八幡「徒然なるままに、その日暮らし」【前編】
ばたんっと扉の開く音と同時に、落ちかけた意識が揺り戻されてしまう。
布団越しでも分かる、高原で聞く鳥の歌声よりも爽やかで軽やかなソプラノが、緩やかに俺の耳を擽ってくる。
温かい布団の持つ魔の誘惑とせめぎ合う天使のような呼び声。
果たして今は現実なのか夢なのか。その境界線上を行ったり来たりしているような気分だった。
起きぬけの寝惚けた頭を、そんな取りとめの無い思考がぐるぐると回っている。
少しして、俺の体が左右にゆさゆさと揺さぶられ始めた。
「もうお兄ちゃんてば、二度寝を決め込むとか小町的にポイント低いよ、ほら寝巻洗濯するんだから起きてってばっ」
「!」
ばさっと布団が剥ぎ取られた。
瞬間、ひんやりとした空気が全身を包みこみ、反射的にぶるっと身を震わせる。
「な、何だ何だ、敵襲か? テロか?」
「やっとお目覚め? お兄ちゃん」
慌てふためく俺に対して、にっこりと微笑んでくる小町。
曇り一つない可愛い笑顔を前にしては、俺の睡眠を邪魔してくれたことに対する文句の言葉など口をつこうはずも無く。
大人しく朝の挨拶を交わすのみである。
千葉の兄は常に妹に勝てない。
「……おぅ、おはよう小町」
「うん、おはようお兄ちゃん。じゃ早速だけど寝巻出して」
「は? 何だいきなり」
「だから洗濯するって言ってるじゃん、ほら早く」
「あー、分かったよ、んじゃ着替えて持って下りるから」
「ダメ、そしたらお兄ちゃん二度寝するでしょ。今脱いで小町に渡すか、小町と仲良く一緒に下に行くか、二つに一つだよ」
「了解了解、それなら一緒に下りるぞ」
「オッケー、んじゃ行こー」
楽しそうな小町と並んで階下へ向かう。
例によって例の如く、今日も今日とて両親は仕事でおらず、家の中は静かなものだった。
まぁいても寝てるだけなんだけどさ。お仕事ご苦労様です、いや本当に。
「じゃあお兄ちゃん、着替えたら寝巻は洗濯機に突っ込んどいてね、すぐ回すから」
「ん、分かった」
ぱたぱたと台所へ向かう小町と別れて洗面所へ。
着替えて顔を洗うと気分はすっきり目元はどんより。
あぁ、どうしようもないくらいにいつも通りだ。
しかし完全に起きてるはずなのに、鏡の中の俺の目は何でこんなに澱んでるんだろうか。
さり気なく下がったテンションのまま台所へ戻ると、小町が鼻歌交じりに朝食の準備をしていた。
俺に気付くと、ふりふりと手招きしてくる。手伝いなさいということだろう。
大人しく小町の隣に向かい、並んで状況を確認。
「あれ? 大体準備終わってるじゃん」
「うん、でも折角だし、林檎あるから皮剥いて切ってよ」
「任せとけ、何ならウサギまで仕立ててやろう」
「あ、どうせならネコにしてよ」
「いや無理だろ、そんなのどうやってやるんだよ?」
「そこはほら、お兄ちゃんの小町への愛の力で何とか」
「愛はあっても根性が足りないので却下」
「むむっ、却下されたのはアレだけど、でも小町への愛を語るのはポイント高いかもしれなくて?」
その言葉は敢えて無視して包丁を手に取る。
むむむと可愛らしく小首を傾げている小町の相手をしていても話が進まないのだ。
まぁ本音では超愛でたいけど。
視線を手元に合わせて、しゃりしゃりと林檎の皮を剥いて切っていく。
専業主夫志望の腕前を遺憾なく発揮すれば、あっという間に完成である。
「ほれ、できたぞ、早く食おうぜ」
「ん? わぉ早いね、綺麗にできてる。さっすがお兄ちゃん」
出来栄えに納得したのか、満足げに頷く小町。
今日の所はウサギで良かったらしい。
いや本気でネコ型にしろとか言われてもどうしようもないけど。
そうしてテーブルに皿を並べた後、向かい合って席に着く。
いつもの光景にいつもの時間。
やはり休日の朝食はこうじゃないと駄目だよな。
トーストを齧りコーヒーを一口。うむ、美味。
「美味って、もうちょっと頑張ったら美妹になるよね」
「おい脈絡無さ過ぎだろ、何の話だよ、つーか何を頑張るんだよ」
「もう、分かってるくせに」
「いや全然」
ちらちら流し目送ってこないでいいから。
というか小町の場合、そもそも頑張らなくても十分可愛いし。
むしろこれ以上頑張っていらん虫を引き寄せられても困るし、頑張らなくてもいいとさえ思う。
何とも難しい所だな。
ちらと返した視線から、そんな俺の思考の全てを察したかのように、小町はにへっと相好を崩す。
何この可愛い生き物。朝も早くからこんな幸せな気分になると反動が怖いぞ。
しかし、何でこいつは俺の目を見ただけで考えてることが分かるんだろうか。
あるいは俺が分かり易過ぎるだけだったり? 謎だ。
そんなちょっとどきどきの朝食を終えて暫く。
食器洗いなんかの片付けを終えると、完全なフリータイムである。
陽の当たるリビングで誰にも邪魔をされずにだらだらできるこの時間、これを幸せと呼ばずして何と呼ぼうか。
そんなまったりした気分でソファでくつろぎながらスマホを弄っていると、洗濯を終えた小町が隣に腰掛けてきた。
交代制で、今日は小町の当番だったのだ。
ちょっと疲れたのか、そのままぽすっと俺の肩にもたれかかってくる。
普段なら文句の一つも口にするところだけど、さすがにそれはあんまりな仕打ちだと思ったので、されるがままに任せておく。
「はー、ようやく終わったよー」
「お疲れさん、台所の棚にミスドあるぞ」
「いや、それ昨夜お父さんが買ってきたやつじゃん、何お兄ちゃんが買ってきたみたいに言ってんの?」
「俺は別に自分で買ってきたとは言ってない、ただ棚にミスドがあるぞと言っただけだ」
「出た屁理屈、ホントお兄ちゃん屁理屈好きだよね、そういうの小町的にポイント低いよ?」
「ポイントはどうでもいいけど、どうすんだ? 食うなら紅茶くらい淹れてやるぞ」
「ホント? じゃあ食べるー」
にぱっと笑顔になりながら頷く小町。
ホント女子って甘い物好きだよな、いや俺も嫌いじゃないけどさ。
一度小町の頭を撫でてやってから、立ち上がって台所へ向かう。
その後ろをとてとてと小町もついてきた。
紅茶を準備する俺の横で、少しだけ真剣な表情で小町がミスドの箱を覗き込んでいる。
頭の使いどころを果てしなく間違っている気がしないでもないな、これ。
そういう表情は、参考書とか問題集とかそういうのと向き合った時にこそするべきだと思う。
そんな兄心を妹は知らず。
「何食べよっかなー」
「昼もあんだし、一個にしとけよ」
「だいじょぶだいじょぶ、分かってるって。小町だってお兄ちゃん好みのスタイルを維持する為に毎日気を遣ってるんだから。あ、これ小町的にポイント高いかも」
「そうだな、それ言わなかったら高かったかもな」
「照れちゃって、このこのー」
「うぜぇ……」
つんつんと肘で突いてくる小町を適当にあしらいながら、茶葉をティーポットに入れる。
俺好みのスタイルかどうかについては突っ込まない。肯定しても否定しても碌なことにならんし。
お湯は準備済みなので、さっさとポット注いでいく。
正しい注ぎ方ではないかもしれないけど、雪ノ下ならともかく、俺たちはそういうのは気にならないのだ。
まぁこの辺が生まれや育ちの違いなんだろう。
「むー。よし、今日はゴールデンチョコレートにしよう」
「俺Dポップな」
「また……お兄ちゃん相変わらずセコいよね」
「セコいとか言うな、色々楽しめてお得だろうが」
皿にゴールデンチョコレートを乗せて、Dポップと一緒にトレイへ。
あとは淹れたての紅茶をカップに注げば、ティータイムの準備完了である。
この手際の良さは我ながら見事だと思うね、誰も褒めてくれないけど。
「じゃあいただきまーす」
言うなり、ゴールデンチョコレートを一口その小さな口に放り込む小町。
咀嚼する内にみるみるその表情が緩み、実に幸せそうである。
しかし甘い物があれば幸せになれるというのは、ある種の才能と言えるんじゃなかろうか。
こっちはちょっと気になることもあり、そこまで甘味にのめり込めないので、それがいっそ羨ましくすらあった。
一つドーナツを口に運びつつそんなことを考えていると、小町が不思議そうに首を傾げる。
「どしたのお兄ちゃん、何か難しい顔してるけど。いつも以上に目が澱んでるよ」
「一言余計だ。まぁ大したことじゃねぇよ、昨日言われたこととかちょっと思い出しただけだ」
「ん? あー、そういえば昨日何かお説教されてたね」
昨夜、両親に成績の事でちくりと釘を刺されたのだ。
文系科目に比してあまりに理系科目が悪過ぎるということで。
特に数学の悪さについて念入りに。国語ができるなら数学だってできるだろうって、そんな無茶言われてもという話なんだけど。
まぁ養われている身である以上、反論なんてできるわけもないので、素直に聞くしかなかった。
しかし、期末の結果も赤点なら小遣い減らすという宣告が来たのは辛い。
何が辛いって、それが分かってても打つ手がないところが特に。
「理系科目がこのままだったら小遣い減らされんだってさ」
「えぇっ、ヒモのお兄ちゃんからお小遣い取り上げるなんて、そんなひどい」
「お前の認識の方がひどいよ」
八幡的にポイント低いぞ、それ。
俺のジト目に、たははと笑って誤魔化す小町。
その可愛さでポイントは見事に相殺された。
いや、ちょろ過ぎるだろ、俺……
「まぁ冗談はおいといて。でもじゃあ勉強するしかないよね」
「やる気が起きん。というかやっても出来ないの分かってるし。もう諦めてるよ」
「早っ、諦めるの早過ぎるよ、もっと頑張ろうよ、お兄ちゃんはやれば出来る子でしょ」
「“やれば出来る子”って言葉はさぁ、その後に“でもやらない子”って主張が隠れてると思うんだよな」
「もう、どうしてそんなに捻くれてるの? もっと言葉は素直に受け取らなきゃ」
「何にせよあれだ、俺は数学の勉強の仕方とか分からんし、どうしようもないな」
軽くお手上げのポーズ。
実際どうにもならん事に労力を割く程空しいこともないのだ。
そんな俺を見て何を思うのか、小町はもう一口ドーナツを頬張って、むぐむぐと咀嚼している。
考えるか食べるか、どっちかにしたらいいのに。
「んー、じゃあさ、誰かに教えてもらえば?」
「ばっかお前、俺に勉強を教えてくれるような知り合いがいるとでも思ってんのかよ」
「そんな自信満々に断言しないでよ、妹として悲しくなっちゃうでしょ」
「いいんだよ、小町がいてくれれば俺はそれで十分だから」
「っ! やだお兄ちゃん、ちょっときゅんってきちゃったじゃん、そういう台詞いきなり言うの禁止!」
「何だそれ」
腕でバッテンマークを作る小町。
いやそんなこと言われても困るんだけど。つまりどうすりゃいいんだよ、俺に喋んなと?
しかし小町は俺の疑問に答えてはくれなかった。投げっ放しもいいところである。
「話戻すよ。でも実際ほら、たくさんいるじゃない、教えてくれそうな人」
「例えば誰だよ」
「まず平塚先生とかー」
「却下だ。平塚先生は国語教師だし、そもそもあの人とマンツーマンとか身の危険が大き過ぎるわ」
「じゃあ陽乃さんは? すごく頭良いんでしょ?」
「論外だろ、あの人に教えを乞うとか、見返りに何を要求されるか分かったもんじゃねぇ」
偏見が過ぎるよ……とか言いつつジト目で俺を見てくる小町だが、あの人の本性を知らないからそういうことを言えるのだ。
まぁでも、小町があの人の腹黒さに染められるのも嫌なので、敢えて説明はしない。
言わぬがラフレシアである。
「それじゃ戸塚さんとか」
「戸塚というのは魅力的な案だけど、迷惑かけたくないし格好悪い所見せたくないし、残念ながら無しだな」
「ここでそんな理由聞きたくなかったなぁ。他にっていうと結衣さんは?」
「はっ、それこそ話にならんわ、由比ヶ浜なんて俺と同レベルかちょっと上程度だぞ?」
「勝ってもいないのに何でそんなに偉そうなの……? じゃあもう真打登場しかないよね、雪乃さんはどう?」
「雪乃なぁ、そりゃ成績は良いんだけど、教えてくれって俺が頼んでも鼻で笑って却下してくる予感しかしねぇよ、それも辛辣な罵倒付きで」
「えー、雪乃さんもダメとかさー、って雪乃ぉっ!?」
話の途中で、突然がたっと音を立てて立ち上がる小町。
大きく見開いた瞳のその奥が、内心の動揺を表すかのように大きく揺れていた。
そして次の瞬間、鼻息荒くこちらに詰めよってくる。
「雪乃って何!? 何なのお兄ちゃん、何で雪乃!? 何が雪乃!? どう雪乃!? っていうか如何な心境の変化がそこに!? 小町の知らない所でどんなドラマが展開してたのさっ! プリーズテルミー!」
「ちょ、ちょっと待て、少し落ち着けって小町」
怒涛の勢いに圧倒されかけながら、なだめようと試みる。
くそっ、ついうっかり名前呼びしたのが不味かったか。
しかし動揺し過ぎだろ、何を言ってるのかがさっぱり分からない。
とりあえず喋りを止める為、Dポップの一つを、ぽいっと小町の口の中へ放り込む。
むぐっと捲し立てていた口が閉じられた。
食べてる時は喋っではいけませんなんて行儀の基本も基本である。
きちんと教育が行き届いてる小町は当然それを守るのだ。良い子で本当に良かった。
小町はもぐもぐと咀嚼して、ごくんと飲み込んで。
「あーん」
口を開けて次を待っている。
あれ? 何かおかしくね?
読み通りの展開と思ってたら、全然そんなことなかったんだけど。
というか、そんな餌を待つ燕のヒナみたいなことされても。
ちらちらとこちらを窺う小町。
参った……そんな期待するような目を向けられてしまえば、逆らうことなんてできるわけもない。
「ほれ」
「あむっ」
仕方なく、次のドーナツを小町の口へと運ぶ。
次の一個、もう一個、と繰り返す内に俺の分は綺麗に消失。
六個あったはずなのに、結局一個しか食えなかった。
まぁいつものことである。
いやむしろ誤差の範囲と言うべきかもしれない。
小町が落ち着いたのならオールオーケーだ。
「ん……ご馳走さまでした」
「ご馳走さん」
手を合わせてぺこりと一礼。
して、落ち着いた所作で小町が姿勢を正す。
「雪乃さんだよ? あの雪乃さんがそんな名前で呼んでいいなんてさらっとすらっと言うわけないじゃん。びっくりだよもう。いよいよ二人に春が来て? くーっ、小町的にポイント高過ぎてもうあれだね、今夜はお赤飯焚かないとだね!」
「だから落ち着けっての、そういうんじゃないんだって。単にほら、陽乃さんのことを名前で呼んでたら、あいつが何か対抗心燃やしてそういう話になったんだよ。ホントそれだけだから」
で、そうやって名前を呼ぶ度にいちいち赤面してはからかわれるのも腹立たしいので、俺も練習しているというだけ。
言ってみればそれだけのことなのだ。
そうやって淡々と説明したんだが、小町はどうにも納得がいかない様子。
椅子に改めて座り直しつつも、何故かぷくっと膨れて不満を露にしている。
「むぅ、何か淡白。でも雪乃さんが男の子に名前で呼んでいいなんて、そうそうOK出さないと思うんだけど」
「そりゃあれだ、陽乃さんのことも知ってるヤツがそうそういないってだけだろ、名字で呼ぶと分かり難いんで名前で呼べって話だったし」
「えー? だってほら、お兄ちゃんのクラスの、えーっと誰だっけ? はや……はや……はやはち?」
「違う! いいか小町、その間違いだけは絶対にするんじゃない、今すぐ忘れろ」
こんな所でおぞましい言葉を思い出させるなよな。
某腐女子が聞いてたらエラいことだぞ。眼鏡をきらーんと光らせつつ飛んできて布教を始めかねん。
もし小町がその道に引きずり込まれたりしたら、俺が世を儚んで身投げするまである。いのちだいじに。
「葉山のことだろ、言いたいのは」
「あ、そうそう、その人その人。その葉山さんもさ、雪乃さんと昔からの知り合いなんでしょ? 確か。でも名字で呼んでたじゃん」
「いやそりゃそうだけどよ、葉山の場合は、どうしたって雪ノ下と相性合わないしなぁ。実際仲もあんま良くなさそうだし。だからじゃねぇ?」
「もう、別に雪乃って呼んだらいいじゃん、早いこと慣れないとほら。はっ、小町もお義姉ちゃんって呼ぶ練習しなきゃなの?」
「せんでいいって。つかそんな構えられたら言い難いんだよ。とにかく特別な意味なんてないから」
「絶対そんなことないと思うんだけどなー」
じとーっとこちらを窺ってくる小町だが、そんなことを言われてもどうしようもない。
実際、奉仕部の空気は甘いどころか辛辣さに満ち満ちているのが現状なのである。
そりゃ多少はあいつとの距離も近くなってるかもしれないけど、基本俺に対しては罵倒から入るという姿勢は小揺るぎもしていないのだから。
「ないない。大体この前の部活の時だって、最後に部室を出る前のあいつの台詞、呼吸する暇があったらさっさと片付けて出てけ、だぞ」
「わぁお、愛されてるぅ」
「めっちゃ棒読みじゃねぇか」
正に冷や水を浴びせられた、といった風に小町がトーンダウンしていた。
というか、むしろ引いていた。ドン引きである。
この場合、それは言った雪ノ下に対してなのか、言われた俺に対してなのか、判断に苦しむ所だ。
さておき、おっかしーなーとか小町が小首を傾げているのを見やりつつ溜め息を一つ。
その日にあった出来事は、きっと燃料投下にしかならないだろうから黙っておこう、と改めて決意する。
とは言っても、正直、雪ノ下が何を考えているのか分からないのは俺も同じなのだ。
あいつとの距離が縮まっているように思うのは気のせいじゃないと思うけど、その真意までは分からない。
あの透き通るような表情の影に、一体どんな感情が秘められているのだろうか。
知りたいような、知らない方がいいような……
「つーか話逸れ過ぎだろ、何の話してたんだよ、今まで」
「え? 小町のお姉ちゃん候補の吟味をしてたんでしょ?」
「違う、俺の数学のテスト対策の話してただろ」
「あ、そうだったそうだった、すっかり忘れちゃってたよ、てへり」
舌をぺろっと出しつつ笑って誤魔化す小町。可愛いから許す。
まぁ別に忘れられてても大して問題の無い話だし。
というか、このまま終わらせてもいいくらいだ。うん、そうしよう。
「つーことで話は終わりな」
「いやいや、終わってないよ? というか始まってさえなかったじゃん」
「始めんでいいだろ。気にするなって、最終的には黙って俺が我慢すればそれで丸く収まる話だし」
「何で良い話風に締めようとしてんの? 何も解決してないし。じゃなくて、お小遣い減らされちゃったら大変だよ、小町も困るよ」
何で小町が困るんだよ、と言いたいところだけど、それは単にこれから俺におねだり出来なくなるのが困るってだけだと容易に想像がつくから言わない。
ホントこの子の要領の良さときたら。まぁその件に関して俺に後悔は一切ないけどな。
小町の為なら大抵のことはできる自信がある。正に兄の鑑と言えよう。違うか。
「まぁ俺の小遣いはさておき、今更数学の勉強とかやってられねぇし、まずできるとも思えんし」
「だから誰かに教えてもらうとか――」
「待て、話がループしようとしてる」
「我儘だなぁもー。とにかく!」
小町はまたしてもがたっと勢いよく立ち上がり、俺をびっと指差してくる。
話のループは避けられたが、その結果強引にまとめられようとしていた。
甚だ遺憾であると主張したい。まぁ素直に聞いてくれる妹ではないんだけど。
「雪乃さんか誰かに教えてもらうか、お兄ちゃんが一人寂しく真面目に勉強するか、どっちかだよ! ちなみに最初のを選んだら小町ポイント三倍だから超お勧め!」
「いらんから。ていうか何? 俺が数学勉強するのは確定なの?」
「Exactly!」
「何でそこだけ無駄にネイティブっぽいんだよ、日本語で喋れ日本語で」
「そのとーり!」
「オーケー、とりあえず言いたいことは分かった」
「じゃあ?」
「だが断る」
「なんでーっ!?」
驚きに目を丸くする小町。
ネタは通じなかったみたいだけど、意思は通じたらしい。
とりあえず良かったとしておこう。
「いやだって数学とか俺には必要ないしさ。やらなくていいことなら、やらない。やらなければいけないことなら後回し。それが俺の信条なんだよ」
「ダメダメじゃん!」
小町は、ぱしんとおでこに手をやって大げさに嘆く。
振っといてなんだけど、ホントこいつノリがいいよなぁ。
これもコミュ力の一環なのだろうか。頼もしい妹で何よりだ。
生温く見守る俺の目の前で、小町はやれやれと肩を竦めてから、気を取り直すように俺にもう一度向き直る。
まだ折れないのか。全く、変なところで根性があるというか。
相手をするに吝かじゃないけど、そろそろ諦めてくれてもいいのに。
「お兄ちゃん、そこに直りなさい」
「直るも何も動いてないんだけど」
「口答えしないの。真面目な話だけどさ、やっぱり勿体ないと思うんだよ」
「勿体ない?」
「うん、お兄ちゃん地頭いいんだし、数学だってちゃんと勉強したらすごいできるはずなのに」
「んなことねぇって、それに必要ないから――」
「でも赤点とかってなって、それでお兄ちゃんが低く見られるの、何かやだし」
小町は、眉根を寄せつつ口を尖らせる。
拗ねた声と不満げな表情。
結局のところ、こいつは小遣いがどうとか以上に俺の評判の方を気にしてたってことか。
そんなことを言われてしまうと、どうにも否定の言葉が言い難くなっちまうだろうが。
「……」
「……ね?」
思わず言葉に詰まった俺を、上目遣いで窺う小町。
いつものおねだり体勢だ。
本当にとんだ策士さんである。
こうなってしまえば、もう完全に詰みと認めざるを得ない。完璧チェックメイト。
「分かったよ、分かった。じゃあとりあえずテスト勉強はちゃんとやるよ、参考書買ってきて。それでいいだろ?」
「さっすがお兄ちゃん! 分かってくれると思ってた! 愛してるよー!」
「はいはい、俺も愛してる愛してる」
「わぁお、感情こもってなーい」
感情こめて、んなこと言える訳ないだろうが。
さておき、いつものように明るい笑顔の小町を見ていると、それだけで陰鬱な気分なんて吹き飛んでしまう。
正直なところ数学の勉強とか面倒臭い事この上ないんだけど、まぁ小町の為という大義名分があるのならば仕方がない。
勘違いしないでよね、自分の為なんかじゃないんだから。
って、どんなツンデレだよ。どの方向を向いているのか全く分からない。
「じゃ、行こっか」
「は?」
ぼんやりと阿呆なことを考えていると、小町がすっと俺へと手を差し出してくる。
それを馬鹿みたいな顔で見返す俺。
何? 何の話? びっくりするほど脈絡も具体性もなくて、どう反応して良いか分かんないんだけど。
脳内で疑問符と戯れていると、仕方ないなぁとばかりに呆れ顔で肩を竦められた。
「だから、参考書買うんでしょ? 小町と一緒に行こ。思い立ったが何とかだよ」
「吉日な、そのくらい覚えとけよ」
「そうそう、それそれ。いいじゃん意味通じてるんだから。とにかく今日から勉強する為にも、今から買いに行こうよ」
「えー?」
「えーじゃないよ、可愛い小町とお出かけしたくないの?」
「可愛い小町と家で一緒にのんびりじゃ駄目なのか?」
「ダメ。小町といちゃいちゃしたいなら、ちゃんと買い物済ませて帰ってからだよ」
「いや、いちゃいちゃとかは別に」
「むー、その淡白な反応、小町的にポイント低いよ。もっとこう“ばっ、お前何言ってんの!?”とか動揺したら、小町的に胸きゅんな展開なのに」
「知らんわ」
くるくると表情を変えながら文句を言われても、俺としてはそれ以上の反応なんて返しようがない。
小町が可愛いのは否定しないというか全面的に全力で肯定するところだが、それはあくまで妹としてである。
期待の方向性が違うだろ、と突っ込んでおかないと色々と不味い所だ。
しかし何がお気に召さないのか、小町はまだちょっと膨れている。仕方がないか。
「分かったよ。じゃあ小町、一緒に買い物行くか」
「! うん、行こ行こ、それじゃー準備してくるから!」
ぱっと笑顔に変わると、言葉の余韻を残しながら自室へと駆け上がっていく。
動き早ぇよ、トムとジェリーか。
