1: 2013/06/08(土) 00:07:46.10 ID:9jYWSIZM0
「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」のSSです。
漫画版から入って原作読んで見事にハマってしまい、勢いのまま書きました。
8巻が待ち遠しくて仕方ない……
遅筆ですが、ゆっくり進めていきたいと思いますので、よろしければお付き合いください。


『やがて、季節は移ろい、雪は解けゆく。』

2: 2013/06/08(土) 00:11:45.07 ID:9jYWSIZM0
① 漫然と比企谷八幡は未来に思いを馳せてみる


『高等教育という言葉が市民権を得てから久しい。
戦後日本の経済復興のその目覚ましいスピードに焚きつけられるが如く、教育はその制度もその内容も加速度的に向上させ続けてきた。
もちろんこの事実とその功績を否定するつもりは毛頭ない。
今俺たちが恩恵を受けている様々な製品やサービスもまた、そんな教育や経済の発展により生み出されてきたものであり、それを手放すことを是とできる者などいないだろうことは想像に難くなく、故に否定できる道理など存在しない。

 しかし、西暦も既に二千年代に突入し、それでもなおもその加速度を緩めることなく疾走を続けんとする現状に対して、俺は疑問の声を投げかけたいと思う。
重ねて言うが、何も教育制度そのものを否定したいわけではない。
それが果たして現代の世相と照合してなお最適なものと言えるどうかと問いたいのだ。

 団塊の世代、氷河期世代、ゆとり世代――連綿と続く歴史に思いを馳せてみる。
なるほど、高度経済成長期という一つの揺るぎなき成功例が、当時の教育制度の適切さを示す一つの証拠となっていることは事実だろう。
だがその後はどうか?
時は流れ、バブルの崩壊から、見せかけだけの好景気が長く続き、そして気付いた時にはデフレの真っ只中。
明らかに減速し、あるいは衰えすら窺えてしまうのが現状だ。

3: 2013/06/08(土) 00:15:01.34 ID:9jYWSIZM0

 経済を動かすのも、国を動かすのも、人だ。全ては人に始まり人に収束する。
詰まる所、斯様に経済大国の名を欲しいままにしていた日本という国が、今こうした閉塞感に陥ってしまったことは、他でもなく人に起因すると言っていいだろう。
それはすなわち、経済を、国を動かす人材が、時代に即したそれでなくなった――少なくともその比率を大きく下げてしまったと考えるのが自然ではないか。

 その理由は、まず何よりも教育制度にあると思うのだ。
現行の教育制度において、学習の内容は全て画一的な形で学生の元に示され、また学ぶ際には皆が徹底的に管理されて、さながらベルトコンベアーで流れる工業製品のように作り上げられているような気さえする。
もちろんそのやり方の全てが間違っているとは言えないだろう。
型にはめるようなやり方は、大きく外れた者を現れ難くする効果が期待できる。
けれど同時に、優れて突出した者もまた現れ難くなってしまうのだ。

 皆が横並び。安定で平穏。それだけ聞けば悪いことではないようにも思えるが、決して良い事とも言い難い。
個を頃し、我を潰し、小さく型に嵌めてしまうことを、出る杭を軒並み打ち据えてしまうことを、果たして教育と言ってもいいだろうか?
学問の基礎を教えることは大事ではあるが、しかし何もかもを教科書通りに杓子定規に当てはめることが正しいとは思えない。
真の教育とは、その人の個性を見出し、伸ばし、その上で必要な知識や経験を与えることにこそ主眼を置くべきではないのか。

4: 2013/06/08(土) 00:17:49.99 ID:9jYWSIZM0
 誰も彼もを、量産型の、上でも下でもない中間レベルの人材に仕立て上げることが求められる時代は終わった。
一億総中流という言葉が闊歩していたのは昭和の時代までだ。
平成の時代には、当然それに即したスタイルを見出さなければならない。
それが他ならぬ現代を生きる俺たちの責務というものである。

 だから今こそ固定観念を廃棄し、俺たちは新たな視点で進むべき道を模索するべきだ。
人によっては、今まで通りの制度に邁進することが最良ということもあるだろう。
だがそうでない者にまで、この旧来通りのやり方を押しつけることは止めよう。
それが明日の日本を明るく照らす第一歩になるかもしれないのだから。

 よって俺もまた、あらゆる外的圧力を跳ね除け、あらゆる束縛から逃れ、ここで高らかに主張しよう。
従来通り、旧来通りの回答ではないかもしれないが、自分の素養と本質を見極め、最適解を提示したいと思う。
すなわち、高校を卒業したら家庭に入ることを、俺は第一に志望する』

5: 2013/06/08(土) 00:20:53.31 ID:9jYWSIZM0
「一度外科手術でも受けてみたらどうだ?」
「言葉の意味が分かりかねます」
「なに、医者に診てもらうだけでは足りんだろうと思ってな」
「何か問題ありましたかね?」
「お前は聞かんと分からんのか?」

 放課後の職員室で、平塚先生の悩ましい声を聞きながら、今読み上げられた渾身の進路についてのレポートを思い返してみた。
いくら俺だって、自分の意見が一般的ではないことは重々承知している。
だからこそ丁寧に且つ迂遠に攻めてみたのだが、何が不味かったのだろうか?

6: 2013/06/08(土) 00:24:09.18 ID:9jYWSIZM0
「あぁ、結論を最初に書くべきだったとかそういう?」
「そうだな、そうしてくれていれば長々と下らん戯言を読むことなく最初からこうできた」

 言うが早いか、先生の拳が俺の腹部にめり込んだ。
ひゅっという変な声が自分の喉から漏れる。
一瞬自分に何が起こったのか分からなかった。
……声が出ねぇ。つか息ができない。待って、これちょっとやばい。
殺人級の拳を躊躇いなく教え子にぶつけられる先生の常識も超やばい。

8: 2013/06/08(土) 00:27:36.01 ID:9jYWSIZM0
「悶えるな、気持ち悪い。いいから聞け」

 よくねぇよ。理不尽過ぎるだろ。
まぁいつものことといえばそうなんだけど。
いや、この理解もどうなんだ? 諦めるポイントがずれている気がする。

「全く、奉仕部で経験した様々な活動から何も学んでこなかったのか? 君は」
「学んだからこその今の結論だったんですが」
「なお悪い」

 呆れたように先生が小さくため息をつく。
少しだけ憂いを帯びたその表情は、ついさっきの蛮行が無ければ艶っぽさを感じられたかもしれない。
相も変わらず残念美人だ。天も二物くらい与えてやれよと思う。

9: 2013/06/08(土) 00:30:23.61 ID:9jYWSIZM0
「そもそも何なんだ、家庭に入るというのは?」
「文字通りの意味です」
「当てがあるのか? 当てが」
「今はないですけど、まぁ見つかるまでは花婿修行的な感じで」
「阿呆かお前は、いや阿呆だお前は」

 暴言で締められた。
いや、今の別に言い直す必要なかったよね。
自分で聞いといてそれはひどいと思う。
それともあれか、自分が家庭に入りたくても入れないという嫉みが……

10: 2013/06/08(土) 00:33:56.95 ID:9jYWSIZM0
「今何を考えた?」
「いえ何も、全然、全く、これっぽっちも」

 瞬間睨まれる。
鋭い……勘も視線も鋭過ぎるだろう。
既にして物理的圧力を錯覚する程の勢いだ。
何? もしかして俺ここで亡き者にされるの?
こんなに人目のあるところでまさかそんな、と思いつつも、背中に一筋の汗が流れた事実は否定できない。
なるほど、これが殺意というものか。

11: 2013/06/08(土) 00:38:48.79 ID:9jYWSIZM0
「……もういい。馬鹿な話をこれ以上続けても仕方がない。もう一度書き直して明日再提出しろ」
「どうしても駄目ですか?」
「むしろ何故これが通ると思った?」
「いや、先生の願望にもマッチしてるから、その辺の勢いでこう」
「少し黙れ」

 先生の拳が、今度は鳩尾に突き刺さった。
衝撃は一瞬。でも効果は絶大だ。
比喩じゃなく腹を貫通されたかと思った。
ちょっと待って、もう痛いとか苦しいとかじゃないよこれ。
全然呼吸できないし。生まれたての小鹿みたいに足震えてるし。
本当にこの人はどうしてこんな条件反射みたいに暴力が振るえるんだよ。
仮にも国語教師なら、もうちょっと言葉の持つ力というものを信じてほしい。

12: 2013/06/08(土) 00:42:18.92 ID:9jYWSIZM0
「そ、それに、大学じゃなきゃ勉強できないわけでも、働けないわけでもないじゃないですか?」

 腹を抑えながら、でも一応言いたいことは言っておく。
大学に行くばかりが正解ではないというのは、自分の偽らざる本音だ。
実際、大学に行ったからと言って勉強するようになるとは限らない。
むしろ大学に行って勉強してる奴の方が珍しいとさえ聞くくらいだ。
四年間サークルだのバイトだの何だのに精を出して、適当な論文だけ書いて、それで何がどうなると?

 もちろん社会的評価というものの存在は分かっている。
大卒という肩書きの重みも知らないわけじゃない。
けれど、どうにも俺はそれに納得できないのだ。
別に大学に行くだけが人生でもないだろう。
そもそもぼっちの俺がそんな所に行って何をしろと?
俺のそんな主張にも、しかし先生はひらひらと手を振って返すのみ。冷たい。

13: 2013/06/08(土) 00:47:12.10 ID:9jYWSIZM0
「いいから書き直してこい。話はそれからだ」
「はぁ、了解です」
「ちなみに次もお話にならないものだったなら、私も対話を諦めるからな」
「表現が嫌過ぎる……」

 というか今までのやり取りで対話のつもりだったんだ……ある意味そっちの方が衝撃だった。
二発入れられた拳は、合いの手か何かという認識なのだろうか? 空恐ろしい話だ。
仕方なく、突っ返されたレポートを受け取り、出口へと向かう。
その背に、平塚先生の少しだけ穏やかな声がかけられる。

「比企谷、君の言うことも決して全てが間違っているわけではない。だがそれで全てを結論付けてしまうには早過ぎる。もう少しちゃんと悩んでしっかり考えてから決めたまえ」
「……分かりました」

14: 2013/06/08(土) 00:52:02.45 ID:9jYWSIZM0
 とりあえず頷いておく。
しかし良いこと言ってるようにも思えるけど、正直その結論を言うだけなら、俺の腹を二回も殴らなくても良かったよね?
あれですか、欲求不満か何かですか? 何でしたら良いボクシングジムでも紹介しますよ? いやまぁ良いジムも悪いジムも知らんけど。
もちろん口に出したりはしない、超怖いし。
今これ以上のダメージは命に関わる。既に体力ゲージは真っ赤だ。何なら無双乱舞撃ててもおかしくない。いやおかしいか。

 ということで、これ以上ここにいる理由も無く、またいても俺の傷が増えるだけだし、と足を引きずるように職員室のドアへ向かう。
いや、ようにっていうか、気付けば俺、完全に足を引きずって歩いてるんだけど。
ちょっとこれ、ホントにボディ効き過ぎだって。

 え? どういうこと? ガチだったの? マジでやる気だったの? 冗談きついぞ。
というかあり得ない。どんなパンチ持ってんだ、この先生。進む道間違え過ぎだろ。
今からでもプロに転向しろ、プロに。
もっとも打たれ弱いこの人がリングに上がって本当に戦えるかどうかは割と未知数だけど。

15: 2013/06/08(土) 00:56:19.55 ID:9jYWSIZM0
 職員室を出ると、真っ直ぐに奉仕部の部屋へと向かう。
部室の前まで到着して扉に手をかけると、抵抗は全く感じられなかった。
つまりは、いつも通り既にあいつがいるということだ。
おつかれ、と軽く言葉をかけつつ扉を開く。

 部屋の入り口から室内を覗くと、予想に違わずその人――雪ノ下雪乃が、いつもの席でいつものように雑誌を広げている姿が目に飛び込んでくる。
静かな教室の中、窓から降り注ぐ陽光を浴びて本の頁をゆっくりとめくっているその姿は、整った容姿と相まってさながら一枚の絵画のようだ。
並みの人間には、触れることはおろか近づくことさえ許されないのではないか、とすら思ってしまう。
現実にはただ本を読んでいるだけだというのに、相変わらず何をしていても様になるもんだと感心せずにはいられない。
と、俺が入ってきたことに気付いた雪ノ下が、雑誌に落としていた視線をちらとこちらに向けてくる。

16: 2013/06/08(土) 01:00:14.94 ID:9jYWSIZM0
「あら比企谷くん、どうしたの? いつもより暗い雰囲気のようだけど。十円玉でも落とした?」
「お前俺のテンションがそんなことで下がると思ってんのか」
「十円を笑う者は十円に泣くわよ。そもそもあなたが十円を稼ごうと思ったら、何時間働かないといけないと思っているの?」
「俺をどんだけ劣悪な労働環境に叩き込みたいんだよ、お前は」

 開口一番の毒舌にむしろ安心する。って、んなわけあるか。
相も変わらず涼しい顔で毒吐きやがって。
労働基準法を完全無視か。
世に言う社畜と呼ばれる方々でも、まさかそこまでの悪条件で働いている事もないだろう。
そんなんだったら俺は逃げるぞ。地の果てまでも。

17: 2013/06/08(土) 01:03:29.16 ID:9jYWSIZM0
「んで、いるのはお前だけか。由比ヶ浜は?」
「さっき来れないかもしれないと連絡があったわ。補習があるそうよ。無理して来なくても大丈夫と伝えておいたけど」
「ふーん」

 となると、今日は二人だけの部活か。
まぁそういう日もあるよな。
ぐるりと見回すと、何故か部屋ががらんとしているような気がしてしまう。
たった一人いないだけで、こうも部屋の空気が変わるものなのか。
というか、あいつの存在感がそれだけ強いってことかね。空気の俺とは大違いだな。

18: 2013/06/08(土) 01:07:51.43 ID:9jYWSIZM0
「それで、実際何かあったの?」

 ぱたんと雑誌を閉じてこちらに向き直る雪ノ下。
透明な視線が、真っ直ぐに俺の目を射抜いてくる。
その余りに整い過ぎた器量のせいで、ともすれば感情に乏しく見えてしまうが、もちろん実際にはそんなことはなく。
本当の所、こいつは割と人情家だったりする。
今だってまるで興味なさそうに見えて、少し気になってるのがよく分かる。
意外と少なからず心配してくれているのかもしれない。いや、それは希望的観測が過ぎるか。

 しかしホントこいつ黙ってたらまさに完全無欠だよな。何とももったいない。
毒舌が封印されたら、それこそ全校中のアイドルにだってなれるだろうに。
そんな益体も無い事を思いつつ、鞄をいつもの場所に置いて自分の席に向かう。

19: 2013/06/08(土) 01:12:34.00 ID:9jYWSIZM0
「別に大したことじゃないって。ただ進路調査のレポートの再提出を命じられて、その際ボディに何発かいいのをもらったってだけだ」
「惜しいわね、どうせなら頭にもらえば良かったのに」
「それは平塚先生に言ってくれ」

 というか、惜しいの意味もどうせの意味も分からない。
今更頭に数発いいのが入った程度で直る性格だと思ってんのか? 昭和の時代のテレビかよ。
それか単純に俺が痛い目にあってほしいだけという説もある。
心配してくれているというのは、やはり俺の考え過ぎだったらしい。
今日も平常運転のようで安心した。

20: 2013/06/08(土) 01:16:27.75 ID:9jYWSIZM0
 と、そんな俺の思考を読んだわけでもないだろうが、ふと柔らかな笑みを浮かべる雪ノ下。
思わず見惚れてしまいそうな程に綺麗で清らかな微笑。
しかし、こいつの本性を知っている俺は騙されない。
雪ノ下は、辛辣になればなるほど良い笑顔になるのだ。
端的に、俺をおちょくってる時にこそこいつの笑顔は輝くとさえ言ってもいいだろう。言いたくもないが。
そんな俺の想像に違わず、優しげな微笑みを浮かべたまま、雪ノ下は軽く皮肉を口にする。

「それにしても進路調査の再提出ねぇ。全く先生も無駄なことをするものだわ。比企谷くんが探さなければならないのは、進路ではなく退路でしょうに」
「退路を考えてくれるとはずいぶん優しいじゃねぇか。てっきりそんなの真っ先に塞がれると思ってたわ」
「……相変わらず後ろ向きにポジティブね、あなた」

 予想と違った反応をされたせいか、どこか拍子抜けな表情。
とは言え、どうしたって呆れられるのは避けられないようだ。
約束された敗北というのは何とも空しい。

21: 2013/06/08(土) 01:20:42.62 ID:9jYWSIZM0
「それにしても再提出って、一体何て書いたの?」
「黙秘する」
「駄目ね、あなたに人権はないわ」
「おい待て、奪うならせめて黙秘権までにしてくれ」
「それで、何て書いたの?」

 腕を組んだいつものポーズで、冷たい視線を向けてくる雪ノ下。
こいつ人の話を聞きやしねぇ。
というか、何でいちいち見下さないと話ができないんだよ、こいつは。
もっともこの点については、いつもその視線に負けてしまう俺にも問題があるのかもしれないが。
だってこいつの睨みマジで怖いし。
思わず素直に白状してしまう俺を、一体誰が責められようか。

22: 2013/06/08(土) 01:25:56.17 ID:9jYWSIZM0
「……今までとおんなじだよ。家庭に入りたいって書いたら何故か怒られた」
「呆れた、まだそんなことを言っていたの? いっそ消えてしまえばいいのに」
「会話の端々でさり気なく俺の失踪を望むな」
「ねぇ比企谷くん、諦めるのは良くないわ。例え合格する可能性が限りなくゼロに近かったとしても、その確率はゼロに漸近するだけで決して無くなるわけではないのよ。だからせめて今くらい叶わぬ夢を見ておきなさい」
「お前今自分で自分の言説否定したからな。叶わないって言い切ったからな」

 別に合否判定を気にしてるわけじゃないから。
そんなことを真摯な眼差しで言ってんじゃねぇよ。
何を説き伏せようとしてるんだ、お前は。
そんな俺のジト目を意にも介さず、雪ノ下は軽く肩を竦めて呆れたような声で続ける。

23: 2013/06/08(土) 01:28:55.51 ID:9jYWSIZM0
「大体あなた、自分で進路は私立文系って言ってたじゃない。興味のある大学だって無いわけではないのでしょう?」
「まぁそりゃ無くはないけどさ。でもあれだ、今回のは第一志望を書けって事だったし、それならこう書くしかないだろ」
「何胸を張って戯言を言っているの? 息を吸うことか息を吐くことか、どちらかだけでも止めてくれない?」
「止めてたまるか。俺はゲイラになるつもりはない」

 あの最期は悲惨過ぎるよなー。呼吸が限界に達してから破裂する辺りが特に。
しかし雪ノ下は元ネタを知らないらしく、怪訝そうな表情で小首を傾げている。
ネタの選択に失敗したか。

24: 2013/06/08(土) 01:32:41.22 ID:9jYWSIZM0
「とりあえずあれだ、書き直せって言われたし、今度は普通に大学名を並べていくことにするわ」
「最初からそうしなさい。この程度のことすら言われなければ分からないなんて、あなたの頭の容量は何キロバイトなの?」
「ごく自然にフロッピー以下に設定すんな。幾らなんでももうちょっとあるっての」

 わざわざキロと付け加える辺りがこいつの性格の悪さを端的に示していると言えよう。
無駄に芸が細かいというか。
一通り俺をおちょくって満足したのか、雪ノ下がふっと小さく笑ってから話を戻す。

25: 2013/06/08(土) 01:35:53.14 ID:9jYWSIZM0
「そもそも、大学進学って決して悪い事ではないでしょう。元よりあなた勉強自体は嫌いではないみたいだし」
「ばっかお前、ぼっちが大学デビューとかどういう事態になるか分かってんのかよ? そんなもん悲劇しか生まれねぇよ。そりゃもうハムレットも真っ青なレベルだぞ」
「戯曲家が聞いたら激怒するレベルの暴言ね」
「ん? つーかよく考えたらハムレットとか普通に友達いるじゃん、しかも身分は王子さまだし。何それ、悲劇とか言って俺よか全然マシじゃねぇのか? そんなことで不幸だとか温いっての。んな程度のメンタルで社会を生き抜いていけると思うなよって言いたいね」
「あなたも社会から脱落寸前でしょうに、何を偉そうに語っているの?」

 半眼でこちらを見てくる雪ノ下。
この負け犬が、と言わんばかりの冷たい視線に思わず目を逸らす。
気を取り直すように一つ咳払い。

26: 2013/06/08(土) 01:39:18.29 ID:9jYWSIZM0
「とにかくだ。キャンパスライフとか言ってそんなリア充の巣窟に一人叩き込まれてみろ、次の日には陽のあたる場所で俺を見ることはなくなるぞ」
「一日で何が起こるのよ……」

 頭が痛いのか、雪ノ下は悩ましげな表情でこめかみを軽く押さえていた。
持てる者には想像できないかもしれないが、環境の変化に希望を見出すと変な方向にブーストがかかるのが生粋のぼっちだ。
何が起こるか分からんから怖いんだよ。
一日で急転直下引きこもりにクラスチェンジなんてざらにあることだぞ。

27: 2013/06/08(土) 01:44:40.17 ID:9jYWSIZM0
「そもそも、始める前から諦めているのがおかしいのよ。どうせなら大学デビューを目指して派手にやらかして、そんな自分に絶望してからにしなさい、諦めるのは」
「完全に手遅れになってんじゃねぇか」
「大丈夫、その一部始終は私が余すところなく記録しておいてあげるから。きっと素敵な思い出になるはずよ」
「なるわけあるか、トラウマにしかならねぇよ。お前俺を追い詰める為に手段選ばなさ過ぎだろ」
「今のうちにHDビデオカメラを購入しておこうかしら」
「そんなことの為に散財すんな、つーか頼むから止めて下さい」

 こいつなら本気でやりかねないから怖い。
そんな記録映像を残して誰が得するんだよ。
でも何か今の話だと、雪ノ下は大学に入ってからも俺たちのやり取りは続くって思ってるわけか?
卒業したら接点も無くなって清々するくらいのこと言われるかと思ってたけど。
ちょっと意外かもしれない。

28: 2013/06/08(土) 01:47:25.04 ID:9jYWSIZM0
「んで? 俺のこと散々言ってくれたけど、お前はどうなんだよ?」
「私?」
「あれだけ言うんだから、さぞかし立派な進路を考えてるんだろうなぁ」

 特に深い意味はないけど、さっきまでの仕返しとばかりに踏ん反り返って言ってやると、雪ノ下はより一層好戦的な目になった。
敵意を向けられたら、より以上の敵意で返さないと気が済まないらしい。
こいつマジでアマゾネスの末裔か何かじゃねぇの? 闘争本能が強過ぎるわ。

29: 2013/06/08(土) 01:51:42.77 ID:9jYWSIZM0
「まぁあなたに教えてあげる理由なんてないけれど、何も考えていないと思われるのは癪に障るし、特別に話してあげないでもないわ」
「なんでそんなに偉そうなんだよ」
「と言っても、まだ検討段階というところなのだけど」

 そう言って前置きしてから、雪ノ下は地元の国立大学の名を挙げた。
面白味も何もないけど、まぁ何しろこいつは学年一位なわけだし、当たり前というか実に妥当な結論だった。

「しかしやっぱ地元狙いなんだな」
「えぇ。ただ学部はまだ検討しているところよ。法学や経済学が強い学校と聞くし、よく考えてみようと思って」
「ふーん、法学に経済学ねぇ、やっぱ賢いやつは違うわ」

 と一瞬納得しかけたところで、ふと違和感を覚える。
確か雪ノ下って国立理系を目指しているとか言ってたような気がするんだけど。
今までにも何度か直接聞いてるし。

30: 2013/06/08(土) 01:55:12.12 ID:9jYWSIZM0
「なぁ、雪ノ――」

 問いかけようとしたところで、ふと思う所があって動きを止める。
よくよく考えたら、国立理系という道は、正確には雪ノ下の目指す道というよりも姉の陽乃さんの通った道だった。
雪ノ下は姉が自分よりずっと優秀だと考えていて、今までずっと追いかけながらも決して追いつけず、それでも目標とし続けていて。
その希望の進路もまた、この延長線上にあったものに過ぎない。
陽乃さんのようになりたいと思っていたが故の、それは選択。
それが本当に自分の意思と言えるかというと、正直怪しい所だろう。
きっと雪ノ下自身も、少なからずそう思っていたはずだ。

 そんな雪ノ下が、改めて自分の進路について考えていると言う。
自分の道を、自分の目指すべき姿を、今改めて。
俺はこいつの家庭の事情なんて未だに何も知らないけれど。
でも、その心の変化は、きっと雪ノ下にとって良いことなんだと思う。
いつだって自信満々で、ともすれば傲岸不遜で、決して安易に周囲に迎合せず、真っ直ぐに自分の信じる道を貫く――それが俺の知る雪ノ下雪乃という人間。
同じ所で足踏みを続ける俺なんかとは、やっぱり全然違うんだよな。

31: 2013/06/08(土) 01:59:09.38 ID:9jYWSIZM0
 そんなことをぼんやりと考えていたのだが、妙な気配を感じて視線を動かすと、雪ノ下がやけに剣呑な目でこちらを見ていることに気付いた。
腕を組み、俺を見下すようにおとがいを上げて、冷ややかな眼差しを向けながら苛立ちを露にしている。
何だよ、どうして急にそんなに機嫌が悪くなってんだよ。

「言いかけて途中で止めないで頂戴、気分が悪いわ、まるでファーストネームで呼び捨てにされたみたいで。一体何を言おうとしたのよ」
「別に名前呼びしようとしてたわけじゃねぇよ、ただちょっとあれだ、何というか、その……」
「何? はっきり言いなさい、職質を受けている犯罪者でももう少し挙動は自然よ」
「ナチュラルに人をこき下ろすな。ちょっと気になっただけだっての。ほら、以前は陽乃さんの後を追いかけて進路を決めてたみたいに言ってたから」
「あぁ、そういうこと」

32: 2013/06/08(土) 02:03:18.54 ID:9jYWSIZM0
 そこで雪ノ下も得心がいったのか、ようやくこちらに向けられていた氷点下を思わせる視線が和らいだ。
おかげでこっちも一息つける。どんなプレッシャーだよ。
俺が猟犬に睨まれた野鳥のような気分でいたことなど露知らず、雪ノ下は少し遠い目をする。

「以前は確かにそうだったわね。けれど、色々あって考えを少し改めたのよ。まだ途上に過ぎないけど」
「そうか、まぁいいんじゃねぇの? その方がお前らしいわ」

 自信に満ちた、いつもの雪ノ下の表情。
それを目にして、こっちの方が安心してしまう。
こういうのもカリスマっていうのかね?
まぁ進路だの何だのは俺が口出しすることでもないし、と思っていると、ふと雪ノ下が怪訝そうに眉根を寄せる。

33: 2013/06/08(土) 02:07:36.98 ID:9jYWSIZM0
「ちょっと待って。それより、どうしてあなたが姉さんのことをファーストネームで呼んでるのよ、陽乃さんとか、随分親しげじゃない?」
「え? 今更それ聞くのか? いやだってそう呼んでいいって本人に言われたし。つーか他になんて呼べばいいんだよ。ここで雪ノ下さんとか呼んだらややこしいだろ」

 何か喋ってる内にどんどん機嫌が悪くなってないか? というか普通に睨まれてるんですけど。今日一の鋭さじゃねぇの、これ。
思わず一歩引いてしまう。目なんてとてもじゃないけど合わせられない。
ここで、実際のところはお義姉ちゃんを一番に推奨されたとか口にしたら、俺の命が割と危険に晒されそうな予感がする。
いやむしろ悪寒がしてる。だから言わない。
沈黙は金。けだし名言である。

34: 2013/06/08(土) 02:10:26.50 ID:9jYWSIZM0
 しかし何をそんなに怒ることがあるんだ? 由比ヶ浜だって陽乃さんのことは名前で呼んでるし、別に問題ないと思うんだけど。
え? ひょっとして自分の姉を親しげに呼ばれるのが気に食わないとか、そういう怒り?
それか、俺如きが他人を名前呼びとは百年早いとかそういう系? そんなひどい。
少し腰が引けているのを自覚しつつも、逸らしていた視線を戻して、ちらと雪ノ下の様子を窺ってみる。

「……」
「雪ノ下?」

 けれど、さっきまでの鋭い視線はどこへやら、雪ノ下はこちらを見向きもせずに何やら考え込んでいる。
呼びかけても無視される始末だ。
本当にこいつが何を考えているのかさっぱり分からん。
どうしていいやら分からず黙っていると、少しの間をおいて雪ノ下がまるで判決を言い渡す裁判官のように重々しく口を開く。

35: 2013/06/08(土) 02:14:46.06 ID:9jYWSIZM0
「……姉さんがファーストネームで呼ばれているのに、私はファミリーネームで呼ばれているというのも、少し腹立たしいわね」
「何でだよ、そんなことで怒られても知らんわ」
「勘違いしないで。別にあなたの評価なんて塵ほどの価値も興味もないわ。だけど、だからと言ってあなたなんかに私のことを軽んじられるというのは納得いかないのよ」
「無茶苦茶言ってんなお前」

 眼光鋭くこちらを睨む雪ノ下の表情には、口にした言葉のその字面以上に怒りが滲んでいる。いや何でだよ。
負けず嫌いにしても突っかかる所がおかしいだろ。ひょっとして俺に暴言吐きたいだけなんじゃないのか?
そんな俺の不満など何処吹く風と、雪ノ下は首を左右に振って、諦めたようにぽつりと言う。

36: 2013/06/08(土) 02:18:36.14 ID:9jYWSIZM0
「……仕方がないわね。正直全く気が進まないけれど、いっそ不愉快とすら思う気持ちもあるけれど。この際そこは目を瞑って、特別にあなたに私をファーストネームで呼ぶことを許可してあげるわ」
「どういう理由でそんなに上から目線なんだよ」
「何よ、文句でもあるの?」
「いや文句じゃなくて」

 そう、あるのは文句ではない。支障だ。
お前軽々しくファーストネームで呼べとか言ってくれるけど、俺にはハードル高過ぎるんだよ。
(一応)同姓の戸塚相手でさえ、数えるほどしか呼んだことないってのに。
と、やんわりと抵抗の意思を視線に乗せてみたのだが、受ける雪ノ下の視線は一切揺るがない。
むしろその冷たさが増しているとさえ思えるくらいだ。ホント何でだよ。

37: 2013/06/08(土) 02:21:44.39 ID:9jYWSIZM0
「何? 変に意識しないでくれる? 気持ち悪いから」
「だからいちいち俺を罵倒すんな」
「別にファーストネームで呼ぶくらい気にする程のことでもないでしょう。大体あなた、由比ヶ浜さんのことも結衣って名前で呼んだことあるじゃない」
「ん……まぁ、そりゃそうか」

 言われてなるほど、ちょっと納得してしまう。
確かに、別に女子を名前で呼ぶのなんて始めてのことでもあるまいし。
変に考えるからおかしくなるんだよな。
それを言ったら葉山とかどうなるんだよって話だ。
いや全く、さすがクラスの中心だよな。葉山さんまじぱねぇ。

38: 2013/06/08(土) 02:24:52.64 ID:9jYWSIZM0
 しかし、そう考えると少し気も楽になった。
それにまぁこんな機会でもないと、こいつを名前で呼ぶことなんてできないだろうし。
物は試しと改めて雪ノ下へと向き直る。
対する雪ノ下の方もまた、それを受けて立つとばかりに腕を組んで、不遜な表情のまま真っ直ぐにこちらに視線を向けてきていた。
視線が交差し、周囲に静寂が訪れる。

 あとは軽く名前を呼ぶだけ。
そう考えて口を開こうとして。
どうしてか身体が固まってしまう。

39: 2013/06/08(土) 02:28:29.74 ID:9jYWSIZM0
 一瞬の停滞。
その間も交わされる視線。
雪ノ下の瞳は変わらず真っ直ぐに俺を見据えていて。
それを意識すると、余計に身体が強張ってしまう。
胸の奥で心臓がやけに騒いでいる。
何故か分からないけれど、凄まじく緊張していた。
もう動悸で身体が揺れてんじゃないのって疑うレベル。
何? 何なのこれ? もしかして俺氏ぬの?

