1: 2019/12/25(水) 03:02:39 ID:.tzay2og
某所に書いたものを加筆修正したものです。
志乃さんお誕生日おめでとうございます。
あとメリークリスマス。
志乃さんお誕生日おめでとうございます。
あとメリークリスマス。
2: 2019/12/25(水) 03:04:44 ID:.tzay2og
「Pさん、本当はお酒苦手なんでしょう?」
突然そんなことを言われて、一瞬、息が出来なくなった。
「……どうしてそう思うんですか?」
出来るだけ自然な間を装って、隣に座る志乃さんに尋ね返した。志乃さんは一度カクテルグラスを置いてから、僕の方へ頭を傾ける。
「だって、Pさんったら」
つややかな髪の先端が揺れて、僕の肩を撫でた。
まるで咎めているような、もしくは拗ねているような。大人びた雰囲気のバーにはそぐわない、子供っぽい声色で、志乃さんが僕を問い詰める。
「ちっともお酒を楽しんでいるようには見えないわ。いつも同じカクテルしか頼まないじゃない」
「え、と」
甘い香りが鼻腔をくすぐる。二つの意味でドキドキしている僕は、上手く言葉を返せない。
3: 2019/12/25(水) 03:06:19 ID:.tzay2og
拗ねたような表情の志乃さんは、畳みかけるように言葉を重ねる。
「ええ。いいのよ、それが仕事だものね。プロデューサーなんだから。担当アイドルに付き合って、飲みたくもないお酒を飲ませられて、いつも大変ね」
「ま、まってください、違うんです」
「何が、かしら?」
「……黙っていたことは、ごめんなさい」
僕は確かに、あまりお酒が飲めない。家には二日酔い対策のサプリメントがたくさんある。
4: 2019/12/25(水) 03:07:15 ID:.tzay2og
「けれど、飲みたくないわけじゃないですから」
「ふぅん?」
「僕だって大人ですから。無理に飲むことなんて無いですよ」
僕がお酒を飲むのは、どうしても飲みたい時だけです。
その一言は、ファジーネーブルと一緒に胃の中へとしまい込んだ。
「ふぅん?」
「僕だって大人ですから。無理に飲むことなんて無いですよ」
僕がお酒を飲むのは、どうしても飲みたい時だけです。
その一言は、ファジーネーブルと一緒に胃の中へとしまい込んだ。
5: 2019/12/25(水) 03:07:51 ID:.tzay2og
「そう」
志乃さんも、赤いワインで口を潤した。
「……じゃあ、これからも私を飲みに誘ってくれるのね?」
「もちろんです」
「ふふ、よかった」
机に肘をついて僕を見る志乃さんは、どこか嬉しそうに笑った。
それを見て、僕もまた、笑顔に戻った。
志乃さんも、赤いワインで口を潤した。
「……じゃあ、これからも私を飲みに誘ってくれるのね?」
「もちろんです」
「ふふ、よかった」
机に肘をついて僕を見る志乃さんは、どこか嬉しそうに笑った。
それを見て、僕もまた、笑顔に戻った。
6: 2019/12/25(水) 03:08:36 ID:.tzay2og
「今日は私が払うわ」
「え、そんな」
「いつも払ってもらってるもの。Pさんは明日早いのに、今日は無理言ってごめんなさいね」
「いえ、僕はいいんですけど……志乃さんも明日は朝からレッスンですよ」
「クレジット、一括でお願いします」
「あの」
「それじゃあ行きましょうか、Pさん。年上の女をあまり待たせるものじゃないわ。老いていっちゃうわよ?」
「……では、お言葉に甘えて」
ごちそうさまでした、と志乃さんに頭を下げて、僕らは足並みを揃えてバーを出た。
「え、そんな」
「いつも払ってもらってるもの。Pさんは明日早いのに、今日は無理言ってごめんなさいね」
「いえ、僕はいいんですけど……志乃さんも明日は朝からレッスンですよ」
「クレジット、一括でお願いします」
「あの」
「それじゃあ行きましょうか、Pさん。年上の女をあまり待たせるものじゃないわ。老いていっちゃうわよ?」
「……では、お言葉に甘えて」
ごちそうさまでした、と志乃さんに頭を下げて、僕らは足並みを揃えてバーを出た。
7: 2019/12/25(水) 03:09:27 ID:.tzay2og
地下のバーから地上に出ると、湿度の低い十二月の風が、悲鳴を上げて襲い来る。
「寒いですね……」
「ふふっ、そうね」
志乃さんはまだ余裕そうに笑みを見せる一方で、僕は思わず両腕をさすった。寒いのは苦手だ。
「はやく帰りましょう。Pさんが風邪を引いちゃったら、ちひろさんに申し訳ないわ」
「……そうですね」
ただでさえ仕事の多いちひろさんに、これ以上業務を背負わせるのは忍びない。そういう意味だろう。事実、一昨日も飲み屋に連行されて、無理やり愚痴を聞かされたところだ。
二人で横並びになって、鈍い月明かりに照らされた道を歩き出す。ヒールを履いた志乃さんに合わせて、少しゆっくりした足取りで。駅から離れた所にあるバーだから、アイドルと二人で飲みに行くにはうってつけだったけれど、帰路が長いのが難点だ。
「寒いですね……」
「ふふっ、そうね」
志乃さんはまだ余裕そうに笑みを見せる一方で、僕は思わず両腕をさすった。寒いのは苦手だ。
「はやく帰りましょう。Pさんが風邪を引いちゃったら、ちひろさんに申し訳ないわ」
「……そうですね」
ただでさえ仕事の多いちひろさんに、これ以上業務を背負わせるのは忍びない。そういう意味だろう。事実、一昨日も飲み屋に連行されて、無理やり愚痴を聞かされたところだ。
二人で横並びになって、鈍い月明かりに照らされた道を歩き出す。ヒールを履いた志乃さんに合わせて、少しゆっくりした足取りで。駅から離れた所にあるバーだから、アイドルと二人で飲みに行くにはうってつけだったけれど、帰路が長いのが難点だ。
8: 2019/12/25(水) 03:10:01 ID:.tzay2og
冷たく澄んでいる夜の空気は、硬くて無機質なガラスのよう。日付が変わろうという時間だけあって車通りもなく、二人分の足音と、時折風の泣く音だけが鼓膜を震わせる。
俄かに、ひと際強い風が僕らの間を吹き抜ける。乱れる髪を押さえながら、志乃さんが呟いた。
「気持ち良いわね。少し身体が火照っちゃったから」
志乃さんの声は冬の風に吹かれて遠ざかっていくから、耳を澄ませて拾い集めなければならなかった。
「寒さに強いんですね……」
「そう……かもね。冬に生まれたから、かしら」
何の根拠もない、他愛のない言葉――僕が何か言う前に、志乃さんは小さく笑った。
「うふふ……今日はなんだか、特に酔いが回ってるみたい」
そう言いながらも、志乃さんの足取りは確かなものだった。
俄かに、ひと際強い風が僕らの間を吹き抜ける。乱れる髪を押さえながら、志乃さんが呟いた。
「気持ち良いわね。少し身体が火照っちゃったから」
