1: 2010/07/31(土) 14:41:42.73 ID:2joTKOve0
 今日も、いつものティータイムのはずだった。

 しかし、今、唯の眼前には、机に直接山盛りにされた小麦粉が鎮座している。

 唯だけではない。律、澪、梓の目の前にも白い塊がその存在感を誇示していた。

 一瞬、この純白の粉末がアブない薬だったら末端価格でいくらぐらいかと妄想するが

 幸か不幸か、これは一般家庭でもお目にかかるごく普通の麦の粉。

 紅茶はおろか水すらない状況では、到底かき込むことも飲み下すこともできない。


 第三者からみればシュールで笑いすら誘うであろう光景だが、

 互いの顔すら視認できないほどに眼前にうず高く盛られた粉に立ちはだかられ、

 紬以外の当事者たちの心は、たちまち不安と焦燥に蝕まれていく。


「………………………何だこりゃ?」

 そして、ようやく口を開いた律に対し、紬は、冷ややかに言い放ったのである。

「“貧乏人はムギを食え”」
けいおん!Shuffle 2巻 (まんがタイムKRコミックス)
2: 2010/07/31(土) 14:42:44.57 ID:2joTKOve0

 豹変した紬の真意を誰も確かめられぬまま、いたずらに時は過ぎた。

 西に傾く陽光の差し込む部室に、窓枠の影が長く伸びていく。

 沈黙が支配する張りつめた空気の中、紬が一人飲むダージリンの香りだけが漂う。


 朝靄のごとく部屋に充満する小麦粉の粉塵に、

 窓からの日差しがあたかもチンダル現象のように美しい光の筋を作る。


 梓は朦朧とし始めた意識の中、ふと思った。

 これが本当に朝靄であればどれほど幻想的な景色だったろう。

 まあ、この光景もある意味サイケデリックな幻覚を催すものではあるが。


 さらに時は過ぎた。

 梓の顎から滴った汗が、白富士の一角をうがち、崩れ落ちる。

 ああ、大沢崩れもこうして形作られていったのか、と、内心独りごちる。

4: 2010/07/31(土) 14:44:19.88 ID:2joTKOve0
 沈黙は唐突に破られた。

 軽く布団を叩いたようなくぐもった打撃音が響く。

 机の一角から、粉塵の白煙が立ち上る。

 唯、律、梓の三人は一瞬、室内の光の筋が鮮やかに揺らめくのを見て

 「綺麗だなあ」と思ったが、音源に目を向けると、現実に引き戻された。

 澪が、白い山塊の中腹に飴食い競争の走者の如く頭を突っ込んでいるのだ。

 飴食い競争と違うのは、飴が存在しないことと、走者が微動だにしないこと。

 どうやら、緊張と渇きに耐えかねて気絶したようだ。


「澪先輩!しっかりしてください!」

「ゲッホ!ゴホッ、ハァッ、エホッ!ハア、ハァ…ケホッ!…」


 梓が澪を抱き起こすと、花魁のように真っ白になった澪が

 息も絶え絶えに顔を上げ、口から白煙を吐き出す。

6: 2010/07/31(土) 14:45:45.65 ID:2joTKOve0

「どういうつもりだ…ムギ」

「…聞こえなかったの?二度は言わないわ。栄養的に全粒粉のが良かったかしら」


 紬はティーカップに目線を落としたまま、律に一瞥も加えず答える。


「ムギの茶やケーキを毎日むさぼり食ってる私たちは貧乏人って言いたいのか!?」

「いきなりどうしたの!?私たちが何かムギちゃんに悪いことしたなら謝るよ!」

「そうね…なら、“中小企業の五人や十人自頃してもやむを得ない”わね」


 律の怒気をはらんだ詰問にも、今にも泣き出しそうな唯の懇願にも、紬は容赦を加えない。

7: 2010/07/31(土) 14:46:47.42 ID:2joTKOve0

「ムギ先輩、中小企業って、もしかして私たちのことですか?」

「貧乏人だの自頃してもやむを得ないだの、そりゃ本気で言ってんのか?」

「フフ…“私はウソは申しません”」


 かすかな嘲笑を口元に浮かべる紬は、ただ紅茶の香りを楽しむのみ。

 憤激した律はにわかに立ち上がる。


「ムギ、何があったか知らないがふざけるな!私は帰る!

