255: ◆HACkWQpQbk 2016/12/19(月) 20:01:32.24 ID:5Bd0Ws+mo
長らくお待たせしました
結婚編が長くなりそうなので先にルラフェン~うわさのほこら辺りまで投下します
結婚編が長くなりそうなので先にルラフェン~うわさのほこら辺りまで投下します
夏目漱石「虞美人(ルラムーン)草」【前編】
256: 2016/12/19(月) 20:02:00.49 ID:5Bd0Ws+mo
五
航海の途中で聞いた話によれば、ビスタ港とポート・セルミとの定期船が魔物に襲われて沈んでしまったらしい。
それでしばらく大陸間の連絡は途絶していたが、最近になってラインハットからのお達しが来たと云うんで、特別にルドマンという富豪からこの船を借りたとか。
ルドマンと云えば、十年前に父と乗っていた船のオーナーである。
船と船長が同じだから妙だと思っていたが、これを聞いて疑問が氷解した。
航海の途中で聞いた話によれば、ビスタ港とポート・セルミとの定期船が魔物に襲われて沈んでしまったらしい。
それでしばらく大陸間の連絡は途絶していたが、最近になってラインハットからのお達しが来たと云うんで、特別にルドマンという富豪からこの船を借りたとか。
ルドマンと云えば、十年前に父と乗っていた船のオーナーである。
船と船長が同じだから妙だと思っていたが、これを聞いて疑問が氷解した。
257: 2016/12/19(月) 20:02:29.36 ID:5Bd0Ws+mo
幸い今回の航海中は魔物に襲われることなく無事に他の大陸まで渡れた。
船員たちは揃って神への祈りを口々にしている。昨今は襲われない方が珍しいらしいから、今回は余程幸運だったのだろう。
港を降りて町を見渡すと、港町だけあって結構栄えている。むしろ港にあるのに栄えていないビスタがおかしいのであって、普通は大都市は港にあるもんだ。
水がなければ農林水産も鉄工業も立ち行かんと云うのに、内陸のくせにラインハットもオラクルベリーもよくぞ発展したものだ。
船員たちは揃って神への祈りを口々にしている。昨今は襲われない方が珍しいらしいから、今回は余程幸運だったのだろう。
港を降りて町を見渡すと、港町だけあって結構栄えている。むしろ港にあるのに栄えていないビスタがおかしいのであって、普通は大都市は港にあるもんだ。
水がなければ農林水産も鉄工業も立ち行かんと云うのに、内陸のくせにラインハットもオラクルベリーもよくぞ発展したものだ。
258: 2016/12/19(月) 20:03:42.91 ID:5Bd0Ws+mo
船内の塩臭い飯が気に入らなかったので、酒場で口直しをすることにした。
酒場を訪れてみると見せ物ではないだろうが、貧相な成りをした農民が柄の悪い男たちに囲まれている。しかも帯刀しているから驚いた。
何だあの剣呑な連中はと訊けば山賊ウルフなどと大層なあだ名で各地を闊歩しているらしい。確かに狼と云うだけあって集団行動が得意なようだ。
ヘンリーの云ったとおり人に優しくするべきだと思ったし、第一私は弱い者虐めは嫌いだから、すっくと立ち上がってそいつらを思い切り睨めた。
酒場を訪れてみると見せ物ではないだろうが、貧相な成りをした農民が柄の悪い男たちに囲まれている。しかも帯刀しているから驚いた。
何だあの剣呑な連中はと訊けば山賊ウルフなどと大層なあだ名で各地を闊歩しているらしい。確かに狼と云うだけあって集団行動が得意なようだ。
ヘンリーの云ったとおり人に優しくするべきだと思ったし、第一私は弱い者虐めは嫌いだから、すっくと立ち上がってそいつらを思い切り睨めた。
259: 2016/12/19(月) 20:04:17.46 ID:5Bd0Ws+mo
すると狼どころか豹が如き素早さでこちらに反応し、おうおうおうおうてめえ今ガンつけやがったなこの野郎と珍妙というか滑稽な口調でこちらに臨んできた。
おそらく脅しのつもりなんだろうが、今まで散々脅威に直面してきた私は思わず、ふん、と鼻で笑ってしまった。
当然、笑われた方は頭に来ないわけがない。
仲間を呼んでは私を取り囲み、おうおうおうおうおうおうと子供か猿のようにはしゃぎ出す。
負ける気はせんが、流石に多勢に無勢では何があるか分からないので援軍を呼ぶ。
私が口笛を吹けば、どこからともなくスライムとスライムナイトが颯爽と現れた。
山賊たちが虚を衝かれたその隙に、ゴルキのブーメランとピエールのイオが炸裂した。
おそらく脅しのつもりなんだろうが、今まで散々脅威に直面してきた私は思わず、ふん、と鼻で笑ってしまった。
当然、笑われた方は頭に来ないわけがない。
仲間を呼んでは私を取り囲み、おうおうおうおうおうおうと子供か猿のようにはしゃぎ出す。
負ける気はせんが、流石に多勢に無勢では何があるか分からないので援軍を呼ぶ。
私が口笛を吹けば、どこからともなくスライムとスライムナイトが颯爽と現れた。
山賊たちが虚を衝かれたその隙に、ゴルキのブーメランとピエールのイオが炸裂した。
260: 2016/12/19(月) 20:04:53.21 ID:5Bd0Ws+mo
幸運にも無傷の山賊が居るのでちょっときたまえ、と手招きをすると全く応じずに仲間を引きずって帰って行った。
どうせだから情報を聞き出したかったが、仕方がない。
ピエールとゴルキを馬車に返して、カウンターに座って適当な料理を注文した。
すると横合いから声が聞こえる。振り向くと先の虐められていた農民である。
何だか哀れそうな目をして「おらの頼みを聞いておくれんかな、もし」と云う。
「おくれんかな、もし」た生温い言葉だ。田舎の内でも余程下級に位置するようだ。
何だと云えば、これこれこうぞなもしと説明する。
どうせだから情報を聞き出したかったが、仕方がない。
ピエールとゴルキを馬車に返して、カウンターに座って適当な料理を注文した。
すると横合いから声が聞こえる。振り向くと先の虐められていた農民である。
何だか哀れそうな目をして「おらの頼みを聞いておくれんかな、もし」と云う。
「おくれんかな、もし」た生温い言葉だ。田舎の内でも余程下級に位置するようだ。
何だと云えば、これこれこうぞなもしと説明する。
261: 2016/12/19(月) 20:07:54.35 ID:5Bd0Ws+mo
かいつまんだところ、畑を魔物か何かに荒らされている困っていて、それがとんでもなく用心深くて恐ろしいから外部の人間に頼ろうとしているらしい。
魔物の一匹や二匹ぐらい、村人全員で鍬や鋤で以てかかれば何のことは無かろうと云うと、いやあえ、そんな危ない真似はできんぞなもしと云う。
冗談じゃない。いくら危険だからって、それを人にさせるのに罪はないだなんて、そんな虫の好い話があるもんか。
畑の収穫が少なくなって飢える人間が大勢居るだとか、何だとかこっちの同情を買おうと躍起になっているが、魔物一匹に荒らされたぐらいで飢餓に陥る農村などそもそもの基盤がおかしいんだろう。
元来魔物は飢えたりしない。ゴルキやピエールを見ろ。
あいつらは日に一杯の茶漬けだって文句も垂れず有り難い有り難いと云って頬張っている。
魔物の一匹や二匹ぐらい、村人全員で鍬や鋤で以てかかれば何のことは無かろうと云うと、いやあえ、そんな危ない真似はできんぞなもしと云う。
冗談じゃない。いくら危険だからって、それを人にさせるのに罪はないだなんて、そんな虫の好い話があるもんか。
畑の収穫が少なくなって飢える人間が大勢居るだとか、何だとかこっちの同情を買おうと躍起になっているが、魔物一匹に荒らされたぐらいで飢餓に陥る農村などそもそもの基盤がおかしいんだろう。
元来魔物は飢えたりしない。ゴルキやピエールを見ろ。
あいつらは日に一杯の茶漬けだって文句も垂れず有り難い有り難いと云って頬張っている。
262: 2016/12/19(月) 20:08:47.52 ID:5Bd0Ws+mo
何ぞ田舎者だってここまで腹積もりが汚いと苛立ちを通り越して呆れる。
未だに御維新前の遺物を抱える愚な村だから魔物程度でこんなに大騒ぎするんだろう。
ヘンリーの云っていたようにこいつは一度要求を通すとすぐつけあがる性と見た。
今に嫁を貰ってくれだの骨董を買ってくれだの落款を買ってくれだのと矢継ぎ早に無理を通そうとしてくるに違いない。
例外であれば仕方がない。優しくしてやる義理がないから、丁重に断ってやった。
するとそいつはおお、そうして安請け合いせん所が信用できるぞなもし、とより一層勧誘を強くする。
厭になって無視を決め込んでいると。農民はやがてがくりと肩を落として去っていった。
未だに御維新前の遺物を抱える愚な村だから魔物程度でこんなに大騒ぎするんだろう。
ヘンリーの云っていたようにこいつは一度要求を通すとすぐつけあがる性と見た。
今に嫁を貰ってくれだの骨董を買ってくれだの落款を買ってくれだのと矢継ぎ早に無理を通そうとしてくるに違いない。
例外であれば仕方がない。優しくしてやる義理がないから、丁重に断ってやった。
するとそいつはおお、そうして安請け合いせん所が信用できるぞなもし、とより一層勧誘を強くする。
厭になって無視を決め込んでいると。農民はやがてがくりと肩を落として去っていった。
263: 2016/12/19(月) 20:10:08.85 ID:5Bd0Ws+mo
飯を済ませて酒場を立ち去ると、先の農民がそちらこちらで勧誘しているのが見えた。
しかしいずれも私の如くにべもなく断るので収穫はないようだ。
するとのっぺりと色の白い奴が出てきて、何なら私がお受けいたしましょうと妙に優しい声で呼びかける。
このご時世にフランネルの襯衣なんぞ着込んでいやがる。
それもやに目立つほど真赤だから人を馬鹿にしている。
しかしいずれも私の如くにべもなく断るので収穫はないようだ。
するとのっぺりと色の白い奴が出てきて、何なら私がお受けいたしましょうと妙に優しい声で呼びかける。
このご時世にフランネルの襯衣なんぞ着込んでいやがる。
それもやに目立つほど真赤だから人を馬鹿にしている。
264: 2016/12/19(月) 20:10:47.83 ID:5Bd0Ws+mo
そいつの容体はあまり頑健そうにないので農民は躊躇ったが、先の男漁りの不作を憂いたのか、渋々と云った体で承った。
何時々々までに何処々々に来ておくれんがなもしと云って報酬の前金を渡すと、赤シャツは委細私に任せていなさいホホホホと顎を前の方へ突き出して笑った。
何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。
第一そんな細腕で魔物が打ち倒せるものか。
十年前のビアンカやベラだってあれより頼りになるに極まっている。
水飲み鳥の如くぺこぺこ頭を下げる農民に手をひらひらと振って、赤シャツは去って行った。
何時々々までに何処々々に来ておくれんがなもしと云って報酬の前金を渡すと、赤シャツは委細私に任せていなさいホホホホと顎を前の方へ突き出して笑った。
何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。
第一そんな細腕で魔物が打ち倒せるものか。
十年前のビアンカやベラだってあれより頼りになるに極まっている。
水飲み鳥の如くぺこぺこ頭を下げる農民に手をひらひらと振って、赤シャツは去って行った。
265: 2016/12/19(月) 20:12:49.28 ID:5Bd0Ws+mo
ポート・セルミを出ると新大陸らしく見慣れない地形が視界を埋める。
地図も縮尺が大きいものしか持っていないのでひょっとすると迷うかも知れない。
ぼろぼろの地図と睨めくらをしつつ歩いて行くと、途中で食糧が切れそうになることに気がついた。
思わず食糧当番のヘンリーを呼びつけようとしたが、あいつは今頃王城の中だ。
これからは一人で穀潰し二三匹を抱えて旅をせねばならんと思うと気が重い。
地図も縮尺が大きいものしか持っていないのでひょっとすると迷うかも知れない。
ぼろぼろの地図と睨めくらをしつつ歩いて行くと、途中で食糧が切れそうになることに気がついた。
思わず食糧当番のヘンリーを呼びつけようとしたが、あいつは今頃王城の中だ。
これからは一人で穀潰し二三匹を抱えて旅をせねばならんと思うと気が重い。
266: 2016/12/19(月) 20:13:25.38 ID:5Bd0Ws+mo
ヘンリーの奴は地位も権力もあるしきれいで清楚な恋人はいるしで私よりよっぽど贅沢な暮らし向きだ。
比べてみると余計私の身分の貧相さに磨きが掛かる。
友情はきっと切れ得ないだろうけども、立場に違いが出たと云うだけでこれほどまでに淋しい想いを抱くことになろうとは夢にも思わなかった。
そうして嫉妬心が沸き起こって鬱々とすると、自身の卑屈さが情なくなった。
早く母を見つけてその柔らかな腕の中に抱かれたくなった。
比べてみると余計私の身分の貧相さに磨きが掛かる。
友情はきっと切れ得ないだろうけども、立場に違いが出たと云うだけでこれほどまでに淋しい想いを抱くことになろうとは夢にも思わなかった。
そうして嫉妬心が沸き起こって鬱々とすると、自身の卑屈さが情なくなった。
早く母を見つけてその柔らかな腕の中に抱かれたくなった。
267: 2016/12/19(月) 20:14:14.27 ID:5Bd0Ws+mo
海岸沿いに進めば町でも何でもあるだろうと見当をつけて進んでみると、思った通り民家が見えた。
日は落ちたし、食糧がないのでは仕方がないから一晩だけ泊めさせて貰おうと民家の戸を叩くと、視界の端に黒い影が走った。
素早く身構えてそちらを振り向くと、影は立ち止まった。
そうしてしばらく佇んでいると、別段襲ってくる風もなく、さっと風のように走り去った。
そいつの居た箇所を調べてみると、何と下の畑が滅茶苦茶になっている。
人参の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてある処なんかは、子供が三人がかりで相撲をとりつづけに取ったかのようにぐちゃぐちゃだ。
日は落ちたし、食糧がないのでは仕方がないから一晩だけ泊めさせて貰おうと民家の戸を叩くと、視界の端に黒い影が走った。
素早く身構えてそちらを振り向くと、影は立ち止まった。
そうしてしばらく佇んでいると、別段襲ってくる風もなく、さっと風のように走り去った。
そいつの居た箇所を調べてみると、何と下の畑が滅茶苦茶になっている。
人参の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてある処なんかは、子供が三人がかりで相撲をとりつづけに取ったかのようにぐちゃぐちゃだ。
268: 2016/12/19(月) 20:15:55.08 ID:5Bd0Ws+mo
そして藁の上には金色の毛玉が置いてある。おそらく魔物が残した老廃物だろう。
魔物の内でもどうも猫科に属するようだ。
そこへ先の訪れた民家から婆さんがやってきて、酷いもんじゃろう、食えるもんもみんなこの具合じゃけれ、村の者は飢えておりますと云った。
どうやらここでも魔物の被害が出るらしい。
この様子じゃ魔物に対抗できる戦士の居ない村は悉く廃業だろう。
魔物の内でもどうも猫科に属するようだ。
そこへ先の訪れた民家から婆さんがやってきて、酷いもんじゃろう、食えるもんもみんなこの具合じゃけれ、村の者は飢えておりますと云った。
どうやらここでも魔物の被害が出るらしい。
この様子じゃ魔物に対抗できる戦士の居ない村は悉く廃業だろう。
269: 2016/12/19(月) 20:17:14.65 ID:5Bd0Ws+mo
この村は南瓜村と云うらしい。
さぞ豊作そうな名だが、残念なことに魔物野郎のせいで不作も不作、まともな飯が出ない。
出されたのはしなびた芋と干した芋と煮つけた芋と芋の香の物と芋の汁と無暗に芋ばかりで、肉や野菜なんか薬にしたくってもありゃしない。
こう芋責めに会っては適わんが、彼女も同じ立場にあるようで黙々と芋を腹に納めていた。
芋を食った後は持っていた薬草を煎じて、ようやく凌いだ。
こんなのでも栄養をとらなくっちゃあ魔物と鍔迫り合えるものか。
さぞ豊作そうな名だが、残念なことに魔物野郎のせいで不作も不作、まともな飯が出ない。
出されたのはしなびた芋と干した芋と煮つけた芋と芋の香の物と芋の汁と無暗に芋ばかりで、肉や野菜なんか薬にしたくってもありゃしない。
こう芋責めに会っては適わんが、彼女も同じ立場にあるようで黙々と芋を腹に納めていた。
芋を食った後は持っていた薬草を煎じて、ようやく凌いだ。
こんなのでも栄養をとらなくっちゃあ魔物と鍔迫り合えるものか。
270: 2016/12/19(月) 20:19:07.18 ID:5Bd0Ws+mo
私はふと畑の様子を思い出して、南瓜はないのかと聞いた。
するとかぼちゃとは何ぞな、もしと村の名前の野菜を知らない。
畑にあったろう、外面が青くて、割ったら中が黄色い、西瓜を潰したような形の奴だと教えてやったら、そりゃ唐茄子じゃがなもしと云う。
唐茄子だって南瓜じゃないか。この婆さんは優しいことは優しいがものを知らんから困った。
するとかぼちゃとは何ぞな、もしと村の名前の野菜を知らない。
畑にあったろう、外面が青くて、割ったら中が黄色い、西瓜を潰したような形の奴だと教えてやったら、そりゃ唐茄子じゃがなもしと云う。
唐茄子だって南瓜じゃないか。この婆さんは優しいことは優しいがものを知らんから困った。
271: 2016/12/19(月) 20:20:10.75 ID:5Bd0Ws+mo
あれを食えば好いではないかと云うと、あれはうらなりじゃけれ、食うと青く膨れてしまうぞなもしと反駁する。
なんぼ、うらなりなんぞ食った所で青膨れたりするものか。
第一青くなったら人間は痩せねばならん。
人間が青くて、膨れるなんて、身分が卑しくて大金持ちだと形容しているようなもんだ。
なんぼ、うらなりなんぞ食った所で青膨れたりするものか。
第一青くなったら人間は痩せねばならん。
人間が青くて、膨れるなんて、身分が卑しくて大金持ちだと形容しているようなもんだ。
272: 2016/12/19(月) 20:21:50.93 ID:5Bd0Ws+mo
朝になって、泊めてもらった婆さんに礼を云うとあなた、もし好かったらこの老婆の頼みをば聞いておくれんかなもしと云った。
一宿一飯の恩義に背くのは武士の名折れ――あるいは勇者パパスの倅の名折れ――であるから、進んで受けることにした。
するとその内容がせんだっての物の怪の退治なので首を捻った。
近頃はどこの農村も魔物退治が流行らしい。
玄関を出ると、婆さんがその前に、村長の家で退治する旨を伝えれば便利ぞなもしと云う。
別に後でも魔物の毛皮なり首なり持って行けば良さそうなものだが、反目する理由もないし従った。
一宿一飯の恩義に背くのは武士の名折れ――あるいは勇者パパスの倅の名折れ――であるから、進んで受けることにした。
するとその内容がせんだっての物の怪の退治なので首を捻った。
近頃はどこの農村も魔物退治が流行らしい。
玄関を出ると、婆さんがその前に、村長の家で退治する旨を伝えれば便利ぞなもしと云う。
別に後でも魔物の毛皮なり首なり持って行けば良さそうなものだが、反目する理由もないし従った。
273: 2016/12/19(月) 20:24:08.87 ID:5Bd0Ws+mo
道中村の様子を見物してみたがひどいもんだ。
そこここの畑は土地ばかり肥えていて作物がてんで見あたらない。
幸い魔物は臆病なのか、人を襲うことはないそうだ。ただその見返りと云わんばかりに作物を虐めやがる。
食料がないので飢えた者がいくらも転がっていて、端の方で鎮座する婆さんなんかは家族の食い扶持を増やすべくお山に行こうとか云う始末だ。
この分ではいつ餓氏や人肉食が起きてもおかしくない。
そこここの畑は土地ばかり肥えていて作物がてんで見あたらない。
幸い魔物は臆病なのか、人を襲うことはないそうだ。ただその見返りと云わんばかりに作物を虐めやがる。
食料がないので飢えた者がいくらも転がっていて、端の方で鎮座する婆さんなんかは家族の食い扶持を増やすべくお山に行こうとか云う始末だ。
この分ではいつ餓氏や人肉食が起きてもおかしくない。
274: 2016/12/19(月) 20:25:51.69 ID:5Bd0Ws+mo
婆さんは村長の家の目印に馬を挙げた。
へん、馬なぞ何処にでもいるだろうに、目印になるもんかと思うと、存外どこにも居ない。
馬はおろか牛や豚のような家畜すら影も見当たらない。
まさかそうそう労働力を食うわけにはいかんから魔物に襲われたんだろうが、これではいよいよ村民全滅も近い。
ひょろひょろと痩せっぽっちな馬のつなぎ止められた村長の家へ赴くと、何やら会議が始まっているようだった。
へん、馬なぞ何処にでもいるだろうに、目印になるもんかと思うと、存外どこにも居ない。
馬はおろか牛や豚のような家畜すら影も見当たらない。
まさかそうそう労働力を食うわけにはいかんから魔物に襲われたんだろうが、これではいよいよ村民全滅も近い。
ひょろひょろと痩せっぽっちな馬のつなぎ止められた村長の家へ赴くと、何やら会議が始まっているようだった。
275: 2016/12/19(月) 20:26:28.14 ID:5Bd0Ws+mo
「……しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
と何やら腹にぼんぼん響く声がすると、
「やはりポートセルミの戦士らを雇って退治させるのが好かろうかと思いますけれ」
と何だか田舎くさい野暮ったい声が聞こえる。
と何やら腹にぼんぼん響く声がすると、
「やはりポートセルミの戦士らを雇って退治させるのが好かろうかと思いますけれ」
と何だか田舎くさい野暮ったい声が聞こえる。
276: 2016/12/19(月) 20:27:17.02 ID:5Bd0Ws+mo
すると今度は甲高い、勘に障るような声が反論した。
「おらは断固反対ぞなもし。どこの馬の骨とも分からん連中にそげなこつしとって、大方反故にされて金だけかっぱらわれんのが落ちぞなもし」
田舎者のくせに中々立場を弁えている。今度は聞き覚えのある厭な声がした。
「ホホホホ馬の骨ですか。わざわざ呼びつけて罵詈雑言とは結構なお手前だ」
こいつは無暗に神経を逆に撫でつける言い方をする。ポートセルミの赤シャツに相違ない。
「おらは断固反対ぞなもし。どこの馬の骨とも分からん連中にそげなこつしとって、大方反故にされて金だけかっぱらわれんのが落ちぞなもし」
田舎者のくせに中々立場を弁えている。今度は聞き覚えのある厭な声がした。
「ホホホホ馬の骨ですか。わざわざ呼びつけて罵詈雑言とは結構なお手前だ」
こいつは無暗に神経を逆に撫でつける言い方をする。ポートセルミの赤シャツに相違ない。
277: 2016/12/19(月) 20:27:54.08 ID:5Bd0Ws+mo
この反撃に田舎連中は大いに極まりを悪くしたと見て、むっつりと黙り込んだ。
すると「大方向こうは鹿の骨でげすな」と隣に座るべらべらした透綾の羽織を着た芸人風の男が、どこで誂えたか和風な扇子をぱちつかせている。
そして初めに声を聞いた、目の大きい狸みたような奴が発言する。
「ええー。反対意見の出たところで何か代替案を拵えらるる人がいればお手を挙げていただきたく思います」
すると赤シャツがひらひらと細っちい腕と赤い袖を見せつけて挙手をする。
狸ははい教頭先生と発言を許可する。赤シャツはわざわざ立ち上がって弁舌を振るい始めた。
すると「大方向こうは鹿の骨でげすな」と隣に座るべらべらした透綾の羽織を着た芸人風の男が、どこで誂えたか和風な扇子をぱちつかせている。
そして初めに声を聞いた、目の大きい狸みたような奴が発言する。
「ええー。反対意見の出たところで何か代替案を拵えらるる人がいればお手を挙げていただきたく思います」
すると赤シャツがひらひらと細っちい腕と赤い袖を見せつけて挙手をする。
狸ははい教頭先生と発言を許可する。赤シャツはわざわざ立ち上がって弁舌を振るい始めた。
278: 2016/12/19(月) 20:28:27.00 ID:5Bd0Ws+mo
「私も魔物の乱暴、ひいてはそれに源因する村民の困窮を聞いて甚だ遺憾の意を表するばかりであります。でこう云う事は、何か陥欠があると起るもので、事件その物を見ると何だか魔物君だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって村の方にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳戒な姿勢を見せるのは、所詮姑息な真似であるから、抜本的事件解決とならぬかと思われます。かつ魔物血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪行をやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙する限りではないが、どうかその辺をご斟酌になって、なるべく賢知なお取計らいを願いたいと思います」
279: 2016/12/19(月) 20:29:06.11 ID:5Bd0Ws+mo
なるほど流石は、赤いシャツなんぞ着て人を馬鹿にしているだけある。
魔物があばれるのは、魔物がわるいんじゃない村人が悪いんだと公言している。
気狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。
まったく難有い仕合せだ。
魔物があばれるのは、魔物がわるいんじゃない村人が悪いんだと公言している。
気狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。
まったく難有い仕合せだ。
280: 2016/12/19(月) 20:29:36.03 ID:5Bd0Ws+mo
第一半ば無意識に畑を踏み荒らされてたまるものか。
この様子じゃ、何時か誰かが寝頸をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
これを受けて芸人風の身なりをした男――私はこいつを野だいこと呼ぶことにした――野だは
「ただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮に中った剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成致します。さればかの魔物隠士を撃退、あるいは永久に追放しむる方法に当たっては、用意周到に賢然たる罠をば是仕掛け賜るが宜しいかと思います」と云った。
この様子じゃ、何時か誰かが寝頸をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
これを受けて芸人風の身なりをした男――私はこいつを野だいこと呼ぶことにした――野だは
「ただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮に中った剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成致します。さればかの魔物隠士を撃退、あるいは永久に追放しむる方法に当たっては、用意周到に賢然たる罠をば是仕掛け賜るが宜しいかと思います」と云った。
281: 2016/12/19(月) 20:30:52.33 ID:5Bd0Ws+mo
野だの云うことは旧い言葉をのべつに陳列するぎりで訳が分からないが、後半は罠を仕掛けてどうこうというのだけは分かった。
それにしても「罠」なんぞ農民でなくとも魔物本人ですら到達できるような平易な案を発表するのに、よくもまあこれだけ回りくどい云い方ができたものだ。
全体こいつらはさっき声の高い農民が危惧した詐欺師に違いない。
でなければこれほど永い時間をかけて人に説法できたりするものか。
私はよっぽどこのお三方をふん捕まえてどうにかしようと思ったが、こちらに気づいた赤シャツに機先を制されてしまった。
それにしても「罠」なんぞ農民でなくとも魔物本人ですら到達できるような平易な案を発表するのに、よくもまあこれだけ回りくどい云い方ができたものだ。
全体こいつらはさっき声の高い農民が危惧した詐欺師に違いない。
でなければこれほど永い時間をかけて人に説法できたりするものか。
私はよっぽどこのお三方をふん捕まえてどうにかしようと思ったが、こちらに気づいた赤シャツに機先を制されてしまった。
282: 2016/12/19(月) 20:32:20.62 ID:5Bd0Ws+mo
「おやこれはこれは。既にお雇いになられた戦士の方じゃないか」と云ってこちらに近づいてくる。
無遠慮に私の肩を抱いてさあこっちへ、と席に案内する。
席に着いたら、赤シャツが「何か意見が合れば云い賜え」と偉そうに云う。
席上の目が一斉にこちらへ集中する。
無遠慮に私の肩を抱いてさあこっちへ、と席に案内する。
席に着いたら、赤シャツが「何か意見が合れば云い賜え」と偉そうに云う。
席上の目が一斉にこちらへ集中する。
283: 2016/12/19(月) 20:33:04.60 ID:5Bd0Ws+mo
何だかあまり馴れない状況になって私は萎縮したけれども、先の連中の云い分には腹が立ったから、「私は徹頭徹尾反対だ……」と云ったがあとが急に出て来ない。
「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いだ」とつけたら、座している一同が笑い出した。
「一体魔物野郎が全然悪いんだ。どうしてもお灸を据えて得やらなくっちゃ、癖になるに極まっている。何なら頃しても構わん。……何だ失敬な、新しく来た人間だと思って……」と云って着席した。
「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いだ」とつけたら、座している一同が笑い出した。
「一体魔物野郎が全然悪いんだ。どうしてもお灸を据えて得やらなくっちゃ、癖になるに極まっている。何なら頃しても構わん。……何だ失敬な、新しく来た人間だと思って……」と云って着席した。
284: 2016/12/19(月) 20:35:06.85 ID:5Bd0Ws+mo
しばらく赤シャツはくつくつと笑っていたが、やがて
「魔物は頃しても好いが、その後が大変だと我々は論じているんです。どうせ高い金で魔物隠士をやっつけたって、また別な隠士に襲われれば繰り返すでしょう。これでは財政が持たない。だから二度と魔物の襲わないような罠なりを設えてこれを撃退するんですよ」
と子供に云い聞かせるみたいに馬鹿に易しく話しやがる。
私は「そんなことは端から分かっているが、上手い方法がないから、反対しているんだ。どうせ襲われているのは一匹だろう。それを打ち破れば宜しい」と云った。
すると隣の野だいこが「それが、実はあるんでげす」と東西南北何処を見渡したって見つかりゃしないほど、汚い笑みを浮かべる。
「魔物は頃しても好いが、その後が大変だと我々は論じているんです。どうせ高い金で魔物隠士をやっつけたって、また別な隠士に襲われれば繰り返すでしょう。これでは財政が持たない。だから二度と魔物の襲わないような罠なりを設えてこれを撃退するんですよ」
と子供に云い聞かせるみたいに馬鹿に易しく話しやがる。
私は「そんなことは端から分かっているが、上手い方法がないから、反対しているんだ。どうせ襲われているのは一匹だろう。それを打ち破れば宜しい」と云った。
すると隣の野だいこが「それが、実はあるんでげす」と東西南北何処を見渡したって見つかりゃしないほど、汚い笑みを浮かべる。
285: 2016/12/19(月) 20:36:14.12 ID:5Bd0Ws+mo
赤シャツがユウシテッセンとは知っていますかと云うので、私は鼻を鳴らした。
なんぼ元奴隷でも、有刺鉄線ぐらい知っている。
刺のある針金だろう、と云うと、おやそれなら話が早い。我々はこれを村全体に巡らせようと画策しているんですよと何だか自慢げに云い出す。
私は「それこそ無理だろう。はがねのつるぎが二千ゴールドする時局に防衛のためだけに鋼なんぞ誰が買うか」と云ってやった。
すると狸、野だ、赤シャツの奸佞三人衆がまたもや笑い出した。私が何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等だ。
貴様等新人風情に自明の理を暴かれて口惜しいんだろう。口惜しいが反論出来ないから笑うんだろう。
なんぼ元奴隷でも、有刺鉄線ぐらい知っている。
刺のある針金だろう、と云うと、おやそれなら話が早い。我々はこれを村全体に巡らせようと画策しているんですよと何だか自慢げに云い出す。
私は「それこそ無理だろう。はがねのつるぎが二千ゴールドする時局に防衛のためだけに鋼なんぞ誰が買うか」と云ってやった。
すると狸、野だ、赤シャツの奸佞三人衆がまたもや笑い出した。私が何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等だ。
貴様等新人風情に自明の理を暴かれて口惜しいんだろう。口惜しいが反論出来ないから笑うんだろう。
286: 2016/12/19(月) 20:36:41.55 ID:5Bd0Ws+mo
狸が「教頭先生は全体どんな策がおありですか」と訊いた。
赤シャツは「あるにはありますが、それをここで云ってしまうと少し面白味に欠けるのでいざという時分になったら洗いざらい白状しましょう」と云って話すつもりがない。
どうせ策はないんだろう。ないがこうして云っておけば後から拵えたっていくらでも弁明が立つ。
狸はそれを受けて大いに満足したと見えて、「されば教頭先生のお知恵を拝見するまでしばしお待ちしていましょう」と云って会議を閉めた。
赤シャツは「あるにはありますが、それをここで云ってしまうと少し面白味に欠けるのでいざという時分になったら洗いざらい白状しましょう」と云って話すつもりがない。
どうせ策はないんだろう。ないがこうして云っておけば後から拵えたっていくらでも弁明が立つ。
狸はそれを受けて大いに満足したと見えて、「されば教頭先生のお知恵を拝見するまでしばしお待ちしていましょう」と云って会議を閉めた。
287: 2016/12/19(月) 20:37:43.22 ID:5Bd0Ws+mo
続々と席を立つから私も立ち上がったら、見覚えのある顔が「あんた、ああは云うてもやはり来てくれたぞなもし」と立ちふさがる。
これはポート・セルミでウルフ山賊に取り囲まれていた奴に相違ないが、偶然立ち寄っただけの私を捕まえて依頼人扱いとは甚だ人の好い話だ。
「私は飯と宿を提供してくれた婆さんの恩義に報いるために魔物を倒すのであって、貴様らの依頼を受けるからではない。だからよしんば私が魔物を倒しても報酬はいらん」
そう云っているのに、目の前の菜飯炊飯器は前金と云って私の手に千五百ゴールドを握らせようとする。
しつこいので無理矢理突き返して外へ出た。お天道様は既に高く昇っていた。
これはポート・セルミでウルフ山賊に取り囲まれていた奴に相違ないが、偶然立ち寄っただけの私を捕まえて依頼人扱いとは甚だ人の好い話だ。
「私は飯と宿を提供してくれた婆さんの恩義に報いるために魔物を倒すのであって、貴様らの依頼を受けるからではない。だからよしんば私が魔物を倒しても報酬はいらん」
そう云っているのに、目の前の菜飯炊飯器は前金と云って私の手に千五百ゴールドを握らせようとする。
しつこいので無理矢理突き返して外へ出た。お天道様は既に高く昇っていた。
288: 2016/12/19(月) 20:39:00.47 ID:5Bd0Ws+mo
いくらあの赤シャツが頭を捻ったって、あの軟弱な体から出るなまっちょろい作戦では魔物を追い払えたってすぐに進化されて破られるに極まっている。
そう思えばあんな気に入らんシャツに全てを譲り渡して懐手をしておくわけにもいかない。
荷物をまとめて魔物のねぐらと云われる西の洞窟へ向かうことにした。
そう思えばあんな気に入らんシャツに全てを譲り渡して懐手をしておくわけにもいかない。
荷物をまとめて魔物のねぐらと云われる西の洞窟へ向かうことにした。
289: 2016/12/19(月) 20:39:35.97 ID:5Bd0Ws+mo
そうして村の外へあるき出すと、向うから狸と赤シャツが来た。
奴らはこれから有刺鉄線を引く場所の見当を付ける計画なんだろう。
すたすた急ぎ足にやってきたが、擦れ違った時私の顔を見たから、ちょっと挨拶をした。
すると赤シャツは返礼して向こうへ去ったが、狸は立ち止まって、あなたはさっきの話を聞いてなかったんですかねえと真面目くさって聞いた。
奴らはこれから有刺鉄線を引く場所の見当を付ける計画なんだろう。
すたすた急ぎ足にやってきたが、擦れ違った時私の顔を見たから、ちょっと挨拶をした。
すると赤シャツは返礼して向こうへ去ったが、狸は立ち止まって、あなたはさっきの話を聞いてなかったんですかねえと真面目くさって聞いた。
290: 2016/12/19(月) 20:40:08.36 ID:5Bd0Ws+mo
聞いてなかったんですかねえもないもんだ。
二時間前私に向ってお話は分かりましたね。それは結構々々。と頷いていたじゃないか。
こう腹と目が大きいと人に対する態度まで大きくなるもんだ。
私は腹が立ったから、ええ聞きました。聞いたから、これから反目して洞窟へ向かうんですと云い捨てて済ましてあるき出した。
二時間前私に向ってお話は分かりましたね。それは結構々々。と頷いていたじゃないか。
こう腹と目が大きいと人に対する態度まで大きくなるもんだ。
私は腹が立ったから、ええ聞きました。聞いたから、これから反目して洞窟へ向かうんですと云い捨てて済ましてあるき出した。
291: 2016/12/19(月) 20:40:58.54 ID:5Bd0Ws+mo
魔物君が毎晩ご苦労千万にもねぐらと村を往復するだけあってその二間距離は甚だ短い。
日も落ちぬ内に洞窟へ着けば、なんと所々に屍が転がっている。
例の魔物は人を襲わないと聞いていたから不思議に思っていると、これらは皆白骨化していて大分古い。
その上どこからも新鮮な肉の臭いが殆どしないには驚いた。
魔物のくせに野菜がよほど好きと見える。
日も落ちぬ内に洞窟へ着けば、なんと所々に屍が転がっている。
例の魔物は人を襲わないと聞いていたから不思議に思っていると、これらは皆白骨化していて大分古い。
その上どこからも新鮮な肉の臭いが殆どしないには驚いた。
魔物のくせに野菜がよほど好きと見える。
292: 2016/12/19(月) 20:42:44.28 ID:5Bd0Ws+mo
しばらく進むと、不思議なことに天然の洞窟に階段がある。
訝みながら昇ると、黄色い毛玉だの毛屑だのが散らばる一角へたどり着いた。
出て来い。と声を張り上げてみれば、奥から金色の毛を纏った豹の魔物が姿を現した。
訝みながら昇ると、黄色い毛玉だの毛屑だのが散らばる一角へたどり着いた。
出て来い。と声を張り上げてみれば、奥から金色の毛を纏った豹の魔物が姿を現した。
293: 2016/12/19(月) 20:43:25.43 ID:5Bd0Ws+mo
態勢を整えてそいつに向かうが、相手は一向に構えを見せない。
ぼけらとこちらを眺めているばかりで何もしてこないようなので、牽制して鼻面にゴルキを見せつけた。
初めはぽかんとしていたが、ゴルキに鼻を近づけるやそいつはとんでもない勢いで跳ね上がった。
私とピエールは驚いて得物を振り回したが、奴め当てても当てても一向にへばらない。むしろどんどん元気になっていくように見える。
しかたがないからゴルキに任せて様子を窺っていると、哀れ青い軟体生物は金色の化け物の一撃の下に倒れてしまった。
冷や汗を拭って緊張していると、魔物がゴルキのリボンを頭頂部から引き抜いた。
そうして奪ったリボンを諸手で弄び、クウンクウンと甘えた鳴き声を出して転がり始めた。
ぼけらとこちらを眺めているばかりで何もしてこないようなので、牽制して鼻面にゴルキを見せつけた。
初めはぽかんとしていたが、ゴルキに鼻を近づけるやそいつはとんでもない勢いで跳ね上がった。
私とピエールは驚いて得物を振り回したが、奴め当てても当てても一向にへばらない。むしろどんどん元気になっていくように見える。
しかたがないからゴルキに任せて様子を窺っていると、哀れ青い軟体生物は金色の化け物の一撃の下に倒れてしまった。
冷や汗を拭って緊張していると、魔物がゴルキのリボンを頭頂部から引き抜いた。
そうして奪ったリボンを諸手で弄び、クウンクウンと甘えた鳴き声を出して転がり始めた。
294: 2016/12/19(月) 20:44:16.08 ID:5Bd0Ws+mo
とても凶暴な魔物にそぐわぬ仕草に呆気に取られていたら、豹がのそのそと私に近づいてくる。
一瞬ひやっとしたが、その顔を真向かいに見つめたとき、何だか見覚えのある感じがした。
豹がリボンを足下に置いて私に背を向け、尻尾でもってそのリボンを持ち上げた時、私は一体思い出した。
目の前の豹――キラーパンサーこそ、ビアンカと共に助けたゲレゲレである。
一瞬ひやっとしたが、その顔を真向かいに見つめたとき、何だか見覚えのある感じがした。
豹がリボンを足下に置いて私に背を向け、尻尾でもってそのリボンを持ち上げた時、私は一体思い出した。
目の前の豹――キラーパンサーこそ、ビアンカと共に助けたゲレゲレである。
295: 2016/12/19(月) 20:45:31.09 ID:5Bd0Ws+mo
私は久々の再会に声を震わせた。ゲレゲレも喉をごろごろと鳴らして私の手を舐めた。
しばらく再会を喜び合っていると、ゲレゲレが私の手を甘噛みし、洞窟の奥へ誘う。
見ると随分大きなものが地面に突き立っている。
近づいて観察してみると、なんと、父が後生大事にしていた剣である。
しばらく再会を喜び合っていると、ゲレゲレが私の手を甘噛みし、洞窟の奥へ誘う。
見ると随分大きなものが地面に突き立っている。
近づいて観察してみると、なんと、父が後生大事にしていた剣である。
296: 2016/12/19(月) 20:46:24.87 ID:5Bd0Ws+mo
昔はとても持ちきれない、恐ろしい大太刀だと勝手に崇めていたが、成長して持ってみると存外細身で扱いやすい。
古くて埃は被っているが、刃の手入れは相変わらず鄭寧で切れ味も好い。
柄を握ってみると、不思議な感覚が私の身体を包んだ。そうして父の記憶が遠く呼び起こされた。
父の形見と旧友を一遍に取り戻して感動していたせいもあるだろう。思わずして涙がこぼれた。
古くて埃は被っているが、刃の手入れは相変わらず鄭寧で切れ味も好い。
柄を握ってみると、不思議な感覚が私の身体を包んだ。そうして父の記憶が遠く呼び起こされた。
父の形見と旧友を一遍に取り戻して感動していたせいもあるだろう。思わずして涙がこぼれた。
297: 2016/12/19(月) 20:47:09.10 ID:5Bd0Ws+mo
ゲレゲレを連れて外へ出た。彼の尻尾にはリボンが巻き付けてある。
獰猛で有名なキラーパンサーには幾分可愛らしい装飾だが、本人が気に入っているのだから好かろう。
ゴルキは幸運にも虫の息で済んでいたから回復してやった。
こう何度も瀕氏に陥ってPTSDが発症しないか心配だが、本人は快活な様子だから大丈夫なんだろう。
獰猛で有名なキラーパンサーには幾分可愛らしい装飾だが、本人が気に入っているのだから好かろう。
ゴルキは幸運にも虫の息で済んでいたから回復してやった。
こう何度も瀕氏に陥ってPTSDが発症しないか心配だが、本人は快活な様子だから大丈夫なんだろう。
298: 2016/12/19(月) 20:51:31.33 ID:5Bd0Ws+mo
村に帰る前にゲレゲレを隠さなければならない。
もし村人に彼と連れ立っているのを見られでもしたら、あらぬ疑いをかけられかねない。
ただゲレゲレが畑を荒らして人々を飢えさせたのは事実で、そればかりは擁護のしようがない。
魔物血気が盛んだか知れないが、友が悪行を遂行していたと云うのは少なからずショックである。
嘆息しながら馬車の奥深くにゲレゲレを詰め込んでいると、やにわに後ろから嫌な声が聞こえた。
もし村人に彼と連れ立っているのを見られでもしたら、あらぬ疑いをかけられかねない。
ただゲレゲレが畑を荒らして人々を飢えさせたのは事実で、そればかりは擁護のしようがない。
魔物血気が盛んだか知れないが、友が悪行を遂行していたと云うのは少なからずショックである。
嘆息しながら馬車の奥深くにゲレゲレを詰め込んでいると、やにわに後ろから嫌な声が聞こえた。
299: 2016/12/19(月) 20:52:25.65 ID:5Bd0Ws+mo
「これはこれは戦士の方。いかがなされましたか」と赤いフランネル。
私は反射的に顔をしかめて、「いいえ何でもありません」と云った。
見ると後ろには校長とかいう狸と芸人の野だいこが引っ付いている。せんだっては教頭とか校長とか分からん役職で呼び合っていたがどういう意味だろう。
赤シャツが「早計にも我々が策を弄する以前にもう魔物隠士の所へ行ったんですかな」とねちっこく尋ねる。
さっき狸に云ったじゃないか。知っている癖にわざわざ訊いて、こちらの非を認めさせる腹積もりなんだろう。つくづく卑しい奴らだ。
「そうだ。貴様等の案が気に入らんから勝手に行かせてもらった」と答えると、赤シャツ一行はやれやれとばかりに首をすくめる。いよいよ腹立たしい。
私は反射的に顔をしかめて、「いいえ何でもありません」と云った。
見ると後ろには校長とかいう狸と芸人の野だいこが引っ付いている。せんだっては教頭とか校長とか分からん役職で呼び合っていたがどういう意味だろう。
赤シャツが「早計にも我々が策を弄する以前にもう魔物隠士の所へ行ったんですかな」とねちっこく尋ねる。
さっき狸に云ったじゃないか。知っている癖にわざわざ訊いて、こちらの非を認めさせる腹積もりなんだろう。つくづく卑しい奴らだ。
「そうだ。貴様等の案が気に入らんから勝手に行かせてもらった」と答えると、赤シャツ一行はやれやれとばかりに首をすくめる。いよいよ腹立たしい。
300: 2016/12/19(月) 20:55:36.55 ID:5Bd0Ws+mo
私がむっつりとしていると「収穫はどうでした」と聞いてくるので弱った。
前の通り口が回らないから上手い嘘が吐けない。
かといって正直に話してしまうと大変都合が悪い。
いえ、ともうん、ともつかぬあいまいな返事をしていると赤シャツ等の目が妖しく光る。
不意に野だが後ろの馬車に近づく。
前の通り口が回らないから上手い嘘が吐けない。
かといって正直に話してしまうと大変都合が悪い。
いえ、ともうん、ともつかぬあいまいな返事をしていると赤シャツ等の目が妖しく光る。
不意に野だが後ろの馬車に近づく。
301: 2016/12/19(月) 20:57:10.60 ID:5Bd0Ws+mo
私はあっ、と云って野だへ駆けだしたが、驚いたのと、非常にせっついていたのとで足を絡げてしまい、その場にどたりと転げ伏してしまった。
その上私が転んだのに赤シャツが狼狽して蹈鞴を踏んで、それが不幸にも地べたに倒れた私の指先に着地したものだから大いに痛かった。
ぎゃあと悲鳴を上げて飛び上がると、途端に馬車の方がぷるぷるニャアニャア候候と喧しくなった。
野だがうひゃあと云って後退るのを境に、馬車に隠しておいた魔物諸君がわらわらと飛び出して私の周りを取り囲んだ。
その上私が転んだのに赤シャツが狼狽して蹈鞴を踏んで、それが不幸にも地べたに倒れた私の指先に着地したものだから大いに痛かった。
ぎゃあと悲鳴を上げて飛び上がると、途端に馬車の方がぷるぷるニャアニャア候候と喧しくなった。
野だがうひゃあと云って後退るのを境に、馬車に隠しておいた魔物諸君がわらわらと飛び出して私の周りを取り囲んだ。
302: 2016/12/19(月) 20:58:05.59 ID:5Bd0Ws+mo
どうもさっきの悲鳴で私が攻撃されたものと癇違いしたらしい。
ゲレゲレなんかは赤シャツを睨め付けてフーフー唸っている。
赤シャツは目を見開いて「おやおやこれはこれは。噂に聞く魔物君じゃありませんか」と感心している。野だは泡を吹いて、狸は腹をさすっている。
ゲレゲレなんかは赤シャツを睨め付けてフーフー唸っている。
赤シャツは目を見開いて「おやおやこれはこれは。噂に聞く魔物君じゃありませんか」と感心している。野だは泡を吹いて、狸は腹をさすっている。
303: 2016/12/19(月) 20:59:21.72 ID:5Bd0Ws+mo
敵とまみえて興奮しているゲレゲレを宥めようと起きあがるが、一歩遅かった。
鋭い牙を剥いて猛然と飛び上がり、赤シャツの白い喉笛に襲い掛かった。
赤シャツも大人しく噛み千切られるのは不本意と見えて、ゲレゲレを躱しながら呪文を詠唱している。
ゲレゲレは空を噛んで体勢を崩し、立て直して振り返った。
そこへ、赤シャツの呪文が飛び込んだ。赤い火炎のメラミである。
鋭い牙を剥いて猛然と飛び上がり、赤シャツの白い喉笛に襲い掛かった。
赤シャツも大人しく噛み千切られるのは不本意と見えて、ゲレゲレを躱しながら呪文を詠唱している。
ゲレゲレは空を噛んで体勢を崩し、立て直して振り返った。
そこへ、赤シャツの呪文が飛び込んだ。赤い火炎のメラミである。
304: 2016/12/19(月) 20:59:57.24 ID:5Bd0Ws+mo
肌を焼いたゲレゲレが野に転がるのを見て、私はぞくりとした。
十年前に見た恐ろしい体験が背筋をつんざくように走った。
遺跡に転がる幼いゲレゲレの姿がちかちかと目に映えた。
目の前に赤いもやがゆらりと浮かんで、なにやら話しかけてきているが、耳に入らなかった。
気が付けば衝撃に痛む私の拳と、頬を押さえてうずくまる赤シャツの姿があった。
十年前に見た恐ろしい体験が背筋をつんざくように走った。
遺跡に転がる幼いゲレゲレの姿がちかちかと目に映えた。
目の前に赤いもやがゆらりと浮かんで、なにやら話しかけてきているが、耳に入らなかった。
気が付けば衝撃に痛む私の拳と、頬を押さえてうずくまる赤シャツの姿があった。
305: 2016/12/19(月) 21:01:11.58 ID:5Bd0Ws+mo
しばらくして、ようやくこの手で赤シャツを撲ったのだと悟った。
呆気に取られる校長と野だが何か云い出す前に、ゲレゲレへ駆け寄ってベホイミをかけた。火傷は幸い重傷でない。
人を撲って魔物を助ける私の姿を見て、彼らは何事か察したらしい。
大変だ大変だと云って赤シャツを抱え上げて立ち去るのを、我々はただぼうっと眺めることしかできなかった。
呆気に取られる校長と野だが何か云い出す前に、ゲレゲレへ駆け寄ってベホイミをかけた。火傷は幸い重傷でない。
人を撲って魔物を助ける私の姿を見て、彼らは何事か察したらしい。
大変だ大変だと云って赤シャツを抱え上げて立ち去るのを、我々はただぼうっと眺めることしかできなかった。
312: 2016/12/20(火) 19:51:02.65 ID:i3W3PJqGo
村に帰れば、これまでないほどに白い目が私の体を射抜いた。
魔物等は馬車に隠しているが、赤シャツ等の情報は既に狭い田舎を縦横無尽に駆けめぐったようで、着の身着のままの私を魔物か化け物を見るような目つきで睨め付けていた。
もし、と話しかけても我関せずとそそくさ逃げて行く始末だ。
もっとも彼らにしてみれば猫畜生を責める訳にもいかないから、飼い主である私を攻撃するんだろう。
魔物等は馬車に隠しているが、赤シャツ等の情報は既に狭い田舎を縦横無尽に駆けめぐったようで、着の身着のままの私を魔物か化け物を見るような目つきで睨め付けていた。
もし、と話しかけても我関せずとそそくさ逃げて行く始末だ。
もっとも彼らにしてみれば猫畜生を責める訳にもいかないから、飼い主である私を攻撃するんだろう。
313: 2016/12/20(火) 19:52:23.39 ID:i3W3PJqGo
宿に泊まろうとすると、取り付く島もなく追い払われた。
私がいったい何をした、宿くらい泊めろと憤慨したら、
「教頭先生が云っとったぞなもし。あんたのような魔物の仲間と関わる気はないぞなもし」
と云って追い払われた。
ふざけやがって。大方私が金目当てで魔物をけしかけたとでも邪推してるんだろうが、勘違いも甚だしい。
私は報酬を一切受け取らないでいたと云うのに、ここの奴らは物事の半面しか見据えておらん。
血を一滴も流さないで平穏に事件を解決した私が迫害を受けて、何もしないで法螺ばかり吹いておった奸物は先生扱いか。
田舎だから万事が都会のさかに行くんだろう。物騒なところだ。
今に火事が凍って、石が豆腐になるに相違ない。
私がいったい何をした、宿くらい泊めろと憤慨したら、
「教頭先生が云っとったぞなもし。あんたのような魔物の仲間と関わる気はないぞなもし」
と云って追い払われた。
ふざけやがって。大方私が金目当てで魔物をけしかけたとでも邪推してるんだろうが、勘違いも甚だしい。
私は報酬を一切受け取らないでいたと云うのに、ここの奴らは物事の半面しか見据えておらん。
血を一滴も流さないで平穏に事件を解決した私が迫害を受けて、何もしないで法螺ばかり吹いておった奸物は先生扱いか。
田舎だから万事が都会のさかに行くんだろう。物騒なところだ。
今に火事が凍って、石が豆腐になるに相違ない。
314: 2016/12/20(火) 19:52:49.37 ID:i3W3PJqGo
大体何だ赤シャツの奴は。
ゲレゲレは確かにあくどいことはしたけれどもそれは魔物血気のもので仕方がないと自分で論じていたのに、いざ面してみると全体魔物が悪いんだと吹聴する。
その上私をまるで魔物眷属郎党のように言いふらしやがって。
あんな奸物にかかっては適わない。
また何かと因縁でも付けられて外聞が悪くなったらことだから、あいつとは関わらないことにした。
ゲレゲレは確かにあくどいことはしたけれどもそれは魔物血気のもので仕方がないと自分で論じていたのに、いざ面してみると全体魔物が悪いんだと吹聴する。
その上私をまるで魔物眷属郎党のように言いふらしやがって。
あんな奸物にかかっては適わない。
また何かと因縁でも付けられて外聞が悪くなったらことだから、あいつとは関わらないことにした。
315: 2016/12/20(火) 19:53:15.62 ID:i3W3PJqGo
白眼の最中でも、事情の分からない子供だけが飄々としている。
ねえねえ、お兄ちゃんて魔物遣いなのと訊かれたが、もう三匹も魔物を連れている手前全然違うとも言い切れなかった。
曖昧にうん、と頷くと子供はわあ、すごいすごいと囃し立てて行った。
無邪気と残酷は併合すると相場が極まっている。
それだから子供が生来苦手だったが、この時ばかりは子供の無邪気さがどうしても羨ましかった。
ねえねえ、お兄ちゃんて魔物遣いなのと訊かれたが、もう三匹も魔物を連れている手前全然違うとも言い切れなかった。
曖昧にうん、と頷くと子供はわあ、すごいすごいと囃し立てて行った。
無邪気と残酷は併合すると相場が極まっている。
それだから子供が生来苦手だったが、この時ばかりは子供の無邪気さがどうしても羨ましかった。
316: 2016/12/20(火) 19:54:06.70 ID:i3W3PJqGo
村の少し外れに、赤シャツの乗ってきたと思しき馬車が道に止まっている。
馬車まで赤くはないが、ところどころ洒落た小細工がしてあって憎たらしい。
この分では内装もよほど厭な手合いだろうなと思って覗いてみると、驚いた。
中にやせ細った村人が何人も放り込まれている。
大抵は毛布を被って寝ていて、こちらが声をかけても微動だにしない。
中へ入って揺さぶってみようとすると、後ろから肩を叩かれて大いに驚いた。
振り返れば、何のことはない、馬車の持ち主のフランネルである。
馬車まで赤くはないが、ところどころ洒落た小細工がしてあって憎たらしい。
この分では内装もよほど厭な手合いだろうなと思って覗いてみると、驚いた。
中にやせ細った村人が何人も放り込まれている。
