384: ◆SHIBURINzgLf 2013/09/24(火) 01:57:13.37 ID:wAwMmLgqo

【モバマス】凛「私は――負けない」【前編】
・・・・・・


――間に合わなかった。

Pは心の中でそう呟いて、途方に暮れた。

まさか、恋慕の情を、想いとして留めておくのではなく、明確な言葉で発するとは。

迂闊であった。

385: 2013/09/24(火) 01:59:42.23 ID:wAwMmLgqo
凛が少なからず自分に想いを抱いていることは判っていた。

凛は、弁えている子だ。

凛は、彼女自身の立場をしっかり認識している子だ。

アイドルが、プロデューサーに恋をしても、叶うことはないと判っている子だ。

だから、ロマンチックな誕生日を演出することで、少しでも報いてやれればと思っていた。

よもや、はっきりと告白してくるとは。

全く予想だにしなかった事態になってしまった。

――俺は、プロデューサー失格だ。
THE IDOLM@STER CINDERELLA MASTER 001 渋谷凛
386: 2013/09/24(火) 02:01:39.60 ID:wAwMmLgqo

「いいか、凛」

凛の両肩にそっと手を置く。

「お前が好きなのは、“プロデューサー”なんだよ。“俺”じゃない」

Pは首を振って、そう告げた。しかし凛は諦めない。

「確かに、最初に『いいな』と思ったのは“プロデューサーとしての”あなただったかもしれないよ。
 でもそんなのは、ただのきっかけでしかない。
 プロデューサーとしての存在の向こう側にある、『Pさん』に惚れるきっかけでしかなかったの」

387: 2013/09/24(火) 02:02:35.11 ID:wAwMmLgqo
Pは苦しそうに眼を閉じた。

「お前は、わかってたんだろ? あの歌の意味を」

「うん、あの歌詞に込められた裏の意味は、読んだ瞬間にわかったよ」

プリントアウトした紙を見せた瞬間の、凛の顔の強張り。
歌詞の意味に気付いたこと、それをきちんとPは看破していた。

「それでも、私は、プロデューサーの核を成すPさんが好き。
 私を変えてくれた、私を輝かせてくれたPさんが好き。
 アイドルの立場を取るかPさんへの想いを取るか迷ったよ。でもやっぱり、あなたが欲しいの」

388: 2013/09/24(火) 02:03:27.11 ID:wAwMmLgqo
すっ、と立ち上がり、姿勢を正す。

右手を心臓に重ね、芯のはっきりした声で云った。


――あなたの前では、渋谷凛という“女”でありたい――


Pも立ち上がったが、こちらは片手で頭を抱えている。

何も答えられず、まさに苦悶の表情だった。

389: 2013/09/24(火) 02:04:30.12 ID:wAwMmLgqo
凛が畳み掛ける。

「あなたに抱き締めてほしいの。
 あなたに抱いてほしいの。
 あなたになら滅茶苦茶にされてもいいの。
 あなたが好きなの……」

Pは、自分の認識誤りに漸く気付いた。

あどけない、初心な子だと思っていた少女は、いつの間にか、男を相手に、抱いてほしいと云えるまでになっていた。

よもや、凛の口からそのような台詞が出てこようとは。

少女は、いつしか、オンナに変わっていたのだ。

凛は、一息置いてから、真っ直ぐに射抜く視線で続けた。

「あなたが望むなら、アイドルを捨ててもいい!」

390: 2013/09/24(火) 02:06:13.29 ID:wAwMmLgqo

その言葉に、Pは即座に反応し、これまでとは全く違う、強い勢いと力で両肩を掴んだ。

凛は思わず、びくっ、と身体を縮こめる。

「凛、それだけは絶対に云うな。
 今の言葉はつまり、これまでのお前の存在や、お前が歯を食いしばって昇ってきた軌跡を、全否定することだ。
 それは渋谷凛のプロデューサーとして、許可できない」

「ぁ……ご、ごめん……なさい。考えなしに、云い過ぎた……」

Pは深く息をつき、

「少し時間をおこう」

お互い頭を冷やして、じっくり考える必要がある、と続けた。

391: 2013/09/24(火) 02:07:54.21 ID:wAwMmLgqo
その“頭を冷やせ”という台詞に、凛が泣きそうな顔をして問い掛ける。

「プロデューサーは、私のこと嫌いなの!? 私が本気で云ってるわけじゃないと思ってるの!?」

Pはあまりの苦しさに呻いた。

「そうじゃない。そうじゃなくて、俺は首を縦にも横にも振れないんだよ」

凛はひるまず、プロデューサーとしてではなくPさんとしての言葉を聞きたいの、と云う。

しかしPはその問い掛けには答えず、

「……しばらく、お前のことは鈷に任せよう。
 結論を急いじゃいけない」

392: 2013/09/24(火) 02:09:03.93 ID:wAwMmLgqo
凛の瞳は絶望に揺れた。

身体が小刻みに震えている。

「そん……な……」

その眼に耐え切れず、Pは付け加える。

「誤解のないように云っておくが、少なくとも、俺はお前を嫌ってなどいない。
 むしろ――いや、これは云っては駄目だな。ひとまず、そのことはわかってくれ」

凛は、その言葉に、少しだけ、安堵の色を見せた。

その言葉さえあれば、という表情であった。

393: 2013/09/24(火) 02:10:02.47 ID:wAwMmLgqo
「これは極めてセンシティブな問題なんだ。
 俺とお前の想いだけで『はいそうですか、じゃあどうぞ』となる世界じゃない。
 そのことはわかるだろう」

「うん……」

「軟着陸させなければいけない。
 そのためには時を置かなければならないんだ。
 いいな?」

その視線には大きな力が込められていて、凛もこれには頷かざるを得なかった。

「……わかっ、た……」


二人の周りには、夜景が、時が止まったかのように、変わらぬ光を輝かせていた。

394: 2013/09/24(火) 02:11:40.31 ID:wAwMmLgqo


・・・・・・・・・・・・


会議室にて、Pに第一課全員の面倒を看ろと告げられた鈷は、いきなりのことに相当混乱した。

「卵同士で、二人三脚ゆっくり上がっていくのが良かったのでは……?」

不思議そうに訊いてくる。

「確かにそう云ったな、あれは嘘だ」

「僕、崖から落とされるんです?」

どうやら鈷も、某ボディビル知事のドンパチ映画を知っているらしい。

395: 2013/09/24(火) 02:12:40.61 ID:wAwMmLgqo
「冗談だよ。……ちょっとした転換が必要になってな」

近々、第一課を専属して看ることが出来なくなるであろうこと、
鈷には早めにこの部署を背負えるようになってほしいこと、
そして、第一課全員、特に凛の仕事ぶりを見ることで、大きく吸収できるものがあるはずだ、と云うことを説明した。

「それに一箇月半ほどプロデューサーやって、そろそろコツも掴んできた頃だろう?」

と訊くと、鈷はなるほど、と頷く。

「少々急な転換だから、まだ引き継ぎ書類をあまり作れていないんだが、とりあえず今日のところは、
 取引先の名刺や簡単な情報をそのバインダーにまとめてある。活用してくれ」

「ありがとうございます。しかし、果たして僕に継げるのでしょうか……」

396: 2013/09/24(火) 02:13:57.87 ID:wAwMmLgqo
考え込む鈷に、Pは努めて明るく

「なに、そこまでシリアスに考えなくても良い。訊いてくれれば何でも答える。
 いざと云うときには銅や鏷も手を差し伸べてくれるだろう。頑張ってくれ」

「……はい!」

「手始めに、11月下旬発売、つまりマスターアップは10月末となる、凛の三曲目をどうするか構想を練ってくれ」

鈷にとって初めての、プロデューサーらしい作業だ。しかも事務所で一番のアイドルが出す新曲に関する大役。
鈷は身を引き締める。

「わかりました。数日のうちには、方針を決めたいと思います」

「宜しく頼む。あと、俺のことは事務所の戦略に関わるので、必要なこと以外は話さないようにしてくれ。
 アイドルたちに、鈷が担当になるのは何故かと訊かれたら、『Pが多忙になるから』とだけ伝えればいい――」

397: 2013/09/24(火) 02:15:22.46 ID:wAwMmLgqo

――それが十日前、凛の誕生日の翌日の出来事であった。

ここしばらく、凛には鈷が副プロデューサーとして付き、お盆期間中の特番ラッシュで現場へ直行直帰の日々が続いている。

今日の仕事は、久しぶりに午前中で収録が終わった。

ちょうどよく、新曲の打ち合わせがあるから、と電話で鈷に告げられたので、事務所へやってきたのだが。

「おつかれさまで…… あれ?」

第一課エリアへ足を踏み入れると、Pの姿はなかった。

なにゆえか、凛は微かな違和感を憶えた。

398: 2013/09/24(火) 02:16:12.80 ID:wAwMmLgqo
しかしその正体を考える前に、ミーティングルームから出てきた鈷が、凛を視認して迎える。

「おー、おつかれさま、凛ちゃん」

「副プロ、おつかれさま。……プロデューサーは他の子の引率中?」

入口から事務スペースを窺っていた凛が、ミーティングルームの方へ身体を開いて訊ねた。

その言葉に、鈷は少々面食らう。

「え? 何を云っているんだ? Pプロデューサーは昨夜発ったじゃないか」

399: 2013/09/24(火) 02:17:42.96 ID:wAwMmLgqo
「……へ?」

凛の手から、鞄がぽとりと床へ落ちる。

ファンには見せられないほど間抜けな、ぽかんとした顔で、凛は鈷を見た。

次第に「何云ってんだこいつ?」と眉根を寄せる顔となっていく。

鈷も、同じような顔になっている。

「副プロ、ちょっと話が見えないんだけど。プロデューサーが昨日、何をしたって?」

「いや、だから、昨日の夜、羽田を発ったんだよ。数時間ほど前にロサンゼルスへ着いてるはず――」

400: 2013/09/24(火) 02:19:28.90 ID:wAwMmLgqo
言葉を云い終わるか終わらないかの早さで、凛が鈷の襟元を掴む。

「私、聞いてないよ。これっぽっちも知らない」

「ちょ、ちょ、ちょっと。昨日凛ちゃんは撮影で出突っ張りだったし、出発は深夜の便だったし、
 見送りをしたのは社長とプロデューサー陣だけだったから――」

「それにしたって何の話も聞いてないのはおかしいでしょ」

「てっきり、凛ちゃんにはPさんから直接話が行ってるものだと――」

「だから知らないんだって! ロスまで何しに行ったの! そもそもなんでプロデューサーの作業場が、あんな綺麗さっぱりになってるの!?」

鈷の言葉が終わるのを待たずして次々と問い詰め寄る。

そう、凛が感じた違和の正体。

“Pに関する、あらゆる気配がなくなっている”

401: 2013/09/24(火) 02:20:43.35 ID:wAwMmLgqo
そしてそれを証明する、鈷の言葉。

「Pさんはハリウッドへ移籍していったんだよ。向こうの――」

凛はついに耐え切れなくなり、掴んだ襟を激しく揺する。

鈷は話している途中だったので、危うく舌を噛みそうになるところだった。

「どういうことなの!? 一体、なんで!?」

「そ、そんなに揺すらないでくれえええ!」

鈷の頭部は、放っておけば鞭打ちになりそうな動きをしていた。

丁度通り掛かったちひろが、後ろから止めに入る。

「り、凛ちゃん、どうしたの!? 落ち着いて!」

「これで落ち着いてなんかいられないよ!」

襟を掴んだまま、ちひろへ振り返って叫ぶ。

402: 2013/09/24(火) 02:21:43.42 ID:wAwMmLgqo
いよいよ穏やかならぬ空気を察知して、事務スペースのソファに座っていた奈緒と加蓮が何事かと、焦った顔で姿を現した。

「なんで!? どうして!? 厭ッ!!」

プロデューサーが忽然と消えた――

その事実に凛は異常なほど狼狽し、鈷の襟から離した両手で頭を抱え、一種の錯乱状態に陥っていた。

「おい凛、どうしたんだ凛!」
「ちょっと、凛、凛ってば!」

「厭! 私、プロデューサーがいないと何も出来ないの!!」

凛は、奈緒たちの呼びかけにも応えることなく、取り乱して叫び続けた。

「厭っ! 厭ぁっ! 厭ぁぁっ!!」

403: 2013/09/24(火) 02:22:45.66 ID:wAwMmLgqo


――パシン!


404: 2013/09/24(火) 02:23:43.31 ID:wAwMmLgqo
軽い破裂音と、その後に拡がる静寂。

凛の横顔を、奈緒が平手打ちしていた。

「ぁ……な、お……?」

床に崩れ落ちた凛が、頬を抑えながら、奈緒を見上げ、眼を見開いたまま荒い呼吸をした。

奈緒が床に膝をつけて云う。

「すまん、大事な商売道具の顔を叩いちまって。でも、ひとまず落ち着かねえと。何があったのかは知らないけどさ。……な?」

「………………ご……めん……」

405: 2013/09/24(火) 02:24:50.53 ID:wAwMmLgqo
ちひろが凛の傍にしゃがみ、肩をそっと抱いた。

「凛ちゃん、ひとまず、ソファに行きましょう?」

加蓮も、ちひろの反対側に屈んだ。

「ねえ凛、大丈夫?」

凛は何も声に出さず、青白い顔で、こくりと小さく頷いた。

ちひろたちに支えられてゆっくり立ち上がり、ふらふらとソファへ向かう。

406: 2013/09/24(火) 02:26:36.33 ID:wAwMmLgqo

凛を座らせてから、ちひろは戻っていった。両隣に座る奈緒と加蓮は心配そうに凛を窺っている。


「それで……プロデューサーは、なんでアメリカなんかに……」

凛が、自らの身体を抱き締め、微かに震えながら訊ねた。

対面のソファに座った鈷は、こめかみに指を当てる。

「社長から聞いた話では、知り合いの大物プロデューサーに師事させるため、らしいが、細かい部分まではわからない。
 空港では、たっぷり腕を磨け! って云って送り出してたけど」

407: 2013/09/24(火) 02:27:42.35 ID:wAwMmLgqo
CGプロ内部にレコード会社と同等の機能を持たせようと云う計画は、極めて秘密裡であった。

社長とPの他には銅と鏷、そしてちひろしか知らない。

鈷には、奈緒と加蓮を除く、Pと関係が深かった第一課のアイドルたちを率いていくのに
邪魔となる情報を与えない方が良いとの判断で、計画の細かい部分までは公開されなかった。

銅たちは、それでは流石に第一課のアイドルたちが可哀想なんじゃないか、と社長に掛け合ったが、
「P君がアメリカに行くとなれば、それ以降の彼女たちは、P君が手掛けるアイドルではなく
鈷君が手掛けるそれになるのだ」と云われては、頷くしかなかった。


「――で、プロデューサーがアメリカへ行ってしまった以上、これからは、私を含めて
 第一課のアイドル全員を、副プロが担当していく、ってことだね……?」

「うん、そうなるね」

408: 2013/09/24(火) 02:28:52.20 ID:wAwMmLgqo
凛の弱々しい疑問に、鈷は全く否定することなく答えた。

そして、その言葉は、凛の中の疑念をはっきりとさせる効果もあった。



――私は……プロデューサーに……捨てられたんだ……



少し離れた休憩室から、テレビの音が洩れている。

どのような運命の悪戯か、芸能番組で凛の新曲が流されているようだ。

409: 2013/09/24(火) 02:31:56.20 ID:wAwMmLgqo

――

 Hey, good girl
 With your head in the clouds
 I bet you I can tell you
 What you’re thinkin' about
 You'll see a good boy
 Gonna give you the world
 But he’s gonna leave you cryin'
 With your heart in the dirt
  ねえ 優等生ちゃん
  夢みたいなことを考えているのね
  断言するわ
  あんたは何でもしてもらえる
  良い男に出会ったと思ってるみたいだけど
  きっとそいつに突き落とされて
  泣かされるわよ

410: 2013/09/24(火) 02:34:07.22 ID:wAwMmLgqo

 His lips are drippin' honey
 But he’ll sting you like a bee
 So lock up all your love
 And go and throw away the key
  あいつの唇は甘い蜜を滴らせてる
  だけど蜂のようにあんたを刺すわ
  だから自分の恋心に戸締まりしなさい
  そして開けられないように鍵を捨てることね

 Hey, good girl
 Get out while you can
 I know you think you got a good man
  ねえ 優等生ちゃん
  手遅れになる前に逃げなさい
  あんたは良い男を捕まえたと思ってるんでしょうけど

411: 2013/09/24(火) 02:34:57.79 ID:wAwMmLgqo

 Why, why you gotta be so blind?
 Won’t you open up your eyes?
 It’s just a matter of time 'til you find
 He’s no good, girl
 No good for you
 You better get to gettin' on your goodbye shoes and go, go, go...
 Better listen to me
 He’s low, low, low...
  ねえ、なんで気付かないのよ
  なんで目を閉じてるのよ
  じきに認めざるを得ないときがくるわ
  あいつは良い人なんかじゃない
  あんたのためにならない
  別れなさいって
  私の話を聞いた方が身のためよ
  あいつは悪い男なんだから――

412: 2013/09/24(火) 02:36:00.34 ID:wAwMmLgqo

洩れる音を聴きながら、凛の顔は、青白いを通り越して土気色にまでなっていた。

流石にこの様子には鈷も見かねて、

「うーん、今日は、その状態じゃ打ち合わせは無理だね。
 凛ちゃんは明日も朝から仕事だから、今日は早めに上がって休んだ方がよさそうだ。
 奈緒と加蓮もさっきレッスンをこなしたところだ、寮へ一緒に帰るといい」

凛は、何も口に出せず、ただ首をゆっくりと縦に一往復させるのが精一杯だった。

鈷は、その魂を抜かれたかのような反応に、苦慮した。

聞かされてはいたけれど、これはどうしたもんか――

413: 2013/09/24(火) 02:41:05.73 ID:wAwMmLgqo

――

前夜、東京国際空港。

「海外へ飛ぶのに羽田から発てるなんて、便利になったな」

Pは誰に同意を求めるでもない独り言を、感歎と共に漏らした。

「まったくだ。私も昔はよく海外出張をしたもんだが、毎度々々あんな辺鄙でアクセスの悪い成田へ行くのが億劫でねえ」

はっはっは、と社長が笑った。

414: 2013/09/24(火) 02:42:05.65 ID:wAwMmLgqo

Pは既に国際線Eカウンターで搭乗手続きを済ませ、ターミナル四階の江戸小路にある庭園カフェにいる。

見送りにきた社長らと共に、出国までの時間を調整している最中だ。

「折角の門出なのに年寄りや男どもばかりの見送りですまんねえ! せめてちひろ君でも呼んでくるべきだったかねはっはっは!」

社長は、そうは思ってなさそうな口調で謝った。

「いえ、こうして社長にお見送り頂けるだけで充分ですよ」

Pがコーヒーを啜ると、鏷もコーヒーを片手に足を組んでPへ問う。

「おい、第一課の全員とは云わんが、せめて凛ちゃんには伝えてこなくてよかったのかよ?」

今回の件は、Pは第一課の誰にも話していなかった。

「この任務の性格上、あまり表立って云えないしな。隠密行動する忍者の気分だよ」

銅が頬に手を置いて息を吐く。

「それにしたってねェ、凛ちゃんがこのことを知った時の反応を想像すると、ちょっと胸が痛むわ」

415: 2013/09/24(火) 02:43:27.60 ID:wAwMmLgqo
鏷もそれに頷く。

「そうだな、せめて一年で戻ってくる、とかくらいは云ってあげてもよさそうなもんだが」

「そりゃ社長曰く一年が目安だが、先のことはわからないからな。数箇月で帰ってくるかもしれないし、数年かかるかもしれない」

目を閉じて云うPに、鏷は身を乗り出した。

「俺もフォローはするけどよ、凛ちゃんは明らかにお前に懐いてたから、果たして云うことを聞いてくれるかどうか」

「……凛は真面目で強い子だ。きっと、わかってくれるさ」

そこへ、カウンターで軽食を頼んでいた鈷が戻ってきた。

「どうぞ。皆さんでつまみましょう」

「お、サンクス」

早速、鏷がひょいとつまんで口へ運んだ。

416: 2013/09/24(火) 02:45:13.69 ID:wAwMmLgqo
その横で、Pは鈷へ向き直る。

「いよいよお前が第一課のプロデューサーだ。急な話だったがよくついてきてくれたな」

「いえ、……身が引き締まります」

「俺がこうやって急に発つことで、鈷がPを追い出した、などとあらぬ噂を立てられるかも知れない。
 そんな雑音は気にせずに、アイドルたちが惑わされないようにだけ気をつけて、思うままやってくれ」

「はい」

鈷は真剣な顔で頷いた。社長たちは、Pと鈷を黙って見ている。

417: 2013/09/24(火) 02:46:14.11 ID:wAwMmLgqo
「最初のうちは第一課のアイドルたち、特に凛が動揺するかも知れない」

“鈷はあくまでPの補佐だ”と認識してきた者たち、特に凛にとって、翌日から急に鈷がプロデューサーとなれば、当惑するであろう。

それは、容易に予想がつく。

「この十日、あいつに付いていて判ったと思うが、一見無愛想でも根は真剣だし、皆のことを考えてくれてる。
 まずは、凛の思う通りに行動させてみて欲しい。その上で適切なタイミングにサポートしてやってくれ」

「わかりました」

「あいつは俺の大切なアイドルだ。プロデュース生活の半身とも云っていい。本来なら俺がきちんと面倒を看なければいけないんだが――」

階下の出発フロアを行き交う人の流れに目線を移し、しばらく眺めたのち、眼を瞑って続ける。

――俺は、あいつのためにも行かなければならない

418: 2013/09/24(火) 02:47:00.45 ID:wAwMmLgqo

その後、しばらく歓談して、いよいよ時刻。

「よし、そろそろだな。P君、向こうでたっぷり腕を磨きたまえ!」

「はい、社長。ありがとうございます」

そして出国ゲートへ向かう際、Pは最後に鈷へ告げた。

「もし……もし凛が壊れそうになったら、奈緒や加蓮と組ませてみるといいかも知れん」

「奈緒と加蓮、ですか」

「ああ。あの三人は馬が合う。凛は責任感がとてもあるし、強いリーダーシップを発揮するはずだ」

そう云って鈷の肩を叩き、保安検査場へと消えていった。

419: 2013/09/24(火) 02:48:01.37 ID:wAwMmLgqo

――

「それにしたって急に渡米なんてねー。鈷さんだけで第一課大丈夫なの?」

大江戸線の車内で、加蓮がワクドナルドのシェイクを吸いながらぼやいた。

「鈷さんは、Pさんが遺してくれた引き継ぎデータがあるから、
 しばらくは今までと変わらず問題なく進められる、と云ってたけどな?
 だから、当面は大丈夫なんじゃないかとは思う」

「ふーん、ま、それでも鈷さん大変そうだし、アタシらも少し自立意識を持つべきかもね」

420: 2013/09/24(火) 02:49:07.40 ID:wAwMmLgqo
凛はほぼ上の空で、隣の二人の会話を聞き流していた。

奈緒の云う通り、クールアイドル全員のプロデュース方針表や固定済みスケジュールが引き継ぎ書類として用意されているので、
それに沿ってアイドルを動かしたり、各方面との折衝を進めておけば、しばらく、おおよそ晩秋までは何もせずとも進められるようにはなっていた。

その間に鈷が各アイドルに付き、プロデュース技術を吸収することに力を割けば、冬以降は鈷でもほぼ問題なく第一課の運用が可能となる目算だ。

イレギュラーな大トラブルが出ない限り、CGプロの業務としては、問題はあまりない。

――只一つ、凛の状態を除いては。

その日、凛は、どのようにして部屋へ戻ったのか、記憶がなかった。

421: 2013/09/24(火) 02:50:22.76 ID:wAwMmLgqo


・・・・・・・・・・・・


それからおよそ三週間が経ち、凛の新曲が発売となった。

前評判や注目度の高さから、予想通りの好調なスタートで、
並み居るアイドルや歌手たちを押しのけ、オリコソで初登場一位を軽々と達成した。
音楽番組やバラエティ等でも引っ張りだこだ。

しかし、ここ数週間の凛の仕事は、決して褒められたものではなかった。

勿論、真面目な凛だ、ファンに応える全力投球で仕事と向き合っているのだが、
空回りしたり、ほつれたり、小さなミスが重なっていった。
演技力に定評ある凛が、ドラマの撮影で珍しく二度もリテイクを受けたりした。

鈷のディレクター時代のつてや、銅や鏷の助力ででフォローはされていたので、大きな問題にはなっていなかったが、
テレビ局の監督や、スタジオのレコーディングエンジニア、撮影所のカメラマン、共演する役者等に
『渋谷凛に一体何があったのだ』と首を傾げさせるには充分すぎる、調子の狂いであった。

422: 2013/09/24(火) 02:51:49.38 ID:wAwMmLgqo
そしてそれは、パパラッチにとって格好の的となる。

ワイドショーは、視聴者の気を引くために、あることないことを垂れ流した。

それが凛の耳に入り、表向きは気丈に振舞っても、見えない疲労が内心に蓄積されていく。

強烈なフラストレーションに曝されるわずか18歳の少女の身体は、様々な不調を来した。
事務所に所属した初期の頃以来、久しぶりにレッスン中に吐いてしまったし、生理も止まってしまった。

主にマスコミが先陣を切る、凛への、肯定的な視線と否定的な視線、そして好奇の目。
それらが複雑に絡み合い、世間はさらに凛に注目するようになった。
休みたがっている凛の身体にとって、実に皮肉なことだ。

不眠と過眠が反復し、持久力も低下した。しかしその状態でも、身体に鞭を打って歌声を届け、激しい踊りを舞った。
それが更に身体を傷めていく。好ましくないスパイラルだった。

423: 2013/09/24(火) 02:53:29.65 ID:wAwMmLgqo

先日の会議では、11月に出す凛の新曲は、バラードでいくことに決まった。

これまで元気な曲しか演ってこなかった凛にとって、それは一種の新境地であったが、
その実、あまりの憔悴ぶりに、激しい歌や踊りは避けた方がよいという判断であった。

積極的な戦略に基づく、ギャップで攻める姿勢ではなく、消極的な採用理由。
しかも、当初は今まで通りの路線で行くことがほぼ決まっていた中でのどんでん返しだった。

凛自身、それには忸怩たる思いがあったが、これが今の自分を映している鏡なのだ。

逆に考えなければならない。逆境を活かさねばならない。

凛はせめて、作詞は自分で行ないたいと申し出た。

424: 2013/09/24(火) 02:54:40.10 ID:wAwMmLgqo

――

ふと、身じろいで意識が覚醒すると、凛は事務スペースのソファにもたれ掛かっていた。
どうやら、歌詞を考えているうちに、うつらうつらとしてしまったらしい。

「あぁ、ごめん、起こしちゃったか?」

霞む目を擦ると、正面には奈緒と加蓮が座っていた。

「ん、二人とも……来てたんだ」

意識にもやが掛かった状態でゆっくり言を紡いだ。その凛の声に、加蓮がすぐさま反応する。

「ねー凛、相当疲れてんじゃないの? 折角の綺麗な髪がダメージ受けてるし、肌も荒れてるよ?」

「疲れてないと云えば嘘になるけど……休んでるヒマはないから……」

その言葉とは裏腹に、相当な疲労・消耗している様子が言葉から在り在りと視えた。

425: 2013/09/24(火) 02:58:07.26 ID:wAwMmLgqo
あかん、日本語がおかしい……

>>424
× その言葉とは裏腹に、相当な疲労・消耗している様子が言葉から在り在りと視えた。

○ その言葉とは裏腹に、相当な疲労・消耗している様子が在り在りと視えた。

426: 2013/09/24(火) 02:59:23.54 ID:wAwMmLgqo
「そうは云ってもなあ、きちんと休まないと、むしろ効率はどんどん低下していくんだぞ?」

