1: ◆VvysKS2FVo 2018/10/25(木)16:40:01 ID:63q
速水奏がスカウトされる日のお話です。
2: 2018/10/25(木)16:41:26 ID:63q
 もう無意識になってしまっている。テレビ台に幼い私の写真が飾られていること。

 何度も見返した名作映画の、あの女優の口許を真似てみる。怒りと悲しさと寂しさと、あるいはそのすべて──そのすべてを湛えた微笑み。息遣いまでを感じて私は模倣する。

 そして彼女は、まぶたを閉じてそっとキスをする。
第14話~第17話 事務所の回『私の大切な…』/秋の回/ユニットの回/仮装の回
3: 2018/10/25(木)16:42:08 ID:63q
 母親の言を信じるなら、少女がいるのは海辺の公園だった。

 深呼吸をすれば潮の香りが私を満たし、胸のあたりでは風が髪と戯れて、サンダルも脱ぎ散らしひとりかけてゆく。
 涅色の砂れきを柔らかな足に食い込ませ、芝が零した朝露を真白い肌に転がして。

 あの古木まで走ろう。好奇心のままに、あの木まで。

 乾いた幹が大きくねじれているから、もう随分長くここにいるのだと思った。それなのに古木は、愛らしいオレンジ色の花をつけている。
 雄ずいの黄色をその六枚の花弁に映して、つやつやした葉の緑を補色にまた生き生きと咲いている。

 幼い私は彼が落とした花を手に取り、口づけするようにしてそっと微笑む。

 今も、今までも、これからもずっと、時が止まり永遠に、あなたは無垢な少女のままで。

4: 2018/10/25(木)16:42:35 ID:63q
 ◇

 甘すぎるヘアオイルの香りを押し上げて、下水の臭いが漂っていた。湿気がそれを生温くして、少し気分が悪い。

 鏡の向こうには髪を濡らした少女がいる。毛先から零れた水滴は肩の高いところへ落ち下へ下へ、柔らかな肌を這ってゆく。
 彼女は薄目を開け唇を閉じて、まだ眠そうにしていた。まだ、夢を見てるみたい。

「今日は遅くなると思うから」

 母はコーヒーを飲み干してそう言った。いつもブラックで、いつも慎重にコップを置く。

「おばあちゃんのこと?」

「そう。奏も学校がんばって」

 玄関先まで見送ると、母はごめんねと言って去ってゆく。地上十二階を吹く風が、さらさらの髪をなびかせていた。

 季節は夏至を過ぎたころ、太陽は空の道をくだりながら地上を焼きつけている。そこでは人も車も動き始めて、道行きに沿い橋を越え、東京駅の方へと向かって行く。

 私もそろそろ準備しなくちゃ。

 母が職場近くで買うパンは、スーパーで買うものよりも小麦の香りがずっと柔らかい。キッチンにいつも用意されているそれが、少女のお気に入りだった。

 今日は無花果のジャムでいただこう。そして食後には苦いコーヒーを。格好つけてるわけじゃないんだけど……母がそうでなければ。

5: 2018/10/25(木)16:43:06 ID:63q
 午前七時前、駅へと続く橋に佇み、そこから川をじっと眺める。
 いくら目を凝らしてみても水底は見えなくて、淀んだ水は実像よりもずっと深く思えた。

 両岸にはそれぞれ、マンションとオフィスビルが建ち並んでいる。
 川は私たちの生活を脅かすでもなく、その足下を静かに流れてゆく。海へと向かって、ある地点から自らの姿を変えて。

 けして美しくはないけれど、私の目にはその景色が特別なものと映っている。

 数ヶ月前に越してきたときも、四方を水が流れていることに驚いた。
 荷を下ろした母が一息ついている間に私は街を歩いて回り、誰もそんなこと気にしていなかったけど、ここは確かに島なのだと知った。

 だけどまだ、川の匂いがする。川は何処で海へと変わるの。もう少し歩けば、その質問に答えてあげられるかもしれない。

6: 2018/10/25(木)16:43:30 ID:63q
 小さな手が、私の膝にそっとふれた。テディーベアのカチューシャをつけてもらった女の子が、混雑する電車の中でがんばっている。
 私のことをお母さんと間違えているのか、眠そうにしてその体重を預けてくれた。

 速水奏の鏡像が、窓硝子を流れる東京湾に重なっている。楽しげな乗客たちをよそに、そのイメージを指先でなぞった。

 からっぽになった気持ちに懐かしさが流れ込んでくるようで、そのこそばゆさに、もう少しだけこの時間が続けばいいと思う。もっとも、この子は次の駅で降りてしまうだろうけど。

 いっそ時間が戻ってしまえばいいのに。このまま太陽の道行きに逆らって東へ東へ、海辺をずっと歩いて、あたたかな陽の中でまだ遊んでいたかった。

 あの砂も小石も柔らかな芝も海の冷たさも、今となってはけして喜ばしいものじゃない。
 私たちはもう、裸足になったりしないから。

7: 2018/10/25(木)16:43:57 ID:63q


 人工芝の上でボールを追いかけ、合成ゴムで舗装されたトラックを走り続ける。運動部員たちは延々それを繰り返している。

 学園に一歩足を踏み入れるだけで胸が詰まるようだった。
 私たちの人生から三年間を切り取って、魔法のような時を過ごし始める。あたかも今この一瞬を謳歌するように、あたかもすべてが自由であるように振る舞える。
 ただひとつの条件をつけて──見渡す限り霞が覆うこの島を、けして出ようとしないこと。

 午前八時過ぎ、開門のファンファーレがようやく鳴るころ。

 楽しげな人々は我先にと楽園へ足を踏み入れ、あの女の子もきっと、夜のパレードを楽しみにしてる……人混みに疲れてしまわなければ、その瞳をいつまでも輝かせていられたのに。

8: 2018/10/25(木)16:44:17 ID:63q
 上靴に履き替え、階段を昇り、別館へと続く渡り廊下のある階で、私とあなたはいつも出くわす。

「速水、おはよう」

「おはようございます、先生」

 私がそのことに気づいていないとでも思っているのか、彼は良い担任教師のふりをやめない。

「いつもちょっと遅いぞ。やっぱり部活動に入ってみたらどうだ」

「そうやって私のこと上級生が誘ってくるのも、都合悪いからって断ってます」

 どうやって私のこの登校時間に合わせてくるのよ、気持ち悪い。関わってこないで。

「そうか、残念だな。先生としては、もっとみんなと馴染めたらと思ったんだけどな」

 残念だけど、私はもうその目たちの人気者なの。これ以上ないってくらいには。

9: 2018/10/25(木)16:45:14 ID:63q
 女の子たちが、私の席までを占領してお喋りしている。夢中になって花摘み比べ。
 それがどんな可憐な花なのか、或いは誰に贈られたのか……私にはどうだっていいことなのに、気がつけばスカートの上にたくさんの花が投げ込まれている。

 どれもこれもつまらない、ありきたりで地味な花。彼女たちなら自慢の花冠に仕立てるのかもしれない。私なら、全部海に捨ててしまう。

「あ、速水さん。ごめん」

「いいのよ。別に、なんとも思ってないから」

 彼女が去ったあとには柑橘系の不自然な甘い匂いが漂っていた。椅子が生温かいし。

10: 2018/10/25(木)16:45:34 ID:63q
「まあ速水には関係ないかもな」

  担任によると、夕方から雨が降るらしい。
 私以外のクラスメイト全員が、なんらかの部活動に参加していると今になって知った。

 確かに、その時間には家に帰って映画を観てると思う。まあそうでないにしても、あの男に傘を借りるくらいなら雨に濡れる方を選ぶ。

 窓の外はまだ晴天、お日さまの光を浴びて準備体操する生徒たち。
 一限目ならホームルームを早く切り上げられるの? うらやましい。私たちは午後から水泳、あまり乗り気になれない時間帯。