大抵は毛布を被って寝ていて、こちらが声をかけても微動だにしない。
中へ入って揺さぶってみようとすると、後ろから肩を叩かれて大いに驚いた。
振り返れば、何のことはない、馬車の持ち主のフランネルである。
317: 2016/12/20(火) 19:56:50.78 ID:i3W3PJqGo
最前関わらないと決めてかかったが、話さなくちゃあ事情が分からないから仕方がない。
一体こいつらはどうしたんだと尋ねた。
すると赤シャツはあの人等はこれから転居するんですよと云った。
「転居って、彼らはここの土着民だろう」
「確かにここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへ行くんだ」
「セントベレス山の頂上です」
「と云うと光の教団かね。どうしてそんな所へ」
「どうしても何も、本人等が行きたいと云うから仕方がないじゃありませんか」
「そりゃいかんね。あんな所は地獄と同意語だ」
「おや、そう無暗に喧嘩をふっかけるのはいけませんね」
「喧嘩も喧嘩、大喧嘩だ。私はあすこへ行ったことがあるが、ありゃあおよそ人の住む所じゃないよ」
そう云ってやると、赤シャツは妙な顔をして私の目を覗き込んだ。
一体こいつらはどうしたんだと尋ねた。
すると赤シャツはあの人等はこれから転居するんですよと云った。
「転居って、彼らはここの土着民だろう」
「確かにここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへ行くんだ」
「セントベレス山の頂上です」
「と云うと光の教団かね。どうしてそんな所へ」
「どうしても何も、本人等が行きたいと云うから仕方がないじゃありませんか」
「そりゃいかんね。あんな所は地獄と同意語だ」
「おや、そう無暗に喧嘩をふっかけるのはいけませんね」
「喧嘩も喧嘩、大喧嘩だ。私はあすこへ行ったことがあるが、ありゃあおよそ人の住む所じゃないよ」
そう云ってやると、赤シャツは妙な顔をして私の目を覗き込んだ。
318: 2016/12/20(火) 19:57:41.25 ID:i3W3PJqGo
私は赤シャツのこの仕草にどうも寒気を覚えて、別の話を始めた。
「せんだってはいきなり殴って申し訳なかった」
赤シャツは一寸何のことか解しかねた様子だったが、ぴんと来たと見ていきなり笑い出した。
「別段後遺症もなかったですからね。今回は大目に見るとしましょう」
そう云って赤シャツはホホホホと顎を突き出す。
私は未だにこの笑みが好かれない。
別段人の笑い方くらい好きにさせたって好いのだが、こいつのものばかりはどうも気に食わない。
「せんだってはいきなり殴って申し訳なかった」
赤シャツは一寸何のことか解しかねた様子だったが、ぴんと来たと見ていきなり笑い出した。
「別段後遺症もなかったですからね。今回は大目に見るとしましょう」
そう云って赤シャツはホホホホと顎を突き出す。
私は未だにこの笑みが好かれない。
別段人の笑い方くらい好きにさせたって好いのだが、こいつのものばかりはどうも気に食わない。
319: 2016/12/20(火) 19:58:21.34 ID:i3W3PJqGo
「村では君があの魔物君をけしかけたんじゃないかと専らの噂ですよ」
「噂も何も、君がそう言いふらしたんだろう」
「いやいや、あれは吉川君――あの透綾の羽織を着た御仁ですよ――その人が独りでに始めたことで、私は何も存じませんよ」
「存じませんで済むか。おかげで宿にも泊まれない」
「おや、それはお困りでしょう。何なら私が周旋して差し上げましょうか」
「いいや結構だ」
ここに至って赤シャツの手助けなんか貰うくらいなら氏んじまわあ。
「噂も何も、君がそう言いふらしたんだろう」
「いやいや、あれは吉川君――あの透綾の羽織を着た御仁ですよ――その人が独りでに始めたことで、私は何も存じませんよ」
「存じませんで済むか。おかげで宿にも泊まれない」
「おや、それはお困りでしょう。何なら私が周旋して差し上げましょうか」
「いいや結構だ」
ここに至って赤シャツの手助けなんか貰うくらいなら氏んじまわあ。
320: 2016/12/20(火) 19:58:48.05 ID:i3W3PJqGo
「それで、君は本当に先のことをしでかしたんですかね」
「冗談云っちゃいけない。そんなことして私に何の得があるんだ。報酬も断って返したのに」
「それはもっともですね。空腹で全く神経衰弱になっているんでしょう。村人には私が好く云って聞かせますよ」
「うん。……ええと、よろしく頼む」
いきなり親切にされて私は大いに狼狽した。顔や仕草は気に食わんが、道理が分かるのだけは偉いもんだ。
ただどうせこれも計略の一部だと疑ってかからないと、いつ私も馬車に詰められるか分かったものではない。
「冗談云っちゃいけない。そんなことして私に何の得があるんだ。報酬も断って返したのに」
「それはもっともですね。空腹で全く神経衰弱になっているんでしょう。村人には私が好く云って聞かせますよ」
「うん。……ええと、よろしく頼む」
いきなり親切にされて私は大いに狼狽した。顔や仕草は気に食わんが、道理が分かるのだけは偉いもんだ。
ただどうせこれも計略の一部だと疑ってかからないと、いつ私も馬車に詰められるか分かったものではない。
321: 2016/12/20(火) 19:59:24.59 ID:i3W3PJqGo
すると大将琥珀のパイプでもってぷかぷかやり始めた。
そうしてふと思いついたように「君はどうして魔物なんぞの肩を持つんです」と尋ねた。
私は「別段好きで連れ立っているわけではない。勝手について来るから放っているだけだ」と云った。
「じゃあ彼らに、何の義理も恩情もないと?」
「そうだ」
これは嘘ではなかった。が、全部が真実でもなかった。
そうしてふと思いついたように「君はどうして魔物なんぞの肩を持つんです」と尋ねた。
私は「別段好きで連れ立っているわけではない。勝手について来るから放っているだけだ」と云った。
「じゃあ彼らに、何の義理も恩情もないと?」
「そうだ」
これは嘘ではなかった。が、全部が真実でもなかった。
322: 2016/12/20(火) 19:59:52.28 ID:i3W3PJqGo
「随分物騒な体質ですね」
「扱いさえ誤らなければ危険はない」
「それを誤ったから今回カボチ村の方々がお困りになったんでしょう」
「知らない。なにせあいつは十年前に捨てた――捨てさせられた猫だから、私は飼い主でなかった。飼い猫でなかった時分の行為に関して責任は負えない」
「負えないと云って、今回の騒動の責は誰が取るんです。魔物君に切腹でもさせますか」
「畜生が切腹なんぞするかね。村の奴らがしたいようにさせればいい」
「おや、処刑と申しますか」
「処刑でも、禁錮でも、煮て食うでも、どうとでもするが好い。あいつはそれだけのことをしたんだから」
私はこう述べるとき確かに胸を痛ませたけども、私よりずっと苦しい思いをした村民を鑑みればこのぐらいは我慢を利かせねばならなかった。
「さいですか。じゃあ村長に話してよく検討しますから、沙汰は追って伝えますよ」
赤シャツはそう云ってすたすたと歩いて行った。
「扱いさえ誤らなければ危険はない」
「それを誤ったから今回カボチ村の方々がお困りになったんでしょう」
「知らない。なにせあいつは十年前に捨てた――捨てさせられた猫だから、私は飼い主でなかった。飼い猫でなかった時分の行為に関して責任は負えない」
「負えないと云って、今回の騒動の責は誰が取るんです。魔物君に切腹でもさせますか」
「畜生が切腹なんぞするかね。村の奴らがしたいようにさせればいい」
「おや、処刑と申しますか」
「処刑でも、禁錮でも、煮て食うでも、どうとでもするが好い。あいつはそれだけのことをしたんだから」
私はこう述べるとき確かに胸を痛ませたけども、私よりずっと苦しい思いをした村民を鑑みればこのぐらいは我慢を利かせねばならなかった。
「さいですか。じゃあ村長に話してよく検討しますから、沙汰は追って伝えますよ」
赤シャツはそう云ってすたすたと歩いて行った。
323: 2016/12/20(火) 20:01:01.77 ID:i3W3PJqGo
ゲレゲレの処置が決まるまではこの村に留まらねばならんが、宿屋にすら拒まれてはいよいよ寝るところもない。
消沈していると初めの婆さんの家が目に留まった。
だめ元でそこを訪ねてみると、婆さんは他の連中と画して私を丁重に迎え入れてくれた。
事情を知れない訳でもなく単に私のことを信用してくれていたようだからなお嬉しい。
礼を云うと婆さんはなあに、悪いのは魔物であなたじゃないぞなもしと道理が分かっている。
しかしゲレゲレは何だって不用意に村の畑を荒らしたのだろう。
食べる分だけならあれほどまでに荒らす必要もないのに。
消沈していると初めの婆さんの家が目に留まった。
だめ元でそこを訪ねてみると、婆さんは他の連中と画して私を丁重に迎え入れてくれた。
事情を知れない訳でもなく単に私のことを信用してくれていたようだからなお嬉しい。
礼を云うと婆さんはなあに、悪いのは魔物であなたじゃないぞなもしと道理が分かっている。
しかしゲレゲレは何だって不用意に村の畑を荒らしたのだろう。
食べる分だけならあれほどまでに荒らす必要もないのに。
324: 2016/12/20(火) 20:01:29.26 ID:i3W3PJqGo
翌朝になって、顔を洗って膳へ着くと婆さんが朝飯を運んできた。
今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと云った。どっちにしたって似たものだ。
「お婆さん村の何人かは光の教団へ行くそうですね」
「ほん当にお気の毒じゃぞな、もし」
「うん。実に気の毒だが、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、当人らがさ。光の教団の教義にでも感銘して物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎ぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門だ」
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、あん人等のお往きともないのももっともぞなもし」
今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと云った。どっちにしたって似たものだ。
「お婆さん村の何人かは光の教団へ行くそうですね」
「ほん当にお気の毒じゃぞな、もし」
「うん。実に気の毒だが、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、当人らがさ。光の教団の教義にでも感銘して物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎ぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門だ」
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、あん人等のお往きともないのももっともぞなもし」
325: 2016/12/20(火) 20:04:08.60 ID:i3W3PJqGo
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「昨日村長さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんな訳をお話したんです」
「どこもかしこもやはり暮し向むきが豊かになうてお困りじゃけれ、村ん人らが村長さんにお頼みて、もう食い物もなくて氏にそうじゃけれ、どうぞどうにかしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
「村長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでみんなも安心して、今に吉報のご沙汰があろぞ、今日か明日かと腹を凹まして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれとみんなにお云いて、集めて、赤い教頭さんと会わして、気の毒だが村全体が貧困じゃけれ、どうにもできん。しかし光の教団へ入信したら食い物に困らんで、ついでにそこで働けば毎月給料も貰えるから、それでお望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
「昨日村長さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんな訳をお話したんです」
「どこもかしこもやはり暮し向むきが豊かになうてお困りじゃけれ、村ん人らが村長さんにお頼みて、もう食い物もなくて氏にそうじゃけれ、どうぞどうにかしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
「村長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでみんなも安心して、今に吉報のご沙汰があろぞ、今日か明日かと腹を凹まして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれとみんなにお云いて、集めて、赤い教頭さんと会わして、気の毒だが村全体が貧困じゃけれ、どうにもできん。しかし光の教団へ入信したら食い物に困らんで、ついでにそこで働けば毎月給料も貰えるから、それでお望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
326: 2016/12/20(火) 20:04:40.47 ID:i3W3PJqGo
「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「さよよ。みんなはよそへ行って食えるより、元のままでもええから、ここに居りたい。土地もあるし、家族もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、入信手続きも済まして、戸籍も渡したから仕方がないと教頭さんがお云いて、村長さんもその通りにお云いたげな」
「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃあの人等は行く気はないんですね。どうれで変だと思った。なんぼ食えるからって、あんな辺獄へ好き好んで堕ちる唐変木はまずないからね」
「唐変木て、あなたなんぞなもし」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。事情の知れない人を騙すたあ、太え魂胆だ」
「さよよ。みんなはよそへ行って食えるより、元のままでもええから、ここに居りたい。土地もあるし、家族もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、入信手続きも済まして、戸籍も渡したから仕方がないと教頭さんがお云いて、村長さんもその通りにお云いたげな」
「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃあの人等は行く気はないんですね。どうれで変だと思った。なんぼ食えるからって、あんな辺獄へ好き好んで堕ちる唐変木はまずないからね」
「唐変木て、あなたなんぞなもし」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。事情の知れない人を騙すたあ、太え魂胆だ」
327: 2016/12/20(火) 20:05:12.59 ID:i3W3PJqGo
「けんどもそれで生活が楽になるけれ、仕方がないぞなもし」
「うん。そりゃあ、ひもじいのは確かだからね。しかし……それでもどうも落ち着かないや。何だかこう、胸騒ぎがするでしょう」
「何も感じないぞなもし」
「年寄りは鈍感だから分からんのさ。……さて、もう頃合いだね。そろそろ行きます」
婆さんは見送りをしてくれた。その丁寧さに私は思わず胸を暖めた。世間の人間が全員こうであれば、誰も辛い思いはしなくて済むだろうに。
ただ、別れ際に芋を選別してくれたのには閉口した。
「うん。そりゃあ、ひもじいのは確かだからね。しかし……それでもどうも落ち着かないや。何だかこう、胸騒ぎがするでしょう」
「何も感じないぞなもし」
「年寄りは鈍感だから分からんのさ。……さて、もう頃合いだね。そろそろ行きます」
婆さんは見送りをしてくれた。その丁寧さに私は思わず胸を暖めた。世間の人間が全員こうであれば、誰も辛い思いはしなくて済むだろうに。
ただ、別れ際に芋を選別してくれたのには閉口した。
328: 2016/12/20(火) 20:05:39.86 ID:i3W3PJqGo
歩いていると、道行く周りの目が少し和らいでいることに気がついた。
大方赤シャツが談判して誤解を解いてくれたんだろう。
親切は難有い。が、親切は親切、奸計は奸計だから、村人を騙してセントベレス山に送ったのを無にしちゃ筋が違う。
だからあいつを許すことはしないんだが、何だかすっきりしない心持ちだ。
腹の内で感謝と腹立たしさが妙な具合でまぜこぜになってとぐろを巻いていた。
大方赤シャツが談判して誤解を解いてくれたんだろう。
親切は難有い。が、親切は親切、奸計は奸計だから、村人を騙してセントベレス山に送ったのを無にしちゃ筋が違う。
だからあいつを許すことはしないんだが、何だかすっきりしない心持ちだ。
腹の内で感謝と腹立たしさが妙な具合でまぜこぜになってとぐろを巻いていた。
329: 2016/12/20(火) 20:06:05.68 ID:i3W3PJqGo
村長の家へ着くと、村長はかみさんと一緒に私を迎え入れてくれた。
ご丁寧にも茶まで出してくれたが、やたらと苦くて濃いのに閉口して一口で遠慮した。
村長は構わず旨そうに啜って、「魔物の処罰が決まったぞなもし」と厳かに告げた。
私は居住まいを正して、固唾を飲んで続きを待っていると、村長は少々目線を下げて、「あんたらをこの村から追放することにしたぞなもし」と云った。
ご丁寧にも茶まで出してくれたが、やたらと苦くて濃いのに閉口して一口で遠慮した。
村長は構わず旨そうに啜って、「魔物の処罰が決まったぞなもし」と厳かに告げた。
私は居住まいを正して、固唾を飲んで続きを待っていると、村長は少々目線を下げて、「あんたらをこの村から追放することにしたぞなもし」と云った。
330: 2016/12/20(火) 20:06:57.46 ID:i3W3PJqGo
私は虚を衝かれた体ではい。と云った。村長はうむ。と云ったぎり動かない。しばらく場が硬直した。
何だか妙な空気になって、息がし辛くなったので、質問を少し好いですかと訊いた。村長は頷いた。
「どうして処刑しないんですか」
「処刑してほしいげな」
「いえそうじゃないんですが、村の人々はそれで承知しますか」
「どうせ居なくなることに変わりはないんじゃから、殺さんでも好かと判断したぞなもし」
「はあ。それならもう不満はありませんが」
何だか妙な空気になって、息がし辛くなったので、質問を少し好いですかと訊いた。村長は頷いた。
「どうして処刑しないんですか」
「処刑してほしいげな」
「いえそうじゃないんですが、村の人々はそれで承知しますか」
「どうせ居なくなることに変わりはないんじゃから、殺さんでも好かと判断したぞなもし」
「はあ。それならもう不満はありませんが」
331: 2016/12/20(火) 20:07:23.99 ID:i3W3PJqGo
私が腑に落ちない顔をしていると、村長が訳を話した。
何でも赤シャツは有刺鉄線の為に莫大な金額を要求したらしい。それを受けて村は大変懊悩した。
ところがそこへ前金すら受け取らず迅速に解決してくれた人間がいる。
魔物と仲間だったのは頂けないと云う意見もあったが、やはり金に謙虚な私の様子を知っている人間から擁護する声が高まったらしい。
特にポート・セルミで勧誘をしていた農民が私の人柄を熱心に吹聴してくれたそうだ。
それで斟酌の末に刑罰を少し軽くして、村からの追放と相成ったらしい。
何でも赤シャツは有刺鉄線の為に莫大な金額を要求したらしい。それを受けて村は大変懊悩した。
ところがそこへ前金すら受け取らず迅速に解決してくれた人間がいる。
魔物と仲間だったのは頂けないと云う意見もあったが、やはり金に謙虚な私の様子を知っている人間から擁護する声が高まったらしい。
特にポート・セルミで勧誘をしていた農民が私の人柄を熱心に吹聴してくれたそうだ。
それで斟酌の末に刑罰を少し軽くして、村からの追放と相成ったらしい。
332: 2016/12/20(火) 20:08:16.10 ID:i3W3PJqGo
初めは厭らしい心積もりで勧誘しているとばかり思っていたが、ただ世間を知らないというだけのようだ。
私は安心して、分かりました。では我々は早々に退散しますと云って引き下がった。
人生、何があるか分からないものだ。厭な奴だと思えばただの世間知らずで、悪漢は親切をする。
人の世なんて、どうせ、こんなもんだろう。と、若い私は独り合点して頷いた。
帰りに村長が魔物を連れないでお忍びで来る分には問題ないぞなもしと云ってくれたが、どうせこんな田舎を訪れることも二度とあるまい。
私は安心して、分かりました。では我々は早々に退散しますと云って引き下がった。
人生、何があるか分からないものだ。厭な奴だと思えばただの世間知らずで、悪漢は親切をする。
人の世なんて、どうせ、こんなもんだろう。と、若い私は独り合点して頷いた。
帰りに村長が魔物を連れないでお忍びで来る分には問題ないぞなもしと云ってくれたが、どうせこんな田舎を訪れることも二度とあるまい。
333: 2016/12/20(火) 20:10:34.79 ID:i3W3PJqGo
村を出たらまずはポート・セルミへ向かった。
またいつかのように迷って腹を空かすのは愚だから、多めの食料、それと新しい地図を買い求めた。
すると会計をした店員が福引き券だか、何だか紙切れを渡してきた。
何でもガラガラなるクジを引いて商品を貰えるらしいが、運に自信のない私は回すのは後にして置いた。まあゆっくり幸運の時節を待つが好かろう。
地図によるとここから西にはルラフェンとか云う町があるらしい。
聞き覚えはないが何しろ酒で有名な町らしいから、情報を求めるためそこへ向かった。
またいつかのように迷って腹を空かすのは愚だから、多めの食料、それと新しい地図を買い求めた。
すると会計をした店員が福引き券だか、何だか紙切れを渡してきた。
何でもガラガラなるクジを引いて商品を貰えるらしいが、運に自信のない私は回すのは後にして置いた。まあゆっくり幸運の時節を待つが好かろう。
地図によるとここから西にはルラフェンとか云う町があるらしい。
聞き覚えはないが何しろ酒で有名な町らしいから、情報を求めるためそこへ向かった。
334: 2016/12/20(火) 20:11:57.14 ID:i3W3PJqGo
道中ふと思って、ゲレゲレにどうして君は南瓜村にあんな事をしたんだねと訊いてみた。
無論ゲレゲレはクウンと鳴くばかりで返事はしなかったが、何か云いたげな顔をしているのが気にかかった。
するとピエールがもし、と割って入るから、何だねと訊けば、実は先日ゲレゲレ殿からそれについて話を聞き申したと云うから驚いた。
君は猫語が話せるのかと訊けば、いや違う、所謂読心術と云うやつで、相手の心を読み解く能力だと云う。
残念ながら猫のようなあまり賢くないものにしか通じないようだが、いずれにせよゲレゲレの考えが聞けるのは興味深い。
早速ピエールからゲレゲレの話を聞くことにした。
無論ゲレゲレはクウンと鳴くばかりで返事はしなかったが、何か云いたげな顔をしているのが気にかかった。
するとピエールがもし、と割って入るから、何だねと訊けば、実は先日ゲレゲレ殿からそれについて話を聞き申したと云うから驚いた。
君は猫語が話せるのかと訊けば、いや違う、所謂読心術と云うやつで、相手の心を読み解く能力だと云う。
残念ながら猫のようなあまり賢くないものにしか通じないようだが、いずれにせよゲレゲレの考えが聞けるのは興味深い。
早速ピエールからゲレゲレの話を聞くことにした。
335: 2016/12/20(火) 20:12:30.96 ID:i3W3PJqGo
下魔に肌を焼かれ、満身創痍のゲレゲレはパパスの剣を背負って妖精の国を目指していた。
ベラに会って治療を受け、リボンを託した後は方々をふらふらと彷徨っていたらしい。
野草や野生動物で飢えを凌いでいたある日、ゲレゲレの目の前に紫のローブを着た青い肌をした奴が現れた。下魔である。
魔物といえど恨みはあって、飼い主の仇を討たんと飛びかかったゲレゲレだが、残念ながら赤子の手を捻るようにいなされてしまった。
ベラに会って治療を受け、リボンを託した後は方々をふらふらと彷徨っていたらしい。
野草や野生動物で飢えを凌いでいたある日、ゲレゲレの目の前に紫のローブを着た青い肌をした奴が現れた。下魔である。
魔物といえど恨みはあって、飼い主の仇を討たんと飛びかかったゲレゲレだが、残念ながら赤子の手を捻るようにいなされてしまった。
336: 2016/12/20(火) 20:13:11.78 ID:i3W3PJqGo
下魔は戦利品としてパパスの剣を取り上げたが、そこでゲレゲレは息を吹き返して猛然と立ち上がった。
その様子を見た下魔はゲレゲレがパパスの剣に執着していることを見抜き、
「もしこの剣が大事なら、あすこの村を襲いなさい。そうして人々を頃して行けばこの剣にかけた退魔を解いてあげましょう」
と云って剣を南瓜村の近くの洞窟へしまい込んだという。
剣は退魔がかけられているからゲレゲレでは持ち運べない。
だがこのまま置いたままでは盗人や旅人に盗られてしまう。ゲレゲレは渋々下魔の云うことに従った。
その様子を見た下魔はゲレゲレがパパスの剣に執着していることを見抜き、
「もしこの剣が大事なら、あすこの村を襲いなさい。そうして人々を頃して行けばこの剣にかけた退魔を解いてあげましょう」
と云って剣を南瓜村の近くの洞窟へしまい込んだという。
剣は退魔がかけられているからゲレゲレでは持ち運べない。
だがこのまま置いたままでは盗人や旅人に盗られてしまう。ゲレゲレは渋々下魔の云うことに従った。
337: 2016/12/20(火) 20:14:15.00 ID:i3W3PJqGo
しかし一度改心歴のあるゲレゲレは人は殺さず、あくまで畑を荒らすだけに留まった。
その時は精々子供の悪戯程度の具合だったので、村人たちはあまり被害を受けなかった。
やがて怒った下魔が剣を人質に脅して再三襲撃を命じた。
ゲレゲレはそれでも人を殺せず、やはり畑を荒らすのみであった。
しかし規模が以前と比して大きかったためかとうとう飢える人々が出始めた。
これを見て下魔は満足したのか、この村が壊滅するまで畑を荒らし続けるよう命じ、ゲレゲレは厭々これを承った。
これがゲレゲレが南瓜村を飢饉に陥れていた理由である。
その時は精々子供の悪戯程度の具合だったので、村人たちはあまり被害を受けなかった。
やがて怒った下魔が剣を人質に脅して再三襲撃を命じた。
ゲレゲレはそれでも人を殺せず、やはり畑を荒らすのみであった。
しかし規模が以前と比して大きかったためかとうとう飢える人々が出始めた。
これを見て下魔は満足したのか、この村が壊滅するまで畑を荒らし続けるよう命じ、ゲレゲレは厭々これを承った。
これがゲレゲレが南瓜村を飢饉に陥れていた理由である。
338: 2016/12/20(火) 20:15:20.21 ID:i3W3PJqGo
私は愕然とした。かつて父を頃し、私の青春を頃した下魔が、とうとう人々とゲレゲレを苦しめ始めていたとは。
どうしてもあの奸佞邪知を滅ぼさねば気が済まなかったが、あいつは尋常でなく強い。
それは十年前に実際に戦って分かったことだ。
いつかあいつを倒せるようになるまで、鍛錬を怠ってはならんだろう。
どうしてもあの奸佞邪知を滅ぼさねば気が済まなかったが、あいつは尋常でなく強い。
それは十年前に実際に戦って分かったことだ。
いつかあいつを倒せるようになるまで、鍛錬を怠ってはならんだろう。
339: 2016/12/20(火) 20:17:16.95 ID:i3W3PJqGo
道中出てきた魔物に父の剣を突き立ててみると、魔物は凄絶な悲鳴を上げて消え去った。
下魔がかけた退魔はどうやら順調に効果を発揮しているようだ。
しかし万が一ゴルキなんかを傷つけでもすると大惨事になりかねないので扱いにはこれまで以上に気をつけねばならん。
下魔がかけた退魔はどうやら順調に効果を発揮しているようだ。
しかし万が一ゴルキなんかを傷つけでもすると大惨事になりかねないので扱いにはこれまで以上に気をつけねばならん。
346: 2016/12/21(水) 20:44:16.69 ID:w8T4Ipn1o
六
ルラフェンに着くなり、紫の毒々しい煙が我々を出迎えた。
その何とも云えない、鼻につんとくる異臭に堪えかね急いで宿の中へ避難した。
主人に聞けば、ベネットとか云う爺さんが入り口の傍に家を拵えて以降、毎日あの調子で煙をたなびかせ続けているらしい。
年で呆けかけているのかどうだか知らんが、せめて周りの迷惑を考えてほしいもんだ。
ルラフェンに着くなり、紫の毒々しい煙が我々を出迎えた。
その何とも云えない、鼻につんとくる異臭に堪えかね急いで宿の中へ避難した。
主人に聞けば、ベネットとか云う爺さんが入り口の傍に家を拵えて以降、毎日あの調子で煙をたなびかせ続けているらしい。
年で呆けかけているのかどうだか知らんが、せめて周りの迷惑を考えてほしいもんだ。
347: 2016/12/21(水) 20:44:54.65 ID:w8T4Ipn1o
チェックインを済ませて町を巡ると、どうもここは道が曲がりくねって、複雑に絡み合って、しかも高低差が甚だしくって歩き難いことこの上ない。
きっと増設に増設を重ねた結果なんだろうが、少しは都市計画というものを練ってほしいもんだ。
ぶらぶらと見当もつけずいい加減に歩いていると、情けないことに道に迷ってしまった。
あの煙を町にばら撒く迷惑者に一つ談判くれてやろうと思ったのだが、そこまでたどり着けなければどうしようもない。
仕方がないから思い切り道を飛び降りながらずんずん進んで行った。
往来の人が信じられないと云った顔つきで見ているが、知ったことか。
きっと増設に増設を重ねた結果なんだろうが、少しは都市計画というものを練ってほしいもんだ。
ぶらぶらと見当もつけずいい加減に歩いていると、情けないことに道に迷ってしまった。
あの煙を町にばら撒く迷惑者に一つ談判くれてやろうと思ったのだが、そこまでたどり着けなければどうしようもない。
仕方がないから思い切り道を飛び降りながらずんずん進んで行った。
往来の人が信じられないと云った顔つきで見ているが、知ったことか。
348: 2016/12/21(水) 20:46:17.19 ID:w8T4Ipn1o
巨大な煙突のある家へ赴いて戸を叩いてみた。
すると、顔がしわだか、しわが顔だか判然としない中に眼光だけが炯々とした大変よぼよぼの爺さんが出てきて、文句なら聞かんぞえと剣呑に捲し立てるのには参った。
よほど文句を云ってやろうという腹積もりで来たのだが、相手は日々の住民からの文句を華麗に躱し続けてきた達人である。
口の回らない私が到底適う相手ではないと瞬時に悟って、いえ、別段文句はありませんと大嘘を吐いてしまった。
しかしこれを聞いて爺さんは急に態度を柔らかくして、
「そうか。じゃあわしの研究を見学しに来たんじゃな。感心々々」
と云って私の腕を引っ張って中へ連れ込む。
すると、顔がしわだか、しわが顔だか判然としない中に眼光だけが炯々とした大変よぼよぼの爺さんが出てきて、文句なら聞かんぞえと剣呑に捲し立てるのには参った。
よほど文句を云ってやろうという腹積もりで来たのだが、相手は日々の住民からの文句を華麗に躱し続けてきた達人である。
口の回らない私が到底適う相手ではないと瞬時に悟って、いえ、別段文句はありませんと大嘘を吐いてしまった。
しかしこれを聞いて爺さんは急に態度を柔らかくして、
「そうか。じゃあわしの研究を見学しに来たんじゃな。感心々々」
と云って私の腕を引っ張って中へ連れ込む。
349: 2016/12/21(水) 20:46:45.73 ID:w8T4Ipn1o
家の中は外見と似ず爺さんが独り住むにはもったいないくらい広い。
ところがその大部分を恐ろしく巨大な壺だか釜だかが占めていて、人がくつろげるスペースは殆どない。
床に散らばった紙は単に放ってあるのか、はたまたカーペット代わりに敷いてあるのか分からんくらい満遍なく敷き詰められていて、とても足の踏み場がない。
ベネット爺さんはそのパルプの海をモーゼの如く割りながら移動するためぐしゃぐしゃと汚くなっていくが、本人は一向気にしない。
ところがその大部分を恐ろしく巨大な壺だか釜だかが占めていて、人がくつろげるスペースは殆どない。
床に散らばった紙は単に放ってあるのか、はたまたカーペット代わりに敷いてあるのか分からんくらい満遍なく敷き詰められていて、とても足の踏み場がない。
ベネット爺さんはそのパルプの海をモーゼの如く割りながら移動するためぐしゃぐしゃと汚くなっていくが、本人は一向気にしない。
350: 2016/12/21(水) 20:47:13.35 ID:w8T4Ipn1o
吹き放しの二階へ連れて行かれると、爺さんは棚から図鑑らしき分厚い本を取り出した。
ぺらりと頁をめくり、一つの植物の項目を私に見せた。
何でも虞美人草とか云う草花が研究の材料に必要らしい。
私はふうんと云った体で聞いていたが、爺さんがお前さんにこれを採ってきて欲しいと云うので驚いた。
何故老人の迷惑道楽に付き合わねばならぬ。
ぺらりと頁をめくり、一つの植物の項目を私に見せた。
何でも虞美人草とか云う草花が研究の材料に必要らしい。
私はふうんと云った体で聞いていたが、爺さんがお前さんにこれを採ってきて欲しいと云うので驚いた。
何故老人の迷惑道楽に付き合わねばならぬ。
351: 2016/12/21(水) 20:47:55.63 ID:w8T4Ipn1o
私がうんともすんとも云わないので爺さんはいいか、この実験が成功すれば古代の呪文ルーラが復活するんじゃぞと気炎を上げる。
何でもこの古代呪文は勇者の血統を引く者しか扱えぬ特別な代物らしい。
無論現代では勇者家は途絶えているから自然ルーラも一緒に滅んでいる。
しかしその「知っている場所へ瞬時に飛び立つ」という便利な呪文が滅びるのは心苦しい。
どうかして勇者以外の血筋でもルーラが習得できないかと実験を繰り返していると云う。
何でもこの古代呪文は勇者の血統を引く者しか扱えぬ特別な代物らしい。
無論現代では勇者家は途絶えているから自然ルーラも一緒に滅んでいる。
しかしその「知っている場所へ瞬時に飛び立つ」という便利な呪文が滅びるのは心苦しい。
どうかして勇者以外の血筋でもルーラが習得できないかと実験を繰り返していると云う。
352: 2016/12/21(水) 20:49:25.01 ID:w8T4Ipn1o
ルーラは土地についての記憶に呼びかけて発動する系統であるから、実験に失敗して記憶を失うことがままあるらしい。
彼が長年成果を残せずにいたのもこれが理由のようだ。
最近になってようやく紙に記録する事を思いついたらしく、研究は順調に進んだとか。
もっとも代償として部屋がごみ屋敷になってしまったが。
彼が長年成果を残せずにいたのもこれが理由のようだ。
最近になってようやく紙に記録する事を思いついたらしく、研究は順調に進んだとか。
もっとも代償として部屋がごみ屋敷になってしまったが。
353: 2016/12/21(水) 20:50:16.09 ID:w8T4Ipn1o
そうして最後に辿り着いたこの虞美人草だが、最前の通り爺さんは定期的に記憶を失うからこの土地のどこに虞美人草が生えているか分からない。
町人に聞こうにも長年積み上げてきた恨み辛みでまともに話を聞いてくれる人がおらん。
もう歳も歳で、遠方まで動ける活力もなく、人望もなく、弱り果てていたところに私が来たと云う。
町人に聞こうにも長年積み上げてきた恨み辛みでまともに話を聞いてくれる人がおらん。
もう歳も歳で、遠方まで動ける活力もなく、人望もなく、弱り果てていたところに私が来たと云う。
354: 2016/12/21(水) 20:50:48.58 ID:w8T4Ipn1o
どうかこの通り頼むと頭を下げる爺さんに、私は一つの条件を出した。
無論、この町を毒煙で埋めることを停止する旨である。
爺さんはもちろん。この呪文が甦ったらもう実験はせんから、煙を出すこともあるまいと云って一も二もなく頷いた。
そして「さっきまで虞美人草の代替を探す実験をしていたからちと眠い。寝る」
と云ってベッドに潜り込んだ。先程我々が浴びた煙はこの実験の成果らしい。
無論、この町を毒煙で埋めることを停止する旨である。
爺さんはもちろん。この呪文が甦ったらもう実験はせんから、煙を出すこともあるまいと云って一も二もなく頷いた。
そして「さっきまで虞美人草の代替を探す実験をしていたからちと眠い。寝る」
と云ってベッドに潜り込んだ。先程我々が浴びた煙はこの実験の成果らしい。
355: 2016/12/21(水) 20:52:43.15 ID:w8T4Ipn1o
図鑑を見ると虞美人草一つにヒナゲシだとかシャーレイポピーだとかコクリコだとかルラムーンだとか色々な別名があるには驚いた。
町人に訊くにしてもこう名前が多いと幾分疲れそうだ。
家を出るとすぐそこに井戸がある。
少し水でもと覗き込むと、誤って懐のゴルキを中へすぽりと落としてしまった。
これはいかんと覗き込むと、勢い余って私自身も落ちてしまった。
町人に訊くにしてもこう名前が多いと幾分疲れそうだ。
家を出るとすぐそこに井戸がある。
少し水でもと覗き込むと、誤って懐のゴルキを中へすぽりと落としてしまった。
これはいかんと覗き込むと、勢い余って私自身も落ちてしまった。
356: 2016/12/21(水) 20:53:09.81 ID:w8T4Ipn1o
吾が十六年の人生もここで決着か。
と落下しながら悲しんでいると先に落下したゴルキがクッションになって一命を取り留めた。
私はゴルキにベホイミをかけてすまん、と云ったが、そのすまんの中には落としてしまって申し訳ないと云うすまんと緩衝材になってくれて難有いのすまんが合併している。
読者諸兄は少し疑問に思ったかもしれない。なぜ我々は水を大量に湛えている井戸の中で、この会話劇を披露しているのか。
いたって簡単な理由である。井戸が涸れていたのだ。
と落下しながら悲しんでいると先に落下したゴルキがクッションになって一命を取り留めた。
私はゴルキにベホイミをかけてすまん、と云ったが、そのすまんの中には落としてしまって申し訳ないと云うすまんと緩衝材になってくれて難有いのすまんが合併している。
読者諸兄は少し疑問に思ったかもしれない。なぜ我々は水を大量に湛えている井戸の中で、この会話劇を披露しているのか。
いたって簡単な理由である。井戸が涸れていたのだ。
357: 2016/12/21(水) 20:53:36.59 ID:w8T4Ipn1o
ではなぜベネット爺さんはこの井戸を涸らしっぱなしにしているか、そこにも重大な理由があった。井戸の中に猫が居るのだ。
井の中の蛙云々と云う諺は大抵の方々はご案内だろうが、井の中の猫を見つけたのは世界広しといえど私だけであろう。
妙なところに猫なんか飼っているなと思っていると、ゴルキがその猫君に向かって、きみはだれ、ぼくはゴルキなどと話しかけ始めた。
猫なんぞ話しかけたってどうもなるもんか。第一猫又じゃあるまいし。
そう思うと、猫の口からなんと「吾輩は猫である。名前はまだない」と人間の言語が飛び出すから仰天した。
井の中の蛙云々と云う諺は大抵の方々はご案内だろうが、井の中の猫を見つけたのは世界広しといえど私だけであろう。
妙なところに猫なんか飼っているなと思っていると、ゴルキがその猫君に向かって、きみはだれ、ぼくはゴルキなどと話しかけ始めた。
猫なんぞ話しかけたってどうもなるもんか。第一猫又じゃあるまいし。
そう思うと、猫の口からなんと「吾輩は猫である。名前はまだない」と人間の言語が飛び出すから仰天した。
358: 2016/12/21(水) 20:54:29.25 ID:w8T4Ipn1o
スライムやそれに乗るちっこい騎士だけでなく、猫畜生まで喋れるとなるといよいよ人間は言語の所有権を主張することもできん。
おい、君は何故猫の癖に喋れるのかと問うと、猫が喋ってはいかん道理でもあるのかとやけに落ち着き払っている。
「猫が喋るなど往古来今聞いたことがない」
「吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌れなかった。しかしそこは世間一般の痴猫、愚猫とは少しく撰を殊にしている吾輩であるから、気焔万丈の勢をもって天意に背き、見事人間言語習得と相成ったのである」
おい、君は何故猫の癖に喋れるのかと問うと、猫が喋ってはいかん道理でもあるのかとやけに落ち着き払っている。
「猫が喋るなど往古来今聞いたことがない」
「吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌れなかった。しかしそこは世間一般の痴猫、愚猫とは少しく撰を殊にしている吾輩であるから、気焔万丈の勢をもって天意に背き、見事人間言語習得と相成ったのである」
359: 2016/12/21(水) 20:55:17.72 ID:w8T4Ipn1o
猫の癖にえらく饒舌で驚いたが、ゴルキは何と云うこともなく泰然としている。
ただこれは云っている意味が分かっていないのだろう。
すると猫は、君の名はゴルキと云ったね、飼い主も随分な名を付けるなと感心している。
それを受けてゴルキがねえ、ゴルキってどういういみかしってる? と質問するのでひやりとした。
由来を知られると激昂して元のスラリンに戻るかもしれん。
しかし猫は余計なことは云わず、それはいわゆる猫跨ぎと呼ばれる種族の一員で、ある界隈では大変珍重にしていると煙に巻くので恐れ入った。
ただこれは云っている意味が分かっていないのだろう。
すると猫は、君の名はゴルキと云ったね、飼い主も随分な名を付けるなと感心している。
それを受けてゴルキがねえ、ゴルキってどういういみかしってる? と質問するのでひやりとした。
由来を知られると激昂して元のスラリンに戻るかもしれん。
しかし猫は余計なことは云わず、それはいわゆる猫跨ぎと呼ばれる種族の一員で、ある界隈では大変珍重にしていると煙に巻くので恐れ入った。
360: 2016/12/21(水) 20:56:04.08 ID:w8T4Ipn1o
嘘を吐かず場を切り抜けるとは大した腕前だ。
よくそんな言葉を知っているなあと誉めると、吾輩を一般猫児の毛が生えたものくらいに思ってもらうと困る。
吾輩は猫ではあるが大抵のことは知っている。トチメンボーが西洋料理でないことも、オタンチン・パレオロガスが元は唐人の名であることも、さる坊さんは路傍で賊に斬りかかられても電光影裏に春風を斬ると云ってこれをかわすことも、首を縊ると背が一寸ばかり伸びることも、みんな知っていると云うので驚いた。
もしかすると私やヘンリーなんぞより余程学がある。賢いですなあと感心すると、
「その他にも色々知っているが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ鰹節の一折も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる」
と云うので、へえ、難有き仕合せと畏まった。
かくの次第であるから、私はこの名前のない猫を先生と呼ぶことにした。
よくそんな言葉を知っているなあと誉めると、吾輩を一般猫児の毛が生えたものくらいに思ってもらうと困る。
吾輩は猫ではあるが大抵のことは知っている。トチメンボーが西洋料理でないことも、オタンチン・パレオロガスが元は唐人の名であることも、さる坊さんは路傍で賊に斬りかかられても電光影裏に春風を斬ると云ってこれをかわすことも、首を縊ると背が一寸ばかり伸びることも、みんな知っていると云うので驚いた。
もしかすると私やヘンリーなんぞより余程学がある。賢いですなあと感心すると、
「その他にも色々知っているが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ鰹節の一折も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる」
と云うので、へえ、難有き仕合せと畏まった。
かくの次第であるから、私はこの名前のない猫を先生と呼ぶことにした。
361: 2016/12/21(水) 20:56:44.03 ID:w8T4Ipn1o
ところで、どこの生まれですかと聞いてみると、はて、とんと覚えておらん。
何せ気がついたらベネット爺さんに飼われていたからな。と云うので、ではなぜベネット爺さんはあなたをこんな所で飼うんでしょうねと問うと、先生は少し渋い顔をした。
余程厭な思い出でもあるんだろうと遠慮しようと思ったが、先生は少しずつその来歴を語り始めた。
何せ気がついたらベネット爺さんに飼われていたからな。と云うので、ではなぜベネット爺さんはあなたをこんな所で飼うんでしょうねと問うと、先生は少し渋い顔をした。
余程厭な思い出でもあるんだろうと遠慮しようと思ったが、先生は少しずつその来歴を語り始めた。
362: 2016/12/21(水) 20:58:06.40 ID:w8T4Ipn1o
何でもベネット爺さんが例の如く不可思議な実験を敢行していて、それが畜生を人間に変身せしめる一大禁術の類だったらしい。
不幸にも当時若猫であった先生はその禁術の実験台第一号として迎えられ、あの地獄の大釜へどぼんと放り込まれてしまった。
先生が次に目を覚ました時、何と不思議なことか、浄瑠璃役者もかくやと云わんばかりの冷涼にして美麗なる声色を朗々と猫の口から吐き出したのには気狂爺さんも驚いた。
久方ぶりの実験の成功――ただし当初の目的は達成し得ていないため、この意味に於いては失敗である――として町中を練り歩き、見よこれぞ万物の霊長を凌ぐ聖猫であると見せびらかしたと云う。
不幸にも当時若猫であった先生はその禁術の実験台第一号として迎えられ、あの地獄の大釜へどぼんと放り込まれてしまった。
先生が次に目を覚ました時、何と不思議なことか、浄瑠璃役者もかくやと云わんばかりの冷涼にして美麗なる声色を朗々と猫の口から吐き出したのには気狂爺さんも驚いた。
久方ぶりの実験の成功――ただし当初の目的は達成し得ていないため、この意味に於いては失敗である――として町中を練り歩き、見よこれぞ万物の霊長を凌ぐ聖猫であると見せびらかしたと云う。
363: 2016/12/21(水) 20:58:33.16 ID:w8T4Ipn1o
しかし人間とは己の常識と外れた存在をそうそう容認できるものではない。
先生がふらりと往来を歩く度にひやっ、化け猫が来た、猫又が来た、目玉を抜かれる、へそを取られるなどと勝手なことをまくし立てて追い払い、到底野良猫より陰惨な扱いを受けてしまった。
いかに天恵を浴する聖猫とて白眼の憂き目にかかってはとても幅の利かせようがない。
すごすごと涸れ井戸の中へ身を潜め、世を恨むでもなく憂うでもなくただ泰然自若と世の趨勢を見守る神猫としての役目を担ってここに居た、と云う。
先生がふらりと往来を歩く度にひやっ、化け猫が来た、猫又が来た、目玉を抜かれる、へそを取られるなどと勝手なことをまくし立てて追い払い、到底野良猫より陰惨な扱いを受けてしまった。
いかに天恵を浴する聖猫とて白眼の憂き目にかかってはとても幅の利かせようがない。
すごすごと涸れ井戸の中へ身を潜め、世を恨むでもなく憂うでもなくただ泰然自若と世の趨勢を見守る神猫としての役目を担ってここに居た、と云う。
364: 2016/12/21(水) 20:59:06.23 ID:w8T4Ipn1o
いささか大言壮語の感はあるが、私はこれを聞いて大層憐れんだ。
爺さんの勝手な都合で人語を植え付けられ、衆前でもって発表され白眼視され、こんなつまらない涸れ井戸の中で日々を過ごすなど、私には想像もできない苦痛だ。
ところがこの猫はそんな冥利の悪さを一切感じさせぬ気高い気風でもって我々と面している。
これが精神的技倆のなせる技か、はたまた高潔な思想の賜物か黒白決しかねたが、ともかく感銘を受けた私は「先生は偉いですね」と大いに誉めた。
これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
爺さんの勝手な都合で人語を植え付けられ、衆前でもって発表され白眼視され、こんなつまらない涸れ井戸の中で日々を過ごすなど、私には想像もできない苦痛だ。
ところがこの猫はそんな冥利の悪さを一切感じさせぬ気高い気風でもって我々と面している。
これが精神的技倆のなせる技か、はたまた高潔な思想の賜物か黒白決しかねたが、ともかく感銘を受けた私は「先生は偉いですね」と大いに誉めた。
これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
365: 2016/12/21(水) 21:00:41.69 ID:w8T4Ipn1o
あまり可哀想だから、いっそこの猫を引っ張って連れて行こうかと思った。
けれども飼い主に断らないでやるのは誘拐であるし、第一この猫に聞いてみないと是非も分からん。
しかし出会ってすぐさま勧誘するのは前の経験から失敗すると断じてやめておいた。
もう少し交友を深めてからでも遅くはなかろう。
慇懃に挨拶をして先生と別れた。
けれども飼い主に断らないでやるのは誘拐であるし、第一この猫に聞いてみないと是非も分からん。
しかし出会ってすぐさま勧誘するのは前の経験から失敗すると断じてやめておいた。
もう少し交友を深めてからでも遅くはなかろう。
慇懃に挨拶をして先生と別れた。
366: 2016/12/21(水) 21:01:14.32 ID:w8T4Ipn1o
町のあちこちで虞美人草について尋ねてみるが、存外誰も知らない。
もっとも食用にもならず、観賞に堪えうるかも分からん地味な野草の居場所を知る人間がどれほど居ようか。
明け方になると発光する特異な性質こそ持っているが、夜中ならともかく夜明けと云うのは人間にとっていささか眠すぎる時間帯だ。定めし注目され辛いだろう。
普段から見慣れている住人にとっては野草どころか雑草の一味として軽んじられている気風もある。
そういうわけで私の耳に入るのはそれとは関係のない時事的な下世話ばかりであった。
もっとも食用にもならず、観賞に堪えうるかも分からん地味な野草の居場所を知る人間がどれほど居ようか。
明け方になると発光する特異な性質こそ持っているが、夜中ならともかく夜明けと云うのは人間にとっていささか眠すぎる時間帯だ。定めし注目され辛いだろう。
普段から見慣れている住人にとっては野草どころか雑草の一味として軽んじられている気風もある。
そういうわけで私の耳に入るのはそれとは関係のない時事的な下世話ばかりであった。
367: 2016/12/21(水) 21:02:06.09 ID:w8T4Ipn1o
ラインハットのヘンリー殿下が結婚したと云う報知(しらせ)を聞いて驚いた。
結婚くらい勝手にやれば好いのだが、できることなら友人代表として参加して一席ぶってみたかった。
大方私が放浪の身の上だから探し出して招待するのも骨が折れるとて早々に済ましてしまったのだろう。
祝辞の一つでも云ってやりたいが、生憎大陸を違っている。
どうしようかと考えていると、ベネット爺さんの発言を思い出した。
古代呪文ルーラと云うのは記憶にある土地へ瞬時に飛び立つ呪文らしい。
もしそれでラインハットへ飛ぶことができれば、危険な大海を渡らずともヘンリー等に会える。
爺さんがルーラを覚えた暁には、手伝いの褒美として教えて貰おう。
結婚くらい勝手にやれば好いのだが、できることなら友人代表として参加して一席ぶってみたかった。
大方私が放浪の身の上だから探し出して招待するのも骨が折れるとて早々に済ましてしまったのだろう。
祝辞の一つでも云ってやりたいが、生憎大陸を違っている。
どうしようかと考えていると、ベネット爺さんの発言を思い出した。
古代呪文ルーラと云うのは記憶にある土地へ瞬時に飛び立つ呪文らしい。
もしそれでラインハットへ飛ぶことができれば、危険な大海を渡らずともヘンリー等に会える。
爺さんがルーラを覚えた暁には、手伝いの褒美として教えて貰おう。
368: 2016/12/21(水) 21:02:40.99 ID:w8T4Ipn1o
武器屋に寄るとスネークソードなる武器が売ってある。
しかもそれは父の剣より余程切れ味が好くって、軽くって、持ちやすい上等な品だから腹立たしい。
ただ退魔の力があるから父の剣の方が実用的ではある。
もっとも下魔によって授けられた力では少々釈然としないが。
しかもそれは父の剣より余程切れ味が好くって、軽くって、持ちやすい上等な品だから腹立たしい。
ただ退魔の力があるから父の剣の方が実用的ではある。
もっとも下魔によって授けられた力では少々釈然としないが。
369: 2016/12/21(水) 21:03:20.03 ID:w8T4Ipn1o
ルラフェンの銘酒「人生のオマケ」。
これがいかな品であったかと云うと、舌鼓打つ美酒どころか、魔物さえ逃げ出すまずさらしい。
もうどこにも出されていない伝説の地酒らしいが、そこまで不味いなら永遠に歴史の積雪に埋もれるが好かろう。
好奇心で酒場の主人にそれとなく聞いてみると、そ、そんなもありませんよおアハハと目線を逸らすので黒に違いない。
しかし不味いものをあえて飲む理由もないので追及は棄めた。
これがいかな品であったかと云うと、舌鼓打つ美酒どころか、魔物さえ逃げ出すまずさらしい。
もうどこにも出されていない伝説の地酒らしいが、そこまで不味いなら永遠に歴史の積雪に埋もれるが好かろう。
好奇心で酒場の主人にそれとなく聞いてみると、そ、そんなもありませんよおアハハと目線を逸らすので黒に違いない。
しかし不味いものをあえて飲む理由もないので追及は棄めた。
370: 2016/12/21(水) 21:03:58.67 ID:w8T4Ipn1o
町では相変わらず光の教団の信者らしきものが勧誘している。
例の赤シャツも婆さんの話によれば光の教団への斡旋者であったらしいから、このご時世は余程勧誘者が蔓延っている。
実態を知る私からすればどうしても歯止めを利かせたかったが、口の廻らない一浮浪者にできることもたかが知れていた。
例の赤シャツも婆さんの話によれば光の教団への斡旋者であったらしいから、このご時世は余程勧誘者が蔓延っている。
実態を知る私からすればどうしても歯止めを利かせたかったが、口の廻らない一浮浪者にできることもたかが知れていた。
371: 2016/12/21(水) 21:04:27.82 ID:w8T4Ipn1o
曲がりくねった街路に歩き疲れて、宿で休養を取っているとロビーに商人が現れた。
やっ、こんにちはと挨拶をするのでこちらも返答して、少し世間話をした。
聞けばこの商人も南瓜村を訪れたらしいが、田舎なのと、飢えているのとで商売にならず困り果てたという。
どこかの阿呆のせいで人口は減ったし、何より畑の平穏が戻ったので徐々に復興することだろう。
念のため虞美人草について聞いてみたら、見事群生地についての情報を頂いた。
