163: ◆8D5B/TmzBcJD 2019/02/22(金) 21:33:19.03 ID:FyaWLz+D0
再開します。
【Another】恒一「……中村青司?」前編
164: 2019/02/22(金) 21:34:22.28 ID:FyaWLz+D0
29

「ほら、ここ」

回答用紙にびっしりと書かれた計算式の一つを、ぼくがとんとんと赤ペンで叩くと、
勅使河原直哉は眉間に皺を寄せ、その部分を覗き込んだ。

「問1の計算を間違えてるだろ? この大問は問1の答えを使って問2と問3を解いていくから、ここにミスがあると全部間違いになっちゃうんだよ」

「うわー……何だよ、そんなことだったのかよ」

「勅使河原の言う通り、考え方も使う公式も間違ってないよ。うっかりミスに気をつけましょう、って話だね」

「ったくもう、散々考えて損した気分だぜ。……悪りいな、サカキ。手間取らせちまった」

「別にこのくらいなら、手間にもなってないよ。分からなかったら訊くしかないんだし、いつでもどうぞ」

「おお、やっぱり出来る人間は言うことが違うねえ。んじゃ、またすぐに甘えさせてもらうことになると思うから、よろしくな」

休日が終わり、月曜日。
昨日はあれからもう一度鳴の家に行ってみたのだけれどやはり留守で、後はそのまま家に帰って一日が終わった。
なんとも居心地の悪い気分のまま登校し、午前中の授業を終え、ようやく昼食を済ませて一息ついたところ……というのが現在の状況だ。

165: 2019/02/22(金) 21:35:35.93 ID:FyaWLz+D0
教室を見渡せば、クラスのみんなは思い思いに昼休みを過ごしている。
友人と談笑する者、何をするでもなく微睡んでいる者……。
とはいえ、受験が徐々に迫ってきていることもあってか、昼休みでも変わらず勉強をしている生徒が大半を占めていた。

今しがたぼくにアドバイスを求めてきた勅使河原も、その一人である。
ちなみに、彼はもうとっくに自分の席に戻って次の問題と格闘しているようで、
ぼくの机の真後ろに位置する彼の席からは、鉛筆を走らせる音が忙しなく聞こえてきていた。

勅使河原がこれほどまで真剣に勉強に打ち込むようになったのは、合宿が明けてからのことだ。
それまでの彼は、良く言えばクラスのムードメーカー、悪く言えばお調子者の遊び人といった感じで、少なくとも勉強とは無縁だったと言っていいだろう。
成績も、下から数えた方が早いどころか、それを通り越して「逆トップ争い」の常連だったと、彼が自分で言っていたことがある。

そんな彼の現状は、今ではこの通り。
いつも楽しそうに騒いでいた勅使河原がこんな調子だから、
新学期を迎えてからというもの、休み時間になってもクラスはやけにひっそりとしてしまっている。

……もちろん、理由はそれだけじゃない。そんなことよりも明白で、重大な要因があった。


単純に、人数が少ないのだ。

166: 2019/02/22(金) 21:37:20.97 ID:FyaWLz+D0
あの合宿で<災厄>が終わったとはいえ、それまで犠牲となったのは、三年三組の生徒だけでも十二人。
あまりにも多く、人が氏に過ぎた。
現在の三組の生徒は、たったの十八人。それで全員だ。

そして当然、残された者たちにしてみても、<災厄>が終わったから全てが元通り……なんて訳にはいかない。
全員がクラスメイトを、あるいはそれ以上に親しい友人を、それぞれ喪っているのだ。
その事実が今もなお、クラス全体に暗い影を落としている。

勅使河原の変化だって、つまりはそういうことなのだ。
彼は新学期になってから、志望校を県内でも有数の進学校である西高へ変えている。
彼の成績を考えれば、無謀でしかない決断。
だがクラス全員、彼がなぜそうしたのか、理由はすぐに分かった。
西高は彼の幼馴染であり、合宿で犠牲になったクラスメイトの一人でもある風見智彦の志望先だったからだ。

勅使河原と風見は、小学三年生の頃からずっと同じクラスで、家も近所同士だったという。
気のいい奴だけど、着崩した服装に茶髪という、見る人によっては不良少年と誤解されかねない風貌の勅使河原とは対照的に、
風見はいかにも優等生然とした、メガネがよく似合う落ち着いた物腰の生徒だった。

けれど二人はよく一緒に行動していたし、話をする時もお互い、いい意味で遠慮なくものを言っていた。
それは彼らの長いつきあいが成せるわざ、といったところだったのだろう。
いろいろあって人間関係がぎくしゃくした挙句、そのリセットも兼ねてここ夜見山へ来たぼくにとっては、そんな二人がほほえましくもあり、羨ましく思ったことだってあった。
まあ、当の彼らは互いの関係を「腐れ縁」なんて言ってはばからなかったのだけど。

167: 2019/02/22(金) 21:38:48.62 ID:FyaWLz+D0
その風見が命を落とした経緯について、ぼくはここで多くを語るつもりはない。
ただひとつ言えるのは、勅使河原がその氏について責任を感じ、深く悔やんでいるということ。

それから彼が何を思い、西高を志望するに至ったのか。
ぼくはそれを知らないし、本人が語ったこともない。それならそれでいい、とも思う。
ただ友人として、できる限りの手助けはしてやりたいと思うだけだ。

夏休みが明けてもうすぐ二ヶ月が過ぎようとしているが、勅使河原の決意は揺らいでいなかった。
むろん、気合だけでどうにかなるほど現実は甘くない。
クラスのトップクラスではなくとも、勉強ができない部類では決してなかった風見ですら、西高に合格できるかどうかはこれからの努力次第、という状況だったのだ。

勅使河原の場合は、そもそものスタートから大きく出遅れていることもある。
彼の努力は近くで見てきたぼくも痛いほど分かっているが、現時点での学力は合格ラインに遠く及ばなかった。
担任代行の千曳さんが、受験すること自体を許さない可能性だってあり得るだろう。

けれど、それはあくまで現時点での話だ。
この二ヶ月間だけに目を向けると、勅使河原の伸びはクラスでも抜きん出ていた。
仮に彼がこのまま、それこそ年が明けてもずっとこのペースを維持できれば、
確実に合格とはいかないまでも、戦いの舞台に立ち、勝つか負けるかの勝負――それも多少は分の良い――をすることはできる。
そうぼくは確信していた。そして今の勅使河原ならば、きっとそれをやり遂げるということも。

168: 2019/02/22(金) 21:40:27.14 ID:FyaWLz+D0
親友の氏に対する、彼なりのけじめ。
それが彼を突き動かす原動力なのだろう。
もしかしたら、そこにあるのは前向きな感情だけではないかもしれない。
向き合いたくないことから逃避するための手段として、勉強に没頭しているのではないか……。
そんな疑問が、脳裡をかすめたことも何度かあった。
休日もほとんどの時間を勉強に費やすようになり、めっきり付き合いが悪くなった勅使河原を思うと、その可能性の方が高いのかもしれない、とも。

が、ぼくはそれでもやはり、それならそれでいい、と思うのだ。少なくとも、今は。
賑やかだった勅使河原を知っている身としては、今の彼をほんの少し寂しく思う気持ちもあるけれど、
息があるのなら、足が動くのなら、走れるだけ走ればいい。
そうして辿り着いた結果がどんなものだったとしても、きっと彼の中で何か答えが出るはずだ。

勅使河原の鉛筆の音は、ぼくがこうしてぼんやりしている間も絶え間なく聞こえてくる。
難問に直面しているのか、時折「うーん」という悩ましげな唸り声も。
彼がぼくの後ろの席で良かった、と思った。

――未だ立ち止まったままのぼくにはきっと、彼の姿は眩しすぎる。

169: 2019/02/22(金) 21:42:32.30 ID:FyaWLz+D0
30

――おはよう、見崎。

――おはよ。

今日の朝、昇降口で挨拶を交わした鳴の様子はいつも通りに思えた。
それこそ、土曜日のことなどまるでなかったかのように。
だが一方で、あのことについて彼女がぼくに何かを語ることもなく、それきり会話もないままだ。

鳴にどう話を切り出したものか、ぼくが迷って声をかけられないでいる、というのはある。
だがそれ以上に、鳴の方もどことなく、ぼくを避けているというか……話しかけられるのを拒絶する雰囲気があるのは、ぼくの思い過ごしではないはずだ。
まるで――そう、ぼくがクラスで"いないもの"にされていた時の、クラスメイトたちのどこかよそよそしいあの感じ。
そんな印象を鳴から受けるのだ。

……皮肉なものだな、と思う。
ぼくが"いないもの"だった時でも唯一、同じく"いないもの"だった鳴だけは、普通にぼくと接していたというのに。
<災厄>が終わった今になって、よりにもよって鳴とこうなるなんて。
やっぱり何か、ぼくに言えない、言いたくないことがあるということなんだろうか。

振り返り、ぼくの席から見て左後方の窓際、最後列に位置する鳴の席を見やる。
彼女は机にノートを広げ、午前中にあった授業の内容をまとめているらしかった。
俯いたその横顔を髪が隠しているから、鳴の表情は分からない。
多分、ぼくのことも見えてはいないだろう。

こうしてずっと鳴を見つめていれば、いずれぼくに気がつくだろうか?
あるいは……例えぼくを視界の端に捉えたとして、そのまま"いないもの"にしてしまうのかもしれない。

そんなことを考えながら、それでも鳴の方を見ていると、不意に背中をつつかれた。

170: 2019/02/22(金) 21:44:15.90 ID:FyaWLz+D0
「早いね。次はどの問題?」

二つ後ろの席の勅使河原は、思い切り身を乗り出し、定規を持った右手をぼくに突き出している。
彼が体を預けている、ぼくのひとつ後ろの席。
そこに座っていた王子誠は、今はもういない。
だから、振り向く前から勅使河原の仕業とすぐに分かった。

「いや、勉強のことじゃなくてよ。……なあ、サカキ」

彼らしくもない、まるでぼくの機嫌をうかがうような声。
ただならぬものを感じて、ぼくの声も自然とこわばった。

「どうしたの?」

「その、なんだ。おれが言えたことじゃないんだろうけどさ」

「?」

「……辻井のこと、許してやってくれよな」

「……うん?」

唐突に出てきた名前に、頭の中が「?」で埋め尽くされる。
当の勅使河原はといえば、さっきまでぼくが見ていた方向――窓側の、鳴の席あたりに顔を向けていた。
ぼくもつられてそちらを向き……ただし目の焦点は、鳴のやや手前で像を結ぶ。

171: 2019/02/22(金) 21:45:18.33 ID:FyaWLz+D0
ちょうどぼくと鳴をつなぐ直線上に、眼鏡をかけた一人の男子生徒が座っていた。
彼は立てた教科書でぼくから顔を隠しつつも、時折おそるおそるといった感じでこちらに視線を送り、
そしてぼくと目が合うと、また顔を引っ込める。その繰り返しだった。

彼の名前は、辻井雪人。
彼こそが勅使河原の言う「辻井」なのだった。
つまり、ぼくが鳴の方をじっと見つめていたものだから、勅使河原はぼくが辻井を睨みつけているのだと誤解したらしい。

なんでまたそんな勘違いを……と呆れてしまいそうになるが、勅使河原の表情は真剣そのものだ。
そしてその目には、ほんの少しの怯えの色。

あの合宿が終わってからというもの、彼は時折、こんな顔をするようになった。
……きっと、不安なのだろう。
取り返しのつかない「何か」が起こりそうな、そんな予兆を見過ごすことが。
自分自身がそうだった分、余計に。

「――ああ、違う違う。ぼくが見てたのはさ、ほら」

だからぼくは心持ち大げさに笑顔を作って、改めて鳴の方をあごでしゃくってみせた。

172: 2019/02/22(金) 21:46:12.95 ID:FyaWLz+D0
「んん……? ……あ、そういうことか。なんだよサカキ、見崎とケンカでもしたのか?」

それですぐに、彼の表情はぱっと明るくなった。

――やっぱり勅使河原には、いつもこういう顔をしていてほしい。

元気を取り戻した彼の茶々を軽くあしらいながら、そんなことを思う。
これで一件落着……なのだが、問題がひとつ。


それは当のぼく自身に、辻井を恨む心当たりが全くない、ということだ。
だから「許してやってくれ」と言われても、そもそも何を許せば良いのかさっぱり分からない。

173: 2019/02/22(金) 21:47:24.55 ID:FyaWLz+D0
いくら勅使河原が多少なりともそういうことに対して敏感になっているとはいえ、流石にただ誰かを見ているだけで「睨んでいる」と思ったりはしないだろう。
それは辻井も同じことで、彼がああいう反応をしていたということは、
彼自身もまた、ぼくの視線を「睨まれている」と思っていたということ。

つまり、二人の間で「ぼくが辻井を恨んでいる」、あるいは「そう思っていてもおかしくはない」というのは、どうやら共通認識となっているらしい。
だが、もちろんぼくはそんなことを思ってはいないし、そもそも辻井に悪感情を持ってもいない。
確かにクラスメイトの中でもあまり会話が多いほうではなかったけれど、お互い読書が好きということもあって、
時々そういった話をすることさえあったのに。

しかし考えてみれば、最近は彼と言葉を交わすことがほとんど無くなっているのも事実だった。
そうなったのは……やはりと言うべきか、合宿が終わった後からで。

あの時、ぼくと辻井の間で何かがあっただろうか? 
そう考えてみると、答えは自ずと見えてきた。

174: 2019/02/22(金) 21:48:34.07 ID:FyaWLz+D0
31

<咲谷記念館>で行われた合宿。
結果としてそのおかげで<災厄>は終結したのだけど……代償は、あまりにも大きかった。

合宿での出来事をひとことで言い表すなら、"惨劇"という二文字がふさわしい。
<災厄>によってもたらされる無慈悲な氏と、その狂気の渦に呑み込まれた人間の狂騒との狭間で、
<災厄>を止める唯一の方法――つまり、<氏者>を"氏"に還すこと――が、ある生徒の手によってクラス全員の知るところとなった。

だけど、そもそも<氏者>が誰かなど、<災厄>の改竄による影響で分からなくなってしまっているのだ。
鳴の<人形の目>のことだって、この時点ではぼくと鳴の他に知る者などいなかった。
そんな状況で「<氏者>を殺せば<災厄>は止まる」なんて情報は、はっきり言って毒にしかならない。
それも致氏の猛毒だ。

結果として多くの人間が疑心暗鬼に陥り……やがてそれは、ある結論に達した。
"見崎鳴こそが今年の<氏者>である"、という誤った結論に。

そうして、何人ものクラスメイトが明確な敵意を、あるいは殺意を持ってぼくと鳴の前に現れた。
その中には、辻井の姿も。

175: 2019/02/22(金) 21:49:41.79 ID:FyaWLz+D0
――僕は氏にたくないんだぁっ!

そう言ってモップを振り上げた彼の表情には、氏への恐怖がありありと浮かぶ。
咄嗟のことで体が動かず、ぼくはモップが鳴に振り下ろされるのを眺めていることしかできなかった。

しかし、直撃すれば充分に命を奪いえたであろうその一撃が、鳴に達することはなかった。
三神先生――怜子さんが、身を挺して彼女を守ったからだ。
倒れ伏した怜子さんの頭のあたりから流れ出した真っ赤な血が、ゆっくりと床に広がっていった。

氏んでしまった、と思った。
殺された、とも思った。
頭が真っ白になり、体は瞬時に熱を帯びた。
考えるより先に手が動いて、ぼくは辻井を殴っていた。
彼は大きくよろめいて、尻餅をついた。
なおも向かっていこうとしたぼくを、鳴が止めた。
鳴は何も言わず、ただ小さく首を振った。
ぼくも、無言で頷いた。

……後は二人で手を繋ぎ、どこまでも逃げていった。

176: 2019/02/22(金) 21:50:17.40 ID:FyaWLz+D0


合宿でぼくと辻井との間に起こったいざこざと言えば、これだけだ。
いや、「これだけ」という言葉で片付けるのが適当かどうかは分からないけれど……とにかく。
辻井が負い目を感じているのは、間違いなくこのことについてだろう。

……こんな大事なことを、ぼくは今まで忘れていたのかって?
まさか。忘れるはずないに決まってる。

ただ、これを「ぼくが辻井を恨む心当たり」として、思い浮かばなかっただけのこと。
今この瞬間だって、それは変わっていない。
ぼくはあのことで辻井を恨むつもりはない……というよりも、ぼくにそんな資格はないのだ。
なぜならぼくがしたことだって、彼と大して違いはないのだから。

177: 2019/02/22(金) 21:51:54.16 ID:FyaWLz+D0


<災厄>に終止符を打つべく、鳴が<人形の目>で見抜いた<氏者>の正体は、怜子さんだった。
鳴を庇った彼女が実は生きていたことに安堵する間もなく、鳴はそう告げた。
そうして怜子さんを"氏"に還そうとする鳴を制し、最後はぼくが。
彼女の家族としてこのぼくが、すべてを終わらせた。

そう、それで今年の<災厄>は終わった。怜子さんは間違いなく<氏者>だったのだ。
だから、あの時ぼくが下した決断は正しかった。そういうことになるのだろう。
けれどもそれは、「結果的に」正しかっただけ、なのだ。

あの時鳴が怜子さんに見た<氏の色>を、当然ぼくは見たわけじゃない。
鳴はその結論を足がかりにして、<災厄>が巧妙に隠蔽していた違和感、
つまり三組にしか副担任がいないことや、始業式に教室で机の不足が起きなかった理由――足りなくなっていたのは職員室の机だったこと――をも暴いてみせたけれど、
それにしたって、確たる証拠とは言いがたい。

事実、ぼくは鳴の説明を聞いてなお、怜子さんが<氏者>だと確信することはできなかった。
というより、半信半疑だったと言っていい。

178: 2019/02/22(金) 21:54:48.89 ID:FyaWLz+D0
じゃあ、どうしてぼくが彼女を"氏"に還す決心をしたのかと言えば……。
結局のところ、鳴が言ったからだ。
――信じて、と。
だからぼくは鳴を信じた。信じようと思った。
ただ、それだけ。
論理的でもなんでもない。

きっと、今際の際の怜子さんには、辻井たちが鳴を殺そうとした時のものと同種の狂気に、今度はぼくがとらわれたようにしか見えなかったことだろう。
少なくとも彼女の目には、ぼくはそう映ったはずだ。
そして……彼女はそのまま、去ってしまった。

だとすれば、ぼくと辻井がやったことに、一体どれほどの違いがある?
ただ信じたものと、その結果が違っただけだ。
……そしてそれはきっと、勅使河原にしたって同じだったはずなのだ。
だから、ぼくは彼を憎む気にはなれない。

第一、もう怜子さんはいないのだし……とまで考えたところで。
延々と紡がれていた思考の糸がぶつん、と切れる。
見えない壁へいきなり激突したかのように、身体までびくりと震えた。
気づいてしまった。


ぼくが今まであれこれ考えていたことが、全くの見当はずれだったことに。

179: 2019/02/22(金) 21:56:17.82 ID:FyaWLz+D0
辻井がぼくに負い目を感じているのは、あの合宿で怜子さんを傷つけてしまったから。
そんなことはあり得ないのだ。
なぜならもう、<災厄>の改竄によって、彼の中で怜子さんは存在していなかったことになっているのだから。
勅使河原だって例外ではない。
今年度の、副担任としての彼女を未だに憶えているのは、今はもうぼくと鳴だけ。

……だとすれば。
もう一度辻井を見た。
ちょうど彼もぼくの方を見ていたようで、視線がまともにぶつかる。
彼は哀れに思えるくらい動揺して、またしても顔を伏せてしまった。

――改竄された"今"の事実で彼は一体、何をしたことになっているんだ?

