1: ◆uOSHePfhFc 2012/03/30(金) 19:57:38.42 ID:S2fDDXur0
いつもの放課後。一人目的もなく旧校舎をぶらついていると、どこからかヴァイオリンの音色が聞こえてきた。

朋也(ヴァイオリンの音色……?珍しいな……)

特に目的もないためそのヴァイオリンの音色を追った。
着いた先は、旧校舎の空き教室の一部屋。俺はその教室のドアを開け、中に入った。
中に居たのは、女生徒が二人。一人はヴァイオリンを演奏していて、もう一人はその側の椅子に座っていた。
胸の校章を見て、2年生だということがわかる。二人とも集中しているようで、俺が入ってきたことに気がつかない。
とりあえずは、その演奏を聴いていることにした。

朋也(上手だな…。)

聴こえてくる演奏は、素人の俺が聴いていても上手なものだと思えた。
しかし、時折演奏に違和感を覚える。何に対しての違和感なのかはわからないけど。
やがて演奏が終わると、ひとりで聴いていたもうひとりの女生徒が拍手していた。
パチパチ。
それにつられたわけではないが、俺も拍手をする。その拍手に気づいたのか、二人がようやくこちらを向いた。



2: 2012/03/30(金) 20:00:30.48 ID:S2fDDXur0
女生徒「………………」

少し驚いたような目で、俺のことを見ていた。

朋也「悪いな、邪魔して。ヴァイオリンの音色が聞こえてくるなんて珍しいと思って、つい、な」

言いながら、近くまで歩み寄る。

朋也「いい演奏だったよ。なんか、こう……心に印象に残る、ていうかさ」

うまく言葉では言い表せないが、そう褒める。

女生徒「あ、ありがとうございます。さっきのような演奏で、褒めてくれるなんて。お世辞でも、うれしいです」

謙遜しているのか、ヴァイオリンを携えている女生徒がそう答えた。

朋也「いや、お世辞とかじゃなく、ほんとにうまいと思ったんだ。ここは、演奏部の部室なのか?」

演劇部の部室と似たような感じでダンボールなどが片付けてあったので、そう思った。

3: 2012/03/30(金) 20:02:01.46 ID:S2fDDXur0
女生徒「いえ、演奏部ではないです」

ここで、もうひとりの女生徒が口を開いた。
……少し、表情を曇らせながら。

朋也「じゃあ、こんなところでなにをしてるんだ?ただ、部活でもないのにヴァイオリンを演奏しているだけか?」

もったいないと思った。この女生徒の演奏なら、十分に人を感動させられると、そう思ったから。

女生徒「あ……すみません。何かの活動の邪魔をしてしまったんでしょうか?」
朋也「いや、別にそんな意味で言ったわけじゃないんだけど……」

やたらと演奏のことを気にしている。そこまで謙遜することはないと思うんだけど……。

朋也「俺、岡崎朋也。あんたの演奏、気に入ったから、今日しか演奏しないのかな、と思ってさ」
女生徒「そうですか。毎日、というわけではないですけれど、ここには毎日います。
    岡崎さんが来てくれたら、いつでも演奏してあげますよ。私なんかの演奏でよければ、ですけど」

そういって、ヴァイオリンを掲げてみせる。やはり、謙遜しているようだ。

4: 2012/03/30(金) 20:03:00.68 ID:S2fDDXur0
朋也「そうか。じゃ、また聴きたくなったらここに来るな」

そういって、立ち去ろうとする。

女生徒「あ、待ってください」

ヴァイオリンを演奏していた女生徒が、呼び止める。

女生徒「私は、2年C組の仁科りえっていいます。こちらは、私の友達の杉坂望さんです」

そういって、二人が会釈をしてくる。

朋也「ああ。じゃあ、また演奏聴きにくるな、仁科、杉坂」

軽く手を上げて挨拶をして、その空き教室をあとにした。
これが、俺と仁科の出会いだった。

5: 2012/03/30(金) 20:05:13.31 ID:S2fDDXur0
CLANNAD IF
~仁科編~

6: 2012/03/30(金) 20:06:32.93 ID:S2fDDXur0
また、ある日。
早くに目が覚めてしまった俺は、わざわざ遅刻することもないだろうと思い、しばらくぶりにまともな時間に学校へと行くことにした。

………………。

風景が違う。同校の生徒がわんさと歩いている。

朋也(ま、これが普通なんだけどさ……)

挨拶が繰り返される中、じっと立ち尽くしていたが……ひとりも俺に声をかけるやつはいなかった。そう思っていたら……。

声「あの……岡崎さん……?」

声をかけてくるやつがいた。そちらを振り向く。

朋也「……仁科……?」

そこには、意外な人物が立っていた。
以前、旧校舎の空き教室でヴァイオリンを弾いていたやつだった。
隣には、杉坂もいた。

7: 2012/03/30(金) 20:08:11.23 ID:S2fDDXur0
仁科「おはようございます。岡崎さん」
朋也「お、おう。おはよう……」

下級生に話しかけられるのは慣れていないので、少し返答に戸惑う。

仁科「学校、行かないのですか?」
朋也「いや、いつもこの坂で会って一緒に行ってるやつがいるからさ……。そいつを待ってたんだ」

古河のことである。

杉坂「だってさ、りえちゃん。行こう」
仁科「あ、うん。じゃあ、岡崎さん……また、今度」

そういって、仁科と杉坂は坂を上っていった。

8: 2012/03/30(金) 20:10:13.62 ID:S2fDDXur0
その日の放課後。ふと気が向いた俺は、この前の空き教室に足を向けていた。

朋也(仁科のヴァイオリンの演奏、また聴きに行くか…………)

なぜそういう思考が思い浮かんだのか、自分自身不思議だった。今まで、誰かと積極的に関わろうとしなかったのに。
空き教室の近くまで行っても、ヴァイオリンの音色は聴こえてこなかった。今日はいないのだろうか……。そう思いながら、そのドアを開ける。
中には、昨日と同じように仁科と杉坂がいた。ただ違うのは、ヴァイオリンは手には持っておらず、机の上に置いてあるだけだった。

朋也「よぅ」
仁科「あ、岡崎さん。また、私の演奏を聴きに来てくれたんですか?」
朋也「ああ。迷惑じゃなければ、また聴きたいんだけど。いいか?」

俺がそういうと、仁科は笑って承諾してくれた。

仁科「もちろんです」

嬉しそうな顔をしながら、ヴァイオリンを手に持つ。

杉坂「りえちゃん……大丈夫?」

杉坂は俺のほうをチラッと見た後、心配気味に仁科にそう聞いた。

9: 2012/03/30(金) 20:12:07.03 ID:S2fDDXur0
朋也(……?どういう意味だ……?)

俺にはその質問の意味がよくわからなかった。

仁科「大丈夫、杉坂さん。それに……さっき言ったでしょ?」
杉坂「あ……ごめん……」

話の流れがよくわからないが、とりあえずは演奏してくれるようだ。演奏がはじまる。

朋也(なんでだろうな……仁科の演奏を聴いてると、心が落ち着くんだよな……。こう……共感できる……って感じの……)

それは、うまく言葉では言い表せないが、初めての感覚だった。なぜ心が落ち着くのかはわからない。
そして、やはり演奏のどこかに違和感を覚える。それに、どことなく切ないような気持ちにもなってくる……。演奏自体は落ち着いた雰囲気の曲なのに。

朋也(俺って、評論家になれるかもな……)

そんな馬鹿なことを考えながらも、仁科の演奏に耳を傾けた。

10: 2012/03/30(金) 20:14:21.88 ID:S2fDDXur0
演奏が終わる。それまで椅子に座って聴いていた俺は、やはり拍手を送る。
仁科の近くに座っていた杉坂も、拍手をしていた。しかし杉坂は、どことなく元気がなかった。

朋也「良かったよ、演奏。やっぱり、俺、仁科の演奏気に入ったみたいだな」
仁科「あ…ありがとうございます」

そう言いながら、手をかるくぶらぶらさせた。

朋也「あ、悪い……手、疲れたか?」

そんなに長い演奏ではなかったはずだが……。

仁科「あ……ごめんなさい。ちょっと……疲れたのかもしれませんね」

何か隠し事をするかのように、表情を曇らせながら言った。

朋也「ごめんな。調子が悪いときは、演奏断ってくれてもかまわないからな」

杉坂のほうをちらりと見る。軽くうつむきながら、俺と仁科の話を聴いていた。

朋也「杉坂も、悪かったな。仁科とふたりで話してるほうが楽しいだろ?俺みたいな無粋なやつがいるよりは、な」

杉坂が元気がないのは、それが理由だと思った。だから、そう言った。

11: 2012/03/30(金) 20:16:04.92 ID:S2fDDXur0
演奏が終わる。それまで椅子に座って聴いていた俺は、やはり拍手を送る。
仁科の近くに座っていた杉坂も、拍手をしていた。しかし杉坂は、どことなく元気がなかった。

朋也「良かったよ、演奏。やっぱり、俺、仁科の演奏気に入ったみたいだな」
仁科「あ…ありがとうございます」

そう言いながら、手をかるくぶらぶらさせた。

朋也「あ、悪い……手、疲れたか?」

そんなに長い演奏ではなかったはずだが……。

仁科「あ……ごめんなさい。ちょっと……疲れたのかもしれませんね」

何か隠し事をするかのように、表情を曇らせながら言った。

朋也「ごめんな。調子が悪いときは、演奏断ってくれてもかまわないからな」

杉坂のほうをちらりと見る。軽くうつむきながら、俺と仁科の話を聴いていた。

朋也「杉坂も、悪かったな。仁科とふたりで話してるほうが楽しいだろ?俺みたいな無粋なやつがいるよりは、な」

杉坂が元気がないのは、それが理由だと思った。だから、そう言った。

12: 2012/03/30(金) 20:19:05.24 ID:S2fDDXur0
杉坂「……いえ。そういうわけではないんですが……。ただ……。……いえ、なんでもありません」

なにやら濁したような気がしたが、あまり深く追求しないようにしよう。

朋也「じゃあ、またな」
仁科「はい」

すっきりしない気持ちのまま、その部屋を後にする。

朋也(仁科と杉坂のやつ、隠し事でもあるのかな……。俺には、話せないこと……?まぁ最近知り合ったばかりだし、そんなに不思議に思うことでもないか……)

それでも、少し寂しかった。なぜ俺は、仁科のことをここまで気にしているんだろう……?

朋也(わかんねぇ……)

深く考えてもわからないから、考えないことにした。

13: 2012/03/30(金) 20:21:59.61 ID:S2fDDXur0
次の日の放課後。今日も演奏を聴かせてもらおうと思い、旧校舎に足を向けていた。
と、その途中。見知った顔があった。

朋也「杉坂……」

そこに立っていたのは、仁科と一緒に空き教室にいるやつだった。

朋也「なにやってんだ、こんなところで」

言って、近づく。

杉坂「岡崎さんに話があって、待っていました。旧校舎に行くには、この道を通るしかないから」

そういう杉坂は、少し……いや、かなり真面目な雰囲気だった。

朋也「……穏やかじゃないな。なんだよ?」
杉坂「りえちゃん……いえ、仁科さんのことでです」

思ったとおりの名前が出てきた。おそらく、秘密にしていることに関してだろう。

14: 2012/03/30(金) 20:24:38.19 ID:S2fDDXur0
朋也「仁科がどうかしたか?」
杉坂「仁科さんに、あまりヴァイオリンを演奏させないであげてほしいんです」
朋也「どうして」

本人がいないから、突っ込んで話を聞く。

杉坂「仁科さんは……自分のヴァイオリンの演奏のことを気にしているから……」

当たり障りのないように話しているような気がする。

朋也「でも、俺がいったらいつでも演奏してくれるって言ってただろ?」
杉坂「それは、仁科さんも無理をしてるんです。わざわざ自分の演奏を聴きに来てくれているのに、断ることはできないから。
   りえちゃんには、岡崎さんには何も言わないでって言われてるけど、無理して演奏しているりえちゃんを見るのは……友達として辛いから……」

いつの間にか、仁科の呼び方が『仁科さん』から『りえちゃん』に変わっていた。それだけ一生懸命話しているのだろう。

15: 2012/03/30(金) 20:27:31.77 ID:S2fDDXur0
杉坂「おねがいします。聴きに来ないでとまでは言いませんから、せめてりえちゃんが自分で演奏しているときだけ聴きに来てください。
   岡崎さんが来ると、りえちゃん、また無理して演奏しちゃうだろうから……」
朋也「……わかったよ。ヴァイオリンの音色が聴こえてきたら、邪魔するよ」

結局深い話は聞かず、それだけ約束した。

杉坂「ありがとうございます」
朋也「友達思いなんだな。仁科のこと、思ってるんだな」
杉坂「いえ……そんなことは……」

少し頬を赤らめながら答える。こういうことを言われるのは慣れていないんだろう。

杉坂「でも……岡崎さんが来なくなると、仁科さん、寂しがるかもしれませんね……。
   私以外の誰かに演奏を聴いてもらうなんて、なかなかなかったから……」
朋也「難しい問題だな……。まぁ、ヴァイオリンの音色が聴こえたら邪魔するから、心配するな。必ず行くから」

そう約束してやった。杉坂は、眩しいまでの笑顔で言った。

杉坂「ありがとうございますっ!」
朋也「ああ、じゃあな」

そういって、杉坂と別れた。

16: 2012/03/30(金) 20:28:56.95 ID:S2fDDXur0
杉坂の忠告を受けた俺は、放課後に旧校舎へ足を向けることもなくなっていた。そのまま、数日が過ぎた。
登校中。俺がだらだらと歩いてると、後ろから声を掛けられた。

声「あ……岡崎さん」
朋也「ん?」

その声のした方向を向く。そこには、仁科と杉坂、それともう一人見慣れない女生徒がいた。

朋也「よぉ、仁科、杉坂」
仁科「おはようございます、岡崎さん」

そう挨拶をする仁科の顔は、元気が無かった。隣の杉坂も同じだ。

朋也「どうした、なんかあったのか」

つい気になって、そう聞いてしまう。

仁科「……岡崎さん、土曜も、昨日も来てくれませんでした。ちょっと……寂しくて」
朋也「………」

17: 2012/03/30(金) 20:31:01.41 ID:S2fDDXur0
杉坂の言っていた通りだった。こいつは、誰かに自分のヴァイオリンの演奏を聴いてもらうのを、楽しみにしているのだ。
杉坂の方を見ても、顔をうつむかせたままこっちを見ようとしない。

朋也「ああ……悪いな。土曜と昨日は、ちょっと忙しかったんだ」
仁科「そうですか……。今日は、どうですか?来る時間は、ありそうですか……?」
朋也「……まだ、わかんねぇ。だけど、行けそうなら行くよ。久しぶりに仁科の演奏聴きたいし、な」

杉坂は、複雑そうな顔をしていた。それはそうだろう。仁科には無理して欲しくない反面、寂しがられるのもまた嫌なのだろうから。
そんな杉坂には気づかずに仁科は明るくなっていた。

仁科「わかりました。無理しないで、本当に来れそうだったらでいいですので」
朋也「ああ、ごめんな」

そう言って、仁科たちを見送った。

朋也(昼休み、杉坂に話を聞きに行くか……)

18: 2012/03/30(金) 20:34:37.80 ID:S2fDDXur0
そして昼休み。二年の教室の並んでいる階までやってきた。
適当に歩いてる奴を捕まえて、二年の杉坂って奴、どこにいるか知らないか、と聞いて回った。

男子生徒「ああ、杉坂なら、たぶん旧校舎の空き教室に行ったんじゃないかな」
朋也「マジかよ……」

空き教室にいってるんなら、おそらく仁科も一緒にいるだろう。仁科がいたら、杉坂から話が聞けない。
杉坂と話をするのは諦めて、古河がいるであろう演劇部室へ行こうと思った。

旧校舎への廊下を歩く。覚えのある場所に、杉坂がたたずんでいた。

朋也(あいつも、俺と話をしようと思ってたのか……?)

杉坂に近づく。

朋也「よぅ」
杉坂「待ってました、岡崎さん」

杉坂は、険しい顔をしていた。なにか考えているのだろう。

19: 2012/03/30(金) 20:36:43.08 ID:S2fDDXur0
朋也「前におまえが言ってた通り、俺のほうからは行かなかったけど、今日はどうすればいい?朝の様子だと、仁科は俺が来ると思っているに違いないぞ」
杉坂「そうなんです……。私も、困りました。仁科さん、岡崎さんが土曜から来なくなってから、ずっと気にしてるんです。今の私の演奏じゃ誰も惹きつけられない、という感じで……」

杉坂は悲しそう顔をしていて、今にも泣き出しそうだった。

朋也「………………」

俺はなにも言えず、ただ黙っていた。杉坂の言わんとしていることはわかっているつもりだが、話を聞いた仁科の気持ちもわかる。
杉坂も同じなのだろう。だから、困っている。

杉坂「岡崎さん……どうすれば、仁科さんを悲しませずにいらせられるんでしょうか?」
朋也「そうだな……」

どちらかを選ばないと、駄目なのだろう。しかし、どちらも仁科を悲しませる結果につながってしまう。

20: 2012/03/30(金) 20:39:25.11 ID:S2fDDXur0
朋也「とりあえずは、あいつの思うようにやらせてやったほうがいいんじゃないのか?」

仁科の事を考えると、裏で杉坂とこういう風に話をしているのを知ったら、それはそれで悲しむだろう。
自分の都合のせいで、友達を困らせているのだから。

朋也「あいつもヴァイオリンを弾くのがいよいよ辛くなったら、俺が演奏を頼んでも断るだろうからさ……」

得策が思いつかない今は、それしかないと思った。

杉坂「……そうですか……。仁科さんも、岡崎さんが来るのを楽しみにしてるから、それが一番いいのかもしれませんね……」
朋也「あとさ」
杉坂「……なんですか?」
朋也「その『仁科さん』っていうのはやめたほうがいいんじゃないのか?本人には『りえちゃん』って呼んでるんだろ?
   俺も別に気にしないからさ、人前でも『りえちゃん』って呼んでやれよ。そのほうがお互い気にせずにいられると思うぞ」
杉坂「……そうですね。すみません。ありがとうございます」
朋也「ああ。俺も、放課後行けそうなら行くからな」
杉坂「はい」

それだけ言葉を交わし、杉坂と別れた。

21: 2012/03/30(金) 20:41:36.98 ID:S2fDDXur0
その日。仁科達とは別件で、少々やっかいな問題が起こっていた。
古河渚。ふとしたきっかけで、俺は彼女の演劇部設立の手伝いをしていた。
部を設立する為には、いくつかの条件を満たさなければならない。
少なくとも三人以上のメンバー。部の顧問。そして、部室の用意だ。
部室の用意と、三人以上のメンバーは確保出来ていた。当人である古河に、俺の知り合いの藤林姉妹。
彼女らが、新しい部員が入ってくるまでの間名前を貸してくれることになっていた。
だが、顧問が見つからなかった。
部の顧問を担当していない先生は後、幸村のじいさんだけだ。
古河がその幸村のじいさんに顧問を頼みこむと、じいさんは意外な人物の名を上げた。

幸村「ふむ……。二年生のね、仁科さんって子とね……話をしてくれないですかな」
朋也「仁科?そいつが、なんかあるのか?」
古河「わかりました。行ってみましょう」
朋也「よし、行くか」
古河「ありがとうございます、幸村先生。また、お伺いします」

そういって、老教師と分かれた。

22: 2012/03/30(金) 20:43:26.14 ID:S2fDDXur0
二年の教室へと向かう途中で、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。

朋也「あ……もうそんな時間だったか」
古河「気づかなかったです」

夢中になっていたのだろう。

朋也「後は放課後だな……」
古河「はい。それじゃ岡崎さん、また放課後に」

そう言って、古河は自分の教室へ向かって行った。

24: 2012/03/30(金) 20:45:18.53 ID:S2fDDXur0
午後からの授業は、寝て過ごす。
そしてHRが終わり、放課後に。

古河「行きましょう」
朋也「いや、待て。放課後なら、教室に行くよりかは、確実に仁科の居る場所がわかる」
古河「え、本当ですか?」
朋也「ああ、たぶん、だけどな」

そういって、古河と春原を連れて行く。

着いた先は、旧校舎の空き教室。俺は、がらがらとその扉を開けた。

25: 2012/03/30(金) 20:47:44.61 ID:S2fDDXur0
中には、相変わらず仁科と杉坂、それにこの前一緒にいた女生徒もいた。

朋也「よぅ」

挨拶をして、中に入る。すると、杉坂が訝しげな目で俺達のことを見てきた。それとは反対に、仁科は顔を綻ばせた。

仁科「岡崎さん。また、私の演奏を聴きに来たんですか?」
朋也「悪いな、今日は演奏を聴きに来たわけじゃないんだ。ほら、古河」

古河を、3人の前に押し出す。

朋也「この話は、お前ひとりでしたほうがいいだろ。俺と春原は、教室の外にいるからな」

仁科は、少し状況がつかめていないのか、不安げな目で俺や杉坂、女生徒の顔を見回していた。

朋也「仁科、こいつの話を聞いてやってくれ」
仁科「は、はい……わかりました」

そして、俺と春原は教室の外に出た。

26: 2012/03/30(金) 20:49:48.03 ID:S2fDDXur0
春原「おまえ、あいつらと知り合いなの?」

教室を出ると、春原が聞いてきた。

朋也「ああ、ちょっとな」

春原の問いに答えながらも、古河と仁科の様子を見ていた。笑みを作りながら、手を大きく動かして、必氏に訴えていた。
しばらくすると、今度は聞き手になった。仁科の話を何度も頷きながら、聞いていた。隣に居る杉坂が何度か口を挟もうとしているが、ためらっているのがわかる。

日が落ちかけても、話は終わりそうな気配を見せてはいなかった。

春原「もう、入って聞いてみたら?」
朋也「……だな」

俺たちは痺れを切らし、再度教室の中へ足を踏み入れる。

27: 2012/03/30(金) 20:52:08.40 ID:S2fDDXur0
朋也「話の進捗状況はどうだ?進んだか?」
古河「えっと……困っています」
朋也「どうした、話してみろ」
古河「仁科さん、合唱部を作りたいそうです」
朋也「合唱部?」

言って、仁科の方を見る。仁科も、少し困った顔をしていた。

古河「それで、私たちと同じで、顧問がいなくて……。そこで、先日、幸村先生にお願いしたんだそうです。
   ただその時は、まだ入部希望者がいなくて、仁科さんひとりだったんですけど……それでも、その日から時間をかけて、三人集めたそうです」
朋也「それが、この三人か……」

仁科と、杉坂、女生徒の顔を見渡す。

古河「仁科さん、すごく頑張りました」
朋也「そっか……。そりゃ困ったな」
古河「はい。私たちも幸村先生に顧問をお願いしたいです。でも、仁科さんもお願いしたいんです。どうしましょう?」

28: 2012/03/30(金) 20:54:31.71 ID:S2fDDXur0
朋也「……他の先生をあたってみるか?」

妥協案を出してみる。

仁科「当たってみましたけど……顧問をしていないのは、幸村先生と、後は教頭先生と校長先生ぐらいでした」
春原「取り合いだなぁ。でも、僕たち先輩だしなぁ」
朋也「やめとけ、春原」

あれだけヴァイオリンの演奏が上手な仁科が演奏部ではなく合唱部を作るというのだ。
相当深い問題でもあるのだろう。そんな仁科の邪魔は出来るならしたくない。

古河「私たち、また話し合ってから来ます。それでは、また」

古河が仁科たちに頭を下げて、俺たちを教室の外へと押し出した。

29: 2012/03/30(金) 20:55:54.02 ID:S2fDDXur0
春原「さっきも言ったけど、こっちは上級生だからね。放っておけば、向こうが引いてくれるよ」
古河「それはダメです。私たちは、一緒のはずです。同じスタート地点にいたはずです。ですから、少し年上だからって、そんなことで決めてしまってはダメです。
   しかも、こっちは私ひとりです。入部希望は……。あの子にも、嘘をついてしまいました。あの子は頑張って、必氏で三人集めたんです。
   スタートは同じでも、もう差はついてしまってるのかもしれません」
朋也「………………」

俺は、何も言えなかった。仁科のことが気にかかる。

春原「……まぁいいや。じゃ、僕はこのへんで退散するよ。お父さんお母さんにもよろしくね」
古河「え……あ、はい。今日はありがとうございました」

古河に見送られ、春原は姿を消す。

古河「岡崎さんは、帰らないんですか?もし、よければ、一緒に帰りましょう」
朋也「……悪い。古河、先に帰っててくれ。俺、ちょっと仁科のところに行ってくるよ」
古河「え……?はい、わかりました」

そうして、古河を見送った後、再び空き教室へと入る。

30: 2012/03/30(金) 20:58:51.48 ID:S2fDDXur0
朋也「よぅ。今日は悪かったな」
仁科「あ……岡崎さん。いえ……別に……」
杉坂「………………」
女生徒「………………」

中の空気は、やはり重かった。

朋也「……。結局、どうすればいいんだろうな……」
杉坂「岡崎さんは、演劇部の手伝いをしているんですか?」

不意に、杉坂にそう聞かれる。

朋也「え?あ、あぁ、まぁな。なんというか、半分成り行きだけどな」
杉坂「……そうですか……」

杉坂は特に落ち込んでいるようだった。
………………。沈黙が続く。

31: 2012/03/30(金) 21:01:08.11 ID:S2fDDXur0
朋也「……まぁ、あんまり深く考えないほうがいいのかもな。じゃ、俺、もう帰るよ」

空気の重さに耐えかねて、俺は退散を決め込んだ。

仁科「あ、岡崎さん」

そこを、仁科に呼び止められる。

朋也「ん?」
仁科「さようならです」
朋也「ああ、また明日話に来ると思うけどな。じゃあな」
仁科「はい」

見送る仁科達に少しの罪悪感を感じながら、俺は空き教室を後にした。

32: 2012/03/30(金) 21:03:50.44 ID:S2fDDXur0
翌日。いつものように学校へ続く坂道で古河と合流し、学校へと向かう。
昇降口を抜け、上履きに履き替えて古河を待つ。一向に来ないから、古河のクラスの下駄箱を覗いてみる。
古河はそこでじっと立って、手に持った紙切れに見入っていた。

