1: 2019/12/25(水) 03:02:39 ID:.tzay2og
某所に書いたものを加筆修正したものです。
志乃さんお誕生日おめでとうございます。
あとメリークリスマス。

2: 2019/12/25(水) 03:04:44 ID:.tzay2og


「Pさん、本当はお酒苦手なんでしょう?」


突然そんなことを言われて、一瞬、息が出来なくなった。


「……どうしてそう思うんですか?」


出来るだけ自然な間を装って、隣に座る志乃さんに尋ね返した。志乃さんは一度カクテルグラスを置いてから、僕の方へ頭を傾ける。


「だって、Pさんったら」


つややかな髪の先端が揺れて、僕の肩を撫でた。


まるで咎めているような、もしくは拗ねているような。大人びた雰囲気のバーにはそぐわない、子供っぽい声色で、志乃さんが僕を問い詰める。


「ちっともお酒を楽しんでいるようには見えないわ。いつも同じカクテルしか頼まないじゃない」


「え、と」


甘い香りが鼻腔をくすぐる。二つの意味でドキドキしている僕は、上手く言葉を返せない。
Reバース U149/001B-109[IMC] 柊 志乃 (C コモン) ブースターパック TVアニメ シンデレラガールズ U149
3: 2019/12/25(水) 03:06:19 ID:.tzay2og

拗ねたような表情の志乃さんは、畳みかけるように言葉を重ねる。


「ええ。いいのよ、それが仕事だものね。プロデューサーなんだから。担当アイドルに付き合って、飲みたくもないお酒を飲ませられて、いつも大変ね」


「ま、まってください、違うんです」


「何が、かしら?」


「……黙っていたことは、ごめんなさい」


僕は確かに、あまりお酒が飲めない。家には二日酔い対策のサプリメントがたくさんある。

4: 2019/12/25(水) 03:07:15 ID:.tzay2og
「けれど、飲みたくないわけじゃないですから」


「ふぅん?」


「僕だって大人ですから。無理に飲むことなんて無いですよ」


僕がお酒を飲むのは、どうしても飲みたい時だけです。


その一言は、ファジーネーブルと一緒に胃の中へとしまい込んだ。

5: 2019/12/25(水) 03:07:51 ID:.tzay2og
「そう」


志乃さんも、赤いワインで口を潤した。


「……じゃあ、これからも私を飲みに誘ってくれるのね?」


「もちろんです」


「ふふ、よかった」


机に肘をついて僕を見る志乃さんは、どこか嬉しそうに笑った。


それを見て、僕もまた、笑顔に戻った。

6: 2019/12/25(水) 03:08:36 ID:.tzay2og
「今日は私が払うわ」


「え、そんな」


「いつも払ってもらってるもの。Pさんは明日早いのに、今日は無理言ってごめんなさいね」


「いえ、僕はいいんですけど……志乃さんも明日は朝からレッスンですよ」


「クレジット、一括でお願いします」


「あの」


「それじゃあ行きましょうか、Pさん。年上の女をあまり待たせるものじゃないわ。老いていっちゃうわよ?」


「……では、お言葉に甘えて」


ごちそうさまでした、と志乃さんに頭を下げて、僕らは足並みを揃えてバーを出た。

7: 2019/12/25(水) 03:09:27 ID:.tzay2og
地下のバーから地上に出ると、湿度の低い十二月の風が、悲鳴を上げて襲い来る。


「寒いですね……」


「ふふっ、そうね」


志乃さんはまだ余裕そうに笑みを見せる一方で、僕は思わず両腕をさすった。寒いのは苦手だ。



「はやく帰りましょう。Pさんが風邪を引いちゃったら、ちひろさんに申し訳ないわ」


「……そうですね」


ただでさえ仕事の多いちひろさんに、これ以上業務を背負わせるのは忍びない。そういう意味だろう。事実、一昨日も飲み屋に連行されて、無理やり愚痴を聞かされたところだ。


二人で横並びになって、鈍い月明かりに照らされた道を歩き出す。ヒールを履いた志乃さんに合わせて、少しゆっくりした足取りで。駅から離れた所にあるバーだから、アイドルと二人で飲みに行くにはうってつけだったけれど、帰路が長いのが難点だ。

