1: 2013/04/27(土) 20:53:10.13 ID:hz/NP8El0
・水野翠メインのSSです。
・人生の初心者です。
・地の文有りです。
・一回の投下数は少なめです。
・色々原作と差異があれば申し訳ないです。

長丁場になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

アイドルマスターシンデレラガールズ カプセルラバーマスコット5 水野翠

4: 2013/04/27(土) 21:00:04.71 ID:hz/NP8Elo

 ――コト。


 午前。営業に出る前にパソコンでメールをチェックしていた時、机においていた肘の近くに氷の入った冷茶が置かれた。

「切り替え早いですね。…もう少し余韻に浸ってもいいと思いますよ、プロデューサーさん」

 緑色が目を引く制服を来てお盆を胸に抱いた女性――千川ちひろが、パソコンの画面を覗きこんで言った。
「そうも言ってられませんよ。これで満足しているようじゃ、中小のウチは持ちませんし…何より、きっとアイツもあれがゴールだなんて思ってないはずです」

 安っぽい小さなテナントを借りて経営を行っている芸能事務所。
 俺はそこでプロデューサーとして働いていた。

「…ですね。ああ、少なくとも半年ぐらい安心できる経営計画が立たないかなあ」
 ちひろさんは苦笑する。

 事実、今この事務所ではたった一人しかアイドルが所属していない。
 そもそも、ここだって規模で言えばつい最近できたようなものだ。

「それは俺たちの腕次第ですよ」
 ありがたく冷茶を体内に注いでから言うと、ふと耳に聞き慣れた音がする。
「――あ、来ましたね」
 ちひろさんも聞いていたようで、しっかりしてるなあ、と一言漏らしていた。

 とん、とん、とん。薄いこの事務所の壁など余裕で貫通する階段を上る音。
「…でもまあ、余韻に浸るのも悪くないか」

 そのまま廊下を越えれば、すぐに事務所の扉が開く。


「おはようございます、プロデューサーさん」
「おはよう、翠」

 開いた扉の先には、昨日のライブの主役が居た。



5: 2013/04/27(土) 21:01:08.11 ID:hz/NP8Elo

  *



「――なんだか面白い目をしているね、キミィ」

 就職って、誰でも出来るものだと思っていた。
 大学最後の一年を遊びながら就職活動をし、たくさんの内定の中から一番環境の良い職場を選んではい就職完了。

 少なくとも俺はそう思っていたし、そうなると信じていた。

「そこで何をしているんだね?」
 だが現実は違った。

 初めは楽観視していた。けれども日を追う毎に落選通知の量は増え、それに比例して俺の焦燥感も強まっていった。

「ふうむ、なるほど…。そういった事情か」

 周りは既に就職を決め、友人の中では俺だけが唯一取り残されて……。
 その現実から逃げたくて、唐突に公園のベンチでへたりこんでいた。

「――よし、気に入った」
 しかし、そんな悩みや不安といったものは。


「よかったら、うちに就職しないかね?」

 いとも簡単に吹き飛ばしてしまった。……この胡散臭い人が。

6: 2013/04/27(土) 21:02:07.29 ID:hz/NP8Elo


  *


 初夏ももうじきといったところ。

「スーツってこんな暑苦しかったか……?」
 手に持っていたタオルで顔を拭い、日が昇る空の下、俺は街中を練り歩いていた。


 ――入社式も内定式も内定者懇親会もない。まるで不思議な労働スタートの期間を終え、俺の初めての仕事が「アイドル探し」だった。

 そもそもの話、目の前に内定が吊り下げられていたから思わず飛びついただけで、勤め先の会社のことなど全く知らず、気にもしなかったのである。ただ浮浪人にならなかっただけで最高な気分だったのだ。


 そして概要を知ったのが入社した当日。
 設立から居るという事務員に教わりながらの業界研究が数日と、社長直々――どうやらあの時声をかけられた胡散臭い男が社長だったらしい――の研修が一週間程。

 それが終わったら、一言。
「じゃあ、あとはよろしく頼む。君の直感を信じるよ」――。
 ……その言葉の後、社長は姿を見せなくなった。


「…本当に、こんな所でこの先給料が出るのか?」
 ボタンを押せば、ガタンと缶が取り出し口に落ちる音がする。

 一応スカウト活動に関する費用は全て支給されるので安心しているが、こんな無計画な仕事でいいのだろうかと俺は炭酸ジュースを飲みながら思っていた。


7: 2013/04/27(土) 21:03:41.77 ID:hz/NP8Elo



「東京、千葉、山梨、長野……。学生旅行でもしている気分だわ」
 結果で言えば、全滅だった。

 それも当然の事で、スーツを着た見知らぬ男に突然「アイドルになりませんか?」と言われた所で、はいなりますと頷く人はまず居まい。

 無論事務所の名刺も作ってはいるが、全く無名の事務所というのだから、その効果は全くなかった。何より勧誘技術など全く持ちあわせてはいないのだから、話にならない。


 若干の無力感と脱力感を身に纏いつつ、今俺は愛知県を訪れていた。


 何故かって? ……手羽先が食べたかったからだ。

 雇う立場からすればたまったもんじゃないが、成果は上がらず、そして監視されていないともなれば、こうなるのはもはや自明というものだろう。半ば学生旅行の延長といった感覚で時間を過ごしている。
 事務員さん…千川ちひろさんには、夜に報告のメールをするだけで大丈夫だしな。

「…午前の仕事は終わりだな。よし、ご飯にしよう」
 街中の時計台は両方の針が天を向いていた。同時に、俺の腹も空腹を訴えた。

 手羽先はディナーにとっておくとして、昼は簡単にファストフードで済ませようか。
 近くで目についた店に、俺は吸い込まれていったのだった。



8: 2013/04/27(土) 21:04:22.03 ID:hz/NP8Elo


 ガヤガヤと喧騒が小さな店内を埋め尽くしている。

 寂れた人気のない定食屋ならいざ知らず、俺の入った店は全国チェーンのハンバーガー店で、昼飯時と相まってか様々な人がカウンター前とテーブルを占拠していた。

「家族連れ、私服の若者集団、カップル、学生の集まり…か。何か良い人は、っと」

 入社して半年も経っていない人間が職業病を自称するのはおこがましいが、ひとまず風貌を一瞥し、適う人材が居ないか確認しておく。

 まあ、居ないな。
 社長からは『この事務所の名に相応しい、シンデレラを探して欲しい』というなんとも曖昧な条件だけを俺に言い渡していた。
 CGプロ――シンデレラガールズプロダクションとは、なんとも大仰な名前である。

 ――いらっしゃいませ、お待たせしました! ご注文は何に致しますか?

 笑顔の素敵な君をテイクアウトで。


 …そんなことを言える筈もなく、俺は素直にハンバーガー二つと水を注文したのだった。



9: 2013/04/27(土) 21:05:41.83 ID:hz/NP8Elo



「やはり狙うとすれば学生か」

 乾いたパンズを水で胃に流し込むと、隣のテーブルで馬鹿笑いをしている女子生徒達を一瞥する。

 彼女たちは鮮やかな青色が目に付く制服を着ていた。もしかすると良い人を見つけられるかもしれない。

 どうせこの街中でスカウトした所で、成果は表れそうにない。
 だったら夢見がちな学生の方が勧誘は成功するんじゃないかという魂胆だ。

 ……そう考えると、いつ通報されても不思議ではないな。

「ねえ、君たち、ちょっといいかな――」
 改めて知る、己の立場の不審さを脳内で払拭しつつ、午後の活動を開始したのだった。



10: 2013/04/27(土) 21:06:21.03 ID:hz/NP8Elo


  *


「ここか…。中々大きいんだな」
 女子生徒たちは案外すんなりと俺を信じ、道を教えてくれた。
 かなり大雑把な話ではあったが、その通りに進めばひときわ大きな校舎と高校行きの案内板があったので迷うことなく進むことができた。

 都心部からは少し離れ、郊外にある大きな高校。ここが彼女たちの所属している高校らしい。
 フェンス越しに見遣れば、同じ制服を着た女子生徒や学ランの男子生徒を見ることができるので、嘘を話された訳でもなさそうだ。


 じゃあ早速入ってスカウト活動を……と思う俺の体は、止む無く自制される。


 なかなか大きな高校ということもあって、校門前には警備員が一人外を眺めていたのだ。
 俺が高校生の頃は貧乏そうな高校であったためかセキュリティなど無いようなものだったが、どうやらこの高校は俺の居た高校とは全くグレードが違うらしい。

 いや、勿論犯罪をするために入る訳ではないのだし、言えば許可証ぐらいもらえそうだが……。
「……止めておこう」
 もし拒否されて付近に不審者の通達でもされたら、最悪所属事務所の名前にも傷をつけてしまいかねない。
 ベテランならそれなりの交渉術を持ち合わせているのだろうが、こちとらただの新入社員だ。リスクを背負った冒険はしたくない。



11: 2013/04/27(土) 21:07:29.99 ID:hz/NP8Elo


 ……いくばくか後には、俺は生徒たちの帰宅路である河川敷の斜面で寝転んでいた。
 俺が来た道と同じ道である。

 この高校は、通学路に沿うように大きな皮が流れており、そこの生徒は勿論、近隣住民の憩いの場にもなっていた。

 ここなら、休憩と見せかけて帰宅する生徒を確認することが出来る。我ながら良い考えだ。
 ……この行動も、見方によっては不審者の範疇に入りそうだが。


 太陽は威力を抑える兆しを一向に見せない。
 しかし、時折来る緩い風が俺のスーツを撫でていた。

「…俺、なにやってんだろうな」
 何かをしていれば考えることもなかっただろうに、一旦落ち着いてみると、己の行動が嫌でも脳裏に映し出される。

 狙っていた業界や会社には全く見向きもされず、行きたくもない会社からも蹴落とされ、友人からは突き放され、そして今、訳の分からぬままこうやって外に出されて寝転んでいる。
 それがどうにも俺の考えていた社会人像とは一致しなくて、ささやかな自己嫌悪を生み出していた。


12: 2013/04/27(土) 21:08:54.50 ID:hz/NP8Elo


「今日、土曜日なんだけどなあ」
 俺が高校生の頃はどうだったっけか?
 確か土曜は休みの日で、突発的に友達と遊んでいた気がする。
 それに比べればこの高校の生徒は恐ろしい。土曜日でさえも半日ではあるが勉強をしているのだ。俺だったらすぐにでも発狂している。


 首を上に向ければ、河川敷の上の舗装された道を歩く生徒たちが幾つか見える。
 もうここで勉強していた生徒の帰宅のピークは過ぎているのだろう、数はとても少ない。

 きちんとスカウト活動をするのなら、ピーク時間に合わせてここに来るべきだった。
「…休憩するか」
 それほど働いていないにもかかわらず、首を元に戻して空を見る。
 動いていない上に、風が心地よいほどに丁度良く吹いているので、先程よりかはずっと涼しく感じる。

 自分のことを思えば思うほど嫌になってくる。

 俺はそんな意識から逃げるように、目を閉じたのだった。



13: 2013/04/27(土) 21:09:47.73 ID:hz/NP8Elo


  *


「――あの」
 俺は何をしていたんだっけ。

「あのー…」
 浅く沈んだ自意識を鈍く光らせ、記憶を再生させる。

 ――ああ、そうだった。
 確か、俺はスカウト活動をしていて、それで今日のターゲットはこの高校だったけど警備員に見られるのは嫌でこうして河川敷で観察を――……。

「やべえ寝ちまったっ!!?」
「ひあっ!?」

 体に強く力を入れて起き上がると、背後から素っ頓狂な高い声が上がった。

 何かしでかしたのかと恐る恐る後ろを振り向くと、尻餅をついて痛そうにしている体操服姿の少女が居た。


14: 2013/04/27(土) 21:10:17.85 ID:hz/NP8Elo


「ええと…何か用かな?」
「あ、いや……部活の時から今帰る時までずっとここにいらしたようなので、もしかすると具合が悪いのではないかと思いまして」
「具合? ……ああ」
 どうやら長い間ここに居たから、心配されてしまったようだ。

「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
 苦しくて寝込んでいたならともかく、ただ単に寝ていただけなのだから、背中が少し痛い以外は何も問題はない。

「そうですか…それはよかったです。あ、もしお疲れでしたら、これ…如何ですか?」
 あからさまに安堵すると、彼女は思い出したように腰に下げたボトルを俺に見せた。
「えーと…いいの?」
「どうぞ。困っていれば助けるのが当たり前ですから」
 ふふ、と彼女は小さく笑った。



15: 2013/04/27(土) 21:11:11.35 ID:hz/NP8Elo


 …確かに寝起きで喉は乾いている。昼に買ったジュースはもう捨ててしまっているし、せっかくだから親切を受け取ろうではないか。
「じゃあもらおうかな――って酸っぱぁっ!?」
 ごふっ、と口に含んだ液体を吹き出しかけたが、かろうじでそれだけは阻止した。
「だ、大丈夫ですか!?」
 彼女は驚いたようで、俺に近づく。

 酸っぱい。酸っぱいぞこれ!?
 半透明なボトルに入れられた液体だからてっきりスポーツドリンクかと思っていたら、甘味と酸味が混じった予想だにしない味が舌を急襲したのだ。

「ごほ、ごほ……。こ、これ、何が入ってるんだ?」
 何度かむせつつも喉と心を落ち着かせてから尋ねる。
「え、入ってるものですか? スポーツの時に飲むといいらしいので、クエン酸とレモン汁と蜂蜜を――」
 ああ道理でか。
「…確かに運動には良いとは聞くけど。一応言っておくがクエン酸はレモンの中にも入ってるからな?」
 これだと全体の総量に対して酸味が強すぎる。
「え、そうなんですか?」
 きょとんとした表情で俺を真っ直ぐ見つめる少女。

「…これ、飲んでてかなり酸っぱく感じなかった?」
「確かに少し酸味はしますが…こういうものではないのでしょうか?」


 ああ…ちょっと鈍い人なんだな。



16: 2013/04/27(土) 21:12:42.15 ID:hz/NP8Elo


「何かをしていたんですか?」
 彼女はジュースの配合量について暫し考えた後、俺に訊ねた。

 口で答えようと思ったが、一応信用してもらうためにも俺はポケットから名刺を出して彼女に渡した。
「シンデレラガールズプロダクション……? 何かの会社ですね」
「誰でもわからないよな、普通」
 俺も初見じゃ何もわからない。
「いわゆる芸能事務所ってやつだよ。新しく出来たらしくて、まだ事務所にアイドルは誰も所属してなくてさ」
「アイドル…ですか」
 不思議そうに彼女は名刺を見つめていた。



 ……あ。


 その表情を見て俺は、ピリ、と背中に電流が走ったことに気付く。



17: 2013/04/27(土) 21:13:20.67 ID:hz/NP8Elo




 一目見て解るほどの凛々しく端正な顔立ち。
 今見せているような表情は、憂いとも優しさともとれる感情の豊かさ。
 眼差しは、不思議と惹きつけるようなある種の勇敢さがある。

 そして何より、初対面の人間に対してでも積極的に声をかけ、助ける事のできる強さが彼女にはあるように思えた。


 社長のいう『俺の直感』が正しければ。
 もし、彼女をアイドルにすることができれば。


 そう思った瞬間、俺は体を彼女に向け、出来うる限り真剣な声色で話を切り出す。


「――君。アイドルに、ならないか」



18: 2013/04/27(土) 21:13:58.86 ID:hz/NP8Elo



「わ、私が……アイドル?」
 恐らくこの言葉の意味を改めて理解するのに時間がかかったのだろう、俺の誘いに若干のクッションが置かれた。

 彼女の表情は賛同でも拒絶でもなく、困惑といった風にとれる。

「そうだ。俺は沢山の人を見てきたが、君程に美しいと思った人はかつていない」
「そんな…私より綺麗な人なんてたくさん居ますし、私なんか――」
「なんかじゃない!」

 風が一瞬、二人の間を強く通り抜ける。
 戸惑っていた彼女の表情がたじろぐ。

「…ごめん、確証は無い」
 沢山の人を見てきたと言っても他の人に比べれば微々たる数の上全部断られているし、俺は最近やり始めたばかりの見栄を張っているだけの新人だ。
 美しいは数値じゃないのだから、内心別のベクトルで彼女より美しい人はきっといるだろう。

 ……でも。
「君の声、姿、そして雰囲気を見て思ったんだよ」

 もし、彼女が綺麗な衣装を着て歌っているのを見たら。
 もし、彼女がテレビの向こうで笑顔でいるのを見たら。

「君がアイドルでいる所を見たい――君なら、世界中の人を魅了できるに違いない、と」

 俺はきっと、彼女のファンになっている。



19: 2013/04/27(土) 21:15:12.23 ID:hz/NP8Elo



「……今は、答えられません」
 またしても訪れる声の隙間の次は、俺の望む言葉ではなかった。

 こういった手合い、押せば自信を持ってくれると思ったから強い言葉で言ってみたのだが、この判断は間違いなのだろうか?

 初めて俺の直感というものの存在を感じ取った少女だというのに、失敗するなんて――
「ん? 今は…って事は」

 彼女は視線を再び名刺に落とし、何かを思案しているようだった。

「すみません。少し考えさせて下さい」

 ……まだだ。まだ断られた訳じゃない。むしろ、その表情は否定寄りというわけでもなさそうだ。
「あ、ああ。いや、こちらこそいきなり熱くなってごめん。君を見てつい、ね」
 先程まであった笑顔を見せることはなく、神妙な面持ちだった。

「この名刺に書いている電話番号は、あなたのですか?」
 名刺から顔を上げて訊ねられる。
「そうだ。…どうであれ、返事が決まったら電話をして欲しい。その時まで俺は待っているから」
「……Pさんですね。今日中には、連絡します」

 シワの無い、綺麗な制服のスカートをぱん、ぱんと数回はたくと彼女はそう言い、一本に纏められたストレートの髪を揺らしながら帰っていった。


「……来てくれるといいなあ」
 風に声を乗せるが、彼女には届いていないようだった。



25: 2013/04/28(日) 19:46:20.79 ID:wDYG1avEo

  *



「…明日。今日と同じ場所に来てくれませんか」
 ホテルにて、有名らしい手羽先をたらふく食べてちひろさんへの報告メールを送ろうとしていた時だった。

「わかった。返事はそこで…ということだな?」
 現実的に言えば、探していれば美人なんてもっと見つかるだろう。
 大体の高校にはまあ一人か二人ぐらいマドンナ的存在がいるだろうから、明日はそっちに向かえばいい。
「はい。…お手数おかけします」

 保留の返事をもらった頃から、失敗しても気にしないと自己暗示をかけている最中の電話だった。

 意味不明な直感でも、俺は信じてみたい。
 新人が精一杯感じたこの気持ちを実現させたい。

 もし失敗したら…悔しいけど、ストーカーをする訳にはいかないのだから、口惜しくも別の人をあたるべきだろう。
 彼女は気を悪くするかもしれないが、振られたついでに高校によさそうな人が居ないか聞いてみるのも悪くないかもしれない。

 だからまずは明日、彼女が良い返事をしてくれる事だけを願おう。

 冷やしておいたジュースを冷蔵庫から取り出して一気に飲み干すと、俺は夜景をぼんやりと眺めた。



26: 2013/04/28(日) 19:46:55.30 ID:wDYG1avEo


  *



「おはよう……って、その格好は?」

 翌日。
 日曜日で、その上午前10時を過ぎる頃には、この河川敷を通る生徒は全く見かけなかった。部活を始めるならあと一時間は早く行く必要があるだろうな。

 そして俺は、指定された時間にシワのついたスーツを着てここに来た。

「おはようございます」
 制服か私服かを想像していたが予想は外れ、時代錯誤な白黒の袴姿の彼女が居た。

「これは弓道着です。私、弓道部に所属しているんですよ」
「ああ、なるほど…それで、何故今着る必要が?」

 一瞬納得しかけたが、この状況で納得はしてはいけない。

「返事…ですよね。でもその前に、私の弓を引く姿を見て欲しいんです」
 一体どういう思惑があるのだろうか。

 ただイエスかノーかを答えてくれさえすればそれで終わりなのに、と心の中で思って、すぐ掻き消す。
 第一印象で聡いと俺に思わせた彼女のことだ、きっと何か目的があるはずである。

「わかった。弓道を実際に見るのは初めてだから楽しみだな」
「ありがとうございます。では一緒に来て下さい。警備員さんには話はしていますので」
 そう言うと、俺の隣までわざわざ来てから彼女は校内へと俺を誘った。



27: 2013/04/28(日) 19:48:04.05 ID:wDYG1avEo


「敷地外からでもわかるけど、やっぱ綺麗な学校だよなあ」
 弓道場はやや校舎からは離れ、柔道場と隣接して置かれている。

「そうですね。勿論設立から日が浅いというのもありますが、先輩方が丁寧に扱っていただいたからこその結果だと思っています」
 私も後輩からそう思ってもらえるように気をつけて使っているんですよ、と隣の彼女は笑って答えた。

 こういった所に、人の性格や癖といったものが表れるのだろう。昨日ハンバーガー店で見かけた女子生徒と脳裏で対比される。

 弓道着姿も相まってか、どこか時代を越えてやってきたかのような真っ直ぐな心持ちに、俺は一層彼女に惹かれてしまいそうだ。

「お待たせしました。靴はこちらで脱いで、そのまま中へどうぞ」

 弓道場のドアを開けると、狭い下駄箱の中で彼女は慣れた動きでローファーをしまう。
 俺も同じように靴をしまうと、何やら道具のような物を持つ彼女の背中を追った。



28: 2013/04/28(日) 19:48:46.70 ID:wDYG1avEo


「おお…何だか見たことある格好になったな。とても似合ってる」
「ありがとうございます。これが一応弓道の正装になります」

 手には変わった形の手袋をして、黒く光る胸当てをした彼女の姿は、第一印象をより際だたせるような鋭さがあった。

「今から何本か引きますので、どうぞゆっくり見ていて下さい」
 俺が返事をすると深々と一礼し、遠く離れた的へ視線を向けた。

 せっかくなので、後ろからではなく横から見ることにした。近くで見たいというのもあったし、純粋な好奇心である。

 そんな俺の視線を全く物ともせず、静かに息を整え、彼女は矢を持つ。

 すり足で足を広げ、的を見る。
 視線を戻して弓を上げる。

 弦を引き、一呼吸止めてから、限界まできりきりと音を鳴らす。

 そして姿勢のまま、体が止まる。


 その光景はまるで、現世を離れた存在のように思えた。

 弓道の事には全くの門外漢なので動きを評価することはできないが、彼女の一つ一つの動き、動と静が明確に現れた正確無比な動作が俺をそう思わせるのだ。



 ――空気が止まっている。およそ、鼓動の音しか聞こえない。



29: 2013/04/28(日) 19:50:00.21 ID:wDYG1avEo


 瞬間、彼女の手元から矢が放たれる。


 かの有名な物語中では、弓の名手が矢を射たとき、ひやうふつという音がしたという。
 今聞いた音とはお世辞にも似ているとは言えないがなるほど、どことなくこの言葉にも臨場感が表れているような気がした。
 矢は瞬く間に向こう側へと飛んでいくと、遠くに置かれた小さな的の中心よりやや下方に刺さった。
 羽が細かく揺れているのが、その強さを表している。

「おお、一発で当てるのか、凄いな」

 俺は思わず声を上げたが、彼女は何も反応せず、じっと的を見つめていた。
 そして静止した後、二本目の矢を弓にあてて準備をする。


 弓道は、忍耐力や集中力といった精神を修行する武道だという話を聞いたことがある。
 競技的な側面を含めて、プレッシャーや周りの視線などに影響されないで如何にあの小さな的を射抜くか。それが面白さなのかもしれない。

 きりきり。
 その後も彼女は矢を射続ける。

 初めこそ声を出した俺も、意味を理解してからはじっと彼女の姿を見つめ続けていた。



30: 2013/04/28(日) 19:51:12.13 ID:wDYG1avEo


「――ふう」
 見ることに集中していたせいで何本射たかは定かではないが、おおよそ十本程度だろうか、それが終わると俺に聞こえるように大きく息を吐いた。

「見て頂きありがとうございました。…如何でしたか?」
 的に注いでいた視線を俺に向け、再び一礼してから俺を訊ねた。

「…素晴らしかったよ。何だか俺までビシっとしなきゃいけない気分になった」
 笑いながらも本心で話す。あの光景をあぐらを掻いて見るのはいささか失礼が過ぎる。

「礼儀なくして弓道は成り立ちませんから」
 ふふ、と彼女もつられて笑みを零すと、すぐに表情を切り替えて真面目な顔になる。



「……あの後、両親に話をしたんです」

 当然、アイドルになるためには未成年である以上、ご両親の了解が殆どの場合必要になる。
 俺はとりあえず本人の了承を得てから両親を説得しに行こうと考えていたのだが、リアリスティックな側面が強く出ているのか、両親と相談した上でアイドルになることがどういうことなのかを考えたような素振りだ。

「はっきり言いますが、私がその話をした時、両親は良い顔をしませんでした。…そうですよね、芸能界ってそう安々と成功できるほど甘い世界ではないでしょうから」

 浮かれることなく、彼女と彼女の両親は考えていた。
「そうだな。アイドルは誰もが憧れる職業である一方、そこに立つまで何人ものライバルを蹴落とすことになるだろう。どちらの立場になるかは、誰にもわからない」