朋也「…………なんだそれ」

その紙切れを、横からさっと奪い取る。

古河「お、岡崎さんっ!ダメですっ!」

古河の制止を気に留めず、紙に書かれた内容に目を通す。

『演劇部をあきらめろ。さもないと痛い目にあうぞ。』

定規で引っ張ったような直線のみの筆跡で書かれていた。

朋也「あん?なんだこれ」
古河「た、ただの冗談です、きっと」
朋也「だとしても質の悪い冗談だ。そう思わないか?」

こんなことをして得をするのは………。
……合唱部の奴らくらいだろう。それ以外に思いつかなかった。

33: 2012/03/30(金) 21:06:51.88 ID:S2fDDXur0
朋也(仁科が……?……いや、まさかな……)

とっさに出てきた顔を、すぐに否定する。

朋也「仁科はこんなことする奴じゃない」
古河「もちろんですっ」
朋也「だとしたら、仁科以外の部員の仕業だろう」

そこで、杉坂の顔が頭をよぎる。

朋也(あいつ、仁科のことを思いやりすぎてる節があるからな……。下手したら、こんなこともやりかねないぞ……)
古河「そんな……合唱部員の人がやったとは限りませんっ」
朋也「まぁ、そうだろうけどさ……」

とりあえずは、杉坂のことも黙っておいたほうがいいだろう。

朋也「まだ誰も疑ってねぇよ。だけどな、一応注意しておけよ」
古河「なにをですか?」
朋也「その……、周りにだよ。ここに痛い目にあうぞって書いてあるだろ?」
古河「あ……はい……そうですね……」

34: 2012/03/30(金) 21:08:44.94 ID:S2fDDXur0
春原「よぅ」

そこに、春原が来た。

朋也「おまえ、早いなっ」
春原「目が覚めちゃったからねぇ。ところで、こんなとこでなんの話してんだよ?」
朋也「この紙についてだ」

紙切れを春原に渡す。その直後に俺は自分の馬鹿さ加減に気づいた。こんなものを見せたら、春原の行動は決まってしまう。

春原「へぇ、脅迫状ねぇ。おもしろくなってきたじゃないの」

こいつにだけは見せてはならなかったのだ。

春原「もう、いいだろ。合唱部つぶしにかかるぜ?」
朋也「やめろっ馬鹿!」

気づいたら、それだけを叫んでいた。

35: 2012/03/30(金) 21:11:29.80 ID:S2fDDXur0
朋也「あいつらにはあいつらなりの事情があるんだろっ!それに、仁科たちがやったって決まったわけじゃないっ!」

一体、俺はなにを考えてこんなことを言っているのだろう……。

春原「果たして、そうかな……」

春原は、俺の怒鳴り声にも気圧されることなく話した。

春原「どう見ても、あいつらの仕業じゃん。他に誰が廃部になってる演劇部なんかを目の敵にするってのさ」

春原は、俺と同じ考えだった。

朋也「……それは……」

図星を突かれて、押し黙ってしまう。

春原「おまえだって、内心そう思ってるんだろ?」
古河「そうなんですか……?仁科さんたちの仕業って、そう思ってるんですか?」
春原「そんなの当然だろ?」
朋也「………………」

否定できなかった。杉坂の性格を考えると、恐らく間違いないだろう。

36: 2012/03/30(金) 21:13:07.24 ID:S2fDDXur0
古河「そんなことないですっ……絶対に違いますっ……」
春原「違うって証拠でもあるの?」
古河「それはっ……」
朋也「もういいだろっやめてやれよ!」

俺がそういうと、古河は走り去ってしまった。

春原「なにあれ?……まぁいいや。僕は僕なりに調べてみるよ」
朋也「やめとけっての」

37: 2012/03/30(金) 21:15:15.85 ID:S2fDDXur0
授業中は、春原はいなかった。

朋也(あいつ、本当に調べてんのかよ……)

あいつの情報網は得体が知れない。きっとすぐに犯人を見つけ出すだろう。

休み時間。春原は俺と古河を廊下へと呼び出した。

春原「犯人、わかったよ」
朋也(やっぱり……)

俺は少しうなだれる。そして、その次におそらく出てくるであろう名前も想像がついた。

春原「杉坂っていうやつ。昨日話してたやつと一緒にいて、口を挟もうとしてた奴だよ」
朋也「………………」

俺の予想通り。情報網も得体がしれなかった。

38: 2012/03/30(金) 21:16:40.90 ID:S2fDDXur0
春原「昨日の放課後、遅くにそいつが入れてるところを見てた奴がいたんだ。やっぱり女ってのはわからないねぇ。な、わかったろ。自分の考えが甘かったってさ」

古河は黙りこくっていた。

春原「ま、真相はこうだよ。後は、勝手にやりゃあいいさ」

そういうと、春原は廊下を歩いていった。

朋也「あいつ、悪い奴じゃないんだけどな……」
古河「……それはわかっているつもりです……。演劇部のために、春原さんなりに頑張ってくれてるんです」
朋也「ま、今回のことは楽しんでるだけかもしれないけどな……」

39: 2012/03/30(金) 21:18:18.73 ID:S2fDDXur0
教室に戻る。

朋也「おまえ、勝手に杉坂をシメようとか考えるなよ」
春原「俺だって女の子に手を上げるほど無粋じゃないさ」
朋也「なら、いいんだけどな……」
春原「でも、あの子……渚ちゃんを見てるとおもしろいよ。あまりに僕らと考え方が違っててさ」

僕ら……。そうだ。俺は春原と同じ側に立つ人間のはずだ。
なら……もしかしたら俺も春原と同じように、物珍しい何かを見つけて、それを見て楽しんでいるだけなのだろうか。
古河だけではなく、仁科も……。

40: 2012/03/30(金) 21:21:03.42 ID:S2fDDXur0
そして中庭でいつものように、古河と落ち合う。

古河「春原さんは来なかったんですね」
朋也「ああ、なんかいいもん食ってくるってさ」
古河「そうですか……」

石段に座り、お互いパンを食べ始める。

古河「………………」

パンを食べている古河を、じっと見つめる。俺にとって古河は……おそらく、物珍しいだけの存在なのだろう。
あまりにも違いすぎる、共通点の無い二人。それなのに一緒にいるのは、それくらいしか理由が思いつかなかった。
俺も春原と同じように、興味が失せたら、古河から離れていってしまうのだろう。古河を見ていると、そんな風に思えた。

放課後になると、古河は部室で説明会の練習を始めた。俺と春原は、床に座り込んでその練習風景を眺めていた。

41: 2012/03/30(金) 21:23:14.80 ID:S2fDDXur0
その帰り。玄関を抜けたところで、一人の女生徒……杉坂が立っていた。

朋也「あ……杉坂……」

思わずそういってしまった。

春原「てめぇ……」

誰よりも早く、春原が食って掛かる。

古河「待ってください、春原さん」

それを、古河が制止させる。

古河「ここは、私に任せてください。お願いします」
春原「………………。……ああ、わかったよ」

杉坂……。春原調べで、脅迫状の犯人とされていた。古河もわかっているだろう。

古河「私、三年の古河渚です。こんなところで……どうしましたか?」

杉坂は俺のほうをチラッと見て、古河に話した。

杉坂「仁科さん……いえ、りえちゃんのことを話したくて伺いました。聞いてくれますか」
古河「はい、もちろんです。是非、聞かせてください」
杉坂「このことは……あんまり人に言ってほしくないんです。それも、約束してくれますか」
古河「はい、約束します。ここだけの話にします」
朋也「心配すんな。誰も言わねぇよ」

約束した。おそらくは、仁科と合唱部のことについて、俺にも話してないことだろう。

杉坂「はじめに脅迫状を書いたことは謝ります。すみませんでした。あれは、私が勝手にやったことなんです」
朋也(やっぱり……)

こいつの仁科に対する思いやりは尋常ならざるところがある。

42: 2012/03/30(金) 21:24:34.02 ID:S2fDDXur0
杉坂「そうしないと、合唱部を作ることができなくなると思って……」
古河「いえ……」

春原の拳がぎりぎりと震えていた。

古河「話を続けてください」
杉坂「……はい。……りえちゃんは、すごく才能のある子なんです。それは音楽の才能です。
   小さい頃から、ずっとヴァイオリンを弾いていたんです。コンクールに何度も入賞して……。
   ものすごく大きな会場で、ものすごくたくさんの人たちの前でも演奏してました。
   ものすごく堂々としていて……ものすごく綺麗で……ものすごく格好良かったんです。たくさんの大人の人たちから、将来を期待されていました。
   外国のハイスクールに留学する予定でした。留学すれば、もっといい音楽の教育が受けられるからです。
   ……でも、それが決まる直前に……」

杉坂が顔を伏せる。そして、涙声になる。

杉坂「りえちゃん……事故にあって……」
朋也(………………)

聞きたくなかった。そこからは……。

杉坂「……握力が弱くなってしまったんです」

俺と……同じだった。怪我をして……夢を諦めざるを得ない状況に追い込まれて……。

43: 2012/03/30(金) 21:25:42.65 ID:S2fDDXur0
杉坂「ヴァイオリン……弾けなくなって……」
朋也「待ってくれっ!」

そこで俺は、杉坂の話を止めた。

朋也「仁科が、ヴァイオリンを弾けなくなった?嘘つくなよ……。俺が行ったら、普通に演奏してくれてたじゃないかよ……」
杉坂「……全く弾けない、というわけではないんです。ただ……ヴァイオリンを弾くたび、その握力はどんどん弱まっていって……。
   それに、不自由なく弾けてはいないんです。たまに、演奏の音程を外したり……」

そうか……。仁科の演奏を聴いていて違和感を覚えたのは……それだったのか……。

杉坂「……話を続けていいですか?」
朋也「……ああ、止めて悪かったな。続けてくれ」

44: 2012/03/30(金) 21:27:25.53 ID:S2fDDXur0
杉坂「はい……。そして、外国のハイスクールにも行けなくなって……それで、この学校に来ました。私と一緒に……。
   りえちゃんは、事故の日以来、すごく元気がなくて……私がどれだけ元気づけようとしてもダメで……私も悲しかったです。
   ただ……たまの息抜きに軽くヴァイオリンを演奏しているときだけは、りえちゃん、とても楽しそうな顔をしていました。
   どんどん握力が弱くなっていくのに……すごく楽しそうに、ヴァイオリンを弾くんです……。私も、最初はりえちゃんを止めました。
   これ以上弾いていたら、いつか本当に弾けなくなってしまう日が来るんじゃないかって……思ったから……」
朋也(そこで……偶然俺が立ち寄ってしまったってわけか……)

俺は、自分の行動を後悔していた。仁科は、本当にヴァイオリンを弾くのが楽しかったのだろう。
だから、俺が訪れたら嫌な顔ひとつせずに、演奏してくれていたのだ。いつか、弾けなくなる日が来るのを知っていながら……。
どんな気持ちで演奏していたのだろう。怖くはなかったのだろうか。

杉坂「でも、そんなある日、ものすごく素敵な出会いがありました。古文の……幸村先生です。幸村先生は、音楽の素晴らしさを、りえちゃんに教えてくれたんです。
   ヴァイオリンを弾くだけが音楽じゃない……って。そういって幸村先生は歌ってくれました。しわがれた声でも、音程があいまいでも……それでもとても、心がこもった歌でした……。
   その歌に、ヴァイオリン以外の音楽の道を見つけて……りえちゃんも歌い始めたんです。その姿は、今でもヴァイオリンを弾いているときのりえちゃんでした。
   そしてりえちゃんは、たくさんの人に、歌の素晴らしさを伝えたいと思いました。だから、この学校にない、合唱部を作ることにしたんです。
   幸村先生と一緒に。私も一緒です。演奏部は、もう作ることはできないから……」

目の端に溜まった涙を拭って……笑顔で言った。俺はまだ……自分が許せなかった。
自分の勝手な行動で、仁科を追い詰めていたことを……。

45: 2012/03/30(金) 21:29:34.64 ID:S2fDDXur0
杉坂「お願いします。りえちゃんの邪魔をしないでください」

頭を下げた。深々と。

古河「………………」

古河は……じっと固まっていた。

春原「そんな奴の言うことを聞くなっ!そんなハンデで、人の同情を誘うような奴なんて卑怯者だ!そんなハンデでっ……ひいきされたいなんて考えが甘すぎるんだよっ!そんな……ハンデでっ……」

春原が叫びながら、手に持っていたジュースのパックを地面に叩きつける。それが跳ねて、杉坂の足元を転がった。それでも杉坂は、頭を下げたままだった。身じろぎ一つしなかった。

古河「………………。……そんなの……そんなの私、断れないです。私の方こそ……許してほしいです。私は……諦めます」
朋也「………………」
古河「私が頑張れば、仁科さんが……夢を叶えられなくなります。私は……、諦めます」
杉坂「ありがとうございます」

杉坂は、礼を言ってから頭を上げた。そして……澄んだ表情で……校舎の中へと入っていった。

46: 2012/03/30(金) 21:30:26.97 ID:S2fDDXur0
春原「馬鹿野郎!」

杉坂の姿が見えなくなってからも、春原はその言葉を繰り返し、叫んでいた。

春原「くそ……」


その後俺たちは職員室に赴き、幸村と話した。春原はもう居なかった。怒り心頭のまま、どこかへ消えてしまった。俺は古河の後ろで、ただ話を聞いているだけだった。

47: 2012/03/30(金) 21:32:31.89 ID:S2fDDXur0
幸村と話し終えた後、俺たちは中庭にいた。もう、部室によることもなく……。

朋也「本当に……いいのか?」
古河「はい……。岡崎さん……」
朋也「なんだよ」
古河「とても楽しかったです。目的は達成できなかったけど……大切なものを、色々手に入れることができました。
   杏ちゃんや椋ちゃんとも……友達になれました。こんな不器用な……私でも、です」
朋也「そうか……。ま、演劇部は作れなかったけどさ……こうして友達ができたんだ。もう、坂の下で悩むようなこともないだろ」
古河「はい……。本当に、ありがとうございました」
朋也「ああ」
古河は、泣きたいのを必氏に堪えながら。自分の夢と決別していた。

48: 2012/03/30(金) 21:34:45.57 ID:S2fDDXur0
朋也「一人で、帰れるか?」

坂を下ろうとしたところで、古河に聞いた。

古河「え?岡崎さん、帰らないんですか?」
朋也「ああ……。ちょっと、合唱部のことが気になって、な……」

さっきの杉坂の話を聞いて、ただ黙って帰るのは気が引けた。なにより、仁科に謝りたかった。
古河は、少し表情を曇らせた後……

古河「わかりました。私が行ったら……仁科さんに余計な気を遣わせてしまうので、帰ります。仁科さんによろしくしておいてください」

俺に笑顔を向けて、それだけ言った。

朋也「ああ、悪いな。帰り道、泣くなよ?」
古河「はい」

そういって、古河とわかれた。

49: 2012/03/30(金) 21:35:58.15 ID:S2fDDXur0
校舎の中に戻り、合唱部の部室へと向かった。中には仁科、杉坂、そしてもう一人の合唱部員がいた。

朋也「よぅ」

さっきの今なので、なんとなく気まずいが、仁科は全く気にしない様子で、俺に話しかけてきた。

仁科「あ、岡崎さん。私の演奏を聴きに来てくれたんですか?」
朋也「いや、今日も違うんだ。杉坂、ちょっと話、いいか?」
杉坂「えっ……?」

自分が指名されるとは思っていなかったんだろう。動揺していた。

杉坂「……わかりました」

そういうと、俺のそばまで来てくれた。

朋也「悪いな、すぐ済むからさ」

仁科と合唱部員を置いて、部室の外に出る。

50: 2012/03/30(金) 21:36:51.95 ID:S2fDDXur0
杉坂「……なんですか?」

部室を出たところで、杉坂がそう聞いてきた。

朋也「おまえがさっきの話をしたことは、仁科は知っているのか?」
杉坂「いえ……私は何も話していないので、知らないと思います」
朋也「まぁ、仁科の為とはいえ、あんまり本人には話したくないことだよな……」

それでも、俺は自分の無神経さを仁科に謝りたかった。

朋也「俺から話してもいいか?どちらにしても、このまま隠し通すこともできないだろ?どうして古河が引き下がったのか、とか聞かれるかもしれないしさ」
杉坂「……そうですね。私の口からでは言いにくいので、そうしてくれると助かります」
朋也「ああ、じゃ、仁科呼んできてくれ」
杉坂「わかりました」

杉坂は、部室の中へと戻っていった。

51: 2012/03/30(金) 21:39:35.62 ID:S2fDDXur0
少しの間の後、仁科が出てきた。

仁科「どうしました?岡崎さん」

まだ何も知らないからだろうか。仁科は笑っていた。

朋也「ああ、実はな……」

俺は、事の一部始終を、包み隠さず話した。

朋也「………………。杉坂を責めるのはよしてくれな。あいつはあいつなりに、仁科のことを考えて行動していたんだから……」
仁科「……いえ、別に杉坂さんを責めるつもりはありません。ただ……その過去だけは、あまり人には広めないでほしいです……」

そう言って、自分の右腕をギュッと握り締めていた。

朋也「心配するな。そのときにいた奴らは誰も広げたりはしねぇよ」

心配する仁科に、そういってやった。

52: 2012/03/30(金) 21:41:18.17 ID:S2fDDXur0
朋也「それに……」

話を続ける。

朋也「ごめんな。おまえのこと、何にも知らずにヴァイオリンの演奏を聴きに来たりして……」

やりたくてもできない、そんな辛さを俺も春原もよくわかっている。
ただ春原は、そんなことを盾にしようとしている杉坂のやり方が気に入らなかっただけだ。

仁科「いえ……それも気にしないでください。私が好きで弾いているだけですから」

仁科は、笑って答える。しかしあの話を聞いた直後で、また仁科の演奏を聴きたいとは言えなかった。

朋也「……今日は、合唱部の歌を聴きたいな。なんか、あるか?」
仁科「もちろんです。……なんででしょうね。何か、岡崎さんとは話しやすいような気がします」
朋也「俺もだ」

そして、なぜ話しやすいのか、その理由もなんとなくわかっていた。俺と仁科は、同じ境遇に立たされていたからだろう。
怪我によって、やりたいことを失い、失意の底に落とされて……。
しかし仁科は、それでも新しい夢を見つけることが出来たのだ。俺にはまだ出来ていないことだ。

53: 2012/03/30(金) 21:44:28.21 ID:S2fDDXur0
仁科「合唱を始める前に、3人目の合唱部員を紹介します。初めて岡崎さんが訪れたときにはいなかったですから、まだ名前、知らないですよね?」
朋也「ああ、そういやそうだな……」

名の知らない女生徒の方に視線をやる。3人目の合唱部員が前に出てきて、自己紹介をする。

合唱部員「はじめまして、えっと……岡崎さん、でいいですか?」
朋也「ああ」
合唱部員「あたしは、原田叶絵といいます。仁科と望に合唱部に勧誘されて、入部を決めました。よろしくです」

頭を下げる。

朋也「ああ、こっちこそよろしくな」

返事をする。

仁科「岡崎さんは、合唱部として活動を始める私たちにとっての初めてのお客さんです。まだ練習もあまり出来ていませんが、聞いてください」

部長である仁科が、そう告げる。

朋也「ああ、心に響く歌を頼むなっ」

54: 2012/03/30(金) 21:46:34.63 ID:S2fDDXur0
合唱が始まる。こういっては何だが、あまり上手とはいえなかった。ただ、仁科、杉坂、原田の一生懸命さと、楽しんで歌っているというのは伝わってくる。

朋也(これからたくさん練習して、この歌声をたくさんの人たちに聴かせるのか……)

そう遠くない未来、この歌声はたくさんの人たちに届く。たくさん練習して、今よりも上達した形で。
しかし今、観客は俺一人だ。なんともいえない優越感が込み上げてくる。やがて、3人の合唱が終わる。

パチパチパチ。

俺一人の、物足りない拍手。だが、3人はやりきったような、そんな清々しい顔をしていた。

朋也「いい歌だったよ。これからたくさん練習して、たくさんの人たちを感動させてくれな。その日を楽しみに待ってるよ」
仁科「ありがとうございます」
杉坂「ありがとうございます」
原田「ありがとうございます」

3人が同時に言う。息はぴったりだ。

朋也「じゃ、俺はもう帰るよ。邪魔したな」

55: 2012/03/30(金) 21:47:45.29 ID:S2fDDXur0
仁科「あ、岡崎さん、ちょっと待ってください」

仁科に、呼び止められる。

仁科「私たちも、今日は終わりですから、一緒に帰りませんか?」
朋也「いいのか?合唱部の中に俺みたいな奴が入って」
仁科「はい……。その、少しお話したいこともありますし……」
朋也「……?あ、ああ、わかった。じゃ、中庭で待ってるな」
仁科「はいっ」

俺は、合唱部室を後にした。

56: 2012/03/30(金) 21:49:09.33 ID:S2fDDXur0
朋也(話したいことって、なんだろうな……?)

中庭へと向かう途中、そんなことを考えていた。

朋也(ダメだ……全く見当もつかねぇ……)

とりあえず、仁科たちを待とう……。


仁科「お待たせしました」

仁科の声。そちらを振り向く。

朋也「……あれ?一人か?」

周りには、杉坂と原田の姿はなかった。

仁科「はい。その……あのお二人には、あとでお話しようと思って……」
朋也「なんだ、言いにくい事か?」
仁科「えっと……。古河さんの、ことです」
朋也「……古河……?って、演劇部のことか?」
仁科「はい……」

仁科からその話を振ってくるとは思わなかったので、びっくりした。

57: 2012/03/30(金) 21:50:30.08 ID:S2fDDXur0
二人で坂を下りながら、話を続ける。

朋也「なにかあるのか?」
仁科「その……幸村先生に、部の顧問を兼任していただけないか、と思いまして……」
朋也「兼任っ?そんなこと出来るのか?」
仁科「今までは例がないので許可が出るかどうかはわかりませんが……。
   古河さんにこのことを言ってぬか喜びさせるのも気が引けますし、顧問が同伴していないと部の活動は出来ないので、一週間ごとに交代になってしまいますから。
   ……それに、杉坂さんも原田さんもあまりいい顔はしそうにありませんし……。問題は山積みなんです。ですから、そのことを岡崎さんに相談しようかと思いまして」

ざっと聞いただけでも、確かに問題だらけだ。しかしそれでも、古河は喜ぶだろう。

朋也「そのことは、まだ誰にも話してないんだな?」
仁科「はい。岡崎さんに話したのが初めてです」

58: 2012/03/30(金) 21:52:29.45 ID:S2fDDXur0
朋也「そうか……。そうだな。まずは、兼任が許されるのかどうかを生徒会に聞いてみるのがいいだろうな。
   でも、俺たちだけで勇み足しても幸村が無理といったら出来ないから、まずは幸村に話をしてみるか。
   それに、俺たちだけで生徒会に行ったらまた軽くあしらわれそうだから、生徒会に話をしに行くときは幸村にもついてきてもらおう。
   それで許可が下りたら、杉坂と原田に話す。あの二人なら、きっと快く承諾してくれると思うぞ」

現状では、これがベストだろう。俺はそう思った。

仁科「………………」

仁科は、じっと俺の顔を見ていた。

朋也「どうかしたか?」
仁科「岡崎さん、やさしいんですね。不良学生という話は、2年の私の耳にも入ってきますが、とてもそんな風には思えないです。
   それに、頭の回転も早いです。私が一人で考えていたら、そんな考えが出てくるまでどれだけかかるかわかりません」
朋也「そうかな……。俺は当たり前のことを言ってるだけのつもりなんだけどな……」

そんな風にストレートに褒められたことなんてなかったから、照れる。

仁科「じゃあ、明日の昼休みに幸村先生に聞いてみましょう」
朋也「ああ、そうだな」

59: 2012/03/30(金) 21:53:59.83 ID:S2fDDXur0
二人、並んで歩く。

朋也「おまえの家って、どこら辺なんだ?」

俺は俺の家までの道のりをまっすぐ歩いてるだけなのだが、仁科は俺についてきていた。

仁科「はい?いままで歩いてきた道って、私を送ってくれてるわけじゃなかったんですか?」

仁科が、そう聞いてきた。

朋也「いや、俺は自分の家に向かって歩いてるだけなんだけど……」
仁科「そうですか。じゃあ、私たちの家って、ご近所なのかもしれませんね」
朋也「全然気がつかなかった。じゃあ、ついでだから家の前まで送っていくよ。ここまで一緒ってことは、そんなに離れてないだろ?」
仁科「はい。この道の突き当たりを、左に曲がったところです」

驚いた。本当に近くじゃないか。俺の家は、突き当たりを右に曲がったところだ。

60: 2012/03/30(金) 21:56:29.10 ID:S2fDDXur0
仁科の家の前に到着する。

朋也「じゃあ、また明日な。いつもの通り、部室にいるんだろ?」
仁科「はい。その……」

仁科がなにか言いたそうに口を濁した。

朋也「どうした?」
仁科「もし、岡崎さんさえよろしければ、ですが……。明日の朝から、毎日一緒に学校へ行きませんか?」
朋也「ああ、別に構わないけど」

最初は女の子と登校するなんて考えられなかったが、今ではもうすっかり慣れてしまった。

仁科「よかった。じゃあ、明日の朝、家の前で待っています。ちゃんと寝坊しないで、来てくださいね」
朋也「ああ、わかったよ。じゃあな」

仁科の家の前から、自分の家へ向けて歩き始める。

朋也(って、ここから俺の家見えてんじゃん……)

そういや、俺のことを仁科に話すの忘れてたな……。

朋也(別に話さなくてもいいか……。親父の事情も、出来れば知られたくないし……)

61: 2012/03/30(金) 21:59:07.35 ID:S2fDDXur0


朝。カーテンの隙間から入ってくる太陽の光に起こされ、目を覚ます。

朋也(あ~……行かなきゃな……。仁科と約束してるんだ……)

相変わらず朝はだるいが、初日から約束を破るわけにはいかないだろう。
のそのそとベッドから起きあがり、着替えを始める。

仁科「おはようございます、岡崎さん」
朋也「ああ、おはよ……」

明らかに眠そうな返事をしてしまった。

仁科「……眠いんですか?」
朋也「ああ、かなりな……」

仁科と話をしながら、学校へと向かう。

70: 2012/04/02(月) 14:02:38.18 ID:H1x2My9B0
坂の途中に、見覚えのある奴がいた。

春原「よっ岡崎」

春原だった。

朋也「おまえ、何やってんだよ……」

俺は頭を抱えた。春原は、バスケットボールを持ちながら、話しかけてきた。

春原「……なんだよ、おまえ」

仁科の存在に気づき、睨みを利かせる。

朋也「悪い、仁科。ここから先は、一人で行ってくれ。また、昼にな」
仁科「は、はい」

仁科は若干春原を避けながら、校舎のほうへと歩いていった。

71: 2012/04/02(月) 14:03:57.35 ID:H1x2My9B0
朋也「で、おまえはこんなところでそんなものを持って一体俺に何の用だ?」
春原「バスケだよ。決まってるだろっ」
朋也「………」