11: 2018/10/25(木)16:45:54 ID:63q
 女の子は鉄棒でくるくる回るのが好きだし、縄跳びでぴょんぴょん跳ねるのも好き。
 長い髪を振り乱して、うさぎのキャラクターをイメージする。何度でも回るし、いつまでも跳ねる。

 小さいころは体が柔らかいのが自慢だったから、思いきり前屈してみせるのも好きだった。膝の裏をぴんと伸ばすと気持ちいい。ぴりぴりと血が流れてる感じ、生き生きしてる。

 掌には砂の感触、爪の間に入らないよう指をクッと反らせ地面から浮かせ、そして両脚の間には逆さの景色が広がっている。

12: 2018/10/25(木)16:46:17 ID:63q
 そういったすべてを、少女らしさのうちに受け止めていた。それでも、午後からの体育は好きじゃない。

 四年生のころも午後一番に体育があった。いつもみたく地面に向かって思いきり手を伸ばすと、体の中まで逆さになりそうで気持ち悪くなる。

 それでも脚の間を覗いてみると、私の影を担任の先生が踏んでいた。いつも優しいクマみたいな先生が、すごく真剣な目をしている。

 怖いと思って目を瞑ったら、先生はそっとすぐそばまでやってきて、私の腰に手を置いた。
「奏はからだが柔らかいな」と言っていつもみたいに優しく優しく、私のことを見てくれていた。

 だから、午後からの体育は好きじゃない。お腹いっぱいだと気持ち悪くなっちゃうし。

13: 2018/10/25(木)16:46:43 ID:63q
 ◇

 教科書にはサメの顔のイラストがあって、その横にはヒトの顔──正確には、数十日の胎児の顔が並んでる。
 おかしな話だと思うけど、サメとヒトの顔はとてもよく似ていた。系統発生的に見て、私たちはサメだったの? 私も母のお腹のなかでサメだったの?

 この前観た、いや、観てしまったと言うべきあの駄作、全然面白くないサメのパニック映画……そういうものはごまんとある。
 例えば海洋生物を異様に怖れたらしいSF作家のことも、この説なら完全に説明がつくってものよね。

 私たちは海から生まれた。だからそれを怖れたりするし、飽き飽きしながらも繰り返してしまう。

 ああ、そういうこと。私たちはいつ海へと帰るの? もう少し読み進めれば、その質問に答えてあげられるかもしれない。なんてね。

14: 2018/10/25(木)16:47:05 ID:63q
 二十分経過。教科書の断片的な知識では謎を解き明かせそうにないし、つまらない。
 生物マニアの先生は相変わらず、脊椎の絵を嬉々として描いている。

 右手にチョークを持って、そのまま人差し指で陰影をつける。粉だらけの指で顎を撫でるから、彼の斑の髭は加齢ではなくその癖のせい……と、私だけが考えている。
 いつもポケットの中に隠しているその左手を使えばいいのに。どうして気づかないの。

 鰓心臓、囲心腔、鰓腸呼吸内臓筋……今日も得体の知れない器官の絵が増えていく。
 妙に上手いから、サメを怖れるタイプの子が日直になると黒板消しひとつに苦労する。

 そして私たちの脳裏には、余計な生命の神秘がこびりつく。

15: 2018/10/25(木)16:47:28 ID:63q
『ドチザメとネコザメを浅瀬で飼育。毎日一時間ずつ十日間陸あげ実験をし、十日目の陸あげ直後に解剖します。この実験の目的は「エラ呼吸」のサメから、どのようにして「肺」が形成されるかを直接観察し、発生過程を推察するためです』

 なんて酷いことをするの……サメ映画じゃやられるのは大抵人間たちで、その報復にしたってあんまりよね。
 だいたい、そうまでして答えがほしいの? そこまでしなくちゃ、私たちは陸に上がれなかったの?

 地殻変動により灼熱の太陽の下に曝されて、重力は六倍、酸素濃度二十一パーセント、酸素拡散係数は八千倍に──それでもなお生きようとした。
 息も絶え絶えに、のたうちまわって……だから、私たちも勇気を持たなくちゃ。いつだってそういうものなのよ。

 その苦しみを耐え抜いた偉大なる先人──いずれ、いずれヒトになる彼に敬意を表しましょう。

 ほら、グランドをたったひとり走らされてるあの子も……何かの罰か知らないけど、そのまま自由の身になっちゃえばいいのに。
 だってその苦悩を誰が知ると言うの? 自由とは、耐え抜いた者にだけ与えられる賜物なのよ。

16: 2018/10/25(木)16:47:52 ID:63q
 ◇

 美術室には、私を描いた素描がいくつか飾ってある。あまり上手くはないけれど、悪い気分でもない。
 私もあなたみたいに、湿度も温度もちょうどいいところで羽を休めていたいと思ったの。うっとうしい季節から逃れていたい。

 空調完備が我が校唯一の伝統で──まあこう言わせる方が悪いでしょ。自ら考え、自ら行動することを重んじる我が教師と生徒たちは、我慢がきかず冷房の温度をすぐに最低まで下げてしまう。

 でもここでその権利を持っているのは絵たちだった。大したものじゃなくても、私はそれでいいと思う。それに、先生の作品だけは見事なものだから。

 遮光カーテンで窓を覆えば、太陽をすっかり隠してしまえる。その代わりのLED照明が、居並ぶイーゼルを満遍なく照らしていた。
 締め切ってしまった部屋には、北風が孕む薫りも届かない。ここには木と絵の具の匂いだけが漂っている。

 コレーのトルソ、ヴィエンヌのヴィーナス、サモトラケのニケ──壁際には教育用に縮小された石膏の女神たちがいて、今日も私たちの修練をそっと見守っていた。

17: 2018/10/25(木)16:48:11 ID:63q
「奏さん、この前はモデルありがとう。今日は男の子に頑張ってもらうから描く方に回ってもらって、難しい部分があればなんでも聞いてね」

 先生が披露する素描の術理は、ともすれば魔法のようにも思えた。だからここでだけは素直に「はい」と答えられる。

 空白の画用紙に向き合うと緊張してしまうけど、教えてもらった通りやれば上手く行くことも知っている。
 私の目が、すべてを理解していると。
 
 みんなの前に座らされた男の子は、表情を引きつらせたまま固まっていた。二限から三限へと続く授業中ずっとそうしているのは、確かに辛いのかもしれない。
 余計なことを考えてしまうでしょう? 人にどう思われているかとか、そういう些末なことをね。

 実際のところ、絵を描くときは誰もが無心になっている。そうしないと描けないようだし、そうであれば不出来な顔のことなど気にならない。

 だからモデルも無心にならなくちゃ。ミレイのオフィーリアみたいに、川面に溶けてしまうまで。

18: 2018/10/25(木)16:48:28 ID:63q
 とはいえ、どうやらモデルの姿に共感できそうもない。
 壁に貼ってある素描を見る限り、彼の目に写った速水奏は顔を持たなかった。もちろん描かれてはいるけれど、なにか平均的なものにすげ替えられている。

 その大きな断絶を埋められるほど私たちには技量がないし、例えば古代の彫像だってあちこち欠けてるもの。修復してみたって、腕の向きがちぐはぐならお笑いじゃない?