 以前、多種多様な個性を持つアイドルが皆楽しそうに仕事をしている姿を映したテレビ番組を見たことがある。


「そんな場所に単身向かわせるのは心苦しいと、両親は言っていました」

 そこに映っていたアイドル達は、知らない人は居ない程のかの有名なアイドル達だ。
 全員がそこまでの立場になるには本人達の相当な努力もあるし、それを率いるプロデューサー達の能力もあっただろう。



31: 2013/04/28(日) 19:52:56.20 ID:wDYG1avEo



 結局、それらは例外でしかないのだ。

 大体の人間は凡人だ。そしてその最たる例である俺には、きっとあのアイドル達のような大きな立場にまで連れていくのは決して容易ではない。
 それは、彼女に厳しい戦いを強いることと同義であった。

 聡い家族だ、きっと俺の渡した名刺を見て、プロダクションのウェブサイトや評判などを細かく調べているだろう。両親の不安の感情が、今更ながら手に取るように解ってしまった。。


「…無理だったか」
 俺は弓道場の天井を見上げて、息を吐いた。

 まあ、仕方ないか。もっと俺が有名プロダクションのプロデューサーだったなら可能性はあったかもしれないが、アイドルの所属していないこんなプロダクションじゃなあ…。


「――無理かどうか。それをあなたに決めて欲しいんです」

 思わず俺の聞き返す声が裏返る。



32: 2013/04/28(日) 19:54:01.33 ID:wDYG1avEo


 今からまたスカウト活動を始めるのは怠いな、と考えていた矢先の言葉だった。

「私が落ち着いて初対面のあなたとも話ができるのも、きっと弓道をやっていたからだと思います。そういった姿勢を弓道から教わりました。…両親は、過去から遡って私を見た上で、私の判断を尊重するという結論を出したんです」

 …なるほど。
 両親には、葛藤があった。その上で彼女に判断を託した。それも、彼女の様々な行動における姿勢の良さから来る信頼なのだろうか。

「私には、アイドルがどういうものかが全くわかりません。周りから容姿を褒められたことは人並みにはありますが、きっとお世辞というものでしょうし……。私がそこで通用するのか、自身では判断できないんです」

「そこで、俺に弓を引く姿を見せた、と」
 ひとつ頷き、溜め込んだ言葉を更に吐き出す。

「はい。初めてあなたが見た私と今の弓道着姿の私、弓を引く私、そしてあなたと話す私。…あなたから見て、どうでしたか?  ……その道を歩いていけると、あなたは思うことが出来ましたか?」


 彼女の真摯な声色に、俺は事の重大さに気付いた。



33: 2013/04/28(日) 19:55:16.23 ID:wDYG1avEo



 スカウトという活動はされる側にとって、赤の他人に船の舵取りを一任するという事に他ならない。
 そのハイリスクを目の前にして、彼女は内面で酷く悩んでいたのだ。
 俺が声をかけていなければ、こんな岐路には立たず、現代の高校生らしく友人と思い出を作り、そのまま受験を経て大学生になっているだろう。

 普通であることが正解だとは思わない。
 しかし、普通であることは平穏であることだとは思う。

 彼女にとって普通であることを良しととるか悪しととるかは読み取れないが、高校生とはいえ重すぎる決断を迫ってしまったのは事実だった。

 それに気づかず、アイドルになれたら本人も嬉しいに違いない、と一人勘違いしていた俺の間抜け加減を心底恥じた。



34: 2013/04/28(日) 19:56:09.45 ID:wDYG1avEo


「…実は俺、君が思っているほどこの業界に長くいる訳じゃないんだ。年齢だって、君と四つしか違わない、ただの新人なんだよ」

 え、と彼女もこればかりは驚いた顔をしていた。失望というよりかは、純粋な驚愕。

「ここに就職したのだって、社長の気まぐれでしかない、偶然だった。プロデューサー志望の人間からすると恨まれても仕方のない人間かもなあ」
 吐露した思いを反響させるように、今度は俺の気持ちを伝える。

「それでも、君と出会って心が痺れた。一般人同然の俺を、一瞬で一目惚れさせた」
 場所が場所なら愛の告白とも取られかねない言葉だったが、今の俺にはそう言うしか手段が残されていなかった。

「そして今日君のその姿を見て、君の気持ちを聞いて。…あの確信は本当だと解った」

 初めての担当アイドルが彼女だったら、俺はどれだけ幸せ者だろうか。
 彼女をトップアイドルにまで導けたら……俺はどれだけ嬉しく思えるだろうか。

 厳密に計算するまでもなく、莫大な量なのは明らかだった。


 その思いを一息に纏めて、頭に浮かんだ俺の言葉をありのまま口に出す。


「改めてお願いしたい。こんな未熟な魔法使いでよければ、君に魔法をかけさせてほしい――シンデレラガールとして、君を導かせて欲しい」



35: 2013/04/28(日) 19:57:26.82 ID:wDYG1avEo



 ――これほどはっきりとわかる静寂を、誰が招き寄せたのだろうか。


 俺はただ伝え、そして真っ直ぐ彼女を見つめ続けた。

 見開いた目を戻し、彼女が話しだすのは、もう十数秒経った後だった。

「…本当に通用するでしょうか?」
 僅かな記憶に含まれていない、折れそうな声。
 誰でも…俺ですらも解る、不安の入り混じった声だった。

 一瞬、思い浮かんだ安直な言葉を俺は飲み込む。

「断言は出来ない。でも、俺はあらゆる手段を用いてでも君が上っていくのを助けるし、君ならできると俺は思っているよ」

 絶対に通用するだなんて、言うだけなら誰でも出来る。

 だがそれで逃げるのは彼女に対して失礼だから、俺は使いたくなかった。


 そうすることでしか、きっと彼女の問いを受け止めることはできない。



36: 2013/04/28(日) 19:58:25.06 ID:wDYG1avEo



「…私、アイドルになります」
 不意に彼女は顔をあげ、真剣な眼差しで俺を見た。

 その瞳に混濁はなく、代わりに十分すぎる程の覚悟と決意が映されていた。


「期待していただけるなら、応えたいと思います。プロデューサーさん、私を導いて下さい。…きっと、最後までやり遂げてみせます!」

 突如弓道場に強い語気の声が響き渡り、少したじろいでしまう。

 あまり動かないように見えるとはいえ、弓道も立派なスポーツ。体力は平均よりもかなり高いのだろうか。


「俺の誘いに応じてくれて本当にありがとう。これから大変かもしれないけど、よろしく頼むな、……ええと」

「翠。水野翠です。…ふふ、名前も訊かずにスカウトするなんて、どうかと思いますよ」
 口に手をあて、彼女はくすくすと小さく笑っていた。


 …まず俺が直すべきは、順序をちゃんと踏まえて行動することだと強く思う。



37: 2013/04/28(日) 19:59:21.85 ID:wDYG1avEo


   *



「では、今すぐ東京に行くわけじゃないんだな?」
 如何にもスポーツを嗜んでいるような、勇ましい男――水野翠の父親は腕を組んだ。

「はい。無論東京での活動も将来的には考えていますが、まずは地元での知名度を向上させることを優先します」

 休日で両親は二人とも家に居ると聞いたので、彼女が着替えた後、俺達は彼女の家で話し合いをすることにした。

 当然資料など何も持っていないので、家を訪問する前にちひろさんに勧誘成功の報告と共に、状況を考慮した上での活動プランをひと通り教えてもらった。

「理由としては、激戦区である東京を今の何もない状態で攻めるのは難しい、というのが主ではありますが、本人は高校三年生で、一生に一度の高校生活の卒業が近いのに、この時期に友人と離れるのはいささか非情すぎると考えたからです」

 聞く所によると、彼女の通う高校の弓道部は今年インターハイに出るそうだ。最後の集大成を目前に出場できないなんて可哀想だ。

「よかったわねえ、翠」
 母親は優しそうな人で、俺を快く家に招き入れてくれた人だ。

「まだ具体的なスケジュールは決まっていませんが、しばらくはアイドルになるためのレッスンを中心に行なってもらいます。二足のわらじですが、大丈夫ですか?」

「はい。問題ありません」
 俺の問いに彼女は強く頷いた。覚悟を決めたのだろう、その意思に迷いはない。

「今お話すべきことはこのぐらいですね。ご両親には当面私が寝泊まりするホテルの場所を伝えておきます」



38: 2013/04/28(日) 20:00:48.32 ID:wDYG1avEo


 ぐぅ、となる音を俺は隠せただろうか。

 長い間話し込んだせいで、伝えるべき事柄も減れば俺の腹も減っている。
 胸ポケットから取り出した名刺の裏にホテルの場所を記入しようとボールペンのキャップを開けると、母親から制止が入った。

「お金も勿体無いでしょうし、今日ぐらいはうちに泊まっていって下さいな」

「え、えぇ!?」
 当然俺は突拍子もない声を上げた。勢いのあまりキャップがフローリングに落下してしまう。

「そうだな。お前さんとはまだまだ話したいこともあるし丁度いい、泊まっていけ」
 そして父親もすぐさま賛同する。
 打ち合わせしてきた様子はないがこの同調ぶりは見ていて感心するほどだ。

「うちの父と母もこう言ってますし、プロデューサーさん、どうぞ泊まっていって下さい」
 おまけには彼女さえも賛同してしまった。


 ええと、アイドルの家に男が泊まりこむのは果たして許されることなのかいやいやまだアイドルにもなってないし俺はプロデューサーだから大丈夫だろういやでももしかしたら……などと考えを巡りに巡らせても、解答は出てこない。


 …というか、彼らの視線を知りつつ断ることなど到底できそうにない。

 結局、顎を捕まれ引き下ろされるように承諾し、彼女の家に一泊することとなってしまった。


39: 2013/04/28(日) 20:01:50.16 ID:wDYG1avEo


  *



「はは、大変だったみたいですね」
 電話越しでもちひろさんが苦笑しているのがわかった。

 宿泊が決定するやいなや、祝いだと言って父親が両腕に溢れんばかりの酒を持ってきて、昼間から宴が始まってしまったのだ。

「うう、酒の津波が……。し、大学の新歓以来ですかね、こんなに飲まされるのは……うぷ」
 顔から予想できる通り酒の強い父親と、予想に反して酒豪の母親から質問と娘自慢の波状攻撃のおかげで、耳がじんじんとしている。
 晩御飯も同時に頂いての宴の延長線もようやく終了し、開放された俺はたまらず二階のベランダに飛び出し風を浴びているのだった。

「それだけ、娘さんが大事ってことなんですよ」
 今電話をしているのは、両親に了承をもらったことをちひろさんに連絡するためだ。

 今日話しただけでも、両親が娘に対しあらゆる働きかけをして大切に育ててきたのだという事が痛いほど理解できた。

 ここからは俺が頑張らなければ全て台無しになってしまう。新人だと言い訳はできないのだから、しっかりと気を引き締めていこう。



40: 2013/04/28(日) 20:03:23.12 ID:wDYG1avEo



「じゃあ、とりあえず明日東京に戻って下さい。方針の再確認とスケジュールの打ち合わせを行いますので」

「わかりました、昼過ぎにはそちらに着くと思います。それと彼女も?」
 いえ、とちひろさんは言った。

「翠ちゃんは明日学校でしょうから、支障がない範囲なら来週末でしょうね」
 アイドルになれば学校は休みがちになるのが大体の場合ではあるものの、元よりそういった学業を疎かにさせるような事を好んでする気はないし、第一肩書き上はアイドル候補生なのだから、そこまでのめり込ませたくはない、というのがちひろさんの考えだった。

「進路によって行動も変わってくるでしょうから…それも明日打ち合わせですかね」

「そういうことです。それではおやすみなさい。今日の内に翠ちゃんに色々教えておいてくださいね」
 わかりました、お疲れ様でしたと述べて、俺は通話を切った。



41: 2013/04/28(日) 20:04:03.53 ID:wDYG1avEo


「――とまあ、そういう訳で俺は明日朝一で東京に戻ることになる」
 酒が何とか抜けてきた所でお風呂を頂き、今度は彼女と一対一で話していた。

「わかりました。と言うことは、来週末に東京に行くまで私は何をすればいいんでしょうか?」
「何って…なんだろうな」
 これじゃ駄目だ。

「ああ、いや、ごめん。事務所の方で契約しているレッスントレーナーが居るから、もしかしたらその人にこっちまで来て、最初の確認だけでもするかもしれない」
 それもちひろさんから聞いた話である。
 アイドルが一人も居ないのに契約しているなんていささか不自然なような気もするが、用意周到と感心すべきだろう。

「体力テストといった感じですね。それならば自信がありますよ、私」
 自然に流した髪が彼女の微笑みとともにゆらゆらと揺れる。

「弓道ってあんまり動かないイメージあるけどなあ」
「そうでもないんですよ。弓を引くのは力が要りますし、その状態で静止しなければいけませんから」
「心強いな」
 見たところ筋肉が強く発達しているようには見えないものの、嘘は言ってないだろう。
 それならばレッスンもスムーズに行くに違いない。

 俺の見る目は間違っていなかった、と自画自賛したくなるのを抑えて頷く。
「水野のやってきた弓道はアイドル活動の中で絶対に役に立つから、自信を持ってくれよ」
 この言葉に対して、彼女は苦笑する。

「名前で呼んでいいですよ。水野だと、ここじゃ混乱しますから」
「…それもそうか」
 確かにその通りなのだが、どことなく照れくさく感じるのは俺がまだずぶの素人だからか。それとも彼女が高校生だからか。

「それじゃ、改めてよろしくな、翠」
「はい、プロデューサーさん!」


 元気の良い返事を最後に、今日はこれでお開きとなった。



45: 2013/04/29(月) 07:47:36.88 ID:PHyYDLcxo

  *



「なんですかそのスーツは……」
 到着予告時刻を電話で伝えておいたので、安心して事務所に入っての出会い頭の第一声。

「あはは、これには事情がありまして」
 まさか背の低い雑草群の上で寝ていたなんて、口が裂けても言えない。
「ちゃんとクリーニングに出してくださいね。それじゃ営業先の印象も最悪です」
 その言葉が、俺のプロデューサーへの第一歩を実感させた。


「さて……改めておかえりなさい、プロデューサーさん。昼ごはんは食べました?」
「はい、電車の中で」
「じゃあお茶にしますね。少し休憩してから、あっちの会議室で打ち合わせをしましょう」
 軽い足取りでちひろさんはお茶を汲みに行った。
 些細な心配りができるちひろさんは事務員として有能だろう。肝心の事務処理はそもそも現在の時点であるのかどうかわからないのだけれども。


 とりあえず俺はついたてで区切られただけの簡素な会議室の椅子に座り、スーツを脱いで待つことにした。



46: 2013/04/29(月) 07:48:03.98 ID:PHyYDLcxo



「じゃあ昨日伝えておいたプロフィールを見せて下さい」
 お茶をテーブルにおいて椅子に座れば、ちひろさんは即座に真剣な眼差しになった。

「これです。あと俺が感じた特徴なんかも別紙に記載してます」
 具体的な身体的データは不明なので、基本的な個人情報と特技や趣味を書かせた紙を提出する。

「身長164センチ、体重47キロ、誕生日は12月5日の18歳…なるほど。いい体格ですね」
 ちひろさんは読みあげて、ふんふんと頷く。

「ではプロデューサーさん。あなたなら彼女をどういう風にプロデュースしますか?」
「え、俺がですか?」
 抜き打ちテストを実施された生徒に思わずなりきってしまった。

 しかし、その反応を見たちひろさんは大きく嘆息する。

「当たり前じゃないですか。私も関与するとはいえ、翠ちゃんのアイドル人生はあなた次第なんですよ。そこら辺、ちゃんとわかってますか?」
「あ、はい、申し訳ない…」

 間違いなく、ちひろさんは仕事に対して妥協はしていない。彼女の視線の強さがそれを物語っていた。



47: 2013/04/29(月) 07:48:33.10 ID:PHyYDLcxo


「どうするか、ですか……。そうですね、俺なら彼女の第一印象を推して行きたいと思います」

 翠から感じた印象、それは優しきクールビューティというものだった。

「彼女は18歳…年齢で言えば大人ですが肩書きは高校生ですね。それにしてはかなり落ち着いていて、そしてはっきりとした真っ直ぐな姿勢が特徴です」

 あの時は制服を着ていたので高校生だとすぐに判別できたものの、家での彼女の私服姿は決して歳相応の華々しいものではなく、鈍い色を基調としたシックなスタイルだったこともあって、非情に大人びて見えた記憶がある。

「加えてあの端正な顔立ちや身長の高さを総合すれば、女性が憧れるような……例えればキャリアウーマンのような、格好いい女性の理想像になれると考えています」

 自分なりに考えて、言い漏れのないように丁寧に結論を述べる。

「でもそれでは普遍的すぎて埋没しませんか?」
 まるで面接でも行っているようだ。

「確かに、それだけなら他に似合ったキャラクターは他事務所にいくらでも居ます。翠には、それと合わせて高校生…まあもうすぐ卒業しますが、その若さとのギャップを生かして、男性へのアピールを行います」

「具体的には?」
 ちひろさんは俺への詰問を止めない。導かれるように、俺の回答は進む。


 しかし。


「ええと、俺がこう言うと変態的ですが…け、健康的な工口ス、ですかね?」


 照れながら言ったことが、かえってちひろさんの噴出を誘ってしまったようだ。



48: 2013/04/29(月) 07:49:12.21 ID:PHyYDLcxo


「……こほん。それで、健康的な工口スって?」
 巻き戻しをしてちひろさんは姿勢を取り戻した。

「実を言いますと、初め、翠をじっと見た時……何だか扇情的に感じたんですよね」
「…まさか手を出してないですよね?」
「出してませんよ!」
 正直俺も何言ってるのかよくわからなくなってきたが続ける。

「別にその時着ていた制服姿が扇情的という事ではないんです。ただ、直接きわどい部分の露出をした訳でもなければ、誘うようなポーズやモーションをした訳でもない。にも関わらず、自然とそういう視線で見てしまいたくなるような――」
「ス、ストップです! 段々おかしな方向に行ってますよ!?」
 耐え切れなくなったのか、俺の発言を手を振って遮ってしまった。

「け、結論だけでお願いします…」

 男性的にはごく一般的な範疇だとは思うが、ちひろさんはそれなりの羞恥心を兼ね備えているらしい。

 …こう言うのは失礼か。



49: 2013/04/29(月) 07:50:27.67 ID:PHyYDLcxo


「ともかく、ダイレクトな露出をすることなくアピールができてしまう。それが女性へのイメージの凋落を防いで且つ男性への大きなアプローチになると思うんです」
 言いたかったことや思っていたことを全部聞いてもらえたような気がして、心なしか気持ちがすっとした。

「…力説ありがとうございます」
 ただ、ちひろさんの椅子の位置が遠ざかっているように見えるのは代償なのだろうか。

「一応、勿論彼女の意思次第ですが、水着グラビアの方向も選択肢からは外していません。ですが、個人的には安直なものは控えていきたいと考えています」

「目標は男性と女性、両方から支持されるアイドル、ということであってますか?」
「ですね」

 実際はそれ以前の問題で、彼女が話すときの態度や今までの生き方、両親の事も考慮すると、とてもじゃないが官能的なモーションは現状できそうにない。

 例えそうでなくとも、演技面ではまだまだ素人だろうから、狙ってするアダルトな役回りは今後改めて考えようと思う。



50: 2013/04/29(月) 07:51:01.81 ID:PHyYDLcxo


「…わかりました。事務所としても、その方針を軸にしたいと思います」
 その後も翠の簡易プロフィールを真ん中に色々と話し合った。

 欠点は、趣味が弓道としか書いておらず、主にバラエティ方面での話題の展開性に不安があるということだろうか。真っ直ぐだが、故に広くないのだ。

 これに関しては、アイドル活動を通して彼女自身も色んな事に挑戦して欲しいが……。


「では、あまりのんびりすると時期を逃しますし…そうですね、翠ちゃんも早く学校の終わる明後日辺りにトレーナーさんをそちらに向かわせたいと思います」
「そんなの急ぐものなんですか?」

 素朴な疑問に、ちひろさんはまたもや息を吐いた。

「当たり前じゃないですか。女性のアイドルともなれば、この時期の時間のロスは一番損失が大きいんですよ。できるなら、もっと若い年齢からレッスンしたほうがいいくらいです」
 嫌な言い方をすれば、鮮度の問題ということか。

「あまり言いたくはないですけどね。その本人を切り売りして稼ぐ仕事である以上、仕方のない事です」
 彼女も女性だからか、共感か、あるいは同情の念を覚えているようだった。



51: 2013/04/29(月) 07:52:00.10 ID:PHyYDLcxo


「ともかくプロデューサーさん、早速で悪いですが次の仕事ですよ。私が場所を教えますので、担当のトレーナーさんに話をしにいってください」
 俺がきょとんとしていると、ちひろさんは名刺と地図を取り出した。

「これからずっとお世話になるんですから、あなたが行かないで誰が行くんですか…」


 ……勉強不足と言えばいいのか、もしくは常識知らずと言えばいいのか。


 一言謝ってから受け取り手元のお茶を飲み干すと、俺は事務所を飛び出したのだった。



52: 2013/04/29(月) 07:52:32.51 ID:PHyYDLcxo


  *



「えーと、こんにちは、シンデレラガールズプロダクションのPと申しますが」
「お待ちしておりました、話は伺っております。左側のエレベーターから四階レッスン室Eにお入り下さい」


 …豪華だ。豪華だった。

 指定されたビルは外壁から新築感溢れるまさに新進気鋭といった風貌だった。
「新進気鋭で合ってたっけ?」
 などと間抜けな事を言っているのも緊張をほぐすためだ、そういう風にしておく。


 担当のトレーナーはどんな人だろうか。

 あんな小さな事務所と契約できるような人がこのビルに居るという事自体が驚きだが、それも事務員の力量なのだろうか。

 四階に上がり案内板を基に進むと、すぐにレッスン室Eの看板を見つけることができた。
 第一印象が大事だからな、しっかりと行こう。
「失礼します」
 ノックをすると、中から「はーい」という元気な声が聞こえたので、俺はゆっくりと扉を開ける。

「はい、こんにちは、初めまして! この度担当となりましたトレーナーの青木慶です。よろしくお願いします!」
 そこには一人、翠よりは少し小さいくらいの女性が笑顔で俺を迎えてくれた。

「あ、ああすいません。シンデレラガールズプロダクションのPと申します。この度は担当して頂きありがとうございます」
 勢いの良さに数秒呆気に取られていた意識を取り戻し、とりあえず名刺だけでも渡しておくことにした。

「ありがとうございます。私はまだトレーナーとしては経験が浅いですが精一杯がんばりますので、よろしくお願いしますね!」
 ううむ、見るからに元気な人だ。



53: 2013/04/29(月) 07:53:45.00 ID:PHyYDLcxo


 レッスン室の中は如何にも練習する場所と言った感じで、一般的な想像通りの鏡張りの壁とフローリングだけのシンプルな構造だった。

 どうやら自身もダンスの練習をしていたようで、スポーツドリンクとCDコンポが壁際に置かれていた。
「練習中にお邪魔して申し訳ありません」
「あ、いえいえ。来て下さるのは聞いてましたので、休憩していた所なんですよ」
 きっとトレーナーであるためにはそれなりに練習しなければいけないのだろう、汗ばんだ衣装が彼女の努力を証明していた。

「練習熱心なんですね。あなたが担当で良かったです」
 もしウチと契約できるレベルでなら、やる気の無い人とか空気作りの下手な人とかを頭の隅で想像していたのだが、彼女なら翠ともうまく付き合えそうだ。

「そんな……。私は姉達に比べても――ああ、私には上に姉が三人居まして、みんなここでトレーナーをやっているんですが、私はまだまだ未熟な方なんです」
「へえ、四人姉妹が同じ会社で全員トレーナーですか…中々珍しいですね」

 スポーツ一家というのは比較的珍しくはないが、全員裏方であるトレーナーを志望しているというのは稀なケースではなかろうか。
「よく言われます。姉達を見て私もトレーナーになりたいと思ったんですよ」
 無駄のない体を少し弾ませて彼女は笑った。

 やはり近しい存在というのは本人の行動に強い影響を与えるものらしい。俺も翠のリーダーとして下手な姿は見せられないな。



54: 2013/04/29(月) 07:55:14.32 ID:PHyYDLcxo


「…そろそろ本題に入りますね。明後日ですが、愛知に向かって頂いても大丈夫ですか?」
 雑談がてらのクールダウンも大体終わった所で、俺はスケジュール帳とペンを取り出して訊ねる。
「先日入ったばかりの候補生…でしたよね。大丈夫です。上の方にも出張という形で許可を頂きましたので」
 ちひろさんは事前に根回しをしているようだった。優秀だなあの人。
「それにしても18歳であの綺麗さは驚きですね。ちょっと妬けちゃいます」
 そう言って彼女ははにかんだ。

 この人が何歳かは分からないが、やや幼さが抜けていない所を見ると、翠よりも年下だろうか?
 まあ、出会いはなんともふざけたものだったが、改めて見た時の翠の美しさには俺もすぐ取り込まれてしまったものだから、彼女の意見には凄く同調できる。

