4: 2011/05/24(火) 21:22:36.84 ID:fG3igTn80
「お疲れ様でしたー。」

そう言って会社のビルを出る。時刻はもうすぐ22時。いつもの道をいつものように歩いて駅へ向かう。

毎回同じような手つきでカバンからパスケースを取り出し、改札を抜け電車に乗る。いつもの決まった動作だ。

そのまま30分ほど電車に揺られると家に着く。もう3年近くこれを繰り返している。

こんな時間だというのに車内は混んでいて、空いている席を見つけられなかった私はドア横の空いたスペースに体を滑り込ませる。

まだ水曜日か…、と思いつつ時計から窓の外へと視線を移す。

どこまでも続いているように見える同じような家並みとビルの明かり、そして時たま窓に反射する自分の顔を見て、何度もため息が出る。


5: 2011/05/24(火) 21:23:19.41 ID:fG3igTn80
「―いいからいいから。あなたは私の言う通りにしてればいいの。なんか文句ある?」

車内の中ほどから甲高い話し声が聞こえてくる。どうやら大学生の集団らしい。おそろく新宿かどこかで飲んだ帰りなのだろう。

女の方が強いのか男が我慢しているだけなのかわからないが、ほとんど一方的に女が話し掛けている。

「私もあんな風だったのかな…。」

その集団の会話を聞いていて、ぼんやりと昔を振り返る。

7: 2011/05/24(火) 21:24:32.58 ID:fG3igTn80
私とSOS団のみんなは同じ大学に進学した。

私には家から近かったというぐらいしか理由がなかったが、いつの間にかSOS団全員が同じ大学のキャンパスに揃っていた。

高校の進路指導担当の教師からはもっと上も狙えるのに、と散々言われたが、私はあまり深く考えず、家からほど近い、関西じゃ名門とされている丘の上のキリスト教系の大学へ通い、4年間を過ごした。

高校時代文芸部にあったSOS団の拠点は同好会レベルでは大学から部室としての部屋を与えられる筈も無く、かといって高校の時のようにどこかの部室を乗っ取るという訳にもいかず、

結果的に大学の食堂や中央芝生、はたまたキョンの部屋へと移っていったものの、それまでと全く変わることの無いペースでSOS団の活動は続いた。

9: 2011/05/24(火) 21:25:20.01 ID:fG3igTn80
毎週末の不思議探検は大学生となり行動範囲と持つ財力が今まで以上に大きくなったおかげで時には西宮を飛び出し、梅田や三宮、周辺他府県へ出掛けることもしばしばだった。

不思議探検とは名ばかりで実態は買物に行ったり映画を見たりその時の気分に任せてやりたい放題に遊んでいたが、その所為でSOS団が旅行サークルだと思っている人も周囲には居たくらいだった。

いつもと変わらない、みくるちゃん、有希、古泉くん、キョンを主メンバーとしたSOS団の活動はゼミ選択、就職活動、卒業単位問題等々数々のイベントを経ても続き、それは大学卒業まで変わることが無かった。

10: 2011/05/24(火) 21:27:01.24 ID:fG3igTn80
大学卒業後、私は就職のために東京へ行くことになった。

生まれた時から延々と続く不景気は相変わらずで、決して就職活動は楽とは言えなかったが、

昔から続いていた勢いと無鉄砲な性格のおかげでそんな中でも数社から内定を貰い、東京を拠点とする今の会社を選んだ。

今だから言うけれど、決して心の底からやりたいというような仕事ではなかったが、人間生きていく以上収入を得なければいけないし、

22年間住み慣れた西宮を離れ、東京に出て何か大きいことをやってみたかった。

さすがに声に出して宇宙人・未来人・超能力者などと高校の入学直後に叫んだようなことを再び言う訳ではなかったが、

それと同じような突拍子も無い、ただ何か大きいことを全く新しい環境で成し遂げたい。

そんな淡い幻想にも似た気持ちを持ったまま、私は東京で働くことになった。

11: 2011/05/24(火) 21:28:18.33 ID:fG3igTn80
電車は減速し、別の路線と接続している駅へと入る。先ほどの大学生の集団はその中の男の家で飲み直すというようなことを言いながら電車を降りていった。

少し背の高い男2人と女が3人。グループのリーダーはその女の中の1人らしい。

偶然にしては出来すぎているような気もするが、その姿を目で追う内に益々自分の思い出がオーバーラップする。

「みんなで最後に飲んだのはいつだったっけ…。」

記憶の奥底から、東京へ出発する前の日にSOS団みんなで飲んだ日のことが甦ってきた。

13: 2011/05/24(火) 21:30:30.40 ID:fG3igTn80
私が東京へ向かう前の日、夕方早い時間からSOS団の面々は西宮北口駅前の西北公園に集合していた。

目的は勿論、私の送別会だった。卒業式を終えてから引越しや待ち構える仕事への準備でそれぞれがバタバタしていたが、なんとか全員の予定を合わせることが出来たのが出発の前日だった。

なるべく時間を目一杯取ることが可能なようにまだ太陽が沈まない内から送別会を始めたものの、

今までの思い出やそれぞれの将来など取り留めの無い話は尽きることが無く、結局帰りは終電を大幅に超える時間になってしまった。

考えてみればもう丸7年も一緒に居たのだ。話し足りないということはあっても、あっさりとここで解散、という風になる訳が無い。

卒業式後の妙な開放感とこの先に待つ将来への不安感、そして大学生としての生活がいよいよ終わってしまうという焦燥感とが入り混じった興奮状態の中、あっという間に時間は過ぎ去っていった。


15: 2011/05/24(火) 21:31:39.14 ID:fG3igTn80
深夜2時。すっかり人通りも無くなった駅前で、ようやく送別会は解散となった。

途中で呼んでおいたタクシーに古泉くん、有希、みくるちゃんを乗せ、駅前のいつもの公園には私とキョンの2人だけになった。

月は出ていたが、茂る大きな木のおかげで、公園のベンチは薄暗かった。

「もう明日には東京だな。」

「そうね。必ず今以上に大きくなって帰って来るわ。」

「お前が言うといろんな意味で冗談にならないんだがな…」

「ん?何か言った?」

「いいや。…でも、お前ならやれるさ。」

「あ、ありがとう。」

キョンが発した思わぬ言葉に、思わず私は照れ笑いした。

17: 2011/05/24(火) 21:33:50.32 ID:fG3igTn80
翌日、新大阪の新幹線ホームには私とSOS団のみんなが居た。

見送りなんて気恥ずかしいからいいと言っていたのに、SOS団のみんな、特にキョンは行くと言ってきかなかった。

引越しの荷物は先に送り出していたから、私は少し大きめのキャリーケースを1つ持っているだけだった。

いつもの他愛もない話をしたりお茶やお弁当を買ったりしていると、いつの間にか発車時刻が近づいていた。

18: 2011/05/24(火) 21:35:24.45 ID:fG3igTn80
「―まもなく23番ホームよりのぞみ240号東京行きが発車します。」
ホームに発車を知らせるアナウンスが流れる。

「みんな、ほんとにありがとう。」

「気をつけてくださいね。」

「何かあったらいつでも帰って来いよ。」

「そんなに弱虫じゃないわよ。SOS団の団長なんだから、何があっても乗り越えてみせるわ。」

「そりゃ頼もしいな。…ハルヒ、頑張れよ。」

「もちろんよ!キョン、あんたも頑張りなさいよ!」

「ああ。」

「俺はいつまでも待ってるからな。」

キョンがそう言うと発車のベルは鳴り終わり、ドアが閉まった。

どこか落ち着かない気持ちの私を乗せたのぞみは新大阪駅をゆっくりと発車していった。



ドアの窓から見えたキョンの顔がなぜだか寂しそうに見えた。

20: 2011/05/24(火) 21:36:36.73 ID:fG3igTn80



それからどれだけの時間が流れただろう。あの頃の興奮は、今やただの苦痛に変わってしまっていた。


23: 2011/05/24(火) 21:38:11.71 ID:fG3igTn80
月曜から金曜まで、まるで水の中で誰かに頭を押さえつけられて半分溺れるように休日を待ち望む日々。

理不尽な命令と日々の慌しさの中で次第に消えていく新鮮な感覚。ありとあらゆることよりも優先される仕事のために消えていく貴重な休日。

気がつけばただひたすら部屋と職場を往復し、上司、客、同僚に気を使いながら自分を押し頃す日々。

その忍耐の対価として得られるのは左から右へと流れて消えていくすずめの涙ほどの給料だけ。ただ空虚な時間だけが無駄に流れていく。

社会の歯車になるのはこういうことなんだろうけど、実際の所、それは自分の感情を無くして生きていくことと同義だ。

それが社会で生きていくために必要だと決められたことなのだ。じゃあそれを仕方無いことだと決めたのは一体誰なのだろうか。

そんなモラトリアムを脱する。言葉にすれば簡単だが、人の心はそう簡単に変わることが出来るものではない。

何かを成し遂げたい。自分の思うような人生を生きたい。

だけどそれが何をどうすれば達成出来るものなのかがわからない。

しかし時間は無常に流れていく。

そんな焦りと無力感が私の心をより不安定にしていた。

25: 2011/05/24(火) 21:40:34.20 ID:fG3igTn80
東京に来てしばらくはキョンたちとも連絡を取り、いろいろと身の回りのことを報告し合っていたが、いつの間にか日々の忙しさの中でそれさえも滞り始め、自然とその回数は減っていった。