そんな疑問はしかし、不意にスピーカーから流れ出した、

「えー、三年生の各クラス男子委員長、至急職員室まで集まるように。以上」

という校内放送に追いやられてしまう。

180: 2019/02/22(金) 21:57:37.79 ID:FyaWLz+D0
今のぶっきらぼうな声は、体育の宮本先生だ。
昼休みに呼び出し、しかも男子だけとは、一体何事だろう?
あの放送だけでは、肝心の用件がまるで分からない。

そんなことを考えながら、そのまま何となくスピーカーの方を見つめていると、肩にぽんと手が置かれた。

「お勤めみたいだな。よろしく頼むぜ、委員長」

いつの間にやら隣に立っていた勅使河原が、快活に笑う。

「はいはい。分かってるよ」と返事をして、ぼくは椅子から立ち上がった。

現在、三組の男子クラス委員長を務めているのは、ぼくだ。
合宿で当時の委員長だった風見と赤沢さんが命を落とした結果、新学期を迎えたクラスで「暫定的に」という名目で決められた役目ではあったけど、
たぶん、卒業するまでこのまま続けることになるのだろう。

181: 2019/02/22(金) 21:58:18.86 ID:FyaWLz+D0
「まったく……いいご身分だよね、勅使河原は。ぼくのことを勝手に推薦しておいて、自分はこうして悠々自適なんだから」

「おいおい、おれのせいみたいに言うなよ。大体、満場一致で賛成だったんだぜ? おれが言い出さなかったとしても、他の誰かが推薦してたってオチだろ、多分」

「まあ、そうかもしれないけどさ」

「観念するこったな。合宿であんだけリーダーシップ発揮してたら、そりゃ誰も放っとかないっての」

「……リーダーシップ、ね」

「おう。おれはちゃんと覚えてるぜ? 夕飯が終わってからも自由時間返上で指示やら連絡やら――」

「……」

「……サカキ?」

「ごめん、なんでもないよ。……じゃあ、そろそろ行ってくるから」

怪訝そうな表情の勅使河原に軽く手を挙げ、教室をあとにした。

182: 2019/02/22(金) 21:59:22.60 ID:FyaWLz+D0


職員室への道すがら、ぼくは<災厄>が残した影響というものの大きさをひしひしと感じていた。
何を隠そう、ぼくが今こうしてクラス委員長をしているのだって、もとを正せば<災厄>のせいなのだ。

勅使河原はぼくが「合宿でリーダーシップを発揮していた」と言う。
だが実を言えば、そんなことをした記憶はぼくにはない。
あの合宿でぼくがしたことと言えば、<氏者>を"氏"に還したことだけ。
そしてそれを知るのは限られた人間だけで、当然ながら勅使河原は知らない。

けれど、彼が勘違いをしているわけでもないのだ。
事実、合宿に参加したクラスメイトに「ぼくは合宿でリーダーシップを発揮していたか?」と訊けば――そんな質問、ぼくは間違ってもしないだろうけど――みんなが「はい」と答えるだろう。
ただ一人、鳴を除いては。

要するに、これもまた<災厄>の改竄による影響、なのだった。
<災厄>が終わり、三神怜子という教師の存在は消えても、彼女はそれまで確かに存在し、生きていたのだ。
怜子さんの行動。それにより生じた、様々な結果。
それすらも無かったことにしてしまうのは、さすがの<災厄>であっても、どうやら手に余るらしい。

<災厄>が終わった後、怜子さんの行動は、他の人がしたこととして置き換えられていた。
彼女が顧問をしていた美術部は、違う美術教師が顧問をしていたことになり、
久保寺先生の氏後に彼女が務めていた担任代行は、千曳さんのしたことになっていた。

183: 2019/02/22(金) 22:00:53.20 ID:FyaWLz+D0
――そして、夏休みの合宿。
和久井が発作を起こし、千曳さんと共に山を降りた後、残ったみんなに指示していたのはぼくではない。怜子さんだ。

その時ぼくはただ、鳴の部屋で彼女の話を聞いていただけ。
彼女の出自、霧果さんとの関係――それから、<人形の目>と<氏の色>。
本当に色々なことを聞いた。
逆に言えば、クラスメイトたちのために駆け回るなんて殊勝なことは……正直に言おう、していない。

ぼくは怜子さんがしたことを、後になって<災厄>から引き継がされたにすぎない。
そしてクラスメイトたちは、その改竄された事実に従って、ぼくをクラス委員長へと担ぎ上げた。
ただ、それだけのことなのだ。

千曳さんがいない間の出来事だから、怜子さんの担任代行としての他の行動のように、千曳さんがしたことには出来なかったのだろう。
それは分かる。けれど……なぜ、ぼくなのか。
その時クラス委員長だった風見や、それこそ勅使河原とか、適任者は他にもいるはずなのに。

184: 2019/02/22(金) 22:02:27.08 ID:FyaWLz+D0
<災厄>はただの<現象>で、何者かの意思なんてものは存在しない。
だからぼくが選ばれた理由にしても、そんなものはそもそもなくて、単なる偶然にすぎない。
あったとしてもせいぜい、「ぼくが怜子さんの家族だから、改竄が簡単」程度のものだろう。

でも……例え、それだけの話でしかないのだとしても。
考えようによっては、これは事実が改竄されてなお、怜子さんがぼくに遺してくれたものだとも言えるのではないか。
彼女の行動。それが巡り巡ってぼくにもたらした、クラス委員長という立場。

……はっきり言って、今みたいに余計な仕事が増えるばかりで、良いことはほとんどないのだけど。
それでも卒業するまでの間、これ以上ないくらい完璧に務め上げてやろうじゃないか。
今のところぼくは、そう考えるようにしている。


職員室に集まったぼくたち男子に宮本先生が指示したのは、不要になった資料の運搬だった。
なるほど、力仕事になるから女子は呼ばなかったのか。
そんな風に納得しつつ汗をかきながら資料を運び、教室に戻ることも出来ないまま昼休みは過ぎていった。

185: 2019/02/22(金) 22:03:29.36 ID:FyaWLz+D0
32

結局、朝の挨拶からぼくと鳴の間に会話らしい会話が生まれることもなく、月曜日の授業は終わった。
鳴はホームルームが終わるなり鞄を持って席を立ち、すぐに教室を出ていった。
六限目の授業で分からなかったことを矢継ぎ早にぼくへ尋ねてくる勅使河原や、
その質問攻めを必氏で捌くぼくを気にする様子もなく、である。

……まあ、それはそれで良かったのかもしれないな。
のけ反るようにして、<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>を見上げながら、そんなことを思う。
ここへ来ようと思うなら、それを悟られないよう、いずれにしても鳴と学校を出るタイミングはずらす必要があっただろう。

いや、例え鳴にぼくのやろうとしていることがばれたとしても特に問題はないのだけど、
こういうことはこっそりとやる方が気兼ねなくできる。

問題はギャラリーが営業しているかどうかであり、そこは完全に運任せだった……が。
幸いなことに、入口の前には看板が出されていた。
どうやら天根さんはもう復帰しているらしい。

店名が記された黒い額縁を思わせる看板の下には、いつもなら「どうぞお立ち寄りください 工房m」という表札めいた板も立てかけてあるのだが、今日はそれがなかった。
代わりに看板の下には、一枚の張り紙。
そこには黒いマジックで、こう記されている。

――しばらくお休みします 工房m

186: 2019/02/22(金) 22:05:10.66 ID:FyaWLz+D0
無理もないな、と思う。
霧果さんにとって棺の人形は、ただの作品以上の意味があったはずだ。
それに事件が起きてから、まだたったの二日。
鳴は「気にしないで」なんて言っていたけど、自分の人形を壊されて、堪えていないはずはない。

しかしギャラリーが開いているのなら、いずれにしてもぼくの目的は果たせることだろう。
今は自分のやるべきことをやらないと。

入口の前で立ち止まり、一度大きく深呼吸をしてから、意を決して扉を開ける。

ドアベルがからん、と鳴った。

187: 2019/02/22(金) 22:06:27.28 ID:FyaWLz+D0


「いらっしゃい」

くぐもった声が、ぼくを出迎える。
一昨日は誰もいなかったカウンターテーブルに、今日は一人の老女が座っていた。

彼女は暗い緑色のレンズが入った眼鏡に手をやり、ほんの少し身を乗り出してぼくを見ている。
薄闇に満たされた館内、その調和を乱すまいとするかのようにくすんだ鉛色の服を着ていて、
ともすれば見落としてしまいそうになるこの人こそが、件の天根さんだ。

「おや、しばらくぶりだねえ」

入ってきたのがぼくと分かると、天根さんは眼鏡の奥で目を細める。
何かとこの家には来ていても、こうして彼女と対面するのは、もう数ヶ月ぶりのことだった。
初めてここに来た時の第一印象こそ不気味ではあったけど、それに慣れた今となっては、会話に気後れすることもない。

「お久しぶりです。……もう、お体の方は大丈夫なんですか?」

「あら、鳴から聞いたのかい? こんなおばあちゃんのことを気遣ってくれるなんて、優しい子だねえ。おかげさまで、この通り元気にしているよ」

「それなら良かったです。でも、無理はしないで下さいね」

「なんだか、みんなに心配かけてばかりで申し訳なくなってくるよ。坊やや鳴からもだし、美津代にも由紀代にもねえ」

……うう。十五歳にもなって「坊や」と呼ばれるのは、なんともこそばゆい。
しかしまあ、天根さんから見ればぼくなんて、やっぱり「坊や」でしかないんだろうし、
だからといってここで「『坊や』って呼ばれるのは恥ずかしいのでやめてください」なんてお願いするのは、もっと恥ずかしい。

188: 2019/02/22(金) 22:08:20.32 ID:FyaWLz+D0
「鳴なら、さっき帰ってきたところだよ。部屋にいるはずだから、呼んであげようか」

そう言って傍らの内線電話に手を伸ばしかけた天根さんを、ぼくは慌てて制する。

「あ、今日は違うんです。その……人形を見たくなって」

「そうなのかい?」

「はい。なので、見崎にはぼくが来たこと、内緒にしてて下さい。時間をかけて、じっくり見ていこうと思うので」

「そうかい。なら、お代はいらないからゆっくりしてお行き。他にお客さんもいないしねえ」

それで「ありがとうございます」と軽く頭を下げ、まっすぐ地下へ向かおうとしたぼくだったが、

「ああ、そうそう」

という天根さんの声に呼び止められた。

「すっかり忘れるところだったよ。はい」

そう言って、彼女は軽く握った右手をぼくの方へと差し出す。
反射的に両手をお椀にして受けると、ちゃりんちゃりんと音を鳴らしながら、百円玉が五枚、手の中に落とされた。

「えっと、これは……?」

「鳴から聞いたよ。土曜日に来た時、私がいないからお金を置いていったんだってねえ」

「はい?」

「別に、気を遣わなくたっていいんだよ。鳴のお友達なんだから、お代なんて取らないよ」

いやいや、気を遣う以前に、そもそもこのお金は……。

189: 2019/02/22(金) 22:09:40.07 ID:FyaWLz+D0
「あの……これ、ぼくじゃないです。払っていったのは、違う人ですよ」

今度は天根さんが目を丸くする番だった。

「違う人? 他にお客さんがいたのかい?」

「……見崎からは、何か聞いてませんか?」

「何も言ってなかったねえ。これを坊やが来た時に置いていった、ってだけで」

どことなく、噛みあわなさを感じた。
ぼくはこのところずっと、天根さんから入館料をおまけしてもらっていたし、
払うにしても中学生のぼくは半額の二百五十円だった。
五百円なんて、置いていくはずがないのに。

言うまでもなく、あの時島田さんがギャラリーを訪れていたことは、鳴にも分かっていたはずだ。
彼がぼくのようにドアベルを鳴らしギャラリーに入った時、鳴は間違いなく地下展示室にいたのだから。

なのに天根さんの様子を見るに、鳴は島田さんのこと、ひいては一昨日の事件そのものを彼女に伝えていないらしい。
――あのことは、そうまでしても秘密にしたいことなのか?

その後、このお金を受け取る受け取らないで押し問答をしばらくの間繰り広げたものの、

「じゃあ、これはおばあちゃんからのお小遣いってことでどうだい。帰りに何か好きなものでも買いなさいな」

と結局はぼくが押し切られ、五百円はぼくのポケットに収まることになった。
持ち主に返せる見込みはなく、かといって勝手に使うわけにもいかない。
ポケットの中で鳴るだけの、宙ぶらりんなお金になりそうだった。

190: 2019/02/22(金) 22:10:48.79 ID:FyaWLz+D0
33

二日ぶりの地下展示室は、全てが元通りになっていた。
階段下に立つ首なし人形は一体だけになり、その片割れは衝立の裏に戻されていたし、
こことエレベーターホールを区切るカーテンの手前には、蓋の閉ざされた棺がひとつ。

……流石に、それを開けてみる勇気はない。
それに中の人形がどうなっているかくらい、わざわざ見るまでもなくはっきりと思い出せる。
室内の様子をあらかた確認し終えたぼくは、目を閉じて深く息を吸った。

きょう、ここでの目的はひとつだけ。
中村青司が自らの作品には必ず施したという"からくり"を、見つけ出すこと。

ぼくがこの目で見ておきながら、いまだ"形"のはっきりしない、この事件。
もし、ぼくの知らない「何か」がまだ隠されているのだとすれば、
それはこの館に文字通り隠されているという"からくり"に他ならないのでは、と思うのだ。

そう考える根拠もある。鳴の「話の続き」だ。
あの日、勝負の後で鳴が明かすはずだった、中村青司の話の続き。
結局、ぼくはそれが何だったのか知らずにいるけれど、島田さんの話を聞いた今となっては、
その正体に、彼の"からくり趣味"は相応しいものであるように思えた。

191: 2019/02/22(金) 22:11:49.12 ID:FyaWLz+D0
となれば当然、鳴はこの館の"からくり"のありかを、知っていたことになる。
その鳴が、続きを語る場所としてこの地下展示室を選んだのだとすれば。

"からくり"はきっと、ここにある。そしてそれはきっと、事件にも深く関わっている。
そう思えてならなかった。

だとすれば、後はもう探すしかない。見つけ出す以外に、はっきりさせる方法はない。
「よし」と声に出して、足を踏み出す。

探すと言っても、あの時のように何の勝算もなく、ただ無為に探し回るつもりは初めからなかった。
ある種の確信を持って、ぼくはその場所――永遠に火が灯ることのない、イミテーションの暖炉――へと近づく。

――そこに棺は入らないと思うけど?

勝負の最中、あちこちを探し回るぼくに動じることなく悠然と構えていた鳴が、
暖炉を覗き込もうとしたあの瞬間だけ、そう言ってぼくを制した。

確かにもっともな指摘だろう。あのサイズの棺が、ここに入るはずはない。

ならばなぜ、鳴はぼくを止めた?

192: 2019/02/22(金) 22:12:43.89 ID:FyaWLz+D0
事実として、棺はここに無かったのだ。
あの場面、放っておいてもぼくが制限時間を浪費するだけで、鳴にとっては有利でしかなかったのに。

この上なくシンプルにその理由を考えるなら、答えは一つ。
……鳴は、それでもやはりぼくに暖炉の中を見てほしくなかったのだ。
つまり、ここには「何か」があるということ。
棺ではない、しかし彼女にとって重要な「何か」が。

193: 2019/02/22(金) 22:13:53.63 ID:FyaWLz+D0


暖炉の奥行きは、せいぜい1メートルといったところだった。
地下展示室の決して明るくはない照明の下でも、内部の様子は簡単に見てとれる。
赤茶色のレンガが敷き詰められた暖炉の壁や床面は、当然ながら灰やすすで汚れることもなく綺麗なままで、
本来なら事故防止のために設置される鉄製の柵もついていない。

約60センチ四方の開口部からこうやって中を眺めている分には、何もおかしなところはなかった。
今度は身を屈め、暖炉の中へと入っていく。
レンガのひとつひとつを観察し、時にはそれを押してみたりもしたが、残念ながらびくともしない。

仕掛けがありそうな雰囲気など、まるでなかった。
……まさか、ここじゃない?
ぼくの予想は、間違っていたのか。
暑くもないのに、体中から嫌な汗がじんわりと滲み出てくるのを感じる。

反射的に立ち上がりかけ、

「いてっ!」

思い切り天井に頭をぶつけてしまった。
中腰のまま両手で頭を押さえ、今度はゆっくりと、おそるおそる頭上を――

「……あれ?」

194: 2019/02/22(金) 22:15:06.39 ID:FyaWLz+D0
暖炉の内部は、レンガで出来た立方体のような空間になっているけれど、そこにはふたつ、穴が開いていた。
ひとつは、ぼくが入ってきた入口がそう。そしてもうひとつは、天井に開いていた。
同じく直径60センチくらいの丸穴が、ぽっかりと。

――煙突。
通常、暖炉であれば決まって必要となるこの設備を、この模造品も律儀に備えていたのだ。
とはいえ、さすがに外までは通じていないようで、
穴の続く先に光は見えず、代わりに漆黒の闇だけがそこに満ちている。

ぼくは立ち上がり、ためらいなくその中へ体を潜らせた。
内部はいよいよ暗く、何があるのか様子は全く分からない。
加えてそこに滞留する空気はかなり埃っぽくて、入り込んだ途端、何度も咳き込むはめになった。
それでも必氏に壁面へ両手を這わせ、手探りを続けていく――――すると。

ひんやりとした感触が、両手に伝わる。
金属製の何か――機械のようなもの――が、そこにはあった。
ぼくはとっさにポケットから携帯電話を取り出し、ディスプレイの明かりを目の前に差し向ける。

195: 2019/02/22(金) 22:16:55.34 ID:FyaWLz+D0
"それ"は、三つのパーツから構成されていた。
金属製の箱のようなもの。そこから伸びるケーブル。
そして……箱に取り付けられた、持ち手のあるスイッチ。

――ついに見つけた。

スイッチは上方に跳ね上げられている。
ぼくはその持ち手を掴み……全身の力を込めて、それを引き下げた。

ぎ、ぎぎぎ……

ほどなくして、金属のきしむような音が微かに聞こえてきた。
それに少しだけ遅れて、ごごご……という、重量のある何かが徐々に動いていく音も重なる。

空気が震えていた。
いや、空気だけじゃない。
ぼくが立っている暖炉の床面や、ぼくをぐるりと取り囲んでいる煙突の内壁から、微弱な振動が伝わってぼくの体全体をびりびりと揺らしている。

……いま声を出したら、きっと扇風機の前で喋った時みたいになるんだろうな。
揺すられながらそんな下らないことを考えて、せっかくだから試そうかと口を開けた時。
ぴたりと、それは止んだ。

もぞもぞと暖炉の中から這い出すと、明かりがとても眩しかった。
今まで一度も、ここでそんな風に思ったことはなかったのに。

196: 2019/02/22(金) 22:18:14.52 ID:FyaWLz+D0
まだ埃が残っているのか、鼻がむずむずする。服もだいぶ汚れてしまっていた。
まあ、普段からあんなところを掃除したりはしないだろうし、仕方がないのだけど。
手で服の埃をぱんぱんと払いながら、ぼくは一昨日の鳴を――今のぼくのように埃まみれで三階に現れた、鳴の姿を思い出していた。
あの日、鳴もきっとここに入ったのだ。そしてあのスイッチを作動させた。

……"からくり"は、確かに存在した。
"夜見山の人形館"は正真正銘、中村青司の作品だったということだ。

慎重に周囲を見渡す。一体どこで、何が動いたんだ。
見える範囲での変化はない。だが、何も起こらなかったはずはない。

だとすれば、ぼくの目の届かない場所――そう考えたところで。
部屋の奥、ある一点で視線が止まる。

カーテンの向こう側。エレベーターホール。
何かを思うより先に、体は動いた。

197: 2019/02/22(金) 22:18:54.41 ID:FyaWLz+D0
――今思えばこの時、ぼくはどうしようもなく気持ちが逸っていた。
中村青司が遺した"からくり趣味"。
それをいよいよ目前にして、頭の中がいっぱいになっていた。
大した距離でもないのにダッシュしたのがいい証拠だ。

そんな調子だったから――すっかり忘れていたのだ。
カーテンの手前に置いてある、一際大きな陳列棚。
その裏に、何が置かれているのかを。

198: 2019/02/22(金) 22:19:36.53 ID:FyaWLz+D0
「わっ!」

陳列棚を回り込んだぼくの目の前に、突如として黒塗りの棺が現れた。
かわすこともできず、そのまま思い切りぶつかってしまう。
棺が、ぐらりと傾いだ。

慌てて棺に抱きつき、その動きを止める。
ほっとしたのも束の間、依然として傾いたままの棺から、がたんという音と共に蓋が外れた。
ぼくの目と鼻の先で、それはひどくゆっくりと倒れていく。

――間に合え。
そう思って突き出したぼくの手も、スローモーションにしか動かない。
蓋はそのまま、あえなく倒れてしまった。

199: 2019/02/22(金) 22:20:20.33 ID:FyaWLz+D0
カーペットが敷き詰められている床だからか、思いのほか音は小さく済んだ。
これなら天根さんが異変に気づくこともないだろう。
何にしても、人形に被害が及ばなくて良かった。
さすがにこれ以上傷つけられてしまっては、あまりにも"彼女"が可哀想だ。

安堵のため息をついて落ちた蓋を持ち上げ、その時ふと、ぼくは蓋の裏側、端っこの目立たない位置に「1997」という数字が刻まれていることに気がついた。
人形の制作年だろうか。
さして気に留めることもなく、そのまま棺の中へと目を移す。


――せっかく拾い上げた蓋を、ぼくはもう一度落としてしまった。

200: 2019/02/22(金) 22:21:16.52 ID:FyaWLz+D0

蒼白いドレスを身に纏った、鳴の人形がそこにはいた。

そう、「鳴の人形」だ。
だって、こんなにそっくりな顔をしているのだから。


蒼く煌めく瞳が、まっすぐにぼくを射抜く。


言うまでもなくその顔には、傷ひとつついてはいない。

201: 2019/02/22(金) 22:22:05.84 ID:FyaWLz+D0
……どうして?
一昨日、壊されてしまったこの人形を、ぼくは確かに見たのだ。
手を伸ばして、その顔に触れる。綺麗だ、と思った。
もし仮にあの状態から修理したとして、こうまで完璧に直すことは不可能だ。

次に考えたのは、霧果さんが顔の部分だけを一から創り直したのではないか、という可能性。
けれど、あれからまだたったの二日しか経っていないのだ。
そんな短期間で創り直せるはずがない。

そして何より、そんな可能性はぼく自身の直感が強く否定していた。――それだけは絶対にない、と。
なぜなら……この顔は、全く同じだから。
鳴ではなく、五月にここで出会い、それから地下を訪れるたび目にしてきた"彼女"自身の顔と、である。


でも。
だとしたら。
これは一体、どういうことなんだ?
顔に触れたままのぼくの手が、徐々に震え出す。

202: 2019/02/22(金) 22:23:14.75 ID:FyaWLz+D0
「どうして、こんな……」

一昨日の鳴をなぞるように、同じ台詞が口をついて出た。
あの時起きたことは、紛れもなく現実だ。現実だったはずだ。
だけど、今ぼくの目の前にあるこの光景もまた現実だ。
あり得ることのない二つが、同時に成立する矛盾。

手から伝播した震えは、とうとうぼくの足にまで及んでいた。
もう限界だった。
これ以上「うつろなる蒼き瞳」に見つめられていたら、ぼくはきっとおかしくなってしまう。

ぼくは反射的にカーテンへと突っ込んでいた。
今すぐにでも、この視線から逃れたい。
ただそれだけを思った。
カーテンをめくるのももどかしく、全身を絡めとられながらも闇雲に突き進む。
そして不意に視界が開け――勢いあまったぼくは、もんどりうって床に倒れ込んだ。

203: 2019/02/22(金) 22:24:32.74 ID:FyaWLz+D0
仰向けになったまま腕で目を覆い、荒い呼吸を繰り返す。
起き上がる気力は、すぐには湧いてこなかった。
目を閉じた真っ暗闇の中でふと、ここはどこだっけ、という疑問が浮かぶ。
カーテンの向こう側だから……そうそう、エレベーターホールだ。
あれ? そもそもぼくはここに来るはずで――

「……!」

一瞬で身を起こす。
そうだ。ぼくの目的は、目的は……!

204: 2019/02/22(金) 22:25:19.89 ID:FyaWLz+D0
それは、気づいてしまえばあからさまなくらいだった。
エレベーターが設置されている側から、向かって反対側の壁。
その壁が数メートルほど、奥へと後退している。
そして、それによりあらわになった部分――つまり今まで壁が塞いでいた部分に、階段が出現していた。
地下へと降りる階段が。

これがこの館の"からくり"。
取り憑かれたようにぼくは階段に足をかける。
混乱だけが深まっていくこの状況で、ぼくが縋れるものはもう、これしかない。
答えはきっとこの先にある。そう信じて進むしかなかった。

205: 2019/02/22(金) 22:26:47.85 ID:FyaWLz+D0
一段、また一段と下っていくごとに、低く響く駆動音がどんどんと大きくなっていく。
空調設備がごく近いところにあるのかもしれない。
ついには自分の足音すらも聞こえなくなった。

ふと、この前読んだ小説に、似たようなシチュエーションの話があったことを思い出す。
それは『ラヴクラフト全集』に載っていた、『ランドルフ・カーターの陳述』という短編。

題名にもその名前が出ているカーターと彼の仲間であるウォーランが、とある研究のため、深夜の墓地に忍び込む。
やがて一つの墓石の下に地下へと続く階段を見つけ、ウォーランは勇敢にもそれを降りて行くのだ。

……だがラヴクラフトの作品において、「勇敢」であるということは、たやすく「蛮勇」へと変わる。
カーターはウォーランの体に結びつけたワイヤーを持ち、地下を探索する彼と地上で交信を続けるのだが、
彼は地下にいる「何か」に怯え、地上のカーターに逃げるよう促すものの、ついには絶叫を残して連絡が途絶えてしまう。
そして――。

あの結末を思い出すだけで、思わず背筋が寒くなる。

……今のぼくの状態は、まさしくそのウォーランにそっくりだ。
しかも彼とは違い、体にワイヤーも結んでいなければ、上でカーターが待っているわけでもない。

206: 2019/02/22(金) 22:28:04.63 ID:FyaWLz+D0
不意に、後ろを振り向きたい衝動に駆られた。
空調の音はかなり大きい。
誰かが背後から忍び寄ってきていたとしても、ぼくは間違いなく気づけないことだろう。

……ああ、いけない。余計なことを考えるな。
歯を食いしばり、足を止めずに進む。
前だけを向いたまま、階段を一段ずつ降りていった。

207: 2019/02/22(金) 22:28:41.99 ID:FyaWLz+D0
――そうして辿り着いた先には、部屋がひとつ。




そしてそこに、真実はあった。

210: 2019/02/23(土) 20:54:22.98 ID:mQm9OJvR0
再開します。

211: 2019/02/23(土) 20:55:02.12 ID:mQm9OJvR0
34

――はい。

――もしもし、見崎?

