6: 2009/05/26(火) 23:45:47.52 ID:r9M3m5XZO
序章 幼馴染みとの関係

 その少女は突然少年の家にやって来て、用事が済んだら帰ってしまう。
 少年と少女は昔はよく遊んでいた。所謂幼馴染みだ。しかし、今では学校で配られたプリントを渡しにきてそれを受け取るだけの関係になっている。
 そんな関係が変わったのは少年──桜田ジュンの家に「ローゼンメイデン」という生きた人形がきてからだ。最初に来たのは真紅という人形だ。
 その人形は名前の様に真っ赤なドレスを身に纏っている。
 その次が雛苺というまさに子供を絵に描いたような人形だ。
 彼女は黄色のドレスを身に纏っている。
 雛苺はもともとはこの家に居た訳ではない。
 昔はよく遊んでいた幼馴染みだったが、プリントを渡しに来るだけの関係になってしまったその当人。柏葉巴の所にいたのだ。
 何故桜田家に来たのかというと、雛苺が柏葉巴に…。と、色々あったからだ。
 雛苺が桜田家に来てからは、巴はよく会いに来るようになった。
 最初こそジュンは気まずさを感じており、余り喋れないでいた。
 しかし会う日を重ねるにつれ、昔の様にまでとはいかないが少しは会話ができるようになった。
 それでもなお、二人の間には溝があった。
 しかしそれは少しのきっかけで埋まるのだ。

7: 2009/05/26(火) 23:48:04.39 ID:r9M3m5XZO
第一章 進展


ピンポーン…。
家のチャイムが鳴り響く。ジュンは部屋から出るのが億劫なのでここは居留守を使っているのだ。
彼は「誰もいませんよー」と小さく呟いてパソコンの画面から目を離さない。
ピンポーン…。
もう一度鳴るチャイム。
しかし彼はしつこい奴だとしか思わず、微動だにしない。
ピンポーン…。
三度目のチャイム。
仏の顔も三度まで、だ。
ジュンより先に痺れを切らしたのは第五ドールの真紅だ。
「ジュン、五月蝿いわ。速く出て頂戴」
めんどくさいなぁという顔をしてジュンはしれっと言った。
「なんでだよ。今来てるのは新聞か宗教の勧誘。行くだけ時間の無駄だ。」
ピンポーン。ともう一度鳴る。
四度目のチャイムで「しつこいな」とジュンも思った。
「全く…、使えない下僕ね。本も読んでいられないわ。ねぇ、速くいってらっしゃい」
これ以上鳴らされても喧しいのでジュンは折れた。
「ったく。わかったよ。行けばいいんだろ。行けば!」
椅子から立ち上がるときに「いい子ね」と聞こえたが、それを無視をして足を進める。
彼なりのちょっとした反抗心なのだろう。

8: 2009/05/26(火) 23:49:19.35 ID:r9M3m5XZO
階段を降り、玄関に向かう。
新聞か宗教の勧誘ならば時間の無駄だから、怒鳴ってやろう。そう心に決めていた。
「はい、どちらさん?」
そんな決心をしていた彼だが拍子抜けした。
扉を開けると、そこには柏葉巴が立っていた。
「あ、桜田君。コレ。」
そう言うと、巴は学校で貰ったプリントを渡した。
「ん、あぁ。ありが──」
ありがとう。そう言い終わる前に後ろから大音量の声と共に走り出して柏葉に飛び付く影を確認した。
「トゥモエ~!」
──元気だな、雛苺は。
口には出さないがジュンはそう思った。
どうやら雛苺は話すことがたくさんあるらしいが、一気にたくさん喋ろうとしているので何が言いたいのかわからない。
それなのに巴はうんうんと話しを聞いている。
──本当にわかっているのか?
やはり、口には出さないがジュンはそう思った。

11: 2009/05/26(火) 23:51:06.16 ID:r9M3m5XZO
少年の目には雛苺とじゃれあう巴は、少し大人びて見えた。
彼女はジュンと同い年だから顔はまだまだ幼さを残している。
しかしながら、彼女自身その年特有のあどけなさを余り見せない。
雛苺と遊んでいる姿は、年齢の離れた妹と遊ぶお姉さん。のような感じだ。
そんな事を思っていると不意に巴と目が合ってしまう。
彼は慌てて目を反らしたが、巴は不思議そうな顔で問いかけてきた。
「どうしたの桜田君?」
まさかここで問いかけられるなど彼は予想しなかった。
もちろん、雛苺と遊ぶ君が綺麗だ。なんて気の利いたことを言えるわけはない。かといって「お姉さんみたいだね」と本当の事を言えるわけでもない。
ジュンはもっと砕いた言い方をした。
「いや、よくこんな子供と遊べるなぁと思ったんだ」
すかさず雛苺が反論する。
「ヒナは子供じゃないもん!」
その反応が十分子供だろ…。と思ったが、喉でぐっとこらえた。
ここで言ったら無駄な時間が長くなる。そう思ったのだろう。懸命な判断だ。
巴は雛苺をあやしながら答えを返してきた。
「そんなことないよ。雛苺と遊んでると楽しいもの」
「ヒナも楽しーの!」
「ねー」と二人で一緒に言って笑っていた。
ジュンはその笑顔に見とれそうになってしまい、慌てて二人から背を向け、
「なぁ、柏葉。暗くなってきたから帰れよ。危ないぞ」
ぶっきらぼうに言った。

12: 2009/05/26(火) 23:53:18.30 ID:r9M3m5XZO
④=燃料です。タンキュウ!

「ダメ~っ! トモエはヒナともっとお話しするの!」
あぁ、子供が駄々をこね始めてしまった。ジュンが後ろを振り返ると巴も困った顔をしている。
雛苺は巴に抱き着き離さない。それどころか更に強く抱きしめている。
「痛いよ雛苺…。また来るから…、ね?」
「いやなの! 雛は今日は巴といたいの! お話ししたいの!」
(はぁ、何を言っているんだ。コイツは…)
ジュンは何とも言えない気だるそうな顔をして二人のやり取りを見ている。
巴から雛苺を引き剥がそうか迷っている時に階段の方から声がした。

13: 2009/05/26(火) 23:55:08.24 ID:r9M3m5XZO
「騒々しくってよ、雛苺」
調度いい所に来た。
真紅からも雛苺を宥めてもらおうと思い、ジュンは経緯を話した。すると、真紅から驚きの回答が返ってきたのだ。
「あら、それならこの家に泊まればいいじゃない」
真紅は「狭いけれど」と付け足し微笑んでいる。
当然思春期のジュンは声を荒げて反対をする。
「ふ、ふざけるなー! 何でお前が決めるんだよ!」
真紅は焦っているジュンとは対象的に艶然と答える。
「いいじゃい。減るものじゃないでしょう? それとも巴の事が嫌なのかしら」
「そこでなんで柏葉が出てくるんだよ! 別に柏葉のことは…、って何を言わすんだよ!」
「雛もさんせーい!」
「うるさーい!」
そんなやりとりを巴は一歩退いて見守っている。
ジュンが柏葉からも何とか言ってくれ、という視線を送るが笑顔で返される。
ジュンは戸惑った。
まさか笑顔で返されるとは思っていなかったからだ。そして、その笑顔で胸の鼓動が速くなったことにもっと戸惑った。

14: 2009/05/26(火) 23:56:47.65 ID:r9M3m5XZO

なぜ巴がリビングに居るかというと、玄関で騒いでいるとジュンの姉、桜田のりが帰ってきてしまったのだ。
真紅が「巴は今日泊まる」と言うとのりは目を輝かせ「お赤飯を炊かなくちゃ!」と騒いだのだ。
そして強引に巴を部屋に連れてきて今に至ると言うわけ。
 「柏葉、なんかごめんな」
 「ううん。別にいいよ」
それ以来会話は途絶えた。
彼には話すネタがない。何故なら引き篭りだからだ。それに学校はどうだ? なんてジュンが言える立場ではない。
巴が寡黙なのも手伝ってリビングは重苦しい空気が漂っている。
真紅達は余計な気を効かせリビングから出ていってしまった。
雛苺がぶーたれていたが真紅に連れていかれてしまった。
ジュンはこの耐え切れない状況になるのが読めていた。
だから今回ばかりは雛苺を陰ながら応援したのだが、それも徒労に終わった。
ジュンは脳細胞を総動員させ、早急に話題を見つけるように努めた。
脳の隅々まで話題を探そうとも、やはりないものはない。
彼は自分の情けなさに悲嘆した。

15: 2009/05/26(火) 23:58:18.07 ID:r9M3m5XZO
耐えきれない静寂。静かなことは苦痛だと感じた。
ジュンは話題探しを諦め別の事を考えるようにした。
早く飯できないかな? 今日の飯は何かな?
今日の──。
「雛苺の様子はどう?」
不意に巴が話しかけてきた。
ジュンは「え?」と間抜けな返事をしてしまい、もう一度彼女は質問を繰り返した。
「どうもこうも、相変わらず喧しいよ」
「そうね。あの子がいた時は静かな日なんてなかったわ」
少し悲しそうな目をして俯いた。
「雛苺が居なくなってからは寂しくなった。喧騒に慣れてしまったら静寂は耳が痛いの」
ジュンは苦く笑う巴から視線を外した。
「もし良かったら、雛苺を家に泊めたらいいよ。柏葉も寂しくなくなるし、僕も大助かりだ」
ジュンは巴がどんな表情でこちらを見ているか知らない。彼は恥ずかしいことを発言したと思った。
少女は軽く微笑みながら答えた。
「えぇ、そうするわ」
そこからはさっきまでの沈黙が嘘の様に二人は語った。
話題はローゼンメイデンに対する愚痴や、巴の近況などだった。
しかしタイミングがいいのか悪いのか分からないが晩飯が出来たので話は終わった。
──柏葉とこんなに話したいつ以来だろう。…少し楽しかったかな
溝はキッカケがあれば埋まるのだ。

18: 2009/05/27(水) 00:01:00.76 ID:iReqeyJ/O
晩飯の時間はずっと雛苺が巴に話しかけていた。
それを嫌な風もなく相手をしている巴に対してジュンは少し尊敬をする。
子供相手に僕にはできないな。と考えたがそんな自分も大人ではないと思い彼は自嘲した。
結局巴は、晩飯を食べると家に帰る事になった。
それはそうだ。彼女には明日も学校があるのだから。
やはり雛苺が駄々をこねたが、また今度巴が雛苺を家に泊めるという条件を出し納得させる。
玄関まで見送り、ジュンは出来なかったパソコンを…、とはいくまい。
「ジュン。巴を家まで送ってさしあげなさい」
真紅がこう言ったのだ。
予想通りの発言。やはりそうくるかと思いジュンは真紅に視線を向ける。
「こんな夜遅くに巴一人で帰らせるのは危険だわ。紳士は淑女を守るのが仕事じゃなくって?」
「……まぁそうだな」
「ねぇ、ジュン君。お姉ちゃんからもお願い」
「雛からもー!」
流石に断れない空気だ。彼自身最初から断る気はなかったのだが…。
というより、ジュンより巴の方が強いのは一目瞭然だ。
彼女は剣道で毎日鍛えている。一方彼は毎日家で家畜以下の運動しかしていないのだ。
それに、彼女の背中に背負った竹刀も飾りではなかろう。
それを踏まえた上で真紅達はジュンにお願いをした。
中学生の夜道は一人より二人の方が安全なのだ。
「わかってるよ。送ってくるよ」
断る理由などない。
「じゃあよろしくね、桜田君」
ドキっと胸が弾んだ。二人きりなのだ。
さながら姫を守る騎士の様に感じ、少年は酔いしれた。

19: 2009/05/27(水) 00:02:34.30 ID:iReqeyJ/O
この前までのような暖かい気温が嘘の様に今は少し暑い。今から夏が始まろうとしているのだ。
このじめっとした独特の風はどこから来て、どこに行くのか。それは風しか解らない。
風に乗せられ漂う若葉と土の香りが鼻孔を突く。季節の変わり目には大地が色々な表情を見せる。
辺りは夜に相応しい静寂が支配していた。
静寂の中、二人の人間が寡黙に歩いている。
二つの足音が空気に谺する。
二人の人間とは勿論、桜田ジュンと柏葉巴だ。
先ほどからジュンが巴に話し掛けるも気のない返事ばかりされる。
──僕が何かしたのか?
少年は巴が来てからの出来事を思い返す。
しかし彼女が怒ることは見当たらなかった。
柏葉もこのじめったい風に悩んでいるのだろう。
ジュンは無理矢理そう結論付けることにした。
リビングに居た時のような耐えきれない静寂。
やはり、それを打破したのも彼女からだ。
とある公園を横切る時、意を決した様に少女が立ち止まった。
「ねぇ、桜田君…」
「は、はい」
ただならぬ雰囲気につい敬語になってしまった。
街灯に照らされた巴は少し翳り、表情が読み取れない。

20: 2009/05/27(水) 00:03:55.51 ID:iReqeyJ/O
湿った土の臭いの風が吹いている。風の音が辺りに響き渡る。それなのに世界から音が消えたかのような感覚に襲われた。
少しの間黙った彼女は静かに、しかし強くこう言った。
「…学校にきてみない?」
驚いたジュンに続ける。
「ねぇ、もう一度やり直してみない?」
ジュンは『やり直す』という言葉に引っ掛かった。
「やり直すも何も、僕は間違っていない!」
「心配している人もいるわ…」
ジュンは叫んだ。
「誰が心配しているっていうんだよ!」
ついカッとなってしまった。やってしまったと思ったが、もう後には引けなくなった。
巴は一瞬怯んだが、風に掻き消されるような声で叫んだ。
「心配している人ならいるよ。お姉さんや真紅ちゃん。雛苺もそうだし、私だってそう…」
後には引けないジュンは「考えておくよ」と言って彼女から背を向けた。
少女は何も言わず少年の後を着いてくるように歩いた。
背中が痛い。風の音と二人の足音が辺りを支配する。ジュンの掌には爪が突き刺さっている。
巴に対する怒りではない。自分自身の愚かさに腹が立っているのだ。少年は後悔しかしていなかった。

21: 2009/05/27(水) 00:06:41.78 ID:iReqeyJ/O

長いこと歩いた様に感じたが、それは重い空気だからだろう。
実際にはアレからあまり時間は経ってないが、“やっと”巴の家に着いた。
彼女は「ありがとう」と小さく呟き門を潜ろうとする。
──…言わなくては。早く言わなくては、柏葉の想いが無駄になってしまう。
彼は、彼女の姿が見えなくなると、全てが終わる様な気がした。
さっきは柏葉が勇気を出した。次は僕が出す番じゃないのか? そう自分を叱咤する。
「か、柏葉!」
思ったより大きな声がでた。動悸が早くなる。巴が振り返った。
「…何?」
「さっきは怒鳴ってごめん。あと、心配してるって言ってくれてありがとう」
「私こそ急にゴメンね。桜田君が一番傷付いているのに無責任な事言っちゃって」
「そんなのは気にしなくていいよ。あと、さっきの答えだけど、今は答えはだせないから次に柏葉が来た時に答えをだすよ」
「…うん。桜田君の答え、ちゃんと聞かせてね。じゃあお休み……」
パタンと門を閉めて姿が見えなくなった。
ジュンの足が震えていた。こんなに緊張したのは久しぶりだ。しかし、不思議と心は澄んでいる様に感じた。

23: 2009/05/27(水) 00:09:11.12 ID:iReqeyJ/O
今ジュンはさっきまで二人で歩いた道を一人で歩いている。
そして、さっきまでは心が踊っていたようだったが、今は悩んでいた。
あんな事を言ってしまったが、正直不安だらけだ。
彼は裁縫をバカにしていた奴らとは会いたくない。しかしそれは彼奴を無視したら済む。
それに今更学校に行ったとしてももはや居場所はないだろう。
そんな中で一番心配なのはやはり勉強だ。
ついていける自信などない。
『ついていく』どころかまずは『追い付く』事が難しい。
そんな事を考えていると家についてしまった。
「はぁ、さっきまではえらく長い距離に感じたんだけどな…」
大きな溜息と共に漏れた言葉は闇夜に消えた。

25: 2009/05/27(水) 00:10:26.70 ID:iReqeyJ/O
ジュンは帰ってからもずっと悩んでいた。
次に来るときに答えを出すと言ったのに「まだ考えてる」じゃ格好が悪い。
「さっきから浮かない顔をしてるわね。何かあったのかしら?」
そんな彼を見て真紅が疑問に思ったのだろう。
真紅に言っても何にもならないが、自分だけでは答えを出せない。背に腹は変えられず、真紅に相談した。
「実はさっき柏葉から──」
真紅に全てを話した。
復学を勧められたこと。いじめのこと。居場所のこと。勉強のこと。悩んでいること。全てを話した。
真紅はうんうんと相槌を入れ全てを聞いてくれた。
そして、全てを話し終えると静かに口を開いた。

26: 2009/05/27(水) 00:12:51.50 ID:iReqeyJ/O
「ジュン、貴方はもう答えを出しているわ。そのままを巴に伝えればいいの。」
「そのままを?」
「そうよ。そして、不安だから復学まで巴にサポートをお願いするのよ」
ジュンがポン、と手を叩く。
「そうか。勉強を教えてもらって、それから学校に行けばいいのか」
「そうよ。大丈夫、貴方なら出来る。この真紅が保証するわ」
なるほど、そういう答えもあったのか。これは盲点だった。
真紅はふと時計を見やる。
「あら、もう寝る時間だわ。それじゃあお休み」
ありがとう、真紅。
ジュンは心の中で礼を言った。
「あぁ、そうだわ。虐めを無視するのは解決にならない。時には立ち向かうことも必要よ。そして居場所がなければ作ればいいの。簡単よ。私に居場所ができたように貴方にもできるわ」
そう言い終わると鞄を閉めた。
敵に立ち向かう。雛苺でさえ水銀燈に立ち向かったんだ。
それに、僕が居るところ。そこが僕の居場所なんだ。僕にもできるさ。
ジュンは小さな胸に決意を抱いた。

28: 2009/05/27(水) 00:15:26.80 ID:iReqeyJ/O
巴はそれから二日後に訪れてきた。
真紅と雛苺を部屋から締め出し、部屋に招いた。
二人は正面に向き合い、腰を下ろす。
「桜田君の答えをきかせて」
「あぁ、わかった。──今はまだ学校に行けない」
「…そう」
巴の顔がみるみる暗くなっていく。
何を言ったらいいかわからない。そんな表情だ。
「そう。『今は』だ」
「今の僕では学校の勉強にとてもついていけない。だから、僕に勉強を教えて欲しいんだ。」
巴の表情が変わった。
「えぇ、私でよければ…」
「柏葉、ありがとう」
話し終わると雛苺が駆け込んできて巴に抱き着いた。程なくして真紅も部屋に入ってきた。
──まさかこいつらずっとそこにいたのか…?
聞き耳を立てられていたが答えを出せたのは真紅のお陰だと思い、今回は怒らないことにする。
暖気が全てを優しく包み込んだ。

30: 2009/05/27(水) 00:17:49.32 ID:iReqeyJ/O
<2>


相も変わらずこの家は騒がしい。以前は静かな、本当に静かな家だった。
それが、鞄が一つ現れると小煩くなり、二つになると喧しくなり、三つになると騒音になった。
人をこき使う人形、人に迷惑かける人形、人を馬鹿にする人形。
──…ましな人形はない。
ジュンはそう思っているが、彼女達がジュンの事を思っているからこそだ。
そのことは口には出さないが彼もわかっている。
ローゼンの言う『究極の少女』とはなんだろう。
花より気高く、宝石より無垢。それでもって一点の汚れもないのが『アリス』とやららしい。
──…どれも当て嵌まらないな。
彼がこう思っているのも事実だ。
「やい、チビ人間! 何辛気臭い面してやがるですぅ」
この言葉のどこに品があるのだろうか。
翠星石はアリスには程遠い。
ジュンは改めてそう思った。
「うるさいな! 勉強に集中できないじゃないか!」
「キィー! せっかく翠星石が心配してやってるのに何て口の聞き方ですぅ?!」
ギャーギャー騒いでいると真紅が近づいて来た。

32: 2009/05/27(水) 00:18:58.86 ID:iReqeyJ/O
次の瞬間、ジュンの眼に映った光景は金色だった。金色の鞭がしなり、ジュンをとらえた。
「ふべっ!」
「うるさいわ。静かにして頂戴」
口で言えばいいものを、真紅は特技の巻き髪ウィップを繰り出してきたのだ。
「なんで僕も攻撃するんだよ!」
「喧嘩両成敗よ。あなたも騒いだから仕方がないわ」
「それはこの性悪人形が…!」
「キャー、チビ人間が吠えたですぅ」
「な、なんだとー!」
「静かにしなさい!」
この騒がしい家で勉強することは難しい。

33: 2009/05/27(水) 00:20:50.88 ID:iReqeyJ/O
息を切らし、冷静になったジュンは周りを見た。雛苺が静かなのは珍しい。
「雛苺が静かなのは珍しいな」
言い争いに白熱してしまい、雛苺の事を忘れていた。「雛苺ならあそこにいるわ」
真紅の指差した先には──
「おい…雛苺……」
一人お絵かきをする雛苺と──
「お前、まさか…」
落書きだらけになった床があった──
「何やってんだーー!」
雛苺は無垢な笑顔で説明を始めた。
「うゆ? これがね、ヒナでこれがジュン。でね、これがのりと巴で、これが翠星石なのー!」
──ふふふ、上手じゃないか。微笑ましいな。
ジュンは頬を緩めた。
「ってなるかぁぁあ!」
「キャー! ジュンがノリツッコミしたのー!」
「今すぐ消せー!」
ここ最近の桜田家には平穏という言葉が無くなったらしい。
すぐに騒がしくなる。静かなのは寝ている時くらいだ。
ピンポーン…。
突然チャイムが鳴り響く。チャイムの音で現実に引き戻された。
ジュンは時計を見てもうこんな時間か。と呟いた。
今日は週に一度の巴に勉強を見てもらう日だ。
何故週に一度かというと毎週月曜が彼女の部活が無い日だからだ。
階段を降り玄関へ向かう。扉を開けるとそこには柏葉巴が立っている。
家の中に入れ、部屋に招いた。

36: 2009/05/27(水) 00:23:13.28 ID:iReqeyJ/O
客人が来たので紅茶を入れに行く。
翠星石は一階まで降り、ジュンの後ろをついてきた。
部屋に戻ったら翠星石がジュンの後ろからちょこんと顔を出す。翠星石は極度の見知りだ。眉を潜め、ジュンの後ろで小さく聞いた。
「あ…、あの人間誰です?」
普段からこんなに静かなら苦労はしないのにな。ジュンはそう思った。
「あー、初めて会うのか…。僕の幼馴染みの…」
巴が彼等に視線を向けると、翠星石はササッと後ろに隠れる。
「大丈夫よ、翠星石。巴は雛苺の元マスター。怖がる事はないわ」
真紅がそう言うと、雛苺も続く。
「巴を怖がるなんておかしいのー」
「翠星石ったら、ひと…ひとおしりなのね」
「人見知りです。おバカ苺!」

38: 2009/05/27(水) 00:24:41.41 ID:iReqeyJ/O
巴は初めて会うドールに恭しく挨拶をした。
「翠星石って言うの? よろしくね。綺麗な瞳…。オッドアイね」
まだ慣れないのか、翠星石は目を伏せた。
真紅がその場を取り繕う。
「──巴。いつも貴女が持っている筒状の袋…。それは何なのかしら」
「あぁ、これはね…」
袋から巴は竹刀をだし、それを真紅に渡した。
それを見て翠星石は叫んだ。
「ぼ、木刀ですぅ!根性入魂棒ですぅ!ここでおっぱじめる気ですぅ!」
「アホ…。竹刀だろ」
翠星石がジュンにしがみついて離れない。
ジュンは満更でもない顔をしている。真紅はその光景をじっと見つめていた。
「あいたっ!」
真紅が持っていた竹刀がジュンの頭に倒れてきた。
「何すんだ、コラァ!」
叫ぶジュンに真紅は艶然と返す。
「重かったもの」
「嘘つけ!絶対わざとだろ!」
「ふふ…」
柏葉は手を顔の前に当て、微笑んだ。
「あ…ごめんなさい。桜田君、すごくなつかれてて…おかしい…」
全てを引き込むような微笑。少女はあどけない顔を綻ばせた。
その微笑みは時間をも魅了し、時が止まったように思えた。
「わ…笑うなよ」
少年はやっと喉から声を出した。自分が喋る事ですら罪になる様な気がしたのだ。
少女の微笑みは、全てのものが嫉妬するくらい美しかった。

41: 2009/05/27(水) 00:26:17.65 ID:iReqeyJ/O
紅茶を飲み干すとジュンはドールズをリビングに追いやって勉強を始めた。
勉強は主に一人ではわからない箇所を質問をしてそれを解いたりするものだ。
彼は勉強が苦手という訳ではない。他者と比べるとできる方だ。しかしながら、引きこもりのブランクと言うのは大きいもので、とてもじゃないがわからない。
思うように進まなくても彼女は根気よく教えてくれた。そんなもんだから、ジュンが折れる訳にはいかない。
焦りと不安もあったが、彼は頑張れる気がした。しかし、幼い少年は何故頑張れるかは気付いていない。

2時間ほどして休憩に入る。下から本日二杯目の紅茶を持ってきて巴に振る舞った。
普段から真紅にうるさく言われているものだから、味には自信はある。
「この紅茶、おいしいね…」
いつもならここて一言二言入るのだがそれがない。
素直に褒められるのは嬉しいものだった。
「いつもうるさいのに鍛えられてるからな。今ではちょっとした特技だ」
悲しいことにその特技は披露する場が皆無に等しい。

44: 2009/05/27(水) 00:29:17.11 ID:iReqeyJ/O
紅茶を一口飲み、巴は口を開いた。
「桜田君、変わったね」
突然の言葉にドキッとする。
「そうかな?僕はそうは思わないけど」
ジュンは嘘をついた。自分の変化に一番驚いているのは自分自身なのだから。
「ううん、変わったわ。少し前ならこんな風に話せなかったもの」
「……」
柏葉は思い詰めたように啾啾と続けた。
「何も変わらないのは私自身なのかもしれない…」
ジュンは彼女になんて言えばいいのかが解らない。
それに彼女は気休めを求めているわけでもない。
恐らく巴は胸の裡のもやもやしたものを吐き出したいだけだ。
「本当は部活も辞めて受験に集中したいの。でも父にはそんなこと言えないし…」
柏葉は訥々と続ける。
「クラス委員もしたくなかったの。いつもそう。言いたいこと誰にも言えないの…」
言い終えた巴は俯いた。ジュンには巴の求める答えなんてわからない。正解なんてないのかもしれない。

46: 2009/05/27(水) 00:31:21.42 ID:iReqeyJ/O
人の心が読めたらどんだけ楽な事だろうか。人の心が読めたら何も苦労はしない。
当たり障りのない会話をして、当たり障りのない付き合いをして…。
そしたらこの世界に間違いなんて起きないだろう。もしそんな世界なら、言いたい事が言えず彼女を悩ませる事もなかっただろう。
しかし、そんな事はできない。
人の心が読めなくて悩む時があるけど、それは相手を気にかけているからこそではないのだろうか。
そんなことはジュンの言えた事ではないが、少しのりの気持ちがわかったような気がした。
彼自身、実際に真紅に考えを読まれた時は嫌だった。「──僕が変われたのは」今度は嘘をつかない。
「姉ちゃんが心配をしてくれて、真紅達と出合ったからだと思う」
「…」
巴は静かにジュンを見ている。
「それから僕は変わったんだと思う。でも、一番僕を変えてくれたのは」
つい数週間前の夜の事を思い出していた。
あれから稚い少年は小さいながらも前に歩けるようになった。
──そう、柏葉が…
「柏葉があの夜僕を変えてくれたんだと思うんだ」
ジュンは巴を真っ直ぐ見た。巴もジュンを見つめている。

47: 2009/05/27(水) 00:32:38.48 ID:iReqeyJ/O
「あの夜、あの公園で柏葉が言ってくれた言葉が僕を変えたんだ」
「私が…?」
少し驚いた巴に続ける。
「そう、柏葉が。今は僕が柏葉に頼りっぱなしだけど、柏葉も頼ってくれてもかまわない」
「──」
「言いたいことが誰にも言えなくても、僕には言ってくれよ。それくらいしかできないけどさ」
「…えぇ、わかったわ」
ジュンが出した答えが正解なのかわからない。彼女が求めたものかもわからない。けれど、彼女は笑った。だから今はこれでいい。
「でも、的確な返答なんてできないから期待するだけ無駄だけどな」
ニカッ。と照れ隠しの笑顔を見せた。
「ありがとう桜田君…」
ジュンと巴の距離はぐっと近くなった。
彼は満足していた。少女を笑顔にしたことについてもそうだが、自分がなぜ頑張れるかやっと気付いたのだ。
ジュンは巴の事が好きな事に気付いた。

51: 2009/05/27(水) 00:34:37.44 ID:iReqeyJ/O
巴が誰にも言えなかったこと。部活を辞めたいこと、級長をしたくなかったことを言ってくれた。
誰にも言えない事をジュンには言ってくれた。そんな些細な事ですら嬉しいものだ。
巴を見送った後、リビングで食事をとっている時もずっと破顔一笑だった。
「なーに気色の悪い顔してるですか?」
翠星石が問いかけてきた。
「ん? あぁ、なんでもないよ」
翠星石は訝しんだが「ふーん」と言ってそっぽを向いた。雛苺はそれでもなおニヤニヤしている僕に「変なジュンなのー」と言って翠星石とご馳走様をしてテレビの前に座った。
「真紅、お前はテレビを見ないのか?」
紅茶を飲み終わってもじっとこっちを見ている真紅に問い掛けた。
「見ないわ。貴方を見ている方が面白いもの」
「…僕の何が面白いんだよ」
「ジュンのその顔よ」
「どういう意味だよ…」
ジュンは少しムッとした顔をした。