大陸の西の半島付近に行けばいやと云うほど見つかるらしいから、明日になったら早速向かうことにする。
やっ、こんにちはと挨拶をするのでこちらも返答して、少し世間話をした。
聞けばこの商人も南瓜村を訪れたらしいが、田舎なのと、飢えているのとで商売にならず困り果てたという。
どこかの阿呆のせいで人口は減ったし、何より畑の平穏が戻ったので徐々に復興することだろう。
念のため虞美人草について聞いてみたら、見事群生地についての情報を頂いた。
大陸の西の半島付近に行けばいやと云うほど見つかるらしいから、明日になったら早速向かうことにする。
372: 2016/12/21(水) 21:04:55.04 ID:w8T4Ipn1o
翌朝、宿を出ると辺りは清純な空気に澄んでいた。
云わずとも、ベネット爺さんが実験を中止したからである。
町の人々も大砲のような煙突から毒々しい煙が立ち込まないのを不審がって、あのじじいもついに氏んだかなどと縁起でもないことを囁いている。
もっともあの爺さんも随分お年を召していらっしゃるから、実験が終わると生き甲斐を失ってぽっくり逝ってしまうかもしれない。
そうなると私が頃したようで寝覚めが悪いから、できうる限りは長命でいてもらいたいもんだ。
云わずとも、ベネット爺さんが実験を中止したからである。
町の人々も大砲のような煙突から毒々しい煙が立ち込まないのを不審がって、あのじじいもついに氏んだかなどと縁起でもないことを囁いている。
もっともあの爺さんも随分お年を召していらっしゃるから、実験が終わると生き甲斐を失ってぽっくり逝ってしまうかもしれない。
そうなると私が頃したようで寝覚めが悪いから、できうる限りは長命でいてもらいたいもんだ。
373: 2016/12/21(水) 21:05:32.13 ID:w8T4Ipn1o
町を出て西へ向かう。するとかなり大きな滝が形成されているのを見つけた。
流石にセントベレス山の華厳の滝には敵わないが、あれよりもずっと綺麗で心洗われる景色であった。
見識のあるピエールや純情なゴルキは巨大な滝の流れに目を奪われていた。
獣然としたゲレゲレは残念ながら脳力が足りず風情を楽しむ余地がないようだった。
同じ猫でも、ベネット爺さんの井戸の猫ならこの美しさがわかるだろうか。
井戸の中で隠居する先生も久しくしているであろう、外界の美景を見せてやりたかった。
流石にセントベレス山の華厳の滝には敵わないが、あれよりもずっと綺麗で心洗われる景色であった。
見識のあるピエールや純情なゴルキは巨大な滝の流れに目を奪われていた。
獣然としたゲレゲレは残念ながら脳力が足りず風情を楽しむ余地がないようだった。
同じ猫でも、ベネット爺さんの井戸の猫ならこの美しさがわかるだろうか。
井戸の中で隠居する先生も久しくしているであろう、外界の美景を見せてやりたかった。
374: 2016/12/21(水) 21:07:31.05 ID:w8T4Ipn1o
滝山を廻って西海岸へ着いた。聞いたとおり半島の形をしている。
ここらで見つかると云うが、生憎時候外れで虞美人草に花は咲いていない。
惜しいことに、私は虞美人草の木部だけでそれを判別できる見識眼は持ち合わせていないから、これにはほとほと困った。
ここらで見つかると云うが、生憎時候外れで虞美人草に花は咲いていない。
惜しいことに、私は虞美人草の木部だけでそれを判別できる見識眼は持ち合わせていないから、これにはほとほと困った。
375: 2016/12/21(水) 21:08:07.19 ID:w8T4Ipn1o
仕方がないから一人と三四匹がかりで見境なく摘み取ってみた。
ただどれもこれも青臭いばかりで辟易した。
そうしてしばらく黙々と作業に従事していたが、日が落ちる頃にはもう草を摘むのが厭になった。
海辺へ降りて手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ青臭い。もう懲り懲りだ。
何が採れたって草はもう摘みたくない。草も摘まれたくはなかろう。
そうそう野営の準備を済まして横になってしまった。
ただどれもこれも青臭いばかりで辟易した。
そうしてしばらく黙々と作業に従事していたが、日が落ちる頃にはもう草を摘むのが厭になった。
海辺へ降りて手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ青臭い。もう懲り懲りだ。
何が採れたって草はもう摘みたくない。草も摘まれたくはなかろう。
そうそう野営の準備を済まして横になってしまった。
376: 2016/12/21(水) 21:08:57.25 ID:w8T4Ipn1o
道中で魔物と戦闘したり、屈んで草を摘んだりと肉体に堪える真似ばかりしたから、日が落ちたらすぐに寝入った。
そうしてぐうぐう寝ていると、やがてむくりと目が覚める。
やっ、朝かと思うとまだ暗い。昨日は早く寝過ぎたようだ。
おやおや、寝直そうかなと考えた矢先へ、ぼうと目の端で何かが仄めいた。
そうしてぐうぐう寝ていると、やがてむくりと目が覚める。
やっ、朝かと思うとまだ暗い。昨日は早く寝過ぎたようだ。
おやおや、寝直そうかなと考えた矢先へ、ぼうと目の端で何かが仄めいた。
377: 2016/12/21(水) 21:10:17.97 ID:w8T4Ipn1o
目を凝らせば、地面の一角が確かにぼんやりと光っている。
これはと思って摘んでみると、何だか嗅ぎ覚えのある匂いが立ちこめた。
私は思いだした。虞美人草――シャーレイポピーだか、ヒナゲシだか、ルラムーンだかはどうでもいい。
ともかくそいつは明け方になると薄ぼんやりと光るのだった。
どうしてそんな重要な事を忘れていたのかと自分の頭をぽかりとやって、袋一杯に青草を摘んで野営地に戻った。
これはと思って摘んでみると、何だか嗅ぎ覚えのある匂いが立ちこめた。
私は思いだした。虞美人草――シャーレイポピーだか、ヒナゲシだか、ルラムーンだかはどうでもいい。
ともかくそいつは明け方になると薄ぼんやりと光るのだった。
どうしてそんな重要な事を忘れていたのかと自分の頭をぽかりとやって、袋一杯に青草を摘んで野営地に戻った。
378: 2016/12/21(水) 21:11:22.01 ID:w8T4Ipn1o
ゴルキとピエールの片割れはスライム特有の姿勢で、ピエール自身は相棒の上で腕組みをして警戒態勢で眠っている。
一方ゲレゲレは腹を出して大の字に寝そべっている。
これでは夜襲の際に瞬く間に柔らかい腹を裂かれてしまう。
ただそうしてぐっすり眠ってくれるのは私を信頼して安心しきっていることに相違ないから、そこは素直に嬉しかった。
一方ゲレゲレは腹を出して大の字に寝そべっている。
これでは夜襲の際に瞬く間に柔らかい腹を裂かれてしまう。
ただそうしてぐっすり眠ってくれるのは私を信頼して安心しきっていることに相違ないから、そこは素直に嬉しかった。
379: 2016/12/21(水) 21:13:13.75 ID:w8T4Ipn1o
日がだんだん昇って朝になった。元の道を引き返してルラフェンに戻った。
キメラの翼で戻る手もあったが、華厳の滝二号が好評だったため再び徒歩で戻った。
魔物とて人の心と似通った部分があるのかもしれない。
ことにピエールは語彙があって機知に富んでいるから、まるで人間と話しているような心持ちになって淋しさが紛れた。
ヘンリーが抜けた当初は一人旅の孤独を危惧したが、どうやら杞憂に終わったようだ。
キメラの翼で戻る手もあったが、華厳の滝二号が好評だったため再び徒歩で戻った。
魔物とて人の心と似通った部分があるのかもしれない。
ことにピエールは語彙があって機知に富んでいるから、まるで人間と話しているような心持ちになって淋しさが紛れた。
ヘンリーが抜けた当初は一人旅の孤独を危惧したが、どうやら杞憂に終わったようだ。
380: 2016/12/21(水) 21:14:13.23 ID:w8T4Ipn1o
ベネット爺さんに虞美人草を渡した。
爺さんはこれだ、これに違いないと云って年甲斐もなく狂喜乱舞している。
ふと部屋に虞美人草そっくりの匂いが立ちこめているのに気がついた。
爺さんに聞いてみると、虞美人草に含まれる成分の近似を使っていたからこの匂いがするんだと云う。
ともかくこれで実験は大幅な一歩を進む。早くラインハットへ赴いてみたかった。
爺さんはこれだ、これに違いないと云って年甲斐もなく狂喜乱舞している。
ふと部屋に虞美人草そっくりの匂いが立ちこめているのに気がついた。
爺さんに聞いてみると、虞美人草に含まれる成分の近似を使っていたからこの匂いがするんだと云う。
ともかくこれで実験は大幅な一歩を進む。早くラインハットへ赴いてみたかった。
381: 2016/12/21(水) 21:15:19.02 ID:w8T4Ipn1o
爺さんが地獄の大釜へ煎じた虞美人草を放り込み、何やら詠唱している。
しばらくすると釜から光が漏れ出るのが見えた。
爺さんの顔が沸き上がる喜びと、物理的に発せられる光に輝くのを目にした一瞬、辺りに閃光が迸った。
釜の隣にいた私は轟音と衝撃に身体をしこたまやられて気を失った。
しばらくすると釜から光が漏れ出るのが見えた。
爺さんの顔が沸き上がる喜びと、物理的に発せられる光に輝くのを目にした一瞬、辺りに閃光が迸った。
釜の隣にいた私は轟音と衝撃に身体をしこたまやられて気を失った。
382: 2016/12/21(水) 21:16:47.71 ID:w8T4Ipn1o
気がつくと辺りには煙がもうもうと立ちこめていた。
虞美人草の香りが鼻につんと来るのを感じながら、辺りを見渡した。
梯子段の上にいた爺さんが転落して地面に倒れている。
慌てて駆け寄ると爺さんはうーん、と呻り声を上げながらむっくりと起きあがった。
あの高さから地面と激突して怪我一つないとは余程頑強な爺さんだ。
目を覚ますや否や「どうじゃ、実験は」と耳元で胴間声を出すからこっちは危うく気を失いそうになった。
この快活さはもはや魔物じみている。
虞美人草の香りが鼻につんと来るのを感じながら、辺りを見渡した。
梯子段の上にいた爺さんが転落して地面に倒れている。
慌てて駆け寄ると爺さんはうーん、と呻り声を上げながらむっくりと起きあがった。
あの高さから地面と激突して怪我一つないとは余程頑強な爺さんだ。
目を覚ますや否や「どうじゃ、実験は」と耳元で胴間声を出すからこっちは危うく気を失いそうになった。
この快活さはもはや魔物じみている。
383: 2016/12/21(水) 21:17:48.94 ID:w8T4Ipn1o
釜の底には青くぼんやりと光る、綺麗というか、少々毒々しい色の液体がたゆたっている。
爺さんが釜の底部にある蛇口をひねる。青い液体が滴り出た。
桶で受けていたが液体はすぐに尽き、精々三合ほどしかない。
爺さんはそれを丁寧にグラス二杯に注いだ。片方を私に渡してきた。
すると爺さんがグラスの青く光る液体をぐい、と一気呵成にあおるのには仰天した。
爺さんがお前さんも飲めとゼスチャーしてくるが、こんなものを飲み干して平穏無事でいられるか不安どころの騒ぎではない。
しばらく躊躇していたが飲み干した爺さんは何ともなさそうなので、南無三、と意を決して飲み込んだ。
爺さんが釜の底部にある蛇口をひねる。青い液体が滴り出た。
桶で受けていたが液体はすぐに尽き、精々三合ほどしかない。
爺さんはそれを丁寧にグラス二杯に注いだ。片方を私に渡してきた。
すると爺さんがグラスの青く光る液体をぐい、と一気呵成にあおるのには仰天した。
爺さんがお前さんも飲めとゼスチャーしてくるが、こんなものを飲み干して平穏無事でいられるか不安どころの騒ぎではない。
しばらく躊躇していたが飲み干した爺さんは何ともなさそうなので、南無三、と意を決して飲み込んだ。
384: 2016/12/21(水) 21:19:32.84 ID:w8T4Ipn1o
味は予想通りというか、虞美人草の匂いがした。
しばらくは異変が起きないか非常にやきもきしたが、やがてもうどうにでもなれというある種超然とした心持ちになってきた。
爺さんが床に散らばる紙を掃除している間、手持ちぶさたな私は涸れ井戸に赴いた。
しばらくは異変が起きないか非常にやきもきしたが、やがてもうどうにでもなれというある種超然とした心持ちになってきた。
爺さんが床に散らばる紙を掃除している間、手持ちぶさたな私は涸れ井戸に赴いた。
385: 2016/12/21(水) 21:21:34.49 ID:w8T4Ipn1o
井戸は総じて汲み取り桶を引っ張る縄があるので上り下りに不便はしない。
するすると降りてみると、最前の如く灰色の猫が悠然と構えていた。
やあ、また来たねと出迎えてくれる先生に、おみやげですと云ってさっき買った鮪の切り身を餞別した。
すると先生大きに喜んだと見えて、ぺろりと二十匁を平らげてしまった。
そうして腹を膨れさした後は井の中の生活で困窮している運動のため、道ばたで摘んだ猫じゃらしでもってじゃれ遊んだ。
いくら頭の裏(うち)で高尚なことを考えていようとも、こうしてじゃらしてやれば表面上はただの猫である。
途端にこの猫先生が可愛くなった。
するすると降りてみると、最前の如く灰色の猫が悠然と構えていた。
やあ、また来たねと出迎えてくれる先生に、おみやげですと云ってさっき買った鮪の切り身を餞別した。
すると先生大きに喜んだと見えて、ぺろりと二十匁を平らげてしまった。
そうして腹を膨れさした後は井の中の生活で困窮している運動のため、道ばたで摘んだ猫じゃらしでもってじゃれ遊んだ。
いくら頭の裏(うち)で高尚なことを考えていようとも、こうしてじゃらしてやれば表面上はただの猫である。
途端にこの猫先生が可愛くなった。
386: 2016/12/21(水) 21:24:11.80 ID:w8T4Ipn1o
ふと思って、普段は何を食べているのか聞いてみた。
先生はふむ、それなんだがね、と曖昧に答え始めた。なんでも時折井戸に食べ物が放り込まれてくるらしい。
普段の糊口はそれで凌げていたようだが、じっと井の中でまんじりともしないのは至極退屈で辛かったと云う。
もっとも今は君と出会ったから久方ぶりに面白いよ、と喉をごろごろと鳴らす。
私は素直にこの先生を満足させることができたようで嬉しかった。
さよなら、と挨拶を交わして地上へ出た。
先生はふむ、それなんだがね、と曖昧に答え始めた。なんでも時折井戸に食べ物が放り込まれてくるらしい。
普段の糊口はそれで凌げていたようだが、じっと井の中でまんじりともしないのは至極退屈で辛かったと云う。
もっとも今は君と出会ったから久方ぶりに面白いよ、と喉をごろごろと鳴らす。
私は素直にこの先生を満足させることができたようで嬉しかった。
さよなら、と挨拶を交わして地上へ出た。
387: 2016/12/21(水) 21:26:37.24 ID:w8T4Ipn1o
爺さんはベッドの上で憮然としていた。
どうやら青い液体はさっきの時分でみんな排泄されてしまったらしい。
吸収されなかったところを見ると、彼は呪文の習得に失敗してしまったようだ。
私が黙っていると、お前さんはどうかと訊いてきた。
一緒になって青い液体を飲んだことを思い出して、懸命に頭を巡らした。
どうやら青い液体はさっきの時分でみんな排泄されてしまったらしい。
吸収されなかったところを見ると、彼は呪文の習得に失敗してしまったようだ。
私が黙っていると、お前さんはどうかと訊いてきた。
一緒になって青い液体を飲んだことを思い出して、懸命に頭を巡らした。
388: 2016/12/21(水) 21:28:30.43 ID:w8T4Ipn1o
呪文はバギやベホイミなど色々と覚えているが、中にどうも知った覚えのない知識があるのに気がついた。
学んでいないのに知っているとは少し不気味だが、試しに唱えてみた。
するとふわりと足下の感触がなくなって体が浮いた。
おお、と感嘆したは好いが、そのまま非常な速力で飛び上がるから、しこたま天井に頭をぶつけてしまって大いに痛かった。
学んでいないのに知っているとは少し不気味だが、試しに唱えてみた。
するとふわりと足下の感触がなくなって体が浮いた。
おお、と感嘆したは好いが、そのまま非常な速力で飛び上がるから、しこたま天井に頭をぶつけてしまって大いに痛かった。
389: 2016/12/21(水) 21:32:36.49 ID:w8T4Ipn1o
爺さんが好かったのうと祝ってくれた。
はあ、と喜んで好いやら悲しんで好いやら分からず曖昧な返事をすると、まあ好い、ともかく実験は成功じゃと云って杯を傾けた。今度は普通の酒である。
もう一度虞美人草を持ってきましょうかと云ってみた。
すると爺さんはもう好い。君に伝わってわしに伝わらんと云うことは、わしに才覚がないと判明したようなものだからなと云った。
何でも人によって扱える呪文の系統が違うらしい。
どうれでヘンリーのメラを一生懸命見様見真似しても唱えられないわけだ。
爺さんは少し落胆していたが、実験の成功は素直に嬉しかったようで、やりきった笑顔を浮かべていた。しかし、その姿は同時に淋しそうでもあった。
はあ、と喜んで好いやら悲しんで好いやら分からず曖昧な返事をすると、まあ好い、ともかく実験は成功じゃと云って杯を傾けた。今度は普通の酒である。
もう一度虞美人草を持ってきましょうかと云ってみた。
すると爺さんはもう好い。君に伝わってわしに伝わらんと云うことは、わしに才覚がないと判明したようなものだからなと云った。
何でも人によって扱える呪文の系統が違うらしい。
どうれでヘンリーのメラを一生懸命見様見真似しても唱えられないわけだ。
爺さんは少し落胆していたが、実験の成功は素直に嬉しかったようで、やりきった笑顔を浮かべていた。しかし、その姿は同時に淋しそうでもあった。
390: 2016/12/21(水) 21:34:09.79 ID:w8T4Ipn1o
爺さん、井の中の猫はどんな具合ですかと訊いてみた。
すると爺さんはきょとんとして何のことかと聞き返してくる。
ほら、あの人の言葉を話す灰色の猫ですよと云っても、一向通じない。
どうやらルーラの実験の失敗と同時に先生の記憶も失ってしまったらしい。
人々から疎まれ、飼い主に忘れ去られた先生が不憫で、私は声を詰まらせた。
すると爺さんはきょとんとして何のことかと聞き返してくる。
ほら、あの人の言葉を話す灰色の猫ですよと云っても、一向通じない。
どうやらルーラの実験の失敗と同時に先生の記憶も失ってしまったらしい。
人々から疎まれ、飼い主に忘れ去られた先生が不憫で、私は声を詰まらせた。
391: 2016/12/21(水) 21:35:07.69 ID:w8T4Ipn1o
そうして押し黙った私へ、爺さんは井戸か。井戸なら何か覚えがあると云った。
「わしの記憶は紙に書かれてあることくらいしか知らないが、何でも心の内にこれだけはせねばと云う観念がある。時折井戸の中に飯を投げ込むことじゃ。それだけは紙に書かれていなくともずっとやっておる」
と云った。
「わしの記憶は紙に書かれてあることくらいしか知らないが、何でも心の内にこれだけはせねばと云う観念がある。時折井戸の中に飯を投げ込むことじゃ。それだけは紙に書かれていなくともずっとやっておる」
と云った。
392: 2016/12/21(水) 21:36:06.90 ID:w8T4Ipn1o
私は彼の心裏にある罪悪感の相を見いだした。
きっと猫先生を井戸の中へ追いやってしまったという罪の感覚と、世話をする習慣だけが彼の中に生きているのだろう。
井戸の中へ飯を落とす行為が彼の罪悪感を和らげているのだとしたら。――それを完全に取り払える考が、私の中に閃いた。
「爺さん。井戸の中に居る猫、あれを私にくれませんか」
爺さんは不思議な顔をした。何のことかいまいち理解していないようだが、何か引っかかるものを感じたようだ。
ああ。身よりのない可哀相な奴だ。貰ってくれと上の空で云う彼の顔には、微かな安心が浮かんでいた。
きっと猫先生を井戸の中へ追いやってしまったという罪の感覚と、世話をする習慣だけが彼の中に生きているのだろう。
井戸の中へ飯を落とす行為が彼の罪悪感を和らげているのだとしたら。――それを完全に取り払える考が、私の中に閃いた。
「爺さん。井戸の中に居る猫、あれを私にくれませんか」
爺さんは不思議な顔をした。何のことかいまいち理解していないようだが、何か引っかかるものを感じたようだ。
ああ。身よりのない可哀相な奴だ。貰ってくれと上の空で云う彼の顔には、微かな安心が浮かんでいた。
393: 2016/12/21(水) 21:39:26.79 ID:w8T4Ipn1o
井戸の中へ再三飛び込もうとすると、後ろでにゃあという声が聞こえた。
振り返ると斑入りの猫が毛繕いをしながらこちらを見ている。
やあ。君に会って久し振りに外の空気が吸いたくなってね、と云って喉を鳴らす。
「こうして広い空や野を見ていると、無性に心が騒ぐよ」
「そうでしょう。動物はすべからく自然と触れ合って運動するべきです」
「もっともだね。私も身分さえ好ければもっと外界を遊ぶんだが……」
「でしたら先生、私と一緒にもっと広い世界を見ませんか。目的地なんぞありませんが、ぶらぶらと適当な所を眺め廻るのも乙なものですぜ」
「君とかね。そりゃあ魅力的な誘いだが、生憎私は飼い主が居るからね」
「それがですね、飼い主にはもう話をつけてありまして。今や私があなたの飼い主です」
「おや」
と云って先生は目を見開いた。猫睛石の如く爛々と輝くその眼は、驚きと興味と、期待に満ちた光を放っていた。
振り返ると斑入りの猫が毛繕いをしながらこちらを見ている。
やあ。君に会って久し振りに外の空気が吸いたくなってね、と云って喉を鳴らす。
「こうして広い空や野を見ていると、無性に心が騒ぐよ」
「そうでしょう。動物はすべからく自然と触れ合って運動するべきです」
「もっともだね。私も身分さえ好ければもっと外界を遊ぶんだが……」
「でしたら先生、私と一緒にもっと広い世界を見ませんか。目的地なんぞありませんが、ぶらぶらと適当な所を眺め廻るのも乙なものですぜ」
「君とかね。そりゃあ魅力的な誘いだが、生憎私は飼い主が居るからね」
「それがですね、飼い主にはもう話をつけてありまして。今や私があなたの飼い主です」
「おや」
と云って先生は目を見開いた。猫睛石の如く爛々と輝くその眼は、驚きと興味と、期待に満ちた光を放っていた。
394: 2016/12/21(水) 21:40:23.83 ID:w8T4Ipn1o
「君が吾輩の飼い主か。飼い主に先生と敬われるのも滑稽だが、なるほど。そういうわけならついて従う他はあるまい」
先生は軽々と私の体へ飛び乗り、両肩へ襟巻きのようにもたれ掛かった。そうして鼻の孔を三角にして咽喉仏を震動させて、笑った。
「今後ともよろしく頼む」
猫が笑うと云うのはあまり聞かないが、確かにこの時先生は笑っていた。
先生は軽々と私の体へ飛び乗り、両肩へ襟巻きのようにもたれ掛かった。そうして鼻の孔を三角にして咽喉仏を震動させて、笑った。
「今後ともよろしく頼む」
猫が笑うと云うのはあまり聞かないが、確かにこの時先生は笑っていた。
400: 2016/12/22(木) 20:05:58.93 ID:kJWYXi5Lo
ルーラとは不思議な呪文だ。
私と身の回りのゴルキと先生ばかりかと思えば、町の外に置いてある馬車まで空中へ飛び上がるのには驚いた。
幸い着地の際はふわりとした挙動で降りるから破損はしなかった。
しかし旅の扉と云いルーラと云い重量物をこう軽々と扱って貰っては少し不安になる。
私と身の回りのゴルキと先生ばかりかと思えば、町の外に置いてある馬車まで空中へ飛び上がるのには驚いた。
幸い着地の際はふわりとした挙動で降りるから破損はしなかった。
しかし旅の扉と云いルーラと云い重量物をこう軽々と扱って貰っては少し不安になる。
401: 2016/12/22(木) 20:06:31.17 ID:kJWYXi5Lo
城下町はやっぱり民家の数が少ないが、以前よりずっと明るい雰囲気に包まれていた。
以前城には近寄るなと物騒な警告をした老人も明るい顔をしていた。
ヘンリー様が結婚なされたようですね、と訊くとそれはもう、大層立派な結婚式じゃったよと目を細める。
マリア様は本当に優しい人じゃ、わしもああいう人と結婚したかったのう、もう遅いけど。
としょんぼりしているから吹き出しそうになってしまった。
先生は喉をころころ鳴らしている。猫なら城へ連れて行ってもお咎めはあるまい。
以前城には近寄るなと物騒な警告をした老人も明るい顔をしていた。
ヘンリー様が結婚なされたようですね、と訊くとそれはもう、大層立派な結婚式じゃったよと目を細める。
マリア様は本当に優しい人じゃ、わしもああいう人と結婚したかったのう、もう遅いけど。
としょんぼりしているから吹き出しそうになってしまった。
先生は喉をころころ鳴らしている。猫なら城へ連れて行ってもお咎めはあるまい。
402: 2016/12/22(木) 20:06:56.27 ID:kJWYXi5Lo
城門の兵士はようこそ、ラインハット城へと云って検閲を始める。
しかし私の顔をじっと見た後、あっ、これは、失礼をしましたと云ってさっと後ろへ下がる。
気持ちが好かったが、私より先に猫がずんずん歩いて行くのには苦笑した。
これではどちらが飼い主だか分かったものではない。
しかし私の顔をじっと見た後、あっ、これは、失礼をしましたと云ってさっと後ろへ下がる。
気持ちが好かったが、私より先に猫がずんずん歩いて行くのには苦笑した。
これではどちらが飼い主だか分かったものではない。
403: 2016/12/22(木) 20:07:38.17 ID:kJWYXi5Lo
デールはもう以前の頼りなさげな雰囲気を払拭して、立派な一国の主として国を治めていた。
これはこれは、お久しぶりですと挨拶をするので、私も久しぶりですとぺこりと頭を下げた。
すると横の大臣は何が不満やら、ぐっと眉を顰めた。
私の礼に不備があったのだろうか。なにしろ王族への挨拶の仕方を禄に知らないのだ。
これではあちこちで天空の剣を持たせる計画に支障がでるから、後でこの厳しそうな大臣に躾て貰おう。
もしかしたら王の膝の上を陣取る猫に不快を表したのかも知れないが。
これはこれは、お久しぶりですと挨拶をするので、私も久しぶりですとぺこりと頭を下げた。
すると横の大臣は何が不満やら、ぐっと眉を顰めた。
私の礼に不備があったのだろうか。なにしろ王族への挨拶の仕方を禄に知らないのだ。
これではあちこちで天空の剣を持たせる計画に支障がでるから、後でこの厳しそうな大臣に躾て貰おう。
もしかしたら王の膝の上を陣取る猫に不快を表したのかも知れないが。
404: 2016/12/22(木) 20:09:24.57 ID:kJWYXi5Lo
ヘンリー夫妻は上の階にいるらしい。
階段を上がってドアを叩いた。間もなく扉は開かれたが、一瞬、目の前の王族が誰か分からなかった。
奴隷服の姿を十年も見続けてきたから、綺麗で雅な衣装は彼とどうしてもそぐわない感じがした。
見惚れると云うより、呆気に取られてヘンリーをまじまじと見つめていると、おれの顔に何かついているかと尋ねられた。
「うん。王族の貫禄が顔に付いている」
「お愛想さま。どうだい調子は」
「ぼちぼちだよ。そちらもどうやらおめでたがあったようで」
「君も案外耳が早いね。別の大陸にいたのじゃないか」
「そうだったが、君が私に招待もせず式を始めたと聞いて飛んでやってきた」
「そう云われちゃ耳が痛いな。こちらにも事情があった次第だからどうか許してくれ」
「おいおい許すさ」
そうして我々は世間話に花を咲かせた。
後にマリアとも一通り話したが、そこらの始終は蛇足の感があるので追って書くことにする。
階段を上がってドアを叩いた。間もなく扉は開かれたが、一瞬、目の前の王族が誰か分からなかった。
奴隷服の姿を十年も見続けてきたから、綺麗で雅な衣装は彼とどうしてもそぐわない感じがした。
見惚れると云うより、呆気に取られてヘンリーをまじまじと見つめていると、おれの顔に何かついているかと尋ねられた。
「うん。王族の貫禄が顔に付いている」
「お愛想さま。どうだい調子は」
「ぼちぼちだよ。そちらもどうやらおめでたがあったようで」
「君も案外耳が早いね。別の大陸にいたのじゃないか」
「そうだったが、君が私に招待もせず式を始めたと聞いて飛んでやってきた」
「そう云われちゃ耳が痛いな。こちらにも事情があった次第だからどうか許してくれ」
「おいおい許すさ」
そうして我々は世間話に花を咲かせた。
後にマリアとも一通り話したが、そこらの始終は蛇足の感があるので追って書くことにする。
405: 2016/12/22(木) 20:10:45.74 ID:kJWYXi5Lo
ヘンリーがオルゴールをくれるそうだ。
おれの部屋の宝箱に残してあるから持って行ってくれと云うが、旅の身にそんな重いものは持ち歩けない。
遠慮しておいたが、ヘンリーがどうしても持って行けと云う。
仕方がないから貰うことにするが、きっと馬車の隅で埃をかぶる羽目になってしまうだろう。
第一王子の部屋は太后の部屋として再利用しているようで、随分老けたように思われる太后が鎮座していた。
一言二言挨拶を交わして奥へ進むと、相変わらず中身のない宝箱が安置してある。
何のために置いてあるか分からないが、見栄えは好いので調度品のつもりなんだろう。
あるいは将来の子供のための玩具箱かもしれない。
おれの部屋の宝箱に残してあるから持って行ってくれと云うが、旅の身にそんな重いものは持ち歩けない。
遠慮しておいたが、ヘンリーがどうしても持って行けと云う。
仕方がないから貰うことにするが、きっと馬車の隅で埃をかぶる羽目になってしまうだろう。
第一王子の部屋は太后の部屋として再利用しているようで、随分老けたように思われる太后が鎮座していた。
一言二言挨拶を交わして奥へ進むと、相変わらず中身のない宝箱が安置してある。
何のために置いてあるか分からないが、見栄えは好いので調度品のつもりなんだろう。
あるいは将来の子供のための玩具箱かもしれない。
406: 2016/12/22(木) 20:11:24.80 ID:kJWYXi5Lo
中を検分してみると、ヘンリーの云ったとおり白いオルゴールが中に入っていた。
蓋の上にはヘンリーとマリアを施したらしき人形が据えられている。
人形にされてもあまり美貌が変わらないところを見ると二人とも美形で羨ましい限りだ。
しかし後世になってこれを取り沙汰されると赤面するのは必至だろうなと思った、
蓋の上にはヘンリーとマリアを施したらしき人形が据えられている。
人形にされてもあまり美貌が変わらないところを見ると二人とも美形で羨ましい限りだ。
しかし後世になってこれを取り沙汰されると赤面するのは必至だろうなと思った、
407: 2016/12/22(木) 20:12:13.91 ID:kJWYXi5Lo
宝箱を閉めたとき、蓋の裏から何か白いものがひらりと舞った。
拾い上げてみると、どうやら一葉の便箋である。
宛先には私の名前があり、その下には親愛なる子分兼親友ヘンリーよりと銘打たれていた。
拾い上げてみると、どうやら一葉の便箋である。
宛先には私の名前があり、その下には親愛なる子分兼親友ヘンリーよりと銘打たれていた。
408: 2016/12/22(木) 20:12:49.09 ID:kJWYXi5Lo
意趣返しと云う訳でもないが、以前おまえに本を読ませて貰ったとき、そこに書いてあったおれへの感謝をそっくりそのままおまえに返そうと思う。
本当にありがとう。
恥ずかしくなるくらい幼稚で、ひねくれていた昔のおれが変わったのも、あの地獄で生きながらえたのも、傍におまえが居てくれたおかげに他ならない。
いくら感謝してもしきれない。
本当にありがとう。
恥ずかしくなるくらい幼稚で、ひねくれていた昔のおれが変わったのも、あの地獄で生きながらえたのも、傍におまえが居てくれたおかげに他ならない。
いくら感謝してもしきれない。
409: 2016/12/22(木) 20:13:37.54 ID:kJWYXi5Lo
パパスさんの事も、おまえの事も一日だって考えない日はなかった。
王族になって、マリアと結ばれてからもそれは変わらなかった。
いずれ子供が出来てもきっとそうだろう。
おれの人生はすべて、おまえのためにあると云っても過言ではない。
王族になって、マリアと結ばれてからもそれは変わらなかった。
いずれ子供が出来てもきっとそうだろう。
おれの人生はすべて、おまえのためにあると云っても過言ではない。
410: 2016/12/22(木) 20:14:13.06 ID:kJWYXi5Lo
実を云うと、おまえがマリアに求婚したとき、マリアがそれを受けても構わないと心の端では思っていた。
おれにとっての幸せはおまえが幸せになることくらいだからな。
それだから、今自分が置かれている状況が時々恨めしくなる。
放浪者のおまえを差し置いて、おれだけが地位と家族を欲しいままにしているんだ。
おまえと入れ替わってやれたらどれだけ好かったか……
おれにとっての幸せはおまえが幸せになることくらいだからな。
それだから、今自分が置かれている状況が時々恨めしくなる。
放浪者のおまえを差し置いて、おれだけが地位と家族を欲しいままにしているんだ。
おまえと入れ替わってやれたらどれだけ好かったか……
411: 2016/12/22(木) 20:16:18.84 ID:kJWYXi5Lo
おれは咎ある身だ。おまえはいつだって君の責任じゃないと云って慰めてくれたけど、おれの心の内に燻る罪の意識は容易に消えなかった。
おれがしつこく謝っていたのもそのせいだ。おれは、おまえにこの人生を捧げねばならないと思っていた。
おまえの旅にどうしてもついて行きたかったが、国民とデールはそれを望まないようだ。
贖罪が果たせないのは悔しいが、「自分の使命を努めてからでも好い。ゆっくりやれ」
とおまえは云うだろうから、そうするさ。
おれがしつこく謝っていたのもそのせいだ。おれは、おまえにこの人生を捧げねばならないと思っていた。
おまえの旅にどうしてもついて行きたかったが、国民とデールはそれを望まないようだ。
贖罪が果たせないのは悔しいが、「自分の使命を努めてからでも好い。ゆっくりやれ」
とおまえは云うだろうから、そうするさ。
412: 2016/12/22(木) 20:17:03.65 ID:kJWYXi5Lo
しかし、これだけはおぼえておいて欲しい。
おまえなくして、おれは居ない。
おまえのことをこれほど想っている人間が居ることを、どうか忘れないでくれ。
おまえなくして、おれは居ない。
おまえのことをこれほど想っている人間が居ることを、どうか忘れないでくれ。
413: 2016/12/22(木) 20:17:35.51 ID:kJWYXi5Lo
便箋を丁寧に懐へしまって、部屋を出た。
ヘンリー夫妻の元へ戻ると、いつも通り明るい二人が出迎えてくれた。
どうでした、とマリアが尋ねた。
私は少しく躊躇って、
「オルゴールってのは綺麗な音を出すもんだね」
と云った。
ヘンリーは笑って、
「そうだろう」
と答えた。
ヘンリー夫妻の元へ戻ると、いつも通り明るい二人が出迎えてくれた。
どうでした、とマリアが尋ねた。
私は少しく躊躇って、
「オルゴールってのは綺麗な音を出すもんだね」
と云った。
ヘンリーは笑って、
「そうだろう」
と答えた。
414: 2016/12/22(木) 20:18:15.84 ID:kJWYXi5Lo
二人に別れを告げると、ヘンリーがお前にも好い女が見つかると好いな、アハハハと調戯う。
マリアはあなたの結婚式には是非とも呼んでくださいなと恋人もいない時分に気の早いことを云う。
しかし私も好い歳だから嫁の一つでも探さねば沽券にかかわる。
知り合いの女、と思い浮かべてまず私が見出したのは、他でもないポワンの顔だった。
マリアはあなたの結婚式には是非とも呼んでくださいなと恋人もいない時分に気の早いことを云う。
しかし私も好い歳だから嫁の一つでも探さねば沽券にかかわる。
知り合いの女、と思い浮かべてまず私が見出したのは、他でもないポワンの顔だった。
415: 2016/12/22(木) 20:19:57.50 ID:kJWYXi5Lo
いや、彼女は私が六の頃に既に大人であったからもう数十は歳が上だぞ。第一種族が違う。
もっとふさわしい人間がいたろう。ビアンカなど近い年でもって一緒にレヌール城を冒険した仲だ。
しかし今は遙か海の彼方の大田舎にいると云うから滅多なことでは会えんだろう。
ポワンが年上すぎるなら、ベラはどうだ?
しかしこないだ会った時も相変わらず幼女の姿をしていたからあれに求婚すればたちまち少女趣味の烙印を押されかねない。
そうなると新規開拓の道のりを歩むほかないが、私のような寡黙な朴念仁を好いてくれる人が早々現れるはずもないだろう。
将来へ漠然とした不安を残しながら、階下へ降りた。
もっとふさわしい人間がいたろう。ビアンカなど近い年でもって一緒にレヌール城を冒険した仲だ。
しかし今は遙か海の彼方の大田舎にいると云うから滅多なことでは会えんだろう。
ポワンが年上すぎるなら、ベラはどうだ?
しかしこないだ会った時も相変わらず幼女の姿をしていたからあれに求婚すればたちまち少女趣味の烙印を押されかねない。
そうなると新規開拓の道のりを歩むほかないが、私のような寡黙な朴念仁を好いてくれる人が早々現れるはずもないだろう。
将来へ漠然とした不安を残しながら、階下へ降りた。
416: 2016/12/22(木) 20:20:36.31 ID:kJWYXi5Lo
階下、玉座の間には相変わらずデール王が座っている。
お邪魔しました、と挨拶をすると王はぽんと手を打って、丁度好かった。
たった今家臣が調べ物を終えた時分ですと云って、かつて勇者の使った盾について教えてくれた。
なんでもサラボナと云う町にその盾を見かけた者が居るらしい。
ルラフェンの南にあるらしいから、他の誰それに取られない内に貸していただくことにする。
お邪魔しました、と挨拶をすると王はぽんと手を打って、丁度好かった。
たった今家臣が調べ物を終えた時分ですと云って、かつて勇者の使った盾について教えてくれた。
なんでもサラボナと云う町にその盾を見かけた者が居るらしい。
ルラフェンの南にあるらしいから、他の誰それに取られない内に貸していただくことにする。
417: 2016/12/22(木) 20:21:07.24 ID:kJWYXi5Lo
ルーラでルラフェンまで戻り、南へ向けて出立した。
しばらく進むと砂地があって、うわさのほこらとかいう怪しい屋号の宿がある。
噂になるくらいだから定めし特異な催しでもやっているのかと思うと、何のことはない。
単に人々の噂を書き連ねたノートとやらが置かれているだけである。
それも嘘か誠か判別せん眉唾の風説ばかりで一片も薬にならない。
しかし内容はすこぶる愉快で思わずくすりと来るものもあって、読んでいて飽きがこない。
私も便乗して「ラインハットのヘンリー殿下は一度己の投げたブーメランで氏にかけたらしい」と書いておいた。
あくまで噂の体であるから、彼の名誉を毀損するおそれもないだろう。
しばらく進むと砂地があって、うわさのほこらとかいう怪しい屋号の宿がある。
噂になるくらいだから定めし特異な催しでもやっているのかと思うと、何のことはない。
単に人々の噂を書き連ねたノートとやらが置かれているだけである。
それも嘘か誠か判別せん眉唾の風説ばかりで一片も薬にならない。
しかし内容はすこぶる愉快で思わずくすりと来るものもあって、読んでいて飽きがこない。
私も便乗して「ラインハットのヘンリー殿下は一度己の投げたブーメランで氏にかけたらしい」と書いておいた。
あくまで噂の体であるから、彼の名誉を毀損するおそれもないだろう。
418: 2016/12/22(木) 20:21:42.53 ID:kJWYXi5Lo
宿には他にも修道女が泊まっていた。修道院で花嫁修業を終えた帰りらしい。
話している内にどうも噛み合う箇所を感じて、彼我とも海辺の修道院の出自であることがわかった。
途端に話が弾み、場が和気藹々とし始めた。
しかし不思議なのは、最近海辺の修道女を出たはずの彼女らが、どうして交通の途絶えたこの大陸にわたってきたのだろう。
私のための特別船の他に船が通ったのだろうか。
話している内にどうも噛み合う箇所を感じて、彼我とも海辺の修道院の出自であることがわかった。
途端に話が弾み、場が和気藹々とし始めた。
しかし不思議なのは、最近海辺の修道女を出たはずの彼女らが、どうして交通の途絶えたこの大陸にわたってきたのだろう。
私のための特別船の他に船が通ったのだろうか。
419: 2016/12/22(木) 20:25:04.30 ID:kJWYXi5Lo
話の中でフローラと云うどうも聞き覚えのある名が出たが、やはりどうしても思い出せなかった。
とかく敬虔で清廉潔白なお嬢様らしいから、一度で好いから会ってみたいものだと思った。
まさか嫁にしたいなどと云う不相応な了見などは、この時欠片も持ち合わせていなかった。
とかく敬虔で清廉潔白なお嬢様らしいから、一度で好いから会ってみたいものだと思った。
まさか嫁にしたいなどと云う不相応な了見などは、この時欠片も持ち合わせていなかった。
428: 2017/01/25(水) 19:50:08.47 ID:u/q6LHICo
主人はヘンリー夫妻との会話を後で書くと云っていたそうだが、ついぞ忘れてしまったらしい。
しかし今更になって書けと催促するのもちと酷であるから、僭越ながら吾輩が筆を執ることにした。
猫が筆を執ると云っても何も噴飯せしめるには値しない。
何せ吾輩の尻尾には神祇釈教恋無常は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝の妙薬が詰め込んである。
人の語を用いて筆誅するくらいは、仁王様が心太を踏み潰すよりも容易である。
しかし今更になって書けと催促するのもちと酷であるから、僭越ながら吾輩が筆を執ることにした。
猫が筆を執ると云っても何も噴飯せしめるには値しない。
何せ吾輩の尻尾には神祇釈教恋無常は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝の妙薬が詰め込んである。
人の語を用いて筆誅するくらいは、仁王様が心太を踏み潰すよりも容易である。
429: 2017/01/25(水) 19:51:02.56 ID:u/q6LHICo
あと、ヘンリーが「おまえ」と「君」を混ぜて使っていたため、ここでは吾輩の趣味で「君」に統一させていただくことを注記しておく。
430: 2017/01/25(水) 19:53:15.27 ID:u/q6LHICo
ヘンリーがまあ座りたまえと云う。
主人は礼儀を知らぬ男であるから赤い天鵞絨の上へ遠慮なく尻をつけた。
しかし彼が礼儀を知らぬのは何も性格のためではない。
事情により仕方なく礼儀を覚えなかったそうだから不憫の極みである。
「しかし随分変わったな。よっぽど王子らしいぞ」とあたかも王子らしさを知った風に云う。
「そうかね。変わったと云えば君も前より険が取れてるぜ」
「本当か」
「うん。前は何というか、飢えた野犬みたいな目つきだった」
この云い草は失敬である。しかし主人も何だか納得している風なのでそうなんだろう。
主人は礼儀を知らぬ男であるから赤い天鵞絨の上へ遠慮なく尻をつけた。
しかし彼が礼儀を知らぬのは何も性格のためではない。
事情により仕方なく礼儀を覚えなかったそうだから不憫の極みである。
「しかし随分変わったな。よっぽど王子らしいぞ」とあたかも王子らしさを知った風に云う。
「そうかね。変わったと云えば君も前より険が取れてるぜ」
「本当か」
「うん。前は何というか、飢えた野犬みたいな目つきだった」
この云い草は失敬である。しかし主人も何だか納得している風なのでそうなんだろう。
431: 2017/01/25(水) 19:53:48.15 ID:u/q6LHICo
吾輩が主人の膝の上を占拠すると、ヘンリーがなんだその猫はと尋ねた。
「驚いちゃいけないぜ。何と人語を饒舌れる猫なんだ」
「珍しいね。どこ産まれだい」
「どこ産まれだって好いじゃないか。ほら、何とか云ってみな」と吾輩の頭をぽんとたたく。
しかし別段云うことも思い浮かばず、とりあえず挨拶代わりににゃあと鳴いてみた。
するとヘンリーは途端に笑みを浮かべて「そうか。式に呼ばなかった復讐と云う訳だな。しかしそう徒に人を乗せる真似はいかんね」と主人を窘める。
主人は少々不服の体で「私が嘘を吐くと思っているのか。ほら、何か云い賜えよ」と云って再度吾輩の頭を撲つ。ちと痛い。
「驚いちゃいけないぜ。何と人語を饒舌れる猫なんだ」
「珍しいね。どこ産まれだい」
「どこ産まれだって好いじゃないか。ほら、何とか云ってみな」と吾輩の頭をぽんとたたく。
しかし別段云うことも思い浮かばず、とりあえず挨拶代わりににゃあと鳴いてみた。
するとヘンリーは途端に笑みを浮かべて「そうか。式に呼ばなかった復讐と云う訳だな。しかしそう徒に人を乗せる真似はいかんね」と主人を窘める。
主人は少々不服の体で「私が嘘を吐くと思っているのか。ほら、何か云い賜えよ」と云って再度吾輩の頭を撲つ。ちと痛い。
432: 2017/01/25(水) 19:54:17.96 ID:u/q6LHICo
ヘンリーは諸手を挙げて「わかったわかった。そこまで悔しかったんならそう云えば好いのに、君も強情だね。埋め合わせはするから我慢しとくれ」と優しく云う。
主人は呆れて、「先生に質問もしないなんて勿体ないですね。ねえ先生」と云ってさっき叩いた吾輩の頭を撫でる。
どうも主人の「何とか云え」とはヘンリーに向けて放ったものらしい。
そこをしっかり伝えられない辺り主人の対話能力のほどが伺える。
主人は呆れて、「先生に質問もしないなんて勿体ないですね。ねえ先生」と云ってさっき叩いた吾輩の頭を撫でる。
どうも主人の「何とか云え」とはヘンリーに向けて放ったものらしい。
そこをしっかり伝えられない辺り主人の対話能力のほどが伺える。
433: 2017/01/25(水) 19:55:01.99 ID:u/q6LHICo
そういえばマリアが居ない。どうしたのだと主人が訊けば、今は寝ていると帰ってきた。
「王族も暇だな」と妙に嬉しそうに主人が云う。
「暇でもないさ。ただ忙中自ずから閑ありと云うだろう。貴重な暇だからこうして満喫しているのさ」
「なるほど。しかし昼間から寝ていては夜はさぞ眠れまい」
「そうさ。夜はあまり寝ないからな」
「なぜ」
「なぜって……ハハハハ君も人が悪いな。そう調戯うこともないだろう」
「王族も暇だな」と妙に嬉しそうに主人が云う。
「暇でもないさ。ただ忙中自ずから閑ありと云うだろう。貴重な暇だからこうして満喫しているのさ」
「なるほど。しかし昼間から寝ていては夜はさぞ眠れまい」
「そうさ。夜はあまり寝ないからな」
「なぜ」
「なぜって……ハハハハ君も人が悪いな。そう調戯うこともないだろう」
434: 2017/01/25(水) 19:55:32.28 ID:u/q6LHICo
「調戯いやしない。なぜと訊いているんだ」
「うーん、そう真面目に突っかかられるとちと困るな。君も大人なんだから察してくれ」
そう云ってヘンリーは顔を赤くした。主人は依然としてヘンリーを見据えている。吾輩は少々居心地が悪くなった。
かような朴念仁を主人に持ったとあってはややもすると吾輩の飼い猫としての器量も疑われかねない。
もっともそれを指摘する者もおらんから杞憂で終わるだろう。
「うーん、そう真面目に突っかかられるとちと困るな。君も大人なんだから察してくれ」
そう云ってヘンリーは顔を赤くした。主人は依然としてヘンリーを見据えている。吾輩は少々居心地が悪くなった。
かような朴念仁を主人に持ったとあってはややもすると吾輩の飼い猫としての器量も疑われかねない。
もっともそれを指摘する者もおらんから杞憂で終わるだろう。
435: 2017/01/25(水) 19:56:53.56 ID:u/q6LHICo
「大人でも子供でも夜は寝るもんだ。そうもったいぶると埋め合わせを段々増やすぜ」と痺れを切らした主人が抜き身を放つ。
「弱ったな。君も余程物分かりが悪いね。夫婦が夜にすることと云えば一つだろう」とヘンリーは間一髪でかわす。
「子作りか」とうとう主人が懐から鉄砲を持ち出した。
「そう露骨に云うと、意味もないことになるが――まあ善いさ――デールが妻帯しないからおれ等が頑張らないといかんのだよ」心臓を打ち抜かれたヘンリーは弱々しく答えた。
「弱ったな。君も余程物分かりが悪いね。夫婦が夜にすることと云えば一つだろう」とヘンリーは間一髪でかわす。
「子作りか」とうとう主人が懐から鉄砲を持ち出した。
「そう露骨に云うと、意味もないことになるが――まあ善いさ――デールが妻帯しないからおれ等が頑張らないといかんのだよ」心臓を打ち抜かれたヘンリーは弱々しく答えた。
436: 2017/01/25(水) 19:57:28.46 ID:u/q6LHICo
「それだって昼に済まして夜寝れば好かろう」
「君のような無法者にかかると叶わないな。市民の範型たる王族がそんな爛れた真似できるわけないだろう」
「それぐらいで模範から外れるんなら王族なんかやめちまえ」と主人は無茶を云い出す。
「君は一体冷やかしに来たのか、祝言を述べに来たのか判然しないな」殿下は大いに困っている様子だ。
一国の殿下をここまで弱らせるあたり主人も並の腕前ではないが、悲しいことにこれは技量でなくてただの性格由来のものであるから、どこへ持ち出しても蕎麦屋の暖簾ほどの役にも立たぬ。
「無論祝言さ。結婚おめでとう」とさんざん冷やかした相手を大いにほめる。
「君のような無法者にかかると叶わないな。市民の範型たる王族がそんな爛れた真似できるわけないだろう」
「それぐらいで模範から外れるんなら王族なんかやめちまえ」と主人は無茶を云い出す。
「君は一体冷やかしに来たのか、祝言を述べに来たのか判然しないな」殿下は大いに困っている様子だ。
一国の殿下をここまで弱らせるあたり主人も並の腕前ではないが、悲しいことにこれは技量でなくてただの性格由来のものであるから、どこへ持ち出しても蕎麦屋の暖簾ほどの役にも立たぬ。
「無論祝言さ。結婚おめでとう」とさんざん冷やかした相手を大いにほめる。
437: 2017/01/25(水) 19:58:44.05 ID:u/q6LHICo
その時、奥のドアが開いて新しく人が這入ってきた。髪の幾分乱れた、寝ぼけ眼の若い婦人である。
「おはようマリア」と夫が昼過ぎの挨拶をした。
「おはようございます。……あら」
だらしない、と云うより無警戒の顔を晒していた彼女は、夫との愛の巣に居座る珍客に少なからず驚いたようである。
「おはよう」と主人があたかも自分も王族の仲間のような口振りで挨拶をする。
しかしマリア殿下はこの平民の馴れ々々しい挨拶に気を悪くした風もなく、「あらすみませんね。お構いもしませんで」と物柔らかな対応をする。
「おはようマリア」と夫が昼過ぎの挨拶をした。
「おはようございます。……あら」
だらしない、と云うより無警戒の顔を晒していた彼女は、夫との愛の巣に居座る珍客に少なからず驚いたようである。
「おはよう」と主人があたかも自分も王族の仲間のような口振りで挨拶をする。
しかしマリア殿下はこの平民の馴れ々々しい挨拶に気を悪くした風もなく、「あらすみませんね。お構いもしませんで」と物柔らかな対応をする。
438: 2017/01/25(水) 20:00:34.74 ID:u/q6LHICo
この一連の流れを見る限り主人も王族の傘下にあられるように感ぜられるが、その割には彼の格好はまるで修行僧か浮浪者相応の所である。
吾輩は所詮昨日今日で主人と知り合った仲だからどうか分からないが、この国においては彼は珍重されるべき高名を欲しいままにしているらしい。
であればもっと分相応の身なりをしたら良さそうなものだが、そこをあえてぼろを纏う辺りが主人と世俗の下々との意識の差である。あるいは世間体の差である。
吾輩は所詮昨日今日で主人と知り合った仲だからどうか分からないが、この国においては彼は珍重されるべき高名を欲しいままにしているらしい。
であればもっと分相応の身なりをしたら良さそうなものだが、そこをあえてぼろを纏う辺りが主人と世俗の下々との意識の差である。あるいは世間体の差である。
439: 2017/01/25(水) 20:03:16.53 ID:u/q6LHICo
「いえいえこちらが飄然と来ただけですから。結婚おめでとう」
「ありがとうございます。その、あなたを呼んでから挙げようかと話もしていたんですが、ヘンリー様が急かすもので」
「おや急かしたのは君だろう。ヴェールが届くやぴょんぴょんと兎みたように跳ね回ってからに。まるで子供じゃないか」
「いやですわ。あなただってオルゴールなんか恥ずかしいものを作らせて。どうするんですあんなの」
「オルゴールなんぞ作らせたんですか。君もハイカラな真似をするね」
「なにちょっと職人が丁度城内をうろついてたからね。出資削減のために安く雇ったんだ」
「なんぼ安くたって、結婚式を挙げる時点で国費圧迫の沙汰だろうに。もう少し待てないか」
「しかし結婚もせぬまま殿下に子供ができたとあっては何かと差し支えるだろう」
「結婚もせぬまま子供をお作りになられるそっちが全体悪い」
こう云われるとさしもの殿下も何も云えない。心なしか赤くなった顔を俯向けて別の話を始めた。
「ありがとうございます。その、あなたを呼んでから挙げようかと話もしていたんですが、ヘンリー様が急かすもので」
「おや急かしたのは君だろう。ヴェールが届くやぴょんぴょんと兎みたように跳ね回ってからに。まるで子供じゃないか」
「いやですわ。あなただってオルゴールなんか恥ずかしいものを作らせて。どうするんですあんなの」
「オルゴールなんぞ作らせたんですか。君もハイカラな真似をするね」
「なにちょっと職人が丁度城内をうろついてたからね。出資削減のために安く雇ったんだ」
「なんぼ安くたって、結婚式を挙げる時点で国費圧迫の沙汰だろうに。もう少し待てないか」
「しかし結婚もせぬまま殿下に子供ができたとあっては何かと差し支えるだろう」
「結婚もせぬまま子供をお作りになられるそっちが全体悪い」
こう云われるとさしもの殿下も何も云えない。心なしか赤くなった顔を俯向けて別の話を始めた。
440: 2017/01/25(水) 20:04:59.75 ID:u/q6LHICo
「ところで君は未だに結婚しないのか」と別段嫌みな口振りでもない。
しかし主人はこれを受けて少々憤慨したようである。
「君のように器量も好ければ適当に見繕って拵えるがね、生憎私は口下手の、薄情者の、綺麗な人を見かけたらすぐに求婚するような無頼漢だからそううまく行かんのさ」と子供のような拗ね方をする。
「おや、そう自分を卑下されちゃ叶わないな。君も占いババに好かれるくらいには十分好い器量じゃないか」とヘンリーは慰めるような、それでいて半分調戯いの体で云った。
「なんぼ、婆さんに好かれたって、嬉しくなんかあるものか」主人は大いに憤慨の体である。
しかし主人はこれを受けて少々憤慨したようである。
「君のように器量も好ければ適当に見繕って拵えるがね、生憎私は口下手の、薄情者の、綺麗な人を見かけたらすぐに求婚するような無頼漢だからそううまく行かんのさ」と子供のような拗ね方をする。
「おや、そう自分を卑下されちゃ叶わないな。君も占いババに好かれるくらいには十分好い器量じゃないか」とヘンリーは慰めるような、それでいて半分調戯いの体で云った。
「なんぼ、婆さんに好かれたって、嬉しくなんかあるものか」主人は大いに憤慨の体である。
441: 2017/01/25(水) 20:07:02.95 ID:u/q6LHICo
吾輩は猫の器量は分かっても人間の器量は分からん。
よし判別したと思ってもそれはあくまで猫の了見の範疇に過ぎん独断的見解であるから、これを人間の見識に置換して適応させるのはちと難しい。