志乃さんの声は冬の風に吹かれて遠ざかっていくから、耳を澄ませて拾い集めなければならなかった。
「寒さに強いんですね……」
「そう……かもね。冬に生まれたから、かしら」
何の根拠もない、他愛のない言葉――僕が何か言う前に、志乃さんは小さく笑った。
「うふふ……今日はなんだか、特に酔いが回ってるみたい」
そう言いながらも、志乃さんの足取りは確かなものだった。
9: 2019/12/25(水) 03:11:51 ID:.tzay2og
「そんなにたくさん飲んでましたっけ」
「同じだけ飲んでも、気持ちよく酔える時、酔いたいのに酔えない時……色々あるものなのよ。時と場合によって、ね」
……それを今言うのは、どういう意味なんだろう。
「今日は……どうだったんですか」
急に、酔いも覚めるほどの不安が押し寄せた。彼女の歩幅がいつもより大きい気がしたから。
眠たげな目つきで僕の顔を見ながら、いたずらっぽく志乃さんが言った。
「……内緒にしといてあげる」
志乃さんの目つきは、出来の悪い生徒を見るかのように生温く、優しかった。自分はよっぽど不安げな顔をしていたんだろう。
彼女の一挙一動で揺れ動く僕の心臓は、痛みを感じるほどに熱い。
この熱が志乃さんに伝わらないまま風に奪われていくのが、無性にもったいなく感じた。
「同じだけ飲んでも、気持ちよく酔える時、酔いたいのに酔えない時……色々あるものなのよ。時と場合によって、ね」
……それを今言うのは、どういう意味なんだろう。
「今日は……どうだったんですか」
急に、酔いも覚めるほどの不安が押し寄せた。彼女の歩幅がいつもより大きい気がしたから。
眠たげな目つきで僕の顔を見ながら、いたずらっぽく志乃さんが言った。
「……内緒にしといてあげる」
志乃さんの目つきは、出来の悪い生徒を見るかのように生温く、優しかった。自分はよっぽど不安げな顔をしていたんだろう。
彼女の一挙一動で揺れ動く僕の心臓は、痛みを感じるほどに熱い。
この熱が志乃さんに伝わらないまま風に奪われていくのが、無性にもったいなく感じた。
10: 2019/12/25(水) 03:12:51 ID:.tzay2og
******
冬は嫌な季節だ。特に夜がきらいだ。冷たさに覆われると暗い夜が更に昏く感じて、身も心も冷え切ってしまう。
人気のない夜の事務所は、さながらコキュートスといったところか。
「ああ、寒い……」
「何回目ですか、プロデューサーさん」
ちひろさんがため息を吐いた。白かった。
僕とちひろさんのデスクは窓のすぐ傍で、自然の雄大さを直に感じられる特等席だ。天井の古びたエアコンは音ばかり大きくて、気持ち程度の温風を弱々しく吐いている。
「寒いものは寒いんです。まともにタイピングも出来ないですよ、これじゃ」
冬は嫌な季節だ。特に夜がきらいだ。冷たさに覆われると暗い夜が更に昏く感じて、身も心も冷え切ってしまう。
人気のない夜の事務所は、さながらコキュートスといったところか。
「ああ、寒い……」
「何回目ですか、プロデューサーさん」
ちひろさんがため息を吐いた。白かった。
僕とちひろさんのデスクは窓のすぐ傍で、自然の雄大さを直に感じられる特等席だ。天井の古びたエアコンは音ばかり大きくて、気持ち程度の温風を弱々しく吐いている。
「寒いものは寒いんです。まともにタイピングも出来ないですよ、これじゃ」
11: 2019/12/25(水) 03:13:27 ID:.tzay2og
「そうは言っても、これが終わらないと帰れませんよ」
「このパソコン、今から音声認識できるようになりませんかね」
「音声より先に、USBをちゃんと認識してほしいですね……ああっ、もう」
ちひろさんは苛立った声を上げて、メモリスティックを何度も抜き差しした。なにぶん古いパソコンだから、あちこちガタが来ている。
「よければ、こっちで読み込んで送りましょうか。僕のパソコンなら読めるかも」
「ええ、ぜひお願いします」
ちひろさんは辟易した様子で、隣に座る僕にUSBを差し出した。
「このパソコン、今から音声認識できるようになりませんかね」
「音声より先に、USBをちゃんと認識してほしいですね……ああっ、もう」
ちひろさんは苛立った声を上げて、メモリスティックを何度も抜き差しした。なにぶん古いパソコンだから、あちこちガタが来ている。
「よければ、こっちで読み込んで送りましょうか。僕のパソコンなら読めるかも」
「ええ、ぜひお願いします」
ちひろさんは辟易した様子で、隣に座る僕にUSBを差し出した。
12: 2019/12/25(水) 03:14:55 ID:.tzay2og
「やってみますね」
USBを読み込み口に差し込むと、少しの沈黙の後、画面の右下にポップアップが表示された。
「行けそうです。メールで送るので待っててください」
「ああ、助かりました……ん~っ」
そう言って、ちひろさんは背もたれに体重をかけて思いっきり伸びをする。その様子があまりにも気持ちよさそうだったので、思わず苦笑いが漏れた。
「あー……そういえばプロデューサーさん」
海老反り状態のちひろさんが、背後に向かって話しかけた。
USBを読み込み口に差し込むと、少しの沈黙の後、画面の右下にポップアップが表示された。
「行けそうです。メールで送るので待っててください」
「ああ、助かりました……ん~っ」
そう言って、ちひろさんは背もたれに体重をかけて思いっきり伸びをする。その様子があまりにも気持ちよさそうだったので、思わず苦笑いが漏れた。
「あー……そういえばプロデューサーさん」
海老反り状態のちひろさんが、背後に向かって話しかけた。
13: 2019/12/25(水) 03:15:32 ID:.tzay2og
「なんですか?」
「昨日は志乃さんと飲みに行ってたんですか?」
「はい」
志乃さんから聞いたのだろうか。
データの読み込みはまだ終わらない。ちひろさんの体勢が元通りになる方が早かった。
「週に二回も、女性を連れて飲み会なんて。いい御身分ですね」
「……どちらも、誘われただけですから」
いつもは僕から志乃さんを誘うのだけど、昨日に限っては急に志乃さんから誘われたのだ。一方ちひろさんとの飲み会は……お誘いというより、連行とか拉致に近かったと思う。
「昨日は志乃さんと飲みに行ってたんですか?」
「はい」
志乃さんから聞いたのだろうか。
データの読み込みはまだ終わらない。ちひろさんの体勢が元通りになる方が早かった。
「週に二回も、女性を連れて飲み会なんて。いい御身分ですね」
「……どちらも、誘われただけですから」
いつもは僕から志乃さんを誘うのだけど、昨日に限っては急に志乃さんから誘われたのだ。一方ちひろさんとの飲み会は……お誘いというより、連行とか拉致に近かったと思う。