「あんな人をスカウトできるなんて、プロデューサーさんも流石ですっ」
「ありがとうございます。これからも精進します」
 褒める言葉以上に、彼女の笑顔がこちらまで元気づけられている気がした。これも彼女のトレーナーとしての才能なのだろう、担当がこの人で良かったとしみじみと思う。


 その後もちひろさんに教えられた通りにレッスン場所のスケジュールの説明をひと通りこなし、相手の了承を得た所で、彼女とはひとまずお別れとなった。



55: 2013/04/29(月) 07:56:40.12 ID:PHyYDLcxo


  *



「はい、プロデューサーさん。これをどうぞ」
「…なんですか、この紙の山」

 事務所に戻るなり、ちひろさんはどこから取り出したのかコピー用紙の山を俺の机にあからさまに置く。

「基本的な指導が行えるように運動の基礎知識が載っている資料と、向こうの営業先の簡単な一覧表です。翠ちゃんがとりあえず実戦に出せるレベルになってから営業を始めたんじゃ遅すぎますからね」

 ひとり事務所に残っていた彼女はこれだけの資料を纏めていたのだ。
 俺だったら、独りになったらきっとサボっているな…。

「ありがとうございます、ちひろさん。それと明後日のスケジュールが取れましたので、確認してもらってもいいですか?」
 スケジュール帳を取り出して、伝え間違いがないか、念の為に確認してもらう。初めだからこそ、慎重に行かなければいけない。
 そんな俺の行動にも笑顔で頷き、予定について細かくチェックしてくれた。

「大丈夫ですね。ひとまずは問題ないでしょう」

 ちひろさんなら、こんな小さな事務所でなくてももっと大手に雇われるぐらい、造作もないことだと思うのだが……。少し不思議に思った俺だったが。

「それと営業は一人で行くことになりますから、今のうちに勉強して慣れておいてくださいね」


 …彼女の事を気にする前に、まず自分のことを気にする必要がありそうだ。



56: 2013/04/29(月) 07:57:39.59 ID:PHyYDLcxo



  *



「ワンッ、ツー、スリー、フォーですよ! さあやってみましょう!」

 はい、と大きな声がレッスンスタジオに響き渡り、手拍子の基、トレーナーの動きを真似て翠が舞った。
「スリーの足の動きが遅いです、もっと足を慣らして!」


 愛知にある小さなレンタルスタジオ。

 水曜日の今日は、水野翠のアイドル候補生としての初めてのレッスンだ。



57: 2013/04/29(月) 07:58:10.12 ID:PHyYDLcxo


 結論から言えば、翠は素人だった。

 だが基礎体力は十分あり、素人目にもスタミナも初めてにしてはあるように見える。
 ただ彼女はダンスが未体験のため、無駄な動作が体力を余計に消費させているようだ。

「よくできました、じゃあ少し休憩します!」
「あ、ありがとうございました…!」

 トレーナーの慶さんの号令によりレッスンが中断すると、翠は尻餅をつくように床に落ちてしまった。

「お、おい、大丈夫か!?」
 糸が切れたように座ってしまったため俺はドリンク片手に慌てて駆け寄るが、なんと彼女はクスリと笑っていたのだ。

「はは……。な、何だか新入生の頃を思い出しました…」
 んく、んく、と翠は俺の渡したドリンクを喉を鳴らして飲む。

 翠が新入生というと、弓道部での活動のことだろうか。
 確かに運動部だと入ってすぐは体力作りが主だと想像がつく。

「私の高校では、初心者も経験者も関係なく一年生はひたすらランニングと射法八節の反復練習だったんです」
「経験者も射法八節の練習なんだな」

 射法八節とは、弓を持って射るまでの決められた動きの事だ。
 競技の場合でも、この動きがあまりに変だと的に矢を当てても当たってない扱いになってしまうらしい。

「あれ、プロデューサーさんも知ってるんですか?」
「調べただけだよ。翠がやってるんだ、俺も少しは知っておかないとな」


 ほんの僅かではあるが彼女が嬉しそうな顔をしたのを、俺は見逃さなかった。



58: 2013/04/29(月) 07:59:15.82 ID:PHyYDLcxo



「それにしても、テレビに出ているアイドルの皆さんはこれを軽々とこなすんですよね…」
 予想以上でした、と翠は息を吐く。

 テレビ画面に映るアイドル達の姿が美しく、華麗で、そしてとても楽しそうに舞う。
 だがその一方で、そうするための訓練が幾度と無く繰り返されている。

 ただ踊るだけなら誰にでも出来るかもしれない。
 アイドルは、その上で楽しそうにしなければならないのが難しいところだ。

「誰だって最初はそうだぞ。いずれ翠もこなせるようになるから、最初はローペースでも怒られないよ」
 翠だって弓道は始めた頃からうまく出来たわけじゃないだろ、と付け加えた。

「はい、精進します。ドリンクありがとうございました!」
 短時間ではあるが息も少し落ち着いたように見える。再び荒れることになるのだが、休憩自体は悪いことではない。
「気を張り過ぎないようにな」

 前髪から垂れた汗が笑顔の頬を伝った。



59: 2013/04/29(月) 08:00:06.07 ID:PHyYDLcxo


 ドリンクを彼女から受け取ると、壁際で何かメモをとっていたトレーナーがこちらに近づいてきた。

「お疲れ様です。次ですが、翠ちゃんは休憩しつつ、さっきのステップを練習して下さい。それでプロデューサーさんですが、ちょっとこっちに来て下さい」
 威勢よく返事をすると翠は鏡の前に行き、先ほど教わった事を思い出すように練習し始めた。

 そして俺は彼女からは離れ、壁際、扉の近くまで青木さんに連れて来られる。
「ええと、何かありました?」
 翠同様汗に濡れる青木さんの手には先ほどとっていたメモが数枚握られていた。

「別にそんな警戒しなくても変な話じゃないですよ」
 あはは、と軽快に彼女は笑ってみせた。

「そんな離れるように連れて来られたら、翠に聞れたら不味い事を話すみたいじゃないですか…」
「練習中の耳に入れるのは気が削がれますから」
 ああそういうことですか、と一人で納得する。

 その本人の翠はというと俺達の事は見向きもせず練習に励んでいるようだった。



60: 2013/04/29(月) 08:01:19.38 ID:PHyYDLcxo


「今日パッと見た感じですが、翠ちゃんは十分に素質は感じられます」
 メモを軽く眺めながら、青木さんは報告を始める。

「まだまだ動きは硬くて不得手に見えますが、身体自体は柔らかく、運動にも慣れてるそうなのでこれから伸びるでしょう。何より、練習が苦にならないのはある種の才能でしょうね」

 後半の言葉。

 これが彼女がこれから生きていく上で大きなアドバンテージになる要素だ。
 無論世界には才能だけで努力してきた人間をゆうに追い越す人がたまにいるが、残念ながら彼女はそうじゃない。

 だからといって腐るか、と言えば翠は違う。

 できないから止めるのではなく、出来るように繰り返すことが出来る。

 俺が選んだから贔屓目になってしまうのもあるが、努力では超えられない才能の世界にさえも踏み込んでいけそうな、そんな期待を抱かせてくれる。

「それと合間に少しだけ現状の声量も確認してみましたが、別段悪い感じではなかったですよ。翠ちゃん、歌うのは好きみたいですし」
「え、そうなんですか?」
 おいおい、俺には聞かされてなかったぞ。

「もしかして、信頼されてないんじゃないんですかー?」
 青木さんは冗談めかして笑う。

 ううむ、初対面こそ変だったが、その後は快く思ってくれていると思っていたのだが…。



61: 2013/04/29(月) 08:02:26.46 ID:PHyYDLcxo



「そんなことないですよ」
「うお、翠!?」

 接し方もまだまだ勉強しないとな、と思っていた所に、背後から翠が音もなく現れた。

「勿論まだまだ不安はありますが、あの時のプロデューサーさんの言葉が軽いものだとは全く思っていませんから」

 吐息はまだ穏やかと言える状態で、肩も激しい動きは見せていない。
 先ほどの休憩の効果がよく表れているのか、翠はまっすぐに俺を見て擁護してくれた。

「あ、ああ。ありがとうな」
 返事をして、彼女は再び練習に戻っていった。


「もう体力がセーブ出来てるみたいですね…。ちょっと予想以上です」
 彼女の言葉を聞いて、青木さんもやや驚いているようだった。

 ふんだ、俺を辛かった罰ですよ。

 そう心の中で呟くと同時に、翠から直接そう言ってもらえたことが本当に嬉しく思った俺だった。


「…というか聞かれてたんですね、会話」


 恐るべし、翠の聴力。



62: 2013/04/29(月) 08:03:32.73 ID:PHyYDLcxo


   *



 クールダウンを終えた後、じゃあ着替えてきますね、と翠は更衣室へと入っていった。


 そろそろ家族が集まってご飯を食べようかという頃合いであるが、時期の関係で空はまだ明るい。

「お疲れ様です、青木さん」
「ありがとうございます。私も楽しく出来ましたよ」


 ――初めてのレッスンが始まっておよそ二時間後。

 初回のレッスンなので内容自体は濃いものではないが、きっと翠からすれば相当なものだっただろう。

「そうですか? 何だか端から見ると鬼軍曹のように見えましたけど」
「そ、そんな風にはしてませんよおっ!」

 はは、と冗談を言ってみせる。このぐらいの仲であれば、これからも良好な関係でいられるだろう。


「それで今後のスケジュールですが、どうしますか?」
 ポケットからメモ帳を取り出して俺に訊ねた。
 ちひろさんに相談したいところだが、何度も頼ってはいられない。

「えーと、そうですね。翠の疲労度次第ですが……。青木さんは予定とか入ってますか?」
「いえ、私は翠ちゃんの専属になってますから、基本的にそちらに合わせますよ」

 さらりと青木さんは言ってのけるが、俺はそれを受け止めることができなかった。



63: 2013/04/29(月) 08:04:29.98 ID:PHyYDLcxo


「せ、専属だって?」
 対する彼女は何を驚いているんだろう、といった表情だ。

「はい。千川さん…ちひろさんから付きっきりで担当できる人が欲しいとの事でしたので、空いていた私が担当することになったんです」

 実を言うと、翠ちゃんが初めての担当なんですよ、と彼女は苦笑した。

 なんと、経験が浅いどころか未経験だった。


 ……だが、今日の練習を見ていると真面目で熱心で、翠のことをよく考えてくれている。
 変に熟れた相手よりかは、むしろ彼女のような担当の方が馬が合うのかもしれない。


 そして未経験のトレーナーとはいえど専属で貸す契約がとれるちひろさんにはもはや感心する他なかった。

「それでは、青木さんには悪いですが明日も来て頂けますか? もしかしたら体のケア面が完全でないかもしれませんので、チェックも含めて」
「わかりましたっ!」

 連日お願いするのは心苦しいが、彼女は軽快にスケジュール帳にペンを走らせた。

「明日は翠の学校は少し遅めに終わりますので、17時から同じここでお願いします」
 はい、と元気な返事と共に了承してくれた。同様に、俺も予定をしっかりと記入する。

 忘れることは流石にないだろうが、二人が参加して自分だけ遅刻、というのはあまりにも情けない。



64: 2013/04/29(月) 08:05:21.92 ID:PHyYDLcxo



「お待たせしました。着替え終わりましたよ」
 鏡張りの壁の隣、小さな更衣室から翠が出てくる。
 ドライヤーはないのでまだ彼女の長い髪は乾いていない。それが前に見た風呂あがりの彼女の姿を彷彿とさせた。

「今日はお疲れ様でした。私も着替えますので、お二人は先にどうぞ。後はやっておきますので」
 まあその格好のままだと絶対に風邪を引くだろうな。


「わかりました。今日はありがとうございました。また明日お願いしますね」


 手伝おうと思ったが青木さんが固辞したので、俺達はお言葉に甘えて先に帰ることにしたのだった。



65: 2013/04/29(月) 08:06:03.23 ID:PHyYDLcxo


   *


 ピークは過ぎたといえど、店内には家族連れが楽しそうに会話をしていて、喧騒は収まりそうにはない。

 テーブルには大きなメニューが広げられ、俺達はそれを挟んで座りながら眺めていた。



 ――せっかくですから、食事に行きませんか?

 スタジオを出て空を見上げた翠は、そう提案した。
 俺としても断る理由はないし、信頼関係を築くいい機会だと考えたのでそれに付き合うことにした。

 両親には彼女の方から連絡を入れ、許可は頂いているので問題はない。

「私、ここのグラタンが好きなんです」
 どこにでもあるようなファミリーレストランのメニューを彼女は指差した。

「グラタンか…確かに美味しいよな」
 ハンバーガーを水で流しこむような奴が評価した所で言葉に信ぴょう性はない。

「昔からここのお店はあったんですが、その度に頼んでたんです。どうしてかはよくわからないんですけど……何故か好きで」
 記憶に残る味、と言うべきか。
 少なくともグラタン自体に特別な成分が入っているわけではない。ただ誰と食べたか、どんな時に食べたかが味に印象の強さを与えたのだろう。

「じゃあ俺もそのグラタンを食べてみるかな」
「同じ料理ですね」
 適当にサイドメニューを注文することを決めて、俺は呼び出しボタンを押す。


 願わくば、俺もその記憶の中に残入れんことをささやかに思いつつ。



66: 2013/04/29(月) 08:07:36.08 ID:PHyYDLcxo


「高校ではどうだ。アイドルになること、話したりしたのか?」
 フォークを使って表面のチーズを剥がして口に運ぶ。
 程よくのったクリームが口腔に入ると、二つは仲良く踊り始めた。


「はい。実は弓道場に行ったあの日、友人に見られてまして……」
 彼女はそう言って冷水の入ったコップを両手で持った。

「言うのは少し恥ずかしかったのですが、プロデューサーさんの事を訊かれて答えてしまいました」
 答える彼女の顔はほんのりと赤らんでいる様子だった。今回頼んだ料理がグラタンでよかったと思う。

「向こうもびっくりしただろ。いきなり友達がアイドルってどういうこと? ってな」
 おどけるようにして俺は大げさに首を動かす。

 よしんば俺が聞かされる立場だとしても、まず第一声はパードン・ミーだろうな。
「その通りです。休み時間に大声で驚かれたので、すぐクラスの皆さんの耳に入ってしまいました…」
 彼女の目線が少し下がった。首も少し傾けて、フォークを持つ手が揺れる。

「あっはっは、じゃあもう皆には知られちゃったんだな」
「すみません……」
 普段の凛とした態度とは裏腹に、今の彼女は大変歳相応のように思えた。

 …この差に思わずクるものが確実にある。



67: 2013/04/29(月) 08:08:23.16 ID:PHyYDLcxo


「いや、むしろどんどん…といっても煙たがられない程度に話して欲しいね」
「え? そういうのってあまり良くないことなのでは?」
 彼女は口に入っていたグラタンを飲み込んでから聞き返す。

「程度を弁えればな。今の内にファンの土台を固めておくのは、悪いことじゃない」

 周りに誰彼かまわず言いふらすようならば本人の安全面も含めて自重してもらわなければならないが、彼女の場合そんな行為には及ばないだろう。

 なら近しい友人から話題を広めておくのは得策だと考えるべきだ。

 ある二人のアイドルが居たとして、任意のファンがどちらも好みでかつどちらかしか選べない場合、『親近感』という要素が選択可能性に大きな影響を与える。

 知らないアイドルよりも、同級生のアイドルのほうが応援しやすいからな。

「そうなんですか……。既に広まってしまってますけど、頑張ってみますね。ふふ、何だかアイドルの活動をしているみたいです」



68: 2013/04/29(月) 08:09:11.32 ID:PHyYDLcxo



 彼女の考える営業感は、いわゆるファン目線での話だ。

 ファンに対して距離を縮める事で、ファン層の拡大を図る。
 そして裏方の俺達が、彼女が動くためのチャンスを作り出す。

 正直に言えば、責任が俺に結構な割合でのしかかっていることに胃が痛む。

 しかし、単身この業界に入り込むんだ彼女を助けてやれるのは今のところ俺達だけなのだから、せめて味方を増やすまではへこたれる訳にはいかない。


「営業の練習だと思ってやるといい。多分、これから何度もすることになるからな」

 これから先そうなることを願って、俺は冷水を飲み干した。


 その後は、翠自身の生活の話などアイドル関係の話以外で華を咲かせた。
 仕事の話だけが俺達の繋がりではないのだ。俺も翠をより深く知ることで、もしかしたら近い未来にするであろう俺の営業に役立つかもしれないからな。



 ……って、結局仕事に繋がってしまった。



69: 2013/04/29(月) 08:09:53.67 ID:PHyYDLcxo


  *



「第一歩は問題なし、ですね」
 ホテルの部屋。窓からは夜景が綺麗に見える。曇ってないので、遠くの明かりまでもが暗闇に点々ときらめいている。

「流石にここで問題は起きてほしくはないですよ」
 メールでも良かったのだが、なんとなく俺はちひろさんに電話をしていた。

 相手からすれば迷惑なのかもしれないが、今のところ順調であるという保証を無意識に欲してしまった結果である。
 そうは言いつつも、ちひろさんもよく話してくれるので有り難かった。

「あと明日もレッスンをお願いしておきました。疲労のケアの仕方なども教えてもらう予定です」
「わかりました。これからは一人でどんどん判断しなければいけないことも多くなりますから、頑張って下さいね」
 大学を出て働いている他の友人はどうしているだろうか。きっと全員、何かしら責任を背負って仕事をしているはずだ。俺だけが例外ではない。

「あ、それとそういったスケジュールに関しては、決まり次第メールで知らせてくださいね。ブッキング等があると問題になりますので」

 俺がこうしてスケジュールを取り、事務員が細かく管理する事になっている。場合によっては、向こうからのオファーも出てくるだろうから、俺が独断で動いてもいい訳じゃないのだろう。

「明日からは予定通り挨拶回りに行って下さいね。それでは体調を崩さないように気をつけておやすみなさい。お疲れ様でした」



70: 2013/04/29(月) 08:10:54.97 ID:PHyYDLcxo



 パタンと携帯を閉じ、スーツのままベッドに倒れ込む。

「明日から、明日からだな…」
 普通、こういう営業なら先輩社員と二人で回るのだろうが、俺の場合はそうにはならなかった。
 そうであったならどれだけよかったことか。

「…愚痴ってもしょうがないよな」
 また明日も使うんだから、と俺は立ち上がってスーツを脱ぎ、ハンガーに掛ける。

 いっちょまえにくたびれやがって。
 少し形の崩れたスーツをニ度はたくと、鞄から紙の束を取り出してベッドに座る。

「愛知の方の営業先は…これか。近い所でも結構あるなあ」
 名刺の数を確認する。
 ここに載せられている場所を全部訪ねてもまだ余裕はありそうだ。

 成功するか、失敗するかはわからない。

 だから、せめて成功するように願っておこう。


 そう思いながら、今日一日で付着した臭いを取るために風呂に入る俺だった。



75: 2013/04/30(火) 22:42:55.74 ID:9LDCk1+Ro

  *



「はぁー、地元出身のアイドルねぇ」

 翌朝、俺は商店街を訪れていた。

 翠の高校からは少しだけ離れた場所だが、近くに二つの駅と大通りが面しており、交通量や人通りが比較的多い所である。
 その駅の東西に位置する商店街にも同様に平日ながらある程度の人の塊が流れるとのことだった。

「はい。ここから少し歩いた所に高校がありますが、そこの高校生なんです」
「ほぉー、近くっつーとあの川沿いの所のか! 確かにあそこはべっぴんさんおおいかんなぁ!」

 俺は商工会に連絡を取り許可をもらってから、先に商店街に軒を連ねる方々に挨拶をしているのだった。

「新人ではありますが、これからどんどん成長できるアイドルだと信じてます。準備が出来次第、改めてこちらの方で活動すると思いますので、何卒よろしくお願いします」

 使い込まれた前垂れを上下に揺らして、八百屋の主人は口を大きく開けて笑う。

「そーかいそーかい! んじゃその時はサインでももらうかねえ!」
 年齢にそぐわぬ大きな力で俺の方を二、三度叩くと、がはは、とまた笑う。

 長い間地元のこの店の中で生きてきたらしい彼は、地元が明るくなったら良いな、という気持ちがあるようだ。
「訪れた暁には是非差し上げますよ。それでは忙しい中お時間ありがとうございました」
 冗談めかして言っているのかどうかはわからないが、サインなら今なら書いても大丈夫だろう。本人はサインなど書いたこともないだろうが。

「おぅ! またおいなあ!」
「はは、ありがとうございます。失礼します」


 手を振って別れの挨拶をしてくれた主人に深く例をしてから、俺は次の喫茶店へと足を運んだ。


76: 2013/04/30(火) 22:43:23.58 ID:9LDCk1+Ro


  *



「当商工会と致しましても、今後の活性化に繋がる活動は歓迎しますよ」

 最後にはなかったが、大本である商工会の会長と面会する。

 やはり近年では都市部付近の商店街ですら難しい経営を迫られていて、ここも例外ではないらしい。
 ここの場合、人通りはあっても全て駅を行き来するだけの人が多いので売上増には繋がっていないようだった。

 まず名刺を渡してから自身が働く事務所の紹介をし、今回訪れた理由を述べる。
 するとこの商店街の現状を会長自ら解説してくれた。

「私の所も、駅が出来たことで売上が伸びると思ったんですが、通り過ぎるだけの筋になっているのが現状でして」

 実際そういう所も多いらしい。東京の方でも、確かそんな話があったような気がする。

「なるほど…。大変ですが、お互い頑張ってこの商店街を盛り上げて行きましょう!」
「こちらも協力させて頂きますよ」
 立ち上がって、テーブル越しに握手を交わす。

 友好的ムードを向こうから作ってくれたおかげで、俺は緊張することなく彼女の魅力や展望性について話すことができた。

「具体的なお話につきましては、また後日準備が整いましたらご連絡させて頂きますので、是非よろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」


 出した資料を鞄に収めて、礼をしてから商工会事務所を去る。


 ……俺の目から見ても、今日の営業は成功ではないだろうか。



77: 2013/04/30(火) 22:44:05.06 ID:9LDCk1+Ro


  *


「あ、プロデューサーさん。こんにちは!」
 運動をしているためか、少し上調子で翠は俺に挨拶をしてくれた。


 昨日と同じレッスンスタジオ。
 ノックをしてから入るとどうやら休憩中だったようで、二人とも俺に気付く。


 結局、今日に関しては営業は上手く行ったと言うべきだろう。

 ピーク時は避け、とにかく元気よく行くことを心がけたのが要因ということにしておこう。
 ……その代わり、緊張やら空元気やらで疲れも相当な事になっているのだが。


「おはよう、翠。今はいいが、仕事ではおはようございます、と言うようには」
「あ、すみません」
 ハッとして謝る彼女を見て慌てて手を突き出す。

「大丈夫だよ、そういうことは追々覚えていこう。それで調子はどうだ? 前の疲れは残ってないか?」

 今見た限りでは問題はなさそうだ。
 というよりも、彼女自身があまりそういった疲れを見せない傾向にあるように感じる。
 もう少し苦しがる表情を出すかと思っていたが……良いことであるはずなんだけどな。

 俺の問いには、後からこちらに来たトレーナーの青木さんが答えてくれた。
「やはりダンスとなると全身の筋肉を使いますから完全な状態ではありませんが、筋肉の疲労は比較的軽微ですよ」
 そのため、ステップの練習は控えて、今日は柔軟体操の仕方を教わっていたらしい。

「的前に立って矢を射るようになってからはこういった体操もあまりしなくなりましたから…参考になります」

 翠も積極的にトレーナーさんの指示に従ってくれていて一安心である。



78: 2013/04/30(火) 22:44:30.55 ID:9LDCk1+Ro



「プロデューサーさんの方はどうでしたか? 今日は営業の予定でしたよね」

 トレーナーが元の位置に戻っていった後、続いて話題は俺の行動に移る。

「ああ、俺か……。まあ、まずまずと言った所だな」
 近くの商店街に行ったことを伝えると、行ったことあります、と彼女は応えた。

 俺はその場所で挨拶した人や店、どんな反応だったか、そして翠にどれだけ期待してくれているのかを細かく教えることにした。

 初めこそ俺の話す地点に対して思い出すように相槌を打っていたが、次第に翠は静かになっていく。


「……私、アイドルになるんですね」
 話が終わると、不意に翠は呟いた。

「なんだ、信じてなかったのか?」
「いえ、そんなことはないです。……ただ、私が来るのを楽しみにしてくれる。その言葉を聞くと、私も招かれる立場の人間になるんだな、と思いまして」

