たり前だけれど、いつも1人のはずの道がいつもよりゆっくりと過ぎて行き、
そして、自分の足音に重なるような足音がすぐ隣から聞こえてくる。

「お兄さん」

しずくちゃんはふと、こっちのことを呼んできて、
何かあるのだろうかと隣を見ると、しずくちゃんは特に立ち止まることもなく歩いて。

「お家の合鍵とか……持っていたりしませんか?」

合鍵? と聞き返してしまうと、
しずくちゃんは「合鍵です」と、繰り返してこっちを見ると、可愛らしく笑う。

「合鍵をくれたら、毎日お家が綺麗になってるかもしれませんし、お洗濯されているかもしれませんし、お料理が作り置きされているかもしれませんし、毎日疲れて帰ってきたときに、お帰りなさい。って、言って貰えるかもしれませんよ?」

それは……魅力的かもしれない。なんて、
ついつい、深々と想いを馳せるように呟いてしまう。
掃除も料理も洗濯もしてくれていなくたっていい。
ただ……帰ってきたときにお帰りなさい。と、そう言って貰えるだけで十分だと、思う。

841: 2022/06/01(水) 06:37:23.24
それがあんまりにも真剣なものに思えたのだろう。
しずくちゃんは楽しそうに笑いながら「お兄さんっ」と、袖を引いて。

「ちょっとくらい、欲張ったって良いんですよ?」

お帰りなさい抱けを求めるのも、それはそれでいいと思う。
けれど、掃除や洗濯、料理。
そう言った負担の1つを肩代わりしてくれることを望んでも良いのだと、しずくちゃんは言う。

「……だって、私はお兄さんの……」

しずくちゃんはそこまで言って、顔を赤くして口を閉ざしてしまう。

やや俯きがちになって、見えなくなってしまったけれど、
でも、しずくちゃんが可愛いということだけは分かっているからか、
思わず笑ってしまうと、しずくちゃんはぴくっとして、顔を上げる。

「笑うところじゃなかったと思いますけど」

しずくちゃんは「もうっ」とちょっぴり怒ったように頬を膨らませていて。
それがまた可愛らしくて、愛おしくて、どうしても、笑みがこぼれてしまう。

――だって、可愛いから。

隠す必要もない本音を告げてしずくちゃんのことをまっすぐ見つめると、
しずくちゃんは「そんな可愛い子に家に来て欲しくないですか?」なんて、
顔を赤くしながらも、攻めてきて……。

来て欲しいかな。と、お手上げだと頷く。
恥ずかしい思いをしたから、一つくらいは勝ちを貰わないととでも思っていたのだろう。

「あとで家の前にまで行くんですから、その時にください」

なんて、可愛らしい催促をしてきた。

843: 2022/06/01(水) 07:34:18.62
約束通りに合鍵を渡した翌日、
しずくちゃんは朝から家に来る……なんてことはなく、普通に駅で合流する。

どうして来なかったのかと聞くと、
しずくちゃんは「朝からは人目があるかもしれませんし」と、残念そうに答える。

「でも、夜はお邪魔します」

しずくちゃんはそう言いながら、
身体が揺れてぶつかってしまっただけであるかのように接触してきて、可愛らしく笑う。

「……お帰りなさいって、聞けると良いですね」

しずくちゃんは優しく、囁くような声色でそう言うと、
身長差からくるどうにもならない上目遣いで、誘ってくる。

帰る前には帰れるように頑張るよ。

そうしないわけがないと考えて、そう言うと、
しずくちゃんはちょっぴり困った表情で。

「無理はしすぎないでくださいね」

と、ほんの少し……寄り添ってきてくれた。

844: 2022/06/01(水) 07:44:49.55
会社に着くと、先輩から何かあるかもしれないと思っていたけれど、
特に何かあるわけでもなく、時間が過ぎていく。

お昼に声をかけてくることも無かったし、
喫煙所の近くにある自販機に行っても、
先輩からは何もなくて、喫煙所を離れようとした先輩に声をかけた。

妹が、色々と……

そう切り出したけれど、先輩は「気にしてないから」と言って。

「本気なら、あんたがしっかりしなさいよ」

そう吐き捨てるようにして、戻っていく。

本当は妹でも従妹でもないから、
血の繋がり的な部分では問題がないけれど、
年齢的なところや、収入的なところもあって。
確かにしっかりしなきゃダメだろうと、意気込んだ。

846: 2022/06/01(水) 08:22:53.43
仕事は頑張ったけれど、定時に上がるのは少し難しくて、
定時から2時間ほど遅く退社する頃には、
しずくちゃんから『お仕事お疲れ様です。残念ですけど、今日は帰りますね』と、
連絡が来てしまう。

朝一緒になれるだけでも十分贅沢なことだと分かってはいるけれど、
それでも、家に来てくれていたしずくちゃんに会いたかったし、
出来るなら「お帰りなさい」を聞きたかったと、欲が出る。

明日こそは……。

そう思う自分の手の中にあるスマホの画面に映るしずくちゃんとのやり取りが、動く。

『冷蔵庫に何もなかったので、ちょっとだけお買い物をして、あと、少しだけお掃除もしておきました』

何をしていたのかの連絡と、それに付け加えるように『感謝してください』というようなスタンプが送られてくる。

ありがとう。と、簡素に打ち込むと、
それに類する意味を持つスタンプが表示され……そっちに切り替える。

しずくちゃんからプレゼントされたスタンプの一つ。
しずくちゃんからは『私が贈ったものですね』と、ただの文字列だけれど、
喜んでいると感じられる返しがきた。

847: 2022/06/01(水) 08:33:33.43
今まではこんなこと出来なかった。
しずくちゃんと常にこうして連絡を取り合えるようになれるだなんて、思ってもみなかった。

だからか、嬉しくて、込み上げてくるものがあって。
つい、会いたかった。と、正直な気持ちをしずくちゃんに送ってしまいそうになっていると、また画面が動いて。

『お兄さんがいつ頃お帰りになるのか分からなかったので、お料理は冷蔵庫に入れてあります』

お料理……料理!? と、
思わず二度見するようなメッセージはすぐに動いて――。

『私の冷めた愛情をどうぞ、電子レンジで温めてください』

――明日こそは会えるように頑張るから。

すぐに、そんな風に謝罪ではない申し訳ない気持ちを送ると、
しずくちゃんは『冗談ですよ。無理せず朝、お会いしてくれれば十分です』と、返してくる。

そんなこと言われても、
もう固まってしまった頑張るしかないという意志は、崩れなかった。

849: 2022/06/01(水) 08:59:15.60
家につくと電気は消えていて、
しずくちゃんが居るような様子はまるでなかった。
連絡があったし、今まではそもそもそれが当然だったとはいえ、
いてくれたかもしれないという寂しさが湧いてきて、がっくりと肩を落としてしまう。

けれど、鍵を開けて中に入った瞬間から、それを払拭するかのようにしずくちゃんの匂いが感じられた。

ついさっきまでしずくちゃんがいてくれたと、分かる匂い。
洗濯物だけでなく、しずくちゃんそのものの優しく甘い匂いがそこには満ちていて。

玄関にはしずくちゃんが持ち込んだだろう見慣れないスリッパが置かれていて、
部屋は朝見た光景とは見違えるほど整えられており、
冷蔵庫には、お弁当風のパックが入っていて。

そこには、

『お兄さん。お帰りなさい。お仕事お疲れ様でした。温めて食べてくださいね』

と、書かれたしずくちゃんのメモが一緒に置いてあった。

850: 2022/06/01(水) 08:59:28.89
またのちほど

856: 2022/06/01(水) 18:15:21.59
冷蔵庫に入っていたこともあって、
冷たくなってしまったしずくちゃんの愛情を600wで1分程度にした電子レンジに入れる。

とりあえず着替えてしまおうかとスーツを脱ごうとしたところで、
着替えが用意されていることに気付いて、それに着替える。

着替えて……袖の方の匂いを嗅ぐ。

元からしずくちゃんの家と同じものを使って洗っているため、
しずくちゃんっぽい匂いがするのは当たり前だったけれど、
今日はなんだか、一際強くしずくちゃんを感じられる匂いがしたからだ。

まるで、しずくちゃんが着ていたかのような……。

まさかそんな……と首を振ると、電子レンジが呼び掛けてくる。
出してみたお弁当はまだ冷たくて、
600wで2分の設定でもう一度温めてみると、なかなか良い感じの温かさになった。

859: 2022/06/01(水) 18:26:01
電子レンジから出したお弁当をテーブルの上に置き、
お箸と飲み物を用意してから、1枚写真を撮ってしずくちゃんへと送信する。

――今帰ったよ。色々ありがとう。いただきます。

感謝を述べようと思ったら画面が埋まってしまう可能性もあるため、
可能な限り簡潔で分かりやすい一文を添え、
最後に感謝を示すスタンプを送信する。

すると、スマホをテーブルに置くのとほぼ同時に既読が付き、
そして『お疲れ様です。お兄さん』と、一言が表示され、労いのスタンプが表示される。

『後で電話しても良いですか?』

しずくちゃんからそんな確認が来て、
すぐに、大丈夫。と返すと、感謝を表すスタンプが送られてきて、
動きがあるものだったらしく、画面いっぱいに小さなハートマークが散らばっていく。

……かわいいな。と、
スタンプではなく、きっとテンションの高いしずくちゃんのことを思って、呟く。
部屋中がしずくちゃんの匂いでいっぱいだからか、
そこにはいないのに、そこにいるかのように感じさせてくれて、
それが……とても、幸せにさせてくれる。

861: 2022/06/01(水) 19:05:54.84
しずくちゃんが作ってくれたお弁当は、お店のお弁当に比べれば見映えでは劣ってしまう。
品目でも、料理自体の見た目でも。

けれど、それこそがしずくちゃんが作ってくれたんだという証明のようなもので、
しずくちゃんが手作りしてくれたものであるというだけで、
もはや、見映えなどどうでも良いし、味だってどうでも――

