1: 2009/12/23(水) 13:26:59.51 ID:hwGMHRN10
律「んー、澪なんか言ったか」

澪「聞こえてたのか?」

律「いんや別に。それより昨日のドラマでさー――」

なんとなく予感がして声に出てしまった。
それは、あくまでも可能性の一欠けらであって予測の範囲内にギリギリ収まる程度であって予知夢にも似た偶然が重なって起こるようなことだった。
考えた後で、何てことを考えてしまったのだ、と戒めを起こしてしまった。

いつもの音楽準備室でいつものメンバーでお茶をしていた。
練習に性も出さずひたすら糖分を補充しては、唯なんて口の周りに食べかすをこびり付かせている。
会話の内容も非常に有り触れているものを、昨日の議題を今日に繰り越すみたく、展開させていた。
所謂、昨日のテレビで見たんだけどさー、なんて他愛も無い話である。
そんな中で私はぼーっと聞き耳を立てていた。
律と唯の言葉で展開されるお笑いコントじみた風景に溶け込んでいた。
そしてチラリと律を見た。
これについて一切の自発的なものは含まれていない、よく使われる『なんとなく』というやつだ。
私はその『なんとなく』を行使して、律を見た。
律の指先がたまたま私の方向を指していた。

その指先が伸びて、目の前にまで伸びてきて、角膜を通り抜けて、瞳孔を突き破って、水晶体にまで進入し、硝子大官をくぐって、網膜血管に溶け込んで、視神経を圧迫して。
それから肉やら骨やらその他もろもろの生命維持には欠かせない物体を貫通したあげく頭の後ろから出て行ていってしまうような。
非常に有り得ない幻想に襲われた。

律は、私の目を刺そうとしていたのかもしれない。
けいおん!Shuffle 2巻 (まんがタイムKRコミックス)
3: 2009/12/23(水) 13:34:14.28 ID:hwGMHRN10
澪「なぁ、律」

律「ん。澪も昨日のドラマ見たのか?」

澪「いやそうじゃなくて。今私を指差さなかったか」

律「そうだっけ? たまたまじゃない」

澪「何か言いたかったのか?」

律「いんや別に」

悩ましげな不安がモコモコと膨れ上がる中で、問いただしてみた。

律とは幼馴染の関係である。
私を羊とするならば、差し詰め律は牧羊犬といったところか。
牧草地帯で何をするでもなくポツンと立っていると、律犬が喧しく追い掛け回してくる。
逃げ惑うしかないのだけれど嫌ではない、むしろ居なければ困るのだ。
そんなやり取りは今に始まったことではない、日常に組み込まれていた。
しかし、今回はどこか違ったベクトルを感じたような気がした。
犬羊の関係であるならば決して噛み付かれることはないのだ。
妄想が大分行き過ぎている、今日は疲れているのかもしれない。

7: 2009/12/23(水) 13:39:23.65 ID:hwGMHRN10
紬「今日はパンプキンケーキを持ってきたの」

律「うっほー、凄ぇ美味そうだ」

唯「ムギちゃん早くわけてわけて~」

紬「はいはい。ちょっと待っててね」

澪「ペーパーナイフ……」

ムギはいつも通りケーキ用のお皿をテーブルに並べて。
ムギはいつも通りペーパーナイフでケーキを切り分けようとする。
彼女はお嬢様育ちでありながら時折メイドのように私達の世話をしてくれる一面がある。

慣れた手つきでカッティングを進めるのだが、何故か気に食わない部分が生まれてしまった。
決して滑らかではない刃先がチラチラと延長線上に私を捉えてはすぐ離れて、また戻ってくる。
その度に、えも言われぬ緊張感が背筋を伸ばしていた。

ペーパーナイフ、とは随分と軽い言い方に聞こえるがナイフの一種である。
手首に当てて強くスライドさせれば皮が剥けて肉が裂けてしまうことだってある。
だからといってペーパーナイフそのものに恐怖心を持つのは非常におかしな話である。
用途として重宝される場面は、ナイフを持ち込めない場所で似たような効果を出したい時、等々。
現にここは学校であり、上記の説明が大いに当てはまる。
握っているのは他ならぬムギであり、目的はケーキを切り分ける為であるからだ。
だけれども、それなのに――。

澪「……かもしれない」

10: 2009/12/23(水) 13:44:48.89 ID:hwGMHRN10
律「今のはちゃんと聞こえたぞ」

唯「何が『かもしれない』なの?」

澪「それはだな、えーと、大したことじゃないんだ」

言うべきじゃない、常識的に考えて。

紬「澪ちゃん、もしかしてパンプキン嫌いだった?」

澪「いや、そんなことないよ。どっちかと言えば好きな方かな」

紬「なら。はいどうぞ」

コトリと私の前にケーキが置かれた、非常に美味しそうである。
黄色味がかかったムースは雪のように滑らかで内側から溢れる生クリームが食欲をそそってくる。
そこまで認識しておいて、私の意識はすぐに別のところへ向いてしまった。

ペーパーナイフはどこにある?

見ればムギはケーキの入れてあった箱に仕舞おうとしている最中だった。
自然と私の視界からは問題の物が消えることとなる。
そしてムギは椅子に座り、箱には見向きもせずムースを一つまみすると口に入れて味わう。
一連の動作を確認してから、私はやっと目の前のケーキを食べようと思うことができた。

13: 2009/12/23(水) 13:51:08.41 ID:hwGMHRN10
舌下に広がる甘みを堪能しながら、私は『なんとなく』を再使用する。

ケーキを口に含んだままクチャクチャという音を混ぜて喋っている唯の存在。
場所を同じくして同じものを食べている身としては何とも気にかけるべき行為であるのだが。
軽音部では日常として認識されてしまっている、何度言っても一向に直らないからだ。
唯は所謂天然さんであり自由奔放であることに定評がある。
なので最近では注意をすることもなくなってしまっていた。
人体には感じ取れない高周波のように完全に溶け込んでいた。

という理由から、私は再度『なんとなく』を行使するに至ったのである。

唯「んでもやっぱヒロインは普通さぁ――」

澪「……」

律「ドラマなんだからそんな現実的な展開じゃ詰まんないって」

紬「そうよ、ロマンチックを求めるのがいいんじゃない」

唯「そうかなぁ。でもやっぱり――」

澪「……かもしれない」

まただ、また言ってしまった。

14: 2009/12/23(水) 13:55:41.91 ID:hwGMHRN10
律「なぁ澪さんや」

澪「ごめん、先に帰っていいかな」

今日の私はどうかしている。

唯「えっまだケーキ残ってるよ?」

澪「ごめん、いらない。唯が食べたいなら食べていいよ」

唯「本当にいいの?」

澪「うん。ムギごめんな、折角持ってきて貰ったのに」

紬「気にしなくていいのよ。調子悪いのならゆっくり休んでね」

澪「ありがとう。本当にごめん、それじゃ」

私は音楽準備室を出た。

律「何かさ、今日の澪変だったよな」

紬「そうね。どこか気を滅入らせてる感じだったし――」

15: 2009/12/23(水) 14:00:55.07 ID:hwGMHRN10
澪「まさか、そんなわけないよな」

ひとりごちても答えてくれる人はいなかった。
見上げた自室の天井は平らな姿勢を崩そうとしない。
あの時感じてしまった妄言じみた妄想を、一人思い出していた。

確かに唯はフォークの先端を私に向けていた。
それ自体は何ら珍しいことではない。
次いで唯の食事マナーがよろしくないことは重々承知している。
なのに、有り得ない可能性が頭の中を過ぎった。

不意に指から離れたフォークが空中を闊歩し、私の顔目掛けて突き刺さる。
とか。
「澪ちゃんあ~ん」と催促する腕が勢いを誤って、私の喉元に突き刺さる。
とか。
フォークを落としてしまい地面に不規則に跳ねた後、私の脛を目指して突き刺さる。
とか。

可能性という液体でコーヒーを作るみたく妄想のペーパーフィルターで濾していた。
抽出された何滴もの有り得ない事が溜まっていって濃度を増していく。
受け皿に収まりきらなくなれば溢れ出し発声器官を刺激して。
内側で処理し切れない疑問が口をついて出た結果だった。

澪「かもしれない。かぁ」

16: 2009/12/23(水) 14:05:37.79 ID:hwGMHRN10
律「おっす澪。元気になったか?」

澪「別に体調不良とかじゃなかったんだ」

律「んん? んじゃあ何だっていうんだよ。怪しいなぁ澪さぁん」

澪「そんなにジロジロ見ても何も出ないぞ」

翌日、いつも通り学校へ行こうとすると律が玄関で待っていた。
私のことを心配してくれているのだろう、純粋な喜の感情が沸いてくる。
昨日過ぎってしまった不健全な妄想もさっぱり出てくる気配が無い。
証拠としてこんなにも有り触れた朝のやり取りを交わしている。
やはり昨日の私はどうかしていたのだ。

律「――んでまた聡が馬鹿でさぁ」

澪「それはお前が嗾けたのがいけないんだろ」

律「私はちょーっと背中を押しただけだって。実行犯の罪が一番重いんだ」

澪「全く。姉としての威厳というか模範というものをだなぁ」

律「澪ぉそんな怒んなってば」

ごくごく普通の朝の場景だった。

17: 2009/12/23(水) 14:09:48.89 ID:hwGMHRN10
和「澪、一緒にお弁当どう?」

澪「うん。勿論」

二年次で軽音部の三人と離れ離れになった私にとって和は唯一の救いだった。
最も和自身も新しいクラスで浮きたい願望はなかったようで。
自然と私達はクラス内で行動することが多くなり、一緒にお昼ご飯を食べるようになっていた。
それもこれも、和と幼馴染の唯が軽音部にいるお陰である。

和「新歓ライブの練習は進んでる?」

澪「あんまりかな。もっと精を出すべきなんだろうけど」

和「あの二人が駄々を捏ねるのね」

昨日は私がそうだったのだが、言えるはずもない。

澪「まぁそれもあるかな。やる気のある後輩が入ってくれればいいんだけど」

和「そうねぇ。でもあの雰囲気がなくなったら、それはそれで寂しい部分はあるかも」

澪「何かもう和には全てお見通しなんだな」

和は落ち着いていて、それでいて周りに気の配れる優等生だ。
だから、少しは甘えてもいいのかな、なんて柄にもなく考えさせられてしまう時がある。
昨日の事を相談してみるのはどうだろうか。
あの幼稚すぎる脳内イメージについての貴重な意見が貰えるかもしれない。
和は答えを知らなかったとしても何かしらの手段で安心させようとしてくれる人間だ。