しかしキャラの動きが完全に音楽に一致してたりとか、あれって今でも普通に通じるレベルの超良作アニメだよね。やってることは割とえげつなかったりするけど。
いやそんな下らんこと考えてる場合じゃなかった。
こちらも準備を急がないと、また何を言われるやら分かったものじゃない。
せっかく直った機嫌をまた損ねる訳にもいかないし。
少し遅れて俺も自室へと戻り、出掛ける準備に取り掛かる。
まぁ結局小町を待つ時間の方がずっと長かったわけだが。男の立場は常に悲しい。
それから暫く経って小町も準備完了。
家を出て、二人で連れ立って目的地へと向かって歩き出す。
しかし休日だけあって、歩く道では結構な人とすれ違う。
人が多い所って落ち着かないんだよなぁ、と若干テンションが下がる俺と対照的に、小町ははしゃいでいると言っていいくらいのテンションの高さだった。
それこそ出がけに酒でも飲んだのかってくらい。
「おっかいものー、おっかいものー」
「変な歌を歌うなって」
「そういや久しぶりだよね、二人でお出かけって」
「ん? あぁそういやそうかも」
俺の腕にしがみつくようにしながらご機嫌な様子の小町。
目が合うとにっこり笑って嬉しそうに話しかけてくる。
何がそんなに楽しいのかといって二人でお出かけしてることとか、それって八幡的にポイント高いよと思わず言いそうになる。
いやもちろん断固として言わんけど。
さておき、思い返せば確かに随分こうして二人きりで出掛けることがなかった気もする。
まぁ元より俺が休日に出かけるってこと自体が稀だという事情もあるけど。
何にしても参考書を買いに行く程度のことでこれだけ楽しそうにしてもらえるなら、兄としても実に喜ばしい。
「んで、お昼はどうしよっか?」
「帰ってからでいいんじゃね?」
「却下だよ。せっかくのお出かけなんだし外で食べようよ」
「まぁいいけどさ、じゃあ買い物終わってから適当に探すってことで」
「おーけー、それじゃあお店は小町にお任せっ」
「あー、んじゃ任せるわ」
空いてる手を天へと突き上げて気合も十分。
昼飯なんかでそこまで力入れんでもと思わなくはないが、まぁその辺はテンションの高さがなせる技なんだろう。
しかしこのエネルギーの差はどこから来んのかね? 一応俺も小町も同じもの食べてるはずなんだけど。
俺の燃費が悪過ぎるのか、小町の燃費が良過ぎるのか。
まぁその両方ってのが一番有力な気がする。何か色々悲しいけど。
さておき、通りからバスに乗って向かうのはいつものららぽーとだ。
捻りも何もあったもんじゃないが、そもそも参考書買いに行くのに捻りを利かせる意味はない。
それに小町もついでに買い物とかあるかもしれないし。
常に備えあれば憂い無しなのだ。
事あるごとに憂いがありまくる人生送ってる気がしないでもないけど。
「お兄ちゃーん、良いのあったー?」
「いや、つーか数学よく分からんのに参考書の良いも悪いも判断できねぇし」
ららぽーとに到着してすぐ本屋に入り、小町と別れて参考書コーナーに辿りついたところで、俺は割と本気で頭を悩ませていた。
あれやこれやと手に取ったり、ぱらぱらとめくってみたり、矯めつ眇めつ吟味していたのだが……何が良いのか見当もつかないのだ。
とはいえ、それもまぁある意味では当然の帰結と言えよう。
実際、知らない者が事の良し悪しを判断できる道理なんてあるわけもない。
頭を抱えている俺のところへ、自分の見たいものを見終えたのか、小町がてててと寄ってくる。
と、俺の手元を覗きこんで嫌そうな顔に変わった。
「うわー、何か難しそう、高校生になったら小町もこんなのやんなきゃダメなんだね、ちょい憂鬱」
「お前さ、現在進行形でそれを俺にやらせようとしてるってこと忘れてないか?」
「それはそれ、これはこれ」
いっそ清々しいくらいに勝手な言い分だった。
まぁいいけど、どうせ小町も通る道なんだから。
しかし参った、こんなに分厚いとそれだけでやる気失くすわ。
「もういいや、とりあえず薄いのを一冊買ってそれで勉強するってことで」
「何か適当だなぁ。それで大丈夫?」
「赤点脱出くらいなら何とかなるだろ」
「まぁそれもそっか、少しでもやり易い方がいいよね」
うんうんと頷く小町。
何にしても同意が得られたなら話は早い。
小町を置いてレジへと向かう。
精算を済ませたところで、待ってましたとばかりに小町が横に並んで俺の顔を覗き込んでくる。
「ちゃんと買えた?」
「おい、初めてのお使いじゃないんだから。買えんわけないだろ。俺を何歳児だと思ってんだ?」
「もー、すぐそうやって話の腰折るんだから。そこは素直に買えたって返してくれればいいの」
「めんどいなぁ。んで、とりあえず用は済ませたけど、飯はどうすんだ?」
「どうしよっか。でも丁度お昼時だから、どこもいっぱいって感じだし。困ったね」
店を出て歩きながら、きょろきょろと周りを見回す小町。
確かに、どこを見ても人で溢れている。店先から通路からもう人ばっかり。
頭の中で人間って文字がゲシュタルト崩壊を起こし始める勢いだ。
何かもう、この光景見てるだけで胸やけしてくる。
「ったく、どいつもこいつも休みってーと外に出てきやがって。暇人ばっかりか」
「いや小町たちも一緒でしょ」
「なぁ、もう帰るってことでいいんじゃね? 買う物買ったしさ」
「えー、ダメだよ、せっかく二人でお出かけしてるのに。もう、そういうの女の子とのデートの時にしちゃ絶対ダメだからね」
「まずデートの機会がないから安心しろ」
「むしろ不安になるんだけど、それ。ていうか、そろそろ小町を安心させてほしいなーとか思ったり。ちらちら」
ちらちらとわざわざ口で言いながら、上目遣いでこちらを見てくるが、敢えて無視することにする。
何を期待してんのか知らんが、答えようも応えようもないし。
触れぬが吉だ。
「まぁ帰るのは無しにしても、じゃあ昼はどうすんだ?」
「んー、そだねー。できればCafeがいいんだけどなぁ、ちょい難しそう」
「だから何で今日のお前はそうやってちょくちょくネイティブっぽくなるんだよ。何? その無駄に良い発音は何かのブームなの? 俺の知らない所で千葉に何が起きてるの?」
「まぁまぁ、何か今日はそういう気分なんだよ」
どんな気分だよ。
何だかなぁ、小町こそ決して地頭は悪くないはずなんだけどなぁ。
随所で残念な感じになるのは、ホント勿体ないというか何というか。
「でも参ったね、どこもいっぱいだよ」
「じゃあ、どっかで大人しく待つか?」
「んー、でもきっとどっか空いてる所が……お?」
せわしくきょろきょろしていた小町が、ふと俺の腕を掴んで立ち止まる。
並んで足を止める俺に向かって、袖をくいくい引きながら、ある方向を指し示す。
そちらに目を向けると、とあるファーストフードのお店――の一角。
よく見ると、小町が示したそこは何故かそこまで混んでなさそうに見える。
より正確には、不自然に空席があるように見えると言うべきか。
休日の昼時のファーストフード店だというのに。
しかし成程、確かにあれなら俺たちも席に座って、ゆっくりお昼と洒落込めるかもしれない。
その明らかに不自然な点に目を瞑りさえすればの話だけど。
ちらと隣の小町に目を向けるが、何故か一切疑問を覚えていないようなつぶらな瞳で見返される。
え? マジで?
「ね、結構空いてるし、あそこにしようよ」
「いや確かに空いてるけどさ、何か不自然じゃね?」
「へ? そっかな? 単にあのお店が人気ないってだけじゃない?」
「いや、それはそれでどうなんだって気もするけど。そんな店で食いたいかって点で」
「人が少ないだけだし大丈夫でしょ。何心配してんの?」
不思議そうに小首を傾げる小町だが、どうにも俺としては素直に賛同できかねる。
どうにもこうにも嫌な予感がするのだ。虫の知らせっていうか。
碌でもないヤツが席を占拠してるとか、味が致命的にトチ狂っててマニア専門店になってるとか、バカみたいに値段が高いとか。
こういう悪い方向の予感って大抵当たるんだよなぁ。
休みの日に、それも小町が一緒の時にそういうのとかマジで嫌なんだけど。
という意思をこめた視線を送ってみるも、小町には届かなかったらしく、ぐいぐいと俺を引っ張って店へ連れて行こうとする。
ちょっ、Wait a minute! あ、伝染っちゃった。
「ほらほらお兄ちゃん、行こうよ。小町お腹空いてきたし」
「いやだからちょっと待てって、絶対何かあるぞ、あれ。変なヤツがいたらどうすんだよ」
「だからぁ、人が一人もいないんだったらともかく、それなりにお客さんいるし、大丈夫だって。ホントお兄ちゃんびびりなんだから」
「ばっ、お前何言ってんだよ、自然界では警戒心を失った動物から氏んでいくんだぞ、危険を事前に察知して回避するというのはむしろ生き抜くために必須の資質で、それはつまり逆説的に俺の優秀さの証拠でもあり――」
「いいからいいから、あ、すいませーん」
言い募る俺を一蹴してカウンターへ向かう小町。
そこで笑顔のお姉さんと目が合ってしまう――あぁ、これじゃもう逃げられない。
さすがに俺も観念して、小町と一緒にメニューを見て、適当なセットを選ぶ。
とりあえず値段は問題なし。というかお店自体は普通も普通。
となると……ちらと客席の方に視線を向ける。
やはり一角だけ不自然に人がいない。というか周囲の人が遠巻きにしてるって感じか?
いずれにしても、確かに俺たち二人くらいなら余裕で座れる余裕があるのは事実だった。
「お兄ちゃんお兄ちゃん、頼んだの出てきたよ、行こ」
「ん? お、おう」
呼ばれて視線を戻すと、準備万端な二枚のトレイ。
見た感じでは普通に美味しそうである。
さて、あとはこれをどこで食べるかだけど。
「って、何でお前は迷わずそっちに行こうとしてんだよ」
「え? 当然でしょ、空いてるんだもん」
「いや、だから――」
止める間もなくずんずん進む小町。
慌ててその後を追う俺。
おい、だから変なヤツがいたらどうすんだよって。
しかし元より広くも無い店内。
抵抗空しく、あっという間に問題の一角に辿り着いてしまった。
回り込むようにして辿り着いたテーブル。
さっきまで背後の壁が邪魔で見えなかったそこに座っていた人間を目の当たりにして、思わず動きを止めてしまう。
予想外もいいところだった。
「む? 誰かと思えば八幡ではないか」
「材木座かよ……」
「む? 誰かと思えば八幡ではないか」
「材木座かよ……」
「ふむん、しかしよもやこんな所で会うことになろうとはな――げに運命の導きとは侮れぬ。いや、これでこそ待っていた甲斐もあったというものか」
「だから言ってることが相変わらず訳分かんねぇんだって、お前は。結局予想外だったのか想定内だったのか、一体どっちなんだよ?」
席に座ってハンバーガーを食べていたのは、(残念ながら)見知った顔――材木座義輝その人だった。
というかホントに何言ってんだろうね、こいつ。
一文の中で意見を覆して何を狙ってるの? 一人だけ違う時空を生きてるの?
まさか一秒前の自分の言葉も忘れる程に日本語が不自由だったとは。
さすがゴミカスワナビと呼ばれていただけのことはあるな。
にしても、せっかくの休日で小町と一緒にいる時にこいつに会うとか、やっぱり虫の知らせに従っときゃよかった。
誰が得するんだよ、こんな展開。
しかしまぁ、そう考えると千葉って狭いよね、意外と。
俺の生温い視線に気づかないまま、材木座がふふんと鼻を鳴らす。あ、ちょっといらっときた。
「ぬふぅ、いつも言っていることだが、八幡いる所に我あり。然らば我らがここで出会うのもまた必然だったと言えよう」
「気持ち悪いから止めろ、お前にそう言われて喜ぶ趣味はねぇよ」
「ならば、ここはより親しみを込めて兄者と呼ぼうか」
「オーケー、埋められるか沈められるか、好きな方を選べ。海か大地か、望む方で自然へ還してやる」
「ふひ……お、落ち着け我が相棒よ、目がマジになってるから。冗談、冗談だって」
「びびるくらいなら最初から言うなよな、ったく。あぁ、でもとりあえずもう一回釘刺しとくけど、小町には指一本触れんなよ?」
「う、うむ、魂の同胞のたっての頼みとあらば是非も無い」
「だから訳分からんし」
割と本気で睨んでみると、材木座はかくかくと首を上下に振ってきた。
何? 水飲み人形の真似か何か? 結構上手いじゃん。
もういっそお前その芸で食ってったらどうだ?
可能かどうかは知らんけど、今よりは痛さがマシになると思うぞ、多分。
「もーお兄ちゃん、さっきから何言ってんの? 早く座って食べようよ」
「そうだな。なぁ材木座、ここら辺空いてるみたいだから使わせてもらうぞ」
「なに? それは我と共に昼餉を食したいということか?」
「……まぁ何でもいいよ、とにかく座るからな」
後ろから小町にせっつかれたので、とりあえずテーブル一個分開けて席に着く。
間違っても小町と材木座を隣り合わせる訳にも向かい合わせる訳にもいかないし。
そして当然、小町は俺の向かいに腰掛ける。
うん、完璧。
「どうもー中二さん、ここ使わせてもらいますねー」
「ほむぅ、か、構わぬ、八幡の妹御であるならば遠慮など不要である」
にぱっと笑う小町を見てしどろもどろになる材木座。
視線がビリヤードのブレイクショットをくらったみたいにあっちこっち跳ね回ってる。
お前ホント動揺し過ぎだろ。
見ていて面白い光景と言えなくも無いけど、正直どうでもいいので放っておくことにしよう。
何にしても、まずは腹ごしらえだ。
ということで、二人でトレイに乗ったバーガーセットを頂く。
それなりに腹も減っていたので、あっという間に大半が平らげられてしまう。
と、腹具合も少し落ち着いた所で、気になっていたことを聞いてみることにする。
「んで材木座は何でこんなとこにいんの? お前の主な生息地ってゲーセンかアニメショップら辺だろ?」
「ふむ、概ね間違ってはおらん。実際さっきまでゲーセンにいたしな、我。ここには内なる欲望を満たす為に訪れただけだ」
「要するにゲーセンに遊びに来てて、腹減ったから飯食いにたまたまここに来たってことか」
「然り」
鷹揚に頷く材木座だが、そこで偉そうにできる理由が全くもって不明だった。
まぁ小町に説得されて数学の参考書を買いに来ただけの俺がどうこう言えた身分でもないかもしれないけど。
「んー、でもホント、どうしてこの辺こんなに人いないのかな?」
ずずっとストローからジュースを吸い上げつつ、小町が周囲を見回している。
不思議そうに小首を傾げているが、俺に言わせれば、その原因は目の前のこいつが何かやらかしたことにあるとしか思えない。
じとっと半眼を向けてやると、案の定というか材木座はすっと目を逸らした。
「ぬ、ぬぅ、それはあれだ。我の造り出す絶対領域を突破できるだけの魔力を持つ者がそうそうおらぬというだけのこと。喜べ、お主たちは選ばれたのだ」
「選んでいらんわ。つか何の誤魔化しだよ」
言いつつ材木座の席の辺りに視線をやると、こいつが持ってきたと思しき鞄が一つ。
その口が少し開いていて、そこから何やらちょっと露出度高めの女の子の絵があるのが見えた。
あぁ知ってる知ってる、あれってちょっとえOちぃ感じの漫画だったよな、確か。
ちなみに何でそれを俺が知っているかについては黙秘しておく。言わぬが花なのだ。
しかしまさかこいつ、こんな公衆の面前でそんな萌え系のマンガ開いてたんだろうか?
だとすれば、一周回ってむしろ逆に感心してしまうぞ。
そんな俺の視線に気づいたのか、材木座が慌てて手元の鞄の口をさっと閉じる。
しかしまぁ時既に遅しもいいところだった。
一瞬の沈黙。
「――お前、ある意味マジで勇者だな」
「もはははは、何を言うか八幡よ、お主も同類ではないか」
「同類かどうかはともかく、さすがにこんな所で堂々とそれを読む勇気は俺にはねぇよ」
さりげなく仲間に引き込もうとしてんじゃねぇっての。
落ちるなら一人で落ちろ。
「かっ、何を戯言を。自らの好む物を何故隠す必要がある? 自身の趣味・嗜好を偽らずに生きることが許されぬのならば、そんな世界をこそ我は拒絶しよう!」
「いや格好いいこと言ってるつもりか知らんけど、お前今隠したよな、いや今っつーか多分もっと前に」
「う、うむ、それはやんごとなき事情があったが故の苦渋の決断だ」
そわそわと視線を泳がせる材木座。
あぁ成程、要するに意気揚々と席に着いて本を開いたけど、そこで周囲の冷たい視線に気づいて慌てて隠したってことか。
我が道を行くと言う割には周囲の目を気にするんだよな、こいつ。
本当に空気を読める奴なんだか読めない奴なんだか。
「まぁいいけどさ、とりあえずちょっと向こう行ってくれる?」
「何故さらっと排除しようとする!? 最初に席を取ってたのは我だぞ!」
「いいからいいから」
「くっ! まさか我を斯様に邪険に扱おうとは、魂で繋がった相棒に何たる仕打ち……ふん、女にうつつを抜かして、そこまで堕ちたか八幡よ」
「は? お前何言ってんの?」
「とぼけるな、お主が先週に何をしていたか、我が知らんとでも思っているのか?」
「いや、だから――」
「え? なになに? ちょっと中二さん、その話詳しく」
俺の発言を遮って、小町が凄い勢いで食いついた。
テーブルから身を乗り出しつつ、材木座に期待の眼差しを向けている。
む、何か腹立たしいが、対する材木座の方は明らかに気圧されて狼狽えてるので、これは不問にしておいてやろう。
「ぬ、ぬぅ、それはあれだ、その――」
「小町食いつき過ぎ、落ちついて席に戻んなさいって」
「お兄ちゃんちょっと黙ってて、小町的にこれは聞き逃せない話の予感がするから」
言いつつも、無理のある体勢だったからそれなりに辛かったのか、乗り出した身を戻す小町。
興奮未だ冷めやらぬって感じではあるけど。
何でこういう話には入れ食いなんだよ。少しは警戒しろっての。
実際、聞いてるこっちは気が気でないのだ。
材木座の場合、当て付けにあることないこと言う可能性が否定できないし。
あんまり変なこと言ったら鼻にストロー刺してやろう。
俺が密かに決意をしていると、小町との距離が開いた事で落ち着いたのか、材木座は一つ呼吸をして遠くを見やる。
「ふ、あれは先週の安息日のことだった――」
「何? お前キリスト教にでも改宗したの? 普通に日曜って言えよ」
「我はいつもの定められた運命の道筋に沿って街を探索していたのだが」
「あ、その辺いいんで。結論だけ言っちゃってください。兄がどこで誰と何をしてたんですか?」
「ふ、ふむ、我が見たのは、八幡があの冷徹なる御仁と並んで歩いている姿だった。最初は見間違いかとも疑ったがしかし――」
「だ・か・ら! どこで! 誰と! ですか!? もー、それじゃ分かんないでしょう。ここが一番大事なんですよ? 分かってます?」
「あ、えっと、ららぽーとで、奉仕部の部長さんと、歩いてるのを、見たんです、けど……」
しどろもどろな言い回し。あぁ材木座のヤツ、完全に素に戻ってやがる。
相変わらず女子に詰め寄られるのに弱いよな、こいつ。
俺? 俺はそもそも女子に詰め寄られること自体ないから、弱いとか強いとかもない。ぼっちマジ最強。
そんな風に現実逃避していると、小町がぐりんと顔を向けてきた。
にんまりとちょっと悪そうな笑みを浮かべながら。
あ、駄目だこれ、こいつまた何か変な風に曲解して受け取ってる予感がするぞ。
「もぅ、何さお兄ちゃんてば、先週陽乃さんに呼ばれた後にちゃっかり雪乃さんとデートしてたんだぁ。なーんだ、陽乃さんに散々おちょくられただけとか言ってたけど、やることちゃんとやってんじゃん、照れ隠しだったのかこのこのぉ」
「待て小町、その言い方は語弊があるぞ。デートじゃないから。全然デートでも何でもないから。単にあれだ、あの時陽乃さんが雪ノ下のヤツをその場に呼んでて、それから色々あって陽乃さんが帰っちゃったから、代わりに買い物に道案内役としてついてっただけでだな」
「誤魔化さなくていいって。それよりお兄ちゃん名前名前、ちゃんと雪乃って呼ばなきゃ、でしょ?」
「誰がこんなとこで――」
「な、なぬー!」
小町の追及を否定しようとしたところで、突然がたっと立ち上がる材木座。
わなわなと手を震わせて、驚愕の表情をこちらに向けている。
というか、こっちの方がびっくりしたわ。
「な、何だよ材木座、驚かせんなよな」
「は、八幡! 貴様どうせいつも通り一方通行だろうと思っていたら、いつの間に我を差し置いてそんな女子と名前で呼び合うなどというけしからん関係に!? 穢れておるぞ!」
「だから違うって言ってんだろ、俺と雪ノ下は別に何も――」
「あ、何か最近雪乃さんの方から名前で呼んでって言われたみたいですよー。手作りクッキーもらったりとかしてたし。もどかしいけど、こうちょっとずつ育んでいってるって感じがいいですよねー」
「に、にゃにぃ! ぷじゃけるな貴様ぁっ!」
さり気に投下された小町の爆弾発言が駄目押しになったのか、材木座は真っ赤になりながら俺を指差して罵ってきた。
何なら頭から湯気が噴き出してんじゃないのかって錯覚するほどの怒り方だ。
さながら沸騰したヤカンを眺めているような気分である。つまりは触るな危険。
しかし何でそんなに意味深に煽るかなぁ、小町も。
いつだってしわ寄せは俺に来るんで止めてほしいんだけど。
俺の心中を他所に、材木座は憤懣遣る方無いとばかりに地団駄を踏みつつ涙目になっていた。
いや、泣くなよこんな下らんことで。
ちょっとは冷静に俺の話を――と思いつつもどうせ聞いてくれないだろうから諦めることにする。
そしてその判断は悲しいくらいに正解だった。
「このうなぎり者めっ! 惨めにフラれて路頭に迷え! ちくしょう、八幡なんかもう知らん! 二度とゲーセンに誘ってやらんからな!」
「裏切り者な。あと別に誘ってほしいって頼んだ覚えないから」
捨て台詞を残して、だっと駆け出す材木座。
それでも途中でトレイとごみはきちんと片づけていく辺り、割と躾は行き届いてるのかもしれない。
しかし何か変な誤解されちまったじゃねぇか、全く。
まぁ言いふらすようなヤツじゃない(というかその相手がいない)から事実上問題は無いとはいえ――
「……」
「ん? どしたの? お兄ちゃん」
ちらと小町にジト目を向けると、何らやましい所はありませんと言わんばかりの無垢な笑顔を返された。
どうやら俺の非難の意思は微塵も伝わらなかったらしい。
あるいは伝わったけど敢えて無視しているかだ。
「どしたのじゃねぇよ、あいつ絶対変な勘違いしてんぞ」
「小町的には勘違いじゃないと思ってるんだけどなー、ていうか嘘は一つも言ってないし」
「だから……はぁ、まぁいいか、材木座なら大丈夫だろうし。でも他の奴にはそういうこと言うなよ?」
「えー? なんでー?」
眉を寄せながら頬を膨らませて、目一杯不満ですってアピールしてくる小町。
というか、そもそも俺と雪ノ下の間にこいつが邪推するような何かがあるわけでもないのに、何でそんなに文句言いたげなんだよ。
むしろ俺の方が文句を言ってもいいんじゃないだろうか。
「なんでも何もないだろ、そもそも雪ノ下とデートとかしてないんだって。あれは買い物に仕方なしに付き合わされたってだけでさ」
「いやそれこそ無いでしょ。あの雪乃さんが仕方なしで誰かを連れ回したりとかすると思う?」
「そりゃ、まぁそうかもしれんけど――でも状況によるだろ、そういうのって。道に迷ったりとか困ってる時なら嫌々でも」
「だからぁ、雪乃さんが嫌々誰かと一緒に行動なんてするわけないじゃん。本当に嫌なら一人で苦労する方を選ぶでしょ、雪乃さんなら。大体お兄ちゃんが付き合わされたって言うってことは、誘ったのは雪乃さんの方なんでしょ? つまりはそういうことなんだよ」
「? どういうことだよ?」
「はぁ……」
小首を傾げていると、やれやれと言わんばかりに大仰に肩を竦められた。
だから何で今日の小町はちょくちょく欧米ナイズされてんだよ。
もしかして俺が知らないだけで、何か英語圏の人をリスペクトするようなイベントでもあったの?