「……」
「……」

40: 2013/06/08(土) 02:32:53.36 ID:9jYWSIZM0
 一瞬開きかけた口は、しかし意に反してすぐに噤まれてしまう。
よく考えたら、いつぞやの由比ヶ浜の時とは状況が違い過ぎるのだ。
あの時は話の流れがあって、むしろ名前で呼ぶ方が自然な状況になってたし、会話の勢いでさり気なく口にすることだってできたけど、今は違う。
部室に二人きり、雪ノ下と向かい合わせ、静寂の空間。
おまけにこんな思いっきり待ち構えられた状態で、しかも真正面から見据えられた体勢でとか、何段ハードル重ねてんだよ。
かと言って今更止められもしないし、そもそも目を逸らすことさえ許されない雰囲気だし、八方塞がりもいい所だ。

 駄目だ、意識するなって考えると余計に意識しちまうぞ、これ。
何も考えるなって思うと、余計に変なことばっか考えてしまう。
血の巡りが良過ぎるのか、頭がぼーっとしてくる。
おまけに、視界に入ってくるのは、沈黙を保つ雪ノ下の姿だけなのだ。思考が暴走するのもむべなるかな。
澄んだ目してるんだなーとか、睫毛長いなーとか、髪綺麗だなーとか、何かわけのわからん考えがぐるぐる回っている。
知恵熱出そうな勢いだ。
何をそんなに緊張しているのか、自分で自分が分からない。

41: 2013/06/08(土) 02:38:48.16 ID:9jYWSIZM0
 中々喋らない俺に痺れを切らしたわけでもないだろうが、雪ノ下の表情がぴくりと揺れる。
それが切っ掛けとなったのか、ようやく俺の口が動いてくれた。
まるで溜めに溜めた想いを吐き出すように、一言。

「……雪乃」
「……っ!」

 その名前を、ただそれだけを、確かに自分の意思で口にする。
俺が名前を呼んだ瞬間、雪ノ下の瞳の奥が大きく揺らめいたような気がした。
でもそれ以上に、俺の心の方が激しく動揺してしまい、その事実に気を回す余裕なんて全く残されていなかった。

42: 2013/06/08(土) 02:44:08.45 ID:9jYWSIZM0
 ほとんど反射的に俯いて、そのまま頭を抱えてしまう。
無理! これ絶対無理! こいつを名前で呼ぶとか難易度高過ぎ!
何かすげぇ心臓がばくばく言ってるし。顔とか絶対赤くなってるぞ、これ。

 つーか動揺し過ぎだろ、俺。
何でこんなに意識してんだよ、こいつの名前って魔法か何かかよ。それも自爆系の。
しかも呼ぶ時ちょっと声震えてたし、何か少し裏返ってた気もするし。
恥ずかし過ぎる……何これ、名前で呼ぶのってこんなに大変なの? リア充ってこんなのさらっとできんの?
あいつら異星人かよ。絶対頭のネジ何本か飛んでるって。

 敗北感に打ちひしがれている俺に、しかし雪ノ下からの罵詈雑言は無かった。
何なら鬼の首を取ったように俺の無様をあげつらわれるかと思ったけど。
というか、いっそ罵倒してくれた方がむしろ気が楽だよ、これ。

43: 2013/06/08(土) 02:47:43.80 ID:9jYWSIZM0
 恐る恐る視線を上げると、雪ノ下の絶対零度の視線が俺に向けられている――ということはなく。
いつの間に体勢を変えたのか、俺の目に映るのはその後ろ姿だけ。
雪ノ下はこちらを見ておらず、背中を向けたまま微動だにしない。
その表情は全く窺えなかった。

「……あ、あのさ」

 俺が声をかけてみると、大げさな位にその肩がびくっと動く。
え? 何? 何があったの?

44: 2013/06/08(土) 02:51:49.00 ID:9jYWSIZM0
「えっと」
「黙りなさい」
「いや」
「黙りなさいと言っているのよ、頭だけでなく耳までおかしくなったのかしら、全く救い難いわね、いえそもそも安易に救うつもりなんて決してないけれど」
「だから」
「本当にどうしようもない人ね。大体さっきも言ったけれど、ファーストネームで呼ぶくらいの事で一々大仰に構え過ぎなのよ。この程度の事でじたばたしていて受験の時なんてどうするつもり? 一生を左右するかもしれない試験の緊張感なんて、こんな温いものではないわよ」
「ひょっとしてさ」
「あぁでもそうね、そういう緊張感とは今まで無縁でいたからこそ進路調査でもふざけたことばかり書けてしまうのね、よくわかったわ。いい? 進路というのはそういう軽い気持ちで決めていいものではないの。もちろん私も人の事を言えるほど立派な考えを持っているわけではないけれど、今のあなたなんて論外よ論外、そもそも――」
「お前も、恥ずかしかったの?」
「っ! 何を馬鹿なことを言っているの? あなたに名前で呼ばれた程度のことで動揺なんてするわけないじゃない。もういいわ、よく考えたら今は依頼も来ていないし、そもそも由比ヶ浜さんもいないわけだし、今日の活動は止めにしましょう。じゃあそういうことでさよなら、悪いけれど戸締りはよろしくお願いするわ」

45: 2013/06/08(土) 02:55:44.42 ID:9jYWSIZM0
 立て板に水といった感じで捲し立てるように早口でそう言い残すと、雪ノ下はぱっぱっと周囲を片付けて、鞄を手にとって風のように教室を出ていった。
結局、あれから一度も俺の方を見ることもなく。
故に、俺はあいつがどんな表情をしていたか、全く分からなかった。
でもそれで良かったと思う。
というかそうでなかったら困るくらいだ。
俺の表情もまた見られずに済んだわけだから。

「あぁよくわかった、俺はリア充なんて一生なれないんだな」

 こんなことさらっと毎日やるとか絶対無理だろ。
身体が持たんわ。
そう考えるとあれだな、葉山とか普通に凄いよな。
羨ましいと言うよりももう普通に尊敬するぞ。

46: 2013/06/08(土) 03:00:23.73 ID:9jYWSIZM0
 ため息をつきつつ、窓の外へと目をやる。
空はどこまでも晴れ渡っていて、遠く運動部の掛け声が響いていた。
あぁ、今日も皆が青春を謳歌しているのだろう。
全く自分には場違いな空気だ。

「……俺も帰るか」

 重い体を動かして鞄を手に取り、鍵を片手に部屋を出る。
戸締りを忘れたら、また明日何を言われるかわかったものじゃないし。
しっかり鍵をかけて職員室に向かう。
本当にもう、俺の青春ラブコメはいつ始まるんだろうね?

47: 2013/06/08(土) 03:05:45.85 ID:9jYWSIZM0
ということで、今日はここまで。
ヒッキーとゆきのんの恋愛未満って感じのやり取りが大好きです。
原作ではガハマさん優勢かもですが、逆転を期待してます、ホント。

今後ですが、別に長編ってわけじゃなく、ちょこちょことオムニバス形式で書いて行けたらいいなあ、とかぼんやり考えてます。
次の話がいつになるかとか全然確約できませんが、また随時状況報告はスレでしていくように心がけます。
気長にお待ち頂ければ幸いです。

77: 2013/06/15(土) 23:55:07.88 ID:jZOTWVYV0
やっはろー、夜だけど。
お待たせしまして。
ということで②上げてきます。

もうちょっと校正してもと思わんでもなかったんですが、まぁ切りが無いのでこの辺でと。
ガハマちゃんマジ乙女。
ゆきのんマジ天使。
アニメの方も佳境だし、まだまだ楽しみが多くて何よりです。

79: 2013/06/15(土) 23:59:20.10 ID:jZOTWVYV0
② 決然たる意思で、由比ヶ浜結衣はその壁に手をかける


 代わり映えのしないチャイムの音が、校内に遠く響き渡る。
授業の終了――というか放課後の始まりの方が意識としては近いか――を告げるその音を聞いて、教室にいる生徒たちは皆一様にその表情に喜色を滲ませている。

 一方で俺はというと、こんな時でも平常心を忘れることはない。
否、皆が浮かれ騒ぐ時にこそ、その存在感を抑えることが肝要なのだ。
学校行事のあれこれで地に落ちた、どころか更に穴を掘って地中深く潜り込んでいるとさえ言われている俺の評判だが、最近はやや落ち着きを取り戻すことができている。
あるいは、ただ皆が飽きたってだけなのかもしれないけれど。

80: 2013/06/16(日) 00:03:52.54 ID:m6/l0qGM0
 とはいえ、過ごし易くなったということに間違いはないのだ。
あとは、それを引っ繰り返さないようにすることを心掛けるのみ。
どうあれ目立てば無用な軋轢を生みかねない下地は変わっていないのだから、大人しくしていた方がいい。
その方がきっと、誰もが穏やかに過ごせるはずだ。世はなべてこともなし。

 さて、そうと決まれば話は早い。
可及的速やかに撤退の一字あるのみである。

 静かに、しかし素早く。
急ぎつつも、されど動きは最小限に。
机の上を片付けて、鞄の中に荷物を詰めて、すっと立ち上がる。
流れるような動作に隙はない。
比企谷八幡はクールに去るぜ。

81: 2013/06/16(日) 00:06:40.32 ID:m6/l0qGM0
「あ、八幡、これから部活?」
「お、おぅ」
「ぼくも部活なんだ。大会も近いし頑張らないと。じゃあまた明日ね」
「あぁ、また明日、な」

 いつの間に傍まで来ていたのか、戸塚が俺に声をかけてきて、それから輝くような笑顔でぶんぶんと手を振りながら教室を出ていった。
対する俺はというと、茫然と見送ることだけしかできず。
振り返そうと上げかけた手に至っては、ぼんやり宙を掴むのみだった。

82: 2013/06/16(日) 00:09:59.56 ID:m6/l0qGM0
 見事なまでに中途半端。
静かでも素早くもなく、流れは澱み、クールでもない。
何だ、いつも通りの俺じゃないか。
そんな時間をかけたつもりはないんだけどなぁ。
とはいえ、戸塚の笑顔が見れたからもう何でもいいか。
思い返して少し癒される。戸塚さんマジ天使。

 さて、改めて気を取り直して席を立つ。
向かうはいつも通り奉仕部の部室だ。
というか、他に行く当てなんてないわけだが。

83: 2013/06/16(日) 00:17:14.33 ID:m6/l0qGM0
「おつかれー」

 声をかけつつ扉を開けると、部屋には既に雪ノ下がいた。
いつもの席に腰掛けて、本を広げて読書の真っ最中だ。
俺が部屋に一歩踏み出すと、ちらと視線を上げてこちらを見てくる。

 しかし俺も授業が終わって真っ直ぐにここに来たはずなのに、何で既にくつろぎモードに入ってるんだ、こいつは。
どんだけ瞬発力高いんだよ。
何? チャイム鳴った瞬間にクラウチングスタート切ってんの? 陸上の星にでもなるの?

84: 2013/06/16(日) 00:20:41.65 ID:m6/l0qGM0
「遅かったわね」
「お前が早過ぎるんだよ」
「愚鈍なあなたを基準に考えないで頂戴、失礼だわ」
「まずお前が俺に対して失礼だという発想はないのか?」

 挨拶代わりのやり取りを挟みつつ、鞄を置いて俺も文庫本を取り出す。
今日も今日とて、やることは変わらない。
同じくいつもの席に座り、栞を挟んでいた頁を開いて読み始めようとしたのだが。

85: 2013/06/16(日) 00:25:25.39 ID:m6/l0qGM0
「……」

 ふと視線を感じて、横目でちらと窺う。
何か知らんが、雪ノ下がこちらをじっと見ていた。
黙ったまま、微動だにせずに、じっと。

 相も変わらず精緻な人形のように整ったその相貌からは、表情も感情も読み取れない。
普段は俺の事なんて、道端を歩くアリよりも興味無さそうなくせに、今日に限ってどうしてまたそんなに注視してらっしゃるのでしょうか。
今日のここまでのやり取りに引っかかるような所はなかったと思うんだけど。

86: 2013/06/16(日) 00:29:17.69 ID:m6/l0qGM0
「雪ノ下?」

 何となく落ち着かなくなり、呼びかけてみる。
人間観察を常としている俺ではあるけれど、観察される側に回ることは滅多にない。
見るのはともかく、見られるのには慣れていないのだ。

「……」
「な、何だよ」

 呼んだ瞬間、雪ノ下の目がすっと細められた。
無言で睨まれるとちょっと怖いんですが。
整い過ぎている容姿というのは、それだけで凶器に近い。
微笑みを見せられれば心を奪われ、睨みを受ければ自由を奪われる。
一介の男子高校生が相対するには、あまりにも荷が重いのだ。

87: 2013/06/16(日) 00:34:56.69 ID:m6/l0qGM0
「……雪ノ下、ね」
「?」

 聞こえてきた小さな呟きに、一瞬何を言ってるのか分からず戸惑ってしまう。
が、次の瞬間思い当たった。
まさか、つい先日の名前呼びの話まだ続いてたのか?

 いや待ってくれ。
それはもう、さすがに勘弁してほしい。
雪ノ下からすれば大したことではないのかもしれないが、こっちはそうは行かないのである。

 あの時に思い知ったのだ――俺にとって、名前呼びのハードルが如何に高いのかを。
今だって、ちょっと想像してみて、それだけで心拍数が上昇する始末だ。
実際に口にしたら、それこそまた赤面して、いたたまれなくなってしまうこと請け合いである。

88: 2013/06/16(日) 00:39:46.81 ID:m6/l0qGM0
 そもそも、そんな風に馴れ馴れしく振舞えるような間柄でもあるまいし。
手の届かない所で咲いているからこそ、高嶺の花と呼ばれるのだ。
間違っても、俺なんかが軽々しく触れていいものではない。
地を這う蛙が月に焦がれたとして、一体何ができようか。
眺めているだけで満足しとけ、という話である。

 触れられるほどには近くはなく、見えないほどには遠くもない。
そんな距離にある事が、きっと今の俺たちにとって一番良いんだと思う。
ヤマアラシのジレンマではないけれど、今更距離感に頭を悩ませる必要なんてないはずだ。

89: 2013/06/16(日) 00:42:37.01 ID:m6/l0qGM0
 なので、何も言わない。
断固たる意志でもって読書を再開する。
ちくちくと視線は刺さってくるけれど、敢えて無反応を貫く。
雪ノ下の負けず嫌いは百も承知だが、こればっかりは譲ってもらわないと困る。

 そんな俺の意思が通じたのか、雪ノ下は聞こえよがしにため息をついてから、視線を改めて手元の本に戻した。
かかっていたプレッシャーが去り、俺の体もようやく緊張から解放される。
俺も盛大にため息をつきそうだったけど、そんなことしたらまたややこしいことになりかねないので、そこは忍耐の一字だ。

90: 2013/06/16(日) 00:45:34.94 ID:m6/l0qGM0
 本当にこいつは、もう少し自分の挙動が周囲に与える影響について自覚してほしいね。
こいつの思わせぶりな仕草に、これまでどれだけの男子が涙を流してきたか、全く想像に難くないというものだ。
思春期男子の勘違いし易さをなめるなよ。

 とは言っても、あまり自覚し過ぎるのも困りものではある。
だって、それこそ雪ノ下が陽乃さん化するだけなのだから。
何しろあの人、本当に自分の魅力を完全に理解して使いこなしてるっぽいし。
免疫の無い男子なんて、手玉に取られていることすら悟れまい。材木座とかが良い例だ。

 あそこまで達せられる位なら――うん、今のままの方がむしろいいのかもしれない。
実に悩ましいものである。

91: 2013/06/16(日) 00:49:25.68 ID:m6/l0qGM0
「やっはろー!」

 微妙な空気が流れること暫し。
そんな空間をぶち壊したのは、最近では耳慣れた感のある明るく陽気な声だった。
勢い良くドアを開けて入ってきたのは、由比ヶ浜結衣――奉仕部のもう一人のメンバーだ。

 普段はちょっと煩く思ってしまうこともあるんだけど、この時ばかりはちょっと感謝した。
ちょこちょこと部屋に入ってくる由比ヶ浜に、雪ノ下が微笑みを向ける。

92: 2013/06/16(日) 00:53:17.72 ID:m6/l0qGM0
「こんにちは、由比ヶ浜さん」
「ゆきのん、昨日来れなくてごめんね」
「気にしないで、あの男と二人きりだったこと以外に問題はなかったから」
「あはは、ゆきのんってばもー」

 その言葉が俺にとっては割と問題なんですが。
もっとも空気を読めることに定評のある八幡くんは、そんなことを口に出すような愚は犯さない。
あとどうでもいいけど、池上って話の中でそこまでディフェンス凄い描写なかったよね。

93: 2013/06/16(日) 00:57:09.33 ID:m6/l0qGM0
 仲良さげに会話を交わしている二人。
しかし雪ノ下も、由比ヶ浜に対しては結構自然だよな。
こうして外から見てる分には、普通に仲の良い女子高生同士にしか見えん。
あんな柔らかな表情、俺に対しては痛烈な皮肉を言う時くらいしか向けてこないけど。

 少しして、ポットから湯が沸いたことを知らせる音が聞こえてきた。
いつの間にやらティータイムの準備まで進めていたらしい。
相変わらずそつがないというか。貴女どれだけ手際が良いんですか。

94: 2013/06/16(日) 01:00:30.11 ID:m6/l0qGM0
「あ、お湯沸いたね、おやつにしよー」

 明るい声で言いながら、ぱっと由比ヶ浜が立ち上がり、自分の鞄の方へと向かう。
と、歩くその背に雪ノ下が待ったをかける。

「由比ヶ浜さん、今日はクッキーを焼いてきたの。良かったらどう?」
「え? ホント? やった!」

 紅茶の茶葉を用意しながら雪ノ下が口にした言葉に、由比ヶ浜が敏感に反応した。
飛び跳ねんばかりの勢いで向き直り、主に呼ばれた犬が如く俊敏に雪ノ下の傍へ駆け寄る。
元気ですね、ホントこの子。

95: 2013/06/16(日) 01:04:28.10 ID:m6/l0qGM0
「私の鞄に紙袋入ってるから、それ取り出してくれる?」
「おっけー、任せて」

 話をしつつも、流れるような手際の良さで紅茶の準備を進める雪ノ下。
誰が見ている訳でもないのに、指の先まで神経を使っているかのように、動作の一つ一つがいちいち綺麗で細やかだ。

 気品ってこういうのを言うんだろうなぁ。
それこそ生まれ持った素養というか。
小町が紅茶淹れても、絶対こんな風になんないもんな。

96: 2013/06/16(日) 01:10:31.15 ID:m6/l0qGM0
「何をしているの? ぼーっとしてないでお皿の準備くらいしたらどう?」

 ぼんやりと、つい先日の適当に紅茶を淹れていた際の小町の粗雑な振舞いを思い起こしていたところに声をかけられ、少しびくっとしてしまう。
視線を向けると、雪ノ下が手を止めて冷ややかな目で俺を見ている。
まさか俺に声をかけてくるとは驚いた。

「え? 俺?」
「何を動揺しているのよ、少しは手伝おうという姿勢くらい見せなさい。まぁいらないのなら別にいいけど」
「あれ? 食べていいの? てっきりお前ら二人だけで楽しむもんかと」

 思わず本音を零すと、深いため息で返された。
どうでもいいけど、今日はため息多いですね、幸せが逃げますよ。

97: 2013/06/16(日) 01:14:49.95 ID:m6/l0qGM0
「そんな仲間外れみたいな真似はしないわよ、あなたも奉仕部の一員なんだから。非常に不本意ではあるけれど」
「惜しい、最後の一言がなければ良い台詞だった」
「それで、どうするの?」
「いやもちろん手伝うに決まってるって。ぜひご相伴に預かりますって」
「無理に食べなくていいのよ」
「んなわけあるか、折角なのにそんな勿体ない。前にお前が作ったクッキーもすげぇ美味しかったし」

 由比ヶ浜の依頼で動いた時のことを思い出す。
あの時、お手本として雪ノ下が作ったクッキーの味は最高だった。もう普通に店に出せるレベル。
ちなみにその時由比ヶ浜が作ったモノは、違う店でなら出せるかもというレベルだったけど。ホームセンターとか。

99: 2013/06/16(日) 01:19:09.92 ID:m6/l0qGM0
「そう、まぁ一応褒め言葉と受け取っておくわ」
「いや、今の言葉をどうしたら褒め言葉以外に受け取れるんだよ、お前は」

 俺の言葉だけ謎のフィルターにかけようとするの止めてくれない?
褒める時くらい俺だって素直に褒めるわ。多分。

 それから俺も手伝って、机の上にクロスを敷き、皿やカップを並べていく。
由比ヶ浜が俺用にと紙コップも取り出してくれた。
ちなみに、それらはいずれも雪ノ下が自分で持ってきた私物だ。
何か最近加速度的にここが何をしている部なのか分からなくなってきてる感があるな。依頼も来ないし。いいのかこれ。

100: 2013/06/16(日) 01:22:25.30 ID:m6/l0qGM0
 そんな疑問はとりあえず脇に置き、ありがたくティータイムと洒落込む。
早速、皿の上から一枚とって口に放り込んだ。
と、程良い上品な甘さが口一杯に広がる。

「おぉ、やっぱりすげぇ美味い、もう最高」
「ホント、何でこんなに美味しく作れるの? ゆきのんやっぱすごい」
「そう言ってもらえるのは嬉しいわね、でも特別なことなんてしてないわよ、レシピ通りに作っているだけだもの」

 やはり由比ヶ浜の感想は素直に受け取るらしい。格差社会反対。
ここで不用意にツッコんで食べられなくなっても困るので黙っておくけど。

101: 2013/06/16(日) 01:26:23.58 ID:m6/l0qGM0
「んー、だけどあたしが作っても絶対こうはなんないし。何でかなぁ?」
「変な隠し味とかに挑戦するからじゃないかしら?」
「最近はしてないよ」

 ああでもないこうでもない、と話す二人を見ながら紅茶を一口。
鼻腔を擽る香りも、口の中にほわっと広がる爽やかな味わいも、普段家で飲むそれとは余りにも違う。
銘柄とかは分からないけど、多分これも相当いい物なんだろうなぁ。
さておき、このまま二人の様子を見てても別にいいんだけど、とりあえず思ったことを口に出してみる。

102: 2013/06/16(日) 01:31:00.77 ID:m6/l0qGM0
「いや、レシピ通りに作るってのが結構難しいんだと思うぞ、特に由比ヶ浜にとって」
「何? ヒッキーってば、あたしがレシピも読めないとか思ってんの?」
「違う、正確さっつーか再現性の問題だってことだよ。俺だって菓子作りとかできないしな、料理は多少できても」
「はぁ? 意味分かんないし。どういうこと?」
「菓子を作るってのは、料理作るのとは全然違うんだよ。菓子作りはとにかく正確にやんなきゃなんないの。三分かきまぜろって書いてたらきっちり三分間一定の強さでかきまぜなきゃ駄目だし、砂糖十グラムって書いてたらちょっとのズレも駄目、一ヶ所でも間違えたらもうアウト、っつーくらい厳しいもんなの」
「えー、何それ、そんなにややこしいこと本にも書いてなかったよ?」
「そりゃそこそこの出来でいいんならな。でもお前が雪ノ下レベル目指すってんなら話は別だ。それこそ秒単位ミリグラム単位でもズレが許されないと思うくらいでちょうどいい」

 実際、雪ノ下だからこそ、ここまで美味しい菓子が作れるんだと思う。
正確で几帳面で丁寧で、まぁ菓子作りにこれ程向いてる性格もないだろ。
あとは体力さえあれば、カリスマパティシエにだってなれるに違いない。別になりたいとは思わんだろうが。

103: 2013/06/16(日) 01:34:20.37 ID:m6/l0qGM0
「別に私も、そこまで几帳面にやっているわけではないわよ」
「例えだ例え。分かり易いだろ」
「うわー、そんなの絶対無理」

 意図通り俺の思いが伝わったらしく、かくんと肩を落とす由比ヶ浜。
うーん、ちょっと言い過ぎたか……でも、間違っているとは思わないんだよな。
というか雪ノ下が別格過ぎるだけとも言えるけど。
ホントどんだけ規格外なんだよって話だ。

104: 2013/06/16(日) 01:38:08.17 ID:m6/l0qGM0
「別に、そこまで菓子にこだわんなくてもいいんじゃないのか?」
「うぅー、だってまだ美味しいお菓子作ってあげれてないし……」

 俺に聞こえないようにか、ぼそぼそと小声で由比ヶ浜が何か呟いている。
どうも譲れない何かがあるみたいだけど。
何となくフォローしないといけない雰囲気を感じて、深く考えずに代替案を口にする。

「どうせチャレンジするなら、普通の料理の方にしてみたらどうだ? そっちの方がまだしもお前には向いてると思うぞ」
「え? そう?」
「途中で失敗しても後からリカバリー可能だし、そこまで正確さ要求されないし、オリジナリティとか発揮させやすいし、レシピとの違いがあってもそれが個性になったりもするしな」

105: 2013/06/16(日) 01:42:45.57 ID:m6/l0qGM0
 実体験からだ。伊達に何年か食卓を任されちゃいない。
そんな俺の言葉に、由比ヶ浜が顔を上げてきらきらした目をこちらに向けてくる。復活はえぇ。

「そ、そっか。じゃあさ、ヒッキーはあたしが料理作ったら食べてくれる? あ、味見としてだよ、味見として」
「そりゃ、まぁ食べていいってんなら、ありがたく頂くけど」

 そんな目で見られたら、否定の言葉なんて口にできるわけもない。
まぁ、よっぽどでない限り、そこまでひどい失敗はしないと思うし……だよね?
ちらと雪ノ下に視線を向けると、ふいと逸らされた。
え? もしかして俺、早まった?

