1: ◆TOYOUsnVr. 2020/09/15(火) 00:37:01.61 ID:e1J45WPZ0
つい数週間前までは、わたあめみたいな雲がもくもくと盛り上がっていた空を見上げる。
もうどこにもそんなものはなくて、代わりに薄くて小さな雲がまばらに散りばめられていた。
気付けば、あんなに煩わしかった蝉の声も聞こえない。
視線の先を、真っすぐな軌道ですいーっと蜻蛉が飛んでいく。
私の五感の全てが、夏の終わりを知覚していた。
「はい。ありがとうございます! ばっちりです! 次回撮影開始は日没頃、一時間と三十分ほど後になりますので、よろしくお願いします」
私の周囲を取り囲んでいた撮影のためのスタッフの人たちが、一様に頭を下げる。
それに「お疲れさまでした。引き続きよろしくお願いします」と私も返し、ロケバスへと戻るのだった。
2: 2020/09/15(火) 00:38:27.93 ID:e1J45WPZ0
〇
ロケバスのやや重たいドアを、気合を込めて引く。
がらり、と開いたその中へ一歩踏み込めば、ひんやりとした心地よい空気が私を迎えてくれた。
「ただいま」
短く三段ほどの少ない段差を登りきる前に、ロケバスの中へと声を投げる。
しかし、期待した出迎えの言葉は返って来なかった。
あれ。いると思ったんだけどな。
少しの気恥ずかしさを覚えながら、こつこつとブーツを鳴らして車内を歩いていき、最後方の座席に腰かけた。
ふぅ、という息が無意識で漏れる。
かなり暑さが和らいできたとはいえ、まだコートを羽織るには早い。
編集やら製本やらの都合があるので、ワンシーズン前に撮影を行う、という理屈は承知しているけれども、疲れるものは疲れる。
羽織っていたコートを脱いで、しわにならないように椅子にふんわりとかけてから、私は誰もいないのを良いことにぐでっとさせてもらうことにした。
ロケバスのやや重たいドアを、気合を込めて引く。
がらり、と開いたその中へ一歩踏み込めば、ひんやりとした心地よい空気が私を迎えてくれた。
「ただいま」
短く三段ほどの少ない段差を登りきる前に、ロケバスの中へと声を投げる。
しかし、期待した出迎えの言葉は返って来なかった。
あれ。いると思ったんだけどな。
少しの気恥ずかしさを覚えながら、こつこつとブーツを鳴らして車内を歩いていき、最後方の座席に腰かけた。
ふぅ、という息が無意識で漏れる。
かなり暑さが和らいできたとはいえ、まだコートを羽織るには早い。
編集やら製本やらの都合があるので、ワンシーズン前に撮影を行う、という理屈は承知しているけれども、疲れるものは疲れる。
羽織っていたコートを脱いで、しわにならないように椅子にふんわりとかけてから、私は誰もいないのを良いことにぐでっとさせてもらうことにした。
3: 2020/09/15(火) 00:40:40.47 ID:e1J45WPZ0
そのようにしてしばらく穏やかな時間を満喫していたところへ、がらりという音と、話し声が飛び込んで来る。
次いで、硬い革靴が段差の金具と打ち合う音が三度して、スーツに身を包んだ男が姿を現した。
プロデューサーだ。
彼は耳に携帯電話を押し当てて、何やら愉快そうに喋っている。
「ええ、はい。もちろんです。渋谷にもその旨、申し伝えます。はい。はい。あはは、恐縮です」
私の名前が出ていることに気付き、なんの話だろう、と聞き耳を立てるべく浅く座り直す。
そんな私に気付いたらしい彼は、ぴくりと眉を上げて笑む。
口が「お」「あ」「え」「い」の形に動いたのを見て、おかえりと言ってくれたのだとわかった。
気付かれたなら、近くに来て電話してもらおう。
そうした方がこちらとしては聞きやすい。
さて、そのためにはどうしたらいいだろうか、と思案して一つの案がすぐに浮かんだ。
人差し指で、私は自分の爪先を示す。
その延長線上には、ごてごてとしたロングブーツがあって、彼は私とそのブーツを交互に見た。
口を「お」「え」「あ」「い」の形に動かしてみる。
彼はきょとん、と首をかしげた。
伝わらなかったらしい。
では、なんと言えば伝わるだろうか。