「うん、気をつけては……いるんだけどね」

軽く“伸び”をして凛は云った。
ふぅ、と息をついた後、テーブル上のノートとにらめっこを再開する。

「そーいえばそれ、何やってんの?」

加蓮が覗き込むようにして見ると、凛は少し顔を挙げて、

「新曲の歌詞をね、考えてるんだ」

「お? 凛が作詞してんのか?」
「へー、見ても大丈夫なら見せて!」

427: 2013/09/24(火) 03:00:32.59 ID:wAwMmLgqo
凛はノートを180度廻して、二人の方へ寄せた。


 誰かが わたしを呼ぶ 声が 聞こえて
 甘い 夢の途中 ぼんやり 目覚めた

 恋は どこから やってくるの?
 窓を 開けたら 不思議な夜明け――


そこには、途中まで書き上げた詞が、試行錯誤の筆跡と共に記されていた。

428: 2013/09/24(火) 03:01:45.75 ID:wAwMmLgqo
「へー、綺麗で甘い、いい詞じゃん」
「うおお、なんかすげえ切なそうな歌詞だな」

二人は口々に感想を述べる。

「そうだね、甘く切なく、したいから」

少し遠くを見て凛がそう云うと、奈緒がぎょっとしたように声を出した。

「お、おい凛、なんで泣いてるんだよ?」

奈緒の言葉に、加蓮も気付き、同様に驚いた顔をする。

「……え? 泣いてる? 私が?」

429: 2013/09/24(火) 03:02:45.82 ID:wAwMmLgqo
凛は不思議そうに訊いてから頬を触ると、両目から、泪がこぼれていた。

そんな意識など微塵もなかったのに。

「おかしいな。自分では泣いてるつもりは全くないんだけど」

「ねえ凛、こないだの件といい、ちょっと診てもらった方がいいんじゃない?」

加蓮がそう云って、自らと凛の額に手を当て、「熱はなさそうだけどさ」と付け加えた。

凛は少し困惑した顔で、大丈夫だよ、と告げるが、説得力は皆無であった。

430: 2013/09/24(火) 03:03:40.05 ID:wAwMmLgqo

そこへ鈷がやってきて、ソファに腰掛ける。

「流石にここ数週間といい、最近の凛ちゃんは、ちょっとあぶなっかしい感じがするね。
 この分だと、道路を上の空で歩いてたら車に轢かれた、なんてことも現実に起こり得そうだから怖いな」

不穏なことを云うが、それを否定できないのが辛い。

「そこで、だ。三人の相性が良さそうだから、新たにユニットを組んで動いてもらいたいんだ」

「ユニット? 私すでにニュージェネレーションを組んでるのに?」

それは云うまでもないことだった。
現在のところCGプロ唯一であり、パイオニアであるユニット、ニュージェネレーション。鈷がそれを知らないわけはない。

431: 2013/09/24(火) 03:05:40.26 ID:wAwMmLgqo
「そう。ニュージェネレーションとはもう一つ別の、第一課の中で完結できるユニットを、お前たち、りんなおかれん三人で組んでほしい。
 ユニット化させれば一度に多人数を扱いやすく出来るし、何よりも、最近の凛ちゃんの痛ましさを見ていると、
 無理矢理にでも看る奴が必要そうだと思ったからね」

「なんだよそれ、あたしのこと云ってんのか?」

“無理矢理”との言葉に、心外だと云うような顔をした奈緒へ、鈷は苦笑する。

「奈緒も加蓮もだよ。二人はひよっこなのに、もう凛ちゃんと気の置けない仲になってる」

「でも、その論理だと別にニュージェネレーションでもいいんじゃないの?」

凛が訊ねると、鈷は、近頃卯月ちゃんや未央ちゃんのソロが増えてきたからね、と答えた。

432: 2013/09/24(火) 03:06:54.36 ID:wAwMmLgqo
確かに、最近は凛も卯月も未央も、一人で動くことが多い。
それは、それぞれがクール、キュート、パッションと云う別分野にいるため、普段の仕事があまり被らないことに起因する。

その上、卯月と未央のソロ活動そのものも軌道に乗ってきたため、ニュージェネレーションとして絡むことが少なくなっていた。

現在、ニュージェネレーションが集まるのは週に一回、ラジオのレギュラー番組だけである。

三人とも売れっ子である以上、致し方のないことであった。

「だから、凛ちゃんのお守りと云う意味では、奈緒と加蓮はドンピシャの位置に居るわけさ」

同じ第一課で、歳も近くて、既に仲が良くて。
同じ課なので寮も同じ。だから仕事へ直行直帰するときも一緒に行動できる。

ユニットを組むには最適だろう? そう云って鈷は緩く笑った。

433: 2013/09/24(火) 03:08:16.24 ID:wAwMmLgqo
しかし加蓮は不安そうだ。

「てゆーかさ、アタシたちが凛と組むなんて、大丈夫なの? 云うなればウチのトップと最新参を組ませるってことでしょ?」

「バーターと云ってな、業界ではよくあることだよ。それに、僕はさっき『ひよっこ』と云ったけど、それは凛ちゃんと比べればの話。
 二人とも地力の良さがある。たった二箇月強で早くもランクD一歩手前まで上がって来てるんだからね。自信を持っていい」

その言葉に、加蓮と奈緒は、おそるおそるながらも安堵の息をついた。

「丁度いま三人揃っていることだし、ユニット名をここで決めちゃおうか。
 仮称として使ってる『りんなおかれん』ってのは名前を呼んでるのかユニット名を示しているのか、声だけじゃ判別しづらいからね」

434: 2013/09/24(火) 03:09:19.77 ID:wAwMmLgqo
鈷の提案で、早速命名会議が開かれた。――しかし会議と云うよりは、ただの雑談に近い。

「sCOOL GIRLってのはどうだい?」
「それあたしたちが学校卒業したらどうすんだよ」
「しかもユニットなのに単数形でいいの?」
「ぐっ……じゃあ何か案を出してくれよー」
「フレッシュネスガールズとかラッキーネイルとか」
「どっちもハンバーガー絡みかよ」
「アタシは一応考えてるのに奈緒は突っ込むことしか出来ないワケ?」
「うるせーな!」

鈷、奈緒、加蓮がああでもないこうでもないと侃々諤々たる意見をひたすら述べ合う中、凛がぽつりと漏らす。

435: 2013/09/24(火) 03:10:19.95 ID:wAwMmLgqo
「トライアドプリムス……とか」

三人の議論がぴたりと止んだ。

「なにそれ? 聞き慣れない言葉だけど」

「トライアルプリズム?」

「奈緒ー、それは流石に難聴の域じゃない?」

「うっせーな!」

436: 2013/09/24(火) 03:11:45.65 ID:wAwMmLgqo
加蓮と奈緒がコントのようなやり取りをする中、凛が続ける。

「Triad Primsだよ。直訳すれば“取り澄ました三和音”だけど、実際には『おすまし三人組』ってところ」

「おすまし三人組、か」

鈷が顎に手を掛けて思案し始めた。

「奈緒も加蓮も、印象はクールビューティ。実際喋ると、明るいながらも結構冷静で頭が切れるなと思うし。
 私は、この通り――無愛想だし。このイメージは、すぐさまブレることはないだろうな、って」

「え、あたしってそんなイメージか?」

凛の解説に、奈緒が少し照れたような表情で問うた。

437: 2013/09/24(火) 03:12:48.04 ID:wAwMmLgqo
「勿論、奈緒にも加蓮にも快活な面はあるよ。ただ、パッと見た時の第一印象は、やっぱりクールだからね。
 既にCGにはCo・Cu・Paを束ねたニュージェネレーションがあるから、“第一課―クール―の”三人、
 ――っていうイメージを名前でも出した方がいいと思って」

「なるほど。三人の印象を上手くまとめあげて、かつ長期的にも使えるってわけだな。……うん、僕はこれでいいと思う」

鈷が目配せで奈緒と加蓮に問う。

「そうだな、深く考えられてるみたいだ。あたしもこれでいい」

「アタシもいいよ。なんかかっこいーし」

438: 2013/09/24(火) 03:13:58.46 ID:wAwMmLgqo
鈷は両手で膝を叩いた。

「よし、満場一致で決定だ。意外とすんなり決まったな。もっと苦労するかと思った」

「つーか鈷さんは話を振ってくるのが唐突すぎんだよ」

鈷は面目ないといいながら頭を掻いた。そして懲りずに唐突な話を切り出す。

「新ユニット、トライアドプリムス。これ来月半ばのライブバトルで初お披露目といくから、そのつもりでレッスンに励んでくれ」

「ちょ、おいマジかよ!」

「ちょっと、あと一箇月しかないじゃん! アタシまだまだ体力追い付かないよ!?」

奈緒と加蓮がテーブルに身を乗り出して大きな声で抗弁した。

439: 2013/09/24(火) 03:15:03.55 ID:wAwMmLgqo
無理もない。

ソロと違い、複数人ではダンスの注意の払い方など根幹的な部分にも手入れが必要となる。

特に加蓮は、所属当初よりはスタミナがついて輝けるようになったものの、まだ激しい動きはできない。

それなのに、たった一月後にユニットデビュー、しかもその現場がライブバトルとは。

「大丈夫、凛ちゃんも一緒だし、三人でやっていけば一箇月でもかなり成長できるさ」

と、鈷は根拠のない自信を見せて胸を張る。

凛は、そんなやりとりをする三人を見て、云い様のない焦燥感に見舞われた。

440: 2013/09/24(火) 03:16:06.61 ID:wAwMmLgqo
――これは……私が先輩としても上位ランクとしても、ユニットをしゃんと引っ張って行かなきゃ……

弱音を吐いている暇などない。

弱みを見せている暇などない。

嘘で塗り固めてでも、精神を強く持たなければならない。

身体に鞭打ってでも、先へと走り抜けなければならない。

私は――負けてはならない。

441: 2013/09/24(火) 03:17:19.61 ID:wAwMmLgqo

ソファに浅く座り直して、疑問をぶつけた。

「ねえ、来月のライブバトルで演るとしても、曲はどうするの? まさかカバーというわけにもいかないでしょ?」

「そうだね、書き下ろしをPプロデューサー……いや、今はPさんと云った方がいいか――にお願いしてる」

凛はPの名前が出ると、一瞬、胸に苦しさを憶えた。

「プロデューサー……に?」

「うん、正直制作にそこまで時間は取れないので、作編曲家や作詞家とやり取りする時間も惜しい。
 Pさんなら一人で完パケまで持って行けちゃうから」

442: 2013/09/24(火) 03:18:31.87 ID:wAwMmLgqo
凛は心の苦さを無理矢理に封印し、目を閉じた。

「副プロが曲書けば?」

「僕は無理だよ。……あと一応今は僕が第一課のプロデューサーなんだけどなぁ……」

頭をぽりぽりと掻きながら鈷がぼやく。それでも凛はきっぱりと、

「別に『鈷さんなんかプロデューサーじゃない』なんて云うつもりは全くないんだ。
 でも、私がプロデューサーと呼ぶのはPさんだけ。ごめんね、『副プロ』って云うのはただの呼称だと思ってよ」

「……りょーかい。ま、そう云ってくれるだけでも助かるよ」

鈷は肩を上下に振ってから、曲はたぶん一週間弱ほどで送られてくるはずだ、と説明した。

「初めて組むユニットとしては、その一週間が惜しいね」

「そこは仕方ないさ。その間、奈緒と加蓮はメディアへの露出を増やしていこう。
 凛ちゃんは、今月は撮影やキャンペーンガールの仕事がびっしり入ってるからそっちに注力して貰うとして……」

鈷は腕を組んで、今後の予定を告げていった。

443: 2013/09/24(火) 03:23:17.03 ID:wAwMmLgqo

ちょっくら小休止、お茶淹れてきます
ようやく三人をTPとして出せるようになった……

制服コレクション最高や!
http://i.imgur.com/JBHGAya.jpg


444: 2013/09/24(火) 03:51:41.41 ID:wAwMmLgqo


・・・・・・・・・・・・


仕事と単独レッスンの合間にトライアドプリムスのトレーニングを挟みつつ、三週間が過ぎた。

凛は、トライアドプリムスでレッスンする時なら、比較的スムーズにこなせていた。

Pが凛たちのために書き下ろしてくれた曲だという事実がモチベーションを支えていたこと、

内容が奈緒・加蓮に合わせたレベルであること、そして何よりも彼女の強い責任感によるものであろう。

しかし、こと単独レッスンに於いては、その反動からか、壊滅的と云える惨状であった。

445: 2013/09/24(火) 03:52:49.39 ID:wAwMmLgqo
以前踏めたステップが辿れない、以前出せた音域が届かない、以前取れた音階が大きくずれる。

必氏に取り返そうとして、更に力んで上手くいかなくなる。

厳しい指導が特徴の麗すら、あまりの酷さに心配するほど。

「スランプと云うものは誰にでもある。今は焦らず我慢の刻だ」――いっそ、怒られた方がまだマシだと、自らの惨めさに、陰で独り泣いた。

仕事の内容も、音楽番組ではなくトークやバラエティ主体、
またNTTドコデモの新型iPhoneプロモーションなどと云った、身体を酷使しない方向へシフトされていた。

鈷の顔に、焦りの色が見え始めている。

446: 2013/09/24(火) 03:54:30.91 ID:wAwMmLgqo

そんな十月上旬、ラジオ局以外で久しぶりにニュージェネレーションの仕事があった。

ファッション誌Eighteenの特集に、モデルとして載るそうだ。

「局以外でニュージェネレーションが集まるのって久しぶりだよね~!」

銅に送られやってきた、勝手知ったる提携フォトスタジオ。

控室にて、未央がわくわくとした様子で云った。

スタジオ内では、銅とEighteen担当者が最終の詰めを行なっている。

「うん! しかもファッション誌に載るのは初めてだから頑張らないとね!」

卯月も未央同様に、興奮を抑え切れない勢いで答える。

雑誌にグラビアで載ることはこれまでにもあったが、ファッション誌にモデルとして出るのは初めてであった。

447: 2013/09/24(火) 03:55:28.31 ID:wAwMmLgqo
対照的に、物静かな凛。未央が覗き込んで問うた。

「しぶりん、どした? 元気ないぞー?」

目線だけ未央に向け、しゅんとしながら答える。

「ん……身体の状態があまり芳しくない時に限って、ファッション誌の撮影なんて、しかもみんな読んでるEighteenなんて……タイミング悪いな」

「逆に考えればいいよ~、グラビアみたいに水着じゃなくてよかったーって!」

未央の云うことも尤もだが……

凛は、未央の考え方を羨ましく思いながら、そうだね、と弱々しく微笑んだ。

448: 2013/09/24(火) 03:56:25.27 ID:wAwMmLgqo

 ――渋谷凛さんヘアメイク入りまーす!

スタジオアシスタントに促され、化粧鏡の前に腰を下ろした途端、担当が苦い声を出した。

「渋谷さん、ちょっとお肌の状態が荒れちゃってるわね。以前は下地クリームだけでも充分なくらいだったのに」

「はい、最近身体の酷使が続いてしまって……」

「駄目よ、身体は労らないと。一番の資本なんだから。
 ――今日のメイクプランは変更ね。カバーファンデとコンシーラーをつけておきましょう」

449: 2013/09/24(火) 03:57:30.05 ID:wAwMmLgqo
髪を留め、目を閉じて、メイクさんの為すが儘。

縦横無尽に動き回る指が、凛の顔に魔法をかけていく。

よしOK、との声で目を開けると、そこには別人のように輝いた凛がいた。

「すごい……あれだけ酷い状態だったのに……」

「ま、メイクの腕の見せ所ね。一応カバーはこれで大丈夫だけど、やっぱり大事なのは元のお肌の状態を良くすることよ。
 化粧で補うことに慣れると、どんどん肌は荒れていっちゃうからね。あまり無理はしないように」

「……はい」

凛は哀しい顔で答えた。

450: 2013/09/24(火) 03:58:58.78 ID:wAwMmLgqo

ストロボが、リズムよく凛の身体を何度も照らす。

秋コーデに身を包んだ彼女は、カメラマンやEighteen担当者の指示で様々な動きをとっていた。

「凛ちゃん、今日はちょっと顔硬いよー? もっと力を抜こうー」

案の定……と云うべきか、凛の調子は悪い。

そのこと自体は凛も重々承知しているのだが、どこがどのように悪く、どうすれば改善させられるのかがわからない。

上手くいかない時は、往々にして全てが悪く見えてしまい、どこから手を付ければよいのか判断できなくなるものだ。

カメラマンに云われれば云われるほど意識してしまう泥沼。

頭の中は既に真っ白で、必氏に何とかしようと藻掻くが、上手くいかない。

451: 2013/09/24(火) 04:00:00.03 ID:wAwMmLgqo
ついにシャッターの音が止まってしまった。

カメラマンが困惑した顔で、ファインダーから顔を離す。

凛はぎゅっと眼を瞑って、頭を小刻みに横へ振った。

「すみません」

短く嘆息しながら謝罪を述べる。

レフ板の向こうでは、銅がEighteen担当者に何やら耳打ちをしており、

さらにその奥では卯月と未央が不安そうな顔で凛の方を見ている。

「凛ちゃん、こっちおいで。ちょっと休憩しましょ。卯月、先に撮って頂きな」

耳打ちを終えた銅が、手招きして凛を呼び戻した。入れ替わりに、卯月が「はいっ!」と答えながらレンズの前に立つ。

452: 2013/09/24(火) 04:01:27.83 ID:wAwMmLgqo
「……申し訳ありません」

銅の許へ歩むや否や、凛は苦々しい表情で詫びた。

「うーん、鈷から状態を聞いてはいたのだけれど……。今日の凛ちゃんを見てる限りじゃ、無理矢理笑わせるのはよくないね。
 コーデを変更してビューティにしよう。アンニュイな雰囲気的にもそちらの方が合いそうだ。……如何でしょう?」

凛の様子を心配そうに見てから、最後にEighteen担当者を振り返って銅は提案した。

「そうですね、今回の渋谷さんソロは寒色押しで行きましょう。秋コーデのセオリーには反しますが、それもまた一興です。
 今の衣装は、ニュージェネ三人集合の際に使います。デュオやトリオでは統一感を出したいので」

「すみません、わざわざ、ありがとうございます」

凛は言葉少なに頭を下げる。他に何を云ったところで、ただの言い訳にしかならないからだ。

「ま、トラブルをチャンスに変えるのが、アタシたちの仕事さ」

そう云って笑う銅の許へ、順調に撮影を終えた卯月が「凛ちゃん、大丈夫?」と駆け寄ってくる。

凛は卯月へ、ゆっくりと、力なく頷いた。

 ――渋谷凛さん島村卯月さん衣装チェンジ入りまーす! 渋谷さんI12 O8 B4、島村さんI7 O15 B11で――

453: 2013/09/24(火) 04:02:26.72 ID:wAwMmLgqo

・・・・・・

撮影を何とか時間内に終わらせ、ニュージェネレーションの三人は事務所へと戻ってきた。

本日、これ以降はお仕事なし。

その代わり、これまた久しぶりに、ニュージェネレーション統一レッスンが組まれた。

年末ライブのための、おねシンと輝く世界の魔法、それぞれのニュージェネレーションバージョンの通し稽古だ。

特段難しい動きはないので、さほど問題はない。

はずだった。

454: 2013/09/24(火) 04:04:16.68 ID:wAwMmLgqo

「ねえ凛ちゃん、マニュアルをトレースしただけになっちゃってますよ?」

ひとまず二曲を通して動いてみた後の、慶の言葉である。

「……はい、何よりもまず、ミスの無い正確な動きを目指そうと」

「うーん……云わんとすることは判るんですけど……もう一回通してみましょうか」

再び流れるおねシン、そして輝く世界の魔法。

特段難しい動きはないので、さほど問題はない。

――はずだった。

455: 2013/09/24(火) 04:05:19.25 ID:wAwMmLgqo

通しが終わって曲を停止させたのち、慶はしばらく逡巡して、重い口を開いた。

「……凛ちゃん、何て云うべきか……楽しさが伝わってこないんですよ。
 正確さを気にする時期はもう過ぎていると云うか、今はもう楽しさを届けなければいけない段階のはずなんです。
 例えば未央ちゃんは、何回かステップをミスしてて――」

未央はしまったバレてた、と肩を竦める。

「――でも楽しそうに踊ってて、そのミスを感じさせなかったんです。
 卯月ちゃん、隣で一緒に踊っていて凛ちゃんの動きはどう思いました?」

慶はセンターで踊っていた卯月に話を振った。

456: 2013/09/24(火) 04:06:29.79 ID:wAwMmLgqo
「え? えっと……凛ちゃんは、ミス自体はありませんでした。なので、一緒に踊る立場としては、やりやすかったんですけど……
 正確に動こうとするあまり、硬くなっちゃっていたように思います。そこが逆にミスしているように外部からは見えてしまう……のでは」

卯月の言葉に軽く頷いて、次は未央の番。

「未央ちゃん、凛ちゃんのボーカルの方はどう聴こえました?」

「んー……、歌の方は、正確な音程を出そうとして、気をつけすぎて、逆に歌声が心へ染み込まなくなっちゃうって感じ……なのかな?
 確かに正確なライン取りだったんだけど、何となく機械に歌わせているような……」

卯月も未央も、自らのパフォーマンスを披露しながら、自分以外のメンバーの状態を、冷静に観測できるほど成長していた。

逆に、凛が一番、自分についてわかっていなかったのだと、曝け出されてしまった。

「そうですね。笑顔も出ていなかったですし、全体的な内容で云えば、未央ちゃんの方がよかったです」

457: 2013/09/24(火) 04:07:55.12 ID:wAwMmLgqo
慶の宣告。

ニュージェネレーションの中で飛び抜けて先を行っていた凛が、
今や、三人の中で最も歌とダンスを苦手としていた未央よりも、霞んで見えてしまうという事実。

凛は、目を固く閉じて、天を仰いだ。

「ねえ、凛ちゃん。今……楽しくないの? さっきの撮影の時も、あまり元気なかったし……」

卯月が心配そうに凛の肩を触る。

「そんなことは、ない……はずなんだけど……」

「以前あんなに楽しそうに踊ってた、しぶりんらしくないよ?」

未央も、凛の斜向かいから歩み寄って云う。

458: 2013/09/24(火) 04:08:58.47 ID:wAwMmLgqo
「……ねえ、未央。私らしい、って……何なんだろう?」

「……えっ?」

存在の根本を問う、凛の哲学的な疑問に、未央と卯月は動きを止めた。

「――ねえ、渋谷凛って……何?」

凛は虚空を見詰めて、誰かに投げ掛けるわけではなく言葉を漏らす。

「どうすれば楽しさを与えられるのかな? 笑顔になればいい? 凄いダンス踊ればいい?」

「さっきの撮影のときみたいな引きつった笑顔で、勢い良く踊れば、解決するの?」

「さっきの撮影のときみたいに、クールな仕草じゃだめなの? クールに正確な動きじゃだめなの?」

「私は今まで通りやってるつもりだけど……どうやったら……楽しさを届けられるの……?」

ただならぬ凛の雰囲気に、二人だけでなく、慶までもが慄いている。

459: 2013/09/24(火) 04:10:07.27 ID:wAwMmLgqo

「わからなくなっちゃった……」


焦点の合わない虚ろな眼差しで、

「あれ……そもそも、なんで私、踊ってるんだっけ……」

 ――なんで私、アイドルやってるんだっけ……――

「わからなくなっちゃったよ……」

ぽつりと漏らした凛の言葉に、卯月や未央、そして慶も慌てる。

「ちょ、ちょっと凛ちゃん! そんなこと云っちゃ駄目だよ!」

460: 2013/09/24(火) 04:11:14.95 ID:wAwMmLgqo
はっ、と意識を戻した凛は、半ば無意識的に漏らした自分の言葉に、衝撃を隠せなかった。

しかし、それよりも、目的が見えなくなった凛を諌める卯月の言葉に、血が上ってしまった。

「なんで……なんで云っちゃ駄目なの? ねえ、疑問を持つことすら赦されないの!?」

次第に語気が強くなる。

冷静になれ、と、頭の中でもう一人の自分が指令を出しても、止められない。

「考えることが赦されないなら、それこそ機械と同じじゃない!」

「り、凛ちゃん……」

あまりの剣幕に卯月が青ざめる。

461: 2013/09/24(火) 04:12:23.05 ID:wAwMmLgqo
未央が泡を食って凛の肩を掴んだ。

「ねえ! さっきの言葉は、これまでしぶりんを支えてきた数多くの人への背信になっちゃうんだよ!?」

「そんなのわかってるよ! そんな正論は痛いほどわかってるの!!」

凛はその腕を振り払って叫んだ。

驚愕に目を見開く未央へ、捲し立てる。

「でも! 自分自身の存在意義も目標も、何を為すべきかも視えなくなっちゃったの!」

「しぶりん! みんなでトップアイドルになろうって、云ったでしょ! それが目標じゃなかったの!?」

「云ったよ! 云ったけど! あの男性―ひと―のいない世界で、トップになったって仕方ないじゃないっ!」

決壊した感情のダムは、胸の内を全て絞り出すまで止まらなかった。

「未央だって、もし鏷さんがいなくなったら、その世界でトップを目指せるのっ!?」

462: 2013/09/24(火) 04:13:18.15 ID:wAwMmLgqo
未央はその叫びに言葉を詰まらせた。

彼女もまた、担当プロデューサーに密かな想いを寄せていたからである。

そして、その鏷が傍に居てくれている自分が、凛に何を云おうとも届かないことに気付き、黙り込んだ。

卯月と慶はこのような事態に慣れていないのか、おろおろとしている。

しばらく凛は肩で息をしていたが、それが落ち着くにつれ、自分の放った言霊が既に回収できない位置にあると悟り、苦悶した。

「……ごめん。私、今はここに居ない方がいいと思う。……卯月と未央の、足手まといになっちゃうから」

そう云い残し、引き留める卯月、未央、慶を振り返らず、弱々しい足取りでダンスルームを出て行った。

463: 2013/09/24(火) 04:14:50.61 ID:wAwMmLgqo

――

街は黄昏れの刻。

しかし空は雲に覆われ暗く、綺麗な夕焼けは姿を見せていない。

まるで凛の心を映したかのように。

凛は、着替えもせず、レッスンウェアのまま、気付くと麻布十番は網代公園にいた。

まもなく夜の帳が下りる上に、不穏な空模様だからか、公園には誰もいない。

そっとブランコに腰を下ろすと、キィ、と金属の擦れが音を立てた。

464: 2013/09/24(火) 04:16:11.46 ID:wAwMmLgqo
――私、どうしちゃったんだろう。

アイドルとしての自分の存在意義に、疑問を持ってしまった。

あのひとが連れてきてくれた世界に、疑問を持ってしまった。


掃いて捨てるほどアイドルのいる昨今、渋谷凛が持つ意味とは?

あのひとがいない世界で、渋谷凛がトップアイドルを目指す意味とは?


低く垂れ込めた雲から、雫がぽつりぽつりと落ちてきた。

やがてそれは、シャワーのように、勢いを増し、凛の身体を濡らしていく。



凛の頭の中で、Pがトライアドプリムスに書き下ろした曲がリフレインした。

465: 2013/09/24(火) 04:17:23.55 ID:wAwMmLgqo


恋の花ひらひらと


466: 2013/09/24(火) 04:18:43.62 ID:wAwMmLgqo

 幾千の星屑 名も知れず輝いて
 この心照らす 静かな夜

 あの人に思いが いつの日か届くよに
 夜空に願うよ 乙女心

 鮮やかな満月の光が
 この恋を叶えると し・ん・じ・て

 恋の花 開くよに 今あなたへ伝えよう
 恋の雨 降らぬよに 私は祈ってる…

 夢の花 ひらひらと 今あなたへ落ちてゆく
 恋の花 ゆらゆらと あなたに届くまで……

467: 2013/09/24(火) 04:20:14.21 ID:wAwMmLgqo

この曲は、凛の調子が悪くなってから書かれたもの。

――副プロは当然、私の体たらくをプロデューサーへ伝えてるよね……

そんなPが、凛へ寄越したこの曲の意味――“Now is not the time.”

