1: ◆SHIBURINzgLf 2013/09/14(土) 23:56:31.69 ID:jhWkmBz3o
・独自の設定やご都合主義、地の文があるよ
・ちょびっとだけ本家クロスオーバーとか、やや複雑?なストーリーがあるよ

ゆっくり書きつつ投下していくので、ビールでも飲んでリラックスしながら読んでください
雑談歓迎。わいわいどうぞ

THE IDOLM@STER CINDERELLA MASTER 001 渋谷凛

2: 2013/09/14(土) 23:57:47.22 ID:jhWkmBz3o



PERSONAL DATA

渋谷凛 RIN SHIBUYA

AGE
 ――17 years old
BIRTHDAY
 ――10 Aug.
HEIGHT
 ――166cm
WEIGHT
 ――45kg
VITAL STATISTICS
 ――82-57-83


IDOL RANK
 ――B:super idol



3: 2013/09/14(土) 23:58:31.83 ID:jhWkmBz3o
――彼女は、落ち着いた美声と佇まいを持っていた。

――彼女は、類稀なる美貌とオーラを持っていた。

――彼女は、すらりと伸びた脚、絹のように輝く長い黒髪を持っていた。

――彼女は、女としての武器が特定部分に偏っていない、バランスの良いプロポーションを持っていた。

――彼女は、輝く世界に魔法をかける素質と、努力の才能を持っていた。


彼女は――まさにアイドルとなる運命を背負って生を授けられた人間のようだった。

4: 2013/09/15(日) 00:00:18.40 ID:dTdgwxAZo



・・・・・・・・・・・・


2013年 三月某日



 振り返らず前を向くよ――――

凛の目の前で蒼いサイリウムがたくさん揺れている。彼女の刻み付けるビートに乗って、規則的に、統率的に。


ラストのサビを歌い上げ、縦ノリの曲はアウトロへ。彼女の身体が一段と躍動し、最後の輝きを放つ。
Never say never、彼女のデビュー作は、アンコールとして応えた曲だった。

“諦めるなんて言わない”――最後の曲としてなんと相応しいことだろう。
シンセリードが入ってくれば、もうじき全てのプログラムは終わりだ。


5: 2013/09/15(日) 00:02:17.75 ID:dTdgwxAZo
曲がFadd9のオケヒで締められると同時に、その場を支配していた偶像は右に半身の構えでポーズを決め、
自身を照らす正面のスポットライトに向けて左手のマイクを突き出した。

地鳴りのように沸き上がる歓声。横浜アリーナを埋め尽くす観衆が、
ステージの上に立つ華奢な少女へ、最大の拍手を贈った。


 ――しーぶーりん!

 ――しーぶーりん!


偶像を呼ぶ声が聞こえる。

偶像を讃える声が聞こえる。

6: 2013/09/15(日) 00:03:44.57 ID:dTdgwxAZo
「みんな! 今日は私のためにありがとう!」

全身から汗が噴き出ていた。それこそが壮快だ。
額や頬をつたうもの、顎の先からしたたり落ちるもの。白い腕の表面へ珠のように浮かび、光を乱反射しているもの。
全て、彼女が放散させた意力の形態―カタチ―だから。

全身が悲鳴を上げていた。それさえも心地よい。
首筋を流れる汗に張り付いた髪、激しく上下する胸と肩。蒼いブーツに隠されたところで、密かに痙攣する脚。
全て、彼女が全力で駆け抜けた証左―アカシ―だから。


凛が発する、有らむ限りの感謝を示した叫びに、観客はより一層の歓声を返した。
その喝采に見送られながら、彼女は少しだけ名残惜しそうに舞台の上手へと下がっていった。

7: 2013/09/15(日) 00:05:46.82 ID:dTdgwxAZo


・・・・・・・・・・・・


「よぉし、よし! 凛、最高だったぞ!」

無事役目を勤め上げ、
上手袖へ戻ってきた少女を一番最初に迎えたのは、他でもない凛の担当プロデューサー、Pだった。

ガッツポーズをした腕をぶんぶんと上下させ、まるで我がことのように喜ぶその姿を見て、凛は苦笑した。
「プロデューサー、はしゃぎすぎだよ」

しかしPは意に介さない。
「二人三脚でやってきたアイドルがソロで横浜アリーナ3DAYSを埋めて成功させたんだぞ、嬉しくないわけがないだろう」


そう、今をときめくアイドル業界、破竹の勢いで進撃する渋谷凛の横浜アリーナ単独ライブ、今日はその千秋楽。

デビューから僅か二年しか経っていない若偶像が、三日間で延べ四万人を動員したこの公演は
大成功と云って差し支えなかった。

8: 2013/09/15(日) 00:07:23.71 ID:dTdgwxAZo
「特にお前は事務所が初めて抱えた……いや、俺が初めて担当したアイドルだからな、感慨もひとしおだ」

Pは黒いレース手套がはめられた凛の手を取って、同じく上下に振る。
激しいダンスで上気した彼女の頬が、さらに赤くなるように見えた。

「ちょ、ちょっとプロデューサー、終わったばかりなんだから落ち着かせてってば」

「あ、すまんすまん。つい、な」

「んもう、どっちが保護者なんだかわからないじゃない」

軽く非難するように見えて、しかし満更でもなさそうな言い種ではあった。

「はは、面目ない。ほら、タオルとOS-1だ」

水色のクロスと経口補水液を寄越しながら破顔するPにつられて、凛も笑顔になる。
ほっと、安堵の色も混じっているように見え、そこにはクールなBランクアイドルの面影はなく、あるのは年相応の少女のあどけない顔。

9: 2013/09/15(日) 00:08:51.33 ID:dTdgwxAZo
Pは額の辺りの汗を拭っている彼女に訊ねた。

「凛、今日のステージから見た客席はどうだった?」

「うん、今日は特に一体感があったと思う。みんなどうやったらそこまで揃うの? っていうくらいサイリウムの動きも相の手も同じだったし」

「まったくだ、俺もアイドルファンの人たちの団結力には目を見張るものがあるよ」

「ふふっ、そうだね。……ねえ、プロデューサー、この三日間、お客さんみんな楽しんでくれたかな?」

タオルで今度は首の周りを拭きながら、凛は視線だけPに向けて訊ねた。

「そりゃあお前、今も止まないあの歓声を聞けば答えは火を見るより明らかだろ?」

そう言いながらPは袖から観客席の方に親指を向ける。
凛が退場してからというもの、会場の熱気は鎮まることがなかった。


 ――しぶりーん! ブヒブヒィイイイィィイ!!

 ――凛ちゃああああん! サイッコオオオオオオ!!


センター席では熱心なファンが、公式ライブタオルを振り回しながら凛に声援を送り続けている。

10: 2013/09/15(日) 00:09:45.15 ID:dTdgwxAZo
彼女はそれを裏からちらりと眺めながら、
あ、あれはローンソで限定販売された私のタオルホルダーじゃん
などと細かいところに気付く。


それは、終わった・成功した実感が湧いてきたこと、
心に多少の余裕が生まれたことの顕れであろう。

私はやり切ったんだ。胸の辺りから、ゆっくりと、しかし確実に、達成感が全身へと拡がっていく。
知らず知らずのうちに、笑みが零れていくのを禁じ得ない。


Pの方を振り返った彼女の顔は、晴れ晴れとしたスマイルに満ち溢れていた。

「さ、控室へ戻ろうか」
そう促され、凛はPの横に並んで、控室に続く廊下へと消えていった。

18: 2013/09/16(月) 03:31:03.73 ID:Csght9Kio


・・・・・・・・・・・・


「お~しぶりん! さっすが、最高だったよぉ~♪」

「凛ちゃん! よかったよー! 私、もう感動しちゃった!」

控室へ戻ると、同じ事務所のアイドル仲間、本田未央と島村卯月が凛を出迎えた。
二人は興奮冷めやらぬ様子で、

「凛ちゃん、こんな大きな会場を埋め尽くすなんて本当にすごいよ!」

「ホントホント! 横アリのキャパでも、三日分を一瞬で完売にしちゃうんだもんね~。
 この三人の中では、しぶりんがずっと先に走って行っちゃって、
 同世代の置いてかれる側としては淋しいですなぁ、しまむーさんよ」

目を輝かせる卯月と、大袈裟に肩を落とす未央。
勿論、未央の仕草はあくまでも冗談なのだが、

「わ、私は未央のことも卯月のことも置いていく気はないよ、ね?」

凛は二人の手をはっしと掴み、それぞれの目を真っ直ぐと見て言った。

「あっはっは、マジメだねぇ~しぶりん。冗談だよ冗談♪ わかってるくせに~」

そう言って未央は空いている方の手で凛の肩を叩きながら笑う。卯月も柔和な笑みを浮かべている。
そもそもこの三人は同期。今更気兼ねなど必要ない間柄なのだ。

19: 2013/09/16(月) 03:31:49.47 ID:Csght9Kio
「そりゃわかってるけどさ……。でも、私だけじゃここまで到底来られなかったよ」

「おっ、しぶりんの恒例、Pさんへのオノロケが早速くるか~?」

「ちょ、ちょっと未央、そんなんじゃないってば!」

「凛ちゃん、もっと素直になってもいいんだよ?」

「ちょっと! 卯月まで~~! もう……」

凛は形のよい眉を少しだけ上げた。しかしそれはすぐに戻り、二人の手を改めて取り直す。

20: 2013/09/16(月) 03:32:27.82 ID:Csght9Kio
「……二人のおかげ、なんだよ? 切磋琢磨してゆける環境に私を置いてくれた。二人がいなければ、私もここにいない」

「しぶりん……」
「凛ちゃん……」

凛は眼を閉じて、ゆっくりと、反芻するように言葉を続けた。

「きっと私は、巡り合わせが多少良かっただけ。未央も、卯月も、すぐ、この会場を溢れさせるくらいになる。私はそう確信してる」

二人とも、凛がユニットを組んでいる相手だ。

そのユニット『ニュージェネレーション』は、名の通り“新世代”アイドルトリオとして活躍している、CGプロ事務所のパイオニア。

勿論、それぞれがソロとしても活動していることは云うまでもない。

ただし単独で横浜アリーナ3DAYS公演をこなせるのは、現時点のCGプロ所属アイドルでは凛のみであった。

凛の言葉のように、未央や卯月がこの箱を埋められるようになるのはそう遠くないのだが、それはまた別の話――――

21: 2013/09/16(月) 03:33:06.31 ID:Csght9Kio
言い終えて眼を開けた凛は、照れ隠しなのか、不自然にハキハキとした言い回しで言葉を遺す。

「じゃあ私はシャワー浴びてくる。二人の相手はプロデューサー、よろしくね」

そして彼女は、Pの返答も待たずシャワー室へと小走りで向かっていった。
おそらくその顔は、朱が差しているに違いない。

22: 2013/09/16(月) 03:33:59.69 ID:Csght9Kio

「……しぶりん、ずっと先を走ってるけど、常にニュージェネのことも考えてくれてるんだよね」

「そうだね未央ちゃん。凛ちゃんはいつもニュージェネレーション……ううん、それだけじゃない、事務所の後輩たちのことを考えてる。すごいよね」

凛の背中に目をやりながら、二人はぽつりと、そう漏らした。

卯月は、あはは、と苦笑いしながら付け足す。

「本来なら私がリーダーとして頑張らないといけないんだけど、凛ちゃんに引っ張ってもらって、ラクしちゃってるかもなぁ」

一般論として、ユニットの中で誰かが一つ頭抜ければ、大抵は嫉妬の嵐が襲うものだが、
この三人にはそういった兆候は全く見られなかった。

麗しき女同士の友情――いや、その程度の言葉では生温いかもしれない。

彼女たちは、芸能界と云う戦場で命を預け合った戦友同士なのだ。

23: 2013/09/16(月) 03:34:38.77 ID:Csght9Kio
Pは、そんな彼女たちの絆を、一種の羨望を以て眺めていた。

「凛の言う通り、あいつが成長できたのは君たちのおかげだ。三人を組ませて正解だったよ」

そう声をかけると二人は、意外、という顔をしながらPを振り返った。

「でも、凛ちゃんの原動力の一番はPプロデューサーさんでしょう?」
「だよねー、しぶりんってPさんが絡む事案だと瞬発力すごいもん」

……女の子はよく見ている。

プロデューサーという立場の人間からすれば、その言葉を首肯するわけにはいかないのだが。

「まあ百歩譲って仮にそうだとしてもだ、一人で背負うにしては重すぎるものをあいつは担ごうとしている。
 なのに何故潰れないかと云えば、それは卯月ちゃん、未央ちゃん、君たちがさりげなくサポートしてくれているからだよ」

女の子がこちらをよく見ているのと同様、プロデューサーも彼女たちのことをよく見ているつもりだ。

二人は、Pのその言葉に、僅かだがピクッと反応した。バレてたか、と眼が語っている。

24: 2013/09/16(月) 03:35:17.09 ID:Csght9Kio
アイドルたちを輝かせるために、芸能界の裏の黒い部分はPたちスタッフが受け持つ。

その点ではアイドルたちは気兼ねなく活動できるのだが、芸能界と云うのは、光り輝く白い部分だけでも、相当な重圧があるものだ。

凛のBランクの現状ですらこうなのだから、世の中のAランクアイドルたちはどんな世界を見、どんな重さに耐えているのだろう。

「これからは、凛だけでなく、卯月ちゃんと未央ちゃんにも、輝く重圧がかかってくると思う。
 そのときは、きっと、三人で助け合って歩んでくれよ」

Pの言外に、“より一層覚悟しろ”と感じるものがあったのだろう、彼女らは力強く頷いた。

「島村卯月、もっと頑張らなきゃ!」
「不肖、本田未央も頑張りますぞぉ~♪」

強い意思の込められた笑顔。
さすがアイドル、こういう顔が“様”になる。

25: 2013/09/16(月) 03:36:08.06 ID:Csght9Kio

ニュージェネレーションの二人に気合が充填されたところで、
ノックの音と共に迎えの馬車――と形容するには些かむさ苦しいが――がやってきた。

「それじゃあアタシらももっと仕事を獲ってこんとねェ、鏷プロデューサーさん」
「まったくだ、Pにばかり美味しい思いをさせてたまるかよな、銅プロデューサーさん」

それぞれ、卯月を担当する、矢鱈とムチムチでガタイのよい『銅―あかがね―プロデューサー』と
未央を担当する、黒スーツにスキンヘッドにサングラスという出で立ちの『鏷―あらがね―プロデューサー』だ。

このタイミングの良さ……扉の外で待ち構えてやがったな。Pは内心で苦笑いした。

26: 2013/09/16(月) 03:37:04.06 ID:Csght9Kio
CGプロの企画制作部には三つの部署があり、

クールを担当する第一課、
キュートを担当する第二課、
パッションを担当する第三課――

となっている。Pを含めたこの三人はそれぞれの部署のプロデューサーというわけだ。

27: 2013/09/16(月) 03:37:45.13 ID:Csght9Kio

「お姫様がた、お迎えの馬車ですよ」

肩を竦めながらPが卯月と未央に促すと、

「どっちかっていうと“ソッチ系”のシークレットサービスみたいだけどね~♪」

未央が、けたけたと笑いながら担当、鏷の許へ歩んでいった。

鏷は、未央に彼女の鞄を渡しながら言ってくる。

「見てたよ、P。凛ちゃんサイッコーだったな。あそこまで一体感を覚えるライブはなかなかない」

彼にしては珍しい、手放しの賞賛だった。

「そりゃそうだ、俺の秘密兵器だからな」

Pが腕を組んで応えると、鏷も未央の肩を抱き寄せながら

「秘密兵器っぷりで言ったらウチの未央も負けてねーけどな」

と、ニカッと笑って言った。その隣では未央が顔を赤くしてもじもじしていた。

……わかりやすい、とPは思った。

28: 2013/09/16(月) 03:38:26.68 ID:Csght9Kio
他方、銅はマイペースに手帖を捲りながら卯月の身支度を整えている。

「ほい卯月、そろそろスタジオに向かう時間だ。行くよ」

「はい! 卯月、今日の収録も頑張ります!」

「んじゃアタシらは先に出てるわ、Pはこのあと直帰か?」

銅がドアノブに手をかけながら問う。

「いや、ボックス席へ社長の様子を見に行ってから事務所に戻るよ」

29: 2013/09/16(月) 03:39:03.62 ID:Csght9Kio
今回のライブは半ば社運を賭けたものだった。この規模を開催するのは初めての経験だったのである。
来賓も多いし、当然、社長は顔を出してきている。

総指揮者としてPは挨拶へ行かねばなるまい。事務所での残務処理もある。

銅、鏷両プロデューサーは、その答えに頷きながら出て行った。

去り際、卯月と未央が手を振ってきたので右手を軽く挙げて返す。


――パタン。

ドアの静かに閉まる音と同時に、静寂が訪れた。
空調の微かな音だけが耳に届いてくる。
今回のライブ光景を反芻したいところだが、まだやることは山積だ。

Pは凛に書き置きを残してから控室を出た。

30: 2013/09/16(月) 03:40:03.30 ID:Csght9Kio


・・・・・・・・・・・・


「いやぁ~P君、今日のライブはよかったよォ~! ティンときた!」

ボックス席につながる通路へ通りかかると、社長と来賓が退場してくるところに出くわした。

そしてPの存在を認めるや否や、真っ黒いシルエットの人物が笑いながら握手をしてくる。

765プロの高木社長だ。
所属アイドルの全員がAランクと云う化け物じみた事務所。

特に、天海春香、如月千早、星井美希と云った面々は、
テレビを点ければどんな時間でもどこかしらの局に映っていると言っても過言ではないほどである。

それをたった二人のプロデューサーで廻していると云うのだから恐れ入る話だ。

31: 2013/09/16(月) 03:40:38.79 ID:Csght9Kio
Pも一人で同じくらいのアイドルを抱えてはいるが、それはFからBまでまちまちだ。
十人以上がAランクの職場の多忙さを想像すると、他人事ながら、それだけで頭が痛くなった。

「君のところの社長に是非ともP君と渋谷君を欲しいと常々言っているんだがねェ~~!」

リップサービスなのか本気なのかよくわからないテンションで、高木は言う。

その後ろでは、うちの社長が顔を引きつらせていた。

「ははは……光栄です」

こめかみに一筋の汗を垂らしながらPは高木へと頭を下げた。

32: 2013/09/16(月) 03:41:51.63 ID:Csght9Kio
「フンッ! その程度で浮かれていては近いうちに足元を掬われるぞ」

高圧的な声が、さらに後ろの方から聞こえてきた。

高木と同じく真っ黒いシルエットの人物、業界最大手の961プロ、黒井社長だ。

まさか961プロの社長が、新興事務所であるCGプロのライブの招待に応じるとは、
開催直前に知らされたときのPは腰が抜けそうになったものだ。

どうも、うちの社長はかつてプロデューサー時代、
黒井と高木――当時は共にプロデューサーであったが――と懇意にしていたらしい。

「君ィ、確かにイイ線は行っているかも知れんね。だがまだまだケツの青さが抜けとらんな」

34: 2013/09/16(月) 03:42:27.87 ID:Csght9Kio
黒井は自らの額をとんとんと叩きながら続ける。

「彼女の素材としてのポテンシャルは評価しよう。
 だが961プロではあんなものは候補生クラス。貴様の魅せ方もまだまだなっとらん。
 まあ、我、が、社、で、徹底的に鍛え上げればジュピターにも比肩しうる存在になるかもしれんがね!
 ハァーハッハッハッ!」

端から見れば散々な言い草だったが――
961のジュピターは765のナムコエンジェルと並び、男性アイドルのトップに君臨しているグループだ。

これは黒井なりに、発破をかけてくれているのだろう。

黒井は765プロに対しては悪辣な部分もあるが、
本心ではアイドル業界全体の底上げを願っていると聞いたことがある。

「……ご指導ご鞭撻、宜しくお願い申し上げます」

Pは、深く頭を下げた。

35: 2013/09/16(月) 03:43:14.08 ID:Csght9Kio


・・・・・・・・・・・・


凛はひとり、シャワー室で汗を流していた。

ぬるめの湯が、艶やかな髪から、ふくよかな双丘、そして白い大腿と、火照った全身を撫でてゆく。

耳に入るのは、優しい水音のみ。
しかし彼女の頭の中には、ステージ去り際の歓声が、ずっと、こだましていた。


これまで、同じようなキャパシティの会場で演ったことは何度もある。

しかし、三日間ぶっ通しで行なうと云うのは初めての経験であった。

36: 2013/09/16(月) 03:43:47.92 ID:Csght9Kio
観客動員数のプレッシャーもさることながら、
数日に渡ってライブパフォーマンスをするのは、体力を保てるのか不安に思ってもいた。

でも、プロデューサーは、お前なら出来る、と常に支えてくれた。

あの人がそう言ってくれると、

いつの間にか自分もやれる気になってしまっている。

不思議なものだ。

「プロデューサー、私、あなたの期待に応えられたかな……」

37: 2013/09/16(月) 03:44:22.51 ID:Csght9Kio

私は、偶像。

あの人が“渋谷凛”を形作り、

私は“渋谷凛”という存在を表現し、

観客はそんな私に熱狂する。


存在を表現すると云うのは、実に――楽しい。


眼を瞑ると、たくさんのファンが応援してくれた、先ほどの光景が浮かぶ。

揺れるサイリウム、飛び交う声援、観客と共に踊る振り付け。

数万もの人が、一点に、私に、視線を送る。

ああ……いまでもゾクゾクするよ。

38: 2013/09/16(月) 03:44:59.01 ID:Csght9Kio

人間には誰しも、自己顕示欲と云うものがある。

ねえ、もっと私を見て?

ねえ、もっと私を聞いて?

ねえ、もっと私を――感じて?

この快感、クセになる。


……でも、ヒトが見る私は、渋谷凛というアイドル。

ただの、偶像。

ただの、容れ物。

さて、それは本当の私?

39: 2013/09/16(月) 03:45:27.48 ID:Csght9Kio

ただの容れ物だとはいえ、大勢が見てくれるのは嬉しいこと。

頑張れば頑張るだけ、ニュージェネレーションの露出も増えるし、未央たちの手助けにもなる。


だけど、いつも偶像を演じていると、時には疲れてしまう。

偶像を解き放ちたい、そう思う刻が、確かにある。

そんな刻、決まってあの人は支えてくれる。

そんな刻、あの人がとても頼もしく見える。

40: 2013/09/16(月) 03:46:15.08 ID:Csght9Kio

勿論、あの人はプロデューサーで、私はアイドル。

この仄かな憧れを、これ以上昇華させるわけにはいかない。

でも……そっと、心の中に持つことくらいなら、赦されてもいいでしょう?

アイドルである以上、結ばれることはない。

しかし、アイドルになったからこそ、あの人と出会えたのだ。


そう、それでいい。
今は――それでいい。


41: 2013/09/16(月) 03:46:46.34 ID:Csght9Kio
凛はこれまでに何度も繰り返してきた自問と自答を終えると、ふぅ、と軽く一息吐き、シャワーを止めた。

あまり長居をしてはいけない。撤収の準備は間もなく始まる。

彼女は手早く身なりを整え、シャワー室を後にした。

42: 2013/09/16(月) 03:47:13.14 ID:Csght9Kio


・・・・・・・・・・・・


控室でPの書き置きを読んだ凛は、Pを捜して裏廊下を歩いていた。

階段を上がると、遠くに人影、そして微かにあの人の話し声が聞こえる。

彼は、あそこにいるのだろう。そう思って少し歩を早めると、

――あんなものは候補生クラス。
 貴様の魅せ方もまだまだなっとらん――

Pとは違う声。
声自体は爽やかなタイプなのに、その声が紡ぐ爽やかではない言葉が聞こえてしまった。

この特徴的な声、どこかで……

43: 2013/09/16(月) 03:47:55.79 ID:Csght9Kio
……ああ、業界最大手の961プロ、その社長じゃない。

凛は立ち止まって、唇を噛んだ。

この世界では批判や誹謗など日常茶飯事。
それでも自分の耳ではっきり聞くと、心にぐさりと来るものがあった。

ゴシップ記事のようなただの文字情報と、実際に人から発せられる生の声では、全然違うのだ。

特に業界の大物の発言とあらば、一笑に付すことはできない。

それに、自分のことよりも、プロデューサーを悪く言われたのが、想像以上にショックだった。

プロデューサーはとても頑張ってくれているのに。

44: 2013/09/16(月) 03:48:29.98 ID:Csght9Kio
……いや、ショックを受けている暇などない。これを成長の糧としなければならないのだ。

961ほどの大手からすれば、まだまだ私はひよっこ。

凛は自分にそう言い聞かせ、彼ら来賓の前で偶像を演じるため、さらに歩を進めた。

45: 2013/09/16(月) 03:49:11.51 ID:Csght9Kio


・・・・・・


Pと共に控室へ戻った凛は、心なしか不機嫌のように見えた。

ついさっき、来賓に挨拶を済ませたときとはだいぶ違う。

――皆様、この度は私のコンサートにご足労くださいまして、ありがとうございました――

――若輩者にも拘わらず、おかげさまで公演は無事成功裡に終えることが出来ました。皆様のご支援に深く感謝申し上げます――

澄ました笑顔でこんなことを言っていたのに。
もし控室へ戻ってくるこの数分の間で機嫌を悪くしたのでなければ、猫かぶりが巧いものだ。

Pはそんなことを思いながら彼女に尋ねた。

「どうした? 機嫌が悪そうじゃないか」

「うん、ちょっとね」

凛は椅子の上で、器用に体育座りをしながら視線を動かしている。

46: 2013/09/16(月) 03:49:50.51 ID:Csght9Kio
「俺が何かヘマやらかしたか? 気を損ねたなら謝るが」

「ううん、違うよ。そうじゃない」

その言葉とは裏腹に、唇はへの字に曲がっていた。

出会った頃のようで懐かしいな……
Pはそんなことを思いながら、入口近くに立ったまま腕を組んで、次の言葉を待った。

凛は意を決したように口を開く。

「……何て言うのかな……さっきさ、黒井社長の話が聞こえちゃって」

Pは、あぁ……あれか、と小さく漏らしてから凛に訊ねた。

「……こき下ろされてムカついたか?」

「むかついた、って言うよりは……」

凛は体育座りをしたまま床に視線を落とす。

47: 2013/09/16(月) 03:50:19.99 ID:Csght9Kio
しばらくの後、Pの方に顔を向けて続けた。

「……私がどうこう云われるのは構わないよ。自分自身まだまだだって自覚しているし。
 ……でも、プロデューサーのことを悪く云われたのが……悔しくて……」

凛は拳をぐっと握ってから立ち上がって、Pの許へと近づく。

「ごめんね、私が未熟なせいで……プロデューサーの腕を悪く言われちゃって」

そう、ぽつりと、呟いた。

そんな凛の肩に、Pは優しく手を乗せて、微笑んだ。

「凛、少し誤解している節がありそうだ」

「誤解……って?」

凛は訝りながら、Pの顔を仰ぎ見た。

「俺は、あれは黒井社長なりの発破だと思ってる」

「……あんな意地悪な言い方なのに?」

48: 2013/09/16(月) 03:51:01.64 ID:Csght9Kio
「そう。黒井社長もああ見えて根は悪い人じゃないよ。
 むしろ誰よりもアイドル業界のことを考えてるからこそ、厳しい言葉を浴びせるのさ」

凛は目を閉じて、Pの言葉を消化する。

「アイドル業界に……誰よりも……本気……」

「黒井社長にああ言われるということは、逆に俺たちは期待されていると捉えることもできるのさ」

「期待……されてる……」

凛はゆっくり目を開けて、微かに笑った。
業界最大手の社長に期待されている――そう聞いて何も思わないほど感情の乏しい凛ではない。

「つまり、立ち止まっている暇はないってことだね」

「そうさ、トップアイドルになるまでな」

トップアイドル――その言葉を出した刹那、凛の瞳孔の奥に力が宿る。

「プロデューサー、私、全力で、駆け抜けてみせるから」

Pはその碧い瞳に、吸い込まれていきそうな感触を覚えた。



 ――これからも隣で私のこと、見ててね――

53: 2013/09/16(月) 12:12:53.15 ID:Csght9Kio
あーかーんー 表現ドン重なりしとるやないけー やっぱ眠い中書くのはあかんー
>>46 は以下に差し替えて読んでください
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「俺が何かヘマやらかしたか? 気を損ねたなら謝るが」

「ううん、違うよ。そうじゃない」

その言葉とは裏腹に、唇はへの字に曲がっていた。

出会った頃のようで懐かしいな……
Pはおよそ二年前の凛に思いを馳せ、入口近くに立ったまま腕を組んで、次の言葉を待った。

彼女は意を決したように口を開く。

「……何て言うのかな……さっきさ、黒井社長の話が聞こえちゃって」

Pは、あぁ……あれか、と小さく漏らしてから凛に訊ねた。

「……こき下ろされてムカついたか?」

「むかついた、って言うよりは……」

凛は体育座りをしたまま床に視線を落とす。

55: 2013/09/16(月) 21:17:54.04 ID:Csght9Kio


・・・・・・・・・・・・


四月、新学期の季節。

横浜アリーナでのコンサートを無事終えた凛は、音楽雑誌の事後インタビューなど残務を終えて久々の休みを貰っていた。

たったの数日のみではあるが、年明けからずっとライブの準備に勤しんでいたから……およそ三箇月振りか。

高校三年生になった凛は、だからといって劇的に何かが変わるわけでもない日常を過ごしている。

普通の学生生活に於ける新年度特有のクラス替えは、
凛の通っている、芸能科のクラスがひとつしかない学校には、およそ関係のない出来事であったし、
強いて挙げるとすれば、先輩がいなくなって、自分たちが最高学年になったと云うくらいのものであった。