……美味しい。

と、ありがちな黄と白の混じりあった恒例のあれ――卵焼きを食べて、感動してしまう。

ちょっぴり焼きが多めだったのか、
焦げる一歩手前のような部分もあったけれど、
それでも、ほんのりと甘めに作られていて、
疲れた身体には心地が良い。

しずくちゃんのお弁当はそれに加えて、
小さめのハンバーグや、ブロッコリーを茹でたものなどがあって。
一つずつ、少しずつ……勿体ぶりながら、食べ進めていった。

862: 2022/06/01(水) 20:16:47.23
ゆっくり食べたといっても、元々食べるのが早かったせいか、
30分ほどで食べ終えてしまった。

名残を惜しみつつ、容器を洗って小さめの食器棚のところに立て掛けていると、スマホが鳴る。

電話をかけてきたのはしずくちゃんで、
さっき『後で』と言っていたから、
30分……洗い物などを含めれば50分程度もあれば流石に食べ終えていると思ったのだろうか。

濡れていた手を拭き慌てて取る。
3コールほど鳴ってからだったためか『お邪魔しちゃいましたか?』なんて、
しずくちゃんは開口一番、心配してきて。

正直に、洗い物してたから。と、答える。

『そうだったんですね……お弁当はどうでした? お口に合いましたか? 可能な限り嫌いそうなものは避けたんですけど……』

しずくちゃんはちょっぴりどきどきしているみたいな声色で、
目の前にはいないけれど……なんとなく、顔が赤いんだろうな。と、笑みが溢れてしまう。

――大丈夫だったよ。美味しかった。

嫌いなものなんて無かったし、
お世辞でもなく、本当に美味しかったのだとしずくちゃんに伝える。

『そうですか? それなら……良かったです』

じんわりと込み上げてくる嬉しさを悟られないようにとしているかのようなしずくちゃんの声。
大きく弾んでも、弾まないよう頑張っていても。

どっちのしずくちゃんもかわいいな……と思って。

電話で声を聞きながら、目の前の椅子に座っているような……そんな気分になれそうだと、目を瞑ってみる。

865: 2022/06/01(水) 22:59:01.11
この前……そう、デートのようなことをした時、
対面に座っていたしずくちゃんのことを思い返してみる。

可愛らしい笑顔を見せてくれながら、
楽しそうに話したり、嬉しそうに話したり、
そして……ちょっぴり気恥ずかしそうにしていたり。
今まで見てきたしずくちゃんをそこに照らし合わせて……。

『お兄さん』

耳に馴染む、しずくちゃんの声。
スマホから流れてきているそれに合わせて、
目の前に思い浮かべたしずくちゃんが唇を動かす。
目を向けて見れば……にっこりと、とても可愛らしい笑顔を浮かべてくれる。

――どうかした?

そう聞き返すと、しずくちゃんは『もっとこう、何かないんですか?』と、探るように聞いてきて、
お弁当の件だろうかと思って、
どれがどう美味しかったのかと、事細かに話してみる。

しずくちゃんは『じゃぁまた作りますね』とか、『こういう味付けもしてみます?』とか、
それ以外には『こんなもの作れますよ』なんて、嬉しそうに、ちょっぴり自慢げにお話してくれる。

866: 2022/06/01(水) 23:32:46.71
『それはそうと……お着替えも用意しておいたと思うんです』

いつまで経ってもお弁当の話から進まないと思ったのだろう。
可愛らしく嬉しさを隠せない弾んだ声色のまま、
もう聞いてしまおうといった感じで、切り出してきた。

『ただお洗濯したものより、お兄さんが好きそうな匂いがするようにしておいたんですけど』

しずくちゃんは『もしかして気付かなかったんですか?』なんて、
むっとしているかのように言ってきて。

お弁当のことかと思って。と弁明しつつ、
やっぱり、しずくちゃんが何かしたんだ。と、
用意されていた着替えが普段よりもずっとしずくちゃんらしい匂いになっていたことについて訊ねる。

『……ちょっとだけ、しました』

言うかどうか迷い、顔を背けて、結局言えずに誤魔化す一言を呟くしずくちゃんが目に見える。
後ろめたいとかではなく、
言ってしまいたいけど、言うのが恥ずかしいと言った様子のしずくちゃん。

――もしかして、着た?

一番あり得ない可能性をしずくちゃんに聞いてみると、
スマホの中、しずくちゃんの方から、がたんっ……と音がして。

『そ、そんなわけないじゃないですかっ……』

しずくちゃんは慌てたように否定する。
本当に? と聞き返したくなるような感じだったけれど、
こっちが何かを言う前に、しずくちゃんが『してませんよっ』と再度否定して。

『その……ただ、ちょっとだけ、ぎゅっとしてみただけというか……』

と、小さな声で答えた。

872: 2022/06/02(木) 00:05:49.88
着替えを用意しようとして引き出しから取り出し、
テーブルの上に置くまでの短い時間、抱いていたとかではなく、
引き出しから出してすぐに置いたりせず、暫く、抱きしめていたのだろうか。

何を思ってそんなことをしていたのかは分からないけれど、
自分の意思でそうしてくれていたはずで……。
どうして? と聞きたい気持ちを押し込もうとして、つい、喉を鳴らしてしまうと、
しずくちゃんは『お兄さん、帰ってくるって言ったじゃないですか』と、呟く。

『なのに、お兄さん……帰ってきてくれなくて』

だから用意していた着替えを抱きしめていたのだろうか。
少しでも、こっちのことを感じていたくて?
会いたいと思ってくれていたから?
……寂しい思いを、させてしまったのだろうか。

そう思って、ごめん。と言うと、
しずくちゃんは『お仕事ですから仕方がないですよ』と言って。

『でも、お洗濯物は私の匂いで……。自分の服を抱いているみたいだったから、すぐに止めましたけど』

確かに。と、思う。
しずくちゃんの家と同じものを使っているはずだから、
洗濯された後のものは、しずくちゃんのそれとほとんど変わらないはずだ。

少し考えて、以前のものに戻した方が良い? と訊ねる。

『別に良いですよ。だって、お兄さん好きなんですよね? 私の……匂い……』

自分で言うのが恥ずかしいといった声で断ったしずくちゃんは、
それでも、少しは興味があるようにも感じられる。

洗濯用の洗剤をしずくちゃんのものと統一しなくても、
これからは、しずくちゃんのことを感じられる。
だから、今までのものに戻して、しずくちゃんと自分は違うもので。
そこにしずくちゃんの匂いが混じっていくのを感じるというのも、良いのではないか――なんて、思う。

879: 2022/06/02(木) 07:02:20
しずくちゃんが元々の匂いを好きかどうかわからないから、
一度だけ切り替えてみて、
駄目そうならまたしずくちゃんの匂いに戻す。
そんな風に試してみない? と、提案してみる。

『お兄さんが平気なら私は構いませんけど……私の匂いがなくなっても、平気なんですか?』

今は着ている服も、必ず持ち歩いているハンカチも、
洗濯しているもの全てが、
しずくちゃんの匂いを感じられるようになっている。

それがまた今までのような自分のにおいになってしまうと考えると、
本当に大丈夫だろうか。なんて少し不安になるけれど。
でも、と、打ち止める。

洗濯用洗剤で作られたしずくちゃんの匂いではなく、
シャンプーやソープ……そして、
しずくちゃん自身の匂いが混じり合ったしずくちゃんの匂いそのものが、
常に傍にあるから大丈夫だろう。

そう思って。

――今はしずくちゃんが傍にいてくれるから。

そう言うと、しずくちゃんは『お兄さん……匂い好きすぎませんか?』なんて、
凄く照れているんだろうなと分かる、可愛らしく、
動揺しているような声を返してきてくれる。

880: 2022/06/02(木) 07:27:26.79
最早、隠したところで……と考えて、
堂々と、好きだよ。と、答えると『お兄さんってば……もうっ……』なんて、
しずくちゃんの可愛さがスマホから漏れてくる。

もっと好きだと言ってしまおうか。
もっと可愛いと言ってしまおうか。
もっと……もっと……と、
ついつい、年甲斐もなく悪戯心が芽生えてしまうくらいに、
目に見えなくても、しずくちゃんが可愛いのが分かる。

しずくちゃんが抱いてくれていた寝間着は、
しずくちゃんの匂いが強く染みついていて……
目を瞑れば、その可愛くて仕方がないしずくちゃんが見える。

やや俯きがちで、けれど、
耳の方までの赤色がその表情を悟らせるしずくちゃん。

……可愛い。

と、思わずつぶやいてしまうと、
しずくちゃんは『何言ってるんですか……見えないのに』とちょっとだけ声を弾ませながら言う。

それがまた可愛らしくて、つい笑ってしまうと『む~……』なんて、返ってきて。

『もういいですっ……おやすみなさいお兄さん』

これ以上、電話を続けていたら限界が来てしまうといった様子で切り上げようとするしずくちゃん。
そんなところも可愛くて、おやすみ。と、返す声が少し膨らんでしまった。

881: 2022/06/02(木) 07:43:17.84
掃除をしてくれて、料理をしてくれて、
そして、こんなにもかわいい電話をしてきてくれるしずくちゃん。
感謝してもしきれないと、通話記録に残るしずくちゃんとの通話時間を見つめる。

明日の朝は会える。
けれど、頑張って夜にも会えるようにしよう……と、意気込み、
しずくちゃんが用意しておいてくれた布団に入る。

寝間着の匂いのお陰か、布団もしずくちゃんの匂いが強く感じられて、
これはちょっと寝るのが大変かもしれない。なんて、
高鳴って止まない心臓を抑えようと深呼吸する。

けれど、かえってしずくちゃんの匂いに満ちてしまって……ふと、スマホが震える。
通知にはしずくちゃんからのものだという表示が出ていて。

改めて、おやすみなさい。と、
律儀にしてくれたのかなと嬉しい気持ちで開いて――

『良く眠れるおまじないだそうですよ』

――と、今まさに自分が入っている布団にくるまって、
自撮りしているしずくちゃんの写真が送られてきていて。

『間違えました。寝不足になるおまじないです』

と、既読がついたと見てのメッセージが届き、
そうして『仕返しですっ』と、『ぷんすか』とするスタンプが送られてきて。

……そこからの記憶は、ない。

885: 2022/06/02(木) 08:30:49.82
味噌が溶け込んでいくような、朝を彷彿とさせる匂いに導かれて目を醒ます。
意識がはっきりしていくと、
かちゃかちゃと、久しく聞いていなかった料理の音が聞こえてくる。

それが止まったかと思えば、
スリッパが床を跳ねているみたいな可愛らしい音が近付いてきて……。
エプロンを着けたしずくちゃんが姿を見せた。

……えっ?

と、思わず漏らしてしまったこっちを見て、
しずくちゃんは「驚きました?」と、嬉しそうに笑う。

「本当に寝坊させてしまったら大変だと思って……来ちゃいました」

886: 2022/06/02(木) 08:40:39.39
虹ヶ咲学園の制服の上から着けている、恐らくは新品のエプロン。

なんと言えば良いのだろうか。
もっとも簡潔に言えば、語彙力を損なわせる魅力だろうか。

そんな魅惑的なしずくちゃんは「どうですか?」なんて、
照れくさそうに頬を赤くして。

昨日は人目があるから。なんて言っていたのに……。と、
走馬灯のようなものが想起され「お兄さん?」と呼ばれて引き戻される。

――かわいいけど、その、色々と大丈夫?

