202: 2013/05/27(月) 20:10:08.98 ID:6orG2Nwgo

モバP「翠色の絨毯で」【前編】



  *



 夏休みが空けると、翠のスケジュールは更に多忙になる。

 以前に比べ増え始めた仕事に加え、多大な時間を割くレッスン、そして二学期を迎える学校だ。

 ちなみに夏休みの間に弓道のインターハイが開催され、翠率いる弓道部は残念ながら優勝旗を持ち帰ることはできなかったものの、準決勝まではコマを進めることが出来たのだった。
 俺は両親と共に観戦に行き、終わった後は涙を見せることもなく、後悔なく、憂いなく、やりきった顔で部活の打ち上げに向かっていったのが印象に残っている。

 その光景もテレビ放送され、多くはないが観客席にファンが訪れたのは余談である。



 そして今。

 俺とゆかりのプロデューサーは、もうかれこれ何十回目となるレッスンを普段通り見ていた。


アイドルマスターシンデレラガールズ カプセルラバーマスコット5 水野翠
203: 2013/05/27(月) 20:11:05.88 ID:6orG2Nwgo


「流石にちょっと疲労が祟ってるな」
 彼は腕を組みながら二人を見てそう言った。休ませるか、と呟いたのだ。

 今までのレッスンだけでも厳しいのに、そこに勉学も加われば翠がバテるのも止むを得ない話だった。

 ゆかりも翠ほどではないが、前回よりも微かに動きが若干鈍い。


 これで無理をして怪我でもすれば最悪の事態になってしまう。
「そうですね、それがいいでしょう」

 彼の言葉に俺は賛同すると、トレーナーも了承し、ひとまず休憩を取ることになった。



「もう基本的な動作は完璧に覚えられただろう。あとのレッスン日程はお前に任せる」
 何故だか、彼は専ら彼女たちに対して俺を介することが多くなった。

 …全部決めろ、ということか。

 まあ、裏の根回しに関しては彼が大部分を受け取ってくれたので、仕事を回してくれたと思えば俺も渋る理由はないのだが。

 ゆかりがきっちりしているのは俺もよく知っている。きっと仕事のスケジュールも彼から教えてもらった通り記憶しているのだろう。

 それを踏まえて、俺を信用して任せてくれたということだ。


204: 2013/05/27(月) 20:11:34.53 ID:6orG2Nwgo



「おーい、ちょっといいか、二人とも」
 鏡の傍に置いている持参した荷物の所で座っていた二人の元へ俺は向かう。

「あ、Pさん…。心配させてしまってごめんなさい」
 開口一番、ゆかりは突然謝罪した。

 あまりにもいきなりすぎて困惑したが、すぐに我に返る。

「いや、日程の問題で少し焦りすぎた。ゆかりは悪くないよ。もちろん翠も」
 やはりというか、一年の差は凄まじく感じる。メンタルだけなら翠もそれなりに強くはあるが、体力面では歴然とした違いがある。

「それでだが、二人とも学校生活も始まったから、これからはこうやって集合してのレッスンは少し控えることにする」
「いいんですか? もう本番も近いのに…」

 翠は心配そうな声を上げるが、きっぱりと俺は言ってやる。

「大丈夫だ。俺が見た分には、動き自体はもう十二分に動けている。だからあとは各々の動きの精度を上げながら体調を万全に整える方が良い」

 疲労した状態で本番の日を迎えるほど馬鹿な人間はいない。

 どうせ練習した状態の十をそのまま本番で十発揮できるなんて事はありえないのだから、なるべく本番に十に近い状態で臨む方に持っていくのが賢明だろう。



205: 2013/05/27(月) 20:12:12.16 ID:6orG2Nwgo



「スケジュールは…そうだな。基本的に日曜日はここで二人共レッスンで、土曜日は不定期に。それ以外は、個人で疲労を考慮してそれぞれトレーナーにレッスンを見てもらってくれ。くれぐれも勝手に無家な自主練習はしないこと」

 わかりました、と各々が返事をする。
 二人とも、自主練習が行き過ぎる可能性が低くないのだ。そこだけは強く言っておく。

 念のため、総ページの半分がそろそろ埋まろうかという状態の黒いスケジュール帳を開く。
 そこには翠の現在の仕事の入り具合が記入されている。

 ゆかりの学校のこともあるから、平日に時間を決めて集まるのは難しい。
 だから日曜日は集まってタイミングの調整を、残りは個人で調整させることを選んだのである。

「不安になるかもしれないが、二人の上達具合は俺が保証する。今までのレッスンをちゃんとこなせてきたんだ、本番までこれぐらいのペースでも問題ないさ。…これでいいか?」
「はい!」

 俺の言葉に納得してくれたかどうかは不明だが、二人は元気に声を上げてくれる。


 その後二人に体の状態をトレーナーにチェックさせてから、先程より軽めのレッスンが再開した。



206: 2013/05/27(月) 20:12:38.42 ID:6orG2Nwgo


  *




「翠ちゃん、楽しそうですね」

 午前の営業を終え、事務所で買ったばかりのコンビニの弁当を食べていると、隣のちひろさんはそう言った。


 本番前のニ週間を調整期間と定めて、流れの確認と体調の管理をさせている今、翠やゆかりは並行して学園祭の準備に取り組んでいることだろう。

 よく顔を合わせる翠や、週末しか顔を合わすことのないゆかりとも、そういったプライベートの話をよく聞いている。

 ゆかりからはメールがたまに来る程度だが、翠は実際に仕事やレッスンで会うので、仕事帰りの移動中や休憩中などで楽しそうに話してくれていた。

「高校最後、ですからね。ああ、俺もあんな感じだったらなあ」
 割り箸に付いたご飯粒を食べる。

 俺の高校時代は、あそこまで楽しそうにはやっていなかった気がする。
 そういう意味では彼女の一挙一動がとても羨ましく感じた。



207: 2013/05/27(月) 20:13:45.11 ID:6orG2Nwgo



「…プロデューサーさん。翠ちゃんのこと、よく見てあげてくださいね」
 お互いの学生時代を話のネタにしていた後、ちひろさんは突然静かに言った。

「見ていますよ。担当一人だけですし」
 はは、と笑ったが、それは反響しなかった。

「そういう意味じゃないんですけどね……。まあいいです。ともかく、買い被りすぎることだけは気をつけて下さい」

 買い被るも何も、翠は仕事に対しても真面目で練習熱心で、何でもやり通せる素晴らしい人間なのは事実だろう。
 例え高みに居る人間が隣にいても決して折れない強さがある。

 俺の役目は、そんな彼女の心を後ろから支えてやることだ。

「大丈夫ですよ。しっかりとコミュニケーションは取っているつもりですから――あ、そろそろ次の約束の時間か」

 休憩は一時間きっちり取られている。しかし営業先の方との打ち合わせの約束が少し早めに設けられているので、俺はさっさと空箱をゴミ箱に捨てる。

「じゃあ行ってきます、よろしくお願いします!」

 まだ冷めやらぬ太陽光の下を駆け抜けるため元気よく挨拶をして、事務所を後にした。



208: 2013/05/27(月) 20:14:18.91 ID:6orG2Nwgo


   *




「今度学園祭で特別ライブを行います、よろしくお願いします」
 たとえいつもの制服に身を包んでいようとも、今の姿はアイドルだ。


 商店街。

 翠の起点となった縁深い場所で、翠と俺は学園祭の広報を行なっていた。
 学校に掛けあってチラシの作成を許可してもらい、日時と主な模擬店やイベントを記載したカタログ紙を商店街で配っているのだった。

 二つの駅の通り道となっているおかげで、チラシは飛ぶように人の手に渡っていく。

 流石アイドルという訳か、少しだけ間を空けて配る俺よりも遥かにチラシがなくなるスピードが早い。

「…まあ、不審なスーツ姿の男とアイドルじゃな」
 心の中で乾いた笑いをあげつつも、配布を継続した。




209: 2013/05/27(月) 20:14:53.00 ID:6orG2Nwgo



「…あ、もうないのでしょうか」
 ものの数十分も経てば、シャッターの傍に置いたダンボールの中にあったチラシが全て消失していた。

 元より、今回の配布では翠の友人にも広報担当として共に列をなして配布をしているため、なくなるのも時間の問題だったということか。


「翠ー、まだチラシ余ってるー?」
 とたとた、と離れた所から女子生徒が駆けて来る。
 ショートボブの似合う小さな女の子だ。
 仲の良い友人では、彼女のように比較的大人しめの子が多いようだった。

「いえ、もう完売です。たくさん来てくれそうですね」
 声に気付き振り向いた翠はそう答える。
 その顔もどこか嬉しそうだ。

 彼女の元気な声を聞いて、他に配布を担当していた友人らも全員集まる。
 翠を含め、合計五人だ。

 全部配りきった事を翠が改めて伝えると、各々が嬉々として喜びを伝えあう。


「流石アイドル様だね! 友人として鼻が高い!」
「あはは、あんたは何も関係ないのに!」

 そんな声が、翠を一層嬉しくさせた。



210: 2013/05/27(月) 20:15:25.40 ID:6orG2Nwgo



 談笑している間に、俺は事前に買っておいたペットボトルの入った袋を皆に見せる。

「みんなもありがとう。学校に戻る前に、俺からジュースのプレゼントだ。好きなのを選んでくれ」
「おー、流石マネージャー! 気が利くね!」
「マネージャーじゃないんだけどなあ…」
 一番元気の良い子が強烈な笑顔を俺に飛ばした。
 その子が袋を覗き込めば、他の友人らも順々に集まる。

 人数も多くはないので、あっというまに袋は空になり、皆が感謝の言葉を口々にして飲み始めた。
「目上の立場の人ですよ、もう…」
「いいんだよ、翠以外からすればただのおっさんだしな」
 全く、と呆れた様子の翠ではあったが、俺は別段気にすることでもなかった。
 年頃の女子高生からすれば、俺みたいな人間には大体こんな感じの対応だろう。

「プロデューサーさんはまだまだ若いですよ。おじさんだなんて言わないで下さい」
「はは、ありがとう」
 まだ三十路にすら言ってないのだが、ここで働いているとどうにも年齢があやふやになってしまう。

 皆は俺と別れ、翠も交えて談笑しながら学校への帰路につくことになった。

 当たり前だが俺は入校できるはずもなく…いや、そもそもするつもりもないが、予定通り商工会の方へ挨拶に向かうことにしたのだった。



211: 2013/05/27(月) 20:16:05.59 ID:6orG2Nwgo



  *



「どうですか、翠は」
 相変わらずエアコンの効いた心地良い商工会事務所で、俺は会長に訊ねる。
 少しだけ小太りだが、若いころはぶいぶい言わせていたんだとでもいいそうな会長は、和やかに笑ってみせた。

「いい方向に行ってくれてますな。聞いて回った分だと、売上が伸びた店舗も多いみたいで……いやあ、本当に頼んでよかったと思うとります」

 その表情からは一遍の曇りもなさそうだ。

「何よりです。もし以前と変わらないようであれば私も申し訳なく感じるところでしたので」
 実のところ、これは正直な気持ちである。

 せっかく信用し、共生を目指したのに片方だけ利益を得るようであれば今後使ってもらえなくなる。

 翠がアイドルを初めてまだ半年も経っていないが、東京でも小さな仕事だが少しづつ増えるようになっているのも、ここでの経験があってこそだ。
 そして、現在住まいにしているのは実家だから、近場で仕事ができるのもメリットである。



212: 2013/05/27(月) 20:16:52.82 ID:6orG2Nwgo


「…あ、翠のサイン、丁寧に飾って頂いているんですね」
 こちらから僅かに見える色紙は、色紙立てに置き、何やら説明書きの紙も用意してさながら展示しているようだ。

「そりゃ、我が商店街公式スポンサーになっているアイドルの色紙ですから、参拝させて頂いておりますよ」
 …それは如何なものか。

 ともかく、本当に大事に扱ってもらえているということが判って俺は安堵した。


 そこで、俺は最近取った仕事の内容を思い出す。
「そうでした。実はですね、今度週刊誌の特集ではありますが翠がグラビア撮影することになりまして」
 会長の鼻の穴が少し大きくなったのは見なかったことにしておこう。


「いわゆる過激なものはありませんが、一日の私というテーマで制服と私服両方の写真を撮るそうです。もしかするとこちらの商店街を背景に選ぶかもしれませんがよろしいでしょうか?」
「もちろん、もちろんいいですよ」

 どうして二回言ったのかは不明だが、その返事はさしずめ快諾と評して問題ないだろう。



213: 2013/05/27(月) 20:17:20.64 ID:6orG2Nwgo



 その後も少し雑談を交えてから、俺達はソファから立ち上がる。

「本日は場所を貸して頂きありがとうございました。今後とも良いお付き合いができますことを願っています」
 軽く礼をして、握手を交わす。

 彼及びこの商店街の人たちとは、既にビジネスライクな関係を超越して若干親戚的な関係性を築いていた。

 翠に対して店舗の従業員が気付くのはもちろん、俺にすらも声を掛けてくれる人がいるくらいだ。
 本来プロデューサーがなるべき立場ではないような事も考えはするが、根本的に人間として嬉しくないはずがない。


 お互い笑顔を見せて、俺は商工会を後にする。


 今日は翠が学校から帰ってトレーナーとレッスン。

 俺は明日の東京の打ち合わせのために、今から東京へ帰るのだった。



214: 2013/05/27(月) 20:17:48.61 ID:6orG2Nwgo


  *



「おはようございます、プロデューサーさん。早いですね」

 暦の上では秋といってもまだまだ残暑は色濃く残り、少し多めに動けば皮膚の上には汗がひたひたと零れ落ちる9月。


 既に二学期が始まって一ヶ月が経とうとした今、翠の通う高校は学園祭を迎えていた。
 残念ながら仕事としての学園祭は二日目であるため、俺は一日目に高校へ行かず、東京で色々冬にかけての営業を行なっていた。


 早朝。

 本来であれば本校の生徒側は普段より早めの程度に登校し、模擬店などの下準備を済ませる一方、俺達は誰よりも早く学校の正門の前に到着していた。


 まだ鳥が鳴く小さな声と川のせせらぎ以外に何も聞こえない静かな場所で、俺が腕時計を見ながら今日の流れを暗唱していると、翠が姿を表した。



215: 2013/05/27(月) 20:18:34.87 ID:6orG2Nwgo



「約束よりも早い…いや、お互い様だな」
 緊張してな、と俺が笑いながら言うと、翠も苦笑して同意した。

「じゃあ翠は先に体育館に行って体を慣らしておいてくれ。多分そろそろ機材が来るから、それから俺も行くよ」

 学校側及びゆかりのプロデューサーと協議した結果、演奏は生で行う事になった。

 実績が少ないバンドマンを使うことで、比較的安価で間に合わせられたのだ。
 とはいっても、向こうの事務所では一度雇ったことのある人達なので、そこに不安はない。

 一応曲の製作者である軽音楽部に演奏をお願いするプランもあったが、リスクを含め様々な理由で断念することとなった。

 新人がやるライブとしては舞台の客層や集客人数は相応だが、最初からバンドマンを使うのは当然ながら豪華である。



216: 2013/05/27(月) 20:19:02.54 ID:6orG2Nwgo



「――と、来たか」

 翠と別れて十数分後。

 視線の先、川沿いを走る車が数台こちらに向かってくる。

 この時間にここを目的もなく通る車など皆無だろう、俺は手を振ると車は接近を続け、校門横のフェンスに停車した。


217: 2013/05/27(月) 20:19:40.83 ID:6orG2Nwgo


  *


「では打ち合わせ通り、設置お願いします」
 軽い返事と共に、バンドマンたちは舞台の上で楽器を組み立て始めた。

 舞台に運ぶまでは俺も手伝ったが、如何せんそれ以上のことは何もわからないので丸投げしてある。
 その方が相手にとってもやりやすいだろう、俺は彼らに設置を任せ、体育館の扉から外を眺める翠に近づいてそっと肩を叩いた。


「調子はどうだ?」

 一瞬驚いたものの、振り返って叩いたのが俺だとわかると安堵した表情を見せる。

「可もなく不可もなく――いえ、万全と言うべきでしょうか」
「無理するなよ」
 巫山戯て笑ってやる。緊張してないだなんて事はありえないのだから。


「あと数時間経ったらお前とゆかりはあそこで歌うんだぞ。初めてのライブが学校だなんて、運が良かったのかもな」

 その点に関しては、提案してくれたゆかりに感謝する他無い。普通の人間であれば気付いて当然な事なのだから、見落としていた俺の恥は尽きそうにない。

「…こうして、皆の前で歌うことができるのもプロデューサーさんのおかげです。期待に応えるためにも、絶対に成功させてみせます」

 にこりと口角を釣り上げる可憐な表情を俺に向ける。

 普段落ち着いているせいか実年齢以上に思わせてしまいがちな翠だが、時折見せるこの笑顔はとても彼女を歳相応に見せた。



218: 2013/05/27(月) 20:20:10.02 ID:6orG2Nwgo



 ――無機質な着信音がポケットから流れる。

 液晶画面に映ったのはゆかりのプロデューサーから送られたメールだった。

 内容には、近くの駅からタクシーで来ている事、後もう少しで着くこと、着いてからの行動の確認が書かれてあった。
 全く以て準備やスケジュール管理に余念が無いな、と文面を見て感心する。

 ひとしきり読んで頭に叩きこむと携帯を閉じ、視線を再び翠に向ける。

「あと少ししたらゆかり達がこっちに到着するらしい。着いてゆかりが休憩をとったら、二人で動作を確認しつつリハをするからよろしく頼むぞ」
「はい!」

 元気よく答える翠に一安心しつつ、舞台上の準備の進捗状況を確認して、俺は体育館を後にしたのだった。



219: 2013/05/27(月) 20:20:47.04 ID:6orG2Nwgo



  *



 閉めきった体育館の中に、いくつかの音楽がしきりに流れている。

 他の生徒に聞こえないよう配慮したこの空間で、二人は目線を合わせながらステップを踏んでいた。


 専ら楽器には門外漢なのでよくは知らないが、まず各々の担当が音を調整してから、進行内容に沿って演奏を開始した。

 予めバンドマンと翠とゆかりの二人を対面させ、進行について打ち合わせは行っている。紙面にて渡しているので、予想以上にスムーズにリハは進んでいく。


「さっきの所、ちょっとワンテンポだけズレてるな」
 舞台の正面から間近で二人を見ると、僅かではあるがミスが見つかる。

 すると俺は演奏の区切りの所で中断させて逐一指摘し、間違えた箇所の少し前から再開させる。

 やはりレッスン室とこうしたいつもと違う風景の中で踊るのとでは感覚も違う。人同士の距離が離れているためか、反響した音に惑わされて翠のステップがややズレていた。

 練習で起きなかったミスが本番で起きないように、今の内に俺とゆかりのプロデューサーが全力で彼女たちをサポートしてやる。



220: 2013/05/27(月) 20:21:13.37 ID:6orG2Nwgo



 念入りに確認しつつ、本人たちの体力を考慮した上でそろそろ休憩をしようか、と腕時計を見ると、既に他の生徒が学校に来始める頃合になっていた。

 実際に体育館の扉を開けて外に出てみると、遠目からでも様々な生徒の姿が確認できる。


 ゆかりのプロデューサーに了承を得てから、もう俺ですら聞き慣れた曲をキリの良い所で止めさせて舞台にいる皆を集め、開始時刻までの注意事項を連絡する。

 学園祭二日目が始まるのは午前9時。そして二人のライブが開催されるのは10時半である。
 まだ9時にもなっていないが、翠にとってはクラスの方の準備があるので、決して余裕がある訳ではない。

 ライブが始まるまであと2時間程度。

 翠の背中を見送った後、暫くの間休憩を取ることにした。



221: 2013/05/27(月) 20:21:47.53 ID:6orG2Nwgo


「Pさん。お疲れ様です」
「お疲れ様。本番はまだだけどな」

 先ほど担当である彼と何か話し合いをしてから、ゆかりは俺の下に来た。
 それは挨拶としては至極正しいが、内容はもう少し後で言うべき言葉である。


「普通なら翠一人でやるべきライブなんだけど……。わざわざ来てくれてありがとう、ゆかり。本当に助かった」
 東京からこちらまで来るのには近畿地方や中国地方へよりはいくらかマシだが、それでも遠いことは遠い。
 一応彼女たちの事を考え遅めに指定はしたが、それでも少し無理をさせてしまったことには間違いない。

「いいえ。私が言い出したことですし、翠ちゃんとこうしてライブができるのは楽しみに感じてますから」
 翠に似た丁寧な言葉づかいでゆかりは小さく笑う。
 その表情に偽りや曇りはない。


 彼女の小さな体には、どれほどの経験があるのだろう。
 有能なプロデューサーの手中でどれほど練習に明け暮れ、試練に立ち向かってきたのだろう。

 翠よりも年下であるのに、たった一年の差を実感させられるぐらい、彼女の落ち着きっぷりは際立っていた。



222: 2013/05/27(月) 20:22:24.97 ID:6orG2Nwgo




「俺が言うのもおかしな話かもしれない…けど頼みたい。もし本番中に翠がトラブったら、助けてやって欲しい」

 親ではない俺が言って納得できる話ではないのは事実だが、たった数ヶ月一緒に仕事をしてきただけで親心が湧いてきたもの事実である。

「もちろんですよ。今日は翠ちゃんの学友のために設けたライブです。私も、精一杯役に務めたいと思います」
 見方を変えれば、ゆかりが持つ翠への感情を利用したも同然である。

 心苦しくないはずはないが、それでも俺はゆかりの善意に頼るしか術が残されていのだ。

 優しい雰囲気が印象に残る彼女の微笑み。

 その彼女の笑顔が曇ることが無いように。そう俺は心の中で強く祈った。




223: 2013/05/27(月) 20:22:50.32 ID:6orG2Nwgo


  *



 踊る、踊る。

 壇上で、二人の少女が軽快に踊る。


 つま先は四方八方に向き、体は縦横無尽に舞台を駆け巡る。

 髪は揺れ、韻が踏まれ、足取りがビートを刻む。


 その音を聞いている皆の心臓の鼓動が、早く早く、次へ次へと聞き急いでいた。




 それは舞台袖で彼女達の横顔を見る俺も同様だった。




224: 2013/05/27(月) 20:23:20.84 ID:6orG2Nwgo



 甲高い音を挙げるエレキギターと共に、観客の動きが良くなる。とりわけ生徒達にはこの激しいリズムがお気に入りのようだった。

 踊っているのは一人ではない。一人だと感じることの出来ないコンビネーション・ダンスがステージを横切るように披露されると、より雰囲気は盛り上がった。

 普段の落ち着きが剥がれ落ちたかのようなキレのある動きに彼女を知る友人たちはきっと驚いただろう。

 ここに見えるのは、アイドルとしての水野翠だということを、知らしめてやれ。



 体育館に鳴り響く音に潰されることなく笑顔を見せる翠を見て、俺はそう呟いた。



225: 2013/05/27(月) 20:23:49.09 ID:6orG2Nwgo


  *



 翠は舞台側の暗幕から観客席を覗くと、大層驚いた表情を見せた。


 友人、先生、後輩やまだ知らない下級生、私服の色々な年代の人々、そして数台のカメラがまだ真新しい木の床を占有していたのだ。
 少し早いが雑談の声が歓声の予感を感じさせた。

 全校生徒全員が入っても余裕のあるこの体育館が人で程よく埋まるのは予想外だったのだろう。
 それは本人にとって新人であるという自負のせいでもあったのかもしれない。


 しかし、世間は予想以上に翠を見てくれていた。

 担当しているが故の贔屓もあるが、それでも確実に『流れ』が彼女に来ていると俺は確信している。


 このライブをきっかけに、来年、再来年も更に活躍できるはずだ。翠なら。



226: 2013/05/27(月) 20:24:39.24 ID:6orG2Nwgo



「……翠」
 刻々とライブ開始の時間が近づく最中、パイプ椅子に座る翠の肩は僅かに震えていた。


 刹那、俺は安心したように感じた。

 そっと近づくと、小さな肩に手を置いて、言う。
「練習は嘘を吐かない。翠が本気で取り組んでいたなら体は勝手に動いてくれるさ。だから……一生で一度しかないこの初めて体験を胸に刻め」

 思い出としていつでも思い出せるように。

 見繕う試みはなく、ただ本心で翠に伝える。



 この時、俺はどういう風にいうのが正解か解らずに居た。

 何故ならば、こういった場合への対処として、三者三様の答えがあるからだ。
 例えば感情を普遍化するか、不安を払拭するために鼓舞するか、あるいは脅しを掛けてやるか、である。


「――はい」
 周りの雑音がシャットアウトされ、彼女の返事だけが俺の耳に入る。


 彼女は俯いていて、表情は見えない。

 だが、そこに細切れそうな声はなかった。



227: 2013/05/27(月) 20:25:47.76 ID:6orG2Nwgo



「皆さん本日のライブを見に来てくれてありがとうございます! 今日は特別ゲストとして、皆さんご存知の水本ゆかりさんが来てくれていますー!」
 その言葉に、観客は歓声を上げた。

 一曲目が終わって場が暖まった後、マイクスタンドからマイクを抜いて、翠は観客席に向かって自己紹介をする。

「ご紹介頂きました水本ゆかりです。今日はお招き頂きありがとうございます。精一杯頑張りますので、どうか最後までよろしくお願いしますね」
 ダンス後のトークなので若干声が上ずって喋り急ぎ過ぎる傾向がありがちだが、彼女たちは踏ん張っていつも通りの落ち着いた口調を続けていた。

 この場合はむしろ雰囲気に任せて勢いあるトークをしたほうがいいのかもしれないが、これも彼女達らしいか。


 是非はこのライブの反省会でやるとして、俺は二人の関係を紹介する彼女達を眺めた。



228: 2013/05/27(月) 20:26:27.98 ID:6orG2Nwgo


 数分もすると、進行役も兼ねている翠はバンドマン達に合図をする。

 すると、ずっと練習していたもう一つの曲、学校の仲間が作った曲の伴奏が流れ始めた。
 イントロを聞いて、一部の観客がざわつく。
「この曲は軽音楽部の方に頂いた曲です。……お礼は、私たちの声でお返しします!」

 彼女の声と共に、一気に曲が加速する。

 これも打ち合わせ通りで、翠が高らかに叫んだ後、ギター担当には少し調子を上げてもらう様にしてもらったのだ。

 鳴り響くサウンドに負けじと観客が声を上げる。身内である翠はともかく、普段テレビでみる水本ゆかりが自分の高校の身内が作った歌を歌ってくれるのは最高に違いない。

 ステージは既に暗く、体育館の二階部から照射されるスポットライトに映された二人だけがステージに視界に浮かび上がる。

 大きなステージではないので豪華なレーザー装置こそはないものの、予算内で出来る限りの装飾は行っている。


 たったそれだけの舞台でも、二人を含め、その場に居る皆が盛り上がってくれていた。



229: 2013/05/27(月) 20:26:56.37 ID:6orG2Nwgo



 曲は流れ、旋律が彼女達の口からリリックへと姿を変えて空間を揺らす。

 一つ一つの音、一つ一つの声がこのステージを支配する。


 残念な話だが、翠一人の声ではきっと曲に埋もれていただろう。
 ゆかりの繊細ながらも芯のある声が翠の声を補強してくれていたのだ。

 尤も、それは恣意のある話ではない。

 たまたま二人の声色が重なりあってそういう効果を表しただけなのだ。
 それだけ、彼女達の相性が良いのだろう。


 俺は強く照らされた翠をただ眺めていた。


 アイドルが輝く瞬間は、俺みたいな人間は離れた所でじっと見ているしかない。


 だから一観客として、この感動を、この反応を伝えたいと思う。


 真剣な面持ちで――それでいて本当に楽しそうな横顔を見ながら、俺はこの光景を目に焼き付けていた。



230: 2013/05/27(月) 20:27:38.23 ID:6orG2Nwgo


  *



 ざわざわとした喧騒が、広い運動場に立ち込めている。

 簡素な骨組みで作られた屋台が、あちらこちらに列を作っているのである。

 ある生徒はクラスで作ったTシャツを、ある生徒は持参したエプロンをそれぞれ自由に着用しては色とりどりの看板や声で客を誘っている。


 文化祭二日目。
 賑やかな人混みが学校中に形成されているのは、近所の住民や小中学校の子供も数多く訪れているからである。

 毎年この高校の文化祭は自由解放日があり尚且つ出店が多いこともあって人気があるとのことだが、今年に限って言えばチラシを大々的に配ったので一見の人も多数来てくれているようだった。

 学校関係者にとっては、色々な人に来てもらえて嬉しい反面運営が更に多忙になり、いつも以上に困っていることだろう。


 そんなちょっとしたお祭りの中、俺と翠――無事ライブを終えた俺達は、歩幅と共にゆっくりと移り変わる景色を楽しんでいた。



231: 2013/05/27(月) 20:28:10.19 ID:6orG2Nwgo


  *



 翠の友人と思しき女性の歓声。体育館の空気を揺らす拍手。


 ライブが終わった瞬間、俺が耳にした音は予想する限り最高の物だった。

 心の中で微かな悪寒は感じていた。
 失敗。嘆息。罵声。アイドルが現実に引きずり出されるような、そんな光景。


 しかし、今回に限っては杞憂に終ってくれた。


 暖かい視線と雰囲気が、彼女達を祝福してくれたのだった。


 立ちっぱなしで聞いていた俺は、へたりと重力のままパイプ椅子に座り込むと、多大なる安堵が肺を満たした。


232: 2013/05/27(月) 20:28:46.21 ID:6orG2Nwgo



 ステージの袖に帰ってくると、翠はまずゆかりとハイタッチをし、次に共に音を奏でたバンドマン達とも笑顔でハイタッチを交わした。

 緊張の糸が解けて安心した、という表情ではない。ただやりきった故の充実感が彼女を笑顔にさせていた。


 最後に翠は俺を視界に捉えると、小走りで近づいてくる。


 お疲れ様、よくやった。どんな言葉を掛けてやろうか、いやまずはハイタッチかな、と思案していた刹那だった。


「プロデューサーさん!」
 胸に熱い空気と鈍い衝撃が走ったと同時に、良い香りが鼻腔を刺激する。


 なんと、翠は俺の胸元に飛び込んできたのだ。


233: 2013/05/27(月) 20:29:13.22 ID:6orG2Nwgo


「み、翠!?」
「やりましたよ! 私、ちゃんと出来ました!」

 俺の言葉を無視して、手を俺の胸元に当てて支えるように上目遣いで嬉しそうに報告をする翠。

 それは、普段の姿とは全く違って酷く幼く見えてしまう。

 ――いや、それもライブの影響なのだろう。
 自身の形作った性格や体裁も全て有耶無耶にしてしまうほど、ライブ…それも初めてのライブは不安と恐怖と重圧が彼女にのしかかっていたのだ。