それでも、大きな規模の興行をこなした直後だけあって、先日昼休みに校庭のテラスで昼食をしていたときは、
ライブを見に来ていた同級生や後輩からもてはやされ、多少こそばゆい思いをした。

56: 2013/09/16(月) 21:21:45.71 ID:Csght9Kio

一般的には、高三ともなると、否が応でも進路のことを考えなければならない時期だ。

当然今は、このままアイドルでトップを目指すというのが目標。それはデビュー以来変わっていない。

でも……
ふと、二年前を思い返して、もし自分がアイドルになっていなかったら、と〈IF〉に思い巡らす。

ふつーに通学路を歩いて、
ふつーにJK生活を満喫して、
ふつーに憂鬱な考査を消化して、
ふつーに部活とかやって、
ふつーに街で遊んで、
ふつーに受験勉強して。

……たぶん、実家の手伝いに活かせるよう、一橋大の商学部あたりを目指していたんじゃないかな。

57: 2013/09/16(月) 21:28:57.89 ID:Csght9Kio
そんな他愛もない、パラレルワールドの自分を想像して、凛は惜春に少しだけ胸が締め付けられる感覚を持った。

私に、普通の青春時代は存在しない。

その代わり、私には、アイドルとしての眩い青春時代が存在する。

どちらの方がいいとか、どちらの方が優れているとか、そんなのを云うつもりはないけれど。

私が味わったことのない、普通の青春時代を過ごしている人を、ふと、羨ましく思うときがある。

勿論、そんな“普通”を過ごしている人は、アイドル生活を羨望したり夢想したりするのだろう。

本当に、人間って、ないものねだりをする生き物だ。

58: 2013/09/16(月) 21:32:21.84 ID:Csght9Kio

…………なぜこのような一種哲学的なことを考えているのか。

凛の待ち人がこないからであった。

現在、日曜日の昼前。
オフが重なった未央と渋谷へ遊びにいこうと云う話に、先日なったのだが。

――寝坊でもしたのかな。

駅に着いた時点で一度電話を入れた際は、呼び出し音が十回ほど鳴った後、留守電に切り替わってしまった。

電車に乗っていて取れないのかと判断し、メールを入れておいたものの……

ハチ公前の『アオガエル』に寄り掛かりながら左手首を見ると、既に約束の時刻から15分が過ぎている。

59: 2013/09/16(月) 21:37:19.62 ID:Csght9Kio

これ以上ここにいるのは好ましくないな――

凛は時計の長針を見ながら、心の中で呟いた。

一応、変装はしている。

髪をアップに結ったり、アイドル仲間の上条春菜からもらった伊達眼鏡をかけたり、瀬名詩織に薦められた帽子を被ったり。

ただ流石にこの場に留まったままでは、見破られるのも時間の問題だろう。

大抵の人は、街の雑踏の中で“まさに今”、“まさにすぐそこ”に、芸能人がいるとは思わないもの。

一瞬気付かれそうになっても「まさか、ね」で終わってしまう。

だから多少の街歩き程度なら、そこまで神経質になる必要はない。

しかし、待ち合わせなど、動かず一箇所に留まっていると、気付かれる可能性は飛躍的に高まる。

そしてそのとき独り、かつ何もしていない状態でいると、十中八九、声を掛けられる。

現に、ハチ公像の隣に立っている中高生らしき女の子が、ちらちらとこっちを窺っている様子だ。

……場所を移さないと。

そう判断した瞬間、凛のiPhoneに着信があった。

未央からだ。ひとまず歩きながら話そう。

60: 2013/09/16(月) 21:40:39.99 ID:Csght9Kio
「――もしもし未央? どうしたの、もう15分待ってるよ。寝坊?」

『ごめーんしぶりん! 寝坊もそうなんだけど、いま鏷プロデューサーからの電話で起こされて、緊急の仕事が入っちゃった!』

「うわ、急なヘルプか」

『うん、第三課―パッション―で他に空いてる子がいないらしくて、今からブーブーエスに行かなきゃ~~あわわ』

「まあ、それじゃ仕方ないね。けど……起き抜けでしょ? そんな状態で局行って大丈夫なの?」

『鏷プロデューサーが車を廻してくれるから、その中で何とかするよ~~うわうわメイクどうしよー』

目が蚊取線香のように渦巻いて、デフォルメされた汗が飛んでいる光景が容易に想像できそうな雰囲気だ。
声の向こうからは、バタバタと駆け回る足音が聞こえてくる。

「それじゃこっちのことは気にしないで、準備と仕事に専念して」

『ありがとーしぶりん、ごめんね、この埋め合わせは今度するからぁー!』

そう言い残して電話は切れた。

61: 2013/09/16(月) 21:43:43.57 ID:Csght9Kio
急遽仕事がブッキングされることはままあるし、自分もよくそれで友達に迷惑をかけている。

だから今回の未央のドタキャンについて怒ることはない。
寝坊も……まあ一つの可能性として頭の片隅にはあったので、これもあまり気にしない。

未央らしいといえばらしいし、ね。


……さて、どうしよう。

オフの日に出かけるときは、たいてい誰かしらと一緒だった。
独り街中へ出るのは久しぶりだから、調子が少し狂う。

アイドル一人でぶらぶら、っていうのは避けるべきだし……
今日は帰った方がいいかな。

62: 2013/09/16(月) 21:47:41.31 ID:Csght9Kio
――でもせっかく渋谷へ来たんだし、楽器屋でベースの新しい弦を買いたいな。

 デビューシングルを出した際、ベースに興味が湧いた私を見て、プロデューサーがコンコードと云うベースを譲ってくれた。

 第三課の木村夏樹にその話をしたら目を丸くしていたっけ。

 ロックに詳しい彼女曰く「かなりイイモノ」だそうなので、大切に使っている。

 今では、そこそこ上達したと思う。夏樹とセッションすることもあるよ。


――あーあとマルキューを覗いたり、アップルストアにも行きたいな……

 うーん、マルキューあたりは独りで行くと万一バレたときに少し面倒かも……


そんなことを考えながら、楽器屋のある西口の方へ向かおうと、井の頭線下の横断歩道に差し掛かったとき。

青信号を渡ってきた女性が、凛の目の前で「どんがらがっしゃーん!」と派手に転んだ。

つまづくようなものは何一つないのに見事な転倒っぷりで、身につけていたハンチング帽と黒縁眼鏡が、凛の足元へ飛んでくる。

63: 2013/09/16(月) 21:49:30.66 ID:Csght9Kio

「……大丈夫ですか?」

凛はそれらを拾うと、転けた人を覗き込んで尋ねた。

その人は、いたた……また転んじゃった……今日二回目だよ……、とつぶやきながら立ち上がり、凛の差し出したものを受け取る。

「すみません、ありがとうございます」

その人が顔を挙げた瞬間、凛の片眉がぴくっと上がった。

業界人は勿論のこと、一般の人間でも知らぬ者はいないであろう人物だったからだ。

「天海……春香さん?」

今をときめく24歳のAランクアイドルその人は、あちゃーという顔を見せた。

64: 2013/09/16(月) 21:51:37.54 ID:Csght9Kio


・・・・・・・・・・・・


「これからは転んでも解けないような変装が必要ですね……」

春香はソイラテを一口飲んでから、たはは……と苦笑した。

ここは桜丘にあるカフェ。

近傍には大学やオフィスビルがあるため、渋谷駅から玉川通りを一本隔てただけなのに、静かで落ち着ける場所となっている。

さきほど転倒した際の衝撃で彼女の眼鏡が曲がってしまったので、凛は伊達眼鏡を貸すと申し出た。

凛は髪型を変えて帽子も被っているから、眼鏡を外しても、“まだ”、なんとかなる。

そうしたら、もののついでと云うことでお茶に誘われたのだ。

65: 2013/09/16(月) 21:54:25.20 ID:Csght9Kio
凛は茉莉花茶で喉を濡らしてから問う。

「あの……天海さんほどの人が、どこの馬の骨だか知れない人間とお茶しちゃって大丈夫なんですか?」

それを聞いた春香は目尻を下げながら、

「そりゃあ、一般の方と二人きりでお茶するのは避けますけど、同業の方なら特に問題ありませんし」

「えっ?」

凛は素っ頓狂な声を上げた。
その様子を見た春香は、不思議そうな顔をしながら「あなた、渋谷凛さんでしょう?」と笑った。

まさか。

まさか八年もの間Aランクを独走している天海春香が、新興の私を知っているなんて。

66: 2013/09/16(月) 21:57:34.49 ID:Csght9Kio
「そんな驚かないでくださいよ。CGプロさんの方々はそれなりに存じてますから」

「そうだったんですか……」

「……さすがに全員は無理ですけど」

「……私でも把握し切れていませんのでそれは仕方ないと思います」

凛は瞼を閉じ、こめかみを抑えながら正直に言った。

春香は口元に手を当ててくつくつと笑っている。

「でもまさかトップアイドルたる天海さんが私なんかのことをご存知なんて、とにかくびっくりで……」

「そんなに謙遜なさらないで。渋谷さんはいま最も勢いあるアイドルとして有名なんですから」

「きょ、恐縮です……」

凛は顔を少し赤らめて、寄り目のようにして手許のカップへとフォーカスを落とした。

67: 2013/09/16(月) 21:59:12.03 ID:Csght9Kio
「あと、私のことは天海じゃなくて春香、って呼んでください」

「えっ、そ、それは」

動揺して反射的に視線を上げた凛に、春香はウインクして「その方が慣れてますから」と人差し指を立てながら言った。

「……わかりました、春香さん。私のことも凛と呼んでください」

そして、カップを口元へ近づけながら、春香の様子を窺うように言葉を付け足す。

「あと……こそばゆいので、可能でしたら普通に話して頂ければ……」

「おっけー。それじゃ凛ちゃんで! ふ~、他所往きの言葉は疲れちゃうから助かったよー」

春香は安堵の表情でそう漏らした。

それは、生っすか!?サンデーでよく見る、自然体の彼女であった。

68: 2013/09/16(月) 22:03:28.55 ID:Csght9Kio
「でもごめんね、わざわざ眼鏡を貸してもらっちゃって。
 私、眼鏡かけないとすぐバレちゃうから、転んで眼鏡が壊れたとき正直ちょっと焦ったんだ」

春香は、凛が貸した眼鏡の縁を、くいくいと動かしながら感謝した。

「早いうちに今度そちらの事務所まで返しに往くね」

凛はあわてて両手を振りながら答えた。

「あ、いえいえお構いなく。見ての通り伊達ですし、それにうちにはメガキch……」

コホン、と一度咳払いし、

「眼鏡をたくさん抱えている、妙に詳しい者がおりますので」

「あはは、面白い子がいるんだね」

「ズレにくかったり、壊れにくかったり、変装用眼鏡の選ぶコツを訊いておきますね」

「あ、それ助かるー。私さっきみたいに転んでばかりだから、眼鏡すぐ取れちゃうんだ」

私の変装には眼鏡が必須なのにねと言葉を付け足し、春香は首をやや傾げながら右手で自らの後頭部を叩いた。

69: 2013/09/16(月) 22:05:54.94 ID:Csght9Kio
「私は髪型を変えて帽子を被れば眼鏡がなくてもまだなんとかなりますけど、
 春香さんくらいの髪の長さだと中々そういうわけにはいきませんよね」

「そうなんだよー。
 うーやっぱり髪の長い子って、それだけでも判別要素になるよね。
 千早ちゃんや美希も髪をアップにすると雰囲気だいぶ変わるしー……」

ソファの背もたれに体重を預けながら春香は独り言つ。

その言葉で、凛はふと気付いた。

「逆に言えば……春香さんは今の私を見て、よく渋谷凛だとすぐにわかりましたね?」

さっき一般の人とは喫茶しないと云っていた。
つまり凛をお茶に誘った時点で春香は気付いていたはずだ。

70: 2013/09/16(月) 22:08:36.45 ID:Csght9Kio
「あーそれは、プロデューサーさん、
 ……あ、うちの赤羽根プロデューサーね――が凛ちゃんのバレンタインのSRを持ってるところを見たからだね」

「えっ、あれって市井には出ていないはずじゃ……」

予期せぬ返答に、凛は軽く狼狽えた。
あのカードは、事務一帯を取り持つ千川ちひろが、内部向けの特典として用意したものだったからだ。

「ああうん、一般には出回ってないけど、業界の人間なら、ね。
 あれには765―うち―からも何人か参加しているし」

そういえばそうだった。
当時、CGプロの企画に765プロが乗ったと話題になっていたっけ。

「特にバレンタインの凛ちゃんSRは、プロデューサー職の人はこぞって狙ってたみたい。氏屍累々だったんだよ?」

赤羽根さん、一箇月もやし生活だったしねー、と、しれっと恐ろしいことを春香は言った。

自分の影響力って、予想以上に拡がっているのかも知れない……
凛は茉莉花の香りを鼻にくすぐらせながら思った。

71: 2013/09/16(月) 22:11:41.99 ID:Csght9Kio

その後、他愛のない話を色々お喋りして、短針がそろそろ真上を向こうかという頃。

二人のカップはほぼ同時に空となり、お茶会はこれにてお開き。

早朝に収録のあった春香は、これから二時間かけて帰るそうだ。

売れっ子になってもそれは変えてないと言う。

そのガッツに凛は舌を巻いた。

凛の実家は東京西部にある花屋。毎日通えない距離ではない。

しかし、――人が殺到して商売にならなくなるのを避けようとした意図があるとはいえ――
凛自身は、笹塚にある、通学・通勤に便利なCGプロの第一女子寮へ入っている。

春香のような始発列車での長時間通勤は、到底真似できないものであった。

72: 2013/09/16(月) 22:14:09.80 ID:Csght9Kio

二人、ピークを過ぎた桜の花弁が舞う坂道を、駅へと向かって下りていく。

「今日は楽しかった。他の事務所の子とお話しする機会って中々ないからさ」

「はい、私も先輩にたくさん伺えて楽しかったです」

先輩と云う言葉がくすぐったかったのか、春香は少し照れた風を見せた。

「凛ちゃんさえよければ、また、お茶しようね」

「はい、喜んで」

「あっそうだ忘れてた! 凛ちゃんアドレス交換しよう!」

両手をぱん、と拍手―たた―いてから出された春香の提案。それは凛にとって願ってもないことだった。

「ありがとうございます。是非、お願いします」

よもや天海春香とホットラインを築けるとは、連絡先を交換するのにこれほどドキドキすることが、かつてあっただろうか。

73: 2013/09/16(月) 22:17:03.15 ID:Csght9Kio
染井吉野の樹の下、二人はiPhone同士をbumpすると――

harukakka@i.hardhage.jp

「春……閣下……?」

「そうそう、ファンの人たちからそういうネタがあるって教わってね、面白いからアドレスにしちゃった」

『てへぺろ』と云う形容がよく似合う仕草で春香は語る。

なんと貪欲な取り入れ方。

こう云う姿勢が私にも必要なのだろうか……考え込みながら歩いていると、玉川通りにすぐ着いてしまった。

春香は駅へ、凛は近くにあるベース専門店へ。通りを渡る歩道橋のたもとで二人は別れる。

「いつでも気軽に連絡してね、それじゃ!」

74: 2013/09/16(月) 22:20:01.71 ID:Csght9Kio
春香は、頭を軽く下げて見送る凛にひらひらと手を振りながら、雑踏へ紛れていった。

その後ろ姿を眺める。

テレビの中とまったく変わらない天海春香。

その裏表のなさが、彼女をトップアイドルたらしめているのかも知れない。

アイドル天海春香としての味――

凛は、ヒントを垣間見た気がした。

しかし……それをただトレースすればよいのかと云われれば、答は違うだろう。

「私自身の味って……なんだろう……」

この二年間、プロデューサーに導かれるまま我武者羅に走ってきて、考えもしなかったこと。

凛の心の中に、未知の謎が芽生えようとしていた。

76: 2013/09/16(月) 22:24:28.53 ID:Csght9Kio


・・・・・・・・・・・・


「おはようございまーす」

フロストガラスの扉を開けながら挨拶をすると、ちょうど千川ちひろがコピー用紙を持って通り掛かるところだった。

「あらおはよう、凛ちゃん。今日はオフのはずじゃなかった?」

「うん、そうなんだけど足が自然とこっちに向いちゃって……」

あの後、別れた場所すぐそばの店でベースの弦を買ったものの、手持ち無沙汰になってしまって、
結局、通い慣れた事務所へとやってきたのだ。

「あらあら。ワーカホリックなプロデューサーさんが伝染ったかしら」

そう笑いながら、ちひろはコピー機へと歩いていった。

「プロデューサーさんは休憩室にいるわ」

「あ、ありがとう、ちひろさん」

凛が訊いてもいないのに、ちひろは背中越しにPの居場所を宣った。

なんだかまるで私がプロデューサーへ逢いに来たみたいじゃない。

凛はつんつんと心の中で微かな抵抗をしたが、

「……あながち外れてはいないけれど」

その抵抗はあっさり霧散した。

77: 2013/09/16(月) 22:28:43.79 ID:Csght9Kio
休憩室に入ると、果たしてPはそこにいた。

入口に背を向け、アコースティックギターを抱えてTommy EmmanuelのLuttrellを爪弾きながら。

斜向かいでは、凛と同じ第一課―クール―に所属する高峯のあが、
それを聴きつつ何故か科学雑誌――それもアンドロイド特集――のページを捲っている。

ふと凛の存在を認めたのあだったが、凛が片目を閉じて唇の前に人差し指を立てたので、そのまま雑誌に目を通し続けてくれた。

心なしか、普段感情を表に出さない、下を向いた彼女の口角が上がっているように見える。

「また新曲に詰まったの、プロデューサー?」

凛が気配を出さないようにして後ろから声をかけると、当のギター奏者は驚きのあまり座ったままの体勢で飛び上がった。

「うおっ!? ……凛か、おはよう。びっくりさせるなよ」

心臓に手を当てながらPは声の主を振り返る。

「おはよ。ギターに没頭しすぎて勝手に驚いただけでしょ」

くすっと多少意地悪く笑いながら、凛はPを回り込んで対面のカウチにすとんと腰を下ろした。

78: 2013/09/16(月) 22:32:09.96 ID:Csght9Kio
「今度のお前の新曲をどんな方向にしようか考えていたんだけどな、今日はあまり“降りて”こないから気分転換していたのさ」

Pはプロデューサーという立場上、売り出し方、音楽の方向性、予算・進行管理、つまり凛の全てを管轄する。

――いや、凛だけでなくクールアイドルの全てと云うべきか。

CGプロの他課のプロデューサー、銅や鏷と違い、Pは音のラフスケッチを描いてそれを作曲家/編曲家に渡すことが多い。

低予算の場合は、昔取った何とやら、と云いつつ自ら曲を書いてしまうこともある。

だからインスピレーションが湧かないときは、こうやって適当に楽器を鳴らしているのだ。

それはギターだったりベースだったり、はたまたウーリーであったりドラムであったり。

そうすると、不意にアイデアやフレーズが浮かんでくるのだそうだ。
結構よくあることなのだとか。

凛がベースに興味を持ったのも、そんなPを間近で見ていたからであった。

第三課の夏樹が度々「うちの鏷プロデューサーと交換してくれよ」とからかうように言ってくる。

あながち冗談に聞こえないから性質が悪い。

79: 2013/09/16(月) 22:34:09.64 ID:Csght9Kio

そこへ安部菜々がひょっこりと顔を出した。第二課―キュート―に所属しているアイドル。

……の大御所。

その昭和生まれは、私服の凛を見て、至極真っ当な疑問をぶつけてきた。

「あれー? 凛ちゃん、今日はお休みじゃありませんでしたっけ? なんで事務所へ?」

「あー、うん。プロデューサーに逢いたくなったから」

彼女の問いに凛が真顔で回答すると、当のPは「???」と心底不思議そうな目をしてきた。

ま、思った通りの反応だけどね。

菜々は口を大きく開けて「キャハっ! ダイタンですね凛ちゃん!」と笑みを浮かべているのに。

曲がりなりにもアイドルにあんなこと言われたんなら、もう少し照れたり喜んだりしてくれてもいいと思うんだけどな。

……まあ菜々ほどの反応はしなくてもいいけど。

80: 2013/09/16(月) 22:36:54.41 ID:Csght9Kio
「冗談だよ。今日は未央と渋谷を街ブラする予定だったんだけど、あの子、急に仕事入っちゃったからさ」

帽子を脱いで、アップにした髪を解きながら答えると、その黒い絹糸の上を、照明の白い反射光が流れていった。

Pは合点がいったようで、「そういえば鏷がだいぶ焦ってたな朝」と
スケジュールの書かれた電子黒板を横目に見ながら言った。

「そうね……他所の部署とはいえ……少々心配になるくらいだったわ」

のあも頷く。

「そんなに大変だったんだ? 結局あれ以降、未央から連絡ないし、大丈夫だったのかな……」

「まあ連絡がないってことは大丈夫なんだろうよ、きっと」

確かに、問題があれば何らかの報せがきているはず。
それがないなら、順調と云うことだ。

81: 2013/09/16(月) 22:39:32.65 ID:Csght9Kio
凛は話を続けた。

「それで、ベース弦を手に入れたらやることがなくなったから来ちゃった」

「ん、弦? あのコンコードの? どれにしたんだ?」

凛は楽器屋の黒い袋から、買ったばかりのブラックナイロン弦を取り出してPに渡した。

「お、LA BELLA 760Nじゃないか。凛もこれにしたのか」

「うん、こないだプロデューサーが渋くて好きって言ってたでしょ。だから試してみようと思って」

Pが以前、編曲家とオールドスクールな出音が気に入っていると云う話をしていた際、その言葉を凛は憶えていたのだ。

この弦でスラップすると、アタック音が独特の触感になって心地よいのだとか。

「まだ三連プルさえ巧くいかないひよっこだけどね」

最近までツーフィンガーしかやっておらず、スラップを始めて間もない雛鳥な私。

だけど、新しい音の世界を見るのは楽しみだ。

凛がそう言って目を輝かせるとPも笑みを浮かべた。

82: 2013/09/16(月) 22:41:29.70 ID:Csght9Kio
「凛はリズム感がいいからスラップはすぐに上達するさ」

「音感じゃなくてリズム感? 確かにテンポを保つのは重要だけどリズム感ってそんなに関係なくない?」

顎に人差し指を添えながら首を傾げると、Pはチッチッと手を振った。

「大アリさ。スラップベースは打楽器ともいえるからな」

打音の強弱リズムのつけ方ひとつ取っても、奏者によるセンスがモロに出る。

その点、ダンスのセンスとリズム感に定評ある凛なら飲み込みは早いだろう、とPは力説した。

「ふーん、まあ今度個人レッスンでもしてよ、プロデューサー」

凛は前屈みになり、Pを下から覗き込むようにして云った。

「時間が合えば、な」

83: 2013/09/16(月) 22:43:40.45 ID:Csght9Kio
Pがすっくと立ち上がり、ギターをスタンドに戻しつつ答えると、それまで寡黙であったのあが口を開いた。

「Pの……“個人授業(My Tutor)”……? 羨ましいわね……」

「おいのあ、言葉に何やら厭らしいニュアンスを感じるんだが」

「ふふ……Pは……厭らしいと感じたのね……? 一体何にかしら……」

言葉だけ聞けばPをからかっているようにしか思えないが、当ののあは科学雑誌から一時も目を離さずに話している。

「のあさんいつも通りだね」

凛が半ば呆れるように言っても、のあは動じない。

「さぁ……私の言葉に意味があるか、それとも気まぐれなのか……其処に意味を見出すのはP、貴方次第よ」

84: 2013/09/16(月) 22:45:16.98 ID:Csght9Kio
「善処するよ」

Pは観念したかのように両手を軽く挙げて、降参のポーズを取った。

そのまま凛へ向き直り、弦の入ったパッケージを顔の横でひらひらと振った。

「ま、こいつなら、ジャズ、RnB、ソウル、フュージョンによく合う……
 渋さはピカイチだが、その良さが判るには、凛はまだ少し早いかもしれんな」

少しだけ苦笑気味にそう漏らす。

「むっ、ちょっと、私を子供扱いする気?」

凛が口を尖らせると、Pは「滅相もございません」と首を振った。

絶対子供扱いだよね、それ。

85: 2013/09/16(月) 22:46:40.89 ID:Csght9Kio
「まあいづれにしろ、感触がスチールとは少し違うから最初は戸惑うかもしれん。
 わからなかったら訊きにくればいい」

言葉の後半でPは表情を緩め、凛に弦を返した。

――おちゃらけた雰囲気からの、この包容力ある笑み。
ほら、プロデューサー、そういうのが女の子キラーなんだよ?

「……うん、ありがと」

凛は弦の入った袋で口元を軽く覆い、心の中の言葉は噯にも出さず、感謝のみ述べた。

86: 2013/09/16(月) 22:48:22.61 ID:Csght9Kio
そこへ菜々が、ぬっと顔を突き出して問う。

「凛ちゃんがベース弾くのは知ってましたけど、フュージョンやるんですか?」

「え、ううん、別にフュージョンって決まってるわけじゃない……けれど……」

「フュージョン演りませんか!?」

菜々の目はどこか憧れに光っているようにみえる。

「え、ま、まあ……シンデレラガールズのみんなでバンドみたいなことをやってみたい……とは思うけど……」

それを聞いたPは「シンデレラガールズバンドか……アリだな……」と考え込み始めた。

いつでもどこでもそのモードに入るんだから……と凛が思っていると、菜々が鼻息粗く迫ってきた。

87: 2013/09/16(月) 22:49:52.98 ID:Csght9Kio
「やりましょう、カシオペアやりましょう! ナナ頑張ってキーボード覚えますから――
 ギターは夏樹ちゃんや李衣菜ちゃん呼んで、ドラムは……伊吹ちゃんあたり出来そうだから引っ張ってきて、カシオペアイドル演りましょう!
 ナナ、ずーっと司会屋実ポジションやってみたかったんです!」

菜々のあまりの勢いに凛は思わずたじろぐ。

「な、菜々……カシオペアって……なに? 星座のこと……じゃないんだよね?」

「凛ちゃん! 知らないんですか! カシオペアを! 知らないんですか!!」

菜々はその甲高い声で詰め寄った。

菜々の目は憧れに光っているのではなかった。猛禽類のそれなのだということに凛は気づいてしまった。

「80年代に一世を風靡したフュージョンバンドですよ! 野呂一生のチョッパーギター! 櫻井哲夫のグルーブ満ち溢れるベース!
 司会屋もとい向谷実のKX88から紡がれるコードの魔術! 神保彰のド安定なリズム隊と華麗なタムさばき……!
 当時ナナがどハマリするくらい凄かったんですから!」

「と、当時ハマッた……?」

凛は半歩ほど後退って冷や汗を垂らしながら思わず言葉を漏らした。

88: 2013/09/16(月) 22:51:06.69 ID:Csght9Kio
すると血気で紅かった菜々の顔は瞬時に青くなり、「と、ととと当時のビデオを見たんです!」と弁明したが、

「だからってなんでそんな詳しいメンバー構成や向谷実の通り名まで知ってるんですかねぇ菜々さん」

Pがやれやれといった様相で菜々に問い掛ける。

「な、なんで他の子は呼び捨てやちゃん付けなのにナナにはさん付けのうえ敬語で話すんですかPプロデューサー!!
 85年伝説の国技館ライブをベータにダビングしてテープが擦り切れるほど見たからですよ!」

「あ、その映像俺も欲しいですね」

その言葉に菜々は笑みを輝かせたが、そこへPは間髪入れずに突っ込んだ。

「でも菜々さん、今や一般家庭でテープデッキがあるかどうかすら怪しいというのにベータってのは――ちょっと」

「ハッ! ウ、ウ、ウサミン星ではベータがVHSに勝ったので現役なんです! キャハっ!」

「うわぁ……」

Pはさすがに目尻の痙攣を抑えきれなかった。
銅はどうやってこれを捌いているのか心底不思議になる。

89: 2013/09/16(月) 22:52:14.68 ID:Csght9Kio
その様子を見ていた凛は、Pが引くなんてよっぽどなんだろうなと諦観した。

相変わらず科学雑誌へ目を落としているのあに、声を小さく抑えて訊ねる。

「ねぇ、のあさん、ベータ……ってなに?」

「たしか……昔の……ビデオテープの規格ね……」

「ビデオテープって、一種類だけじゃなかったんだ……」

ぽつりと呟くと、のあはその独言を拾って話を続ける。

「そうね、今で云うSDカードとメモリースティックの違い……
 みたいなものかしら……私も詳しくは……知らないのだけど」

90: 2013/09/16(月) 22:53:13.62 ID:Csght9Kio
凛は少し考え込んだのち、眉をひそめて再度問う。

「……のあさんですら、知らないものなの?」

ついにのあは雑誌から目を離して凛の方を向いた。

「流石に……私もバブルは未経験よ?」

そういえばそうだった。

妙に落ち着いた趣を持っているとはいえ、のあは丁度バブル経済が崩壊し始めた時期に産まれたはずだった。

――しかしどうしてか凛がそのことを信じられないのは、どこか心の奥底で、のあが実は人間じゃないのでは、と思っているからなのかもしれない。

91: 2013/09/16(月) 22:54:15.74 ID:Csght9Kio

なにやらベースの話題から始まったドタバタに小さな溜め息を吐くことしばし。

奇妙なやり取りをする間に弦をバッグの中へしまっていた凛は、立ち上がってPの横までいくと、彼の左肘を引き寄せた。

「まあガールズバンドのことはひとまず置いとこうよ。これ以上菜々……さんに突っ込みを入れても仕方ないし」

「凛ちゃんもしれっと非道いこと言いますね!?」

凛は菜々のささやかな異議申し立てを華麗にやり過ごして、Pの肘をさらに引っ張る。

「ねえプロデューサー、お昼まだでしょ? 私おなか空いちゃった。ご飯どこか連れてって」

「ん? なんだ凛お前まだ食ってないの? ……じゃあそこらへんのイタ飯にでも往くか。
 のあや菜々……さんはどうする?」

92: 2013/09/16(月) 22:55:15.10 ID:Csght9Kio
「ちょっと、P……こう云う刻にそんな野暮なことを訊くものかしら? ねぇ……菜々“さん”?」