 冗談にも程があるし、本気ならなおさらってもんだろ!頭冷やせ!」

「律先輩!」

「りっちゃん!ムギちゃんを放っておけないよ!明らかにおかしいよ!」

「…しょうがない、とりあえずみんな、こっち来い」

 四人は、紬を残して部屋を後にする。

 紬は、その様子を蔑むように眺めていた。

9: 2010/07/31(土) 16:06:10.53 ID:2joTKOve0
 四人は廊下に出るとすぐさま作戦会議に移る。


「澪先輩、大丈夫ですか?」

「だいぶ落ち着いた。しかし、ムギは急にどうしたんだろう…」

「わ、私たちがムギちゃんのお茶とケーキばっかり食べてるから、

 堪忍袋の緒が切れちゃったのかな?どどどどうしよう?」


 しかし、『三人寄れば文殊の知恵』とはいえども、悲しいかな、

 動揺の収まりきらない人間が四人集まってもこの窮状を打破する妙案はなかなか浮かばない。


「いや、明らかにおかしいぞ。何だか心ここにあらずって感じだ。あと、澪は顔拭け」

「…できれば洗いたい」


 澪の顎から、小麦粉混じりの汗が滴り、ワックスの利いた焦茶色の床に白いしみを作る。

10: 2010/07/31(土) 16:07:42.53 ID:2joTKOve0
「ムギ先輩は今朝からこんな感じだったんですか?」

「いや、普段通りだったな。朝も普通にあいさつしてダベったし、昼も一緒に食べたし」

「となると、変になったのはその後ですね…午後に変わったことはありましたか?」

「たしか日本史と政治経済だったけど、食後で眠くて寝てたからよくわかんないよ」

「唯は午前も寝てたろーが!しかし、ムギの言葉はどこかで聞いたことがある気が…」

「それは私も思った。たしか授業中に先生が雑談してた内容だな」


(まさか…な)

 澪の脳裏には、ある共通項が浮かんだが、

 この状況で駄洒落じみたことを言うのは不謹慎だと思い、口にするのをためらった。

12: 2010/07/31(土) 16:12:09.31 ID:2joTKOve0
「ところで、ムギ先輩をどうしますか?確かに変ですけど、

 保健室に連れて行っても、普通のケガとかじゃないですし対処できないですよ」

「ムギん家に電話して迎えにきてもらうか。執事さんがいたろ」

「うーん、じゃあ私はひとまず和に相談してみよう」


 このまま、紬を独りにしておくわけにもいかない。

 澪以外の三人は、部室に戻り紬を見守ることとなる。

13: 2010/07/31(土) 16:13:02.02 ID:2joTKOve0
「じゃあ私ムギん家に電話しとくから、唯と梓は先に部室戻ってて」

「ムギちゃんどうしちゃったんだろうね…」

「しばらく様子を見ましょう。挙動不審なので不安ですけど」


 部室のドアが閉まったのを確認して、ドアに背中を預けなから律が電話を架けると、

 1コールで受話器が取られた。さすが優秀な執事だ。


『もしもし、桜高軽音部の──琴吹──斎藤さん、ですよね?──ええ、はい』

『実は──貧乏人は──で、迎えに──え?いつから?──午後──…』

『え?逃げろって!?意味わかんないんですけど!?──もしもし!もし…』

 その瞬間、律の小柄な体躯は、強烈な衝撃波によって宙に舞った。

14: 2010/07/31(土) 16:15:48.05 ID:2joTKOve0
「…何なのその顔。ステージ向けの新しい化粧?」


 生徒会室の扉を開けると、一瞬の驚きの後にあきれ顔を浮かべる和がいた。


「あ、いや、これは…」

「とりあえず洗ってきなさいよ。床にも点々と落ちてるし…」


 とっさに顔を拭うとブレザーの袖が真っ白になる。

 恥ずかしさで顔が紅潮するのがわかるが、どうせ外見は真っ白にしか見えないのだろう。

 澪がトイレの洗面台で顔を洗って戻ると、和に促されて椅子に座る。


「どうしたの?なんだか慌ててたから、よほど急ぎの用件なんでしょ?」

「実は、ムギがいきなりおかしくなっちゃってさ。和なら何か知らないかと思って」

「澪こそいきなりヒドいこと言うわね。紬は軽音部の中では比較的まともなほうでしょ」

(和のほうがヒドいこと言ってる気がするけどな…)

 眉を少し寄せながら苦笑する和に対して、若干の疑問を感じつつも澪は言葉を続けた。

15: 2010/07/31(土) 16:17:01.16 ID:2joTKOve0
「今日の午後の授業があっただろ?日本史とか政経とか」

「そうね。戦後史とか内容が結構重複してたから、さすがに私も少し眠かったわ」

「その後からおかしいんだよ。放課後、ムギが何をしたと思う?」

「いつも通り部室でティータイムだったんじゃないの?」

「そう思うよな。でも、ムギが出したのはお茶でも、お菓子でもなく、麦だったんだよ」

「話が見えないわね。ムギがムギを出したって。駄洒落にしてもセンスがなさすぎるわ」


 和の表情は苦笑から徐々に怪訝なものに様相を変えていく。

 右手に握ったシャープペンシルの芯を押し出す頻度が高くなっていく。


「ごめん…正確には小麦粉。それで、こう言い放ったんだよ」

「…何て?」

17: 2010/07/31(土) 16:20:17.28 ID:2joTKOve0
「“貧乏人はムギを食え”ってさ。あまりに失礼とは思うけど、ムギが何の理由もなく…」