「ちゃんとプロデューサーさんの期待に応えられました! これなら…私はプロデューサーさんの担当アイドルだって言えます!」
 ぴょんぴょんと小さく跳ねながら、じゃれつくように胸元で笑う翠。


 はて、彼女は本当に翠なのだろうか、と俺は場違いにも考えてしまった。



234: 2013/05/27(月) 20:29:39.85 ID:6orG2Nwgo


「よくやった。大変だったけど、誰が見ても成功だろうな。おめでとう!」
 瞬間我に返ると、俺は思いつく言葉で翠を褒める。

 内心では色々なものに押し潰されそうになったのだ、多少ハイテンションで行動がいつもと違ってようと問題なかろう。

 ありがとうございます、と元気の良い声で返事をした翠の肩を持つと、俺は少しだけ距離を離す。



 天に掲げた俺の手に翠の手が重なると、パン、と舞台袖に乾いた音が鳴った。



235: 2013/05/27(月) 20:30:19.29 ID:6orG2Nwgo


  *



「――はい、クレープとジュースな」
 校舎の壁際に置かれたベンチに俺達は座り、喧騒を遠くから眺めることにした。

 昔商店街で食べたパフェからもわかるとおり、翠も女子高生らしくデザートに目がなかった。
 クレープ屋台を見つけた時の目の変わり様と言ったら、とても微笑ましく思う。

 ライブ後でまたこれだけ歩けば疲れるだろう、ということで、偶然視界の奥に見かけたベンチで休憩することにしたのだ。


「わあ、美味しそう……!」
 先にベンチに行かせていたので、実物の温かいクレープを手に持った翠は子供のようにクリームを爛々と見た。


 ジュースを脇に置いて、俺も座る。


 さっきまで耳を覆っていた騒々しさが遠くなると、まるでそれが強い過去の回想のように思えた。



236: 2013/05/27(月) 20:31:23.69 ID:6orG2Nwgo



「改めてお疲れ様。あんなに良いパフォーマンスだったのは、俺も驚きだったよ」

 ライブ終了後、次に使う部活のために片付けを行うと共に、この後また東京で仕事があるらしいゆかりとそのプロデューサーには最大限の礼をして別れる事となった。

 出来るならこの文化祭を少しでも楽しんでいって貰いたかったが、こういった移動の多いスケジュールも彼らに取っては比較的よくあることで、大変だなと思う一方羨ましくも思えた。

 クレープを両手で大事そうに持っている隣の翠は、少し前の出来事を思い出すように秋空を仰ぐ。

「ゆかりさんが隣にいてくれて、とても心強かったです。…プロデューサーさんも、見てくれているとわかってたから、頑張れたんだと思います」
「プロデューサー冥利に尽きるな」

 未だ熱気冷めやらぬといったところか、上気した頬をした翠は俺を見て小さく笑った。



237: 2013/05/27(月) 20:31:58.91 ID:6orG2Nwgo


「…私、今の時間が夢みたいに感じてます」
 クレープを食べ終えてから、ペットボトルのジュースを飲みつつ今日のライブの反省会を兼ねた、半分プライベートの時間。

 ライブの衣装は既に着替えていつもの制服姿に身を包んだ翠は、スカートの上にペットボトルを置いて俺を見る。

「夢じゃないぞ。翠の初めてのライブは成功したんだ」
 初めて担当したアイドルがこうして無事にステップを進める事ができて、俺もプロデューサーとして鼻が高い。

「……いえ。そうじゃないんです」
 この調子だ、と意気揚々と翠を褒めてやると――予想外なことに、彼女は首を横に降った。

「勿論、ライブだって見てくれた皆さんに喜んでもらえましたし、ゆかりさんとも一緒に歌えたのは楽しかったですけど……ええと、その」
 太ももに挟まれたスカートがすりすりと音をたてた。

 言い難いのか、歯切りが悪い様子の彼女であったが、未だに含意が掴み取れない俺としてはもどかしい気分である。



238: 2013/05/27(月) 20:32:37.06 ID:6orG2Nwgo


 翠は先程、『今』が夢みたいだ、と言っていた。
 ライブのことかと問えば、違うと答えた。

 そこから導き出される答えといえば……俺は思いつく。

 しかし、仕事上の関係なのだから、こんな一歩間違えればセクハラになりかねない事を言ってよいものかと悩んだが、今の比較的親しい状態であれば戯言で済むか、と結論付けた。

「ああ、なるほど……、俺とこうして学園祭を歩くのが夢だったのか」

 我ながら思春期の男子と相違ない妄想を口に出したと思う。



「……あ、そ、そうです」

 しかし、馬鹿げた発言は馬鹿げた展開を生んだ。



239: 2013/05/27(月) 20:33:02.68 ID:6orG2Nwgo


「……へ?」

 今更だが、俺は少し前の出来事が脳裏に浮かんだ。

 ライブが無事終わったら、何かご褒美をやろう、というような話だったと思う。

 その時、彼女は高いプレゼントでもなければ長期休暇でもない、俺と学園祭を歩くことを選択した。

 当時の自分はそれを変な事を言うな、という感想だけで結論づけてしまったが、今再びその推測が再燃する。

 まかり間違っても、よもや今時の女子高校生がこんな大卒無職にリーチがかかっていた俺に好意を抱くことはあるまい。翠のような賢明な人間であれば尚更だ。

 ならば、何故彼女はそう感じたのか。


 翠の口から出た続きの言葉は、俺の想像を遥かに超える――いや、遥かに下回る程の純朴なものだった。



240: 2013/05/27(月) 20:33:30.29 ID:6orG2Nwgo



「実は、その、今までこうして男性と一緒に出かけたり、いっぱいお話をしたりしたことが無くて……。それで、ちょっと憧れてたんです」

 心の中の口が、無力になる。

「友人たちがそんな…仲のいい男子の友達と遊びに行ったとか、彼氏とデートしたとかいう話を楽しそうにしてたので……私も」
 そう言って酷く顔を紅潮させると、翠は口をしぼませ俯く。

 ああ……そういう事か。
 酷く重く考えていた俺の脳みそが華麗に弾き飛ばされるイメージが容易く想像される。

「あ、い、いえ! 私はもうアイドルですから、そういった話題に顔を出してはいけないのは承知していますが、その、なんといいますか……」

 一瞬だけこちらを向いて誤解を解くように手を振るが、再び視線を外して翠はペットボトルを触って遊び始めていた。


 有り体に言えば、翠も人並みにこうした行動が取ってみたかった、という事だった。

 当然といえば当然である。人間として生まれてきたのであれば、情緒を持って悩みや興奮と付き合って異性と通じあってみたいと皆考えていると言っても過言ではない。

 問題は、彼女に今まで…アイドルになった日以前にそんな経験が無かった、ということである。



242: 2013/05/27(月) 20:34:49.44 ID:6orG2Nwgo



 無論、ないにこしたことはない。

 火種を抱えていれば、例えアイドルになる前の出来事であってもそれが取り沙汰され騒ぎになるタレントは後を絶たない。
 それだけ芸能人に対する異性問題というものは過敏なのだ。

 そういう意味では、翠がある種箱入り娘であることは個人的にも喜ばしいが……かといって、全く無い状態では今後問題行動を起こしかねないという懸念もあるのである。


 正直に言えば、よくそんな経験もないままここまで生きてこれたな、という驚きがあった。

 ……しかし、それを恥ずかしそうに言う彼女が、たまらなく可愛いのだ。


 どうしたものか、と一周だけ逡巡した後、俺はおもむろに立ち上がる。

「…じゃあ、今日はたくさん楽しもうか」

 意味がわかれば、行動に移さない訳にはいかない。




243: 2013/05/27(月) 20:35:53.71 ID:6orG2Nwgo



「今日の時間も多くはないからな。日が暮れる前に全部回ろう」

 結局、知らないが故の好奇心だったのだ。

 そうした経験を得る相手が俺みたいな相手であることが残念でならないだろうが、俺もアイドルとしての彼女を導くプロデューサーだ、どんな悩みであれ、己の手で解決できるのであれば喜んで差し出そうではないか。

 俺とて経験豊富の立場ではないが、いくつか場は踏んでいる。

 突然立ち上がって宣言した俺に困惑して未だ座って俺を見上げている翠の手を取り、少しだけ引いてやる。
「ひゃ――」
 すると、翠もするりとベンチ前に躍り出る。

「ほら。高校最後の学園祭だ、のんびりしてると出遅れるぞ!」

 何だか翠やこの高校の生徒達の若気にあてられたか、俺も心がアグレッシブになっているような気がする。

 いや、俺も年齢でいえばまだまだ若造なのだが――過ぎ去ってしまった昔の俺を回顧しながら、驚きから目が覚めてにこりと笑った彼女と共に学園祭を再び回り始めたのだった。



244: 2013/05/27(月) 20:36:39.93 ID:6orG2Nwgo


  *



「はー……、足が疲れてしまいましたね」

 グラウンドには模擬店の他、大きなスペースを用いたクイズ大会やゲームコーナー、参加型のアトラクションがあり、また校内にはクラスごとの催しであったり、文化部の作品を展示したり、あるいは喫茶店を営むクラスもあったりと、学校内の敷地を余すところなく使用していて、全部回るのに大変苦労した。

 しかし、本当にたくさんの人数が関わって出来上がるこの学園祭という行事はやはり素晴らしいものだった。

 そんな開かれた殆どの出店に足を運んで、翠の顔を見てライブを見た旨を伝えられて応援してくれる人とも数多く出会い、半ばファンとの交流会も兼ねつつ過ごしていれば、ただでさえ早く感じる時間は瞬時に加速していっていた。


 見られる所を全て回り終えて、日が落ち始めていると言った頃、翠はとある教室に入るとそのまま窓際の席に座った。
 黒板から近い、前から二番目の席だ。

 俺は彼女に誘われるがままに、隣の席に座ることにする。

 学園祭の終了時刻も近づき、客も帰って、今は殆どの出店も片付けを開始している時刻だ。


 ここは学園祭では使われなかった教室のようで、俺達以外の人間がいない中、普段の教室の風景をありのまま映し出していた。



245: 2013/05/27(月) 20:37:57.31 ID:6orG2Nwgo



「ここ、プロデューサーさんに見て欲しかったんです」
 この席がか、と訊くと、こくりと頷く。

「実はここ、私の席なんですよ。学園祭ではグラウンドを使ったので、私のクラスは教室は使わなかったんです」

 翠はガラス越しに外を見る。赤らんだ空が頬を彩っていた。

「私がアイドルとして通用するかどうか、…正直に言えば、今でもわからないでいます。ですが、プロデューサーさんと一緒にいると、わけもなく上手く行くような気がして。…おかしいでしょうか」

 彼女は首を回してこちらを振り向く。
 俺はこの時どんな顔をしていたか、自分でもわからなかった。

「誘った手前、どうやってでも成功させてみせるさ。……でも、君をアイドルにすると言ってしまった事。それは今更だけど、悪いと思ってる」
「え?」
 意図していなかった返事だったか、翠は困惑する表情を見せた。

「今日の話だよ。もし翠をアイドルにしていなければ、もしかしたら翠の好きな男と今日みたいなデートが出来たかもしれない。そうでなくても、高校生活最後の年の青春を仕事で潰させたのは俺が原因だからな」

 ふと考える。
 特別な人間にとって、ありふれた人間の思いというのはどうなのだろうか、と。

 世間一般的な考えとして、翠のような特別な立場の人間のことを皆羨ましく思う反面、彼女は通常送れるはずの学校生活を確実に犠牲にしている。

 今日俺に恥ずかしながら語ってくれた心中を、俺が居なければもっとまともに叶える事が出来たのではないかと思うのだ。



246: 2013/05/27(月) 20:39:29.19 ID:6orG2Nwgo


 ほんの少しの間、俺の言葉を咀嚼してから、突如彼女はとんでもないことを口に出す。

「…ちょっと怒ってもいいですか?」
「え、いきなりどうしたんだ!?」

 本当に脈略もない事を言われて俺は思わずたじろぐ。

 何事かと訊けば、彼女はゆっくりと話し始めた。

「今日は、本当に楽しかったです。いつもは仕事の上でしかお話出来ませんでしたが、今日はプライベート気分で話が出来て…プロデューサーさんの事を一杯知ることができて、嬉しかったんです」

 ライブ後の時間は、俺もプロデューサーであることを忘れて楽しめていた。
 担当アイドルといえど、こうしてプライベートな事を友達のように話せたのはかなり久しぶりだったからだ。

 仕事上の話からは少し離れて、昔の頃の思い出、楽しかったこと、好きなもの、嫌いなもの、恥ずかしかったこと、面白かったこと。
 お互いが知り得なかった沢山の出来事や感情を伝え合うことが出来た時間が何よりも楽しく感じていた。

「私を見せて、その上で判断してもらって。それでまた今日もたくさん話して、私のことをもっと知ってくれたと思ったのに…そんな事を言われるなんて、正直心外です」


 ――あ、と俺の声が不意に漏れた。



247: 2013/05/27(月) 20:40:42.92 ID:6orG2Nwgo



「私はアイドルになった事を後悔していません。そして、プロデューサーさんに見つけた貰った事を本当に感謝しているんです。なのに、今更謝れても…」


 ああ、そういう事だったのか。


 彼女のことをアイドル扱いしていなかったのは、他ならず俺だったのだ。

 翠はアイドルになることを決めて、普通の生活は出来ないということを重々承知していた。
 その上で、アイドル・水野翠でなければ俺と今こうして過ごすことが出来ないと思い、感謝してくれていたのだ。

 すなわち、それは俺に対して少なからず悪くは思っていないということ。
 もっと簡単にいえば、俺を仕事だけでなく、人間として信頼してくれていること、親近感を抱いてくれているということである。

 にも関わらず、どこか俺は翠と少し距離を置いてしまっていた。
 今日の事だって、あくまでご褒美という名分に従って動いていた所以が心の中で微かではあるが確かにあった。

 しかし彼女にとっては、そのご褒美というのはあくまで偶然降って湧いただけのただのきっかけにすぎない。
 消去法的希望ではなく翠自身の欲求により、今日の出来事を選択した。


 それがどういう意味を表すのか。


 そこに気づかないで、イフの話を持ちだして謝る俺はどれだけ無理解だったのだろう。



248: 2013/05/27(月) 20:41:51.85 ID:6orG2Nwgo


「…ごめん。俺が悪かったよ」
 彼女の思いを知って、改めて謝罪する。

「いえ……。プロデューサーさんにとっては仕事の一部ですから、それで当然なのかもしれません」
 ゆかりのプロデューサーの姿が突然思い浮かぶ。

 彼はゆかりに対してストイックに接し、今の地位にたどり着いた。
 物事は結果論なのだから、結局はそれがプロデューサーのあるべき姿なのかもしれない。

「…仕事の肩書きに俺が乗っ取られてたのかも知れない」

 だが、それでは少し寂しすぎる。

 心の中では、翠はきっと不安だらけだ。
 そこに俺という柱の傍に立つことで、見にまとわりつく数々の恐怖を解消してきたのだろう。

「今日は俺も本当に楽しかったよ。俺が高校生の頃よりも…いや、人生の中で一番楽しかったかもな」
 はは、と笑う。

 翠は何も悪くない。ただ俺が無神経だっただけの話だ。



249: 2013/05/27(月) 20:42:25.99 ID:6orG2Nwgo


 最後にここに来たのも、この風景を俺に見て欲しかったのも、つまりは翠の事を俺に知って欲しかった故の行動だった。

 ――もっと私を知って下さい。出ては居ないが、そんな彼女の声が聞こえた気がした。

「今日は俺と一緒に学園祭を回ってくれてありがとう。翠の事を知れて嬉しいよ」
「……はい」

 彼女の思いを聞いて改めて考えた上で言葉を選択し、発言する。

 夕日を背景にした彼女の顔は、どこか暗いようで、瞳がとても輝いていた。




250: 2013/05/27(月) 20:43:35.57 ID:6orG2Nwgo



「…今日はデートって、プロデューサーは言いましたよね」

 焦って違うと言いかけるが、ちょっと前の俺の発言を思い出して口を閉じる。
 確かにニュアンスとしては相違ない。

「俺の立場でそれだと不味いんだけどなあ。いやまあ、そうなるな」

 当然ではあるがアイドルが恋愛など論外である。そう言っておいて、俺と疑われるような行動をしていた事に今更ながら狼狽える。

「もっと近くに来てくれませんか?」
「近くに…って、こうか」
 翠はそう俺にお願いしたので、普段の距離である机一個分離れた所から、椅子を動かして殆ど隣接するぐらいにまで近づいた。
 教科書を忘れたので机をひっつけたよろしく、ひとつの机で二人が勉強するといった程だ。

「アイドルですから、デートだなんてきっともう出来ませんから……今日の、最後のお願いです。私に恋人っぽいこと、してくれませんか?」

 これほど露骨に背中に冷や汗が走ったことが、今までの人生の中であっただろうか。



251: 2013/05/27(月) 20:44:33.07 ID:6orG2Nwgo



 ミイラ取りがミイラ。そんな言葉が頭をよぎる。

 かつて俺が翠をスカウトした当初、ちひろさんに大まかなプロデュース方針としてそういった恣意的でない官能美をテーマに上げたことはある。
 しかし、まさに俺自身がそれを目の前にしてしまうとは夢にも思わなかった。


 男性的感覚から言ってしまえば、非常に『クる』ものがある。

 恐らく本人としては打算的に話している訳ではないとは思うが、それ故に不自然さはなく、臨場感がそこはかとなく俺の心臓を圧迫していた。

「…やはり、駄目でしょうか」
 首を傾げて、それが結果的に上目遣いになる。
 ライブ用にしっかりとメイクをしているためもあってか、彼女がとても色っぽく感じてしまう。
 かつて俺がちひろさんに言っていた翠の魅力に、とりつかれそうになるのを必氏に抑えて俺は考える。


 立場的に、『恋人っぽいこと』を俺がすることは絶対にできない。
 それは俺を信じて任せてくれた両親に対する裏切りにもなるし、一人の人間として、今まで僅かではあるが培ってきた責務を放棄することなど到底許されることではない。

 そうでもなくとも社会倫理的にアウトではあるのだが。


 では、プロデューサーという立場としてレッドラインに触れない程度の『恋人っぽいこと』とは何かを考えた時だ。

「ん…」

 ――俺は、翠の頭に手を置いていた。



252: 2013/05/27(月) 20:45:36.18 ID:6orG2Nwgo



 頭に触れた時、翠の体が小さく跳ねる。
 恋人っぽいこと…それの予想からは大きく外れたからだろうか。

 しかし、一回、二回、分を刻むようにゆったりと手を往復させていると、翠は次第に目を閉じて俺の手に体重を預けてきたのだった。


 迷った挙句の事だった。

 駄目だと断ることも出来ただろうが、それをしてしまうのは良くない事のような気がして、咄嗟に俺は手を伸ばして艶やかな翠の髪を撫でたのだ。



「…まさか、高校生にもなって頭を撫でられるなんて思いもしませんでした」

 数えることを止め、ただ夕日の中流れる時間に沿って頭を撫でていると、不意に翠は感想を漏らす。

 確かに、恋人っぽいことといえば普通であればもっと別の事を思いつくだろうが、その思いついた事が尽く立場的にNGをもらいそうな予感がしたので、こうすることに至ったのだった。



253: 2013/05/27(月) 20:46:21.80 ID:6orG2Nwgo



「俺にも立場っていうのがあるからな。こんなことしか思いつかなかったよ」
「でも、なんだか心地よいです」

 そう言って、近づいていたお互いの肩が触れた。
 撫でるという行為も、ここまでくると恋人っぽくなる。


 しかし、翠は俺を相手にしてそこまで許せるものなのだろうか。
 一応己も若者とはいうが、女子高生の感覚はいつまで経ってもわかりそうにない。



 そしていつの間にか、時計の音が消える。


 ただガラス越しに聞こえる生徒たちの声が、今の時間を奏でていた。



257: 2013/06/04(火) 19:53:24.96 ID:6zYDImijo

   *



「…はい、ありがとうございます。明日そちらに向かわせて頂きますので、よろしくお願いします」
 相手の快い返事を聞いて、古臭い受話器を静かに置いた。


 事務所も秋口になってくると早々に冷房の役目を終えている。
 新品であればもっと使い道もあろうに、昭和の雰囲気ただようこのエアコンでは、暑いにも寒いにも微妙にしか対応してくれないのだから当然である。

 ちひろさんも同じ事を思っていたようで、その話が持ち上がれば毎回昼ごはんのオカズが一品増えた。

「今日で三件目ですか。一気に増えましたね」
 隣で事務作業をしているちひろさんがこちらの電話が終わることを見計らってお茶を入れてくれた。
 一言感謝を述べてからお茶を飲むと、机に置いていたスケジュール帳に明日の予定を書き込む。

 かつて雑多なメモ帳かと思われていた空白の多いこの手帳も、今や少なくとも五割は埋まっている。

 まだまだ全国区の仕事がメインになっているとは言えないものの、それでも当初との差を知っているので嬉しい限りである。



258: 2013/06/04(火) 19:54:11.25 ID:6zYDImijo


 ――まさかあのライブがそこまで起爆剤になるとは、俺ですら思っていなかった。

 やはり決定的な要因となったのはカメラだろう。
 今回行ったライブはカメラに撮影され、翌朝のニュース番組で特集として組んでもらっていたのだ。

 仕方のない事だが、ピックアップされるのは当然ゆかりだった。

 しかし、ライブ行うまでに至った経緯をライブ中のトーク部を編集して放送したために、翠の名前も同時に広めることが出来たのだ。

 加えてインターネット上のニュースにもなっており、全く関係を知らなかったゆかりのファン達の反応を見ると快く受け入れてくれているようだった。


 そうするまでの交渉は殆どがゆかりのプロデューサーが行っていた。
 実利に関わってくる事柄に関しては、俺が介入することをあまり好ましく思っていないらしい。
 てきぱきと話を進めていく中で、横から意見を言う立場になってしまっていたのが残念といえば残念か。

 俺もいずれはああいう交渉術を身につけていかなければなるまい。
 限定ユニットであっても、関係を持った以上はこれからも何らかの接触がないはずはない。
 その中で俺も必ず学んでいかなければならない。



259: 2013/06/04(火) 19:55:12.66 ID:6zYDImijo


「ですね。いずれはバラエティにも進出させたいところですが……」

 大体の場合、バラエティなどの番組にゲスト出演する際には何らかの告知を兼ねた宣伝が目的となる。
 俳優であれば映画、アーティストであれば音楽や芸術作品などである。

 上気の目的のため事務所が掛けあって、ようやく出演が実現する。

 それ以外で単純に出演が出来るのは認知度が高い大御所のタレントかバラエティに順応しやすい芸人が殆どである。

「武器を持っていない翠ちゃんには少し厳しいですか」
 ちひろさんも訊ねる素振りを見せるが、きっとわかっている。

 翠においては、確実に前者にあたる。
 何かのきっかけがあって小さくてもいいから話題になるか、もしくは――。

「CDを出せれば、あるいは」

 そう俺ははっきりと言った。



260: 2013/06/04(火) 19:55:39.92 ID:6zYDImijo


 とりわけアイドルという職業において、CD、すなわち持ち歌の有無というのは生氏を分かつ程に重要である。

 何故ならば、それはアイドルがああいったテレビの中と繋がりを持つためのアイテムとなり得るからだ。

 代理店の戦略の場合を除けば、番組にいきなりぽっと出の知らないアイドルが出てきた所で視聴者は何も思ってはくれない。

 理由は一つ。ただインパクトが無い。

 視聴者が受け身でいる以上は何も進展は見込めない。
 彼ら自身が積極的に調べて、知りたい、見てみたいという欲求を生み出させることが何よりも必要なのだ。

 そういった点を踏まえれば、現時点での翠では太刀打ち出来そうにはない。

 そのために翠だけの歌が欲しい。
 同時に何らかの切り口を見つけることが出来れば、タイミングさえ間違わなければ充分に勝機はある。



261: 2013/06/04(火) 19:56:11.63 ID:6zYDImijo


「歌、ですか」
 ちひろさんはぽつりと声を漏らす。

「ベストなのはタイアップですね……例えば新商品のイメージソングとか。映画のテーマソングまで行くと出来過ぎなくらいですけど」
 巫山戯る俺をちひろさんはくすりと笑った。

 本当に何かの特別な縁が無い限り、映画のテーマソングには絶対に行き着かないだろう。

「プロデューサーさん、翠ちゃんに曲をプレゼントできるように頑張って下さいね」
 キーボードのエンターキーから指を話すと背を伸ばし、一息ついてちひろさんは言う。

 オファーを待つ事ができるのは大きいプロダクションか、アイドルに類まれた才能があるかどうかだ。
 残念ながら、この事務所や翠自身はその二つを持ちあわせてはいない。

 だから、それを実現させるためには俺からどんどん攻める他ない。

「もちろんですよ。目標はソロライブ! ……ですかね?」
「そこは決めてくださいよ、もう…」

 かざした俺の手がしおれるのを見て、ちひろさんは大きく息を吐いた。



262: 2013/06/04(火) 19:56:41.45 ID:6zYDImijo



「おはようございます――って、どうかしましたか?」
「ああ、翠か。おはよう」
 俺の背後からいつもの扉の音と一緒に凛とした声が聞こえた。振り向くまでもなくわかる。

「翠ちゃんおはよう。お茶は温かいのがいい?」
「あ、お願いします。いつもありがとうございます、ちひろさん」

 学園祭も終わるといよいよ涼しく、場合によっては寒くすら感じる季節となる。
 ちひろさんは見慣れたテーブルに翠の分のお茶を置いた。

 綺麗さというよりも落ち着いた服装の翠は鞄をソファの近くに置いてお茶を飲んだ。やはりこの季節は温かいお茶もおいしかろう。

「ええと、今日の予定は番組の収録でしたよね?」

 一つ間を挟んで、翠は俺に訊ねる。

 その通りで、今日は昼からグルメ番組に出ることになっている。
 一見あまり料理には縁がなさそうな翠も、料理に対する丁寧な感想と甘味を食べた時の美味しそうな顔がどうやら好評らしい。

 たまにちひろさんに東京のおいしいスイーツについて話しているのを横目で作業することがあるので、本格的にハマっているようだ。

 レッスンをきちんとする翠だから大丈夫だろうが、ボディラインの管理には気をつけてもらうように青木さんに言っておかねば。



263: 2013/06/04(火) 19:57:38.98 ID:6zYDImijo



「ああ、もうちょっと経ったら現場入りするからな……と。そうだ、翠」

 本日と、今日入ったばかりの仕事について打ち合わせ日時を彼女に連絡していると、つい先程ちひろさんと話した内容を思い出す。

「なんでしょう?」
 自分のスケジュール帳にメモをしていた翠が顔を上げて俺を見る。


 わかりきったことだけど。当たり前のことだけど。


「翠は…歌を歌いたいか?」

 何となく、訊かずにはいられなかった。


「……はい。歌いたいです」
 突然の問いに一瞬戸惑った翠は、質問の内容を理解すると即座に回答してみせた。


「そうか。…そうだよな」
 ただ、翠のはっきりとした意志が見たかった。
 見ることで、俄然やる気が出てくるのだ。


 彼女の表情に冗談はない。
 いつだって純粋で、本気だから。


 翠が歌を歌ったら、どうなるのだろうか。一人の人間として、一人のファンとして聞いてみたいのだ。


 いつか来るであろうその時を期待して、俺はスケジュール帳を片手で閉じたのだった。



264: 2013/06/04(火) 19:58:21.95 ID:6zYDImijo


  *



「今日来てくれたのは我が愛知出身のアイドル、水野翠さんです!」
「こんにちは。本日はよろしくお願いします」
 ぱちぱち、というパーソナリティの拍手が部屋に響くと共に、丁寧に翠が挨拶をする。


 ラジオ放送。

 翠にとって…いや、俺にとって初めての仕事だ。
 最近ではテレビでの露出も数えられるほどには増え始めて、俺も更に忙しくなってきた。

 休日もなんのその。
 休める時が休日だと言わんばかりのペースで外を動き回っていた。


 隔離された狭い部屋でテーブルに二人、パーソナリティの女性と翠がマイクに向かって談笑している。
 このラジオ番組は地元でも有数の放送局で、毎回ゲストを呼んでトークをしながら進めていく。

 翠も例に違わず、パーソナリティの先導の下、様々な話題に対して話を広げていた。



265: 2013/06/04(火) 19:59:17.86 ID:6zYDImijo


「――えー、続いてはラジオネーム・やっちゃんさん。『はじめまして。僕は最近退屈な事が多くて、よく何か起こらないかなーとついつい考えてしまいます。お二人は最近何か面白いことはありましたか? よければ教えて下さい』……はー、なるほど」

 このラジオ番組ではメールを募集しており、今日もいくつかのお便りについて話していた。
 その中の最後のお便りがこれだった。

「私はこういう仕事柄よく色んな人とお会いしましてですね、そうなると本当に見当もつかないような話も聞いたりして!」
「面白そうですね。どんな話なんですか?」

 俺は全く関係ないが、少し考えてみる。


 ……まあ、冗談でも最近退屈など言えるはずがないな。

 毎日歩きまわって腰を折って、事務所に帰ればチェックして連絡して。いつも大変である。

 でもそれが翠の成長に繋がる大切な事なのはよく分かっているから、苦にはならないか。

 今こうして壁越しに話す翠を見られるのもこれまでの結果だろうしな、と俺一人だけ頷く。



266: 2013/06/04(火) 19:59:55.59 ID:6zYDImijo



「――だから、やっちゃんさんも色々な人と話をしてみたらどうでしょうかー? 翠さんはどうです、何か面白いことはありましたか?」
「私は……そうですね」

 パーソナリティが誘導すると翠は少し考えて、語る。

「私も、アイドルになってからはとても沢山の方と沢山の事をしてきたので、退屈、という言葉はしばらく思いつきませんでしたね」

 彼女は首を傾げて微笑む。
 確かに、アイドルという立場では退屈とは遠ざかるを得まい。

「翠さんのデビューは今年…でしたよね。それでも最初の頃は大変だったんじゃないですか? 大体始めの頃って練習漬けだったりしますから」

 パーソナリティの言う事も経験則のような重みを感じる。今こうして軽快に喋れているのは、きっと辛い練習の結果なのだろう。

「元々私は弓道をやってまして、そのおかげか練習を退屈だとは思いませんでしたね。…何より、私がアイドルになるのを期待している方がいるから――」

 その人のために頑張りたい、そう思ってましたし、今ではもっと強く思ってます。


 刹那、彼女の横顔が、ちらりと俺を見た気がした。



267: 2013/06/04(火) 20:00:40.58 ID:6zYDImijo


「最近も…少し前、私の今通っている高校で学園祭がありまして、そこで歌わせて頂くことになったんですが、その事を聞いたのは学園祭の一ヶ月前ぐらいで…練習もとてもハードでした」