「ホントお兄ちゃんってどうしようもないよね、何でそんな朴念仁なの?」
「さり気なく兄をディスるのは止めろっての。つーかお前、最近雪ノ下の影響受け過ぎだろ」
「とにかく! お兄ちゃんはもうちょっと人の言葉を素直に受け取るべきなのです」
「はぁ」
びしっと俺を指差してくる小町。
行儀が悪いから止めなさい、とはどうにも言い難い空気だった。
でも正直そんなこと言われても反応に困る。
「むぅ、何か気の無い返事だし」
「信じる者がバカを見るこの世界で、そんな素直になれとか言われてもなぁ」
「だから捻くれ過ぎだって、もう。そんな誰彼構わず信じろなんて言ってないでしょ。ただ雪乃さんの言うことは信じなきゃダメだよって言ってるの」
「いや、そりゃまぁ雪ノ下のことを疑う気なんてないけどさ」
そんな改まって言うことでもないだろう。
雪ノ下のことまで信じられなくなったら、それはもう本当に誰も信じられなくなったと言うに等しい。
その時は完全に社会から脱落してるぞ、俺。
「ふーん……それならまぁ、今はそれで良しとしておくね」
「だから何でそんな上から目線なんだよ」
俺の目をじっと覗き込んでいた小町だったが、少しして満足げに頷いた。
その生暖かい視線は止めてほしい。聞いちゃくれないけど。
しかしとりあえず落ち着いたらしいので、それで良しとしておこう。
「とにかく他の奴には喋らないでくれよ、本当に」
「大丈夫だって、お兄ちゃんを困らせるようなことはしないから」
「何か引っかかるけど……まぁいいや。じゃあ小町、そろそろ帰ろうぜ」
「はい? 何言ってるのお兄ちゃん、これで帰っちゃうなんて勿体ないじゃん、却下だよ却下」
「いやでも用事も済んだし、何か疲れたし、帰って家で休みたいんだけど」
「はぁ……お兄ちゃんってホント女心が分かってないよね」
「んなこと言われてもなぁ」
大仰なため息の後、ちょっと蔑んだような目で見られてしまった。
ちょっとこれ、本当に雪ノ下の影響受け過ぎじゃないの? その内、息するように俺を罵倒し始めないだろうな?
お兄ちゃんは小町の将来が心配です。
「とにかく、女の子と一緒の時に疲れたとか禁句だよ」
「えー? つーか何でそんなことで怒られてんの? 俺」
「とーぜんじゃん。これから雪乃さんとかとデートする時だってたくさんあるかもだし、もう今から小町がばっしばし鍛えちゃうからね!」
「氏ぬほどいらんお世話だっての――んで、結局どうすんだ? これから」
小町が何やら鼻息荒くやる気満々だったので、矛先を逸らすべくさり気に話題を軌道修正。
これ以上しんどい面倒事を背負わされちゃ堪ったものじゃない。
いらん思考よ吹っ飛べ。
願いが通じたのか、小町の動きがぴたりと止まり、思案するように口元に指をあてる。
「んー、どうしよっか」
「何か買いたいもんとかないのか?」
「今は別にないかなぁ」
「それじゃあどうすんだよ」
「目的とかいいじゃん、適当に見て回ろうよ、いいの見つかるかもだし」
「んな行き当たりばったりな」
「いいのいいの、お兄ちゃんと一緒に見て回るってのが大事なんだから。これ小町的にポイント高いよね」
「そのポイントの基準が分からないんだって」
突っ込みを入れつつも、別に反対するつもりはない。
正直だるいはだるいけど、適当に見て回るだけで満足してくれるなら安いもんだし。小町の為だし。
ということで方針も決まり、トレイとかを片付けて店を出ると、小町が俺の手を掴んで引っ張りつつ歩き出した。
並んで歩きながらその横顔を窺う。
「で、まずどこから行くんだ?」
「だから適当だって。あっちの方から行ってみよー」
「了解了解、行き先は任せるわ」
「任されましたー」
いつも通り元気な笑顔で意気揚々と歩く小町。
機嫌が良さそうで何よりだ。
あとは何も考えず大人しくついていくだけ。実に楽なもんだ。
願わくば人生もこうありたい。口に出したら怒られそうだから言わないけど。
小町は人の流れに逆らわず、エスカレーターへと向かって歩いている。
そうして気楽な気分で歩くこと暫し。
周囲に人ばかりと言っても、只の背景だと割り切ってしまえば気にもならなくなってくる。そんな頃合だった。
色を失くしたような無味乾燥な景色の中に、ふと一際鮮烈な輝きを見つけた。
さながら舞台の上に立つ主演女優にスポットライトが当たった瞬間のように、目を、意識を惹きつけられてしまう。
時を同じくして、小町も気付いたらしい。ぽそりと隣から呟く声。
「あれって、ひょっとして雪乃さん?」
「あれって、ひょっとして雪乃さん?」
ショッピングモールの案内のパンフレットを手に、右へ左へと視線を彷徨わせているのは、紛れも疑いようもなく雪ノ下雪乃その人だった。
ワインレッドのロング丈スカートにベージュのカーディガンという秋色の落ち着いた装いの上に、艶やかな黒髪が踊っている。
例によって例の如く、通りかかる人が振り返ったり、近くで屯っている連中がちらちら視線を送っていたりと結構な注目度だが、当人はそれどころではない様子だ。
もっとも何をしているかは想像するに容易い。きっとまた道に迷っているのだろう。
けれど、そうと分かっていてもなお、長い黒髪をなびかせながら透き通るような表情で左右を窺っているその姿は、誰しも惹かれずにいられない。
困ったように少し眉を寄せているその憂いの表情は、見ている側の方がため息をつきたくなる程の魅力を湛えている。
気付けば、さっきまで無色にも思っていたはずの風景は、その瞬間に一陣の風が全て吹き飛ばしたかのように、鮮やかな色合いを取り戻していた。
雪ノ下は柔らかく景色に溶け込み、そしてただそれだけで周囲の風景を神秘のヴェールに包んでしまっている。
ショッピングモールの何の変哲もない窓ガラスさえ、雪ノ下の背景にあるというだけで、さながら荘厳な大聖堂のステンドグラスであるかのような錯覚を抱かせてしまう。
燦々と降り注ぐ陽光すら彼女を祝福しているようで、絵心のある人ならばきっと、この景色をモチーフにさぞ素晴らしい絵画を創り出せることだろう。
新雪のように真白な肌と黒曜石のように輝く黒髪の鮮やかなコントラストが、彼女の存在感から現実味を削り取ってしまっている。
夢か現か幻か――人の世界にありながら、どうしてこうまで幻想的なのだろうか。
強く主張するような華麗さはないけれど、そっと寄り添うような可憐さを携えた立ち姿。
そのあまりにも清らかな景色を壊してしまいそうな気がして、とても声を掛けることなんてできなかった。
みっともなくも、言葉もなく、ただ立ち尽くすのみ。
さながら人の無力をまざまざと見せつけられているかのように。
「雪乃さーん、こんにちはー」
そんな静寂の空間に思いっきり風穴が開く。
俺の懊悩や葛藤など何処吹く風、と小町は果敢に雪ノ下へと声をかけつつ歩み寄っていく。
この空気をまるで気にしないとか、小町さんマジぱねぇ。
しかし、良くも悪しくもマイペースなその振舞いにつられて、俺の方も再起動できた。
なので、先を歩く小町にのこのことついて行く。
とそこで、呼ばれた雪ノ下が振り返って小町を認め、その表情を少し緩ませる。
「あら小町さん、こんにちは、元気そうで何よりね」
「いーえー、雪乃さんこそです。でもでもこんな所で会えるなんて、凄く嬉しい偶然もあるんですねぇ」
「ふふ、そうね――ところで少し気を付けた方がいいわ、目つきの怪しい男があなたの跡をつけてきてるから」
「おい、会って早々それかよ、ご挨拶にも程があるだろ、雪ノ下」
小町を見ていた時の穏やかな表情から一転、俺を見る時にはすーっと冷たい目に変わっていた。
お前はあれか、いちいち俺のことを罵倒してからじゃないと会話に入れない病気にでもかかってんのか。
医者行け、医者。もう手遅れかも知らんけど。
「やー確かに目はちょっとアレですけど、一応これでも小町にとってはそれなりに頼れるお兄ちゃんなんで、どーぞご安心を」
「お前もお前で実はフォローする気ないだろ」
「えー? ちゃんとしてるじゃん」
「……いやまぁいいけどさ」
そんな今更なことを言い合ってても埒が明かんし。
しかし、何で休みの日にこうまで知り合いに会うかなぁ。
千葉って結構広いはずなんだけど。
ぼっちの行動パターンが似通うというのも、あながち妄言とまで言い切れないのかもしれない。
そんな風にやるせない感じに浸っていると、わざわざ聞こえよがしにため息をついて、雪ノ下が改めて俺へと向き直る。
「それにしても随分奇遇ね。あなたが休みの日に出歩くなんて、明日は嵐でもくるのかしら」
「珍事みたいに言うなよな、いくら俺でも年がら年中家に閉じこもってるわけじゃねぇよ」
「そう、ではとうとう追い出されたということね」
「違うっつの。勝手に俺んちの家庭事情を想像して完結させるの止めてくれる? 今日はあれだよ、小町に上手いこと誘導されて買い物に来ただけだから」
「結局主体性はないんじゃない。あなたの生き方はどうでもいいけど、せめて小町さんには迷惑をかけないようになさい」
相も変わらぬ上から目線でのお言葉だった。あまりのありがたみに言葉もないわ。
しかし俺への文句はさておき、何でお前が小町の姉みたいに振舞ってんの?
小町の為に生きてると言っても過言じゃない俺に対してその忠告とか、おこがましいにも程があるぞ。
口に出したら小町にさえ引かれそうだから言わないけど。
「雪乃さんもお買い物ですか?」
「えぇ、せっかくの休みだし、色々と見て回ろうと思って」
翻って、小町の質問に対しては淡く微笑みながら返す雪ノ下。
びっくりするくらいの温度差だった。砂漠の昼夜でもこうは行かない。
大自然よりも過酷とか、雪ノ下さんマジぱねぇ。
それにしても、この辺の使い分けを見ていると、姉との血の繋がりを感じるね。
もしかしたら、この微笑みが徹底的に強化されたら、陽乃さんのあの外面みたいになってしまうのかもしれない。
んー、そう考えるとちょっと微妙な気分になるな。もちろん雪ノ下ならそうはならないと確信はしてるけど。
まぁとりあえず買物だってんなら――
「んじゃ、そっちの邪魔するのもなんだし、俺たちはこれで。また学校でな」
「そうね、じゃあ――」
「ちょーい待ちっ! はいストップ、二人とも良い子だから待って下さいよー」
「何だよ?」「何かしら?」
「あーもう! 何でそういう時だけ綺麗にシンクロできるの!? 首を傾げる角度まで一緒だし! じゃなくて、せっかく会えたのにこれでさよならとか寂し過ぎるでしょ?」
「いや、んなこと言われても」
そこで小町が慌てる理由が分からない。俺たちの行動のどこに問題が?
ちらと雪ノ下の様子を確認してみるが、相も変わらぬ透明な表情で、何を考えているかは容易には窺えない。
が、微かに視線を小町から逸らしているところから見て、どうも何かを隠そうとしている気がする。
というか、わざわざ道に迷うことを覚悟でこんな所まで出張ってきているというのだから、何か目的はあるはずだ。
総合的に判断するに、多分あれだ、期間限定か店舗限定のパンさんグッズあたりが狙いなんだろう。
確かここにもディスティニーストアがあったはずだし。
だとしたら、むしろここでさよならしない方が怒りを買いかねない。
だってこいつ、パンさん好きを隠そうとしてるみたいだし。
少なくとも、小町に知られることを喜んだりはしないだろう。
ならば黙って去るのも男の優しさ。ということで。
「まぁ聞け小町。雪ノ下も自分の買い物で来てるってんだから、邪魔しちゃ悪いだろ。目当てのもんとか色々あるだろうし。な?」
「ん?」
俺の説得の言葉に、しかし小町は不思議そうにただ小首を傾げるのみだった。
何言ってんだこいつ、みたいな顔をしている。
そんなおかしなこと言ってないだろうに、何で通じないんだろう。
援護射撃を求めて雪ノ下の方へ目を向けてみるも、こちらの反応も薄い。
まるで表情を変えず、ただ静かに視線を返されるのみ。
って、このままだと小町の思う壺だぞ。
想いよ届け、と改めて目をしっかり合わせてみたものの、それでも援護どころか反応すら返ってこない。
別に見つめ合いたくてこんなことしてるわけじゃないんだけど。
おかしいな、ぼっち的に思う所は同じはずと考えてたのに。
え? 反論とかないの? それともまさか俺だけ空気読めてないとかそういうこと?――と疑問を覚えていた時だった。
「は! そういうこと!? あぁ小町としたことが!」
「な、なんだ急に?」
突然、小町が大げさに驚きの声を上げる。
思わず身体がびくっとなってしまった。
なんだなんだ?
振り返ると、小町は微かに頬を紅潮させつつ、食い入るように俺と雪ノ下をガン見してきている。
どうも何か変なものを受信してしまったらしい。
正直いい予感はしない。
と、小町が慌てた仕草でポケットから携帯を取り出す。
「おぉっと着信だよ! 何かな何かなっと。はいはーい……え? 何? すぐ来てほしいって、しょうがないなー、じゃあちょっと待っててね、今から行くから」
ぴっと口に出しながら携帯のボタンを押して、俺たちに向かって敬礼してくる小町。
突然始まった寸劇に、俺も雪ノ下も言葉を挟めないでいた。
何事よこれ。っていうか着信って――
「ということで雪乃さん、残念ながら小町はよんどころ無い事情でお呼ばれしちゃったのでここで離脱します。すいませんけどお兄ちゃんの事よろしくお願いしますね! お兄ちゃんも、雪乃さんに迷惑かけちゃだめだよ。それじゃー小町はこの辺で!」
「いや待て小町、さっきお前の携帯ビタイチ反応無かっただろ! 着信とか絶対してないだろ! その寸劇に何の意味が!?」
慌てて突っ込みを入れてみたけれど、時既に遅し。
それこそくるくると回り出しそうな程のご機嫌な勢いで、小町はあっという間に人混みの中へと消えて行った。
動き速ぇ。雑踏に気配なく溶け込むのがぼっちの特技とはいえ、さすがに次世代ハイブリッドとなると洗練されてるぜ、と変な所で感心してしまう。
後に残されたのは、茫然と突っ立っている俺と雪ノ下だけ。
何と言うか、変に気を回されてしまったらしい。
どうすりゃいいんだよ、この微妙な空気。
「あーっと、何か悪いな、小町が変なこと言って」
「……いえ、普段のあなた程でもないし、気にしないで結構よ」
いや、それ後半だけで良かっただろ。
どうしてお前は事あるごとに俺をディスらずにいられないんだよ。
何? お前の頭の中でそういう会話文のテンプレでも出来上がってるの?
まぁ別にいいけどさ、今更だし。
「じゃああれだ、邪魔しちゃ悪いし俺もこの辺で」
「待ちなさい」
手を上げて立ち去ろうと思ったところを、間髪入れずに呼び止められてしまう。
見ると、雪ノ下はいつものように腕を組んで、凛とした表情でこちらを見据えている。
「何だよ」
「不本意ではあるけれど、小町さんに任されてしまった訳だし、このままあなたを野に解き放つわけにはいかないわ」
「俺を野生動物扱いするの止めてくれる?」
「似たようなものでしょう?」
「どこまで大雑把に括られてるんだよ俺は――ってかお前はいいのかよ、俺なんかと一緒に買い物とかさ。別に小町に気を使わんでもいいんだぞ」
雪ノ下は変な所で頑固だし、責任感が強過ぎるくらいに強い。
だが、それも時と場合だ。
小町に頼まれたからと言って、自分の予定を崩す必要なんてないだろう。
と、むしろ善意で言ってやったつもりだったんだけど、雪ノ下はというと、ふっと鼻で笑って返してきた。
さっと髪をかき上げながら、何を言っているのかしらこの愚物、と言わんばかりの挑発的な視線を向けてくる。
「何を言っているのかしら、この愚物は」
「当たってたよ……」
「心配しなくても、嫌ならちゃんと断っているわ。大体買い物なら先週も一緒だったでしょう。気を使うならもっと正しい所で使いなさい」
「お前は俺の母ちゃんか」
何でそこでお小言が入るんだよ。
別にお前に監督責任とかないから。
というか、こんな厳しい母親だったら大変だろうなぁ。
相当メンタル強くないと心折れるんじゃないかとすら思う。
「しかしあれだな、お前親になったら子供にも厳しく接しそうだな。躾ばっちりの超教育ママみたいな」
「そういうあなたは甘やかし過ぎそうね。躾がきちんとできるとは到底思えないわ。今だって小町さんに甘過ぎるくらいだし」
「いいんだよ、小町は。実際良い子に育ってるわけだし。まぁ教育とかで厳しくするのは嫁さんに任せるって感じで良いかなーとか」
「良くないわよ、人に嫌な役を押し付けるのは止めなさい」
むっとした表情の雪ノ下に睨まれて言葉に詰まる。
うーん駄目か、良い案だと思ったんだけど。
って、あれ? 何かおかしくね?
「いや、何でそこでお前が怒んの? それじゃまるで――」
「……」
俺が言いかけたところで、雪ノ下がはっとした表情を見せて固まる。
かく言う俺も自分の口にした言葉を自覚してしまい、動きを止めてしまう。
二人揃っての沈黙。
……まずい、変なことを想像してしまった。
俺と雪ノ下が将来――って、そんな未来予想図とかドリ○ムじゃないんだから。
こんなこと考えてるって知られたら、またどんな罵倒を受けるかわかったもんじゃないぞ。
大体そんなことあり得るかって、でも可能性だけの話なら、じゃなくて……
駄目だ、いい感じにパニくった頭では思考の整理も覚束ない。
顔赤くなってないだろうな、とか下らない心配をしてしまう。
いや何か言わないと余計まずいよな、これ。
というか、どんだけ動揺してんだよ、俺。
「えっと、その……」
「何を想像しているの? 勝手に妄想して暴走するのは止めてくれるかしら。言っておくけれど、さっきの私の言葉はあくまでも一般論としてあなたの勝手な主張に異を唱えただけの事で、それ以外の意図は一切ありはしないわ。誤解しないように。いい?」
俺が何か言う前に、瞬間立ち直って早口で捲し立ててくる雪ノ下。
おまけに、言葉の締めには異論反論を許さないとばかりにぎろりと睨んでくるおまけ付き。
でも、こいつがこういう風に口数が多くなる時って大抵――いや、これ言ったらまた罵倒の嵐が始まりそうだし、飲み込んどかないと。
そもそもこれ以上続けたら、俺の方まで変な感じになりそうだ。
こういう時はさっさと話を戻すに限る。
「わかったよ。何か、その、悪かった、変なこと口走って」
「ま、まぁ、わかればいいのよ」
「それよりほら、お前買い物とか言ってたけど、どこに行くんだ? 何か道に迷ってたみたいだし、言ってくれりゃ俺が調べてやるけど」
「別に道に迷っていたわけではないわ、少しお店を探すのに手間取っていただけよ」
「それを一般に迷ってたって言うと思うんだけどな」
「見解の相違というものね」
いや、言葉の意味はよく分からんが多分違うだろ、それ。
というか、何に対して強がっているのかがさっぱりわからない。
負けず嫌いも行き過ぎると自分を窮地に追い込むんだよなぁ。
「とりあえず行き先どこなんだ? ディスティニーストアかどっかか?」
「! どうしてそれを? あなたまさか――」
「言っとくけどストーカーとかじゃないからな。道に迷うの覚悟でお前がわざわざここまで出張るのなんて、そのくらいしか想像できなかっただけだ。お前パンさん好きだし」
「そう、そういえばあなたには知られてしまっていたわね」
「んな不覚みたいに言わんでも」
そこで微妙に悔しそうな表情をされると、こっちの方が戸惑うだろ。
別にいいじゃん、パンさん好きだって知られても。
むしろ普段とのギャップで微笑ましくすらあると思うぞ。
まぁそういう風に思われるのが気に入らんのかもしれんけど。
「まぁとにかく、ディスティニーストアが目的地ってことでいいんだよな? なら、そこまで案内してやるよ」
「道を覚えているの? あなたなんかがディスティニーストアに行く用事があるとは思えないのだけれど、どうして知っているのかしら」
「なんかとか言うなよな、まぁ言ってることは当たってるけど。ってか俺じゃねぇよ、小町にねだられて何度も行ったことがあるから覚えてるってだけだ」
「そういうこと。いつも通り情けない理由で安心したわ」
放っとけ。
小町の為という理由がなかったら、あんなリア充の巣窟なんぞ俺がそうそう行く訳ないだろうが。
と、俺の携帯に着信が入る。
ポケットから取り出して確認すると、当然というか差出人は小町。
どうにもいい予感はしないな。さて内容は――
『お兄ちゃんへ。雪乃さんのエスコートしっかりね。ちゃんとデートできるまで我が家の敷居は跨がせないよ! あとちゃんと名前で呼んだげるよーに。お兄ちゃんはできる子だって信じてるから。頑張って! 小町より』
激しくいらんお世話だった。
というかこのタイミングでこの文面とか、まさかどっかから監視してんじゃないだろうな?
