1: ◆HACkWQpQbk 2016/11/14(月) 20:25:06.16 ID:cEf7UTQ70
        一

「随分狭いね。元来どうやって出るのだ」
と一人がぼろきれで額を拭きながら立ち留まった。
「どうするか俺にも判然せんがね。とりあえず外に出られれば、同じ事だ。ここは辺獄のようなものだから」
と顔も体躯も汚れて煤けた緑髪の男が無雑作に答えた。
 意を決した顔三つの前には、猛々しい流れに形成さる河川とその先に峨々としてそびえる絶壁が武者の如く立ちはだかっていた。



2: 2016/11/14(月) 20:26:09.25 ID:cEf7UTQ70
・ドラクエV
・夏目漱石風
サンチョ「坊つちやん」の続き

3: 2016/11/14(月) 20:28:39.83 ID:cEf7UTQ70
 頭に紫色のターバンを乗せた男が振り向く。そこには不安を隠せないでいながらも三人を決然たらしめんと表情を堅くして、前を見つめる鎧を着た男がいる。
 川を見つめていた緑髪の男が嘲弄気味に口を開いた。
「あの滝を下るのかね」
「そうだ」
「樽に詰まってかい」
「そうだ」
「なるほど、こりゃあ結構な妙案だ」
 緑髪が恨めしそうに呟く。方や鎧を着た男は毫も気にかけていない。

4: 2016/11/14(月) 20:29:56.46 ID:cEf7UTQ70
 鎧が、紫のターバンを巻いた男に袋を手渡した。
「これに君たちの元の荷物を詰めてあるから、脱出した折に使うが好い」
「そんなものが保管されてたんですか」
「金や薬草なんかは没収されているが、衣類や杖はどこぞの倉庫に転がっていた。探し出せたのは偶然であるから幸運を喜べ」
「何から何までありがとうございます」
 紫ターバンは頭を下げた。鎧は「それだって妹の為だから、貴様らはついでだ」と素っ気ないが、感謝されて悪い気はしていないと見える。

5: 2016/11/14(月) 20:31:26.09 ID:cEf7UTQ70
 鎧は、ぼろをまとった女を向いた。
「マリア、元気でな」
「ヨシュア兄さんも、体に気をつけて」
 呼ばれた妹が振り返る。鎧はついさっきまで険しかった表情を少し緩めた。

6: 2016/11/14(月) 20:32:25.00 ID:cEf7UTQ70
「無事を祈っているぞ」
「これでついぞ無事で済めば好いがね」
「なに布を詰めておいたから衝撃はさほどでもない」
「呼吸は全体どうするんです。孔でも開けますか」
「そんなことをしたら水が漏れてしまう。空気は樽にあるだけさ」
「それじゃあ途端に窒息してしまいます。岸へ着いたって他の樽と中身が同じじゃあ仕様がない」
「では滝を下った時分を見計らって開けるが好い。孔が天を向けば水も這入るまい」
「滝を下るんじゃなく落ちるんだろう」
「どちらでもよろしい。早くしないと監視が来るぞ」
 男が急かせばようやくお三方も重い腰を上げて狭い樽の中へ入る。上から男が蓋をして樽をどぼんと激流へ転げ落とす。

7: 2016/11/14(月) 20:33:55.45 ID:cEf7UTQ70
 外からくそ、俺も出しやがれと叫ぶ哀れな奴隷男の声が聞こえるが知ったことではない。
 やがて、人に華厳の滝と揶揄された絶壁が生きた樽を飲み込んだ。

8: 2016/11/14(月) 20:38:53.14 ID:cEf7UTQ70
 目覚めれば波の音が耳をくすぐった。体は柔らかい布を敷いて寝ている。
 見回すと辺りは剥き出しの岩肌ではなくれっきとした建造物である。部屋は古いが手入れが行き届いていて品がある。
 漆喰の壁と十字架の装飾から察するに教会か修道院だろう。その証拠に扉から青い修道服を着た女がやってくる。

9: 2016/11/14(月) 20:40:14.71 ID:cEf7UTQ70
 女は部屋に入るなりまあ、お目覚めにと何やら喜んでいる。
 ここはと訊くと海辺の修道院ですと云うのでそれは分かっているから地理的に云えば何処だと訊いてやっとここがオラクルベリーとか云う町の南西に位置することが分かった。
 オラクルベリーと云えば昔旅をしていた頃に寄ったことがあるが、サンタローズに負けず劣らず田舎の村である。
 妙なところに修道院なんか建てるなと思っていると、体に着ているものがさっきと違う。
 六の年に着ていたものと同一かと思うと目の前の修道女が顔を赤くしている。
 何でもこの女が着替えさせてくれたらしいが、よくも寝ているこの体を持ち上げて脱がしたり着せたりできたものだ。見た目に寄らず豪腕かも知れぬ。

10: 2016/11/14(月) 20:41:30.05 ID:cEf7UTQ70
 随分寝たままと見えて体中ががたぴし云っているから、ぶんぶん腕を回して解していると、ヘンリーが部屋にやってきた。
 彼の荷物は子供の背丈の服しかなかったので、着ているものは未だに奴隷服だ。
 ヘンリーがお前は何故子供の頃の服を着られると驚いているのでこれは服と云うより布の束だから如何様にも変幻自在なのだと説明をするとふうんと感心している。
 何用だと訊くとマリアが洗礼を受けるから見に来いよと誘う。
 マリアとは一緒に樽に詰められたあの奴隷女に違いないが、全体どんな紆余曲折を経て神の洗礼を受ける事となったかとんと見当がつかぬ。
 私がぽかんとしているとまあ、五日も眠りこけていたお前には少し解せんだろうがと云うので驚いた。
 華厳の滝から流れ落ちた際、滝と海面の高低差による着水時の甚だしい衝撃で私はぐうと云う暇もなく気を失ってしまったのだが、それで五日である。
 一方でヘンリーとマリアは岸に流れ着くや快活に脱出したというからその脅威的な生命力に恐れ入った。

11: 2016/11/14(月) 20:42:51.84 ID:cEf7UTQ70
 とまれ生きているだけで上々と洗礼に出席すると、見知らぬ女が跪いている。
 それがルビー色の御酒を振りかけられ、修道女から祈りを賜ると、どうやら洗礼式は恙なく終わったらしい。
 もう少し早ければマリアの洗礼も見られたのにな、と残念がっているとヘンリーが今洗礼を受けていたのがマリアだぞと不思議そうな顔をする。
 今の綺麗な髪と格好をした女がかと改めて訊くと然り、と頷いている。
 さっき――実際は五日だが――までの哀れそうだった印象とはまるでかけ離れた清廉さには度肝を抜かれた。容態も綺麗だが、第一髪の色が違う。
 汚れを落として元の髪色に戻ったんだろう。喜ばしいことだが、彼女の兄にこの晴れ姿を見せてやれないのが少し惜しかった。

12: 2016/11/14(月) 20:44:23.89 ID:cEf7UTQ70
 洗礼を終えたマリアがこちらに気づいた。
「お目覚めになられましたのね。体の方は如何ですか」
「ええ。おかげさまで好調です」
「それは結構ですわ。けれども大事を取ってしばらくお休みになってくださいな」
「そうしたいのは山々ですが、私はあすこを出たらやりたいと思っていた事が幾つかありまして。世話になって早々申し訳ないのですが、すぐに立ち退かせてもらいますよ」
「まあ。それはお母様のことですか」
「ええそうですが――失礼ながら何故それを?」
「あなたがお眠りになっている間に、ヘンリー様からお伺いしたのですわ」

13: 2016/11/14(月) 20:45:43.41 ID:cEf7UTQ70
「なるほど。では彼の生い立ちも?」
「はい。元は一国の王子だったとか」
「驚きましたか」
「それには驚かされましたが、一番驚いたのはあなたのお父様のことですわ」
「父のことも聞いたんですか」
「ええ。随分気の毒ですわ……あなたも今までよく堪え忍んでらしたのね」
 そう云って彼女は憐れんだ。
 神殿にいた頃も過去を話しては大勢から可哀相可哀相と云われていたので、慰めや哀れみの言葉には飽き々々していたが、いざこの美貌人に向かい合ってみれば存外悪い気はしない。
 私は頬の紅潮を隠したくなった。

14: 2016/11/14(月) 20:47:41.11 ID:cEf7UTQ70
 それにしても、ヘンリーの奴はとうとうしまいまで話してしまったらしい。
 それも私が寝ている間に彼女と交流を深めていたそうだから油断ができない。
 人の預かり知らぬところでその人の秘密を打ち明けてしまうのは何も親切心や退屈凌ぎだけが理由ではなかろう。
 マリアに好意を持ったのは彼も同じと云うことだ。
 そうなるとヘンリーはそれなりに美男子で口が回るから、女にはさぞやもてることだろう。更に云えば一国の第一王子だから将来安泰の玉の輿である。
 到底私にとって不利な戦いだが、そもそもの経緯で云えば私ごとき小市民が勝てる相手ではない。なんだか途端に奴が羨ましくなった。

15: 2016/11/14(月) 20:49:16.12 ID:cEf7UTQ70
 修道女の面々に挨拶をしていると数年前にお嬢様が花嫁修業としてここに来ていたという話を聞いた。
 その某も潔白な人柄で人に好かれていたようだからこの修道院は人に恵まれている。
 容貌について尋ねると、青い髪の乙女と答えるのを聞いて何かが私の琴線に触れた気がしたが、ついぞその正体は掴めなかった。

16: 2016/11/14(月) 20:50:51.37 ID:cEf7UTQ70
 出立の前に一つ祈りでも捧げておくかと祭壇の前で手を合わせる。
 祈る神も居ないがね、と自嘲すれば十年前の父と共に祈った日が思い起こされた。
 あの時はただ父と旅をしているという認識だけが泰然とあって、将来や目的と云ったものをしばらく見ない生活であった。
 それが突然、十年もの間、謂われなく自由を奪われ馬車馬の如く働かされ、家畜の如く扱われた。
 時間の重みに潰され、反駁すらやがて諦観へと変わりゆく刹那、マリアの兄ヨシュアに脱獄を持ちかけられたのだった。
 そうして成功し、無事五体満足となってここに立っている。

17: 2016/11/14(月) 20:53:06.34 ID:cEf7UTQ70
 しかし私は分からなかった。全体これからどうすればよいのか。
 母を捜すと一口に云っても手がかりらしい手がかりは微塵もない。
 何しろ母についてはマーサという名前だけで他は何も知らない。人柄も、顔すらも。
 当てもなしに人を捜すのなんて砂漠に落ちた針を探すようなものだ。ともすると一生かかっても見つからないかもしれない。
 そして人から指図を受けず自らの頭で動く。これもしばらくぶりのような、あるいは初めての経験ような心持ちがした。

18: 2016/11/14(月) 20:54:02.97 ID:cEf7UTQ70
 私はこれからどう生きるのか。
 理不尽と束縛に馴れた体が、有り余る莫大な自由を手にして途方に暮れている。

19: 2016/11/14(月) 20:55:10.91 ID:cEf7UTQ70
 不安を残しながらも祈りを終えた私はそろそろと祭壇を後にした。
 そうして身を翻した時、目の前に一人の修道女がいた。
 まだ挨拶を済ませていないらしき者だったので、お世話になりましたと頭を下げると修道女はにこりと笑みを見せる。
 私の顔を見た彼女はその時、下のようなことを云った。

20: 2016/11/14(月) 20:55:57.92 ID:cEf7UTQ70
「お話は聞いています。十年以上も奴隷として働き、やっと自由の身になったとか。
 あなたはもう誰からも命令されないでしょう。
 父上も亡くなられた今、何処へ行き何をするか、これからは全て自分で考えなくてはなりません。
 しかし負けないでくださいね。それが生きるということなのですから」

21: 2016/11/14(月) 20:56:36.19 ID:cEf7UTQ70
 私は修道女に礼を云って聖堂を去った。
 ヘンリーを連れて修道院を離れる。マリアはここに残るそうだ。

22: 2016/11/14(月) 20:57:44.04 ID:cEf7UTQ70
 私の胸中では祭壇の修道女の言葉が幾度も木霊していた。
 これから歩む道を自分で考え、切り開いて行く。
 それが生きるという事だとしたら。――私は父の遺言を完遂しなければなるまい。

28: 2016/11/15(火) 20:17:13.34 ID:OGwYTnpP0
        二

 外でヘンリーに君はどうすると訊くと、どうせラインハットに戻っても迷惑を掛けるだろうから、当分はおまえの旅に付き合うと云ってくれた。
 しかし挨拶くらいでもと云ったが、いや、それこそ騒ぎが起きて大変だからそれもよそうと返ってきた。
 それに、おれのこの十年はおまえの人生を埋め合わせるためにあった。到底全部を取り返すことはできないだろうが、せめてでもおまえの手助けがしたいんだ、と。
 あくまで私の不幸を一緒くたになって背負い込む腹積もりらしい。未だに負い目を感じているのはしかし未練がましい気もする。
 ただ、彼の申告は素直に嬉しかった。旅に限らず何につけ、気心の知れた友と行動を共にするのが一番だ。

29: 2016/11/15(火) 20:20:31.28 ID:OGwYTnpP0
 北西へ進むと久しく見ない繁華街がある。
 それも住居や教会や宿屋よりカジノがこの町で最大の建物だから驚いた。
 遠い記憶に寄ればここは寂れた村だったはずだが、と町民に訊くと、何でもこの付近に橋が架かって人の往来が甚だしくなって、それで栄えたという。
 サンタローズやラインハットもここみたように栄えていたら愉快だなとヘンリーと笑いあった。
 何せここも元は田舎だったからあながち可能性がないとも言い切れない。
 しかしもしそうなると少し淋しいかもしれない。故郷は昔見たまま変わらないでいる方が好いに極まっている。

30: 2016/11/15(火) 20:22:24.17 ID:OGwYTnpP0
 町の端に妙な階段があるので下ってみると、獣臭い老人が檻のある穴蔵に住んでいた。
 こんなところに住み着くとはただ者ではない。何者か尋ねると「なに、この有名なモンスターじいさんを知らんじゃと?」と不思議そうな顔をするが、知らんものは知らん。
 どうやらカジノの魔物闘技場の選手の斡旋をしているようだが、異様にこちらの目を覗き込んでくる。
 何ですかと憮然として訊けばお主は不思議な目をしておるなと詐欺師みたような文句を云う。

31: 2016/11/15(火) 20:23:58.10 ID:OGwYTnpP0
 はあ、と返せば、お主ならモンスターを改心させられるかも知れぬと云うので驚いた。
 モンスターが改心すればどうなりますかと訊くと、人間側に寝返って、改心させてくれた者に一生ついて行くと云う。
 それは奴隷としてですかと訊くとそうとでも扱えるし、信頼関係を築くことも、友となることもできると云った。
 何だか不思議な話だが強力な魔物が味方に付いてくれるのは嬉しい。
 どうすれば懐柔できますかと訊くと、なんとまずは馬車がないと始まらんらしい。
 馬車がないと魔物が馴れよって来ないかのような云いぶりだが、まさかそんな訳があるまい。
 魔物が馬車で人か否かを判別している訳でもないだろう。第一手ぶらの私についてきたゲレゲレはどうなる。全くこの爺さんは初心得物と思って馬鹿にしている。

32: 2016/11/15(火) 20:26:00.34 ID:OGwYTnpP0
 ヘンリーは魔物を連れて歩けるなんて凄いじゃないかとわくわくしているが、私はとうの昔に地獄の頃し屋と称されるキラーパンサーを従えていたのだから今更驚きようもない。
 話半分で切り上げて穴蔵を見回すと、およそこの場に似つかわしくないであろう破廉恥な格好の女が居る。
 バニーガールとかいうらしいが、この爺さんはこれを助手にしているから余程助平である。しかしどうも獣臭いバニーだったので別段羨ましくはなかった。
 破廉恥な助手が云うには魔物にはそれぞれ頭の良し悪しがあって、賢い者は指示を漏らさず実行してくれるが、馬鹿な者は猪突猛進したり後先考えず呪文をぶっ放したりとてんで云うことを訊かないらしい。
 ゲレゲレが禄に云うことを聞かず勝手に飛んだり跳ねたりしていたのもこれが原因のようだ。
 できることなら、仲間に迷惑のかからん賢い魔物に慕ってほしいものだ。

33: 2016/11/15(火) 20:27:17.19 ID:OGwYTnpP0
 穴蔵を出ると看板があって、オラクル屋とかいう店で面白いものを売っているらしい。
 それも特別なもので、かなり珍しく、夜にしか売っていないむふふな品だそうだ。
 ヘンリーが夜のむふふと聞いてもしや、と顔をへらへらにやつかせているが、どうせ商売戦略だから大したものではあるまい。
 店を訪ねてみると、生きているか氏んでいるか分からないがホイミスライムが三つ連なった不気味な暖簾が目についた。絶妙に趣味が悪いが、当の店の方は閉まっている。
 もう店じまいかと思うと住人がそこは夜にしか開いてないよと云う。
 私は大いに鼻白んだ。そりゃあ夜にしか開いていなければ品物は全て夜にしか売れまい。
 何がむふふだ。全く人を馬鹿にしている。大体「Oracle」なぞと横文字の名を使っている時点でいけすかない。珍品屋ならもっとそれらしい屋号を付けるもんだ。

34: 2016/11/15(火) 20:28:43.12 ID:OGwYTnpP0
 オラクルベリーと云う町は城のないただの繁華街のくせに牢がある。
 牢に色々と縁のある我々は苦い顔をしたが、逆にこんな辺鄙な牢に入れられる阿呆の顔が見たくなった。
 そうして中を覗き込んだ時、我々は二人して飛び上がった。
 何と、十年前の遺跡でヘンリーを光の教団に売り飛ばした酩酊野郎が牢に入っている。

35: 2016/11/15(火) 20:30:13.71 ID:OGwYTnpP0
 私は般若の如き形相で貴様。なぜ生きているのだ。と怒鳴り散らして鉄格子につかみかかると、中の囚人はまた酩酊しているわけでもないのに派手にひっくり返った。
 ヘンリーもしばらく見ない凶悪な顔で奴を睨んでいたから殺意に囲まれた囚人はひいいと情けない声を上げる。
 我々が光の教団に攫われたのも、父が下魔にやられたのも元を質せばそれを呼んだこ奴らが元凶である。
 ここで会ったが百年目、と二人がかりで牢を破って囚人をたこ殴りにしてやった。
 すると見張りの兵士に貴様らも豚箱に入りたいのかと引き留められたので好い加減に止めた。
 しかしどっちが顔でどっちが後頭部か分からん位に滅茶滅茶にしてやったので気分は好い。ヘンリーも引っ張られる直前に睾丸を踏みつぶしてやったと云うので偉いと肩を叩いた。
 連中は確か三人いたのでこれがあと二度ほどあるかと思うと少し楽しみである。

36: 2016/11/15(火) 20:31:50.82 ID:OGwYTnpP0
 町を歩いていると曲がり角で子供にぶつかった。
 これはすまないと謝ると、うん。おじちゃんも大丈夫かい、と心配し返してくる。私は少しくむっと来たが、堪えて、ああ、大丈夫さと答えてやると子供は走り去った。
 ヘンリーがお前ももうおじちゃんかあとくすくすやっているので君も同い年だろうと小突いてやった。
 すると先の子供が母親らしき人物と接触をした。
 喜びにあふれた顔で何やら自慢でもしているのか、母親はうんうんと頷いて、二人は手を繋いで去っていった。
 私はその様子を呆然と眺めていた。
 ヘンリーが行こうぜ、と云う。私はおう、と返事をして歩き出す。
 脳裏にはポワンと母の幻影が揺らいでいた。

