616: 2018/08/04(土) 23:01:39.92 ID:HGjb7apUo
「……」
何時もの様にプロジェクトルームのソファーに座り、膝の上に書を置く。
ハードカバーのそれは、発売を楽しみにしていたシリーズの最新作。
叔父の古書店を手伝っているとは言え、新しい作品に興味が無いわけでは無いのです。
美しい、金の刺繍の模様が印刷された表紙をめくると、新しい紙の香りがします。
「……」
この書は、私にどんな新しい世界を見せてくれるのでしょうか。
現実ではあり得ない光景でも、繊細で美しい情景描写によって、
目を閉じれば物語の登場人物達が見ている光景が瞼の裏に浮かぶよう。
輝きに満ちたその世界は、優しく、時に彼らに苦難を与える。
「……」
そんな、困難に立ち向かっていく姿を見るのが、とても頼もしく見えるのです。
自分も、彼らの様でありたい、挫けずに、前を向いて歩いて行きたいですから。
何故ならば、俯いていては、素晴らしい景色も、歩いて行くその先も、見えなくなってしまうから。
だから私は……彼らから――ファンタジーな世界から、人知れず勇気を貰っています。
私が変われるよう――アイドルして、輝いていけるように。
「……ん」
最初のページに目をやり、物語の世界に入ろうとした時、違和感を感じました。
前髪が、視界を遮っていたのです。
最後に髪を切ったのは……いつ、だったでしょうか。
アイドルなので、気をつけなければいけないと言われるのですが、
ここ最近は、レッスンと……そして、続きが読みたいと言う、抗いがたい誘惑に負けてしまっていました。
「……」
前髪に手をやりますが、私はスタイリストの方とは違います。
LIVEの時、あの方達は私の髪に櫛を通し、視界を――世界を広げてくださいます。
たったそれだけの事と思うかも知れませんが、確かに、ハッキリと変わるのです。
けれど……何度指で梳いても、細く柔らかと言われる私の髪は、
厚く硬い壁となって書との間に立ちはだかります。
「……」
もう少し背中を曲げれば、問題無く読めるとは思います。
以前の私ならば、それこそ、毛ほどの躊躇いもなくそうしていた事でしょう。
「……」
しかし、今の私は、アイドルです。
トレーナーの方にも、少し猫背気味なのを指摘されていました。
なので、改善のために普段から背筋を伸ばすよう心がけるようにしてはいるのですが……。
まさか、この様なタイミングで、それを意識させられる事になるとは、思いもよりませんでした。
「……ふう」
ため息を一つ付き、始まろうとしていた物語のページをそっと閉じます。
時間を確認してみると……問題は、無さそうに思えます。
本を読む前に、髪を切ろう。
……そう考えるようになったのは、私にとっては、劇的な変化と言えるでしょう。
617: 2018/08/04(土) 23:37:13.03 ID:HGjb7apUo
・ ・ ・
「……」
どうして……私は、此処に居るのでしょうか。
……などと、現実から目を背けて思考しても、眼の前の光景は何一つ変わりません。
私の目の前には、今まで私が踏み入れた事の無い、綺羅びやかな――美容室が。
外からで店内が覗けるガラス張りの其処は、中が見えているにも関わらず、
いえ、見えているからこそ、不可視の魔物が潜んでいるように見えるのです。
「……」
外出してきます、と……最初に、私はそう告げただけなのです。
理由を尋ねられ、それに答えたばかりに、皆の奔放さに巻き込まれてしまいました。
――行きつけの美容院を紹介する。
誰が放ったかは定かではありませんが、その一言がきっかけでした。
あれよあれよと人が集い、誰が私に美容院を紹介するか、という話にまで発展したのです。
どの方も可愛らしく、綺麗な方達なので、私は決める――選ぶ事が、出来ませんでした。
思いもよらず大事になってしまい、思考が纏まらなくなってしまったのです。
「……」
私が、誰を選ぶのかという、期待の視線に晒される中、声が響きました。
――ふふっ! 予約が、よーやく取れました……うふふっ!