君を想っている。でも、今はまだその時ではない。

なぜあのひとは、私の心の中をこんなにも見透かしているの?

なぜあなたは、遠く離れていても私の心をこんなにも恋焦がせるの?

468: 2013/09/24(火) 04:21:24.98 ID:wAwMmLgqo

スポットライトを浴びなくてもいい。あのひとの傍に居たい。

ファンへの申し訳なさと、Pへの想いの狭間で、凛は身動きが取れなくなっていた。

「私……どうしたらいいの……」


うつむく凛に、雨が打ち付ける。

この雨は、憐れな人間にせめてもと神様が恵んでくれたものだろうか。


凛の眼から止め処なく溢れる熱い雫を、誤摩化してくれるから――

469: 2013/09/24(火) 04:22:51.47 ID:wAwMmLgqo

――

どれほど経っただろうか。

空がすっかり暗くなっても、雨はしとしとと降り続いていた。

雨宿りをするでもなく、ただただ天の気紛れに身を任せていると、その凛の身体を打つ雨が不意に、止んだ。

いや、水音は止んでいないので、まだ降っているはずだが。

ふと上を見ると、凛を白い傘が覆っている。

そのまま視線を後ろへ持っていくと。

470: 2013/09/24(火) 04:24:18.95 ID:wAwMmLgqo
「ち……ひろ……さん……? なん……で……?」

緑の制服に身を包んだちひろが、哀しそうに微笑みながら佇んでいた。

「みんな大騒ぎで凛ちゃんを探しているのよ?」

手掛かりが無いから虱潰しにね、と苦笑しながら。

「まさか事務所のこんな近くにいるなんて、まさに灯台下暗し、ね」

何も云えないでいる凛を、ちひろは優しく立たせ、促した。

471: 2013/09/24(火) 04:25:23.95 ID:wAwMmLgqo
「さぁ、戻りましょう。もう十月なのにそんな薄着で雨に打たれ続けて。これは風邪を覚悟しないといけないわね」

ちひろは困ったように笑みを浮かべた。

「……ごめんなさい」

「いいのよ。多感な時期は色々なことがあるわ」

CGプロ事務所は、上を下への大騒ぎだったが、ずぶ濡れの凛をちひろが連れ戻ってきた瞬間、水を打ったように静まり返った。

全身から雫を滴らせ、生気のない眼で歩く彼女に、誰も声を掛けることができなかったのは、当たり前と云える。

「シャワーを浴びたら、今日はもうこのまま仮眠室で寝てしまいなさいな」

ちひろが、事務所に残っていた社員を全て帰途に就かせながら凛に告げる。凛は黙って頷いた。

472: 2013/09/24(火) 04:26:34.03 ID:wAwMmLgqo

つい先ほどまでと同じように、凛を包む水音。

違うのは、冷たい雨ではなく暖かいシャワーであると云うこと。

凛は何故だか、三月の横浜アリーナ単独ライブを思い出していた。

頭の中には、ステージの歓声が、ずっと、こだましている。

武者震いする自分を、常に傍で支えてきた人。

プロデューサーは、お前なら出来る、と常に隣へ立っていてくれた。

あの人にそう云われると、

いつの間にか自分もやれる気になってしまっている。

でも今は――傍にいない。

473: 2013/09/24(火) 04:27:29.88 ID:wAwMmLgqo

私は、偶像。

あの人は“渋谷凛”を形作った。

私は“渋谷凛”という存在を表現した。

観客はそんな私に熱狂した。


眼を瞑ると、たくさんのファンが応援してくれた、ライブの光景が浮かぶ。

揺れるサイリウム、飛び交う声援、観客と共に踊る振り付け。

数万もの人が、一点に、私に、視線を送る。

474: 2013/09/24(火) 04:28:27.32 ID:wAwMmLgqo

……ヒトが見る私は、渋谷凛というアイドル。

ただの、偶像。

ただの、容れ物。

それは本当の私ではない。

いつも偶像を演じていると、時には疲れてしまう。

偶像を解き放ちたい、そう思う刻が、確かにある。

そんなとき、決まってあの人は支えてくれた。

あの人がとても頼もしく見えた。

でも今は――傍にいない。

475: 2013/09/24(火) 04:29:38.49 ID:wAwMmLgqo

勿論、あの人はプロデューサーで、私はアイドル。

そうである以上、結ばれることはない。

しかし、アイドルになったからこそ、あの人と出会えたのだ。

そっと、想いを心の中に持つことくらいなら、赦されたはず。

しかし私は、その禁を破ってしまった。

この苦しみは、自らが招いたこと。

それでも――傍にいてほしい。

叶わぬ恋でも、いいから、傍に居たい。

どうすればいいのか、わからない。

凛は、これまでに何度も繰り返してきたもの“とは異質な”自問自答を終えると、ふぅ、と軽く一息吐き、シャワーを止めた。

476: 2013/09/24(火) 04:30:50.82 ID:wAwMmLgqo

まずは、週末に迫ったトライアドプリムスのライブバトルをこなさなければ。

私だけが堕ちていく分にはいい。

だけど、それに奈緒や加蓮を、巻き込むわけにはいかない。

既に足場を築いてあるニュージェネレーションの卯月や未央とは違い、
トライアドプリムスの失敗は、即ち、奈緒と加蓮の前途に暗雲が立ち込めることを意味する。

あの二人には才能がある。

私の凋落に、巻き込むわけにはいかない。

477: 2013/09/24(火) 04:32:06.57 ID:wAwMmLgqo

――

シャワーを終え地階から戻ると、給湯室でちひろが凛のために食事を用意していた。

まさかのことに凛は驚く。

「暖かくて消化の良いものを作っといたから、食べてゆっくり寝なさいね」

「ちひろさん……どうして……?」

「事務所で一番の古株の子が苦しんでるのよ、放っておけるわけないでしょう。……Pさんの代わりにはならないけれどね」

ちひろは気付いていた。

凛の思慕の念にも、凛の不調の原因にも。

478: 2013/09/24(火) 04:33:45.68 ID:wAwMmLgqo
当然だ。事務所の設立からずっと一緒にやってきたのだから。

ちひろは、ニュージェネレーションに勝るとも劣らない、『戦友』であった。

給湯室の彼女に、在りし日の合宿でコンロの前に立っていたPがオーバーラップした。

涸れたと思った泪が、再び溢れる。

どんどん視界がぼやけていく中、ちひろが傍に寄ってくることだけはわかった。

「ちひろさん……ごめんなさい……ごめんなさい……」

ちひろが、優しく凛を抱き寄せる。

「何も云わないから、今は泣くだけ泣きなさい……」

ちひろの手が、慈しむように、穏やかに、凛の背中を叩いた。

485: 2013/09/24(火) 23:54:40.41 ID:wAwMmLgqo


・・・・・・・・・・・・


翌々日。

ちひろの胸を借りて以降、吹っ切れたかのように、凛はトライアドプリムスのレッスンでは調子を上げつつあった。

ニュージェネレーションの時と全く違う動きに、慶が「果たして同じ人物なのか」と混乱するほどであった。

しかし実際は、それは凛の強迫観念から来る精神力だったのだが、外野の人間にそこまで判ろうはずなどない。

鈷はほっと安堵していたし、奈緒と加蓮も、凛との距離を詰めようと頑張りを見せ、この一箇月の成果でめきめきと上達した。

486: 2013/09/24(火) 23:56:15.88 ID:wAwMmLgqo
表向きは上手くいっているのだから、トライアドプリムスがデビューするまではこれでいい。

凛は自分の身体に鞭を打って必氏に唱い、舞い、動き回った。

案の定、昨日から悪寒や頭痛が出ていたのだが、気のせいだと断定して、神経をシャットアウトした。

――病は、気から。体調を崩すのは、根性なしの証。

声帯はまだ無事だ。

なに、数日後の本番までには、こんなもの吹き飛ばせるよ。

487: 2013/09/24(火) 23:57:42.30 ID:wAwMmLgqo

「はい、OK。今日はここまでにしましょう。お疲れ様でした」

慶が手を打つと、トライアドプリムスの三人は「ありがとうございました!」と勢い良くお辞儀をした。

「ふーつかれたー。でもだいぶいい動きが出来るようになってきたよね」

加蓮がタオルで顔の汗を拭いながら笑い、奈緒も同意しながら充実した表情を見せる。

「ああ、ボーカルの方も全パートこなせるようになったしな!」

凛は、レッスンの最後に通しで行なった動きを、ビデオで確認している。

モニターを見ながら、四肢の位置や動作タイミングが奈緒や加蓮に合うよう、慶と相談して微調整を重ねる。

488: 2013/09/24(火) 23:59:28.60 ID:wAwMmLgqo
「凛ってさ、――努力の天才だよな」

その様子を見ていた奈緒がつぶやいた。

「そうだね、アタシ、テレビで凛を見てた頃は、才能があって羨ましいと思ってた。
 でも、実際一緒にやってみて――勿論、才能もあるんだけど、それ以上に努力で昇って行ったんだな、ってわかったよ」

加蓮の言葉に、慶との相談を終えた凛が云う。

「私はそれしか能のない人間だからね――」

首に掛けたタオルを顔に当てて、モニター前から二人の方へ歩み寄った。

「――他の人なら、才能やスキルで軽々と越えて行く壁を、私は必氏に這いつくばって、努力でよじ登るしかできないから」

「その“必氏に這いつくばれること”が、才能だと思うけどな、あたしは」

「才能……なんかじゃないよ。ただ、酬いを渇望して動いてただけの、醜い動機だから」

凛は複雑な笑みで、奈緒の言葉に答えた。

489: 2013/09/25(水) 00:01:29.53 ID:ScZmVB2Io
「そりゃ、何かをしたいから動く、なんて誰でも当たり前じゃない? 醜くも何ともないと思うけど」

加蓮がOS-1を飲みながら不思議そうな顔をした。

「そう、――かな」

「そうだよ。アタシだってアイドルとして輝きたいからレッスンしてるんだし。○○したい、だから□□する、というのは普通でしょ」

そう云って、掌を上に向け、首を傾けた。

「生きてる限り欲望から逃れられない、か。食欲、性欲、睡眠欲は云わずもがな、顕示欲とか、金欲とか。……人間って因果なものだね」

凛が眼を瞑って、微かに頭を振ると、

「せ、性欲っておま――」

奈緒が、特定の言葉に反応して顔を赤くする。

490: 2013/09/25(水) 00:02:59.13 ID:ScZmVB2Io
「言葉の綾だよ、奈緒。何を初心な反応してるの」

「う、うっさいな!」

凛の突っ込みに奈緒が更に顔を赤くする中、反対に加蓮は済ました顔で、

「ねえ凛、随分と哲学的と云うか諦観的と云うかニヒリズムと云うか、喋ることが妙に背伸びしてない? 何か悩みでもあるの?」

「え? ……あ、いや、別にそう云うわけじゃないんだけど」

凛は内心慌てたが、極力それを表に出さないよう気を張った。加蓮は、ならいいけど、と云ったが、新たなことに気付いた。

「ねえ、凛、顔紅くない? レッスン終わってから結構経つのに」

「そ、そう? 今日はいつもより大きく動いたからかな」

加蓮は、いまいち納得し切れないような顔で、更に首を傾げた。

491: 2013/09/25(水) 00:05:03.46 ID:ScZmVB2Io

・・・・・・

……不味い。

翌朝、目を覚ました凛は、イの一番に、身体の極端な重さをはっきり実感した。

枕元の基礎体温計に手を伸ばして、途中でやめる。

体温は……怖いから計らない。

基礎体温の計測は毎日の習慣ではあったが、どうせ最近は生理が止まってしまっているのだから、計る意味など無い。

無理矢理にでも自分にそう云い聞かせて、起き上がった。

492: 2013/09/25(水) 00:06:24.83 ID:ScZmVB2Io
その瞬間襲いかかる、激しい頭痛。

「――~~ッ!」

思わず、言葉にならない呻きを漏らした。

プロとしてあるまじき、体調管理の不行届。

最近の私は、とことん駄目だ。

病は気から。この根性なしめ。

「あ、あー。あ・え・い・う・え・お・あ・お――」

掠れてはいないが、ピッチがいつもより若干低い。いや、これは耳のせいか?

鼻通りもだいぶ悪くなっている。

493: 2013/09/25(水) 00:07:34.19 ID:ScZmVB2Io
兎にも角にも、この状態を何とかしなくては。

アイドルが頭痛に顔をしかめ、声を枯らし、鼻水を垂らすなどあってはならない。

奈緒や加蓮に感染さないよう、鎮咳剤も飲む必要がある。

――確か以前処方してもらった鼻炎薬と消炎鎮痛剤があったよね……

救急箱を漁ると、昔、使い切らなかった様々な錠剤が顔を覘かせている。

シャワーを浴び、湧かない食欲に無理を云わせ、エネルギーゼリー飲料と共に、薬を胃へ流し込んだ。

494: 2013/09/25(水) 00:08:53.37 ID:ScZmVB2Io

市販薬と違い、処方薬と云うものは実によく効く。

一気に体温は平熱まで戻り、鎮痛作用は劇的で、その副次的な効果として、激しい動きによる筋肉の悲鳴に耳を貸す必要がなくなった。

作用も早く、薬が切れ悪寒を再び感じ始めた段階で再度服用すれば、速やかに抑えてくれる。

喉と耳のピッチ感覚のずれは、レッスン前にカフェインを摂取し、感覚を研ぎ澄ますことで対処できた。

あとは、精神力にものを云わせれば良い。

大丈夫、これなら、明後日のバトルは問題なくこなせる。

この日のレッスンも、トライアドプリムスの三人は、最後の詰めに余念がない。

それとは別に、凛は、夜まで自主練習に励んだ。

495: 2013/09/25(水) 00:10:00.87 ID:ScZmVB2Io

・・・・・・

さらに翌朝。

目を覚ました段階で眉に皺が寄るほど、激しい頭痛。今日は咽頭痛と胸痛もあった。

全然寝た気がしない。事実、夜中うなされて何度も覚醒したのだから。

あー、と声をチェックすると、昨日より更にピッチが低くなっている。

しかし枯れていないので、まだ大丈夫。明日まで保てばいい。

常用の消炎鎮痛剤に、更に別の消炎薬を頓服として飲んだ。

食欲がまったく湧かないので、栄養ドリンクで薬を流し込む。

寮を出る頃には、身体の重さ以外は気にならないくらいまで抑えられた。

496: 2013/09/25(水) 00:11:51.56 ID:ScZmVB2Io

「凛……ちょっとどうしたの? 肌の荒れ方とか尋常じゃないよ?」

下校後に出社し、レッスンルームに入ると、加蓮が明らかに不審がる顔を向けた。奈緒も同様だ。

「うーん、ここ何日か、最後の詰めで酷使してるから、そのせいじゃない?」

凛は、極力平静を装ってとぼけた。

加蓮や奈緒に心配をかけるわけにはいかない。

「なあなあ、いくら直前だからって、あまり根を詰めると倒れちまいそうだぞ?」

「大丈夫。ライブバトルはついに明日だよ、気合入れないと」

精神力で気丈に答える。しかしその裏では、朝方は頓服で飲んでいた薬すら、午後からは常用する状態になっていた。

身体が薬に慣れてきてしまったのか、症状が悪化しているのか。

「明日。……そう、明日、だよ」

凛は、半ば自分に云い聞かせるように呟いた。

497: 2013/09/25(水) 00:13:17.54 ID:ScZmVB2Io

「あれ、凛ちゃん、今日はいつもより動きが控えめですね。どうしました?」

最後のレッスンをこなすうち、慶が凛の動きの差を見て云った。

「明日が本番ですから、抑えめにしておこうかと」

はったりも良いところだ。実際はこれが精一杯の動きだと云うのに。

「なるほど、でもあまり抑えすぎても動きが狂う原因になりますから、適度にね」

慶はそのまま深く突っ込んでくることはなかった。

無愛想やポーカーフェイスは、こう云う時には威力を発揮するものだね――

凛は、自分の特徴に他人事のような感想を抱いた。

498: 2013/09/25(水) 00:14:54.33 ID:ScZmVB2Io

明日に備え、この日のレッスンは早めに打ち止め。

シャワーを浴び終え、湯を止めると、リバーブのかかった加蓮の声が響いた。

「いよいよだね――」

ブースを出ると、加蓮はバスタオルで全身を撫でていた。

凛の生身を見た加蓮が「相変わらず脚が細くて長いよね凛は」と羨望の嘆息をしてから、

「――いよいよアタシ、凛と同じ舞台に立てるんだね。夢にまで見た、凛とのステージに」

凛は、長い髪へタオルを巻き、鏡越しに加蓮を見て頷く。

499: 2013/09/25(水) 00:16:00.27 ID:ScZmVB2Io
「アタシさ、小さい頃からアイドルに憧れてて、でも自分はその世界には行けない人間だって決めつけてて。
 そんな、アイドルに輝きを届けてもらってたアタシが、今度は誰かに輝きを届けられる立場になって。
 テレビで見ていた、大きく輝く凛と一緒に、スポットライトを浴びられる資格を得られて――生きててよかった、って思う」

おもむろに語った加蓮に、身体を拭った凛は、白いショーツを穿きながら苦笑した。

「そんな、生きててよかった、なんて大袈裟だよ」

しかし加蓮は首を振った。

「大袈裟じゃないよ、アタシの本心。ホントに、生きててよかったって思ってるの」

「あたしも凛とステージに立つなんて夢みたいだな。あたしは、最初はアイドルを良く判ってなかったけど
 それでも凛のことは知ってたし、いざアイドルやってみたら面白くてさ」

奈緒も言葉を重ねる。既に着替え終え、パーカーに腕を通しているところだ。

500: 2013/09/25(水) 00:17:45.10 ID:ScZmVB2Io
「……なんか、二人にそう云われると気恥ずかしいな。私だって二年半前にデビューしたばかりの青二才だよ――」

凛は、ブラをつけるのに、背中へ一瞬意識を持って行ってから続けた。

「――加蓮も奈緒も、私の時より早いスピードで、階段を昇ってる。きっと、アイドルとしての才能は私よりあると思う。
 そのうち、私が二人の背中を追う側になっちゃうかもよ? ふふっ」

二人は、ないない、と云ったジェスチュアを返す。凛は、ふっ、と息を吐き、

「明日、どんな相手が来ても、私たちは勝つよ」

「おう!」
「とーぜん!」

三人、不敵な笑みを浮かべ、軽く頷き合った。

――あと一日、あと一日さえ保てばいい。

凛は悪寒と身体の痛みを、無理矢理抑え込みながら笑った。

501: 2013/09/25(水) 00:20:15.55 ID:ScZmVB2Io


・・・・・・・・・・・・


ここは台場13号地、Zeqq Tokyo。

鈷に連れられやってきた、本日のライブバトルの会場だ。

数多くのアイドルたちが参戦し、夕方からの開演に備え、午前は当日リハが行なわれていた。


「お、おい……あたし、こんなキャパで演ったことねえぞ……」
「ア、アタシだって……」

2700人収容のフロア規模に、奈緒も加蓮も緊張を隠せない。

502: 2013/09/25(水) 00:21:38.94 ID:ScZmVB2Io
「大丈夫だよ。キャパの大小なんて関係なく、これまで通り演ればいいだけなんだから」

反対に、凛は全く動じず澄まし顔。

事実、凛が出場すると云う情報が大々的に出ていたら、この箱の大きさでは到底間に合わないのだ。

トライアドプリムスは、良い意味でも、悪い意味でも、まだ無名なのである。

むしろ、その結成初日のグループに凛が居る、と云うギャップを利用する戦略なのだから当然か。

「そう、楽しんだもの勝ちよね」

突然掛けられた声にトライアドプリムスの三人は振り向く。

503: 2013/09/25(水) 00:23:26.40 ID:ScZmVB2Io
「あ、泉、さくら、亜子。久しぶり。そっちもバトル出るの?」

凛が軽く手を挙げて挨拶する。

そこには高校生アイドルの大石泉、村松さくら、土屋亜子がいた。

事務所は違うが、凛とはほぼ同期で、たまに番組収録などで絡むことがある。

「久しぶり、凛。……なぜ凛ほどの高ランクがこんなとこにいるの?」

泉が、その冷涼な見た目とはやや乖離した気さくさで話しつつ、頭の上に疑問符を掲げた。

「新しくトライアドプリムスってユニットを組むことになってさ。そのデビュー戦が今日なんだ」

「あれぇ? トライアドプリムスって、わたしたちと対戦―や―るチームだよねぇ☆」

凛の返答に、素早くさくらが反応した。これには凛も驚く。

「えっ、そうなの?」

504: 2013/09/25(水) 00:25:47.72 ID:ScZmVB2Io
そこへ鈷が割り込む。

「あ、そういえば云ってなかったな。今日はニューウェーブと対戦するんだよ」

衝撃的な言葉を放ち、ここで初めて相手が知らされることとなった。

『ニューウェーブ』

ニュージェネレーションの対抗馬となりつつある、泉、さくら、亜子たちによる親友ユニット。

アイドルランクはそれぞれC、D、Dだ。

凛がBだとは云え、こちらはまだEの奈緒と加蓮を率いての戦いであるから、決してラクな相手ではない。

その上、同郷・同級生同士ならではのコンビネーションのよさは、特筆に値する。

505: 2013/09/25(水) 00:27:09.20 ID:ScZmVB2Io
「はー、今日は、りんが相手かいな……。トライアドプリムスなんて聞いたことないし、ラクショーやと思っとったのにー!」

「ねぇ、これ無理ゲーじゃないのぉ? イズミーン」

亜子とさくらは、あからさまに落胆した声を上げた。

「私だって、ユニット結成後初めての戦の相手が、結束固いニューウェーブだと知って絶望中だよ」

凛も、参ったな、と云った体で首を縮める。

「ま、今更云ったって仕方ないわね。お互い頑張りましょ」

「そうだね、勝っても負けてもお互い様」

凛と泉、二人が拳をこつんとぶつけ合ってから、それぞれのユニットは控室へと消えて行った。

506: 2013/09/25(水) 00:29:24.86 ID:ScZmVB2Io

――まさかこの体調でニューウェーブとバトルだなんて……。

凛は控室の椅子でじっと思案していた。

相手の力量もさることながら、朝飲んだ薬が間もなく切れるであろうことも懸念点だった。

奈緒、加蓮、そして鈷までが集まっている部屋で、錠剤をばらばらと出すわけにはいかない。

化粧室で飲もうにも、間もなく凛たちのリハの番のはずだった。

「タイミング悪いな……」

「ん? どうした凛ちゃん?」

507: 2013/09/25(水) 00:31:33.14 ID:ScZmVB2Io
凛は、小さなつぶやきを鈷が拾うとは思っていなかったので、驚く。

「あ、ううん、まさか相手が泉たちだとは思わなかったからさ」

「すまんね、相手の実力的に、あまり事前情報は入れない方がいいかと思ってさ。
 凛ちゃんはともかく、奈緒と加蓮は怯むかも知れなかったから」

鈷はぽりぽりと頭を掻いた。凛はすかさずフォローする。

「それは奈緒たちを見くびり過ぎだよ。むしろ相手に不足はない、ってワクワク・ノリノリだと思うけど。ねえ、奈緒?」

「あ、ああ。そうだな。ニューウェーブを相手にして好成績を残せれば、あたしらの株は爆上げだろうさ」

そこへ、ノックと共にアシスタントが入ってくる。

――すいませーん、トライアドプリムス、袖で待機してくださーい。

結局不安を払拭できないまま、リハに突入してしまった。

508: 2013/09/25(水) 00:33:24.09 ID:ScZmVB2Io

舞台へスタンバイすると、途端に曲のオケが始まった。

奈緒と加蓮の二人はいきなりのことに若干焦ったようだが、すぐに持ち直した。

当日リハはノンストップが基本だ。

照明の山谷、モニターの返しなどをチェックしつつ歌う。

奈緒が、ステップを一つ抜かし、歌詞を間違えた。

加蓮は、コーラスラインがフラット気味になっている。

509: 2013/09/25(水) 00:34:33.18 ID:ScZmVB2Io
しかし二人ともミスを気にせず、レッスン通り続行しているのでまだ問題ない。

ここまでは凛の予想の範疇だ。一番での傾向を見て、二番ではそれに合わせた動きに組み替える。

熱いステージライトがトライアドプリムスを照らす。

薬が切れ、体温が上がりつつある凛を、電球から降り注ぐ光が更に熱した。

回転の鈍くなった脳味噌を、必氏に振り絞ってパフォーマンスを二人に適応させていく。

510: 2013/09/25(水) 00:35:34.86 ID:ScZmVB2Io
そして間奏が終わり、二番へ。


雨にも流されぬ 一輪の花のよに
密やかに咲いてる 乙女心――


加蓮が担当箇所を唱い終わり、次は凛の番。

声を出そうと息を大きく吸った瞬間――

511: 2013/09/25(水) 00:38:48.99 ID:ScZmVB2Io
「――ッ!?」

突然の激痛。

あまりの胸の痛みに、息が止まった。

あばらに手を当て、がくりと膝をつく。酸素を求めて、金魚のように口を開閉させる。

両隣では突然の異変に奈緒も加蓮も驚き、動きを止めていた。バックの音楽だけが空しく流れていく。

構わず続けて、と目で訴えても、二人は動揺して凛を介抱しようとする。

そして、ついに音楽が止まってしまった。

512: 2013/09/25(水) 00:40:03.43 ID:ScZmVB2Io
不測の事態が起きてもパフォーマンスを途切れさせないのが最低限でも要求されること。

トライアドプリムスは、それを満たすことが出来なかった。

凛は、頭を振り、痛みをこらえて立ち上がった。

「すみません大丈夫です! 一瞬、少しだけ胸に痛みが走っただけですので!
 申し訳ありません、107秒から再度プレイバックお願いします!」

そう云って深く頭を下げた。

513: 2013/09/25(水) 00:41:16.68 ID:ScZmVB2Io

リハ後、楽屋裏。

「困るよー当日リハでああ云うことやられちゃー」

ライブバトルのディレクターが、鈷を呼んで苦言を呈していた。凛も自分の意思で同席していた。

奈緒と加蓮は、ここから見えず邪魔にならない場所で待機させている。

「申し訳ございません、全てわたくしの責任です」

ひたすら詫びの弁を述べる鈷に、ライブディレクターは容赦ない。

「凛ちゃんが出るから、って新ユニットの参戦を許可したのにさあ、その凛ちゃんがこけてどうすんのよー」

凛も一歩前へ出て謝罪する。

「ユニットのリーダーとして、事態を引き起こした張本人として、私からもお詫び申し上げます。
 本番中はこのようなことが起こらないよう万全を尽くします。最低でも、不測の事態が起きようと続行し、完走させます」

514: 2013/09/25(水) 00:42:26.26 ID:ScZmVB2Io
「そうは云ってもねえ凛ちゃん。そんなのわざわざ言葉にするほどの内容じゃないでしょ。常識じゃないの」