14: 2019/12/25(水) 03:16:36 ID:.tzay2og
「私と飲んだ時はお酒飲まなかったくせに、志乃さんと居る時は飲むんですってね。この助平」
「んぶっ」
昨日飲んだカクテルが喉元までこみ上げた。喉がヒリつく。アルコールではなく、胃液のせいだが。
「なんでそんなことまで……」
「今朝、志乃さんに相談されたんです。『Pさんは本当は無理して飲みに付き合ってるんじゃないか』って」
「無理なんかしてないって言ったのに……信頼されてないんでしょうか」
「んぶっ」
昨日飲んだカクテルが喉元までこみ上げた。喉がヒリつく。アルコールではなく、胃液のせいだが。
「なんでそんなことまで……」
「今朝、志乃さんに相談されたんです。『Pさんは本当は無理して飲みに付き合ってるんじゃないか』って」
「無理なんかしてないって言ったのに……信頼されてないんでしょうか」
15: 2019/12/25(水) 03:18:34 ID:.tzay2og
「信頼されてない、というより……嫉妬されてるんじゃないですか」
ちひろさんは投げやりに言い放った。僕はぎこちなくマウスを動かして、メールソフトを立ち上げる。
「何にですか?」
「この前、私と飲みに行ったでしょう。二人っきりで」
メールのアプリケーションも、僕と同様に寒がりなようだ。僕もちひろさんと同じように、背もたれに身体を預けた。
「ええ、まあ」
「それで志乃さんが、ヤキモチ焼いちゃったんじゃないですか。珍しく向こうから誘われたんでしょう?」
「……どうなんでしょうね」
ちひろさんは投げやりに言い放った。僕はぎこちなくマウスを動かして、メールソフトを立ち上げる。
「何にですか?」
「この前、私と飲みに行ったでしょう。二人っきりで」
メールのアプリケーションも、僕と同様に寒がりなようだ。僕もちひろさんと同じように、背もたれに身体を預けた。
「ええ、まあ」
「それで志乃さんが、ヤキモチ焼いちゃったんじゃないですか。珍しく向こうから誘われたんでしょう?」
「……どうなんでしょうね」
16: 2019/12/25(水) 03:19:19 ID:.tzay2og
他人に嫉妬するのは、自分に自信がないからだ。確かに志乃さんは自己肯定感の高いタイプではないけど、果たして僕に対して、そこまで執着してくれているのだろうか。
「告白しないんですか? 好きなんでしょう。上手くいくと思いますよ」
ちひろさんは僕に対して容赦がない。奥ゆかしいこのUSBとはまるで対照的だ。
「……アイドルとプロデューサーですから」
「建前でしょう? そんなことを理由に躊躇ってるようには思えないです」
「……」
それに対する答えを持っていないわけじゃなかったけど、僕は無言で画面を見つめることに集中した。ファイルの添付が終わって、ようやっとメールを送信する。
「……ファイル、送りましたよ」
「あ、はーい」
「告白しないんですか? 好きなんでしょう。上手くいくと思いますよ」
ちひろさんは僕に対して容赦がない。奥ゆかしいこのUSBとはまるで対照的だ。
「……アイドルとプロデューサーですから」
「建前でしょう? そんなことを理由に躊躇ってるようには思えないです」
「……」
それに対する答えを持っていないわけじゃなかったけど、僕は無言で画面を見つめることに集中した。ファイルの添付が終わって、ようやっとメールを送信する。
「……ファイル、送りましたよ」
「あ、はーい」
17: 2019/12/25(水) 03:19:50 ID:.tzay2og
PCに向き直ったちひろさんを横目で見ながら、僕は慎重に言葉を紡ぐ。さっきの質問に応えるために。
「……例えば、ですけど」
「はいはい」
「毎日それなりのレッスンをして、それなりにお仕事をして、時々友人と飲みに行ったりして……週末はおつまみ片手にワインを飲めたら、そこそこ楽しい人生ですよね」
志乃さんはたぶん、それ以上の事を求めていない。
「……なるほど。尽くすタイプなんですねえ、プロデューサーさん」
ちひろさんが笑った。言葉と裏腹に、全く褒められているようには感じなかった。
「……例えば、ですけど」
「はいはい」
「毎日それなりのレッスンをして、それなりにお仕事をして、時々友人と飲みに行ったりして……週末はおつまみ片手にワインを飲めたら、そこそこ楽しい人生ですよね」
志乃さんはたぶん、それ以上の事を求めていない。
「……なるほど。尽くすタイプなんですねえ、プロデューサーさん」
ちひろさんが笑った。言葉と裏腹に、全く褒められているようには感じなかった。
18: 2019/12/25(水) 03:20:21 ID:.tzay2og
褒められるような心持ちじゃないのは僕もわかっている、けれど。
「……志乃さんの負担になりたくないだけです」
他人への執着というのは、期待と言い換えてもいい。他人にも自分にも期待しないで生きてきた志乃さんにとって、僕の気持ちは重荷になる。
だから、嫉妬されていたかもしれない、なんて期待するのは……志乃さんに失礼な気がした。
「……志乃さんの負担になりたくないだけです」
他人への執着というのは、期待と言い換えてもいい。他人にも自分にも期待しないで生きてきた志乃さんにとって、僕の気持ちは重荷になる。
だから、嫉妬されていたかもしれない、なんて期待するのは……志乃さんに失礼な気がした。
19: 2019/12/25(水) 03:20:51 ID:.tzay2og
******
事務所の廊下は空調がないけれど、日当たりが良いおかげか昼間は温かい。
太陽の恩恵を感じながらトレーニングルームの前を通りがかった時、ガラスの向こうの志乃さんが目に入った。今日は基礎体力レッスンだったはずで、まだ早い時間だからか、黙々と準備運動をしている。緩慢だけど流麗なストレッチは、そのまま彼女の在り方のよう。
僕の視線に気づいたらしく、志乃さんは手を振りながら廊下まで出てきた。
「おはよう、Pさん」
「おはようございます。早いですね、まだトレーナーさんも来てないのに」
「珍しいでしょう?」
「そうですね……あ、いや、その。すみません」
「うふふ。いいのよ。事実だもの」
20: 2019/12/25(水) 03:21:35 ID:.tzay2og
そんな風に嘯きながら、志乃さんは困り顔で頬に手を当てた。
「実は、最近寝つきが悪くてね。変に早い時間に起きちゃうの」
「えっ……だ、だいじょうぶですか? いつ頃からの話ですか」
「……先週くらいかしら」
先週というと、僕が志乃さんに誘われた週だ。
「……すみません、気がつかなくて。今日は切り上げて、今すぐ病院に行きましょう」
「あら、大丈夫よ。こう見えて身体は丈夫だもの」
「車出しますから。休みにしましょう」
「心配しすぎよ」
「しすぎてないです。もっと自分を大事にしないと……」