 翠はまだ半年も経ってない前の事を感慨深そうに語る。

「練習が苦にはならないと言っても、色々なことを指摘されて、何度も何度もやりなおしてばかりで…アイドルってこんなに大変だったんだって、少し挫けそうにもなりました」

「確か水本ゆかりさんと一緒にライブをしたんでしたね。プレッシャーもあったでしょう」

 ゆかりの厳しい意見にも必氏に耳を傾けて、ゆかりのプロデューサーからの指摘にもふてくされることなく受け入れて、初めてのライブという緊張と時間の無さという焦りと常に戦って、築き上げた成功を、包欠かさず翠は話す。

「はい。…それでも、私はいろいろな人の期待に応えるために練習しているんだって信じて練習して、無事ライブも終えることができたんです」

 汗まみれになって動き尽くしたあの練習がどれほど大変だったか、所詮俺は見ているだけで全部を理解することなど不可能である。

 だが、彼女の話を今俯瞰して聞くことで、リアリスティックに少しづつわかってきたような感覚がした。



268: 2013/06/04(火) 20:01:37.24 ID:6zYDImijo


「退屈って元々は仏教の用語で、修行に疲れ果てて精進する気持ちが屈することを意味したのですが、結局退屈というのは、手元に何も残っていない事だと思うんです」
「何もすることがないから退屈って言葉に繋がりますからね」

 果たして翠は、アイドルになる前は退屈していたのだろうか。

 それはノーであると俺は思う。

 一言で表せば、翠という人間は努力だ。
 仮にアイドルになっていなかったとしても、彼女は普通に学校生活で勉学や部活に対して一生懸命に取り組んでいただろう。

 たまたまその矛先がアイドルになっただけで、挑戦し、成功するために努力するという行為は何一つとして変わっていない。

「やっちゃんさん。私のような若輩者が言っても仕方のない事だとは思いますが言わせて下さい。どんなきっかけでも、どんな物でもいいので、やっちゃんさんの好きなことに触れて見て下さい」

 それはきっかけにおいても言える。
 もしスカウトしたのが俺でなくとも、きっと翠はそのスカウトした人間のことを信頼して、アイドルになるために努力をしただろう。


 ――頭の何処かで、歪な音がした。



269: 2013/06/04(火) 20:02:19.11 ID:6zYDImijo


 すぐに消えたその感覚の事は瞬時に忘れて、会話を聞く。

「理由はなくても、きっとやっていれば何かを感じると思います。そうしていけば、きっと退屈だなんて思わなくなると思いますよ」

「なんだか説得力のある口調でしたが…翠さんも、アイドルになったのは些細なきっかけだったんですか?」

 本当に些細だった。物語としては三流にすら届かない、かすれて消えてしまうぐらいに品のない出会い方だったと我ながら思う。

「そう…ですね。今担当しているプロデューサーさんにスカウトされたのがきっかけですが、それも真正面から言われた訳じゃなくて」

「ほうほう。スカウトってよく聞きますけど、翠さんの場合はどうだったんですか?」

 今、確実に翠は俺のことを見て、くすりと笑った。

「ふふ…ええと、本人の名誉のために秘密にしておきますが、かいつまんで言うと、プロデューサーさんは最初寝てましたね」
 思い出してなのか、上品な笑みを漏らす翠。


「あはは、相当な出会い方だったみたいですねー。というわけでやっちゃんさん参考にしてみてください! 次は思い出に残る名曲のコーナーです――」



 ……おい、事務所に戻れないぞ俺。



270: 2013/06/04(火) 20:04:58.40 ID:6zYDImijo


  *



「…みどりぃ」
「あはは…ごめんなさい、プロデューサーさん」

 放送が終了すると、俺達は併設の喫茶店で休憩を取った。
 翠はクリームパフェ、こちらはコーヒーだ。


 まあ俺の名誉なんてあってないようなものだし、翠のトークネタとして活用してくれるなら喜んで差し出すが、それでも今回のは危うく行き過ぎるところだった。

「話をしていると、段々自分のことを振り返ってしまって。理由はどんなものでも、こうしてプロデューサーさんと知り合えたことが私にとって本当に幸せで、嬉しかったんです」
「そこまで言われると照れるな……」

 コミュニケーションの基本は信頼関係だが、翠にそれほど信頼してもらえると照れ臭くなってしまう。
 顔を触って頬がつり上がってないか確かめて、そして安堵する。

「だからでしょうか、プロデューサーさんのことを伝えたいと思ってしまって…ちゃんと抑えはしましたけど、本当に大丈夫でしょうか…?」

 別に他のタレントでもメイクさんの話など、身内の話はいくらでもしているから問題はない。
 むしろ問題は俺がちひろさんに何を言われるかわからないという点なのだ。


 それを言うと、翠はただただ苦笑していた。



271: 2013/06/04(火) 20:05:36.76 ID:6zYDImijo



「……あの、プロデューサーさんは私のことを信頼してくれてるんですよね?」
 ひとしきりこの話題を話し尽くしたあと、翠は少し考え込んでから訊ねてきた。
 その前に、『コミュニケーションは信頼から』という翠の言葉がシックなBGMにかき消されそうで微かに聞こえた。

「当たり前だ。翠を信頼しているし、あの時声をかけてくれたのが翠で本当に良かったと思ってるよ」

 あの時体に走った電流を俺はきっと忘れはしない。
 一目惚れとはまさにこの事を体現しているのだと断言できる。

 それ程までにひと目見た時の彼女の顔が美しかったと言えよう。


「私もプロデューサーさんの事、信頼しています。だから…お願いがあるんです。ええと、その――」


 彼女が突拍子もない事を言い出すのはもはや慣れ始めてすらいた。


 しかし、今回彼女が言い出した事は……なんとも可愛らしいお願いだった。



272: 2013/06/04(火) 20:06:19.64 ID:6zYDImijo


  *



「あ、おかえりなさい、プロデューサーさん、翠ちゃん」

 休憩を終えて事務所に戻ると、ちひろさんは事務所の掃除をしていた。
 よく見ると俺の机まで掃除をしてくれている。

「只今戻りました。いつもありがとうございます」
「いえいえ。私にはこれくらいしかできませんから。翠ちゃんもお疲れ様、すぐお茶を出しますね」

 そう言って給湯室に入っていくちひろさんを見つつ、俺達はソファに座った。

「翠、お疲れ様。今日も頑張ったな」
 定型ではあるが労う。口に出さなければ伝わらないのだから、味気なくても俺は言うことにしていた。

 実際仕事も多くなり初めての形式の仕事も増えて、少なからずプレッシャーもかかっていることだろう。
 この事務所の命運は彼女にかかっているのだから、俺にできることなら何でもしてやらねばなるまい。



「あの…出来ればでいいんですが、また…撫でてもらってもいいですか?」

 …再び翠はろくでもない提案をした。



273: 2013/06/04(火) 20:06:55.87 ID:6zYDImijo



「おいおい…それはあの時だけの話だろ。それに高校生なのにって翠も言ってたじゃないか」
 横に座る翠はまたしてもあの時を再現するかのように上目遣いでこちらを見てきた。
 身長差により自然にできるのが運命なのだろうか。

「確かにそうなんですが……撫でてもらうと何だかふわっとしてきて、とても気持ちいいんです。……変なこと言ってすみません」

 そう言って申し訳なさそうにする翠を見て、俺は一体どうしたらいいんだろう、と悩むしかなかった。

 ……まあ、本人がそれを願っているなら叶えるのも吝かではない。
 ここは事務所で人目はつかないし、彼女も難しい立場なのを承知で頑張ってくれているのだから、望みは聞いてやるべきか。

「お疲れ様」
「わっ」
 ぽん、と翠の頭に手を置くと、小さく声を上げた。
 しかしあの時とは違って緊張した様子はなく、非常にリラックスしているようだった。

「おかしなことを言うもんだな……これでいいのか?」
「…ありがとうございます、Pさん」


 納得しているのなら、支障をきたさない限りは問題なかろう。
 幸い今日の仕事は朝の内に殆ど終わらせておいたので、彼女が満足するまで手は貸してやろうか。



 ただ。


「……どうして頭を撫でているんでしょうかね、プロデューサーさん?」


 事務所にいるもう一人の存在に留意しておくべきだというのは、今更だろうか。




274: 2013/06/04(火) 20:07:33.66 ID:6zYDImijo


  *




 何着目かのこのスーツも毎日の酷使により若干の傷が出始めた頃。

 紅葉は既に終焉の合図を待ちわび、木枯らしを名乗る風がおいおいと街を荒らし始める秋のとある朝だった。


 変化というものは、前後で繋がっているように見えて実は独立した何かなんだと、俺はこの時強く思った。




275: 2013/06/04(火) 20:08:02.98 ID:6zYDImijo



「ゴードーフェス?」
「合同フェスですよ、プロデューサーさん」

 事務所。

 いつものインスタントコーヒーを飲みながら今日の予定を確認していると、突然ちひろさんが聞いたことのない言葉を口に出した。

 聞き返した口調がどうやら知らないみたいだと理解したちひろさんはちょいちょい、と手を小招いて俺を呼ぶ。

 もう片方の手はちひろさんのパソコンの画面を指さしていた。見ろ、ということらしい。

 椅子から立ち上がり、隣まで行くと液晶画面を横から覗きこむ。

 すると画面にはメーラーが起動しており、一件のメールが表示されていた。

「…翠にフェスのお誘い!?」

 内容には、合同フェスの推薦という文字が記されていた。



276: 2013/06/04(火) 20:09:23.65 ID:6zYDImijo


 合同フェスとは、アイドルが好きな者なら知らないものは居ない、毎年末に行われる多くのプロダクションが参加するライブコンサートである。

 フェスでは、その年のヒット曲を生み出したアイドルや人気になったアイドルが集結して歌いあう、一種のお祭りのようなイベントなのだ。

 当然ファン投票によるライブバトルも行われるが、大体は最高レベルのパフォーマンスショーだと思っててくれていい。

 そういった説明をちひろさんから聞きながら、俺は顎に手を当てる。

「…でもちょっと待って下さい。仮に出場条件がそうなら、翠にどうして招待が来るんですか? まだ曲すら出していないんですよ」

 説明によれば、その年有名になったアイドルがおおよその参加条件となっている。

 しかし、残念ながら翠ではそれに合致しているとは思えない。
 地元での人気はかなり上がってきているとは思うが、彼女のシングルすら出していない状況では、どうみてもつり合わないはずだ。

「ここを見て下さいよ、ここ」
 とんとん、と液晶を爪で突いた所を見る。

 そこにはこのメールを出した相手の名前が――。

「……って、ここはゆかりのいるプロダクションか!」


 招待状をくれたのは、他でもなくゆかりの所属する事務所からだったのだ。



277: 2013/06/04(火) 20:10:02.54 ID:6zYDImijo



 驚く俺に対し、ちひろさんは説明を続ける。

「もちろん基本的な条件はさっき言った通りですが、その他にも将来に期待なアイドルという意味の推薦枠というものがありまして。それを利用してあちらは翠ちゃんを推薦したんですよ!」

 信じられない、という表情を俺は今しているだろうか。
 いや、鏡を見なくてもそれは大体わかるような気がする。

「…でもどうして翠なんでしょうかね。そりゃ嬉しいですけど、相手方の事務所はかなり規模が大きいはず。なら他にも推薦する相手はいくらでもいると思うんですが」

 考えれば考える程に不理解が進む。

 確かにゆかりとは一度急なスケジュールだったが限定的にユニットを組んでライブ行い、無事成功を納めることができたが、それでもたった一度だけの事だ。
 つながりでいえば、相手方にとってこちらの事務所よりも縁深い事務所は数多くあるはずである。

 にも関わらずその中で翠を選んだ理由というのが今ひとつすんなりと飲み込めない。
 嬉しいが故の懐疑なのだろうか。

「まあまあ。ともかく、一年目でフェス参加ですよ! 確実に流れが来てますよ、プロデューサーさん!」
 ちひろさんは軽く手を叩いて喜んだ。

 初ライブすらいきなりの事なのに、今度も突然で、更に大規模と来た。
 しかも観客は温かい声援を送ってくれる比較的身内ではなく、年齢も出身も違う全く無関係の人達だ。
 クオリティやパフォーマンスも、なあなあでは到底許されるものではない。



278: 2013/06/04(火) 20:10:45.97 ID:6zYDImijo


 あまりに急だったので急いで頭の中に内容を落としこみつつ、やるべきことについて考える。

 すると、即座に思考が行き詰まってしまった。

「…あの、ちひろさん。フェスに参加するとして……曲はどうなるんですか? まさか学園祭の時の同じ曲を使うわけにもいかないでしょう」

 さしあたって最も重要な問題である。

 ヒット曲を生み出して有名になったアイドルならばその曲を披露すればまず間違いはないのだが、そもそもの話、翠は曲をリリースしていない。

 今からフェス用の新曲を作るのか、とまたもや色々な方に無理をさせるスケジュールを組まなければいけない事に頭を悩ませると、ちひろさんはその思考を遮った。

「…プロデューサーさん、ちょっとこれを聞いてみてくれませんか?」
 不意に彼女は引き出しを静かに開けると、一枚のCDケースを俺に手渡した。


 ラベルもメモもない、プライベートで使用する目的として保存していたとおぼしき、白いCDだった。



279: 2013/06/04(火) 20:11:11.38 ID:6zYDImijo



「これをですか? ……まあいいですけど」
 CDケースには多数の傷が付着しており、随分昔から何回も使いまわしているんだな、とどうでもいい感想を抱きながらケースを開け、パソコンにCDを挿入する。

「……」
 鈍い回転音と共にCDが読み込まれ、既定の音楽プレイヤーが起動する。
 ちひろさんの声も止まり、音楽がスピーカーから流れるのを、ただ無言で待っているようだった。
 その表情というのは実に真剣で、遊びや悪戯なんかでは到底無いことを明確に表していた。

 この使い古されたケースといい彼女の表情といい、なんとも疑問点の多く浮かぶ事案である。

 しかし、そんなことを考えていても何も始まらない。

 自動的に起動されたソフトの再生画面を一度みれば、もののワンで、記録されていたデータが再生された。



280: 2013/06/04(火) 20:11:51.66 ID:6zYDImijo



 ――興味深い、というのが第一印象だった。

 学園祭で歌った曲はどちらかと言えばポップ・ロックを頭から踏襲した、かなりベーシックなものであったのに対し、今この事務所に流れている曲は少し静かな曲調の物だった。

 一本のエレキギターがメインで穏やかな旋律を紡ぎ出し、それを肉付けし彩るようにボーカルやベース、ピアノなどが重なり合っていた。

 全体的に激しい印象は無いが、サビとその前のBメロで微かに音が賑やかになっていく様は、不思議としんみりさせてくれる。
 特に気になったのがこの歌声だ。
 誰の声かは分からないが、か細い中に芯の強さを感じて、声が完全に曲に溶け込んでいるのを感じた。

「ジャンルなら、一応ロック・バラードに分類されます。演劇的な歌い方が必要で、単純に歌というよりも弾き語りのような雰囲気が重要になります」

 曲の一番が終わると、俺はひとまず一時停止のボタンを押した。

「プロデューサーさんならどう思いますか? …翠ちゃんにこの曲、似合うと思いますか?」

 真剣な眼差しで――そして、少し不安げな瞳が変わった印象を受ける。

 まるで秘蔵の隠し子を晒すかのような、大事そうな扱いだった。



281: 2013/06/04(火) 20:12:19.78 ID:6zYDImijo



 翠の歌を思い出す。

 ライブをして分かったが、翠にはまだ声量が少し足りない。
 実際あの時もゆかりの歌声に負けそうになった部分も少なからず見受けられていた。

 しかし、針の穴に糸を通すような繊細な声は人の耳に効果的に入りやすく、高目の音程まで濃く出せるので表現の幅は高そうだ。

 それとこの曲が組み合わさればどうなるか。

 はっきり言って、俺には想像が全くできなかった。


 そもそも、この音源はどこから入手したのだろうか。
 CDケースの傷といい、明らかに公式に譲渡されたような様相ではない。

 それについて訊ねても、「ちょっとした伝手で受け取った音源なんです」とはぐらかされて、欲しい答えは得られそうにはなかった。



282: 2013/06/04(火) 20:13:28.14 ID:6zYDImijo



「そのメール、こっちのパソコンに転送してもらってもいいですか?」
 立って覗きこんで見るのも辛いので、招待状のメールを自分のメールアカウントに転送してもらい、改めて確かめる。

 合同フェスの開催日は年末も近づくクリスマス後。
 新年に向けて休みの人が多く、リアルタイムで見てもらいやすいという考えだろう。

 テレビでも生放送していて他局の特番ともやや重なるが、過去の記事を見る限り、視聴率も良いようだった。

 すなわち、ここで他のアイドルに負けないぐらいアピールを行えば、来年からのアイドル活動もより優位に立てるという事に他ならない。


 そのためには、今からすぐにでも練習を始める必要がありそうだ。

 学園祭の時に比べ練習期間は一ヶ月程伸びたが、規模は数倍も違う。
 ライブ自体まだ二度目なのに、いきなり大舞台でのパフォーマンスとなれば相当精神的にキツいものがあるはずだから、それへの対策も十分に行わなければならない。

「…わかりました。この曲、翠に歌わせましょう」
 そういう意味でも、曲を選り好める立場ではないことは明確だ。

 無論、この曲が悪いという話ではない。
 ただ実際問題として、翠に適した曲であるかどうかは完全に未知数で、博打的な判断と言える。
 この曲を歌っている声のように歌えれば、翠の声質なら魅力を引き出せるだろうという考えだ。



283: 2013/06/04(火) 20:14:19.99 ID:6zYDImijo



「…そう、ですか」
 ほんの少しだけ、ちひろさんは息を吐いた。

「わかりました。では参加すると同時に、トレーナーにも音源と簡単な練習方針を送っておきます。次のこっちでのレッスンの時にそちらで詰め合わせを行なって下さいね」

 慣れた手つきでキーボードを叩く。
 恐らく関係各所へのメールを打っているのだろう。

「ん? 愛知で明後日レッスンですけど、その時にしなくていいんですか?」

 基本的に翠は愛知での生活を軸にしているので、平日のレッスンは愛知で、休日は東京で、という体型を取っている。
 次のレッスンというだけならば明後日でもいいのだが。

「確かにそうなんですが、今回のフェス対策に関して、別のトレーナーも臨時で見てくれることになってまして」
「ああ、なるほど……って、そんな前から言ってたんですか!?」

 合同フェスの話すら今日知ったというのに、なんとその臨時トレーナーとやらはにはもっと前から話をしているというのだ。

「いえ。元々今のトレーナーは基礎レベルの範囲でお願いしてましたので、ハイレベルなレッスンに関しては別の方についてもらうよう前からそういう約束をしていたんですよ」

 開いた口がふさがらないというか、感心で口が閉じられない。

 ちひろさんは俺の見えない所で用意周到に土台作りに励んでいたというのだ。
 全く以てその機敏さ、聡明さに尊敬の念を禁じ得ない。



284: 2013/06/04(火) 20:16:33.14 ID:6zYDImijo



「わかりました。そういうことならその日で。翠には先に伝えてもいいですよね?」
「大丈夫です。ただ、出来れば電話ではなく口頭で伝えてやって下さい。その方が嬉しいでしょうから」
 ちひろさんのいうことは尤もだ。
 面と向かって伝えられる方が、きっと翠も喜ぶに違いない。

 次に会うのはいつだ、と思い、机に置いている手帳を手に取る。
 明日の欄には、東京での写真撮影の仕事が記されていた。

「了解です。では明日伝えますね。それで、参加にあたって他に連絡しておく事項はありますか?」

 これから色々な所に顔を出すだろうし…と思ったが、特にありません、とちひろさんは答える。

「こちらでできる処理は私が請け負いますので、プロデューサーさんは翠ちゃんに専念してあげて下さい。翠ちゃんにとって、味方はあなただけなんですから」
「そんなことないですよ。ちひろさんだって、翠の立派な理解者です」

 東京での暮らしを親身になってサポートしているちひろさんが、翠に良く思われていないはずがないだろう。

 そう言うと、ちひろさんは困った表情を見せたのだった。



285: 2013/06/04(火) 20:17:12.24 ID:6zYDImijo


  *



「今日の私は如何でしたか?」
 若干の渋滞気味な幹線道路を走行中の事だった。

 愛知から仕事のためにやってきた翠を送迎のために使用していた、その車内である。

 ゆっくりと進む中、助手席にきちんと座っている翠はそう訊ねた。


 都内のスタジオで写真撮影というのが今日の仕事だった。
 トラベル誌の観光特集で翠を使ってくれるという事で、案内に使う写真を撮っていたということである。

「特に問題はなかったぞ。…何かおかしなことでもあったか?」
「いえ…、Pさんの目から見て、下手な所はあったのかな、と思いまして」

 いよいよもって律儀な人間である。
 たかだが18年生きただけの少女に、どうしてこれ程の勤勉さが備わっているのだろうか。

「大丈夫。向こうの人もすんなり行ったって喜んでたよ。流石翠だな」
「そうですか……よかったです」
 横目で彼女を見ると、膝に手を置いて、嬉しそうにしていた。


 ああそうだ、と俺は言おう言おうと思ってた例の件について不意に頭に浮かぶ。



286: 2013/06/04(火) 20:17:59.03 ID:6zYDImijo


「喜んでる所悪いが、翠に更に嬉しい事をお知らせすることがあったんだった」
 信号待ちで車は到底進みそうにない。

 もう少し早くスタジオを出られたらこんなことにはならなかったのかもしれない、と独りごちるが、詮ないことだ。

 ハンドブレーキを引いてハンドルから手を離すと、近くに置いていた鞄からクリアファイルを取り出して翠に渡した。

「なんでしょうか、これ」
「いいから読んでみろ。悪いことは書いてない」

 手渡されたファイルから紙を取り出して訝しみながら眺め始めると、ものの数秒で彼女は飛び跳ねた。

「――これって!」
 タイトルを見ただけで、翠は理解したようだ。

 この紙の中身は、あの例の招待状のメールを編集して印刷したものである。

 よもや彼女が俺の言葉を質の悪い冗談だととるはずはないが、事が事のために一応証拠を用意しておいたのだ。

 伝える言葉を考えたが特に思いつかなかったので、ただありのまま、俺は翠に報告をする。

「おめでとう、今年末のイベントに…翠が出演することになったぞ!」


 わあ、と翠が言葉にならない声を上げて喜ぶ色がありありと見えたが、話はこれだけじゃない。



287: 2013/06/04(火) 20:18:26.58 ID:6zYDImijo



「そして翠にもう一つの嬉しいお知らせだ。聞きたいか?」
「ふふ、勿論聞きたいです」

 冗談めかしていうと、彼女もそれに応える。
 笑顔が漏れ出るこの状況では、幾分か彼女も純粋になっているように思える。


「じゃあ言うぞ、心して聞け――」

 ――合同フェスでは、翠のための歌を歌うぞ。

 その時の翠の表情と言ったら、言葉では到底表現できそうにはなかった。



288: 2013/06/04(火) 20:20:20.49 ID:6zYDImijo



「…でも、私なんかでいいのでしょうか」

 ひとしきり喜んだ後、寝るまでずっとその気持ちを抱えているのかと思いきや、彼女は一転して声をすぼめた。

 何だか、遠い昔にもそんな言葉を聞いた記憶がある。


 …確か、スカウトする時だったか。

 アイドルとして生きることに自信がなかった翠を勇気づけて決断に至った事は、印象深い出来事として頭に残っていた。

「なんか、じゃないさ」
 結局、何にしたって不安というものは常に心臓の周りを漂っている。
 それは自己のイメージを反映しただけで、客観的でない架空の存在だ。

「アイドル始めた時と似たような物だ。ちゃんと今、出来てるだろ? …だから今度も大丈夫だよ」
 スケジュールも学園祭の時より余裕があるしな、というと、翠は小さく笑った。
 本人もそれは懸案事項として抱いていたということだろう。

「…私、頑張りますから」
「翠だけじゃない、俺もちひろさんも頑張って、翠をサポートするよ」


 ありがとうございます、と一言翠が述べると、その後は事務所に帰るまで談笑が続いた。




289: 2013/06/04(火) 20:20:54.26 ID:6zYDImijo


  *



「もしもし、ゆかりは今大丈夫か?」
 仕事も一区切り置いたところで、俺はゆかりへと電話をかけていた。
 喫茶店で昼ごはんを注文し、やってくる料理を待つ合間の出来事である。

「はい。今はオフですよ、Pさん」
 電話越しの彼女の周りからは何やらクラシックめいた音楽が小さくではあるが流れている。
 大方彼女の部屋で音楽を聞きながら何かをしていたのだろう。


 ところでどうしてゆかりへと電話をかけたのかというと、無論フェスの招待の事であった。
 この度の経過は、通常であればあり得ないはずのことだ。

 それが実際に起きているというのなら、それはあちら側で何らかのアクションを起こしたからだと推測できる。

 もしそうであるのならば、ただ黙ってそれを享受している訳にはいかない。
 こちらにとって好都合に事を運んでくれた人がいるのであれば俺からも何らかの感謝の形を伝えるのが筋という話だ。

 そういう訳で、例え仕事中であっても一応は休憩中であろうこの時間を狙って電話をかけたのである。

 彼女のプロデューサーにかけないのは、単にゆかりであれば内容はどうであれ包み隠さず教えてくれると踏んだからである。



290: 2013/06/04(火) 20:21:43.62 ID:6zYDImijo



「いきなりだけど……ゆかりは、翠がフェスに参加することを知ってるのか?」
 俺の質問に対しては、身内の出来事だと言わんばかりに喜色めいた声で返事が返ってきた。

「ああ、はい。知ってますよ。私のプロデューサーさんから聞いたんです」
「ということは…ゆかりが直接翠を推薦した訳じゃないのか?」

 予測の中の一つには、ゆかりが掛けあって実現したという案があった。
 むしろ個人的にはそうであって欲しかった。

 何らかの戦略で以て翠を招待したとあれば、こちら側にどんな干渉をしかけてくるか全く解らないからだ。

「そうですね。上での話し合いの結果ということらしいので、私にもどうだかはわからないんです。ごめんなさい」
「いや、ゆかりが謝ることじゃないよ。こっちこそいきなり悪かったね」

 第二の予測として、ゆかりのプロデューサーが推薦した…というのも考えたが、彼女の話しぶりからするとどうやらそれも違うらしい。

 当然、彼が推薦したという事実をゆかりに教えなかったということも、あり得る話ではある。
 彼の胸の内に抱えるストイックさを考えれば、可能性はゼロではない。



291: 2013/06/04(火) 20:23:24.47 ID:6zYDImijo


「実は後日に翠ちゃんから電話がかかってきまして…とっても嬉しそうに話してましたよ」
「…ありがとう、ゆかり」

 ごく自然に、俺は感謝の言葉を漏らしていた。

「どれもこれも、ゆかりが翠と一緒にライブをしてくれたおかげだ。本当にありがとう」

 俯瞰してみれば、どこにでもいるただの新人アイドルが曲も出さなかったにも関わらず年に一度の一大イベントに参加できるのは、結局彼女との繋がりがあったからだ。

 あのオーディションでの偶然の出会いが今を演出しているという事実に、俺は彼らに感謝せずには居られなかった。

「そんな…いえ、私からもです、ありがとうございます、Pさん」
「え?」

 すると不意に、彼女から俺へと何故か感謝されてしまう。
 後ろから聞こえるクラシックの音楽に同調するような、優しい声だった。

「翠ちゃんが楽しそうに話す声が、私も好きなんです。そういう風にしてくれたのは…他でもない、Pさんのおかげでしょうから」

 どうしてこうも、俺の知り合う年下の彼女達は大人びているのだろうか。
 お世辞にしろ本心にしろ、即座にこんな言葉がすらすらと出てくるのは年齢を考えれば違和感でしかない。

 尤も、それが芸能界で生きていく上での当たり前のことなのかもしれないが。



292: 2013/06/04(火) 20:24:09.11 ID:6zYDImijo



 対照的に大人と呼ばれるのにふさわしいのか未だに疑問の残る俺が浮かび上がって、一層気持ちが萎えてしまう。

 これじゃまるで俺が年下みたいではないか。

 もっとビジネス書でも読んだほうがいいのかな、とそういう思考がそもそも安直で大人ではないという事実に辟易としていた時だ。


「これでまた同じ会場でライブが出来ますね。私、楽しみにしてます」

 ……一つの大きな驚きが肺を震わせた。



293: 2013/06/04(火) 20:24:34.15 ID:6zYDImijo



「同じ…というと、ゆかりもか!?」
「はい。ファンの皆様のおかげで二年連続で出させて頂くことになりました」

 マジか、と無意識に口から言葉が漏れる。

 通常、合同フェスは開催日ニ週間前に初めて今年参加するアイドルが好評される。
 秘密裏に教えてもらうこと自体にも驚いたが、ゆかりもまさか参加しているのだということが一番の驚きだった。

 その間にウェイトレスが四つ切りの食パンで作られたサンドイッチとコーヒーを運んできたので、なんとか目線で礼を言う。

「二年連続だって?」
「Pさんはご存知なかったんですね。…まあ、私の知名度では無理もなかったかもしれません」

 おいおい、聞いちゃいないぞ。

 ……それ以前に、どうして気づかなかった?