8: 2019/12/25(水) 03:10:01 ID:.tzay2og
冷たく澄んでいる夜の空気は、硬くて無機質なガラスのよう。日付が変わろうという時間だけあって車通りもなく、二人分の足音と、時折風の泣く音だけが鼓膜を震わせる。


俄かに、ひと際強い風が僕らの間を吹き抜ける。乱れる髪を押さえながら、志乃さんが呟いた。


「気持ち良いわね。少し身体が火照っちゃったから」


志乃さんの声は冬の風に吹かれて遠ざかっていくから、耳を澄ませて拾い集めなければならなかった。


「寒さに強いんですね……」


「そう……かもね。冬に生まれたから、かしら」


何の根拠もない、他愛のない言葉――僕が何か言う前に、志乃さんは小さく笑った。


「うふふ……今日はなんだか、特に酔いが回ってるみたい」


そう言いながらも、志乃さんの足取りは確かなものだった。

9: 2019/12/25(水) 03:11:51 ID:.tzay2og
「そんなにたくさん飲んでましたっけ」


「同じだけ飲んでも、気持ちよく酔える時、酔いたいのに酔えない時……色々あるものなのよ。時と場合によって、ね」


……それを今言うのは、どういう意味なんだろう。


「今日は……どうだったんですか」


急に、酔いも覚めるほどの不安が押し寄せた。彼女の歩幅がいつもより大きい気がしたから。


眠たげな目つきで僕の顔を見ながら、いたずらっぽく志乃さんが言った。


「……内緒にしといてあげる」


志乃さんの目つきは、出来の悪い生徒を見るかのように生温く、優しかった。自分はよっぽど不安げな顔をしていたんだろう。


彼女の一挙一動で揺れ動く僕の心臓は、痛みを感じるほどに熱い。


この熱が志乃さんに伝わらないまま風に奪われていくのが、無性にもったいなく感じた。

10: 2019/12/25(水) 03:12:51 ID:.tzay2og
******


冬は嫌な季節だ。特に夜がきらいだ。冷たさに覆われると暗い夜が更に昏く感じて、身も心も冷え切ってしまう。


人気のない夜の事務所は、さながらコキュートスといったところか。


「ああ、寒い……」


「何回目ですか、プロデューサーさん」


ちひろさんがため息を吐いた。白かった。


僕とちひろさんのデスクは窓のすぐ傍で、自然の雄大さを直に感じられる特等席だ。天井の古びたエアコンは音ばかり大きくて、気持ち程度の温風を弱々しく吐いている。


「寒いものは寒いんです。まともにタイピングも出来ないですよ、これじゃ」

11: 2019/12/25(水) 03:13:27 ID:.tzay2og
「そうは言っても、これが終わらないと帰れませんよ」


「このパソコン、今から音声認識できるようになりませんかね」


「音声より先に、USBをちゃんと認識してほしいですね……ああっ、もう」


ちひろさんは苛立った声を上げて、メモリスティックを何度も抜き差しした。なにぶん古いパソコンだから、あちこちガタが来ている。


「よければ、こっちで読み込んで送りましょうか。僕のパソコンなら読めるかも」


「ええ、ぜひお願いします」


ちひろさんは辟易した様子で、隣に座る僕にUSBを差し出した。

12: 2019/12/25(水) 03:14:55 ID:.tzay2og
「やってみますね」


USBを読み込み口に差し込むと、少しの沈黙の後、画面の右下にポップアップが表示された。


「行けそうです。メールで送るので待っててください」


「ああ、助かりました……ん~っ」


そう言って、ちひろさんは背もたれに体重をかけて思いっきり伸びをする。その様子があまりにも気持ちよさそうだったので、思わず苦笑いが漏れた。


「あー……そういえばプロデューサーさん」


海老反り状態のちひろさんが、背後に向かって話しかけた。

13: 2019/12/25(水) 03:15:32 ID:.tzay2og
「なんですか?」


「昨日は志乃さんと飲みに行ってたんですか?」


「はい」


志乃さんから聞いたのだろうか。


データの読み込みはまだ終わらない。ちひろさんの体勢が元通りになる方が早かった。


「週に二回も、女性を連れて飲み会なんて。いい御身分ですね」


「……どちらも、誘われただけですから」


いつもは僕から志乃さんを誘うのだけど、昨日に限っては急に志乃さんから誘われたのだ。一方ちひろさんとの飲み会は……お誘いというより、連行とか拉致に近かったと思う。

14: 2019/12/25(水) 03:16:36 ID:.tzay2og
「私と飲んだ時はお酒飲まなかったくせに、志乃さんと居る時は飲むんですってね。この助平」