「はい、私のリーダーシップ不足です」

ディレクターの尤もな指摘に、凛は目を伏せた。

「……まああのとき相当苦しそうな顔してたけど。今は大丈夫なの?」

「おかげさまで、今は回復しました。ご心配をおかけしまして、申し訳ありません」

今日何度目か判らない、深いお辞儀をした。

「うん、まあそれならそれでいいよ。本番は気をつけて頂戴よ」

「はい、ありがとうございます」

鈷と凛は再度会釈し、その場を離れた。

515: 2013/09/25(水) 00:43:38.63 ID:ScZmVB2Io

「――副プロ、ごめんね。私のせいで」

二人並んで、ゆっくり歩きながら凛は謝った。

「いや、こうやって頭を下げることこそが僕の役目さ。むしろ凛ちゃんに来てもらっちゃって、僕の方がすまないね。調子はもう大丈夫なの?」

「大丈夫、平気だよ。――大丈夫」

凛は胸に手を当て、静かにゆっくりと、自分自身へ聞かせるように云った。

「……そうか。じゃあ僕はスタッフさんへのフォローがあるから」

鈷は、凛に先に控室へ戻るよう指示して駆け出して行った。

516: 2013/09/25(水) 00:45:45.25 ID:ScZmVB2Io

扉を静かに開けて控室へ入ると、先に戻っていた二人が苦し気な表情で立ち、待っていた。

「凛、ごめんな。あまりにも気が動転して途中で止まっちまった……。レッスンでは絶対最後まで止まるなって云われてたのに。
 その所為でディレクターに怒られちまって……ごめん」

「凛もあの刻、止めるなって目でアタシたちに云ってたんだよね。今頃になってそれが判るなんて。
 ディレクターに怒られてるのを陰で聞いてる時、自分の不甲斐なさが悔しくて悔しくて堪らなかった」

「ううん、二人ともあれは仕方ないよ。全て私のトラブルのせい、気にしないで。本番まで二時間ある、気持ちを切り替えよう」

凛は二人を、椅子に座って休むよう促した。

そして「はい、水」と二本のペットボトルを差し出すと、礼を述べて一口飲んだ奈緒が問うた。

「さっきのは……一体どうしたんだ? まさかあんなことが起こるなんて予想もしてなかったから……」

517: 2013/09/25(水) 00:48:14.14 ID:ScZmVB2Io
「あー、あれは……うん、大丈夫だよ。もうあんなことは起きないし、起こさないから」

そう云って凛は、二人から少し離れたところで、ポーチから薬をばらばらと出した。


アレグラ、クラリチン、ザイザル。

リンコデ、そしてロキソニンにボルタレン。

それぞれアレルギーや鼻炎を抑えるもの、咳、炎症と痛みを強力に鎮めるもの。

クラリチンとザイザルは今は要らないし、さっきの激痛を鑑みると、ボルタレンの頓服は二倍量にしておくべきか……

518: 2013/09/25(水) 00:50:17.39 ID:ScZmVB2Io
錠剤をシートからプチッ、プチッと取り出していると、その音に気付いた加蓮が凛へ振り向く。

「あれ、凛。なんで錠剤なんか取り出してるの?」

水で流し込んだ凛が、「え、加蓮どうして判るの」と問うと、カツカツと音を響かせて凛の傍へやってきた。

そこに散らばる、錠剤のシート。仕舞う間も捨てる間もなく、加蓮の目に入る。

途端に彼女の顔色が変わった。

「ちょっと! 凛! なんてもの飲んでるの! 身体、どこかおかしくしてるの!?」

「か、加蓮……なんで見ただけで判ったの……?」

「アタシは昔、身体が弱くて入院ばかりしてたから、自然と薬には詳しくなったの。
 メジャーなものなら色と形を見ただけで判るよ」

519: 2013/09/25(水) 00:51:28.22 ID:ScZmVB2Io
凛の戸惑いに構わず、加蓮は畳み掛ける。

「どこを悪くしてるの!」

「た、たぶんただの風邪だと思うけど……ひどい頭痛とかがあって踊りや歌に影響出るから
 せめて今日のライブが終わるまでは薬で抑えよう……って」

「だからってそんな滅茶苦茶な組み合わせ、自分で自分の身体を壊してるようなものじゃない!
 ロキソニンにボルタレンを重ねるなんて、なんでこんな無茶な飲み方してんの!
 バファリンやパブロンなんかとは訳が違うんだよ!? 胃潰瘍や喘息を起こすよ!」

加蓮が凛の肩を勢いよく掴む。その剣幕に、凛はかなり怯んだ。

520: 2013/09/25(水) 00:53:01.97 ID:ScZmVB2Io
奈緒が更に加蓮の肩に手を置く。

「お、おいおいおい、加蓮、落ち着きなって。ひとまず今ンとこはライブこなすしかないだろ」

「そうは云ったって、処方薬を勝手に飲むとホント命に関わるんだからね?
 アタシ、身に染みて判ってるんだから。病院で診てもらわないと」

「そ、そりゃあたしだって凛は今すぐ病院へ行った方がいいと思うけど、どうせライブが終わるまで梃子でも動かないだろ……」

奈緒が困惑しつつも加蓮を宥めて、凛を心配そうに覗き込む。

「なあ、いつから調子悪いんだ?」

「確か……五日前から……」

「五日!? 五日もあたしたち気付かなかったのかよ……」

髪を掻き上げて天を仰いだ奈緒に、凛が申し訳なさそうに云う。

「心配かけたくなかったんだよ。ライブ終わるまで隠し通せなかったのは大誤算だけど……」

521: 2013/09/25(水) 00:55:13.62 ID:ScZmVB2Io
そのまま、苦痛に息を漏らす。

「あー痛……暑いけど寒い……身体が重い……」

机に突っ伏して、薬が効き始めるのをひたすら待つ。

満身創痍な凛の様子を見て、奈緒は嘆息した。

「そんな状態で五日間ずっとあんな動きして歌ってたのかよ。最近あたし、凛に近づけたと思ってたけど
 とんでもない思い違いだった。凛が本調子じゃなかっただけなんだな……」

「私がたとえ本調子じゃないとしても、奈緒と加蓮は、ここ一箇月で確実にぐんと伸びてるよ。それは間違いない」

顔だけ二人の方へ向けて訥々と話す凛に、加蓮が気付いたように訊いた。

「昨日もしかして慶さんから指摘されてたことって……」

「あー、あれか……。うん、あの時はあれが精一杯の動きだったんだ。ポーカーフェイスと、尤もらしい理由付けでやり過ごしたけど」

522: 2013/09/25(水) 00:56:26.20 ID:ScZmVB2Io
それを聞いた加蓮は、額に手をやって、溜め息をついた。

「とんでもない女優だねまったく……」

奈緒も同じく、やれやれ、と腕を組んでいる。

「演じるのは……得意だからね」

そう述べる凛の、色の無い表情からは、冗談なのか本気なのか読み取ることはできない。

そのまま目を閉じて、軽く規則的な吐息を出す。

幸い、ロキソニンもボルタレンも効きが早い。

二人と話していて気が紛れたのか、思ったよりも早く痛みや悪寒は消えた。

523: 2013/09/25(水) 00:57:57.15 ID:ScZmVB2Io
「……ん、もう大丈夫そう」

机から上半身を起こし、二人を向いて、弱々しく苦い顔で、親指を上げた。

そして、ふう、と溜め息をつくのに吸おうとしたところ、あまり吸い込めないことに気付いた。

大丈夫、と云ったばかりで全身を強張らせる凛。それに気付いた加蓮が問う。

「凛、どうしたの」

「……息を、大きく吸えない。息が、続かない……」

「なんだって!?」

奈緒と加蓮が慌てて立ち上がり、勢い余った椅子が倒れた。

524: 2013/09/25(水) 00:59:16.17 ID:ScZmVB2Io
凛が大きく呼吸しようとすると、ある程度までしか息を吸い込めない。

それ以上吸い込もうとしても、肺が拒否するように、空気が入っていかないのだ。

これでは、ロングトーンを出せないし、既定のブレスタイミングに合わせられないだろう。

凛は、ここにきてこんな状態になるなんて、と苦虫を噛み潰したよう。

「このままじゃ……歌えない……」

頭を抱え込む凛の肩を加蓮は抱き、しばらく思案したのち奈緒を向いた。

「……アタシたちがカバーしなきゃ。
 サビはアタシと凛のパートラインを交換すれば大丈夫だよね。
 アタシがトップへ行って、入れ替えにセカンドが凛、サードはそのまま奈緒、こうすれば凛の声量は控えめでもいける。
 問題になりそうな凛の独唱とメイン重唱部分は、一番は奈緒、二番はアタシ。それぞれデュオで支える。どう、奈緒?」

「おう、わかった。それならあたしでも大丈夫だ」

525: 2013/09/25(水) 01:00:00.00 ID:ScZmVB2Io
両手で頭を抱えたまま、凛は言葉を絞り出す。

「手間掛けさせてごめん、二人とも……。私がしっかりしないといけないのに……」

奈緒は、凛の肩を、加蓮が支えている手の更に上から抱き、諭した。

「何水臭いこと云ってんだよ。あたしたちは仲間だろ?」

その言葉に、凛ははっと顔を挙げ、目を大きく開いた。

しばしの後、ぎゅっと瞼を閉じて、

「仲間……そう、仲間、なんだよね……」

そう云って静かに息を吐く。

「ごめん……私、背中を見せることしか意識がなかった……
 ホント、色々な意味でアイドル失格だね、私……」

526: 2013/09/25(水) 01:01:43.51 ID:ScZmVB2Io
「凛がアイドル失格だったら、大半のアイドルが失職さ」

そう云ってポンポンと肩を叩いた奈緒は、

「一番にある、あたしメインの重唱部分はどうする? あそこは凛がコーラスラインだよな」

加蓮に相談すると、

「アタシあそこの凛コーラスは音取ってないんだよね。もともと最後の二文節はアタシが入って三パートになるし」

と少し困った顔をした。

凛は待って、のジェスチュアで左手を挙げた。

「声が出せないわけじゃないから、コーラスパートなら……たぶん大丈夫」

「よし、まだ時間は余ってる。今のうちに音合わせしておこう」

奈緒がパン、と手を叩いて、即席の編成変更を練習した。

527: 2013/09/25(水) 01:03:57.25 ID:ScZmVB2Io

――

歌い切ったトライアドプリムスの三人に、観客席から惜しみない拍手が注がれる。

僅差ではあったものの、トライアドプリムスはニューウェーブに見事勝利した。

その堂々たる風格は、とてもEランクが二人もいるユニットとは思えないものであった。

それは所謂“ハッタリ”だったのだが、幸いにも観客には、見抜かれていないようだ。

『私たちが凛を支えなければ』と云う想いが、奈緒と加蓮の、現在の実力以上のものを出した側面もあろう。

528: 2013/09/25(水) 01:05:01.81 ID:ScZmVB2Io
しかしそれでも、唐突な変更内容を消化できる、この地力は大したもの。

凛が「二人は自分以上に才能がある」と云ったことは強ち間違いではなかった。

凛の体調不良、直前での編成組み替えがあっても、ハッタリでここまでの成績が出せるのだから、
全員が本調子で臨める機会にはどうなるのか、今後が非常に楽しみだ。


トライアドプリムスが控室へ下がろうと楽屋裏を歩いていると。

「待て、渋谷凛」

そう呼び止める黒い影。

529: 2013/09/25(水) 01:06:11.80 ID:ScZmVB2Io
振り返った瞬間、凛は驚きを禁じ得なかった。

そこに立っていたのは、誰あろう黒井崇男だったのだ。

「く、黒井社長……?」

洩れた呟きが奈緒と加蓮の耳に届いて、二人は驚愕のあまり仰け反った。

なぜ961プロの社長ともあろう人物がこんなライブバトルに来ているのか。

その驚きは表に出さないようにして、「いつもお世話になっております」と頭を下げた。

それから奈緒に顔を向け、廊下の奥を指差す。

「奈緒と加蓮は、先に控室へ戻っててくれない?」

「お、おう、わかった」と云いながら、二人はちらちらと、こちらを気にして歩き去って行った。

530: 2013/09/25(水) 01:08:54.00 ID:ScZmVB2Io

「なんでこいつがこんなところに、という顔をしていたな、渋谷凛。私は仮にも最大手の社長だぞ。
 ライブバトルを観察して、原石や趨勢をチェックするのは当たり前のことだ」

黒井は先回りして凛の疑問に答えた。

実に恐ろしい人間だ。

そんな黒井は大袈裟に溜め息をつき、失望の色を隠さない。

「リハから見ていたがな、まるで別人かと勘違いしたぞ。勿論、悪い意味でな」

大きく両手を広げて、そう云い放った。

531: 2013/09/25(水) 01:10:07.51 ID:ScZmVB2Io
「貴様は本当にあの渋谷凛か? よもやただのソックリさんではあるまいな?」

次々と放たれる鋭い矢。凛は顔を少しだけしかめる。

「お言葉、誠に痛み入ります。宜しければ、どこでそうお感じになったか、お教え願えますか」

「フンッ、本気でそれを云っているのか? だとしたらもうアイドルなど辞めてしまえ」

凛なりの身を削る厭味に、ストレートな罵倒が返ってきた。

「あいつの影が“この国の”業界から消えて以降、貴様の体たらくは一体どうしたのかと思っていたが、
 今日実際にパフォーマンスしているところを見て確信に至ったわ」

Pがハリウッドへ飛んだことを、既に掴んでいる表現であった。

532: 2013/09/25(水) 01:11:11.25 ID:ScZmVB2Io
「『あいつ』とは、Pのことでしょうか」

「わかりきったことを訊ねるな。貴様の脳味噌は飾りか」

歯に衣着せぬ物云いに、凛は粛として耐えた。

「あいつがいないだけでここまで落ちぶれるのか。観客を表面上でしか楽しませることの出来ない三流以下に成り下がるとはな」

そのこと自体は凛も充分認識しているので、何も反論しない。――いや、出来ない。

少しだけ、顔を伏せる。

533: 2013/09/25(水) 01:12:29.55 ID:ScZmVB2Io
「どうやらあいつの目は腐っていたようだな。
 まったく、二流三流しか育てられない無能なプロデューサーが蔓延るから業界は劣化していくのだ。
 お前はそこそこの逸材だと思っていた私自身も恥ずかしい。961なら候補生養成段階でふるい落とすところだ」

褒めているのか貶しているのかよくわからない云い方だが、凛には一つだけわかる点があった。

――Pが無能だと断言されたこと。

「私のことは何と仰っても構いません。現に、黒井社長の仰る通りの醜い有様を、先ほど晒してきたところです。
 ……でも、あの人を悪辣にこき下ろしたことだけはお取り下げください。全ては私自身が至らなかったからです」

凛は、静かに沸々とわく感情を、必氏に抑えて云った。

自分のことはいい。

しかし、これまで凛や数多くのクールアイドルを支え、CGプロを大きくし、先般の選挙では四人もの上位を
第一課から送り出したPを悪く云われるのは、凛にとって、第一課全員、即ち家族への中傷と同義であった。

534: 2013/09/25(水) 01:13:55.68 ID:ScZmVB2Io
しかし黒井は歯牙にもかけない。

「ノン。貴様に対する非難とPに対するそれは同質のものだ。
 アイドルが頂への道を登れないのは、そもそもプロデューサーの、アイドルを見極める眼が足りないと同義」

プロデューサーたるもの、輝くに足る原石を見極め、磨かなければならない。

状態の良い原石を探り当てること、そして、その原石を、眩く輝くように磨くのが責務。

それが出来なければプロデューサー職者は失格なのだ。

「つまり、あれもこれもと大したことのない原石を拾い集め、
 二流以下のアイドルしか育てられないのは、プロデューサーの怠慢であり無能の証明なのだよ」

「違うッ! 全部私が悪いの!」

ついに凛は我慢できなくなって叫んだ。悲痛の叫びであった。

535: 2013/09/25(水) 01:15:01.79 ID:ScZmVB2Io
そんな声にはまるで構わず、黒井は鋭利な刃を突き立てる。

「渋谷凛、さきほど貴様は自らが至らないせいだと云ったな。
 自惚れも大概にしろ。
 お前の奥底に眠る弱さを看破できなかったあいつが無能なのだ」

凛はついに、目前の人物が高位であることも忘れ、眼を固く閉じ、こめかみを抱えて、かぶりを弱々しく振った。

「もう……やめて……あの人を否定しないで……」

黒井はそんな凛の様子を鼻で嗤う。

「フンッ! ならばあいつがいなくてもトップを張れるのだとその身体で証明してみせろ。
 Pの選球眼は間違っていなかったと貴様自身が証明してみせろ」

536: 2013/09/25(水) 01:16:35.26 ID:ScZmVB2Io
その言葉に、凛は顔を挙げた。

「私が……自分自身で証明……?」

「ウィ。証明だ。まあ、今の貴様では無理だと思うがな――、
 Pさえいなくても渋谷凛はトップに立てるのだ、と世に見せつけてみるがいい」

人差し指を立てて挑発的に云う。

「貴様のアイドルとしての価値、そしてそのアイドルを見出したプロデューサーの価値は、貴様がそれを出来るかによって変わる」

「私の価値と……あの人の価値……」

「まあせいぜい証明のために足掻くのだな。ただし醜態を晒すことだけはするなよ」

そう云って黒井は踵を返し、すたすたと去って行った。

537: 2013/09/25(水) 01:20:01.33 ID:ScZmVB2Io

凛はよろめいて、壁にもたれるように寄り掛かり

「私と、あの人の価値は、連動している……?」

独り、呟く。

そこには強烈なヂレンマが存在した。

“トップに”立たなければ、“Pは有能だった”と証明できない。

しかし。

“今からP不在で頂点へと登り詰めたら”、“Pはいなくてもよかった”と云うことになるのでは――

その相容れない命題に気付いてしまった凛は、後頭部を強く殴られたような衝撃に襲われた。

目の前の景色が霞んでいく。

538: 2013/09/25(水) 01:24:35.46 ID:ScZmVB2Io
腹部、鳩尾の辺りで、強烈な異物感が湧き、膨張していく。

咄嗟に、傍の化粧室へ駆け込んだ。

「ぅ……ぅぇ……かはっ……」

食欲あらず何も口に入れていないのだから、吐き出すものなどない。

しかし不快感を排出したい身体は、それでも胃を締め上げ続けた。

黄色い胃液ばかりを吐く。

防衛反応は、凛に呼吸を許さない。

539: 2013/09/25(水) 01:26:13.63 ID:ScZmVB2Io
しばしの拷問を終えると、ぜえ、はあ、と肩で息をしながら、凛の双眸から泪がこぼれ、頬を伝った。

「私……どうすればいいの……」

自分がどう動いても、理想とする答えに辿り着けない。

自分がどう動いても、あの人に応えることが出来ない。

そもそもアイドルになったことが過ちだったのだろうか?

自分がアイドルになっていなければ、あの人は別のもっといい原石を発掘できたのだろうか?

540: 2013/09/25(水) 01:28:01.61 ID:ScZmVB2Io
認めたくない答えから身体を護ろうと、再び吐き気が込み上げる。

「――うッ……ぁ……」

嘔吐と云うのは、身体を著しく疲弊させる。

凛は責苦と闘いながら、視界が白い光の粒に包まれ、何も見えなくなった。

――あ……いけない、貧血だ、これ……

長い間体調不良を起こしていた凛にとって、度重なる嘔吐は限界を超える酷な消耗であった。

吐きすぎて腸液も混じったのだろう、意識を手放す直前の記憶は――次元の違う苦味がした。

541: 2013/09/25(水) 01:31:28.04 ID:ScZmVB2Io


・・・・・・・・・・・・


――お前が好きなのは、“プロデューサー”なんだよ。“俺”じゃない

でもそんなのは、ただのきっかけでしかない。

――お前は、わかってたんだろ? あの歌の意味を

うん、あの歌詞に込められた裏の意味は、読んだ瞬間にわかったよ。

――少し時間をおこう

プロデューサーは、私のこと嫌いなの!? 私が本気で云ってるわけじゃないと思ってるの!?

――そうじゃない。そうじゃなくて、俺は首を縦にも横にも振れないんだよ

待って、プロデューサー! 置いてかないで! 私を一人にしないで!

542: 2013/09/25(水) 01:32:54.13 ID:ScZmVB2Io

「――プロデューサあぁぁぁぁ!!」


私は、飛び跳ねるように起き上がった。激しい呼吸に、全身が汗まみれだ。

見慣れない、白い部屋。左手の甲に違和感を持ったので見てみると、点滴の針が刺さっている。

「病……院……?」

そうだ、Zeqqで黒井社長に会って、化粧室で戻して、それから……。それから――

そこからの記憶がない。

……きっとその時に倒れ、誰かが見付けて搬送してくれたのだろう。

543: 2013/09/25(水) 01:35:13.29 ID:ScZmVB2Io
今は何時だろう?

そう思って時計を探すと、部屋の隅にカレンダー機能付きの電波時計が置かれていた。

ライブ翌日の――朝八時。

なんと、一晩まるまる気を失っていたのか。

……また、やらかしてしまった。

アイドルが倒れて病院へ担ぎ込まれるなんて、ゴシップの格好の餌じゃないの。

私は、右手で頭を抱えた。髪がくしゃりと音を立てる。

そこへ控えめのノックが三回響いて、引き戸がするすると開いた。

「お、目が覚めたか!」

喜びの声と共に、男性が部屋へ入ってきた。

――え?

まさか。そんな。

544: 2013/09/25(水) 01:37:11.83 ID:ScZmVB2Io
まさか。そんな。

「プ、プロ……デューサー……?」

その人は、ベッドの右側に椅子を引いて、枕元の隣に座った。

「ん?」

「プロデューサー!!」

点滴のチューブなどお構いなく、私は、目の前の愛しい人の胸に飛び込んだ。

逢いたかった。

たった二箇月ぶりなのに、とても懐かしい馨りがした。

545: 2013/09/25(水) 01:38:57.12 ID:ScZmVB2Io
うわっ 余計な行が入った

>>544
× まさか。そんな。 → ○ (削除)

546: 2013/09/25(水) 01:39:53.57 ID:ScZmVB2Io
「お前が倒れたと聞いて、取る物も取り敢えず帰ってきたよ。何も云わずに発って、すまなかった」

私は、プロデューサーの胸に顔を埋めて、首を振った。

帰ってきてくれた。それだけで、私はいい。

「お前にはだいぶ辛い思いをさせてしまったな。お詫びに何でもしてやるよ」

プロデューサーは、私の背中に腕を回し、ゆっくり語り掛けた。

「……何でも?」

「ああ、何でも」

「なら……」

547: 2013/09/25(水) 01:45:19.04 ID:ScZmVB2Io
私は、たっぷりと考えて、口を開いた。

「プロデューサー、私と一緒にトップアイドルへの道を登って。
 プロデューサー、ずっと私の隣にいて。
 プロデューサー、結ばれなくてもいいから……せめてキスを……頂戴」

顔を挙げると、プロデューサーはまいったな、と云う表情をしていたが、すぐに私の肩を抱き寄せた。

そして、あの人の吐息が、すぐそこに――

私は、そっと目を閉じた。

553: 2013/09/25(水) 22:01:07.68 ID:ScZmVB2Io

・・・・・・

凛が目を開けると、天井が見えた。

……あれ? ……プロデューサーは?

そう云おうとしたところで、彼女は声がくぐもってうまく話せないことに気付いた。

口と鼻を覆うように酸素マスクが装着されている。


――なんで私がこんな状態でいるんだろう


「病……院……?」

そうだ、Zeqqで黒井社長に会って、化粧室で戻して、それから……。それから――

凛には、そこからの記憶がなかった。

554: 2013/09/25(水) 22:03:19.94 ID:ScZmVB2Io
少しだけ首を動かすと、身体は碧の入院着に包まれている。

左前腕には点滴が刺さり、右手の指には血中酸素濃度計のクリップと血圧計、胸には心電図の電極が数箇所取り付けられ、

鎖骨近辺には高カ口リー輸液のチューブが埋め込まれ、股の違和感は……尿道カテーテルか。

一体この大仰な姿はなんなのか。ただの風邪のはずではなかったか。

もぞもぞ、と身体を少しだけ動かすと、傍らに置かれたナースコールに気付く。

ひとまず現在の状況を確認しなくては。

ボタンを押し込むと、すぐさま、ナースと同時に、血相を変えノートパソコンを脇に抱えた男性が、勢い良く入ってきた。

555: 2013/09/25(水) 22:06:15.44 ID:ScZmVB2Io
「凛ちゃん、目が覚めたか!」

その人物は、鬼気迫る表情でベッドへ駆け寄る。

「副プロ? ……私、どうしたの?」

鈷は寝ていないのだろうか、だいぶやつれた顔をしている。

「肺炎と極度の疲労で担ぎ込まれたんだよ」

「肺炎?」

「ああ、あと胃潰瘍にもなりかけてるらしい。
 Zeqqの化粧室で倒れているのを奈緒たちが見つけて、119番したんだ。
 救急搬送されたと聞いた時は心臓が止まるかと思ったよ。今ナースコールが押されるまで生きた心地がしなかった」

鈷はほっとしたように胸に手を当てて云った。

556: 2013/09/25(水) 22:08:47.42 ID:ScZmVB2Io
その鈷の肩越しに時計が見え、十時を指している。

窓から光が差し込んでいるから、午前だ。

「……ねえ、私どれくらい気を失ってたの?」

「今日で三日目だよ。ライブがあったのは一昨日だ」

凛は驚きに目を大きくした。そんなに時間が経っているとは思いもしなかったのだ。

「そんなに経ってたの……その、ごめん。ずっと風邪だと思ってて、まさか肺炎なんて」

「ほんと無茶は勘弁してくれよ。まあ症状が重篤になる前だったからまだよかったさ。
 それに、そのことに気付けなかった僕の責任でもある。
 ま、あと一週間は入院して安静にしてることだ。特に明日明後日くらいまでは絶対安静な」

「あと一週間も!? そんなに入院してたら仕事が――」

「大丈夫だ。ちひろさんが処理したからほとんど問題ない。せいぜい日本放送のニュージェネのレギュラー一回分が凛抜きで進行するくらいだ」

557: 2013/09/25(水) 22:10:12.77 ID:ScZmVB2Io
凛が出演していた月9はライブ前に撮影が終わり、ついこないだ最終回を迎えたばかり。