日々の生活に追われ、自分ではどうにもならないほどに環境が激変する中で、そのたった数回のメールや電話でさえもが重荷のようになっていた。

決して考えたくなかったのではない。疲労と現実への落胆の中、考える気力さえ失っていた、と言った方が正しいだろう。

今まで周囲のあらゆるものへ向けられていた私の好奇心はすっかり影を潜め、ただ漠然と大きな無力感だけが心の中を支配していた。

26: 2011/05/24(火) 21:41:43.93 ID:fG3igTn80


「私、何やってるんだろう。」


終電までもうそんなに時間がある訳でもない電車の窓に映る自分の疲れた顔が見えた時、

騙し騙しでなんとか辛うじてここまで保ってきた心の糸が切れたように、心の中から暗く重いものが浮き上がってきた。


27: 2011/05/24(火) 21:44:35.13 ID:fG3igTn80
最初は何か大きな志を持ち気力に溢れた人も、余程強い意志を持たない限り世間や周囲の環境、上からの圧力に押しつぶされて次第に無気力になっていく。

それまで持っていると信じていたはずの物事への敏感な感覚を無くし、一定の社会が望んだ型にはまった人生を生きていく。

自分は決して特別なものでもなんでもない、社会の歯車の1つであることを認め、望んだものを諦めながら他の物で欲望を満たしながら生きていく。

それが自分の意識と世間の認識との折り合いをつけ、普通の人として社会の中で生きていく、最も傷つかない穏便なやり方なのだ。

学生時代、そんな人間には決してならないと誓っていたはずなのだけど、世の中はそれほど簡単なものではなかった。

何か大きなものに流され、かつて自分が最も嫌っていた普通の人になりつつあることに改めて気がついた。

もしかしたら、気づいてはいたのにその事実を受け入れることが出来ないままここまで来てしまったのかもしれない。

28: 2011/05/24(火) 21:47:10.84 ID:fG3igTn80
それは正に夢を諦めることと同じだ。こうすることで結果的に自分が普通の人であるという事実を認めることになる。

あれがしたい、これがしたい、どうなりたい、何かが欲しい。だけどお金が足りない、能力が足りない。だから諦める。

それは自分には無理なことだったんだと自分自身を無理矢理納得させて、そのことから目を逸らす。


だけど、果たしてこのままでいいのだろうか。


このまま自分の夢を諦めて、目の前の、手に届く位置にあるだけのものでとりあえずの欲求を満たし、何にも結局得ることの出来ないままただ歳を重ねていくのか。

そんな、自分がかつて一番嫌っていたはずのちっぽけで普通の人になってしまうのか。

歳を取り酒の席であの頃が一番良かったと昔話をする上司と同じ状況になってしまうのか。

29: 2011/05/24(火) 21:48:49.52 ID:fG3igTn80



そんなのは絶対に嫌。



30: 2011/05/24(火) 21:50:36.36 ID:fG3igTn80
だけど、無鉄砲に自分の思いのままに飛び込んでいく勇気を、いつの間にかなくしてしまった。

何かをするにしてもその結果と費用が頭をもたげ、踏み出すことが出来ない。

踏み出した所でそれが成功する保証はどこにも無いし、失敗すれば今の日本では冗談抜きに生きていくことが出来なくなる。




行くも地獄、退くも地獄。気がつけばそんな状況に追い込まれてしまっていた。

31: 2011/05/24(火) 21:51:25.88 ID:fG3igTn80



「いつまでも待ってるからな。」



新大阪駅でのキョンの言葉が今更になって頭の中をリピートし続けていた。

32: 2011/05/24(火) 21:54:51.72 ID:fG3igTn80
聖蹟桜ヶ丘で電車を降り、重い足と気分とを引きずるような気持ちでマンションへと向かう。

最初は会社の社宅に入っていたが、仕事・休暇の区別無くエンドレスで四六時中続く職場の関係が嫌になり、早々に出てしまった。

紆余曲折の末、こうして会社から30分ほどの街に住んでいる。

すぐそこに多摩丘陵が迫る坂の多い街であるが、不思議と安心感を抱くことの出来る所だった。

この街が私が生まれて22年間を過ごした西宮にどことなく似ているのがその理由だと気が付いたのはつい最近だった。

今思えば無意識のうちにこの街に西宮の雰囲気を求めていたのかもしれない。

35: 2011/05/24(火) 21:57:02.30 ID:fG3igTn80
その日はいつも以上にどんよりとした気分のまま化粧を落としてシャワーを浴び、そのままベッドに入った。



夢の無い、ただ疲れを癒すだけの睡眠がそこにあった。


36: 2011/05/24(火) 21:58:46.70 ID:fG3igTn80
結局昨日の帰りの気分は晴れず目が覚める。

もう定型となった朝の動作を繰り返し、いつもと同じ時間に家を出る。

家を出る瞬間から次の休みまであと何日だろうと無意識のうちに数えている。

そして、毎日朝の混雑する電車に押し込まれ、痴漢されたかどうかもわからないほど体の触れ合う状況の中会社へ向かい、規則正しい時間に自分の席へ付くのだ。

37: 2011/05/24(火) 22:01:20.45 ID:fG3igTn80
昨日からのどん底の気分を引きずったまま乗る朝の急行ほど気乗りしないものはなかった。

都心へと向かうラッシュは相変わらずで、なんとか乗る場所は確保したものの身動きは取れないままだった。

やがて電車は明大前へとたどり着く。

乗り換える乗客の流れに押し出され、一旦車外へ出る。

もう一度急行の車内へ戻ろうとするが、運悪くダイヤが乱れているらしく、あまりの混雑のせいでなかなか戻ることが出来ない。

そうこうするまま急行のドアは閉まり、私は明大前のホームに取り残された。

いつもだったら強引に乗り込む所だけれど、今朝はその気力が全く湧かなかった。

私の心を怒りとも惨めさともつかないもやもやしたものが支配していった。

38: 2011/05/24(火) 22:04:08.92 ID:fG3igTn80
「もう限界…かな。」

そう思うといてもたってもいられなくなった私は、会社の最寄りのターミナル駅から会社へ向かうことなく真っ直ぐ東京駅へ行き、新大阪までののぞみの切符を買った。

今日の案件があるにはあるが、もうそんなことどうなってもいいやと思った。




39: 2011/05/24(火) 22:08:15.41 ID:fG3igTn80
新幹線の車内から会社へ休みの連絡を入れる。

罵られこそしなかったものの、相手の声からは露骨に迷惑だというニュアンスが伝わってくる。

有給なんて普段滅多に取らないし実際取れないのにこんな時ぐらい取ってもいいじゃないと内心思いつつも、平静を装って適当な理由を付ける。

入社以来いつの間にか、こういった時に言い訳して誤魔化す術を身につけてしまっている自分が居た。

『嘘も方便』とは言うが、このままでは社会への建前の嘘のみで自分が構成されてしまう。

実態と虚像が混ざり合ってしまう。

そんな恐怖さえ感じていた。

40: 2011/05/24(火) 22:09:57.38 ID:fG3igTn80
新横浜を出た所で、ふと自分が朝から何も食べていなかったことに気がつく。

新大阪行きの新幹線に乗った所でもやもやし続けている気分が変わる訳もないのだが、丁度タイミング良く車内販売がやってきたので、サンドイッチとお茶を買った。

41: 2011/05/24(火) 22:11:42.98 ID:fG3igTn80
朝の東海道新幹線の車内にはスーツ姿のサラリーマンが満載されていた。

大阪での会議に使うと思われる書類の整理をする人、パソコンのキーボードを熱心に叩く人、はたまた貴重な睡眠時間とでも言わんばかりに惰眠を貪る人。

まさにサラリーマンのビジネス特急と化した姿がそこにはあった。

窓の外にはせっかくの富士山が見えているのに誰もそんな風景には目もくれない。

そんなことは珍しくもないし、時間効率を最優先するためには必要ないことだという思想が車内に流れていた。

今最も見たくないものがまわりに溢れる状況に落胆しつつ、私は包みを開いた。

そういう私も出勤途中に出てきたのだ。

傍から見ればスーツ姿のサラリーマンに違いは無い。

42: 2011/05/24(火) 22:12:49.40 ID:fG3igTn80
サンドイッチを食べ、しばらく窓の外を眺めているといつの間にか眠ってしまっていた。

何だか久しぶりにおだやかな眠りを味わえたような気がした。




43: 2011/05/24(火) 22:14:48.78 ID:fG3igTn80
「お客様、終点ですよ。」

その声に驚き、慌てて起き上がる。既に新大阪駅23番線にのぞみは到着していた。

「すいません…」

博多行きに乗らなくて良かったと思う反面、この数年であまりにズボラで太くなってしまった自分の神経に嫌気が差す。

昔はこんなこと絶対に無かったのに、今やこの体たらくだ。

せっかく関西に戻ってきたのに初っ端からこの状況なのかと考えるとますます気が重くなる。

44: 2011/05/24(火) 22:18:00.90 ID:fG3igTn80
西宮へ向かう為、新大阪駅から大阪駅へと向かい、その後梅田から阪急に乗り換える。