慌てて周囲を見回してみるも、人が多過ぎて全然分からない。
あいつもステルス機能を完備してるわけだし、肉眼での発見は難しいか。
「何をきょろきょろしているの? 挙動まで不審になってはフォローもできなくなるわよ」
「それは俺の見た目については元から不審だって言いたいのか?」
冷ややかな目と冷ややかな声で、まさに文字通り冷や水を浴びせられたので、周囲の探査は諦める。
というか、これはもう色々と諦めるしかないのだろう。
何だかなぁ、俺って小町に振り回され過ぎじゃね? あるいは小町が俺をコントロールするのが上手過ぎるのか。
まぁそんなところも可愛いんだけど。いよいよ末期だと我ながらちょっと思う。
さておき、改めて気を取り直して。
「それじゃ、とりあえず行こうぜ――雪乃」
「……えぇ、では案内して頂戴」
「それじゃ、とりあえず行こうぜ――雪乃」
「……えぇ、では案内して頂戴」
一瞬の間の後、小さく微笑む雪ノ下。
いや、その良くできたわねって感じの笑顔は止めてくれると助かるんだけど。
まだ慣れてないんだよ、意識すると動揺しちゃうんだよ。
いやいや、ここは無心だ。余計なこと考えなきゃいいだけなんだ。よし。
「こっちだ、一旦一階まで下りるぞ」
「そう――それにしても、あなたまだ慣れないのね。本当に処置無しだわ」
「流してくれよ、わかってるんなら」
「駄目よ、変に意識されるとこちらも困るもの。いい加減慣れなさい」
「……努力する」
「あなたが口にするとここまで信憑性が乏しくなるのね、努力という言葉は。嫌な発見だわ」
ちくちくと容赦ないなぁ、こいつ。
いや実際否定できないんだけどさ。
ここは話題を変えるのが吉か。
「にしても、わざわざ店まで来るなんて、お前本当にパンさん好きなんだな」
「もちろんよ、悪い?」
「なわけあるか。むしろいいことだろ、何であれ好きなものがあるってのは」
「あなたにもそういうのはあるのかしら?」
「俺の場合は、まず千葉への愛が大きいからな。ふなっしーさえ愛しいレベル」
「病的ね」
端的に抉ってくんなよ、俺の郷土愛を。
そういえば郷土愛って縮めれば兄妹に通じるよね。いやだからどうだってわけじゃないんだけど。
でもまぁあれだ。
「あとは小町がいてくれればそれで十分って感じだな」
「はぁ――あなたもそろそろ妹離れしてあげたらどうかしら」
「今は駄目だな。小町を任せられるくらいの男がいれば考える。まぁそんなの地球上にいるかどうか知らんけど」
「最後の台詞がなければまだ良かったのに」
横合いから深いため息が聞こえる。
何で俺が呆れられなければならないのか、甚だ遺憾だ。
お前言っとくけど小町をモノにできるとか、そんなもんフィクション世界の主人公レベルのいい男じゃないと釣り合わんぞ。
もちろん汚物を見るような目で睨まれたくないので実際には言わない。
「ほれ、着いたぞ」
適当に話している内に、目的地に到着した。
隣の雪ノ下に目をやると、表面上は普段と変わらないような様子だが、視線はちらちらと店先のPOPに向かっているのが見える。
そこには様々なパンさん関連グッズの絵が色鮮やかに踊っていた。何と分かり易い。
しかし見た目は結構怖いのに人気あるんだな、パンさんって。
「じゃあ――って速っ」
俺がに目をやっている内に、雪ノ下は既に行動を開始していた。
脇目もふらずにパンさんコーナーへ向かい、俺が声をかける前に品定めを始めてしまっている。
これ以上ないってくらいに真剣な表情で。
思わず息を呑んでしまう。
何この雰囲気、ここ何処なの? 一体何が起きてるんだよ?
しかし何かもう緊迫感とか緊張感とか、そういう気配しか感じられない。たくさんのディスティニーグッズを前にしている状況なのに、ちっとも微笑ましい光景に見えない。一言で言うなら、鬼気迫る、みたいな。
雪ノ下の様子だけ見れば、自分が今ディスティニーストアにいるということすら疑わしくなってくる。
間違っても口には出せんけど、正直なところ危険物質を扱っている最中の化学者だと言われた方が納得できるレベルだ。目が超マジだし。
キャラクターグッズ見てるだけのはずなのに、どうしてここまで張り詰めた空気を作り出せるんだよ、こいつは。
まぁ邪魔しちゃ悪いし関わって怒られるのも嫌だし、こいつは暫く放っておくとして、さて俺はどうするかな。
案内したからってこれで帰ったりしたら小町に何言われるかわからんし、そもそも雪ノ下を放っておくわけにもいかんし。
仕方ないので、適当に店内を見て回って待つことにする。
とは言え、然程に広くはないので、一巡りするのに何分もかかるものではなく、とりあえず人の少なめな箇所に止まって商品を眺めてみる。
うん、何が良いのかさっぱりわからん。
それを言ったらふなっしーだって何が可愛いのか答えろと言われたら困るんだけど。
世の中何が人気になるかわかったもんじゃないよなぁ。
世の不条理を嘆きつつ、大して時間潰しもできないまますごすごと雪ノ下のところまで戻ると、まだ悩んでいるらしく、商品の前から動く気配は微塵もなかった。
俺の接近にも気付かないのか、えらく難しい顔をして睨むようにして眼前の張り紙を見つめ続けている。
どうも様子がおかしい。
「どうしたんだ? 何か難しい顔してるけど」
「これよ……」
俺の声に気付いた雪ノ下は、ちらと俺を見て、すいっと張り紙の方を指差す。
その指に沿って視線をそちらへと向ける。
指し示された箇所には、二重線により強調された文字が並んでいた。
なになに?
「ん? お一人様一つ限りのサービス?」
じっくり読んでみると、どうやらセール中でパンさんグッズを一定額買うとオマケとして非売品のパンさんシリーズ登場キャラの人形がもらえるらしい。
ただし人形の種類はキャラやポーズの違いなんかで幾つかあるのに、もらえるのはお一人様一点限りで、無くなり次第終了とのこと。
まぁこういうお店ではよく実施されるサービスと言える。
しかしなるほど、パンさんフリークをもって任じている雪ノ下としては、これは容易には納得できない事態だろう。
「よくある商法だけれど、される側になると本当に困るわ」
「いやまぁ厳しいかもしれんけど、仕方ないんじゃね? サービスなんだし。金に余裕のある人しか手に入れられないとか誰かに買い占められるとか、そういうことにならないような配慮なんだろ」
こういう風に非売品のオマケで販売を促すケースはよくあるけど、世の中にはもっとあこぎな値段設定にして荒稼ぎする手合いだっているのだ。何とも世知辛い話だけど。
そう考えれば、限られた数をできるだけたくさんの人にという思慮が窺える分、これはずっと良心的な設定だと思う。
パンさんファンって結構多いみたいだし。
もっともそれは雪ノ下も承知しているらしく、表情に浮かんでいるのは怒りというより困惑の色が濃い。
文句こそ口にしているが、何も本気で覆したいと思っているわけでもなく、それが無理だってのも理解しているだろう。
とはいえ理屈は所詮理屈だ。いくらこねくり回したって、自分の感情をそう易々と抑え込めるもんじゃない。
そりゃ愚痴の一つも言いたくなるだろう。
それが何の解決にもならないと分かっていても、だ。
ほしいけど、でも。意図はわかるけど、でも。
そんなどうにもならない堂々巡り。
俺の目の前で、雪ノ下は悲しげにすら見える程の困った顔で佇んでいる。
そうして悩んでいる姿を、眉根を寄せた横顔を、憂いを帯びた表情を。
それらを見ていると、何故か俺の方が落ち着かない気持ちになってしまう。
ひどくもどかしい気分に加えて、焦燥が募ってゆくのを自覚する。
いや、おかしいだろ――とは自分でも思う。
だって、こんなの直接的には俺に何の関係も無い話なのだ。
黙って見ていて、雪ノ下が決めるのを待てばそれで全て済む。
もちろん誰に責められる謂われもない。
それだけのことのはずだ。
それなのに、そう理解しているのに、どうして俺の心はこんなにもざわついているんだろう。
心の内からちくちくと突かれているかのような錯覚が、なぜ消えないんだろうか。
俺は、一体何がそんなに気になっているというのか。
自分で自分がわからずに、動揺と焦燥に翻弄されてしまう。
そもそも今、俺に出来ることなんてほとんどない。
ここで俺がミラクルを発揮して、この非売品を全て手に入れてやることなんてできるわけもないのだ。
雪ノ下だって、俺にどうこうしてほしいなんて露ほども思っちゃいないだろう。
プライドの高いこいつが、元よりそんなことを他人に期待するはずもないけど。
俺にできることなんて高が知れているのだ。
余計なお世話かもしれない。それは分かる。
まず望まれてもいないだろう。それも分かる。
あるいは不審と不興を買うかもしれない。それすら分かっている。
だって俺も雪ノ下も、そういう人間なんだから。
でも、だ。
だけど、それでも。
理屈では、感情を抑えきることはできない。
何よりそうしないともう気分が落ち着かないのだ。
だから――
「とりあえず買う物は決まってんだろ? オマケだってすぐには無くならないかもしれんけど、早めに買っといた方がいいんじゃねぇの? 少なくなったら選択肢も減るだろうし」
「……そうね、悩んでいても仕方ないものね」
ふぅ、と小さくため息を吐いて、迷いを振り切るように踵を返す雪ノ下。
少し遅れて、俺もそれに続く。
レジに並んで少しして順番が回ってくる。
商品の精算を始めると同時に、店員さんにオマケの人形一覧を提示され、雪ノ下は再び厳しい表情に変わる。
オマケを選ぶだけでここまで苦渋の表情を作る奴もそうはいないだろう。
その姿勢には逆に感心の念すら覚える。もうさすがと言う他ない。
そして、最後の審判と思わず評したくなるような決断の時。
売り場でもしこたま悩んでいたはずなんだけど、ここでも幾つかの写真の間で視線と指先が何度も行ったり来たりしていた。
本音では順位付けなどしたくないんだろうが、それでも唯一を選ばなければならない苦悩が容易に見て取れてしまう。
その決して短くない苦悶と懊悩の果てに、ようやく雪ノ下がゆっくりと顔を上げ、絞り出すような声で一つの商品の番号を告げる。
キャラクターグッズを選んでいるだけなのに、某クイズのファイナルアンサーばりの溜めと引きだった。
そこまでのエネルギーが必要になるとか、それじゃ俺の千葉好きを笑えないだろ、こいつ。
店員さんもきっと驚いているだろうに、それをおくびにも出さず、穏やかな笑顔で人形を差し出していた。まさにプロだ。
「はい、どうぞー。大切にしてあげてくださいね」
「……えぇ、ありがとう」
パンさんの人形を受け取ったところで、雪ノ下の表情もようやく柔らかく緩む。
手元のそれに視線を落とし、微笑みを浮かべている。
さっきまでの苦悩が嘘のような、慈愛すら感じさせる温かな表情。
満足げに雪ノ下が出口へと向かう姿を見送ってから、俺もレジに並んだ。
買い物を手早く済ませて店の出口に急ぐと、雪ノ下が待ち構えるように立っていた。
ほぼ仁王立ち。なぜか知らんが俺を見下す勢いだ。というか数分も待てないのかよ。
だが、出てくる俺の手に買い物袋があるのを見て、その表情に疑問の色が浮かぶ。
「あら? 随分遅いと思ったら、あなたも買い物をしていたの?」
「まぁな。せっかくだし小町におみやげでもと思って」
「そう、お気に入りのディスティニーキャラがいるのかしら」
「いや、特定の何かにハマってるわけじゃないみたいだな。ディスティニーキャラなら何でもって感じだぞ、あいつ」
言いながら雪ノ下の近くまで早足で歩く。
それから二人で並んで店を出て、他の人たちの通行の邪魔にならない所まで進んで。
そこで立ち止まり、くるりと振り返る。
少し驚いた顔で足を止める雪ノ下。
「ちょっと、急に立ち止まらないで頂戴。なに? 忘れ物でもしたの?」
少し不服そうな声。
けれどこちらとしては、それを気にする余裕なんて無かった。
一体どう話を切り出したものかと、頭の中でそればかりが回っている。
しかし黙ったままでいても仕方がない。
柄にもなく緊張していることを自覚しつつ、口を開く。
「あー……えっとさ、その」
「日本語まで不自由になったのかしら。言いたいことがあるのならはっきり口にしなさい」
上手く言えずに口ごもってしまった俺に、雪ノ下は不審そうな眼を向けてくる。
腕を組んでのいつもの詰問スタイルだ。
これ以上躊躇ってたら、不審が苛立ちに変わりかねない。
それは困る。
意を決して、買い物袋の中からある物を取り出して、すっと差し出す。
視線が俺の手元に向かい、それが何かを理解した瞬間、雪ノ下が目を丸くする。
それは、さっき雪ノ下が迷った挙句選ぶことのできなかった人形の内の一つ。最後まで悩んでいた片割れだ。
しっかりと確認したから間違いないはず。
パンさん関連の商品を小町へのおみやげとして買ったのは事実だけど、今回の買い物の一番の目的はこれだった。
「これ、さっきもらったから、やるよ」
「……どういう風の吹き回し? あなた何を企んでいるの? それとも何か下心でもあるのかしら」
すっと目が細くなり、訝しむような声で問うてくる雪ノ下。
予想はしていたけど、散々な言われようだった。
まぁそうだよな、普段の俺からは考えられないもんな、こんな行動。
俺だって自分でも不自然だって思うし。
しかし困ったことに、何故と聞かれても、そりゃもちろん雪ノ下が言うような理由ではないのだが、だからといって自分でもその真意は上手く説明できないのだ。
咄嗟に二の句を告げない俺に対して、怪訝そうな表情のまま、雪ノ下は探るように俺の目を覗き込んでくる。
目と目が合って、一瞬互いの動きが止まった。
はっきり言わない俺に苛立ちを感じている、という様子こそなかったが、それでもはっきりと不審そうだ。
「どちらにしても、それは受け取れないわね。あなたに施しを受ける謂われはないのだし」
「いや、でも欲しかったんだろ、これ。お前最後まですげぇ悩んでたしさ」
「……そうね、否定はしないわ。だけどそれでは質問に答えてないわよ。どうしてそれを私に渡そうとするの? 何が目的なの? 自分がいらないのなら小町さんに渡せばいいのではなくて?」
差し出したままの俺の腕と、組まれたままの雪ノ下の腕。
共に動きは無く、その距離は変わらず。
予想はしてたけど、やはり一筋縄ではいかないみたいだ。
まぁ当然と言えば当然の話か。
雪ノ下は、たとえ自分が欲しかったものだとしても、人からただ与えられることを良しとするような女ではない。
理由もなく人から物を貰うなんて、むしろ忌避していそうですらある。
そんなこと俺だってよく知っていた。
知っていたのに――喜ばれるどころか不審がられて、場合によっては怒りすら買うかもしれないと想像していたのに、それでも俺はこれを手に入れて、こうして雪ノ下へと差し出している。
改めて自分で自分がわからない。
こんなの、目立たず出しゃばらず波風立てずのぼっちがやることじゃないだろう。
理屈ではわかっているのに。
なのに、どうして俺はこんなことをしているのか――自分の中の何かに突き動かされるような、そんな衝動的な行為だったけど、その何かがわからなかった。
いつだって自分の気持ちというのは、自分自身ではどうしたってままならない。
もどかしく悩む俺を、しかし雪ノ下は何も言わずにじっと見ていた。
怒るのではなく、厭うのでもなく、ただ静かに。
黙ったまま俺の答えを待っている。
もっと以前であれば、俺から物を貰うなんてあり得ないとか言って、話も聞かずに一蹴されていたかもしれない。
あるいは怒りすら滲ませまがら、無言で立ち去っていたかもしれない。
でも、今は違う。
真っ直ぐに俺を見据えるその目は、ただ純粋に俺の真意を問うている。
俺の言葉を、待ってくれている。
その目を見て、少しだけ心が落ち着く。
動かなかった頭が、ゆっくりと回り始める。
止まっていた何かが動き出すような、そんな感覚があった。
さっき小町に煽られたから、というわけでもないけど。
以前に陽乃さんに唆されたから、というわけでもないけど。
いつか由比ヶ浜に諭されたから、というわけでもないけど。
少しだけ、素直になってみてもいいのかもしれない、と思った。
いつも捻くれている俺だけど、斜に構えて全てを疑ってかかってばかりいる俺だけど。
たまには素直に言動を受け取って、素直に心情を吐露しても、いいのかもしれない、と。
何よりも、雪ノ下に変な嘘や誤魔化しはしたくなかった。
はっきりと言葉にできないまでも、せめて正直に。
そう思うと、自然に言葉が口をついていた。
「――これは、小町に渡そうと思って買ったもんじゃねぇよ。これはお前に――雪乃にあげたくて、手に入れたんだ」
「だから、どうして? それを私が受け取る理由はないじゃない」
「理由とか理屈じゃないんだよ。下心とか疑われるかもしれないけど、そういうのでもなくて……何て言ったらいいんだろうな、あぁもう」
「……」
がしがしと頭を掻き毟る。
いざとなると、やはりどうにも上手く表現できない。
動機の言語化ってこんなに難しいのかよ。
焦りそうになる俺に、けれど雪ノ下はそれ以上の言葉を重ねない。
ただ静かに、目で続きを促してくる。
いつもの透明な表情。
正でも負でもなく、喜でも怒でもない。
けれど続く言葉次第では、どちらにも転んでしまいそうな。
それに気付くと、ある気持ちが心にすとんと落ちてくる。
あぁそうだ、俺は雪ノ下に――
「――何ていうか、さっきしかめ面で悩んでるお前を見てたら、すごい心がもやもやしたんだよ。それが嫌だったんだ」
「それで?」
「いや、それでっていうか……だから、全部は無理にしたってせめてもう一つくらいはって思ったんだよ。そうせずにはいられなかったっつーか、そうしないと落ち着かなかったっつーか。だから別にこれを渡してどうこうとかは全く考えてねぇよ。要はただの自己満足だ、俺がそうしたかっただけ。本当にそれだけなんだよ」
「……」
結局のところ、突き詰めてしまえばそういうことになるだろう。
一番の動機というか、そうしたかった最大の理由はこれだ。
要するに、俺は雪ノ下の辛そうな表情を見ていたくなかったのだ。
その為に何かをしたかったという、ただそれだけのこと。
しかし気付いてしまえば、何とも自分勝手な話のように思える。
雪ノ下からすれば、本当にただの大きなお世話だろう、こんなの。
「って、まぁでも確かにこれじゃ、お前が受け取る理由にはならねぇよな……」
口にした事で、ちょっとトーンダウンしてしまった。
実際、無理に受け取らせるのも何か違うだろう。
そんなの押しつけがましいことこの上ない。
そう考えて腕を引こうとしたところで。
雪ノ下がそっと腕組みを解くのが見えた。
そしてそのまま俺の方へと差し出される手。
驚いて視線を上げれば、さっきと違って穏やかな表情の雪ノ下。
「相変わらず、不自由で不器用な言葉遣いね」
「うっせ、そっちも相変わらず容赦ねぇじゃねぇか」
「それが私だもの。だけど、言いたい事は何となくわかったわ。要は打算なんてなくて、それでも強いて理由を挙げるなら自分の為にそうしたかったんだと、そう言いたいのでしょう?」
「ん……まぁそうだな、そうなるな。いやそんな風に言われたら何かすげぇ自分勝手に聞こえてあれなんだけどさ」
「そうね――でも、そういう理由なら構わないわ。ありがたく受け取ってあげる」
「え?」
一瞬、自分の耳を疑った。
まじまじと凝視してしまうが、そこに冗談やからかいの色は窺えない。
まるで、俺も理解していない俺自身の行動の理由を、全て理解しているかのように。
穏やかで晴れやかな微笑みを浮かべながら、どこか嬉しそうに、何故か楽しそうに、雪ノ下は手の平をこちらに向けて差し出している。
「なに? その表情」
「いや、だってお前、受け取る理由がないって言ってたのに」
「そうね、あなたが安易に私の為とか口にしていたなら突っ撥ねていたわ。憐れみも施しも真っ平御免だもの。だけど違うのでしょう?」
「あぁ、そうじゃない」
強く否定する。
憐憫とかそういう感情は、普通は自分よりも立場が下にある相手に持つ感情だ。
だから決して、そういう感情で取った行動なんかじゃない。
俺の返事に、雪ノ下が少しだけ笑みを深くする。
「それならば話は別よ、あなたの行動が自分の為と言うのならね。あなたは私にそれを渡したいと思っていて、私はそれを欲しいと思っている。つまり結果として、あなたは自己満足を得られて、私は欲しい物が得られる、ということになるでしょう。であれば双方の利害が一致しているとも言えるもの。だから、ありがたく受け取ってあげる」
「相変わらず屁理屈がすげぇな。しかも、ありがたく受け取ってあげるって言い回しとか」
「間違ってはいないでしょう」
しれっとのたまう雪ノ下。
その表情はやはりどこか楽しそうだ。
何を楽しんでいるのかまでは、今の俺には分からないけど。
しかし確かに間違ってはいない。
俺が渡したいだけなのだから、受け取ってあげるとなるわけで。
でも自分も欲しいと思っていたものだから、ありがたくと付くわけだ。
なるほどなるほど。
と、そこまで考えて、不意におかしくなってきた。
本当にもう、一体俺たちは何をやってんだか。
人形を手に入れてそれを渡すという、ただそれだけの事を成す為に、一体どれだけ理由を付けて、理屈を作って、言葉を重ねなきゃならないんだ?
こんなの葉山とかその辺のリア充連中なら、悩む間もなく終わってるだろう。
『人形ほしいなー』→『じゃあ俺が手に入れたのやるよ』→『やったーありがとう』
これだけで済む話なのだ、簡単に言ってしまえば。
それをまぁ、どこまで遠回りして頭使って言葉を尽くして悩んで迷っているんだか。
俺たち二人、揃いも揃ってどんだけややこしいんだよ。
欲しいなら欲しいと言えばいいし、渡したいなら渡したいと言えばいい。
そしてそれをお互い素直に受ければいいだけのことなのに。
理由が無かったら物一つ渡せない。
根拠が無かったら物一つ受け取れない。
そんな不器用な捻くれっぷりを思うと、もうおかしくてしょうがなかった。
こんなの誰かに馬鹿と言われても、とても文句なんて言えないだろう。
とは言え、である。
確かに傍から見たら無駄で間抜けなやり取りに映るかもしれないけど、それでも。
これは決してただそれだけの、そんな無意味なことではないはずだ。
そうでなかったら、俺が今こんな気分になることは、きっとなかっただろうから。
「どうしたの? 不気味な笑みを浮かべて」
「いらん形容詞付けんな。ちょっとおかしくなってきただけだっての」
「そう、ようやく自覚してきたということね」
「だからそういう意味じゃねぇ。ったく、じゃあほら、これ受け取ってくれよ」
「えぇ――ありがとう」
パンさんの人形が、ようやくのことで俺の手から雪ノ下の手へと移った。
瞬間、何とも言えない達成感のようなものを覚える。
いや、この程度のことで何をそんな大げさなとは思う。
何しろあれだけ頭を使って精神的に疲労までして、その結果できたことと言えば、人形を一つ手渡したことだけなのだから。
けれど、たったそれだけのことだとしても。
言葉にすればほんの一行で済み、動作にしても数秒とかからないことだけど。
それはきっと俺たちにとって、ささやかでも大切な一歩だ。
改めて雪ノ下の方へと目を向ける。
雪ノ下はパンさんの人形を見ながら静かに微笑んでいた。
柔らかく、慈しむような優しい微笑み。
穏やかな春の日射しを思わせるような、あるいはそっと野に咲く可憐な花を思わせるような。
そんな年相応な、一人の女の子の笑顔がそこにある。
気付けば目は釘付けとなり、言葉を失い、意識も絡み取られ、心まで奪われてしまっていた。
きっと今までの何時よりも近い距離で、雪ノ下が微笑んでいる。
むず痒いような、こそばゆいような、不思議な気分だった
こんな笑顔を見ることができるのなら、さっきのあの苦労なんてかわいいもんだとか。
そんな馬鹿な考えさえ脳裏を過ぎる始末だ。
誰かの為に何かをすることを喜ぶような、そんな奉仕の精神なんて俺は持ち合わせていなかったはずなのに。
俺は変わりつつあるんだろうか?
変わることができるんだろうか?
変わっても、良いんだろうか?