53: 2009/05/27(水) 00:37:15.25 ID:iReqeyJ/O
「あら怖い。私は褒めているのよ」
怖いというそぶりも見せずに真紅は怖がってみせた。──僕を褒めている?どういうことだか。
「どこが褒めているんだよ」
「私が来た時はそんな表情はしなかったわ。変わったのね、ジュン…」
─桜田君、変わったね─
ジュンは巴の言葉を思い出した。一日に二度も同じ事を言われるとは思わなかった。
「そりゃ変わるよ。僕は人間だからな」
「そう、人間だから。私達ドールは変わらない」
真紅は一呼吸置いて続けた。
「私達は成長もしなければ、歳もとらない。だからこそ言えるのが『変わる』というのは羨ましいことよ」
真紅は悲しみとも羨望とも取れる目でジュンを見つめた。

54: 2009/05/27(水) 00:38:48.43 ID:iReqeyJ/O
彼女達が何年生きたかわからない。
──百年?
──五百年?
──それとも千年?
果てしない時間を彼女達は生きているのだ。
そこには寿命のある人間では計り知れない恐怖がある。
彼女達には幾百、幾千の出会いがあり、それらに比例して幾百、幾千の別れもあっただろう。
大切な人がいようとも別れは必ず訪れる。それは老氏であったり不慮の事故であったり理由は様々だ。
ローザミスティカがある限り、彼女達は生き続ける。生き続けるということは、それだけの悲しみも背負う事になる。
人が生まれ、赤子から子供に、子供から大人に、大人から老人に、そして老人から土に還ろうと、ローゼンメイデンは変わる事はない。
アリスに変わるべく姉妹と戦うのだが、犠牲の上に完璧なものなど生まれるのだろうか。もしそうなら、それは余りにも悲しすぎる。

55: 2009/05/27(水) 00:40:19.41 ID:iReqeyJ/O
真紅を見遣るジュンは静かに口を開いた。
「真紅だって変わったさ」
「あら、それは気になるわね。どこがかしら?」
「人形なのに人形劇が好きな『変わった』人形って事だよ」
真紅は笑うでも、怒るでもない、うまく読み取れない表情で手招きをした。ジュンは訝ったが顔を近づけた。
バチン!
渇いた音が響く。
「なにすんだよ!」
「レディに対して変人とは失礼じゃなくって?」
真紅はそういうと椅子から降り、扉へ歩きだした。
ジュンはドアノブに手を伸ばす真紅を見遣り、
「…僕が変われたのはお前のお陰でもあるよ」
小さくそう呟いた。
こんなことを大きな声で言えるはずはない。当然ジュンは小さな声で呟いから聞こえていないと思った。
それなのに真紅は足を止め、ジュンの方に振り返った。
「ジュン」
ジュンの胸の鼓動が早くなる。
──まさか聞こえたのか?
「…なんだよ」
「抱っこして頂戴」
拍子抜けだった。まさか、いつも通りの事を言われるとは思わなかった。
「ったく。わかったよ」
ふて腐れたように歩き、真紅を抱き上げた。
「いい子ね」
ジュンの耳元で真紅甘く囁いた。
ジュンはびっくりして真紅の顔を見る。そこには作りなど一切ない、あどけない少女の笑みが溢れていた。

56: 2009/05/27(水) 00:42:23.14 ID:iReqeyJ/O
<3>

あの夜から数カ月が過ぎ、いつの間にか蝉がけたたましく鳴く季節になった。
ジュンは夏が嫌いだった。何故なら暑いからだ。
「暑い」と言ったら地球が「なら涼しくしましょう」と言ってその通りにするはずがない。
地球は頑固なのだ。
いくら愚痴を言っても一向に涼しくする気配を見せない。
だからジュンは暑さに対して文句を言うのを止め、深海よりも深い心の奥底に秘める事にした。
しかし彼は今、地球に感謝をしている。あんなに毛嫌いしていた夏を歓迎している。
それも十年来の友人との再会に両手を広げて迎えるように、だ。
何故こんなに夏を歓迎するになったのか。それは北風と太陽でも知られていることである。
そう、太陽から発生する熱が地球に降り注ぎ、人々を薄着にさせるのた。
そんなの引きこもりのジュン君には関係ない。と思う人は思い出して欲しい。
この家には誰が訪れるのかを!
そう! ジュンの幼なじみであり、想い人でもある柏葉巴が定期的に訪れるのだ。
ジュンは楽しみで仕方がなかった。ただでさえ薄い夏用制服が汗に濡れ、体に密着をするあの神秘が楽しみで仕方がないのだ。
「本当、夏が大好きです」
誰に言うわけでもなく少年は声を漏らした。

57: 2009/05/27(水) 00:43:58.40 ID:iReqeyJ/O
ピンポーン…。と、チャイムが鳴った。
巴は学校から歩いてきたからさぞ暑いことだろう。しかし、ジュンはまだ部屋のクーラーをつけていない。
何故なら、巴が汗をかいている姿をできるだけ見たいからだ。誰に何を言われようが彼にも譲れないものがあるようだった。
「はーい」
陽気に返事をし、ガチャ。とドアを開ける。しかしそこには学生服ではなく、私服を身に纏った巴が立っていた。
「こんにちは、桜田君」
「あぁ。暑いだろ? 入れよ」
玄関を潜った巴に背を向け、部屋に向かう。
かくして彼の煩悩は失敗に終わった。しかし、彼は落ち込んでなどいない。
むしろ私服が見れた事に喜んでいた。
部屋に入ると、いつも通り雛苺が巴に飛び付いた。
「トモエ~!どうして今日はいつもと服が違うの?」ジュンが聞けなかった事をこうもあっさり聞いてみせる。
ジュンは今日くらいは雛苺に優しくしようと誓った。
「今日はね、いっぱい汗をかいたから着替えてきたの…」
雛苺をあやしながら柏葉は質問に答えた。
ジュンは別にそのままでかまわなかったんだけど…。と思ったが言えるわけもない。
「おい、雛苺。僕はそろそろ勉強をするぞ」
「うゅ~」と納得のしない顔をしなが雛苺とドールズは部屋から出ていった。

59: 2009/05/27(水) 00:46:24.14 ID:iReqeyJ/O
「ま~ったく、何ですか! チビ人間のデレデレ顔は!」
吠えているのは言わずもがな翠星石だ。
リビングに移ったドールズは絵を描いたり、テレビを見たりと各々行動をしている。
そんな中、翠星石はというと、
「ジュンは翠星石のマスターでもあるのに、ちっともかまってくれないんですぅ」
椅子に座り、夕餉の支度をするのりに一方的に喋っているのだ。
のりはふふ、と笑いながら料理を作っている。
この日の日常風景はいつもこんな感じだ。
巴がジュンと勉強をしている間、翠星石は一方的にのりに喋り、彼女はそれを微笑みながら聞いて料理をつくる。
雛苺と真紅はテレビを見たり本を読んだり絵を描いたりして時間を潰している。
「よろし~っくんくん!」
くんくん探偵が終わりを告げ、真紅も翠星石のいる場所に移った。
「ふぅ、くんくんは天才よ。」
まだ嫉妬の納まらない翠星石が真紅に問うた。
「真紅はどう思うですか?!」
「何がかしら?」
「ジュンのことですぅ!全く、ジュンは──」
翠星石はさっきと同じ事を真紅に話し、手元に置かれた紅茶をグイッと飲みほした。
ぷはぁ、と息をはいてからキッと真紅を見つめ、
「で、真紅はどうおもうですか?」
テーブ越に身体を近づけた。

60: 2009/05/27(水) 00:47:53.96 ID:iReqeyJ/O
真紅はまっすぐ翠星石を見つめ答えた。
「貴女はジュンにかまってほしいのね」
かまってほしい。さっきまで自分で言っていたが、いざ他人に言われると恥ずかしいようだ。
翠星石は頬を少し朱に染め、真紅から視線を外した。
「別にそういうわけじゃないですよ…」
翠星石は少し間を空け、続けた。
「ただ、もう少しマスターとドールの関係をしっかりした方がいいと思うのです…」
「ジュンにとって今が大事な時期なのよ。翠星石もそれはわかるでしょう?」
「はいですぅ…」
「なら、私達には何ができるかしら? …私達は影で支える事しかできないわ。今はただ、見守りましょう」
翠星石はしゅんとし、その瞳は潤んで見えた。
が、すぐに立ち直り胸の前で拳を握り高らかに宣言した。
「よっしです!翠星石は自分でしかできないことでジュンを支えるですぅ!」
いつの間にかお絵かきを止め、途中から話の輪に入っていた雛苺もそれに賛同した。
「ヒナも、ヒナもー! ヒナもジュンを影で支えるのー!」

62: 2009/05/27(水) 00:50:07.38 ID:iReqeyJ/O
一方その頃、勉強部屋はというと、
──やばい、私服を意識しすぎて勉強に集中できない…
ジュンは全然集中できないでいた。
机に座って向かいにいる巴にどうしても目線がいってしまう。
ただ服装が違うだけで、身に纏う雰囲気が全然違うのだ。真剣に教えてくれる巴に対して悪いと思いながら勉強をした。
しかし、意識をしないようにすればするほど意識をしてしまう。
そわそわしているジュンに彼女は暫く視線をあて、不思議そうな顔をした。
「どうしたの、桜田君?」
「いや、その…。なんでもない」
「本当?具合悪そうだよ」
彼女のまっすぐな視線が痛い。
ジュンは自己嫌悪に陥った。
「本当に大丈夫!あ、それよりここの問題だけどさぁ…」
ジュンは何とかごまかした。
巴は納得をしている顔していないが。
ここでジュンはふと思った。巴は私服を褒めるといったいどんな表情をするのか。
それに私服を褒めることは悪いことではない。邪な考えを正当化した。

「なぁ、柏葉…」
「…どうしたの?」
「いや、たいした事じゃないんだけどな…」
「何?」
巴は首を傾げた。
「本当、たいしたことじゃないぞ。私服似合ってるなぁー。って思っただけ…なんだ」
柏葉は少し驚いた顔を見せ、
「…やっぱり今日の桜田君変よ?」
ニコリと微笑んだ。
その微笑は、巴に一番似合う表情だ。そしてジュンが好きな表情でもある。

65: 2009/05/27(水) 00:52:44.93 ID:iReqeyJ/O
その後、言いたい事も言えたので煩悩は消え失せ、黙々と勉強をした。
ジュンはふぅ。と大きく息を吐いた。終わったのだ。勉強の時間が。
私服を身に纏った少女を残し桜田ジュンは部屋を後にした。向かうべきはリビング。少年の足取りは軽かった。
リビングに入るためのドアに手をかける。ジュンの眉間に皺が寄った。少しの間思考を巡らせ、ぐっと扉を開いた。
何か重々しい空気がリビングを支配している。ふとテーブルに目をやると、そこの空間だけが歪んで見えた。
黒衣の若者はもそれを気にする風でもなくキッチンに足を進めた。
紅茶を入れていると背後から布が擦れる音がした。その音は不気味さを孕み、人の奥底の本能は逃げろと命令する。
しかし、この若者は強靭な精神力と技量を兼ね備えている。常人なら発狂しながら氏を覚悟する場面も眉一つ動かさない。
ジュンはゆっくりと優雅には振り返る。視線の先にはドレスを身に纏った少女がいた。
少女は病的なほど色が白く、紅を塗ったように口唇が赤い。その口唇からは白い歯が覗いていた。
その少女の周りはゆらゆらと揺れている。先ほどの空気が歪んでいたのはこのためか。そう気付く前にニヤっと笑った少女はジュンに飛び掛かってきた。
人の反応速度を超越したそれは一瞬でジュンとの間合いを詰めていた。
しかし、黒衣の若者は焦る風でもなく、迎撃する様子もなくドレスを纏った少女を見ている。
ついに少女は黒衣に埋もれた。
ジュンは一歩後ずさる。
少女はあどけない顔をジュンに向け、無邪気に言った。
「お勉強は終わったの?」
ジュンは一言あぁと言うと少女──雛苺はジュンから離れ、瞬く間にリビングから姿を消した。

68: 2009/05/27(水) 00:54:54.73 ID:iReqeyJ/O
時計の針は六時を指そうとしている。もうすぐ別れかと思うと少し寂しくなった。
紅茶を盆に乗せ、階段を上がった。部屋の前につくと、少し開いたドアの隙間から雛苺と巴が見えた。
二人は本当の姉妹のようにじゃれあっている。その光景を見たジュンは頬を緩ませ、ドアを開けるのを躊躇った。
今は二人の時間なんだ。そう思ったが、盆に乗った紅茶が冷めてしまう。
好きな人には美味しい状態で振る舞いたい。
躊躇したが、背に腹は変えられず、ドアを足で開ける。すでに笑顔は消えていた。
「あぁ、ジュンが来たのー!」
どうやら二人の時間と思っていたのはジュンだけらしく、雛苺は彼を歓迎した。ジュンは雛苺の健気さに若干の感動を覚えたが、
「ここは僕の部屋だ。僕が来て何が悪い」
素っ気なく返した。
「悪くないのよ!ヒナ、とっても嬉しいの」
えへへ、と無邪気に笑いジュンを見つめる。
「そーかい」
ジュンは視線を外しそう言った。
盆を机の上に起き、紅茶を振る舞う。
巴と二言三言言葉を交わし、紅茶が無くなると彼女は帰ってしまった。
いつもそうだ。
彼女が帰ってしまうと心が穿つような感覚に襲われる。

69: 2009/05/27(水) 00:57:25.85 ID:iReqeyJ/O
朝、目が覚めると朝食を取りにリビングに行く。人形達はすでにリビングで各々行動を取っている。朝になると心が穿つような感覚は消えていた。
作られた朝食を取っていると気付いたことがある。
いつもと味が違うのだ。
味はもとより見た目も違う。
少し形の変な卵焼き。焼きすぎたウィンナー。味の薄い味噌汁。
不思議に思っていると人形達が一様にこちらを伺っているが、たいして気にもとめずそれらを咀嚼する。
残さず食べると人形達はホッとしたような顔をした。ジュンは全てを理解していた。
「ジュン、紅茶はいかがかしら?」
真紅が問い掛けてきた。普段では有り得ないことにジュンは目を剥いた。
「ん、あぁ…。貰うよ」
突然の事に動揺する。そして心配になる。何か不吉なことの前触れか、はたまた彼女の気まぐれか。色々な考えが交差する。
「どうぞ」
少し躊躇ったが差し出された紅茶を一口啜ると、それまでの考えが短慮であることを思い知らされた。
それは一口啜ると口の中に香りが広がり、その葉がどのような場所で育ったのかイメージできた。今まで出されたどの紅茶よりも美味しく、優しい味だ。
感嘆で声がでない。こんな経験は初めてだった。
真紅が問うた。
「お味はどうかしら?」
「すごく美味しいよ」
ジュンはそれだけしか言えなかった。紅茶を口に含むと色々な思いが芽生えるが、それを形容できる言葉を彼は持ち合わせていなかった。だから、素直な感想を言うしかなかったのだろう。
「それに、優しい味がする…」
それはかつて真紅が口にした言葉。その意味が改めてわかったような気がした。

71: 2009/05/27(水) 00:59:26.13 ID:iReqeyJ/O
全て飲み干すのが勿体ないと思う気持ちと、早く飲みたいという気持ちに板挟みされた。しかし結局は口に含み喉を鳴らす。
市販の葉ですらどんな高級な葉より美味しく感じる。もっとも、高級な紅茶など飲んだことはないのだが。
「ごちそうさま」
そう言うことですら名残惜しい。紅茶にはそれほど魅力があった。
「なぁ、真紅…」
こちらを伺う真紅に問い掛ける。
「何かしら?」
「頼みがあるんだけど…」
普段は頼み事を余りしない少年に真紅は少し驚いた。
「私にできることでよければ」
「今度柏葉が来た時、彼女にも紅茶を振る舞ってほしいんだ」
「えぇ、構わないわ。でもそれはなぜ?」
「…真紅がいれてくれた紅茶を柏葉も飲んで欲しいなぁ。って思っただけだ」
「あら、それはどういうことかしら?」
どういうこと。に反応してしまう。ハッとした彼はあたふたと理由を語った。
「いや、あれだ。いつも僕がいれる紅茶じゃ飽きてしまうだろ?たまには違う人がいれたのを…」
狼狽するジュンを見て真紅は破顔した。それをジュンは何とも言えない顔で見ている。
「……」
「あはは、ごめんなさい。でも、可笑しくって…フフ……」
「…なんだよ」

73: 2009/05/27(水) 01:01:31.15 ID:iReqeyJ/O
真紅は呼吸を調え、ジュンに謝った。
「ごめんなさい。でも貴方の狼狽する姿、とってもおかしいもの」
「おかしくて悪かったな」
「お詫びに巴が来たら極上の紅茶をご馳走するわ」
「……そうしてくれ」
「でも巴は私がいれる紅茶より、ジュンのいれる紅茶の方が喜ぶわよ?」
ジュンは不思議そうな顔をした。
「それはないよ。だって真紅の紅茶の方がおいしいじゃないか」
嫌味などではなく、純粋にそう思っている。
「ジュンは『優しい味』と言ったわね。それはその人がどれだけ想っているかということよ」
「──?」
「単純に紅茶の味だけなら私の方が上かもしれない。でも、巴を想っているのは貴方が上じゃなくて?」
「そそそ、そ! えっ? いや、え? あれ?」
「隠しても無駄よ。ジュンと私は指輪で繋がれているじゃない」
「………勉強してくる」
ジュンはグッとうなだれリビングを後にした。
彼は薄々と気付いていたが、気付かないふりをしていた。そして、心を読まれるのは嫌な事だと再確認した。

75: 2009/05/27(水) 01:03:22.59 ID:iReqeyJ/O
ゴォォォオ、とクーラーが低く唸る。人工の風は、冷ややかに緩やかに部屋を満たす。
ジュンは机の上に座り教科書とノートを広げているが、どうやら身が入らないようだった。
頭をかき、背もたれに体重をかける。外ではけたたましく蝉が鳴いているが、ジュンには聞こえていない。すると、ドタドタと階段を駆け登る音がした。慌てて勉強をしているふりをする。
バン!と扉が開く音を聞き振り返ると人形達がなだれ込んで来た。
「ジュン、大変です!」
「来客よ」
「事件なのー!」
三人同時に喋られるものだから、理解はできていない。しかし、共通した事は玄関に来いとの事なので言われるがまま、理解できないまま部屋を後にした。
玄関に行くと、
「どーもー。はじめましてぇー。カナのマスターの草笛みつでーっす」
歳に似合わない溌剌とした二十代の女が自己紹介した。
「…は?」


<補足>
たまたまnのフィールドを散歩していた俺がキラキーに襲われる雛を発見。
ただちにポリスメンを呼び事件は未然に防がれたためこの世界ではヒナは生きている。
「あの時は無我夢中だったんだ。まさか学校で習ったカラーテが役に立つとは思わなかったよ」
原作を掠めながら、勝手に発展していきます。

77: 2009/05/27(水) 01:06:46.65 ID:iReqeyJ/O
玄関から移動をし、リビングに招く。
みつは陽気に鼻歌混じりで歩いている。対象的にジュンの足取りは重く、表情からは面倒だと思っていることが読み取れる。
リビングで草笛みつは金糸雀と契約を結ぶまでに至った経緯と身の上話しをした。彼女は元々人形が好きで、ローゼンメイデンを求めていた。ある日、一通のメールが彼女に届き、金糸雀がきた。
そして人形服を作るのが趣味でゆくゆくは店を持ちたいということを話した。

みつと金糸雀が帰った後、ジュンはみつに頼まれた人形服の製作に取り掛かった。
といっても、勉強の合間にチクチクと針を走らせる程度だ。しかし人形服など裁縫が得意で、マエストロ級の腕を持つジュンは早くに作りあげた。
後日、みつがそれをネットオークションで出品し、14万5千円で落札された。
改めてジュンの凄さを確認したみつはアマチュアディーラーとしてデビューすることを進めたが彼はそれを断った。

79: 2009/05/27(水) 01:08:51.13 ID:iReqeyJ/O

ドールズが眠りについてから1時間後のこと。リビングにて一人で家事をするのりの後ろに迫る影があった。
その影は声をかけようかどうか迷っているようだ。
意を決した様に影が声をかける。
「姉ちゃん…」
のりはびくっと肩を跳ねさせ振り返った。
「あら、ジュン君。どうしたのかしら? お姉ちゃんびっくりしちゃったわ」
「あのお金なんだけどさ…」
ジュンは言葉を詰まらせたが続ける。
「夏休みになったらあのお金で、旅行に行かないかな?」
弟の言葉に驚いた。数カ月前までは家にいても顔を合わせる事がなかった。
その事を思い出し、のりは目に涙を浮かべたが、気丈に振る舞った。
「えぇ、いいわよぅ! 真紅ちゃん達も一緒にね!」
「うん。それもだけど…」「…?」
ジュンは不安げに、
「柏葉や、みっちゃんさんも誘いたいんだ…。ほら、柏葉にはいつも世話になってるし! お金はみっちゃんさんのお陰だし!」
最後は早口で言った。
「…えぇ、わかったわ」
のりは笑顔で答えた。

81: 2009/05/27(水) 01:11:11.71 ID:iReqeyJ/O

月曜。
いつもの様に巴は部屋に訪れる。その日のジュンは落ち着かないでいた。
締め切った窓の外では蝉が鳴き、さらには激しさを増すばかり。
部屋はクーラーの唸る音、鉛筆が走る音と二人の呼吸音が谺した。
普段は気にならない音ですら喧しく感じるのは、心境もざわついているからだろう。
一時間経ち、また一時間経つ。
ふぅ。と溜息をついて勉強は終わる。勉強が終わればよりいっそうジュンは落ち着きを見せなくなった。
ジュンは部屋を後にし、紅茶を取りに行った。
帰ってきたジュンは机の上に紅茶を置き、巴はそれを手に取り口へ近づけた。
喉を鳴らすと、少女の口唇からは感嘆の声が漏れる。「この紅茶、おいしい…。葉を変えたの?」
「うまいだろ? でもいつもと同じ葉なんだ。ただ今日は真紅がいれたんだ」
「へぇ、真紅ちゃんが…。とっても美味しいわ。…でも」
「…でも?」
「ううん、なんでもない」
ジュンは訝ったが、気にも止めなかった。数瞬の沈黙の後、ジュンは口を開いた。
「実はさ……」

82: 2009/05/27(水) 01:12:24.14 ID:iReqeyJ/O
ジュンはこの一週間の出来事をかい摘まんで説明した。
金糸雀というローゼンメイデンとそのマスター草笛みつのこと。
彼女がデザインした人形用ドレスを繕ったこと。
なんとそれが14万5千円で売れ、大金が舞い込んできたこと。
その金で──
「夏休みになったらそのお金で旅行に行こうと思うんだ」
「…楽しそうね」
ジュンは喉で粘つく言葉を紡ぎ出した。
「でだ、いつも世話になっている柏葉もどうかな? なんて思ったり…」
巴は目を見開いた。
「…私も?」
「いや、迷惑ならいいんだ。ただ、何て言うか…、恩返し? をしたいというか…」
「考えておくわ。でも、父が許してくれるかわからないし…」
「無理強いはしないからさ。都合がよければでいいんだ」
「うん、わかった。誘ってくれてありがとうね」

日は傾き、濃い紅を町中に塗りたくっている。
二人は黄昏れに染まる町で何を感じているのか。
遠くの山で烏が鳴いた。

86: 2009/05/27(水) 01:17:51.20 ID:iReqeyJ/O
第四章 山中忌憚



横に写る景色が忙しなく流れ、変わる変わる色々な表情を見せる。
ジュンを乗せた電車は高速で目的地へ向かう。
途中ローカル線へ乗り換えコトコトと揺られること数時間が経ち何も無い無人駅へ着いた。
そこからバスに乗り30分程すると鬱蒼と木々の生い茂る山へと降り立った。
舗装のされていない道をただひたすら無言で歩いている。
日が暮れる前に宿に着かなければ命の保証はない。
夜はまだ、人々のものではないのだ。
体長3㍍を超す怪鳥は鋭く尖った爪で獲物を掴むと逃れる事はできない。
強靭な嘴でつままれれば、人の頭など柘榴より柔らかい。
幻想的な青い光を放つ花におびき寄せられた者はその毒牙に気付かぬまま醒めることのない眠りにつく。
そして気付く頃にはもうこの世にはいないのだ。
全長3㌢にも満たないテラワロスアリにかかれば3tはある火竜ですら5分も持たず白骨と化す。
辺境を生きる人々は夜は外に出ず、家にいるのが鉄則なのだ。

87: 2009/05/27(水) 01:19:08.41 ID:iReqeyJ/O
「桜田君、本当にここ大丈夫なの?」
不安げな表情をした巴が辺りを見回した。
太陽の光は鬱蒼と屹立する木々の葉に遮られ薄暗く、どこからか動物の鳴き声が辺りに谺まする。
舗装されていない道はいつの間にか獣道の様になり、身長を遥かに凌ぐ草が視界を奪った。
「多分大丈夫…。地図を見た感じ迷ってないと思う」
その言葉からは自信は全く感じられない。
「ねぇ、ジュンジュン。ここ危なくない?なんか鳴いてるし…」
この中では一番年長であるみつはいつものテンションが嘘の様に縮こまっている。
頭上で鳥が羽ばたくとみつとのりは軽く叫び頭を抱えた。
「あ、ほら道が開けてきたぞ」
ジュンはホッと胸を撫で下ろし、自然と歩みを速めた。
三人も後に続き、森が開けると眩しい光に目を細めた。
光に目が慣れ、景色が見える様になると感嘆の声が沸き上がる。
そこには立派な日本旅館が疲れた旅人を迎える様に佇んでいた。

88: 2009/05/27(水) 01:20:43.99 ID:iReqeyJ/O


まだ世間では学校があった7月のある月曜日。柏葉巴はいつもの様に桜田家に向かっていた。
ジリジリと射す陽射しは少女の額に大粒の汗を滲ませる。手の甲で汗を拭い、インターホンに手を伸ばす。
家に招かれ、いつもの様に桜田ジュンの部屋に入った。部屋はクーラーが効いており、冷風が心地よい。
早速勉強に取り掛かり、カリカリと鉛筆を走らせジュンに勉強を教える。
勉強は二時間程で終わるのも習慣になっており、その後は他愛もない話しをするのも習慣なのだが、今日は違う。
重要な話しがあるのだ。
「この前の事なんだけど…」
旅行のことだ。
ジュンの目は期待半分、諦め“七割”だ。
「あぁ…」
「私も行かせてもらうわ」
「あぁ、そうか。それは残念だ…。雛苺も…って、えぇ?」
ジュンが驚くのも無理はない。彼女の家は厳格で、そんな事を許すことはない。
ましてや幼馴染みとはいえ、異性との旅行にどうしたら許可が下りるのか皆目見当もつかない。
「本当に…?」
「えぇ、本当よ」
しかし少女はやってのけたのだ。それは少女の『変化』なのだろう。

89: 2009/05/27(水) 01:21:50.52 ID:iReqeyJ/O
「親父さんも許したのか?」
「えぇ、もちろん」
興味深い話しだった。部活を辞め、受験勉強をしたいという願さえも口には出せない彼女がどう言いくるめたのか。
「夏休みに友達の家に泊まりに行きたいって言ったの。もちろん、女友達って言ったけど…」
そこには計り知れない勇気が必要だった。しかし、巴はやってのけたのだ。
「娘から初めてのお願いに驚いていたわ。でもね、思ったよりすんなりと許可が下りたの」
ジュンは少し興奮しながら話す巴に相槌を入れている。普段は口数の少ない彼女がこれほど饒舌になるとは、そこにこの事件がどれほどのものかわかる。
しかし、巴は、
「でも、嘘をついた事には凄く罪悪感を感じる…」
悲しそうに目を伏せた。
巴はその時の父の優しい笑顔を思い出していた。
「嘘をついて罪悪感があるなら、謝るよ」
「ううん、桜田君は悪くない…」

92: 2009/05/27(水) 01:34:23.77 ID:LOWcgvz+0
 「嘘をつかせる原因を作ったのは僕だ。…でも」
 「でも?」
 「勝手かもしれないけど僕は嬉しいんだ」
 「…?」
 「この前柏葉は『変わってないのは私。言いたいことも言えない』って言ってただろ?」
 「えぇ」
 「でも今回は言ってくれた。結果的に嘘になったとしても、柏葉は変わったんだ」
 ジュンは続ける。
 「柏葉は確実に変わったんだ。でも罪悪感に苛まれることになったのは謝るよ…」
 「桜田君…」
 「柏葉が気に病むことなんてない。全部僕になすりつけてもかまわない」
 ジュンは返事も聞かず頭を下げた。
 「柏葉ごめんな…。そして、来てくれてありがとう」
 「こちらこそ、誘ってくれてありがとう…」
 気休めにもならない言葉は巴にどう受け止められたのかわからない。しかし、彼女は微かに笑った。
 外は雲ひとつなく、太陽が燦々と照りつけている。暖かな風が街を包みこみ、本格的な夏の訪れを告げた。
 暑苦しい初夏のこと、二人の若者は確実に変化していった。

 巴の旅行行きはこういった経緯で決定したのだが、まだ若者たちはあんなことが起こるとは知る由もなかった。


95: 2009/05/27(水) 01:36:57.81 ID:iReqeyJ/O
時は戻り旅館にて。

和服を着た女将が深々と頭を下げ、部屋に案内する。
館内は粛然と控え目に骨董品が並び、静の中に華を添えている。
廊下の横に大きく開かれた窓を覗けば壮大な日本庭園が姿を現す。
午後5時。桜田家一行は時刻は予定より少し遅れて部屋で一息をついた。
部屋は、のりジュン組と、巴みつ組の二部屋に別れている。大きな和室は閨と居間に襖で分けられ、ガラス戸のカーテンを開ければ立派な庭園が窺える。
各々が持っていた大きなアンティーク調の鞄を開けると中から人形が出てきた。何も知らない一般人が彼女達をみたら大騒ぎになる。その為わざわざ服などは旅館に郵送したのだ。
隣の部屋から雛苺、金糸雀の声が伝わってきた。人形達はやっと開放された喜びと、いつもと違う景色に感動を声に出した。
人形達に留守番をさせ、フロントに荷物を取りに行った。
6時から夕食になるので、それまでは自由行動だ。