わけがわからなかった。

春原「それより岡崎、今一緒に来た奴、合唱部の奴じゃねぇか。なんであんな奴と一緒に来たんだよ」
朋也「おまえには関係ないだろ」

春原を置いて、校舎へ向かおうとする。

春原「あっ待てよ!岡崎っ」

春原が俺の前に回りこむ。

朋也「なんだよ……」
春原「バスケだよ、バスケ」
朋也「わけがわからないんだよっ」
春原「合唱部の連中にわからせてやるんだよ。ハンデなんて関係ないってことをさ。それで、顧問を譲ってもらうんだよ」
朋也「顧問を?それなら……」

言いかけて止める。まだ、他のやつには言わないほうがいいと言ったのは誰でもない、俺だ。

72: 2012/04/02(月) 14:06:04.85 ID:H1x2My9B0
春原「それなら、なんだよ?」
朋也「いや、なんでもない」
春原「言いかけて止めるなよっ!気になるだろっ!」
朋也「それより、バスケなんかやってどうすんだよ……」
春原「バスケ部の連中と3ON3で試合をして勝てれば、ハンデなんて関係ないってことが合唱部の連中もわかるはずさ」
朋也「言っとくが、俺はやらないぞ。やるなら、おまえがひとりでやれ」
春原「一人じゃできねぇよっ!」
朋也「二人でも無理だろ」
春原「だから、後の一人は助っ人で誰かに頼めばいいさ。な、岡崎。やろうぜっ」
朋也「無理だって言ってるだろ。俺の肩のことは、おまえも知ってるだろ。シュートすら打てないやつがバスケの試合に出ても、笑いものになって終わりだ」
春原「シュートは俺と助っ人で打つよ。おまえは、司令塔」
朋也「なにを言われても俺はやらないぞ。じゃあな」

そういって、なかば春原から逃げるように校舎の中へと入る。後ろからおい、待てよ、という春原の声が聞こえたが、無視を決め込む。


授業中。ふと外を見ると、春原が気合を入れてドリブルをしてい姿が見えた。

朋也(馬鹿だな、本当に……)

どちらに転ぶにしても、春原のあの行動は無意味に終わるだろう。俺には、それがわかっていた。

朋也(放っとこう……)

ひとりで練習している春原から目線を外し、机に突っ伏する。

73: 2012/04/02(月) 14:07:35.56 ID:H1x2My9B0
昼休みになると、春原は戻ってきた。

春原「いやぁ、体を動かすと腹が減るねぇ。よし、岡崎。食堂行こうぜ」
朋也「一人で行け。俺は忙しいんだ」
春原「なんだよ、つれねぇなぁ……。また、合唱部の奴のところに行くのか?」
朋也「おまえには関係ない」
春原「ちっ、わかったよ……」

いじける春原を置いて、俺は教室を後にした。

74: 2012/04/02(月) 14:08:30.97 ID:H1x2My9B0
合唱部の部室に入る。なかにはいつものメンバーが揃っていた。

仁科「あ、岡崎さん。待っていました」
朋也「ああ、悪いな。ちょっと馬鹿の相手してたら遅くなった」
仁科「はい?」
朋也「気にするな。じゃ、行くか」
仁科「はい」
杉坂「どこかに行くの?」
朋也「ああ、ちょっとな」

杉坂と原田を部室に残し、幸村のところへ向かう。

75: 2012/04/02(月) 14:17:37.71 ID:H1x2My9B0
幸村は、職員室にいた。

朋也「あんまり、この中には入りたくないな……」

その前で立ち止まる。

仁科「岡崎さんが嫌なら、私一人で行きましょうか?」
朋也「いや、俺も行くよ。おまえひとりだったら心配だからな」

ふたりで、職員室へ入る。訝しげな視線がいくつか浴びせられるが、気にしないで幸村のところまで行く。

朋也「じいさん、ちょっと話、いいか?」
幸村「ふむ……。何かの」
仁科「実は、幸村先生に合唱部と演劇部の顧問を兼任していただけないかと思いまして……」
幸村「ほぅ……」
朋也「どうなんだ、じいさん。可能なのか、不可能なのか?」
幸村「うむ……。わしは、別に構わんがの……」
朋也「本当かっ」
幸村「ただ……。それが生徒会に認められるかどうかは、わからんの……」
仁科「それについても、幸村先生にお願いしたいんです。私たちだけで行ったら、おそらく許可がもらえないと思うんです。ですから、幸村先生にもついてきてくれたら助かります」
幸村「ほぅ……。なかなか考えたの」
仁科「これは、岡崎さんが考えたんです」
幸村「ふむ……。そうか……。よし、わしも微力ながら協力しようかの……」
朋也「サンキューな、じいさんっ。じゃあ、また放課後来るよ」
仁科「ありがとうございます、幸村先生」

76: 2012/04/02(月) 14:20:19.27 ID:H1x2My9B0
朋也「うまく行きそうじゃないか」

職員室を後にしたところで、仁科と話す。仁科は、安堵したかのような顔をしていた。

仁科「そうですね。たぶん、私ひとりだったら、こんなにスムーズには進まないと思います」
朋也「そんなことないと思うけどな……。ま、役に立てているなら、うれしいよ」
仁科「はい」
朋也「ところで……」
仁科「はい?」
朋也「仁科……もそうだけど、杉坂と原田はもう昼飯食ったのか?」

もう昼休みだ。腹の虫が鳴る頃だろう。

仁科「私は食べていませんが、杉坂さんと原田さんは私たちが幸村先生のところに行っている間に食べたと思います」
朋也「仁科は、弁当かなんか持ってきてるのか?」
仁科「いえ、今日は持って来ていないです」
朋也「なら、食堂でなんか食うか」
仁科「そうですね。私も少しお腹、空きました」

二人で食堂へと向かう。

77: 2012/04/02(月) 14:32:23.43 ID:H1x2My9B0
朋也「パンでいいか?」
仁科「はい」
朋也「なんか、リクエストあるか?」
仁科「特にはありませんが……」
朋也「じゃあ、適当に買って来るな」

購買の前は相変わらずの喧噪。仁科もそうだろうが、この中に入っていくのは、普通の生徒なら絶対に嫌だろう。

朋也「うおおおぉぉぉぉ~っ」

俺はその中に突っ込んでいった。


朋也「はぁ……はぁ……」

手にはふたつのしわしわになってしまったパン。

仁科「だ、大丈夫ですか、岡崎さんっ」
朋也「あんまり大丈夫じゃないかもな……。まぁ、いいよ。で、どこで食う?部室でいいか?」
仁科「……できれば、岡崎さんとふたりで食べたいです」
朋也「そうか……。じゃあ、中庭にでもいくか」
仁科「はい」

78: 2012/04/02(月) 14:34:24.55 ID:H1x2My9B0
中庭に行く。周りは賑やかだが、ここなら仁科もいいだろう。石垣に座り、パンとパックのジュースを渡す。

朋也「こうやって昼飯を食うのも、もう慣れたな……」
仁科「今までも誰かと一緒に食べていたんですか?」
朋也「ああ、古河とな」

俺がそういうと、仁科は少し伏せ気味になる。

仁科「そうですか……」
朋也「ああ……」

なんとなく気まずい。

朋也「でも、古河と食べることはもうないかもな……」
仁科「どうしてですか?」
朋也「このまま話が進んでも、俺が手伝えることはもうないからな。あいつと約束してたのは、演劇部が無事再建できるまでだ」
仁科「岡崎さんは、部員じゃないんですか?」
朋也「違うよ。ちなみに、あの金髪も違う。演劇部に入る奴は、他にいるんだ」
仁科「そうなんですか。ちょっと、安心しました」
朋也「?どうして」
仁科「あ、いえ、こちらの話です」
朋也「……?」

79: 2012/04/02(月) 14:35:25.83 ID:H1x2My9B0
仁科「それより岡崎さん。聞きたいことがあるんですけど」

珍しく仁科から話を振ってきた。

朋也「なんだ?」
仁科「どうして、私のやろうとしていることに協力してくれるんですか?」
朋也「……それは……」

理由はある。しかし、その話はあまり仁科には話したくないことだった。

仁科「春原さんの話を聞いたとき、思ったんです。春原さんも岡崎さんも、なにか理由があって部活動を嫌っているんじゃないかって……。
   でも岡崎さんは、その嫌っているはずの部活動に、協力してくれています。私のときだけじゃなく、古河さんの時もです」
朋也「………………」

今さらごまかそうとしても、仁科は深く追求してくるだろう。だから、今のうちに話しておこうと思った。

朋也「ちょっと長くなるけど、いいか?」
仁科「はい」

80: 2012/04/02(月) 14:38:06.41 ID:H1x2My9B0
朋也「俺と春原はさ、わけあって、部活にはいられなくなってしまったんだ。春原はサッカーのスポ選入学でこの学校に入ってきたんだけど、一年のときに他校の生徒と大喧嘩して強制退部。
   俺は、バスケのスポ選だ。だけど俺は、親父との喧嘩で肩を怪我して……それ以来、腕が肩から上にあがらないんだ。これも、一年の時の話だ」
仁科「………………」

一体、仁科はどんな気持ちで聞いているだろう。たぶん、俺が杉坂から仁科の話を聞いているときと同じような気持ちだろう。
俺の昔の話を聞いて、それに自分の姿を重ねて……。

朋也「それからは、ただ怠惰な生活を送ってきただけさ。夢を追われて、目標を見失って……それでも学校を辞めずに今まで過ごしてこられたのは、幸村のおかげなんだ。あのじいさんが俺と春原を学校で引き合わせて……」
仁科「……そうだったんですか……」
朋也「ああ。俺が仁科のことを放っておけないのは、俺と同じ立場に立たされた人間だからだ。ただ違うのは、おまえは新たな夢を見つけることが出来たことだ。
   俺も春原も未だに、新しい目標も見つけられずに過ごしている」

これが、今のところもっともはっきりしている理由だった。

仁科「………………。岡崎さんも、大変な時を過ごしてきたんですね……」
朋也「まぁな。でも、今は楽しいよ。色々と、な」
仁科「そうですか」

81: 2012/04/02(月) 14:39:36.96 ID:H1x2My9B0
そこで、昼休み終了のチャイムが鳴った。

朋也「やべ、急がないとな」
仁科「はい」
朋也「部室に行ったら杉坂や原田に色々聞かれるかもしれないから、放課後は教室まで行くよ。何組だったっけか?」
仁科「C組です」
朋也「わかった。放課後行くから、待っててくれな」

俺と仁科は、それぞれの教室へと急いだ。

午後の授業には、春原は教室にいた。しかし、眠っている。

朋也(おまえの苦労は、無駄に終わるよ……)

俺は哀れみの視線を春原に向けた。

82: 2012/04/02(月) 14:41:17.99 ID:H1x2My9B0
放課後。春原は、机からなかなか動こうとしなかった。

朋也「どうした。ケツに根でも生えたか?」
春原「ちょっと疲れちゃって……」

普段は全く運動しないのに、いきなりあれだけ動いたら疲れるのは当然だった。

朋也「まぁ、頑張って3ON3のメンバーでも集めろよ」
春原「おまえも参加するんだよっ!」
朋也「俺は参加するなんて一言も言ってないぞ」
声「こらっ朋也!」

いきなり後ろから呼ぶ声。と同時に、悪寒が走る。

朋也「うおっ!」

とっさに、右に避けると、なにやらぶ厚い辞典が空を裂いて、窓の外に飛んでいった。

朋也「あっあぶねえなっ!」
杏「あんたね、幸村先生を合唱部に譲ったって本当?」

辞典を投げて来たのは杏だった。そのまま間髪いれずに質問される。

83: 2012/04/02(月) 14:42:31.96 ID:H1x2My9B0
朋也「俺じゃねえよ、古河だよ。俺は隣で聞いてただけだ」
杏「どっちでもいいわよっ!このままだったら、演劇部再建できないで終わるわよ?それでいいの?」
朋也「古河がいいって言ってるんだからいいんじゃないのか?それに、たぶんうまくいくと思うぞ」
杏「どういう意味よ?」
朋也「ま、今は話せないけどな。とりあえずおまえと藤林は、まだ演劇部に名前を貸しといてくれよ」
杏「……わかったわよ」

しぶしぶ納得したようだ。

朋也「じゃ、俺用があるから、行くな」
春原「まだ僕との話が終わってないだろうがっ!」

無視し、教室を出る。

84: 2012/04/02(月) 14:44:14.09 ID:H1x2My9B0
2年の教室へと来る。中には、仁科が一人で待っていた。

朋也「悪い、待たせたな」
仁科「いえ」
朋也「じゃ、行くか」

職員室で幸村と合流し、生徒会室へと向かう。

朋也「今回は、俺、そとで待ってるな。仁科は、幸村とわからずやの生徒会を説得してきてくれ」
仁科「わかりました」
幸村「ふむ……」

待つこと約20分。ようやく仁科と幸村が生徒会室から出てきた。

朋也「てこずったみたいだな。で、どうだった?」
幸村「兼任することに関しては、わしが説得してやったわ……。あとは、演劇部の部長さんに話してやるだけだの……」
仁科「本当にありがとうございます、幸村先生」
朋也「ああ、古河も喜ぶと思うぞ」
幸村「ふむ……。わしにとっても、忙しい日々が始まりそうだの……」

幸村は、ふぉっふぉっふぉっと笑いながら、職員室へと戻っていった。

85: 2012/04/02(月) 14:48:23.11 ID:H1x2My9B0
朋也「じゃ、杉坂と原田にも言いに行くか」
仁科「そうですね」

合唱部の部室に入る。中では、杉坂と原田が本を開いて、合唱の話をしていた。

朋也「おまえの口から言ってやってくれ」
仁科「わかりました」

仁科は、今までふたりに黙って行動していたことを話した。

仁科「……それで、幸村先生には承諾をもらいました。お二人さえよければ、演劇部と顧問を兼任していただこうと思っているのですが……」
原田「あたしは、別に構わないよ」

原田は、すんなりOKしてくれた。しかし杉坂は、不満そうな顔をしていた。

杉坂「りえちゃん。一週間ごとに交代だったら、満足に活動できなくなるんだよ?それでもいいの?」
仁科「はい。このまま活動していても、演劇部のことが頭から離れずに、集中できなくなりそうですから……。それに、活動は出来なくても、この部室は自由に使うことが出来るんですよ?」
杉坂「……まぁ、りえちゃんがそういうなら、私もいいけど……」
朋也「なら、決まりだな」
仁科「はい、良かったです」

杉坂も少し不満げだが、なんとかOKしてくれた。これで、一応は丸く収まったな……。

86: 2012/04/02(月) 14:50:19.23 ID:H1x2My9B0
今日の活動が終わり、帰ろうとすると、玄関先では春原がバスケットボールを持って、未だに練習していた。

朋也(あ、そういやあいつの行動、無駄が確定したな……)

そう思いながら、春原に声をかける。

朋也「おい、春原。まだ練習頑張ってるのか」
春原「あっ、岡崎!探したぞ!ほら、練習だっ」

後ろにいる仁科たちなど気にしない様子で、俺にボールを投げてくる。

朋也「そのことで非常に言いにくいことがあるんだが……」
春原「なんだよ?」
朋也「明日から、演劇部が復活するだろうって話さ」
春原「はぁ?顧問もいないのにか?」
朋也「幸村のじいさんが兼任するんだ。一週間ごとに交代になるけど、これで晴れて合唱部と演劇部の設立だ」
春原「………………。……え?じゃあ、今僕のやってることって?」
朋也「バカで無駄な事としか言いようがないな」
春原「んなアホなぁぁぁーーー!」

春原が奇声を発しながら、校門を抜けていった。

仁科「あの……岡崎さん……もう少し言い方があったのでは……?」
朋也「いいんだよ。どうせ明日になったら立ち直ってるさ。あいつは、そんな奴だ」

俺は春原から受け取ったボールをその辺に投げ捨てて、その場を後にした。

87: 2012/04/02(月) 14:52:58.79 ID:H1x2My9B0
次の日。

朋也(最近、ずいぶんとまともな生活を送っているよな……)

それでも、苦にはならなかった。

朋也「おはよう、仁科」
仁科「おはようございます、岡崎さん」

今日も、仁科と登校する。

朋也「今日は土曜だけど、活動の方はどうするんだ?」
仁科「午前で終わりですから、そんなに長い時間活動はしません。それに、来週は演劇部の活動の晩ですから」
朋也「ん、そうか」

88: 2012/04/02(月) 14:54:50.15 ID:H1x2My9B0
登校中、見慣れた後ろ姿があった。杏に、藤林に、古河だった。

朋也「おっ、丁度いいじゃないか。仁科、あいつらに話、してやれよ」
仁科「あいつら、といいますと?」
朋也「ほら、前を歩いてる三人いるだろ?あいつらが、演劇部の三人だ。おーい、杏っ」

一番呼びなれた名前を呼ぶ。杏たちが振り向く。

杏「朋也じゃない。めずらしいわね、あんたがこんな時間に……あれ?」

話の途中で、不意に杏が俺の隣に目をやる。

杏「……誰?」

怪訝そうな目を俺に向ける。

朋也「合唱部の部長だ。ほら、仁科」
仁科「えっと……古河さん」
古河「は、はいっ」

いきなり名前を呼ばれて、古河がびっくりした声を上げる。

89: 2012/04/02(月) 14:57:14.45 ID:H1x2My9B0
仁科「今日は、いい報告を持ってきました。幸村先生が、演劇部の顧問を兼任してくれるそうです」
古河「えぇ?本当ですか!それはうれしいですっ」
仁科「それで、幸村先生にはもう話をしてあるので、今日の放課後辺りにでも行って、話をしておいてください」
古河「わかりました。ありがとうざいます、仁科さん」
朋也「これで晴れて演劇部設立ってわけだな」
古河「はい。岡崎さんも、活動に参加してくれるとうれしいです」
朋也「おいおい、話が違うだろ?俺は、設立まで手伝うって言ってたはずだぞ。これからは、おまえが頑張るんだ」
古河「………………」
朋也「大丈夫だよ、古河。おまえは、あの坂の下で出会ったときよりも、だいぶ強くなってる。その調子なら、うまくやっていけるさ。杏と藤林もいるしな」
椋「そうですよ、渚ちゃん」
杏「こんな甲斐性なしに頼らなくても、私たちがいれば安心よ」
朋也「悪かったな、甲斐性なしで」
古河「そうですか。今まで、本当にありがとうございました。岡崎さん」
朋也「ああ」

そこからは、5人で坂を上った。

90: 2012/04/02(月) 14:59:43.53 ID:H1x2My9B0
教室に入ると、春原が机に力なく伏していた。

朋也「なに朝っぱらからヘタレてんだ?」
春原「あぁ……岡崎か。いや……僕、頑張ったのに……、パン食い放題権が獲得できなかったなぁってさ……」
朋也「え?おまえ、頑張ったのか?」
春原「人の努力をあっさり否定しないでくれますかっ!」
朋也「ああ、悪かった。おまえは頑張ったよ。空回りだけどなっ!」

爽やかに親指を立ててやる。

春原「さっきよりも酷くなってるよっ!」
朋也「そんなにパン食い放題権が欲しいんなら、演劇部に入ればいいじゃないか」
春原「僕は部活動なんて忌々しいものにこれ以上関わりたくないよ」
朋也「そうか……」
春原「また、ふたりでバカやって過ごそうぜ。おまえも、もう演劇部に関わる気なんてないんだろ?」
朋也「俺はおまえにいちいち構ってられるほど暇じゃないんだ。悪いなっ」
春原「なんか用事でもあるのかよ?」
朋也「これからは、合唱部の奴らの行動を見守っていくことにした」
春原「はぁ?なんであんな奴らなんかと」

春原が忌々しそうにそう言った。

朋也「説明するのが面倒だから、話したくない。ただ、仁科のことを放っておけないってだけだよ」
春原「ふん……好きにしろよ。僕はもうあんなハンデを盾にするような奴らと関わるのなんかごめんだね」
朋也「だろうな……」

91: 2012/04/02(月) 15:01:40.26 ID:H1x2My9B0
午前だけの短い授業が終わる。

春原「さ~て、今日の本番はこれからだな……。岡崎、行こうぜ」
朋也「おまえは朝の俺の話を聞いてなかったのかっ」
春原「ああ、そうだっけか。ちっしょうがねぇな……ひとりで楽しむか……」

春原がクラスの奴らにまぎれて教室を後にした。

朋也(さて、俺も行くか……)

そう思い立ち上がったところで、呼び止められる。

杏「朋也っ」
朋也「あん?って、杏か……」

そこに立っていたのは杏だった。なにやら真剣なまなざしを俺に向けている。
杏「まぁ座りなさい」
朋也「あ、ああ……」

その尋常でない雰囲気に気圧される。

92: 2012/04/02(月) 15:04:01.32 ID:H1x2My9B0
杏「あんた、もう演劇部には顔を出さないつもりなの?」
朋也「え?ああ、そのつもりだけど」
杏「どうしてよ?」
朋也「これからは合唱部の奴らのところに行こうかと思ってな」
杏「……もしかしてあんた、あの合唱部の部長が好きなの?」
朋也「名前は仁科な。……って、なんで俺があいつのことを好きみたいな話になってるんだよっ?」
杏「あんたの仁科に対する態度が他の合唱部の子たちと違いすぎるからよ」

俺は別に普通に接しているつもりなのだが、周りからはそんな感じに見られていたのか……。
って、古河の時も春原に言われたな……。

朋也「別に好きとか、そういうんじゃないと思うけどな。ただ、仁科のことを放っておけないだけだ。あいつのたどり着く先を、俺も見てみたい。それだけだ」
杏「ふ~ん、そう。ま、あたしがどうこう言ったってあんたが考えを変えることもないだろうからさ、別に好きにすればいいけど。
  だけど、中途半端にあの子のそばにいて、傷つけるようなことだけはしないこと」
朋也「え?」

どういう意味だ?俺が考えているうちに杏が、

杏「じゃあね」

とそれだけ言い残し、行ってしまった。

93: 2012/04/02(月) 15:06:47.13 ID:H1x2My9B0
朋也(杏の奴、一体俺になにを言いたかったんだ?)

合唱部の部室へと向かう途中、そのことを考えていた。

朋也(仁科を傷つけるようなこと?俺が、仁科を傷つけるようなことなんてしたか?いや、それとも、これからしそうなのか?)

考えをめぐらせるうちに、合唱部室についた。

朋也(ま、いっか)

ドアを開ける。中には、杉坂と原田がいた。

朋也「あれ?仁科はいないのか?」
杉坂「はい。演劇部の部長さんが幸村先生に話をしにいくので、その付き添いで行きました。私たちは、演劇部に対して、なにもしてあげられなかったから、行かないほうがいいと思ったので、部室待機です」
朋也「そっか。行ってから、結構経つのか?」
原田「いえ、今出ていったばかりですけど」
朋也「なんだ、行き違いか。なら俺も、幸村のところに行ってみるな」

部室を出て、早歩きで職員室へと向かう。

94: 2012/04/02(月) 15:08:54.25 ID:H1x2My9B0
職員室の中では、すでに古河、杏、藤林に、仁科が幸村と話をしていた。
中に入り、仁科の近くまで歩み寄る。

朋也「よぅ」
仁科「あ、岡崎さん」

仁科が気づき、俺のほうを向く。

朋也「話はついたか」
幸村「ふむ……。とりあえずは、の。今週は合唱部が活動したからの。来週は、演劇部の活動とする、ということだの」
古河「ありがとうございます、幸村先生」
杏「やったじゃない、渚!」
椋「演劇部設立、おめでとうございます」
朋也(どうやら俺が立ち会うまでもなかったみたいだな……)

踵を返し、仁科と共に職員室をあとにする。

95: 2012/04/02(月) 15:11:25.63 ID:H1x2My9B0
朋也「じゃあ、来週は活動がないんだな」

職員室を出たところで、そう話を切り出す。

仁科「はい、そうですね。あ、でも、部室にはいると思いますよ」
朋也「そうか。じゃあ、俺も部室にいくよ。……どうせ、学校が終わっても春原の部屋に入り浸るだけだし、な」
仁科「……?お家のほうにはいらっしゃられないんですか?」
朋也「この前、話したよな?親父と喧嘩したって。それ以降は、親父とまともな会話さえしてねぇんだ。当然、家にいられるはずもねぇだろ。
   春原の家で適当に時間潰して、夜中に家に帰る生活をずっと繰り返してるのさ」
仁科「そうなんですか……」
朋也「ああ。別に好き好んで春原の部屋にいるわけじゃない。時間を潰すのには最適だけどな。
   だけど、そんなところに夕方からずっといるよりは、仁科たち合唱部と一緒にいるほうが楽しめるからな。合唱も聴けるし」

そう。俺にとって、合唱部は居心地のいい場所に変わっていた。少し前なら、部活動になんか進んで関わろうとはしなかっただろう。
しかし今は、それが何よりも楽しくなっている。仁科も、こんな俺でも部室に顔を出すと喜んでくれる。
俺にとっても、仁科にとっても、部活動の時間は既にかけがえのない時間となっていた。

仁科「そうですか。本当に、私たちの合唱で楽しんでいただけるなら、いくらでも歌いますよ。それが、合唱部の活動ですからね」
朋也「ああ」

それからは、部室で合唱を聴いたり、仁科や杉坂、原田と話をして過ごした。

96: 2012/04/02(月) 15:13:24.75 ID:H1x2My9B0
朋也「今日はこれからどうするんだ?」

早めに部活が終わり、帰路へとついた時に、俺がそう話を始める。

仁科「特に用事もありませんから、家でゆっくり休むと思います。今週はいろいろあって、疲れましたから」
朋也「そっか。ま、近いんだし、家の前まで送るよ」
仁科「いえ、今日は、私が岡崎さんの家の前まで送りますよ」
朋也「いや、それは……」

仁科と親父は、出来るなら会わせたくない。そう思っていた。

朋也「悪い、それは勘弁してくれ。俺の親父、見られたくないんだ」

だから、そう告げる。

仁科「……お父さんとは、もう仲直りは出来ないんですか?」
朋也「……っ。そのことはあまり話したくないっ」

少し恐い声になってしまったかもしれない。俺がそういうと、仁科は少し怯えた風に謝ってきた。

仁科「あっ……ごめんなさい。その……迷惑、ですよね……?」
朋也「………………。いや、いいよ」

そうして、仁科を家の前まで送る。その後は、家ですばやく着替えを済まし、寮へと向かった。

97: 2012/04/02(月) 15:15:25.29 ID:H1x2My9B0
春原の部屋の扉を開ける。なかでは、相変わらず春原がヘタレていた。

朋也「なんだ、おまえは。エンジョイしに行ったんじゃなかったのか?」
春原「一人でゲーセンに行って、なにが楽しいんだよ……」
朋也「まぁ、そうひねくれるなって。放課後は俺、忙しいけどさ。夜になったらいつも通りここに来て、おまえをいじめてやるから」
春原「それはよかったですねぇっ!」

床に適当に座る。

朋也「あ、悪い、お茶」
春原「だから、でねぇよっ」
朋也「なんだよ、サービス悪ぃな……」
春原「おまえは一体ここが何の部屋だと思ってるんだよ!」
朋也「え?気兼ねなく弁当が食える場所。あ、おまえがいるから気兼ねしちまうか」
春原「この前よりランク落ちてるんですけど……」
朋也「そう、日々こうしてこの部屋のランクは落ちて……いや、変わっていくんだ」
春原「しみじみ言うなよっ」

適当に春原の相手をしながら、弁当に手をつける。

春原「はぁ……。なんかおもしろいことないの?演劇部のことが終わってから、退屈でしかたないよ」
朋也「退屈なのはおまえだけだ。俺は今は合唱部の奴らといるしな」
春原「僕はごめんだね。あいつらの顔を見ると、嫌気が差すよ」
朋也「じゃあ、引き続き演劇部の手伝いでもしてたら?」
春原「もう部活動には関わりたくないって言ってるだろ?」
朋也「そうかよ……」

弁当を食い終わってからは、雑誌を読んで過ごす。

98: 2012/04/02(月) 15:16:59.18 ID:H1x2My9B0
………………。
日曜日。朝からやる気がでない。

朋也(俺も、疲れてんのかな……)

確かに、今週一週間はいろいろあった。

朋也(いいや……今日は一日寝て過ごそう……)

そう決め込んで、もう一度布団をかぶった

99: 2012/04/02(月) 15:19:16.76 ID:H1x2My9B0
仁科「おはようございます、岡崎さん」
朋也「ああ、おはよう、仁科」

今朝は目覚めがいい。昨日、ゆっくり寝たからだろうか。

仁科「岡崎さん、今日は朝から元気ですね」
朋也「ああ、昨日は一日中寝てたからな」
仁科「え?一日中って……まさか……」

仁科が信じられない、といった目で俺のことを見てくる。

朋也「なんだよ?休日なんだから、別にいいだろ?」
仁科「いいえ、よくありませんっ。いくら休日といえど、一度は起きて行動するべきですっ」

仁科がこんな風に話してくるのは初めてだったから、少し戸惑った。

朋也「えっと……悪い。次の休みからは、そうするように心がけるよ」
仁科「えっあっいえ……別に、怒ったわけじゃ……」

仁科が慌てて弁解する。

朋也(もしかして、素が出たのか……?)