すぐには答えを出すことはできないけど。
それでも、踏み出した一歩を悔む気持ちは微塵も無かった。
だったら、もう少しこのまま進んでみることにしよう。
皆の後押しがあったにしろ、何より他ならぬ自分自身が、そうしたいと思ったんだから。
それから、何時までも道を占拠してる訳にもいかないし立ちっ放しで少し疲れてもいたので、喫茶店へ立ち寄ることに。
幸い店もすいていたのでスムーズに注文を終えて席へ。
そこで俺もようやく一息つくことができた。が、ついたため息がひどく重い。
どうやら想像以上に疲労していたようだ。
雪ノ下が言うように、俺ももう少し慣れないと色々持たないかもしれない。
さておき、砂糖やミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲んでくつろぐ俺の目の前で、雪ノ下は手に入れた品物の数々を整理していた。
いつも通りを装っているつもりのようだが、喜色を隠し切れていない。
笑みを浮かべそうになるのを抑えているのか、時々頬がぴくりと動くのが分かる。何とも微笑ましいもんだと思う。
口に出したら怒りを買うのは分かっているので言わないけど。
「しかしパンさんって本当に人気あるんだな、あれだけコーナー占拠してるとは知らんかった」
「当然でしょう。無知って怖いわね。全世界で愛されているキャラクターなのよ? パンさんは」
「ま、まぁ限定グッズが出るくらいだもんな。それにしてもあれだ、ファンとしちゃ嬉しいだろうけど、それ以上に大変だろ」
今更言うまでもないことだけど、パンさん絡みとなると雪ノ下は目の色が変わってしまう。
俺の言葉でユキペディアさんが覚醒しそうになったので、咄嗟に話題を切り替える。
語り始めたら長そうだし。
そういうのはまた次の機会に、ということで。
その判断が功を奏してか、雪ノ下がパンさんの魅力を語り始めることはなかった。
が、言葉だけじゃなく動きまで止まってしまっていて。
よく見れば、やけに難しい表情を浮かべている。
あれ? 俺今ひょっとして地雷踏んだ?
どうにも言葉を挟めずにいると、雪ノ下が一つ息をついて再起動する。
何故かは分からんけど、ふっと遠い目をしながら。
「えぇ、その通りよ。限定グッズは時々発売されるのだけれど、全て手に入る訳ではないの。もちろん私もできる限り手を回して策を尽くして事に当たるわ。けれど一人ではどうしても限度があるから……今までだって一体何度苦杯をなめてきたことか」
「表現が一々怖いんだけど。何? お前一体何と争ってんの? キャラクターグッズの話をしてるはずなのに、どうしてそんなに殺伐とした世界観が展開されてんの?」
微妙に悔しそうな表情で語る雪ノ下に、思わず突っ込まずにいられなかった。
夢と魔法の世界の住人を巡って、権謀術数を駆使しようとしてんじゃねぇよ。
しかし雪ノ下からすればそれは当然のことらしく、さらっとスルーされてしまう。
「お金だけの問題ならともかく、今回みたいに数量限定となると、どうしてもね。かといってネットオークションの類はどうにも信用が置けないし」
「お前も案外苦労してんだな」
深いため息と共にしみじみと語られてしまった。
正直なところ俺には今いち理解できない大変さだ。
とはいえ、これは雪ノ下にとっては大事な問題なのだろう。
それが分かるだけに、つい言葉が口をついてしまう。
「まぁ、その、もしまたこういうのがあったら、言ってくれれば別に手くらい貸すぞ」
「あら、どういう風の吹き回しかしら?」
さっきと同じような返し。
けれど先程と違って、怪訝そうな空気はそこにはない。
くすりと小さく笑いながら、余裕の表情での言葉だった。
雪ノ下はきっと全て分かっているのに、それでも敢えて俺に言わせようとしているのだろう。
こいつ、陽乃さんみたいなことしやがって。
まぁ彼女に比べれば随分可愛いもんだとは思うけど。
「……さっきも言っただろ、それと同じ理由だよ。あとは察してくれ」
「人任せは感心しないわね。あなたの言葉で聞きたいのだけれど」
「お前、意地が悪いぞ。つーか何度も聞いたって仕方ないだろ、こんなの」
「そんなことはないわ――だって、悪い気はしなかったもの。あなたが純粋にそう考えてくれたことは、ね」
人差し指をぴんと立てて口元に当てながら、片目を閉じて悪戯っぽい笑みを浮かべる雪ノ下。
その言葉に、そんな仕草に、咄嗟に何も言えなくなってしまう。
花咲くような笑顔とはこのことか。
こんなの目の当たりにしたら、抗うことなんてできようはずがないじゃないか。
もはや否も応もない。
心の中で静かにお手上げだ。
ここまできてしまえば、もう何を喋っても一緒だ、とか。
そんなほとんどやけっぱちみたいな心境で、本音のところを口にする。
「あーもう! 要するに、俺が雪乃の力になりたいってだけなんだよ。ただの俺の自己満足、それだけ。何つーかお前の辛そうな顔とか見たくねぇし……」
「ふふ……随分と素直じゃない、珍しいこともあるものね」
「お前が言わせたんだろうが」
優雅に微笑む雪ノ下と、憮然とした表情の俺。
けれど、俺だって別に不快な気分ではなかった。
何よりも――
「でもそうね、じゃあ、ありがたく手伝いをお願いしようかしら」
――目の前でそんなに嬉しそうな笑顔を見せられたら、文句なんて言えるわけがない。
元より、今口を開いたところで、まともな言葉になるのかは正直疑わしいけど。
何しろ心臓はさっきからうるさいくらいに騒いでいるし、頬もきっと赤く染まってしまっているだろうから。
改めて思う――こんなのほとんど反則だと。
であれば当然、ただのぼっちに太刀打ちできる道理も無い。
傾国の美女という言葉のその端緒を、図らずも垣間見てしまった気分ですらある。
持て余すような不思議な感情を抑えるように、手元のコーヒーを口に運ぶ。
さっきまで仄かにあったはずの苦みを感じられず、普段よく飲むMAXコーヒーよりも、なぜかずっと甘く感じた。
あぁ、本当に今日の俺はどうかしてるみたいだ。
仕方がない、これもまた諦めが肝心なのだと無理矢理納得しておくことにしよう。
それから、連絡の為にと携帯の番号とメアドを交換した。
何とも今更感が半端無かったけど、それは俺だけだったようで、雪ノ下はいつも通りの冷静な表情で携帯を弄っている。
あるいは慣れない登録に手間取って他のことを気にする余裕がないだけかもしれないけど。使い慣れてなさそうだもんなぁ。
「……と。さて比企谷くん、一つ言っておくけれど、用が無い時に頻繁にメールを送ってこないように」
「言われんでも。大体俺がメールを送りまくって楽しむようなキャラだと思ってんのか?」
「まさか。むしろメールを楽しんでる人を見て、僻んだり妬んだりするキャラよね?」
「そこまで歪んでねぇよ、ただメールに縛られて可哀想だなぁって憐れむだけだ」
「より重症じゃない」
「放っとけっての」
いいんだよ別に。そもそも大切なのは量じゃない、質だ。
小町からのメールがあるってだけで、俺は他の連中の数倍幸せな自信があるぞ。
「とにかく節度は守るようになさい。まぁ一日一通未満までは許可してあげるわ」
「おい、それはあれか、俺に一切メールを送んなって言ってんだな?」
「あら、数学が苦手という話だったけれど、よく気付いたわね」
「日本語まで苦手だって言った覚えはないぞ」
「そうね、あなたが苦手なのは生きることよね」
「ばっか、お前言っとくけど俺ほど生きる素養を持ってる奴もそうそういないぞ。生き残る為なら土下座でも靴舐めでも余裕で出来るレベルだからな」
「そんな状況に追い込まれている時点で論外でしょう……」
こめかみに手をやって呆れたような表情を見せる雪ノ下。
全く失礼な奴だ。まぁ称賛されても引くけどさ。
生きることは大切だけど、そんなこと考えて生きている人間はいないのである。
昔の偉い人は良い事を言った。いや人じゃなかったっけ、初出は。
「とにかくあれだ、用もないのにメールはすんなってことだろ? 心配せんでも分かってるから」
「理解しているならいいわ。あぁそれと、私からのメールには出来るだけ早く返信すること。いい?」
「え? そんな厳しいこと言われんの?」
「当然じゃない、あなたが私を無視するなんて許されることではないわ。逆ならともかく。自然の理に反しているでしょう、そんなこと」
「そこまで言うか」
相変わらず傍若無人を地で行く女である。
傲岸不遜もここまでくれば、いっそ清々しさすら覚えるな。
わざわざ言われんでも無視するつもりなんかねぇよ、そんなことしたら後が怖いし。
それに、だ。
「――まぁ手を貸すって言ったのは俺だしな。なるべく早く返すようにはするよ」
「そう……それは殊勝な心がけね」
可愛げのない言葉。
けれど、それを口にする雪ノ下は淡く微笑んでいて。
憎まれ口を叩く気にもなれなくなってしまう
ここでそんな顔見せるとか、ずるいだろ。
でもまぁ仕方ない、今日のところは甘んじて敗北を受け入れておこう。
せっかく喜んでるところに水を差すほど、俺は悪趣味じゃないのだ。
変なこと言ってその表情を曇らせたくもないし。
何より、総じて今日は悪くない一日だったと、素直にそう思えるんだから。
その後、家路についてからのこと。
自宅近くまで来ていた所で携帯にメールが届いた。
普段なら本命小町、対抗由比ヶ浜ってところなんだけど、今日に限れば少し違うだろう。
そう考えつつ差出人を確認すると、想像した通り、今日登録したばかりの雪ノ下の名前がそこにある。
とりあえず開いて本文を読む。
「……えらく素直だな」
つい呟きがもれてしまう。
届いたメールに、普段の雪ノ下からは考えられないくらいに素直な言葉が並んでいたせいである。
ストレートに感謝の意思表示、皮肉も罵倒も無し、何と珍しい。
そりゃ驚いてつい笑ってしまいそうになるというものだ。
しかし周りに誰もいなくて良かった。
誰かに見られてたら、通報とかはないにしろ、不審な目で見られるのは間違いないだろうし。
近所に悪評が立つなんて絶対に避けなきゃいけない。とりあえず落ち着こう。
それにしても、である。
改めて携帯に視線を落として、もう一度その文面を読み直す。
不思議と言うのか不自然と言うのか、差出人が間違ってるのでは? と、つい思ってしまうのは俺が毒され過ぎなのだろうか。
ほんの数行の文章なのに、どうにもむず痒い心地になってしまう。
電話越しだと本音で喋れるとか、メールだと普段言えない事も言えるとか、そういう話はよく聞くけど、雪ノ下もその例に漏れないということなのか?
面と向かって直で話さなければ、こんな風に素直な感じになるのかもしれない。
それか単純に罵倒の文句を打つのが面倒だったという可能性もあるけど。
正直、そこは前者であってほしいと思いつつ、返信しようと携帯を操作する。
返信内容を入力しているうちに、ふと頬が緩んできてしまう。
やはり今日の俺はどこかおかしいみたいだ。
悪戯心か、あるいは他の何かか、返信を打つ指が、普段の俺からは考えられないような言葉を連ねて行く。
後で見返したら後悔するかもしれないような、そんな言葉を。今日の本音の感想を。素直な今の心境を。
あいつがこんな不意打ちで来たんだから、俺も同じように返してやるだけのこと。
そんな言い訳を頭の片隅で思いながら。
「……お?」
返信が終わって歩き始めてすぐに、携帯がまたメールの着信を知らせる。
一瞬自分の耳を疑ってしまった。
でも気のせいでも勘違いでもなく、聞こえているのは俺の携帯の着信音だ。
というか、リターン早過ぎるだろ。
何? あいつってああ見えて実は由比ヶ浜レベルの打鍵速度持ってたりすんの?
いや、まさかだよな。
「ぷ……」
慌てて内容を確認したところで、つい噴き出してしまった。
返信早いはずだ、何せほんの一言しか書いてないんだから。
おまけに変換もなしで、主語も述語もありゃしない。
几帳面な雪ノ下にしては珍しいというか。
この文面を打つ時に、果たしてあいつはどんな気分だったのか。
憤慨してたのか動揺してたのか、とか。この一言にどんな感情がこもっているのか、とか。
そんなことを想像すると、負けっ放しだったところで一矢報いたような気がして、少しほっとする。
もっともスコア的には大惨敗を喫してるんだけど。
しかし、他人とメールを送り合って楽しいと思うだなんて。
そんな自分にびっくりだ。
でも、たまにはそんな日があったっていいだろう、きっと。
そうこうしているうちに、我が家の門扉が見えてくる。
また小町に根掘り葉掘り色々と聞かれるんだろうなぁと思うと少し苦い心地もあるけど。
それでも今日一日を思い返すに、そのきっかけをくれた小町には感謝すべきなんだろうし、精々ご機嫌を取ることにしようか。
~Their mobile talk~
Yukino's mobile
From 雪乃
TITLE non title
今日は助かったわ、ありがとう。
あなたに貰ったパンさんの人形、大切にさせてもらうから。
また明日、学校で会いましょう。
おやすみなさい。
Hachiman's mobile
From 八幡
TITLE Re:
喜んでもらえて何より。
今日一日わりと楽しかったし、こっちも感謝してる。
また明日、奉仕部の部室でな。
しかしお前も結構可愛いとこあるんだな。
パンさん人形見てる時のお前、すげぇ優しい目してたぞ。
良いもの見れて良かったわ。
Yukino's mobile
From 雪乃
TITLE Re:2
ばか
⑥ 釈然としないながらも、奉仕部はその理念に則って行動する
秋も深まり隣が何をしているのか気になるとされる頃、今日も今日とて不毛な何かが始まろうとしていた。
すぅっと大きく息を吸う音が小さく耳に届く。
俺はと言うと、そいつに気付かれないようにため息をついていた。
そして次の瞬間、季節にそぐわぬ明るい声が部室内に響き渡る。
「千葉県横断お悩み相談メールー!」
「わーわー」
「……」
「二人とも全然やる気ないし!」
元気一杯にタイトルコールをした由比ヶ浜だったが、その後の俺たちの反応に何やらショックを受けているようだった。
どうやら俺の気の抜けた合いの手はお気に召さなかったらしい。
雪ノ下に至っては読書を続けたままで、言葉もなく視線すら一ミリも動かしてなかったしなぁ。
そりゃ怒るのも無理からぬところだとは思う。
だがしかし、だ。
俺たちにも言い分はある。言い分というか文句だけど。
腰に手を当てて不満そうな顔をしている由比ヶ浜に、俺も正直なところを吐露する。
「やる気ないっつーか、こんなんやる気になりようがないだろ、普通。むしろ何でお前はそんなやる気なの?」
「これも奉仕部の活動の一つじゃん、やる気出さなきゃダメでしょ」
「つってもお前、これただの平塚先生の思いつきだろ。大体今までのメールも思い返してみろよ、碌でもない相談事ばっかだったじゃねぇか。むしろただの愚痴レベル。居酒屋で飲んだくれてるおっさんでももうちょっとマシなこと話してる気がするぞ」
「ちょっと、それは言い過ぎだよヒッキー。ほら、体育祭のとか大事なのもあったし」
「あー、そりゃまぁゼロではなかったかもしれんけど」
「ね、そうでしょ?」
得意げに、ふふんと鼻を鳴らす由比ヶ浜。
とは言え、そんなの例外中の例外だと思うんだけどな。
実際、他のメールの内容なんて本当に大したことのない話ばっかりだったし。
まぁそれが仕事だと言われてしまえば、返す言葉もないけどさ。
社畜まっしぐら、悲しい立場である。
「わかったわかった。とりあえず始めりゃいいんだろ。つーか今日メール来てんの?」
「えーっと、うん、何通か来てるよ」
「マジでか。しかし言っちゃなんだけど、こんな所にメール送るくらいならもっと他に頼るべき人っているんじゃね? 普通は。どんだけ暇なんだよ、そいつら」
「だから何でそんな否定的なの? メールが来てるってことは頼りにされてるってことなんだから、いいことじゃん」
「それが疑わしいんだって。そもそもこの部って本当にちゃんと認知されてんのか? 知らない奴の方が多いんじゃねぇの?」
「奉仕部のことを、あなたの教室での存在みたいに表現するのは止めなさい」
ぱたんと本を閉じながら、雪ノ下がようやく口を開いたと思ったら、出てきたのはいつも通り切れ味鋭い暴言だった。
毎度の事ながら容赦なさ過ぎだろ、お前は。
おまけにそんな生き生きした表情をしてるとか、どれだけ追い打ち掛けてくるつもりだよ。
しかし、俺がどんな皮肉で返してやろうかと考えたところで、それより早く由比ヶ浜が突っ込みを入れる。
「そんなことないよゆきのん! ヒッキーちゃんと存在してるよ! いつも教室にいるよ!」
「そうね、よく目を凝らせば見えるかもしれないわね」
「どんだけ存在感無いの!? 違うから! ちゃんと見えてるから! 無いのは居場所だけだからぁ!」
「フォローすると見せかけてとどめを刺しに来ただと?」
思わず戦慄する。まさかの二人掛かりだった。
何なの? その息の合ったコンビネーション。
君たち仲良過ぎでしょ、もはや事前に打ち合わせでもしてんじゃないのかって疑うレベルだぞ。どんだけ俺をおちょくるのに全力なんだよ。
いやもう何か一周回って落ちついたわ。
「はぁ。もういいだろ、話戻すぞ」
「そうね、どうでもいいことだったわね」
「後半いらねぇ……じゃあ由比ヶ浜、ちゃっちゃと終わらせようぜ、一通ずつ読んでってくれよ」
「うん、りょーかい」
由比ヶ浜が一つ頷いてパソコンの画面に視線を移す。
さて、楽な話ばっかりだといいんだけど。
何なら俺の出る幕が無ければなお良し、である。
「えーっと、本日最初のお便りは……千葉市にお住まいの、PN:剣豪将軍さんからです」
「はい、それでは次のお便り」
「ヒッキーそれはさすがに酷過ぎ! 気持ちはわかるけど!」
わかるんなら流してくれよ。
うんざりした気分で由比ヶ浜に目を向ける。
あっちはあっちで気だるげな表情をしていた。
雪ノ下に至っては、目を瞑って頭を抱えてしまっている。
うん、これもうほとんどテロ行為と言っていいんじゃないかな。
「何なの? これ様式美か何かのつもりなの? それともこいつで始めなきゃなんないルールでもあったりすんの?」
「あたしに言われても知らないよ、そんなの」
「つーかもう着信拒否でもいいんじゃねぇか、これ」
「それは駄目よ、直接来られたら困るもの」
きっ、とこちらを睨んでくる雪ノ下。
言ってることは割とひどいと思うけど、正直なところ概ね同意せざるを得なかった。
由比ヶ浜も一切の躊躇い無くうんうんと頷いている。
奉仕部メンバーの心が無駄に一つになった瞬間だった。
「だから、これはあなたが処理しなさい。そもそもあなたの担当でしょう、彼は」
「え? また俺?」
そしてあっという間にばらばらになってしまったらしい。
もういい加減その役割分担止めてほしいんだけど。
構ってやるから調子に乗っちゃうんじゃないですかね?
あんまりしつこいと、俺がここにお悩み相談メールを送っちゃうかも知れないぞ。
といったところで聞いてくれるとは思えないので、黙って飲み込んでおくことにする。
沈黙は金であり、また人間は諦めが肝心なのだ。
もっとも、諦めてばかりで何が変わる訳でもないとも思うけど。
むしろ諦めて何も言わなかったら消極的同意と見なされて、仕事をばしばし振られるまである。
あれ、これやっぱり諦めちゃ駄目じゃね?
今更の結論に愕然とするが、時既に遅し。
「あー、もうわかったよ、どうせやらんと終わらんのならとっとと回答して終わらせるぞ。由比ヶ浜、内容は?」
「はいこれ」
由比ヶ浜がパソコンの画面をこちらに向けてきた。
読むのも嫌なのかよ、嫌われ過ぎだろ、あいつ。そりゃまぁ自業自得ではあるけど。
俺だって読みたくねぇよ、誰が喜ぶんだよ、このやり取り。
深く重いため息をついてから、ずりずりと椅子を引きずりつつ正面に移動して画面を覗き込む。なになに……?
〈PN:剣豪将軍さんのお悩み〉
『次のラノベ新人賞の締め切りが近いのだが、まだプロットしかできておらん。そこで我が相棒よ、お主の腕を見込んで執筆役の栄誉を与えたいと思う。今後はペアで活動していこうではないか。ペンネームは二人の名前を合わせて材木谷義満でどうだ?』
〈奉仕部からの回答〉
『まさかとは思いますが、この「相棒」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか? 一度受診することを強く勧めておきます。大丈夫、きっとまだ手遅れではないはずです』
「ひどっ!?」
「ひどくないだろ、むしろ優しさの上に優しさを重ねてるレベルだと思うぞ」
本音を言えば、寝言は氏んでから言え、くらい返してやりたいところだ。
ふざけて書いてるなら一発引っ叩かんとならんし、本気で書いてるならなお悪い。
まずもって相変わらずプロットしか書いてないとかあり得ないだろ。
というか自分が書けないなら諦めろよ。ワナビにすら失礼だぞ、それ。
大体、お前の為に書くくらいなら自分の名前で投稿するわ。いやどうせ落選確定だから絶対やんないけど。
「これで一件落着ね、次に行きましょう」
何もしてない雪ノ下が、なぜか一仕事終えたみたいな爽やかな顔でのたまう。
もっとも俺自身もものすごく開放感があったので何も言わない。
本気で誰も得しないやり取りだったな、これ。
時間の無駄ってこういうのを言うんだろうね。
「それじゃ、次あたし読むね」
材木座の依頼が片付いたからか、由比ヶ浜は爽やかな顔でそう言うと、またパソコンの画面を自分の方に戻した。
うん、その態度は非常に分かり易くてよろしい。
いや決してよくはないか。
まぁ最大の嵐は去ったわけだし、とやかくは言うまい。
「んーと、次のお便りは……千葉市にお住まいの、PN:姉ちゃんの弟さんからだね」
「あぁ、それもう読まんでいいぞ」
「だからさっきからヒッキーひど過ぎだって! ていうか意味分かんないし!」
「いやもう誰か分かったしさ。そいつは俺にとっちゃ不倶戴天の敵なんだよ、わかるだろ?」
「や、全然わかんないから。もういいよ、ヒッキーは黙ってて」
いや、わからんはずないでしょ、一人しかいないだろうが、奉仕部のこと知ってる弟キャラなんて。
川崎大志め、どこでこのメアドを……?