 本当はどんな顔をしていたのかしら、女神様たちは。まあ、かえってその方がミステリアスでいいのかもね。

 なにか別のものを描こうかな。石膏像か、あるいは机に椅子なんかもおあつらえ向きだし。
 それとも、すっかり画家モードに入っちゃってる先生の横顔? 適当な果物があればよかったのに。

 もっと上手にいろんな絵を描けるなら、爛熟した葡萄と古めかしい時計を並べて、静謐なヴァニタス画を描きたい。朽ちていく時間をそこに閉じ込めておけるから。

 ──いや、速水奏自身を描けばいい。彼の地味な顔を眺めていてふと気づいたけど、私だけがそれを描いていないのね。
 写真に、鏡に、水面に、車窓に、いたるところで私は私を知っているはずだから。
 さあ、手鏡を取り出してじっと見つめましょう。誰よりも上手く描いてみせる、他でもないこの私が。

19: 2018/10/25(木)16:48:53 ID:63q
「奏さん」と声がかかったかと思うと、そばに先生がいた。私は咄嗟にごめんなさいと言ったけど、何も咎められなかった。
「そんな小さい鏡じゃ描きにくいでしょう」と私のイーゼルを教室の後ろに寄せ、名画のレプリカの下辺りに長方形の綺麗な鏡をかけてくれた。

「あの、先生。描き直すべきでしょうか」

「そうねぇ、その方がいいかもねぇ。あの小さい手鏡じゃ画用紙のフォーマットと合わないでしょう? まず対象を取り巻く空間を、例えばこの場合は奏さんの輪郭で描かないと」

「スペースを意識する……ですよね。基礎で習ったのに、つい気負っちゃって」

「まあ素敵なものを描きたいっていうのは誰しもが持つ動機だから、しょうがないわね」

 先生は微笑みを零してから、また他の生徒たちを見回りにいった。優しいアルトの声色がいつも心地よくて、ほっと気が抜けた。
 それじゃあ、また鏡をじっと見つめましょう。今度は大丈夫そうね。

20: 2018/10/25(木)16:49:13 ID:63q
 ◇

「先生、勝手なことをしてごめんなさい」

「ううん、いいのいいの。見る技術を養うんだから、まずは見たいものを見たっていい。私も奏さんを描いてるとき楽しかったから」

「先生くらい絵が上手く描けたら、それは楽しいですよ」

「あら、ありがとう。大学出てからも何十年と続けられるのは楽しいからかもねぇ」

 先生がお手本に描いた男子生徒を見て、その眼差しの優しさを感じた。先月に私がモデルになった素描を見ても、無表情ながら穏やかな速水奏がいる。
 私は私をどう見ているんだろう。川面に溶けてしまった自分を、こんな風に上手く見つけられるのかな。

21: 2018/10/25(木)16:49:42 ID:63q
「最近ね、孫が生まれて」

「そうなんですね。全然お若く見えます。やっぱり、お孫さんにも絵を習わせるんですか?」

「それねぇ。娘は『この子には絵をやらせる』って言ってるんだけど、自分は興味なかったくせにね。男の人に混じってばりばり仕事して、私はそれでも全然いいのに」

「私の母もそんな感じです。仕事のできる人で……尊敬もしてますよ」

「じゃあ奏さんが優秀なのはお母さん譲りかしら?」

 今はもう子育てに専念していて……と、先生は娘さんのことを楽しげに話した。
 お孫さんの話題が出たのは、私が自画像を描きあぐねているのを見て将来のことを想像したから。

22: 2018/10/25(木)16:50:05 ID:63q
「ピーテル・ブリューゲルって画家がいるでしょう? バベルの塔とか堕天使を描いた人でね。ほら、後ろに飾ってある『農民の婚宴』の」

 先生が指した絵には食事を配る人や楽器を演奏する人たちが楽しげに、でもヨーロッパの寒々とした雰囲気がよく描かれていた。バベルの塔は私でも知ってるくらいだし。

「農村に出向いて素描するときは脚の間から逆さの景色をスケッチしたらしくて、変わった画家だとよく言われるのね。でも逆さになると人は物の意味を認識できなくなって形しか見なくなるものだから、実はとても理に適ってる」

「本当の姿が見えるってことですね。あれは先生だとか魚だとか、名前を気にしなくなって」

「そうね、対象が何かは関係ない、形だけ見ればいいの。まあ自画像だと逆さまになるのは難しいけどねぇ」

 先生が品良く笑うと、そろそろ三限目が始まるころ。まだ空白の画面に、せめてその輪郭だけでもつかみたい。
 今日はもう一歩進めるはずだから。認識が変わるのは、きっと単純なことなんだと思う。

23: 2018/10/25(木)16:54:02 ID:63q
 ◇

 人間は、自然のうちで最も弱い葦の一茎に過ぎない。だがそれは考える葦である。
 そして痴がましくも、私がこの箴言に付け加えるとするならば──
『葦はそのうち自らを川だと思い始める。足下を流れる冷たい川だと』

 まあ落書きは学生の特権よね。横暴な注釈でしかないけれど。
 そう、哲学なんて無益な気がする。
 空回って産業廃棄物になる風車、その代わり多くの鷲を地に叩き落とした。主人に捨てられたメイド、もう銀食器を磨く資格はない。
 なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。考えることのない自然と、そこに投げ込まれ考える私、どちらが気高いかなんて……
 こんな思索に意味ってあるのかしら? そうね、話を戻しましょう。

24: 2018/10/25(木)16:54:31 ID:63q
 考える葦は自らを川だと思い込んでしまった。水面は陽光をきらめかせ、あるいはその淀みで川床を隠している。

 まだ消え切らない「私だという実感」がその水の冷たさを覚え、耳の横を通り肩にぶつかる水流が、かろうじて私の形を保たせていた。

 やがて汽水にまで達しその流れのたゆむところで、私の身体はゆっくりと沈んでいく。水底のやわからな泥が立ち上がり、ついに私の形を隠してしまった。

 流れ着いた意識の澱の悪臭と潮の匂いが交わるところで、私はまだ考えることができる、私だけが。

 人々は、考える葦の成れの果て。分解され泥になる。私だけがこの水底で、まだ。
 陽光は最早とどかず、永遠の夜の世界へ、かつて冥界と呼ばれた場所にまで、まだまだ潜っていける、私なら、私だけが──

25: 2018/10/25(木)16:54:58 ID:63q
「速水、おい速水奏」

「はい」

「はい、じゃないよ。今日はお前だ。読んでくれ」

 ああ、まったく。この粗野な人に倫理観があるとは思えないのだけど。

「どこかわからないとか言うなよ?」

「いえ、大丈夫ですよ」

 だって隣の机を見ればページがわかるし、黒板の内容を見ればどのパラグラフかもわかる。
 残念でしたね、先生。いつも小生意気な哲学者の首を取りたいんでしょうけど。ああ、馬鹿馬鹿しい。

 悠々とページをめくり、堂々と、しかも詰まることなく読み上げたことが気に障りましたか? 先生。

 ただでさえ目が悪そうなのに、そんなに睨んじゃ何も見えないでしょう。視野は広く持っていたいし、右も左も、私たちの目は均等に扱うべきよ。
 盲目って、目が見えないことじゃない。それに気づかないってことでしょう?

 先生、それでよくモラルなんて説けるんですね。

26: 2018/10/25(木)16:55:28 ID:63q
 ◇

 売店で適当なパンを買うとき、いつもの私なら何も考えない。
 おばさんの左手が私の手首を捕まえて、そしてもう一方で小銭を握らせる。こういうことは毎日続いていた。今朝もパンを食べたのに、また?