それに気づくと、自然と顔が緩んだ。仁科は、俺の前では素が出るほどまで心を許してくれているのだ。

100: 2012/04/02(月) 15:21:36.68 ID:H1x2My9B0
朋也「そうだな。どうせ休みの日はすることもないからな。仁科、次の休みはどっかに出かけないか?」
仁科「えっ?……お、岡崎さんと……ですか?」

仁科が今度は一変して、顔を赤くしてそう聞いてくる。

朋也「ああ。杉坂や原田も誘って、さ」
仁科「え……あ……。は……はい。いい……、ですよ」

顔は赤いまま、それだけ答えた。

朋也「よし、明日が楽しみだなっ!」
仁科「あの……私なんかと、その……お出かけして、楽しい……のでしょうか……?」
朋也「少なくとも俺は非常に楽しみだ」
仁科「~~~……」

俺がそういうと、さらに顔を赤くする。かわいいやつだった。

仁科「そ……その……。えと……。わ……私も……、明日……、楽しみに……してます……」

なんとかそれだけ答えて、顔を伏してしまった。

朋也「よしっ。じゃあ、今日の昼休みと放課後はそのことについて、杉坂、原田と相談だな」

思いがけない事態だったのだろう。それからは、仁科は口数が少なかった。

101: 2012/04/02(月) 15:24:03.53 ID:H1x2My9B0
学校に着き、教室へと向かう。春原は、いなかった。

朋也(あいつ、また寮でたそがれてるのかな……)

………………。

四時間目が終わると同時に、春原が来た。

春原「おっはようっ岡崎」
朋也「うざいくらい上機嫌だな……」
春原「いやぁ今まで寝てたからねぇ。で、昼飯はどうすんだ?」
朋也「合唱部室」

それだけで、春原は悟ったようだ。

春原「ち……。なんだよ」
朋也「寂しいんなら、おまえも来ればいいじゃないか。仁科も杉坂も原田も、おまえのことはもう気にしてないぞ」
春原「うーん……僕が気にするしなぁ……。だいたい、どうして岡崎はあいつらと関わろうとしてんだよ。はっ……まさか……?」
朋也「なんだよ?」
春原「あの中に……好きな奴が……?」

杏と同じ発想だった。

102: 2012/04/02(月) 15:25:17.82 ID:H1x2My9B0
朋也「あのなぁ……。いや、なんでもねぇよ。好きに想像すればいいさ」

説明が面倒になり、そう答えてしまった。

春原「ちくしょう……岡崎がそんな目であいつらを見てるなんて……」
朋也「それ、おまえの想像の中でだけだからな」
春原「い、いや……まさか……まさか……」

一体どんな妄想をしてるんだ……こいつは……。

春原「岡崎……おまえ、けだものだよっ鬼畜だ、鬼だっ」
朋也「うるせぇっ」

バシッ

春原「いたぁっ!」
朋也「バカなこと妄想してないで、さっさとメシでも食いに行けっ」

それだけ言い残し、教室を後にする。

103: 2012/04/02(月) 15:27:57.46 ID:H1x2My9B0
購買でパンを買い、合唱部室へと向かう。
朋也「よぅ」
なかでは、三人がいつものように仲良く話をしていた。
杉坂「岡崎さん。来たんですね」
朋也「最近はずっと来てるだろ?」

さすがにその輪の中に入るのはためらわれたので、少し離れたところに腰を落ち着かせる。すると、三人が俺の近くに来ると、周りに腰を落ち着かせた。

原田「岡崎さんは、あたしたちの一番初めのお客さんですからね。それに、仁科から話は聞いています。合唱部と演劇部の設立のために、一生懸命になってくれたとてもいい人だって」
朋也「いや、俺はたいしたことはしてねぇよ。ただ、相談されて、アドバイスして、ちょっとだけ手伝っただけだ。頑張ったのは、仁科だ」
仁科「そんなことはないです。岡崎さんがいなかったら、今こうして穏やかに過ごすことももしかしたら出来なかったかもしれないことですから」
朋也「そうかな。俺は俺のしたいことをしただけだけど」
原田「仁科がそう言っているんだから、素直に受け止めてあげてくださいよっ!あたしと望も、岡崎さんには感謝してるんですから。ね、望?」
杉坂「そうですよ。岡崎さんは、おそらく自分で思ってる以上に、私たちのために行動してくれました」
朋也「………………」

そうか……。ここは、いつの間にか、俺の居場所として認められていたのか……。仁科は、俺にとってただの物珍しい人間ではなかった。
誰よりも……俺に近い立場に立たされながら、今は俺よりも遥か先に立っている。
そんな仁科が行き着く先を見たい、そんな俺の想いが、いつの間にか杉坂や原田も巻き込んで、今の形になっていったのだ。

104: 2012/04/02(月) 15:31:57.84 ID:H1x2My9B0
朋也「そうだな……。言われてみれば、確かにおまえたちのためになる行動を取ってきたのかもしれないな。まぁ、まだ少し自覚が足りないのかもしれないけどな」
仁科「岡崎さんは、もっと自分の行動に自信を持っていいはずです。ね、杉坂さん、原田さん」
杉坂「もちろん。……正直に言うと、最初はりえちゃんの邪魔をしようとしている岡崎さんや、演劇部の人たちは好きではありませんでした。
   だけど……りえちゃんと行動して、頑張っている岡崎さんを見て、いつの間にか嫌いではなくなっていました。今では、私も、りえちゃんも、叶絵も、あなたは大切な人だと思っています」
原田「そうそう!それに、岡崎さんはこれからも合唱部に顔を出してくれるんですよね?いつまでも、岡崎さんはあたしたちの大切なお客さんですよ。あ、お代はいただけませんけどねっ!」
朋也「ははっ。そうだな。おまえらさえ良ければ、学校を卒業するまで顔を出させてもらおうかな」

三人は、俺のその言葉に満面の笑顔を見せてくれた。

仁科「ありがとうございます、岡崎さん。私たち、一生懸命練習して、たくさんの人たちに私たちの歌声を届けます」
杉坂「りえちゃん、頑張ろうね!」
原田「ちょっとぉ、あたしも仲間だからねっ」

そういって、三人で笑い合う。微笑ましい光景だった。

朋也「これからもなにか困ったことがおきたら、力になる。ま、俺が力になれることなんてあんまりないと思うけどな」
仁科「そんなことないですよ。ありがとうございます、岡崎さん」

105: 2012/04/02(月) 15:33:55.65 ID:H1x2My9B0
朋也「ところで……。話は変わるけど……いや、これは仁科から話してもらおうかな」
仁科「?なんの話ですか?」
朋也「ほら、朝話してただろ。次の休みの日……」
仁科「あっ……」

それで仁科は気づいたのか、少し顔を赤らめた。

原田「なになに?次の休みに、なんかあるの?って、明日じゃん!」
仁科「その……岡崎さんが……明日、杉坂さんと原田さんを誘って、どこかに遊びに行こうって……」
朋也「元をたどれば、仁科だけどな」
仁科「お、岡崎さんっ」

仁科に止められる。

仁科「そ……それで、おふたりさえ良ければ……」
杉坂「私は大丈夫よ。明日、何も予定ないし」
原田「あたしも大丈夫!というか、予定があってもこっち優先するしっ」

杉坂と原田は快く承諾してくれた。

朋也「よし。じゃあ、詳しい話は放課後だな」

時計を見ると、予鈴が鳴る寸前だった。

朋也「放課後もこの部室でいいんだろ?」
仁科「はい」
朋也「じゃ、また放課後来るな」

106: 2012/04/02(月) 15:37:28.12 ID:H1x2My9B0
教室に戻ってくる。春原の姿は見当たらなかった。

朋也(あいつ、またどこかでたそがれてんのかな……)

春原がいないと、教室で暇つぶしが出来ない。
そう思ってると、春原が息を切らしながら教室に滑り込んできた。

春原「はぁ……はぁ……」
朋也「おう、おかえり」
春原「お、おかえりじゃないよっ」
朋也「なんだ、またラグビー部か?おまえも懲りないな。どれ、ラグビー部の平和のためにおまえを生け贄に捧げてやる」

春原の首根っこをつかみ、ずるずると教室のドアに向かって引きずる。

春原「おっ岡崎!やめてくれ!頼む、一生のお願いだ!」
朋也「今度はなにをやらかしたんだ?」
春原「なにもやってないよっ」
朋也「なら、別に連れて行かれても問題ないじゃないか」

容赦なく引きずる。

春原「い、いや、問題おおありだよっ!」
朋也「どうした。白状する気になったか?」
春原「実は……おまえが教室を出た後すぐに、ラグビー部の部室の前まで行って落書きをしてやったんだ……」
朋也「おまえ、ずいぶん大胆なことしたなっ!で、それがばれたのか?」

春原を引きずるのをやめ、話を聞いてやる。

107: 2012/04/02(月) 15:39:20.21 ID:H1x2My9B0
春原「いや……あいつらは食堂で昼休みを過ごすから、ばれるはずがないんだ……」
朋也「じゃあ、なんで逃げ回ってるんだよ?」
春原「いつのまにか、その落書きの一番下に『by春原陽平』って書いた紙が貼ってあったんだ……」
朋也「………………」

そこで自分の行動を思い返してみる。しかし、それに関しては心当たりがなかった。俺がやったんじゃないとすると……。

朋也「ぷっ……」
春原「笑うなよっ。っていうか、まさか岡崎……」
朋也「いや、それに関しては俺は全くの無関係だ」

それは本当だった。

春原「じゃあ、なんで笑うんだよっ?」
朋也「俺がやってないなら、残る可能性はひとつしかないだろ?」
春原「まさか……藤林杏……。あいつに見られてたのか……?」
朋也「だろうな。ぷっ……。おまえ、もっと周りに気を回せよ」
春原「くそぅ……藤林杏め……」

春原が恨み言をうだうだ言っているうちに、ラグビー部の面々が荒々しくドアを開け放った。

春原「ひぃっ」

春原が俺の後ろに隠れる。が、いかんせん教室のドアの前だった為、すぐに捕まる。

108: 2012/04/02(月) 15:40:50.20 ID:H1x2My9B0
ラグビー部員「話は藤林から聞いたぜ……。ずいぶんと大胆なことしてくれたじゃねえか」
春原「いや、なんていうか、ほんの出来心で……」
ラグビー部員「おっと、話なら、俺たちの部室、おまえの書いた落書きの前でたっぷりと聞いてやる。ほら、来いっ」
春原「お、岡崎っ!助けてくれ!」

差し出してくる手を払いのける。

春原「相変わらずッスか!?」

今日はいつもより大勢だった。

春原「う……うわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーーー―――……」
朋也(あいつ……今日こそ氏んだかもな……)

主のいない席に手を合わせ、合掌する。

109: 2012/04/02(月) 15:42:53.14 ID:H1x2My9B0
………………。

五時間目、六時間目が終わっても春原は帰ってこなかった。

朋也(あいつ、まさか本当に……?)

ラグビー部にやられて、消し炭になった春原を想像してみる。

朋也「ぷっ……」

笑いをこらえるのが辛いだけだから、やめておくことにする。

HRが終わり、ようやく春原が姿を見せた。

朋也「おつかれさん。ずいぶんと長い話し合いだったな」
春原「あ……ああ……」

もう俺の言うことに突っ込む気力すらないようだった。その春原を置いて、さっさと教室をあとにする。

110: 2012/04/02(月) 15:45:24.77 ID:H1x2My9B0
いつものように、合唱部の部室に入る。

朋也「ちーっす」
仁科「岡崎さん。こんにちは」
原田「おっ岡崎さんっ来ましたねっ」

いつものように、三人が座っている。この前はその輪の中に入るのはためらったが、今回はためらわずにその輪の中に入り、座る。

朋也「今まで明日の話をしてたのか?」
杉坂「はい」
朋也「なにかいい案はあるか?」
原田「みんなで商店街を回ろうって話をしてたんですよ」
朋也「商店街か。いいんじゃないか。結構広いし、店もたくさんあるからな」
原田「じゃあ、それに決定ね!」
仁科「集合時間や場所はどうしますか?」
杉坂「学校の校門前でいいんじゃない?そこなら、行き違いとかもしないだろうし」

三人とも、楽しそうに話している。実は俺も、結構楽しみにしているわけだが。

朋也(って、元は俺が休みの日に、だらだらしているからってことから始まった話なんだよな。……ありがとう、普段の自分)

心の中で、そう自分に伝える。

111: 2012/04/02(月) 15:47:49.86 ID:H1x2My9B0
朋也「時間はどうするんだ?」
杉坂「朝の10時くらいがいいんじゃない?その時間なら、大抵の店は開店してるだろうからさ」
原田「明日が楽しみねっ!」
朋也「遅刻した奴は罰ゲームな。昼飯おごりだ」
原田「ちょっと、岡崎さんっ。この中で、誰が一番遅刻する確率が高いかわかって言ってます?」

それは紛れもなく、俺のことだった。

朋也「なめんなよっ。俺だって早起きしようと思えば、出来るぞっ」
原田「じゃ、その罰ゲーム採用します!」
仁科「岡崎さん、よしておいたほうがいいんじゃないですか?」
杉坂「いいじゃん、りえちゃん!そういう罰ゲームがあったほうが楽しいし」
原田「おっ、望わかってるじゃん!ふふふ、明日が楽しみだ♪」
朋也「俺は絶対寝坊しないからなっ」

少し前なら考えられなかった光景。しかし確かにある、その光景。なんだか、不思議な感覚に包まれている感じだ。

112: 2012/04/02(月) 15:50:27.23 ID:H1x2My9B0
原田「それじゃ、また明日ね~!」
杉坂「じゃあね、りえちゃん。岡崎さん」
朋也「ああ、また明日な、杉坂、原田」
仁科「さようなら」
原田「岡崎さん。明日、期待してますからねっ」

それだけ言い残し、杉坂と原田は歩いていった。

朋也「あいつらは同じ帰り道なんだな」

学校から出て少し歩いたところで、杉坂と原田は別の道を歩いていった。俺たちも歩き始める。

仁科「ええ。岡崎さんと一緒に登校する前は、ここで朝杉坂さんたちと合流して登校していました」
朋也「今は一緒に登校しなくてもいいのか?」
仁科「ええ。杉坂さんたちは朝、早いですから」
朋也「……それ、俺が遅いって言われてるような気がするんだけど」
仁科「そのつもりで言ったんですが」

仁科がからかうように言ってくる。

朋也「そうか。なら、水曜日からはもっと早くに出てきてやるっ」

それに対抗するように言ってやる。

仁科「そうですか。なら、私が迎えに行かなくてもいいですね」
朋也「ああ、もちろんだっおまえよりも先に行くからな」
仁科「そうですか。じゃあ私も、杉坂さんたちと合流するつもりで出ますね」
朋也「構わないぞ」

他愛のない話をしながら歩く。この時間も、今では心地よい時間となっていた。

113: 2012/04/02(月) 15:52:49.03 ID:H1x2My9B0
仁科「じゃあ岡崎さん、また明日」
朋也「ああ。明日は、どっちが先に到着するか勝負だな」
仁科「私は岡崎さんが寝坊しないよう祈っていますね」
朋也「おまえも信用してないのな……」
仁科「ふふ。冗談ですよ」
朋也「そうかよ。おまえこそ、寝坊すんなよ?」
仁科「私は大丈夫ですよ、たぶん」
朋也「よし、じゃあ今日は早めに寝よう。じゃあな、仁科」

仁科の家の前から歩き出す。

3分もしないうちに、家に到着する。家の中に入り、すぐに自分の部屋へ向かう。

朋也(さて、これからどうするか……)

いつもなら春原の部屋に向かうのだが、出来るなら今日は早めに寝たい。かといって、今から寝るのは少々早すぎるような気がする。

朋也(いいや、久しぶりに自分の部屋で過ごすか……)

結局、どこにも出かけず、その場にとどまり、10時を回る頃には床についていた。

119: 2012/04/02(月) 20:04:09.29 ID:H1x2My9B0


朋也(………………)

朝。ぼうっとしながら、カレンダーを確認する。

朋也(なんだ……今日、学校休みじゃん……)

早くに起きて損したと思いながら、もう一度布団に体を預ける。そこで、ある一人の女生徒の言葉が頭をよぎる。

―――いくら休日といえど、一度は起きて行動するべきですっ―――

朋也(そういや……今日は仁科たちとなにか約束してたような……)

寝起きの頭を回転させ、思い出してみる。

朋也「……―――!!」

思い出し、ばっと飛び起きる。

朋也(今、何時だっ!?)

慌てて枕元に置いてある腕時計を確認する。時刻は―――8時を回ったところだった。

朋也(あ……焦った……)

まだもう一眠りする時間すらある。しかし今の衝撃で、目が完全に覚めてしまった。

朋也(よしっあいつらを出し抜いてやるっ!)

そう思い立ち、着替えを始める。

120: 2012/04/02(月) 20:05:07.27 ID:H1x2My9B0
一通りの準備を済まし、家を出る。時計はまだ、9時を回っていなかった。

朋也(この時間なら、まだ誰も来ていないだろう)

完全勝利だ。驚きを隠せないあいつらの表情が楽しみだ。そんなことを考えながら、学校へと向かっていた。
校門の前。

朋也「嘘だろ……」

そこには、すでに仁科、杉坂、原田が立っていた。……なにやら楽しそうに話しながら。

朋也(今、何時だ?)

腕時計で時間を確認する。まだ、9時半過ぎだ。

朋也(くそ……)

完全勝利ではなかった。それどころか、敗北に近かった。負け犬のように校門前へと歩いていく。

121: 2012/04/02(月) 20:06:49.90 ID:H1x2My9B0
杉坂「あ、岡崎さん。ずいぶん早かったですね」
原田「予想していたよりも一時間近く早いですよ」
朋也「そうかよ……」

色々と突っ込み所のある言われようだったが、気にしないでおく。

朋也「もう、行くか?」

時刻は予定していた時間よりも早い。

杉坂「行こうよ。みんな集まったことだし」
原田「岡崎さんが予想よりも早かったから、ちょっと予定が狂っちゃったけど」
朋也「悪かったな」
仁科「では、行きましょうか」

122: 2012/04/02(月) 20:07:53.19 ID:H1x2My9B0
やって来たのは、人で賑わう商店街。

朋也「結構人いるな……。休日にここらに来るのは初めてだぞ、俺は」
杉坂「休みの日はいつもこのくらい賑わってますよ。ね、叶絵」
原田「そうですよ、岡崎さん」

この二人は、このくらいの混みあいは慣れっこのようだ。それに反して、仁科は俺と同じように、身じろいでいた。

仁科「わ……、私も、休みの日に商店街に来るのは初めてです……」
朋也「仁科も初めてか。ちょっと舐めていたな」

この町はそんなに広くないから、ここまで人で賑わうのは意外だった。

原田「まぁまぁ、いいじゃないですかっ。さ、行きましょう」
杉坂「まずはお昼にしようか」

俺と仁科を置いてけぼりにし、杉坂と原田は商店街の中へと歩いていった。

朋也「俺たちも行くか……」

仁科の背を軽く叩き、歩き始める。

仁科「あっ……待ってください」

仁科も、俺の後についてくる。慣れない商店街の中、先導ふたりのあとに続いて歩いていく。

123: 2012/04/02(月) 20:09:49.40 ID:H1x2My9B0
原田「そういえば、結局お昼のおごりの話はどうなったんですかぁ?」

原田が、おどけた風に俺に聞いてくる。

朋也「俺に聞かれてもな……」

遅刻はしていないが、一番遅かったのは俺だ。
……少々想定外の事態といっても過言ではないが。

杉坂「やっぱり一番遅かったのは岡崎さんだから、岡崎さんのおごりでいいんじゃない?」
原田「そうだよねぇ~?」

大方の予想通りに話は進んでいく。

仁科「えっと……それでも、遅刻はしていないし……」

仁科がフォローしてくれるが、手で制止してやる。

朋也「あんまり、高いものを頼むんじゃないぞ?俺だって懐は心もとないんだからな」
原田「やったっ!」

最初に反応したのは原田だ。期待通りに話が進んでうれしいのだろう。
続いて、杉坂もわざとらしい笑みを浮かべている。

朋也「はは……」

出費は痛いが、こうしてこいつらが楽しんでくれるならそれも悪くないと思った。

124: 2012/04/02(月) 20:20:40.13 ID:H1x2My9B0
ファミリーレストランで昼ごはんを済ませ、店を出る。

朋也「どこか、行きたいところとかはないのか?」

みんなに向けて、そう質問する。

仁科「私は、特にありません。皆さんにおまかせします」
原田「じゃあ、適当に回ろうか?」

とりあえずは、目的もなく歩き回ることになった。
ウィンドウショッピングの立ち並ぶ道。仁科は、ちょっと興味をそそられたのか、杉坂や原田と一緒に楽しそうに見ていた。
俺はそこから数歩下がり、その光景を眺める。

朋也(本当に、少し前なら考えられない光景だよな……)

俺の前には、下級生が3人。俺の知り合いや、仁科たちの知り合いが見たら、後ろにいる俺だけが好奇の目で見られるだろう。
そんなことを考えながら、ふと道路を挟んだ向こう側に視線をやる。小さな楽器屋があった。その楽器屋の小さなショーケースの中には、ヴァイオリンも飾られていた。

朋也「………………」

今はあまり見たくないものだった。仁科たちは楽しく話しているから、こちらには注意を引き付けないようにしておこう。

朋也(せっかく、仁科たちが楽しそうにしてるんだ。暗いことは思い出させないほうがいいだろう……)

それからも、目的もなく歩き回る。それだけでも楽しそうに盛り上がる仁科たちを見ているだけで、充分に楽しめた。

125: 2012/04/02(月) 20:22:00.75 ID:H1x2My9B0
商店街の、少し開けた場所に出る。

朋也「ここらは、人が少ないな……」

正直、ほっとした。人がたくさんいる商店街の中は、気が休まらなかった。

仁科「……岡崎さん……」

仁科が、商店街の隅っこを指差す。そこには、石垣に腰掛ける男が一人いた。

朋也「なんだ、仁科。あいつがどうかしたのか?」
仁科「あの人の足元で、なにか小さなものが動いていませんか?」

言われて、目を凝らす。確かに、なにか小さなものがひょこひょこと動いているようだった。

杉坂「気になるんなら、行って見よっか?」

杉坂がそう提案する。

朋也「そうだな。時間はあるし、な」
原田「なにか面白い見世物かな?」

その男に、近づく。

126: 2012/04/02(月) 20:23:10.41 ID:H1x2My9B0
男「……ん?」

男が、こちらに気付いた。

男「なんだ、おまえら」

そう言いながらも、足元では相変わらずひょこひょこと動いていた。見ると、汚い人形だった。

仁科「あの、こんなところに座って、なにをしていらっしゃるんですか?」

丁寧な口調でたずねる。

男「……もしかして、俺の人形劇を見に来たのか?」
朋也「人形劇?」

これが?と言いたくなるような内容だった。なぜなら、その人形はそれそのものが汚い上に、ただ右へ歩く、振り返って今度は左へ歩く、を延々と繰り返しているからだ。

男「なんだ、おまえ。これが人形劇でなくてなんだ」
朋也「いや、逆に聞きたいんだが。これが人形劇なのか?」

聞き返す。

男「ふん、そうか……。それは、俺への挑戦状として受け取るぞ」

そう呟きながら、立ち上がる。と同時に、人形が力なく倒れこんだ。それを拾い上げて、今まで座っていた場所に置く。

127: 2012/04/02(月) 20:24:11.21 ID:H1x2My9B0
原田「一体、なにが始まるんだろうね……」
杉坂「さ、さぁ……」

杉坂と原田は恐る恐る見ていた。仁科はというと、そんな杉坂、原田はお構いなしに目をきらきらと輝かせていた。
どうやら、この男が今からやろうとしていることに、ずいぶんな期待を込めているようだった。