「! それは何時頃?まだ部室にいるの?唯や他の部員は一緒にいるの!?」

 ここに至って、和はその眉間に一層深い皺を刻み、悔悟と焦燥を露わにする。

 不要に長くなったシャープペンシルの芯が折れて視界の外に飛ぶ。

「の、和、いきなりどうしたんだ?たぶんみんなまだ部室にいるけど…」

「私としたことが迂闊だったわ。あんな内容の授業が続いて、

 しかも琴吹家の人間ともなれば経済的な素養は十分、ましてやムギとあだ名されれば…」

 澪は、和の歯ぎしりを初めて聞いて一瞬気圧された。

 こんなただならぬ様子の和を見るのは初めてであった。

「おい和!今度は私のほうが話が見えないぞ!説明してくれ!」

「ごめん!説明する時間はないわ!時は一刻を争うの!澪は部室のみんなを助けに行って!」

「あ、ああ…」

「丸腰は危険よ!…そうだ、ここに掛けてある『ひまわり』のレプリカを持って行って!」

「丸腰は危険って武器じゃないのか!?なんで絵なんだよ!」

「いいから早く!私もすぐに行くわ!」

19: 2010/07/31(土) 16:21:45.05 ID:2joTKOve0

 澪は動揺していた。午後の授業の内容と、紬の言葉の共通項はわかっていた。

 しかし、なぜ一刻を争う事態なのか、何が危険なのか、皆目見当も付かなかった。

 ただ、和がこんな大がかりな冗談を言うわけがないことだけは分かっていた。

 疑問を差し挟む余地は無かった。

 澪は『ひまわり』を壁から取り外し、即座にきびすを返して部室にひた走った。



「曽我部会長から万が一の引き継ぎは受けていたけど…世界の警察も楽じゃないわね」


 和は、装いを整えると、出張中で主のいない校長室に忍び込む。

21: 2010/07/31(土) 16:24:28.84 ID:2joTKOve0

 時は少し遡る。

 再び部室に入った唯と梓の網膜に、奇矯な光景が飛び込んできた。

 先ほどの山盛りの小麦粉も十分に奇矯であったが、今度はそれに輪を掛けて異様であった。


 紬は部屋の窓際に立っていた。

 表情がよく分からないのは、窓に背を向けて逆光になっていることのみが理由ではない。

 紬の周りを、白と黒の微粒子が取り巻き、緩やかに渦を巻いていたからだ。


「…………どうしたの?ムギちゃん?」


 恐る恐る声を掛ける唯に、紬は微動だにせず答える。


「私には…もっと経済力(チカラ)が必要なの。まだチカラが足りないわ…」

22: 2010/07/31(土) 16:27:19.31 ID:2joTKOve0
「チカラって、すでに琴吹家は押しも押されぬ大財閥じゃないですか!」

「こ、これ以上何を望むの!?“贅沢は敵だ”よ!」

「唯先輩の言うとおりです!“足りぬ足りぬは工夫が足りぬ”です!」

 唯と梓は必氏に反駁するが、紬は取り合わない。

「古い!古いわ!“もはや戦後ではない”のよッ!!“三白景気”ッ!“炭塵爆発”ッ!」

 紬が叫ぶと同時に、その周りを取り巻く白と黒の粉塵が部屋中に拡散した。


「! あずにゃんッッ!!」

 本能的に危険を悟った唯は、咄嗟に梓を抱きすくめて、床に伏せた。


 鼓膜どころか三半規管がイカレるほどの轟音。

 部屋中に埃が舞い散り、聴覚のみならず視覚も妨げられる。

「ゴホッ…大丈夫?」

「…はい、ケホッ、なんとか…」

 ややあって埃の隙間から、粉々に割れた窓ガラスが不規則な輝きを発するのが見えた。

 そして、荒れ果てた部室に仁王立ちする紬の姿も。

23: 2010/07/31(土) 16:29:17.70 ID:2joTKOve0
 同刻。


 不意に、強烈な爆風が律の体をドアごと弾き飛ばす。

 携帯電話が手を離れ宙を舞う様が、眼前でコマ送りのように映写される。

 ああ、たぶん今の私もこの電話のように宙を舞っているんだろうなあ、

 鳥人間コンテストに出たらいい記録が出るんじゃなかろうか、

 と、くだらない考えが頭をよぎる。

 階段の踊り場の窓がぐんぐん近付いてくる。屋外へ一直線コース。

 でも、この高さから受け身を取るのはさすがにムリだろう。

 今すぐ全盛期のジャッキー・チェンに代わってもらいたいくらいだ。

 このまま地表に叩き付けられて腐ったトマトみたいになっちゃうのかな。

 回転する視界の端に、澪の姿が一瞬見えた気がした。

 いつだったか、唯の勉強を手伝いに行ったときも、

 受け身を取りながら部屋に突入して澪に怒られたなあ。

24: 2010/07/31(土) 16:30:01.27 ID:/egCpMqd0
なんだこれ