――……榊原くん。

――実はさ、ぼく、今きみの家にいるんだけど。

――えっ?

――それでね、分かったんだ、この前のこと。どうしてあんなことになったのか、その理由が。

――……。

――だから、見崎と答えあわせがしたいんだ。……今から、地下に来てくれないかな? できればきみのお母さんも一緒に。

――……。

――見崎?

――わかった。今から行く。……待ってて。

212: 2019/02/23(土) 20:55:46.78 ID:mQm9OJvR0
35

エレベーターの扉が開く。
その中から現れた鳴は、まだ着替えていなかったのだろう、夜見北の制服姿のまま。
肩ごしに中を覗き込むまでもなく、彼女がひとりで来たことは一目瞭然だった。

「声をかけたけど、『今は夕食の準備で忙しいから、それが終わったら行く』だって」

まるで牽制するかのように、ぼくが何も言わないうちから、そう説明する鳴。
いつもとなに一つとして変わらない、静かな響きを持った声だった。

だがエレベーターを降りるなり、その目がほんの少しだけ、すっと細くなったのをぼくは見逃さなかった。
それはそうだろう。これを目にしたのなら、ちょっとは驚いてもらわないと張り合いがない。


それはつまり、ぼくの背後で後退したままの壁と、地下へと続く階段。
そして――ぼくの傍らに並んでいる、二つの黒い棺を見たら、ということである。

一方の棺には、鳴と瓜二つの人形が。そしてもう一方には……顔のない、壊れた人形が収まっている。
全く同じドレスを着て、全く同じ棺に入った二体の人形は、その顔だけが決定的に違っていた。

213: 2019/02/23(土) 20:56:36.49 ID:mQm9OJvR0
「来てくれてありがとう。……じゃあまず最初に、ひとつだけ言わせてもらおうかな。一応、区切りはつけないとね」

ぼくはそう言って、無傷の人形が入った棺に、とん、と手を置く。

「ようやく、きみが隠した人形を見つけたよ。なんとか五十時間は超えずに済んだのかな。勝負はぼくの負け、だね」

実際には、うっかり棺にぶつかったあの時が発見時間なのだから、本当のタイムはもう少し早くなるはずだけど……。
まあ、誤差の範囲でしかない。

「一昨日……きみが隠した人形をぼくが探して、見つけた時に人形は壊されていた。だから最初はこう思ったんだ。きみが隠した人形を、誰かが先に見つけて壊したんだ、って」

先を促すように、鳴はただまっすぐにぼくを見据えている。

「それから、こんなことも考えたよ。きみが自分で人形を壊して、それを隠したんじゃないかって」

「……べつに、そう思ってくれてもいいけど?」

口元に微かな笑みを湛えながら、そこでようやく鳴が口を開いた。

「いや、それはどっちも間違いだったんだ。きみが隠した人形は、この通り無事なわけだし」

「……」

「ぼくの言ってること、見崎なら分かるよね。あの時ぼくが見つけた、この人形」壊れた人形を指差す。「これは、きみが隠したものじゃなかった。見ての通り、別の人形だったんだ」

214: 2019/02/23(土) 20:57:26.46 ID:mQm9OJvR0
つまり、人形は二体あった。
そしてあの日、この家で起きていた出来事も、二つ。

一つは、鳴がぼくとの勝負のため、人形を隠したこと。
そしてもう一つは、誰かがまた別の人形を壊し、それを地下展示室へ隠していたこと。
この二つが一昨日、ちょうど同じタイミングで起きていたのだ。

つまりぼくは今の今まで、鳴が隠した人形を見つけられてはいなかったのだ。
その前にここで壊れた人形を見つけ、それは鳴が隠したものとは違うと気づかないまま、飛び出して行ってしまったから。

隠された二体の人形のうち、見つけるべきではない方を見つけてしまった……。
ある意味でぼくは、"ハズレ"を引いたのだと言えるかもしれない。

215: 2019/02/23(土) 20:57:56.57 ID:mQm9OJvR0
鳴は二つの人形を交互に見比べて、それからゆっくりとぼくに視線を移す。

「榊原くん、『分かった』って言ったよね。これからわたしに、その話をしてくれるんだ?」

ぼくが頷くと、鳴も応じるようにこくりと頷いて、地下展示室に通じるカーテンをめくった。

「それなら、あっちで座って話をしましょ。……たぶん、長くなると思うから」

「……そうだね」

二つの棺をその場に残し、ぼくも鳴の後を追う。

壊れた人形は、"からくり"により出現した階段、その先にある部屋から運び出してきたものだ。
鳴の後ろについて歩きながら、ぼくは先ほどまで滞在していた、そこでの出来事を思い出していた。

216: 2019/02/23(土) 20:58:54.20 ID:mQm9OJvR0


――地下墓地。

この館の地下、その更に奥深くに位置する"隠し部屋"。
手探りで明かりのスイッチを見つけ、裸電球が照らすその部屋の全容を目にした時……ぼくはそう思った。

そこにあったのは、ずらりと並ぶ黒い棺の群れ。
間違いなく十基以上はあるだろう。
部屋の広さは地下展示室の半分ほどだが、棺以外のモノが存在しない分、かえって広く感じる。
にもかかわらず息苦しさを覚えるのは、間違いなくこの異様な雰囲気のせいだった。

展示の順路に含まれていないこの部屋には、当然ながら音楽を流すスピーカーなんてものは存在せず、
ごうんごうんという空調の音だけがうるさいくらいに響く。

置かれた棺は、色こそ黒で統一されているがみな一様に同じというわけではなく、まちまちの大きさをしている。
……ぼくにはなんとなく、その理由が想像できていた。
棺の中に、何が入っているのかも。

217: 2019/02/23(土) 20:59:46.49 ID:mQm9OJvR0
部屋の奥にある、一番小さな棺に近寄る。積もった埃の様子からして、これが最も古いものに思えた。
そしてたぶん、ここに安置されてから、この棺には誰ひとり触れていない。
当然だ。この棺が全てここに「埋葬」されているのだとしたら、たやすく墓を暴いたりはしないだろう。

蓋の縁に手をかける。
禁忌を犯そうとしている自覚はあった。だけど、今は……。
逡巡に抗い、蓋を開けた。

218: 2019/02/23(土) 21:00:35.25 ID:mQm9OJvR0
……まだあどけない子供時代の鳴が、そこにはいた。

もちろん、ぼくは鳴が子供だった頃を知らない。
知っているのは、今の、十五歳の鳴だけだ。

それでも、きっとこの通りだった、そうに違いない。
そう思わせるだけの説得力が、棺の中身――その穢れの無さが表出したかのように真っ白なドレスを着た、小さな人形――にはあった。
蓋の裏側を見れば、そこに刻まれている数字は「1985」。
今から十三年前だ。
鳴が見崎家に引き取られた時期と、ちょうど一致する。

もう迷いはなかった。列をなした棺を、ぼくはひとつ残らず開けていく。
1986、1987、1988……。
新たな棺を開けるごとに、中の人形はどんどん成長していった。
その身に纏う衣裳も、赤、黄色、緑と、まるで季節が移ろうように様々な色へと変わっていく。
この家で鳴が過ごしてきた今までの日々を、ぼくが垣間見ているような気分だった。

219: 2019/02/23(土) 21:01:18.93 ID:mQm9OJvR0
――鳴をモデルとして、霧果さんが生まれてこられなかった我が子を想い、創った人形。
すなわち棺の人形とは、その嘆きの発露に他ならない。

だとすれば、それが現在の鳴とそっくりな、あの一体だけであるはずがなかったのだ。
なぜなら彼女の悲しみは、子供を喪った日から今まで、ずっと癒えることなく続いてきているのだから。
年に一度のペースで、霧果さんはそれを創り続けてきたのだろう。

隠し部屋には、全部で十三基の棺があった。
そのうち「1985」から「1996」までは、既に開かれている。
そして残った、最後のひとつ。全く埃の積もっていないその蓋を、ぼくは持ち上げた。
「1997」の人形は、いまだ上に、地下展示室に置かれたままだ。
つまり、この棺の中に入っているのは……。

蓋を脇へと寄せた。そこに刻まれた数字は、「1998」。

220: 2019/02/23(土) 21:01:47.49 ID:mQm9OJvR0
……見慣れた「1997」と同じ意匠のドレスに身を包んだ人形が、横たわっている。
その体躯は、ぼくのよく知る鳴と遜色ないほどに成長していて……。



――そして少女は、顔を失くしていた。

221: 2019/02/23(土) 21:02:31.29 ID:mQm9OJvR0


「――だからさ、ごめん。あそこの棺、一度全部開けちゃったんだ。もちろん、元通りにはしたんだけど……後で霧果さんに謝らないとね」

二日前のように円卓を挟み二人で座った後、ぼくはおそるおそる、自分がしたことを鳴に打ち明けた。
ところが、鳴は意に介した様子もなく、

「別に、気にしなくていいと思うよ。壊したわけでもないんだし」

と、実にあっけらかんとした様子で言う。

「え。……でもさ、霧果さんにとっては、あの人形ってものすごく特別なものなんじゃ」

「他の人形に比べたら、確かにそう。……でも、本物じゃないから」

「本物じゃない?」

おうむ返しになったぼくの質問に鳴は答えず、代わりに、

「それで? あの部屋を見て、榊原くんはどういう結論を出したの?」

と問いを返してきた。

いつの間にか脱線しかけていたことに気づき、頷いて本題に戻る。

「うん。あの日、ぼくはきみが隠した人形を見つけたつもりだったけど、そうじゃなかった。だってそもそも、きみが人形を隠した場所は地下展示室じゃなかったんだから」

「……それなら、榊原くんはわたしがルール違反をしたって言いたいの? 人形は地下じゃなく、上にあったって」

222: 2019/02/23(土) 21:03:16.01 ID:mQm9OJvR0
試すような口調で問いかける鳴に、ぼくは首を振る。
そうじゃない。あの時、鳴は地下より上には行けなかったのだ。
……そう、上には。

「違うよ。きみが隠したのは、上じゃなくて、下。この地下にある隠し部屋の方だった。――まさしくきみの言った通り、だったんだね」

――人形があるのは間違いなく、こ・の・ち・か。

「この地下」とは、地下展示室のことではなく、その更に地下。隠し部屋のことを指していたのだ。

もしぼくが、あらかじめこの建物に地下二階が存在することを知っていたならば、
鳴の言う「地下」は一体どちらを意味しているのか、迷うことができたのかもしれない。
むろん、鳴はぼくがそれを知らないことを見越してああいう言い方をして、ぼくにトリックを仕掛けたのだ。

そうしてぼくがまんまと地下展示室だけを探し時間切れとなった後、暖炉のスイッチを作動させ、正解を発表する。
同時に、中村青司にまつわる話の続き――彼の"からくり趣味"も披露する。実物を見せながら。

223: 2019/02/23(土) 21:03:50.74 ID:mQm9OJvR0
鳴が一昨日思い描いていたシナリオは、おそらくこんな感じだったんじゃないだろうか。
ルール違反だとは思わない。彼女の狙いが分かった時、むしろぼくは感心していた。

もし当初の予定通り話が進んでいたのなら、全てが明らかになった時、ぼくは素直に負けを認めていたことだろう。
そして喜んで、罰ゲームという名のデート(鳴にその気は全く無いのかもしれないけれど)の算段をしていたはずだ。
きっと、そうなっていたに違いない。
ぼくが地下展示室で、あの人形――壊れた「1998」の人形――を見つけさえしなければ。

そう、あの人形の出現こそが誤算だったのだ。
ぼくにとっても……それからもちろん、鳴にとっても。

鳴の手が、すっと部屋の奥を指す。

「ねえ。……あの階段って、榊原くんはいつ見つけたの?」

224: 2019/02/23(土) 21:04:21.15 ID:mQm9OJvR0
「ついさっき。中村青司が建てた家にはこういう仕掛けがあるって、ある人に教えてもらってね。探してみたら……見つけちゃった」

「……ふうん、そうなんだ」

「見崎は、いつからこのことを?」

階段の先がああなっているのだから、少なくとも霧果さんは、かなり前からこの隠し部屋のことは知っていたはずだ。

「小学校に入ったあたりだったかな。霧果に教えてもらったの。霧果は、お父さんから聞いたんだって」

おそらく隠し部屋を最初に見つけたのは、鳴の父親だったのだろう。
自分で中村青司に依頼するほど入れ込んでいたのだから、彼の"からくり趣味"についても熟知していたに違いない。

「じゃあ、あの部屋にはよく行ったり?」

「ううん」即座に否定の言葉が飛ぶ。「榊原くんも、もう見たんでしょ? あの部屋に、何があるか」

「え。……それは、そうだけど」

「だったら、分かるかなって思うんだけど。――あそこにいる人形は全部、わたしそっくり。でも全部、わたしじゃないの。いくら似ていても」

「……」

225: 2019/02/23(土) 21:04:55.99 ID:mQm9OJvR0
ぼくが言葉を失い、沈黙してしまうような話題なのに、それを口にする鳴の表情は妙に晴れやかだ。
まるで、全てを受け入れているかのように。

「だから……ね。わたしはあそこに行くこと、ほとんどないかな。でも、全くってわけじゃないよ。――分かってても、どうしようもなく確かめたくなる時って、たまにあるから」

「……じゃあ、その『たまに』が、一昨日だったんだ? きみが人形を隠した、あの時が」

「……」

ほんの少しぼくから視線を外して、眼帯をそっと撫でる鳴。
肯定の返事が来るものだと、信じて疑わなかった。

「――違う、って言ったら?」

「えっ?」

あまりにもさらりとした口調で、彼女はそう言った。

226: 2019/02/23(土) 21:05:31.46 ID:mQm9OJvR0
36

「わたしはあの日、隠し部屋には行ってない。人形を隠したのは、あくまでここ、地下展示室でした。……もしもわたしがそう言ったら、榊原くんはどうするの?」

ほんの少し首をかしげて、鳴は淡く微笑する。
自分で言っておきながら、心の底では露ほどもそうは思っていない。そんな口調だった。

「どうする、って……。いや、それはおかしいよ。だってあの日、きみの隠した人形はどこにも無かったじゃないか」

「それは榊原くんが見つけられなかっただけ、だったとしたら? 実はどこかにあったのかもよ」

そんなはずは、もちろんなかった。あれだけ探したのだから。
しかしそれを口にしたところで、「かもしれない」という可能性の話は、どこまで行っても平行線にしかならないだろう。
そもそもの話、鳴にしたってこんな屁理屈を本気で言っているわけじゃないのは、彼女の様子を見れば明らかで。

227: 2019/02/23(土) 21:06:02.90 ID:mQm9OJvR0
「電話で言ってたよね。これは答えあわせだ、って。答えだけをそのままぽんと書いても、数学のテストなんかじゃ正解にはならないでしょ? ……それに榊原くんの言うことにただ丸をつけるだけじゃ、わたしも面白くないから」

と、鳴は更に言う。
暗にぼくの考えを肯定しているも同然の発言だったが、その意図はこれではっきりした。
つまり彼女は、ぼくにこう問うているのだ。


――わたしが隠し部屋に行ったって証拠は、あるの?

228: 2019/02/23(土) 21:06:46.41 ID:mQm9OJvR0
一昨日に起きたことについては、確信がある。ぼくが想像している通りで間違いはないだろう。
それでもまだ……鳴の、この態度だけが、どうしても分からない。
既に暴かれつつある真相を、なお隠さんとする、その理由が。

あるいは……鳴にとってはこれもまた、一昨日の勝負の続き、ということなのだろうか。
ならば受けて立とう。勝算は、充分にある。

「ダメだよ、見崎。間違いなくきみは、あの時隠し部屋に行っていたんだ。……だから、"これ"を今ぼくが持っているんだろ?」

ポケットの中を探り、取り出したそれを鳴へと示す。
彼女が隠し部屋にいた"証拠"――五枚の百円玉を。

「それって……土曜日に榊原くんが置いていったお金?」

「違うってば。それにぼくは五百円なんて、ここで一度も払ったことはないよ。天根さんが、いつも半額にしてくれてたから」

「そうなの?」

ぼくの言葉に、鳴は少なからず驚いたようだった。

「なら、これを払っていったのって……」

「あの時ぼくが電話で言ったこと、覚えてる? 『ギャラリーから男の人が出ていった』って。その人だよ。――あれから本人に会って、確認もしたんだ。島田さんって人なんだけど、間違いないって」

229: 2019/02/23(土) 21:07:24.95 ID:mQm9OJvR0
「……じゃあ本当に、榊原くんの言った通りだったんだ」

「うん。見崎が人形を隠している間、その人がギャラリーに来てたんだよ」

「……」

「そんなわけでさ、これはきみが……というより、きみの家が受け取るべきなんだよ。だから、はい」

そう言ってぼくがもう一度手を突き出すと、それでようやく、鳴は五百円を受け取った。
手の中のそれを、鳴は未だ釈然としない面持ちで見つめている。

当然ではあるけれど、この家で暮らす鳴には、ギャラリーの入館料を払う機会なんてあるはずがない。
黒板には「入館料五百円」としか記されていないから、天根さんがぼくにサービスしてくれていたことを知らない鳴は、
島田さんが支払ったそのお金を、ぼくのものだと勘違いしたのだろう。

そう、「勘違い」だ。
鳴はなにも、島田さんのことを意図的に"いないもの"にしていたわけではなかったのだ。
――それは、つまり。

230: 2019/02/23(土) 21:08:06.53 ID:mQm9OJvR0
「気づかなかったんだよね?」

ぼくの問いかけに、鳴が顔を上げる。

「……気づかなかったって、何に?」

「あの日きみが人形を隠していた間、人が入ってきていたことにだよ。だからきみは、お金もぼくが置いたと考えた」

「……っ」

何かを言いかけ、言葉にする前にそれが崩れてしまった。そんな吐息が、鳴の口から漏れる。

「もちろん、ギャラリーに誰かが入れば――」

ぼくがそう口にした、ちょうどその時。
まるで示し合わせたようなタイミングで、ドアベルの音が聞こえた。
「はい、ごくろうさま」と天根さんが言う声がして、すぐにもう一度ドアベルが鳴る。
郵便配達か何かだったのだろう。

ぼくにとっては、地下でドアベルを聞いたのはこれが初めてのことだったけれど、その音は十分に聞き取れた。
聞き逃すはずがないほどに。

「……ね? ここにいれば、人が来たことには絶対に気づく。でもきみは気づかなかった。つまり……その時きみは、ここにはいなかったんだ」

ドアベルの音が届かない場所で、あの時鳴が移動できたのは、たったひとつ。

231: 2019/02/23(土) 21:09:01.53 ID:mQm9OJvR0
「島田さんがギャラリーに入ってきた時、きみは地下二階――隠し部屋にいた。人形を隠すために。だから音が聞こえなかった」

地下二階へと続く階段で、その先の隠し部屋で、空調の音は一際大きく、絶えず唸りを上げていた。
ドアベルの音など、そこではたやすくかき消されてしまうだろう。

「榊原くんも、ここの下には行ったんだもんね。……だったら分かる、か」

軽く髪を払い、鳴が言った。

<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>を訪れる人間は、決して多くはないという。
――だから、そんな都合のいいタイミングで誰かが来てたなんて、あるはずがない。
島田さんの来訪に気づかなかった鳴には、そんな先入観があったのだろう。

更に言うのなら、あの時点できっと、鳴にはもう分かっていたのだ。
この事件に、外部の人間はまるで関係がないということを。

――いないの。そんな人は。

だからこそ、彼女はあれほどきっぱりと言い切ったのだろう。――外からやってきた犯人などいない、と。
見当違いの方へ疑いの目を向けて暴走しかけていた、ぼくを止めるために。

232: 2019/02/23(土) 21:09:28.37 ID:mQm9OJvR0
「もう一度だけ、訊くよ。あの時きみが人形を隠したのは、ここの隠し部屋だった。……違うかな、見崎?」

さっきと同じ質問を繰り返す。
鳴は一瞬、足下に視線を落として、それから諦めたようにため息をつき、

「違わない。榊原くんの言うとおり」

そう、ぽつりと言った。

233: 2019/02/23(土) 21:10:07.74 ID:mQm9OJvR0
37

「あの日、きみはぼくをを三階に戻してから、まずは暖炉に入った。からくりを作動させるために」

「そう。それから人形を棺ごと隠し部屋に運んで、暖炉のスイッチを元に戻して……エレベーターであなたを呼びに行った」

回想するように中空を見つめながら、頬に手を当てる鳴。

「説明するだけなら、すぐなのにね。実際は棺を運ぶのが大変で、思ったより時間がかかっちゃったの」

「つまりきみがしたことは、それだけだった。あの人形を隠し部屋に持って行っただけ」

「……」

「だって中村青司の話の続きをするために、別の人形を壊して衝立の裏に隠す必要なんて、どこにもないからさ。……でもあの時、そこに人形は確かにあった。顔のない、もう一つの人形が」

階段の下に立つ衝立を指差す。

234: 2019/02/23(土) 21:10:41.93 ID:mQm9OJvR0
「もちろん、それは初めから衝立の裏に隠されていたわけじゃない。一昨日にぼくがきみと最初に話をした時、そこにまだ棺は置かれてなかった」

こんな風に座って鳴と話をしながら、ぼくは彼女の背後に立つ首なし人形を目にしていた。
二体ではなく、今と同じように一体だけ。
つまりその時、衝立の裏にはまだ棺ではなく、もう一体の首なし人形が存在していたのだ。