のあは意味深な視線を菜々へ向けた。そんなのあに、菜々は脂汗を流しながら同調する。

「あ、あはは……そうですね、ナナはお腹空いてませんから、凛ちゃんと二人で食べてくればいいと思いますよ~……」

「? そうか。じゃあ出るか、凛」

「うん、いこ、プロデューサー」

帽子を頭に載せ、心なしか凛の声は弾んでいる。その片手はPの腕を掴んだままだ。

そして、パタンと扉が閉まる音と共に訪れる静寂。

休憩室には、必要以上に疲れた様子の菜々と、無表情で雑誌を読み進めるのあが残されたのだった。

94: 2013/09/16(月) 23:21:11.70 ID:Csght9Kio


・・・・・・・・・・・・


首都高一ノ橋ジャンクション周辺の喧噪から少し離れた半商半住なエリア。

CGプロ事務所のある麻布十番は、六本木や東京タワーが近いのに、一本路地を入れば意外と庶民的な街だ。

しかしここは美食の都東京。親しみやすい住宅地の中にも、グルメなお店は多い。

Pと凛は、元麻布との境にある、お洒落なイタ飯屋に来ていた。
――いや、然るべくイタリアンレストランと云うべきだろう。

「ちょ……ちょっとプロデューサー……ここ、だいぶ高そうなお店だよ?」

エレベーターを降りた直後からとても落ち着いた雰囲気を纏わせるエントランスに、凛は少し後込む。

絢爛な自己主張はしないが格調高い調度品。
決して広くはないが席と空間にゆとりある店内。

一目見ただけで「高級だ」とわかるレストラン――

95: 2013/09/16(月) 23:23:10.56 ID:Csght9Kio
凛はもう売れっ子と表現して差し支えないレベルのアイドルだが、
それでもディナータイムにドレスコードが設定されそうな店へ入る経験はそう多くない。

それもそうだ。
ほんの少し前まで、彼女はただ普通の女子高生だったのだから、当たり前と云える。

「別に問題ないさ。今日のお前は洒落た服装をしてるし、充分に綺麗すぎるくらいだ」

Pは軽くそんなことを言ってのけるが、いきなりこのような場所に連れてこられては、凛の心の準備ができていないのも仕方あるまい。

しかも、いつもの制服ではなく私服姿を綺麗と褒められたものだから、期せずして頬も染まってしまう。

凛は、それを悟られないように少しだけ下を向いた。

意識しないでこう云う言葉がぽんぽん出てくるんだから、この人は本当に天然ジゴロ。

私の心をこんなに掻き乱してどうするのだ。

軽い気持ちで昼食をねだったつもりだったのに。

そんな愛憎の念が複雑に入り交じった視線を、横目で隣の人物に流した。

96: 2013/09/16(月) 23:25:20.87 ID:Csght9Kio
それに気付いたのか気付いていないのか、凛を向いてPが説く。

「まあそれに、こういう場所なら変装しなくても入れるし、レンズに狙われることもない」

確かにそれは頷ける。
もはや今となっては、帽子を被るだけの変装と呼べない変装でファミレスやファストフード店へ行っては、混乱が起きてしまう。

以前、卯月が本郷にある第二女子寮近くのCMOSバーガーまで、変装せずひょっこりと行ったら、大変な騒ぎになったそうだ。

 ――案の定、銅プロデューサーにこってり絞られたらしい。


それでも最近は、十番周辺の人々はCGに所属するアイドルたちを見ても、日常の一部のように捉えてくれることが多くなった。

ありがたいことだ。

地域の人の理解と支えがあって初めて、アイドルは支障なく活動できるのかも知れない。

97: 2013/09/16(月) 23:27:18.10 ID:Csght9Kio
凛がそんなことを走馬灯のように思っていると、一番奥の席へ通された。

メニューの上には、到底ランチとは思えない値段のコースがずらりと並んでいて、一瞥しただけで軽く目眩を覚える。

「ねえ、プロデューサー……桁が違うよ?」

「いいんだよ気にするな。
 こないだのコンサートの成功祝いを個人的にやってあげられてなかったからな。
 好きなのを頼め」

「ん……
 なら、いいんだけど……」

そう言いながら唇に人差し指の腹を当てて、少し考え込んだ。

Pは続ける。

「それに、お前みたいな売れっ子は変に遠慮なんかしなくていい、もっと堂々としていろ」

勿論、無遠慮はだめだが、遠慮しすぎるのも駄目だ、と付け加えて、泰然自若な笑みを向けた。

凛はそれにつられて微笑み、ありがと、と述べてから、じゃあ、と二番目に高いコースに決めた。

98: 2013/09/16(月) 23:28:18.61 ID:Csght9Kio
「ん? 一番高い、メインディッシュありのやつじゃなくていいのか?」

「昼時からそんなに食べられないって。このコースのアマトリチャーナがいいな」

「そうか、じゃあ俺はアンチョビにしようかな」

そう云ってPはオーダーを済ませた。

99: 2013/09/16(月) 23:29:03.15 ID:Csght9Kio

「横浜アリーナ公演成功を祝して――」

食前に供されたサンベネデット・フリザンテのグラスを、二人は乾杯、と言いながら掲げた。

乾杯とはいえ、これはスパークリングウォーター。

Pはこんな昼間からアルコールを呑むわけにいかないし、凛はそもそも未成年だ。

だから、ノンアルコールで控えめに。

それでも凛にとっては充分な杯だった。

100: 2013/09/16(月) 23:30:27.51 ID:Csght9Kio
「あ、この発泡水おいしい……」

「これはベネチアのものらしいな。イタリア料理にはイタリアの水、ってことかね」

グラスもベネチアンガラスのようである。凛は水の都に思いを馳せた。

「ベネチアか……北イタリアだっけ」

生まれてこの方、海外へはあまり行ったことがない。

経験があるのは、せいぜい中学の頃に家族と旅行したサンフランシスコやバンクーバー、上海、長安くらいなもの。

欧州は未知の場所であった。

101: 2013/09/16(月) 23:31:23.44 ID:Csght9Kio
「……いつか行けるといいな」

「凛ならそう遠くないうちに行けるんじゃないか? 世界ツアーも夢想話ではないと、俺は半ば本気で思ってる」

グラス側面の装飾を眺めていたPは、凛に視線を向けた。

「ふふっ、プロデューサーにそう言われると、出来るような気がしてくるのが不思議だね」

「お前なら出来るさ」

あまりにも自信たっぷりに言うので、まるでこの人は未来からやって来たんじゃないかと思うときがある。

「でもまずそのためには、この日本でトップアイドルにならないとね?」

挑発的な笑みを浮かべると、Pは一瞬、虚を衝かれたような顔をして、すぐに破顔した。

「そうだな、まずはそこからだ」

改めての船出を確認し合う二人、それを見計らったかのように、前菜が運ばれてきた。

102: 2013/09/16(月) 23:32:38.36 ID:Csght9Kio

「トップアイドルといえばさ――今日、渋谷で天海春香さんと一緒になったんだけど」

前菜のカルパッチョを軽くつまみながら、凛はPに昼前のことを報告した。

「へぇ、天海さんと、か。お前、オフで彼女と絡みなんてあったっけ?」

Pはサラダを口の前にまで持ってきていた手を止めて、目を少し大きく丸くした。

「ううん、会ったのは偶然だったんだ。で、そのとき色々あって、アドレスを交換したの」

「そりゃまた、たまげたなあ。あんな先輩とお近づきになれるとは中々できないぞ」

「やっぱそうだよね……だいぶ強運だと自分でも思うよ。……っていう、一応報告まで」

「ほいよ、了解」

この業界に限らず、仕事に関係しそうなことはどんな些細なものでも報連相が最低限の務め。

特に相手が大物である以上、凛は自分だけで内々にしておくのは好ましくないと考えたのだ。

103: 2013/09/16(月) 23:33:49.50 ID:Csght9Kio
「それで、メールとか……してもいいかな?」

「ん? ああ、まあこちらで特に制限するつもりはないが」

「そっか。一応、他の事務所の人だし……訊いておかないとと思って」

「あーそりゃ、勿論、仕事の守秘義務に関連する話は駄目だけどな、凛はそんなこと云うまでもなく判ってるだろ?」

それはPが、基本的に凛を信用しているというのが伝わってくる言葉だった。

「うん、それはさすがに、ね」

「女の子同士だし、弁えて交友するなら特に問題ないさ。向こうの赤羽根さんにも話を通しておくよ」

末端のアイドル同士だけではなく、事務所や担当プロデューサー間で意識を共有する。

こうすれば、トラブルは起き難い。

104: 2013/09/16(月) 23:34:51.03 ID:Csght9Kio
「うん、ありがと、プロデューサー」

凛は、心置きなく春香と親交を深められそうだと、内心ホッとした。

実際のところ、事務所をまたいだ交流は規制されるかもしれないと思っていたからだ。

「お前の眼が生き生きしてて、俺も嬉しいよ」

「え、どういうこと?」

「この業界で初めて背中を見せてくれる人が現れた、そのことを喜んでるように見えるのさ」

Pはフォークを一度置いて、人差し指を上へ向けた。

「ほら、お前はうちの事務所じゃ一番の古株で、『頼れる先輩』って身近にいなかっただろ?」

「そう……だね」

105: 2013/09/16(月) 23:35:48.21 ID:Csght9Kio
確かに、アイドルデビューしてからこれまでずっと、凛がそのポジションだった。

現在、CGプロにいる者は、同期の卯月と未央を除いて全て後輩。

この世界は、歳上だろうが歳下だろうが関係なく、芸能歴が全て。
28歳の三船美優や、27歳の高垣楓すら、凛にとっては後輩なのだ。

凛自身はあまり上下関係を気にしない性格ではあったが、全員が後進である以上、CGプロの中で、凛が誰かを頼ることなどなかった。

むしろ、CGプロ全てを代表するリーダー格として、誰かに縋ることが出来ない空気すらあったと云えるだろう。

強いて挙げれば、卯月と未央とでサポートし合うことはあった。

しかしそれはあくまでも戦友同士の助け合いであって、誰かの腕に身体を預けるわけではない。

勿論プロデューサーを頼ることはあったが、それは指導をする者と受ける者としての関係であった。

106: 2013/09/16(月) 23:36:34.90 ID:Csght9Kio
「俺もそのことは認識していてな……。年端もいかない高校生の両肩にかかる重責を、
 満足に消化させられないままでいる今の状況は……どうにかしないとと思っていたんだ」

Pは少し肩の力を抜くようにして訥々と語る。

「だから、天海さんと交流を持つことで、何らかのヒントを吸収できたり安らいだりできるなら、
 これは凛の成長のためにもいいきっかけだと思う」

勿論お前の力を信用していないわけじゃないぞ、とPは付け加えた。

「先頭を走る人間には、それ特有の悩みってのが出てくるものだ。
 なのに、その弱さを誰にも見せられないのは、酷なこと」

「酷な、こと……」

「そうだ。
 お前にはその酷を押し付けたまま、二年も放置してきてしまった」

107: 2013/09/16(月) 23:38:02.92 ID:Csght9Kio
Pは両手をテーブルに置いて、少しだけ頭を下げた。

「凛のその強さに、俺が寄り掛かってしまっていたんだろうな。それは否めないし、済まなかったと思う」

何の気なしに、今日起きたことを報告しただけだったのが、いつの間にか話のスケールが大きく、
プロデューサーが詫び言を述べる状況になっていて、凛は少しだけ気後れした。

「そ、そんな……謝らないでよ。私はプロデューサーがいたから、ここまでやってこられたんだよ」

108: 2013/09/16(月) 23:40:54.28 ID:Csght9Kio


「プロデューサーがいなければ、私は世界の輝きを知らなかった」


「プロデューサーのおかげで、今の私があるの」


「プロデューサーとなら、どこまでも行ける」


そう、貴方となら。

初めてアイドルの世界に足を踏み入れてから今まで昇ってきた階段を思い出す。

「私、確かに全て自分で背負い込むことが多かったかもしれない。
 もしそれで心配をかけていたなら、辛いときは辛いって言うようにするよ」

109: 2013/09/16(月) 23:41:48.27 ID:Csght9Kio
テーブルに置かれたPの左手に、凛はそっと右手を重ねた。

同時に、少し頬を染める。

「いつも、ありがとう。
 私、愛想ないから……あんまり伝わらないかもしれないけど……プロデューサーには、感謝してるよ」

どうしたんだろう。

今日の私、随分と饒舌だ。

凛は、自らの“らしくなさ”に戸惑いながらも、Pへのお礼を口にした。

これまでの、上っ面だけの「ありがとう」ではなく、

本心からの“謝辞”として。

110: 2013/09/16(月) 23:43:03.44 ID:Csght9Kio

――

Pは内心、鼓動の高鳴りに焦っていた。

凛はこんなにも色香のある微笑みをかつて見せただろうか。

出会った当初はあまり信用のなさそうな視線を不躾にぶつけてくる女の子だったのに。

年頃の娘は化けると良く云うが、凛の進歩は全く理解の範疇を超えていた。

事実、Pの予想以上のスピードでBランクまで登り詰め、もはやAランクも秒読みという段階だ。

ダンスやビジュアルに比べ出遅れていたボーカル力も、最近はめきめきと上達している。

勿論、天性の才能もあるのだろうし、真面目にレッスンに取り組んでいた成果もあるだろう。

111: 2013/09/16(月) 23:43:55.25 ID:Csght9Kio
しかし、それにしてもこの成長速度は。

――凛ちゃんの原動力の一番はPプロデューサーさんでしょう?
――しぶりんってPさんが絡む事案だと瞬発力すごいもん

……いや、気のせいだ。

……気のせいでなければならない。

真実はどうあれ、少なくとも、気のせいと云うことにしておかねば。

112: 2013/09/16(月) 23:44:51.79 ID:Csght9Kio

ことり。
一瞬の思考へ耽っている間に、二人の前には、メインとなるパスタが用意された。

このタイミングで料理が出て来たのは僥倖であった。

これ以上考えていたら、後戻りが許されない領域に足を踏み入れそうだったからだ。

切り替えるように、努めて明るく声を出す。

「お、うまそうだな。頂こうか」

「……うん、そうだね」

そうしてしばし、二人は特別な昼食を楽しんだ。

113: 2013/09/16(月) 23:46:02.00 ID:Csght9Kio

――

店を出ると雨が降っていた。

事務所を発った時はそんな兆候はなかったのに。まさか春に村雨とは。

強くもないが弱くもない。雨宿りするか強行突破するか。

Pはビルの出入口で少し空を眺めてから、凛の方を向いた。

「……事務所まで近いし、さっと走っちまうか」

凛も空を軽く見上げる。

「そうだね、なんだかすぐには止みそうにないし……」

114: 2013/09/16(月) 23:47:30.71 ID:Csght9Kio
その返答を聞くや否や、Pは矢庭に背広の上着を脱いで、凛の頭の上に被せた。

「ちょっ、プロデューサー?」

「濡れるから合羽の代わりにしろ。俺の上着ですまんがな」

「いや、それは別に構わないんだけど、プロデューサーこそびしょびしょになっちゃうよ?」

「俺はいいんだよ」

アイドルを濡らす方が大問題だ、と言いながらPは走り出した。

115: 2013/09/16(月) 23:48:22.33 ID:Csght9Kio
「ちょ、ちょっと待ってよ」

慌てて追いかけようとする。

刹那、凛を撫でる風の流れが、彼女に届けてくれたもの。

「……」

半歩ほど出した足を止める。

「……ふふっ、プロデューサーの匂いがする」

116: 2013/09/16(月) 23:49:03.04 ID:Csght9Kio
頭から肩を経て身体を包んでくれているあの人のスーツ。

ほのかに馨るあの人の証跡を、少しだけ吸い込むと、左の内胸ポケットに刺繍されたあの人の苗字が目に入った。

その橙の糸の盛り上がりをそっと撫でてから、凛も雨の街を駆ける。

意図せず感じるPの温もりを、走りながら噛み締めて。

――このまま事務所に着かなければいいのに――

不思議な感覚が、心に染みていく――

117: 2013/09/16(月) 23:51:10.16 ID:Csght9Kio


・・・・・・・・・・・・


あっという間に雨とはおさらばだった。

たかだか200mほどなのだから、ゆっくり走っても数分程度で着いてしまうのは当然と云えば当然なのだが。


先に到着していたPは、髪やワイシャツに染みた雨を手で払っている。

その軒先へ、凛が、とん、と舞うように辿り着き、頭から被っていたスーツを自らの肩に掛け直した。

そしてニットデニムのポケットからハンカチを取り出してPの頭や肩を拭う。

118: 2013/09/16(月) 23:52:28.25 ID:Csght9Kio
「おお、悪いな」

「ううん、……結構濡れちゃったね」

「そうだな、思ったよりも降りが強かった。……サンキュ、あとは給湯室のタオルで拭くさ」

「うん、風邪引いちゃうよ、早く事務所入ろ?」

乾いたタオルを持ってこようと、凛は小走りで事務所へ向かい、その後ろをPがのんびり歩いて着いていく。

給湯室でタオルを数枚手に取った凛は、事務所の上がり端へ戻ってPを拭いた。

美少女が大人のスーツを羽織り、ぴょこぴょことタオルを持って走り回り、
さらには濡れた男性に甲斐甲斐しく世話をする光景は、そこはかとなく退廃的に見える。

119: 2013/09/16(月) 23:53:56.39 ID:Csght9Kio

勿論、それを目撃した他の所属アイドルからは意味在り気な視線を送られるし、
菜々は空気を読まずに無邪気なのか弄っているのかよくわからない言葉を投げる。

「あー! 凛ちゃんって、尽くすタイプだったんですね~キャハっ!」

ぴくっ。

言われて意識してしまった凛は顔を紅潮させて、悟られまいとPの顔にタオルを押し付けた。

「むぐっ! ん! んん!?」

そして、慌てるPを無視するようにして声の主へ向いた。

「菜々ァ……さぁん……?」

「!?」

そんな微妙な空気を察知した銅に、菜々ははたかれ、首根っこを掴まれて第二課の業務エリアへと引き摺られていった。

120: 2013/09/16(月) 23:54:49.16 ID:Csght9Kio

「ぷはっ! い、一体なんだ?」

「ん、ちょっとね。何でもない」

目鼻口を塞いでいたタオルから解放され混乱するPへ、凛は無愛想にそう云うと、
第一課の事務スペースへ大股で歩いて行った。

Pの上着を衣紋掛けに吊るして、風通りのよい場所へ備えてから、ソファへすとんと腰を下ろし
棚に置かれたファッション雑誌を持ち出して読み始める。

Pがそんな凛を不思議そうに眺めていると、興行部の遠藤プロデューサーが話し掛けてきた。
機会を窺っていたのかどうかはわからないが、ドンピシャなタイミングである。

「あ、Pさん、今後の公演でご相談が――」

121: 2013/09/16(月) 23:56:17.48 ID:Csght9Kio


・・・・・・


遠藤の相談は、年末、CGプロの目玉企画として、クリスマスライブを開催したいとのことであった。
正式な会議ではないので第一課のエリアで軽い立ち話という体裁である。

「まあ、まだ上層部―うえ―の了解は取り付けていないんですがね」

そう笑いながら云っていたが、渡された企画書にはだいぶ細かい計画が書かれていて、仮のゴーサインが出ていることは推し量れた。

「そこで、メインの顔としてはやっぱり凛ちゃんにトップを張ってもらいたいんです」

「ん? それはニュージェネレーションではなく凛をソロで、と云うことですか?」

企画書から目線だけを上げて、遠藤に問い掛けた。

122: 2013/09/16(月) 23:57:52.20 ID:Csght9Kio
「あーいえ、勿論ニュージェネも推しでいきます。ただそれとは別枠で、ライブの顔として凛ちゃんを、と」

遠藤は掌を前に出すジェスチュアをする。

「なるほど……承知しました。あいつはそういう立場に立つのは慣れていますし、それ自体は問題ないと思います」

Pは計画書のタイムテーブルとマイルストーンに目を落としながら、付け加えた。

「ただ、この規模この編成だと、12月頭までに凛の曲を三つほどリリースしておかないと少し心許ないですね」

「はい、そこなんです。
 凛ちゃんで現在進行している企画は、どちらかと云うとユニット型の曲ばかりなので、
 年末にライブを開催するにはもう一歩のテコ入れが必要です」

「……およそ二箇月半ごとに一曲……ですか。さすがにこのペースだと、凛への負担が気になります」

123: 2013/09/16(月) 23:59:20.84 ID:Csght9Kio
そう、現在計画されている作業量は明らかに、
渋谷凛と云う一つしかない身体に対してオーバーワークであった。

「最近はあいつを直接指名した仕事やレギュラーもかなり増えていますし、
 フジツボテレビ夏の改編の月9にオファーが来ていまして……」

何気なくこぼした凛の予定タスクに、遠藤は目を大きくした。

「おっ、フジツボさんの月9ですか! それは素晴らしい」

「はい、局の方でもほとんどトップアイドルと云っても差し支えない扱いになってきています」

そんな遠藤の反応が嬉しく、凛を誇りに思うPは少しだけ顔を緩めた。

124: 2013/09/16(月) 23:59:56.67 ID:Csght9Kio
遠藤は済まなそうに頭を下げながら、

「そんな売れっ子に申し訳ないとは思うんですが……何とか時間を作れませんか」

「ううむ……あいつは芸能科の高校とはいえ学生です。
 そうである以上、全休させるわけにもいきませんし……」

「そこを何とか。これでも幸子ちゃんや輝子ちゃんのタスクを増やして、
 凛ちゃんの負担を減らす努力はしましたので……」

第二課や第三課の子、しかも凛と同年代を引き合いに出された上、
目の前で合掌されては無下に断るわけにもいかない。

そもそも、プロダクションの企画するライブに、
所属するアイドルが全力を傾けないなどという道理は通るはずもなく。

額に手を当てて思案に暮れるが、中々落としどころが見つからない。

まったく、興行部と云うのはいつだって無理難題を吹っ掛けてくる。

125: 2013/09/17(火) 00:01:22.10 ID:Rri5HD+xo

そこへ、きりりとした声が響いた。

「私は構わないよ、プロデューサー」

プロデューサー二人は一斉に声の主、凛を見る。
彼女はいつの間にか、ソファの座面ではなく背もたれ部分に腰をかけてこちらを見詰めていた。

「プロダクションの気合いを入れたライブに私が傾注しないのもおかしいでしょ?」

盗み聞きするような真似してごめんねと前置きをした上で、凛は力強く言った。

「スケ的に相当キツくなるぞ?」

「覚悟の上だよ」

さも当たり前という風で頷く。

126: 2013/09/17(火) 00:03:01.24 ID:Rri5HD+xo
「わかってると思うが、三曲増やすということは、お前にとっては歌とダンスで六倍の練習量になるんだからな」

「もう、プロデューサー。あなたが秘蔵するアイドルを信じられない?」

凛は片目を閉じ、自らの心臓を指差して少しだけ膨れっ面をした。

「大丈夫、何とかなるよ」

「……何とかするのは俺の仕事なんだがな」

「だから、それだけプロデューサーを信用してるってこと」

ふふっ、と控えめな微笑みでそう云われては、Pも腹を決めるしかない。

若干やれやれ、という表情を見せながら凛に向けていた顔を戻した。

「わかりました遠藤プロデューサー、凛や第一課内の調整は何とかします」

127: 2013/09/17(火) 00:06:55.74 ID:Rri5HD+xo
遠藤は心底ホッとしたような顔で頭を下げた。

「ありがとうございますPプロデューサー。必ずや珠玉のイベントに仕立て上げてみせます」

「凛をここまで馬車馬にするんですからね、期待していますよ?」

最後の最後に一口くらい軽い嫌味を言っても罰は当たらないだろう。

遠藤は苦笑いしながら興行部のデスクへ戻っていった。

見届けてから、Pは凛へ向き直る。

「凛、明日から忙しくなるぞ」

「望むところだよ。ふふっ」

Pの宣告に、凛は不敵な表情を浮かべて、すぐに破顔した。

133: 2013/09/17(火) 21:31:31.29 ID:Rri5HD+xo


・・・・・・・・・・・・


三日後。

今日は事務所の選抜メンバーで収録したシングル、『お願い!シンデレラ』の発売日。

これに合わせ、先日話の上がったCGクリスマスライブに関する
プレスリリースを昨夜のうちに出したこともあって、マスコミの注目度は高い。

やれ『新興プロダクション攻めの姿勢』だの、やれ『潤沢なアイドル、続々露出拡大』だの、
やれ『頭角・渋谷凛、畳み掛ける新曲リリース』だの。

Pは以前、最も怖いのは誹謗ではなく無関心だ、と話していた。

誰も興味を持たない、誰の耳にも入らない……これが一番の恐怖だと。

その意味では、この情報の滑り出しは順調だと云えるだろう。

しかし僅か数日の短期間にリリースを出せるとは、遠藤プロデューサーは
どれだけ東奔西走したのだろう、とCGプロの全員が不思議がっている。

134: 2013/09/17(火) 21:33:22.39 ID:Rri5HD+xo

兎も角として、凛は未央、一学年下の神崎蘭子と共に三限で早退して事務所へ出社していた。

トワレコ渋谷店にて午後から『おねシン』発売イベントが行なわれるためだ。

収録参加メンバーのうち、義務教育課程に在る城ヶ崎莉嘉を除いた全員が集まっている。

イベントではトークショーがあるので、出発まではまだ時間があるものの、準備に余念がない。

特に、ニュージェネレーション以外のアイドルたちはあまりこのような経験がないため、だいぶ緊張を隠せないでいる。

いま集まっている者の中で最年少の蘭子が顕著だ。

「わ、わ、我が真の、ち、ち、力を、み、見せる刻がきききたようね……(やる気ばばばばばっちりです)」

近頃人気が上がってきている彼女が、気丈に振る舞おうとしている。

しかし経験が未だ豊富ではないその身体は、かたかたと震えていた。

135: 2013/09/17(火) 21:35:28.94 ID:Rri5HD+xo
「おい蘭子、やる気はあっても硬くなり過ぎだぞ。麦茶でも飲んでリラックスしな」

常人には理解しづらい言語で話す彼女に、Pは飲み物を渡しながら語り掛けた。

「プロデューサー、よく蘭子の言葉がわかるよね」

「そりゃ俺はプロデューサーだからな」

凛の問いに、Pはふんぞり返る。
事実、蘭子の言葉を正確に汲み取れるのは、CGプロ人数多しと云えどPだけであった。

そんな反応に凛は「は、はぁ……」と答えることしか出来ない。

136: 2013/09/17(火) 21:36:55.54 ID:Rri5HD+xo
隣のソファからは、ニートアイドルが

「ねぇねぇPプロデューサー、杏疲れたから帰っていい?」

と、だるそうに訴えている。

「あー、杏ちゃん、そういうのは銅プロデューサーにだけ云ってくれ。クール担当の俺に訊かれてもどう捌けばいいのかわからん」

クールからパッションまで、部署がクロスオーバーで動く企画は、第一課のPが担当することが多かった。

今回もご多分に洩れず、Pがプロジェクトを統率している。

137: 2013/09/17(火) 21:38:06.02 ID:Rri5HD+xo
「まぁホントのことを云えば、緊張して思考が廻らないせいなんだけどさぁー」

杏の本音が出た。
いつも率先してサボろうとする杏だったが、その実、プロデューサー陣の興味を惹こうとしてやっている面が大きい。

卯月が笑う。

「杏ちゃんは、仕事には真面目に取り組む、プロ意識の高い子だもんね」

「さてねー」

当の杏は、とぼけた振りをしてソファに寝転がった。

138: 2013/09/17(火) 21:39:41.74 ID:Rri5HD+xo

第一課のミーティングルームには、このように花が咲いていた。

ただし――姦しい。

女の子が総勢10人も集まっているのだから当然と云えば当然だ。

しかし寡黙なキャラクターの多い第一課を率いるPは、この賑やかさには手を焼いた。

そんなPを手助けしようと凛が口を開こうとすると、

「あのー、凛ちゃんにお客様がいらしてるのだけど……」

ちひろが、ミーティングルームに、顔だけを覗かせてそう告げてきた。

私にお客さん? と不思議がりながら凛が席を立とうとしたところで、来客がちひろの後ろから姿を現す。

誰あろう天海春香であった。

139: 2013/09/17(火) 21:42:15.58 ID:Rri5HD+xo

「やっほー凛ちゃん。ごめんね、打ち合わせ中に」

「春香さん!」

ウインクをしながら手を振る春香に、凛は腰を浮かせた。

「アイエエエ!? ハルカ!? ハルカナンデ!?」

杏はHRS(ハルカ・リアリティ・ショック)を発症するし、他の子も口をあんぐりと開けて固まっている。


「どうしたんです、春香さん?」

部屋の入口に立つ来客へ走り寄って、凛は尋ねた。

「ほら、こないだ眼鏡を貸してもらったでしょう? それを返しに来たの」

本当は受付の人に渡して帰るつもりだったんだけど、タイミングよく凛ちゃんがいるって聞いたものだから、
と春香は右手で眼鏡を差し出しながら答えた。

140: 2013/09/17(火) 21:43:42.81 ID:Rri5HD+xo
「春香ちゃん、いつもお世話になってます。申し訳ないね、わざわざ返しに来て貰っちゃって……」