というか、そもそもどうして俺たちが小町の周囲を飛び回るちんけな虫の相談なんぞを受けてやらんとならんのか。
納得いかねぇ――が、俺の恨みがましい視線は当然のように黙殺されてしまうわけで。
何事も無かったかのように、由比ヶ浜はよく通る声でメールの内容を読み上げる。
〈PN:姉ちゃんの弟さんのお悩み〉
『お久しぶりっす、お兄さんたちにご相談なんすけど、そろそろ受験も近くなってきて受かるかどうか結構不安なんす。勉強はもちろんちゃんとやってるんすけど、緊張とか不安とか、そんな感じで。何かそういうのを解消する方法があれば教えてもらえないっすか?』
「よし由比ヶ浜、俺に代われ、最適解を突きつけてやるから」
「何でそんなに殺気立ってんの!? ていうか今のヒッキーに任せられないから。一体なんて答えるつもりなの?」
「一つ、小町に近づくな。二つ、小町の名前を口にするな。三つ、俺をお兄さんと呼ぶな。これを守らんと受験に落ちるぞ。つーか俺が落とす」
「完全に私怨だっ!? じゃなくて、そんなのダメに決まってんじゃん。大体落とすってなに? 無理でしょそんなの」
「いや、あいつの持ち物にこっそりカンニングペーパー仕込んでおいて、あとはテスト中に密告電話をかけるだけでいける」
「陰湿過ぎるし!」
「んなことねぇよ。あいつは世間の厳しさを知ることができるし、俺の心も平穏になるし、誰も損しないだろ。まさにWin-Winの関係ってやつだ」
「絶対違うから、ていうか一方的にボコってるだけじゃん、それ。ホントにもう……ほら、真面目に答えたげてよ」
かなり真面目に答えたつもりだったんだけど、そう言ったらまた由比ヶ浜の怒りを買うだけなので黙っておこう。
今も何かぷくっと頬を膨らませて不満げにしてるし。
しかし、そんなちょっと小動物っぽい仕草を見て少し毒気を抜かれた。
一呼吸置いて、俺も肩の力を抜く。
「まぁ小町絡みの相談じゃなく受験絡みの相談だし、仕方ないから普通に答えてやるか」
「最初からそうしてよね」
「それができないからこその比企谷くんじゃない」
「お前ホントいい笑顔で俺をディスってくるよな」
今日一番の雪ノ下の笑顔だった。
というか、何で俺の“らしさ”をお前が語ってんだよ。
いや、語ってるっつーか騙ってる、か。
本当にこいつは要所要所で的確に俺のハートを抉ってきやがって。
何なの? 聞き耳でも立ててんの? そうやっていつもタイミング窺ってんの? 俺を弄るのにどこまで全力なんだよ。
文庫本開いてんだから読書に集中してりゃいいだろうに。
「しかし何つーか、受験の不安とか緊張とか改まって言われてもなぁ。そんなもん誰だってあるもんだしよ」
「んー、そうだけどほら、それを解消できる方法があればって話でしょ。何かないの?」
「いや無いだろ、そんな方法なんて」
「即答!? ちょっとくらい考えてあげようよ」
「いやそうじゃなくてだな、完全にそういうの無くすのは無理って話だよ。皆そうなんだから。できるのは精々それを和らげることだけだ」
「あー、何となくわかる気がするかも。どうしたってゼロにはできないもんね、そういうのって」
「だな。それに受験が不安ってことは結局自信がまだ無いってことだろ。ならもっと勉強頑張るしかねぇよ。やれることは全部やったって胸張れるくらい勉強すりゃ、人に訊くまでもなく自信なんて勝手についてくるって」
学問に王道無しとはよく言ったもんだ。
勉強に限らずスポーツだって同じで、とことんまでやって初めて自信に繋がるのである。
結局やれる限りやるしかないのだ。
そして勉強に集中しまくって小町のことを忘れればいい。ここが大事。
もちろんそれは言わないけどな。いい話っぽく終われるし。
由比ヶ浜もほら、何かおぉーとか言いつつ素直に感心してくれているみたいだし。
これはもう黙っておくのが優しさだと言ってもいいと思う。
俺ってばマジ優しい。
ただこちらを無言で見据えている雪ノ下の目が若干冷たいので、こいつにはバレてるみたいだけど。
何でこんなに鋭いんだろうね、とても隠し事できる気がしねぇよ。
「それじゃあ回答はあたしが書くね」
「おう、任せた」
にこにこと笑顔のまま、由比ヶ浜がパソコンに向かう。
さっきの投稿者の時とは雲泥の差である。
材木座がここにいたら泣いてたんじゃないか?
あるいはそれもちょっと見物だったかもしれないけど、でもあいつの涙なんて別に見たくもないし。
総合的に考えると、やはりあいつはここにいなくて良かったということになるな、うん。
「……うん、これで良しっと」
俺が馬鹿なことを考えていたのも束の間。
タンタンとリズム良くキーボードを打ちこんでいた由比ヶ浜が、満足そうに一つ頷く。
どれどれ、何て書いたんだ?
〈奉仕部からの回答〉
『受験に不安になる気持ちはすっごく良くわかるけど、でもそれは皆も同じだよ。だからそんなに心配しなくても大丈夫! これから受験までまだ時間あるし、勉強をちゃんと続けたらきっと自信もついてくるから。合格を信じてラストスパート頑張って。来年あなたが後輩として入学してくるのを楽しみに待ってるよ』
おぉ、何と模範的な解答。
スクールカースト上位に属していると、先輩らしさみたいなのも自然に身に着いてくるもんなのかね。
いや本当に、最後の一文とかあいつにはもったいないくらいだ。
「しかしホントあれだな、お前が書くとまともな回答になるよな。何かもうまとも過ぎて逆に違和感出てくるレベル」
「褒めるなら素直に褒めてよ!」
「気にすんな。とにかく回答はこれでいいだろ。送信よろしく」
「もう……」
何かぶつぶつと文句言いながらも回答を送信する由比ヶ浜。
俺としてはわりと素直に褒めたつもりなんだけどなぁ。
一言余計だったかもしれんけど。あぁそれが駄目だったのか。なるほど。
「それじゃ由比ヶ浜、次行こうぜ次。何ならこの調子でずっと由比ヶ浜のターンでも全然オーケーだぞ」
「さり気なく押し付けないでよね、ちゃんと皆で読んで皆で回答するの。いい?」
「いや、一通目はそうじゃなかったじゃん」
「……え、えーと次のお便りはーっと」
不自然に目を逸らす由比ヶ浜。
まぁ俺もとやかく言うつもりはないけどね。
終わったことを蒸し返したくないし。
正直早く忘れたくすらある。叶うならばあいつの存在ごと。
「つーかまだ残ってんの?」
「んー、これでラストだね」
「そりゃ僥倖、じゃあさっさと読んでくれよ」
「うん。えっと、最後のお便りは、PN:美し過ぎるOGさんから」
「由比ヶ浜さん、それはもう読まなくていいわ」
「ゆきのんまでそんなこと言うの!? っていうか何で!」
由比ヶ浜が驚きの声を上げる。
しかしご意見ごもっともだが、ここは俺も雪ノ下に同意せざるを得ない。
正直言って、許されるならこのまま見なかったことにしたいくらいだ。
でも、そうはいかないんだろうなぁ、この人相手だと。
「由比ヶ浜、落ち着けって。もう一度ペンネームをよく読め、誰が差出人かすぐわかるから」
パニクる由比ヶ浜をどうどうと宥めつつ説明する。
奉仕部のことを知ってるOGって時点で候補がほとんど絞られるのに、かてて加えてこの手前味噌極まる形容詞が駄目押しだ。
これで差出人が陽乃さんじゃなかったら、土下座して詫びてやるよ。
にしても、何で奉仕部宛に送ってくるかな、この人は。
いや本当にさ、姉妹のやり取りなんて直接携帯同士でやんなさいよ、君たち。
間に誰か置かんと会話すらできん訳でもなかろうに。一昔前のコントかよ。
通訳じゃないんだぞ、俺らは。
「んー……あ、もしかしてゆきのんのお姉さん?」
「残念ながら、他に思い当たる人はいないわね」
ぱっと笑顔になった由比ヶ浜とは対照的に、物凄く嫌そうな顔で頷く雪ノ下。
苦虫を噛み潰したような表情って、こういうのを言うんだなぁとか思う。
しかし相変わらず仲の宜しくないこって。
そんな雪ノ下の反応に、由比ヶ浜は腰に手を当ててちょっと困ったような顔をする。
「もう。ゆきのん、ダメだよ、いくらお姉さんと仲良くなくても無視なんてしたら」
「別に仲が良くないわけではないわ、ただできる限り無干渉、非接触を貫きたいだけよ」
「それはもう仲が悪いってレベルだよ!?」
「まぁそれはともかく、あの姉さんが他人に悩みを相談するなんてあり得ないわ。何かあっても自分で何とかする人だもの。だからそのメールは私たちをからかう為のものとしか考えられないのよ。故に読む必要は無いものと判断できるわ」
「ふーん、何だかんだ言って、ゆきのんもお姉さんのこと信頼してるんだね」
「……あの人の能力については客観的に評価しているだけのことよ。それ以上の考えは無いわ」
ほっとしたように笑う由比ヶ浜と、ぷいっとそっぽを向く雪ノ下。
色々複雑な事情もあるらしき雪ノ下家の人間関係も、由比ヶ浜にかかればひどく単純な話に聞こえてしまうから不思議だ。
オッカムの剃刀じゃないけど、物事の本質を考えるのには難しい言葉も多くの説明も不要なのかもなぁ。
とすれば、そういう風に素直に単純に受け止められるのも一種の才能なのかもしれない。
少なくとも俺には絶対無理だな。何かって言うと余計なことばっかり考えてしまうし。
本当の賢さとは何なのか、とか随分と哲学的なことで悩んでしまった。
そんな俺を余所に、由比ヶ浜は小さく拳を握りつつ、改めて雪ノ下に笑いかける。
「うん、でも読まずに消しちゃうわけにもいかないし、あたしが読むから聞いててね」
「そうね、確かに奉仕部として受け取ったメールである以上は一応チェックの必要があるわけだし。それじゃあお願いできるかしら」
「任せて」
朗らかな笑顔のままパソコンへ向かう由比ヶ浜。
開いたメールを、いつもの快活な声で素直に読み上げる。
〈PN:美し過ぎるOGさんのお悩み〉
『こんにちは、わたしメリーさん、今あなたの後ろにいるの「え! 嘘!?」』
読んでいる途中で驚愕の表情のまま後ろを振り返る由比ヶ浜。
もちろん、その視線の先には何もないし誰もいない。
気まずい沈黙が落ちる。
「……いや嘘に決まってんだろ。騙されんなよ、お前」
ちょっと素直過ぎるでしょ。
あるいは優し過ぎると言うべきかもしれんけど。
呆れるべきなのか心配するべきなのか、判断に困るぞ。
雪ノ下に至っては、頭痛がするかのように手を頭にやりつつ渋い表情をしている。
果たしてどちらに対して呆れているのかについては分からないけど。でも多分両方だろうなとは思う。
敢えて口にしないのがこいつなりの優しさなのかもしれない。
「だってびっくりしたもん、こんなこと書いてるなんて思わないよ。もう、陽乃さんひどい」
由比ヶ浜さんはぷりぷり怒ってらっしゃるが、正直気にするポイントはそこじゃないと思う。
あの人のことだから、読むのが由比ヶ浜になると推察してこういうおちょくりを入れてきたんだろうし。
思い通りに動かされた事実にこそ腹を立てるべきだと思うんだけどな。
それでも、一頻り文句を言って気が済んだのか、それからすぐに由比ヶ浜は画面に向き直った。
おぉ、意外と大人な対応だ。
俺ならおちょくられたと分かった時点でメール消してるぞ、多分。
実際、読み上げる声音にも怒りの色は感じられない。この辺りは流石と言うべきだな。
〈PN:美し過ぎるOGさんのお悩み・続き〉
『――なんちゃって、冗談だよ、OGって事で身構えちゃうといけないと思ってジョーク挟んでみたんだけど緊張はほぐれたかな。じゃあ改めて、やっはろー、みんな元気? 今日は雪乃ちゃんたちにお姉ちゃんからお願いがあってメールしたの。実は今度わたしが参加するイベントがあるんだけど、男手が足りないんだよね。ということで、比企谷くん貸して』
「お断りします」
「また即答だし!」
非難の声を上げる由比ヶ浜だが、今回は文句言われる筋はないと思うぞ。
あの陽乃さんの手伝いとか、何させられるか分かったもんじゃない。
余所当たってくれよ、いやマジで。
「つか何で俺を名指ししてんだよ、頼むところ間違い過ぎだって。大体あの人なら一声かけりゃそこらの有象無象どもがわらわらと集まってくるだろ。大学生なんて軽い奴らばっかりって話だし。そいつらこき使ってやればいいじゃん。よし由比ヶ浜、そう回答しようぜ」
「全体的に悪意が滲み出てるよ! そんな回答できるわけないでしょ。拒否するにしても、もうちょっとまともな答え方しないとダメだって」
「でも由比ヶ浜さん、比企谷くんに頼むのが間違いであることも含めて、彼の言っていることも一理あるわ」
「いらん修飾語つけんな」
一応文句を言っておく。もちろん無視されたけど。うん、でもこれこそが様式美だよな。
なお、そんな雪ノ下の言葉をふんふんと素直に頷きながら聞いている由比ヶ浜も地味にひどいと思う。
雪ノ下はこちらに一瞥すらくれることなく、淡々と説明している。
「姉さんの周りにはあの人の助けになりたいと思っている人間が何人もいるし、その人たちに依頼しなさい、と返してあげればいいわ。あと、大学生にもなって高校生の手を借りなければならない程に落ちぶれてしまったの? 無様ね、と最後に付け加えてもらえるかしら」
「色々台無しだよ!? で、でもまぁそうだね、同じ大学にだって頼める人いるはずだし、ヒッキーもかわいそうだもんね」
「由比ヶ浜……」
惜しいな、その優しさをもうちょっと早く発揮してくれてたら俺も素直に感動できたんだけど。
何にしても、二人とも今回の依頼を否定する方向でいてくれてるのはありがたい。
ほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあ――って、あれ? 何かずっと下の方に続きがあるよ」
「は? 何それ?」
返信しようとパソコンに向かった由比ヶ浜の言葉に、不吉な予感を覚える。
刹那、頭の片隅をふと疑問が過ぎる――もし陽乃さんが本気で俺を引っ張り出そうとしているなら、メールで依頼するだけで済ますだろうか?
答えは否。あの人の性格でそれはあり得ない。
彼女はきっと、勝利を確定させてからしか勝負の土俵には上がろうとしないだろう。
表情が引きつるのを自覚しつつ、由比ヶ浜に続きを促す。
諦観って、こういう気分を言うんだね。
視界の片隅に、憮然とした表情の雪ノ下が映る。
こっちももう展開が読めているんだろう。
〈PN:美し過ぎるOGさんのお悩み・追伸〉
『あ、ちなみにもう静ちゃんの許可は取ってるよ。拒否はできないからそのつもりでね。じゃあ比企谷くん、詳しいことはまた連絡するからよろしくー』
「……もう相談でも何でもないじゃない」
ぽつりと呟く雪ノ下。
その声には、何故かちょっと苛立ちが滲んでいる。
でもそうだよな、これ相談じゃなくて、もう単なる事後報告になってるし。
前段は何だったんだよ。
「おぉ、やってるな、どうだ調子は?」
とそこで、ガラッと勢いよくドアを開けながら入ってくる人影が一つ。
全員の視線が集中したその先にいたのは、今回俺を陽乃さんに売り飛ばしてくれた張本人である奉仕部顧問の平塚先生だった。
正直、やってるっつーかむしろよくもやってくれたって感じなんだけどな。
じとっと恨みがましい視線を送ると、なぜかにやりと笑って返された。
俺の視線をどう受け取ったんだよ、この人は。
「平塚先生、何度も言っていますが入る際にはノックを」
「また気が向いたらな。それより今は依頼メールの方が大事だろう」
部屋に入る際のノックに気が向くも向かんもないと思うんだけど。
あっさり流された雪ノ下はというと、またも頭痛を抑えるかのように手を額にやりつつ難しい表情をしている。大変ですね。
毎回同じこと繰り返してるのに、なお根気よく教育しようとは、何とも見上げた根性だ。正直ここだけ見てるとどっちが教育者かわからない。
そんな雪ノ下の苦悩や俺の呆れなど意にも介さず、平塚先生は豪快に笑いながら話を進めようとしている。
うん、多分今年も無理だろうね、結婚は。ぼんやりとそんなことを思いました。まる。
「さて、その様子だともう陽乃のヤツのメールは確認したみたいだな」
「ついさっき見ましたよ。ていうか何で勝手に許可出してんですか? 俺の意見くらい聞いてくださいよ」
「いや、君に聞いても答えは決まり切ってるからな、時間の無駄だろう。まぁ学外のイベントに触れる機会というのは多い方がいい。それでなくても君の場合は社会との接点が極端に少ないわけだしな。諦めて精々ボランティアに勤しんでくることだ」
「横暴過ぎる……」
「まぁ、あいつにも何か事情がありそうだったからな」
「事情、ですか?」
怪訝そうな顔で雪ノ下が訊き返す。
言葉にこそしていないものの、由比ヶ浜も小首を傾げて不思議そうにしていた。
もちろん訳がわからないのは俺も同じだ。
「いやでも、敢えて俺を指名する事情って何ですか? そもそも自慢じゃないですけど、俺は技能もやる気もないですよ。何の役にも立たない自信すらあります。つーかむしろ邪魔してマイナスになる可能性の方が高いくらい」
「本当に自慢になってないし! ていうかそんなことないよ、ヒッキーはやる気とか根性とかそういうのは無いかもだけど、技能とかって言うんなら、何かこう色々と、その、できることとか……あるよね?」
勢いよく俺の言葉を否定してくれた由比ヶ浜だけど、後半になるにつれてどんどん声が小さくなり、最後は疑問形になっていた。
気持ちはありがたいにしても、正直フォローできる要素が思いつかないのなら黙っていてくれた方が良かったんじゃないかな。何で俺に聞くのよ?
何ていうか、優しさって時々残酷だよね。
「比企谷くんの技能がどうこうよりも、そもそも校外のコミュニティに彼が入って上手くやれるとは到底思えないのですが」
「いかにもその通りだが、その辺は陽乃のヤツが何とかするだろう。あいつがわざわざ私に頼んできたんだからな」
肩を竦めながらの平塚先生の言葉に、雪ノ下が深く考える姿勢を見せる。
口元に手を当てて思索に耽るその姿に、誰も言葉を挟まない。
少しして顔を上げると、雪ノ下は小さく呟いた。
「いえ、やはりどう考えても不自然です。むしろ異常と言うべきかもしれません。一体何を企んでいるのかしら……」
「一応お前の姉だろう、少しは信じてやってもいいんじゃないか? まぁ何を考えているのかは私もわからんが、積極的に他人に害を為そうとするようなヤツでもないし、別に構わんだろ。苦労するのは比企谷一人だし」
「そこは大いに構うんですけど」
俺のぼやきはしかし、当然のように黙殺された。
平塚先生は雪ノ下の方しか見てないし。
何で俺のことなのに俺が意見を言えないんですかね?