106: 2013/06/16(日) 01:45:29.00 ID:m6/l0qGM0
「そうだ、ゆきのん!」
「な、何?」

 由比ヶ浜の声に、びくっと雪ノ下が過敏に反応する。
珍しい、内心少し後ろめたかったんだな。
由比ヶ浜は気付いてないみたいだけど。

「今度一緒にお料理しようよ」
「え? 一緒に?」
「うん、できればお料理も教えてほしいなって、その、できたらでいいんだけど」

 指をくにくにさせつつ、上目遣いで尋ねる由比ヶ浜。
その真っ直ぐな視線を向けられた雪ノ下はたじたじだ。
こういう風に直球で来られるのに慣れてないんだよな、ぼっちって。分かる分かる。

107: 2013/06/16(日) 01:50:03.13 ID:m6/l0qGM0
「駄目、かなぁ?」
「い、いえ、そんなことはないわよ」
「ホント? じゃあ」
「そうね、週末にでも家に来る?」
「やったぁ! ゆきのん、ありがとう!」

 由比ヶ浜はぱっと満面の笑みに変わると、そのまま雪ノ下に抱きついた。
見慣れた光景である。俺が蚊帳の外になってるところまでセットで。
うんうん、仲良きことは素晴らしきかな。
一人で感嘆していると、雪ノ下がこちらに冷ややかな視線を向けてくる。

108: 2013/06/16(日) 01:54:22.69 ID:m6/l0qGM0
「何を遠い目をしているの、あなたも来るのよ?」
「え? マジで?」
「当然よ、枯れ木も山の賑わいと言うでしょう」
「言うけど、この場合の例えとして使ってほしくなかったね」

 誰が枯れ木だよ、もっと適切な言葉を使えっての。
言いたいことが分かるだけに微妙に腹が立つ。
事あるごとに俺をディスり過ぎだろ、お前は。
常に機会窺ってんじゃねぇよ。

「うん、ヒッキーもよろしくね」
「お、おう」

 と、由比ヶ浜は輝かんばかりの笑顔をこちらにも向けてきた。
思わずどもってしまったのも仕方のないところだろう。
そんな無防備な表情を見せられると、その、何だ、困る。

109: 2013/06/16(日) 01:58:31.66 ID:m6/l0qGM0
「気をつけて由比ヶ浜さん、比企谷くんの目の澱みが悪化しているわ、狙われているわよ」
「ひでぇ言い草だな、おい」

 何で雪ノ下が言うんだよ、いや由比ヶ浜に言われるんならいいって意味ではなく。
全く、ちょっと動揺しただけでこれだ。
本当に俺のトラウマをさり気なく刺激するのが上手い奴だと変に感心する。

 と、そんな感じでなし崩しに週末の予定が確定してしまった。
なお、結局今日も依頼は一件もなかったんだが、これでいいのだろうか? 奉仕部って。
顧問も碌に顔を出さない時点で、まぁ推して知るべしではあるけど。

110: 2013/06/16(日) 02:04:37.34 ID:m6/l0qGM0
と、すいません、今日はちょっとここまでということで。
また明日続きを上げますので。
まだ半分くらいだよ……予想以上に時間がかかるなぁ。
乙女なガハマちゃんはもうちょっと先で。

デレのん、書きたいですねぇ。
でもあんまりストレートにデレるのも何か違う気がしてしまうというか。
きっとこの子、物凄く分かり難くデレるんだと思うんですよ。まぁ偏見かもですが。
そういうややこしいところも可愛く感じてしまう辺り、割と自分も重症だなと思いますw

ではまた明日に。

119: 2013/06/16(日) 20:30:40.42 ID:m6/l0qGM0
やっはろー、お待たせして申し訳ない。
そろそろのんびりと続き上げてきます。
まったりお付き合い頂ければ。

120: 2013/06/16(日) 20:34:09.11 ID:m6/l0qGM0
 時は流れて週末。
ぼっちの俺の日常に、特筆すべき点などあるわけもない。
夏休みに日記の宿題があった小学生の頃、正直に朝起きてご飯食べて宿題やって本読んでご飯食べて寝た×四十日をやったことだってあるくらいだ。
もちろんその後は皆の前で晒し者にされた苦い記憶である。

「ゆきのん、来たよー」
「今開けるわ」

 由比ヶ浜と待ち合わせをして、合流した後は真っ直ぐに雪ノ下のマンションへ。
なお料理に使う食材は、雪ノ下が事前に準備してくれるという。
予め作る料理を決めておくことでリスクを回避しようという意図が読み取れる一幕だ。雪ノ下さんマジ策士。

121: 2013/06/16(日) 20:39:14.35 ID:m6/l0qGM0
 到着してインターホンを押して待つこと暫く。
オートロックの扉が開き、由比ヶ浜と並んでマンション内へとお邪魔する。

「いつも思うんだけど、オートロックって廊下こんなに開いてたら意味ないんじゃないのかな?」

 以前来た時と違って余裕があるからか、歩きながらきょろきょろと周囲を見回している由比ヶ浜。
まぁ言いたいことは分かる。
だけどお上りさんでもあるまいし、あんまり不審な動きは止めてほしい。

122: 2013/06/16(日) 20:45:37.32 ID:m6/l0qGM0
「オートロックに不審者対策効果はあまり期待されてないだろ。ただ変な勧誘はガードできる。これがでかいんだと思う」
「変な勧誘? 新聞とか?」
「そういうのもあるけど。何よりあれだ、宗教か詐欺か知らんが変なこと吹き込んでくるやつ。一度家に来た時に相対したことがあるが、あいつら人間じゃねぇ。俺の顔見て悪い物が取り憑いてますって躊躇う事なく言い切ったからな」

 その後はお定まりの流れで、変な壺か何かを売りつけようとしてきやがった。
普通そういう時って、家に変な物が憑いてますとか言うだろ。人の顔を何だと思ってやがる。
もちろんその場で110番ちらつかせて追い出しましたが何か?

123: 2013/06/16(日) 20:50:47.21 ID:m6/l0qGM0
「あ、あはは、相変わらずだね、ヒッキー」

 由比ヶ浜さんは引きつった笑みを浮かべるだけで、全然フォローしてくれませんでした。
まぁ慣れっこだから気にしない。

「他人事みたいに考えてるけど、お前ぽわぽわしてて騙されやすそうだから気をつけとけよ」
「うん、ってあれ? あたし心配されてるの? 馬鹿にされてるの?」
「馬鹿だから心配なんだよ」
「何それ、ちょっと腹立つんだけど」

124: 2013/06/16(日) 20:55:19.10 ID:m6/l0qGM0
 ぷくっと膨れる由比ヶ浜だが、こればっかりは至極妥当な心配だと思うぞ。
きっと雪ノ下も賛成してくれる。その後で俺を追撃して撃墜するオマケ付きで。
何なら俺を攻める方がメインになってる可能性もあるくらいだ。
しかし、あいつは想像の中でさえ大人しくしてくれないのか――

 それからも暫くジト目を向けていた由比ヶ浜だったが、エレベーターを下りて雪ノ下の家の前に着いた頃には、もう笑顔に戻っていた。
良い意味で切り替えが早い子である。
こういう所も人気の理由なんだろうなぁ。

125: 2013/06/16(日) 21:01:34.54 ID:m6/l0qGM0
「ゆきのん、やっはろー」
「こんにちは、由比ヶ浜さん」
「おっす」
「何? 挨拶もまともにできないの?」

 恒例の由比ヶ浜の熱い抱擁は素直に受け入れたのに、後に続く俺には氷点下の視線が送られました。
何この温度差、俺の心を割りたいの?
雪ノ下的に、やっはろーは挨拶に入るけど、おっすは入らないらしい。
氏ぬほど無駄な知識が増えて、喜びのあまり涙が出るわ。

126: 2013/06/16(日) 21:07:32.69 ID:m6/l0qGM0
「……コンニチハ」
「はいこんにちは、よくできたわね」

 褒めんな。

「この調子なら、根気よく教えれば単純労働くらいはマスターできるかしら」
「おい、褒めるならせめて最後までその姿勢を貫け」

 上げて落とすとか、笑いの基本に忠実に動きやがって。
お前は出たての芸人か。

127: 2013/06/16(日) 21:13:17.47 ID:m6/l0qGM0
「それじゃあ時間ももったいないし、早速始めましょうか」
「おっけー、がんばろー」

 玄関先での微笑ましいやり取りもそこそこに家の中へ。
リビングに通されて待つこと暫く、奥の部屋から雪ノ下がエプロンを身に着けつつ戻ってきた。
いつぞや買っていた黒い生地のエプロンだ。
相変わらず似合い過ぎな程に似合っている。
髪も後ろで一つにまとめていて、普段と少し違う姿にちょっとどきっとしてしまう。

128: 2013/06/16(日) 21:20:12.57 ID:m6/l0qGM0
 横に視線を移せば、同じくエプロンを鞄から取り出して装着している由比ヶ浜。
こちらはこちらで、雪ノ下から誕生日プレゼントにもらったものを持ってきたらしい。
見立て通りというか、可愛い感じのそれは、由比ヶ浜にとてもよく似合っていた。

 同級生たちのちょっと家庭的な姿にドキドキしている俺の心中など露ほども気にせず、二人は揃ってダイニングに並んで動き始めている。
パーフェクトに無視されるのは別にいつものことだから気にもならんけど、これ俺がいる意味あるのか?
これならまだ買い出しにでも行かされた方が気が楽だぞ。
手持無沙汰に茫然としていると、雪ノ下がちらと視線だけこちらに流してくる。

129: 2013/06/16(日) 21:24:24.07 ID:m6/l0qGM0
「突っ立ってないでソファに座ったら? 必要があれば呼ぶから、それまでは好きにしてていいわよ」
「お気遣いどーも」

 折角のご厚意なので、言われるがままソファに腰を下ろすことにする。
と、身体がふんわりと沈みこんでゆく。何これ、柔らけぇ!
包み込まれるような安心感に、思わず脱力してしまう。
自分の家のソファとのあまりの違いに愕然としてしまった。
他人の家に来てこんなにくつろぐのもどうかと思わないでもないけど、家主の了解も得てるわけだし、まぁいいかとその安らぎに身を委ねる。
油断してると、このまま寝落ちしてしまいそうで少し怖い。

130: 2013/06/16(日) 21:29:11.52 ID:m6/l0qGM0
「それで今日は何を教えてくれるの?」
「そうね、手頃と思われるもののレシピを用意しておいたわ」

 好きにしろとは言われたが、そうそう勝手な真似もできないし、そんなことしたら何を言われるか分かったものではない――というか分かりきっていると言うべきか。
なので、大人しく座ったまま、何とはなしに二人の方へと視線を向ける。
何を作るかあっさり決まったのか、早くも二人は調理に取り掛かっていた。
材料を取り出し、レシピを見ながら、雪ノ下の指導を受ける由比ヶ浜。

131: 2013/06/16(日) 21:40:46.05 ID:m6/l0qGM0
 時折危なっかしい感じはあるものの、思ったよりも手際は悪くないように見える。
少なくとも、あのクッキー作りの時と比べれば雲泥の差だ。
もしかしたら、家でも結構練習していたのかもしれない。
雪ノ下の教えに素直に答えて、真剣な眼差しで調理に取り組んでいる姿に、気付けば意識を奪われていた。

 料理は技術以上に気持ちが大事だとは言うけれど、その点で考えると、今日の由比ヶ浜はばっちり合格だろう。
真剣に、真摯に、素直に。
その姿勢に感心せずにはいられない。
感嘆せずには、いられない。
一生懸命に何かに打ちこむ姿は、それだけで人の心に響くものがある。
そういえば、由比ヶ浜ってこういう風に一生懸命になれるやつだったんだよな。修学旅行の時も――

132: 2013/06/16(日) 21:48:11.56 ID:m6/l0qGM0
「ヒッキー! ヒッキーってば!」
「お、おぅ」

 ぼーっとしていたつもりもないんだけど、つい反応が遅れてしまった。
はっと我に返ると、由比ヶ浜が怪訝そうな目でこちらを見ている。
そこでようやく自分が呼ばれていると気付いて、慌てて立ち上がりダイニングの方へ向かう。

133: 2013/06/16(日) 21:53:56.22 ID:m6/l0qGM0
「どしたの? 寝てたの?」
「不躾にも程があるわね、初めて訪れた他人の家でも平気で寝られるなんて。恥の概念すらないのかしら」
「まず初めてじゃないだろ、この家に来るの。さり気なく記憶から追い出すの止めろよな」

 これで、家から追い出されないだけまだマシか、と思うようになったらいよいよ末期なので気をつけないといけない。
しかしまぁ、好きにしてていいと言ってたくせにこれである。
全くもって油断も隙もない。
いやまぁ今回油断も隙もあったのは俺の方なわけだけど。

134: 2013/06/16(日) 22:01:07.33 ID:m6/l0qGM0
「でも、何かぼーっとしてなかった?」
「いや悪い、すごい頑張ってるなーってずっと見てたから」
「え? 見てたの?」
「あぁ、何ていうか、すごい真剣だったしさ、ちょっと感心してた」
「わ、わ、そんな……」

 正直に言ったところ、由比ヶ浜がちょっと焦ったような声を上げた。
少し頬を朱に染めつつ、手を顔にやって、首を左右に振りながら視線を彷徨わせている。
それだけ見れば非常に可愛らしい仕草なのだが、まず自分が今何をやっていたのかを思い出してほしい。

135: 2013/06/16(日) 22:05:49.88 ID:m6/l0qGM0
「由比ヶ浜さん! 菜箸菜箸! 危ないわよ!」
「あ、ご、ごめんねゆきのん」

 珍しく慌てた様子の雪ノ下の言葉に、由比ヶ浜もはっと我に返り、振り回す格好になっていた菜箸をまな板の上に戻す。
それを見届けてから、雪ノ下がじろりとこちらを睨んでくる。
何でだよ、別に俺が悪いわけじゃない――こともないのか?

136: 2013/06/16(日) 22:11:48.43 ID:m6/l0qGM0
「変なこと言って悪かったよ。で、何かあったのか? まさかド派手に失敗かまして後片付けの手伝いが必要とか?」
「べ、別に変なことじゃ……っていうか派手に失敗って何!? ヒッキーはあたしの料理の腕を馬鹿にし過ぎ!」
「いや、それくらいしか俺を呼ぶ理由が思いつかなくて」
「もう。違うって、味見に決まってんじゃん」

 呆れたように言いつつ、びしっと俺の方を指差す由比ヶ浜。
とりあえず人を指差しちゃいけません。小学校で習ったでしょ。

137: 2013/06/16(日) 22:19:53.18 ID:m6/l0qGM0
「ふふーん、これは結構いけてると思うよー。はいヒッキー、食べてみて」
「え? いや、ちょっと」

 俺の視線を爽やかにスルーして、由比ヶ浜は自信満々な様子で、楽しそうに小皿に乗せた料理を箸で小さく取り、俺の方へと向けてくる。
無邪気に自然に行われるその行為に、こっちの方が動揺してしまう。
いやいや、何でそんなナチュラルに俺如きに手ずから食べさせてくれようとしてんの?
それとも俺が間違ってるの? こういうのって当たり前なの? 調理実習とかでよくある風景? そんなの知らないって。

 そんな風にあたふたしている間にも、箸先は俺の口元に迫ってくる。
楽しげな由比ヶ浜の笑顔には、しかし相変わらず疑問のぎの字も窺えない。
ただ当たり前のことを当たり前にしているが如くだ。
その表情を見ていると、意識している俺の方が阿呆らしく思えてきて、もういいやと口を開いてそれを受け入れることにする。

138: 2013/06/16(日) 22:24:34.86 ID:m6/l0qGM0
「んぐっ」
「ね、どう? どう?」

 勢い良く突っ込み過ぎだ、ちょっと刺さったぞ。
そんな俺の抗議の視線もやはり無視したまま、由比ヶ浜がきらきらした目で尋ねてくる。
まぁ由比ヶ浜にとっては、いつぞやのリベンジも兼ねてるわけだから、高揚するのも仕方ないのかもしれない。

 さておき、あまりに真っ直ぐな目を向けられて、こちらも毒気を抜かれてしまった。
ということで、俺も口に入れられたそれを素直に咀嚼して味わってみる。
飲み込んでから、これまた素直に感想が口をつく。

139: 2013/06/16(日) 22:30:04.91 ID:m6/l0qGM0
「意外だ、美味しい」
「一言余計だし!」
「あぁいや悪い、何というか以前のクッキーのイメージが残っててさ。良い意味で期待を裏切ってくれたなーって感じで」
「もう、どうせなら普通に褒めてよ」
「まぁ比企谷くんにデリカシーが無いのは厳然たる事実にしても、確かにそう思うのも無理からぬところではあるわね」

 一応俺を援護してくれる雪ノ下。
でもそれなら前半部分はいらなかったよね。こういう所では本当にこいつはぶれない。
何にせよ二対一の状況になってしまったせいで、由比ヶ浜がぷくっと膨れる。

140: 2013/06/16(日) 22:37:15.16 ID:m6/l0qGM0
「ゆきのんまで……」
「そうは言うけど由比ヶ浜さん、今日だってここに至るまでに、どれだけの回り道があったかを忘れたわけではないでしょう?」
「えーっと、うん、それはありがとうだけど」

 少し難しい顔をしながらの雪ノ下の言葉に、ちょっとトーンが下がる由比ヶ浜。
あぁ成程、やっぱり今日も結構苦戦してたんだな。
外から見てたから気付かなかったけど。
よく見ると、雪ノ下の表情には確かに疲労の色が滲んでいる。

141: 2013/06/16(日) 22:42:40.07 ID:m6/l0qGM0
 ちらと流しの方に目をやると、結構な惨状だった。惨状っつーか戦場?
今日これまで如何に大変だったかが容易に窺えるな。雪ノ下も大変だっただろう。
とは言ってもだ。

「でも、それだけ頑張ったってことだろ。今すぐに雪ノ下レベルまでなろうったってそりゃ無茶だけどさ、今日一日だけで凄い上達したってことだし。胸張っていいと思うぞ」

 なぁ、と雪ノ下に視線を向けると、そうね、と頷いて返してきた。
良かった、さすがにこのタイミングで俺を罵倒はしないでくれたよ、やったね。

142: 2013/06/16(日) 22:47:12.77 ID:m6/l0qGM0
「比企谷くんの言う通りよ。正直最初は道具の使い方も危なっかしかったけれど、大分慣れたんじゃない? この調子なら上達も早いと思うわ」
「そ、そうかな。えへへ、ありがと」

 数回瞬きを繰り返して、俺たちの言葉の意味をのみ込むと、由比ヶ浜は嬉しそうにはにかんだ。
見ているこっちも照れ臭くなるような、明るくて真っ直ぐな笑顔。
普段なら皮肉の一つも口にするところだけど、さすがにこの場で水を差すほど野暮なこともないだろう。
たまにはこういう時間があってもいいか、と俺も黙って見守ることにした。

143: 2013/06/16(日) 22:53:42.75 ID:m6/l0qGM0
 それから最後の仕上げをまた二人で完成させた後、テーブルにそれらを並べ終えると、そこはちょっとした晩餐会の様相を呈していた。
ここまで敢えて突っ込まなかったけど、お前ら気合い入り過ぎだろう。
称賛こそすれ文句なんてあるわけもないけど。

 さておき、もちろん完成した料理は、夕食としてスタッフが美味しく頂きました。
こんな豪華な食事は生まれて初めてかもしれないと思わず零してしまった時の、由比ヶ浜の喜びとも同情とも取れる微妙な表情ちょっと印象的だった。

 しっかり料理を堪能してから後片付けまで終わった頃には、既にとっぷり日は暮れてしまっていて。
明日も休みとはいえ、あまり遅くなる訳にもいかないし、とそこで解散と相成った。

144: 2013/06/16(日) 22:56:18.61 ID:m6/l0qGM0
「じゃあゆきのん、今日はホントありがとね」
「えぇ、ちょっと大変だったけど、私も楽しかったわ、こちらこそありがとう」

 玄関で友情の再確認をしている二人。
うんうん、仲良きことは美しきかな。
またも一人感嘆していると、雪ノ下が俺の方にも視線を向けてくる。

145: 2013/06/16(日) 23:01:39.50 ID:m6/l0qGM0
「比企谷くんも、一応感謝しておくわ、協力してくれたわけだし」
「いや、礼を言うのはこっちだろ。美味い飯も食べられたしさ。ありがとな」
「あら、珍しく素直じゃない、皮肉を言ってきたら叩き潰す準備をしてたのに」
「お前は素直過ぎるんだよ」

 珍しく上機嫌なのか、小さく笑みを浮かべている雪ノ下。
何だかんだ言って、由比ヶ浜と一緒にする料理は楽しいことだったらしい。
その笑顔が常とは異なり、何だか無邪気な風に見えたのは、俺の錯覚なのか感傷なのか。

146: 2013/06/16(日) 23:08:43.83 ID:m6/l0qGM0
「あぁ、あとはこれね」
「ん? 何だ?」

 思い出したようにぽんと手を打ってから、雪ノ下が棚の上に置いていた小さな紙袋を手にとって、俺に渡してくる。
中を覗くと、可愛らしくラッピングされたお菓子が入っていた。

「お土産よ、小町さんに渡してあげて頂戴」
「小町に?」
「えぇ、前に食べてみたいと言われたことがあったのよ、だから作っておいたんだけど」
「そうか、何か悪いな、小町の為に。ってあれ? でも二袋も入ってるぞ」
「小町さんにだけ、という訳にもいかないでしょう。一つは一応あなたの分よ。だから小町さんの分を横取りしないように」
「するか、小町が俺のものを横取りすることはあっても、その逆はねぇよ」

147: 2013/06/16(日) 23:14:53.67 ID:m6/l0qGM0
 お前、比企谷家のヒエラルキーなめんなよ。
何なら、カマクラよりも俺の方が低い可能性も否定できないくらいなんだぞ。

 しかしそんなことで絶望する俺ではない。
居場所ってのは与えられるものではなく、自ら作り出すものなのだから。
まぁ現実作り出せてはいないんだけど。
あれ? それじゃ駄目じゃん。
事実に気付いて少しへこむ俺に、雪ノ下が呆れたような目を向けてくる。

148: 2013/06/16(日) 23:22:30.68 ID:m6/l0qGM0
「何を情けない事を堂々と……全く。それと由比ヶ浜さんの分はこれね」
「わぁ、ありがと。って、何か今日もらってばっかだ……」
「気にしないでいいわよ」
「そんなわけにもいかないよ。うん、次はあたしが何かご馳走するから」

 きゃいきゃいとやり取りしている二人を横目に、渡された紙袋をもう一度覗き込む。
中の菓子もそうだけど、包装まで綺麗にされていて、少なからぬ時間と手間がかけられていることが一目で分かる。
きっと由比ヶ浜に渡した物も同じだろう。
雪ノ下が俺たちの為にそこまでしてくれたという事実を前にして、心の中にじんわりと温かいものが広がるような感覚があった。

 由比ヶ浜だけではなく、きっと雪ノ下も、奉仕部での色々な活動を経て、何かが変わってきているのだろう。
では、俺は? 果たして俺はどうなのだろうか?
ふと自問してみたが、答えは浮かんでこなかった。

149: 2013/06/16(日) 23:31:44.43 ID:m6/l0qGM0
「ヒッキー、またぼーっとしてるの? そろそろ帰らないと」
「お、おう、分かった。んじゃまた明日な、雪ノ下」
「ゆきのん、また明日学校でね」
「えぇ、また明日。それと由比ヶ浜さん、帰り道気をつけてね、比企谷くんに危険を感じるようなら迷わず防犯ブザーを押すのよ」
「俺限定で危険を予感するの止めてくんない?」

 折角いい話で今日を締められると思った矢先にこれだ。
前言撤回、こいつやっぱ変わってねぇよ。
構成する要素に俺への敵意の成分が多過ぎるだろ、少しはバファリンを見習え。
しかし風邪薬の本来の目的を考えると、成分の半分を優しさという目的外のことに使用している点で、そのアピールは割と本末転倒って気がしないでもない。

151: 2013/06/16(日) 23:37:02.52 ID:m6/l0qGM0
「大丈夫だよ、ヒッキーは。あたし信じてるから」
「……」

 うん、もちろん由比ヶ浜に他意はないと思うんだけど。
雪ノ下の前言があれなだけに、むしろ釘を刺されたように思えてしまう。被害妄想かな。
いちいち心配しなくても、そんな阿呆な真似はしねぇよ。

 雪ノ下に見送られながら、エレベーターに乗り込む。
ドアが閉まって移動を始めるまでずっと、二人は手を振り合っていた。

152: 2013/06/16(日) 23:41:58.30 ID:m6/l0qGM0
「今日、楽しかったね」
「そだな、まぁ悪くない休日だったと思う」

 マンションを出て、由比ヶ浜と二人並んで歩く帰り道。
秋も深まりつつあるこの季節、既に周囲は闇に包まれていて、街灯が仄かに道を照らしている。
周囲に人の気配はなく、時折横の道路を車が通るくらいで、とても静かな道行だった。

153: 2013/06/16(日) 23:47:28.24 ID:m6/l0qGM0
「何それ、ホント素直じゃないよね、ヒッキーって」
「馬鹿言え、俺ほど素直な奴も珍しいぞ」
「うわー、どの口が言うんだか」

 くすくすと楽しそうに笑う由比ヶ浜。
面白いことを言ったつもりはないぞ。
とはいえまぁ、確かに素直な感想を言ったわけでもなし、ツッコまれるのも仕方ないところではある。

154: 2013/06/16(日) 23:52:55.37 ID:m6/l0qGM0
「ん、とりあえず料理はホント美味しかったぞ」
「えへへ、ありがと。そう言ってくれると嬉しい。あとはゆきのんの手助けなしで作れるようになんないと、だけどね」
「つーかよく考えたら、今日の俺って何もしてないな。お前ら二人が料理しながらキャッキャウフフしてるのを見て、出てきた料理を食べただけだし」
「キャッキャウフフって……」

 あれ? 何か言葉の選択間違えた?
そんな呆れた目で俺を見られても困る。
と、気を取り直すかのように小さく息を吐いてから、由比ヶ浜がまたこちらに視線を向けてくる。

155: 2013/06/16(日) 23:58:11.71 ID:m6/l0qGM0
「でも、何もしてないってことはないよ」
「いや、実際そうだし」
「ううん、ちゃんとあたしのことを見ててくれたじゃん」
「見てただけだけどな」
「それが、大事なんだよ」

 そう言って一度微笑んでから、由比ヶ浜は視線を反対側に向けた。
見ると、咲き誇る金木犀の花が、道に沿ってずっと先まで続いている。
小さなオレンジ色の花がずらりと並ぶその光景は、それなりに壮観だった。

 とは言え、俺は別に花を愛でる趣味はないので、すぐに視線を戻したけれど。
何となく手元を見下ろせば、帰り際に雪ノ下に手渡された紙袋がある。
小町に、と渡してくれたお土産だ。

156: 2013/06/17(月) 00:03:22.86 ID:cihz6v550
「それ、良かったね、もらえて」
「ん? あぁ、まぁ小町に良いお土産をもらえて良かったわ、感想聞いて雪ノ下に伝えてやんないとな」