Pも春香に歩み寄って会釈する。

「あ、いえいえ、こちらこそお世話になっております。お借りしたのは私なんですし、お気になさらないでください」

それに六本木からの帰り道ですから、と春香は少し困ったように眉の尻を下げて微笑んだ。

「春香さん、今日はテレビ旭で収録だったんですか?」

「そうなの。近いから歩いてきちゃった」

六本木ヒルズはCGプロの事務所から600mほどだ。

141: 2013/09/17(火) 21:46:14.03 ID:Rri5HD+xo
「CGプロさんって便利な場所にあるねー。六本木は勿論、赤坂も汐留も浜松町もすぐ行けちゃう」

それぞれ主要放送局――旭、ブーブーエス、ニッポンテレビ、文科放送の在る場所だ。

二人のやり取りの後ろで、PはHRSを起こした杏を介抱しながら、凛に告げた。

「いまちひろさんに応接室開けてもらうから、凛はそっちでゆっくりして構わんぞ。
 出発まで一時間くらいあるし、凛はイベント慣れしてるから特にやることもないしな」

「ん、ありがと、プロデューサー」

「あ、いえいえ、お構いなく。私はもう、すぐにお暇しますので。すみません、お邪魔しちゃいまして」

打ち合わせをこれ以上妨げることに気が引けるのだろう。春香はPに軽く頭を下げた。

「今日はニューシングルの発売日だったね。お願いシンデレラ……だったっけ。イベント頑張ってね」

去り際、春香が凛にそう言うと、それを耳にしたPは少しだけ驚いた様子を見せた。

「まさか春香ちゃんがうちのニューシングルを知ってるとは、光栄だねえ」

「えっへっへ、ライバル会社の情報収集には抜かりないんですよ?」

142: 2013/09/17(火) 21:47:15.81 ID:Rri5HD+xo
“ライバル”の部分を冗談めかすイントネーションで云う。

「クリスマスライブや凛ちゃんの新作情報も出てたし、いちリスナーとして期待してますよ!」

「あはは……怒濤のレコーディングやダンスレッスンが既に重なってますけど、
 でも期待してくれている人たちのためにやり抜きます」

「そうだね、凛ちゃん、数箇月毎の新曲リリースは大変だろうけど、頑張ってね!」

凛の肩をぽん、と叩いてから、春香は手を振り、帰っていく。

凛はなぜだか、その背中にとても大きな頼もしさを感じた。

143: 2013/09/17(火) 21:48:32.46 ID:Rri5HD+xo

「なんでだろう……春香さんは確かに憧れだけど」

己の心に問い掛けて帰ってくる答えは、憧れとも違う感情のようだ。
凛は戸惑う。

まるで姉のような――

不思議な感覚。

トワレコのイベント中もずっと、それが頭の中を巡っていた。

146: 2013/09/17(火) 21:53:45.41 ID:Rri5HD+xo


・・・・・・・・・・・・


しばらくの時が過ぎて、もうまもなく世間は大型連休へ突入しようかと云う四月の下旬。

ボリウッドに大きな影響を受けたとかなんだとか云って、Pは凛に強烈な新曲と振り付けを書き下ろしてきた。


「――プロデューサー、本気なの?」

春の陽が射し込む第一課の事務スペース。

そんな麗らかな光と対照的に、凛は額へ皺を深く寄せて問うた。

手許には、コードとリズム、そしてメロディラインが載った簡素な譜面と、
それとは逆に細かく小節ごとの振り付けが決められた詳細なダンス指示書とコンテ。

流し読みしただけで目眩がしそうなほどの動作指定が、そこには書かれていた。
たった一小節分だけでA4用紙の半分以上を埋めている箇所さえある。

147: 2013/09/17(火) 21:55:25.68 ID:Rri5HD+xo
テンポは135と、先日リリースした『おねシン』や765プロの代表曲『READY!!』の174BPMよりだいぶ遅い。

数字だけ見れば楽に思えるが――

最大の相違は、16ビートの曲であること、そして八分取りと一六分取りを混ぜた振り付けであることであった。

事実、135BPMの16ビートは相当な速さに感じられる。そんな疾走感がある曲である上にダンスも速いとは。

アイドルが唱う速いテンポの曲は、大抵、ダンスは四分や二分取りをすることが多い。
つまり曲は速いが踊りは遅いのだ。

この曲とおねシン、両者を比較すると、およそ三倍のキレを必要とする計算であった。

……一曲踊っただけで足腰が立たなくなりそうだ。

148: 2013/09/17(火) 21:56:28.36 ID:Rri5HD+xo
「本気も本気さ。伊達や酔狂でそこまで手の込んだ書類は作らんよ」

事務机の向こう側から、キーボードを叩く音と共に抑揚を抑えた声が飛んできた。

「これ、明らかに私を頃しにかかってるよね?」

「だって如何にもアイドルアイドルした普通の曲を演ったって面白くないだろ?」

Pはシネマディスプレイの陰から顔だけを見せて、飄々とした態度で答えた。

「ちょっと、面白くない……って……」

凛はそれを少し非難するような口調になった。

149: 2013/09/17(火) 21:57:54.12 ID:Rri5HD+xo
しばらく無言の状態が続いたが、一向に場の雰囲気が和まないので、
Pはキィと椅子を廻して立ち上がり、彼女の座るソファの前まで歩いてきた。

その顔は至極真面目だ。

ガラステーブルを挿んた対面に「よいせ」と座って息を吐く。

「あのな、これはアイドルという固定観念に対しての、ある種の皮肉なんだよ」

「皮肉?」

凛は鸚鵡返しで訊いた。

Pは大きく頷く。


「いいか、所謂、相の手を打てるような曲構成は、勿論アイドル歌謡としては必要だ――」

150: 2013/09/17(火) 21:59:49.75 ID:Rri5HD+xo

 ――なんてったって、キャンディーズ時代からの因習だからな。

 最たる例がハーフテンポ、つまりPPPHだ。

 だがな、そんな曲ばっかりじゃ胸焼けしてゲップが出ちまうよ。

 そういう“わかりやすい”役割はおねシンとかに任せればいい。

 お前だってメシに毎回々々ビフテキ食うなんて出来ないだろ。魚や野菜が欲しくなるだろ。

 それと同じだよ。

 我々に必要なのは、こういうメニューも出せます、と様々な選択肢を呈示すること。

 一芸を披露するのではなく、総合的なエンターテインメントを提供すること。

 その中の一つが今回の曲だ。

151: 2013/09/17(火) 22:00:46.33 ID:Rri5HD+xo


 哀しいことに、アイドルなんてチャラチャラしているだけで
 大したことなど何もやってないという印象を持つ人は大勢いる。

 それが現実だ。



 歌唱が下手でも、AutoTuneやMelodyneと云ったプラグインを使って
 ピッチ補正を行ない、本番はそれを流して口パクをするだけ。

 確かに、業界にそういう面があるのは事実だ。否定できない。

 以前、フジツボテレビで口パク禁止令が出たとき、そこに出ていた人たちは惨憺たる醜態を晒したもんな。

152: 2013/09/17(火) 22:01:54.50 ID:Rri5HD+xo

 だが、うちは違う。あらゆる要素に全力投球してる。歌にもダンスにも、演技にも舞台演出にもだ。

 CGプロは基本的にピッチ補正も口パクも許可しない。だから鬼のようなトレーニングを積むだろ?

 かのマイケル・ジャクソンですら、踊りながら歌えばピッチもタイミングもズレたもんさ。
 それほど、身体を動かしながら声を出すのは大変なことだ。

 なのにそれが世間へ伝わり切れていないとしたら?
 折角頑張っているのに理解されていないとしたら?

153: 2013/09/17(火) 22:02:43.33 ID:Rri5HD+xo
 哀しくならないか?

 悔しくならないか?

 お前は見返したいと思わんか?

 少なくとも俺は、アイドルが今回作った曲のような演目をこなしたら、
 まず腰を抜かして、そしてそのまま熱狂的なファンになるね。

 渋谷凛はそこらのアイドルと一線も二線も画しているのだということを見せつけてやれよ――

154: 2013/09/17(火) 22:03:48.48 ID:Rri5HD+xo

「――アイドル・渋谷凛ではなく、“渋谷凛という存在”になれ」

凛は武者震いした。

この人は日高舞以来のアイドルという概念を、進化させようとしている。

長い間培われてきたアイドル像は否定しないが、可能性の探求をやめることは糾弾する。

――私は、アイドルとはこういうものだ、と無意識のうちに思考が硬直化していなかっただろうか。

155: 2013/09/17(火) 22:05:13.39 ID:Rri5HD+xo

凛は、気付いた。
そもそも、自分のいるCGプロ、そこに所属するアイドルを俯瞰すれば、どれもこれも、
旧来のアイドル像とは懸け離れた、クセのある人選ばかりじゃないか。

そして、そんな“アイドルらしからぬアイドル”が人気を博している。

足元にヒントが転がっていたのだ。

凛の中のアイドルという価値観、アイデンティティに大きな変革が訪れようとしていた。

しかし同時に、その答えは五里の霧の中へ見えなくなっていく。

実にわからないことだらけだ。

156: 2013/09/17(火) 22:06:33.67 ID:Rri5HD+xo

「大丈夫だ、ダンスに注力できるよう、メロディラインは単純にしておいた」

Pは最後に、そんなフォローになっているのかいないのか判断しかねる言葉で締める。

「気休めにもならないよ、それ……」

凛は呆れたように返すが、

「まあまあ、もう少しすればニュージェネレーション用に従来のアイドルらしいプロダクトも用意する。
 今はその曲をマスターすることに専念してくれ」

こう云われては素直に従うしかあるまい。

157: 2013/09/17(火) 22:07:39.64 ID:Rri5HD+xo
「はぁ……まったく強引なんだから。ひとまずいい時間だし、レッスンに行ってくるよ」

「おう頑張ってくれ。ちなみに、発売日は再来月の26日、PV撮影があるから習得期限は逆算して来月中旬だ」

「ええっ!? そんなにタイトなの!? ちょっと勘弁してよ……」

根は真面目な凛。頭を抱えながらもスタジオフロアへと歩み出て行った。


ま、おそらく一番頭を抱えているのはトレーナーさんたちだろうけどね。

Pは、凛に手を振りつつ、実に鬼畜なことを、まるで他人事のように独り言ちた。

158: 2013/09/17(火) 22:09:22.78 ID:Rri5HD+xo


・・・・・・・・・・・・


およそ一週間が経ち。

マスタートレーナー青木麗とルーキートレーナー青木慶による付きっきりの指導で、
二人からの報告によると、何とか通しの動きができるまでにはなったようだ。

凛は朝の五時から夜の十時まで、仕事時以外はスタジオへ籠りきって習得に専念している。

寮へ帰らず事務所の仮眠室にずっと泊まりっぱなしだ。

GWで学校はほぼ休みというのが幸運であった。

この一週間、スタジオフロアのうち第一ダンスレッスンルームはほぼ凛専用と化している。

クールアイドルがダンスを習う時は、第二や第三課のルームを間借りしているほどだ。

159: 2013/09/17(火) 22:10:24.46 ID:Rri5HD+xo
そんな大型連休の中盤、早朝。

Pは四時頃出社し、麗に指定された献立に基づいて凛の食事を用意している。

凛だけに負担はさせない、とサポートを進んで引き受けたのだ。

 ――プロデューサーが支えてくれるなら、私も頑張らないとね。

それを伝えた時の凛は、そう云って眩しい笑顔をPに向けた。
その時の笑顔は脳裏にはっきり焼き付いている。

160: 2013/09/17(火) 22:11:39.34 ID:Rri5HD+xo

まだ陽は出ていない。薄明にもなっていない時刻。
蛍光灯で照らされた給湯室に、男の不器用な包丁の音が響く。

そこへ凛が、寝ぼけ眼を擦りながら起きてきた。

「ふゎ……ぁ……、んー……おはよ……」

「おう、おはよう」

――大きめのTシャツとショートパンツというラフな寝間着のままで。

まるで杏を大きくしたような出で立ちだ。

こんな凛を独り占めにしているとファンに知られたら、殺されても文句は云えまい。

161: 2013/09/17(火) 22:12:53.03 ID:Rri5HD+xo
「毎朝云ってるが、いい加減事務所をそんな格好で歩き回るなって」

「いいでしょ別に、この時間はどうせプロデューサーしかいないんだし。
 杏はこんな格好でいつも事務所にいるじゃない」

「幼児体型の杏ちゃんと同列に語るなよ。お前の場合は目の遣り場に困る」

凛はそんな抗議の声を上げるPを無視し、調理している横の流し台の蛇口を勢いよく開けた。

 ――むしろ見せてるんだけどな。

その呟きは流れる水音に掻き消され、Pの耳には届かない。

バシャバシャと顔を洗う。
給湯室じゃなく化粧室で顔を洗わないのかと、泊まり込み初日に訊いたら、
「夜も明けきっていない時間の、誰もいないだだっ広いお手洗いは落ち着かないよ」とのことらしい。

162: 2013/09/17(火) 22:15:05.54 ID:Rri5HD+xo
凛はタオルで顔をとんとんと軽く叩くように拭って、コンロ前にいるPの方へ寄った。

起き抜けの女の子の、甘い匂いが漂う。これは、男を惑わす第一級の危険物だ。

そんなPの内心を知ってか知らずか、隣まで来て鍋の中を覗き込む。

そこでは形不揃いの野菜がぐつぐつと踊っていた。

「プロデューサーって料理センスはいまいちだよね」

「すまんな、一応麗さんに云われた通りの献立で作ってるんだが」

「ふふっ、冗談。謝らないでよ。わざわざ作ってもらって、ホントは感謝してるんだ」

凛は鍋からPに目を移して笑った。その眼の下には、わずかに青い隈が出来ている。

163: 2013/09/17(火) 22:16:43.81 ID:Rri5HD+xo
青魚やビタミンを増やした方がいいか麗さんに相談しておこう、と隈を見つつPが考えていると、
凛は照れるように「わ、私の顔になにか付いてる?」と訊ねた。

「あぁすまん無遠慮に覗き込んじまったな。眼の下にうっすら隈が出てたからな、
 献立の栄養バランスを変更すべきか麗さんに相談しようと考えていたんだ」

「……
 ふーん」

Pが馬鹿正直に答えたら、凛は急に素っ気なくなった。

あからさまにがっかりしているくせに、それを見せないように振る舞おうとしているのだろう。

バレバレなのだが。

164: 2013/09/17(火) 22:17:35.77 ID:Rri5HD+xo
「あとお前の、綺麗なすっぴん顔に見蕩れていたんだよ」

「もう……ばか」

冗談めかしてPは云ったが、それもまた本心であった。

実際、凛の端正な地の面立ちや、きめの細かい肌は、薄いメイクでも
ハイビジョンのテレビ映りに充分耐えられるレベルだった。

今度メイク落としのCMでも取ってこようか、と内心で計画しながらPは鍋をかき混ぜた。

165: 2013/09/17(火) 22:19:37.06 ID:Rri5HD+xo

――

休憩室のテーブルにP謹製の朝食が並ぶ。

二人向かい合って座り、いただきます、と唱えてから箸をつけた。

「プロデューサー、今日のスケジュールは?」

凛がポトフのじゃがいもを口へ運びながら訊く。

「午前中は九時からニッポンテレビで収録、午後は四時から日本放送のNG番組パーソナリティと、ついでにオリコソのインタビューだな」

「となると、今日は朝昼夜三回に細切れの練習だね。本当は通しでやりたいけど」

「まあ仕事最優先だしな、そこは仕方ない」

「うん、わかってる」

166: 2013/09/17(火) 22:20:54.70 ID:Rri5HD+xo
Pの方はと云うと、このあと凛を送り出してから昼間は普段通り業務をこなし、
夜になったら朝と同様、食事を用意、凛の学校の課題を手伝ってから寝かしつける。

そしてテッペンを越えるまで残務を処理して、終電で帰る。

通勤や諸々の時間を考えると、おおよそ二時間程度の睡眠であった。

しかし、凛と合宿のようなことをしていると考えれば、不思議とあまり苦にはならなかった。

167: 2013/09/17(火) 22:22:22.87 ID:Rri5HD+xo

「でも仕事優先とは云ってもさ、プロデューサー。朝五時から夜十時じゃちょっと間に合うか不安だよ。もっと延ばせない?」

うずらの卵を落とした納豆を掻き混ぜながら、凛は少し危機感のある声音で云った。

「慶ちゃんからのレポートを見ている限りでは大丈夫そうだと思うがね。
 それに我が国には労働基準法と云うものがあってな……これでもその枠の中で最大限の時間を取っているんだよ」

Pがこめかみを掻いて答えると、凛は納豆を混ぜ続けながら目線を上げ、肩を竦める。

「……法律ってめんどくさいね」

168: 2013/09/17(火) 22:24:08.73 ID:Rri5HD+xo
「さらに面倒くさいことを言うとな――
 凛の場合はCGプロに“雇用されている労働者”ではなく、CGプロと“契約している個人事業主”の扱いだから、
 労基法の適用は受けないんだよ、実は。云うなれば24時間ぶっ続けの不眠で労働しても構わないわけさ、法律的には」

全くお笑いだ、とPは両肩を上げて自嘲気味に云った。

「なにそれ。複雑すぎてわけわかんない」

納豆を白飯に掛けてから、しかめた顔をPへ向ける。

「ほんと、社会や法律ってのは面倒に出来てるよな。
 ……まあ法律上は問題ないとはいえ、モラル的には問題大アリだ。業界のイメージにも関わる。
 だからうちは労基法に准じたルールを設けて、18歳未満のアイドルには深夜帯の活動をさせないようにしているんだ」

「契約とかは親任せだったけど、そろそろ私も法律をちゃんと勉強しておかないとだめだね」

169: 2013/09/17(火) 22:25:47.63 ID:Rri5HD+xo
「俺が高校の頃なんて法律のホの字も知らなかったから、凛はまだしっかりしてる方さ――」

凛は納豆とご飯をゆっくり咀嚼しながらPの話に耳を傾けている。

「――それに育ち盛りだ、夜は充分に休まなきゃいかん」

「……もう成長期は過ぎたと思うんだけど」

「それでもまだ成熟しきっていない人体には適切な量の規則正しい睡眠が必要だ。
 女の子は男と違って月の物もあるし、ストレスに体調を左右されやすいだろ。
 肌の状態にも直結するから、睡眠時間だけはきちんと確保しないと」

ここ一週間、毎日二時間程度しか寝ていないPが言ってもあまり説得力のない言葉。

案の定、「ストレスで云えばプロデューサーの方が大変そうじゃない。
こないだ胃潰瘍になりかけてたでしょ」と厳しい突っ込みが入った。

170: 2013/09/17(火) 22:27:04.26 ID:Rri5HD+xo
Pは悪びれず、大仰に腕を広げて言い放つ。

「お前たちを輝かせるための胃潰瘍なら、それはプロデューサーと云う人種にとって勲章だよ」

呆れた顔をした凛は、やれやれ、と飲んでいたポトフの器を置いた。

「まったくワーカホリックなんだから。……それと、女の子に面と向かって生理のこと云うなんてデリカシーないよ」

「すまんな、そういうのはよくわからないんだよ」

への字口の険しい顔でPを見ていたが、すぐに表情を緩め、付け加えた。

「ま、それだけきちんと私の身体のこと考えてくれてるってことだもんね、だからいいよ。ふふっ」

「そりゃどうも」

171: 2013/09/17(火) 22:28:12.31 ID:Rri5HD+xo
よく判らん、と云った体裁でPが両手を挙げる。

その言葉に何やら満足したのか、凛は微笑みを湛えながら「ごちそうさまでした」と湯飲み茶碗をことり、置いて云った。

「はいよお粗末様」

テーブル上のPの料理は全て平らげられていた。

作った食事を残さず食べられると気分がいいとよく云うが、Pはまさにその歓びを味わっている最中だ。

凛はくすっと笑い、じゃあシャワー浴びて着替えてくるね、と身支度を始めた。

172: 2013/09/17(火) 22:29:28.14 ID:Rri5HD+xo

並行して、Pは洗濯を済ませる。

激しい練習・トレーニングをすると、必然的に替えの衣類やタオルが大量に消費される。

それは、たった一日分、しかも凛一人分だけでも籠が満杯になるほどであった。

当初、アイドルたる凛の衣類をP自らが洗うのは気後れがあった。
タオルやシャツならまだしも、下着までまとめて籠に突っ込んでいるのだから当然ではある。

スポーツブラとスポーツショーツ、たとえ色気など微塵も感じられないとはいえども、
年頃の女の子のものに触れるのは如何なものか。

のあや蘭子からも「アイドルが身に着けたものを家族でもない男の人が洗濯するなんて」と制止されたが、
「逆にプロデューサーだから安心して任せられるんだよ」と云う凛本人の言葉で決着がついてしまった。

実際問題、人手も足りないし、業務時間中は誰かが洗濯をする時間を確保することもできないので、
朝、こうやってPが洗っているのだ。

これもファンに知られたら、殺されても文句は云えなそうだ。

173: 2013/09/17(火) 22:31:09.02 ID:Rri5HD+xo

洗濯機を回し、食器を濯いでいると、間もなく五時。

凛が身支度を終えて給湯室に顔を出した。

「それじゃ行ってくるね」

「おう。気をつけてな」

Pが差し出した麗の特製ドリンクを「ありがと」と掴んで、彼女はスタジオフロアへと消えていった。

174: 2013/09/17(火) 22:32:39.42 ID:Rri5HD+xo


・・・・・・・・・・・・


同日、昼過ぎ。

三時に卯月と未央が出社してきた。
二人は第一課へ直行する。

「おっはよ~Pさん! 本田未央、ただいま出社でありまーっす!」
「おはようございますPプロデューサーさん! 島村卯月、今日も頑張ります!」

第一課に、クールとは異なる大きく元気な声が溢れた。

通常、アイドルは他課へ顔を出すことはない。

しかしニュージェネレーションと云う事務所唯一のユニットを組んでいる卯月と未央は例外であった。

その元気さに、第一課の所属者もだいぶ慣れてきた昨今だ。

175: 2013/09/17(火) 22:34:02.03 ID:Rri5HD+xo
「お、もう三時か。おはよう、二人とも」

Pは二人を認めると、事務机から立ち上がって迎えに出た。

「それじゃそろそろ凛を呼んでくるか。二人ともついておいで。
 今日は番組終了後に、日本放送の中で雑誌のインタビューを済ませちゃうから俺も一緒に行くよ」

「うわー、Pプロデューサーが付き添いで来てくださるのって久しぶりですね!」

「すまんね卯月ちゃん、いつも見てやれなくて」

眩しい笑顔に、Pは苦笑いで返す。

アイドルの数はどんどん増えていくのに、それを管理する者は増えていない。

事務なんか、膨大な量のタスクをちひろが一人でこなしている状態。
あの書類捌きはまるで人外の動きだ。

176: 2013/09/17(火) 22:35:28.65 ID:Rri5HD+xo
社長のスカウト術は目を見張るものがあるが、流石にそろそろキャパオーバーを免れないだろう。

「まあニュージェネレーションとして動くときはしまむーもしぶりんもいるから特に問題はないけどね~♪」

「ははは、心強い限りだ」

今後ニュージェネレーション以外にもユニットを増やすことを真剣に考えないとな、と、
銅や鏷と最近よく議論をしている。

三人でユニットを組ませれば、単純計算で管理コストが三分の一になるし、
アイドルの自主性にある程度委ねることもできるようになるからだ。

ニュージェネレーションが一定の成果を上げつつあるいま、遅くとも来年度までに、
CGプロは戦略転換が必要となるだろう。

177: 2013/09/17(火) 22:36:41.84 ID:Rri5HD+xo

思考に耽りながらスタジオフロアへの階段を上がり、金属扉を開ける。

蝶番がキィと鳴いた。

「私、今回のしぶりんの特訓しているところまだ見たことないんだよねー! ちょっとワクワクするっ!」

「私も私も。凛ちゃんどんな練習してるんだろうね?」

「ん? 二人ともまだ見てなかったのか」

意外だった。てっきり凛は二人には見せているものだとばかり思っていたのだ。

178: 2013/09/17(火) 22:37:17.89 ID:Rri5HD+xo
「うん。Pさんが世話してるって聞いたしさ! お邪魔虫かな、っということで♪」

「そうだね。それに凛ちゃんが合宿までするような特訓だったら、私たちはあまり深入りしない方がいいかと思って」

「そーそー。何かあれば、しぶりんから云ってくるだろうしね」

無関心ではなく、固い絆があるからこその非干渉だ。

すごいなこの子達は。

二人を通してから扉を閉めつつ、Pは舌を巻いた。

179: 2013/09/17(火) 22:38:45.00 ID:Rri5HD+xo

フロアの廊下はL字型になっている。
入口に最も近い手前部分は衣装保管庫、角を曲がってボーカルブース三つ、
MA室とアクティングルームを挿んで、その向こうにダンスルームが三つ。
ちなみにシャワールームと更衣室は地下一階だ。

歩いて行くと、管理職種の姿を視認したアイドル達が、口々に「おはようございます!」と元気な挨拶を向けてくる。

Pは軽く手を挙げてそれらに応えつつ進む。

第一ダンスルームは廊下の一番奥だ。
その位置柄、今は『凛関係者以外立入禁止』のような雰囲気が漂う。

180: 2013/09/17(火) 22:41:08.38 ID:Rri5HD+xo
事実、廊下で休憩・待機しているアイドルとその卵たちは、Pらの様子を遠目で窺うのみに留まっている。

あまりそういう壁は作りたくないんだがな、と思いながらPは歩くが、多少は致し方ないことであった。

スリッパを響かせて近づいて行くと、防音扉から微かに漏れる音楽が耳に届いてくる。

「なんかインドっぽい音楽だね?」
「だね~、なんかカレーってカンジ?」

Pの後ろで二人が好き勝手な感想を述べている。

ガチャリ、と重い防音扉を開けた瞬間。

熱い衝動を誘発するビートが一陣の風となって駆け抜けた。

181: 2013/09/17(火) 22:46:21.40 ID:Rri5HD+xo


熱きビート

Ashok - Telugu Songs - Gola Gola
http://www.youtube.com/watch?v=Rdj5cIbGftU&hd=1



182: 2013/09/17(火) 22:46:58.50 ID:Rri5HD+xo
タブラやムリダンガムをフィーチャーした、どこかトライバルな、それでいてモダンなうねり。


「ステップに意識が行って指先が疎かだぞ! 表でリズム取るな!」

「はい!」

「アイソレーションの動きが小さい! 身体を拡げろ! 疲れを出すな!」

「はいッ!!」

「慶、117小節の頭を出してくれ」

「わかりました」

そこでは、凛がこれまでに見たことないような激しいダンスを舞っていた。

下腹の底から激情が溢れてくるような。

それは、心の深淵に刻まれた、遺伝子の記憶を呼び覚ますかの如く疾風だった。

力強く舞い飛ぶ凛は汗だくで、Pたちが姿を現したことに気づいていない。

卯月と未央は絶句している。

183: 2013/09/17(火) 22:48:23.47 ID:Rri5HD+xo

曲が終わり、壁面鏡の前で決めのポーズを、澄ました笑みで維持する凛。

 ――つんと澄ます余裕なんてないほど疲れているはずなのに。

たっぷり十秒ほどその姿勢を保たせ、麗が「よし!」と声をかけた瞬間、
がくりと膝に手をつき、顔を伏せ、激しく息を切らした。

「ぜえっ……ぜぇッ! ……はぁっ……はァッ……!」

思わず目を背けたくなるほど、見ているこちらの方が苦しくなってしまいそうな、凄惨な呼吸。

「けほっ、ぇほっ……!」

酸素を求めるあまり、咳き込んでしまう。

滝のように流れ落ちる汗が目に入るのか、瞼をぎゅっと閉じて喘いでいた。

184: 2013/09/17(火) 22:49:45.42 ID:Rri5HD+xo

パチ、パチ、パチ――

そこに単発の拍手が響く。Pである。

「いや、まさかたった一週間でここまで出来るようになるとは予想以上だ」

その声に凛は左目だけを開けて顔を挙げた。

「プロ……デューサー……き……て……たの……?」

凛が喋ろうとするのを掌のジェスチュアで制止して、彼女の方へと歩いていく。

手摺に掛かったタオルを取って、「ご苦労様」と手渡した。

185: 2013/09/17(火) 22:51:07.29 ID:Rri5HD+xo
「慶ちゃんからのレポートでだいたいの状況は把握してたが、これほどとは思ってなかったよ」

「そうだな、P殿。渋谷の吸収力は素晴らしい。全体の通しはほぼ憶えたようだから問題ない。
 あとはひたすら反復させ、細かい部分の調整、表現力を磨くことに注力できるだろう」