 言いたいことはわかる。だから、あえて茶化すように言ったのだ。

「ちょっと気が早いかな」
 俺は大げさに笑って見せる。

「アイドルにはなるが、まだ今は候補生だぞ? ……その言葉は、アイドルとして行って、成功させてから改めて言うようにな」


 そうですね、と言う翠の声が、いつもよりも弾んでいた。



79: 2013/04/30(火) 22:46:12.27 ID:9LDCk1+Ro


  *


 その点のぞみってすげーよな、最後まで席ゆったりだもん。

「何を言っているんですか?」
「え、あ、いや…なんでもないです、はい」


 ――名古屋駅から東京駅まで、およそ二時間。


 丁度翠をスカウトして一週間が経った今日、俺達は東京…二人一緒にでは、初めて東京に戻ってきた。

「何度来ても大きな所ですね…ほら、あのビルなんて倒れてきそうです」
 ヨーロッパ風の建物の近くに建設された無機質な長方体を見上げて、翠は小さく口を開く。

 彼女はというと、それなりに近いこともあり、何度か来たことがあるようだった。
 俺はもう幾度と無くこの光景を見ているので今更思うことは何もない。

「ずっと座りっぱなしで悪いが、東京駅から乗り換えだ」
「どこまで行くんですか?」
 案内板には、電車がやってくる時刻がかなり近づいているのが確認できた。
「もう少し北に行くだけだよ。ほら、もうすぐ来るからホームに行くぞ」

 確かに東京には慣れたのだが、別に電車に詳しくなった訳ではない。未だに環状線と接続する路線がよくわからないのだ。


 日曜日というだけあって人混みもいつも以上に多い。はぐれないように、俺達は離れないように動くことにした。



80: 2013/04/30(火) 22:46:51.98 ID:9LDCk1+Ro


  *


「初めまして。あなたが水野翠ちゃんですね?」
 お世辞にも良い設備があるとは言えないこの事務所に帰ってくると、いつもどおりちひろさんがパソコンの前に座って作業をしていた。

「初めまして、この度プロデューサーさんに誘われてアイドル候補生となりました、水野翠と申します。未熟者ですが、何卒よろしくお願いします」
「うん、話通りの女の子ね」

 大体定型文とはいえ、噛まずにここまで丁寧に挨拶できるとは何とも不思議である。俺が翠の年齢の時なんてまともに敬語を使えなかったぞ。

「翠、この人はここで事務員をやっている千川ちひろさんだ。事務所は大体俺とちひろさんの二人でやっているんだよ」
「あれ、では社長さんは……まさかプロデューサーさんが?」

 答えにくい話だ。

 社長は、俺の研修が終わったと思ったら全く姿を見せなくなってしまった。
 俺の居ない間に事務所に訪れたような形跡も残されていない。

 果たして社長はどこへ行ってしまったのか、そして何故居なくても事務所が普通に動いているのか。消えたその日からずっとあり続ける俺の疑問だった。

「ちょっと社長は長い出張に出かけてて、しばらくは私達だけなんですよ」
 そう言って苦笑しながら、ちひろさんは俺達二人分の冷茶をテーブルに置いた。



81: 2013/04/30(火) 22:47:42.15 ID:9LDCk1+Ro


 俺とちひろさんのデスクと入り口の間に設置されたソファに俺達は座って向かい合う。


「じゃあ翠ちゃん、プロデューサーさんから渡された履歴書は持って来ましたか?」
「はい。こちらです」
 翠は促され、クリアファイルからきちんとした様式の紙をちひろさんに渡した。

 前回書いてもらったのは事務所に来れないために便宜的に用意したもので、今回のは正式に当事務所のアイドル名鑑に記録するためのフォーマットである。

 これがあるということは、少なくともアイドルは翠以外にも増やしていく予定がある、ということだ。

 一人だけではやっていけないのは明白なのだから、朗報ではある。

「ふん、ふん…大丈夫ね。ありがとう、預かっておきますね」
 ちひろさんは履歴書を壁に設置された本棚のファイルに収納する。


 これでようやく、事務所的に正式にアイドルが所属したことになるかな。



82: 2013/04/30(火) 22:48:48.33 ID:9LDCk1+Ro


「さて、今日翠ちゃんに事務所に来てもらったのは顔見せもありますが、本題は東京での活動についてです」

 長い移動で疲れたろうと茶菓子まで置いてくれて、しばらくお互いの詳しい自己紹介も含めて雑談で心をほぐし、一息ついた所でちひろさんの声色が変わる。

「プロデューサーさんから伝わっている通り、最初は地元の方での活動を中心に行ってもらいますが、かといって東京を放置する訳にはいきません」

 テーブルに、ニ枚ずつ俺達に紙を滑らせる。

「一枚目は今年からアイドルを目指す新人アイドルの一部と、もう一枚は近い内に開かれるオーディションの一覧です」
 紙には、俺ですら聞いたことのある有名事務所から俺達のいる事務所のような中小のものまで、さまざまな所からデビューする新人アイドル達の名前がずらっと並んでいた。

「い、一年でこんなに増えるんですね…」
 流石の翠も、コピー用紙にひしめき合って印刷されている名前を見て思わず声をあげてしまう。

 規模で区別しなければ、日本にはかなりのプロダクションが存在する。
 しかし、潰れていくプロダクションも少なくない。

 結局そういった命運を左右するのは商品たるアイドルであるから、こうして毎年多くのアイドル達が出てくるのだ。

「ここから二年目以降も活動していけるアイドルは、全員とは言えません。ですから、ライバルは多いのだという事を翠ちゃんには知って欲しかったんです」

 大手プロダクションからも、十数人のアイドルが一度にデビューするらしい。
 バックが無いうちの事務所からすれば、頭が痛い話である。



83: 2013/04/30(火) 22:50:03.25 ID:9LDCk1+Ro


「これを踏まえて、週末には積極的にオーディションに受けてもらいたいんです」
 ちひろさんの合図で、俺達は二枚目の紙に目を通す。

 一枚目ほどのインクの多さはないが、一年間のオーディション、それもデビュー一年目のアイドルでも受かる可能性のあるものの一覧が載せられていた。

「やっぱり大手のオーディションは難しいですか」
 具体例を上げれば、企業のイメージキャラクターであったり、ドラマや声優のキャスティングのオーディションである。

「あくまで短期間の契約となるCMや雑誌のモデル等にならこの時期からでも十分に可能性はありますが、実力がモノを言う演技系は一年目では難しいですね」

 仮に翠が演劇団体に所属していたというのであれば、可能性はゼロではないのかもしれない。

「直近のオーディションは…一週間後ですね。出た方がいいでしょうか?」
 隣で真剣に読み込んでいた翠は、日時を見て紙に指をあてる。

 一週間後。そこには中高生向けの雑誌モデルのオーディションが記載されていた。
 確かにこれならば載せるのはピンナップ写真程度だろうから翠でも戦えそうだ。

「翠ちゃんはよく見えてますね…。それに比べてプロデューサーさんは」
「精進します…」


 …本来、これを指摘するのは俺の立場なんだろうなあ。



84: 2013/04/30(火) 22:50:42.37 ID:9LDCk1+Ro


「失敗しても気にしないで下さい。顔見せ程度ぐらいに思って、ね?」
 ちひろさんは初めてのオーディション参加ということで、あくまで慣れるための参加という匂いを漂わせる。

 だが、それは要らぬ気遣いというものだろう。
「大丈夫です。審査されることには慣れていますから」
 お茶を一口だけ飲むと、彼女ははっきりとそう答えた。

 この自信の強さは、決して足元の見えない物ではない。大会で踏んできた経験からくるものなのだろう。

「それに…ああ、これだ。翠、これを見てくれ」
 ノートパソコンで検索したページを俺は指し示す。

「調べたら過去の特集が画像があったよ。…新学期にする特集じゃないのがミソだな」

 そのページには、制服や、それぞれの部活固有の服を来たモデルたちが学校生活を送っている写真が掲載されていた。
 特集の後半は、私服での遊びを演出したシーンもあった。

「その通りです。出版時期から見ても、『先輩が新入生に伝える』のではなく『新入生が今を報告する』といったシチュエーションになっているのがポイントなんですよ。プロデューサーさんもできるじゃないですか」
 俺を褒めてくれるのは有難いことだが、遠回しに馬鹿にされているような気もする。

「なるほど…雑誌も奥が深いんですね」

 その発言から察するに、翠はあまり雑誌を読むタイプの人間ではないらしい。

 これからは詳しくなって行かなければ困る。研修中嫌ほど読まされた雑誌を貸し出す事にしよう。



85: 2013/04/30(火) 22:51:48.28 ID:9LDCk1+Ro



「ところでちひろさん、このオーディションって何を着ていくんですか?」
 ノートパソコンのパッドをちまちまと触る翠をよそに、ふとした疑問を投げかける。
「ステージ衣装なんてそもそもないでしょうし…内容的に制服で行かせます?」

 お茶のおかわりを入れているちひろさんは、少しだけ考える様子を見せる。
「まあそこが無難ですね。勿論弓道をやっているなら、そちらの服でもいいですけど」

 部活動中のシーンもあるから、恐らく他のライバルたちもそういった服を着てくると考えられる。

「翠はどうしたい?」
 そこで俺は翠に決めさせることにした。当たり前だが思考放棄ではない。

 こちらが指定すれば彼女は恐らく文句は言わないだろう。
 しかし、それだけで進んでいくのは、少し展望性がない。

 あくまで自分で決めてくれるようにならなければこの先難しいのだ。

 ……初参加のアイドルに対して言うべきことではないのだが。


「では、私は弓道着で行きます」

 回答を捻り出すのに、大した時間はかからなかった。



86: 2013/04/30(火) 22:52:41.20 ID:9LDCk1+Ro


「よし、じゃあそれでで行くか」
 彼女が出した答えを俺があれこれ口出しする必要は、今の時点ではない。

 初めてのオーディションなのだから、とにかく挑戦させて、結果はどうであれ、後から反省させればそれでいい。

「はい。お願いします」
 意見が通ったことへの安心感か、彼女の返事は心なしかはつらつとしているように思えた。

「このぐらいですかね、ちひろさん」
 時計を見ると、もうすぐ正午というところだ。
「差し当たって伝えることは伝えましたので、話はここまでです。午後からはレッスンの予定がありますのでお願いしますね」

 東京でレッスンを行うのは初めてだが、場所は俺が前挨拶に行ったビルでする。規模の違い…おもに建築物の綺麗さに翠も驚くことだろう。


「よしじゃあ終わり! 出前でも頼むか!」
 何かに集中していると感覚を忘れるというのはよくある話だ。
 俺も例外ではなく、話し合いが終わった瞬間、空腹感が体内に充満していた。

「ちひろさんの分も買ってきますよ、何がいいですか? 翠も弁当屋だけどいいか?」
 メニューはデスクのブックスタンドに収めているので、それを彼女に渡す。

「ええと、いいんですか?」
「気にするな、これも事務所の経費だから」
 懐が痛まない食事ほど美味しいものである。


「何言ってるんですか。出る訳ありませんよ」


 ……何故出ないんだ。



87: 2013/04/30(火) 22:53:29.96 ID:9LDCk1+Ro


  *


「いい調子ですよ! もう一度行きましょう!」
「はい! お願いします!」


 前に来た時と同じレッスン室で、同じメンバーでレッスンが行われた。



 翠をスカウトして、ようやく一週間が経った。

 しかし、たった一週間でも彼女の動きには見違えるほど違っていた。


「ワンツーワンツーワンツー、ターン! オッケーですよ!」
 止めどなく流れるリズミカルな音楽と青木さんの声が部屋を支配している。

 ぎこちなかった足の動きは油でもさしたかのように滑らかになっていて、同時に動かす手もリズムに即して動けている。


 何より、当時よりも習う動きは複雑になっているにも関わらず、重心をしっかりと残しながらステップを踏めているのだ。

 際限なく動き続けるダンスにおいて、一度バランスを崩してしまえばそれ以上は全く続かなくなるし、復帰するのも容易ではない。

 確かにレッスン自体はほぼ毎日行なってはいるが、学校と部活をしながらの短い時間での練習だ。

 にも関わらずこれだけの成長を見せるのは、少し異様だった。



88: 2013/04/30(火) 22:54:01.89 ID:9LDCk1+Ro


「自主練をしていますので、良くなっているのならそれのおかげかもしれません」
 休憩中、俺が素直に感想を述べると、翠は丁寧にお辞儀をしてからそう答えた。

 何が彼女をそこまで突き動かすのか。
 誘う前には悩んでいた翠は、今どうして練習に励むことが出来るのか。


 答えは簡単だった。
「決めましたから。プロデューサーさんは、たくさんの人の中から私を選んでくれました」

 やり遂げること。やり遂げるために努力をすること。これが彼女の真髄である。

「決して今までの生活に不満があった訳じゃないんです。でも、プロデューサーさんは可能性を示してくれた。でしたら、最終的にどうであれ、私に期待してくれるのに私が努力しないのは一種の裏切りだと思うんです」

 まるで常に退路を絶っているかのような口ぶりだ。
 しかし、現実には退路を絶ってはいない。

 あくまで相手、この場合俺から与えられた機会や期待に対して本気で報いる事が、彼女にとっての『覚悟』なのだろう。

 よもや一週間やそこらで彼女のことを全部解った気になるつもりはさらさら無いが、当事者であれば痛いほど彼女の心が伝わってくるのだ。



89: 2013/04/30(火) 22:54:52.27 ID:9LDCk1+Ro



「そろそろ再開しましょうか、翠ちゃん」
 時計とメモを交互に確認していた青木さんがこちらへやってきた。


「…プロデューサーさん、見ていてくださいね。私、頑張りますから」
 翠はためらう素振りもなく、再び練習していたスペースに戻っていった。



 俺はその後ろ姿が本当に頼もしく見えた。


 …ただ、まだ実際には何もしていないのにあそこまで気を張っていることは果たして良いことなのだろうか。


 今の俺に、判断することは不可能だった。



91: 2013/05/03(金) 19:18:58.41 ID:mMYXsJdUo

  *



「プロデューサーさん、電話です」


 オーディションの日が迫ってきたある朝。
 コーヒーを入れていると、ちひろさんが俺を呼んだ。

「電話? 誰からです?」
「どうやら、プロデューサーさんが前に営業に行った商店街の方からみたいですよ」
「お、本当ですか!」

 コーヒーに入れるお湯を少し入れすぎた事に気付いたが、そんなことはどうでもいい。


 商店街といえば、翠の高校の近くあり、俺が初めて営業させていただいた場所である。
 余所者である俺にも比較的親しみを持って話を聞いてくれたので、俺も大変気に入っている。

 そんな場所から電話というのは、何かあったのだろか。

「ありがとうございます、ちひろさん――っと、お待たせして申し訳ございません、只今代わりました、シンデレラガールズプロダクションのPです」

 定型句を頭に、受話器をちひろさんから譲り受ける。

「あ、どうもどうも。朝早くすみませんね、以前お話しました商工会の会長の者です」
 その親しげな声はよく印象に残っている。
 堅い声色の口調ではない所が地元という感覚をより強くさせていた。

 今思えば訪れる順序が逆だったような気がするが、相手方も気にした様子はないので俺も蒸し返さない事にした。



92: 2013/05/03(金) 19:19:35.27 ID:mMYXsJdUo


「お世話になっております。それで、如何なさいましたか?」

 世間話をするなら直接会った時にでもする。こうして電話をくれたということは、何か目的があるということだ。

「え、ええ、実はですね、今度愛知のローカル局の放送内で、我が商店街を取り上げてくれるという話を頂きまして」
「おお、それは素晴らしいですね!」
 褒めるのは当たり前という話ではあるが、個人的にも喜ばしい事だ。

「ありがとうございます。それでですね、誰か案内してくれる人が居ないかあ、と向こうの担当の人から言われているんですわ」
「もしかして、それでうちの水野を?」
「確かその子はうちの近くの出身らしいですってね? 他にも候補はおるんですが、できればうちを知ってる子に頼みたいってえことで、あなたの顔を思い出したんです」

 まさかのチャンスだ。
 拳に自然と力が入る。。

「なるほど、それは光栄です。こちらとしましても、うちのアイドルを使って頂けますと大変嬉しく思います」

 隣を見れば、ちひろさんは期待の眼差しで俺を見ていた。


「今度打ち合わせでテレビの人がこっちにまた来るんです。それでよかったらなんですが、明後日に以前お会いしたうちの事務所の方に来て頂けませんか?」

 受話器を持つ手はそのままに、もう片方の手をサムズアップして、ちひろさんに見せた。




93: 2013/05/03(金) 19:20:01.77 ID:mMYXsJdUo



「――それじゃ、明後日よろしくお願いします。楽しみにしてますね」
 こちらも挨拶をきっちりとした後、電話は切れた。


「ぃいよっしゃあ!」
 受話器を置くと、俺は柄にもなく叫んでしまった。



94: 2013/05/03(金) 19:20:49.08 ID:mMYXsJdUo



 …電話越しでの連絡が数分。

 翠の初仕事は思わぬ形で訪れた。

 入社してからは時間がたったが、営業を始めてからではかなりの早い時期での契約だ。

 口から笑みが自然と溢れてしまい、それを抑えるのに必氏である。


「おめでとうございます、プロデューサーさん。営業の結果が早速表れましたね!」
 ちひろさんも我が身のように喜んでくれた。いや我が身なんだけれども。

「ありがとうございます。ちひろさんが作ってくれたリストのおかげです」

 ルート営業ならともかく新規ルートとなると、普通こうはいかない。
 そこを他の事務所の影響力の少ない場所を調べて教えてくれたのだから、彼女の成果も同然だ。



95: 2013/05/03(金) 19:21:17.03 ID:mMYXsJdUo



「打ち合わせは明後日の午前10時から、向こうの商工会事務所であるそうです。オーディション前ですが、知らない人に紹介させに行くならば慣れるためにも丁度いいでしょう」

 いくら本人が大丈夫といえども、緊張や不安を感じていないはずはない。
 あちらの会長さんは温和である上に翠のホームグラウンドだから、初めての場所にはこれほど適している所はない。

「わかりました。翠ちゃんも連れて行くとなると、学校は欠席してもらう必要がありますね」
 その日は通常通り学校があるが止むを得ない。今後もアイドルとなればそういう日も出てくる。

 学業に露骨に影響が出てくるのだけは避けたいので、なるべく午後や休日を選んでやりたい所ではある。

「その日もレッスンはありますがどうします?」
 まだ真新しいホワイトボードに予定を書き込みながら、ちひろさんは訊ねる。

 レッスンは毎日という程ではないものの、翠本人の希望もあって多めに入れられている。
 しかも部活の方にもちゃんと出ているというのだから凄いことである。

「うーん…どうするか……。ちょっと翠にメールを送って話をしますね」
 ちひろさんは、わかりましたと一言答えると、デスクに戻って事務作業を再開した。

 きっと翠も喜んでくれるに違いない。


 とりあえず、上手く本契約にまでこぎつけられるよう、できるだけ多くの資料を用意することが先決だ。



96: 2013/05/03(金) 19:23:38.81 ID:mMYXsJdUo


  *


「本当ですか?」
「ああ、勿論だ」

 翠から着信があったのは空も赤くなり始める頃だった。

 静かではあるが、後ろから掛け声のような音が入っているから、彼女はまだ学校の中に居るのだろうか。

「それで明後日なんだが、朝から翠も一緒に来る必要がある。…学校は休めるか?」
「はい。担任の方に連絡しますので大丈夫だと思います」
 快諾してくれて何よりである。

 そして彼女の口ぶりから察するに、担任からも理解を得てもらえているようで幸いだ。
 これも本人の人徳か?

「よかった。わざわざ電話までさせて悪かったな、ありがとう」
「いえ、こちらこそ教えてくれてありがとうございます」
 これからもしかしたら部活もあるだろうし、長電話は忍びない。さしあたっての連絡事項だけ伝え、俺は通話を切った。

 無機質な電子音を確認して、携帯を畳む。


「翠ちゃん、喜んでましたか?」
 珍しく休憩モードのちひろさんが俺に訊ねる。
「本当に真面目ですね。露骨には喜んでませんでしたよ」

 会話を思い出す。
 焦る様子も飛び跳ねる様子もなく、「本当ですか?」という第一声。息遣いはさながら嬉しそうではあるものの、喜びに明瞭さはない。



97: 2013/05/03(金) 19:28:10.26 ID:mMYXsJdUo


「言い方は変ですが、もう少しはっちゃけると良いと思うんですけどね…」
 態度が一貫しているというのは良い面もある一方、悪い面も…とりわけこういう界隈では少なくない。

 テレビで生かせるような、何か個性ある特技を持っていればそのキャラ自身も武器になり得るのだが、芸が無ければそれは短所と称される

 翠も暗い人間ではないが、傑出した明るさがないのだ。
 専らアイドルという前提条件の上では、翠の良さは逆に致命傷になりかねない。

 良くも悪くも、初めての仕事がテレビ出演となってしまった。

 出だしを失敗して欲しくないために、明日のレッスンにはヴィジュアルの方も入れてもらうようにトレーナーの方にもお願いしておこう。



 電話営業で疲れた喉を茶で癒すと、俺は再び電話を握り始めた。



98: 2013/05/03(金) 19:29:07.03 ID:mMYXsJdUo


  *



「お世話になっております。シンデレラガールズプロダクションのPと、こちらは今回紹介させて頂きます、水野翠です」

 訪れた事務所は当たり前だが以前と何一つ変わっていない。
 ただし、設備はうちよりも遥かにグレードが高く、こんなところだったらよかったのになあ、としみじみ俺は思った。
 ただデスクに無造作に置かれた書類やファイルの山には、自然と俺は目を逸らした。

「ほー、これが前に言っていた。その制服は確かにあそこの学校のですね」
 テレビ局の関係者らしき人も同じ会議室に居る中、会長は翠をつむじからつま先まで眺め、うんうんと頷いていた。

「ご紹介に預りました、シンデレラガールズプロダクション所属、水野翠です。本日はよろしくお願い致します」

 少しくらい緊張するかと思いきやそんな気配は微塵も見せず、翠は丁寧に腰を折ってから自己紹介をすると、返事をするように二人も軽く自己紹介をした。

 俺が前に紹介した会長はともかく、どんな人が来るのかわからなかったディレクターは若干安心したような表情を見せる。

 大方、希望に適さないアイドルを紹介されるかもしれないという不安を抱えていたのだろう。
 名もなきプロダクション出身であるなら尚更だ。

 今回同行させた翠に制服を着せたのは、地元感をアピールするためでもあった。
 どこの馬の骨かも分からない立場の俺達なのだから、関係性を強調させることで親近感を生み出すのが目的である。



99: 2013/05/03(金) 19:30:56.40 ID:mMYXsJdUo


「昔からそちらの放送は見ております。時間帯が合わない時もありますが、よく家族で楽しい時間を過ごさせて頂きありがとうございます」

 そして、翠は地元トークを始める。

「おお、見てくれてますか。前回の放送は見ましたか?」
「はい。名古屋駅前のケーキは実際に友人と食べに行ったんですよ。甘くてつい笑顔になってしまいました」
「ははは、上手いね。その笑顔も放送で見てみたいよ」

 テレビ局で放送された内容から更には昨今の時事問題まで、翠は詰まることなく回答していく。
 おおよそ30以上の年齢の差を感じさせない、滑らかな声の交差だ。

 会話を楽しんでいた会長に加えて、最初は少し引いて様子を見ていたディレクターも次第に目尻が下がっているのがはっきりと確認できた。


 翠の隣で、俺は気づかれないようにガッツポーズを取る。

 昨日のヴィジュアルレッスンの中で何か掴めたのか、それとも天性か。



100: 2013/05/03(金) 19:31:23.91 ID:mMYXsJdUo


「君――翠ちゃんだっけ、取っ付きにくいかと思ってたけど面白いねえ、気に入ったよ」
 何個目かの話題が一区切り突いた所で、ディレクターは正直な感想を述べてくれた。

 当初から分かっていた欠点である。

 突き詰めればミステリアスという良いベクトルの評価に繋がる要素も、現状では逆のベクトルの評価しか得られない。
 こうして直接話をして誤解を解いてもらえる分には構わないが、短時間一発勝負のオーディションでは吉と出るか凶と出るかわからないのが現状だ。

「私よりも博識でして、こちらが教えてもらう事があるくらいなんですよ」
「あっはっは、いい関係ですね!」
 俺の自虐に、再びディレクターは笑う。

 ……その返事は喜んでいいのだろうか。

「ありがとうございます。今日話せて色々わかりました」
 雰囲気は既に雑談を通過する頃で、丁度転換期というところだろう。間髪入れず、俺は話を切り出す。

「それで起用の件ですが、あなたの目から見て、うちの水野は如何でしょうか?」
「ああ、そうですね――」


 ――是非とも、という彼の言葉を、俺はきっと忘れない。



101: 2013/05/03(金) 19:32:17.09 ID:mMYXsJdUo


  *



「初仕事決定おめでとう!」
「ありがとうございます、プロデューサーさん」

 帰り道。商店街内にある喫茶店で、即席のパーティをしていた。
 とはいっても、昼ごはんを兼ねただけで、料理の最後にデザートを注文しているだけの粗末なものだ。

「翠、ナイストークだった。特に心配していなかったとはいえ、あんなに喋れるなんてびっくりしたよ」
「私も友人とはよくおしゃべりする方なんですよ。…相手の方も楽しんで頂けて何よりです」
 その回答の内容すら、もはや新人と呼びにくい雰囲気だった。

 普通高校生って政治の話はしないよなあ。正直俺なら今の総理大臣すら言えるかどうか怪しいぞ。
 彼女の学校生活を俺は殆ど知らないが、本当に優等生なんだろうな、と俺との違いに苦笑せざるを得なかった。

「これから仕事をしていくならああいう能力が大事になってくる。…まあ、あれだけ喋れるなら問題ないだろう」
 安堵の溜息が出るほどである。


「そう言って頂けると嬉しいです」
 小さく笑って、翠は頭を下げた。
 その表情は、どこか朗らかだ。



102: 2013/05/03(金) 19:32:44.08 ID:mMYXsJdUo


「うん、美味しいです、これ」
 パスタを食べたあとはそれぞれの食後を楽しむ。
 俺はコーヒーで、翠はストロベリーパフェである。

 スプーンで側面をつついては口に運び、今度は刺さっているウエハースを食べる。冷たいものと舌休めを交互に行い、和やかに楽しんでいた。
 これが弓道着であれば行為に少し違和感があったかもしれない。

 しかし、制服姿ではそんな印象を見事に打ち消していた。

「甘いもの好きなんだな」
 対面に座る彼女の頬はするすると緩んでいる。

「お恥ずかしながら…。似合わないですよね」
「まさか」
 初対面であれだけ綺麗だの凛々しいだと言っていた俺だが、今ではそれは違うのではないかと思ってしまう。

 こんな楽しそうにパフェを食べる人を凛々しいとは言わない。そう、表現するならば――。

「可愛い」
 という所だろう。

「へ、へ?」
 ぼんやりと見つめていた翠の手が止まり、翠は俺を見ている。


 ……彼女の反応の意味に気付くのに、数秒のラグを要した。



103: 2013/05/03(金) 19:33:48.42 ID:mMYXsJdUo


「あ、いや、そういう意味じゃないぞ? 確かに可愛いが、決してセクハラしようとかいう意味合いはないからな?」

 不味いことになった。心の中で思っていたことが、口に出てしまっていた。
 翠はスプーンを持ったままあ、だのええと、だの言って、返答に困っていた。

「…ごめん翠、ちょっと気が緩んでいた。謝る」
 女性の扱いというものには全く造詣がない。
 そもそも、思っていたことを不意に口に出してしまうなんて、ばかげたミスも甚だしい。

 こういう立場に居る人間なら一層気をつけていかなければ。

「あ、あの。……ありがとうございます。プロデューサーさんにそう言ってもらえるとその、嬉しいです」

 そうして俺が懸命に取り繕っていると、翠は視線を流した。


「っ! ……そ、そうか。どういたしまして」


 その台詞、その目線。わざとじゃないよな?