集まってきた方の一人が、もう、予約を取ってしまわれたのです。
その方が利用している美容室は、モデルの方も利用する様な所で、
プロダクション内でも、他に利用している方がいらっしゃるような、そんな場所。
取り囲んでいた皆も、誰が紹介するかという話を忘れたかのように、
其処ならば、と、頷いて納得していました。
「……」
ただ一人……私を除いて、ですが。
「……」
本来ならば、この様に当日に予約が出来る場所では無い、と。
思いがけず訪れた、幸運のようなものだ、と。
私の事を本当に思ってしてくれた、優しさの発露だ、と。
……そう、わかってはいるのですが。
「……」
私の足は、中々、前に進んでくれようとはしません。
店の前を通り過ぎるのは、もう……三度目になるでしょうか。
ガラスの壁の向こうから、私の姿を確認し、店員さんは不審な人物が居ると思っていないでしょうか。
そんな、考えても仕方の無いような事ばかりが、頭に浮かんで消え、また、浮かび上がります。
否応無しに時間過ぎ、約束の時間は迫っています。
「っ……!」
私は、意を決し、一歩を踏み出しました。
時計の針は止めることは出来ません……ですが、止られるものなら、そうしていたとは思いますが。
「……」
どうして……私は、此処に居るのでしょうか。
……などと、現実から目を背けて思考しても、眼の前の光景は何一つ変わりません。
私の目の前には、今まで私が踏み入れた事の無い、綺羅びやかな――美容室が。
外からで店内が覗けるガラス張りの其処は、中が見えているにも関わらず、
いえ、見えているからこそ、不可視の魔物が潜んでいるように見えるのです。
「……」
外出してきます、と……最初に、私はそう告げただけなのです。
理由を尋ねられ、それに答えたばかりに、皆の奔放さに巻き込まれてしまいました。
――行きつけの美容院を紹介する。
誰が放ったかは定かではありませんが、その一言がきっかけでした。
あれよあれよと人が集い、誰が私に美容院を紹介するか、という話にまで発展したのです。
どの方も可愛らしく、綺麗な方達なので、私は決める――選ぶ事が、出来ませんでした。
思いもよらず大事になってしまい、思考が纏まらなくなってしまったのです。
「……」
私が、誰を選ぶのかという、期待の視線に晒される中、声が響きました。
――ふふっ! 予約が、よーやく取れました……うふふっ!
集まってきた方の一人が、もう、予約を取ってしまわれたのです。
その方が利用している美容室は、モデルの方も利用する様な所で、
プロダクション内でも、他に利用している方がいらっしゃるような、そんな場所。
取り囲んでいた皆も、誰が紹介するかという話を忘れたかのように、
其処ならば、と、頷いて納得していました。
「……」
ただ一人……私を除いて、ですが。
「……」
本来ならば、この様に当日に予約が出来る場所では無い、と。
思いがけず訪れた、幸運のようなものだ、と。
私の事を本当に思ってしてくれた、優しさの発露だ、と。
……そう、わかってはいるのですが。
「……」
私の足は、中々、前に進んでくれようとはしません。
店の前を通り過ぎるのは、もう……三度目になるでしょうか。
ガラスの壁の向こうから、私の姿を確認し、店員さんは不審な人物が居ると思っていないでしょうか。
そんな、考えても仕方の無いような事ばかりが、頭に浮かんで消え、また、浮かび上がります。
否応無しに時間過ぎ、約束の時間は迫っています。
「っ……!」
私は、意を決し、一歩を踏み出しました。
時計の針は止めることは出来ません……ですが、止られるものなら、そうしていたとは思いますが。
618: 2018/08/05(日) 00:18:48.24 ID:ugRUmuoao
・ ・ ・
「……」
事務所へと戻る道すがら、何度か立ち止まり、前髪に手をやります。
詳しくは無いのですが、美容師の方は、私でもわかるほど、腕が良いように思えました。
ああいった場所では、美容師の方と話さなければいけないと緊張していたのですが、
それを察してか、あまり話しかけらえる事もなく、静かに過ごす事が出来ました。
「……」
けれど、少しだけ。
ほんの少しだけ、いつもよりも前髪が短くなったのです。
「……」
恐らくは、ほとんどの人が気付かないような、小さな変化。
しかし、私はそれが気になって仕方ありません。