麗は指示書に目を通し、何かを書き込みながらPに簡単な報告をした。

「承知しました。流石マスタートレーナーの指導は折り紙付きですね。
 慶ちゃんにも無理を云って申し訳ない」

「なあに、これだけ難しい演目だと実に教え甲斐がある。なぁ、慶」

「はい! 凛ちゃん、日に日に凄くなっていって、教える方も楽しいですよ」

青木姉妹はそう云って笑みを浮かべる。

186: 2013/09/17(火) 22:53:07.94 ID:Rri5HD+xo
卯月と未央は、とうとう床にへたり込んでしまった凛を世話しながら、Pへ興奮気味に問うた。

「な、何なんですかこのダンスは!」
「ぴ、Pさん! こんなキレッキレの、見たことないよ!」

Pは麗に向けていた体を二人の方へ開き、さも当然という顔をする。

「そりゃそうだよ、誰も見たことのないものを作ってるんだから」

そんなつれないPに、二人は血相を変えた。

「だ、だからってこんなことさせてたら凛ちゃん氏んじゃいますよ!」
「そうだよ~っ! こんなに苦しそうにしてるじゃんっ!」

「ふ、二人とも……私は大丈夫……苦しいけど、辛くない」

卯月と未央は、凛の云っている意味がわからず混乱の顔をした。

187: 2013/09/17(火) 22:54:02.49 ID:Rri5HD+xo
「疲れるし……苦しいんだけど、……それよりもずっと、ずっと、楽しいの」

二人は、何かに気付いたように目を見開いた。

Pは満足げに頷いた。

「凛、この曲を、この踊りを、楽しめるようになったか」

「うん。最初、指示書を見た時は混乱したけど……いざレッスンを受けながら、こうやって形にしていくと
 まだ見知らない世界が開けてきて、ワクワクして、とても楽しいんだ」

188: 2013/09/17(火) 22:55:20.79 ID:Rri5HD+xo
凛の言葉を引き継いでPが言う。

「凛の踊りを見て、二人とも胸が高鳴っただろう?」

卯月と未央は大きく頷いた。

「アイドルってのは、“楽しさ”を具現化して発信する像だ。それはデビュー時から耳にタコができるほど云い聞かせられてることだろう。
 アイドル自身が楽しいと感じられれば、その偶像の魅せる世界も楽しさに染まる。
 さあそして今、身内である君たちでさえ、凛の、この踊りを見て心弾んだ。――では一般のお客さんたちになら?」

半身に構えて、未央をビシッと指差すと。

「……もっと、もっと……ドキドキワクワクさせられる……」

「Exactly(そのとおりでございます)」

そのまま肘を腹の前に曲げ、まるで執事のように大仰なお辞儀をした。

189: 2013/09/17(火) 22:57:27.04 ID:Rri5HD+xo
そして、顔を挙げると、不敵な笑みを浮かべ、衝撃の通告をする。

「今は凛だけにやらせてるし凛の新曲と云う位置づけだけど、
 将来的には、凛だけじゃなくCGプロの全員でやってもらうからね」

凛は床に座ったままPと同じように笑んだ。意図を察したのだろう。

「えええええっ!? そんな無茶ですよっ!」
「そうだよPさん! しぶりんでさえここまでグロッキーになる振り付け、私に出来るわけないって!」

泡を食って後ずさる卯月と未央に、凛は笑顔を向けながら言葉を投げ掛ける。

「できるよ、卯月も未央もみんなも。こんなに楽しいダンス、一度足を踏み入れたら虜になるよ」

「そう、出来るさ。君たち――いや、うちのアイドルは全員、素質がある。
 反復練習を重ねれば、そしてトレーナーさんたちの確かなレッスンがあれば、
 多少時間がかかっても必ず出来るようになる。ね、麗さん、慶ちゃん?」

「ん、あぁそうだな。我らトレーナー陣に任せておけば無理なことなどない」

急に振られた麗は、それでも慌てることなく自信満々に言い切った。

「うんうん! みんなきっと出来ますよ!」

慶も追って頷く。

190: 2013/09/17(火) 22:59:17.07 ID:Rri5HD+xo
「ま、まぁ……Pさんや麗ねえにそう云われたら……出来るのかも、って思っちゃうけど……」

ぽつりとそう漏らす未央の言葉をPは逃さない。

「よし! じゃあ今日から凛と一緒にやろうか? 鏷に伝えておこう」

「無理無理無理無理無理ぃ!! こんなハードなのは無理っ! 徐々に! 徐々にでお願い~!」

Pは冗談だよと笑いながら、ようやく呼吸が落ち着いてきた凛に手を差し伸べた。

「凛、とてもよく頑張ってるな。これなら予定を一週間前倒しできるかも知れん」

「ま、合宿の……成果かな?」

凛はその手をぐいっ、と引き寄せ、やや緩慢に立ち上がった。
普段ならすっくと立つのに、やはり疲労は隠せない。

「……この合宿で無理をさせてるから、日程はそのまま保持して、
 レッスンの密度を下げた方がいいな。お前の身体が一番大事だ」

左手で凛の肩を優しく叩きながら、労った。

191: 2013/09/17(火) 23:00:04.78 ID:Rri5HD+xo
凛は汗で顔に張り付いた髪をかき上げ、「そう云うなら、こんなタイトなスケジュール組まないでよ」と少し責める。

「返す言葉もない」

バツが悪そうな顔するPに、凛は顔を引き締めた。

「でも、遠藤プロデューサーの無茶振りを受けるって言ったのは私だしね、これくらいは覚悟の上だよ」

厳しいトレーニングにもへこたれない彼女。
華奢な身体のどこからこんな闘志が出てくるのだろう。Pは頼もしさを胸一杯に感じていた。

「さ、そろそろ仕事の支度をしよう」

そう云って凛にシャワーを促した。

192: 2013/09/17(火) 23:01:45.55 ID:Rri5HD+xo


・・・・・・・・・・・・


大型連休があっという間に過ぎ去り、歌の収録とインドでのPV撮影が済んで
あとはポスプロの作業だけとなった五月も末の頃。

会社にニュージェネレーション三人が呼び出された。

学校帰りの凛と未央に、卯月が合流して第一課ミーティングルームへ行くと、
そこには、P、銅、鏷が揃っていた。

「お、来たな」

プロデューサー陣で話し合っていた中、凛たちの到着に鏷が気づいて声を上げた。

「おはようございます!」

三人はそのまま、Pたちに促されて会議の席についた。

193: 2013/09/17(火) 23:03:19.54 ID:Rri5HD+xo
「今日はどうしたの? 久しぶりのオフのはずだったのに」

凛は先日、インドから帰国したばかりだ。
本来はおよそ一箇月振りの休日を取らせるスケジュールだったのだが。

「すまんな、ちょうどさっき企画がまとまったんだ」

Pはすまなそうに手を面前に掲げて云った。

卯月がきょとんとした顔で問う。

「企画、ですか?」

「そう、ひとまず話を聞きながらこれを見て頂戴」

銅はそう云いながらA4用紙数枚の書類を全員に配った。

194: 2013/09/17(火) 23:06:07.81 ID:Rri5HD+xo
タイトルには
“ニュージェネレーション ニューシングル概要書”
とある。

「あ、これ」

一目見るや否や、凛が合点のいった顔をした。

「そう、こないだニュージェネレーション用のを用意するって云っただろ? それだよ」

三人の新曲だ、とPが云う。
書類の三枚目には、既に歌詞が出来上がっていた。

「うわぁ! ニュージェネレーションのプロジェクトは久しぶりだね、凛ちゃん未央ちゃん!」

「だねだね~! しまむー私ゃ嬉しいよーウルウル」

「私たち三人にぴったりの詞だね、楽しみだよ」

195: 2013/09/17(火) 23:07:14.41 ID:Rri5HD+xo
ここ最近はソロが多かった三人にとって、一緒の企画をやるのはおねシン以来。

おねシンのレコーディングは二月末だったから、およそ三箇月ぶりだ。

それに、おねシンは純粋なニュージェネレーションだけのものではなかった。

そう考えると、ニュージェネレーションが前面に出る企画は相当久しぶりのことである。

凛も、卯月も、未央も、小さく飛び上がって喜び合った。

「既にデモは組んである。明日には編曲した譜面の第一稿が上がるはずだ」

早速レッスンだな、とPはスケジュール帳を確認する。

196: 2013/09/17(火) 23:08:41.55 ID:Rri5HD+xo
「曲調としては765のREADY!!に近いものになると思うから、ひとまずはそれをイメージしておくといいわ」

銅が書類をペシペシと叩きながらアドバイスした。

「本当はせっかく三人いるんだから三声でやりたいと俺は言ったんだけどな、わかりやすさを優先しろって銅に怒られた」

「当たり前でしょうが。これはライブとかでお客さんと合わせて歌ってもらう類いのものなのよ」

今度はその書類で銅がPの頭を叩く。

Pはやれやれと云う顔で「俺は好きなんだけどなぁ、複雑なコーラス」と愚痴をこぼした。

「だったらアタシや鏷を巻き込まず他の企画でやりなさいよね」

「うーん、そうだな、考えてみるか。アイドルがゴスペルやア・カペラを演る……、うん、燃えるな」

「プロデューサーってゴスペルとかア・カペラが好きなの?」

凛が訊ねると、Pは心なしか目を輝かせた。

197: 2013/09/17(火) 23:09:43.93 ID:Rri5HD+xo
「おう、大好きだぞ。音楽の祖ってのは突き詰めれば人間の声だからな。
 声だけで複雑なハーモニーを作るのはたまらん」

そんな自分の世界に入るPを無視して、鏷が我関せずと云うかの如く、椅子の背もたれに「うーん」と伸びをする。

そして足を組み直しながら言った。

「今日のところは帰ってから歌詞を頭に入れて、どんな風に歌おうか予習しとけや」

再び銅が告げる。

「今回は進行管理をPが、実務やニュージェネの世話はアタシが担当するからね」

198: 2013/09/17(火) 23:10:29.34 ID:Rri5HD+xo
「あれ? プロデューサーじゃないんだ? 珍しいね」

凛が、意外だ、という顔をする。

「ああ。俺は他の子たちの世話を見なきゃいけなくなってな」

最近はCGプロ内からたくさんの新進気鋭アイドル、特に第一課の所属者が急伸して芸能界を賑わせている。

それを一人で捌くのだから、Pは残務が山積しているのだろう。

簡単な打ち合わせは、これにて散会となった。

199: 2013/09/17(火) 23:12:30.61 ID:Rri5HD+xo

――

翌日から一週間、凛は学校や仕事の合間を縫って新曲のレッスンを進めている。

曲構成自体は奇を衒わずオーソドックスな構造になっているので、ボーカルのライン取りはさほど苦ではなかった。

それは未央や卯月にとっても同じだったようだ。

そんなボーカルブースの様子を、Pは陰ながら窺っている。

いま見た限りでは、早いうちにレコーディングへ進められると考えてよいだろう。


一安心してスタジオフロアから降りてくると、ちょうど制作部の入口に興行部の遠藤が来ていた。

200: 2013/09/17(火) 23:13:48.35 ID:Rri5HD+xo
「おおよかった、デスクにいらっしゃらないから探そうと思ってたところです」

階段を下りてきたところを見付けると、そう云ってこちらへやってきた。どうやらPに用事があるらしい。

「ちょっと会議室へ行きましょう」

遠藤は目配せをして廊下の反対側にある小会議室へ入り、使用中の札を掲げた。

Pも中へ進み、椅子にかける。遠藤は空調の設定温度をいじってから、対面へ座った。

「いやはやPプロデューサーは机の書類が凄いことになってますな。
 庶務が大量に詰まっているのはわかりますが、抱え込んで潰れないようにしてください。
 ――良い知らせと悪い知らせがあります。どちらを先にしましょう?」

遠藤の話はあまり穏やかではなさそうだ。それでもPは律儀に両方とも答える。

「アイドルを輝かせるためなら何のこれしきですよ。――悪い話から」

201: 2013/09/17(火) 23:15:27.41 ID:Rri5HD+xo
「年末の公演、先日の凛ちゃんのライブと同じように、横浜アリーナで23、24、25日の3DAYSにしようと云う計画でした」

Pもその話は承知している。プレスリリースにもそう出ていた。

「そうですね、既に横アリで連日開催する経験は積みましたので、準備がだいぶ楽に済ませられそうというお話でしたが」

遠藤が、会議室にいるのにも拘わらず憚り、声を小さくして云ってくる。

「その計画なんですが……全国ツアーに変更の上、五大ドーム+横アリでの開催になりそうです」

Pは敢えて感情を隠すことなく、眉をひそめた。
確かに予定より規模が大きくなることは喜ぶべきかも知れないが、そうも云っていられない課題が多過ぎる。

「……遠藤プロデューサー、うちのポリシーをよもや忘れたわけではないでしょう?」

「勿論です、興行するに足る最低限の音響環境を確保できる箱でしか開催しないと云うのは大原則です」

202: 2013/09/17(火) 23:17:31.95 ID:Rri5HD+xo
「ならなぜ。東京ドームで演るくらいでしたら横浜アリーナで一週間公演にしましょうよ。
 そもそもライブ日程は23日~25日の前提で全員のスケジュールを切ってます。
 他の子ならともかく、五大ドームツアーでは凛をはじめニュージェネ三人の根本的なリスケが必要です」

そう。五大ドーム、つまり全国ツアーとなると、それだけ準備や移動で拘束される日数も多くなる。

おそらく12月頭から行程が始まることとなろう。

Dランク以下のアイドルや、駆け出しの新人などは充分にスケジュール調整できるが、
Cランク以上の卯月や未央をはじめ、おねシン組はだいぶ先まで固まっているし、
なによりCGプロでトップを走る凛に至っては年末まで埋まっている状態だ。

その中で動かせないものと動かせるものを選り分け、動かせるものは関係各所に頭を下げひたすら調整する。

当然、リスケ先がコンフリクトしないよう細心の注意を払わなければならない。


凛の三曲目も、遅くとも11月下旬までに出さなければならなくなるだろう。

軽く想像しただけでも気が遠くなりそうな作業量である。

天を仰ぎ、手で目を覆い、思わず「正気か」と言葉が洩れた。

203: 2013/09/17(火) 23:19:01.34 ID:Rri5HD+xo
「Pプロデューサー、私もお気持ちは判ります。
 ですが五大ドーム全国ツアーの看板を前面に出したいと云うスポンサーの強い意向があって、社長もそれには抗えず……」

つまり、スポンサーのせいであって興行部がごり押ししているわけではないと遠藤は云いたいのだろう。

「出家鵺さんも磐梯南無粉さんもうちの方針に理解あると思ってたんですけどねえ……」

「はい。だからこそこれまで我々の方針を最大限尊重してくださいました。
 しかし最近は愚裏意さんや癌砲さん、出井絵夢得無・酸雷図さんが地味に伸びているので、
 叩きつぶ……もとい、牽制しておきたい目的があるそうです。群雄割拠の時代ですから」

崩れた姿勢を戻し、覆っていた手を外すと、目の前では遠藤も頭を抱えていた。

「まあ事情はわからんでもないですが……参りましたね」

「特に磐梯さんは961さんとも仲がいいですし、なんとか社長の顔を立てると思って、お願いします」

磐梯南無粉の機嫌を損ねれば、資金が引き揚げられる上に961プロの力を利用して我々が潰される可能性もある。

磐梯南無粉の意に背くことは極めて得策ではない。

204: 2013/09/17(火) 23:20:28.84 ID:Rri5HD+xo
そう、これこそが我がCGプロの資本を巡る構造的な欠陥なのだ。

スポンサーの後ろにライバルプロダクションの影が見え隠れする状況は早く改善させる必要がある。

961とタメを張れるくらいまで、そして磐梯南無粉と出家鵺に有無を言わせない規模にまで
この会社を大きく、所属アイドルを強くしないといけないということだ。

腹を決めなければならない。

「……仕方ありません、先方――特に磐梯さんに、音響の準備期間と整備費用を上乗せ交渉してくださいますか」

それで手を打とうというPの意思を、遠藤は汲み取った。

「わかりました。お客様に最高の公演を届けたい、その熱意で勝ち取ってきます。
 そして良い知らせというのは、その最高の公演を届けられるのに関係しそうなことです」

205: 2013/09/17(火) 23:21:53.93 ID:Rri5HD+xo
「……と仰りますと?」

それまでの困った顔から一転、遠藤はニヤリと笑みを浮かべた。

「765プロの天海さんから、是非カメオしたいとのお申し出を頂きました」

「えええっ!?」

なぜトップアイドル天海春香がわざわざCGプロの公演にカメオしたいなどと云い出したのか。

これで驚くなと云われても無理な話であった。

「765の赤羽根プロデューサー曰く、凛ちゃんと同じ公演に出てみたいとのことでして」

もしかしたら、凛ちゃんは誰からも愛される才能があるのかも知れませんね、と遠藤は笑う。

206: 2013/09/17(火) 23:23:14.21 ID:Rri5HD+xo
「おそらく日程的には、最終日25日の横アリのフィナーレ辺りで出演をお願いすることになりそうですが、如何しましょう?」

「765さんさえ良いのなら、凛や我々制作部に断る理由はありませんよ」

その答えに遠藤は頷いた。

「わかりました。では765さんとその方向で折衝します」

「固まり次第、私に連絡願います」

「勿論ですとも」


その後、数日で765との協議はまとまり、凛がその話を知らされたのは、ニュージェネレーションのボーカル収録が済んだ直後のことだった。

207: 2013/09/17(火) 23:25:29.83 ID:Rri5HD+xo


・・・・・・・・・・・・


凛は極めて不機嫌であった。

内心のイライラを隠そうともしないほどに、まさに苦虫を噛み潰したようであった。

女の子――ましてやアイドルとしてあるまじき、足を組んだ格好でソファに座り、
膝の辺りで絡ませた手の指は、とんとん、と落ち着きなく動いている。

その隣では、卯月と未央が、こちらは明らかに落胆した顔で意気消沈していた。

ニュージェネレーションが喧嘩をしたわけではない。


春香のカメオが決定してから約一週間、六月がまもなく下旬へ差し掛かろうと云う頃。
重苦しい第一課ミーティングルームの空気と同様、空は梅雨時特有の鉛色をしていて、
それがさらに部屋の空気をどんよりさせる悪循環。

 ――あぁ、吐きそう。

Pは脂汗を流しながら、目の前の状況を如何にして突破しようか考えあぐねていた。

212: 2013/09/18(水) 22:54:10.18 ID:56Xrxhuco
ことの発端は、先月のシンデレラガール選抜総選挙。

運営部からその結果と、上位五人による何らかの企画を進める依頼が寄せられたのは、まさに青天の霹靂と云えた。

勿論、総選挙イベントを開催していること自体はCGプロ全員が周知の通りであったが、
その結果に応じて何らかの企画を行なうと云うことは、制作部に話が通っていなかったのである。

仕事量の多さゆえの、縦割り行政による弊害だった。

抗議の姿勢を見せた制作部に、運営部は「そんなの一々言わなくてもわかるでしょ?」とでも云いたげな
ニュアンスの文書を寄越してきたが、実際にアイドルたちを動かす制作部としては、たまったものではない。

既にスケジュールやプロジェクトの制作進行管理は固まっていて、すぐには弄れないことを説明すると、
既存の企画を総選挙結果に当て嵌めるよう提案――実際はほぼ強要であったが――してきたのだ。

213: 2013/09/18(水) 22:55:28.24 ID:56Xrxhuco
その白羽の矢が立ったのが、ニュージェネレーションが先日レコーディングしたシングル――『輝く世界の魔法』。

ちょうどこれはニュージェネレーション用と云うことでグループ・複数人で歌うことを前提としている曲構成だったため
五人バージョンへ変更しやすく、工数もかからないのが理由となった。所謂“ガラガラポン”である。

斯くしてニュージェネレーション版は闇に葬られ、選抜ガールズ版として発売されることとなった。

Pは、それをニュージェネレーションの三人へ伝える、極めて貧乏くじの役割を背負わされたのだ。
不運ながら、銅も鏷も、今日に限って外回りだ。

ここで、先ほどの凛の超絶な不機嫌へとつながる。

214: 2013/09/18(水) 22:59:15.29 ID:56Xrxhuco

「――お前の気持ちはわかる。これでも俺もだいぶ抵抗したんだ」

「抵抗したって結局押し切られたんでしょ、それは抵抗しなかったのと同義じゃん」

凛が痛いところを突いてくる。そしてそれは正論なのだ。

「しかしな、運営部のクソどもが、もう選抜メンバーで企画をやるとアナウンスだしちまったって云いやがるんだ。
 こっちの言い分は全く無視。俺にはどうしようもないんだよ……。凛は選挙の上位に入ってる。お前は収録されるから、な」

「私が入るとか入らないとか、そんなの関係ない。ニュージェネレーションのものなんだよこれは」

「だから卯月と未央には申し訳ないってさっきから何度も――」

「納得できないよ。私、やらないから」

Pの言葉を遮るように凛はピシャリと宣言した。

「頼むよ凛、俺の立場もわかってくれ」

「俺の立場って何よ!? “これはニュージェネレーションのプロジェクトだから譲れない”、って氏守するのが
 プロデューサーの立場にある人の役割じゃないの!?」

ついに凛は激昂して机を叩いた。

215: 2013/09/18(水) 23:01:25.96 ID:56Xrxhuco
すわ何事かと、第一課のアイドル数人がミーティングルームを覗き、そのあまりの異様な空気に
只ならぬものを察知して、何も云わずにフェイドアウトしていった。

その中には、諍いの原因となっている、総選挙で上位に入った者もいた。
彼女たちには実際何の落ち度もないのだが、部屋へ完全に入ってこなかったのは賢明と云えよう。

「り、凛ちゃん、もういいよ……Pプロデューサーさんも困憊してるし……また別の企画で一緒にやろ?」

「そ、そうだよ。私は、しぶりんがそこまで怒ってくれるだけでも嬉しいからさ~……」

見るからにガッカリしているのに、卯月と未央は気丈にも凛を宥めようとした。

「卯月! 未央! だって悔しくないの!? 久しぶりのニュージェネレーションの活動をみんなで喜んだのに!
 諦めるなんて、卯月―リーダー―の決断でも厭!」

「そりゃ、悔しくない哀しくないって言ったら嘘になるよ? でも決まっちゃったものは仕方ないよ……」

「あまり我が儘を云ってPさんたちを困らせるのも~……それもまた哀しいしさ……」

重苦しい沈黙が支配する。

216: 2013/09/18(水) 23:02:59.96 ID:56Xrxhuco
そのままどれほどの時間が経っただろうか。

一分のようにも思えるし、一時間のようにも感じられた。


不意に凛が立ち上がる。

「やっぱり、到底納得できない。私が運営部に乗り込んで直談判してくる」

「ちょ、ちょっとまて、凛、それはやめろ」

Pが泡を食って制止する。

217: 2013/09/18(水) 23:04:47.86 ID:56Xrxhuco
「なんで止めるの!? 私の発言力があればひっくり返せるでしょ?」

「だからこそだ。お前はこの事務所の筆頭アイドルだからこそ、俺は、お前自らが
 己の立場を不利にする行動をとるのを認めるわけにはいかん」

「だったら社長に云うまでだよ!」

「わかった、わかった。凛、ひとまず座ってくれ」

両手のジェスチュアで凛を落ち着かせようと必氏だ。

「でも――」

「いいから。座ってくれ」

今日初めて見せたPの強い口調に、凛は渋々と従った。

218: 2013/09/18(水) 23:06:36.08 ID:56Xrxhuco
「……社長室へは俺が征く」

その言葉にニュージェネレーション三人は息を呑む。

「それにはちょっと準備が必要だ。軽く書類を用意するまでちょっと待ってくれ」

そう云いつつ、Pは少し離れたテーブルで、さらさらと紙に簡潔な文と印鑑を押した。

立ち上がったPが手に持つ紙に、チラリと『辞表』の文字が見え、凛が血相を変えて立ち上がる。

Pの腕を捕まえて叫んだ。

「ちょっと、プロデューサー、それは待って! 辞めないで!」

219: 2013/09/18(水) 23:07:59.74 ID:56Xrxhuco
Pは凛を落ち着かせるために努めて静かな口調で、説明する。

「……これは万一の際のお守りみたいなモンだよ。はじめから辞めるつもりで行くわけじゃない」

「だからってそんな…… ――プロデューサー、私も行く」

「それはだめだ。お前らはここで待っていろ」

「ううん、何と言われようとついてくからね」

凛は梃子でも動かないほど強固な意思を以て宣言した。

いつの間にか、卯月と未央もPを囲んでいる。

Pはため息をついて、

「社長室の手前までだぞ? そこからは俺だけで行くからな」――

220: 2013/09/18(水) 23:09:43.61 ID:56Xrxhuco

「――ふむ? それで、私にどうしろと?」

「自分の力不足は重々に承知しています。なんとか白紙の段階から再検討できないか運営部に取り計らいを――」

「確かにこれはどちらかと云えば運営部の落ち度だし、押しが強すぎる部分もあるのは見過ごせん。
 しかしファンからの視点を考えれば、選挙結果に基づいた企画が待望されるのではないだろうかねえ……」

社長室から人払いし、二人だけの状態でPは懇願していた。

しかし答えはあまり芳しくない。
確かに社長の云うことも一種、的を射たものであったのだから。

胃がキリキリと痛む。

いよいよ伝家の宝刀を抜くしかないかと覚悟を決め、懐へ手を入れたとき。

221: 2013/09/18(水) 23:11:44.85 ID:56Xrxhuco
「私からもお願いします!」

バンッ! と大きな音を立てて凛が転がり込んできた。

「――! おい凛! お前は来るなと云っただろ!」

慌てて振り返って、状況を認識する一瞬の間を置いてから、Pは凛に怒鳴った。

「耳をそばだてていたら剣呑な空気を感じたの。その胸へ突っ込んでる腕は何!?」

「そうだねP君、ひとまずはその胸にある穏やかじゃないものから腕を抜いてくれんかな」

うっ、とPは言葉に詰まった。社長にまで見透かされているとわかって、がくりとうなだれた。

「私も社長室へ乗り込んできちゃった以上、プロデューサー、もうこれで一蓮托生だよ。
 社長、運営部に撤回するよう云ってください!」

222: 2013/09/18(水) 23:13:12.48 ID:56Xrxhuco
威勢のいい凛と引き換えに、頭を抱えるP。
その二人を交互に見て、社長は笑うように云った。

「麗しい師弟関係だね。それは結構なことだが、渋谷君、あまり向こう見ずに突っ走っては駄目だぞ」

優しいながらもオーラのある言葉、そして社長の目線の力に、それまで息巻いていた凛は失速してしまう。

「――ッ……
 ……すみません……」

さすがの彼女でも、会社のトップとはまるで年季が違うのだ。

社長は静かになった凛を見届けてから腕を組んでしばらく目を瞑っていたが、ふと、気付いたように瞼を開けた。

223: 2013/09/18(水) 23:14:39.01 ID:56Xrxhuco
「そもそも、ニュージェネレーションと選抜メンバーのどちらかを選ぶのではなく、その両方を収録することはできんのかね?」

「……あ」

Pは短く息を漏らした。

判ってしまえば単純な問題。

どちらかを選ぼうとしたからここまで絡まったのであって、両方を収録するなら丸く収められるかも知れない。

「……勿論、プロダクト上、表向きの位置づけは、『選抜メンバーの企画にニュージェネレーションが相乗りする形』となってしまうだろうが」

それでも無に帰すよりはましではないかね? と社長は凛の方を向いて諭すように云った。

「確かにそれはそうですが……、
 せっかくプロデューサー陣がニュージェネレーションのために組んでくださった作品を、
 そして私たちニュージェネレーション三人で頑張ってきた成果を、
 出来上がってから横取りする泥棒猫のような運営部の振る舞いは……到底承服できません」

相当腹に据えかねているのであろう、述べる言葉のトーンは抑えていても、端々に痛烈な刺が見え隠れしている。

224: 2013/09/18(水) 23:17:03.74 ID:56Xrxhuco
「確かに完全には納得してもらうことは出来ないかもしれんね。
 ……ただ社会にはこうやって意に添わないことも多々あるものなのだよ。
 渋谷君、こうは考えられんか、『運営部に貸しを一つくれてやった』と」

「貸し……ですか。返してもらえる保証もないのにですか?」

Pは凛のここまでの楯突きっぷりに、懐かしさを憶えた。

担当した当初の、自分と意見が衝突ばかりしていた、かつての彼女そのままであったからだ。

凛は、真面目だ。
真面目だから物わかりのいい一面もあるが、真面目だからこそ、今回のようなことも起こる。

社長は、凛をスカウトしてきた人間だ。
彼女の性格をよくわかっているのだろう、苦い表情をしながらも肩を上下させて笑っている。

さあここで凛を宥め、納得させるのがプロデューサーたる俺の役目だ、とPが彼女を向いたとき。

225: 2013/09/18(水) 23:20:27.97 ID:56Xrxhuco
「私たちは、それで……いいよ」

卯月と未央までが、社長室へ上がり込んで来て云った。

Pは口を開けたまま固まる。

「Pさん、ごめんね。……約束破って入って来ちゃった」

未央が首を竦ませ、P、凛、卯月、そして社長をぐるりと見渡した。

「日の目を見ないよりは、多少体裁が変わったとしても、世に出したいよ。折角しまむーもしぶりんも、そして私も頑張ったんだもん」

「ね、凛ちゃん、社長の提案を呑もう? たとえそれが妥協――あっ、すみません、……双方を歩み寄らせた案でも、
 始終反発して、丸切り反故になるよりはいいと思うよ。……ね?」