読者諸兄が猫の容貌を判然せんがごとく、あるいは世間の美猫、醜猫と判ぜられた者達の猫世俗間における不相応な立ち居振る舞いを演ずるが如くである。
吾輩が主人の様相をここに筆誅するものは上に断ってあるよう、所詮猫の目に映えられた人間の姿であるということを念頭に置いて戴きたい。
よし判別したと思ってもそれはあくまで猫の了見の範疇に過ぎん独断的見解であるから、これを人間の見識に置換して適応させるのはちと難しい。
読者諸兄が猫の容貌を判然せんがごとく、あるいは世間の美猫、醜猫と判ぜられた者達の猫世俗間における不相応な立ち居振る舞いを演ずるが如くである。
吾輩が主人の様相をここに筆誅するものは上に断ってあるよう、所詮猫の目に映えられた人間の姿であるということを念頭に置いて戴きたい。
442: 2017/01/25(水) 20:09:14.33 ID:u/q6LHICo
まず主人の顔には毛がない。眉と称ぜられる雨除けの他はつんつるてんとしている。
代わりに頭の天頂から肩にかけて海藻の如く無暗に長い毛を伸ばしている。
吾輩の灰色の斑入りの脳細胞が断ずるに、あれは人の頭が他の動物等と比して重厚長大と云うべき規模を有しているが故である。
あれだけ重たいものを肩の上へ載せているわけだから必定これを支える首はぐらぐらする。
ぐらぐらすれば頭は暴風に曝された風鈴の如く激しく旋回する。
さればただでさえ狭い洞窟内や屋内において頭は軒、梁、柱、床、天井に至るまでこれと激突せねばならん。
そうするとものを考えるだけが取り柄の人間種族は途端に薬缶のような頭をべこべこ凹ましてしまう。
これではいかんと考えた末があの髪の毛である。いわば天然の緩衝材としてあんな見苦しい長毛を雇って頭の上へ平気で載せているのであろう。
代わりに頭の天頂から肩にかけて海藻の如く無暗に長い毛を伸ばしている。
吾輩の灰色の斑入りの脳細胞が断ずるに、あれは人の頭が他の動物等と比して重厚長大と云うべき規模を有しているが故である。
あれだけ重たいものを肩の上へ載せているわけだから必定これを支える首はぐらぐらする。
ぐらぐらすれば頭は暴風に曝された風鈴の如く激しく旋回する。
さればただでさえ狭い洞窟内や屋内において頭は軒、梁、柱、床、天井に至るまでこれと激突せねばならん。
そうするとものを考えるだけが取り柄の人間種族は途端に薬缶のような頭をべこべこ凹ましてしまう。
これではいかんと考えた末があの髪の毛である。いわば天然の緩衝材としてあんな見苦しい長毛を雇って頭の上へ平気で載せているのであろう。
443: 2017/01/25(水) 20:11:13.77 ID:u/q6LHICo
閑話休題して、主人の顔は先の如く毛がない他は特に語るに及ばざるものである。
鼻梁も丁度庭にある置き石のようなものだ。役には立たないが足にかかりもせず見上げて首を痛めたりせず好い案配だ。
口の周りに剛毛を生やしている強者を見たことがあるが、主人はこれを有していない。
後で聞くところによると無精に放っておくと雨後の竹の子の如くにょきにょき生えてくるらしいから、あれでも手入れをしているんだろう。
もっとも我々猫の如く感覚器官として働かせていないからできる芸当である。
猫の髭は髭であって髭でない、いわば手であり目であり鼻であるから、できれば切らないで戴きたい。
鼻梁も丁度庭にある置き石のようなものだ。役には立たないが足にかかりもせず見上げて首を痛めたりせず好い案配だ。
口の周りに剛毛を生やしている強者を見たことがあるが、主人はこれを有していない。
後で聞くところによると無精に放っておくと雨後の竹の子の如くにょきにょき生えてくるらしいから、あれでも手入れをしているんだろう。
もっとも我々猫の如く感覚器官として働かせていないからできる芸当である。
猫の髭は髭であって髭でない、いわば手であり目であり鼻であるから、できれば切らないで戴きたい。
444: 2017/01/25(水) 20:12:06.32 ID:u/q6LHICo
最後に、主人の目は唯一常人とかけ離れた部位である。雨除けと合併して実に壮健な印象を人に与える。
眼窩に収まる瞳も並大抵でない。人間からすれば少し輝いて見えるくらいの水晶玉だが、我々猫族、魔物諸君等本能的動物がこれを見ると、たちまちその深奥へと引きずり込まれてしまう。
おそらく彼の特異的な性質としてこの目玉を有しているのであろう。
ゴルキ君もピエール君もゲレゲレ君も、また私も彼のこの不思議な眼光に魅了されてついて行くのである。
かくの如き素晴らしき瞳孔を人間諸君が観察できないのは残念至極である。
眼窩に収まる瞳も並大抵でない。人間からすれば少し輝いて見えるくらいの水晶玉だが、我々猫族、魔物諸君等本能的動物がこれを見ると、たちまちその深奥へと引きずり込まれてしまう。
おそらく彼の特異的な性質としてこの目玉を有しているのであろう。
ゴルキ君もピエール君もゲレゲレ君も、また私も彼のこの不思議な眼光に魅了されてついて行くのである。
かくの如き素晴らしき瞳孔を人間諸君が観察できないのは残念至極である。
445: 2017/01/25(水) 20:12:42.03 ID:u/q6LHICo
ところで、マリアがつんとした表情の主人に優しく声をかけた。
「心配なさらなくたって、きっと私なんかよりずっと好いひとが現れますわ」
「しかし……」
主人は少し難しいような、それでいて淋しいような顔で云った。
「好い人を見つけるより先に済ませなきゃならん仕事がありますからね」
「あら、一体なんですの」
この問いに主人は「ええ、ちょっと」と答えたぎりであった。マリアは首を傾げた。
すると、椅子に座っていたヘンリーが突然立ち上がって、主人の肩を両手で掴んだ。
そうして顔と顔をひっつくかと云わんばかりに近づけて、「君は母を見つけるためにそう云うのか」と云った。
「心配なさらなくたって、きっと私なんかよりずっと好いひとが現れますわ」
「しかし……」
主人は少し難しいような、それでいて淋しいような顔で云った。
「好い人を見つけるより先に済ませなきゃならん仕事がありますからね」
「あら、一体なんですの」
この問いに主人は「ええ、ちょっと」と答えたぎりであった。マリアは首を傾げた。
すると、椅子に座っていたヘンリーが突然立ち上がって、主人の肩を両手で掴んだ。
そうして顔と顔をひっつくかと云わんばかりに近づけて、「君は母を見つけるためにそう云うのか」と云った。
446: 2017/01/25(水) 20:13:28.69 ID:u/q6LHICo
主人は呆気にとられていたが、すぐに平生の通りに戻って、「そうだ」と答えた。
するとヘンリーは肩を掴む手の力を強めながら、「確かにそれはとても大事だが、君の仕合わせを確立してからだって遅くはないじゃないか。母上に君の仕合わせな姿を見せられればそれが最上じゃないか」と云った。
これを受けて主人は少々俯向きながら、「そうだな、そうかもしれない」と呟いた。
するとヘンリーは肩を掴む手の力を強めながら、「確かにそれはとても大事だが、君の仕合わせを確立してからだって遅くはないじゃないか。母上に君の仕合わせな姿を見せられればそれが最上じゃないか」と云った。
これを受けて主人は少々俯向きながら、「そうだな、そうかもしれない」と呟いた。
447: 2017/01/25(水) 20:14:28.86 ID:u/q6LHICo
少々気まずい空気になった所で、マリアが明るい声で主人を励ました。
「もし容姿に自信がないのなら、それは大丈夫です。私たちから見ても余程精悍な顔立ちをしていらっしゃいますから、今にモテますわ」
すると突然の激励に毒気を抜かれた主人が顔を上げて目を見開いた。
ヘンリーは元の椅子に戻って、そうだそうだと云って真面目な顔で頷く。
「ですが自分はこの顔を下げて歩くのが幾分苦痛に感ぜられることも多々あります」
「それでもってご不満というのは、些か贅沢ですわね」
「全くだ。君は十分格好好いよ」
「そうかな。やっぱり世間の目と私の目はどうも違うようだ」
主人は鼻の頭をかいた。ちと恥ずかしそうである。
「もし容姿に自信がないのなら、それは大丈夫です。私たちから見ても余程精悍な顔立ちをしていらっしゃいますから、今にモテますわ」
すると突然の激励に毒気を抜かれた主人が顔を上げて目を見開いた。
ヘンリーは元の椅子に戻って、そうだそうだと云って真面目な顔で頷く。
「ですが自分はこの顔を下げて歩くのが幾分苦痛に感ぜられることも多々あります」
「それでもってご不満というのは、些か贅沢ですわね」
「全くだ。君は十分格好好いよ」
「そうかな。やっぱり世間の目と私の目はどうも違うようだ」
主人は鼻の頭をかいた。ちと恥ずかしそうである。
448: 2017/01/25(水) 20:15:24.69 ID:u/q6LHICo
やがてヘンリーがオルゴールを主人にくれると云った。
主人は遠慮しているが、殿下はいいや、持って行かんと駄目だとどうしても持って行かせたいらしい。
渋々の体で主人が部屋を離れた後、吾輩はニャーニャーと愛嬌を振りまきながらヘンリーの膝へ這い上って見た。
するとヘンリーは「イヨー大分痩せてるね、どれ」と無作法にも吾輩の襟髪を攫つかんで宙へ釣るす。
主人は遠慮しているが、殿下はいいや、持って行かんと駄目だとどうしても持って行かせたいらしい。
渋々の体で主人が部屋を離れた後、吾輩はニャーニャーと愛嬌を振りまきながらヘンリーの膝へ這い上って見た。
するとヘンリーは「イヨー大分痩せてるね、どれ」と無作法にも吾輩の襟髪を攫つかんで宙へ釣るす。
449: 2017/01/25(水) 20:16:25.01 ID:u/q6LHICo
「こうしてみると猫ってのは可愛いもんだね。どうだ。宅でも一つ飼わないか」とマリアに提案する。
「いいけれど、子供に影響ないでしょうか。噛みつかれでもしたら大変ですわ」と猫を鼠か猛獣の如く考えている。
「なにそんな腕白を貰う必要はないさ。ちょっと無精なくらいのが面倒がかからなくって好かろう」と釣り下げた吾輩を右へ左へ振り回す。幾分目が回った。
「そうですわねえ。考えてみても好いかもしれませんね。……ねえ、もうお下げになられて」と夫の蛮行を窘める。
吾輩は膝の上へそっと降ろされたが、今までぶらぶらしていたのが急に制止したものだから余計に目が回った。
「いいけれど、子供に影響ないでしょうか。噛みつかれでもしたら大変ですわ」と猫を鼠か猛獣の如く考えている。
「なにそんな腕白を貰う必要はないさ。ちょっと無精なくらいのが面倒がかからなくって好かろう」と釣り下げた吾輩を右へ左へ振り回す。幾分目が回った。
「そうですわねえ。考えてみても好いかもしれませんね。……ねえ、もうお下げになられて」と夫の蛮行を窘める。
吾輩は膝の上へそっと降ろされたが、今までぶらぶらしていたのが急に制止したものだから余計に目が回った。
450: 2017/01/25(水) 20:17:13.63 ID:u/q6LHICo
そこへ主人が来た。おかえりなさい。どうでしたとマリアが尋ねた。
主人は「オルゴールってのは綺麗な音を出すもんだね」と世辞だか本音だか分からないことを云った。
ヘンリーは「そうだろう」と云って綺麗な歯並びを見せつけた。
主人は「オルゴールってのは綺麗な音を出すもんだね」と世辞だか本音だか分からないことを云った。
ヘンリーは「そうだろう」と云って綺麗な歯並びを見せつけた。
451: 2017/01/25(水) 20:17:45.01 ID:u/q6LHICo
主人はゴルキを枕にしてぐうぐう寝ている。ゲレゲレとピエールは馬車で寝転がっている。
夜番を立てない辺り余程焚き火を信用しているのか、はたまた寝込みを襲われても退けられる実力があると自負しているのか。
いずれにせよこうして互いに無防備な姿を晒しあえる仲と云うのはそれだけで羨ましいものだ。
私もこの輪の中へ入って行くのだろう。また私の後輩も現れるだろう。
主人は不思議な瞳を持つ男である。また非常な天運を授けられた人間である。
彼の人生にいかな波瀾万丈が待ち受けているか、見守ってやりたいものだ。
夜番を立てない辺り余程焚き火を信用しているのか、はたまた寝込みを襲われても退けられる実力があると自負しているのか。
いずれにせよこうして互いに無防備な姿を晒しあえる仲と云うのはそれだけで羨ましいものだ。
私もこの輪の中へ入って行くのだろう。また私の後輩も現れるだろう。
主人は不思議な瞳を持つ男である。また非常な天運を授けられた人間である。
彼の人生にいかな波瀾万丈が待ち受けているか、見守ってやりたいものだ。
459: 2017/01/26(木) 20:32:37.14 ID:h9xLfnk7o
六
宿の南には洞窟がある。また魔物の巣窟かと辟易すると、案外短い通路であった。
出口にラインハットの制服を着た兵士が立っている。
ヘンリー殿下が結婚なされますからお暇があれば挨拶でもどうぞ、と時候外れの伝言をした。
説明するのも面倒だから、分かった。近日中に向かうよと云っておいた。
一応私を呼ぶ算段はつけていたのだな、感心々々。と独りで相づちを打って洞窟を出た。
宿の南には洞窟がある。また魔物の巣窟かと辟易すると、案外短い通路であった。
出口にラインハットの制服を着た兵士が立っている。
ヘンリー殿下が結婚なされますからお暇があれば挨拶でもどうぞ、と時候外れの伝言をした。
説明するのも面倒だから、分かった。近日中に向かうよと云っておいた。
一応私を呼ぶ算段はつけていたのだな、感心々々。と独りで相づちを打って洞窟を出た。
460: 2017/01/26(木) 20:33:12.79 ID:h9xLfnk7o
七
宿の南には洞窟がある。また魔物の巣窟かと辟易すると、案外短い通路であった。
出口にラインハットの制服を着た兵士が立っている。
ヘンリー殿下が結婚なされますからお暇があれば挨拶でもどうぞ、と時候外れの伝言をした。
説明するのも面倒だから、分かった。近日中に向かうよと云っておいた。
一応私を呼ぶ算段はつけていたのだな、感心々々。と独りで相づちを打って洞窟を出た。
宿の南には洞窟がある。また魔物の巣窟かと辟易すると、案外短い通路であった。
出口にラインハットの制服を着た兵士が立っている。
ヘンリー殿下が結婚なされますからお暇があれば挨拶でもどうぞ、と時候外れの伝言をした。
説明するのも面倒だから、分かった。近日中に向かうよと云っておいた。
一応私を呼ぶ算段はつけていたのだな、感心々々。と独りで相づちを打って洞窟を出た。
461: 2017/01/26(木) 20:34:19.54 ID:h9xLfnk7o
洞窟を出てすぐに橋が見えた。
渡ってみると近くに巨大な塔を併設した豊かな町がある。
妙に物々しい物見櫓だから少し見物してみた。
案の定兵士が番をしているが、これらは皆富豪の私兵だと云うから驚いた。
塔を建てるのみならず兵士まで雇うとは、生半可な金持ちにできる芸当ではない。
渡ってみると近くに巨大な塔を併設した豊かな町がある。
妙に物々しい物見櫓だから少し見物してみた。
案の定兵士が番をしているが、これらは皆富豪の私兵だと云うから驚いた。
塔を建てるのみならず兵士まで雇うとは、生半可な金持ちにできる芸当ではない。
462: 2017/01/26(木) 20:34:59.16 ID:h9xLfnk7o
町へ入るなり、大変毛並みの好い犬がこちらへ飛びかかってきた。
首でもかかれるかと思うと、尻尾をぶんぶん左右に振り回してこちらを見つめている。
手を差し出すとぺろぺろやり始めた。存外人懐こい犬である。
首輪をつけているが、つながれた手綱が地面にだらりと下がっている所を見ると、散歩の途中で逃げられたのだろう。
手のひらがべちゃべちゃになるのを感じながら辺りを見渡した。
すると向こうで青い髪をした綺麗な格好の女が右往左往している。
犬の手綱を引いて、女の方へ向かった。もし、と声をかけると女は振り返った。
首でもかかれるかと思うと、尻尾をぶんぶん左右に振り回してこちらを見つめている。
手を差し出すとぺろぺろやり始めた。存外人懐こい犬である。
首輪をつけているが、つながれた手綱が地面にだらりと下がっている所を見ると、散歩の途中で逃げられたのだろう。
手のひらがべちゃべちゃになるのを感じながら辺りを見渡した。
すると向こうで青い髪をした綺麗な格好の女が右往左往している。
犬の手綱を引いて、女の方へ向かった。もし、と声をかけると女は振り返った。
463: 2017/01/26(木) 20:35:25.38 ID:h9xLfnk7o
率直に、綺麗な女(ひと)だと思った。
手入れの行き届いた髪を後ろに束ねあげて、身には白い清楚な服を纏っている。
傍目でも身分の好いところの娘だと悟れた。
犬を差し出すと、まあ、ありがとうございますと云って笑顔を見せる。
私はなんだかその笑顔に胸を打たれて、言葉に行き詰まった。
いえ、と単簡に済ましてしまうと、犬がこちらを見上げて再度鳴いた。
しゃがんで頭を撫でてやると、犬は満足そうな顔で目を閉じた。
手入れの行き届いた髪を後ろに束ねあげて、身には白い清楚な服を纏っている。
傍目でも身分の好いところの娘だと悟れた。
犬を差し出すと、まあ、ありがとうございますと云って笑顔を見せる。
私はなんだかその笑顔に胸を打たれて、言葉に行き詰まった。
いえ、と単簡に済ましてしまうと、犬がこちらを見上げて再度鳴いた。
しゃがんで頭を撫でてやると、犬は満足そうな顔で目を閉じた。
464: 2017/01/26(木) 20:36:25.72 ID:h9xLfnk7o
すると青い髪の乙女はまあ、リリアンが私以外の人に懐くなんてと驚いている。
見たところ凶暴には見えないが、気難しいところでもあるのだろうか。
女は微笑んで、珍しいこともあるものですね、と云って私の顔を覗き込む。
その無遠慮とも、無邪気とも云える仕草に私は身を固まらせた。
見たところ凶暴には見えないが、気難しいところでもあるのだろうか。
女は微笑んで、珍しいこともあるものですね、と云って私の顔を覗き込む。
その無遠慮とも、無邪気とも云える仕草に私は身を固まらせた。
465: 2017/01/26(木) 20:37:01.85 ID:h9xLfnk7o
別段私は女性に対し免疫が全くない訳ではないはずだったが、どうしてかこの時ばかりは、女と初めて接触した小坊主のような心持ちになっていた。
むっつりと押し黙っていると、こちらを見つめていた女ははっとして、
「あらいやだわ。私ったら名前も聞かずにぼうっとして。好ければ名を聞かせていただいませんか」
と云った。
そこでようやく私も我に返って、へどもどしつつも名乗った。
女はフローラと云った。フローラ……
むっつりと押し黙っていると、こちらを見つめていた女ははっとして、
「あらいやだわ。私ったら名前も聞かずにぼうっとして。好ければ名を聞かせていただいませんか」
と云った。
そこでようやく私も我に返って、へどもどしつつも名乗った。
女はフローラと云った。フローラ……
466: 2017/01/26(木) 20:37:56.57 ID:h9xLfnk7o
私は雷に打たれた。青い髪、清楚な器、綺麗な身なり、無暗に人の目を見つめる習性。
いずれも懐かしい既視感と情動を携えて私の胸に迫った。
私は恐る恐る、あなたのお父様はなんと仰いますかと訊いてみた。
フローラはご存じありませんかと逆に訊き返した。
町の奥にそびえる巨大な豪邸を指して、「向こうの家に住んでいるルドマンが私の父ですわ」と云った。
いずれも懐かしい既視感と情動を携えて私の胸に迫った。
私は恐る恐る、あなたのお父様はなんと仰いますかと訊いてみた。
フローラはご存じありませんかと逆に訊き返した。
町の奥にそびえる巨大な豪邸を指して、「向こうの家に住んでいるルドマンが私の父ですわ」と云った。
467: 2017/01/26(木) 20:39:09.74 ID:h9xLfnk7o
水晶玉は一度手に取ったことがある。レヌール城でエリック王に譲り受けた金色の宝玉だ。
しかしそれとは別に、水晶の珠を香炉で暖めたものを心の中で手のひらに握ったことがある。かれこれ十年以上前の話だ。
今、全く同じ心持ちを抱いてフローラの前に立っている。
どうもさっきから覚えがあると思ったら、全く今まで気付かないでいたのがみっともないくらいだ。
しかしそれとは別に、水晶の珠を香炉で暖めたものを心の中で手のひらに握ったことがある。かれこれ十年以上前の話だ。
今、全く同じ心持ちを抱いてフローラの前に立っている。
どうもさっきから覚えがあると思ったら、全く今まで気付かないでいたのがみっともないくらいだ。
468: 2017/01/26(木) 20:39:35.78 ID:h9xLfnk7o
私はルドマンさんと云えば、十年前に娘さん等を連れて船にお越しになりましたねと云った。
フローラは驚いて、ええ、そうですが、よくご存じですのねと云った。
十年前のお前は子供だったろうとでも云いたげな口振りである。
「実は私もその船に乗り合わせていましてね」
「あら、そうだったんですか。どうりで……」
「思い出してくださいましたか」
「ええ。昔の話ですわね。……そうだわ。どうしてこんなことも忘れていたのかしら」
フローラは途端に顔に喜色を浮かばせて、
「まあ、するとあなたは、あのとき私を慰めてくれた優しい男の方でしたのね」
と云った。
フローラは驚いて、ええ、そうですが、よくご存じですのねと云った。
十年前のお前は子供だったろうとでも云いたげな口振りである。
「実は私もその船に乗り合わせていましてね」
「あら、そうだったんですか。どうりで……」
「思い出してくださいましたか」
「ええ。昔の話ですわね。……そうだわ。どうしてこんなことも忘れていたのかしら」
フローラは途端に顔に喜色を浮かばせて、
「まあ、するとあなたは、あのとき私を慰めてくれた優しい男の方でしたのね」
と云った。
469: 2017/01/26(木) 20:40:01.83 ID:h9xLfnk7o
立ち話もなんだと云うことでルドマン邸へお邪魔させていただくことになった。
変な話、そこは王族の住むラインハット城よりも丁寧に磨かれていて、ずっと崇高な趣を放っていた。
もっともこれは単に金があるからだろう。
ラインハットは現在窮乏状態にあるから、そう云う意味で負けていてもおかしくない。しかし、どこか悔しくもあった。
変な話、そこは王族の住むラインハット城よりも丁寧に磨かれていて、ずっと崇高な趣を放っていた。
もっともこれは単に金があるからだろう。
ラインハットは現在窮乏状態にあるから、そう云う意味で負けていてもおかしくない。しかし、どこか悔しくもあった。
470: 2017/01/26(木) 20:40:42.70 ID:h9xLfnk7o
娘が男を連れ込んだのをよっぽど不審がったのか、屋敷の使用人から白い目線が浴びせられた。主に私に。
まるで「うちのフローラ様に全体どんな甘言を吹き込んだのか」と無言の問いが投げかけられているようだった。
もっとも、古い知人を騙って女を軟派するのは詐欺師の常套手段らしいから、私がこうして詮議にかけられたのも仕方のないことである。
居心地の悪さを感じながら席へ着くと、メードが何とも云えない香りのする茶を運んできた。
学のない私がこれは、何というお茶ですかとフローラに訊くとこれは何処々々で採れた何々ですわと云って上品に飲む。
よく分からんが、これほどの身分の人が飲むお茶なのだからさぞ旨いのだろうと思って口に入れると、これがとんでもない曲者であった。
まるで「うちのフローラ様に全体どんな甘言を吹き込んだのか」と無言の問いが投げかけられているようだった。
もっとも、古い知人を騙って女を軟派するのは詐欺師の常套手段らしいから、私がこうして詮議にかけられたのも仕方のないことである。
居心地の悪さを感じながら席へ着くと、メードが何とも云えない香りのする茶を運んできた。
学のない私がこれは、何というお茶ですかとフローラに訊くとこれは何処々々で採れた何々ですわと云って上品に飲む。
よく分からんが、これほどの身分の人が飲むお茶なのだからさぞ旨いのだろうと思って口に入れると、これがとんでもない曲者であった。
471: 2017/01/26(木) 20:41:33.61 ID:h9xLfnk7o
渋い。渋いばかりでない。苦い。舌の根が縮み上がるほどに渋くて苦い。
苦渋をなめると俗に云うが、それどころの騒ぎではない。
危うく吹き出すところであったが、無論そんなはしたない真似をかの令嬢の前で披露できるはずもなく、必氏になって喉へ送り込んだ。
全て胃の方へ追いやる頃には、私の目元は涙でいっぱいになっていた。
何気なくそっと拭ったが、フローラは気付いていない様子だ。
それどころかこの苦渋を実に旨そうに啜り続けている。何者だ。
苦渋をなめると俗に云うが、それどころの騒ぎではない。
危うく吹き出すところであったが、無論そんなはしたない真似をかの令嬢の前で披露できるはずもなく、必氏になって喉へ送り込んだ。
全て胃の方へ追いやる頃には、私の目元は涙でいっぱいになっていた。
何気なくそっと拭ったが、フローラは気付いていない様子だ。
それどころかこの苦渋を実に旨そうに啜り続けている。何者だ。
472: 2017/01/26(木) 20:42:07.35 ID:h9xLfnk7o
私はどんな感想を云えば好いやら分からず「うん」と唸った。
するとフローラが「この甘い香りが私は好きなんですの。お気に召しまして」と云った。
お気に召しましてだって? とんでもない茶だ。サヴェヂ・チーだ。いやクリュエル・チーだ。
どうやら彼女が飲んでいるのは紛れもなく上等なお茶のようだが、私に出されたのは全く別の何かであるようだ。
するとフローラが「この甘い香りが私は好きなんですの。お気に召しまして」と云った。
お気に召しましてだって? とんでもない茶だ。サヴェヂ・チーだ。いやクリュエル・チーだ。
どうやら彼女が飲んでいるのは紛れもなく上等なお茶のようだが、私に出されたのは全く別の何かであるようだ。
473: 2017/01/26(木) 20:42:33.82 ID:h9xLfnk7o
私が「ええ、まあ。何と云いますか。随分なお手前ですな」と云ってカップを置くと、フローラは「それは好かったですわ」と云って微笑む。
その爛漫な笑顔に勇気づけられて、もういっぺんやってみるかという気概が起こった。何しろカップの中身は半分も減っていない。
茶道では飲み干すのが礼儀だそうだが、ここ西洋ではどんな手合いか分からん。
しかしほとんど飲まないのは定めし無礼だと思って、一気呵成にぐいっと喉に流し込んだ。
その爛漫な笑顔に勇気づけられて、もういっぺんやってみるかという気概が起こった。何しろカップの中身は半分も減っていない。
茶道では飲み干すのが礼儀だそうだが、ここ西洋ではどんな手合いか分からん。
しかしほとんど飲まないのは定めし無礼だと思って、一気呵成にぐいっと喉に流し込んだ。
474: 2017/01/26(木) 20:43:08.17 ID:h9xLfnk7o
苦い。苦い。ばかりでない。渋い。また涙が出てきた。
相変わらず人が飲む代物ではないと警告しているかのような攻勢だ。
たまらず顔を歪めたが、無論そんな汚い顔をかのご息女に見せられるはずもない。
そっと首を横に回すと、偶然にもさっき私に茶を運んできたメードと目があった。
私の顔は相変わらず苦渋に攻められて見せ物にもならないほど歪んでいる。
するとメードは手にした盆でもってさっと顔を隠し、回れ右をして引き戻った。
しばらくして、厨房から黄色い哄笑が響いた。
相変わらず人が飲む代物ではないと警告しているかのような攻勢だ。
たまらず顔を歪めたが、無論そんな汚い顔をかのご息女に見せられるはずもない。
そっと首を横に回すと、偶然にもさっき私に茶を運んできたメードと目があった。
私の顔は相変わらず苦渋に攻められて見せ物にもならないほど歪んでいる。
するとメードは手にした盆でもってさっと顔を隠し、回れ右をして引き戻った。
しばらくして、厨房から黄色い哄笑が響いた。
475: 2017/01/26(木) 20:43:49.07 ID:h9xLfnk7o
おおよそ犯人の見当はついたが、暴き立てたって面白くもない。
これも試練だと割り切ってカップを置いた。幸いカップは空になっている。
するとフローラはカップを見て、「よほどお好きなんですね」と云った。
誰が好きなものか。こんなものは下魔にでも飲ませた方がいくらかましだ。
けれどもフローラに好い印象を与えたい私は「大いに旨かったです」と嘘を吐いた。
これも試練だと割り切ってカップを置いた。幸いカップは空になっている。
するとフローラはカップを見て、「よほどお好きなんですね」と云った。
誰が好きなものか。こんなものは下魔にでも飲ませた方がいくらかましだ。
けれどもフローラに好い印象を与えたい私は「大いに旨かったです」と嘘を吐いた。
476: 2017/01/26(木) 20:44:41.38 ID:h9xLfnk7o
お茶騒動はかくの如き波瀾であったが、フローラとの世間話は平穏に進んだ。
幼い頃に一度会っているばかりでなく、海辺の修道院と云う共通の話題もあって話は大いに進んだ。
フローラは平穏無事な生活を長らくしていたからか、私の数奇な冒険談に胸を躍らせていた。ことに妖精界の話に大層興味のある様子だ。
そうしてほんわかとしていると、階段からかつかつと軍靴のような鋭い音が響きわたった。
幼い頃に一度会っているばかりでなく、海辺の修道院と云う共通の話題もあって話は大いに進んだ。
フローラは平穏無事な生活を長らくしていたからか、私の数奇な冒険談に胸を躍らせていた。ことに妖精界の話に大層興味のある様子だ。
そうしてほんわかとしていると、階段からかつかつと軍靴のような鋭い音が響きわたった。
477: 2017/01/26(木) 20:45:26.96 ID:h9xLfnk7o
見ると、黒髪で癖毛で、非常に派手な格好をした女が大胆に足を見せつけながら階段を下りている。
するとそのおきゃんな奴にフローラがデボラ姉さん、と声をかけるので驚いた。
こんな清楚な嬢に、あんな派手な姉がつくものか。
デボラと呼ばれたその姉は私を見るなり、ふんと鼻を鳴らした。
格好ばかりでなく実際の態度も高慢そうだ。少し辟易した。
するとそのおきゃんな奴にフローラがデボラ姉さん、と声をかけるので驚いた。
こんな清楚な嬢に、あんな派手な姉がつくものか。
デボラと呼ばれたその姉は私を見るなり、ふんと鼻を鳴らした。
格好ばかりでなく実際の態度も高慢そうだ。少し辟易した。
478: 2017/01/26(木) 20:46:26.17 ID:h9xLfnk7o
あんた、まさか十年前のあいつじゃないでしょうね、と覚えている様子だから話が早い。
君は十年前に泣いていた奴だろうと茶化すと、余計なことを云うんじゃないわよと顔を真っ赤にしている。
フローラはこのやりとりを大変珍しいものを見るような目で見物していた。
後で聞いたところによるとこのデボラ嬢は大層気が強く、大抵の男に勝ってしまうんだそうだ。
しかし私はこのお転婆に特別抗体らしきものでも持っているのか、ついぞ萎縮することはなかった。
君は十年前に泣いていた奴だろうと茶化すと、余計なことを云うんじゃないわよと顔を真っ赤にしている。
フローラはこのやりとりを大変珍しいものを見るような目で見物していた。
後で聞いたところによるとこのデボラ嬢は大層気が強く、大抵の男に勝ってしまうんだそうだ。
しかし私はこのお転婆に特別抗体らしきものでも持っているのか、ついぞ萎縮することはなかった。
479: 2017/01/26(木) 20:47:18.08 ID:h9xLfnk7o
形式的に、君もお茶するかいと誘った。しかしデボラは結構よ。と云って玄関に向かう。
フローラが暗くならない内に帰ってくるんですよと注意するが、はいはいとぞんざいに答えて行ってしまった。
好い身分のご令嬢が夜遊びとは少々いただけないが、カジノも劇場もないこの長閑な町で何をすることがあるのだろう。
見送ったフローラが困ったものだわと嘆息をついて眉をひそめる。
姉があの様子じゃ妹も外聞が悪くて気の毒だ。
フローラが暗くならない内に帰ってくるんですよと注意するが、はいはいとぞんざいに答えて行ってしまった。
好い身分のご令嬢が夜遊びとは少々いただけないが、カジノも劇場もないこの長閑な町で何をすることがあるのだろう。
見送ったフローラが困ったものだわと嘆息をついて眉をひそめる。
姉があの様子じゃ妹も外聞が悪くて気の毒だ。
480: 2017/01/26(木) 20:48:38.97 ID:h9xLfnk7o
下魔や光の教団については伏せたが、しかしこの数時間で語れるのもたかが知れていて、半分の内も話せなかった。
気がつけば日も落ち掛けて、時計の針も地の方を指していた。
ちなみにデボラはまだ帰っていない。どこで何をしているのだろう。
退去する時分、フローラは次の話へ未練を残しつつ別れを告げた。
私もフローラの愛らしい相づちや仕草に思いを馳せて帰った。
気がつけば日も落ち掛けて、時計の針も地の方を指していた。
ちなみにデボラはまだ帰っていない。どこで何をしているのだろう。
退去する時分、フローラは次の話へ未練を残しつつ別れを告げた。
私もフローラの愛らしい相づちや仕草に思いを馳せて帰った。
481: 2017/01/26(木) 20:49:19.23 ID:h9xLfnk7o
私はフローラの純朴さに心惹かれた。
同時に、よもやこんな身分ではあのひとへ辿り着くことは到底叶わないだろうと思って悲しくなった。
船を持ち、塔を建立し、私兵を雇い、豪華な屋敷に住み、綺麗な娘を持つルドマンの眼に、私のような平民がかなうはずもない。
高嶺の花とは遠くから見る時分には好いものだ。
彼我の距離感を忘れることはないのだから。
同時に、よもやこんな身分ではあのひとへ辿り着くことは到底叶わないだろうと思って悲しくなった。
船を持ち、塔を建立し、私兵を雇い、豪華な屋敷に住み、綺麗な娘を持つルドマンの眼に、私のような平民がかなうはずもない。
高嶺の花とは遠くから見る時分には好いものだ。
彼我の距離感を忘れることはないのだから。
482: 2017/01/26(木) 20:50:38.13 ID:h9xLfnk7o
しかし、こうしてお茶をして妙な具合に接近して、その美貌に心打たれたとき、それがいとも簡単に鉄火の棘を持つ恐ろしい茨を身に纏うことを知る。
知らなければ苦しまないで済んだろう。知ったからこれほど苦しいんだろう。
触れられないから、私の胸は痛むんだろう。
フローラとの邂逅を、少しばかり不幸と感じた。
知らなければ苦しまないで済んだろう。知ったからこれほど苦しいんだろう。
触れられないから、私の胸は痛むんだろう。
フローラとの邂逅を、少しばかり不幸と感じた。
483: 2017/01/26(木) 20:51:24.16 ID:h9xLfnk7o
屋敷を出ると、ぞろぞろと見知らぬ男たちに取り囲まれた。
何やら剣呑な雰囲気だから、「なんだ、強盗か」と訊いた。
すると向こうは「強盗は貴様の方だ」とやり返す。何のことだか分からない。
「私がいつ、何を盗んだ」
「しらばっくれたって無駄だ。貴様がフローラさんとお茶をしていたのをしっかり見たんだからな」
「おや覗きか。君らも趣味が悪いな」
「貴様こそ抜け駆けしてフローラさんを独り占めしようなんざ、いい度胸してるじゃねえか」
「抜け駆け? 私がいつ誰とそんな条約を結んだ」
「知らねえのか。明日になったらフローラさんの婿合戦が始まるんだぜ。それまで町の男はフローラさんに近づいちゃいけねえのさ」
「へえ。そりゃあ知らなかった。何せつい今しがた町に着いたところだからな」
「仕様のない奴だ。帰るぜ。こんな坊主がルドマン様のお眼鏡にかなうはずもあるまい」
そう吐き捨てて男たちは散り々々になった。
何やら剣呑な雰囲気だから、「なんだ、強盗か」と訊いた。
すると向こうは「強盗は貴様の方だ」とやり返す。何のことだか分からない。
「私がいつ、何を盗んだ」
「しらばっくれたって無駄だ。貴様がフローラさんとお茶をしていたのをしっかり見たんだからな」
「おや覗きか。君らも趣味が悪いな」
「貴様こそ抜け駆けしてフローラさんを独り占めしようなんざ、いい度胸してるじゃねえか」
「抜け駆け? 私がいつ誰とそんな条約を結んだ」
「知らねえのか。明日になったらフローラさんの婿合戦が始まるんだぜ。それまで町の男はフローラさんに近づいちゃいけねえのさ」
「へえ。そりゃあ知らなかった。何せつい今しがた町に着いたところだからな」
「仕様のない奴だ。帰るぜ。こんな坊主がルドマン様のお眼鏡にかなうはずもあるまい」
そう吐き捨てて男たちは散り々々になった。
484: 2017/01/26(木) 20:52:12.72 ID:h9xLfnk7o
婿合戦だって? 妙な催し物を開くもんだ。
どうせ名家の令嬢だからそれなりの身分の男を――それこそ王子や殿下のような身分の奴を適当にあてがうのかと思いきや、どこの馬の骨とも知らない男共をかき集めて篩にかけるとは。
あのむくつけき男たちから淘汰されて生き残った奴がフローラを娶るんだろうが、なんだかそれはあまりそぐわない感じがした。
どうせ名家の令嬢だからそれなりの身分の男を――それこそ王子や殿下のような身分の奴を適当にあてがうのかと思いきや、どこの馬の骨とも知らない男共をかき集めて篩にかけるとは。
あのむくつけき男たちから淘汰されて生き残った奴がフローラを娶るんだろうが、なんだかそれはあまりそぐわない感じがした。
485: 2017/01/26(木) 20:52:50.86 ID:h9xLfnk7o
飯と情報収集のために酒場へ寄った。
何もサラボナへ来たのはフローラと会うためではない。勇者の盾について知るためである。
席へ着くと、豊かな町だけあってそこここと比べものにならない美味が提供された。
もっとも先ほどのサヴェヂ・チーに舌をやられたから反動でそう感じただけかも知れない。
感涙して顔を左右に振ると、「お酒は大人になってから」などとあまりにも遅すぎる忠告の張り紙が目に付いた。
大人とはいつの時分を云うのだろう。おおよそ十五だろうか。
私は自分が子供とは思わなかったが、父のような大人にはほど遠いと思った。
何もサラボナへ来たのはフローラと会うためではない。勇者の盾について知るためである。
席へ着くと、豊かな町だけあってそこここと比べものにならない美味が提供された。
もっとも先ほどのサヴェヂ・チーに舌をやられたから反動でそう感じただけかも知れない。
感涙して顔を左右に振ると、「お酒は大人になってから」などとあまりにも遅すぎる忠告の張り紙が目に付いた。
大人とはいつの時分を云うのだろう。おおよそ十五だろうか。
私は自分が子供とは思わなかったが、父のような大人にはほど遠いと思った。
486: 2017/01/26(木) 20:53:36.11 ID:h9xLfnk7o
あちこちから話を聞いてみると、どうもルドマンが先の婿合戦の勝者に家宝の盾をくれると云う。
わざわざ娘と並べるからには、よほど荘厳な盾に違いない。
そんな高貴なものとなると天空の盾である可能性は極めて高い。
確認と交渉の用意を兼ねてルドマンの元へ訪れることにした。
わざわざ娘と並べるからには、よほど荘厳な盾に違いない。
そんな高貴なものとなると天空の盾である可能性は極めて高い。
確認と交渉の用意を兼ねてルドマンの元へ訪れることにした。
487: 2017/01/26(木) 20:55:10.16 ID:h9xLfnk7o
明日になってルドマン邸を訪ねてみると、とんでもない人だかりであった。
昨日のような物騒な連中もいれば、綺麗な身なりをした貴族らしき者もいる。
かと思えば南瓜村にでもいそうなぼんやりした田舎者もいる。
こう玉石混淆だと選定もさぞや疲れるだろうなと思うと、人混みに押されて私の最前の男が体勢を崩す。
慌てて支えてやると、どうもすみませんと云ってそいつは立ち上がった。
私と年が変わらないくらいの、さわやかな好青年である。
昨日のような物騒な連中もいれば、綺麗な身なりをした貴族らしき者もいる。
かと思えば南瓜村にでもいそうなぼんやりした田舎者もいる。
こう玉石混淆だと選定もさぞや疲れるだろうなと思うと、人混みに押されて私の最前の男が体勢を崩す。
慌てて支えてやると、どうもすみませんと云ってそいつは立ち上がった。
私と年が変わらないくらいの、さわやかな好青年である。
488: 2017/01/26(木) 20:55:42.32 ID:h9xLfnk7o
名をアンディというらしい。驚いたことに、フローラと幼馴染だと云う。それも数年来遊んでいた仲とか。
それは定めし有利だろうと云うと、いやあ、僕は家柄が平民だからルドマンさんが相手をしてくれなくて。と頭を掻いている。
こいつもどうやら棘を指に刺した者らしい。顔には僅かだが、悲壮な諦めが掠めていた。
それは定めし有利だろうと云うと、いやあ、僕は家柄が平民だからルドマンさんが相手をしてくれなくて。と頭を掻いている。
こいつもどうやら棘を指に刺した者らしい。顔には僅かだが、悲壮な諦めが掠めていた。
489: 2017/01/26(木) 20:56:12.01 ID:h9xLfnk7o
アンディがあなたもフローラを、と訊くので、私は曖昧に頷いた。
そりゃあできることならフローラと結ばれたくもあるが、どうせ私なんかが達成できる生易しい基準は出さないだろう。
あくまで、盾の動向を探るだけだと心に留めた。
やがて邸宅の扉が開き、それを合図に男共が波のようにうねり込んだ。
我々も半ば飲み込まれるようにして中へ入った。
そりゃあできることならフローラと結ばれたくもあるが、どうせ私なんかが達成できる生易しい基準は出さないだろう。
あくまで、盾の動向を探るだけだと心に留めた。
やがて邸宅の扉が開き、それを合図に男共が波のようにうねり込んだ。
我々も半ば飲み込まれるようにして中へ入った。
490: 2017/01/26(木) 20:56:38.39 ID:h9xLfnk7o
私とアンディが入る頃には屋敷は既に大入り満員であった。
巨大な煉瓦でできた暖炉の前には、ルドマンと思しき中年の貴族が座っている。
十年前とほとんど変わらぬふくよかさである。
ルドマンが、さて、お揃いになりましたかな、と挨拶をしたその時、応接間の端にある階段からかつかつと甲高い足音が響いた。
フローラがかような高慢ちきな足音をたてるはずもないので大方見当はついたが、見ると想像通りデボラであった。
昨日とは意匠が違うが、やはり派手な服を着ている。
しかし無暗にごてごてしている訳でもなく、統制がとれていて洒落ている。ちょっと見とれてしまった。
巨大な煉瓦でできた暖炉の前には、ルドマンと思しき中年の貴族が座っている。
十年前とほとんど変わらぬふくよかさである。
ルドマンが、さて、お揃いになりましたかな、と挨拶をしたその時、応接間の端にある階段からかつかつと甲高い足音が響いた。
フローラがかような高慢ちきな足音をたてるはずもないので大方見当はついたが、見ると想像通りデボラであった。
昨日とは意匠が違うが、やはり派手な服を着ている。
しかし無暗にごてごてしている訳でもなく、統制がとれていて洒落ている。ちょっと見とれてしまった。
491: 2017/01/26(木) 20:57:04.64 ID:h9xLfnk7o
ただそうしたのも一瞬で、また私と結婚したい奴らが来たのねと甲高い声で喚き立てるからやはり辟易した。
ルドマンはいいや違う、今日はお前でなくってフローラの方だ、邪魔せずに部屋へ戻っていなさいと追い払うように云った。
すると少しわくわくしていたデボラもふーん。パパも大変ねと興味をなくした様子だ。
また昼寝でもしてるわと貴族の娘らしくぐうたらな発言をして帰っていった。今日は遊びには出かけないらしい。
そのとき、ちらりと彼女の視線がこちらを向いた。
ルドマンはいいや違う、今日はお前でなくってフローラの方だ、邪魔せずに部屋へ戻っていなさいと追い払うように云った。
すると少しわくわくしていたデボラもふーん。パパも大変ねと興味をなくした様子だ。
また昼寝でもしてるわと貴族の娘らしくぐうたらな発言をして帰っていった。今日は遊びには出かけないらしい。
そのとき、ちらりと彼女の視線がこちらを向いた。
492: 2017/01/26(木) 20:57:31.57 ID:h9xLfnk7o
我々大衆の方を向いた、のではない。私の方を向いたんである。
その一瞬の仕草に射抜かれたのか、周りの男たちが、おい今俺の方を見たぜ。何云ってやがる俺だと途端にざわざわし始める。
私は苦笑した。あれに惚れるたあ物好きが居たものだ。
肝を抜く技量もないのに、河豚を食らおうとするようなものだ。
その一瞬の仕草に射抜かれたのか、周りの男たちが、おい今俺の方を見たぜ。何云ってやがる俺だと途端にざわざわし始める。
私は苦笑した。あれに惚れるたあ物好きが居たものだ。
肝を抜く技量もないのに、河豚を食らおうとするようなものだ。
493: 2017/01/26(木) 20:58:10.54 ID:h9xLfnk7o
ルドマンがごほん、と咳払いをして気を取り直した。
そして、まるで旅順攻勢の伝令を告げるかのような厳かな声で始めた。
「さて。本日こうしてお集まりいただいたのはわが娘フローラの結婚相手を極めるため。
しかし、ただの男にかわいいフローラを嫁にやろうとは思わん。
フローラを娶る男となるには、一つ条件がある。
古い言い伝えによると、この大陸のどこかに二つの不思議な指輪があるらしいのだ。
それらはそれぞれ炎のリング、水のリングと呼ばれ、身につけた者に幸福をもたらすとか。
もしこの二つのリングを手に入れることができたなら、よろこんで結婚を認めよう。
そして、婿となった男には、この家宝の盾を授ける。
是非がんばってくれたまえ」
そして、まるで旅順攻勢の伝令を告げるかのような厳かな声で始めた。
「さて。本日こうしてお集まりいただいたのはわが娘フローラの結婚相手を極めるため。
しかし、ただの男にかわいいフローラを嫁にやろうとは思わん。
フローラを娶る男となるには、一つ条件がある。
古い言い伝えによると、この大陸のどこかに二つの不思議な指輪があるらしいのだ。
それらはそれぞれ炎のリング、水のリングと呼ばれ、身につけた者に幸福をもたらすとか。
もしこの二つのリングを手に入れることができたなら、よろこんで結婚を認めよう。
そして、婿となった男には、この家宝の盾を授ける。
是非がんばってくれたまえ」
494: 2017/01/26(木) 20:59:04.88 ID:h9xLfnk7o
ルドマンが皆に掲げて見せたのは、白を基調として緑と金の装飾を凝らした、大変美しい盾であった。
私がそれを目にしたとき、背負っていた天空の剣が細かく振動した。
ルドマンも手元の盾が震えているのに気がついて少し怪訝な顔をした。
間違いない。あれは伝説の勇者が持っていたとされる、天空の盾だ。
私がそれを目にしたとき、背負っていた天空の剣が細かく振動した。
ルドマンも手元の盾が震えているのに気がついて少し怪訝な顔をした。
間違いない。あれは伝説の勇者が持っていたとされる、天空の盾だ。
495: 2017/01/26(木) 20:59:51.53 ID:h9xLfnk7o
聴衆が色めき立つ中、階段からまたもや足音がした。
しかし今度は先ほどより幾分温和しめだ。
観衆が見る先には、美貌の乙女、フローラが慌て気味に階段を降りていた。
挨拶でもするのかと思えば、そうでない。父に向かって反抗を示したのだ。
「お父様。私は最前から云っている通り、夫となる殿方は自分で極めたいのです」
悲壮な勢いで叫んだ娘の声はしかし、父の厳粛な態度に気圧された。
しかし今度は先ほどより幾分温和しめだ。
観衆が見る先には、美貌の乙女、フローラが慌て気味に階段を降りていた。
挨拶でもするのかと思えば、そうでない。父に向かって反抗を示したのだ。
「お父様。私は最前から云っている通り、夫となる殿方は自分で極めたいのです」
悲壮な勢いで叫んだ娘の声はしかし、父の厳粛な態度に気圧された。
496: 2017/01/26(木) 21:00:43.30 ID:h9xLfnk7o
「ならん。我が家へ足を踏み入れられるのは危険を顧みず、勇気をもってそれを乗り越えた者に限るのだ」
「そんな、いけませんわ。みなさん聞いて下さい。お父様は炎のリングの居場所を知っています。知っていて、そこへみなさんを向かわせようとしているのですわ。私はそんなむごい真似を看過できません」
「フローラ。黙っていなさい」
「炎のリングは南東の氏の火山の最奥部にあります。ご存じの通り、あの山は生きた溶岩があふれるとても危険な場所です。そんな所へ無暗に足を向けて、下手を打てば一体どうなるやら……どうかお願いです。私などのために危険に飛び込むのはやめて下さい」
「もういいフローラ。ほれ、フローラを上へ上げなさい。少し興奮しているようだからゆっくりと休ませてやるんだ」
脇にいた使用人がフローラの腕をとって階段の上へ連行する。フローラは「お父様……」と呟いて、上階へ消えた。
「そんな、いけませんわ。みなさん聞いて下さい。お父様は炎のリングの居場所を知っています。知っていて、そこへみなさんを向かわせようとしているのですわ。私はそんなむごい真似を看過できません」
「フローラ。黙っていなさい」
「炎のリングは南東の氏の火山の最奥部にあります。ご存じの通り、あの山は生きた溶岩があふれるとても危険な場所です。そんな所へ無暗に足を向けて、下手を打てば一体どうなるやら……どうかお願いです。私などのために危険に飛び込むのはやめて下さい」
「もういいフローラ。ほれ、フローラを上へ上げなさい。少し興奮しているようだからゆっくりと休ませてやるんだ」
脇にいた使用人がフローラの腕をとって階段の上へ連行する。フローラは「お父様……」と呟いて、上階へ消えた。
497: 2017/01/26(木) 21:01:24.49 ID:h9xLfnk7o
ルドマンがごほん、と咳払いをした。
「すまないな。どうも優しい気質が高じて、あんなことを云うのだろう。無論危険なことは知っている。しかし、危険と知っていてそこへ向かう勇気と、奥へたどり着く実力のある者しか私は認めん。溶岩に身を焼き、咽せる火山灰と熱気に身を投じる気概があるならば、南東に行きたまえ。それができぬ者はフローラのことは忘れて、他の人を捜しなさい」
そう云ってルドマンは会を閉めた。
聴衆はさっきまでの興奮が一気に冷めきり、消沈した雰囲気に包まれていた。
邸宅を出ると、彼らは己の怯懦を恥じ、互いの目線を気にするかのようにそれぞれが静かに散って行き、あとは静かな鳥のさえずりが残るばかりであった。
「すまないな。どうも優しい気質が高じて、あんなことを云うのだろう。無論危険なことは知っている。しかし、危険と知っていてそこへ向かう勇気と、奥へたどり着く実力のある者しか私は認めん。溶岩に身を焼き、咽せる火山灰と熱気に身を投じる気概があるならば、南東に行きたまえ。それができぬ者はフローラのことは忘れて、他の人を捜しなさい」
そう云ってルドマンは会を閉めた。
聴衆はさっきまでの興奮が一気に冷めきり、消沈した雰囲気に包まれていた。
邸宅を出ると、彼らは己の怯懦を恥じ、互いの目線を気にするかのようにそれぞれが静かに散って行き、あとは静かな鳥のさえずりが残るばかりであった。
498: 2017/01/26(木) 21:01:55.95 ID:h9xLfnk7o
私はぼうっとして玄関の前に立っていた。すると、隣に先のアンディが立った。
「やれやれ、大変なことになりましたね」
そう云って頭を掻いている。
「氏の火山か。僕なんかが行って無事に帰れるかどうか」
「しかし行かねば、フローラさんは得られないぜ」
「そうなんですよね。いやあ、大変だなあ」
「どうするかね。やっぱりやめにするかい」
するとアンディは心外そうな顔をした。
「まさか。当然行くに極まってますよ」
そう云う彼の瞳には、恐怖を上回る決意が見て取れた。
「やれやれ、大変なことになりましたね」
そう云って頭を掻いている。
「氏の火山か。僕なんかが行って無事に帰れるかどうか」
「しかし行かねば、フローラさんは得られないぜ」
「そうなんですよね。いやあ、大変だなあ」
「どうするかね。やっぱりやめにするかい」
するとアンディは心外そうな顔をした。
「まさか。当然行くに極まってますよ」
そう云う彼の瞳には、恐怖を上回る決意が見て取れた。
499: 2017/01/26(木) 21:02:22.38 ID:h9xLfnk7o
「君は何だってそう、フローラに拘るんだ」
嫌みではなく、単に好奇心から聞いてみた。
「僕は金や盾はどうでも好いですが、フローラと結婚できるのなら、この命は惜しくありません」
「そうか。それほどまでにフローラを愛しているのだな」
「当然です。だって、結婚は愛する人とするものでしょう」
これは恋する青年の若い発言ともとれたし、真理を突いた格言ともとれた。
嫌みではなく、単に好奇心から聞いてみた。
「僕は金や盾はどうでも好いですが、フローラと結婚できるのなら、この命は惜しくありません」
「そうか。それほどまでにフローラを愛しているのだな」
「当然です。だって、結婚は愛する人とするものでしょう」
これは恋する青年の若い発言ともとれたし、真理を突いた格言ともとれた。
500: 2017/01/26(木) 21:02:56.22 ID:h9xLfnk7o
私は少しく躊躇った。これほど愛にあふれる男になら、フローラを任せられるのではないか。
しかし同時にやはり譲れないとも思った。フローラはそれこそマリアに次ぐほど素晴らしい女である。
それに何より、天空の盾が手に入れられるのだ。
私がどれほど母に飢えているか、ここまでで散々表明してきたはずだ。
私はそうか。それじゃあ互いに頑張ろうと云ってアンディの肩を叩いた。
アンディはええ、お互い。と返事をして、去っていった。
しかし同時にやはり譲れないとも思った。フローラはそれこそマリアに次ぐほど素晴らしい女である。
それに何より、天空の盾が手に入れられるのだ。
私がどれほど母に飢えているか、ここまでで散々表明してきたはずだ。
私はそうか。それじゃあ互いに頑張ろうと云ってアンディの肩を叩いた。
アンディはええ、お互い。と返事をして、去っていった。
501: 2017/01/26(木) 21:03:29.84 ID:h9xLfnk7o
不意に、後ろからにゃあと聞き覚えのある声がした。先生である。
腕に抱いてやれば、君も中々隅に置けないじゃないかと早速調戯われた。
「次第はお聞きになりましたか」
「しっかり陰から拝聴した。あすこの屋敷の使用人は礼儀を弁えている。猫と人間の間に無用な垣根を置かない」
「どうします。火山ですからかなり危険ですよ」
「構わない。どうせ君らが火山で氏んだら私は行く当てがないからな。一蓮托生となるのになんの不都合はないさ」
「分かりました。ゴルキはどうだ」
懐からピキキーと小さな声がした。
腕に抱いてやれば、君も中々隅に置けないじゃないかと早速調戯われた。
「次第はお聞きになりましたか」
「しっかり陰から拝聴した。あすこの屋敷の使用人は礼儀を弁えている。猫と人間の間に無用な垣根を置かない」
「どうします。火山ですからかなり危険ですよ」
「構わない。どうせ君らが火山で氏んだら私は行く当てがないからな。一蓮托生となるのになんの不都合はないさ」
「分かりました。ゴルキはどうだ」
懐からピキキーと小さな声がした。
502: 2017/01/26(木) 21:03:56.61 ID:h9xLfnk7o
「かざんってのがなにかしらないけど、おもしろそうだからついていくよ」
「興味本位で行くのはお勧めしないが、まあいい。あとはピエールだな」
「ピエール君も行くと云っていた。何しろ主人の君が行って、従者の私が懐手をするわけにもいくまいと気焔を吐いておったよ」
「おや、さいですか。ゲレゲレは……まあ来るでしょうな。それじゃあさっさと行きましょう」