97: 2009/05/27(水) 01:39:04.33 ID:iReqeyJ/O
1時間の間は旅館の周辺を探索した。山の夜は早く、すぐに暗くなったが、時間が経つのもまた同じ。
夕餉の香りにつられ部屋に戻ると四人では食べ切れない量の料理が並んでいた。
もちろん人形達を入れれば8人だが、それでも足りるくらいだ。
山菜の天麩羅、川魚の刺身に姿焼き…。色々な山の恵が豪華絢爛に彩られている。
夕餉が終わると、のりは人形達を鞄に入れチェックインの時に予約をした家族風呂へ。残りは露天風呂へと向かった。
露天風呂は貸し切り状態だ。
盆を外し、少し早めに来たから客はあまり居ない。
こんな辺境には物好きか、人目に触れたくない人くらいしかこないだろう。わざわざそれを選んだのだ。
ジュン達が人目につきたくない理由は言わずもがな、ある。
閑散とした風呂からあがると旅の疲れもあり、何もせずに眠りに落ちた。

100: 2009/05/27(水) 01:41:55.06 ID:iReqeyJ/O
閨には布団が二つ、鞄が二つ並んでいる。電気は消され、月明かりが射している。
辺りは夜に相応しい静寂が漂っていた。
「ジュン君起きてる?」
暗闇に声が響く。返事はない。それをどう受け取ったのかのりは独り言をつづける。
「ジュン君と一緒に寝るのは久しぶりね」
のりは暗闇を見つめている。
「お姉ちゃんね、とっても嬉しかったの。ジュン君が誘ってくれて」
「巴ちゃんがいて、みつさんがいて、真紅ちゃんや雛ちゃんがいて…」
声は震えていた。
「ジュン君は一人じゃないんだなって思ったの。こんなに思われて幸せだなって…」
鼻を啜る音が響く。
のりの目には涙が溢れていた。まだ16、7の娘には、抱える事が多すぎた。
両親が不在の中、のりは喘いでいたのだ。
「ジュン君の歩いている後ろ姿がとても大きく見えたわ」
のりは身体を横に向け、縹渺たる影を見つめた。
「そして思ったの。ジュン君はもう歩きだしたんだなって」
のりは影に向けて笑った。
「独り言は終わり! ジュン君、おやすみなさい」
独白を終えたのりは布団を深く被った。

101: 2009/05/27(水) 01:43:25.77 ID:iReqeyJ/O
静謐な頻闇には鳴咽が漏れていたが、暫くして寝息に変わった。
ジュンはうっすらと見える天井を見遣り、闇に溶けるような声で呟いた。
「姉ちゃんありがとう」
その声は闇に消える事なく夏の風に乗った。風は二人を優しく包み込んでいる。
「僕は変わらなくちゃいけない。こんなにも背中を押してくれる人がいる。僕は歩きだすんだ」
闇を見つめるジュンは、
「僕は逃げていたんだ。でも、もう逃げないよ。なぜなら僕は一人じゃない。こんなにも背中を押してくれる人がいるんだ。だから、僕はもう逃げずに二学期から学校に行こうと思うんだ」
小さな胸に決意の炎を点した。
のりは小さく頷いたが少年はそれを見逃していた。

103: 2009/05/27(水) 01:45:49.02 ID:iReqeyJ/O
明かりを落とした部屋は、月明かりが照らしている。こちらも布団が二枚と、鞄が二個並べられている。
二人の女の話し声が聞こえた。
「ねぇ、巴ちゃんはジュンジュンとどういう関係なの?」
みつが問うた。
「幼馴染みです…」
「…それだけ?」
みつはニヤニヤと笑いながら巴を見ている。
「それ以外だと桜田君の勉強を見ている…かな?」
「…ふ~ん」
みつは求めていた答えが返ってこないので腑に落ちていない。
「…あの、何か?」
巴が聞いた。
「単刀直入に言うわ。貴女達は恋仲じゃないの?」
みつは一際いやらしい笑みを浮かべて尋ねた。
「私と桜田君が…?違いますよ…」
巴はにべもなく答えた。
みつはもう少しリアクションがあれば突っ込めたのにと思い、
「本当にぃ?」
と聞いた。
「私と桜田君が…。そんなの考えた事もありません」
みつはガクッと頭を垂れ、大きく息をはいた。

104: 2009/05/27(水) 01:47:14.59 ID:iReqeyJ/O
みつはおせっかいだ。どうも他人の事に首を突っ込みたがる節がある。しかしそれは彼女の長所なのだ。
陽気な性格が周りに日を照らすこともある。
現に気難しいジュンとも打ち解けている事からそれはわかる。
「みつさんは…」
巴が問う途中で、
「みっちゃんでいいわよ」
間髪入れずみつが言った。
「あ、はい…。みっちゃんさんは、恋人とかはいるんですか?」
思いがけない少女の反撃にみつは面食らった。
「えっ、私? 私はー…」
「勿論いますよね? みっちゃんさんは大人の女性ですもの…」
この言葉にみつは苦く笑った。
「今は募集中かなー? なんて…。ていうか巴ちゃんってそんなキャラだっけ?」
「さっきのお返しです…」
そう言って巴は微笑んだ。暗闇で表情が見えないのが悔やまれる程、美しい笑みだった。

105: 2009/05/27(水) 01:49:45.50 ID:LOWcgvz+0
再びの猿公に私は頭をたれたのであった。

108: 2009/05/27(水) 01:58:21.32 ID:iReqeyJ/O
みつは手探りで枕元にあった眼鏡を掛け、
「もぉ~。大人をからかっちゃいけないでしょ?」
立ち上がった。
「はい、すいません…。どこか行かれるのですか?」
「ちょっとトイレにね」
みつは襖を開けようとした。
動きが止まり、後ろを振り返り、
「…巴ちゃん。呼んだ?」
巴に尋ねた。
「…?いえ、呼んでませんよ」
「そう。気のせいね…」
首を傾げ、襖を開けトイレへと向かった。
トイレは部屋には無く、共同トイレとなっている。
何せ古い旅館だ。仕方がない。
部屋から出ると廊下は電気が消えていた。
その変わり非常灯がついているのだが、薄暗く気味の悪い雰囲気を醸し出している。
みつは省エネのために電気を切っているのだろうと思い気にも止めなかった。
実際そういった所はある。
地球温暖化防止──冬でも暑い日が続くので最近信じはじめた──のために省エネは重要なのだ。

110: 2009/05/27(水) 02:02:15.01 ID:iReqeyJ/O
みつが部屋から出て行くと、部屋にはラップ音が響いた。
──これを書いているのが午前3時なのだが『部屋にはラップ音』の所で本当に馬鹿デカいラップ音がした。怖い──
パチパチ、と何かが爆ぜる音が響く。巴は先ほどの会話を思い出していた。
みつの不審な問い掛け。
ジュンについての事ではなく、最後の質問について思い出していた。
みつが出ていってから止まないラップ音。
考えないようにすればするほど考えてしまう。一人残された部屋はひっそりとして物寂しい。
色々と考えていると、ガラっと襖が開いた。
ひっ、と声を漏らし襖を見るとそこには──。
「ふぅ、すっきりしたぁ」
みつが立っていた。
巴はホッと胸を撫で下ろして布団を被り直した。
みつは横になり、
「じゃあ、明日も早いからおやすみね」
目を閉じた。
みつが帰ってくるとピタリとラップ音は止んでいた。

112: 2009/05/27(水) 02:03:42.61 ID:iReqeyJ/O
朝起きると朝食を取る。
朝日を浴びた庭園は煌々と輝いている。
鳥の歌声が風のワルツで踊っている。青春によく似合う清々しい朝だ。
朝食後、四人と四体は旅館を後にし、川へと向かう。青々と茂る草木は風に揺れ、蜿蜒と続く道はユラユラと揺れている。
同じ道を歩いているかのような感覚が襲う。それは山の見せるまやかしなのかもしれない。
道の外れにある小道に入った。
その小道は木々の葉が日差しを遮り、朝なのに薄暗い。暫く歩くと瀬音が響く。
森を抜けると開けた場所に出た。
緩やかに流れる川。悠久の時を経ても、その姿は変わらず人々の憩いの場になっている。
「ジュン君、覗いちゃだめよぅ!」
姉に釘を刺された。
年頃の娘が近くで着替えている。この状況は決して見逃すべきではない。
もちろんジュンも年頃だ。気にならない筈はない。
しかし、見つかれば後々尾を引くので見ないほうが懸命なのである。
ジュンは濡れ衣を着せられては堪らないので少し遠くに離れた。
「きゃあ!」
若い悲鳴が木々を縫って谺した。

113: 2009/05/27(水) 02:05:02.32 ID:iReqeyJ/O
頭で考えるより先に身体が動いた。
──今の悲鳴は柏葉か?どうしたんだ! まさか、熊か?!
ジュンは悲鳴がした方向に走る。
人は必氏になると持ってる以上の力がでるのか。ジュンは予めそこに木があったのを知っているかのように速く駆けた。
それなのに、悲鳴までの距離は絶望的に長く感じた。伸びた鋭利な葉に当たり、顔や足には朱の線が描かれたがジュンは気付かない。彼はそれ程必氏だった。
「どうした!? 大丈夫…です…か?」
時が止まった。
ズロース一枚で戯れる人形達と、バスタオルを巻いたのりとみつ、そして手で胸を隠した巴が茫然とジュンを見つめていた。
刹那の静寂の後、
「きゃぁぁあ!」
巴は叫んだ。

115: 2009/05/27(水) 02:06:00.15 ID:iReqeyJ/O
ジュンは空を見つめていた。透き通る程澄んだ空を。手を延ばせば掴めるような気がした。
風来坊な雲は今はいない。けたたましく鳴く蝉ですら一律の音楽を奏でている様に聞こえる。
まだ左頬はヒリヒリと痛む。
左頬を手で押さえながら、空いた手は拳をつくり、高らかと天に挙げている。
ジュンは笑顔だった。

それは完全な事故だった。バスタオルを巻いて水着に着替えている巴に雛苺がじゃれていた。
悪戯好きの翠星石が雛苺にちょっかいをかけたのが悲劇の始まりだ。
翠星石は雛苺を驚かした。
驚いた雛苺はバランスを崩し、巴の胸から落ちそうになったのだ。
そうなれば反射的に手を伸ばし、掴める物を掴みバランスを取ろうとする。
悲しいかな手を伸ばした先はバスタオルであった。
いくら周りには知らない人はいないといえ、ここは野外である。
いつどこで見られているかわからない。
まだ異性に肌も見せたことのない少女が取る行動は一つ。
それが一回目の悲鳴だ。

116: 2009/05/27(水) 02:07:52.64 ID:iReqeyJ/O
「ジュン君! もう大丈夫よぅ!」
のりが叫んだ。着替えが終わったのだ。
ジュンは姿勢を正し、
「ありがとうございました」
天に深々と一礼した。
踵を返し、一気に駆け寄る。
森を抜け、件の現場に戻る。
そこには七人の水着を着ている少女──みつを少女と言うのは疑問だが──がいる。
ジュンの視線は巴で止まりかけたが、慌てて視線を外した。外した先は人形達がいた。
「あれ、真紅達って水着持ってたっけ?」
のりに聞いた。
「あぁ、あれはね──」
言い終える前に金糸雀がフフン、と鼻をならし、
「みっちゃんが作ったかしら!」
と言った。
みつは以前の事もあり、自信なさ気に答えた。
「まぁ、それ程褒められたものじゃないけど…」
チラッとジュンを見やる。
「…前より全然ましじゃないか。」
みつはにべもなく言い捨てられるかと思っていたが、予想外の事に目を見開いた。

<補足>
「以前」について詳しくは古い方のコミックス7巻を読んでね!

117: 2009/05/27(水) 02:08:56.21 ID:iReqeyJ/O
辛口の少年からの褒め言葉に、みつは嬉々と喜んだ。
普通なら怒っても仕方のないはずだ。
みつより年下の彼の一言になぜ、ここまで喜べるのか。
それはジュンには確かな目があり、腕もあるからだ。それ故にみつは裁縫に至ってはジュンに言われるがままなのだ。
「……」
真紅が森の奥を見遣る。
視線の先はユラユラと揺れている。
風か──
いや、風なら全体が揺れる。
ならば──
旅館を出たときから視線を感じていた。
人ならぬ視線。後ろを振り返っても誰もいない。
気にせずここまで来たが、舐めるような視線を感じる。
「おい、真紅。どうかしたのか?」
ジュンが聞いた。
「…いえ、何にもないわ。さぁ、泳ぎましょう」
真紅は振り返り答えた。
もう一度見遣ると、視線は消えていた。

119: 2009/05/27(水) 02:11:33.75 ID:iReqeyJ/O
穏やかに流れる川は、1番深いところでも胸の高さで、それも限られた場所だけだった。そこ以外ではだいたい臀部から臍くらいまでの深さだ。
二人と四体はジリジリと焼けるような日差しから逃げるように川へ入った。
冷たい水は身体の奥まで適度に冷やしてくれる。
いくら中学生の身長で腰あたりと言っても、人形達にとっては頭より水嵩は高い。彼女らは水辺で遊んでいる。
普段はこんな場所には来ないので、人形達は姉妹水入らずで遊んでいる。
ジュンはそれを見遣り、微かに笑っている。
──連れて来てよかった。
そういう表情をしている。
姉妹で争わなければならない人形達に一時の安らぎを与えられた事を嬉しく思っていると、
「…桜田君?」
不意に巴が呼んだ。
ジュンは振り返って巴を見る。視線は顔から小振りな胸へ、そして虚空へ向けられた。
「どうした?」

120: 2009/05/27(水) 02:13:44.39 ID:iReqeyJ/O
「さっきはぶってごめんね…」
「別にいいよ、気にしなくても。そんなことより…」
「…?」
「…怪我がなくてよかったよ。てっきり熊かなんかが出たのかと思ってビックリしたんだ」
─そんなことより、ご馳走様でした。
本当はそう言いたかった。
記憶が鮮明な内に一発抜きたいがそうはいくまい。
「…もし、熊が出たりしたら、守ってね?」
えっ、と漏らしジュンは巴を見る。巴の口からそんな事が言われるなど思ってもみなかった。
巴は愛らしく首を傾け、笑った。
巴の悪戯な笑みを初めてみた。胸は大きく高鳴り、一瞬眩暈がした。
「も、もちろんだとも!」
勢いよくジュンは答えた。
巴はフフ、と笑い「雛と遊んでくるね」と言い、人形達の方へ向かった。

126: 2009/05/27(水) 02:20:03.31 ID:LOWcgvz+0
川岸で二人の女が騒いでいた。
「ねぇ、のりちゃん!今の見た?!」
みつは鼻息を荒げ、のりの肩をバンバン叩いている。
「えぇ、えぇ。見ました、見ました!」
のりも目を煌々と輝かせ、みつの肩をバンバン叩いている。
「若いっていいわねぇ~」
みつは続けて、
「もう、ジュンジュンはここに大人の色香をムンムンと漂わす美女がいるっていうのに見向きもしないなんて…」
と嘆いた。
無論、冗談なのだが、
「そうなんですよぅ!ジュン君は私のパンツにも手を出さないんですよ」
と、のりが答えた。
「え!そうなの?男の子って年頃になるとみんなすることなんじゃないの?」
間違った知識だ。
「それが心配で──」
チラッとジュンの方を見遣り、あっとのりが叫んだ。
みつも視線を向け、
「ジュンジュン!」
叫んだ。

129: 2009/05/27(水) 02:21:40.84 ID:LOWcgvz+0
ジュンは呆けた顔で虚空を見つめている。先ほどの巴の言葉と笑顔を思い出していた。
「『守ってね』か…。フフ、」
端から見れば奇妙な光景だった。
「──ジュンジュン!!」
みつの叫びでジュンは現実に戻らされた。
ん、と視線を向ける。
「巴ちゃんが!」
──柏葉が?
辺りを見回しても巴はいない。
──あれ、さっきまで…
ザバッ、と水面から手が伸び、顔が出る。
そしてまた水に…。
──柏葉…?
「柏葉ぁーー!!」
ジュンは巴に向かって“走った”。
氏ぬ物狂いで水を掻いた。人形達も異変に気付いたが、川は深く、動けない。
ジュンは水に潜り、手を伸ばす。
──もう少しで手が!
巴も必氏に手を伸ばし、二人の手は絡み合った。
ジュンは巴の足に黒い影が絡まっていることに気付いた。
必氏に引き上げようにも、力が足りない。
もがいているが、このままでは影に二人が連れていかれてしまう。
「雛苺!苺わだちをしなさい!」
真紅が叫んだ。
「うぃっ!」
雛苺も叫んだ。

131: 2009/05/27(水) 02:23:58.25 ID:iReqeyJ/O
苺わだちはしっかりと絡みついていた。
それなのにびくともしない。
「うぅ…。重たい…の」
雛苺は懸命に引っ張る。
真紅も翠星石も金糸雀も引っ張る。
しかし、引っ張ろうにも力が弱まった雛苺の苺わだちでは限界がある。
そこにのりとみつが加わろうにも、苺わだちの強度が変わらなければ千切れるのも時間の問題だ。
「ジュン、待ってろです!」
翠星石が叫び、苺わだちを離した。
「翠星石!駄目かしら!自殺行為かしら!」
金糸雀が叫んだ。
「お前はローゼンメイデン一の才女でしょう?はやとちりしやがんなですぅ!」
翠星石はジュンの方向を向き、
「スィドリーム!」
翠星石は人工精霊を呼び、如雨露に水を満たした。
それを苺わだちにかけると太くなり、少しは強度が増した。
「翠星石に出来るのはここまでです!あとはチビ…ジュンが根性みせて巴を守ってみやがれですっ!」
叫ぶと、定位置に戻り、苺わだちを引っ張った。

133: 2009/05/27(水) 02:24:50.71 ID:iReqeyJ/O
──水中の中で確かに聞こえた。
翠星石の声が。
柏葉の握る力が弱くなってきている。
彼女の顔が苦しく歪む。速く陸に上げなくては彼女は助からないかもしれない。
『巴を守ってみやがれですっ!』
『桜田君、守ってね?』
そうだ。諦めてなるものか。
好きな人との約束も守れないなんて情けないじゃないか。
僕は柏葉を守るって約束したんだ!
ジュンはぐっと更に強く手を握る。
巴も微かに握り返してきた。
華奢な、細い指だ。
儚く、脆く感じたが、壊しはしない。離しはしない。
ジュンは巴の足に絡み付く影をキッと睨み付ける。
「ぬぅぅうおおぉぉぉお…!」
力を込めて引き上げる。苺わだちも手伝ってくれている。
「ぬあぁぁあ!!」
ザブンっ、と勢いよく白波が四方に広がった。
抵抗は無くなっていた。影もどこにいったのか。今はいない。
──やった。守ってみせたぞ…
ジュンは肩で息をし切らし、意識が朦朧としながら川岸まで巴を背負い、移動した。
そこでジュンの意識は暗闇に落ちた。

135: 2009/05/27(水) 02:26:44.07 ID:iReqeyJ/O
日がオレンジを帯び始めていた。川は穏やかに流れ、平穏そのものだ。
川辺には水着を着た三人の女と、精緻につくられた四体の人形が何かを取り囲む様に座している。
皆が不安げな面持ちで、横になっている少年を見ていた。
「桜田君…」
巴は真紅を見遣り、
「真紅ちゃん、桜田君は…?」
真紅は答えた。
「ジュンは大丈夫だわ。少し力を使いすぎたみたいだけど…」
巴はジュンに視線を落とした。
「うぅん…」
「桜田君!」
ジュンが微かに動いた。
真紅が前に出て、
「ジュン、全く使えない下僕ね!こんなにレディを困らして…、マスター失格だわ!わかったら目を開けなさい」
叫んだ。
「うぅん、うるさいな…」
確かに答えた。のりは涙を流している。
むくり、と身体を起こし、
「…柏葉、柏葉は!?」
辺りを見回した。

137: 2009/05/27(水) 02:28:01.74 ID:iReqeyJ/O
巴は握っていた眼鏡をジュンにかけ、
「桜田君、私はここよ…」呟くように言った。
「あぁ…よかった…」
「桜田君、ありがとう…」
巴はジュンの首に手を回し、身体を預けた。
「え、あっ…。かかか、柏葉…?」
ジュンは顔を赤くし声を裏返しながらジタバタとしたが、
「…守るって約束したしな」
巴にだけ聞こえる声で囁いた。
「真紅?」
金糸雀が真紅を呼んだ。
「何? 金糸雀…」
「ジュンのお股腫れてるけど、怪我でもしたのかしら?」
「あら、本当ね。何かしら…?」
「ちょっとみっちゃんに聞いてくるかしら」
金糸雀はみつの方へ駆け寄った。
「ねぇ、みっちゃん」
「なぁに、カナ?」
「ジュンのお股が腫れてるかしら! 怪我かもしれないから、見てほしいの」
金糸雀は、わりかし大きな声で頼んだ。
えっ、と驚きの声を上げた。
みつだけではない。そこにいた人間がだ。
のりとみつ、そして巴とジュンが。
バっ、とジュンから離れ、巴は視線を落とし目を見開き、それから顔を見た。
「…変態」
冷めた口調で言った。
人形達は何もわからずポカンと口を開けている。
「…さようなら」
ジュンは川へ飛び込んだ。川は涙を隠すには調度よかった。

140: 2009/05/27(水) 02:29:26.60 ID:iReqeyJ/O
旅館に戻り、ジュンは閨の角で膝を抱え泣いていた。涙はとうに枯れている。
しかし、涙を流すことが泣いているということだろうか。
居間ではジュン以外が食事を取っている。会話は、ない。
ただならぬ雰囲気に人形達も訳もわからず黙っている。
「ジュン君、ご飯さめちゃうわよ?」
襖を開け、のりは心配そうにジュンを見た。
「…いらない」
「でも…」
「僕は…。僕は最低な人間だ。みんなと食事を取る資格なんてないよ」
ずず、と鼻を啜った。
「そんなことないわ!ジュン君、格好よかったわ!」
ジュンは答えない。ただただ、彼は膝を抱え、俯いている。
しかし、いくら落ち込んでいようとも腹は減る。
ぐぅ、と腹が鳴いた。
のりはテーブルの上の料理を盆に載せ、
「じゃあ、ジュン君の分、置いておくから…」
閨に置いき、襖を閉めた。
「うぅ…」
氏者が発する低い呻き声が閨に谺していた。
涙は枯れ、声も枯れていた。

141: 2009/05/27(水) 02:30:22.85 ID:iReqeyJ/O
のりは食卓に戻った。
居間は沈黙が支配している。
カチャカチャと食器が当たる音が響く。
「どうしてジュンは落ち込んでるの?今日のジュン、とってもカッコよかったのよ?」
沈黙を破ったのは雛苺である。
ピクリ、と、巴が反応して箸を置いた。
「…私が悪いの」
「どうして?トモエは何も悪くないのよ?」
「いいえ、雛苺。私がね…」
巴は言葉を詰まらせる。
「?」
巴はのりを見遣り、
「のりさん、私どうしたらいいの…?桜田君は…私を…。それなのに、私は…」
のりは何も言えないでいる。
今まで神妙な面持ちで黙っていたみちが、
「ちょっと、皆!私にいい考えが浮かんだわ!」
パチン、と指を鳴らした。
その頃ジュンは夕餉の香りに負けていた。
料理は心なしかしょっぱく感じたが涙ではない。

145: 2009/05/27(水) 02:32:33.55 ID:iReqeyJ/O
ジュンは人形達に手を引かれ、無理矢理表にだされた。幸い、誰ともすれ違わず、フロントにも誰もいなかった。
ジュンはまだべそをかいている。
「ジュンジュン!」
旅館の明かりだけを頼りなく受ける薄闇でみつが呼んだ。
ジュンは反応しない。
が、みつは構わず続けた。
「今から『ドキドキワクワク納涼肝試し大会』を始めるわ!」
金糸雀と雛苺、のりと巴が拍手で盛り上げた。


時は数十分前に戻り、みつの妙案からだ。
「──考えが浮かんだわ!」
巴が聞く。
「…いい考えって?」
「今から肝試しをするの」
「肝試し?」
「そう。でね、巴ちゃんとジュンジュンをペアにして話す機会を与えるの」
「──」
「そうしたら仲直りもできて、楽しめるし一石二鳥じゃない?」
みつはフフン、と鼻を鳴らした。
みつは続けて、
「私たちも形だけはペアを作るけど、目的は肝試しじゃないから肝試しをするもよし、しないもよし!」
胸を張った。

146: 2009/05/27(水) 02:33:40.96 ID:iReqeyJ/O
みつは元気よく説明し始めた。
「ルールは簡単! ここから先に神社があります。そこに二人一組で行ってもらいたいと思います!」
大きく息を吸い込み、
「一組目がこのお札を神社に置き、二組目がそれを持って帰ってきます。それを三、四と続けて終わりです!」
また吸い込み、
「厳選なあみだの結果、一組目はジュンジュンと巴ちゃん。次はのりちゃんと翠星石ちゃん。次は雛苺ちゃんと真紅ちゃん。次は、やはり運命で結ばれた私とカナとなりました! では張り切って行きましょう!」
みつは神社までの地図とお札と懐中電灯を渡した。
ジュンはそっぽを向いて、巴を促した。
「…仕方ないから行くか」
「うん…」
ジュンと巴は闇に融滌した。

147: 2009/05/27(水) 02:34:51.49 ID:iReqeyJ/O
月の光が頼りなく辺りを照らしている。
木々は風に揺れ、音をたてて波打つ。
薄闇の道をこれもまた頼りない一筋の光が揺れている。
光を辿っていくと、二つの影があった。
前方にジュンが、後方に巴が歩いている。
じめったい暑さが身体に纏わり付き、嫌な汗が流れる。
辺りは二人の足音と、木々のざわめきが支配している。
痛いほどの静寂。以前にも似たような事があった。
巴は声をかけようとするが、躊躇い、そして声を振り絞った。
「桜田君」
木の虚に風が吹き抜けるような弱々しい声だった。
ジュンは無言で立ち止まった。
「桜田君…。さっきの事なんだけど…」
ジュンは振り返り、
「シッ!」
人差し指を口に当てた。
小声で巴が聞いた。
「…どうしたの?」
「誰かの視線を感じるんだ。さっきからつけられているような…」
辺りを見回しながらジュンは囁いた。

148: 2009/05/27(水) 02:37:23.01 ID:LOWcgvz+0
この計画の発案者はみつだ。いわばジュン以外が仕掛け人なのだ。
道は一直線ではない。蜿蜒と続く道だ。仕掛け人の彼女達があとから着けていることも考えられる。
巴が様々な思考を巡らせていると、右の茂みから葉が擦れる音がした。
二人はほぼ同時にばっ、と音のした方を見遣る。
茂みから爛壊した犬の様な奇怪な獣が現れた。
その獣は人間の様な指が五本あり、毛並みは汚く、所々刔れた箇所があり、堪らない腐臭を漂わせていた。
口からは不揃いな牙がのぞいている。その牙に噛まれたらひとたまりもないだろう。
獣は低く唸り、じりじりとにじり寄って来る。
ジュン達まで一定の距離まで詰め寄ると、そいつは予備動作を見せる事なく雷の様に飛び掛かってきた。
巴に激しい衝撃が当たり、地に伏した。

150: 2009/05/27(水) 02:38:20.06 ID:LOWcgvz+0
巴が顔を上げると、そこにはジュンの上に獣が乗っかり、今にも噛み付こうとしていた。
その時巴は理解した。
あの衝撃はジュンが身をていして巴を突き飛ばしたことを。
ジュンは必氏に噛まれまいと抗うが、その距離は確実に近づいていた。
「柏葉ぁ! 逃げろ!」
ジュンは叫んだ。
巴は首を振った。
「速く…! お前は僕が守るから、速く逃げてくれ!」
悲痛な叫びが谺する。
「桜田君を置いてなんかできないよ…」
巴の声は震えていた。
「頼むから…。僕はただではやられないから…! 必ず戻るから柏葉は逃げてくれ!」
ジュンは必氏に説得した。もちろん、無事ではすまないとわかっている。
巴は立ち上がり、来た道を戻り始めた。
それを見たジュンは微かに笑い、奇怪な獣を見やった。
「くそっ! こんな所で氏んでたまるか! 戻るって約束したんだ!」
ジュンはそう吐き捨てた。

151: 2009/05/27(水) 02:39:03.93 ID:iReqeyJ/O
ジュンは思い出していた。
引き篭っていた自分をいつも心配してくれていた姉の事を。
引き篭っていた自分の前に突如として現れたローゼンメイデンの事を。
引き篭っていた自分の可能性を教えてくれたみつの事を。
そして、引き篭っていた自分に手を差し延べてくれた巴の事を思い出していた。
氏を前にしてジュンは笑っていた。
たくさんの人に迷惑をかけた。たくさんの人に心配をかけた。そして、たくさんの人に支えられ、助けられた。
最後は笑わなければその人達に失礼ではないか。最後くらいは笑っていたい。そう思った。
既に腕の力は限界を迎えている。もう少しでこの獣はジュンの喉元目掛けて噛み付いてくるだろう。
ジュンは目をつぶった。自分ではどうしようもないくらいとめどなく涙が溢れた。
笑いながら氏ぬには幼なすぎた。
やっと掴んだ一筋の光りを手放す痛みが彼を襲った。
「あぁ、こんなことなら鍛えておけばよかった…」
ジュンは最後に戯けると、腕の力は限界を向かえ、力を緩めた。

152: 2009/05/27(水) 02:39:58.97 ID:iReqeyJ/O
獣がどっ、と喉元に噛み付いてくる。
そう思っていた。しかし、ふっと身体が軽くなり、自由が戻った。
ジュンは目を開けた。涙で滲んで見えにくいがそこにいたのは──
「桜田君、ただいま…」
巴は目に涙を浮かべながら無理に微笑んでいた。
巴の手には手頃なサイズの木の棒が握られていた。
「柏葉、何してるんだよ! 逃げなくちゃ危ないだろ!」
ジュンは袖で目をゴシゴシと拭き、怒鳴った。
「ごめんなさい…。でも、やっぱり桜田君だけ置いていけないよ…」
「だからって…」
ジュンが言い終える前にニメートル程離れた所で獣の唸り声がした。
「話しはあと…。桜田君、下がってて」
ジュンが何か言う前に獣は巴に飛び掛かっていた。