104: 2013/05/03(金) 19:34:14.89 ID:mMYXsJdUo


  *



「緊張してないか?」

 朝、事務所にやってきた翠は至って普通の様子に見えたが、俺は敢えて訊ねた。


 今日は決戦の日…というのは流石に言い過ぎか、翠にとって…いや、この事務所にとって初めてのオーディションの日だ。

「はい、大丈夫です」
 ちひろさんはというと、少し遅目に出社するそうだ。
 そういった理由で、俺達はオーディションの時間まで事務所で待機していた。

「別に緊張するなって言ってるんじゃないぞ? 緊張しているのを無理に隠す方が悪いからな」
 緊張も楽しめてこそのプロだという話を以前どこかで聞いたことがあるが、それを翠に言い聞かすのは酷だろう。

 尤も、既に彼女は弓道でそれを味わっているのかもしれないが。

「…正直に言えば、少しだけ不安です」
 お茶を二人分用意してテーブルに置いてると、存外素直に彼女は吐露する。

「こういった場面には少なからず慣れている方だと自負しているのですが、やはり初めてですから、プロデューサーさんのようには…」
 言い切る前に、彼女はお茶に口をつけた。



105: 2013/05/03(金) 19:34:53.41 ID:mMYXsJdUo


「――よかった。俺だけじゃなかったんだな」
「え?」
 吐息の強い笑いをあげてから、俺は対面のソファに座る。


「俺も初めてのオーディションですっげー緊張してるんだわ。俺が参加する訳でもないのにな」
 嘘でも冗談でもなく、本当のことだ。
「プロデューサーさんも……?」
 どういう訳だか翠は信じられないといった表情だった。

 今日起きる時間がいつもより一時間早かった。
 朝食が胃にあまり入らなかった。
 出てくるとき、何度も何度もシミュレーションをした。
 この事務所に到着してからも……膝は微かに震えていた。

「大人を強く見過ぎだ。…翠の顔を見てたら、俺のほうがよっぽど緊張してるみたいだ」
 自分を嘲笑するように笑って見せる。

「以前、プロデューサーさんはご自身のことを新人だって言ってましたけど、全然そんな風には見えませんでしたよ?」
「単なる見栄っ張りだよ。営業の時なんていつ怒られるかいつも内心ビクビクしてる」

 やはり翠の両親があれだけ堂々としていて強ければ、それは彼女にも多少なり影響を与えているのだろう。
 すなわち彼女にとって大人とは立派で公正で明朗かつ広大という風に見えているのだろう。

 それはまごうことなき幻想だと、俺は言う。


106: 2013/05/03(金) 19:35:19.65 ID:mMYXsJdUo


「翠は普段からしっかりしてるから言い難いかもしれないけど、もう少し肩の力抜いていいんだぞ? 俺は翠を信頼してるから、言いたいことがあるなら都合するし。何より、俺が寂しい」

「さ、寂しい?」
 明らかに彼女はきょとんとしていた。

 たった一ヶ月も経っていない昔の事を回想する。
「いやだってさ、新人アイドルと新人プロデューサーだろ? だったら普通、もっとこう…笑いあり涙ありのドタバタサクセスストーリーみたいな展開を予想するじゃないか」
「…プロデューサーさん?」

 彼女は、ここに来る前から既に出来上がっていた。
 それを知らないながらもスカウトすることが出来たのは偶然というか、俺の最大の仕事だったと言えるが、言いたいのはそこじゃない。

「なんだか、初めて頼りにされたような気がするんだ。ほら、翠ってすごいだろう? 俺が期待してたことが全部出来るようになってて、尽く予想以上でさ」

 翠は出来すぎている。それ自体は喜ばしい事だ。喜ばない人間は居ない。
 ただ、それ故に心配なのだ。

 誰にでも必ずいつかは良くないことが起こる。
 そんな時、愚痴でもいい、相談でもいい、話せる人がいるだけで、きっと乗り越えられる。
 しかし、今の彼女は何れもそつなくこなせるおかげで、必要以上の他人のサポートが要らない、という状況に陥っているように思えるのだ。

 俺や青木さんの指定にも二つ返事で承諾し、期待以上の成果を残す。
 だからこそ、困った時に助けてやれる俺で居たい。

 そして、助けを求められる翠で居て欲しいのだった。


「……つまり、構ってくれなくて寂しい、ということでしょうか?」

「そういうことになるな」


107: 2013/05/03(金) 19:35:45.93 ID:mMYXsJdUo


「……はあ」
 気がつけば、翠はちひろさんが俺に向けるような呆れ顔になっていた。

「プロデューサーさん…子供じゃないんですから」
「おおう、まさか説教されるとは思わなんだ」

 彼女はふとソファを立つと、俺の横にまでやって来る。

「私だって話すことは好きですし、友人とはよく相談もしているんですよ? …ですが、プロデューサーさんのような目上の方に相談するのは、その、難しい、といいますか……」

 なんだ。彼女自体に悪い点などなかったのか。


「でもそんなプロデューサーなら、気軽に話が出来そうです」

 ただの俺と翠の勘違いだったらしい。

 誰にも相談できず、一人で抱え込むタイプだと思っていた俺。
 導く立場の俺を、奥底では寄り付きがたいプロデューサーだと思っていた翠。

 瓦解したことで、また少し前進できたような気がした。


「任せとけ!」

 ……その返事が少し心配なんですが、と言った時の彼女の表情は到底忘れそうにない。



108: 2013/05/03(金) 19:36:21.64 ID:mMYXsJdUo


  *


「じゃあ、行ってきますね」
 弓道着の入った鞄と、凄まじく長い棒の入った袋を携えた翠は言った。



 ここはオーディション会場に指定されたビルの5階だ。

 出版社の本社で行うかとも考えられたが、人数の関係上、間借りする立場での開催となった。

 残念ながら、控え室にはオーディション参加者のアイドルにしか入ることが許されていない。
 別途付き添いの関係者は、それ用に別の控え室を用意されている。

 俺達はそのお互いの控え室へ別れる丁度丁字路に居た。

「終わった後ここで集合すると他の人に迷惑になるから、終わる頃には下のフロントで待ってるぞ。わからなければ電話してくれ」
「はい、わかりました」

 オーディション開始時刻まではまだ時間があるが、移動中のアクシデントに対応するため、比較的早い時間に訪れることにした。
 選考の順番に違いはないので、控え室が開放されていれば早くとも問題はない。

「よし、頑張れよ!」
 試験を受ける人間に対して頑張れという言葉はあまりよくないという話を耳にしたことがあるが、他に言葉も思いつかないので素直に言うことにした。


 後ろ姿が消えるのを確認してから、俺も反対側に用意された別の控え室に入るのだった。



109: 2013/05/03(金) 19:37:08.67 ID:mMYXsJdUo


  *



「あのー……。お尋ねしたことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
 関係ないのに俺も緊張してきたので、用を足して控え室に戻る帰り道。

 突然背後から声を掛けられる。

 近くには人のいる様子が無かったので、俺に対して言っていると判断して振り返る。

「あの、控え室はどちらでしょうか…?」
 長細い、木目調のケースを手にした少女がそこに立っていた。

 控え室…というと、少なくとも姿を見る限り俺と同じ立場ではなさそうだ。
「もしかして、今日のオーディションの参加者ですか?」
「はい…そうです。今日は一人で来たのですが、道に迷ってしまいまして……」
 …いや、迷う以前にもうちょっと歩けば辿り着くんだけどな。

 ただまあ、見知らぬ場所を歩くのが心配なのは俺も痛いほどわかる。
「なら案内しますよ。近いですから」
 逆らう必要もないので、ここは案内をすることにした。別に待つ時間が手持ち無沙汰な訳では決して無い。
「よろしいのでしょうか? ありがとうございます。あ、私は水本ゆかりと申します」
 ぺこりと一礼する水本さん。
 翠ほどの鋭さはないが、同じような気品さが彼女にはあった。

「シンデレラガールズプロダクションのPです。今日参加する水野翠のプロデューサーです」
「なるほど、同じ目的の方だったんですね。本日はよろしくお願いします」

 なんというか、間延びしているという表現こそ違うものの、彼女の周囲だけ時間がゆっくりしているような感じがした。
 回りに流されない雰囲気を感じる点は、翠と共通する所がある。

「少しだけですが、お話でもしましょうか。…気になってたんですが、水本さんの持っているそのケースは何が入ってるんですか?」

 せっかくなので到着するまでの僅かな間、俺は交流をすることにした。


110: 2013/05/03(金) 19:38:02.20 ID:mMYXsJdUo


   *


「へえ、そんなきっかけでアイドルに……っと、ここです」

 翠の事も紹介しつつ歩けば、短い時間は更に短くなってしまった。

「ここを左に曲がっていけば多分看板がありますから、わかると思いますよ」
 直接見た訳ではないので憶測だが、何も説明書きを置かないほど用意の無いオーディションではないはずだ。

「わざわざ教えて頂きありがとうございました。その水野さんという方にお会いしましたら、お話したいと思います」
「はい、よろしければ是非お願いします」
 俺の返事を聞いてにこりと笑い、再び一礼すると彼女は去っていった。

「良い感じの子だし、翠とも相性は悪くなさそうだ。こっちの世界での友達ができたらいいんだけどな」
 学友も立派な友人ではあるが、やはり同じ世界の中で友人を持っていたほうが何かと好都合だ。
 とりわけそういった人が殆ど居ない翠にとっては必ずではないものの、それなりに急くべき課題だろう。

 向こうでの会話はわからないものの、仲良くしてくれたらいいなあ、と思いつつ、元の控え室に戻ることにしたのだった。



111: 2013/05/03(金) 19:38:50.26 ID:mMYXsJdUo



 はっきり言って、居心地は最悪クラスでした。


 俺を含め、関係者用の控え室には少数の男が離れ離れに座り込んでいた。
 てっきり彼ら同士でも何か談笑でもして関係づくりをしているのかと思ったが、存外そんな雰囲気は微塵もなかった。

 たしか水本さんのプロデューサーも来ていないんだったか。

 今回のオーディションには、一人で向かわせるような人が多いらしい。
 それだけ俺と同じ立場の人間に新人が殆ど居ないということだ。
 もしかしたら、今参加しているアイドル達は彼らにとって何十人見ている内の一人なのかもしれない。
 大方の人は、鞄の中に入れていた雑誌を読んだり、スケジュール帳片手に考え込んでいる。

 何だかいたたまれないので、携帯でテトリスをやってみたり営業用の翠のアイデアを練ってみたりして時間を過ごすこと一時間弱。

 壁際に立っている人が部屋を退出する。
 そして、それに触発されるようにして、他の人も部屋を後にした。

「……すっごく怖いんだが」
 見た目が怖いのではなく、空気が怖い。

 彼らが出て行ったのは事前に予告されていた開催終了時刻が近づいてきたからである。


 最後になったが俺は椅子をきちんと戻して、翠に予め伝えておいた場所に行くことにした。



112: 2013/05/03(金) 19:39:17.88 ID:mMYXsJdUo


   *



「すみません、お待たせしましたっ」
 腕時計を確認し、午後のレッスンから逆算してどう行動しようかを考えていると、エレベーターの方から二人の少女がぱたぱたとこちらに向かってきた。

「おお、お疲れ様、翠……と、水本さんも一緒なのか」
 息切れした様子はなく、むしろ晴れ晴れとした表情で翠は肩にかけた鞄のズレを戻す。

「ありがとうございます、無事に終わりましたよ。…それで、控え室の中で話しかけてくださったので、ここまで一緒に来たんです」
「改めておはようございます、Pさん」

そういえばあの時は挨拶をしてなかったな、と思い、俺も挨拶をする。

 彼女は翠よりも幾分幼そうに見えるが、佇まいはどこか上品で清楚な感じがする。
 一朝一夕でそんな態度が身につくとは考えにくいので、元々そういう家庭なのだろうか。

「翠はこの後食事をしてから午後のレッスンだな。それで水本さんはどうです? よろしければ送りましょうか」

 喋り方の使い分けが非情に面倒くさいが仕方ない。他事務所のアイドルに威張り散らした態度をしては四方八方からとやかく言われそうなのだ。

「いえ、お気遣いなく。東京に来てからはもう一年経っていますから。本日はありがとうございました、それでは失礼します」
「そうですか。こちらこそありがとうございました。またどこかでお会い出来ましたら幸いです」
 思わず唸るほどの丁寧さである。
 俺達も礼をして、彼女が立ち去るのを見送った。



113: 2013/05/03(金) 19:40:52.56 ID:mMYXsJdUo


 足音をたてず静かに帰っていった水本さんの背中を、翠はじっと見ている。
「どうかしたか?」

 隣に立つ翠の瞳は、やや元気がないように見えた。
「…いいえ。ただ、しっかりしているな、と思いまして」
 彼女が言う程なのだから、水本さんはやはり相当できている人なのだろう。

 先ほどの水本さんの言葉では、芸能界の中では翠の一年先輩ということである。それを自覚しているなら、俺に対する言葉遣いのように水本さんに対しても十分礼儀を持って話ができていると俺は思った。

「大丈夫。翠のポテンシャルは俺もわかってるし、練習は嘘をつかないよ」

 あるいは、水本さん以外の他のアイドルのレベルを見て差を感じたのかのどちらかか。
 翠は今まで他の人間と競る事が無かったから尚更だろう。弓道だって、結局は自分との戦いだろうしな。

「…はい。もっと練習します、私」
「いい返事だ。じゃあレッスンに行く前に、どこかで昼食にしようか」

 今日ここに参加して得られたものはきっと少なくない。

 それが彼女に与える刺激となってくれることを、俺は願った。



118: 2013/05/03(金) 20:25:44.28 ID:mMYXsJdUo
レス番ミス。
あと>>116さんありがとうございます。

120: 2013/05/06(月) 22:56:08.61 ID:PaY5cgl/o

   *



「お、そろそろ始まる頃ですね」
 もう梅雨明けも近いと誰もが感じる7月中旬。

 暑さはもう夏同然といった感じで、エアコンを扇風機と組み合わせて事務所を冷やしている。

 そんな中俺は本日分の営業を何とか終え、次第に空が暗くなっていく中、事務所でちひろさんと談笑していたのだった。

「練習を始めてから一ヶ月。いいペースでのデビューですね。プロデューサーさんもやるじゃないですか」
 茶化すようにちひろさんは俺を見た。
「いや、あれはもう翠の力ですよ。普通はもっとこの時期ならおんぶにだっこでもおかしくないのに、ひとりで立てています」

 向こうのテレビ局から送ってくれたDVDをプレイヤーに入れ、再生する。
 こっちに届いた時に既に確認はしたが、話のネタに、ともう一度見ることにしたのだ。

 テレビの中では、ニュースや天気予報、スタジオでのトークが流れ、次に翠の出演する特集が映る。

「やっぱりまだ笑顔の方は少しぎこちない感じはしますか?」
 初めてテレビでお披露目される翠が、隣の男性キャスターのリードを受けて自己紹介をしている。
 時間をおおまかに設定された上で、翠が考えた自己紹介。
 束ねた一本の後ろ髪を一生懸命揺らしながら話していた。

「ですね。ちょっとなりきれて無い雰囲気です」
 ちひろさんの問いに答える。

 しかし、そこは隣の男性の能力か、上手く合わせるようにレポートを進めてくれている。
 こういった他の出演者に嫌われるようなことがあれば、一瞬にして四面楚歌になる。

 挨拶やその他言葉一つで気分を損ねてしまうこともあるから、益々気をつけないといけないな。



121: 2013/05/06(月) 22:56:40.49 ID:PaY5cgl/o

   *



「お、そろそろ始まる頃ですね」
 もう梅雨明けも近いと誰もが感じる7月中旬。

 暑さはもう夏同然といった感じで、エアコンを扇風機と組み合わせて事務所を冷やしている。

 そんな中俺は本日分の営業を何とか終え、次第に空が暗くなっていく中、事務所でちひろさんと談笑していたのだった。

「練習を始めてから一ヶ月。いいペースでのデビューですね。プロデューサーさんもやるじゃないですか」
 茶化すようにちひろさんは俺を見た。
「いや、あれはもう翠の力ですよ。普通はもっとこの時期ならおんぶにだっこでもおかしくないのに、ひとりで立てています」

 向こうのテレビ局から送ってくれたDVDをプレイヤーに入れ、再生する。
 こっちに届いた時に既に確認はしたが、話のネタに、ともう一度見ることにしたのだ。

 テレビの中では、ニュースや天気予報、スタジオでのトークが流れ、次に翠の出演する特集が映る。

「やっぱりまだ笑顔の方は少しぎこちない感じはしますか?」
 初めてテレビでお披露目される翠が、隣の男性キャスターのリードを受けて自己紹介をしている。
 時間をおおまかに設定された上で、翠が考えた自己紹介。
 束ねた一本の後ろ髪を一生懸命揺らしながら話していた。

「ですね。ちょっとなりきれて無い雰囲気です」
 ちひろさんの問いに答える。

 しかし、そこは隣の男性の能力か、上手く合わせるようにレポートを進めてくれている。
 こういった他の出演者に嫌われるようなことがあれば、一瞬にして四面楚歌になる。

 挨拶やその他言葉一つで気分を損ねてしまうこともあるから、益々気をつけないといけないな。



122: 2013/05/06(月) 22:57:58.86 ID:PaY5cgl/o



「ああ、ここは翠と行った所だな」
 翠が食べていたストロベリーパフェを、映像の中でも食べている。

 落ち着きすぎていた笑顔が、その中ではより一層にこやかになっているのをみて、俺は安堵する。
「美味しそうに食べてますね」
 ちひろさんも彼女の顔を嬉しそうに見る。

「あれは美味しそうではなく美味しいんですよ、実際に」
 店員と話をしながら、翠は材料や調理法について細かくレポートしている。
「プロデューサーさんも食べたんですか?」
「いや、食べてはいないです」

 向かいに座った男性から詳しいですね、というツッコミが入る。
「ただ俺と食べた時の顔も、あれと一緒でしたから」

 きっと、彼女は作っていない。作り方を知らないのかもしれない。
 だがそれは一方で純真とも真っ直ぐとも言える。

 そういった性格の人間がこの世界でやっていくのは至難だが、それでも曲げないでやってくれることを俺は期待する。

 
 うんうんと頷きながら映像を見ていると、ちひろさんはぽつりと呟いた。

「…嫉妬してます?」
「してません!」

 …どうしてそうなる。


123: 2013/05/06(月) 22:58:45.36 ID:PaY5cgl/o


  *


「事務所はこの電話でしたよねえ」
 放送終了後、携帯電話に一本の電話が入った。

 もしかしたらあれを見て翠を気に入ってくれた人が…と一瞬思ったが、出てみれば翠の母親からだった。

「翠のお母様でしたか。お嬢さんのテレビの姿、見て頂けましたか?」
「はい、勿論拝見させていただきました」

 電話越しでもよくわかるぐらいに落ち着いた中に喜びが見えている。
「正直に申しますと、あの子の活動には不安だったのですが…あの姿を見て、貴方が信じられるようになりました」

 信用してもらえなかった、というのは初めて翠の母親と話し合った日での感想だろう。
 今考えてみても、所々資料の出し方が半端だったり説明を噛んでしまったりとあまり良い思い出はない。

 しかし、今あの映像を見て気が変わったと言ってくれた。

「頑張っているのは翠の力あってのものですよ。私はそれほど役には立っていないみたいです」
「そう言ってはいけません」
 謙遜すると、俺は翠の母親から窘められた。

「お仕事を見つけたのは貴方でしょう? なら、しっかりと胸を張って下さい。でなければ、翠は貴方について行ったりなんかはしませんから」

「……ありがとうございます」
 その言葉を聞いて、俺はすぐに返答が出来なかった。



124: 2013/05/06(月) 22:59:47.55 ID:PaY5cgl/o


「おう、お前さんか!?」
「うわぁ!」
 突如鳴り響いた大きくて低い声に耳を思わず遠ざけた。

 事務所を閉めようと片づけをしていたちひろさんは何が起こったんだ、という表情で俺を見るが、何でもないと掌を見せると、おずおずと俺は再び電話に耳を当てた。

「そ、その声は翠のお父様ですね?」
 母親ときているのだから父親でない訳がない。それ以前に、この声を忘れるなんて到底不可能である。

「テレビの翠、最高だったぞ! やっぱりあんたに任せて正解だった!」
 父親の背後で、止めて、とかちょっと、とか言っている声が聞こえるが、とりあえず聞こえないふりをする。

「翠さんがあそこまで魅力的に動けたのも、お父様やお母様がしっかりと育ててくださったおかげです。こちらこそアイドルになるのを認めて頂きありがとうございました」

 トレーナーは勿論、細かい部分では時折俺もアドバイスなどを送ったこともあったが、大部分が彼女自身が仕立てあげたものだ。それの土台が彼ら両親なのだから、褒められるべきは彼らである。
「まぁたまたそんな事言って! 翠も家でお前さんの事よく話してくんだぞ!」
「わああ!? お父さん、何を言って――」
 後ろの声…翠の声が一層大きくなる。


 俺は、ひときわ嬉しくなった。


125: 2013/05/06(月) 23:00:41.08 ID:PaY5cgl/o


「え、変われ? 俺が話してんだって――わかったわかった、代わるから! …ああすいませんね、翠に代わります」
 俺とご飯と食べたこと、練習もしっかり見てくれること、翠は楽しそうに報告してくれているという話を聞いた。
 もしかしたら、心の中で無理して頑張っているのではないかという不安が常にあったが、父親の話を聞いて杞憂だったのだと感じた。

「……プロデューサーさん」
 随分と沈んだ声色だった。まあ、父親にあれだけ話されたとあれば致し方あるまい。
 何やら言い訳を延々といいそうな雰囲気を察知したので、気を利かせて話題を振ってやることにした。

「翠か、お疲れ様。自分の姿をテレビで見てどうだった?」
 少々安堵したのか、翠は息を吐いて黙りこんでから答えた。

「それは……その、私じゃないみたいでした」
 自分を記録した映像を自分で見ることを経験した人は少なかろう。それがプロが撮った映像であれば尚更だ。

「翠の初仕事だ。あれで、翠はアイドルデビューをしたようなもんだな」
「そうですね。テレビで流されているのを見て……何だかふわふわした気分です」

 その気持ちは俺にもよくわかる。
 目立って、結果それが良い評価を得たのなら、誰にも起こりうる感覚だ。

 翠は別段誰かの上で指揮を執る立場によくなるという訳ではないらしいので、その思いも一層大きいだろう。

 だが、これからはそんなことを何百回、何千回と経験して行かなければならない。

 これで終わりではないのだ、浮かれてはいけない――。


「…じゃあ改めて、だな。――アイドルデビューおめでとう、翠」

「……はい!」

 ただ、今日はそんな小言を言う気分になるはずもなく、俺は精一杯祝福をしたのだった。



126: 2013/05/06(月) 23:01:46.26 ID:PaY5cgl/o



「プロデューサーさん、商工会の方から連絡がきているみたいですよ」

 俺が話している間片付けをしていたちひろさんが、時間がかかるのを見て事務所内の掃除や整理をして待っていてくれた時、事務所の方にまた電話がかかって来た。

 ちひろさんはその電話に応対し、用件を聞くと保留のボタンを押したのだった。

 わかりました、と目線と首の動きで合図する。

「ごめん、翠。話したい事はあるが、ちょっと用事があるからこれで切るよ」
「あ、すみません。話し過ぎてしまいました」
 話すことが好きというのはあながち嘘ではないようで、今までの軌跡について電話で語ってくれた。