37: 2016/11/15(火) 20:33:49.93 ID:OGwYTnpP0
 町の人間の話に拠ればどうも最近町や城がよくうらぶれているらしい。魔物の勢力が活発化している兆候だろうか。それでどこぞの城も暗黒期に突入しているらしい。
 ヘンリーはよもやラインハットではあるまいな、と心配そうな気色を見せたが、まあいずれにせよ俺には関係ないか、となかなか淋しいことを云う。
 しかし無理もない。十年も行方不明となっていた王子が彼らに歓迎される保証もないだろうし、第一この十年で我々は諦観に身を慣らしすぎた。
 彼が望郷の想いをこの歳月で深く沈めていたことは想像に難くない。

38: 2016/11/15(火) 20:41:54.73 ID:OGwYTnpP0
 武器屋でヘンリーがこれが欲しいと云って少ない資金を贅沢に使いやがる。それもやいばのブーメランとか云う危険極まる一品で、到底常人の扱う代物ではない。
 外に出てヘンリーの慣熟を眺めていると、奴め油断して頭部にさっくり己の武器を突き立ててしまった。
 車付きの棺桶に納めて急いで教会に向かうと神父がやはり金銭を要求してくる。
 昔のように有り金を放り投げてしまいたかったが、今は分別が付いたので幾らがよろしいかと尋ねるとなんと十ゴールドで済んだ。
 大の大人を瀕氏から蘇らせるのに十ゴールドなら昔の肋骨に対するベホマだってそれ以下に極まっている。昔の短気を少し惜しんだ。
 先の如くやいばのブーメランを彼が使いこなせないことが判明したので、改めてチェーンクロスを買う羽目になった。おかげで私の武器は依然かしのつえである。
 気がつくと日が傾いている。カジノのネオンサインが無駄に煌々としていて目に痛い。

39: 2016/11/15(火) 20:43:24.18 ID:OGwYTnpP0
 神聖なる教会のすぐ隣で占いババとかいう婆さんが臆面もなく占いをやっている。
 それも傍を通ればこちらを睨めつけて勝手に占いやがるから閉口した。
 金をせびられると面倒だぞと心配すると、なんと男前だからという個人的趣味ここに極まる理由で無料にしてくれた。商売はどうした。
 しかし内容はこの世に暗黒が訪れんとしていると公然の事実を喚き立てるからやっていられない。
 適当に聞き流すと隣のヘンリーが苦い顔をしているので、どうしたと訊くと俺の義理のお袋がこういったものに傾倒していて不気味だったそうだ。
 もしかするとデールへの偏愛とヘンリーへの冷淡もそれが原因かもしれぬな、とひとりごちていると脇の占いババが待て、まだあるぞと何やらしつこい。
 いい加減日が沈むので無視を決め込もうとすると、お主は今、大事な人を捜しておるなと云う声が聞こえた。

40: 2016/11/15(火) 20:45:47.70 ID:OGwYTnpP0
 何故それを知っている。と凄むとなに、女の勘じゃよと年を食っているだけあって中々ふてぶてしい。
 安心せい、その女は生きておると性別まで当てて見せたので薄ら恐くなった。まずは北へ行け、そこにお主と近しい誰かの痕跡があると云う。
 それは私が捜している人のものかと訊くといや、そうではないがお主と大変近しい者じゃ。親か兄弟か、ともかくそやつの手掛かりはある。それを辿ればお主の捜す女に近づけるじゃろう。と云ってほっほっほとしわがれ声で笑う。
 私は気分を好くしてありがとう、婆さんと挨拶をするとなに、お主の男前の顔が見られるならいつでも占ってしんぜようと笑う。
 私もさっきまで占いなぞ信じる奴が馬鹿だと思っていたが、彼女の云うことだけは当たってほしいと切に願った。

41: 2016/11/15(火) 20:49:27.57 ID:OGwYTnpP0
 ヘンリーが念のため俺の顔はどうだ、男前かと訊くと婆さんはお主はどうでもいい。むしろ女々しいから好かんと途端にぶっきら棒になるので吹き出してしまった。
 元来そのうざったい長髪をどうにかしろとヘンリーに捲し立てると、ヘンリーはこいつだって長髪じゃないかと私に矛先を向ける。
 婆さんは猫なで声で、お主は顔がすこぶる好いからいいんじゃよとやはり趣味本位で商売をしている。
 ヘンリーが憤然として先へ進むので追いかけた。
 婆さんに好かれんでも、若い女に好かれれば十分であるのに贅沢な奴だ。

42: 2016/11/15(火) 20:50:31.81 ID:OGwYTnpP0
 夜になったばかりで少し暇があるから腹ごしらえに酒場に寄る。
 頼む酒が思いつかないのでとりあえずミルクでも貰おうか、と頼むとヘンリーがおいおい、それはないぜと嗤う。
 では貴様は飲めるのかと訊くと、昔王城でワインを少々、と威張りくさっているので店員に一番きついものを頼んでやった。
 ヘンリーが喉を焼いていると、隣の爺さんがここの飯は不味い不味いとぼそぼそやっている。
 どの品が不味いんですかな、と訊くとここのメニュー一体全く以て不味いと文句を垂れる。だったら何故そんな不満げな店にやってくるのか理解に苦しむ。

43: 2016/11/15(火) 20:52:10.89 ID:OGwYTnpP0
 しかしそう頑なに否定されると逆に興味が湧く。爺さんと同じものを頼んで、食ってみると案外悪くない味だ。
 私が健啖にかき込んでいると、爺さんが「こんな不味いものを美味しそうに食うとは余程酷いものしか食えなかったんじゃろう可哀想に」などと我々ならともかく他の人間に対してであれば無礼極まりない発言をする。
 土くれや残飯に比べれば御馳走ですよと云ってやると彼は非常に憐憫そうな目つきをするので少し後悔した。不幸自慢は誰も得をしない。
 すると爺さんはそうじゃな、飯が食えるだけでも万々歳じゃわいと私を真似てかき込む。
 いいぞ、爺さん、と囃し立てると喉につっかえて窒息しそうになっている。どうもここの飯は人を頃す能力があるようだ。もし我々が奴隷出身でなければ恐らく氏んでいただろう。

44: 2016/11/15(火) 20:55:51.15 ID:OGwYTnpP0
 腹も膨れたところでオラクル屋に寄ってみると、妖精の村で見たようなドワーフが待ち受けていた。
 よくよく見るとドワーフでない、ただの髭の濃い小男である。
 ヘンリーがここの特別な品とは全体何かね、と鼻息を荒くしているが、全体その品とは馬車であった。
 それも三千ゴールドの所を獣の臭いが取れないのとガタが来ているという理由で十分の一にまで負けてもらった。
 要は中古品である。それでも貧乏所帯には大変ありがたいので即払いで買った。煩悩を空転させたヘンリーが虚ろな顔をしているが、知ったことではない。

45: 2016/11/15(火) 20:59:29.00 ID:OGwYTnpP0
 馬車を手に入れたのでモンスター爺さんを訪ねると、獣臭いベッドでバニーの助手が寝ている。
 それも「かしこさのある魔物はむにゃむにゃ」と唸っているには驚いた。遊び人のなりをしている癖にやに仕事熱心だ。
 爺さんになぜ馬車がないと魔物は擦り寄ってこんのですと訊いたら、知らん。と無愛想にもほどがある。
 ありゃ嘘じゃ。馬車もないのにぞろぞろと魔物を町に入れ込む不逞な輩がいるからそれを防止するために嘘を吐いたんじゃと悪びれない。
 もっとも爺さんの云うことも一理あるので黙って納得しておいた。

46: 2016/11/15(火) 21:01:28.05 ID:OGwYTnpP0
 さて宿にでも泊まろうかと思うと、ヘンリーがせっかくだからあすこへ行って見ようぜとさっきからチカチカと煩わしい建物を指す。
 私は賭事が好きなわけでもないのでいや、よそうと遠慮しておいた。するとヘンリーが意地の悪い顔をする。
「お前は案外臆病だな」
 失敬な云い方に私は目を剥いた。
「全体どこが臆病なんだ」
「賭けで勝てる気概がないのだろう」
「まさか。勝てるが単に好かんからやらんのだ」
「勝てるのなら余計やるだろう。負けるからやらんのだろう。嘘吐きだなお前は」
「誰が嘘吐きなものか。きっと勝てるさ」
「云ったね。もし負けたりしたらみっともないぜ」
「いいだろう。見ているが好い。大いに勝って見せるから」
 はたしてカジノへ足を運ぶことにした。

47: 2016/11/15(火) 21:07:28.96 ID:OGwYTnpP0
 カジノの内装は煌びやかというよりひたすら派手ですこぶる目に悪い。
 しかし盛況なようで活気にあふれている。
 景品所を覗いてみると、なんとエルフののみぐすりだのせかいじゅのはだのといった伝説級の品物を在庫にして持っているから恐ろしい。
 ただし値段に換算すればかたや六千ゴールド、かたや二万ゴールドとそれなりに適正価格だ。
 一番高い品物は緑色のガムだかゴムだか知れないが、鞭如きがコイン二十五万枚、つまり五百万ゴールドである。ひょっとしたらラインハットの国家予算に匹敵するかもしれない。
 全体どんな代物か見てみると、三本の鞭が一つになった非常に扱いにくそうな形状をしている。
 やいばのブーメランと云いこいつと云い、この世界の武器屋はきっと気狂いに相違ない。

48: 2016/11/15(火) 21:09:49.16 ID:OGwYTnpP0
 私は二百ゴールドで買ったコイン十枚を握りしめて闘技場へ向かった。
 ヘンリーがそんなちっぽけで行く気かと驚くが、貧乏だからこれぐらいしか買えない。大体誰のせいで貧乏になったと思っているのか。
 モンスターの名簿が並べられ、どれが生き残るかに賭けて、当たれば倍率の分だけ貰えるらしい。
 スライムやせみもぐらなぞは生き残る確率が低いから倍率が高く、グリーンワームは周りの連中より幾分強いから倍率が低い。
 私は大人しく倍率の低いグリーンワームに十枚を賭けた。
 ヘンリーがそれで勝っても少ないぜと云うがこれで好いのだとねじ伏せた。

49: 2016/11/15(火) 21:11:20.13 ID:OGwYTnpP0
 はたして予想通りグリーンワームが生き残った。
 後はこれみたように実力が歴然としている闘いに賭けていれば好い。
 実力が伯仲しているものは予想のしようがないから降りる。儲けは少ないが、確実に勝てる分損害がないから溜まっていく一方である。
 それを続けているとヘンリーはせこい勝ち方だなと目を眇める。
 黙れ。そもそも双方合意して正々堂々と賭けるんならまだしも、カジノなんぞ相手の土俵で戦うのは馬鹿のやることだ。必勝打たずして大博打など狂乱事である。
 そう噛みついてやったら大人しくなった。近頃子分としての立場が分かっていないようだから再教育が必要かしらん。

50: 2016/11/15(火) 21:18:08.22 ID:OGwYTnpP0
 攻め時と引き際さえ弁えていれば恐れることはない。
 無事に元の百倍の一千枚まで増やしてヘンリーに見せびらかしてやった。
 ヘンリーがお前って意外と利口屋なんだなと云うので、どういう意味だと問うとてっきり猪突猛進して行くものとばかり思っていたらしい。
 確かに私は無鉄砲で向こう見ずな所はあるが、愚かに邁進して滅びるほど馬鹿ではない。
 堅実に守り、退くべき所で退き、機を逃さず大胆に行動を起こせば百戦危うからず。
 そう訓示を垂れてやるとほへーと王子らしからぬ顔をする。
 俺、今までお前のこと見くびってたよ、やっぱり偉いんだなと見逸れているので今更気づいたかと胸を張ってやった。

51: 2016/11/15(火) 21:19:25.49 ID:OGwYTnpP0
 とはいえ大勝がないから時間の消費は甚だしく、気づけば夜も更けていた。
 どうせ欲しい景品もないので適当にせかいじゅのはをコイン一千枚で交換しておいた。
 これなら瀕氏や氏後数分であれば蘇生ができる。もちろんこれを頼って突撃するのは馬鹿であるからあくまで保険である。
 もちろんヘンリーに持たせていては風邪薬代わりに呑まれてしまいそうなので私が持つ。

52: 2016/11/15(火) 21:21:27.65 ID:OGwYTnpP0
 さてそろそろと帰り支度をすると、ヘンリーがおいおい、ただちまちま儲けただけじゃつまらんだろうと云うのでカジノを巡ることにした。
 館の右翼側にはスロットなる機械があって、何でもコインを入れると三つのリールが回り、ボタンを押してこれを止めるらしい。
 リールには様々に絵柄が書き込まれていて、止めた時に三つの絵柄が綺麗に揃えばそれに応じてコインが吐かれるのだというが、これが大変なくせ者だ。
 第一リールの回転する速力が尋常でない。はぐれメタルの逃走もかくやと云わんばかりで、こんなのはキラーマシンでも滅多に揃えられるまい。
 そしてボタンを押そうにもこいつの挙動が少しおかしい。止めたところで止まらず、止めないところで止まる。まったく幾ら経営者の土俵だって人を馬鹿にしていらあ。
 機構もただぐるぐるやっているだけで味気ないのでもうついぞやらんだろう。

53: 2016/11/15(火) 21:22:45.40 ID:OGwYTnpP0
 闘技場の観客には愚かにもスライムに百枚を賭けている男がいる。
 倍率が五十倍というのは確かに魅力的だがそうそう当たるわけがない。
 行け、そこだなどと熱心に煽っているが、そうしている傍からスライムがグリーンワームの猛攻を受けているので永くは持つまい。
 ヘンリーは外れろ外れろーなどとぶつくさやっていたが因果応報を鑑みればあまり褒められたことではない。
 しかしこいつが幸せになってもつまらんので外れても好い気がした。

54: 2016/11/15(火) 21:24:32.01 ID:OGwYTnpP0
 辺りを見渡すとそやつの他にもいろいろな人間がいる。大抵は浮かれ気分で陽気な顔だが、反対に昏い顔で視線を地に投げかけている者もいる。
 そして中には賭け事はせず、それに夢中になる人間模様を眺めて楽しむ人生のプロフェッショナルまでいる。
 随分酔狂な真似をやっているなと思うとお前らも見ていたぞと云うので、どうだったと訊けば、中々賢しいがつまらんかったななどと生意気を云うので、手に持つ酒を引っ手繰って飲み干してやった。いい気味だ。

55: 2016/11/15(火) 21:27:51.26 ID:OGwYTnpP0
 陽気も陽気で、いやあ勝った勝ったガハハハと凄まじい量の酒を豪快にあおる奴がいる。
 好景気にあやかろうと随分調子が好いですね。何かコツでも掴みましたかと奪った杯で乾杯してやるとうん、見つけた。聞きたいか。聞かせてやると云って大気炎を上げる。
 伺ってもよろしいですかなと問えば、簡単なことだ。用は機を逃さないことさ、とさっき私がヘンリーに訓戒してやったのと似たようなことを云う。
 気勢を削がれた私はそうですかと云って辞退しようとするが、大男はまあ待てと云って甘い息を浴びせる。そのときの臭いといったらおばけきのこにも負けていない。
 あんた若いね。恋人はいるか。いないか。だがあんたの周りには綺麗な女がいると見えるね。え? 俺には分かるよ。しかしその人は手の届かない高嶺の花だろう。あるいはあんたより器量の好い男が居て勝てる気概がないんだろう。しかし心配するねえ。俺が云った通り機を逃さず大胆に攻めるんだ。そこで男を見せればお嬢さんも揺らぐってもんよ。
 男はそう一方的にまくし立てて酒へ戻った。私は甘い息と一気飲みした酒に揺さぶられて朦朧としていたが、脳裏には修道院にいる綺麗なひとが浮かんでいた。

56: 2016/11/15(火) 21:32:15.29 ID:OGwYTnpP0
 カジノには賭場だけでなく劇場まである。
 劇団が催し物をやっているが観客が二人しかいないので寂しい。何もカジノの中でなくって地下にでも劇場を設えれば好かろう。
 酔った観客が他の者を捕まえて、近頃こないなのがでけたらしいですぜ、どれよう聞いていなはれやと絡んでは舞台に注目させる。
 すると踊り子は半可の英語でプリーズ。プリーズ。アイニーデュー。と何やら下手糞な発音をしやがる。隣の女は I am glad to see you. と達者なのでなおの事目立つ。
 見させられている観客は酔った客に頭をごちんごちんやられながら、なるほど面白い。英語入りだねと無暗に感心している。少し可哀想である。

57: 2016/11/15(火) 21:34:07.26 ID:OGwYTnpP0
 地下にはスライムレースなるものまである。なるほど斯様な知性の低い動物――仮にも魔物であるが、扱いさえ誤らなければ危険がないという意味では至極動物に近い生き物である――それの徒競走なら何が起きるか見当がつかない。一般のダービーよりも予測が難しい競技と云える。
 倍率の低いところに一枚だけ賭けて様子を見ると、連中レースの途中で眠ったり転んだり気を失ったりと自由奔放だ。
 これは下手をすると野生動物にも劣る種族かもしれない。そんな奴らにあの頃は苦戦を強いられていたのかと思うと少し腹立たしい。
 ただ必氏にぷるぷるぽよぽよしている様子は愛嬌があるので女子供には人気があるだろう。

59: 2016/11/15(火) 21:36:41.53 ID:OGwYTnpP0
 もう一方の地下にはすごろく場がある。すごろく券がないと参加できないらしいが、私はそんなものは持っていない。
 するとヘンリーが懐から紙屑を取り出しては、へへ、実はムチおとこからくすねておいたのさと堂々と窃盗を暴露する。
 一人しか参加できないらしいから所有者のヘンリーに行かせた。
 懐手をして見守っているとヘンリーが賽を振った。一が出た。ヘンリーが一枡進んだ。
 野原の枡のようで仕掛けなどは何もない。するとヘンリーが足元を調べている。何か見つけたようだ。
 途端、ヘンリーの姿が消えた。

60: 2016/11/15(火) 21:38:40.28 ID:OGwYTnpP0
 階段を下りてみると敗者が地べたに転がっている。
 盗みなんぞするからこうなるのだと尻を蹴っ飛ばしてやると隣で汚らしい格好の男がアハハと笑っている。
 何だ貴様はと尋ねると、あっしはここで落ちてくる連中を眺めて楽しんでるんでげすと薄気味悪いことを云うから放っておいて表に出た。
 もう満足かとヘンリーに訊くともう懲り懲りだと早くも折れている。
 仕方がない奴だと思っていると何処から拵えたのかグラスを持っている。
 明日は早いから呑みすぎるなよと云っておいたがうへヘへと判然としないから心配だ。

61: 2016/11/15(火) 21:39:30.47 ID:OGwYTnpP0
 大分夜も更けたから宿に泊まる。
 機嫌の好いヘンリーがチェックインをしていると、横で待っている商人に小さなメダルを集めればどこぞの国で好いものが貰えるらしいですよと教えてもらった。
 私なんかもう二十枚も、アハハハとこちらもご機嫌そうだ。
 するとそれを聞いたヘンリーが隣で泊まるこいつの寝込みを襲えば二十枚は確実に得られるよな、とへべれけで物騒なことを考えているので軽く額に天誅をくれてやった。
 親分として子分の不逞には目を光らせねばなるまい。