「一年目はユニットで出させてもらったので、多分わからなかったんだと思います」
「ああ、なるほど…そういうことか」

 ゆかりの口から出たユニット名を鞄に入っていたタブレット端末で検索すると、確かに前回の合同フェスの序盤に参加していたという記事が見つかる。

 前に合同フェスの招待についてちひろさんから伝えられた時、一応過去の開催模様などを調べたりしたが、どれも有名所ばかりで彼女のユニットが埋もれて見逃していたのかもしれない。


「それでも一年目から参加できるなんて……やっぱりゆかりは凄いな」
「……そう、ですね。…幸運だと思います」


 ――俺の耳元に届く声から、覇気が一瞬だけ消え去った。




294: 2013/06/04(火) 20:25:24.13 ID:6zYDImijo


 先程まで感じていた嬉々の混じった抑揚の声とは明らかに違う何かを察知する。
「……ああ、折角のオフなのに長電話して悪かったな」
「いえ! そういう訳じゃ……! …勘違いさせてすみません」

 てっきり、つい今までやっていた作業を中断されたから少し不愉快に感じてしまっていたのかと思って話を切ろうとすると、慌てた声で今度は彼女が謝った。


 …どうにも歯切れが悪い。

 何やら彼女の中で俺の知らない物体が蠢いているのだろうか。

「実際長電話すぎたからね……俺もこれから仕事だから切るよ。話してくれてありがとう、ゆかり」

 …しかし、それを追求することはできなかった。
 藪をつついて蛇を出すことだってよくあることだし、何より俺が踏み込んで良い世界ではないと思ったからだ。

 人には誰しも如何なる自称に対して悩みや憂いを持っていることだろう。
 だが、それを解決するのは近しい人物だ。

 それをするのはゆかりのプロデューサーの彼であって、俺ではない。
 力になれるのなら何でもしてやりたいが、部外者の俺では到底務まらないだろう。

「…今日、時間はありますか?」

 ふと、耳元でゆかりの声が聞こえる。



295: 2013/06/04(火) 20:25:54.95 ID:6zYDImijo



 俺もサンドイッチとコーヒーが冷めきる前に食べないとな、と回線を切るために耳元から電話を離しかけた時だった。

 慌てて電話を耳に近づけ直すと、彼女の誘いを咀嚼する。

「今日? 昼の…そうだな、14時から夕方までなら空いてるぞ。何かあるのか?」
 静かな声でそう訊かれたら、何かあると思わざるを得ない。

「ありがとうございます。…それなら、暇になり次第来て頂けませんか? ……私の家に」
 驚きしか耳に入って来なかった。

 何だって? 俺がゆかりの家に行くように誘われた?

「…すまん、それって本気か?」
「少しお話がしたくて……駄目でしょうか?」
 電話越しで、彼女は小さく答えた。


 それが、どうにも声色と言葉が翠に似ているような気がして。


「…わかった。遅れるかもしれないけど、終わり次第行くよ」
「ありがとうございます。住所はメールで送ります。…待ってます」


 果たして俺の行動は正しかったのだろうか。

 それを証明してくれるものは……隣に居ない。


 コーヒーは、喧騒に揉まれて望まれた熱を既に失っていた。



296: 2013/06/04(火) 20:26:41.79 ID:6zYDImijo


  *



「まずは改めまして、翠ちゃんのフェス参加、おめでとうございます」
 ゆかりの部屋に行って茶のもてなしを受けたあと、開口一番に彼女はそう言った。


 ――水本ゆかりの家。
 なんとも落ち着いた家、というのが真っ先に浮かんできた感想だった。

 ゆかりは翠と同じく地方からの出身だが、東京からは遠いので都内に部屋を借りて生活をしているようだ。

 マンション内には同じ事務所の仲間も別の部屋で住んでいるらしいが、昼間というだけあって会うことは無く、スムーズにゆかりの部屋にたどり着くことができた。

 中は、お世辞にも芸能人らしい広々とした豪華な部屋とは言えず、一人暮らしの大学生が借りるようなワンルームマンションと言った感じであった。

 じろじろと周りを見渡すのは失礼なので、部屋に入るときに一瞥したところ、歳以上に落ち着いた雰囲気だと実感した。

 観葉植物などのインテリア小物やCDコンポやフルートのケースなどの実際に使いそうなものまで綺麗に整頓されていることから、彼女の性格がよく見えてくる。



297: 2013/06/04(火) 20:27:55.45 ID:6zYDImijo



「何だか恥ずかしいですね、こう…面と向き合ってお話するのは」
 ゆかりは照れくさそうに頬を掻いた。

 如何にもそうだろう、という風貌をしている。
 まさに清楚…いや、どこかのご令嬢ではないだろうかという疑問さえ浮かんでくるほどの落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 似たような感じで翠も同様の雰囲気は感じるが、翠の方がやや幼く感じてしまう。

 ……まあ、そう思ってしまうのも全てあの異質な言動のせいなのかもしれない。

「俺も女の子の部屋に入るなんて今まで滅多になかったから同じ気持ちかもな」
「ではお互い様ですね……ふふ」
 漏らすように笑うと、ゆかりも同様に小さく笑った。

 やはり笑っている顔がいい。翠にせよゆかりにせよ、一番似合っていると俺は思う。

「ああ、そういえばこの前翠ちゃんと買い物に行った時のことなんですが――」
 ゆかりは掌を叩くと、その時の戦利品を棚から取り出してテーブルに置いた。


 用事などどこへいったと言わんばかりに、他愛もない話が咲き誇った。




298: 2013/06/04(火) 20:28:46.96 ID:6zYDImijo



 ――それで、話っていうのは何なんだ?

 雑談もそこそこに、俺は本題を切り出す。

「…あ、すみません。つい脱線してしまって…えと」

 一応ひとつの話が終わった区切りのいい所で訊ねはしたが、あの時…電話越しのゆかりと同様に、少し歯切りの悪い感じが見受けられた。

「実は、フェスのお話で……Pさんが、私をすごいって言ってくれた事なんです」
 容易く記憶が蘇る。

 僅か数時間前の出来事だ。
 扱いはどうであれ、一年目から合同フェスに参加できたという事に対して俺が言った『凄い』という言葉に関わる話らしい。

 気づかずに俺は彼女を傷つけるような事を言ってしまったのか、と俺の発言を軽く回想してみても、それらしきものは何も見当たらなかった。

「…よくわからないんだけど、俺の言葉が気に触ったのならごめん。謝る」
 貸してもらったクッションに座りながら、俺は頭を下げる。



299: 2013/06/04(火) 20:29:21.34 ID:6zYDImijo



「いや、そういうことじゃないんです! 頭をあげて下さい!」
 すると、勢い強い声で彼女は否定する。

 言葉のまま頭をあげると、体の前で手を振り回していた彼女が居た。

「…じゃあ、どういうことだ?」
 どうにも主旨が読み取れない。
 謝罪要求でもなければ何だというのだろう。

 ただのお茶会であればあんな気落ちした声色で誘うことは変だし、あえてゆかりの部屋に誘った理由もよくわからなかった。

 すう、はあ、とゆかりは胸に手を当てて、テーブル越しに深呼吸する。
 まるで一世一代のプロポーズをするかのような仕草だ。

 一体どんな言葉が出てくるのだろうか、と俺も唾を飲んで彼女の発言を待っていると、三回ほど深呼吸をしたゆかりは真剣な面持ちでこう言った。



 ――去年は、私の知る限り……最悪の日でした。


 静かに語りだす彼女の声は、とてもじゃないがいつものそれではなかった。



300: 2013/06/04(火) 20:30:32.99 ID:6zYDImijo



「私の所属している事務所はどんなところか…Pさんはご存知ですよね?」
「知っているも何も、超大手の芸能事務所じゃないか」
 当たり前だと言わんばかりに答えてみせる。

 事実、俺達の事務所とは比べ物にならないくらいの差がある程にゆかりの事務所は大規模だ。
「はい、その通りです。この業界では、こちらの事務所は有数といっても過言ではありません」

 それは、調べようとすれば、テレビ番組には殆ど出演しているという結果が出るのではないかと現実的に思えてしまう位のものだ。

 可愛らしい形の丸テーブルに用意したコップのお茶を少し飲んでから、彼女は言う。

「……ですが、それは私にとって利益であり、また不利益でもあったんです」

 よく吟味してみるが、味を知るまでには味覚が到達しなかった。

 所属する事務所が大きいと営業のパイプも無数に伸び、また太いので、多種多様のアイドル活動においてはこれ程重要なものはあまりない。

 大手であればあるほどルートは正確になり、段階を踏んでいけばすぐに羽ばたいていける、そんな整備された階段を持っているものだ。

 現に、口に出すつもりはないが、ゆかりだってそのパイプを知らないうちに利用しているのだろう。



301: 2013/06/04(火) 20:31:16.41 ID:6zYDImijo


 では、彼女の言う不利益とは何なのだろうか。

 ゆっくりと紡ぐように、ゆかりは語りだす。

「…私が一年目にフェスに出場できたのは、事務所の無理矢理なねじ込みが原因だったんです」
「ねじ込み?」

 途端に嫌な影が見え隠れする。

「はい。…事務所内で次に売り出すアイドルは誰か、というのが上の方たちの中で会議したそうで、それに私が選ばれ、その結果、去年のフェスには無理を通す形での参加となりました」

 この言葉だけで、俺でなくとも十分理解できた。
 しかし、もういい、とは言い難かった。

 …ゆかり自身がこれを吐露したかったのだろう。
 口ぶりが次第に加速していくのがわかった。

「合同フェスは主にアイドルの舞台なんです。ただいつもと違うのは……音楽に対してファンが妥協しないという事」

 俺は今年からこの業界に入ってきて、それまではアイドルなんて何も興味もなかったから、一年前に開催された前回のフェスは知らないし、このイベントの空気などもあまり理解できていない。

 しかし、しかしだ。
 恐らくではあるが、ゆかりはその中で持てる力を出しきって歌い、踊り、足元の覚束ないアウェーの中、必氏で頑張ったのだろう。



302: 2013/06/04(火) 20:32:00.44 ID:6zYDImijo


 その結果。
「…私達を待っていたのは、批判でした」

 心なしか、ゆかりの視線が下を向く。


 これが、合同フェスが普段のライブと違う所以。

 通常のライブであれば、自分の好きなアイドルの歌や踊りを見に行くのが理由なのに対して、合同フェスというのは少し独特の価値観があった。

 それは、『アイドルだけ』にスポットライトがあたるのではなく、『アイドルが披露するパフォーマンス』に観客の焦点があてられる、ということだ。

 合同フェスがその年人気になったアイドルを運営が厳選して参加資格を与えるのも、質の低い音楽を観客達に見せないため、という理由から来るのかもしれない。

 あくまで推測でしかないが、そのイベントが年末の恒例行事とまで言われる程人気なのも、運営により実力が保証されたアイドル達だけが出てくるからなのだろう。

「流石に合同フェス中こそブーイングが起きることはありませんでしたが……その後は酷いものでした」
 俯いたゆかりの唇が、きゅっと結ばれた。



303: 2013/06/04(火) 20:32:38.10 ID:6zYDImijo


「…インターネットか」
 こくり、と頷くのが見えた。

 言うなれば、舌の肥えた客が評判の良い料亭に行ったが出された料理が普通だった、ということなのだろう。

 俺はインターネット上でそこまで深くアイドルについて語り合う書き込みをあまり見たことがないのではっきりとは解らない。

 しかし、合同フェスという「良い者」だけが出てくるはずの場に新人…それも、事務所の方針で無理矢理入れられた者が紛れ込んだら、目と耳が肥えた観客達は何を思うか。


 想像に、難くなかった。

 どの世界にも過激な人間は居る。
 その内、『目に見える形で』彼女達のユニットを批判した可能性も、十分に有り得る。


「…その件もありまして、当時組んでいたユニットのもう一人の方はアイドルを辞めてしまいました。そして、残されて弱り切った私の担当に新しく就いてくれたのが、今のプロデューサーなんです」

 少し、ゆかりのプロデューサーの態度が理解できたような気がした。

 その当時のゆかりは意気消沈し、歌やファンに対して恐怖感を抱くまでに陥ってしまったのかもしれない。

 彼はそんな彼女の担当につき、厳しく指導することで立ち直らせることにしたのだろう。

 傷を舐め合うことでは癒されない。むしろ、雑菌が入り込み、症状が悪化する。

 ゆかりのプロデューサーはそう判断し、彼女に接したのだ。



304: 2013/06/04(火) 20:33:42.97 ID:6zYDImijo



「だから、私は凄い訳じゃないんです。私のプロデューサーさんのおかげで立ち直っただけの…強くない人間なんです」

 ぽつりとそう言うと、ゆかりはそっと口を閉じた。


 彼女が俺をわざわざ呼び、思い出したくもない過去を晒したのは何故か。


 ――デジャヴ。

 不意にそんな横文字が頭に浮かんだ。


「……ゆかりは、やっぱり凄いよ」
「いや、そんな…私は」

 思いつく言葉を、俺はただ言う。



305: 2013/06/04(火) 20:34:11.94 ID:6zYDImijo



「多分、ゆかりは今年の合同フェスにも参加することで、去年のリベンジをしたいという気持ちもあるんじゃないか?」
「それは……」

 あの時こき下ろしてくれた観客たちに後悔させてやる。
 少なからずそういった反骨心もあって立ち直り、今までやってきたのかもしれない。

 それを果たす事で、彼への恩返しになると考えたのだろう。


 では、そんな人間が今こうして過去の話など話す余裕があるのだろうか?

 考えれば考える程、彼女の中に大きく存在する優しさが、静かに、ゆるやかに、俺の中に入ってくる。

「それなのに、翠が参加するという話を聞いてゆかりは危機感を覚えた。…一年前の自分と同じ境遇に翠がなってしまうんじゃないかという事に」

 前回で植え付けられたトラウマも全く無い訳じゃない。
 そして観客も、きっと彼女を実力不足という色眼鏡で見ることになる。

 今年の合同フェスでは、きっと体に色んな重しをつけて舞台に上がることを余儀なくされる、間違いなく苦しいライブとなるだろう。


 それでも、ゆかりは翠を心配した。

 ゆかりは、翠が朽ちる姿を見たくないのだ。



「……ありがとう、ゆかり」

 少し体をあげると、俺は自然にゆかりの頭を撫でていた。




306: 2013/06/04(火) 20:34:51.99 ID:6zYDImijo



 翠にやるようになって、抵抗感が薄れていた故の行動かもしれない。

 しかし、こうまでして心配してくれたゆかりを見ていると、こうしなければいけない気がしたのだ。

「そこまでして翠を心配してくれて。翠と仲良くしてくれて。…君が居て良かった。君と知りあえて、本当に嬉しいよ」


 彼女は恥を晒してでも、俺に教えてくれた。

 新人のアイドルが合同フェスに挑むことが、どういう結果をもたらすのか。
 まだ知らぬ俺と翠が、どんな感情を抱き、今後の道を選ぶのか。

 他所の事務所の人間が相手でも構わずにゆかりは、翠を、俺を助けることを選択した。

 何故ならば、翠の今まで歩んできた道のりが彼女のそれと錯覚したからだろう。

 そして同じように弱り切って、もうこの世界から消えてしまったゆかりの相方のようになって欲しくない。


 それだけのために、この時間を作り出したのだ。


 す、す。

 ゆったりとした動きで、頭頂から耳元へ、そっと手を動かす。
 彼女は抵抗すること無く、されるがまま俺の行動を許していた。



307: 2013/06/04(火) 20:36:23.53 ID:6zYDImijo



 五回、六回だろうか、少しの時間を置いて、ゆかりは口を再び開く。

「正直に言って、覚悟しないといけないかもしれません」
「え?」

 突然の言葉に思わず手が離れる。


 覚悟、というと、合同フェスのことだろうか。

「今回翠ちゃんに招待が来たのは、恐らく事務所の偉い人たちの目論見があってもおかしくないと私は思っています」

 思えば、どうして大手の事務所からこんな小さな事務所に所属している翠に招待が来るのかを考えれば、邪推であっても答えは自ずと出てくる。

「…当て馬、ってことか」
「自分の所属する事務所を疑うつもりはありませんが…やり方として、十分に可能性は考えられます」
 新人のゆかり達をフェスに無理矢理送り込んで活躍を計算するなどといった無謀な策を実行してしまうぐらい馬鹿げた上層部だ、そんなことを考えていても不思議ではない。

「今からでも辞退することはできませんか?」

 ゆかりは後ろめたそうに問う。

 実際、この合同フェスの参加者というのは、当日より少し前の特番で初めて世間に公表されることになっている。
 いわゆるファンに対してのサプライズ演出、ということなのだろうか。
 それとも、年末に起こるムーブメントまで見極めたいという運営の考えなのだろうか。

 どちらにせよ、今現在において翠が合同フェスに参加することはまだ世間には知られていない。



308: 2013/06/04(火) 20:37:41.62 ID:6zYDImijo


 しかし。

「…それはできない」

 去年のゆかりへの風当たりを考慮すれば、ここで潔く辞退して今後のアイドル活動への悪影響を避けるべきなのだろう。


 だが、俺はこの事を伝えた時の翠の笑顔を見てしまった。

 こんな巫山戯た格好で取り消しにしてしまっただなんて、言える訳がない。

 現実的な問題を挙げれば、招待を蹴った形になって相手方の事務所との関係が悪くなってしまうという懸念もある。


 それでも、進むと決めた。

 翠なら、きっと成功できる。
 疑問も批判も歓声に変えて、皆を魅了することができる。

 お世辞でも贔屓でもなく、俺はそう思っていた。

「そう、ですか」
 ゆかりはまた一つお茶を飲み、息を吐く。

「……では、翠ちゃんを支えてあげて下さい。私のようにならないように。お友達として……お願いします」

 その表情は、親愛から来るものに違いない。

 取引先の相手に頭を下げるような目つきではなく、それ以上の…心から思う、真摯な顔だった。



309: 2013/06/04(火) 20:38:53.04 ID:6zYDImijo


「わかってるよ。大丈夫」
「――わっ」
 もう一度、ゆかりの頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 こんな表情をされて、断れる人など居るはずがない。
 元々断る権利もない。

 俺にできることなら何だってしてみせる。
 翠がこれからも活動していけるように。彼女の笑顔を守れるように。


 そう伝えると、ゆかりは今日一番の朗らかな笑みを浮かべて、ポツリと呟く。

「…翠ちゃんの言うことがよくわかった気がします。何だかふわふわします」


 ……翠め、そんなことも話していたのか。



315: 2013/06/12(水) 21:08:11.11 ID:kE10GcaOo
  *




「キミが件の…いや、失礼」


 都内のレッスンスタジオ。
 休日にレッスンを行う場合にいつも使用している、青木さんが所属している会社のスタジオだ。

 今日は年末に控えたフェスに向けての臨時トレーナーとの顔合わせと話し合いのためにここを訪れていた。


 扉をノックして入ると、背中を向けていた女性がこちらを振り向く。
 手にはメモが握られている。何かを考えていたのだろうか。

「おはようございます。初めてお目にかかります、彼女はシンデレラガールズプロダクション所属の水野翠で、私はそのプロデューサーです」
「水野翠です。これからよろしくお願いします」

 名刺を渡すと共に頭を下げる。隣に居る翠も、綺麗に腰を曲げた。

「いや、妹から話は伺ってるよ。なかなかどうして、頑張ってるらしいじゃないか」
「ありがとうございま……妹って、まさかあなたは」

 聞きなれない言葉に耳を疑う。

 すると、女性は凛々しい笑みを浮かべて俺の言葉の続きを言った。

「その通り。多分妹から聞いているとは思うが、私は慶の姉の青木麗だ」
 深々と青木さんのお姉さんは礼をする。形も美しく、風貌からしてベテランと言ったところである。



316: 2013/06/12(水) 21:08:55.14 ID:kE10GcaOo




「わかりにくいだろうから私のことは気軽に麗と呼んでくれていい。これからたくさん時間を共にするわけだからな」
 青木さんのお姉さん…もとい麗さんはそう言いつつ、翠を一瞥する。

「…ふむ、色々予定を先に話したいところだが、まずはキミにテストを受けてもらおうか」
「テスト…ですか?」
 翠は素直に聞き返す。

「そうだ。まあテストと言っても、キミがどれくらいのレベルか測る目的のものだ。妹ともやったことがあるだろうから、それと同じと考えてくれていい」

 メモを一度ポケットにしまうと、麗さんは部屋の中央に歩みつつ上着を脱ぐ。
 下はランニングシャツを着用していて、隙間ないピッタリの服は彼女の持つ立派な肢体のラインをありのまま露わにしていた。

「翠、準備運動をしてからしっかりテストに臨むようにな」
「はい!」
 ストレッチを始める麗さんを横目に、俺は着替えを促すと、翠は室内に設備として設けられている更衣室に入っていった。


 そして着替え終わった翠はストレッチの後、麗さんによるテストを受けることとなった。



317: 2013/06/12(水) 21:10:10.93 ID:kE10GcaOo


  *



 ――絶望感。

 一言でこの心境を素直に表すことが出来る言葉はこれ以外には存在しない。

「…今日は調子が悪いのか?」
 彼女は…麗さんは、一瞬にしてこの空気の温度を氷点下にまで落とさせた。


 テストとは、まずは普通に体の柔軟性をチェックしてから、麗さんが披露するパターン化したダンスを即興で覚えて踊る適応力と、教えてからダンスをさせる純粋な能力、そして動きながら歌を歌い続ける持続性を確かめることだった。

「い、いえ。万全です」
 俺の目からすれば、今までの練習の成果を出した、申し分ない出来だったように思う。


「だとすれば……今からでも遅くない、参加を辞退しろ」

 だが、麗さんからみれば、それは生まれたばかりの子馬のように見えたのだ。


 翠の顔が、疲労以上に青ざめているのが明らかにわかった。



318: 2013/06/12(水) 21:11:07.97 ID:kE10GcaOo


「ちょ、ちょっと麗さん!」
 硬化した空気に足を抑えられつつも何とか抜けだした俺は、麗さんの前に言って手を広げて抗議する。

 彼女は憮然とした表情で、…まるで地面に落ちた食べ物を見るような目で俺を見た。

「なんだい?」
 ただひとつ、ポツリと彼女は訊く。

 俺の意を汲んでいないのか?
 ……いや、わかっていて訊いているのだろう。

 麗さんはベテランで、恐らく何度も合同フェスを間近で見てきただろうし、それに参加するアイドル達も担当してきたのだろう。

 それで、過去の記憶や映像データと翠を比較して、そう言い放ったのだ。

 確かに新人で、ベテランに比べたらまだまだ未熟な面もあるだろう。
 しかし、それを指導し成功させるのがあなたの役目なのではないだろうか。


 お前は落第だ。

 彼女の目からは暗にそう言っているような気がして、俺の感情が一気にあちらこちらに振れる。

 あなたに何がわかる。
 あなたに翠の努力が一ミリでも理解できるのか。

 俺が信じてきた翠というアイドルをさっと触れただけでこき下ろしたトレーナーの横暴な態度に、いっそのこと殴りかかってやろうか、という禁断の思いすら抱き始めようとした瞬間だった。

「それは、承知しています」

 思考を放棄した俺が馬鹿であると思わざるを得ない程、背後に居た翠の声は、酷く落ち着いていた。



319: 2013/06/12(水) 21:11:34.88 ID:kE10GcaOo



「そうか、なら話が早い。今なら先方にも間に合うから、辞退の連絡を――」

 その時だった。

 耳をつんざくような高音が、周囲の空気を激しく振動させる。


 テストを受けての麗さんの評価に対し、ただ彼女は叫んだのだ。

 お願いします、と。



320: 2013/06/12(水) 21:12:25.17 ID:kE10GcaOo


 流石のベテランも、突然の大声には呆気に取られたのだろう、少し目を見開いて、俺の背後を…頭を下げる翠を見ていた。

「…重々承知しています。私がまだ一年目のアイドルで、合同フェスに参加するような技量もあなたが見てきた中で最低なのかもしれません」

「自己評価はできているようだな。なら――」
「ですが!」

 麗さんの声を打ち消すかのごとく反応し、頭をあげる。

「目の前に現れた道を、ただ呆然と眺めているだけのアイドルでありたくはないんです。機会を差し伸べてくださった方、期待してくださった方、その気持ちに応えるためにも私はやりたいんです。……お願いします」

 先ほどの空気が震えるような強い声とはうってかわって、静かな声で翠が語る。

 俺がやるべき姿を、翠が代わりにやっていた。
 写し身のような行動だ。

 酷く否定されたことを意に介さず、ただ頭を下げて、ひたすら懇願する。
 客観的に見れば哀れにも見えるだろう。

 しかし、翠は自分を見失っていない。

 大舞台で歌うという目標を前にして現れた問題から、逃げようとはしなかった。


「…麗さん。お願いします」

 完全に収まった気持ちになった俺もお願いをする。
 現状駄目だからといってそこで諦めては、絶対に上に行くことはできない。

 せっかく色々な縁あって到達できるチャンスを得た今を、ふいにはしたくない。


 翠と俺の気持ちは、確実にひとつになっていた。



321: 2013/06/12(水) 21:16:49.10 ID:kE10GcaOo


「……よく言った」
 限りなく長く思えた地面とのにらめっこも、麗さんの一言で終了を迎える。

「では、翠を――!」
「勿論だ。ここで逃げ出すなら本当にそうしていたが、そこまでいうなら私も喜んで付き合おうじゃないか」

 ポケットの中のメモを取り出して、何かを確認する。

「いいか、翠。少しでも投げ出すような素振りを見せたら、すぐにでもレッスンを止めるぞ。それぐらいキミの実力はあの舞台に立つアイドルのそれと乖離している事を理解しないといけない」

 強く、麗さんは言う。

 否定したくもなるが、決して妄言でも脅迫でもない。れっきとした事実だ。


 だから彼女は言う。
 フェスに泥を塗る様な姿は許さない、と。

「わかっています。その基準を超えるために、あなたが絶対に必要なんです。よろしくお願いします」


 そして、翠は応える。
 絶対にそうはさせない、と。



 ふふ、と笑った麗さんの顔が、酷く狡猾に見えた。



322: 2013/06/12(水) 21:17:56.62 ID:kE10GcaOo


  *


「元々、断るつもりはなかったよ」
 わずかに与えられた休憩時間中、麗さんは共に廊下に出て俺にそう言った。

「契約だからですか?」
 ちひろさんが青木さん達の所属する会社と契約しているため、俯瞰して考えれば雇われの身である以上、断る権限はどこにも存在していない。

 それを承知しての言動なのだろうか、と疑問に思う。

「無論それもあるがね。流石に初対面で相手の人間性を測るのは難しいから」
 スポーツドリンクを少し体内に落としこみ、息を吐く。

 つまるところ、あの言動すらも彼女によるテストの続きだったのだ。

 これを行ったのが麗さんでなければ、きっと怒りに身を任せていただろう。

「もしそれで翠があなたの思い通りにいかなければ、どうするつもりだったんです」
「そこで終わり。実力がないのなら、必要になるのはやる気だけだからね」
 俺の問いに、彼女はあっけらかんと答えてみせた。

 少しでも考える素振りを見せると思っていた俺は唖然としてしまう。



323: 2013/06/12(水) 21:18:52.65 ID:kE10GcaOo



「これだってちひろとの約束だったからな。『あなたが見て、良ければお願いします』だなんてよく言うもんだ」
 くつくつと笑い、麗さんは手を広げてみせた。

 おかしな話だ、と即座に俺は訝しむ。

 そもそもこれは契約の話だろう。普通であれば…とりわけ彼女のようなトレーナーを雇い派遣する形の企業形態であれば、基本的な相談や交渉といったものはトレーナー本人に対してではなく、会社の管理をする人間が決める話だ。

 そこで決められた大まかなギャランティと契約期間の間で顧客と細かい打ち合わせをしていくのが当然だと思っていたが、どうやら彼女の話によれば違うらしい。

 考えれば考える程訳がわからなくなってくるが、それ以前に大きな疑問符が頭上に浮かぶ。
「…ちひろ?」

 どうして麗さんはちひろさんの事を親しげに呼び捨てて話すのだろうか。



324: 2013/06/12(水) 21:19:34.27 ID:kE10GcaOo



「――いや、どうでもいい話だね」
「どういうことですか?」
 麗さんは言いかけていた言葉を取り消して再び飲み物を口に運んだ。

「キミが知っても意味はないよ。それに、私が話すのは悪いだろう」

 一体どういうことなのだろうか。

 その後は訊ねても茶を濁すばかりで明確な回答は帰ってこず、そのまま休憩時間を終えて練習再開となってしまった。


 俺は現状ですら器から色々なものが零れ落ちそうな程キャパシティに余裕が無い。

 翠に出会えてからは月日を忘れ我武者羅に動いて彼女のためにやってきたつもりだ。

 それがひいては事務所のためになっていると信じている。


 ……もしかしたら、何か見落としているのか?

 自身に突き詰めてみても、一向に結論は導き出されなかった。




325: 2013/06/12(水) 21:21:09.09 ID:kE10GcaOo



「――いや、どうでもいい話だね」
「どういうことですか?」
 麗さんは言いかけていた言葉を取り消して再び飲み物を口に運んだ。

「キミが知っても意味はないよ。それに、私が話すのは悪いだろう」

 一体どういうことなのだろうか。

 その後は訊ねても茶を濁すばかりで明確な回答は帰ってこず、そのまま休憩時間を終えて練習再開となってしまった。


 俺は現状ですら器から色々なものが零れ落ちそうな程キャパシティに余裕が無い。

 翠に出会えてからは月日を忘れ我武者羅に動いて彼女のためにやってきたつもりだ。

 それがひいては事務所のためになっていると信じている。


 ……もしかしたら、何か見落としているのか?