「でも、ゆきのんのお姉さんがそんな悪巧みとかしないと思うんだけど。本当に困ってるんじゃないかな?」
「それが疑わしいのだけれど。悪巧みかどうかはともかく、あの人のことだから、私や比企谷くんをからかって楽しみたいだけという可能性も否定できないわ」
「あり得るっつーかむしろそう言われた方が納得できるな、俺を頼りにするとかどんなジョークだよ」
「だからヒッキー自虐的過ぎだって、もう」
呆れた顔をしている由比ヶ浜だけど、陽乃さんの性格を考えたら自然な発想だと思うぞ、これは。
大体俺を頼りにする人間なんて小町一人で十分なのだ。
それ以外の方はノーサンキュー。
「何でもいいが、既に陽乃にはオーケーで回答済みだからな。比企谷もたまには外の空気に触れて来い。何事も経験だ」
「はぁ……わかりましたよ、観念しますよ」
平塚先生の有無を言わさぬ言葉に、うなだれるように首肯して返す。
がっくりと肩が落ちるのが自分でもよくわかった。
自分の時間を他人の都合で潰されるって凄いストレスだよな。
しかも陽乃さんにこき使われるとか、想像するだけで憂鬱になるわ。
「げ、元気だしてヒッキー」
「ならお前変わってくれよ、俺ホントあの人苦手なんだって」
「って言われても、頼まれたのヒッキーだし、男手がいるって書いてるし。諦めるしかないよ。ね?」
どうやら普段よりも更にひどく目が澱んでいるらしく、由比ヶ浜が引き気味になりながら慰めてくれる。
ありがたいんだか悲しいんだか。
何度目かわからない重いため息を吐き出してから顔を上げると、明後日の方向を向く雪ノ下の横顔が視界に映る。
妙に苛立たしげな表情をしているのが少し引っ掛かった。
何事かと見ていると、ふと小さな声でぽつりと零すのが耳に届く。
「……気に入らないわね」
鈴の音のように、微かでも良く響く声。
それはどこか、自身で抑えきれない感情が溢れ出たかのような言葉だった
果たしてその感情の源泉が何なのかまではわからないけど。
いいようにあしらわれている感のある姉に対してか。
それを捩じ伏せる手立てを思いつかない自分自身に対してか。
あるいは、もっと違う何かなのか。
面倒なことにならないといいんだけどな。
どこか他人事のように、そんなことを思いながら窓の外へと目を向けた。
秋晴れの空に、少し雲が出てきているのが見える。
もしかしたら、一雨来るかもしれない。
455: 2013/08/04(日) 22:21:15.57 ID:8xV2Qvod0
⑤ 当然のように連れ立って比企谷兄妹は街を巡り歩く
時は流れて週末。全ての働く人たちと学ぶ人たちが渇望して止まない休日だ。
もちろん俺も例外ではなく、週に僅か二日しかない休みの日を心の支えに平日を乗り切っていると言っても過言ではない。
とはいえ二日なんてあっという間に過ぎ去ってしまう。
終わりがあるからこそ尊いとか、限りあるからこそ輝くとか、そんなおためごかしはいらないのに。
俺の理想はまさしく毎日が休日、エブリデイハッピー、これだ。ぶっちゃけカレンダーには休みを意味する赤色以外必要ないとすら思う。
いや本当にね、働きたい人だけ働けばそれでいいじゃないか。そんな未成年の主張。
時は流れて週末。全ての働く人たちと学ぶ人たちが渇望して止まない休日だ。
もちろん俺も例外ではなく、週に僅か二日しかない休みの日を心の支えに平日を乗り切っていると言っても過言ではない。
とはいえ二日なんてあっという間に過ぎ去ってしまう。
終わりがあるからこそ尊いとか、限りあるからこそ輝くとか、そんなおためごかしはいらないのに。
俺の理想はまさしく毎日が休日、エブリデイハッピー、これだ。ぶっちゃけカレンダーには休みを意味する赤色以外必要ないとすら思う。
いや本当にね、働きたい人だけ働けばそれでいいじゃないか。そんな未成年の主張。
456: 2013/08/04(日) 22:27:27.65 ID:8xV2Qvod0
さておき土曜日である。
俺はこれを最大限有効活用すべく、まずは日々の疲れを癒すことに全力を注ごうと決意した。
それでなくとも朝晩が大分肌寒さを増してきた感のある昨今、温かい布団は俺を魅了して止まないのだから。
何人たりとも我が睡眠を邪魔することは許さない。
というわけで、いざ行かん夢の世界――
「お兄ちゃんおっはよー。さぁ朝だよ朝、楽しい休日に輝く朝日に可愛い妹、これもう最高のシチュエーションでしょ。ほら起きて起きてー」
俺はこれを最大限有効活用すべく、まずは日々の疲れを癒すことに全力を注ごうと決意した。
それでなくとも朝晩が大分肌寒さを増してきた感のある昨今、温かい布団は俺を魅了して止まないのだから。
何人たりとも我が睡眠を邪魔することは許さない。
というわけで、いざ行かん夢の世界――
「お兄ちゃんおっはよー。さぁ朝だよ朝、楽しい休日に輝く朝日に可愛い妹、これもう最高のシチュエーションでしょ。ほら起きて起きてー」
457: 2013/08/04(日) 22:33:48.44 ID:8xV2Qvod0
ばたんっと扉の開く音と同時に、落ちかけた意識が揺り戻されてしまう。
布団越しでも分かる、高原で聞く鳥の歌声よりも爽やかで軽やかなソプラノが、緩やかに俺の耳を擽ってくる。
温かい布団の持つ魔の誘惑とせめぎ合う天使のような呼び声。
果たして今は現実なのか夢なのか。その境界線上を行ったり来たりしているような気分だった。
起きぬけの寝惚けた頭を、そんな取りとめの無い思考がぐるぐると回っている。
少しして、俺の体が左右にゆさゆさと揺さぶられ始めた。
「もうお兄ちゃんてば、二度寝を決め込むとか小町的にポイント低いよ、ほら寝巻洗濯するんだから起きてってばっ」
「!」
458: 2013/08/04(日) 22:39:31.97 ID:8xV2Qvod0
ばさっと布団が剥ぎ取られた。
瞬間、ひんやりとした空気が全身を包みこみ、反射的にぶるっと身を震わせる。
「な、何だ何だ、敵襲か? テロか?」
「やっとお目覚め? お兄ちゃん」
慌てふためく俺に対して、にっこりと微笑んでくる小町。
曇り一つない可愛い笑顔を前にしては、俺の睡眠を邪魔してくれたことに対する文句の言葉など口をつこうはずも無く。
大人しく朝の挨拶を交わすのみである。
千葉の兄は常に妹に勝てない。
459: 2013/08/04(日) 22:45:58.22 ID:8xV2Qvod0
「……おぅ、おはよう小町」
「うん、おはようお兄ちゃん。じゃ早速だけど寝巻出して」
「は? 何だいきなり」
「だから洗濯するって言ってるじゃん、ほら早く」
「あー、分かったよ、んじゃ着替えて持って下りるから」
「ダメ、そしたらお兄ちゃん二度寝するでしょ。今脱いで小町に渡すか、小町と仲良く一緒に下に行くか、二つに一つだよ」
「了解了解、それなら一緒に下りるぞ」
「オッケー、んじゃ行こー」
楽しそうな小町と並んで階下へ向かう。
例によって例の如く、今日も今日とて両親は仕事でおらず、家の中は静かなものだった。
まぁいても寝てるだけなんだけどさ。お仕事ご苦労様です、いや本当に。
460: 2013/08/04(日) 22:51:08.00 ID:8xV2Qvod0
「じゃあお兄ちゃん、着替えたら寝巻は洗濯機に突っ込んどいてね、すぐ回すから」
「ん、分かった」
ぱたぱたと台所へ向かう小町と別れて洗面所へ。
着替えて顔を洗うと気分はすっきり目元はどんより。
あぁ、どうしようもないくらいにいつも通りだ。
しかし完全に起きてるはずなのに、鏡の中の俺の目は何でこんなに澱んでるんだろうか。
461: 2013/08/04(日) 22:58:18.58 ID:8xV2Qvod0
さり気なく下がったテンションのまま台所へ戻ると、小町が鼻歌交じりに朝食の準備をしていた。
俺に気付くと、ふりふりと手招きしてくる。手伝いなさいということだろう。
大人しく小町の隣に向かい、並んで状況を確認。
「あれ? 大体準備終わってるじゃん」
「うん、でも折角だし、林檎あるから皮剥いて切ってよ」
「任せとけ、何ならウサギまで仕立ててやろう」
「あ、どうせならネコにしてよ」
「いや無理だろ、そんなのどうやってやるんだよ?」
「そこはほら、お兄ちゃんの小町への愛の力で何とか」
「愛はあっても根性が足りないので却下」
「むむっ、却下されたのはアレだけど、でも小町への愛を語るのはポイント高いかもしれなくて?」
462: 2013/08/04(日) 23:05:26.59 ID:8xV2Qvod0
その言葉は敢えて無視して包丁を手に取る。
むむむと可愛らしく小首を傾げている小町の相手をしていても話が進まないのだ。
まぁ本音では超愛でたいけど。
視線を手元に合わせて、しゃりしゃりと林檎の皮を剥いて切っていく。
専業主夫志望の腕前を遺憾なく発揮すれば、あっという間に完成である。
「ほれ、できたぞ、早く食おうぜ」
「ん? わぉ早いね、綺麗にできてる。さっすがお兄ちゃん」
463: 2013/08/04(日) 23:11:41.20 ID:8xV2Qvod0
出来栄えに納得したのか、満足げに頷く小町。
今日の所はウサギで良かったらしい。
いや本気でネコ型にしろとか言われてもどうしようもないけど。
そうしてテーブルに皿を並べた後、向かい合って席に着く。
いつもの光景にいつもの時間。
やはり休日の朝食はこうじゃないと駄目だよな。
トーストを齧りコーヒーを一口。うむ、美味。
464: 2013/08/04(日) 23:17:55.36 ID:8xV2Qvod0
「美味って、もうちょっと頑張ったら美妹になるよね」
「おい脈絡無さ過ぎだろ、何の話だよ、つーか何を頑張るんだよ」
「もう、分かってるくせに」
「いや全然」
ちらちら流し目送ってこないでいいから。
というか小町の場合、そもそも頑張らなくても十分可愛いし。
むしろこれ以上頑張っていらん虫を引き寄せられても困るし、頑張らなくてもいいとさえ思う。
何とも難しい所だな。
465: 2013/08/04(日) 23:22:51.17 ID:8xV2Qvod0
ちらと返した視線から、そんな俺の思考の全てを察したかのように、小町はにへっと相好を崩す。
何この可愛い生き物。朝も早くからこんな幸せな気分になると反動が怖いぞ。
しかし、何でこいつは俺の目を見ただけで考えてることが分かるんだろうか。
あるいは俺が分かり易過ぎるだけだったり? 謎だ。
そんなちょっとどきどきの朝食を終えて暫く。
食器洗いなんかの片付けを終えると、完全なフリータイムである。
陽の当たるリビングで誰にも邪魔をされずにだらだらできるこの時間、これを幸せと呼ばずして何と呼ぼうか。
466: 2013/08/04(日) 23:29:09.68 ID:8xV2Qvod0
そんなまったりした気分でソファでくつろぎながらスマホを弄っていると、洗濯を終えた小町が隣に腰掛けてきた。
交代制で、今日は小町の当番だったのだ。
ちょっと疲れたのか、そのままぽすっと俺の肩にもたれかかってくる。
普段なら文句の一つも口にするところだけど、さすがにそれはあんまりな仕打ちだと思ったので、されるがままに任せておく。
「はー、ようやく終わったよー」
「お疲れさん、台所の棚にミスドあるぞ」
「いや、それ昨夜お父さんが買ってきたやつじゃん、何お兄ちゃんが買ってきたみたいに言ってんの?」
「俺は別に自分で買ってきたとは言ってない、ただ棚にミスドがあるぞと言っただけだ」
「出た屁理屈、ホントお兄ちゃん屁理屈好きだよね、そういうの小町的にポイント低いよ?」
「ポイントはどうでもいいけど、どうすんだ? 食うなら紅茶くらい淹れてやるぞ」
「ホント? じゃあ食べるー」
467: 2013/08/04(日) 23:35:38.27 ID:8xV2Qvod0
にぱっと笑顔になりながら頷く小町。
ホント女子って甘い物好きだよな、いや俺も嫌いじゃないけどさ。
一度小町の頭を撫でてやってから、立ち上がって台所へ向かう。
その後ろをとてとてと小町もついてきた。
紅茶を準備する俺の横で、少しだけ真剣な表情で小町がミスドの箱を覗き込んでいる。
頭の使いどころを果てしなく間違っている気がしないでもないな、これ。
そういう表情は、参考書とか問題集とかそういうのと向き合った時にこそするべきだと思う。
そんな兄心を妹は知らず。
468: 2013/08/04(日) 23:41:30.44 ID:8xV2Qvod0
「何食べよっかなー」
「昼もあんだし、一個にしとけよ」
「だいじょぶだいじょぶ、分かってるって。小町だってお兄ちゃん好みのスタイルを維持する為に毎日気を遣ってるんだから。あ、これ小町的にポイント高いかも」
「そうだな、それ言わなかったら高かったかもな」
「照れちゃって、このこのー」
「うぜぇ……」
つんつんと肘で突いてくる小町を適当にあしらいながら、茶葉をティーポットに入れる。
俺好みのスタイルかどうかについては突っ込まない。肯定しても否定しても碌なことにならんし。
お湯は準備済みなので、さっさとポット注いでいく。
正しい注ぎ方ではないかもしれないけど、雪ノ下ならともかく、俺たちはそういうのは気にならないのだ。
まぁこの辺が生まれや育ちの違いなんだろう。
469: 2013/08/04(日) 23:49:06.04 ID:8xV2Qvod0
「むー。よし、今日はゴールデンチョコレートにしよう」
「俺Dポップな」
「また……お兄ちゃん相変わらずセコいよね」
「セコいとか言うな、色々楽しめてお得だろうが」
皿にゴールデンチョコレートを乗せて、Dポップと一緒にトレイへ。
あとは淹れたての紅茶をカップに注げば、ティータイムの準備完了である。
この手際の良さは我ながら見事だと思うね、誰も褒めてくれないけど。
470: 2013/08/04(日) 23:56:02.30 ID:8xV2Qvod0
「じゃあいただきまーす」
言うなり、ゴールデンチョコレートを一口その小さな口に放り込む小町。
咀嚼する内にみるみるその表情が緩み、実に幸せそうである。
しかし甘い物があれば幸せになれるというのは、ある種の才能と言えるんじゃなかろうか。
こっちはちょっと気になることもあり、そこまで甘味にのめり込めないので、それがいっそ羨ましくすらあった。
一つドーナツを口に運びつつそんなことを考えていると、小町が不思議そうに首を傾げる。
471: 2013/08/05(月) 00:05:32.03 ID:/R+RLZ3m0
「どしたのお兄ちゃん、何か難しい顔してるけど。いつも以上に目が澱んでるよ」
「一言余計だ。まぁ大したことじゃねぇよ、昨日言われたこととかちょっと思い出しただけだ」
「ん? あー、そういえば昨日何かお説教されてたね」
昨夜、両親に成績の事でちくりと釘を刺されたのだ。
文系科目に比してあまりに理系科目が悪過ぎるということで。
特に数学の悪さについて念入りに。国語ができるなら数学だってできるだろうって、そんな無茶言われてもという話なんだけど。
まぁ養われている身である以上、反論なんてできるわけもないので、素直に聞くしかなかった。
しかし、期末の結果も赤点なら小遣い減らすという宣告が来たのは辛い。
何が辛いって、それが分かってても打つ手がないところが特に。
472: 2013/08/05(月) 00:12:48.97 ID:/R+RLZ3m0
「理系科目がこのままだったら小遣い減らされんだってさ」
「えぇっ、ヒモのお兄ちゃんからお小遣い取り上げるなんて、そんなひどい」
「お前の認識の方がひどいよ」
八幡的にポイント低いぞ、それ。
俺のジト目に、たははと笑って誤魔化す小町。
その可愛さでポイントは見事に相殺された。
いや、ちょろ過ぎるだろ、俺……
473: 2013/08/05(月) 00:18:58.92 ID:/R+RLZ3m0
「まぁ冗談はおいといて。でもじゃあ勉強するしかないよね」
「やる気が起きん。というかやっても出来ないの分かってるし。もう諦めてるよ」
「早っ、諦めるの早過ぎるよ、もっと頑張ろうよ、お兄ちゃんはやれば出来る子でしょ」
「“やれば出来る子”って言葉はさぁ、その後に“でもやらない子”って主張が隠れてると思うんだよな」
「もう、どうしてそんなに捻くれてるの? もっと言葉は素直に受け取らなきゃ」
「何にせよあれだ、俺は数学の勉強の仕方とか分からんし、どうしようもないな」
軽くお手上げのポーズ。
実際どうにもならん事に労力を割く程空しいこともないのだ。
そんな俺を見て何を思うのか、小町はもう一口ドーナツを頬張って、むぐむぐと咀嚼している。
考えるか食べるか、どっちかにしたらいいのに。
474: 2013/08/05(月) 00:25:51.22 ID:/R+RLZ3m0
「んー、じゃあさ、誰かに教えてもらえば?」
「ばっかお前、俺に勉強を教えてくれるような知り合いがいるとでも思ってんのかよ」
「そんな自信満々に断言しないでよ、妹として悲しくなっちゃうでしょ」
「いいんだよ、小町がいてくれれば俺はそれで十分だから」
「っ! やだお兄ちゃん、ちょっときゅんってきちゃったじゃん、そういう台詞いきなり言うの禁止!」
「何だそれ」
腕でバッテンマークを作る小町。
いやそんなこと言われても困るんだけど。つまりどうすりゃいいんだよ、俺に喋んなと?
しかし小町は俺の疑問に答えてはくれなかった。投げっ放しもいいところである。
475: 2013/08/05(月) 00:35:13.57 ID:/R+RLZ3m0
「話戻すよ。でも実際ほら、たくさんいるじゃない、教えてくれそうな人」
「例えば誰だよ」
「まず平塚先生とかー」
「却下だ。平塚先生は国語教師だし、そもそもあの人とマンツーマンとか身の危険が大き過ぎるわ」
「じゃあ陽乃さんは? すごく頭良いんでしょ?」
「論外だろ、あの人に教えを乞うとか、見返りに何を要求されるか分かったもんじゃねぇ」
偏見が過ぎるよ……とか言いつつジト目で俺を見てくる小町だが、あの人の本性を知らないからそういうことを言えるのだ。
まぁでも、小町があの人の腹黒さに染められるのも嫌なので、敢えて説明はしない。
言わぬがラフレシアである。
476: 2013/08/05(月) 00:42:22.08 ID:/R+RLZ3m0
「それじゃ戸塚さんとか」
「戸塚というのは魅力的な案だけど、迷惑かけたくないし格好悪い所見せたくないし、残念ながら無しだな」
「ここでそんな理由聞きたくなかったなぁ。他にっていうと結衣さんは?」
「はっ、それこそ話にならんわ、由比ヶ浜なんて俺と同レベルかちょっと上程度だぞ?」
「勝ってもいないのに何でそんなに偉そうなの……? じゃあもう真打登場しかないよね、雪乃さんはどう?」
「雪乃なぁ、そりゃ成績は良いんだけど、教えてくれって俺が頼んでも鼻で笑って却下してくる予感しかしねぇよ、それも辛辣な罵倒付きで」
「えー、雪乃さんもダメとかさー、って雪乃ぉっ!?」
話の途中で、突然がたっと音を立てて立ち上がる小町。
大きく見開いた瞳のその奥が、内心の動揺を表すかのように大きく揺れていた。
そして次の瞬間、鼻息荒くこちらに詰めよってくる。
477: 2013/08/05(月) 00:50:43.22 ID:/R+RLZ3m0
「雪乃って何!? 何なのお兄ちゃん、何で雪乃!? 何が雪乃!? どう雪乃!? っていうか如何な心境の変化がそこに!? 小町の知らない所でどんなドラマが展開してたのさっ! プリーズテルミー!」
「ちょ、ちょっと待て、少し落ち着けって小町」
怒涛の勢いに圧倒されかけながら、なだめようと試みる。
くそっ、ついうっかり名前呼びしたのが不味かったか。
しかし動揺し過ぎだろ、何を言ってるのかがさっぱり分からない。
とりあえず喋りを止める為、Dポップの一つを、ぽいっと小町の口の中へ放り込む。
478: 2013/08/05(月) 01:00:23.41 ID:/R+RLZ3m0
むぐっと捲し立てていた口が閉じられた。
食べてる時は喋っではいけませんなんて行儀の基本も基本である。
きちんと教育が行き届いてる小町は当然それを守るのだ。良い子で本当に良かった。
小町はもぐもぐと咀嚼して、ごくんと飲み込んで。
「あーん」
口を開けて次を待っている。
あれ? 何かおかしくね?
読み通りの展開と思ってたら、全然そんなことなかったんだけど。
479: 2013/08/05(月) 01:14:54.75 ID:/R+RLZ3m0
というか、そんな餌を待つ燕のヒナみたいなことされても。
ちらちらとこちらを窺う小町。
参った……そんな期待するような目を向けられてしまえば、逆らうことなんてできるわけもない。
「ほれ」
「あむっ」
仕方なく、次のドーナツを小町の口へと運ぶ。
次の一個、もう一個、と繰り返す内に俺の分は綺麗に消失。
六個あったはずなのに、結局一個しか食えなかった。
480: 2013/08/05(月) 01:23:34.35 ID:/R+RLZ3m0
まぁいつものことである。
いやむしろ誤差の範囲と言うべきかもしれない。
小町が落ち着いたのならオールオーケーだ。
「ん……ご馳走さまでした」
「ご馳走さん」
手を合わせてぺこりと一礼。
して、落ち着いた所作で小町が姿勢を正す。
494: 2013/08/11(日) 22:48:57.67 ID:OuuBTHni0
こんばんはです、お待たせしてます。
とりあえず切りのいいところまで上げてきたいと思います。
いよいよあの人の出番が……
しかし暑さが尋常じゃないなぁ。
早いこと8月末になってほしいもんです。
とりあえず切りのいいところまで上げてきたいと思います。
いよいよあの人の出番が……
しかし暑さが尋常じゃないなぁ。
早いこと8月末になってほしいもんです。
496: 2013/08/11(日) 22:52:52.81 ID:OuuBTHni0
手を合わせてぺこりと一礼。
して、落ち着いた所作で小町が姿勢を正す。
「さてお兄ちゃん、聞かせてもらいましょうか、いつの間に雪乃さんとそういう仲に?」
「何だよ改まって。いや、そういうもこういうもないけど。単に名前で呼べって言われただけだし」
「なーに言ってんのさぁっ!」
またしてもがたっと席を立つ小町。
姿勢を正した意味が全くもって無かった。
何でそんな興奮してんだよ、逆に俺が落ち着いちゃうだろ。どうどう。
して、落ち着いた所作で小町が姿勢を正す。
「さてお兄ちゃん、聞かせてもらいましょうか、いつの間に雪乃さんとそういう仲に?」
「何だよ改まって。いや、そういうもこういうもないけど。単に名前で呼べって言われただけだし」
「なーに言ってんのさぁっ!」
またしてもがたっと席を立つ小町。
姿勢を正した意味が全くもって無かった。
何でそんな興奮してんだよ、逆に俺が落ち着いちゃうだろ。どうどう。
497: 2013/08/11(日) 22:57:48.64 ID:OuuBTHni0
「雪乃さんだよ? あの雪乃さんがそんな名前で呼んでいいなんてさらっとすらっと言うわけないじゃん。びっくりだよもう。いよいよ二人に春が来て? くーっ、小町的にポイント高過ぎてもうあれだね、今夜はお赤飯焚かないとだね!」
「だから落ち着けっての、そういうんじゃないんだって。単にほら、陽乃さんのことを名前で呼んでたら、あいつが何か対抗心燃やしてそういう話になったんだよ。ホントそれだけだから」
で、そうやって名前を呼ぶ度にいちいち赤面してはからかわれるのも腹立たしいので、俺も練習しているというだけ。
言ってみればそれだけのことなのだ。
そうやって淡々と説明したんだが、小町はどうにも納得がいかない様子。
椅子に改めて座り直しつつも、何故かぷくっと膨れて不満を露にしている。
498: 2013/08/11(日) 23:00:59.02 ID:OuuBTHni0
「むぅ、何か淡白。でも雪乃さんが男の子に名前で呼んでいいなんて、そうそうOK出さないと思うんだけど」
「そりゃあれだ、陽乃さんのことも知ってるヤツがそうそういないってだけだろ、名字で呼ぶと分かり難いんで名前で呼べって話だったし」
「えー? だってほら、お兄ちゃんのクラスの、えーっと誰だっけ? はや……はや……はやはち?」
「違う! いいか小町、その間違いだけは絶対にするんじゃない、今すぐ忘れろ」
こんな所でおぞましい言葉を思い出させるなよな。
某腐女子が聞いてたらエラいことだぞ。眼鏡をきらーんと光らせつつ飛んできて布教を始めかねん。
もし小町がその道に引きずり込まれたりしたら、俺が世を儚んで身投げするまである。いのちだいじに。
499: 2013/08/11(日) 23:05:41.63 ID:OuuBTHni0
「葉山のことだろ、言いたいのは」
「あ、そうそう、その人その人。その葉山さんもさ、雪乃さんと昔からの知り合いなんでしょ? 確か。でも名字で呼んでたじゃん」
「いやそりゃそうだけどよ、葉山の場合は、どうしたって雪ノ下と相性合わないしなぁ。実際仲もあんま良くなさそうだし。だからじゃねぇ?」
「もう、別に雪乃って呼んだらいいじゃん、早いこと慣れないとほら。はっ、小町もお義姉ちゃんって呼ぶ練習しなきゃなの?」
「せんでいいって。つかそんな構えられたら言い難いんだよ。とにかく特別な意味なんてないから」
「絶対そんなことないと思うんだけどなー」
じとーっとこちらを窺ってくる小町だが、そんなことを言われてもどうしようもない。
実際、奉仕部の空気は甘いどころか辛辣さに満ち満ちているのが現状なのである。
そりゃ多少はあいつとの距離も近くなってるかもしれないけど、基本俺に対しては罵倒から入るという姿勢は小揺るぎもしていないのだから。
500: 2013/08/11(日) 23:15:22.20 ID:OuuBTHni0
「ないない。大体この前の部活の時だって、最後に部室を出る前のあいつの台詞、呼吸する暇があったらさっさと片付けて出てけ、だぞ」
「わぁお、愛されてるぅ」
「めっちゃ棒読みじゃねぇか」
正に冷や水を浴びせられた、といった風に小町がトーンダウンしていた。
というか、むしろ引いていた。ドン引きである。
この場合、それは言った雪ノ下に対してなのか、言われた俺に対してなのか、判断に苦しむ所だ。
501: 2013/08/11(日) 23:24:18.11 ID:OuuBTHni0
さておき、おっかしーなーとか小町が小首を傾げているのを見やりつつ溜め息を一つ。
その日にあった出来事は、きっと燃料投下にしかならないだろうから黙っておこう、と改めて決意する。
とは言っても、正直、雪ノ下が何を考えているのか分からないのは俺も同じなのだ。
あいつとの距離が縮まっているように思うのは気のせいじゃないと思うけど、その真意までは分からない。
あの透き通るような表情の影に、一体どんな感情が秘められているのだろうか。
知りたいような、知らない方がいいような……
502: 2013/08/11(日) 23:28:13.81 ID:OuuBTHni0
「つーか話逸れ過ぎだろ、何の話してたんだよ、今まで」
「え? 小町のお姉ちゃん候補の吟味をしてたんでしょ?」