25: 2010/07/31(土) 16:31:19.84 ID:2joTKOve0
 次の瞬間、律は階段の踊り場で澪に抱きとめられていた。

「…つっ…間に合った!」

 おいおい惚れてまうやろ、と律は思ったが、

 そんな思いに浸る暇はないほど事態は切迫しているようだ。

 二人とも埃を払って立ち上がると、律が吹き飛ばされてきた方向、部室の方向に向き直る。

「…ありがとう。こりゃただごとでは済まなさそうだなぁ。和は何だって?」

「私もよく分からないんだ。和が先に急げっていうから来てみたらこの有様だよ」

「さっき、ムギん家に電話したら、斎藤さんが逃げろって叫んでた。どうやら危ないらしい」

「既に危ないだろ。和もすぐに来るとは言ってたけど、私たちだけでもなんとかしないとな」

「実は、まだ部室に唯と梓と…ムギがいる」


 部室の瀟洒な造りのドアは木っ端微塵に消し飛び、もうもうと埃が吐き出されている。

 室内の様子を伺うことはできないが、三人がいるはずだ。


「征くか?」

「…愚問だな。澪もそのために来たんだろ?」

26: 2010/07/31(土) 16:34:06.05 ID:2joTKOve0
 部室。

 唯と梓は、互いの全身が灰色の粉…すなわち、先ほどまで紬が纏っていた、

 白と黒の微粒子にまみれているのを視認した。

 梓は、手の甲についた粉末を一口舐めてみる。

「…これは、“砂糖と硫安とセメント”の粉ですね」

「それ、全部白い粉だよね?黒い粉の正体は?」

「石炭の粉よ。そんなことも知らないなんて、授業はきちんと受けないとね、唯ちゃん」

「! ムギちゃん!どうしてこんなことするの!?」


 唯は紬の感情のこもらない声に恐怖しつつも、背後に梓をかばいつつ立ち上がる。


「経済成長には、犠牲がつきものよ」

「ヒドいよ!でも、なんで火の気もないのにこんな激しい爆発が…」

「これは、粉塵爆発です!きっと僅かな火花で…」

27: 2010/07/31(土) 16:36:02.62 ID:2joTKOve0
「さすが梓ちゃんね。どこかの居眠りさんとは違うわ。

 戦後復興の功労者である黒ダイヤを忘れるなんて、お仕置きが必要ね。

 60年代にはまだ早いけど、もっと大きい炭塵爆発事故をお見舞いしようかしら。

 でも、その前に、動きを封じないとね」


 半歩、また半歩と間合いを詰める紬の袖口から、大量の繊維が放たれる。

 どこに隠し持っていたのかと驚く暇もなく、唯と梓は繊維に絡め取られる。


「…か…ふっ」

「うぐ…ぅ」


 呼吸すらままならない二人に対して、紬はさらににじり寄る。


「…炭塵爆発はやめておくわ。これからは石油の時代よ。

 そして、やはりこれからは軽工業じゃなくて、重工業よね」

30: 2010/07/31(土) 16:39:06.47 ID:2joTKOve0
 紬は再びどこからともなく黒光りする鉄製の棒を取り出し、

 舌なめずりをしながら下卑た嗤いを浮かべた。


「私、ピッツバーグから高炉の火を消すのが夢だったの。

 ………二人で仲良く“所得倍増”してね」


 そう言って、紬は鉄パイプを振りかぶる。


 ──殺られる

 唯と梓は、目を瞑った。

 乾いた衝突音。

31: 2010/07/31(土) 16:41:36.12 ID:2joTKOve0
 唯と梓が恐る恐る目を開けると、目の前には額縁の裏側が見えた。

 そして、額縁を支え持つ律と澪の姿。

 振り下ろされた鉄パイプは、『ひまわり』の絵により防がれたのだ。


「遅くなったぜ!」

「唯、梓、ごめんな!」

「…チッ」

 紬は間合いを取るため窓際まで飛び退く。

「おいムギ!唯と梓を解放しろ!」

「何が起きたか知らないけど、もう冗談では済まされないぞ!」


 紬は、遅れてきた二人を舐め回すように見つめる。


「本当に遅かったわね。特に澪ちゃん。特需のお陰で早めに復興できたわ。

 あと、いつまでもたかってくるのは勘弁してね。…潰すわよ」

「一体何を言っているんだ?いつ私がムギにたかった?」

32: 2010/07/31(土) 16:43:14.33 ID:2joTKOve0
「とにかく、まずは二人の縄をほどけ!」

「…仕方ないわね。繊維も鉄鋼も輸出を自主規制するわ。

 いずれにせよ、三種の神器を兼ね備えた私に氏角はないもの」


 そう言うと、あれほどきつく唯と梓を縛り上げていた繊維は解けた。

 紬の手から落ちた鉄パイプが、無機質な音を立てて床に転がる。


「ぷはっ!ハア、ハァ…りっちゃん、澪ちゃん…」

「ケホッ、ゲホッ、ありがとうございます…」