「んぶっ」


昨日飲んだカクテルが喉元までこみ上げた。喉がヒリつく。アルコールではなく、胃液のせいだが。


「なんでそんなことまで……」


「今朝、志乃さんに相談されたんです。『Pさんは本当は無理して飲みに付き合ってるんじゃないか』って」


「無理なんかしてないって言ったのに……信頼されてないんでしょうか」

15: 2019/12/25(水) 03:18:34 ID:.tzay2og
「信頼されてない、というより……嫉妬されてるんじゃないですか」


ちひろさんは投げやりに言い放った。僕はぎこちなくマウスを動かして、メールソフトを立ち上げる。


「何にですか?」


「この前、私と飲みに行ったでしょう。二人っきりで」


メールのアプリケーションも、僕と同様に寒がりなようだ。僕もちひろさんと同じように、背もたれに身体を預けた。


「ええ、まあ」


「それで志乃さんが、ヤキモチ焼いちゃったんじゃないですか。珍しく向こうから誘われたんでしょう?」


「……どうなんでしょうね」

16: 2019/12/25(水) 03:19:19 ID:.tzay2og
他人に嫉妬するのは、自分に自信がないからだ。確かに志乃さんは自己肯定感の高いタイプではないけど、果たして僕に対して、そこまで執着してくれているのだろうか。


「告白しないんですか? 好きなんでしょう。上手くいくと思いますよ」


ちひろさんは僕に対して容赦がない。奥ゆかしいこのUSBとはまるで対照的だ。


「……アイドルとプロデューサーですから」


「建前でしょう? そんなことを理由に躊躇ってるようには思えないです」


「……」


それに対する答えを持っていないわけじゃなかったけど、僕は無言で画面を見つめることに集中した。ファイルの添付が終わって、ようやっとメールを送信する。


「……ファイル、送りましたよ」


「あ、はーい」

17: 2019/12/25(水) 03:19:50 ID:.tzay2og
PCに向き直ったちひろさんを横目で見ながら、僕は慎重に言葉を紡ぐ。さっきの質問に応えるために。


「……例えば、ですけど」


「はいはい」


「毎日それなりのレッスンをして、それなりにお仕事をして、時々友人と飲みに行ったりして……週末はおつまみ片手にワインを飲めたら、そこそこ楽しい人生ですよね」


志乃さんはたぶん、それ以上の事を求めていない。


「……なるほど。尽くすタイプなんですねえ、プロデューサーさん」


ちひろさんが笑った。言葉と裏腹に、全く褒められているようには感じなかった。

18: 2019/12/25(水) 03:20:21 ID:.tzay2og
褒められるような心持ちじゃないのは僕もわかっている、けれど。


「……志乃さんの負担になりたくないだけです」


他人への執着というのは、期待と言い換えてもいい。他人にも自分にも期待しないで生きてきた志乃さんにとって、僕の気持ちは重荷になる。


だから、嫉妬されていたかもしれない、なんて期待するのは……志乃さんに失礼な気がした。

19: 2019/12/25(水) 03:20:51 ID:.tzay2og



******


事務所の廊下は空調がないけれど、日当たりが良いおかげか昼間は温かい。


太陽の恩恵を感じながらトレーニングルームの前を通りがかった時、ガラスの向こうの志乃さんが目に入った。今日は基礎体力レッスンだったはずで、まだ早い時間だからか、黙々と準備運動をしている。緩慢だけど流麗なストレッチは、そのまま彼女の在り方のよう。