 金木犀の方へ視線を向けたままの由比ヶ浜の言葉に、俺も手元を見たまま素直にそう返した。
しかしまぁ、渡したら渡したで色々うるさそうな気もするけど。
今日の事も、何か根掘り葉掘り聞かれそうなんだよなぁ。
何でかあいつ、雪ノ下や由比ヶ浜が絡むとテンションが異常に跳ね上がるから。

157: 2013/06/17(月) 00:08:57.52 ID:cihz6v550
 そんな風に、帰った後の事を想像して少しうんざりしていたところで。
由比ヶ浜の、ひどく優しげに響く呟きが、俺の耳に静かに届く。

「小町ちゃんだけ、じゃないよ」
「あー、まぁ俺にもくれたな、ついでだろうけど」
「ついで、ね――」

 くるりとこちらを振り返る由比ヶ浜。
柔らかい微笑みと、優しげな視線。
普段とは逆方向で年齢不相応とすら感じてしまう程に、落ち着きを湛えた相貌がそこにあった。
まるで子を見守る母のような温かい眼差しが、緩く俺を捉えてくる。

158: 2013/06/17(月) 00:14:49.09 ID:cihz6v550
 知らず息を呑む。
威圧感なんて微塵もないのに、それでもなぜか圧倒されたように言葉が出ない。
こんなにも由比ヶ浜の存在を大きく感じたのは、きっと初めてだった。

 俺はそんなにも驚いた表情をしていたのだろうか――由比ヶ浜は一度大きく目を見開くと、相好を崩して悪戯っぽく笑う。
いつもの由比ヶ浜の笑顔。
それを認識した瞬間、固まっていた空気は溶け出し、止まっていた時間も動き出した。
くるりとまた前に向き直り、由比ヶ浜が明るい声で話し始める。

159: 2013/06/17(月) 00:19:44.33 ID:cihz6v550
「金木犀、綺麗だね」
「ん、まぁそうなんじゃねぇの?」
「何それ、なんか適当」
「って言われてもな。柄でもないし、そもそも花の善し悪しなんて分からんしな」
「善し悪しじゃないよ、大切なのは」
「?」

 手を後ろで組むようにしながら、由比ヶ浜がちらりと横目で俺の方を見てくる。
とても穏やかで、ひどく落ち着いた感じの苦笑がそこにあった。
まるで、ものを知らぬ子供を見て困った顔をしている大人のような。
何だろう、今日の俺、何か失敗でもしたのか?
少し気になって、由比ヶ浜の言葉にじっと耳を傾ける。

160: 2013/06/17(月) 00:25:46.22 ID:cihz6v550
「善し悪しとか言っちゃったら、まるでそれが分からないと駄目みたいじゃない。花を愛でるのに必要な条件なんてないよ、ただ綺麗だって感じる心があれば、それでいいの」
「何だそりゃ、それなら大抵の人間が該当するだろ」
「そうだよ、誰にだって、花を愛する資格はあるんだよ」
「ふーん」
「ね、どう? ヒッキーも、綺麗だって思う?」
「まぁそうだな、花が咲いてるのを見れば、そりゃ普通に綺麗だって思いはするぞ」

 視線を道沿いの花に向けた由比ヶ浜の横顔を窺いつつ、とりあえず素直にそう返す。
ただ、由比ヶ浜が真剣に話しているのは伝わってくるが、どうにも何を言いたいのかがよく分からない。
こいつが訳の分からんことを言い出すのは、まぁ今に始まった話でもないとはいえ。

161: 2013/06/17(月) 00:31:35.45 ID:cihz6v550
 さておき、俺の答えに満足したのか、由比ヶ浜は小さく一つ頷いて、また俺の方へと顔を向けてくる。
歩きながらきょろきょろするのは危なっかしいぞ。
雰囲気的にそう言える感じではなかったので、黙って視線を向けるに止めたけれど。

「うん、それなら良かった」
「別にどうでもいいんじゃないのか、そんなこと」
「どうでもよくないよ、大事なことだよ、これは」

 ぴっと人差し指を俺の眼前に突きつけてくる由比ヶ浜。
だから人を指差しちゃいけませんってのに。分かんない子だなぁ。

162: 2013/06/17(月) 00:37:30.04 ID:cihz6v550
 視線にこめたそんな俺の意思を、今回も爽やかにスルーして、由比ヶ浜はゆっくりと言葉を紡いでゆく。
軽い調子の指先の動きに反して、その目も、その声も、ひどく真剣だった。
向けるこちらの意識を全く逸らせなくなるほどに。

「花ってね、どんなに綺麗に咲いてたって、それを見てくれる人がいなかったら、愛でる人がいなかったら、意味を失っちゃうんだよ」
「意味?」
「うん。花が美しいから人が愛でるんじゃなくってさ、人が愛でるからこそ花は美しく咲くことができる。あたしはそう思う」
「そう、か」
「そうだよ、愛するからこそ美しいってね。ヒッキーには、そのことを覚えておいてほしいな」

 それだけ言うと、由比ヶ浜は話は終わりとばかりに、歩調を速めてどんどん先へ行ってしまう。
俺はというと、向けられた言葉の意味が分からずに茫然とするばかりだ。
とてもじゃないけど、軽口を返せる空気ではなかった。

163: 2013/06/17(月) 00:43:16.67 ID:cihz6v550
 というか、そんな哲学的なことを言われてもどう答えればいいのか、という感じである。
分からん――こいつが何を考えているのか、さっぱり分からん。
今の由比ヶ浜には、俺に見えていない何かが見えているのか?
ホントどうしちゃったの、この子。夕食時にアルコールなんて出てなかったはずだけど……

「どうしたの? ヒッキー、早く帰ろうよ」
「お、おぅ」

 いつの間にか、結構な距離が開いてしまっていた。
離れた所から呼ばれてそれに気付き、慌てて駆け寄る。
その頃にはもう、由比ヶ浜の表情は普段通り、年相応のものに戻っていた。

164: 2013/06/17(月) 00:47:34.93 ID:cihz6v550
 それから由比ヶ浜の家までは、それこそとりとめの無い話しかすることはなく。
家の近くで別れる時もやはり、さっきまでの話を全て忘れたかのように、由比ヶ浜は明るい笑顔で手を振っていた。
俺だけが悩んでいるみたいで馬鹿馬鹿しくなってくる。

 何と言うか、ボールを投げられて放置されてしまった気分だ。
もう置いてけぼり感が半端ない。
女心と秋の空とはいうものの、どうにも女子ってのはよく分からない。
こういうことで悩むのも青春の必要要素なのか?

 首を傾げながら一人歩く帰り道。
結局、その疑問に答えが見つかる事は無かった。

165: 2013/06/17(月) 00:55:23.98 ID:cihz6v550
ということで、②はここまで。
長くなってしまいましたが、どんなもんでしょう?
作業しながらだったので進みが遅くなってしまいご迷惑をおかけしました。

ガハマちゃんっておバカキャラが定着してますが、作中一番の乙女って感じですし、割に鋭かったりすると思うのですよ。
期待込みで。

後半ちょっとシリアスっぽくなりましたが、基本的なノリは変わりません。
③は、さていつになるか……これからまたボチボチ書いていきます。
進捗状況は定期的にスレで報告してきますので、よろしくです。

あと皆さんのコメントに深い感謝を。
やっぱり楽しんで頂けてることが分かると、書き手としては本当に嬉しいです。
これを励みに頑張って書いてきます。
可愛いゆきのんを描いていければいいなぁ。

181: 2013/06/25(火) 22:15:27.23 ID:V0EWwy6v0
③ 悠然と比企谷小町は事態の成り行きを見守っている


「お兄ちゃん起きなさーい!」
「ぐほっ!」

 日曜の朝。
本来ならばもっとも安らかに穏やかに惰眠を貪ることが許される至福の一時は、非常に愛らしいソプラノと、その声にそぐわない鈍く重い衝撃により寸断されてしまった。
完全に熟睡していたところで腹部に受けた一撃は、俺の眠気を綺麗さっぱり吹き飛ばし、返す刀で俺の意識をも根こそぎ奪い取る。
端的に言って、落ちた。

182: 2013/06/25(火) 22:19:26.85 ID:V0EWwy6v0
「ほらほらお兄ちゃん、何いつまでも寝てんの。朝だよ、超朝だよ、早く起きないと。小町の宿題手伝う為にもほら、さぁ起きる起きる」
「うぅ……」

 リングの上ならテンカウントまで寝かせてくれるものを、この闖入者にはその容赦すらないらしく、フライングボディプレスからマウントポジションに移行し、すぐに俺の体を揺さぶり始める。
その間も腹の上の重量感はびた一文変わっていない。おまけに至極自分勝手な動機も漏らしやがった。謎は全て解けたぜ。
朝っぱらからバイオレンス極まりないが、このまま放っておいたらそれこそサスペンスに発展しかねない状況に、俺の手がほとんど無意識に動いた。
俺の身体の上でバタバタしているそいつの背を三回叩く。

183: 2013/06/25(火) 22:24:06.64 ID:V0EWwy6v0
「あ、やっとお目覚め?」
「おぉ、起こされて落とされて、また起こされた」
「え? お兄ちゃん何言ってんの? わけ分かんないんだけど」
「……いいから、まずは俺の腹の上から下りろ」
「あいあいさ」

 襲撃者はのそのそと俺のベッドから降りて、何故かそのまま仁王立ちしてこちらを見下ろしてくる。
休日の朝から俺の命をスリリングな場面に叩き込んでくれたのは、他でもない妹の小町だった。
身内に命を狙われるとか、いつの間に千葉は戦国時代に逆戻りしてたんだよ。そういうのは歴女の間だけにしておいてくれませんかね。

184: 2013/06/25(火) 22:28:20.60 ID:V0EWwy6v0
「もーホント手間かかるんだから。やっぱりお兄ちゃんには小町がついててあげないとダメだね、小町が甲斐甲斐しくお世話してあげないとダメなんだね、あ、今の小町的にポイント高い?」
「ポイント以前にテンションが高ぇよ」
「またまた照れちゃってー」

 やたらにっこにこしてる可愛い妹から少し視線をずらして時計を見ると、学校がある時とほとんど大差ない起床時刻だった。
折角の休みに何ともったいない……これで俺を起こしたのが小町じゃなかったら、垂直落下式DDTをお見舞いするレベルの暴挙だぞ。
しかし小町の可愛らしい笑顔の前に、俺に上げられる手などあるわけもなく。
はぁ、とわざとらしくため息を吐くのが精一杯の反抗だった。

185: 2013/06/25(火) 22:34:07.21 ID:V0EWwy6v0
「さ、ご飯にしよー」
「あ? もうできてんの?」
「まさか。一緒に作ろ」
「あいあい了解」
「愛は一回!」
「今発音おかしくなかったか?」

 部屋を出て、二人で階段を下りて一階に向かう。
ダイニングに入ると、仲良く並んで朝食の準備を進める。
休みの日には比企谷家で割とよく見られる光景だ。

186: 2013/06/25(火) 22:38:11.20 ID:V0EWwy6v0
「ほいお兄ちゃん、トースト焼けたよ」
「おう、あとこれがお前の分の目玉焼きとサラダな」

 二人で手分けしてやればまぁ早い早い。
できた朝食をテーブルに並べて、向かい合わせで朝食を取る。

「うん、今日のはまぁまぁの出来だね」
「パン焼くのにまぁまぁも何もないだろ、出来合いもんをオーブンで時間決めて焼くだけだぞ。時間設定をミスらん限り同じ出来になるわ」
「またそうやって水差すんだから。こういうのは気分の問題なんだよ。そうだねって頷いてくれてればいいの」
「気分の問題って言うなら、なお頷けねぇよ」
「なんで?」
「きょとんと首傾げるな」

187: 2013/06/25(火) 22:43:51.59 ID:V0EWwy6v0
 朝方の暴挙は既に完全に忘れてるらしい。
つーかそんな可愛い仕草されちゃ文句も言えやしない。
ジャムを塗りつつ、肩を竦めるだけに止めておく。
しかし朝から襲撃されたこっちがむしろ気を使ってるとか、俺って小町に弱過ぎだろ。

「やーでも、お兄ちゃん昨日も無駄に夜更かししてたでしょ。ダメだよ、規則正しい生活しなきゃ」
「お前は俺の母ちゃんか、いいだろ別に、休みなんだから」
「休みだからだよ。今日だって小町が放っといたら昼過ぎまで寝てたでしょ、そろそろその自堕落な生活直さないと」
「何でお前まで俺を矯正しようとしてんだよ。つーかそっちだって昨夜は随分遅くまで起きてたじゃん」
「やだお兄ちゃん、何で小町の寝た時刻把握してんの? こっそり監視とか止めてよ、小町の寝顔が見たいんなら堂々と言ってくれれば」
「違う、お前がいつまでも興奮状態でベッドの上をゴロゴロしてたっぽいから、気になって仕方なかったんだよ」

188: 2013/06/25(火) 22:51:00.22 ID:V0EWwy6v0
 昨夜、由比ヶ浜を送ってから帰ってきた後、なぜか俺の部屋で小町からの尋問タイムが始まり、結局根掘り葉掘り聞かれ洗いざらい話させられた。
微妙な表情で聞いていた小町だったが、話の最後に雪ノ下からのお土産のお菓子を渡してやると、表情が一転。
目をきらきらと輝かせて、ぱぁっと明るい笑顔に変わり、そこからテンションが急上昇の天井破り。
なぜか俺の背中をばんばん叩いて「やるなこいつぅ」とかわけの分からんことを言い始めたのだ。誰だよお前。

 さすがに深夜にそのテンションはあまりにも鬱陶しかったので、そろそろ寝ろと俺の部屋から追い出したのだが、何やら興奮冷めやらぬ小町は、その後も暫く自分の部屋でのたくっていた。
聞いてるこっちがちょっと怖かったくらいである。
そんなに雪ノ下の手作りのお菓子が食べたかったんだろうか? 由比ヶ浜といいこいつといい、どうにもその言動は謎に満ちている。

189: 2013/06/25(火) 22:55:18.84 ID:V0EWwy6v0
「いやー、これが喜ばずにいられますかって。まぁお兄ちゃんみたいなデリカシーのない鈍感の朴念仁には分からないだろうけど」
「そこでいちいち悪口を重ねんでもいいだろ」

 微妙に悪い感じの笑みを浮かべている小町。
何だかなぁ、元々それなりに辛辣ではあったけど、こいつ最近妙に毒舌が増えてきてる気がするんだよな。
雪ノ下の影響受け過ぎじゃねぇ? どうせ影響受けるならもうちょっといい方向で受けてほしいもんだ、もっと賢くなるとか。無理か。
普段より数段澱んでいるであろう俺の視線を受けてもしかし、小町はもう今にも叫びだしそうなハイテンションを維持したままだった。
正直ついていけないんだけど。そろそろ落ち着こうぜ。

190: 2013/06/25(火) 22:59:22.76 ID:V0EWwy6v0
「とにかく小町的には超嬉しかったわけですよ、いえーい。フラグ立ってないのかなーってがっかりする時期もあったけど杞憂だったんだね。やっぱり小町の乙女センサーに狂いはなかった!」
「朝からテンション高いよお前。何? 酒でも飲んでんの?」

 合いの手みたいに拳を突き上げんな、食事中だぞ。
ふりかけみたいに俺の頭にパンの粉がまぶされてんでしょうが。
つーかその興奮状態、まさか小町ってば雪ノ下狙いだったの?
そんな百合百合しい光景とか見せられたら多分泣くぞ、俺。

191: 2013/06/25(火) 23:04:31.75 ID:V0EWwy6v0
「やーやー、とにかく今後に目が離せないね、期待してるよお兄ちゃん」
「だから何の話なんだよ、全く。ほらいいからさっさと飯食え飯」

 そうして普段の倍くらい疲れる朝食を取り終わって暫く。
名状し難い力が働いて、俺が小町の宿題を手伝っていた時のこと。
いやホントなんでなのかよく分からないんだけど、気がつけば小町の宿題を手伝っていたのだ。
この子ってば兄を手玉に取るスキル磨き過ぎ。

192: 2013/06/25(火) 23:08:22.88 ID:V0EWwy6v0
 さておき二人で仲良く宿題をしていたところで、小町の携帯が不意に鳴り出した。
小町は素早く立ち上がって携帯を耳に当てる。

「もしもしー……あ、どーもどーも、こんにちはです。ってそんなご丁寧に。もうホントいつもご迷惑をおかけして……いえいえホントお世話になってばっかりだと思いますし」
「お前どこのリーマンだよ、携帯に頭下げても相手見えねぇから」
「うるさいよお兄ちゃん、これきっと大事な話なんだから……あ、ごめんなさい、いやもーウチの兄がいきなり――」

 じろりとこちらを一睨みしてから電話に戻る小町。
可愛い顔でそんなことしてもちっとも迫力はないんだけど、怒らせるのも何だし黙って宿題に戻ることにする。
さっさと終わらせてのんびりしたいし。

193: 2013/06/25(火) 23:12:36.98 ID:V0EWwy6v0
 しかし今はあんまり見なくなったけど、電話のコードを指でくるくる弄るのと電話しながら受話器に向かって頭下げるのって、日本人特有の謎の文化だよな。
でも女の子がやると普通に可愛く見えるから不思議。一度戸塚にやってもらいたい。こう指でくるくるーって。
何これ、想像しただけで胸が高鳴るんだけど。

「ほうほう、ほうほうほう。おぉー、それはそれは! いいタイミング、小町的にも実にグッドなお話です、いやもうグッデストなお話!」

 グッドの最上級くらい覚えとけよ、こいつ受験本当に大丈夫か?
いや冗談で言ってるって線もなくはないんだろうけど……
俺の不安もどこ吹く風と、相も変わらず小町はテンション高く受け答えを続けている。
どうやら相手からの突っ込みはなかったらしい。そこはかとなく残念だ。

194: 2013/06/25(火) 23:16:46.32 ID:V0EWwy6v0
「――なるほどなるほど、かしこまりです。後はこの小町に万事お任せを。えぇもうすぐにでも! ではでは」

 ぴっと携帯を切ると、小町がくるりと俺の方に向き直った。
頬は微かに紅潮し、眼はきらきらと輝いている。
よく分からんが、何か良い報せだったのだろうか。
さて何事かと見上げる俺に、小町は笑顔で言い放つ。

「ごめんお兄ちゃん、急用できた」
「そうかい、んじゃまぁ気をつけて行ってこい」

195: 2013/06/25(火) 23:21:04.86 ID:V0EWwy6v0
 ひらひらと手を振って答える。
その急用とやらが気にならないでもないけど――まさか男じゃないだろうな、とか――まぁ詮索して嫌がられるのもなんだし。
何にしても宿題の手を止めて自分の時間が戻ってくるだけ万々歳だろう。
と、思っていたのだが。

「ノンノン! 違うよお兄ちゃん、何くつろいでんのさ」
「あ? 何が違うんだよ」
「だから急用できたのお兄ちゃんの方なんだって」
「え!? 俺!?」

196: 2013/06/25(火) 23:29:43.66 ID:V0EWwy6v0
 びっくりした。そりゃもう近年稀に見るほど強烈な衝撃だった。
何で俺の急用が小町の携帯にかかってくるんだよ、捻り効き過ぎだろ。いやがらせか。
つーか誰だよ、そんな斬新な発想する奴。
驚きに固まっていると、小町が俺の手を取って立ち上がらせようとしてくる。

「ほらお兄ちゃん立って立って、早く着替えて準備しないと」
「何でだよ、つーか折角の日曜なのに何で外出せんとならんの? やだよ面倒くさい」
「もー何でそんな引きこもり気質なの! 小町はお兄ちゃんをそんな子に育てた覚えはないよ!」
「育てられた覚えもねぇし。つーかむしろ育てた覚えしかねぇし」
「うん確かに育てられたのかも――じゃなくて! ダメだよ行かないと」
「絶対嫌だ」

197: 2013/06/25(火) 23:34:42.07 ID:V0EWwy6v0
 なおも腕を引っ張ってくる小町に対して、俺も断固たる決意で腰を上げまいとする。
どうにも嫌な予感がするのだ――というか、そういう搦め手でくる相手の用事なんて碌なもんじゃあるまい。
ここは逃げの一手が正解だろう。こうなったら梃子でも動かないぜ。
そんな俺の意思を見て取ったのか、小町が眉を寄せつつ、ふぅと小さく息を吐く。

「困ったなー、もしお兄ちゃんがダメな時は、小町にデートしようって誘われてるんだけど」
「オーケー万事了解した。俺はどこに行けばいいんだ?」

198: 2013/06/25(火) 23:38:22.85 ID:V0EWwy6v0
 すくっと立ち上がり臨戦態勢に入る。
あらゆる思考が瞬間吹き飛んだ。もはや言葉はいらない。
梃子? 何それ美味しいの?
俺をダシに使って小町をデートに誘おうとはふてえ野郎だ。否、不貞野郎が。

 かくなる上は戦争しかあるまい。
俺が滅ぼすかそいつが滅びるか、二つに一つだ。
つまり実質一つしか許すつもりはない。

199: 2013/06/25(火) 23:43:53.86 ID:V0EWwy6v0
「いやー……焚きつけといて何だけど、ここまで過激に火が点いちゃうんだ。小町的にポイント高いような低いような。困っちゃうなー。でもお兄ちゃんも、そろそろ本気で小町離れすること考えた方がいいんじゃないかなーとか思ったり」
「そうだな、それはまた今度考えようか」
「あ、ダメだ、これ全く考えてないパターンだ」
「とにかく話は後でな、まずはどこに行けばいいのかを速やかに教えるんだ」
「お兄ちゃん、目が据わってるよ」
「その代わり身体は立ってるから帳尻はとれてるだろ」
「とれてないけど。まぁいいや。んーとね、相手の人だけど、ららぽのスタバで待ってるって言ってたよ」

 なるほど、東京BAYのあそこが俺の戦場か。
緑のあのマークを朱に塗り替えてしまうのは如何にも忍びないが、それも止む無しだな。

200: 2013/06/25(火) 23:52:01.05 ID:V0EWwy6v0
「で、標的は? 誰なんだそいつは。スタバのどこで待ってるって?」
「んー、まぁ行けば分かるよ。そう言ってたし」
「そうか、まぁ分かった」

 微妙に引っ掛かるところがないでもなかったけど、この際細かいことはどうでもいい。
小町が行けば分かるというなら行くまでのこと。
しかし、俺の知ってる範囲で小町の周りをうろちょろしてる奴となると、川……なんとかさんの弟か、あるいは俺の学校の男子かもしれないな。
文化祭で一目惚れした奴がいた可能性もあるし。小町の可愛さを考えれば何ら不思議はない。

201: 2013/06/25(火) 23:58:43.76 ID:V0EWwy6v0
「じゃあ小町、良い子で待ってるんだぞ、俺が全て片付けてくるから」
「ちょい待ち、その前に着替え着替え」
「あ? 別にいいよ、どうせ汚れるし」
「良くないよ、礼儀としてもほら」

 既に気持ちは家を飛び出しているのだが、小町はぐいぐいと結構な力で俺の背中を押して、部屋へと連れて行こうとする。
まぁ闘いに赴く格好というのもあると言えばあるか。
もうその辺は小町に任せよう、こっちはただ行って会って張っ倒すのみなのだから。
そうして小町に言われるがまま、何故か微妙に小奇麗な格好になった俺は、笑顔で見送られながら家を出た。

202: 2013/06/26(水) 00:04:17.03 ID:sc+fY0ZW0
「じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃーい、お土産話楽しみにしてるから。あ、寄り道しちゃダメだからね」
「もちろんだ」

 言われるまでもない。この精神状態でどこに寄り道しろと?
怒りに燃える血はマグマのように俺の身体を駆け巡り、今も見敵必殺を脳裏に囁き続けているのだ。
逸る気持ちを抑えることなく、バスに乗り込み戦場へと向かう。
公共交通機関を乗り継ぎ、昼前に目的地に到着。
ともすれば走り出したくなる足を抑え込み、体力を温存しつつ指定の場所へと歩いて行く。

203: 2013/06/26(水) 00:08:14.15 ID:sc+fY0ZW0
 普段はリア充の巣窟であるスタバなど見るのも嫌な俺ではあるが、今はあの緑のマークを早く見たくて仕方がない。
俺の小町に粉をかけようとする馬鹿には、相応の報いを与えてやらねばならないのだから。

 そうして辿り着いた約束の地には、なぜか微妙に人だかりができていた。
有名人でも来てるのか、あるいは何か珍しいイベントでもやっているのか。
まぁどっちにしろ、俺にとってはどうでもいいことだ。

 そうして人の山を避けるようにしながら店内を覗き込んで。
瞬間、そのまま回れ右して帰れと俺の本能が脳内で叫びを上げた。

204: 2013/06/26(水) 00:12:49.15 ID:sc+fY0ZW0
「お、来たね。思ったより早かったじゃない、小町ちゃんってばどうやって焚きつけたのかなー? さっすが言うだけのことはあるねぇ」

 が、時既に遅し。
相手の目は俺を完全に捉えており、その笑みはただ俺だけに向けられている。
具体的な言葉はなく、特別な行動もなく、なのに俺の体は凍りついたように動かなかった。
脳内で誰かが囁いた気がした――知らなかったのか? 大魔王からは、逃げられない。

205: 2013/06/26(水) 00:17:42.49 ID:sc+fY0ZW0
「ん? 何ぼーっとしてんの? あ、さてはお姉さんに見惚れてたか? もー浮気はだめだよ。雪乃ちゃんに告げ口しちゃうぞ?」

 席に座ったままにっこりと笑っているのは、良くも悪しくも見知った顔――雪ノ下さんちの最強お姉さん、陽乃さんだった。
なるほど、人だかりができるのもむべなるかな。
日曜の昼下がり、混み合った店内にあってなお、その笑顔の輝きは他の全てから隔絶されて見えている。
色鮮やかに、彩り豊かに、いっそ周りが無色透明無味無臭に思えてしまう程に、その存在感は強く強く主張されていた。
見ればわかるとはよく言ったものだ――彼女がいるだけで、他の全てが視界から追い出されてしまう、意識から外されてしまう。

206: 2013/06/26(水) 00:24:18.60 ID:sc+fY0ZW0
 だからこそ、俺はこの人が苦手だった。
暴力的な程に輝く光は、隠れる為の闇をも根こそぎ取り払ってしまう。
眩し過ぎて直視できない。その先に何があるのかを窺うことすらできない。
日陰に生きる俺と対極にいる、まさに陽の存在なのだ、この人は。
あまりにも強過ぎる。

 今だって、周囲の視線を一手に集めながら、まるで歯牙にもかけていない。
なのにそれでいて、嫌味な空気や冷たい雰囲気など微塵も感じさせず、むしろ荘厳な気配すら漂わせているようで。
何かもう女王様って呼びたくなってくる。
陽乃さんマジぱねぇ。

207: 2013/06/26(水) 00:29:13.93 ID:sc+fY0ZW0
「まぁ積もる話はこれからこれから。ほらここ座って」

 陽乃さんは俺の方へ笑顔を向けたまま、くいくいと自分の前の席を指で指し示す。
言葉こそ丁寧で、笑顔こそ穏やかだけれど、有無を言わさず是非も問わない問答無用の圧力をなぜか感じずにはいられなかった。
蛇に睨まれた蛙って言葉はこういう時に使うのかな、一つ賢くなれて泣きたくなるほど嬉しいよ、ちくしょう。

 ここへ来る時の怒りの炎はどこへやら、完膚なきまでに鎮火させられて萎み切った心で、とぼとぼとその席へ向かう。
気分はさながらグリーンマイルを歩く囚人だった。
いやさすがに言い過ぎかもしれないけど、こう気分的に。
席に腰を下ろしつつ、恐る恐るという感じで話しかけてみる。

208: 2013/06/26(水) 00:34:46.41 ID:sc+fY0ZW0
「えっと、雪ノ下さん」
「堅いなぁ、陽乃でいいって。雪乃ちゃんもOK出したんでしょ、名前呼び。それでまさかわたしだけ断らないよね?」
「何でそれを……」
「あ、その反応、ホントにOK出してたんだ。いやーそろそろかなぁと思ってはいたけど、雪乃ちゃんもちゃんと頑張ってるんだねー、お姉ちゃん安心」

 鎌を掛けてたのかよ、ホント俺の心に優しくないな、この人。
それでいて、笑顔に一点の曇りもないというのがまた実に恐ろしい。
どこまでが本気でどこまでが冗談か、その微笑みは俺に一切の推測を許してはくれないのだ。