「次会うのは…と、三日後いつものスタジオか。これからも頑張ろうな。お疲れ様」
 挨拶をして通話を切断する。
 敢えて言えば、もう一度両親ともお礼が言いたかったのだが、それは次に回そう。

「すいませんちひろさん、今出ます」
 携帯を畳むと受話器を握り、保留を解除する。



127: 2013/05/06(月) 23:02:38.53 ID:PaY5cgl/o


 会長は甚く元気であった。

 こちらが定型の挨拶をした直後、大の大人が弾むような声でいやあー、と笑った。
「テレビ放送みましたよー。いやー、翠ちゃんに頼んでよかった!」

 スッキリした口調でアイドルを褒める。
「やっぱり知ってる、というのは大きいですね。商店街の昔の話をしているのを聞いて、ついつい思い出しちゃいましたよ」

 翠が中学生の頃、友だちとそこで昔あったアクセサリーショップで買い物をしていた事や商店街のお祭りに参加していた事などを、番組内で話していた。

 台本は基本的な進行の流れや大まかなトークの話題だけで、トークの詳しい内容は個人の裁量に任せられていた。

 そこで翠は昔話を選択した。
 そしてそれは正解だったと思う。こうして嬉しそうな会長の声を聞いていれば、誰だってそう思える。
「私も、翠がそちらのお力になれてとても光栄です。あの放送を見て人が来てくれるといいですね」
 そうですね、と会長も同調してくれる。

「もしよかったらまた来て下さい。あとできたらサインも欲しいですね」
 最後は少し小さめの声でボソリと言ったのが面白かった。
「はは、わかりました。商店街の別の方からもサインが欲しいとの事だったので、その件も含めてまた遊びに行かせてもらいます」
「ありがとうございます、よろしくお願いしますね。すみません、嬉しくてつい電話をしてしまいましたわ。それでは失礼します」
「こちらこそわざわざお電話ありがとうございました。また翠に用がございましたら是非どうぞ」

 受話器を戻すと、俺は息を吐いた。


 そしてちひろさんはテレビを見ていた。



128: 2013/05/06(月) 23:03:49.87 ID:PaY5cgl/o


「…すいませんちひろさん、お待たせしました」
 翠の母親からの電話から今まで、本来帰る時間よりもかなり遅れてしまっていた。

「ホントですよ。私も出るに出れなくて…」
 本当に申し訳ありませんでした。

 俺が電話を置いたのを確認すると、ちひろさんはテレビを消して、荷物を取って玄関前まで移動する。

「あの、ちひろさん?」
「何ですか? 別に怒ってませんよ」
 それを見て慌てて携帯をポケットに入れ、鞄に必要な資料を放り込んでちひろさんに近づく。

 現在19時ちょっと。俺達はご飯を食べていない。そして俺は迷惑をかけた。
「お腹空いてませんか?」
「へ?」
 ならば。
「お待たせしてしまったので、もしよかったら……どこかご飯食べに行きませんか?」

 というのは建前で、ちひろさんとは一度も共に外食をしたことがなかったのだ。
 それを仕事上の関係だから、という理由で片付けるのはあまりにも味気ない。

 入社してからずっとお世話になっているので、いつかお返しがしたいと思っていたが、導入としては丁度いいタイミングだった。
「…じゃあ、お酒でも頂きますか」

 ふふ、と三つ編みを揺らすして笑うちひろさんは、いつも以上に大人びて見えた。



 そしてそれは真実であり、即座に俺は酔い潰れることとなった。



129: 2013/05/06(月) 23:04:36.88 ID:PaY5cgl/o


  *




「こっち向いて―。少し顎引いてくれるかなー?」


 都内のスタジオ。
 この広い部屋には、照明やカメラなどで地面にコードが這いずり回り、機材が部屋の大部分を占めている。


 翠にとって、初めての写真撮影であった。

「こうでしょうか?」
「オッケーオッケー! 可愛くキマってるよ!」


 現在翠は白い背景の中、弓を携えてカメラに向かってポーズをしている。

 組まれた雑誌のスペースは1ページ。そこに大きな写真が一つと、あとはポイントで写真を入れる形となっているようだ。

 撮影はモデルが順番に行われるため、翠は先に撮影したモデルの後に入っていた。


 彼女に与えられたのは、目的通り弓道部としての写真だ。

 初めは基本的な弓をひくポーズから、次第にアイドルチックなポーズへと変化していく。
 正直弓道着でそれはどうかとも思うが、それはカメラマンに任せることにする。


「……よし、こんなもんか。撮影終了でーす、ありがとうございましたぁー!」

 三十分近く撮影を行なっていただろうか、ようやく完了の合図が取られ、翠はその場で一礼をした。



130: 2013/05/06(月) 23:05:49.12 ID:PaY5cgl/o


「向こうの期待には応えられたみたいだな、翠」
「そうだといいですね」

 今もカメラマンは休むことなく、次のモデルの撮影を始めていた。モデルを鼓舞する声が部屋に響き渡る。

「ですが、言わせてもらえば、流派には背く事になってしまったのが残念です」
 当初は普段の部活の要領にのっとり本格的にポーズを取っていたものの、それは写真写りとしてはあまり適さないと判断されてしまい、結果的にカメラを意識したポーズに少し変更を余儀なくされたという事があった。

「仕方ないだろ、メインはあくまで翠の可愛い顔なんだからな」
「かっ……こほん。ありがとうございます」
 彼女はわざとらしく咳をする。

「プロデューサーさんから見ても、今日の私は良かったですか?」
 少し姿勢を正して、俺の目を真っ直ぐと見つめる。

 個人的には、上下関係とか厳しすぎるのもがちがちになってやり辛いかな、と思っているのだが、彼女は相変わらず俺に対しての姿勢は変わらなかった。
 別に嫌っているとか、距離を置いているとかいった理由ではないようだが……。

「勿論。今までで最高だった」
「…言い過ぎですよ」

 そうは言っても事実だから仕方がないだろうよ。



131: 2013/05/06(月) 23:06:19.04 ID:PaY5cgl/o


  *



「今日はお疲れ様。明日は向こうで前行った商店街でキャンペーンする事になってるからよろしく頼むぞ」

 指定の更衣室で着替えた後、俺達は見慣れた事務所に戻っていた。



 部屋に比べて場違いな程やけに新しく見えたホワイトボードは、所々ちひろさんの綺麗な文字でメモが入れられるようになってきた。

 とはいっても、全国系のテレビ放送に出演するのはまだまだ先の話といった状態で、無論デビューからの日数で換算すれば当たり前の事なのだが、それでも今は地元愛知の方での活動が殆どであった。

 ただ、それでも俺の頭の中に『忙しい』という言葉が不意によぎるぐらいには仕事が入ってきているので、かなりの進歩と言えよう。
 俺も営業だけだった毎日に、翠の付き添いをすることも徐々に増え、やっとプロデューサーらしくなってきたか、という風に思えるようになった。

「わかりました、プロデューサーさん。レッスンもいいですけど、こうしてお仕事をするのはやっぱり楽しいですね」
 それは翠も感じているらしく、所属当初のレッスン漬けの毎日を回顧しているようだった。



132: 2013/05/06(月) 23:06:59.45 ID:PaY5cgl/o


「最近、よく話しかけられるんです」
 ほんの少しづつ赤色に染まる光の中、ソファに座っていた翠は言う。

 テーブルの上には学校の課題が広げられている。きっと一段落着いたのだろう、腕を伸ばした後、俺を向いた。

「もう翠ちゃんも立派な有名人ですからね。いつかは変装もしなきゃいけないのかな?」
 事務所の資料の整理をしながら、ちひろさんは答える。

 まだ有名人と呼ぶには少しおおげさだが、目標はまさにそこである。

「有名人、有名人ですか…。ふふ、何だか信じられませんね」
 本人から見ると、昔と何ら変わっていないように感じているのか、冗談めかしたように笑っていた。

 だが少なくとも俺から見れば、あの時とは随分変わったと思っている。

 視線の向きやカメラに対する角度、またダンスのステップのキレや音感。全てにおいて初期の自身を大きく上回っている。

 特に姿勢に対しては卓越して成長が感じられる。
 当初は武道に影響されたのかあまりに硬すぎるせいで、向こうの人から尽く修正を言い渡される事もあったが、今では良い意味で柔らかくなったと思っている。



133: 2013/05/06(月) 23:07:53.29 ID:PaY5cgl/o


「特に男の子から話しかけられることが増えて。いきなりでよく驚いてしまいます」

 …おおっと、ちょっと聞き逃せない話題だぞそれは。

 いやまあ俺も男だから学校の男子生徒諸君の気持ちは大いにわかるが、それとこれとは話が違う。

「もしかして、憧れのイケメンとそのままお付き合い、なんてことには……!」
「言いたいことは判りますが言い方が変ですよ、その言い方…」
 ちひろさんが横から呆れたように呟いた。

「問題ないように過ごしてますよ、プロデューサーさん。こういう職業は制約がつくものだとは十分理解しているつもりですから」
 翠に慌てる様子はなく、平然と答えてみせる。普段から動揺する所をあまり見ないせいで嘘か真か判別がし辛いな……。

「ってことは気になっている人が居るのか翠!?」
「もう。いい加減にして下さいよ」
 突如、紙のファイルが俺の頭部を襲った。

「全く。確かに恋愛はご法度ですけど、そこまで気にすることも無いじゃないですか」
 やはり女性は翠の味方か!

「それも大丈夫です。……知らない人とお付き合いだなんて無理ですし」

 じゃあ知っている人なら、と言おうと思ったが、ちひろさんが怖いのでやめておく。


134: 2013/05/06(月) 23:08:36.35 ID:PaY5cgl/o


 正直に言えば、口に出しているような心配は全くしていない。

 何故なら、翠は分別が出来る人間であることはよくわかっているからだ。
 だからこんな冗談も言える訳で。ちひろさんがファイルとお盆を持っている時は変なことを言ってはいけない訳で。

「ふふ、心配性なプロデューサーさんですね。そこは前と変わってないように思います」
 課題を片付けてテーブルを掃除した翠は、微笑んで言う。

 変わってなくて悪かったな、と言うと、彼女は首を小さく横に振った。

「変わることが良いことだけとは限りません。どんな時でもそこにあり続ける物、それも一つの良さなんです」
 そろそろ予約していた新幹線の時間である。

 翠は鞄の中に弓道着やら課題やらを詰め、弓を手元に置き、荷物を手元に集める。

 元々俺達も翠の時間まで事務所を空けていようという事だったので、同様に閉め作業を始める。
 その間も資料を作っていたりと休む暇は殆どなかったのだが。

「じゃあ俺はいつまでも新人か」
 ふ、とちひろさんが息を漏らしたのが微かに分かった。

「きっと私はそう思ってます。……いつまでも今のプロデューサーさんのままで居てくださると、嬉しいです」

 夕焼けに照らされた彼女が、顔を傾けて笑った。



135: 2013/05/06(月) 23:09:19.37 ID:PaY5cgl/o


  *



「すみません。シンデレラガールズプロダクションのPですが、覚えていらっしゃいますか?」

 ある午後、制服姿の翠と共に、いつもの商店街に着ていた。
 制服姿の少女とスーツの似合わない男との組み合わせは我ながら異質である。

「ああ、覚えてるよ! そっちの女の子はテレビで見たからね!」
 俺の事は覚えていないんですか店主さん……。

「初めまして。水野翠です。あの放送ではここを歩かせていただいてありがとうございました!」
 勢いの良さに定評あるこの店主に負けないよう声をあげて、翠は頭を下げた。

「いやあ、こんないい子が地元にいたなんてねぇ、俺ぁ嬉しくてたまらんなあ!」

 何やら後ろで妻らしき人がじろじろ見ているのだが、これは制止したほうがいいのだろうか。



136: 2013/05/06(月) 23:10:15.61 ID:PaY5cgl/o


 それはともかくだ。

「すみません、以前訪れた時にお渡しすべきだったのですが、遅れてしまい申し訳ありません。こちらを……」

 目線で合図をすると、翠は鞄に入れていた丁寧な包を解き、中のサイン色紙を店主に手渡しした。

「応援してくださって本当にありがとうございます。未熟者ですがこれからも頑張りますので、今後ともよろしくお願いします」
 とびきりの笑顔で直接サインを渡すと、店主は甚く驚いた顔をした。

「ありゃま、あん時のこと覚えとったんかい! はええ、わざわざ悪いなあ」
 本人からすれば、その場に居なかった故の冗談だったのかもしれないが、それを承知で俺は翠にサインを書かせ、渡しに来たのだ。

 テレビを見てくれていたらしいし、些細な事を覚えていたとなれば、店主にとって印象が強く残るに違いない。


 …それが遅れたのは、翠がサインを練習するのに時間がかかっただけである。



137: 2013/05/06(月) 23:11:10.82 ID:PaY5cgl/o


「もらうだけじゃ悪いから、俺も……おーい、ここの果物持ってくぞかーさん!」
 俺が予想していた通りの女性、店主の妻は勝手にしんさいと半ば投げやりで許可をした。

「んじゃあこれと…後これ。よし、この桃も持ってってくれな!」
 はいどうぞと袋に詰められた果物を翠に手渡される。本当にもらっていいのだろうか。

「わあ…ありがとうございます。食べるのが楽しみです」
 恐らく翠も同じ事を考えたのだろうが、彼女なりの言い方で礼を述べた。

「こんなに頂いてしまって…ありがとうございます。また来させて頂きますね」
 俺も深く頭を下げて礼を言う。

 店主もお辞儀をくり返し、よもやお辞儀合戦が開始されようとするところで主婦が店を訪れ、場は収まる。

 しかし店主が翠のことを紹介したために再び店前で時間を消費することとなった。



 …奥で眺める店主の妻の表情に、申し訳なさを終始感じた俺だった。



138: 2013/05/06(月) 23:11:42.36 ID:PaY5cgl/o


 その後も商店街を歩いていると、店頭に出ている人や通行人から話しかけられたり写真をお願いされたりもしたが、焦ることなく落ち着いて翠は対応することが出来た。


 ひと通り練り歩くこと数十分、最後に商工会の方へ、サインと仕事を頂いた礼を言ってから、今日の営業はひとまず終えることにした。



139: 2013/05/06(月) 23:12:14.66 ID:PaY5cgl/o


   *



 かつ、かつ。
 家への帰り道。歩幅の違う俺達。

「写真を求められた時は、ちょっとびっくりしましたね」
 人気のない住宅街の中を、二人で歩いていた。

 一人でも帰ることはできるのだが、翠の希望でこうして家まで行くことになったのだった。

「はは、確かにな。今までそんなのなかったから止めるべきか悩んだぞ、俺」
 初めてお願いされた時、ハリウッドスターのSPの如く制止に踏み込む自分の姿を想像してしまった。
 予想外の出来事に対し、顰蹙を買うような行動をしなくて本当によかったと思う。

「今回は人もそれほど多くなかったからよかったですね。ですが、もし私が何かあったら、プロデューサーさんは止めてくれるんですよね?」
「当たり前だろ」

 前を向いていた翠の顔が俺の方へと向いていた。体格差が、自然と上目遣いとなる。

「もう新人とか言い訳できる立場じゃないんだ、プロデューサーとしてちゃんと翠を助けるし、危ない時は守るさ。…頼りないけどな」


「そんなこと、ないですよ」
 彼女はぽつりと言葉を滴下する。



140: 2013/05/06(月) 23:13:44.06 ID:PaY5cgl/o


「そうか?」
 聞き返す俺が見た翠の表情は、さながら女優だった。

「今日商店街の皆さんが私を見て話しかけてくれたのも、学校で皆さんが私を話題にしてくれるのも、全部、全部、プロデューサーさんのおかげなんです」

 翠のペースに合わせて、俺の歩幅は小さくなる。

「プロデューサーさんが居るから、周りから何か言われても、こうして私のまま活動することが出来るんです。これは…あなたが頼りになるから、ですよ」

 目を細めて、口角を小さく上げる。澄ました顔から、途端に感情が溢れ出ている。

「私、初めアイドルになるかどうか聞かれた時、自分で決めずにプロデューサーさんが決めてくれるように頼みましたよね? あの時は本当に不安でいっぱいだったんです」

 旋律ではない。しかし、吐出される言葉の一つ一つが俺の心に入り込んでくる。

「誰かから言われたからやる…だなんて、言い訳するための逃げ道みたいですよね。…そんな理由を作るダシにしてしまって、本当にすみませんでした」

 …恐らく、恐らくだが、彼女は今日の出来事を目の当たりにして、自分に悔いてしまったのかもしれない。

 ファンと対応をする時、翠は明らかに作り物の顔ではなく、素の顔で笑顔を振りまいていた。

 もしそれが本人にとって楽しいものだと思った結果の表情であるとすれば、この結果に至った要因について、後ろめたさができてしまったのだろう。



141: 2013/05/06(月) 23:14:46.65 ID:PaY5cgl/o




「皆さんが期待してくれているアイドルの私は、決して綺麗な源流ではなかった」

 強いように見えて、弱かった。
「もっと崇高な理由でなるべきだった、と言うことか?」

「…はい。私はこんな弱い意思でなったアイドルなのだということを皆さんに知られるのが、怖いんです」

 覚悟の弱さ。俺が初めて誘って保留となったあの夜、翠は一体どれほど悩みで体を痛めたのだろうか。

 そして俺の前で見せた覚悟は、一体どれほど痛めて絞り出した感情なのだろうか。



142: 2013/05/06(月) 23:15:39.26 ID:PaY5cgl/o



「きっかけなんて……割とどうでもいいな、きっと」

「……え?」

 俺は少しだけ顔を上げ、大きく息を吐いた。




143: 2013/05/06(月) 23:16:14.85 ID:PaY5cgl/o


 己に転換して考えてみる。


 今、翠のプロデューサーとして仕事をしてきて辛いこともある一方、営業先からお礼を言われたり、翠と一緒に移動したり、こうして頼られたり、笑顔を見せてくれたり。

 総論として、それが楽しくないなどどの口が言えようか。

 ならば俺も翠のように、数カ月前の俺に対して後悔したり罪悪感を抱いたりをするかといえば、そうにはならない。

「結局今が大事なんだよ。一年目のプロデューサーが居て、新人のアイドルが居てさ、大きな仕事はなにもないけど、ちゃんと歩いてる実感がある」

 では俺と彼女で何が違うのかと言えば、つまるところ芯の長短の差なのだ。

 俺は短い。故に昔のことまで気にしちゃいないが、未来の事も特には考えない。
 そして翠は長い。未来のことまで真っ直ぐに進むが、過去の思想や判断に縛られやすい。

「昔のことまで気にしたら……理由はまともであるべきなら、きっと俺は今頃コンビニでアルバイトでもしてたんじゃないか?」
「コ、コンビニですか?」
「内定があのまま全くもらえなくて、そして社長が俺を誘ってくれなかったら、十中八九そうなってたと思う」
 思わず笑ってしまうが、想像すると笑い事では済まされない。



144: 2013/05/06(月) 23:17:21.16 ID:PaY5cgl/o


「そんな訳の分からないきっかけでも、俺はこうしてプロデューサーになれてる。今は楽しいけど、かといって所以を気にしたりはしない。誰だってそんなもんだろう。だからさ」

 多分、翠は足を引っ張られている。
 真面目であるがゆえに、公正であることを好むあまり、不純な動機であったきっかけに対して違和感を抱いてしまっているのだ。


「そろそろ、前を向こうか。そんでもって遠く離れた頂の上から…そこから、後ろを見下ろすべきだと思うぞ」


 今の新人の時点でそれを悩むことがどんな利点となり得るかを考えても、きっとあるとしても微々たるものに違いない。

 ならばひたすらに前に進むことが何よりの善策だ。



145: 2013/05/06(月) 23:18:16.39 ID:PaY5cgl/o


「……導いて下さいとか、期待に応えますとかなんて、それこそ無責任ですよね」
 俺の話なんかに真剣に耳を傾けて咀嚼した後、彼女は呟いた。

「そうか? 俺はそれでもいいと思うぞ。プロデューサーは導く義務がある訳だしな」
「それはあなたがベテランのプロデューサーであれば、の話です」
 中々刺のある事を言う。

 一つ嫌味でも言い返してやろうかと思案していると、翠は少しだけ駆けて俺の前を塞ぎ、振り返る。

「なら、私はあなたを導きます。あなたが私をトップアイドルに導いてくれるのなら、私はあなたをトッププロデューサーに導いてみせます!」


 なるほど面白い考え方だ、と俺は素直に感心する。
 同一視することで、敷居を低くしたという感じだろうか。



 ただ一つだけ、疑問を挙げるなら。


「……トッププロデューサーってなんだよ」


 という、雰囲気もへったくれもないものだった。


147: 2013/05/09(木) 20:14:51.82 ID:yCEaG5ogo

  *


「あれ。翠、今日は休みだぞ?」


 季節な夏真っ盛り。

 8月に入ってすぐのある日の朝、予定は何も入っていない完全な休養日に、翠は事務所にやってきた。
 ちひろさんも今日は休暇をとっており、俺だけが事務所で一人パソコンの画面を睨みつけていたのだった。

「そんなに忘れっぽくありませんよ」
 一言翠が反論すると、壁にかけられた時計を見る。

「実は前のオーディションで会った水本さんとお茶に誘われまして、その時間まで事務所で待つつもりだったんです」

 私服姿の彼女は小さな鞄をソファに置き、自身もゆっくりと腰を下ろした。



 ――水本ゆかり。

 彼女とあの会場で出会ってから、その後でプロフィールを見た。

 青森県出身の15歳。翠よりは三つ下だが、芸能界では一年先輩である。
 趣味はフルートと記載されているが、特技としても遜色ない実力の持ち主で、コンクールでは上位に位置できるほどのフルーティストらしい。

 その事もあってか音楽番組との相性が良く、デビューもそのジャンルから芽を出した。
 現在は演劇方面にも顔を出し始め、目下練習中だとか。

 プロフィールと本人と話した時の記憶を思い出す。どうやらあの時、水本さんも翠を気に入ってくれたらしい。
 先輩からこうして誘ってもらえるなんて、かなりの幸運と言っていい。



148: 2013/05/09(木) 20:15:21.86 ID:yCEaG5ogo



「へえ。連絡先交換してたんだな」
 俺は彼女のお茶を用意してから、いつもよりもややプライベート寄りに、それでも色彩としては控えめな翠の私服を眺める。

「あ、お茶ありがとうございます」
 出した冷茶を静かに飲み始める。これだけ暑いんだ、喉が乾いていてもおかしくはない。

「それで、どこに行くんだ?」
「水本さんのお気に入りの店、だそうです。ふふ、楽しみです」
 青森からわざわざ東京にまでやってきて一年以上。お気に入りを見つけて、仕事をしてきたんだろうな。

 そういえば、翠は事務所に入ってからそれらしい観光は殆どしていない。
 仕事帰りにどこか寄っていったことはあっても、観光のためにわざわざ出かけたことはないはずだ。

 いや、別に一人で行った可能性はあるし、そもそも俺と二人で行く必要性はどこにもない。プロデューサーとしてどの範囲まで干渉すべきか、考えても結論がつかなかった。



149: 2013/05/09(木) 20:16:02.00 ID:yCEaG5ogo


「そろそろ時間ですね。プロデューサーさん、行ってきます」
 少しだけ雑談をしつつ、俺は作業の方に集中して十数分後、翠はソファから立ち上がる。

 恐らくここに時間前に来たのは、体を落ち着かせるためでもあったのだろう。身だしなみを整えていた翠を見てそう思った。

「いってらっしゃい。俺は今日一日此処に居るから、何かあったら呼んでいいからな」
「わかりました。それでは!」

 鞄と一本にまとめた長い髪をふわりと揺らし、翠は颯爽と事務所を出て行った。


「…成長したなあ」
 ふと考えてみると、アイドルとしてこうして遊びに出かけることのできる人ができたのは彼女が初めてなのではないだろうか。

 遊ぶことは勿論いいことだが、その中で何か彼女から学べられたら尚良しだ。


 事務所の中からはわかりづらい外の暑さを伴った景色を眺めて、俺は体を伸ばした。



150: 2013/05/09(木) 20:16:28.01 ID:yCEaG5ogo


  *



「はい…はい。そうです。その通りでお願いします。はい、ありがとうござい…いえいえ、こちらこそありがとうございました。それでは失礼します」

 やや黄ばんだ年代物の受話器を元の位置に戻す。

 以前お仕事を頂いた会社から再度のオファーである。一回限りの契約が殆どではあるものの、中にはこうしてくり返し翠を使ってもらえるような所が増えてきているのは嬉しい限りだ。