155: 2009/05/27(水) 02:41:13.90 ID:iReqeyJ/O
巴はそれを避け、獣の後頭部に棒を叩き付けた。
しかし、獣は怯む事なく着地をすると身体を反転させもう一度牙を剥いた。
巴は正面に身体を向け、構える。
獣が一気に巴に駆け寄り、飛び付く。
巴も真正面からそれを鋭い突きで向かえうった。
獣は空中でのけ反ったが、すぐに体制を整えた。
一方巴は、既に息があがっている。
無理もないことだ。異様な光景に、異常な緊張感で少女は戦っているのだ。
それに、いくら剣道をしようとも、やはり、木の棒では奇怪な獣にはダメージは与えられない。
もう一度獣が飛び掛かってきたが、それを棒で防いだ。防いだ反動で棒は脆く折れてしまった。
武器は無くなり勝ち目は万に一つもなくなった。
ジュンは動けないでいる自分に腹が立ち、口唇を噛んだ。
「おい、犬! お前の相手は僕だ! こっちにきてみろ!」
ジュンは腹の底から叫んだ。

156: 2009/05/27(水) 02:42:06.40 ID:iReqeyJ/O
しかし、獣はジュンに振り向く事なく、炯炯と光る双眸は巴を睨んでいる。
野性の本能は巴を敵と認めたのだ。
巴の手に握られていた棒はもうない。
諦めの色が目に浮かんでいる。
「おい、お前の相手は僕だって言ってるだろ」
ジュンは立ち上がり、ふらふらと歩み寄る。
落ちている石を拾い、それを投げる。
狙いは外れ、もう一度拾い、投げる。
まるでそこにジュンがいないかのように獣は見向きもしない。
獣が巴に飛び掛かる。
巴は迎え討とうとも、避けようともせず立ちすくんでいた。
少女の体力は既に限界を迎え、なす術も無くなっていた。
「やめろぉぉお!」
ジュンの声は慟哭に変わり、森に谺した。
巴はもう諦めていた。
「トモエをイジメちゃメッなの!」
──あぁ、雛苺…。
巴は雛苺の事を思い出していた。
雛苺が来てから、全ては変わったのだ。
雛苺が来てから、全ては始まったのだ。
──さようなら雛苺…。さようなら桜田君

157: 2009/05/27(水) 02:43:06.04 ID:iReqeyJ/O
巴の目から涙が流れていた。
その涙は全てを受け入れた涙か。それとも受け入れられぬ涙か。
それは後者だ。
まだ14歳の少女には、全て受け入れる事は酷すぎる。
目を開け、キッと獣を睨みつける。
それが巴に残された最期の抵抗なのだろう。
獣の口は大きく開かれ、臭穢は満ちている。目前に迫る牙を少女はただ睨みつけた。
いつまでたっても獣は動かない。まるで、獣の時だけが止まったように。
「トモエ! 逃げるの!」
雛苺は叫んだ。
──あれ?さっきのは幻聴じゃ…
巴は戸惑いながら、声の方向を見遣ると、そこには小さな人形がいた。
「こっちよ!」
ジュンの方にはのりとみつがいた。
巴は獣の横を摺り抜け、駆けた。
獣は横目で巴を追い、ぎりぎりと歯を鳴らす。
苺わだちを身をよっぴいて振りほどき、グルル、唸った。
「どうしてここに?」
巴が聞いた。
「説明は後、今は逃げる事を考えましょう」
みつが答えた。

159: 2009/05/27(水) 02:45:55.25 ID:LOWcgvz+0
獣は二方向に目を配らせ、巴達の方へ狙いを定めた。
獣は二、三歩駆けるや、雷の様に飛び掛かった。
「ローズテイル!」
真紅が叫ぶと、紅の蛇が地を這い、獣に牙を剥いた。
びゅっ、と風を巻き起こし、辺りには薔薇の馥郁たる香りが広がる。
なおも紅蛇は獣に巻き付き、締め付ける。
しかし、紅蛇は爆ぜ、薔薇の吹雪が舞う中獣は、身体に傷を増やしたが姿を現した。
「これでもだめなの…」
真紅の目には驚きの色を帯びた。
「カナの出番かしら!」
そう言うと金糸雀は鷹揚と前に出て、ピチカートを召喚し、
「沈黙の鎮魂歌!!」
バイオリンを奏でた。
獣の周りにごぉっ、と激しい飄風が巻き起こった。
「クレッシェンド!」
飄風は威力を増し、辺りの砂と獣を巻き上げた。
地面に激しく叩き付けられた獣は立ち上がり飄々踉々と歩みだした。
それと同時に巴は人形達に駆け寄り、
「真紅ちゃん…。ローズテイルで刀を象れるかしら?」
真紅に問い掛けた。少女の体力は少しながら回復していた。

160: 2009/05/27(水) 02:48:02.15 ID:LOWcgvz+0
「えぇ。でも…」
獣はこの間も来向かう。
「なら、私にそれを与えて欲しいの…。そして翠星石ちゃん」
この場では活躍できない翠星石はビクッと肩を竦めた。
「は、はいですぅ」
「剣を象ったら如雨露を使って欲しいの。苺わだちにしたように」
「わかりましたです!」
活躍の場ができた翠星石は目を輝かせた。
「ローズテイル!」
「スィドリーム! 甘ぁいお水を満たしておくれ…」
月光に照らされた刀は紅く輝いた。
それを手に取り、巴は構えた。少女からは鬼々迫る圧力が放たれていた。

162: 2009/05/27(水) 02:48:50.87 ID:LOWcgvz+0
じりじりと一人と一匹の距離は近くなっている。
異様な雰囲気に外野は固唾を飲み、黙した。
一歩、また一歩と前ににじり寄る。
獣は射程距離に入ると、沈黙を破り、天に翔ける。それを巴は待ち受け、地面を蹴った。
すれ違い、紅い一閃。一人と一匹は地面に着地していた。
ずる、と獣の首は胴と別れを告げ、地面に熱く抱擁される。
巴はそれを確認することなく、紅い剣を横に薙払うと、剣は無数の花弁と化した。花弁が断末魔を包み込むと、そこには薔薇の香りが漂っていた。
「か、カッコイイ…」
全員が無意識に声を漏らす。
「キャー! 巴ちゃん! いえ、トモトモ!カッコイイーー!」
みつの中で、巴はトモトモに昇華した。
巴は踵を返し、フラフラと歩き始めた。
みつたちは駆け寄ると、
「少し疲れた…。桜田君の所まで連れていって下さい…」
巴は肩をかり、地に座したジュンへ向かった。
少し離れた場所で人形達は口を開き、
「トモエカッコイイの!」
「こいつぁただ者じゃねぇです…」
「少しちびったかしら…」
「今まで気付かなかったけれど、あの犬はお化けなのだわ…!」
各々驚愕していた。

164: 2009/05/27(水) 02:49:47.56 ID:iReqeyJ/O
「桜田君…」
巴はジュンを気にかけていた。彼女自身満身創痍のはずだ。
巴が言葉を紡ごうとしている時、ジュンは頭をボリボリと掻き、
「お疲れさん。帰って温泉に入りなおすか…」
立ち上がった。
ふらふらと歩き出したジュンの隣に巴も並び、
「うん…」
月明かりに照らされ、微かに笑った。ジュンは視界に入った微笑みを確認すると、月を仰いだ。
空には雲一つなく、星がさんざめいていた。

旅館に戻ると、異様な雰囲気に包まれていた。明かりはついておらず、フロントには誰もいなかった。
時刻は午前零時だ。
「そういえば、昨日ももっと早い時間には電気消えていたなぁ」
みつがそう言った。
「ふーん、ここの人は寝るのが早いんだな…。そんなことより早く風呂に入ろう。」
ジュンはそういうと、部屋に入り支度を始めた。
のりとみつと人形達は家族風呂へ。
ジュンと巴は一般浴場へ向かった。

166: 2009/05/27(水) 02:50:51.04 ID:iReqeyJ/O
浴場は誰も居ない。所謂貸し切り状態だった。
ジュンは身体と頭を洗い、露天風呂に入った。
今は暗くて何も見えないが、明るければ壮大な景色が広がる。
屹立と山々が並び、森は海の様に波打つ。それは自然の雄大さを思い知るだろう。
しかし今は、景色は暗闇に塗り潰され、何も見えない。
「今日は疲れたな…。これが最後の夜だなんて…」
ジュンは独り言を呟いた。
一日を思い返しても、禄な事がなかった。結局、巴の足を掴んだ影の事は解らず仕舞いで、真紅の感じた視線も何かわからなかった。
若さ故の過ちも、過ぎし物になったのはよかったが、その後の犬の様な獣も結局は何かわからない。
犬の様で犬に非ず。目は丸く黒眼しかなく、不揃いな歯から時折見せる赤い舌。胴から伸びる手─前足? ─は人の手の様で…。一言で言えば化け物。もしくは怪物。それらを思い出しジュンは身体を震わした。


<補足>
リッカーかよ。

167: 2009/05/27(水) 02:51:44.26 ID:iReqeyJ/O
ローゼンメイデンですら歯が立たなかった怪物を仕留めた巴。ローゼンメイデンの力を借りたとは言え、まさかあれほどの活躍をするとは誰も予想できまい。
ジュンはあの時の巴を思い出していた。凛とした、優雅な剣捌き。まさに雅と言ったところか。
ジュンは口を水面につけ、ぶくぶくしていた。
──もし、柏葉と付き合ったら逆らえないな…。僕は柏葉とそんな関係になれるのだろうか…
顔全体を湯に沈め、息を止められる限界まで潜った。ぷはぁ!と顔を出し空を見遣り、肩で息をした。月が綺麗だった。
「桜田君?」
仕切りの向こうから声がした。
「どうした?」
「こっちに人はいないわ。そっちはどう?」
「こっちもいないよ」
「そう…。なら、少し話しましょうか」
「…うん」
星が煌々と輝き、夜風が吹いた。

171: 2009/05/27(水) 02:53:33.79 ID:iReqeyJ/O
「溺れた時は助けてくれてありがとう…」
「うん」
「それなのに…」
言葉を詰まらせた。
「…ん?」
「あの…」
巴は言葉を探していた。
しかし、言葉は見つからず、直で言うしかないと判断した。
「変態って言ってごめんなさい…」
バシャ、と水が弾ける音がした。
「へ? いや、あれは僕が…! 僕こそゴメン…」
「私、ああいうの見たの初めてだから、その、気が動転したというか…」
「……」
仕切を挟んで二人は顔を赤くし、俯いていた。暫く沈黙していたが、
「か、柏葉…?」
「…何?」
ジュンは話題を変えるべく、沈黙を破った。実の所、堪えられなかったのだろう。
「剣道って凄いな! あんな化け物を倒してしまうんだから!」
努めて明るく振る舞った。
「あの時は必氏だったの。桜田君や雛達を守らなくっちゃ、って」

172: 2009/05/27(水) 02:54:30.20 ID:iReqeyJ/O
「本当、男の僕が何も出来なくて情けないよ…」
「そんなことないよ。桜田君は身を挺してまで私を守ってくれたじゃない」
「その後、柏葉が助けてくれたけどな…」
ジュンは苦笑した。
「でも、あの時の桜田君、恰好よかったよ」
「ハハハ、ありがとう…」
ジュンは渇いた笑いをあげた。相当参っているようだ。
「ねぇ、桜田君」
巴がトーンを変え、甘ったるくジュンを呼んだ。
「ん、なんだ?」
「月が綺麗だね」
「あぁ、綺麗だ」
二人はそれから風呂を出て、浴衣を着た。
廊下で待ち合わせ、部屋に戻る道中ジュンが口を開いた。
「なぁ、柏葉」
「何?」
「僕、二学期から学校に行くよ」
「うん」
巴は「頑張ってね」とは言わない。なぜなら、ジュンはすでに頑張っているからだ。
それにジュンもそれ以上は求めていない。
「おやすみ」と言って二人は部屋の前で別れた。

173: 2009/05/27(水) 02:55:43.57 ID:iReqeyJ/O
寝屋に入ると、のりは既に寝ていた。ジュンは静かに布団に潜り込み、眠りについた。

朝日に照らされ、眼を覚ます。
二泊三日の旅行もあとは帰るだけなのだが、家に着くまでが旅行なのだ。気を抜くと先生に怒られる。
「あ、ジュン君。おはよう」
「おはよう」
挨拶をすませ、ジュンは大きな欠伸をしてから洗面所へ向かった。
身支度を終え、フロントへ向かう。既に、巴みつ組がフロントにいたのだが、様子がおかしい。
「どうしたの?」
のりが聞くと、
「それがおかしいの。いくら呼んでも誰も出てこないからチェックアウトができないのよ」
みつは両掌を上に向け、困ったように答えた。
「あら、おかしいわねぇ。ジュン君どうしましょう?」
「どうするもこうするも、早く行かなきゃバスに間に合わなくなるぞ。お金と置き手紙を置いて帰ろうよ…」
そうねぇ、とのりは言い、メモ帳から紙を破ろうとした。
「あっ…」
巴が声をあげると、
「トモトモ、どうしたの?」
一枚の紙がヒラヒラと落ちてきた。

175: 2009/05/27(水) 02:57:32.12 ID:iReqeyJ/O
巴は紙を拾うと内容を読んだ。
「『お疲れ様でした。お代は結構です。誰もおりませんので御自由にお帰り下さい─女将─』だそうよ」
「何それ? 気持ち悪いー」
みつが眉を潜め言った。
この紙にはひっかかる事がある。まず、『お疲れ様』だ。
これではまるで昨日の事件を知っているかのような“口調”だ。そして、『お代は結構です。誰もおりませんので御自由にお帰り下さい』ときたもんだ。
金は要らぬというのもそうだが、『誰もいない』と言うのはおかしくはないだろうか。ていうか、全部おかしい。
「すいませーん!」
みつがフロントの奥に叫んだ。
「多分、無駄じゃないですか?」
巴が言った。
「トモトモ、どういうこと?」
「みっちゃんさん、よく考えてください。この旅館で女将以外の人と会いましたか? それに女将さんにも最初会っただけで、それ以降は…。それに、いつも気付いたらご飯の用意が出来ていて、不思議に思いませんでしたか?」
「うぅっ、確かに不気味ね…」
夏の朝は恐ろしく冷え込んだ。

177: 2009/05/27(水) 02:58:40.14 ID:iReqeyJ/O
結局、代金はフロントに置いた。14万5千もあれば、蚊に刺されるほどの痛さだ。
フロントより少し奥に行ったら、立派な大きな鏡が置いてあったので、『誰もいないから御自由』に帰った。

8人は桜田家に戻った。
茶菓子の用意をしていると、留守電があることに気付き、のりは再生ボタンを押した。
「二軒の留守番電話を再生します『こんにちは、桜田様。陰部旅館です。えー、チェックインの時間を過ぎているのですが、何かあれば連絡を下さい』○月×日午後五時四十分…」
機械音声の後に続いたのは陰部(かげべ)旅館からの電話だった。
ピーという音が鳴り、続いた。
「『こんにちは、陰部旅館です。今回桜田様は来られなかったので、キャンセルとさせていただきました。つきましては、キャンセル料を支払ってもらいますので、電話を頂けたらと思います。』○月△日午前十時十七分…。以上で再生を終了します」
陰部旅館からの留守電を聞き終え、その場にいた全員が顔を見合わせた。
今までジュン達はいったいどこにいたのだろうか。泊まっていた旅館の名前を誰も思い出せなかった。

182: 2009/05/27(水) 03:05:54.28 ID:iReqeyJ/O
暑さが大気を粘っこく支配しているにもかかわらず、心なしか蝉はなりを潜め、清々しい青空に太陽が燦々と照り付けていた。
トースターが高く鳴り、食パンが勢いよく跳ね上がった。
それを手に取り、バターを塗る。口に含むと、コーヒーで流し込んだ。

ジーンズとシャツに上着を簡単に着たジュンは大きく溜め息を吐いた。食後からしきりに時計を見ては溜め息を繰り返している。
世間はまだ夏休みなのだが、そろそろ学校が始まろうとしている。
この頃になって慌てて宿題をやろうとも、その膨大な量に自分の横着さを呪う子供もいるだろう。
しかし、ジュンはそれに含まれていない。
巴との勉強で夏休みの宿題はいい教材となった。
ジュンはすでに復学をしても周りについていけるレベルになっていた。それもこれも全て巴のおかげと言っても過言ではない。
リビングのテーブルの上には宿題が綺麗に並べられている。
それらを鞄に入れ、ジュンはキャップを被り、家を出た。

186: 2009/05/27(水) 03:09:29.33 ID:iReqeyJ/O
あと数カ月で秋になろうとしているが、まだまだ暑い。濃く湿った空気が足に絡み付く様に感じられた。
キャップを深く被ったジュンは額の汗を拭い、歩いている。
じりじりと焼けるな陽射しはまだ夏を終わらせる気配がない。
ジュンは校門の前で足を止め、大きく息を吐いた。グラウンドでは野球部が練習をしていた。
──こんな暑いのにご苦労なことだ。
白球を追いかける彼等に同情の目を向けるとジュンは歩きだした。
門を抜け、校舎に入るまでに足取りは弱くなっていた。
体育館で周りに見られた様に、樹木のざわめき、風の音、全てがジュンを奇異な目で見ている様に感じた。
──うぅ、気持ち悪い…。
ジュンは今まで以上に汗をかき、手で口を押さえている。
校舎に入ると足を止め、壁にもたれた。冷えたコンクリートがやけに気持ちがよかった。呼吸は浅く速い。
──僕はなんて弱いんだろう…。僕の決意はこんなもんだったのか?
ジュンは自分を叱咤した。
しかし、動こうとしようとも足が震えている。力が入らない。

188: 2009/05/27(水) 03:11:07.48 ID:iReqeyJ/O
「…桜田君?」
ふいに呼ばれ、ジュンは慌てて振り返った。
「柏葉…。どうしてここに?」
振り返った先には制服を着た柏葉巴が立っていた。
「私は今から部活だから…。そんなことより桜田君は?」
「先生に電話で学校に行く事を伝えたら、電話より会って話そうって言われたんだ。で、リハビリ感覚で来たんだけどこの様なんだ…」
ジュンは苦く笑った。
「…そう。気分が悪いなら一緒に職員室に行く?」
「いや、いいよ。僕は一人で大丈夫。これくらい一人で出来なくちゃ復学できないよ」
「そう…。じゃあ私は部活に行くね…」
「うん、ありがとな」
こうして二人は別れた。
ジュンはすでに吐き気や身体の怠さは消えていた。しっかりとした足取りで職員室へと向かった。
──僕は一人じゃないんだ。
巴に会えた事は幸いと言えた。もし、会っていなかったらあと何分壁と相撲を取っていたか解らない。
今は樹木のざわめきも、風の音も何も感じない。

190: 2009/05/27(水) 03:12:12.17 ID:iReqeyJ/O
ジュンはトントン、とノックをして扉をスライドさせた。
「失礼します。梅岡先生はおられますか?」
数人の教師がジュンを見遣り、梅岡を呼んだ。
梅岡はジュンを職員室へ入れ、奥にある応接間に招いた。
応接間には黒い革のソファーが向かい合わせに、その間にテーブルが置かれていた。
扉側からみて右手に学校の写真や賞状が飾られ、左手には本棚が置かれていた。
梅岡は奥に座り、ジュンは手前に、つまり扉に背を向けて座った。
「桜田、よく来てくれた。先生は嬉しいな」
梅岡は笑顔で言った。その顔からは上辺ではなく、本心だというのが伺える。
ドラマの様な教師に憧れ、この世界に入ってくる人間は少なくはない。しかし、教師を長年していくと、理想と現実のギャップに絶望して熱が冷めてしまう人間も少なくはない。
だが、梅岡はまだ若い分、理想を現実にするように必氏になっていた。
ジュンが復学を決意する際に梅岡はなんの役にも立っていないのは置いといて、彼は彼なりに試行錯誤し、頭を抱えていたのだ。

191: 2009/05/27(水) 03:13:10.67 ID:iReqeyJ/O
しかし、この情熱が空回りすることもしばしばで、ジュンはそれが苦手だった。
「桜田、勉強のことなら心配することないよ。わからないところは先生に聞いたらいいからな」
先ほどから梅岡が一人饒舌に語っていた。
「…先生」
「ん、どうした?」
「勉強の事なら心配ないです。多分ついていけます」
ジュンはそう言うと鞄から宿題を出し、梅岡に見せた。それをパラパラとめくり、一通り目を通すと梅岡は驚いた。
「おぉ、凄いな。全部出来ているじゃないか! そういえば桜田は──」
これからまた語りだそうとした梅岡をジュンは抑止した。
「先生」
「どうした?」
「そろそろ本題に入りませんか?」
「あ、あぁ。そうだな…」
梅岡は咳ばらいをした。
「桜田、どうする?」
梅岡は唐突に聞いてきた。「どうするって?」
「一度、登校拒否をした子が復学する時は保健室から徐々に馴れていくようにしたりするんだ…」
梅岡は先ほどとは打って変わって、顔に笑みはなく、えらく真面目に語っていた。
ジュンは応接間に呼ばれた時から感じていた違和感の正体がわかった。

193: 2009/05/27(水) 03:15:11.41 ID:iReqeyJ/O
「多感な年頃は外部からの刺激には敏感に反応する。もちろん、いい刺激もあるけど、全てがそうと言うわけにはいかない」
ジュンは呆然と梅岡を見ていた。
──コイツは何を言っているんだ?
「まぁ、無理をしていきなり周りに溶け込めって言うのも酷な話だからな──」
ジュンは断片的に聞いていた。
──何が酷なんだ?これは僕が決めた事なんだ。それなのに…
「復学を決意しても無理をして身体を壊したらもともこもないからな。徐々に馴れていって──」
──これじゃまるで、僕が周りとは違う『特殊』みたいじゃないか
「さっきも言ったように、特に傷つきやすい敏感な年頃だから、ストレスを感じ──」
「僕は特殊じゃない!!」
ジュンは梅岡の言葉を遮り、机を叩いて立ち上がった。梅岡は驚いて座ったまま固まっている。
「先生はそんなに僕をクラスに入れたくないんですか?」
すかさず梅岡が否定した。
「そうは言っていない!二、三日ほど馴らしてから…」
「あの出来事があってから僕がどんだけ悩んだのか…。先生は知っているんですか?」
ジュンの声は震えている。
「……」
梅岡は何も言えなかった。
「でも、やっとわかったんです。逃げちゃ駄目だって…。それなのに先生は僕を遠ざけようとするんですか!」
ジュンの主張に梅岡はただ謝る事しかできなかった。
「…すまなかった」
「もういいです。僕は帰ります」
ジュンは踵を返し、部屋を後にした。
梅岡は止めることも、追いかけることもできず、もう誰もいない虚空を見つめていた。


<補足>
せっかくジュンが決意したのに…。梅岡氏ね!

196: 2009/05/27(水) 03:16:40.02 ID:iReqeyJ/O
巴は講堂で部活をしていた。
面を外し、少し休憩を取る。
一昔前なら練習中に水を飲む事は許されなかったが、今は違う。巴は水筒を取り出し、口に含んだ。
夏の講堂は風通しが悪く、非常に蒸し暑い。ただでさえ厚着の剣道にはそれが堪える。にもかかわらず、転落を防止するために講堂の窓はあまり開かない。
気休め程度に開かれる窓から漏れる風を求め、巴は窓際に立つと、門に向かって歩く人影を見つけた。
上から見ているので全体は見えないのだが、その人影は見覚えがあった。桜田ジュンであった。
ジュンが曖昧に見えるだけで表情までは見えないが、どうも様子がおかしい。
他人から見ると、特に変わった風に見えないのだが、どこか歩き方が荒々しい。
──何かあったのか
巴はそう思った。悪い方に向くかもしれないかと思った。
しかし、今の巴にはどうすることもできない。
号令がかかり、稽古が再開された。

197: 2009/05/27(水) 03:17:37.23 ID:iReqeyJ/O
玄関が開かれ、ジュンが帰ってきた。
それを迎えたのりは、
「あら、ジュン君おかえりなさい。どうだった?」
と言ったが、ジュンはそれを無視し階段を昇った。
バタン、と強く部屋の扉が閉められた。
リビングでくんくん探偵を見ていた人形達も異変に気付き、廊下に出た。
「のり、どうしたの?」
真紅の問いに、のりは首を傾げた。
のりもわからなかったら、この空間に事情を知る者は誰もいない。いるとするならば、その当人くらいだ。
のりと人形達は階段を昇り、扉をノックした。が、返事はない。
仕様がないので、ノブを捻るが、これも鍵が掛けられとてもじゃないが開けられない。
「ジュン君、どうかしたの?」
そう質問したがやはり返事はない。
しかし、大方の予想はできている。学校で何かあったにちがいない。その何かを知りたいのだが、ジュンがこの様子だとどうしようもない。
のりと人形達は顔を見合わせ、無言で階段を降り、リビングで座した。
「ジュンのやつ、どうしたんですかねぇ?」
翠星石の問いに答えられる人物はここには居合わせていない。
沈黙が支配するリビングにりん、と電話がなった。
「もしもし、桜田です」
「あ、こんにちは。桜田ジュン君の担任の梅岡です」
電話の主は、もう一人の事情を知る者からだった。

199: 2009/05/27(水) 03:18:29.94 ID:iReqeyJ/O
「ジュン君はもう帰宅されましたか?」
「はい。帰っては来たのですが…」
人形達は受話器から微かに漏れる音に聞き耳を立てている。
「お姉さん、スイマセン…。僕が悪いんです」
梅岡の声音が電話越しでもわかるくらい非常に重く、暗い。
「あの、よろしければ何があったか教えてくださいますか?」
数秒の沈黙の後、梅岡は訥々と話し始めた。
「彼が学校に馴れてもらうために、僕が提案を出したんです。最初の2、3日は保健室から通ったらどうかと…」
「はい…」
「多感な年頃ですし、ストレスが軽減されればと思ったのですが、それが彼が気にくわなかったらしく『僕は特殊じゃない』と怒鳴られてしまいました」
「──」
「僕自身そんなつもりはなかったのですが、桜田君がそう感じたならそうだったんだと思います。僕は僕なりに一生懸命なんですがそれがどうにも空回りしてしまって…」
「そんな言い訳聞きたくねぇです!」
そう叫ぼうとした翠星石の口を真紅が慌てて塞いだ。
「…どうかなされましたか?」
「いえ、何にもありません」
のりがそう答えると梅岡は続けた。

200: 2009/05/27(水) 03:19:23.85 ID:iReqeyJ/O
「駄目だなぁ…。僕なりに一生懸命なんですが、それがどうやらあまり良くない方向に…」
「あの子もそうだと思います。でも、私は断言できます。あの子は絶対に学校に行きます。それだけは信じて下さい。だから、先生も気になさらずに…」
「…ありがとうございます」
電話は切られた。のりは困った様な目で人形達を見遣った。
「全く…。チビ人間は世話が焼けるですね。仕方がないから翠星石が世話ついでにスコーンを焼いてやるです」
のりは微笑み、キッチンへ向かった。

ジュンは布団に頭まで被り学校での出来事を思い出していた。
帰ってくる時に汗をかいたが、今は汗が引いてはいるものの、身体がベトベトして気持ち悪い。
「くそっ」
ジュンは唾を吐いた。とは言っても実際には吐いていない。言葉を吐き捨てただけだ。
「僕が学校に行くって言っているのに、なんだアイツは。僕が特殊だと決め付けやがって…」
とは言ったものの、端から見ればやはりジュンは特殊なのだろう。
原因はどうであれ、学校に行かない、つまり引き篭りというだけで、特殊なのである。
人は少数派を変わり者だとか、特殊だとか思う傾向がある。
勿論、多数派が正しいわけではない。しかし、集団で生活する人間社会において少数派は規律を乱す因子となりうり、疎まれる。
義務教育である中学生で学校に行かないジュンは少数派で、知らず知らずの内に梅岡が特殊扱いしたのも仕方がないだろう。
結果はどうであれ、梅岡は必氏だった。扱い辛い少数派の人間に接する術を若き教師には身についていなかった。

203: 2009/05/27(水) 03:21:15.96 ID:iReqeyJ/O
布団の中には二酸化炭素が溜まり、息苦しくなってきたのでジュンは布団から顔を出した。
仰向けに寝転んだジュンの右手には窓がある。ジュンは顔だけを右に向け、空を見た。雲一つない、目が痛くなるような青がどこまでも広がっていた。
時刻は12時に差し掛かろうとしていた。
ジュンの腹が鳴いた。
朝食にパンを食べたが、急いでいたのであまり食べた気がしなかった。
「どんなに怒って、どんなに落ち込んでも腹は減るもんか…」
しかし、部屋から出る気は毛頭ない。
ジュンは心地良い空腹感に満たされていた。
ジュンは寝返りをうち、右手を枕と頭の間に挟んだ。ジュンは静かに目を閉じた。


雛苺がジュンの頬を数回叩いた。
「ジュン、起きてなの」
ジュンはいつの間にか寝ていた。
「……どうした?」
ジュンは薄目を開けると視界には雛苺の顔が広がっていた。
ジュンは身体を起こし、時計を見やる。
しかし、視線は時計には届かず、その間にいる巴に向けられた。
「なんで柏葉が? あぁ、夢か…」
呟くとジュンはもう一度横になり、
「柏葉!?」
跳ね起きた。
二人は部屋で向き合い座っている。
「柏葉、どうしたんだ?」

206: 2009/05/27(水) 03:25:34.37 ID:LOWcgvz+0
ジュンは巴が居ることに驚いて、どうやって鍵のかかった部屋に入って来たか気にならなかった。
どのようにして部屋に入ったか。それは以前に水銀燈がやったことと同じだ。
窓を割ったのではない。パソコンの画面に──つまり、雛苺がnのフィールドを使って部屋に入り、内側から鍵を開けたのだ。
どうしたんだ?という問い掛けに、巴は返した。
「様子を見に来たの」
「様子を?」
「なんか様子が変だったから…」
「学校で会った後?」
「うん。講堂から下を見ると桜田君が歩いて帰るのが見えたからどうしたのかな? って…」
巴が言うと、ジュンは視線を落とした。
「どうしたって?」
「…歩いてる姿が怒っているように見えたから…」
「……」
ジュンは黙った、ただ単に黙った訳ではない。考えているのだ。
しかし、その沈黙が巴が言う「怒っていた」を肯定しているのも同然だった。
「何があったの?」
巴が口を開いた。
「柏葉が気にすることなんかないよ。ただ少し嫌な事があっただけだ…」
「そう…」
ジュンは巴の悲しい色をした目を見た。