唯と梓は新鮮な空気を肺に目一杯取り込みながら礼を言うが、

律と澪は紬から視線を外さず見据え続ける。


「残念だけど、礼を言うのはまだ早そうだぜ」

「あの正気を失ったムギが、こんなに潔く手を引くわけがない」

33: 2010/07/31(土) 16:44:28.70 ID:2joTKOve0
「さすが澪ちゃんは読みがいいわね。NIESの一角をなすだけのことはあるわ

 …これからは、自動車よ!!!」

「だからNIESの一角とか意味がわから……」

 澪がそう言うや言わずやという刹那、窓際にいたはずの紬と、

 四人の間合いは急速に詰められる。

 新幹線と見まごうほどの神速。

──速い!

「これぞモータリゼーションの本格化……!」



「…マスキー砲ッ!!」

34: 2010/07/31(土) 16:46:38.66 ID:2joTKOve0
「…くッ!」

 足許に着弾しバランスを崩した紬は、再び後方へ飛び退く。

「…待たせたわね」

「和ちゃん!?」

「ふう…こんなザル法じゃ、時間稼ぎにもならないわ」 

「どうしたんだその格好?」

「これが世界の警察の姿なのか…」

 生徒会長真鍋和は、文化祭時の制帽を被っていた。

「詳細は追い追い説明するわ。みんなはこれで身を護って。校長室から拝借してきたから。

 成金趣味の黄色い猿の目をくらますには、絵画が一番お手頃よ」

 和は、ゴッホの『ガシュ博士の肖像』と、

 ルノアールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を差し出し、

 自らは『ひまわり』を手に取った。

「…ここからは、私の出番。ジャップの好き勝手にはさせないわ」

「全然意味わかんねーけど、どうやらここは和に任せたほうがよさそうだな…」

35: 2010/07/31(土) 16:50:10.14 ID:2joTKOve0
「ね、ねえ、和ちゃん、なんでムギちゃんはあんなふうになっちゃったの?」

 唯の声はかすかに震えていた。


「……紬の言葉を思い出して。

  “貧乏人は麦を食え”

  “中小企業の五人や十人自頃してもやむを得ない”

  “私はウソは申しません”

 これは、誰の残した言葉って先生方は授業で言ってた?」

「池田勇人首相…。やはりそうだったのか…」

 そう言って、澪は唇を噛みしめる。


「澪は気付いていたのね」

「すまない。まさか、こんなダジャレっぽいことを口にするのは憚られて…」

36: 2010/07/31(土) 16:52:02.03 ID:2joTKOve0
「誰も澪を責めることはできないわ。私も、正直半信半疑だったから…。

 いま、琴吹紬という存在は、池田勇人の名を借りた経済大国日本そのもの。

 毎年、戦後史の履修時期にこういう症状が現れる生徒が出るんだけど、

 前例がないほど強力な自己暗示に陥るのは、琴吹紬だったからこそよ。

 “貧乏人は麦を食え”という一節のあだ名との共鳴、琴吹家の類い希なる経済力、

 それらの条件が、この状態を生み出したのよ」

 和は自責の念を込めて唇を噛みしめると、紬に鋭い視線を投げかけた。



「池田って誰?くりぃむしちゅー池田?」

「唯!そっちのネタはやめとけ!いかん危ない危ない…」

「だから昔の日本の首相ですって!なんで私が知ってて唯先輩は知らないんですか!」

「だって授業はずっと寝てたんだよ~」

37: 2010/07/31(土) 16:53:53.38 ID:2joTKOve0
「…あなたの相手は私のはずよ。

 私、デトロイトをゴーストタウンにするのが夢だったの」


 和は、紬の前に歩み出る。間合いは一間といったところか。

 紬と和は、挨拶を交わす。

「…こんにちは」

「…こんにちは」

「西のくにから!」

「東のくにから!」

 ここで、紬と和は、互いの実力を認識し合ったかのように、僅かな笑みを浮かべる。


「あずにゃん、これ大阪万博のテーマソングの歌詞だよね?」

「受験生なんですからそれよりちゃんと日本史とか覚えましょうよ」

「そんなことよりトイレ行きたい」

「緊張感全然ありませんね…」

38: 2010/07/31(土) 16:55:31.22 ID:2joTKOve0
 一方、紬と和の間には、一層張り詰めた空気が漂う。


「イ工口ーモンキーが生意気よ。軍事力の差だけじゃ懲りなかったのかしら。

 バタ臭い格好しちゃって…金髪でアングロサクソンの仲間入りでも気取ったつもり?」

「あら、油断してると“エコノミックアニマル”の本領発揮しちゃうわよ?