人目とか色々と。
そう気にしたのだが、しずくちゃんは可愛らしく笑って「大丈夫ですよ」と言う。

「朝ごはん作ってますけど、食べますか?」

そう聞かれて二つ返事で答えて、起きる。
ボサッとした髪とか、色々とダメなのは自分では? と思って、
しずくちゃんが準備してくれている間に、顔を洗って簡単に髪を整える。

――いただきます

と、目の前にいるしずくちゃんに言うと、
にこにことした、可愛らしい笑顔と一緒に「どうぞ召し上がれ」と、返ってきた。

890: 2022/06/02(木) 10:00:18.76
ご飯とお味噌汁、ほうれん草のおひたしに、目玉焼きと炒めたソーセージ。
焼き魚……とは流石にいかなかったけれど、
でも、十分すぎるもので。

「……美味しいですか? 味付けは私好みなので、ちょっと濃かったりするかもしれないですけど……」

しずくちゃんはそんな風に不安そうに聞いてきたけれど、
まったく問題なく、十分に美味しかった。

しずくちゃんは食べている間、こっちを見ては、目が合うと可愛らしく笑ってくれて、
どきどきとさせられる。

今日が休みなら、もっとゆっくり味わって食べられるのにと思いつつ、
見つめられているのが気恥ずかしくて……早く食べてしまう。

「……なんだか、新鮮で良いですね」

嬉しそうに笑うしずくちゃんはとっても可愛らしかったけれど、
でも、だからこそ、直視できなかった。

891: 2022/06/02(木) 10:00:28.68
またのちほど

899: 2022/06/02(木) 18:12:41.85
「お兄さんって、朝にシャワー浴びるんですか?」

おもむろにしずくちゃんに訊ねられて、場合による。と、答える。
寝汗をかかないような季節なら夜に済ませてしまうし、
かいてしまうようなら朝に入ることもある。
夏場に関しては、朝と夜両方に。ということもある。

「ちなみに、今日は……」

窺うようにして聞いてきたしずくちゃんは、自分の言葉に気付いて顔を真っ赤にしていく。
こっちを見上げると、羞恥心で潤んだ瞳が見えて。

「ち、違いますよ! ただ、その……っ、私、それなら外に出ていようって思っただけで……!」

興味があるとかどうとかではないって必氏に否定しているのが、すっごく可愛くて。
一緒に入る? とか、別に良いのに。とか。からかいたいと思ってしまう。

けれど、ぐっと飲み込んで……分かってるよ。と、微笑む。

「本当に違いますから……」

分かってるよ。と、もう一度繰り返し、
今日も浴びようと思ってる。と言うと、
しずくちゃんは「なら外で待ってますね」と言って、足早に出ていく。

900: 2022/06/02(木) 18:28:51.70
一瞬でも早くしずくちゃんと合流したいと思いつつ、
しずくちゃんと一緒にいるんだからと、念入りに洗って浴室を出る。

髪と身体を洗い、乾かして、髪を整えて歯を磨いて、もう一度鏡で確認する。
スーツに着替えて、ハンカチをポケットに突っ込み鞄を持って家を出ると……。

「お兄さんっ」

ちょっぴり暑そうに手で扇いでいたしずくちゃんが顔を上げて、
こっちに気付いて笑顔を見せてくれる。

「……分かっていましたけど、シャンプーとかは私と違うんですね」

傍に寄って来て、すんすんっと匂いを嗅いだしずくちゃんは
そう言って、少し考える素振りを見せる。
流石にしずくちゃんが使ってるものまでは調べられないよ。と、首を振ると、

「……お兄さん、本当にストーカーさんですか?」

なんて、しずくちゃんはきょとんと首をかしげた。

902: 2022/06/02(木) 18:40:13.21
ストーカーならそこら辺も調べられて当然だと思っていたかのようなしずくちゃん。

確かに、ストーカーなら調べることも出来る範疇ではあるのだけど……。

――一人暮らしじゃないからね

と、理由を話す。

もちろん、それでも時間などをかければ特定は可能だ。
例えば、家族で使っているものが違っていたとしても、
その詰め替えパックやボトルを回収し、
しずくちゃんから感じられる匂いと照らし合わせる総当たり方式で特定出来る。

あくまでも、時間がかかったりするという点で現実的ではないだけで。

「……お兄さんは、そうするほど私のことは……」

ボソリと呟かれて、
そんなことを言われたことに驚きつつも、
あくまで、しずくちゃんのためにしようと思っていたから。と、言うと、
しずくちゃんは「そうなんですね」と、笑みを浮かべる。

904: 2022/06/02(木) 18:59:29.67
しずくちゃんの思うストーカー像は、その相手のことならばなんでも出来るというものなのだろう。
もしかしたら……と思って。

もっとストーカーらしかった方が良かった?

なんて聞いてみると、しずくちゃんは「う~ん……」と、
真剣に悩むような仕草を見せて。

「ストーカーらしく……と言われると違うかなって思います。正直、ストーカーそのものは怖いですし……」

しずくちゃんはストーカー紛いのことをしていた自分の隣を歩きながらそう言うと、
ちらっとこっちを見て、困ったように笑みを浮かべる。

「でも……お兄さんになら……って……」

言いながら、しずくちゃんの顔が赤くなっていく。
自分が恥ずかしいことを言っていると自覚したのかもしれない。
こっちからは表情が見えないようにと、俯いて。

「なんてっ」

ぱっと顔を上げたしずくちゃんは「冗談ですよ!」なんて言うけれど、
その上擦った声では、無理があった。

905: 2022/06/02(木) 20:20:50.03
しずくちゃんは暫く黙り込んでしまっていたけれど、
駅に着いた辺りで恥ずかしさをようやく払い除けられたのか、
こっちをまっすぐ見つめてくる。

「お兄さん、明日はお休みですか?」

しずくちゃんがどうしてそれを聞こうとしているのか、考えるまでもなく察する。
しずくちゃんも学校自体はお休みで、
部活がなければ。という条件が付きはするものの、
互いに予定が空いているとなれば……。

休みだよ。と、頷くと、
しずくちゃんはぱぁっと空気そのものを明るくしてくれる笑顔を浮かべて。

「でしたら……しませんか? お出かけ」

デート。という言葉は恥ずかしかったのか、
それとも、周りの人に聞かれていrうことを考慮してのものなのか。
しずくちゃんはそれを避けつつ、小さめの声で切り出した。

「お兄さんが良ければですけど……」

窺うようにして聞いてくるしずくちゃんに笑みを返して、頷く。
こっちが良ければ。じゃなくて、しずくちゃんが良ければ。というのが正しい。

部活とか大丈夫? と聞いてみると、
しずくちゃんは「もちろんですっ」と、にこやかに笑う。

「じゃぁ、決まり。ですねっ」

しずくちゃんは「ふふっ……」と、
嬉しさに満ちた声を漏らしながら笑みを浮かべる。
なんとなく、キラキラとしたハートマークがぽやぽやと辺りに浮かび漂っているような
そんな光景さえ、見えてきてしまいそうなしずくちゃん。

可愛いなぁ……と、ついつい言ってしまいそうになって、
どうにか飲み込んで、しずくちゃんのことをほほえましく見守る。

偶然ではなく、約束してのお出かけ。
それはやっぱり、デートなのだと……思った。

909: 2022/06/02(木) 20:57:06.96
「ところで、今日はどうですか? 帰ってこられそうですか?」

家に帰ること自体は出来るけれど、
しずくちゃんが家にいる間に帰ることが出来るかは、頑張り次第と言ったところだろうか。
可能な限り頑張ってみるよ。というと、
しずくちゃんは「あまり無理しないでくださいね」と言って。

「でも、先に帰って待ってます」

帰ってきてくれるのを期待して……。

しずくちゃんはそこまでは言わなかったけれど、
そう言われたように思えて、奮起させられる。

――絶対に帰るよ。

そう言うと、しずくちゃんは嬉しそうに笑ってくれて。

「明日はお休みなので……少しだけなら待っててあげられますよ」

定時にあがれず、少し遅くなっても。
それでも、間に合うくらいには待っててくれそうなしずくちゃん。
とはいえ、待たせるわけにはいかないぞ。なんて意気込んだのが顔に出てしまったのかもしれない。

しずくちゃんはちょっぴり心配そうな顔をして「だから無理しないでくださいね」と、
電車の揺れに煽られたかのように自然とこっちに体を寄せてくる。

「お夕飯は何が食べたいですか? お肉か、お魚か……それともお野菜にします?」

しずくちゃんの手料理なら何でもいいなぁ……と思ったけれど、
その前にと、しずくちゃんも一緒に食べる? と聞く。
そう聞かれるとは思っていなかったようで、しずくちゃんは驚いて。

「そうですね……お兄さんのお家で食べようかなとは思ってます」

それなら野菜がメインが良い。と、すぐに答える。
しずくちゃんは若いけれど、スクールアイドルをやっているから、
夜に……それこそ、自分が帰ってくるくらいの時間からとなると控えめに食べたいだろうから。

「お兄さんが食べたいもので良いんですよ?」

ならしずくちゃん――なんて、
あり得ないことは言わずに、夜は軽めにしておきたい。と、笑みを返して。
絶対に、絶対に帰るぞと、強く思った。

911: 2022/06/02(木) 21:13:29
しずくちゃんの「お帰りなさい」と「手料理」という、
これ以上ないほどの追い風を得た身体は、
明日には体力を使い果たし、力尽きてもおかしくないほどに感覚を冴えさせ、全力で稼働し続けた。

上司に頼まれた仕事を、有無を言わせない精確さで瞬く間に終わらせ、
次から次へとこなしていき、定時になった瞬間に席を立っても文句ひとつ言わせないほどに。

会社を出てすぐにしずくちゃんへと「今から帰るよ」と連絡を入れ、
仕事帰りを示すようなスタンプを送ると、
しずくちゃんから『お疲れ様ですっ』と、嬉しさのにじむ返事が返ってきて、
そして、『待ってます』という意味を持つ、動くスタンプが表示される。

全身全霊で頑張ったと言うのに、身体は一切の疲れを感じておらず、
いつもは猫背になる電車の中ですら、ぴんっと背筋が伸びたままだった。

『ごめんなさい、聞くの忘れていたんですけど、トマトって平気ですか?』

苦手な人もいるからだろう。
しずくちゃんは第一に謝りながらそんな確認をしてきて、
嫌いなものはないから大丈夫だよ。とすぐに返してあげる。
謝らなくたっていいのに……。