209: 2013/06/26(水) 00:40:43.52 ID:sc+fY0ZW0
すいません。
今日はちょっとここまでで。
また明日か明後日かに続きを上げてきます。

ゆきのんとラブったらもれなくはるのんの弄りがついてくるとか、とんだボーナスステージだぜ。
きれいなお姉さんに手玉に取られる男の子というのは見てて楽しいと思いますww

216: 2013/06/26(水) 22:10:39.35 ID:sc+fY0ZW0
「さってと、まずは話の前に丁度お昼だし、何食べたい? ご馳走してあげるよ」
「いや、いいです。理由も無いのに奢ってもらうわけにはいきませんから」

 この人に借りを作るなんてそんな恐ろしい。
ただより高いものはないとは、正にこのこと。
思えば雪ノ下も文化祭の時にやっちゃってたけど、あれだってどうなったことやら。
しかし、俺が固辞することは織り込み済みだったのか、陽乃さんはぱたぱたと手を振ってあっさり手の内をばらす。

218: 2013/06/26(水) 22:14:33.21 ID:sc+fY0ZW0
「だいじょぶだいじょぶ、雪乃ちゃんとのこととか根掘り葉掘り色々聞かせてもらうんだし、そのお代みたいなものと思ってくれればいいよ」
「それって益々奢ってもらうわけにいかなくなったんですけど」
「んー、でももう頼んじゃってるし。一杯食べて一杯喋ってね」
「……ていうか、それなら何で食べたいものなんて聞いたんですか」
「ま、社交辞令だよ。どの道ほら」

 そう言って陽乃さんは周囲を見渡す。
つられて視線を巡らせる――と、自分の表情が引きつったことを自覚した。
何がってもう、めちゃくちゃ注目を集めていたのだ、周囲から。
やっかみの視線が凄い凄い、意識したら心が縮み上がるくらい。見なきゃ良かった。

219: 2013/06/26(水) 22:20:30.81 ID:sc+fY0ZW0
 でもそりゃそうだよね、事実はどうあれ、見た目完璧、笑顔素敵で、完全無欠な超絶美人と差し向かいでお茶してますとか。
見てる男からすれば腹立たしい事この上ないよね。
俺が周りの立場なら同じ事するもん。
何なら聞こえよがしに舌打ちするもん。
勝てそうな相手なら因縁つけるまであるかもしれない。何それ我ながらひどい。

「ね? もう逃げられないって。まぁどうしてもって言うなら、涙ながらに見送ってあげないでもないけど」
「あなた鬼ですね」
「こんな綺麗な鬼なんているかなぁ?」

 ライトノベルの世界にはまぁ、割といるんじゃないですかね? 某怪異の王様とか。
そんなことを考えながら、多分普段より二割増しで腐った目をしていたであろう俺に対して、ぴっと人差し指を突きつけてくる陽乃さん。

220: 2013/06/26(水) 22:27:32.32 ID:sc+fY0ZW0
「小町ちゃんに言い包められてここまで来た時点で詰んでたんだよ、比企谷くん。諦めてお姉さんの言う通りにしておくことね」
「はぁ、分かりましたよ」

 がっくりと項垂れつつ答える。
この場合、俺を担いだのは果たして小町なのか陽乃さんなのか……
どちらにしてもこの二人が組んでる時点で、俺の勝ち目なんてあるわけがなかった。
もう観念するしかないだろう。
この状況でなおも足掻こうとするのは、時代劇のやられ役くらいなものである。

221: 2013/06/26(水) 22:32:00.04 ID:sc+fY0ZW0
 それにまぁよくよく考えれば、この結果は決して悪いばかりのものではない。
だって、俺を呼びだしたのが陽乃さんだったってことは、小町を狙う悪い虫はいなかったってことでもあるわけだから。
むしろ騙されていたって事実に感謝した方がいいんじゃないかってくらいだ。

 うん、これは正しく不幸中の幸いだと言えよう。
俺が自分の手を血に染めずに済んだって点でも。
やはり平和は尊いものだ――それを痛感せずにはいられない。
ということで、今日のことはその維持の為に必要な犠牲なのだと思って観念することにしよう。
人間諦めが肝心である。

222: 2013/06/26(水) 22:37:36.80 ID:sc+fY0ZW0
「それで陽乃さん、折角の休みなのにわざわざ俺なんか呼び出して、一体何を聞きたいんです?」

 まぁ逃げ場も無いと分かってしまえば、いっそ腹も括れるというもので。
その後に陽乃さんの指示(?)でテーブルに並んだサンドイッチやらスコーンやらを、遠慮なく頂くことにした。
我ながら変な所で神経が太くなったもんだと思う。
しかし、どうせもう逃げ場なんてないんだし、それなら最後の晩餐じゃないけど食事くらいのんびり取ってもいいだろう。
毒を食らわば皿までと、食後にティーラテまで頂きながら、改めて覚悟を決めて本題の話を切り出した。

223: 2013/06/26(水) 22:44:22.36 ID:sc+fY0ZW0
 俺の言葉ににっこりと微笑みつつ、陽乃さんは手に持っていたカップをテーブルにそっと置く。
雪ノ下もそうだけど、この人も本当に一つ一つの所作が綺麗だよな。
なんで飯食う時でさえ、指の先まで神経使ってんだろ。
一部の隙も無いというか、見られることを意識しているというか。

 それとも、無意識にこういうことができてしまうのだろうか。
育ってきた環境も全然違うだろうし。
上流階級の嗜みって凄いもんだな。
と、ぼーっとその動作を見ていた俺に対して、陽乃さんは指を振って否定の意を返してくる

224: 2013/06/26(水) 22:49:54.41 ID:sc+fY0ZW0
「違うよ比企谷くん、折角の休み“だから”だよ。ほら初めて会った時に言ったでしょ、今度お茶しようねって」
「そういやそんなことも言ってましたね、正直今更って感じが半端ないんですけど」
「うーん、何か熱が足りないよねぇ。こーんな美人のお姉さんとお茶してるんだし、もうちょっと嬉しそうにしてもいいんじゃない?」
「周囲のやっかみの視線がなければ、もしかしたらそう思えたかもしれませんけどね」

 からかうような声に、憮然としながら返す。
今もなお、店内の男どもはちらちらとこちらの様子を窺ってきていた。
陽乃さんへの好意の視線が七割、俺への嫉みのそれが三割ってところか。適当だけど。
しかし、こんな周囲の好奇と関心の目に晒されて、無駄に悪目立ちして、あぁ俺の本懐は何処へ、と嘆いてみる。

225: 2013/06/26(水) 22:53:17.09 ID:sc+fY0ZW0
「またまたぁ、大して気にもしてないくせに」
「んなわけないでしょう、俺は目立たずひっそりと植物のように穏やかな人生を過ごしたい派なんです」
「嘘ばっかり。同じ学校の全生徒を敵に回してもいいって覚悟もあったくらいなんだし、見知らぬ他人の敵意なんて物の数じゃないでしょ」
「む……」

 にんまりと意地悪そうな笑みを浮かべる陽乃さん。
人が忘れようとしている過去を遠慮なくほじくり返してくるとは、全く容赦のない人である。
しかし俺を攻撃する時にやたらいい笑顔になる辺り、さすが姉妹というか血は争えないというか。何そのDNAに刻まれてる感じ。
もしかしてあれですか、比企谷家のご先祖が過去に雪ノ下家に対して何か粗相でもやらかしたんですか?
それならご先祖を恨んで下さい。それ俺じゃないですから。

226: 2013/06/26(水) 23:00:11.29 ID:sc+fY0ZW0
「まぁ雑談じゃなくて大事な話をしたいって言うのなら、そうしてあげるのも吝かじゃないよ」
「何で俺が頼んだみたいに……」
「んー、何の話をしよっか、色々聞いてみたいことあるしねぇ――」
「……お手柔らかに」

 指を口元に当てて宙を見ながら、わざとらしく思案してみせる陽乃さん。
正直白々しいと思う。どうせこの人、何を聞くか既に決まってるんだろうし。
何が出るかな何が出るかな、とある種開き直りの境地でそのお言葉を待つこと暫し。
陽乃さんがにっこりと笑って指を一本立てる。

227: 2013/06/26(水) 23:06:41.18 ID:sc+fY0ZW0
「うん、それじゃあ最初は軽い感じで一つ」
「何です?」
「雪乃ちゃんとキスくらいした?」
「ぐっ……げほっげほっ!」

 思いっきりむせた。紅茶が逆流して鼻につーんときてる、痛い痛い痛い。
この人笑顔で何言ってんの?
どこが軽い感じだよ、めっちゃ重いじゃん、どう考えても最初に聞くことじゃないだろ。
何? 俺にフェイクかけて楽しいの? 神奈川No.1プレーヤー吹っ飛ばしてダンクでもしたいの?

228: 2013/06/26(水) 23:11:59.23 ID:sc+fY0ZW0
「わっ、汚いなぁもう」
「誰のせいですか、誰の!」
「あ、涙目。へぇ、上目遣いだとちょっと可愛く見えるよ」
「嬉しくない……というか、まずそもそも俺たちはそんな関係じゃありませんから。そんなことしてるわけないでしょう」
「そんな必氏になんなくてもいいっていいって、ムキになると余計に怪しく見えちゃうぞ」

 悪戯が成功したみたいな笑顔で、指先をこちらに向けてくる陽乃さん。
正直ちょっといらっときた。
もっとも、いらっときたからといって、俺に何ができるわけでもないんだけど。

229: 2013/06/26(水) 23:18:22.93 ID:sc+fY0ZW0
 だって勝ち目なんて全くないし。
正直素手での殴り合いでも普通に負けると思う。
いや、我ながら情けない話ではあるが。
そんな俺に対して、けれど陽乃さんは追撃の手を緩めてはくれない。

「それじゃあ、どこまでいったのかな? まだ手を繋いで愛を語らう程度なの? プラトニックだねぇ」
「だから前提が間違ってますって。別に付き合ってませんから、本当に、全然、全く」

230: 2013/06/26(水) 23:26:44.40 ID:sc+fY0ZW0
 精々どつき合いがいいところだ。
それだって実質俺が一方的にやられてるだけなので、正確にはどつき合いですらなく、ただのどつかれである。
何それ、悲しい……どうせなら部費でサンドバッグでも買ってもらえませんかね?
殴るの大好きな顧問の先生もストレス発散が捗ると思いますよ。

「えー? そうなの? 全くもう二人とも奥手なんだから。一度きりの青春なのに、そんなんじゃ花咲く前に枯れちゃうよ」
「放っといてくださいよ」
「放っといたら何も変わらなさそうだから、面白半分にちょっかいかけてるんじゃない」
「自分で面白半分って言っちゃったよ……」
「あとの半分は本気だから大丈夫だって」

231: 2013/06/26(水) 23:32:27.81 ID:sc+fY0ZW0
 陽乃さんはそう言って、からからと楽しそうに笑う。
笑われる俺はというと、やはりどうにも憮然とする他なく。
というか何が大丈夫なのかさっぱり分からない。
しかし、俺をからかうのってそんなに楽しいのだろうか。
何? 俺ってリアクション芸人でも目指すべきなの?

 しかしまあ、弄られてばっかりというのも困りものだし。
改めてよくよく考えれば、これも良い機会かもしれない。
俺だって聞きたいことがないではなかったのだ。
一つ咳払いして居住まいを正す。

232: 2013/06/26(水) 23:38:50.23 ID:sc+fY0ZW0
「陽乃さん」
「ん? 何かね、未来の義弟くん」
「その呼称は将来本当にそうなった男に言ってやってください」
「だから期待をこめてそう呼んでるんだけどなぁ」
「……一度聞いてみたかったんですけど」

 敢えて無視して話を進める。
俺の声に少し真剣な響きが混ざったことに気付いたのだろう。
陽乃さんも姿勢を少し変えて、聞く体勢を作っていた。

233: 2013/06/26(水) 23:45:23.98 ID:sc+fY0ZW0
「どうして、俺なんですか?」
「ん? どうしてって? 何を聞きたいのか、ちょっと分からないなぁ」

 可愛らしく小首を傾げる仕草。
けれど口にする言葉があまりにも白々しいので、それすらポーズに見えてしまう。
きっと俺の考えてることなんて全てお見通しで、けれどそれを敢えて俺の口から言わせようとしている、としか思えないのだ。
そして今の俺は、それに乗る以外に道はないわけで。
ちょっと悔しいけど、まぁ仕方ない。

234: 2013/06/26(水) 23:57:38.92 ID:sc+fY0ZW0
 暗に人間失格って言われてる気がする。
だがそれでいい、小町の為なら道を外そうが後悔しないぜ……じゃなくて。
今は俺たちのことを話しているわけじゃないのだ。

 忘れもしない――初めての邂逅の時の、陽乃さんが俺に一瞬向けた、全てを見透かすような冷徹な眼差しを。
あの時、陽乃さんは確かに俺のことを思いっきり値踏みしてきていた。
つまり、最初は俺のことを不審の目で見ていたはずなのだ。
それもこれも何の為かというと――

235: 2013/06/27(木) 00:02:38.10 ID:M0nLcqb50
「陽乃さんは、雪ノ下のことを「雪乃」……」

 どうして口を挟んだんですか?
何でそんないい笑顔してるんですか?
素敵過ぎて寒気がしますよ。

 いや、このくらいでめげて堪るか。
気を取り直して――

236: 2013/06/27(木) 00:08:57.86 ID:M0nLcqb50
「陽乃さんは雪ノ下の「雪乃」……」
「雪ノ下「ゆ・き・の」……」

 しつこい……いや分かるよ、何が言いたいのかは分かるんだよ。
だけど何だろう、こうまであからさまにやられると、さすがに抗いたくなってくるのだ。
そりゃ、勝ち目なんてないことは分かっているけれど。
しかし、だからといって、唯々諾々と従ってばかりもいられないというか。
優雅に片肘つきながら、こちらを満面の笑みで眺めている陽乃さんの楽しげな様子を見ていると、なおさらである。

237: 2013/06/27(木) 00:15:21.63 ID:M0nLcqb50
「あのですね」
「何かな?」
「俺の話を聞いてもらえません?」
「もちろん聞くよ、ほらほら、言って言って、恥ずかしがらずに、さぁ」

 うわー、めっちゃむかつくー。
俺をおもちゃにする気満々だよ、この人。
もうこうなったら意地でも言いたくなくなってくるな。

238: 2013/06/27(木) 00:23:01.91 ID:M0nLcqb50
 と内心では思うものの、ここはクールにならないといけない。
もし相手が陽乃さんじゃなかったら、あるいは最後まで意地を張り通すこともできただろう。
しかし、逆らってはいけない相手というのは確かに存在するのだ。
これ以上は危険だ、と俺の中の何かがけたたましく警鐘を鳴らしている。

 だってほら、何か少しずつ笑みが深まってきてるし。
それがこう、苛立ちよりも恐怖を喚起させるというか。
実際、これ以上抗っても話は進まないし、怒りを買ってしまったら俺に明日が来なくなるかもしれないし。

 というわけで、そろそろ諦め時なのだろう――もういい、心を無にするんだ。
何てことはない、ただ雪ノ下のことを名前で呼ぶだけのことだ。
漢字なら二文字、平仮名でも三文字、簡単なミッションじゃないか。よし――

239: 2013/06/27(木) 00:29:08.85 ID:M0nLcqb50
「陽乃さんは、ゆ、雪乃、のことを――」

 噛んだ。
うあー、駄目だ、やっぱあいつの名前ってば魔法だわ。目の前にいないのにこれだもん。
よりにもよって、一番見られたくない人に、一番見られたくないシーンを見られてしまった……くぅ、自分でも頬が紅潮してきてるのが分かるぞ、ちくしょう。
だってもう陽乃さんてば、何かすんげーきらきらした目でこっち見てるし。
何でそんな嬉しそうなんだよ。まさか、まだこの上に追い打ちを重ねようと?
もうやめて、八幡のライフはゼロよ。

240: 2013/06/27(木) 00:34:57.35 ID:M0nLcqb50
「いやー、いいねぇいいねぇ、初々しいね青春だね、ご馳走さまだよもう」
「からかわないで下さいよ、いやホントに」
「うんうん、ぶっきらぼうでやさぐれた感じの男の子が、恥じらいながら女の子の名前を呼ぶのってこんなに良いものだったんだねぇ、眼福眼福。あー映像に残しときたかったかも」
「帰っていいですか?」
「ダメに決まってるじゃない」

 瞬殺でした。
そりゃそうですよね。あなたが俺に温情判決下してくれるわけないですよね。

241: 2013/06/27(木) 00:43:28.15 ID:M0nLcqb50
 あー、何かもういいや。悪い意味で吹っ切れたわ。
もう気にするのは止めよう。
これぞ開き直りの境地である。

「とにかくですよ、陽乃さんは雪乃のことを大事に思ってるんですよね?」
「うんうん、そりゃもう大好きな妹だからね」
「そんな妹に変な男が近づいてるわけですよ? それなら警告なり脅迫なりするくらいが自然だと思うんですけど」
「君のわたしに対するイメージについては、一度よく話し合う必要があるかな」
「いや例えですよ例え! それにほら、あの容姿だから言い寄る男も多いでしょうし、心配になったりするんじゃないかなーっていうか」
「あの容姿って? なになに? どういう意味かな、それだけじゃどうとでも取れるよね?」
「あれだけ器量が良いなら! ですよ!」
「怒っちゃった? ごめんごめん。でもうん、比企谷くんもちゃんと雪乃ちゃんのことを可愛いって思ってくれてるんだね、美的感覚は正常なようで安心したよ」

242: 2013/06/27(木) 00:50:26.39 ID:M0nLcqb50
 駄目だ、どうしたってペースを乱されてしまう。冷静でいることがこんなに難しいなんて……
てへっと笑う陽乃さんは、一見とても可愛く見えるが、正直もはやあざとさしか感じない。
というか今、何か謝りながら凄いこと言われた気がするぞ。
俺の何が正常じゃないって? 心当たりがあり過ぎて困るわ!

「とりあえず、質問には答えておこうかな。って言っても簡単な話だよ、わたしは雪乃ちゃんのことを信じてるだけ。雪乃ちゃんの判断は、できる限り尊重したいからね」
「いやでも、だからといって、俺をけしかける理由にはならないでしょう?」
「それはまた別の話だよ。初めて会った時言わなかったっけ? 雪乃ちゃんが誰かと一緒にお出かけしてるのなんて初めて見たんだもん。どうあれ雪乃ちゃんが傍にいることを許容している相手なら、信じるに値するよ?」
「あれは、由比ヶ浜の為にプレゼントを買うっていう目的があったからそうしてただけですよ」
「それでも、君を相談の相手に選んだのは事実でしょう?」
「紆余曲折色々あってというか、苦肉の策ってのが事実に近いと思いますよ。そんな甘いもんじゃないですって」
「ホントに捻くれてるねー。君らしいといえばそうなんだけど。まぁ今はそれでもいいよ、今はね」

243: 2013/06/27(木) 00:56:58.06 ID:M0nLcqb50
 くすくすと忍び笑いしながら俺を見る陽乃さん。
何だかこう、その全てお見通しと言わんばかりの目で見られていると、落ち着かないことこの上ない。
実際この人は、俺のことをどこまで見透かしていて、どこまで先を読んでいるんだろう?
今日だって、一体何を狙って俺を呼んだのか、まだ全然見えてこないのだ。

 考えればドツボにはまりそうだし、かといって思考を放棄すれば、陽乃さんの思い通りにされてしまうのだから堪らない。
どうしたって、俺にとって望ましい形で白黒をつけてはくれないのである。
もうそろそろ解放してくれたら嬉しいんだけどなぁ。
そんなことを考えていると、陽乃さんがちらと腕時計に目をやって、満足げに頷く。

244: 2013/06/27(木) 01:05:08.80 ID:M0nLcqb50
「さてと、さすが時間通りだね」
「はい? 何の話です?」
「う・し・ろ」

 俺の後方を指差しながらの、陽乃さんの、恐らく今日一番の嬉しそうな表情。
頬は僅かに朱に染まり、名の如く春の陽光を思わせる、穏やかで温かな微笑み。
悔しいけれど、どうしたって心惹かれてしまう、本当に美しい笑顔だった。

 だが幸か不幸か、俺にはその蕩けるような笑みに見惚れる時間が与えられることはなかった。
静かな、けれど心によく響く足音が聞こえる。

「随分と、楽しい時間を過ごしていたようね」

245: 2013/06/27(木) 01:09:17.08 ID:M0nLcqb50
キリのいいところでというか、いいところで切ったというか。
さておき今回はここまでです。
続きはまた週末くらいには上げられるかな、と。
一体誰が登場したのかは、それまで暫しお待ちをw

しかし正直この話書いてて、ヒッキーが一番可愛かったような気がする。
年上の綺麗なお姉さんに良いようにからかわれる男の子っていいよね。

246: 2013/06/27(木) 01:14:10.97 ID:M0nLcqb50
失礼しました、ちょっと見直して気付いた……
>>234 は、冒頭に下の会話文入ります。脳内補完で読んでやってください。

「だから、どうして俺なんかにそこまでこだわるんですか? 正直こう言っちゃうのも悲しいですけど、自分の大切な妹に俺みたいな男が近づこうとしてたら、普通排除しようとしません?」
「その発想も割と普通じゃないと思うけど」
「少なくとも俺なら、小町にそういう男が近づいてきたら排除しますよ、多分」
「いやー、シスコンの鑑だねぇ、さすがさすが」

251: 2013/06/29(土) 17:33:41.83 ID:DC09rvNV0
やっはろー。
見てもらえて感謝です。
ヒッキーのヒロイン力は異常ww
これからも輝きを放ってもらう予定ですので。

で、業務連絡的な。
今夜には続き上げる予定ですー。
もうちょっとだけお待ちを。

257: 2013/06/29(土) 22:00:48.08 ID:DC09rvNV0
「随分と、楽しい時間を過ごしていたようね」

 瞬間、背中に氷柱を突っ込まれたような感覚が、俺の脊髄を落雷のように突き抜けた。
冴え冴えとして冷え冷えとした、正しく極寒の真冬を思わせる凍てつくような声音。
囁きにも近いはずのその言葉はしかし、確かな重さをもって俺の身体に浸透して行く。
こ、この声は……!

258: 2013/06/29(土) 22:07:09.54 ID:DC09rvNV0
 ぎぎぎと音が聞こえてきそうな程の、それこそ油の切れたブリキ人形のようなぎこちない動きで、ゆっくりと振り返る。
秋色のカーディガンとチェック柄のストールが、まず目に飛び込んできた。
季節を感じさせる上品な色合いをした装いに、しかし感嘆する暇などあるわけもなく。
恐る恐る視線を上げていくと――見慣れた感のある組まれた腕、流れるようにさらさらのストレートな黒髪、少し上げられた細い顎、そして厳しく細められたものっそい冷たい目。

 見紛うことなく雪ノ下雪乃さんその人でした。
会って早々、何かもうこれ以上ないってくらいに俺を見下してきています。えぇマジで。

 というか、今まで見たことない程に機嫌悪いんですけど。
この睨み、熊でもビビって後退りしそうな気がするぞ。
いやホントやばいよこれ、下手したら石化するよ俺。鏡の盾はどこにあるの?
秋も深まってきたような季節だというのに、背中を流れる嫌な汗が止まらない。

259: 2013/06/29(土) 22:14:36.11 ID:DC09rvNV0
「やっはろー、雪乃ちゃん、来てくれたんだぁ」
「呼んだのは姉さんでしょう。それより、これはどういうこと?」

 これ、のタイミングで俺を指差す雪ノ下。
視線は変わらず冷徹無比。
発する声は絶対零度。
想起させるは根源的恐怖。

260: 2013/06/29(土) 22:29:57.45 ID:DC09rvNV0
 並みの人間では、この空気の中で下手な発言などできないだろう。
実際もう、さっきまで陽乃さんに熱い視線を送っていた男たちの気配もなくなってしまっていた。
危険を察知して逃げたか、我関せずと意識を逸らしているか。
興味はあれど、生存本能には逆らえないのだろう。
その気持ちは痛いほど分かる。俺だって同じ立場なら速攻で逃げるし。

 だが、雪ノ下と今相対しているのは並みの人間ではないわけで。
陽乃さんはというと、俺と雪ノ下を交互に見やりながら、向けられる氷点下の視線を涼しげに流しつつ、変わらずにこにこ笑っていた。
動揺の色など微塵もなく、むしろ楽しそうに言葉を返している。

261: 2013/06/29(土) 22:37:44.12 ID:DC09rvNV0
「んー? ちょっとねぇ、色々お話しよっかなーって思って、来てもらったんだよ」
「この男に関わると碌なことがないから止めなさい、と何度も言っているでしょう。経歴に傷がつくのは姉さんの方なのよ?」
「あはっ、心配してくれるの? でも大丈夫、この程度じゃあスキャンダルにもならないから」
「そういう問題じゃないわ、この程度の男に関わること自体がマイナスだと言っているの。大体知的レベルが月と微塵子程も差のある姉さんが、比企谷くんなんかと何を話すことがあるのよ」

 この程度とかなんかとか、いちいち暴言吐かれてるけど、今は気にもならなかった。
迂闊に口を挟めば、こちらに口撃の矛先を向けられてしまうだろうし。
苛立ちを露にしている今の雪ノ下に声を掛けられるような度胸なんて、俺にあるわけもないのだ。

 だから問題はそこではない。
問題は、びりびりと気圧されている俺を見てにやにやと笑う陽乃さんが、むしろここから更に燃料を投下しようとしている風にしか見えないことなのだ。
間違いない、この人は更に追い詰める気だ……俺を。

262: 2013/06/29(土) 22:46:05.70 ID:DC09rvNV0
「んふふ、気になる? ねぇ、気になるの? わたしと比企谷くんが、雪乃ちゃんのいない所で、二人きりで、仲良くテーブル挟んでお昼しながら何を話してたか」
「何を馬鹿なことを言っているのかしら。どうして私がそんなことを気にしなくてはならないの?」
「もう、そんなに苛々しないで、ね?」
「苛々などしていないわ、言いがかりは止めて頂戴」

 煽ってる煽ってるよ、陽乃さんてば。
お願いもう止めて、どうせ雪ノ下の怒りは回り回って俺の所に来ることになるんだから。
ほら、見るからに雪ノ下の機嫌がどんどん悪くなっていってるし。
指は苛立たしげにとんとんと自分の腕を叩いていて、表情は苦虫を噛み潰したような感じで。
まるで噴火直前の活火山を見ている気分だ。これ以上の刺激は下手したら生氏に関わるぞ――俺の。

263: 2013/06/29(土) 22:54:43.05 ID:DC09rvNV0
 と、陽乃さんが、俺の懇願の視線に気付いたらしい。
ぱちくりと一度瞬きして、花咲くように微笑む。
その顔を見て瞬時に理解した。
この人は俺の真意を読み取って――期待の逆方向に答える気だ。

「今日はね、比企谷くんとちょっと二人のお付き合いの状況について話をしてたんだよ」
「って違うでしょ! そんな話全然してなかったじゃないですか!」
「黙りなさい比企谷くん、あなたに発言を認めた記憶はないわ。この期に及んで言い訳だなんて見苦しいと思わないの? 恥を知りなさい。そもそも何? 鼻の下をスカイツリーのように伸ばして、さぞご機嫌だったのでしょうね、汚らわしい」

265: 2013/06/29(土) 23:07:16.55 ID:DC09rvNV0
 怖ぇ! だから怖いって、そんな睨まなくてもいいだろ。
視線は鋭いし、声は尖ってるし、空気は重いし、おまけに言葉もいつもの五割増しで毒が効いてるし。
一体、今日の俺のどこにそんな落ち度があったってんだよ……終いにゃ泣くぞ。
正確には姉妹に泣かされてるんだけど。上手いこと言ってる場合か、俺?