 だてに“トランジスタのセールスマン”と言われてたわけじゃないわ」

「……これは誰が飼い主か思い知らせる必要があるわね!」

「せいぜい飼い犬に喉笛咬み千切られないことね。日米経済戦争の幕開けよ!」


 しかし、両者とも微動だにせぬまま、暫時過ぎた。

「…なあ澪、二人とも何で動かないんだ?」

「このハイレベルな戦いがわからないのか!?

 表面上動いていないように見えるだけだぞ。

 見えないところで当局の介入が熾烈を極めているんだ。まだ固定相場制だからな」

「ますますわからん…」

39: 2010/07/31(土) 16:56:46.50 ID:2joTKOve0
「“ニクソン・ショック”!」

 和が動いた。一瞬、再び両者の動きは止まったかに見えたが、

 以後目まぐるしく形勢を変える。

「同盟国を踏み台にするなんて、相変わらずえげつないわね」

「何とでも言いなさい。あなたの輸出力を削ぐには円高が基本だわ…ッ!?」

「隙あり…うっ!」


トイレに行った唯が泣きそうな顔で戻ってくる。


「あずにゃん大変だよ!トイレに行ったら紙がなかったよ!」

「紙がないって、ま、まさか、これは オ イ ル シ ョ ッ ク !?」

「いくら私でもオイルショックのヤバさくらいはわかるぞ。二人ともどうなるんだ?」

「これはムギも和も相当なダメージを受けて…!?」

40: 2010/07/31(土) 16:58:48.63 ID:2joTKOve0
 その場に居並ぶ全員が驚愕した。

「ぬぅぅぅぅぅ…………ぁぁぁああああっっっっっっ!!」

 紬が、着ていたブレザーの左袖に右手を掛け、力を込める。

 そのままシャツごと袖を引きちぎり、破り捨てる。

 右袖も同様に引きちぎられ、紬の白く肌理の細かい腕が露わになる。

 途端に、紬のチカラが増していくのが、誰の目にも明らかに感じられた。

「 奥 義 ! 省 エ ネ ル ッ ク ! 」 


「ダセェ!でもすげぇ!でもやっぱりダセェ!つまりすげぇダセェ!」

「せめて普通に省エネしろよ…なんで省エネルックなんだ…」

42: 2010/07/31(土) 17:00:08.14 ID:2joTKOve0
 和は焦燥の色を隠せず、唯に声を掛ける。

「くっ、ここまで立ち直りが速いとは誤算だったわ…唯ッ!」

「ほえ?」

「カリフォルニア米と牛肉とオレンジを持ってきて!」

「なんで!?」

「紬の弱点は農業よ!さらなる外圧を加えるためにも必要なの!」


 唯は走った。中学校で『走れメロス』を読んで、少し感動した。

 親友であるセリヌンティウスの窮状を救うため、必氏に走るメロス。

 似たようなシチュエーションにちょっと憧れたりもした。

 今がそのときなのだろうか。ひょっとするとそうかもしれない。

 幼馴染みである真鍋和の窮状を救うため、必氏に走る平沢唯。

 でも『走れメロス』とは絶対に違うと思う。

 メロスは、ブレザーのポケットに潰れかけたオレンジを入れていないし、

 苦労して探し出した輸入米の5キロ袋を小脇に抱えていないし、

 口に牛肉をくわえて走ったりはしていないはずだから。

43: 2010/07/31(土) 17:01:38.84 ID:2joTKOve0
 唯が部室に戻ると、和は紬に圧されている場面だった。

 壁際に追いつめられた和が「クッ、クライスラーぁぁ!」と叫んでいる。

 ──まずい!

「よさ…こい!」

 唯は、米袋を紬に思い切り投げつける。

 くわえていた牛肉が床に落ちたが気にしている場合ではない。

 紬は、米袋が視界に入ったのを認識すると、右手をかざして叫んだ。
 


 「食糧管理砲!!!」

45: 2010/07/31(土) 17:03:12.34 ID:2joTKOve0

 米袋は空中で破裂し、カリフォルニア米が室内にぶちまけられた。

 和はかろうじて紬の手から逃れるが、動揺を隠せない。


「うそ…ミニマム・アクセスすら拒むというの…?」

「法的義務はないし、そもそももっと後の時代の話だわ」


 和は迷った。どうする?このまま紬がハラキリするか過労氏するまで戦い続けるか?