「だから棺はぼくがここを訪れた後、別の場所から運ばれてきたってことになるんだけど……そもそもさ」

ぼくの話にじっと耳を傾けている鳴に、言葉を向けた。

「あの壊された人形って、元はどこに置かれていたんだろうね。それとも、こう言った方がいいのかな。――あの人形は、一体何なのか」

235: 2019/02/23(土) 21:11:18.84 ID:mQm9OJvR0
答えが返ってこないのは分かっていたから、そのまま続ける。

「少し前まで、地下展示室には棺が二つあった。片方には、きみそっくりの人形。もう片方は空だった。その空っぽの棺の中に入って、きみはぼくにこう言ったよね」

――新しい人形が、この中に納められるみたい。

「ぼくが見つけた壊れた人形こそが、その『新しい人形』だったんだ。あの人形はもともと霧果さんの工房に置かれていて、それをあの日、誰かが壊してここへ隠した。きみがもう一つの棺を隠し部屋に隠したように」

そこまで言い終えた時、唐突に鳴が口を開いた。

「それだけで例の人形が元は霧果の工房にあったなんて、少し話が飛躍してると思うけど」

「どうして? この家で人形が創られる場所は、そこしかないんだよ」 

「でも、榊原くんはそれがいつ完成したのかまでは知らない。そうでしょ?」

236: 2019/02/23(土) 21:12:08.52 ID:mQm9OJvR0
素直に頷いた。

「それなら、完成したのは最近の話じゃなくて、それから霧果がどこかに移動させていた可能性だってある。それこそ地下の隠し部屋、とかね」

それからまた、鳴はいたずらっぽく右目を細める。

「だとすれば、人形を隠し部屋に持って行ったわたしには、その新しい人形を壊すことも、代わりにそれを地下展示室へ持ってくることだってできた。――わたしはまた、容疑者に逆戻りかしら?」

「いや、それはないよ」

「……どうして?」

「見崎は、棺の蓋の裏側って見たことある?」

237: 2019/02/23(土) 21:12:50.41 ID:mQm9OJvR0
脈絡のない問いに思えたのだろう。不思議そうな表情を浮かべ、鳴は頷いた。

「あるよ。もちろん」

「数字が彫ってあるよね、人形が創られた年の。今回きみが隠したあの人形は『1997』。そしてぼくが見つけた、壊れた人形の数字は『1998』。今年の西暦だ」

「それがどうかした?」

「一昨日にぼくが最初にここへ来た時、『1997』の人形はまだここに置かれていた。きみが言うとおり『1998』の人形がとっくの昔に完成していたのなら、霧果さんはどうしてそれをここに飾ってなかったのかな。まっすぐ隠し部屋に運ぶなんて、おかしいよね。あそこじゃ、誰も見てくれないんだから」

音は聞こえずとも、鳴が小さく息を呑んだのが動きで分かった。

「『1998』の人形が完成していない、つまり制作途中だったのなら、それはまだ霧果さんの工房にあったはずだし、仮に完成していたのなら、霧果さんはそれを『1997』の人形に代えて、地下展示室に飾っていたはず」

そして彼女は、役目を終えた「1997」を隠し部屋へと弔っていたことだろう。
それだけの二択なのだ。

238: 2019/02/23(土) 21:13:21.27 ID:mQm9OJvR0
「そして事実として、あの日の地下展示室には『1997』の人形が置かれたままだった。――つまり『1998』の人形があったのは、霧果さんの工房なんだよ」

「……」

肯定も否定もしないままに、鳴はぷいと顔を背けてしまう。

壊された「1998」の人形は、既にドレスも着ていたし、顔以外は「1997」と見分けがつかないほどだった。
だからぼくも勘違いをしたのだ。
おそらく未完成だったとはいえ完成間近で、後はわずかな仕上げの作業を残すだけだったのだろう。

「そろそろ教えてくれてもいいんじゃない。ぼくの考えていることが、合っているかどうか。……どうかな?」

体ごとあさっての方向を見たままの鳴にそう呼びかけたが、返事はない。
何かあるのかと思い、ぼくもつられて同じ方を向いてみたけれど、部屋の奥でカーテンが揺れているだけだ。

「……正解」

不意に、鳴の声がした。
振り向くと、彼女はいつの間にかこちらに顔を向けている。

239: 2019/02/23(土) 21:13:47.97 ID:mQm9OJvR0
「それは、認めるってこと? あの日、『1998』の人形はもともと、霧果さんの工房にあったって」

「ええ。あともう少しで完成だったって、霧果は言ってたかな」

「そっか。なら、見崎は知ってたんだ。『1998』の人形が完成して、『1997』の役目が終わる。――つまり、"お別れ"だってことをさ」

「……うん」

――この子とも、もうすぐお別れね。

霧果さんがそうであったように、鳴もまたこの家で繰り返してきたのだろう。
棺の中で眠る自分の写し身との、出会いと別れを。

「でも、これではっきりしたよ。やっぱり、見崎には無理だったんだね」

「何が?」

「『1998』の人形を壊して、地下展示室に隠すことがさ」

「……」

240: 2019/02/23(土) 21:14:21.23 ID:mQm9OJvR0
「ぼくがここに来てから壊された人形を見つけるまで、きみが工房のある二階に行くことは不可能だった。ぼくと一緒にいた時はもちろん、きみが一人きりで『1997』の人形を隠していた時も、きみはずっと地下にいて、エレベーターは一度も二階では止まらなかった」

エレベーターを使わずとも、階段で二階へ行くことは、確かにできた。
だが、あの時ぼくがエレベーターを監視していたことを、鳴が知っていたはずはない。
知らなかったのなら、ぼくに気づかれないよう階段を使うという発想は浮かばない。
だとすれば、例え物理的に可能だったのだとしても、そんな選択をすることは決してない。

――そして何より、ぼくにこう言われてなお、当の鳴自身がその可能性を指摘していない。
ぼくの言葉を受け入れているかのように、ただ静かにぼくの方を見やるだけだ。
この現状こそが、鳴が二階へ行くことはなかったという事実を如実に物語っている。

241: 2019/02/23(土) 21:15:01.30 ID:mQm9OJvR0
「だとすれば当然、『1998』の人形を壊したのも、それを工房から運んで衝立の裏に隠したのも、きみとは別の人がやったこと。そうなるよね。……なんだか、これを言うためだけに随分遠回りをした気がするよ」

衝立の裏で壊された「1998」の人形を見つけた時、もちろんぼくは驚いた。
だが、鳴はぼく以上に驚いていたはずだ。
自分が隠したものと同じ棺、同じドレスの人形が、あるはずのない場所から現れたのだから。

当然、それが別の人形だなんて考えはすぐに浮かばず、彼女はこう思ったことだろう。
誰かが、自分が隠し部屋に運んだ人形を壊し、ここまで持ってきたのだ……と。

――どうして、こんな……。

壊された人形を見て、こう口にした鳴。
それは人形が壊されていたことへの、"どうして、こんなことに"という驚きだと、ぼくはそう考えていた。

けれどそこにはもう一つ、別の意味があったんじゃないだろうか。
つまり、人形がそこに存在していること、そのものに対する――"どうして、こんなところに"という驚きが。

242: 2019/02/23(土) 21:15:41.05 ID:mQm9OJvR0
もっとも、これを鳴に言ったところで「国語の問題みたいで、あんまり好きじゃない」なんて言われそうだったから、言葉にするつもりもないのだけど。
言うべきは、揺るぎのない事実だけでいい。そしてそれも、残るはひとつ、だった。

「あの日、この家では……二人の人間がそれぞれ、別の人形を違う場所に隠していた。一人目は――見崎、もちろんきみだ」

ぼくとの勝負のため、ここに置かれていた「1997」を、地下二階の隠し部屋へ。
目を伏せ、頷くことはないまま、「そうね」とだけ鳴は言った。

「そして、もう一人。二階の工房に置かれていた『1998』を壊して、地下展示室に隠した――犯人」

この「犯人」という言葉を使うことに、今は少なからず抵抗があった。
なぜなら――。

「まず前提として、犯人はあの日、もともと家の中にいた人。人形のあった工房に繋がる二階の入口はきみが鍵を掛けていて、外からは入れなかったからね」

「外部の人でも、ギャラリーの入口から中に入ることはできたと思うけど?」

またしても、心にもないことを鳴は言う。承知の上で、ぼくもそれに応じる。

243: 2019/02/23(土) 21:16:25.12 ID:mQm9OJvR0
「確かにそうだけど、工房に行くまでが大変だよ? 一度地下に降りて、そこからエレベーターに乗ってまた二階に上がって……ってさ。そこまでする人は、そうそういないんじゃないかな」

「けれど、いなかったとは限らない。もし犯人がわたしに恨みを持っていて、わたしそっくりの人形を壊したいと思っていたのなら、その程度の苦労は平気ですると思うけど」

「……見崎って、そんなに人から恨まれるようなタイプだったっけ」

「さあ? 自分では気づかないものなんじゃない、そういうのって」

反論を並べながらも、言葉遊びを楽しんでいるかのように鳴の表情はどこか明るい。

「犯人が外部から来たとして、狙いがきみの人形を壊すことだったのなら……まあ、確かにそのくらいはしてもおかしくないのかもね」

「でしょう?」

「じゃあさ、犯行はいつ行われたの? さっきも言ったけど、ギャラリーから入ったのなら、二階へはエレベーターを使わないと上がれない。そしてエレベーターは、きみのお母さんが三階に来てからは一度も二階に行ってないんだよ」

244: 2019/02/23(土) 21:16:57.10 ID:mQm9OJvR0
「それなら……そう、霧果が来るより前だった。それだけの話でしょ」

テーブルの上で両手を組み合わせ、鳴は続ける。

「霧果が来る前ってちょうど、わたしと榊原くん、ずっとリビングで話をしてたよね? その時だったら、誰かが入ってきていても気づかない。霧果だって、そうだったのかも」

「ならその時に、きみに恨みを持つ人がギャラリーに侵入し、工房にまで行って人形を壊していった。そして犯人は、運良く誰にも見つからず帰っていった――って?」

「ええ」

ぼくの言葉にすんなりと鳴は頷く。

――その返事を、ぼくが待ち望んでいるとも知らずに。

245: 2019/02/23(土) 21:17:44.09 ID:mQm9OJvR0
「見崎。だとすれば、犯人が二階の工房に行ったはずはないよ。……いや、行く必要がなかったと言うべきかな」

「……どういうこと?」

「だってそうする前に、お目当てのものにありつけたんだからさ。まだきみが隠す前、地下展示室に置かれたままの――『1997』の人形に」

「……あ……」

「『1997』も『1998』も同じドレスを着て、同じ棺に入ってる。工房に行くまでもなく、目的は達成できたはずなんだ。……でも、『1997』は無事だった。外部の人間がきみの人形を壊すためにやってきたのなら、放っておいたはずがない」

そして鳴が「1997」を隠した後では、エレベーターはずっとぼくが見ていたし、ギャラリーに島田さんもいたのだ。
「1997」がある間は工房に行く理由が存在せず、「1997」が消えた後は工房に行くことができない。

「……だからやっぱり、外からやってきた犯人なんていないんだよ、見崎。あの時、きみが言ったように」

「……」

俯いたまま、鳴は答えない。
分かっているのだろう。犯人を示す道筋が、既に明らかになっていることに。

246: 2019/02/23(土) 21:19:11.68 ID:mQm9OJvR0
「今までの話で、犯人としての条件が二つ出てきたよね。一つ、もともと家の中にいた人。一つ、ぼくが来た後で、他の誰にも気づかれることなく工房と地下展示室へ行けた人」

事件の様相は、今となってはその形を大きく変えていた。
「被害者」である人形の取り違えが明らかになり、現場が工房だと判明した結果、
当初の犯行時間と目されていた時間帯――鳴が「1997」の人形を隠し始め、ぼくが「1998」の人形を見つけるまで――は、事件「後」であると分かったのだ。
その時間帯では鉄壁かに思えた"彼女"のアリバイは、もはや意味などない。

「その人は、ぼくときみがリビングで話をしている間、自由に動き回ることができた。……事件は、その時に起きたんだ」

犯人がリビングに現れた時にはもう、全てが終わっていた。

それからぼくと鳴がもう一度地下へ降り、鳴が「1997」の蓋を閉めた、あの時。
顔のない「1998」の人形は、既に衝立の裏に隠されていたのだ。
すぐ三階に戻ったぼくはもちろん、暖炉の仕掛けを作動させて更に地下へと降りた鳴も、その異変に気づくことが出来なかったのだろう。

「そして、犯人は――」

ぼくの言葉を遮るようにして、結論を言ったのは鳴だった。


「そう。――犯人は、霧果」

247: 2019/02/23(土) 21:20:36.15 ID:mQm9OJvR0
38

肘掛けに両腕を踏ん張って体を浮かせ、椅子に深く座り直す。
地下展示室は相変わらず暗い。
しかし今までここに流れていた、どこか鋭利な気配。
それが揺らいだように感じるのは、ぼくの気のせいだけではないだろう。

「全部、霧果がしたことだったの」

目を伏せて淡々と話す鳴の声にも、その変化は表れているようだった。

「……なんだか、ずいぶんとあっさりだね。見崎の方からそんな風に言い出すなんて、思ってなかったよ」

「だって榊原くんも、もう分かっているんでしょ。あの日わたしと榊原くんが話をしている間、霧果がずっと一人だったこと。……それとも、最後まで言わせてあげた方が良かった?」

「いや、別に。――見崎は、いつから知ってたの?」

「あの日……榊原くんが出ていった後にね。霧果に直接確認したの。あの人形がわたしの隠したものじゃないことは、すぐ分かったから」

248: 2019/02/23(土) 21:21:19.99 ID:mQm9OJvR0
「それは、蓋の裏側の西暦を見て?」

「確かにそれもあったけど、一番は時間。わたしが人形を隠してから榊原くんと一緒にここへ戻ってくるまで、五分も経ってなかったよね」

鳴のほっそりとした指が、左目の眼帯に添えられる。

「榊原くんも分かると思うけど、暖炉のスイッチを操作してから階段が出てくるまでって、結構時間がかかるの。それで階段を降りて人形を持ってきて、それを壊してまた階段を元に戻す……なんて、五分じゃ絶対にできないから」

「ああ……そういうこと」

「だからね、あの時――榊原くんに電話した時には、もう全部分かってた」

「やっぱり。何となくだけど、そうなんだろうなって気はしてたよ」

鳴が事態を把握できていなかったのは、ぼくが「1998」の人形を発見した直後の、わずかな時間でしかなかったのだろう。
一方のぼくは、ずっと混迷の中で惑い続け、抜け出したのはついさっき。

「電話で話した時は、どうしてちゃんと説明してくれなかったの? 『もう大丈夫』なんてだけ言ってさ」

くっと、鳴の口元が引き締まった。

「……あの時は、言っても余計に混乱させるだけだと思ったの。ほとぼりが冷めてからの方がいいって、そう思って」

249: 2019/02/23(土) 21:22:00.57 ID:mQm9OJvR0
「じゃあ、ぼくがこうしてきみに確認しなくても、いずれは教えてくれてた?」

無言のまま、鳴はこくんと頷いた。

「そっか。――霧果さんが犯人って言ったよね。どうして自分の人形を? もうすぐ完成だったのに」

「どうしても、出来に納得がいかなかったんだって。それでちょうどあの日、勢いあまって人形を壊してしまった」

そこで一度言葉を切り、ふっ、と息をついてから、後ろを振り向く。

「だから、人形を人目につかないここに隠したんだけど……その直後、わたしたちがよりにもよって、ここで人形探しを始めちゃって。――後は、榊原くんの知ってるとおり」

「ぼくが今日ここに来た時はもう、『1998』の人形は隠し部屋に置いてあったけど、それも見崎が?」

「そう。さすがにあのままにはしておけなくて。ギャラリーに来たお客さんが見ちゃったら、またややこしいことになりそうだったし。だからとりあえず、隠し部屋から『1997』の方をまた持ってきて、代わりに置いてたの。霧果も、そうしてって言うから」

250: 2019/02/23(土) 21:22:32.25 ID:mQm9OJvR0
実際に今日ぼくがこうして棺を開けてしまったのだから、鳴がそう危惧したのは正しかったのだろう。
もっともぼくにとっては、むしろ無傷の「1997」がそこにあったからこそ、真実に辿りつくことができた。
そういうことになってしまうのだけど。

「……なるほどね」

納得を込めて、ぼくはそう鳴に頷いてみせる。
こだまを返すように、鳴も深く頷いた。

「うん。……わたしの話は、これでおしまい」

後には、沈黙だけが残った。
お互い何も口にせず、身動きすることもなく、ただただ時間だけがゆっくりと流れていく。

251: 2019/02/23(土) 21:23:07.75 ID:mQm9OJvR0
――鳴の告白は、終わった。

もしぼくが「もう帰るよ」と言えば、鳴は何も言わず、ただぼくを見送ることだろう。
そして、もしもこのまま何もせずにいれば、たぶん、ぼくたちはいつまでもこうしていられる。
人形たちの"虚ろ"の中で。

目を閉じて、深く息を吸い込んだ。
"虚ろ"が肺に満ちていく。息を止めてみても、どこからも漏れることはない。
天井を見上げて、それを大きく吐き出す。

252: 2019/02/23(土) 21:23:40.24 ID:mQm9OJvR0
さて。
ぼくはついさっき、確かにこう語った。
ここで起きたことについて「確信がある」と。

その言葉に偽りはない。
鳴の告白を聞いた今もなお、それが揺らぐことはない。
だから今一度、ここで断言することにしよう。

253: 2019/02/23(土) 21:24:09.78 ID:mQm9OJvR0



「ねえ、見崎。――どうして、本当のことを教えてくれないの?」





鳴は、まだ嘘をついている。

254: 2019/02/23(土) 21:25:19.66 ID:mQm9OJvR0
39

空気が再び張りつめていく。

「本当の……こと?」

鳴の顔には、狼狽の色がはっきりと浮かんでいた。

「うん。だって、霧果さんが犯人のはずがないんだ」

「榊原くん、さっき自分で言わなかった? 犯人の条件が二つあって、それを満たすのは霧果しかいない……って」

「ぼくの話はまだ途中だった。それを遮ったのはきみだよ、見崎。霧果さんが犯人だって言ったのもね。――ぼくはそんなこと、一言も言ってないはずだけど?」

虚を衝かれたような表情を浮かべた後、呆れたように鳴は言う。

「……意地悪ね、榊原くんって」

冷ややかな視線を受け流しつつ、ぼくは続ける。

「犯人の条件は、さっき言った二つだけじゃなくて、もう一つあったんだ。その最後の一つに、霧果さんは絶対に当てはまらない」

255: 2019/02/23(土) 21:26:05.58 ID:mQm9OJvR0
「霧果が犯人だって、わたしが言ってるのに?」

「まあまあ。……でも、霧果さんのやったことにしては、ずいぶん変だとは思わない?」

「……べつに。自分の納得いかない作品をどうしようが、霧果の勝手だし」

「そこじゃなくて、その後がさ」

「人形を隠したこと? それも、当然の行動だと思うけど。工房に置いたままじゃ、誰かが来た時にすぐ見つかってしまうもの」

「――その"誰か"って、誰?」

「えっ?」

「事件のあった一昨日、工房は休みでお客さんが来るはずはないし、天根さんも不在だった。まあ、実際にはぼくが訪問していたんだけど……きみのお母さんは、リビングに来て初めてぼくに気づいたわけだからね」

それより前に人形を壊したその時点で、ぼくが工房に来ることを予期できるはずはない。

256: 2019/02/23(土) 21:26:51.81 ID:mQm9OJvR0
「他に工房に行きそうな人と言えば、向かいに部屋がある……きみかな、見崎。でもきみはぼくに言ったはずだ。『工房にはめったに入らない』って」

「……」

「避けるべき人目なんか、どこにも無かったんだ。霧果さんなら、そんなことはよく分かっていたはずだよね? 人形を工房に置いたままでも、全く問題は無いってことを」

黙ったままぼくの話を聞いていた鳴が、静かに口を開いた。

「榊原くん、一番大事な人を忘れてない?」

「誰のこと?」

「霧果本人。他ならぬあの人自身が、人形を自分の目の届く範囲に置いておきたくなかった。――あの人形が、失敗作だったから」

そしてほんの少し、首を傾げて微笑んだ。艶のある黒髪が、さらりと揺れる。

「それなら……工房から移動させても不思議じゃない、でしょ?」

「……ふうん。それならまあ、確かにね」

「じゃあ――」

「でも、そこに隠したのはやっぱり変だよ」

人差し指をまっすぐ鳴に――彼女の向こう側、棺の置かれていた場所に――向ける。

257: 2019/02/23(土) 21:27:41.18 ID:mQm9OJvR0
「そんな、すぐ見つかるような場所に隠すなんてさ。だからぼくなんかが、うっかり見つけちゃうんだし」

「それは、偶然そうなっただけじゃない? 元を正せば、榊原くんがギャラリーに入れたのだって、そうだと思うけど」

「うん、それはぼくもそう思う。ぼくが人形を見つけてしまったのはたまたまで、ある意味では運が悪かったからだって。でもね見崎、ぼくが言いたいのは……そこに隠すくらいなら、もっといい場所があったんじゃないかってことなんだ」

ぼくがいくら探したところで絶対に見つかるはずのない場所が、ここにはあったのだから。

「見崎。実際にそこを使った、きみなら分かるはずだよ。――この地下にある、隠し部屋。霧果さんはどうして、人形をそこに持って行かなかったんだろう?」

細く白い鳴の喉が、かすかに上下した。

「だって、『1998』の人形が霧果さんの指示でさっきまで隠し部屋にあったってことは、霧果さんは失敗作をあそこにある他の人形たちと一緒にしたくなかった、ってわけでもなさそうだしさ」

仮にもしそうだったとしても、「1998」の棺だけを隠し階段の途中や例の部屋の前に置けば済む話だろう。

258: 2019/02/23(土) 21:28:20.55 ID:mQm9OJvR0
「それに工房と同じで、隠し部屋にもきみが行くことはほとんどなかったんだよね? ……それとも、あの日ぼくらが人形探しをすることを、きみはお母さんにこっそり話してた? まさかね」

鳴が答えるはずもないと分かっていたから、自分ですぐに否定する。
言うまでもなく、ぼくが来てから鳴にそんなことを伝える余裕は無かった。

「つまりあの隠し部屋だって、この上なく"人目につかない場所"だったんだ。一昨日はきみが暖炉の仕掛けを実際に動かしてるから、機械に不具合があった、なんてこともない。当然、仕掛けを使うことは可能だった。――霧果さんが犯人なら、どうしてそれを使わなかったのかな」