 別に何かを口に入れる必要もない、本当はね。ただなんとなく、入学当初はカフェテリアという響きに惹かれてお昼はここで食べようと思っていた。それが三ヶ月ほど続いたという話。
 現実を見ると、その呼び名ほど洒落たものではあり得ないけど。

「そうそう奏ちゃん。このプリン美味しいわよ」

 おばさんが冷蔵ショーケースから取り出してきたのはプリンだった。
 カップの中には生クリームがたっぷり絞られていて、半透明のベリーソースがきらきらしてる。でも甘いものは……どうしようかな。

「いっつも小さいパンしか食べないでしょ。もうちょっと食べていいのよ学生なんだから」

「そうですね、よく言われます」

「割り引いとくわね」

 おばさんはそう言いつつバーコードを読み取ってしまった。
 ちょっと待って、今ので了解したことになってしまうの? もう少しこちらの気持ちも読み取ってもらえないでしょうか。
 とは言え、目尻に皺を寄せて笑うのを見てると断れそうもない。

「ありがとうございます」って、なんで私がお礼を言ってるのよ。

27: 2018/10/25(木)16:55:50 ID:63q
 カンカンと、甲高い音が耳に障る。はす向かいに座った男の子がカレーを混ぜるとき、スプーンと陶器のお皿がぶつかる音。

 うざったい。食事は出来る得る限り気分良く取りたいのに、映画館で匂いの強い食べ物を選ぶような人って何考えてるのかな。
 私のデニッシュのささやかな味なんて、どこかへ?き消えてしまう。

「速水さん、珍しいね」と彼の方から声をかけてきた。なに? できればもう少し私の五感から離れてもらえないかしら。とはさすがに言えないけど。

「いや、いつもはスイーツなんて食べないよね? なにかいいことでもあったの?」

「いつもって……私のなにを知ってるっていうの」

「僕も毎日ここで食べるからさ。だから速水さんのことも毎日見かけて当然」

 そんな「同族だね」みたいな顔しないでもらえる? 私はあなたのこと今日初めて認識したっていうのに。

「ここのカレーは辛くて美味しいんだよね。学生向きとは言えないかもしれないけど、毎日食べても飽きない。おすすめするよ」

 ああ、すごくどうでもいい。「そう、ありがとう」とでも返しておけば満足してくれるかしら。

 さっさと戻ろうとプリンを一口食べると、想像以上の甘さが頭に響いた。それに生クリームで胸焼けする。
 買ってしまった手前捨てるわけにもいかないし、彼にあげて勘違いされても困るし、こうする他ないんだから仕方がないけど。

「美味しい? 僕も買ってこようかな」

 ねぇ、私たち一緒に食事をしに来たってことになってるのかしら、あなたの頭の中では。誰に書き換えられたの? 私?

 ベリーの果肉が潰れたときの酸味も相まって、この不条理に脳が痺れそうなの。そもそも律儀にこの場で食べる必要もないじゃない。本当にどうかしてる。

28: 2018/10/25(木)16:56:13 ID:63q
 そろそろ昼食の取り方について考えなおさないと。
 大概の生徒はいつもの友達とお弁当を食べているから、独りでいるとああいうわけのわからないのに絡まれるのね。

 廊下には私の足音だけが速く響いている。この合間の時間がほんの少しの自由だったのに。あまりにも脆いというか、誤魔化しにもならないけど……それでも、ないよりはまし。

 なのに、さっき呼び出しを食らって職員室に向かわされてる。声が聞こえたと思ったら、理不尽な要求。私が何をしたっていうの?

 わけのわからないことが永遠に続いていく、彼らの意図がわからない、私をどうしたいのよ。

29: 2018/10/25(木)16:56:40 ID:63q
 ◇

 そのドアを開けると、異常なほど冷たい空気が肌を這っていった。女性教師の姿は見えなくて、いかにも暑がりですって人ばかりいるからそれだけで嫌になる。

 私を見つけ嬉しそうに名前を呼ぶ担任の姿がちょっと滑稽だった。
 だから、例えば何かの頼み事ならそれは建前に過ぎないってこと。もし愛の告白でもするのなら余程の馬鹿ってことかしら。

「速水、次は水泳だったよな?」

「ええ、そうですね」

「ちゃんと出るのか?」

「はい、毎回出てますよ。それがどうかしました?」

「いやいや、ごめんな。速水は真面目で優等生だよ」

 彼はにやにやして、あるいはにこにこして、デスクの上に視線をやった。そこには一ヶ月ほど前の体育祭で撮ったクラスの集合写真が飾ってある。

 この何処にでもいるような男性教諭──三十前後で仕事にも少し余裕が出てきたし、例えばあの生物のサメ好きよりかはずっと子供たちに近くて、それをひとつの強みだと思っているような普通の先生──彼がこの写真を大切なものだと言うのなら、それは紛れもなく本当だと思う。

 もしかすると良い人のふりをしてるわけじゃなくて、ただただ本当に良い人で、今日は水泳に参加するのかなんてことを他の生徒に聞くことはないのかもしれない。

 ああ、これ以上はやめにしておきましょうよ。こんな悲しい話。先生のお節介にも少しは耳を傾けてあげなくちゃ。ええ、そうですね。よく言われます。

30: 2018/10/25(木)16:57:05 ID:63q
「それで、水泳が終わったら六限で使うものを一緒に運んでほしい。ちょっと多くてな」

 どうして私なんですか? なんて聞かないわ。だって先生は私のことが好きだから。

「わかりました。着替えたらすぐ行きます」

 同情心みたいなものが胸いっぱいに溢れてくるのを感じた。滅多に使わない白の絵の具が筆洗いに溶け出したような、こんな気持ちってどう言えばいいの。

 馬鹿馬鹿しくて可哀想で、なんとも言えない。あなたが描いてる私はどんな風に微笑んだのかな。恋してるみたいに瞳をきらきら潤ませているの?
 いいえ、やっぱり知りたくなかった。

 別れる間際、言われるままに手を差し出すと、がらがらと缶が振られて色とりどりの飴玉が掌に転がった。
 ごく小さな「ベビードロップ」がいくつか、その六粒か七粒を私は躊躇わず口に含んだ。

 ストロベリー、グレープ、レモン──名ばかりの香りは全て混ざり合い、もう何もわからなくなった。

 だからすぐに噛み砕いて飲み込んだ。それだけ、ただそれだけよ。この人たちに言うべきことなんて何もない。

31: 2018/10/25(木)16:57:29 ID:63q
 更衣室に入ると、他の子たちはほとんど着替え終わっていた。
 今日は見学の子がやけに多くて、向かい合ったロッカーの間にあるダサいトリコロールのベンチに猫背で座ってる。

 彼女たちは押し黙ったままで、私が着替えるのをじっと見ていた。

 授業に出る子たちは熱心すぎる指導を思って朝からうんざりしていたけど、先生のでっぷりした姿が現れるやすっかりその姿勢を正すことになっている。

 本人が「昔は魅惑のマーメイドだった」なんて言っても、そういう古臭い言い方が溝になってるし、私の目にはそこに住まうリヴァイアサンくらいにしか見えない。

 先生はいつも通り見学の子たちを穿った目で見てから「まあ始めましょう」と言った。

 うだうだと準備体操が始まり、その体たらくに檄を飛ばすマーメイドの掠れた声が、ガラス張りの天井と塩素臭い水面の間で反響する。

 まあこういうことって疎かにしちゃいけないし。あのはち切れそうなTシャツ姿を見て、何も思わない子はいないでしょうけど。人魚姫も大変そうね。

32: 2018/10/25(木)16:57:59 ID:63q
 ひと通りウォーミングアップを終えると、今度は二十五メートルをひたすら泳ぎ続ける。
 フォームがおかしい子、息継ぎが派手すぎる子、そもそも泳げない子、それぞれが叱責を受け泣きそうになりながらまた泳ぎ始める。

 数回したところ私の前の子が十メートル付近で立ちつくし、それが「あまりにも酷い」ものだから一度中断することになった。
 こっちに戻ればいいのに、しくしく泣きながら残りの十五メートルを歩いていく。