62: 2016/11/15(火) 21:40:36.64 ID:OGwYTnpP0
 明くる朝に意気揚々と出立すると、外に馬車が置かれている。見ると「紫ターバンとサラサラ緑髪のお客様」と名札がある。
 他の者に取られないための配慮であろうが、サラサラ緑髪というのはお客様の表現としてはいかがか。
 譲渡の際に名乗らなかった我々が悪いのだが、当のサラサラ王子はぷんと拗ねている。拗ねてはいるが顔が青い。
 馬車の中で吐くなよと云ったが目が挙動不審だからかなり怪しい。

63: 2016/11/15(火) 21:42:46.30 ID:OGwYTnpP0
 しかし驚いたのには馬車は生きた馬がついている。
 何をそんな当たり前をと思われるかもしれないがよく考えてみてほしい。
 何せ三百ゴールドである。馬にせよ馬車にせよどうのつるぎと並ぶのは安すぎる。
 これは何かあるぞと念入りに調べてみるが、しかし馬車に異常はない。ただ伝聞通り臭いだけである。
 馬の方もご丁寧に「パトリシア」と名札があって、話しかけると「ヒヒーン」と律儀に鳴いてくれる他に異常はない。
 まあどうせ無料同然でついてきた馬であるから駄馬であれば刺身にして食うだけである。

64: 2016/11/15(火) 21:43:40.49 ID:OGwYTnpP0
 北へ進むと真新しい橋が架かっている。これのおかげであすこは発展したのだなと思うと偉く思える。
 さらに進むとラインハットへの関所がある。ヘンリーを顧みたが彼は視線を宙に投げ出している。
 好いにつけ悪いにつけ、あまり思い出したくはないのだろう。
 気を利かせて何も云わずに進んでいると、後ろから吐瀉音が鳴り響いた。
 ただ気分が悪かっただけのようだ。感慨も糞もない。

65: 2016/11/15(火) 21:45:20.72 ID:OGwYTnpP0
 ラインハット関所があるということはサンタローズもいよいよ近い。
 胸を躍らせながら歩を北西へ進める。
 ヘンリーも気分をすっかり良くしたようで馬車から降りて私に連れ立って歩き始めた。
 もう好いかと訊くと正直酔いより馬車の臭いがきつかったと云う。
 これは炭でも何でも置いて消臭せねばなるまい。
 はたしてサンタローズの石門が見えた。

66: 2016/11/15(火) 21:46:23.05 ID:OGwYTnpP0
 村に着いた時、私は我が目を疑った。
 そうしてヘンリーを見たが彼もまた同様だった。
 いつかこの村で、自らの見たものが夢でないことを願ったものだが、私はこの時全く逆の感慨を胸に抱いた。
 今見ている全てが夢であって欲しかった。

76: 2016/11/16(水) 19:55:40.80 ID:gb5HaOY1o
        三

 あの日見た麗らかな故郷は悉く破壊されていた。
 屋根は焼け落ち、壁は腐食して原型を留められず、床は灰と残骸に埋もれている。
 焼け残った家財道具や玩具が所々に散乱しているのが痛々しい。
 土地は手入れする者も歩く者も居ないからか、腐り果てて異臭が漂っている。
 そして、村には人の気配が全くしない。
 おかりなさいと笑顔で迎える村民の姿も、たき火にあたって寒さを凌ぐ青年も、年甲斐もなくわーいわーいと騒ぐシスターの姿も、影も形も無かった。
 あるのはただ荒廃と氏の臭いだけであった。

77: 2016/11/16(水) 19:57:43.26 ID:gb5HaOY1o
 幸い無事な建物が一つだけある。
 教会は煤にまみれて外見はひどい有様だが、手を付けられていない。
 ぎしぎしと建て付けの悪い扉を開ければ、中で神父とシスターが祈りを捧げていた。
 突然響いた扉の音に体を震わせた彼らは、我々の姿を見て少し安心した様子で息をつく。
 どうなされた、旅のお方と訊くのでどうなされたのか訊きたいのはこちらの方だ、全体この村で何があったのだと尋ねた。
 二人とも目を伏せて表情を昏くしている。
 シスターが口を開いた。

78: 2016/11/16(水) 19:59:28.38 ID:gb5HaOY1o
 「ある日武装したラインハットの兵士たちが村にやって来ました。訝しがる私たちをよそに、彼らは無言で家々に火を放ちました。
村人たちは抵抗しましたが武装した兵士に逆らえるわけもなく、たくさんの人たちが連れて行かれました。何故こんなことをと叫ぶ私たちに、彼らはこうを云ったのです

『この村の住人であるパパスが我が国の第一王子ヘンリーを誘拐し、そのまま消息を絶った。
彼奴に対する罰と近隣の村々に対する戒めとして、ここを焼き払う』

私たちは抗議しました。あのパパスさんがこんなことをする訳がない、あれほど勇敢で逞しく、慈愛に満ちた人はいないと。
しかし彼らは聞く耳を持たず、無情にもパパスさんの故郷を滅ぼしてしまったのです」

 嗚咽を堪えながらシスターは告げた。今ではパパスさんの息子もヘンリー王子も、彼とともに行方不明のまま。あの平穏は一夜にして脆く崩れ去ったのです。

79: 2016/11/16(水) 20:01:03.95 ID:gb5HaOY1o
 私は声が出なかった。
 驚きや怒りや憎しみよりも、悲しみが胸を貫いた。
 謂われなき暴力、謂われなき氏。
 光の教団で見慣れてきた残酷が新鮮さを取り戻して私に襲い掛かった。
 痛みに馴れたはずの心が再び息を吹き返して訴える。
 何故……

80: 2016/11/16(水) 20:03:55.87 ID:gb5HaOY1o
 その時シスターが目を見開いた。
 あなたは、まさか、と狼狽している。神父も私の様相を見て何やら悟った様子だ。
 私は全てを打ち明けた。

81: 2016/11/16(水) 20:04:29.90 ID:gb5HaOY1o
 父の最期と我々の動向を聞いた彼女らは悲し気に表情を曇らせた。
 ああ、神さま、とロザリオを手が白むほどに強く握りしめている。
 我々が無事だったと知っても彼女の顔は浮かびきれなかった。
 そこにはあの時のように旧人の生還を手放しで喜ぶシスターの姿はない。悲しみで心を埋め尽くされた女が居るだけであった。

82: 2016/11/16(水) 20:07:47.55 ID:gb5HaOY1o
 村を見渡すと神の領域である教会の他に無事なものは何一つとしてなかった。
 私と父が住んでいた屋敷も泥と汚水にまみれ、辛うじて外壁にその面影を見せるばかりである。
 ビアンカが読んでくれた本も、サンチョが探したまな板も、何も残っていなかった。

83: 2016/11/16(水) 20:08:22.12 ID:gb5HaOY1o
 突然物陰から小さい影が飛び出した。
 魔物かと身構えるがよく見ると人間の子供だ。
 やい、この村に何の用だと剣呑に叫ぶので、我々はここの生まれで帰郷したのだが、と狼狽するとじゃあ泥棒じゃないんだね、と息をついている。
 どういうことかと尋ねると驚くべき話であった。

84: 2016/11/16(水) 20:09:13.01 ID:gb5HaOY1o
 何と旅人がこの村へやってきては物品を漁り散らしてしまうらしい。
 箪笥や机の引き出しは開けられ、壺や樽類も割られて内容を一切奪われる。
 中には金庫代わりの宝箱をこじ開けて、底まで浚っていく者まで居る。
 俄かには信じ難かった。盗賊でもない一般の旅人がうらぶれた村ですることではない。
 我々が言葉を失っていると子供はうちに宿があるから、お兄さんたちも泊まっていってよと勧める。
 ここで泊まる算段はつけていなかったが、この惨状でも健気に経営する気概を買って泊まってやることにした。

85: 2016/11/16(水) 20:10:43.76 ID:gb5HaOY1o
 夜、侘しい寝床で眠っていると不意に私を呼ぶ声がした。
 顔を上げるが傍に姿はない。聞こえるのもヘンリーの静かな寝息と夜風で揺れる木の葉のかすれ声だけである。
 そっと部屋を出てみると廊下で先の少年が寝ていた。
 見ると寝床から転げ落ちたらしいが、こんなところで寝転んでいては風邪を引いてしまう。
 寝床へ寝せて毛布を掛けてやると、少年がぽつりと寝言を呟いた。
 その時、私の耳についぞ予想だにしなかった言葉が飛び込んだ。

「……だれ……ベラ……ようせい……」

86: 2016/11/16(水) 20:11:49.58 ID:gb5HaOY1o
 私は凍り付いた。その場で少年を叩き起こして事情を引き出したかったが、すやすやと心地好さそうに眠る顔を見て辛うじて堪えた。
 音を頃して静かに外へ忍び出た。夜風は肌に纏わりつくが、体中から発する熱気に遮られて寒さは感じなかった。
 村を改めて見回す。目を皿にして辺りを窺う。
 昔見たときはそれなりの広さだと感服していたが、この体躯を手にしてみると存外小さい村だ。
 宿屋に地下があったなと思い出して駆けてみるが、入り口は土砂に埋もれて入れなかった。
 少しずつ冷気が頭を覆った。私は今一度冷静になって頭を巡らして、小さく唸った。
 大人になれば妖精は見えない。
 失望がじわりと心臓へ流れ込んだ。

87: 2016/11/16(水) 20:12:28.03 ID:gb5HaOY1o
 好い加減に諦めて宿へ帰ろうとしたとき、目の前を何かがよぎった。
 目を凝らすが何も居ない。居ないはずであるのに、私はそこに何かが居るような気がした。
 視線の先には幼少の頃サンチョがおかえりなさいませをしてくれた屋敷の残骸がある。
 壁も屋根も焼け落ちていたが、床だけは危うくその姿を残していた。地下へと続く階段も、煤と埃を被ってそこに鎮座していた。
 地下へ降りると、そこは昔のままに残っていた。少し狭く感じるのは私の体が成長したせいだろうか。
 さっきは何かが居るような気がしたが、幻であった。割られた壺の残骸があちこちに散らばっているだけだ。
 気力の尽いた私は床へ寝ころんだ。寒気が下から上から四方満遍なく襲い来るが、熱を帯びた体はそれに耐え得た。

88: 2016/11/16(水) 20:13:40.56 ID:gb5HaOY1o
 瞼を閉じれば、再び村の惨状が脳裏を埋めた。
 思い出や暖かみも全て灰燼と帰し、人々は無念に斃れ、残された者は感情をも蹂躙された。
 目頭が熱くなったが、涙は出なかった。
 胸に少しずつ杭が穿たれるような痛みを抱えて、体を強ばらせて目を瞑った。そうして石のようにまんじりともせずにいた。

89: 2016/11/16(水) 20:16:31.30 ID:gb5HaOY1o
 隣で何かが跳ねる音がした。顔を上げると、僅かな月光で朧ながらも、確かに魔物のスライムがこちらを見つめていた。
 私は相変わらず微動だにしないでそれを見返していた。今ならスライムごとき鎧袖一触ではあるが、この時私はそうする気力さえなかった。
 スライムが小さく跳ねながらこちらへにじり寄る。目と鼻の先まで来た。顔が一尺もないほど接近していた。
 相対するスライムの目を覗き込んだとき、私はその深淵な色に驚かされた。人を殺めんとする魔物とは思えぬほど眼は澄み渡るように綺麗で、様々な光が散乱していた。
 スライムが私の手に噛みついた。
 瞳は純真でも、やはり魔物か。少しく失望していると、スライムが私の手を咥えたまま、どこかへ連行するつもりなのかぴょんぴょんと跳ね動く。
 私は上体を起こしてスライムのさせたいようにした。彼は私の腕を連れて地下室をあちこち跳ね回る。どん、とスライムが地下室の壁に体をぶつけた。
 瞬間、スライムの体が消えた。

90: 2016/11/16(水) 20:22:56.29 ID:gb5HaOY1o
 私は眼を瞠った。そこには壁に埋もれる私の手がある。
 壁は実体がないかの如くぼんやりと私の手を飲み込んでいた。そうして私の手も壁の感触を失っていた。
 スライムが引っ張っているのか、腕はどんどん壁に沈む。やがて体も沈む。
 ついに頭を壁の中へ沈みこませた時、眼前に十年前の景色が閃いた。
 今や私の体は妖精の国へ踏み入れていた。

91: 2016/11/16(水) 20:24:13.00 ID:gb5HaOY1o
 辺りは桜の花びらと蝶が舞い、明るい日差しが野を照らしていた。
 目の前には若い妖精がにやにやとして立っている。見覚えのある顔に、君は、ベラかと尋ねると、妖精は覚えててくれたのねと笑顔を見せた。
 久しぶりだが、十年でも君は成長しないなと云うと、妖精は歳を取るのが遅いのよと少し悲しげな顔をする。
 目に兆す翳を振り払って、ポワン様に会いたいのでしょう、だったらと云って向こうを指す。
 視線の先には氷細工の階段を設えた大木が十年前に目にした時のようにそびえ立っていた。
 目線を戻すとベラは居なかった。黙っていなくなることもなかろうと思ったが、彼女の顔に浮かんだ翳を思い出して詮索は止めた。
 風に乗った春と母の匂いを感じ、私は駆けだした。階段を昇ると途中の階の妖精が驚いた顔でこちらを見るが、構わなかった。
 最上階にははたして、いつか母と重ねた麗しい女王が佇んでいた。

92: 2016/11/16(水) 20:24:56.46 ID:gb5HaOY1o
「お久しぶりですね、はるかぜの勇者よ」
「久しぶりです」
 私はどうにかそれだけ云えた。
「随分成長されたようですが、妖精はまだ見えますか」
「いえ……もう見えなくなってしまいました」
「そうですか。けれどもそれは確かな足がかりができたという事ですから喜ばしいですわ」
「そうでしょうか」
「誰に案内を頼みましたか」
「スライムが勝手に連れてきてくれました」
「それはもしや、この子ですか」
 見ればポワンは青い塊を膝に置いている。そこには安らかに眠るスライムの姿があった。
 私は確証はありませんが、と答えた。スライムの個体差など見分けられない。女王は微笑んだ。

93: 2016/11/16(水) 20:25:45.29 ID:gb5HaOY1o
「今日は何か困ったことが会って来られたのですか」
「いえ、別段用が会ったわけではないですが」
「あら、では誰かに会いたくなって来たのですか」
「それもありますが」
「全体誰に会いたかったのですか」
「それは……」
 そこまで云って私は顔を赤らめた。ポワンは少し調戯うような目つきをしていたが、やがて微笑をこぼした。
「あまり若い人を調戯うのも酷ですわね。用がなくてもゆっくりして行ってくださいな」
「ではお言葉に甘えさせていただきます」
 私は腰を下ろした。

94: 2016/11/16(水) 20:26:53.84 ID:gb5HaOY1o
 我々は世間話に花を咲かせた。と云っても私の体験は丸十年暗黒に閉ざされていたから話題は少なかった。妖精界も人間界ほど変遷がなかったらしいから余計話題に困窮した。
 仕方がないから私は奴隷時代の黒歴史を告白した。語られる残酷な日々を聞く内に、ポワンの顔は悲哀に暮れ翳りを帯びていった。
 そうして父の氏と故郷の衰亡に言及した時、私は胸と喉を一挙に詰まらせて声を失った。
 ポワンは声を落として、大変な思いをしましたね、と云った。私は昏い顔で頷いた。するとポワンが手招きをする。
 何かと思って近寄ると、ポワンが両の手で私の顔を挟んで、真向かいに見つめた。
 十年前の再演かと身を堅くして見つめていると、やはりポワンの美しさに見惚れた。
 けれどもあんまり美しく澄んでいる瞳を見ているとだんだん居たたまれなくなって、ついに私は目を伏せてしまった。
 するとポワンが挟んだ私の顔を胸に寄せてそのままかき抱いた。
  

95: 2016/11/16(水) 20:27:23.33 ID:gb5HaOY1o
 あなたは今、深い悲しみに暮れていますね、とポワンが云った。私はポワンの胸の中で頷いた。
 辛かったでしょう、と云った。私はまた頷いた。
 頭の上に何かが置かれた。
 ゆっくりと包み込むようにして私の頭を撫でるポワンの手は、これまで触れたどんなものより暖かかった。
 気がつくと私は泣いていた。声こそ出さないが、嗚咽で体がしゃくり上がるのは抑えきれなかった。
 それすらも和らげるように、ポワンの手はより一層優しく愛撫を続けてくれた。

96: 2016/11/16(水) 20:28:38.15 ID:gb5HaOY1o
 しばらくして泣き止むと、私はお見苦しいところを、と謝った。
 ポワンは好いのですよ、人は誰だって拠り所が必要ですからと微笑む。
 しかしこんな齢になって泣くのはみっともないでしょうと云うと、ポワンはかぶりを振った。
 そんなことはありません。むしろ、折に触れて泣いてしまえる人こそ強いのですよと云った。
 それは信頼できる仲間や家族が居てくれるからです。それを持つ人はどんな孤独な強者よりずっと強いのですよ、と。
 私はされば、ポワン様は私の、僕の家族になってくれますかと問うた。
 ポワンはもちろんです。と柔らかな笑みを惜しみなく見せた。

97: 2016/11/16(水) 20:29:12.92 ID:gb5HaOY1o
 さてそろそろと居住まいを正すと、ポワンが何やら思い出したように立ち上がった。
 しばらくごそごそと探っては、私の手に黄色いリボンを渡してきた。
 随分古い品だが、何だか見覚えがある。手の中で弄んでいるとふわりと懐かしい匂いが立ち上った。頭の中で何かが閃いた。ゲレゲレにつけていたはずのビアンカのリボンである。
 何故ポワン様がこれをと訊くと、ポワンは次のような昔話を始めた。

98: 2016/11/16(水) 20:29:51.69 ID:gb5HaOY1o
 何でも十年前のある日、酷い火傷を負ったキラーパンサーがここにやってきたらしい。
 魔物が妖精界をうろつくのは珍しくないので抛っておいたが、そいつはベラという妖精を見るなり吠え上げた。
 ベラは呪文で焼き払おうと身構えたが、パンサーは尻尾をベラに向かって振り、そこに巻かれたリボンを見せつけた。
 それを見たベラはそのパンサーが私の横に尾いていたゲレゲレであることを見抜き、火傷を治療して丁重に迎入れた。
 ゲレゲレはしばらく喉を鳴らしていたが、やがて悲しげに一声鳴くと尻尾のリボンを振り落として元の人間界へ帰って行った。
 そしてベラはもし私がここを再び訪れた際、真っ先にポワン様を訪れるだろうと見当をつけてリボンをポワン様に献上したという。

99: 2016/11/16(水) 20:31:09.86 ID:gb5HaOY1o
 ポワンがそのリボンには魔法を掛けておきました。試しにこの子につけてお上げなさい、と私を抱く際に足下へ転がしたスライムを指す。
 つけろと云われてもスライムにそんな便利な部位なぞないから、全体を巡るようにぐるりと巻き付けてやった。そうしたらポワンが随分乱暴ですねと笑った。
 ではどうしましょうと云うとポワンはこれでいかがでしょうと云って頭の尖った部位に蝶結びで飾り付けた。
 しかし蝶の垂れが顔にかかってうざったそうにしているので、しまいには結び目を後ろに背負う形で落ち着いた。