その間に、リクルートスーツに身を包む学生らしい人たちと何人もすれ違った。

ある者は順調に進む選考の様子を語り、ある者は必氏にSPIテストの分厚い参考書を読みふける。

明るい顔、緊張した顔、悲壮感の漂う顔、それぞれの状況が交差する。

自分の頃を懐かしく思い出しつつも、それは社会のスタートラインにつくための競争に過ぎないんだよ、と心の中で呟く。

これまで味わったことのないような競争を経て内定を得、入社して初めて本格的な社会人生活が始まる。

その場の状況と雰囲気を読んで自分の意見を曲げながら、時には『黒いもの』を『白いもの』と言い、全く尊敬の出来ない相手にも頭を下げ、その無責任な指示に従う、『社会人のマナー』に縛られた生活が始まるのだ。

45: 2011/05/24(火) 22:20:38.26 ID:fG3igTn80
まったく明後日の方向を見ながら「お前の代わりはいくらでもいるんだ」と言う人を何人も見てきた。

人間どうやったらここまで歪んだ考えを持つことが出来るのだろうかと疑問に思う人も何人も知っている。

そういう奴に限って上の立場に立っているのだから始末に悪い。まともな考えを持っている人は大体が窓際に居る出世とは無縁の人ばかりだ。

まともな考えを持っているからこそ出世の競争に乗り遅れてしまったと考えることも出来るのだが、そういった人から社内ではリストラの対象となり、順番に肩を叩かれていく。

こんな光景ばかりを目にしていて、自分の人生もこんなものなんだろうか、と思わない訳がない。

46: 2011/05/24(火) 22:22:41.88 ID:fG3igTn80
世間じゃ「人生ずっと競争だ」とか「競争することでお互い磨かれる」とか「仕事を頑張れば頑張るほど自己実現が出来る」なんてことを言うけれど、結局の所それは体のいい口実でしかない。

甘えているなんて言う人もいるけど、それは今の実態を見たことが無いんじゃないのだろうか。あるいは、見ていてもそれを受け入れたくないと思ってるんじゃないだろうか。

仲良し競争ゴールテープみんなで切りましょうなんてのはアホだとわかりきっているけど、実際に競争が始まり、自分の周囲を蹴落として、プライド、世間体全部放り出して数は少ない割にちっぽけなイスにしがみ付く。

運悪くレールを外れてしまえば見込みのほとんど無い一発逆転を狙わなければ同じレベルのレールに戻る為に大きな遠回りを強いられることになる。

近頃じゃそのレールに戻ることさえ叶わない人だって沢山居る。

動物の世界は弱肉強食だ。強くなければ、競争に勝たなければ生き残れない。生物学上で言えば人間だって動物だ。

だけど、意思を持っている人間に弱肉強食の理論をそのまま当てはめて、自分の意思関係無しにレールを外れてしまった人を自然淘汰だとしてしまうことが果たして正しいのだろうか。

47: 2011/05/24(火) 22:23:43.72 ID:fG3igTn80
就職は懲役38年の刑だ」というのをネットの掲示板で見たことがあるけど、まさにその通りだよね。

不安そうな就活生の背中を見ながら、私はJRから阪急梅田駅への連絡通路を抜け、阪急の改札をくぐった。

49: 2011/05/24(火) 22:26:21.44 ID:fG3igTn80
昼間の阪急電車は空いていた。

朝夕なら乗り換え客がどっと乗ってくるはずの十三を過ぎても車内は相変わらずで、その見慣れた光景に私は少し安心した。

それと同時に、すっかり自分が昔の思い出に寄りすがっていることに改めて気づいた。

どこか宙ぶらりんな私の気持ちとは裏腹に、特急はスピードを上げ西宮へ向け走り続けていた。

50: 2011/05/24(火) 22:29:14.00 ID:fG3igTn80
武庫之荘を過ぎ、武庫川の2つに別れた鉄橋を渡った電車はスピードを落とし、阪急西宮北口駅へと入る。

この数年で駅周辺にはタワーマンションが乱立するようになり、駅周辺、特に南側の風景は一変していた。

バスのロータリーこそ変わりはしないが、その正面には大きなホールが出来、その左には阪急今津線の高架を挟んで巨大なショッピングセンターである西宮ガーデンズが鎮座していた。

出来たとは聞いていたが、そのあまりの変化の仕方に私は驚くばかりだった。

51: 2011/05/24(火) 22:31:38.87 ID:fG3igTn80
あの阪急百貨店が西宮に出来たことだけでも驚きだが、そこには映画館である西宮OSまでもが入っている。

大きなシネコン付きのショッピングセンターというものがなく、出掛けるとなれば大阪や三宮へ出なければならなかった昔と比べれば凄まじい進歩だ。

その大きな建物を遠目に見ながら、私が西宮に居た頃に出来ていれば不思議探検の格好の場所になったのにな、とぼんやり思う。

53: 2011/05/24(火) 22:33:47.05 ID:fG3igTn80
特急を降り、コンコースを通って北西口へ出る。

いっそのこと夙川駅まで乗った方が実家には近かったのだが、この西宮北口はSOS団の不思議探索の拠点になってきた場所だ。

せっかく帰ってきたんだ、今までの思い出が詰まった場所を改めて見てみよう、と私は思った。

56: 2011/05/24(火) 22:35:38.34 ID:fG3igTn80
北西口の長い階段を下り、タクシー乗り場の横を抜ける。

そこにあったはずの大きな木が茂り、ちょっとしたベンチスペースのあったいつもの駅前の西北公園は姿を一新し、自転車置き場付きの新しい広々とした公園へと生まれ変わっていた。

大きな木も姿を消し、あの頃の面影はほとんど残っていなかった。

電車を降りて早々に見せ付けられたその事実に、私の心は大きく動揺していた。

何度あの鬱蒼と茂る大きな木の下のベンチで待ち合わせをしたことだろう。今でもその風景は私の目に焼きついている。

新しい公園は明るく機能的な場所となっていたが、私たちの過ごしたあの公園ではなかった。

思い出の風景が確実に変化を遂げていることに、私は過ぎてしまった月日の重みを感じていた。

57: 2011/05/24(火) 22:38:02.36 ID:fG3igTn80
西北公園から程近い喫茶ドリームはそのままの姿をとどめていた。

SOS団の不思議探索の拠点を7年間もの間ずっと務めてくれていたもう1つの場所が姿を変えていなかったことに私は妙に大きな安心感を覚えた。

駅前の公園があまりに大きく変化していたことの反動なのかもしれない。大きな通りから少し奥に入ったビルの1階にある店は当時と何ら変わらないように見えた。

クリームソーダでも飲んでいこうか、と一瞬考えたものの、季節とこれからの道のりを考えた末結局止めることにした。

つい1ヶ月前までは暖かかったのに、ここ最近めっきり冷え込んできて、冬の雰囲気に街は包まれていた。もう12月になっていた。

58: 2011/05/24(火) 22:41:03.85 ID:fG3igTn80
駅前から北へ向かい、国道171号線へ突き当たる。

片側2車線の道路は相変わらず混雑していた。

野球大会に出た後に寄った以外にも度々足を運んでいたステーキレストランは変わらずそこにあった。

ドリンクバーだけで何時間も粘り倒したり、定期試験の勉強と称して集まり、結局勉強にならず他愛も無い話に華を咲かせたりしていたことを思い出す。

今考えればかなり迷惑な客だった。それに結局キョンにはいくらぐらい払って貰ったのだろう。

1回の額はそれほど大きくはなかったはずだが総額となると相当の金額になっていたに違いない。

いろいろと文句を言いつつもキョンはご飯代を払ってくれていた。

60: 2011/05/24(火) 22:44:44.17 ID:fG3igTn80
このステーキレストランのある交差点を北に向かうとSOS団全員が通った大学に着く。

関西圏じゃそこそこ名の通った大学で、統一感のあるキャンパスはこの辺りを舞台にした映画に登場したこともある。

大学の真ん中にある芝生広場で遊ぶ子供の姿を毎日見かけるぐらいに平和な大学だった。

高校の時の進路指導担当の教師にはもう少し上のランクの国立大学を勧められていたが、私は結局この大学を選んだ。

今思えば高校の3年間だけでSOS団を失いたくなかった、というかいつまでもあの5人で遊んでいたかった、という気持ちが強かったのかもしれない。

別に団員のみんなに強要した訳ではなかったのだけど、気がつけば全員が同じ大学に居た。1年先にこの大学の大学生になっていたみくるちゃんを含めて。

61: 2011/05/24(火) 22:46:41.27 ID:fG3igTn80
入学して以来4年間で、大学周辺の食べ物屋、変わったスポットなんかはあらかた制覇してしまった。