『ピーマンとかも平気ですか?』

念のため。
そんな風に確認してくるしずくちゃんに、全然平気。という意味のあるスタンプを送って答える。
トマトもピーマンも……全然、何の問題もない。

『よかったです。お帰りお待ちしてますね』

ただの文字列だけれど、
それがしずくちゃんとのやり取りだからか、
たったそれだけのことで胸が熱くなるのを感じてしまって、
危うく1人ほくそ笑む不審者になりそうだった。

913: 2022/06/02(木) 21:25:40.80
家の近くにまで行くと、昨日は電気が消えていた自分の部屋の明かりが点いているのが見えて
つい、嬉しくなって写真を撮ってしまう。
冷静に考えれば、ただ電気がついているだけのアパートの一室でしかないのだが。

いよいよだと……喜びに満ちる。
クリスマスにサンタさんから贈られたとして手にしたプレゼントを開けるときのような。
そんな昂りを感じながら、玄関のドアノブに触れる。

そして――ガチッっと、施錠されている感触に阻まれた。

けれど、奥からパタパタと忙しない足音が近づいてきたかと思えば、
少し間をおいてから鍵が開けられて。
そうして……しずくちゃんがドアを開けてくれた。

「お帰りなさい。お兄さんっ」

飛び出てくる一歩手前。
流石に不味いと思ったのか、踏みとどまったしずくちゃんは焦った様子で後退りして、
それを追いかけるように中へと入って、玄関の鍵を閉める。

「ごめんなさい、鍵締めちゃってて」

自分の分の鍵は持っていたし、
しずくちゃんが1人の時に、悪い人が来ないとも限らないから、
むしろ、ちゃんとしていてくれてよかった。と、褒める。

しずくちゃんは褒められないと思っていたのか、ちょっぴり驚いてから、
嬉しそうに可愛らしい笑みを浮かべて、手を差し出す。

「お帰りなさいお兄さん。鞄、持ちますよ」

しずくちゃんに持たせるのは……なんて思いつつも、
求めてくるしずくちゃんの愛らしさに、つい、渡してしまった。

915: 2022/06/02(木) 22:50:44.74
しずくちゃんと向かい合って座り「いただきます」と揃える。
この前、ディナーを食べた時もしずくちゃんと同じようにしていたけれど、
その時は外だったし、周りには人がいた。

けれど、ここは室内で、二人きりで。
そして……目の前にあるのはしずくちゃんの手料理で。

――こうしてると、同棲してるように勘違いしそうになる。

食事をしつつ、思わずそんなことを言ってしまうと、
しずくちゃんは気恥ずかしそうに「そうですね」なんて、微笑む。

掃除をしてくれたり、料理を作ってくれていたり、
そして、お帰りなさい。と、出迎えてくれるしずくちゃんとの同棲生活。
それは夢物語ではあるけれど、いつかは……と、考えたくなる。

「明日はどうします? 朝、起こしに来ても良いですか?」

起こされるのはちょっと……と、自分の本心に嘘をついて断る。
起こされるのはもう、経験したことだし、
寝ぼけているところをしずくちゃんに見られるのは、大人としてどうかと、思うからだ。

「そうしたら……待ち合わせしませんか?」

家で合流してそのまま出かけるのではなく、
目的地近くで待ち合わせして、合流して……と、まさしくデートの流れ。
朝からずっと一緒というのも魅力的だけれど、
そのデートらしいスケジュールもまた魅力的だと思って、頷く。

「ふふっ、じゃぁ、どこに行きます?」

嬉しそうにここはどうか。あれはどうか。と、
食事をしながら、デートプランを2人で決めていく。

916: 2022/06/02(木) 22:58:39.68
1人でプランを決めて、サプライズ的なデートこそが一般的だと思っていたけれど、
しずくちゃんとこうして、向かい合って事前に決めるのも
これはこれで面白くて、可愛らしくて、幸せで、良いものだなぁ……と、感慨にふけってしまう。

暫くして食事を終え、2人で洗い物を分担する。
作ってくれたから……と言ったけれど、しずくちゃんは「一緒にやる方が早いですよ」と、並んで。

「明日、楽しみです」

耳元を赤くし、可愛らしくはにかむしずくちゃんに、
本当に。と同意して、洗ったお皿を手渡す。

「……本当に」

しずくちゃんはこっちの言葉を繰り返すように言いながら、
お皿を食器棚のところに立てかけて……ぴたりと、身体を寄せてくる。
抱きしめてもいいのだろうか。
可愛いと、好きだと、愛していると。
そう言って、優しく、強く、抱いてしまって良いのだろうか。
そうやって悩んでいる間に、しずくちゃんは離れて。

「今日はそろそろ帰りますね」

と、残念そうに言う。

泊まっていったら良いのに……なんて、言えるはずがなく、
せめて、少しでも一緒にいようと送ると言ったけれど「すぐそこだから危ないですよ」と言われてしまう。
危ないのはしずくちゃんもだけれど、こっちが見られてしまうのも不味い。

だから――今日は本当にありがとう。明日はよろしく。と、幸せな気持ちで見送ることにした。

918: 2022/06/02(木) 23:16:40.63
遠足前夜の子供みたいなわくわくとした気持ちに苛まれていたのもつかの間、
いつの間にか眠ってしまい、目を覚ました朝。
ほんの一瞬だけぼんやりとして……
今日はしずくちゃんとのデートだと思い出して飛び起きる。

時間は十分にあったはずなのに、
昨日以上に念入りに準備をしていると、意外と足らなくなってしまうもので、
しずくちゃんに見合うくらいには整えられているだろうか。
なんて、不安な気持ちになりながら、慌てて家を出る。

普通に行くと、しずくちゃんと駅で鉢合わせしてしまう可能性が高いため、
あえて乗る駅を別々にしようと2人で決めた。
しずくちゃんとお出かけ――デートをするのは、お台場。

しずくちゃんの定期圏内であることと、
虹ヶ咲学園のスクールアイドル関連でも根強いところであること。
そして……まだ秘密を抱えているときに2人で歩いた場所だからだ。

しずくちゃんからの連絡は

『おはようございます。お兄さん。今日はよろしくお願いしますね』

と、朝に来たもののみ。

合流する時間は決めたものの、
互いにどのくらいの時間に着くように行動するか。という点は決めていない為
もしかしたらしずくちゃんはもういるかもしれない。

そんなことを思いながら約束したお台場海浜公園駅に約1時間前に着くと、
幸いにもしずくちゃんはまだ来ていなくて。
ほっと胸を撫でおろしながら待っていると、暫くして、しずくちゃんから一枚の写真が送られてきて、振り返る。

「お兄さ~んっ」

しずくちゃんを待っている自分の後姿。その写真を送ってきたしずくちゃんは、
ちょっぴり申し訳なさそうに駆け足で近づいてくる。

919: 2022/06/02(木) 23:32:47.90
「……どうですか?」

しずくちゃんはそう言って、目の前でくるりと回って見せる。
今どきの女子高生のファッションは申し訳ないけれど、知見がない。
けれど……。

――似合ってるしかわいいけど、攻めすぎてない?

と、心配になる。。

しずくちゃんはオフショルダーと呼ばれる肩が露出するタイプの洋服を着ていて、
いつもの制服に比べて、だいぶ大人びた印象を受けると言うか、
少々……と、まじまじと見つめてしまう。

「少し、背伸びしてみました。その方が……お兄さんと合うかなと思って」

前にも言っていた、大人びた人の方が合う。という話の延長だろうか。
そんなこと気にしなくてもと思うけれど、
変に不釣り合いだと「君たちちょっといいかな?」なんて水を差されかねないことを考えると、
しずくちゃんの配慮はありがたかった。

むしろ、こっちが学生服引っ張り出してくるべきだったか。なんて
冗談めかして言うと「それこそ不振ですよ」なんて、しずくちゃんは笑って。

「……お兄さんっ」

すっ……と、しずくちゃんは手を差し出してきた。

大人びて見えるしずくちゃんのファッション。
それは不審がられないためのものだとは思うけれど、
その一番の理由は――手を繋ぎたかったから。だったりするのだろうか。
なんて考えつつ、しずくちゃんに笑みを向けて。

声をかけられたらフォローしてよ? と一言だけ言って、しずくちゃんの手を握る。
握手のようなものではなく、恋人同士がするような繋ぎ方。
それ一つで、ほんのりと頬を染めながら「えへへっ」と、
子供っぽく嬉しそうな笑顔を見せてくれるしずくちゃん。

本当に可愛いなと、幸せだと、まだ合流したばっかりなのに、思わせてくれた。

929: 2022/06/03(金) 06:58:46.57
駅を出てから少し歩いたところに、
スクールアイドルに関連したグッズを販売しているお店がある。

エマちゃんのライブがあった日にも立ち寄ろうと思っていたけれど、
しずくちゃんと偶然にも向こうの駅で逢い、
それ以降ずっと一緒に行動することになったこともあって、
すっかり行くのを忘れてしまっていた。

それをしずくちゃんに話した結果、
しずくちゃん本人と一緒に、しずくちゃんのグッズを見に行くという
なんだかこう、凄いことが今まさに起こっている。

「そう言えば、お兄さん……私のグッズを部屋に飾ってましたよね」

お店に着き、スクールアイドルのグッズが展開されている商品棚のところに行くと、
しずくちゃんに思い出したように言われて、ドキリとする。
もしかして嫌だった? と聞くと、しずくちゃんは「そんなことないですよ」と可愛らしく笑って。

「むしろ、嬉しいです。ちゃんと見て、ちゃんと手にしてくれてるんだなって」

嬉しそうに言うしずくちゃんと繋がっている手が、少しだけ強く握られる。
緊張や恥ずかしさを堪えようとしているかのような反応に思えて、
ちらりと様子を見れば、頬が赤くなっているのが見えて……。

――もちろん、ファンだからね。

そう言ってみると「ありがとうございますっ」なんて、しずくちゃんの弾んだ声が返ってくる。
かわいい。と、言いたくなって、代わりに笑う。
しずくちゃんは可愛いって言われると、恥ずかし気な仕草をしたりしてさらに可愛くなっていく。
それはとてもいいことではあるのだけど、こっちの身が持たない。

「なんだか、こうして改めてグッズが売られているのを見ると、ちょっとだけ恥ずかしくなっちゃいます」

しずくちゃんは、自分たちのグッズを見て、手に取りながら困ったように可愛らしい笑みを浮かべる。
自分に関連するものが何らかのグッズになって売られているっていうのは、
嬉しいのと同時に、恥ずかしくもあるのだろう。

930: 2022/06/03(金) 07:23:19.51
「……これ、お兄さんが持っていないものじゃないですか? A・ZU・NA なので、せつ菜さん達も一緒ですけど」