 自身に突き詰めてみても、一向に結論は導き出されなかった。




326: 2013/06/12(水) 21:21:51.13 ID:kE10GcaOo



 練習しているであろうレッスンルームに戻ると、柔和な笑みを浮かべて指導にあたる麗さんの姿があった。

 翠も先程のイメージとは全く違って困惑しただろうが、麗さんの言っていることは本当なのだ、鏡に映る彼女の顔つきは必氏そのものであった。

 やはりそうなったのも先の啖呵の影響だろう。
 麗さんは翠の一挙一動を見て、余すところなく指導をしているように見えた。


 まずは第一関門突破、というところか。
 全く麗さんの『テスト』には困ったものだ、と独りごちる。


「…頑張れ」
 結局、遠巻きに見ている俺ができるのは応援をすることだけだ。

 一体俺はその間、彼女に何をしてやれるのだろう。
 どんな助けが俺にできるのだろう。

 この時、俺の中で募るもどかしさは一層渦巻いていた。



327: 2013/06/12(水) 21:23:01.63 ID:kE10GcaOo


  *



 ――大丈夫か、翠。

 初日のレッスンを終えてちひろさんの実家に送る前に、俺達はふと事務所に寄っていた。

 既にちひろさんは帰宅を済ませており、今この暗い部屋には二人しか居ない。

「はい、大丈夫です。行けます」
 対する翠は、あれほどのレッスンを終えてなお意欲を見せていた。

 尽きることのない意志。消えることのない魂。
 彼女を構成する要素に、一体神様は何を混ぜたのだろう。


 本来であればそのまま直帰させるのがベストな選択肢なのだろうが、俺に何ができるかを考えた時、ひとつだけ思いついたのだ。

 俺は暗い事務所の電気をつけてから彼女のためのお茶を用意する一方、パソコンの電源を入れる。

 その間に引き出しから例のCDを机の上に置いた。


「翠、ちょっと来てくれないか」
 何の用なのだろう、といった表情の翠は、手招きする俺の元…パソコンの隣にやってきたので、ちひろさんのデスクの椅子の車輪を転がして翠に寄越した。




328: 2013/06/12(水) 21:23:55.23 ID:kE10GcaOo




「なんですか、これ?」
 傷ついたケースから何のラベルも印刷されていない簡素なCDを取り出すと、パソコンに挿入する。
「ん、もうすぐわかるさ」
 鈍い音とともに画面上に現れる音楽プレイヤー。

 まるで今の翠はちょっと前の俺のようだ。
 この存在に訝しんでいるのが何だか少し微笑ましかった。

「準備完了。じゃ、聞いてくれ――」
 特にためらうこと無く、再生ボタンをすると、俺があの時聞いた音が今一度部屋に響き渡った。




329: 2013/06/12(水) 21:24:39.92 ID:kE10GcaOo



 あの時は昼。今は夜。

 夜景の中に光がぼんやりと浮かぶようなこの部屋だから、この歌はより一層感情を励起させてくれる。

「翠はこの歌を、どう思う?」

 エレキギターがさながらピアノのように落ち着いた旋律を流し、ドラムが一秒以下の世界を刻んでいる。


「…もしかして、これは」
 状況や因果が理解らぬ彼女ではない。

 少しだけ目を大きく見開いて、口を開く。


 俺が翠にできること。

 それは、ちょっとだけ早い鑑賞会だった。


 本当であれば、麗さんのレッスンが翠の身に馴染んできた所でレコーディングの練習を始めるという予定だったが、一足先に聞かせてやることにした。

 当然ちひろさんや麗さんには内緒である。



330: 2013/06/12(水) 21:25:26.32 ID:kE10GcaOo



「不思議な…声ですね」
「声?」

 静かだった部屋の中に、燦々と鳴り響く歌を聞いていると、翠はぽつりと呟いた。

 曲調ではなく、翠はこれを歌っている女性のボーカルに感想を抱いた。

「Pさんはこの方が誰か知っているんですか?」
「いや、全く。ちひろさんも教えてくれないしな」

 正直に答えると、そうですか、と静かに返される。
「とっても思い入れのあるような、綺麗な歌声ですね。この曲を私が歌えるのなら、是非とも直接ご指導願いたいものです」

 ちひろさんは、この曲を演劇的な歌い方が必要だと言っていた。

 それは純粋に歌を歌う能力以外に歌に感情をやや過剰気味に込める事が大事だということだ。

 CDの中の女性は、まさしくその言葉を体現したような歌声だったのである。




331: 2013/06/12(水) 21:25:57.33 ID:kE10GcaOo


 ただただ翠は曲を耳に入れる。

 音階一つ楽器一つそれぞれを理解して聞いているようだった。


 曲は更に進み、時間が少し跳んだところでようやく音楽の再生が停止する。
 シークバーが初期の位置に戻るのは、この曲が終わった証拠だ。

 先程まで流れていた音楽のある部屋が不意に静寂に包まれ、耳に少し違和感が残る。


 翠を見ると、目を閉じて何かを考えているように見えた。

 それは、本当に合同フェスに出たい。
 出て、満足のいくパフォーマンスをしたい。
 たくさんの人に自分の歌声を聞いて欲しい。

 そういった願いが彼女の仕草によって顕現されていた。

 翠の表情を見た時、俺は今更ながら『彼女はもうプロなんだ』と思ってしまった。



332: 2013/06/12(水) 21:27:04.02 ID:kE10GcaOo



「…俺はさ。この曲を初めて聞いた時、『本当に翠が適しているのか』って疑問に思ったんだよ」

 しかし、いくら翠が練習に対して真剣に取り組める人間であったとしてもだ、心の何処かで不安や恐怖を抱えている事は以前で十分に理解している。

 彼女はもはやプロそのものだ。だが、彼女はただの少女なのだ。


「でも何度も聞いていると、今度は翠にこそこれが歌えるんだ、って思うようになったんだ」

 これからは、恐らく奈落の底に向かって突き進んでいくことになる。

 だから、手元にだけは光を持っていて欲しい。

「この女性の声じゃなく、翠の声でこの歌が聞いてみたい。…俺の願い、聞いてくれるか」

 曲が、俺の言葉が、彼女に良いモチベーションたる影響を与えられるのなら。

 そういう意味で、今日の鑑賞会を開いたのだった。



333: 2013/06/12(水) 21:27:50.29 ID:kE10GcaOo


「…当たり前じゃないですか」
 パソコンのファンの音だけが事務所に漂っている中、翠はぽつりと口を開いた。

「せっかくPさんが私に渡してくれた曲を、無下にするなんて事はしたくありません」

 その言葉の中にあるのは、揺るぎない絆めいた感情。


 たかが仕事の関係と言ってしまえばそれだけであるが、水野翠という人間にとって俺という存在はどれほどの価値を見出しているのだろうか。

 かつてしてきた俺の選択は正しかったか。より広い道に導くことは出来たのか。

「何より、それがPさんの願いなら……絶対に叶えてみせます」

 彼女と接していく中で常にあらゆる不安に苛まれてきた俺は、翠の答えこそが唯一の標識なのだと感じた。



334: 2013/06/12(水) 21:28:17.63 ID:kE10GcaOo


  *



「残念だけどこのCDは今は渡せない。麗さんの思うタイミングで渡されるだろうから、その時まで楽しみにしておいてくれ」
「はい、それまでずっと練習に励みます」

 あまり夜の事務所に長居することは褒められたことではないので、俺達は早々と退出し、夜の道路を車で走っていた。

 ちひろさんの実家は事務所から歩いてもさほど遠いという距離ではないが、夜という時間帯に加えこの下がりつつある気温では体調に悪い影響を与えかねないので、念のための処置だった。

 古い社用車の暖房をつけると、効果があるのかないのかよくわからない空気が車内に吹き込まれる。

 だがそんなすぐには暖かくならないので、翠の格好は外に出た時と同じく学校で普段着用しているらしいコートと手袋姿である。

 それが、より彼女を普通の少女めいた姿にしてくれていた。



335: 2013/06/12(水) 21:29:41.81 ID:kE10GcaOo



 予定では、一週間程度で基礎体力を麗さんの望む通りに仕上げ、その後にCDを聞かせてレコーディングとライブ用のパフォーマンスの練習をする事になっている。

 一悶着あった初日も、結果的に麗さんの思惑通りという訳ではあったが無事終了した。
 モチベーションも十分だし、これなら良い状態で明日を迎えることができるだろう。


「あの、Pさん」

 仕事面でも彼女の負担にならない程度に組まないとな、とハンドルを握りながら考えていると、翠は運転する俺を見て切り出す。

「どうした、寒いか?」
 暖房のツマミを回して強くしてやると、いえ、違うんです、と否定される。

「…これからはしばらく学校も休みがちになるんですよね」
 改めて聞かされたその声には、若干の揺れが含まれていた。

 彼女の言う通りで、前回以上に詰め込んでレッスンを行うためにやむを得ず学校を休む日を多くすることに決まっていた。

 当然仕事に関しても減らす、あるいは麗さんの休養日に合わせて行うようにし、レッスンの時間を削る事のないようにしなければならない。

 なので、フェス後もスムーズに以前の仕事のペースに戻りやすいように営業は普段以上に行わなければならず、今まで通り翠に常に付きそうような形は取り辛くなってしまう。

 これからは俺は営業、翠はレッスンと別行動をする時間が多くなるだろう。


 その間、きっと孤独感といったものが彼女に襲いかかる。

 単身東京に出てきた翠にとって、親しい人物は俺とちひろさんとその家族、そしてゆかりだけだからだ。

 地元であれば、俺やちひろさんが居なくても学友が居たから何も問題はなかったが、これからは違う。

 俺も仕事の付き添いであったり、レッスンでも一日一回は必ず顔を出すなりして和らげる努力は行うつもりではいるが……。



336: 2013/06/12(水) 21:30:10.85 ID:kE10GcaOo



「安心してくれ。勿論麗さんとの一対一のレッスンが多くなるだろうが、俺も極力顔を出すようにはするからさ」

 彼女の意図やこれから言わんとする要望は十分に理解できる。

 しかし、それを聞く訳はいかない。
 そんなことに時間を大きく割いてはいけないからだ。

 時間はまだある、が、ゴールには程遠い。翠には辛くとも頑張ってもらうしか無いのである。

 当然だが学校を完全に休むという訳ではないので、レッスンの休日には学校に行かせる選択肢も用意している。
 これならば精神的なストレスにも多少は効果があるはずだ。


「…じゃあ、撫でて下さい」
 そう伝えると、助手席の翠はそっと頭を横に傾けた。



337: 2013/06/12(水) 21:30:55.24 ID:kE10GcaOo


「今運転中だぞ、全く……ほら」

 一体どうしてこんな事になってしまったか。

 由来は定かではないが、もはや彼女のこの願いを聞くのが当たり前になってしまっていた。
 流石に人前ではアイドルに対するイメージもあるため自重しているようだが、以降は車内や事務所内などで時折頼まれるようになっていた。

「…やっぱり変でしょうか」
 不意に翠は呟いた。


 変、といえば変だ。
 感受性豊かな女子高校生が赤の他人たる男に頭を撫でさせるという行為が如何に非常識であるかは、火を見るよりも明らかである。

 だが、伝えるという選択肢だけは頑なに拒否をする。

 …それをしてしまったら、一体彼女はどうなってしまうのだろう。


 直接的な褒美を願わずに、ただ俺の手だけを求める。
 図らずとも非常識が常識なりつつあるこの今を壊すのは、あまりにリスクが大きすぎるのだ。

「変じゃないさ。…俺も翠の髪を撫でるのは好きだからな」

 確かに変なのは間違いないが、それで今彼女は上手く行っているのだから止めることは難しい。
 ならば、素直に聞いてやるのが吉だろう。

「……そうですか」
 目を閉じてそう言う翠の表情は、さながら女優のようだった。



338: 2013/06/12(水) 21:31:22.00 ID:kE10GcaOo


  *



「あー……。お姉ちゃ――いえ、姉が失礼なことをしてしまってすみません」

 麗さんとのレッスンの内容についての打ち合わせのため、都内のいつものスタジオに早々に到着してエントランスで待機していると、偶然彼女の妹…普段のトレーナーである慶さんに出会った。

「今は仕事中じゃないので、言い辛いならそのままでいいですよ」
 言い直す仕草は歳相応と言った可愛げがあったが、特に改まった礼儀が必要なほど俺と慶さんは遠い距離ではないはずだ。

「それなら…ええと。私からも謝ります。ご迷惑かけます」
 ぺこりと頭を下げる慶さん。

「いや、そんな程でもないですよ。…というか、麗さんは誰に対してもあんな感じなんですか?」
 少なくとも、姉の所業を何度も見てきたかのような態度だ。
 でなければわざわざ謝りはしないだろう。

「確かにトレーナーに身を置いて長いし優秀なので会社からの信頼は厚いんですが、私も勉強としてお姉ちゃんを見ていると、ややアイドルの反骨心に賭ける部分もあって…」

 過激、というのは無論初日に翠にかけた言葉の数々だろう。

 決して暴言なんて野蛮なものではないが、人によっては尊厳を踏みにじるようなものと捉えられても不思議ではない。

「驚きましたよ、私も。でも、翠は麗さんに負けないで食いかかって行ってくれた」
「同じ意見です。…強い子だとは思ってましたけど、まさかあんな反応ができるとは考えられませんでした」

 麗さんと翠の顛末を慶さんに話した時、彼女も大層驚いていた。

 翠は静かながらもひたむきに努力する人間だと表面上は見えてしまうが、なかなかどうして熱い闘志を持っている。
 昨今においては稀有な人格の持ち主と言えよう。



339: 2013/06/12(水) 21:34:23.65 ID:kE10GcaOo


「今、慶さんは何をやっているんですか?」
 元々翠の担当トレーナーという役職で契約していたため、今のレッスンは麗さんが担当している以上、何をしているのか俺にはわからなかった。

「休憩、というと聞こえはいいですが、今は色んな子…新人の子を見て回って指導しています」
「すみませんね、翠との契約だったのに」

 現在はある一人との専属形式は取らず、言うなれば非常勤講師的な役割であちこち動き回っているらしかった。
 営業であることを除けば、おおよそ俺との違いはない。

「いえ、私はこの機会を利用して勉強していますから、またレッスンする頃には私もパワーアップしてますよっ」
 ぐ、と両手を握り元気なアクションを見せる。

 麗さんとは違った少女らしさ、元気さを感じ取り、いや慶さんもいずれ姉のようにベテランの風貌を見せるのか、といささか残念な気持ちが出てきてしまう。

「はは、翠もパワーアップしてますから、覚悟してて下さいよ」
 今のこの和んだ場に相応しい笑みを浮かべると、彼女もにこりと笑って返事をしてくれた。



340: 2013/06/12(水) 21:35:10.15 ID:kE10GcaOo


「――あと、杞憂かもしれませんが……翠ちゃんには気をつけて下さい」
「どういうことです?」
 そろそろレッスンの時間だ、と慶さんは立ち去る寸前で意味深な事を口走った。

 担当トレーナーからの懸念。
 実の姉が担当するとなっているにも関わらず切り出すということは、何らかの確証があるということだろうか。

「いえ…その、翠ちゃんってとっても真面目で練習熱心で、そのせいで私もつい指導に熱が入ることがよくあるんです。お姉ちゃんも翠ちゃんみたいな子が大好きですから、私以上にハードとなると何が起きるか…」

 姉の性格を汲み取った予測だったが、間違いとは思いにくい。
 初めこそあんな口調だったものの、それからは翠のことをよく気にかけて熱心に指導してくれているのが、外野の俺にもよくわかっていた。

 それに、翠の性格への言及も的を射ている。

 彼女の言うとおり、真っ直ぐに向かっていけるのは翠の良さだ。
 麗さんに対しても進んで指導を請い、なかなかのスピードで習得をしていっている。


「慶さんも翠の事、よく考えてくれているんですね」
「け、慶さんって…」
 相手を称賛するように言うと、別の部分で彼女は顔を赤らめる。

「ああ、いや、すみません。姉妹二人と交流を持ってると苗字だと混同しやすいので、つい」
 俺も反応の意味に気付いて取り繕う。



341: 2013/06/12(水) 21:35:47.96 ID:kE10GcaOo


 今のように一人相手だと青木さんという呼称で十分だが、二人同時に話すこともあると苗字呼びでは混同してしまう、と頭で考えていた事が不意に出てしまったのだ。

「別に嫌な訳じゃないですよ――う、嬉しいですし! もしよければこれからもそのままでお願いしますね!」
「え、まあそういうことでしたら…今後ともよろしくお願いします、慶さん」

 不意に訪れた予想外の展開に困惑しつつも、慶さんは改めてエントランスを立ち去っていった。

「慶さん、か。翠と殆ど変わらないのに不思議なもんだ」

 真面目で真っ直ぐなのは慶さんも同じだろうに、と俺は苦笑し、もうすぐ来るであろう麗さんの到着を再び待ったのだった。



342: 2013/06/12(水) 21:36:39.43 ID:kE10GcaOo


  *



「それじゃ、明日までに曲を慣れてくれ。以上だ」
 レッスンの終わり、クールダウンを終えて帰宅しようかという頃、麗さんは翠にCDを手渡した。


 麗さんのレッスンが始まって五日。

 翠のやる気も相まってか、レッスンの習得スピードは麗さんの想定を上回り、予定よりも若干早目に表面上の初披露となった。

 表面上というのは、初日の時点で俺が聞かせてしまった故の表現である。

 彼女の意図に外れた行動をとってしまったのだから責められるは俺であって翠ではない。
 まあ、バレたとしても恐らく大した損害ではないはず。

 大丈夫だとは思うが念の為謝罪の口上でも考えようかとしていると、麗さんは俺の下にやってきた。

「ほら、プロデューサー殿にもこれを」
 汗で薄い服が体に張り付いて、上気した全身からは石鹸の香りが漂ってくる。

「あ、ああ。ありがとうございます。…お、歌詞カードまで入ってるんですね」
 流石指導を続けるベテランだ、引き締まった肢体はアイドルとしても十分やっていけそうである、とついつい考えてしまった事をすぐにかき消す。


 クリアのCDケースに目をやると、中には簡素な紙の歌詞カードが入っていた。

「当然だ。字面から感情を励起させるのが重要なのだからな。プロデューサー殿は既に聞いているだろうが、これからもよく聞いて、翠を適切に指導できるように準備しておいて欲しい」
「わかりました。カラオケで90点出せるぐらいに頑張ります」
「…そういうことを言っているんじゃないぞ」
 彼女は俺の胸を小突くと、くすりと笑ってみせた。

 あまり破顔することはないように見えても、目を細めて小さく笑う表情はなんとも言いがたい綺麗さがあった。



343: 2013/06/12(水) 21:38:54.57 ID:kE10GcaOo



「それと、レコーディングの予定も早めますかね?」
 レコーディング、すなわち収録というのは、フェスでの披露と同日に発売する予定のCDの事だ。

 歌を歌わせたいと営業をかけても気にかける素振りすらみせなかったレーベルが、自前で音源も全て確保できているということを種に粘り強く交渉すると、なんとか合意にまで至ってくれたのだ。

「いや、収録で手間取りたくはない。ボーカルレッスンを増やして予定はそのままにしよう」
 麗さんはポケットの中のメモを取り出して何かを確認する。

「はっきり言って歌唱レベルはまだまだだ。だからその時までに私がなんとかしてみせようじゃないか」
 内心では彼女も楽しんでいるんじゃないかと思えるような節が時折見え隠れしている。

 仮に俺が指導する立場だとしても、やる気のない生徒よりもやる気のある生徒の方が楽しいと思っているだろうな。

 そもそもアイドルになる人間がやる気が無いなんて、その場でクビになってもおかしくないし、大抵の場合はスカウトの時点でお断りである。



344: 2013/06/12(水) 21:39:49.56 ID:kE10GcaOo



「頼もしいですね。麗さんもフェスに参加して翠の隣で歌っちゃいますか?」
「んな、何を言っているだキミは…!」

 あ、麗さんはこんな表情もするのか。

 小さくのけぞり、赤らめつつ呆気に取られた顔をしている彼女がトレーナーで終わるのは勿体無い気もした。

「はは、冗談ですよ。イケるとは思いますけどね」
「巫山戯るのも大概にしてくれ。…私にそんなことはできないよ」

 …まあ、それは彼女が決めた人生なのだから俺がとやかく言う話でもないか。


「それでは明日もここで?」
「問題ない。明日でとりあえず歌えるレベルにまでは到達させてみせる」

 なんとも心強い言葉だ。

 それも、麗さんが培ってきた経験と知識に依るものなのだろう。
 彼女の表情に一切の不安の色はない。

「わかりました。…今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「ああ。よろしく頼む」

 軽く礼をすると麗さんも礼をし、小さな笑みを見せてから俺の横を通って部屋を出て行った。



345: 2013/06/12(水) 21:40:18.90 ID:kE10GcaOo


「…将来は慶さんもあんな感じになるのかなあ」
 まだ鼻に残る微かな香りを感じていると、慶さんの将来がイメージされる。

 いや、あの可愛げな顔で勇ましい台詞は似合わないか。

「Pさん…」
 勝手に失礼な事を想像して思わず笑うと、いつのまにか着替えを済ませていた翠は俺の肩を叩く。

「ん……ああ、ごめん。じゃあ帰ろうか」

 汗も完全ではないが乾かしていて、風呂あがりのようなまとまらせた髪を揺らした翠は何故か不満そうな顔つきになる。

 何があったのだろうと訊ねようとすると、彼女はとんでも無いことを口走った。

「…浮気は駄目ですから」


 ……一体翠は何を言っているんだ。



346: 2013/06/12(水) 21:40:46.19 ID:kE10GcaOo


  *



「声の引き上げができてないぞ。もう一度だ」
「はい――」

 一字一句をはっきり言うのではなく、大事なのは全体の波だ。
 麗さんはそこを絶対視しており、翠への指導もその点を欠かすことはなかった。



 レッスン場。

 CDプレイヤーから流れるオフボーカルに合わせて翠は歌う練習をかれこれ一週間程度続けている。
 練習を始めたのが十月からなので、あともう少しすればフェスまであと一ヶ月となろうかという頃だ。

 ここからは、まず静止した状態での歌唱を上達させ、次にフェス会場の構造を研究した上で適切なダンスを教えることとなっている。

 たとえば大勢のバックダンサーと共に激しいダンスをしながら歌うのであれば、その関係者とともに綿密な連携を練習することが大事だが、今回翠のデビュー曲であるこの歌に限ってはそれが必要とならない。

 あくまで静かに、それでいて心に強く訴える激しさを伴うリリックが最も重要なのだ。
 それ故に、こうしてボーカル練習に多くの時間を割くことができているのだった。



347: 2013/06/12(水) 21:41:53.36 ID:kE10GcaOo




「今のところは良いが、声の切り方が強すぎる。下りを意識しろ、いくぞ」

 プレイヤーを停止させたかと思えば、少し巻き戻して麗さんの思う訂正箇所から再生を始める。
 全く翠の発言を許す隙もなく、絶え間なく練習が続く。

 止むを得ない、と言えばその通りなのだろう。
 なにせ、時間がないことにはかわりがないのだ。

 それでも学園祭より倍近く時間がとれているというのだから、この練習がどれほど濃密なのかはもはや言うまでもない。


 俺は今日の分の営業を終えてからレッスンを見に来たので、もう日は完全に落ちきっていた。
 ということは、翠は仕事の予定が今日は無いので、朝からぶっ通しでやっていることになる。

 休養の時間や頻度については俺よりも麗さんの方が博識だと思うので、レッスンのスケジュールは基本的に彼女に任せている。
 仮に俺が仕切ってしまえば、変に過保護になってロークオリティのパフォーマンスを披露することになるとかなってしまうのかもしれないのだから、納得はしている。

 麗さんも麗さんでスケジュールを決める時は俺に逐一打ち合わせという形で報告してくれるし、何よりその時の進行状況で臨機応変に変えてくれるので不安はない。



348: 2013/06/12(水) 21:42:47.93 ID:kE10GcaOo


「よし、休憩だ!」
 何度も繰り返されるBメロからサビへの移り変わりが、ぱん、ぱんという麗さんの拍手と共に打ち消された。

 時間的に、あとは最終確認という形で流すように復習するのだろうか。


「……ひとまずお疲れ様。今日もいい感じだったぞ」
 低い天井を仰いで息を出し入れする翠の下に駆け寄って、タオルとスポーツドリンクを渡す。
「はあ、はあ。ありがとうございます…」
 客観的に見れば、ただ立って歌っているだけの練習だが、本人に関わる心身内部の処理や雰囲気による精神的なプレッシャーに、流石の翠も疲労を隠せないようだった。

「何度も繰り返されるのはそこが重要な証だ。覚えて、できるようになろう」
「ふぁ」
 俺がタオルで顔を拭く翠の頭に乱暴に手を置くと、翠は変ではあるが可愛らしい声を上げた。

 ……最近では、こうして翠の頭に手を置くことも珍しくなくなっていた。

 無論翠が嫌がっているのに無理やり、という訳ではない。
 それどころか、撫でるたびににこやかな表情を見せてくれるのだ。


 実を言うと、もはや翠の髪に振れることに抵抗感は全く無くなっていたのである。



349: 2013/06/12(水) 21:43:46.50 ID:kE10GcaOo



「相変わらず仲が良いな。少し羨ましいよ」
 良い事か悪いことか。
 それがこの先どういった事態を呼ぶのか。

 全く不透明な未来に目を背けていると、壁際で休憩していた麗さんが俺達の所へ来て声を掛けてきた。

「…麗さんも撫でましょうか?」
「要るか、馬鹿者」
 先ほどの言葉を察した俺が恐る恐る提案をすると、軽く頭を叩かれてしまった。
 しかし麗さんの身長は女性の平均より高いとはいえ俺よりかは低いので、少し手を振り上げて無理して叩く形になるのが、何とも冗談めかした雰囲気を醸し出していた。

「それよりだ、翠。これが頼まれてた物だ」
 はあ、と嘆息してから、麗さんは翠にペットボトルを手渡す。
 それは、先程から彼女が手に持っていた何やら黄色い液体が入ったラベルのないペットボトルであった。

「ありがとうございます。あ、こんな色…少し薄いんですね」
 会話がスムースに言っていることに俺は疑問を抱く。

 彼女達の反応を見るに、さも前々から何度も話していたかのようではないか。

 そうした俺の言葉は、翠の言う答えとして返ってきた。



350: 2013/06/12(水) 21:44:53.95 ID:kE10GcaOo


「実は健康管理の面でもお世話になってまして、良いドリンクの自作法を教えてもらってたんです」

 薄い黄色の液体の入ったペットボトルは、翠と麗さん、それぞれ一本づつ携えている。話から、どちらも麗さんが作ったということだが…。

「ああ、実は私なりにレッスンに役立つドリンクを研究していてな……ちょうどいい、プロデューサー殿も一度飲んでみるといい」
「え? いいんですか?」

 思わぬ提案とともに、麗さんは俺にもう一つのペットボトルを手渡した。

 そもそも、彼女が指導の傍ら自分でドリンクを作ることもしている事が初耳だった。
 これも指導に対する思いのなせる技なのだろうか。

「では少し……ん? 思ったより甘いですね」
 キャップを開けて少し口に含むと、途端にほのかな甘味が口腔を撫で回す。
 そして喉を通れば喉に何かがまとわりつくような感覚がした。

 例えるなら、ウーロン茶の逆の感覚だ。
 ミルク系の独特な感覚がしたが、決して嫌になるタイプの飲み物ではない。

「基本的なレシピは変えていないが、人の好みで…今回は翠用に分量を変えているからな。そうだろう、翠?」
「あはは…恥ずかしいです」

 パフェを人並みに好んで食べる翠の好みを理解しての調合らしい。
 それでいて本来の目的である休息な栄養吸収を妨げることなくしているのだから、相当やりこんできたのだろう。



351: 2013/06/12(水) 21:46:07.22 ID:kE10GcaOo



「全く、それにしてもキミが最初持ってきたドリンクを見てびっくりしたよ」
「や……!?」

 やれやれ、と言った風に手をひらひらとさせる麗さんを見て、翠が急に慌てる。

「それって……まさか」
 最初に、という言葉が、俺の記憶を意識に隆起させた。


 そう、年月で言えばおよそ半年前。

 俺のためにわざわざ自分の飲み物を分けてくれたにもかからわず、吹き出してしまうような酸味の効いたあの飲み物だ。

 彼女は弓道の部活のためにあれを自作していたと聞いたが、まさか今でも続けているとは思いもしなかった。

「…私も、ちゃんとした物が作りたいと思ったんです。それで」
「真面目だなあ」
 そう言って、再度翠の頭に手を置いた。

「翠もそれだけやる気を持って今回のレッスンに臨んでくれているということだ、私としては歓迎だよ」
 くす、と笑みを浮かべて、俺が持っていたペットボトルを返してもらう形に持っていく。

 既に休憩といえる時間はゆったりと流れ切っている。

 麗さんも本日最後の一仕事をやるつもりだろう、壁際に荷物を置きに行く。



352: 2013/06/12(水) 21:46:50.69 ID:kE10GcaOo


「よし、最後まで気を抜かないようにな。頑張れ」
「わかりました、Pさん」
 もらったペットボトルのドリンクの水面を少し下げると、キャップを閉じて翠も荷物を戻しに行った。

 今日一日全体で言えば、終わりまでの時間など些細にしか感じないが、この時できているかどうかが今日のレッスンの総括となる。

 出来なければ、また明日同じ事をする。
 それで、本来するべきスケジュールがどんどんズレていく。

 予定調和などありえない話だというのは重々理解はしているが、大きすぎるズレは最終的な結果にまで影響するのだ。

 だから、決して立ち止まっては行けない。

 少なくとも……フェスの終わりまでは。


 再び最初から流れる新曲に合わせて歌う翠の声に耳を傾けながら、成功する未来を夢想する俺だった。




353: 2013/06/12(水) 21:48:56.82 ID:kE10GcaOo


  *



「本日のゲストはおなじみ水本ゆかりと、そのお友達の水野翠さんですー!」
今まで行ってきた中でも最も大きなスタジオで、二人は拍手とカメラに包まれた。

 家を意識したセットの中に設けられたソファには、翠とゆかり、そして進行役の男性と二人コンビの芸人がそれぞれ座っている。


 翠も最近では、ゆかりのお友達として全国テレビに出る機会も僅かではあるが増え始めていた。
 性格や雰囲気が似ているためか、巷でも二人セットで扱われる機会が増えて、その度にゆかりのプロデューサーから苦笑交じりの嫌味を言われることも多くなった。

 アイツの食い扶持が減るだろ、とは口癖らしい。



 きっかけといえば、プライベートでの写真だろうか。


 俺も翠に教えられるまで気付かなかったのだが、ゆかりは事務所の命でブログを開設していたらしく、時折ゆかりの私生活やお気に入りの服や音楽について写真を添付して投稿していた。
 その中で、去年とは違ってある時から翠と一緒に写っている写真がぽつぽつで出始めているのだった。


 そういえば、という言葉が入る。

 学園祭の前後の頃、翠に携帯で撮影した彼女達のツーショットを見せてもらった事がある。
 その時の表情を見て、私的な友好関係を持ってくれているのだな、としか思わず、特筆すべきこともなく流してしまったのである。

 こういったブログでの公表に対して自由にやって良い訳ではなく、恐らくではあるが投稿の際には監視役…この場合、ゆかりのプロデューサーがチェックするのが当たり前だ。

 その上で画像が公表されているということは、すなわち彼も二人組として扱うのがゆかりにとっても良いという、相互利益関係が成立していると考えていい。


 現に、こうして二人でテレビに出演し、出会いのきっかけや趣味の話でスタジオを盛り上げていけているのだから、その考えは至極正しいのである。



354: 2013/06/12(水) 21:49:48.06 ID:kE10GcaOo


「この前も忘れ物をして家に戻ったとき、何を忘れたのか忘れたこともあって……」
「どこまで忘れるんだよ!」
 スタジオの入り口付近、カメラの後ろで静かに俺は二人を眺める。

 ある程度決められた台本を渡されているとはいえ、翠の行動はやけにボケに冴えていた。

 芸人の指摘に観客も声と笑みを漏らす。
 この部分は台本で指定されているのではなく、トーク部分として時間だけ割り振られた部分だ。

「あのーお聞きしたいんですが、翠さんはいつもこんな感じなんか?」
「いつも…割とだよね?」
「違いますよ! たまたまです!」
 追い打ちを掛けるようにゆかりも翠にツッコミを入れると、手を振って翠は弁明する。