元々住宅街の真ん中にある大学だけにそんな場所自体の数が少なく、高校時代と行動エリアが被っていたのが完全制覇を容易にした理由だったが、

それでも不思議探検と称して街を歩き回るSOS団の恒例行事は続いていた。

62: 2011/05/24(火) 22:48:44.04 ID:fG3igTn80
中央芝生でのバレーボール、野球。

大学の規模の割に狭い食堂での長時間のお喋り。

バスが通る曲がりくねった坂道を下りた駅前にある学生御用達のカレー屋。

バイクのスピード違反で検挙される奴が続出した北口へ続く今津西線の急な坂道。

しょっちゅう朝までのオールで活用した171号線沿いのカラオケ。

この数年の東京生活で薄れかけていた過去の思い出が、あらゆる場所で甦ってきた。

それは、いかに私たちがこの場所で密度の濃い時間を過ごしてきたかを証明してくれていた。

64: 2011/05/24(火) 22:50:45.89 ID:fG3igTn80
野球大会のあった市民運動公園の所で171号から離れ、広田神社方向へと向かう。

甲陽園まで電車に乗らず歩くことを決めたとはいえ、この辺りから道は上り坂になり、息が切れてくる。

狭い割にバスが頻繁に通る道を上り、大きなホームセンターの手前で住宅街の中に入る。そこにある新池はあの頃と変わらない姿を留めていた。

思い切って池の中に浮かぶ遊歩道へと足を進める。

自分で言うのもおかしいけれど、ここにみくるちゃんを落とすなんてアホなことよくやったわね。

ただ派手な映像が欲しかった、ただそれだけのことで。古泉くんとみくるちゃんキスしなさい!なんて今考えると赤面ものだし、迷惑な無茶振り以外の何物でもないもんね。

でもなんだかすっかり常識みたいなものが身についちゃったみたい。ほんとにつまんない奴になっちゃったな。



またため息が出てしまった。東京からここまで何度ため息をついたことだろう。懐かしさを感じながら、私はすっかり意気消沈してしまっていた。

65: 2011/05/24(火) 22:52:53.72 ID:fG3igTn80
バス道へと戻り、少し歩くと関西スーパーの横に出る。

あんな真夏の暑い時期に、ただ着ぐるみが欲しかっただけで団員のみんなにバイトをさせたことを思い出す。

よくあんな無茶苦茶をやってみんな怒らなかったもんだ。バイト代の代わりに着ぐるみを貰い、私だけは涼しい顔。

自分が逆の立場なら速攻で怒りを爆発させるのに。

みんなが疲労困憊する中、キョンだけは怒りの表情を私に向けていたことが一番印象に残っている。

どれだけ身勝手だったのだろうあの頃の私は。

68: 2011/05/24(火) 22:55:11.01 ID:fG3igTn80
これでもかと続く坂に息を切らしながらようやく阪急甲陽線の踏み切りにたどり着く。

一度だけ、この踏切でキョンに少し心の内を明かしたことがある。

いかに自分がちっぽけで普通な人間で、つまらない人生を送っているのかというような内容だったように思う。

結局その頃から私は何にも変わっていないじゃないか。

面白いものを求め、人と違う生き方をしたいと思いつつただ漠然とした不満を爆発させるだけで、最終的には流れに身を任せるだけ。

SOS団の7年間ですっかりその負のループから抜け出せたと思っていたのに、根底にあったものは何にも変わっていなかった。

その事実に気がつきつつも目を背けてきたのが今の結果に繋がっている。もやもやとした不安の正体はこれだったのだ。

それに気がついて、私は愕然とした。

あの頃に戻れるなら戻りたいと思ったが、そんなことが叶うはずもない。

やり場の無い気持ちが私を包んでいった。

69: 2011/05/24(火) 22:58:59.80 ID:fG3igTn80
ここからは有希のマンションがよく見える。

有希はまだあそこに住んでいるのだろうか。

部屋まで覚えているのだから行ってもいいのだろうけど、もう引っ越してしまっているかもしれないし、第一今は昼間だ。有希だって仕事に出ているに違いない。

有希もみくるちゃんも古泉君も、そしてキョンもそれぞれの場所でそれぞれの生活空間を持っているはずだ。

前みたいに人のプライベートにヅカヅカと土足で入っていく勇気を今の私は持ち合わせていなかった。

70: 2011/05/24(火) 23:01:05.73 ID:fG3igTn80
踏み切りを越え、後ろを振り返ると東中の校門が目に入る。

中学1年の七夕に校庭に絵を描いた時それを手伝ってくれたのは一体誰だったのだろう。

北高の制服を着ていたことしか覚えていないが、結局北高に通ってもそれらしい人を見つけることは出来なかった。

背格好になんとなく見覚えがあるような気はしていたのだが…。

ただ、進路に北高を選んだことは間違いじゃなかったと今でも思っている。

じゃなきゃSOS団なんてものを作ることなんて出来なかったはずだ。

その時の大人にはいろいろなことを言われたが、それを振り切って私は北高を選んだ。大学の時もそうだった。

あの頃の私が根拠はなんだかわからないが明確な意志を持っていたのは確かだった。

それが無くなってしまったのはいつからなんだろうか。

71: 2011/05/24(火) 23:04:05.08 ID:fG3igTn80
光陽園学院の裏を通り、阪急甲陽園駅へ出る。

ここに来て、せっかくならいっそ北高まで足を伸ばしてみようと思い立った。

北高までのあの坂道は変わることは無いが、生い茂っていた林が駐車場になっていたりして、少しずつ景色が違っている。

坂の途中にあったはずのコンビニは閉店し、その代わりに坂を下った所にこの辺りじゃ珍しい大きな駐車場を備えたコンビニが新しく出来ていた。

73: 2011/05/24(火) 23:06:49.25 ID:fG3igTn80
息も絶え絶えになりつつなんとか北高の前まで辿り着く。

よく高校生の時はこんな坂を毎日上り下りしていたと感心する。それだけ若かったのだろうか。

周囲が少しずつ変化する中、北高は当時と同じ姿を留めていた。ただ、中には当然入れないので内部がどうなっているかを知る術は無い。

岡部がまだ居れば職員室ぐらいは入れてくれるだろうが、その肝心の岡部がまだこの北高に居るかどうかわからない。しかもまだ校内は授業中だ。

部室がどうなっているか気になったが、後ろ髪を引かれる思いで私は北高を後にした。

75: 2011/05/24(火) 23:08:10.69 ID:fG3igTn80
「来てみた所で何にも変わる訳無いか…」

北高からほど近い、西宮を見下ろすことが出来る場所に私は立っていた。

76: 2011/05/24(火) 23:09:39.70 ID:fG3igTn80
今まで北口の駅から思い出の場所を巡ってきたが、そんなことをした所で、これまでの状況が変わる訳ではない。

むしろ、最初に東京駅から新幹線に乗った時点で状況が変わることなどないとわかっていたはずなのだ。

77: 2011/05/24(火) 23:11:53.75 ID:fG3igTn80

ただ今から逃げたい。

その一心で東京からここへと戻ってきた。ただそれだけなのだ。

別にここに戻ってきた所でSOS団が復活する訳でもない。あの4人が会いに来てくれる訳でもない。

私がいくらここで声を上げた所で返って来るのは山の中の高級住宅街の白々しい静寂だけなのだ。

そのことに改めて気がつくと無性に寂しさがこみ上げてきた。

絶対に泣くまい、と誓っていたはずなのに、目から涙が止まらなくなってしまう。



その時だった。

79: 2011/05/24(火) 23:14:23.87 ID:fG3igTn80
「おい…ひょっとして、ハルヒか?」



聞こえてくるはずのない、懐かしい声が耳に響いた。



82: 2011/05/24(火) 23:16:42.33 ID:fG3igTn80
全く予想出来なかった展開に、私は言葉を失っていた。

それはキョンも同じのようで、辺りにはキョンの乗ってきた営業車のエンジン音だけが響いていた。

83: 2011/05/24(火) 23:17:47.50 ID:fG3igTn80
「久しぶり…だな。」

先に口を開いたのはキョンの方だった。

「元気にしてたか?」

「…うん。」

一問一答のようなぎこちない会話が続いた。お互い、どう話を切り出せばいいのかわからない状態にあるのは明白だった。

「仕事は順調…な訳ないよなその様子じゃ。」

「…。」

そらそうだ。昼間に住宅街でスーツ姿の女が大した荷物も持たず立ち尽くして泣いているなんて普通の光景ではない。

保険勧誘の営業レディだってもうちょっとマシな格好をしている。そんな人がこんな所で泣いているなんてますます有り得ない。

84: 2011/05/24(火) 23:20:06.80 ID:fG3igTn80
「…向こうで何かあったのか?」

「…。」

言いたいことは山ほどあるはずなのに、涙が溢れるばかりで言葉が出てこない。

無理に言葉にしようとしても、嗚咽になるばかりで全く意味を成さなかった。



不意にキョンに私は抱きしめられた。

「そのままにしてろ。少しは楽になるから。」

しばらくの間、キョンの胸の中で私は泣いていた。



86: 2011/05/24(火) 23:24:05.13 ID:fG3igTn80
ようやく落ち着いた私とキョンは、営業車の前の座席に座っていた。

キョンは地元の会社の営業職に就いていて、納品のためにたまたまこの辺りを通りかかったとのことだった。

この辺りは会社からの目も届きにくく、休憩するにはちょうどいいこともあってよく来ている、とキョンは言っていた。

「お前もいろいろ大変だったんだな。」

「なんかもうどうでもよくなっちゃって…帰ってきちゃった。」

「これからどうする?」

「…何にも考えてない。」

「…よし。わかった。」

「わかったって、キョン仕事は?」

「気にすんな。直帰ってことにすりゃ問題無いから。」

そういうとキョンは電話をかけ始めた。直帰することを職場へ適当な理由を付けて伝えているようだった。

87: 2011/05/24(火) 23:27:42.11 ID:fG3igTn80
「これで大丈夫だ。さあ、行こうぜ。」

「行くってどこへ?」

「お前と行けてない所だよ。」

営業車のキーを回しながらキョンはニヤリと笑った。




88: 2011/05/24(火) 23:30:43.93 ID:fG3igTn80
北高から坂を下り、山手幹線を東へしばらく走った後、車はさっき見た西宮ガーデンズの立体駐車場へ滑り込んだ。