鳴は俯き、答えない。
答えられないのだ。
不用意に口を開けば、それすらも命取りになる。
それほどまでにぼくは今、核心へと迫っているのだから。

「……ねえ見崎、気づいてる?」

沈黙を続ける鳴に、ぼくはゆっくりと語りかける。

「霧果さんなら、霧果さんなら……。全部、"霧果さんが"犯人だと考えるから、上手くいかないんだよ」

259: 2019/02/23(土) 21:29:00.63 ID:mQm9OJvR0
「……それは……」

かろうじて聞き取れるほどの音量で、ようやく鳴の声がした。

「けど、霧果さんじゃないのなら、そうしたっておかしくはない。つまり、"この家の事情を知らない人"なら、ね」

俯いていた鳴が、顔を上げる。

「壊した人形を工房から移したのは、向かいの部屋を使うきみが入ってくるのを恐れたからだし、隠し部屋を使わなかった理由は――言うまでもないよね。そもそも犯人は知らなかったんだよ、そんなものがこの家にあるなんて」

だから、人形をあそこに隠すしかなかった。
犯人にとっては、あれが最善の隠し場所のつもりだったのだ。

260: 2019/02/23(土) 21:29:35.69 ID:mQm9OJvR0
「この家のことを、よく知らない人。――それが犯人としての、最後の条件だよ。ここに住んでる霧果さんが、犯人であるわけがない」

「……それなら」震える声で鳴が言う。「それなら、榊原くんは一体誰が犯人だって言うの? わたしでもあなたでもなく、霧果でもないなら……もう、誰もいない」

振り絞るようにして、ついに彼女はそう言った。
カウンターを喰らうことが分かりきった、まるで身投げに等しい反論。
それを口にしてしまえば、もうどこにも退路はない。

だとすれば後はもう、ひと思いに叩きつけてやるだけだ。
鳴が最後の最後まで守りぬきたかったであろう、真実を。

261: 2019/02/23(土) 21:30:28.54 ID:mQm9OJvR0
「いいや、ぼくの言うことは変わらないよ。犯人はぼくときみがリビングで話している間に、人形を壊すことが出来た人だ。それが出来たのはたった一人で、もちろん霧果さんじゃない」

続けざまにぼくは、とどめの言葉を口にする。

「……それでも犯人は間違いなく、"きみのお母さん"なんだよ、見崎」

鳴の右目が、大きく見開かれた。

それからぼくは、部屋の奥へと大きな声で呼びかける。
さっきから時折カーテンが揺らめいていること――そこに誰かがいることに、ぼくも鳴もとっくに気づいていた。



「――そうですよね? 藤岡美津代さん」

262: 2019/02/23(土) 21:31:18.37 ID:mQm9OJvR0
40

両手をテーブルに突き、身を乗り出すように鳴が椅子から立ち上がる。
がたん、と大きな音がした。

「どうして」呆然とした様子で言う。「どうして、榊原くん」

信じられないという表情で、同じ言葉を繰り返す鳴。
それに気を取られ、カーテンに向けていた視線が外れる。

そして再び顔を戻せば、もう既に、"彼女"はそこに立っていた。
それからゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる。

彼女がテーブルの近くまで来てようやく、ここには椅子が二つしかないことにぼくは気がついた。
立ち上がりかけたぼくに、

「いいの。そのまま座ってて。あなたはお客さんなんだから」

と彼女は笑いかける。

263: 2019/02/23(土) 21:32:02.09 ID:mQm9OJvR0
同じく鳴が場所を譲ろうとしたけれど、やはり「いいから」と言われて終わった。
自分だけが腰を下ろしている状況に居心地の悪さを感じつつ、それでもぼくは問いかけた。

「いつから、そこにいたんですか?」

「十分くらい前から、かしら」

つまり、ぼくと鳴がこちらに移ってからの会話は、ほぼ全て耳にしていたことになる。

「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったの。でも、あなたたちの会話に割って入るのも悪いと思って」

申し訳なさそうに言う彼女は、この前と同じようにエプロンをつけていた。
適当なところで料理を切り上げ、すぐこちらに来ていたのだろう。
というより、そもそもぼくが呼んだから彼女は来たのだ。

そう、ぼくが呼んだのは間違いなく"彼女"の方だ。
一昨日も、そして今日も、この家にいたのは霧果さんではなく、彼女――美津代さんだったのだから。

頭では分かっていても、こうして目にするとやはり混乱してしまう。
それほどまでに似ているのだ。

264: 2019/02/23(土) 21:32:41.26 ID:mQm9OJvR0
「霧果さんは、今どこに?」

「紅太郎さんと一緒に、東京にいるはずよ。仕事の都合で、夫婦で出席しなきゃいけないパーティーがあるんですって。――大変よね。そういう業界の付き合いって」

ここにいるのが藤岡美津代であることを前提にしたぼくの質問にも、すんなりと彼女は答えた。
しらを切るつもりは、どうやら初めから無いらしい。

「予定だと一週間、向こうにいるのよね?」

美津代さんに問われ、ややあって鳴はこくりと頷く。

「……うん。出発したのがこの前の水曜日だから、たぶん明日には戻ってくる」

「それで、その間は工房がお休みなのよ。もしかしたらもう、看板の張り紙を見てるかもしれないけど」

「……ええ。確かに見ました」ぼくは頷く。「美津代さんはその間、家のことを霧果さんから頼まれたんですか?」

「まさか」彼女は笑って手を振る。

「由紀代は私に、わざわざそんなことを伝えたりはしないわ。――連絡をくれたのは、鳴よ。もっともこの子だって、それだけなら電話してこなかったかもね」

265: 2019/02/23(土) 21:33:28.28 ID:mQm9OJvR0
美津代さんの言う通り、霧果さんが不在になったところで、身の回りのことくらい鳴は自分でやるだろう。
唯一不安が残るのは料理だが、天根さんがいればそれも――。

「ああ」それで合点がいった。「天根さん、ですか」

「そういうこと。伯母さまが腰を痛めて、さすがに私の助けが必要になったというわけ。医者に連れて行くにも、やっぱり車がないとねえ」

頬に手を当てて、彼女は鳴の方を見やる。

「それに由紀代が戻ってくるまで、ご飯くらいは作ってあげようかなって」

当の鳴は、美津代さんの視線をかわすようにしてぼくを見た。
そこまでは頼んでないのに、とでも言いたげではあったけれど、それを敢えて口にはしない程度には、感謝もしているのだろう。

「じゃあ、ここには毎日通っているんですか?」

「ええ。主人から許可は貰ってるけど、だからってほったらかしにはできないもの。今日だって夜ご飯を作り終えたら、家に戻るつもり」

そう話す美津代さんの耳に、イヤリングが揺れている。思えば、一昨日もそうだった。
霧果さんにしては珍しいと思った、着飾った装い。
ぼくは外出の予定でもあるのかと考えたけれど、確かにそれは当たっていた。

ただし彼女――美津代さんは、あの時もう、既に外出中だったのだ。
自分の家から、ここ"夜見山の人形館"へと。

266: 2019/02/23(土) 21:34:10.51 ID:mQm9OJvR0


この家が現在置かれている状況については、これでずいぶんとはっきりした。
けれど、それはあくまで外郭でしかない。核心は自分の手で突くしかないようだ。

「改めて、確認させてください。一昨日、人形を壊したのは……美津代さん、あなたですよね」

「……ええ。驚かせてしまって、ごめんなさい」

「理由を訊いても、いいでしょうか?」

覚悟を決めてぼくが言うと、美津代さんの顔からすっと表情が消えた。
こうなると、ますます霧果さんそっくりだな――と、ひどく場違いなことを思う。

「その前に。……一つ、いいかしら?」

冷たさすら感じる声で、彼女は言った。

「何ですか?」

「私が由紀代じゃなくて藤岡美津代だってことは、素直に認めるし、誤魔化すつもりも無いわ。それを断った上で、興味があるから訊くのだけど……」

そう言って、今度は淡く微笑む。
鳴がよくする表情だ。

「もし私が、『自分は霧果だ』って言い張ったら、あなたはどうするつもりだったの? 私たちの区別がついたかしら?」

267: 2019/02/23(土) 21:34:52.88 ID:mQm9OJvR0
自信に満ちた口調だった。
彼女の顔を見れば見るほど、それに気圧され、迷いが生まれていくのが自分でも分かる。
――だから、見てはいけない。
似ているところばかり見ていれば、惑うのは当たり前だ。

「……確かに、あなたと霧果さんはよく似ています。正直なところ、こうして対面していると、今ぼくが話しているのはどちらなのか、自信が無くなってくるくらいです。でも……」

喋る勢いに任せるようにして、とうとうぼくも椅子から立ち上がった。

「実際にやるかどうかは別として、お二人を見分ける方法なら――あります」

「へえ?」興味を惹かれたように、美津代さんの眉が持ち上がる。「ひょっとして、人形を創れとでも言う気? 確かに私は、由紀代みたいに器用じゃないけど」

「それよりもっと簡単で、間違いの無い方法です。――そういう意味では、お二人を見分けるのは『見崎鳴と藤岡未咲を見分けろ』と言っているのに等しいんじゃないでしょうか」

ぼくの言葉に、鳴がまた驚愕の表情でこちらを見た。
美津代さんに、彼女――藤岡未咲の話は禁物だ……ということか?

268: 2019/02/23(土) 21:35:30.66 ID:mQm9OJvR0
だが、美津代さんは特に気にしたふうでもなく言う。

「鳴と、未咲? それなら簡単でしょうね。どんなに顔がそっくりでも、眼帯をしている方が、鳴。それだけの話だもの」

その言葉に誘われるようにして、鳴が眼帯に手を当てる。
自身と妹を区別する"印"に。

「でも、私も由紀代も眼帯なんてしていないけど?」

「確かにそうです。ですけど、お二人にも決定的な違いがあるんです。それこそ、眼帯にも等しい違いが」

まるで思い当たることが無いとでもいうように、美津代さんは右手を口元にやり、深く考え込んでいる。
ぼくの言葉をじっくり吟味しているのか、人差し指だけが一定のリズムで動いていた。

「……不思議ね。自分たちのことなのに、全然ぴんと来ないなんて。私や由紀代の体に、印でもついて――」

彼女の言葉が、何かに気づいた表情と共にそこで途切れる。
やがて、ぽつりと呟いた。

「……そう。そういうことなのね」

「そうです」ぼくは頷く。「美津代さん、あなたの体にはあるんです。霧果さんにはない"印"――手術痕が」

269: 2019/02/23(土) 21:35:58.62 ID:mQm9OJvR0
今年の初め、彼女は病院で手術を受けた。
自らのためではなく、娘――藤岡未咲を救うための腎臓移植手術を、ドナーとして。
当然、その傷痕が彼女にはあるはずだ。

「ええ、確かにその通り。……あなたは今ここで、それを確認するつもりかしら?」

すぐに首を振って否定する。

「いえ。ぼくはただ、質問の答えを示しただけです。あなたと霧果さんを見分ける方法は、間違いなくあると。それでこの話は終わりです。……後はその、また別の問題なんじゃないかと」

「ああ、だからあなた、ああいう言い方をしたのね」おかしそうに美津代さんが笑う。「そうでなきゃ、私に服を脱げって言ってるようなものだもの」

おかしさが次々とこみ上げてきているのか、くすくすという彼女の笑い声は尾を引くように続く。
それが治まりかけてきた頃、

「……そうね」

と、これはひどく弱々しい声で。

「確かに私、手術を受けたわ。自分のことなのに、すっかり忘れてた。――あまりにも、意味が無かったから」

270: 2019/02/23(土) 21:36:29.94 ID:mQm9OJvR0
ああ――と、今更ながらにぼくは思う。
いくら話すきっかけを作ったのは美津代さん自身でも、やはりこのことは口にするべきではなかったのかもしれない。
言えば当然、こういう話になってしまうのは分かりきっていたのに。

「病院の先生は、『これで大丈夫』って言ってくれてたのにね。どうしてなのか、原因は結局分からなかった。でもきっと……私のせい、なんでしょうね。あの子に腎臓をあげた私に原因があったから、きっと」

それは違うと、そう言えたらどんなに楽だったろう。
悪いのは<災厄>で、移植手術に問題があったわけでも、ましてや美津代さんのせいでもないと、今ここでそう言えたら。
けれど、仮にぼくがそう説明したところで、それはいかにも子供じみた、優しく陳腐ななぐさめの嘘。
そういう風にしか受け取ってもらえないことだろう。

それにもし、美津代さんが<災厄>の存在を信じてくれたとしても、それが何になる?
彼女はきっと、今度は夜見山に戻ってきたことに責任を感じてしまうだけだ。

もし彼女の悲しみを癒せるとすれば、それは藤岡未咲だけ、だろう。
氏んでしまった彼女が、戻ってくることだけが。
そしてそれは、言うまでもなく不可能で。

271: 2019/02/23(土) 21:37:11.13 ID:mQm9OJvR0
鳴はきっと、だから彼女に何も言わないのだ。
<災厄>が終わってからももちろん、こうしている今だって。
悲しそうに微笑む美津代さんをただ、無言のまま見つめている。

その表情はいつもと変わらないはずなのに、その裏では様々な感情がうねり、溢れ出しそうになるのを必氏で押しとどめている。
そんな揺らぎを、確かに感じた。
……鳴がじっと耐えているのに、ぼくが先に音を上げてしまうわけにはいかない。

沈黙の中、美津代さんが再び口を開く。

「……あなたの質問に、そろそろ答えないとね。私がどうして、由紀代の人形を壊したのか」

そう話す声の調子は、もうすっかり元に戻っていて。

「私、由紀代の創る人形は好きよ。双子なのに、あの子にだけあんな才能があるなんてずるいって、昔はよく思ったりもした。お互い結婚して離れて暮らすようになって、今までここに来ることも無かったんだけど」

地下展示室をぐるりと見回しながら、並ぶ人形たちにも語りかけるように言う。

「今回たまたま、こうしてじっくり見てみる機会ができて、やっぱり素敵だなって思ってね。悪いとは分かってたけど、こっそり工房にも入ってみたくなったの。そしたら工房の中に棺があって、蓋が閉まってたから、気になって……開けてみた」

272: 2019/02/23(土) 21:37:43.88 ID:mQm9OJvR0
その時の光景が甦ってきたのか、彼女の言葉がそこで止まる。
痛みに耐えるよう目を閉じて、静かに言った。

「――未咲だった」

「えっ?」

「中にいたのは未咲だった。あの子が棺の中で……眠ってた」

未咲。未咲というのは、つまり。

「……藤岡未咲さん?」

「もちろん、中にいたのは人形よ。でも、顔がね。――あなた、『1997』の人形は見たことある?」

カーテンに隔てられ今は見えない、ぼくにとっては一番なじみの深い人形。

「それは……あります。何回も」

「あれは、誰だと思う?」

まっすぐ突きつけられるような問いに、言葉に窮する。
様々な思考が駆け巡ったが、素直に、思ったままを答えることにした。

「見崎――見崎鳴に見えます。少なくとも、ぼくには」

273: 2019/02/23(土) 21:38:17.18 ID:mQm9OJvR0
そう答えながら、自然と顔は鳴の方を向いていた。
変わらぬ沈黙を保ったまま、彼女は身じろぎひとつしない。

「……そう。あなたがそんな風に感じたのと同じように、私は工房の人形を見て、未咲だって思った。……そういうことだったと、思うんだけどね」

「ですけど、霧果さんにとってあの人形は――」

「ええ。それも、後で鳴に教えて貰ったわ。鳴でも未咲でもなく、由紀代自身の子供……。そうなんでしょう?」

「はい。……そうだよね、見崎」

二人分の視線と言葉を向けられ、さすがに何かを言わねばならない気になったのか、鳴はひとつため息をつき、

「わたしはあの子たちのこと、わたし自身だって思ったことは一度もないよ」

とだけ、言った。

「私が『1997』の人形を見た時も、確かに似てるとは思った。でも、それはどちらかと言えば鳴に……ううん、そもそも具体的に誰かなんてことは考えなかったわ。漠然と『似てる』って思っただけ」

自らの感情をなんとか言葉にしようともがいているのか、美津代さんは額に手を当てて言う。

274: 2019/02/23(土) 21:38:55.61 ID:mQm9OJvR0
「そして工房で見た人形も、『1997』と顔が大きく違うとか、そういうことはなかったと思う。ドレスだって同じものを着ていたし。……それなのに、その時は思ったの。『ああ、これは未咲だ』って。それが分かった途端、頭が真っ白になって……気づいた時にはもう、壊してしまってた」

「……」

「未咲だったから。それが、私が人形を壊した理由なの。……でも私は、あるはずのないものを見て、ひとりよがりな勘違いで取り返しのつかないことをしてしまったのね。そもそも、工房に入ったのだって勝手にしたことなのに」

自分自身への失望を示すように、ゆるゆると首を振る。

「由紀代が戻ってくれば、隠し通せないのは分かってた。だからせめて、それまでの間――ここで鳴といられる間は秘密にできたら、そう思って隠したのだけど……結局、すぐに見つかっちゃって」

そうしてゆっくりと、彼女は頭を下げた。

「あなた――榊原くんにも、鳴にも、それから由紀代にも……私のせいで、とんでもない迷惑をかけてしまったわ。……ごめんなさい」

そこから美津代さんが顔を上げるまでの、沈黙の時間。
実際にはほんの数秒でしかなかったのだろうけど、頭の中では多くの思考が巡った。

275: 2019/02/23(土) 21:39:28.44 ID:mQm9OJvR0


人形を壊した理由は「未咲だったから」と、美津代さんはそう言った。
彼女からそれ以上の説明はなかったのだから、この言葉はそのまま受け止めるべきであって、
部外者であるぼくがあれこれ解釈を試みるのは、それこそ野暮というものなんだろうけど……。
それでもぼくが、理屈をつけるとするならば。

たぶん――美津代さんには耐えられなかったのだ。
「1998」の人形……彼女にとっての「藤岡未咲」が、この家に存在していることが。

自分の娘が――それも二人とも――霧果さんの側にいる。
我が子を喪った彼女の悲しみを埋め合わせるために。
それなのに、同じように娘を喪った自分の元には誰もいない。
なにもない、空っぽ――"虚ろ"。

276: 2019/02/23(土) 21:39:57.19 ID:mQm9OJvR0
美津代さんはあの日、ほんの一瞬だけ、工房でそんな"虚ろ"に取り込まれてしまったのだろう。
そして今、そのことを深く悔いている。

だからこそ、彼女は多くを語ろうとしないのだ。
ぼくが考えていることが正鵠を射ているとして、もしそれを詳らかにしてしまえば、
その言葉はきっと、鳴を傷つける刃にもなってしまう。
本意では決してなかったにしても、かつて鳴を手放す決断をしたのは、美津代さん自身でもあるのだから。

……そして、今。
美津代さんの中では、もう既に結論が出ている。
霧果さんが人形を通して見ているのは、鳴でも未咲でもなく、全く別のもの。
だから自分が人形を「未咲だ」と感じたのは、単なる気の迷いであったのだ……と。

それならそれでいい。
けれども一方で、ぼくの中にある考えが浮かびつつあるのも事実だった。
今回の真相が分かってからというもの、ぼくがひそかにずっと抱き続けてきた疑問。
その疑問への答えとなりうる、一つの考えが。

277: 2019/02/23(土) 21:40:27.05 ID:mQm9OJvR0
「1997」と「1998」、二つの人形。
ぼくが一番初め、鳴と人形探しをした時にこの二体を取り違えてしまったのは、
彼女たちが同じ色、同じデザインのドレスを着ていたからだ。

――だがそもそも、どうして二体とも同じドレスを着ていたのだろう?

隠し部屋で目にした他の人形たちはみな、色とりどりのドレスに身を包んでいた。
もちろん、あれだけの数があればどうしても色の系統が似通ってくるものこそあったけれど、
少なくとも二年続けて全く同じドレス、ということは決してなかった。
……それなのに。

この二体だけが、全く同じドレスを着ている。
むろん、そこには創り手である霧果さんの意図があると、そうは思っていたけれど……。
それが一体何なのか、具体的なところはまるで見当もつかなかった。
しかし美津代さんの話を聞いて、思い当たる可能性が一つ。

278: 2019/02/23(土) 21:40:54.05 ID:mQm9OJvR0
今までぼくは、霧果さんが「1998」を完成させたのなら、それを地下展示室に飾り、
「1997」は隠し部屋の方へ運ぶのだろうと、そう考えていた。
「お別れ」を感じていた鳴も、たぶん同じように思っていたのだろう。


――もし、そうではなかったとしたら?

279: 2019/02/23(土) 21:41:25.85 ID:mQm9OJvR0
ぼくが考えている可能性。
それは、霧果さんが「1997」と「1998」を並べて展示するつもりだったのではないか、ということだ。

同じ棺に入った、同じドレスの人形が二つ並ぶ。
それを目にした人は、果たしてどう感じるだろう?
ただ単に、「同じ商品が二つ並んでいる」としか思わないだろうか?