「実は、最近寝つきが悪くてね。変に早い時間に起きちゃうの」
「えっ……だ、だいじょうぶですか? いつ頃からの話ですか」
「……先週くらいかしら」
先週というと、僕が志乃さんに誘われた週だ。
「……すみません、気がつかなくて。今日は切り上げて、今すぐ病院に行きましょう」
「あら、大丈夫よ。こう見えて身体は丈夫だもの」
「車出しますから。休みにしましょう」
「心配しすぎよ」
「しすぎてないです。もっと自分を大事にしないと……」
21: 2019/12/25(水) 03:22:22 ID:.tzay2og
そこで、ポケットの中の電話が鳴った。画面を見ると、ちひろさんからだった。
「っと……ごめんなさい。すぐ戻ります」
「……いいのよ。ごゆっくり」
志乃さんから二歩だけ離れて、通話ボタンをタップした。
「もしもし。……ええ、はい。……ああ、またですか。いいですよ、僕のPC使ってください。パスワードは社員番号そのままですから。他に何か? 何もなければ切り……え? ええ、まあ、今志乃さんと……あ、はい。お疲れ様です」
変な気を遣われて、一分もしないうちに通話は終わった。小さな溜息と一緒にスマホを仕舞うと、
「仲良しよね」
「わっ」
すぐ後ろに志乃さんがいた。
「っと……ごめんなさい。すぐ戻ります」
「……いいのよ。ごゆっくり」
志乃さんから二歩だけ離れて、通話ボタンをタップした。
「もしもし。……ええ、はい。……ああ、またですか。いいですよ、僕のPC使ってください。パスワードは社員番号そのままですから。他に何か? 何もなければ切り……え? ええ、まあ、今志乃さんと……あ、はい。お疲れ様です」
変な気を遣われて、一分もしないうちに通話は終わった。小さな溜息と一緒にスマホを仕舞うと、
「仲良しよね」
「わっ」
すぐ後ろに志乃さんがいた。
22: 2019/12/25(水) 03:23:02 ID:.tzay2og
「びっ……くりしました」
「あら、ごめんなさい」
志乃さんは悪びれもせず謝罪した。普段あまり見せないような、感情の読めない無表情に、少し背筋が冷える。
「い、いえ、大丈夫ですけど……どうかしたんですか」
「何でもないわ。ただ」
彼女の長い髪が、肩から滑り落ちる。顔に影が掛かる。僕の足元に視線を落とした志乃さんが、うわごとのように小さく囁いた。
「……ちひろさんと仲が良さそうだなって思って。どんな話をしているのか、少し気になっただけよ」
「あら、ごめんなさい」
志乃さんは悪びれもせず謝罪した。普段あまり見せないような、感情の読めない無表情に、少し背筋が冷える。
「い、いえ、大丈夫ですけど……どうかしたんですか」
「何でもないわ。ただ」
彼女の長い髪が、肩から滑り落ちる。顔に影が掛かる。僕の足元に視線を落とした志乃さんが、うわごとのように小さく囁いた。
「……ちひろさんと仲が良さそうだなって思って。どんな話をしているのか、少し気になっただけよ」
23: 2019/12/25(水) 03:25:26 ID:.tzay2og
「それ、は」
――どういう意味で、言っているんですか。
目線の下で、志乃さんの頭が揺れる。僕の言葉を、待っている。
たったそれだけのことで、呼吸が乱れる。今までどれだけ甘えられても、してはいけないと――するべきではないと押しとどめていた気持ちが、胸の中で膨らんでいく。
それは、僕を身体の芯から揺さぶるほどの、甘い『期待』。熟れすぎた果実が弾けるように、僕の心は焦げ付かされていく。
はち切れそうな情動を必氏で押し頃して、僕は当たり障りのない返答をした。
「……長い付き合いですから、ね。それだけですよ」
軋むほどに心臓が脈打つせいで、僕の声は少し震えていた。
――どういう意味で、言っているんですか。
目線の下で、志乃さんの頭が揺れる。僕の言葉を、待っている。
たったそれだけのことで、呼吸が乱れる。今までどれだけ甘えられても、してはいけないと――するべきではないと押しとどめていた気持ちが、胸の中で膨らんでいく。
それは、僕を身体の芯から揺さぶるほどの、甘い『期待』。熟れすぎた果実が弾けるように、僕の心は焦げ付かされていく。
はち切れそうな情動を必氏で押し頃して、僕は当たり障りのない返答をした。
「……長い付き合いですから、ね。それだけですよ」
軋むほどに心臓が脈打つせいで、僕の声は少し震えていた。
24: 2019/12/25(水) 03:26:55 ID:.tzay2og
「そう」
所在無げな志乃さんの右手が、彼女自身の二の腕を抱いた。ただでさえ細い彼女が、なぜかあまりにも頼りなく見えた。
「……やっぱり、具合が悪いんじゃ……ないですか。無理してそうに見えますよ」
トレーナーさんには話しておきますから。休んでもらえませんか。
古びた蝶番のような声でそう言うと、ようやく志乃さんは顔を上げた。無表情だけど少し柔らかい面持ちで、視線だけを落としたままぽつりと呟く。
「……Pさんがそこまで言うなら、今日は早めに切り上げて帰るわ」
すぐに帰るつもりはないらしかった。けれど言われてみれば、せっかく早くからレッスン場に来てくれているのだ。
「わかりました。でも、帰ったらちゃんと休んでくださいね。また一緒に飲みに行きたいですから」
所在無げな志乃さんの右手が、彼女自身の二の腕を抱いた。ただでさえ細い彼女が、なぜかあまりにも頼りなく見えた。
「……やっぱり、具合が悪いんじゃ……ないですか。無理してそうに見えますよ」
トレーナーさんには話しておきますから。休んでもらえませんか。
古びた蝶番のような声でそう言うと、ようやく志乃さんは顔を上げた。無表情だけど少し柔らかい面持ちで、視線だけを落としたままぽつりと呟く。
「……Pさんがそこまで言うなら、今日は早めに切り上げて帰るわ」
すぐに帰るつもりはないらしかった。けれど言われてみれば、せっかく早くからレッスン場に来てくれているのだ。
「わかりました。でも、帰ったらちゃんと休んでくださいね。また一緒に飲みに行きたいですから」
25: 2019/12/25(水) 03:27:33 ID:.tzay2og
「……もう、優しいんだから。……それよりPさん、今日は確か会議だったわよね。時間は大丈夫?」
「ん、まあ……まだ時間はありますから。本当に無理しないか、しばらく見てても良いですか」
「あら……ふふ、困っちゃうわ」
「嫌ですか?」
「緊張しちゃうもの。……のぼせてしまいそう」
なんてね、と志乃さんが笑った。どこか……嘘ではないけれど、まだ無理をしているような表情に見えた。
その違和感がどうにも気になって、しばらく彼女から目を離せなくて。
僕は、会議に遅れた。
「ん、まあ……まだ時間はありますから。本当に無理しないか、しばらく見てても良いですか」