卯月が凛の肩に優しく手を置いて語り掛けた。
その言葉の中で出掛かった“妥協案”と云う単語に、社長は複雑そうだ。

226: 2013/09/18(水) 23:21:57.50 ID:56Xrxhuco
「……みんな、……大人だね。私はやっぱり、まだまだ子供なんだな……」

凛は観念したように嘆息した。
そして、ぽとっ、と、左目から一粒だけ泪がこぼれる。

「それでも悔しいな……やっぱり、悔しいよ……」

身体が小刻みに震え、硬く握られた拳には、さらに力が入っていく。

「しぶりん……」
「凛ちゃん……ありがとね、私たちのためにこんなに悔しがってくれて」

まさか凛の涙腺が最初に溢れるとは誰も予想していなかったのだろうか、
卯月と未央も泪を止められなくなったようだ。

三人、肩を抱き合って静かに泣いた。

227: 2013/09/18(水) 23:23:28.91 ID:56Xrxhuco
女の泪は何よりも強い武器だと比喩されるが、実際、男としては非常に居心地が悪い。

何か声をかけるべきか、それともそっとしておくべきか。
共に正解のような気がするし、共に不正解のような気もする。

「なんだか今話し掛けるのは憚られるのだがね、一応は、受け容れてくれたと判断してよいかな?」

社長が済まなそうに声をかけると、卯月が社長を向いて、静かに頭を垂れた。

「ありがとう……ございます」

泪が顔に一本の線を描いていたが、その綺麗なお辞儀には、リーダーとしての気概があった。

228: 2013/09/18(水) 23:25:06.74 ID:56Xrxhuco
「お前たちには辛い思いをさせて済まない。何とか新しい企画でリカバーするよ」

Pが三人の肩に手を添えていく。社長もフォローを忘れない。

「云いたいこともあるだろう、不満なこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう。
 それらを呑み込んで、承諾の決断をしてくれたことに、私からも礼を述べよう。
 そして、今回の事態が運営部の落ち度であることは確かだし、その無理を制作部に押し付けたまま
 暢気にしているのを見過ごすわけにもいかん。運営部の者たちに、明確な謝罪と、
 難題を受け入れた制作部に対する感謝を示すよう私から強く指導しておこう。
 島村君、渋谷君、本田君。どうかな、これで溜飲を下げてくれんか」

普段、下部組織への干渉は極力避ける信条の社長であったが、その強い言葉は、異例とも云える対処であった。

三人は、赤く腫らした目を隠さず、社長に頭を下げた。

229: 2013/09/18(水) 23:26:35.44 ID:56Xrxhuco
「よろしい。それでは、少々P君と話があるから、すまんが席を外してくれんか」

Pは社長のいきなりの言葉に驚いた。が、すぐに気を取り直して指示を出す。

「三人は先に休憩室へ行っててくれ。
 レッスンまでまだ時間はあるから、ジュースでも飲んで、気分を落ち着かせておくようにな」

ニュージェネレーションは頷いて、静かに部屋から退出していく。

最後に凛が、深く礼をしてからゆっくりと扉を閉じた。

230: 2013/09/18(水) 23:28:08.71 ID:56Xrxhuco

それを確認して、なおたっぷり時間を取ってから、ようやく社長は口を開いた。

「美しい友情だね」

「申し訳ありません、彼女たちがここへ乗り込むのを止められなかった私の監督不行届です」

「まあいいよ。我々にとって一番大事なのは彼女たちアイドルだ。直接話が出来て僥倖だった」

Pは謝罪と感謝、両方の意味で頭を下げた。

「さてP君、この会社の構造的欠陥が表面化してきてしまったようで、すまなかったね」

「いえ、私が厭な思いをするのは慣れっこですし、そう云う役目です。
 ……でも、あの子たちに苦い泪は流させたくありませんでしたね。
 レッスンがうまくいかない、またはバトルに負けたり等で泣くことは往々にしてありますが、
 自分の行動の結果ではなく、自らの力の及ばないところで翻弄された末の悔し泪というのは、実に後味が悪い」

社長は、肘を机に置き、顔の前で手の指を組んで、Pの言葉に「そうだな」と大きく頷いた。

231: 2013/09/18(水) 23:30:06.72 ID:56Xrxhuco
「P君、制作部は数多いアイドルの管理が大変で、どうしても無理を受け入れてしまいやすい土壌があるようだ」

「そうですね、面倒事を避けようとするあまりの、部署全体の悪癖かも知れません」

事実、各部署と調整に手間取るくらいなら、多少の無理でもラインを回してしまった方が早い。

先日の、興行部からの無茶振りに応えようとしたのも、その悪癖の結果と云える。

また、第一課から第三課へ分かれていて、それぞれが相対的に他部署より弱くなってしまっている、
つまり他部署が無理を通しやすい力関係になっているのも理由の一つだろう。

「そこでだね――」

232: 2013/09/18(水) 23:31:33.05 ID:56Xrxhuco
社長は組んでいた指を離し、人差し指を上へ向けた。

「――制作部各課の上に、チーフプロデューサーを置くのはどうだろうかと思う。
 制作部全体を代表し、それでいて第一から第三までを統括的に手がける存在だ」

「なるほど、“制作部そのもの”の顔となるプロデューサー、と云うことですね」

ちょうどいいかも知れません、と、かねてからP・銅・鏷のプロデューサー陣が
話し合っていた事柄を社長へ説明した。

アイドルの人数が多いため、今後、ユニットを組ませる売り出し方をしようと構想が出たこと。
そのためには、第一・第二・第三課の枠組みを超える必要があること。

233: 2013/09/18(水) 23:33:00.88 ID:56Xrxhuco
「――確かに現在のままでは、制作部の中ですら縦割りになっていますから、
 そこを横断して見られる人間がいた方がいいかも知れません」

「では提案した方向で考えておこう。
 組織の構造を変えるには少々手間と時間がかかる。タイミングも必要だから今すぐにと云うわけにはいかんが」

早くとも、年度の切り替わりを待つ必要があるだろう。

「いえ、社長のお考えが伺えただけでも充分です」

「ひとまず、銅君と鏷君にもヒアリングをした上で、現プロデューサーのうち誰かが制作部を代表する
 位置に着くよう辞令だけは出しておくよ。それともう一つ制作に関わることなんだがね」

234: 2013/09/18(水) 23:35:07.43 ID:56Xrxhuco
社長は鍵の掛かった引き出しから書類を出して、プランをPに提示した。

こと音楽と映像に関して、プリプロ・ポスプロを社内で一元的に作業できるようにする計画。

企画から作詞、作曲、編曲、キャスティング、レコーディング、ミキシング、プリマスタリングまで。
または企画から脚本、絵コンテ、ロケハン、キャスティング、収録、MA、VFX、オーサリングまで。

つまり、CGプロ内に、販売のみを外部へ委託するレコード会社を持つと云うことだ。

961に次ぐ業界の巨人、ジョニーズが15年前に採った手法。

235: 2013/09/18(水) 23:36:46.89 ID:56Xrxhuco
「これだけ所属者が増えてくると、外部のスタジオとの日程擦り合わせだけで相当のロスになる。
 プリプロ段階では、作曲等で外部を起用することは今後も続いていくだろうが、
 内製できる環境も持っておけば柔軟に対処しやすくなろう」

「はい、仰る通り、外部に発注しないとまともに制作が進められない状況と云うのは好ましくありません」

これまで何回も、予算、納期の問題で泪を呑んだことがある。

また、アイドルがここまで多くなると、毎日何かしらの新しい話が内外に飛び交うようになるので
不測の事態が起きたときに対処できるよう、日程のセーフティゾーンを長めに取る必要もあった。

個々のロスは小さくとも、それが人数分降り積もると、相当に大きな山となるのだ。

236: 2013/09/18(水) 23:38:42.59 ID:56Xrxhuco
「君は制作部のプロデューサー陣の中でも、特に音楽プロデューサーとしての性格が強い。
 一部の企画ではプリからポストまで全て自前でやったこともあるそうじゃないか」

「学生時代に取った杵柄ですから、現在第一線にいらっしゃる方々とは到底比較になりませんよ」

確かに事務スペースのPの作業マシンにはシーケンサがインストールされているし、
それを使って小規模または低予算の企画は自らの手で作ってしまう。それは凛はじめ一部の人々に知られていた。

「そこで、このプランを実現するためにね、君にトップを張ってもらいたい。
  ハリウッドにメルヴィン・ワーレンと云う私の知り合いがいる」

237: 2013/09/18(水) 23:39:44.52 ID:56Xrxhuco
「……まさか、ホイットニー・ジョンソンのプロデュースを手掛けたことのある、TOOK6初期メンバーの、あの?」

「そうだ。
 彼の許へしばらく師事して、向こうの技術とトレンドを吸収してきてくれんか。
 ハリウッドなら音楽だけでなく、“物の観せ方”にも精通できよう。
 半年から一年程度の実地研修、と云うわけだ」

予想だにしなかった提案を受けて、あまりの驚きにPの思考は停止した。

まさか自分が、制作――いや、より大きな要素を含む“製作”ラインの司令塔となり、
さらにはそのためにハリウッドへ行くなど。

そもそもこの社長、メルヴィン・ワーレンと知り合いなんて、
一体どれだけのコネクションがあるのだろうか。

238: 2013/09/18(水) 23:41:24.52 ID:56Xrxhuco
慌てて脳味噌を再起動し、多量の思考を巡らせる。

「……大変有難いお話ですが、今すぐにはお答えできません。
 引き継ぎの計画や今後のプロデュース方針なども固めなければなりませんし、
 現在第一課のアイドルの面倒を看られるのは自分しかいません」

勿論、社長はその返答を予測していたのだろう、然もありなむと云う体で頷いた。

「そうだな。まあそんな話もある、ということを頭の片隅に入れておいてくれ。
 返事はいつでも構わんよ。何だったら一年後とかでもいい。
 どうせ米国O-1ビザの取得には、二箇月ほどはかかる。取っておけば三年の有効期間中いつでも入国できよう。
 手続はこちらで進めておくよ。行くなら早めに必要だし、行かないならビザを使う必要がなくなるだけだ――」

239: 2013/09/18(水) 23:42:31.54 ID:56Xrxhuco
書類を引き出しに仕舞いながら、

「――いづれにしろ、制作部の管理職は増やそう。君がアメリカへ行く行かないに拘わらず
 現在の制作部のプロデューサー陣はオーバーワークだ。副プロデューサーという体裁で
 人材を集めておくよ」

「お心遣い、痛み入ります」

Pは頭を下げ礼を述べるが、

「でないと、私が今後ティンときた娘がいても、キャパオーバーで
 スカウトできなくなってしまうからね! わっはっは!」

と云う社長にガクッとずり落ちた。

240: 2013/09/18(水) 23:44:35.48 ID:56Xrxhuco

――

「どうだ、落ち着いたか?」

Pは休憩室に顔を出して様子を見た。

凛たち三人は、泪こそ既に流していなかったが、目は腫れたままであった。

少しだけしゅんと、しおらしく座っている。

休憩室には他の人間の姿はない。

事務所で最も古株、そしてトップにいる三人が、なにゆえか目を赤くしている――

それは他のアイドルたちにとって衝撃であった。

慮って休憩室に入らないのも当然であろう。

241: 2013/09/18(水) 23:46:34.02 ID:56Xrxhuco
Pは三人の対面にゆっくりと座る。

「いいか、今回の件は、気の毒ではあったが、もう落としどころを見付けて軟着陸したわけだ。
 お前たちはアイドルだ。人に見られるのが役目だ。
 悔しさに哀しむのではなく、せめて無駄にはならなくて良かった、と笑顔を出せ」

人に見られるのが役目――

凛も卯月も未央もそう呟き、お互いの顔を見合わせて、こくりと頷いた。

「そう……だね。……ごめん、プロデューサー、アイドルがこんな姿見せてちゃだめだよね」

凛がぐいっと目を擦って立ち上がった。

Pは、その意気だ、と笑みを浮かべている。

そして、休憩室を独占したままでいるのも悪いだろうから、と、第一課のミーティングルームへ引き連れた。

242: 2013/09/18(水) 23:48:27.54 ID:56Xrxhuco

そのまま制作部に入り、ちょうど第一課のスペースをくぐろうかと云うところで、背後からちひろが告げてくる。

「プロデューサーさん、早速ですが運営部の部課長がぞろぞろとお出ましですよ」

「えっ、もうですか?」

さっき社長と話したばかりなのだが。

「社長からすぐさま指示が行ったみたいですね。
 相当強い調子だったんでしょう、揃いも揃って青い顔してすっ飛んできてますよ」

「なるほど、わかりました。ここまで通してください」

243: 2013/09/18(水) 23:49:23.48 ID:56Xrxhuco
ちひろが、どうぞ、と手を部内の方へ傾けると、すぐに数人が入ってくる。

なるほど、青い顔と云うのは間違っていないな。

Pがそう思うほど血の気が引いていた。よほど絞られたのだろうか。

「制作部に無理を通すこととなってしまい、大変申し訳ない。
 こちらのミスにも拘わらずご助力頂き、心から感謝します」

姿を見せるや否や、運営部の管理職全員が、45度の最敬礼でそう述べた。

社長に恐れを成してやって来ただけの、ただの案山子だな――
Pは、一列になって頭を下げる数人を見ながらそう思った。

244: 2013/09/18(水) 23:50:55.07 ID:56Xrxhuco
しかし曲がりになりにも謝罪と感謝であるから、返礼しないわけにはいかない。

それでも、これだけは云っておかねば、とPは口を開いた。

「我々制作部については構わないのです。
 同じ社内なんですから、万一の際は協力するのが当たり前です。
 ですが、あなた方は、もっと別の人に、他に云うことがあるのではないですか」

その言葉に、部長が礼をしたまま少し顔を挙げて、不思議そうな顔をした。

まだわからないのか、とPが軽くアイドルたちを指差すと、合点が行ったようだ。
そのまま凛たちに向き直り、再び最敬礼の謝罪をする。

「我々は書類上の数字しか見ていなかった。
 その向こう側に深く傷つく子たちがいるのだと、そのことへ考えが至らなかった点、深くお詫びを申し上げたい」

246: 2013/09/18(水) 23:54:41.14 ID:56Xrxhuco
反吐が出るほど形式的な謝罪。

しかし。

「……私は、そのお言葉で充分です」
「……私もです」

卯月が軟らかい調子で返答した。未央もそれに続く。

凛はとても複雑な顔をした。

赦したくない。でも赦さなきゃいけない。一瞬の逡巡ののち、

「……私も、その心からの謝罪を頂ければもう構いません」

どろどろとしたものを全て呑み込んで、凛は云った。
ただし、言外の雰囲気に、相当な憤慨があることを滲ませる厳しい口調ではあったが。

247: 2013/09/18(水) 23:55:52.19 ID:56Xrxhuco

ちょうど第一課のソファにいた蘭子と楓が、それに合わせて立ち上がり、声を掛けてきた。

「業―カルマ―にて黎明者たる集いを闇黒の深淵へ滴すのは、我が魔力を封じし器も慟哭に叫ぶ
(私もニュージェネレーションの三人を悲しませることになってしまって、申し訳なく思っていたんです……)」

「ごめんなさいね、みなさんには悪いことを……」

凛たちは、それらの言葉には大きく首を振った。

蘭子の言い回しは、細かいところまでは判らなかったが、それでもニュアンスは受け取れる。
凛は彼女を抱き締めた。

248: 2013/09/18(水) 23:56:41.16 ID:56Xrxhuco
「ううん、これは決して蘭子たちのせいじゃないから。蘭子たちは何も悪くないよ。
 どこかで歯車がずれてしまっただけ。だから謝らないで、ね?」

凛が身体を離すと、蘭子がやり切れない表情をしていた。

微笑みながら軽く顎を引くと、蘭子も目を閉じて頷いた。

このやりとりが出す空気に、運営部の人間も、自分たちは何を仕出かしてしまったのか、と云うことを漸く悟ったようだ。
部長は脂汗を浮かべている。

凛は斜向かいの楓にも微笑みを向け、踵を返してミーティングルームへと入っていった。

卯月と未央もそれに続く。

その後ろでは、Pが促して運営部の人間は解散していった。

249: 2013/09/18(水) 23:57:41.57 ID:56Xrxhuco

「あー……部署の入口に塩撒きたい」

ミーティングルームのソファに腰掛けながら、凛は気怠そうにぼやいた。

卯月がその放言にぎょっとする。

「そ、そんな物騒なこと言っちゃだめだよ凛ちゃん」

「……冗談だよ。一種の“儀式”が終わったんだから、もう私は気にしないことにする!」

「そうだね~。切り替えだよ切り替えっ!」

努めて明るく振舞おうとする三人。

ふう、と息をつきながら最後に部屋へ入ったPは、彼女たちの強さに感歎した。

250: 2013/09/18(水) 23:58:38.49 ID:56Xrxhuco
「そうだ! 今日のレッスンが終わったら、みんなで遊びに行かない~? パァーッと吹き飛ばそ~!」

「おいおい未央ちゃん、そりゃ夜になっちまうぞ。そんな時間から遊びに行くのは感心しないな」

Pが嗜めても、凛や卯月は未央に同調した。

「いいね、久しぶりにみんなでどこか行こっか」

「ね、凛ちゃん、未央ちゃん、カラオケどうかな?」

「おっいいねーしまむー。カラオケなら陽が落ちてからでも大丈夫だしね~」

ワイワイガヤガヤ。Pの言葉を無視して話が進んでいく。

251: 2013/09/18(水) 23:59:33.53 ID:56Xrxhuco
「ねえプロデューサー、一緒に行かない?」

凛が首を傾げて、半ば、どや顔のような笑みで誘ってきた。

Pは観念して両手を挙げた。

「はいはい、お姫様方のお守りを仰せつかりました。
 夜に未成年の女の子だけで遊ばせるわけにはいかないし、レッスン終わったら連れてってやるよ。
 それまでに今日の分の仕事を終わらせておく。ただし二時間までだからな」

やったね、とか、やっりぃ~と云う喜びの声と共に、三人はPへ抱きついた。

252: 2013/09/19(木) 00:00:50.45 ID:NXjdXiMSo
しばらくののち、凛が不服を申し立てる。

「……ちょっと。私はともかく、卯月と未央は他課のプロデューサーに抱きつくの止めた方がいいと思うな」

「えーしぶりんが独占するのはずるいなぁ~?」

「別に独占なんて意図はないし」

「凛ちゃん、そう云うのをクーデレって呼ぶらしいよ?」

「知らないよもう!」

喧々囂々なやり取りにPは苦笑するが、ほんの少し前までとてつもなく険悪な空気だったことを思えば、
これくらいは何ともない、微笑ましいものであった。

253: 2013/09/19(木) 00:03:01.24 ID:NXjdXiMSo


――パゼラ六本木にて――


――はい、凛ちゃん! コレいって! みんな元気になれるよ!

――だからって……なんで菜々の曲なの?

――もちろんコールはあれでね~っ! ほら始まるよっ!

――あーもう! わかったよ、やればいいんでしょやれば……こうなったら自棄だよ

――リリリン! リリリン! シーッブリーン!

――リリリン! リリリン! シーッブリーン!!

――リリリン! リリリン! シーッブリーン!!!

――シブシブシーブー シーッブリーン!!

――キャハッ! ラブリー―ほんとに―17歳! リンッ!

――(きらりのモノマネしたときよりつらい……)


――――
――

263: 2013/09/19(木) 23:39:57.28 ID:NXjdXiMSo


・・・・・・・・・・・・


七月上旬。

この日、例年より半月以上も早く梅雨が明け、うだるような蒸し暑さが急に本気を出してきた。

麻布十番の街を、強烈な日射しが容赦なく照り付けている。

コンクリートジャングルと厳しい陽光のタッグは、まさしく人々を頃しに掛かってきていると云っても過言ではなかった。


「うー! あつい!!」

授業を午前だけ受けて出社してきた凛が、開口一番に言い放った言霊は、こだまのように伝播した。

「俺だってあっちいよ」

Pが椅子にだらりともたれかかりながら至極だるそうに答えた。

264: 2013/09/19(木) 23:41:59.00 ID:NXjdXiMSo
「だったら空調の設定下げてよ、プロデューサー」

「28℃って決められてんだから仕方ないだろ」

凛は制服の胸元をぱたぱたと仰ぎ、恨めしそうな顔をPへ向ける。

「大江戸線のクーラーの効きが悪過ぎて、学校から事務所来るまでずーっと暑かったんだよ?
 アイドルに汗だくのままで居ろって云うの?」

「ソファ横に扇風機があるからそれに当たれ。それに女の子の身体は冷えやすいんだから、
 設定は下げずに暑い時だけ扇風機で調整する方がいい」

Pはボールペンでデスクの横を指した。

その先に顔を向けた凛の目が、扇風機を視認するや、すたすたと早足で近寄り、首振りを切って自分の方のみへ向けた。

「あっ! こら凛! 首を固定するなよ、俺が氏ぬだろ」

「ふー、生き返るね。じゃあプロデューサーもこっちおいでよ」

ソファに身を預けた凛は、扇風機の風を一身に受け、今にも解脱しそうな雰囲気を出しながら手招きで誘う。

265: 2013/09/19(木) 23:43:47.10 ID:NXjdXiMSo
しかしPは中々に忙しいのか、いい返事を寄越さない。

「バカ云え、俺は業務が山積みなんだよ」

「あっそ。どうでもいいけど、やっぱり扇風機は『あーーーー』ってやりたくなるよね」

「ガキかお前は。……まあ気持ちは判る」

暑い時期になって扇風機を初めて動かすとき感じる思いは、みな共通であった。

「プロデューサーだってガキじゃないそれ」

「俺はいつでも心を若々しく! ってのがモットーなんでな」

そんな他愛もない会話をしている間にも、レーザープリンターがやかましく紙を吐き出し続けている。

扇風機の風の音と共に、フロアには様々な音が混じり合い、実に賑やかであった。

266: 2013/09/19(木) 23:45:33.43 ID:NXjdXiMSo

「ああそうだ、早速新曲に関するファンレターが来てるから読んでおいたらどうだ?」

Pが思い出したように、事務スペースに置かれた段ボールを指差しながら知らせた。

そこには1m立方ほどの大きな段ボールが鎮座している。

どれどれ、と凛が事務机の許まで来ると、その箱にはこれでもかと詰め込まれた大量のお手紙。

「毎度のことだけど、読み切るのに相当時間がかかりそうだね……」

「そりゃあな。特に今回は新曲の発表直後だし」

見た目よりだいぶ重い段ボールをソファの横へ持っていき、くつろぎながらゆっくり読むことにした。

色とりどりの可愛い紙に書かれているのは、新曲への感想、憧れ、そして新境地のダンスへの驚き。

こうやって、ファンの人々から直接伝えられる感想は、凛――いやアイドルたちにとって大きな励みとなる。

「……概ね、好評みたいだね」

「おいおい、世間のあの反応をお前は『概ね好評』で済ませるのか?」

267: 2013/09/19(木) 23:46:49.56 ID:NXjdXiMSo

――およそ一月前、六月上旬にPVが初披露されて以来、アイドルらしからぬ雰囲気の歌と

強烈なダンスは極めて大きな驚きを以て迎えられ、発売のかなり前から各種音楽番組や渋谷のスクランブル、

新宿アルタ等にてヘビーローテイションであったし、有線ではリクエストの首位を独走、

発売後二週間弱が経過しようとする現在もオリコソランキングでデイリートップを維持したままだ。


先日、口パク禁止として有名なフジツボテレビの音楽番組に出演した際も、激しい踊りを交えながら見事歌い切り、

凛だけでなく、CGプロそのものの実力を広く認めさせる橋頭堡となったことは間違いない。

事実、それ以来、CGプロ所属アイドルへのオファーの数が明確に増えたのである。

268: 2013/09/19(木) 23:48:24.92 ID:NXjdXiMSo

それら世間の熱は、ファンレターにも顕われていた。

先ほどから諸々の手紙を読んだ限りでは、普段よりも熱心な感想を送ってきてくれているように思える。

大きな反響に、凛自身手応えを感じていたが、何よりもPの、“面白さを求めた”計画がここまで
世間を賑わしていることが誇らしかった。Pの計画が自分を輝かせてくれていることが嬉しかった。

もっとプロデューサーの考えている世界を体現して、世の中をあっと云わせたい。

それは、凛のモチベーションにも少なからず影響を与えていた。


十数通ほどを読み終わり、すっかり汗が引いた頃、Pが書類の束を持ってソファへとやってきた。

「ん、プロデューサー、暑さに陥落した? あっ、ちょっと動かさないでよ」

凛の対面に座りながら、Pは扇風機のツマミを押し込んで、首振りを再開させた。

269: 2013/09/19(木) 23:49:45.59 ID:NXjdXiMSo
「さすがにそろそろ首振らせてもいいだろ。……はい、これ。九月半ばに出す新曲な」

ぽん、と凛に楽譜を渡す。

「あ、出来上がったんだ? 今回はどんな感じになったの」

「奇抜なメロディラインはない分、表現力が必要だな。
 詞はおそらく夕方までには上がってくるはずだ。デモテープは作ってある」

取り出したMacBook Airのスピーカから、デモが流れてきた。

ボーカルラインには、Pのラララと唱う仮歌が入っている。

270: 2013/09/19(木) 23:51:06.45 ID:NXjdXiMSo
「あれ? 珍しく仮歌自分で入れたの?」

そう、普段、仮歌にはシンセサイザーでリードが入っているのだが、
先日凛たちを引率してカラオケへ行った際、Pに少し火がついてしまったようだ。

「ふふっ、プロデューサー、“意外と”歌うまかったもんね」

凛はそう云ってにこにこ笑った。

「そりゃどーも」

Pが眼を瞑りながら肩を竦ませると、「褒めてるんだよ」と更に笑う。

271: 2013/09/19(木) 23:52:37.99 ID:NXjdXiMSo

その間にも、簡素なスピーカからは、デモが再生され続けている。

アイドル歌謡によくある、『如何にも打ち込みです!』と云った風体ではなく、
まるで70-80年代のブリティッシュロック/ロカビリーの如く、とてもグルービーなドラムスと暴れ回るギター。

バンド編成だが、縦ノリがはっきりしていてテクノのように踊りやすい。

不思議な構成だった。


でもあまりアイドルらしくないような――

この曲だけじゃなく、前回も、一般的な感覚からすれば“アイドルらしくない”プロダクトだったよね――

プロデューサーは、私を千早さんのような、歌手に近い方向へ進めたいのかな。

272: 2013/09/19(木) 23:53:41.68 ID:NXjdXiMSo
そんなことを凛がつらつらと考えて目を瞑った刹那。

――!?

凛の頭の中に、見たことのない映像が広がった。

そこでは自らが、未知のダンスを舞い、一つの世界を紡いでいる。

腕から指先へしなやかに跳ねる動きの繊細さ。

腰から体幹を激しく揺さぶる動きの大胆さ。

――なに、これ。

273: 2013/09/19(木) 23:55:45.31 ID:NXjdXiMSo

目を開けた凛は、きょろきょろと周りを見回して不思議そうな顔をした後、
「もっとよく聴きたい」と云ってヘッドホンを挿し込み、その音楽の世界へ入り込んだ。

楽譜を読みながら規則正しく踵でリズムを取っている。

その口からは、微かにメロディラインをなぞる声が漏れていた。

274: 2013/09/19(木) 23:57:12.37 ID:NXjdXiMSo

・・・・・・

この景色はなに?

なぜ見もしたことのない世界が勝手に脳内で溢れるの?

新曲を聴き込み、頭の中に拡がる光景に凛は戸惑った。

脳内―そこ―には、アイドルたる自分の未知の姿が存在していたからだ。


そもそもアイドルとは何だ。

可愛い顔、または綺麗な顔、そして艶かしい身体と云った外見的特徴を披露するだけで、歌や踊りはそのおまけ。
そんな、単に言葉通りの“偶像”という意味であれば、着飾りでもして笑顔で大人しく座っていればよい。

勿論そう云った偶像としての役目も、充分な存在意義だろう。

275: 2013/09/19(木) 23:58:12.28 ID:NXjdXiMSo
しかし、この二年強、Pと歩んできた凛は、
なにか、それだけではない要素が強くありそうな気がしてならない。


――ふと、デビューしてからの軌跡を思い浮かべて気付いた。

『無愛想を直せと云われたことが一度もない』


常識的に考えて、偶像として致命的であろうその弱点は、本来なら、イの一番に修正させるはずでは。

しかしプロデューサーはそうしなかった。

無愛想――肯定的に表現すればクールさ――が、私を構成する要素のひとつだから?

276: 2013/09/19(木) 23:59:58.22 ID:NXjdXiMSo

では『自分を構成する』とは何か。

自分だけが持つ世界を体現すること。

これこそがアイドルのアイドルたる所以ではないか?