こうして魔物と猫を連れて火山へ飛び込むことに極めた。
この時我々は、火山の本当の恐ろしさを知らないでいた。
「興味本位で行くのはお勧めしないが、まあいい。あとはピエールだな」
「ピエール君も行くと云っていた。何しろ主人の君が行って、従者の私が懐手をするわけにもいくまいと気焔を吐いておったよ」
「おや、さいですか。ゲレゲレは……まあ来るでしょうな。それじゃあさっさと行きましょう」
こうして魔物と猫を連れて火山へ飛び込むことに極めた。
この時我々は、火山の本当の恐ろしさを知らないでいた。
503: 2017/01/26(木) 21:04:56.09 ID:h9xLfnk7o
南東には山々がこれでもかと云わんばかりに峰を連ね、我々の行く手を阻む。
無論野外であるから魔物にも襲われる。ルドマンも相当無茶な要求をしたものだ。
二本足の私はともかく、馬車を引くパトリシアが大分疲弊するので、こまめに休息をとらねばならなかった。
時折ゲレゲレに馬車を引かせてみたら、力があるのでそれなりに進めた。
先生は残念ながらどこまでも猫なので戦闘の役には立たない。
ゴルキも所詮スライムなのであまり前線に出るのは難しい。
けれどもゴルキの野生の勘と先生の大変な嗅覚、聴力のおかげで魔物の襲撃はほとんどが事前に察知できたから、彼らも陰の功労者である。
ピエールは回復呪文と剣が振るえる点ですでに一線を画する活躍だから特筆はしない。
無論野外であるから魔物にも襲われる。ルドマンも相当無茶な要求をしたものだ。
二本足の私はともかく、馬車を引くパトリシアが大分疲弊するので、こまめに休息をとらねばならなかった。
時折ゲレゲレに馬車を引かせてみたら、力があるのでそれなりに進めた。
先生は残念ながらどこまでも猫なので戦闘の役には立たない。
ゴルキも所詮スライムなのであまり前線に出るのは難しい。
けれどもゴルキの野生の勘と先生の大変な嗅覚、聴力のおかげで魔物の襲撃はほとんどが事前に察知できたから、彼らも陰の功労者である。
ピエールは回復呪文と剣が振るえる点ですでに一線を画する活躍だから特筆はしない。
504: 2017/01/26(木) 21:05:33.38 ID:h9xLfnk7o
このパーティならば魔王の城だって攻略できるかも知れぬ。
そうして少しでも驕った鼻っ柱を叩き折るかとばかりに、目の前に氏の火山が立ちはだかった。
入り口からすでに鉄をも溶かさんと沸々と煮えたぎる溶岩があふれている。
遠い距離からでも感ぜられるその異様な熱気に襲われてたじろんだ。
ゴルキが誤って触れでもしたら、途端に蒸発してしまう。
洞窟の中へ入ると、恐ろしいことに足元数尺が溶岩である。
ゲレゲレの居た洞窟のごとく、足下はよほど注意して歩かないと即席にお陀仏だ。
そうして少しでも驕った鼻っ柱を叩き折るかとばかりに、目の前に氏の火山が立ちはだかった。
入り口からすでに鉄をも溶かさんと沸々と煮えたぎる溶岩があふれている。
遠い距離からでも感ぜられるその異様な熱気に襲われてたじろんだ。
ゴルキが誤って触れでもしたら、途端に蒸発してしまう。
洞窟の中へ入ると、恐ろしいことに足元数尺が溶岩である。
ゲレゲレの居た洞窟のごとく、足下はよほど注意して歩かないと即席にお陀仏だ。
505: 2017/01/26(木) 21:05:59.65 ID:h9xLfnk7o
しばらく進むと、なんだか見覚えのある格好が岩陰で佇んでいた。アンディである。
すぐに出かけた我々より先についたのは彼が単身で乗り込んだからだろう。
道中メタルハンターなどに狩られなかったところを見るとそれなりの実力者とみる。
やあ、と挨拶をすると、アンディは脂汗を玉のように浮かべて返事をした。
汗は熱さのせいかと思うと、顔は反対に青い。見ると、足に怪我をしている。
急いでベホイミをかけてやったが、どうしてこんな所で往生しているのか問いただした。
すぐに出かけた我々より先についたのは彼が単身で乗り込んだからだろう。
道中メタルハンターなどに狩られなかったところを見るとそれなりの実力者とみる。
やあ、と挨拶をすると、アンディは脂汗を玉のように浮かべて返事をした。
汗は熱さのせいかと思うと、顔は反対に青い。見ると、足に怪我をしている。
急いでベホイミをかけてやったが、どうしてこんな所で往生しているのか問いただした。
506: 2017/01/26(木) 21:06:26.35 ID:h9xLfnk7o
何でもここまでの戦闘は半ば薬草の力で押し進んだが、ここにきてメタルスライムを見かけたらしい。
目の色を変えて戦っている内、薬草が切れたことに気付かず敵の攻撃をまともに受け、このざまとなったとか。
メタルスライムやはぐれメタルに気を取られて足下を掬われるのは多くの冒険者が踏む轍だが、こいつもその一人になるところであった。
目の色を変えて戦っている内、薬草が切れたことに気付かず敵の攻撃をまともに受け、このざまとなったとか。
メタルスライムやはぐれメタルに気を取られて足下を掬われるのは多くの冒険者が踏む轍だが、こいつもその一人になるところであった。
507: 2017/01/26(木) 21:07:41.73 ID:h9xLfnk7o
なぜ回復呪文を覚えていないのかと訊くと、最近は攻撃呪文ばかりに傾倒してすっかり失念していたという。
メラもこの通りと云って実践してみせるが、下魔や赤シャツのメラミをみた私はそれがどれほどのものか分からなかった。
すごいでしょうと自慢するから、うん。と云ってやったが、奴さんメラをしまい忘れて次の呪文に取りかかってしまう。
自然、魔力の制動を失った火球は重力に引っ張られて下に落ちる。
落ちた先にはアンディの服の裾がある。
熱気で乾いた服は枯れ草のごとくぱっと燃え上がる。
メラもこの通りと云って実践してみせるが、下魔や赤シャツのメラミをみた私はそれがどれほどのものか分からなかった。
すごいでしょうと自慢するから、うん。と云ってやったが、奴さんメラをしまい忘れて次の呪文に取りかかってしまう。
自然、魔力の制動を失った火球は重力に引っ張られて下に落ちる。
落ちた先にはアンディの服の裾がある。
熱気で乾いた服は枯れ草のごとくぱっと燃え上がる。
508: 2017/01/26(木) 21:08:24.58 ID:h9xLfnk7o
アンディはあわわわと不思議な踊りをしながらヒャドを唱えて消火した。
実力は確かだが、どうも抜けているところがある。
このまま一人で行かせるのは危険と判断して、一緒に行こうと提案した。
一人で少々心細かったらしいアンディは一も二もなく了承した。
隠しておいた魔物諸君を見せると、アンディはうひゃあと飛び上がった。流石に刺激が強かったかしらん。
しかしピエールとゴルキの友好的な挨拶で気を許し、早くも打ち解けている。
若いだけあって柔軟な対応である。あるいはのんきなだけかも知れぬ。
実力は確かだが、どうも抜けているところがある。
このまま一人で行かせるのは危険と判断して、一緒に行こうと提案した。
一人で少々心細かったらしいアンディは一も二もなく了承した。
隠しておいた魔物諸君を見せると、アンディはうひゃあと飛び上がった。流石に刺激が強かったかしらん。
しかしピエールとゴルキの友好的な挨拶で気を許し、早くも打ち解けている。
若いだけあって柔軟な対応である。あるいはのんきなだけかも知れぬ。
509: 2017/01/26(木) 21:08:59.55 ID:h9xLfnk7o
アンディを連れて先へ進むと、誰が設えたのか橋や階段が火山内に拵えてある。
まさかルドマンが、いやあそんなはずはと思いつつ下へ降りると、火山の中心に近づくだけあって溶岩が頻繁に行く手を阻む。
そして溶岩ばかりでなく、それに焼かれた空気までもが我々を苦しめた。
さながら巨大な掘り炬燵である。無論ぬくぬくとできるはずもない。
人間の如く衣服で体温を調節できないゲレゲレや先生などは大層苦しがっていた。
まさかルドマンが、いやあそんなはずはと思いつつ下へ降りると、火山の中心に近づくだけあって溶岩が頻繁に行く手を阻む。
そして溶岩ばかりでなく、それに焼かれた空気までもが我々を苦しめた。
さながら巨大な掘り炬燵である。無論ぬくぬくとできるはずもない。
人間の如く衣服で体温を調節できないゲレゲレや先生などは大層苦しがっていた。
510: 2017/01/26(木) 21:09:28.55 ID:h9xLfnk7o
「皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと英吉利のシドニー・スミスとか云う人が苦しがったと云う話だ」
と先生はこんな時でも含蓄のある話をされるから難有い。
ところが「ただ、たとい骨だけにならなくとも好いから、せめてこの淡灰色の斑入の毛衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分の中(うち)質にでも入れたいよ」と云う辺り、存外余裕はなさそうだ。
それにしても、猫の毛皮はさぞ脱ぐのに難儀するだろうが、ピエールの甲冑などは容易に着脱できそうなものである。
君も苦しかろう、脱ぎたまえとピエールに云うと、ならんと云ってこれを一喝のもとに拒む。
脱げんのかと訊くと、氏んでも脱がんと強情である。妙な病気があったものだ。
と先生はこんな時でも含蓄のある話をされるから難有い。
ところが「ただ、たとい骨だけにならなくとも好いから、せめてこの淡灰色の斑入の毛衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分の中(うち)質にでも入れたいよ」と云う辺り、存外余裕はなさそうだ。
それにしても、猫の毛皮はさぞ脱ぐのに難儀するだろうが、ピエールの甲冑などは容易に着脱できそうなものである。
君も苦しかろう、脱ぎたまえとピエールに云うと、ならんと云ってこれを一喝のもとに拒む。
脱げんのかと訊くと、氏んでも脱がんと強情である。妙な病気があったものだ。
511: 2017/01/26(木) 21:09:55.92 ID:h9xLfnk7o
上のようにただでさえ地獄のような場所であるのに、あろうことか魔物まで出る。
それもほのおのせんしという雪の女王みたような姿の魔物が大勢でかえんを吹くには参った。
それも三体も四体も一斉にぶうぶう吹くから回復の手が間に合わない。
何度かゴルキが液体になりかけていた。
対照に、足元にスライムを抱えるピエールは平然としている。
仮にもスライムと名乗る身の上の癖に火炎に抵抗があるとは驚きだ。
それもほのおのせんしという雪の女王みたような姿の魔物が大勢でかえんを吹くには参った。
それも三体も四体も一斉にぶうぶう吹くから回復の手が間に合わない。
何度かゴルキが液体になりかけていた。
対照に、足元にスライムを抱えるピエールは平然としている。
仮にもスライムと名乗る身の上の癖に火炎に抵抗があるとは驚きだ。
512: 2017/01/26(木) 21:10:32.33 ID:h9xLfnk7o
アンディがあれじゃありませんか、と云って火山内の階段を見つける。
早速そこへ向かおうと足を向けるが、溶岩がそれを妨る。
ぐるぐるとあちこち回ってみるが、安全に渡れる道が全くない。
まだ冷め切っていない半溶の地面を辛うじて見つけ、決氏の覚悟で渡り切った。
ゴルキが無事かどうか非常に気を揉んだが、奴め馬車に乗って難を逃れている。
そんなことならパトリシアに任せて二人と四五匹は馬車で安穏としておればよかった。
早速そこへ向かおうと足を向けるが、溶岩がそれを妨る。
ぐるぐるとあちこち回ってみるが、安全に渡れる道が全くない。
まだ冷め切っていない半溶の地面を辛うじて見つけ、決氏の覚悟で渡り切った。
ゴルキが無事かどうか非常に気を揉んだが、奴め馬車に乗って難を逃れている。
そんなことならパトリシアに任せて二人と四五匹は馬車で安穏としておればよかった。
513: 2017/01/26(木) 21:11:40.79 ID:h9xLfnk7o
階段を降りると、今までの曲がりくねった、自然のままの洞窟然とした様子から打って変わり、人が整えたのかと疑うほど綺麗に直進する岩の道があった。
いよいよルドマンの建設が怪しくなってきた。
娘の婿を極めるだけの行事にこれだけのことをするあたり富豪は発想の規模が違う。
ただ、我々以外に婿候補が潰えるところを考慮していないのはいささか早計である。
道を進むと、一際大きな岩が行き止まりにある。
その上には、ぎらりと燃えるように煌く宝石の、丁寧に嵌め込まれた指輪が鎮座していた。
いよいよルドマンの建設が怪しくなってきた。
娘の婿を極めるだけの行事にこれだけのことをするあたり富豪は発想の規模が違う。
ただ、我々以外に婿候補が潰えるところを考慮していないのはいささか早計である。
道を進むと、一際大きな岩が行き止まりにある。
その上には、ぎらりと燃えるように煌く宝石の、丁寧に嵌め込まれた指輪が鎮座していた。
514: 2017/01/26(木) 21:12:15.20 ID:h9xLfnk7o
炎の名を冠するだけあって非常に美しい。
溶岩の紅い光に照らされているせいか、その朱は何よりも赤く染め上がっていた。
指輪を岩から取ると、辺りの気配が急に変わった。
ゆらゆらと蠢く溶岩の一角がやにわに激しく動き出し、寄せ集まり、あれよあれよと云う間に魔物の形を象った。
アンディがようがんげんじんだ。と叫ぶが早いか、溶岩の塊は意志をもって我々に襲い掛かった。
溶岩の紅い光に照らされているせいか、その朱は何よりも赤く染め上がっていた。
指輪を岩から取ると、辺りの気配が急に変わった。
ゆらゆらと蠢く溶岩の一角がやにわに激しく動き出し、寄せ集まり、あれよあれよと云う間に魔物の形を象った。
アンディがようがんげんじんだ。と叫ぶが早いか、溶岩の塊は意志をもって我々に襲い掛かった。
515: 2017/01/26(木) 21:13:06.03 ID:h9xLfnk7o
今までの魔物は火炎を吹くぐらいで済んでいたが、こいつらは身格好そのものが溶岩だから手に負えない。
ただ殴られるだけで大損害を被ってしまう。
それも一体だけでなく、三体でもって一斉に襲いかかってくるのだ。
さらに駄目押しと云わんばかりに一行全体にかえんのいきを吹き付けてくるからたまったものではない。
ここまででしずくを垂らし続けていたゴルキがとうとう青いバブルスライムになってしまった。
ただ殴られるだけで大損害を被ってしまう。
それも一体だけでなく、三体でもって一斉に襲いかかってくるのだ。
さらに駄目押しと云わんばかりに一行全体にかえんのいきを吹き付けてくるからたまったものではない。
ここまででしずくを垂らし続けていたゴルキがとうとう青いバブルスライムになってしまった。
516: 2017/01/26(木) 21:13:35.99 ID:h9xLfnk7o
しかしピエールの機敏な判断力が即座に攻撃をベホマに切り替える。
どうにかゴルキは元の原形を留めた。
見た目は攻撃偏重の騎士に見えて回復呪文を一通り使え、その上臨機応変に状況を看破できるあたり並みの騎士ではない。
もしかすると中には小さいおっさんでも入っているのかも知れない。
だとするとさっき鎧を脱ぐことを拒んでいたのも頷ける。
どうにかゴルキは元の原形を留めた。
見た目は攻撃偏重の騎士に見えて回復呪文を一通り使え、その上臨機応変に状況を看破できるあたり並みの騎士ではない。
もしかすると中には小さいおっさんでも入っているのかも知れない。
だとするとさっき鎧を脱ぐことを拒んでいたのも頷ける。
517: 2017/01/26(木) 21:14:16.61 ID:h9xLfnk7o
敵の頭数と手数に文字通り手を焼いていると、ゴルキが唐突にメダパニを仕掛けた。
すると向こうはすっかり混乱して同士討ちを始めた。
溶岩に意志が宿った程度の知能では、呪文で少し攪乱してやるだけで簡単に意識の統合が崩れるんだろう。
今が絶好の機会である。
すると向こうはすっかり混乱して同士討ちを始めた。
溶岩に意志が宿った程度の知能では、呪文で少し攪乱してやるだけで簡単に意識の統合が崩れるんだろう。
今が絶好の機会である。
518: 2017/01/26(木) 21:15:18.82 ID:h9xLfnk7o
勝機、と叫んで父の剣を振り下ろせば、どうにか一体を元の溶岩の形に返した。
そうして奴らの本陣に踏み行った時、折悪くも奴らの混乱が解けた。
しまった。と振り返ったときには、二つの赤い岩漿が波となって私に襲いかかっていた。
そうして奴らの本陣に踏み行った時、折悪くも奴らの混乱が解けた。
しまった。と振り返ったときには、二つの赤い岩漿が波となって私に襲いかかっていた。
519: 2017/01/26(木) 21:15:46.39 ID:h9xLfnk7o
初めに聞こえたのは悲鳴だった。
目を開けると、私に覆い被さるようにしてローブを羽織った青年が立ちはだかり、押し寄せるマグマから私を守っていた。
ゲレゲレとゴルキがようがんげんじんを攻撃して追いやり、ピエールがアンディに呪文をかけ続けている。
私は棒立ちになったアンディを抱えて後ろへ退がった。
背中の火傷は酷いが、息は辛うじてあった。
目を開けると、私に覆い被さるようにしてローブを羽織った青年が立ちはだかり、押し寄せるマグマから私を守っていた。
ゲレゲレとゴルキがようがんげんじんを攻撃して追いやり、ピエールがアンディに呪文をかけ続けている。
私は棒立ちになったアンディを抱えて後ろへ退がった。
背中の火傷は酷いが、息は辛うじてあった。
520: 2017/01/26(木) 21:16:23.04 ID:h9xLfnk7o
貴重なヒャド要員が居なくなったことで戦力低下が著しいが、向こうも数が減ったので大いにやりやすくなった。
いきをためたゲレゲレの会心の一撃で、残る片方を倒した。後は一匹だけだ。
すると四五対一となって不利と見たのか、奴が逃げる機会を窺い始めた。
当然アンディの仇であるから逃さぬ。
イオだのバギだので追い立てて弱らせ、とどめの一撃を脳天にくれてやった。
いきをためたゲレゲレの会心の一撃で、残る片方を倒した。後は一匹だけだ。
すると四五対一となって不利と見たのか、奴が逃げる機会を窺い始めた。
当然アンディの仇であるから逃さぬ。
イオだのバギだので追い立てて弱らせ、とどめの一撃を脳天にくれてやった。
521: 2017/01/26(木) 21:17:29.59 ID:h9xLfnk7o
そうして振り下ろした剣はしかし、波立つ溶岩にさくりと突き立つだけにとどまった。どうやらうまく逃げおおせたらしい。
辺りを見渡すが、どこもかしこもラヴァがぐつぐつ煮えたぎっているだけでまるで分からない。
ぐるぐる首を回していると、どこか胸のざわめきを感じて、後ろを振り返った。
するとそこには、倒れたアンディに再び襲いかからんとする氏に損ないのげんじんの姿があった。
辺りを見渡すが、どこもかしこもラヴァがぐつぐつ煮えたぎっているだけでまるで分からない。
ぐるぐる首を回していると、どこか胸のざわめきを感じて、後ろを振り返った。
するとそこには、倒れたアンディに再び襲いかからんとする氏に損ないのげんじんの姿があった。
522: 2017/01/26(木) 21:18:03.27 ID:h9xLfnk7o
仲間に呼びかける猶予もない。
疾風の如く駆け込み、ようがんげんじんとアンディの間に割って入った。
攻撃を仕掛けたげんじんの腕が私へ襲いかかる。
煮えたぎる赤い腕を、私は生身の左腕で受け止めた。辺りに肉の焼ける嫌な臭いが漂う。
感覚は一瞬にして途切れ、痛みが脳髄を駆ける。が、構わなかった。
残る右腕に握った父の剣を、化け物の口へ鋭く突き込み、退魔の力を体内へ直接叩き込んだ。
魔物は悲鳴を上げる間もなく、元の赤い液体へ姿を戻した。
疾風の如く駆け込み、ようがんげんじんとアンディの間に割って入った。
攻撃を仕掛けたげんじんの腕が私へ襲いかかる。
煮えたぎる赤い腕を、私は生身の左腕で受け止めた。辺りに肉の焼ける嫌な臭いが漂う。
感覚は一瞬にして途切れ、痛みが脳髄を駆ける。が、構わなかった。
残る右腕に握った父の剣を、化け物の口へ鋭く突き込み、退魔の力を体内へ直接叩き込んだ。
魔物は悲鳴を上げる間もなく、元の赤い液体へ姿を戻した。
523: 2017/01/26(木) 21:19:11.94 ID:h9xLfnk7o
急いでベホイミをかけるが、やはり完全に治癒のできる怪我ではない。
後ろを振り返ると、目を丸くしたアンディと、急いで駆け寄ってくる仲間の姿があった。
強敵を倒した達成感と、仲間の内一人も欠けずに済んだ安堵感で胸が一杯になった。
そうして体力と魔力をすっかり使い果たして疲労極まる私は、その場にどたりと倒れ伏した。
後ろを振り返ると、目を丸くしたアンディと、急いで駆け寄ってくる仲間の姿があった。
強敵を倒した達成感と、仲間の内一人も欠けずに済んだ安堵感で胸が一杯になった。
そうして体力と魔力をすっかり使い果たして疲労極まる私は、その場にどたりと倒れ伏した。
528: 2017/01/27(金) 20:10:47.67 ID:/Tu6dGYZo
気がつけば、見知らぬ民家のベッドに寝ていた。
起きあがると、隣のベッドには包帯で雁字搦めになったアンディがいる。
火傷の箇所が箇所だから、うつ伏せで背中を天に向けている。至極居づらそうだ。
ふと気付くと私の左腕にも包帯がぐるりと巻かれていた。
誰がこんな手厚い看護をしてくれたのだろうと思うと、民家の階段から足音が聞こえる。
見れば我々が火山に赴いた目的である、清楚な青髪の乙女が盆を持って上がってきていた。
起きあがると、隣のベッドには包帯で雁字搦めになったアンディがいる。
火傷の箇所が箇所だから、うつ伏せで背中を天に向けている。至極居づらそうだ。
ふと気付くと私の左腕にも包帯がぐるりと巻かれていた。
誰がこんな手厚い看護をしてくれたのだろうと思うと、民家の階段から足音が聞こえる。
見れば我々が火山に赴いた目的である、清楚な青髪の乙女が盆を持って上がってきていた。
529: 2017/01/27(金) 20:11:16.56 ID:/Tu6dGYZo
「あら。もうお目覚めになりましたの。お怪我のほうはいかがですか」
「ええ、まあ」
包帯に巻かれて病状が見えないのだからこう答えるほか仕様がない。
フローラは「包帯をお取り替えしますね」と云って私の腕の包帯を解く。
修道院で習ったのか、随分慣れた手つきであった。
痛くありませんか、と云って水晶玉のような目を私の瞳へ真向かいに差し込む。
私はひどくへどもどしつつ「はい」と云った。
この様子ではもし結婚できたとしても指一本触れられんだろう。
「ええ、まあ」
包帯に巻かれて病状が見えないのだからこう答えるほか仕様がない。
フローラは「包帯をお取り替えしますね」と云って私の腕の包帯を解く。
修道院で習ったのか、随分慣れた手つきであった。
痛くありませんか、と云って水晶玉のような目を私の瞳へ真向かいに差し込む。
私はひどくへどもどしつつ「はい」と云った。
この様子ではもし結婚できたとしても指一本触れられんだろう。
530: 2017/01/27(金) 20:11:57.46 ID:/Tu6dGYZo
火傷の方は幸い大きく爛れずに済んだようで、小さく走るように痕が残っている他は赤く腫れているだけのようだ。
フローラが「あら、昨日見たときはもっと酷かったのに、もうここまで治ってらしたのね」と驚いている。
なんのことはない。これくらいのことは茶飯事だ。
「一晩寝れば大抵の傷は治りますよ」と云ってやったら、「そうなんですの」と妙な顔をしている。
大方フローラは魔物と剣戟を交え、怪我をして宿屋に泊まると云った冒険者様の旅をしたことがないから、若い男の回復力を知らないんだろう。
フローラが「あら、昨日見たときはもっと酷かったのに、もうここまで治ってらしたのね」と驚いている。
なんのことはない。これくらいのことは茶飯事だ。
「一晩寝れば大抵の傷は治りますよ」と云ってやったら、「そうなんですの」と妙な顔をしている。
大方フローラは魔物と剣戟を交え、怪我をして宿屋に泊まると云った冒険者様の旅をしたことがないから、若い男の回復力を知らないんだろう。
531: 2017/01/27(金) 20:12:23.86 ID:/Tu6dGYZo
フローラが患部に湿布を貼ってくれた。儀礼でもかけたのかすごく効いた。
アンディなんかは背中全体にそれを貼られるものだから、火傷が痛いのと癒える感覚が痒いのとでうぐぐと妙な呻きをあげていた。
大変な冒険の後なんですから、ゆっくり療養して行って下さいと云い残して、フローラは去っていった。
その際見せた爛漫な笑顔で心が暖かくなったが、うつ伏せのアンディがそれを見逃したのは気の毒だった。
アンディなんかは背中全体にそれを貼られるものだから、火傷が痛いのと癒える感覚が痒いのとでうぐぐと妙な呻きをあげていた。
大変な冒険の後なんですから、ゆっくり療養して行って下さいと云い残して、フローラは去っていった。
その際見せた爛漫な笑顔で心が暖かくなったが、うつ伏せのアンディがそれを見逃したのは気の毒だった。
532: 2017/01/27(金) 20:13:09.32 ID:/Tu6dGYZo
しばらくベッドでのつそつとしていると、アンディが私に声をかけた。
「先だっては助けてくれてありがとうございます」
「なに、ありがとうはこっちの言葉だ。君が私を庇ってくれなかったら、私のそれもなかったんだから」
「けれども僕はただ徒に怪我をしただけで、あなたは怪我を最小限に抑えたばかりか魔物まで退治したじゃありませんか。あなたの方が功績が大きいに極まっています」
「そう無暗に誉めてもらっても困るな。いずれにせよ我々は互いに助け合った仲だ。もう借りも貸しもなし。一件落着。それで好いじゃないか」
「そうなんですが……」
そう云ってアンディは枕に顔を埋めた。何か云いたそうにしている。
少しして、アンディが「考えたんですが」と切り出した。私は首をそちらへ傾けた。
「フローラのことをあなたに任せようかと思っているんです」
「先だっては助けてくれてありがとうございます」
「なに、ありがとうはこっちの言葉だ。君が私を庇ってくれなかったら、私のそれもなかったんだから」
「けれども僕はただ徒に怪我をしただけで、あなたは怪我を最小限に抑えたばかりか魔物まで退治したじゃありませんか。あなたの方が功績が大きいに極まっています」
「そう無暗に誉めてもらっても困るな。いずれにせよ我々は互いに助け合った仲だ。もう借りも貸しもなし。一件落着。それで好いじゃないか」
「そうなんですが……」
そう云ってアンディは枕に顔を埋めた。何か云いたそうにしている。
少しして、アンディが「考えたんですが」と切り出した。私は首をそちらへ傾けた。
「フローラのことをあなたに任せようかと思っているんです」
533: 2017/01/27(金) 20:13:35.01 ID:/Tu6dGYZo
一瞬彼が何を云っているのか分からなかった。聞き返す前に、アンディは先を続けていた。
「昨日フローラが訪ねてきました。傷ついた僕らの手当をしてくれるというのです。
おそらく優しい気性から責任を感じて看護をしてくれるのでしょう。その思いやりで僕は胸を一杯にしました。
彼女が階下から上がってくる音を耳にしながら、僕は胸の高鳴りをどうしても抑え切れませんでした。
そうして彼女が僕の傍らに来たとき、僕は自分の意志で瞼をあげる勇気を欠きました。
甘えたことに、彼女に起こしてもらおうとさえ思ったのです。
「昨日フローラが訪ねてきました。傷ついた僕らの手当をしてくれるというのです。
おそらく優しい気性から責任を感じて看護をしてくれるのでしょう。その思いやりで僕は胸を一杯にしました。
彼女が階下から上がってくる音を耳にしながら、僕は胸の高鳴りをどうしても抑え切れませんでした。
そうして彼女が僕の傍らに来たとき、僕は自分の意志で瞼をあげる勇気を欠きました。
甘えたことに、彼女に起こしてもらおうとさえ思ったのです。
534: 2017/01/27(金) 20:14:39.19 ID:/Tu6dGYZo
しかし僕のすぐ近くまで来たはずの彼女は、しばらくしてそこを離れてどこかへ行ってしまいました。
僕は驚いて目を開けました。これは勇気ではありません。失望からくる激情の欠片が吹き出たものと見ていいでしょう。
そうして僕の目に飛び込んできたのは、信じられない――あるいは、信じたくなかった、予想できた現実でした。
フローラが、寝ているあなたの額にキスをしたのです。
僕は驚いて目を開けました。これは勇気ではありません。失望からくる激情の欠片が吹き出たものと見ていいでしょう。
そうして僕の目に飛び込んできたのは、信じられない――あるいは、信じたくなかった、予想できた現実でした。
フローラが、寝ているあなたの額にキスをしたのです。
535: 2017/01/27(金) 20:15:08.35 ID:/Tu6dGYZo
僕はその時失望こそしたものの、絶望までは至りませんでした。
何しろ氏の火山であなたに助けてもらったとき、心の隅でフローラをあなたに任せても好いではないのかとさえ思っていたのですから。
けれども心がそうして冷静な分別を付けていてもなお、体の方はもっと直情的でした。
火傷にも勝る灼熱の感覚が体中を巡り、そして今度は、逆に僕の体を一切凍結でき得るほどに冷え固まりました。
何しろ氏の火山であなたに助けてもらったとき、心の隅でフローラをあなたに任せても好いではないのかとさえ思っていたのですから。
けれども心がそうして冷静な分別を付けていてもなお、体の方はもっと直情的でした。
火傷にも勝る灼熱の感覚が体中を巡り、そして今度は、逆に僕の体を一切凍結でき得るほどに冷え固まりました。
536: 2017/01/27(金) 20:15:49.38 ID:/Tu6dGYZo
指一つ動かせない私は、フローラがあなたを揺り起こそうとしているのに気がつきました。
やがてあなたが起きる気配がないのを悟った彼女が、諦めてこちらへ向かってくる気配も感じました。
私は慌てて目を閉じました。
この時の僕の考えといったら、誰が聞いてもきっと鼻で笑うでしょう。
眠っている僕の額に、彼女が公平を期してキスをしてくれるのではないかと期待したのです。
ですが僕にとっては残念なことに、期待は外れました。
彼女は寝ている僕になんのアクションも起こさず、ただ丁寧に揺り起こしただけでした。
その時の彼女の手つきが妙に優しかったのを、今でも覚えています。
やがてあなたが起きる気配がないのを悟った彼女が、諦めてこちらへ向かってくる気配も感じました。
私は慌てて目を閉じました。
この時の僕の考えといったら、誰が聞いてもきっと鼻で笑うでしょう。
眠っている僕の額に、彼女が公平を期してキスをしてくれるのではないかと期待したのです。
ですが僕にとっては残念なことに、期待は外れました。
彼女は寝ている僕になんのアクションも起こさず、ただ丁寧に揺り起こしただけでした。
その時の彼女の手つきが妙に優しかったのを、今でも覚えています。
537: 2017/01/27(金) 20:16:15.71 ID:/Tu6dGYZo
自然を装って僕は起きあがりました。彼女の手当を受けている間、僕の胸中では今の出来事がとぐろを巻いていました。
彼女に問うかどうか迷いました。
ただ、そうすることは彼女の誰にも見せないはずの深奥のなにがしかを暴き晒すことに繋がるようで躊躇しました。
結果を云えば、僕はついぞ黙っていました。
けれどもその理由は初めとは違いました。自身が傷つくのを恐れるのではなく、彼女が傷つくのを憐れんだためです。
彼女に問うかどうか迷いました。
ただ、そうすることは彼女の誰にも見せないはずの深奥のなにがしかを暴き晒すことに繋がるようで躊躇しました。
結果を云えば、僕はついぞ黙っていました。
けれどもその理由は初めとは違いました。自身が傷つくのを恐れるのではなく、彼女が傷つくのを憐れんだためです。
538: 2017/01/27(金) 20:16:59.10 ID:/Tu6dGYZo
彼女からはっきりとした言葉が出たわけではありません。
しかし彼女があなたを見つめる時の瞳の輝きを見れば、誰だってこの結果に至るに違いありません。
彼女が僕をみる目線は確かに慈愛に満ちていたけれども、それは愛の内でもフィーリアに属するものでした。
対してあなたを見る目は情愛に満ちた熱い眼差しです。
この彼女が被写体によって変える態度の相違が僕らとあなたとの間にあるのです。
僕は彼女が好きですから分かります。彼女はきっとあなたが好きなのです。
あなたの瞳の奥に光る情熱をもって、彼女を愛してあげてください」
しかし彼女があなたを見つめる時の瞳の輝きを見れば、誰だってこの結果に至るに違いありません。
彼女が僕をみる目線は確かに慈愛に満ちていたけれども、それは愛の内でもフィーリアに属するものでした。
対してあなたを見る目は情愛に満ちた熱い眼差しです。
この彼女が被写体によって変える態度の相違が僕らとあなたとの間にあるのです。
僕は彼女が好きですから分かります。彼女はきっとあなたが好きなのです。
あなたの瞳の奥に光る情熱をもって、彼女を愛してあげてください」
539: 2017/01/27(金) 20:19:11.48 ID:/Tu6dGYZo
私はアンディの云ったことを全て鵜呑みにはしなかった。
主観で語られる物語は得てして語り手の思いこみや勘違いが含まれるものだ。
冒険の興奮や活躍の機会を失った落胆に惑っているだけだろう。
けれども、彼の語り口には異様な生気が宿っていて、真に迫る勢いがあった。
もし彼が間違いを犯しているのなら正そう。
しかし彼が正しければ、私はそれを甘んじて受け入れよう。
明日になったら、フローラから直接聞いてみることにしよう。
主観で語られる物語は得てして語り手の思いこみや勘違いが含まれるものだ。
冒険の興奮や活躍の機会を失った落胆に惑っているだけだろう。
けれども、彼の語り口には異様な生気が宿っていて、真に迫る勢いがあった。
もし彼が間違いを犯しているのなら正そう。
しかし彼が正しければ、私はそれを甘んじて受け入れよう。
明日になったら、フローラから直接聞いてみることにしよう。
540: 2017/01/27(金) 20:20:56.55 ID:/Tu6dGYZo
翌朝になって火傷の治療が終わった。体調の方もすっかり全快だ。
少々痕が残ったが、男にとってはむしろ勲章のようなものだからこれはこれで構わない。
しかし気にかかるのは彼女の姉の方で、デボラは見舞いに来ないのかと訊いた。
するとフローラは訳あり気な顔で一昨日にもう来ましたよと答える。
その時は私は寝ていたろう。起きた昨日今日は来ないのかと訊くと、だんだん訳を話し始めた。
少々痕が残ったが、男にとってはむしろ勲章のようなものだからこれはこれで構わない。
しかし気にかかるのは彼女の姉の方で、デボラは見舞いに来ないのかと訊いた。
するとフローラは訳あり気な顔で一昨日にもう来ましたよと答える。
その時は私は寝ていたろう。起きた昨日今日は来ないのかと訊くと、だんだん訳を話し始めた。
541: 2017/01/27(金) 20:22:10.88 ID:/Tu6dGYZo
何でも一昨日は、フローラが治療を終えた後はずっと私の傍についていたらしい。
が、私が意識を取り戻す様子を見せた途端さっと逃げるように帰ったんだとか。
それでは見舞いの意味がなかろうと云うと、きっと彼女は見舞いには往きたいが、あなたと顔を合わせるのが恥ずかしいんでしょうと推察がされた。妙な所で照れる奴だ。
けれどもフローラに輪をかけて私を心配していたらしいから、存外人間味はある。
が、私が意識を取り戻す様子を見せた途端さっと逃げるように帰ったんだとか。
それでは見舞いの意味がなかろうと云うと、きっと彼女は見舞いには往きたいが、あなたと顔を合わせるのが恥ずかしいんでしょうと推察がされた。妙な所で照れる奴だ。
けれどもフローラに輪をかけて私を心配していたらしいから、存外人間味はある。
542: 2017/01/27(金) 20:23:00.91 ID:/Tu6dGYZo
アンディのご両親に礼を云うと、いえいえむしろこちらがとアンディの肉親だけあって謙虚だ。
そしてフローラさんは好い娘じゃのうと誉める傍ら、デボラに対してはあの娘は蛇じゃと文字通り蛇蝎の如く嫌っている。
どうもデボラはアンディに対しては凡百の夫に対する如く刺々しい態度を呈していたらしい。
重傷のアンディに冷たくして軽傷の私を心配するとは道理が顛倒しているが、あのお転婆の心情を解析するのは心理学者でも難儀しそうだから、考えるのは棄した。
そしてフローラさんは好い娘じゃのうと誉める傍ら、デボラに対してはあの娘は蛇じゃと文字通り蛇蝎の如く嫌っている。
どうもデボラはアンディに対しては凡百の夫に対する如く刺々しい態度を呈していたらしい。
重傷のアンディに冷たくして軽傷の私を心配するとは道理が顛倒しているが、あのお転婆の心情を解析するのは心理学者でも難儀しそうだから、考えるのは棄した。
543: 2017/01/27(金) 20:23:57.58 ID:/Tu6dGYZo
ルドマン邸へ向かう道すがら、フローラに不意打ちをかけてみた。
「フローラさん」
「はい」
青い髪がこちらを振り返る。朝日に透き通って端々が宝石のように光っている。
「あなたは私のことが好きですか」
この問いをぶつけられたとき、彼女は例の水晶玉のような瞳をこちらへ向けた。そして、
「あなたの方こそどうですか」
と丁寧に投げ返した。
「フローラさん」
「はい」
青い髪がこちらを振り返る。朝日に透き通って端々が宝石のように光っている。
「あなたは私のことが好きですか」
この問いをぶつけられたとき、彼女は例の水晶玉のような瞳をこちらへ向けた。そして、
「あなたの方こそどうですか」
と丁寧に投げ返した。
544: 2017/01/27(金) 20:25:12.60 ID:/Tu6dGYZo
私はこの答えに窮した。
確かに私は以前彼女に恋心を持った。しかしそれはつい数日前のことである。
ただ一緒になれれば好いと云ったぐらいの軽い羨望で、一生愛し続けこの身を捧げても構わないと断言できるほど熟成された気持ちが確かにあるわけではない。
無論彼女がそういった重い意味をこの言葉に含めたという証拠もない。
ただ好意的気に思っているかどうかを気軽に尋ねただけなのかもしれない。
しかしこうして一度推理が迷宮を彷徨い始めたら止まらない。
失言一つも許されないと云った緊張感が胸の奥からせり上げて、私の喉をいやと云うほど圧迫した。
確かに私は以前彼女に恋心を持った。しかしそれはつい数日前のことである。
ただ一緒になれれば好いと云ったぐらいの軽い羨望で、一生愛し続けこの身を捧げても構わないと断言できるほど熟成された気持ちが確かにあるわけではない。
無論彼女がそういった重い意味をこの言葉に含めたという証拠もない。
ただ好意的気に思っているかどうかを気軽に尋ねただけなのかもしれない。
しかしこうして一度推理が迷宮を彷徨い始めたら止まらない。
失言一つも許されないと云った緊張感が胸の奥からせり上げて、私の喉をいやと云うほど圧迫した。
545: 2017/01/27(金) 20:25:41.31 ID:/Tu6dGYZo
黙りこくる私を見る彼女の瞳が次第に潤んでくる。
そして涙に光る目をまっすぐに私に向けて、
「私はあなたのことが好きです。あなたは私のことをどうお思いですか」
と再度尋ねた。
私ははっとした。彼女の口調、そぶり、眼に浮かんだ情愛は、決して生易しいものではなかった。
ただ一心に相手を思うひたむきな愛の心があった。
そして涙に光る目をまっすぐに私に向けて、
「私はあなたのことが好きです。あなたは私のことをどうお思いですか」
と再度尋ねた。
私ははっとした。彼女の口調、そぶり、眼に浮かんだ情愛は、決して生易しいものではなかった。
ただ一心に相手を思うひたむきな愛の心があった。
546: 2017/01/27(金) 20:26:34.71 ID:/Tu6dGYZo
彼女の目に胸を打たれた私は、「無論好きに極まっています。好きでなくて誰があんな火山へ赴きますか」と云った。
フローラはそれを聞いて安心したのか、ほっと息をついた。
そして、「好かったわ。……本当に、好かった」と云って私の手を取った。
「海をも恐れぬ優しい人、おかえりなさい」
私はさらに心を打たれた。彼女はかれこれ十年以上前から私のことを想っていたに違いない。
そして今、二人は互いを認め合った。
彼女にとってこれ以上の幸せがあるだろうか。
フローラはそれを聞いて安心したのか、ほっと息をついた。
そして、「好かったわ。……本当に、好かった」と云って私の手を取った。
「海をも恐れぬ優しい人、おかえりなさい」
私はさらに心を打たれた。彼女はかれこれ十年以上前から私のことを想っていたに違いない。
そして今、二人は互いを認め合った。
彼女にとってこれ以上の幸せがあるだろうか。
547: 2017/01/27(金) 20:27:48.79 ID:/Tu6dGYZo
屋敷へ入ると、フローラは部屋へ引き下がった。
彼女の眦に微かに見える光は嬉しさのあまりのものか。
見送る細い背中には、隠しきれない幸福の兆しがあった。
彼女の眦に微かに見える光は嬉しさのあまりのものか。
見送る細い背中には、隠しきれない幸福の兆しがあった。
548: 2017/01/27(金) 20:28:22.59 ID:/Tu6dGYZo
ルドマンに会うと、おお君は、さすがだよ君は見込んだ通りだと大将喜色満面だ。
見込むも何も会ってすらいないじゃないか。まるで軟派だ。
将来の義子候補に下手な挨拶だなと思ったが、社交辞令だろうから曖昧に頷いておいた。
見込むも何も会ってすらいないじゃないか。まるで軟派だ。
将来の義子候補に下手な挨拶だなと思ったが、社交辞令だろうから曖昧に頷いておいた。
549: 2017/01/27(金) 20:29:00.97 ID:/Tu6dGYZo
まま、座りたまえと勧めるので、何人掛けか知れないがいやに大きなソファに座ると、掛けた尻が大変な勢いで沈み込むので内心大いに焦った。
座面の裏打ちを忘れたのかと思えば、ただ上等で柔らかいだけのようだ。心持ちは好いが、やりにくくって仕様がない。
するとルドマンが手を打って下女を呼んだ。メードが見覚えのあるポットでお茶を淹れる。
少しくひやりとしたが、今度は普通のお茶だから安心した。
普通と云っても並ではない上等な茶だ。
思わず一口で飲みきってしまうと、君よほどお茶が好きと見えるねと云われた。
今度は嘘偽りなくはい、と答えた。
座面の裏打ちを忘れたのかと思えば、ただ上等で柔らかいだけのようだ。心持ちは好いが、やりにくくって仕様がない。
するとルドマンが手を打って下女を呼んだ。メードが見覚えのあるポットでお茶を淹れる。
少しくひやりとしたが、今度は普通のお茶だから安心した。
普通と云っても並ではない上等な茶だ。
思わず一口で飲みきってしまうと、君よほどお茶が好きと見えるねと云われた。
今度は嘘偽りなくはい、と答えた。
550: 2017/01/27(金) 20:29:32.54 ID:/Tu6dGYZo
「さて水のリングの件だがね、実はその行方は誰も知らないのだ。
しかし炎のリングが火山にあった以上水のリングも水に縁するところにあるのだろう。例えば滝、とか……
ともかく水に関するところへ赴くのに、船がなければ話にならない。
無論君のような冒険者が船を持っているとは思わないが、炎のリングを手に入れた君には特別に貸してやっても好い。
フローラの婿になればどちらにせよ譲る予定だからその前貸しと思って構わない。
ともかくそれでもって水のリングを探したまえ。船員はつけておくから、気兼ねなく使いたまえ」
そう云って紙に何やらさらさらとサインをして渡してきた。「マール・デ・ドラゴーン号譲渡書」とある。
丁寧に丸めて、ありがとうございますと云って邸宅を出た。
しかし炎のリングが火山にあった以上水のリングも水に縁するところにあるのだろう。例えば滝、とか……
ともかく水に関するところへ赴くのに、船がなければ話にならない。
無論君のような冒険者が船を持っているとは思わないが、炎のリングを手に入れた君には特別に貸してやっても好い。
フローラの婿になればどちらにせよ譲る予定だからその前貸しと思って構わない。
ともかくそれでもって水のリングを探したまえ。船員はつけておくから、気兼ねなく使いたまえ」
そう云って紙に何やらさらさらとサインをして渡してきた。「マール・デ・ドラゴーン号譲渡書」とある。
丁寧に丸めて、ありがとうございますと云って邸宅を出た。
551: 2017/01/27(金) 20:30:09.47 ID:/Tu6dGYZo
船を自由に使って好いというのは富豪らしく太っ腹だが、いざそこに向かうと何のことはない、川に小さな帆船が浮かべてあるだけである。
それも橋に邪魔されて外海に出ることができない。とんだ川の中の蛙があったものだ。
海に出てそのまま持ち逃げをされるのを見越したんだろうが、こう行動範囲が狭いと行く当てがすぐになくなりそうだ。
それも橋に邪魔されて外海に出ることができない。とんだ川の中の蛙があったものだ。
海に出てそのまま持ち逃げをされるのを見越したんだろうが、こう行動範囲が狭いと行く当てがすぐになくなりそうだ。
552: 2017/01/27(金) 20:31:45.56 ID:/Tu6dGYZo
八
いざ出発してみると、なんと川には水門があって行く手が遮られている。
近くの看板には「用無き者無暗に開けるべからず。用あらば北東の山村にて鍵を渡し候」と書かれている。
おやおやと思った。これではこんな狭い川へ浮かべられた船だって不憫で仕様がない。
いざ出発してみると、なんと川には水門があって行く手が遮られている。
近くの看板には「用無き者無暗に開けるべからず。用あらば北東の山村にて鍵を渡し候」と書かれている。
おやおやと思った。これではこんな狭い川へ浮かべられた船だって不憫で仕様がない。
553: 2017/01/27(金) 20:32:33.15 ID:/Tu6dGYZo
仕方がないから北東にある村へ向かってみると、これが南瓜村に勝るとも劣らない田舎の村である。
水門の鍵を取りに来ただけだからここの暮らしぶりはどうでも好いが、キラーパンサーに荒らされているわけでもなくそれなりに裕福なようだ。
町を歩く村民に話しかけるとはい、何ぞなもしとここでも菜飯を頬張っている。
水門の鍵を取りに来ただけだからここの暮らしぶりはどうでも好いが、キラーパンサーに荒らされているわけでもなくそれなりに裕福なようだ。
町を歩く村民に話しかけるとはい、何ぞなもしとここでも菜飯を頬張っている。
554: 2017/01/27(金) 20:34:05.39 ID:/Tu6dGYZo
少し狼狽したが、我慢して、水門の鍵は誰が持ってますかねと訊けば、さあ、村の人間に訊けば宜しゅうがなもしと云う。
お前は村の人間ではないのか。だったら紛らわしい格好をするな。大体その温い言葉遣いは全体なんのつもりだ。
思わず口にしそうだったが堪えて、どうも難有うと挨拶もそこそこに立ち去った。
まあ村長あたりに訊けば大抵分かるだろうから、あんな農民にかけてやる気遣いもない。
内心でちょっと腹を立てながら村で一番大きい家へ向かった。
お前は村の人間ではないのか。だったら紛らわしい格好をするな。大体その温い言葉遣いは全体なんのつもりだ。
思わず口にしそうだったが堪えて、どうも難有うと挨拶もそこそこに立ち去った。
まあ村長あたりに訊けば大抵分かるだろうから、あんな農民にかけてやる気遣いもない。
内心でちょっと腹を立てながら村で一番大きい家へ向かった。
555: 2017/01/27(金) 20:34:35.75 ID:/Tu6dGYZo
道中、墓の前でやに熱心に念じている若い女が居る。
その後ろ姿にはどこか見覚えのあるものを感じたけれども、日が落ちて薄暗かったからよく分からなかった。
村長の家らしき所へ着いて戸を叩くと、顔の青い病人が出てきた。
下女でも遣わせばよかろうと思ったが、もう田舎者に関わるのは飽き飽きしていたので、水門の鍵を貸してもらいたいんですがねと単簡に済ました。
すると向こうはぼけっとこちらを見ているだけで何も返事をしない。
そろそろ厭になってきた。どうもルドマン邸やラインハット城の方が肌に合う気がする。
辟易して眺め返していると、その男は青かった顔を一挙に紅潮させて、「あんたは、パパスの息子さんじゃないか」と叫んだ。
その後ろ姿にはどこか見覚えのあるものを感じたけれども、日が落ちて薄暗かったからよく分からなかった。
村長の家らしき所へ着いて戸を叩くと、顔の青い病人が出てきた。
下女でも遣わせばよかろうと思ったが、もう田舎者に関わるのは飽き飽きしていたので、水門の鍵を貸してもらいたいんですがねと単簡に済ました。
すると向こうはぼけっとこちらを見ているだけで何も返事をしない。
そろそろ厭になってきた。どうもルドマン邸やラインハット城の方が肌に合う気がする。
辟易して眺め返していると、その男は青かった顔を一挙に紅潮させて、「あんたは、パパスの息子さんじゃないか」と叫んだ。
556: 2017/01/27(金) 20:35:24.32 ID:/Tu6dGYZo
こんな山奥の村で父の名を聞くことになろうとは思わなかった。
はあそうですと間抜けな返答になったが、相手は構わずお前さんが生きていて何よりだと感涙している。
簡潔に話を聞いてみれば、なんとこの病人はアルカパで宿を経営していたダンカンである。
海を渡って療養していると聞いたが、まさかこんな辺鄙な村にいようとは。
はあそうですと間抜けな返答になったが、相手は構わずお前さんが生きていて何よりだと感涙している。
簡潔に話を聞いてみれば、なんとこの病人はアルカパで宿を経営していたダンカンである。
海を渡って療養していると聞いたが、まさかこんな辺鄙な村にいようとは。
557: 2017/01/27(金) 20:36:39.30 ID:/Tu6dGYZo
初めは興奮していたダンカンも、父の訃報を聞いて残念そうな顔を浮かべた。
何しろ仲良く風邪を移しあった仲だからその悲しみも相当だろう。
それでも私と会えたことが余程嬉しいようで、さっきより大分顔色が優れていた。
中でお茶でもと云うのでありがたく頂戴することにした。その時、背後のドアが無造作に開け放たれた。
戸口には、墓参していた金髪の女が立っていた。
何しろ仲良く風邪を移しあった仲だからその悲しみも相当だろう。
それでも私と会えたことが余程嬉しいようで、さっきより大分顔色が優れていた。
中でお茶でもと云うのでありがたく頂戴することにした。その時、背後のドアが無造作に開け放たれた。
戸口には、墓参していた金髪の女が立っていた。
558: 2017/01/27(金) 20:37:57.81 ID:/Tu6dGYZo
我々は互いの顔を見合わせたまま固まった。
そうして互いの瞳に映る自分さえ認識できるほどまじまじと見つめた後、二人同時に口を開いた。
それぞれの口からそれぞれの名前が飛び出した。
そうして互いの瞳に映る自分さえ認識できるほどまじまじと見つめた後、二人同時に口を開いた。
それぞれの口からそれぞれの名前が飛び出した。
559: 2017/01/27(金) 20:39:33.64 ID:/Tu6dGYZo
ダンカンがいるからビアンカもそうだろうと見当はつけていたが、いざ向かい合ってみるとこれが甚だ美人で一見するとそうであると分からん。
ビアンカも筋骨の発達した私の様相を見て余程驚いたらしい。
さっきからじいっと私を眺めている。少々恥ずかしい。
もっとも彼女らが驚くのも無理はない。サンタローズの興亡を聞けばその住人である私の安否がさぞ心配だったことだろう。
しかしサンタローズの復興が既に始まっていることを告げると、二人とも安堵した表情を浮かべた。
ビアンカも筋骨の発達した私の様相を見て余程驚いたらしい。
さっきからじいっと私を眺めている。少々恥ずかしい。
もっとも彼女らが驚くのも無理はない。サンタローズの興亡を聞けばその住人である私の安否がさぞ心配だったことだろう。
しかしサンタローズの復興が既に始まっていることを告げると、二人とも安堵した表情を浮かべた。
560: 2017/01/27(金) 20:40:11.40 ID:/Tu6dGYZo
ゆっくりして行けとダンカンは云うが、そうもしておれんのですと事情を話した。
フローラと結婚するために指輪を探していると云ったとき、ビアンカは目を見開いて驚いていた。
「あなたももうそんな歳なのね」
「もうかれこれ十六ちょっとだからな。ビアンカはまだ貰い手はないのか」
「うん。なんだかいまいち実感湧かなくて……」
「またどうして」
私がこの問いを投げたとき、彼女の顔に一抹の苦渋が見て取れた。
それと同時に、私に向ける目が一寸変わったのを認めた。私はこの瞳に晒されて一編の驚きを感じた。
ビアンカが目に湛えたのは、紛れもない非難の色であった。
フローラと結婚するために指輪を探していると云ったとき、ビアンカは目を見開いて驚いていた。
「あなたももうそんな歳なのね」
「もうかれこれ十六ちょっとだからな。ビアンカはまだ貰い手はないのか」
「うん。なんだかいまいち実感湧かなくて……」
「またどうして」
私がこの問いを投げたとき、彼女の顔に一抹の苦渋が見て取れた。
それと同時に、私に向ける目が一寸変わったのを認めた。私はこの瞳に晒されて一編の驚きを感じた。
ビアンカが目に湛えたのは、紛れもない非難の色であった。
561: 2017/01/27(金) 20:42:28.65 ID:/Tu6dGYZo
あれこれと話す内に日が落ちた。ビアンカが夕飯の用意をしてくれたが、これがすばらしい出来であった。
サラボナの飯もまずくはなかったが、これはそれに輪を掛けてうまい。天にも昇る味とはまさにこれである。
飯はこの通り最上であった上に、なんとこの村には温泉まである。
なるほどただ田舎に引っ込んでいるよりも湯治を併合すればさぞ健康に好かろう。
未だに完治はしないようだが、このご時世であれだけ動ける辺り少なからず効果はあったのだろう。
サラボナの飯もまずくはなかったが、これはそれに輪を掛けてうまい。天にも昇る味とはまさにこれである。
飯はこの通り最上であった上に、なんとこの村には温泉まである。
なるほどただ田舎に引っ込んでいるよりも湯治を併合すればさぞ健康に好かろう。
未だに完治はしないようだが、このご時世であれだけ動ける辺り少なからず効果はあったのだろう。
562: 2017/01/27(金) 20:43:38.64 ID:/Tu6dGYZo
これだけ効能のある温泉であれば入らない方が損だ。案内してもらって宿屋へ赴いた。
ビアンカは宿屋を通るのが面倒だと云っているが、元来宿と温泉は一繋ぎになるのが命運であるからこれは当然の帰結だろう。
番台の婆さんに金を払うと、あら、ビアンカちゃんお疲れと馴染みらしい挨拶をする。
ビアンカもにこりと笑って、おばさんもお疲れさまと云って向かいの湯の方へ消えた。
昔はお化け退治に率先して行くほどのお転婆だったのに、すっかり愛嬌の好い良い子になっている。
何だか彼女の知らない部分を見たようで、少しこそばゆい心持ちになった。
ビアンカは宿屋を通るのが面倒だと云っているが、元来宿と温泉は一繋ぎになるのが命運であるからこれは当然の帰結だろう。
番台の婆さんに金を払うと、あら、ビアンカちゃんお疲れと馴染みらしい挨拶をする。
ビアンカもにこりと笑って、おばさんもお疲れさまと云って向かいの湯の方へ消えた。
昔はお化け退治に率先して行くほどのお転婆だったのに、すっかり愛嬌の好い良い子になっている。
何だか彼女の知らない部分を見たようで、少しこそばゆい心持ちになった。
563: 2017/01/27(金) 20:44:05.25 ID:/Tu6dGYZo
温泉、と云えばその形態であるのは少なくないが、まさかここで出くわすとは思わなかった。