立体駐車場の狭いスロープを登り、入口に近い適当な場所に、キョンは慣れた手つきで車を停めた。

「さあ行くぞ。」

「なんだかやけに手馴れてるじゃない?」

「何焼いてんるんだ?俺は今も昔もフリーだぞ。」

「馬鹿。」

西宮に戻ってきて、初めて笑顔が出たような気がした。

89: 2011/05/24(火) 23:33:22.66 ID:fG3igTn80
平日の西宮ガーデンズは空いていた。

キョンと一緒に並んでいるショップを巡り、会話を交わす。傍から見ればカップルの姿にしか見えない光景がそこには広がっていた。

ひょっとしたらキョンと2人でこうやって過ごすのは初めてかもしれない。いつもはこの傍にSOS団のみんなが居た。

多少照れくさかったが、数年の東京での生活ですっかり擦り切れてしまっていた心が癒されていくのは明らかだった。

学生時代に照れくさくて結局出来なかったことがひょんなきっかけから今、社会人になって実現している。

きらびやかなショーウインドウ、真新しい映画館、洒落たカフェレストラン。

キョンと交わした会話は他愛も無いものであったが、それでも東京で決して味わったことのなかった充足感が私を満たし始めていた。



夢のようにも思える時間はあっという間に過ぎ、いつの間にか外は暗くなっていた。



90: 2011/05/24(火) 23:34:54.59 ID:fG3igTn80
その夜は駅前公園傍の居酒屋で飲むことに決めた。

平日であったが、店内は学生と仕事帰りのサラリーマンで溢れていた。その風景は学生時代と何にも変わっていなかった。


口から溢れ出す日頃の不満、会社への愚痴、教養のかけらも無く空騒ぎで充実したフリをしていい気になっている同期のこと。

あらゆる私の言葉をキョンは黙って聞いてくれた。

あの頃と同じ様に私が一方的に喋り続けていたが、所々に言葉を挟みながら私の言葉をキョンは全て飲み込んでくれた。

社会人になっても下戸のままでビールジョッキ1杯がなかなか空かない私に気を使ってウーロン茶を頼んでくれたりもした。


こんな生活が当たり前のものでなくなってからたかだか数年しか経っていないのだけど、長い惑星探査から懐かしい場所へ戻ってきたかのように、錆び付きかけていた心に温かいものが少し戻ってきたような気がした。

91: 2011/05/24(火) 23:37:01.53 ID:fG3igTn80
数時間後。

兵庫県立芸術文化センターの広場は冬のイルミネーションに彩られていた。そこに2人佇む。

もう東京へ今日中に戻る手段は無くなってしまったが、どちらにせよ東京へ戻らなければならない。

自分の意思とは関係無しに現実へ引き戻されてしまう。戻りたくない、でも戻らなきゃいけない。

そんな気持ちからか、私はすっかり押し黙ってしまっていた。

無言のまま、時間だけが過ぎていった。さっき感じた充足感は、いつの間にかいつも心のどこかで感じていた焦燥感に変わってしまっていた。

94: 2011/05/24(火) 23:40:04.22 ID:fG3igTn80
「…東京に帰るのか?」

「…帰りたくない。」

「でも、仕事もあるんだろ?」

「もうどうでもいい。だけど、多分帰らなきゃいけない。」

「そうか…。もう3年も経っちまったんだな。」

「20代も半分終わっちゃったわ。」

「今までほったらかしにしててすまなかった。お前がこんなになってるなんて思いもしなかった。」

「キョンの謝ることじゃない。原因は全部私にあるから。」

「ハルヒ…。」

「あの頃は何にも考えてなかったし、ただ精一杯背伸びしたかっただけなのかもしれない。東京に行くのもただ遊びに行くようなワクワクした気持ちの方が強かったんだと思う。

でも現実は違う。これでもかと理想と違うもの、歪んだもの、醜いものを見せられて、もう頭ん中ぐちゃぐちゃ。自分が何をしたかったのかさえわかんなくなっちゃった。」

95: 2011/05/24(火) 23:42:37.44 ID:fG3igTn80
甲山から吹き降ろす冷たい風が広場を駆け抜けた。私は勢いに任せて立ち上がり、矢継ぎ早に言葉を続けた。

「ここで今更どうこう言っても何も変わらない。こうやって文句を吐き出したとしても結局それもただの一時のガス抜きにしかならない。」

「昔はこんなのじゃなかったはずなのに。」

「このまま今と同じようにただ流れに身を任せて生きていくのは嫌!だけどもう自分が何をしたかったのかさえわかんなくなっちゃった。」

「世の中がつまんないって言ってたけど、つまんないのは結局自分自身だったってことに気がついちゃった。」

「どうすればいいの?これから先、どうやって自分の気持ちを誤魔化しながら生きていけばいいの?下り坂で我慢だけしかない人生をどう過ごしていけばいいの?ねえキョン!どうすればいいのよ!」



そう叫んだ途端、体の力が抜け、目の前が急に暗闇に包まれた。




97: 2011/05/24(火) 23:45:03.75 ID:fG3igTn80
それからどれくらい時間が経ったのだろう。頭の奥に残る頭痛を感じつつ、私は重い瞼を開けた。



「ここは…。」

目の前に広がる光景に、思わず私は飛び起きた。

そこはさっきまでキョンと居た北口駅前の芸術文化センターではなかった。

見覚えのある校門、年月が経っても全く変わらない校舎。

つい数時間前に見た北高に私は居た。

100: 2011/05/24(火) 23:48:00.08 ID:fG3igTn80
どうやってここに、と思った瞬間、忘れかけていた記憶が一気に蘇ってきた。

「これって、高校1年の時の…」

私は真相を確かめるべく校門へ走った。校門の外に出ようとしたが、目の前にある見えない壁のようなものに押し戻される。

空は一面灰色に塗り潰され、わずかな風も無く周囲は沈黙に包まれていた。

「間違いない。あの時と同じ…」

いや、1つだけ違う。高校1年の時に感じた夢とも現実ともつかない不思議な空間であることには違いない。だが1つだけあの時とは状況が違う。

キョンがいない。



この空間が何であるか全く理解することは出来ないが、あの時の記憶を頼りに私は校舎へと向かった。

102: 2011/05/24(火) 23:50:41.91 ID:fG3igTn80
偶然1箇所だけ開いていたドアから校舎の中へ入る。

前は電話を探すため職員室へ向かったが、運よくカバンに入っていた携帯は圏外の表示のままで、このまま職員室に行った所で電話が通じる可能性が低いことは容易に想像出来た。