僕の視線に気づいたらしく、志乃さんは手を振りながら廊下まで出てきた。


「おはよう、Pさん」


「おはようございます。早いですね、まだトレーナーさんも来てないのに」


「珍しいでしょう?」


「そうですね……あ、いや、その。すみません」


「うふふ。いいのよ。事実だもの」

20: 2019/12/25(水) 03:21:35 ID:.tzay2og
そんな風に嘯きながら、志乃さんは困り顔で頬に手を当てた。


「実は、最近寝つきが悪くてね。変に早い時間に起きちゃうの」


「えっ……だ、だいじょうぶですか? いつ頃からの話ですか」


「……先週くらいかしら」


先週というと、僕が志乃さんに誘われた週だ。


「……すみません、気がつかなくて。今日は切り上げて、今すぐ病院に行きましょう」


「あら、大丈夫よ。こう見えて身体は丈夫だもの」


「車出しますから。休みにしましょう」


「心配しすぎよ」


「しすぎてないです。もっと自分を大事にしないと……」

21: 2019/12/25(水) 03:22:22 ID:.tzay2og
そこで、ポケットの中の電話が鳴った。画面を見ると、ちひろさんからだった。


「っと……ごめんなさい。すぐ戻ります」


「……いいのよ。ごゆっくり」


志乃さんから二歩だけ離れて、通話ボタンをタップした。


「もしもし。……ええ、はい。……ああ、またですか。いいですよ、僕のPC使ってください。パスワードは社員番号そのままですから。他に何か? 何もなければ切り……え? ええ、まあ、今志乃さんと……あ、はい。お疲れ様です」


変な気を遣われて、一分もしないうちに通話は終わった。小さな溜息と一緒にスマホを仕舞うと、


「仲良しよね」


「わっ」


すぐ後ろに志乃さんがいた。

22: 2019/12/25(水) 03:23:02 ID:.tzay2og
「びっ……くりしました」


「あら、ごめんなさい」


志乃さんは悪びれもせず謝罪した。普段あまり見せないような、感情の読めない無表情に、少し背筋が冷える。


「い、いえ、大丈夫ですけど……どうかしたんですか」


「何でもないわ。ただ」


彼女の長い髪が、肩から滑り落ちる。顔に影が掛かる。僕の足元に視線を落とした志乃さんが、うわごとのように小さく囁いた。


「……ちひろさんと仲が良さそうだなって思って。どんな話をしているのか、少し気になっただけよ」

23: 2019/12/25(水) 03:25:26 ID:.tzay2og
「それ、は」


――どういう意味で、言っているんですか。


目線の下で、志乃さんの頭が揺れる。僕の言葉を、待っている。


たったそれだけのことで、呼吸が乱れる。今までどれだけ甘えられても、してはいけないと――するべきではないと押しとどめていた気持ちが、胸の中で膨らんでいく。


それは、僕を身体の芯から揺さぶるほどの、甘い『期待』。熟れすぎた果実が弾けるように、僕の心は焦げ付かされていく。


はち切れそうな情動を必氏で押し頃して、僕は当たり障りのない返答をした。


「……長い付き合いですから、ね。それだけですよ」


軋むほどに心臓が脈打つせいで、僕の声は少し震えていた。

24: 2019/12/25(水) 03:26:55 ID:.tzay2og
「そう」


所在無げな志乃さんの右手が、彼女自身の二の腕を抱いた。ただでさえ細い彼女が、なぜかあまりにも頼りなく見えた。


「……やっぱり、具合が悪いんじゃ……ないですか。無理してそうに見えますよ」


トレーナーさんには話しておきますから。休んでもらえませんか。


古びた蝶番のような声でそう言うと、ようやく志乃さんは顔を上げた。無表情だけど少し柔らかい面持ちで、視線だけを落としたままぽつりと呟く。


「……Pさんがそこまで言うなら、今日は早めに切り上げて帰るわ」


すぐに帰るつもりはないらしかった。けれど言われてみれば、せっかく早くからレッスン場に来てくれているのだ。


「わかりました。でも、帰ったらちゃんと休んでくださいね。また一緒に飲みに行きたいですから」

25: 2019/12/25(水) 03:27:33 ID:.tzay2og
「……もう、優しいんだから。……それよりPさん、今日は確か会議だったわよね。時間は大丈夫?」