しずくちゃんが手に取ったのは、
しずくちゃんと歩夢ちゃん、せつ菜ちゃんの3人で組まれているA・ZU・NAというユニットのアクリルプレート。
リアル調の写真を使ったものではなく、
デフォルメ化されているキャラクターグッズのようなもので、かわいらしく作られている。

もちろん、しずくちゃん本人には及ばないけれど。

しずくちゃんから受け取り、さらに2つ目を取る。
着ける用と、飾る用かとしずくちゃんは思ったみたいだったけれど、
残念ながら着けられないよ。と、首を振って。
自分用としずくちゃん用だと言う。
色々としてくれているから、そのお礼の一つだと付け加えると、
しずくちゃんは「ありがとうございます」と、ちょっぴり恥ずかしそうに頷いた。

それにしても、もう少し虹ヶ咲のグッズが増えても良いんじゃないだろうか。と、
他のスクールアイドルのグッズを見て思う。

「これでも増えたんですよ? スクールアイドルの祭典とも呼ばれるラブライブ。それに参加していなかったこともあって、他校に比べたら知名度は0に近かったんですから」

それが、同好会に所属していながらスクールアイドルとしてではなく、
ファンとしての視点から見ていた高咲侑が発起人となったSIF……スクールアイドルフェスティバルの開催によって大きく変わった。

そのスクールアイドルフェスティバルは、第二の祭典として、今や注目の的にもなっていて、
それを始めた虹ヶ咲学園もまた、注目されている。

931: 2022/06/03(金) 07:37:48.77
「だから、これからも増えていきます……増やしてみせます。私達が」

しずくちゃんは、そう言いながら同好会に所属しているメンバーの中、3年生の面々のグッズを手に取りながら意気込む。

3年生はあと数ヵ月も経てば引退するし、卒業もしてしまうだろう。
1年また1年と経過し、SIF開催の所期メンバーの中で最後まで残るのは、今、1年生のしずくちゃん達だ。

後輩から先輩となり、導く側となる重圧。それを今から感じ始めていそうなしずくちゃんの手を優しく握る。

いつか訪れること。
だからこそ、もっと先輩に甘えて経験を積むべきだと
SIFと同好会。その行く末について相談しておくべきだと、話す。

先輩が居なくなってしまったあと、悩み果てることになるのは良くないことだから。

「……そうですね。お兄さん」

しずくちゃんは噛み締めるように答えながら手を握り返してきて、ぴたりと寄り添ってくる。

「先輩に、甘えてみようと思います」

そう囁くしずくちゃんに、学校のだよね? と聞くと、しずくちゃんは可愛らしく、けれど少し悪戯に……。

「お兄さんはどう思います?」

と、笑顔を浮かべた。

932: 2022/06/03(金) 08:35:51.80
しずくちゃんのグッズを買った後、
そのお店のすぐ近くにあるという、ジョイポリスに向かう。
しずくちゃんは何度も行ったことがあるらしいけれど、自分は初めてで。

――ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します。先輩。

なんて、後輩チックにお願いしてみると、
しずくちゃんは困った顔で笑う。

「もうっ……なに言ってるんですかっ」

しずくちゃんは楽しげに笑いながらも「教えてあげません」と、断わる。

困った笑顔から、悪戯を思い付いたような笑顔へと変わって。
でもどちらにしろ可愛いのは変わらなくて、心が満たされるのを感じる。

「最初は事前知識が無い方が楽しめるんです」

えっへん。と、そこはかとなく自慢気に語っているように思えるけれど、
しずくちゃん自身の最初の経験を思い出してか、ちょっぴり耳が赤くなっていて分かりやすい。

さては、しずくちゃんがそれをやられたな? と、
気付きつつも気付かない振りをして、同意する。

「そうですよっ」

まだまだ子供なんだなぁ……と、
見た目に気を遣っていてもそう感じられる所作はとても愛らしさを感じさせてくれて。

身体にまで響くような喧騒はあまり馴染みがなく、
煩わしいとさえ感じてしまうこともあったけれど――。

「お兄さんっ、早く!」

しずくちゃんに手を引かれているからか、
その騒がしい空気さえ、楽しめるような気がする。

……いや、違う。

きっと、自分がとけ込むことが出来ずにあぶれてしまうと分かっていたから気に食わなかっただけなのだろう。と、思って。

――ありがとう

それを変えてくれるしずくちゃんに感謝をして……導かれるように、踏み込んでいく。

933: 2022/06/03(金) 10:11:04.96
ジョイポリスにはいくつかのアトラクションがあるけれど、
早速と引っ張って行かれたのは、それなりに激しく回転するもので、2人で協力し、スコアを競うもののようだった。

「お兄さん、乗り物酔いとか平気ですか?」

一応、事前に心配してくれるしずくちゃんに大丈夫。と頷いて前のプレイヤー達の動きを確認する。
激しさはあるみたいだけれど、まぁこのくらいなら。と――。

……。

…………。

「お、お兄さん、大丈夫ですか……?」

見るのと実際にやるのとでは認識に差があるもので、
慢心を見事に狙い打ってきた勢いに、ふらりといきそうになって壁に寄りかかる。

自信ありげなしずくちゃんにドヤ顔で終わってやろう。
そんな企みをしていたからバチが当たったのかもしれないけれど。

「つい、はしゃいじゃって……」

協力するはずが、しずくちゃんがどんどん攻めていったこともあったからだろう。
申し訳ないといった様子のしずくちゃんに、
しずくちゃんが楽しかったならいいよ。と、少し無理な笑顔を向けて。

ちょっとお手洗いに……と、離席させて貰った。

935: 2022/06/03(金) 12:45:35.12
調子を整えて、ひと息。
しずくちゃんもまだまだ子供なんだなぁ……なんて思った矢先のハイテンション。
しずくちゃんは楽しそうだったし、嬉しそうだったから
それ自体はまったく問題はない。

あるとしたら……女子高生の体力に負けそうな社会人の体力だろうか。
明日に響いても構わないから、頑張ろう。としずくちゃんのところに戻ろうとお手洗いを出る。

「――あのっ……えぇっとですね……」

お手洗いを出てすぐの場所で待っていてくれていたしずくちゃんの傍には誰かがいるし、少し困った様子のしずくちゃんが見えて……。

――うちのしずくに何か?

と、強気に出る。
しずくちゃんは困っていたし、もしかしたらナンパかもしれないと思って。
けれど……その不安ばかりが先行していたせいで、傍にいる面々を良く確認しなかったのがいけなかった。

「お、お兄さんっ」

顔を赤くしながら声をあげて、口許を抑えるしずくちゃん。
その近くにいたナンパ師……と思った金髪は振り返って「あーっ! この前の!」と言い、
他にもいる内の一人が「あぁ、しずくさんが言っていた例の……」と、得心がいったように呟いたかと思えば、ハッとして。

「あ、愛さん! まずいですよ! 大人しく退くべきです!」

顔を覆ってしまうしずくちゃんと、焦る女の子……せつ菜ちゃん。
それを見て「あ~……」と頭をかく愛ちゃんに、
困った顔で「だから言ったのに……」と言うピンク髪の女の子、歩夢ちゃんと「なになに?」と興味津々な侑ちゃん。

そうして……やらかした。と、確信する自分。
周りの騒がしさが嘘のように……静まって感じた。

941: 2022/06/03(金) 18:21:15
「ほんっっとうに……ごめんっ」

そう言って手を合わせて謝る愛ちゃんに、良いよ良いよ。と、手を振る。
しずくちゃんが一人でいるとは思っておらず、
誰かと来ているのは分かっていたが
友達の一人と一緒に来ていると思っていたために、
6人でやるゲームに誘っていた。というのがナンパの真相だった。

歩夢ちゃんはしずくちゃんの雰囲気で察していたのか「そうっとしておいてあげようよ」と止めに入ったものの、
せつ菜ちゃんと愛ちゃんの2人を止める力はなかったらしい。

「……別に構いませんよ。別に……」

むっとして頬が膨らんでいるしずくちゃんの説得力の皆無な許しに、愛ちゃん達は申し訳ないといった様子で。

「お兄さんがいればちょうど6人だし、アレやる?」

と、場の空気を読まずに一人アトラクションを指差す侑ちゃんを、歩夢ちゃんが制するのを横目に、しずくちゃんはこっちを見上げてきて。

「……どうします? 確かに知らない人達よりは知り合いがいた方が良いですし、お兄さんが良ければ私は構いませんけど」

あくまでも従兄従妹。と、
しずくちゃんはそういうものでいくつもりらしく、意見を求めてくる。
確かに、あれはやってみたいなぁ……と、思う気持ちがないと言えば嘘になるけれど……。

せっかくだけど、次の機会にするよ。と、お断りさせて貰う。
そろそろ時間だしね。としずくちゃんに言うと、
しずくちゃんは「確かにそうですね……」と、自然な感じで相槌を打つ。

「そっかぁ……残念だけどまた今度ね!」

残念がる侑ちゃんと「侑ちゃん……」と呆れ顔の歩夢ちゃん。
申し訳ないといった様子の愛ちゃんとせつ菜ちゃん。
4人と別れて……ひとまずはジョイポリスを出ることにした。

943: 2022/06/03(金) 20:09:52.52
「考えが甘かったですね……」

しずくちゃんの知人に会う可能性はある程度考えていたけれど、
まだそうではなかった時のお出かけ
そのやり直しというか……埋め合わせをしたくて。

お休みの日で人も多く、賑やかな場所であれば
その他大勢に埋もれて気付かれにくいだろう。と、考えた。
けれど、存外に気付かれてしまうもので、
愛ちゃん達に見つかってしまった。

侑ちゃんはともかく、他の3人はそれとなく察しているような様子で、
しずくちゃん的に大丈夫なのかと思ったけれど、しずくちゃんは「大丈夫ですよ」と、微笑む。

「歩夢さんはともかく、愛さん達にはお兄ちゃんっ子としか思われていないと思います」

そう言って、しずくちゃんは「それに……」と、続ける。

「仮に気付かれていても誤解ではありませんから」

いつかは知られること。
いや、いつかは知らせることだろうか。
だからか、しずくちゃんは「今のうちに匂わせておくのも良いんです」と、笑う。

「それより、この後はどうします?」

本当ならもう少し遊んでいく予定だったジョイポリス。
だけど、愛ちゃん達がいるし、出てきてしまったし……。

せっかくだから映画でも見よう。と、しずくちゃんを誘う。
愛ちゃん達の介入でちょっぴり雰囲気が削がれてしまったし、
映画なら……と思って。

「そうですね……そうしましょうか」

しずくちゃんの同意を受けて、一緒に歩く。
手は自然と繋がって、しずくちゃんの嬉しそうな笑い声が微かに聞こえた気がした。

950: 2022/06/04(土) 13:19:14.71
休日ということもあって映画館はジョイポリス以上の盛況っぷりで、
ここでこそしずくちゃんのお友達に遭遇する可能性が高いのではないかと思わなくもないけれど、
しずくちゃんが見られても問題がないというなら、
そこまで、気を張る必要はないのかもしれない。