「あら……ふふ、困っちゃうわ」
「嫌ですか?」
「緊張しちゃうもの。……のぼせてしまいそう」
なんてね、と志乃さんが笑った。どこか……嘘ではないけれど、まだ無理をしているような表情に見えた。
その違和感がどうにも気になって、しばらく彼女から目を離せなくて。
僕は、会議に遅れた。
26: 2019/12/25(水) 03:29:56 ID:.tzay2og
次の次の日の晩、僕は志乃さんを飲みに誘った。彼女の体調は少し心配だったけれど、二つ返事でオーケーが返ってきた。
「……冷えるなぁ」
居酒屋の前で独りごちる。珍しく定時で帰れた日でも、寒くて暗いのは変わらない。ほう、と何の気なしに吐いた白い息が、降りしきる雪の隙間をくぐり抜けていった。
ひび割れつつある心に、冷たい隙間風が入り込んでいた。初雪に色めく人々が僕の前を通り過ぎるたび、どうしようもない孤独感で景色が色を失っていく。曖昧な灰色の世界は、ひどく居心地が悪く感じた。
「お待たせ、Pさん」
その時、志乃さんが小走りでやって来た。おしゃれな白いトレンチコートと、艶やかな赤いマフラーをたなびかせて。色合いがまるでワインの申し子みたいで、失礼なんだけど、ちょっと笑いそうになった。
「お疲れ様です。身体はもう大丈夫ですか?」
「元気よ、ありがとう。でもこんなに寒いと思ってなかったから、準備に時間かかっちゃって……ごめんなさい」
「……冷えるなぁ」
居酒屋の前で独りごちる。珍しく定時で帰れた日でも、寒くて暗いのは変わらない。ほう、と何の気なしに吐いた白い息が、降りしきる雪の隙間をくぐり抜けていった。
ひび割れつつある心に、冷たい隙間風が入り込んでいた。初雪に色めく人々が僕の前を通り過ぎるたび、どうしようもない孤独感で景色が色を失っていく。曖昧な灰色の世界は、ひどく居心地が悪く感じた。
「お待たせ、Pさん」
その時、志乃さんが小走りでやって来た。おしゃれな白いトレンチコートと、艶やかな赤いマフラーをたなびかせて。色合いがまるでワインの申し子みたいで、失礼なんだけど、ちょっと笑いそうになった。
「お疲れ様です。身体はもう大丈夫ですか?」
「元気よ、ありがとう。でもこんなに寒いと思ってなかったから、準備に時間かかっちゃって……ごめんなさい」
27: 2019/12/25(水) 03:30:31 ID:.tzay2og
「いえ、僕も今来たところですよ。仕事が長引いちゃって」
「ふうん……?」
志乃さんは目を細めて僕の肩を見た。ジャケットの上に積もった雪を。
「……えっと、寒いですし、早く入りませんか」
「はいはい。そうね」
ぎこちなく肩の雪を払う僕を見て、志乃さんは呆れたように笑う。手の中で解ける雪の冷たさを感じながら、寒い中待った甲斐はあったな、と思った。
「ふうん……?」
志乃さんは目を細めて僕の肩を見た。ジャケットの上に積もった雪を。
「……えっと、寒いですし、早く入りませんか」
「はいはい。そうね」
ぎこちなく肩の雪を払う僕を見て、志乃さんは呆れたように笑う。手の中で解ける雪の冷たさを感じながら、寒い中待った甲斐はあったな、と思った。
28: 2019/12/25(水) 03:32:37 ID:.tzay2og
……そのあと、暖かい個室に入って、横並びに座って。今日もお仕事お疲れ様、と乾杯したまではよかったのだけれど。
グラスに口を付けてからも、志乃さんはどこか俯き加減だった。寒い日にぴったりの鍋料理も最初に一口食べたきりで、あとはぼんやりと何もないところを見つめ続けている。
愁いを湛えた横顔も美しいけれど、それは同時に、僕をこの上なく不安にさせた。
「……やっぱり、体調良くないんじゃないですか? 無理をさせてすみません」
「……無理なんてしてないわ」
この前と立場が逆ね、と志乃さんが嘯く。僕の方を見ないままだった。
「何かあったんですか」
グラスに口を付けてからも、志乃さんはどこか俯き加減だった。寒い日にぴったりの鍋料理も最初に一口食べたきりで、あとはぼんやりと何もないところを見つめ続けている。
愁いを湛えた横顔も美しいけれど、それは同時に、僕をこの上なく不安にさせた。
「……やっぱり、体調良くないんじゃないですか? 無理をさせてすみません」
「……無理なんてしてないわ」
この前と立場が逆ね、と志乃さんが嘯く。僕の方を見ないままだった。
「何かあったんですか」
29: 2019/12/25(水) 03:34:10 ID:.tzay2og
「何もないわ」
「何だか……いつもより遠くないですか」
「そんなこと……いえ、そうね。近づいてもいいかしら?」
志乃さんは僕の返事を聞かずに立ち上がって、一歩僕に近づいた。
彼女がもう一度腰を下ろした場所は、肩が触れそうなほどの至近距離だった。
「っ……」
「失礼するわね」
ほんの数センチの隙間。志乃さんが料理を取るだけで、簡単に肩が触れ合う。シャツ越しに腕が擦れる度、まるで神聖な何かに触れたように目が眩んだ。
「何だか……いつもより遠くないですか」
「そんなこと……いえ、そうね。近づいてもいいかしら?」
志乃さんは僕の返事を聞かずに立ち上がって、一歩僕に近づいた。
彼女がもう一度腰を下ろした場所は、肩が触れそうなほどの至近距離だった。
「っ……」
「失礼するわね」
ほんの数センチの隙間。志乃さんが料理を取るだけで、簡単に肩が触れ合う。シャツ越しに腕が擦れる度、まるで神聖な何かに触れたように目が眩んだ。
30: 2019/12/25(水) 03:34:47 ID:.tzay2og
「し、志乃さん、あの、これは……っ」
「Pさん、食べないの? 厚揚げ」
「え、あ……い、いただきます」
差し出されるがままに受け取った厚揚げを食べる。何度も食べたから美味しいのは知っているのに、味がしなかった。
「あらPさん、醤油かけないの?」
「いやっ、あの……すみません、かけます」
あわただしく小皿に醤油を注ぐ。そんな僕の痴態を見た志乃さんが、微笑んだ。
……ぞっとするような、笑みだった。その表情一つで、糸に絡めとられたように、身動きが出来なくなる。不安、恐れ……それと、予感。致命的な何かが変わってしまいそうな。
頭の中が、天秤みたいにぐらぐら揺れる。不確定な未来に翻弄されている。
「Pさん、食べないの? 厚揚げ」
「え、あ……い、いただきます」
差し出されるがままに受け取った厚揚げを食べる。何度も食べたから美味しいのは知っているのに、味がしなかった。
「あらPさん、醤油かけないの?」
「いやっ、あの……すみません、かけます」
あわただしく小皿に醤油を注ぐ。そんな僕の痴態を見た志乃さんが、微笑んだ。
……ぞっとするような、笑みだった。その表情一つで、糸に絡めとられたように、身動きが出来なくなる。不安、恐れ……それと、予感。致命的な何かが変わってしまいそうな。