ぼくはそうは思わない。
霧果さんの人形を見てそんな風に感じることは、きっとできない。
油断しているとふと、"彼女たち"と呼んでしまいそうなくらいに"個"を持った人形なのだ。
きっと、こう感じることだろう。――ああ、この人形たちは「双子」なのだな、と。

280: 2019/02/23(土) 21:42:21.94 ID:mQm9OJvR0
だからこそ、霧果さんは二体に同じドレスを着せたのではないか。
双子の姉妹。姉と妹。
区別する方法は言うまでもない。
先に創られた「1997」が「姉」で、「1998」が「妹」だ。
そして、同じく双子である見崎鳴と藤岡未咲の姉妹のうち、「妹」、つまり「1998」であるのは……藤岡未咲の方。

霧果さんが何を思い、「1998」を創ったのか。
それは本人にしか分からない。
だが藤岡未咲の訃報は、霧果さんの耳にもきっと届いていたはずで。

そしてもし、霧果さんに彼女の氏を悼む気持ちがあったとしたら。
霧果さんは、それをどうやって表現するだろう?
……やっぱり彼女は、人形を創るんじゃないだろうか。

281: 2019/02/23(土) 21:42:53.45 ID:mQm9OJvR0
ぼくにはもう、壊されてしまった「1998」の顔を見ることはかなわない。
けれどそう、"彼女"だけは本当に。
鳴でも、ましてや霧果さんの子供でもなく本当に、藤岡未咲だったのではないか。
そして美津代さんは不幸にも、それを無意識に感じとってしまったのではないか。


……そんな考えが、どうしても消えてくれないのだった。

282: 2019/02/23(土) 21:44:20.22 ID:mQm9OJvR0
41

これまで流れていた静かなチェロの旋律がちょうどその時終わり、次に流れ出したのはピアノのメロディ。
ああ、これはぼくも前にどこかで聴いたことがある。
確か曲名は――ドビュッシーの「夢」。

それがきっかけになったのか、美津代さんが天井を振り仰ぐ。

「だいぶ長居してたみたいね。ご飯が遅くなっちゃうから、私はそろそろ上に戻るわ」

ことさらに明るい声を作るようにして、彼女はそう言った。
何の集まりと形容していいか分からないこの場も、そろそろお開きの頃合い、といったところだろう。

ぼくも、遅くならないうちに家に帰らないと。
土曜日のことがあったのに、また祖母に心配をかけてしまうのは避けたかった。

「……すいませんでした。長々と時間を取らせてしまったみたいで」

「いいえ。私がしたことだもの。むしろ私が、あなたに手間を取らせてしまったの。ごめんなさいね。――それにしても」

「?」

「榊原くん、あなた何でも知ってるのね。私と由紀代のことも、鳴や未咲のことも。……まさかそこまで知ってるなんて、思ってもみなかった」

283: 2019/02/23(土) 21:44:58.13 ID:mQm9OJvR0
「ああ、それは……前に教えてもらってたんです、見崎に」

「やっぱり、そういうことよね。鳴、あなたにそこまで言ってたんだ」

ぼくはそこで「ね?」と同意を求めて鳴を見たのだが……。
鳴はまた、呆然とした表情でぼくを見るばかり、なのだった。

今まで鳴が殆ど見せたことのないそんな表情を、ぼくは今日だけで何度目にしたことだろう。
ぼくの言っていることが自分の理解を超えているとでも言いたげな、鳴の顔を。
鳴がなぜそんな顔をしているのか、ぼくには分からない。

そんな鳴に「ねえ」と呼びかけたのは、美津代さんだった。

「鳴、私が言えたことじゃないけど……榊原くんには、最初から全部話しても良かったんじゃないかしら」

「どういうことですか?」

「土曜日に初めてあなたに会った時はね、たぶん私を由紀代だって勘違いしてるんだろうなってことは分かったけど、そのままにしてしまったの。私たちのこと、どのくらい知ってるのかも分からなかったから」

「でも」という言葉に続けて、驚くべき事実を彼女は口にする。

「それから私が壊した人形が見つかって、あなたが帰った後……鳴に言われたわ。――あなたには何も言わないでって。私が由紀代じゃないことも含めて、全部」

284: 2019/02/23(土) 21:45:45.40 ID:mQm9OJvR0
「えっ?」

「だから私は、『ああ、榊原くんは何も知らないんだ』って思ったの。でも……そうではなかったんでしょう?」

もちろん、そんなはずはない。ぼくは全部知っていた。
霧果さんのことも、美津代さんのことも、藤岡未咲のことも。
そうでなければ、ぼくが真実に辿りつけるはずがないではないか。

鳴がひた隠しにしておきたかったこと。
それは言うまでもなく、今この家にいるのが霧果さんではなく、美津代さんだったということだろう。
だから今日だって鳴は一度、霧果さんが犯人ということにして話を終わらせようとしたのだ。
今の美津代さんの言葉で、それは一層はっきりした。

……だけど、なぜそうまでしてぼくに隠そうとしたのだろう?
もしぼくが何の事情も知らない、完全な部外者だったらそれも当然のことではあるけど……。
しかし霧果さんが鳴の本当の母親ではないこと、そして美津代さんの存在は、ぼくにとってはもう既知の事実だったのだ。
他ならぬ鳴本人が、合宿でそのことをぼくに教えてくれていたのだから。

285: 2019/02/23(土) 21:46:19.86 ID:mQm9OJvR0
言葉を変えれば、全てを知っているぼくが真相に気づくのは時間の問題だった、とも言える。
少なくとも、いつまでも隠し通せるものではなかったことは間違いない。

なのに、なぜ?

……やっぱり、分からない。
考えれば考えるほど、苛立ちにも似た感情がぼくの中で、ただただ積み重なっていく。

美津代さんは「何でも知ってる」なんてぼくに言ったけど、買いかぶりもいいところだ。
ぼくにだって、分からないことくらいある。そう、こうしている今だって。
事件が終わった今だってまだ、分からないことだらけではないか。

286: 2019/02/23(土) 21:46:46.18 ID:mQm9OJvR0
これ以上考える気力は、ぼくの中でとうに失せていた。
降参だ。
これはきっと、ぼくには解けない問題なのだ。
そして分からないのなら、後はもう訊くしかない。

「……見崎」

曲が山場を迎え、叩きつけるようなピアノの音が響く中、ぼくは鳴に問う。

「どうして教えてくれなかったの? ぼくに、初めから全部を」

強く訴えかけるような口調になってしまわないよう、必氏に自分を抑えた。
これがただのわがままであることくらい、ぼくにも良く分かっていたから。

いくらぼくが多少なりとも事情を知っているとはいえ、それで鳴がぼくに全てを話す義理があるわけでもないし、
今回のことにしたって、美津代さんのことを明かすかどうかは当然、鳴の自由。
いまぼくが口にしていることは、八つ当たりもいいとこだろう。
……でも一方で、そうは割り切れないぼくがいるのも、また事実なのだった。

287: 2019/02/23(土) 21:47:13.54 ID:mQm9OJvR0
――信じて。

あの合宿の夜、ぼくは鳴の言葉を信じたのだ。
だから今度は……そう。
ぼくは鳴に、ぼくのことを信じてもらいたかったのだろう。最初から、全てを説明してもらいたかった。
まるで見返りを求めているみたいだったし、あまりにも身勝手な感情で、自分で自分に嫌気が差しそうになる。

なるけれど……どうしても、そんな風に考えてしまうのはやめられそうにない。

俯いた鳴の唇から、「榊原くん」と呟きが漏れた。

「わたしが何を秘密にしておきたかったのか、分かってるの?」

「なんとなくはね。でも、理由についてはまったく」

「……そう」

それからもう一度、「榊原くん」とぼくの名を呼ぶ。

288: 2019/02/23(土) 21:47:43.54 ID:mQm9OJvR0
「わたしがあなたに隠そうとしてたのはね……今ここにいるのが、霧果じゃなくて美津代だってこと」

「……うん」

だから、どうしてそれを――とぼくが口にするより早く、「それから」と鳴が言う。

「美津代がわたしの本当のお母さんで、霧果は本当の母親じゃないこと」



…………え?

289: 2019/02/23(土) 21:48:14.33 ID:mQm9OJvR0
「わたしと未咲が本当は双子だってこと。……そして<災厄>が、本当は四月から始まっていたこと」

耳を疑う間にも、鳴はつらつらと言葉を並べていく。
待て。待て待て。待ってくれ。

「わたしが隠していたことはもうとっくに、全部あなたに知られてた。――どうして? なぜあなたが知っているの?」



――鳴は一体、何を言っているんだ!?

290: 2019/02/23(土) 21:48:43.03 ID:mQm9OJvR0


「どうして、って……それはきみが合宿で、ぼくに教えてくれてたからじゃないか。そうだよね?」

鳴は強くかぶりを振る。
その仕草には、揺るぎようのない確信が伴っていた。

「そんなこと、してない。だってあの時、榊原くんは――」

そこから先の鳴の言葉は、もうぼくの頭には入ってこなかった。
話を聞いていた美津代さんが何かを確認するように鳴に語りかけ、それに鳴が答える。
そんなやり取りも、異国の会話のようにしか聞こえない。

――ぼくがとっくに知ってる鳴の事情を、彼女は秘密にしようとしていた?
意味が分からない。そもそもぼくがそれを知ったのは、他ならぬ鳴からなのに。
しかもそれを、鳴は覚えてもいないだって?

291: 2019/02/23(土) 21:49:10.62 ID:mQm9OJvR0
何かがおかしい。それも、致命的に。
ぼくと鳴の認識が、まるで噛み合っていない。

何だ、これは。これではまるで……。



まるでどちらかの記憶が書き換えられてシマッタヨウナ――?

292: 2019/02/23(土) 21:49:39.76 ID:mQm9OJvR0
「……あ……」

その瞬間。
今度こそ、ぼくにはすべてが分かった。
まるで霧が晴れたように、疑問はもう、どこにもない。

……だからこそ、よく見える。
自分の置かれた状況が。
そこにある、絶望が。

もはやぼくには、戸惑うことすら許されていない。
答えは既に明らかだった。
そして、それを確かめる方法も。

簡単なことだ。
たった一つ、鳴に訊けばいい。

293: 2019/02/23(土) 21:50:06.91 ID:mQm9OJvR0
「……見崎……」

口の中がからからに乾いていて、自分でも驚くほどしわがれた声が出た。

「……どうしたの?」

言うべきことは分かっているのに、言葉が出ない。
まるで、見えない何かがぼくの口を塞いでいるかのよう。

どうした、恒一。
何を迷ってる。
お前が黙っていたところで、何が変わるというんだ?

言え。
言ってしまえ。

「――今年の<氏者>……三年三組にいた<もう一人>が誰だったか、憶えてる?」

294: 2019/02/23(土) 21:50:36.02 ID:mQm9OJvR0
「<氏者>?」

質問の意味をはかりかねたのだろう、美津代さんが眉を顰めた。
別にいい。彼女に聞かれても構いはしない。

これは、ぼくと鳴の間にだけ伝わる問い。
そのはずだった。

鳴はぼくから視線を逸らすこともなく、いつもと変わらぬ無表情でこちらを見つめていた。
その唇が声には出さないまま動き(……し、しゃ。)、そして――。

鳴の顔に、衝撃が広がる。


……少しの間があって、彼女は首を横に振った。

295: 2019/02/23(土) 21:51:05.89 ID:mQm9OJvR0
<災厄>による、記憶の改竄。
<もう一人>の正体の隠蔽。

<氏者>である怜子さんの氏に深く関わったぼくと鳴だけは、その波に呑み込まれることなく今まで過ごしてきていた。
だが、<災厄>がいつまでもそれを見逃してくれるはずはない。

ぼくらにもいずれ、逃れられぬ運命に追いつかれる時が来る。
……そんなことは、十分理解していたはずなのに。

いつの間にか、「その時」はやってきていたのだ。
一足早く、鳴にだけ。

<災厄>は、鳴の記憶を塗り替えてしまった。
怜子さんのいない1998年へと。
そしてそれだけでは飽き足らず、様々な事実を捻じ曲げていった。
彼女が存在しないことへの、辻褄合わせのために。

296: 2019/02/23(土) 21:51:36.61 ID:mQm9OJvR0
何がどう変化したのか、未だ"こちら側"にとどまるぼくにははっきりしない部分もある。
しかし確実なのは――合宿での出来事。

鳴のぼくに対する秘密の告白は、なかったことにされたのだ。
そうでなければ、このずれ――ぼくがちゃんと覚えていることを、彼女が忘れている説明がつかない。

……なぜ、そんなことが起きたのかって?
理由なんて分かるはずがない。
それにどのみち、<災厄>のすることなんて考えても無駄だ。
だから……ぼくにできるのは、ただ受け入れることだけ。

鳴はもう、あっちへ行ってしまった。

今年の<氏者>としての「三神怜子」はもう、ぼくの中にしか存在しない。

297: 2019/02/23(土) 21:52:04.62 ID:mQm9OJvR0
「……ああ……」

分かっていたことだ。
いつか……そう遠くない未来に、ぼくらがそうなってしまうことは。

鳴だけじゃない。
ぼくにだって、「その時」はくる。
だから抗うでもなく、投げ出すでもなく、ただそれを待っていようと――そう決めたじゃないか。

それなのに。

「……いやだ……」

そんな言葉が、口をついて出た。
自分でも、わけが分からないまま。

ふっと膝の力が抜け、ぼくは崩れるように椅子に座り込む。
もしも椅子がなかったら、そのままひっくり返ってしまっていたことだろう。

298: 2019/02/23(土) 21:52:34.80 ID:mQm9OJvR0
「榊原くん?」

ぼくの異変に気づいた鳴が駆け寄ってくる。
鳴の声が、遠い。

さっきまで流れていたはずのピアノの演奏も、もう聴こえなくなっていた。

代わりに聴こえてきたのは――ああ、またか。

ずうぅぅぅーん……。

可聴域の辺縁をたゆたうようなあの重低音が、また。

299: 2019/02/23(土) 21:53:06.37 ID:mQm9OJvR0
ずうぅぅぅーん……。

鳴がぼくに、何かを必氏に呼びかけている。
重低音が五感すべてを塗りつぶそうとしているのか、視界までが暗い。

ずうぅぅぅーん……。
ずうぅぅぅーん……。




――憶えているのは、そこまでだった。

302: 2019/02/23(土) 22:24:06.78 ID:mQm9OJvR0
42

新しい土曜日がやってきた。
ぼくと鳴は、ちょうど一週間前と同じように、またしてもテーブルを挟み、向かい合って座っている。

しかし、今回はテーブルの上にカップが二つ。
片方は、ぼくが頼んだコーヒー。そしてもう片方は鳴のレモンティー。

そう。
ぼくらは今、<イノヤ>にいた。

「――ごめんね、急に誘っちゃって」

カップに浮かぶレモンの輪切りをスプーンでつつきながら、鳴が言う。
先週ほどには着込んでおらず、ゆったりとした白いブラウスに黒のミディスカートという服装。
それもそのはずで、予報によれば今日は九月上旬並みまで気温が上がるのだとか。
ぼくらの座るテーブルが面した窓も今日は開け放たれ、白いレースのカーテンを心地いい風が揺らしていた。

「全然。見崎の方から言ってくれて、逆に良かったかも」

303: 2019/02/23(土) 22:24:39.67 ID:mQm9OJvR0
――これからどう? 約束の罰ゲーム。

ぼくがそんな電話を受け取ったのは、ちょうど家でお昼ご飯を食べ終えた時のこと。

人形探し――ぼくと鳴の勝負に先立ち、交わしていた約束。
忘れていたわけではなかったけれど、それから色々なことがあり過ぎて、どうにもうやむやになってしまったような感じもしていた。
さてどうしたものかと思案していた矢先、意外にも鳴の方から連絡してきたのだ。

敗者の義務を果たさねばならないのはぼくの方だし、そもそも鳴の誘いを断る理由などない。
返答に時間はかからず、こうして二人だけのお茶会――会費は当然、ぼく持ちの――は開催の運びとなった。

……もしかしたら、この前のことについてぼくと話す機会を、彼女の方でも求めていたのかもしれない。
少なくとも、学校の休み時間に気軽にできるような話ではなかったから。

304: 2019/02/23(土) 22:25:07.97 ID:mQm9OJvR0
「榊原くんは体調、もう大丈夫なの?」

「すっかり元気だよ。というか、別に授業を休んだわけでもないしね。めまいがしたのはあの時だけで」

「なら、いいけど。帰る時もふらふらだったから、美津代叔母さんが心配してたよ」

月曜日はあれからどうやって家まで帰ったのか、未だに断片的な記憶しかない。
ただ、翌日以降に引きずるようなことが無かったことだけは幸いだろう。
……祖母には結局、またしても余計な心配をかけてしまったけれど。

「それより、見崎の方こそ大丈夫だった?」

「何が?」

「その……霧果さんと美津代さんがさ。もう霧果さんは帰ってきてるんだよね? あれからどうなったの?」

「どうも何も……霧果が帰ってきて、美津代叔母さんが謝って、霧果が『分かった』って言って……それでおしまい」

起きたことをそのまま羅列しました、という感じだ。

305: 2019/02/23(土) 22:25:35.43 ID:mQm9OJvR0
「……それだけ?」

「それだけ」

「いや、ぼくが言うのも変な話だけどさ……霧果さんも、怒ったりとかそういうの、ないの? 自分の人形を壊されちゃったわけだし」

「別に。帰ってきていきなりだったら少しは驚いたのかもしれないけど、美津代叔母さんのこととか人形のこと、霧果には前もって伝えてたし」

事件が起きた直後の電話で、確かにそんなことを言っていたような気もする。
霧果には伝えておくから、と。

「そうじゃなくても、人形を壊されて霧果が怒るなんてあるわけないよ。――本物じゃないんだから」

まただ。

「それ、前にも言ってたよね。本物じゃないって。……どういう意味か、訊いてもいい?」

この前と同じように受け流されてしまうかと思ったが、鳴は頷いてくれた。

306: 2019/02/23(土) 22:26:09.06 ID:mQm9OJvR0
「霧果が自分の創る人形に何を求めているか……榊原くんは、もう知ってるよね?」

「ええと、生まれてこられなかった自分の子供……だよね」

「うん。だから、霧果にとってはそれが本物。それを求めて、あの人は人形を創り続けてる。わたしをモデルにした棺の人形たちなんか、特にそう」

でもね、と鳴は続ける。

「霧果の子供じゃないわたしをモデルにしている時点で、あの子たちが霧果の子供になれるわけがない。――そうは思わない?」

「……」

「だから霧果にとって出来上がった人形は、ある意味じゃ失敗作みたいなものなの。ギャラリーも、地下展示室も、隠し部屋の人形も、全部。――榊原くん、あの隠し部屋のこと、お墓みたいって言ってたよね」

「うん。……言った」

「だとしたら霧果は、お墓参りなんて一度もしたことないよ。運んでいって、それで終わり」

それもこれも全部、あの人形たちが本物じゃないから……か。

307: 2019/02/23(土) 22:26:46.58 ID:mQm9OJvR0
「あの人にとって大事なのは、今まさに自分が創っている人形だけ。まだ決まっていないから、揺らいでいるから、今度こそは本物になってくれるかもしれない。――人形を創っている間は、そうやって夢を見ていられる」

鳴の目に、ふと哀しみとも憐れみともつかない色が浮かんだ。

「でも完成してから、ふと気づくの。――ああ、これも偽物だった、って。あの人はいつだってそう。わたしがあの家に来てから……ううん、子供を喪った時からずっと、同じことを繰り返してる」

眼帯に指を添え、そこで鳴はひとつ、ため息をついた。

「……それならわたしのことも、最初から偽物だって気づいていればよかったのにね」

そのままカップを口へと運ぶ。
一方のぼくは、椅子にちょこんと座ったまま何もできずにいた。
鳴の心中を思うと、なんだかコーヒーに手を伸ばすことさえ、はばかられるような気がして。

308: 2019/02/23(土) 22:27:30.09 ID:mQm9OJvR0
「どうしたの、そんな顔して黙っちゃって」

当の鳴はといえば、まるで何事もなかったかのような口調でぼくに言う。

「もともとはわたし、榊原くんにもこういう話、してたんでしょ? ――わたしはあんまり思い出せないんだけど」

「……そうだね。大体のところは、合宿の時に」

「ふうん」という呟きを漏らしながら、頬を撫でる鳴。

「本当に、忘れてしまうものね。分かってたことだけど、いざ自分がなってみるとやっぱり……」

「悲しい?」

「――とは、ちょっと違うかな。不思議というか、変な感じ。……合宿でその話をしたのって、いつごろ?」

「え。……夕食の後、自由時間があったよね。その時に、きみの部屋で」

「うーん」鳴は訝るように眉を顰める。「その辺からもう、違ってきちゃってるのね。わたしの記憶だと、夕食の後に榊原くんと話す余裕なんてなかったし」

309: 2019/02/23(土) 22:28:08.20 ID:mQm9OJvR0
「それは、どうして?」

「和久井くんが発作を起こして、千曳さんが付き添いで山を降りてしまったから。引率する人がいなくなって、みんな身動きがとれなくなって。――榊原くん、対策係の人たちと一緒に指示とか連絡とか、忙しそうにしてたよ。覚えてない?」

覚えていないというより、身に覚えがない。が、そうだったという話は聞いている。
勅使河原もそんなことを言っていたし、ぼくが今クラス委員長をしているのもそのためだ。
怜子さんの行動をぼくが肩代わりした形だが、それが改竄後の事実ということなのだろう。

「でもさ、いくら忙しくったって、話をする時間くらいは確保できなかったのかな」

「……それだけだったら、確かにね」

「えっ?」

まだ何かあるのか。

「わたしも榊原くんにはちゃんと話をしておくべきだと思ったから、手が空くのを待ってたの。……でも、そうしているうちにあの放送があって」

――今年の<氏者>は見崎鳴です。

310: 2019/02/23(土) 22:28:52.03 ID:mQm9OJvR0
「それでクラスの人が何人か――放送を聞いた榊原くんも――わたしのところに来て。榊原くんはわたしを<氏者>じゃないって言ってくれたけど、とうとう辻井くんがわたしに殴りかかってきて。……でもね」

鳴の視線が、ふっとテーブルに落ちた。

「榊原くんがわたしを庇ってくれたの。だから、わたしは何ともなかった。……榊原くんは、覚えてないんだよね」

「……うん」

覚えているはずなどない。そもそも、そんなことは無かったのだ。
けれど、奇妙な納得がそこにはあった。
なぜなら――あの時実際に鳴を庇ったのは、<氏者>である怜子さんだったから。
つまり、ぼくはここでも辻褄合わせで怜子さんの代役を務めたというわけだ。

「それで、その後は? ……えっと、ぼくはどうなったの?」

自分で自分の安否を確認するなんてどうにも変な話だが、鳴の記憶にある「榊原恒一」は、ぼくであってぼくじゃない。

「気を失ったみたいだった。出血もしてて、それで周りの人は我に返った部分もあったみたい。その時にはもう火事も起きてたから、とにかく安全な場所に運ぼうって話になって、みんなで建物の外に」

あの時は色々と状況が錯綜していたが、そこからは上手く逃れた形になったらしい。

311: 2019/02/23(土) 22:29:29.85 ID:mQm9OJvR0
「わたしは<災厄>を止めなきゃって思って、<氏者>を探し回って――見つけたの。瓦礫の下敷きになって動けなくなっている、<もう一人>を」

「……きみは、そのまま<氏者>を"氏"に?」

そうは言いつつも、ぼくの中ではこの時既に違う予測が固まっていた。

「そのつもりだった。でも……目を覚ました榊原くんが、ちょうどその時わたしのところに来て」

「……」

「わたしの<目>のことを話したら、それで榊原くんは納得してくれた。そして……『ぼくがやるよ』って。――それで今年の<災厄>は終わったの」

「……そっか」

「榊原くんが見聞きしたことと、食い違ってる部分はあるんだよね。それでも、まだ合宿の出来事についてはわたし、こうして一連の流れはちゃんと覚えてるの。……なのに」

きつく目を瞑って、鳴は言う。

「<氏者>が誰だったのかだけは、どうしても思い出せなくて。顔も名前も、男子だったのか、女子だったのかすら……」

実際は男子でも女子でもなく、教師だった。
改竄に呑み込まれてしまった彼女には、やはりその選択肢が出てこないのだ。

312: 2019/02/23(土) 22:30:17.14 ID:mQm9OJvR0
「気になるのなら、千曳さんに名簿を見せてもらえば分かると思うけどね」

今年の<氏者>が怜子さんだったことは、合宿が終わってからほどなくして、ぼくの口から千曳さんに伝えてあった。
教師も間違いなく、<もう一人>になり得るということ。
そしてその時、一体何が起こるのか。

……頭では分かっていても、今まで実例が無かったことだ。
それを記録としてちゃんと残しておくことは、きっと後輩たちへの助けになる。……そう思ったから。

「うん。でも……わたしがそれを見たところで、何の実感も湧かないんだろうって思うと……」

そう言って鳴はカップの中身を飲み干した。
ぼくがポットから新たに紅茶を注いであげると、「ありがと」とだけ言って、ちびりと口をつける。

「何の話をしてたんだっけ……そうそう、だからわたし、合宿では榊原くんにわたし自身のことなんて、話すタイミングが無くて。それに学校が始まってからは、今さら改まって言うことかな、なんて気にもなったし。――ああでも、それは今だからそう思うのかな」