その者だけが持つ世界、例えば素朴さ、普通さ、自然派と云う世界を体現するのがアイドル天海春香であるとしたら、
アイドル渋谷凛の造る世界とは――


落ち着いた美声と佇まい、そして類稀なる美貌とオーラをフルに動員し、

きらびやかな衣装を纏って、歌を表現しつつ、常人にはこなし難いダンスを舞う。

そんな『人工的に造られたものの美しさ』なのではないか。


赤や橙と云う暖色の春香に対して、
蒼や黒と云う寒色の凛。

アイドルがその『自身の世界』を『体現する瞬間』に、人々が熱狂し、楽しむのではないか。

277: 2013/09/20(金) 00:03:12.91 ID:P257kYP0o
……なんということだ。


=====

――プロデューサーが“渋谷凛”を形作り、

――私は“渋谷凛”という存在を表現し、

――観客はそんな私に熱狂する。

=====


横浜アリーナでシャワーを浴びながら無意識的に考えていたことじゃないか。

278: 2013/09/20(金) 00:04:09.24 ID:P257kYP0o
答えは自分の深層に眠っていた。

春香のトレースは自分のためにならないと直感した渋谷での出来事は、間違っていなかった。

凛の頭の中で化学反応が起きる。

次々と答えが導き出されていく。


そして。

その中には、明確に気付いてはならない答えがあったことも、わかってしまった。

――プロデューサーこそが、アイドルだけでなく『人間としての自分』の存在意義の核を成していることに。

――『仄かな憧れ』と云う言葉の範疇を、遥かに、軽々と飛び越えてしまう事実に。

279: 2013/09/20(金) 00:05:07.21 ID:P257kYP0o

そう。

もう、私は、あの人なしでは生きていけない。


――あの人が魅せてくれたこの世界。

――あの人が誘ってくれたこの世界。

――あの人が作ってくれたこの自分。

もう、私は――プロデューサーなしでは生きていけない。

280: 2013/09/20(金) 00:06:37.08 ID:P257kYP0o

・・・・・・

Pは、ヘッドホンを挿し込み新曲の世界へ入り込んだ凛を邪魔しないように、そっとソファを離れた。

彼女は楽譜を読みながら規則正しく踵でリズムを取っている。

その口からは、微かにメロディラインをなぞる声が漏れていた。


事務机へ戻りスクリーンセーバーを解除したところで、丁度Pの内線が鳴った。

珍しい。社長からだ。

それは、社長室まで来るようにとの指示であった。

281: 2013/09/20(金) 00:07:31.44 ID:P257kYP0o

――

ノックを四回叩き、社長室へ入ると、そこには見慣れぬ人々が座っていた。

「おお来たか、早かったね」

そう云って社長はPをソファまで来るよう促した。

「突然で済まんが、先日話した、副プロデューサーの件で進展があったものでね」

なるほど。斜向かいに座っている男性が件の人物であろう。

歳はPとはさほど違わないように感じられた。

282: 2013/09/20(金) 00:11:38.41 ID:P257kYP0o
「鈷―こんごう―君だ。ひとまず第一課に配属する予定でいる。第二課と第三課の副プロデューサー候補も
 探しているところだが、P君がチーフ代わりになって手薄となるだろうから、一足先に第一課へ入れることとした」

「お気遣いありがとうございます」

Pは社長へ頭を下げ、男性に向き直った。

「鈷と申します。どうぞ宜しくお願い申し上げます」

「制作部第一課プロデューサーのPです。こちらこそ宜しくお願い致します」

お互いに会釈をし合う中、社長が補足する。

「鈷君はプロデューサーは初めてのようだが、マネージャーおよびディレクター経験があるとのことだ」

283: 2013/09/20(金) 00:12:40.31 ID:P257kYP0o
新しく配属される人物にPは多少不安もあったが、それを聞いて幾分か解消した。

「現場を知っている人が入ってくれるのは嬉しいですね。助かります。
 これなら第一課―うち―にいる者のうち、駆け出しの数人はすぐに任せられそうだ」

駆け出しという言葉に社長は反応した。

「うむ、駆け出しと云えばね、P君。目の前にいるのが駆け出しも駆け出し、いや駆け出す前の原石だよ」

部屋へ入ったときから気にはなっていたが、社長が言及するまで触れずにいたこと。

そう、鈷の横に、人ひとり分空けて座っている女の子が二人いた。

284: 2013/09/20(金) 00:17:35.66 ID:P257kYP0o

「神谷奈緒、17歳。なんであたしがこの真っ黒なオッサンにスカウトされたのかわからねえんだけど……。
 てゆーかアイドルなんて無理に決まってんだろ! このオッサンの口八丁手八丁に乗って仕方なく来たんだ。
 べ、べつに可愛いカッコとか……興味ねぇし。ホントだからなっ!!」

「アタシ北条加蓮、16歳。アンタがアタシをアイドルにしてくれるの?
 でもアタシ特訓とか練習とか下積みとか努力とか気合いとか根性とか、なんかそーゆーキャラじゃないんだよね。
 体力ないし。それでもいい? ダメぇ?」

285: 2013/09/20(金) 00:18:36.29 ID:P257kYP0o
Pはたっぷり10秒ほど目を見開いてから、たまらず顔を伏せた。

そして、くっくっ、と肩を震わせる。

「……社長、この子たち、最初からずっとこんな調子なんですか?」

「そうだな、スカウトするのに喫茶店へ入った時から反応は変わっとらんな」

目の前の女の子二人は、何笑ってんだこいつ、と云いたげな顔をしている。

Pは仰け反って大笑いした。

「あっはっは、こりゃ凛に続く逸材になりそうだ。こんな第一声は、凛に負けずとも劣らないインパクトですよ」

――ふーん、アンタが私のプロデューサー? ……まあ、悪くないかな……。私は渋谷凛。今日からよろしくね――

凛が開口一番に投げた言葉は、今でも鮮明に思い出せる。

286: 2013/09/20(金) 00:21:07.84 ID:P257kYP0o
聞いた当初はむかっ腹が立った。

しかし二人三脚でやってくること二年余。
あのときの凛の言葉は、礼儀がなってないのではなく、不安に押し潰されそうな自分を
必氏に奮い立たせるためのものだったのだと、今ならわかる。

きっと目の前の少女たちも、期待や不安を裏返しにしたのだろう。

「それで、社長。この子たちの配属はどこです? おそらく自分が呼ばれたのですから第一課だと思いますが」

「そうだね、この子たちはクール属性だとティンときた。このまま制作部へ連れて行ってあげたまえ」

承知しました、と告げて、Pは鈷を含め全員についてくるように云った。

287: 2013/09/20(金) 00:23:53.98 ID:P257kYP0o

・・・・・・

第一課のスペースへ戻ると、凛が気付いてこちらを向いた。

Pは、自分の後ろで奈緒と加蓮が緊張に身が固くさせたのを感じた。

普段テレビや雑誌等でよく見るスーパーアイドル、その実物が目の前に存在しているのだから無理もないだろう。

社長よりも凛を前にした時の方が硬くなると云うのは、年頃の女の子らしい反応だ。


テーブルに楽譜やヘッドホンが置かれているところを見ると、大方頭に叩き込み終わってしまったのだろう。

「お、もう新曲をものにしたか。早いな」

「まぁ、ね。比較的、音を取りやすい曲調だったし」

凛は何故か少しだけ顔を赤らめながら、テーブルに置かれた楽譜を、とんとん、と指で叩く。

「で、そちらの人たちは?」

Pの後ろに目線を向けて訊ねた。

「今日から第一課に配属される、副プロデューサーの鈷君と、アイドルの卵、神谷奈緒ちゃん北条加蓮ちゃんだ」

288: 2013/09/20(金) 00:25:21.64 ID:P257kYP0o
紹介された三人はそれぞれ頭を下げる。

「副プロデューサーの鈷です。ひとまずPさんの補佐として動くことになると思います。どうぞ宜しく」

「鈷、さんか、珍しい名前ですね。副プロって呼びますね」

凛が返礼すると、Pが鈷に告げた。

「では会社全般のことは、事務の千川ちひろさんに確認しておいて」

「わかりました、行ってきます」

鈷は一礼して、鬼、悪魔、もとい、ちひろの許へと走っていった。

289: 2013/09/20(金) 00:26:03.75 ID:P257kYP0o
鈷の背中を見送ったPが凛に向き直って声を掛ける。

「おい凛、俺と違って随分とお淑やかな他人行儀じゃないか」

「まあ……初対面だし?」

Pはにやりと笑った。

「へえ、そうかい。てっきり、ふーん、アンタが副プロデューサー? とか言い出すのかと思っ――ぃ痛ってっ!」

脇腹に肘鉄を喰らって悶絶する。

290: 2013/09/20(金) 00:27:47.85 ID:P257kYP0o
そんなPを無視して凛は続けた。

「で、神谷さんと北条さん……ですね」

「お、おう。あーいやいやいや違う。 ……はい、神谷奈緒です。これから宜しくお願いします、渋谷凛さん」

「北条加蓮です。右も左も判りませんが、宜しくお願いします。渋谷、先輩」

「はい、こちらこそ宜しくお願いします。同じCGプロのアイドルとしてトップを目指しましょう」

すっと手を差し出すと、奈緒と加蓮が握り返してきた。

291: 2013/09/20(金) 00:29:12.81 ID:P257kYP0o
「……こほん。で、早速なんだけど、歳、近いでしょ?」

凛が話を切り出すものの、早くも耐え切れず口調が崩れつつある。

「あたしは17です」
「アタシは16」

「じゃあほぼ同い年だね。そういう子に敬語とか渋谷さんとか云われるのこそばゆくてさ。
 タメ口と名前呼びにしてくれない? 私も奈緒と加蓮って呼ぶから」

奈緒と加蓮は、ほっ、と表情を緩めた。

「お、おう。……けどあたしかなり口悪ぃぞ? いいのか? ……ってもう云っちゃってるけど」

「アタシも丁寧な方じゃないよ?」

顔つきは柔らかくなったが、それでも少し緊張して窺う二人。

292: 2013/09/20(金) 00:31:03.98 ID:P257kYP0o
「むしろそう云う自然体の方がいいよ、奈緒、加蓮。私も助かる」

口元にわずかに笑みを浮かべて凛は頷いた。

「そりゃ、アタシも助かるけどね。
 初対面かつ有名アイドルの凛……に対してこんな口調で喋っちゃっていいの?」

加蓮は右手で自らの髪の先をいじりながら、まだ完全には顔を解さない状態で問うた。

「うーん、なんて云えばいいのかな。……波長? なんか、そんなものが合うような気がしてさ。
 ま、気にしないでよ。学校で友達と話してるように、私にも接してもらえないかな」

293: 2013/09/20(金) 00:32:15.34 ID:P257kYP0o
「……おう、わかった、そこまで云われたら逆に遠慮するのが無礼ってモンだよな。
 まさかあたしが人気アイドルの凛ちゃん……じゃねえ、凛とタメ口で話してるなんて
 ……なんだか不思議な感覚だけどな」

奈緒が自らの頭の後ろへ右手を廻して、破顔した。

「すぐに慣れるよ。それにもう、二人は私を“アイドルの凛”と呼ぶ立場じゃないから。
 じきに奈緒も加蓮も、私と同じ“テレビの向こう側の存在”になるんだからね」

凛のその言葉に、改めてアイドルとして一歩を踏み出す実感を得たのか、二人は気を引き締めたようだ。

294: 2013/09/20(金) 00:33:34.43 ID:P257kYP0o
いい頃合かと判断し、横で様子を見ていたPが口を開く。

「三人とも、いい表情―かお―をしてるな。善哉善哉。
 凛、そろそろ二時から二時間だけレッスンだ。
 五時から台場の湾岸スタジオでドラマ撮影だから軽く流す程度でいい」

「わかった。今日はダンス?」

「そうだな、『輝く世界の魔法』のステップを確認しておいてくれ。
 タイミングが合えば蘭子たちを合流させ……」

そこまでで言い淀み、

「……待てよ? 丁度いいや、奈緒と加蓮を連れてけ」

その台詞に凛は少しだけ驚く素振りを見せた。

295: 2013/09/20(金) 00:34:43.30 ID:P257kYP0o
「大丈夫なの? 二人は今日初出社でしょ? 顔見せのためだけに来たんじゃないの?」

「まあそれはそうなんだけどな。アイドルは実際にどんなことをやってるのか、ってのを
 一度見せちまった方が早いだろ? 可能なら一緒に身体を動かしてもらうのもいい。
 今日の担当は慶ちゃんだったな。話を通しておく」

「まあプロデューサーがそう云うなら、私は別に構わないけど」

と云って奈緒と加蓮に向き直り、目を白黒させている二人に告げた。

「じゃあついてきて。もし参加したかったらウェアは事務所の備品使っちゃっていいから」

「ちょっ、いいのかあたしたちが行っちゃって。邪魔じゃねえの?」

急展開に慌てる奈緒。当然と云えば当然だ。しかしPは慣れた風。

「大丈夫だよ。習うより慣れろ、百聞は一見に如かずだ。行っといで」

296: 2013/09/20(金) 00:35:55.14 ID:P257kYP0o

――

二時間後。
スタジオへ様子を見に往ったPが見たものは。


「ア、アタシもうだめー……」

「あたしももう動けねぇ……なんで凛はそんなにケロッとしてられるんだよ……」

「慣れだよ慣れ。私だって最初の頃はそんな状態だったよ」

消耗しきって床にへたり込み、ぐったりしているトレーニングウェア姿の加蓮と奈緒。
反対に、多少汗をかいた程度で息は全然上がっていない凛。

結局、話を通してあった慶が、見学だけでいいと云い張る二人をレッスンへ引き摺り込んだらしい。

アイドル業界全体……かどうかはわからないが、CGプロに入った者が最初に必ず受ける洗礼であった。

297: 2013/09/20(金) 00:37:21.55 ID:P257kYP0o
「ま、予想通りの光景だな」

レッスンルームの扉を開けてPが入ると、四人全員の視線が集まった。

しかし新人二人は姿勢を正す余力もないらしい。

加蓮がOS-1を呷りながら息を漏らす。

「いやーこれアタシ、アイドル舐めてたかも……こんな凄い動きを平然とこなすなんて信じらんない」

「だな……テレビとかで見てる限りじゃ何てぇことなさそうなのに、見るのとやるのじゃ全然違うぞ」

298: 2013/09/20(金) 00:38:27.18 ID:P257kYP0o
「でも二人とも初めてでこれだけいければ上出来ですよ。センスさえ備わっていれば、あとは体力をつけるだけですから」

慶がにこにこ笑いながら二人の地力を褒めた。

「加蓮ちゃんは今後はスタミナをつけるレッスンに重点を置きましょうね。奈緒ちゃんは身体を柔らかくしましょう」

すぐに指導の方向性を示してくれる。

「慶ちゃんありがとう、助かるよ。それを参考に、育成方針を立てよう」

「いえいえ、姉たちに比べればまだまだです――

299: 2013/09/20(金) 00:40:29.17 ID:P257kYP0o

――

三人にシャワーを浴びるよう促し、事務スペースで書類を捌いていると、まず凛が戻ってきた。

「お、戻ったか。ちょうどよかった、今さっき詞が上がってきたよ」

そう告げると、凛は目を少し輝かせながら傍へ寄った。

「どれどれ? 見せて」

そして事務机のパーティションのところで軽く覗き込んでくると、シャンプーの甘い香りが漂う。

凛は、Pの作業場所までは入ってこない。その辺りはきちんと弁えている子だ。

「印刷するからちょっと待ってな」

300: 2013/09/20(金) 00:41:52.56 ID:P257kYP0o
レーザープリンターのウォームアップを待っている間、Pは新作の感想を尋ねる。

「曲はどうだ?
 ダンスも入れられるし、李衣菜辺りと組んでバンドで披露する展開なんかもできると思うが」

多田李衣菜はロック好きな第一課のアイドルだ。以前は“にわか”と云われていたが、最近はギターの腕を上げている。

凛は天井の方を見つつ、顎に人差し指を当てて云った。

「今回のも、どちらかというとあまり“所謂アイドル”らしくはないよね。ロックバンドみたいで。
 でもね、ラインは取りやすい上に、聴いてると、すごくノリがよくて、自然に身体が動くんだ」

言葉を進めるうちにどんどん笑みがこぼれて、最後にはPに微笑み掛けた。

「そうか。今回はボーカル表現を第一にしたいから、前回よりは歌へ注力できるよう
 ダンスを少し抑えめにしようと思う。それでも四分と八分取りがメインになるだろうが、この分なら安心だろう」

301: 2013/09/20(金) 00:43:25.62 ID:P257kYP0o
「うーん、そうだね、大丈夫だと思う。ただ、聴いてたら、不意に自分の踊っている姿が頭に浮かんだんだ。
 これ、取り入れていいかな? 勿論、基本はコンテに従うつもりだけど」

この、凛からPへの逆提案は、かなり稀な事象であった。Pは驚きを隠さない。

「おお、凛がそんなことを云うなんて珍しいな。いいぞ、じゃあ二人で練り上げていこう」

凛が「やった」と愉しそうに笑うと同時に、歌詞がプリントアウトされた。

そのまま彼女に渡すと、一瞬不思議そうな表情をして、すぐに強張らせた。

302: 2013/09/20(金) 00:44:58.10 ID:P257kYP0o
「ねえちょっと、これ書いたのプロデューサー?」

「いや? 俺じゃないよ。まあテーマや大筋を作詞家に伝えたりはしたが」

凛は紙をPの前に掲げ、険しい顔で云った。

「全部英語じゃん、これ」

「そうだよ、ロックだろ?」

「ちょっと、李衣菜みたいなこと云わないでよ」

凛は印刷された詞をパンパンと叩いた。

「まあ冗談でそうしたわけじゃない。こないだカラオケ行ったとき、凛はMJとかブリトニーとか歌ったろ?
 その時の英語の綺麗さが印象に残ってたもんでな。使ってみたいと思ったんだよ」

「そんな、RPGのドロップアイテムみたいな云い方して……」

口を軽くへの字に曲げて呆れている。

303: 2013/09/20(金) 00:46:28.23 ID:P257kYP0o
「帰国子女と云うわけでもないのにあそこまで上手いなんて、どんな勉強をしたんだ?」

「それは小さい頃から横田基地のネイティブの人たちと交流してきたからだと思うけど――」

確かに凛の実家は本土最大の米軍基地の近くにあったな、とPは思い出した。

意外と凛は、芸能界へ入る前から、平凡そうに見えていても常人にはない経験を持っている。

「――それでも、私は本場の人に比べたらやっぱり日本訛りだよ?」

「インパクトを与えるには充分すぎるさ。thの発音や、RとLの区別すら普通の日本人には厳しいからな」

そうPは不敵な笑みを浮かべた。

前回はダンスだったが、今回はボーカルで世間を沸かせるつもりらしい。

流通や製造のラインが夏休みやお盆で止まるので、今作は八月の上旬までには
完パケを作りたいと云う話をしていると、奈緒と加蓮が第一課へ戻ってきた。

304: 2013/09/20(金) 00:47:50.03 ID:P257kYP0o

「おし、みんな戻ったな。どうだ、うまくやれそうか」

鈷を呼び、場所を作業スペースからソファへ移すのに歩きながら、Pが第一印象を訊ねてみる。

「うん、そうだね。まだ会って数時間しか経ってないけど、だいぶ仲が深まったと思うし、
 なんか馬が合う感じがする。卯月や未央とはまた違うタイプで、仲良くなれそうだよ」

凛は嬉しそうに笑った。

「無愛想で人見知りなお前が、初対面なのに結構笑ってたもんな」

つられて笑うPの言葉に、加蓮は合点がいった顔をした。

305: 2013/09/20(金) 00:49:03.34 ID:P257kYP0o
「あ、それかあ。アタシ、さっきから凛と喋ってると、こう、テレビとかで見る寡黙でクールな感じがあまりなくて、
 なんとなく今まで見たことのある凛とはどこか違うって思ってたんだ。容姿レベルの高い普通の女子高生、みたいな」

「あーそれは確かにあるな。あたしも一緒にレッスン受けたりして、凛って普段こんなに可愛く笑うんだ、と思った」

パン、と手を叩いて同調する奈緒。そんな二人の言葉に凛は苦笑いを禁じ得ない。

「地味に非道い謂われようだよねそれ」

「あああーごめん、そういう意味で云ったんじゃなくてなあたし……」

奈緒が慌ててフォローしようと口をぱくぱくさせるが、

「ふふっ、冗談だよ。私、無愛想なのは自覚してるし」

凛はそう云ってひらひらと手を振った。

306: 2013/09/20(金) 00:51:41.39 ID:P257kYP0o
「プロデューサーとか、深い仲の人たちとかになら普通に笑えるんだけどね、
 あまり絡んだことがない人だと、途端に口数が少なくなっちゃう。
 クール……って云えば聞こえはいいけど、実際には“無愛想”だよ」

「ま、その無愛想なところも凛を特徴づける要素の一つではあるがね」

先頭を歩いていたPが振り返って云った。

「その無愛想な凛が、出会って僅かな時間にここまで笑うようになった。
 きっと、お前たち三人は相性が良いんだろうな」

凛と奈緒、加蓮はお互いの顔を見合わせた。そして、ふっと表情を緩める。

307: 2013/09/20(金) 00:54:01.15 ID:P257kYP0o
Pはソファに座りつつ、今後の方針を説明し始めた。

「奈緒も加蓮も、どちらかといえばクールな方向で行くことになると思う。
 見た目で例えれば黒いゴシックとかな」

「まあ第一課―ここ―に配属されたんだもん、そうなるよね」

凛がPの正面に座ってそう云う。

「つまり、凛がニュージェネレーションで着ているようなカンジってこと?」

加蓮と奈緒が、間に凛を挟んでPの斜向かいに座った。Pは心持ち顎を引いて頷く。

「二人とも“可愛い”と“綺麗”が混ぜ合わさった雰囲気だから似合うはずだ」

ナチュラルにぽんぽん出てくる、可愛い、とか、綺麗、などの単語に二人は顔を赤くした。

奈緒に至っては、「か、可愛いとか……ありえねえし……」などと目をそらしてぼやいている。

308: 2013/09/20(金) 00:55:23.17 ID:P257kYP0o
「いやいや奈緒ちゃんは充分可愛いですよ」

Pの隣に座った鈷が付け加えて云うと、奈緒は首まで真っ赤にして縮こまった。

「しばらく地力をつけるまでは、奈緒と加蓮は鈷を担当者とする。凛に追い付け追い越せで頑張ってくれ。
 方針の大枠は俺が定めるから、鈷はその枠内で己が感じるまま、二人と相談してやってみてくれ」

「わかりました。しかし僕がいきなり担当を持っちゃっていいんでしょうか」

鈷は頷いたが、少しだけ顔色を窺うように訊いてくる。Pは鈷へ顔を向け、

「無論だ。二人はまだアイドルにもなっていない卵、そして鈷はプロデューサーの卵だ。
 その状態から二人三脚でやっていけばお互いが成長し合えるし、絆も深まる。かつて俺と凛もそうだった」

そして、「な?」と凛を見る。

309: 2013/09/20(金) 01:05:23.90 ID:P257kYP0o
「そうだね。一緒にステップアップしていけると思う。お互い手探り状態なら気軽に喧嘩できるし」

「おいおい喧嘩って物騒だなぁ」

凛の言葉に奈緒が穏やかならぬ顔をするが、

「私だって最初の頃はプロデューサーと衝突ばかりしてたよ?」

と、凛は何ともなさげに云った。

「そうだな、あの頃の凛はほんと跳ねっ返りでなあ」

Pがやれやれ、と云いた気なジェスチュアで腕を広げると、

「それはプロデューサーが分からず屋だったからじゃん」

凛は身を乗り出して口を尖らせた。そんな応酬を重ねる二人を見ながら、

「……仲良いね」
「……まったくだな」

加蓮と奈緒は、呆れたように目配せした。

310: 2013/09/20(金) 01:06:42.95 ID:P257kYP0o

えーひとまずここで一旦切ります。ようやく奈緒と加蓮が出て来たよ……
気付いたら300を突破していてビビった。もうそんなに書いたのね

次回は可愛い凛ちゃん無双になるはずですが、俺の筆力ではどうなることやら
おそらく、そろそろ前半のヤマ場を迎えるはずです。それでは


313: 2013/09/21(土) 00:40:18.35 ID:+Qc3jrsMo


・・・・・・・・・・・・


今年の夏は暑い。実に暑い。

連日真夏日どころか、猛暑日が数日も続く始末。

毎日々々、熱中症で搬送された報道が途絶えない。


本日、八月十日。

東京都心の気温は今年初めて37℃を越え、人体よりも高い温度に気が滅入る。
テレビを点ければ、山梨や群馬で40℃を突破したと、大騒ぎだ。

あまりの猛暑に、空調の設定温度を26℃まで下げてよい社内通達が出るほどであった。

314: 2013/09/21(土) 00:41:30.99 ID:+Qc3jrsMo

「うー……複素数ワケわかんない……微積の方がまだマシだよ……」

そんな酷暑の中、CGプロの休憩室では、凛が夏休みの課題と格闘している。

――いや、戦いに負けて、テーブル上のノートへ突っ伏していた。

状況はあまり芳しくないようだ。

多忙なアイドルが、学業を高いレベルで両立させるのはとても難しい。

真面目に積み重ねる凛だからまだ何とかなっているのであって、同学年の未央は目も当てられない状態だ。

現在、凛に限らず奈緒や加蓮、その他多くの学生アイドルが宿題を消化している最中。

のあや菜々は年少組のそれを看ており、難波笑美は何故かレブ・ビーチのBlack Magicを
勝利への応援歌やで、と宣いながら流すなど、休憩室は賑わいを見せていた。

315: 2013/09/21(土) 00:42:30.97 ID:+Qc3jrsMo

今日の凛はオフだ。

ちょうど昨日、新曲がマスターアップしたところ。

タイアップも決まり、早くも既にメディア等で取り上げられ始めている。

そんな凛が、何故わざわざ事務所へ来ているのか。宿題をこなすだけなら寮でも出来るはずなのに。

316: 2013/09/21(土) 00:43:00.61 ID:+Qc3jrsMo
それは、週頭にレコーディングとPVの収録を済ませた際、今日と云う日を空けておくようPに念を押しておいたためだ。

 ――週末、時間作っておいてよね

 何かあるのか?

 大事なイベントがあるでしょ、ほら

 ああ、九日に新曲をマスターアップさせるから、その祝賀会か

 もう、ばか!

 冗談だよ。お前の誕生日だってことくらいわかってるさ

 まったく、意地が悪いんだから

 コミュニケーションの一種だよ。十日は昼前まで仕事をしなきゃいけないが、それからは空けられる

 じゃあその昼以降は私とのデートでFixしておいてよね

 承知致しました、お姫様――

つまり、Pが上がれるようになるまで、こうやって休憩室で宿題を消化していると云うこと。

317: 2013/09/21(土) 00:44:27.55 ID:+Qc3jrsMo
……しかし真の目的はただの時間潰しだ。

Pとプライベートで出かけるのは、相当久しぶり。

特に、明確に意識するようになってからは初めてのことである。

そんな状況では、端から宿題に手が付くとは思っていなかった。


元からあまり集中できていなかった凛は、誕生日祝いに貰った手作りのお菓子を口へ運んだ。

千枝や雪美、薫と云った年少組の面々が、一所懸命に焼いてくれたクッキーだ。

サクサクと解け、贅沢なバターの風味が拡がる。形は不揃いだが、とても美味しい。

それ以外にも、アイドルたちから贈られた誕生日プレゼントの数々で、凛のバッグは膨れていた。

仲間に誕生日を祝ってもらえるのは幸せなことだ。

318: 2013/09/21(土) 00:46:05.43 ID:+Qc3jrsMo
口内を癒す香ばしい甘さを、テーブルに身を投げ出しながら味わっていると、
そのあまりの白旗ぶりに、居合わせた美優が、凛を手伝おうと隣に座ってきた。

「凛ちゃん、複素数は実部が云々、虚部が云々、と代数学で考えるより、
 複素平面で幾何学的に捉えた方が理解しやすいですよ?」

「……美優さん、複素平面ってなに?」

美優のアドバイスに、頭上へ疑問符を浮かべて訊ねる凛。

そんな凛の様子を見て、更に菜々が不思議そうな顔をする。

「あれっ、凛ちゃん複素平面は習ってないんですか?」

「そんなの初耳だよ?」

「あれー? 最近の高校じゃやらなくなったんですかねー? ナナが現役の頃は複素平面までやったんですけど」

319: 2013/09/21(土) 00:47:16.93 ID:+Qc3jrsMo
もはや誰も突っ込もうとしないのは優しさ故か、いい加減面倒くさくなったのか。

たぶん後者だろう。
現に、新参者ゆえ疑問を投げ掛けようとする奈緒や加蓮を、のあが目線で制止している。

どたばたを他所に、美優がにこやかな笑みを湛えながら、紙に十字を書いた。

――凛ちゃん、大雑把に云ってしまえばね……平面上の横軸を実数、縦軸を虚数として――

――……あっ、すごい。ベクトルで考えられるようになった――

320: 2013/09/21(土) 00:48:11.56 ID:+Qc3jrsMo

美優に手伝ってもらい、望外の進捗に喜んでいると、いつの間にかお昼時であった。

そろそろ昼食にしようかという空気が休憩室に充ち始めたとき、
誰かが点けたテレビの音楽番組から、ちょうど凛の新曲のPVが流れた。

「あっ! 凛ちゃんの新曲ですよ!」

菜々がそう言葉を発した瞬間、全員の注目がテレビへ向かう。

テレビのスピーカが、軽快でノリのよいロックを奏でる。

321: 2013/09/21(土) 00:51:49.02 ID:+Qc3jrsMo


プロデューサーさん! 凛ちゃんの新曲ですよ、新曲!