朋也(なにをするのやら……)

俺は頭を掻く。

男「おっと、その前に」

男が、こっちに振り返る。

男「この人形劇は有料だ。見るからには、それ相応のものは払ってもらう。代金は札以上からだからな」
朋也「たけぇよっ!」

思わず突っ込んでしまった。

男「ふっ、今から俺のやることを見てしまえば、そんな突っ込みはできなくなるさ……」

そう言い、ゆらりと人形に向き直った。なにやら尋常でない雰囲気だ。

128: 2012/04/02(月) 20:25:00.81 ID:H1x2My9B0
男「はっ!はあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………………」

人形に手をかざし、気合を込める。すると、人形がピクリと動いたような気がした。

杉坂「えっ……?」

そのまま見守っていると、ゆっくりと起き上がった。

原田「すっ、すごい……」

杉坂と原田は、完全に男の空気に呑まれている。それに対し仁科は、

仁科「すごい!すごいですよ、岡崎さん!」

完全にはしゃいでいた。

男「ふふふ……どうだ、すごいだろう……」

顔中から汗を噴き出しながら、男がこちらに向き直る。片手は、相変わらず人形にかざされていた。

朋也「糸かなんかで釣ってるのか……?」

そう勘ぐり、人形とかざしている手の間に手刀を叩き込む。しかし、糸のようなものに当たる感覚はなかった。

129: 2012/04/02(月) 20:26:24.60 ID:H1x2My9B0
朋也「これ、歩かせられないのか?」
男「なに、簡単なことさ……」

そう言い放つと、手に再び力を込める。

男「ふおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ………………」

どうでもいいが、その掛け声は必要なのだろうか。そんなことを考えながら見ていると、人形が歩き始めた。

仁科・杉坂・原田「おおおーーーっ!」

三人が感心したように拍手をする。どちらかというと、これは人形劇というよりも手品に近いような気がする。
最初は何かに怯えている様子だった杉坂と原田も、途中からは男の自称人形劇に見入っていた。
しかし、何分もしないうちに人形は倒れた。

男「ぐはっ……も、もうだめだ……」

男が、力尽きたようにその場にひざをついた。

130: 2012/04/02(月) 20:27:09.92 ID:H1x2My9B0
仁科「あぁっ!大丈夫ですかっ?」

仁科が心配そうに男の肩に触れる。

男「あ、あぁ……なんとかな……」

息を切らし、それだけ呟く。

朋也「ってかちょっと待て。さっき、たやすく動かしていなかったか?」

ここで突っ込みを入れる。すると、男がこちらを振り向いた。

男「エ?ナンノコトカヨクワカラナイナ?」

明らかに片言だった。

朋也「もしかして、相手するのが面倒なんじゃないだろうな?」

俺がそう言ってやると、

男「いや、すまん……。腹が減っていて、これ以上やる気になれんのだ……」

男が本音を吐いた。

131: 2012/04/02(月) 20:28:07.95 ID:H1x2My9B0
男「いや、すまんな。おかげで助かったよ」

場所は、先ほどのファミレス。男が空腹を訴えたので、ここまで引きずってきたのだ。

朋也「すまんな、じゃねぇよ……」

話を聞くと、男は一文無しだったらしい。今までバスで旅をしていたのだが、バス賃が底を尽き、仕方無しに降り立ったのがこの町だというのだ。

男「名前を名乗らなきゃいかんな。俺の名は国崎往人。はぐれ人形使いだ」

爽やかに言い放つ。

朋也「はぐれ人形使いって……」

思わず突っ込みを入れたくなった。

132: 2012/04/02(月) 20:29:02.97 ID:H1x2My9B0
往人「ところで、もらうもんをもらっていないのだが……」

手を差し出してきた。

朋也「は?」
往人「いや、だから金」
朋也「あんたはこれだけタダ飯食らっといて、その上俺たちから金を巻き上げるのかよ?」

そう言って、仁科たちに視線をやる。明らかに、苦笑いだった。こいつは確か、一文無しと言っていたはずだ。
つまり、ここの支払いも俺が出す羽目になるのだろう。ちなみに、料金は既に3000円をオーバーしていた。

往人「それとこれとは話が別だろう。旅人には優しくするもんだって、親に習わなかったのか?」
朋也「習っていないし、そもそも旅人なんかに会うのが稀だろ」
往人「この町は嫌いだっ!」

いきなり立ち上がり、そう叫ぶ。どこかで聞いたようなフレーズだった。

往人「ちくしょう……。俺が腹をすかしながらやってやった人形劇は、こんなところでちゃらになっちまうのかよ……」

なんだか、見ていて哀れになってきた……。

朋也「……とにかく、この店から出ないか……?とりあえずここの勘定は、俺が出すからさ……」

そう促すと、往人は落ち込んだまま立ち上がった。

133: 2012/04/02(月) 20:30:06.41 ID:H1x2My9B0
先ほど、往人が人形劇をやっていた開けた場所まで戻る。

往人「……で、金についてなんだが……」

往人がそう話を始めた。

往人「もう一回、俺が人形劇をやってみせるからさ。それで、金、払ってくれないかな?」

聞いていると悲しくなるような内容だった。

朋也「お前らは、どうしたい……?」

半ば呆れながら、仁科たちに聞いてみる。

仁科「私は構いませんよ。もう一度見たいですし、ね」
杉坂「私も、いいですよ」
原田「期待してるよ、国崎!」

三人は了承した。

朋也「……まぁ、お前らが言うなら……」

まさか断ることもできないだろう。

往人「よしっ。商談成立だ」

往人は息巻いて、再び後ろのポケットから人形を取り出し、石垣の上に置いた。今回は特になんの掛け声も出さず、手を軽くかざしただけで人形は動き出した。

往人「どうだ、すごいだろう。楽しいだろう?」

いや、別に楽しくはない。だが、すごいのは確かだった。

134: 2012/04/02(月) 20:31:10.97 ID:H1x2My9B0
10分ほど往人の動かす人形を見る。

往人「ほい、フィニッシュだ」

最後に大きくバック転をして、自称人形劇は終わった。

仁科「この人形さん、どうやって動かしているんですか?」

両手を広げて立っている人形を指差して、仁科が聞いた。

往人「それは秘密だ。俺はこれで飯を食ってるわけだからな。ただ、なんの種も仕掛けも無いとだけ言っておこう」

往人は得意げにしている。

往人「さあさあ、支払いの時間だぞ。札以上は受け付けないからな」
朋也「あんたはまだそんなことを言ってるのかよ……」

呆れを通り越して、感心してしまう。しかし仁科たちは、なんの躊躇いも見せずに1000円札を往人に渡していた。

往人「ほら、あんたも」

往人が、そう言って手を出してきた。

135: 2012/04/02(月) 20:32:29.26 ID:H1x2My9B0
朋也「あんたじゃねぇ、岡崎朋也だ。そんでもってこいつは仁科りえ。その隣が杉坂望。一番端っこが原田叶絵だ」

順番に指差して、そう教えてやる。

往人「そうか、仁科に杉坂に原田だな。毎度ありっ」

往人が、三人に向けて敬礼をする。

朋也「……で、俺にも金を払えってか?」
往人「もちろんだ。岡崎、お前も見たじゃないか」
朋也「あんたがファミレスで食った代金は俺が支払っただろっ!」
往人「あ、ああ。そういやそうだったな」

思い出したように頭を掻いた。

朋也「ったく……」
往人「まぁ、とにかく3000円もの金を手に入れたんだ。早々にこの町から出て行くとするぜ」

そう言いながら、バス停のある方向に向けて歩き始めた。

往人「ありがとうな、岡崎、仁科、杉坂、原田。おかげで、この町に留まることもなくなってよかったぜ」

歩きながら、手を上げてくる。

往人「またこの町に来ることがあったら、よろしくな」

その後姿を、仁科たちと見送った。片手をポケットに入れながら、わずかに笑っているのがわかった。

朋也「………」

まぁ、仁科たちも納得しているようだし。結果オーライ、だろ。

136: 2012/04/02(月) 20:34:05.76 ID:H1x2My9B0
すっかり日が暮れた。オレンジ色に染まる町並みを見ながら、広場のベンチに座っていた。

朋也(ちょっと、歩き疲れたな……)

そんな俺をよそに、3人は未だに楽しげに話している。俺の手には、いくつかの買い物袋。

朋也「おまえら、元気だよな……」
原田「何言ってるんですか。若いんだから、これくらいじゃ疲れませんよ。ね、ふたりとも?」
杉坂「そうだね。でも、今日はいつもより歩いたね」
仁科「私は、ちょっとだけ疲れたかもしれないです」

3人が、それぞれに感想を言う。

朋也「まぁ、おまえらが楽しめたんなら、いいよ」

杉坂と原田が話している中、仁科が俺のそばに寄ってくる。

仁科「今日はいろいろとありがとうございます、岡崎さん」
朋也「いや、別にいいよ。こうやって有意義に休日を過ごしたのも、ずいぶん久しぶりな気がするしな」
仁科「そうですか。実を言うと……少しだけ不安だったんです」

仁科が安心したように話す。

137: 2012/04/02(月) 20:36:13.66 ID:H1x2My9B0
仁科「私たちだけが楽しんでいるような気がしたので……。岡崎さんも、楽しめているのかなって」
朋也「俺も充分楽しめたよ。そんなに俺に気ぃ使うなって」

仁科の頭に、手を乗っける。その様子を、いつの間にか話を中断して杉坂と原田が見ていた。

原田「へぇ~、岡崎さんがそんなことをするなんて……」

からかい気味に言う。

朋也「別に深い意味はないぞ」

仁科は、頭に俺の手を乗せたまま、赤い顔を伏していた。

朋也「っと、悪いな、仁科」

慌てて、その手を引っ込める。

杉坂「別に私たちのことは気にしないで、続けてください」
朋也「続きなんてねぇよっ」

焦り気味に、そう言ってやる。

138: 2012/04/02(月) 20:37:25.96 ID:H1x2My9B0
原田「それじゃ、そろそろお開きにしますか。ね、仁科、望?」
杉坂「そうだね。ちょっと、名残惜しいけど」

今日の出来事を振り返っているのだろう。寂しげな顔をしながら、杉坂がそう言う。

原田「私と望はここから帰るから、岡崎さんと仁科とはここでさよならですね」
朋也「あれ、おまえらはそっちの道か?」
杉坂「はい、そうです」
朋也「そっか。じゃあな、気をつけて帰れよ」
杉坂&原田「はい」

手に持っている買い物袋を杉坂と原田に渡してやると、ふたりは歩いていった。

朋也「じゃあ、俺たちも帰るか」

顔を伏して未だに動かない仁科にそう告げる。

朋也「仁科?」
仁科「えっあ、はい。帰りましょう」

ようやく我に帰り、立ち上がる。

139: 2012/04/02(月) 20:38:54.92 ID:H1x2My9B0
見慣れた帰り道。その道を、仁科とふたりで歩く。

朋也「それにしても、本当に疲れたなぁ……。明日、ちゃんと起きられるかな……」
仁科「岡崎さんなら、起きられますよ」

根拠のない話だった。

朋也「別に遅刻していってもいいんだろうけどな……」
仁科「ダメですっ。ちゃんと朝から授業に出ていれば、きっといいこともありますよ」
朋也「なんだよ、いいことって?」
仁科「それは……なにか、です」

これもまた根拠のない話だった。

朋也「まぁ、ちゃんと朝起きれるように努力するよ……」

それだけを約束してやる。

140: 2012/04/02(月) 20:39:46.64 ID:H1x2My9B0
仁科「それじゃ岡崎さん、今日はありがとうございました。とっても楽しめました」
朋也「どういたしまして」

仁科を見送り、俺も家へと帰る。


自分の部屋に入ると、すぐに眠気が襲ってきた。

朋也(今日は、このまま寝ちまうか……)

そう決め込み、眠気に身を委ねた。

141: 2012/04/02(月) 20:40:26.71 ID:H1x2My9B0
仁科「それじゃ岡崎さん、今日はありがとうございました。とっても楽しめました」
朋也「どういたしまして」

仁科を見送り、俺も家へと帰る。


自分の部屋に入ると、すぐに眠気が襲ってきた。

朋也(今日は、このまま寝ちまうか……)

そう決め込み、眠気に身を委ねた。

147: 2012/04/06(金) 19:33:54.30 ID:cZmeGaaU0
………………。朝。

朋也(昨日は……なにをやっていたんだっけ……)

相変わらず回転の遅い頭で考える。

朋也(ああ、そうだ……。仁科たちと、遊びに行っていたんだな……。ってことは、今日は水曜日か……)

昨日の夜から腕に付けっぱなしの腕時計で、時間を確認する。すでに、一時間目が始まろうかという時間。

朋也(久々に寝坊したような気がするな……)

ゆっくりとベッドから降りて、制服へと着替える。

148: 2012/04/06(金) 19:35:46.53 ID:cZmeGaaU0
準備を済ませ、家を出る。この時間は当然ながら、同じ制服を着ているものはいない。
こんな光景も久しぶりだなと思いながら、気がついたら仁科の家の方向に向かっていた。そしてその先、仁科の家の前辺りに、人影が見えた。

朋也「誰だよ、こんな時間に……」

人のことは言えないのだが。そうつぶやきながら、その人影に近づく。見知った姿が、そこにあった。
着ている物は、俺の学校と同じ制服だが、胸のエンブレムの色が違う。

朋也「……仁科!?」

その姿の正体を悟り、駆け足で向かう。

朋也「仁科っ!」
仁科「あっ、岡崎さん……」

仁科は、不安そうな顔をしながらその場に立ち尽くしていた。

149: 2012/04/06(金) 19:37:33.44 ID:cZmeGaaU0
朋也「なにやってんだよ、こんな時間に……」
仁科「……岡崎さんを、待っていました」
朋也「俺を?って、遅刻するかもしれない奴を待ってたのかよ?」
仁科「この前、約束しましたから。これからは毎日一緒に登校しましょうって……」
朋也「………………」

なんというか……、何気なく約束したことを、こいつは覚えていたのだ。

朋也(っていうか、その約束もこいつからしてきたんだよな……。だったら、覚えているのも当然か……)
朋也「そっか。わりぃな、遅れて」
仁科「いえ……。じゃあ、行きましょうか」
朋也「ああ。それと、ひとつだけ付け加えておいてもいいか?」
仁科「え?」
朋也「もし、朝俺が来なかったら、先に行っててもいいからな?どうせ俺は不良だから、毎日真面目に学校に行くとも限らねぇし……」
仁科「いえ、それは約束できません」

仁科が頑なにそう言う。

150: 2012/04/06(金) 19:38:57.05 ID:cZmeGaaU0
朋也「どうして」
仁科「それは……そんな約束をしてしまったら、岡崎さん、私のことを気にすることもなく寝坊して、遅刻するようになってしまいます。
   でも、私がその約束をしなかったら、ずっと待っているだろうと思って、私のことを気にかけてくれます。そしたら、遅刻することも無くなっていきます」
朋也「………。それもそうだな……」

確かに、誰かが俺のことを待っているのに無視して寝坊するのは、気が引ける。
しかし今の口ぶりでは、俺が遅刻するのをやめさせる為というよりは、俺に気にかけて欲しいというような、そんな風に聞こえた。
そういう本人は、遅れて自分の言ったことを理解したのか、顔を赤らめていた。

仁科「とっとにかく、明日からは、真面目に起きて来てくださいねっ。私は、岡崎さんが来るまでずっと家の前で待っていますからっ」
朋也「ああ、わかったよ……」

仕方なく、そう約束してやる。

151: 2012/04/06(金) 19:40:39.28 ID:cZmeGaaU0
学校に着き、教室へと向かう。
仁科のことを気遣い、時間は一時間目と二時間目の間の休み時間に到着するように歩いてきていた。その道の途中。

声「朋也~、ちょぉっといいかしら?」

軽く殺気のこもった声。そちらを振り向くと、にやけた顔の杏がそこに立っていた。

朋也「なんだよ、こんな朝っぱらから……」
杏「いいからさっさと来るっ!」

有無を言わさず、腕を引っ張られる。

152: 2012/04/06(金) 19:41:25.87 ID:cZmeGaaU0
中庭へと連れて来られた。

朋也「授業、始まっちまうぞ」
杏「別に関係ないわよ」
朋也(一体、杏の奴、俺に何の用だ……?)

中庭は緑が多く、意外と校舎から氏角になる部分が多い。さぼるには、割と最適な場所だ。

朋也「で、なんの用だよ?」
杏「あんた、昨日はどこに行っていたの?」
朋也「……はぁ?」

唐突に聞かれた上、予想もしなかった言葉が出てきたから気の抜けた返事になってしまった。

杏「だから、昨日はどこに行ってたって聞いてんのよっ!」

……まさか、昨日の様子を見られてたんじゃないだろうな……?

153: 2012/04/06(金) 19:42:21.35 ID:cZmeGaaU0
朋也「昨日は……、春原の部屋で適当に時間を潰してたけど」

なにか言ってはいけないような気がしたから、つい嘘を言ってしまった。
と、そこに、最悪のタイミングで金髪の奴が姿を現した。

春原「あれぇ?お二人さん、授業サボって逢引きかい?ヒュー、熱いねぇ」
朋也(ぐあっ……)
杏「陽平、ちょうど良かった。こいつ、昨日あんたの部屋にいたって本当?」
春原「え?いや、いなかったけど」

普通に答える春原。おまえっ……後で覚えとけよっ……!

杏「そ。もうあんたには用は無いわ。さっさと教室に行きなさい。あ、ここであたしたちを見たってのはもちろん言ったらダメよ」
春原「……なんか、すんげぇ冷たくない?」
杏「いいからさっさと行くっ!」
春原「はいぃっ」

杏にすごまれ、逃げるように校舎の中へと入っていった。

154: 2012/04/06(金) 19:43:46.84 ID:cZmeGaaU0
杏「……で、本当はどこにいたのかしら?」

邪魔者がいなくなり、再び俺に向き直る。

朋也「……合唱部の奴らと遊びに行ってたんだよ」
杏「商店街で?」
朋也「ああ、そうだよ。てか、おまえ知ってんじゃねぇかよっ!」
杏「ええ、まぁね。昨日は椋と買い物に行ってたし。その時に、あんたらしき人物を見かけたから」
朋也「……で、そのことでなんかあんのか?」

なかば投げやりにそう聞く。

杏「……別に。ただ……」

ここで、少しためらったように間を置く。

155: 2012/04/06(金) 19:44:45.39 ID:cZmeGaaU0
杏「……あんた、すごく楽しそうにしてたから……」
朋也「ああ、まぁな。でも、下級生と遊んでたなんて、あんまり知られたくないぞ、俺は」
杏「別に言いふらすつもりは無いわよ。あんたに言いたいのは、ひとつだけよ」
朋也「なんだよ?」
杏「あの、合唱部の部長、いるじゃない?あの子、たぶんあんたのことを一番身近に感じているわ。同じ境遇に立たされた者同士、だからかしらね」
朋也「………」
杏「一体あんたがなにを考えてあの子達といるのかは知らないけど、気まぐれであの子たちのそばから離れて、傷つけるのだけはやめなさいよ」

前にも同じことを言われたような気がする。
その時は意味がわからなかったが、今ならなんとなくだがわかるような気がする。

朋也「……って、そんなことをわざわざ伝えるためだけにここまで連れてきたのかよ?」
杏「えっ?そうだけど?」

この女っ……さらりと言いやがったっ……!

156: 2012/04/06(金) 19:46:39.30 ID:cZmeGaaU0
朋也「あのなぁ……。俺が言うのもあれかもしれないけどな、授業はちゃんとでたほうがいいぞ?特におまえ、クラス委員だろうが」
杏「クラス委員は関係ないでしょ?それに、そんなにくだらない話でもないじゃない」
朋也「別に授業をサボってまでする話でもないだろ」
杏「あたしにとっては大事な話なのよ」
朋也「……そう心配するな。俺は、気まぐれであいつらから離れたりしねぇよ。あいつの行き着く先を見るのが、今の俺の目標だしな」
杏「……なら、いいけど。じゃ、あたしは先に教室に戻るわね」
朋也「もう、授業始まってるぞ?」
杏「サボるよりかはマシよ」

身を翻し、歩き出す。少しだけ、寂しげな表情をした気がする。
そんなことを考えているうちに、杏は校舎の中へと戻っていった。

朋也「はぁ」

ため息ひとつ。今から教室に戻り好奇の目で見られるのは勘弁だ。このままサボってしまおう。

157: 2012/04/06(金) 19:50:10.76 ID:cZmeGaaU0
四時間目の授業が終わると、すぐに食堂へと向かう。

朋也(さすがに毎日のようにあの喧騒の中に飛び込んでいくのはごめんだからな……。あ、そうだ)

野暮用を思い出し、春原の席に近づく。

春原「ん?何?」

春原の顔に拳をめり込ませる。

春原「べばっ!な、なにすんだよ!」
朋也「自分の胸に聞いてみるんだな。一発だけで済ませてやるから、ありがたく思え」

呆然とする春原を置いて踵を返し、教室を後にする。

購買の前。すでに何人か人はいたが、気合をいれて突っ込んでいくほど混んではいなかった。
適当なパンをいくつか購入し、自販機で紙パックのジュースを買い、その場を後にする。

158: 2012/04/06(金) 19:51:42.36 ID:cZmeGaaU0
すっかり慣れてしまった合唱部の部室。そのドアを開け、中に入る。

朋也「おまえらは、本当に仲いいよな」

いつもと変わらず楽しそうに話している仁科たちを見て、心底そう思う。

原田「そりゃそうですよ!なんていったって、これから合唱部を作っていくんですから。仲が悪かったら、作ろうなんて考えるわけないでしょう?」
朋也「そりゃそうだな」
杉坂「それに、私たちは小学校からずっと友達でしたから」
仁科「私が原田さんとお知り合いになったのは、杉坂さんに紹介されてからですけどね」
原田「そうそう!望も、こんなにいい友達がいるんなら、もっと早くに紹介してくれればよかったのに」
朋也「へぇ……そうだったのか。俺は、つい最近だけどな」

きっとこの三人は、俺が思っている以上に強い絆で結ばれているのだろう。
そんな輪の中に、いつの間にか溶け込んでいる自分が、たまに不思議に思う。適当に座り、パンを食べ始める。

朋也「おまえらはもう昼飯食ったのか?」
仁科「はい。今日は、お弁当を作って持ってきていたので」

三人の座っているところを見てみると、弁当箱が三つ、ナフキンで包まれて置かれていた。

159: 2012/04/06(金) 19:55:39.01 ID:cZmeGaaU0
原田「仁科のお弁当って、すごくおいしいんですよ!ちょっとびっくりしちゃった」
朋也「そうなのか。俺もちょっと食ってみたかったな」
仁科「岡崎さんがもう少し早く来ていれば、残っていたんですけどね」
杉坂「りえちゃん、今度から岡崎さんの分も作ってきてあげればいいじゃん」
仁科「えっ?私が?」

仁科が、意表を突かれたように上ずった声で答える。

原田「仁科が作った弁当なら、岡崎さんも喜んで食べてくれるんじゃない?ね、岡崎さん?」
朋也「そうだな……。仁科さえ良ければ、食べてみたいな」
仁科「えっと……その……。……わ、私なんかが作った弁当で良ければ……お作りしますけど……」
朋也「本当かっ!じゃ、明日楽しみにしてるなっ!」

思わぬ楽しみが出来た。

仁科「あの……岡崎さん……あんまり期待しないでくださいね……」
朋也「いや、すっげえ楽しみにしてくるよ」
仁科「あぅ……」
杉坂「頑張れ、りえちゃん!」

161: 2012/04/06(金) 19:57:56.85 ID:cZmeGaaU0


午後の授業、HRと終わり、放課後になる。

朋也(最近は、春原の相手もあんまりしてやれていないな……)

隣の席を見る。そこに春原の姿はなかった。

朋也(今日の夜は行ってやるかな……)

とりあえずは、放課後を楽しもうと思った。

昼休みにも訪れた合唱部の部室。そのドアは、なぜか少しだけ開いていた。

朋也(あれ……?)