ブッキングが決まっていた番組ゲスト等は他の第一課アイドルが代役で出る。

凛専用の、どうしても動かせない仕事がなかったのは、不幸中の幸いであった。

ちひろの謎の力によって、問題なくリスケが完了していたのである。

「何をするにも、身体を治さないことには始まらないしな。
 だから、ひとまず何も考えず休みな。今の凛ちゃんの最大の仕事は、一日も早く回復することだ」

鈷は親指を立てて笑った。

「……わかった。色々とごめんなさい」

凛が謝ると、小さく頷いて「じゃあ俺は仕事に戻るよ」と言い残して去っていった。

558: 2013/09/25(水) 22:12:01.46 ID:ScZmVB2Io

ひとまず、治そう。

凛は、そう自分に云い聞かせて目を瞑る。無理矢理にでも寝なければ。

視界が黒に包まれると、先ほどの夢の光景が浮かんだ。

――プロデューサー、逢いたいよ……

その瞬間、Pの向こうに、黒井社長の姿も浮かぶ。

自分の脳味噌が、自分に安寧を許してくれない。

考えるのを放棄したいのに、思考は、とぐろを巻くようにどんどん濁っていく。

559: 2013/09/25(水) 22:13:30.04 ID:ScZmVB2Io
最適な着地点とはどこなのか、まるでわからない。

――アイドル辞めて普通の女の子に戻っちゃおうか……

脳裏に不穏な考えが浮かぶが、すぐに打ち消す。

――そんなことをしたらプロデューサーへの裏切りになるから駄目……

凛の思考は、あちらを立てればこちらが立たずの問題に直面し、どこへも進めなくなっていた。

昔の、何も考えず漠然と“トップアイドルを目指す”と云っていた自分が、ひどく幼いように思えた。

560: 2013/09/25(水) 22:17:36.30 ID:ScZmVB2Io
確かに、トップアイドルを目指すのは、Pと約束したこと。

しかし、果たしてそれはPの存在を否定する結果を示してまで、目指すべき場所なのだろうか。

しかし、トップアイドルにならなければPの正しさを世に見せつけられないのだ。

しかし、自分なんかにその場へ立つ資格があるのだろうか。

『しかし』の連続。或る事柄を考えると、すぐにそれを否定する思考が浮かんでくる。そしてさらにそれを打ち消す――

終わりのない否認の反復。

561: 2013/09/25(水) 22:21:52.31 ID:ScZmVB2Io
凛はゆっくり目を開けた。濁った精神状態では何もいい考えが浮かばない。

袋小路に迷い込んでしまう“弱さ”も、自己嫌悪を加速させる。

「駄目々々だ、私……」

溜め息と共に、一粒の泪がこぼれた。

枕で拭いてしまおうと首を回すと、枕元に、鈷が置いていった凛のiPhoneが目に入った。

画面を点けると、通知センターに、アイドルたちからのSMSやLINEがたくさん表示されている。

その中に、春香から心配するメールがあった。

トップアイドルの彼女は、これまで何を見、何を為し、何を得、何を棄ててきたのだろうか。

「春香さん……助けて……」

短く、シンプルな文章を、春香に送った。

562: 2013/09/25(水) 22:24:43.15 ID:ScZmVB2Io

――

ふと、凛は目を覚ました。

いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

背中や腰がだいぶ痛い。身体がチューブまみれで満足に寝返りも打てないのだから当然だ。

その痛みで目が覚めたと云っても過言ではない。

顔をしかめながら目を開ける。空の色を見るに、今はどうやら夕方のようだ。

563: 2013/09/25(水) 22:27:38.21 ID:ScZmVB2Io
「あ、目を覚ましたね。おはよ、凛ちゃん」

明るい声が凛に届いた。その声の主を認めて息を呑む。

「ッ? は、春香さん!? い、いつからいらしてたんですか?」

そこには春香がいた。

「はい、天海春香ですよー。お昼過ぎくらいに来て、まったりしてた。寝入ってたから、起こすの憚れたんだ」

つまり凛がメールを送ったその数時間後には来てくれたと云うことだ。

凛は春香のあまりのフットワークの軽さに驚き、また恐縮した。

564: 2013/09/25(水) 22:30:28.81 ID:ScZmVB2Io
「ご、ごめんなさい、お忙しいのにメールした張本人が寝てしまっていて……。しかもお一人でなんて、手持ち無沙汰だったでしょう」

「あーううん、外に赤羽根プロデューサーがいるし、今日は午後はオフだったから問題ないよ。
 待ってる間はゆっくり仕事の資料読んでたしね。それに凛ちゃんのSOSならすぐに飛んでくるって」

「……すみません……色々とありがとうございます。
 あと、こんな姿でごめんなさい。私の声、聞こえにくくないですか?」

凛は安静状態で風呂に入れていない、汗とチューブまみれの身体や、酸素マスクを気にしながら訊いた。

「大丈夫。幸い周りは騒がしくないから、ゆっくり話してくれれば聞き取れるよ」

そして春香は凛の右上腕に手を添えて、訊いた。

「それで、凛ちゃん、どうしたの? メールには助けてとしか書かれていなかったけど……」

凛は数瞬、目を伏せて、逡巡する。

しかしすぐに顔を挙げ、春香の目を見た。

565: 2013/09/25(水) 22:32:32.39 ID:ScZmVB2Io
「……春香さん……私、わからなくなっちゃったんです」

「わからなく?」

「はい、アイドルとしての自分がわからなくなっちゃったんです」

凛は目を閉じて息を長く吸い、

「私の夢であったトップアイドル、そこを目指す意味が見えなくなってしまって」

春香は柔和な笑みから、真面目な顔つきになって凛の言葉を聞いている。

「勿論トップアイドルになるのは目標なんです。
 でもトップアイドルになって私をここまで磨いてくれたPプロデューサーに報いようとすると、
 逆に、Pさんは必要なかったと云う相反する結果になってしまうんです。
 そのことを、先日、黒井社長に、突きつけられました」

そして凛は春香の目をすがるように見て問う。

「前にも後ろにも進めなくて、どうすればいいのか……」

566: 2013/09/25(水) 22:34:33.71 ID:ScZmVB2Io
春香は目を閉じて、しばらく考えてから、衝撃的な言葉を告げた。

「……こんなこと云うと怒られちゃいそうだけど、トップだとかそうじゃないとか、私はあまり興味ないんだ」

凛は驚愕のあまり目を見開いた。口をぱくぱくと開閉させ、声にならない声を出している。

春香は構わずに続ける。

「アイドルって、手法はどうあれ人を笑顔にするのが究極の存在意義なわけでしょ?
 ランクがどこにあっても、そのことさえ考えてればいいんじゃないかな。
 応援してくれる人、笑顔になってくれる人から見れば、そのアイドルこそが、その人にとってのトップアイドルなんだと思うよ」

凛は自分の足元が、崩壊して底なし沼に変化していく感覚を憶えた。

目指していたトップアイドルが、その地位にいる人物から直々に、意味のないものと突きつけられたのだ。

567: 2013/09/25(水) 22:37:04.57 ID:ScZmVB2Io
しかし春香は「ただね――」と付け加える。

「でも、そんな自分とファンとの間だけで完結する意識の話でなくて、
 所謂第三者の視点で、指標としてアイドルの地位をわかりやすくランク付けすることに異論はないよ。
 世界は自分とファンの第二者だけで形作られているわけじゃない、むしろ無関係な第三者の方が圧倒的に多いわけだからね。
 その第三者に対して、番付で説得力を持たせるのはとても重要なことだと思う」

腕を組んで、少しだけ考える振りをし、人差し指を立てて、軽く振った。

「たぶん凛ちゃんが目指しているトップアイドルって云うのは、その『如何に説得力を持たせるか』の部分を云い換えた言葉なんだよね」

ファンとの間にある概念としてのトップアイドルと、世間との間にある指標としてのトップアイドルの違い。

そこを履き違えると、会話に大きな齟齬が出る。春香の言葉は、その確認の意味合いもあったのかも知れない。

凛は、足元が崩壊したわけではないのだと、安堵した。

早とちりもまた、凛の悪癖であった。

568: 2013/09/25(水) 22:38:57.44 ID:ScZmVB2Io
「で、凛ちゃんが云うには、その指標としてのトップアイドルを目指すと、相反する結果が一気に顕在する、てことだよね?」

凛はゆっくりと頷いた。

春香は顔を伏せ、左手を顎に持っていって考え込んでいる。

「――うーん、そもそもさ。それって、本当に相反する結果が出るものなの?
 今後活動を続けたところで、これまでの凛ちゃんが否定されることってないんじゃない?」

春香は不思議そうな顔をして、言葉を紡いだ。

569: 2013/09/25(水) 22:40:30.52 ID:ScZmVB2Io
――今からトップアイドルになったとして、確かにそれはPさんの力を借りずに登り詰められた、と云う意味を持つだろうけど、

だからといってPさんの存在を否定することになるのかな?

普通の女子高生だった原石を磨いて、ここまで連れて来られたのは間違いなくPさんと凛ちゃんの二人三脚の結果でしょう?

その歴史までは誰も否定できないはずだよ。

むしろ厳然たる事実として輝いていると思う。

『渋谷凛の根幹を作り上げたのはPの腕だ』ってね。

今からトップアイドルになっても、それは“今までの積み重ねの延長線上”であって、

これまでの凛ちゃんが存在しなければ、即ちこれからの凛ちゃんも存在しないわけ――


難しく考えることはないと思うよ、と凛の額に手を置いてゆっくり語り掛けた。

570: 2013/09/25(水) 22:43:02.94 ID:ScZmVB2Io
凛は、驚嘆に言葉を失っていた。

自分は、現在を分岐点に、これまでの渋谷凛とこれからのそれは、別物だと思っていたが……

しかし、過去の積み重ねこそが未来を作る、春香はそう指摘したのだ。

その言葉によって、思考の暗闇へ一筋の光が差した感覚を受けた。

571: 2013/09/25(水) 22:45:37.62 ID:ScZmVB2Io

一呼吸置いて、春香はゆっくりと続ける。

「凛ちゃん、Pプロデューサーさんのことが好きなんだね?」

彼女は見抜いていた。

「……はい。アイドルとプロデューサーが結ばれることなんかない、わかっていても、止められませんでした。
 そして、私は……禁を破ってしまったんです。赦されないのに、はっきりと言葉に出してしまった」

凛の額に手を置いたまま、目を閉じ、しばらく黙っていたが、

「……私もわかるよ。その気持ち」

「えっ? ……春香さんも誰かを?」

春香は言葉では答えず、こくりと頷いた。

572: 2013/09/25(水) 22:48:14.36 ID:ScZmVB2Io
「私、春香さんの周囲からはそう云う浮ついた話を全く聞かなかったので……ただただ、驚きです……」

凛の嘆息の混じった言葉に、春香は手を横に振った。

「そんなことないよー。私は嘘をつくのがうまいだけ。それに……昔の話だしね」

そして、春香は、凛が初めて見る、哀しい顔を浮かべた。

「……凛ちゃんは真面目だね。だから、自分の気持ちに嘘をつけないんだと思う。
 この業界って、ハッタリ噛ましてナンボ、って部分があるじゃない。だから余計に凛ちゃんは苦しいのかも」

そう云って、春香は12階の病室の窓から見える空を、遠い目で眺めた。

凛もつられて視線を窓の方へ向ける。

黄昏れに染まる雲が、ゆっくりと、流れている。

しばし、無言の刻が過ぎ――

573: 2013/09/25(水) 22:49:46.05 ID:ScZmVB2Io

「――そしたら、有無を言わさないトップアイドルになって、スパッと辞めちゃうとか?」

凛は慌てて春香の顔へ向き直った。

「ちょ、春香さん、そんな……」

「別にそれって、凛ちゃんが初めてじゃないよ?
 山口百恵とか、トップアイドルになって、好きな人と一緒になるため潔く辞めた人がこれまでにもいるんだ。
 日高舞だってそうでしょ?」

「トップへ立って、辞める……」

「そう。凛ちゃんがさっき云ったように、今後誰かの許でトップになる、そのことでPさんが否定されるのであれば、
 そうならないように、自分の意思で、自分で考えて、自分の行動でトップになればいい。
 誰かに引っ張られてトップになるのではなく、自分の歩みだけでトップへ登れば、ね」

574: 2013/09/25(水) 22:51:46.24 ID:ScZmVB2Io
「“Pが育てたアイドル”が、自らの脚のみでトップへ登れば、“それを育てたP”は、否定されることはない……」

凛が、一節一節、ゆっくりと間を置いて呟いた。

「そういうこと」

春香の言葉によって、凛の頭の中に、明確な目的地が見えた。

――プロデューサー、あなたへ逢いに行くため、私はトップアイドルになる――

しかし凛は春香の目を覗いて、独白のように云う。

「でも私、欲張りなんです。好きな人と一緒になって、その上で、皆に輝きを届けられる存在になりたい」

575: 2013/09/25(水) 22:54:27.09 ID:ScZmVB2Io
春香は、おっ? と不思議そうな顔をした。

「今はその手法は見えないけれど、でも、まず自力でトップアイドルになること。
 そして愛しい人へ報告しに行くこと。
 ――それを第一の目標としようと思います」

「うんうん、その意気だよ。
 勿論、私もそう易々とトップアイドルの座を明け渡したりはしないけどね」

春香は不敵な笑みを浮かべる。

「本気で、獲りに行かせて貰います。 ――負けませんよ」

凛も、口元に微かな笑みを浮かべて、宣言した。

どちらからともなく、腕を出して、拳をこつり、と触れ合わせた。

576: 2013/09/25(水) 23:20:38.01 ID:ScZmVB2Io

――

それと前後して、病室の外では。

赤羽根と鈷が、長椅子に腰を掛けて、缶コーヒーを傾けていた。

「まさかP君が移籍した直後にこう、問題が表へ出てきてしまうとは、大変だね」

「……いえ、ある程度は予測済みでしたから」

ふぅ、と大きな呼吸をすると、芳ばしい薫りが鼻をくすぐる。

577: 2013/09/25(水) 23:22:17.04 ID:ScZmVB2Io
「そうか。……まあプロデューサーたるもの、様々な可能性は考えておかないといけないからね。
 765―うち―も昔はそれで大分ゴタゴタしてしまった」

「赤羽根さんほどの人でもですか?」

「はは、当時は新米もいいところだったし、独りだったからね」

赤羽根は、過去を思い出して苦笑した。

事務所に所属する十人全員を一手に引き受けていた初期の頃は、頼れる人もおらず試行錯誤の連続だったと云う。

「そのせいで、春香や美希をはじめ事務所のみんなに、辛い思いをさせることになってしまった。
 そんな意味で云えば、P君は僕のときよりまだマシな状態かもしれないね」

「どう云うことです?」

「人間には、どうしても平等に分配できない要素があると云うことだよ。P君なら、凛ちゃんだけに専念できる」

赤羽根は、ふっ、と目を細めて長い吐息を漏らした。

578: 2013/09/25(水) 23:25:02.38 ID:ScZmVB2Io
不思議そうな顔をしている鈷に顔を向けて、そのうち君にも判るようになる、と語り、

「凛ちゃんの例で云えば、P君が戻って来さえすれば、ある程度は解消できる問題だ。
 勿論、問題の根幹部分はそうはいかないだろうし、根本的に解決しようとすると、CGプロの範疇には収まらないだろうけどね」

赤羽根は後ろの壁にもたれて、難儀な問題だよ、と呟いた。

鈷は膝に肘を乗せ、口の前で手を組んで考え込む。

「今の凛ちゃんに一番必要なのはPさんだと云うのは何となく判るのですが、
 事務所の全体にも関わることなので、僕の一存でPさんを呼び戻すことは出来ないですし……」

「そうだね。結局は、彼女が、自分で見つけるしかないよ。僕たちは、ヒントやアイデアは与えられるけど、答えそのものは、あの子の中にしかないんだ」

鈷は姿勢を変えず、黙ってゆっくりと頷いた。


そこへ歩み寄ってくる影が二人。

鈷がそれに気付き、親指で病室の中を示した。

579: 2013/09/25(水) 23:28:27.41 ID:ScZmVB2Io

――

凛と春香が微笑み合っているところへ、扉をノックする音が響いた。

どうぞ、と云おうとするが、酸素マスクのせいで大きな声が出せない。

代わりに春香が「どうぞ」と返答した。

扉がそろりと少しだけ開いて、その隙間から中を窺うのは、奈緒と加蓮。

凛が手招きをすると、二人はようやく引き戸を大きく開けた。

580: 2013/09/25(水) 23:29:58.40 ID:ScZmVB2Io
奈緒が何かを告げようと口を開いた瞬間、凛の隣へ座る女性を、加蓮と共に視認し、目が点になる。

「アイエエエ!? ハルカ!? ハルカナンデ!?」

奈緒も加蓮もHRSを発症し、立ったまま硬直している。

その後ろから赤羽根プロデューサーが、「春香、そろそろ行こうか」と呼んだ。

「あ、はーい。じゃあ凛ちゃん、お大事にね」

そう云ってウインクを投げる。

「今日は本当にありがとうございました。何とお礼を云えばいいのか……」

凛が顎を引きながら述べると、春香は「いーのいーの」と笑い、手を振って赤羽根と共に去っていった。

581: 2013/09/25(水) 23:32:48.12 ID:ScZmVB2Io

「なななななんで天海春香がいるの?」

春香たちが扉を閉めると、加蓮が慌てた様子で訊いてきた。

「お見舞いに来てもらっちゃった。……いや呼び付けちゃったって云う方が正確かな……」

奈緒は半ば呆然と口を半開きにしている。

「一体どんなパイプだよ……って、もう大丈夫なのか? いや大丈夫じゃないから入院してんだから適した言葉じゃねえな……」

「まあ、峠は越えたみたいだから大丈夫だと思うけど……」

凛が答えている間に、奈緒たちはベッドの傍へ椅子を寄せて座った。

582: 2013/09/25(水) 23:34:31.88 ID:ScZmVB2Io
「はい、凛。ひとまず入院で必要になるものを見繕って持ってきたよ。足りないのがあったら持ってきたげるから云ってね」

そう加蓮から渡されたバッグの中には、およそ入院生活に必要そうな、あらゆるものが入っていた。

「ありがとう。すごい、よくわかったね。欲しかったものばっかりだよ」

「私は昔病弱だった、って云ったでしょ。入院なんか数え切れないほどしたから、慣れたモンなんだ」

ま、最近はご無沙汰だけどね、と軽く笑って、すぐに少しだけ眉根を寄せる。

「それにしても肺炎なんて、どれだけ我慢重ねてたのよ、凛」

その口調は咎めるようだったが、「手遅れになる前に済んでよかったけどさ」とホッとする様子も見せた。

583: 2013/09/25(水) 23:35:45.65 ID:ScZmVB2Io
「ごめんね。二人が私を見つけてくれたんだって?」

「ああ、凛の戻りが遅いから見にいったら廊下に居なかったからさ。スタッフに訊いたら外へ出た形跡は
 なさそうだから、って中を探し廻ってたらぶっ倒れてるのを見つけたんだ」

奈緒の言葉に加蓮も頷く。

「アタシ、血の気が引くってのを実感したのは初めてだったよ」

凛は溜め息をついた。仲間にこれほどの心配をかけるなんて。

「ありがとう。二人がいなかったら、私もっと大変なことになってたと思う。命の恩人だよ」

「いいさ、大事に至らなかっただけでもな」

奈緒は掛け布団をぽんぽんと叩きながら笑う。

584: 2013/09/25(水) 23:37:46.17 ID:ScZmVB2Io
「あーそうだ、凛、早速色々おかしく云われてるよ」

加蓮が思い出したように前日のスポーツ紙を取り出して云った。

『渋谷凛 公演後倒れる』
『凛ちゃん 意識不明か――』

センセーショナルで無責任な文字が踊っていた。

「あー……まぁ、そうなるよね……」

凛が観念したように嘆息すると、

「午前中、鈷さんから目覚めたと知らされるまで、アタシたち――いや、事務所の皆こんな感じだったけどね」

と加蓮が苦笑する。

「で、こんな不穏なトップ記事見せたいんじゃないんだ。ほら、こっち」

585: 2013/09/25(水) 23:39:10.01 ID:ScZmVB2Io
そう云ってばさばさと芸能面を開くと、そこには

『新ユニット:トライアドプリムス、鮮烈なデビュー! 渋谷凛と組んだ新人、貫禄あり』

と、決して扱いは大きくないながらも、ユニットの初ライブ初勝利を報じるスペースが設けられていた。

凛が倒れたことで、善かれ悪しかれ、トライアドプリムスも注目の的となったようだ。

「怪我の功名……なのかな、これって」

凛は目を瞑って、心なしか口角を上げて呟いた。

「いづれにしても、注目株になったからにはもっとレッスンに励まねえとな」

奈緒が手を叩いて気合を入れると、加蓮も「そうだね、凛が退院してくるまでに腕をもっと磨いて、驚かせてあげないと」と同調した。

「ふふっ、それじゃ、退院後追い付かれないように、私も気合いを入れないとね。早く治さなきゃ」

三人はお互いを見詰め合って、どちらからともなく笑みを浮かべた。

586: 2013/09/25(水) 23:41:12.91 ID:ScZmVB2Io

――

三日後。

凛は順調に快方へ向かい、酸素マスクは鼻チューブへと、一段軽くなった。

しっかり話せることがこんなにも気持ちのいいことだとは、一度身体を壊すと、些細なことが幸せに感じる。

さらには、ようやく病院食が許可され、高カ口リー輸液のチューブが外された。点滴経由での投薬も、経口へと切り替えられた。

心電図は前日に外されており、これで凛を束縛するものは右手の酸素濃度計と血圧計のみだ。

ようやくシャワーが許可され、久しぶりに人心地が付いた。

普段全く意識しない日常を、改めて噛み締める。

587: 2013/09/25(水) 23:43:33.53 ID:ScZmVB2Io
あーまた日本語がおかしい……

>>586
× しっかり話せることがこんなにも気持ちのいいことだとは、一度身体を壊すと、些細なことが幸せに感じる。

○ しっかり話せることがこんなにも気持ちのいいものだとは、一度身体を壊すと、些細な事柄が幸せに感じる。

588: 2013/09/25(水) 23:45:25.36 ID:ScZmVB2Io

今日は、ニュージェネレーションレギュラー番組の日。

今頃卯月と未央は、ブースで待機しているはずだ。

本来であれば、凛も日本放送へ仕事に出るはずだが、当然、そんなことは許可されない。

先ほどシャワーを浴びたとき、調子が上がってダンスのステップを少し踏んだだけでもナースから怒られたほど。

今回はおとなしく、ベッドの上で、いちリスナーとして楽しませてもらおう。

まもなく四時。凛はiPhoneのサイマル放送を起動した。

時報と共にオープニングテーマが流れ、番組が始まる。

589: 2013/09/25(水) 23:46:50.42 ID:ScZmVB2Io
≪こんにちは、今週も始まりました、日本放送、ザ・ボイス・オブ・シンデレラ。パーソナリティは、ニュージェネレーション島村卯月です!≫

≪みんな、おっ待たせ~! 同じくパーソナリティの、ニュージェネレーション本田未央でーっす!≫

≪まず最初に、残念なお知らせです。いつも一緒にお話をしている渋谷凛ちゃんが、本日はお休みさせて頂くことになりました。ごめんなさい!≫

≪みんなもう知ってるかもしれないけど、しぶりん、急病で入院しちゃったんだ。今週はしまむーと私の二人でお送りします!≫

≪えーと、早速メールを頂いてます。ラジオネーム、おぉっ!サンさんから≫

≪いつもありがと~!≫

590: 2013/09/25(水) 23:51:15.45 ID:ScZmVB2Io
≪凛ちゃんが倒れたと云うニュースがありましたが大丈夫ですか?
 凛ちゃんのことは勿論、NGの皆さんの心持ちは如何ほどのものかとお察しします。
 それと比例するようにCSでのタイガースの調子も下がり心配です、凛ちゃんの一刻も早い回復を祈っています。――とのお便りです≫

≪うぅ……皆が気遣ってくれて嬉しいねえ……泪が出ちゃうよ。しぶりんは、だいぶ快方へ向かっているから心配しないでね!≫

≪他にも沢山の、凛ちゃんを心配してくれるメールやお葉書を頂いてます≫

≪すごいよ、リスナーが送ってきてくださったお見舞いの品がこんなに。ほら! ――≫

マイクの向こうからガサゴソと音がする。目には見えないが、沢山の便りや見舞いが来ているようだった。

ファンのみんなに、心配をかけてしまったことは理解しているが、こうやって実際の反応として感じると、更にその思いは強くなる。

凛は心の中で手を合わせた。

591: 2013/09/25(水) 23:52:20.01 ID:ScZmVB2Io

その後番組は、エンディングまで問題らしい問題はなく、つつがなく進行した。

凛が居ない分、卯月と未央の喋る量が増えて若干大変そうではあったが、手慣れたもので二人カバーし合っていた。

番組開始当時は、放送事故にも等しいような間があったりして、それが逆に話題となったことを思い出す。

そこから考えれば、大した進歩だと思う。

ザ・ボイス・オブ・シンデレラの次番組を聴きながら昔の軌跡を思い出していると、ノックと共に来客があった。

卯月と未央である。

592: 2013/09/25(水) 23:53:55.11 ID:ScZmVB2Io
凛は驚いた。番組が終わってからまだ一時間と経っていないのだ。

「凛ちゃん、調子はどう?」

卯月が覗き込むようにして訊ねるが、凛は起き上がってベッド上に座しながら、まず驚きを口にした。

「さっき終わったばかりなのに、もう着くなんてびっくりしたよ」

「有楽町から三十分で来られるしね、ここは」

あはは、と卯月は笑った。

例の件以来、仕事での最低限の用事以外はあまり喋らなかった凛と二人。

このようにゆっくり何かを話す機会は、久しぶりであった。

特に、未央はどことなく余所余所しい。

あんなことを云ってしまったのだから仕方ないし、未央のことだ、根を詰めすぎて倒れたのは、自分に原因の一端があると思っているのかも知れない。

593: 2013/09/25(水) 23:55:26.28 ID:ScZmVB2Io
「ねえ、未央」

そんな未央に、凛は穏やかな顔で語り掛けた。

未央は、一体何を云われるのかと怪訝な様子だ。

「……ごめんね。私、どうしようもない馬鹿だった」

「しぶりん……」

未央は、驚きと哀しみを併せた、複雑な表情をする。

「ううん……私が考えなしだったんだよ。
 Pさんが突然居なくなって、しぶりんが一番辛かっただろうに、それを判らず、支えられなかったんだもん。
 ニュージェネレーションの仲間失格だよ……」

目を伏せて、ゆっくりと語った。

594: 2013/09/25(水) 23:56:45.76 ID:ScZmVB2Io
凛は顔を横に振って、未央の掌を持つ。

「私が弱かったの。それが一番の原因。未央は悪くなんかないよ。
 それに、こうやってぶつかり合って、大事なことに気付けた。私はもう、大丈夫」

力強く宣言すると、卯月が凛の目を見て問う。

「凛ちゃん、答えを見つけたの?」

「答えはまだ見つかってない。でも、何をすべきかは判ったと思う」

凛は頷きながら答えた。

「まずは、年末のライブを成功させること。そして、IUでトップに立つこと。これが私の為すべき行動――」

卯月と未央はその言葉に度肝を抜かれた顔をした。

595: 2013/09/25(水) 23:57:51.49 ID:ScZmVB2Io
「ええっ? 凛ちゃん、IUって、あの?」

「そう。アイドルアルティメイト。そこで私はトップに立つ」

IU、アイドルアルティメイトは、年に一度、年明けの頃に開催される、真のトップアイドルを決めるためのオーディション番組だ。

古今東西、腕に覚えのあるアイドルたちが、こぞって目指す頂。

ここで優勝すれば、名実共にトップアイドルであることが証明されるのだ。

ここ数年は、女性部門は春香をメインに、765のメンバーの誰かが優勝の常連。

男性部門は961のジュピターの独擅場だ。

596: 2013/09/26(木) 00:00:00.41 ID:1KZGbwkRo
昨年度のIUには、凛は出場しなかった。

CGプロの中でトップとはいえ、まだまだ世間には上が居たし、予選で敗退したときの事務所への負の影響を避けようとした意味合いがあったからだ。

その代わり、三月の凛単独ライブで存在感を示すと云う戦略を採ったのである。

「ね、ねえ、それってPさんか鈷さんの指示なの?」

おずおずと訊いてきた未央に、凛はきっぱりと云う。

「ううん、私の意思。勿論、退院してから上層部―うえ―と相談するけど、自分で考えて、見つけたことだよ」

未央と卯月は、凛の瞳の奥に宿る強い炎を感じ取った。

「……わかった。しぶりんの意思がそこまで固いなら、私も手を貸すよ。上と話すときとか、援護する」

「凛ちゃん、私もだよ」

「二人とも、ありがとう」

凛は表情を柔らかく変え、卯月と未央それぞれの手に、自らの掌を重ねた。

597: 2013/09/26(木) 00:04:08.37 ID:1KZGbwkRo

「あ、そうだすっかり話し込んでて、これを伝えてなかったね」

と卯月が気付いたように云い、紙袋を取り出した。

「はい、リスナーさんからのお見舞いの品」

そこには、百貨店でたくさんの買物をしたときのような、ぱんぱんに膨れ上がった袋が二つあった。

贈られた品々を、感謝の気持ちと共に三人で開封する。

「なにこれ、『ノニジュース』……?」

「なんか凄く身体にいいらしいって」

「でもスタッフは笑顔が引きつってたよね。なんでだろうね」

わいわいと喋りながら、久方振りの心の安寧に、身を委ねた。

598: 2013/09/26(木) 00:04:57.40 ID:1KZGbwkRo

ひとまず今回分はここまでです
気付いたらもう600近いやんけ……(戦慄)