少し考えて次は「あ」「あ」「い」の形に口を動かす。
すると、プロデューサーは親指を立てて頷く。
伝わったようだ。
革靴を鳴らして近付いてくる。
やがて、私の正面に跪く格好でしゃがみ、ブーツに片手をかけた。
4: 2020/09/15(火) 00:41:44.58 ID:e1J45WPZ0
器用に肩と首で携帯電話を挟み「ええ、はい。はい。いえいえ、勿体ないお言葉……あはは」などと相も変わらず愉快そうに相槌を打っている。
それと同時進行で、ぱちん、ぱちん、ぱちんと私のブーツのベルトが外れていき、やがて片方の足から、ぎゅうぎゅう締め付けられる拘束感が消える。
間髪入れずに、もう片方にも彼の手が伸びて、今度は先程の慣れからかさらに速くブーツがするりと脱げた。
「はい、はい。そうですね。ええ、弊社の事務員からすぐにメールで資料を送らせますので、はい。お手数おかけいたします。はい、是非また。失礼します」
言い終わって、彼がスーツの内ポケットへと携帯電話をしまい込むのを待って、私は口を開いた。
「ありがと。あと、ただいま」
「おかえり。写真、良い感じだったよ」
「あ。もう見てきたんだ」
「ざっと流し見させてもらう程度だけどね、ちょっとだけ。にしても、こうして持ってみるとゴツいブーツだなぁ」
手にした私のブーツを掲げ、ぐるぐる回して四方から眺めながらプロデューサーは言う。
最後に覗き込もうとしたので、ぎりぎりのところで引ったくってやった。
「デリカシー」
「ほんの数時間履いてただけだし、においなんてしないだろうに」
「そこまで察せるなら、最初からやんないでよ」
「ほら、プロデューサーとしては、気になるもんだろ。中の構造っていうか、履いてて痛くないのかな、とかさ。特に今回の撮影の衣装は全部先方が用意したものなのもあるし」
それを言われると、返す言葉に困る。
ので「それは、そうかもしれないけど」とまごつく他なかった。
5: 2020/09/15(火) 00:42:26.25 ID:e1J45WPZ0
「まぁ、それはさておき。お疲れ。予定より休憩長めだし、絶好調みたいで安心した」
「そう、かな。最後の方とか好きに歩いてください、なんてオーダー逆によくわかんなくてちょっと困ったけど」
「でも、オッケー出たってことは良かったってことじゃないの」
「……そうかもしれないけど」
「ちなみに、俺がさっき見せてもらってきた写真は全部……」
「全部?」
「かわいかったよ」
「プロデューサーはいつもそれだよね」
「だって、事実だし」
「はいはい」
にやけた顔を晒してなるものか、と頬の内側を噛んで上がろうとする口角を押さえつける。
空いている座席の前に、脱いだブーツを揃えて置いたのちに、私はシートに体重を預けた。
「水、お茶、コーヒー。一通りあるはずだけど」
「ありがと。でも、あとで唇濡らす程度にしとく」
「お手洗い行きたくなったら遠慮なく撮影なんて止めちゃえばいいのに。今日は凛だけだし。天下の渋谷凛様だぞ、って」
「イメージダウンにも程があるでしょ、それ」
「そうかなぁ」
「そうだって。それに、めちゃくちゃ言い出しにくいでしょ」
「恥ずかしがることないだろ。普通に言えばいいんだよ」
「参考までに……どうやって?」
「タイム! って」
びし、と右腕を伸ばしているプロデューサーの足の甲に、踵を見舞う。
素足であるためか、いつもよりも生々しく、ぐにぐにとした革靴の感触が伝わって来た。
「ブーツ、脱がせておいてよかった」
「もっかい履いていい?」
「あれで人の足なんて踏んだら当たり所によっては折れるぞ」
「くだらないこと言わなきゃいいんだってば」
「でも、実際ああやって止めるくらいしかないだろ」
「止めるにしても、止め方があるでしょ。野球じゃないんだから」
「じゃあなんだ。タオルでも投げ込めばいいのか」
「それはタイムじゃないでしょ」
「あー、あれはどっちかと言えば棄権か。よく知ってるな」
「前になんかで見た気がして」
「でも、審判ってよりは俺の判断で試合を止めるんだし、こっちのが近いかもなぁ」
「セコンド、って言うんだっけ」