18: 2009/12/23(水) 14:14:22.66 ID:hwGMHRN10
和「生徒会も結構忙しいのよ。この時期は書類が飛んでばかり」

澪「去年の新歓から生徒会にいたような感じだね」

和「あながち間違いでもないけどね」

澪「へぇ。そうなんだ」

和「それじゃちょっと行ってくるわ。律に講堂の使用申請書出すように言っておいて」

澪「うん、分かった。またね」

結局、相談するという結論に達しないまま和は生徒会室に向かってしまった。
食事もあまり咀嚼をせずに飲み込んでいるようだったし、時間に焦らされていた。
私は自分から話題を提供することなく、和の話に適当な相槌を打つ程度にしか機能できなかった。
そんな和に更なる負担をかけてしまうのは酷だと思ったのだ。
今でなくとも生徒会の仕事で大車輪の活躍をみせているというのに、これ以上は気が引ける。
仮に和からアドバイスを貰えたとしても完全回避に繋がる術は出てくるのだろうか。
私が軽音部に顔を出さなければいい、なんて極論は抜きにして。

やはり現実に起きていない事件を取り上げるなんてどうかしている。

19: 2009/12/23(水) 14:19:48.02 ID:hwGMHRN10
澪「講堂の使用申請書、まだ出してないんだって」

律「あーそれはー、丁度今からやろうと思ってたところなんだよ」

澪「そんなことだろうと思った」

紬「まあまあ。忘れないうちに書いちゃいましょう」

唯「それ出さないとライブできないんだ?」

律「当たり前だろ。ちゃっちゃと書いちまおうぜ」

呑気さを恥じることなくひけらかして、律は鞄から書類を取り出した。
適当なボールペンを取り出すとスラスラと筆先を走らせるのだが、何故かすぐに動きを止めてしまう。

律「そーいえば曲順どうすんだっけ」

唯「あれ、まだ決めてなかったんだっけ?」

澪「よくよく考えれば決めてないな。四曲分の時間が貰えるんだろ」

律「んーそうなんだけど。まぁ後で決めればいいかぁ」

澪「そうやって先延ばしにしようとするからだな」

紬「まぁまぁ澪ちゃん落ち着いて」

律「じゃあ澪はどんな順番がいいんだよ」

22: 2009/12/23(水) 14:26:30.65 ID:hwGMHRN10
その時だった。

どんな順番がいいんだ『よ』!!」

その瞬間、私の神経は全てが律の挙動に注がれていた。

律は机に肘を付けていかにも考えているといった姿勢を見せていた。
頭蓋をノックするかのように、ペン腹を側頭部にくっつけたり離したりと遊ぶ。
そしてその腕を、指先を、ペン先を、私の方へ向かって伸ばしたのだ。
私への問い掛けと私を示そうとしたペン先、そのモーションがダーツを射るかのごとく見えた。
俊敏にスナップを利かされて前へと突き出される。
延長線上には私の顔という的があって、高得点の赤鼻目掛けて一直線に伸びてくるような。

ペン先を追って、瞬きも忘れて、原子の粒を見るように、ひたすらに凝らして、そうしていたら。
ボールペンが私の眼球に吸い込まれていくような。

澪「いやッ!!!」

そう叫んで、派手に後方に倒れた。

23: 2009/12/23(水) 14:31:06.75 ID:hwGMHRN10
みっともない醜態を晒しながら私は震えていた。
撮ったばかりのフィルムを巻き戻して、また再生して、ひたすら脳内に焼き付けていた。
鼻筋に伝わる痒いような痺れる感覚がそこから全身に送られているようだ。
私は抗おうと、異物を取り除こうとして顔の前に手を伸ばすのだが。
指先は何度も虚空を描いてしまう。

律「どうした澪!」

唯「澪ちゃんどうしたの。目に虫が入っちゃったの?」

紬「目じゃないわ。鼻の、先かしら」

律「おい澪、ちゃんと見えてるか。どこが痛い? どこを見てるんだ」

視覚は役割を放棄して、脳内ビジョンにだけその入力先を預けていた。
確かに律は私目掛けてペンを投げつけた。
本気でそう感じ取ったのだから体を放ってでも顔を守ろうとしたのだ。
しかし何度繰り返しても、何度見直しても、肝心のシーンが訪れてくれない。
あの時の私だけが見ていた幻想だった、とでも言ってしまえるのか。

じわり靄が晴れるように、五感が現世に戻っていった。

26: 2009/12/23(水) 14:37:20.58 ID:hwGMHRN10
律は声のボリュームを最高潮にまで押し上げていた。

律「澪! 澪! しっかりしてくれよ!」

澪「ぇと……ぁの……」

律「意識は戻ったんだな。よかった。本当によかった」

澪「ねぇ、刺さってない? 傷ついてない?」

律「見た目は、大丈夫だと思うけど。それより」

澪「じゃあ、律は私にボー――」

律「ボー。その先は何だ」

私は禁句を押さえつけるように口を噤んだ。
感覚は高揚しながらも気分だけが下落する、張り付けにされた異教徒のような気分だ。
その先を言ってはならない。
白状すれば二人の関係を壊すことに繋がってしまう。
いや、二人だけでなく軽音部全体に大きなメスを入れてしまうのではないか。
北風に晒されると強気なコートをがっしりと掴み直してしまう。

27: 2009/12/23(水) 14:41:27.09 ID:hwGMHRN10
紬「一応保険室に行きましょう。それがいいわ」

澪「大丈夫。もう平気だから」

律「それは駄目だ。どっからどう見たって、さっきの澪は普通じゃなかった」

唯「怖い話された時の比じゃなかったよ」

澪「普通じゃないなら、どうだったっていうんだよ」

律「ずっと震えてたし、目の焦点が合ってなかった。意識だって――」

澪「それくらい、よくあることだから」

律「はァ?」

澪「前にお前に見せられたホラー映画の映像がフラッシュバックしたんだ。それだけだから」

律「そんなの理由になんてなるかよ」

澪「とにかくもう構わないでいいから。それでも保険室に行けって言うなら帰る」

律「……あーあー、そうですか。澪さんは心配してくれる友達を無視しやがりますか」

唯「りっちゃん言い方が――」

澪「話するだけ無駄みたいだな。今日も帰らせて」

紬「澪ちゃんちょっと待って。いくらなんでも――」

29: 2009/12/23(水) 14:45:35.76 ID:hwGMHRN10
一人、音楽準備室を出た。

階段を下ると部活動の勧誘に性を出す姿がちらほら見受けられた。
勧誘期間も始まったばかりだというのに何とも熱心なことだ。
軽音部として今日は勧誘する予定ではなかったのだが、やはり少しだけ罪悪感を覚えてしまう。
通り過ぎる間際、野球のバットやら剣道の竹刀やらゴルフのクラブがやたらと目について嫌悪感を覚える。
それでも、今さっき体験した幻想と比べれば随分とマシだった。

校舎を出れば、やはり勧誘及び入部活動に忙しないのか生徒は疎らである。
少し歩いて後ろを振り返ってみると、やはり律と唯とムギの姿はなかった。
心配している、なんて言った割には白状なものだ。

澪「でも、やっぱり寂しいよ」

―――― ブブブブブブ

独り言に答えてくれたのは携帯のバイブレーションだった。
心拍数を上げて開けば、やはり律から送られてきたメールだ。
ムギが気転を効かせて無理矢理にでも送らせた文章があるのだろう。

30: 2009/12/23(水) 14:49:25.40 ID:hwGMHRN10
―――――――――――――――

 from 律

さっきはキツイ言い方になっちゃ
ってゴメン。でも本当に心配だっ
たんだ。今まで嫌がってるの知っ
てて怖いもの見せてたのも悪かっ
たと思ってる。だから何があった
のか教えて欲しい。私で役不足な
ら他の誰にだっていいから。ただ
、絶対に一人で抱え込まないでく
れ。それだけは絶対のお願いだ。

―――――――――――――――


顔文字も絵文字もない素っ気無いメールだけれど、律なりの優しさが詰まっていた。
内容に目を通してから、ごめん、と言ってすぐに閉じた。
どう返信すればいいのか分からなかった。

31: 2009/12/23(水) 14:54:59.76 ID:hwGMHRN10
私は逃げるように自宅へと戻り、そして思う。
律はボールペンの先を私に向けた、その瞬間に通常では起こりえない惨状を疑似体験した。
ならば自らペンを持ち向けてみても同じ現象が起こるのだろうか。
怖い気持ちは大きいけれど、確かめる必要があった。
毎回こんなリアクションを取っていたらいよいよ異常人物と見られてしまう。
そう何度か言い聞かせてから愛用のシャープペンシルを一本取り出した。

澪「普通のシャーペンだよな」

筆箱を開けてペンを持つ、特に問題は発生しない。
それはそうだろう、今さっきまで学校にいたのだし授業で散々に使っていたものだ。
別段大した感情すらも沸いてこない。
見定めるべきはこの先にある、ゆっくりと回転させていった。

澪「大丈夫。怖くない、怖くないからな」

声に出して言い聞かせながら、針の糸を通すように慎重に向けて、ペンの全貌が見えて。
先が確認できるまでになって、やっと真横にまで到達して、次第にペン先の腹が見えてきて。
ついに先端が私を捉えて――何とも思わない。

32: 2009/12/23(水) 14:58:35.46 ID:hwGMHRN10
こんな馬鹿な話があるか、私は一体何に対して恐れていたというんだ。
分からない、分からないから無性に探したくなる。
乱暴に机の引き出しを開けて手を突っ込んだ。

やはりボールペンなのか、なんとも思わない。
なら色鉛筆で、少しも動揺しない。
万年筆なら、びくともしない。
三角定規で、うんともすんとも。
ハサミなら、全く無意味だ。
カッターなら、微動だにしない。
ならもっと近づければいいのか。