100: 2016/11/16(水) 20:32:52.98 ID:gb5HaOY1o
 するとリボンを背負ったスライムがありがとう、ポワンさまと人間語を話し出すので仰天した。これはと訊くとポワンはリボンに掛けておいた魔法の効き目ですと答える。
 何でもこれをつけている魔物はかしこさが数段上がって利口になるらしいが、教育もなしに言語を話されては人間の幼児共の立つ瀬がない。
 生意気なスライムだと思って眺めているとそいつは私を顧みてねえ、きみはじゅうねんまえのこどもでしょ、ぼくのことをおぼえてるかなと何だか知り合いのような口を利くので驚いた。
 お前はまさか、サンタローズの洞窟の奥にいたわるくないスライムかと訊くとうん、と頷く。
 奇妙な出会いがあったものだ。しかし十年も変わらずぼくとか云っているから魔物は余程長生きだ。
 するとそいつはきみについていってもいいかなと何と旅の同行まで持ち掛ける。
 ポワンもそれを聞いてこの子もあなたの心に触れて改心したようですから、連れ立つが好いでしょうと推奨する。
 スライム個人の頼みであれば撥ねつけたが、ポワンに勧められては反抗する気が起きない。二もなく了承した。

101: 2016/11/16(水) 20:35:58.72 ID:gb5HaOY1o
 歓喜に跳ね回るそいつに名を尋ねると「スラリン」とか云う名を告げるので貴様は雌かと尋ねると、魔物は性別がないから好きな名を名乗っているらしい。
 魔物は悪しき力より生まれ出る存在であるから生殖しない、だから雌雄の区別が存在しないというのは納得の行く話だ。
 しかし「何々リン」と云うのは些か女々しいから「ゴルキ」にでもしたらどうだと提案すると至極微妙そうな顔をする。
 主人である私が命名するのだからそれに従えと凄むと、よくわからないけどかっこいいからそれでいいよと渋々承諾する。
 実を云えばゴルキとは、骨が多くって、まずくって、とても食えず精々肥やしにかならない雑魚にも劣るかわいそうな魚の名である。
 雑魚の代名詞であるスライムの身分にふさわしかろうと思ってつけてやったのだが、本人が好いと云っているのでこれで好かろう。

102: 2016/11/16(水) 20:39:30.23 ID:gb5HaOY1o
 私はポワンに改めて礼を云った。慰藉だけでなく、旧い友人の形見まで預かってくれるとは。
 ポワンはええ、どういたしましてと云って顔を綻ばせる。
 ここで待っていますから、いつでもいらっしゃいと云ってくれたのでええ、機会があればまたお会いしましょうと私も笑みを返した。
 ポワンは懐からはるかぜのフルートを取り出した。
 周囲に再び春の旋律が舞い起こり、世界を暖かく満たした。
 私は渦巻く花びらの間に、爛然たる笑みを浮かべたポワンの姿を認めた。

103: 2016/11/16(水) 20:42:07.43 ID:gb5HaOY1o
 目を覚ました時、私は冷たい地下室の床に体を寝かせていた。
 階段から日の光が射し込んでいる所から察するに大分時間が経っているらしい。
 外に出てみるとヘンリーが辺りをきょろきょろと見回していたので、何をしていると訊くとお前こそ何をしてたんだと驚いた顔でこちらを見た。
 スライムに頼んで妖精に会いに云ったと云うと、おいどうした、寝ぼけているのかと呆れた顔をされた。

104: 2016/11/16(水) 20:42:34.36 ID:gb5HaOY1o
 それを聞いて少し慄然としたが、考えてみれば昨日の行動は始終夢見心地であったから全て夢の出来事だとしても不自然はない。
 それに、今回は以前のように枝を持ってきていないから証拠も何もない。
 私は胸に淋しい火が灯るのを感じながら、ヘンリーに連れ立った。
 村には未だ生きた色が見えず、灰になった残骸が地面を覆っていた。

 その時、足下に何かがぶつかった。
 頭にリボンのついたスライムだ。

105: 2016/11/16(水) 20:44:46.81 ID:gb5HaOY1o
 ヘンリーが臨戦態勢をとるのを窘めて、私はおいで、ゴルキと云って腕を広げた。
 するとゴルキがおばえててくれたんだね、と云って私の腕に飛び込む。ヘンリーは何やら分からない様子だ。
 ポワンとの再会を話すのも恥ずかしいから、昨日懐柔したんだよと説明すれば納得したようである。
 ヘンリーはしかし魔物を連れるというのは不思議だなと呑気に云うのでそうだろうと云った。
 私はゴルキへ着けたリボンへ顔を寄せた。春と母と獣と、勇敢な少女の懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。

106: 2016/11/16(水) 20:45:47.06 ID:gb5HaOY1o
 村の入り口へ向かうと何やら老人が待ち受けている。
 我々が近づくと老人は、お前さんはパパス殿の息子かなと問うのでそうだと答えると、されば北の洞窟へ赴かれよと云う。
 そこでパパス殿は何か重要な物を置いたそうじゃ、パパス殿が逝去なされた今息子であるお前さんがそれを相続するのが道理じゃろうてと勧める。
 昔父を追いかけたが道に迷って諦めた。今どうすればそこに行けるだろうかと問うとそこへは筏を使いなさいと云う。
 そう云われると確かに父は洞窟内の泉を筏で渡っていた。子供の時分は陸路だったから別の方角へ彷徨ったらしい。
 老人に連れられて屋根のない家に着くと、はたして川に筏がつなぎ止められている。
 健闘を祈ると云う老人の激励を受けながら我々は洞窟へ侵入した。

107: 2016/11/16(水) 20:46:47.69 ID:gb5HaOY1o
 洞窟というのはどうしても魔物が住まなければならぬ世の理があるらしい。
 どこもかしこもブラウニーだのスライムだのと雑魚が際限なく湧いてはのべつ幕なし襲ってくるからやりきれない。
 景気付けにおおい、ゴルキが大量にいるぞ、と調戯うとぼくはあんなにやばんじゃないやいと反抗する。
 それを受けてヘンリーが、ゴルキと云うと露西亜の文学者みたような名だねと洒落た。
 そう意識すると可笑しい事に出てくるのも、出てくるのもみんなゴルキばかりだ。メタルスライムなんて薬にしたくってもありゃしない。
 今日は露西亜文学の大当たりだとヘンリーがチェーンクロスで一掃するが、連中は所持金も経験値も極僅かしか落とさないので至極効率が悪い。
 必氏になって戦うゴルキも肥料ばかり倒しているせいか一向に成長しないようで気の毒の至りだ。

108: 2016/11/16(水) 20:48:01.73 ID:gb5HaOY1o
 そのゴルキも所詮雑魚の一味であるから一般の魔物との戦闘に出せばあっという間に瀕氏に陥る。
 せかいじゅのはなんぞ高級な品を使うのも勿体ないから、教会の神父に十ゴールドで蘇生させてやるとつぎはまけませんとやに威勢が良い。
 しかしこう易々とへこたれてもらっては蘇生も面倒であるから、次氏んだら野に埋めるからな、と脅すと突然しぶとくなった。往々人も魔物も窮地に陥れば底力を発揮できるもんだ。

109: 2016/11/16(水) 20:49:36.99 ID:gb5HaOY1o
 洞窟を道なりに進むと開けた場所がある。それも本棚やランプが置いてあって妙に生活感がある。
 洋卓の上には古びた手紙が置いてあって、それも宛先に私の名が書いてあるから驚いた。
 しかし表には力強く「母を見つける覚悟が無ければこれを読まずに焼き棄てろ。そうしても私は責めない。お前がそうしたい道を選べ」と警告が記してある。
 私は躊躇なく封を破った。覚悟など、とうにできている。母を見つけることが私の唯一の幸せに繋がるのだから。
 中の便箋には、初めの方に父の名が――パパスの名が記してあった。その下には、息子へ宛てたであろう短い文がしたためられていた。
 私は洋卓のランプに火をつけて、食い入るようにそれを眺めた。

110: 2016/11/16(水) 20:50:36.44 ID:gb5HaOY1o
「お前がこの手紙を読んでいるということは、何らかの理由で私はもうお前のそばにいないのだろう。
 すでに知っているかもしれんが、私は邪悪な手にさらわれた妻のマーサを助けるために旅をしていた。
 私の妻、お前の母にはとても不思議な能力があった。私にはよく分からぬがその力は魔界にも通じるものらしい。妻はその能力ゆえに魔界に連れ去られたのであろう。
 まだ母が見つかっていないのなら、伝説の勇者を捜せ。私の調べたかぎり魔界に入ることができるのは天空の武器と防具を身につけた勇者だけらしいのだ。
 そして、邪悪な手から妻を取り戻すのは他でもない、お前だ。

111: 2016/11/16(水) 20:51:04.46 ID:gb5HaOY1o
 私は世界中を旅して天空の剣を見つけることができたが、未だに伝説の勇者は見つかっていない。
 何しろ伝説の勇者というのは高貴な身分にあるものらしいから、私のような平凡な身分では調べるのに骨が折れた。しかし分かったことが一つある。
 今の時代に、まだ勇者は生まれていない。
 世界中の王や王子、果ては姫までにも参上してこれを持たせたが、誰一人としてこれを持ち上げられる者は居なかった。
 資格のない者には鉛のように重くなり、とても持っていられない。一度豪腕で知られる力将に持たせてみたが、無理に重いまま扱っても刃がなまくらになってしまう。
 これを楽に装備でき、真の力を発揮できる者こそが正真正銘間違いなく伝説の勇者なのだ。
 私の世代には生まれていないと云うことは、逆に云えば勇者の血筋は未だ魔物の毒牙にかかっていないという証左でもある。
 奴らに先んじて、必ず勇者を見つけろ。そして、母を取り戻せ。

112: 2016/11/16(水) 20:51:54.07 ID:gb5HaOY1o
 お前にならできると信じている。何と云っても私はお前の父だ。お前の勇敢さについては誰よりも知っているつもりだ。
 負けるな、生きろ。」

113: 2016/11/16(水) 20:53:15.38 ID:gb5HaOY1o
 私は手紙を持つ手が震えるのを必氏に抑えた。そうして溢れんとする涙も飲み込んだ。
 父は自分の氏すら覚悟していた。それにも怖じ気付かず、勇敢に立ち向かって妻を捜した。
 男手一つで子供を育てながらの旅が如何に辛いか、想像するだに苦しい。
 彼の勇気と行動力と、凄まじい気概には感服するしかない。私は一生彼の背中を追い続けるだろう。

114: 2016/11/16(水) 20:54:23.92 ID:gb5HaOY1o
 ヘンリーが気まずそうにしているので笑ってやった。すると彼も少し和らいだようだ。
 父の形見が散らばるこの空間で、感慨に溺れながら泣きたかったが止めた。
 泣いても鬼が来るばかりだ。好いことなど……

 しかし、ポワンはこうも云った。
 むしろ、折に触れて泣いてしまえる人こそ強いのですよ。

115: 2016/11/16(水) 20:56:04.88 ID:gb5HaOY1o
 その時、便箋の裏に何か文字があるのを見つけた。
 追記と書かれた文字は、何故か少し滲んでいた。

 しかし、私に尾いて洞窟へ入るなど無茶をしていたな。六歳でこの無鉄砲さは驚くばかりだが、私を継いでくれているようで嬉しい。
 お前がこの手紙を見ている間もきっと、私は天からお前を見守っているぞ。

 私はとうとう、頬を伝う涙を手紙の上へこぼした。

121: 2016/11/17(木) 20:22:56.17 ID:Dd+qlq25o
 火を照らして初めて判明したが、洞窟の中にはまばゆい輝きを放つ荘厳な意匠を凝らした剣がある。
 刃を下にして地面に突き立っているのでふん、と手に掛けると持ち上がらない。腰を入れて諸手で掴みかかるが持ち上がらない。
 ヘンリーと二人がかりで引き抜いて、どうにか背負えた。伝説の装備ともなると運ぶのも重労働だ。
 ヘンリーが鞘らしきものを見つけたので、刀身に差し込むとどうやら綺麗に納まった。
 するとさっきまでの重量は何処へやら、嘘のように軽くなった。
 これはと思って手に持って鞘から抜き出そうとすると抜けない。全力を以てしても抜けない。
 床に置いて鞘だけ握るとどうにか抜けるようだが、また最前の如く鉛のような重量物になるのは見えているので大人しく納刀して運んだ。

122: 2016/11/17(木) 20:23:52.06 ID:Dd+qlq25o
 よし持ち上げてもどうせなまくららしいからこれを扱えるのは本当に勇者なのだろう。ただ自分にその資格のないことを改めて宣告されたようで少し悔しい。
 ヘンリーはお前ならもしかすると、と思ったんだがなと残念がっているが元来庶民の自分が勇者では父の情報に沿わないので当然だろう。
 そう云えば高貴な身分の君ならどうだと云うと、ヘンリーは昔、お前の親父さんにこれに似たものを持たせられた記憶があると云った。
 当然その時は抜けなかったから、今もだめだろうと云って鞘に手をかける。ふん、と力を込めているがやはり抜けない様子だ。
 これを一々王族らに持たせるのは気が遠くなりそうだが、母を捜す当初の茫漠さに比べたらずいぶん簡便だ。
 私も父の後を追って、流浪に身を任せるのだろうか。

123: 2016/11/17(木) 20:24:29.27 ID:Dd+qlq25o
 洞窟を出ると先の老人が待ち詫びていた。
 様子を訊いてきたのでこれこれこういう経緯だと説明してやるとそうか、パパス殿が装備できぬと嘆いておったのはそれかと納得している様子だ。
 ありがとう、爺さんと挨拶をすると爺さんが待て、その剣をわしにも持たせてくれんかと乞うので持たせてやったら諦めた。まあ試してみたくなる気持ちもわからんでもない。
 父もさぞや悔しかったろう。勇者が見つからないのもそうだが自分がよもや、という淡い期待は彼にもあったはずだ。

124: 2016/11/17(木) 20:26:27.49 ID:Dd+qlq25o
 村の入り口で宿へ案内した子供が見送りをしてくれた。
 親御さんの云うことをよく聞くのだぞ、と云ってやると子供は昏い顔で俯向いた。
 どうしたと尋ねると、子供は訥々と語り出した。
 彼の両親はラインハットの兵士に殺されたらしい。
 直接見たわけではないが、連行された後に髪の入った骨壺が送られてきたので確信した。それ以来宿の主人に養ってもらっていると云う。
 我々は掛けるべき言葉が見つからず、しばらく黙っていたが、私が負けるなよ、小僧と励ますとそいつはようやく笑顔になった。
 そうしてサンタローズを出た後も、ヘンリーの表情は一向に浮かばなかった。

125: 2016/11/17(木) 20:28:36.89 ID:Dd+qlq25o
 壊滅した故郷を後にし、我々は更に西へ歩を進めた。
 隣町までは一昼夜とかからないが、こちらはラインハットの討伐命令が下っていないため無事である。
 ゴルキを懐に隠して入るとここはアルカパの町よ、と町人が云うのでようやくこの町の名を知った。昔は名も知らないでただビアンカの住む町と勘定していたのだ。

126: 2016/11/17(木) 20:31:19.17 ID:Dd+qlq25o
 相変わらず宿屋が巨大で立派だからビアンカらは繁盛しているだろうな、と思って訪ねてみると全く別の人間が経営していた。
 ここにダンカンという主人はいないかと訊くと、どうやら体を悪くして身を退いたらしい。
 それで店は畳んだが、立派な建物を取り壊すのももったいないので今のオーナーに売り払ったという。
 今ダンカン一家はどちらに、と訊くと遙か海の向こうの山村で療養していると云った。
 きっと空気が綺麗だからなどと理屈をつけて飛んだんだろうが、ここだって十分田舎で空気は綺麗だし、そもそも体が悪いなら海なんか渡らなくたって好さそうなものだ。
 やっぱり田舎者の考えはよく分からない。

127: 2016/11/17(木) 20:32:09.82 ID:Dd+qlq25o
 チェックインをしておいて、夜になるまでしばらく町を巡っていると宿屋の次に大きい一軒家がある。
 訪ねてみるとやはり双子が居て、一方が兵士の制服を着てラインハットの苛政に飽き々々して逃げてきたなどと云っていた。
 片割れが帰ってきたのが安心したと見えて母親ともう片方は顔を綻ばせていたが、そこに私が現れてやあ、この顔に見覚えがあるかと訊くと双子の顔が瞬時に青ざめた。
 その節はどうも、と途端にへいこらし始めるのであれから猫は虐めてないよなと訊くとそれはもちろん、と滝のような汗を流しながら弁解する。
 少し怪しいが別段問いつめる証拠も義理も持っていないので後にした。
 兄弟はひどく安心した様子で我々を見送った。

128: 2016/11/17(木) 20:36:16.14 ID:Dd+qlq25o
 先の双子の言の如く、ラインハットの評判は散々だ。武器屋の親父などはあんな所二度と行きたくないだのと文句を垂らしながら商売している。
 ヘンリーはこれまで顔を伏せていたが、やにわに親父へ声をかけてラインハットの近況を聞いた。
 武器屋の返事を聞いて、ヘンリーの顔が青ざめた。ラインハット領主が病で亡くなったらしい。
 跡はデール皇太子が継いだようだが、裏で王妃――今は太后になった――が実権を握っているようだ。
 ヘンリーは絶句していた。彼は未だ父と存分に話せていない。唯一の肉親は傀儡で、継母は政治の実権を握り悪政を強いている。
 今まで噛みしめていた唇から一筋、赤い色が流れた。

129: 2016/11/17(木) 20:37:46.59 ID:Dd+qlq25o
 飯時に酒場へ寄ってみれば随分年嵩のいったバニーがいる。獣臭さはなさそうだが別の臭いがしそうで少し敬遠した。
 頼んでみればこの酒場の飯も可もなく不可もなく旨い。
 しかし他の客がいないのでもしかしたらオラクルベリーみたように不味いのを我々の飢えた舌が勘違いしているだけかもしれぬ。
 話を聞く相手がいないから、年増のバニーに勇者の情報について聞くと、それならお父さんが詳しいからそっちで話を聞いてと奥へ案内された。
 酒場の主人はあらくれマスクを被ってはいるが気骨のある快活な人物で、話していて気持ちがいい。
 しかし肝心の固有名詞が闇の帝王エスなんたらと曖昧模糊なのには閉口した。

130: 2016/11/17(木) 20:41:13.42 ID:Dd+qlq25o
 夜も更けて、宿へ赴くと名無しでもないおかみがここに二晩泊まると好い品が貰えるよと宣伝するが、オラクルベリーの一件でこういう謳い文句の品は禄なものではなかろうと早合点をして断った。
 後で聞けばぶどうの香りのする安眠枕という随分寝心地の良さそうな品なので後悔した。
 最近、もとい十年来ゲレゲレが焼かれたり父が焼かれたり鞭で打たれたり村が焼かれたりと禄な夢見ではないので、機会があれば頂くことにしよう。

131: 2016/11/17(木) 20:43:05.66 ID:Dd+qlq25o
 経営者が変わっても手入れは相変わらず鄭寧で寝心地がよい。
 ゴルキを枕にしてぐっすりとしていると隣でうんうん唸る音がする。
 目覚めてみるとヘンリーが随分離れたベッドの上であぐらをかいて悩んでいる。
 どうしたと聞けばデールや皇后の事が気にかかって眠れないと云う。
 確かに不仲のまま父が氏んで、少し出来の心配な弟が世を継いで、意地の悪い継母が政権を握ったと聞けば誰だって不安に陥る。
 ではラインハットを訪ねるかと聞くとやはり微妙な顔をしている。
 またもやうんうんと意気地のない迷走をしているので喝をくれてやることにした。