はい、見舞いに訪れたPは凛の幻覚でしたね
ロスから東京へ来るには、最短でも翌日夕方までかかります。わざわざ設置された電波時計が肝でした
意図的にそこで切ったせいもありますが投下後1レスで見破られて、こんな時どういう顔をすればいいのかわからないの


602: 2013/09/26(木) 23:44:59.96 ID:1KZGbwkRo


・・・・・・・・・・・・


12月に入り、CGプロライブツアーが始まった。

結局、入院等の影響で、凛の三つ目の新作がレコーディングされたのは、11月の末。

どうせだからと、ライブツアー最終日25日に発売するよう手配された。

ライブで先行披露し、話題を攫っておいて最終日にリリースする。

そんな、ピンチをチャンスに変える戦術に、凛は他人事のように感心した。

603: 2013/09/26(木) 23:46:37.92 ID:1KZGbwkRo

1日、札幌ドーム。7、8日、名古屋ドーム。14、15日、大阪ドーム。20日、福岡ドーム。

21、22日、東京ドーム。

全国を飛び回り、現地のファンと熱狂的な時間を共有する。

音響や照明スタッフは、条件が不利なドームでも、精一杯の環境をこしらえてくれた。

CGプロのアイドルたちは、それに応えるように、毎回最高の舞台を彩った。

特に人気の高い凛ソロやニュージェネレーションだけでなく、鮮烈なデビューを飾ったトライアドプリムスも注目の的であり、

デビュー間もないうちから大きなステージに放り出された奈緒と加蓮は、目を回しながらも毎回きちんと演り切っている。

604: 2013/09/26(木) 23:48:17.46 ID:1KZGbwkRo
実地こそが一番のレッスンになるのか、ツアー中であるにも拘わらず奈緒と加蓮の腕はどんどん上がっていった。

――この分なら、奈緒と加蓮がCGプロの顔になるのも時間の問題かな。

凛は隣で舞いながら、冷静にそんなことを思う。

その後、音響設備の良い横浜アリーナで23、24日と満杯にし、のべ約40万人の動員をこなしたツアーは、世間に、CGプロをAクラス事務所と認識させた。

そして、ついに千秋楽25日。

オーラス公演は、通常公演とは違う演出で進行することもあって、一万五千席がまさに一瞬で捌けるほどの競争率となった。

605: 2013/09/26(木) 23:50:19.27 ID:1KZGbwkRo

五時、開場。

新横浜駅から人々が続々とアリーナへ向かい、環状二号道路に蟻のような列を成している。

その様子が逐一報告される楽屋・控室では、アイドルたちが武者震いを禁じ得なかった。

全国ツアーなおかつ六日連続公演の最終日と云うことで、テンションは既に最高潮。

凛でさえ体験したことのない領域に、全員が脚を踏み入れようとしているのだから当然だ。

606: 2013/09/26(木) 23:52:32.57 ID:1KZGbwkRo

本日のトップバッターは凛とのあ。珍しい組み合わせだ。

二人とも、サイバネティックな衣装と、寡黙な女王の如きメイクは、まさにアンドロイドと形容するに相応しい格好をしている。

特に凛は、云われなければ彼女だと気付かないほどの変貌を遂げていた。

のあと揃うよう、銀髪のウィッグとカラーコンタクトレンズを装着した凛が、もの静かに座っているのあの許へ歩み寄る。

そののあは、泰然自若としているようで、実は非常に緊張していることが、凛にはわかっていた。

607: 2013/09/26(木) 23:53:40.96 ID:1KZGbwkRo
「のあさん、珍しく緊張してるね?」

鏡越しに、のあの顔を凛が覗き込む。

「……このような珍しい組み合わせ、かつ最初の演目で出されたら……誰でもそうなると思うわ……あなたはCGの頂なのだから」

「気にしない気にしない。ステージの上では誰もが等しく『アイドル』だよ」

正面の鏡を見ていたのあが、凛に顔を向けた。

「ステージの上では誰もが等しく『アイドル』……確かにその通りね……」

そう云って、ふう、と軽く息をつく。

見た目は感情の読めないままだが、内心では少しは緊張が解けたらしい。

608: 2013/09/26(木) 23:55:00.20 ID:1KZGbwkRo

プロデューサー陣が顔を出した。

まもなく開演の六時だ。

「よォし、最終日だ! お前ら! ぶちかましてこい!」

舞台袖で鏷が全員に発破をかける。

色とりどりの衣装に身を包んだ沢山のアイドルたちが、自らの一番輝く場所を目指さむとしている。

その光景は、実に美しい。

609: 2013/09/26(木) 23:59:59.95 ID:1KZGbwkRo

――

会場内の照明が下りた。

暗黒が館内を支配し、客席には様々な色のサイリウムが無秩序に動いている。

闇の中で、シンセサイザーの分厚いパッドサウンドが、腹の底へ響き渡るように鳴った。

611: 2013/09/27(金) 00:01:13.71 ID:KWDGeRH/o
豊かなリバーブが横に拡がり、観客の歓声がより一層大きくなる。

バンドパスフィルターが縦横無尽に音を彩り、ダイナミックに躍動した。

場を支配する音は、電子の波、テクノ。

よもやアイドルのコンサートで流れることなど予測できない、まさかのサウンドの轟流に、観客は度肝を抜かれ、黄色い声が大きな潮流となる。

そして、トップライトによって、暗闇に浮かび上がる二つの『人形』。

『のあ』と『誰か』

観客は、凛に気付いていない。

613: 2013/09/27(金) 00:03:49.95 ID:KWDGeRH/o
ボコーダー経由でロボット化されたボーカルが、パッドサウンドと規則的なリズムに乗って流れていく。

そこへ照明が一気に点され、ステージを輝かせた。


 Radio Tour information

 Transmission télévision

 Reportage sur moto

 Caméra, vidéo et foto

 Les équipes présentées

 Le départ est donné

 Les étapes sont brûlées

 Et la course est lancée ――

614: 2013/09/27(金) 00:05:18.47 ID:KWDGeRH/o

のあの風貌でこの演出は最高のインパクトであった。

舞台上でアンドロイドが唱い、踊っている。

これまでのツアーとは明らかに異なる演出に、会場のボルテージはあっという間に針が振り切れた。

客席のサイリウムは、のあのイメージカラー、銀白に染まった。

そこへ、凛がボコーダーを外して地声になる。

615: 2013/09/27(金) 00:06:26.36 ID:KWDGeRH/o

 Les coureurs chronométrés

 Pour l'épreuve de vérité

 La montagne les vallées

 Les grands cols les défilés

 La flamme rouge dépassée

 Maillot Jaune à l'arrivée

 Radio Tour information

 Transmission télévision ――

616: 2013/09/27(金) 00:07:27.20 ID:KWDGeRH/o

のあともロボットボイスとも違う、澄み、落ち着いた声。

誰だあれは、と客席に驚きと戸惑いが混じる。

やがて、その声に気付いた一部の人々が、蒼いサイリウムに切り替えると、それが伝播していく。

会場は、蒼と白の協奏曲となった。

617: 2013/09/27(金) 00:09:02.60 ID:KWDGeRH/o

アウトロが、たっぷりの余韻を引き連れて響いていく。

「みんな! 今日はCGプロライブツアー千秋楽へようこそ!」

凛がウィッグを取り、客席へ投げ込んで叫んだ。

銀髪が描く放物線の、着弾予測地点では、歓喜に沸く客が手を伸ばしている。

「最初、私が誰かわからなかったんじゃないかな? でも、途中から、正体に気付いてくれた人がいたみたいだね!」

会場は、歓声でそれに応えた。

照明が絞られ、のあがMCを引き継いで喋る。

「――どうやら掴みはOKのようね。さあ、これから約二時間、魔法の掛けられた世界へ浸りなさい。
 続いては、CGプロと云えばこの三人、ニュージェネレーションがお相手よ」

客席からは「のあ様ァ!」と崇拝者の叫びが止まらない。

618: 2013/09/27(金) 00:11:11.22 ID:KWDGeRH/o
のあがMCをしている間に、凛は床下へ降り、カラコンの脱去と髪型の変更、早着替えを済ませ、所定の位置へスタンバイ。

卯月と未央も既に舞台下で準備完了していた。

三人、息を合わせて宣言する。

「ニュージェネレーション、行くよっ! 輝く世界の魔法!」

PAからキューが入り、新たなイントロが流れ始めた。

ベルの音に合わせて、ニュージェネレーションを乗せたセリが上がる。

白い三つのピンライトが、各々を下からアオリで照らしている。

619: 2013/09/27(金) 00:12:59.84 ID:KWDGeRH/o
ゆっくりと、三人が浮かび上がってくると共に、そのライトがステージ上へ洩れていく。


 輝く世界の魔法 私を好きになれ

 ほら笑顔になりたい人 一斉の


 唱えてみよう――


ニュージェネレーションが励起する様は、CGプロを象徴しているかのように見えた。

卯月、凛、未央が連携して一番をサビまで歌い上げると、すぐに二番。

 おやすみ 優しく瞬く星達――

ステージ中央に設けられた階段の上から蘭子、アナスタシア、楓、幸子が歌いながら降りてくる。

ライブ開始初っ端からCGプロトップクラスのメンバーが現れて、観客席は大興奮に沸いた。

620: 2013/09/27(金) 00:15:08.00 ID:KWDGeRH/o

そのまま、プログラムはCDデビュー組がそれぞれローテイションで進んで行き、トライアドプリムスへ。

歌った曲は先日のライブバトルと同じものだが、パフォーマンスは明らかに別次元へと昇華されていた。

ゆっくり、しっとりした曲を、情緒豊かに演じ上げる三人は、照明効果もあって非常に艶かしく見えた。

ライブバトルでのデビューから僅か二箇月。

トライアドプリムスは、ニュージェネレーションに比肩し得る、立派な二大巨頭ユニットへと成長していた。

凛、奈緒、加蓮、それぞれ強烈なカリスマを持った三人が、力を合わせて一つの舞台を組み上げるその姿は、まさに第一課の集大成であった。

曲が終わり、切り替わる僅かな間、一旦、照明が落ち、客席に踊る蒼、赤、橙のサイリウムが、より映える。

数瞬後、照明が戻ると、そこには、コンコードベース、テナーサックス、ショルダーキーを身につけた三人が、立っていた。

621: 2013/09/27(金) 00:16:54.38 ID:KWDGeRH/o

――

「――ちょっとアイドルらしくないことをやってみたいんだよね」

11月のとある日、凛は第一課のソファで、ヨーグルトドリンクを飲みながら独言のように呟いた。

「アイドルらしくないこと?」

正面で楽譜を読んでいた奈緒が鸚鵡返しで訊く。

「そう。今度の年末ライブなんだけどさ、最終日に、ちょっとお客さんを驚かせたいなーって」

「驚かせるって云ったって、何をやるの?」

隣でネイルを塗りつつ加蓮が問うと、凛は間髪入れずに答えた。

「ジャジーなインストバンドとかどう?」

622: 2013/09/27(金) 00:18:40.07 ID:KWDGeRH/o
「……は? 幾ら何でもそれは明らかにアイドルの範疇じゃないだろ」

奈緒が、凛の言葉の意味するところを考えていたのか、少々の間を置いて突っ込みを入れてきた。

「だからだよ。前に『如何にもアイドルアイドルした普通の曲を演ったって面白くない』ってプロデューサーが云ってたの。
 それを受けて出した新曲は大ヒットしたんだ」

キレッキレのダンスが巷に強烈な印象を与えたことは、記憶に新しい。

「それは憶えてるけどさ、バンドって何をやるの? 楽器?」

あのPV凄かったね、と付け加えながら、加蓮は塗り終わった場所に、息を吹きかけて、凛を向いた。

623: 2013/09/27(金) 00:20:09.38 ID:KWDGeRH/o
「そう。加蓮って、鍵盤楽器は弾けるよね?」

「まあ……簡単なものなら」

「じゃあ加蓮はショルダーキーボードで決まり。奈緒は……サックスとか吹けない? ビジュアル的に合いそう」

「ハァ!? サックス? 吹けるわけねーだろ、あたしリコーダーしかやったことないんだぞ」

「リコーダー吹けるんだ? じゃあサックスも大丈夫だよね、はい決まり」

「ちょっと待てェ!」

「大丈夫、奈緒なら出来るよ。まだ時間あるし」

にこりと凛は笑った。柔和だが、有無を云わさぬ、見えない圧力がそこには在った。

624: 2013/09/27(金) 00:21:41.67 ID:KWDGeRH/o
「ぐ……し、仕方ねえな……。トライアドプリムスの注目度を上げるためなら一肌脱ぐか……」

と云って、奈緒はあっさりと受諾した。彼女は、意外と押しに弱い。

「ギターは李衣菜辺りに声を掛けておくよ。ドラムやその他のパートはサポートバックバンドの人にお願いするつもり」

凛はパン、と手を叩いて、構想を述べた。

そのまま鈷を経由してPに簡単なスコアを書かせ、一週間後には初回のセッションレッスンを行なう迅速ぶりに、他の人間は目を白黒させている。

トップを目指す、と意思を明確に固めた凛は、以前にも増してイケイケドンドンになっていた。

奈緒は、麗の付きっきりの特訓の成果か、譜面を渡して二週間後にはそれなりに吹けるようになった。

サックスは音を出すことすら難しいのだが、やはりセンスがあるらしい。

625: 2013/09/27(金) 00:24:13.47 ID:KWDGeRH/o

――

楽器を肩から提げたトライアドプリムスの面々に、ざわつく客席。

「ちょっと息抜きしない? たまには箸休めも必要だよね」

凛が会場へ向かってウインクしながら語り掛けた。

その顔をレンズが追いかけて、バックスクリーンに様子が大きく映し出される。

ステージへ李衣菜が駆け寄り、カウントを開始すると、バックバンドのドラムの合図ののち、サックスのイントロが流れる。

その奈緒を見て、観客は歓声を上げた。

627: 2013/09/27(金) 00:25:48.25 ID:KWDGeRH/o

凛のスラップベースと、李衣菜のカッティングがオーバーダブされ、加蓮のシンセリードが煌めくラインを彩る。

バックバンドのキーボードには、しれっと菜々が混ざっている。

李衣菜はともかく、凛が人前でベースを披露するのは初めてのことだ。加蓮の演奏も然り。

トライアドプリムスが、これまで一度も現していない、別の一面を見せたことに、客席は興奮の渦を巻く。

全楽器がワイヤレスシステムになっていて、行動に制約のない面々が、楽器を奏でながら縦横無尽にステージを舞い回る。

628: 2013/09/27(金) 00:27:05.86 ID:KWDGeRH/o
これまでと全く違うアイドル像。

きらびやかに着飾った可愛い女の子たちが、笑顔を振りまき、渋さ満点の楽曲をノリノリで自ら演奏している。

ベースのソロ、サックスのソロ、シンセのソロ、そしてギターのソロ。

それぞれのパートがこなされる毎に、会場全体から拍手喝采が浴びせられる。

アイドルらしからぬ動きと、各自の見せ場を最大限に活かすその姿を見て、度肝を抜かれ熱狂しない者はいまい。

凛がPから受け継いだ、新世代の偶像の定義付けに、観客は酔いしれた。

629: 2013/09/27(金) 00:29:05.84 ID:KWDGeRH/o

五分間の演奏が、まるで一瞬のように過ぎ去り、そのままの流れで凛メインのプログラムへと移行する。

Never say neverで徐々にボルテージを上げ、

CGプロの研究生を後ろに従えたキレッキレのダンスで、すっかり暖まっていた会場は熱狂し、

ブリティッシュロカビリーでは、はっきりとしたリズムに揺れるサイリウムが、蒼一色に染まった。

全篇英語詞にも拘わらず、客席と一緒に歌い上げる一体感。

トライアドプリムスの出番から通算して、五曲連続。

当初、凛のプログラムはもっとばらけていたのだが、意図的に後半へ集積させたい、と、鈷に変更を願い出た。

そんなプログラムを、20分以上ぶっ通しで、歌唱を張り上げ怒濤のダンスを舞っても、鈍くならない動作。

630: 2013/09/27(金) 00:30:47.81 ID:KWDGeRH/o
CGプロが誇るアイドル――

否、アイドルの枠を越えた“渋谷凛と云う存在”の威力が、横浜アリーナに炸裂している。

その力は、三月の単独ライブを遥かに凌駕する勢いであった。


 He’s no good, girl

 No good for you

 You better get to gettin' on your goodbye shoes……


バックの演奏が消え、凛の独唱で曲が終了する。

同時に消える照明。

631: 2013/09/27(金) 00:32:22.04 ID:KWDGeRH/o
「この、みんなと一緒に作り上げるムード、最高だね」

漆黒に眼を塞がれ、耳だけで感じる凛の語り掛けに、聴衆は歓声で応える。

そして一瞬の間を置いて照明が戻り、早着替えを済ませた凛がステージの中央へ立った。

落ち着いた、黒基調のゴシック服だ。

「激しい曲ばかりだとみんなも疲れちゃうだろうから、この辺りで、しっとりバラードでもいこっか。
 実は、私が静かな曲を持ち歌にするのって、これが初めてなんだよね。
 そして奇しくも、今日がそのCDの発売日。皆、もう買ってくれたかな?」

さらに大きな歓声が上がる。

「皆、ありがとね! この曲は、私が初めて作詞に挑戦した曲です。


 聴いてください――」

633: 2013/09/27(金) 00:34:08.14 ID:KWDGeRH/o
余韻の長いシンセベルのイントロが響き、そして、甘いギターが、副旋律を奏でる。


 誰かが わたしを呼ぶ 声が 聞こえて
 甘い 夢の途中 ぼんやり 目覚めた

 恋は どこから やってくるの?
 窓を 開けたら 不思議な夜明け

 小さな 詩―うた―の中に 秘めた 思いは
 長い 時代―とき―を越えて 涙を 伝える

 果てしない この道で いつの日か 出会うひと
 伝えたい 優しさを いつまでも その胸に

 誰よりも 信じあい 求めあう 気持ちだけ
 抱き締めて いられたら 何もかも こわくない

 果てしない この道で いつの日か 出会うひと
 穏やかな 優しさで あなただけ 見つめたい

 この空が 永遠に どこまでも 続くように
 変わらない 願いだけ いつまでも 抱き締める…

634: 2013/09/27(金) 00:38:46.85 ID:KWDGeRH/o

アウトロがフェードアウトしていくと、静かに聴き入っていた会場が歓声に包まれた。

ツアー初日にこの曲の存在が公となったとき、渋谷凛の新境地としてマスコミを賑わせたが、

そのままの手応えが、この横浜アリーナでも感じられる、そんな喝采であった。

「みんな、ありがとう。……たまには、こういう落ち着く曲も、いいよね?」

凛の言葉に呼応するように、拍手が大きくなる。

その拍手に対して、申し訳なさそうな声で、魔法の解ける刻を告げる。

「さて、名残惜しいけど……次が最後の曲です」

客席から響く、「えーっ」「もっと続けてー!」と云う声。

635: 2013/09/27(金) 00:40:17.79 ID:KWDGeRH/o
会場全てが、もっと魔法にかかっていたい、そんな願いが籠った声に包まれると、何故か照明が全て落ちた。

ステージ上は真っ暗闇で何も見えない。

そこに、どこからともなく割り込むMC。

「……あくまで、プログラム上は、ですけどね!」

観客席が、一気にざわついた。

「こっ、この声は……一体誰ッ!?」

凛が、実にわざとらしい大仰な演技をする。

瞬間、舞台の中心をスポットライトが照らすと。

636: 2013/09/27(金) 00:42:01.05 ID:KWDGeRH/o
そこには、凛の隣に、パンキッシュゴシックの衣装を纏った天海春香が立っていた。

「箱根……じゃなかった、横アリのみなさ~ん! 天海春香ですよ~!!
 今日は、CGプロさんのライブツアーが楽しそうなので、お邪魔しちゃいましたー!」

「はい、と云うわけで、千秋楽限定シークレットゲスト、春香さんが来てくださいました!」

凛が春香の言葉を引き継いで続ける。

まさかの大物ゲスト登場に、会場は大歓声に包まれた。

「今、私がしっとりした曲を歌ったので、ラストへ向けて、徐々に、ゆっくりと、もう一度熱を上げていこうか」

「いえす! それじゃあまずは、凛ちゃんと私で、オ・ト・ナなデュオを披露しようかな!」

「では、もう一度柔らかなナンバーを。Je t'aime... moi non plus ――ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ――」

ステージを、柔らかい光が包み、歓声の波が静かに引いて行く。

638: 2013/09/27(金) 00:44:00.58 ID:KWDGeRH/o
しっとりしていながらも、ファンクなドラムとギター、オルガンが、ゆっくりと空間を満たしていく。


 Je t'aime je t'aime, oh oui je t'aime

 Moi non plus

 Oh mon amour, tu es la vague, moi l'île nue
 Tu vas, tu vas et tu viens entre mes reins
 Tu vas et tu viens entre mes reins et je te rejoins

 Je t'aime je t'aime, oh oui je t'aime...

639: 2013/09/27(金) 00:45:46.97 ID:KWDGeRH/o

超人気アイドル二人が魅せる、新たなステージ。

妖しく、色艶やかな歌唱は、大人を思わせる色香を放っていた。

凛は、もう18歳だ。

デビュー時から続く、“少女”と云うイメージを、変遷させる力を以て唱い上げる。

“少女”が“オンナ”に変わる刻――

――それは、観客の心を、どくんと鼓動させ、掴み上げた。

640: 2013/09/27(金) 00:48:28.36 ID:KWDGeRH/o

「しぶりーん、そんな色気たっぷりなの演られちゃ、私たちが出て行き難いよー」

未央がそう云いながら、卯月と共に下手から、

そして奈緒がコンコードベースを持って、加蓮と共に上手から舞台へ現れた。

凛が奈緒からベースとヘッドセットマイクを受け取り装着している間に、卯月が

「せっかく春香さんが来てくれたんだもの、CGを代表するユニットでお迎えしないとね」

と云い、客席へマイクを向けた。拍手と指笛が沸き起こる。

春香が、卯月のMCに応え、

「おおっと、沢山のお出迎えが来てくれましたね! この人数を活かして、渋いチョイスを行きましょう!」

そのまま、凛のベースに合わせて、独り、歌い出した。

642: 2013/09/27(金) 00:51:28.87 ID:KWDGeRH/o

 I know somebody who declares he has it made
 He won't admit it, but it's just a masquerade ――

そこから春香のリードに併せ、フィンガースナップと共に、横ノリな五声のハーモニーが響き渡る。

ベース以外には全く伴奏がない。

そう。 ア・カペラ。

瞬間、その場は、黄色のような、はたまた、橙のような色に包まれた。

その色の照明が焚かれたわけではない。

音だから色なんて判るはずが無いのに、確かに、横浜アリーナの中を、色の付いた複雑なハーモニーが奔流したのだ。

643: 2013/09/27(金) 00:53:20.99 ID:KWDGeRH/o

――

11月末、まもなくツアーが始まろうかと云う頃の、ある日の夜。凛は春香にメールを送った。

【今度カメオして頂ける最終日なんですが、一緒に歌う曲をリクエストしてもいいですか?】

希望リスト、そして楽譜と歌詞を添付すると、すぐに返信ではなく電話が来る。

『やっほ、こんばんは。……なるほどね。これ、凛ちゃんなりのメッセージ……だよね?』

「こんばんは、お電話をくださってありがとうございます。その通りです。流石、春香さんにはすぐに見破られちゃいました」

『一番目はいいとして、二番目の曲、これを演るの? 音取りや和声が相当難しいよ?』

644: 2013/09/27(金) 00:54:21.16 ID:KWDGeRH/o
「はい、お客さんの度肝を抜きたくて。春香さんがカメオして頂けると云うサプライズの上に、さらにこのギミックを出したいんです。
 春香さんはリードに専念して頂いて、ハーモニーはCGメンバー側でこなしますので、あまりお手間は掛けさせません――』


春香は、電話から一度添付ファイルのPDFへiPhoneの画面を切り替え、ざっと見てから云う。

「わかった。私はハーモニーに関わらないとは云っても、一回か二回くらいは合わせた方がいいよね。
 赤羽根プロデューサーに予定を固めてもらって、一度CGプロへ伺うよ」

『すみません、ありがとうございます。こちらも鈷プロデューサーに伝えておきます』

「うん、それじゃあね、おやすみ」

春香は電話を切り、iPhoneをスクロールさせ、凛から送られた歌詞を、再び読んだ。

645: 2013/09/27(金) 00:55:20.87 ID:KWDGeRH/o
 Je t'aime je t'aime, oh oui je t'aime

 Moi non plus

 Oh mon amour, tu es la vague, moi l'île nue
 Tu vas, tu vas et tu viens entre mes reins
 Tu vas et tu viens entre mes reins et je te rejoins

 Je t'aime je t'aime, oh oui je t'aime...

  愛してる、愛してるわ……

  ――さぁてね?