 暗い顔で整列し体育座りする私たちと、般若みたいな顔をした先生が向かい合う。呆れたような溜め息とか、苛つきながら膝を叩く音とかが沈黙の中に響いて、湿った空気を余計に鈍らせていた。

「速水さん!」

 どうして私の名前が呼ばれたのか、この場の誰もわからなかったと思う。あなたも私のことが好きなんですか? なんて。

 いつもよりはっきり「はい」と答えてしまったことが、その空気に負けたみたいで腹立たしかった。

「速水さん、あなたが手本を見せなさい」

「私ですか? どうして?」

「あなただけが美しく泳げてるからよ」

 さっきの子がこちらを振り返り、恨めしそうに私を見ていた。
 立ち上がり前へ進み出ると、何故だかその視線は十数に膨れ上がった。
 スタート台に立ち目線が高くなると、見学者ベンチにいる子たちとも容易に目が合う。

 公開処刑ってやつかしら。「この子を見なさい」と執行人の演説が始まった。

「あなたたちは中学校で何を学んでいたの? 動物なら何も教えられなくても何十メートルか泳ぐなんて当然できるのよ。ここにいるのはみんな動物以下なの? 人間になりなさい。人間も動物なのよ!」

 罪状の読み上げは終わりましたか? 何が言いたいのかまったく意味がわからないわ。

「速水さん、ターンは?」

「ええ、まあできますけど」

「では往復五十メートル」

「わかりました」

33: 2018/10/25(木)16:58:18 ID:63q
 鏡像が、水面をたゆたう。私がそこへ飛び込んでゆく。躊躇わず、水飛沫も上げず。

 尾ひれを目いっぱい動かして水底を泳ぐと、変わり映えしないタイルは速いスピードで視界を通り過ぎていく。

 徐々に水面へ近づき、そこからクロールを始める。
 私が水を掻き、息継ぎする以外にはどんな音も聞こえない。
 声援なんてあるわけないし、だだっ広い空間をただ独り泳いでる。

 対岸を蹴って、さらにスピードを上げた。
 このまま息絶えるまで泳ぎ続けたっていい。

 私はまだ泳げるわ。だって、そうしないとヒトになれないんでしょ?

34: 2018/10/25(木)16:58:38 ID:63q
 ◇

「どんどん曇ってきたな」

「そうですね」

 太陽は雲に覆われている。プール棟から職員室に戻る間にも蒸し暑くなったのを感じた。校舎に入ってしまえば、そんなこと気にする必要はないのだけど。
 窓硝子一枚を隔てて、外の世界は暗さを増していく。

 今日は学校が終わったらどうしよう。
 雨が降るなら何処へも行かないか、それとも東京駅の方でいくつか映画を観てもいい。そうすれば母と待ち合わせて夕食もとれるし。

「水泳はどうだった? ぼーっとして、疲れてるんじゃないか?」

「お陰さまで、先生にとても気に入られてます」

 何度も何度も独りで泳いだ。例えおかしな仕打ちだとしても、そんなことを悟られたくないから返事はそれだけ。
 疲れてなんかないし、思考もはっきりしてる。今日の夕食について考えていただけだから。

 彼は「まだ濡れてるな」と私の髪を指差して、それからプールバッグに目をやった。
 わざとらしいやり方で視線を手元に戻すと、指を擦り合わせてプリントの枚数を数える。
 ぎこちない手つきで一枚ずつ、適当なところでその作業が必要のないことだと思い至る。

「ここは冷えるし、そろそろ行こうか」

「そうですね」

35: 2018/10/25(木)16:59:01 ID:63q
 期末考査に向けた山積みのプリントや無闇に多い提出物を分担して運ぶ手はずが、この男は余計な気を利かして私が持つ分をかなり少なく見積もった。

 それじゃあひとりで運べるってことになりますよね、先生?

 これは私的な付き合いじゃないし、私たちは教師と生徒以外じゃあり得ない。本音がどうであれ、建前とか取り繕いは必要よ。
 重い荷物を持ってやるとか車道側を歩いてやるとか、そういう頭痛がするような恋愛を私に押し付けないで。お願いだから。

 職員室を出たところにある教員用の傘立てが目に入ると、彼はまたお天気の話を始めた。

 もしかすると朝の予報より早くに雨が降るかもしれない。そうなれば困るのはやはり速水奏であって、担任教師としては見過ごすことができない。

 だから、私はあなたに傘を借りるべきだ。

「いえ、ちょっとくらい濡れても平気ですよ」

 だっておかしな話でしょう?
 あなたは私に優しくできて、私はあなたに感謝しなくちゃいけないなんて。負けるゲームに乗ってやる趣味はないの。

36: 2018/10/25(木)16:59:22 ID:63q
 体を冷やさずに済むのならそれに越したことはないけれど、あなたに守られる意味がない。

 速水奏は1-C出席番号二十六番で、先生がデスクに飾るクラス写真の一員でしかないって言ってくれたら、もしそう思ってくれるなら、私はその傘を受け取ったのに。

 他の学年の生徒たちが、よそのクラスの子たちが、それぞれグループを作り渡り廊下の方へ歩いていく。
 男の子も女の子も一緒で、みんな楽しそうにしている。

 速水奏は、担任の先生と世間話でもしながら教室に向かっている。先生の負担を減らしてあげましょうと、授業で使うプリントの束を抱えて。

 そんなことでよかった。そう、良い担任教師の顔をしてくれるならそれでいい。
 本音の裾が少し見えるくらいなら、私も目を瞑っていられた。

 仮面を被り続けてくれるなら、私もそれに答えてあげられたよ、先生。

37: 2018/10/25(木)16:59:53 ID:63q
「廊下は走るな」とあなたは言ったけれど、このままでは私も遅れてしまう。
 陽気に口答えする男子生徒と、やれやれと言った具合に微笑む教師はまるで何かのドラマみたい。

 いやに上機嫌ですね。

「少し急いだ方がいいと思います」

「まあ大丈夫だよ。いつもこれくらいで授業始めてるだろ?」

「でも生徒は五分前に着席するものですし」

「ゆっくり歩こうか。速水と話がしたいんだ」

 さっきの生徒の笑い声が向こうから響いた。長い渡り廊下にはもう誰もいない。
 この空虚が私を嘲笑ってるようだけど、この道行きはまだ続いてく。

「話? 私、なにか叱られるようなことしました?」

 濡れた髪がじっとりと重たくて今すぐ乾かしたいのに、両手に抱えた山積みの問題が私の足取りまで重くさせる。
 でもまだ第一問目、嫌でもやるしかない。

「いやいや、そうじゃなくてな。学校生活のこととか、普段のこととか、そういう」

「そういう? 別に何もありませんよ。普通にしてます」

「速水は成績がいいよな、どの科目も。普段はよく勉強してるのか?」

「そうですね。まあ、人並みには」

「運動もできるみたいだし」

「そうですね。勉強と同じくらいできるようにしてるつもりです」

 それ以上やそれ以下を望みはしても、私とこの人はどうしたって教師と生徒のそれでしかない。
 話題にまで上るのは、この島の中で起こり得ることだけ。

「速水は優秀なんだから、部活に入ってみんなの力になってやればいいんだよ」

 私はいつもあるべき姿で、あるいは立場で、目の前の人と向き合ってる。そうしようと努力してる。

 なのに、私たちを隔てる霞が心に写ることを歪めてしまう。

「『奏さんは美術の授業に熱心に取り組んでいますよ』ってこの前聞いたけど、絵が好きなのか? 美術部もいいかもな」

 先生、こんな人に余計なこと言わなくていいのに。こんな、目の曇った人間に。

「絵は描くのもモデルをやるのも好きだけど、授業で十分よくしてもらってますから。満足してます」

38: 2018/10/25(木)17:00:27 ID:63q
「速水はなにか家の用事があったりするのか? 部活に参加できない理由とか」

 曖昧に答えたら追及される。
「理由ですか……」そんなものは特にないけれど、多分昔の話が続いてるだけ。

 母に連れられて行ったあの海辺の公園みたいに、ずっとふたりで暮らしてるイメージが離れないだけ。

「少し迷ってるんですよ、私がそこにいてもいいのかって」

 早朝、コーヒーの苦い香りで目を覚まして、甘酸っぱい果実のジャムでパンを食べる。

 いつもの場所に座って、昨日録画してもらった映画を観ている。

 小さなマンションの一室、静かで涼しい朝の時、私はまだそこにいてもいい? 