 いや、それまで自分がしのぎきれるか分からない。

 そもそも、それでは紬を救うことはできない。

 …そして、意を決したように背後にいる軽音部の面々に呼びかける。


「みんな、力を貸して!今から言うことを復唱して!5人でチカラを合わせましょう!」

「うん!」

「おう!」

「わかった!」

「わかりました!」

46: 2010/07/31(土) 17:05:00.06 ID:2joTKOve0
和は深く息を吸い、丹田に力を込めて叫ぶ。それに4人も唱和する。


「…円高!ドル安!」

「「「「…円高!ドル安!」」」」

「 G 5 ! プ ラ ザ 合 意 ッ ! 」


 しかし、和が“プラザ合意”を発動すると、

 紬からほとばしるチカラはひときわ強くなる。


「…私の通貨を強めてどうするの?円のチカラを見せてあげる!」

(くッ!ここを凌ぎきれば!)

 その一撃で、和の持っていた『ひまわり』が叩き落とされる。

 額装が脱落し、絵が無惨にも床に転がる。


「和ちゃん!」

「ふふッ!ハハハッ!“ジャパン・アズ・ナンバーワン!”……ッ!?」

47: 2010/07/31(土) 17:08:38.73 ID:2joTKOve0

 紬が勝利の三本締めを決めたその刹那、その動きが止まる。

 紬の髪、肌、目、至る所から、金色の光が漏れ出す。


「おい!一体どうしたんだ!?」

「バブルだ。バブルの崩壊が始まったんだ」

「どういうことですか!?」

「……行き場を失ったカネのチカラが紬の体内で急激に膨張し、

 それが一気に瓦解しようとしているのよ!」


 紬の全身は、その体から漏れ出す金色の光に包まれていく。

「む、む、むぎゅぅぅぅぅぅぅうううううっっっっっ!!!!!」

「!! みんな、伏せてッッッ!!」



 和の叫びとともに、一同は絵画の陰に身を隠した。

 右の耳から左の耳へと、衝撃波が突き抜ける───────

49: 2010/07/31(土) 17:14:44.68 ID:2joTKOve0

「…お目覚めですか、お嬢様」


 重い目蓋をこじ開けると、見慣れた執事の顔があった。

 部室の長椅子に仰向けに横たえられているらしい。

 そして、周囲には心配そうに覗き込む、いつもの面々。

 そして生徒会長、真鍋和の顔。

 慌てて体を起こそうとすると、紬の全身に鈍い痛みが走る。

 痛みを堪えつつ、状況を把握すべく誰にともなく問いを発する。


「うっ…一体何が…?」

「今日の午後の授業が触媒になってしまったようね」

「既に後始末には手を回しております。ご心配なく」

50: 2010/07/31(土) 17:15:49.62 ID:2joTKOve0

 和と執事の言葉で、紬は全てを了解した。

 部室の荒れ果て具合、そして両袖の千切れた制服を着ている自身を見れば、容易に察しが付く。

 紬は“低姿勢”で己の狼藉を詫びた。


「そう……私を止めてくれたのね。ありがとう。そしてごめんなさい。

 琴吹家の人間として暴走に十分留意するようお父様から言われていたのに…」

「いいのよ。これも生徒会の仕事だから。……高度経済成長は終わったわ。

  そもそも、池田勇人は“貧乏人は麦を食え”なんて言ってないんだけどね。

  野党とマスコミが曲解して捏造しただけよ」

51: 2010/07/31(土) 17:17:17.52 ID:2joTKOve0
 割れた窓から部屋の外を見遣ると、

 今まさに夕陽の最後の残照が地平線に吸い込まれようとしているところだった。

 窓枠を掠める松風の音が寂しく響く。


「『三丁目の夕日』はとっくに沈んでいたのね……。

  滑稽だわ。“組織は人なり”の日本型経営なんて言いながら、

  結局は金の力に溺れて自壊してしまった」


 夜の帳が下りつつある部室だが、照明設備は全て破壊されている。

 斎藤の持つランタンの灯だけが揺らめく。

52: 2010/07/31(土) 17:20:04.32 ID:2joTKOve0

「慢性的な労働力不足で雇用流動性が低かっただけのこと。

 全て一過性の夢だったのよ。新卒一括採用も、終身雇用も、年功序列も。

 ……“日本型雇用慣行”なんて、そもそも存在しなかったの。

 今や時代錯誤の陋習にして因循姑息の悪弊。高度成長の徒花よ」


 和はそのように吐き捨てたが、その横顔はどこか寂しげであった。

 紬はそれへの返答とも独り言ともつかぬ口調で呟く。


「何だか物悲しいわ。がむしゃらに追いつき追い越すこともなく、

 進むべき道も分からないまま追い越される側になるなんて。

 でも、経済成長の行き着く先とは、そういうものかも知れないわね」