おかしい。仁科たちがこんなにだらしないことをするはずがない。違和感を覚えながら、部室の中を覗く。
中では、仁科が一人でなにやら思い悩んでいるようだった。声をかけようとは思ったが、なぜかためらってしまう。
仁科の視線の先。そこには、最近はずっと使用されずに置かれていたヴァイオリン。
周りを気にしているのだろうか。キョロキョロと辺りを見回す。
俺はとっさに見つからないように隠れながら、その様子を伺っていた。
一呼吸置いて、仁科はヴァイオリンに手を伸ばした。

162: 2012/04/06(金) 19:59:26.37 ID:cZmeGaaU0
朋也「……っ!仁科っ!」

163: 2012/04/06(金) 20:00:50.97 ID:cZmeGaaU0
思わず、その名を呼んでしまった。

仁科「……っ!岡崎さん……」

びくっとして、俺の方を見る仁科。何かに怯えるような、そんな顔をしていた。

朋也「おまえ……なにしようとしてたんだよ……」
仁科「えっと……その……こ、これは……」

必氏に言い訳を考えているのだろうか。しどろもどろしながら、何かを伝えようとする。

朋也「落ち着け、仁科。俺は、別に怒ってるわけじゃない……」

取り乱している仁科を、落ち着かせる。

仁科「すみません、岡崎さんっ……すみません……」

涙声で、俺に謝ってくる。

164: 2012/04/06(金) 20:03:26.22 ID:cZmeGaaU0
仁科「………………。すみません、岡崎さん……」

ようやく落ち着いたのか、仁科から話しかけてくる。

朋也「別に謝る事じゃない。それより、さっきはなにをしようとしてたんだよ」
仁科「………………」

黙りこくる。よっぽど言いにくいことなのだろうか……。

仁科「……少し長くなりますが、いいですか?」
朋也「ああ」
仁科「実は、この子……この学校のものじゃないんです。少し前の卒業生が置いていったもののようで、音楽室の片隅で埃をかぶっていたんです。それを……たまたま、私が見つけたんです」
朋也「………」
仁科「最初は、なんて残酷なものがあるんだろう……、そう思いました。でも……、この子を見ていると、昔を思い出してしまったんです。
   事故にあうよりも、もっと前を。何ひとつ気にせずに、ヴァイオリンを自由に弾くことが出来ていた頃を……。気がついたら、この子を持って職員室まで来ていました。
   音楽室を管理している担当の先生を訪ねたんです。そしたら、この子を置いていった卒業生を探すって……。だから、それまでは自由に使ってもいいといってくれました。
   ……うれしかったんです。少しの間でも、私の手元にこの子がいることが。だから、つい演奏してしまったんです。私の握力が完全に弱る前までなら、演奏することができるから……。
   でも、ついさっき、その先生から連絡がありました。この子の元の持ち主が……見つかったって……」

165: 2012/04/06(金) 20:05:47.51 ID:cZmeGaaU0
朋也「………。それで、そのヴァイオリンは、その持ち主に返してしまうのか?」
仁科「……はい。だから、返してしまう前に、もう一度だけ。もう一度だけでも、演奏したいんです」

そう考えるのは、当然かもしれなかった。今まで、叶うと信じて疑わなかった自分の夢。
その夢を、たった一つの出来事で、いとも簡単に断ち切られてしまったのだ。自分の夢を簡単に諦めるのは、出来ないのは当然だろう。
俺だって、叶うならもう一度何不自由なくバスケがしたい。だから、その仁科の気持ちは痛いほどよくわかってしまった。

朋也「……でも、それだけじゃないんじゃないのか?お前自身、もう一度、何も気にせず自由にヴァイオリンを演奏したい、そう思ってるんじゃないのか?」

だから、自分の思ったことを聞いた。仁科は、俺のその言葉を受け、少しびくっとする。

仁科「……でも、私のその想いはもう叶わぬことだとわかっていますから……」

うつむき気味にそれだけ答える。

166: 2012/04/06(金) 20:07:45.65 ID:cZmeGaaU0
朋也「病院で手術とかはできないのか?」
仁科「お医者様が言うには、手術が成功したら握力は完全に元に戻るそうです。でも……手術を受けるためには、お金がたくさん必要だって言われて……。
   私の家は、もともとあまり裕福な家庭じゃないんです。ですから、私なんかのために、そんなお金を使うのは……。それに、成功するかもわからないんです。
   確率は五分五分だろうって。成功したら元に戻りますけど、失敗してしまったら……ヴァイオリンを演奏するどころか、日常生活にも支障を及ぼすだろうって言われてしまって……。
   私は、手術で失敗するくらいなら、今のままで良いと思ってしまいました。
   失敗して今すぐ弾けなくなるよりは、いずれ弾けなくなる日がくると自覚しながら、それでもヴァイオリンを演奏できる手と共に暮らそう……って……」

仁科は話しながら、自分の右手を悔しそうな、悲しそうな、しかしそれでいて諦めきったような、そんな目で見ていた。
どうやら、その決意は簡単には変わりそうになかった。

167: 2012/04/06(金) 20:08:36.29 ID:cZmeGaaU0
朋也「……要するに、家族に迷惑をかけずに手術を受ける方法があればいいんだな?」
仁科「えっ……?」
朋也「その、手術に必要な金額って、いくらぐらいかわかるのか?」
仁科「えっと……カバンの中に、見積書が入っています」
朋也「見せてくれ」

カバンから出した一通の紙を見せてもらう。

朋也「…………」

確かに、中途半端な金額ではなかった。今すぐ払える金額ではない。

168: 2012/04/06(金) 20:09:58.69 ID:cZmeGaaU0
朋也「……仁科。お前は……今は、どうしたいんだ……?」
仁科「えっ……?その、どう、と言いますと?」
朋也「今でも、その想いは変わらないのか?手術をして、もう一度何ひとつ気にせず自由にヴァイオリンを演奏したいとは思わないのか?」
仁科「言ったはずです。家族に迷惑はかけたくないですし、なにより失敗してしまうのが恐いんです……。
   ですから、そのことはあまり考えないようにしているんです」
朋也「おまえの家族とかは関係ない。俺は、おまえに聞いてるんだ、仁科。おまえ自身は、手術を受ける気はあるんじゃないのか?
   考えないようにしているだけで、心の中ではそう思っているんじゃないのか?
   もう諦めたように言って……こんな紙を未だに持ち歩いていたら、説得力ないぞ」
仁科「……私は……っ」

返答に詰まっている。やはり家族に引け目を感じているだけなのだろう。

169: 2012/04/06(金) 20:12:22.13 ID:cZmeGaaU0
朋也「おまえは……謙虚すぎるんだよ……。自分の願望を持ちながら、周囲のことを気にしすぎて、その願望を叶えられない。
   たぶん、演劇部の時だって、向こうが引かなかったらおまえは引いていただろう?さっきだって、人目を気にしてなかなか手を出せずにいたんじゃないか。
   もう少し、わがままになってもいいんじゃないのかって思うぞ、俺は」
仁科「………。でも……」
朋也「自分の願望を言ってみろ。俺は、おまえのために行動してやる。約束しただろ?
   俺が力になれることがあったら、力になってやるって。家族に引け目を感じているというなら、その手術代も、俺が何とかしてやる」
仁科「そんなっ……悪いです、岡崎さんに……」
朋也「前にも言っただろ?俺は、俺がやりたいから、そうするんだ」
仁科「………」
朋也「俺の今の目標は、おまえの行きつく先を見ることだ。おまえは、俺と同じ境遇に立たされながら、新しい目標を見つけて、頑張ろうとした。
   でも、最初に持っていた夢も諦められない。そりゃそうだ。俺だって、夢を諦めるのは辛かったからな」
仁科「そう……ですか」
朋也「言ってみてくれ、仁科。おまえは、なにがしたいんだ?」
仁科「……私は……」

言葉を探すように言う。

仁科「……もう一度、ヴァイオリンを自由に弾きたいですっ!」

なんとか、それだけを喉の奥から搾り出した。

170: 2012/04/06(金) 20:14:38.09 ID:cZmeGaaU0
朋也「そうか。なら、俺はおまえのために行動する」
仁科「岡崎さん……。前にも聞いたと思いますけど、もう一度聞いてもいいですか?」
朋也「なんだ?」
仁科「岡崎さんは、どうして私のためにここまでしてくれるんですか?」

それは確かに、前にも聞かれた質問だった。前は……なんて答えたっけな……。
今は、答えは決まっていた。

朋也「おまえは、その質問にどんな答えを期待しているんだ?」
仁科「えっと……別に期待している答えは……ありませんが」

言いよどむ。しかし、なんとなくその答えはこいつもわかっているんだろう。
しかし自分からは言い出せないから、俺に言わせようとしているのだ。

朋也「……ったく、卑怯な奴だな、おまえは……」

仁科の頭に手を乗せて言ってやる。仁科は、期待通りの反応を示して見せた。

仁科「あの……。それで、どうなんですか……?」
朋也「決まってる。誰だって、自分の大切な人が幸せになってくれたら嬉しいだろ?俺もそうだ。俺の大切な人……仁科りえという人が幸せになってくれたら、俺は嬉しい。それだけだ」

手を乗せたまま、そう答える。すると仁科は、みるみる顔を赤くする。

仁科「~~~……。そ、それは……岡崎さんにとって……私は大切な人……ということでしょうか……?」
朋也「ああ、そうだ。俺は、仁科……いや、りえ。おまえのことが好きだ」
りえ「~~~~~~~っ!」

声を詰まらせる。

171: 2012/04/06(金) 20:15:26.77 ID:cZmeGaaU0
朋也「今は……これだけ言っておくよ」

りえの頭から手を降ろす。

りえ「え……。……その……私はどうすればいいのでしょうか……?」

顔を赤くしながら、困ったような表情で聞いてくる。

朋也「別にどうもしなくていいよ。俺の気持ちを言いたかっただけだからな。おまえは、その俺の気持ちを覚えていてくれればいい」
りえ「~……はい。わかりました」

172: 2012/04/06(金) 20:16:54.61 ID:cZmeGaaU0
部室を出て、職員室に向かう。今まで部室の片隅に置かれていたヴァイオリンを持って。

朋也「本当に、いいのか?少しくらいなら、演奏したっていいと思うぞ」
りえ「いえ。これ以上、この子に未練を残していても仕方ありませんから」
朋也「遠慮するなよ。さっきも言っただろ?おまえはもう少し、わがままになってもいいはずなんだ」
りえ「いいと言ったら、いいんです」

頑なに拒否する。意外と頑固な奴だった。恐らく、もう俺がなにを言っても聞かないだろう。

朋也「そうか……」

仕方なく、俺が引き下がる。

173: 2012/04/06(金) 20:18:39.56 ID:cZmeGaaU0
教師にヴァイオリンを渡し、学校を後にする。

朋也「今日は、あのふたりはもう帰ったんだな」
りえ「はい。部活動がないから、早くに帰って遊びに行くって話していました。私も誘われたんですが、断ってしまいました」
朋也「そっか」

これからのことを考える。りえの手術代を手に入れるには、やはりバイトしかないだろう。
しかし、中途半端なバイトではなかなか集まらないのは目に見えている。

朋也(どうするかな……。そういや、前に電気工事の仕事を手伝ったことがあったっけ……)

少し前のことを思い出す。

朋也(あの人……芳野さんっていったかな……。芳野さんにまた会うことが出来たら、バイトで働くことが出来るんだけどな……)
朋也「りえ」

そう呼ぶ。りえは、呼ばれなれないのか、ぎこちなく返事をする。

りえ「は、はいっ?なんですか、岡崎さん」

朋也「悪いけど、今日は先に帰ってくれるか?ちょっと、野暮用を思い出した」
りえ「え?あ、はい。わかりました」

174: 2012/04/06(金) 20:19:35.88 ID:cZmeGaaU0
朋也「あとさ、もうひとつ、いいか?」
りえ「? なんですか?」
朋也「その、『岡崎さん』って呼ぶの、やめてくれないかな?俺のことは、朋也でいい」
りえ「……え?とっ……朋也さん……ですか?」
朋也「『さん』も邪魔だな。呼び捨てで構わないぞ」
りえ「いっいえ!呼び捨てはさすがにその……は、恥ずかしいです……。そ、それに……年上、ですし……。や、やっぱり……と、朋也さん……で、いいですか?」
朋也「その方がしっくり来るな。今度からはそう呼んでくれ」
りえ「~~~……。……はい、わかりました。……と、朋也さん」
朋也「よし。じゃ、行ってくるな」

それだけ言い残し、りえと別れる。

175: 2012/04/06(金) 20:21:42.37 ID:cZmeGaaU0
当てもなく道を練り歩く。

朋也(こうやって適当に歩いてれば、見つかると思うんだけどな……)

前に会った時のことを思い出す。

朋也(あの時は……確か、寮に向かって歩いてるときだったっけな。……そうだ!)

そこで思い出した。

朋也(名刺を貰ったんだったな。それに電話番号くらい載っているんじゃないのか?)

名刺は確か……春原に見せてから……。……覚えていない。

朋也(春原に渡したっきりじゃないのか……?)

とりあえずは、一度家に帰ってからだな……。

176: 2012/04/06(金) 20:23:44.79 ID:cZmeGaaU0
家の中へ入る。居間には行かず、真っ直ぐに自分の部屋へと向かう。

朋也(もしかしたら、どこかに置き忘れているかもしれないな……)

自分の部屋を軽く探してみる。が、見つからない。

朋也(やっぱり、春原に見せたっきりだな……)

簡単に準備を済ませ、家を後にする。


寮へと向かう道の途中。

朋也(確か、この辺りで芳野さんと会ったんだよな……)

本人に出会えれば、一番手っ取り早いのだが……。

朋也(そんなにうまくはいかないか……)

177: 2012/04/06(金) 20:24:43.82 ID:cZmeGaaU0
春原の部屋に着く。ノックもせずに入る。

朋也「考えてみたら、おまえの部屋に来るのも久しぶりだな……」
春原「別に、無理して来る必要もないんだけど……」
朋也「そう言うなよ。今日は、用があってきたんだし」
春原「用事ぃ?なんだよ」

春原が、怪訝そうな顔で聞いてくる。

朋也「この前、電気工の人から貰った名刺を見せただろ?あれ、どこやった」
春原「ああ、あれ?あれなら、確か……」

ラジカセの隣に置いてある引き出しを引く。

春原「これだろ?」

一枚の紙切れを渡される。その紙には、会社名、人の名前、そして電話番号が書かれていた。

178: 2012/04/06(金) 20:26:47.17 ID:cZmeGaaU0
朋也「そうそう、これだ。てか、なんでおまえが持ってるんだよっ!」
春原「おまえが持って帰らなかったから、仕方なく置いておいたんだよっ!どっちかと言うと、捨てずに取っておいた方に感謝しろよっ!」
朋也「ちっ……」

感謝の言葉も出さず、舌打ちだけしてやる。

春原「おまえって、性格悪いよね……」
朋也「ああ、悪かったな。じゃ、これ持って帰るからな」
春原「えっ?もう帰るのか?」
朋也「俺は暇じゃないって言ってるだろ。じゃあな」

それだけ言い残し、春原の部屋を後にする。

179: 2012/04/06(金) 20:29:47.61 ID:cZmeGaaU0
道の途中にある公衆電話で、名刺に書かれている電話番号に掛ける。
何回かのコール音の後、若い男の声が電話口に出る。

声「はい、芳野ですが」
朋也「あ、芳野さんですか。俺っす。岡崎っす」
芳野「岡崎……?ああ、この前手伝ってくれた……。どうした?俺になにか用か?」
朋也「ちょっと電話じゃあれなんで、会って話がしたいんですけど。今、どこにいるんすか」
芳野「今、仕事が終わって事務所にいる。なら、どこかで待ち合わせるか?」
朋也「はい。じゃあ、この前会った場所で待ってるっす」
芳野「ああ、わかった。すぐに行くな」

電話を切る。

朋也「……よし」

最初は少々行き詰ったが、何とかなりそうだ。待ち合わせの場所に向かう。

待ち合わせの場所に着く。当然だが、芳野さんはそこにはいなかった。その場で待つ。
少しすると、軽トラが走ってきて、俺の近くで停車する。

180: 2012/04/06(金) 20:31:40.69 ID:cZmeGaaU0
芳野「よう」

軽トラの運転席から、芳野さんが出て来る、

朋也「ちっす」
芳野「で、なんだ?話って」
朋也「えっと……唐突な話なんですが、俺をバイトで雇って欲しいんです」
芳野「え、マジか……」
朋也「迷惑ですか?」
芳野「いや、アルバイトでも入ってくれれば助かるが……」
朋也「お願いします」

頭を下げる。こんなに人に頼みごとをしたのは、初めてかもしれない。

芳野「とりあえず、親方に話を通さないとな。今から、時間あるか?」
朋也「大丈夫っす」
芳野「よし。じゃあ、助手席に乗れ。今から事務所まで行く」

軽トラの助手席に乗り込む。軽トラはエンジン音を響かせ、走り出した。

181: 2012/04/06(金) 20:33:57.07 ID:cZmeGaaU0
芳野「しかし、なんでまた急にアルバイトなんて言い出したんだ?この前に働いたときの給料がそんなによかったか?」
車を運転しながら、芳野さんがたずねてくる。
朋也「いや、それもありますけど……。お金が必要なんです」
芳野「なにかあったのか?」
朋也「俺の大事な人が、手術を受けるんです。その、手術代っす」
芳野「おお、そうかっ。おまえにも、大切な人がいるんだな。うん、その気持ちはわかるぞ。よし、親方には俺から説明してやろう」

芳野さんは、なにやらうれしそうだった。
しかしこれで、話はスムーズに進みそうだった。芳野さんに話してよかった。

182: 2012/04/06(金) 20:34:43.56 ID:cZmeGaaU0
芳野「こちら、この前に手伝ってくれた、えっと……」
朋也「岡崎朋也っす」

下の名前は伝えていなかったから、自分でそう自己紹介をする。

親方「おお、君が。話は芳野くんから聞いているよ。若いのに、体力のある使える奴だってね」
朋也「どうもっす」
親方「で、今日はどうしたんだい?」
芳野「それについては、俺から……」

芳野さんが、事の一部始終を話してくれる。親方は、黙ってその話を聞いていた。

芳野「どうでしょうか?こいつを、雇ってくれますか?」
親方「もちろんだよ。岡崎くんが入ってくれれば、芳野くんの負担も少しは軽くなるだろうからね」
朋也「どうもっす。きびきび働くっす」
親方「うん。頑張ってくれよ。作業着とかは、また次に渡すから」
朋也「ありがとうございます。じゃ、今日はこれで失礼します」

一礼をして、その事務所を後にする。

183: 2012/04/06(金) 20:35:43.03 ID:cZmeGaaU0
芳野「ここから、歩いて帰れるのか?なんなら、送っていくぞ」

事務所を出たところで、そう言われる。

朋也「これ以上、芳野さんに迷惑はかけられないっす。それに、そんなに遠くないっすから」
芳野「そうか。ま、明日から頑張ってくれよ。この事務所に来てくれればいいからな」
朋也「はい」

芳野さんとも別れ、家へと歩き出す。辺りは、すっかり日が落ちて暗くなっていた。

184: 2012/04/06(金) 20:37:25.21 ID:cZmeGaaU0


朋也(あ~……今日から、バイトだな……)

朝。相変わらずだるい体を起こしながら、そんなことを考える。

朋也(りえの為だ……頑張らなきゃな……)

学校は遅刻しても良いだろうかとも思ったが、りえが待っているだろうからそれも出来ない。

朋也(仕方ない……学校で寝るか……)

体を起こし、着替える。

185: 2012/04/06(金) 20:38:47.34 ID:cZmeGaaU0
りえ「岡崎さん、おはようございます」

なんの違和感もためらいもなく、そう挨拶してきた。

朋也「あれ~、おかしいな?昨日、言ったはずなんだけどなぁ」

わざとらしくそう言って、思い出させてやる。

りえ「あっ……そ、その……お、おはようございます。……と……、朋也、さん……」
朋也「ああ、おはよう、りえ。忘れるなよ?今度からは、そう呼ばないと返事しないからな」
りえ「~~~……で、でも、その……は、恥ずかしいですし……」
朋也「昨日、俺の気持ちを言ってやっただろ?その時の俺の方が、よっぽど恥ずかしかったぞ」
りえ「っ!!」

そこまで言うと、ぼんっとりえの顔が真っ赤に染まった。なるべく考えないようにしていたのだろうか。

朋也「ほら、いつまでもそこにいたら遅刻するぞ」

思考が停止しているりえの手を引っ張って、歩き始める。

186: 2012/04/06(金) 20:40:35.20 ID:cZmeGaaU0
今まで顔を下に向けて歩いていただけのりえが、ようやく言葉を発した。

りえ「あ、あの……岡崎さん……」
朋也「……」

気にせず、手を引っ張って歩き続ける。

りえ「……と、朋也さん……?」
朋也「なんだ、りえ」

そう呼ばれて、反応してやる。

りえ「も、もう一人で歩きますので……。そ、その……」

掴まれている手を上げて、濁しながら言う。

朋也「嫌か?」
りえ「いっいえ!別に嫌というわけじゃ……」
朋也「嘘だよ」

そう言って、手を離してやる。からかうのはこの辺にしておこう。
りえは、今まで掴まれていた手を呆けたように見つめている。

朋也「なんだ?あのまま掴んでいたほうが良かったか?」
りえ「そっそういうわけでは……」

慌てて手を降ろす。

187: 2012/04/06(金) 20:41:26.39 ID:cZmeGaaU0
午前の授業は、ほとんど寝ていた。いつ来たのか、隣の席には春原の姿。

朋也「学食、いかないのか?」
春原「なんか、怖くて……」
朋也「ぷっ……」

思わず吹き出してしまう。

春原「笑うなよっ!僕だって大変なんだ!」
朋也「悪い悪い。じゃ、勇気を振り絞って行けな」
春原「おまえは相変わらず合唱部かよ……」
朋也「おまえも来ればいいじゃないか。気にすることなんてなにもないぞ。と言っても、来ないんだろうけどな」
春原「………………」
朋也「じゃあな」

教室を後にする。

188: 2012/04/06(金) 20:43:32.41 ID:cZmeGaaU0
今日は購買には行かず、すぐに部室へと来る。

朋也「相変わらず、だな」

いつものように仲良く三人で座っている。ただひとつ違うのは、りえの弁当と思われるものが2つあった。

朋也「おっ!りえ、作ってきてくれたんだな」
りえ「は、はい。どっどうぞ」

ぎこちない動きで渡してくる。当然だが、そんな俺たちのやり取りを、杉坂と原田に見られていた。

杉坂「なんだか、微笑ましいね。岡崎さんも、りえちゃんも」

杉坂は普通だった。対する原田はにやにやと笑いながら、俺に聞いてくる。

原田「岡崎さ~ん?今、仁科のことをなんて呼びました?」
朋也「え?りえ、だけど?」

普通に答える。原田は、異様にテンションが上がっていた。

原田「あ~~~そう。昨日、一体なにがあったんだろうねぇ?私と望は、早くに帰っちゃったからねぇ」

何かを聞き出すかのように言う。りえは、相も変わらず顔を赤くしてうつむいている。

189: 2012/04/06(金) 20:45:47.77 ID:cZmeGaaU0
朋也「別になんもねぇよ。それより、弁当食おうぜ。俺、腹減ってるんだ」
杉坂「そうだね。それに、食事の最中のほうが、口元も緩むだろうし」
原田「ふふふ、岡崎さん。あたしと望の追求から逃げられると思わないほうがいいですよ」
朋也「なんの追求だよっ!」

弁当箱を開け、箸を手に持つ。三人も、準備を済ませていた。

朋也「じゃ、食うか」
りえ「いただきます」
杉坂&原田「いただきますっ」

りえたちが食べ始める。俺はというと、仁科の作ってくれた弁当を全体的に見渡した。卵焼きに、アスパラのベーコン巻き。
それに、野菜を炒めたものだろうか?全体的にバランスを考えて作られているようだった。とりあえず卵焼きを一つ箸で持ち上げ、口に放り込む。

朋也「うん、うまい」
原田「ふふん、でしょ?」

何故原田が得意げなのかはわからないが、りえの弁当はなかなかに旨かった。
購買でパンを買うよりかは、こちらのほうが断然いい。

朋也(って、比べたら失礼だな)

心の中で反省する。

190: 2012/04/06(金) 20:47:00.91 ID:cZmeGaaU0
夢中になって食べていると、視線を感じる。その方向に視線をやると、りえが箸を止めて俺の様子をじっと見ていた。

朋也「どうした、りえ?腹、減らないのか?」
りえ「いえ、そういうわけじゃ……。……お弁当、おいしいですか?」

おずおずと聞いてくる。

朋也「ああ、旨いぞ」

俺がそう答えると、りえはまたも顔を赤らめてうつむいた。

朋也「?」
りえ「そ、その……ありがとうございますっ」

早口で言うと、りえも弁当を食べ始めた。

朋也(別に、恥ずかしがること無いんじゃ……)

そう思ったが、声には出さなかった。

191: 2012/04/06(金) 20:48:39.17 ID:cZmeGaaU0
~~~

朋也「うまかった。ありがとうな、りえ」

食べ終えて片付けた弁当箱を、りえに渡す。

りえ「いえ、朋也さんが喜んでくれたなら、私も嬉しいです」

俺とりえの様子を見て、杉坂と原田が何かを分析するように話している。

杉坂「どう、叶絵?あの二人の仲は?」
原田「望……。個人的見解では、あの二人は既に……ゴニョゴニョ……」

最後のほうは耳打ちで話す。

杉坂「まっまさか……あのりえちゃんが……?」
原田「少なくとも、あたしはそう見るね」

192: 2012/04/06(金) 20:49:44.74 ID:cZmeGaaU0
朋也「なんの話をしてるんだよ……?」
原田「岡崎さんっ!」

原田が威勢よく呼んでくる。

朋也「なんだよ」
原田「単刀直入に聞きます。仁科の唇は、どうでしたか!?」
朋也「………………」
りえ「っっっ!!!ちょっっっ……ちょっと、原田さんっっ!!な、なにを言い出しているんですかっっ!?!?」

先にりえが取り乱す。俺は、アホのように呆けていた。

杉坂「こ、このりえちゃんの慌てようは……やっぱり……?」
原田「ええ。ほぼ間違いないようね。で、岡崎さん?どうなんですか?」
朋也「……え?あ、ああ……」

そこで我に返る。

193: 2012/04/06(金) 20:51:29.15 ID:cZmeGaaU0
朋也「別にどうとも言えないな。というか、質問の意味がわからないんだが」
原田「だから、仁科とキスした感想はどうだったんですかって聞いているんです」
朋也「キス?俺がっ?りえとっ!?してるわけないだろっ!なにを言い出すんだ、おまえは」

ようやく質問の意味を理解する。

朋也「ってか、なんでいきなりそんな質問をするんだよ!?」
原田「いやぁ~、だって、昨日から呼び方とか、変わってるし……。ねぇ?」

杉坂のほうに視線を向けた。

杉坂「ええ。岡崎さん、昨日となにか様子が違いますよ。それに、りえちゃんも」
原田「仁科と付き合い始めたんですよね?岡崎さん。それで、強引に唇を奪ったりとか……」
朋也「するわけないだろっ」
りえ「それ以前に、付き合っていませんっ!」

りえが力いっぱい否定する。少し、悲しかった(当然と言えば当然なのだが)。

杉坂「あれ?そうなの?ってことは……叶絵ぇ~」

杉坂が原田に視線をやる。

原田「あ、あれぇ~?お、おかしいな。あ、あはは……」

原田が力なく笑う。

194: 2012/04/06(金) 20:53:39.22 ID:cZmeGaaU0
杉坂「でも、じゃあ、昨日は放課後なにがあったんですか?なにもなしにいきなり呼び方が変わるなんて事、ないですよね?」
朋也「……あ~」

りえの方を見る。これくらいなら、言っても大丈夫だろうか……?

朋也「いや、付き合ってないのは本当だ。ただ……その……」

俺がりえに好きだ、と告白した……なんて、恥ずかしくて言えない。
だから、濁して答えることにした。

朋也「俺の気持ちをりえに伝えただけだ」
杉坂「その気持ちって?」

わざわざ濁して答えたと言うのに、杉坂と原田はずばずばと聞きやがる。

朋也(仕方ない……答えるか……)

195: 2012/04/06(金) 20:55:16.24 ID:cZmeGaaU0
朋也「そ……その……。お、俺が仁科のことを……好きだ……ってことを……な」

今りえと呼ぶのは恥ずかしすぎるから、思わず仁科、と言ってしまった。そのりえは、顔を真っ赤にして俯いている。

原田「やっぱり付き合ってるんじゃないですかぁ~!」
朋也「いっいや、付き合ってはいないんだ。ただ、俺の気持ちをりえに覚えておいてもらいたいだけだったから……。な、りえ?」

自分ひとりでは間が持たないから、ついりえに振ってしまった。

りえ「あっえっあ……は、はい、その通りです」
杉坂「なーんだ」
原田「ちょっと期待しすぎちゃったなー」

あからさまにがっかりする二人。いじられた俺たちはどうすればいいんだ……?

196: 2012/04/06(金) 20:55:55.92 ID:cZmeGaaU0
昼休みが終わり、教室へと戻る。春原は、席に座っていた。

朋也「めずらしいな、おまえが……」

言いかけて、止める。春原の目は、虚ろだった。

朋也「………」

昼飯を食べていないのだろう。さすがに、少し哀れだった。

197: 2012/04/06(金) 20:56:48.02 ID:cZmeGaaU0
~~~