 ただ、方針上愛知と東京の二箇所で活動するため、翠の負担を考えてスケジュールを調整する必要があるのが難点ではある。


 差し当たっての仕事の量は新人としてはかねがね順調である。
 このままいけば、事務所も潰れるとうことはないだろう。


 ――ガチャ。
 突然、安っぽい音を立てて事務所の扉が開く。




151: 2013/05/09(木) 20:16:53.24 ID:yCEaG5ogo



 あの時から姿を見ない社長は何をしているんだろう、と考えていた矢先の出来事だ。

「只今戻りました」
「失礼します。おはようございます、Pさん」
「おかえり…っと、水本さんもおはようございます」

 翠の隣には、今日約束して遊びに出かけていたはずの水本さんも居た。

 誰も訪れる予定は聞いていないので外部の営業の人ではないとは分かっていたが、まさか一緒にこっちへ来るとは思わなかった。

 二人とも手には紙袋を一つづつ下げていたので、買い物した帰りなのだろう、とりあえずソファーに座ってもらってから、エアコンの温度を下げ、お茶とお茶うけを出した。

「すみません、来られるとは思ってなかったのでこんなのしかありませんが」
「こちらこそ突然お邪魔して申し訳ありませんでした……それと、少しお願いがあるのですが」
「お願い? なんでしょうか」

 俺にできることであれば、断るわけにもいかない、そう思ってこちらが聞き返すと、水本さんは少し困ったような笑顔で言う。



152: 2013/05/09(木) 20:17:48.08 ID:yCEaG5ogo



「お願いというか、何といいますか……。初めてお会いした時から、ずっと私のことをさんづけで呼んでいらっしゃいますが、私のほうが年下ですし、指導して頂く立場ですので、翠ちゃんと同じ様に話して頂けませんか?」

 ええと、これはどうだろう。

 確かに俺のほうが年上ではあるが、プロデューサーとアイドルとしての立場の違い以上に、他所のアイドルにくだけた口調で話すのは問題がある気もする。

「翠ちゃんの話を聞いてると、とてもよく見てくれる方だと思いまして、是非私にもご指導頂けると幸いです」
 しかし、しかしだ。

 恐らくわざとではないのだろうが、自然に上目遣いになって頼む水本さんの姿に、不覚にもドキッとしてしまった俺がいる。

 そんな彼女の頼みを聞けないだろうか…いや、聞けないはずがない。

「わかった。なるべく普段の喋り方で行くように努力するよ、ゆかりちゃん」
「ちゃんも必要ありません。…どうぞ気軽に呼んで下さいね」

 存外意固地になって俺にお願いをする水本さん…いや、ゆかりは実に新鮮であった。

「…よろしく、ゆかり」
「こちらこそよろしくお願いします。こうして出会えた事に感謝します」


 改めて挨拶をする傍ら、翠の表情だけが中々読み取れないでいた。



153: 2013/05/09(木) 20:18:33.79 ID:yCEaG5ogo


  *


「演奏、楽しみにしていますね」
 やはり二人とも女性のご多分に漏れず、トークは途切れることなく進んでいった。

 趣味の話から始まり、お互い弓道とフルートという全く別世界の事を紹介しながら、その時起きた出来事や思い出を回想するように話していたかと思いきや、いつのまにかアイドルになったいきさつや考え方などを語り合っていた。

 その会話を環境音として聞きつつ、俺はひたすらパソコンの前に向かって調べ物やデータ整理をしていたのだった。



 そうした時間もかれこれニ時間程だろうか、やれこうも長く話せるもんだと感じながら計算ソフトを終了しようとファイルを保存している最中のことだ。
「翠ちゃんの学校は変わった行事があるんですね……っと、そういえば、もうすぐ学園祭の時期が来ますね」
 事務所に何故か常に準備されているお茶を啜りながら、会話を横から聞く。

「そうですね。私の所は8月末から準備が始まるんです」
「へえ、気合が入ってるんですね」
 何気ない会話にもどこか貴婦人のような上品さが漂っているのは何故だろうか。


 ふと俺は思う。
 翠は今年の学園祭には参加したいのだろうか。

 スケジュール帳を見るが、俺は学園祭の日程を知らないことに気付く。



154: 2013/05/09(木) 20:19:28.14 ID:yCEaG5ogo


「学園祭と聞いて、懐かしくなったよ」
「あ、プロデューサーさん。お仕事お疲れ様です」

 デスクトップ画面のまま放置して、お茶を片手に俺もソファに座ることにした。勿論予定を聞いておきたいからだ。

「ところで翠、学園祭の日は今のところ仕事の予定はないが、どうする? そのまま空けておくか?」
 予定の有無をこちらで決められるのは仕事が少ない今だけの数少ない特権である。良いことかどうかはさておきとしてもだ。

「…いえ、プロデューサーさんにおまかせします。仕事の数に物を言える立場ではありませんので…」
 しかし、彼女はあくまでも謙虚にそう述べた。

 いや、謙虚といえば聞こえがいいが、どうにも彼女は控え目に演じてしまうきらいがある。
 謙虚は美徳といえど、ここでやっていく以上なんらかの自己主張の強さは必要だと俺は思っている。

「そうか…。ゆかりの所属してる事務所ではどうなんだ? 割と要望は通る感じなのか?」
 顔の向きを変えて、今度はゆかりに訊ねてみる。
「去年…ええと、デビュー年はそんな余裕もなくて、ずっとレッスンと仕事でしたね。慣れない私を付きっきりで指導していただいた記憶があります」

 ということは、今年はフリーだという事になる。

 では、翠の場合は俺はどうするべきなのだろうか。





 本音を言えば、仕事に専念して欲しい。

 まだ全く足元が安定していると言えない状況である以上、一刻も早く安定軌道に乗せて事務所の発展に寄与してもらうことが管理する立場としての希望ではある。

 しかし、彼女の人生に干渉する権利を持ったプロデューサーとしての立場から考えると、人生で一度きりの高校生活を楽しんで貰いたいという気持ちがある。


 仕事も言うなれば一期一会だ。チャンスを逃せば次に出会える可能性は限りなく低い。
 しかしかといって彼女の思い出を潰す事への罪悪感が俺の中に残っているのだ。

「…あの、心配しなくてもいいですよ。私が今いる状況を考えると、仕事が一番大事なのは自覚していますから」
 それを見透かしたかのように、翠は俺に言う。

 その瞳には、特に感情は伺えない。
 だが、彼女がそういう人間であることは、共に時間を過ごしてきてよくわかっている。

「…そうか、わかった。ありがとう」
 単に俺が責任ある社会人になりきれてないのだろう。
 事務所の方針である『翠の学生生活を壊さない』という言葉を軸に、一応なるべくその日は仕事を取らないようにしよう、そう思った瞬間だった。


「あの…、ちょっといいですか?」
 今まで口を閉ざし俺達の会話を聞いていたゆかりが、ふと声を出した。



155: 2013/05/09(木) 20:20:27.49 ID:yCEaG5ogo


「どうかしましたか?」
 日常的によく見る話の切り出し方に則った声に、翠が聞き返す。


「他所の事務所なので、私が言ってもいいのかどうかわかりませんが、学校で活動をするのは如何でしょうか?」
 ゆかりは、佇まいもそのままに、大したことではないといった風に提案した。

「…それがあった」
 どうしてそれに気づかなかったのだろうか。
 仕事ということに囚われて考えが及ばなかったのか。


 どちらにせよ、それを言ってくれる人が居たというのは紛れもない幸運だった。




「その手があったな…失念していたよ。翠はどうだ、やりたいか?」
「…はい、やってみたいです!」
 まごうことなき彼女自身の元気な返事が事務所に響き渡る。

 地元での仕事を見て存在を知った生徒は居ても、それはあくまでプライベートの翠の上から乗っかかっているだけのイメージだ。
 それを根本から払拭し、『アイドル・水野翠』を生徒に知らしめるには、これほど適した機会もない。

 第一、これから訪れるであろう舞台での歌や踊りのための血肉にもなる。

「今からで間に合うかどうかはわからないけど、試してみるか」
 俺は二人にそう言って、すぐさまパソコンの前に戻ることにした。



156: 2013/05/09(木) 20:20:55.62 ID:yCEaG5ogo


  *



「あれ、プロデューサーさん?」
 懐かしき静かな校舎の廊下を歩いていると、制服姿の翠に声を掛けられた。

 あちらは大層驚いた顔をしていたが、むしろ驚いているのはこちらの方である。
 何故なら、今は8月で夏休み中だからだ。

 翠は着慣れているであろう制服の裾をはためかせて理由を問う。


「何しにって? こっちは例の件で話をしに来てたんだよ」
 まだ彼女は校舎に残る必要があるらしいが、下駄箱まで一緒に付いてきてくれるとのことなので、せっかくだから話をすることにした。



157: 2013/05/09(木) 20:21:33.80 ID:yCEaG5ogo



 ――あの後、俺はすぐに行動した。

 あの、というのはゆかりの言っていた学園祭での活動だ。

 本来であれば、しっかりと段階を踏んで契約に持ち込むべきなのは重々承知している。
 それをしなかったのは根本的な俺のミスであった。

 相手方の迷惑を憂慮しつつも拒絶覚悟で電話をかけると、何と話を聞いてくれることになった。

 電話相手というのは、無論翠の通う高校の校長である。

 スケジュール上は難しくても、実現させるためにあらゆる手段を用いて俺は話に望んだのだった。


「…それで、どうなったのですか?」
 期待半分不安半分といった目で俺を見る翠。

 その気持ちの相反は、活動の有無だけではなく、成功か失敗かの結果に対するものでもあるのかもしれない。


「できればここで言いたくは無かったけど――」


 俺の言葉に、翠は心底嬉しそうな顔をした。



158: 2013/05/09(木) 20:22:57.26 ID:yCEaG5ogo


「じゃあまたな。次は事務所で」
「はい。お疲れ様でした」

 翠が何故夏休み中にも関わらず学校に通っていたのかというと、夏期講習があるからだった。
 私立でこの地域では有数の進学校であるこの高校では、休みにも成績不良者、あるいは希望者に特別講習を開いているらしい。
 アイドルのせいでもしかしたら成績が落ちたのかも、という心配をするまでもなく、翠は成績優秀者のグループに入っていたので、ひとまず学業の不安は払拭される。

 彼女の笑顔がとても記憶に残る。何も希望を言わずとも、やはりアイドルなら歌ってみたいと心の中では思っていたということか。

 初めての歌の披露という中、どれだけの実力を見せてくれるか楽しみである。



 ……しかし、まだ全部じゃない。


 下駄箱で翠と別れると俺はすかさず電話を取り出し、予め登録しておいた番号に電話をかけた。

 ワンコール、ツーコール。

 スリーコールを鳴らす隙もなく、相手の声が聞こえた。


「どうも、Pです。例の件ですが、学校の許可は取れました」


 翠のために、俺は全力を尽くしてみせる。



159: 2013/05/09(木) 20:23:41.28 ID:yCEaG5ogo


  *



「先の事では、親切にして頂きありがとうございます」
 新築という程のものではないものの、手入れの行き届いた清潔感溢れる部屋を俺は訪れていた。

「いえいえ、困っていらっしゃるようでしたので。…それで、電話でお話していたことですが」
 もはや体に染み付いた動きで自己紹介と名刺の交換を済ませ、さっそく話を切り出す。

「とりあえず本人の意思を聞きたい所――おーい、ゆかり」
「はい、どうかしましたか…と。おはようございます、Pさん」
 相手の呼声に、丁寧な足取りでゆかりが現れ、軽く一礼した。

「あちらの方からお誘いがあるんだけど、どうだ?」
 流石にお誘いだけでは内容は計り知れない。
 当然の如く、ゆかりはきょとんとして俺の方を向く。

「オフっていうのは前に聞いていたから、君を誘いたくなったんだ――」

 俺は静かに、だが語気を強めて言う。


「翠と一緒に、学校で歌わないか?」



 初めての俺の企画に、ゆかりは大層驚いた顔をした。



160: 2013/05/09(木) 20:25:26.07 ID:yCEaG5ogo


  *



 都内で利用しているレッスン室に、三つのステップ音が激しく響き渡る。
 三人の吐息も中々に激しく、先頭で踊る人を真似て、サイドの二人も華麗に舞っていた。


 それを、彼と俺は真剣な眼差しで眺めていた。



 ――今思えば、在校生や卒業生のアイドルが出身校でライブを開くというのはよくある話だった。
 それを早い内に気づかなかったのは完全に俺の過失だが、それを悔いている暇はない。

 やると決めてからは行動は迅速だった。

 まずゆかりを担当しているプロデューサーに連絡を取り、今回の企画を提案する。
 この時点で賛同されなければ、ただのローカルソロライブになっていた事だろう。

 仮の了承を得た所で次に翠の学校に連絡を取り、学園祭ライブの許可をもらう。



 そして今、内緒で来てもらったゆかりと共に翠へ内容を伝え、ライブのためのレッスンを行っているという訳だ。



161: 2013/05/09(木) 20:26:00.51 ID:yCEaG5ogo



 …目的は二つ。

 一つは、翠に支えをつけるためだ。

 いくら同校の生徒で慣れ親しんだ舞台上とはいえ、翠にとってライブはまだ経験したことのない未知の世界だ。
 その状況下では、いくら翠が練習をして自信を付けていたとしても、無意識な緊張により思わぬミスが出て、大事な地元での評価を落とす可能性だって十分に考えられる。


 二つ目は、彼女の東京進出の足がかりのためだ。

 残念ながら、今の翠は知名度で言えば全然足りない。知っていれば凄い、というまだまだな状態である。

 しかしゆかりは違っていた。
 デビューしてからは二年目と芸歴自体は浅いが、実力派の人間で、その可憐なルックスも相まって色々な年齢層から人気を博す、事務所きっての大物新人アイドルだった。

 そのアイドルを一時的でも翠と組ませてライブをさせたらどうなるかといえば、考え無くとも解る通り、否応なく翠も多くの視線を浴びることだろう。

 ただ、組ませただけではメディアの食いつきも良くはならない。
 そこでゆかりの事務所の力を使ってメディアにたくさんの餌を撒いてもらったのだ。

 向こうの事務所はアイドルを何十人も抱える立派なプロダクションで、マスコミへの働きかけもそれなりの影響力を持っていたのだ。

 俺はそれを利用して、メディアを呼んだのだ。勿論全国系である。


 当初、相手方は難色を示していたが、ゆかりの愛知への活動のきっかけになるであろうこと、そして何よりゆかり自身がそれを希望したため、実現へと一歩進めることとなった。



162: 2013/05/09(木) 20:26:26.14 ID:yCEaG5ogo


 日程はこうである。

 彼女の高校の学園祭は二日あり、内訳は一日目は内輪向けで二日目は地域住民の入場を制限しない開放日となっている。

 主に一日目では、クラスや学年ごとの出し物を披露しあい、二日目は校内を全て開放して屋台やイベントなど、部活や有志の集まりでそれぞれの持ち味を生かして色々な物を催せることになっている。

 一番視線が多くなるのは当然二日目で、翠達のライブも二日目に執り行われる。

 しかし、サプライズでやっては目的を果たせないので、学園祭のパンフレットに特別ライブの事を記載してもらい、更に付近の地元住民への告知も行っておく。

 当然ローカル局での宣伝も忘れてはいない。
 急な話で断られるかと思いきや、以前仕事で良い印象を抱いてもらえたのか、特別に枠ももらってゲスト出演と当日の様子を放送してもらう事を約束してもらえたのだ。


 ついでに言うと、あの商店街も随分乗り気で、特別出展として学園祭にも出店に参加するらしい。



163: 2013/05/09(木) 20:26:54.94 ID:yCEaG5ogo


「…あなたの目から見て、翠はどう映りますか?」
 傍で腕を組んでじっと眺めるゆかりのプロデューサーに俺は問いかける。

 ゆかりの方は前評判に偽りなしといった感じで、振付師がするステップを忠実にこなしていた。
 対して翠も懸命についていっているように見える。


 寸刻考える素振りをして、一つ言う。



 …普通、と。




164: 2013/05/09(木) 20:27:21.13 ID:yCEaG5ogo



「普通、ですか」
 予想していなかったかと問われれば、俺は否定する。


 事実だ。翠は普通だった。

 確かに悪くはない。それまで必氏に練習してきたおかげで基礎的な動きはサマになっているし、今だって手本通りに踊れている。


「思っていたよりは動けてはいる。だが、それだけだ」


 しかし、それはあくまで踊るだけの状態だ。

 実際ライブでとなれば、リズムを合わせて踊ることは当たり前で、更に歌も歌わなければならない。

 プレッシャーと疲労に押し潰されないで、歌い切ることができるだろうか。


 そういう意味で、彼は普通と答えたのだ。



165: 2013/05/09(木) 20:27:51.38 ID:yCEaG5ogo




「初めてだから、という理由でファンは見てくれない。見るのはそこで踊る今の彼女たちの姿なんだ」
 彼は静かに言った。

 例えばテレビのドキュメンタリー番組であれば、本人たちの苦悩や待ち受ける課題などが鮮明に描かれ、さながら物語の主人公のように視聴者は理解を進めていく。

 しかし、今の状況はそうではない。
 完成品だけを見せなければいけないのだ。


 必氏に踊る二人。
 今日はダンスの確認と、当日の流れの説明を行う。

 それが次回次々回と回数を重ねる毎に、歌や舞台への入りなど徐々にやるべき内容が増えていく。

 今は出来ているように見えても、そこで初めて翠が出来ているかどうかが浮き彫りになるのである。



 出来なかったでは済まされない。


 成功しか、道はないのだ。



166: 2013/05/09(木) 20:28:20.53 ID:yCEaG5ogo


 二度目の休憩。

 体の慣らしも兼ねているので、インターバルは長めに取られていた。


 中断を宣告された瞬間に床に倒れこむことは流石無いものの、翠もゆかりも膝に手をついて懸命に呼吸をしている。

「ひとまずお疲れ様、二人とも」
 いつも通り、タオルとジュースを俺達二人がそれぞれ渡す。彼女たちは視線を合わそうとしてすぐにタオルでそれを隠した。

「…ふぅ。ど、どうでしたか、プロデューサーさん」
 恐らく二人が最も気になっている事柄をゆかりが訊ねた。この時のプロデューサーというのは俺ではなく、ゆかりの担当プロデューサーの事だ。

 まあ中々だ、というような、俺への答えと同様の回答をすると思いきや、彼はとんでもない事を言い出す。


「…全然駄目だ。今すぐにでも中止にしたほうがいいんじゃないか?」

 一瞬で、空気が凍りつく。


167: 2013/05/09(木) 20:28:53.29 ID:yCEaG5ogo


「そ、そんな…」
 俺が言ってないにも関わらず、むしろ、ショックはゆかりよりも翠の方が大きかった。
 彼女は、呆然とした表情で彼を見ていた。

 一方ゆかりは、息を吐き出したいのを堪えて唇をキュッと結んでいる。

「お前のダンス自体も勿論だが、決定的に動きにキレがない。ダンサブルな歌で、それは曲を侮辱しているとしか思えない」

 先ほどの練習で流れていた疾走感溢れる曲調が頭に擬似再生される。
 確かに、肘の回し方、足首のひねり方の違いで全体のイメージが大きく変わってくる。

 しかし、それは言い過ぎである。
 少なくとも練習一回目の人相手に言うべき言葉ではない。
 とりわけ翠に対しては直接言っているわけではないものの、言葉の節々に棘を感じた。


「ちょ、ちょっと…」
 担当アイドルでもない相手に何を、と俺が制止しようとすると、それすらも遮られた。
「いいか、相方の方はどこの出身かは知らないが、やっていることが見えていない。自分の足元がかろうじで見えている程度だ」

 彼は息がまだ整っていない二人に対して続ける。
「いいか、自分を見るな、相手を見ろ。空気をちゃんと見ろ。それに乗れなければ、ただ適当に即席で踊っているのと変わらんぞ」

 それだけ言って、彼は元の壁際に戻っていってしまった。




「…あー、えーと、まだ一回目だからな。気にしすぎないで、流れだけはしっかりと覚えて次回に繋ごう」

 疲労した二人から出る重苦しい空気を俺は換気することができず、それっぽい事を言って逃げ出してしまった。

 はい、と背後で二人が小さく呟いた声が、酷く痛々しく聞こえた。



168: 2013/05/09(木) 20:30:02.18 ID:yCEaG5ogo


 ……ちょっといいですか。


 練習を再開している部屋を後にして、俺は彼を呼び出した。
 防音性は高いが、廊下からも激しい曲が小さく漏れ出ている。


「…言い過ぎじゃないですか? おかしいですよ、まだ一回目なのに」
 この業界にいる時間は遥かに彼のほうが長い。先ほどの口ぶりも、何度も言ってきたかのような声色だった。

「おかしいって? 何がだ?」
 交渉の場で聞いた丁寧な口調は完全に消え、彼の本当の声が聞こえる。
「だって今日が初めての練習で、ダンスも完全に覚えているわけじゃないのに……、少なくとも、そういう言葉はもっと後で言うべきじゃ」

 彼は考えこむまでもなく、即答で、しかも俺の予想外の返事だった。

「確かに、そうかもしれないな」

 今の俺には、考えていることが全く理解できなかった。



169: 2013/05/09(木) 20:31:30.66 ID:yCEaG5ogo


「じゃあ、どうして」
 俺は詰め寄る。翠の落ち込んだ顔がすぐに浮かんできたからだ。


 しかし、彼は気にするような素振りもなく、壁に背中をつけた。
「…ゆかりの動きは見ていたか?」
 彼はゆっくりと話しだした言葉を俺は飲み込む。

 彼女の担当は俺ではないのだから、ずっと見ていた訳ではない。
 しかし、素人目にも動きが良いのは明らかで、決して悪いと言い切れる要素は少ない。


 それをありのまま伝えると、彼は鼻で笑った。
 何がおかしいんですかと問えば、腕を組んで、彼は答える。

「本当のゆかりを見ていないからそんなことが言える。…アイツの本当の実力はこんなもんじゃない。もっと激しくて、もっと綺麗で、もっと滑らかに動けるんだ」

 ――だが、今はそうじゃない。何故だか解るか?