だから、私はまっすぐSOS団の部室だった場所を目指した。

校舎の中はただひたすらに暗かった。

電気のスイッチを押してみたが、以前と違い全く反応はなかった。

いくつになっても変わらない、夜の校舎の持つ不気味な気配を感じながら私は校舎の中を歩いていった。



窓から見える西宮の街は一変していた。

本来ならば大阪・神戸方面の夜景を一望できるはずの眺めは灰色一色になり、街自体が闇の中に消えてしまっているようだった。

幸いだったのは一度この状況を経験していることでパニックにならずに済んだことだった。

104: 2011/05/24(火) 23:52:45.99 ID:fG3igTn80
携帯のライトを頼りに階段を昇り降りし、部室のへと辿り着く。

今でも道順を覚えている自分の記憶力に感謝しつつ、私はSOS団の紙が挟まれたままとなっている部室のドアに手をかけた。



ドアは何の抵抗も無く、スッと開いた。

ドアノブに手をかけた瞬間鍵のことを思い出し、職員室から取ってこなかったことを後悔したが、どうやらそれは問題なかったようだった。

どうせ無駄だと思いつつ電気のスイッチをつけてみる。

するとこの部室だけは蛍光灯の明かりが点いた。

106: 2011/05/24(火) 23:54:40.99 ID:fG3igTn80
そこにあったのはあの当時そのままのSOS団の部室だった。

コンピ研から半ば強奪するような形で持ってきたパソコン、映画にCMを入れたおかげで電器屋さんがくれたストーブ、みくるちゃんのメイド服…。



メイド服…?あれ…全部卒業の時にここから運び出したはずなのに…。


107: 2011/05/24(火) 23:56:42.70 ID:fG3igTn80
何気なく部室内にあったカレンダーに目をやった私は愕然とした。

それは高校1年の年のカレンダーそのものだった。

と言うことはこの部室は今日の昼と同じ時間軸の部室ではなく、私が高校1年の時の時間軸の部室だ。

これを説明するには私がタイムスリップしたとでも考えないと理屈が合わないが、そんなこと現実にあり得るのだろうか。



あまりに不可解な状況に、私は呆然と立ち尽くしていた。

周囲の音は相変わらず何も聞こえず、次第に大きくなる自分の胸の鼓動だけが耳に響いていた。

108: 2011/05/24(火) 23:59:36.18 ID:fG3igTn80
次の瞬間、部室のパソコンのディスプレイが発光した。

特に電源を触った訳ではない。いきなり電源が入った。だが、HDDの音もパソコンのファンの音もしない。

ただ、画面だけが明るく光っていた。



一瞬心臓が止まりそうなほど驚いた。

今までのことを考えると無理もないように思う。

昔から、いくら不思議な体験がしたいと本気でいくら思い悩んでいても体験出来なかったことが目の前で起きている。

恐怖と好奇心とが入り混じったよくわからない気持ちのまま、私は勇気を振り絞ってパソコンの方へ向かった。

109: 2011/05/25(水) 00:01:38.69 ID:cjV0uCq60
電源が入っているにも関わらず、ディスプレイは真っ黒のまま。

Windowsの画面が出ることも無く、左上に白いカーソルが1箇所点滅しているだけだった。

マウスを動かしてみてもキーボードを触ってみても、何の反応も無い。



しばらく画面を見つめていると、不意にカーソルが動き、文字が表示され始めた。


110: 2011/05/25(水) 00:04:37.17 ID:cjV0uCq60
YUKI.N>涼宮ハルヒ。

「有希?」

どうやっているのか全く見当もつかなかったが、有希からのメッセージがそこには表示されていた。

YUKI.N>時間が無い。

「どういうこと?」

YUKI.N>あなたが居るその空間はもうすぐ崩壊する。

「この北高が?」

YUKI.N>すぐには理解出来ないかもしれない。それだけ事態は逼迫している。ただ、1つだけそこから抜け出す方法がある。

YUKI.N>彼を見つけること。

「彼って…キョンのこと?」
YUKI.N>Yes.

112: 2011/05/25(水) 00:06:59.51 ID:cjV0uCq60
YUKI.N>私たちはある地点まであなたを導くことしか出来ない。そこから先はあなた自身が決めなければならない。

私の力でも、情報統合思念体でもこれからのことはわからない。時間の連続データは途切れようとしている。

あなたが元の世界に戻ることが出来る保障はどこにもない。それは全て、あなたと彼にかかっている。

そしてあなたは、まだ自律進化の可能性を無くした訳ではない。

YUKI.N>だからこそ、あなたに伝えておきたいことがある。



何を伝えようとしているか今の私にはさっぱりわからなかったが、有希の明確な自己主張を、私は初めて見た。


114: 2011/05/25(水) 00:08:49.05 ID:cjV0uCq60
YUKI.N>あなたと過ごした7年間。私はとても楽しかった。

情報統合思念体によって生み出された対有機生命体コンタクト用インターフェイスだった私を変化させてくれたのはあなたと彼のおかげ。

YUKI.N>だからこそ、今もこうして本を読み、日々を重ねることが出来ている。

YUKI.N>彼と会うきっかけを作ってくれたのはあなた。あなたのおかげで彼に会うことが出来た。

彼に会ったからこそ私は自身に起きた変化が何であるかを定義することも可能になった。

それに、私は彼に好意を寄せていた。

YUKI.N>ただ彼はあなたを選び、あなたは彼を選んだ。それは紛れも無い事実。間に私が割って入る余地は無い。

それでもいい。ただ会うことが出来ただけでよかった。最近やっと、私の中に蓄積されていたバグデータが何だったのかわかった。

あなたたちと過ごせたことを私は満足している。

115: 2011/05/25(水) 00:10:51.57 ID:cjV0uCq60
「あんなに無茶なことばっかりしてたのに?」

YUKI.N>私は楽しかった。あなたに一言お礼が言いたかった。

「有希…。」

YUKI.N>ありがとう。

有希のカーソルは次第に薄くなっていき、画面は再び真っ黒で無機質な物へと戻っていった。

それと同時に、天井の蛍光灯の明かりが消えた。



しばらく私は画面を見つめ、有希のメッセージを反芻していた。

そして私はキョンを探すべく、意を決して部室を出ることにした。




117: 2011/05/25(水) 00:12:47.49 ID:cjV0uCq60
私が部室から出ると、廊下の反対側から走ってくるキョンの姿が見えた。

「ハルヒ!無事だったか!」

そう叫ぶキョンの居る方向へ反射的に走り出そうとした瞬間、青白い光が目の前を遮り、凄まじい轟音とともに土煙が上がった。

「キョン!!」

煙が消えるとその衝撃があった場所には大きな穴が開いていた。

どうやら辛うじてキョンも私も無事のようだ。だが、部室棟の校舎は大きく破壊されていた。

「何これ?って…あれは!?」

118: 2011/05/25(水) 00:14:14.04 ID:cjV0uCq60
大きく開いた穴の先を見上げた私は思わず息を飲んだ。そこにはあの時校舎を破壊していた青く光る巨人が立っていた。

「ハルヒ!逃げろ!」

「わかってるわよ!」

有希のメッセージのことが頭をよぎりつつも、私とキョンは正反対の方向へ逃げざるを得なかった。

120: 2011/05/25(水) 00:15:46.74 ID:cjV0uCq60
だけど、逃げるといってもどこへ逃げればいいのだろう。

学校の外には出られないのは確認したし、特に当てがある訳でもない。絶対に安全なスペースなんてもっと見当がつかない。

その間も巨人の破壊は再開されようとしている。

前はどうしたっけ。1年の時も部室に行って、この巨人を見た。その後キョンと私は…。


校庭。


あの時は校庭だった。

キョンが意味不明なことを呟いて、私にいきなりキスしてきたのはそこだ。

正しいかどうかわからないけど、今はそこに行く以外の選択肢は無い。直感的に私はそう思った。



次の瞬間、私はヒールを脱ぎ捨て、校庭へ向かって走り出した。

122: 2011/05/25(水) 00:17:46.72 ID:cjV0uCq60
校庭へ向かおうと校舎の中を懸命に走るものの、巨人が校舎を破壊しているせいで通れなくなっている通路も多く、思わぬ所で遠回りをさせられ、私はなかなか校庭に近づくことが出来ないでいた。

窓の外を見ると、西宮の街の方にも数え切れないぐらいの数の巨人が立っている姿が目に入った。

その巨人が放つ青白い光のおかげでどこにどの建物があるかようやく見当がついたが、その巨人たちもここに居る奴らと同様に西宮の街を壊し始めていた。

私たちの思い出の詰まった街の、ありとあらゆるものが何十体と出現した巨人によって破壊されていた。



その時、目の前に赤い点が現れた。


127: 2011/05/25(水) 00:20:01.22 ID:cjV0uCq60
「涼宮さん、こちらです。」

「古泉くん!?」

その点から発せられた思わぬ声に、私は声を上げた。

「お久しぶりです。こんな唐突な登場で申し訳ありません。」

「唐突も何も、どういうことなのこれは?もう私訳がわからなくて。」

「まずは安全な場所へ。とにかく急ぎましょう。」

古泉の声を発する赤い点の後を私は付いていった。

やっとの思いで1階の昇降口へたどり着いた時、やっと古泉が口を開いた。

129: 2011/05/25(水) 00:21:42.73 ID:cjV0uCq60
「あまり時間がありませんので手短にお話しします。この空間はこれまで涼宮さんが居た空間ではありません。この空間を我々は閉鎖空間と呼んでいます。」

「閉鎖空間?」

「我々の機関が便宜的につけた名前です。我々の住む世界とは少しだけズレた所にある違う世界、といった所でしょうか。

通常、この閉鎖空間は発生してもせいぜい半径5km四方程度の大きさのものでした。ですが今回は50kmを超え、今も拡大しています。

辛うじて僕はこの空間に入ることが出来ましたが、長くは持ちません。」

「一体誰が何のためにこんな場所を作ったの?」

「それは…。」

今まで饒舌だった古泉が言葉を飲む。そして、意を決したように古泉は話し始めた。


「この空間を作ったのは涼宮さん、あなた自身です。」

132: 2011/05/25(水) 00:23:14.46 ID:cjV0uCq60
予想もしない言葉に、私は思わず息をのんだ。

「私が!?」

「ええ。閉鎖空間の発生原因は、100%涼宮さんに起因しています。ご自身が気づかれることは全く無かったと思いますが、この空間は涼宮さんの精神が不安定になると発生してきました。