あの時は目と鼻の先にまで迫ってくるほどの圧迫感が伴っていた。
もっと近くまで、皮膚が剥がれるように、肉が抉れるように、神経が支配されるように。
もうちょっと、もうちょっとで。

澪「痛ッ」

鼻頭にピリッと小さく電流が走ると、私はカッターを机に投げつけた。
傷つけようとしていたんじゃない、ただ追求したかったんだ。
そう思い聞かる度に頭がこんがらがった。
自慢の黒髪をぐしゃぐしゃに束ね、跳ね散らかしていた。
何でこんなことをしているのか、理解に苦しんでいた。

33: 2009/12/23(水) 15:02:03.92 ID:hwGMHRN10
律「おはよ」

澪「ぉ、はよう」

律「学校行くか」

澪「うん」

眠そうなのがバレているだろうか、案の定あまり寝付けなかった。
あれから何度試しても同じ症状が出ることはなかった、なかったのだけれど。
それが一番なはずなのにかえって不安にさせた。
律に勘繰られたくないので、できるだけ視線を逸らして話しかける。

澪「なぁ律」

律「どうした」

澪「昨日はごめん。メールも、返さなくて」

律「まぁあれだな。頼りが欲しくなったらいつでも言ってこい」

澪「ありがと」

不安よりも喜びを大きく感じ取れるように、律の言葉を噛み締めることにした。
風邪が辛くてもバラエティ番組を見て笑えている間はそれを感じさせないようなものだ。
頼りにするならやはり親友なのだろう。
だけれども、おんぶに抱っこでは何とも申し訳なくなる。
まだ打ち明けることができそうにない。

34: 2009/12/23(水) 15:06:08.00 ID:hwGMHRN10
さわ子「スペシャルな衣装を用意したわよ!」

澪「あの、それは衣装じゃなくて着ぐるみかと」

さわ子「細かいことはいいのよ。さっさ早く着替えなさい」

紬「アルバイトみたいで楽しそうだわぁ」

唯「私クックアドゥードゥルドゥーね」

律「それ今日の授業で知って使いたかっただけだろ」

何故か強制的に馬の着ぐるみをかぶらされると新歓に狩り出されてしまった。
またも途中で帰ってしまうと思われたのだろうか。
先手を打たれた気分だ、別に逃げるつもりなんてなかったのに。
昨日の帰り際に新歓活動を見た時だって多少は罪悪感は覚えた。
こうしてあからさまに確保されると、如何せん悔しさを隠し切れない。

さわ子「大事なのはインパクトよ。インパクト」

唯「はいはい、ディープインパクトを与えるんですね!」

律「それは地球に隕石が落ちる映画だ」

紬「競走馬にもいたわね」

こんなんで大丈夫なのだろうか。

35: 2009/12/23(水) 15:10:34.57 ID:hwGMHRN10
馬澪「軽音部です。よかったらどうぞ……」

周囲の反応が痛い、チクチクと目に刺さるようだ。
視界が剥き出しになっていないことと、発信源が分散しているのがまだ救いなのだろう。
いいや、元々被り物なんてしなければ怪しげな目で見られるはずもない。
あの時に似た感覚がじわりとこみ上げてきた。

これは苛められっ子の気分に似ている。
距離を保ちつつ取り囲まれて「見てみなよ~」と指をさされる。
決して触れられず、かといって見放されるわけでもなく、笑いの対象として適度なリアクションを求められる。
適役としての私を認識すると苛立ちが精神を容赦なく削っていった。
加えてこの晴天に着ぐるみだ、吹き出る汗で塩が取れるそうな勢いである。
暑すぎる、劣悪な環境だ。

犬律「澪フラフラしてないか。ちょっと休むか」

馬澪「いいよ。どっちにしてもあんま変わらないと思うし」

猫紬「無理しないで。とりあえずベンチに座りましょうか」

素直に腰掛けて視線を下に落とすと多少は気が安らいだ。
外部からの情報を絞っていると、時折トンボ目の穴から犬ぐるみが覗いてきた。
もぐら叩きのごとく映っては消えるのだが、指をさされているよりはずっと楽だった。
律にどこまで気付かれているのだろうか。
ヒントなら私から発信していた部分もあった。
「ボー――」という言葉や「刺さってない?」という反応とか、色々ある。
意地を張っていても、無意識下では助けを求めていたのかもしれない。
プライドを捨てるしか道はないのか。
苦虫を噛むと奥歯が擦り切れる音がする。

36: 2009/12/23(水) 15:14:58.58 ID:hwGMHRN10
澪「――――という訳なんだけど」

律「そうかぁ」

澪「別に律が嫌いとか怖いとかそんなんじゃないんだ」

律「何回も言わなくても分かってるって」

澪「でも、それが一番不安で……」

この日は私が早々に棄権したおかげで大した勧誘活動もできずに終わってしまった。
攻めるでもなく、槍玉に挙げるでもなく、ただ納得してくれたムギと唯に深く感謝しなくてはならない。
そして目の前で私のベッドに腰掛けている律にも陳謝しなくてはならない。
こんな告白をされて、心象を悪くしたり、果ては絶交されたりなんてしないだろうか。
だったら私が異常なのだと断定される方がまだ楽になれると思う。
それ程までに私は律を失うのが怖い。

律「ちょっと時間頂戴。私の頭じゃすぐに追いつかない」

澪「うん。分かった」

そのままベッドに寝転がると真剣な表情を崩さないまま思考だけを回している律は、何を思うのだろう。
喚問を受けているような、無意識下の私を呼び出して律が脳内会議に招いているような。
はたまた車検やら点検やら超えなくては是とされない一級の査定を受けているような。
流れる時間がとても遅い、しかし結果が悪いのならばいくら続いたって構わない。
あの感覚を一とするならば無限とまで表現しても誇大に値しないほどに長い時間だった。

38: 2009/12/23(水) 15:19:48.45 ID:hwGMHRN10
律「私は澪を捨てるような白状者じゃないぞ」

そう告げて、ゆっくりと近づき、私を軽く抱いた。

澪「それは、どういう意味で?」

律「全部ひっくるめて親友を見捨てたりなんてしないってことだ」

澪「本当に?」

律「親友の言葉が信じられないってんなら、その事にだけ怒ってやる」

澪「ごめん」

律「いいさ、それから――」

オブラートで覆われるように律に包まれていた私は、突如として収束感を味わった。
律の手と触れている肌と髪先までもが固くなって全身に纏わりつく。
密着して擦れた部分から私より激しい律の鼓動が伝わっていた。
これから律は何を言い出すのか、予想すれば百パーセント当たるだろう。
しかし、考えることすら中断したくなるほど鋭敏な部分が億劫になってしまう。
自分から危惧することもあったが決断にまでは程遠く、今に至るまで廃案となってきたものだ。
辛いけれど誰かに言われる方が、言ってくれる相手がいるのなら、その方が断然いいのだろう。
私は目を閉じて律の言葉を待った。

律「病院行こう」

39: 2009/12/23(水) 15:24:20.91 ID:hwGMHRN10
私はプライドの高い人間だ。
一に努力、二に努力で、人生において積み重ねてきたことに誇りを持っていたし当然のことだだと思っていた。
だから始めは軽音部において浮いた存在になっていたのかもしれない。
ティータイムと銘打たれた時間にお菓子や紅茶を賞味する事が堪らなく不条理だった。
目的と行動が一致していない、なんて自堕落な連中なのだ、と渇を入れたかった。
そんな愚痴を一方的に溢しても律はウンウンと聞いてくれた。
冗談混じりに駄目出しされることもあったが頑固な私の心を揺らす正論をくれる時もあった。
次第に私は軽音部に、律の引率によって四人の輪に入れたのだと確信していくこととなる。
今では皆の良い所をすらすらと言葉で伝えることができる。
話しているだろう私の顔は、きっと傍から見ても分かる程のニヤケ面だろう。
今回もそうだ、律の優しさが固い鱗を剥がしてくれている。

私は力を込めて抱き返した。

律「一緒に行ってやる。一緒にだ」

澪「ごめん。ありがとう」

40: 2009/12/23(水) 15:28:16.01 ID:hwGMHRN10
いざ建物を正面に対峙すると周囲の目が酷く気になった。
周りの人間が私達だけを見つめている、という錯覚を覚えてしまうほどに。
それでも律を大きく視界に入れることでどうにか耐えようとしていた。
看板にハッキリと『心療内科』と書かれていることが最も大きな抵抗だった。
誰かに見られているのでは、あの秋山澪が精神病を発祥している、裏でこそこそと笑われるのでは。
社会の道から外れた者として『池沼者』のレッテルを貼られるのでは。
どうしようもない小さな可能性だったが、確実に自尊心を煽っていた。
心を強く持とうにも指の隙間からすり抜けてしまうほどに危なげだ。

胸を張る律の背中にくっ付いて建物内に入った。

澪「なんか普通の病院みたいだな」

律「そりゃそうだろ」

澪「普通のサラリーマンっぽい人もいる」

律「あのヤーサン見てみろよ。背景が清潔すぎて違和感あるぞ」

澪「ぷふっ。コラ律、こんなとこで笑わせるな」

律「ごめんごめん」

こんな場所で笑うだなんて思ってもいなかった。
静寂とまではいかなくとも緩やかな空間に二人の声が強調されていた。
場違いだと怒られてしまうかもしれないが、私にとっては大きな救いだった。
まだ判明していない私が持っているだろう特異なものも笑い飛ばせるようになるのだろうか。
律と私の笑顔で淡い期待が温かく広がっているのを感じていた。

41: 2009/12/23(水) 15:31:21.95 ID:hwGMHRN10
律「んじゃ、保護者じゃなきゃ診察室入れないから」

澪「分かった。行ってくる」

病室に入ると、大きな椅子に深々と腰掛ける白衣のおじさんが迎えてくれた。

医「ええと、秋山澪さん。今日は初めてですね」

澪「はい。よろしくお願いします」

医「どうぞ、話して下さい」

澪「はい。最初はなんでもなかったことなんですけど、ある日友達に指をさされて」

澪「そしたら指が飛んでくるような、突き刺ってくるような感じがして」

澪「全然向こうはそんなつもりないんですけど、どうしてかそんな風に思えて」

澪「気になりだしてから、何かに付けて……。あの、続けていいんですか?」

医「ん? ああ、お気になさらず」

こういった心療系の機関を受診するのは初めてなのだけれど、けれど違和感を覚えた。
先生と銘打たなくとも紛れも無い医者であるその人物は私の方を見ることなくタイピングに勤んでいた。
打ち込んでいる内容が光の反射でギリギリ見ることがきないのが非常にもどかしい。
何かこう詰問を受けているような窮屈さがあった。
これなら入力に立ち入る人間が医者でなくても成立するのではないか。
時折相槌をくれるものの、どこか他人事に見られているような気がしてならない。
実験のモルモットとして扱われているような、非常に厭な気分だ。