207: 2009/05/27(水) 03:27:26.28 ID:LOWcgvz+0
その嫌な事をどうして私に言ってくれないのか。少しくらいなら力になれる。
しかし、それは私にはなんの関係もないことで、私に言っても何にもならないのかもしれない。
それでも私は…。
「桜田君…」
巴は俯き膝の上に置いた手を握り、口唇を噛んだ。
「私は桜田君が学校に来るって信じてるから…。桜田君は約束を守るって知っているから…、ね」
今はジュンを信じるしかない。顔を上げ、笑った巴は薄暮の色を強く受け、陰った。
それを見たジュンは胸が痛くなった。
「柏葉…」
「なに?」
「実は、学校で嫌な思いをしたんだけど、柏葉を見たらそんなことはどうでもよくなったよ」
「…どうして?」
「僕には先生や周りの奴らにどんな酷い言葉を浴びせられるよりも、柏葉の悲しい顔を見る事の方が辛いんだ。もう大丈夫だから…いつもみたいに笑ってくれよ…な?」
この後、巴がどんな顔で笑ったのか誰もわからない。それは巴自身もだ。
その表情を見れたのは世界で一人、桜田ジュンだけだった。

208: 2009/05/27(水) 03:28:46.06 ID:iReqeyJ/O
巴が帰り、ジュンは部屋で寛いでいた。辺りはもう闇が支配する時間帯となっていた。
扉がうるさく叩かれ、声がした。
「ご飯の時間ですよ」
翠星石だった。
「あぁ、もう少ししたら行くよ」
ジュンが答えた数瞬の沈黙の後で翠星石は、
「いいから速く来やがれです!」
短く言って、階段を降りる音がした。
「ったく、何だよあいつは…」
そうは言ってもジュンは身体を起こし、扉に向かった。
素直に従うジュンから、翠星石の事を疎ましく思っていないとわかる。
キッチンへ向かうと、テーブルには料理が並べられている。
サラダと、味噌汁と、花丸ハンバーグ。
花丸ハンバーグとは、ハンバーグの上に花の形に型抜きされた目玉焼きが乗っているだけなのだが、人形達はこれが好きらしい。
誰も喋らない、静かな食卓だった。
誰も何も聞いてこないということは、事情を知っているのか、あえて触れない様にしているかのどっちかだろうとジュンは考えていた。
今までの、のりの行動を思い返せば気持ちが落ち着くまでそっとしておくはずだ。しかし、梅岡が電話をすることは十二分に考えられる。

211: 2009/05/27(水) 03:29:37.97 ID:iReqeyJ/O
──ま、どっちでもいいんだけど
考えるうちに静寂の食卓は終わった。
ジュンが部屋へ戻ろうと歩きだしたした時、呼び止める声がした。
「やい!チビ人間!」
翠星石がチビ人間と言ったのは照れ隠しだろう。
それを気にも止めずジュンは振り返った。
人形達がトコトコとジュンに歩み寄り、スコーンの入った袋を手渡した。
「翠星石からチビ人間にプレゼントですぅ。ありがたく受け取りやがれです」
翠星石は頬を朱に染め、ジュンから顔を背けて、しかし両手をピンと伸ばし、真正面に袋を突き出した。
受け取るジュンを横目でチラリと見て、満足そうな顔をしていた。
真紅も袋をジュンに手渡し、雛苺も手渡した。
ジュンは片腕で袋を抱えるように持つと、空いた方の手で頭を掻いた。
「…ありがとう」
短く言ってジュンはキッチンを後にした。
部屋に入ると椅子に腰掛け、まずは翠星石から貰った袋を開けた。それは端正な形をしたスコーンだった。
「なんだかんだ言ってあいつが一番こう言うの得意だよな…」
次は真紅に貰った袋で、それは少し歪んだスコーンだった。
「真紅らしいな。あいつはこういうのは苦手そうだ…」
最後に雛苺から貰った袋を開けた。宇宙を創造したようなスコーンだった。
「…これ食えるのか?」
ジュンは全てを平らげた。
形は違えど、どれもおいしかった。

212: 2009/05/27(水) 03:30:54.11 ID:iReqeyJ/O
嫌な事はあったが、既に気持ちは落ち着いている。
ジュンの心は、緩やかな風に撫でられる夜の海の様に穏やかだった。
巴と話し、人形達から励まされた。梅岡が言っていたことなど些細な事だと思った。
──僕には支えてくれる人がいる。裏切れないし、裏切らない
ジュンは感謝していた。
のりに。
真紅に。
翠星石に。
雛苺に。
そして、何より巴に。
自然と頬が緩んだ。
ガチャリと、扉が開かれた。
人形達が入って来たのだ。ジュンは時計を見た。
──もうそろそろ9時か。コイツらが寝る前に…
「スコーン、美味しかったぞ。ありがとな」
三体の人形がジュンに視線を向けた。
「あ、当ったり前ぇですぅ!」
「あら、それはよかったわ」
「本当ー? よかったの!」
ジュンは笑顔で返した。
それほど、心地がいい夜だった。

214: 2009/05/27(水) 03:32:28.92 ID:iReqeyJ/O
 朝起きると朝食を取る。
 何の変哲もない、いつもと変わらぬ朝だ。
 違うところを上げると、ジュンが制服を着ていることだ。
 心なしか、ジュンは落ち着きを見せない。
 時計を見ては、溜息をつくを繰り返している。
 チャイムが鳴り、玄関に向かう。
 扉を開けると巴が立っていた。
 「おはよう。気分はどう?」
 「最悪」
 巴は少し笑った。
 九月に入り、今日から学校が始まる。
 梅岡には電話で学校に行くと伝えた。
 ジュンはその時梅岡に何もせず、普段通りでいいと言った。
 しかし一言だけみんなに言いたいことがあるから、始業式前に少しだけ時間が欲しいとジュンが伝えると梅岡は快諾した。
 巴とジュンは少し早めに家を出たので道中はクラスメートには出くわさなかった。
 教室に入り、巴に席を教えてもらい腰を下ろす。
懐かしい感触が臀部から伝わり、学校に来た事をより明確に意識した。
 それと同時に嫌な思い出が頭に過ぎったが、ジュンはそれを振り払った。
 「…大丈夫?」
 巴は座っているジュンに合わせて体を屈め、顔を覗くように声をかけた。
 「もちろん」
 「…そう」
 ジュンは無理に笑顔をつくると、巴は席へ戻った。
 ジュンの席は真ん中後方で、巴の席は窓側前方にあり、ジュンの左斜めに巴の席がある。
 その距離が途方もない距離に感じたが、いつでも視界に巴が入るのは安心感があった。

215: 2009/05/27(水) 03:33:14.82 ID:iReqeyJ/O
 時間が経つにつれ、教室には人が増えていった。
 皆ジュンを見遣っては席につき、ヒソヒソと何かを話している。ジュンに話し掛ける者は誰もいない。
 ジュンが俯き、HRが始まるのを待っていると背中を叩かれた。
 ジュンが視線を上げると、
 「よう、桜田。久しぶりじゃねぇか」
 中西と岸本がニヤニヤ笑いながら立っていた。
 「俺はてっきり本業の女物の服を縫っているかと思ったぜ」
 岸本は声を出して笑った。
 クラス中がジュンと二人に視線を向ける中、ジュンは巴の席をチラリと見た。
 巴は心配そうな顔をしてジュンを見ている。
 ──柏葉に心配させてなるものか
 視線を二人に向け、
 「まぁ、そう言わずに仲良くしてくれよ?」
 ありったけの笑顔を贈った。
 「チッ。なんだよそれ。行こうぜ」
 中西が唾を吐き席に着くとジュンは胸を撫で下ろした。
 暫くすると梅岡が入って来て新学期の挨拶を始めた。
 「えー、みんな、久しぶり。夏休みはどうだったかな? この夏休みは思い思い過ごしたと思うが、この年から受験勉強をする人も少なくはない───」

217: 2009/05/27(水) 03:35:37.74 ID:iReqeyJ/O
 「──とまぁ、新学期早々堅苦しい話になったけど、夏休みボケを早く治して、学業に専念してくれよ」
 梅岡が話し終えると、中西が手を上げた。
 「ん、どうした?」
 「先生ぇ、夏休みだけではなく、超長期休暇を終えた人もいますよ。そんな人は夏休みボケ所じゃないと思いまーす」
んクラスでは少し笑いが起こったが、ジュンはギクリと肩を揺らした。
 梅岡が中西を咎めようとした時ジュンも手を上げた。
 「先生、生れつきボケてる人はどうやったら治りますか?」
 ──やってしまった!
 引き篭り、一時期捻くれた時の癖がほぼ無意識に出てしまった。
 「なんだと?!」
 中西が吠えるのをジュンが一瞥し、
 「僕は別にお前の事は言ってないぞ。それとも心当たりがあるのか?」
 嘲るように笑った。
 中西は顔を真っ赤にしたが、そのまま何も言わずそっぽを向いた。
 とてもジュンから皆に何かを伝える状況ではなくなり、そのまま体育館へと移動となった。

219: 2009/05/27(水) 03:36:44.49 ID:iReqeyJ/O
 体育館へ向かう途中、ジュンは憂いていた。
 もともと彼等はジュンの事を好いてはいなかった。そしてあの嫌がらせが始まり、ジュンは学校に行かなくなった。彼等はそれを面白がったに違いない。
 そして再び現れた玩具に彼等は目を輝かせ、またジュンで“遊ぼうとした”。 しかし、思わぬジュンの反撃に彼等は腹を立てこのままでは済まそうとは思わないはずだ。
 精神の幼い子供が今まで可愛くて仕方がなかった従順な犬にある日突然牙を向かれたとしよう。
すると今まで可愛がっていたのが嘘のように愛情が冷め、それが憎悪に変わるか、またはトラウマになる。
 彼等からすると、何をしても何もしない従順な犬であるジュンが、ただ吠えただけで憎悪となるかもしれない。
 ──はぁ、面倒な事になったな…
 ジュンは大きく溜め息をつき、背中を丸めた。
 そんなジュンを知ってか知らずか、クラスメートが話しかけてきた。
 「よう桜田。俺もアイツらが好きじゃないしさっきのアレ、スカッとしたぜ!」
 「…それはよかった」
 ジュンは苦く笑った。
 数人ほどに声をかけられ、そのどれもが同じ内容だった。
 どうやら中西、岸本の両人は、少なくともよく思われてないらしいという事がわかる。
 ──それはそうか
 と、ジュンは思った。

220: 2009/05/27(水) 03:38:03.68 ID:iReqeyJ/O
 「桜田君?」
 背中を丸めポケットに手を突っ込んでいたジュンは、はっとしたように声がした方向を見た。
 「どうした?」
 巴は心配そうな顔をしてジュンを見ている。
 ジュンの事を知っている者なら先程の教室でのやりとりを見ると誰だってそんな表情をする。
 しかし、ジュンにとってその表情は胸を締め付けられる思いにかられる。
 誰よりも心配してくれていた者の一人である巴に対して、更に心配をさせることは望まない。
 「さっきの──」
 「大丈夫、心配ないさ!」
 ジュンは巴の言葉を遮った。
 「でも…」
 なおも食い下がらない巴に、
 「柏葉が心配するような事はないよ。こう見えて逃げ足は速いほうなんだ」
 「…そう」
 「それと…」
 「……?」
 「僕から離れた方がいい」
 ジュンは視線を巴から外し、チラリと遠くをみた。巴も視線の先を見ると岸本と中西がこちらを見ていた。
 「柏葉も目を付けられるかもしれないだろ?」
 ジュンはそう言うと、巴の背中をポンと押した。巴は振り返り、ジュンを見たが、ジュンは前方に顎をしゃくった。
 これ以上は心配をかけまいとする気持ちが巴を虚しくさせる。玲瓏たる巴の黒瞳に影が宿った。しかし、それにジュンは気付くことはなかった。
 歩みを速め、雑踏に紛れる巴の背中をジュンは見ていた。

221: 2009/05/27(水) 03:38:58.89 ID:iReqeyJ/O
 ニヤニヤといやらしい笑みを携えた二人がジュンに近づいてきた。
 「桜田ぁ」
 ジュンは呼び止められたが歩みを止めなかった。
 「待てよ桜田」
 中西は居丈高な声を出すと、ジュンの肩を掴んだ。
 「…なんだよ」
 眉間に皺が寄ったジュンを見て、ケタケタと笑う様に中西は言った。
 「お前結構モテんのな」
 「……」
 「まぁ、そんなのどうでもいいけど、始業式が終わったら少しお話ししようか?」
 「…僕はお前達と話す事は無い」
 「まぁそう言うなよ。久々の再会じゃねぇか」
 おどけて言う中西の顔は笑っているが、目は笑っていない。
 もちろんジュンはこんな誘いに乗る気は微塵もない。
 それじゃあな。と言って中西と岸本は体育館へ入った。
 ジュンも後に続いて入って長椅子に座った。
 ──さて、どうしたものか…
 ジュンは始業式の間中、どうやって切り抜けるかを考えていた。

223: 2009/05/27(水) 03:40:00.00 ID:iReqeyJ/O
 式が終わり、ぞろぞろと人が外へ出ている。
 ジュンもその中の一人なのだが、目的は違う。中西と岸本に挟まれるようにジュンは歩いていた。
 上手く人込みに紛れて逃げる事は可能なのだが、逃げてどうなるものか。
 今、逃げれたとしても彼奴らは執拗に追いかけてくるだろう。
 それに同じクラスだ。毎日顔を合わさねばならない。それならばいっそ彼奴らに着いて行った方が後々面倒にはならない。そう結論つけた。
 「逃げないから離せよ」
 ジュンが言うと二人は嘲るように笑った。
 「逃げない? 一度学校から逃げたやつが何言ってんだよ」
 「……」
 ジュンはそれ以上何も言わず黙々と歩いた。二人は談笑しながら、時にはジュンを小突きながら目的地へ向かっていた。


 巴が教室に着くとジュンの姿が見えなかった。まだ休み時間なので用を足したりしている可能性もある。
 しかし、朝のやり取りを見る限りそんな悠長な事は考えられない。
 一抹の不安を残しながら、嫌な胸騒ぎを覚えながら席に座しているとチャイムが鳴った。
 クラスを見回すとジュンと中西、岸本が居なかった。

224: 2009/05/27(水) 03:42:03.79 ID:LOWcgvz+0
 雑踏からひそかに離れ、階段を登ると扉が見えた。その扉を先に中西が潜り、次にジュン、最後に岸本と続いた。
 屋上は風がビュウビュウと吹いている。ジュンはまだ夏の余韻を含んだ暖かな風を全身に受けながら空を見上げた。皮肉にも雲一つ無い晴天であった。
 ガチャリ、と扉の閉まる音が聞こえたのと同時に臀部に衝撃が与えられ、ジュンは前のめりに倒れた。
 「あれ、桜田。どうしたんだ?」
 中西が言うと、
 「そりゃ、この間まで引き篭ってたから体力がないんだろうよ」
 岸本は大笑いした。
 ジュンは起き上がると二人を睥睨した。
 「おいおい、なんだよ。怖いなぁ」
 「大丈夫、桜田? 無理すんなよ」
 ジュンは蹴られた臀部を二度ほど手で払い溜め息をつき、
 「これで満足か? 帰らしてくれよ」
 二人の顔から笑いが消えた。
 チャイムが鳴った。
 蒼穹によく響く、うるさいチャイムだ。

226: 2009/05/27(水) 03:45:01.82 ID:iReqeyJ/O
 岸本がジュンに近づいてくると、鳩尾に鈍い痛みが走った。ジュンは腹の底から熱いものが込み上げ、口から吐き出した。
 ジュンは膝をつき、前のめりになりながら必氏に岸本を見上げた。無表情のまま岸本はジュンの腹に渾身の蹴りを減り込ませた。
 仰向けに倒れたジュンは手で腹を押さえ、のたうちまわっている。
 「おい、桜田。立てよ?」
 中西がジュンに促すが、ジュンは未だに自分の吐瀉物の中を泳いでいる。
 中西はジュンに近づき髪を掴むと乱暴にジュンを立たせた。
 ジュンは意識が朦朧とする中、ピントの合わない岸本を睨めつけている。
 中西はジュンの後ろにまわり、両脇から手を絡め、羽交い締めにした。すでにジュンには抵抗する力は残されていない。
 「桜田ぁ、今朝俺達を馬鹿にしたことを謝れよ。そうしたらこれ以上痛い思いはしないかもしれないぞ」
 「…僕に謝る覚えはない」
 岸本に対し、やっと振り絞った声は精一杯の強がりだった。岸本はふぅん、とだけ言ってジュンに来向う。
 ジュンとの距離は近づき、岸本が拳を振り上げた。ジュンは目をつむり、歯を食いしばった。
 しかし、一向にその拳はジュンに埋もれ事はなく、おかしく思ったジュンは薄目を開けた。

227: 2009/05/27(水) 03:47:30.31 ID:LOWcgvz+0
 岸本が拳を振り上げたまま後ろを見ていた。ジュンも岸本の視線を追うと、扉が開かれていた。
 そこには息を切らし、額に汗を浮かせた巴が立っていた。
 「…何をしてるの?」
 巴が前に出ると扉は重い金属音を軋ませながら閉じた。
 ──柏葉、どうしてここに?
 ジュンは叫んだが、声が出なかった。なおも鈍い痛みが彼を襲っている。
 「桜田が久々に学校に来たから歓迎会を開いているんだよ」
 岸本が巴に言うと視線をジュンに戻し、
 「なぁ、桜田!」
 容赦なく拳を脾腹に減り込ませた。
 「この通り桜田も泣きながら喜んでるぜ」
 卑下た笑いを中西がするとジュンから手を離した。ジュンはその場に膝から崩れ落ちた。
 「柏葉…、戻れ…」
 くぐもった声でジュンが言った。その声が巴に届いたのか、届かなかったのか巴は歩き出した。
 大きく掌を振り上げ、岸本を見上げた。その手は無情にも振り下ろされる事はなく、岸本が掴んだ。
 岸本はその手を捻り引くと、巴を後ろから抱くように抱えた。
 いくら巴が剣道をしていようが、女が男に膂力で勝ることはない。
 「柏葉は関係ないだろ!? 離せよ!」
 ジュンが地に伏したまま叫ぶと、ケタケタと中西、岸本が笑った。

229: 2009/05/27(水) 03:48:58.26 ID:LOWcgvz+0
 「桜田、『今朝は調子に乗ってすいませんでした』って土下座しろよ。そうしたら心の広い俺達は許してやるよ」
 中西がそう言うと、岸本は後ろ手に掴んだ巴の手を更に捻った。巴が顔をしかめるのを見るとジュンは手を着いた。
 嫌な程、雲一つ無い晴々とした空であった。


 「桜田君…」
 巴がジュンに駆け寄ったのは岸本と中西が扉の奥に消えたのと同時にだった。
 「いてて…。あいつら容赦ないや」
 ジュンは精一杯おどけた。実際そんな気力はないのだが、巴がそこにいるなら話しは別だ。
 しかしそれも虚しく、二人の間には蕭々と風が吹いた。
 「ごめんね…」
 巴が地面に座ったままのジュンの隣に腰を下ろすと謝った。
 「どうして柏葉が謝るんだ?」
 「私が『学校に行こう』って言わなければこんな事にはならなかった…」
 巴は目を伏せた。その目から今にも涙が溢れそうで、それを見ると寂寥感がジュンを満たした。
 「そんな事はない! 柏葉は何も悪くないよ!」
 「ごめんね…」
 ジュンは謝る巴にどんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。
 屋上では二回目のチャイムが響き渡った。

230: 2009/05/27(水) 03:52:27.59 ID:LOWcgvz+0
 脱衣所でジュンは服を脱ぎ、鏡で自分の身体を見た。所々痣ができており、ジュンは視覚的に痛みを感じた。
──あいつら、おもいっき り殴りやがって…
 痣に手を当てると、もう一度顔をしかめた。
 屋上で二回目のチャイムを聴いて暫くすると、辺りは騒がしくなった。
 この日の学校は始業式とその後に夏休みの宿題の提出などで終わる。明日からが普段通りの授業が始まるのだ。
 巴は沈鬱な表情をしている。風は二人の間で寂寥を歌っていた。
 ジュンが立ち上がり、蹌踉と歩きだすと、巴も後に続いた。
 肩を貸そうとする巴に、ジュンはそれを「大丈夫」と断った。
 今のジュンにとって懸案すべきは、巴を元気づけることとなっている。
 そのため、殴られた痛みなどどこ吹く風であるかのように装った。
 しかし、それらはジュンの足取り、喘鳴から瞞着しきれないのは明白である。
 二人が教室に着くと、数人の生徒がまだ教室に残っている。その中には件の二人はいなかった。ジュンはホッと息を吐き、鞄を取った。
 そこで巴と別れ、ジュンは家路についた。

231: 2009/05/27(水) 03:53:15.75 ID:iReqeyJ/O
 パジャマに着替え、ジュンは机に向かった。何をするでもなく、頬杖を着いた。
 そうしたまま何分経っただろうか。長いようでもあり、短いようでもあった。後ろから声が聞こえた。
 「ジュン」
 声からして真紅だ。机に置いた時計を見ると、まだ9時には達していなかった。
 「ん、どうした?」
 「学校はどうだった?」
 一瞬、ジュンの脳裏には今日の出来事が横切った。決して順風に帆を上げるとは言えない一日だったのだが、
 「あぁ、何事もなかったよ」
 「何事も、ね」
 真紅は繰り返すと黙り込んだ。
 「何事もない」とジュンは言ったが、この返答は不自然すぎる。何かあったと示唆したも同然だった。
 真紅はジュンまで歩み寄り、見上げた。
 真紅の紺碧の瞳を見入ると全てを見透かされたような気がして、ジュンは目を反らした。
 「抱っこして頂戴」
 「はいはい」
 ジュンは万歳をするように両手を上げた真紅を抱き抱え、膝に置いた。
 二人は言葉を発しない。しかし、窮屈ではなかった。むしろ心地良かった。

235: 2009/05/27(水) 03:54:36.97 ID:iReqeyJ/O
 「ねぇ、ジュン」
 甘ったるく真紅が言った。小さな人形とは思えない艶かしい響きがそこにはあった。
 「ん?」
 「一日お疲れ様」
 「なんだ、それ?」
 ジュンはくつくつと笑った。
 「あら、この国では勤めが終わったらこう言うんじゃなくて?」
 「まぁ、そうだな。言うところもあるんじゃないか? てか、そんなのどこで習ったんだよ」
 「さぁ、どこだったかしら?」
 そう言った真紅がジュンにもたれると、一瞬ジュンの顔が崩れた。
 「ジュン…?」
 もう一度ジュンを呼ぶと独り言のように真紅は呟いた。
 「立ち向かう事も大切よ」
 「え?」
 「これは私の独り言。…戦う事は決して悪くないわ」
 「僕は暴力は苦手なんだ」
 「暴力とは暴れる力の事よ。あなたが何かを守る力、切り開く力は暴力じゃない。それに、腕力だけが戦うって事じゃ無いわ」
 「……」
 「独り言は終わりよ」
 真紅が何に対して言っているのかはジュンにはわかる。心当たりはある。だからジュンは何も言えなかった。
 真紅はジュンの膝から飛び降りると、一度だけジュンに振り返り微笑んだ。
 鞄が閉まってもジュンは暫く椅子に座ったままでいた。

236: 2009/05/27(水) 03:56:09.47 ID:iReqeyJ/O
 巴は教室に入るとまずは中を見渡した。やはりというべきか、“いつも通り”ある一席は空いていた。
学友と適当に挨拶を済ませ、席に着いた。
 「ねぇねぇ」
 クラスの女子が巴の席の前まで来ると、巴は顔を向けた。
 「……?」
 「巴ってさぁ、桜田君とどういう関係なの?」
 突拍子もなく問うその顔は、ただ純粋に好奇に満ち足りた目を輝かせていた。
 「私と桜田君は幼馴染みだけど。どうして…?」
 巴の答えに対して興味もなくふぅん、と答え、
 「昨日ね、桜田君がいなくなった後、巴も消えたじゃん? で、その後二人で戻ってきたって言うし、なんかあったんかなー? って思ったんだ」
 再度目を輝かせた。
 女という生き物は老若関わらずこう言った話が好物なようで、特にこの年頃は他人の色恋沙汰には敏感である。
 巴が何かを言おうとしたその時、
 ガラリ。
 と、勢いよく開かれた扉には噂の当人が立っていた。
 みなの視線などどこ吹く風といったようにジュンは教壇に登り、教卓の前に立った。

237: 2009/05/27(水) 03:57:09.91 ID:iReqeyJ/O
 ジュンは深く息を吐き、注目するクラスメートを見渡した。皆一様にジュンを見つめる中、語り始めた。
 「あ~…、その、急にで申し訳ないけど、みんなに話したい事があるんだ」
 ジュンは静かに、しかし強く言葉を紡ぎだした。
 「知っての通り、僕は夏休み前まで学校に来なかった。つまり、世間一般でいう登校拒否というやつだ。何故登校拒否とやらをしたかと言うと知っての通りだと思う」
 クラスメートは黙ったまま、突然始まったジュンの独白に耳を傾けている。
 「原因は些細な事。僕が描いた桑名さんをイメージした衣装の原画を生徒の前で曝されたというだけの事だった」
 ジュンは数瞬だけ俯き、暗い面持ちになった。が、すぐに前を見、胸を張った。
 その表情は朗らかで、一点の曇りも、迷いもない。
 「それがトラウマとなり、学校が、いや、人が恐くなって逃げ出したんだ。でも、気付いたんだ。それは決して恥ずかしくない事だって。僕の才能であり、誇りでもある! って…」

239: 2009/05/27(水) 03:58:24.22 ID:iReqeyJ/O
 ジュンは深く息を吸い、目を閉じた。まるで、走馬灯のように思い出が駆け巡っている。
 ジュンが目を開くと、凜と姿勢を正した。
 「長々としたけど、結局何が言いたいのかと言うと、僕は今度は逃げず、学校に来る事を決意しました!もう一度僕の友達に、そしてクラスの一員にしてください! よろしくお願いします」
 ジュンは深々と頭を下げた。静まりかえった教室は彼を受け入れるのか。
 無音に等しい教室に乾いた音が響いた。次第にちらほらと、そしてそれは大きな拍手になった。
 「お帰り、桜田ぁ!」
 誰かが叫んだ。ジュンは頭を上げ、自分の席に座した。今頃になって足がケタケタと笑い始めるが、非常に心地よかった。
 ジュンは巴に視線を向けた。巴は優しく微笑んでいた。
 こうしてジュンは無事クラスに溶け込むことに成功した。あの出来事の前のように、ジュンは笑えるようになった。

 6限目の授業が終わり、ジュンが教室を出ると、巴に呼び止められた。
 「桜田君」
 ジュンが振り返ると、一輪の笑顔が咲いていた。それはとても美しく、見る者全てを魅了するような笑顔だった。
 ジュンは頭を掻き、その手を前に突き出し親指を立てると、
 「これからもよろしく!」
 ジュンはやっと元在るべき場所に戻ってきた。
 しかしそれを許さない人間がいた。憎悪の篭った視線にジュンは気付いてはいない。

246: 2009/05/27(水) 04:06:47.66 ID:iReqeyJ/O
第四章噂をすれば…

 その日は朝から雨が降っていた。天気予報によると今日一日雨は止まない、且つ強さも増すらしい。
 夏の暑さは嘘のように消え、過ごしやすくなったのだが、秋雨のためにこの日は肌寒かった。
 「僕と柏葉が!?」
 コンクリートを叩く雨は非常に喧しかったが、それを凌駕する驚愕の声がクラスに谺した。
 「そうだよ! 噂で聞いたぜ? 桜田と柏葉が付き合っているってよ」
 「そんなデマ誰が流したんだよ…? とにかく、僕と柏葉はなんでもないよ」
 「そうなのか? でも、柏葉はよく桜田の家に出入りするって聞いたぜ」
 ジュンと巴が付き合っていると言うのは与太なのだが、巴は頻繁に雛苺に会うために桜田家に出入りしている。目的はどうであれ、事実であることは確かなのだ。
 「それは…。でも、まぁ僕と柏葉がそういった関係ではないのは本当だ」
 ジュンは巴が家に来る事を否定しなかった。というよりできなかったの方が正しい。
 嘘の噂に動揺したのか頭が回らなかったのだろう。しかし、それがいけなかった。
 「ふぅん、そうかよ…」
 友人はあからさまに期待外れといった表情をして席に着いた。

247: 2009/05/27(水) 04:08:09.82 ID:iReqeyJ/O
 放課後になり、帰り道には傘が二つ並んでいた。
 噂の渦中である二人──ジュンは嘆息の後、巴に話しかけた。
 「なぁ、柏葉」
 「何?」
 「あらぬ噂が立てられているぞ」
 ジュンは横目で巴のリアクションを伺ったが、そこにはいつもと変わらずにいる横顔が前を見ている。
 「…そうみたいね」
 この噂に対して巴は気にも止めていないようだ。
 「柏葉は何とも思わないのか?」
 「そうね…。私は桜田君との噂なら悪い気はしないよ?」
 「…え?」
 ジュンは数瞬の間思考を巡らせた後、素っ頓狂な声を上げ立ち止まり巴を見た。
 巴も立ち止まるとジュンを見つめた。
 辺りは無音に近くなり、雨の音ですら耳に付け入る隙を与えない。
 黙ったまま二人は見つめ合っていると、
 「ふふ、『え?』って…」
 巴は堪らず口を押さえ笑った。
 「桜田君、なんて顔をしているの? おかしい…」
 なおも笑う巴を見て、ジュンはからかわれた事にやっと気付いた。
 「…そんなキャラだっけ?」
 「ごめんね…。でも…」
 ふふふ、ともう一度笑った。どうやら巴のツボに入ったらしい。