男湯なら遠慮もあるまいと素っ裸で戸を開けてみれば、タオルを巻いた女性等――無論この中には還暦をとうに越した婆さんも含まれる――彼女等がこちらを一斉に振り向いたには大変困った。
すわ女湯と間違えたかと引き戻れば、そもそも暖簾に例の「男」「女」の文字がない。真っ白な白地である。どうやら混浴のようだ。
なぜ脱衣所だけが分けてあるか知れないが、そうならそうと初めに云ってほしい。
白い腰巻きにして湯へ戻ると、既にビアンカが浸かっていた。
男湯なら遠慮もあるまいと素っ裸で戸を開けてみれば、タオルを巻いた女性等――無論この中には還暦をとうに越した婆さんも含まれる――彼女等がこちらを一斉に振り向いたには大変困った。
すわ女湯と間違えたかと引き戻れば、そもそも暖簾に例の「男」「女」の文字がない。真っ白な白地である。どうやら混浴のようだ。
なぜ脱衣所だけが分けてあるか知れないが、そうならそうと初めに云ってほしい。
白い腰巻きにして湯へ戻ると、既にビアンカが浸かっていた。
564: 2017/01/27(金) 20:45:01.95 ID:/Tu6dGYZo
私はすぐに戸を閉めてまた脱衣所に帰った。
何も女性等に裸を見られるのが恥ずかしいのではない。ましてや女性の裸を見るのがやましいのでもない。
単に、ビアンカと鉢合わせるのがどうしても堪えきれなかったのだ。
結局そのまましばらく何もせずにいて、元の服を着て外へ出た。
何も女性等に裸を見られるのが恥ずかしいのではない。ましてや女性の裸を見るのがやましいのでもない。
単に、ビアンカと鉢合わせるのがどうしても堪えきれなかったのだ。
結局そのまましばらく何もせずにいて、元の服を着て外へ出た。
565: 2017/01/27(金) 20:45:39.17 ID:/Tu6dGYZo
外で待っていたらビアンカが出てきた。
なぜ混浴だと教えなかったと責めたら、温泉と云えば皆この形態かと思っていたと悪びれない。
ほとほと世間知らずで困る。
しかししばらく黙然としていたら、ビアンカが実はと云って打ち明け始めた。
なぜ混浴だと教えなかったと責めたら、温泉と云えば皆この形態かと思っていたと悪びれない。
ほとほと世間知らずで困る。
しかししばらく黙然としていたら、ビアンカが実はと云って打ち明け始めた。
566: 2017/01/27(金) 20:47:11.35 ID:/Tu6dGYZo
どうやら彼女もどこか恥ずかしいものを感じて間もなく上がったらしい。おかげで体も洗えずに困ったと云う。
私は苦笑して、実はこっちも似た境遇だったとあらましを告げた。
するとビアンカはなあんだ、おかしいのと云ってころころ笑った。
結局、これじゃあ心持ちが好くないだろうと云うことで交代で入った。
勇気のない奴と嗤われるかも知れないが、結婚を控えた新郎が下手な真似をしたらどんな目で見られるか分かったものではない。
これが最善だと自分に言い聞かせた。
私は苦笑して、実はこっちも似た境遇だったとあらましを告げた。
するとビアンカはなあんだ、おかしいのと云ってころころ笑った。
結局、これじゃあ心持ちが好くないだろうと云うことで交代で入った。
勇気のない奴と嗤われるかも知れないが、結婚を控えた新郎が下手な真似をしたらどんな目で見られるか分かったものではない。
これが最善だと自分に言い聞かせた。
567: 2017/01/27(金) 20:47:40.56 ID:/Tu6dGYZo
ビアンカの家に帰って寝ていたら、何となく懐かしい香りがした。
やはり宿の経営をしていただけあって、ベッドメイキングの技術は並大抵ではない。
朝までぐっすり眠ると、これまでにないほど体調が快復した。
とことん疲れたときは、ルーラで寄って泊まらせてもらうのも好いかも知れない。
もっともフローラと結婚した後でここへ寄るのはさぞや気まずいだろうから、やっぱりやめた方がいいだろう。
やはり宿の経営をしていただけあって、ベッドメイキングの技術は並大抵ではない。
朝までぐっすり眠ると、これまでにないほど体調が快復した。
とことん疲れたときは、ルーラで寄って泊まらせてもらうのも好いかも知れない。
もっともフローラと結婚した後でここへ寄るのはさぞや気まずいだろうから、やっぱりやめた方がいいだろう。
568: 2017/01/27(金) 20:50:37.93 ID:/Tu6dGYZo
起きぬけから、空きっ腹を刺激する好い匂いがする。
顔を洗って出てみると、ビアンカがエプロンを着込んで料理をしていた。
家庭的な格好に思わず相好を崩して、似合っているじゃないかと冷かした。
ビアンカはもう、冗談云わないで待ってなさいといくらか耳を赤くしている。
待つにしてもやはり手持ち無沙汰なので、ダンカンを見舞ってやった。
昨日よりは顔色も好さそうだ。どうですかと尋ねてみれば、まあまあだよと弱々しい声が返ってきた。
顔を洗って出てみると、ビアンカがエプロンを着込んで料理をしていた。
家庭的な格好に思わず相好を崩して、似合っているじゃないかと冷かした。
ビアンカはもう、冗談云わないで待ってなさいといくらか耳を赤くしている。
待つにしてもやはり手持ち無沙汰なので、ダンカンを見舞ってやった。
昨日よりは顔色も好さそうだ。どうですかと尋ねてみれば、まあまあだよと弱々しい声が返ってきた。
569: 2017/01/27(金) 20:52:14.18 ID:/Tu6dGYZo
私は何とも云えず、ただ大事にと云った。するとダンカンが手招きをして私を呼んだ。
顔を近づけてみると、ダンカンが密やかに話を始めた。
「これはまだビアンカに云っちゃあいないんだが、実を云うとあの娘は私の子供じゃないんだよ。
昔宿の下に捨ててあるのを拾ってね……だからこそあの娘が不憫で、幸せにしたやりたいと思うんだが、この身体じゃあね。
もし君がもらってくれるのなら、これ以上のことはないと思っていたんだが……
なあ、もし好ければあの哀れな娘に、人並みの幸せをくれてやれないか」
顔を近づけてみると、ダンカンが密やかに話を始めた。
「これはまだビアンカに云っちゃあいないんだが、実を云うとあの娘は私の子供じゃないんだよ。
昔宿の下に捨ててあるのを拾ってね……だからこそあの娘が不憫で、幸せにしたやりたいと思うんだが、この身体じゃあね。
もし君がもらってくれるのなら、これ以上のことはないと思っていたんだが……
なあ、もし好ければあの哀れな娘に、人並みの幸せをくれてやれないか」
570: 2017/01/27(金) 20:53:12.12 ID:/Tu6dGYZo
今度こそ私は声を失った。
そりゃ、そんな話を聞けばどうしても貰いたいとも思うが、生憎私は婚約をしている。
ここで手のひらを返してビアンカを選ぶとなれば炎のリングを取りに行った苦労も報われないし、ルドマンに面目は立たないし、第一、フローラを裏切ることにもなる。
私はそんな不人情なことはできない。
口を開こうとしたその時、ダンカンが激しく噎せ始めた。それを聞きつけてビアンカが飛んできた。
断る機会を失った私はそっと部屋を出て扉を閉めた。
私はこの時ばかりは、自分とビアンカを会わせた天意を恨んだ。
そりゃ、そんな話を聞けばどうしても貰いたいとも思うが、生憎私は婚約をしている。
ここで手のひらを返してビアンカを選ぶとなれば炎のリングを取りに行った苦労も報われないし、ルドマンに面目は立たないし、第一、フローラを裏切ることにもなる。
私はそんな不人情なことはできない。
口を開こうとしたその時、ダンカンが激しく噎せ始めた。それを聞きつけてビアンカが飛んできた。
断る機会を失った私はそっと部屋を出て扉を閉めた。
私はこの時ばかりは、自分とビアンカを会わせた天意を恨んだ。
571: 2017/01/27(金) 20:55:22.64 ID:/Tu6dGYZo
席へ着くと、のっけから豪華な食事が運ばれてきた。
相変わらずうまいが、二度と食べる機会がないと思うと胸に鋭い痛みが走った。
私が黙々と食べていると、ビアンカがお気に召さなかった、と訊いてきた。
とんでもない。あまりうまいんで言葉が出なかったんだと弁明して、かき込むようにして胃へ放り込んだ。
そうしてこの味を覚えることのないよう意識から追い出しながら飲み込んだ。
相変わらずうまいが、二度と食べる機会がないと思うと胸に鋭い痛みが走った。
私が黙々と食べていると、ビアンカがお気に召さなかった、と訊いてきた。
とんでもない。あまりうまいんで言葉が出なかったんだと弁明して、かき込むようにして胃へ放り込んだ。
そうしてこの味を覚えることのないよう意識から追い出しながら飲み込んだ。
572: 2017/01/27(金) 20:57:23.89 ID:/Tu6dGYZo
水門の鍵はダンカンが管理しているらしい。
病人を動かすのも酷なのでビアンカが代わりについてくれるそうだ。
船に乗せたら、「こんなものも持ってるのね、すごいわ」と感心した様子だから、「そうだろう」と云って説明は省いた。
これを見栄と取っては私の沽券に関わる。私はビアンカが失望するのを嫌ってあえて何も云わないでおいたのだ。
病人を動かすのも酷なのでビアンカが代わりについてくれるそうだ。
船に乗せたら、「こんなものも持ってるのね、すごいわ」と感心した様子だから、「そうだろう」と云って説明は省いた。
これを見栄と取っては私の沽券に関わる。私はビアンカが失望するのを嫌ってあえて何も云わないでおいたのだ。
573: 2017/01/27(金) 20:58:19.79 ID:/Tu6dGYZo
水門を開けたら、もう用事がないなら帰って構わないとビアンカに云った。
すると私も指輪探しを手伝うと云い出すので驚いた。
どうせあのルドマンのことだから水のリングだって魔物の巣窟に置いたに極まっている。
道中魔物が出たら危険だと諭したが、魔物くらいどうってことないわよと剛胆に答える。
何でも先だって山奥に薬草を採りにゆく時分に魔物の群に襲われたらしいが、メラで鞭に火をつけて一網打尽にしてやったらしい。
柔軟な戦法にも驚いたが、そんな危険な場所へ単身乗り込む勇気に舌を巻いた。
確かに戦闘の邪魔になることはなさそうだが、一つ見過ごせない難点があった。
すると私も指輪探しを手伝うと云い出すので驚いた。
どうせあのルドマンのことだから水のリングだって魔物の巣窟に置いたに極まっている。
道中魔物が出たら危険だと諭したが、魔物くらいどうってことないわよと剛胆に答える。
何でも先だって山奥に薬草を採りにゆく時分に魔物の群に襲われたらしいが、メラで鞭に火をつけて一網打尽にしてやったらしい。
柔軟な戦法にも驚いたが、そんな危険な場所へ単身乗り込む勇気に舌を巻いた。
確かに戦闘の邪魔になることはなさそうだが、一つ見過ごせない難点があった。
574: 2017/01/27(金) 20:59:18.51 ID:/Tu6dGYZo
私はフローラに好きだと公言した立場である。
それをもってビアンカと仲良くするのは、世間体もそうだが、何より私の精神にとって不都合極まりない。
できることならここで出会った縁も思いも断ち切って、帰りを待つ者へ誠意を向けたかった。
そうしてこの胸に燻ぶる何某かを踏み消して、一切忘れ得たかった。
それをもってビアンカと仲良くするのは、世間体もそうだが、何より私の精神にとって不都合極まりない。
できることならここで出会った縁も思いも断ち切って、帰りを待つ者へ誠意を向けたかった。
そうしてこの胸に燻ぶる何某かを踏み消して、一切忘れ得たかった。
575: 2017/01/27(金) 21:00:31.26 ID:/Tu6dGYZo
しかし――
私はついに、ビアンカの懇願ともとれる悲愴な色をした瞳に貫かれ、同行を許可してしまった。
私はついに、ビアンカの懇願ともとれる悲愴な色をした瞳に貫かれ、同行を許可してしまった。
581: 2017/01/28(土) 20:34:12.31 ID:B87XVgX1o
戦闘に出ると云うから仕方なく後ろの面々を紹介した。
余程驚くと思っていたが、魔物と戦い馴れている彼女はへーで済ませてしまった。
しかし尻尾にリボンを巻いたキラーパンサーを見たときは流石にびっくりしたようだ。
ゲレゲレじゃないの。こんなに大きくなって、とふくよかな胸を遠慮なく猫の顔に押しつける。ゲレゲレはごろごろ喉を鳴らしている。
するとそこへピエールが慇懃に頭を下げて、貴女のような方と共に旅ができるとは光栄の至り、と手を取る。
ビアンカは滅多に受けない扱いにどぎまぎして、どうも、とだけ云って終わらせた。
フローラが同様の扱いを受けたときにどう反応するか気になるところだ。
余程驚くと思っていたが、魔物と戦い馴れている彼女はへーで済ませてしまった。
しかし尻尾にリボンを巻いたキラーパンサーを見たときは流石にびっくりしたようだ。
ゲレゲレじゃないの。こんなに大きくなって、とふくよかな胸を遠慮なく猫の顔に押しつける。ゲレゲレはごろごろ喉を鳴らしている。
するとそこへピエールが慇懃に頭を下げて、貴女のような方と共に旅ができるとは光栄の至り、と手を取る。
ビアンカは滅多に受けない扱いにどぎまぎして、どうも、とだけ云って終わらせた。
フローラが同様の扱いを受けたときにどう反応するか気になるところだ。
582: 2017/01/28(土) 20:34:38.45 ID:B87XVgX1o
ゴルキと対面させると、あらスライムじゃないと嬉しそうな顔をする。
スライムはやはり女性に人気があるようだ。
「こんにちは、ぼくゴルキ」
「こんにちは。ゴルキ……くんは、スライムレース場からきたのかしら」
「むう。ちがうよ、ぼくはすきでこのひとについていってるんだ」
「へえ、意外と人望あるのね」
「魔物に限っては、どうも天賦の才があるようだ」
その時、頭上からにゃーと云う声がした。
スライムはやはり女性に人気があるようだ。
「こんにちは、ぼくゴルキ」
「こんにちは。ゴルキ……くんは、スライムレース場からきたのかしら」
「むう。ちがうよ、ぼくはすきでこのひとについていってるんだ」
「へえ、意外と人望あるのね」
「魔物に限っては、どうも天賦の才があるようだ」
その時、頭上からにゃーと云う声がした。
583: 2017/01/28(土) 20:35:19.52 ID:B87XVgX1o
「吾輩は魔物ではないのだがね」
先生が馬車の天蓋から顔を出した。
ビアンカは喋る魔物には大した反応は見せなかったのに、先生を見たときは嘘でしょ、と大変驚いていた。
「最近は猫も喋るのね」
「いや、先生は特別な事情があってな――ともかく、こいつらは敵じゃないから、間違って攻撃したりしないでくれよ」
「大丈夫よ。……多分」
「おやおや。ちょっと心配だな」
「万が一には我が即座に治療する故気兼ねなく存分に奮いたまえ」
「そう? じゃあ遠慮なく」
先生が馬車の天蓋から顔を出した。
ビアンカは喋る魔物には大した反応は見せなかったのに、先生を見たときは嘘でしょ、と大変驚いていた。
「最近は猫も喋るのね」
「いや、先生は特別な事情があってな――ともかく、こいつらは敵じゃないから、間違って攻撃したりしないでくれよ」
「大丈夫よ。……多分」
「おやおや。ちょっと心配だな」
「万が一には我が即座に治療する故気兼ねなく存分に奮いたまえ」
「そう? じゃあ遠慮なく」
584: 2017/01/28(土) 20:35:47.31 ID:B87XVgX1o
事実遠慮なかった。船上の戦闘中、何度か鞭が飛んできて肝を冷やしたが、ビアンカの巧みなコントロールで間一髪の所で済ませていた。
当たりこそしていないが、耳元で風切り音がすると心臓に悪いから程々にしていただきたい。
しかしこう船に乗っていても魔物に襲われると世間一般の航海士などはさぞや苦労するだろう。
我々のような戦闘集団がそうそういるわけもなし、各地の便が止まってしまうのも頷けた。
当たりこそしていないが、耳元で風切り音がすると心臓に悪いから程々にしていただきたい。
しかしこう船に乗っていても魔物に襲われると世間一般の航海士などはさぞや苦労するだろう。
我々のような戦闘集団がそうそういるわけもなし、各地の便が止まってしまうのも頷けた。
585: 2017/01/28(土) 20:36:15.11 ID:B87XVgX1o
戦闘を終えるとビアンカが手当てをしてくれた。回復呪文で直接癒すわけではないが、それでも暖かみを感じられて嬉しかった。
ビアンカは手当の際に、何だかパパスさんに似てきたみたいねと感嘆を漏らした。
私は十年前の皮肉を思い出して、もう父に似ずひ弱な少年は居ないぞと云った。
ビアンカはそうね、すっかり頼もしくなって、と笑ってから、少し淋し気な笑みを端の方に翳した。
ビアンカは手当の際に、何だかパパスさんに似てきたみたいねと感嘆を漏らした。
私は十年前の皮肉を思い出して、もう父に似ずひ弱な少年は居ないぞと云った。
ビアンカはそうね、すっかり頼もしくなって、と笑ってから、少し淋し気な笑みを端の方に翳した。
586: 2017/01/28(土) 20:36:58.95 ID:B87XVgX1o
船を上流に進めると、滝のある大きな湖に出る。
湖と云うより大きな滝壺が適切かもしれない。それもただの滝でなくて、ルラフェンで虞美人草を探す道中で見かけた、華厳の滝二号である。
初めに、以前から見せようと思っていた先生に拝見してもらった。
見識のある先生は「いいじゃないか」と大変ご機嫌な様子だ。
ビアンカにも見せて、綺麗だろうと云うと、そうね。洞窟がなければもっと綺麗ねと云われた。
洞窟? と聞き返すとほら、あれと滝の方を指さす。洞窟らしきものは見えない。
分からない私が矯めつ眇めつしているとあれよ。滝の裏、とけしかけられてようやく見えた。
確かに滝の裏に隠れるようにして巨大な洞窟が口を開けている。
湖と云うより大きな滝壺が適切かもしれない。それもただの滝でなくて、ルラフェンで虞美人草を探す道中で見かけた、華厳の滝二号である。
初めに、以前から見せようと思っていた先生に拝見してもらった。
見識のある先生は「いいじゃないか」と大変ご機嫌な様子だ。
ビアンカにも見せて、綺麗だろうと云うと、そうね。洞窟がなければもっと綺麗ねと云われた。
洞窟? と聞き返すとほら、あれと滝の方を指さす。洞窟らしきものは見えない。
分からない私が矯めつ眇めつしているとあれよ。滝の裏、とけしかけられてようやく見えた。
確かに滝の裏に隠れるようにして巨大な洞窟が口を開けている。
587: 2017/01/28(土) 20:37:48.29 ID:B87XVgX1o
船ごと入れる広さがあるので乗り込んでみると、水場にあるだけあってかなり黴臭い。
しかし暑い時分だから水気を含んだ風が気持ち好い。
以前はゲレゲレや先生が可哀想だったが、今日は誰も苦しい思いをしない。
ピエールに鎧が錆びないか心配してやると、我が鎧は新陳代謝せしめる謂わば鱗あるいは外殻故心配に及ばずと自信満々に云う。
よく分からないが、爪や髪の毛の類とそう変わらないらしい。
であれば錆びようが溶けようが、しばらくすれば元通りと云うわけだ。便利なもんだ。
しかし暑い時分だから水気を含んだ風が気持ち好い。
以前はゲレゲレや先生が可哀想だったが、今日は誰も苦しい思いをしない。
ピエールに鎧が錆びないか心配してやると、我が鎧は新陳代謝せしめる謂わば鱗あるいは外殻故心配に及ばずと自信満々に云う。
よく分からないが、爪や髪の毛の類とそう変わらないらしい。
であれば錆びようが溶けようが、しばらくすれば元通りと云うわけだ。便利なもんだ。
588: 2017/01/28(土) 20:38:36.35 ID:B87XVgX1o
やはりと云うべきか、ここも火山みたように階段や廊下がある。
まさかわざわざ洞窟を掘ったわけでもあるまいが、この短い距離に火と水の洞窟を見つけるのは流石の見識眼である。
洞窟は火山と違ってそれなりに安全だが、代わりに魔物が一回り強い。
ビアンカも一応女であるから火力が少々不足している。
呪文で凌ぐことがあったが魔力がしょっちゅう尽きるので、時折船に戻って療養した。
その内こなれてきてずんずん進めるようになった。
まさかわざわざ洞窟を掘ったわけでもあるまいが、この短い距離に火と水の洞窟を見つけるのは流石の見識眼である。
洞窟は火山と違ってそれなりに安全だが、代わりに魔物が一回り強い。
ビアンカも一応女であるから火力が少々不足している。
呪文で凌ぐことがあったが魔力がしょっちゅう尽きるので、時折船に戻って療養した。
その内こなれてきてずんずん進めるようになった。
589: 2017/01/28(土) 20:39:02.97 ID:B87XVgX1o
洞窟を進んでいると、近くでごうと云う大きな音が聞こえるのに気がついた。
入り口の滝ではなく、別の所で大きな水の流れがあるようだ。
少しして狭い場所を抜けると、いくらか広いところへたどりついた。
そこは先の華厳の滝にも負けぬくらい壮大で、美しい滝が自然の中にぴったり収まっていた。
雄大な景色に我々は足を止めた。するとピエールが句になりそうだと云った。一つやって見ろと調戯い半分に云ってみた。
入り口の滝ではなく、別の所で大きな水の流れがあるようだ。
少しして狭い場所を抜けると、いくらか広いところへたどりついた。
そこは先の華厳の滝にも負けぬくらい壮大で、美しい滝が自然の中にぴったり収まっていた。
雄大な景色に我々は足を止めた。するとピエールが句になりそうだと云った。一つやって見ろと調戯い半分に云ってみた。
590: 2017/01/28(土) 20:39:29.87 ID:B87XVgX1o
水の洞 魔物うなりて 滝流る
生憎私は無風流だからこれが旨いのかまずいのか分からん。
それどころか季語があるかも判別つかない。多分滝がそうなんだろうが。
どうとも云えないから黙っていると、ピエールが「では貴君も一つ」などと云いたげな目線でこちらを見る。
冗談じゃない。発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。
元奴隷の無頼漢が朝顔やに釣瓶をとられてたまるものか。
そう思ったが、ただ無愛想に拒むのも気が引けたので、
「『魔物うなりて』は君らの感動の唸りと、周りの獰猛な連中の呻りでかけてあるんだね。うまいうまい」と適当に誉めてごまかした。
591: 2017/01/28(土) 20:40:37.65 ID:B87XVgX1o
道なりに進んで行くと洞窟らしい大きな泉を湛えた場所がある。
ただその水が受け皿を飛び出して地面を水浸しにしているのには参った。
私やビアンカはざぶざぶ進めるがゴルキやピエールの片割れなんかは歩く――跳ねる度に顔全体が冠水してしまうので可哀想だ。
ゴルキは最悪持って歩けばよいが、ピエールのものは二周りも大きくて難儀する。
それどころか上の騎士とスライムを分かとうとすると「無礼であるぞ」とすごい剣突を食らわせてくる。
鎧と云い中身と云い、スライムナイトと云う種族には謎が多い。
ただその水が受け皿を飛び出して地面を水浸しにしているのには参った。
私やビアンカはざぶざぶ進めるがゴルキやピエールの片割れなんかは歩く――跳ねる度に顔全体が冠水してしまうので可哀想だ。
ゴルキは最悪持って歩けばよいが、ピエールのものは二周りも大きくて難儀する。
それどころか上の騎士とスライムを分かとうとすると「無礼であるぞ」とすごい剣突を食らわせてくる。
鎧と云い中身と云い、スライムナイトと云う種族には謎が多い。
592: 2017/01/28(土) 20:41:07.81 ID:B87XVgX1o
道中、どこから嗅ぎつけてきたのかフローラの婿候補と出くわした。
きっと水のリングさえ手に入れれば私と一騎打ちができると算段したんだろうが、魔物の質は氏の火山より高いから棺桶になる者が大半を占めていた。
その中でも生き残る豪傑はちらほら見かけたが、いずれもビアンカを連れる私に白い眼を向けてきた。
この行事に参加するのは大抵独身の男だから女連れの私が余程珍しいんだろう。
中には物欲しそうな目つきで見てくる奴がいたが、どうかすると私はその男を恨んだ。
きっと水のリングさえ手に入れれば私と一騎打ちができると算段したんだろうが、魔物の質は氏の火山より高いから棺桶になる者が大半を占めていた。
その中でも生き残る豪傑はちらほら見かけたが、いずれもビアンカを連れる私に白い眼を向けてきた。
この行事に参加するのは大抵独身の男だから女連れの私が余程珍しいんだろう。
中には物欲しそうな目つきで見てくる奴がいたが、どうかすると私はその男を恨んだ。
593: 2017/01/28(土) 20:41:35.40 ID:B87XVgX1o
広場の中頃へ抜けると、ビアンカが突然憤りだした。
何でもさっきすれ違った男がビアンカの尻を撫で抜けたらしい。
私は大いに憤慨して、失礼な、何処のどいつだと剣幕を立てたら向こうのあらくれと云うので、真っ向から向かってやった。
何でもさっきすれ違った男がビアンカの尻を撫で抜けたらしい。
私は大いに憤慨して、失礼な、何処のどいつだと剣幕を立てたら向こうのあらくれと云うので、真っ向から向かってやった。
594: 2017/01/28(土) 20:42:51.83 ID:B87XVgX1o
貴様、あいつの尻を触ったそうだな、と胴間声を張り上げるとでかい体がびくりと跳ねる。
こちらを睨めつけるが、何も云わない。挙動不審に目をぎょろつかせている。
何も云わないところを見ると黒らしい。世の中には推定無罪と云う言葉があるらしいが、甘っちょろい思想だ。一目見ればそいつの黒白は簡単に決するもんだ。
こいつは痴漢である。失敬千万である。断りなく女性(にょしょう)の臀部をまさぐるとは、日の本の男児の風上にも置けん奴だ。
そこに直れ、と天誅を加える気概でもって怒鳴ったら、奴がなにを、じゃあお前はあいつの何なんだ、と逆襲を始めた。
こちらを睨めつけるが、何も云わない。挙動不審に目をぎょろつかせている。
何も云わないところを見ると黒らしい。世の中には推定無罪と云う言葉があるらしいが、甘っちょろい思想だ。一目見ればそいつの黒白は簡単に決するもんだ。
こいつは痴漢である。失敬千万である。断りなく女性(にょしょう)の臀部をまさぐるとは、日の本の男児の風上にも置けん奴だ。
そこに直れ、と天誅を加える気概でもって怒鳴ったら、奴がなにを、じゃあお前はあいつの何なんだ、と逆襲を始めた。
595: 2017/01/28(土) 20:44:01.06 ID:B87XVgX1o
私はすっかり虚を衝かれた。
友人、と単簡に云うことはできるが、私と彼女の関係はそれで済まないような気がした。
私は言葉を失った。そうして何とも云えず狼狽しているうち、あらくれはとんずらをこきやがった。
追いかけたが、奴めリレミトでさっさと脱出してしまったようだ。どうもすっきりしない体でビアンカの元へ戻った。
ビアンカはただ難有うと云ってくれたけれども、犯人を逃した私は例には及ばんと謙遜しておいた。
しかしビアンカはどうしても礼を云いたいようで、私の目をじっと見つめてきた。
その瞳があんまり綺麗でついこちらも見つめ返してしまったが、すぐにお互いともに目を逸らした。
友人、と単簡に云うことはできるが、私と彼女の関係はそれで済まないような気がした。
私は言葉を失った。そうして何とも云えず狼狽しているうち、あらくれはとんずらをこきやがった。
追いかけたが、奴めリレミトでさっさと脱出してしまったようだ。どうもすっきりしない体でビアンカの元へ戻った。
ビアンカはただ難有うと云ってくれたけれども、犯人を逃した私は例には及ばんと謙遜しておいた。
しかしビアンカはどうしても礼を云いたいようで、私の目をじっと見つめてきた。
その瞳があんまり綺麗でついこちらも見つめ返してしまったが、すぐにお互いともに目を逸らした。
596: 2017/01/28(土) 20:44:39.02 ID:B87XVgX1o
進むうちに小さな滝口に着いた。小さいが流れが急だ。
気をつけろよと注意しようと思ったその時、ビアンカが深い所に足を掬われて体勢を崩した。
隣にいた私が咄嗟に手を引っ張って事なきを得たが、弾みでビアンカとの距離が急速に縮まった。
気をつけろよと注意しようと思ったその時、ビアンカが深い所に足を掬われて体勢を崩した。
隣にいた私が咄嗟に手を引っ張って事なきを得たが、弾みでビアンカとの距離が急速に縮まった。
597: 2017/01/28(土) 20:45:20.79 ID:B87XVgX1o
その瞬間は実に短い、僅かな時間であったけれども、我々はその凍った時間の中へ閉じ込められた。
そうして互いの瞳を見つめあってから、すぐに何ともなかったかのように離れた。
私は「ここらは深い場所が点々とあるから、気を付けるが好い」と云った。ビアンカは「うん」と単簡に済ませた。
脳裏にはひたすらに純朴で綺麗な眼の光がちらついて、その度に心臓に電流のようなものが走った。
そうして互いの瞳を見つめあってから、すぐに何ともなかったかのように離れた。
私は「ここらは深い場所が点々とあるから、気を付けるが好い」と云った。ビアンカは「うん」と単簡に済ませた。
脳裏にはひたすらに純朴で綺麗な眼の光がちらついて、その度に心臓に電流のようなものが走った。
598: 2017/01/28(土) 20:45:50.81 ID:B87XVgX1o
水浸しの領域を歩いていると、ピエールが突然ばしゃりと音を立てて水の中に消えた。
慌てて駆け寄ると、ピエールの居た場所に冠水した小さな階段を見つけた。
救助のために鼻をつまんでざぶりと飛び込むと、すぐに浅い場所へ落下した。
冠水しているのに中途で空気があるのは、どうも魔術的な建築を施しているらしい。
上から流れる水は床に刻まれた放射状に広がる溝に沿って流れている。
そしてその溝が一所に集まる先には、岩を切り出してできたような無骨な台座があった。
慌てて駆け寄ると、ピエールの居た場所に冠水した小さな階段を見つけた。
救助のために鼻をつまんでざぶりと飛び込むと、すぐに浅い場所へ落下した。
冠水しているのに中途で空気があるのは、どうも魔術的な建築を施しているらしい。
上から流れる水は床に刻まれた放射状に広がる溝に沿って流れている。
そしてその溝が一所に集まる先には、岩を切り出してできたような無骨な台座があった。
599: 2017/01/28(土) 20:46:23.56 ID:B87XVgX1o
台座の上には青い宝石を装飾にした美しい指輪が収まっている。
私は仲間を十分回復させて、辺りに注意を払いながらそれを取った。
しばらく私と魔物諸君は緊張していたが、階段を上がる頃にはむしろ拍子抜けの体であった。
さしものルドマンも強力な魔物をけしかけるのはやりすぎと判断したらしい。
女性を連れている最中でまたようがんげんじんのような恐ろしい奴に出くわしたら、大変なことになるところであった。
私は仲間を十分回復させて、辺りに注意を払いながらそれを取った。
しばらく私と魔物諸君は緊張していたが、階段を上がる頃にはむしろ拍子抜けの体であった。
さしものルドマンも強力な魔物をけしかけるのはやりすぎと判断したらしい。
女性を連れている最中でまたようがんげんじんのような恐ろしい奴に出くわしたら、大変なことになるところであった。
600: 2017/01/28(土) 20:46:59.32 ID:B87XVgX1o
ビアンカはやったわね、これでめでたく結婚ね、と少し淋しそうに祝辞を述べた。
その時彼女の口元の肉が少し顫えて、何か言葉を紡ぎ出しそうな雰囲気が感ぜられた。
しかし彼女はそれを隠して、天空の盾があれば勇者に近づけるわね、と云った。
私は曖昧に頷いて、手にした水のリングを見つめた。
青い宝石は静謐な輝きを放って私の目を見つめていた。
その時彼女の口元の肉が少し顫えて、何か言葉を紡ぎ出しそうな雰囲気が感ぜられた。
しかし彼女はそれを隠して、天空の盾があれば勇者に近づけるわね、と云った。
私は曖昧に頷いて、手にした水のリングを見つめた。
青い宝石は静謐な輝きを放って私の目を見つめていた。
601: 2017/01/28(土) 20:49:56.35 ID:B87XVgX1o
人が見つめ合った時、相手の瞳に自分の姿が映るのに気がつくことがある。その時の不思議な感覚をこの時抱いた。
そうして水のリングに映ゆる己の形を垣間見た時、私は自分の心が水月のように水面に浮かぶのを発見した。
穏やかな水面に一粒の滴が垂れ落ち、波紋と揺らぎがどこまでも広がる。
元の青い色はたったそれだけの金色の色水に侵され、混濁して行く。
心臓に痛むものを感じながらそれを見つめ続けたが、私の心はついぞ落ち着くことを知らなかった。
そうして水のリングに映ゆる己の形を垣間見た時、私は自分の心が水月のように水面に浮かぶのを発見した。
穏やかな水面に一粒の滴が垂れ落ち、波紋と揺らぎがどこまでも広がる。
元の青い色はたったそれだけの金色の色水に侵され、混濁して行く。
心臓に痛むものを感じながらそれを見つめ続けたが、私の心はついぞ落ち着くことを知らなかった。
602: 2017/01/28(土) 20:50:36.58 ID:B87XVgX1o
帰りの道中、ビアンカは今までの饒舌が嘘のように黙りこくった。
私も同様にしてだんまりを極め込んでいた。
ピエールと先生が気を利かして話しかけてくれることがあったが、上の空の体でうん、とかはあ、とかしか云えなかった。
ビアンカはゴルキと他愛のないお喋りをしていたが、そちらも心ここに在らずと云った風だった。
それは山奥の村へ戻った後も変わらなかった。
私も同様にしてだんまりを極め込んでいた。
ピエールと先生が気を利かして話しかけてくれることがあったが、上の空の体でうん、とかはあ、とかしか云えなかった。
ビアンカはゴルキと他愛のないお喋りをしていたが、そちらも心ここに在らずと云った風だった。
それは山奥の村へ戻った後も変わらなかった。
603: 2017/01/28(土) 20:51:33.21 ID:B87XVgX1o
何度も戦闘と休養を繰り返したせいか、村へ戻る頃には深夜に近い頃合いになっていた。
家で飯を済ませると、とうとう酒場の騒ぎも収まった。いよいよ田舎らしい静寂が訪れた。
我々はこの静寂の中にただ二人取り残されていた。
家で飯を済ませると、とうとう酒場の騒ぎも収まった。いよいよ田舎らしい静寂が訪れた。
我々はこの静寂の中にただ二人取り残されていた。
604: 2017/01/28(土) 20:54:30.58 ID:B87XVgX1o
ベッドへ入ろうか迷った。
今の心持ちのまま横になっても、安穏と寝られる自信はなかった。
ビアンカも机に頬杖をついて、蝋燭の火をじっと見つめ続けていた。
ただ刻々と夜だけが更けていった。
今の心持ちのまま横になっても、安穏と寝られる自信はなかった。
ビアンカも机に頬杖をついて、蝋燭の火をじっと見つめ続けていた。
ただ刻々と夜だけが更けていった。
605: 2017/01/28(土) 20:55:23.90 ID:B87XVgX1o
突然、ビアンカがわあと叫びだした。
びっくりした私が目をぱちくりさせていると、ビアンカは私の手を取って「温泉に入ろう」とのたまいだした。
急も急で、前後の繋がりが皆無なので私は困惑するばかりであった。
ビアンカは呆けた私の手をぐいぐい引いて、宿の温泉に連れ込んだ。
夜も大分更けている頃合いで、番台の婆さんはもう降りていたが、ビアンカが話を付けて無理矢理開けさせた。かくの次第だから貸し切りである。
びっくりした私が目をぱちくりさせていると、ビアンカは私の手を取って「温泉に入ろう」とのたまいだした。
急も急で、前後の繋がりが皆無なので私は困惑するばかりであった。
ビアンカは呆けた私の手をぐいぐい引いて、宿の温泉に連れ込んだ。
夜も大分更けている頃合いで、番台の婆さんはもう降りていたが、ビアンカが話を付けて無理矢理開けさせた。かくの次第だから貸し切りである。
606: 2017/01/28(土) 20:55:51.23 ID:B87XVgX1o
衣服を脱いだ私はしかし、またもや勇気を失った。
それはフローラに申し訳ないとか世間体がどうとかと云うよりも、ビアンカと裸を見せ合うことに対する躊躇であった。
けれども戸の向こうから聞こえる湯の云う音に促され、ついに浴場へ顔を出した。
それはフローラに申し訳ないとか世間体がどうとかと云うよりも、ビアンカと裸を見せ合うことに対する躊躇であった。
けれども戸の向こうから聞こえる湯の云う音に促され、ついに浴場へ顔を出した。
607: 2017/01/28(土) 20:56:54.78 ID:B87XVgX1o
ビアンカは体にタオルを巻き付けていた。
それでもかの艶めかしいボディラインは十分観察できるので目の毒とほか云いようがない。
しばらく二人とも無言のまま湯に浸かっていた。やがてビアンカの方から口を開いた。
「昔、一遍だけ二人でお風呂に入ったことがあるんだけど、覚えてる?」
私は頭を振った。聞けば三歳の時分であったそうだから、いよいよ覚えていない。
「あの時はあなたもずっと小さくて、弟のような感じだったわ。けれども昨日出会ってからは、全然別の思いが湧き上がってきて、どうしようもなくなった。何というか、頼もしいとか、男らしいとか、素敵だとか、そう云った風な気持ちが飄然と舞い込んできたの。わかる? それは今日旅している間中ずっと残っていてね。……要するに、あなたのことを他の男と同じように考えられなくなったの。ねえ、これって何だと思う?」
それでもかの艶めかしいボディラインは十分観察できるので目の毒とほか云いようがない。
しばらく二人とも無言のまま湯に浸かっていた。やがてビアンカの方から口を開いた。
「昔、一遍だけ二人でお風呂に入ったことがあるんだけど、覚えてる?」
私は頭を振った。聞けば三歳の時分であったそうだから、いよいよ覚えていない。
「あの時はあなたもずっと小さくて、弟のような感じだったわ。けれども昨日出会ってからは、全然別の思いが湧き上がってきて、どうしようもなくなった。何というか、頼もしいとか、男らしいとか、素敵だとか、そう云った風な気持ちが飄然と舞い込んできたの。わかる? それは今日旅している間中ずっと残っていてね。……要するに、あなたのことを他の男と同じように考えられなくなったの。ねえ、これって何だと思う?」
608: 2017/01/28(土) 20:57:22.68 ID:B87XVgX1o
私はこの答をついぞ得られなかった。
知っていても出す気にならなかった。
むっつりと黙り込んだまま、向け合った背中からビアンカの体温に思いを馳せた。
きっと彼女と私は互いに鏡だった。
知っていても出す気にならなかった。
むっつりと黙り込んだまま、向け合った背中からビアンカの体温に思いを馳せた。
きっと彼女と私は互いに鏡だった。
609: 2017/01/28(土) 20:58:01.20 ID:B87XVgX1o
湯を上がったら、湯冷めせぬ内に酒をあおった。
語らいは酒の上でするのが通例である。もっとも私もビアンカも強い方ではないのでちびちびと薄いものを嘗めているだけだった。
酒場も人の気配はなく、いるのはただ我々二人きりであった。
音楽も喧噪もない静かな酒宴であったが、我々はこれを大いに喜んだ。
ぽつぽつと昔話を続け、夜は更に深まって行った。
語らいは酒の上でするのが通例である。もっとも私もビアンカも強い方ではないのでちびちびと薄いものを嘗めているだけだった。
酒場も人の気配はなく、いるのはただ我々二人きりであった。
音楽も喧噪もない静かな酒宴であったが、我々はこれを大いに喜んだ。
ぽつぽつと昔話を続け、夜は更に深まって行った。
610: 2017/01/28(土) 20:58:29.22 ID:B87XVgX1o
ビアンカは近々の事情より昔話をしたがった。また私もそうする方が快かった。
昔、アルカパで別れ際にキスをしたことを冷かしてやると、あなただって私の肩を抱いたじゃないと反撃をされた。
覚えはないが、レヌール城で彼女が怯えたときに無意識にそうしていたらしい。
そうだったかな、とはぐらかすように返事をして、ジョッキに手を伸ばした。するとその手が偶然時を同じくして伸ばした彼女の手と衝突した。
触れるはずのなかった、二つの手と手が合わさっていた。
昔、アルカパで別れ際にキスをしたことを冷かしてやると、あなただって私の肩を抱いたじゃないと反撃をされた。
覚えはないが、レヌール城で彼女が怯えたときに無意識にそうしていたらしい。
そうだったかな、とはぐらかすように返事をして、ジョッキに手を伸ばした。するとその手が偶然時を同じくして伸ばした彼女の手と衝突した。
触れるはずのなかった、二つの手と手が合わさっていた。
611: 2017/01/28(土) 20:59:13.93 ID:B87XVgX1o
時が止まった。薄暗い酒場の光彩が急速に失われた。味も匂いも一切心から離れた。
ただ胸の鼓動ばかりが頭に映えた。
ただ胸の鼓動ばかりが頭に映えた。
612: 2017/01/28(土) 21:00:26.18 ID:B87XVgX1o
顔を上げ、ビアンカの顔を見た。彼女も同様に私の姿をその眼へ映した。
稲光が走った。真実が雷光のように私の目の前にまざまざと浮かび上がた。倫理が雷鳴のように繰り返し私の頭を響かせた。
我々は全く呼吸を止めていた。そうして指先の一点に集中を込めて互いに感じ合った。
いつか暗い廃城でそうしたように、我々は互いの震えを確認し合った。
稲光が走った。真実が雷光のように私の目の前にまざまざと浮かび上がた。倫理が雷鳴のように繰り返し私の頭を響かせた。
我々は全く呼吸を止めていた。そうして指先の一点に集中を込めて互いに感じ合った。
いつか暗い廃城でそうしたように、我々は互いの震えを確認し合った。
613: 2017/01/28(土) 21:00:54.41 ID:B87XVgX1o
私は彼女の瞳に浮かぶ情合の光を認めた。またそこに、許されぬと知って苦悩する彼女の葛藤も見た。
きっと彼女も私の揺らぎを見た。我々は互いの瞳を見つめ合い、相手を見、自分を見た。
そうしてビアンカと感情の共有を果たしたとき、私は再度雷に打たれた。
脳裏には、眦に涙を浮かべる青髪の乙女が浮かんでいた。
きっと彼女も私の揺らぎを見た。我々は互いの瞳を見つめ合い、相手を見、自分を見た。
そうしてビアンカと感情の共有を果たしたとき、私は再度雷に打たれた。
脳裏には、眦に涙を浮かべる青髪の乙女が浮かんでいた。
614: 2017/01/28(土) 21:01:58.33 ID:B87XVgX1o
私は卒然と立ち上がった。もう寝ようと云った。時刻は丑の刻を疾うに回っていた。
615: 2017/01/28(土) 21:02:25.47 ID:B87XVgX1o
翌朝になって、ビアンカは持ち前の明るさを取り戻した。
飯はやはりうまかった。今度はゆっくりと味わって、その腕前に舌鼓を打った。
大いに誉めてやると、ビアンカは頬を染めて謙遜した。本当に照れているようであった。
ダンカンとビアンカに礼を云って村を出た。
朝霧は白く船腹をしっとり濡らし、空は抜けるように青かった。
飯はやはりうまかった。今度はゆっくりと味わって、その腕前に舌鼓を打った。
大いに誉めてやると、ビアンカは頬を染めて謙遜した。本当に照れているようであった。
ダンカンとビアンカに礼を云って村を出た。
朝霧は白く船腹をしっとり濡らし、空は抜けるように青かった。
616: 2017/01/28(土) 21:03:50.90 ID:B87XVgX1o
船に乗って歩み板を上げようとしたとき、陸から女の声が聞こえた。
見るとビアンカが手を振ってこちらに呼びかけている。
サラボナに用があるからついでに乗せていってくれないかと訊かれた。
私は何も云わず彼女の目を見た。
色のない、静かな感情がそこに押し寄せていた。
見るとビアンカが手を振ってこちらに呼びかけている。
サラボナに用があるからついでに乗せていってくれないかと訊かれた。
私は何も云わず彼女の目を見た。
色のない、静かな感情がそこに押し寄せていた。
617: 2017/01/28(土) 21:06:55.25 ID:B87XVgX1o
ビアンカを船に乗せてやった。彼女はありがとうと云って私の顔を見た。
私は礼には及ばないとだけ返して、まるで雲のない綺麗な空を見上げた。
用があるはずのビアンカは殆ど手ぶらであった。
私は礼には及ばないとだけ返して、まるで雲のない綺麗な空を見上げた。
用があるはずのビアンカは殆ど手ぶらであった。
622: 2017/01/30(月) 20:41:45.47 ID:dnyJRGJ6o
八
サラボナには消沈した男どもがふらふらと彷徨い歩いていた。
どうも氏の火山や滝裏の洞窟へ挑戦して散っていった惨敗者のようで、腕や足を吊っているものが多々見られた。
ルドマンも罪なことをお練りになったものだ。も少し安全な場所であれば怪我人もここまで増えなかったろうに。
お気の毒をしながらルドマン邸へ向かうと、後ろをビアンカがてくてくとついてくる。
君は何か用事があるんではないのかと訊くと、うんまあと至極曖昧な返事が返ってきた。
サラボナには消沈した男どもがふらふらと彷徨い歩いていた。
どうも氏の火山や滝裏の洞窟へ挑戦して散っていった惨敗者のようで、腕や足を吊っているものが多々見られた。
ルドマンも罪なことをお練りになったものだ。も少し安全な場所であれば怪我人もここまで増えなかったろうに。
お気の毒をしながらルドマン邸へ向かうと、後ろをビアンカがてくてくとついてくる。
君は何か用事があるんではないのかと訊くと、うんまあと至極曖昧な返事が返ってきた。
623: 2017/01/30(月) 20:42:15.71 ID:dnyJRGJ6o
訝しげな目で見つめていると、実は、とだんだん訳を話し始めた。
なんでも私の結婚が気がかりでつい飛び出してきたんだそうだ。
昨日も云ったように、あなたのことを弟のように感じていたと、あるいはもっと大事な者にも。
だからそんな人が結婚すると訊いて、居ても立っても居られなくなったという。
なんでも私の結婚が気がかりでつい飛び出してきたんだそうだ。
昨日も云ったように、あなたのことを弟のように感じていたと、あるいはもっと大事な者にも。
だからそんな人が結婚すると訊いて、居ても立っても居られなくなったという。
624: 2017/01/30(月) 20:42:54.32 ID:dnyJRGJ6o
私は笑った。だったら初めからそう云えば好いのにと。ビアンカも笑った。
何となく気恥ずかしいから嘘を吐いたんだと云うから、昨日の混浴の方がよっぽど恥ずかしかったろうと調戯うと、あれは違うのよと大慌てで否定する。
私は久しぶりに快活に笑った。
その時、後ろから私の名を呼ぶ声がした。
振り返ったとき、私は背筋に氷柱を突き込まれたような思いがした。
何となく気恥ずかしいから嘘を吐いたんだと云うから、昨日の混浴の方がよっぽど恥ずかしかったろうと調戯うと、あれは違うのよと大慌てで否定する。
私は久しぶりに快活に笑った。
その時、後ろから私の名を呼ぶ声がした。
振り返ったとき、私は背筋に氷柱を突き込まれたような思いがした。
625: 2017/01/30(月) 20:43:38.67 ID:dnyJRGJ6o
「そちらの方は?」とフローラが尋ねた。私は一寸答えが遅れた。
ビアンカは動じずにお辞儀をして、「幼馴染みのビアンカです」と丁重に名乗った。
フローラは目を見開いて、「あら」と云った。彼女はその時妙な顔つきをした。
妙と云うよりは、厭な顔をするのを懸命に堪えた顔であった。
きっと将来旦那となるはずの男の傍に余計な女の影がちらついたのを不審に思ったに違いなかった。
しかしそれも長くは続かなかった。
「私はフローラと申します。今日はお出かけですか」と優しい声色で云った。
表情はいつもの如く柔らかいものへ戻っていた。
ビアンカは動じずにお辞儀をして、「幼馴染みのビアンカです」と丁重に名乗った。
フローラは目を見開いて、「あら」と云った。彼女はその時妙な顔つきをした。
妙と云うよりは、厭な顔をするのを懸命に堪えた顔であった。
きっと将来旦那となるはずの男の傍に余計な女の影がちらついたのを不審に思ったに違いなかった。
しかしそれも長くは続かなかった。
「私はフローラと申します。今日はお出かけですか」と優しい声色で云った。
表情はいつもの如く柔らかいものへ戻っていた。
626: 2017/01/30(月) 20:44:49.53 ID:dnyJRGJ6o
「はい。片手間で恐縮ですが、祝辞を述べにきました」
「それは、私の結婚のことですか」
この時ビアンカの体の筋肉が一瞬硬直したのを私は認めた。ただそれも次の句を発するまでには解けていた。
「何しろ水のリングを手に入れましたから、彼も晴れてあなたと結ばれることとなりましょう」
「まあ。もう片方の指輪まで見つけてしまったんですか。じゃあ……」
「そうです。彼があなたの結婚相手です」
ビアンカはそう云って私の腕をつかんでフローラに相対させた。
「それは、私の結婚のことですか」
この時ビアンカの体の筋肉が一瞬硬直したのを私は認めた。ただそれも次の句を発するまでには解けていた。
「何しろ水のリングを手に入れましたから、彼も晴れてあなたと結ばれることとなりましょう」
「まあ。もう片方の指輪まで見つけてしまったんですか。じゃあ……」
「そうです。彼があなたの結婚相手です」
ビアンカはそう云って私の腕をつかんでフローラに相対させた。
627: 2017/01/30(月) 20:45:16.27 ID:dnyJRGJ6o
私は云うべき言葉が見つからなかった。今まで心の準備を済ませていなかった。
ただ漫然としてフローラの青い瞳を見つめていると、彼女の頬がぽうと薄赤くなった。
「好かったですわ。私……」
と云って、体の横に垂れ下がった私の手を取った。
「あなたと結婚できたらどれだけ仕合わせだろうと、そればかり考えていましたもの」
今度は私が頬を染める番であった。
しばらくそうして手を握り合っていると、フローラが「ではそろそろ父に伝えて参ります」と云って立ち去った。
私は消えゆく陽炎を見るような心持ちでそれを眺めていた。
ただ漫然としてフローラの青い瞳を見つめていると、彼女の頬がぽうと薄赤くなった。
「好かったですわ。私……」
と云って、体の横に垂れ下がった私の手を取った。
「あなたと結婚できたらどれだけ仕合わせだろうと、そればかり考えていましたもの」
今度は私が頬を染める番であった。
しばらくそうして手を握り合っていると、フローラが「ではそろそろ父に伝えて参ります」と云って立ち去った。
私は消えゆく陽炎を見るような心持ちでそれを眺めていた。
628: 2017/01/30(月) 20:45:44.82 ID:dnyJRGJ6o
振り返ると、そこには笑顔のビアンカが居た。
昨日見せた苦悩も、葛藤も、あるはずの嫉妬も、毫も見せていなかった。
「好かったわ。フローラさんてのがどんな人かと心配だったけど、あれほど礼儀正しくて綺麗な人なら安心ね。あなたも好い人見つけたじゃない」と云って私の肩を叩いた。
そう云う彼女の瞳はしかし、どこか淋しげであった。
昨日見せた苦悩も、葛藤も、あるはずの嫉妬も、毫も見せていなかった。
「好かったわ。フローラさんてのがどんな人かと心配だったけど、あれほど礼儀正しくて綺麗な人なら安心ね。あなたも好い人見つけたじゃない」と云って私の肩を叩いた。
そう云う彼女の瞳はしかし、どこか淋しげであった。
629: 2017/01/30(月) 20:46:30.21 ID:dnyJRGJ6o
道を歩く商人が私を見るなりいやはや、羨ましいですなとぼやいた。
何しろあのご令嬢と結ばれるのだから万人の羨望を受けて然るべきである。
けれども私の心中には複雑に絡まった糸屑の固まりがあった。
そしてその中心にはビアンカと云う舶来品があった。
このもつれを解す方法を私は知っていたかもしれなかった。
しかし、そうすることは私とビアンカの間に掛けられた一縒りの関係を寸断することに他ならなかった。
私はそれを断行する勇気をついぞ持たなかった。
何しろあのご令嬢と結ばれるのだから万人の羨望を受けて然るべきである。
けれども私の心中には複雑に絡まった糸屑の固まりがあった。
そしてその中心にはビアンカと云う舶来品があった。
このもつれを解す方法を私は知っていたかもしれなかった。
しかし、そうすることは私とビアンカの間に掛けられた一縒りの関係を寸断することに他ならなかった。
私はそれを断行する勇気をついぞ持たなかった。
631: 2017/01/30(月) 20:47:06.61 ID:dnyJRGJ6o
商人が去った後、ビアンカが私の名を呼んだ。私は首を回して振り返った。
続けられた次の句は私にとって全く予想外な、いわば不意討ちにも等しい急激な勢力をもって私の胸を襲った。
続けられた次の句は私にとって全く予想外な、いわば不意討ちにも等しい急激な勢力をもって私の胸を襲った。
632: 2017/01/30(月) 20:47:33.78 ID:dnyJRGJ6o
「あなたは本当にフローラさんを愛してるの?」
633: 2017/01/30(月) 20:48:12.15 ID:dnyJRGJ6o
私はこの問いを、自分の持ちうる最大の驚きをもって迎えた。
それはあまりに生々しく、暴力的な意味を含んでいた。
彼女の切先に直面した私は、第一に身を強張らせて動きを止めた。
そうして固まった私は第二に、自身の心が激しく揺れ動くのを感じた。
それはあまりに生々しく、暴力的な意味を含んでいた。
彼女の切先に直面した私は、第一に身を強張らせて動きを止めた。
そうして固まった私は第二に、自身の心が激しく揺れ動くのを感じた。
634: 2017/01/30(月) 20:48:41.71 ID:dnyJRGJ6o
愛しているか。――そうであるとも、違うとも云えた。
けれどもそれは別の方面に対してははっきりと肯くことができた。
この二つの心の乖離が私を苦しめた。嘘も吐けず、誤魔化しも弄ぜられない私は喉頭に突きつけられた言葉の刃を撥ねつける術を持たなかった。
抜けるような空の下でただ粛然と棒立つばかりであった。
けれどもそれは別の方面に対してははっきりと肯くことができた。
この二つの心の乖離が私を苦しめた。嘘も吐けず、誤魔化しも弄ぜられない私は喉頭に突きつけられた言葉の刃を撥ねつける術を持たなかった。
抜けるような空の下でただ粛然と棒立つばかりであった。
635: 2017/01/30(月) 20:49:16.02 ID:dnyJRGJ6o
後ろからフローラが私を呼んだ。
「父が待っています。宅(うち)へ来てください」
私は弾かれたようにして彼女へついて行った。
後ろから刺さる視線に棘はなく、ただ昏い傍観の眼差しがあるだけだった。
「父が待っています。宅(うち)へ来てください」
私は弾かれたようにして彼女へついて行った。
後ろから刺さる視線に棘はなく、ただ昏い傍観の眼差しがあるだけだった。
636: 2017/01/30(月) 20:50:38.28 ID:dnyJRGJ6o
ルドマンはいつにも増してご機嫌だった。ふくよかな腹を遠慮なく揺らして私の肩を叩いた。
「火のリングを手に入れたときから直感しとった。君こそがフローラと結婚するにふさわしい男だとな。もう式の準備は粗方済ましてあるから、明日になったら早速契りを交わしたまえ」
わっはっはっはと豪快に笑って祝ってくれた。どうやらこんな私でもかの富豪の目に叶ったようである。
一先ず安心しながら屋敷を出ると、なにやら人が云い争う声が聞こえた。
それも少し調子の高い、女同士のものだから珍しく思って覗いてみたら、驚いた。
フローラとビアンカが差しで向かい合っている。
「火のリングを手に入れたときから直感しとった。君こそがフローラと結婚するにふさわしい男だとな。もう式の準備は粗方済ましてあるから、明日になったら早速契りを交わしたまえ」
わっはっはっはと豪快に笑って祝ってくれた。どうやらこんな私でもかの富豪の目に叶ったようである。