「迷ってるならちょっと勇気を出せばいいんだよ。みんな優しいぞ?」

「そうですか」

「そうだよ。もし何処に行けばいいかわからないなら……そうだな、うちの部活に来い。俺のところに」

 窓に見える空は、油彩画で描いたようにうねる灰色。

 現在時刻は午後二時三十五分。

 分厚い雲の向こうで、太陽がくだり始める頃。

「私が何処にいたいかは、はっきりしてるのかも。問題なのは、どちらを選ぶべきかわからないってこと。だから……」

「だから?」

「あなたのところへは、絶対に行かない」

39: 2018/10/25(木)17:01:22 ID:63q
 ◇
 
 いかにも教師が好みそうな答えを書いておけばいい、という問題もあるけれど、数学はその限りじゃない。答案用紙の最初から最後まで私たちは正しさを求められる。

 彼は数学教師らしく、恋愛においてもよくある公式に従った。アルゴリズムとかセオリーとか言われるように、陳腐な決まり文句を並べて答えを出そうとした。

 王子さまとお姫さまがいたら大概はどちらかが呪われていて、呪いを解くにはお決まりの手続きが必要になる。速水奏は呪われし姫君で、それにふさわしい台詞を口にするはず。

 ただ私からすれば、これはつまらない道徳の授業にすぎない。
 大手の映画会社なら現代風のジェンダー問題にアレンジしてしまいそうなこの公式を、彼は素朴に信じ込んでいた。

 選ばれなかったものは、少なくとも乙女の天秤にかかってる。王子さまのそれは善くも悪くもないというだけ。

 私は答えを間違えたのだろうけど、知ったことじゃない。私の声色はきっと酷く冷たくて、婚約破棄の動機としては十分すぎた。

 わざとらしく溜め息をつき不機嫌さを押し付ける、女子高生を相手に情け無い男。

40: 2018/10/25(木)17:01:46 ID:63q
 教室に入るとクラスメイトはみんな揃い、とっくに着席している。

 担任教師の語気が荒いのを聞いて、恐らくは速水奏に責任があるのだろうと全員がこちらへ視線をやった。

 持ってきたプリントを配らされ、ご丁寧に一列ずつの恨みを受ける。

「速水、今日は何日だ?」

「二十六日です」

「じゃあ今日はお前の日だ。いっぱい当てるからな」

 彼は意地悪な笑みを浮かべてそう言った。クラスはなんとなくざわついて、女の子たちはくすくす笑った。

 席に着くときこちらをじっと見つめていた隣の男の子も、私が目をやると視線を逸らした。
 こういう子供じみたことが私たちの間で、まだ涼しいところで生きている。

41: 2018/10/25(木)17:02:00 ID:63q
 十分ほどをかけて問題を終わらせると、次は解答の説明が始まる。
 そのためには誰かが代表して問題を解く必要があった。みんなの前に立って、黒板に正しい答えを書いてみせる。

 そしてその解答を彼が添削する。いかに正しい答えを導くか、正しい答えとはいかなるものか、あくまで数学的な話として。

 まずは例題として第一問目が処理され、続いて第二問。
「じゃあ、速水」と彼が言うと私はそれに従い前に進み出る。

 こんなのは何も難しいことじゃない。さっき解いた通りに答えを書き、指についたチョークの粉をはたいて終わり。
 なんでもこうやって済めばいいのにね。

 いくつかの問題を他の子たちが解くと、それから熱心な解説が始まった。

 この程度の問題は私たちのクラスだと誰でもわかる。
 彼は多分、自分の正しさを証明したがっている。この無駄な時間、あまりに効率の悪い授業方針も、私への当てつけ。

42: 2018/10/25(木)17:02:18 ID:63q
 後になるほど問いは難しくなって、後になるほど私の解答が増えていった。
 答えを書くたびに「さすが速水だ」とか「みんなもよく見とけよ」だとか馬鹿にしたような物言いで煽ってくるけれど、そんなことは相手にしない。

 速水奏が間違う瞬間を目にするのが彼の望み、でも私は間違えないし間違ってもいない。

「ついでだし、もうちょっと難しいのをやるか」

 一面の数式が消され、また初めから。彼は手招きで私を誘い出し、黒板の左半分に書き足された問題を全てこちらに投げかけた。

「みんなはノートに写して解いてくれ」

 他の子たちが写し終わったのを見計らい問いの前に立つ。
 ざっと目を通したところ、それは下に行くほど難しくなる。

 ハリウッド映画に出てくる異常な天才みたいに、お世辞にも綺麗とは言えない字を書きつけ見事に解いてみせる……そんなことを幻想しながら、私は問題を確実に解いていく。

 まだそれほどじゃない、私ならできる。

43: 2018/10/26(金)00:06:55 ID:hJp
「じゃあ問題読むから、速水が書いてそのままやってくれ。あとでみんなが写すぞ。間違えるなよ」

「ええ、間違えません」

 読み上げられる問題を黒板に書き写し、そして解いていく。

 第一問、第二問と、白のチョークはどんどん擦り切れる。無心になって書きつけていると、自分の体が他人のように思えてくる。

 チョークは黒板にぶつかり、今のところリズミカルな音を立てている。でもその音の強さに、速水奏は苛ついているのだと気づかされる。

 彼は容赦なく次々と問題を読み上げる。面倒な記号を取りこぼさず書きつけて、そうしながらも解を手繰り寄せていく。

 第五問、第六問、白のチョークはどんどん擦り切れる。誰にも追いつかれないように、何も見失わないように、速いスピードで思考する。

 人間は、考える葦。だけど分解されて泥になる。まだやれる、まだ考えられる、私なら、私だけが。

 暗い緑に、深い緑に、白でハイライトを入れていく。輝く水面のように、これは煌めく意識の跡。まだ空白の解答に向き合うと緊張してしまうけど、私の目はすべてを理解している。

 第八問、第九問、擦り切れたチョークを見限って、真新しいチョークを手に取った。まるで石膏の女神様みたいにつやつやしてる。

 本当はどんな顔をしていたの、女神様。その目で私を見ていて、私を導いて、私がそこに辿り着くまで、帰り着くまで。

 第十問目──彼の言っていることが理解できなくて、私は手を止めた。

「どうした、速水」

「すみません……繰り返してもらえますか」

 胸が詰まるようで、そう言うのがやっとで、何度聞いても、私には何もわからなかった。ただのひとつだって。
 問題を解き続ける間も彼はずっと不機嫌そうだったけど、これで満足かしら。

 ああ、馬鹿馬鹿しい。何を意地になってたの。

 これは対等な遊びじゃないし、そもそもゲームをする相手でもない。その領分に足を踏み入れた時点で、敵わないってわかってたはずなのに。

 彼は教える側で私は教えられる側、彼は大人で私は子供。まだ、裸足でかけまわる少女のまま。いつでもその手を捻って、いつでも連れ去ることができる容易い相手。

 そんなことにも、気づけなかったの?