248: 2009/05/27(水) 04:09:13.41 ID:iReqeyJ/O
 「ねぇ、桜田君…。怒ってるの?」
 仏頂面で黙々と歩くジュンに巴は聞いた。
 「別に怒ってないよ」
 「…本当?」
 巴はまるで悪戯をした子供が父親の機嫌を伺うように、上目使いで確認した。
 そんな表情をされては地獄の鬼も相好を崩すに違いない。
 「本当。僕だって柏葉との噂なら悪い気はしないさ」
 本心だった。しかし巴には、
 「…やだ、さっきのお返し?」
 冗談に取られクスクスと笑った。
 ──冗談じゃないんだけどな…
 頭を垂らすジュンを巴は珍しげにしげしげと見つめている。
 ジュンは少し慮り、
 「…少し考え事を、な」
 口を開いた。
 「…考え事? どんな?」
 「たいしたことじゃないけど、一体誰が何の目的で与太話しを流したんだろう、って」
 ジュンは顎に手を当て、考えるそぶりを見せた。
 「…誰でもいいんじゃない?」
 「……?」
 「だって、実際に私と桜田君は付き合っていない。他が何を言っても関係ないし、真実じゃない…」
 噂などどこ吹く風で巴は空を見上げた。今にも重い雲が落ちてくるような、そんな空なのだが、
 「…じゃあまた明日」
 「…あぁ」
 やはり雨は止まず、しかし気にも止めず、足も止めず別々の帰路に着いた。

249: 2009/05/27(水) 04:10:04.68 ID:iReqeyJ/O
 家に着くとジュンは真っ先に部屋へと向かう。学校に行きはじめてからの習慣となっている。
 そして、制服を掛けると部屋着に着替えるとそのまま宿題に取り掛かる。これも週間だ。
 勉強が周りに追い付いたからと言っても、まだ完璧ではない。遅れを補う為にジュンは帰ってすぐに机に向かっている。
 カリカリと鉛筆が走る音が止むと、ジュンは大きく息を吐き、伸びをした。小気味よく背骨が鳴った。
 「もう5時か…」
 首を左右に振り、立ち上がるとリビングへ下りた。
 「あ~、ジュンなの! ジュンが来たの~!」
 雛苺が高い声で叫ぶと、人形達はチラリとジュンを見やり、視線を戻した。
 「ここは僕の家だ。そりゃ僕も来るさ」
 雛苺がジュンに駆け寄ると、
 「ジュン登りなの~」
 「わわ、危ないな! 立っている時のそれは禁止だって言っているだろ?」
 雛苺は既に肩まで登り、頭にしがみついていた。
 「ごめんなさいなの…」
 「うるさいわ。今いい所なの黙って頂戴」
 くんくん人形を抱きながらテレビを見ていた真紅が視線も当てずに叱責すると、ジュンと雛苺は笑いあった。

254: 2009/05/27(水) 04:12:32.94 ID:iReqeyJ/O
 それを気にする風もなく真紅はテレビにかじりついている。
 やはり、テレビはくんくん探偵がやっていた。
 『ちょっと待った! これは事故ではない! 事故に見せ掛けた密室殺人だ!』
 『何!? 本当かね、くんくん君!!』
 真紅は喉を鳴らし、くんくんの推理を耳を傾けているが、
 「まったく、チビとチビチビは身長と同じで精神までチビですねぇ」
 のりと一緒に夕餉の支度をしていた翠星石が料理を運びながら言った。
 「チビチビ言うな!」
 「なのー!」
 「チビ共が吠えたですぅ」
 翠星石は口を尖らせ、そそくさとのりの足に隠れた。
 一方くんくん探偵も佳境に入り、くんくんの推理が今日も冴えている。
 『この巧妙なトリックを使えるのは、この中で一人だけだ。そう、貴方ですよ──』
 「だからチビって言うな!」
 「チビって言う人がチビなの!」
 「きゃー! 器もチビチビですぅ!」
 「うるさいのだわ! 黙りなさい!」
 真紅の雷が不毛な争いの終止符をうった。
 身体をびくっ、と跳ねさせた三人は黙したまま椅子に座した。触らぬ神に祟り無し、と言ったところか。
 その様子を見ながらのりが笑みを携えて料理を運び終えると、
 「真紅ちゃん、ごはんよぅ!」
 真紅は調度終わったテレビを消した。

255: 2009/05/27(水) 04:13:43.65 ID:iReqeyJ/O
 楽しき夕餉も終わり、ジュンと人形達は部屋で寛いでいた。
 学校に行き始めてからジュンと人形達が一緒にいる時間は少なくなった。しかし、以前にも増して親密な関係になったと言える。
 ジュンの宿題が終わってからは、彼と彼女達の時間となった。
 無意識のうちに彼は人形達に優しくしている。それは彼が学校に行くまでに支えとなってくれたというのもあるだろうが、小さな要因にしかない。
 やはり学校に行き始めてから、ジュンが持っていた劣等感などがなくなり、心に余裕ができたのだろう。
 それに人形達の事は嫌いじゃない。
 「ねぇ、ジュン。学校のお話をしてっ!」
 雛苺がジュンの膝の上に座りながら顔を上げた。ここまで溌剌という言葉が似合う少女も珍しい。最も、人形なのだが。
 ジュンは視線を右上に上げ、頭を掻いた。
 「んー、学校の話しったってなぁ…」
 「なんでもいいのよ?」 ジュンは暫く視線を留めると、あっ。と、声をあげた。
 「そういや、僕と柏葉が付き合っているっていう噂がたっている」
 「『付き合っている』…?」
 雛苺は首を傾げたが、翠星石が微かに身体を跳ねさせた。
 翠星石は周りから見てもバレバレなくらい耳を傾けている。

256: 2009/05/27(水) 04:14:57.25 ID:iReqeyJ/O
 「…付き合っているってどう言う事なの?」
 雛苺が聞くと、ジュンは更に視線を泳がせた。
 「…つまり、恋人関係である。って事だ」
 「ほぇぇえ! じゃあジュンとともえは愛し合っているの?!」
 目を爛々と輝かせ、雛苺がジュンを見た。愛し合っている。と言う表現にジュンは狼狽したが、ジュンが答える前に、
 「だぁから、噂だって言ってるじゃないですか?! おバカ苺は何を聞いてたですか?」
 翠星石が声を荒げた。
 「なんで翠星石がムキになるの?」
 「ぐっ。だ、誰がムキになってるって言うですか? 翠星石は別にジュンと巴が…!」
 翠星石はそこで口を噤むと顔を朱に染め、勢いよく鞄に入った。
 「変な翠星石なの…」
 今まで黙したまま本を読んでいた真紅が雛苺を呼んだ。
 「雛苺? ジュンと巴が恋人関係だという話しは嘘なの。その嘘が学校に流れているって事よ」
 気後れしたジュンがそれを頭を縦にふって「そういうことだ」と言うと雛苺は頬を膨らませた。

257: 2009/05/27(水) 04:16:10.40 ID:iReqeyJ/O
 「ヒナは賛成なの! トモエとジュンが一緒になればヒナも一緒で嬉しいの」
 「とは言ってもなぁ…」
 ジュンにとって雛苺の純粋なまでのまっすぐな視線が、今に限っては質が悪い。
 「雛苺、もう九時だわ。寝る時間よ?」
 真紅から出された助け舟にジュンは胸を撫で下ろしたが、雛苺は納得していない。
 ぶーたれる雛苺を二人で宥め、鞄に押しやると大きな溜息が二つ零れた。
 「ありがとうな、真紅」
 「お礼なんていらないわ。寝る時間になっただけよ」
 真紅はそう言うと鞄までトコトコと歩いた。そして振り返り、
 「ところで、ジュンはいつ告白するのかしら?」
 突然の言葉にジュンは激しく咽た。
 「な、何言ってんだよ!?」
 ジュンの狼狽する姿に真紅はクスクスと笑い、「冗談よ」と言って鞄を閉じた。
 それにしても、今日はよくジュンが驚く日だ。
 いつも以上に疲れたと感じたジュンは電気を消し、布団に包まると、
──はぁ、今日は疲れたな。…告白、か
ジュンの視界は闇に包まれた。

258: 2009/05/27(水) 04:18:04.13 ID:iReqeyJ/O
 昨日までの雨が嘘のように秋澄む空に太陽が輝いている。
 気温はそこまで上がっていないが、前日の雨で余計に寒く感じる。
 空には鰯雲が並び秋空が凛と美しかった。
 「えぇ、また?!」
 秋に似つかわしくない騒々しい驚愕の声が教室にまた谺した。
 「声がでかいって…! だって昨日柏葉が家に来る事は否定しなかっただろ?」
 昨日と同じ友人がジュンに話しかけてきた。
 「確かにそうだけど…。でも、柏葉は僕には会いに来ていないよ」
 「じゃあ誰に会いにきてるってんだよ…」
 友人は訝しげに眉を寄せた。
 「それは…。雛……っ。姉ちゃんにだよ」
 ジュンは雛苺、と言いかけたのをぐっと堪えたが、友人は更に訝った。
 「なんで姉ちゃんに?」
 「僕と柏葉は幼馴染みなんだけど、柏葉と姉ちゃんがやけに仲がいいんだよ…」
 「ふーん、そうかよ…」
 友人は納得した表情をせずに席へと戻り、周囲の人間にひそひそと何かを話している。
 周囲の人間も納得していない表情をしているが、梅岡が入室しそこで会話は止まった。

261: 2009/05/27(水) 04:21:08.97 ID:LOWcgvz+0
 ジュンは授業が始まると思考を巡らせた。勿論、噂についてのだ。
 一体誰が何の為に。
 噂は単なる噂かもしれない。色恋沙汰の噂はよくある。ましてや敏感な年頃なのだ。
 しかし、ジュンは釈然としなかった。何か裏があるような気がした。
 ただの勘だ。信じるに値しない。だが、信じてもいい勘だった。
 ──虱潰しに聞くとするか
 誰から噂を聞いたか、を辿って行けば最終的には流した奴にぶつかる。
 途方も無いかもしれないが、40人程度のクラスだ。上手く行けば直ぐに答えがでる。
 思い立ったが吉日ということで、休み時間になると今度はジュンが友人の席まで足を運んだ。
 「なぁ、噂って誰から聞いたんだ?」
 友人は少しだけ考え、
 「え~と…。アイツだよ」
 と、指を指した。
 ジュンは礼を言って指を指された女子の元へと向かった。
 そのやり取りを繰り返すと最後には、
 「それなら確か、岸本と中西に聞いたよ。なんでも『凄い事を教えてやる』って…」
 クラスメートがそこまで言うと、ジュンは礼を言って席に戻った。
 彼等は何故こんな事をするのか。そんな噂を流してもなんの効果もないのは明瞭だ。

262: 2009/05/27(水) 04:22:08.39 ID:LOWcgvz+0
 しかし噂は誇張するもので、いつのまにかある事ない事──元々ないことだが──上乗せされた。
 ジュンと巴が付き合っているという噂は、ジュンの趣味──不登校の原因となった裁縫──に巴が試着をして愉しんでいる。となった。
 そうなると、巴は同情の目と、侮蔑の目を向けられることとなった。
 ジュンに対しては侮蔑の目だけだ。
 こうなってしまうと本人がいくら否定しても加速した噂は留まる事をしらず、ないはずの信憑性が増す。
 そして、噂はクラスだけでは飽き足らず、学年にまで及んだ。
 勿論、信じていない者も多数いるが、6:4といったところだろうか。信じているのが6だ。
 これこそが岸本達の狙いだったのかもしれない。
 今、ジュンと巴は悪い意味で有名になり肩身が狭くなった。
 この状況をどう切り抜ける、ジュンよ?
 今のジュンにはどうすることもできないのか。
 今、巴と二人で行動をすれば更に噂が波紋の様に広がる。広がれば広がる程、その波は高くなってしまう。
 放課後、一人で帰宅したジュンは部屋で物思いに耽っていた。

263: 2009/05/27(水) 04:23:50.48 ID:LOWcgvz+0
 すると、家のチャイムが鳴った。腰をゆっくりと上げたジュンは沈痛な面持ちで玄関の扉を開けた。
 「入れよ」
 ジュンが短く言うと巴は靴を並べた。
 「あ、トモエなの!」
 雛苺が巴を見つけ無邪気に飛び掛かったが、いつもと違う雰囲気に首を傾げた。
 「うゆ? どうしたの、トモエ?」
 「ううん。なんでもないよ…。ゴメンね、雛苺。今日は桜田君と大事な話しがあるから遊べないの…」
 巴は乾いた笑みを浮かべた。彼女自身、相当参っているようだ。
 「元気出してよ? トモエ…」
 雛苺も何かを感じたらしく、その小さな掌で巴の頭を撫でると素直に巴から離れリビングに戻った。雛苺なりの励ましだった。
 部屋に入ると、いつぞやかの勉強会の時のように二人は対面して座した。
 しばしの沈黙が今は、いや、いつも苦痛だ。
 ジュンも巴も言葉を探すが、見つからない。時計の針が動く無機質な音が部屋を支配している。
 何分経ったかわからない。途方もなく長い様に感じられたし、短い様にも感じたが、ジュンが口を開いた。

265: 2009/05/27(水) 04:28:56.84 ID:LOWcgvz+0
 「あー…、柏葉?」
 「何?」
 「本日はお越し戴き、誠にありがとうございます」
 「…ふふ、何それ?」
 しん、と言う声が聞こえたが、それも直ぐに巴の声に掻き消された。
 張り詰めた空気は一気に爆ぜ、いつも通りの二人に戻った。
 あぁ、こんなにも簡単な事だったのか。いや、巴とジュンだからこそこうなったのだ。
 いつもの様に他愛の無い話を一通りした。この部屋に居れば、誰からの目も気にせずにすむ。
 しかしながら、それでは根本の解決にはならない。 「なぁ、柏葉…」
 ジュンは生真面目な顔にし、トーンを落とした。巴も姿勢を正し、真摯な眼差しでジュンを見た。
 「…何?」
 「噂の元はほぼあいつらに間違いない」
 無論、中西、岸本だ。
  「…そうね」
 「明日、話しをつけてみるよ。僕が」
 巴は目を開き、珍しく声を張った。
 「危ないよ?! きっと、前みたいに…」
 しかし、語尾は弱々しくなり、巴は俯き震えていた。その繊手は強く握られている。
 「でも、このままじゃ駄目だと思うんだ。それにこれ以上柏葉のそんな顔は見たくない

266: 2009/05/27(水) 04:31:13.04 ID:iReqeyJ/O
 「でも…」
 巴の黒瞳は潤んでいる。
 しかし、ジュンは巴に優しく笑いかけた。
 「僕なら大丈夫! それに逃げてばかりいた僕を変えてくれたのは柏葉じゃないか。だから、今度は逃げずに戦うよ」
 「でも、今は状況が違うよ…。 私は大丈夫だから…」
 言下にジュンは強く言った。
 「じゃあ、なんでそんな悲しい顔をしているんだ?」
 巴は俯いた。涙がスカートに落ちた。
 「そんなことはないよ。…ほら?」
 巴は顔を上げ、笑った。笑えばジュンが傷つかずにすむと思ったからだ。しかし、それは悲しい笑顔だった。決して笑顔と呼べぬ笑顔だった。
 「柏葉…」
 ジュンは巴の名前を呼ぶことしかできなかった。それが余計に腹が立った。自分自身に。
 そして、敵愾の炎は静かに焔焔と生まれた。

268: 2009/05/27(水) 04:33:05.16 ID:iReqeyJ/O
 次の日、学校は“いつも通り”進んだ。
 普段通り、授業が始まり、終わり、それらを繰り返した。
 掃除の終わったジュンが引き戸開けると、巴が立っていた。
 「桜田君…、行くの?」
 「うん。『戦うってことは生きるってこと』だからな」
 「…そう」
 それ以上は何も語らず、二人は別れた。
 巴はジュンの背中が見えなくなっても、いつまでも見つめていた。
 背を向けたジュンの足が震えている。まっすぐ歩いているのが奇跡に近い。
 そんな自分を騙すかの様にジュンの口唇の両端が微かに上がった。
 階段を一歩上がり、また一歩上がる。見えてきた扉に手を掛け、力を入れた。
 鉄は重厚な軋みを上げ開かれた。
 じゃり、と足を踏み出す。もう一歩。明順応の後、視界には蒼穹が広がった。
 「遅かったじゃねぇか」 中西が言った。
 「何の用だよ?」
 笑いながら岸本が言った。
 いつぞやかの時の様にジュンと野卑た笑いを浮かべた二人は対峙した。
 ジュンは奔騰する血流を宥める様に、制服の内に手を入れ、胸を押さえながら深呼吸をした。
 押さえた手から伝わってきたのは、今にも張り裂けそうなくらい速く脈打つ心臓の鼓動だ。

269: 2009/05/27(水) 04:33:53.76 ID:iReqeyJ/O
 ジュンは二人と一定の距離になると立ち止まった。二人の射程距離に入ればどうなるかわからないからだ。
 「どうしてあんな噂を流したんだ?」
 ジュンは厳然に言った。
 「ん、なんの事かな?」
 岸本が白々しく笑みを浮かべながら答えた。
 「しらばっくれるなよ…。いくら僕でもお前達があの噂を流したって事くらいわかる」
 二人は笑いながらジュンを見ている。
 「どうしてあんな噂を?」
 ジュンは再度問うた。
 「…暇だったから?」
 岸本はジュンに来向かいながら答えた。
 「それだけでか?」
 「そうだなぁ。あと、その目が気に喰わないんだ、よ!」
 言下、ジュンの鳩尾に鈍い痛みが走った。岸本の拳は正確に急所を突く。
 ジュンは腹を押さえ、倒れそうになるも、踏ん張り岸本を睨み上げた。
 「ぐっ…、別に僕の事をどう言っても構わない。今みたいに殴っても、だ。でも、柏葉は関係ないだろ?」
 岸本は冷めた目付きでジュンを見下ろしている。中西も近づいてきた。二人は無言である。

270: 2009/05/27(水) 04:34:45.06 ID:iReqeyJ/O
 「『関係ない』か。連れねぇなぁ。あんなに仲がよかったじゃねぇか? なぁ!」
 轟! と空気が唸った。
 ジュンはかけていた眼鏡が宙に飛ぶのを確認する前に、頬に強烈な痛みが走った事を確認した。
 声を上げる暇もないほど、唐突に岸本の右手がジュンの頬を捕らえていた。
 もう一度。
 もう一度。
 ど、っと地面に突っ伏したジュンの髪を中西が掴むと、引き上げた。
 苦痛に歪むジュンの顔を中西は更に地面に激突させた。
 二、三度それを繰り返すと、ジュンの鼻からは黒い血がとめどなく流れた。
 「これに懲りたら二度と学校に来ない事だ」
 中西が倒れているジュンに唾を吐き捨てた。
 二人が背を向けようとした時、
 「それは…、僕が決める事だ…」
 ジュンは蹌踉と立ち上がっていた。
 肩で息を切らし、今にも倒れそうなジュンの目は、敵愾の炎が炎々と燃えている。
 「僕は、お前達を許さない…」
 「ふぅん、どう許さないってんだ?」
 岸本はジュンの肩に左手をやると、残った右手で渾身の力を込め、腹を貫いた。

271: 2009/05/27(水) 04:35:46.37 ID:iReqeyJ/O
 「桜田、これからは気をつけろよ? お前は弱っちぃんだから…」
 膝を着き、顔から崩れる様に倒れたジュンに一瞥をくれると、二人は笑いながら扉をくぐった。
 ぼやける視界でそれを確認すると、ジュンの目の前は闇に支配された。

 激痛で目を醒ました。
 ジュンは低く唸り、身体を捻り、仰向けになった。それだけの動作にもかかわらず、身体中が悲鳴をあげる。
 薄目をあけると、眼前は朱に染まっていた。
 どうやら数時間気を失っていたらしい。綺麗な夕日であった。
 「うっ…。いたた…」
 身体が痛まないようにゆっくりと、しかしいつも以上に力を入れながら起き上がると、制服に着いた汚れを掃った。
 ジュンは右手を制服の中に入れ、深く息を吐いた。身体が軋む様に感じるが先程とはうってかわって脈は正常のようだ。
 ぎこちなく扉を開ける。鍵が閉まっていたらどうしようかと考えていたが、扉がスムーズに開くのを確認するとやっと安堵の表情を見せた。

276: 2009/05/27(水) 04:38:16.97 ID:iReqeyJ/O
 廊下には何かを引きずるような音が谺している。
 人の少なくなった学校は、虫の吐息ですら反響すると思える程静かだ。
 ジュンは身体を壁にもたれさせるように歩いた。そうでもしなければとても歩けそうにない。
 いくら静かと言っても途中で二、三人に出くわした。
 誰もがジュンを見ると、驚いた表情をみせて、そそくさとその場から立ち去った。
 夜が訪れようとする学校で血の跡をつけている少年に出くわしたら誰もがそうするだろう。
 『学校を恨めしげに歩く血だらけの少年』と、こんな感じで新しい学校の七不思議になるかもしれない。
 たいていは他の六つは知らないが。
 だが、教師に会わなかった事は幸と言える。そのおかげですぐに教室にの前に着いた。
 「あいつら思いきり殴りやがって…」
 ジュンは右手で顔を撫でた。血の渇いたざらざらした感触が指に伝わった。
 ──あ、口が切れている…
 と、新しい発見をしながら空いていた左手で引き戸を開けた。

277: 2009/05/27(水) 04:39:35.19 ID:iReqeyJ/O
 ガラガラ、と扉が開くと、ジュンは息を飲んだ。
 ガランとした教室には巴が俯きながら席に着いていた。
 窓側で夕焼けに照らされ朱に染まった巴は、幻想的でそして儚げで脆いように思えた。
 美しい。
 恐らく巴は気が気じゃなかっただろう。心配で胸が張り裂けそうだっただろう。
 しかし、そのシルエットは美の女神ですら、恍惚となり、嫉妬すると思えるほど美しかった。
 「柏葉…」
 無意識に近い言葉が漏れた。
 それは感歎とも、感動とも取れた。
 「…桜田君」
 悲しみを孕んだ声。
 恐らく沈鬱な表情で巴は、呆然と立ち尽くすジュンを見ているに違いない。
 ジュンからの視点では、夕明かりが逆光となり、巴の顔は影に染まっていた。
 「桜田君、血…」
 傍にまで来た巴の最初の一声がこれだった。
 「あぁ、これ。大丈夫。血は止まってるから」
 「ちょっと待っててね…」
 そう言うと巴は、夕闇の彼方と一体した。
 ジュンはそれを見送り、自分の席に着いた。立っているより、座っている方がだいぶ楽だ。

278: 2009/05/27(水) 04:40:53.14 ID:iReqeyJ/O
 「桜田君…」
 声をかけられたのはそれから三分後だった。
 走ってきたのか、巴の小振りな胸は上下していた。
 巴はジュンの席まで行くと、
 「顔を上げて…?」
 濡らしたハンカチをジュンが断る暇もなく、顔に当てた。
 巴は左手で右頬を添え、右手に持ったハンカチで血を拭いている。
 二人は無言だった。
 「…はい」
 「あ、ありがとう…」
 巴が終わりを告げると、ジュンは目を伏せ礼を言った。
 巴がポケットにハンカチを仕舞おうとするのを見て、
 「ハンカチ、僕が洗うよ」
 「私が勝手にしたことだから…、気にしなくていいよ」
 「…気にするさ。ほら」
 手を差し出した。
 「……うん」
 少し慮り、ジュンの手にハンカチを乗せた。
 巴の繊手と重なると、ジュンは握りたくなる衝動にかられるが、しかしついに実行されることなく、重なり合った手は離れてしまった。
 「…帰るか」
 「…うん」

279: 2009/05/27(水) 04:42:18.09 ID:iReqeyJ/O
 夕闇の中をジュンと巴は歩いていた。二人が歩く、と言ったらもはやお約束の無言だ。
 この沈黙は何回目だろう。そう思った。
 ここは空気を変えるべく、
 「なぁ、柏葉。ちょっと公園に寄ってかないか?」
 ジュンは勇気を振り絞った。
 暗いから断られると思っていたし、変な目で見られるかもしれないと思った。
 しかし、以外にも答えは、
 「…うん」
 だった。
 というわけで二人は今、公園のベンチに座っている。
 「そう言えばさ、柏葉が僕に復学を奨めたのってこの公園だったよな」
 「…そうだね。あの時、桜田君、すっごい怒鳴ったね」
 巴は目を細め、ジュンを見た。
 「それは…。うぅ、ごめん…」
 狼狽する姿を見て、巴はクスクス、と笑った。
 「ふふ、冗談よ…。怒った?」
 「別にぃ。柏葉のそういう攻撃は馴れたからな」
 「それじゃあ私が意地悪みたいじゃない」
 ハハハ、とジュンは笑った。少年によく似合う、純真な笑いだった。

280: 2009/05/27(水) 04:45:57.56 ID:LOWcgvz+0
 「そう言えばさぁ」
 一頻り笑ったジュンが呼吸を整え言った。
 「…?」
 「コレ、ありがとな」
 ジュンはポケットを漁り、ハンカチを掌に乗せた。
 ハンカチは紅い斑が描かれている。
 「…あぁ、別にいいよ…」
 「ふと思ったんだけど、さっき柏葉が僕の顔拭いてくれただろ?」
 「うん」
 「身体は動くから、手渡ししてくれたら自分で拭いたのに…。って思ったんだ」
 「…え、あの。それは…」
 ハッ、としたように巴が手を口に当てた。
 ここまであたふたとする巴も珍しい。滅多にない事だからジュンの加虐心を燻った。
 「でも柏葉の手、細くて柔らかくて、嫌な気はしなかったけどな」
 ニッ、と悪戯っぽく笑った。
 「…桜田君、意地悪ね」
 上目使いで言う巴を見て、ジュンは堪らなく愛おしく感じた。
 できる事なら今すぐ抱きしめたい。許されるなら…。しかし、できないし、許されない。ジュンは歯痒い気持ちで笑った。
 「ハハハ、今までのお返しだよ。でも、本当に感謝しているよ…、っと。こんな時間だ。そろそろ帰ろうか」
 「…そうね」
 二人は夕闇も無くなった公園を後にした。

281: 2009/05/27(水) 04:47:13.40 ID:LOWcgvz+0
 「…ねぇ」
 と、巴が並んで歩くジュンを呼んだ。
 「ん?」
 「桜田君、無理しないでね。私、本当に心配したんだから…」
 巴はジュンを見ていない。前を向いて歩いている。
 「ごめんな。でも、大丈夫。明日には全てが解決するから…」
 ジュンも同じく。
 「…本当?」
 「あぁ。噂も嘘と証明できるから大丈夫だと思う…」
 「…そっか。じゃあまたね」
 巴の家に着いた。こんな夜遅くに女一人で帰らせるわけがない。ましてや好きな女なら尚更である。
 「うん。またな」
 ジュンが踵を反した。

282: 2009/05/27(水) 04:50:05.98 ID:LOWcgvz+0
 「ジジジ、ジュン君!! どうしたの、その傷?!」
 帰るなり、予想通りの反応をのりはした。
 今まで喧嘩などしたことのない弟の初めて見る傷にのりは困惑しきっている。
 「転んだだけだよ」
 お約束の返答をするが、
 「あぁ、どうしよう…。こういう時はお父さんに連絡よ!」
 全く聞く耳も持たず、『復学入門~いじめについて編~』を左手に、バナナを右手に持ち、耳に当てて右往左往している。
 「姉ちゃん、それ子機じゃないよ…」
 バナナを指して力無くツッコムが、のりは未だあたふたしている。
 「姉ちゃん!」
 ジュンの大声に肩を跳ねさせ、のりはジュンを見やった。
 「そんなんじゃないから! ただ転んだだけだって!」
 一刹那の沈黙の後、
 「本当ぅ?」
 のりは目に涙を浮かべながら聞いた。
 「本当。こんな怪我なんともないよ」
 「よかったぁ…。ジュン君が虐められてるかとお姉ちゃん心配したんだから…」
 へなへな、とその場に腰を落としたのりは頬を濡らした。
 「心配かけてごめんな。…姉ちゃん、腹減ったよ。飯にしよう」
 ジュンはのりに手を差し出した。

283: 2009/05/27(水) 04:51:50.21 ID:LOWcgvz+0
 パタン、と本が閉められる音が響くと真紅は書物から目を離し、翠星石を見つめた。
 翠星石は何か言おか躊躇っているようだ。しかし、決心したかのように真紅を見た。
 「ジュンのあれ…。転んだんじゃないですよね?」
 できれば転んだ、と言って欲しい。翠星石はジュンの苦しむ姿は見たくない。
 しかし、転んだにしては不自然な痕跡。殴られた痕だと言うのは一目瞭然だった。
 「多分、ね…」
 濁してはいるが、確かな肯定。「やっぱり」と翠星石は目を伏せた。
 「私からジュンに聞いてみるわ」
 「頼むですぅ…」
 できれば直接ジュンに翠星石から探りたい。が、彼女自身の照れがあり素直になれないだろう。
 それを踏まえて真紅はこう言ったのだ。

286: 2009/05/27(水) 04:55:25.78 ID:LOWcgvz+0
 締め切られた窓の外から聞こえてくるのは風の調べと鈴虫のワルツだった。
 パソコンの前に座ったジュンが作業を終わらせて、満月に照らされた小さな舞踏会に耳を傾けていた。
 虫の音に趣を感じるのはなんと素晴らしいことか。
 扉が開き真紅が入ってきた。
 「ジュン、少し話があるのだけれど」
 重々しい、厳然な声で真紅が言った。
 「この傷の事だろ?」
 それに対し、ジュンの声は緩やかな夜風に吹かれる海の様に穏やかだった。
 「姉ちゃんは心配するからあぁ言ったけど、お前には隠しきれないから正直に言うよ」
 くつくつ、とジュンは笑いを含ませて真紅を見た。
 笑ったのは、驚いた真紅の顔が間抜けだったからだ。
 真紅がその表情をすぐに直したのは、それに気付いたからか。真紅は真っ直ぐジュンを見つめた。
 「この前、柏葉との噂の事は言っただろ?あれが──」
 ジュンは一通り説明すると、真紅は相槌を入れるように頷いた。