一先ず安心しながら屋敷を出ると、なにやら人が云い争う声が聞こえた。
それも少し調子の高い、女同士のものだから珍しく思って覗いてみたら、驚いた。
フローラとビアンカが差しで向かい合っている。
637: 2017/01/30(月) 20:51:52.79 ID:dnyJRGJ6o
慌てて間へ入り込んだら、二人の視線が一斉にこちらを射抜いた。
よくわからないが責められているような心持ちだ。
全体どうしたんだと尋ねたら、フローラが静かに語り始めた。
何でもさっきの私とビアンカの睦まじい様子を見て、フローラは私と彼女が慕い合っている仲だと確信したらしい。
そうして、私が屋敷に入るのを見計らってビアンカに次第を問い質したという。
無論ビアンカは悉く否定したものの、フローラは頑としてそうであると極めつけてしまっているらしい。
よくわからないが責められているような心持ちだ。
全体どうしたんだと尋ねたら、フローラが静かに語り始めた。
何でもさっきの私とビアンカの睦まじい様子を見て、フローラは私と彼女が慕い合っている仲だと確信したらしい。
そうして、私が屋敷に入るのを見計らってビアンカに次第を問い質したという。
無論ビアンカは悉く否定したものの、フローラは頑としてそうであると極めつけてしまっているらしい。
638: 2017/01/30(月) 20:53:47.19 ID:dnyJRGJ6o
君はどうしてそう思う、とフローラに尋ねた。
「先程の二人の間にある視線は尋常の男女間にもたらされるものではありませんでした。私は直感しました。理非に叶っていないと嗤われるかもしれませんが、どうしてもわかるのです。あなた方はきっと互いに愛し合っています」
彼女は毅然としてこう云い放った。
私は云うべき言葉を失った。そうしてフローラの青い瞳を見つめた。
そこに愁いや悲しみはひとかけらもなかった。
「先程の二人の間にある視線は尋常の男女間にもたらされるものではありませんでした。私は直感しました。理非に叶っていないと嗤われるかもしれませんが、どうしてもわかるのです。あなた方はきっと互いに愛し合っています」
彼女は毅然としてこう云い放った。
私は云うべき言葉を失った。そうしてフローラの青い瞳を見つめた。
そこに愁いや悲しみはひとかけらもなかった。
639: 2017/01/30(月) 20:55:55.03 ID:dnyJRGJ6o
私は絞るようにして声を出した。
「例いそうだったとして、あなたはなぜそれを打ち明ける必要がありますか。黙っていれば私と結婚できるのじゃありませんか」
フローラは一瞬だけ顔に翳りを見せた。しかしすぐに払って、
「思い合った者同士の心を顧みずに結婚しようなんて了見はありませんわ」と云った。
「例いそうだったとして、あなたはなぜそれを打ち明ける必要がありますか。黙っていれば私と結婚できるのじゃありませんか」
フローラは一瞬だけ顔に翳りを見せた。しかしすぐに払って、
「思い合った者同士の心を顧みずに結婚しようなんて了見はありませんわ」と云った。
640: 2017/01/30(月) 20:56:39.83 ID:dnyJRGJ6o
その時、後ろから何者かが近づいてきた。騒ぎを聞いて駆け付けたらしいルドマンである。
しばらくビアンカの顔を射るように見つめていたが、やがて
「フローラや。もし彼がビアンカさんを選ぶとしても、お前は悔いはないね」と云った。
フローラは「もちろんですわ」と云った。私は一寸状況が飲み込めなかった。
呆然とする私に向かって、ルドマンは厳かに告げた。
「明日までに、二人のどちらと結婚するか極めなさい」
しばらくビアンカの顔を射るように見つめていたが、やがて
「フローラや。もし彼がビアンカさんを選ぶとしても、お前は悔いはないね」と云った。
フローラは「もちろんですわ」と云った。私は一寸状況が飲み込めなかった。
呆然とする私に向かって、ルドマンは厳かに告げた。
「明日までに、二人のどちらと結婚するか極めなさい」
641: 2017/01/30(月) 20:57:58.07 ID:dnyJRGJ6o
私は少なからず驚いた。それはビアンカも同様だった。
ビアンカは狼狽して、「私なんかより、ご息女にもらわせれば好いではないですか」とルドマンに訊いた。
ルドマンはその時、意外にもにやりと笑った。
「実を云うとね。私はこう云った懊悩の果ての恋愛が大の好物なのだよ。見る限り彼はビアンカさんを好いているようだ。またフローラのことも同様。でもってここに大恋愛の極致を見いだすか、あるいは物質的、地位的な観念の下にフローラを選ぶか。これを是非とも見届けたい。もっともフローラも彼が気に入っているようだから、いずれを選んでも愛に事欠くこともなかろう。それこそ、彼の意思によって全てが極まるのだ。その苦悩の決断を私に見せてくれ」
こう云ってまたもや例の哄笑を響かせながら、ルドマンは帰って行った。
後には私を想う清楚な若姫と、一途で快活な女君と、選択の権利を手に呆然と立つ若者が取り残された。
ビアンカは狼狽して、「私なんかより、ご息女にもらわせれば好いではないですか」とルドマンに訊いた。
ルドマンはその時、意外にもにやりと笑った。
「実を云うとね。私はこう云った懊悩の果ての恋愛が大の好物なのだよ。見る限り彼はビアンカさんを好いているようだ。またフローラのことも同様。でもってここに大恋愛の極致を見いだすか、あるいは物質的、地位的な観念の下にフローラを選ぶか。これを是非とも見届けたい。もっともフローラも彼が気に入っているようだから、いずれを選んでも愛に事欠くこともなかろう。それこそ、彼の意思によって全てが極まるのだ。その苦悩の決断を私に見せてくれ」
こう云ってまたもや例の哄笑を響かせながら、ルドマンは帰って行った。
後には私を想う清楚な若姫と、一途で快活な女君と、選択の権利を手に呆然と立つ若者が取り残された。
642: 2017/01/30(月) 20:58:40.77 ID:dnyJRGJ6o
フローラは屋敷へ帰った。ビアンカはルドマンの別邸に泊まることとなった。私は相変わらず町の宿である。
なぜ将来義子となるやもしれん者を安宿に置いて、赤の他人確定の彼女をわざわざ別邸に泊めてやるのか意図は分からないが、ただで泊まれるのだから素直に喜ぶべきであろう。
道々で人々が私を垣間見ては、ひそひそと囁きあう。どうやらさっきの話がどこからか漏れたらしい。
噂とは恐ろしいものだ。ひょっとすると電報よりよっぽど伝送が早い。
もっともそれも無理はないだろう。何せこの町きってのお嬢様と、ぽっと出の村娘を天秤にかけるような男だ。
しばらくは人々の好奇の視線からは逃れられんだろう。
なぜ将来義子となるやもしれん者を安宿に置いて、赤の他人確定の彼女をわざわざ別邸に泊めてやるのか意図は分からないが、ただで泊まれるのだから素直に喜ぶべきであろう。
道々で人々が私を垣間見ては、ひそひそと囁きあう。どうやらさっきの話がどこからか漏れたらしい。
噂とは恐ろしいものだ。ひょっとすると電報よりよっぽど伝送が早い。
もっともそれも無理はないだろう。何せこの町きってのお嬢様と、ぽっと出の村娘を天秤にかけるような男だ。
しばらくは人々の好奇の視線からは逃れられんだろう。
643: 2017/01/30(月) 20:59:31.25 ID:dnyJRGJ6o
町の若い男なんかはやあ、大変だねと知らない仲のはずをまるで莫逆の友のように振る舞う。
平生の私ならそういった軽い態度はうざったくて仕様がないはずだったが、今日に限ってはそんな奴らの声が聞いてみたいと思った。
ビアンカとフローラについて聞いてみれば、やはり大衆の意見と私の見解は概ね一致していた。
ただ彼らは私とビアンカの仲を知らないので少し軽んじている風潮も見られた。
平生の私ならそういった軽い態度はうざったくて仕様がないはずだったが、今日に限ってはそんな奴らの声が聞いてみたいと思った。
ビアンカとフローラについて聞いてみれば、やはり大衆の意見と私の見解は概ね一致していた。
ただ彼らは私とビアンカの仲を知らないので少し軽んじている風潮も見られた。
644: 2017/01/30(月) 21:00:07.55 ID:dnyJRGJ6o
ふと思って、お転婆を絵に描いたようなデボラを引き合いに出してみると、みな揃いも揃ってやめておけ、とんでもない、不幸になるなどと不躾極まりない。
彼女の人望の程が窺えるが、こう云われて逆に興味が湧いてきた。
人間、やめとけやめとけと云われるだけ却ってやってみたくなるものである。
屋敷を訪ねてみたが、相変わらず行方の知れないところへ放蕩しているらしい。
あれだけお洒落で美人なんだから、素行さえ好ければ引く手数多だったろうにと思った。
彼女の人望の程が窺えるが、こう云われて逆に興味が湧いてきた。
人間、やめとけやめとけと云われるだけ却ってやってみたくなるものである。
屋敷を訪ねてみたが、相変わらず行方の知れないところへ放蕩しているらしい。
あれだけお洒落で美人なんだから、素行さえ好ければ引く手数多だったろうにと思った。
645: 2017/01/30(月) 21:01:44.77 ID:dnyJRGJ6o
日が暮れるにつれ、だんだん気持ちが沈んでいった。
いよいよ明日になれば、どちらかを悲しませねばならない。
酒場で夕膳を取っても、ボール紙を噛んでいるようで味がしなかった。
あるいはビアンカの料理で舌が肥えたのかもしれない。
風呂を浴びて床についても、私は意識を鎮めることができなかった。
いよいよ明日になれば、どちらかを悲しませねばならない。
酒場で夕膳を取っても、ボール紙を噛んでいるようで味がしなかった。
あるいはビアンカの料理で舌が肥えたのかもしれない。
風呂を浴びて床についても、私は意識を鎮めることができなかった。
646: 2017/01/30(月) 21:02:42.90 ID:dnyJRGJ6o
いっそのこと適当に賽を振ってしまいたかった。
しかしそう簡単に極めてしまっては彼女らに申し訳が立たないと思った。
考え通すにしたっていつまでも寝床の中でのつそつとしても心持ちが好くないから、外に出てみることにしてみた。
布団から跳ね起きて宿の者を呼んで、次第を説明した。
今思うと、彼もよくも承知したものだ。大抵なら泥棒と間違えられるところだ。
しかしそう簡単に極めてしまっては彼女らに申し訳が立たないと思った。
考え通すにしたっていつまでも寝床の中でのつそつとしても心持ちが好くないから、外に出てみることにしてみた。
布団から跳ね起きて宿の者を呼んで、次第を説明した。
今思うと、彼もよくも承知したものだ。大抵なら泥棒と間違えられるところだ。
647: 2017/01/30(月) 21:03:44.72 ID:dnyJRGJ6o
噴水は憩う者も見る人もいないのに、ご苦労千万にもざあざあと水を循環させている。
そっと水に触れてみると、冷たさに一寸竦んだ。
手で掬って頬にかけてみると、頭がせいせいした。
夜風に吹かれながら町をぶらぶらした。
幸いなことに、辺りは人も猫もおらず沈思黙考にうってつけの夜だった。
そっと水に触れてみると、冷たさに一寸竦んだ。
手で掬って頬にかけてみると、頭がせいせいした。
夜風に吹かれながら町をぶらぶらした。
幸いなことに、辺りは人も猫もおらず沈思黙考にうってつけの夜だった。
648: 2017/01/30(月) 21:04:34.68 ID:dnyJRGJ6o
どこからか窓の開く音がした。見上げてみると、民家から火傷を負ったアンディが顔を出していた。
視線は遥か空の彼方を見つめ、私の存在には気づいていないようだ。
私が声をかけてやると、彼は飛び上がらんばかりに驚いてこちらを見つめた。
そしてさっと首を引っ込めて窓を閉めた。
視線は遥か空の彼方を見つめ、私の存在には気づいていないようだ。
私が声をかけてやると、彼は飛び上がらんばかりに驚いてこちらを見つめた。
そしてさっと首を引っ込めて窓を閉めた。
649: 2017/01/30(月) 21:05:01.63 ID:dnyJRGJ6o
しばらくすると階段を駆け下りる音がして、民家の扉が開いた。
アンディは私の手を取るなりよくやりましたね、それでこそフローラと結ばれる殿方だと大いに喜んでいる。
大方怪我で寝ていたから事の次第を知らないんだろう。
順序立てて私の状況を説明してやると、それならもう知っていますと返事が来た。
アンディは私の手を取るなりよくやりましたね、それでこそフローラと結ばれる殿方だと大いに喜んでいる。
大方怪我で寝ていたから事の次第を知らないんだろう。
順序立てて私の状況を説明してやると、それならもう知っていますと返事が来た。
650: 2017/01/30(月) 21:05:28.03 ID:dnyJRGJ6o
「私が迷っていることは知っているだろう」
「それはあくまで、ビアンカさんの体裁を繕うためでしょう。あなたはフローラさんを選ぶでしょう」
「いや、分からん。まだ極まらない」
アンディはかっと目を見開いた。
「どうしてですか」
「君は知らないだろうが、ビアンカもフローラに負けないくらい素敵な人なんだ。きっと私と同じ立場なら君も迷うだろう」
「迷いません。フローラさんを選びます」
「そりゃあ君はフローラさんが好きだから――」
「そればかりじゃありません。フローラさんは本当にあなたのことが好きなんですよ」
そう云うアンディの目は非常な真剣味を帯びていた。口調に真に迫るものがあった。
「それはあくまで、ビアンカさんの体裁を繕うためでしょう。あなたはフローラさんを選ぶでしょう」
「いや、分からん。まだ極まらない」
アンディはかっと目を見開いた。
「どうしてですか」
「君は知らないだろうが、ビアンカもフローラに負けないくらい素敵な人なんだ。きっと私と同じ立場なら君も迷うだろう」
「迷いません。フローラさんを選びます」
「そりゃあ君はフローラさんが好きだから――」
「そればかりじゃありません。フローラさんは本当にあなたのことが好きなんですよ」
そう云うアンディの目は非常な真剣味を帯びていた。口調に真に迫るものがあった。
651: 2017/01/30(月) 21:06:02.29 ID:dnyJRGJ6o
「フローラはまだ治りきらない僕の火傷の治療に来てくれます。そしてそのたび、やはりあなたのことを話します。以前していた話題そっちのけで、あなたとの思いでばかり話すんですよ」
アンディの声は次第に水気を帯びていた。想い人から語られる別の男の話がいかに苦痛だったか、想像するだに痛ましい。
「聞けば十年前、それこそ僕とフローラが出会う前に、一度彼女と出会ったそうですね。それも優しい言葉をかけて彼女の心を奪ったとか。そこまでして、どうして彼女を選ばない非道ができますか」
「その時はなにもその気で云ったんじゃない。第一、十年前の話ならフローラよりビアンカの方が接触は多かった」
「それでも彼女はあなたを愛しているんですよ。そのビアンカさんは彼女ほどにあなたを愛していますか」
「愛している。きっと負けないくらいに愛している。だからこそ迷うんだ」
「それでも、あんまりだ。最近になって会ったのはフローラが先だ。あなたは彼女と結婚するためにあんな所まで行った。それを今更蹴って、彼女を悲しませるなんて、酷いじゃありませんか。酷い。あんまりだ……」
アンディの声は次第に水気を帯びていた。想い人から語られる別の男の話がいかに苦痛だったか、想像するだに痛ましい。
「聞けば十年前、それこそ僕とフローラが出会う前に、一度彼女と出会ったそうですね。それも優しい言葉をかけて彼女の心を奪ったとか。そこまでして、どうして彼女を選ばない非道ができますか」
「その時はなにもその気で云ったんじゃない。第一、十年前の話ならフローラよりビアンカの方が接触は多かった」
「それでも彼女はあなたを愛しているんですよ。そのビアンカさんは彼女ほどにあなたを愛していますか」
「愛している。きっと負けないくらいに愛している。だからこそ迷うんだ」
「それでも、あんまりだ。最近になって会ったのはフローラが先だ。あなたは彼女と結婚するためにあんな所まで行った。それを今更蹴って、彼女を悲しませるなんて、酷いじゃありませんか。酷い。あんまりだ……」
652: 2017/01/30(月) 21:06:53.53 ID:dnyJRGJ6o
彼の声はもう嗄れかけていた。そうして声にならない音を喉の奥から必氏に出そうとしていた。
満身創痍の彼の肩を持ってベッドに寝かせてやった。
眠る彼の目には幾筋もの涙の跡が見て取れた。
満身創痍の彼の肩を持ってベッドに寝かせてやった。
眠る彼の目には幾筋もの涙の跡が見て取れた。
653: 2017/01/30(月) 21:07:28.85 ID:dnyJRGJ6o
噴水の縁に座って、膝に頭を埋めた。私は今まで大きな思い違いをしていた。
結婚とは私一人で完結するものではない。
両人で行う共同作業なのだ。相手の心理を汲み取ってやれねば、伴侶となっても仕合せでいられる保証はない。
結婚とは私一人で完結するものではない。
両人で行う共同作業なのだ。相手の心理を汲み取ってやれねば、伴侶となっても仕合せでいられる保証はない。
654: 2017/01/30(月) 21:08:08.66 ID:dnyJRGJ6o
フローラはアンディの云うとおり、私を深く愛しているだろう。
でなければあの時、あれほど幸せな顔を見せることはないはずだ。
しかしビアンカが負けているはずもない。彼女は私のために危険な洞窟へ赴き、飯を拵え、あまつさえ風呂にまで入った。また直接言葉で私を意識していることも告げた。
対してフローラも十年前から想い続けていたらしいから、いよいよ甲乙つけがたい。
このまま一人頭の中でぐるぐると思案し続けていても成果が得られないような気がした。
この際、直接彼女らと話を付けてみても好いかもしれない。
でなければあの時、あれほど幸せな顔を見せることはないはずだ。
しかしビアンカが負けているはずもない。彼女は私のために危険な洞窟へ赴き、飯を拵え、あまつさえ風呂にまで入った。また直接言葉で私を意識していることも告げた。
対してフローラも十年前から想い続けていたらしいから、いよいよ甲乙つけがたい。
このまま一人頭の中でぐるぐると思案し続けていても成果が得られないような気がした。
この際、直接彼女らと話を付けてみても好いかもしれない。
655: 2017/01/30(月) 21:08:47.82 ID:dnyJRGJ6o
屋敷は当然閉まっていた。先程のアンディのように窓から顔を出すのを期待したが、そうそう起こるべくもない。
諦めて後ろを振り返ったとき、目の前に影が立ちはだかった。
見ると、随分と派手な格好をした黒髪の女が立っていた。
「何してんの?」とぞんざいであるので、「貴様こそ女子が無暗に夜更けを出歩くのは頂けんな」と横柄に返した。
諦めて後ろを振り返ったとき、目の前に影が立ちはだかった。
見ると、随分と派手な格好をした黒髪の女が立っていた。
「何してんの?」とぞんざいであるので、「貴様こそ女子が無暗に夜更けを出歩くのは頂けんな」と横柄に返した。
656: 2017/01/30(月) 21:09:35.64 ID:dnyJRGJ6o
「別にどうでもいいでしょ。私の勝手だし」
「私がフローラと結婚すれば私は貴様の義弟となる。義姉がいい年をして方々遊びまわっていると外聞が悪い」
「あら、あなたフローラと結婚するつもりなの?」
「まだ極まったわけではないが……」
「じゃあ猶更あんたに云われたくないわね。あんたが私の親か兄弟ならまだ聞くけど」
「私が貴様の親族なら、それこそ犬猿どころの騒ぎではないな」
「犬猿ですって。違うわ。鯨と小魚よ。勿論私が鯨の方」
「貴様が鯨? ばくだんベビーみたいな頭しているくせに好く云う」
「云ってくれるじゃない。あんたも小魚みたいな栄養満点な顔ぶら下げてると人から笑われるわよ」
「生憎私は背格好は人に馬鹿にされるほどではない」
「いいえ、あなたはきっと小魚よ。それも鯨に飲み干されるような矮小なね」
「何ださっきから。余程小魚が好きと見えるね」
「別に、好きじゃないし」
「私がフローラと結婚すれば私は貴様の義弟となる。義姉がいい年をして方々遊びまわっていると外聞が悪い」
「あら、あなたフローラと結婚するつもりなの?」
「まだ極まったわけではないが……」
「じゃあ猶更あんたに云われたくないわね。あんたが私の親か兄弟ならまだ聞くけど」
「私が貴様の親族なら、それこそ犬猿どころの騒ぎではないな」
「犬猿ですって。違うわ。鯨と小魚よ。勿論私が鯨の方」
「貴様が鯨? ばくだんベビーみたいな頭しているくせに好く云う」
「云ってくれるじゃない。あんたも小魚みたいな栄養満点な顔ぶら下げてると人から笑われるわよ」
「生憎私は背格好は人に馬鹿にされるほどではない」
「いいえ、あなたはきっと小魚よ。それも鯨に飲み干されるような矮小なね」
「何ださっきから。余程小魚が好きと見えるね」
「別に、好きじゃないし」
657: 2017/01/30(月) 21:10:12.30 ID:dnyJRGJ6o
「それはどうでも好いが、君は好い加減結婚しないのか」
「私に釣り合う男が現れないのよ。仕方ないじゃない」
「君と釣り合うような小魚はこの世にそう多くはない。好い加減なところで腹を据えるべきだろう」
「うるさいわね。じゃあ何よ、あなたが貰ってくれるのかしら!」
「私に釣り合う男が現れないのよ。仕方ないじゃない」
「君と釣り合うような小魚はこの世にそう多くはない。好い加減なところで腹を据えるべきだろう」
「うるさいわね。じゃあ何よ、あなたが貰ってくれるのかしら!」
658: 2017/01/30(月) 21:10:41.40 ID:dnyJRGJ6o
私は口を結んだ。そうしてデボラの顔を真向かいに見つめた。
デボラは自分の云ったことを反芻して、理解して、ようやく悟ったのか、顔を真っ赤に紅潮させて「ち、違うんだからね、今のは……」とぶつぶつやっている。
私は腕を伸ばして、量感のある髪に手を置いた。デボラの頭を静かに撫でた。
「せっかく綺麗なんだからそうつんつんしていると勿体ないぞ」
デボラはぱっと私の手を払って、「余計なお世話よ」と云って屋敷へ上がった。
彼女は真っ赤になった自分の耳に気がついていないようだった。
デボラは自分の云ったことを反芻して、理解して、ようやく悟ったのか、顔を真っ赤に紅潮させて「ち、違うんだからね、今のは……」とぶつぶつやっている。
私は腕を伸ばして、量感のある髪に手を置いた。デボラの頭を静かに撫でた。
「せっかく綺麗なんだからそうつんつんしていると勿体ないぞ」
デボラはぱっと私の手を払って、「余計なお世話よ」と云って屋敷へ上がった。
彼女は真っ赤になった自分の耳に気がついていないようだった。
659: 2017/01/30(月) 21:11:24.10 ID:dnyJRGJ6o
デボラが屋敷の戸を叩くと、メードが待っていました云わんばかりに扉を開けた。
中は明かりまでついている。余程待ちかねたと見える。
デボラを中に入れた後、メードが私に気づいた。会釈をして閉めようとする扉に、私は素早く手をかけた。
怪しまれない内に、好かったらフローラさんに会わせてもらえませんかと云った。
メードは一瞬不審げな顔をしたが、私の容貌を覚えていてくれたようで、遅うございますから早めに済ましてくださいなと云って入れてくれた。
中は明かりまでついている。余程待ちかねたと見える。
デボラを中に入れた後、メードが私に気づいた。会釈をして閉めようとする扉に、私は素早く手をかけた。
怪しまれない内に、好かったらフローラさんに会わせてもらえませんかと云った。
メードは一瞬不審げな顔をしたが、私の容貌を覚えていてくれたようで、遅うございますから早めに済ましてくださいなと云って入れてくれた。
660: 2017/01/30(月) 21:11:53.32 ID:dnyJRGJ6o
ルドマンはまだ起きていた。結婚式の準備で忙しいようだ。
もし私がビアンカを選んだら無駄になりませんかと訊いたら、いや、君がどちらを選んでも支度をしてやると云われた。
私は少なからず驚いた。どうして赤の他人の婚儀を受け持つ必要があるのか。
もし私がビアンカを選んだら無駄になりませんかと訊いたら、いや、君がどちらを選んでも支度をしてやると云われた。
私は少なからず驚いた。どうして赤の他人の婚儀を受け持つ必要があるのか。
661: 2017/01/30(月) 21:12:29.76 ID:dnyJRGJ6o
するとルドマンはわっはっはっはと夜中にも関わらず大声で笑って、
「云ったろう。私は君のような若者が好きなのだ。何しろ君は私の試練を乗り越えた強者だ。むしろ世話をしてやれるこっちが嬉しいくらいだ」と云った。
私は深々と頭を下げた。正直、今の私の手持ちではまともな式をあげられそうにないと勘定していたところだ。
今まで金にあまり終着のない私であったが、家庭を持つ以上少なからず意識に置いておくべきかもしれない。
「云ったろう。私は君のような若者が好きなのだ。何しろ君は私の試練を乗り越えた強者だ。むしろ世話をしてやれるこっちが嬉しいくらいだ」と云った。
私は深々と頭を下げた。正直、今の私の手持ちではまともな式をあげられそうにないと勘定していたところだ。
今まで金にあまり終着のない私であったが、家庭を持つ以上少なからず意識に置いておくべきかもしれない。
662: 2017/01/30(月) 21:13:10.34 ID:dnyJRGJ6o
屋敷は外面だけを見ると二階建てだが、不思議なことに三階まである。
興味を覚えて昇ってみると、廊下もない、ドアもない、ただ部屋にぽつねんと階段が設えているだけの手の抜いた構造の部屋である。
構造はともかく、目に付いたのはそこらじゅうに立てかけられた数々の衣装立てであった。
どれもやはり煌びやかで、派手な色合いをしつつ調和が取れていて生半可の手並みでない。
不思議な光景に魅了されていると、ちょっと、ここは私の部屋なんだから勝手に入らないでよねと怒号が飛び込んできた。
興味を覚えて昇ってみると、廊下もない、ドアもない、ただ部屋にぽつねんと階段が設えているだけの手の抜いた構造の部屋である。
構造はともかく、目に付いたのはそこらじゅうに立てかけられた数々の衣装立てであった。
どれもやはり煌びやかで、派手な色合いをしつつ調和が取れていて生半可の手並みでない。
不思議な光景に魅了されていると、ちょっと、ここは私の部屋なんだから勝手に入らないでよねと怒号が飛び込んできた。
663: 2017/01/30(月) 21:14:23.44 ID:dnyJRGJ6o
目の前には黒髪の女が立っていた。
遊び疲れて眠たいのか、ピンクの寝間着を着ている。ただ寝間着にしてはちょっと露出が派手である。
その無防備な姿に思わずたじろいで、済まないと云って引き退がろうとすると、待ちなさいよと肩を掴まれた。
おずおずと振り返ってみた。もう寝る頃合いだというのに、デボラは化粧を落としていなかった。
遊び疲れて眠たいのか、ピンクの寝間着を着ている。ただ寝間着にしてはちょっと露出が派手である。
その無防備な姿に思わずたじろいで、済まないと云って引き退がろうとすると、待ちなさいよと肩を掴まれた。
おずおずと振り返ってみた。もう寝る頃合いだというのに、デボラは化粧を落としていなかった。
664: 2017/01/30(月) 21:15:04.32 ID:dnyJRGJ6o
「勝手に入った罰金」
と云って、手を差し出してくる。私は身を震わした。
目の前には、あの時と変わらぬ悪戯っ気の色をした瞳があった。
見覚えのある手を取って、甲にキスをした。マニキュアの匂いが鼻をくすぐった。
しかし黒いお転婆は、以前のように狼狽しなかった。
代わりにウフフと笑って、それじゃあ足りないわと云って私の顎を指で持ち上げた。
我々は正面から真向いた。そうしてしばらくの間見つめ合った。
と云って、手を差し出してくる。私は身を震わした。
目の前には、あの時と変わらぬ悪戯っ気の色をした瞳があった。
見覚えのある手を取って、甲にキスをした。マニキュアの匂いが鼻をくすぐった。
しかし黒いお転婆は、以前のように狼狽しなかった。
代わりにウフフと笑って、それじゃあ足りないわと云って私の顎を指で持ち上げた。
我々は正面から真向いた。そうしてしばらくの間見つめ合った。
665: 2017/01/30(月) 21:15:37.03 ID:dnyJRGJ6o
私は階段を下りた。
まさに夢のようなひとときであった。現実のものとはとうてい思えなかった。
ぼんやりと頭が霞んで、しばらく何も考えられなかった。
まさかあのお転婆があれほど茶目っ気を増していたとは。
妻持ちの瀬戸際にいる私にキスを――それも子供のするようなものでない、本格的なものを迫るとは、場合によっては訴えられるところだ。
二階にフローラの部屋があるのを見つけたが、私はしばらく戸を叩けなかった。
頬に差した赤みが消えるまで、じっと窓の外を見つめ続けていた。
まさに夢のようなひとときであった。現実のものとはとうてい思えなかった。
ぼんやりと頭が霞んで、しばらく何も考えられなかった。
まさかあのお転婆があれほど茶目っ気を増していたとは。
妻持ちの瀬戸際にいる私にキスを――それも子供のするようなものでない、本格的なものを迫るとは、場合によっては訴えられるところだ。
二階にフローラの部屋があるのを見つけたが、私はしばらく戸を叩けなかった。
頬に差した赤みが消えるまで、じっと窓の外を見つめ続けていた。
666: 2017/01/30(月) 21:17:51.80 ID:dnyJRGJ6o
窓に写る顔から惚けた表情が消えるのを確認したとき、後ろからきい、と軋む音がした。
振り返ると、先程まで閉まっていたフローラの部屋の扉が開いている。
部屋の中は既に暗くなっており、主が就寝したことを暗に告げていた。
少し落胆した。まだ夜も浅いが、お嬢様なのだから寝ないとも限らない。
振り返ると、先程まで閉まっていたフローラの部屋の扉が開いている。
部屋の中は既に暗くなっており、主が就寝したことを暗に告げていた。
少し落胆した。まだ夜も浅いが、お嬢様なのだから寝ないとも限らない。
667: 2017/01/30(月) 21:21:43.09 ID:dnyJRGJ6o
扉を閉めようと手をかけたとき、突然部屋の中から突風が吹き出た。
驚いて中を改めてみると、部屋の中の窓が全くもって開け放されている。
いくら床を暖めてもこれではたちまち風邪を引いてしまう。
メードを呼ぼうと思ったが、どうしてか全員退いていた。
後で聞けば、ルドマンが明日の式のために早めに帰らせたらしい。間の悪いことだ。
驚いて中を改めてみると、部屋の中の窓が全くもって開け放されている。
いくら床を暖めてもこれではたちまち風邪を引いてしまう。
メードを呼ぼうと思ったが、どうしてか全員退いていた。
後で聞けば、ルドマンが明日の式のために早めに帰らせたらしい。間の悪いことだ。
668: 2017/01/30(月) 21:22:43.69 ID:dnyJRGJ6o
唾を飲んだ。別に泥棒しに入るわけじゃあるまいし、堂々とすれば好いのだが、どうしても心持ちが好くない。
抜き差し差し足で窓辺へ忍び寄り、そっと窓を閉めた。
風の音がなくなり、途端に部屋に静寂が訪れた。
一層気を配って足を運んでいると、ちらと目の端にベッドが垣間見えた。
すると今まで鎮めていた緊張がにわかに大きくなって私の胸を襲った。
気がつくと、私の足はドアとは別の方角を向いていた。
抜き差し差し足で窓辺へ忍び寄り、そっと窓を閉めた。
風の音がなくなり、途端に部屋に静寂が訪れた。
一層気を配って足を運んでいると、ちらと目の端にベッドが垣間見えた。
すると今まで鎮めていた緊張がにわかに大きくなって私の胸を襲った。
気がつくと、私の足はドアとは別の方角を向いていた。
669: 2017/01/30(月) 21:23:53.00 ID:dnyJRGJ6o
綺麗に整えられた上質なベッドの上には、これまた綺麗に整った顔立ちの美しいご令嬢が寝ていた。
すうすうと静かな寝息が微かに耳に入った。目の前にある顔はさっきのデボラよりもよっぽど無防備であった。
その穏やかな顔を見ているうちに背徳感がふつふつと胸の内にわき起こってきた。
すうすうと静かな寝息が微かに耳に入った。目の前にある顔はさっきのデボラよりもよっぽど無防備であった。
その穏やかな顔を見ているうちに背徳感がふつふつと胸の内にわき起こってきた。
670: 2017/01/30(月) 21:24:20.44 ID:dnyJRGJ6o
これ以上はいかん、帰れと云う理性の命令はしかし、もっと見てみたいという欲求に負けてしまった。
腰を屈めて清楚な顔の前へ覗き込んだ。瞼は閉じられているが、そこに納められた青い瞳に思いを馳せた。
そうしてしばらくフローラの寝顔を見つめ続けていると、不意に開かれた彼女の瞳に私の顔が映った。
腰を屈めて清楚な顔の前へ覗き込んだ。瞼は閉じられているが、そこに納められた青い瞳に思いを馳せた。
そうしてしばらくフローラの寝顔を見つめ続けていると、不意に開かれた彼女の瞳に私の顔が映った。
671: 2017/01/30(月) 21:24:54.37 ID:dnyJRGJ6o
私は後ろに飛び上がっていや、これは、すまないこれはと全霊を込めて平謝った。
地にひれ伏しているから立ち上がった彼女の顔は見えないが、きっと軽蔑の眼差しに満ちていたに違いない。
そうして平身低頭の限りを尽くして床に這い蹲っていると、フローラの優しい声が聞こえた。
顔を上げるとそこには、ただ恥じらいに頬を薄赤くした乙女の容顔があった。
地にひれ伏しているから立ち上がった彼女の顔は見えないが、きっと軽蔑の眼差しに満ちていたに違いない。
そうして平身低頭の限りを尽くして床に這い蹲っていると、フローラの優しい声が聞こえた。
顔を上げるとそこには、ただ恥じらいに頬を薄赤くした乙女の容顔があった。
672: 2017/01/30(月) 21:25:43.39 ID:dnyJRGJ6o
聞いたところに寄れば、彼女が寝たのはほんの今し方の時分らしい。
上の階でデボラと私の話し声を聞いて驚いて、ドアも窓も閉てずに急いで床についたとか。
私が部屋に入ったときはびっくりしたそうだが、窓を閉めてくれたのでほっとしたと云う。
寝顔を見られたことについてはちょっと恥ずかしいと云っていた。
上の階でデボラと私の話し声を聞いて驚いて、ドアも窓も閉てずに急いで床についたとか。
私が部屋に入ったときはびっくりしたそうだが、窓を閉めてくれたのでほっとしたと云う。
寝顔を見られたことについてはちょっと恥ずかしいと云っていた。
673: 2017/01/30(月) 21:26:40.04 ID:dnyJRGJ6o
正座で話を聞いていた私は再度頭を下げた。女子の部屋に無断で忍び入った真似ばかりは弁解のしようもない。
腹を切るつもりでいたら、なんと向こうは一切咎めないと云う。
むしろ狸寝入りで迎えもしなかったのを謝る始末だ。どうも持て余した。
結局お咎めなしと云うことになった。いくら結婚するかもしれない男だからって、こう放免してしまうのはちょっと甘すぎる気がした。
腹を切るつもりでいたら、なんと向こうは一切咎めないと云う。
むしろ狸寝入りで迎えもしなかったのを謝る始末だ。どうも持て余した。
結局お咎めなしと云うことになった。いくら結婚するかもしれない男だからって、こう放免してしまうのはちょっと甘すぎる気がした。
674: 2017/01/30(月) 21:27:16.60 ID:dnyJRGJ6o
私は居住まいを正して、フローラと向き合った。そうして数日前に云った言葉をもう一度彼女へ投げかけた。
「あなたは私のことが好きですか」
フローラは微笑んだ。おそらく「何を今更」と云った風な手合いだったのだろう。
何のこともなく、綺麗に云い放った。
「ええ。誰よりも深くお慕い申しております」
「あなたは私のことが好きですか」
フローラは微笑んだ。おそらく「何を今更」と云った風な手合いだったのだろう。
何のこともなく、綺麗に云い放った。
「ええ。誰よりも深くお慕い申しております」
675: 2017/01/30(月) 21:27:47.20 ID:dnyJRGJ6o
静かに屋敷を退いた。フローラは玄関まで見送ってくれた。
最後におやすみなさいと挨拶をしあって別れた。
私は月を仰いで息を吸った。
風はもう吹いていなかったが、静謐で美しい夜だった。
最後におやすみなさいと挨拶をしあって別れた。
私は月を仰いで息を吸った。
風はもう吹いていなかったが、静謐で美しい夜だった。
676: 2017/01/30(月) 21:29:16.40 ID:dnyJRGJ6o
邸宅の南にはルドマンの別邸がある。
ここを管理している下女は「別荘」と呼んでいるが、別荘は遠い避暑地のことを云うのであって、これほど近いものは別邸とか別宅とか云うもんだ。
おそらく田舎から奉公しに来たんで物の分別がつかんのだろう。
玄関を叩いてみると、しばらくして不機嫌な顔を隠そうともしない下女が現れ出た。
ここを管理している下女は「別荘」と呼んでいるが、別荘は遠い避暑地のことを云うのであって、これほど近いものは別邸とか別宅とか云うもんだ。
おそらく田舎から奉公しに来たんで物の分別がつかんのだろう。
玄関を叩いてみると、しばらくして不機嫌な顔を隠そうともしない下女が現れ出た。
677: 2017/01/30(月) 21:29:59.92 ID:dnyJRGJ6o
「ビアンカとちょっと話をしたいんですが」
「居ないよ」
「え? いえ、ルドマン氏からここに居ると聞いてやってきたんです」
「居ないよ」
「ええと、弱ったな。そんなはずはないんだが……」
「よし居たとして、何をする気だい。まさか夜這いじゃなかろうね」
「まさか。結婚前夜にそんな真似しやあしませんよ」
「どうだか。昨今の男どもは油断ならんからねえ」
一向に応じない。あまり粘っても疑いを濃くするだけだから早々に立ち退いた。
「居ないよ」
「え? いえ、ルドマン氏からここに居ると聞いてやってきたんです」
「居ないよ」
「ええと、弱ったな。そんなはずはないんだが……」
「よし居たとして、何をする気だい。まさか夜這いじゃなかろうね」
「まさか。結婚前夜にそんな真似しやあしませんよ」
「どうだか。昨今の男どもは油断ならんからねえ」
一向に応じない。あまり粘っても疑いを濃くするだけだから早々に立ち退いた。
678: 2017/01/30(月) 21:30:47.46 ID:dnyJRGJ6o
話せないのでは仕方がない。宿に戻ってもう一度床についた。
目を閉じているうち、瞼の裏には昼間のフローラの嬉しそうな顔が浮かんでいた。
きっと結婚して結ばれれば、あれよりずっと好い笑顔を見られるに違いない。
彼女との未来を妄想していると、あることに気がついた。
彼女と結婚してもらえるのは、愛と富ばかりでない。
目を閉じているうち、瞼の裏には昼間のフローラの嬉しそうな顔が浮かんでいた。
きっと結婚して結ばれれば、あれよりずっと好い笑顔を見られるに違いない。
彼女との未来を妄想していると、あることに気がついた。
彼女と結婚してもらえるのは、愛と富ばかりでない。
679: 2017/01/30(月) 21:32:07.46 ID:dnyJRGJ6o
私は衝撃を感じた。彼女と結婚すればすなわち、天空の盾を手に入れられる。
ひいては母を見つけるの目的に一層近づく。
そう、母に――あれほど渇望した母に、一歩近づくことができるのだ。
ひいては母を見つけるの目的に一層近づく。
そう、母に――あれほど渇望した母に、一歩近づくことができるのだ。
680: 2017/01/30(月) 21:32:55.29 ID:dnyJRGJ6o
私は母の温もりを知らない。優しさも知らない。笑顔も知らない。声も知らない。
私は母を知らない。
私は母を知らない。
681: 2017/01/30(月) 21:33:57.93 ID:dnyJRGJ6o
私の持つ痛みは、母を持つ人間には分からないかもしれない。
私のような立場に立ってみないと理解できないかもしれない。
けれども実際、私は烈しく不幸だった。
母の温もりを毫も知らぬ人生を過ごした痛みは現実であった。
そして私は血の滲むほど強く唇をかみしめて、ようやくそれに堪え得た。
私のような立場に立ってみないと理解できないかもしれない。
けれども実際、私は烈しく不幸だった。
母の温もりを毫も知らぬ人生を過ごした痛みは現実であった。
そして私は血の滲むほど強く唇をかみしめて、ようやくそれに堪え得た。
682: 2017/01/30(月) 21:35:06.01 ID:dnyJRGJ6o
だからこそ、母を知るためにここまで奔走し、生き延びてきた。
地獄のような十年を生き延びられたのも、一概に母のおかげである。
この生涯は母のためにあるようなものだ。であれば、私が選ぶ道は一つだ。
私は、フローラと結婚する。
地獄のような十年を生き延びられたのも、一概に母のおかげである。
この生涯は母のためにあるようなものだ。であれば、私が選ぶ道は一つだ。
私は、フローラと結婚する。
698: 2018/12/15(土) 18:36:36.03 ID:cljMvNgo0
そう決意したとき、私は胸の内で何かが叫ぶのを聞いた。それは紛れもない私の声であった。
お前は本当にフローラを愛せるのか。
お前が本当に愛したいと、一生を捧げてみたいと思ったのは誰なのだ。
お前を生涯愛したいと願い、それができるのは誰なのだ。
私の知らない私が、所在の知れぬ処で叫んでいた。
お前は本当にフローラを愛せるのか。
お前が本当に愛したいと、一生を捧げてみたいと思ったのは誰なのだ。
お前を生涯愛したいと願い、それができるのは誰なのだ。
私の知らない私が、所在の知れぬ処で叫んでいた。
699: 2018/12/15(土) 18:37:43.84 ID:cljMvNgo0
答えは知っていた。知っていても、表面に出すことのできない答えがあった。
私は再び苦悩した。金色の光がかすめ、鼻先に一つの顔を突きつけた。
十年の時を経て美しくなった彼女は、既に私の心を縛り付けていた。
私は再び苦悩した。金色の光がかすめ、鼻先に一つの顔を突きつけた。
十年の時を経て美しくなった彼女は、既に私の心を縛り付けていた。
700: 2018/12/15(土) 18:38:59.04 ID:cljMvNgo0
また外に出た。今度は宿の者も寝てしまったので無断で外へ出た。いよいよもって泥棒沙汰である。
ルドマンの別邸を見据えた。あすこに居る彼女と直接話ができたらどれだけ好いだろうと思った。
懸命に意識を逸らして、空を見上げた。小さいながらに輝く星々が夜空に散漫している。
息をのむほど綺麗な光景はしかし、私の心を動かすには至らなかった。
その時、私を呼ぶ声が聞こえた。
ルドマンの別邸を見据えた。あすこに居る彼女と直接話ができたらどれだけ好いだろうと思った。
懸命に意識を逸らして、空を見上げた。小さいながらに輝く星々が夜空に散漫している。
息をのむほど綺麗な光景はしかし、私の心を動かすには至らなかった。
その時、私を呼ぶ声が聞こえた。
701: 2018/12/15(土) 18:40:04.51 ID:cljMvNgo0
振り返っても、見回しても人影はない。また路傍のどこかから声がした。
聞き覚えのある声色に私はぞくりとした。確かサンタローズで……
気配の方向へ駆け出すと、建物の陰にゴルキがいた。いつか見たような瞳でゴルキが私を見ていた。
私は手をゴルキに差し出した。ゴルキは私の手には目もくれずに駆けだした。
追いかける足が、不意に地中へ沈み込んだ。
あっと息をつく暇もなく、重力に引っ張られて私の体は別世界へ落下した。
聞き覚えのある声色に私はぞくりとした。確かサンタローズで……
気配の方向へ駆け出すと、建物の陰にゴルキがいた。いつか見たような瞳でゴルキが私を見ていた。
私は手をゴルキに差し出した。ゴルキは私の手には目もくれずに駆けだした。
追いかける足が、不意に地中へ沈み込んだ。
あっと息をつく暇もなく、重力に引っ張られて私の体は別世界へ落下した。
702: 2018/12/15(土) 18:41:01.90 ID:cljMvNgo0
尻餅をついて、痛みに歪んだ顔を上げた。
妖精の国は春のように暖かかった。夏の暑苦しさはなかった。
ゴルキの姿は見えない。私より先に起きてどこかへ行ってしまったのだろうか。
目の前にはいつか見た大木がそびえ立っている。
春らしい色を空に舞わせているそれに向って私は歩き出した。
妖精の国は春のように暖かかった。夏の暑苦しさはなかった。
ゴルキの姿は見えない。私より先に起きてどこかへ行ってしまったのだろうか。
目の前にはいつか見た大木がそびえ立っている。
春らしい色を空に舞わせているそれに向って私は歩き出した。
703: 2018/12/15(土) 18:42:07.89 ID:cljMvNgo0
相も変わらず、ポワンは私を丁重に迎え入れてくれる。
私もここへ来ると心が安らぐような気がした。まるで故郷へ帰ったかのようだ。
ポワンがどうされました、何かお困りですかと尋ねてきた。
私は鼻の頭をかきながら、実はこれこれこうですと事の仔細を話した。
するとポワンは第一声にあなたももうそんな歳ですかとビアンカのような驚き方をする。
私もここへ来ると心が安らぐような気がした。まるで故郷へ帰ったかのようだ。
ポワンがどうされました、何かお困りですかと尋ねてきた。
私は鼻の頭をかきながら、実はこれこれこうですと事の仔細を話した。
するとポワンは第一声にあなたももうそんな歳ですかとビアンカのような驚き方をする。
704: 2018/12/15(土) 18:43:06.17 ID:cljMvNgo0
「人間の方はもう十年の月日が流れました。こちらはどれくらい年が経ちますか」
「こちらでも十年は変わりませんよ。ただ我々と人間とでは時の流れは幾分違うようです」
私は心得顔のようにポワンの顔を見つめた。
幼少の頃に見かけた風貌と今のそれがそう変わらないのだから、十年程度なぞ妖精にとっては大した年月ではないんだろう。
実際にいくつかは知らないが、私の数十人分は優に生きているに違いない。
彼我の根源的な性質の差を感じて、私は心の内で圧倒されていた。
「こちらでも十年は変わりませんよ。ただ我々と人間とでは時の流れは幾分違うようです」
私は心得顔のようにポワンの顔を見つめた。
幼少の頃に見かけた風貌と今のそれがそう変わらないのだから、十年程度なぞ妖精にとっては大した年月ではないんだろう。
実際にいくつかは知らないが、私の数十人分は優に生きているに違いない。
彼我の根源的な性質の差を感じて、私は心の内で圧倒されていた。
705: 2018/12/15(土) 18:43:35.56 ID:cljMvNgo0
ポワンに、私が母を求める渇きの程を伝えた。
自我の均衡を危ぶむ程の痛みも、母の存在があったから堪えられた。
懊悩に満ちた夜も母を思えば苦でなくなった。
この血潮は母のために脈打っている。
私は母のために、この生を捧げても好いと思った。
自我の均衡を危ぶむ程の痛みも、母の存在があったから堪えられた。
懊悩に満ちた夜も母を思えば苦でなくなった。
この血潮は母のために脈打っている。
私は母のために、この生を捧げても好いと思った。
706: 2018/12/15(土) 18:44:41.04 ID:cljMvNgo0
ポワンが息を深く吸い、そして吐いた。
「あなたはそうして急いて母に会って、何を見せるつもりなのですか」
「あなたはそうして急いて母に会って、何を見せるつもりなのですか」
707: 2018/12/15(土) 18:45:22.04 ID:cljMvNgo0
私は愕然とした。ポワンの問いにではなく、自分がそれに答える術を持たないことに失望した。
救いを求めるような面もちでポワンを見つめた。
彼女の瞳は水面のように――水のリングの煌めきのように私へ向かっていた。
その目には私と、金色の影が映っていた。
救いを求めるような面もちでポワンを見つめた。
彼女の瞳は水面のように――水のリングの煌めきのように私へ向かっていた。
その目には私と、金色の影が映っていた。
708: 2018/12/15(土) 18:46:02.49 ID:cljMvNgo0
「あなたは疾うに愛を見つけているはずです。それを省みず得る母の温もりというものは、はたしてあなたを真に満たしうるでしょうか」
ポワンの一言一句は、鍼のように細やかに鋭く、心の陰で鳴りを潜めた情動に突き刺さった。
それはまさしく愛の啓蒙であった。私は目の前の暗がりが霧散して消えて行くのを感じた。
ポワンの一言一句は、鍼のように細やかに鋭く、心の陰で鳴りを潜めた情動に突き刺さった。
それはまさしく愛の啓蒙であった。私は目の前の暗がりが霧散して消えて行くのを感じた。
709: 2018/12/15(土) 18:47:02.04 ID:cljMvNgo0
「たとえそれが母へ向かう道からは横道に見えたとしても、それは決して無関係な方向へ伸びているわけではありません。あなたが本当に母を想うのなら、かならずそこへ届きます。今一度自分の思いに向き合ってご覧なさい、ほら……」
ポワンの瞳の金色が、急にはっきりと確かな形へ変貌した。
私は振り返った。
そうして、そこに成長した体と精神をもって私と相対した、可憐な女の姿を認めた。
ポワンの瞳の金色が、急にはっきりと確かな形へ変貌した。
私は振り返った。
そうして、そこに成長した体と精神をもって私と相対した、可憐な女の姿を認めた。
710: 2018/12/15(土) 18:48:06.02 ID:cljMvNgo0
「さっきゴルキ君が窓から入ってきて、私を呼びつけるのよ。何事かと思ってついて行ったら、驚いたわ。こんな不思議なこともあるものね」
そう云ってビアンカはポワンに会釈した。互いに軽く挨拶が済むと、二人して私を見つめた。始めにポワンが口を開いた。
「ビアンカさん、なんでも彼があなたに云いたいことがあるそうですよ」
私は驚いてポワンの顔を見た。その表情は悪戯っぽい笑みと、慈しみに満ちた母の顔があった。
そう云ってビアンカはポワンに会釈した。互いに軽く挨拶が済むと、二人して私を見つめた。始めにポワンが口を開いた。
「ビアンカさん、なんでも彼があなたに云いたいことがあるそうですよ」
私は驚いてポワンの顔を見た。その表情は悪戯っぽい笑みと、慈しみに満ちた母の顔があった。
711: 2018/12/15(土) 18:49:20.02 ID:cljMvNgo0
ビアンカ、と私の口から漏れた声はひどく乾いていた。
唇を舐め、少し息を整えて言葉を紡いだ。
「君は以前に僕らが交わした言葉を覚えているか。十年前の、最後に別れる時のことだ。アルカパでリボンをくれただろう」
ビアンカはゆっくりと頷いた。
「もちろんよ、『また一緒に冒険しよう』って」
「そうだ。あれを聞いたとき、僕は大層うれしかった。それまで僕には友と云えるものは居なかったからなおさらだ。君に認めて貰って嬉しかった」
私はビアンカと正面に差し向かった。青い瞳が大きく膨らんだ。
「もし僕があの時の君と同じ科白を云ったら、君は受け入れてくれるか」
ビアンカは目線を一寸も動かさず、決意じみた確かな声で、――そして涙を堪えるような顫えた声で、「当たり前じゃない」と云った。
唇を舐め、少し息を整えて言葉を紡いだ。
「君は以前に僕らが交わした言葉を覚えているか。十年前の、最後に別れる時のことだ。アルカパでリボンをくれただろう」
ビアンカはゆっくりと頷いた。
「もちろんよ、『また一緒に冒険しよう』って」
「そうだ。あれを聞いたとき、僕は大層うれしかった。それまで僕には友と云えるものは居なかったからなおさらだ。君に認めて貰って嬉しかった」
私はビアンカと正面に差し向かった。青い瞳が大きく膨らんだ。
「もし僕があの時の君と同じ科白を云ったら、君は受け入れてくれるか」
ビアンカは目線を一寸も動かさず、決意じみた確かな声で、――そして涙を堪えるような顫えた声で、「当たり前じゃない」と云った。
712: 2018/12/15(土) 18:49:54.47 ID:cljMvNgo0
気がつくと私は宿のベッドで寝ていた。長い夢から急に揺り起こされたようだった。
しばらく目が覚めたことに気づかず、ぼうっと天井を見上げた。
それは夢だったのか、はたまた異界の霧が私の頭を覆ったのか。
どちらでも構わない。私は答えを見つけていた。
ふと時計を見て、ベッドから跳ね起きた。約束の時刻が迫っていた。
しばらく目が覚めたことに気づかず、ぼうっと天井を見上げた。
それは夢だったのか、はたまた異界の霧が私の頭を覆ったのか。
どちらでも構わない。私は答えを見つけていた。
ふと時計を見て、ベッドから跳ね起きた。約束の時刻が迫っていた。
713: 2018/12/15(土) 18:50:50.18 ID:cljMvNgo0
朝日はまだ顔を見せない。世界は薄明に覆われて淡い水色をしている。
人の気配のない早朝、私はルドマン邸の敷居を跨いだ。
屋敷はいつもと打って変わって森閑としている。メードの声や生活音は一切なかった。
部屋へ入ると、既に嫁候補とルドマンが着席していた。
私はルドマンと相対するように座った。ルドマンは時間になっても、しばらく黙ったぎりで居た。
人の気配のない早朝、私はルドマン邸の敷居を跨いだ。
屋敷はいつもと打って変わって森閑としている。メードの声や生活音は一切なかった。
部屋へ入ると、既に嫁候補とルドマンが着席していた。
私はルドマンと相対するように座った。ルドマンは時間になっても、しばらく黙ったぎりで居た。
714: 2018/12/15(土) 18:51:28.94 ID:cljMvNgo0
「よく考えたかね」
私は頷いた。
「ならば選んだ人の前に立ち、君の想いを伝えたまえ」
ルドマンは腕組みをして目をつむった。時計の音が心臓を刻々と打った。
私は頷いた。
「ならば選んだ人の前に立ち、君の想いを伝えたまえ」
ルドマンは腕組みをして目をつむった。時計の音が心臓を刻々と打った。
715: 2018/12/15(土) 18:52:18.53 ID:cljMvNgo0
胸の内には母の幻影が揺らいでいた。
ラーの鏡を祀った塔で見たような、淡い霧がふわりと私の心を撫ぜた。
私は心の中でそっとその霧へ手を伸ばし、不確かな感触をその手に握った。
私の体温を感じた白い靄は仄かに微笑の気配を立ち上らせながら、さあっと潮が引くように霞んで消えた。
ラーの鏡を祀った塔で見たような、淡い霧がふわりと私の心を撫ぜた。
私は心の中でそっとその霧へ手を伸ばし、不確かな感触をその手に握った。
私の体温を感じた白い靄は仄かに微笑の気配を立ち上らせながら、さあっと潮が引くように霞んで消えた。
716: 2018/12/15(土) 18:52:51.05 ID:cljMvNgo0
息を吸い込んで声を発しようかという時、突然階段から慌ただしい音が鳴り響いた。
寝間着のデボラが息を切らして私を睨んでいる。
何事かと怪訝に眉を顰める私の前で、彼女は「私と結婚しなさい」と啖呵を切った。
寝間着のデボラが息を切らして私を睨んでいる。
何事かと怪訝に眉を顰める私の前で、彼女は「私と結婚しなさい」と啖呵を切った。
717: 2018/12/15(土) 18:53:21.63 ID:cljMvNgo0
場は凍り付くと云うよりも、むしろ苦笑じみた空気で満たされた。
ルドマンにしてみれば、娘の破天荒さを笑ったろうし、ビアンカやフローラはというと突然横合いからしゃしゃり出てきた伏兵の不格好さに驚き、呆れたような色を顔に浮かべている。
異様な空気に気がついたのか、デボラは少々恥じるような表情を一瞬見せたが、また元の調子に戻って私に剣幕を突き立てた。
「聞こえなかったのならもう一度云うわ。私はあなたの代弁をしてやってるのよ。私と結婚したいのでしょう」
突拍子のない言い分に反応が一寸遅れた。「なんだって私が君と結婚したいなどと思っているのだ」