  私は一糸纏わぬ島、あなたは波。
  寄せては返す波……

  愛してる、あぁ、愛してるの……


凛ちゃんめ。

大胆な作戦に出たね。

次の曲のメッセージもだいぶ強いし。

ここまで想われる人が羨ましいな……

646: 2013/09/27(金) 00:56:04.78 ID:KWDGeRH/o

――

六人で唱う、ア・カペラの和声が着々と盛り上がって行き、サビへと突入する。


 Spread love, instead of spreading lies

 Spread love, the truth needs no disguise

 I've often said love could open any door

 Oh, but I wish we had much more

 More love is what we need

647: 2013/09/27(金) 00:56:43.32 ID:KWDGeRH/o

Spread love ―― C7(9)からB♭6へ落ちる極めて印象的なフレーズ。

――愛を蒔こう。嘘を塗るのではなく。

――温もりを拡げよう。本当の気持ちに仮面は要らない。

――愛はどんな障碍でも越えられるとよく言ったけれど

――その欠かせないモノがもっと溢れていればよかったのに。

648: 2013/09/27(金) 00:59:46.77 ID:KWDGeRH/o

最後のハーモニーですぱっと曲を終了させると、ホールに六種類の残響が漂う。

高度な和声をこなしたアイドルたちに、聴衆は呆然としていた。

一瞬の間を置いて、はっと気付いた観客が、一斉に拍手と喝采を轟かせる。

「こう云う、複雑なハーモニーの歌も、またいいもんでしょ?」

加蓮が指をピストルの形にしながら訊ねると、更に歓声の音量が上がった。

649: 2013/09/27(金) 01:01:25.05 ID:KWDGeRH/o
「さあ、後ろ髪を引かれる思いだけど、ラストの曲になっちまった!
 最後はパァーッと、春香さんと一緒に、CGプロ全員と一緒に、そして皆も一緒にいこうぜ!」

奈緒の掛け声に併せ、凛や春香が叫ぶ。

『お願い!シンデレラ!』


 お願いシンデレラ 夢は夢で終われない
 動き始めてる 輝く日のために――

六人のイントロ重唱が終わると、

『イェーイ!』

上手下手の両手袖からCGプロのアイドルが全員、大挙してステージへ走り寄った。

650: 2013/09/27(金) 01:02:59.54 ID:KWDGeRH/o

凛は、ア・カペラの時のまま、踊りながらベースをスラップさせ、

李衣菜と夏樹はギターを肩に掛け、それぞれカッティングとリードを弾き、

加蓮はアナスタシアからショルダーキーを受け取って、シンセアルペジオを鳴らしている。


 Everyday どんな時も CUTE Heart 持ってたい――

春香と第二課全員が可愛く唱い、

 Pinchもサバイバルも COOLに越えたい――

第一課全員が澄ましてこなし、

 Update 無敵なPASSION くじけ心 更新――

第三課全員が熱く飛び跳ねる。

そして杏ときらりは相の手を入れ、観客がそれに同調する。

651: 2013/09/27(金) 01:04:48.75 ID:KWDGeRH/o
わかりやすい曲構成、会場全体が一体となる。

熱情の四分間は、あっという間だった。


 涙のあとには また笑って スマートにね
 でも可愛く 進もう!――


照明の輝度が落ちて行く中、加蓮のアルペジオで曲が終わりを迎えると、今日一番の熱狂が沸いた。

652: 2013/09/27(金) 01:05:49.56 ID:KWDGeRH/o
しかし、暗くなっても、客席のライトはまだ点かない。

それの意図するところ。

そして、方々から止まない、アンコールを求める手拍子。

薄暗い会場の中に、凛の声が響く。

「ふふっ、拍手が途切れないね。……じゃあ、みんなのアンコールに応えよっか」

待ってましたとばかりに盛り上がる歓声の予定調和。

653: 2013/09/27(金) 01:07:16.27 ID:KWDGeRH/o
「さあ! 折角春香さんが来てくれたんだし、敬意と謝意を表して、『READY!!』を行くよ!」

凛の声を合図とし、PAがキューを送る。


 Are you ready!? I'm LADY!!
 始めよう やれば出来るきっと 絶対私NO.1


横浜アリーナを熱く滾らせる興奮が、冬の夜空に溶けてゆく――

660: 2013/09/27(金) 22:08:54.46 ID:KWDGeRH/o


・・・・・・・・・・・・


「なんであれだけ大規模なツアーの翌日に、フツーに仕事入ってんの~?」

ニュージェネレーションのラジオ番組を済ませ、太陽が没して航海薄明が終わる頃。

麻布十番の駅から事務所までの道を歩きながら、やれやれと云う顔をして未央がぼやいた。

「レギュラー番組なんだから仕方ないよ、未央ちゃん」

「そうだよ。むしろ今日は、朝事務所へ出社しないで、夕方日本放送に直行していいって云われたんだから、休みを呉れたようなもんだよ」

卯月と凛が未央を窘める。

661: 2013/09/27(金) 22:10:30.18 ID:KWDGeRH/o
ツアー終了翌日の放送というだけあって、ライブの出来を賞賛する感想メールが非常に多かった。

放送前に目を通すのが大変な量だったほどだ。

世間では、CGプロの躍進と、春香のサプライズカメオ及びその理由に関するニュースがお茶の間を賑わせ、

番付番組は、凛が、“春香に認められた者”として、Aランクへ登り詰めたことを示した。

卯月や未央もBへ上昇し、奈緒と加蓮に至っては、Eから一気にCへ跳ね上がった。

蘭子や楓など、その他のアイドルたちも、今回のツアー成功に伴って軒並み評価を上げている。

662: 2013/09/27(金) 22:12:02.93 ID:KWDGeRH/o

事務所のビルに入ると、普段よりも静かなフロアが三人を包んだ。

本日、ニュージェネレーション以外のアイドルたちは休日を貰っている。

勿論、後処理の残っているプロデューサー陣含め事務方は休むわけにいかないので、人気が皆無と云うわけではない。

「なんかこう、いつもと違う雰囲気だと、落ち着かないね~。じゃあまたあとでー!」

未央が苦笑しつつ洩らし、第三課へと入って行った。

その後凛は卯月と第二課前で別れ、独り、第一課をくぐる。

663: 2013/09/27(金) 22:14:57.55 ID:KWDGeRH/o

デスクで作業している鈷に終業の報告へ向かおうとすると、

「おう、お疲れ」

ソファから声が掛けられた。


――この声は。


凛が、勢いよくその方向を向くと。


Pが、座っていた。

664: 2013/09/27(金) 22:17:09.66 ID:KWDGeRH/o

その姿を認めた瞬間、凛はまるで蝋人形のように動きが固まる。

長く美しい髪だけが、慣性の法則に従って揺れた。

何秒ほど硬直していただろうか、不意に、泪が、ぽろっとこぼれた。

「お、おい」

あまりにも急激に変わる凛の表情を見て、Pは慌てた。

そんな彼に構わず、事務所の中であることにも構わず、一粒こぼれた雫が呼び水となって、双眸から泪が止め処なく溢れ出た。

顎から滴り落ちたそれが、カーペット地の床に、点々と染みを作っていく。

665: 2013/09/27(金) 22:18:45.29 ID:KWDGeRH/o
Pが立ち上がると、凛は持っていたバッグを放り出して、コートも脱がず、帽子もマフラーも取らず、懐へ飛び込んだ。

「プロ……デューサー、なんで? なんで……?」

震える涙声で問う凛の背中に、Pは腕を廻し、とんとんと優しく叩いた。

「それは、なぜ俺がここに居るか、って云う意味でいいのか?」

凛は声を出せず、Pの胸に押し付けた顔を上下に動かした。

「昨夜のライブをストリーミングで観ててな、居ても立ってもいられなくて夜明けと同時に飛んできたんだ」

666: 2013/09/27(金) 22:19:58.66 ID:KWDGeRH/o
CGプロは、遠方で会場へ来られない人のため、ファンクラブ上級会員向けにコンサート映像のストリーミング配信サービスを行なっている。

Pは、向こうでそれを観ていたらしい。

ライブが終わったのは夜の八時過ぎだから、ロサンゼルスは当日未明の三時だ。

そのまま夜明けを待って、朝の便で飛び発ち、サンフランシスコ経由で入国、ついさっき着いたと云う。

「ひとまず、どこかゆっくりできる処へ行くか。鈷がこのままじゃ仕事できない」

鈷は、先ほどから、意識してこちらを見ないようにしていた。

勿論、その状態では仕事に力は入るまい。

667: 2013/09/27(金) 22:22:46.27 ID:KWDGeRH/o
「今日は他のアイドルいないから、ダンスルームでも開けるか? 休憩室でもいいし」

「私……屋上が……いい……」

凛が、嗚咽に声を詰まらせながら、希望を述べる。

屋上は、普段は開放されない場所だ。確実に邪魔が来ないことを、彼女は知っていた。

「寒いだろうけど大丈夫か?」

身体を心配するPに、凛はゆっくり頷いた。

「そうか。ちひろさんに鍵を貰ってくる。階段で待っててくれ」

Pは凛へハンカチを差し出し、衣紋掛けに吊るされたロングコートを持って第一課を出て行った。

668: 2013/09/27(金) 22:24:29.92 ID:KWDGeRH/o

屋上へ出ると、夜の帳が下りて、明るい星が、次々と瞬き始めている。

気温は、日没からしばらく経ったせいか、だいぶ下がっていた。

その上、設置されたエアコンの熱交換器から排出される冷気が相俟って、相当寒く感じる。

「こりゃ、かなり冷えてるけどいいのか?」

念のため再度訊ねると、凛は、ぐす、と鼻を鳴らしながら、Pが着ている外套の中へ正面から潜り込んで、

「大丈夫。むしろ、その方が堂々とくっつけるからいい」

真正直な返答を寄越した。

屋上のスペースと、置かれた室外機の間へ設けられた金網に、Pは背中を預ける。

カシャン、と響く乾いた音は、すぐに機械の動作音と混じり、消えて行った。

669: 2013/09/27(金) 22:26:00.71 ID:KWDGeRH/o
「お前、最終日のライブのプログラムに大分口を挟んだらしいな?」

「……うん、表現したいことが、あったから」

Pは軽く、それでいて少し長めに息をついた。

「……やっぱり、あれは意図的だったか」

凛は何も云わずに頷く。

「俺がこないだトライアドプリムスに書いた曲、その真意に気付かないお前じゃないだろう?
 そんな凛が、今度は作詞を手掛けた曲であんな、“いつまでも想う”なんてことをこっちに伝えてきて。
 ……更には春香ちゃんとのセッションではあの露骨なラインナップだ」

しばらく戻ってくるつもりはなかったんだが、と嘆息し、

「あそこまでやられちゃ、飛んで来ざるを得ない」

降参、と云った様子で両手を挙げると、凛は、先ほどと同様、懐に顔を押しつけ、埋めた。

670: 2013/09/27(金) 22:27:28.55 ID:KWDGeRH/o
そして、右手の拳で、Pの鎖骨の辺りを強めに何度も叩く。

Pは何も云わず、彼女の身体が冷えないよう、自らのコートで深く包み込み、静かに、叩かれ続けた。

やがて、叩く力は段々と弱くなり、再び嗚咽が聞こえてくる。

細かく震える身体は、むせび泣きのせいか、はたまた寒さのせいか。

Pは、外套の中で、凛の背中を、楕円を描くようにゆっくりさすった。

シャツの胸に拡がる、濡れた感覚。

これは、女の子を泣かせてしまった、不名誉な痕と云えるだろう。

凛は、不規則にしゃっくりを上げる。

671: 2013/09/27(金) 22:29:52.75 ID:KWDGeRH/o

「なあ凛、顔を上げてくれないか。このままじゃ、話をし難い」

しばしの後、Pはゆっくりと、凛の頭上から語り掛けた。

「やだ」

「どうして」

「……メイクがぐしゃぐしゃだもん」

この辺はやはり乙女の感覚だろうか。

男としてはあまり気にしないのだが、女の子にとっては一大事なのかも知れない。

「今更そんなことを気にする間柄でもないだろ。既に俺はお前のすっぴんさえ見慣れてる」

672: 2013/09/27(金) 22:31:29.89 ID:KWDGeRH/o
凛は、ゆっくりと、泪の跡が残ったままの顔を挙げて、誹る。

「……すっぴんとメイク崩れは違うんだよ。……ばか」

「……すまんな」

「それは何に対しての言葉? 今デリカシーのない発言をしたこと?」

少し険しい顔をして、凛は問うた。

「諸々全て、……だな」

「そんな、今謝るくらいなら、どうして何も云わずに居なくなったの? 当初私がどんな状態になったか、知ってるんでしょ」

「……順を追って、話そうか」

673: 2013/09/27(金) 22:33:43.05 ID:KWDGeRH/o
Pは瞼を閉じ、ゆっくりと、深く呼吸してから続けた。

「……お前が俺のことを悪く思っていないというのは、比較的早い段階から気づいていたよ」

凛は、驚きに目を見開いた。

これまで何度も、誘惑する仕草をしても全く気に留める様子なんてなかったのに。

「鈍感なフリをするのは、それはそれで結構大変なんだぞ――」

凛の表情から、その心の中を読み取ったPは、少しだけ、責めるような口調と顔つきで、凛の目を覗き込んだ。


 ――判り切っているだろうが、お前はアイドルで俺はプロデューサー。そんな二人が恋に落ちるなどあってはならないことなんだ。

 それでもはっきり断らず、鈍いフリをしたり有耶無耶な反応に留めたりしていたのは、

 お前の、俺の期待に応えたい、または俺に褒められたいと云う感情をモチベーションとして利用する、そんな下衆い計算があったからだ――

674: 2013/09/27(金) 22:35:32.87 ID:KWDGeRH/o

凛は、まだ、何も云わずに、じっと、Pの言葉を聞いている。


 ――だが、その作戦は、あの日、お前が直接俺に伝えてきたことで破綻した。

 間接的な表現ならまだしも、はっきりと直接云われては、もうとぼけた振りは出来なくなった。

 だが、きっぱりと拒絶すればお前のモチベーションに少なからず影響が出るだろう。

 もうトップアイドルは目の前、掴めそうな場所にあるというのに。

 だから断れなかった。

 なによりも、俺だって本心では、お前を離したくなかった。

 ……プロデューサー失格だな――

675: 2013/09/27(金) 22:36:41.04 ID:KWDGeRH/o

ここで一度、Pが深く息を吸って吐き、続けた。


 ――だがそんなことは赦されない。

 俺個人の勝手な欲望で、国民の宝を台無しにするなど赦されない。

 お前の想いに、イエスともノーとも云えなかった。

 ……運命の選択ができなかった。

 お前の想いを受けても間違いだし、拒んでも正解には遠い。

 理想の解が存在しない問題――

676: 2013/09/27(金) 22:37:41.62 ID:KWDGeRH/o

凛は、Pも、自分と同種のヂレンマを抱えていたのだと知った。

苦しんでいたのは、自分だけではなかったのだ。


 ――俺は結局、その問題から逃げたんだよ。

 俺は、意志も情も薄弱な人間だった。

 逃避して、ほとぼりが冷めるまで待つことしかできなかった――


Pは、ここで一度言葉を止めた。

677: 2013/09/27(金) 22:39:53.88 ID:KWDGeRH/o
そして逡巡してから、眼を瞑り、意を決したように続ける。

「――男として答えれば、お前を離したくない。お前が欲しい。
 ……だがプロデューサーとして答えれば、お前に手を出すわけにはいかない」

Pの真意を知った凛は、あの誕生日のときと同じように、感情を吐露した。

「今、私を欲しいと云ってくれて、どれだけ天へ昇る気持ちになったか! 私は、Pさんが欲しいの! プロデューサーでもない、貴方が欲しいの!」

「まだだ。まだ駄目だ」

Pは、凛の唇に指を置いて制止した。

「凛には云ってしまうが、俺は今、事務所の戦略上、外せないことをやっている。
 向こうで修行して、技術をつけたらまたCGプロへ戻ってくる。今度はチーフプロデューサーとしてな。
 研修ではなく移籍と云う体裁を採っているのは、ライバルや利害関係者にぎりぎりまで勘付かれないようにするためだ」

本来であれば、修行を終えて戻ってくるまで云うはずのなかった言葉。

678: 2013/09/27(金) 22:41:23.02 ID:KWDGeRH/o
しかし、二人三脚で歩んできた戦友――いや、愛しい女性―ひと―を前にして、隠し通せるほど冷酷には成り切れなかったのだ。

「一つだけ確かに云えることは、俺だってお前を好いている。好いているからこそ、今直ぐにはどうこうできない。それはわかって欲しい」

「じゃあ、私がアメリカへ行く。日本に居るのが都合悪いなら、行き先はどこでもいい、この国から出る」

凛が、眼力鋭くとんでもないことを宣言した。

その強い言葉に、Pは肝を冷やす。

「何を云っている! 折角ここまで重ねてきた軌跡を自ら棄てる気か!?」

「誤解のないように云っておくね。私、決めたの。トップアイドルには勿論なるよ」

Pの胸に両手を置いて、真面目な表情で、顔をあおり見る。

679: 2013/09/27(金) 22:42:59.73 ID:KWDGeRH/o
「年明けか、再来年か、それとも更にその次の年か。
 いつになるかは判らないけど、必ずトップアイドルになって、あなたの選球眼が正しかったんだと証明した後、胸を張って、あなたへ逢いに行く。
 私がトップアイドルになる前にあなたが日本へ戻ってくるなら、一緒に頂へ登り詰めて、そしてスパッと辞める」

凛の真っ直ぐな瞳に、その意思の強さを感じ取ったPは、ついに折れた。

「……俺は明日、社長へこのことを報告しにいく。
 もはやこの問題は、俺たち二人の間だけで済む性質の物じゃない」

Pは、凛の頬を両手で包んで、硬い声音で告げた。

「お前には火の粉が飛んで行かないように頼んでくるから、もし俺が腹を切ることになったら、介錯してくれ」

凛は首を振った。

「介錯なんてしないよ。
 ……私も、一緒に……征く」

680: 2013/09/27(金) 22:44:45.43 ID:KWDGeRH/o

――

「突然帰国してきたと思えば、穏やかじゃない雰囲気だねえ」

翌日、社長室。

Pは、凛を連れて、報告に訪れていた。

ライブの成功を受けて二人とも喜んでいるものと思いきや、現れた顔が硬く締まっているのを見て発した社長の言葉である。

執務机から立ち上がり、応接スペースへ歩いて来ながら問う。

「こんな急に飛んできて、向こうの仕事は大丈夫なのかね」

「キリスト圏は今、クリスマス休暇中ですので」

答えるPに、そう云えばそうだったね、と社長は自らの後頭部を叩いた。

681: 2013/09/27(金) 22:46:09.49 ID:KWDGeRH/o
ソファへ促され座ったPは、身を乗り出して、緊張した面持ちで、上半身を社長へ向けた。

そして、言葉を選びながら声を発する。

「単刀直入に申し上げます。昨夜、私と凛は、互いに、想いを伝え合ってしまいました」

深く、ソファに腰を沈めた社長は、眉をぴくりと僅かに上げた。

「私の、プロデューサーとして自覚欠如の結果であり、弁解の余地はありません。
 私への処分はどんなものでも甘んじてお受けします。ですが、凛は、凛だけは咎めないよう、お願いします」

社長の言葉が出る前に全てを云い切ろうと、Pは、ゆっくりながらも、声を途切れさせずに述べた。

そして、頭を下げる。

「ちょっと、プロデューサー、自覚欠如の誹りを受けるのは私だよ。プロデューサーは私のせいで苦しんだんだから」

凛はPの二の腕部分を持って、軽く揺すった。

682: 2013/09/27(金) 22:47:21.91 ID:KWDGeRH/o
社長は腕を組んでPに問う。

「それは、P君も渋谷君も、お互いに好き合っていて、その思いの丈を、どちらも吐露した……と云うことでよいかね?」

「はい」

「P君は渋谷君を想っており、そして渋谷君もP君を恋い慕っていて、その気持ちを、二人とも明確に認識し合った、と?」

「はい」

Pは頭を下げたまま。

社長は、眼を瞑って動かない。

683: 2013/09/27(金) 22:49:14.26 ID:KWDGeRH/o
凛が不安になって、戸惑った表情でPと社長の顔を交互に見ていると、社長はゆっくりと目を開けた。

「……予想していたよりも、大分時間をかけたねと云うのが正直な感想かな」

「なっ!?」

Pが驚いて顔を挙げる。凛も同様に、口を開けて固まっている。

「君たちが惹かれ合っているのは、薄々勘付いてはいたのだよ。勿論、確信ではなかったがね。
 渋谷君が不調になったのはP君が発った直後だものな、一種判りやすい反応ではあった」

凛は申し訳なさに縮こまった。

684: 2013/09/27(金) 22:50:27.49 ID:KWDGeRH/o
「まさか、既にお気づきとは……」

Pが嘆息すると、社長もまたソファの背もたれに体重を預け、

「曲がりなりにも芸能事務所の社長兼スカウトマンなのだよ? 女の子を捉える眼はそれなりに鍛えられていると自負しているのだが」

恐れ入りました、とPは顔を伏せる。

「で、想いを確認し合って、既に昨夜、肌は重ねたのかね?」

その言葉の中にある社長の意図を汲み取って、凛は赤面した。

――そ、それって、つまり……アレ、だよね……?

685: 2013/09/27(金) 22:51:53.59 ID:KWDGeRH/o
初心な反応を見せる凛とは反対に、Pはきっぱりとした態度で云う。

「いえ、想いは伝えましたが、まだ男女の仲ではありません。凛の生身に触れることは何もしておりません。口づけさえも、です」

社長は眉を上げて、ほう、と呟き、

「ふむ、その辺りはきちんとしているようだね」

「曲がりなりにもアイドルのプロデューサーですので……その最終ラインのけじめはきっちり守っているつもりです」

Pは少し困った顔をして答えた。

「はっはっは、すまんすまん、これはこちらが一本取られた」

下腹部の前で手を組んで、社長が笑った。

686: 2013/09/27(金) 22:53:32.03 ID:KWDGeRH/o
「正直に云ってしまえばね、この業界、こんなことはザラにある。
 君たちが既に性交渉を済ませていたとしても何ら驚きのない世界なのだよ。――ああすまん、これは言葉の綾だ。
 決して君たちを見くびっているわけではない」

社長は、右手を軽く挙げ、衝撃的な言葉を続ける。

「破天荒で有名な日高舞は、動機はどうあれ普通の結婚をして引退したが……
 更にその昔、ファンクラブ結成直後と云うタイミングで、担当プロデューサーと電撃結婚、引退したアイドルがいたくらいだからね」

前例があることに凛は驚いた。

アイドルとプロデューサーが結ばれることはない、と、盲目的に刷り込まれていたからだ。

687: 2013/09/27(金) 22:55:31.30 ID:KWDGeRH/o
「そ、そんなことをして無事で済んだんですか……?」

口に両手を当てて、凛が訊ねた。

「あー、まぁ当時は色々あったね。脅迫やら何やら。
 しかし、その者はまだ業界に残って、アイドルのプロデュースをしているよ。
 ……まあ彼の場合は例外中の例外と云えるかも知れんが」

さらに凛は驚いた。例外とは云え、そんなことが実際に赦されているとは。

「……プロデューサー、知ってた?」

横目で問い掛けてきた凛に、Pは軽く肩を竦める。

688: 2013/09/27(金) 22:56:53.54 ID:KWDGeRH/o
「話は聞いたことがある、と云う程度だな」

「無理もなかろう。今からおよそ25年以上も前の話だ」

社長は遠い目をした。

「勿論、アイドルとは夢を振りまく存在であるから、建前として潔癖さを求められるのは当然だ。
 だが、渋谷君、君を含め、アイドルたちは機械ではない。人間なのだ。だから誰かを好きになることがあるのもまた当然だ」

社長は前に屈み、声のトーンを少し下げる。

「こんなことを云っては怒られるだろうが、表に漏れさえしなければ、アイドルが誰かと付き合うのを禁じることなど無用だと思っている。
 無論、情報の封じ込めが難しいからこそ、一律に禁止と云うのが通例になっているわけだがね」

689: 2013/09/27(金) 22:58:12.53 ID:KWDGeRH/o
社長は姿勢を戻し、「で、君たちはどうするつもりなのかね?」と問うた。

Pが佇まいを正して答える。

「私は現在、社の戦略上、重要なことを任されている認識を強く持っています。
 凛と結ばれるために業界を去る、と云う選択肢は有り得ません。
 現段階は、二人が結ばれる時期ではないと思いますし、凛もそれをきちんと認識しています」

凛は黙って、Pの言葉に首肯を添えた。

「君たちはストイックだね」

社長は感歎の溜め息をつく。

690: 2013/09/27(金) 22:59:36.33 ID:KWDGeRH/o
「だが、それでは渋谷君がアイドルである以上、結ばれることはないのではないかね? P君のその意気には社長として感謝しているが」

凛が、社長へ向けて口を開く。

「……私が、去ります」

強い意思を宿して、そう答えた。

「私の活動を応援してくれる方々に、今後も応えていきたいと云う想いはあります。
 でも天秤に掛けると、どうしてもPさんを選んでしまう……ですので、トップアイドルの地位まで登り詰め、
 ファンの期待への回答を果たしたら引退し、Pさんの許へ向かおうと考えています」

「まだ世に出て三年も経っていないのに、勿体無い話だね」

落胆の声に、凛は目を伏せた。

「申し訳ありません」

691: 2013/09/27(金) 23:00:51.08 ID:KWDGeRH/o
「正直、君の才能は、『トップアイドルになったから』と引退させるには惜しいと思っている」

社長の意見に、顔を挙げて、泣きそうな表情で問う。

「そっ、それは、私がPさんに添い遂げることを許可しない……と云う意味でしょうか」

凛の問い掛けに答えず、社長は話を変えた。

「渋谷君、いま君は『P君の許へ向かう』と云ったが、アメリカへ飛ぶと云うことかね?」

「……いえ、必ずしもそうではありません。
 IUにてトップアイドルを獲ると云う目標達成が早ければアメリカへ逢いに飛びますし、
 時間が掛かってPさんが日本へ戻ってきていれば、一緒に頂へ登ってから、引退、と」

社長は、その言葉を受けて何やら考え込んでいる。

692: 2013/09/27(金) 23:02:31.52 ID:KWDGeRH/o
「渋谷君、私としては、先ほども云ったように、君の才能は引退させるには惜しいと思っている。
 だがトップアイドルになるという目標を達成したなら、その後どんな道を選ぼうが、勿論それは君の自由だ。
 こちらに不利益が発生するのでない限り、君に、身の振り方まで指示する資格は、我々にはないからね」

「で、では」と口をつく凛を制し、しかしだ、と社長は続ける。

「君自身、今後もファンに応えていきたいと思っているのだろう?」

「そ、それは……赦されるのであればそうしたいですが……」

言質を取った、とばかりに笑む社長。

「芸能活動を維持しつつ、P君と結ばれる。その両方を目指すのでは駄目なのかね?」

693: 2013/09/27(金) 23:03:37.54 ID:KWDGeRH/o
「……え?」

Pが思わず聞き返した。凛は、自分の理想に近い言葉を社長から得られたことに、息を呑んでいる。

社長はそれらを意に介さず、言い放つ。

「渋谷君。IUでトップを獲りたまえ。――そして、アメリカに飛ぶのだ。さっきの君の言葉でティンと来た」

Pも凛も、社長の真意を理解できず、ぽかんとしている。

「そ、それはつまり、どう云うことでしょう?」

Pがおずおずと訊ねた。

694: 2013/09/27(金) 23:05:01.78 ID:KWDGeRH/o
「君らが海の向こうで何をしようが、日本にいる者たちはどうにも手出しできない、と云うことだよ。
 アメリカで、結ばれると良い」

Pと凛は驚きの顔のまま、二人、見詰め合った。

社長が、仲を認めてくれたのだと理解するのに、少々の時間を要した。

徐々に喜びの表情へと変える二人に、社長は「その上で、これから云うことは命令ではない。あくまで提案だ」と付け加える。

そして肘を腿の上に置き、顔を少し近づけた。

「渋谷君、将来日本で芸能活動を続けられるように、アメリカのショービズ市場で、結果を出したまえ。
 そうすれば、君が既に男性と結ばれていようとも、逆輸入と云う形で堂々と迎えることが出来る。
 P君も、それまで一緒に向こうで技術を磨き続けたまえ」

社会には、理由付け・大義名分と云うものが必要とはいえ――なんと大胆な、二兎を追い、その両方を得る作戦。

仮に、アメリカで結果を残せなくとも、Pと結ばれることで一兎は得られる。

695: 2013/09/27(金) 23:06:33.20 ID:KWDGeRH/o
社長なりに、凛の希望を叶えたいと慮った結果だろう。

彼にとって、凛は事務所躍進の立役者であり、更には設立当時からの“愛娘”なのである。

「勿論、日本に復帰する気がないのなら、P君のハリウッド研修が終わった時点で人知れず戻ってくればよい」

私としてはその選択はあまりして欲しくないがね、と笑いながら。

どうかな? との問いに、凛は力強く答える。

「やります。私、……実は欲張りなんです」

そう云って大きく笑顔を拡げた。

696: 2013/09/27(金) 23:08:36.43 ID:KWDGeRH/o

――

「えっ? アメリカ!?」

社長室を出た後、そのままニュージェネレーションとトライアドプリムスの面々が集められ、報告された。

「まだ、“もしかしたら”の話だけどね。振り回す結果になるかも知れない。申し訳ないと思う」

凛は頭を下げ、ことの経緯をかいつまんで説明した。

「……つまり、IUで優勝できたら、アメリカに挑戦して、何年か後に、また戻ってくるってこと?」

卯月が代表して凛に問うた。

「の、予定。失敗したら、たぶん私はそのまま表舞台から消えるだろうけど……」

697: 2013/09/27(金) 23:10:17.48 ID:KWDGeRH/o
「ちょっと凛、不吉なこと云わないでよ!」

加蓮が血相を変えて詰め寄った。

「それにしてもアメリカかぁ。折角ユニットを組んで、滑り出しも順調なのにな」

少しだけ不満そうに口を尖らせた奈緒に、

「ごめん、それは……」

顔を伏せる凛。

「ちょ、ちょっと奈緒ちゃん」

卯月が奈緒を制止しようとするが、

「ううん、卯月、我が儘な私が悪いんだ。
 それに、入院しているとき、漠然と身の振り方を考え始めた時点で、皆には伝えておくべきだった。
 どの面下げて云えばいいのか、って先延ばしにしてた私が悪い」