「ん、まあ……まだ時間はありますから。本当に無理しないか、しばらく見てても良いですか」


「あら……ふふ、困っちゃうわ」


「嫌ですか?」


「緊張しちゃうもの。……のぼせてしまいそう」


なんてね、と志乃さんが笑った。どこか……嘘ではないけれど、まだ無理をしているような表情に見えた。


その違和感がどうにも気になって、しばらく彼女から目を離せなくて。


僕は、会議に遅れた。

26: 2019/12/25(水) 03:29:56 ID:.tzay2og
次の次の日の晩、僕は志乃さんを飲みに誘った。彼女の体調は少し心配だったけれど、二つ返事でオーケーが返ってきた。


「……冷えるなぁ」


居酒屋の前で独りごちる。珍しく定時で帰れた日でも、寒くて暗いのは変わらない。ほう、と何の気なしに吐いた白い息が、降りしきる雪の隙間をくぐり抜けていった。


ひび割れつつある心に、冷たい隙間風が入り込んでいた。初雪に色めく人々が僕の前を通り過ぎるたび、どうしようもない孤独感で景色が色を失っていく。曖昧な灰色の世界は、ひどく居心地が悪く感じた。


「お待たせ、Pさん」


その時、志乃さんが小走りでやって来た。おしゃれな白いトレンチコートと、艶やかな赤いマフラーをたなびかせて。色合いがまるでワインの申し子みたいで、失礼なんだけど、ちょっと笑いそうになった。


「お疲れ様です。身体はもう大丈夫ですか?」


「元気よ、ありがとう。でもこんなに寒いと思ってなかったから、準備に時間かかっちゃって……ごめんなさい」

27: 2019/12/25(水) 03:30:31 ID:.tzay2og
「いえ、僕も今来たところですよ。仕事が長引いちゃって」


「ふうん……?」


志乃さんは目を細めて僕の肩を見た。ジャケットの上に積もった雪を。


「……えっと、寒いですし、早く入りませんか」


「はいはい。そうね」


ぎこちなく肩の雪を払う僕を見て、志乃さんは呆れたように笑う。手の中で解ける雪の冷たさを感じながら、寒い中待った甲斐はあったな、と思った。

28: 2019/12/25(水) 03:32:37 ID:.tzay2og
……そのあと、暖かい個室に入って、横並びに座って。今日もお仕事お疲れ様、と乾杯したまではよかったのだけれど。