 本人たちはわざとやっているのかどうか分からない程に自然な口調で事実確認をしあっている。
「いやだって、前に私の家に来た時も私の服を着て帰ったことありましたよね」
「どういうこと!?」

 その会話も咬み合わっておらず、ズレっぷりが一層笑いを呼んでいた。


 ……というかその話は俺も初耳なのだが、本当に何があったのだろうか。


355: 2013/06/12(水) 21:50:51.26 ID:kE10GcaOo


  *



「その話は恥ずかしいから止めて下さいよ、ゆかりさん…」
「ウケてたじゃないか。流石だな」
 ゆかりのプロデューサーは遠慮なく翠に言うと、うう、と羞恥心を漏らしていた。



 収録終了後。
 出演者やスタッフの方々に挨拶をして用意されている楽屋に戻ると、疲れ果てたかのように息を吐いて翠は椅子に座った。

 いつものきりっとした姿勢はどこへやら。心底恥ずかしいといった表情でため息をついていた。

「…あれ、本当なのか?」
 放送中で全て語られた事なのだが、どうやら翠がゆかりの家に遊びに行った時、二人で服の着せあいっこをしていたらしい。

 何でもスリーサイズがほぼ相違ないからだそうだ。
 身長こそおよそ10センチも違うのだが、着る服も似通った趣味をしていることから、そういう流れになってしまったらしい。

「…本当です。ゆかりさんって、スタイルいいですよね」
「翠ちゃんだって、身長が高くて羨ましいです」
 まあ三歳違いでスリーサイズがほぼ同じとあれば、そう言ってしまうのも無理はない。

 お互い褒め合う二人だが、どちらも気にする部分というものがあるのだろう。


 その会話を眺めていると、ゆかりのプロデューサーはぱん、ぱんと手を二回叩く。



356: 2013/06/12(水) 21:51:24.83 ID:kE10GcaOo



「ゆかり。そろそろ時間だ。次の仕事に行くぞ」
 私的な会話から仕事の会話へと移り変わったのがはっきりとわかった声色だ。

 彼女もそれを聞いて理解し、落ち着いて「はい」と一言返事をして荷物をまとめ始めた。

「お疲れ様です。またどこかで」
「おう、またな」
 彼のプロデューススタイルについてこちらが文句をいう筋合いはない。
 むしろそれで上手く言っているのだし、ゆかりも不満を抱いていないのだから、それはお門違いだろう。


「……できました。じゃあ翠ちゃん、また会いましょう」
「はい!」

 去り際、ゆかりはこちらを振り向いて礼をすると、翠も丁寧にお辞儀をした。


 友達とまで行っても、こういった様式というのはいつまでも変わらないようだった。



357: 2013/06/12(水) 21:52:10.30 ID:kE10GcaOo


  *



「飲み物、何がいい?」
「あ、ではお茶をお願いします」

 自販機からお茶とコーヒーを取り出すと、片方を翠に渡し、歩き出す。



 ――外。

 日差しはまだ心持ち温かいが、しっとりとした空気と撫でるような冷風が俺達を抜かしていく。

 そんな中を二人で歩いていた。


 今日はちひろさんが車を使っているため、電車で事務所まで戻ることになっているのである。
 悪いな、というと、歩くのは嫌いじゃないですから、と翠は笑顔で答えてくれた。


 燦々と輝くような笑顔ではないが、落ち着くような、素朴な笑顔はそれと違ってまた可愛げがある。

 コーヒーを持ってない手で頭を二、三度叩いてやると、こちらをみてまた笑みを浮かべてくれたのだった。



358: 2013/06/12(水) 21:52:41.79 ID:kE10GcaOo



「…寒くなってきたな」

 今日の分の仕事は終わったが、時間で言えばまだ昼過ぎという頃合いである。

 ゆかり達のように、一日に何度も仕事場を回るような忙しい日々にはまだまだ遠そうだった。

 しかし仕事とは別に、今彼女にはフェスに向けたレッスンという大事な用事がある。
 当然昨日も夜までレッスンをしていた。

「そうですね」

 通常の感覚で言えばそこまでして後何を練習することがあるのだ、と思ってしまうが、柔軟やメンタルトレーニング、当日の流れについての復習など、内容が尽きることはない。


 …とはいっても、体力というものは無限に限りなく近いようで、無限ではない。
 仕事があるから、という名目で、今日はレッスンがお休みなのである。


 まだまだ冬というには暖かすぎる。

 しかし、彼女のつけた手袋が、冬の気配を色濃く描き出していた。



359: 2013/06/12(水) 21:53:27.10 ID:kE10GcaOo



「途中寄りたい所とかはないか?」
 人がまばらな平日昼の駅。

 椅子に腰掛けた俺と翠はしばらく景色を見ていたが、俺は不意に声をかける。

「…特にはないですね」

 寸分考えてから、翠はそう言った。


 レッスン漬けの毎日と一生懸命こなす仕事。

 営業という仕事もパフォーマンスという仕事も、どちらも辛いことには変わりない。
 だが、精神的な負担はきっと彼女のほうが多くのしかかっていることだろう。


 せっかくの午後の休みを得られたのだから、もしかしたらどこかに行きたいと言うかもしれない、そう思って訊いたのだが、存外そうでもなかったらしい。

 まあ、彼女なりにそういう所も自己管理が出来ているということなのだろう。
 未だレッスンは熾烈を極めているが、それでも順調に進んでいるのなら、こちらから働きかけることはない。


 やがて視界の横で電車が遠くから大きくなっているのを見つけると、立ち上がってその時を待った。



360: 2013/06/12(水) 21:54:21.56 ID:kE10GcaOo


  *


 ――Pさんの家って、どんな所なんですか?


 がたん、ごとんと揺れる車内。
 小気味よいリズムに乗せて、隣に座る翠は訊ねた。


 俺の家はちひろさんの実家のように一軒家ではなく、オンボロなアパートに一人暮らしだった。
 どこでどう暮らしてどう仕事すればいいのか理解らなかった入社前、社長に斡旋してもらって決めた部屋である。

 エアコンはついていないし壁も薄い。
 床は軋むし少し臭う。日当たりも悪い。
 この冬もきっと辛い日々が待っているだろう。

 そんな悪条件でも駅からは近く、家賃も安い。たったそれだけで決めた部屋だが、後悔はしていない。

 自立して暮らす初めの頃は、大体こんな感じなのだろうという予想はしていたし、意外にも住めば都という言葉がぽんと出てくるのだ。

「…まあ、ろくでもない所だよ」

 笑って答えると、彼女の表情が少し変わる。

「いつも仕事で大変なのに、そんな場所では休めないのでは?」
「そんな場所でも城は城なんだよな、意外に」

 翠の実家に入ったことのある身としては、落差には涙を禁じ得ない。
 しかし、男の一人暮らしなんてものはこれが当たり前なのだ。



361: 2013/06/12(水) 21:55:19.70 ID:kE10GcaOo



「Pさん、確かお昼はいつもコンビニでしたよね」
「…よく見てるな」

 翠の質問は続く。

 家に帰る時間や睡眠時間、そして毎日の食事についてなど、俺の不摂生を明るみに出したいが如く、痛いところを突いてくる。


 そう言われて初めて、俺って結構後先考えない生活してるよな、としみじみ感じた。

 彼女のプロデュースが原因、とは言わない。
 ただ、翠の事を一日中考えているので他のことが手に付かないだけだ。


「…そうですか」
 不意に質問が止む。彼女の声に傾けていた耳の中が、車内の雑音で独占される。

 もう俺の家の話題は飽きたのかと翠の横顔を見てみると、俯いて深く考えているようだった。

 真面目な彼女の事だ、もしかしたら健康的な生活のためのプランでも考えているのかもしれない。
 確かに翠と出会ったきっかけからして、困った人を放っておくとは思えない。

 彼女を彼女立たせている大きな要素は、素直と献身なのだ。


 さて翠は懸命に考えて何を言ってくるのだろう、と予想を脳内に蔓延らせて若干楽しみに待っていると、とうとう本人の口が開いた。


「寄りたい所が決まりました。――Pさんの家に、行きたいです」
「……へ?」

 この子は一体何度突拍子もない発言をすれば気が済むのだろう。


 ゆらゆらと揺れ、流れる景色の中、その言葉を噛み砕くのには結構な時間を要した俺だった。



362: 2013/06/12(水) 21:55:55.83 ID:kE10GcaOo


「…えーと、どういう意味?」
 Do you meanと聞こえようがなんだろうが、大体の意味は同じである。

「私のために時間を割いてくれるのは嬉しいです…けど、Pさんがそれでは私も心配です。今日だけでも行かせて下さい。…Pさんの役に立ちたいんです」

 おおよその意味は俺に通じていたようだった。

 尤も、そうであって欲しくなかったという気持ちは十分にあるのだが。

「…ありがたいけどな、それは無理だろう。翠ももうそこそこ名前も売れてきたんだからさ」
 プロデューサー、しかも男性の家にアイドルを連れ込むなど言語道断である。

 並み居る有名アイドルに比べればまだまだとはいえ、翠も今や全国テレビにも顔が写るまでになった。

 それを知っていてなお行きたがる神経が、俺には全く理解できなかった。


「…じゃあ約束して下さい。健康的な生活を送ると」
「うっ」
 半目で問い詰めるように翠は俺を睨んだ。

「……や、約束する」
「嘘です」

 元々歳以上に凛々しく見える容姿が今はもっと大人びて…いや、厳かに見える。
 それは久しぶりに帰省した実家で母親に生活を指摘されているような感覚に陥らせた。




363: 2013/06/12(水) 21:56:27.50 ID:kE10GcaOo


「私の事が心配だというのなら、Pさんも心配かけないような生活を送って下さい。それができないなら――」
「ちょ、静かに……。静かに、な?」
 長丁場になりそうな口上を慌てて制止する。

 いくら電車の中に人が多くないといっても、居ることには違いないのだ。

 見た感じでは、残念ながら翠が座っているということに気づいている様子はない。
 しかし、そんなレッドラインを滑水するような会話はどう考えても不味い。


 ……普通に断ればいい。

 その場しのぎで騙してこのままの生活を続けたところで、どうせバレるはずもないのだから。


「……Pさん」
 だが。

 彼女の視線は強情を通り越して脅迫にとられかねない程の強さを持っていた。

 何やら、例え嘘をついてこの場を抜けだしたとしても、こまめにチェックしだしそうな雰囲気すら感じる。

「…わかったよ」
 そこまで俺の事を心配してくれているのか、と嬉しくなる一方、自覚のなさに若干の焦りを覚える時間となった。


「ふふ、ありがとうございます」
 まるで狡猾に見える彼女の笑みを他所に、俺は一つ嘆息する。
 とりあえず、ちひろさんにだけはバレないようにしないといけない。


 ……まあ、初めから俺がまともな生活を送ればいい話なんだけども。



364: 2013/06/12(水) 21:57:59.98 ID:kE10GcaOo


  *



「ここが俺の家だ。まあ入ってくれ」
「わあ…ここがですか」

 駅から徒歩5分ぐらいか、静かな住宅街の中に俺の根城はあった。


 ガチャリとややぎこちない音を立てて玄関の扉を開けると、先に翠を入れてやる。

 念の為に駅を降りてから誰かにつけられてないかそれとなく確認してみたが、俺達以外に降りた人は居なかったので悲喜こもごもの感情を抱きつつ、俺も家に入り、扉を締める。

 翠は事前に渡して着用させていたマスクを外すと、丁寧に畳んで彼女の鞄の中に入れた。
 無論念には念を入れての変装のためだ。


 こうなることを予測して準備しておいたのではない。

 ただ、もうすぐ冬も近く、風邪菌を体の中に入れないようにと思って忍ばせていただけのことだった。

 まあ結果的に心理的安寧の役には立ったので良しとしようか。

「…思ったより綺麗ですね」
「翠は俺のことをどんな人だと思ってるんだ…」

 期待はずれというか、拍子抜けというか。
 そんな気の抜けた声で感想を言われてもいまいち喜べない。



365: 2013/06/12(水) 21:59:44.95 ID:kE10GcaOo


 自分の部屋に返ってきたのにいつまでもスーツ姿は息苦しい。

 とりあえずスーツを脱ぎネクタイを解く。そしてそのままハンガーに掛けようとすると、翠がそれを奪いとってしまった。
「これぐらいさせて下さい。掛けますね」
「…あ、ああ」

 壁の木枠に吊るしてあったハンガーにスーツとネクタイを掛け、シワの着いた部分を軽く撫でるようにはたいた。

 今翠は私服姿だから冷静でいられるが、もし格好があの学校の制服であったとしたらいささか犯罪臭がしないでもない。

 そう考えるとこの状況が如何に不味いかがよくわかろう。


「晩御飯までは時間がありますね…部屋もそこまで汚れていないようですし」
「汚すほど部屋に居る時間が長い訳じゃないからなあ」

 俺の部屋には残念ながら客をもてなすような設備は全くと言っていい程存在しない。

 唯一のクッションである綿の潰れたベッドに翠を座らせて、俺はベッドを背もたれにするようにして下に座る。

「あ……すみません、Pさん」
 座る高さが違うせいか、珍しく俺が翠に見下される形になったのを感じ取ったようで、彼女も俺の隣、ベッドから降りてさっと座った。

 どちらかといえばベッドに二人並んで座ることが何となく気が進まなかったからである。

 なので気にすることはないんだぞと言ってやると、翠は目線を自分の膝に落として呟いた。

「…見上げている方が、私、好きですから」

 変わった人だ、とつくづく思う。



366: 2013/06/12(水) 22:00:40.32 ID:kE10GcaOo


 昼下がりの午後。

 この付近は騒ぐような人間は居らず、うるさいといえば時折通る車の音や早朝の鳥達の音ぐらいである。
 ましてや人の声で喧騒が生まれることなど、俺の知る限りでは全くない。


 そんな壁掛け時計すらない簡素な部屋の中に、俺達は同じ方向を向いて座っていた。
 目の前には小さなテレビとテーブル、そしてパソコンがあるだけだ。


 よくよく考えてみると、まるで不思議な雰囲気である。

 そこまで広くはないが年齢差のある俺達が、はしゃぐ訳でもなければ大笑いして話す訳でもなく、こうしてじっと静かに過ごすという空気が想像以上に異質で、それでいて新鮮だった。


 ちらりと翠を見ると、それに気づいたらしい翠も俺を横目で見て笑う。
「…そんなに私がここにいるのがおかしいですか?」
 冗談めかした声色だ。

「そりゃあ…今まで誰かを中に入れたことすらなかったからなあ」
「本当ですか?」
「嘘つく意味はないさ」
 天井を仰ぐ。
 やや痩けた色をした合板がこの部屋を包んでいた。


 実際、入居してから今までの間にこの部屋に誰かを招いたことは一度もない。
 それどころか俺自身ですら、合計の時間で言えば外にいる時間のほうが多いぐらいだ。

 そんな寝るだけの部屋に俺以外の人間…それも担当するアイドルがいることに、とても非日常感を覚える。

 言い換えれば、ある日しがない人間である俺の下にテレビで見る可愛いアイドルが突然やって来たというような物だ。

 漫画であれば使い古された設定だろうが、まさかそれが現実に存在するとは誰も思うまい。



367: 2013/06/12(水) 22:01:47.74 ID:kE10GcaOo



 静寂は徐々に霧散していく。

 ぽつり、ぽつりと普段のこと、最近のことを呟いて会話をした。

 学園祭のライブ後の時よりも、もっと深い、彼女の奥の奥。
 飾りのついた華々しいばかりではなく、素朴で、退屈で、取り留めもない人生の紹介だ。

 楽しませようというつもりはなく、ただ話し合う。

 それがビジネスパーソンとしての間柄でなければ友達という間柄でもない、ある種、家族のような近しさを覚えた。



 今思えば、翠とだけに静かに会話をするのは久しぶりのような気がする。

 最近の翠のスケジュールは多忙を極めていて、活動時間の殆どがレッスンで埋め尽くされている。
 その合間にも仕事が入っており、こうして二人で話をする時間というのは、いつのまにか貴重なものになっていた。

 それだけ合同フェスという存在が巨大なのだということが言えるのだが、気付かぬ内に話の内容が事務的なものに偏っていたことに今更ながら反省する。

「最近はゆっくりする時間を与えてやれなくてごめんな」
「……大丈夫です。今が大事なのは私も判ってますから」

 彼女は高校生だ。
 しかし、今は社会人だ。

 立場の変化に適応し遅れることのないように、と思ったが故になってしまった事態なのだ。
 せっかくだから今日ぐらいはゆっくり過ごしてもらおう。


 それが俺の家でなければな、という指摘は心の奥底で振り払っておいた。




368: 2013/06/12(水) 22:04:29.66 ID:kE10GcaOo



「…ごめんなさい、Pさん」
「急にどうした?」

 肌寒い室内も、二人で過ごしていると心なしか暖かいように感じるまで進んだ時。

 ほんの少しだけ開いた間。前後をつなげるように、翠は言った。

「急に行きたいと言って、迷惑を掛けて」
 三角座りをして真正面をぼんやりと見ていた翠が、突如謝罪した。

「確かに驚きはしたけど…別にいいよ。心配かける生活してる俺が悪い」
 結局来てもらったところで何らかの指導が入る訳でもなく、家に来てからはただお茶を手元に話をしていただけだった。

 不安ではあったが俺達に害なす人影もなかったし、仕事というレッテルを剥がして話し合う時を俺も楽しんだのだから、翠が謝る必要はどこにもない。

 そう言うと、翠は黙りこくって俯いた。



369: 2013/06/12(水) 22:04:58.81 ID:kE10GcaOo



 ふと彼女の横顔に注視する。

 先程まではこちらを見たり、窓を見たり、笑ったりするなど起伏に富んでいたが、今の彼女はどこか遠い目をしている。

 楽しそうとも退屈そうとも取れない、しかし通常の表情、という訳でもない。

 おおよそノスタルジックな雰囲気にあてられて感傷的になっているかのような……謝罪する時とも違う申し訳なさがあった。


 長く感じたようで実のところ一分も経たず。

 翠は少しづつ、思いを吐露し始めた。



370: 2013/06/12(水) 22:05:35.66 ID:kE10GcaOo



「私が今日無理言ってPさんの家に行ったのは……ちょっとした、羨望なんです」
「せんぼう…羨ましい?」

 翠は最初に、そう語った。

 口語で羨望なんて言葉を使う人間がこの世界にどれほどいるのか。
 若干の理解タイムを経てようやく理解した俺が聞き返すと、はい、と彼女は小さく頷いた。

「……少し前、ゆかりさんの家に遊びに行ったらしいですね、Pさん」
「…どうしてそれを」

 出処からしてゆかりが翠にそう言ったのだと思うが、静かにそう指摘する彼女の落ち着き様に、僅かながら恐ろしく思えてくる。

 担当プロデューサーが別の…それも他所の事務所のアイドルの部屋に上がりこんでいたという事実に怒りを露わにしているのか、それとも失望しているのか。

 一瞬であらゆるシミュレート結果が出てくるが、彼女の言葉がそれを否定している。



 羨望、と。



371: 2013/06/12(水) 22:06:16.97 ID:kE10GcaOo



「ゆかりさんの家に行ったのは、合同フェスに関する事で、なんらおかしなことではないというのは重々承知しています。ゆかりさんもPさんも……信頼していますから」

 もしも彼女の言ったその二文字が本心であるとするならば。

「ですが……仕事場以外で二人が会っていた事を聞いた時、胸が……寒くなったんです」


 どれほど抑圧された束縛の中で生きてきたのだろう。
 翠という人間は、齢十八にしてどのような環境で育ってきたのか。

 恐らく今の彼女の性格が形成されるに至った大きな要因は、弓道にあるはずだ。


 彼女にとって弓道とは、自己鍛錬という概念を学んだきっかけだった。

 その結果、翠は己で自身を高める術を手に入れた。
 自己管理や自己実現という手段を経て、努力へと昇華したのだ。

 それが彼女の持つ才能。
 ひたむきに努力し、真っ直ぐに学び、無我夢中に取り組む。
 そんな素質が、彼女を今という状況に結びつけてくれたのだった。


 しかしその一方で、それらは彼女を縛る見えない紐にもなっていたのだ。



372: 2013/06/12(水) 22:07:22.22 ID:kE10GcaOo



「何故なんでしょう。今日だって、すぐ帰って自主練習をしなければいけないはずだとわかっていたのに…」


 自己犠牲、邁進。
 字面だけで見れば美徳で素晴らしく、潔白な人間に与えられる称号である。


 だが、彼女がそれを持つにはあまりにも早すぎた。

 設定された目標のために自分を高めていく。
 その過程で、進行に邪魔となる感情を抑えつけてきたことで、本来であれば誰しもが感じたり覚えたりする感情や感覚が身につかないという弊害が出てしまっていたのかもしれない。

 有り体に言えば、無垢なまま育ってしまったのだ。

 彼女の生きてきた時間からすれば俺の見てきた翠の姿はたった一年にも満たず、それ故に考えたことを口にすることは憚られる。

 わかった気になる、ということは一番やってはいけないことだからだ。


「プライベートの時間を、たった二人で過ごしていたということが……とっても、羨ましかったんです」

 ……それでも、俺の口は開く。



373: 2013/06/12(水) 22:07:48.56 ID:kE10GcaOo


「…ごめんな。忙しくて」
「それは大丈夫ですから――」

 翠の言葉を遮って、続ける。

「そうじゃないんだ。高校生の大事な時期にアイドルにスカウトして、それでデビューからお茶の間に受け入れてもらえるまで時間がないように思えて。…俺は急いでいたんだと思う」

 結局は俺の都合。もとい、事務所の都合だ。

 誰ひとり所属していない事務所に、芸能界について何も知らない少女が所属し、何も知らないプロデューサーによって導かれていたというおかしさ。

 彼女が失敗すれば、俺どころかちひろさんや社長すら職を失ってしまうという焦燥感。


 それらが、彼女の成長を歪な向きに伸ばさせていたのである。



374: 2013/06/12(水) 22:08:20.20 ID:kE10GcaOo


 翠は何も言わず、ただ俺の言葉の続きを聞く。

「余裕が出てきた今だから言えることだけど、できるならもっとゆっくり下積みをして、ゆっくり話し合って。本当にお互いが信頼できるように、わかりあってからアイドル活動を始動すべきだったんだよ」

「Pさんの事はとても信頼しています!」
 俺達のしてきたことは間違っている、と受け取ったらしい翠は俺を見つめ、強く反論した。

 違う。間違ってはいない。
 だた、ベクトルの解釈に相違があったというだけなのだ。


 彼女は、俺を信頼せざるを得なかった。

 全く未知の世界である芸能界に入る事に対して、俺を信じなければ何もできなくなってしまうからである。

 そして翠の持つ極端な人間性が、その信頼に拍車をかけてしまったのだ。


 今までに何度彼女を見間違えたのだろうか。

 ターニング・ポイントは恐らく学園祭だ。



375: 2013/06/12(水) 22:09:04.47 ID:kE10GcaOo


 あの時翠は、俺を擬似的な相手として『恋心』を演出していた。

 まだ知らぬ感情に説明をつけるために、あんな事を言ったのだ。


 それは、客観的に見れば――冷静に判断すれば、異性への好意と解釈しても文句は言われない。

 到底不正解を言い渡せない程、翠の感情は愚直であった。



 しかし、問題は俺の行動だ。

 当時の俺は、そんな雰囲気を感じ取ったとしても、よもや現代の女子高生が自分のような人間に好意を抱くことなどあり得るはずがない、そう判断してしまったのである。

 故に、翠からの感情を年上への信頼と誤解して受け取ってしまった。


 そして、彼女にも同様のことが言える。

 きっと翠にとって、異性への好意という感情がまだ具体的にはっきりと形容できていないのだろう。
 今まで彼女と接してきて、そう思えるような出来事や言動は確かに記憶にある。

 何より翠自身が俺にそう伝えたのだから、歴然とした事実であるはずだ。

 …無論、その考えの根底には未だ『俺に異性として好意を抱くなんて変な話だ』という感覚があるからである。


376: 2013/06/12(水) 22:09:37.38 ID:kE10GcaOo


 つまりだ。


 信頼と異性への好意を混同してしまった彼女。

 異性への好意を信頼と誤解してしまった俺。


 何とも馬鹿げた――特筆することもない、三文芝居であった。



377: 2013/06/12(水) 22:11:13.42 ID:kE10GcaOo



 沈黙が設けられる。

 一台、車が通る音が、お互いの耳に入った。


 どうすればいいのだろう。

 どうすれば正しく導けるのだろう。


 それを熟考する猶予もなく、俺は再度口を開いて翠に問う。


「…翠はさ。俺のこと……好きか?」


 不条理な、問いかけだ。



378: 2013/06/12(水) 22:12:06.77 ID:kE10GcaOo


「……え?」
 当然である。

 ぱちくりと目を見開いて、俺を見る。

 気温を言い訳には出来ない。うっすらと赤面していくのが俺の目にも見えた。


 トチ狂ったか、と言われても仕方がない。
 そうせざるを得ないほど、俺は解決策に飢えていた。


 どう流れを作っていくにせよ、まずは翠自身の本意を知らなくてはいけない。
 そのための問いなのだ。


 対する翠はというと、あ、だのう、だの、言葉にならないただの文字を言うだけで、ただただ困惑していた。

 そう呟けば呟くほど、ますます彼女の感情が加速していくのがわかった。



379: 2013/06/12(水) 22:12:40.93 ID:kE10GcaOo




 ――そして、また少し経った時だ。


「好き、です」


 騒音のないこの世界の中で、か細い声が全身に響き渡った。





380: 2013/06/12(水) 22:13:25.16 ID:kE10GcaOo



 何と甘美な響きだろう。

 美人な女子高生、それもアイドルに好意をぶつけられることなど、人生で一つもあるとすら思いもしなかった。

 しかし、現実だ。
 客観的に見てどうであれ、確実に俺のことを好きだと言ってくれたのである。

「…俺のどこをそう思ったんだ?」

 意地悪な質問に、俯いたまま彼女は言葉を紡ぎだす。

「……私に、道を作ってくれましたから。最初は、まさか本当にアイドルになれるなんて思わなくて、不安な私の背中を押してくれて」

 結果論だが、翠が俺に弓を引く姿を見せた時からもう、始まっていたのかもしれない。

「Pさんと仕事を続けている内にいつの間にか、私の前を歩いてくれる度、私の手を引いてくれる度、ドキドキして…でも、どうしたらいいのかわからなくて……それで」

 そう言って翠は言葉を切った。



381: 2013/06/12(水) 22:14:07.49 ID:kE10GcaOo



 例えば、俺が学園祭で翠に対して行った『頭を撫でる』という行動が、『手を繋ぐ』だったとする。

 すると、それ以降彼女が俺に要求してきた行動も全て『手を繋ぐ』というものになっていたに違いない。

 翠の抱えている思惑というものは、一種のオウム返しに近い。
 質問に対しての回答が正解と信じて、それ以降はパターンとして当てはめる。


 素直すぎるが故の問題が、今噴出したのである。


 それを目の前にして取り得る行動は、あまりにも少ない。

 もしも俺がゆかりのプロデューサーのようにはっきりとしたボーダーを引いて接するような人間なら、論理的に説明して解決を図っただろう。


 だが、そんなことが俺に出来るかといえば、まず不可能だ。

 正誤はともかくとしても、彼女の思いを踏みにじる事になる選択肢は絶対に取りたくない。


 では俺はどんな行動を取ったか。


「よし。……じゃあまた今度、デートに行こう」

 ――蘇るあの時の記憶をなぞるように、俺は提案した。



382: 2013/06/12(水) 22:14:36.83 ID:kE10GcaOo



 顔を紅潮させたままの翠を他所に、話を進める。


「好きという感情は、悪いものじゃない」

 翠のそれに流されてしまえば、俺は即座にこの立場を降りなければならない。
 本能に従うのは、奈落の底に飛び込む時だ。


 しかし、好きという気持ちは人をより大きく成長させてくれる大事な感情である。

 そういう感情を守り育んでいく事が、人間として、アイドルとして一層活躍していくために必要なのだという考えは教育論からしても間違いではないはずだ。

「でも…学園祭の時でも翠が言ってたように、アイドルとしてそれは絶対にやってはいけない事なんだよ」

 アイドルとして、間違った道に誘導するような事だけはしてはいけない。

 それでいて、頭ごなしに否定することだけはしてはならない。


 だから。

「だから、大事にしていこう。……好きという気持ちも、一緒に居たいと願う気持ちも」

 床に置いていた翠の手の上に、そっと俺の手を重ねる。



383: 2013/06/12(水) 22:15:10.17 ID:kE10GcaOo



 一瞬体が震えて引っ込める力が加わったが、すぐさま力が解かれる。

 きっと彼女にとって、異性と手を繋ぐ事も、頭を撫でられた事も、こうして近くで見つめ合う事も初めてなのだろう。

 まるで異性との接触を禁じられた古いしきたりを律儀に守る、箱入り娘のような初々しさ。

 その感性を失わせることだけは、避けなければいけない。


「…約束です」
 俺の手の下にあった翠の手が裏返って掌が合わさると、彼女はそっと力を入れて手を握る。

「ああ、約束だ。この合同フェスが終わったら、オフを取って翠の好きな所に行こうじゃないか」
 忙しいのでは、という問いには、そんなもの知るもんか、と巫山戯て笑ってやる。


 赤らんだ頬から、最大級の笑みが零れた。




384: 2013/06/12(水) 22:15:40.44 ID:kE10GcaOo


 あえて言うが、問題は解決していない。

 真意を引き出したところで、それが本当にそうなのかという判断はまた別の問題だからだ。
 一口に好きといっても、友人に対する親情や恋人に対する愛情など多岐にわたる。
 とりわけ感情の主が翠ならば尚更である。


 今の本人の気持ちとしては…言うまでもない話だ。

 しかし、これが今後どういう展開を遂げるかは誰にも…俺にも、翠にもわからない。



 だから育てるつもりだ。

 はっきりと本人が区別できるようになるまでは、恐れずに、驕らずに……誤らずに。



385: 2013/06/12(水) 22:16:27.61 ID:kE10GcaOo


  *



「やっぱり、私はPさんの事が好きです」

 結局、お互い居た堪れなくなって晩御飯を食べること無く解散することになった。

 オフにも関わらず帰るのが遅くなるとちひろさんに怪しまれるからというのもあるが。



 そんな駅に向かう途中、やや暗くなり外灯が付き始める頃、翠ははっきりと俺を見て言った。

 まるで決意表明のような意気込みだ。
 あの時ぐちゃぐちゃに混乱した意識が、今になって落ち着いたからだろうか。

「はは、それって今言うことか?」
「わ、笑わないで下さいっ」
 茶化すと、もう、と頬をふくらませてしまった。



386: 2013/06/12(水) 22:17:05.03 ID:kE10GcaOo


「…いけないことだというのは今でも判ってます。でも言葉にすると、何だかすっきりしました」

 真っ直ぐに生きてきた彼女にとっては、恋だの愛だのといった感覚が今まで不明瞭で、それ故に自分でも何が何だかわからないという感覚だったのかもしれない。

 それがあの時間を経ることで、一つ知り、学び、そして経験し、人として大きくなれたのだろう。

 もしそうであるならば、俺の言葉も無駄じゃなかったと言える。
 まかり間違っても恋愛感覚がエスカレートしなかったことが、俺を最大限に安堵させる一因となった。


「……あ」

 嬉しそうに隣を歩く翠が突如歩みを止めて、何かに気付く。

「どうかしたか?」
 立ち止まる意味が皆目見当もつかなかったので素直に訊ねてみるが、さっきとはうってかわって何やら言い淀んだ表情であった。



 一秒、二秒。いや十秒かもしれない。

 少しの間を開けて、彼女は言った。


「そういえば、返事を聞いてませんでした」

 あ、と漏らす声は俺から出たものだった。



387: 2013/06/12(水) 22:17:50.33 ID:kE10GcaOo


「へ…返事?」
「そうですよ。Pさんが『好きか?』って訊いてきたから答えたのに、Pさんの気持ちをまだ聞いてません!」

 回想する。

「……そういえばそんな感じだったかもしれないな」

 あさっての方向を向いて頬を掻くと、翠は近づいて俺の手を取った。
 手袋越しの、少し冷たい手だ。

「せっかくですから聞かせて下さい、Pさんの気持ち。……私のこと、好きですか?」
 手をとるために近づいた顔が俺を見上げる。

「……っ」

 どうしてこう可愛げのある仕草をするのだろう。
 アイドルだからか、はたまた天性のものか。

 視線、顔の動き、服装、状況。
 どれをとっても申し分ない、心を高ぶらせるには文句ない環境だった。
 俺が教えた訳じゃないのにごく自然にやってのける様は、さながら誰かから教授してもらったかのような――。


 ……まさかゆかりじゃないよな?