頭の中が、天秤みたいにぐらぐら揺れる。不確定な未来に翻弄されている。
31: 2019/12/25(水) 03:35:50 ID:.tzay2og
「し、志乃さん……?」
「ふふ……ドキドキしてくれているの?」
――嬉しいわ。
志乃さんはそう言って、最後の数センチを詰めた。
そして、僕らの身体は完全に密着する。
「っ……」
太ももから腰、脇腹まで、否応にも意識せざるを得ない柔らかさ。志乃さんの腕は僕を引き寄せるように、僕の腰に添えられている。
これじゃまるで――恋人同士、みたいで。熱い血液が全身を巡って、顔を発熱させる。
「ふふ……ドキドキしてくれているの?」
――嬉しいわ。
志乃さんはそう言って、最後の数センチを詰めた。
そして、僕らの身体は完全に密着する。
「っ……」
太ももから腰、脇腹まで、否応にも意識せざるを得ない柔らかさ。志乃さんの腕は僕を引き寄せるように、僕の腰に添えられている。
これじゃまるで――恋人同士、みたいで。熱い血液が全身を巡って、顔を発熱させる。
32: 2019/12/25(水) 03:36:25 ID:.tzay2og
どうして、今になって。
貴女とこうなりたいって期待を、僕はずっと、必氏に、持たないようにしていたのに。
抑え込んでいた情動が渦巻いて目がちかちかする。現実味が失せる。
「――なんで、こんな事……っ」
なんでこんな……僕を期待させるような事、するんですか。
志乃さんは酔っているのだろうか。まだ乾杯したばかりなのに? そんな筈はない。
じゃあ、もしかして、本当に……ちひろさんと僕が二人で飲みに行った事を、ずっと気にしていたのだろうか?
貴女とこうなりたいって期待を、僕はずっと、必氏に、持たないようにしていたのに。
抑え込んでいた情動が渦巻いて目がちかちかする。現実味が失せる。
「――なんで、こんな事……っ」
なんでこんな……僕を期待させるような事、するんですか。
志乃さんは酔っているのだろうか。まだ乾杯したばかりなのに? そんな筈はない。
じゃあ、もしかして、本当に……ちひろさんと僕が二人で飲みに行った事を、ずっと気にしていたのだろうか?
33: 2019/12/25(水) 03:37:27 ID:.tzay2og
「嫌かしら。三十路の女にくっ付かれて」
僕の質問を無視して、志乃さんが卑怯な問いを投げた。だけど、その事を責めようとは思えなかった。
「嫌では、ないですけど……」
「嫌じゃないなら」
志乃さんが僕の肩に額を乗せて、二の腕に口づけするように囁く。小さな声なのに、鼓膜が大きく震える。その声も震えていたからだろうか。
「もう少し……こうさせて」
さっきまでの迫力が嘘のような弱々しい声は、まるで懺悔みたいな響きで。
僕は彼女を抱き留める事も、突き放す事も出来なかった。
卑怯なのは、どっちだったのだろう。
僕の質問を無視して、志乃さんが卑怯な問いを投げた。だけど、その事を責めようとは思えなかった。
「嫌では、ないですけど……」
「嫌じゃないなら」
志乃さんが僕の肩に額を乗せて、二の腕に口づけするように囁く。小さな声なのに、鼓膜が大きく震える。その声も震えていたからだろうか。
「もう少し……こうさせて」
さっきまでの迫力が嘘のような弱々しい声は、まるで懺悔みたいな響きで。
僕は彼女を抱き留める事も、突き放す事も出来なかった。
卑怯なのは、どっちだったのだろう。
34: 2019/12/25(水) 03:40:00 ID:.tzay2og
それからの時間は本当にあっという間で、碌に料理を楽しめないまま、二人きりの飲み会は終わった。
心臓はずっと逸りっぱなしだった。居酒屋を出て歩いている今も、外気と切り離されたかのように燃え続けている。
「…………」
静かな灰雪が地面を濡らしている。明日は路面が凍っているかもしれない。ぐずぐずのアスファルトは、いやに歩きづらさを覚えた。
僕のほんの少し先を志乃さんが歩いている。表情を見られたくないみたいに俯いて。いつもと違って揃わない僕らの歩調が、もどかしくもあり、救いでもあった。
「…………っ」
声をかけようとして、胸を詰まらせる。呻き声みたいな言葉未満の音は、雪にすっかり吸い込まれて消えた。
心臓はずっと逸りっぱなしだった。居酒屋を出て歩いている今も、外気と切り離されたかのように燃え続けている。
「…………」
静かな灰雪が地面を濡らしている。明日は路面が凍っているかもしれない。ぐずぐずのアスファルトは、いやに歩きづらさを覚えた。
僕のほんの少し先を志乃さんが歩いている。表情を見られたくないみたいに俯いて。いつもと違って揃わない僕らの歩調が、もどかしくもあり、救いでもあった。
「…………っ」
声をかけようとして、胸を詰まらせる。呻き声みたいな言葉未満の音は、雪にすっかり吸い込まれて消えた。
35: 2019/12/25(水) 03:40:37 ID:.tzay2og
……きっとこのままぎこちなく帰宅しても、明日以降何も支障はない。二人ともとっくに大人で、社会人だ。ほんの少しわだかまりを残しながらも、仕事が始まればまたいつも通り歯車が噛み合い始める事だろう。『アイドル』と、その『プロデューサー』として。
でも今日この時が……僕らの関係性を変えるチャンスなんだとしたら。自分にも見えないように押し込めていた淡い期待が、実る時だとしたら。
「――志乃さん」
沈黙を破ったのは僕だった。
「なあに?」
志乃さんが足を止める。追いついて、横並びになる。
「……恨み言かしら? 何とでも言ってちょうだいな」
僕が口を開く前に、志乃さんは下を向いたまま笑った。顔が見えないからこそ、その悲しげな自嘲に心が痛んだ。
でも今日この時が……僕らの関係性を変えるチャンスなんだとしたら。自分にも見えないように押し込めていた淡い期待が、実る時だとしたら。
「――志乃さん」
沈黙を破ったのは僕だった。
「なあに?」
志乃さんが足を止める。追いついて、横並びになる。
「……恨み言かしら? 何とでも言ってちょうだいな」
僕が口を開く前に、志乃さんは下を向いたまま笑った。顔が見えないからこそ、その悲しげな自嘲に心が痛んだ。
36: 2019/12/25(水) 03:41:57 ID:.tzay2og
「……いえ。嫌では、なかったですから」
「そう?」
感情の薄い返答。彼女が何を、どんな言葉を求めているのかわからなくて、また何も言えなくなってしまう。考えあぐねて指先を揉みほぐすと、じわりと痺れる感覚があった。
「あら……あそこ。猫がいたわね」
そのとき徐に、消えそうな儚い声で志乃さんが呟いた。その視線は、真っ暗な路地の向こうに向けられている。
僕の目では動くものは何も見えない。仮に猫がいたとしても、この暗さで果たして見つけられるだろうか?