313: 2019/02/23(土) 22:30:52.48 ID:mQm9OJvR0
「と、言うと?」

「わたし、本当は合宿で榊原くんにちゃんと話をしてたんでしょ? それを忘れてしまったから、今まで説明してなかった理由として、そうやって理屈をつけてるだけなのかも」

「それじゃ先週、ぼくがきみの家に行った時は……」

「たぶんもう、分からなくなってたんだと思う。<氏者>のことや、合宿で本当に起きたこと。榊原くんが来てすぐに言おうとして、結局言えなかった記憶があるから」

そんな場面が、確かにあった。あの時、鳴はもう<災厄>に記憶を――。

「……あのさ、見崎。答えたくなかったら、いやだって言ってもいいし、無視してくれてもいいんだけど」

そう前置きして、ぼくは鳴に言う。

「きみが<氏者>のことを忘れて、事件が起きた後。きみはどうして、ぼくに美津代さんのことを話してくれなかったの? あの家にいたのは、実は彼女の方だったって」

「……」

「事件が起きる前は、きみも霧果さんや美津代さんのことをぼくに話す気があったんだよね? だったら事件が起きた後は、どうして急に隠そうと……?」

314: 2019/02/23(土) 22:31:26.61 ID:mQm9OJvR0
この前は、とうとう答えを得ることなく終わってしまった、この問い。
ぼくはそれを、もう一度鳴にぶつけた。

「……」

鳴は小さく吐息し、ややあって口を開いた。

「正直に言うね。――事件が起きてしまったから、言えなくなった……言いたくなくなったの」

紅茶に映る自分自身を見ているかのように、視線は手元のカップに落ちている。

「あんな事件があった後じゃ、自分の家はこれだけぎくしゃくしてます、って榊原くんに言うようなものだと思ったし、知られたくもなかったから。……タイミングとしては最悪、でしょ?」

「それは……うん」

「だからね、わたしが喋ってないのに榊原くんが何もかも知ってるって分かった時は、本当にびっくりしたよ」

そこまで言ってまた、小さな吐息が。

「……ごめん」

「別に、榊原くんが謝るような話じゃないと思うけど? あったはずのことを忘れてしまってるのは、わたしの方なんだし」

と、ここで鳴は微笑む。
……気を遣わせてしまっているな、と感じた。

315: 2019/02/23(土) 22:32:17.40 ID:mQm9OJvR0
「悪者がいるとすれば、それは<災厄>ね。――ひょっとしたら、事件が起きたのもそのせいなんじゃないかって思ったり」

「え。それって……今回のことも、<現象>の一部だってこと?」

「正確に言えば、後始末なのかな。事実として、わたしは合宿で榊原くんに話をしていた。でもわたしはそれを覚えていない」

「つまり記憶の改竄によって、忘れてしまったと」

「そう。だからもし、榊原くんまで記憶を改竄されるようなことがあれば――」

「ぼくも忘れてしまうんだろうね。きみから事情を聞いてないことにされてしまうんだし」

「でも<災厄>の影響を受けるのは、<氏者>に関することだけのはずでしょ? それとは全く関係のないわたしの身の上話があなたの記憶から消されてしまうのは、道理に合わないと思わない?」

「いや、確かにそうかもしれないけどさ……。現実に見崎は、話をしてないことにされてしまったんだし」

「今まではね。だけど事件が起きた結果……わたしと榊原くんはこうしてもう一度、秘密を共有する機会を得たの」

「……!」

言葉を失った。

「たぶんこれから先、榊原くんが<もう一人>のことを思い出せなくなっても、わたしと美津代叔母さん、それから未咲との関係とかは、ちゃんと覚えてると思うよ。今回の事件をきっかけとしてわたしから聞いた、みたいな感じで。――そうすれば<災厄>は、あなたの記憶をそのままにしておける」

316: 2019/02/23(土) 22:33:02.65 ID:mQm9OJvR0
「……じゃあ<災厄>は、ぼくが見崎から聞いたことを忘れさせないようにするためだけに、今回の事件を起こした……いや、起こさせたんだ、って?」

「まあ、あくまで一つの考えだけどね。でも考えてみて。美津代叔母さんがわたしの家にいたのは、"たまたま"天根のおばあちゃんが腰を痛めたせいだし、わたしたちは、"たまたま"中村青司の話になって"たまたま"人形探しを始めた結果、"たまたま"叔母さんが壊した人形を見つけてしまった」

「……」

もっと言えば、そもそもぼくが鳴の家に行ったのも"たまたま"だ。
……いや、あれは本当に"たまたま"だったのか?

<災厄>がそうするように仕向けていなかったと、どうして言える?

317: 2019/02/23(土) 22:33:32.77 ID:mQm9OJvR0
「普通じゃ考えられないような偶然が、あまりにも重なりすぎてると思うの。……まるで、<災厄>で人が氏ぬ時みたい」

「でも、どうしてそこまで……」

「さあ。<現象>にそれを尋ねても無駄じゃない?」

「……う」

「それでも理屈をつけるとすれば……やっぱり<氏者>に関する記憶以外は極力消さないようにしてるんじゃないか、とか……後はそう」

すっと、鳴の人差し指がぼくに向けられた。

「<氏者>を"氏"に還したのは榊原くんだから、そうじゃない人より特別扱いされてるのかも、とかね」

「……それはそれは」

ずいぶんとご丁寧なことだ、と皮肉めいた笑いが出てしまいそうだった。

318: 2019/02/23(土) 22:34:06.95 ID:mQm9OJvR0
今回の事件の要因にぼくという人間の「特殊性」があるというのは、確かにそうかもしれない。
だがそれを言うなら、「特殊性」は事件の舞台――"夜見山の人形館"にもあったはずだ。

なぜならあそこは……中村青司が建てた「館」、すなわち「氏に近い場所」だったのだから。
三年三組という「氏に近い場所」に巣食う<災厄>が伝播する先としては、これほどおあつらえ向きの場所もないだろう。
それを思えば、事件が起きるのはもはや必然だったのでは――。

ぼんやりと紡いでいた思考がにわかに現実味を帯び始めてしまい、ぼくはぶんぶんと首を振る。
やめておこう。これ以上は本当にきりがなくなってしまいそうだ。

「なんだか結局は、そういう<現象>だから仕方がないって思うしかないのかな」

とりとめのない連想に区切りをつけるべくこう口に出すと、鳴も同意するように頷いた。

「そう思う。それで済ませてしまえるなら、そうした方がいいよ」

そう言って、物憂げな目でカップを傾ける。

「仕方がないで済ませてしまいたいのに、そうは出来ないことなんて、他にもいっぱいあるんだし」

319: 2019/02/23(土) 22:34:50.42 ID:mQm9OJvR0
「それって……霧果さんと美津代さんのこと?」

「……そうね」

眼帯を覆い隠すようにして、鳴は顔に手を当てる。

「霧果はやっぱり、妹から子供を奪ってしまったって思ってる。未咲が氏んでしまってからは、特にそう。美津代がわたしを取り戻しに来ても仕方がないと思う一方で、それをとても怖がってた。叔母さんからしてみれば、何を今さら……って感じなのにね」

まるで他人事のように肩をすくめて言う。

「負い目を感じているのは、美津代叔母さんだって同じなのに」

「美津代さんも?」

「うん。霧果のためとは言いつつ、結局は自分の判断でわたしを手放して、それで現実に助かってしまっている部分もあるから、わたしや霧果に合わせる顔がないって感じ。……それでいて、やっぱり気にはなるのね。電話でわたしが『来てほしい』って言った時の、あの人の嬉しそうな声ったらなかった」

当時のことを思い出したのか、鳴の口元がわずかにほころんだ。

320: 2019/02/23(土) 22:35:49.81 ID:mQm9OJvR0
「わたしもあの人とあんな風に過ごすのは初めてだったし、一回だけのつもりで試しに『お母さん』って呼んでみたら、嬉しいを通り越して泣きそうな顔するし……だから結局、それで通さざるを得なくなったりして」

「……」

そう話す鳴は今、霧果さんも美津代さんも「お母さん」とは呼んでいない。
……彼女はもう、誰のこともそうは呼ばないのかもしれない。

「二人ともわたしに対してはそうでもないのに、顔を合わせるとぎこちなくなって……と言うより、わたしのせいでそうなってるの」

「そんな……」と言いかけたが、否定の言葉は継げなかった。
事情が事情だけに、二人の中で鳴の存在は避けられぬ前提となってしまっている。

「双子なんだし、昔はもっと仲が良くて、もっとつながってたのかもしれないけど……わたしがいる限りはもう、無理ね」

321: 2019/02/23(土) 22:36:25.82 ID:mQm9OJvR0
そこまで言ったところで、鳴は天井を見上げるようにして「あーあ」と声を上げる。
鳴にしては珍しい、どこか投げやりな響きがそこにはあった。

「いっそのこと、わたしも東京の高校にでも行っちゃおうかなぁ」

「えっ」

「そうすれば、あの二人も少しはましになるかもしれないでしょ」

彼女がそんなことを口にするのは、初めてのことだった。

322: 2019/02/23(土) 22:36:58.95 ID:mQm9OJvR0
――鳴が東京? 本当に?
だがぼくが何かを言うよりも早く、鳴はくすりと笑う。

「……なんてね、冗談」

一気に肩の力が抜けた。

「あ、ああ……そう、だよね。うん」

「それにあの二人、これから先は会うこともほとんど無くなりそうだから。……美津代叔母さん、来月に引っ越すんだって」

「引っ越す? どこに?」

「県外。旦那さん――藤岡のお父さんが前から転勤の希望を出してて、それがようやく通ったみたい」

「夜見山にはもう、帰ってこないってこと?」

「ひょっとしたら、未咲の命日くらいは戻ってくるつもりかもね。でも、無理にそうしなくてもいいんじゃないかって、わたしは思うけど。……きっと、ここは辛い思い出ばかりになってしまっているだろうし」

「……」

323: 2019/02/23(土) 22:37:28.40 ID:mQm9OJvR0
「だから、当分の間はお別れになるのかな。わたしはたぶん、夜見山を離れることはないと思うから」

「……霧果さんのことがあるから?」

「それもあるけど……他にもちょっと、考えてることがあって」

「それって?」

とぼくは尋ねてみたのだが、鳴は「んー……」とだけ声を発して、もの言いたげな半眼でぼくを見る。

「なんだかさっきから、わたしばっかり質問に答えてる気がするんだけど」

324: 2019/02/23(土) 22:37:57.31 ID:mQm9OJvR0
「……ごめんごめん、つい。――質問攻めは嫌い、だったよね」

「これ以上は拒否します、ってわけじゃないけど……わたしだって榊原くんに訊きたいこと、あるのに」

「そうだよね。じゃ、交代しよっか? ……見崎、質問をどうぞ」

ぼくがそう言うと、鳴はぼくの目をじっと見つめ、唐突にこう言った。

「いやだ」

「えっ」

鳴の方から言い出したことなのに? と思ったが、これにはまだ続きがあった。

325: 2019/02/23(土) 22:38:36.39 ID:mQm9OJvR0
「『いやだ』……って、あの時言ったよね、榊原くん。わたしが<氏者>のこと、覚えてないって言った後に」

「……ああ。えっと……」

「それとももう、忘れちゃった?」

「……どうだったかな」

言い淀むぼくに、鳴は更に質問を重ねる。

「そんなに嫌だった? 今年の<氏者>……<もう一人>のことを、忘れてしまうのが」

「……」

「榊原くんは、その人と仲が良かったとか? ――それとも、その人のことが好きだった?」

鳴が口にした"好き"という言葉に、ぼくの胸がちくりと痛んだのは事実だ。
けれども、ぼくがあんな風に言った理由はもっと別のところにあった。
あの時は自分でもどうしてそんなことを言ったのか分かっていなかったけれど、今なら分かる。

326: 2019/02/23(土) 22:39:14.47 ID:mQm9OJvR0
もし怜子さんのこと、今年の<氏者>にまつわる全てを忘れてしまうのなら、その時はきっと。
きっと、鳴と一緒にそうなるのだと、ぼくはそう思い込んでいたのだ。

だけど現実はそうじゃなく、ぼくは置いていかれた。
だからそれが嫌だった。
ただそれだけの……まるで子供が駄々をこねるような、そんなくだらない感情。

今思えば大した思い上がりだ。
大体、ぼくと鳴が怜子さんの氏に深く関わったといっても、
その本当に最期、その締めくくりは、鳴ではなくぼくがやったこと。
そういう意味では、ぼくと鳴にしてもその関わり方は違う。
ならば、そこに差が生まれるのも当然というものだろう。

実際にそうなってしまうまで、ぼくはそんなことにも気づいていなかったのだ。

327: 2019/02/23(土) 22:39:57.93 ID:mQm9OJvR0
……こんなこと、正直に言えるわけがないし、何よりぼくが恥ずかしい。
だからぼくは、

「うん、そうだね。……そうだったのかもしれない」

と、はぐらかすことしかできなかった。

「……ふうん」

そうは言いつつ、どこかすっきりしないといった様子の鳴。
その左手がすっと上がったかと思うと、眼帯に触れるかどうかといったところでまた下りた。

眼帯を外そうとしたのだろうか?
<氏の色>が見えるという、鳴の<人形の目>。
その目には人がついた嘘も見える、なんて話は聞いたことがないけれど……。
今もし鳴が眼帯を外して、<人形の目>でぼくを見つめていたら。

ぼくの下手な嘘なんてきっと、いとも簡単に見抜かれていたことだろう。
そんな気がした。

「ま、別にいいけどね。わたしだって、なんとしてでも知りたい、なんて思わないし。……あなたと同じで」

――あるいはもう、彼女はとっくにお見通しなのかもしれない。

328: 2019/02/23(土) 22:40:37.51 ID:mQm9OJvR0
言いたくない、知られたくないことは、ぼくにだってある。
それに触れてしまわぬように、鳴はそっと手を引いてくれた。

「……ありがとう、見崎」

と呟いたぼくに、

「でも……そうね」

と微笑みながら、鳴はいつの間にか空になっていたティーカップを持ち上げる。

「せっかくだしもう一杯、ごちそうになっちゃおうかな。――今度は、ミルクティーで」

ああ、喜んで手を打つとしよう。
それに今日に限れば、最初からぼくの返事は決まっている。

「――かしこまりました」

ぼくは右手を挙げ、知香さんを呼んだ。

329: 2019/02/23(土) 22:41:11.91 ID:mQm9OJvR0


「考えてたことっていうのはね」

白い湯気が立ちのぼるカップを口元に近づけたまま、鳴が言う。

「わたしは確かに、<氏者>についてのことは忘れてしまった。でも、それ以外のことはちゃんと覚えてるの」

「うん」

「例えば、どうすれば<災厄>が止まるのか、とか」

「……うん」

――<氏者>を、"氏"に。

「今も覚えているってことは、年が明けても……ううん、わたしたちが卒業して、新しい年度が始まってからもまだ、覚えていられるかもしれない」

「……」

鳴の読みは、おそらく当たっている。
<災厄>を止める方法は、<氏者>の正体に直接関わっているわけではない。
だとすればこれもきっと、<災厄>による記憶の改変・調整の範囲外となっているはず……。

330: 2019/02/23(土) 22:42:12.02 ID:mQm9OJvR0
だからこそ、かつて<災厄>を止めた松永さんの残したテープが、十五年もの時を経てぼくらの元へと流れ着いたのだ。
確かにぼくらが松永さんと会った時、彼自身は合宿で起きた一切を忘れてしまっていた。
けれどもし<災厄>が、それを止める方法まで隠蔽してしまうのだとすれば、
それほどまでの間、テープが無事だったはずがない。

ならばそこには、大なり小なり、見逃されうる余地があるのではないか。
そう考えるのは自然な流れだろう。

「だからね、来年……もしもわたしがまだ、止める方法を覚えていて……そして次の三年三組が、<ある年>だったら」

「<ある年>だったら……どうするの?」

答えなんて訊くまでもない。けれど、訊かずにはいられなかった。

鳴が静かに頷き、カップを置く。
その白い指が、眼帯の縁をそっと撫でる。


「――止める、と思う。<災厄>を。この<人形の目>で、<氏者>を見抜いて」

「……」

……それが鳴の「答え」だった。

331: 2019/02/23(土) 22:43:00.51 ID:mQm9OJvR0
予想していなかったと言えば、もちろん嘘になる。
むしろ……とうとうこの日が来たか、という感覚が――ややもすれば鳴が<氏者>の記憶を失ったと知った時以上に――強くあった。

「わたしの記憶だと、<人形の目>のことはまだ、榊原くんにしか話していないはずだけど……。これって、榊原くんの記憶でもそう?」

「うん。千曳さんには、そのことはまだ。……未咲さんのことも、学校で知ってるのはぼくだけだよ」

――言うべきかどうか、もう少し考えさせてほしいの。

かつてぼくが、千曳さんに今年の<氏者>について話しに行くと、鳴に告げた時。
彼女は自分の<目>や藤岡未咲のことについて、そう言って保留したのだ。
だから今も記録上、今年の<災厄>は「何らかのイレギュラー」によって、五月から始まったことになっている。
そうしなければ、何の<対策>も講じていない四月に犠牲者が出ていないのはなぜなのか……と、疑いを持たれてしまうおそれがあったから。

当然、ぼくは鳴に何も言わなかった。
未咲が<災厄>なんてわけの分からないもののせいで氏んでしまったなんて、信じたくない――。
そう吐露した鳴の心情や、妹を喪った彼女の悲しみは、ぼくにも痛いほど分かっていた。

<人形の目>にしてもそう。
例え千曳さんに伝えたところで、彼はそれで鳴に何かを強いるような人ではない。
だが<災厄>に対抗する手段として、<人形の目>の存在は、従来の<対策>とは比べものにならないくらい強力なのだ。
だからこそ、その存在を知らせることには慎重になる必要があった。

332: 2019/02/23(土) 22:43:47.46 ID:mQm9OJvR0
正直なところぼくは、もし鳴が沈黙を望むならば、誰も何も知らないまま終わってしまってもいいと、そんな風に考えていた。
あるいは鳴のことを思えば、その方が好ましいのではないか、とも。

しかしそう思う一方でやはり……いつかこうなる予感はしていたのだ。
それも、想いを馳せる必要もないくらい身近な未来で。

「来週、学校が始まったら……わたし、千曳さんに言うつもり」

「何を?」

「全部。卒業しちゃったら、学校に入るのも簡単じゃなくなるもの。千曳さんの助けが必要になると思うし、その前に説明しておかなきゃ」

「……本気、なんだね」

「うん。……だって、こうするしかないでしょ?」

確かにそうだろう。
<災厄>を止めるには、鳴の力が、彼女の<目>が、絶対に必要だ。
それは鳴にしかできないこと。
だから、彼女がやるしかない。
そうしなければ……不確かな<対策>に縋るしかない三年三組ではまた、人が氏ぬ。
これからもずっと。

ぼくですら分かることだ。
だから、鳴の選択はどこまでも正しい。

――正しいからこそ、納得できるはずがなかった。

333: 2019/02/23(土) 22:44:15.99 ID:mQm9OJvR0
「……どうしてなのかな」

知らず知らずの内に、ぼくはそう声に出していた。
表情が翳るのも、止められそうにない。

「どうしてきみだけが、こんな……」

独り言のように呟くぼくに、鳴はほんの少しだけ右目を細める。

「……優しいのね、榊原くんは」

……ああもう。何をやっているんだ、ぼくは。
鳴にこんなことまで言わせて。

何も言えないでいるぼくに、鳴は続けて言う。

「でも……あなただったら、どうしてた?」

「えっ?」

334: 2019/02/23(土) 22:44:56.64 ID:mQm9OJvR0
「もしも三組に増えた<もう一人>が、あなたにだけ分かるとして……榊原くんなら、どうしてたと思う? ――たぶん、わたしと同じようにしてたんじゃない?」

「……それは……」

あまりにもずるい質問だ。こんなの、答えられるわけがない。

唇を噛んで、ただ俯く。
そうやって沈黙で回答することが、精一杯の抵抗だった。

「それでね、わたしはもし榊原くんがそんな風になってたら、きっとこう思ってた。――どうして榊原くんだけがこんなことをしなくちゃいけないんだろう……って」

そう言って、鳴は微笑む。まるでぼくを安心させるように。

「<氏の色>が見えるなんて、べつに望んだわけじゃない。でもね、わたしはこれで良かったと思ってるよ。<災厄>で氏んでしまう人や、それで悲しむ人――わたしや榊原くんみたいな人がいなくなるのなら、それで」

「……」

335: 2019/02/23(土) 22:45:33.24 ID:mQm9OJvR0
<災厄>で犠牲になる人を無くす。
<人形の目>をもってすれば、それもあながち夢物語ではない。
少なくともこの先、鳴は多くの人を救うことになるだろう。それだけは確実だ。

……だがそれでも、彼女が本当に守りたかったはずの人はもう、守れないのだ。

それすらも分かっていて、鳴は――。

もどかしさが募る。
何かをしなければ。
何かを言わなければ。

この時ぼくが抱いていた感情は説明が難しい。
ただ、何かに追い立てられるような焦燥感だけははっきりと感じていた。

336: 2019/02/23(土) 22:46:00.08 ID:mQm9OJvR0
「……さっき、千曳さんに全部話すって言ったよね」

「うん。……そうだけど?」

「それって、未咲さんのことも?」

一瞬、鳴の動きが止まる。
けれどそれは本当に一瞬のことで、彼女はすぐに頷いた。

「……ええ。本当のことを言うべきだって、そう思うから」

「ぼくはさ、無理に言うことはないと思うんだ。別に今のまま、五月から始まっていたことにしても影響は――」

「だめ。……今年の<災厄>はもう、四月に始まっていたの。誤魔化したって何にもならないよ」

337: 2019/02/23(土) 22:46:31.59 ID:mQm9OJvR0
「それに」と鳴は続ける。

「このまま五月から<災厄>が始まったことにしていたら、五月に<対策>が失敗して、それで始まったことにされちゃうよ。……転校してきた榊原くんが、わたしに話しかけたせいで<災厄>が始まったんだ、って。そんなの――」

ぷいと窓の方に視線を向け、しかしはっきりと鳴は言った。

「――そんなの、わたしは嫌」

「見崎……」

ぼくはそんなこと、まるで気にしてなんかいないというのに。
だがそれを口にしたところで、鳴が心変わりするはずもないと分かっていた。

鳴はもう、答えを出しているのだ。
動けないままのぼくとは違う。

338: 2019/02/23(土) 22:47:03.24 ID:mQm9OJvR0
「本当はね、やっぱり信じたくない。でも、見ないふりしてやり過ごせるものでもないもの。例えわたしが未咲のことを誰にも言わないでおいたって、<災厄>が見逃してくれるとも思えないし」