388: 2013/06/12(水) 22:18:43.61 ID:kE10GcaOo



「…好きじゃなかったら、あの時スカウトしてなかったよ。今でもその気持ちは変わってない」

 優勢だった関係がいつの間にか防戦になっていた。

 翠は俺の言葉を引き出すと、ふふ、と笑って手を離す。

「よかった。じゃあデートも最高の物になりますね!」

 狙っていたかのような仕草や言動に、ますます演技の才を感じざるを得なかった。
 先程まで赤面していた癖に何だか手玉に取られたかのように思えて、俺もささやかに反撃することにする。

「わわっ、やめ、ちょっとPさん!」
「大人をからかった罰だっ」

 自由になった手を翠の頭に乗せて、少し乱暴に髪をかき混ぜでやったのだ。

 ひとしきり髪を暴れさせてから手を放すと、苦笑しながら髪を押さえて直す翠の姿が見えた。

「…ふふっ」
「何だよいきなり」

 秋の夕日はどうも人を恋しくさせてしまうらしいが、その色を背景にして無邪気に笑ってみせる彼女の表情は……夕焼けの中でも暖かく映ったのだった。


397: 2013/06/24(月) 20:06:14.77 ID:LQWSwYS+o

  *



「本当ですか!?」
 俺のひときわ大きくなった声は、電話先の相手に伝わる。

「はい…はい。わかりました。その時刻には必ずお待ちしております。ありがとうございます、よろしくお願いします」

 無機質な切断音を耳から遠ざけてボタンを押す。


「なんとか間に合いましたね」
 その会話を断片的に聞いただけで隣にいるちひろさんも内容を理解したのだろう、苦笑混じりに言った。

「ええ、試作品からあまり変更が要らなかったみたいですし…ちひろさんのおかげですね」
「どういたしましてっ」
 一応俺の方からもある程度の提案はしたが、ちひろさんのセンスが光るデザインが、大体のまま業者へと通ることとなった。


 明日には届く。

 ……これを見せたら、翠はどんな顔をするだろうな。



398: 2013/06/24(月) 20:06:58.65 ID:LQWSwYS+o


  *



 ――天気はやや曇り。

 合同フェスまで一ヶ月を切りそうな11月の終わり頃、俺と翠、そして麗さんと共に小さな録音スタジオへと足を運んでいた。


 当然することといえば、レコーディングである。


 麗さんと行う何日にも及んだ練習の末、翠はようやくそのレベルにまで到達したというお墨付きをもらったのだ。

 本来なら俺と翠だけで行く所を、せっかくだからということで麗さんにもアドバイザーとして付き添ってもらえることになった。

「まあ本音を言えばもっと練習させてやりたかったけど。それでもそれなりのレベルにはなっているはずだ、自信を持つといい」
 実際、曲を習い始めてから一ヶ月も満たない期間でのレコーディングは他所から馬鹿にされても仕方がない程だ。

 それほどにスケジュールは相変わらず切迫していて、まだ予断は許されない。

「全力で、な?」
「…もちろんです」

 彼女の顔は、以前よりも根拠のある自信に満ちているようだった。

 きっと麗さんの言葉がそれに繋がっているのだろう。



399: 2013/06/24(月) 20:08:43.93 ID:LQWSwYS+o



「皆さん本日はよろしくお願いします」
 録音スタジオには、エンジニアの人と今回のCD制作に携わるレコード会社の担当者数人が居た。

 三人揃って礼をすると、あちらこちらから、よろしくお願いします、という言葉が届いた。
「よろしく…と、この方は?」
 その中の一人の壮年の男性、音楽プロデューサーは手を差し出して訊ねる。

「ああ、申し遅れました。そちらの方に事前に連絡をさせて頂きましたが、翠のサポートのために共に参ることになりました、青木です」
「初めまして、青木麗と申します。…いや、そうでもないか」

 単独で自己紹介をすると思いきや、突然砕けた口調で音楽プロデューサーにそう言った。
 年齢差にして二十はありそうな年上の相手にしては少々推奨できない。


 どういうつもりですか、と窘めようとしたその時。


「青木麗……というと、ああ、思い出したよ、君か」

 顎をさすりながら、彼はすっきりした風に返事をしたのだ。




400: 2013/06/24(月) 20:09:12.85 ID:LQWSwYS+o


 恐らく長年この業界で仕事をしてきたのだろう、随分熟練した雰囲気を持つ彼は、驚いたように話を続ける。

「いやいや、名前を聞いてびっくりした。まさかこんな新人に付いてるとは」

 失礼な物言いだが、言い返すことはできないし、してはいけない。
 取引先で更に目上の人なのだから、と気持ちを抑える。

「ちょっとした気まぐれだよ。今回もよろしく」
「おおそうだな。頑張ろうじゃないか、はっはっは」

 身長はやや小柄だが、少し太った体が彼を豪快に見せた。
 随分とざっくばらんな性格に見えるが、CD交渉をした時はもっと厳かな人だったのだから、人というのもなかなか難しいものだ。


「一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」

 翠も改めて皆に挨拶をしたところで、早速レコーディングが始めることにした。


401: 2013/06/24(月) 20:09:40.85 ID:LQWSwYS+o

  *


「止めて…一旦止めてくれ。翠、そこは違うぞ。わかってるか?」
 麗さんのスパルタは場所が違っても相変わらず炸裂していた。


 確かに、録音するために歌うというのは独特な雰囲気を持っていて、未経験であった翠にとってはそれが全力を阻害する原因となっている。

 またこうして全員から近くで見られる中歌うというのもやり辛くしているのだろう。

 俺にも、翠が細かい所だが音が外したりうわずったりしていることがわかる。
 何度も何度も、練習で歌う姿と声を聞いているからだ。


 こんな場所にまで言われるなんて、俺が翠の立場であれば悔しいやらもどかしいやらで大変だっただろうが、翠は恥も外聞もなく麗さんの言葉に耳を傾けていた。


402: 2013/06/24(月) 20:10:19.56 ID:LQWSwYS+o



「はっはぁ、やっぱり変わってないな」
 ソファの隣に座って彼女達の会話を眺めていた音楽プロデューサーは楽しそうに呟いた。

 彼の先ほどの会話から察するに、過去にも何度か…それも、一般的に頻繁といえる程に共に仕事をしてきているようだ。

 対外の相手に対しては礼節をもって話をする麗さんが、彼に対してだけは何やら親しげにしているのだから、相当なのだろう。

「…よく一緒に仕事をするんですか?」
 途端に気になってしまい、つい俺は訊ねてしまう。

 んー、と俺の問いかけに気づいた彼が、癖らしい顎をさする動作をしながら答えた。

「お互いこの世界にずっと居るからなぁ。嫌でも会うね」
 はっはっは、と笑う姿がとても似合っていた。

「最近はそこまで会わなかったから一瞬忘れていたなぁ。…この光景も、前に見た」
 この光景、というのは無論麗さんが録音を中断させて指導を行っている今の姿である。

 それに加えて、彼の先ほどの『こんな新人』という発言を総合すれば、当然だが麗さんは普段更に上を目指す上級のアイドルを担当しているのだろう。

 ちひろさんとの因縁から翠に付いてくれることになった関係ということは以前知ったが、一体彼女達の過去には何があったのか。

 果てない問いを続けていると、彼は麗さんの背中を見ながら続ける。



403: 2013/06/24(月) 20:11:25.46 ID:LQWSwYS+o


「翠ちゃんは、この曲を合同フェスで発表すると共に発売する気だろう? よくこんな無謀なことするもんだ」
「…どうしてそれを?」

 合同フェスに参加する人間は、運営や事務所の関係者以外はしかるべき日までは知らされないはずだ。

 その事を問うと、彼は笑う。
「俺だぁって何十年もここにいるんだ。勝手に入ってくるし、第一なんとなくわかる」

 ……熟練者の勘というのは侮れないな。
 今回のイベントに関し、様々なルートから情報を仕入れてくるのだろう。

「まあ、それでも新人がー、だなんて命知らずなことに変わりないなぁ、全く」
 苦笑して済ますしかできない程、彼の言葉には反論できない。

 その洗礼を身をもって知ったゆかりからも止められたのだ。
 体験しなくとも、最悪の結末は嫌でもよく想像できる。

 それでも進むと決めたのだから、今どうのこうの考える事はしたくない。

「大丈夫ですよ。翠ならやってくれます」
 彼に言う。
 どこか翠が可哀想だという感情が伝わってきたからだ。

「根拠は?」
 どうせ担当のプロデューサーだから贔屓してそう言うんだろう、とでも言いたげに訊き返してくる。


 ここで翠の練習量を言ったところで、信用はしてくれない。

 なので、未だなお指導している彼女――麗さんに聞こえないように、俺は答えた。
「…担当があの人ですから」


 ……なるほど、という彼の言葉は、やけに納得したように聞こえた。



404: 2013/06/24(月) 20:11:51.68 ID:LQWSwYS+o


  *



 最終的に、半端でない位にリテイクを重ねた末、ようやく麗さんや音楽プロデューサーからの評価をもらって録音終了となった。

 午前から始まったこの作業も終わる頃には既に正午を過ぎていたことに、録音スタジオから出てから気付く。

 恐らく関係者の中には次の録音に立ち会うスケジュールを考えるために時間を確認して気付いていただろうが、全員が昼食を口にせず、翠の録音作業に集中していた。

 指導は麗さんだけではなく音楽プロデューサーからも入るようになったのも、時間が長引いた原因だろう。


 しかし、その時の彼の顔は苛立ってはいなかった。

 『こんな新人』である翠に対して場所関係なく熱心に指摘する麗さんの姿が、彼の心境に変化を与えたのかもしれない。


 それはすなわち、翠自身の録音作業への、ひいてはアイドルとしての姿勢があの場に居た皆に心理的影響を与えたに違いない。

 誰もが、リテイクを喰らう翠に対して不快感を抱いていなかったのだ。
 彼女の全力が、良い評価へとつながったのである。


 ……そう判断しているのは担当プロデューサーたる俺だから、特別そう見えるのかもしれないのだけども。



405: 2013/06/24(月) 20:13:02.41 ID:LQWSwYS+o


「…何度も失敗してしまってすみませんでした」
 空調の効いていたスタジオから外に出ると、一気に体が震える。

 とりあえず喉を休めるためにと麗さんが持参したドリンクを渡しつつ車に戻る途中、翠は突然立ち止まり、頭を下げた。


 そういう話は後でもいいだろうに、と思ったが、彼女なりに今言わなければいけないと判断したのだろうか。

「…ほら」
 呆気に取られていると、隣に居た麗さんは俺の腕を掴んで翠の方へ差し出した。
 ぼさっとしてないで気の利いたことを言ってやれ、とでも言いたげな表情だ。


 よくよく思えば、アイドルの言葉に対して適時適切迅速に言葉を返す事こそが担当プロデューサーとしての役割の一つなのである。

 それを麗さんに言われるまで気付かなかったのは俺の気遣いが足りなかったと言うことだ。


 こういう所もまだまだ未熟なんだな、と俺は思う。




406: 2013/06/24(月) 20:13:34.29 ID:LQWSwYS+o


「――あれは失敗じゃないよ」
 歩み寄って、慣れた動きでゆっくりと翠の頭に手を置くと、彼女は何事かと頭を上げて俺を見た。


 もしかしたら、真剣に歌っている中でも、何回もリテイクをしていることに翠はどこか申し訳なさを感じていたのかもしれない。

 しかし、それは失敗ではないのだ、と俺は答え、置いた手を左右に動かす。

「麗さんも他の人も、本気になって翠に教えてくれたんだからさ。……それは失敗じゃなくて、改善と言うんだ」
「改善…」

 あの場に居た関係者が本気で翠のリテイクを失敗と捉えていたのなら、また後日に、という提案が出ていたもおかしくない。

 それは翠が新人という立場であるからだ。
 何も実績がないから、目の前の光景を実力と見てしまう。

 しかしそうしなかったのは何故か。
 当然、会社の方で決められた予定だからというのもあるが、回を重ねるごとに研ぎ澄まされていく彼女の歌声に気付いていたからに違いない。

 伊達に音楽に密接に関わっていた人達だ、微小な変化を見逃しているはずがない。

 だから、真剣に、そして寛容に待っていてくれたのだ。



407: 2013/06/24(月) 20:14:19.46 ID:LQWSwYS+o


「だから気にしなくていいし、俺達も気にしてないからな。むしろ、出来のいい声が録れて皆待ってよかったと思ってるんじゃないか?」
 はは、と笑って手を離す。

 新人に対する風当たりが良くないのはどこの業界でもそうだ。実績も信用もないのだから。

 それでも立ち向かえたのは、翠の折れない気持ちと、麗さんの向き合う姿勢が良かったからだ。

 謝ることはない、むしろ誇りに思っていい位だ。



 そう伝えると、彼女は安堵したように笑顔を見せてくれたのだった。



408: 2013/06/24(月) 20:14:49.18 ID:LQWSwYS+o


  *



「翠に見せたいものがあるんだ」

 事務所に入って少し休憩し、ちひろさんが淹れてくれた暖かいお茶を飲んで落ち着いたところで、俺は翠にそう切り出す。



 事務所。
 録音作業も終わり、一山越えたことに安心しつつ俺達は事務所に帰ってきた。

 実を言えば、今日の翠の仕事はもう存在しない。

 本来なら今日も録音が終わった後にいつもの所でレッスンをするつもりだったのだが、予想以上のリテイク数により喉を随分使ったということで、麗さんの提案により休養となったのであった。

 だったら麗さんを送った後、乗った車のまま翠を現在の寝泊まり先であるちひろさんの家まで送ればいいのではないか、と思われるが、そうはしない。


 事前に連絡が届いていた『あれ』を見せるために、事務所に寄ったのだ。



409: 2013/06/24(月) 20:15:16.79 ID:LQWSwYS+o


「ちひろさん。あれはどこに収納してます?」
 今日の歌の事についていくつか気づいた点を翠と話し合いをし、いくつかの修正点を頭にしまいこむ事が出来たところで、相変わらず事務作業をしているちひろさんに訊ねた。

「ああ……『あれ』、ですね」
 にんまり、といった笑みである。
 笑っていると言うよりも、いささか期待という意味合いが強そうな表情だ。

 まあ、わからなくもない。
 ちひろさんも、自らが携わったあれを披露することが出来るのだ。

 どんな表情をしてくれるだろう、どんな感想を言ってくれるだろう。
 ある種、生みの親のような気持ちになっているに違いない。

 当然の如く、俺も同類だった。


 代名詞を変換できないらしい翠は可愛らしく首を傾げて考え込んでいたが、内容を訊かれる前に俺はちひろさんに合図をする。

「じゃあ少しだけ待っててくれ、翠」
「は、はあ…。Pさんがそうおっしゃるのなら」

 悪いものじゃないさ、と一言付け加えて、俺はこちらの氏角から後ろ手のまま戻ってきたちひろさんに近づく。

「…楽しそうですね、プロデューサーさん」
「お互い様ですよ」
 両者の笑みが一致した、数少ない瞬間だった。



410: 2013/06/24(月) 20:16:04.29 ID:LQWSwYS+o


「ふふ。翠ちゃん、立ってくれる?」
 訳の分からぬままといった表情のまま、翠はちひろさんの頼みを素直に聞いて立ち上がる。

 その傍ら、俺はちひろさんから受け取ったあれを同じく後ろ手で隠しつつ、翠に近づいた。

「ど、どうかしましたか?」
 改まって立って向き合うという通常でない状況に翠も困惑しているようだった。


 その顔を見て、心の中で少し心臓の音が高まる。

 こういう事をいっては意地悪だが、バラす瞬間というものは相手の反応がすごく楽しいのである。
 しかし、いつまでも溜めていては相手からも不快に思われてしまう。


 御託はさておいて、早速俺は後ろに持っていた両手を翠に差し出した。


「……翠。これを受け取って欲しい」

 彼女の視線が下がり、俺の手に持つあれを見た。



411: 2013/06/24(月) 20:16:50.85 ID:LQWSwYS+o


 青い――厳密に言えば空色の、さらさらとした布。

 何十にも折り重なった布が、グラデーションを描いて波を作っている。


 しかし、ただの布地ではない。

「……これは」
 それに気づいた翠は、ゆっくりと布の上方を掴んで吊るす。


 滝の流れに沿って布が広がり、本当の姿が顕になる。


 翠の目に映ったそれは。

 空色の、布は。


「私の……衣装?」

 ぽつりと呟いた翠の顔は、形容しがたいものとなっていた。



412: 2013/06/24(月) 20:17:16.63 ID:LQWSwYS+o



 もう解っただろうが、一応翠に説明する。

「急ピッチだったが、今度のライブの衣装だ。今日届いたばかりでな、早く見せたかったんだよ」

 翠は片手に載せた衣装を、もう片方の手で優しく撫でる。

 未だ実感がわかないのだろうか、その感触を、その存在を確かめるように、一回、二回と手を動かした。

「翠ちゃん、水色は好き?」
 俺の隣で翠の反応に嬉しそうにしていたちひろさんが訊ねる。

「…はい。私の苗字にもあるからかどうかはわかりませんが、青は好きです」

 彼女の名は水野翠。
 水は青色で翠は緑色。名前からは、丁度翡翠の色合いが浮かんでくる。

「これ、プロデューサーさんがこの色にしようって提案したんですよ」

 衣装の原案――デザインの大元は、ちひろさんが事前に考えてくれていた。
 そしてその時の彩色は緑色、つまり名前の元となる翡翠をイメージしたものだった。

 しかし、ベースの色だけはこの色になるように、俺が頼み込んで実現することになったのだ。



413: 2013/06/24(月) 20:18:07.56 ID:LQWSwYS+o


「…どうしてPさんはこの色に?」
 嬉しさを隠すと同時に疑問を浮かべ、翠は俺に問う。


 答えてよいものか、と少し悩む。
 いや、理由を言うのは大丈夫なのだが、如何せん堂々と言うには少し羞恥心が邪魔をしすぎているのだ。

「私から言いましょうか?」
 答えあぐねている俺をみかねて、ちひろさんが俺の顔を覗き込む。


 そういえば、ちひろさんには会議の時に全力でプレゼンテーションを行ったのだった。

 そして再び引かれたのも強く頭に残っている。
 翠をスカウトしたばかりの頃に開いた話し合いの時の光景と、相似になる位に似ていのだろう。

 その時の言葉を一字一句違わず他者に説明されるのは、自分で言うよりも絶対に恥ずかしい。

「いやいや…すいません言います」
「ふふ、じゃあ言ってあげて下さい」

 やっと観念したか、といった顔である。



414: 2013/06/24(月) 20:19:24.66 ID:LQWSwYS+o


 どんな答えが返ってくるのかという期待を胸に待つ翠に言葉を届ける。

「翠の名前の字の通り、最初は翡翠色になってたんだけど、調べてみたら翡翠ってのは緑以外にもたくさん色があるんだってな」

 合同フェスに参加することが決まってすぐ衣装の相談があり、その時から色々調べていた。

 翡翠には、緑が最高級としながらも、紫、赤、透明、黄色、青、黒など、条件の差により殆どの色が存在している。

 ならば字面で色を決めるのはおかしいのではないか、というのが俺の考えだった。


 では何色がいいか。
 何日も何日も、彩色したイメージ絵を見比べて考えた結果、たどり着いたのが水色なのだ。

「何故水色にしたかというとだな…個人的な事なんだけど、昔読んだ本に、青色は『手に入れようと願っても、手に入らない色』って書かれてたのを思い出してな」

 確か色にまつわる話を纏めた本だったと思う。
 ずっと昔に読んだ物で、タイトルすらもはや頭に浮かびそうにない位だ。

 にも関わらず、どうして青色の記述だけを思い出したのかというと、その言葉に当時疑問を抱いていたからだ。


 青色。
 空の色、海の色。身近な所にたくさんあるのに、どうして手にはいらないと言うのか。

 その時は適当なこと言ってるなあとしか思わなかったのだが、水野翠と接するようになって、好意を向けられて、もっと近くなって……その意味が、何となくわかったのだ。



415: 2013/06/24(月) 20:21:15.66 ID:LQWSwYS+o



 一目惚れをして。姿に魅了されて。

 素質に驚愕して。内面を知って。

 吐露を受け入れて。距離を縮めて。



 不安を必氏に隠して。ただ信じて。

 努力をして。困難に勇ましく進んでいって。

 恐怖を打ち明けて。距離を縮めて。



 違う人間である俺達が、吸い込まれるように、今や手が触れる距離にまで近づいた。
 今なら、歳も性別も違えど心を通わせられると自信を持って言える。




416: 2013/06/24(月) 20:21:43.05 ID:LQWSwYS+o



 だが、それは叶わない。


 どれだけ近づいても、結局俺は翠ではない。

 翠の見ている景色をそのまま俺が見ることは出来ない。

 手も、足も、心も、全て同調しようと思っても、絶対に同一にはならないのだ。



 空を見る。

 空に手は届かない。近づいても、空気はいつも透明だ。

 海を眺める。

 海の水をすくっても色は逃げていく。手で支える水は、いつも透明だ。



 ああ、そういう事なのか、と俺は理解する。

 限りなく近づいたところで、それは決して重なることはない。


 ……手に入れたとしても、それはただ手に入れた気分になっているだけなのだ。



417: 2013/06/24(月) 20:22:23.19 ID:LQWSwYS+o


「俺はいつでも翠の傍にいるつもりだ。できるなら、いつまでも君と一緒に生きて行きたい。…それでも、舞台の上ではいつも翠は独りになってしまう」

 例え運命共同体だと宣ったところで、辛い部分は全て翠に丸投げしなければならない。
 俺はただそれを後ろで見ているだけなのだ。

「だから、青色……孤高の色を身に纏って、せめてアイドルとして姿を魅せる間だけは、何者にも負けない、触れさせないただ唯一の存在として舞い続けてほしい。そう思ったんだ」

 彼女は俺のことをこれからずっと一緒に仕事をしていくパートナーと思ってくれているのは、間違いようのない事実だ。

 だが、俺の存在というものは、彼女を語る上ではあってはならない。

 アイドルという身分になるのであれば、彼女の隣に俺は必要ない。
 自分というのは、あくまでアイドルを後ろから支える柱なのだから。


 故に、自立の意味も込めていた。

 いずれは一人でどんどん仕事をしていくようになるだろう。
 ますますアイドルとして人気が高まっていくだろう。
 もしかしたら、何時の日か俺の担当を外れてしまうかもしれない。


 それなのに、俺に固執していてはいつかは歯車が破綻する。

 ちぐはぐになって、ぐちゃぐちゃになって。
 現実と理想が乖離してしまう前に、彼女は彼女として独り立ちして欲しい。


 それが、俺の思いだった。



418: 2013/06/24(月) 20:23:21.84 ID:LQWSwYS+o


「…なんだか、寂しいです」
 予想通りといっては変だが、翠は心底寂しそうに呟いた。

 無理もない。
 一方的に突き放されたような気分になって当然だからだ。

「…というのが、一応の理由なんだけど……翠、ちょっと耳を貸してくれ」
「え、私には内緒ですか? プロデューサーさーん」

 何故耳を貸すのだろう、と疑問を呈したちひろさんには少しの間だけ外れて頂き、翠の下に近づいて柔肌の耳に口を近づけた。

 ひゃ、と彼女の口から小さく声が漏れたのが聞こえたが、ひとまず言いたいことを言おうと思う。


 …ここまでの話であれば、ただ彼女の巣立ちを見送るようにしか見えないが、それは仕事としての建前でしか無い。

 翠は、どういう訳か個人としての俺を望んだ。
 故に、許されるのなら俺は個人としての翠を望みたい。

「…そんな気高い翠が俺の隣に居れば、俺だけが本当の翠を知っているように思えて……ちょっとした独占欲かもな」
「へ、へ!?」

 ぼそりと囁いた言葉に、翠は大層大きな声を上げて飛び退いた。

 その声に俺の方も驚いて狼狽えてしまう。


 …いや、まあ驚かれるのはある意味承知していたのだけども。



419: 2013/06/24(月) 20:24:31.95 ID:LQWSwYS+o


 一体翠ちゃんに何を吹き込んだんですか、というちひろさんからの疑いの視線を見てみぬ振りをしつつ、更に…今度は普通に言ってやる。

「まあなんだ…。君をスカウトしてからずっと一緒にやってきたんだから、例え翠がどこかに離れて行ってしまおうとも、俺はずっと君を応援して、見守っている。そういう意味だ」

 もしもその時が来たら、俺は男のくせにわんわん泣いてしまうかもしれない。
 そう思ってしまう程、彼女と過ごした日々は俺にとって心底大切な思い出なのだった。


「……ふふっ」
 十秒も立たない内に、翠の表情が変わっていく。

 悲哀から歓喜へ。
 俺を見るその目が、笑う、喜ぶ。そういった物になっていた。


「ではその『晴れ姿』を今、Pさんに見せてもいいですか?」

 彼女とのあの出来事をちひろさんに秘密にしつつ思いを伝える事に成功して安堵する俺に対して、翠は衣装を抱きしめながら訊ねた。

 その頼みなら、俺からも是非お願いしたい。
 青色を身に纏った、穢れ無きその姿を見てみたい。

「おお、見せてくれるのか。じゃあ俺は外に出てるから…すみませんちひろさん、手伝ってあげてくれませんか?」
「むう、何だか内容が気になりますが……いいですよ」

 すみませんちひろさん、それだけは絶対に言えません。

 イケないことの範疇を認識しておきながらその中に片足を突っ込んでいる状態を、わざわざ知らせられる訳がない。

 申し訳ないが、彼女に何らかの感情の変化が起こるまでは俺達二人だけの秘密にさせてもらおうと思う。

 そう思いつつ事務所の外に退避して、着替え終わるのを待つことにした。



420: 2013/06/24(月) 20:25:34.38 ID:LQWSwYS+o

  *



 ――こんこん、とドアの向こうから扉を叩く音がする。

 寒い外に放り出されてからおよそ十分程度。
 メイクをする程のものではなく、あくまで試着なのだから、この時間でも早すぎる訳ではない。

 そしてわざわざノックをして教えてくれたということは、翠の着替えが完了したということだ。


 ずっと思い続けていた想像上の衣装姿が、扉を開ければ現実となる。

 アイドルとして一つの区切りであるライブ。
 そのためだけに用意した翠だけの衣装が、ようやく本人と一つになるのだ。


 心臓の音が高まる。
 焦燥感でも、緊張感でもない。

 ただ俺の中にある興奮が心臓を一層締め付け、ドアノブを握る拳に力を加えた。


 ゆっくりと回す。
 まるで勿体ぶるかのように。

 極めてスローモーションな扉の動きが、外と内の境目を消す。



 ――味気ない事務所の中に、一人のシンデレラが現れた。




421: 2013/06/24(月) 20:26:33.28 ID:LQWSwYS+o



「…どうでしょうか」

 今日の空を覆い尽くしている陰りなど一瞬で吹き飛ばしてしまいそうな、空色の穢れ無き衣装を身に纏う少女が目の前に立っている。

 そのシンデレラの顔に、曇りはない。

 彼女の言葉にも、訊ねるのではない、披露し、魅せて当たり前だと言わんばかりの毅然たる雰囲気が表れていた。


 唾を飲む音が、こくんと骨に伝わる。

 制服姿で出会い、弓道着姿に魅了され、私服姿で共に歩き、そして今度は一つの旅立ちを迎える。

 俺が思っていた翠は。
 俺が願っていた姿は。


 これほどまでに幻想的で…現実なのだと、その存在が脳に焼き付いた。




422: 2013/06/24(月) 20:27:06.84 ID:LQWSwYS+o


「……いい」
「え?」

 湧き上がる称賛の言葉を厳選するがあまり、排除されたはずの感想が漏れでてしまう。


 何といえばいい? 何と表現すればいい?