132: 2016/11/17(木) 20:44:00.38 ID:Dd+qlq25o
 精神的に向上心のないものは馬鹿だ。まだそんなことでぐちぐち悩みおおせるのか。
 君は十年前に私が云った通り周りに愛されている人間だ。
 それが二桁年行方不明ともなれば人々の心中穏やかでないことはたといゴルキにだって分かるだろう。
 それを安心させるためにも、また腐った政治体制にメスを入れるためにも君という存在をラインハット国民に知らしめねばならん。
 ここで鬱々と無い知恵を無駄に巡らすより行動した方が幾分ましである。と、そう訴えかけてやったらようやく一念発起した様子である。
 そういう訳で明日はラインハットに向けて発つことにした。

133: 2016/11/17(木) 20:45:08.18 ID:Dd+qlq25o
 ラインハットへの関所に着くと、橋を塞ぐ兵士がここは許可証のない者は通せぬと云って剣呑に構える。
 どうもあの皇后が余計な事をしでかしてくれたようだが、そうなるとどうしようもない。
 兵士を叩き伏せるか忍んでゆくか、何か方法がないかとあぐねていると、おもむろにヘンリーが川辺に降り立った。
 そして何かを掴みあげたかと思うと、先の兵士の背後に素早く回り込む。
 私があっと声を上げる暇もなく、ヘンリーは兵士の背中に何かを入れ込んだ。

134: 2016/11/17(木) 20:46:03.68 ID:Dd+qlq25o
 兵士はうわあああともがきながら七転八倒している。
 出してくれと叫ぶ合間にげこげこと鳴き声が聞こえるのでおそらく蛙の類に相違ないが、それにしても酷い。
 私はあまりに可哀想でものも云えなかったが、実行犯のヘンリーはぎゃはははとおよそ王族の風上にも置けない下品な大笑いをしてこちらも転がっている。
 地獄絵図に頭を悩ませていると足下のゴルキが軽業師の如くぴょんぴょんと兵士の背中に潜り込み、ひょいと蛙をつまみ上げた。
 こうして世にもおぞましい拷問、もとい悪戯が終結した。

135: 2016/11/17(木) 20:47:06.31 ID:Dd+qlq25o
 トムと云うその兵士は青ざめた顔で橋を渡っていた。
 対照に後ろのヘンリーはとても上機嫌だ。
 ヘンリーがそう云えば昔はベッドに、と思い出話の頭を出すとトムはやめてくださいと非常に沈痛な面持ちで抑止する。
 過去に彼の安眠の床で何があったかは推して知るべきである。
 それでもさっきの仏頂面はいくらかほどけ、懐かしの王子との再会を喜んでいる様子は見られた。

136: 2016/11/17(木) 20:48:32.16 ID:Dd+qlq25o
 橋の反対側へ着けば、お前が向こうまで出てくると体裁が悪いだろうから、ここまでで好いとヘンリーが声をかける。
 トムはお気をつけて、とヘンリーと我々を送り出してくれた。思ったより気分の好い奴だ。
 聞けば昔は城詰めの召使だったらしいが、出世してここの警備を任されているらしい。
 しかし綺麗で暖かい城からこんな川沿いのうすら寒い所に飛ばされたのはどちらかと云えば左遷ではないかしらん。

137: 2016/11/17(木) 20:49:40.01 ID:Dd+qlq25o
 橋を向こうに渡れば、かつて父と川の景色を眺めた展望台がある。
 懐かしい感慨を覚えながら登ると十年前の爺さんがほとんど変わらぬ姿でそこにいた。
 これは妖精かなにかかと思えば、相も変わらずこの国の行く末を案じている。
 大分時間は挟んだが、この爺さんの予感は的中していると云って好いだろう。
 だが、できることなら父や我々の不幸も予言してほしかったものだ。

138: 2016/11/17(木) 20:51:15.28 ID:Dd+qlq25o
 ラインハットの城下町へ入ると、相変わらず貧相な建物ばかり並んでいる。質はともかく数が足りない。これでよく財政が保てるものだ。
 町を歩く老人と目が合うと、お前さんたち、何をしに来たのか知らんが命が惜しかったら城に近づくなと物騒な警告をする。
 理由を訊いても口を噤むばかりで判然としない。
 近づくだけで危険な城などおっかなくて仕方がないが、ヘンリーはそれも構わずに歩いて行く。

139: 2016/11/17(木) 20:53:18.21 ID:Dd+qlq25o
 城門近くにはなんとみすぼらしい格好の乞食の女が居る。
 ヘンリーがおい、この国には乞食の身分など一人もいなかったぞと驚いていると、女の連れている子供が手を差し出した。
 恐らく施しを待っているんだろうが、私はその悲壮な姿を見て大層居た堪れなくなった。
 数週間前は我らとて似た身分だったが、彼らは周りの豪奢を目の当たりにしている点で輪をかけて惨たらしい。
 話によれば彼らの主人は城で勤める高給取りだったらしいのが太后の圧政によって牢へ入れられ、富豪らしく生活能力のない彼女らが取り残されて乞食へ陥ったという。

140: 2016/11/17(木) 20:53:51.92 ID:Dd+qlq25o
 懐から百ゴールドほど出してくれてやると、子供は目を大きくして輝かせた。そうして母へ持って行って見せて自慢をした。
 母親はありがとうございます。このご恩は、と頭を下げる。見ると彼女らの足元の容器には五ゴールドや十ゴールドがまばらに入っているから、百は随分な恵みだったのだろう。
 子供が良かったね、お母ちゃんと涙を零す。母親もええ、あの方々に感謝をするのよと云って哀れな頭をこちらへ見せてくる。
 二人はそうしている間もずっと手を握り合っていた。

141: 2016/11/17(木) 20:56:47.04 ID:Dd+qlq25o
 城の中には入れたが、王族の居住空間へ通ずる廊下は兵士によって塞がれていた。しかし昔は城門で検問されたのでむしろ警備は緩くなっている。
 ヘンリーは太后の謀略をおそれて身分を隠すことにした。髪は相変わらずサラサラだが奴隷服なのでばれはせんだろう。
 会議室を覗くと、我らは危うく腰を抜かすところであった。何と城内に武装した魔物がいる。
 恐る恐る近づくと、がいこつへいとさまようよろいと、顔中傷だらけの明らかに堅気でない人間とが群れを成してこの国は好いぞ、太后様は好いぞと無暗に囃し立てている。
 いよいよこの国もおしまいかと思えば、他の正規兵はきちんと連中を薄気味悪く思っているようだ。
 ただ魔物を見てなお「薄気味悪い」で済ませるあたりここの兵士も幾分間抜けのようだ。

142: 2016/11/17(木) 20:59:07.47 ID:Dd+qlq25o
 何やらベッドでうなされている兵士がいる。仮眠室らしく装備を着けたまま寝ているが、汗だくで胸を掻き毟っているから見ているこっちまで苦しくなる。
 頬を叩いて起こしてやると、すまない、悪い夢を見ていたようだと云って水差しを咥える。
 随分酷い事をされたんでしょうね、と気遣ってやるとああ、何の罪もない村を焼いた時なんかは本当に、と云って慌てて口を塞いだが、もう私の耳にそれは届いていた。
 全体どういう訳ですか、それはひょっとするとサンタローズの事ですかと捲し立てれば、兵士は慌てて私の口を抑える。
 もがもがしていると、すまないが、これは城内でも繊細な話題だから太后の耳に入られるとまずいんだ、と云って泣きそうな顔をするので渋々堪えた。
 私はそこの生まれですと云うと兵士は沈痛な面持ちですまない、我々があんなことをしたばかりにと声を絞る。私は兵士の肩に手を置いた。
 もう詰め寄る気力はなかった。彼も被害者の一人なのだ。

143: 2016/11/17(木) 20:59:39.39 ID:Dd+qlq25o
 先の通り王族の間へは入れないから、諦めて城下町へ引き下がると、ヘンリーが何やら思い出した様子だ。
 聞くと王族にしか伝えられていない秘密の通路があるらしく、水路に関係があるとか云う。
 何だそれはと詳細を尋ねるが、また例の如くうんうんと後架にいるおっさんみたようになる。
 手立てがないのでしばらく待っていると傾いていた日がとうとう落ちて夜になった。

144: 2016/11/17(木) 21:03:04.71 ID:Dd+qlq25o
 水路とは城門周りの堀のことだろうが、そんなところに隠し通路があるかねと月の下で疑わし気に城を見ると、あった。
 城門の下に堂々と大きい穴がぽっかりと開いている。昼は橋が降りていて見えないが、夜になると一目瞭然だ。それどころか昼でも角度をつければ目盲でも分かる。
 むしろなぜこんなのに気が付かないか不思議だが、住民からすると当たり前すぎてあれを秘密の通路とは思わんのだろう。
 確かに汚い水路に飛び込んであすこへ侵入する物好きもいまい。よし侵入したとしても王族にしか開けない仕掛けがあってそれで侵入できないんだろう。
 しかし水路に飛び込んで濡れるのは嫌だから、何かあるかと軽く見渡すと、まるで誂えたかのように城に筏がついている。
 まるで十年前にヘンリーを攫ったあらくれ共を思い出して少しいやだが、仕方がない。
 宿で寝ているヘンリーを叩き起こして水路へ向かった。

145: 2016/11/17(木) 21:04:29.87 ID:Dd+qlq25o
 水路から中へ侵入した時、私は思わず口を開けて笑いたくなった。
 筏を上がった先にはこれ見よがしに天鵞絨の絨毯が敷かれ、これ見よがしに祭壇があって、その上にはこれ見よがしにスイッチがある。
 まさかだよな、これは本物でなくって欺瞞のための偽物だろうなと期待してそれを踏んづけてみると、見事に期待は外れ、目の前の壁が取り払われて奥へ通じる通路が現れた。
 私はあまりに馬鹿々々しくなって怒れば好いやら笑えば好いやら分からなかった。
 この「どうぞ侵入し給ヘ」とでも云わんばかりの仕掛けを初めに考えた大馬鹿者が誰なのか本気で知りたくなったが、ヘンリーは真面目な顔でお前目聡いななどと抜かしやがる。
 これでは太后が居なくたってこの国の行く末が案じられるというものだ。

146: 2016/11/17(木) 21:06:32.29 ID:Dd+qlq25o
 中を進んでみると古びていてちと臭う。湿気も籠ったままで黴臭いのと相まってあまり居たい場所ではない。
 それに魔物まで巣くっているとなるといよいよ早く立ち去りたい。そもそも王城の地下が魔物の巣窟というのは如何なものか。
 辟易しつつ進むと奥には牢がある。秘密の抜け道と牢が併設されているのは考え物だが、地下の空間を有効利用する心づもりだろう。
 とはいえあんなにこれ見よがしに巨大なスイッチを設えては意味もないが。

147: 2016/11/17(木) 21:07:31.18 ID:Dd+qlq25o
 牢には鎖で壁につながれた屍がある。
 何をどう判断したのか、ゴルキがやあ、どうもと話しかけるが、返事はない。やはりただのしかばねである。
 ちぇ、もしかしたらなかまかとおもったのにと残念がるが、これは大違いの勘五郎である。
 何せ方々旅して骸骨型の魔物はがいこつへい以外見たことがない。
 骨らしいのも精々スカルサーペントやカパーラナーガだの蛇だか何だかよく分からん連中だし、レヌール城で襲ってきた奴もよく見るとおばけキャンドルであった。
 件のがいこつへいにしたって、武装していて、しかも目玉が宙ぶらりんとしていてまだ腐敗の最中であることから、目の前の綺麗に乾燥した白骨をそれと見るのは見当違いである。

148: 2016/11/17(木) 21:07:57.97 ID:Dd+qlq25o
 それを云ってやるとおかしいな、ぼくのきおくでは「がいこつ」とか「しりょう」とかいろいろいたのになあと不思議そうな顔をする。
 魔界ではどうだか知らんが、人間界に骸骨型の魔物はいないのだ、と決めてかかって先へ進むとこんどは爺さん型の魔物が現れた。
 まほうつかいとか云う方々の魔法使いに失礼な名前の種族だ。しかしどうせ魔法使いらしく体力がないから叩けば一瞬で沈む。

149: 2016/11/17(木) 21:10:04.79 ID:Dd+qlq25o
 少し歩くとまた牢があって、また爺さん型の魔物が入っている。しかしよくよく見ると魔物でなくて本物の爺さんである。それも与えられた少ないの糧食を無暗にかきこんでいる。
 私はその面影に懐かしいものを感じて、おい、爺さんと呼びかけると、振り返った爺さんは目をビックアイの如くかっと見開いて私の目を覗き込む。
 そして手にした皿を抛り出して、お前さんは、パパス殿の息子じゃなと大変な剣幕で押し寄せる。
 私は驚いて、ええそうですがと云うと爺さんはそうか、こんな所にまで来たか、会えて嬉しい限りじゃと声を詰まらせる。
 あなたは十年前に鍋を空にしたあの爺さんですかと訊くと、ぶんぶんと首がもげ落ちそうな勢いで振り回す。
 覚えておいでか、と懐かしむので私も何だか感慨を覚えたが、同時に引っかかるものを感じた。

150: 2016/11/17(木) 21:10:44.43 ID:Dd+qlq25o
「爺さん、あなたはサンタローズに居たのではなかったか」
「そうじゃ。しかしせんだってサンタローズが焼き討ちに遭った時に捕らわれてしまった」
「住民が捕らわれたのは知っているが、その後殺されて骨だけ送り返されたと聞いた。何故あなたは生きているのか」
「さあ、骨になった覚えはないからそれは誠でないのじゃろうが、ここにいるのはわしだけではないぞ」
「どういうことですか」
「サンタローズで捕らわれた住民はみんなここに秘密裏に捕らわれておる。ラインハット太后の命では全員住居共々滅ぼすつもりじゃったのを、哀れに思った兵士たちがわしらをここに隠してくれたんじゃ」
 この事実を聞いて我々は大いに驚いた。何しろ方々で全滅したとばかり聞かされていたのだ。
 あながちラインハット兵士諸君も鬼ではなかったらしい。流石に食事と暮らしは裕福とは云えないが、生きているだけで儲けだろう。

151: 2016/11/17(木) 21:17:36.88 ID:Dd+qlq25o
 さらに奥には先の老人の如くサンタローズの住人が鮨詰めにされていた。
 武器屋のあらくれに、酒場の主人、農家の面々に、たき火男。みんないる。
 私は何だか感激して目をしばたいたが、向こうの方は、あんた生きていたのか、パパスさんはどうなされた、今までどこに、と明朝の鶏舎の如く喧しいので閉口した。
 ここで騒がれて太后側の誰かに感づかれると面倒なのでとりあえず鎮めて、必ず救ってやるからなと約束すると頼んだぞ坊っちゃん、とサンチョみたような口を利く奴が居る。
 そういやサンチョはどうしたと訊くと、どうも十年前に我々が失踪した数週間もせぬ内に旅に出たらしい。
 戦闘のできぬ身では余程苦労したに相違ないが、坊っちゃんと旦那様が余りに心配で飛び出したのだろう。気心は嬉しいがせめて行き先ぐらいは記してほしかった。

152: 2016/11/17(木) 21:18:05.96 ID:Dd+qlq25o
 咽び泣く村民を後にして先へ進めば、ぼろくて汚いが、意匠自体は豪奢なものを着た女が牢にいる。
 そいつは我々の姿を認めると「待ってたもれ」と雅な口調で引き留める。
 はてサンタローズにこんな身分の婦人が居たかなと思うと、なんとその女は十年前にヘンリーを弾圧した太后その人である。
 これはどういうことかと話を聞くと、ある日魔物に連れられてここに閉じこめられてしまったらしい。
 その後は何やら偽物が入れ替わって政治を行ったらしいが、その間本物の太后はここでひもじい思いをしたようだ。

153: 2016/11/17(木) 21:19:25.32 ID:Dd+qlq25o
 私は少し気の毒だと思ったけれども、かつてやった所業についてはっきりさせておこうと思って、身分は伏せていくつか質問をした。
 ヘンリーをさらわせて亡き者にせんとしたのは彼女で間違いないらしい。そうして実の息子に王位を継がせようとしたのも哀れな一抹の親心であるとも云った。
 私は前にヘンリーに聞いた、太后が易に傾倒していたという事実に鑑みれば、この親心も偽物を立てる不心得者の計略であると見抜いたが、ヘンリーにとってはどうでもいいようだ。
 十年前に自分を虐めた太后が圧政を強いていたのでないと知って大いに狼狽し、彼女の扱いに迷っている。
 幼少の自分への仕打ちをここで復讐するか、あるいは罪を赦して救ってやるか。
 私はヘンリーの意向に沿う気で居たので何も云わなかった。ヘンリーはそれでも決めかねたと見て、そこを後にした。
 後ろからそなたは、もしやと息を呑む音が聞こえたが、悪意の謀略によって奴隷に身を落とした王子は振り返りもせずに路角へ消えた。

158: 2016/11/18(金) 20:43:18.44 ID:mtHxRPbco
        四

 水路の終点が見えて、ようやく臭いから解き放たれるなと安心した刹那、後ろに気配を感じた。
 誰だ、と威嚇して叫べば、失礼、永らく魔物の身分に窶していた故礼儀を忘失し候と何やら物々しい口調の声が聞こえた。
 はたして角から身を現したのは鉄仮面に鎧に盾、そして剣を手にした仰々しい騎士の魔物であった。

159: 2016/11/18(金) 20:44:34.81 ID:mtHxRPbco
 しかし大きさは精々人間の子供くらいで、上背の頼りなさを足下の巨大なスライムに乗ることで誤魔化している。
 所謂スライムナイトと呼ばれる連中である。先ほど群れて出てきたので一網打尽にしてやったところだった。
 何だ貴様は、と再度問えば我は孤高にして至高の騎士ピエール。お初にお目にかかるとちっこい頭を深々と下げる。
 ピエールと云うから何やら仏蘭西の者らしい。はあ、遠路遙々ようこそラインハットへと挨拶をすればふんと鼻を鳴らして得意になっている。いよいよ何だこいつは。
 ヘンリーがやい、魔物風情が我々人間に何の用だといつになく苛立たしげに発言すると、ピエールは「あなた方の勇猛果敢振りを拝見してこの虚ろの体に響く感興があった。是非仲間にして頂きたく候」とまた腰を曲げる。

160: 2016/11/18(金) 20:45:34.57 ID:mtHxRPbco
 どうやらこいつもゴルキと同じく私を見て改心したらしいがとんだお門違いだ。我々は何も戦いたくて来ている訳ではない。
 果敢な戦いが見たければオラクルベリーにでも行ってカジノに入ればいい。文字通り命がけの血みどろな戦いをいくらでも鑑賞できる。
 そう云ってやったがピエールは貴君の目にどこか懐かしいものを感じる。どうか連れて行ってくれとなおせがむ。
 何故ここまで執着するか分からんが、説得も疲れるし面倒なのでここは立場の近いゴルキに任せることにした。
 きっちり断っておけよ、と釘を差して送り出せば、二人、もとい二匹……いや足下の緑色のスライムを含めれば三匹で何やら話し込んでいる。
 その間に我々人間組も話し合うことにした。