それに、ジョイポリスと違って一緒にやろう。なんて、
遊びに誘うアトラクションというわけでもないから、
見つけてもちょっかいを出そうなんて人はそうそういないだろうから。

「お兄さんって、好きなジャンルはありますか? アクションやホラー、ファンタジー、SF……」

しずくちゃんは放映中の映画一覧を見上げながら、
映画のジャンルを並べて行って……最後に小さく「ロマンスとか」と、聞いてくる。

個人的に好きなのはアクションやホラーだろうか。
SFも見ることは見るが、どちらかと言えばそちら側が多く、
映画に関していえばロマンス系は好んで観たことはない。

でも、ロマンス系は映画よりもドラマの方を見ていた。と、話す。

「へぇ……お兄さんもそういうドラマを見るんですね」

見られていたころはね。と、補足する。

ロマンスというジャンルに属するドラマや映画は、基本的にラブロマンスと呼ばれるもので、
SFやファンタジーに比べて勢いや力強さ、壮大さではなく、
登場人物たちの感情の移ろいを描いており、
それが薄かったり、軽かったりすると楽しみきれない。

映画はドラマに比べて凝縮されているせいか、
どうにも、物足りなさを感じてしまう。と、語って――。

「ふふっ、お兄さんってば……なんだか評論家さんみたいですよ?」

しずくちゃんの可愛らしい突っ込みに思わず照れてしまう。
こんな場面で話すことじゃなかったと申し訳なくなってしまったが、
しずくちゃんは引いたりすることなく、楽しそうに笑って「それならホラー映画にしませんか?」と、しずくちゃんは手を握ってくる。

「せっかくですから」

何がせっかくなのかは分からないけれど、
でも、しずくちゃんがそう言うなら見てみようか。と、チケットを2枚買おうとして。

「――大人2枚でお願いします」

くいっと肩を抑えられ、屈んだところに、しずくちゃんの囁く声がする。
耳元と心とを擽られる感覚に、思わず赤くなって隣を見ると、
しずくちゃんは「今は大人でいたい気分なので」と、可愛らしい笑顔を浮かべて見せた。

951: 2022/06/04(土) 13:48:22.96
大人と子供……学生1枚ずつではなく、
何の割引もない、大人2枚のチケットをしずくちゃんはとても嬉しそうにしていた。
学割なら少し安くなるのに、
それを蹴ってでも、大人という言葉を得たかったのだろうと思うと、
やっぱり、しずくちゃんは可愛いなぁ……と、実感させられる。

ポップコーンを買うのが一般的らしいけれど、
それは買わずに、飲み物だけを買って
暗い映画館の中、しずくちゃんと隣り合って座る。

「……なんだか、ドキドキしますね」

しずくちゃんの声が、耳元で聞こえる。

横目を向ければ、しずくちゃんはこっち側に身体を寄せてきていて、
周りにも人がいるから、
可能な限り小声でもいいようにって気遣いなのだろうけど……。

そうだね……と、違う意味でどきどきとさせられながら、
しずくちゃんに怖い映画は苦手? と訊ねる。

「そこまで苦手というほどでは……むしろ、登場タイミングや姿、その役を演じる俳優や女優の人柄を知っている主人公役の方々が、恐怖を感じている。と思わせられる演技をどうやってしているかの方が気になってしまいます」

女優を志しているからだろうか。
気になっているところがちょっと特殊なしずくちゃん。
自分でも特殊だと思っているのか「おかしいのは分かってますよ」なんて言うけれど、
その向上心というか、探究心はいいことだろうと、思って。

――いつか、ここから見ることになるのかな

少し寂しく感じてそう呟いてしまうと、
こつんっと肩に何かが触れる感覚を覚えて目を向ければ、しずくちゃんが寄りかかってきていて。

「たとえ、向こう側に私が映る未来が来ても――お兄さんの隣には、私がいてあげます」

なんて、しずくちゃんは優しく応えてくれた。

953: 2022/06/04(土) 14:58:52
映画を見終わったあと、
2人で映画館の近くにあるカフェへと足を運んでいた。

元々、お台場に来たのがお昼少し前で、そこからジョイポリスに行き、
特別、空腹を感じていないということもあってお昼を少し過ぎた後から映画を見たため、
時間としてはやや中途半端に感じられるが、
休憩もかねてカフェにでも行こうか? と、誘ったのだ。

「良い感じにゾクゾクとする映画でしたね……」

しずくちゃんはそう言いながら、
さすりさすりと腕の辺りを摩るそぶりを見せて、カフェラテを一口飲む。

しずくちゃんと一緒に見たホラー映画は、猟奇的だったり、
怪物的なものの多い洋画ではなく、呪いの類を主流とする邦画だった。

蓄積されていく怨嗟が浮かばれることなく人間という受け皿を失い、
どのような影響を周囲の人々に及ぼしていくのかという呪い。
人を脅かすことを目的としているのではなく、
ただただ、呪う理不尽さ。その恐怖を描く映画は、なかなかに、総毛立たせるものがあった。

しずくちゃんが言っていた通り、
登場タイミングや役柄などをよくよく知っているだろう主人公サイドの人達は、
まるでそれを全く知らないかのような自然な驚きや恐怖心を感じさせ、
映画館の暗さ、静けさ、冷えた空気がまた、臨場感を味わわせてくれて……と。

しずくちゃんと映画の内容について話していると、
注文していたサンドイッチが運ばれてきて、しずくちゃんは「美味しそう」と、可愛らしく笑って。

「……このサンドイッチは四角く切られていませんね」

当たり前のことではあるけれど、
あの日に食べたように、一口で食べられる程度の大きさに切られていたりはせず、
しずくちゃんはちょっぴり残念そうな顔をして。

「これだと……食べさせてあげられない……」

いや、それは……と、
お祭りの喧騒に隠れているわけでもないのに出来るわけがないと思って。
もしかして、あの時も狙ってやっていたの? と、聞いてみると、
しずくちゃんは顔を赤くして、ふいっと、逸らす。

「……言ったじゃないですか。【運命の女神は、積極果敢な行動をとる人間に味方する】って。あれでも内心、すっごくドキドキしていて気が気じゃなかったんですよ?」

……かわいい。と、思わず言ってしまうと、
しずくちゃんはさらに顔を赤くして「はやく、頂きませんかっ」と、急かしてきて。
それがまたとっても可愛らしくて……思わず、笑みが零れてしまう。

954: 2022/06/04(土) 15:36:47.55
気恥ずかしさを誤魔化すみたいに、しずくちゃんは黙々とサンドイッチを食べている。

けれど、時折こっちをちらちらと見ていたり、
頬が赤く染まっていたり、
一つ一つにどうしようもないほどに愛らしさを感じてしまいながら、
結局、自分も誤魔化してるなぁ。と思いながらサンドイッチを食べていると……。

「あっ……お兄さん――」

はたと声を上げて席を立ったしずくちゃんは、
テーブルに手をついてぐっと体をこっちに伸ばして。

「付いてますよ」

手に持っていた紙ナプキンでこっちの口元を拭って、また席に座る。

不意を突かれて呆然としてしまって、
手に持っていたサンドイッチから、
ずるずるとトマトがお皿の上に滑り落ちて、べちゃりと音を立てる。

「ふふっ……お兄さんは、意外とおっちょこちょい。なんですねっ」

しずくちゃんに笑われてしまったけれど、
そんなことなんて。と思ってしまうくらいに、しずくちゃんに心を踊らされる。
いや、弄ばれているのだろうか。
しずくちゃんとの関係は確実に進展していて、
だから、弄ばれているというのも少し違うのかもしれないけれど……。

――あんまり動揺させないでくれ。我慢が利かなくなる

念のためにとそう言うと、
しずくちゃんははっとして自分の手にある紙ナプキンを見て、
それからこっちのことを見て、
そうして、耳まで赤くしながら「ご、ごめんなさい……」と、
ちょっぴり嬉しそうに感じる声で、謝ってきた。

955: 2022/06/04(土) 16:20:47.80
しずくちゃんに動揺させられる軽くない軽食を済ませてから、
食後の運動もかねて、お店を見て回ることにした。

もう一回ジョイポリスという選択肢も出たには出たけれど、
食後の運動とするには、いささか胃への暴力が過ぎるため、自然と却下された。

「お兄さんて、1人でお買い物するときって色々と見て回りますか?」

もう当たり前のように手を繋ぎ、
歩調を合わせて並んで歩きながら、しずくちゃんはそんなことを聞いてきて。
どうだっただろう。と、今までの自分を思い返す。

目的以外の場所、目的にない物
そこに足を運んだり、手に取ったりするだろうか。
考えて、どちらかと言えば目的のところにしか行かないかな。と、答える。

「そうなんですね……私は、ついつい色々と見ちゃうんです。たまにこれの使い道って何だろう? って思うようなものがあったりして、説明を読んで面白いなぁ……って、なったりしちゃって……」

しずくちゃんはあり得ないほど可愛らしいく言いながら、
続けて「だから、いつもお買い物に時間かかったりしちゃうんです」なんて、困った笑顔を浮かべる。

普段からすっごく楽しそうに買い物してるんだろうなぁとか。
興味津々で説明を読んでるのも可愛いんだろうなぁとか。
考えているだけでも……もう、全てが幸せに感じられてしまう。

これからそんなしずくちゃんを見て回るのか……と、
冗談めかして言ってみると、しずくちゃんは恥ずかしそうにしながら、
精一杯の反抗とでも言うように、ぎゅっと手を握ってくる。

「……お兄さんのばか……っ……」

でも、可愛らしくて……怒りきれていない感じがして。

ごめん。と、喜びを押し頃しながらしずくちゃんの手を優しく握り返すと、
しずくちゃんはその繋がりに引かれるように、こっちへと体を寄せてきてくれた。

956: 2022/06/04(土) 16:51:12.13
男にとっては、ウインドウショッピングが苦痛だと言われているのを聞いた覚えがある。

しずくちゃんにも話した通り、
基本的に目的のものを買い、それで終わりにしてしまう自分もまた、
そうして余計に歩き回るよりも、
もっと有意義に時間を使えるのではないか。と考えてしまったり、
他にもやりたいことがあるから。と、切り捨ててしまったりとするため、
今まではその説に同意していた――けれど。