 一人の少女をアイドルにして、そしてここまで導くことが出来たその本人の見違える姿を……どう称賛すればいいのだろう。

 考えを放棄して、溜め込んだありったけの言葉を解き放つ。

「最高…最高だよ、素晴らしい。誰よりも可愛くて、綺麗で可憐で、それでいて気高い……まさしくシンデレラだ」
「え、ええっ!?」

 自分でも何を言っているのかよくわからなくなってくるほどに、彼女の姿というのは何よりも代えがたい、この世で似るものはない美しさだった。

「はいはい……プロデューサーさん、変なオーラが出てますよ」
 見かねたらしいちひろさんが呆れながら俺を窘めた。

 …まあ、確かに調子に乗って褒めすぎたきらいはあるかもしれない。


 だが、それだけ嬉しいのだ。

 決して一本道ではなくても、こうして成功へ道のりを歩んで行くことが出来たのだから。


 素人が素人を、無事導くことができたのだ。

 湧き上がる感情が、悲しいものであるはずがない。



423: 2013/06/24(月) 20:28:03.53 ID:LQWSwYS+o



「――ありがとうございました」

 俺の無遠慮な言葉を全て聞いて飲み込むと、翠は深々と礼をした。
 ドレス姿であるが故に、品の良さがより強調される。

「…少し早いですが、聞いてくれますか」
 そして顔を上げ、俺に問う。

「ああ、聞くよ」
 隣でにこやかに微笑んでいたちひろさんが、この場を離れて給湯室へと入っていった。

 俺達の声は、他の誰にも聞こえない。

 何故今のタイミングで出て行ったのかは流石の俺にも理解している。
 翠の表情を見て『そういう雰囲気』を察知したから離れる、そんな気遣いだろう。


 ちひろさんの靴音を聞き届けた翠は語る。

「不安でどうしようもなかった、何も知らない私がこのような綺麗なドレスを着れるなんて思わなくて…でも本当に嬉しくて」

 誰にでもある不安。いつか、俺はそう翠に伝えた。
 だが、彼女の持つ不安は彼女だけのものだ。

 それを乗り越えて俺を信頼してくれたから、ここまで来れたのである。
 決して偶然でも虚実でもない、あるがままの事実だ。


 ふふ、と笑ったあと、翠は俺の目を貫くような綺麗な瞳を俺に向けた。


「私……あなたと出会えて、本当に良かったです」

 そして、私を見つけてくれた人があなたで――本当に幸せです。



424: 2013/06/24(月) 20:29:22.93 ID:LQWSwYS+o


 自然と目頭が熱くなる。
 さながら結婚式を迎える娘を見つめる父親のような気分だ。

 別れる訳でもないのに、まだまだこれからも歩き続けていかなければいけないのに。

 どうして、こうも顔が熱くなってくるのだろう。


「私はPさんの願うアイドルになれましたか?」
 再度、翠は問う。

 答えなんて言わなくてもわかってるくせに。
 前の仕返しだろうか、それでも俺は言ってやる。

「…勿論だ。翠なら、ファンの皆全てを魅了できるさ」

 できないはずがない。
 これだけ一生懸命やってきて、成功以外の道を歩くつもりはないさ。

 すると翠は何が琴線に触れたのか、くすりと俺に笑いかける。

「何がおかしい?」
 いえ、違うんです、と翠は釈明してからこう言った。

「ファンの皆を魅了する前に…ふふ、先にあなたを魅了したいな、と思いまして」
 できてますか、と首を傾げて訊ねる姿を、どことなく小悪魔と錯覚する。


「……とっくの昔にされてるっての」

 何となく心を見透かされたような気がして、不意に俺は翠の頭をぽんと叩いたのだった。



425: 2013/06/24(月) 20:30:27.72 ID:LQWSwYS+o



  *


 ――事務所は再び日常に戻る。


 試着状態である上、衣装がシワになると不味いので適当な頃合で着替えてもらったからだ。
 貧相な事務所のせいで、あのままだと背景と人物に違和感が付き纏って離れないのである。


 ちひろさんはその衣装を収納してから、ソファに座りつつも未だ興奮冷めやらぬ翠に再び仕事の話を振り出した。

「翠ちゃんは、何かこう…自分を表す言葉とか思いつく?」
 ソファで向かい合った俺達の手元のテーブルに、ちひろさんは一枚の紙を置いた。

「……なるほど、ライブ用のアピールのための言葉ですか」
 それを翠が手に取ると、書かれた文字を素早く読んで理解したようだ。


 有り体に言えば、二つ名のようなものである。

 通常のソロで行うライブであれば、訪れるファンは披露するアイドルの名前を知っていて当然なので特に必要はないが、合同フェスのような様々なアイドルが出入りするイベントにおいては、その本人の詳細を知らない事も稀ではない。

 なので、本人を端的にわかりやすく観客に知ってもらうために、そのアイドルを色濃く表すような言葉を付けるのが恒例であった。

 ちひろさんが渡した紙には、翠用に考えた言葉が羅列されていたのである。



426: 2013/06/24(月) 20:31:26.20 ID:LQWSwYS+o


「なんだか自分でそれを考えるのは恥ずかしいですね……」
「…まあそうだよな」

 無理もない。

 誰が好んで自分を評価して名付るのだろうか。
 ナルシストでも無ければ自分から進んで言える人はそう多くない。

「とりあえず私達でこれだけ考えてみたんだけど…何か気に入ったのはありますか?」
 ちひろさんの言葉に、再度翠は目を通す。

 やれ女王だの、妖精だの、カタカナ言葉やら難解な言葉を使用したネームがずらりと並んだ紙面。

 俺達ですら、その紙を作成するときはうんうんと悩んだものである。
 それだけ名付けというものは責任重大で、尚且つセンスが問われるのだ。


 うーん、と上から下に視線を下ろし終えた翠は、不意に俺の顔を見る。

「……Pさんに決めて欲しいです」

 責任放棄ととるべきか、はたまた信頼ととるべきか。

 眉を下げて苦笑するちひろさんを他所に、受け取った紙を改めて眺めることにした。



427: 2013/06/24(月) 20:32:04.00 ID:LQWSwYS+o



 翠を一言で表す言葉。
 これほど簡単なようで難しい事はない。

 何故なら、数えきれない程の仕草や行動、性格、趣味、ひいては人生をたった少しの文字で表さなければいけないからだ。


 しばし目を閉じて考えてみる。

 俺は何を見てきたか。
 翠の何に惹かれたか。

 彼女の人生の中のたった十八分の一にも満たない時間を過ごして、俺は何を思ったのか。



 出会った最初の頃から早送りで記憶を再生していると、共通する言葉がふと頭に浮かんだ。


「純真……」


 思いついた時、俺は妙に納得してしまった。



428: 2013/06/24(月) 20:32:51.77 ID:LQWSwYS+o



「純真、ですか?」
 翠は不思議そうに訊ねる。


 ――思えば、翠の性格は純真というべきものだった。

 素性の知らない俺を疑わず助け、先の分からない道を信じて歩き、中身の分からない俺に迷わず付いてきてくれた。

 そして、俺や彼女自身に纏わりつく全てを無視してでも好きだと言って俺を苦しめ、悩ませた。

「純真だけじゃ物足りないから…そうだな、娘という意味で子女を入れて『純真子女』ってのはどうだ?」

 いつの間にか父親のようになった気分になって、娘を思うような気持ちになってしまう。

 翠にぴったりで……ある種、彼女への皮肉めいた言葉だった。


「純真子女……ふふ、いいですね。ちひろさんはどうですか?」

 半ば思いついきのような意見ではあったが翠は気に入ってくれたようで、ちひろさんに顔を向けて是非を問うた。

「プロデューサーさんにしては良いセンスですね。採用しましょう」
「にしては、は余計ですよ」
 大方、翠に関する会議での俺の言動への当て付けだろう、にやりと笑ってから紙を俺から受け取って、彼女のデスクへと戻っていった。



429: 2013/06/24(月) 20:33:48.51 ID:LQWSwYS+o


「これから活動していく際にも当面その名前を使うとして…相手方にもそう伝えておきますね」
 かたかた、とキーボードを叩く傍ら、ちひろさんはそう言った。

 相手方、というのは無論合同フェスの運営である。
 それらアイドル達の資料をまとめあげ、当日でゴタゴタすることのないように利用するのだ。


 これでイベントに向けた大体の準備が終わりとなる。

 後必要なのは、当日に向けた確認の打ち合わせと別の日にライブのリハーサル、そして翠はCDのジャケット撮影も残っている。


「本番は合同フェスだからな、今喜んでると当日楽しめないぞ」

 気を抜くな、とは言わない。
 全力で臨んで欲しいのは言うまでもないのだ。

 だったら、無理に意識させる必要もあるまい。

「……はい!」


 本番まで、そう多くの時間はない。

 休みたいなら過ぎてから沢山休めばいい。
 だからそれまでは、俺は本気で向かって行きたい。



430: 2013/06/24(月) 20:34:29.69 ID:LQWSwYS+o


  *



 しばらく曇りがちだった秋空も久しぶりに綺麗な太陽が昇り、堂々たる冬の季節柄暖かくはないが心地良い空気が会場を包み込んでいた。


 合同フェス。

 開催まで既に一ヶ月を切っている12月初め、参加者の担当プロデューサーを集めて当日の流れをスムーズに行うための確認の打ち合わせが行われることになっていた。


 イベントの開催場所は首都郊外の広大な公園。

 その内の芝生のある広場にてイベント会場が設置されることになっている。
 また広場周辺では合同フェスに向けて屋台や商店街のコラボなども多く行われており、もはや街ぐるみの巨大な商売機会を形成しているようだった。


 当たり前の話ではあるが、会場は既に完成されている。
 舞台が無ければかなりの敷地を誇っていただろうこの広場も、舞台が角を埋めるようにせり立ったおかげで狭く感じるほどだ。

 実際にはここから観客が大勢入るのだから、当日は相当混雑を覚悟しなければいけないだろう。



431: 2013/06/24(月) 20:35:15.88 ID:LQWSwYS+o


「おはようございます。シンデレラガールズ・プロダクションの者です」

 むき出しにされた骨組みの舞台を横目に、数人のスーツ姿の男性が集まっている所に加わると、一斉にこちらを振り向き、口々に挨拶が返ってくる。

「ああ、あなたがそうですか。はじめまして」
 その中でも一際熟練じみた風格の男性が、俺を待っていたを言わんばかりに一際大きく挨拶をした。

 それから改めて自己紹介してもらう。

 皆それぞれ一度は聞いたことのあるような有名事務所でソロないしユニットを担当している人たちで、この世界についてまだお世辞にも熟知しているとは言えない俺でも、無意識に気遅れてしまう。


 同じプロデューサー業という範疇での知り合いはゆかりのプロデューサーだけな上、基本的に今まで対話をしてきた相手は明確に立場も役職も違う人たちだったので、接し方につい戸惑ってしまう。

「確か貴方は初めてだそうですね? 大丈夫です、緊張しないで…成功させましょう。私は運営側の人間ですので、あなたの成功に精一杯協力します」
 またもや先ほどの男性が俺に対して柔和な口調で励ましてくれた。

 これではまるで子供をあやす大人だ。

 こんな姿は翠に見せられないな、そう考えると、せめてもの抵抗として元気よく返事をすることにしておいた。



432: 2013/06/24(月) 20:36:21.92 ID:LQWSwYS+o



「実際に参加するメンバーを公表するのは後の特番になりますが、関係者の皆様方には先にこちらの紙面とメールにてお知らせしておきます」

 各々の人と名刺を交換してあらかた顔と名前を覚えたところで、運営の男性が紙を皆にそれぞれ回した。

 最後となる俺の番が来て受け取ると、翠の順番を探す暇もなく話が再開された。

「念の為改めて説明しますが、フェスでは昼の部と夜の部、二つに分けて開催します。今日集まってくださった皆さんは夜の部を担当することになりますので、よろしくお願いします」

 紙面に印刷された一覧にも昼と夜でメンバー表が分けられ、ずらりと並んでいる。
 恐らく舞台の演出なども昼夜で大きく異なってくるのだろう、間に設けられた休憩と称した準備時間の短さが何とも運営委員の忙しさを表していた。


「今ここに居らっしゃるのは……Pさん以外は皆過去のイベントを経験して何度も流れは見てきていますから、必要な方だけ残って私に質問して下さい。以上です」

 彼の掛け声と共に、先程まで集まって視線を注いでいた他所の事務所の男性たちは別れの言葉を残して皆散り散りに去っていってしまった。


433: 2013/06/24(月) 20:37:50.55 ID:LQWSwYS+o


  *


 ――あっけなくてびっくりしたのでは?

 まさかここまでとは、と目が点に近づきつつあった俺の下に運営の男性が話しかけてくれた。

 独特な風格であるにも関わらずどこか優しげな雰囲気を感じるのは、やはりビジネスマンとして生きてきた上で身に付けた技能なのだろうか。

「え、あ…そうですね。もっときっちりするものだと思ってました」
 とんでもない、と言うのも一つの回答だが、初心者らしく正直に感想を述べることにしたのだった。


 …そして。

 男性は軽く笑った後、耳を疑うような事をさらっと言った。

「顔合わせを兼ねた最初の打ち合わせはもう既に行なってますから、他の皆にとっては今日は会場の視察が主な目的みたいなものですよ」


 手元に鏡を持っていたなら、きっと瞬間的に青ざめていたことがわかっただろう。



434: 2013/06/24(月) 20:38:18.59 ID:LQWSwYS+o



「あれ、どうしました?」
 心配になったのか、はたまた本当に顔が青色に染まっていたのか、男性は不安げに俺に訊ねる。


 どういうことだ?

 俺にとって今日が初めての打ち合わせだ。
 記憶喪失になっていたという理由でなければ、覚えていないはずがない。

 にも関わらず今日は初めてでないという。


 何が起こったのかわからない、そんな言葉が今ほど似合うのは人生で今ぐらいだ。


 なんて声を掛けようか、という表情をしていた男性は、次にもまた驚くような事を言う。

「ああ、確かあの時は女性の…千川さんといったかな、その方が担当していましたね」


 自分の知らない所で何が起こっているのか、それを一度整理する必要がありそうだ。




435: 2013/06/24(月) 20:38:59.22 ID:LQWSwYS+o



 確かに、ちひろさんはこの合同フェスに関する各々の処理は彼女自身が片付ける、と明言していた。
 だから俺は言葉に甘えて翠のために時間を注ぐことができたのだ。

 そしてフェスに関する細かい情報は逐一彼女から受け取っているので、段取りも一応理解は出来ている。

 その『各々の処理』という物がどの程度まで彼女がやってくれていたかを想像すると、心臓の鼓動が一段と大きくなった。


 まさか、書面での対応の他にも実際に会議をして今回参加する翠についての説明やアピールなどをしてくれていた、ということなのだろうか。

 …仮にそうであれば、新人のアイドルを参加させていてしかも初対面の俺に対して皆が比較的温和な対応をとってくれた理由も、僅かではあるが納得することが出来る。

 ちひろさんが優秀で手際も要領も良いのは以前から重々分かっていたつもりではあったが、よもや日々の事務所の管理作業をこなしつつ交渉や手配も行なっているとは流石に思わなかった。


 きっと俺の知らないところで人知れず作業をかなりこなしているのかもしれない。

 そう思うと、また今度にでも彼女のために何かしてやりたい、と考えてしまう。

 いつの日かの二人での食事のような形態でなくてもいい。
 俺達が快適に動けているのも全てちひろさんが居るおかげなのだ、叶えられる範囲で何かお願いでも聞こうかな、と不意に思った俺だった。



436: 2013/06/24(月) 20:39:40.83 ID:LQWSwYS+o


 と、今の状況を思い出す。

 このフェスでの質問、という話題だったか。

 ちひろさんから受けた大体の説明は頭に叩きこんであるので、あと気になることといえば、と考えて口に出す。

「そういえばあの舞台って、どの程度個人で演出を入れてもらえるんですか?」

 ドーム球場のように予めそれなりの設備がある訳ではない野外のライブにおいて、疑問点は大体それに尽きた。
 以前ちひろさんと相談して取り決めた要望は送っているはずだが、結局その通りに作ってもらえているのかどうかは未だに知らないのである。

「ああ、そうですねえ…」
 彼は近くにそびえ立つ舞台を指さして、動かしながら答える。

「こちらで用意できるのは照明やレーザー、火柱、散水、花火が主ですね。勿論スクリーンも五枚用意してます」
 つまりライブを行う上でよく使用される演出の殆どがここでも使えるらしい。

 これがマイナーな野外ライブであればそうもいかなかっただろうが、流石有名イベント、出演者側の要望はしっかりと応えているらしい。

「ええと、確か翠の時の演出は……」
 ちひろさんと話した内容を回顧する。

「水野さんの時は、現状ではスクリーンの映像とレーザーを聞いてますね。今ならある程度は追加できますよ」

 他のイベントであればまず怒られるだろう話を彼は悠々と答えてみせた。



437: 2013/06/24(月) 20:40:17.79 ID:LQWSwYS+o


 回答に感謝して、改めて考えてみる。

 例えば使用楽曲がポップ系ならば、それに合わせて動きのあるレーザーや火柱を用いるのが一般的だが、今回翠が歌うのはあくまで落ち着いた曲調の物だ。

 そこに激しい演出を入れても良い効果はなく、却って違和感が生まれて観客もノリきれなくなってしまう。


 だとすると、実物を見ないとはっきりとはいえないが、現状でも問題ないように思えるが、俺はここで一つ思いつく。

 次に行うリハーサルでもまた調整できるので無理を通すことはないが、一応言うだけ言ってみても損はないだろう。


 では提案を、と頭の中に出来た文章を口に出そうとした時、それとは別として俺は不意に素朴な疑問が浮かんだ。

「……聞いてもらえるのはありがたいのですが、当日まで期間も短いのに大丈夫なんですか?」

 綿密なスケジューリングと意思疎通を経て行う通常のライブと違って、合同フェスは短期間で準備から調整まで全て行うという特殊な形態となっている。

 それが可能なのも、出演する方も手馴れているのに加えて、運営側もスタッフを総動員しているからだろう。

 個人的には、時間に余裕を持って前々から準備した方がコスト面でも得だと思う、と俺が問うと、彼は少し間をとって言い切った。



438: 2013/06/24(月) 20:41:05.70 ID:LQWSwYS+o


「…私はね、出演者の方々の全力のパフォーマンスが見たいんですよ。だから要望があるなら前日でも聞きますし、可能な限り応えます」
 言うまでもなく当然の事である。

 自らが主催するイベントで出演者が手を抜いているようなことは、あるべきでないと思うのが普通だ。

「そうするのは、何より『それ』を言い訳にして欲しくないからなんです」

 仮に自分の番で全力を出せなかったとしたら、その事を本人以外の事柄を責任として目を逸らさないで欲しい。

 つまり、土台は全部要望通りに作るから、本番中の失敗は全部本人に原因があるんだぞ、という訳だ。

「あなたの成功を応援しています。ですが、あなたのアイドルの失敗には私共は関係しませんし、観客も黙ってはいないでしょうね」

 彼の目はにこやかに笑っている。
 優しく、迷子になった子供に親身になって語りかけているような、敵対心のない瞳だ。

 しかし、その実彼の目はある意味現実的だった。

 彼が俺に言った「精一杯協力します」という言葉は、後ろから支えるのではなく、道を整備する、という意味合いなのである。

 後ろで支えていて本人が倒れたなら責任があるだろうが、道を整備して倒れてしまっても、彼には何ら責任はない。

 ゆかりのプロデューサーとはまた違った厳密さがこのイベントにはあった。



439: 2013/06/24(月) 20:42:26.71 ID:LQWSwYS+o


 恐ろしい、と言ってしまえばそれだけだし、こういった対外でのパフォーマンスであればこれが普通なのだが、その一言で済む程に彼の言葉はいやに冷たく感じた。

「…わかりました。それでは要望ですが――」

 切り替えて、俺は頭でこねくりかえしていた文章を切り出す。


 大丈夫。そんな言葉で焦っても仕方ない。
 普通にやれば失敗することはないんだ。


 半ば反芻するようにして、俺は鼓動を落ち着かせていた。



440: 2013/06/24(月) 20:44:32.18 ID:LQWSwYS+o


  *




「……おう、また会ったな」

 伝えたい事項も全て言い終えて、会場を見学してリハーサルに備えようと立地や観客からの角度などをチェックしていると、不意に声を掛けられた。

 振り向くと、今年になってもう何度も見かけた男性…ゆかりのプロデューサーがいつも通りぶっきらぼうな顔つきで立っていたのである。

「ああ、こんにちは。先日の収録ではどうも」
 先日というのは二人揃って出演を果たしたテレビ収録の日の事である。

 レッスンに時間をかなり割いているため通常の仕事量は増やせないが、まだ開拓してない所からも時々オファーが来るようになったのは喜ばしいことである。


「ところで、あなたも会場のチェックを?」
 打ち合わせのため集まった先程の時には彼の姿を見かけなかったので、翠とは違って昼の部の出演なのだろう。

「そうだ。…悪いが、覚悟しておけよ」
「え?」
 バツが悪そうに突然そう言った彼の言葉に違和感が残った。

 覚悟、とはどういう意味なのだろうか。

「……なんだそのよくわかってない顔は」
 どうやら彼には俺の思考がお見通しらしい。



441: 2013/06/24(月) 20:45:28.58 ID:LQWSwYS+o


「出演者リストはもうもらっただろう? 翠の一つ前の名前を見てみろ」
「……あ」

 そういえば、渡されたあの時はメンバーの一覧をじっと見る間もなく説明が始まったので詳しく確認ができなかったのだった。

 俺が漏らした声と共に、翠の名前が見つかる。
 問題は、その名前の上にある文字だ。


「……水本、ゆかり」

 水本ゆかり、という言葉はもはや俺や翠の間でも聞き慣れたものになっていた。
 おおよそ親近感の沸く間柄といっても差し支えない。


 昼の部と勝手に思っていたが、よく見てみると翠と同じく夜の部だったのだ。

 運営の男性の話を思い出す。
 あれだけ縛りのない緩い打ち合わせなら、イベントの詳細をすでに知っている前回以前の出演者の中にはそれに出席しない人間が居ても不思議ではない。

 つまり、彼はその中の一人という事だったのだ。

 それ以前に、出演者リストに載っている数と今日挨拶した人の数が明らかにあわないので、彼以外にもいると見て間違いはない。


 …まあ、正直に言ってそこは大した問題ではない。
 一番の問題は、ゆかりが翠の前の番ということである。


 翠にとって彼女は大事な友達だが、今回だけは。

「敵、というわけだ」

 ゆかりは翠の前に立つ……大きな壁となっていた。



442: 2013/06/24(月) 20:46:00.54 ID:LQWSwYS+o



 順番なんて、関係ない。

 そう思えるほど自信や実績があればいいが、現時点ではそう安直に楽観視は出来なかった。

 ゆかりの披露する曲は恐らく、最近発売され若い年代に人気を博した女性の恋心を描いたバラード曲だろう。
 初週の売上げランキングのトップ10に入るほどの人気、と言えばわかりやすいだろうか。

 携帯電話会社のCMソングにも起用され、彼女に興味のない人でも聞いたという人は多い。

 俺も購入して聞いてみたが、圧倒的な声量で歌う恋人への思いは驚くほど心を揺さぶってきたのをはっきりと覚えている。



 …奇しくも、音楽ジャンルとしては翠と同じ土俵なのだ。

 それが何を意味するのかといえば、極めて簡単に答えが出る。

「……そうですか」
 当て馬。以前ゆかりが苦しい過去を晒してでも俺に教えてくれた実情と、今回相手方が仕掛けてくる細工の中で出てきた言葉だ。


 まさにその通りの事が起きたのである。

 これも本人が全力を出せない外部的要因に値するのではないかと考えたが、運営の彼や他の方が運営方針に則って順番を決めたのだから、恐らく理解はされない。

 また、下衆な勘ぐりが許されるのなら、イベントの主催に関し何らかの援助をしているのかもしれない。
 でなければ、招待枠の権利を狙って獲得できるとは到底思えないからだ。


 相手にとってみれば、俺達の事務所はたったひとりのアイドルしか所属させられない貧弱な事務所で、潰れてしまっても何ら問題もない、と判断したのだろう。

 後に格下を持ってくることで、披露後に観客がゆかりへの評価を相対的に上げるという算段である。
 …去年実力を満たないゆかりを無理矢理ねじ込んだ割には、今年は随分彼女を信用しているんだな、と呆れさえしてくる。

 結局お上にとってアイドルとは商売道具なのだろう。
 その考えには否定しないが、かといって今のその方針が正しいとは全く思わない。

 それも、事務所が違うから言っても詮ないことなのだけれども。



443: 2013/06/24(月) 20:47:07.61 ID:LQWSwYS+o



「俺自身はお前の所とやりあうつもりはないんだけどな」
 そう答える彼の表情も、隠しきれず、苦しそうだった。

 現実を直視して、厳しく、冷静にプロデューサーをやってきた彼でさえそんな表情をするとは、彼なりに俺達に対して友好的に思ってくれているという事なのだろうか。

「…でも、感謝してますよ、私は」

 だったら、尚更俺は下を向く訳にはいかない。

 どれだけ不利な状況に持ち込まれようとも、そもそも彼ら事務所が居なければ今この場に俺や翠は存在できないのだ。

 つまりは、参加する権利をもらう代わりに、少し相手に有利な状況を許してやっただけ。


 そう考えるのが、俺の精一杯だった。

「…そう言ってくれると助かるな。俺も善意を捨てた訳じゃないから」
「わかってますよ」
 冷静と冷酷は似ているようで全く違う。

 その程度の違いがわからないほど俺も目や頭は悪くない。

 彼なりの辛さが偽物であるはずがないのだ。
 それはゆかりの担当になったことで保証している。



444: 2013/06/24(月) 20:48:20.84 ID:LQWSwYS+o



「表立っては言えないが、俺もアイツも、お前達を応援してるよ」

 彼はそう言って、会場の別の地点へと去っていった。


 別に俺はいい。本番では舞台裏から見ているだけなのだから。

 ただ翠にとって、ゆかりの後に歌うという事が何らかのプレッシャーにならないといいのだが、と懸念する。


 ……もう決まったことは仕方がない。

 俺の立場では、結局その方面について考えた所で無意味に等しいのである。


 ならば俺に出来ることは、ただ事実をありのまま翠に伝え、そして彼女が全力でパフォーマンスを披露できるように支えてやるだけだ。


 そうと決まれば話は早い。

 出来る限りこの会場の事をまとめて、事細かく翠に伝えられるようにメモをとらなければ、と思い、彼に負けじと俺も作業を再開した。



445: 2013/06/24(月) 20:49:06.36 ID:LQWSwYS+o



「大体収容する人のラインがここだから…もう少しパフォーマンスは前に出たほうがいいか」
 視線をメモと舞台を行き来させながら当日の演出についてもう少し考えてみる。


 以前、ちひろさんや翠、麗さんを含めたフェス対策会議を開いたことがある。

 主に舞台上での動き方や口上などを説明、議論していたのだが、そこでも確かにちひろさんは確固たる考えを予め持っていたのだ。

 それだけなら事前に過去のイベントを見て調べ尽くしたから、と言えるのだが、気になるのは麗さんがちひろさんの発言に対して甚く同調していた点だ。

 まるで何度も話し合いをしてきたかのような…俺抜きでやっているような気がして、懐疑心がなかなか抜けない。

 そうでなくとも、ちひろさんの行動が時々不明になる時がある。
 裏で色々サポートしてくれているはずだと思うが、俺が知らないのはどこの事務所でもそうなのだろうか。

 このフェスが終って一段落したら、一度聞いてみるのもいいかもしれない。



 そんな事を思っていると、不意に遠くの会場沿いの建造物群が目に入る。

 舞台にやや隠れてしまってはいるが、土産屋やアンテナショップ、レストランなど、まさにここに来る客に狙った店舗がずらりと並んでいて、商魂たくましいな、と苦笑する。



446: 2013/06/24(月) 20:49:32.77 ID:LQWSwYS+o



 ――ああ、そうだ。

 視察ついでに近場で甘いデザートが食べられる場所を探しておいてもいいかもしれない。


 無事成功させて、喜びを分かち合って。
 ライブが終わって、余裕があれば慰労として食べに行って、お疲れ様、おめでとうって言って、笑い合って。

 そしてこれからの活動に思いを馳せ、また一区切りとなるであろうその日に、今までの思い出を語り合うのも悪くない。



 もしかしたらライブ後に人気が爆発してテレビやら雑誌やらに引っ張りだこになって、ゆかりのプロデューサーも羨むほど多忙になるかもしれない。

 ならゆっくり動けるのも今のうちだろうか。


 …目の前にそびえる壁に立ち向かう時、味方をしてくれるのは不安ではなく希望だ。

 少なくとも、俺達が今持つべきものは苦しみではない。


 あともう少しだけ会場を見て回ったら、近くの本屋でスイーツ情報が載った雑誌でも買って、それで翠にも見せてやろう。



 そんな現実逃避にも似た考えを無慈悲にも叩き割ったのは。


「……ん、電話か」


 感情のない、着信音だった。



447: 2013/06/24(月) 20:50:43.12 ID:LQWSwYS+o







 ――変化とは突如起きるものなのだと、以前の俺は結論づけた。


 まさしく、それは本当の事だったのである。




448: 2013/06/24(月) 20:51:19.84 ID:LQWSwYS+o



  *



「翠…、翠……!」

 激しい動悸が肋骨の内側を痛めつけ、途切れることのない呼吸が喉を荒らす。

 息をすることがこれほどまでに苦しいとは、かつて感じたことがない。

 躰を揺らす。上下に、左右に。

 足が回る。地面を踏み抜き、駆ける。



 何も考えられない。

 ただ走る。ただ走る。ただただ走り続けている。

 足の混濁も心臓の爆発も否応なく、翠のいる場所に向かって……走り続けていた。




449: 2013/06/24(月) 20:52:19.06 ID:LQWSwYS+o



 サラリーマンや私服の人間が占領している真昼間の都内。


 何の不幸か、駅前のロータリーにタクシーが留まっていなかったのである。
 それでも待っていられなかったので、我武者羅に走っていたのだった。


 しばらく体力の続くまま歩道を走っていると、少し先に丁度客を降ろすタクシーの姿があった。
 息絶え絶えのまま手を振り上げて今にも走り出しそうなタクシーをそのまま停止させ、半ば倒れこむようにして乗り込む。

 タクシーの運転手はそんな俺を心配する視線を向けたが、それすらも無視して俺は運転手に一言、行き先を伝えた。

「病院まで、はぁ…はぁ、お願いしま…す」

 そう。
 俺の行きたかった場所は。
 行かなければいけない場所は。


 ――翠が搬送された病院だった。


450: 2013/06/24(月) 20:53:34.66 ID:LQWSwYS+o

451: 2013/06/25(火) 06:20:38.03 ID:zeNWvV6to

このSSのおかげで翠が好きになりました

引用元: モバP「翠色の絨毯で」