午後の授業、HRが終わり、放課後になる。
春原は、意識があるのかないのかはわからないが、ずっと上半身を起こしていた。
ただし、ぴくりとも動かない。

朋也(こんな奴の相手、いちいちしてられない……)

放っておくことにした。

198: 2012/04/06(金) 20:58:09.26 ID:cZmeGaaU0
一度、合唱部室に顔を出す。今日は、三人とも揃っていた。

朋也「よぅ」
りえ「あ、岡……いえ、朋也さん」

言い直していた。それを、杉坂と原田は昼と同じようににやにやと笑いながら聞いていた。

朋也「悪いんだけど、今日からしばらくは放課後顔を出せそうにない。俺が来なくても、構わずに活動してて構わないからな」
りえ「はい、わかりました」
杉坂「いいの、りえちゃん?」
りえ「いいんです、杉坂さん。朋也さんも、忙しいんですよ、きっと」
原田「ほほう。さては、なにかあったね?詳しく聞かせてもらおうか」

三人の微笑ましい光景を最後に目に焼きつけ、合唱部室を後にする。

199: 2012/04/06(金) 20:59:20.95 ID:cZmeGaaU0
家に帰らず、昨日行った事務所にそのまま向かう。

朋也(頑張らなきゃな……)

心の中に強い思いを秘めて、事務所へと向かう。


事務所の中に入る。中では、芳野さんと親方がいた。そして机の上には、作業着が置かれている。

朋也「どうもっす」
親方「おお、来たか。待っていたよ。早速なんだが、この作業着に着替えてもらえるかな。
   あっちが、ロッカールームだからね。もう、君の名前の入ったロッカーもあるよ」

ロッカールームへと案内される。

作業着に着替え、再び事務所へと戻る。

親方「じゃあ、芳野くんについていってくれ」
朋也「わかりました」

芳野さんのほうを向く。

朋也「よろしくおねがいします」
芳野「ああ、よろしく。じゃあ、行くか」

親方に見送られ、事務所を後にする。

200: 2012/04/06(金) 21:00:39.99 ID:cZmeGaaU0
このバイトは、仕事自体は難しいものではなかった。
アルバイトと言うことだから、詳しい仕事内容などを教えられるとかはなく、ただ芳野さんの指示に従うのみ。
しかし、やはり力仕事であるのは間違いなかった。汗だくになりながらも、一生懸命指示に従った。

~~~

芳野「よし、今日はこれでおしまいだ」
朋也「お……おっす……」

体中クタクタだ。学校が終わってからこの仕事をするのは、予想以上に辛いものかもしれない。

芳野「じゃ、事務所に帰るぞ。車に乗れ」
朋也「は……はい……」

芳野さんは相変わらず涼しい顔をしている。あんなに激しい仕事を何件もこなしたのに。

201: 2012/04/06(金) 21:01:25.81 ID:cZmeGaaU0
車の中で、芳野さんに話しかけられる。

芳野「しかし、よく初日で文句を一言も言わずに仕事をこなせたな。正直言って、驚いたぞ」
朋也「え、そうっすか?」
芳野「俺なんかこの仕事を始めた当初なんか、文句ばかりだったからな」

この人が文句を言うところなんか、想像できなかった。

朋也「芳野さんなら、なんとなくわかるんじゃないですか?」
芳野「なにがだ?」
朋也「俺が文句も言わずに仕事をしていた理由ですよ」
芳野「……愛する人の為、か……。ふっ……そうだな。人は支えられるからこそ、強く、生きていくことが出来るんだ……」

最初はくさいセリフをいう人だ、と思っていたが、今はそのセリフも頷いてしまうような気持ちになってしまう。
しかし、運転中に片手を顔にかざすのはやめて欲しい。

202: 2012/04/06(金) 21:03:13.11 ID:cZmeGaaU0
着替えを済ませ、事務所を出る。

芳野「送っていこうか?」
朋也「すんません……助かります」
芳野「遠慮するな。こっちも助かっているんだからな」

助手席に乗せてもらい、家まで送ってもらう。


芳野「じゃあな、また明日。ちゃんと来いよ?」
朋也「言われなくても、行きますよ。来るな、と言われても来ちゃいそうな気持ちなんですから」
芳野「ふっ……それだけ言えれば大丈夫そうだな」

そういうと、車の窓を閉めて、走り去った。



自分の部屋に入る。制服から寝巻きに着替えると、そのままベッドに倒れ伏す。
今日は本当にクタクタだ。春原の部屋に行く元気もないから、今日はこのまま寝てしまおう……。

203: 2012/04/06(金) 21:04:34.62 ID:cZmeGaaU0


………………。
体中がだるい。昨日のバイトのせいだ。

朋也(なんで、こんなに頑張っているんだろう……俺……)

唐突に浮かんだ疑問。そう、俺は……りえの為に、頑張っているんだ。俺の好きな人、仁科りえの為に。
こんなところでいつまでも寝ているわけには行かない。

朋也(くそ、言うことを聞けっ俺の体っ!)

自分の体に鞭打ち、体を起こし上げる。

204: 2012/04/06(金) 21:05:45.56 ID:cZmeGaaU0
りえ「おはようございます、朋也さん」

いつものように、挨拶をしてくるりえ。今朝は、呼び方を間違えることはなかった。

朋也「ああ、おはよ」

りえには悟られないよう、せめてりえの前でだけは普通にいよう。
りえに気付かれ、やめてくれと言われたら、多分俺は断れないだろうから。ふたりで、登校する。

205: 2012/04/06(金) 21:08:14.78 ID:cZmeGaaU0
教室では、珍しく春原がすでに席に座っていた。

朋也「珍しいな、こんな時間にいるなんて」
春原「岡崎か……」

普段の春原らしくない、真面目な顔をして話掛けて来る。

朋也「なんだ、どうかしたか?」
春原「おまえ、バイトでも始めたのかよ?」
朋也「バイト?ああ、始めたけど。なんでだ?」
春原「あっさりと認めますねぇ。昨日、作業服を着たおまえを見かけたからな……」
朋也「そうかよ。で、それがどうかしたか?」
春原「それはこっちのセリフだよ。今まで合唱部の奴らとつるんでたと思ったら、いきなりバイトを始めるなんて。なにがあったんだ?」

いつになく真剣な表情で聞いてくる春原。俺も一部始終を真面目に答えてやった。

春原「ふぅん……。おまえもずいぶんその合唱部の部長にご執心だねぇ。まさか、やっぱり付き合ってるとか?」

相変わらず勘繰ってくる。こいつになら、俺のことを話してもいいかもしれないな。

朋也「誰にも言うなよ?」

先にそう念を押し、俺の本当の気持ちを言ってやった。

206: 2012/04/06(金) 21:09:51.45 ID:cZmeGaaU0
春原「………………」

春原は絶句していた。

朋也「おい、なんか言えよ。恥ずかしいじゃねぇか」
春原「あの岡崎が、こんなに一途だったなんて……。意外だったよ……」
朋也「そうかよ……」

そう言いながら、春原から目を逸らす。

春原「でも、なんか納得だね。その部長さんも、幸せものだねぇ」
朋也「茶化すなよ……。ま、おまえの部屋に行くこともこれからはしばらくないだろうから。寂しくて氏ぬなよ」
春原「はいはい、わかったよ。ま、頑張れよな、岡崎」

軽い口調で言うが、その春原の気持ちは嬉しかった。

朋也「ああ」

それだけ返事をする。普段はバカをやりあっている仲だが、春原は俺の大切な友人だ。それだけは間違いなかった。

207: 2012/04/06(金) 21:12:00.70 ID:cZmeGaaU0
放課後。今日も、事務所へと向かう。正直かなり憂鬱だったが、行かないわけにもいかなかった。

芳野「おっ来たな……」
朋也「当たり前じゃないですか。だって……」
芳野「愛する人の為に、だな」
朋也「はい」
芳野「よし、じゃ、行くぞ」


相も変わらず、芳野さんの指示に従い働く。
昨日の疲れが残ってはいるが、そんなことで手を抜いていられない。
がむしゃらに、働き続けた。


芳野「じゃあ、おつかれ。ゆっくり、休めよ。じゃないと、体がもたないぞ」

それだけ言い残し、芳野さんの運転する軽トラは走り去った。

朋也「………」

芳野さんの言うとおりだった。体のあちこちが、悲鳴を上げている。
しかし、この仕事にもいつかは慣れるだろう。今はただ、筋肉痛と闘うだけだ。

朋也「はぁ」

ため息をひとつつきながら、家の中に入る。

208: 2012/04/06(金) 21:14:20.17 ID:cZmeGaaU0
玄関には、父の姿があった。
……いつもは、居間の壁によりかかって気絶するように寝ている父の姿が。

親父「おかえり、朋也くん」

なんで、このタイミングで現れるのだろう、この人は。

親父「こんな時間に帰ってくるなんて、珍しいね」
朋也「なんだよ、親父……。俺、疲れてるんだよ……」

この人とはあまり話をしたくない。

親父「なにか、バイトでも始めたのかい。昨日も、疲れ果てて寝てたみたいだったけど」
朋也「ああ、まぁな……」
親父「そうかい。朋也くん、大変だねぇ。なにか、お金が必要なのかい?」

いつもなら切れて自分の部屋に行くのだが、今はそんな元気もなかった。だから、親父の質問に答えるしかなかった。

朋也「ちょっと、友人の関係でな……」
親父「そうか……。朋也くんは、友達のために頑張っているんだね。もう……立派にお金を稼いでいるんだね……」

そう言うと、親父は遠い目をした。

朋也「……俺、疲れてるからもう寝るよ」
親父「ああ、おやすみ。朋也くん」

それだけ言い残して、親父は居間へと戻っていった。口の端に、わずかに微笑を浮かべていたように見えた。

217: 2012/04/13(金) 09:48:48.99 ID:jVKw7bQx0



   ~りえ~



218: 2012/04/13(金) 09:49:46.61 ID:jVKw7bQx0
それからは、学校とバイトでいっぱいいっぱいの日々だった。
学校のある日は昼休みはりえたちと過ごし、放課後はバイト。休みの日は、一日中町を回り、バイトをした。

学校の創立者祭も、りえや杉坂、原田たちと一緒に過ごした。
相変わらず春原は文句を言っていたが、合唱部に顔を出すことはなかった。

やがて、俺がバイトを始めて、ひと月が流れた。今までにもバイトをしたことはあったが、現金でそのまま受け取るのは、なんだか感動した。
しかし、りえの手術代にはこれだけではとても足りなかった。

219: 2012/04/13(金) 09:50:30.65 ID:jVKw7bQx0
親方「岡崎くんは、どれぐらいのお金が必要なんだい?」

ある日、親方にそう聞かれた。

朋也「えっと……これくらいっす」

紙に書いて、親方に見せる。

親方「ははぁ~。ずいぶんかかるんだねぇ、その手術ってのは」
朋也「はい。事故にあった当初はもう少し安かったらしいんですが、今では傷口もふさがっていて、高くなっているらしいっす。
   だから、この額にさらにいくらか上乗せできるくらいまでは働こうと思います」
親方「そうかい。ま、岡崎くんがいてくれれば、私たちも助かるからねぇ。なんだったら、学校を卒業したらここに働きに来るかい?
   岡崎くんくらいの体力を持っている人だったら、バイトだけでなく正式に入ってくれたら助かるんだけどねぇ」
朋也「……考えておくっす」
芳野「ほら、岡崎。行くぞ」
朋也「あ、芳野さん。じゃ、親方」
親方「うん。頑張ってきてくれ」

220: 2012/04/13(金) 09:51:30.96 ID:jVKw7bQx0
町の色が緑につつまれる。夏休みに入ると、ほとんど毎日のように働いた。体も、すっかり今の生活リズムになれた。
一日の仕事が終わると疲れるが、一晩ゆっくり休んだらその疲れも取れるようになった。

夏休みが終わり、二学期が始まる。
前まではりえに悟られないよう、学校では疲れを見せないようにしていたが、今では普通に暮らせるようになった。

木の葉が枯れ、冬の気配が訪れる頃、ようやく俺が目標としていた額に辿り着いた。

221: 2012/04/13(金) 09:52:43.80 ID:jVKw7bQx0
朋也「じゃあ、お世話になりました」
芳野「ああ。卒業したら、正式に就職に来い。その時は、俺がやっている仕事をおまえにもやってもらうようになるがな」
朋也「ははっ、進学校に通う生徒に言うセリフじゃないっすね」

最後のバイトが終わり、今はもう通いなれた事務所の前に立つ。長いこと続けていたバイトを辞めるのは、少しだけ名残惜しかった。
でも、俺はりえのところに行かなければならない。あいつの腕を治すための手術のことを、伝えるために。

芳野「ああ、そう。ひとつだけ、いいか?」
朋也「なんすか」
芳野「例え、その手術によってどんな結果がもたらされようとも、おまえだけはその子のことを見捨てるな。いいな?辛いのは、お前だけじゃないと言うのを覚えておけ」
朋也「……はいっす」

手には、今までのバイト代。りえからみせてもらった額よりも、幾分か多かった。そのお金の入った封筒を持ち、りえの家へと向かう。


222: 2012/04/13(金) 09:54:49.84 ID:jVKw7bQx0
『仁科』という表札のある家の前。ブザーを押そうとする手が、不意に止まる。

朋也「…………」

今までのことが、頭の中をよぎっていた。バイトでいっぱいいっぱいだったこの数ヶ月間。
忙しかったが、学校でりえたちと過ごす時間は、バイトを始めてからも変わらず、居心地のいい時間だった。息抜きにもなったし、疲れも吹っ飛ぶようだった。

朋也(今、このブザーを押したら、もうその日々には戻れなくなるかもしれないんだな……)

今更ながら、少々躊躇ってしまう。しかし、もう後戻りするつもりはなかった。

ピンポーン。

………。

がちゃ。

りえ「はい。……あ、岡……いえ、朋也さん……」

最初に岡崎さん、と言おうとする癖は未だに直っていなかった。

223: 2012/04/13(金) 09:57:14.52 ID:jVKw7bQx0
朋也「よ、りえ」
りえ「こんにちは、です」
朋也「今は、両親はいるのか?」
りえ「いえ……今はいませんが……」
朋也「できれば、直接会って話したかったんだけどな……。ま、いいか。りえ、おまえの両親に、話だけしといてくれ」
りえ「はい?なんですか?」
朋也「冬休みに入ったら、おまえは手術を受ける。その金も、もう用意できた」

手に持っている封筒から札束を取り出して、りえに見せてやる。

りえ「えっ……!本当に、あの金額を……?」

驚きを隠せないのだろうか。目を丸くして、聞いてくる。

朋也「ああ。あとは、おまえの覚悟と、両親の了承を得るだけだ」
りえ「……私の覚悟は、もうとっくに出来ています。それに、両親もきっと了承してくれると思いますよ。私の手のことは、本当に心配してくれていましたから」
朋也「そうか。お金の心配はする必要はないっていうことだけは、言い漏らさないようにしておけよ」
りえ「はい」

224: 2012/04/13(金) 09:59:29.93 ID:jVKw7bQx0
朋也「それと、りえ。今は、暇か?」
りえ「今、ですか?ええと、暇というわけではないですけど、忙しいというわけでもないです」

回りくどい言い回しだな。

朋也「よし。じゃあ、遊びに行くか。支度、してこい」
りえ「え……ええっ?」

話の展開についていけていないのか、パニックに陥るりえ。相変わらず、可愛いやつだった。

朋也「平たく言うなら、デートだな。まぁ、付き合ってはいないけどな」

そういうと、顔を赤くしながらも嬉しそうな顔をした。

りえ「はいっ!じゃあ、今すぐ支度してきますねっ!」

パタパタと、家の中へと駆けていった。


りえ「お待たせしました、朋也さんっ!」

冬物の私服を身にまとったりえを見るのは、今日が初めてだった。

朋也「やべぇ……俺、自分を抑えられなくなるかもしれないな……」

つい、ぼそりとつぶやいてしまう。それほどまでに可愛かった。

りえ「はい?朋也さん、なにか言いました?」

幸い、なにを言ったかまでは聞き取れていないようだった。

朋也「いや、なんでもない。じゃ、行くか」
りえ「はいっ!」

225: 2012/04/13(金) 10:01:20.26 ID:jVKw7bQx0
りえと並び、商店街を回る。最初の頃は杉坂たちがいても周りの目をついつい気にしている自分がいたが、今ではりえとふたりきりでも気にせずに歩けていた。

朋也「もう、冬なんだな……」

肌寒さを感じ、しみじみとそう思う。この数ヶ月間は、あっと言う間に過ぎていった気がする。
自分の大切な人の願いを叶えるために、一生懸命になっていた日々。
それが終わり、あと俺に出来ることはひたすら祈ることだけだ。

りえ「私は知っていますよ、朋也さん」

唐突に、りえがそう言ってきた。

朋也「なにを知ってるって?」
りえ「朋也さんが、私に気付かれないように働いていたことを、です」
朋也「っ……」

気付かれていたのか……。なんだか、気付かれているのを気付かずに隠していたのを、恥ずかしく思う。
そんな俺の様子を見て、りえは軽く笑った。

仁科「それに、遅刻するようなこともあれからはありませんでしたしね」

言われてみると、確かにそうだった。
その前までは、特になにをするでもなく、ただ春原の部屋でだらだらと過ごすだけだったのが、バイトを始めてからは春原の部屋に行くこともなくなっていた。
もしかしたら、春原には悪いことをしたかもしれない。

226: 2012/04/13(金) 10:02:27.72 ID:jVKw7bQx0
朋也「まぁ、俺が遅刻しないようになったのは、おまえのせいであり、同時におまえのおかげでもあるんだけどな」
りえ「え?そうなんですか?」
朋也「あのな……」

本人は、忘れているようだ。自分が待っていたら、俺が遅刻せずに来てくれると言ったのを。

朋也「ま、いいか」


りえ「………。でも……」

りえの話は続いた。

りえ「正直、少しだけ寂しかったです。放課後に、朋也さんが来てくれなかったのは。
   杉坂さんや原田さんと過ごすのはもちろん楽しかったんですが、その中に朋也さんがいるのが自分の中では当たり前のようになっていましたから」
朋也「……わがままな奴だな、おまえ……」
りえ「朋也さんが言っていましたよ。私は、もう少しわがままになってもいいと思うって」
朋也「あれ、そうだっけか……」

人のことは言えなかった。

227: 2012/04/13(金) 10:03:21.25 ID:jVKw7bQx0
りえ「それに、私がわがままを言うのは朋也さんにだけです。朋也さんなら、私のわがままを聞いてくれますから」

最後に、そう付け足す。

朋也「まぁな」

~~~
日が落ちはじめたころ、広場にあるベンチにふたり並んで座る。

りえ「このベンチ、懐かしいですね」
朋也「言われてみたらそうかもな。杉坂や原田と遊びに行ったのは、あれ一回きりだしな」

ベンチの真正面。その先には、たい焼き屋が店を構えていた。りえは、その店に視線をやっていた。

朋也「りえ。あれ、食いたいか?」
りえ「えっ?あれって……たい焼き、のことでしょうか?」
朋也「ああ。おまえ、熱心に見てただろ?」
りえ「いっいえ!別に、熱心に見ては……」

少しだけ顔を赤くし、言い訳をする。

228: 2012/04/13(金) 10:04:16.64 ID:jVKw7bQx0
朋也「正直に言えよ。買ってきてやるから」
りえ「えっと……その……。食べたい、です……」

正直に言う。

朋也「よし、買ってきてやる。りえは、座って待ってろな」
りえ「いえ、私も一緒に行きます」

屋台の前まで歩く。

朋也「すんませーん」
屋台のオヤジ「おう、いらっしゃい。お、なんだ、カップルかい?」

いちいち否定するのも面倒だから、適当に流そうかと思ったのだが、りえが口を挟む。

りえ「いえっ。カップルではないですっ」
屋台のオヤジ「あ、そうでしたか。そいつは失礼」

申し訳なさそうに頭を掻く。二つのたい焼きを買って、ベンチまで戻る。

229: 2012/04/13(金) 10:05:29.36 ID:jVKw7bQx0
りえ「やっぱり、私たちって、傍目ではカップルのように見えるんでしょうか?」
朋也「そりゃそうだろうな。男女が二人で歩くなんて、カップルじゃなきゃなかなか無いだろ。それに、俺はおまえに好意を寄せてるんだしな」

恥ずかしげもなく、そう言う。りえは、その言葉にまた顔を赤くする。

朋也「ほら、食わないと折角の出来立てが冷めちまうぞ」

りえの頭にポンと手を置き、そう促す。

りえ「あ、はい。いただきます、朋也さん」

この動作には慣れたのか、普通に答えてくる。

りえ「……前から思っていたんですが、どうしてこうやって頭に手を乗せるんですか?」
朋也「おまえがかわいいから」

からかうように言ってやる。実際は、自分でも半分無意識に手を乗せているだけなのだが。
りえは俺の期待通りに、顔を赤く染め上げていた。

230: 2012/04/13(金) 10:06:53.71 ID:jVKw7bQx0
朋也「そうだ。ひとつだけ、おまえに言っておくことがある」

りえの頭から手を降ろし、そう話を切り出す。

りえ「……?なんですか?」
朋也「その……ちょっといいづらいことなんだが……」
りえ「構いません。話してください」
朋也「本当に、覚悟は出来ているのか?手術が成功しても、失敗しても、おまえは絶対に後悔しないか?」
りえ「っ……」

息を詰まらせる。この様子では、失敗したときのことはあまり考えていないようだった。

りえ「正直に言うと……ちょっとだけ、怖いです。もし、失敗したら……って思うと。
   そうなってしまったら、今まで以上に家族に迷惑をかけてしまうことになってしまいますから。それに……二度とヴァイオリンを弾けなくなりますし……」
朋也「そうか……。そればっかりは仕方ないよな」
りえ「はい、そうですね……」
朋也「だから、あれだ。もし、手術が失敗したら、俺が責任を持つ」
りえ「……?どういうことでしょうか?」
朋也「高校を卒業すると同時に、お前と籍を入れる。そして、一生お前の面倒を見てやる」

自分の決意を、素直に言葉にする。

りえ「っ……。あ……ありがとうございます、朋也さんっ……!」

りえは感極まったように涙を流す。

231: 2012/04/13(金) 10:08:00.11 ID:jVKw7bQx0
朋也「だから、お前はヴァイオリンを弾けなくなるかもしれないって覚悟だけをしておいてくれ。わかったな?」
りえ「っ……はい、わかりました」

涙を拭い、そう答えてくれる。

朋也「よし。じゃ、今日はもう帰ろうか」
りえ「はい。そうですね」
朋也「……また、ふたりで出かけたいな。次は、おまえの手術が終わったあとに、だな」
りえ「私も、朋也さんと2人でお出かけしたいです」
朋也「じゃあ、手術頑張らないとな。暗い気持ちじゃ、俺は嫌だからな」
りえ「はいっ!」

232: 2012/04/13(金) 10:09:31.10 ID:jVKw7bQx0


バイトが終わってからは、前の生活に戻っていった。朝はちゃんと起きてりえと一緒に登校し、昼休みと放課後は合唱部室で過ごす。
杉坂と原田は、りえが手術を受けることは本人から話を聞いているようだった。

杉坂「でも、岡崎さんすごいですね。そんな大金を、数ヶ月で、しかもバイトで稼ぐなんて」
朋也「まぁ、夏休みとかもほとんど働いてたしな」
原田「いや、実際すごいですよ。仁科も、これほどまでに想ってくれる人がいてくれて羨ましいな。これが愛の成せる技!ってやつですか?」
朋也「お前、いい事言うな。正にその通りだ」

俺がそう言うと、原田はちょっとだけ顔を赤くした。

原田「いや~、岡崎さんも言うようになりましたね」
朋也「いつまでもお前にからかわれてたまるかよ」

原田とそんなやりとりをしていると、りえが口を開いた。

りえ「そういえば……まだ、ちゃんとお礼を言っていませんでしたね。朋也さん、私の為に頑張ってくれて、ありがとうございました」
朋也「それは、まだ早いような気がするな。本当に礼を言われるのは、手術が成功したあとだ。そうだろ?」
りえ「そう……でしょうか」
朋也「ああ。お礼を言われるのは、その後でだ」
りえ「……はい」

233: 2012/04/13(金) 10:10:58.89 ID:jVKw7bQx0
朋也「ああ、そうだ。あと、ひとつだけおまえに頼んで良いか?」
りえ「はい。なんでしょうか?」
朋也「手術が成功したらさ……最初に、俺にりえのヴァイオリンの演奏を聞かせてくれ。他の誰もいない場所で、俺にだけ、だ」
りえ「はい。もちろんです」

快く承諾してくれた。

杉坂「まぁ、それが岡崎さんの特権ですよね」
原田「いいなぁ、岡崎さん」
朋也「そういじけるなよ。俺が聴いた後は、おまえらにも聴かせてやるさ。俺の今までの頑張りと、りえの才能の結晶を、さ」

この居心地のいい時間も、今までと変わりなく過ぎていくだろう。二学期も、そして冬休み明けも……。

234: 2012/04/13(金) 10:11:59.72 ID:jVKw7bQx0


残りの二学期を、今までどおりに暮らした。そして、二学期の終業式の日がやってきた。

朋也「おまえの両親には話はしたのか?」

学校への道の途中、そんな質問をする。

りえ「はい、しました。お父さんもお母さんも、私の友達がそれほどの大金を用意したと聞いて、目を丸くしていましたよ。そして、この手紙をその友達に渡してくれって、私のお父さんが」