53: 2010/07/31(土) 17:21:13.22 ID:2joTKOve0

「フフ…」

「何がおかしいのかしら?」


 意図の読めない和の微笑に対して、紬は当然の疑問を投げかける。


「“もはや戦後ではない”って、紬は言ったわね。

 でも、その言葉は、当時は決して夢や希望に彩られたものではなかったの。

 調べれば分かるけど、先人たちも、不安と焦燥の中でもがいていたのよ」

「私も少し聞いたことがあるわ。

 戦後復興が一段落して、今後の成長のあり方を探しあぐねていたのね」

54: 2010/07/31(土) 17:24:18.42 ID:2joTKOve0

「…それでも、モノはなくとも夢があった、カネはなくとも希望があった、

 今や誰もがそう信じてやまない、幻想のような時代だったのよ。

 でも、それが幻想だったからといって、全てを忘れる必要はないわ」


 和もまた、誰に聞かせるともなく呟く。それに、紬も応える。


「それはどういうことかしら?」

「“寛容と忍耐”は、いつまでも心に秘めておきたいものね。

 経済大国日本の再興を願って………」

「そうね……夕陽がまた昇ることを願って……」


 二人はゆっくりと言葉を紡ぎ終えると、静かに、しかし固く抱擁を交わした。

 その影は、ほの暗いランタンの灯の中で音もなく揺らめいていた。

56: 2010/07/31(土) 17:25:46.20 ID:2joTKOve0

 一方、話題と雰囲気について行けない4人は、薄汚れた制服のまま突っ立っていた。


「紬和とは珍しいぜー」(棒読み)

「日米の絆は安泰だー」(棒読み)

「イイハナシダネーアズニャン」(棒読み)

「そろそろ帰りたいんですけど…」

58: 2010/07/31(土) 17:27:32.55 ID:2joTKOve0

 ──無粋にも和の携帯電話が鳴る。

 (こんな時に…)

 だがその相手方が校長とあってはさすがの生徒会長も無視するわけにはいかない。

 出張から帰ってきて絵画が消えているのに気付いたのであろう。

 苛立ちを抑えてつとめて冷静な声で応える。

『もしもし。はい、大変申し訳ありません。無断でレプリカを──ええ…え──』

59: 2010/07/31(土) 17:28:52.95 ID:2joTKOve0

「………すみません、斎藤さまとおっしゃいましたか、ちょっとこちらへ」

 斎藤は悟られぬように眉をわずかにしかめた。

 校長との電話を終えた後の生徒会長の血色がすこぶる悪いのは、

 戦いの疲れのせいでも、宵闇が色彩を塗りつぶしているせいでもない。

 何より、すぐそばに紬本人がいるのに、執事に声を掛ける理由がない。


「なにやらお困りのようですな。ですがご心配は無用です。

 校舎の損壊も、備品の毀損も、琴吹家にて責任を持って原状回復させていただくよう、

 ご主人様からも仰せつかっております」

「お心遣い痛み入ります。ですが、どうしても確認しておきたくて」

60: 2010/07/31(土) 17:32:22.45 ID:2joTKOve0

「如何なることでございましょう?」

「そこにある絵画なんですが…これも原状回復していただけるのでしょうか?」
 

 斎藤は、眼前にたたずむ生徒会長が校長との電話中に、

 ボロボロになった絵画に一瞬視線を向けたのを思い出す。


「ゴッホの『ひまわり』、同じく『ガシュ博士の肖像』と、

 ルノアールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』とお見受けしましたが」

「さすがは琴吹家の執事様、話が早くて助かります。

 非常に申し上げにくいんですが、レプリカじゃなくて全部本物らしいんです…」

「────。

 琴吹家の全力を挙げて、修復作業に掛からせて頂きます…」


                          おわり

62: 2010/07/31(土) 17:34:07.10 ID:2joTKOve0
考えてみたらG5に日本入ってるんだから和+4人だと紬があぶれるな
それじゃ股ね。

29: 2010/07/31(土) 16:38:18.91 ID:2joTKOve0
スレタイ書いたら収まり付かなくなり戦後経済を概観することにした

63: 2010/07/31(土) 17:40:46.43 ID:/egCpMqd0

8: 2010/07/31(土) 14:48:31.90 ID:2joTKOve0
スレタイ思いついただけだ
スレタイ知らん場合は「池田勇人」でググると吉

引用元: 紬「貧乏人はムギを食え」