43: 2009/12/23(水) 15:35:19.13 ID:hwGMHRN10
医「どうしました。そこまでしか話せませんか?」

澪「いえ、大丈夫です。それから――」



律「おかえり。どうだった」

澪「あんまり相手にされなかった気がした」

律「ふぅん。他には?」

澪「一回じゃ分からないからまた来てくれって。私から話しただけだった」

律「まぁ当日駆け込みでこの人じゃあな」

澪「律はこういうの詳しいのか?」

律「それは、あれだ、丁度この前テレビで特集やってたんだよ」

期待していた何かしらの特効薬を得られぬまま、始めての受診は終わってしまった。
正直期待はずれだったけれど、連れ添ってくれた律に申し訳が立たないのでこれ以上の毒舌は控えることにした。

次回の予約をすると早々に二人で家路についた。
帰宅途中、常に律は私と肩を擦らせていた。
摩擦に乗せられて律の気遣いが伝わってくるのだが、それくらいで不安の氷は溶けてくれそうにない。
非常に悪い予感に苛まれていた。

45: 2009/12/23(水) 15:39:15.94 ID:hwGMHRN10
律「新歓ライブの件なんだけどさ」

いつものティータイムの最中、突如として律が話題を提供した。

律「申請書まだ提出してないんだ。期限に余裕あったから」

紬「あら、そうだったの」

唯「あれ? 珍しく澪ちゃん怒らないね」

澪「ああ、そうだな」

気力をいくら絞っても、元気の芽が出てこない。

律「でだな、ライブをしない選択肢を考えるべきだと思う」

唯「りっちゃんそれ本気で!?」

紬「唯ちゃん落ち着いて。ほら、ね」

そう言ってムギは唯を宥めにかかる。
こちらから本心を尋ねたわけではないが、ムギは大よそを見抜いているようだ。
薄々感付いていたのだろう、私が引き起こした不安が種を植えつけたのだ。
そして成長したヤドリギの木は確実に軽音部に根付いてしまっている。
原点である種を撒き散らしたのは紛れもない私である。

唯「あっ、えと、ごめんね澪ちゃん」

唯は正直ないい子だ、それが残酷でもあるのだけど。

47: 2009/12/23(水) 15:41:52.37 ID:hwGMHRN10
澪「みんなごめんな。私のせいで」

律「澪、そんな言い方すんなよ」

紬「そうよ。困った時は助け合わなくちゃ」

優しさがとても辛い。
口に苦味を覚えるけれどそれが良薬かどうかまでかは分かりそうにない。
どちらにしても、私が感けてばかりでは周りまで渋顔にさせてしまう。
痛みに慣れてきた者から言い出すべきなのだろうか。
多分そうだ、皆もそれを待っている。

澪「期限まで後三日だよな。少しだけ時間を貰えないかな」

唯「それってどういうこと?」

澪「我が侭になるけど、自分の体と向き合う時間を貰いたい。本当に無理ならその時にまた謝りたい」

律「私は異論なし。ムギはどうだ」

紬「私も構わないわ」

唯「だったら私も!」

48: 2009/12/23(水) 15:44:53.93 ID:hwGMHRN10
軽音楽のような部活動は発表の場があってこと成り立つ。
演劇部しかり、ダンス部しかり、舞台上で最も輝くことを約束されている。
そして高校生という縛りあれば、その機会も当然少なくなるものである。
桜ヶ丘高校では文化祭と新歓活動、この二つで講堂ステージを使うことを許可される。
文化祭はお祭りだ、校内校外問わず様々なお客さんが訪れる。
であれば、必然ながら音楽に興味のある者が集まりやすいものである。
対して新歓では聞いてくれる人が大まかに決められている。
高校という青春に熱中できる何かを探しに見に来てくれる一年生ばかりだ。
そんな卵達を目の前にして自分達が今ある精一杯を放出する。
新入部員の確保もそうだけれど、こんなに輝いている先輩がいるんだ、なんて思ってくれるほうがよっぽど嬉しい。
そんな想いを高校生活への希望の糧にしてくれることが、先輩として何よりの喜びなのだ。

私は自らの失態でこの機会を逃したくはない。
軽音部の他の三人からも大切な青春を奪いたくない。

澪「もしもし。はい、予約の件なんですけど。出来れば早めてもらえないかと」

澪「診察時間が短くてもいいんです。どうにかお願いします――」

―― ッピ

滑舌のいい返事ではなかったけれど、どうにか予約だけは取り付けることに成功した。
必氏に考えたのだけれど解決法はこれしか浮かばなかった。
自分の力で捻じ曲げることのできない、揺るがない存在が憎い。

50: 2009/12/23(水) 15:48:17.39 ID:hwGMHRN10
澪「――――それで、ライブに出たいんです。何か即効性のあるものは」

私は自論を含めた主張を言葉のマシンガンとして連射していた。

澪「大そうなものでもなくても、何かしら薬を飲んでいれば気から病を抑えてくれることもありますよね」

医「まぁそれは、無きにしも有らずですが……」

私の熱意を真正面から受け止めようとしない姿勢に苛立ちを覚えていた。
この医者に疑心を抱いていることに変わりはないのだが、国が定めた専門医であるから仕方がない。
私は藁をも掴む思いで何度も縋っては訴えていた。

医「そうですねぇ、こういう薬があるにはあります」

風邪薬に似た小さな錠剤を取り出してきた、どんな効果があるのだろうか。

医「ナルコレプシー治療薬とも呼ばれるもので、中枢神経を刺激する作用があります」

医「一時的に気分を高揚させる時に使われるものです。喜の感情の着火剤と言えば分かりやすいでしょう」

澪「これを飲めば気分が良くなって、舞台に立っても平気なんですね」

医「まぁ簡単に言えばそうなのですが――」

それから医者は言葉を濁す場面もあったが、私は一方的にでも求め続けた。
救われる道が提示されたのだ、早くその道を走って進んでみたかった。
根負けをしたのか、程なくして鈍いペン先が処方箋をなぞっていった。
薬局でその薬を手にした時、私は勝利した気分に包まれていた。

52: 2009/12/23(水) 15:51:45.40 ID:hwGMHRN10
翌朝、早速一粒飲んでみた。

この感じはどうやって表現すれば良いのだろう。
一切の負の感情が消し飛ばされて、爽やかな風が吹いていた。
薄い朝日が真夏のストーブのごとく肌を焦がしにかかる。
先ほどまでの憂鬱な朝の情景がガラリとその姿を変えていた。
一見変わらない風景だけれど、最高級の色眼鏡を通して見ているようだった。

澪「おはようりーつ!」

律「んなっ、なんだそのテンションは」

澪「なんだか気分がいいんだよ。向かうところ敵なしって感じだな」

澪「そうだ。忘れないうちにもう一度アレやってくれよ」

律「え。アレって、アレのことだよな?」

律はもう一度確認を取ってからごそごそと鞄の中を探り始めた。
素朴なペンケースを取り出してボールペンを一本摘むと、やはり躊躇ってしまう。

澪「実験しなきゃ結果は分からないだろ」

律「それはそうだけどさぁ」

しぶしぶ了解した律はボールペンの尻を耳の上に乗せる、あの時のデジャブだ。
またももう一度躊躇うので、私は真剣な目で見返した。
ハァと分かりやすい溜息を吐いてから、私の目前にボールペンを放った。

53: 2009/12/23(水) 15:55:02.47 ID:hwGMHRN10
一切の衝撃がないと言えば嘘になる、けれど常識の範疇だった。
有り触れた防衛本能が瞬きを促すると若干だけれど後頭部が後ろに引かれる。
それでもあの時のような貫通性はなく、ピタリと動きを止めてしまった。

律「平気か? 何とも無いのか?」

澪「ああ、もうなんともないぞ。何度でもやってくれ」

律「いや、これきりにしたいんだけど」

澪「まーともかく学校に行こう。遅刻しても知らないぞ」

律「……なぁ澪、変な薬掴まされたわけじゃないよな」

澪「医者が変な薬出すわけ無いだろ。ほーら行くぞっ」

促進された気分が高血圧を保ったまま登校に励んだ。
律が二階の教室に行ってしまう瞬間も寂しくなんてない。
気分は上々のまま教室の扉に手をかけて思い切り引いた。

澪「みんなおっはよーう!」

―― ざわ ざわ

細い目で見られてしまったけれど私自身への影響は微塵もない。
やはりあの薬は素晴らしいものだ、目覚しい医療技術の発達と言えるだろう。
こんなにも陰口を叩かれているのに全く気が滅入る様子がない。

55: 2009/12/23(水) 15:58:24.12 ID:hwGMHRN10
和「えーっと、澪?」

澪「ん、どうかした」

和「どうかっていうか、人が変わったみたいだったから」

澪「まぁ確かに変わったかもな。リニューアル澪ってところかな」

和「まぁ、元気なのは何よりなんだけど」

和はいらない心配をし過ぎなんだ、もう無理に構ってくれなくても問題ない。
そうだ、これからは逆に私が相談に乗ってあげよう。
今ならば聖徳太子もビックリの入れ知恵が沸いてきてもおかしくは無い。
そんな事を考えていたら授業が始まった。

一限目があっという間に過ぎて。
二限目にバリバリ発言して評価点を稼いで。
三限目のちょっとつまらない授業が終わって。
四限目は珍しく隣の子とお喋りなんかして。
昼休みを迎える頃に氏にたくなってきた。