「お兄さんお兄さんっ、これ可愛くないですかっ!」

と、グイグイと手を引いて、気になった物を手に取って、
見てくださいと言わんばかりに見せてくるしずくちゃんだったり……

「こういうのもあるみたいですよ? 面白いですねっ」

なんて、あんまり見慣れない商品を手にし、説明文を見て、
面白いと、楽し気にしているしずくちゃんだったり……。

とにもかくにも、歩き回ると疲れるだとか、無駄に時間を使うだとか、
そんな考えなんて全く湧き出てくることもなく、
ただひたすらに、しずくちゃんの可愛らしさを感じ、楽しさと喜びに幸せを感じさせられて、
逆に、こっちからこんなものもあるよ。と、しずくちゃんの手を引いたりしてしまう。

何だ。ウインドウショッピングも楽しいじゃないか。と、
名も知らない提唱者への手のひら返しをしながら、お店を見て回って。

「お兄さん的には、こういうのも可愛いって思います?」

しずくちゃんはそう言いながら、
ジャンパースカートと呼ばれる類のものを合わせて、こっちに見せてくる。
胸元が開いているドレスのようなものや、首のあたりまでを覆ってくれているようなワンピースほどのものではなく、
腰の辺りから肩掛けの部分まではベルト程度の幅のもので、中にブラウスなどを合わせて着るものらしい。

――何を着ても可愛いよ。

なんて、本音をぶちまけてしまうと、
しずくちゃんは「それはそれで嬉しいですけどっ」と、ちょっぴり頬を膨らませて。

「……お兄さんに選んで欲しいんです」

と、店ごと買えるなら買ってしまいたくなるようなことを言われて、
苦悩に苦悩を重ね「お兄さんっ、私が悪かったですからっ」とまで言われるほど長考し、
2着ほど選んで、しずくちゃんにプレゼントすることにした。

958: 2022/06/04(土) 17:35:37
しずくちゃんが一緒だったこともあって、楽し過ぎたショッピング。

結局、洋服のほかには、しずくちゃんのトレードマークと言えるリボンを買ったりして、
少しだけ、荷物が出来てしまった。
いや、荷物というのはあまりにも不躾だし、お土産や思い出……と、言いたい。

「お兄さんって……本当に目的の物しか買わないんですか?」

ちょっぴり訝し気に言うしずくちゃんは、
けれど「でも、ありがとうございます」なんて言って、破顔する。
目的のものしか買わないはずだった。

それは今までのことで、きっと、これからはそんなことはなくなるのだろう。
だって、しずくちゃんが隣にいると、
しずくちゃんがあまりにも楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうで。

その喜びを、楽しさを、幸せを。
もっと、もっと、もっと……と、思い、
どうしても、踏み込んでいってしまいたくなるから。

「お兄さんっ」

くいくいっと手を引かれて、しずくちゃんの方を見ると、
しずくちゃんはゲームセンターの方を指さす。

「ちょっとだけ寄って行きませんか?」

ディナーにはまだ少し早いと思って、
しずくちゃんの導きに従ってゲームセンターへと向かう。

クレーンゲームやメダルゲーム、アーケードゲームなど、
色々なものがある中で、しずくちゃんは大型のメダルゲームの機械のところで立ち止まる。
中でいろいろな仕掛けが動いており、
プレイヤー側の主な操作は左右に動かせるメダル投入口にメダルを入れ、
動く台座の上に射出する。というだけのものでシンプルだ。

しずくちゃんがやりたいならと100枚ほどのメダルを払いだして空いている場所に座ると、
しずくちゃんはその隣に並んで座る。
椅子は長椅子で仕切りがないため、ぴったりとくっついてくるしずくちゃんに緊張させられてしまう。

959: 2022/06/04(土) 17:56:08.97
どきどきとしながら、
メダル、入れないの? としずくちゃんに言うと、
しずくちゃんは「そうですね」と言いながら、メダルを1枚手に取り、
投入口を左右に動かし、狙いを定めて――メダルを射出する。

中に差し込まれているような形になっている射出路の上をころころとメダルが転がり、
動く台座の下部分、押されていく部分にあたって、落ちる。
それを見届けてから、自分も少しだけ……と、メダルを投入する。

最初の1枚は台座の上、2枚目は下、3枚目は上の台座にあるコインに重なり、
4枚目は動く台座に立てかけられるような形になって。
あんまりセンス無いなぁ。と思っていると、しずくちゃんの視線を感じて、目を向ける。

あんまり慣れてないんだ。なんて、
上手くできないことの言い訳をすると、
しずくちゃんは「そうなんですね」なんて、言って可愛らしく笑う。

そうして――腕の辺りに頭を預けてきて。
ゲームしないの……? と、聞くと。

「……本当は、これをしたかったわけじゃないんです」

なんて、しずくちゃんはゲームの音量にかき消されないくらいに近くで、答える。

「このゲームならこうして隣に座れるって……思っただけなんです」

……えっ。

と、もうしずくちゃんの前では何度してしまったかもわからない動揺をして、
間の抜けた声を漏らしてしまったけれど、
それでもしずくちゃんは可愛らしく笑うくらいで、離れようとはしなくて。

「映画館では仕切りがあって、カフェでは向かい合っていて、だから……少し、もう少しだけ近くにいたいなって」

しずくちゃんは「迷惑ですか?」と、心配そうに聞いてくる。
積極的すぎるかもしれない、攻めすぎているかもしれない。
そんな女の子は引かれてしまうかもしれない……と、色々と怖いこともあるのだろう。と、思って。

――嬉しいよ。

と、正直に答えてあげると、
しずくちゃんは「……お兄さんのその優しいところも好きです」なんて、囁いてきた。

960: 2022/06/04(土) 18:26:07.62
交換した手前、使わないのもと思ってメダルを少しずつ使っていく。
しずくちゃんは自分でやるよりも、
こっちがやっているのを見ている方が良いといった様子で、
時々数枚取っては左側の投入口を使い、メダルを投入して。

減っては増えて、減っては増えて。
イベントが数回起こってもどれもうまくいかなくて。
マイナスの方が多く、
メダルも少なくなってこれでだめなら最後であろうイベントが動き出す。

「お兄さん、これでメダルを一杯手に入れられたら、プリクラ撮りませんか?」

失敗したら撮らないの? と聞くと、
しずくちゃんは「そんなこと聞かないでください」なんて、
寄り添いながら、手を握ってきて。

「これは確率の問題ですけど、私達にとっては運試しですから」

イベントの行く末を見守りながら、
しずくちゃんは「だから……」と、続けて。

「運命を感じてみたいと思いませんか? そんな、言い逃れの出来ない証拠を作ってしまってもいいんだって、後押しになる運命を」

しずくちゃんがそう言って笑うと、
まるで、そうすると決めていたかのように、大当たりのファンファーレが鳴り響く。
大量のメダルが排出され、メダルの受け皿には見たこともないほどの量のメダルが次から次へと出てきて。

「……ふふっ。撮って、くれますか?」

しずくちゃんは賭けに勝っても、あくまで強行する気はないといった様子で
こっちの同意を求めてくる。
プリクラは、しずくちゃんも言っていたような物的証拠になるものだ。
とはいえ、家のどこか、見つからない場所に隠しておけばいいのだけれど。
しずくちゃんはきっと、そんな後ろめたいものとして扱う気はないだろう……。

だとしても。

――良いよ。撮ろう。

そう答えると、しずくちゃんは「はいっ」と、嬉しそうに笑った。

961: 2022/06/04(土) 19:09:56.64
排出されてしまった大量のメダルは、
また次回来た時に使えるように、預ける。
しずくちゃんが友達と来た時に使えるようにしずくちゃんの名義で。と言ったけれど、
しずくちゃんは「お兄さんとまた来たいです」と言って、断った。

プリクラなんて、機械を見るのも何年ぶりだろうか……と、
機械を見ていると、しずくちゃんはこっちを見て来て。

「……お兄さん、お1人でプリクラは?」

撮れると思ってる? と聞き返すと、
しずくちゃんはそんなこと出来るわけがないことを分かっているからか
可愛らしく笑って「ですよね」と、言う。

「なら……撮るのは初めてですか?」

窺うようなしずくちゃんに、いや……と、思い出しながら否定し、
十数年近く前、まだ高校生だった頃。
文化祭だったか、体育祭だったか。
その打ち上げで撮ったのが、最初で最後だった気がする。と、答える。

「……その時、女の子はいたんですか?」

多分いた……と答えてから、しずくちゃんがむっとしているのに気づいて。
いや、クラスメイトだから。特別なことは何もなかったから。と、
はっきりと否定しても、しずくちゃんは「かもしれないですけど」と、呟く。

そうして、しずくちゃんは抱き着くようなポーズで撮ったり、
隣でただ可愛らしくピースをしているものだったり、
こっちの手と、しずくちゃんの手で、ハートマークを作っていたりと。

数回の撮影を行い、あと一つ……となって。

「お兄さん。ちょっとだけ屈んでくれませんか? 今のままだと、身長差があって……」

撮りたいポーズでもあるんだろうか。
そう思いながら、しずくちゃんに言われるがまま屈むと
しずくちゃんは撮影側からこっちと向かい合って「もう少し……こう」なんて言いながら、
調整し、しずくちゃんが「そのままで」と言った姿勢で止まる。
若干、中腰で辛さがあったけれど、しずくちゃんのためだし、数分もかからないだろうし。と。
我慢を決め込んで。

機械的な、撮影までのカウントが聞こえてくる。

さんっ……にぃ……と、残り1秒になったタイミングで、
隣で可愛らしくピースをしているだけだったしずくちゃん。

勢いよくこっちに向き直ったかと思えば、肩に手を置いて――

「――んっ」

――かしゃっ……と、決定的な瞬間に撮影が行われて、固まってしまう。

唇ではないけれど、しずくちゃんから頬への口づけをしている1枚。
しずくちゃんは静かに、ゆっくりと離れて……数歩下がると、

「……私だって、女の子だから嫉妬するんです」

こっちの目を見て……気恥ずかしそうにそう言った。

962: 2022/06/04(土) 19:24:53.79
しずくちゃんは今どきの盛り方をしたりはせず、
そのシンプルなまま終わらせて……一目見て嬉しそうに笑うと、
大事にお財布へとしまい込む。

「お兄さんもどうぞっ」

お財布に入れておいた方が良い? というと、
しずくちゃんは「そこまでは望みませんよ」と、まだ赤い頬のまま首を振る。

「撮らせてくれただけで、満足してますから……家にでも置いておいていただければ、それで」

しずくちゃんはそう言うけれど、
でも、それはどこか寂しく思うのではないかと思って、
しずくちゃんと同じようにお財布の中へとしまう。

誰かに見られるような機会はほとんどないし、それに。
大事なものだから、落としも失くしもしなくなるお呪いみたいなものだよ。というと。
しずくちゃんは「……そうですね」と、恥ずかしそうに言う。