一通の手紙を受け取る。

りえ「それは、ひとりになったときに読んでくれって言っていました」
朋也「ああ、わかった」

鞄の中にしまう。

235: 2012/04/13(金) 10:12:31.44 ID:jVKw7bQx0
朋也「で、手術の受ける場所とかは、決まってるのか?」
りえ「それも、すでに決まっています。私が事故にあったときに運びこまれた病院の先生にお願いしました。この手の手術は、状態をよく見て、理解している人じゃないと無理なんだそうです」
朋也「そうか……。その病院は、ここから近いのか?」
りえ「隣町の病院ですから、遠くはないですよ」
朋也「受ける日は?」
りえ「今月の27日に決まりました」
朋也「そうか。わかった」

その日が、りえの明暗を分ける日になるだろう。

236: 2012/04/13(金) 10:15:06.74 ID:jVKw7bQx0
当日。りえとは別行動で、隣町へと向かうことにしていた。
りえと一旦分かれて、商店街へと向かった。前に見かけた、楽器屋へと向かう。

朋也「………………」

こんな店に入ったことはなかったから、入るのが躊躇われる。しかし、ショーウィンドウに飾られたこれを手に入れるためには、中に入るしかなかった。意を決して中に入る。


朋也「あの、すんません。店先に飾られている、ヴァイオリンが欲しいんですけど」

店の中で暇そうに座っていた店員に、そう告げる。

店員「……はい?ヴァイオリン……ですか?」

店員が信じられない、といった目で俺を見てくる。無理はない。俺がヴァイオリンを弾くようには、とてもじゃないが見えないからだろう。
それに、値段も高い。俺みたいな若造が、本当に払えるのか、という疑惑も混じっているのだろう。

店員「少々お待ちください」
朋也「急いでくださいよ。こっちも時間ないんだから」

そう店員をせかしてやる。店員が引き出しの中から、鍵を取り出して、店の入り口へと向かう。

237: 2012/04/13(金) 10:16:10.54 ID:jVKw7bQx0
店員「こちらの商品で、間違いなかったでしょうか?」
朋也「こちらというより、他にヴァイオリン飾られてないじゃないですか」

明らかに挑発的な態度をとる。先ほどの店員の目が、気に食わなかった。

店員「はい、じゃあ、レジのほうに来てください」

店の中に戻り、レジへと向かう。

店員「10万円になります」

店員が払えるものなら払ってみろ、と言いたげな目で見てくる。俺は、ポケットに入れていた封筒から札を10枚出すと、店員に突き出してやる。

朋也「これで、持ってっていいんだろ?」

店員にお金を渡し、ヴァイオリンを指さす。

店員「え?あ、ああ、もちろんですよ。毎度、ありがとうございます」

札束を見て、呆気にとられていたのだろう。俺の言葉を聞いて、慌ててそう答える。
俺はそんな店員など気にも止めず、購入したヴァイオリンをケースに入れて持ち上げ、その楽器屋を後にした。


一度家に帰り、購入したばかりのヴァイオリンを置くと、すぐさままた家を出る。

朋也(今から向かって、間に合うかな……)

急いで、病院へと向かう。

238: 2012/04/13(金) 10:17:18.34 ID:jVKw7bQx0
病院に着いた時、時刻は12時を回っていた。りえの手術の開始時間は13時と聞いていたから、少しだけ話をする時間はあった。
受付でりえの病室の場所を聞き、向かう。


病院の一室。部屋の表札には、『仁科 りえ様』と書かれていた。コンコンとノックする。

声「はい、どうぞ」

ドアを開け、中へと入る。

りえ「あ、朋也さん。よかったです、始まる前に来てくれて」
朋也「ちょっと急いだけどな」

中には、りえが一人でいた。

朋也「おまえの両親は?」
りえ「お父さんは、今日は仕事です。それに、お母さんもお仕事でいません。ここへは、お父さんと一緒に来ました。お父さんの働いているところは、この病院の近くですから」
朋也「そうか……」

パジャマ姿でベッドに体を起こして座っているりえを見て、不安が頭をよぎる。

239: 2012/04/13(金) 10:18:21.19 ID:jVKw7bQx0
朋也「りえ」
りえ「はい?」
朋也「……負けるなよ」

色々と言いたいことはあるはずなのに、本人を目の前にしたら頭の中が真っ白になってしまっていた。

りえ「はい。……朋也さんが作ってくれたチャンスですから、無駄にはしたくないです」
看護師「仁科さん、そろそろ準備の方よろしくお願いします」

看護師が部屋の中に入ってきて、そう告げる。

朋也「じゃあ俺、待合室で待ってるな」
りえ「わかりました。……朋也さん」
朋也「なんだ?」
りえ「無事に、手術が終わったら、伝えたいことがあります。……聞いてくれますか?」
朋也「ああ、もちろん」

りえは安心したかのように、顔を綻ばせた。


時刻が13時を回ると、手術室のライトが点灯した。ついに、りえの手術が始まったのだ。

朋也(成功してくれよ……)

ひたすら祈る。終了予定時間もわからないので、ライトが消えるのを待ち続けるしかなかった。

朋也(そうだ。りえの父さんからもらった手紙、まだ読んでなかったな……)

鞄の中から、一通の手紙を取り出す。その手紙は、筆ペンで書かれていた。達筆だった。

240: 2012/04/13(金) 10:19:41.56 ID:jVKw7bQx0
『岡崎朋也くんへ
りえの手術代の件に関しては、まず礼を言わせてくれ。ありがとう。君は、りえの顔に再び昔の輝きを取り戻してくれた。
私たちには、出来なかったことだ。りえから聞いているかはわからないが、私の家庭はあまり裕福ではなくてね。
本来ならば、私たちがりえの手術代を払うべきなのだろうが、それほどの余裕がないのも事実だ。

最初は私たちも、無理をしてりえの手術をさせてやろうとも思っていたのだが、りえに止められてしまってね。実に不甲斐なかったよ。
りえの友達ならば言わなくても気づいていると思うが、りえはわがままをあまり言わない子だ。
どんなときでも、周りに気を遣ってしまう、よく言えばいい子で、悪く言ったら損をしてしまう子だ。自分のことよりも、周りを気遣うやさしい子だ。

そんな子が、他人の厚意を受けるのは、非常に珍しい。自分のために人が苦労するのは、あの子自身辛いのだろう。君は、恐らくりえに慕われているのだろう。
私たちよりも、君のほうが信頼されているようだ。だから、ひとつだけ、君に頼みがある。……りえを、見捨てないでやってほしい。

りえは、君を本当に慕い、信頼を寄せている。君の話をしているときのりえは、本当に生き生きとしている。悔しいが、それが感じられてしまう。
岡崎朋也くん。私が伝えたかったのは、それだけだ。最後に、改めて礼を言わせてくれ。ありがとう。』

241: 2012/04/13(金) 10:21:22.79 ID:jVKw7bQx0
朋也(………………)

りえの両親は、本当にりえのことを大事に思っているんだろう。手紙を読んでいると、それが伝わってくる。

朋也(大丈夫ですよ、りえのお父さん。俺は、何があっても絶対にりえを見捨てたりしませんから。これからも、ずっとりえを見守っていきます。……何があっても)

だから、心の中でそう、告げていた。


どれぐらい待ったのだろう……。腕時計で、時刻を確認する。

朋也(もう、15時を回っているぞ……)

ちょっと、時間がかかりすぎではないかと思い始める。

朋也(……くそっ!)

焦りが心の中に漂い始めるが、何も出来ない。そんな自分が本当に情けなく感じられた。
もう、俺に出来ることはひたすら成功を信じて待ち続けるしかない。それを自分に言い聞かせ続ける。
そうしているうちに、手術中のライトが消えた。手術室のなかは、なにやらばたばたしているようだった。やがて、扉が開かれ、中から医師が出てきた。

朋也「りえはっ?あ、いや、仁科さんの手術はどうなったんですかっ!?」

いきなり、医師に食ってかかる。

242: 2012/04/13(金) 10:22:10.00 ID:jVKw7bQx0
医師は至って冷静に、聞いてきた。

朋也「あ……。俺は、仁科さんの友人です」
医師「そうですか……。仁科さんの手術の件でしたね」
朋也「はい、そうです。どうなったんですか?」
医師「……手術自体は、成功といっても良いかもしれません。仁科さんの握力は、あとはリハビリで徐々に戻っていくでしょう」
朋也「本当ですかっ!」

一気に体から力が抜け、椅子に落ちる。

朋也「よかった……」
医師「ですが……」

医師の話は、まだ続いた。

医師「手術が終わっても、一向に意識が戻らないんです。原因もわかりません。意識の戻らない患者に良く診られる、夢を見ているという状態でもないんです」
朋也「……?どういうことですか?」

医師の言わんとしていることがよく理解できなかった。

243: 2012/04/13(金) 10:22:44.97 ID:jVKw7bQx0
医師「回りくどい言い方はやめて、単刀直入に言わせてもらいます。原因がわからない以上、我々にはもう手の施しようがありません。
   脳波も正常。脈も安定。ただ、意識がないと言うだけの状態ですから。もしかしたら……もう、二度と目を覚ますことがないかもしれません」
朋也「………………」

理解できない……。なんだって?りえが、もう二度と意識を取り戻さないかもしれない?そんなはずはない。
ほんの数時間前までは、りえの笑顔があったじゃないか。それが、もう二度と見られない?




そんな……わけが……。

244: 2012/04/13(金) 10:23:57.53 ID:jVKw7bQx0
次に気がついたのは、ベッドの上だった。

朋也(俺……どうしたんだっけ……。なんで、こんなところで寝ているんだ……?)

辺りを見渡す。ここは病院の一室のようだ。

朋也(ああ……そうだ。あの時、医師からりえの話を聞かされて…………っ!!)

そこで、急に頭が冴えてきた。

朋也「りえはっ!?」

ベッドからいきおいよく体を起こす。

医師「おっと。びっくりしました。思っていた以上に、早く目を覚ましましたね」

近くには、先程話をしていた医師。

朋也「あのっ!りえはっ!?」

さっきまで寝ていたのが嘘のように、医師に聞いていた。

医師「仁科さんなら……、ほら、あなたの後ろで眠っていますよ」

後ろを振り向く。そこには、俺が今まで寝ていたベッドの隣で、目を瞑っているりえがいた。

245: 2012/04/13(金) 10:25:30.09 ID:jVKw7bQx0
医師「相変わらず目を覚ましません。あれからさらに、もう2時間もたっているのですが……」

腕時計で時間を確認する。時計の針は、17時過ぎを指していた。

朋也「容態は……、全く変わらないんですか?」
医師「ええ。実はもう意識が戻っていて、ただ目を瞑っているだけなのではないかと疑ってしまうくらい、正常なんですけどね」
朋也「………」

目の前が真っ白になってしまうような感覚を抑えて、横になっているりえに近づく。
医師は、気を利かしてくれたのか、部屋を出ていった。

246: 2012/04/13(金) 10:26:03.52 ID:jVKw7bQx0
朋也「りえ……」

その名前を呼ぶ。しかし、反応はない。

朋也「なあ、りえ……。おまえ、ふざけているだけなんだろう?今、医師も言っていたぞ。ただ、目を瞑っているだけかもしれないって。なあ、これ以上、俺を悲しませないでくれよ……」

反応がないのを気にせず、話し続ける。

朋也「りえ……。目を、開けてくれよぉ……」

俺の言葉にも、りえは全く反応を示さない。もう、ダメなのか……。
心の中でそう思うと、不意に、あの手紙の一文が脳内を駆け巡った。

247: 2012/04/13(金) 10:26:37.98 ID:jVKw7bQx0






―――見捨てないでやってほしい―――






248: 2012/04/13(金) 10:27:26.56 ID:jVKw7bQx0
朋也(そうだ……。俺、りえの両親に約束したじゃないか……。何があっても、絶対にりえを見捨てないって。
   ずっと、りえを見守っていくって……。今、これしきのことで、挫けてなんかいられないじゃないか)

鞄にしまった手紙を、もう一度取り出す。その手紙から、少しだけ勇気をもらった。そして、りえに告げてやる。今の、俺の気持ちを……。

朋也「りえ……。俺、おまえの両親に約束したんだ。絶対におまえを見捨てない。ずっとおまえを見守っていくって。
   ……りえ。おまえはもう、意識が戻らないかもしれないと言われている。だけど、俺は信じている。おまえは絶対、意識を取り戻す。
   だって、おまえ自身が言っていたじゃないか。無事に手術が終わったら、俺に伝えたいことがあるって。おまえの手術は、無事に成功したんだ。
   だったら……俺に、伝えたいことを言わなくちゃならないだろ?おまえは意外と頑固なところがあるからな。自分の言ったことを曲げるわけ、ないよな?」

俺は、俺の言いたかったことを全て言ってやった。すると……りえの目が、わずかに動いたような気がした。

朋也「りえっ!俺は、ずっと待ち続けるぞ!おまえの為に、おまえの伝えたいことを聞くまで、ずっと……ずっとだっ!」

249: 2012/04/13(金) 10:28:02.29 ID:jVKw7bQx0








りえ「岡崎さん……」









250: 2012/04/13(金) 10:29:13.76 ID:jVKw7bQx0
名前を……いや、名字を呼ばれたような気がした。

朋也「りえっ!」

もう一度、名前を呼ぶ。

りえ「岡崎さん……」
朋也「俺の声が……聞こえるか……?」
りえ「はい……聞こえました……。岡崎さんが、私の伝えたいことを聞くまで、ずっと待っていてくれるって……」
朋也「バカ……呼び方が違うだろ……」

いつの間にか、俺の目から涙が流れていた。そして、りえの目からも……。
しかし、お互いに涙など気にせずに話し続ける。

りえ「すみません……。岡崎さん、じゃなくて、朋也さん、でしたよね……」
朋也「そうだよ……。……りえ。本当に、意識を取り戻したんだよな……?」
りえ「はい……」

りえが上半身を起こしあげる。俺の目からは、相変わらず涙が零れていた。しかし、それを気にせずに話し続ける。

朋也「良かった……。本当に、本当に良かったっ……!」

つい、りえの体を抱きしめてしまった。

りえ「朋也さん……」

りえは、そんな俺をただただ受け止めてくれていた。

251: 2012/04/13(金) 10:30:43.14 ID:jVKw7bQx0


りえは、手術から一夜明けた日に退院した。俺の手には少しの手荷物と、病院から渡されたリハビリの道具。
それに、りえの右手と右手首は、包帯で巻かれていた。

朋也「一日で退院できて、良かったな」
りえ「はい。あとは、リハビリテーションで少しずつ握力を戻していくだけでいいそうです」

りえは、自分の右手をとても嬉しそうに掲げて眺めていた。その手で、再びヴァイオリンを自由に演奏できる日が見えてきたのだ。
俺は、その笑顔をいつまでも見守って行きたいと思っていた。

朋也「ところで、りえ」
りえ「はい?」
朋也「結局、俺に伝えたいことってなんだったんだ?」

俺がそう聞くと、りえは少しだけ顔を背けた。

りえ「それは……その……」

言いよどんでいる。

252: 2012/04/13(金) 10:31:45.96 ID:jVKw7bQx0
朋也「なんだよ、歯切れが悪いな。一度決めたことは、曲げないんだろ?ほら、ひと思いに言ってみろよ」
りえ「~~~……。お、岡崎さんっ!」
朋也「………」

他のほうに顔を向ける。

りえ「と、朋也さんっ!」
朋也「言う気になったか?」

りえのほうに顔を向きなおす。

りえ「~~~……。そ、その……。ま、前に朋也さんから言われたことなんですが……」
朋也「ああ」

りえの話に耳を傾ける。

りえ「朋也さん、私のことが好きだって……言ってくれましたよね……?」
朋也「ああ、言ったな」
りえ「~……わ、私も……、と、朋也さんの……ことが……」

途切れ途切れに、自分の言葉を紡いでいく。

朋也「………………」

俺は、ただりえが言葉を発するのを待ち続けていた。りえはためらいながら、再び自分の右手を見た。そして……

りえ「……好き、です。私も、朋也さんのことが」

その手をぐっと握りながら、それだけ言った。

253: 2012/04/13(金) 10:32:56.62 ID:jVKw7bQx0
朋也「……ああ、ありがとう、りえ」

りえの顔は真っ赤だったが、同時に強い意志を感じ取れた。

りえ「~~――……だ、だから、その……」

りえの言葉は続いた。

りえ「わ、私と……、付き合って、くれますか……?」
朋也「……おまえの、その言葉をずっと待っていたんだ」
りえ「えっ……?」

意外そうな顔をする。

朋也「俺がおまえのことを好きだって言ったときのこと、覚えているか?」
りえ「~~~―――……はい、覚えています」
朋也「あの時は、おまえが言わせようとしたんだよな。おまえ自身が、まだ言い出せなかったから」

そう言うと、少し驚いた顔になる。

りえ「き……気がついていたんですね……」
朋也「まぁな。で、俺はおまえの思惑通りに俺の気持ちを言ったわけだ。本当ならあの時に、俺から付き合ってくれと言っても良かったんだけどな」

254: 2012/04/13(金) 10:33:40.37 ID:jVKw7bQx0
りえ「えっ……?じゃあ、どうして言わなかったんですか?」
朋也「わからないか?本当に」
りえ「はい……わからないです」

どうやら、本当にわかっていないようだった。

朋也「決まっているじゃないか。あの時に俺から付き合ってくれって言っていたら、おまえは当然のように頷いていただろ?」

りえは顔を赤くしたまま、少しだけ頷いた。

朋也「それじゃ面白くないじゃないか。どうせなら、りえから言い出すまで待とうと思っていたんだ」
りえ「……え、えぇっ?じゃあ、私は朋也さんの思惑にまんまと引っかかっていたと言うことですか?」
朋也「ああ、そうだ。これで、おあいこだな」
りえ「あ……そうですね。私も、同じようなことをしましたから……」
朋也「で、答えだけどな……」

りえが思い出したかのように、再び顔を赤くする。

朋也「当然、付き合うよ。今言ったように、俺もりえのことが好きだからな」

255: 2012/04/13(金) 10:35:05.36 ID:jVKw7bQx0
俺がそう言うと、りえは涙ぐんだ顔を俺に向けた。

りえ「嬉しい……。ずっと、苦しかったんです……。いろんな人に、私たちが付き合っていないと否定するのが。
   もし、私が付き合っていますと言っても、朋也さんの方が否定するんじゃないかって思っていましたから……」
朋也「そりゃそうだろうな。今の今までは付き合ってはいなかったんだから」
りえ「だから、いつか私の方から付き合ってくださいと言おうと思っていたんです。朋也さんと、そういう関係になりたい、と思っていましたから……。
   そして、手術後のタイミングが一番言いやすいんじゃないかと思っていました」
朋也「……?何でだ?」
りえ「今、私の右手には朋也さんの想いがこめられていますから。その右手から、ちょっとだけ勇気を分けてもらえれば、きっと言える。
   ……そう思っていましたから」

りえは飽きもせず、右手を空に掲げて眺める。その右手には確かに、俺の想いがこめられていた。

朋也「そっか。ま、俺との最後の約束も忘れないでいてくれよ。りえの演奏を、最初に俺だけに聴かせる、ってのをな」
りえ「あ……えっと、そのことなんですが……」
朋也「大丈夫、おまえの言いたいことはわかっているつもりだ。とりあえずは、早く握力を戻すことだけを考えてろ。な?」
りえ「あ……、はい」

256: 2012/04/13(金) 10:36:05.49 ID:jVKw7bQx0
朋也「あ、あともうひとつだけ」
りえ「はい?」

人通りのないところまで歩いてくると、俺は足を止めた。

りえ「朋也さん?どうかしましたか?」

りえが俺の近くまで歩み寄ってくる。

朋也「りえ……」

俺がりえの両肩に手を乗せると、りえは硬直したかのように動かなくなる。

りえ「とっ……朋也さんっ!な、なんですか……この、両手は……?」
朋也「せっかく、付き合い始めたんだしさ……。こういうことをしても、いいだろ?」

ゆっくりと、りえの顔に自分の顔を近づかせる。りえはそんな俺の動きを感じ取ると、硬直した体のまま、目を閉じた。

朋也「……」
りえ「ん……」

りえの唇に、俺の唇を合わせる。道の真ん中で、二人だけの空間を感じていた。

257: 2012/04/13(金) 10:36:33.96 ID:jVKw7bQx0
スッと、俺の方から唇を離す。
りえは、そのままの体制からピクリとも動かなかった。

朋也「りえ……」

俺の方から沈黙を破る。

りえ「……朋也さん……」

どこか気の抜けた、そんな声。りえの顔は、惚けていた。

朋也「ごめんな、こんな道の真ん中で……」
りえ「いえ……」
朋也「……嫌、だったか?」
りえ「いえ……」

同じ返事を繰り返す。りえの顔を覗き込むと、夢のなかに落ちているかのような目をしていた。

258: 2012/04/13(金) 10:37:26.74 ID:jVKw7bQx0
朋也「……」

りえが動かないのをいいことに、もう一度唇を重ねた。
………今度は、さっきよりも長く。
りえは、相変わらず動かなかった。唇を離すと、もう一度りえの名前を呼ぶ。

朋也「りえ」
りえ「………」

反応がない。

朋也「帰って来ーい、りえ」

顔の目の前で、手をぶんぶんと振る。

りえ「……っ!」

ようやく反応を示した。

りえ「朋也さん……」
朋也「よかった。このまま、反応を示さないんじゃないかと思った」
りえ「……あ、あの……」
朋也「うん?」
りえ「い、今……私たち……?」

何かを確認するように聞く。

259: 2012/04/13(金) 10:38:13.64 ID:jVKw7bQx0
朋也「ああ、キスしたな」

恥ずかしげもなく、そう答えてやる。そうすると、りえの顔はまたみるみる赤くなっていく。

りえ「……い、いきなりだから……ちょっとだけ、びっくりしてしまいました……」
朋也「でも、嫌じゃなかっただろ?」
りえ「もっもちろんですっ!う、嬉しかったですよ、朋也さん」
朋也「よかった。嫌がられていたらどうしようかと思ったよ。ま、付き合い始めたんだし、このくらいはいいだろ?」
りえ「~……はい、もちろんです……。ただ……、出来れば、あまり人目のつかないところのほうが……」
朋也「わかった、今度からはそうするよ」

そうして、家までの道を歩き続けた。

260: 2012/04/13(金) 10:39:59.99 ID:jVKw7bQx0
*     *     *

年が開け、冬休みもあと少しとなった頃。ようやく、りえの握力が人並みまで戻ったと言う知らせを受けた。

りえ「ようやく、ですね」
朋也「長かったな……」

俺の手には、前に商店街で購入したヴァイオリン。ただし、まだ鞄の中に入れてあるから、りえは気づいていないだろう。

朋也「学校にでも行くか。部活動をしている生徒もいるだろうから、鍵は開いているだろ」
りえ「はい……」


学校に着くと、いつも杉坂たちと一緒に過ごしていた部室へと向かう。その部室の前に立つ。

りえ「ふふっ、ここは合唱部室なのに、ヴァイオリンの音色が聞こえてくるのは、おかしいと思いませんか?」
朋也「前にも演奏していただろ?」
りえ「あの時はまだ、この部屋は合唱部室ではなかったんですよ」
朋也「ああ、そうか……」

部室の中に入る。中は、見慣れた光景が広がっていた。

261: 2012/04/13(金) 10:41:06.78 ID:jVKw7bQx0
りえ「……それで、朋也さん」
朋也「ああ、なんだ、りえ」
りえ「その……演奏の件なんですが……。私、事故にあってからは自分のヴァイオリンは処分してしまったんです。
   まさか、こんな日が来るなんて夢にも思いませんでしたから。ですから……、今すぐ演奏をするのは……」
朋也「りえ」

そのりえの言葉をさえぎり、自分の鞄の中から大きい荷物を取り出す。

りえ「え……?それ……は……」

りえはなにがなんだかよくわからないといった表情をしている。

朋也「おまえの今までの話を聞いていたら、大体の予想はつく。だから、これを買えるまでのお金が溜まるまで、バイトを辞めなかったんだ」

それをりえに渡してやる。

りえ「朋也さん……。これ……」
朋也「俺からのプレゼントだ。受け取ってくれ、りえ」

りえは、少しためらいながらも、そのヴァイオリンケースを受け取った。

262: 2012/04/13(金) 10:42:08.33 ID:jVKw7bQx0
りえ「本当に、ありがとうございます。朋也さん。手術代を払ってくれただけでなく、こんな高価なヴァイオリンまでくれるなんて……」
朋也「……?なんで高価ってわかるんだ?」
りえ「ほら、ここに」

りえが、ケースの端についている値札をひらひらとさせる。

朋也「あ……」

値札を取り外すのを素で忘れていた……。

りえ「こんなに高いものを……。ありがとうございます、朋也さん。……本当に……」
朋也「い、いや、別に、気にするな」

格好良く決まったはずなのだが、値札で一気にだいなしになってしまった。

朋也「じゃあ、聴かせてくれ、りえ。昔の、留学直前までいったっていう演奏を……」
りえ「はい、よろこんで……」

りえが、ケースからヴァイオリンを取り出す。そして、少しの間チューニングをする。
それが終わると一呼吸の間を置いて、語りだした。

263: 2012/04/13(金) 10:43:55.80 ID:jVKw7bQx0
りえ「……今から私が演奏するのは、私のオリジナルの曲です。事故に合う前の私が仕上げた曲です。人に聞かせるのは初めてですけど……聴いて下さい、朋也さん」
朋也「ああ」

ずっと、この日を楽しみにしていたんだ。聴くに決まっている。

朋也「………………」

りえの演奏が始まる。それはどこか悲しいようで……でも、今のりえの気持ちを率直に再現しているような、そんな曲だった。
その曲は……これからも、たくさんの人に聴いてもらうことになるのだろう。
そしてそれを演奏するのは、俺の想いと、りえの才能が混ざり合った手で奏でられるんだ。
これからも……ずっと。

264: 2012/04/13(金) 10:45:55.45 ID:jVKw7bQx0
以上、これで投下終了となります。

構想としては原作ゲーム、仁科ルートというのを意識して書き上げました。

読みにくい部分も多々あると思いますが、楽しんでくれたのなら幸いです。

それでは、どこかのSSスレにて会いましょう。

267: 2012/04/13(金) 13:21:55.67 ID:t8lNpKTco

よっしゃぁぁっぁああああ!!!

引用元: 朋也「ヴァイオリンの音色……?珍しいな……」