ジェットコースターを転げ落ちるみたく、勢いをつけて感情の最下層に沈み込んだ。

56: 2009/12/23(水) 16:02:34.56 ID:hwGMHRN10
昼休みとは最も生徒が賑わい、食事を摂りながら、喋り散らかして過ごす時間である。
仲のいい者同士が固まると学校のあちこちで四方山話を繰り広げる。
他の教室の生徒も混ざって適当な話題を掘り起こしては、さも面白おかしい話に花を咲かせていた。

じわり陰口が蘇ってきた。
指を指され視線に視されて、私は一切の動きを止めると席に貼り付けられていた。
あの上機嫌さはどこに消え失せてしまったのか、今は絶望しか浮かんでこない。
これは文化祭のライブでモロパンした時以上の羞恥心だ。
鏡を見ずとも顔面蒼白になっているのが分かる。

和「あのさ澪、凄い顔色悪そうだけど。保険室行く?」

澪「ぃく。つれてって」

恥ずかしいことに早退してしまった。



自宅に戻ると、手のひらにコロコロと転がしながらその薬を見ていた。
何の変哲も無い白くて丸い錠剤である、問題はその成分にあるのだけれど。
医者は、瞬間的に気分を高揚させる、と言っていたが正にその通り過ぎていた。
爆発が済んでしまえば後にチリしか残らない、感情の残骸と言えるだろう。
それでも作用している間は確かな効果を実感していた、やはり強い薬なのだ。
あれから多少の喉のイガイガと吐き気が伴っている。
聞かされていた副作用だ、能力を得るにはそれなりの対価が必要となる。
それでも我慢できないほどではないのだから気軽に受け入れていい。

明日は早退しないように頑張ろう。
少し多めに薬を持っていけばいいだけのことだ。

57: 2009/12/23(水) 16:06:06.91 ID:hwGMHRN10
律「昨日早退したって聞いたけど」

澪「ああ、気分はよくても腹痛には勝てなかった、ってだけだよ」

律「本当にそれだけか?」

澪「律は心配しすぎだぞ。親友の言う事が信じられないのか?」

律「その言い方はずりーよ」

それから私は薬を常備するようになった。
刺されるような感覚が蘇った時に一粒だけ流し込む、すると暫くは晴れやかな気分でいられた。
その代わり後から襲ってくる渇きや吐き気を我慢した、対価なら受け入れるしかなかった。

律「澪。本当にライブ大丈夫なんだな」

澪「平気だって。本人がそう言ってるんだから」

軽音部の活動の前には欠かさずに摂取していた。
講堂の使用申請書は半ば強引にだったけれど生徒会に提出させた。
その為のティータイム兼話し合いの最中、三人は何度も私を気遣う言葉をかけてくれた。
私の反論に肩透かしを食らう律の表情は見ていて辛かったが、目を瞑って受け流していた。

全ては新歓ライブの成功にかかっているのだ。
私一人が耐えてどうにかなるのなら、それで正しいに決まっている。

60: 2009/12/23(水) 16:12:01.74 ID:hwGMHRN10
そんな毎日を繰り返すこと数日、新歓ライブを翌日に控えた朝のことだった。

澪「うぉぁぁ――っぺ」

吐き気が酷い、何度押し込んでも胃液が外に出たがっていた。
鼻の奥に付着したツーンという酸っぱい臭いが一向に剥がれてくれない。
長い髪を便器に纏わりつかせながら、もう三十分はこうして喘いでいた。
嗅覚に刺激されるように、鳥肌がざわざわと堰き立っては震わせてくる。
恒例の儀式は日に日に激しさを増していたのだった。

薬の摂取量は増加の一途を辿ってきていた。
始めこそ一日に一粒か二粒で満足できたものの、今では五粒ほど飲まなければ気が済まない。
瞬間的に気分は押し上げられるのだけれど、すぐに力を失っては下降してしまう。
効能としての支柱がスプリングと化していた、上下差が激しすぎる。
そんな気分ごと有耶無耶にしてしまえ、と流し込んではまた少し経って吐く。

自分でもおかしな事をしている自覚はあった。
これでは根本的な解決には繋がらないのだと。
しかしライブまでの苦労なのだから、終わってから正しい治療法に変えればいいのだと本気で思っていた。

61: 2009/12/23(水) 16:18:02.56 ID:hwGMHRN10
澪「律、今朝は先に行かせちゃってごめんな」

律「え? っああ、流石に遅刻したくはないからな」

唯「あれ、確かりっちゃん」

律「りっちゃんは明日が楽しみだなぁ。なんたってライブだからなぁ」

澪「調子付きすぎてテンポ押すなよな」

律「わあってるって。それじゃ最後の練習始めますか」

紬「……マドレーヌ、おうちに持って帰ってね」

最後の練習も充実した内容で送ることができた。
音楽に身を預けている間は自然と心地が良くなる、刺される恐怖も吐き気も忘れられる。
若干ドラムのパワーが足りないような気もしたが、本番ではサーチライトが気分ごと上げてくれるだろう。
明日は私達のメロディーの波に新入生が上手く乗ってきてくれるだろうか。

律「あんまりやると疲れるし、そろそろいいか」

紬「そうね。ここの所練習しすぎだもの」

唯「なんか頑張りすぎて軽音部じゃないみたい」

澪「これが普通だと思うぞ」

唯の言う通り私達の軽音部らしくはないけれど、それをネタにできるうちは心配なんていらないと思う。

62: 2009/12/23(水) 16:22:47.33 ID:hwGMHRN10
いくつもの山脈を越えて残りの一山にまでこぎ着けると、やはり体が悲鳴を上げてきた。
最後の詰めが甘くなってしまうのはこの段階で安易に満足するからだ。
けれど私は一貫して貫き通してみせる、気力だけが前のめりに腰を曲げていた。

澪「とっとと、――止まれよ、――おぅうえぇ」

吐き気止めを併用しても気分が優れない、最悪のコンディションだった。
一方的に虫唾が走っては、異物を追い出そうと臓器が暴れ狂う。
しかし飲んでいない時間が長いほど後の効果が持続するのだから、やり過ごすしかなかった。
なんとも嫌な知識を体で覚えてしまったものだ。

非常に卑怯な手段だけれど予約遅刻を行使する。
体調不良を訴えた後に頑張って行きますと一方的に告げるのだ。
やはりライブは万全の状態で望みたい、見苦しい策だった。

64: 2009/12/23(水) 16:26:04.66 ID:hwGMHRN10
時刻は正午過ぎ、這い出るように家から抜け出ると何故か律がいた。
塀に体を預けたまま空を仰いでいは、音にして聞こえそうな溜息を溢している。
春なのにセンチメンタルな光景だと、不覚にも吹き出しそうになる。
そして私が玄関から顔を出したことに全く気が付いていない。

澪「律?」

律「おわぁ、なんだ澪かよ。びっくりさせんな」

澪「ここは私ん家の前だ。それより何でいるんだ、もうお昼過ぎだぞ」

律「お前がわざと遅刻するってメールしてきて。調子悪いのかと思ってさ」

澪「それで学校から戻ってきたのか。でもほら、ちゃんと行くつもりでした」

律「取り越し苦労で悪かったな」

律の分かりやすいほど紅い膨れっ面に最後の元気を貰ったような気がする。

65: 2009/12/23(水) 16:37:10.74 ID:hwGMHRN10
舞台は既にセッティングがされていたが開場までは多少の余裕があるそうだ。
搬入は午前中のうちにムギ、と少しだけ唯が済ませておいてくれたらしい。
二人に感謝しつつ、恩を恩で返せるように気持ちを高めようとしたのだが。
どうしてか謂れのない違和感が胸の奥でもやもやと増殖するのを感じていた。
いつもなら顔を標的にされている感覚を抱くはずなのに、何かが変だった。
若干だけれど本物の痛みが伴っているようでもある。

澪「ちょっとお手洗い行ってくる」

律「んー。出すだけ出してこいよ」

澪「言い方を改めろ」

もっとツッコミを入れるべきだけれど体が拒んでいた。

トイレの個室に入って、とりあえず便座に腰掛けた。
痛さとまでは言い切れないけれど胸がジクジクと喚いているようだった。
心臓の動きが鋭敏に伝わってくるような、確かな鼓動をやたら強調させているような不快感だった。

私は当然のようにポーチを取り出す。
随分と減ってしまった薬を見ればもう十錠ほどしか残っていない。
処方は一日に三錠までと決められていたが、これでは次の受診までに在庫が切れてしまうだろう。
しかし今日はまだ一錠しか飲んでいない、これから爆発的な気分を得るためだ。
講堂に入ってからだと変な目で見られてしまう、今のうちに補給しておこう。

67: 2009/12/23(水) 16:44:44.69 ID:hwGMHRN10
景気づけに三錠を取って一気に飲み干した。

いくら効能の早い薬でも胃に入って数十秒では何の変化もない。
なのだけれど、ちきんと効果が出てくれるのか不安になってくる。

もう二錠を取って流し込んだ。

今日は百人を超える人の前で演奏するのだから生半端な気持ちでは挑めない。
全て人参だと思え、なんておまじないも子供じみてる。

更に三錠を出してゴクリと飲み干した。

こんな短期間で軽音部の皆には沢山の迷惑をかけてしまった。
いつもの私に戻るだけでは不釣合いだ、高みを見せたほうが示しがつく。

最後の三錠を確認してから、決意と共に放り込んだ。

―― ツーン

便所の陰気臭さが私を中心に払拭されていくのを感じる。
サンポールの臭いをラベンダーの香りにまで昇格させて。
嗅覚に刺激されるままに五感を便乗させると世界が上書きされていった。
これで元通りだ、歩みを強く戻して講堂へ戻った。


68: 2009/12/23(水) 16:48:30.29 ID:hwGMHRN10
律「随分と長かったな、もう少しで迎え行こうかと思ってたぞ。でかい方か」

澪「殴るぞ、と言いたいところだけど、そんな時間も無さそうだな」

紬「それじゃ裏手にいきましょうか」

唯「ドキがムネムネするよ~」

袖にまでくると一つ前の演劇部が喜劇を演じ始めるところだった。
舞台上ではしなやかに振舞いつつも一度袖に戻れば目まぐるしい作業に追われていく。
形は随分と違うけれども、次は私達があそこに立って魅せる番なのだ。
ちっぽけなステージが輝いて、武道館と重ねて見ている自分がいた。
程なくして幕が降りると入れ違うようにその場所を踏んだ。