Carrie Underwood - Good Girl
http://www.youtube.com/watch?v=7-uothzTaaQ&hd=1



322: 2013/09/21(土) 00:53:44.79 ID:+Qc3jrsMo
音楽番組では、コメンテーターたちが、アイドルが全篇英語のロックをリリースしたことに大騒ぎ。

しかもただのロックバンドではなく、『アイドルによる踊れるカントリーロック』としたことで、更なる衝撃を以て迎えられた。

発売までまだまだ日があると云うのに、注目度は抜群だ。

初めてPVを見た面々は、テレビに釘付けとなっている。

「おいおいすげえな……」
「まるで次元が違うじゃん……」

奈緒と加蓮は驚きのあまり口が開いている。

323: 2013/09/21(土) 00:55:10.33 ID:+Qc3jrsMo

凛のPVが終わってしばらくしたのち、だるそうに扇子を揺らしながらPが現れた。

「暑っちぃ……ほい、凛、お待たせ」

出入り端でPが手招きをする。
凛は美優に手伝ってくれた礼を述べ、ノートはじめ荷物を鞄にまとめて立ち上がった。

アイドルたちが口々に、「Pさんとお誕生日デートですかぁ?」と訊いてくるのを、
否定も肯定もせずウインクでやり過ごし、Pの許へ向かう。

324: 2013/09/21(土) 00:56:52.43 ID:+Qc3jrsMo
歩み寄ると、「いやー……今日はヤベェな」と胸元を扇ぎ、Pはどうにもならないぼやきを零した。

「確かに今日は異常な暑さだけどさ、何よりも長袖のスーツなんか着込んでるからでしょ?」

ワイシャツこそ半袖であれ、見るだけで暑くなる黒い上着に身を包む目の前の男へ、呆れたように目を遣って凛は云った。

凛自身も、日焼け防止のために、長袖のブラウスとロングパンツを着ているとはいえ。

しかしそれは明るい白色系だし、生地もとても薄いものだ。

Pは溜め息をつきつつ、

「残念なことに企業戦士はこの格好でいなきゃならないんだよ」

そう愚痴をこぼし、「ほら、持つよ」と凛の鞄に手を伸ばした。

「ん、ありがと」

「今日は随分と重いな」

普段は持ってこない大きなサイズの鞄が、ぱつぱつに膨らんでいて、それを上下にゆっくり動かしながら云う。

325: 2013/09/21(土) 00:58:04.02 ID:+Qc3jrsMo
「みんなからプレゼントをたくさん貰ったからね」

凛が部屋の中へ腕を広げてにこっと笑った。

「それを見越して、今日は大きめの鞄を持ってきたわけか」

「ふふっ、そういうこと」

星井美希のように、人差し指を立ててウインクした。

「祝ってくれる仲間がいるってのは、いいもんだよな」

休憩室で賑やかにしているアイドルたちを眺めて云うPの言葉に、
凛も同じように室内を振り返って「うん、恵まれてると思うよ私も」と感慨深気に、優しい口調で同意した。

326: 2013/09/21(土) 00:59:21.70 ID:+Qc3jrsMo
Pが出口の方へ親指を動かして、凛を促す。

「さて、予定を空けたはいいが、何をしたいのかまでは訊いてなかったな。ひとまず車を出そう」

「え、社用車使えるの?」

「ンなわけないだろ。どうせ車を出すことになるだろうと思ったから自前の持ってきたんだよ」

二人、廊下を並んで歩きつつ、若干やれやれ、と云う雰囲気で答えると、凛は不思議そうにしていた顔から一転、笑みを綻ばせた。

「準備いいね。私、プロデューサーのマイカーに乗るの初めて」

「お前だけじゃなく、アイドル含め事務所の人間は、これまで乗せたことないよ」

一瞬ちらりと凛を見て、すぐに視線を前に戻してからPは告げた。

327: 2013/09/21(土) 01:00:53.74 ID:+Qc3jrsMo
凛は心底驚いた様子で、上半身を回り込ませるようにして、Pの顔を見ながら訊く。

「えっ、銅さんや鏷さんとかも?」

「ないよ」

「ちひろさんさえ?」

「ないよ。って云うかそれ人選おかしい」

「……そんな車に、私を乗せちゃっていいの?」

と、自らを指差して問うた。

「別に構わんよ。タイミングがなかっただけだしな。で、どこか行きたいところあるのか?」

そう訊ねると、凛は首を斜めにして考えつつも、特段の目的地を決めているわけではないようであった。

328: 2013/09/21(土) 01:02:27.68 ID:+Qc3jrsMo
「んー、特にここ行きたい、って場所はないよ。プロデューサーとゆっくり一緒にいられればいい」

「随分とまあ男冥利に尽きることを云ってくれるが……それはアイドルが発していい言葉じゃないぞ」

最近の凛は、こんなことを云う頻度が明らかに増えた。その度に、嬉しくも複雑な感想をPは得るのだが。

「まあまあ、そんな気にしてたら鏷さんみたいに禿げ上がっちゃうよ?」

歩いていながらにして器用な手付きで髪をアップに結い、普段通りの笑みを浮かべた。

しかしその笑顔とは逆に、非道い云い様だ。

「あいつ、深刻な風評被害に苦しんでるんだぞ……」

「そうなの? あの人いっつも飄々としてるように見えるけどね」

「陰ながら哭いてるんだよ」

鏷のために一応のフォローは入れたものの、P自身が笑いを噛み頃しているので説得力はない。

329: 2013/09/21(土) 01:03:33.81 ID:+Qc3jrsMo
事務所の受付を通り過ぎ、ビルの自動扉を抜けると、殺人的な熱気と日射しが二人を襲った。

「うわ、あっつ……。ひとまず、暑過ぎてどうにもならないから、避暑できる場所がいいな」

あまりの陽の強さに、凛は額の前に掌を掲げて、片目を瞑る。

「避暑か。かといってどこかクーラーの効いた建物に入るのも本末転倒だよなぁ」

それじゃこの事務所に居ても変わらないもんね、と凛も同意した。

「じゃあ……ちょっと遠出するか」

「遠出? どこどこ?」

「着いてのお楽しみだ。行きしなに軽くメシでも食おう」

Pはニッと笑いながら、 アルシオーネの鍵を開けた。

330: 2013/09/21(土) 01:14:19.48 ID:+Qc3jrsMo

・・・・・・

「ところでさ――」

事務所を出発し、首都高速芝公園ランプへ向かって走り出すと、不意に凛が話し掛けてきた。

「――これ、バック・トゥ・ザ・フューチャーに出てくる車みたいだね」

ポンポン、とダッシュボードに触れる。

「まあ、時代……ってやつだろうな。俺より歳上だし、コイツ」

凛の言葉に、Pがシフトを二速から三速へ入れつつ答えると、彼女は少々驚いたようだ。

「えっ、そんなに古いんだ? 確かに普通のと雰囲気が全然違ってカッコイイね」

今の十代の子たちにとって、バブル時代の製品は、古臭いのではなく、逆に格好よく映ると聞いたことがある。

331: 2013/09/21(土) 01:15:14.95 ID:+Qc3jrsMo
「ふふっ、美世が見たら喜びそう」

凛は、第二課の原田美世の名前を出して微笑んだ。クルマ・バイクいじりが趣味のアイドルだ。

「見慣れない機器ばかり……この変な差し込み口なに?」

オーディオのパネル部分を指差して訊いた。

首都高速へ合流するのに若干の時間差を置いてから「それはカセットテープのデッキだ」とPが答えると、
凛は口を小さく開けて顎に指を当てる。

「カセットテープ? 名前だけは聞いたことあるけど、初めて見た」

「……お前の世代だと、初っ端からiPodだもんな。MDもギリギリ範囲内か」

「うん、初めて買ってもらったのはiPod miniだったよ」

332: 2013/09/21(土) 01:16:51.00 ID:+Qc3jrsMo
Pと凛とは八歳離れている。

丁度、時代や技術の転換期だったせいも多分にあるだろうが――

しかし、たったそれだけの歳の差であっても、大きなジェネレーションギャップを感じることにPは戦慄した。

「俺ももう若くねえな……」

苦い顔をして呻くように云うと、凛は大きく笑った。

「ふふっ、なあにプロデューサー、まだまだそんなこと云うトシじゃないでしょ?」

「だって俺は、カセットテープに文科放送の深夜番組を録音して楽しんでたような世代だぜ……」

333: 2013/09/21(土) 01:18:01.41 ID:+Qc3jrsMo
「そうは云ったって、私と八歳しか離れてないんだから」

凛は手を縦にひらひらと振った。

「でも、これだとiPodはおろかCDさえ聴けないね。新しい車にしないの?」

「一応、iPodやCDをこのデッキで聴ける機器を積んであるから大丈夫さ。
 コイツは、免許取ったときに親父からお下がりで貰ってな、乗ってるうちに愛着が湧いちまったんだ」

凛を横目で見ながら「それに、これで実家戻るとお袋が喜ぶんだわ」と付け足した。

「うん? プロデューサーのお母さんが? なんで?」

凛はきょとんとした顔で、視線を前景からPへ移した。

「若い頃の思い出が甦るんだと」

Pも視線を少しの間だけ凛へ向けて答えると、凛は、さらに、不思議そうに小首を傾げた。

334: 2013/09/21(土) 01:18:56.02 ID:+Qc3jrsMo
続けてヒントを出す。

「まあつまり、親父たちは、結婚する前からこのクルマに乗ってたわけで――」

「――あっ……」

そうか。


――私が今いる、この場所に、プロデューサーのお母さんが座っていたんだ……

Pの両親がデートにも使っていたであろうこの車。

男と女から夫と妻、そして父と母へ移りゆき――そして、その同じ位置に今、Pと凛がいる。

それに気付いた凛は少し頬を染めて、それを悟られまいと、左窓から見える景色に目を移した。

335: 2013/09/21(土) 01:19:49.05 ID:+Qc3jrsMo

そのまま中央道を飛ばすことしばし。

途中の談合坂SAでB級グルメを楽しんだりして、富士山麓は鳴沢村の氷穴が見えてきた。

「ほい、着いたぞ。ここだ」

駐車場に停め、そう云って助手席を見ると、凛もこちらをにこにこと見ていた。

「おつかれさま」

甘い労いの言葉だった。

「男の人の運転する姿って、どきどきするよね。バックしてスッと駐車する時の振る舞いとかさ、キュンとくるよ」

口の前で両手の平を合わせて、少し照れながら云う。凛らしからぬ言葉だ。

336: 2013/09/21(土) 01:20:45.90 ID:+Qc3jrsMo
「社用車じゃこんなことは感じないんだけどね、なんでだろ」

確かに、アイドルたちの送迎等で社用車を頻繁に運転しているが、こんなことはまず云われない。

味気のないライトバンなのだ、然もありなむ。

「初めて乗ったプロデューサーのマイカーだから、かな? ふふっ」

サイドブレーキのレバーを、すっ、と中指で艶かしく撫でた。妙に色っぽい仕草だ。

「ほらほら、馬鹿なこと云ってないで、行くぞ」

「あっ、待ってよ」

337: 2013/09/21(土) 01:22:48.11 ID:+Qc3jrsMo
車を降りると、相変わらずの暑気が二人を包んだ。

「うわ……ここまで来てもまだ暑いね……」

凛は後部座席から、持ってきておいた、つば広の丸い麦藁帽子を取り出して冠る。

「そうだな、まあ今は一日で最も暑い時間帯だしな」

Pが、車のドアをロックしながら答えた。相変わらずスーツを着たままだ。

「ねえプロデューサー、仕事はもう上がったのに、まだその格好してるの?」

「……残念なことに企業戦士はこの格好でいなきゃならないんだよ」

338: 2013/09/21(土) 01:24:08.20 ID:+Qc3jrsMo
「さっきも云ったでしょそれ」

凛はくすくすと笑った。

そして、看板の文字を、尋ねるように読む。

「……なるさわ……ひょうけつ? 氷の穴?」

「溶岩の穴であって、氷で出来ていると云うわけではないが、昔は氷の貯蔵に利用されてたって話だ」

「へえ、天然の冷蔵庫みたいなものだね」

そのまま入口に立つと、まるで黄泉比良坂みたい、とPを振り返って云った。

339: 2013/09/21(土) 01:25:17.21 ID:+Qc3jrsMo
鬱蒼と森が連なる樹海に、ぽつんと、それでいて大きく口を開けている孔。

凛の表現通り、この場所が見せる光景は、まさに、異質なコントラストだ。

夏休みなので混雑を覚悟していたが、逆に盆でみんな帰省しているのか、思ったほど人は多くなかった。

車中で変装はばっちり済ませてあったので心配はない。しかし、やはり避暑ならあまり人は多くない方がいい。
あくまでも気分的な問題だ。

二人、穴への階段を降りていく。

歩を進めることしばし。明確に気温の変わるラインがあった。

340: 2013/09/21(土) 01:26:17.69 ID:+Qc3jrsMo
「うわ、いきなり涼しくなったよ」

凛がはしゃいで、軽快に階段をステップして行く。

「プロデューサー、早くおいでってば」

少し降りた先で手を招いている。

下が滑るから気をつけるようにな、と忠告してPはゆっくりそれについて行くと、

「じゃあ、転ばないようにしないとね?」

341: 2013/09/21(土) 01:27:15.53 ID:+Qc3jrsMo
云うや否や、すっと腕を組んできた。

その動きは実に素早く自然で、Pが驚き抵抗する隙も与えないほどであった。

「おい、お前――」

「別にいいでしょ、こう云う刻くらい」

諌めようとする言葉を遮り、

「それにアイドルに転んで怪我される方が避けるべきことだと思うけど?」

そう云ってつんと澄ました笑顔を向けてくる。

「それにしたってお前、そんなに密着すると胸が――」

「当、て、て、るんだよ、ふふふっ」

再び言葉を遮って、意地の悪い笑顔に変わる。

はぁ、と軽く溜め息をつき、「あまり大胆なことはするなよ」と釘を刺すも、振りほどくことはせず、並んで降りて行った。

342: 2013/09/21(土) 01:28:56.18 ID:+Qc3jrsMo

「うわぁ……」

洞窟の最奥まで到達すると、そこには氷塊がずらりと鎮座していて、寒色のライトの効果もあり
非常に幻想的な雰囲気を醸し出している。

その光景に、凛はただただ感歎の息を吐いた。

しかし一番奥ということは気温も一番低い。
凛の組んだ腕から、感嘆したと云う理由だけではない震えが伝わってきたので、
一度腕を解いて、Pは着ていたスーツの上着を凛に羽織らせた。

「あ、ごめん……」

「どういたしまして、お姫様」

343: 2013/09/21(土) 01:30:28.28 ID:+Qc3jrsMo
スーツに腕を通しながら、凛は上目遣いで訊いてきた。

「ねえ、もしかして、あんな気温の中、車を降りてからも暑苦しい上着を着てたのって――」

「はて、何のことやら?」

この為だったのでは、と云う凛の言葉を、今度はPが遮る番だった。

「……ありがと」

急にしおらしくなる凛。

しかし再び組み直したその腕は、力強く引き寄せるものだった。

344: 2013/09/21(土) 01:31:33.49 ID:+Qc3jrsMo

ゆっくりと30分ほどで廻り終え、階段を上がると、やはり明確に気温の変わるポイントがあった。

25℃以上もの上昇に、凛は多少名残惜しそうに離れ、スーツを脱いでPに返した。

つい今しがたまで寒いくらいだったのに、外へ出ると一気に汗が出てくる暑さ。

身体がびっくりしてしまいそうだ。

345: 2013/09/21(土) 01:32:36.00 ID:+Qc3jrsMo

――

堪らず、氷穴売店へと駆け込むと、そこで、あ、と凛が声を上げた。

視線の先には、信玄パフェなる甘味がある。

Pを見る凛。無言の――それでいて有無を云わさぬ――おねだりに、苦笑しながらその氷穴限定なパフェを一つ、オーダーした。


売店前のテーブルで待っている凛の許へ持っていくと、「あれ? 一つでいいの?」と訊ねてきた。

「ああ、俺はいいよ。気にせず食いな」

そう云って、ソフトクリームと信玄餅がコラボしたパフェのカップを渡した。

346: 2013/09/21(土) 01:33:58.39 ID:+Qc3jrsMo
「じゃあ半分コ、しない? 思ったより大きいからさ、これ」

「そうか? それなら凛がまず気の済むまで食べるといい。俺は残った分で構わんよ」

「そんなわけにもいかないでしょ。ほら、一緒に食べよ? あーん」

そう云ってスプーンをPへ向ける。

「おいおい流石にそれはいかんでしょ」

「いいってば。ほら、融けて垂れちゃうよ。早く早く」

そう急かされてはまともに考えられない。結局ぱくりと食べてしまった。

「あ、なかなかいけるなこれ」

「ホント? どれどれ……」

と凛はそのまま自分の分を掬って口へ運ぶ。

347: 2013/09/21(土) 01:35:16.41 ID:+Qc3jrsMo
「うん、きなこと黒蜜とソフトクリーム、合うね。おいしい」

頬に手を当てて、にこにこと笑みを浮かべた。

「信玄餅の触感もアクセントになってるな」

「そうだね、私は信玄餅も好きだから、この組み合わせ気に入っちゃった。はい、もう一口あーん」

Pは済し崩し的に何回か食べさせられることとなった。

「……そういえば沖縄の波照間島に、きなこと黒蜜たっぷりのスペシャルかき氷があるとかなんとか聞いたことがあるな」

「えっなにそれ! 食べてみたい!」

ふと思い出して口から出た言葉に、凛は食いついた。

348: 2013/09/21(土) 01:36:09.31 ID:+Qc3jrsMo
「まあ波照間なんて往くのは相当めんどくさいから、何かの機会がないと難しいだろうけどな」

「沖縄とか石垣とかの方のお仕事獲ってきてよ」

そんな無茶な要求をしてくる。余程きなこ氷が気になったのだろうか。

沖縄の方の仕事、何かあるかなと思案していると、パフェのカップが残り少なくなっていた。

それを見て、ふと、

「凛、あーん、してやろうか?」

そう何気なく、実に何気なく云った一言。

349: 2013/09/21(土) 01:37:09.79 ID:+Qc3jrsMo
凛の顔面がまるでボンッと音を立てるかの如く一気に紅くなり、「え、い、いいよ」と、もじもじした。

どうやらPへは平気で「あーん」と云う癖に、いざ自分がやられると大分恥ずかしいらしい。

その反応が面白くて、ついついからかってしまう。

「ほら貸してみろって。はい、最後の一口、あーん」

にやりと笑いながらスプーンを凛の方へ差し出すと、つんとした顔で、素早く、ぱくっと食いついた。

「ああッ! あーんって口を開けたところへゆっくり入れてやろうと思ったのに!」

Pが大袈裟にショックを受けた振りをすると、凛はベーっと舌を少しだけ出した。

しかしすぐに笑みに換えて云う。

――なんだか、本当にデートみたいだね、ふふっ

350: 2013/09/21(土) 01:38:37.39 ID:+Qc3jrsMo

・・・・・・

ささやかな避暑を終え、事務所へのお土産などをゆっくり見つつ都内へ戻って、少々奮発したディナーを済ませたのち。

Pと凛は、臨海副都心へ。

喧噪のウエストプロムナードや『海の向かう広場』を避け、
10号埋立地との境にある、センタープロムナードの『夢の大橋』へ来ていた。

「綺麗……」

橋上のベンチに座った凛は、その美しさに嘆息し、しばらくの間、何の声も出さない。

眩い橙に輝く灯と、遠くビジネス街から洩れるビルの照明、高層建築屋上の点いては消える赤灯。

奥にはパレットタウンの、色彩豊かな観覧車が光を撒いている。

何よりも――これだけの好ロケーションでありながら、人通りが皆無で誰にも邪魔されない。

東京で随一のロマンティックスポットであった。

351: 2013/09/21(土) 01:39:31.37 ID:+Qc3jrsMo

「綺麗だな」

そう呟くPの言葉に、パレットタウンの方を向いていた凛が振り返った。

素敵な景色に、眼を輝かせて云う。

「ちょくちょく仕事で来る湾岸スタジオの傍に、こんな素敵な場所があったなんて――知らなかった……」

台場側のウエストプロムナードならまだしも、こんな時間にこの周辺を歩く用事なんて
ほとんどないのだから、或る意味当然か。

その瞳には、大橋の明るい照明が映り込んで、更に輝いているように思えた。

周りには、誰もいない。通る人は、誰もいない。

まさに独占状態。

352: 2013/09/21(土) 01:40:32.74 ID:+Qc3jrsMo
「この分なら、髪は下ろしちゃっても大丈夫そうだね」

そう云って凛はアップにしていた髪を解いた。

さらり、と滑り落ちる長い絹が、麦藁帽子と組み合わされ、これもまた可愛い。

「凛はどんなヘアスタイルでも、どんな帽子でも、どんなファッションでも可愛く綺麗にこなすよなあ」

Pが率直な感想を述べると、凛は「そ、そんなことないよ」と少し照れた。

353: 2013/09/21(土) 01:41:40.38 ID:+Qc3jrsMo

寸刻ののち。

「……プロデューサー、今日はありがとね」

凛はPの顔を見上げ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「こんなに楽しい誕生日、初めてだったよ」

「これくらいでよければ御安い御用ざんすよ」

軽い調子で述べるPの仕草に、凛は微笑む。

「じゃあ私、プロデューサーのバイクにも乗ってみたいな」

Pがバイク乗りであることを知っているとは、夏樹辺りにでも聞いたのだろうか。

354: 2013/09/21(土) 01:42:40.46 ID:+Qc3jrsMo
「今度機会があったらな。万が一転倒でもしたら天下のアイドルに傷がついちまうから、少し気が引けるんだが」

「そしたらそしたで、責任とって私のこと貰ってくれるでしょ?」

「ボケ。……おっ、観覧車の色が変わった」

Pが少し顔を挙げて独り言ち、凛は再びパレットタウンの方向を向く。

「あれって色々なパターンがあるんだね」

「だな、飽きさせない光だ」

それらが水面に映され、ゆらゆらと揺れている。

観覧車の向こうには、羽田空港から飛び発つ飛行機の光が、ゆっくりと動くのが見える。

355: 2013/09/21(土) 01:44:08.71 ID:+Qc3jrsMo
「これだけ夜景に溢れてるのに、私たちだけしかいないなんて、何だか不思議な気分」

「人工の光に溢れる世界、しかしそこには、お前と俺しか存在していない……」

「そう、そんな感覚」

凛が、観覧車の光を眺めたまま、プロデューサーは中々ポエティックだね、と笑う。

「……かもな」

そう云いながら、Pは、凛の瞳の前に、ネックレスをぶら下げた。

オーバルブリリアントにカットされた、一粒の宝石。

それは親指の爪ほどもある、大きな大きな菫青石だ。

356: 2013/09/21(土) 01:45:07.21 ID:+Qc3jrsMo
驚いて、凛が振り向く。

「これ……私に?」

「アイオライトの首飾りだ。気に入ってくれると良いんだが」

Pはゆっくりと頷いて云った。

凛は不意の贈り物に声を出せず、細く綺麗な指で、白く輝く、蒼い宝石をそっと撫でる。

「アイオ……ライト……私の、誕生石……」

「ああ、素敵な石だ」

「綺麗……」

夜景を見た時よりも、さらに心の深い場所から紡がれた短い言葉。

357: 2013/09/21(土) 01:46:22.73 ID:+Qc3jrsMo
しばらく、愛しむ眼をしながら撫でたのち、麦藁帽子を脱いで肩口からゆっくりと髪をかき上げた。

「ね、つけてくれる?」

そう云って半身になり、うなじを露出させる。

「お姫様の仰せの儘に」

Pの腕が凛の首を回り込み、小器用に留め具をつなげると、アイオライトが鎖骨の間に坐りよく落ち着いた。

「ふふっ、ありがと。どう?」

かき上げた髪を解放した左手を、胸の辺りに添え、小首を傾げて問う。

「とても似合ってるよ。お前のための石が見せる、お前のための蒼だ」

358: 2013/09/21(土) 01:47:19.01 ID:+Qc3jrsMo
満面の笑みを浮かべる凛に、Pは更に花束を背の影から取り出す。

蒼い岩桔梗をメインに、季節の花をあしらった花束。

「お前に合いそうな花を見繕ってみた。
 あまり花には詳しくないから、花屋の娘にとっては、頓珍漢なセレクトかも知れんが」

差し出された花束に、驚いた顔をして、笑う。

「ううん、嬉しいよ。とっても」

「そうか、よかった」

そう云って、岩桔梗を一輪だけ抜き、凛の髪へ挿した。

「18歳の誕生日、おめでとう」

359: 2013/09/21(土) 01:48:31.15 ID:+Qc3jrsMo
即席の髪飾りに、凛は、はにかんだ。

「ありがと、……プロデューサー」

花弁に触れて、微笑む。

「……ねえ、プロデューサー、岩桔梗の花言葉、知ってる?」

花屋らしい質問に、Pは記憶をフル回転させる。

「んーとだな、……美点の持ち主……だったっけ?」

「うん、正解」

その答えに、凛はゆっくりと頷いた。

「他には感謝とか。でもね、何より……」

360: 2013/09/21(土) 01:49:40.50 ID:+Qc3jrsMo



――誠実な恋、と云う意味があるんだよ。



361: 2013/09/21(土) 01:55:46.27 ID:+Qc3jrsMo
そう云って、花束から、もう一輪の岩桔梗を抜いて、

Pの胸ポケットへ挿し込んだ。

真剣な顔で、じっと、目を見詰めたまま。

362: 2013/09/21(土) 01:56:51.39 ID:+Qc3jrsMo

・・・・・・

観覧車の光が変化するのを見ていると、私の目は、不意に塞がれた。

遠くの景色から近くの物へフォーカスを合わせるのに時間がかかったけれど、

そこには。

綺麗な宝石がゆらゆらと微かに揺れていた。

……え?

363: 2013/09/21(土) 01:57:27.20 ID:+Qc3jrsMo
驚いて振り返ると、笑みを浮かべたプロデューサーが、ネックレスを垂らしていた。

これ……私に?

プロデューサーは頷きながら、アイオライトだと云った。

私の――誕生石。

まさか、私の誕生石を贈ってくれるなんて。

364: 2013/09/21(土) 01:58:30.90 ID:+Qc3jrsMo

目の前の男性―ひと―への愛しさが、込み上げてきた。

365: 2013/09/21(土) 01:59:32.23 ID:+Qc3jrsMo
驚きのあまりほとんど何も云えずに、目の前の大きな粒を撫でることしかできなかった。

そしてそれによって角度が少し変わるたび、綺麗な反射光がまるで生きているかのように動いた。

私の我が儘を聞いて、プロデューサーが、ネックレスをつけてくれた。

首の周りにプロデューサーの体温を感じた。

――似合ってるよ。

私のための石が見せる、私のための蒼だと云ってくれた。

まさか、そんな言葉を掛けてくれるなんて。

366: 2013/09/21(土) 02:00:25.77 ID:+Qc3jrsMo

目の前の男性―ひと―への愛しさが、もっと込み上げてきた。

367: 2013/09/21(土) 02:01:02.76 ID:+Qc3jrsMo
さらには、蒼い花束までプレゼントしてくれた。

即席の髪飾りをこしらえてくれた。

――18歳の誕生日、おめでとう。

まさか、こんなに綺麗な、ロマンチックな方法で祝ってくれるなんて。

368: 2013/09/21(土) 02:01:44.26 ID:+Qc3jrsMo

目の前の男性―ひと―への愛しさが、どんどん込み上げてきた。

369: 2013/09/21(土) 02:02:21.69 ID:+Qc3jrsMo
そして、私の胸は、ついに一杯になってしまった。

もう、止まらない。

ボールが、坂道を転がり出してしまったのだ。


「――誠実な恋、と云う意味があるんだよ」


そう云って、私はプロデューサーの胸ポケットへ岩桔梗を挿し込んだ。

もう――止められない。

370: 2013/09/21(土) 02:05:20.43 ID:+Qc3jrsMo

・・・・・・

凛は、Pの目を見詰めて逸らすことはなかった。

無言で、二人の視線は絡み合い、刻が過ぎてゆく。

「凛……お前……」

「いま、プロデューサーが、アイオライトをくれたよね」

ふと、凛が表情を緩め、ネックレスの宝石を撫でて云った。

「アイオライトは、“人生の羅針盤”、アイデンティティを呼び覚ます石なんだって」

371: 2013/09/21(土) 02:12:27.21 ID:+Qc3jrsMo
瞼を閉じて続ける。

「――ぴったりだと思わない? プロデューサーは、まさに私を導いてくれる羅針盤」

再び、眼を開けて、まっすぐPを見詰めた。

「そして、私自身の『アイデンティティに不可欠な』男性―ひと―……」

「凛、待――

Pが止めようとする前に、凛は想いの丈を告白した。

372: 2013/09/21(土) 02:15:05.23 ID:+Qc3jrsMo


ねえ、プロデューサー。

本当はこんなこと云っちゃいけないんだろうけれど。


「凛! それを明確に口に出しては駄――

373: 2013/09/21(土) 02:17:29.89 ID:+Qc3jrsMo




私は、あなたが――好き。

あなたなしでは、もう、生きていけない。




374: 2013/09/21(土) 02:23:23.12 ID:+Qc3jrsMo

ひとまず今回分はここまで
いやはや、クールにデレるしぶりんって書くの難しいです

【モバマス】凛「私は――負けない」【後編】

376: 2013/09/21(土) 14:38:43.37 ID:3C9iG6+zo
相変わらず描写丁寧でおもしろい

引用元: 凛「私は――負けない」