「それって……?」

<災厄>が見逃す?
いったい何から――という反射的に浮かんだ疑問に、答えはすぐ与えられた。

「未咲だって<氏者>になるかもしれない、ってこと」

「!」

<氏者>となりうるのは、これまでの<災厄>で犠牲になった人間。
ならば三年三組の生徒ではなくとも、藤岡未咲がそうなってしまう可能性だって、もちろんある。

「考えたくはないけど……覚悟はしておかなきゃって思うの」

「でも、<災厄>で亡くなった人はこれまでたくさんいるんだし……」

「だから大丈夫って、本当にそう思う? 単純に、何十分の一の確率でしかない……って」

「それは……」

339: 2019/02/23(土) 22:47:35.46 ID:mQm9OJvR0
「じゃあ、逆に訊くね。榊原くん――あなたのお母さんが<もう一人>として三組に紛れ込む可能性、あると思う?」

「……ぼくの?」

ぼくの目を見つめたまま、無言で鳴は頷いた。

ぼくを産んですぐに帰らぬ人となってしまった母親――榊原理津子。
その氏もまた、<災厄>によるものだった。怜子さんが三組の生徒だった<ある年>の。

素直に考えれば当然、母も<氏者>の候補ということになる。
しかし――。

「……いや。それはない……気がする」

「どうして?」

「どうして、って……」

「べつにわたし、否定してるわけじゃないよ。というか、わたしもそう思う。――でも、それはどうして?」

340: 2019/02/23(土) 22:48:08.65 ID:mQm9OJvR0
「だってそれは、なんていうか……」感覚的にしか考えていなかったから、表現するのが難しい。「大変じゃない? その、<災厄>がさ」

亡くなった時、母は二十六歳だった。もし生きていれば、現在は四十一歳だったことになる。
仮に<氏者>として三組の構成員になるとすれば、教師としてだろう。怜子さんのように。

だが、母はまだ学生のうちに父と出会い、そして結婚した。
教師として働いていた経験などあるはずもない。

もし<災厄>が母を教師の<氏者>として復活させようというのなら、<災厄>は存在するはずのない「教師としての榊原理津子」の記憶を、丸々でっちあげる必要に迫られる。
それも数十年分を、である。
そのために必要な改竄は、もともと美術教師だった怜子さんの比ではない。

そして、母を三組の「教師」ではなく「生徒」として復活させる――なんて考えはそもそも論外だ。
そんなことをすれば、息子であるぼくよりも年下になってしまう。

だからやはり――ぼくの母が<氏者>となる可能性はゼロに等しい。
そういうことになるのだろう。

ぼくが結論に達したタイミングを見計らったように、ここで鳴が大きく頷いた。

341: 2019/02/23(土) 22:48:45.59 ID:mQm9OJvR0
「そう、障害が多いの。大人の人だけじゃない。生徒として亡くなった人だって、何年も前の人なら環境が変わってしまっていることだってあるでしょ? 家の場所が変わったり、他のきょうだいに年齢を追い越されたり……」

「じゃあ、<氏者>になる可能性が高いのは……」

「一番は、直近の<災厄>で犠牲になった人、ってことになると思う。だから次の<ある年>で<氏者>になるのはきっと……今回の<災厄>で氏んでしまった人」

つまりは、ぼくらのクラスメイト……か。
いったい誰が……なんて考えても意味はないと分かっているけれど、どうにもやるせない気持ちになってしまう。

「だからそうやって考えていくと、未咲が<氏者>になる可能性は決して低くないって、そう思う」

「……」

「あ、でもね」と、ここで鳴はわざとらしく明るい声を作るようにして。「じゃあ可能性が高いのかって言われると……そうでもないのかな、って感じもするの」

「それは、今年の<災厄>で亡くなった他の人と比べると、ってこと?」

「うん。未咲はそもそも夜見北の生徒ではなかったし、後はやっぱり……美津代叔母さんたちも、ここからいなくなるわけだから」

342: 2019/02/23(土) 22:49:31.32 ID:mQm9OJvR0
「ああ、さっき言ってたよね。美津代さんが来月に引っ越すって」

「そう。未咲を<氏者>にするとしても、来年以降は帰る家が無くなってしまうことになるでしょ? 引っ越した先から通ってる、なんて改竄をするのもやっぱり大げさになるし」

「そっか……確かに」

「だから叔母さんたちが引っ越してくれて、かえって都合が良かったのかもね」

言い切るような口調。
隣で聞いている身としては、なんだか心配になってしまう。

「……見崎は、寂しくないの?」

「どうだろ。別にこれまでだってほとんど会ってなかったんだし、それでどうこうってのはないと思うけど。二度と会えなくなるわけでもないし」

窓の外、景色の更に向こう側を見通すような目つきで、鳴は言う。
まるでその視線の先に、美津代さんの向かう先があるかのように。

「それに……もし本当に『つながってる』のだとしたら、そのくらいでどうにかなるものじゃない、でしょ? ……困ったことにね」

343: 2019/02/23(土) 22:50:08.72 ID:mQm9OJvR0
口では困ったと言いながら、どこかそれを愛おしく思うような響きが伴っている気がしたのは、ぼくの勘違いではないだろう。
こちらに向き直った鳴の顔は、微かな笑みをたたえているようだった。

「じゃあ結局、どうなるか分からないってのが結論になるのかな」

とはいえ鳴の話を聞く限り、決して高い確率ではないのでは……。
そんな風に考えつつ、ぼくはこうまとめた――のだが。

「……」

鳴は何かを考えこむようにして、テーブルの一点を見つめたまま微動だにしない。
その直前まで浮かべていたはずの微笑みも、とうに消え失せていた。

「見崎?」

ぼくが呼びかけると、彼女はすぐに顔を上げる。

「……ごめんなさい、ちょっとぼんやりしちゃった。でも、話はちゃんと聞いてたよ。――そうね。わたしの杞憂でしかないのかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

弁解のようにそう言い、カップを口に運びかけ――途中で中身が空だと気づいて、また戻す。

344: 2019/02/23(土) 22:50:44.63 ID:mQm9OJvR0
いったい、どうしたんだ?
鳴の様子が明らかにおかしい。
重大なことに思い当たり、愕然としているという感じだ。
まるで……そう。
<氏者>についての記憶を失ったと気づいた、あの時のよう。

何か、大変なことに気がついたのだろうか? だとしても、何に?
今までぼくらが話していたことと言えば――藤岡未咲が<氏者>となってしまうかもしれない、ということだけど……。

だとしても、それはやはり鳴の言う通りでしかないだろう。
そうなるかもしれないし、そうはならないかもしれない。
ぼくから見ればむしろ、例え来年が<ある年>だったとしても、よほどのことがない限り彼女が<氏者>となることはないのではないか、と感じるのも事実だ。
そしてそれさえ乗り切れば、その次の<ある年>にはもう別の<氏者>が――。

待てよ。
来年が<ある年>だとして、鳴はそれを止めるつもりなのだ。
おそらくは始業式の段階で、一人の犠牲者も出すことなく。
そしてそれを、彼女はずっと続けていこうとしている。

345: 2019/02/23(土) 22:51:25.93 ID:mQm9OJvR0
ならば当然、<災厄>による犠牲者がこれから増えることはない。
裏を返せばつまり……<氏者>の候補となる人間も増えない、そういうことになる。
加えてぼくらはついさっき、こんな仮説を立てたはずだ。
<氏者>になる可能性が一番高いのは、直近の<災厄>で犠牲になった人ではないか……と。

だとすれば。
<災厄>で人が氏ぬのを、1998年で最後にしてしまうのならば。
これからの<ある年>に<氏者>として復活するのはずっと、1998年の<災厄>で亡くなった人間となる可能性が極めて高い。
そういうことになりはしないか。

――鳴も、同じ考えに行き着いてしまったんだろうか?
これから先の<災厄>を防ぐということはすなわち、氏んでしまったぼくらのクラスメイトを縛り付けてしまうことになるかもしれないと。

346: 2019/02/23(土) 22:52:45.61 ID:mQm9OJvR0
それだけじゃない。
1998年の犠牲者が<氏者>になり続けるとするなら、「あのこと」がいよいよ現実味を帯びることになる。
鳴が恐れる事態――藤岡未咲に<氏者>の順番が巡ってくることが。

夜見北の生徒ではないから。夜見山に家がなくなってしまうから。
だから大丈夫だろう。
そんな考えは、きっと気休めのお守りにもならない。
ぼくらは初めからこう考えるべきだったのだ。
その上で藤岡未咲を<氏者>とするなら、<災厄>は一体どうするだろう――と。

347: 2019/02/23(土) 22:53:23.71 ID:mQm9OJvR0
意気込んで考えたい内容では、決してない。
それなのに、思考はぼくの意思とは無関係に突き進んでいく。

もともと夜見北の生徒ではなかったとしても、三年三組に加わることは簡単だ。
三年生になって「転校」してきたことにすればいい。
他ならぬぼく自身がそうだったではないか。

そして、家の問題。
美津代さんたちは夜見山を去り、藤岡未咲が<氏者>となるころには、彼女が過ごした場所はもうない。
それこそが彼女の復活を妨げる防壁になるのだと、鳴は言う。
……それも砂上の楼閣でしかないのだと、ぼくは思う。

引っ越した先から通うなんて、そんなまどろっこしいことをする必要なんてない。
なぜなら……あるのだから。
<氏者>という「氏」そのものが宿るにふさわしい場所が、ここ夜見山には。

348: 2019/02/23(土) 22:54:01.87 ID:mQm9OJvR0
もちろん、三年三組のことではない。
ぼくが想像している場所、それは――<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>。
またの名を"夜見山の人形館"。
異形の建築家が生み出した、「氏に近い場所」。
藤岡未咲が<氏者>として甦るのなら……彼女の"家"はきっと、そこになるのだ。

東京での手術を終えて退院した後、生まれ育った夜見山での生活を望んだ彼女は、
"姉"である鳴が暮らすこの家に身を寄せ、転校生として三年三組の一員となる――。
そんなかりそめのストーリーが容易に浮かぶ。
いつか必ずそれが起こるという、圧倒的なリアリティを伴って。

――いつの日か鳴は、その<人形の目>で<氏者>の"妹"に<氏の色>を見るのだろう。
そして悟るのだ。
救われたはずの彼女の命が、既に奪われているということを。

……その時、鳴は一体どうするのだろう?

349: 2019/02/23(土) 22:54:43.85 ID:mQm9OJvR0
――覚悟はしておかなきゃって思うの。

彼女は確かにそう言った。
それは藤岡未咲が<氏者>となることへの「覚悟」なのだろうか?
それとも、それから先のことも含めての?

だとしても……鳴にできるのだろうか。
<災厄>を止めるため、<氏者>とはいえ妹を"氏"に還すことが、本当に。

ぼくがそれを考えても仕方がない。
そんなことは分かっていた。
けれどやっぱり、ぼくの頭は考えることをやめようとはしてくれなくて。


そして……ああ、どうしてだろう。

――人が氏ぬのさ。青司の館では。

どうしてぼくは、こんな時に島田さんの言葉を思い出してしまうんだ?

350: 2019/02/23(土) 22:55:26.85 ID:mQm9OJvR0
……これも同じだ。そういうものだと受け入れるしかない。
中村青司の館では人が氏ぬ。"夜見山の人形館"でも、きっと。
その予言の成就が、避けられないものだとすれば。

――あの"館"では一体、誰が氏ぬ?

<氏者>として甦った藤岡未咲が、再びあそこで"氏"へと還るということなのか。
あまりにも酷な運命だが、それでもまだ「良い方」ということになってしまうのだろう。

むしろ――と、ぼくは思う。
ぼくらは、"そういうこと"にしなければならないのだ。何としてでも。
さもなければ、あの館で命を落とすことになるのは――。

351: 2019/02/23(土) 22:56:04.23 ID:mQm9OJvR0
「…………」

頭の中から無理矢理引きはがすようにして、ぼくはようやくそれ以上の想像をやめた。
しかしそれでも、そんな未来が存在する事実は変わらない。

ぼくは、どうするべきなんだろう?
いや、そもそも……ぼくに何ができるのだろう?
彼女――鳴のために。

分からない。
そもそも考えたところで分かるようなものでもない。
これもきっと、ぼくには解けない問題なのだ。
だけど……。

「……見崎」

ぼくの声に、鳴が顔を上げる。
不安げな……なんて言い切るのはためらわれるけど、しかしやはり憂いを帯びた表情。

「……どうしたの?」

――あれこれ考えるのはもう、やめだ。

「ぼくも手伝うよ。きみがやろうとしていること」

352: 2019/02/23(土) 22:57:10.33 ID:mQm9OJvR0
「手伝う?」

何ができるかは分からない。
それでも……彼女のそばにいよう。

「<人形の目>で<氏者>が分かったって、"氏"に還さなきゃ<災厄>は終わらないんだよ? ……きみ一人じゃ、不安だ」

「……わたし、その時は千曳さんに助けてもらうつもりだったけど」

「千曳さんだって、万一のことがあるかもしれないじゃないか。手は多いほうがいい」

実際にはたぶん、ぼくなんかより千曳さんの方が数倍頼りになるだろう。
だが、これはそういう問題ではない。

「でも……榊原くん、来年から東京に行くんでしょう?」

「うん。だから夜見山には、始業式の日にまた帰ってくるよ。来年も再来年も、ずっと……。きみと一緒に<災厄>を止めて、それからまた東京に戻ればいい」

「……そんなこと、できるの?」

「できるさ。というより、やる。授業があっても休めばいいし、家族――父さんだって説得するよ」

結局は、ぼくがそうしたいからやるのだ。
鳴の言葉を信じようと思ったあの時と、何も変わりはしない。
そして、その時が――"彼女"の番が回ってきた時に、少しでも力になることができたら。

353: 2019/02/23(土) 22:57:49.19 ID:mQm9OJvR0
「ずいぶんと自信満々なんだ。……わたしだったら、東京にいる時点で諦めちゃうけど」

いまだ話半分、といったところなのだろう。
テーブルに組んだ腕を置き、下から覗き込むようにして鳴はぼくを見る。

「そりゃあ、実際にその時になってみなきゃ分からないことだってあるけど……でも」

「?」

「やってみる前に諦めちゃうのは、かっこ悪いと思うんだ」

――大事なことよ、かっこいいか、かっこ悪いかって。

そんな優しい声が、ぼくの脳裏に甦る。

354: 2019/02/23(土) 22:58:26.44 ID:mQm9OJvR0
……ああ。
ぼくはまだ、憶えている。
彼女の言葉を。
彼女との生活を。

「だから……ね? ――ぼくのこと、信じてほしい」

それを忘れてしまうまでは、と思っていたけれど。
ちょっとだけ早く、歩き出してみよう。


――それでもいいですよね? 怜子さん。

355: 2019/02/23(土) 22:59:03.94 ID:mQm9OJvR0
「……」

テーブルから身を起こし、鳴は前髪を軽く払う。
無言のまま、返答はない。

「だ、だめ……かな?」

たまらずそう声に出すと、不意に彼女はこう言った。

「帰ってくるのは、始業式の時だけ?」

「えっ?」

「だから、始業式の時にしか帰ってこないつもりなの? 榊原くんは。<災厄>を止めたら、それで終わり?」

「えっと……いや、お盆の時とか冬休みとか、他にも帰ってくる機会はあると思うけど。おばあちゃんたちも寂しがるだろうし」

「……ふうん」

「あ、もちろん帰る時は見崎にも連絡するよ」

――って、ぼくはどさくさに紛れて何を言ってるんだか。

取り繕う言葉を並べようとした矢先……鳴が頷いた。

「うん。……そうして」

「えっ?」

今、何て?

356: 2019/02/23(土) 22:59:43.29 ID:mQm9OJvR0
「わたしも東京に行くことがあったら、前もって連絡するね。――入れ違いになったら困るし」

「……東京?」

「約束でしょ? 美術館巡りするって。そう遠くない内にはしたいと思ってるけど」

確かに以前、そんなことを言ったけれど。

「あのさ、見崎。その……さっきぼくが言ったことは……?」

「ああ」と言って、こともなげに鳴は頷く。

「まだ言ってなかったっけ。……うん、分かった。榊原くんのこと、頼りにする」

そしていつものように、彼女は淡く笑むのだった。


「だから――これからもよろしくね、榊原くん」

357: 2019/02/23(土) 23:00:27.07 ID:mQm9OJvR0
……願ってもない言葉だ。
当然、ぼくの返事は決まっている。

「……ああ、もちろんだよ。任せて」

何度も縦に首を振るぼくを見つつ、鳴は「それにしても……」と呟いた。

「さっきの言葉は、誰の受け売り?」

「え。……さっきの言葉、って」

「『やってみる前に諦めるのはかっこ悪い』、ってやつ」

「ああ。……どうして分かったの? 受け売りだって」

「だって、榊原くんらしからぬ台詞だもん。すぐに分かったよ」

そう言って鳴はくすくすと笑う。
じゃあ「ぼくらしい台詞」とはいったい何なんだ、と思ったけれど、ぼくの身の丈に合っていない言葉なのは否定しようがない。

358: 2019/02/23(土) 23:01:05.48 ID:mQm9OJvR0
「……でも、いい言葉ね。教科書にでも載ってた?」

興味ありげな様子で、鳴は質問を重ねる。

「いや……。これは、違うんだ」

「そうなの?」と、首を傾げる鳴。


――ここで"彼女"の名前を出しても、鳴はきっと、不思議そうな顔をするだけなのだろう。

それでもいい。
どうか憶えておいてくれ。

359: 2019/02/23(土) 23:01:45.08 ID:mQm9OJvR0
「この言葉は――」

……ぼくがそう口にした、その瞬間。
それまで穏やかにカーテンを揺らしているだけだった窓に、一際大きな風が吹き込んだ。
風はカーテンを大きくはためかせ、ぼくの視界を覆う。
一面が白く染まり、何も見えなくなる。

これはカーテンの……いや、違う。
それとは明らかに異質の、塗りつぶすような白。

――闇だ。
真っ白な闇が、すべてを――。




                                  ――どくん。

360: 2019/02/23(土) 23:02:33.36 ID:mQm9OJvR0


「――ああ、ごめんなさい。急に吹いてきちゃったみたいね」

知香さんがぼくらのテーブルに駆け寄り、窓を閉めていった。
なんだか寒気がする。たぶん、さっきの風に体温を奪われてしまったのだろう。
予報にはまるでそぐわない、ひどく冷たい風だったから。

身ぶるいをひとつしたぼくに、鳴が言う。

「それで?」

「……うん?」

不意の問いかけに、ぼくは首を傾げる。

「だから、誰の言葉なの?」

「ああ」そういえばさっきまで、そんな話をしていたんだっけ。「えっと――」

言いかけた言葉は、そこで途切れてしまう。

「…………」

――あれ?

361: 2019/02/23(土) 23:03:07.77 ID:mQm9OJvR0
「どうかした?」

「いや……」

――あれは、誰が言ったことだったろう?
いつかどこかで、誰かに、確かに言われたことがあるのだけど。
そしてついさっきまで、ぼくはその"誰か"を具体的にイメージできていた……気がするのだが。

しかし今となってはもう、それを思い出せそうな気はまるでしなくて。

362: 2019/02/23(土) 23:03:35.93 ID:mQm9OJvR0
「……ごめん、なんかど忘れしちゃったみたい」

ぼくがそう言うと鳴は、

「そう。じゃあ仕方ないか」

とだけ言い、それで興味を失ったようだった。
もともと会話の流れで訊いてみただけの、言ってしまえば些細な質問だったのだろう。

でもまあ……仮に鳴が食い下がってきたとしても、どっちみちぼくは思い出せないと思うけれど。
それほど見事に忘れてしまっていた。

そしてぼくの経験上、こういう時はさっさと諦めてしまうに限る。
あまり気にしすぎない方が案外、後々になって思い出せるかもしれないというものだ。

363: 2019/02/23(土) 23:04:05.72 ID:mQm9OJvR0
そう考えてぼくはひとつため息をつき、それを頭から追い出そうとしたのだが……。
ぼくの思いとは裏腹に、こめかみの辺りが徐々に、鈍く痛み出すのだった。
まるで頭の中では未練を断ち切っていても、それを諦めきれない無意識の部分が必氏に記憶を探っているかのように。

「大丈夫?」

鳴の言葉で我に返った。
じわじわと増していく痛みに、いつの間にか手で頭を押さえていたらしい。

「……うん、大丈夫。ちょっと頭痛がね」

気を遣わせまいとぼくは鳴に微笑んでみせたのだが、彼女はそれでも心配げな眼差しでこちらを見ている。
――そしてなぜか、申し訳なさそうにこう言う。

「……ひょっとしてまだ、傷が痛むの?」

「えっ?」

傷?

364: 2019/02/23(土) 23:04:38.50 ID:mQm9OJvR0
それでようやくぼくは気がついた。
ぼくがいま額に当てている右手、そのちょうど指先のあたりに残る――ひとつの傷痕。
これは――。

「それ、わたしのせいで榊原くんが怪我した時にできた傷……だよね。やっぱり、まだ痛い?」

――ああ、そうだった。

これは<氏者>の疑いをかけられた鳴が辻井に襲われ、それをぼくが庇った時にできた傷痕。
そしてある意味ではぼくにとって、誇らしくもある傷痕。

だが、その時の傷はとうに癒えているのだ。
こんなものが今さら痛むはずもない。

……いい加減にしよう、これ以上は鳴を心配させるだけだ。

365: 2019/02/23(土) 23:05:16.77 ID:mQm9OJvR0
「違う違う。本当にもう大丈夫だから、気にしないで」

ぼくはそう言って大げさに両腕を広げ、オーバーなくらいにおどけてみせる。
それでようやく、鳴が笑った。彼女が笑ったから、ぼくも笑う。



鈍い痛みはもう、とっくに消えていた。




――了

366: 2019/02/23(土) 23:06:43.33 ID:mQm9OJvR0
以上で終了です。
読んでくださった方、ありがとうございました。
今年こそは、「Another2001」が出るといいですね。

367: 2019/02/23(土) 23:21:44.13 ID:rvVbyp7U0
乙です
両作品のファンとして楽しく読ませていただきました。

369: 2019/02/24(日) 23:36:50.83 ID:a1JViRsP0
ありそうでなかったクロスで、個人的に読みたかったし待ってた。
館もアナザーも好きってのが伝わってきたし、島田潔の立ち位置とか、鳴と恒一の距離感とか、個人的に大満足です。

372: 2019/02/28(木) 15:58:10.78 ID:umZ0bpym0
久々に面白いSSだった
懐かしい気持ちになれた
ありがとう

引用元: 【Another】恒一「……中村青司?」