律「ボーカルは唯でいいんだな」

紬「どうせなら澪ちゃんも少しくらい歌ったら」

澪「いや、いいよ。ほら私ベーシストだし」

律「なんだその理由は」

唯「そろそろ始まるって~」

さわ子「制服も意外とイイ!」

69: 2009/12/23(水) 16:51:43.02 ID:hwGMHRN10
律のパワフルなドラムが地面を空気を伝って後ろから背中を押してくれる。
唯のがむしゃらなギターがメロディーラインを引っ張って軽快に跳ねる。
ムギの奏でるエレクトーンが舞台を覆ってまろやかに調律する。
そして私は裏から支えるように時には主張するように重低音を響かせる。

私達は彗星のように儚くとも確かに輝いていた。
まんまるライトに照らされて玉の汗がキラキラと舞っていた。
暗がりでよく見えない客席だけれど黄色い視線を常に浴びているみたいだ。
畏怖の感情なんて一切沸かない、むしろ気持ちいい位に興奮させていた。
去年の学園祭なんて比じゃあない最高のライブだ。

―― ワー キャー カッコイー

予定が詰まっているのか、新入生からのラブコールおw名残を惜しみつつ私達は袖へと捌けていった。
それでも上昇感覚は高度を保ちつつ、熱量までも保存したがっていた。

律「いやぁ最高だったわ。つうかよくあそこでフォローできたな」

唯「いきなり歌詞飛んじゃって自分でもビックリしたぁ」

澪「なんとなくそんな予感がしたんだよ」

紬「ハートコンタクトというものかしら」

和「――盛り上がるのもいいけど、他の部の邪魔にはならないでよね」

四人で反省会に花を咲かせていると和に怒られてしまった。
次の部による発表が始まればいよいよ三人はテンションを落としていく。
そんな中で私だけが変わらずに浮かれながら口数を増やしていた。
私だけが帰って来れなかった。

71: 2009/12/23(水) 17:00:11.40 ID:hwGMHRN10
最初の違和感は視界のズレだった。
目の前にいるはずの律の顔がスライドされたような斜めの二重線を作ってしまう。
気持ちが前に出過ぎただけか、目にゴミでも入ったのか、パチリ瞬きをして調子を戻そうとする。
再度開かれた視界に唯を見る、顔を右に振ると長い横線がゆっくりと跡をなぞり顔のラインが徐々に形成されていった。
深夜の国道でシャッターを押し続けたような光のレールだった。
疲労のせいか、否、影響は既に他部位にまで転移していた。

きちんと発音しようにも呂律が回らない、顔面の筋肉も表情を遅らせてしまう。
肌が肉が骨が、全てが意識から遠ざかって行く。
心と体が離れていって幽体離脱じみた怪奇を演出していた。
うまくバランスが取れない、真っ直ぐ立ち続けることすらままならなくなってきた。

律「おい澪、またフラフラしてない、『か』」

その時、律のドラムスティックが短い軌道を描きながら私を捉えた。
ゆっくりと追尾線が消えていって、重なるように点を作っていって。
その一次元から放たれた色彩の閃光が、私を貫いた。

澪「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

痛い、痛い、痛い、痛い。
黄色い光は私の目を、両目を串刺しにすると吊るし上げにかかる。
拷問だなどと揶揄できないほどの激痛が濁点混じりの悲鳴をどこまでも連れてくる。
強烈な熱さを教える二点だけが私の精神と肉体を繋ぎ止めていた。
激しいざわつきと誰かの叫び声さえも気にかけられない。
地面に陥落しても尚に激しく動く心臓は、波を広げると体中を痙攣させにかかる。

完全に意識を塞ぎこむ間際、彼女が私を呼んでいるような気がして、安心して飛んだ。

72: 2009/12/23(水) 17:05:33.86 ID:hwGMHRN10
およそ真っ白な壁に囲まれた空間に私はいた。
目覚めの喜びを感じる間もなく、よろしくない気分が先をついて出た。
だるくて重い、落ちるところまで落ちてしまいたいのに柔らかいベッドが邪魔をしていた。
重力以上の圧迫感を伴いながらも肺は一定のリズムを保って酸素を補給している、生きているのだ。

看「秋山さん、おはようございます。今先生呼びますからね」

ここは病院か、当然の結果だろう。
おそらく少し前であろう記憶を掘り起こしてみる、私は講堂の袖で絶叫と共に地に伏した。
ライブで全ての力を使い果たしたのか、それで気が抜けてがしまったのか。
一旦思い出してしまうと、最後に聞いた彼女の泣き声をいつまでも頭の中で反芻させていた。

医「こんにちは、秋山さん。お加減の方は――」

それから簡単な身体チェックと、これまた簡単な病状の説明を受けた。
救急車で病院に搬送された私は毒抜きの治療を受けた。
それでも中毒患者にしては微量の域であったらしく、それ自体が大きな原因ではないという。
呼吸補助装置も早々に取り払われて栄養たっぷりの点滴を味わっていたのだ。
詰まるところ疲労とストレスが主な要因だという。
あの幻覚についてはまた別の先生が説明してくれるそうだ。

73: 2009/12/23(水) 17:10:36.01 ID:hwGMHRN10
医師が病室から出ると外でオーケーサインを出したのか、ムギと唯が入れ替わるように現れた。

紬「おはよう。少しは元気出たかしら」

澪「うん。おかげ様で」

唯「この病院ムギちゃんちの関連会社さんなんだって」

澪「そうなんだ」

紬「治るまでゆっくりしていってね」

心配する二人と対峙して私はすぐにでも謝罪を示すのが常識なのだろう。
しかし、失礼なことにそういった気分が全く沸いてこなかった。
謝ったとしても更に余計な気を使わせてしまうのではないか、なんて妙な勘ぐりを起こしていた。
会話を進めてもお互い消極的になる一方だ。

澪「律。いないんだ」

紬「そうね」

唯「でも凄い心配してたよ」

澪「そうだよな」

律はここにいないのか。
何故という疑問よりも、ただ現実を確認している自分がいた。

77: 2009/12/23(水) 17:14:54.54 ID:hwGMHRN10
体調は次第に良好になっていったが、副作用という残り香があった。
それでも数十分も便器に張り付けられる程の酷さは抜けていた。
少しづつ毒が抜けるように間隔も長くなっていく。

これについて医師から説明を受けた。
私が摂取していた薬は『リタリン』というもの。
聞けば向精神薬の中でも扱いが難しい第一種に指定されているものだった。
効果が強いのもさることながら副作用と依存性も極めて高いという。
私のような高校生ならば保護者がその管理をするべきであるそうだ。
最も、処方することから控えるべきだったという意見も貰った。

似たような意見を処方された医者からも聞いていただろう。
けれどその時の私は目的しか見ていなかった、右耳から左耳へ聞き流していた。
あの心療内科の医者に怒りを持つ気持ちにもなれない、誰かを憎む気持ちすら薄れてしまったのか。
薬の成分と副作用と疲労とストレスと舞台とあの幻想と。
様々な原因が入り混じって悪い方向に二乗されてしまったのだ。
恨むならば管理を怠った自分に向けよう、誰かを憎むことすら億劫だ。

澪「律。こないんだよね」

紬「今はね。でもそのうち来ると思うわ」

澪「どうだろうな」

唯「その言い方はダメダメだよ」

この日も次の日も、律は現れなかった。

78: 2009/12/23(水) 17:19:32.04 ID:hwGMHRN10
気力はさておき体力はぐんぐんと快方に向かっていった。
吐き気は収まり点滴の必要もなくなり普通の内科においては退院となった。
心配されていた薬物への依存性については心配ないそうだ。
処方を始めて日の浅かったことと目先の目標としてきたライブを超えてしまったことが大きいという。
けれどまだ終わりではない、院内の精神及び心療内科が併設されているところへの通院が始まる。
大きな病院であるからそれらしい人も少しは見かけた。

私に付けられた病名は強迫性障害だった。
その中でも被害恐怖、特に先端恐怖と呼ばれるものだ。
説明を受けた後でなんとも私らしいと納得してしまった。
謂れもなく誰かが自分に危害を加えようとしている、と錯覚してしまうらしい。
私の場合は近い人間ほど強く感じ取っていたようだ。
幻想にまで発展したのはこの症状の為だった、それでもごくごく稀なケースだという。
しかし此方でも薬物治療が薦められているのは相も変わらないらしく。
いい思い出のない白い錠剤だったが、我慢して飲むことになった。
即効性はないものの長く飲み続ければ効果が持続してくれるものだ。
同時にカウンセリングに月二で通うことになった、ゆっくり治せということだ。

ムギは今まで自発的に家の権力を行使しようと考えることがなかった。
しかし今回ばかりは掟が破られている、現にこれだけの特別待遇を受けているのだ。
崩したくなかったムギの信念を曲げてしまったことも事実として圧し掛かってきた。

そしてまた、律の姿がない。

79: 2009/12/23(水) 17:25:47.85 ID:hwGMHRN10
休日を挟んで数日ぶりに復学を果たした。
あまり欠席すると成績はおろか進学にまで響いてしまうからだ。
周りはもう少し休むように勧めてきたのだけれど断として拒否した。
自分で潰した機会を何らかの方法で取り戻さずにはいられなかった。

予想通り周囲の目はかなり細くなっていた。
時折私を指して噂話にしては内輪を作りを強固にしていく、一対他の安心感を得る材料として見られていた。
それでも体調が回復したせいか、以前ほどの強烈な強迫観念は襲ってこない。
壁や黒板や時計を和を眺めつつなんとかやり過ごす。
放課後になるまで時計の針が錆びついているようだった。

澪「校内にはアレが私だって知れ渡ってるんだよな」

紬「うん。きっと一広まっちゃってると思う」

澪「そっか。じゃあ希望者とか見学も」

紬「うん。残念だけど」

唯「でもでも、ライブ自体は凄いよかったよ!」

澪「それは本当にな。別の手段を考えないと」

大々的な勧誘期間はとうに過ぎてしまっていた。
何かしらの部に所属したいと思っている一年生だけれど、そろそろ本命を絞り出す頃合だろう。
ここからの新規獲得はかなり難しいといえる。
ただ私達に、絶対に部員を確保する、という目標があった訳ではない。
入ってくれるに越したことはないのだけれど、無理矢理にというのも気が引ける。
それでもベストを尽くせずに悪い結果を見るのは流石に悔しい。