44: 2018/10/26(金)00:07:30 ID:hJp
 みんなが私を嘲っているでしょう。恥ずかしい、耳まで熱って、頭がのぼせて、ぽろぽろと……汗が、汗が零れ落ちた。

 ?を這って、唇を伝って下へ下へ、ぽろぽろと、ぽろぽろと。ああ、少し気分が悪い。
 まだ夢を見てるのかな、こんなことって。

「速水、おいどうした。大丈夫か?」

 大丈夫じゃない、ふざけないでよ。こんなこと、誰のせいだと思ってるの?

 ふざけないで、ふざけないで。

 どうして、怒りと悲しさと寂しさと、そのすべてを込めた目で睨みつけているのに──どうして気づいてくれないの?

 もう嫌、近づいてこないで。
 もうやめて、お願いだから。
 あなたに何も言われたくない。
 あなたから何も欲しくない。

「速水、すまん速水。俺が……」

 違う、あなたじゃない。やめて──

「さわらないで!」

45: 2018/10/26(金)00:07:48 ID:hJp
 ◇

 教室に叫び声が飛び交っていた。私が怒鳴ったからじゃない。それとほとんど同時に地震があったから。

 机が音を立てて揺れ、役立たずなアラートが一斉に鳴り響き、筆記用具や教材があたりを転がっていた。
 他のクラスからも恐ろしがる声が聞こえて、ちょっとしたパニックになった。

 その瞬間、私だけが目を覚ましていた。

 突然、非日常の世界が拓けたことに少し興奮していたのかもしれない。
 長い揺れのなか机を支えに歩き、ロッカーから飛び出していたスクールバッグを拾い上げ教室を出た。

 誰かが私の名を呼んでいたけれど、もうどうなったっていい。誰もいない廊下を走り抜けて、急いで階段を降りて、散乱した中から私の靴を見つけ、そのまま逃げ出した。

46: 2018/10/26(金)00:08:14 ID:hJp
 誰もいない場所まで走ろう。好奇心のままにかけ出せた、あの頃みたいに。
 白い肌を暖かい色に染めて、乾きを感じながらもまだ走り続けられる。

 軽やかな靴音がアスファルトを蹴ってゆく。街路樹、標識、自動車、街行く人、ぜんぶ転がって少女の頃を通り過ぎてゆく。

 走るほどに、湿った風が私の髪を撫でつける。息を切らしても、そこに潮の香りが満ちてくる。

 そして胸の中には、言いようのない想いが。

 あの頃ひとりでもかけ出せたのは、あなたがいつも待ってくれていたから。だから、またあなたのところへ帰ってしまう。

 少女がいるのは海辺の公園だった。そこに帰りたい、またそこで遊びたい。
 ずっと笑っていたい、愛らしいオレンジ色の花をみつけた、あのときみたいに。

47: 2018/10/26(金)00:18:29 ID:hJp
 ◇

 油彩画のように重厚な暗雲が立ち込め、雨の気配がべたべたと身体中に張り付いていた。

 灰色の水平線へ伸びていく防波堤は、解れかかった標識ロープに塞がれていて、そこに立ち入り禁止の札がかかっている。
 さっきの地震のせいか、それともずっとそうなのかはわからないけれど。

 錆びついた柵に少しだけ体重を預けて、波打つ海を覗き込んだ。
 潮騒なんてちょっと綺麗な言葉を使うには、ここの海は濁りすぎてる。

 大切な記憶も、素敵な予定も思わせることなく、不気味な海はただその音だけを響かせていた。

48: 2018/10/26(金)00:19:02 ID:hJp
 誰も来るはずがないと思っていた海岸に、ゆっくりと近づく人があった。
 大通りから続く階段を、電話で話しながら慎重に降りてくる。

 細身のパンツスーツに真っ白なブラウスで、品の良いシルバーのバッグを肩にかけ、さらさらの髪を涼しげになびかせて。

 階段を降りきって同じ高さに立ったその人は、こちらを認めるなり小走りになって近づいてくる。

 私が彼女を知らなくても、もしかして学校関係者なのかもしれない。
 そうだとしたら残念だし、ひどい言葉を浴びせなくちゃ気が済まないかも。あの男が差し向けたりしたのなら尚のこと。

 目の前に来た彼女は「遅くなると思うので」と言って電話を切り、こちらに優しく微笑みかけた。

「あなた、学生さんかな?」

「ええ……そうですけど」

「なんか、天気すっごく悪いよね」

「じめじめしてますね」

「さっき地震あったでしょ。びっくりした」

「ええ、長くて大きい揺れで」

 当たり前のように私の右側に収まって、柵に寄りかかりながら話を続ける。

 私より少し背が高くて年齢もひと回りくらい上だろうけど、鈴を転がしたような声で話すから同級生のようにも思えた。

 距離の詰め方が慣れていて、にこにこしながら当たり障りない話だけをする。こんな人、学校にはいないでしょうね。

49: 2018/10/26(金)00:19:31 ID:hJp
「首都直下型地震の前兆だったらどうしよう。うちの会社潰れるよ。あなたの学校は? 大丈夫そう?」

「はい。今回は、残念ながら」

「ふふっ、まあ楽しいところじゃないよね。ニュースはちゃんと確認した?」

「ええ、二次災害の心配はないって」

「そう、わかってるなら安心した」

 彼女は少しだけ真剣な顔つきになり、薄暗い沖合を見遣った。
 そこに何があるの。私もまたつられて彼方を見遣った。
 暗雲は塗り重ねられ、海もその荒々しさを増していく。

「学校、抜けてきたの?」

「いえ……早く終わったので」

「ほんと? 大丈夫だって言うからには三十分前はまだそこにいたのかと思って。あれが本震だとは限らないし、普通しばらく様子見るでしょ?」

「まあ、そうするべきでしょうね」

「そもそもこの時間ってやっと授業が終わる頃だから、ここを歩いてるにはちょっと早いよね」

 ほとんど勘だけど、と付け足して彼女は笑った。そこに咎めるようなニュアンスはなくて、むしろ愉快そうだった。

 別にこの人に嘘をつく必要もないけれど、全てを話すにはお互いに悪い気がする。

50: 2018/10/26(金)00:21:47 ID:hJp
「学生時代の時間割なんて覚えてるものですか?」

「どうだろうね。まあなんであれ必要なことは把握しておくもんだよ、大人は。それで、推理はアタリ? ハズレ?」

「ご名答です、よくわかりましたね。拘束されるのが嫌いなんですよ。だから早く帰りたくて」

 私がそう言うと彼女はとても嬉しそうにした。探偵ごっこに適ったからというより、考えの一致を喜んでいた。

 仕事は好きだけど、拘束されるのは嫌い。できれば全部自分の責任でやりたいんだよね、と首元のボタンをひとつ外しながら言った。からから鳴る気持ちのいい声で、そう話していた。

「じゃあもうちょっとこの遊びに付き合ってくれるかな?」

「ええ、いいですよ。どうせ時間を持て余してますから」

「学生っていいねぇ。でも嫌なことがあったんじゃない? だから飛び出してきた、とか」

「さあ……どうなんでしょうね。証拠品はあるんですか?」

「証拠品は、あなたの目。真っ赤だから泣いてたんだろうと思って。ごめんね、余計なこと」

 差し出された手鏡には耳まで真っ赤な私がいた。
 あまりにも恥ずかしいからむくれたふりをして顔を背けたけど、そうすること自体が子供っぽくてまた恥ずかしくなる。

 彼女の言う通り、無理のない範囲で話し始めようと思った。

 私が苦しんでいるのは謂れのない仕打ちそのものじゃない。それがどれだけ理不尽で面倒なことだろうと、大した問題にはならないから。

 本当に求めているのは、真っ当な対話だけ。

「こういうと大袈裟に聞こえるかもしれないけど、私だけが人間だと思われてない」

「気づいてないんだよ、自分が特別だって」

51: 2018/10/26(金)00:22:13 ID:hJp
 こっちにおいでと、彼女は立ち入り禁止の札を跨ぎ灰色の防波堤へ一歩踏み入った。

 風がどんどん吹いてくる。雨は今にも降り出しそう。

「危ないから今はこれ以上行かない。ただの喩え話」

 粗末な境界線が二人を隔てている。

 鈴のような声が風に鳴って、さらさらの髪は白波が立つようになびいている。

 その人は向こうから微笑み、語りかけている。

「一歩踏み出せなんて無責任で月並みな文句だと思う。それはこの防波堤を歩いていくみたいに、本当は命懸けのことなの」

「いいんですか? 警告を超えてしまっているけど」

「大丈夫、選ばれた人はきっとあの灯台まで歩いて行ける」

52: 2018/10/26(金)00:22:54 ID:hJp
 そうして、彼女はポケットから何かを取り出し境界越しに差し出した。質の良さそうな紙に名前や連絡先が書いてある。