グラスに口を付けてからも、志乃さんはどこか俯き加減だった。寒い日にぴったりの鍋料理も最初に一口食べたきりで、あとはぼんやりと何もないところを見つめ続けている。


愁いを湛えた横顔も美しいけれど、それは同時に、僕をこの上なく不安にさせた。


「……やっぱり、体調良くないんじゃないですか? 無理をさせてすみません」


「……無理なんてしてないわ」


この前と立場が逆ね、と志乃さんが嘯く。僕の方を見ないままだった。


「何かあったんですか」

29: 2019/12/25(水) 03:34:10 ID:.tzay2og
「何もないわ」


「何だか……いつもより遠くないですか」


「そんなこと……いえ、そうね。近づいてもいいかしら?」


志乃さんは僕の返事を聞かずに立ち上がって、一歩僕に近づいた。


彼女がもう一度腰を下ろした場所は、肩が触れそうなほどの至近距離だった。


「っ……」


「失礼するわね」


ほんの数センチの隙間。志乃さんが料理を取るだけで、簡単に肩が触れ合う。シャツ越しに腕が擦れる度、まるで神聖な何かに触れたように目が眩んだ。

30: 2019/12/25(水) 03:34:47 ID:.tzay2og
「し、志乃さん、あの、これは……っ」


「Pさん、食べないの? 厚揚げ」


「え、あ……い、いただきます」


差し出されるがままに受け取った厚揚げを食べる。何度も食べたから美味しいのは知っているのに、味がしなかった。


「あらPさん、醤油かけないの?」


「いやっ、あの……すみません、かけます」


あわただしく小皿に醤油を注ぐ。そんな僕の痴態を見た志乃さんが、微笑んだ。


……ぞっとするような、笑みだった。その表情一つで、糸に絡めとられたように、身動きが出来なくなる。不安、恐れ……それと、予感。致命的な何かが変わってしまいそうな。


頭の中が、天秤みたいにぐらぐら揺れる。不確定な未来に翻弄されている。

31: 2019/12/25(水) 03:35:50 ID:.tzay2og
「し、志乃さん……?」


「ふふ……ドキドキしてくれているの?」


――嬉しいわ。


志乃さんはそう言って、最後の数センチを詰めた。


そして、僕らの身体は完全に密着する。


「っ……」


太ももから腰、脇腹まで、否応にも意識せざるを得ない柔らかさ。志乃さんの腕は僕を引き寄せるように、僕の腰に添えられている。


これじゃまるで――恋人同士、みたいで。熱い血液が全身を巡って、顔を発熱させる。

32: 2019/12/25(水) 03:36:25 ID:.tzay2og
どうして、今になって。


貴女とこうなりたいって期待を、僕はずっと、必氏に、持たないようにしていたのに。


抑え込んでいた情動が渦巻いて目がちかちかする。現実味が失せる。


「――なんで、こんな事……っ」


なんでこんな……僕を期待させるような事、するんですか。


志乃さんは酔っているのだろうか。まだ乾杯したばかりなのに? そんな筈はない。


じゃあ、もしかして、本当に……ちひろさんと僕が二人で飲みに行った事を、ずっと気にしていたのだろうか?

33: 2019/12/25(水) 03:37:27 ID:.tzay2og
「嫌かしら。三十路の女にくっ付かれて」


僕の質問を無視して、志乃さんが卑怯な問いを投げた。だけど、その事を責めようとは思えなかった。


「嫌では、ないですけど……」


「嫌じゃないなら」


志乃さんが僕の肩に額を乗せて、二の腕に口づけするように囁く。小さな声なのに、鼓膜が大きく震える。その声も震えていたからだろうか。


「もう少し……こうさせて」


さっきまでの迫力が嘘のような弱々しい声は、まるで懺悔みたいな響きで。


僕は彼女を抱き留める事も、突き放す事も出来なかった。


卑怯なのは、どっちだったのだろう。

34: 2019/12/25(水) 03:40:00 ID:.tzay2og
それからの時間は本当にあっという間で、碌に料理を楽しめないまま、二人きりの飲み会は終わった。


心臓はずっと逸りっぱなしだった。居酒屋を出て歩いている今も、外気と切り離されたかのように燃え続けている。


「…………」


静かな灰雪が地面を濡らしている。明日は路面が凍っているかもしれない。ぐずぐずのアスファルトは、いやに歩きづらさを覚えた。


僕のほんの少し先を志乃さんが歩いている。表情を見られたくないみたいに俯いて。いつもと違って揃わない僕らの歩調が、もどかしくもあり、救いでもあった。


「…………っ」


声をかけようとして、胸を詰まらせる。呻き声みたいな言葉未満の音は、雪にすっかり吸い込まれて消えた。

35: 2019/12/25(水) 03:40:37 ID:.tzay2og
……きっとこのままぎこちなく帰宅しても、明日以降何も支障はない。二人ともとっくに大人で、社会人だ。ほんの少しわだかまりを残しながらも、仕事が始まればまたいつも通り歯車が噛み合い始める事だろう。『アイドル』と、その『プロデューサー』として。


でも今日この時が……僕らの関係性を変えるチャンスなんだとしたら。自分にも見えないように押し込めていた淡い期待が、実る時だとしたら。


「――志乃さん」


沈黙を破ったのは僕だった。


「なあに?」


志乃さんが足を止める。追いついて、横並びになる。


「……恨み言かしら? 何とでも言ってちょうだいな」


僕が口を開く前に、志乃さんは下を向いたまま笑った。顔が見えないからこそ、その悲しげな自嘲に心が痛んだ。

36: 2019/12/25(水) 03:41:57 ID:.tzay2og
「……いえ。嫌では、なかったですから」


「そう?」


感情の薄い返答。彼女が何を、どんな言葉を求めているのかわからなくて、また何も言えなくなってしまう。考えあぐねて指先を揉みほぐすと、じわりと痺れる感覚があった。


「あら……あそこ。猫がいたわね」


そのとき徐に、消えそうな儚い声で志乃さんが呟いた。その視線は、真っ暗な路地の向こうに向けられている。


僕の目では動くものは何も見えない。仮に猫がいたとしても、この暗さで果たして見つけられるだろうか?