80: 2009/12/23(水) 17:29:07.00 ID:hwGMHRN10
澪「そういえば律は学校休んでるんだって?」

唯「うん。調子が悪いって」

澪「昨日も休んだのか?」

紬「まぁ、良くなったらそのうち来ると思うわ」

そのうち来る、というムギの言葉に違和感を覚えた。
私が律について問いかければ十中八九似たような意味で返ってきていたように思える。
それでいてどこか遠くを見据えていて、丁度、出張先の息子を心配する母のような。
知っていて何かを隠しているような心痛さが滲み出ていた。

それから今後についての議論を進めたのだけれど良案は浮かんでこなかった。
リードオフマンの律がいないと私達の軽音部として上手く機能してくれないのだ。
最もこれは四人のうちの誰が欠けても同じ具合に陥ってしまう。
結局、全員が揃ったらまた考えよう、という妥協案に辿り着いてしまった。
ならばもう帰宅しようかと、階段を下りているところだった。

唯「あそこってジャズ研の部室だよね」

澪「そうだな。今出てきたのは、上履きから一年生だな」

唯「ジャズって人気あるのかなぁ」

紬「高校生にしてはちょっと渋いと思うけど」

唯「うわぁ、あの子ちっちゃくて可愛いなぁ」

澪「随分と笑顔だしな。これは決まっていそうだ」

81: 2009/12/23(水) 17:33:36.29 ID:hwGMHRN10
澪「あっそういえば今日は日直だった。日誌出してこなきゃ」

唯「んじゃそれまで」

澪「いいから先に帰ってて。まだ中身ほとんど書いて無かったんだよ」

紬「そう。それじゃまた明日ね」

根っからの嘘なのだけれど。
急ぎ足で教室に入ると、予想通り数人分の鞄やら小物やらが乱雑していた。
まだグラウンドやら体育館やらで部活動中の生徒がいる、私は彼女達が戻ってくるのを待った。
軽音部に関係のある人間はムギからの御触れが発布されていることだろう。
保険医や教師等は倒れたばかりの私を心配して言葉を濁すかもしれない。
聞くならば噂好きの生徒の方が確実だ、つまり私の奇行を話の種にするような人達がターゲットになる。
まともに話を聞いて貰えるのか、不安は大きいけれど心を強く持ちながら待った。

生徒1「やっぱあの先輩が原因でしょ」

生徒2「だよねぇ。クセ強すぎるもん」

来た、手ごわい二人組だ。
頑張って話しかけるんだ秋山澪。

澪「――っあの!」

肺が循環したがると、溜まっていた息と一緒に大声で吐き出してしまった。
予想通り二人は姿勢を内向きにすると当人同士の空気を作ろうとしてしまう。
返事を待っていては取り返しがつかない。
言うんだ、嫌われても気持ち悪がられても言わなくちゃ伝わらないんだ。

83: 2009/12/23(水) 17:37:36.17 ID:hwGMHRN10
澪「お願いがあるんだけど。聞きたいことがあって」

生徒1「え、何。私そういう立場じゃないし」

澪「二組の田井中律のことで」

生徒2「ねぇどうすんの」

生徒1「早いとこ着替え行こう」

澪「あの日、私が倒れた新歓ライブの日。田井中律に何かあったのか教えて欲しい」

二人はもう一度顔を見合わせると返事にあぐねているようだった。
またもコソコソと小言を交わすと、溜息を混ぜてぶっきらぼうに答えた。

生徒1「田井中さんなら過呼吸で倒れたって。それから学校来てないよ」

生徒2「ねぇもう行こうよ」

生徒1「それしか知らないから。じゃ」

律が過呼吸で倒れて、ずっと学校へ来ていない。

新しい情報が脳内に送られると一気に式を繋げて活性化していった。
あの時の律の行動、あれからの律の表情、そして気になる発言、いくつかの可能性が導かれていった。
可能性の範疇を出ることは決して無いけれど、どれもこれもが気がかりなものばかりだ。
そして律は今何を思っているのか、私は全力で教室を飛び出した。

84: 2009/12/23(水) 17:42:08.97 ID:hwGMHRN10
聡が言うには律はあれから一週間ほど引き篭もっているらしい。
玄関ですれ違いざまに教えてもらうと、早々にサッカーボールをかかえて走っていってしまった。
両親は外出しているそうだ、となれば今この家には律しかいないことになる。

澪「りつー、きたぞー」

お決まりの挨拶をするとドッタンバッタン大掃除さながらのけたたましい音が響いた。
やれやれ、と止むまで待ってからゆっくりと階段を上がっていく。

澪「律、いるんだろ。入っていいか」

返事は無い、つまり了承だ。

澪「よう。芋虫ごっこが流行ってるのか」

入ればそこら辺に立てかけてあっただろう生活用品が八方に散らばっていた。
窓から差し込む強い橙が舞い散る埃をプランクトンのごとく映している。
肝心の律はというとベッドの上で毛布に包まってダンゴムシを演じていた。
これは何かを急いで隠したパターンだ。

澪「久しぶり。一週間ぶりだな」

澪「ムギんとこの系列の病院にお世話になっちゃったよ」

澪「この通り、もうピンピンしてるぞ」

律「……」

こいつ、まさか今になってまだ泣いてるんじゃあないだろうな。

88: 2009/12/23(水) 18:00:03.60 ID:hwGMHRN10
律は私に的外れな罪悪感を抱いている。
勝手に責任を持ち込んで独り占めして閉じ込めて鍵をかけている。
人前では誰よりも明るくて笑顔は太陽とも例えられる性格。
その影で泣いていたり一人で抱え込み過ぎてしまう部分を私は知っている。
しかし特出している光が強すぎて、ついそちらにばかり目が向いてしまうのだ。
知っていても尚に甘えてしまう私にも問題はあるのだろう。
よくよく考えれば、自分だけが悪い、と思い込んでしまう部分は律だけでなく私にもある。

澪「何年ぶりかな。律のそういう姿見るの」

返事は無い。

澪「その度に私がこうやって来ることになるんだよな」

まだ返事は無い。

澪「今回はなんとも重症っぽいな」

私はあえて律自身の話題に絞っていく。
事の発端は紛れも無く私にあるのだけれど、それを蒸し返し過ぎれば更に塞ぎ込んでしまう。
他人の痛みを自分の痛みに転換させてしまう厄介な部分だけれど、それが非常に律らしい。

澪「初めてはそうだな、小学校で私が男子にいじめられてた時だっけ」

澪「律が体張って助けてくれてさ、逃げろって言われて私は咄嗟に走ったんだけど」

澪「足がもつれたのか凄い音立てて転んで、泣きながら保健室に連れていかされて」

澪「そしたらどういう訳か律が次の日に学校休んじゃってさ。本当に懐かしいよな」

90: 2009/12/23(水) 18:04:40.59 ID:hwGMHRN10
少しだけ、ほんの少しだけ律の様子がおかしい。
流石に静かすぎる、まるで息さえ止めているような石ころぶりだ。
律の暖かさが薄い毛布一つで完全に遮断されてしまっていた。
今回ばかりは重症だと思っていたけれど、これは明らかに異常だ。

澪「おい、律。少しくらい反応しろよ」

澪「まさか寝たわけじゃないよなっ」

言いながら毛布の塊にぼふりと一突き入れてみた、それでも反応がない。
いよいよ心配になってきたところでいつもとは違う発見をした。
私が叩いてクレーターのように凹んでいる毛布、そこから覗いたシーツに強烈な色が添えられていた。
その色は赤だった、明瞭すぎる赤だ。

澪「律。これ血なのか、何だよこれ」

途端に収縮を始める律もどきの塊、マズイ、と瞬間的に判断した。
強引に鷲掴んで剥がしにかかる、しかし相反する力が意地になって毛布の奪い合いになった。
チラチラと見えるシーツからは滲んだ赤が主張を続けている。
この期を逃がせば、きっとあの強気な笑顔ごと奪い去られてしまう。
潜られて、引っ張って、縮こまって、綱引きにも似た合戦がしばらく続いて。

澪「ッ律!!!」

覆っていたものごと手前に吹っ飛ぶと机棚に散らかる様々なものを蹴散らしていった。
ガチャガチャと進行形で飛び散らかる物々の奥に律を見た。
瞳と手首を真っ赤に染めて目を見開いていた。
驚きながら悲しみながら、ありとあらゆる感情をごちゃ混ぜにしたような酷い顔だ。
そして何を思ったのか、思い切り右手を私に向かって突き出す。

91: 2009/12/23(水) 18:08:44.55 ID:hwGMHRN10
律「くんなよ!」

―― !!