「そうそう。レフェリーの判断なんて待ってられないぜ、って」
「はいはい」
6: 2020/09/15(火) 00:43:30.71 ID:e1J45WPZ0
そのまま、ああでもないこうでもない、とくだらないことを言い合っている内に、撮影再開が間近に迫っていた。
同じタイミングで時計を見て、視線を交わす。
プロデューサーが先に立ち上がって、私がブーツを履く時間分だけ遅れて続く。
そして、同時に「んー」と伸びをした。
「後半戦、だな」
「プロデューサーは見てるだけだけどね」
「それを言われると何も言い返せない」
「ふふ。でも、そういうお仕事でしょ?」
「そうだな」
にっ、と歯を見せたプロデューサーの横顔から視線を正面に移してロケバスを降りるべく私は踏み出す。
背中で聞いた「いってらっしゃい。頑張って」に「いってきます。当然」と返して、私は車を降りた。
7: 2020/09/15(火) 00:44:12.95 ID:e1J45WPZ0
〇
吹いた風がふわりと頬を撫でて過ぎ去っていく。
ほんの最近まで感じていた、湿度を持ったぬるりとしたあの感触は、既にどこかへと置いてきてしまったようだ。
深い緋色に燃える空は、一足早い紅葉のようで歩いているだけで心が弾む。
モンブランに、スイートポテト、焼き立ての秋刀魚なども素敵だ。
これからの季節においしくなるものたちを頭に浮かべて、軽やかに跳ぶ。
自然と上がった口角と、背後で鳴るこんっ、というブーツのヒールが地面を打つ音。
いま、ですよ。
というわかりやすいシャッターチャンスを作ると、私の思惑通りにカメラマンさんの指が動いて、ぱしゃりと響いた。
8: 2020/09/15(火) 00:44:53.22 ID:e1J45WPZ0
撮影をコントロールしている全能感に酔いながら、プロデューサーは見てくれただろうか、と視線を泳がせる。
そして、スタッフの一団の中に、彼の姿を見つけた瞬間のことだった。
分厚く、黒々とした雲が山の向こう側からやってきていた。
ああ、降るだろうな。
なんて、確信じみた予感を抱きながらも撮影を止めぬよう、先ほどよりも率先してシャッターチャンスを自ら作っていく。
ぱしゃり。
ぱしゃり。
ぱりゃり。
ぱしゃり。
何度かのそれを経た頃には、黒々とした雲は頭上にあって、ごろごろと警告のように鳴らしていた。
9: 2020/09/15(火) 00:45:45.05 ID:e1J45WPZ0
やれることは、やった。あとはスタッフの人たちの判断次第だろう。
これまでに撮ってもらった枚数でもかなりの枚数があるはずだ。
十二分ではないにしても、十分ではある。
被写体としての感覚ではあるけれど、私はそう思っていた。
カメラマンさんたちの持っている機材の何倍も強いフラッシュを空が数度焚く。
遅れて、ごろごろごろごろと雷鳴が響いた。
それが始まりの合図だった。
黒々とした雲が、待ってましたと言わんばかりに大粒の雨をぽつぽつと吐き出していく。
10: 2020/09/15(火) 00:46:14.89 ID:e1J45WPZ0
その刹那、スタッフの一団がいる方向から何かを投げられ私の視界は塞がれた。
私の頭のてっぺんにふんわり着地したそれは、大きなバスタオルだった。
では、私にこんなことをするのは。
一人だけだ。
頭にバスタオルをかぶせて雨避けにしたまま、これを投げてきたやつのいるであろう方向に視線を移す。
期待通りそこにはプロデューサーがいて、スタッフの人たちがこれからどうするか協議するのをよそに、ロケバスを指で示していた。
先ほどの彼の言葉が唐突にリフレインする。
なるほど。
11: 2020/09/15(火) 00:46:42.88 ID:e1J45WPZ0
棄権だ。
12: 2020/09/15(火) 00:50:41.64 ID:e1J45WPZ0
おわり
引用元: 渋谷凛「レフェリーの判断なんて」
コメントは節度を持った内容でお願いします、 荒らし行為や過度な暴言、NG避けを行った場合はBAN 悪質な場合はIPホストの開示、さらにプロバイダに通報する事もあります