「どこですか?」


「あっちよ」


志乃さんの足が路地に向かう。街灯の届かない暗闇へ。光と影の境界線へと志乃さんの足が掛かった瞬間、何故か心臓が止まりそうになった。


「――志乃さん!」

37: 2019/12/25(水) 03:43:42 ID:.tzay2og
お酒と浮遊感に邪魔されて、覚束ない足取りで追いかける。水たまりを一つ踏み抜く。志乃さんの後ろ髪が路地裏に吸い込まれる。それを追って、僕も暗闇に飲まれた。


壁に手を突きながら、ヒールの足音を追う。街灯と影の境界線から五歩も歩かないうちに、彼女の足音は行き詰った。


「……志乃さん」


少しだけ目が慣れてきた。一メートル先で、輪郭のぼやけた志乃さんが立ち尽くしているのが見える。ビルの間に降るほんの僅かな雪が、ノイズのように視界でちらつく。


「……着いてきてくれるのね」


「心配ですから」


「そう、よね」


二つのビルに挟まれて、声が反響する。指先がまた痛いくらいに冷え始める。心臓は顔を熱くすることだけに専念していた。

38: 2019/12/25(水) 03:44:23 ID:.tzay2og
「プロデューサーさん、だものね」


足音が二歩分、僕に近づいた。


志乃さんの顔の形まで、くっきりと見えた。


「猫は、嘘よ」


目と鼻の先で、甘い香りがした。


氷のように冷え切った指が、するり、と僕の首を撫でた。


志乃さんはそのまま、僕の首の後ろに腕を回す。


僕より少しだけ低い位置にある、潤んだ瞳と目が合った。


零れそうな感情を湛えた視線は、まっすぐに僕へと向けられていて。

39: 2019/12/25(水) 03:45:20 ID:.tzay2og
求められている。


期待、されている。


……それに、応えたいと思った。


恐る恐る――宝石を扱うような慎重な手つきで、志乃さんの背中に手を回す。


するとそれが引き金になって、僕らはどちらともなく引き寄せられた。


ずっと見てきた、触れたいとすら思っていた志乃さんの唇に、僕の唇が触れていた。


視界の全部が志乃さんだった。


志乃さんの息遣いしか聞こえなかった。


十二月の静けさも、髪に降りかかる雪も、この一幕の口付けの前では何もかもが脇役で。


何もかも溶けてしまいそうな夢心地の中、口腔でふわりと舞う芳醇な香りだけが、僕の意識を現実に引き留めていた。

40: 2019/12/25(水) 03:47:39 ID:.tzay2og
「っ……」


僅かな残り香と共に、志乃さんが身を退く。身を裂くような風が路地を抜ける。志乃さんの髪が、顔を半分覆い隠した。


「ごめん、なさい……私っ……」


今まで聞いた事のない、今にも泣き出しそうな志乃さんの声。自分への失望と……僕に向けられた、期待と甘え。


路地の奥へと後ずさろうとする志乃さんの手を、掴んだ。そうしたかったから。


「――待って、ください」


志乃さんから貰った熱が僕を突き動かして、そのまま志乃さんを抱き寄せた。

41: 2019/12/25(水) 03:49:06 ID:.tzay2og
腕の中で、コートの下の細い身体が驚きに跳ねる。けれど離すつもりはなかった。


「志乃さんだって言っていたじゃないですか。僕からの期待は心地よいって……」


――僕だって、志乃さんになら見ていて欲しい。無責任でも、期待して、関心を寄せて貰いたい。期待されることを期待している。


そうやって、信頼が成立するのだと思う。自分に期待できなくても、お互いになら支えていける。僕と志乃さんなら、それが出来る、と思う。


「……このまま、しばらく居ても……いいですか」


離したくないし、離れて欲しくもなかった。志乃さんも震えていたから。


おそるおそる、といった感じで、志乃さんの手が僕の背に添えられる。


寒いのはみんな一緒だ。だけど、寒がっているところを見せるのを、他人への甘えだと思う人がいるのだ。今の……今までの、志乃さんのように。