その時、律の手にした鋭利なものが伸びて、目の前にまで伸びてきて、角膜を通り抜け――させるものか。

幻想をぶち頃す勢いで真実を見抜く、ありったけの演算能力を加速させていた。
意識を現世に戻すと、下がっていた踵に目一杯の力を込めて踏ん張った。
背筋をしならせて、腹筋を縮ませて、胸を突き出して、律の右手から放たれた暴風に抗う。
次第に減速する私の体はしなやかに弧を描くと直立に落ち着く、ようやく肩の力が降りた。
そして真っ直ぐに前を見る。

律はどす黒い血で染まったカミソリを私に向けて突き出していた。

澪「何の冗談だよ」

律「冗談じゃないし」

澪「血だらけじゃんか」

律「だから何だって言うんだよ」

澪「お前ッ――」

全ての感情を殴り倒して怒りが勝利していた。
律の心の内なら何度だって理解するだろうしその為の努力もしてきた、この先だってそうだ。
しかしこればかりは駄目だ、全然ダメダメだ、律である以前に人間として間違っている。
王子様のキスでもない、ガラスの靴を見つけるでもない、無償の助けなんかじゃない。
誰かが更正させないと本物の馬鹿野郎になってしまう。

92: 2009/12/23(水) 18:13:02.26 ID:hwGMHRN10
その身とパジャマとしおれたシーツをどぎつく染めながら律は気張っていた。
私の弱点を逆手に取るようにカミソリの先端を何度も宙に突き出していた。
手にはくっきりと筋が浮かんでいて、ガチガチと音が聞こえそうなほどに震えながらだった。
本気で襲いかかるつもりなんて毛頭ないくせに。
自分ならまだしも他人を傷つけることなんて、律にはできっこない。

澪「カミソリよこしなよ」

律「嫌だ」

澪「いいから渡せ」

律「何で命令されなくちゃいけないんだよ」

澪「そう、だったら――」

予想だにしていなかったのか、呆気に取られた律は簡単に侵入を許した。
逆風を受けながら私は律の右手首に掴みかかった。

律「はっ離せよ!」

澪「いやだ律ッ! 今助けてやる」

律「助けなんていらない! 私みたいな奴は氏んだ方がマシなんだ――」

律は叫びながら私の手を振り払うと、より繊細な血が舞った。

93: 2009/12/23(水) 18:18:02.49 ID:hwGMHRN10
澪「痛ッ」

神経に亀裂が走ると反射的に声が出た。
痛みを辿って手の甲を見ればパックリと割れて中身を覗かせていた。
赤い液体が恐怖心を逆撫でして精気を奪い取ろうとする。
今までの私ならば目を逸らして、意識すらも反らせてしまったかもしれない。
しかし今日の私は違った、精一杯の現実をこの目に受けて真正面を捉えていた。
その様を律に見せ付けることで手本になりたかったのかもしれない。

律「わっ、私、そ、そんな、つもりじゃ」

律は血の気をどこかに葬り去ってカミソリを落とした。
今にも魂だけが一人歩きしてしまいそうな、抜け殻を残していた。
私は歯を食い縛ったまま、体ごと律に覆いかぶさった。

澪「馬鹿律!」

律「ごめん、私、澪を、傷つけちゃった」

澪「違う。律がやったんじゃない、私が望んだことなんだ」

澪「律が痛い思いをしているなら私だって痛い。お前と気持ちを共有できなくなるのが何よりも怖い」

澪「だからお互い様なんだよ。一人で背負おうとするなよ。私達は二人で傷ついた、もうそれでいいじゃんか」

律「ごめん澪、本当に」

律は私の体を強く抱きしめて泣いた。
二人の血と涙と汗と埃っぽさで、全てをぐちゃぐちゃにしていた。

94: 2009/12/23(水) 18:23:40.48 ID:hwGMHRN10
律「これ、見せないとな」

澪「そんなことだろうと思った」

律「親友とか自分から言ってた癖にずっと隠してた」

澪「でも教えてくれるんだろ。それだけで満足だよ」

しばらくして泣き止んだ律は机の引き出しから清潔な紙袋を取り出した。
書かれているのは薬の名称や処方案内、病院名からするに電車で数駅離れたところだろうか。

律「ちょっと前から通ってるんだ。誰にも知られたくないから離れたとこを選んだ」

澪「そっか。そういうことか」

有りもしない幻想を見たことを打ち明けた時、律はそのまま納得してくれた。
心療内科に初めて足を踏み入れた時、律は胸を張って先導してくれた。
一時的に異常な活気を取り戻した時、律はピタリを薬を疑ってきた。
わざと遅刻することを知った時、律は心配して家の前まで来てくれていた。
舞台袖で倒れてしまった時、律も一緒になって倒れてしまった。

澪「気付く要素は沢山あったのにな」

律「澪が責任を感じてどうするんだよ」

澪「律こそ私に気を使ってたじゃないか」

律「お互い様、っか」

澪「その通りだな」

108: 2009/12/23(水) 19:37:26.20 ID:hwGMHRN10
律は気分障害の一種だと診断されたらしい。
言葉にすれば一見重そうに感じるが比較的軽い症状しか出ていない模様である。
そこからは少し専門知識となってしまったので、大まかに理解することにした。
ともかく、そこまで重症ではなく向き合う姿勢が確認できたので個人的には救われた思いである。

澪「律も辛い思いしてたんだな」

律「別にそんなでもないから。澪の方が心配だったし」

澪「心配しすぎたから病状が悪化してそんなになってるんだろ」

律「……そうでした」

澪「全く。世話の焼ける奴だ」

律「ぶっ倒れた澪に言われたくねーし」

澪「ふふ。でもこれで完全に親友になれたな」

律「はいはい。もう隠し事なしのしんゆーですよ」

澪「全くお前ってやつは」

本当に久しぶりに二人で笑い合えた。

109: 2009/12/23(水) 19:39:37.49 ID:hwGMHRN10
律「完全ふっかあぁっつ!」

唯「りっちゃんおかえり~」

澪「また調子に乗って」

紬「うふふ。上手くやったのね」

翌日、普通に登校して普通に授業を受けて、いつもの面子が音楽準備室に揃った。
唯と紬は以前と変わりの無い暖かさで迎えてくれた。

律「んじゃあ早速――お茶にするか!」

唯「さんせ~」

紬「澪ちゃん今日は突っ込まないのね」

澪「流石にな。それにお茶しながら話したいこともあるし」

唯「話したいことって?」

澪「新勧だよ。募集期間が過ぎちゃったから活動は限られるけど、勧誘しちゃいけないことはないだろ」

紬「そうね。とりあえず新入部員が欲しいかそうでないか決めるのがいいんじゃない」

律「うーん。そうだなぁ」

110: 2009/12/23(水) 19:41:41.95 ID:hwGMHRN10
大っぴらな勧誘活動はしない方針に決定した。
ここ最近で二人もダウンしたことが、私と律が未だに本調子でないことが大きな理由だ。
ムギは柔らかいニュアンスで諭すように私達を気遣ってくれ、唯も賛同してくれた。
特に唯は新勧が始まる前から、先輩と呼ばれる喜び、について語っていただけに何とも申し訳ない気持ちである。
それでも快く首を縦に振ってくれた、その優しさに素直に甘えることとなった。

大本としての原因は間違いなく私を指している。
今回の事件がなければ、本来の軽音部はもっと賑やかに、より大きな輪を形成していたかもしれない。
欠けてしまったプライドだけれど、最後の力を振り絞って訴えていた。
仮に誰かが入部したがっていたとする、その芽を摘み取ったのだと考えれば胸が痛くなる想いだ。
しかし元々いなかったとするならば――そろそろ考えることにすら疲労を覚えてくる。
軽音部としての方針は今さっき決まったばかりじゃないか、余計な心配をする必要なんて。

唯「あれれ。この光景、なんかデジャブが」

紬「あの子、少し前もジャズ研の部屋から出てこなかった?」

律「ギター担いでるな。にしても随分と沈んだ顔してやがる」

澪「……私ちょっと行ってくる」

律「ちょっ澪、引き抜きはマズイって」

何故だか分からないけれど予感がした。
あの子に話しかけなくちゃ、関わらなちゃいけないような気がした。

澪「あっ、あの!」

「ひっ!?」

111: 2009/12/23(水) 19:44:01.78 ID:hwGMHRN10
とても背の小さい、一年生の女の子だった。

「あの。何か御用でしょうか」

澪「今、ジャズ研の部室から出てきたよね。それで何か暗い顔してたから」

「は、はぁ……」

どうしよう、見るからに苦い表情で後退りをしている。
やはり私の奇行は一年生にまで広がっていたのだ。
恥ずかしい、でも何故だか話を続けないといけない気がする。
この子が軽音部に混ざっているイメージが容易に想像できてしまう。

澪「もしかしたらジャズ研には入らないのかなと思って。違うかな?」

「はい。思っていた雰囲気と違ったので、入るのを止めると言ってきました」

澪「それ本当っ!?」

律「まじでか!」

気がつくと真横にまで律が来ていた。
すぐ後ろには唯にムギが来ていて待望の眼差しを向けていた。
仲間が背中から支えてくれていた、最後の一押しをありったけの気持ちで伝えた。

澪「なら、軽音部に入りませんか!」

112: 2009/12/23(水) 19:46:45.98 ID:hwGMHRN10
程なくして私が勧誘した一年生は軽音部の新しいメンバーとなった。

梓「中野梓と言います。よろしくお願いします」

根が真面目でギターの経験者でもある彼女だけれど、始めは軽音部の独特な緩やかさに戸惑いを感じていた。
衝突とまではいかないけれど練習をしない私達に渇を入れて膨れる場面があった。
それでも徐々に取り込まれるみたく、唯のハグをはじめとした軽音部の暖かさに感化されていった。
一年前の自分を見ているようで、少しだけ恥ずかしくなった。

私と律の小さな障害についても正直に打ち明けた。
当初、梓には予想通り怯えた目を向けられてしまったが最近は全く怖がられていない。
むしろ願望の目で見られているような、なんて自信過剰な錯覚をしてしまう時すらある。
それもこれもムギと唯のお陰だ、二人からの壁の無い付き合いに梓も感化されてきたのだろう。
等身大の青春を絶賛謳歌中である。

視線や指先からの刺さるような感覚が完全に消えたのかと言えば嘘になる。
律も突然に気分が落ちてしまう時もあるが、持ちつ持たれつでなんとか乗り切っている。
きっとこの先も、そんな感じで付き合っていくのだろう。

114: 2009/12/23(水) 19:48:19.81 ID:hwGMHRN10
律「じゃーん新作のホラービデオー!」

澪「ひあぁ、っぐう」

梓「おぉ。澪先輩今日は随分と耐えますね」

唯「澪ちゃんふぁいと~」

紬「麗しいわね、うふふ」

二人が、いや皆がいるから何とかやっていけるのかもしれない。
いいや断定しよう、私は確実に前へ進んでいる。



おわり

115: 2009/12/23(水) 19:51:17.49 ID:JzV/Vqfr0
1乙!良いENDだ

116: 2009/12/23(水) 19:52:21.49 ID:t5APfagw0
面白かった

119: 2009/12/23(水) 19:56:40.01 ID:hwGMHRN10
【補足】
強迫性障害は突発的にかかるものではありません
幻想?を見るのもしかり、強調させる為の改変です
リタリンはその危険性から処方が着実に減っています
すぐに服用させたがる医師は現在ではほとんどいません
副作用についてももっと種類があります
つまんだ知識なので詳しい人いたら指摘して下さい

時間守れなくて悔しい。それじゃ

引用元: 澪「……かもしれない」