 あと鼻の下なんて伸ばしてないから。お前の眼は節穴か。
陽乃さん相手に、そんな展開あり得るわけないだろうが。
つーかスカイツリーって、俺の顔ってお前の目にどんな造形してるように映ってるんだよ。

 そんなギスギスした空間で、俺たちのやり取りを眺めている陽乃さんだけが本当にご機嫌だった。
真に理不尽にも。

266: 2013/06/29(土) 23:15:42.03 ID:DC09rvNV0
「ふふ、嫉妬しちゃって、可愛いんだから、雪乃ちゃんてば」
「っ! その妄言を今すぐ撤回しなさい姉さん。誰が何をしているですって?」
「大丈夫大丈夫、お付き合いのお話って言っても、わたしと比企谷くんのことじゃなくて、雪乃ちゃんと比企谷くんのことだから。安心した?」
「冗談でしょう、むしろ鳥肌が立つわ。いえ、屈辱に身を震わせるべきかしら」

 だから何で俺を睨むんですか雪ノ下さん。
その握り締めた拳はなんですか雪ノ下さん。
そんな戦々恐々といった体の俺を見て満足したように、陽乃さんが一つ頷く。

267: 2013/06/29(土) 23:25:28.69 ID:DC09rvNV0
「うん、それじゃあ十分楽しんだし、わたしはこれで退散しようかな」
「待ちなさい姉さん、話は終わっていないわ。というか、そもそも何か渡す物があると言って私を呼び出したのでしょう?」
「うん、だから、これ」
「これ?」

 二人して、俺を指差しながら自然な感じでこれ扱いである。
かくも丁重な扱いを受けるのは生まれて初めてで俺は少し落ち込んだ。
せめてこいつとかさぁ、同じ代名詞でも色々あるだろ。全くもって人称代名詞の立場がないじゃん。
さめざめと涙を流さんばかりの俺に、しかし二人は気付いてくれない。

268: 2013/06/29(土) 23:34:04.91 ID:DC09rvNV0
「比企谷くんは雪乃ちゃんのだからね、わたしが手を出したりはしないよ、安心して」
「むしろその誤解に不安になるわ、何度も言うけど私は――」
「だって、先に雪乃ちゃんが出会っちゃったんだもんね」

 言いかけた雪ノ下の言葉に、敢えて被せて話す陽乃さん。
瞬間、先程までとは何かが変わったような、そんな感覚があった。
彼女の笑顔は全く変わっていないし、その声だって変わらず穏やかさに満ちている。
さながら菩薩の如きその外面……では、その内面は?
雪ノ下もそして、その何かを察したのだろう――恐らく無意識に、一歩後ずさる。

269: 2013/06/29(土) 23:43:57.34 ID:DC09rvNV0
「な、何の話?」
「ん? 比企谷くんに出会ったのは雪乃ちゃんが先だったでしょ? それはわたしが勝手に手を出すわけにはいかないじゃない」
「だから何を言っているの? 姉さん、意味が分からないわ」
「そんな難しい事言ってるかなぁ? さっきも言ったけど、わたしと比企谷くんがこの先どうこうなることは多分ないよ? でも、出会いが少し違ってたらどうだったかなーって、ちょっと思っただけ」

 何でもないことのように、世間話のように。
淡々と、朗々と、陽乃さんは言葉を続けている。

 けれどその姿が。
穏やかに朗らかに、明るく優しげなその笑顔が。
俺たちから言葉を、思考を奪う。
既に周囲の空気さえ一変してしまっていた。

270: 2013/06/29(土) 23:52:06.13 ID:DC09rvNV0
「ま、仮定の話なんて大して意味も無いんだけど。でも、もし比企谷くんがわたしと先に出会ってたら、わたしを先に知っていたら――もしかしたら、わたしの隣が比企谷くんの居場所になってたかもね。だってこーんな楽しい男の子、きっと手放さなかったと思うし。あ、もしかしたらちゃんと矯正もできてて、今頃凄く綺麗な目になってたりして。ふふ……」

 心底愉快そうな陽乃さんに対して、雪ノ下は気圧されたように固まってしまっている。
何かを言おうとして、けれど言葉にすることができず、結局黙り込んでしまう。
ついさっきまでの冷たい空気が、実は春の陽気だったのではないかと思うほどに、今の二人の間の空気は冷たく凍てついている。
むしろ、聞こえてくる明るい声音こそが違和感に満ちていた。

「わたしも奉仕部の部長やってみたかったなー、いろんなイベントがあったんでしょ? きっと色々楽しかっただろうし、素敵な思い出もたくさんできたと思うし。うん、雪乃ちゃん羨ましい」

271: 2013/06/30(日) 00:00:29.78 ID:ChvAzoBW0
 その言葉は。その真意は。
傍で聞いてるだけの俺にさえ、よく伝わってきた。
それは他でもない、雪ノ下へのあまりに露骨な挑発だ。

 すなわち――自分がその立場なら、きっともっと上手くやれている、と。
先に見つけたから、順番として譲ってあげているだけだ、と。
その居場所は、自分が関わっていなかったから手に入れられただけなのだ、と。
それこそ、反論があるなら言ってみれば、とさえ聞こえてしまう。
俺の耳ってば、いつの間にそんな高度なフィルター搭載してたの? それ何訳コンニャク? 未来デパートって意外と近くにあるの?

272: 2013/06/30(日) 00:07:12.82 ID:ChvAzoBW0
「……」
「ふふ、じゃあお邪魔虫になっちゃうのも何だし、お姉ちゃんはここでさよならするね」

 そして、そんな陽乃さんからのあからさまな挑発に対して、雪ノ下は無言だった。
言葉も無く、動きも無い。見えないけれど、きっと表情も。
それこそまるで、滾る熱気に思い切り冷や水を浴びせられたかのように。

 それを確認してから、変わらぬ笑顔のまま、流れるような動きですくっと立ち上がる陽乃さん。
鞄を手にとって、立ち尽くしている雪ノ下に一瞥をくれる。

273: 2013/06/30(日) 00:16:34.54 ID:ChvAzoBW0
 って、本当にこんな状況で立ち去るの? 散々自分の妹をボコっておいて? あなたマジで鬼ですか?
思わず立ち上がりかけたところで、しかしその動きを制するように、陽乃さんがこちらに視線を寄越してきた。
睨まれた訳でもないのに、思わず息を呑み、俺も動きを止めてしまう。
陽乃さんはやはり、俺に対してもにっこりと微笑んで見せる。

「それじゃあ比企谷くん、あとよろしく、ね」

 良い笑顔でそう言うと、手を振りながらカウンターの方へと歩いていった。
いつもと変わらず堂々とした振る舞いで、颯爽と。
一度として振り返ることなく、本当に全て、俺に丸投げで。
陽乃さんの姿が見えなくなるまで、俺も雪ノ下も、全く動けないままだった。

274: 2013/06/30(日) 00:26:36.29 ID:ChvAzoBW0
「……」
「……とりあえず、座ったらどうだ?」

 少しして気を取り直し、無言で立ち尽くしていた雪ノ下に声を掛ける。
口撃の矛先がこちらに向かってくることも想定していたけれど、さっきまでの怒気はどこへやら、黙ったまま大人しく席に腰を下ろす雪ノ下。
素直すぎて逆に怖い。
そうして二人の間に沈黙がおちる。
き、気まずい。

275: 2013/06/30(日) 00:46:12.33 ID:ChvAzoBW0
「あー、その、何か飲むか?」
「……いいえ、必要ないわ」
「そうか、なら仕方ないな」

 短いやり取り。
返事はあったものの、その声に抑揚は無く、どうにも会話が続け難い。
また重い空気が広がってしまう。

 追加注文でもできれば、ちょっとはこの空気を変えられたかもだけど、それも拒否られた今、俺に打てる手はない。
さてどうしたものかと考えていると、雪ノ下が小さくため息を吐くのが見えた。
視線を向けると、ぱっと見では普段と変わらぬ冷静な眼差しとぶつかる。

276: 2013/06/30(日) 00:52:43.97 ID:ChvAzoBW0
「それで、実際のところはどうなの?」
「実際のところって?」
「どうして姉さんと二人きりで会っていたのかと聞いてるのよ、言われなくても察しなさい。前後の文脈からこの程度のことすら類推できないなんて、それで本当に国語の成績が良いの?」
「前段だけで良いだろ、それ――まぁとにかく今日のことなら、小町をダシに使われて呼び出されたってだけだよ」
「呆れた。あなた本当にどうしようもないわね、それじゃ小町さんの名を騙られたら簡単に詐欺に遭うわよ」
「小町の声を俺が聞き違えることはあり得ないから大丈夫だ」

 そんな俺の言葉に、そう、と気の無い返事を寄越す雪ノ下。
表面上は普段通りのやり取りにも思える会話。
相変わらず読めない表情と、冷静な声と。

277: 2013/06/30(日) 00:59:38.89 ID:ChvAzoBW0
 だけど、違う。
こんな感情が抜け落ちたような、気の抜けた炭酸のようなやつじゃないのだ、俺の知る雪ノ下雪乃という女は。
最後の台詞のようなあからさまな突っ込み所を見逃すなんて、普段のこいつならあり得ない。
いつもならきっと、それこそ嬉々として罵ってきたはずだ。見下げ果てたシスコンとか何とか。
その前の罵倒だって、今一つキレがなかったし。

 あれ? 何それ、俺ってばもしかして物足りなさとか感じてんの? 今のやり取りで?
うわぁ――まさかの仮説に俺の方まで落ち込みそうだ。
何に目覚めようとしてるんだよ、俺。
そうして俺が少し凹んでいると、雪ノ下が少し躊躇いがちに口を開いた。

278: 2013/06/30(日) 01:07:29.79 ID:ChvAzoBW0
「……姉さんの、言う通りかもしれないわね」
「は? お前何言ってんの?」
「姉さんはいつだって、私より優れていた。奉仕部で関わってきた事柄も、それこそ姉さんならもっと綺麗に上手く解決できていたはずよ。あなたのことだって、きっと……」
「そんなの言い出したら切りが無いだろ。そもそも現実そうなってないんだから、そんな仮定なんて無意味だよ。奉仕部の部長はお前だし、事態の解決に尽力してきたのもお前だ。誰もそれを否定はできねぇよ」
「そうね、もう否定も変更もしようがないわ。でも、だからこそ考えてしまうのよ。もし私ではなく姉さんだったら――って」

 視線を落としながら、囁くような声音で話す雪ノ下。
あー、駄目だこれは。厄介な負のスパイラルに入り込んでやがる。
あの雪ノ下がこんなにも振り回されるとは、さすが陽乃さんと言うべきなのか……いや言いたくないけど。
実際さっきも、執拗に揺さぶって平静を奪いつつ、期を見て予測できない角度から一撃とか、雪ノ下を知り尽くしているが故のやり方だと思う。
しかし、本当にこいつの姉への憧れというのかコンプレックスというのか、その根は深いんだなと改めて思わずにはおれない。

279: 2013/06/30(日) 01:16:03.24 ID:ChvAzoBW0
 一体何度その高い壁に挑んで、そして何度跳ね返されてきたのか――今までの話から考えて、その回数はきっと数えるのも馬鹿らしいほどに多く。
そして同時に、越えられたことは、一度としてないのだろう。
だから今も、こんなに心揺らされてしまっているのか。
あり得ない前提に、しかしあり得た場合の未来を想像してしまって。

 俺は、雪ノ下の家庭の問題も、これまでどういう経験をしてきたのかも、何も知らない。
そんな俺が、こいつの抱えているものについて何かを言う事はできない。
白々しい慰めなど罵倒の言葉よりも腹立たしいことを、俺は経験で良く知っている。
故にこそ、そういう言葉なんて、間違っても口にはできない。

280: 2013/06/30(日) 01:22:48.70 ID:ChvAzoBW0
 だけど。いや、だからか?
今の俺に言えることはある。
他でもない、今ここにいる俺だけが言えることが。

 陽乃さんの別れ際の言葉が脳裏を過ぎる。
本当にあの人は苦手だ。
きっとこれが、これを俺に言わせることが、その選択をさせることが、あの人の今日の狙いだったんだろう。

 それを理解しながら、その思い通りにやりたくないって反発すら覚えていながら、でも。
俺はそれに抗うことができない。
そしてきっと、あの人はそこまで見抜いてしまっている――だからこそ、笑顔で俺によろしくと言って去っていったのだ。
あぁ本当に、益々もって腹立たしい。

281: 2013/06/30(日) 01:32:12.57 ID:ChvAzoBW0
「なぁ、無意味な仮定かもしれないけど、それでも敢えて仮定したとしてさ」
「何よ、いきなり。言語中枢でも壊れたの?」
「壊れてねぇよ。さっきの話に突っ込みを入れたいだけだよ。でだ、もし俺が陽乃さんに先に会ってたとしたらって話だったけど、その時は事態は今よりややこしくなってたぞ、間違いなく」
「……変な気の回し方は止めて頂戴、不愉快だわ」

 瞬間、ぎろりと俺を睥睨してくる雪ノ下。
普段より一段低い声に気圧されそうになるが、ぐっと堪える。
今更この程度でびびってられるかっての。
むしろ開き直ってやろうじゃねぇか。

282: 2013/06/30(日) 01:41:32.43 ID:ChvAzoBW0
「お前相手に気なんざ回すか、それならコマでも回してた方がよっぽど捗るわ。じゃなくて純粋な推察だよ。だって俺は、あの人のことを信用なんてできなかっただろうからな、お前と違って」
「――どうして? 身内贔屓になるけれど、あの人のことを疑うような人間なんて滅多にいないわ」
「生憎こちとら普通じゃなくてな。何しろ猜疑心の塊だぞ、俺は。綺麗な人が綺麗な言葉を口にしてるとか、そんなの疑えって言ってるようなもんじゃねぇか。ならきっと、どんな言葉をかけられたって俺はその裏を読もうとしてただろうし、そんな俺をあの人は見逃しちゃくれないだろ、叩きのめされてトラウマを一つ増やしてぼっち街道まっしぐらだよ。引きこもりにクラスチェンジだってあり得る」
「自分の惨めな敗北を、どうしてそんなに誇らしげに語れるのよ……」

 はっきりと言い切った俺を見て、額に手を当てて呆れたようなため息を零す雪ノ下。
心外な反応だな、これってむしろ俺は素直に負けを認められる潔い男だって話で、褒められてもいいくらいなんじゃないか?
だから、その虫を見るような目は止めてくれると割と喜ばしい。
まぁそれはさておき、だ。

283: 2013/06/30(日) 01:47:23.01 ID:ChvAzoBW0
「まぁ陽乃さんなら、もしかしたら無理やりにでも俺を更生っつーか矯正っつーか、そういうのもできたのかもしれないし、そうしたら俺の学校生活も変わってたのかもしれねぇよ。だけど、それは俺のこれまで歩いてきた道の全否定が前提だろ、そんなの絶対に御免だね」
「でも、更生できたら今よりもう少しはマシな人生を送れるのに」
「過去の自分を否定して、今の自分から目を逸らして、そこまでしてようやく手に入るような未来なんて、そんなのもう俺じゃねぇよ。欺瞞にも程があるわ」
「……相変わらず捻くれてるわね。良い人生を送りたいと思わないの?」
「前も言ったろ、こんなでも、俺は自分のことが嫌いじゃないんでね。結局大切なのは良いか悪いかじゃないんだよ、望むか望まざるかだ。押しつけられた幸せなんて不幸にも劣るわ。誰に何と言われようが、俺は今がいい。仮にもう一度選べるとしたって、先に出会うなら、俺は雪ノ下の方がいいよ」

 そもそも、俺は本当に陽乃さんのことが苦手なのだ。
後先の問題じゃないんだよ、人柄とか能力の問題ですらないんだよ。
あの人の暴力的なまでの眩い輝きは、俺にとっては薬を超えて毒にしかならない。
そういう意味でも、最初に雪ノ下雪乃に出会えたのは僥倖だったと心から思える。

284: 2013/06/30(日) 01:57:12.85 ID:ChvAzoBW0
「……」
「? どうした? まだ何かあるのか? 苦情なら勘弁してくれよ、もう陽乃さんの相手で満身創痍なんだから」

 ふと黙り込んでしまう雪ノ下。
とりあえず怒っているわけではなさそうだけど、何かを考え込んでいるみたいだ。
正直本当に疲れてるんで、これ以上の罵詈雑言のお相手とかは勘弁してほしいんだけど。
背もたれに体重をかけながら待つこと暫し、雪ノ下がゆっくりと視線を上げる。

285: 2013/06/30(日) 02:02:05.12 ID:ChvAzoBW0
「“雪ノ下”じゃ、どちらか分からないわね」
「いや、それこそ文脈から読み取れよ、学年一位さん」
「何を言っているの? 重要な部分よ、そこをはっきりしないなら、出題側の方にこそ問題があると思うわ」

 すっと目を細めて俺を見やる雪ノ下。
ややこしい奴だな、いちいち屁理屈こねやがって……って、ちょっと待て。
まさかそれ、俺に名前呼びをしろって言ってるのか?
冗談じゃねぇ、あんな恥ずかしい真似、何度もできるかよ――と言いたいところではあるけれど。

286: 2013/06/30(日) 02:08:36.39 ID:ChvAzoBW0
 俺に向けられた雪ノ下の透明な眼差し。
その目にも、表情にも、今は何の感情も窺えない。
けれどそれが、あるいは俺の言葉でどちらかに振れるかもしれない――そう思ってしまうと、もう駄目だった。

 ここでもし仮に、万が一にも、負の方向へその針を傾けてしまったら。
そう考えるだけで嫌だった。
何故かは分からないけれど、まだ俺には分からないけれど、でもそれは嫌だと思った。

 だったらもう、俺が恥をかいて無様に罵倒された方が余程マシというものだ。
何、さっき陽乃さんにあれだけおちょくられたことを思えば、その程度は可愛いもんだろう。

287: 2013/06/30(日) 02:23:30.71 ID:ChvAzoBW0
「だから――」

 だから、言ってやろう。
言った結果どうなろうが、もういい。
そもそも本当にこいつが望んでいる言葉かどうかも分からないけど、はっきりと口にしてやる。
要するに、俺は――

「俺は、雪乃がいいって言ってんの」

290: 2013/06/30(日) 02:33:47.93 ID:ChvAzoBW0
 雪ノ下が、その瞬間目を丸くした。
口も微かに開いて、どこか茫然としたような顔。

 おぉ、何かレアな表情だなーと思ったのは一瞬。
今、自分が何を言ったのかを、遅れて俺の脳が理解して。
全身が総毛立ってしまった。

 何言ってんだ何言ってんだ俺。
いや動揺してたにしろ言葉省略し過ぎだよ。
思い切り良過ぎっつーかもっと言い方ってもんがうあー!
これはやばい、マジでやばい、こんな言い方したら雪ノ下に何を言われるか――

291: 2013/06/30(日) 02:39:32.02 ID:ChvAzoBW0
「ま、待て雪ノ下。怒る前にちょっと俺の話を聞いてくれ。お叱りの言葉は後で聞くから、だからまずは言い訳をさせてほしいと言うか――」
「ふふ……」

 ばたばたと手を振る俺を余所に、雪ノ下は怒るどころか――微笑んでいた。
目を閉じて、言葉を噛み締めるようにしながら、小さくささやかに笑い声を零す。
思わずぽかんとしてしまう俺の視線の先で、雪ノ下は楽しそうに笑っている。
何これ? 何だこの構図?

292: 2013/06/30(日) 02:44:31.07 ID:ChvAzoBW0
「えっと、雪ノ下?」
「別に、雪乃で構わないわよ?」
「いや、それはもう勘弁してくれ……」
「だらしない男ね、名前を呼ぶ程度のことで。まぁそれもあなたらしいと言えばあなたらしいけど」
「放っとけ」

 溜め息と共に駄目出しされてしまった。
しかし何というか、思ったより毒が薄いな。
それこそあんな言い方しただけに、氏ぬほど罵倒されることも覚悟してたんだけど。
意外というのか案外というのか。

293: 2013/06/30(日) 02:50:11.23 ID:ChvAzoBW0
 ただとりあえず、不正解の選択肢を選ばずに済んだことだけは間違いなさそうで。
俺もようやく安堵の息を吐く。
果たして自分が何に安堵したのかは、今はまだ良く分からないけれど。

「ったく、さっきまであんなにしおらしかったのに、何かご機嫌だな」
「そうね、否定はしないわ。相手はあなただし内容は些細なことだけれど、それでも姉さんよりも上だって言われるのは悪い気はしないもの。まぁ本当に些細なことだけど」
「些細なことって連呼すんな、一度言えば分かるわ」
「どうかしら、あなたの脳の容量では少し怪しいけれど」
「何で俺の脳みその容量をお前が語ってんだよ」

294: 2013/06/30(日) 02:57:48.78 ID:ChvAzoBW0
 あぁ、いつも通りのやり取りが戻ってきたって感じがする。
ようやく再起動した気分だ。
Windows Meでもあるまいに、立ち直るのに時間かかり過ぎだっての。正直あれこそ2000年問題だったよね。
まぁとにかく、今はこれでいい。
こんな些細な言い合いが、何だかとても心地良かった。

 一頻り言い合って満足したのか、雪ノ下が、さて、と少し気合いを入れて立ち上がった。
座ったままそれを見上げている俺。
が、何がお気に召さないのか、雪ノ下は腕を組みつつ、またしても冷厳な目で俺を見下してくる。
こいつホントこのポーズ似合うよな。

295: 2013/06/30(日) 03:05:11.17 ID:ChvAzoBW0
「何をしているの、行くわよ?」
「行くってどこにだよ」
「買い物よ。本当は姉さんと行く予定だったのだけど、いなくなってしまったし、あなたが代わりに来なさい」
「いや、別に一人で行けばいいんじゃねぇの?」
「……初めてのお店で、道がよく分からないのよ」
「それ、初めてってのが理由じゃないだろ、お前の場合」

 明後日の方向を見ながら、何か言い訳がましい言葉を口にする雪ノ下に、とりあえず突っ込みを入れておく。
生粋の方向音痴のくせに見栄をはるな、見栄を。
と、俺の言葉にかちんときたのか、雪ノ下の表情にまたしても怒りの色が滲んでくるのが見えた。
これ以上怒らせるのは非常によろしくないと瞬時に判断して、俺も慌てて発つ準備をする。

296: 2013/06/30(日) 03:11:58.70 ID:ChvAzoBW0
「分かった分かった、お供しますよさせて頂きますよ、とりあえずテーブルの上を片付けるからちょっと待ってくれ」
「不器用なあなたが片付けるより、お店の人に任せた方がスムーズよ、ほら」
「お? いや、ちょ……」

 テーブルの上のゴミや食器を片付けようとしていた俺の、その腕を。
痺れを切らしたかのように、雪ノ下がそっと掴んでくる。
手を伸ばす直前、一瞬だけ躊躇したみたいだけれど――それでも、迷いを振り切るようにしっかりと。
細く綺麗な指が、確かに俺の腕を捉えている。

297: 2013/06/30(日) 03:18:56.43 ID:ChvAzoBW0
 そうして掴んでしまってからは、雪ノ下の動きは早かった。
気付けば俺は立ち上がらされていて、促されるままに歩いている。
何これ? ドナドナか何か? 俺ってばいつの間に売られていく子牛になってんの?
そんな馬鹿なことを考える程度には、俺も混乱していたらしい。

 周囲の嫉妬の視線も好奇の視線も変わらず注がれているのに、それが全く気にならない。
ただ雪ノ下に掴まれている腕にばかり、意識が集中してしまう。

 雪ノ下の指は、しっかりと俺の腕を掴んでいる。
とても柔らかく、きっと優しく。
服越しでも、その温もりがじんわりと伝わってきて。
そのことを自覚して、心臓の鼓動が速まったような気がした

298: 2013/06/30(日) 03:23:54.61 ID:ChvAzoBW0
「さぁ行きましょう」

 店を出た所で、ぱっと手を離す雪ノ下。
思わず、掴まれていた部分をじっと見てしまう。

 安心したような、勿体ないような、そんな不思議な感覚も一瞬のこと。
気を取り直して、並んで歩き始める。
道案内は、まぁ俺がしないといけないんだろう。
歩きながら雪ノ下から店内地図を受け取り、開いて位置を確認する。

299: 2013/06/30(日) 03:30:10.00 ID:ChvAzoBW0
「で、どこ行きたいんだ?」
「この食器のお店よ」
「はー、食器ねぇ。皿でも割ったのか?」
「あなたと一緒にしないでほしいわね」
「おい待て、皿くらい誰だって割るだろ」
「普通の人は、故意に割ったりはしないわ」
「俺だって故意に割ったことなんかねぇよ、お前家での俺を何だと思ってやがる」
「内弁慶でしょう?」
「馬鹿言え、内でも地蔵だよ。小町にも両親にも、何ならカマクラにも逆らえないレベルだからな」
「あなたそれ、生きてて楽しいの?」
「あぁ楽しいね、これ以上楽しい人生があるかちくしょう」

300: 2013/06/30(日) 03:37:32.39 ID:ChvAzoBW0
 いつもと同じようなやり取り。
いつものような暴言。
けれど何となく、二人の間の距離が近い気がして。
そしてそれを悪くないと思う自分が、少しだけ不思議だった。

 まぁたまには、こういう休日も悪くないか。
帰ってから、小町に何を追及されるか分からないのが、ちょっと不安ではあるけれど。

 しかし今日のこれ、陽乃さんはともかく、小町はどこまで予想してたんだろうな? ポイントも高いんだか低いんだか。
とりあえずご機嫌取りも兼ねて、お土産の一つでも買って帰った方が良さそうだ。
そんなことを思いつつ、雪ノ下と二人でゆっくりと歩いていた。

332: 2013/07/15(月) 21:56:53.86 ID:9XZaaUq/0
④ 当然ながら、雪ノ下雪乃は大抵のことをこなせるものと思われている


 一仕事を終えた後、放課後の廊下をいつものように一人歩く。
元より特別棟へ続くこの道で、人と出くわすこと自体が稀ではあるが。
何にしても、静かなのは好ましいことだ。
俺の周りで見せつけるように充実っぷりを撒き散らすような奴がいないというのは、それだけで心の安息が得られる。

 ちらりと窓の外へと視線を向けると、灰色の景色が広がっていた。
昼休み頃から降り始めた雨は、今や完全に本降りとなっており、まだまだ止む気配を見せていない。
部活が終わって帰る頃に止んでればいいけど……期待薄かな。

333: 2013/07/15(月) 22:01:11.00 ID:9XZaaUq/0
「お疲れー」

 扉を開けて、声をかけつつ部室に入る。
俺の声に反応して、いつも通り既に席に腰を落ち着けて文庫本を開いていた雪ノ下が、すっと顔をあげてこちらへ視線を向けてきた。

 相も変わらず整い過ぎている程に整っている凛とした顔立ちは、曇天の空を背景にしても些かの陰りも見られない。
姉である陽乃さんのような華やかさや明るさを感じさせるものではないけれど、どこか儚さを滲ませる穏やかな美しさはさながら細氷のようで、やはり否応なく人の心を惹きつける。

 こいつを見ていると、美人は三日で飽きるという言葉は、ただの嫉みからの戯言なんだろうなと思う。
ともすれば無愛想と捉えられかねない無表情も、雪ノ下がすれば神秘的と受け取らずにはおれないのだから、神の施した不平等を嘆きたくもなるというものだ。
目に映るのは、いつも通りの透明で涼やかな表情。

334: 2013/07/15(月) 22:05:15.91 ID:9XZaaUq/0
「遅かったわね、比企谷くん。どこに寄り道していたのかしら?」
「別に寄り道してたわけじゃねぇよ」
「あら? それにしては授業が終わってから随分時間が経っているわよ。あなた亀より歩みが遅かったの? それともまさか、雨に濡れると力が出なくなるとでも?」
「んなわけあるか、平塚先生に呼ばれてたんだよ」

 そしてその毒舌もまた、晴れていようが雨が降ろうが変わらない。
全く、ちょっと来るのが遅れただけでこれだよ。

 つーか何? 水に濡れただけで力無くすなら、水泳とか絶対溺れるじゃん。
俺を何パンマンだと思ってんの?
そんな俺のジト目を意にも介さず、雪ノ下は小さく一つ頷く。

335: 2013/07/15(月) 22:14:54.61 ID:9XZaaUq/0
「そう、平塚先生に。それで今度は何をやらかしたの?」
「おい何勝手に納得してんだよ、何かやらかしたことを前提にするなっての、今日は違うぞ」
「今日は、という言い方をするあたり、自覚があるんじゃない」
「ぐぬ……」

 ふっと鼻で笑われた。
くそっ、何だよその勝ち誇った表情は。
とりあえず、ここは話を戻しておくか。

336: 2013/07/15(月) 22:21:22.97 ID:9XZaaUq/0
「とにかく今日は、単に先生の作業の手伝いに駆り出されただけだよ。提出物運ぶのとか資料の整理とか。ったく俺を何だと思ってんだか」
「いつものことでしょう。それにしても、あなた本当に雑務という肩書きが似合うわね」
「やめろ、おいマジでやめてくれ、そういうの地味にくるんだよ」
「えぇ知ってるわ、だから言ったのよ」
「ホントお前鬼だな」
「あら、こんなに美しい鬼なんているものかしら?」