ごめんなさい><なかなか携帯の猿さんがしつこいんですぅ

288: 2009/05/27(水) 04:57:12.45 ID:LOWcgvz+0
 真紅は計りかねていた。
 毎日とは言わないが、ジュンはこれまで数回に渡って暴行を受けているにも関わらず、その口調は流暢そのものだった。
 心配をかけたくないがために気丈に振る舞う手もあるにせよ、それすら感じられない。
 まるで全てが終わったかの様に、綺麗さっぱりと言ったように。
 真紅の頭に一抹の不安が過ぎった。
 まさかまた前の生活に。しかし、そんな気配は微塵も感じさせない。
 それにジュンは周りの気持ちを蔑ろにまでして逃げる子ではないと真紅はよく知っていた。解っていた。
 己自身の愚考に真紅は苦く笑った。
 他愛のないことなら指輪を通して心が流れてくる事もある。
 しかし、今回のようにジュン自身が誰にも悟られたくないと無意識のうち──あるいは無意識に近い意識的──に、プロテクトをかけてしまうと流れないのかもしれない。
 今はただジュンの話を聞くだけしかできない。
 長い話しが終わり、暫くの沈黙の後で真紅は厳めしく聞いた。
 「…それで、あなたはどうするの?」
 今後についての質問だった。

289: 2009/05/27(水) 04:58:24.14 ID:LOWcgvz+0
 「真紅、いつか僕に言ったよな。『生きるってことは戦うってこと』だって」
 「えぇ、言ったわ」
 「僕も戦ったんだ。いや、正確にはまだ戦っている最中かな? まぁ、それも明日決着がつくと思うよ」
 しかしジュンの傷は、見るからに一方的にやられた傷だ。
 相手の具合を見ていないので一方的かどうかわからないが、話しを聞く限り相手は二人なのでほぼ間違いないだろう。
 それにジュンが好戦的でないのは知っている。
 「殴られるのを我慢することが解決することだとは思わないのだわ。それに明日決着がつくってどういうこ……っ!!」
 話しの途中だが、そんなことは構いもせずにジュンは真紅を抱き抱え、膝の上に乗せた。
 「ちょっと、ジュン…!! 何をするの?!」
 何でこうするのか、それはジュンにもわからなかった。しかし、無性にこうしたくなったのだから仕方がない。
 この行動に一番驚いているのは、他でもないジュンだった。
 真紅は少しの間膝の上で暴れていたが、それもすぐに大人しくなった。
 大人しくなるとジュンにもたれ、虚空を見つめている。

290: 2009/05/27(水) 04:59:16.82 ID:iReqeyJ/O
 この態勢なら真紅と目を合わさなくてすむ。不思議と澄み切った心情の今なら普段言えない事が言える、とジュンは思った。
 それは秋夜の魔法の様に感じられた。
 「真紅、普段は言えないけどありがとな」
 「それは何に対しての感謝かしら?」
 「さぁな。僕自身よくわからないよ。でも、言っておこうと思ったんだ」
 「変なジュンね…」
 真紅はクスクスと笑った。ジュンはどこかむず痒くなり微かに笑った。
 「さっきの話しの続きだけど、僕には殴り合うなんてとてもじゃないけどできないよ。勝ち目もないしさ」
 ジュンは話しを戻した。照れ隠し半分ってところか。
 「……」
 戻された話しに真紅はただ黙り、ジュンの話しに耳を傾けている。
 「戦うって事は決して腕力だけじゃないと思うんだ。だから僕はあいつらと違う戦法を取ったんだ」
 「あら、それは気になるわね。どんな戦法?」
 心なしか、真紅の言葉も丸みを帯びている。
 「それは──」
 満月が秋の風にゆらゆらと揺れ、夜の闇を淡く照らしている。
 凜と澄んだ空気が澱みなく月光を世界に染み渡らせた。
 虫は鳴き、雲は泳ぎ、風は踊る。
 いつまでも、いつまでも。

292: 2009/05/27(水) 05:00:34.23 ID:iReqeyJ/O
 いつもより少しだけ遅い時間、重い足を引きずる思いで巴は歩いていた。
 昨日、ジュンがあぁ言っていたが、別れてからどんどんと不安が膨れ上がっていた。
 教室に入るとジュンの席を見る。彼はまだ来ていないようだ。
 そのまま窓際の自分の席に足を運び鞄から教科書を机に移して大きく息を吐いた。
 待つのは心労がかかりすぎる。だから、いつもより少し遅い時間に登校し、席に座っているジュンを見て安心したかった。
 しかし結局待つはめになったのだが。
 ──私は何を心配しているのだろう…
 巴は苦笑しながら悲観する自分を偽った。
 今日全ては解決すると彼は言ったではないか。そして、もう一つの気持ちを。それが何か巴は気付いていない。
 だが気になるものは変わりなく、頻繁に扉へ視線を巡らせていたが無情にもチャイムが鳴り、ついにはジュンの姿を確認できなかった。
 ──まさか、桜田君が言っていた解決って…
 巴は頭を降り、想像を振り払った。

293: 2009/05/27(水) 05:01:40.91 ID:iReqeyJ/O
 梅岡が教室に入り、室内を見渡す。その目にもジュンの姿が映らず、明らかに訝った。
 「桜田は来ていないのか…。誰か何か聞いていないか?」
 しん、と教室が静まりかえる。
 誰も聞いていないし、最近ではジュンと距離を置く者も少なくはない。
 別にあいつが来なくたって。と誰かが小さく答えた。
 梅岡の耳には入らなかったが、巴の耳にはしっかりと聞こえた。
 巴は総毛立つのが自分でも解った。それは憎悪か、悲しみか。
 ジュンが学校に来るのにどれだけ勇気がいることだったのか。それは巴とジュンにしかわからない。
 それを何も知らない他人が来なくてもいい言われる事が憎く、悲しかった。
 「…先生。桜田君なら、遅れて来るって言ってました。理由は聞いていません」
 それは突発的な行動。無意識に近い行動だった。
 勿論嘘だ。ジュンからは何も聞いていない。ただ、昨日ジュンは全てが解決すると言った。それを信じるしかない。

295: 2009/05/27(水) 05:03:10.76 ID:iReqeyJ/O
 一限が始まり、終わる。二限もまた然り。
 三限が始まり、残す時間も半ばに差し掛かった頃、
 「遅れてすいませんでした」
 教室後方の扉が控え目に開かれた。
 一様に視線が扉へ向けられ、黒板に戻る。そして、もう一度扉へ。二度見だ。
 大半の人間は授業中に扉が開かれるとそちらに一瞬だけ視線をやる。
 桜田が来た。くらいにしか思わないだろう。
 事実、ジュンを確認するとみな視線を戻した。しかし、その一瞬の間に浮かび上がったシルエットを確かめるべくもう一度視線を。
 ジュンが興味を引き付けるのも無理はない。彼の顔は絆創膏が縞を描くように所々貼られていた。
 ジュンは頭を下げながらそそくさと席へ着き、教科書を広げた。
 教師はジュンについてさして言及することもなく、授業は滞りなく終わりを迎えた。
 「…桜田君、何かあったの?」
 四限までの少ない休み時間に巴は聞いた。
 「昨日色々あったから少し疲れて寝坊してしまったんだ…」
 寝癖がついたままの頭を掻きながらジュンは笑った。
 「…そう。先生には遅刻するって伝えたから、適当な言い訳を考えておいてね…」
 「うん、わかった。ありがとな」
 そう言うと巴は自分の席へと戻った。

297: 2009/05/27(水) 05:04:42.78 ID:iReqeyJ/O
 四限が終わり、弁当の時間となった。
 ジュンはガサゴソと鞄をまさぐり、一枚のCDを取り出した。
 それを手に、いつぞやかの様に教壇に上ると黒板の横に置かれたCDプレイヤーを教卓の上に置いた。
 黒いCDプレイヤーは英語の教師がリーディングの時と、教科書の本文を流す為だけにあるので、酷く埃やチョークの粉が掛かっている。
 「弁当の時間に申し訳ないと思うけど、食べながらでいいから聞いて欲しい…」
 視線を集める中、ジュンはまた語り始めた。
 「みんなも僕と柏葉についての噂を耳にしたことがあると思うけど、あれはなんの根拠もない嘘だ。ただの幼なじみと言うだけで僕と柏葉は付き合っていない。僕だけならいいけど、柏葉にまで変な噂が流れてしまったので、ここで誤解を解きたいと思う」
 「噂が嘘だという証拠はあんのかよ?」
 馬鹿みたいにヘラヘラと卑下た笑みを携えながら中西が吠えた。
 ジュンは中西を見ると、ニコリと微笑み「証拠はあるさ」と、CDを手にとりCDプレイヤーに差し込んだ。 ひどいノイズと、布が擦れる音の後に吶々と声が再生されていった。

298: 2009/05/27(水) 05:05:24.61 ID:iReqeyJ/O
 『「…どうしてあんな噂を流したんだ?…いくら僕でもお前達があの噂を流したって事くらいわかる」「…暇だったから?」「ハハハ」』
 クラスの者はは箸を止め、CDプレイヤーから流れ出す会話に聴き入っていた。
 ただ、二名を除いて、だが。岸本、中西は顔を朱くしてわなわなと震えている。
 クラスの者はわかっていた。この声の主が誰か。
 ジュンと、岸本と、中西だということを。
 まだプレイヤーは続いている。
  『「ぐっ…、別に僕の事をどう言っても構わない。今みたいに殴っても、だ。でも、柏葉は関係ないだろ?」「『関係ない』か。連れねぇなぁ。あんなに仲がよかったじゃねぇか? なぁ!」』
 マイクはジュンが殴られる音まで拾っていた。それはクラスの者にも伝わっている。
 『「これに懲りたら二度と学校に来ない事だ」「僕は、お前達を許さない…」「ふぅん、どう許さないってんだ?」』
 ここでCDは停止された。
 静まり返る教室は、異様な雰囲気に飲み込まれていた。ジュンに対する奇異な眼差しはしなくなっていた。
 代わりに向けられる視線は…。


<補足>
マイク「桜田サーン、音声バッチリデース」
まさかの新キャラ、留学生マイク。

299: 2009/05/27(水) 05:06:35.87 ID:iReqeyJ/O
 「お、おい! 何見てんだよ?!」
 周りからの鋭い視線に耐え切れず中西が叫んだ。
 「あれは変態オタク野郎が作ったんだよ! 俺達はこんなことしてねぇ」
 「その言い訳は無理があるんじゃないか?」
 「くっ…!」
 まだ白を切ろうとする中西に岸本は「もういい」とだけ言って席を立ちあがり、
 「腹痛いから早退するわ」
 「ま、待ってくれよ」
 二人は教室から逃げる様に去って行った。
 この事件は生徒から生徒へ又聞きされ、瞬く間に学年に知れ渡ることとなり、噂の誤解はとけた。
 また、平和な日々がスタートすることとなるだろう。

 「顔の傷…」
 帰り道に巴がポツリ漏らした。それは秋の草原で一人、凜と鳴く鈴虫のように感じられた。
 「ん?」
 「顔の傷、そんなに酷かったかしら…?」
 ジュンはニヤリと笑い、顔に張り巡らされた絆創膏を剥がすと、そこには見た目よりだいぶ傷の少ない、わりかし綺麗な肌が現れた。
 巴がやっぱりね、と目を細めながらジュンを見やると、
 「こうした方があいつらがより悪者にみえるだろ?」
 ジュンは豪快に笑った。

305: 2009/05/27(水) 05:14:02.22 ID:iReqeyJ/O
最終第五章 ジュンと巴


 人々が厚着をし始めたのと対象に木々は木枯らしにより裸にひんむかれ、まだ来ない春を忘却の彼方に見据えながら冷たい風に揺らされている。
 葉の無い枝の擦れる虚ろな叫びが凍えた空へと昇り、結晶に変わってもう一度地上に降り立った。
 凍てつく大気は、叫びさえも凍らせ、美しい雪に変えて地上に降らすのか。
 「…あ、雪」
 学生服にマフラーを巻いた巴が掌を前に捧げ空を見た。
 「最近冷えてきたからな…。あぁ寒っ! 春が待ち遠しいよ」
 ジュンは身体を縮こまらせ、さして興味も示さない。むしろ、迷惑に思っているほうだ。
 そんなジュンの方に巴は視線をやった。視線に気付いたジュンは鼻を啜りながら、
 「どうした?」
 「…最近」
 ここまで言うと巴は言葉を切り、ううん。と自分に言った。そしてもう一度、
 「最近、よく冷えるね…」
 と言った。
 「そうだな。柏葉は冬は好きか?」
 「どっちかと言うと好きかな? 雪とか綺麗だし…。それに、ね…。桜田君は?」
 「僕か? ん~、そうだなぁ…。嫌いな方、かな。寒いの苦手だし…」
 巴はふぅん、とだけ言ってその日、二人は別れた。

307: 2009/05/27(水) 05:15:34.60 ID:iReqeyJ/O
 「ちゃんとトモエに伝えたの?」
 数日前からジュンが帰ると口うるさくこう言うのは雛苺だ。今ではお帰りなさい、の代わりにこれになっている。
 ジュンは溜め息を大きくつき、首を左右に振った。昨日も、一昨日も、そして今日も。
 すると決まって雛苺は口を膨らませ、ジュンに抗議をする。昨日も、一昨日も、そして今日も。
 いつもはジュンも反論するところだが、今日は違った。
 頭を落とし、何も言わずに階段を昇って行った。
 いつもと違うその様子に雛苺は首を傾げ、トコトコとリビングに足を運んだ。
 「はぁ、僕はなんて根性がないのだろう…」
 椅子に座るとジュンはまた、溜め息を着いた。
 何をここまでジュンを苦しませているのか。何かを言いたいらしいのだが…。
 「ジュン、元気を出して。さっきは言い過ぎたわ。ごめんなさいなの。これあげるの」
 扉越に雛苺がそう言うと、少しだけ扉が開き、そこから皿に乗せられた苺大福が姿を現した。
 雛苺なりの慰めと、謝罪。大好きな苺大福をジュンにあげることが、いかにも雛苺らしい。
 ジュンは微かに笑い皿に手を伸ばした。
 「雛苺! こっちに来いよ。一緒に食べよう」
 ジュンは皿に盛られた苺大福を半分に割り、雛苺を呼んだ。

309: 2009/05/27(水) 05:16:23.15 ID:iReqeyJ/O
 いつになくそわそわとするジュンは授業に集中できないでいた。
 板書を写す事なく、ノートに何かを書き殴っている。
 『クリスマス予定ある? もしよかったら家に来てみないか?』
 今書いた内容を消しゴムでワシャワシャと消す。
 ──あぁ、違う。これじゃあ下心があるみたいじゃないか…
 『雛苺が柏葉に会いたがっててさぁ…。悪いけど12月24日に来てくんない?』
 ──いつでもこれるだろ! なんで日にち指定するんだよ!
 と、書いては消して、書いてはツッコンでと忙しい授業を過ごしている。
 しかし結局は、別に飾らなくていい。普通に伝えようと、
 『真紅達とクリスマス会するんだけど、柏葉は来てくれるかな?』
 に落ち着いた。
 これを言う時のポイントは最後の来てくれるかな? をタモさん風に言う事だ。
 もし断られても、おちゃらけていれば痛くも痒くもない。
 ジュンの心配はこれだった。
 クリスマスに巴は誰と過ごすのか、他に会いたい人がいるのではないのか。
 日本におけるクリスマスは、恋人達の日。ジュンの誘いなど迷惑極まりないかもしれない。
 そう考えると、巴に切り出せずにいた。



政府はクリスマス性交禁止令を出した方がいいと思います><;

310: 2009/05/27(水) 05:17:12.40 ID:iReqeyJ/O
 帰り道、ジュンは頭の中でノートに書いた内容をずっと繰り返し読んでいた。
 それ故いつもより口数の少なくなったジュンに巴は首を傾げながら並行して歩いている。
 「か、柏葉…」
 やっと喋ったかと思うと、声が裏返ってしまう。
 巴が微笑で返事をすると、慌てた様に咳ばらいをしてジュンは空を見ながら話しかけた。
 「あ~、真紅や雛苺達とさ、クリスマス会をするんだけど、柏葉も来てくれるかな?」
 決まった、と思った。それは絶品のタモさんだった。すれ違う人が「昼休みはうきうきウォッチンの人じゃね?」と振り返る程である。
 ジュンは目だけを巴に当てると、彼女は手で口を隠しながら笑っていた。
 そして巴は、
 「フフ…、いいとも」
 と快諾した。
 こんな簡単に了承を得るならば、迷わずにもっと早く言えばよかった。とジュンは思った。
 しかし、巴の事が好きだからこそ、言いにくかったのだろう。
 恋は恐怖だ。愛もまた然り。
 拒絶をされたらどうしよう。とか、別れるのが嫌だ。という恐怖感が人の感情には付き物かもしれない。
 その恐怖を乗り越えた先に、本当の心があるのかもしれない。

313: 2009/05/27(水) 05:21:19.19 ID:LOWcgvz+0
 「ちゃんとトモエに伝えたの?」
 いつものように雛苺がジュンに問い掛ける。
 いつもならここで頭を垂れ、首を左右に振っている。昨日も、一昨日も。
 しかし今日は違う。
 ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを心の底から引き連れ「さぁね」とだけ言った。
 雛苺が頬を膨らませ、ブー垂れていると玄関の扉が開く。
 そこから現れたのは、ご多分に漏れず、
 「こんにちは、雛苺」
 「あー! トモエなの!」
 雛苺が巴に文字通り飛び付き、小さな胸に抱えられると冬にはまだ早い、満開の花を咲かせた。
 雛苺は色々と喋りたい事がありすぎて、整理がつかずに色々な話しをいっぺんにした。
 聖徳太子ですら首を傾げそうな雛苺の話しに巴は優しく相槌を打つ。
 「あら巴ちゃん、こんにちは。立ち話も何だから中に、ね?」
 と、のりが笑いながら手招くと巴は靴を脱いだ。
 なおも雛苺は嬉しそうに巴に喋りかけている。
 巴が頭を撫でると心の奥がくすぐったく、なんとも幸福に満ち溢れた気持ちになれるので雛苺はそれが好きだった。

314: 2009/05/27(水) 05:22:18.91 ID:LOWcgvz+0
 巴がリビングに腰を下ろすと、のりがお茶を出した。
 「…桜田君から聞きました、クリスマス会…。私も手伝います」
 「あらあら、別にいいのよぅ? 巴ちゃんはお客さんなんだから」
 「いえ、気にしないで下さい」
 少し考えたように、のりが右手を顎に当て右斜め上を見た後に、
 「なら、お願いしちゃおうかしら!」
 ジュンが制服から着替え下りてきた。
 少し照れ臭い気持ちに駆られながらも、巴の正面に座した。
 雛苺がジュンに駆け寄り、彼の頭を撫でる。
 先ほど巴にやられたように。優しく、暖かく。
 「ジュン、偉いの。ちゃんと巴に伝えれたのね!」
 「だぁー! 止めろ、気持ち悪い!」
 ジュンが雛苺の稚い手を振り払うとまだ彼女は笑っていた。
 てっきり泣いてしまうとばかり思っていたジュンは以外や以外、といった表情で雛苺を見やる。
 「もう、ジュンったら素直じゃないの!」
 笑顔のまま、怒ったような仕種をする雛苺に、怒られたジュンに、のりと巴が笑いに笑った。
 「なんだよ、姉ちゃん! 柏葉まで…プッ」
 笑い声が四人に増えた。
 珍しいくらい笑った巴を見て、この時ジュンが彼女に告白しようと決めた事はあまり知られていない。

315: 2009/05/27(水) 05:24:07.15 ID:LOWcgvz+0
 冬の夜は早い。まるで冷気が太陽の活動さえも凍らせ、弱々しい茜の炎にさせるかのように。
 はたまた茜色の空は沈む太陽の名残か。その余韻が地上にしがみついている時にジュンは巴を家まで送った。
 家の前まで巴を送ると、ジュンは踵を反す。
 「…桜田君」
 「ん?」
 ジュンが振り返り、巴の顔を見る。一瞬陰りが見えたのだが、それは沈み行く太陽の仕業だとジュンは思った。
 「…クリスマス会、楽しみだね」
 「そうだな」
 そう言うと巴は門をくぐり、家へと入って行った。
 冬の夜は早い。気付けば辺りは闇に呑まれつつあった。

317: 2009/05/27(水) 05:25:50.10 ID:LOWcgvz+0
 ホワイトクリスマスとはロマンティックな響きであるのだが、豪雪地帯以外ではかなり珍しい。
 勿論、この日もそんな事はまだ無い。灰色の雲が敷き詰められてはいるのだが、寒いだけで雪が降る気配は感じさせない。
 神様はロマンチストではないようだ。まぁ、人間に雪をプレゼントしても見返りは望めないから仕方がないだろう。
 神様は何でもできるけど、何にもしてくれないものだ、と行ったところか。
 しかし日本では、ホワイトクリスマスなど気にも止めず、普段は信仰などしないキリストの誕生日にお祭り騒ぎをする。
 北海道でも、東京でも、沖縄でも、変わりなく。無論、桜田家も例外ではない。
 今日のクリスマス会は、ローゼンメイデンのマスター達──と言っても参加者は夏の旅行に行ったメンバー──が人形達に催したもので、この日はアリスゲームの事など忘れて遊んでしまおう、というコンセプトらしい。
 とは言うものの、いつ水銀燈が襲撃に来るかもわからないのだが。まぁ、今日は来ないだろう。いや、来ない。
 「みっちゃんは仕事が終わり次第くるかしら! あと、みっちゃんに『クリスマスなのに気になる異性と過ごさないの?』は禁句かしらー!」



クリスマス会なんてリア充なことしたことないから、何すればいいかわかんね。

318: 2009/05/27(水) 05:27:27.37 ID:LOWcgvz+0
 時計の針が午後五時を回った頃、インターホンが鳴り大きな紙袋を手に下げたみつが登場した。これで全員揃った。
 「遅れてごっめーん! でもでも、これでも早く終わるようにみっちゃん頑張ったんだからね!」
 飾り付けがされたリビングに入って来ると、みつは謝った。そして顔を上げると、怪しく目を光らせて紙袋を漁り、
 「お詫びと言ったらなんだけど…。くっくっく」
 ジャーン、と言いながらそこから出されたのは人形用のサンタの赤い服だった。
 「い、嫌です! 絶対に翠星石はこんなの着ないですぅ!」
 「それは残念ね…。絶対似合うと思ったのに…。着たら可愛いだろうな~」
 みつがじとっとした目で翠星石を舐め回すように見ると、翠星石は身体を震わせた。
 「着ねぇーもんは着ねぇーです! 誰が着るもんですか!」
 みつがくつくつと笑い、翠星石に近づき耳打ちした。
 「いいこと、翠星石ちゃん? 男の子はね、サンタさんのコスプレをする異性が好きなのよ!」
 翠星石は口を尖らせ暫く考えたのち、
 「全く…、しゃーねぇーですね。翠星石も鬼じゃないから、デカ人間がそこまで言うなら着てやるですよ」

319: 2009/05/27(水) 05:28:43.08 ID:LOWcgvz+0
 神業級の腕前と言われるジュンの前にもう一度人形服を出す、と言うのは少なからず勇気のいる行為だ。
 ジュンの性格からすると遠慮無く、そして容赦無く駄目出しをする。まぁ、それをプラスに取るかマイナスに取るかは自由なのだが。
 部屋の外に締め出されたジュンを呼ぶ声がする。一応人形達も女の子なので、着替えは見たらダメらしい。
 部屋に入ると、サンタの衣装に身を包まれた人形がいた。
 「ん~っ! カナ可愛いっ~!」
 俯きプルプルと震えていたみつが握り締めた両拳を開いた時、金糸雀の頬に頬ズリをした。
 「わちゃちゃっ! みっちゃん、マサチューネッチュ!!」
 と、お約束。
 気が済むとみつはまたまた目を光らせた。心なしかみつの背後に黒いモヤが渦巻いているように見える。
 「そして今日は…!! キャーーー!」 
 真紅、翠星石、雛苺の方へ予備動作を見せずに飛び掛かった。
 雛苺は喜びながら奇声をあげ、翠星石は毒を吐き、真紅は巻き髪ウィップでみつを撃退した。
 「みっちゃん幸せ…」
 そう言うとみつは絨毯の一部になるかのように倒れ、息を引き取った。
 それと同時に背後で扉の開く音がする。どうやらのりの部屋が開いたようだ。

321: 2009/05/27(水) 05:30:03.46 ID:iReqeyJ/O
 誰かが部屋に入ったのではなく、出てきた。その人物を確認した瞬間にジュンは身動きが取れなくなった。
 恐怖で足が竦んだ訳ではない。目を奪われた。
 「か、柏葉?」
 擦り切れたような声。それは声と呼べぬ代物だった。木の虚に風が吹き抜けるような声。やっと搾り出したのがそれだった。
 ジュンが声が出なくなるのも無理はない。なぜなら、巴がサンタ衣装に身を包み、現れたから。
 「ヒナとお揃いなの~!」
 「…そうだね。一緒だね」
 雛苺が嬉しそうに叫ぶと、巴は恥ずかしがる風でもなく微笑んだ。
 「キャーー! トモトモ可愛いー!」
 さっきまで床に突っ伏していたみつが、いつの間にか巴との距離を詰め、瞬きをするといつの間にか抱きついていた。
 みつが頬ズリをすると、巴は少し考え、
 「……マサチューネッチュ」
 「それを言うんかいっ!」
 言下、ジュンのツッコミが入った。

322: 2009/05/27(水) 05:31:21.93 ID:iReqeyJ/O
 楽しい時間というのは一閃の雷が如く、気付けば終焉を迎える。
 今日、この日はジュンに取って忘れられない日になるだろう。
 普段から交流がある者が集まるだけで一生の思い出となる。
 何年経っても思い出される記憶は、良い悪いなど関係なしにその人にとって掛け替えの無い宝物になるだろう。
 「じゃあ、私はこれで…。お邪魔しました」
 いつものようにジュンが巴を送る。
 唯一の大人と言え、女性であるみつも送る予定だったのだが、彼女は気をきかせ巴とジュンを二人きりにさせた。
 巴の家に着くまでの道のり、二人は今日の出来事を語らいながら夜道を歩いていた。
 つい先程の事を、思い出となるのを恐れるように二人は笑いあった。今が続けばいいのに、と言わんばかりに。
 とある公園を横切る時、ジュンは足を止め、ベンチに顎をしゃくった。
 「なぁ、柏葉。少し話さないか?」
 「…そうね」
 二人はベンチに腰掛け、空を見つめた。何も語らず、ただ黙して。
 ホワイトクリスマスにはなりそうにない星空が広がっていた。



クリスマス会、終了。
何をすればいいかわかんねぇから。

324: 2009/05/27(水) 05:33:07.48 ID:iReqeyJ/O
 数分の沈黙の後、巴は口を開いた。夜に響く凛とした声で、弱々しく、儚げに。
 「…楽しかったね」
 名残惜しそうな嘆息は闇夜と同化し、消えた。
 「…そうだな。楽しい時間はあっというまだ」
 「そうだね…」
 また沈黙。
 ジュンにとって、巴の声が夜に溶けることさえ、愛おしく感じた。
 今すぐ巴にこの気持ちを伝えたい。この腕で力強く抱きしめたい。そして許されるなら口唇に触れたい。
 ジュンは狂おしい程、巴の事が好きだった。
 「…この公園を覚えているか?」
 ジュンの咥内は、気持ちが悪いほど渇いていた。言葉が喉に粘つくように感じられた。
 「…うん」
 「あの時、柏葉が僕に復学を奨めてくれたから、今の僕があるんだ。…ありがとな」
 「私は何も…。全部桜田君の力だよ?」
 ジュンは立ち上がり、巴の正面に立った。いつになく真面目な表情のジュンを巴は見上げていた。
 「柏葉のおかげさ。それに僕はもっと大切な事に気付いたんだ」
 「…何に気付いたの?」
 「…僕は柏葉の事が、好きだ」
 「……」

326: 2009/05/27(水) 05:35:13.17 ID:iReqeyJ/O
 一筋の風が二人の間に吹き抜け、それから夜が声を潜めた。
 「…桜田君?」
 巴の声は酷く反響した。世界に響くかのように。世界が耳を澄ませたように。
 ジュンが唾を飲む音が聞こえた。ジュンは巴を見ている。
 「…今日は楽しかった。いいえ、今日だけじゃないわ。夏の旅行も。桜田君が学校に来てからもいろんな事があったね…」
 「…あぁ、そうだな」
 ジュンはやっと声が出た。全く、巴の考えが読めない。
 結論を急かすジュンの気持ちも知らず巴は続ける。
 「…最近の記憶を辿ればいつも桜田君がいる。この半年、私の世界は輝いていた…」
 「じゃあ…」
 「私は…!」
 ジュンが言葉を紡ごうとすると、巴が強くそれを妨げた。
 「…私は桜田君の事が、好きよ? でも、それは友達として、幼馴染みとして…」
 事実上の拒否。
 ジュンの世界から何かが失われた様な気がした。
 急に風が吹きすさび、月が光を得、夜がざわめきを取り戻した。
 「ごめんなさい…」
 巴はジュンから目をそらし、その目には涙が浮かんでいる。
 「そっか…。なら仕方ないな。ううん、いいんだ。そんな気がしていたんだ…」
 それは巴に向けられた言葉ではない。自分に言い聞かせる言葉だった。

329: 2009/05/27(水) 05:37:19.12 ID:iReqeyJ/O
 巴は何度も謝った。しかし、その度にジュンは深く悩まされた。
 まるでこの気持ちが悪いみたいじゃないか。謝らないでくれ。謝られたら僕は…。柏葉…。
 「…柏葉、帰ろう」
 巴は無言で頷いた。
 月は二人を照らしていた。さっきまであんなに楽しそうだった二人が、今は酷く虚しい。
 「…柏葉」
 不意にジュンが巴に声をかけた。巴は返事もせず、ジュンを見上げた。
 「これからも今まで通りよろしくな!」
 ジュンが笑いながら言った。それは無理に笑顔を作ったのを巴は気付いていた。
 「…うん」
 「じゃあ、またな」
 ジュンは一人であの公園にいた。
 二人で座っていたあのベンチに一人座して、空を見上げている。
 「『今まで通り』…か」
 ジュンはポツリと零した。
 「そんなの、無理に決まっているのに…。僕は馬鹿だなぁ…」
 とめどなく涙が溢れた。止めようとしても、止まらなかった。
 情けないくらいにジュンは泣いた。
 鳴咽が公園に谺したが、それを聞いているのは木と、風と、月だけだった。