しずくちゃんがかわいくて、楽しそうで、幸せそうで。
まだ、頬に残る感触に胸を高鳴らしながら……時間を見てしずくちゃんに声をかける。

「……ドキドキ、しますね」

人目につかないところでした、ちょっとした背伸び。
そうして、恋人らしい手の繋ぎ方。
しずくちゃんの手は朝よりも温かく、
こっちの腕に身体が触れてくるのではなく、腕に寄り添ってきながらレストランに向かう。

あの日にもしたディナー。
あえて、今日も同じような時間、同じ場所を選んだ。
その時はまだ他人だったけれど……今はもう、変わっているから。

お店に着くと、桜坂ではなくこっちの苗字をしずくちゃんが口にする。
予約したのはしずくちゃんで、でも、あえて、そうしたいと言っていたからだ。

それもまた、可愛らしい背伸びなのだろうと……胸が熱くなる。

963: 2022/06/04(土) 19:47:23.92
「……良い、景色ですね」

夜も更け……と言ったものではないけれど、
逆に段々と暗くなりつつある夕焼けの景色が、穏やかで美しく感じられる。
それを見上げていたしずくちゃんは、
それに負けないほどに可愛らしく、綺麗な笑顔を浮かべて。

「まだ、終わっていないのに……まだまだ続けられることなのに、このまま一生であって欲しいと思ってしまうのは、今日一日がとても幸せだったから……かな」

しずくちゃんはこっちに言っているのか。
自問自答しているのか。
ちょっぴり悩んでしまうようなことを言ってくれるしずくちゃんは
胸に手を当て、深呼吸をし、何か大事なことを言おうとしているみたいに整える。

「昨日、お兄さんが帰ってくるのを待ってる間……少し、考えてたんです」

誰かの帰りを待っていた経験は、しずくちゃんにもたくさんあるだろう。
けれど、それは血のつながった身内や、
家ではなく、学校での一部だったりして、特別なものではなくて。

でも、それは……その場所で待っていてくれた経験は、しずくちゃんにとっても特別なものだったのかもしれない。

「アパートの階段を上ってくる音、廊下を歩く音。それが聞こえるたびに、お兄さんかもしれないって、ドキドキとして……そういうのが、誰かと一緒に暮らすってことなのかなって思って……」

しずくちゃんは頬を赤く染めながら、可愛らしく……柔らかい笑みを浮かべる。
胸が高鳴って、一瞬、呼吸さえも忘れさせるような。
そんな、しずくちゃんの表情。
なら一緒に暮らそう。なんて、言ってはならないことを言わされそうにさえなってしまう。

けれど――

「お兄さん。私が高校を卒業したら……一緒に暮らしませんか?」

しずくちゃんはその葛藤をいとも容易く乗り越えてくる。

高校を卒業するころには18歳を過ぎ、
大学に行くか、女優を目指して事務所や劇団に入れるよう努力したり、養成所に通ったり……色々と道はあるだろうけれど、
1人暮らしを始めることもあるだろう。

しずくちゃんはそれを、1人ではなく2人で……と、したいようだった。

964: 2022/06/04(土) 20:08:13.87
それは……と、考える。までもないほど、望んでもないことだった。
けれどしずくちゃんはそれでいいのだろうか。
一時の気の迷いで選んではいないだろうか。

「……だめ、ですか?」

きっと、しずくちゃんは考えていたのだろう。

こっちに気付いた時からずっと、
この人に近づいてもいいのだろうかと考えていたのと同じように。
しずくちゃんは考えて、悩んで、それでも。
進み続けたいと考えたのだろう。

でもそれは、こっちだって考えていたことだった。
本当にいいのか、しずくちゃんを幸せにしてあげられるのか。
自分以外の誰かの方が、しずくちゃんにとってより大きな幸せを与えられるのではないかと。
だからこそ、ストーカー行為だって打ち明けたわけで。

でも、それを受け入れてくれたしずくちゃんだから。
その先を望んでくれているしずくちゃんだから。

――駄目なんて言わない。けど、それは言いたかった。

さすがに言われ過ぎてるな。と、
自分が恥ずかしくなって、つい本音を零してしまう。

「だって……ストーカーさんでもいいって思うくらい、ですから」

しずくちゃんはそんなことですら、笑顔で受け入れてくれる。
普通なら受け入れくれないようなことをしずくちゃんは受け入れてくれた。
それは、受け入れてもいいと思うくらいに好感を抱いてくれていたということで。

――確かに。と、思わず笑ってしまいながら、
しずくちゃんとウインドウショッピングをしながらこっそりと買ったものをしずくちゃんに差し出す。

「お兄さん……?」

出したのは、大して高価でも何でもない、ただの指輪。
ありふれたものだからこそ、邪推を避けやすく、けれど、自分たちにとっては大きな意味を持たせられる。

――本当は、これを受け取って貰ってから、切り出すはずだった。

と、ちょっぴり残念に思って言うと、
しずくちゃんは受けろうとしていた手を引っ込めて

「なら……聞かせてくれますか?」

うるうるとしていた目元をぐいっと、ハンカチで拭って笑顔を見せる。

965: 2022/06/04(土) 20:24:10.78
しずくちゃんから切り出してくれていた手前、
もう、受け取って貰えるという安心感を感じられてしまっているけれど、
それでも……と、深呼吸をして、切り替える。

指輪を一度握りしめ、もう一度しずくちゃんの方に差し出す。

これからのことには、不安が多く、心配が多く、問題が多くて怖いかもしれない。
けれど、その不安も、心配も、問題も。
全てを必ず解決して、それ以上の幸せを与えてあげられるように努力する。

だからもしも、しずくちゃんがそれを信じてくれるなら。
これから先もまだ……一緒にいてくれる気持ちがあるのなら、受け取って欲しい。
そうして、全てが解決したら、堂々とできるだけのものに換えさせて欲しい。

真剣に向かい合い、本気の言葉をしずくちゃんに向けると、
しずくちゃんはぽたりと、涙を零して。

「……約束ですよ?」

しずくちゃんは、こっちに向かって左手を差し出してくる。
受け取るつもりはある。
けれど、それは自分でするのではなく、して欲しいのだろう。
と……、しずくちゃんに言われるまでもなく察して。

しずくちゃんの左手薬指に、指輪を嵌める。

「サイズ……ぴったりです……」

ずっと握っていたから。
指のサイズなんて分かり切っていることだったけれど、これはきっと、言うべき言葉があると思って――笑う。

――ストーカーだからね

そう言うと、しずくちゃんは「もうっ」と、
可愛らしく、嬉しそうに、弾むような声を漏らして。

「何言ってるんですかっ……」

なんて、自分の左手をとても大事そうに、胸に抱きしめた。

966: 2022/06/04(土) 20:38:56.63
「でも、これでお兄さんはもう言い逃れできなくなりましたよ」

しずくちゃんの嬉しそうな声に笑いながら、それは分かってるよ。と、堂々として答える。
それは分かっているし、それを覚悟したうえで、
しずくちゃんと一緒になっていきたいと思い、仮とはいえ指輪を渡したのだから。

「……ここまでしたなら、呼んでくれてもいいんじゃないですか?」

しずくちゃんはそう言うと、
こっちのことをまじまじと見つめてきて……
そう言えば、今までは可能な限り名前を呼ぶのは避けてきたなぁ。と思って。

――しずくちゃん。

と、呼んであげたのに、しずくちゃんの頬は違う。と言いたげに膨らむ。
察してくださいと言いたげなしずくちゃんの視線。
可愛らしく膨らんだ頬はちょっぴりと赤い。
しずくちゃんではないけれど、呼んでくれても。と言われる言葉。

「……一度だけ読んでくれたのに……」

しびれを切らしたしずくちゃんのその呟きで、気付いて。

――ごめん。しずく

と、謝りつつ呼んであげると「む~……」としずくちゃんは唸る。
ちゃん付けをしない呼び方も違うのかと思えば、
しずくちゃんは「お兄さん……」と、言って。

「第一声がごめん。は嫌です……もっと、こう。この場に相応しいものがあるじゃないですか」

しずくちゃんはそう言いながら「ここまで言わせますか。普通……」なんて、
ぷいっとしてしまう。
それでも本気で起こっているとか、そう言うわけではないと分かる辺り、本当に可愛らしいと思って。

――その点も含めて努力するよ。

なんて、謝罪をせず、これから変えていくことを約束して。

――好きだよ。しずく

と、言いながら、ぷっくりと膨らんでいたしずくちゃんの頬を優しく撫でる。

967: 2022/06/04(土) 21:00:52.26
「私もお兄さんが好きです……大好きです」

ぷしゅ~……と、しずくちゃん――いや、しずくの頬から空気が抜けていき、
触っていたこっちの手に手を重ねるようにして、しずくはすりすりと。可愛らしい仕草を見せる。

「……だから今は、このくらいで満足しておきます」

今出来るのは、このくらい、あるいは、頬に口づけをするくらいだろう。
家の中でなら、もしかしたら……唇同士くらいは、出来るかもしれないけれど。
それ以上のことは、しずくも自分も我慢していかないといけない。

でも、それが出来なければ最悪の場合、永久に離れ離れになってしまうから。
そうならないように、慎重にゆっくりと、
けれど、確かな繋がりを持ち続けて……いつの日か、問題がなくなる時を待ちたいと思う。

「でも、お兄さんがして欲しいなら、頬くらいは……良いですよ?」

――理性に攻めてこないでくれ。

可愛らしくとても危ないことを言うしずくにお願いすると、
しずくはやっぱり、とても可愛い笑顔を浮かべて「そうですね」と、口癖のようなことを言って。

「お兄さんも、私の気持ちを必要以上に煽らないでくださいね……キス、したくなっちゃいますから」

友愛であっても行われることのあるキス。
だからこそ、それを行うハードルは低く、もしもの時の解消法として思っておこうというのだろう。

気付けば、空に見えていた夕暮れの赤色は薄れて、暗くなってきている。

「……えへへっ」

けれど、目の前には、目があえば可愛らしく笑ってくれるしずくがいて、
そこには、決して薄れることのない赤色がある。

ただ色褪せて、景色の中に解け込んで消えていくだけだったはずの人生を、
これ以上ないほどに鮮やかに変えてくれた――大切な赤色が。

だから、これを守ろうと思う。
決して汚さず、踏み躙らず、守り――そして、
楽しく、嬉しく、幸せで、幸福に満ちた日々を、他の何者でもない自分が与えて行こうと、決意した。

968: 2022/06/04(土) 21:03:21.96
以上で、おまけも終わりになります。
先月から約半月の間、お付き合いいただきありがとうございました。

引用元: しずく「ハンカチ、落とされましたよ」