161: 2016/11/18(金) 20:47:31.48 ID:mtHxRPbco
 さっき目にした太后が本物であるとすれば、上で悪政を取り仕切っている太后は偽物だろう。話によるとしかも魔物らしい。
 そうなると偽物であると見破るのは些か用意ではない。人間の変装なら顔の皮を引っ張るかを水掛ければ済む話だが、魔術的であれば解くのは難しい。
 何か彼女を見分ける身体的、あるいは精神的特徴はあるかと尋ねるがヘンリーは首を横に振るだけであった。
 まあ自分を殺そうとまでして憎んできたような女の特長など知っている訳がない。
 これでは上の偽太后をふん縛るのも骨が折れそうだな、と思っていると、魔物諸兄の談合が終わったようだ。
 達した結論は、ピエールも我々に追随するというものであった。

162: 2016/11/18(金) 20:49:32.69 ID:mtHxRPbco
 私はゴルキを両手で締め上げて、おい、諦めるよう説得したよなあとぎりぎりくれてやるとだってだってと往生際が悪い。
 何でも一度で好いから彼を使ってみて、それから決めても遅くはないということで逆に説得し返されたらしい。
 確かに勝手についてくる分には問題はない。けれども蘇生は金と手間がかかるから、一度氏んだらそのまま肥料にしてやるからなと忠告すればそれで結構と了承する。

163: 2016/11/18(金) 20:53:54.77 ID:mtHxRPbco
 階段を上がると城の中庭に出る。青々とした緑の中にぽつぽつと花が咲き、犬らしきものが駆けまわっている。
 ここで私が犬らしき、と表現したのは何も犬か否かも判別できんほど目が鈍ったわけではない。実際傍目で犬かと思えば、実際はドラゴンの子供が放されていたのである。
 太后もずいぶん物騒なペットを飼っているが、新戦力を得た我々の敵ではない。お手並み拝見とピエールを繰り出してみれば、存外やる奴だ。
 重い剣を振るえる上に回復呪文まで抜け目ないとは、ことによるとヘンリーよりも余程戦闘に役立つ。
 初めは三人で戦闘を担当しようと思ったが、そうすることに別段何の理由もないので四人でかかることにした。

164: 2016/11/18(金) 20:54:21.17 ID:mtHxRPbco
 犬の振りをしたドラゴンを一掃して城の中に入れば、十年前と似たボイが厨房にいる。
 ヘンリーが今し方拾ったドラゴンの尻尾をその背中に抛り込めば、関所の騒動の再演が催された。
 これで大抵の人に好かれているから不思議である。逆にただ同情をかけられていただけというのなら、翻ってむしろ可哀想になるが。
 

165: 2016/11/18(金) 20:55:02.85 ID:mtHxRPbco
 二人がかりでピエールを隠しながら上階へ昇ると、元々第二王子のための部屋に大学者デズモンとかいう偉い学者先生が招かれている。
 何でも生き物の形の由来と未来を研究しているそうだ。太古にはそれを紐解く秘法があったらしいが、どうも眉唾だ。
 本人も存在を危ぶむくらいだからきっとほら話にすぎんだろう。
 東の第一王子の部屋は今は誰も使っていないようだ。それどころか十年前と変わらず綺麗で、机やいすの配置も変わっていない。
 そして当然ながら椅子の下の抜け道も健在だ。ピエールをここに置いて、万が一人に見つかりそうならここから逃げろと云っておいた。

166: 2016/11/18(金) 20:56:14.81 ID:mtHxRPbco
 玉座の間には随分若い王と禿茶瓶の大臣が居る。 
 寄れば、大臣が君らはあの大学者の連れかねと聞くので、うまく嘘の吐けない私は尻込みしたが、隣の緑髪サラサラ第一王子は威勢よく「はい」と答えやがる。
 すると大臣はそれをすっかり信用したようで、今デール殿は体調が優れないようだから後で馳せ参ぜよと云う。
 本当に具合の悪そうな王も今日の所は退室願おう、と昏い声で云った。
 ところがヘンリーは両人の忠告もお構いなしに玉座に近づいては、顔の青い王に耳打ちをする。
 大臣が慌てて駆け寄るが、もう遅い。目の前のデール王の耳には「されど王よ、子分は親分の云うことは聞くものですぞ」と云う警句が届いていた。

167: 2016/11/18(金) 20:56:54.72 ID:mtHxRPbco
 デールはまさか、いや、ばかな、とますます青ざめている。大臣が無礼であるぞと云ってヘンリーを引き離す。
 すると若き王が厳かな声で、下がれ大臣、と命じる。呆気に取られた大臣がは、いやしかしと食い下がるが、王は私やヘンリーでさえ竦み上がるほどの大声で下がれ!と叫んだ。
 大臣はあまりの事に動揺を隠せないで、は、はあと訳の分からぬまま退室した。
 王は疲労の色を隠せないで居ながらも、先程とは打って変わった表情をしていた。
 ヘンリーが久しぶりだな、デールと呼びかければ、兄さんも、相変わらず無茶だねと笑う。
 そうして兄弟は抱き合った。異母兄弟といえどその繋がりは確かなようで、彼らは十年来の再会の喜びを噛み締めていた。

168: 2016/11/18(金) 20:57:37.15 ID:mtHxRPbco
 ヘンリーが事情を説明すると、デール王は一も二もなくあいわかった、偽母上の正体を暴く手助けをしようと云ってくれた。
 しかし肝心のその方法が我々は分かりません、と云うと、デールは一つの伝承を話し始めた。
 曰くある所に伝説の鏡があって、それに映された者は例外なく真の姿を暴かれ、その身に纏う偽りを取り払われるというものであった。
 もしそれが実在するものであればそれに越したことはないが、都合好くそうそうあるだろうか。
 そう思うとデールが僕の記憶は曖昧だから、地下の史料を調べると好いよと云って城の親鍵をくれた。
 有り難いが、太后の如く我々が偽物である可能性を少しも示唆しない辺りこの王も抜けている。

169: 2016/11/18(金) 20:58:09.23 ID:mtHxRPbco
 倉庫と云うとヘンリーがあらくれ共に攫われた現場の近くらしいので、ヘンリーの部屋の抜け道から向かうことにした。
 ヘンリーに、おい、私は以前ここを下りた時に怪我をしてしまったのだが、君はどうやって降りたのかねと訊くと、こうやってだといって後ろ向きに這って体を差し入れる。
 そうしてある程度体を押し込めたら、えいやと飛んで下に消えた。
 以前は構造など碌に知らないから不意を衝かれたが、方法を知ればできないことはない。念のため懐にゴルキを忍ばせたが要らぬ心配だったようだ。
 しかし上からピエールが漢らしくどっすんと降りてくるには驚いた。
 奴は緩衝材代わりのスライムがいるから問題はないんだろうが、一介の騎士として些かやんちゃすぎるような気もする。
 私も今度はゴルキを当てにして飛び降りてみようかしらん。

170: 2016/11/18(金) 21:00:33.52 ID:mtHxRPbco
 廊下には立派な錠前の付いた物々しい鉄扉がある。
 デールから渡された鍵を使って開けると、中は埃と煤だらけで大分汚い。
 棚を検分すると、これまた古臭い日記があるのでぱらぱらと読んでみた。すると一つ気になる記述がある。
「遠方南に崇高長大なる悠久の塔峨々と屹立して御鏡祀り之羅織虚構暴きて真映せし神域にて求むれば塔の果てしなきこと山の如く門扉の堅牢なること岩の如くして万人これを置く。
後に聞きてし太古の伝承曰く、"堅門則ち聖なる女人のひたむきな祈りにて開かん"と。」
 古文書らしく文語体で幾分読みにくいが、要は南の塔に神器が祀ってあるらしい。
 それもどうやら真実を映す鏡らしいが、肝心の塔が難攻不落とあっては参る。しかしこれがあればニセたいこうの姿を暴くのには困らんだろう。

171: 2016/11/18(金) 21:07:06.60 ID:mtHxRPbco
 城を出ようとするとヘンリーがこっちに旅の扉があるから、それで近道をしようと云った。何でも瞬時に遠い場所へ移動できる便利な魔法陣があるそうだ。
 旅の扉とは不思議な空間で、視覚的には青い渦が空中に螺旋を描いて漂っているような形だ。
 渦の中心は透明な光が散乱していて、まるで深い滝壺を覗き込んでいるような気分になる。
 未知に対して抵抗のある私は少々蹈鞴を踏んだが、危機察知能力より好奇心の勝るヘンリーは少しも怖じ気ず飛び込んだ。
 これで置いて行かれるとヘンリーに馬鹿にされそうなので追いかけて渦へ飛び込んだ。
 視界は光の奔流に飲み込まれて潰え、歪んだ奇妙な螺旋が脳内を跋扈する。はたして体の一切の感覚が失われ、やがて意識も白い虚無へと消えた。

172: 2016/11/18(金) 21:08:39.68 ID:mtHxRPbco
 気が付くと、我々は古びた祭壇らしき場所に居た。
 構造物は半ば瓦解しているが、代わりに蔓や苗木が石畳の隙間を不承々々といった体で生えている。
 私とヘンリーと魔物二三匹は無事に飛ばされてきたようだが、おかしなことに外に置いていたはずの馬車までついてきた。
 全く持って不思議な話だ。古書によれば南に塔があると云うから、南に赴く。

173: 2016/11/18(金) 21:10:27.88 ID:mtHxRPbco
 少し歩けばすぐにその外観が目に付いた。しかし実際の高さは果てしないという割には存外低い。我々が樽に詰められて落とされた華厳の滝の方がよっぽど高いに極まっている。
 どれ、昔は開かなかったそうだが今はどうかと手をかけて押してみると、やはり扉はうんともすんとも云わない。
 塔の外壁には柱のような装飾があって、そこの隙間から侵入できそうだが、ゴルキを投げ入れてみるとどうも登った分だけ落ちてしまう仕組みらしいから、強行突破は諦めた。

174: 2016/11/18(金) 21:11:06.43 ID:mtHxRPbco
 日記の言によれば、扉を開けるには聖なる女人、つまりシスターが必要らしい。
 それならそこらのシスターでも軟派してくるが好かろうとヘンリーに云うと、分かったと返して出立する。
 おい、どこまで遠征するつもりだと訊くとなんと海辺の修道院まで行くと云う。
 聞けばマリアを誘い込むつもりらしいが、最近洗礼されたばかりの半可者ではおよそ役に立つまい。ただマリアに会いたいだけだろう。

175: 2016/11/18(金) 21:13:19.39 ID:mtHxRPbco
 一旦ラインハットへ戻って、関所、橋、オラクルベリーと経由して修道院へ戻った。
 我々の姿を見て修道女らは茶を出して手厚く迎え入れてくれた。帰る場所があるというのはやはり嬉しいものだ。
 旅の疲れを癒していると、修道女がマリアさんは実に敬虔で麗しいですが、最近は妙に寂しそうで気の毒にございますと云うので、ヘンリーがそれはきっと、おれが傍にいないからだろうと胸を膨らませている。
 私がどうだろう、ことによると私かもしれないぜと云うと、そうかね。何れにせよマリアに聞けばわかることだとヘンリーは茶を不作法に啜りながら云った。
 私が、なら求婚するついでに聞いてみるよと出し抜けに云えば、ヘンリーはぶうと吹いて修道女から差し出された茶をすべて床にぶちまけた。

176: 2016/11/18(金) 21:16:57.18 ID:mtHxRPbco
 ヘンリーはいきなりどうしたと云って激しく咽せている。
 私はオラクルベリーのカジノで出会った大気炎を吐いていた男を挙げた。
 あいつの助言を受けてマリアに対峙しようと思うが、もし君もそうする心積もりがあったら、欺撃する真似は卑怯だからこうして君に伝えておくんだと云った。
 ヘンリーは初め動揺していたが、しばし黙して、好かろう、気が済むまで求婚なり大根なりするが好いと云ってそっぽを向いた。
 おやと思った。覚えによればヘンリーもマリアに好意を抱いていた印象であったが、あくまで私の早とちりだったかしらん。
 何れにせよ許可は頂いたんだからマリアに会えば早速敢行する所存である。

177: 2016/11/18(金) 21:17:30.22 ID:mtHxRPbco
 数週間ぶりにマリアに相対した時、その不変の美貌に我々は声を失った。
 しばらく二人で囲んで見ていると、そんなに熱心に見つめられると困りますわと云って顔を赤らめる。そのいじらしい姿に我々は頬を緩めた。
 三人で和気藹々と談笑していると、ふとマリアがお二方も雰囲気が変わってらしたのね、どこか翳がありますわ、と心配そうに云う。
 我々自身では己の顔に翳が差したようには感ぜられないが、神殿より抜け出て以降明るい日差しに当たり続けている彼女からすればそう見えるのだろう。
 実は、とサンタローズとラインハットの近況を告げると、彼女もやはり悲哀の表情を浮かべた。
 少しく言葉をなくした彼女は、お二方共々、さぞや辛かったでしょうに、そんなに笑顔を繕えるのはよっぽどお強いですのねと云ってほめたたえてくれた。 
 すると二人していやあ、と照れる。そして何も云えなくなる。いくら剛健としても女子に耐性がないとこのざまだ。 

178: 2016/11/18(金) 21:20:46.51 ID:mtHxRPbco
 ヘンリーが事情を説明するとマリアは同行を快く受け入れてくれた。魔物の出る中でも敢然と決行する様は女と思われぬほど勇猛だ。
 ただ、後から聞いてみるとこの時はヘンリーについて行きたいが為に発起したそうだから俗な決意である。
 そうとは知らない当時の私は好い機会だと思って、マリアに大事な話があると云って居住まいを正した。
「どうなされました」
「いえ、別段どうと云うことはないんですがね。……時にマリアさんは結婚について考えたことはありますか」
「はあ。いいえ、まだ特段極まった話があるわけではないですが」
「さいですか。でしたらどうです、私の所へ嫁に来てはくれませんか」
 そう、私が単簡に云ってのけてやると、マリアは「えっ」と目をまん丸にして驚いている。隣のヘンリーは縋るような、祈るような目つきで我々を見ていた。
 

179: 2016/11/18(金) 21:23:25.21 ID:mtHxRPbco
 マリアは狼狽して、返答に少し戸惑っていたようだが、やがて決然として「ごめんなさい」と云って頭を下げた。
 男児たるや、ただ単簡にごめんなさい一つで済ませられて、それを受け合って「はいそうですか」と相成るわけにはいかない。ここが踏ん張り所だ。
「どうしてですか。私に甲斐性がないように見えますか」
「いえ、そんなことは決して。ただ、私には心に決めたお人が居ますので」
 これは驚いた。修道院で純粋培養されているはずの彼女に男の触れる機会があったとは。
「全体誰ですか。その心に決めた御仁というのは」と硝子玉のような目玉をかっ開いて詰問すると、
「ええと。それは……」と云って、顔を赤くして俯向いてしまった。
 口をもごもごさせているが判然としないので、もっとはっきりお云いなさいとけしかけてやると、さっと顔の朱を振り払って、
「実は、ヘンリー様が好きにございます」と云った。

180: 2016/11/18(金) 21:24:45.64 ID:mtHxRPbco
 これを聞いて私は鼻白んだ。他の男君であれば納得の行くものだが、よりにもよってこの緑髪サラサラ野郎に惚れることもあるまい。解しかねて、
「こいつの何処が好いんですか。王子だからですか。髪がサラサラだからですか」と云うと、「そんなやましい理由じゃありません」と憤慨する。
 やましいとは前者の王子に掛けているんだろうが、話の流れだけ聞けばサラサラ頭もやましく聞こえるから不思議だ。
「身分とか、立場とかはどうだって好いんです。ただ私が彼を好きで、彼が私を好きだからそう云うんです」
 私はますます鼻白んだ。マリアだけでなく、ヘンリーまで彼女を慕っていたって?
「おい、君はマリアの事が好きだったのか」と首を回して問いつめると、「いやあそのう」とのつそつとした返事が返ってきた。
 馬鹿らしい。両思いなら早く云えば好かったのに。何だって人の玉砕を止めずして見送って、隣で以てその粉砕ぶりを眺めているのか。卑しい見学客だ。

181: 2016/11/18(金) 21:27:33.91 ID:mtHxRPbco
 しかしヘンリーがこの麗人に惚れるのは分かるが、聖女マリアが全体この精神的に向上心のない馬鹿の何処に魅力を見いだしたというのか。私は権力はないが、人格なら王子の彼にだって負けていない。マリアも身分立場を鑑みんと云うのであれば、私にだって候補になる資格はあるだろう。
 そう云うと、マリアは聖女にあるまじき侮蔑の眼差しを携えて、
「だって、あなたはヘンリー様と違って、綺麗になった私を見てから惚れたんじゃありませんか」と云った。
 これは参った。別段私は綺麗な乙女と見るやたちまち執着する習性があるわけでもないのだが、この指摘には正直参った。心の臓腑を白木の杭で以てぐさりとやられた気分だ。

182: 2016/11/18(金) 21:29:20.68 ID:mtHxRPbco
 マリアは奴隷時代の頃から我々の傍に居て、奴隷らの食事の分配や衣服の洗濯などを受け持つ雑用にかかっていた。
 体格の細い女人は大抵そうだが、殊に彼女は力が無く、よくものを取り落としていた。ヘンリーはそれを見かねてそれを手伝ったり優しく声をかけてあげていたのだった。
 これがはたしてマリアにすり寄るための計略か、はたまた生来の優しさかは判然としないが、ともかくそれに心を潤わせたマリアは彼に感謝と恋慕の思いを抱いたに相違なかった。
 一方私はというとそんなおっちょこちょいに掛けてやる慈悲もない、と後のゴルキの扱いに通じる冷淡さで切り捨てて無視していたのだが、これが仇となったようだ。
 奴隷時代の卑しい姿を見せた時分から惚れ合った相手と、綺麗に見違えたと見るや掌を覆して求婚してくる野卑な男のどちらを選ぶか、これ以上ないくらい明白だ。

183: 2016/11/18(金) 21:31:48.72 ID:mtHxRPbco
 私は自分のしでかした行為を色々と恥じて、萎縮して固まってしまったのだが、隣のヘンリーは対照に大変輝いている。
「マリア。こんな甲斐性のない王子で好ければ、嫁に来てくれますか」といつになく爽やかな顔で云うと、マリアは「もちろんですわ」と花のような笑顔を見せてこれを承る。
 つまらない。とんだ茶番だ。彼らの親好を知らない私はまんまと道化を演じさせられたわけだ。そんなに仲が好かったのなら教えてくれたって好さそうなものだ。
 後で聞けば、既にヘンリーはマリアへの告白を済ましていたらしい。それだからマリアが私の求婚を受けてどう出るか試してみたかったそうだ。
 だとしても私にそれを教えてくれたって好いじゃないか。なぜ黙って、私の告白が砕け散る所を懐手をして見守っているのか。厭な真似をする王子だ。
 幸せそうに手を握りあう二人を置いて、私は修道院を出て海に向かった。
 そうして誰の如くというわけでもないが、何とはなしにそうしたい気分に駆られて、「海の馬鹿野郎。」と叫んだ。

191: 2016/11/20(日) 14:49:53.78 ID:LzY42jvCo
 私はその日寝るまで機嫌が悪かったが、翌朝になってみると昨日までの自身の卑しいことが如実に思い起こされて大いに恥じた。
 きっとオラクルベリーの男に煽動されて起こった気ではあるが、それを理知的に受け止めて可否を断ぜられなかったのは甚だ遺憾である。
 起き抜けのマリアに昨日はどうも、失礼をしましたと云うといえ、もう気にしてません。
 それに、あれほど冷淡だった人が惚れてくれるくらいの器量が私にあったのだと自信がついたのですから、むしろ感謝したいくらいですわ。そう云って彼女は笑顔を見せる。
 人の失敗を侮辱せんばかりでなく成長の栄養へと昇華せしめる気遣いに心打たれた。
 そうして彼女の精神に少しばかりの慕情が仄めいたが、今更どうしようもないのは残念の至りである。