「……ふう」
再び歩を進め、皆の待つ事務所へと向かいます。
――切り終わった姿を見たい。
と……そう、頼まれてしまったからです。
紹介する事が出来なかったからその楽しみは、などと言われては、
首を横に振るような真似をするには、あの場の空気は期待に満ちすぎていました。
小さな変化ですが……私は、気になります。
どう見られるかを意識するようになった、私の変化。
アイドルとして変わった私の思考が、足に鎖となって巻き付いているのです。
「……」
しかし、これで何の気兼ねをする事なく、書の世界に没頭出来る。
そう考える事で、気を紛らわし、やっとの事で戻ってくる事が出来ました。
……はい……戻ってくるまでお預けと、新刊を人質にされています。
「……」
ゆっくりとした歩みですが、遂に、事務所へと辿り着きました。
重い足取りで階段を登り、大きな玄関ホールの扉をくぐります。
すると――
「――おはよう、ございます」
――シンデレラプロジェクトの、プロデューサーさんが、立っていました。
「おはよう……ございます」
これから、何処かへ向かおうとしているのでしょうか。
左手に鞄を持ち、玄関口へと向かっていたので、まず、間違いないと思います。
嗚呼……どうして、よりによって、今なのでしょうか。
「……」
事務所へと戻る道すがら、何度か立ち止まり、前髪に手をやります。
詳しくは無いのですが、美容師の方は、私でもわかるほど、腕が良いように思えました。
ああいった場所では、美容師の方と話さなければいけないと緊張していたのですが、
それを察してか、あまり話しかけらえる事もなく、静かに過ごす事が出来ました。
「……」
けれど、少しだけ。
ほんの少しだけ、いつもよりも前髪が短くなったのです。
「……」
恐らくは、ほとんどの人が気付かないような、小さな変化。
しかし、私はそれが気になって仕方ありません。
「……ふう」
再び歩を進め、皆の待つ事務所へと向かいます。
――切り終わった姿を見たい。
と……そう、頼まれてしまったからです。
紹介する事が出来なかったからその楽しみは、などと言われては、
首を横に振るような真似をするには、あの場の空気は期待に満ちすぎていました。
小さな変化ですが……私は、気になります。
どう見られるかを意識するようになった、私の変化。
アイドルとして変わった私の思考が、足に鎖となって巻き付いているのです。
「……」
しかし、これで何の気兼ねをする事なく、書の世界に没頭出来る。
そう考える事で、気を紛らわし、やっとの事で戻ってくる事が出来ました。
……はい……戻ってくるまでお預けと、新刊を人質にされています。
「……」
ゆっくりとした歩みですが、遂に、事務所へと辿り着きました。
重い足取りで階段を登り、大きな玄関ホールの扉をくぐります。
すると――
「――おはよう、ございます」
――シンデレラプロジェクトの、プロデューサーさんが、立っていました。
「おはよう……ございます」
これから、何処かへ向かおうとしているのでしょうか。
左手に鞄を持ち、玄関口へと向かっていたので、まず、間違いないと思います。
嗚呼……どうして、よりによって、今なのでしょうか。
619: 2018/08/05(日) 01:04:37.45 ID:ugRUmuoao
「……」
この方には、以前、とてもお世話になりました。
なので、挨拶を交わして、すぐさまこの場を辞するのも憚られたのです。
何か、一言だけでもかけた方が良いのでは。
そんな風に、うっすらと思った私の思考は、
「前髪を少し、短くされましたか?」
いとも容易く、断ち切られました。
「っ!? は……はい……」
返事をしながら、俯きます。
何故、すぐにわかってしまったのでしょうか。
わかりません……どうして、なのですか。
貴方は、何故……私にそう、言ったのでしょうか。
「やはり、そうでしたか」
緊張。
やってくるであろう続く言葉を待つ、ほんの僅かな時間。
そんな短い時間の中で、私は、心臓が鼓動する音を意識しました。
いえ……大きくなったその音を意識せざるを得なかっただけ、ですね。
「とても、よく似合っていると……そう、思います」
更に大きくなった、心臓の音。
静かな、書の世界に居ては感じる事の無かっただろう、激しい音。
心臓とは、血液を全身に送り出すエンジンだと、誰かが言っていました。