凛はそう呟いて、微かに首を横へ振った。

698: 2013/09/27(金) 23:12:04.07 ID:KWDGeRH/o
奈緒は、目を瞑ってこめかみを掻いている。

「まぁ、あたしだって本気で云っちゃいないし、困らせるのは本意じゃないんだよ。感情に任せて喋っちまって済まなかった。
 そりゃ、いつまでも凛に、おんぶに抱っこの状態じゃ駄目だってことは、判ってるよ」

奈緒の言葉に、加蓮は大きく頷き、

「そ。アタシたちはもうCランクなんだから、独り立ちしても大丈夫なようにしておかないと。
 凛に引っ張られたとは云え、EからCに飛び級したアイドルは稀らしいよ?」

と、胸を張った。

699: 2013/09/27(金) 23:13:33.31 ID:KWDGeRH/o
未央が気丈に振舞い、

「私は、しぶりんがPさんとそうやって決めたなら、文句は云わないよ。
 アメリカへ行っている間、留守中のニュージェネレーションは、私にまっかせなさい!」

「凛ちゃんがPさんと決めたこと、私、応援してるからね」

卯月も微笑ましそうに笑って云った。

二人とも『Pさん』の部分をやけに強調したように聞こえたけど、気にしない。

「そうだね、トライアドプリムスだって、アタシたちがきちんと守っていくからさ。ね、奈緒?」

「おう、勿論だ」

加蓮と奈緒が拳を握って、小さなガッツポーズ。

――私は、本当に、いい仲間と巡り会えた。

707: 2013/09/28(土) 22:23:18.74 ID:atFf61f2o


・・・・・・・・・・・・


2014年 三月某日



≪本日、気象状況に恵まれ、左側には、数百キロも離れているサンフランシスコの街並を、微かにご覧頂けます――≫


成田を飛び立っておよそ九時間、機内のモニタを見ると、現在時刻、朝の十時を少し過ぎた頃。

出発したのは“今日の夕方五時”。

まるで過去へタイムスリップしたかのような、この日付変更線の感覚は面白い。

JAL62便、ボーイング・トリプルセブンの小窓から、北米大陸西海岸の、長く連なる海岸線が見える。

黒い海と、乾燥した大地、肥沃な森林、白い高山が、メリハリのあるコントラストを描いている。

上空から俯瞰する大地のあらゆる場所で、ここからは見えないながらも、人の営みと云うものがある。

この大陸で――あの人が待っている。

708: 2013/09/28(土) 22:29:31.73 ID:atFf61f2o

――

年明け早々の22日に開催されたIU。

男性部門は、予想通りと云うべきか、ジュピターが並み居る挑戦者を悉く蹴散らして、波乱なく終わった。

しかし女性部門は事務所の代理戦争と化し、史上稀に見る激戦となった。

序盤戦で876プロや東豪寺プロなどに所属するアイドルが散っていく中、

三浦あずさや双海姉妹、おにぎりを事前に食えなかった美希を次々と打ち破る新星が、快進撃を見せていた。

しかし倒しても倒しても立ちはだかる鉄壁の765布陣。

そこに単騎挑むCGプロ、渋谷凛の姿は、もはや、悲壮とも感じられるオーラがあった。

強者へ果敢に立ち向かう様が共感を得、その人気は、ネットそして双方向テレビ放送の投票で、本命視の天海春香と競るほど。

709: 2013/09/28(土) 22:31:58.14 ID:atFf61f2o

決勝で相見えた両者は、先輩後輩であり、良き友人であり、そしてライバルであった。

「凛ちゃん、ごめんね、私は負けないよ」 春香が笑顔で云い、

「春香さん、申し訳ないですが、勝たせて貰います」 凛も笑む。

710: 2013/09/28(土) 22:36:51.04 ID:atFf61f2o

力の拮抗する者がぶつかり合ったとき、勝敗を左右するもの――

それは、ベクトルの方向である。

711: 2013/09/28(土) 22:37:20.44 ID:atFf61f2o
片や、これまでの実績を強調し、守りに入ってしまう者。

片や、新しい偶像の姿を提示し、攻めの姿勢を見せる者。

時代が求めたのは、後者。

蓋を開ければ、審査員の批評と一般投票を併せた結果は、雪崩を打ったかの如く、凛の圧勝だった。

王者がその座を後進に譲った瞬間、それは、凛が正真正銘のシンデレラガールとなった“瞬間”。

……そして、一般市民の与り知らぬところで、凛のアメリカ行きが本決定した“瞬間”であった。

712: 2013/09/28(土) 22:39:52.30 ID:atFf61f2o

IUの翌日、Pが一時帰国し、社長と共に凛の実家を訪ね、報告した。

預かった大切な子を無事頂点へ立たせられたこと。

高校卒業を機にアメリカへ挑戦させること、――将来は、凛と一緒になりたいと考えていること。

勿論、凛の両親は、大層驚いた。

アメリカ挑戦のビジョンと、何よりも、添い遂げむとするPと娘の意思に。

しかし、何の変哲もない普通の高校生だった我が子を日本のトップアイドルにまで押し上げた者たちを、信頼してくれた。

お前は、社会を三年経験した、もう充分な大人だ。自分の信じる道を、信じる人たちと共に歩め――

Pの隣に座る娘へ、父親はこう、言葉を掛け、

その凛は、頬を濡らしながら、ゆっくりと、万感胸に、深く頭を下げた。

713: 2013/09/28(土) 22:45:49.96 ID:atFf61f2o

――

高校の卒業式から一箇月が経ち、出国を約半月後に控えた日、情報が一部解禁された。

『渋谷凛、俄の無期限活動休止』

『シンデレラ、激務で療養の噂』

『裏に男の影、引退への布石?』

『アナリスト、米国進出を予測』――

714: 2013/09/28(土) 22:46:47.81 ID:atFf61f2o
トップの座を掴んだばかりのアイドルが、突然、活動を休止すると云う異例の電撃発表。

そのニュースは瞬く間に拡がり、お茶の間の話題はそれで持ち切りだ。

芸能誌、スポーツ紙はおろか、一般紙にまで特集が組まれるほどであった。

明確な理由までは公開しなかったので、憶測が憶測を呼び、様々な飛ばし記事が行き交った。

正解に近いものもあれば、てんで的外れなものもある。

まさに、情報の錯綜と云えた。

715: 2013/09/28(土) 22:48:43.48 ID:atFf61f2o

「うーん、凛ちゃんの件、大騒ぎになってるよねー。予想通りだけど」

事務所の休憩室で新聞や雑誌を読んでいるトライアドプリムスの正面に、局での収録から帰ってきた卯月が座った。

凛が紙面から顔を挙げると、卯月の顔には、やれやれ、と少しだけ苦笑いの色が浮かんでいる。

「……やっぱり、マスコミにしつこく訊かれた?」

「芸能記者はシャットアウトするよう手配されてたからそれほどでもなかったんだけど、局の制作関係者たちからは、大分ね。
 簡単に見越せることだったから、模範解答を準備してそれで押し通したよ」

卯月はそう云って、あはは、と軽く笑んだ。

716: 2013/09/28(土) 22:50:30.12 ID:atFf61f2o
凛と同じユニットを構成するメンバーに、強引な取材が入るのは充分に予期できた。

勿論、関係の深いアイドルは全て車で送迎したりと、充分な対策を練ってある。

しかし現場と関わる以上、根掘り葉掘り訊かれるのは避けられないことだった。

そこへ、同じく仕事から戻って来た未央が到着し、つと嘆息した。

「はー、参った参った」

「未央ちゃん、お疲れだね」

労う卯月に、くたびれた顔をした未央が片目を瞑って答える。

「今日はグラビアだったんだけどさ~、撮影スタッフが野次馬根性で
『ねェねェ、ユニットメンバーなんだもん、知ってるんでしょ? こっそり教えてよ』
 とか色々尋ねてきて。知ってても云わないっての~! もー振り切るの大変だったよー」

スタッフの台詞を妙なダミ声で真似て、そのまま、どかっ、とカウチに飛び込んだ。

717: 2013/09/28(土) 22:53:22.96 ID:atFf61f2o
「ごめんね、煩わしい思いをさせて」

凛は眉をハの字に下げて顔の前で合掌した。

「まあまあ、いいのいいの~! うざったいとは云っても、むしろ注目される私たちの露出が増えて美味しいよね♪」

そう云って未央は高く笑う。実に逞しい考え方だ。

隣の加蓮も、「そーそー、そう考えれば苦じゃないよね。むしろチャンス?」と同意している。

「そうだな、IUに前後して、あたしらもソロの出番を増やして手応えを掴んできたし、今は攻めの時期さ」

奈緒が、顔を綻ばせ、そして凛の目を覗いた。

718: 2013/09/28(土) 22:54:28.47 ID:atFf61f2o
「何年掛かってもいい。絶対に成功して、戻ってこいよ。そして……もう一度トライアドプリムスをやろうな」

未央が挙手してつなげる。

「勿論ニュージェネレーションもね~!」

皆の嬉しい激励に、凛は滲み掛けた泪を我慢して、力強く首を縦に振る。

「元より、そのつもりだよ」

719: 2013/09/28(土) 22:55:37.76 ID:atFf61f2o
「まあ、凛が還ってくる頃には皆がトップアイドルになっちまってて、入る隙間がないかも知れないけどな!」

奈緒が、ニッと、白い歯を見せたので、凛は口元に軽い拳を添えて笑った。

「ふふっ、そうだね、その頃には、きっと皆もアイドルの頂点に立ってるはずだよ」

卯月が、にっこり微笑みながら、大きく、何度も頷く。

「そうそう。未央ちゃんも奈緒ちゃんも加蓮ちゃんも、私だって躍進してるもんね、今!」

戦友同士が、朗らかに笑い合った。

今生の別ではない。泣くのではなく、笑顔で羽ばたこう。

720: 2013/09/28(土) 22:57:22.34 ID:atFf61f2o

――


≪間もなく着陸態勢に入ります。座席、テーブルは元の位置にお戻しください。以後お手洗いのご利用はご遠慮ください――≫


到着を予告するアナウンスで我に返った。

腕時計を見ようと左手を挙げると、赤いモルガナイトの指輪、そして橙のインペリアルトパーズのブレスレットが目に飛び込んでくる。

耳につけた蒼いアイオライトのピアスと共に、成田で卯月たちから贈られたものだ。

『蒼、赤、橙。これは、ニュージェネレーションとトライアドプリムス、両方に共通するイメージカラーだよ』

721: 2013/09/28(土) 22:58:48.27 ID:atFf61f2o
卯月と奈緒は赤、未央と加蓮は橙、凛は蒼。

奇しくも、凛の関わったユニットは、それぞれ同じ色で構成されていた。

『一応、意味も吟味して選んだんだよ』

そう云って、皆は笑っていたっけ。飛行機から降りたら調べてみよう。

眼下にチャネル諸島が見えてくれば、間もなく接地。

微かな衝撃と、スラストリバーサによる制動は、地に降り立ったことを明確に伝えてくれた。

722: 2013/09/28(土) 23:02:09.10 ID:atFf61f2o


・・・・・・・・・・・・


ガラス張りのターミナルに、昼の日射しが降り注ぐ。

ロスの三月末は、日本で云えばもう初夏のような陽気だ。

スーツの上着が要らないと思えるほど。

ここはロサンゼルス国際空港、トム・ブラッドレー国際線ターミナル。

――そろそろかな

Pは到着便情報を確認して、独り言つ。

723: 2013/09/28(土) 23:03:27.38 ID:atFf61f2o
凛の搭乗したJAL62便は、先ほど着陸した。今は、入国審査に並んでいる頃だろうか。

IUで勝利後、社長はすぐに関連書類の作成へと取り掛かり、凛のO-1ビザは、Pの時よりも圧倒的にスムーズに取得できた。

トップアイドルと云う巨大な実績があるのだから当然か。

今日から、元トップアイドル渋谷凛の、新たなフェイズがスタートする。

まずは早速、どのような戦略で凛を売り出すのか、練り上げていこう。

Pの研修先のスタッフは精鋭揃い。どんなアイデアが出てくるか楽しみだ。

そして凛が、どのような驚きを全米へ届けてくれるのか、今から既にワクワクしている。

724: 2013/09/28(土) 23:05:13.46 ID:atFf61f2o

ふと、数十メートルほど離れた到着ゲートから、多数の人に紛れて、長く美しい黒髪の少女――否、女性が姿を現すのを視認した。

遠くから一目見て判るのは、きっとオーラを纏っているからと云う理由だけではあるまい。

それだけ惚れているのだ、彼女に。

大きな大きなスーツケースを傍らに転がす愛しい人の許へ、ゆっくりと歩き出す。

すぐに、向こうもPを認識した。

自意識過剰かも知れないが、Pだからこそ、凛はこの距離でも気付いたのだと思う。

725: 2013/09/28(土) 23:07:20.66 ID:atFf61f2o
それぞれ、小走りで駆け寄る。

お互い、少しだけ息が弾んでいる。

しっかり、十秒ほど見詰め合ったのち、

凛が、目の前の懐へ勢い良く飛び込んだ。

Pは、しっかりと受け止める。

726: 2013/09/28(土) 23:08:30.19 ID:atFf61f2o

ようこそ、アメリカへ。


そう声を掛けるPに、凛は微笑みを返す。

そして、


何も云わず、Pの首へ腕を廻し、


熱い抱擁と、深いキスを交わした。

727: 2013/09/28(土) 23:10:33.51 ID:atFf61f2o


西海岸の太陽が、唇を強く重ねて抱き合う二人に降り注ぎ、優しく、暖かく、包み込んでいる――


728: 2013/09/28(土) 23:16:17.86 ID:atFf61f2o

――――
――









729: 2013/09/28(土) 23:17:55.52 ID:atFf61f2o


・・・・・・・・・・・・
EPILOGUE


「うー……ねっむーぃ……」

春麗らかな朝八時。

未央が、だるそうな目を擦ってCGプロ事務所へ出社した。

「あー未央ちゃん、おはよー……」

玄関ホールで卯月と一緒になる。彼女もまた瞼が半分閉じ、相当に眠そうだ。

それも仕方ない話。最近、二人の睡眠時間は充分確保できても四時間程度なのだから。

今をときめくAランクアイドルの代償と云うべきか。

かつての天海春香は、長距離通勤の上、全く睡眠不足な素振りを見せていなかったのだから、どれだけ強靭な身体をしていたのか、甚だ恐ろしい。

730: 2013/09/28(土) 23:19:10.68 ID:atFf61f2o

凛がいなくなって、もう何度目の桜が咲いただろう。

CGプロは、各アイドルの活躍で、961、765に並ぶ、最大手へと躍進していた。

かつてトップアイドルとして一時代を築いた765の面々、春香や美希たちは引退し、

現在は、卯月、未央、奈緒、加蓮、蘭子などの他、765の後進がAランクを彩っている。

731: 2013/09/28(土) 23:21:35.36 ID:atFf61f2o

そんな超売れっ子の未央が第三課のソファへ身を投げると、鏷に丸めた雑誌で頭を叩かれた。

「行儀悪い振る舞いするんじゃねーって」

「やるのは事務所の中でだけだよー眠いんだから勘弁~」

間延びした声で抗弁する未央に、鏷は廊下の向こうを指差して云う。

「じゃあまだ仕事へ出るまで少し時間あるから、休憩室行ってこいよ。たぶん目が覚めるはずだ」

「ん~? なにそれ?」

「まあ行きゃ判る」

つれない鏷に未央は首を傾げながら、ゆっくりと立ち上がって休憩室を目指した。

732: 2013/09/28(土) 23:23:03.93 ID:atFf61f2o

廊下では、銅に同じことを云われたのか、第二課から卯月が出てくるところであった。

「ねぇしまむー、休憩室に何があるんだろ?」

「私も詳しくは聞かされなかったんだよね。でもなんかアイドルは、皆ほとんど休憩室へ行ってるらしいよ」

卯月が顎に指を当てながら答えた。

二人、疑問符を頭上へ浮かべながら廊下を歩く。

733: 2013/09/28(土) 23:24:28.15 ID:atFf61f2o
休憩室を覗くと、果たして、そこにはアイドルが大挙して押し寄せ、方々で何かを読んでいた。

その中に、奈緒と加蓮の姿もある。

二人とも、卯月や未央と同じく、睡眠時間があまり取れていないはずだが、食い入るように本を見ている。

「奈緒ちゃん加蓮ちゃんおはよー。それ、なに?」

「ブルボードだよ。あっちのテーブルにある」

卯月の問いに、奈緒は紙面から目を離さず、右手奥のテーブルを指差した。

「え、ブルボードって、あの?」

未央が驚きの声を上げると、加蓮が、声を出さず頷く。

734: 2013/09/28(土) 23:26:37.83 ID:atFf61f2o
アメリカで最も権威ある音楽業界チャート、ブルボード。

そのブルボード誌が、テーブルに沢山置かれていた。

訊けば、Pが大量に送ってきたのだと、第一課のアイドルが云う。

一目見ただけで判る、明らかに日本のものではないそれ。

アメリカの雑誌特有の匂い。

日本の書籍とは異なるデザインセンスや、開く方向。

735: 2013/09/28(土) 23:27:42.21 ID:atFf61f2o

――その表紙に、凛が載っていた。

Special Features : RIN - the entertaining giant from the Far East. の見出しと共に。

736: 2013/09/28(土) 23:28:46.82 ID:atFf61f2o

2014年に西海岸へ上陸し、ロサンゼルスを拠点にアメリカのショービズ界に風穴を開けた新人、渋谷凛。

無謀とも云える渡米を行ない、充分な後ろ盾もない状態にも拘わらず、地道に芽を伸ばし、
ついにはAmerican Top 40の上位を賑わせるまでになった、かつての日本のトップアイドルにフォーカスを当てた記事だ。

当然全て英語なので、未央は細かい部分まで正確には理解できないが、貪るように読んでいく。


――ただの普通の高校生だったこと。

――大きく迷い、惑ったこと。

――日本でトップアイドルに駆け上がったこと。

これまでの軌跡などが、インタビューを交えて記録されている。

737: 2013/09/28(土) 23:34:00.44 ID:atFf61f2o

日本でアイドルをしていた――それだけでは、アメリカじゃ、やっていけない。

アメリカで成功できた理由は、一に努力二に努力、三四に努力、五に才能。そして、人々の支え。

日本とアメリカの習慣の違いに戸惑ったことなどにも触れられ、

それら中身は一見重いが、インタビュアーとの軽妙なやり取りが印象的だ。


ハリウッドやシリコンバレーと云った、最先端へ常に触れられる環境だからこそ湧くインスピレーションや、

西海岸特有の制作環境の心地よさ、そして何より、愛する人が傍で導いていること。

それらが自らのモチベーションを高めてくれる、と語っている。

738: 2013/09/28(土) 23:35:27.62 ID:atFf61f2o

聞き手は、今後の展望は? と訊ねるが、

凛は、未来のことはわからないし、わかってても秘密、と、はぐらかしたようだ。


未央たちにとって、それは今最も知りたい情報の一つであった。

事実、CGプロの人間は誰も、凛とPが今後どうなるのか、聞かされていないのだから。

唯一それを知っている社長は、未だ誰にも話さない。

739: 2013/09/28(土) 23:37:23.13 ID:atFf61f2o

お預けを喰らった犬のように残念がりながら、未央はページを捲った。



そして、記事の最後には。

――『貴女の信念とは何か?』

740: 2013/09/28(土) 23:38:53.33 ID:atFf61f2o






「I'll never say ... NEVER」  私は――負けない。






747: 2013/09/29(日) 23:24:11.63 ID:5W8IVjQro





====================





748: 2013/09/29(日) 23:25:38.87 ID:5W8IVjQro



PERSONAL DATA

□□ 凛 RIN (UNDEFINED)

AGE
 ――24 years old
BIRTHDAY
 ――10 Aug.
HEIGHT
 ――166cm
WEIGHT
 ――46kg
VITAL STATISTICS
 ――85-58-84


IDOL RANK
 ――S:extreme idol



749: 2013/09/29(日) 23:27:35.39 ID:5W8IVjQro
――彼女は、落ち着いた美声と佇まいを持っていた。

――彼女は、類稀なる美貌とオーラを持っていた。

――彼女は、すらりと伸びた脚、絹のように輝く長い黒髪を持っていた。

――彼女は、女としての武器が特定部分に偏っていない、バランスの良いプロポーションを持っていた。

――彼女は、輝く世界に魔法をかける素質と、努力の才能を持っていた。


彼女は――まさにトップアイドル、否、アイドルを超えた存在となる運命を背負って生を授けられた人間だった。

750: 2013/09/29(日) 23:29:22.64 ID:5W8IVjQro



・・・・・・・・・・・・


2019年 初秋


ここは神宮外苑、新国立競技場 ――オリンピック・スタジアム。


つい先日竣工したばかりの、我が国が誇る最新最大のスタジアムだ。

開演前にも拘わらず、会場全体に歓声が響き、

八万人のキャパシティを、観客と、蒼いサイリウムが埋め尽くしている。

751: 2013/09/29(日) 23:31:04.59 ID:5W8IVjQro

およそ五年前、日本アイドル界頂点の座を掻っ攫い、
そしてそのまま突如アメリカへと羽ばたいて行ったトップアイドルが、再びこの地を踏んだ。


スタジアムのゲートに華々しく踊る文字。


 ――渋谷凛 2019 凱旋公演――



「もう姓は変わってるのに、渋谷凛って呼ばれるの、なんかヘンな感じだね……」

「ここ数年、向こうでは 『RIN』だけで通してたもんな。
 でも、ファンにとっては、苗字が変わっても、アイドルからアーティストに変わっても、
 お前は永遠に渋谷凛であり、『しぶりん』なんだよ」

「そうだね。本当はあなたの苗字で呼んで貰いたいけど……まぁ、旧姓を一種の芸名だと思うしかなさそう。ふふっ」

752: 2013/09/29(日) 23:32:41.79 ID:5W8IVjQro
24歳になった元トップアイドルは、舞台袖で開演時間を待っている。

社長との約束通り、海の向こう、世界最大の芸能市場で結果を残して、堂々と胸を張って帰って来られた。

再び日本で、今度は、アイドルから更に一歩進んだエンターテインメントアーティストとして活動を復帰させる。

その足掛かりが今回の凱旋公演だ。


八万席もの余裕があるにも拘わらず、入場券は即時完売、超プレミアがつくプラチナチケットとなった。

その話を聞かされたときの凛は、ほっと胸を撫で下ろしていたが、プロジェクトに関わる者たち、
特に執行部のPやCGプロ社長は、当然の結果だねと驚くことはなかった。

753: 2013/09/29(日) 23:34:19.48 ID:5W8IVjQro
「みんな、まだ、私のこと憶えててくれたんだね」

「そりゃそうだろう。アメリカでの活躍ぶりは海を越えて伝えられていたし、
 それに、これほどセンセーショナルな娘を忘れることはないって」

トップになったと思ったらいきなり姿を消しちまうなんて日高舞以来だからな、と笑いをこらえて話すPを、凛はぽかぽかと叩いた。

「もう! それはあなたのせいでしょ!」

「ははは、すまんすまん勘弁してくれ」

Pは苦笑しながら軽く降参の姿勢を取った。

「そんなお前が日高舞と違うのは、引退したのではなく、活動の場を変えたと云うこと。
 そして、再び舞い戻って、もう一度、更に進化した姿を披露できると云うことだな」

754: 2013/09/29(日) 23:35:45.92 ID:5W8IVjQro
ゆっくりと腕を組んで告げる。

――お前はもう、日高舞を超えたと云っていい――


凛は目を閉じて胸に右手の拳を当てた。

「私が……日高舞を……」

「そう、そしてこれからは、この古巣のCGプロを拠点として、世界中へ同時に発信していく。
 日本の芸能界だとか、アメリカのショービズ市場だとか、そんな観点はもはや要らん。全世界がお前の舞台だ」

頷き、瞼を開けた凛は不敵に笑った。

755: 2013/09/29(日) 23:37:43.02 ID:5W8IVjQro

「でもバックダンサーにCGプロ全員を動員してくれるなんて、社長随分と太っ腹だね。
 今回はCGプロ公演じゃなくて、名目的にはあくまで私――凛の単独でしかないのに。ノーギャラだよ?」

「まったくだ。ま、社長ならではの祝賀会ってところだろ。
 俺もチーフプロデューサーとしてCGプロに復帰するし、ようやく社長の構想が実現できそうなんだ、そりゃ祝儀も弾むさ」

凛とPは翌日付けでCGプロへ復帰する。

CGプロが芸能界の足場を更に固めるための、社長のかつてのプランが、今、具体化に向け走り出していた。

「お前が俺を追って日本を飛び出てきたのよりも後に所属した奴らは、緊張のあまり心臓吐きそうな勢いだったぞ。
 一番肝っ玉が据わってそうな結城晴でさえな」

Pが先ほど控室の様子を覗きに行った際のことだろう。

756: 2013/09/29(日) 23:38:58.17 ID:5W8IVjQro
状況を想像して、凛は若干気の毒になった。

「なんかちょっと可哀想なことしちゃったかも」

「なーに、後進にとって、今回はいい経験になるさ」

Pは回れ右をして、首から上だけ凛の方へ向けた。

「お前は、事務所で常に背中を見せる立ち位置にいる運命なんだよ、きっと」

とんとん、と自らの背中を人差し指で叩いて、笑う。

757: 2013/09/29(日) 23:40:19.41 ID:5W8IVjQro

――

開演の時刻、舞台上では、それぞれ日本アイドル界のトップを張っている、卯月、未央、加蓮、奈緒が一堂に会している。

これも通常では考えられない、豪華なメンバーの共演であった。

「私たちの!」

「仲間が!」

「この日本に!」

「帰ってきたぜ!」


観客のボルテージが、地鳴りのように、どんどん上がっていく。

758: 2013/09/29(日) 23:41:56.03 ID:5W8IVjQro

「準備運動は、懐かしいナンバーから始めましょう!」

「うんうん、『お願い!シンデレラ』行っちゃうよ!」

「私たちも手伝うからねー!」

「それじゃあ皆で呼ぼうぜ! せーの!」


 ――しーぶりーん!!


さあ、世界に、輝く魔法をかける時間だ。

「よし行ってこい。ブルボード上位常連の威力を、故郷の島国にぶつけてやれ」

力強く、大きく頷く凛の背中を、ぽん、と叩いて、眩い輝きを放つステージに送り出す。

759: 2013/09/29(日) 23:43:22.80 ID:5W8IVjQro

が、やおら凛はPを向き、出しなに彼の耳元へそっと手を添え、

「そうだプロデューサー、……三箇月だって。ふふっ……」

そう囁いた。

760: 2013/09/29(日) 23:44:19.45 ID:5W8IVjQro
一瞬のタイムラグを経て、Pが驚愕する。

わざわざ今それを云うか。凛め、タイミングを狙ってたな。

「おまっ、土壇場でプログラムから激しいナンバーを減らした理由はそれか!」

凛は、答える代わりに、笑ってウインクを返し、コンコードを担いで舞台へ走っていく。

Pはやれやれ、と降参し、両手を挙げる。


「観客の熱狂に気圧されるなよ!」

761: 2013/09/29(日) 23:45:55.35 ID:5W8IVjQro


「もちろん。


 never say ... NEVER!」



そして、歓声が、更に大きな喝采となり、唸りを上げる――――



~了~


762: 2013/09/29(日) 23:46:53.28 ID:5W8IVjQro


平安時代、人々は歌(和歌)で恋のやり取りをしていました。
そんな人間模様を渋谷凛の世界で描いたら――と云う作品は、ひとまず、これにて終わりです。
長い間お付き合いくださってありがとう。


765: 2013/09/29(日) 23:59:53.90 ID:MspTnRPoo
乙乙!
いいSS、いやいいノベルだった、掛け値なしに。

766: 2013/09/30(月) 00:11:35.78 ID:53DiFfcRo
乙でした!
読み応えのある力作、毎日楽しませて貰いました。


引用元: 凛「私は――負けない」