 彼の言葉を、限りなく細かく噛み砕いてみる。



170: 2013/05/09(木) 20:31:56.19 ID:yCEaG5ogo


「俺が見つけてこれたのが奇跡なくらい、ゆかりは飲み込みも早いし、練習熱心だ」
 ゆかりは、本来はもっと上手く踊れる。

「一番凄いと思ったのは前のコンサートで踊ったジャズダンスだ。長期戦になると思っていたが、他のメンバーに比べてもかなり短い練習日数で完成させていた」
 ジャズダンスとは、バレエの要素を取り入れたダンスの一ジャンルである。
 複数人で踊り、動きの違うダンスをそれぞれ合わせてさながらミュージカルのように踊る面白いダンスだ。

 当然ゆかりはバレエをやってはいなかった。
 なのに他のメンバーより練習日数が少なくて済んだのは何故か。

 練習日数という言葉に引っかかって推測すると、なるほどよく意味がわかった。

「合わせてたんですね」
 俺がそう答えると、一度頷いて彼は言う。

「見えていない所での練習量が半端じゃなかった。決して怯まず、文句を言わず、あっという間に完成に近づけたのを見た時は、経歴を詐称しているんじゃないかとすら思ったぐらいだ」

 ゆかりは、俺が思いよりも遥かに凄い人材だった。


 しかし、と俺は思う。
 そんなにすぐに覚えられて、基礎も翠の上を更に行く彼女が、あの程度…俺が感じている分には中々良い程度のダンスに留まっているのか。



 ……まさか。

 その言葉に、彼は否定をしなかった。



171: 2013/05/09(木) 20:33:43.74 ID:yCEaG5ogo


  *


 廊下から戻れば、俺の想像だにしない光景がそこにはあった。


 ゆかりは、翠を指導していた。それも、普段では決して見ることのない厳しい目つきで。

 翠も完全に予想外の事だったのか、困惑しながらも必氏で話を聞いていた。

 尋常でない雰囲気を察知した先生もそこに加わって、臨時の反省会のような様相を呈していたのだ。


「ゆかりは、優しい」
 彼は、俺にだけ聞こえるように小さく呟いた。
「そのダンスの時だって、もっと動けるのに、メンバー全体の完成度を考慮して、自らのレベルを落として本番に向かっていった」
 たとえレベルが高かろうと、全体とズレていれば話にならない。そういった意味では、彼女の判断は至極正しい。

「当然、やろうと思えばもっと今も上手く踊れる。だが、水野翠の感情を察して、わざとややぎこちないように見せていたんだ」
 優しいというのは、恐らくゆかりなりの気配りの結果だろう。

 人が皆、自己反省の基客観的な視点を持って実力向上のための最短ルートを辿れる訳ではない。
 圧倒的な差をつけられているのを見た相手が、闘争心を失い離脱していく可能性だって十分にある。

 だが、それは実力主義たるアイドル業界では当然の摂理だ。



172: 2013/05/09(木) 20:34:36.73 ID:yCEaG5ogo


 にも関わらず、ゆかりがそれをしなかったのは何故か。


 思うに――女心のわからない、希望的観測でしかないが――ゆかりは翠に対して親近感を抱いていたのかもしれない。

 使える時間を殆ど練習に費やして、指導してくれる人のために努力して、共演者のために気を遣って。
 自身の使えるあらゆる要素を用いてアイドルになるために全力を尽くしている。

 そうして過ごした一年とは限りなく違う、本来の水本ゆかりとして対応できる相手。

 それが水野翠という存在なのではないだろうか。


 この推察を基に二人の姿を眺めていると、ぼんやりと何かが見えてくる。

 彼の話を聞く限り練習の鬼であるゆかりと、必氏に学び、ライバルに追いつこうとする翠。


 二人は、とても似ていた。



173: 2013/05/09(木) 20:35:51.38 ID:yCEaG5ogo


 はっきり言って、それが真実かどうかはわからないし、彼女の気持ちを正しく読み取ることは国語の問題でもない限り不可能である。

 しかし、彼の先ほどの言葉により豹変したゆかりの態度から察するに、ああいった側面を見せることを怖がったのかもしれない。

 つまり彼はあの言葉の裏で、こう言ったのだ。


 遠慮はいらない、本気でやれ、と。




 もしも予想があたっているのであれば、俺はとても嘆息する羽目になる。


 何故なら結局ゆかりは翠を信頼していなかったからだ。


 ほんの少し前に起きた、ただの偶然でしかない出会い。

 そんな短時間で大したきっかけでもない出会いでも、翠はゆかりを信頼していた。
 言われなくても、それだけは俺にも解る。

 彼女と話すときの笑顔は、俺への笑顔と正しく同じだからだ。



174: 2013/05/09(木) 20:37:14.74 ID:yCEaG5ogo



「でも、お前の担当アイドルには悪いことをしたかもしれないな」
 反省点を踏まえた上で再び曲と共に踊りだす二人の背中を見ていると、ぽつり、彼は呟いた。
 たった一日の間でも、彼女たちの動きのキレは格段に良くなっている。
 まだまだ翠はゆかりについて行っている状態ではあるが、いつか、そのうち必ずシンクロできるはずだ。

「…そうでもないですよ」
 俺は言う。

 彼の言う通り、隠された意味を推察することが出来ていなければ、俺もその言葉に同意し、この立場であろうとなかろうと彼を殴り倒していたかもしれない。


 だが、舐めないで欲しい。

「練習熱心なのは……あなたの担当アイドルだけじゃない」

 水野翠という人間の努力の才能を。


175: 2013/05/09(木) 20:37:40.68 ID:yCEaG5ogo


   *



 彼は、終了の時刻を待たずに一人で帰って行ってしまった。

 力を意図的に抑えて練習するゆかりを窘めるために、ここに来たのかもしれない。
 他のアイドルの様子を見に行くという言葉を残した彼の背中には、初めて見た時の威圧感はあまり感じられなかった。



 練習が終わる。彼女たちの反復練習は、時の流れを著しく加速させていたのだ。

 今後のダンスの指導内容を二人に伝達すると、振付師は一礼して練習を終了させると共に去っていった。


 俺は振付師に一礼して見送ると、二人分の水分とタオルを持って近づいた。




176: 2013/05/09(木) 20:38:53.52 ID:yCEaG5ogo


「…ごめんなさい、翠ちゃん」
 ゆかりは息絶え絶えのまま、視線をずらして翠に謝った。俺はそうしてできた二人の横顔を遠目で見つめていた。

 彼女の声はとてもじゃないが元気ではなかった。
 無論疲労だからではなく、純粋な謝意だ。

 騙していたからか。それとも先輩として厳しい言葉を浴びせてしまったからか。あるいは両方かもしれない。

 突然のゆかりの謝罪に一瞬だけ困惑したものの、彼女は汗で濡れた手でゆかりの手を取った。

「ゆかりさんは、とても上手なんですね。尊敬します」

 翠が怒るか、最悪捨てぜりふを吐いて去って行くとでも思っていたのだろうか、翠以上にゆかりは驚いた目で彼女を見た。

「あなたのプロデューサーさんが言っていた意味が、踊っているとよくわかりました。多分、私の実力に合わせてくれていたんですね」
「え、あ…」

 上、下、と視線が動く。
 それにも動じず、手をとったまま翠は語る。

「残念ながら、私はゆかりさんのような才能はないのかもしれません。それでも、プロデューサーさんが私を見つけてくれたから、そしてゆかりさんが私のために教えてくれるから、諦めることだけはしません」
 ……私は絶対に上手くなってみせます。

 だから、次も本気で教えて下さい。


 とびきりの笑顔…俺やゆかりに見せていたあの笑顔のまま、ゆかりの手を今度は両手で持って、まっすぐに彼女の瞳を貫いた。



177: 2013/05/09(木) 20:39:21.67 ID:yCEaG5ogo


「なんだか、翠ちゃんは他人じゃないような気がしてきました」
 ふふ、と小さく笑う。

「これだけキツく言ってしまっても、前を向いていけるその姿。好きです」
 類似という言葉が彼女たち二人の間を繋ぐ。

 似ているから、きっと分かり合える。
 同一人物ではないので相容れない部分も必ず出てくるが、きっとそれすらも癒合してしまうだろう。

「…ありがとうございます。ゆかりさんにそう言ってもらえて、私、嬉しいです」

 翠にとっては、ある種初めての友達だ。
 その人が、自身にとって最高のパートナーであることを彼女なりに感じ取ったのかもしれない。
「嫌いになったりはしません。ですから、もっと私に教えて頂けませんか?」

 彼女の晴れ晴れとした顔がそれを物語っていた。

「…はい、翠ちゃん」

 尊敬と親近感が混じった表情で互いを見て笑い合っている二人だった。



178: 2013/05/09(木) 20:40:34.58 ID:yCEaG5ogo


「お疲れ様、二人とも」
 片手で一つづつ持っていたタオルを二人に手渡した。

「わ。プロデューサーさん、お疲れ様です」
「お疲れ様です、Pさん」

 お互いの手を話し、力の抜けきった腕で髪をタオルで挟んで拭く二人。
 きらびやかなストレートヘアーも、汗で肌にへばりついているのが運動の激しさをよく表している。

 大体拭き終わるのを見計らって、俺なりに二人に言葉を送る。

「…ゆかり。本当に驚いたよ、俺。まさかこんなにきっちりと踊れるなんて全く思わなかった」
「ありがとうございます。…そして翠ちゃんを傷つけるような真似をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「お、おい」
 制止する間もなく、頭からタオルを離してゆかりは深く頭を下げたのを見て、酷く狼狽した。
 自己を見失わず、自分のした行動を客観的に考えて話せる15歳がこの世に一体何人いるのか想像したからだ。

 俺がどうしようかとわたわたしていると、ゆかりの隣にいる翠ははっきりとした声で『大丈夫です』と言った。

「何も問題はありませんよ。ゆかりさんが教えてくれるなら、私ももっともっと上にいけそうですから」

 翠は、たった一回の練習を経て、自分の体に自信をあふれんばかりに込めていた。



179: 2013/05/09(木) 20:41:12.98 ID:yCEaG5ogo


「時間もたくさんある訳じゃありません。だからこそ、ゆかりさんの力が必要だと思ってます。どうか、今後ともよろしくお願いします」

 翠はゆかりに向かって礼をする。弓道から培ったノイズのない綺麗なお辞儀だ。

「こちらこそよろしくお願いします。絶対に成功させましょうね」

 目標は学園祭での限定ユニットライブ。


 事務所の垣根を超えた、翠の初ライブだ。


181: 2013/05/20(月) 21:44:56.85 ID:gKoUvlDMo


  *



「プロデューサーさん、進捗状況はどうですか?」
 まだまだ暑さが引くことのない真夏。
 学生達は青春に明け暮れている最中、俺とちひろさんはいつも通り出社していた。

 カーテンを開ければ、明るい日差しが室内に入り込む。
 パソコンの画面が見辛いことだけが唯一の難点か。


「順調ですよ。正直難しいと思っていましたけど、ゆかりがパートナーで本当に良かったです」
 翠にとっては、まるで先生が二人いるような感覚だろう。
 それほどまでにゆかりは自身の練習の他に翠をよくみてくれていた。


「…他所の事務所のアイドルに呼び捨てですか、プロデューサー」
 横目でちひろさんが俺を見る。
「認可済み…というかゆかり直々の命令ですよ、命令。決して本意でないことはわかってください」

 あの時俺にそう呼ばせるように言ったのも、結局は指導をして欲しかったが故の上下関係の明確化なのかもしれない。

「まあ、周囲で認められればそれでも構いませんけどね。それにしても、向こうの事務所もよく今回の企画を許可しましたね」
 手元の紙の束をめくりって確認しながら、ちひろさんは言った。


「ゆかりのプロデューサーさんのおかげですね。俺も少しは頑張りましたけど」
「おんぶにだっこじゃないですか…」
 思わず俺は苦笑する。

 立場的にもこちらが下なのは明確である。
 穿った見方をすれば、恩情だろう。



182: 2013/05/20(月) 21:46:02.71 ID:gKoUvlDMo


 実を言えば、向こうの事務所でも反対の声はいくつかあったらしい。
 彼はそんなことを言いながら笑っていたが。


 ともかく、一時的ではあるがこうして組んで接点を持つことができれば、今後の仕事にもきっと役に立ってくれるだろう。

「あとは、翠の持ち歌があればいいんですけどねー」
 カチャカチャ。返信。
 事務的なメールを送信してから、簡素な椅子の背もたれに体を預けた。

「一応レーベルにいくつか問い合わせては見たんですが、ダメでしたよ」
 やはり、向こうとしては実績があり、売れる予想がつかないと腰を上げづらいのだ。商品だから仕方のない話である。

「とりあえず、今回のライブでは翠ちゃんの高校のバンドが曲を出してくれるんでしたっけ」
 身内での話ではないので、下手に曲を借りることができなかったのだ。
 そこで、高校の軽音楽部が作った曲の中から選ぶことにしたのである。


 ライブの構成はニ曲。

 一曲目はオープニングとして、最初のレッスンから練習しているインスト曲を二人のダンスで盛り上げる。

 観客が気持ちが乗ってきたところで、二人によるトークを少しだけ挟んでから、二曲目の軽音楽部作の歌を歌って貰う予定だ。

 できれば一時間ほどフルに使ってイベントを行いたかったのだが、如何せんそれのために費やす練習時間がないのである。



183: 2013/05/20(月) 21:47:53.88 ID:gKoUvlDMo



「でも、学生の作った曲というのはどうなんでしょうか。クオリティ的な意味でも」
 その不安も尤もだ。

「大丈夫ですよ。テープは事前に受け取っていますし、一応向こうの事務所に縁深い編曲者に頼んでますので」
 ちひろさんの言う通り、俺が動いているのは企画を持ちだしただけであって、実質的な行動は殆どあちら側に任せてしまっていた。

 動けるのであれば俺もどんどん動いていきたいのは山々だが、規模の違いをここで強く感じることになってしまった。

「それでよく学生さん達がオーケーしましたね。自分たちの作った曲を変えられるって、あんまりいい気分はしないと思うんですが」
「勝手に変える訳じゃありませんよ。プロの方が採点してくれるという条件を出してますので、むしろ快く渡してくれました」

 やはりプロという言葉は非情に強みがあるな、と俺はあの時思っていた。
 どれだけ能力があろうと人に見られるのは第一印象であり、それが姿形でなければ実績が分身となるのだ。

 上手いこと騙しますね、とちひろさんは巫山戯る。



184: 2013/05/20(月) 21:48:51.33 ID:gKoUvlDMo


「その二曲目ももうすぐ取り掛かりますから、進行上では順調でしょう。それもこれも二人の力ですよ」
 ゆかりは東京に住んでいるので、レッスンは東京で行う事になっている。
 なので俺も営業周りが遅れない限りはほぼ毎回見にいくことができていた。

 振付師やトレーナーからの評価も徐々に上がっているのだから、過度に心配する必要はないだろう。

 …心配事といえば、別にある。

「俺的にはむしろ、翠の東京での生活の方が心配ですね。ちひろさん、大丈夫ですか?」

 夏休みの間、毎日新幹線か高速バスで往復してもらうのは金銭的にも翠の体力的にも損失が大きいということで、両親の了承の下しばらくちひろさんの家に泊まる事になっている。

「心配するどころか、翠ちゃんも楽しんでますよ。私のお母さんなんか孫が出来たみたいで毎晩の夕食が豪華です」
「って、ちひろさんは実家通いなんですか」

 今更ですね、とちひろさんは笑った。

「まあ特に詮索する話ではないので……」
 こういう場合、プライベートな話題は深く掘り下げて訊いていくべきなのだろうか?

 この匙加減がわかるようにならないと、この先やっていけるかどうか不安である。



185: 2013/05/20(月) 21:49:36.33 ID:gKoUvlDMo


「あ、すいません。私先に出ますね」

 先程からパソコンの画面と机に置いた紙を交互に見合わせていたちひろさんが、それを鞄に入れて立ち上がる。


「あれ、何か予定ありましたっけ?」
「まあ少しやることがありますので……。鍵は持ってますから、後お願いします」
 ヒールを小気味よく鳴らして、ちひろさんは事務所を後にした。


「……事務員も忙しいんだなあ」

 後ろ姿をぼんやりと眺め終えると、俺は再びパソコン画面に視線を映し変えたのだった。



186: 2013/05/20(月) 21:50:39.18 ID:gKoUvlDMo


   *



「正直、俺も通るとは思わなかったんだよな」
 エアコンの聞いた店内。
 タバコの煙を空に吐いて、彼は言った。



 ある日、外回りの休憩中にばったりゆかりのプロデューサーと出会った。


 お互い昼食がまだだということで、喫煙席のある喫茶店に入ることにしたのだ。


「ライブのゲストの件ですよね。私も拒否覚悟で話に行きましたよ」
 基本的に営業なんて通らばリーチの連続である。
 ゼロからイチに行くためには、少なくともそういった挑戦をして行かなければ始まらないのだから。

「上の人に確認を取ったら、何故だかは分からないが割と早くゴーサインがもらえたんだよ。もう少し話が混むか、即却下のどちらかだと思ってたから驚いたもんだ」
「あなたが尽力したんじゃ?」
 タバコとコーヒーを交互に飲んで美味しいのだろうか。俺にはよくわからない。

「一緒に仕事をすることは悪いことじゃない。だが、無名の新人と組んでこちらに何のメリットがあるんだ、という話だ。ギャラの件も含めてな」
 彼はタバコを指で挟んで顎を手に乗せ、窓から見える人の流れを見た。


 つくづく打算的だ、と俺は思った。

 いや、むしろ仕事を取る人間は総じてそうあるべきなのだろうが、現状俺はなりきれていないようだ。

「単にゲストでゆかりの歌を歌わせるってだけならまだしも、一から歌とダンスの練習だからなあ…。それにこの期間の短さ。アイツだからよかったものの、そんな仕事をよく堂々と持ってきたよ、お前は」
「嫌味ですか」
「褒めてるんだよ」

 鼻で笑って、彼は答える。



187: 2013/05/20(月) 21:52:20.32 ID:gKoUvlDMo


「一緒に歌うアイドルを連れて来ないでやってくるとは思ってもみなかったな。一応電話口で話すとは言ったが、ゆかりが話を聞いて希望しなければ、断るつもりだった」
 俺の準備不足さは危うく破談を生む所であった。

 まあ、翠はゆかりと買い物に行った後、すぐに愛知に帰っていったから同伴も難しかったのだから、仕方ないといえば仕方ない。
 そもそも随伴して訪れられるようにスケジュールを調整すべきなのは俺の責任である。

「アイツがそれを望んだということも驚きといえば驚きだ。ゆかりは人懐っこいが、心の奥底からは信用できないように見える。……尤も、半分は俺の所為なんだろうが」

 別に悪いことじゃない、と俺は返事をする。

 ビジネスライクな世界でビジネスライクな関係を中心に動いていくのは、何一つとして間違ってはいない。
 恐らく、彼も新人のゆかりに対してそういう見方を教えたのだろう。
 あくまで仕事人の立場からすれば、彼の行動は限りなく正解に近い。

「ということは、今回の企画を希望したのはゆかりが単に仕事をしたかったからなんでしょうかね」
「…お前、わかってて言ってるだろ」

 普段馬鹿にされたような口ぶりなので、俺も精一杯とぼけてみせた。



188: 2013/05/20(月) 21:54:26.57 ID:gKoUvlDMo


「なんだろうな。水野翠に対しては、ゆかりはどことなく距離が近い気がする。何か共鳴するものでも感じたんだろうかねえ」
 彼が飲むコーヒーのカップの底が見えた。

「私もそう思ってますよ。初めてのレッスンの時、あなたが帰った後に彼女らで何か分かり合えたような雰囲気で話し合ってましたから」
 再び彼は窓からの街の景色を眺める。

「…ゆかりは、お前と出会うべきだったのかもな」

 もしそうだとすれば、ゆかりは今のように才能を最大限には発揮していなかっただろう。
 言うまでもなく、彼が担当だったからここまで来られているのだ。

「まさか」

 しかし。しかしだ。
「出会っていたら、私は翠と会ってませんよ」

 そうであるならば、彼女が翠と会うこともきっとなかっただろう。



189: 2013/05/20(月) 21:55:40.37 ID:gKoUvlDMo


   *




「……ふーん、ふん、ふー。ふふふふー」

 汗だくになりながらも営業から返ってきたら、イヤホンで何かを聞きながら鼻声で歌う翠が居た。

 ふふふー、ふふっふー、ふーふー。

 俺が事務所の扉を開けた音も、歩く靴の音も何も聞こえていないようで、曲と歌に集中しているようだった。

 ちひろさんの机に鞄だけあるので、どうやらちひろさんは近場に買い物にでも行っているのだろう。

 静かな事務所に流れる、彼女の鼻歌。
 そして俺は透明人間。



 そこで、ふと。

 彼女のリアクションが見たくなってしまった。




190: 2013/05/20(月) 21:57:20.85 ID:gKoUvlDMo



 翠はソファーに深く座り、背のクッションに体を預けて目を閉じている。

 俺に全く気づかなかったのは、完全にそっちの世界に入り込んでいたからか。


 とりあえず忍び足で鞄と脱いだスーツを机に置き、翠の背後に立つ。

 …もしも怒られたらどうしよう、ということで俺の手には冷えたジュースの缶。
 冷蔵庫から取り出してきたのものだ。

 俺と翠が同級生で仲良しなら、肩を叩いてから目を開けた所に間近で変顔をするぐらいやってのけただろうが、流石にこの状況では無理である。


 頭の中の善良な紳士精神が制止を試みる。


 …しかし、やらねばならない。

 科学の発展に犠牲はつきものだからな!




 俺の手に持った缶は翠の背後から左頬へ近づき、そして触れた―――。



191: 2013/05/20(月) 21:58:42.13 ID:gKoUvlDMo


   *



「ごめんなさい」
「いや、もう気にしてませんから…」
「ごめんなさい」


 …俺が初めて翠を見た時の頃の表情を思い出した。


 可愛らしい驚いた声を上げて尻餅をついたんだっけな。
 それでも俺の心配をしてくれたのを、今でも強く記憶に残っていた。



 結果的に言えば、一瞬体を震わせたと思いきや、ソファーから飛び起きてこちらを訳の分からぬといった表情で俺と向き合った。

 一般的といえば一般的なリアクションだろう。芸人なら許されないが、アイドルなら充分許容範囲内である。


 しかし問題はその後だ。


 てっきり怒って拗ねたり顔を背けたり文句を言ったりするのだと思っていたら、なんと翠は瞬間的に恥ずかしい顔を見せた後、俺に帰宅と労いの挨拶をしてくれたのだ。



 …こんな純真な相手に俺はなんてことをしてしまったのだろうか!



192: 2013/05/20(月) 21:59:50.18 ID:gKoUvlDMo




「プロデューサーさんも疲れてるんですよね。ちょっとは疲れ、取れましたか?」

 そうして、俺は謝っていた。

 周りが見ていれば、初めからそんなことをするなよという指摘が入ると思うが、実際この状況に出会ったらしないひとは殆どいないと思いたい。

 こうでもなお俺の心配をしてくれる翠がまさに女神に見えた。


「うん、ホントごめんなさい。あとこれジュース、飲んで下さい」
「大丈夫ですから、いつもの状態に戻って下さい…」

 ジュースを受け取ると、小気味よい音と立てて翠は缶を開けて飲み始める。



193: 2013/05/20(月) 22:00:56.84 ID:gKoUvlDMo


「さっき聞いてたのは翠の好きな歌か?」
 俺の質問に彼女は少し戸惑った。

「…私の声、聞いてたんですね」
 そういうことか、と即座に理解する。

「鼻歌でも綺麗だったぞ? これならいつか翠だけの歌をもらえる日も近いかもな」
「もう、からかわないで下さい」

 翠はそう言いつつも、まんざらでもないように顔を赤らめる。
 当然ながら、彼女も自分だけの歌を歌いたいのだろう。


「聞いてたのは、今度歌う予定のオフボーカルです。ずっと見てもらえるわけじゃないので、少しでも音程を合わせたくて」

 ……本当、邪魔してごめんなさい。



194: 2013/05/20(月) 22:02:45.46 ID:gKoUvlDMo


「どうだ、最近は。ダンスと歌と両方の練習で辛くないか?」

 我ながら阿呆な事を訊いているなと思う。
 レッスンが辛くないはずなんてないのに。

 それでも、翠は笑顔で答える。
「確かに、ここ最近はそのレッスンばかりで集中力が切れそうになることもありますが、私は大丈夫です」
 ――なにより、ゆかりさんが隣に居てくれますから。

 その言葉が、とてつもない信頼の基に生まれた言葉なのだということがはっきりと解った。
 何故ならば、そう言う翠の表情がとても楽しそうだったからだ。


「…翠は強いな」
 ふとぽつりと漏らすと、そんなことはありませんよ、と翠は首を横に振った。
「プロデューサーさんやゆかりさん、色々な人に助けられてますので」

 驕ることもなく、しかし堂々と言うことができる人間を、どうして卑下できようか。



195: 2013/05/20(月) 22:04:17.32 ID:gKoUvlDMo



「……あ」
 そこで、俺はふと彼女に何もしてやれていないことに気付く。

 機会は出来る限り与えてやれているとは自負している。
 だが、それが満足の出来る程度かどうかはわからなかった。

 普通は何かの目標を達成したらインセンティブをしてやることが当たり前なのではないだろうか。
 そうすることでやる気が続いていく、とも教育関連の書籍で言われているような気がする。

 どうかしましたか、と俺の瞳を覗く彼女。

 彼女の素振りからは一見そういう野暮な事は必要ない雰囲気は感じるが、もしかすると、心の奥底で何か不満や欲求を隠しているのかもしれない。


 であるならば、それを解消してやるのもプロデューサーとしての役割だろう。



196: 2013/05/20(月) 22:04:58.33 ID:gKoUvlDMo



「…翠、何か欲しいものはないか?」

 エアコンの作動音のみが響く部屋では、翠の聞き返す声がとてもよく聞こえた。

 彼女との契約は現時点では月給制で、本人の了承のもと給料は彼女の両親に行くようになっている。

 無論その給料の中から翠へお小遣いとして支払われいているらしいが、此処のところの激務の中、お小遣い程度の受け取る給料ではもしかしたら我慢している可能性があったからだ。

「ほら、何かご褒美でもあれば今の難しいレッスンも乗り越えられるんじゃないかと思ってな。ポケットマネーだが奮発してやろう」
「え、いや、悪いですよ、そんなこと…」

 やはりというか、予想通り彼女は固辞の姿勢を見せた。

「いいんだよ。翠が頑張ってくれてるから俺も一生懸命仕事を取りにいけるからな。車とかは無理だが、ある程度ならなんでもいいぞ」

 当然だが俺も月給で、せいぜい大卒の一年目の給料より少し多いぐらいなので、云百万もする貴金属は勘弁願いたい。


 ちょっと待って下さい、と翠は考えこむ。



197: 2013/05/20(月) 22:05:50.55 ID:gKoUvlDMo



 五秒、十秒、十五秒。

 俯いた後、彼女は口を開く。」

「…何でも、いいんですか?」
「俺に出来る範囲でな」

 茶化すように答えると、翠は意を決したように望みを言う。



「…ライブの後。一緒に学園祭、周りませんか?」


 彼女に悪いが、俺は耳を疑った。




198: 2013/05/20(月) 22:11:06.45 ID:gKoUvlDMo



 俺は戸惑う。

 いや、戸惑わざるを得なかった。

「いやいや、そんなのでいいのか? 美味しいレストランに行きたいとか、オフが欲しいとかでもいいんだぞ?」

 完全に予想外の望みだった。
「いえ、許されるなら、それがいいんです」

 年頃の女子高生が、仕事で関わるだけの新人プロデューサーと一緒に学園祭を周って何が楽しいんだ?

 もしやさっきのいたずらのお返しで俺をからかっているのかと翠をもう一度見るが、彼女の表情ははっきりと……ある種、思いつめたかのような真剣な眼差しだった。

「本気か?」
「…はい。プロデューサーさんさえ良ければ、お願いします」




 …どうやら本気らしい。


 不思議なことを望む人もいるもんだ、と俺はぼんやりと思った。



199: 2013/05/20(月) 22:11:46.11 ID:gKoUvlDMo
区切り。

>>180
音沙汰無くて申し訳ない。普通に書き溜めしてました
モバP「翠色の絨毯で」【中編】

200: 2013/05/21(火) 18:16:41.92 ID:jVacYWZg0

引用元: モバP「翠色の絨毯で」