「どこですか?」
「あっちよ」
志乃さんの足が路地に向かう。街灯の届かない暗闇へ。光と影の境界線へと志乃さんの足が掛かった瞬間、何故か心臓が止まりそうになった。
「――志乃さん!」
「そう?」
感情の薄い返答。彼女が何を、どんな言葉を求めているのかわからなくて、また何も言えなくなってしまう。考えあぐねて指先を揉みほぐすと、じわりと痺れる感覚があった。
「あら……あそこ。猫がいたわね」
そのとき徐に、消えそうな儚い声で志乃さんが呟いた。その視線は、真っ暗な路地の向こうに向けられている。
僕の目では動くものは何も見えない。仮に猫がいたとしても、この暗さで果たして見つけられるだろうか?
「どこですか?」
「あっちよ」
志乃さんの足が路地に向かう。街灯の届かない暗闇へ。光と影の境界線へと志乃さんの足が掛かった瞬間、何故か心臓が止まりそうになった。
「――志乃さん!」
37: 2019/12/25(水) 03:43:42 ID:.tzay2og
お酒と浮遊感に邪魔されて、覚束ない足取りで追いかける。水たまりを一つ踏み抜く。志乃さんの後ろ髪が路地裏に吸い込まれる。それを追って、僕も暗闇に飲まれた。
壁に手を突きながら、ヒールの足音を追う。街灯と影の境界線から五歩も歩かないうちに、彼女の足音は行き詰った。
「……志乃さん」
少しだけ目が慣れてきた。一メートル先で、輪郭のぼやけた志乃さんが立ち尽くしているのが見える。ビルの間に降るほんの僅かな雪が、ノイズのように視界でちらつく。
「……着いてきてくれるのね」
「心配ですから」
「そう、よね」
二つのビルに挟まれて、声が反響する。指先がまた痛いくらいに冷え始める。心臓は顔を熱くすることだけに専念していた。
壁に手を突きながら、ヒールの足音を追う。街灯と影の境界線から五歩も歩かないうちに、彼女の足音は行き詰った。
「……志乃さん」
少しだけ目が慣れてきた。一メートル先で、輪郭のぼやけた志乃さんが立ち尽くしているのが見える。ビルの間に降るほんの僅かな雪が、ノイズのように視界でちらつく。
「……着いてきてくれるのね」
「心配ですから」
「そう、よね」
二つのビルに挟まれて、声が反響する。指先がまた痛いくらいに冷え始める。心臓は顔を熱くすることだけに専念していた。
38: 2019/12/25(水) 03:44:23 ID:.tzay2og
「プロデューサーさん、だものね」
足音が二歩分、僕に近づいた。
志乃さんの顔の形まで、くっきりと見えた。
「猫は、嘘よ」
目と鼻の先で、甘い香りがした。
氷のように冷え切った指が、するり、と僕の首を撫でた。
志乃さんはそのまま、僕の首の後ろに腕を回す。
僕より少しだけ低い位置にある、潤んだ瞳と目が合った。
零れそうな感情を湛えた視線は、まっすぐに僕へと向けられていて。
足音が二歩分、僕に近づいた。
志乃さんの顔の形まで、くっきりと見えた。
「猫は、嘘よ」
目と鼻の先で、甘い香りがした。
氷のように冷え切った指が、するり、と僕の首を撫でた。
志乃さんはそのまま、僕の首の後ろに腕を回す。
僕より少しだけ低い位置にある、潤んだ瞳と目が合った。
零れそうな感情を湛えた視線は、まっすぐに僕へと向けられていて。
39: 2019/12/25(水) 03:45:20 ID:.tzay2og
求められている。
期待、されている。
……それに、応えたいと思った。
恐る恐る――宝石を扱うような慎重な手つきで、志乃さんの背中に手を回す。
するとそれが引き金になって、僕らはどちらともなく引き寄せられた。
ずっと見てきた、触れたいとすら思っていた志乃さんの唇に、僕の唇が触れていた。
視界の全部が志乃さんだった。
志乃さんの息遣いしか聞こえなかった。
十二月の静けさも、髪に降りかかる雪も、この一幕の口付けの前では何もかもが脇役で。
何もかも溶けてしまいそうな夢心地の中、口腔でふわりと舞う芳醇な香りだけが、僕の意識を現実に引き留めていた。
期待、されている。
……それに、応えたいと思った。
恐る恐る――宝石を扱うような慎重な手つきで、志乃さんの背中に手を回す。
するとそれが引き金になって、僕らはどちらともなく引き寄せられた。
ずっと見てきた、触れたいとすら思っていた志乃さんの唇に、僕の唇が触れていた。
視界の全部が志乃さんだった。
志乃さんの息遣いしか聞こえなかった。
十二月の静けさも、髪に降りかかる雪も、この一幕の口付けの前では何もかもが脇役で。
何もかも溶けてしまいそうな夢心地の中、口腔でふわりと舞う芳醇な香りだけが、僕の意識を現実に引き留めていた。
40: 2019/12/25(水) 03:47:39 ID:.tzay2og
「っ……」
僅かな残り香と共に、志乃さんが身を退く。身を裂くような風が路地を抜ける。志乃さんの髪が、顔を半分覆い隠した。
「ごめん、なさい……私っ……」
今まで聞いた事のない、今にも泣き出しそうな志乃さんの声。自分への失望と……僕に向けられた、期待と甘え。
路地の奥へと後ずさろうとする志乃さんの手を、掴んだ。そうしたかったから。
「――待って、ください」
志乃さんから貰った熱が僕を突き動かして、そのまま志乃さんを抱き寄せた。
僅かな残り香と共に、志乃さんが身を退く。身を裂くような風が路地を抜ける。志乃さんの髪が、顔を半分覆い隠した。
「ごめん、なさい……私っ……」
今まで聞いた事のない、今にも泣き出しそうな志乃さんの声。自分への失望と……僕に向けられた、期待と甘え。
路地の奥へと後ずさろうとする志乃さんの手を、掴んだ。そうしたかったから。
「――待って、ください」
志乃さんから貰った熱が僕を突き動かして、そのまま志乃さんを抱き寄せた。
41: 2019/12/25(水) 03:49:06 ID:.tzay2og
腕の中で、コートの下の細い身体が驚きに跳ねる。けれど離すつもりはなかった。
「志乃さんだって言っていたじゃないですか。僕からの期待は心地よいって……」
――僕だって、志乃さんになら見ていて欲しい。無責任でも、期待して、関心を寄せて貰いたい。期待されることを期待している。
そうやって、信頼が成立するのだと思う。自分に期待できなくても、お互いになら支えていける。僕と志乃さんなら、それが出来る、と思う。
「……このまま、しばらく居ても……いいですか」
離したくないし、離れて欲しくもなかった。志乃さんも震えていたから。
おそるおそる、といった感じで、志乃さんの手が僕の背に添えられる。