以前の私は、それに耐えきれず、倒れてしまいました。
……けれど、
「ありが、とう……ございます」
私は、アイドルです。
困難を乗り越え、むしろ、糧として変化――成長しています。
頬は熱く、鼓動の音は、今もとても大きく鳴り響いています。
だからと言って、また、止まってしまうわけには……いきませんから。
特に――この人の前では。
「……良い、笑顔です」
言われて初めて、私は笑みを浮かべている事に気付きました。
その、驚きのせいでしょうか……。
「――いってらっしゃいませ」
私の口からは、自然と言葉が出ていました。
……あ……この人の顔を見上げても、前髪が目にかからない。
622: 2018/08/05(日) 01:40:30.65 ID:ugRUmuoao
・ ・ ・
「……」
プロジェクトルームのソファーに座り、戻ってきた書を膝に置く。
そして、表紙の上に手を添えて、ふぅ、と、息を吐く。
「……」
髪を切った私への感想は、とても好意的なものでした。
しかしそれは、髪型への――前髪が少し短くなった事へのものではなく、
――表情が明るくなった。
……と、そういったものでした。
「……」
前髪に手をやり、その先端を指先で軽く揺らします。
ほんの少しだけ視界が開けただけなのに、表情まで変わるものなのでしょうか。
前髪を少し短くしたと告げても、それ以外にも何かあったかと、問い質されました。
心当たりは確かにありますが、それを言う事は、不思議と躊躇われたのです。
「……すぅ……ふぅ」
胸に手を当てて、大きく深呼吸。
思い出すと速くなってしまう鼓動を落ち着かせるため、ゆっくりと。
一度読み始めてしまえば集中出来ますが……いつまでも、ページがめくれません。
今日の、予想していなかった展開に、まだ心が追いついて来ていないのでしょう。
「……」
時間を確認してみると、そろそろ、レッスンの時間が迫ってきています。
読むのはレッスンが終わってからにした方が……良さそうですね。
「……」
少し時間は早いですが、ロッカールームへと。
「……」
少しだけ考えた末、ソファーに本を置いて、立ち上がります。
だって、私が戻ってくる場所は此処なのですから。
足取りが、軽い。
その理由は……髪を切って、頭が軽くなったから――
「……」
――……に、しておきます。
おわり
「……」
プロジェクトルームのソファーに座り、戻ってきた書を膝に置く。
そして、表紙の上に手を添えて、ふぅ、と、息を吐く。
「……」
髪を切った私への感想は、とても好意的なものでした。
しかしそれは、髪型への――前髪が少し短くなった事へのものではなく、
――表情が明るくなった。
……と、そういったものでした。
「……」
前髪に手をやり、その先端を指先で軽く揺らします。
ほんの少しだけ視界が開けただけなのに、表情まで変わるものなのでしょうか。
前髪を少し短くしたと告げても、それ以外にも何かあったかと、問い質されました。
心当たりは確かにありますが、それを言う事は、不思議と躊躇われたのです。
「……すぅ……ふぅ」
胸に手を当てて、大きく深呼吸。
思い出すと速くなってしまう鼓動を落ち着かせるため、ゆっくりと。
一度読み始めてしまえば集中出来ますが……いつまでも、ページがめくれません。
今日の、予想していなかった展開に、まだ心が追いついて来ていないのでしょう。
「……」
時間を確認してみると、そろそろ、レッスンの時間が迫ってきています。
読むのはレッスンが終わってからにした方が……良さそうですね。
「……」
少し時間は早いですが、ロッカールームへと。
「……」
少しだけ考えた末、ソファーに本を置いて、立ち上がります。
だって、私が戻ってくる場所は此処なのですから。
足取りが、軽い。
その理由は……髪を切って、頭が軽くなったから――
「……」
――……に、しておきます。
おわり
624: 2018/08/05(日) 03:38:13.34 ID:alHwB75V0
ああー 武文いいぞーコレ なんかおとなしい二人なりに会話はなくとも通じ合ってるのイイヨネー
625: 2018/08/05(日) 04:16:56.67 ID:RIdyq/PXO
読ませるねぇ
引用元: 武内P「『次はお前だ』」
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