この巨人たちもそれと同じです。閉鎖空間が発生するたびにその中へ入り、不安定で乱れているものを修正する。それが僕がいつの間にか持っていた力であり、役目でした。

わかりやすく言えば超能力、ということになるのでしょう。僕が学生時代に時々アルバイトに出ていた理由が、まさにこれでした。」

「すぐには理解し難いとは思います。ですが、これが真実なのです。」

目の前に校庭が見える。少し早口で、古泉くんは続けた。

133: 2011/05/25(水) 00:24:41.33 ID:cjV0uCq60
「後は彼が全てを話してくれるはずです。僕はその場所まであなたを導くことしか出来ません。もう僕の力も失われかけています。

長門さんからお聞きしているかもしれませんが、元の世界でまたお会いできる保障は何もありません。」

「ただこれだけは言わせてください。僕はあなたと出会ったことを後悔してはいません。素晴らしい時間を存分に過ごすことが出来ました。…とても感謝しています。」

「古泉くん…。」

「ありがとうございます。涼宮さん。」



赤い光は徐々に薄くなっていき、やがて姿を消した。校庭はもうすぐそこだった。




134: 2011/05/25(水) 00:27:07.09 ID:cjV0uCq60
私は校庭の真ん中へと進んでいった。巨人たちの校舎の破壊は続き、見るも無残な姿になっている場所がいくつもある。

真ん中へ辿り着き後ろを振り返ると、キョンがようやく校庭の入口に着いた所が見えた。こちらへ走ってきている。

その時、突然校庭に青い巨人が現れた。そして息つくまもなく腕を振り下ろす。

校庭には大きな穴が開き、再びキョンと私は引き離されてしまった。

そこに、キョンの声が響いた。

135: 2011/05/25(水) 00:28:44.32 ID:cjV0uCq60
「ハルヒ!お前はこれからどうしたいんだ?」

「どうしたいも何も、もうそんなのわかんないわよ!」

私は力任せに叫んだ。

「だってもうやり直せる可能性なんて低いに決まってるじゃない!もう20代も半分終わっちゃったのよ。

これから何がしたいのかわかんなくなっちゃった私にどうしろって言うのよ!もう30が見えてきた、こんな希望も無く文句ばっかり言ってるただ惨めな女に何が出来るって言うの?」

「選択権は全部お前にある。元の世界に戻るか、別の世界でやり直すか、このまま神人たちのなすがままにされるか。決断を下すのはお前だ!」

「さっき有希も古泉くんも言ってたけど何なの?いきなり世界がどうこう言われたってそんな話すぐ理解出来るはずないじゃない!

ただでさえぐちゃぐちゃな頭なのにこれ以上詰め込まれたら何が何だかさっぱりわかんないわよ!」

キョンの言葉が止まる。背後では巨人たちの破壊が続いている。



何かを決意したかのように、一拍置いてからキョンは口を開いた。

136: 2011/05/25(水) 00:29:45.29 ID:cjV0uCq60
「ハルヒ!よく聞け!」

「お前が中学1年生の時、東中の校庭で一緒に絵を書いた奴を覚えているか?」

「そのジョン・スミスは俺だ!」



137: 2011/05/25(水) 00:31:31.99 ID:cjV0uCq60
「お前があの時書いた絵。『私はここにいる』ってメッセージ。そのおかげでお前は世界を変えることの出来る力を持った。

自覚は無かっただろうが、お前の望んだ宇宙人、未来人、超能力者、異世界人はお前のすぐ近くに居たんだ。」

「そのお前の力は失われかけている。お前が発生させたこの閉鎖空間ももう長くは持たないかもしれない。この世界が壊れてしまうかもしれない。」

「お前の力を使えば今までの全てを帳消しにして、俺たちと出会う前に戻ってやり直しをすることだって出来る。

宇宙人、未来人、超能力者、異世界人なんかいない世界にすることも出来る。もちろん、元の世界に戻る事だって可能だ。全てはお前次第なんだ。」



「お前には願望を実現する能力があるんだ!」


138: 2011/05/25(水) 00:33:49.12 ID:cjV0uCq60
キョンのこの言葉で、パズルのピースが全て埋まるように、今まで違和感を感じてきた事象が全て繋がった。

これでさっきの有希・古泉くんの話も全部辻褄が合う。

あれだけ無茶苦茶なことをやっても全て許容されてきた高校・大学時代の所業の数々も、私にこんな力があったからこそ可能だったのだ。

それにSOS団の有希、みくるちゃん、古泉くんが、私がただ妄想していただけのはずだった宇宙人・未来人・超能力者であり、みんなを呼び寄せた原因は他ならぬ私だったのだ。

となるとキョンは異世界人ということになるが…。

139: 2011/05/25(水) 00:34:49.89 ID:cjV0uCq60
ただ、今重要なのはそこではない。

今、世界の選択権はこの私にある。

それは、今までのことをやり直すか、それを捨てて元の世界へ戻るか。2つに1つだ。


140: 2011/05/25(水) 00:35:41.85 ID:cjV0uCq60
全てをリセットしてやり直す。あの時ああしておけばよかったと後悔したことをやり直すことが出来る。

正直な所、あの時に戻ってやり直せたらな、と思うことは沢山ある。

あの時もっとよく考えて、もっと思い切って行動しておけば、もっと納得出来る人生を送ることが出来たかもしれない。

そう思うのは人として正常なことだと思う。

だけど実際にリセットして人生をやり直すようなことが出来る訳ではない。

それを背負って、それを結果として受け入れていくのか、もしくはそれを少しでも挽回しようとあがくのか。その2つしか道は残されていない。

141: 2011/05/25(水) 00:36:56.28 ID:cjV0uCq60
だが、今私はその人生のリセットボタンを握っている。

今私がそのボタンを押せば、中学1年に戻り、これまでのことを全てやり直すことが出来る。

そこには今のようにただ過ぎていく日常をただ受け流していくだけの生活を送らないような人生に出来る可能性だってある。

人生における「あの時こうしておけば」という決して叶うことのない願いを叶えることが出来るのだ。

142: 2011/05/25(水) 00:38:01.75 ID:cjV0uCq60
けれど、それは同時に今までの思い出を全て捨てることになる。

SOS団の思い出。

今の私を形作ってきた要素の大部分を捨てること。

キョン、みくるちゃん、有希、古泉くん、鶴屋さん…その思い出を全て捨ててリセットしてしまうこと。

全てを捨てて、新しい涼宮ハルヒとして新たな人生をやり直す。

144: 2011/05/25(水) 00:39:05.51 ID:cjV0uCq60



そんなのは絶対に嫌。



145: 2011/05/25(水) 00:40:35.20 ID:cjV0uCq60
今までのSOS団の思い出。

あの頃はもっと面白いことがあるんじゃないかと思い続けていたけれど、今となってははっきりと言える。



私は楽しかった。


146: 2011/05/25(水) 00:41:38.38 ID:cjV0uCq60
SOS団を作り、団長としてみんなに無理難題を押し付けていた。

そんな無茶苦茶な私の言うことをみんな黙って聞いてくれた。

海にも山にも行った。花火大会だって市民プールだって盆踊りにだって行った。大学の4年間も私に付き合ってくれた。



そんな日々が私は楽しかった。


147: 2011/05/25(水) 00:42:51.26 ID:cjV0uCq60
今更だけど、私はその事実を認識した。

これだけは無くしたくない。日々に流されていろいろと新鮮な感覚を無くしてはきたけれど、これだけは、SOS団の思い出だけは無くしたくない。

仮に人生をやり直すことが出来たとしても、あのSOS団の4人が居ない人生なんて考えられない。いや、考えたくも無い。

それぐらい、SOS団のみんなと過ごした日々は私にとって大切で、唯一無二の思い出なのだ。

それが私の答えだった。



149: 2011/05/25(水) 00:44:39.73 ID:cjV0uCq60
「私ってホント馬鹿ね。今やっと一番大切なことに気がついた。」

「だから今ここで宣言するわ。私は今までもこれから先もずっと、SOS団の団長よ!キョン、これからもずっと付いて来なさい!」



私の叫び声と同時に巨人の動きは止まった。そのままゆっくりキョンの方へ近づいていく。


150: 2011/05/25(水) 00:46:28.44 ID:cjV0uCq60
「元の世界に戻るわ。ここに居たって、世界を壊したって、時間を戻したとしたって、みんなに会えないんじゃつまんないじゃない。