 さらっと髪をかき上げながら、雪ノ下がしれっとそんな言葉を口にした。
何かこの前聞いたような台詞だった。つーか陽乃さんと同じこと言ってやがるし。
げに血の繋がりというものは馬鹿にできないと思う。
こんなこと言ったらまた怒られそうだから黙っとくけど。

337: 2013/07/15(月) 22:28:52.23 ID:9XZaaUq/0
「立ち話もなんだし、座ったら?」
「お、おぅ」

 すっと視線で自分の斜向かいの席を示す雪ノ下。
最近の、俺の指定席はそこだった。

 鞄をいつもの所に置き、文庫本を取り出す。
昨日買ったばかりの新作のラノベ。汚れないように紙のブックカバーをかけて、ガードも万全だ。
やはり雨の時は読書に限るな。晴れてる時でもそうだけど。
さすが生粋のぼっちたる俺に隙は無かった。違うか。

338: 2013/07/15(月) 22:33:18.19 ID:9XZaaUq/0
 本を片手に、ががっと音を立てつつ椅子を引き、腰を下ろす。
机を挟んで斜め前に陣取る雪ノ下は、文庫本に視線を戻して、既に読書を再開しているようだ。
今までと比べて少し近い距離にあるその表情を、ちらと見てみる。

「何? さっきから人の顔をじろじろと。身の危険を感じるから止めてもらえないかしら」
「ちょっと視線を向けただけでそれかよ……」
「そうね、私もそれなりに慣れてきたつもりだったのだけれど」
「おい待て、そのマジっぽい感じで俺の目を揶揄するのは止めろ」
「比企谷くん、決して悪い意味に受け取ってほしくないのだけれど、あなた知らない女性にはあまり視線を送らない方がいいと思うわ」
「その台詞をどうやって悪い意味以外に受け取ればいいんだよ」

 悪天候でも絶好調だな、おい。
何でそんな晴れがましい顔してるんだよ、俺の心は土砂降りだぞ?
本当に俺の心に優しくないよな、こいつ。

339: 2013/07/15(月) 22:36:14.91 ID:9XZaaUq/0
 まぁいつものことだし気にしても仕方ない。
ということで、予定通り読書に勤しむことにする。
さて、表紙買いしたこのラノベ、当たりか外れか――

 そんな危惧も抱いていたけど、蓋を開けてみれば杞憂も杞憂。
暫く読み進めて行くと、思いの外熱い展開が待っており、ついついのめり込んでしまっていた。
これはめっけものだな。
さすがはガガ●文庫、一生ついて行きます。

 そんな風に、久しぶりに俺の好みにジャストミートしている本に出会えた喜びから読書に熱中していたのだが。
本の中へと飛び込んでいた俺の意識は、突如として現実に引き戻されてしまう。

340: 2013/07/15(月) 22:40:01.25 ID:9XZaaUq/0
「何を読んでいるの?」
「っ……!」

 耳元で囁かれた涼やかな声。
同時に、とても良い匂いが仄かに鼻腔を擽る。
思わず、びくっと背筋が伸びてしまう。

 みっともないと言うなかれ。
正直、声を出さなかっただけ頑張った方だと思う。
これで今読んでいたのがホラーだったら、悲鳴を上げていたこと請け合いである。絹を裂く様なレベルの。
いや、マジで危ない所だった。

341: 2013/07/15(月) 22:43:32.88 ID:9XZaaUq/0
 一息ついて振り仰げば、いつの間に背後まで来ていたのか、驚きに少し目を見開いている雪ノ下の顔がそこにあった。
近いって近いって。
思わず知らず仰け反るような体勢になってしまう。

「な、何? びっくりするじゃない、急に動かないで頂戴」
「ばっ、お前、それは完全にこっちの台詞だっつーの、びっくりさせんな」
「何よ、この程度のことで大げさね、蚤の心臓って困るわ」
「本に集中してる時にいきなり声かけられたら、誰だって驚くわ」

342: 2013/07/15(月) 22:50:00.00 ID:9XZaaUq/0
 不満げな表情で見下ろしてくる雪ノ下。
というか何で俺が悪いみたいな空気出してんだよ、お前は。
俺の非難の眼差しを、しかし雪ノ下は軽やかにスルー。

「それで、何を読んでいたのかしら? まさかその動揺ぶり、いかがわしい本でも見ていたのではないでしょうね?」
「馬鹿言え、んな阿呆なことするか。読んでたのはラノベだよラノベ、ほら、いつもと変わんねぇって。つーか何でそんなこと気にするんだよ」

 不意に声が冷たくなり眼光鋭く睨んでくる雪ノ下に、抗議の意を込めて、ブックカバーを外して普通の文庫本であることを示しつつ、こちらもジト目で返してやる。
雪ノ下は冷たい目をしたまま本の表紙を確認したものの、それが普通の文庫本であることが分かると、決まり悪そうにふいと視線を逸らす。
しかし沈黙は一瞬の事。
こちらに向き直った時には、既にその目は俺を責めるものに変わっていた。いや何でだよ。

343: 2013/07/15(月) 22:55:55.99 ID:9XZaaUq/0
「だってあなた、普段はブックカバーなんて使ってないじゃない。隠すような疾しいことがあるのかと疑うのは自然なことでしょう」
「ブックカバー使ったぐらいで疑われるのが自然とか、普段の俺ってどんだけ信用ないんだよ。昨日買ったばっかの新品だから使ってるだけだっての」
「紛らわしいわね、普段からそうしていなさい」
「何でそんな上から……」
「それで、その本は面白いの?」
「ん? あー、まぁな。俺にとっては久々にクリティカルヒット。表紙や挿絵が重視されるのも分かるけど、やっぱ中身も伴ってこその小説だよな」
「そう、随分のめり込んでいたようだから何かと思ったけれど、確かに好きになれそうな作品に出会えた時というのは嬉しいものね」

 くすりと笑って俺の傍から離れる雪ノ下。
そうして自分の席に戻り、再び閉じていた本を手に取る。
どうやら、本当にただ俺が何を読んでいるのか気になっただけのようだ。

344: 2013/07/15(月) 23:02:19.01 ID:9XZaaUq/0
 だけのようだとは言ったものの、これまでの雪ノ下のことを思えば、これは割と見過ごせない事象である。
何しろ“あの”雪ノ下雪乃だ。
口を開けば毒舌、目を向ければ蔑視、迂闊に近づこうものなら罵倒と共に撃退されるってのが基本姿勢だったのに。
それが今週に入ってからというもの、こういう風に急に距離を詰めてくることが増えたように思う。
座る席にしても、今まではテーブルの端と端だったのが、机を挟んだ斜向かいに座るようになってるわけだし。

 それらはけれど、考えてのことではなく、恐らく無意識のことなのだろう。
例えるなら、今まで警戒していた野良猫が態度をちょっと軟化させたみたいな感じ。
うーん、そう考えるとちょっと微笑ましく思えてくるな。

345: 2013/07/15(月) 23:04:29.00 ID:9XZaaUq/0
「何? その薄ら笑いは? 不気味だから止めて頂戴」
「いや、お前さ、もう少しはオブラートに包む努力とかしたらどうだ?」
「心外ね、かなり包んであげたつもりなのに」
「包めてないから、全然包めてないから。何なら思いっきり突き破ってるレベルだから」

 前言撤回。微笑ましくねぇわ、やっぱりこいつ。
露骨に眉を顰めて俺から距離を取ろうとしているあたり、その辺の容赦の無さはあまり変わってないようで少し安心する。
いや、その感想もどうかと思わんでもないけど。

346: 2013/07/15(月) 23:14:18.19 ID:9XZaaUq/0
 気を取り直すように、席に改めて座り直して伸びをすると、身体がばきばき鳴った。
結構長い時間本に集中していたせいで固くなってしまっていたみたいだ。
窓の外へ視線を向けるが、空模様はまるで変わらず、しとしとと雨が降り続いている。
別に雨が嫌いというわけでもないけど、こうも続くとさすがにうんざりしてくるな。

「それにしても、雨全然止みそうにないな」
「えぇ、さすがにこれだけ続くと少しうんざりするわね」
「ったく、じめじめじめじめとホントに鬱陶しい空模様だ」
「その言葉、あなたが言うと重みが違うわね」
「おい、どういう意味だ?」

 穏やかに微笑む雪ノ下。
口にした言葉が違っていれば、その笑顔も心に響くものだったかもしれないだけに実に惜しい。いやそうでもないか。
いつものやり取りを挟みつつ、ふと雪ノ下が俺の頭部をじっと見てくる。

347: 2013/07/15(月) 23:20:20.22 ID:9XZaaUq/0
「鬱陶しいと言えば、あなたの髪、随分伸びてきたんじゃない?」
「できれば鬱陶しいという単語で思い出してほしくなかったな、それ」
「早めにカットに行ってきなさい、正直とても見苦しいわ」
「そこまで言うか」
「自分では気付いていないのかもしれないけれど、あなたの目と長髪の相性は最悪よ。不審者か自殺志願者にしか見てもらえないと思うわ」
「お前の論旨に後半部分の表現って本当に必要だったか?」

 お前はあれか、そこまで言わないと似合わないって単語が出てこないのか?
混ぜるな危険レベルで俺の目と髪を語るなよな。
ちょっと自分で自分の髪を触って確かめてみる。
うん、確かに伸びちゃいるが――

348: 2013/07/15(月) 23:27:05.46 ID:9XZaaUq/0
「いやでもこれ、まだそんな言われる程は伸びてないと思うけどな。また今度行くから、それでいいだろ」
「呆れたずぼらね、他はともかく、その前髪は自分で気にならないの? 目に入りかけてるじゃない」
「あぁ、たまに入るな、確かに」

 結構髪質が硬めなので、目に入るとちょっと痛いのだ。
とんだやんちゃものである、誰に似たんだか。
ちょこちょこと自分の前髪に触れていると、雪ノ下が一際大きな溜め息を吐いた。
それから、きっ、と強い視線をこちらに向けてくる。

349: 2013/07/15(月) 23:32:02.85 ID:9XZaaUq/0
「切りなさい」
「お? いやちょっと待って、その言い方はおかしい。だから今金無いし、また今度行くから、それでいいだろうが」
「良くないわ、今すぐ切りなさい。言っておくけれど、これは周囲を不快にさせない為というだけでなく、あなたの為でもあるのよ?」
「基本俺の髪に関することなのに、何で俺の為がサブ扱いなんだよ、順番おかしいだろ」
「いい? 髪が目に入ることで視力障害を起こすこともあるの。これ以上目つきが悪くなるような要因を放置しておくなんて、断じて許されないことよ」
「すげぇ言われようだな、おい。つっても俺、自分で自分の髪なんて切ったことねぇし、そもそも髪切るハサミも持ってないからどうしようもないぞ」

 大仰に肩を竦めて、お手上げだと伝える。
そもそも前髪を自分で切るとか怖いわ、失敗したらそれこそ目も当てられないだろうが。

 そんな俺の態度に思う所があったのか、雪ノ下の表情が小さく動いた。
すぅっと目を細めてこちらを睥睨してくる。
相も変わらぬ冷ややかな眼差しに、思わず動きを止めてしまう。

350: 2013/07/15(月) 23:39:41.46 ID:9XZaaUq/0
「……そう、それなら仕方がないわね」

 数秒の溜めの後、雪ノ下は首を振りつつ立ち上がった。
表情にも態度にも動きにも、やれやれ本当はこういうことなんてしたくないのだけれど、と言わんばかりの倦怠感が滲んでいる。
そして俺の方には目もくれず、一直線に自分の鞄へと歩いて行く。
というか、そんなに嫌なら動かなきゃいいんじゃないですかね? どうにも悪い予感しかしないんだけど。

 果たせるかな、自分の鞄をごそごそ探っていた雪ノ下が次にこちらに振り向いた時、その手には鈍く輝くハサミが握られていた。
どことなく気だるげに刃物を握っている構図が、何だか微妙に恐ろしい。
正直こいつと凶器こそ混ぜるな危険だと思う。

351: 2013/07/15(月) 23:45:30.54 ID:9XZaaUq/0
「今何か不愉快なことを考えられていた気がするのだけれど」
「気のせいだろ。というか勘弁してください」
「なぜ謝るの? やっぱり良からぬことを考えていたんじゃない」
「違う。いきなり刃物持ってこられたら誰だってびびるだろうが」
「その結果反射的に謝るのね。その遺伝子に刻み込まれているかのような卑屈さは、とてもあなたらしいと思うわ」
「容赦なさ過ぎだろ、お前」

 何でそんな満面の笑みよ。俺をおちょくるのってそんなに楽しいの? 生き生きし過ぎでしょ。
楽しそうな笑顔のまま、俺に向かって歩み寄ってくる雪ノ下。
無表情のままよりはいいけど、笑顔は笑顔で怖いな、持っているのが刃物なだけに。

352: 2013/07/15(月) 23:48:44.61 ID:9XZaaUq/0
「って、おいちょっと待て、そのハサミで何をするつもりなんだ?」
「信じられない程の鈍さね、今まで何を聞いていたの? 話の流れから想像できるでしょう」
「いやできるけど、何もそんなお前がやんなくても」
「遠慮はいらないわ、さっきも言ったけれど、周囲の人たちの為だもの」
「じゃなくて、お前素人だろ。ミスられたら堪らんぞ」

 真に遺憾ながら、ここで俺は言葉の選択をミスってしまった。
突然の事態に混乱していたのは事実だけど、言葉はよく考えてから発するべきだったのだ。
口にして気付いた時には既に遅い。
こんな言葉を耳にすれば、雪ノ下雪乃は当然の如く――

353: 2013/07/15(月) 23:52:05.93 ID:9XZaaUq/0
「あら、随分安く見てくれるじゃない。以前にも言わなかったかしら? 私は昔から何でもできたって。本格的な調髪ならともかく、前髪を整える程度のこともできないと思われているだなんて、捨て置く訳にはいかない暴言だわ」

 ――挑発と受け取ってしまうわけで。
そして、こうなった雪ノ下はそう易々とは止まらない。
浅からぬ付き合いで、そのことはよーく分かっている。
分かってはいるが、しかしだ。

354: 2013/07/15(月) 23:56:27.82 ID:9XZaaUq/0
「いやいや、だからちょっと待てって。失敗したらどうすんだよ、前髪やっちまったら洒落にならないぞ」
「安心しなさい、それ以上悪くなることはないから」
「既に失敗してるみたいに言うなっての、ただちょっと伸びてるだけだから、これ」
「それが見苦しいと言っているのよ。それとも――本当に、信用できない?」

 そこで少し声のトーンが落ちる。
反射的に視線を合わせると、こちらをじっと見据える透明な眼差しにぶつかった。
それは挑発するような目でも、いつもの冷静な目でもない……どこかこちらの本心を窺うような、探るような、あるいは縋るような、そんな目。
思わず知らず、言葉に詰まってしまう。

355: 2013/07/16(火) 00:00:55.23 ID:awuWAcgF0
 多分、ここで俺が否定の言葉を口にすれば。
そうすればきっと、雪ノ下は素直に引き下がってくれるだろう。
だけどそれを――雪ノ下を信用できないという言葉を、俺は口に出来るのか?
自問自答してみる無理だ。思考どころか句読点を挟む間もない即答だった。ちょっと自分でもびっくりした。

 いや例えばもしこれが陽乃さんだったとしたら、そういう俺の思考を計算してやっていると予想できるから、むしろ否定はし易いんだけど。
対して雪ノ下はというと、このあたりどうしようもなく真っ直ぐで素直なので、逆に否定し難いのだ。
あぁ本当に、改めて思い知らされる――俺は、こいつには絶対に勝てないんだな、と。
そしてまた、それも悪くないと思う自分が心の中に確かにいることも。
だから、まぁ。

356: 2013/07/16(火) 00:06:15.00 ID:awuWAcgF0
「んなことねぇよ、お前のことまで信用できなくなったら、いよいよ俺も終わりだわ」

 ここでは嘘や誤魔化しは無しにする。
ただ何か恥ずかしいので、言うのは視線を逸らしながらで。

「そう……」

 見えないけど、返ってきた声音は柔らかで穏やかなものだったから。
きっとそれで良かったんだろうと思う。
しかしちょっとむず痒い感じだな、この空気。どうも慣れない。

357: 2013/07/16(火) 00:13:16.87 ID:awuWAcgF0
「それじゃ、いいかしら?」
「まぁやってくれるんなら、頼むわ」
「えぇ、任せなさい」

 そっと、雪ノ下の手が俺の髪に触れてくる。
反射的にぴくっと俺の体が反応してしまう。
いやこう、他人に髪を触れさせるなんて、それこそ散髪に行く時くらいしかないだけに、どうにも落ち着かないのだ。

 変な反応をしたってことでまた何か言われるかと身構えたものの、雪ノ下からのコメントはなかった。
ほっとしたような物足りないような。

358: 2013/07/16(火) 00:16:33.25 ID:awuWAcgF0
「……」

 雪ノ下は、一旦ハサミと櫛を机の上において、無言で俺の髪を指で弄っていた。
つまんだり、掌の上で転がしたり、指で梳いたり。
それは遊んでるというよりも、どこか科学者が検分してるみたいな細やかさを感じる。

 実際こいつ白衣とか似合いそうだよな。
試験管を睨みながら実験とかやってる姿が容易に想像できるし。
何やっても絵になる奴って凄いね、ホント。
ふと何か気になったのか、雪ノ下が手を止める。

359: 2013/07/16(火) 00:19:23.21 ID:awuWAcgF0
「比企谷くん、少し髪が傷んでるわよ、ちゃんと手入れはしているの?」
「ん? まぁ一応それなりには」
「つまり碌にしていないのね?」
「つまるな、やってないわけじゃねぇって」
「結果として傷んでしまっている以上、やっていないのと同じよ」

 そう言って髪を少し強めに梳いてくる雪ノ下。
痛っ、ちょっと引っ掛かってるって、痛い痛い。
俺の頭で遊ばないで。

360: 2013/07/16(火) 00:24:30.89 ID:awuWAcgF0
 しかし改めて思うと、他人に頭を触らせる行為って普通に怖いな。
何というか、生殺与奪の権利を握られてる感が半端ない。
ましてやそれを握っているのが雪ノ下とくれば、それは恐怖を感じない方がおかしいとも言える。
やべぇ、俺早まった?

「何か不愉快なことを考えているようね」
「痛い痛い痛い! ちょっ、こめかみぐりぐりするのは反則だろ!」

 指先でやられても痛いんだよ、うめぼしは。
ホントどうして俺の考えてることが分かるんだよ。
何? お前超能力者なの? レベル5の女王様でも目指してんの?

361: 2013/07/16(火) 00:30:30.04 ID:awuWAcgF0
「全く、無駄なことに時間を使ってしまったわ」
「散々俺を攻撃しといてその言い草かよ」
「とにかく、頭皮と頭髪の手入れはちゃんとなさい。油断していると失うわよ」
「怖い言い方すんな、そんな簡単に禿げて堪るか」
「失ってから気付いても遅いのに……」
「だから止めろって。分かったよ、ちゃんと注意するようにするよ。万が一にもそんなんなったら小町と一緒に街を歩けなくなるしな」
「理由が気持ち悪いわ」

 雪ノ下が一歩後ずさった。何もそこまでマジに取らんでも。
相変わらず端的で容赦のない突っ込みをしてくれるぜ。

362: 2013/07/16(火) 00:33:37.04 ID:awuWAcgF0
「放っとけ。小町の為と思うのが一番モチベーション上がるんだよ」
「そう、まぁ好きにしたらいいわ。とりあえず前髪に触れるから目を瞑っていなさい」
「お、おう、お手柔らかにな」

 言われて素直に目を閉じる。
コツコツと小さな音がして、雪ノ下が俺の正面に回ってきたのが分かった。
すっと前髪を手にとって、さっきまでのように弄られる。
長さとか確認しているんだろうか。
さすがにちょっと緊張するな。

363: 2013/07/16(火) 00:38:15.87 ID:awuWAcgF0
 視覚が閉ざされている分だけ他の感覚が鋭くなっているらしく、些細なことも過敏に感じられてしまう。
嗅覚は微かに香る良い匂いを検知して。
聴覚は雪ノ下の吐息すら捉えてしまい。
触角は俺の髪に触れる雪ノ下の細い指の感触に集中していた。

 何なの俺、これじゃほとんど変態じゃん。
いくら何でも動揺し過ぎだ、と思わないでもないけど、同時にある意味では仕方の無いこととも思うのだ。
だってあの雪ノ下が――高嶺の花どころか彼方の星のような、触れることはおろか近づくことすら叶わないはずの存在が、今こんな至近距離にいるのだから。

 ともすれば触れられる距離にこいつがいるということが、俺の心をざわつかせて止まない。
果たして俺が今覚えているこの感情は、単なる違和感に過ぎないのか、それとも不安や恐怖なのか、あるいはもっと別の……?
おかしな方向に行きそうになっていた思考はしかし、雪ノ下の声で現実に引き戻される。

364: 2013/07/16(火) 00:42:59.45 ID:awuWAcgF0

「癖があるわね、あなたの髪。やはり性格が捻くれていると髪にも出るのかしら」
「なるほど、オブラートに包む気のない常に直接的で直球勝負の雪ノ下さんは、だからそんなにストレートな髪なんだな」
「そうね、あなたと違って、ね」

 見えないけど、声の感じからすごい勝ち誇った顔されてるな、多分。
まぁ確かに言い返したつもりが全然否定できてないし、むしろストレートな髪で羨ましいって風にしか聞こえないし、それも止む無しか。
だってこと髪の話じゃあ、非の打ち所なんてないんだもんなぁ、こいつ。
ちょっと腹立たしいけど、さすがに認めざるを得ない。

365: 2013/07/16(火) 00:49:26.70 ID:awuWAcgF0
「……んなもん仕方ないだろ、そりゃお前の髪と比べられたら誰の髪だって数段落ちるわ、綺麗過ぎるんだよ、お前の髪は」
「え?」
「つーかそんだけ長いのに毛先までさらさらとか、全体に艶があってきらきらしてるとか、手入れにどんだけ手間暇かけてんだよ。むしろ周りの子が可哀想になるレベルだわ」
「そ、そう?」

 癖っ毛の持ち主は、どうしたってさらさらの髪の持ち主に憧れるもんなのだ。
今までだって、寝癖直すだけのことで朝の貴重な時間をどれだけ奪われてきたか……
そんなことを考えていると、何やら雪ノ下が俺の頭を指でぐりぐりし始めた。
ちょっ、何? 俺の頭を擦っても何も出ませんよ?

366: 2013/07/16(火) 00:54:09.01 ID:awuWAcgF0
「ま、まぁそう思うのも当然と言えば当然のことかしら、あなたもたまにはまともな事を言うのね。えぇそうよ、確かにこの髪は私の数多い美点の中でも特に自分でも気に入っている部分だわ。そのせいで余計な苦労を背負うこともあったくらいだもの。そう、周囲の嫉妬の対象としてね。もちろん学校の他の女子の中にも髪のきれいな子は少なからずいたけれど、当然ながら私と並んでなお誇れる程の美麗さを備えていた人なんていなかったわ。あとはお決まりのパターンね、みんな必氏で私を引きずり降ろそうとしていたものよ、もちろん私が負けることなんてなかったけれど。それにしても、誰も彼も私の髪を持って生まれたもののように言ってくるのは腹立たしかったわ。私がどれほどその手入れに心を砕いてきたか、どれほど時間と熱意を注いでいるかをまるで理解しようともしないのだから。あそこまで行くと最早愚かしさを通り越して憐みすら抱いてしまうわね。人を妬む前にどうして自分を高めようという努力ができないのかしら。そもそも――」
「ちょっと痛いって、待て待て待て、それ以上は止めて、禿げちゃうから、十円禿げとかマジ勘弁だから」

367: 2013/07/16(火) 00:57:41.49 ID:awuWAcgF0
 指の動きが言葉と共に加速してきて、さすがにストップをかけずにはいられなかった。
いやホント何かちょっと痛いから。摩擦で割と熱くなってるから。
全くとんだテロ行為である。

 しかしこいつって本当に照れると雄弁になるよな、しかもすげぇ早口で全く噛まずに言い切ってるし。
いっそ女子アナでも目指したらどうだろうか? 容姿的にも全然行けると思うぞ。
毒が効き過ぎてるのが玉に瑕だけど。いや喋りの職業にそれは致命的か?

 さておき、普段ならそんな姿も微笑ましく見られたかもしれないけど、頭髪の危機とあってはさすがに安穏とはしていられないわけで。
そんな俺の制止の声に、はたと雪ノ下の動きが止まった。
と、わざとらしく咳払いを一つ。

368: 2013/07/16(火) 01:01:38.93 ID:awuWAcgF0
「――んんっ、な、何かしら?」
「何かしら、じゃねぇだろ。言っとくけど全然誤魔化せてないからな」
「誤魔化すだなんて心外ね、全く何を言っているのかしら。ほら、目を閉じていなさいと言ったでしょう、たった数分大人しくしていることもできないの? ぜんまい仕掛けのおもちゃでもあるまいし、じっとしていなさい」
「あーもう、分かったよ、大人しくしてるって」

 改めて目を閉じて大人しく待つ。
雪ノ下はゆっくりと櫛で髪を梳きながら、切る長さを思案しているらしい。
そうして大体の方針が決まったのか、髪受け用のレポート用紙をそっと俺の顔の前まで持ってくる。

369: 2013/07/16(火) 01:04:31.67 ID:awuWAcgF0
「動かないでね」
「分かってる」

 しゃきっと音がして、髪が切れる感触がする。
それから断続的に、少しずつ、しゃきしゃきと髪が切られていく。
ハサミを手にした他人を前に目を閉じて無防備な頭を晒すという状況に、しかし不安はほとんどなくなっていた。

 結局のところ、何だかんだ言いつつも、俺は雪ノ下が失敗するとは微塵も思ってなかったってことなのだろう。
もちろんこいつにもできないことは少なからずあるけど、でも本人が言うように色々な事をこなせるというのもまた事実であって。
しかし何よりもまず、それを人に信じさせることができるというのがこいつの凄いところだと思う。

370: 2013/07/16(火) 01:10:15.94 ID:awuWAcgF0
「あまり切り過ぎるのも何だし、このくらいかしらね」
「ん? 終わった?」
「えぇ、一先ず目立たない程度にだけど。とりあえずこれで目に入ることはないはずよ。あとは全体のバランスもあるし、早めにカットに行ってきなさい。見たら即通報レベルの不審人物になる前にね」
「最後の一言いらねぇ」

 さらりと暴言を残しつつ、ハサミと紙を脇の机に置いて、雪ノ下が再び俺の背後に回って櫛で髪を梳いてくる。
腹立たしいけど、心なしか素直に櫛が通るようになった気が……? こいつやりおる。
しかし意外とこう、人に髪を整えられるのも悪くないかもしれない。できれば暴言は勘弁だけど。
と、何となくまったりした感想を抱いた時だった。

「待たせたな! 君たち!」

388: 2013/07/21(日) 20:06:36.48 ID:rJ2hA1u/0
「待たせたな! 君たち!」

 ガラッと扉を勢いよく開けて部室に乱入してきたのは、魅惑のアラサー・平塚先生だ。
相も変わらぬ男前な笑顔と訳の分からん台詞で、先程までの静かで穏やかな空気は完膚なきまでに雲散霧消していた。
材木座も真っ青な空気ブレイカーである。
更に一段踏み込んでエアブレイカーって言うと、ちょっと中二的に格好良い気がしないでもないな、全く意味は分からんけど。

389: 2013/07/21(日) 20:15:39.39 ID:rJ2hA1u/0
「平塚先生、何度も言っていますが、部屋に入る前にはノックをしてください」

 頭痛でもするのか、雪ノ下が櫛を持った手でこめかみを抑えながらぼやく。
聞き入れてもらえないことを理解しながら、それでも諦めない根性は天晴れだけど、無駄な努力は止めた方が双方の為じゃないか?
何だか様式美みたいになってるし。
そんな風習いらんだろ。誰が得するんだよ。

390: 2013/07/21(日) 20:21:34.04 ID:rJ2hA1u/0
「まぁ固い事を言うな、そう眉間に皺を寄せていると綺麗な顔も台無しだぞ」
「誰のせいだと……」
「んで、何しに来たんですか? 先生は」

 多分澱んでいるだろうジト目で平塚先生を見やる。
誰も待ってないんだけど、という突っ込みは飲み込んでおいた。何か突っ込み待ちみたいだったし。

 案の定、先生は少し寂しそうな目をしていた。
何ですか、売られていく子牛でもあるまいに。
本当にこの人はいつになったら落ち着くんでしょうね?