42: 2019/12/25(水) 03:49:48 ID:.tzay2og
「っ……だめ、よ……」


志乃さんはそう言いながら、僕の背中に回した手に力を込めた。


「何が、ですか」


「期待、させないで……。私を弄んでるのかしら? 意地悪な人ね……」


「……好きな人を抱きしめるのは、意地悪な事ですか」


胸元で志乃さんが息を呑む。無音の後、しばらくして吐き出された吐息は、小さな震えを伴っていた。


「……本当? てっきり、私……今日は、フられるつもりで来たのよ」


「どうしてですか?」


「だって私、ダメな大人よ……頑張って隠してるけど、本当は大人の余裕なんて、全然ないわ」

43: 2019/12/25(水) 03:50:43 ID:.tzay2og
「……それでも、いいんです」


僕は今日、志乃さんの隠していた弱さを知って……志乃さんに、それでもいいんだと思ってもらいたかった。


僕に対してどれだけ無責任に甘えても、僕は志乃さんに失望したりしない。


「ダメな人を好きになっては、ダメなんですか?」


「……ええ。貴方も、アイドルの事を好きになっちゃう、ダメな大人だったわね」


ようやく志乃さんは笑ってくれた。きっと自分の中で何かが解けたのだろう、と思った。

44: 2019/12/25(水) 03:51:30 ID:.tzay2og
いつしか雪は止んでいた。その代わりに風が強くなって、路地の隙間を駆け抜けていく。僕らは震えながら、無言で身を寄せた。


分厚いコート越しでもお互いの体温が伝わる。二人分の安堵が溶け合って、心の奥まで絡まるような心地よさを感じた。


寒いからこそ一層愛おしく感じるものが、確かにここにあった。


こうして好きな人の温もりを、より深く知れるのなら。


凍えるような冬の夜も、案外悪くないなと思った。

45: 2019/12/25(水) 03:53:38 ID:.tzay2og


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……雪の降る日を何度か越えて、街中にサンタのイルミネーションが輝く夜。


その日のバーは、ひどく人が多かった。運よく空いた席を見つけて、二人で腰掛ける。


「……案の定、どこも混んでますね」


「仕方がないわ。そういう季節だもの」


毎年そうよ、と志乃さんは肩をすくめる。慣れた様子だけど、今まで何度肩身の狭い思いをしてきたのだろう。ただの個人的なお祝いをしたいだけなのに。


「わざわざお店を探さなくても、家でも良かったのに。こんな日くらい、私も片づけするわ」


「いえ、それは……」

46: 2019/12/25(水) 03:54:33 ID:.tzay2og
志乃さんの家。行ったことがないわけではない。けれど、こんな日に二人きりでお酒が入ると、何か……間違いを起こしそうで恐かった。志乃さんはそれでも構わないと思ってそうだけど、まだ、早いだろう。


「……特別な日にしたかったですから。プレゼントもありますよ。ちゃんと二つ」


「本当? 嬉しいわ、いっつも一纏めだったから」


「やっぱりそうだったんですか。なんというか……損した気分ですね」


「ふふ、今まではね。でも――」


志乃さんの目が輝いた。その視線は期待に満ちていて、それを受け止めた胸が充足感で震えた。


「今日は、Pさんが素敵な日にしてくれるのでしょう?」


「もちろんです」


その期待に応えるのが、僕の役目だからだ。


「お誕生日おめでとうございます。それと――」

47: 2019/12/25(水) 03:55:24 ID:.tzay2og



「「メリークリスマス」」

48: 2019/12/25(水) 03:55:58 ID:.tzay2og
終わりです。

引用元: 【モバマスSS】志乃「Pさん、本当はお酒苦手なんでしょう?」