192: 2016/11/20(日) 14:50:27.31 ID:LzY42jvCo
 修道女らに挨拶を済ませて修道院を発つと、北へ進む我々をマリアが引き留める。
 説明にあった南の塔であればここより橋を渡った南にありますよ、と云って我々を先導する。
 はたして南東にある橋を渡ってみると、すぐそこにラインハットから飛んできた旅の扉の祭壇がある。
 となればすぐ近くに果てしなき塔があるわけで、我々はこれほど近い二間距離をわざわざ遠い道廻りで巡ってきたという事になる。
 おやおやと思った。行く先が知れないんじゃ旅の扉も存外役に立つやら立たないやら分かったものではない。

193: 2016/11/20(日) 14:51:23.93 ID:LzY42jvCo
 出発の際にマリアを馬車に乗せて行こうとしたが、例の酷い臭いがまだ残っているぞとヘンリーが忠告する。
 ではどうする、と相談すれば、マリアの方は大丈夫です、全然構いませんわ、と云って遠慮なく臭い所へ赴く。
 しかし我々は、馬車に魔物二匹を隠していたことをすっかり失念していた。
 マリアの絶叫に反応してすぐさま駆けつけると、怯えて真っ青になるマリアと、何とか和ませようと顔を珍妙に歪めるゴルキと、あたかも人形ですよと云わんばかりに脱力して転がるピエールがそこに居た。
 そいつらは改心して人間側に寝返った連中ですと説明をすればどうにか納得のいったようだが、マリアがそれ以降馬車に近づくことはなかった。

194: 2016/11/20(日) 14:59:15.16 ID:LzY42jvCo
 さて南の塔へ着いてみると、大の男二人と魔物二三匹の力づくでも開かない堅牢な扉がある。もはや取っ手も鍵穴もなければ、それは扉でなくて壁である。
 聖なる女人とはいえ、こんな壁に対し何ができるのやらと思っていると、マリアは跪いて何やら祈り始めた。
 すると何処からともなく光が漏れ出たかとおもうと、あれだけ頑固だった壁が独りでに開いた。
 古文書の記述は正しいことが証明されたが、よくもまあこれだけ都合の好い伝説があったものだ。
 マリアは役目を無事に果たせたことに安堵してほっと息をついている。
 お役に立てて本当に好かったですわと爛漫に微笑むマリアに、好かったな、とヘンリーが云ってやる。
 私も一言何とか云おうと思ったが、二人が交わす視線に気圧されてついぞ黙っていた。

195: 2016/11/20(日) 15:01:11.11 ID:LzY42jvCo
 ここからはきっと魔物が現れますから、馬車で待っているが好いでしょうと云うとヘンリーがいや、彼女も連れていこうと云って反対する。
 塔の内部には魔物だけでなく危険な罠が仕掛けられているかもしれない。連れて行って危険に晒したらどうすると云って諭したが、彼は何故か今回ばかりは譲らなかった。
 正直この二人をくっつけたまま進行するのは私の精神衛生上大変な損害であるから是非とも安置しておきたいのだが、恋人と一緒にいたい一心の王子は頑として譲らない。
 すると恋人と一緒にいたい一心のマリアが、私も行きますと云った。
 鍵が掛かっているくらいだから危険ですよと脅したが、誰も居ない外で一人で居る方が危険ですと云う。
 確かに我々男手が昇っている間は彼女は一人だ。ではゴルキとピエールに守ってもらえば好いでしょうと云うと、嫌です、と魔族全般に拒否反応を起こす。
 ゴルキとピエールがすっかり悄然としてしまったので、私は彼らを慰めながら塔を昇る羽目になった。

196: 2016/11/20(日) 15:02:31.31 ID:LzY42jvCo
 塔は外見程武骨でなく、案外装飾も趣向を凝らしていて美麗だ。
 中庭も草花が生い茂り、溜池の水が清澄としてたゆたっている。
 その時、私は驚くべきものを目にした。現実には起こりえないはずの現象が、確かにそこにあった。

 父と母の姿が中庭の半ばで佇んでいた。

197: 2016/11/20(日) 15:05:21.18 ID:LzY42jvCo
 私は父さん、と叫んだ。そうしてそれに一目散に駆け寄った。
 二つの顔がこちらを振り返った。逆光に翳るその面立ちは光に滲んで判然としない。
 近寄り、手を伸ばし掴んだそれは、手に僅かな実感を残して儚く霧散した。
 懐かしい姿は既になく、辺りは相変わらず静寂に包まれている。
 私は両の手を握り、残る微かな色と匂いをそこにとどめようとした。

198: 2016/11/20(日) 15:06:07.07 ID:LzY42jvCo
 置き去りにした面々が私に追いついた。
 彼らも私が見た幻影を同じく発見したらしい。
 マリアによればこの塔は人の望みを映す力が宿っており、その縁として神鏡が祀られていると云う。
 先の幻影も魂を見通す力が私に働いた結果なのだろう。よくもここまで適切に私の望みを映したものである。

199: 2016/11/20(日) 15:09:20.89 ID:LzY42jvCo
 それ以降幻影と出会うことはなかった。
 代わりに待ち受けているのは土偶だの触手の生えた目玉だのフラダンスを踊る口裂け女だのといった不気味な連中ばかりで気が滅入った。
 塔は上へ進むと吹き抜かれて床がない箇所がある。落っこちてしまわないよう注意して進むが、やがて行き止まりに当たる。
 おや道を間違えたかなと思って引き返すが、他に道はない。
 とうとう昇る道がなくなったから、くたびれた我々は一階の中庭に降りて体を休めた。

200: 2016/11/20(日) 15:12:22.92 ID:LzY42jvCo
 マリアが「今日は長い旅になると思って、弁当を拵えてきました」とバスケットからほいほい食物を取り出す。
 私とヘンリーなんかは狂喜して、いただきますも云い終わらない内に手を着けた。
 腹ごしらえを済まして満足した我々は少しばかり午睡を取ることにした。
 ゴルキとピエールに見張りを任せて体を横たえた。
 うとうとと、夢心地に陥った私は父と母の夢を見た。

201: 2016/11/20(日) 15:13:51.09 ID:LzY42jvCo
 二人ともいやに若い。母の顔は薄いレースが掛かっているようで判然としないが、何でも若くて美しいということだけは分かる。
 どうも空気の薄い所にいるようだが、父は薄汚い格好で、母はかなり綺麗な衣装だ。
 やがて二人が非常な勢いで駆けだし、荘厳な城に着いた。
 二人は中へ赴き、壮麗な衣装に着替えて民衆に手を振っている。まるでどこぞの国王と王妃のようだ。
 父と母が口づけを行おうと云うところで、私は目が覚めた。
 十年前にも似たような夢を見た気がする。その時は父に笑われたからこれも根も葉もない妄想だろう。

202: 2016/11/20(日) 15:14:51.67 ID:LzY42jvCo
 目を擦ると周りにヘンリーとマリアがいない。ぐるりと巡ってみると物陰から二人が現れた。
 私が訝しげな顔で何をしていたんだと訊くと、ヘンリーがいや、大したことじゃない。厠の番をしていただけだと云った。
 成る程マリアも一介の女子であるから男性諸君の如く一物を引っ張り出して小用を済ませるわけにもいかない。
 魔物の蔓延る領域ともなれば場所には気を使うし、万が一の急襲を恐れて番人を立てるのも頷けた。
 ただ、二人とも少し衣装が崩れて上気したような顔になっているのは何故だろうか。

203: 2016/11/20(日) 15:16:54.20 ID:LzY42jvCo
 頭をすっきりさせたところで塔の内装をもう一度入念に調べてみると、初めは気がつかなかったが柱の陰に通路がある。
 それも例の巨大な吹き抜けと隣接しているので、もし足下を滑らせでもしたら一階の庭園に赤い花が咲くことになる。
 後ろの隊員に精一杯の忠告をして、最大限の緊張を持って渡っていると、案の定誰かが滑り落ちる悲鳴が聞こえた。
 目玉だけをぐるりと動かして窺ってみると、どうやら落ちたのは人間ではなく魔物で、しかも衝撃吸収能力の高い軟体生物らしいから一安心して抛っておいた。
 無事にキャットウォークを突破すると、塔の頂上に神々しい祭壇がある。
 しかし、その祭壇まで続いているはずの廊下は途中で途切れていて、遙か下方の庭園の泉が見える。
 廊下の切れ目はそれなりに幅があって、我々に到底飛び越せる距離ではなかった。

204: 2016/11/20(日) 15:17:26.27 ID:LzY42jvCo
 我々が最前で策をあぐねていると、マリアが何やら思い出したように口を開いた。
 何でも海辺の修道女に聞いた話には、道なき塔の天頂に達すれば即ち勇気を以て踏み出よと云う。
 勇気を頼りにして中空に足を投げ出すのは些か不安だが、どうせ方法が分からないんだからそれしかない。
 制止する二人と一二匹の声を後目に、私は途切れた廊下へえいや、と飛んでみた。
 今考えても無鉄砲の極みである。もしこれで私の命運が決すれば後ろの隊員はおろか遠い父母さえ笑ったろう。
 ただ、ポワンばかりは泣いて悲しむかも知れない。

205: 2016/11/20(日) 15:19:06.98 ID:LzY42jvCo
 しかし、宙へ投げ出した私の体は落下しなかった。
 見ると体が宙に浮いている。足は地を踏みしめている感触があるので、屈んで探ってみると透明の足場がある。
 どうも真ん中だけ道がなくて脇が通れるような構造だ。正道を行くものが馬鹿を見るとは鼻持ちならんが後ろの連中にそのことを告げた。
 ピエールやマリアは慎重を期してそっと差し足をしていたが、ヘンリーは私を真似てえいや、と飛んでは足を滑らせて危うく落ちそうになる。
 マリアの前だからと格好をつけたって氏んでは元も子もないぞと叱るとおまえだって今飛んだじゃないかと反駁するので、私のは君みたような蛮勇でなくて己の命を賭した立派な博打である。それに最前のように失敗もしなかったぞと胸を張ったら、ぐぬぬと呻いている。
 納得の行かない顔だったので、私は身寄りのない独り者だから好いが、君には家族と恋人が居るんだから無暗な真似はするな云ってやると、やっと王子は真剣な顔つきで頷いた。

206: 2016/11/20(日) 15:24:20.02 ID:LzY42jvCo
 祭壇へ無事たどり着いた我々はかの一点の曇りのない御神鏡を目の当たりにした。
 近づくだけで神域のそれと分かる鏡は暮れゆく夕日を目映く映し出し、我々の姿を全く暴かんとする崇高な輝きを放っていた。
 美しい神鏡を手に取り、正面に向かって翳すと、辺りを閃光が覆った。

207: 2016/11/20(日) 15:26:46.03 ID:LzY42jvCo
 すると後ろの二人が悲鳴を上げた。視力を取り戻した私が振り返ると何とそこには一糸纏わぬ姿の男女が立っていた。
 マリアはすぐさましゃがんで裸体を隠し、ヘンリーは慌ててピエールの盾を金隠しに仕立て上げている。
 何事が起きたのか咄嗟に判断は出来なかったが、何とはなしに手に持つ鏡を懐に入れてしまうと、二人の服は何ともなかったかのように再び現れた。
 憤慨気味のピエールが盾を取り返して、書記の通り、その鏡の効力は確かであるなと頷いた。それで私は理解した。真実を映す鏡はたった今その役割を果たしたのだ。

208: 2016/11/20(日) 15:31:11.70 ID:LzY42jvCo
 鏡に嘘を暴かれた二人を問いつめてみると、どうも先の午睡中に二人で睦まじくしていたらしい。しばらくぶりに出会って我慢が効かなかったそうだ。
 私は怒れば好いやら呆れれば好いやら分からなかった。ただ黙って彼らを眺めていた。不思議なことにそれは叱責以上に効果があったようだ。
 先の私の問いに対する「大したことじゃない」という嘘に反応して鏡は煌めいたんだろうが、その程度の誤魔化しも許さんとは余程厳しい基準だ。制作者の狭量さが窺える。
 何にせよ真実を映すとは恐ろしい効力だ。滅多なことで使うのは止した方が好いだろう。
 羞恥で真っ赤になっている二人を連れて塔を降りた。

209: 2016/11/20(日) 15:32:40.62 ID:LzY42jvCo
 人間も所詮動物の一員であり、また動物である以上自己保存の本能はみな等しく分け与えられてるから、斯様な行為に及ぶのも健全たる男女の生理学上仕方のないことだ。
 そう云って慰めてやっているのだが、あまり手応えがない。ずっと耳を赤くして俯向いている。
 特にマリアは神聖な身分にいるくせに肉欲に溺れた咎をひしひしと感じているのか苦しげな表情で少し可哀相だ。ヘンリーは責めるような目つきでこちらを睨めている。
 しかし何も私が暴いたわけではない。むしろ午睡の後の様子から察して詮索を避けていたのに、御神鏡様が勝手にやったことだ。そもそも最前から真実を暴くと再三云っていたのを無視して嘘を吐いたのが一体悪いんである。そう下した私は別段罪の意識もなかった。

210: 2016/11/20(日) 15:33:06.17 ID:LzY42jvCo
 一階の庭園には青い染みが広がっていた。少しくどきりとしたけれどもマリアの祈りで何ともなかったかのように復活するから安心した。
 スライムも存外しぶとい生き物だ。ゴルキは落下氏したことも忘れてぴょんぴょんと元気に跳ね回っている。
 外は既に日が暮れていた。女を連れての夜道は危険極まりないので庭園で夜を明かした。
 我々の預かり知らぬ所で安全を確保できるのであれば、存分に致すが好いと云ってやったが、結構です、もう十分だぜと遠慮する。精力旺盛だか貧困だか分からん奴らだ。

211: 2016/11/20(日) 15:35:53.70 ID:LzY42jvCo
 朝になると、昨日まで離していた寝床がヘンリーとマリアの分だけ一緒くたになっている。おやおやと思った。また鏡が煌めいても知らんぞ。
 しかしもう開き直ったのか、連中、起き抜けから堂々と公衆の面前で乳繰り合い始めた。
 別段乳繰ると云っても厭らしいことはない。ただ仲良くあははうふふと笑い合うだけであるが、このときの私の目にはそう映えた。
 独身者の僻みと切り捨てればそれまでだが、面前で以て堂々といちゃつかれては誰だって好い心持ちはしないだろう。それが友達と好いた女のものであれば尚更だ。
 やにわに私も恋人が欲しくなったが、前段のように私は冷淡で、横暴で、簡単に口車に乗せられる軽薄者と明示されてしまった。
 私が振られるよりも、私と一緒になって不仕合わせになる将来の恋人が不憫で仕方がなかった。

212: 2016/11/20(日) 15:36:43.07 ID:LzY42jvCo
 塔を出て北に歩き、森深きほこらに赴いた。
 旅の扉には相変わらず魔力の渦がとぐろを巻いている。
 マリアに先に修道院で待っていても好いが、どうすると訊くといいえ、私も立ち会いますと云って着いてくる。
 好奇心かヘンリーと一緒に居たいだけなのか判然としないが、もはやどうでもよくなって抛っておいた。
 一行は渦の中に踏み入れ、光の奔流にその身を溶かした。

213: 2016/11/20(日) 15:38:42.43 ID:LzY42jvCo
 ラインハット城内に着くと馬車が消えていた。すわ向こうに置いて行ってしまったかと焦ったが、遠くからパトリシアの嘶きが聞こえる。
 外に出てみると馬車が中身も欠けずにあった。
 わざわざ人間と馬車を分ける意味は不明だが、地下に馬車が出現すると扉に引っかかって出られないのでこちらの方が好都合だ。

214: 2016/11/20(日) 15:39:52.70 ID:LzY42jvCo
 城内に入り込むに当たって、まずピエールとゴルキを倉庫に隠して人間だけで玉座の間に赴いた。
 そしてデール王に頼んで大臣や臣下を下がらせて、それからピエールらを連れ偽太后の待ち受ける部屋へと向かった。
 本物の太后はヘンリーが指示した通り偽太后と面会させず他の部屋に隠しておいたが、デールは牢でやつれた母の姿を見たせいか幾らか消沈している。
 ヘンリーが、心配するな。今に悪党をとっちめてこの国に陽光を射してやるからと云うと、少し顔色が好くなった。

215: 2016/11/20(日) 15:40:28.94 ID:LzY42jvCo
 王族の暮らす豪奢な部屋には、外聞に漏れずとんでもない高慢ちきな女が居座っていた。
 そいつは我々を見るなり、何じゃその薄汚い男共はと云って顔をしかめる。
 ヘンリーがお忘れですかお母様。あなたが頃した息子で御座いますよと云うと、そなたのような者は知らんと云って眦を上げる。
 ヘンリーは目を眇めて、左様ですか。とそれだけ云っていきなり太后の顔を張り飛ばした。

216: 2016/11/20(日) 15:41:05.79 ID:LzY42jvCo
 我々が呆気に取られているとヘンリーは倒れ込んだ太后に馬乗りになってぽかりぽかりと顔と云わず胴と云わず殴りつけている。
 私が引き剥がすと太后はこの無礼者を今すぐ処刑せよと甲高い声で喚き立てる。
 すると高い声につられて兵士たちがどかどかと部屋へ入り込んでくる。太后の部屋に乗り込んだ薄汚い男共と魔物の姿を発見し、抜剣して我々を取り囲む。

217: 2016/11/20(日) 15:41:46.54 ID:LzY42jvCo
 一見絶体絶命の窮地に見えるが、これはむしろ好機である。人の目はあればあるほど好い。
 私は懐から神鏡を取り出し、頭上に掲げた。
「これぞ汝らの仕えし暴君の正体である。刮目せよ!」
 手元の鏡が一閃、煌めいた。はたして周囲は白く染まり、一切の影という影が潰えた。

218: 2016/11/20(日) 15:43:42.49 ID:LzY42jvCo
 我々が光に眩んだ目をしばたいていると、辺りにおぞましい咆哮が響きわたった。
 視界の先には、およそ人ならざる醜い化け物が鎮座していた。顔や胴にはさっきまで太后が着ていた服と化粧が施されている。
 魔物は人間共め、よくもオレの正体を暴いてくれたな、皆頃しにしてくれると唸り声を上げる。兵士共は慄いて一歩下がった。
 ヘンリーが皆の衆見たか。これがかの奸佞邪知の太后の真の姿である。王族になりすまし国を傾けんとする魔物に刃を立てよ。苛政の恨みを今ここで晴らせと鼓舞をして切りかかった。
 兵士たちは初めは戸惑っていたが、ニセたいこうの指に光る王族の指輪を目にして事態を察知したようだ。気力を奮い立たせ、魔物へ剣を向けた。

219: 2016/11/20(日) 15:48:06.59 ID:LzY42jvCo
 魔物となったニセたいこうはやはり計略を巡らす上位種なだけあって、凡百の魔物とは訳が違う。
 かえんのいきによる集団攻撃や仲間を呼んでの援護など多彩な攻撃を繰り出してくる。あっという間にあれだけ居た兵士が半壊してしまった。
 そして何より恐ろしいのは息をためての鋭い一撃だ。気焔万丈のゴルキが一撃でぼろくずとなってしまった。
 ピエールが機転を利かせてベホイミで治療したがこの火力には参った。
 またも愚直に突撃せんとするゴルキを宥めて、マヌーサをかけるよう指示をした。すると打撃の方は空振りが多くなって幾分楽になった。