391: 2013/07/21(日) 20:30:05.89 ID:rJ2hA1u/0
「ふむ、まぁ特に用があるわけでもないんだがな、たまには顧問らしく部室に顔を出そうと思っただけだ」
「いや、何か今日は用事があるって言ってたじゃないですか、だから俺を手伝いに駆り出したんでしょう。それが何でまだ学校に?」

 手伝ってる時に聞いた話である。
ちょっと浮ついてる感じだったから、婚活パーティーか何かだと睨んでいたのだ。
これで良い人が見つかってくれたら(俺の心身の平穏の為に)良いんだけどなぁ、とか思いつつ生温かい目で見てたんだが。

 そんな俺の言葉に、しかし平塚先生は一転機嫌が悪くなり、ふいと視線を逸らした。何か舌打ちしてるし。
ってことは――

392: 2013/07/21(日) 20:38:09.50 ID:rJ2hA1u/0
「中止になったんだよ、ドタキャンやらで集まりが悪いらしくてな。全くどいつもこいつも根性が足らん、肉食系の男はおらんのか?」
「雑食系じゃなくて?」
「何が言いたい?」
「い、いえ、何も――」

 ぼそっと呟いた所に強烈な睨みをぶつけられて、問答無用で黙らざるを得なくなる。
拳が飛んでこなかっただけマシではあるけど。

 しかし、思いついたら喋らずにいられないこの性格は、早めに直さないと駄目だなと思いました。
と、聞こえよがしに雪ノ下が溜め息を吐く。

393: 2013/07/21(日) 20:48:36.37 ID:rJ2hA1u/0
「要するに、先生はここに愚痴をこぼしに来たんですか?」
「ふむ、雪ノ下よ、概ね間違ってはいないが、もう少しオブラートに包んでくれてもいいんだぞ」
「回りくどいのは苦手ですので」

 雪ノ下の容赦の無さと冷ややかさは、平塚先生が相手でもあまり変わらないらしい。
あるいは平塚先生だからこそ、遠慮なく話せるのかもしれないけど。
まぁ毒を吐かないだけ優しいもんだとは思う。
何にしても、一言言わずにおれないのは俺も同じだ。

394: 2013/07/21(日) 20:57:34.71 ID:rJ2hA1u/0
「それで何で真っ先にここに来るんですか? 他を当たってください、他を」
「最初は陽乃のヤツに電話したんだがな、暇潰しに忙しいとか言われて切られた」
「凄いですね」

 陽乃さんにそんな愚痴を聞かせようとした先生も、仮にも恩師にそんな暴言吐ける陽乃さんも。
というか暇潰しに忙しいって、そこまで言うならもういっその事うざいって言い切っちゃえばいいのに。
それで配慮のつもりなんだろうか?

395: 2013/07/21(日) 21:17:22.19 ID:rJ2hA1u/0
「そもそも、そういう話は同年代の友人相手にすれば良いと思うのですが」

 おっと雪ノ下も負けちゃいなかった。
暗に自分にそんな話を聞かせるなって言ってやがる。
姉と同じくばっさりだ。

 ホントこの姉妹何なの? ちょっとは平塚先生に同情してあげてもいいんじゃないの?
つーか愚痴くらい聞いたげなさいよ。俺は嫌だけど。

396: 2013/07/21(日) 21:25:35.12 ID:rJ2hA1u/0
「馬鹿を言うな、そんなことをしたら惨めになるだけだろう」
「教え子の高校生相手に愚痴を聞かせている時点で――」
「止めろ雪ノ下、追い打ちをかけんな」

 見かねて止めに入る。
何かまだ俺の頭から離れてくれないので顔は見えないが、不満げにしていることは空気で分かる。
まぁ幸い平塚先生は特に気にした様子もないけど。

 いやそれもどうなんだ? 少しは現実に疑問を持ったりしないもんなのか。
しかし先生は何が引っ掛かったのか、まだ苛立っているご様子。

397: 2013/07/21(日) 21:35:44.80 ID:rJ2hA1u/0
「大体、友人連中なんて結婚してるヤツも多いし、子供がいるヤツまで……そんな連中と何を話せと? 他人の惚気話なんぞ聞きたくはない!」
「んな心の狭いことだから結婚できないんじゃ――」

 ギン! と一際強烈な視線が俺に突き刺さった。
もう言葉が無くても“それ以上喋ったら頃す”というメッセージがびりびりと伝わってくるレベル。
だって知覚した瞬間全身に悪寒が走ったくらいだし。
どうしてこの人はこう大人げないんでしょうね、子供のいうことじゃないですか。

398: 2013/07/21(日) 21:43:19.37 ID:rJ2hA1u/0
「じゃあ聞くが比企谷よ、お前だったらどうなんだ? かつてのクラスメイトが自分を差し置いて結婚し、あまつさえ子供まで出来ていて、挙句惚気話なんぞ聞かせてくれた日には」
「リア充爆発しろとしか思いませんね」
「そうだろう? 話が分かるじゃないか」
「教育者として、その発言は如何なものかと思いますが」
「教育者の前に、私も一人の人間なのだよ、雪ノ下」

 いや、正直この考え方は人間としてもかなりアウトだと思う。自分も悪乗りしといてなんだけど。
きっと雪ノ下も同じことを考えたのだろう、何か言いたげな気配が背後に滲んでいるが、さすがに自重したらしい。
何への配慮なのかは分からんが。
とりあえず一言だけでもフォローしておこう。

399: 2013/07/21(日) 21:50:21.97 ID:rJ2hA1u/0
「まぁまぁ先生、婚活パーティーだってこれっきりってわけでもないでしょう? 次の機会に決めてけばいいじゃないですか」
「もちろんそれはそうなんだがな、一日を無駄にした怒りは何かで晴らさんと。ストレスは美容と健康の大敵だし」
「先に言っときますが、俺で晴らすのは止めて下さいよ、殴るなら専用のサンドバッグでも買ってください」
「君は私を何だと思っているんだ? 理由もなく教え子を殴るわけがないだろう」
「まず理由があれば殴っても良いという解釈を捨ててもらえませんかね?」

 これこそ教育者以前の問題だと思うんだけど。
殴られるようなことを言う俺にも反省材料があるだろうという至極もっともな意見はこの際置いといて。
そこで話が一段落したからか、平塚先生がふと真剣な表情に変わる。

400: 2013/07/21(日) 21:56:47.32 ID:rJ2hA1u/0
「いやでも実際、私の何が問題なんだろうな。真面目な話、何をどうすれば結婚できるんだろうか」
「何でそんなマジっぽいんですか。突っ込み辛いんですけど」
「雪ノ下、女の目から見てどうだ? 私に何が足りないと思う? よければ、ぜひ忌憚の無い意見を聞かせてほしいのだが」
「そうですね、美点ではなく修正すべき点を挙げろと仰るのでしたら――そういうことを恥ずかしげも無く高校生に聞いてくる慎みの無さがまず一つ」
「うっ」

 胸を抑える平塚先生。
つーか雪ノ下の性格くらい知ってるでしょうに、ダメージ受けるの分かってて何で聞くんですかね?

401: 2013/07/21(日) 22:04:32.25 ID:rJ2hA1u/0
 当の雪ノ下はというと、どうやら俺の背後で指折り数えているご様子。
あ、駄目だこれ、本当に容赦するつもりなさそうだわ、こいつ。
悲しいかな、善意とは時に悪意よりも残酷なのである。

「他に欠如しているものというと……礼儀、作法、所作、落ち着き、淑やかさ、細やかさ、それから」
「ちょっと待った、その辺にしといた方がいいと思うぞ、先生もそろそろノックアウト寸前っぽいから」
「あ、あら、ちょっと言い過ぎたのかしら――でも、本当に知りたいようだったから、その……」
「いやいい、むしろよく言ってくれた、雪ノ下よ」

402: 2013/07/21(日) 22:10:01.22 ID:rJ2hA1u/0
 あ、何かふらふらしてるけどまだダウンはしてないみたいだ。
結婚したいという思いとその為の熱意は本物なんだな。

 しかしまぁ、この情熱をもっと別のことに使えれば、割と凄い功績だって上げられそうな気もするんだけど。
本当に色々と力の入れ所が間違っているお人だ。残念美人というか何というか。
生温い視線で見守る俺の前で、先生はぐっと握りこぶしを作って気炎を上げる。

「そうだ、改善すべき点があるのならば直して行けば良いだけのこと。壁は高い程越えた時の喜びは大きいしな。ふふ、燃えてきたぞ」
「いえ、ですからその考え方がまず……」

403: 2013/07/21(日) 22:15:35.00 ID:rJ2hA1u/0
 雪ノ下が諦めずに言い募ろうとしているけど、多分無駄だと思う。
まずこの思考の端々から漂う少年マンガ臭がなくならないと、結婚は難しいんじゃないかな。
仲良くはなれるかもしれないけど、そこ止まりというか。
そんなイメージが頭から離れない。

 あれだ、これからもずっとお友達未満でいましょうね的な感じ。
……何で俺は自分で自分のトラウマ抉ってんだよ。
何だよ未満って。つまり何なのさ?

404: 2013/07/21(日) 22:21:34.86 ID:rJ2hA1u/0
「ふむ、では逆に男の目から見たらどうだね? 比企谷よ」
「はい?」
「つまりだ、その、男のお前の目から見て、私が魅力的に映るかどうか、と聞いているわけだが」

 不意に流し目を送られて、反射的にどきっとしてしまう。
いや実際の所、中身はさておくにしても、外見的にはもちろん平塚先生は所謂美人さんなわけで。
強さと温かさを湛えた瞳といい、艶のある唇といい、さらりと流れる黒髪といい、無駄に良いスタイルといい、(喋らなければ)大和撫子と評してもまぁ決して言い過ぎということはないだろう。

 ここにきて、しずかわいいが脚光を浴びることになろうとは――まさに遅れてきたブーム、とか言ったら殴られそうだけど。
とにかくまぁそんな人に色目を使われれば、そりゃあ健全な男子高校生なら反応しない方がむしろ不自然なんじゃないかと思うのだ。
そう、普通なら。

405: 2013/07/21(日) 22:34:25.95 ID:rJ2hA1u/0
「……」

 頭が痛い。いや精神的にではなく物理的に。
より具体的には、雪ノ下さんの手が、何故か俺の頭部へ明らかに攻撃を加えてきております。
ちょっと待って、ここって俺を痛めつける場面じゃないでしょう、平塚先生の結婚を祈念して応援する場面じゃないですか。

 そんな俺の切なる思いも虚しく、雪ノ下は手を決して緩めようとしないまま、ゆっくりと口を開く。
聞こえてくる声は予想に違わず、地の底から聞こえてくるように低く冷たい。氷の女王降臨である。

406: 2013/07/21(日) 22:43:18.41 ID:rJ2hA1u/0
「平塚先生、冗談でもこの程度の男にその手の誘惑は止めておいた方がよろしいかと。危険以外の何物でもありませんし、そもそも一般男性とかけ離れた嗜好・感性を持つ愚の骨頂の意見など何の参考にもなりませんから」
「なぁ、俺別に何も悪いことしてないよな。何でそんなナチュラルに俺を貶してるの? 文句を言う方向がおかしいでしょ。あとそろそろ手ぇ離してくれよ、割とマジで痛いから」
「黙りなさい、愚の骨頂くん。全く、年上の女性と見ればすぐに発情して、本当に唾棄すべき下劣さね。獣でももう少し節操があるわよ、あなたいつになったら進化できるの?」
「おい、色々言いたいことあるけど、まずその呼び名は止めろ。つーかせめて何かにかけようとしろよ、一文字も合ってないだろうが、手抜きすんな」

 あと発情とか変な言葉を口にするなっての。表現がいちいち怖過ぎるわ。
平塚先生相手にそんなことしたら色々終わるだろうが。
俺はここで人生を終わらせる気は無いぞ。
と、そんなやり取りをする俺たちを、なぜかにやにやしながら見てくる平塚先生。

407: 2013/07/21(日) 22:49:41.49 ID:rJ2hA1u/0
「ほう、これはこれは。いや何とも仲が良くて結構なことだ」
「聞き捨てなりませんね。それは冗談にしても笑えないですよ、平塚先生。この男と仲が良いなど……」
「ちょっ、落ち着け雪ノ下」

 雪ノ下の細くしなやかな指が、すーっと俺のこめかみの方に下りてきた。
所謂うめぼしの予感に知らず緊張が走り、俺も静止の声を上げたのだが――果たして彼女の耳に届いているかどうか。
脳内ではアラートが鳴りっ放しだ。

 不意打ちに弱いのは知ってるけど、それにしたって何でこいつはこうまで自然に俺に対して攻撃態勢を取れるんだよ。
これはもう、いざとなったら無理やりにでも止めないと、と身を固くしつつ推移を見守ることにする。

408: 2013/07/21(日) 22:54:55.14 ID:rJ2hA1u/0
「ふふ……なるほど、陽乃の言った通りだな」
「姉さんが、何か?」
「いやなに、君たち二人を見ていると初々しくて微笑ましいとか、からかうと一々反応が楽しいとか、まぁ愉快そうに話していたよ」
「姉さんらしい歪んだ感想ですね、そんな妄言を真に受けるのはどうかと思いますが」
「そうかね? だが雪ノ下、聞けば君は比企谷にファーストネームで呼ぶことを許可したそうじゃないか、他の異性には許していないだろうに」
「な……っ! そ、それは、その――つまり、この男は私の姉のことも知っているから、えぇ、だからこそファミリーネームで呼ぶのでは愚かな彼には識別が困難なのではないかと判断し、その恐れを排除しておこうという思慮と配慮の結果として下された苦渋の決断によるものであって、決して他意はありません。いえ、まずそもそも――」
「ちょっ、待て! ストップストップ!」

 平塚先生のにまにました笑みを浮かべながらの指摘に、雪ノ下がこれ以上ないくらいに動揺し、いよいよ危険水域に達したと思った瞬間、俺の体が脊髄反射的に動いていた。
それこそ目にも止まらない速さどころか目にも映らない速さ、みたいな。いやごめんこれは言い過ぎ。
しかしとりあえず声を上げるよりは迅速に、俺の手は動いていた――雪ノ下の両の手を、しっかりと掴んで止める為に。

409: 2013/07/21(日) 22:58:10.94 ID:rJ2hA1u/0
「きゃっ」

 いきなりのことで驚いたのか、そんな可愛らしい声が雪ノ下の口からもれた。
突然のことで強張ってはいるものの、掴んだ両手は信じられないくらいに柔らかく、また普段の冷徹さからは想像できないくらいに温かい。
が、今はそのことに感動している余裕なんて微塵も無く、ただ事前にダメージを防ぐことができた安堵の気持ちが心を支配していた。

「平塚先生、間接的に俺を攻撃するのは止めて下さい。そんな搦め手とか、らしくないじゃないですか。剣よりも強いペンよりも強い拳を持つ女の異名が泣きますよ」
「そもそも君を弄っていたわけではないんだが――とりあえず君は後で泣かす」

410: 2013/07/21(日) 23:03:24.17 ID:rJ2hA1u/0
 いかん、動揺していたせいでまた口が滑ってしまった。
あれ? でも後でとは意外な気がするな、いつもなら言葉の前に拳が飛んでくるのに。

「いや、どうせならさっさと終わらせたいんで、やるなら一思いに今きて下さい」
「君のその変な諦めの良さは何なんだろうな、逆に毒気を抜かれてしまうぞ。それに今君を殴れば、とばっちりを受けてしまうからな、どの道その提案は却下だ」
「ふっ、どうやら命拾いしたようだな」
「なぜその台詞を君が言う? しかも誇らしげに」

 どうやら毒気を抜かれたのは本当のようで、平塚先生の声は怒りではなく呆れに満ちていた。
俺のこの危機回避能力の高さはちょっとしたもんだな。
もっとも危機に陥ったのも自分のせいなんだけど。何そのマッチポンプ。

411: 2013/07/21(日) 23:08:12.96 ID:rJ2hA1u/0
 ふと気付けば、平塚先生がまた楽しそうな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
笑いを堪え切れないと言った風な表情が、妙に気にかかる。

「さて、では気も大分晴れたし、そろそろ私も帰ることにしよう」
「あぁ、やっぱりただの気晴らしだったんですね」
「そうだな、これで気分良く酒を楽しめそうだよ、君たち二人のおかげだ」

 そういう豪気なところも直さないと、益々もって結婚は難しいんじゃないですかね?
さすがに今回は思うだけで口にするのは自重した。
あるいは言ってあげるべきかもしれないけど。

412: 2013/07/21(日) 23:14:03.25 ID:rJ2hA1u/0
「ん? でも俺たち別に何もしてませんけど」
「いやいや、いいものを見せてもらったよ。何でもできる子だと思われていても、苦手なものはあったんだな」
「?」
「では二人とも、あまり遅くならないように。あと――」

 言いながら立ち上がり、扉の方へと歩く平塚先生。
部屋を出る直前、茫然と見ている俺の方へと向き直って、一つウインクする。

「――そろそろ離してあげたまえ、さすがにこれ以上は持たないだろうからな」

413: 2013/07/21(日) 23:20:57.72 ID:rJ2hA1u/0
 は? と俺が間抜けな声を上げるのを聞くでもなく、平塚先生は今度こそ部屋を後にする。
一瞬呆けて、それからようやく気付く……まだ雪ノ下の手を握ったままだったことに。

 と同時に、手に伝わってくる様々な感触が、堰を切ったように俺の脳内を駆け抜ける。
きめ細やかな肌の滑らかさを、その芯にある温もりを、そんな諸々を知覚して。
今更ながらに自分が何をしているかに気付き、血の気が引く思いがした。

 俺が手を掴んでから、雪ノ下は一言も言葉を発していない。
座った今の体勢では、背後の彼女がどんな表情をしているかも、まるで窺い知れない。
突然の出来事に硬直しているだけだとしたら――手を離した後、俺を極北の冷気が襲うのは間違いないだろう。

414: 2013/07/21(日) 23:27:51.16 ID:rJ2hA1u/0
 しかし、それは真実俺の自業自得なわけで。
これはもう素直に謝るのが先決だ。

「えっと、すまん、雪ノ下」
「……ぁ」

 覚悟を決めて、謝りながら両手を離す。
その刹那、雪ノ下の口から小さな声が零れ落ちた。
それがどういう感情によるものかは分からないけど。

415: 2013/07/21(日) 23:37:10.50 ID:rJ2hA1u/0
「これは、その……って」
「動かないで」

 正面から向き合って反省の弁を述べようとしたのだが、俺の手をがっちりと捉えたままの雪ノ下の手がそれを許してくれなかった。
あれ? これは何でしょうか?
もしかして、疑問に思う俺の代わりに首を捻ってくれるおつもりでしょうか?
それには及びませんので、解放してもらえませんかね。

416: 2013/07/21(日) 23:42:05.10 ID:rJ2hA1u/0
「あの、雪ノ下、お前の怒りはごもっともというか、その、全面的に俺が悪かったというか」
「――少し黙っていなさい、比企谷くん」
「……」

 感情を無理矢理抑え込んでいるかのような平坦な声に、俺は口を閉ざさざるを得なかった。
決して冷たくはないけれど、その内に潜む物が何なのかがまるで見えず、むしろ不安になってくる。
暫しの沈黙と停滞。
やがて、俺の頭上で雪ノ下が区切りのように一つ溜め息を吐く。

417: 2013/07/21(日) 23:48:18.10 ID:rJ2hA1u/0
「はぁ……全く、あなたという人は本当にどうしようもないわね、いきなり女子の手を掴んでくるだなんて、相手によっては通報されていてもおかしくはないわよ」
「いや、うん、それは本当に悪かったよ。これからは絶対しねぇから、だからその」
「ちょっと待ちなさい、比企谷くん。どうも誤解があるようね」
「んなことねぇよ、お前が俺に手を掴まれて気分を害したってことはちゃんと理解してるから」
「だから、それが間違っていると言っているのよ」
「え? 何言ってんのお前。さっき自分で口にしてたことじゃん」
「――別に、手を握られたこと自体に文句を言っているわけではないわ」

 不意にそっぽを向いたのか、少し雪ノ下の声が遠くなる。
相変わらず俺の頭は固定されたままで、その動きも表情も全く窺えない。
その物言いも気にかかったけど、それ以上に言葉の内容が引っ掛かった。

418: 2013/07/21(日) 23:54:26.40 ID:rJ2hA1u/0
「でも、怒ってるんだろ?」
「当たり前じゃない、いきなりあんなことされたら。せめて一言断ってからにしなさい」
「あれ? 問題なのってそこ?」
「当然でしょう。もちろん私がそれを了承するかどうかは、また別の話だけれど」

 あぁ、うん、それは言われなくても分かってるけど。
それでも、常よりも少し早口だった雪ノ下の言葉の、その真意までは掴み切れない。
今こいつの心をどんな感情が占めているかなんて、まるで窺い知れない。

 ――いや、今はこれ以上考えるのは止めておこう。
きっと明かされない方がいいこともあるのだ。

419: 2013/07/21(日) 23:58:07.94 ID:rJ2hA1u/0
 何にしても、思ってたほどは怒っていなかったみたいで、それは本当に僥倖だった。
腹を切って氏ぬべきであるとか言われたらどうしようかと思った。雰囲気的にそう言われたらやりかねなかったし。
そんな風に俺が安堵の息を吐いたところで、雪ノ下が駄目押しをしてくる。

「安堵しているようだけれど、次はないわよ。もしまた許可なく勝手なことをしたら――終わらせるわ」
「何をだよ……いや分かってるよ、ちゃんと気をつけるから」

 怖い言い回し狙いやがって。
しかし今の俺は、そこを突っ込める立場ではなく。
平身低頭、唯々諾々と、何を言われようと頷く他ないわけだ。
触れるなら事前に許可を取れとかお前は役所かよ、と心の中でだけ突っ込んでおく。小心者万歳。

420: 2013/07/22(月) 00:02:35.45 ID:yzu8Refc0
 と、そこでようやく雪ノ下の手が俺の頭から離れた。
一つ深呼吸してからゆっくり振り返ると、雪ノ下はいつも通りの余裕綽々の表情で俺を見下ろしていた。
本当にこいつはどうしてこうもいちいち上から目線じゃないと落ち着かないんだろうか。
何? お前どこの姫なの? 見下し過ぎて逆に見上げてたりするの?

 しかし何だな、さすがにここまで優越感たっぷりに見下ろされると、ちょっと抗いたくなってくるというものだ。
いくら俺に非があったにしたって、やられっ放しというのは気に食わないというか。
たとえ勝てないまでも、せめて一太刀。
その余裕を奪ってやれないものかと考える。

421: 2013/07/22(月) 00:06:42.24 ID:yzu8Refc0
「そうだ、言い忘れてた」
「何かしら?」

 だから。
一度居住まいを正し。
雪ノ下を見上げながら。
雪ノ下に見下ろされながら。
目と目を合わせて、一言。

「前髪さんきゅな――雪乃」

422: 2013/07/22(月) 00:12:27.95 ID:yzu8Refc0
「前髪さんきゅな――雪乃」

 瞬間、雪ノ下の目が少し見開かれる。
不意打ちに弱いこいつには有効打になるはず、と思っての名前呼びだ。

 しかし、予想に反して変化は一瞬だけ。
雪ノ下はすぐにまた余裕ぶった表情に戻り、どころか逆に嬉々として俺の顔を指差してくる。

「どういたしまして。それより顔、赤くなってるわよ?」
「ぐっ……」

423: 2013/07/22(月) 00:15:36.08 ID:yzu8Refc0
 指摘されて、一気に恥ずかしさが込み上げてくる。
あぁそうだな、諸刃の剣だって自覚はあったよ、相討ちでもいいと思ってたんだよ。
それがまさか単なる盛大な自爆で終わるだなんて――雪ノ下、こいつ、慣れてきてやがる。
全くどうかしてるぜ、この状況。

 とか思いつつも。
一太刀浴びせるどころかカウンターをくらったわけだけど、それでも。
いつもの冷笑ではなく、してやったりという、そんな花が綻ぶような嬉しそうな笑顔を見せられたら。
負けても悪くないかなとか思ってしまうんだから、俺も大概どうかしてるのだろう。

424: 2013/07/22(月) 00:20:18.79 ID:yzu8Refc0
「天に唾する行為とはこのことね、その程度の浅知恵で私の意表を突けると思うだなんて、逆に感心してしまうわ」
「――お前だって前は真っ赤になって動揺してたじゃん」
「何のことかしら? 現在進行形で顔を赤くしている人の台詞じゃないわね」
「つーかお前が慣れんの早過ぎなんだよ」
「名前を呼ぶことは私が許可したわけだし、慣れて当たり前でしょう。むしろあなたの方が慣れなさ過ぎなのよ」

 さらりと髪を流す雪ノ下。
相変わらず一つ一つの仕草がいちいち堂に入っていやがる。
凛とした立ち姿に、磨き上げられたダイヤのような輝く瞳、たおやかに綻ぶ口元からは、しかし容赦の無い罵倒。
容姿端麗にして辛口とか、何? お前日本酒か何かなの?

425: 2013/07/22(月) 00:25:26.43 ID:yzu8Refc0
「簡単に言ってくれるけどなぁ」
「そもそもあなた、姉さんを呼ぶ時は全然動揺してなかったじゃない」
「陽乃さんは別だろ、あんだけ分厚い外面越しじゃあ意識のしようもねぇよ」
「図太いのか鈍いのか――それなら、私の名前を呼ぶのも自然にできるはずでしょう?」
「いや、それはちょっと……」

 ちらと雪ノ下の目に視線を向ける。
真っ直ぐに見返してくるその瞳は、深海のように深く静かな色合いで。
知らず言葉に詰まってしまう。
上手く二の句を告げない俺に対して、雪ノ下は呆れたように肩を竦めた。

426: 2013/07/22(月) 00:30:26.16 ID:yzu8Refc0
「本当に処置無しね、これじゃあ先が思いやられるわ」
「放っといてくれ……ん? 先って?」

 ふと引っ掛かって問うと、雪ノ下の動きがぴたりと止まる。
瞬きを一つした後、さっと視線を逸らして、勢いよく何やら捲し立ててきた。

「何でもないわよ、あなたが気にすることじゃないわ、忘れなさい、いいわね?」
「お、おぉ」
「それより、もういい時間だわ。天気は回復しないし、依頼者も来る様子はないし、平塚先生も帰ってしまったし、今日の活動はここまでにしましょう」
「え? いやまぁいいけどさ」

427: 2013/07/22(月) 00:36:15.47 ID:yzu8Refc0
 早口で言いながら、雪ノ下は手早く片付けをしている。
何もそんな慌てんでも、と思いつつぼーっと見ていると、きっと睨まれた。

「比企谷くん、あなた何をぐずぐずしているの? 呼吸する暇があるのなら今すぐ帰る準備をしなさい」
「理不尽過ぎるだろ、呼吸くらい自由にさせてくれよ」
「あなたが部室を出ないと施錠できないでしょう、そのくらい察したらどうなの?」
「分かった分かったよ、すぐ片付けるから」

 そうして追い立てられるように片付けを終えてから部屋を出て、扉の前で、また明日と別れの挨拶を交わす。
そそくさと職員室へ向かう雪ノ下の背中を見送り、それで俺も帰路に着くことにする。
窓の外は、相変わらずの雨模様だ。

 ふと気付けば、少しだけ視界が広くなっているような気がする。
それは前髪の影響か、あるいは精神的なものなのか。
何にしても、鬱陶しいくらいに雨が降っているのは変わらないけれど、今は決して悪くない気分だった。

428: 2013/07/22(月) 00:42:26.87 ID:yzu8Refc0
ということで④終了です。
お待たせしまくりで申し訳なかったです。

ゆきのん幸せになってほしいですよね。
ガハマさんも良い子なんだけどね、やはりゆきのん推しの身としては、葛藤に苛まれる所があるというか。
6.5と7.5が楽しみでもあり怖くもありますな。

さて、次はどんな話にしようかと色々考え中。
近いうちに案をまとめてタイトル予告出しますので、暫しお待ちくださいませ。


八幡「徒然なるままに、その日暮らし」【後編】