「むしろ私のような女と結婚したくない男がいる方がおかしいわ。あなたは是非とも私と結ばれたいはずよ」
ルドマンにしてみれば、娘の破天荒さを笑ったろうし、ビアンカやフローラはというと突然横合いからしゃしゃり出てきた伏兵の不格好さに驚き、呆れたような色を顔に浮かべている。
異様な空気に気がついたのか、デボラは少々恥じるような表情を一瞬見せたが、また元の調子に戻って私に剣幕を突き立てた。
「聞こえなかったのならもう一度云うわ。私はあなたの代弁をしてやってるのよ。私と結婚したいのでしょう」
突拍子のない言い分に反応が一寸遅れた。「なんだって私が君と結婚したいなどと思っているのだ」
「むしろ私のような女と結婚したくない男がいる方がおかしいわ。あなたは是非とも私と結ばれたいはずよ」
718: 2018/12/15(土) 18:53:50.35 ID:cljMvNgo0
勝手に私の願望を極めつけられてしまった。どうも余程自分の価値に自信があると見える。
確かにフローラの姉であるから相続の権利などは彼女と同等だし、本人の容態も美麗といって然るべきである。度量も底抜けだろう。
十分すぎるほど条件は揃っているのだが、ただ一つ本人の性格がそれらを悉く打ち消しかねんのは至極残念である。
私はまあわかったから落ち着きたまえと云って、デボラを直近のイスへ座らせた。こうして黙って座らせておけば本当に器量の好い美人である。
かくして私の前には、腕組みをして私を睨む大富豪と宣言を待つ三人の妙齢の娘とが揃った。
確かにフローラの姉であるから相続の権利などは彼女と同等だし、本人の容態も美麗といって然るべきである。度量も底抜けだろう。
十分すぎるほど条件は揃っているのだが、ただ一つ本人の性格がそれらを悉く打ち消しかねんのは至極残念である。
私はまあわかったから落ち着きたまえと云って、デボラを直近のイスへ座らせた。こうして黙って座らせておけば本当に器量の好い美人である。
かくして私の前には、腕組みをして私を睨む大富豪と宣言を待つ三人の妙齢の娘とが揃った。
719: 2018/12/15(土) 18:54:25.78 ID:cljMvNgo0
気がつくと足が小刻みに顫えていた。これほど緊張したのは初めての経験だろう。
ラインハット王へ直に謁見したときだってこんなに心臓に負担はなかった。
しかしここで男を見せるべしと己を奮い立て、はっしと顔を上げて、ルドマンと対峙した。
すると彼は何をとち狂ったか、「なんと、この私が好きと申すか」などと云い始めた。
ラインハット王へ直に謁見したときだってこんなに心臓に負担はなかった。
しかしここで男を見せるべしと己を奮い立て、はっしと顔を上げて、ルドマンと対峙した。
すると彼は何をとち狂ったか、「なんと、この私が好きと申すか」などと云い始めた。
720: 2018/12/15(土) 18:55:36.64 ID:cljMvNgo0
「いかん、よく考えなさい」などと独りでに焦ってこちらを諭しているのだが、皆目訳が分からない。
呆気に取られたのは他の三人も同じであるらしい。一瞬妙な沈黙が場を支配した。ルドマンは地肌の見える頭に汗を浮かべている。
やにわにデボラが吹き出した。つられてフローラもくすりと笑みをこぼした。
それを契機に部屋中に笑いが広がった。場の空気を和らげる鎮痛剤として、斯様な冗談を口にしたのだと思われる。
普段の厳格ぶりからは想像もできぬ、ルドマンの粋な計らいである。
呆気に取られたのは他の三人も同じであるらしい。一瞬妙な沈黙が場を支配した。ルドマンは地肌の見える頭に汗を浮かべている。
やにわにデボラが吹き出した。つられてフローラもくすりと笑みをこぼした。
それを契機に部屋中に笑いが広がった。場の空気を和らげる鎮痛剤として、斯様な冗談を口にしたのだと思われる。
普段の厳格ぶりからは想像もできぬ、ルドマンの粋な計らいである。
721: 2018/12/15(土) 18:56:02.48 ID:cljMvNgo0
肩が少し軽くなった。難有う、と心中でルドマンに礼を云って、私は体を斜へ向けた。
そうして、精一杯の想いを口にした。
そうして、精一杯の想いを口にした。
722: 2018/12/15(土) 18:58:07.52 ID:cljMvNgo0
「ずっと昔から、私は、……」
唾を飲みこんだ。
「僕は、君が好きだ。
結婚してくれ、ビアンカ」
唾を飲みこんだ。
「僕は、君が好きだ。
結婚してくれ、ビアンカ」
723: 2018/12/15(土) 18:58:37.71 ID:cljMvNgo0
ビアンカは震える右手を己の胸に押し当てて、きつく握った。
瞑った目をゆっくり開き、はっきりと、大きく頷いた。
青い瞳は大海の煌めきよりも広く大きく輝いていた。
瞑った目をゆっくり開き、はっきりと、大きく頷いた。
青い瞳は大海の煌めきよりも広く大きく輝いていた。
724: 2018/12/15(土) 18:59:18.29 ID:cljMvNgo0
突然ルドマンが大声で哄笑し始めた。
すわ大激怒かと思うと、いやはや愉快々々と云って私の肩を砕かんとせんばかりの勢いで叩いた。
「まさか私の自慢の娘たちを袖にするとは。後で後悔しても遅いぞ」とこちらを悪戯っぽく睨めつけてくる。
「後悔などしません。きっと二人で仕合わせになって見せます」と云うと、
「結構! それでこそ私が見込んだ男だ。じゃあ早速ヴェールを取りに行って貰おう」と云った。
すわ大激怒かと思うと、いやはや愉快々々と云って私の肩を砕かんとせんばかりの勢いで叩いた。
「まさか私の自慢の娘たちを袖にするとは。後で後悔しても遅いぞ」とこちらを悪戯っぽく睨めつけてくる。
「後悔などしません。きっと二人で仕合わせになって見せます」と云うと、
「結構! それでこそ私が見込んだ男だ。じゃあ早速ヴェールを取りに行って貰おう」と云った。
725: 2018/12/15(土) 18:59:50.39 ID:cljMvNgo0
何のことやら分からなかったが、何でも山奥の村の職人とやらに予めシルクのヴェールを作らせておいたらしい。
小間使いでもなく新郎その人を使いに出すとは、妙な法があったものだ。
どうせ花嫁を着飾っている間の暇へ当てつけて行かせるのだろう。
ルドマンは「では私は準備をするから、フローラはビアンカさんの化粧や着替えを見ておきなさい」と云って階段を上がった。
ビアンカはフローラと一緒に奥の部屋へ行った。女の化粧は長いから、容易なことでは再会できんだろう。
去りゆく彼女の目元に輝くものを見つけて、思わず私も目頭が熱くなった。
小間使いでもなく新郎その人を使いに出すとは、妙な法があったものだ。
どうせ花嫁を着飾っている間の暇へ当てつけて行かせるのだろう。
ルドマンは「では私は準備をするから、フローラはビアンカさんの化粧や着替えを見ておきなさい」と云って階段を上がった。
ビアンカはフローラと一緒に奥の部屋へ行った。女の化粧は長いから、容易なことでは再会できんだろう。
去りゆく彼女の目元に輝くものを見つけて、思わず私も目頭が熱くなった。
726: 2018/12/15(土) 19:00:44.81 ID:cljMvNgo0
取り残されたデボラはそっぽを向いて、私を諦めるなんて情けない男ねと云った。
声にはやはり水気が帯びている。
私はなんと云えば好いやら分からず、「泣きたいときは泣けば好い。美人は泣き顔も素敵だから」と適当なことを云ってしまった。
デボラはしばらく肩を震わせて我慢していたが、やがて振り向いて、
「うるさい、よくも袖にしてくれたわね、とっとと幸せになって二度と私の前に現れないでよね」
と吐き捨てて、階段を非常な速力で駆け上がった。
お転婆に見える彼女も、心の底を叩いてみると純情な乙女の名残を残している。
きっと私なんかよりよっぽど好い男が現れるに違いないが、ぜひ仕合わせになってもらいたいものだ。
声にはやはり水気が帯びている。
私はなんと云えば好いやら分からず、「泣きたいときは泣けば好い。美人は泣き顔も素敵だから」と適当なことを云ってしまった。
デボラはしばらく肩を震わせて我慢していたが、やがて振り向いて、
「うるさい、よくも袖にしてくれたわね、とっとと幸せになって二度と私の前に現れないでよね」
と吐き捨てて、階段を非常な速力で駆け上がった。
お転婆に見える彼女も、心の底を叩いてみると純情な乙女の名残を残している。
きっと私なんかよりよっぽど好い男が現れるに違いないが、ぜひ仕合わせになってもらいたいものだ。
727: 2018/12/15(土) 19:01:44.96 ID:cljMvNgo0
屋敷を出ると、目を真っ赤にしたアンディと出くわした。
思わず立ち止まって、そのまま何も云えないでいた。
しばらくしてアンディが「あなたは不人情な人だ」と云った。
「あれほど云ったのに。彼女がどれだけあなたが好きか、昨晩あんなに……」
「そうは云うが、私とてビアンカのことが好きだったのだ」
「でも、……けれど、……」
アンディは悔しさを押さえきれないでいるようだった。
彼は優しすぎた。フローラがもらい手を失ったことを喜ぶより先に、彼女の悲しみを想像して泣いてしまうのだろう。
ここは私が一つ活を入れてやらねばなるまい。
思わず立ち止まって、そのまま何も云えないでいた。
しばらくしてアンディが「あなたは不人情な人だ」と云った。
「あれほど云ったのに。彼女がどれだけあなたが好きか、昨晩あんなに……」
「そうは云うが、私とてビアンカのことが好きだったのだ」
「でも、……けれど、……」
アンディは悔しさを押さえきれないでいるようだった。
彼は優しすぎた。フローラがもらい手を失ったことを喜ぶより先に、彼女の悲しみを想像して泣いてしまうのだろう。
ここは私が一つ活を入れてやらねばなるまい。
728: 2018/12/15(土) 19:02:20.82 ID:cljMvNgo0
アンディ、と前置きをして、彼の頭を上げさせた。そうしてその青い瞳を見据え、ゆっくりと語った。
「確かに私はフローラをふった。けれどもそれは私の心が別の場所へ引かれていたからで、彼女が嫌いだとか、悲しませようと云った気分は毛頭ない。そして彼女には申し訳ないと思う手前、感謝もしている。私のような者を好いてくれたのだから。さればこそ、そんな素晴らしい人をどこぞの馬の骨や鹿の骨にくれてやるのは、ふった奴が云うなと嘲笑されるかもしれんが心苦しい。……」
私はアンディの肩をつかんで、正面から目向いた。
幾分腫れぼったいが、情熱に燃える若い血潮が見て取れた。
「アンディ、君がフローラを貰ってくれ。君なら彼女を誰よりも仕合せにしてやれる」
彼はしばし朦朧とした表情で私を見つめていた。
やがて私の言葉に突き動かされたように目を見開いた。
「確かに私はフローラをふった。けれどもそれは私の心が別の場所へ引かれていたからで、彼女が嫌いだとか、悲しませようと云った気分は毛頭ない。そして彼女には申し訳ないと思う手前、感謝もしている。私のような者を好いてくれたのだから。さればこそ、そんな素晴らしい人をどこぞの馬の骨や鹿の骨にくれてやるのは、ふった奴が云うなと嘲笑されるかもしれんが心苦しい。……」
私はアンディの肩をつかんで、正面から目向いた。
幾分腫れぼったいが、情熱に燃える若い血潮が見て取れた。
「アンディ、君がフローラを貰ってくれ。君なら彼女を誰よりも仕合せにしてやれる」
彼はしばし朦朧とした表情で私を見つめていた。
やがて私の言葉に突き動かされたように目を見開いた。
729: 2018/12/15(土) 19:03:45.36 ID:cljMvNgo0
「あなたに云われなくたって、貰ってやりますよ。何せ僕は彼女の幼馴染みだ。彼女については一番に知っているんだ。あなたが貰った場合よりも遙かに仕合わせにしてやりますよ」
若者の血気は盛んに起こった。さっきまでの悲嘆的な姿勢は鳴りを潜め、反対に愛に燃える情熱が揺らいでいた。
アンディに別れを告げた。ルドマンも彼の気概を知ればもしかしたら気を変えるかもしれない。
どうなるかはついぞ神のみぞ知るが、彼に福音のもたらされることを切に願った。
若者の血気は盛んに起こった。さっきまでの悲嘆的な姿勢は鳴りを潜め、反対に愛に燃える情熱が揺らいでいた。
アンディに別れを告げた。ルドマンも彼の気概を知ればもしかしたら気を変えるかもしれない。
どうなるかはついぞ神のみぞ知るが、彼に福音のもたらされることを切に願った。
730: 2018/12/15(土) 19:04:18.02 ID:cljMvNgo0
町を出て、辺りに人がいないのを確かめてルーラを唱えた。
一緒に飛んできた馬車から、早速ゴルキとピエールと先生が出てきて私に次第を求めた。
あまり素っ気なく云うのもつまらんので、それは式場でのお楽しみだと焦らしてやった。
すると魔物諸君がやきもきして御前会議を始めた。
「あれだけきれいなんだからビアンカさんだね、まちがいない」
「いいや、天空の盾を戴けるのだ。フローラ嬢に相違ない」
「もしかすると奇を衒ってデボラ嬢かもしれない」
私は先生の失礼な発言に少し吹き出しながら、主人を二人とも取り戻したゲレゲレを撫でた。
一緒に飛んできた馬車から、早速ゴルキとピエールと先生が出てきて私に次第を求めた。
あまり素っ気なく云うのもつまらんので、それは式場でのお楽しみだと焦らしてやった。
すると魔物諸君がやきもきして御前会議を始めた。
「あれだけきれいなんだからビアンカさんだね、まちがいない」
「いいや、天空の盾を戴けるのだ。フローラ嬢に相違ない」
「もしかすると奇を衒ってデボラ嬢かもしれない」
私は先生の失礼な発言に少し吹き出しながら、主人を二人とも取り戻したゲレゲレを撫でた。
731: 2018/12/15(土) 19:05:18.23 ID:cljMvNgo0
ヴェールより先に、ダンカンに会いに行った。
相変わらず顔は蒼白だが、私が「ビアンカと結婚することになりました」と云うと、ようがんげんじんもかくやと云わんばかりに紅潮して喜んだ。
式へ来て下さいと誘うと、しかしこの体じゃ遠出は、と躊躇する。
なに、問題ありません。馬車へ乗っていて下さいと云った。
しかしルーラで飛び上がったのに驚いて心臓を止める恐れもあったのに、我ながら無茶をさせたものだ。
相変わらず顔は蒼白だが、私が「ビアンカと結婚することになりました」と云うと、ようがんげんじんもかくやと云わんばかりに紅潮して喜んだ。
式へ来て下さいと誘うと、しかしこの体じゃ遠出は、と躊躇する。
なに、問題ありません。馬車へ乗っていて下さいと云った。
しかしルーラで飛び上がったのに驚いて心臓を止める恐れもあったのに、我ながら無茶をさせたものだ。
732: 2018/12/15(土) 19:07:44.88 ID:cljMvNgo0
道具屋のドワーフによく似たおっさんからヴェールを受け取った。
材質が上等な絹布だけあって大変美しい。肌触りも実に滑らかだ。
それも職人芸で華麗に織ってあるから荘厳さに磨きが掛かる。
思わずほうと息を出してしまった。
材質が上等な絹布だけあって大変美しい。肌触りも実に滑らかだ。
それも職人芸で華麗に織ってあるから荘厳さに磨きが掛かる。
思わずほうと息を出してしまった。
733: 2018/12/15(土) 19:08:14.38 ID:cljMvNgo0
随分やりますねと云ったら、オレの作るヴェールは天下一品なんだぜ。
何せグランバニアの王子に頼まれるくらいだからな、と鼻を鳴らしている。
なんだか聞き覚えのある国だと思ったら、ラインハットへ援助をしてくれた国家じゃないか。
ニセたいこうに裏金を回されるくらいだから、さぞ大きな国なんだろう。
そこからわざわざ注文が来るとは余程の達人に違いない。
すごいですね、ありがとうと礼を云った。するとおっさんはどうも、と云って手元の肉を壺へ放り込んだ。
おや、猫でも飼ってるのかなと覗き込むと、「見たな~!」と云うおぞましい声とともに壺が襲いかかってきた。
何せグランバニアの王子に頼まれるくらいだからな、と鼻を鳴らしている。
なんだか聞き覚えのある国だと思ったら、ラインハットへ援助をしてくれた国家じゃないか。
ニセたいこうに裏金を回されるくらいだから、さぞ大きな国なんだろう。
そこからわざわざ注文が来るとは余程の達人に違いない。
すごいですね、ありがとうと礼を云った。するとおっさんはどうも、と云って手元の肉を壺へ放り込んだ。
おや、猫でも飼ってるのかなと覗き込むと、「見たな~!」と云うおぞましい声とともに壺が襲いかかってきた。
734: 2018/12/15(土) 19:09:30.66 ID:cljMvNgo0
何を云ってるか分からないかもしれぬ。私も一寸なにが起こったか分からなかった。
子供のいたずらであるとか、狐が化けていたとかそんなちゃちなもんじゃない。
民家の壺がなんとあくまのツボとかいう魔物に変貌しているのだ。
慌てて応戦するが向こうは遠慮なしに即氏呪文をかましてくる上、べらぼうな攻撃翌力をやたらに振り回してくる。
危ういところで躱した。この野郎、と反撃するが壺だけあって中々固い。
懐のゴルキを加勢させてようやく倒した。平和な村にザキ使いとは一体何事だ。
子供のいたずらであるとか、狐が化けていたとかそんなちゃちなもんじゃない。
民家の壺がなんとあくまのツボとかいう魔物に変貌しているのだ。
慌てて応戦するが向こうは遠慮なしに即氏呪文をかましてくる上、べらぼうな攻撃翌力をやたらに振り回してくる。
危ういところで躱した。この野郎、と反撃するが壺だけあって中々固い。
懐のゴルキを加勢させてようやく倒した。平和な村にザキ使いとは一体何事だ。
735: 2018/12/15(土) 19:10:37.66 ID:cljMvNgo0
怯える道具屋の主人に詰め寄ると、なんでも光の教団に買わされた品らしい。
幸運を呼ぶとかどうとかで騙されたらしい。見れば他にも色々な調度品が置かれている。
ただでさえ壺やら贋落款やら掛け軸やら買わされる時点で大損だが、まさか魔物の胚芽を育てさせられていたとあっては落胆もひとしおだろう。
退治してくれたとて礼を云われたが、道具屋の主人はの顔は悲嘆に暮れていた。
幸運を呼ぶとかどうとかで騙されたらしい。見れば他にも色々な調度品が置かれている。
ただでさえ壺やら贋落款やら掛け軸やら買わされる時点で大損だが、まさか魔物の胚芽を育てさせられていたとあっては落胆もひとしおだろう。
退治してくれたとて礼を云われたが、道具屋の主人はの顔は悲嘆に暮れていた。
736: 2018/12/15(土) 19:11:05.47 ID:cljMvNgo0
魔物に出くわさない内に迅速にルーラでヴェールとダンカンを運んだ。
ルドマンに挨拶をすると、もう帰ってきたのかと大変驚かれた。
まだ花嫁は準備が終わらないと云う。女の化粧はよっぽど長い。
ヴェールをそこら辺のメードに渡し、ゴルキを馬車へ隠した。
仕方がないから外でぶらぶらしていると、あることに思い至った。
どうせ式を挙げるのなら友人の一人でも連れてこなければ。
ルドマンに挨拶をすると、もう帰ってきたのかと大変驚かれた。
まだ花嫁は準備が終わらないと云う。女の化粧はよっぽど長い。
ヴェールをそこら辺のメードに渡し、ゴルキを馬車へ隠した。
仕方がないから外でぶらぶらしていると、あることに思い至った。
どうせ式を挙げるのなら友人の一人でも連れてこなければ。
737: 2018/12/15(土) 19:11:40.66 ID:cljMvNgo0
早速ラインハットへ向けてルーラを敢行した。
門番へ頼むと云ったら、ほとんど間もなく通された。まるで常連である。
ヘンリーと面と向かうと、おまえは我々が忙しいときに来るのだな、とあきれた顔をされたが知ったことではない。
暇な時分に来てほしければスケジュールでも寄越すがいい。
私は今から結婚するから式に来てくれんかと云うと、何を藪から棒にとまじめな顔をされた。
待て、急に云われても困ると夫妻はどよどよし始めたが、どうせすぐに終わる、と極めてかかって一緒にルーラで飛ばした。
サラボナに着いたとき、マリアに大変叱られたのは云うまでもない。
門番へ頼むと云ったら、ほとんど間もなく通された。まるで常連である。
ヘンリーと面と向かうと、おまえは我々が忙しいときに来るのだな、とあきれた顔をされたが知ったことではない。
暇な時分に来てほしければスケジュールでも寄越すがいい。
私は今から結婚するから式に来てくれんかと云うと、何を藪から棒にとまじめな顔をされた。
待て、急に云われても困ると夫妻はどよどよし始めたが、どうせすぐに終わる、と極めてかかって一緒にルーラで飛ばした。
サラボナに着いたとき、マリアに大変叱られたのは云うまでもない。
738: 2018/12/15(土) 19:12:29.54 ID:cljMvNgo0
ぷりぷりしているマリアを宥めるとか云ってヘンリーは宿へ行った。
なぜ宿に泊まる必要があるか分からんが、夫婦間に立ち入るのも野暮だから勝手にさせておいた。
ルドマンが私を呼んで、君、挙式の際に着るにはどんな服が好い、と訊かれた。
なるほどさすがにこの汚れたターバンと布切れの格好で出席するのは頂けんだろう。
なぜ宿に泊まる必要があるか分からんが、夫婦間に立ち入るのも野暮だから勝手にさせておいた。
ルドマンが私を呼んで、君、挙式の際に着るにはどんな服が好い、と訊かれた。
なるほどさすがにこの汚れたターバンと布切れの格好で出席するのは頂けんだろう。
739: 2018/12/15(土) 19:12:59.84 ID:cljMvNgo0
目の前へずらりと色々衣装を並べられたが、無風流な私ではどんな手合いか分からん。
こういったのはデボラが定めし得意だろうと思って呼ぶと、両目を真っ赤にしたお嬢様が出てきた。
ちょっと居たたまれない気持ちになったが、私の衣装を選んでくれと頼んだら「いいわよ」とあっさり諾意を表してくれた。
例によってあの無暗に広い三階で試着することになったが、デボラが使いの者を一切下げたのが気に掛かった。
こういったのはデボラが定めし得意だろうと思って呼ぶと、両目を真っ赤にしたお嬢様が出てきた。
ちょっと居たたまれない気持ちになったが、私の衣装を選んでくれと頼んだら「いいわよ」とあっさり諾意を表してくれた。
例によってあの無暗に広い三階で試着することになったが、デボラが使いの者を一切下げたのが気に掛かった。
740: 2018/12/15(土) 19:13:50.35 ID:cljMvNgo0
色々と試着をするがどれもこれも窮屈でかなわん。
もっとゆったりとしたのはないのかと訊くと、これはどうかしらと云って紋付きの羽織袴を出してきた。
洋風のスーツ等が並ぶ中に忽然として東風の色が舞い込んだ。
あまりの取り合わせの珍妙さに驚いて、どうしてこんなものがあると聞けば何でもどこぞへ行った際の土産らしい。
こんな独自色の強い意匠を象る国など限られているが、ルドマン家もよほど親交の根を広く伸ばしている。
もっとゆったりとしたのはないのかと訊くと、これはどうかしらと云って紋付きの羽織袴を出してきた。
洋風のスーツ等が並ぶ中に忽然として東風の色が舞い込んだ。
あまりの取り合わせの珍妙さに驚いて、どうしてこんなものがあると聞けば何でもどこぞへ行った際の土産らしい。
こんな独自色の強い意匠を象る国など限られているが、ルドマン家もよほど親交の根を広く伸ばしている。
741: 2018/12/15(土) 19:14:18.12 ID:cljMvNgo0
これでもまだ堅苦しいがとてもトウィードと云った洋服なんぞ着られやせんからこれで我慢した。
袖に手を通すと、袖に隠れていた紙切れが飛び出てきた。
「清和源氏多田之満仲が後裔某氏へ送る」と書いてある。なんだこれは。
いくら読み返してもさっぱり意味が分からない。不気味なので鼻紙にでもしようとポッケへ抛り込んだ。
袖に手を通すと、袖に隠れていた紙切れが飛び出てきた。
「清和源氏多田之満仲が後裔某氏へ送る」と書いてある。なんだこれは。
いくら読み返してもさっぱり意味が分からない。不気味なので鼻紙にでもしようとポッケへ抛り込んだ。
742: 2018/12/15(土) 19:14:48.98 ID:cljMvNgo0
着替え終えたので部屋を出ようとすると、デボラが制止をかけた。
振り向くと、先よりは治まっているがやはり目の赤い女人がいた。
どうした、と答えるとなにやら蚊の鳴くような声が彼女の口から洩れた。
私は聞き返したが、「なんでもないわ、さっさと行きなさい」と急につっけんどんになる。
引き留めたのはそちらだろうにさっさと行けとは酷い言い草である。
しかしこれが彼女のあり方なんだろう、と妙な納得が頭をよぎった。
振り向くと、先よりは治まっているがやはり目の赤い女人がいた。
どうした、と答えるとなにやら蚊の鳴くような声が彼女の口から洩れた。
私は聞き返したが、「なんでもないわ、さっさと行きなさい」と急につっけんどんになる。
引き留めたのはそちらだろうにさっさと行けとは酷い言い草である。
しかしこれが彼女のあり方なんだろう、と妙な納得が頭をよぎった。
743: 2018/12/15(土) 19:15:35.62 ID:cljMvNgo0
ルドマンは私の格好を見たとき一寸妙な顔をしたが、全体を眺めると「似合ってるじゃないか」と評した。
私は黒髪で眉が濃いからさぞ和服は似合うだろう。
ただ向こうの種族と違い彫りが深く鼻が高いのばかりは惜しいところである。
もうそろそろだから行きたまえと云うので、町にある教会へ赴いた。
私は黒髪で眉が濃いからさぞ和服は似合うだろう。
ただ向こうの種族と違い彫りが深く鼻が高いのばかりは惜しいところである。
もうそろそろだから行きたまえと云うので、町にある教会へ赴いた。
744: 2018/12/15(土) 19:16:08.56 ID:cljMvNgo0
教会の扉の前に立つと途端に緊張してきた。
しかしここで意気地のない奴だと思われてもつまらんので、思い切りよく扉を開け放った。
すると中で座っていたり立っていたり喋ったりと気楽にやっていた者が一斉にこちらを目向いた。
どうやらまだ式は始まっていないようだ。張り切りすぎて先走った若者を笑う声があちこちから漏れた。
事実そうであるから取り繕いようもない。少し恥ずかしい思いがした。
しかしここで意気地のない奴だと思われてもつまらんので、思い切りよく扉を開け放った。
すると中で座っていたり立っていたり喋ったりと気楽にやっていた者が一斉にこちらを目向いた。
どうやらまだ式は始まっていないようだ。張り切りすぎて先走った若者を笑う声があちこちから漏れた。
事実そうであるから取り繕いようもない。少し恥ずかしい思いがした。
745: 2018/12/15(土) 19:16:34.42 ID:cljMvNgo0
壇上でそわそわとしていると、後から追いついたルドマンが教会へ入ってきた。
そして私の顔を見て、大変驚いた顔をした。
「君はなぜ花嫁を迎えに行かないのだ」
「花嫁は支度が終わったら介添えと一緒に入場するんでしょう」
「そんな礼式はここにはない。婿が直々に連れてくるのがふつうだ」
なんだ、だったら早くに云えば好いのに。余所者の私がここの作法などわかるわけがない。
駆け出す私に、ルドマンが再度制止をかけた。ヴェールはどうした、早く被せておやりなさいと云う。
なるほどそのためにわざわざ婿自身に取りに行かせたというわけだ。
しかし間の悪いことに、ヴェールはどこぞのメードに渡してしまった。
メードの顔を覚えぬままだったから、またぞろ探しに行く旅が始まった。
そして私の顔を見て、大変驚いた顔をした。
「君はなぜ花嫁を迎えに行かないのだ」
「花嫁は支度が終わったら介添えと一緒に入場するんでしょう」
「そんな礼式はここにはない。婿が直々に連れてくるのがふつうだ」
なんだ、だったら早くに云えば好いのに。余所者の私がここの作法などわかるわけがない。
駆け出す私に、ルドマンが再度制止をかけた。ヴェールはどうした、早く被せておやりなさいと云う。
なるほどそのためにわざわざ婿自身に取りに行かせたというわけだ。
しかし間の悪いことに、ヴェールはどこぞのメードに渡してしまった。
メードの顔を覚えぬままだったから、またぞろ探しに行く旅が始まった。
746: 2018/12/15(土) 19:17:08.06 ID:cljMvNgo0
屋敷のメードに片端から聞き込んでみたが、誰も所在を知らない。
ようやく見覚えのある顔に行き着くと、こいつは前に私に蛮茶を淹れてくれたメードである。
ちょっと敬遠したが、意を決して聞いてみると「それなら介添えのフローラ様にお渡ししました」と云う。
なるほどこれは優秀なメードだ。当初の意図を適切に汲み取って行動してくれたのだから。
もっとも当節ではさらに厄介になってしまった。
ようやく見覚えのある顔に行き着くと、こいつは前に私に蛮茶を淹れてくれたメードである。
ちょっと敬遠したが、意を決して聞いてみると「それなら介添えのフローラ様にお渡ししました」と云う。
なるほどこれは優秀なメードだ。当初の意図を適切に汲み取って行動してくれたのだから。
もっとも当節ではさらに厄介になってしまった。
747: 2018/12/15(土) 19:18:17.80 ID:cljMvNgo0
フローラは己の部屋の化粧室にいた。
扉を叩いてお邪魔すると、青い瞳がこっちを向いた。
その目元には隠しきれぬ涙の跡があった。
扉を叩いてお邪魔すると、青い瞳がこっちを向いた。
その目元には隠しきれぬ涙の跡があった。
748: 2018/12/15(土) 19:19:26.60 ID:cljMvNgo0
私は動揺を押し隠しながら、「ヴェールを取りに伺いました。そちらにありますか」と云った。
「ええ。こちらに」
フローラは絹のヴェールを私に手渡した。
私はその布を受け取るとき、彼女の手が僅かに顫えているのに気がついた。
フローラはそうした後も、しばらく私の目を見つめ続けていた。
そしてその顔に今まで見たこともないような悲嘆の色が浮かぶのを認めた。
「ええ。こちらに」
フローラは絹のヴェールを私に手渡した。
私はその布を受け取るとき、彼女の手が僅かに顫えているのに気がついた。
フローラはそうした後も、しばらく私の目を見つめ続けていた。
そしてその顔に今まで見たこともないような悲嘆の色が浮かぶのを認めた。
749: 2018/12/15(土) 19:20:07.27 ID:cljMvNgo0
私は何も云えなかった。彼女も何も云わなかった。
じっと地を見る目が揺れ、彼女はとうとう口を開いた。
「私はあなたが好きでした。……いえ、今でも好きです。だからこそ、あなたには仕合わせになって貰いたい。だから、」そう云って彼女は私の手を取って己の両の手で包み込んだ。
「どうかご無事でいて下さい」
彼女の安全の祈願は、どうしてか他の者のいかな憂国の嘆きよりも悪寒を誘った。
じっと地を見る目が揺れ、彼女はとうとう口を開いた。
「私はあなたが好きでした。……いえ、今でも好きです。だからこそ、あなたには仕合わせになって貰いたい。だから、」そう云って彼女は私の手を取って己の両の手で包み込んだ。
「どうかご無事でいて下さい」
彼女の安全の祈願は、どうしてか他の者のいかな憂国の嘆きよりも悪寒を誘った。
750: 2018/12/15(土) 19:20:56.02 ID:cljMvNgo0
随分遅くなったが、ビアンカの待つルドマンの別邸へ向かった。
玄関へ着くと、夕べ私を邪険に追い払った下女が顔を出していた。
少しく恐れたが、ここを突破せねば花嫁にたどり着けぬ。
何も非難される謂れはないとばかりにずんずん歩み寄ると、下女は私に一瞥をくれてさっと横に退いた。相変わらず不審な者のように私を見ている。
何だかポワンの側近みたようだ。思えばあれとそっくりな目つきをしている。
ドアを開けて中へ入る。
そこには陽光の差し込む明るい邸内と、
――これまで見たもの全てを凌駕する程、美しいものが待っていた。
玄関へ着くと、夕べ私を邪険に追い払った下女が顔を出していた。
少しく恐れたが、ここを突破せねば花嫁にたどり着けぬ。
何も非難される謂れはないとばかりにずんずん歩み寄ると、下女は私に一瞥をくれてさっと横に退いた。相変わらず不審な者のように私を見ている。
何だかポワンの側近みたようだ。思えばあれとそっくりな目つきをしている。
ドアを開けて中へ入る。
そこには陽光の差し込む明るい邸内と、
――これまで見たもの全てを凌駕する程、美しいものが待っていた。
751: 2018/12/15(土) 19:21:33.69 ID:cljMvNgo0
言葉が出なかった。
妖精界で覚えた感覚よりさらに激しい情動を感じた。
名を呼ばれ、やっとこのことで足を踏み出したが、まるで自分の体でないように感ぜられた。
階段を上がり、彼女の正面へ至ったとき、それは最高潮に達した。
これまでの人生がいっぺんに報われるような幸福の時であった。
妖精界で覚えた感覚よりさらに激しい情動を感じた。
名を呼ばれ、やっとこのことで足を踏み出したが、まるで自分の体でないように感ぜられた。
階段を上がり、彼女の正面へ至ったとき、それは最高潮に達した。
これまでの人生がいっぺんに報われるような幸福の時であった。
752: 2018/12/15(土) 19:22:36.66 ID:cljMvNgo0
「こんなにきちんとした化粧は初めて。変じゃない?」
「ちっとも変じゃない。とても綺麗だ」
ビアンカは頬に朱を差して、難有うと云った。
その時の彼女の姿と云ったら! 私は心の一切一寸に渡るまで、一刻一瞬とて逃すまいと目に焼き付けた。
ビアンカが私の名を呼んだ。私は頷き返し、その頭にヴェールを被せた。
互いに手を取り合い、ゆっくりと歩きだした。
「ちっとも変じゃない。とても綺麗だ」
ビアンカは頬に朱を差して、難有うと云った。
その時の彼女の姿と云ったら! 私は心の一切一寸に渡るまで、一刻一瞬とて逃すまいと目に焼き付けた。
ビアンカが私の名を呼んだ。私は頷き返し、その頭にヴェールを被せた。
互いに手を取り合い、ゆっくりと歩きだした。
753: 2018/12/15(土) 19:23:20.51 ID:cljMvNgo0
危うく階段を踏み外しそうになって、後ろからくすりと笑いが零れた。
少し気恥ずかったけれども、ビアンカも似たような調子で足元が覚束ない。
「なんだか夢の中に居るみたいよ」
「私もだ。まさかこうしてビアンカと……」
「いやだわ。私、なんて。昔のように僕で好いのよ」
「うん。……僕もビアンカと結ばれる日が来ようとは夢にも思わなかった」
「私も、まさかあなたがこんな私を選んでくれるなんて期待してなかったわ。本当に難有う」
「難有うはこっちの台詞だ。僕なんかを好きになってくれて……実を云うとな、ビアンカ」
「うん」
少し気恥ずかったけれども、ビアンカも似たような調子で足元が覚束ない。
「なんだか夢の中に居るみたいよ」
「私もだ。まさかこうしてビアンカと……」
「いやだわ。私、なんて。昔のように僕で好いのよ」
「うん。……僕もビアンカと結ばれる日が来ようとは夢にも思わなかった」
「私も、まさかあなたがこんな私を選んでくれるなんて期待してなかったわ。本当に難有う」
「難有うはこっちの台詞だ。僕なんかを好きになってくれて……実を云うとな、ビアンカ」
「うん」
754: 2018/12/15(土) 19:24:12.03 ID:cljMvNgo0
「少し前に別の女性に一度求婚したことがあるんだ。無論、その時は振られてしまったのだが」
「あら。じゃあその人に感謝しないといけないわね。もしその人が了承してたら、こうして私と歩いてなんかいないわ」
「アハハハハ君は前向きだな。そうだな、感謝しなければな。その人にも、こうしてビアンカと合わせてくれた巡り合わせにも」
「ふふふ。そうね、難有う神様」
こう云うときだけ難有がられる神様も定めて迷惑だろう。
ともあれ、偶然がいくつも重ならなければこうしていないのだ。
私は運命と云うのを少し信じてみたくなった。
「あら。じゃあその人に感謝しないといけないわね。もしその人が了承してたら、こうして私と歩いてなんかいないわ」
「アハハハハ君は前向きだな。そうだな、感謝しなければな。その人にも、こうしてビアンカと合わせてくれた巡り合わせにも」
「ふふふ。そうね、難有う神様」
こう云うときだけ難有がられる神様も定めて迷惑だろう。
ともあれ、偶然がいくつも重ならなければこうしていないのだ。
私は運命と云うのを少し信じてみたくなった。
755: 2018/12/15(土) 19:24:50.29 ID:cljMvNgo0
教会へ向かう途中、つやつやした血色のヘンリー夫妻と出くわした。
どうやらマリアの機嫌は無事夫の努力によって回復したらしい。
「そちらがビアンカさんですか。初めまして。私はラインハット王国王兄、ヘンリーと云います」と、あの緑髪が王族らしい所作をするのを私は初めて見た。
衣装や仕草も中々堂に入っている。 ひょっとすると主賓の私より注目されるんではなかろうか。
しかもあのうざったい長髪をなびかせながら、「お美しいですね、彼奴めと是非仕合わせになってください」」と云って白い歯を見せやがる。
ビアンカもこんな気品ある応対をされたのは初めてなのか、だいぶ表情が強ばっている。
「ありがとうございます」というのがやっとのようで、すっかり呼吸を忘れている。
どうやらマリアの機嫌は無事夫の努力によって回復したらしい。
「そちらがビアンカさんですか。初めまして。私はラインハット王国王兄、ヘンリーと云います」と、あの緑髪が王族らしい所作をするのを私は初めて見た。
衣装や仕草も中々堂に入っている。 ひょっとすると主賓の私より注目されるんではなかろうか。
しかもあのうざったい長髪をなびかせながら、「お美しいですね、彼奴めと是非仕合わせになってください」」と云って白い歯を見せやがる。
ビアンカもこんな気品ある応対をされたのは初めてなのか、だいぶ表情が強ばっている。
「ありがとうございます」というのがやっとのようで、すっかり呼吸を忘れている。
756: 2018/12/15(土) 19:25:24.82 ID:cljMvNgo0
夫妻が去って、ビアンカが大きく息を吐いた。
「ルドマンさんが呼んだのかしら。若い王子様ね」
「いや、あれは僕の知り合いだ。あいつめ、いつの間にか随分と王族らしくなっている」
「あら、それじゃあ話にあったヘンリーさんというのはあの方なの?聞いていたのと随分様子が違うようだけど」
私はこれに苦笑いで答えた。如何な経緯があったのかなど私が知りたいくらいだ。
「ルドマンさんが呼んだのかしら。若い王子様ね」
「いや、あれは僕の知り合いだ。あいつめ、いつの間にか随分と王族らしくなっている」
「あら、それじゃあ話にあったヘンリーさんというのはあの方なの?聞いていたのと随分様子が違うようだけど」
私はこれに苦笑いで答えた。如何な経緯があったのかなど私が知りたいくらいだ。
757: 2018/12/15(土) 19:26:03.60 ID:cljMvNgo0
教会の扉を開くと、参列した人々が一斉にこちらを見向いた。
途端に緊張で足が竦んだ。なんだかこれでは表舞台と云うより矢面に立つようだ。
厳かに見守る者もいれば、ひゅうひゅうと祝ってくれるんだか冷かしてるんだか分からない奴もいた。
そしてその中にはかのヘンリー殿下も含まれている。
マリアに窘められているところなんかは夫婦と云うより親子みたようだ。
自分の幸せも嬉しいが、あいつもよくやってくれているようで大いに安心した。
途端に緊張で足が竦んだ。なんだかこれでは表舞台と云うより矢面に立つようだ。
厳かに見守る者もいれば、ひゅうひゅうと祝ってくれるんだか冷かしてるんだか分からない奴もいた。
そしてその中にはかのヘンリー殿下も含まれている。
マリアに窘められているところなんかは夫婦と云うより親子みたようだ。
自分の幸せも嬉しいが、あいつもよくやってくれているようで大いに安心した。
758: 2018/12/15(土) 19:26:29.26 ID:cljMvNgo0
壇上に着くと、我々の格好の取り合わせにまず違和感を覚えた。
なにせ紋付きとウェディングドレスである。
和洋折衷と云うよりはただ節操のないハイカラ夫婦だ。
しかし神父も参列者も誰も何も云わないのでこのままにした。
後で写真になって見返せば多くの人間が首を捻るだろう。
なにせ紋付きとウェディングドレスである。
和洋折衷と云うよりはただ節操のないハイカラ夫婦だ。
しかし神父も参列者も誰も何も云わないのでこのままにした。
後で写真になって見返せば多くの人間が首を捻るだろう。
759: 2018/12/15(土) 19:27:36.93 ID:cljMvNgo0
やがて二人揃って神父と対面すると、祝福された新婚生活の秘訣とやらを聞かされた。
しばらくは黙々と聞いていたが段々飽きてきて、直立した足も棒になってきた。
隣のビアンカなどは緊張か少し青い顔をしているから、レヌール城の時の如く手を握ってやった。
それに反応してちらりとこちらを見やる仕草も、いつもよりよっぽど艶ぽくて少しどぎまぎした。
しばらくは黙々と聞いていたが段々飽きてきて、直立した足も棒になってきた。
隣のビアンカなどは緊張か少し青い顔をしているから、レヌール城の時の如く手を握ってやった。
それに反応してちらりとこちらを見やる仕草も、いつもよりよっぽど艶ぽくて少しどぎまぎした。
760: 2018/12/15(土) 19:29:16.21 ID:cljMvNgo0
誓いの言葉となった。これは大抵御神の名の元に宣誓する儀式だが、生憎私は無宗教者だ。
それでも結婚する以上は誓ってやらねば道理が通るまいと思って耳を傾けた。
「この結婚を神の導きによるものだと受け取り、その教えに従って……」
ふむ、残念ながら無宗教の私では到底誓えない。これは惜しいが見送ることにする。
「……健やかなる時も病める時もその身を共にすることを……」
健やかなのは結構だが病まで共有しては二人とも仕合せではあるまい。これも落第だ。
「……常に両者相共々愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、……」
ようやく達成できそうだ。これは受けて立つべきだろう。
「……富めるときも、貧しきときも、……」
経済状況など夫婦二人三脚で歩む以上同じ事情となるのが当然の理ではないか。誓うまでもない。
驚いたことに誓える場面が一つしかない。おやおやと思った。これなら海辺の修道院で私も洗礼を受けるべきだった。
そして神父が締めくくりにこう云った。
それでも結婚する以上は誓ってやらねば道理が通るまいと思って耳を傾けた。
「この結婚を神の導きによるものだと受け取り、その教えに従って……」
ふむ、残念ながら無宗教の私では到底誓えない。これは惜しいが見送ることにする。
「……健やかなる時も病める時もその身を共にすることを……」
健やかなのは結構だが病まで共有しては二人とも仕合せではあるまい。これも落第だ。
「……常に両者相共々愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、……」
ようやく達成できそうだ。これは受けて立つべきだろう。
「……富めるときも、貧しきときも、……」
経済状況など夫婦二人三脚で歩む以上同じ事情となるのが当然の理ではないか。誓うまでもない。
驚いたことに誓える場面が一つしかない。おやおやと思った。これなら海辺の修道院で私も洗礼を受けるべきだった。
そして神父が締めくくりにこう云った。
761: 2018/12/15(土) 19:29:57.72 ID:cljMvNgo0
「氏が二人を分かつときまで、堅く節操を守ることを約束しますか?」
私はこれは少し違うと思った。氏によってすら、愛は分かち得ない。私の父と母がそうだ。
父は永遠に妻を追い求め、妻は朧ながらその愛を家族に垣間見せる。
氏は決して愛の最期ではない。
私はこれは少し違うと思った。氏によってすら、愛は分かち得ない。私の父と母がそうだ。
父は永遠に妻を追い求め、妻は朧ながらその愛を家族に垣間見せる。
氏は決して愛の最期ではない。
762: 2018/12/15(土) 19:30:52.92 ID:cljMvNgo0
しかし、しばしの別れである。
最愛の妻と別れるのは、それこそ身を裂かれるより辛いだろう。
私は力強く、「はい」と答えた。
最愛の妻と別れるのは、それこそ身を裂かれるより辛いだろう。
私は力強く、「はい」と答えた。
763: 2018/12/15(土) 19:31:18.95 ID:cljMvNgo0
指輪交換の儀となった。
我々は水と炎を――相反するはずであるのに、不思議と並ぶ姿の美しい指輪を交換した。
ビアンカの指にはめられた青い指輪は、これまでよりもずっと美しく輝いていた。
我々は水と炎を――相反するはずであるのに、不思議と並ぶ姿の美しい指輪を交換した。
ビアンカの指にはめられた青い指輪は、これまでよりもずっと美しく輝いていた。
764: 2018/12/15(土) 19:31:53.65 ID:cljMvNgo0
さてもうお終いかと思うと、まだある。
それどころかこれが最も肝要なイベントであるかのように、参列者が一斉に注目する。
何と公衆の面前で口づけを行うと云うのだ。
それどころかこれが最も肝要なイベントであるかのように、参列者が一斉に注目する。
何と公衆の面前で口づけを行うと云うのだ。
765: 2018/12/15(土) 19:33:40.96 ID:cljMvNgo0
夫婦の契りを交わす大切な儀式だと云うが、そんなものは三三九度で十分じゃないか。
何が恥ずかしくて衆目の中(うち)で接吻せねばならん。
と心の中では大いに反対したが、口に出して反意を表する空気ではない。
いざ決行の段になるも、いくら愛を誓う間柄といえど恥ずかしいことに変わりはない。
まごまごしていると 友人代表のさらさら緑髪殿下が「早う照れてないでやってしまえ」などと冷やかす。
私は普段友人にするようにうるせえと叫びたかったが、矢面に立っている以上それもできぬ。
すると少しして痛いと呻く声がした。
きっと彼の細君が私に代わって誅戮を加えたものと見られる。ありがたい事だ。
何が恥ずかしくて衆目の中(うち)で接吻せねばならん。
と心の中では大いに反対したが、口に出して反意を表する空気ではない。
いざ決行の段になるも、いくら愛を誓う間柄といえど恥ずかしいことに変わりはない。
まごまごしていると 友人代表のさらさら緑髪殿下が「早う照れてないでやってしまえ」などと冷やかす。
私は普段友人にするようにうるせえと叫びたかったが、矢面に立っている以上それもできぬ。
すると少しして痛いと呻く声がした。
きっと彼の細君が私に代わって誅戮を加えたものと見られる。ありがたい事だ。
766: 2018/12/15(土) 19:34:08.57 ID:cljMvNgo0
意を決して、私は正面に立つ美しく、愛しい彼女の瞳を見据えた。
そうして目線を合わせると、ビアンカは応えるようにしてほほえんで、目を瞑った。
彼女の薄赤い頬を両の手で挟み、ゆっくりと自身の顔へ近づけた。――
そうして目線を合わせると、ビアンカは応えるようにしてほほえんで、目を瞑った。
彼女の薄赤い頬を両の手で挟み、ゆっくりと自身の顔へ近づけた。――
767: 2018/12/15(土) 19:34:37.07 ID:cljMvNgo0
周りから歓声が上がった。
閉じた瞼の裏にこれまでの人生が早回しに映えた。
それは総合すれば確かに悲劇的だったかもしれない。不仕合せだったかもしれない。
しかし、今私は全てを優に超越する幸福を手に入れた。
何者にも代え難い、素晴らしい宝物を手に入れた。
本当に幸せだ。
閉じた瞼の裏にこれまでの人生が早回しに映えた。
それは総合すれば確かに悲劇的だったかもしれない。不仕合せだったかもしれない。
しかし、今私は全てを優に超越する幸福を手に入れた。
何者にも代え難い、素晴らしい宝物を手に入れた。
本当に幸せだ。
768: 2018/12/15(土) 19:35:17.58 ID:cljMvNgo0
もうこれで終わりでいいじゃないか。
いっそ帰りたい、いや帰ろうと羞恥に朦朧としていると、俄にスピーチが始まった。
友人代表ヘンリー殿下の挨拶である。
何でも私の性格の批評をしているようだが、ひたすら褒めそやすぎりで欠点を何も云わない。
同じくマリアも似た調子で、私の快男子であることを無暗に吹聴する。
あまり褒められることに慣れていないので、顔が焚火に照らったように熱い。
先の接吻といい、結婚というのも並々ならぬ修練である。
いっそ帰りたい、いや帰ろうと羞恥に朦朧としていると、俄にスピーチが始まった。
友人代表ヘンリー殿下の挨拶である。
何でも私の性格の批評をしているようだが、ひたすら褒めそやすぎりで欠点を何も云わない。
同じくマリアも似た調子で、私の快男子であることを無暗に吹聴する。
あまり褒められることに慣れていないので、顔が焚火に照らったように熱い。
先の接吻といい、結婚というのも並々ならぬ修練である。
769: 2018/12/15(土) 19:36:29.85 ID:cljMvNgo0
新郎側は以上のように恙なく完了したが新婦側に友人がいない。
どうしたものかと思うと突然、席の端から妙な格好をした男が立ち上がった。
もこもことしたコートにでかい魔法帽を被って顔立ちが分からぬ。
はや不審者かと思えば歩く度にぽむぽむ云ったりかちゃかちゃ云ったりにゃーにゃー云ったり得体が知れない。
いざ講演するとなると、「やさしくてかわいくて、すばらしいひとだとおもいます」と率直に褒めたかと思えば、
「かの淑女の美麗にして崇高かつ強健なること小町、クレオパトラ、ナポレオンの如くして是常人にあらずして精鋭気風堂々云々」と急激に知能が向上したり、
「ビアンカさんの勇気や思いやり、美貌は他の誰よりも引けを取らぬ至りであるから、吾輩は彼女に尊敬の意を表するばかりである」とやはり国籍が分からない。
しまいには「ふにゃーごろごろ」と本性まで現れだした。
参列者がどよめく中、謎の巨大コートの男はいきなり「御拝聴痛み入る!」と叫んでがちゃがちゃ飛び出した。
私は痛む頭を抱えてそれを見送った。ブレーメンの音楽隊だってもっと上手くやるだろう。
彼らもビアンカのすばらしい人となりを吹聴したかったのだろうが、不器用な奴らだ。
どうしたものかと思うと突然、席の端から妙な格好をした男が立ち上がった。
もこもことしたコートにでかい魔法帽を被って顔立ちが分からぬ。
はや不審者かと思えば歩く度にぽむぽむ云ったりかちゃかちゃ云ったりにゃーにゃー云ったり得体が知れない。
いざ講演するとなると、「やさしくてかわいくて、すばらしいひとだとおもいます」と率直に褒めたかと思えば、
「かの淑女の美麗にして崇高かつ強健なること小町、クレオパトラ、ナポレオンの如くして是常人にあらずして精鋭気風堂々云々」と急激に知能が向上したり、
「ビアンカさんの勇気や思いやり、美貌は他の誰よりも引けを取らぬ至りであるから、吾輩は彼女に尊敬の意を表するばかりである」とやはり国籍が分からない。
しまいには「ふにゃーごろごろ」と本性まで現れだした。
参列者がどよめく中、謎の巨大コートの男はいきなり「御拝聴痛み入る!」と叫んでがちゃがちゃ飛び出した。
私は痛む頭を抱えてそれを見送った。ブレーメンの音楽隊だってもっと上手くやるだろう。
彼らもビアンカのすばらしい人となりを吹聴したかったのだろうが、不器用な奴らだ。
770: 2018/12/15(土) 19:37:12.93 ID:cljMvNgo0
そうして大抵の行事が終わると後はどんちゃん騒ぎである。
もっとも結婚式であるから無闇な真似をする馬鹿はいない。
芸者を呼んだり裸になる奴もいないから、比較的安穏とした酒宴になった。
私もビアンカとヘンリー夫妻でわいわいやっているのは覚えているが、ただでさえ弱い酒を浮かれてあおりまくった私は後のことを全く忘失してしまった。
もっとも結婚式であるから無闇な真似をする馬鹿はいない。
芸者を呼んだり裸になる奴もいないから、比較的安穏とした酒宴になった。
私もビアンカとヘンリー夫妻でわいわいやっているのは覚えているが、ただでさえ弱い酒を浮かれてあおりまくった私は後のことを全く忘失してしまった。
771: 2018/12/15(土) 19:37:56.39 ID:cljMvNgo0
朝起きると、頭が割れるように痛かった。
目の前が靄がかかったように全く判然としない。
よもや、昨夜の出来事は全て夢かと一瞬おそれたが、自分がルドマンの別邸で寝ているのを確認して安心した。
目の前が靄がかかったように全く判然としない。
よもや、昨夜の出来事は全て夢かと一瞬おそれたが、自分がルドマンの別邸で寝ているのを確認して安心した。
772: 2018/12/15(土) 19:38:24.66 ID:cljMvNgo0
首をぶんぶん振っていると、ビアンカがロフトから降りてきて、あなた、もうお昼近い時間よと云った。
私は思わず小さく吹き出した。
まさかビアンカの口からあなたなどという甘い言葉が出るとは予想だにしていなかったのだ。
ビアンカは憤慨からか羞恥からか顔を赤らめている。
私は思わず小さく吹き出した。
まさかビアンカの口からあなたなどという甘い言葉が出るとは予想だにしていなかったのだ。
ビアンカは憤慨からか羞恥からか顔を赤らめている。
773: 2018/12/15(土) 19:38:52.75 ID:cljMvNgo0
そうしてほの紅い顔を私の顔の傍へ持ってきて、「こんな不束者ですが 末長くよろしくお願いいたします」と私語いた。
私はくすぐったいのと恥ずかしいのとで仰天して飛び上がった。ビアンカはころころ笑っている。
「なんて、私らしくない科白よね。けれど想いはそのつもりよ。……これからもずうっと仲良くやって行こう、ね」
私は真っ赤になった頬に気づかれないよう顔を背け、「無論だ」と単簡に答えた。ビアンカは相変わらず嬉しげに微笑んでいる。
私はくすぐったいのと恥ずかしいのとで仰天して飛び上がった。ビアンカはころころ笑っている。
「なんて、私らしくない科白よね。けれど想いはそのつもりよ。……これからもずうっと仲良くやって行こう、ね」
私は真っ赤になった頬に気づかれないよう顔を背け、「無論だ」と単簡に答えた。ビアンカは相変わらず嬉しげに微笑んでいる。
774: 2018/12/15(土) 19:40:25.44 ID:cljMvNgo0
大変、本当に大変長らくお待たせしました。
結婚編はドラクエVの最大の山場であり、かなり慎重に筆を進めてまいりました。
しかしその中途で生活の基盤が大きく変動し、こういった趣味の小説を書き連ねるのも容易でなくなってしまい……
こうやって続きを書き込めたのも正直奇跡の類と云えます。
保守と応援を続けてくださった皆様には感謝しかありません。本当にありがとうございます。
長くかかりましたが、青年期前半(結婚編)はこれで終了します。しばらくして、青年期前半(グランバニア編)のための新スレを建ててここへリンクを張ります。
その後にHTML化依頼を出してきます。
以前と環境ががらりと変わったため一章上げるのにまたぞろ時間がかかるかと思いますが、よろしければ何卒最後までお付き合いください。
777: 2018/12/16(日) 05:34:07.02 ID:F8o4s7EKO
乙
続きが来るとは思わなかったので嬉しい
続きが来るとは思わなかったので嬉しい
778: 2018/12/18(火) 00:04:41.79 ID:zvRNu4aQO
1年近くも推敲なさって……
このイベントはシリーズ屈指の究極の選択故に悩みまくったことがうかがえます
お疲れ様でした
このイベントはシリーズ屈指の究極の選択故に悩みまくったことがうかがえます
お疲れ様でした
引用元: 夏目漱石「虞美人(ルラムーン)草」
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