寒いのはみんな一緒だ。だけど、寒がっているところを見せるのを、他人への甘えだと思う人がいるのだ。今の……今までの、志乃さんのように。
「志乃さんだって言っていたじゃないですか。僕からの期待は心地よいって……」
――僕だって、志乃さんになら見ていて欲しい。無責任でも、期待して、関心を寄せて貰いたい。期待されることを期待している。
そうやって、信頼が成立するのだと思う。自分に期待できなくても、お互いになら支えていける。僕と志乃さんなら、それが出来る、と思う。
「……このまま、しばらく居ても……いいですか」
離したくないし、離れて欲しくもなかった。志乃さんも震えていたから。
おそるおそる、といった感じで、志乃さんの手が僕の背に添えられる。
寒いのはみんな一緒だ。だけど、寒がっているところを見せるのを、他人への甘えだと思う人がいるのだ。今の……今までの、志乃さんのように。
42: 2019/12/25(水) 03:49:48 ID:.tzay2og
「っ……だめ、よ……」
志乃さんはそう言いながら、僕の背中に回した手に力を込めた。
「何が、ですか」
「期待、させないで……。私を弄んでるのかしら? 意地悪な人ね……」
「……好きな人を抱きしめるのは、意地悪な事ですか」
胸元で志乃さんが息を呑む。無音の後、しばらくして吐き出された吐息は、小さな震えを伴っていた。
「……本当? てっきり、私……今日は、フられるつもりで来たのよ」
「どうしてですか?」
「だって私、ダメな大人よ……頑張って隠してるけど、本当は大人の余裕なんて、全然ないわ」
志乃さんはそう言いながら、僕の背中に回した手に力を込めた。
「何が、ですか」
「期待、させないで……。私を弄んでるのかしら? 意地悪な人ね……」
「……好きな人を抱きしめるのは、意地悪な事ですか」
胸元で志乃さんが息を呑む。無音の後、しばらくして吐き出された吐息は、小さな震えを伴っていた。
「……本当? てっきり、私……今日は、フられるつもりで来たのよ」
「どうしてですか?」
「だって私、ダメな大人よ……頑張って隠してるけど、本当は大人の余裕なんて、全然ないわ」
43: 2019/12/25(水) 03:50:43 ID:.tzay2og
「……それでも、いいんです」
僕は今日、志乃さんの隠していた弱さを知って……志乃さんに、それでもいいんだと思ってもらいたかった。
僕に対してどれだけ無責任に甘えても、僕は志乃さんに失望したりしない。
「ダメな人を好きになっては、ダメなんですか?」
「……ええ。貴方も、アイドルの事を好きになっちゃう、ダメな大人だったわね」
ようやく志乃さんは笑ってくれた。きっと自分の中で何かが解けたのだろう、と思った。
僕は今日、志乃さんの隠していた弱さを知って……志乃さんに、それでもいいんだと思ってもらいたかった。
僕に対してどれだけ無責任に甘えても、僕は志乃さんに失望したりしない。
「ダメな人を好きになっては、ダメなんですか?」
「……ええ。貴方も、アイドルの事を好きになっちゃう、ダメな大人だったわね」
ようやく志乃さんは笑ってくれた。きっと自分の中で何かが解けたのだろう、と思った。
44: 2019/12/25(水) 03:51:30 ID:.tzay2og
いつしか雪は止んでいた。その代わりに風が強くなって、路地の隙間を駆け抜けていく。僕らは震えながら、無言で身を寄せた。
分厚いコート越しでもお互いの体温が伝わる。二人分の安堵が溶け合って、心の奥まで絡まるような心地よさを感じた。
寒いからこそ一層愛おしく感じるものが、確かにここにあった。
こうして好きな人の温もりを、より深く知れるのなら。
凍えるような冬の夜も、案外悪くないなと思った。
分厚いコート越しでもお互いの体温が伝わる。二人分の安堵が溶け合って、心の奥まで絡まるような心地よさを感じた。
寒いからこそ一層愛おしく感じるものが、確かにここにあった。
こうして好きな人の温もりを、より深く知れるのなら。
凍えるような冬の夜も、案外悪くないなと思った。
45: 2019/12/25(水) 03:53:38 ID:.tzay2og
******
……雪の降る日を何度か越えて、街中にサンタのイルミネーションが輝く夜。
その日のバーは、ひどく人が多かった。運よく空いた席を見つけて、二人で腰掛ける。
「……案の定、どこも混んでますね」
「仕方がないわ。そういう季節だもの」
毎年そうよ、と志乃さんは肩をすくめる。慣れた様子だけど、今まで何度肩身の狭い思いをしてきたのだろう。ただの個人的なお祝いをしたいだけなのに。
「わざわざお店を探さなくても、家でも良かったのに。こんな日くらい、私も片づけするわ」
「いえ、それは……」
46: 2019/12/25(水) 03:54:33 ID:.tzay2og
志乃さんの家。行ったことがないわけではない。けれど、こんな日に二人きりでお酒が入ると、何か……間違いを起こしそうで恐かった。志乃さんはそれでも構わないと思ってそうだけど、まだ、早いだろう。
「……特別な日にしたかったですから。プレゼントもありますよ。ちゃんと二つ」
「本当? 嬉しいわ、いっつも一纏めだったから」
「やっぱりそうだったんですか。なんというか……損した気分ですね」
「ふふ、今まではね。でも――」
志乃さんの目が輝いた。その視線は期待に満ちていて、それを受け止めた胸が充足感で震えた。
「今日は、Pさんが素敵な日にしてくれるのでしょう?」
「もちろんです」
その期待に応えるのが、僕の役目だからだ。
「お誕生日おめでとうございます。それと――」
「……特別な日にしたかったですから。プレゼントもありますよ。ちゃんと二つ」
「本当? 嬉しいわ、いっつも一纏めだったから」
「やっぱりそうだったんですか。なんというか……損した気分ですね」
「ふふ、今まではね。でも――」
志乃さんの目が輝いた。その視線は期待に満ちていて、それを受け止めた胸が充足感で震えた。
「今日は、Pさんが素敵な日にしてくれるのでしょう?」
「もちろんです」
その期待に応えるのが、僕の役目だからだ。
「お誕生日おめでとうございます。それと――」
47: 2019/12/25(水) 03:55:24 ID:.tzay2og
「「メリークリスマス」」
48: 2019/12/25(水) 03:55:58 ID:.tzay2og
終わりです。
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