「私の名刺。その会社、聞いたことない? 映画を作ったり歌手やタレントを育成して売り出してる。アメリカ支社もあるし、業界最大手だよ」

「そうですね、映画を観たこともあります」

「じゃあ本題に入るね。私はあなたをスカウトしたい、アイドルとして」

「アイドル……私を?」

「有名になれるとか、映画に出れるかもとか、そういう餌で釣られる子だと思えないからはっきり言うけど、私は最初から特別な子が欲しい。ねぇ、自分のこと特別だって思ったことないの?」

「まあ、自負心はあります。でもそれは誰しも同じことでしょう? 自分を信じてあげるしかないもの」

「違うよ。馬鹿みたいに単純な話だけど、あなたほど美しい子は何処にもいない。それだけで全部狂ってしまう。よほど目のいい人はともかくとして、あなたの人間的な部分なんて誰にも見えない。あなたは半分神様だから」

 風が吹き荒んで、立ち入り禁止の札がくるくる回った。

 もしこれが飛んで行ってしまえば、咎めるものは何もない。無知な人が、あるいは命知らずがここを進むことだってあるでしょうに。

「私の考えではね、アイドルになれる子は二種類いるの。ひとりは他人の中で無数に生きる子、ファンの中にそれぞれ理想を持たせる子。もうひとりはあなたみたいな子、ファンを惹きつけて秘密を突きつける子。永遠に解けない謎をね」

「えらく買い被られたものですね。私の何を知ってるって言うんですか?」

「わかるよ。切実な子は」

53: 2018/10/26(金)00:23:14 ID:hJp
 彼女と私の間にも晴れない霞があるはずなのに、その真っ直ぐな目に絆されてしまいそうになる。

 もし私がここで誘いを蹴っても、この人はひとりきりで向こうまで行ってしまいそうに思えた。

 いつまた地震が来るともしれない、二次災害がないなんて嘘かもしれない、それなのに。

54: 2018/10/26(金)00:24:02 ID:hJp
 雨粒が額を打ったかと思うと、彼女はもう折りたたみ傘を広げていた。
 禁足地から舞い戻り、その植物模様の傘に私を入れてくれた。

 晴雨兼用のこの傘は台風にも耐え得るし、紫外線を九十パーセント以上もカットするらしい。それは彼女の仕事に欠かせないもの。

「とりあえずここを離れようか。また大きく揺れるかもしれないし」

「ええ、ありがとう」

「スカウトのこと、今決めなくてもいいよ。むしろゆっくり考えてほしい。なんにせよ、クラスメイトたちと自分を同じように考えちゃいけないからね」

「今決めてとなると、十中八九断られるものね」

「ふふっ、こういうのは一方的に吹っかけておいて颯爽と去っていくのがセオリーなんだけどね。まあ例えアイドルじゃなくても、あの灯台まで歩いて行くことを自分の意志で選ばなくちゃいけないの」

「選ぶとか選ばれるとか、結局どっちなの?」

「選ばれることを選ぶの。私たちの意志が通用するのなんて最初で最後一回きり。選ばれたら、それに耐えるしかない」

55: 2018/10/26(金)00:24:24 ID:hJp
 雨脚がどんどん強まっていくから、この人の声を聞き漏らさないよう耳を澄ませる。
 私は駅へ、彼女は仕事があるイベントホールへ、同じ道のりを歩いて行く。

 この雨は喝采だと、あなたは言った。傘を打つ音が激しくなるほど、アイドルは熱烈に迎え入れられている。
 だけど恵みの雨は強ければいいわけじゃない。だからあなたは、誰より早くその傘を広げていた。

 雨脚はどんどん強まっていく。
 あなたが貸してくれた折りたたみ傘を広げて、私はひとり駅へと歩き出した。
 雨音の比喩を幻想しながら。

56: 2018/10/26(金)00:24:56 ID:hJp
 ◇

 もう無意識になってしまっている。テレビ台に幼い私の写真が飾られていること。

 やわらかな陽光と果てしない海の気配を感じながら、私と母はそこにいた。
 朝露を湛えた芝にレジャーシートを敷いて、大好きなうさぎのキャラクターを指でなぞって。

 お母さんが用意した飲み物もお弁当も、ぜんぶ私の好きなもの。きっと、きっとそう。

 あたたかな印象と、母が語る思い出と、写真に残る少しの事実──あの鮮やかなオレンジ色の花──ただそれだけで結ばれた美しい映像が、今も私たちの中で息づいている。

 彼女たちは私の中に何を見るのだろう。私に何を伝えたのだろう。

 海辺の少女が辿る物語は、永遠の秘密として私たちを通りすぎてゆく。

 過去は未来を想い、未来は過去を想う。

 だから、私はもう独りきりじゃない。

57: 2018/10/26(金)00:25:28 ID:hJp
 喉が乾いたから、コップ一杯の水を飲もう。

 蒸し暑いから窓を開けて、せめて風を通そう。

 そして少しだけ眠りたい。今日はいろんなことがあったから。

 まぶたの重さにたえかねて、少女がいつも座ったソファーに横たわる。

 私が深く呼吸をすれば、閉ざされていた部屋にも風がそよいだ。それは優しく額を撫でて、滲んだ汗を連れ去った。

 熱を持ちすぎないように、のぼせてしまわないように、時計の針とは違うリズムで、私の身体は息をする。

 まだもう少し眠ればいい、誰も急かさないから。それぞれの息遣いで笑えれば、いつか憧れた人のようになれるから。

 怒りと悲しさと寂しさと、それぞれ一滴の感情が流れてゆく。

 川となって、海に向かって。いずれ風となり、また誰かの額にキスをする。

 ひとつ想えば雨は強まり、ひとつ満ちれば雨は弱まる。

 すべては巡り、通りすぎてゆく。

58: 2018/10/26(金)00:25:53 ID:hJp
 目を覚ますと、ベランダの方に光があった。

 雲の裂け目から束の間その姿を現した太陽が、まだ降り続ける雨を黄金色に変えている。
 陽光から遠い暗雲はその身に錆色を纏い、夕映えの美しさをいっそう引き立てていた。

 ベランダの前で靴下が濡れて、眠りの間に雨が吹き込んでいたのだと知った。
 重くなった靴下を脱ぎ捨て、水浸しのサンダルも端に除け、裸足のままベランダへ。

 濡れたコンクリートと手をかざして感じる雨粒が、寝起きの熱を奪っていく。
 美しく輝く太陽は見る見るうちに沈み、その賜物は静かに失われていく。
 雨が、雲が、地平線が、世界の熱を奪っていく。

 夜が始まる。あまりに長い夜が──


59: 2018/10/26(金)00:27:54 ID:hJp
おわりです。

じっくり読んでもらえると嬉しいです。

ありがとうございました。

引用元: 速水奏「プロセルピナ」