ちょっと遠回りしたけど、これが私が歩いてきた道だもの。もう後悔なんてしない。私の本当にやりたいことをやってみるだけよ。」

「それでこそ俺らの団長様だ。」

キョンの顔にようやく笑みが浮かんだ。

151: 2011/05/25(水) 00:48:01.28 ID:cjV0uCq60
「それにキョン。今まで待っててくれて…ありがとう。」

「こっちこそごめんな。ずっと何にもしてやれなくて。」

「ううん。もういいの。でも、これからはずっと一緒に居てくれると…嬉しい。」

「…もちろんだ。」



私はキョンと唇を重ねた。


そして、私たち2人は強烈な青白い光に包まれていった。

152: 2011/05/25(水) 00:49:59.64 ID:cjV0uCq60



この瞬間、今まで観測されたことの無い規模の情報フレアが時空を駆け抜けたのだった。



154: 2011/05/25(水) 00:51:34.00 ID:cjV0uCq60
私が目を開けると、そこは公園だった。

だが、芸術文化センターではない。

どこか見覚えのある公園。甲陽園駅近くの駅前公園に私は居た。



「気がつきましたか?」

聞き覚えのある懐かしい声がした。すっかり大人びたみくるちゃんがそこに居た。

156: 2011/05/25(水) 00:52:59.66 ID:cjV0uCq60
「みくるちゃん!どうしてここに?」

「それは、涼宮さん。あなたに呼ばれたからですよ。」

「そうなの?ついさっきキョン、有希、古泉くんから今までの話を聞いたんだけど、複雑すぎて全部理解出来てなくて。これも私の力なの?」

「ええ、そうです。でもわからなくて当然です。私たちの時代でさえ、その力の全てを解明出来ている訳ではありませんから。」

「ただ、そのうち何となくわかるようになります。その力の持つ意味が。」

空にはさっきの閉鎖空間のような灰色ではなく、綺麗な星空が広がっていた。

157: 2011/05/25(水) 00:54:44.79 ID:cjV0uCq60
「キョンくんにも昔、同じようなことをお話したことがあります。あの頃は右も左もわからないまま、夢のように時間が過ぎていってしまった。

そんな時を、いつの日か懐かしく思う日がやってきます。その思い出を決して忘れないでほしい。それは私たちが過ごしてきた大切な時間なんですから。」

「みくるちゃんにもいっぱい迷惑かけてごめんね。」

「いいえ。いろいろありましたけど、私は楽しかったです。未来じゃ出来ないこともたくさん経験させてもらえましたから。それに、そんなことで謝るなんて涼宮さんらしくないですよ。」

「私だってそれなりに進歩したんだから。それに、もう後ろばかり見て生きるのはやめることにしたの。

高校・大学の頃が一番輝いていて、その後は下る一方なんて生き方それこそ面白くないじゃない。だから頑張ってみる。見ててね、みくるちゃん。」

「ええ。楽しみにしてます。」

158: 2011/05/25(水) 00:56:40.96 ID:cjV0uCq60
「みくるちゃん、もう未来に帰るの?」

「そうなりますね。本来は禁則事項ですけど、涼宮さんに教えないわけにはいきません。」

「1つ約束してくれない?」

「約束…ですか?」

「またいつでもいいから会いにきて。本当にみくるちゃんの都合のいい時でいいから。その時は目一杯歓迎するわ。」

「ありがとう、涼宮さん。じゃあ、またね。」

「またね、みくるちゃん。」



そう言うとまた目の前が暗くなり、私の意識は再び闇の中へ消えていった。

159: 2011/05/25(水) 00:57:38.96 ID:cjV0uCq60

目が覚めると、実家のベッドの上に居た。キョンがタクシーで送り届けてくれていたようだった。

161: 2011/05/25(水) 00:58:59.10 ID:cjV0uCq60
それから数ヶ月。私は仕事を辞め、西宮へ戻ることを決めた。

退職の意思を告げた途端、会社は手のひらを返したように態度を軟化させたが、私を引き止めるには至らなかった。

むしろ、そんなことで引き止められるほど意志の弱い私ではもうすでになくなっていた。

とはいえ、今までの東京生活でいろんなことを経験させてくれた会社にはそれなりに感謝している。あの会社のおかげで次の仕事に困らないだけの資格もある。

162: 2011/05/25(水) 00:59:40.22 ID:cjV0uCq60
西宮に戻った所で何か当てがある訳ではない。

だが、今までの生活を改めもう一度自身が何をやりたいのかを考えるために避けて通れない道であることは間違いない。

だけど、今までとは1つだけ違う。私には大切な仲間が居る。

すぐには会えなくても、繋がっていることは出来る。

キョンはすぐそばに居てくれるし、有希も古泉くんも同じ近畿圏に居る。

みくるちゃんもこの時代に来る時は必ず連絡をくれる。

163: 2011/05/25(水) 01:00:41.76 ID:cjV0uCq60
全員が毎日ずっと揃っていたあの楽しかった時代はもう戻らないかもしれない。

甘く、どこかふわふわとしていて、ぼんやりと私たちを包んでいてくれた時間。ずっとその中に居ることは不可能だったのだろう。

だけど、これだけははっきりと言える。あの時、あの場所で私たちが過ごした時間。それは決して何事にも変えがたい大切なものだった。

その積み重ねがあったからこそ、今の私たちが存在出来ている。それを忘れてしまってはまた同じような失敗を繰り返すだけだ。

あんなに苦しい時間は正直もう二度と過ごしたくはない。

ただ、その時期があったからこそ今の自分を取り戻すことが出来たのも1つの事実だ。

164: 2011/05/25(水) 01:01:40.84 ID:cjV0uCq60
過去の思い出に囚われすぎるのはよくないことだけど、その思い出を無視して忘れてしまうのはもっとよくないことに違いない。

思い出に浸ることはある種自分への薬だ。思い出を振り返り心を休めることで、自分の歩いてきた道、そしてこれから歩いていく道を再確認出来る。それが大切なのだ。

25年生きてきて、ようやくその意味を私は知ることが出来た。

今回の大騒動に駆けつけてくれたSOS団のみんなには本当に感謝している。

166: 2011/05/25(水) 01:02:54.92 ID:cjV0uCq60
今回の騒動の後、キョンと有希から私の力についての話を聞いた。

詳しいことはSOS団団長の私をもってしても理解することが出来なかったが、大雑把に言えば大学卒業後不安定となり消えかかっていた力が私の感情の爆発と共に暴走し、このような事態を引き起こしたとのことだった。

ただ、私の力は無くなった訳ではなく、これまで私の力に強い影響を及ぼしてきた不安定要素がこの一件を境に消え、力自体が真に安定したものへと変化を遂げている、と有希は言っていた。

彼女の言葉を借りるならば、それは『自律進化の一段階を終えた』状態であるらしい。

その話を聞いて、私は自分が今まで周囲に与えてきた影響の大きさを初めて知ると同時に、力の行使は別にして、

それそのものが安定した状態になると信じてくれていたからこそ、有希、みくるちゃん、古泉くんが私に自らの正体を包み隠さず教えてくれたのだと実感することが出来た。

169: 2011/05/25(水) 01:03:45.23 ID:cjV0uCq60
東京での残務整理を終え西宮へ戻った私は、ようやくキョンとの交際を正式にスタートさせた。

有希には「今更?」と首を傾げられたが、せっかく西宮に戻って再出発するんだから、始まりはきちんとさせておいた方がいい。

170: 2011/05/25(水) 01:05:02.52 ID:cjV0uCq60
相変わらず不況は続いているが、なんとか自分が心からやってみたいと思える仕事が見つかる兆しが見え始めていた。

それなりの貯金と失業手当があるからしばらくは困ることも無い。

まだまだ回り道は出来る。その心の余裕を、ここにきてようやく持つことが出来た。

172: 2011/05/25(水) 01:07:47.89 ID:cjV0uCq60
それと同時に、少し時間の出来た私は、これまで周囲で起きた事件、もしくは起こって欲しかった出来事の数々を小説として書き溜めてみることにした。

ベタベタに脚色しているから、誰も本当に起きた話だなんて思うはずもない。もうすでに1つは出版社の新人賞へ送ってしまった。

ただ、それが受賞するかどうかは関係ない。そんなことに私の力を使おうなどという性根が腐ったようなことをする気も毛頭無い。

これは私なりのケジメだ。今まで私は面白いことを求め続けてきた。だけど、そう簡単に面白いと思えることは見つからなかったし、だからこそ今回のような泥沼にも嵌ってしまった。

ならば、自分で面白いことを生み出していけばいい。そうすれば私の力なんかを使わなくても、感じるままやりたいことをやっていくことが出来るんじゃないか。

それが私の導き出した答えなのだ。強い思いが私を突き動かしていた。



いつの間にか、辺りには春の爽やかな空気が広がっていた。

173: 2011/05/25(水) 01:08:34.98 ID:cjV0uCq60
涼宮ハルヒの足跡

---おわり---

174: 2011/05/25(水) 01:09:16.11 ID:mzZXawnj0

175: 2011/05/25(水) 01:09:24.93 ID:YFhi5wLb0

179: 2011/05/25(水) 01:11:19.10 ID:cjV0uCq60
約4時間もこんな駄文にお付き合いいただきありがとうございました
本来なら消失のBD発売の時に書きたかったのですが、いつの間にかこの時期になってしまいました
楽しんでいただければ幸いです

199: 2011/05/25(水) 01:38:46.57 ID:+OtPNYX10

201: 2011/05/25(水) 01:41:53.70 ID:b090ZwMz0

こういうの久々だな

203: 2011/05/25(水) 01:44:37.63 ID:cjV0uCq60
これで全てです
ご意見ご感想ありがとうございました。また機会があれば何か書いてみたいと思います

217: 2011/05/25(水) 02:43:36.11 ID:VzOD20s20
久々の本格的なハルヒssだった 乙!

引用元: 涼宮ハルヒの足跡