220: 2016/11/20(日) 15:49:32.27 ID:LzY42jvCo
 しかし兵士共は皆脳筋であるから回復の手が足りない。私とピエールの魔力が底を尽くかと思われたとき、思わぬ加勢が入った。
 何と一階で教会を取り仕切っていた神父である。ベホマだのベホマラーだのといった高等呪文を惜しみなく使って援護する。
 よく見れば十年ほど前に私の治療をしてくれた奴だ。応援ありがとうと云うとあれから無茶はしていませんかと心配するので、無茶は今している最中だと云ってやった。
 流石の魔物も多勢に無勢では苦しいらしく、息を切らしている。
 兵士の攻撃によろけた隙に、すかさず足下を打ち払って転ばせてやれば、ヘンリーがこれで止めとチェ-ンクロスの分銅を奴の頭めがけて振り下ろした。
 聖なる重錘に脳天を割られた魔物は息絶え、豪奢な服と指輪を残して霧消した。

221: 2016/11/20(日) 15:50:41.20 ID:LzY42jvCo
 息を切らす兵士たちに向かって、ヘンリーは拾った指輪を差し出した。これは太后のつけていたものに間違いないなと確認すると、最前の兵士はああ、間違いないと頷く。
 ヘンリーは外に待避したデールを呼んで、こう云った。
「暴虐の主は撃退した。これまで国を圧していた脅威は去ったのである。城下の者に事情を聞かせ、近隣の国々に謝罪を述べよ。ラインハットは今日より生まれ変わるのだ」
 デールは傷ついた兄を抱いた。ありがとう、と涙ぐんでは、兵士たちに「今の言葉は聞いたであろう。今すぐこれを実行し、我が国の権威を取り戻すのだ」と云った。
 治療を済ませた兵士らは力強く頷き、階下へと降りていった。

222: 2016/11/20(日) 15:51:22.01 ID:LzY42jvCo
 かくしてラインハットは平穏を取り戻した。
 処刑された者の身内と近隣の国々への賠償で国費を大幅に使ったが、偽太后が貪欲に貯めていた宝石や貴金属類を担保にして賄った。理解のある国などは援助までしてくれた。
 特にグランバニアと云う大層距離のある国が莫大な援助をしてくれたおかげが大きい。
 どうも偽太后は時々膨大とも云える裏金をそこへ回していたらしく、前々より疑念を抱いていたグランバニアは受け取った金に手を着けずに置いて、今日の事件発覚を機にまとめて返却したと云う。

223: 2016/11/20(日) 15:51:50.84 ID:LzY42jvCo
 あの知能のある魔物が全体どんな計略でグランバニアへ取り入ろうとしたのか、そして何故本物の太后を殺さず牢に入れておいたのか、疑問は色々と積み重なったが、事件に関する諸々の事情聴取で縛られて情報は得られなかった。
 手厚いような厳しいような中途半端な姿勢の事情聴取が終わり、私と魔物二三匹が解放されたのは翌日の夕方であった。
 恐らく魔物に聴取するという前代未聞の手続きで色々とごたごたがあったのだろう。つくづく魔物に振り回される国である。

224: 2016/11/20(日) 15:54:11.19 ID:LzY42jvCo
 夜になると、ついこないだまでの不穏な空気と全く打って変わり、町や城には歓喜に騒ぐ人々の姿があった。
 早々に賠償が済んだのか乞食は一人もいない。例の親子が居た場所も、いまや酔っぱらいが寝ころんで鼾をかいている始末だ。
 酔っぱらいと云えば外が大層好きなようで、外で謡いを謡ったりぺちゃくちゃ喋ったり飲み食いしたものを野に戻したりと好き勝手やっている。
 中にはたき火までし出す好事家まで居ると思ったら、何とサンタローズのたき火男である。この期に及んでたき火とは余程物好きだ。
 後で聞いた所によると、あの酔っぱらった連中はサンタローズ復興隊と共に帰郷する住民で、出立する前日に城下町の盛況を利用して飲んだくれていたらしい。
 故郷が焼け野原になったと云うのに元気な奴らだ。早く帰って、残された者たちの笑顔を取り戻してくれ。

225: 2016/11/20(日) 15:54:39.73 ID:LzY42jvCo
 夜を明かして城へ赴くと、門番は私の顔を見ただけで通してくれた。有名人になるのも存外気分が好い。
 玉座の間にはヘンリー兄弟が待ち受けていた。わざと恭しく頭を下げてやると、おいおい、恥ずかしいからやめてくれよと快活な笑いが響いた。
 デール王がよくぞ、我が国に安泰と平穏をもたらしてくれた。感謝すると云った。
 私はいえ、これもヘンリーや仲間のおかげですと謙遜をすると、傲慢にならないあなたはやはり徳の高い人だとどうしても誉めたいらしい。

226: 2016/11/20(日) 15:55:16.04 ID:LzY42jvCo
 デールは、しかし私は直ぐに王位を献上する気で居るから、こうして褒美をくれてやれるのも最後だと云った。
 するとヘンリーが、おい、何を云う。おれは断った筈だぞと口走る。何のことか察しかねた私にデールが説明するには、なんとヘンリーを王として迎え入れるという。
 ヘンリーは最前の如く断るのをデールが粘っているようだから、私の進言を以てヘンリーを説得する心づもりらしい。
 私は少しく迷ったけれども、鏡に真実を暴かれてもつまらないので、忌憚ない意見を云ってやった。

227: 2016/11/20(日) 15:56:44.22 ID:LzY42jvCo
「王よ。ご無礼ながらあなたの意見には賛同致しかねます。御存知の通りヘンリーは十年もの間教育を受けられない状況にあり、およそ政治や経済のことは無知も同然であります。
今から王として役割を果たすのは少々難しいところがあるかと。
その上彼の性格を鑑みましても、到底俗っぽく、激情に駆られやすい純朴ではありますが、これは一刻の主としては甚だ欠点であります。
その上人目を憚れば如何様な行為も許されるという怪しからん思想も少々ご持参のようで、せんだっての冒険でも若輩が午睡を取っている最中も想い人と陰にて何やら……」
「おい、君。やめたまえ。それだけはどうか、やめてくれ」
「ふむ。まあこれは本人も些か反省しているようですから大目に見るとしましょう。しかし先の通り彼は王というには到底不足な性質を持っています故、彼に王位を継がせるのは彼自身のみならず国にとっても益と成り難いかと思われます」

228: 2016/11/20(日) 15:57:49.25 ID:LzY42jvCo

 デールはしばらく思考に耽っていたが、やがて顔を上げて、兄さんはそれで本当に好いのだねと念を押した。ヘンリーは勿論だと頷いた。
 左様か。であればもう云わない。その代わり王位が欲しくなってもやらないぞ、と少し調戯い気味に云うと、ヘンリーは欲しくてもきっと貰わん、と謙虚だ。
 そうして王位継承の話題が終わると、王は私にそろそろサンタローズ復興隊が出発する頃合いだが、君はどうすると聞いてきた。
 私は昨夜より思い詰めた結果を話した。
 サンタローズには戻らない。天空の装備を捜す旅に出る。

229: 2016/11/20(日) 15:58:31.11 ID:LzY42jvCo
 王が驚いて、どうしてかなと聞いた。私は母と、それを見つけられる勇者の話をした。
 物心つく頃から、望郷の想いより、母を求める欲求の方が優に勝っていた。
 そして果てしなき塔で掴んだ微かな温もりは、未だ手のひらに残っていた。
 この十六年もの間ついぞ知れない感覚を、あそこで僅かに受け取った。
 揺らめく儚い幻影でない、確かな本物の暖かみが欲しかった。

230: 2016/11/20(日) 15:59:22.74 ID:LzY42jvCo
 王は嘆息し、私の決意を賞賛した。ヘンリーも偉いと云って誉めてくれた。
 この場にいる三人はいずれも真っ当な母性を欠如しているからその欲望は三者三様に分かるのだろう。それもデールはつい最近本物の母を取り戻したところだ。
 そういえば、今本物の太后はどうしていると訊いた。デールはもう第一王子の部屋に住まわせてるよと云った。
 元来デールへの愛情には不足しないだろうが、もう一人愛情を注ぐべき対象が居るのではないか。
 愛情より、贖罪が必要な相手が。

231: 2016/11/20(日) 16:00:40.85 ID:LzY42jvCo
 ヘンリーに、太后と会ったかと訊いた。ヘンリーは黙して頷いた。
 あいつを許せるかと訊いた。ヘンリーは少しく躊躇して、俯向いた。
 我々の尊厳が踏みにじられ、私にとっての父、ヘンリーにとっての教育者を殺され、二度とない青春が泡沫へ消えたのは、一概にあの女の謀略によるものと云える。
 それを以てして赦せるだろうか。金品や物資などよりずっと尊いものを奪われた我々が、たかだか数年檻に入った程度の贖いを受け入れられるだろうか。
 私はまだ好い。父の氏も奴隷への零落も、私と父が自ら赴いて招いた結果だ。それもあの外道の権化である下魔によるものが大きいから、責任は分散できる。

232: 2016/11/20(日) 16:01:45.85 ID:LzY42jvCo
 しかしヘンリーはそうは行かない。誘拐どころか危うく殺されそうになったのを、むしろあらくれ共が勝手に光の教団へ売り飛ばしたおかげで生き永らえたようなものだ。
 諸悪の根元を目の当たりにして、彼の心が疾風怒濤に苛まれたのは想像に難くない。
 復讐と憐憫の相反に板挟まれた彼の顔は、私からパパスの氏を聞いたときの如く苦悶に歪んでいた。

233: 2016/11/20(日) 16:03:28.28 ID:LzY42jvCo
 太后を罰したところで、我々の青春が戻る事はないだろう。父が生き返ることもないだろう。背負った悲しみを合切拭い去ることもきっとできないだろう。……
 けれども、我々の人生に架かった昏い陽炎に、断頭斧を振り下ろすことはできる。
 私は処罰を勧めた。殺さないでも好いが、このまま無罪放免と相成るのは頂けない。復讐ではなく我々の人生にけじめをつけるためにも、彼女に弾劾の剣を突き立てるべきだ、と。
 地を見つめる彼の視線は容易に上がらなかった。そうしてこれまでの十年、十六年を振り返り、噛みしめているようだった。
 次に彼が顔を上げて見せた双眸の光は、確かな葛藤と決意の輝きを携えて、私の瞳を貫いた。

234: 2016/11/20(日) 16:04:21.19 ID:LzY42jvCo
 今はきっと赦せない。赦せるはずもない。しかしここであいつに刃を向ければ、二度と赦す機会はなくなる。
 おれは地下牢であいつの眼を見た時、そこにたゆたう痛烈な後悔の念に目を奪われた。
 あいつも魔物の奸計に乗せられて、おれを殺そうとした。その代償に夫は氏に、自分は牢に入れられて実の息子とも会えなくなった。
 もしかすると自分で手を下したという実感のある分、おれらよりも悲壮だったかも知れない。あの時こうしなければという後悔は、おれらも味わっていない苦痛だ。
 あいつは罪を犯した。そして、天により罰せられた。だとすれば、もうおれたちにどうこうできようはずもない。氏者に鞭打つが如き所行だ。
 そして何より、おれはあいつを赦したい。如何に憎まれようと蔑まれようと殺されようと……
 あいつはおれの母親だ。

235: 2016/11/20(日) 16:05:03.40 ID:LzY42jvCo
 玉座の間は水を打ったように静まりかえった。言葉が壁に染み着いたように、耳底に何度もヘンリーの声が響いた。
 私は、そうか、と云った。そして笑った。
 子分が初めて親分に反目する訳だな、と云った。それを聞いてヘンリーも頬を緩ませた。
「そうだ。もうおれは子分ではない。 ……友だ。おれがこうして殿下になろうと、それは変わらない。おれとおまえは、永遠に肝胆相照らす親友だ」

236: 2016/11/20(日) 16:05:45.22 ID:LzY42jvCo
 私は思わずはっとして、彼の目を覗き込んだ。そこには王族の地位を笠に着る傲慢さも、相手の身分を睥睨する卑しさもなかった。ただ友愛の美しい光が灯っていた。
 私は何百回、幾千回心中で繰り返した分からない言葉を、初めて己の口から友へ向けた。

 ありがとう、ヘンリー。

 かつて心に残した不安は今、杞憂と化した。

237: 2016/11/20(日) 16:08:40.37 ID:LzY42jvCo
 ヘンリーがおまえの旅に幸運あれ、とらしくない挨拶をする。
 私は驚いて、君はここに残るつもりかと尋ねると、ヘンリーは再三顔を渋くする。
 デールが代わりに口を開いて、僕が兄さんにそうしてくれるよう頼んだんですと云う。
 何でもヘンリーが王位を継がない場合、代わりに不甲斐ない王を補佐する役目を背負うよう交渉していたらしい。
 教育のないこいつを補佐にするのは些か心配だが、弟よりは判断力に優れているだろうから補い合えば問題ないだろう。
 ただ私の旅に同行できないのはヘンリーも心苦しいようで、何度もすまないと謝っていた。
 王子の彼が何年も放浪するわけにはいかないだろう、と兼ねてより腹を括っていた私はそう気落ちもしなかったが、やはりいざとなると淋しいものがある。
 我々ははっしと抱き合って、別れを告げた。また会おうと片方が云えば、ああ、是非と返す。
 人間、生きてさえいれば会えないことはない。涙はどうにか堪えた。

238: 2016/11/20(日) 16:09:44.49 ID:LzY42jvCo
 デールが行く当てはあるかいと訊いた。私はそんなのはないけれども、父の足跡を辿るのも悪くないと云った。
 するとデールが、それならビスタ港から船を出そうと云ってくれた。この大陸に着いたのも確か港であったから、本格的に父と同じ道を歩める。
 私が礼を云うと、ヘンリーがすごろく券を手渡してきた。また盗んだのかねと訊くと違う、人に貰ったんだと慌てている。デールが少し白い目をしている。
 おれはもう遊びに行ける身分じゃないから、おまえが持っていた方が得だと云った。それと、おれとマリアの事は黙っててくれると嬉しいと小声で云った。つまり賄賂である。
 私は収賄はいかんと思ったけれども、ヘンリーの必氏な顔に免じて受け取った。
 そういやマリアはどうしたと訊くと、何でも太后戦で負傷した兵を治療し続けて倒れてしまったから休ませているという。一方教会の神父は本職なだけあって健在だそうだ。

239: 2016/11/20(日) 16:13:56.99 ID:LzY42jvCo
 マリアを大切にしてやれよ、と云ってやった。
 ヘンリーはああ、もちろんと返して、おまえもこれからは人に優しくしてやれよと忠告をする。
 私は少しく狼狽して、努める。と云ったら、ヘンリーは笑って、ただし人によってはすぐつけあがるから、分別をつけてなと云ってくれた。
 ああ、と頷いて玉座の間を退室した。兄弟は手を振って返礼してくれた。

240: 2016/11/20(日) 16:21:03.66 ID:LzY42jvCo
 城の兵士諸君も実に晴れやかな表情をしている。やはりニセたいこうの所業は一般兵士の目にも余ったのだろう。何しろ悪夢に魘されていた兵も居たぐらいだ。
 歩いていると一人の兵士がこれをば、と云って宝箱を差し出してくる。何だねと訊くと心ばかりのお礼として防具と金と、よく分からん木の実を頂いた。
 木の実は後で魔物等に食わせるとして、国家転覆の危機を救った英雄への謝礼にしては幾分金額が足りない。
 そう思うと宝箱の中には手紙があって、ヘンリーの筆跡で「すまないが、ラインハットも今は大変な貧乏であるからおまえにやれる分はこれだけしかない。後になって国力が復活したら、その時はきっと好い援助をしてやれる」と書いてあった。
 なに、そう気を回さなくたって好いさ。サンタローズの復興支援が確保されているだけで、私の懐は暖かいのだ。

241: 2016/11/20(日) 16:21:32.82 ID:LzY42jvCo
 ラインハットを出て関所へ戻ると、展望台にはまだあの爺さんがいる。
 もし、身体に悪いからあまり浴びなさらんよう、と云ってやると、唐突にほっほっほと笑いだすから驚いた。
 ラインハットの衰亡を長らく案じていたこの爺さんも、十数年以来やっと訪れた平和に喜んでいるようだ。
 しかしこれもわしが案じていたおかげじゃ、などと勝手なことを云い出すので閉口した。
 できることなら彼が二度と案じなくて済む国になって欲しいものだ。

242: 2016/11/20(日) 16:22:15.36 ID:LzY42jvCo
 ビスタ港と云えば私が無暗に飛び出してスライムにぼこられそうになった港である。
 少し腹が立ってゴルキをど突き回していると、なんだようやめてようと哀れな声を出すのですまんすまんとぞんざいに謝って撫でてやった。
 今や私はおろかゴルキもその辺のスライムであれば指先一つでいなせる。
 しかしあの時助けに来てくれた父の無双ぶりにはほど遠く、彼の背中の大きさに改めて感じ入った。

243: 2016/11/20(日) 16:23:41.71 ID:LzY42jvCo
 港には既に船がついていた。それも何やら見覚えがある船体だ。
 乗船手続きを済ませて船長に会ってみると、何と十年前に父と乗っていた船の船長だ。
 覚えておいでですか、と訊けばおお、パパスさんの、元気してるかねと快活な声で笑う。
 私は少しく躊躇して、父は他界しましたと云うと船長はもの悲しげにそうか、辛かったろうと頭を撫でてくる。
 何だか船長の体が大きく見えて、私は危うく涙ぐみそうになった。大方父が好きだから、方々の父性の高い男君にその魂が乗り移るんだろう。
 十六にもなってこの様は少し気恥ずかしかったが、遠慮なくこうしてくれる人材も貴重だから大人しく撫でられていた。

244: 2016/11/20(日) 16:29:15.42 ID:LzY42jvCo
 船が出たとき、私は世界を眺める視界が広くなったことに気がついた。
 単に成長して背が伸びたからという物理的な問題もあろうが、見えなかったものが新しく見えるようになる精神的な発展もあったのかもしれない。
 それはそうだろう。私は教育こそ受けていないが、尋常の人間よりずっと甚だしい経験はしたつもりだ。これで成長しないわけがない。
 私は強くなっている。驕りでない、確かな実感がそこにあった。

245: 2016/11/20(日) 16:31:44.67 ID:LzY42jvCo
 私は自分で切り開いた道を歩んでいる。
 母を見つけるという一つの思いを胸にしかと携えて、ここに立っている。

 いつか聞いた言葉の通り、私は生きている。

246: 2016/11/20(日) 16:33:17.30 ID:LzY42jvCo


前半の書き溜めが終わりました
またしばらくかかるとおもいます

要らん補完要素が多くお見苦しいかと思いますが、どうぞ生暖かい目で見守ってくれるとありがたく思います

また>>189さんの云うよう
冗長な文が多々見受けられますので見やすい簡潔な語り口を目指したいですね

ではこれにてしばらく

247: 2016/11/20(日) 18:48:30.92 ID:QWXTjYpmo

248: 2016/11/21(月) 00:21:22.51 ID:+5BPBCKi0
また、一か月後かなぁ

249: 2016/11/21(月) 00:52:29.90 ID:5o4+x+I2O

やはり面白い

引用元: 夏目漱石「虞美人(ルラムーン)草」