331: 2009/05/27(水) 05:38:05.92 ID:iReqeyJ/O
 玄関を開けると酷く温もりに溢れていた。冷えた身体に少ししみる。
 ジュンにとってこの暖かさは癒しにはならない。寧ろ、苦痛だ。
 ──さっきまではあんなに楽しかったのに
 思い出すとまた、目頭が熱くなったがジュンは必氏に堪えた。
 楽しそうな談笑。笑い声。喜び。今は程遠い。
 「あらジュン君、遅かったじゃない。お姉ちゃん心配しちゃったわよぅ? 寒かったでしょう?」
 玄関に突っ立ていたジュンを発見したのりが笑いながらやってきた。
 「…ただいま。少し疲れたから寝るよ」
 「……?」
 ジュンは笑った。うまく笑えたかどうか解らないが、笑顔を作った。


 温いシャワーが全身に降り注ぎ、冷えた身体を芯から温めてくれる。
 きゅっ、と蛇口を締める音が小気味良く響いた。
 鏡は湯気で雲っていたが、手で拭うと巴は鏡に酷くぼやけて映る自分を見た。
 ──私は…
 さっきの事を思い出していた。ジュンの突然の告白を。
 わからなかった。あの時何て返せばよかったのか。どう返事をしても彼を傷つけてしまうような気がした。

332: 2009/05/27(水) 05:39:12.71 ID:iReqeyJ/O
 ──桜田君が私の事を?
 信じられなかった。巴にとってジュンは、
 ──1番仲の良い異性…。特別な存在…? …それは幼馴染みだから……?
 巴はこの半年の記憶を蘇らせた。思い出の中のジュンはいつも笑顔だった。そして、最後に見た笑顔は?
 ズキン、と胸が痛くなる。巴は手で胸を押さえた。
 ──1番傷ついているのは桜田君…。…なのに、どうして私に笑顔を?
 巴は気付いていた。それはジュンの優しさだったことを。巴の悲しむ顔を見たくないジュンの空元気だということを。
 好きだから、無理をしてまで巴に笑顔を向けたのだ。
 ──痛い。痛いよ…。
 巴は胸を掴み湯舟へと浸かった。涙を隠すかのように。
 巴はジュンと付き合うだなんて考えた事もなかった。だから、ジュンの気持ちを聞いて戸惑っている。
 ──私は…

336: 2009/05/27(水) 05:39:53.82 ID:iReqeyJ/O
 ジュンは家に帰るといつの間にか寝ていた。寝る事で全てを忘れられる。例え一時的なものだったとしても、忘却することで楽になれるならそれを選ぶだろう。
 「…夢、なわけないよな」
 寝覚めは最悪だった。上体を起こすよりも、目を擦るよりも先に昨日の記憶が蘇った。
 布団を深く被り、もう一度寝ようとしたのだが、目は完全に覚めてしまったらしい。
 寝るのは無理と諦め、カーテンを開けた。
 窓から見える景色は、一面が白銀に覆われていることも無く、皮肉なまでの晴天だった。
 昨夜はそのまま寝たので風呂に入っていない。さすがに身体がべたつき気持ちが悪い。
 ジュンは人形達を起こさぬ様にゆっくりと階段を降りていった。

337: 2009/05/27(水) 05:40:43.76 ID:iReqeyJ/O
 「あらジュン君。早いのね」
 ジュンが風呂から上がり、冷蔵庫を漁っていると後ろから大きな欠伸をしたのりが出てきた。まだ頭の半分は寝ているようだ。
 「昨日早く寝たからな…」
 「今日は久々にみんなで朝ごはんが食べれるわね」
 冬休みに入ってからジュンは以前と同じ生活をしている。基本は夜更かしなので当然朝も遅い。
 ──そう言えば久しぶり…、か? まだ冬休みになってから一週間位だぞ
 訝った顔をしているジュンにのりは心配そうな表情で、
 「二学期が始まってからみんなで朝ごはんを取ってたけど、冬休みになってからジュン君、起きるの遅くなったでしょう? お姉ちゃん、それが寂しくて寂しくて…」
 言下に笑った。それは自嘲だったかもしれない。
 「何馬鹿なこと言ってんだよ…。僕は部屋に戻るからご飯ができたら呼べよな」
 そう言うとジュンは背を向けて部屋へと戻った。
 ──こんなにも心配してくれる人がいるんだ。腐ってられるか
 「…昨日何かあったかと思ったけど、大丈夫みたいね」
 リビングからジュンが見えなくなるとのりはポツリと呟き、朝食を作りはじめた。

340: 2009/05/27(水) 05:41:59.27 ID:iReqeyJ/O
 クリスマスが終わり、大晦日、正月と過ぎて行った。
 その間、巴が桜田家に来る事はなかった。逆もまた然り。
 ジュンはこのまま、また巴と疎遠になる事に不安を覚えるのと同時に、顔を合わせない事に安堵していた。
 複雑な心境だった。周りの心配してくれている人に迷惑をかけぬ為に、あまり感情を表にださないでいたが、巴が現れればそれも崩れるだろう。
 あんなに好きになった人を簡単に忘れる事はできない。忘れようとすればするほど、それと比例して想いが募るばかり。
 できる事ならもう一度、最初からやり直したいものだった。
 ジュンはここ最近そんな事ばかり考えていた。
 ある意味逆説的な考えを巡らせては、堂々巡りを繰り返していた。
 三が日も終わり、余った餅を頬張りながら今日もそんな事を考えているとチャイムが鳴った。
 のりが玄関まで行き、扉を開けると微かに会話が聞こえてきた。
 心臓が弾けたように胸が騒ぎ、一瞬にして思考と動きが停止した。
 ──柏葉…。
 玄関の扉が閉まると二つの足音が響いた。ジュンは慌てて餅をもう一度食べ始めた。
 ──冷静になれよ。普段通りだ。
 自分に言い聞かせるとのりと巴が入ってきた。

342: 2009/05/27(水) 05:45:07.95 ID:iReqeyJ/O
 「明けましておめでとう…、桜田君」
 巴の第一声は驚くほどいつも通りだった。いや、それはのりにとってである。
 しかし、ジュンにとっては、酷く陰りのあるように感じられた。
 のりに対しては取り繕えたのだが、ジュンにはそうはいかなかった。
 「…あぁ。今年もよろしくな」
 今まで通り、とジュンは言った。巴はそれを守ったのだ。
 しかし、今まで通りにしようとすればするほど不自然で、かえって二人の間の亀裂がはっきりと見える。
 挨拶をすませると、雛苺が巴に飛び掛かった。
 甘える雛苺と、あやす巴。暫くすると雛苺は巴の顔を見つめ首を傾げた。
 「…どうしたの?」
 すっかり大人しく鳴った雛苺に巴も首を傾げる。
 「うぃ…、トモエどうしたの?」
 雛苺は質問を質問で返した。しかし、そこに答えがある。
 巴はそれに気付いた。鼓動が早くなる。
 「…どうもしてないよ。変な雛苺ね」
 「ぅゆ…。変なのは巴なの。トモエに抱っこされると、いつも暖かいのよ。でも今日は、上手く言えないけど、その…」
 目に涙を溜めた雛苺は巴を見つめた。今にも頬を伝いそうな涙を巴は抱きしめた。

343: 2009/05/27(水) 05:46:37.31 ID:iReqeyJ/O
 何故そうしたのか。それは巴にもわからない。気付けば強く雛苺を抱きしめていた。
 ただ、涙を浮かべる雛苺を見ると、なんとも形容しがたい沸き上がった。愛情に近い悲しみであった。
 「私は…大丈夫だよ? 雛苺……」
 「うゅ…、痛いのよ、巴……」
 「ふふ、いつものお返し…」
 腕の力を緩め、開放された雛苺は不思議そうに巴を見上げる。
 そんな雛苺の額に巴は口付けをすると、床へ下ろした。呆けた雛苺は数瞬後に我にかえり、笑顔で巴を見やる。
 「トモエ、もう一回! もう一回なの!」
 両手を上げ、巴に縋る雛苺に巴は笑いかけ、
 「…良い子にしてたらね」
 雛苺の頭を撫で撫でした。
 ジュンは遠巻きにそれを見ていた。微笑ましいその光景を、雛苺を見ていた。自分の感情が雛苺に対する嫉妬だと気付いた時、ジュンは自分自身に酷い吐き気を覚えた。
 「…部屋に戻る」
 背後で巴の名前を呼ぶ声が聞こえたが、扉の閉まる音に掻き消された。
 ジュンは巴の顔を見なかった。いや見れなかった。
 ジュンは部屋に入ると真っ先に布団に入った。真紅と翠星石が何かを言おうとしたのだが、いつもと雰囲気が違うのに気付き顔を見合わせた後、リビングに下りた。

347: 2009/05/27(水) 05:47:59.42 ID:iReqeyJ/O
 ──僕は最低だ。
 布団の中で小さくなりながらジュンは拳を握った。爪が掌に食い込んだが、痛みは感じない。それ以上に感じているのは、自分への嫌悪。
 淡い嫉妬だった。
 雛苺に感じたのは、羨望かにも似た確かな嫉妬。ジュンは姉妹のようにじゃれあう二人に嫉妬したのだ。
 その感情に気付いた時、この上なく自分が汚らしく感じ、それと同時に巴の前にいる資格はないと思った。
 ノックの音が響く。渇いた木の音。
 ジュンは返事をしなかった。今は誰にも会いたくない。汚い自分を晒されるような気がしたのだ。
 にもかかわらず、軽く軋みを上げながら扉は開かれた。
 ジュンは背中で足音を聞いている。足音で誰かもわかっていた。今、一番会いたくない人だ。
 「…桜田君、どうかしたの?」
 心配するその声ですら、以前のような親しさはなかい。どこか遠慮したような声音だった。それに気付いた時、ジュンは口の端を吊り上げた。
 「少し、気分が悪かったんだ…」
 のそりと身体を起こしてジュンは巴を見た。
 「…そう、大丈夫?」
 「あぁ、大丈夫」
 会話が途切れた。重い沈黙が部屋に漂う。

348: 2009/05/27(水) 05:48:56.14 ID:iReqeyJ/O
 ジュンは笑った。静かに狂った様に。それは哭き声かもしれなかった。
 「…どうしたの?」
 怪訝そうに巴が聞いた。
 「今日は来てくれてありがとな。雛苺も喜んでいた」
 ジュンは笑顔のまま答えた。
 「…別に私は」
 「柏葉」
 巴の話しを遮りジュンは声を少し張った。
 巴は何も言わず、ジュンを見ている。
 「…ごめんな。少し熱っぽいんだ。風邪かも知れない。移ったらいけないから、雛苺と遊んできてくれないか?」
 ジュンはもう一度笑顔を作り、大袈裟なそぶりで掌を額に当てた。
 「…うん。お大事に」
 巴はそういうと踵を反し、部屋から出ていった。ジュンはそれを笑顔で見送った。
 閉まった扉を見つめたままのジュンは小さく呟いた。
 「もう、あの頃には…戻れ……い」
 どさり、とベットに横になったジュンはそのまま目を閉じた。睡眠というより気絶に近い。
 本当に気分が悪かったらしい。

350: 2009/05/27(水) 05:50:00.84 ID:iReqeyJ/O
 「あら、八度もあるわねぇ」
 巴が下に行くと、のりに風邪っぽいことを伝えたらしい。のりは体温計を見ながら喘鳴たる弟に氷を渡した。
 そっと額に氷を置くと、さっきまでのたかぶりが徐々にだが収まっていった。文字通り頭を冷やす、だ。
 ──僕は何を考えていたんだ。柏葉は悪くないのに…
 間に蟠りができる関係にしたのはジュンだ。全てはジュンが悪い。
 もしあの時、告白──あまりに突発すぎて、そう呼べるかどうかわからないが──をしなければこのような関係にならなかった。
 ならば、ジュンの巴が好きだという気持ちは悪いことなのだろうか。遅かれ早かれジュンは告白をしていただろう。結局はこうなる事が運命だったのかもしれない。
 はぁ、と溜め息をつくと蚊の鳴くような声でジュンはのりに退室を命じた。
 一人になり、もう一度考えたが、何を考えたらいいのかわからなくなりジュンは目を閉じた。

352: 2009/05/27(水) 05:50:55.70 ID:iReqeyJ/O
 それから暫くが経ったが巴が家に来る事はなかった。時々雛苺が口唇を尖らせていたが、それ以外では何事も無いように日常は過ぎ去っていく。
 所詮、巴の存在とはそんなものだった。そこに居ればそれなりに楽しいが、居なくても誰も気にかける事の無い、悪い言い方をすればどうでもよい、そんな存在だったのかもしれない。
 とは言うものの、雛苺は寂しそうにしているし、ジュンも何処かが穿たれたような気分になっている。
 雛苺は純粋に巴と会いたいのだろう。しかし、ジュンは会いたいような会いたくないような気分だ。
 フラれたとはいえ、まだ巴の事は好きなのだ。簡単に忘れられる訳がない。心から好きになったのだから。
 にもかかわらず、どんな顔で会えばいいのかわからない。複雑な心境だった。
 新年早々、悶々と過ごしたが、未だに巴とどう接するかわからないままついに登校日となってしまった。
 ジュンは、ギリギリまで巴を待ってはみたが、ついにインターホンが鳴ることはなく、一人寂しく学校に向かった。


やっとグダグダから抜け出せる雰囲気(なぜか変換できた)

353: 2009/05/27(水) 05:51:47.50 ID:iReqeyJ/O
 教室に入ると巴の席を確認する。やはり、既に彼女はそこにいた。巴を確認するとなんとも言えない複雑な心境になったが、なぜか安心してしまった。
 久々にあった巴は変わらずそこにいる。冬休み後半には欠けていた何かを取り戻したかのように思われ、ジュンは安堵した。
 ジュンが巴を見ているとふと視線があう。ジュンが片手を上げて挨拶をしようとするが巴はすぐに視線をそらした。
 ──あれ、おかしいな
 空に掲げられた腕は行き場を無くし、ふらふらと彷徨したのち、後頭部に納められた。
 「どうした、桜田? そんな所に突っ立って…。ほら、出席とるぞ」
 梅岡がジュンの肩を押しながら教室に入ってくるとSHRが始まった。
 梅岡は出席簿を片手に教室を見回すと首を傾げた。
 「岸本がきてないが、誰か知らないか?」
 静まり返る教室。静寂が返答した。
 「そっか、誰も聞いてないのか…。じゃあSHR始めるぞ」
 SHRが終わると始業式が始まり、その間も巴はジュンに視線を合わせようとしなかった。
 不安ばかりが雪の様に降り積もる。

359: 2009/05/27(水) 05:59:32.72 ID:iReqeyJ/O
 初日が終わり、次の日、その次の日、またまた次の日となっても状況は変わる事なく、相変わらずとなった。
 話し掛けても素っ気なく返され、目があってもにべもない。
 ただ、その視線の奥底に何かを感じる。授業中など、不意に見せる表情がひどく脆いように感じる。
 ジュンは決意した。何か悩んでいるなら、僕が相談にのろう、と。それが、以前の二人に戻るきっかけになるかもしれない。ジュンは先に帰路につき、あの公園へと向かった。
 しかし、公園で待っていても巴は現れず、結局その日は帰る事にした。
 数日が過ぎ、ついにジュンは巴を呼び出す事にした。学校に一番に登校し、巴の机に手紙を置いた。
 『大事な話しがあるんだ。放課後屋上にきてくれないか。桜田ジュン』
 もちろんラブレターではない。かくしてジュンが巴の悩みを解決することができるのだろうか。
 「あっ…」
 と言うまに放課後となり、ジュンは冷風吹き荒れる屋上に足を運んだ。
 もしかして、こない? と震えながら思っていると扉が開かれ巴が現れた。


361: 2009/05/27(水) 06:00:21.74 ID:iReqeyJ/O
 巴の姿を確認するとジュンはほっと胸を撫で下ろした。とりあえず、来てくれた事に感謝する。
 「…何?」
 しかし、巴はにべもなくこう言うと、視線も合わせてくれない。
 これにはかなり参ったのだが、予想通りの反応、と自分に言い聞かせ鼓舞した。
 「今日は寒いなぁ、なんて…」
 「…それだけ? なら、私は帰るから…」
 「ち、ちょっと待って! 少し聞きたい事があるんだ…」
 背を向けようとする巴を声を張って呼び止めると、彼女はまた向かい合った。
 とりあえず、話しだけは聞いてくれるようだ。
 「…柏葉、最近変だぞ? どうかしたのか?」
 ジュンの問いに巴は薄く笑った。
 「…そんなことないよ」
 「なら、どうして視線を合わせない?」
 言下にジュンが言い放つ。巴は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、その後は何も言わない。
 「何か言えよ…。言わなきゃ何もわからないだろ?」
 ジュンは諭す様に巴にそう言った。
 「…桜田君、わかってるんでしょう?」
 冷たい声だった。無機質なコンクリートですら嫌う、そんな声だった。
 ジュンは少したじろいだ。いや、少しどころではない。鼓動が速くなるのがわかる。
 その声からは嫌な予感しかしない。聞きたくない事が知らされるような気がした。

363: 2009/05/27(水) 06:01:24.31 ID:iReqeyJ/O
 「…なにをだ?」
 悲痛な沈黙の後、ジュンは声を出した。巴が何を言うか。それは薄々わかっていたのかもしれない。
 「…もう私達は、戻れない……」
 戻れない…、何にだ? それはわかっていた。わかりたくなかった。
 「どうして?!」
 声を荒げたジュンは理解していた。以前のような関係に戻れない、と。
 当たらずとも、遠からず巴はそう言ったのだ。
 「…どうして?」
 巴は嘲るように笑った。
 「…わからないの? …あの時、桜田君があんなことを言ったからよ…」
 「それじゃあ説明になってない!」
 
 「桜田君だって…、お正月の時に私を避けていたじゃない…。…風邪だと嘘までついて」
 「違う! あれは本当に…。けど、今はこうしてもう一度柏葉と仲良くなれるように…」
 「…迷惑よ」
 ジュンはそれっきり黙り、その場に崩れた。巴はジュンを一瞥すると背を向けて扉に向かったが、
 「………」
 少し止まり、背中越しに何かを言った。小さな声で、誰にも聞こえないように。
 「え、なんだって? おい柏葉、待ってくれ!」
 ジュンの叫びも虚しく巴は扉の向こうに消え去った。
 ジュンはその場を動けないでいた。

365: 2009/05/27(水) 06:02:04.93 ID:iReqeyJ/O
 それからは巴はジュンに目も合わせなくなった。
 ペンを下唇に宛がいジュンは窓側の席の巴を見る。気のせいかもしれないが、儚い横顔に酷く陰りが見えた。
 あの時の最後の言葉。風に掻き消されるような言葉を思い出していた。
 ──なぜ、柏葉はあの時……


 年末から感じていた気配は、新年が始まってから、ただならぬ気配になった。だれかに舐め回されるような、弱い炎に炙られるような嫌な視線だ。
 その気配は日に日に強く、陰湿なものへと変わっていった。
 視線が質量を得たかのように背中に突き刺さる。不安ばかりが募り、気が気じゃない。
 腕っ節には自信はある。か弱い乙女と言えど、剣道をしていたのだ。竹刀乃至、それに類したものがあれば身の安全は守れよう。
 かといって、四六時中武器を持っている訳にもいかない。
 巴は誰にも相談出来ずにいた。迷惑はかけたくない。だから、そんな事があったなど顔にも出さなかった。
 にもかかわらず、ジュンだけは気付いた。巴の異変に。
 彼の優しさに過去何度も触れてきた。だから、危険になるかもしれないことに巻き込みたくはない。

366: 2009/05/27(水) 06:03:07.27 ID:iReqeyJ/O
 思ってもないことが口からでる。言葉を発する度に胸が締め付けられる。
 違う、そんな事を言いたいんじゃない。でも、これは彼を巻き込まないために…。嗚呼、そんな顔をしないでほしい。
 わかっている。そんなことはわかっている。でも、今は仕方がない。
 「…迷惑よ」
 もうこれ以上ジュンの顔が見れなかった。見たら、泣いてしまうかもしれない。全てを話してしまうかもしれない。彼を危険に巻き込んでしまうかもしれない。
 胸が締め付けられるとはまさにこのことか。痛くて、苦しくて呼吸が上手くできない。
 巴は堪えられなかった。だから、去り際に…。
 それでも自分を救う事はできなかった。いや、ごまかすと言った方が正しいのかもしれない。
 時刻は夕刻。すっかり人通りも少なくなっていた。
 橙色の町並みに、自然と溜め息が漏れる。無理もない。この場所は全てが始まり、ジュンが想いを打ち明けた場所でもあるからだ。
 巴に忍び寄る黒い影。にやりと口唇の端を吊り上げた。
 それに気付くこともなく巴はあのベンチに視線を向けて、俯いた。
 刹那、どん、と背中に衝撃が走る。羽交い締めにされ身体が動かない。声を出そうにも口を塞がれている。
 「おい、声は出すなよ柏葉?」
 影は巴の名を呼びくつくつと笑った。顔は見えずとも声で誰かわかる。ましてやクラスメートなら。
 ──桜田君……!

369: 2009/05/27(水) 06:04:06.54 ID:iReqeyJ/O
 ジュンは図書室で資料を広げ一人勉強に励んでいた。
 少し伸びをすると、辺りが夕刻であると言う事に気付いた。と同時に図書室の使用時間が終わり、下校時間だと知らされた。
 本を元の位置に戻し、図書室を後にする。玄関を出る前に、部活動をしていたと思われるクラスメートが部活後の談笑をしていた。
 「なんか最近岸本のやつ、様子が変じゃね?」
 イガグリ頭Aが怖い話をするように言った。
 「あー、確かにな。最近学校を休むことも多くなったし、来てもなんか暗いしなぁ…」
 それにイガグリ頭Bが答える。
 「それにさぁ、俺見たんだよ…。さっき岸本が柏葉の後をニヤニヤしながらつけていたんだ…。あれは危ない目だったね」
 Aが、うらめしやぁ、と言わんばかりに声のトーンを下げて言った。
 「詳しく教えてくれないか?」
 ジュンが声を出すと、二人はビクリと肩を跳ねさせ後ろを向いた。
 「なんだ、桜田か。いやな、柏葉が歩いている10メートルくらい後ろに岸本の野郎がニヤニヤして着けていたんだよ」
 「それで、二人はどっちに行ったんだ?」
 ジュンが聞くとAはあっち、と指を指した。ジュンは礼を短く言うと駆け足でその場を離れた。

370: 2009/05/27(水) 06:04:54.91 ID:iReqeyJ/O
 声を出すなといわれ、巴は首を縦に降ると口を塞いでた手がどかされた。
 「…どうしてこんな事をするの?」
 岸本は卑下に笑い、巴の耳元で囁いた。
 「そうだなぁ。桜田とか言うゴミ虫が欝陶しいんだよな。で、そのゴミ虫が何をされたら1番悔しいがるか考えたんだよ。そしたら、お前を傷つけることが1番だって気付いたんだ」
 「…そう。でも残念ね…。桜田君は私が何をされても何も感じない……」
 それはどうかな、と呟き岸本は巴の耳たぶを舐める。激しい嫌悪感が巴を襲う。
 「…最低ね」
 「最低で結構! まぁ、お前に怨みはないけど運が悪かったと諦めてくれ」
 岸本の手が、小振りな巴の胸に伸び、それを手中に納めた。
 「やめてっ!」
 巴は暴れようとしたが、岸本が腕に力を入れると逃げれなかった。巴の目には涙が浮かぶ。
 ──いやっ、誰か助けて…。助けて桜田君…!
 「やめろぉっ!」
 声がした方向に視線を向けると、息を切らし、冬なのに汗を大量にかいたジュンがいた。
 「なぜ…、なぜお前はいつも僕に嫌がらせをするんだ? 僕が何かしたっていうのか!?」
 ジュンは叫びながら二人の方へ来向かう。岸本はそれを嘲笑で迎えた。

373: 2009/05/27(水) 06:06:08.81 ID:iReqeyJ/O
 ランクルのエンジンが焼ける音から、ついには発火し、轟音になるように岸本は笑う。喜劇を見るかの様に、心底愉快に。
 「柏葉を離せ! それ以上柏葉になにかをしたら僕はお前を許さない…!」
 「ハッ、お前が許す、許さないじゃない。俺が許すかどうかだ。お前の意志などゴミより価値はない」
 二人の間がだいたい5メートルくらいになるとジュンは足を止めた。そして、岸本を睨み、
 「もういい…。もう喋るな」
 ジュンが大地を蹴り、岸本との間合いを詰める。対して岸本は待ってましたと言わんばかりに嬉々と横に巴を突き放した。
 腰から落ちた巴が顔を上げる。その目に飛び込んで来た光景はジュンの右の拳が悲しく空を切り、岸本の左拳がジュンの腹に減り込んでいるものであった。
 ジュンの動きが止まったのは一瞬で、一歩後ろに下がり間合いをあけ、もう一度今度は左で岸本の顔面を射る。
 岸本はすんでのところで身体を反りそれを避け、ジュンの脾腹に鋭い膝を浴びせた。
 「おいおい、桜田。喧嘩は初めてか? そんな大振りじゃあ蝸牛にも避けられるぜ?」
 ジュンは野卑た声を唾棄するように岸本を睥睨した。
 「うるさい…、喋るなよ…」
 岸本は相好を崩し、ジュンの髪を掴むと顔面に二発、三発と拳を減り込ませた。

375: 2009/05/27(水) 06:07:13.14 ID:iReqeyJ/O
 夥しい鼻血をだしてなお、ジュンの目には闘志にも似た殺意は萎えなかった。むしろ、禍々しく燃えている。
 岸本は背筋に悪寒が走る。ジュンの鬼気迫る目は今までに見た事がない、悍ましいものだった。明らかな殺気。
 ジュンが岸本に喧嘩で勝てるはずはない。場数が違う。そして場慣れも。が、それはあくまで喧嘩の話しだ。
 ジュンは頃す気で岸本に挑んでいる。喧嘩など、頃し合いの前では生温い。
 気迫に押された岸本が一歩後退る。
 すると鋭い痛みが後頭部を襲う。
 ジュンは目の前にいる。そこから攻撃するのは無理だ。ならば誰が…?
 岸本が確かめるためにゆっくりと後ろを向くと巴が竹刀を構え立っていた。
 素人でもわかる、隙の見えない青眼。
 「…これで二対一ね。……さっきのお返しは高くつくわ……」
 じりじりと巴が間合いを詰める。前と後ろを取られ、圧倒的不利になった岸本に残された行動は一つ。
 「チッ…。覚えてやがれ!」
 不様に逃げる事だけだった。
 岸本が逃げうせ、姿が見えなくなった頃、巴は肩の力を抜いた。
 ジュンを見やると目が合い、彼はニコリと力無く笑った。そしてその後にガクリと全身の力が抜け地面に突っ伏した。

377: 2009/05/27(水) 06:10:09.60 ID:iReqeyJ/O
身体中が痛い。しかし、後頭部から伝わる温もりは心地好かった。
ジュンは朦朧と目を開けると、巴が顔を覗いていた。
時間が止まり、混乱が生じて、朦朧とした意識は明瞭なものとなる。
「か、柏葉!?」
今がどういった状況か理解したジュンは驚き、起き上がろうとしたのだが身体が痛み力無く巴の太股に頭を埋めた。
「ゴメン…、力が入らない…」
ジュンは顔を紅くした。
「…いいのよ。ねぇ桜田君…、貴方は何故ここにいるの? 私は貴方にあんな酷いことを言ったのに…」
巴の顔は、頭上の街灯によってよくわからない。しかし、ジュンには彼女が泣いている事がわかった。
一粒、また一粒と雫が頬に落ちる。

379: 2009/05/27(水) 06:12:13.78 ID:iReqeyJ/O
「…聞こえたから」
「…え?」
「あの屋上で、柏葉の『ごめんね』って言葉が聞こえたから…。それにさ、旅行に行った時に柏葉を守ると約束したじゃないか」
ジュンがそこまで言うと、巴は声を漏らし泣いた。
涙がジュンの顔に降り注ぐ。「桜田君、ごめんね…。ごめんね…」と、何度も何度も謝る巴になんて声をかけたらいいかわからなかった。が、何をすべきかはわかる。速く巴を泣き止まさなければ…、と。
「僕は大丈夫!だからさ泣かないでくれよ」
「桜田君は優しいのね…。こんな時にまで私を心配してくれる……」
「当たり前だろ?」
「それなのに私は…。…ごめんね」
まずい、とジュンは思った。泣き止みそうだった巴がまた暗い顔になったからだ。
「柏葉は何にも悪くない!だから泣かないでくれよ…」
しまいにはジュンも泣きたくなってしまった。どうも、巴の泣き顔は苦手らしい。

380: 2009/05/27(水) 06:13:47.16 ID:iReqeyJ/O
「違うの。そうじゃない…。私は桜田君を傷つけてしまった…。あんなに優しかった貴方を…」
今まで巴がジュンと近く接していたのは幼馴染みだからだと思っていた。
思い返せばジュンを復学に誘ったあの夜も、仲の良かった幼馴染みだから学校に来てほしい。程度のものだったかもしれない。
それから色々あり、二人っきりでとはいかないが、度々共に行動する事が増えた。
ジュンと過ごす内に彼の優しさに触れ、それが当たり前の事だと思っていたのかもしれない。
なぜジュンと共にいたのか、ジュンと過ごした日々は充実しきっていた。
「私も桜田君と同じ気持ちだったのに、それに気付いていなかった…。遅すぎるかもしれないけれど…」
巴は涙で濡れた目を手で拭い、
「私も桜田君の事が好き……」
身を屈めてキスをした。
ジュンは口唇に伝わる柔らかい感触に呆気にとられ、呆然としていた。
「う…、あ。え?」
巴はまだ混乱が続いているジュンを真っ直ぐ見つめている。
「…こんな勝手な私でよければ、また好きになって下さい…」
全てを理解したジュンは優しく微笑み、巴を見つめ返す。
「…嫌いになれるはずないだろ?」
一筋の風が吹いた。暖かな風が。
春の訪れはまだまだなのだが、天の気紛れか、はたまた祝風か。
そんな事はどうでもいい。ここに一足早い春が訪れたのだ。
冷えた空気に、鈴が鳴り響くように綺麗に凛と響いた。
「柏葉、好きだ」


おわり

引用元: ジュン「柏葉、好きだ」