「違う、俺の数学のテスト対策の話してただろ」
「あ、そうだったそうだった、すっかり忘れちゃってたよ、てへり」
舌をぺろっと出しつつ笑って誤魔化す小町。可愛いから許す。
まぁ別に忘れられてても大して問題の無い話だし。
というか、このまま終わらせてもいいくらいだ。うん、そうしよう。
503: 2013/08/11(日) 23:35:18.89 ID:OuuBTHni0
「つーことで話は終わりな」
「いやいや、終わってないよ? というか始まってさえなかったじゃん」
「始めんでいいだろ。気にするなって、最終的には黙って俺が我慢すればそれで丸く収まる話だし」
「何で良い話風に締めようとしてんの? 何も解決してないし。じゃなくて、お小遣い減らされちゃったら大変だよ、小町も困るよ」
何で小町が困るんだよ、と言いたいところだけど、それは単にこれから俺におねだり出来なくなるのが困るってだけだと容易に想像がつくから言わない。
ホントこの子の要領の良さときたら。まぁその件に関して俺に後悔は一切ないけどな。
小町の為なら大抵のことはできる自信がある。正に兄の鑑と言えよう。違うか。
504: 2013/08/11(日) 23:41:10.85 ID:OuuBTHni0
「まぁ俺の小遣いはさておき、今更数学の勉強とかやってられねぇし、まずできるとも思えんし」
「だから誰かに教えてもらうとか――」
「待て、話がループしようとしてる」
「我儘だなぁもー。とにかく!」
小町はまたしてもがたっと勢いよく立ち上がり、俺をびっと指差してくる。
話のループは避けられたが、その結果強引にまとめられようとしていた。
甚だ遺憾であると主張したい。まぁ素直に聞いてくれる妹ではないんだけど。
505: 2013/08/11(日) 23:46:35.48 ID:OuuBTHni0
「雪乃さんか誰かに教えてもらうか、お兄ちゃんが一人寂しく真面目に勉強するか、どっちかだよ! ちなみに最初のを選んだら小町ポイント三倍だから超お勧め!」
「いらんから。ていうか何? 俺が数学勉強するのは確定なの?」
「Exactly!」
「何でそこだけ無駄にネイティブっぽいんだよ、日本語で喋れ日本語で」
「そのとーり!」
「オーケー、とりあえず言いたいことは分かった」
「じゃあ?」
「だが断る」
「なんでーっ!?」
驚きに目を丸くする小町。
ネタは通じなかったみたいだけど、意思は通じたらしい。
とりあえず良かったとしておこう。
506: 2013/08/11(日) 23:50:38.82 ID:OuuBTHni0
「いやだって数学とか俺には必要ないしさ。やらなくていいことなら、やらない。やらなければいけないことなら後回し。それが俺の信条なんだよ」
「ダメダメじゃん!」
小町は、ぱしんとおでこに手をやって大げさに嘆く。
振っといてなんだけど、ホントこいつノリがいいよなぁ。
これもコミュ力の一環なのだろうか。頼もしい妹で何よりだ。
507: 2013/08/11(日) 23:54:53.49 ID:OuuBTHni0
生温く見守る俺の目の前で、小町はやれやれと肩を竦めてから、気を取り直すように俺にもう一度向き直る。
まだ折れないのか。全く、変なところで根性があるというか。
相手をするに吝かじゃないけど、そろそろ諦めてくれてもいいのに。
「お兄ちゃん、そこに直りなさい」
「直るも何も動いてないんだけど」
「口答えしないの。真面目な話だけどさ、やっぱり勿体ないと思うんだよ」
「勿体ない?」
「うん、お兄ちゃん地頭いいんだし、数学だってちゃんと勉強したらすごいできるはずなのに」
「んなことねぇって、それに必要ないから――」
「でも赤点とかってなって、それでお兄ちゃんが低く見られるの、何かやだし」
508: 2013/08/11(日) 23:59:37.41 ID:OuuBTHni0
小町は、眉根を寄せつつ口を尖らせる。
拗ねた声と不満げな表情。
結局のところ、こいつは小遣いがどうとか以上に俺の評判の方を気にしてたってことか。
そんなことを言われてしまうと、どうにも否定の言葉が言い難くなっちまうだろうが。
「……」
「……ね?」
思わず言葉に詰まった俺を、上目遣いで窺う小町。
いつものおねだり体勢だ。
本当にとんだ策士さんである。
こうなってしまえば、もう完全に詰みと認めざるを得ない。完璧チェックメイト。
509: 2013/08/12(月) 00:03:50.84 ID:SPW+jQqi0
「分かったよ、分かった。じゃあとりあえずテスト勉強はちゃんとやるよ、参考書買ってきて。それでいいだろ?」
「さっすがお兄ちゃん! 分かってくれると思ってた! 愛してるよー!」
「はいはい、俺も愛してる愛してる」
「わぁお、感情こもってなーい」
感情こめて、んなこと言える訳ないだろうが。
さておき、いつものように明るい笑顔の小町を見ていると、それだけで陰鬱な気分なんて吹き飛んでしまう。
正直なところ数学の勉強とか面倒臭い事この上ないんだけど、まぁ小町の為という大義名分があるのならば仕方がない。
勘違いしないでよね、自分の為なんかじゃないんだから。
って、どんなツンデレだよ。どの方向を向いているのか全く分からない。
510: 2013/08/12(月) 00:07:25.67 ID:SPW+jQqi0
「じゃ、行こっか」
「は?」
ぼんやりと阿呆なことを考えていると、小町がすっと俺へと手を差し出してくる。
それを馬鹿みたいな顔で見返す俺。
何? 何の話? びっくりするほど脈絡も具体性もなくて、どう反応して良いか分かんないんだけど。
脳内で疑問符と戯れていると、仕方ないなぁとばかりに呆れ顔で肩を竦められた。
511: 2013/08/12(月) 00:11:39.93 ID:SPW+jQqi0
「だから、参考書買うんでしょ? 小町と一緒に行こ。思い立ったが何とかだよ」
「吉日な、そのくらい覚えとけよ」
「そうそう、それそれ。いいじゃん意味通じてるんだから。とにかく今日から勉強する為にも、今から買いに行こうよ」
「えー?」
「えーじゃないよ、可愛い小町とお出かけしたくないの?」
「可愛い小町と家で一緒にのんびりじゃ駄目なのか?」
「ダメ。小町といちゃいちゃしたいなら、ちゃんと買い物済ませて帰ってからだよ」
「いや、いちゃいちゃとかは別に」
「むー、その淡白な反応、小町的にポイント低いよ。もっとこう“ばっ、お前何言ってんの!?”とか動揺したら、小町的に胸きゅんな展開なのに」
「知らんわ」
512: 2013/08/12(月) 00:17:13.85 ID:SPW+jQqi0
くるくると表情を変えながら文句を言われても、俺としてはそれ以上の反応なんて返しようがない。
小町が可愛いのは否定しないというか全面的に全力で肯定するところだが、それはあくまで妹としてである。
期待の方向性が違うだろ、と突っ込んでおかないと色々と不味い所だ。
しかし何がお気に召さないのか、小町はまだちょっと膨れている。仕方がないか。
「分かったよ。じゃあ小町、一緒に買い物行くか」
「! うん、行こ行こ、それじゃー準備してくるから!」
513: 2013/08/12(月) 00:22:11.69 ID:SPW+jQqi0
ぱっと笑顔に変わると、言葉の余韻を残しながら自室へと駆け上がっていく。
動き早ぇよ、トムとジェリーか。
しかしキャラの動きが完全に音楽に一致してたりとか、あれって今でも普通に通じるレベルの超良作アニメだよね。やってることは割とえげつなかったりするけど。
いやそんな下らんこと考えてる場合じゃなかった。
こちらも準備を急がないと、また何を言われるやら分かったものじゃない。
せっかく直った機嫌をまた損ねる訳にもいかないし。
少し遅れて俺も自室へと戻り、出掛ける準備に取り掛かる。
まぁ結局小町を待つ時間の方がずっと長かったわけだが。男の立場は常に悲しい。
514: 2013/08/12(月) 00:28:20.98 ID:SPW+jQqi0
それから暫く経って小町も準備完了。
家を出て、二人で連れ立って目的地へと向かって歩き出す。
しかし休日だけあって、歩く道では結構な人とすれ違う。
人が多い所って落ち着かないんだよなぁ、と若干テンションが下がる俺と対照的に、小町ははしゃいでいると言っていいくらいのテンションの高さだった。
それこそ出がけに酒でも飲んだのかってくらい。
「おっかいものー、おっかいものー」
「変な歌を歌うなって」
「そういや久しぶりだよね、二人でお出かけって」
「ん? あぁそういやそうかも」
515: 2013/08/12(月) 00:31:52.90 ID:SPW+jQqi0
俺の腕にしがみつくようにしながらご機嫌な様子の小町。
目が合うとにっこり笑って嬉しそうに話しかけてくる。
何がそんなに楽しいのかといって二人でお出かけしてることとか、それって八幡的にポイント高いよと思わず言いそうになる。
いやもちろん断固として言わんけど。
さておき、思い返せば確かに随分こうして二人きりで出掛けることがなかった気もする。
まぁ元より俺が休日に出かけるってこと自体が稀だという事情もあるけど。
何にしても参考書を買いに行く程度のことでこれだけ楽しそうにしてもらえるなら、兄としても実に喜ばしい。
516: 2013/08/12(月) 00:36:14.84 ID:SPW+jQqi0
「んで、お昼はどうしよっか?」
「帰ってからでいいんじゃね?」
「却下だよ。せっかくのお出かけなんだし外で食べようよ」
「まぁいいけどさ、じゃあ買い物終わってから適当に探すってことで」
「おーけー、それじゃあお店は小町にお任せっ」
「あー、んじゃ任せるわ」
空いてる手を天へと突き上げて気合も十分。
昼飯なんかでそこまで力入れんでもと思わなくはないが、まぁその辺はテンションの高さがなせる技なんだろう。
517: 2013/08/12(月) 00:41:12.88 ID:SPW+jQqi0
しかしこのエネルギーの差はどこから来んのかね? 一応俺も小町も同じもの食べてるはずなんだけど。
俺の燃費が悪過ぎるのか、小町の燃費が良過ぎるのか。
まぁその両方ってのが一番有力な気がする。何か色々悲しいけど。
さておき、通りからバスに乗って向かうのはいつものららぽーとだ。
捻りも何もあったもんじゃないが、そもそも参考書買いに行くのに捻りを利かせる意味はない。
それに小町もついでに買い物とかあるかもしれないし。
常に備えあれば憂い無しなのだ。
事あるごとに憂いがありまくる人生送ってる気がしないでもないけど。
518: 2013/08/12(月) 00:46:25.71 ID:SPW+jQqi0
「お兄ちゃーん、良いのあったー?」
「いや、つーか数学よく分からんのに参考書の良いも悪いも判断できねぇし」
ららぽーとに到着してすぐ本屋に入り、小町と別れて参考書コーナーに辿りついたところで、俺は割と本気で頭を悩ませていた。
あれやこれやと手に取ったり、ぱらぱらとめくってみたり、矯めつ眇めつ吟味していたのだが……何が良いのか見当もつかないのだ。
とはいえ、それもまぁある意味では当然の帰結と言えよう。
実際、知らない者が事の良し悪しを判断できる道理なんてあるわけもない。
頭を抱えている俺のところへ、自分の見たいものを見終えたのか、小町がてててと寄ってくる。
と、俺の手元を覗きこんで嫌そうな顔に変わった。
519: 2013/08/12(月) 00:49:40.20 ID:SPW+jQqi0
「うわー、何か難しそう、高校生になったら小町もこんなのやんなきゃダメなんだね、ちょい憂鬱」
「お前さ、現在進行形でそれを俺にやらせようとしてるってこと忘れてないか?」
「それはそれ、これはこれ」
いっそ清々しいくらいに勝手な言い分だった。
まぁいいけど、どうせ小町も通る道なんだから。
しかし参った、こんなに分厚いとそれだけでやる気失くすわ。
520: 2013/08/12(月) 00:53:32.05 ID:SPW+jQqi0
「もういいや、とりあえず薄いのを一冊買ってそれで勉強するってことで」
「何か適当だなぁ。それで大丈夫?」
「赤点脱出くらいなら何とかなるだろ」
「まぁそれもそっか、少しでもやり易い方がいいよね」
うんうんと頷く小町。
何にしても同意が得られたなら話は早い。
小町を置いてレジへと向かう。
精算を済ませたところで、待ってましたとばかりに小町が横に並んで俺の顔を覗き込んでくる。
521: 2013/08/12(月) 00:57:26.40 ID:SPW+jQqi0
「ちゃんと買えた?」
「おい、初めてのお使いじゃないんだから。買えんわけないだろ。俺を何歳児だと思ってんだ?」
「もー、すぐそうやって話の腰折るんだから。そこは素直に買えたって返してくれればいいの」
「めんどいなぁ。んで、とりあえず用は済ませたけど、飯はどうすんだ?」
「どうしよっか。でも丁度お昼時だから、どこもいっぱいって感じだし。困ったね」
店を出て歩きながら、きょろきょろと周りを見回す小町。
確かに、どこを見ても人で溢れている。店先から通路からもう人ばっかり。
頭の中で人間って文字がゲシュタルト崩壊を起こし始める勢いだ。
何かもう、この光景見てるだけで胸やけしてくる。
522: 2013/08/12(月) 01:05:13.01 ID:SPW+jQqi0
「ったく、どいつもこいつも休みってーと外に出てきやがって。暇人ばっかりか」
「いや小町たちも一緒でしょ」
「なぁ、もう帰るってことでいいんじゃね? 買う物買ったしさ」
「えー、ダメだよ、せっかく二人でお出かけしてるのに。もう、そういうの女の子とのデートの時にしちゃ絶対ダメだからね」
「まずデートの機会がないから安心しろ」
「むしろ不安になるんだけど、それ。ていうか、そろそろ小町を安心させてほしいなーとか思ったり。ちらちら」
ちらちらとわざわざ口で言いながら、上目遣いでこちらを見てくるが、敢えて無視することにする。
何を期待してんのか知らんが、答えようも応えようもないし。
触れぬが吉だ。
523: 2013/08/12(月) 01:10:28.42 ID:SPW+jQqi0
「まぁ帰るのは無しにしても、じゃあ昼はどうすんだ?」
「んー、そだねー。できればCafeがいいんだけどなぁ、ちょい難しそう」
「だから何で今日のお前はそうやってちょくちょくネイティブっぽくなるんだよ。何? その無駄に良い発音は何かのブームなの? 俺の知らない所で千葉に何が起きてるの?」
「まぁまぁ、何か今日はそういう気分なんだよ」
どんな気分だよ。
何だかなぁ、小町こそ決して地頭は悪くないはずなんだけどなぁ。
随所で残念な感じになるのは、ホント勿体ないというか何というか。
524: 2013/08/12(月) 01:15:07.07 ID:SPW+jQqi0
「でも参ったね、どこもいっぱいだよ」
「じゃあ、どっかで大人しく待つか?」
「んー、でもきっとどっか空いてる所が……お?」
せわしくきょろきょろしていた小町が、ふと俺の腕を掴んで立ち止まる。
並んで足を止める俺に向かって、袖をくいくい引きながら、ある方向を指し示す。
そちらに目を向けると、とあるファーストフードのお店――の一角。
525: 2013/08/12(月) 01:18:17.75 ID:SPW+jQqi0
よく見ると、小町が示したそこは何故かそこまで混んでなさそうに見える。
より正確には、不自然に空席があるように見えると言うべきか。
休日の昼時のファーストフード店だというのに。
しかし成程、確かにあれなら俺たちも席に座って、ゆっくりお昼と洒落込めるかもしれない。
その明らかに不自然な点に目を瞑りさえすればの話だけど。
ちらと隣の小町に目を向けるが、何故か一切疑問を覚えていないようなつぶらな瞳で見返される。
え? マジで?
526: 2013/08/12(月) 01:22:31.73 ID:SPW+jQqi0
「ね、結構空いてるし、あそこにしようよ」
「いや確かに空いてるけどさ、何か不自然じゃね?」
「へ? そっかな? 単にあのお店が人気ないってだけじゃない?」
「いや、それはそれでどうなんだって気もするけど。そんな店で食いたいかって点で」
「人が少ないだけだし大丈夫でしょ。何心配してんの?」
不思議そうに小首を傾げる小町だが、どうにも俺としては素直に賛同できかねる。
どうにもこうにも嫌な予感がするのだ。虫の知らせっていうか。
碌でもないヤツが席を占拠してるとか、味が致命的にトチ狂っててマニア専門店になってるとか、バカみたいに値段が高いとか。
527: 2013/08/12(月) 01:26:57.96 ID:SPW+jQqi0
こういう悪い方向の予感って大抵当たるんだよなぁ。
休みの日に、それも小町が一緒の時にそういうのとかマジで嫌なんだけど。
という意思をこめた視線を送ってみるも、小町には届かなかったらしく、ぐいぐいと俺を引っ張って店へ連れて行こうとする。
ちょっ、Wait a minute! あ、伝染っちゃった。
「ほらほらお兄ちゃん、行こうよ。小町お腹空いてきたし」
「いやだからちょっと待てって、絶対何かあるぞ、あれ。変なヤツがいたらどうすんだよ」
「だからぁ、人が一人もいないんだったらともかく、それなりにお客さんいるし、大丈夫だって。ホントお兄ちゃんびびりなんだから」
「ばっ、お前何言ってんだよ、自然界では警戒心を失った動物から氏んでいくんだぞ、危険を事前に察知して回避するというのはむしろ生き抜くために必須の資質で、それはつまり逆説的に俺の優秀さの証拠でもあり――」
「いいからいいから、あ、すいませーん」
528: 2013/08/12(月) 01:30:44.88 ID:SPW+jQqi0
言い募る俺を一蹴してカウンターへ向かう小町。
そこで笑顔のお姉さんと目が合ってしまう――あぁ、これじゃもう逃げられない。
さすがに俺も観念して、小町と一緒にメニューを見て、適当なセットを選ぶ。
とりあえず値段は問題なし。というかお店自体は普通も普通。
となると……ちらと客席の方に視線を向ける。
やはり一角だけ不自然に人がいない。というか周囲の人が遠巻きにしてるって感じか?
いずれにしても、確かに俺たち二人くらいなら余裕で座れる余裕があるのは事実だった。
529: 2013/08/12(月) 01:35:50.61 ID:SPW+jQqi0
「お兄ちゃんお兄ちゃん、頼んだの出てきたよ、行こ」
「ん? お、おう」
呼ばれて視線を戻すと、準備万端な二枚のトレイ。
見た感じでは普通に美味しそうである。
さて、あとはこれをどこで食べるかだけど。
「って、何でお前は迷わずそっちに行こうとしてんだよ」
「え? 当然でしょ、空いてるんだもん」
「いや、だから――」
530: 2013/08/12(月) 01:40:35.71 ID:SPW+jQqi0
止める間もなくずんずん進む小町。
慌ててその後を追う俺。
おい、だから変なヤツがいたらどうすんだよって。
しかし元より広くも無い店内。
抵抗空しく、あっという間に問題の一角に辿り着いてしまった。
回り込むようにして辿り着いたテーブル。
さっきまで背後の壁が邪魔で見えなかったそこに座っていた人間を目の当たりにして、思わず動きを止めてしまう。
予想外もいいところだった。
「む? 誰かと思えば八幡ではないか」
「材木座かよ……」
545: 2013/08/17(土) 23:47:33.83 ID:GOFpeZGc0
「む? 誰かと思えば八幡ではないか」
「材木座かよ……」
「ふむん、しかしよもやこんな所で会うことになろうとはな――げに運命の導きとは侮れぬ。いや、これでこそ待っていた甲斐もあったというものか」
「だから言ってることが相変わらず訳分かんねぇんだって、お前は。結局予想外だったのか想定内だったのか、一体どっちなんだよ?」
席に座ってハンバーガーを食べていたのは、(残念ながら)見知った顔――材木座義輝その人だった。
というかホントに何言ってんだろうね、こいつ。
一文の中で意見を覆して何を狙ってるの? 一人だけ違う時空を生きてるの?
まさか一秒前の自分の言葉も忘れる程に日本語が不自由だったとは。
さすがゴミカスワナビと呼ばれていただけのことはあるな。
546: 2013/08/17(土) 23:52:23.35 ID:GOFpeZGc0
にしても、せっかくの休日で小町と一緒にいる時にこいつに会うとか、やっぱり虫の知らせに従っときゃよかった。
誰が得するんだよ、こんな展開。
しかしまぁ、そう考えると千葉って狭いよね、意外と。
俺の生温い視線に気づかないまま、材木座がふふんと鼻を鳴らす。あ、ちょっといらっときた。
「ぬふぅ、いつも言っていることだが、八幡いる所に我あり。然らば我らがここで出会うのもまた必然だったと言えよう」
「気持ち悪いから止めろ、お前にそう言われて喜ぶ趣味はねぇよ」
「ならば、ここはより親しみを込めて兄者と呼ぼうか」
「オーケー、埋められるか沈められるか、好きな方を選べ。海か大地か、望む方で自然へ還してやる」
「ふひ……お、落ち着け我が相棒よ、目がマジになってるから。冗談、冗談だって」
「びびるくらいなら最初から言うなよな、ったく。あぁ、でもとりあえずもう一回釘刺しとくけど、小町には指一本触れんなよ?」
「う、うむ、魂の同胞のたっての頼みとあらば是非も無い」
「だから訳分からんし」
547: 2013/08/17(土) 23:57:46.33 ID:GOFpeZGc0
割と本気で睨んでみると、材木座はかくかくと首を上下に振ってきた。
何? 水飲み人形の真似か何か? 結構上手いじゃん。
もういっそお前その芸で食ってったらどうだ?
可能かどうかは知らんけど、今よりは痛さがマシになると思うぞ、多分。
「もーお兄ちゃん、さっきから何言ってんの? 早く座って食べようよ」
「そうだな。なぁ材木座、ここら辺空いてるみたいだから使わせてもらうぞ」
「なに? それは我と共に昼餉を食したいということか?」
「……まぁ何でもいいよ、とにかく座るからな」
548: 2013/08/18(日) 00:03:21.83 ID:nxIYfuOa0
後ろから小町にせっつかれたので、とりあえずテーブル一個分開けて席に着く。
間違っても小町と材木座を隣り合わせる訳にも向かい合わせる訳にもいかないし。
そして当然、小町は俺の向かいに腰掛ける。
うん、完璧。
「どうもー中二さん、ここ使わせてもらいますねー」
「ほむぅ、か、構わぬ、八幡の妹御であるならば遠慮など不要である」
549: 2013/08/18(日) 00:07:42.81 ID:nxIYfuOa0
にぱっと笑う小町を見てしどろもどろになる材木座。
視線がビリヤードのブレイクショットをくらったみたいにあっちこっち跳ね回ってる。
お前ホント動揺し過ぎだろ。
見ていて面白い光景と言えなくも無いけど、正直どうでもいいので放っておくことにしよう。
何にしても、まずは腹ごしらえだ。
ということで、二人でトレイに乗ったバーガーセットを頂く。
それなりに腹も減っていたので、あっという間に大半が平らげられてしまう。
と、腹具合も少し落ち着いた所で、気になっていたことを聞いてみることにする。
550: 2013/08/18(日) 00:12:13.88 ID:nxIYfuOa0
「んで材木座は何でこんなとこにいんの? お前の主な生息地ってゲーセンかアニメショップら辺だろ?」
「ふむ、概ね間違ってはおらん。実際さっきまでゲーセンにいたしな、我。ここには内なる欲望を満たす為に訪れただけだ」
「要するにゲーセンに遊びに来てて、腹減ったから飯食いにたまたまここに来たってことか」
「然り」
鷹揚に頷く材木座だが、そこで偉そうにできる理由が全くもって不明だった。
まぁ小町に説得されて数学の参考書を買いに来ただけの俺がどうこう言えた身分でもないかもしれないけど。
551: 2013/08/18(日) 00:18:38.36 ID:nxIYfuOa0
「んー、でもホント、どうしてこの辺こんなに人いないのかな?」
ずずっとストローからジュースを吸い上げつつ、小町が周囲を見回している。
不思議そうに小首を傾げているが、俺に言わせれば、その原因は目の前のこいつが何かやらかしたことにあるとしか思えない。
じとっと半眼を向けてやると、案の定というか材木座はすっと目を逸らした。
552: 2013/08/18(日) 00:21:41.39 ID:nxIYfuOa0
「ぬ、ぬぅ、それはあれだ。我の造り出す絶対領域を突破できるだけの魔力を持つ者がそうそうおらぬというだけのこと。喜べ、お主たちは選ばれたのだ」
「選んでいらんわ。つか何の誤魔化しだよ」
言いつつ材木座の席の辺りに視線をやると、こいつが持ってきたと思しき鞄が一つ。
その口が少し開いていて、そこから何やらちょっと露出度高めの女の子の絵があるのが見えた。
あぁ知ってる知ってる、あれってちょっとえOちぃ感じの漫画だったよな、確か。
ちなみに何でそれを俺が知っているかについては黙秘しておく。言わぬが花なのだ。
553: 2013/08/18(日) 00:29:05.17 ID:nxIYfuOa0
しかしまさかこいつ、こんな公衆の面前でそんな萌え系のマンガ開いてたんだろうか?
だとすれば、一周回ってむしろ逆に感心してしまうぞ。
そんな俺の視線に気づいたのか、材木座が慌てて手元の鞄の口をさっと閉じる。
しかしまぁ時既に遅しもいいところだった。
一瞬の沈黙。
「――お前、ある意味マジで勇者だな」
「もはははは、何を言うか八幡よ、お主も同類ではないか」
「同類かどうかはともかく、さすがにこんな所で堂々とそれを読む勇気は俺にはねぇよ」
554: 2013/08/18(日) 00:36:11.23 ID:nxIYfuOa0
さりげなく仲間に引き込もうとしてんじゃねぇっての。
落ちるなら一人で落ちろ。
「かっ、何を戯言を。自らの好む物を何故隠す必要がある? 自身の趣味・嗜好を偽らずに生きることが許されぬのならば、そんな世界をこそ我は拒絶しよう!」
「いや格好いいこと言ってるつもりか知らんけど、お前今隠したよな、いや今っつーか多分もっと前に」
「う、うむ、それはやんごとなき事情があったが故の苦渋の決断だ」
そわそわと視線を泳がせる材木座。
あぁ成程、要するに意気揚々と席に着いて本を開いたけど、そこで周囲の冷たい視線に気づいて慌てて隠したってことか。
我が道を行くと言う割には周囲の目を気にするんだよな、こいつ。
本当に空気を読める奴なんだか読めない奴なんだか。
555: 2013/08/18(日) 00:40:54.58 ID:nxIYfuOa0
「まぁいいけどさ、とりあえずちょっと向こう行ってくれる?」
「何故さらっと排除しようとする!? 最初に席を取ってたのは我だぞ!」
「いいからいいから」
「くっ! まさか我を斯様に邪険に扱おうとは、魂で繋がった相棒に何たる仕打ち……ふん、女にうつつを抜かして、そこまで堕ちたか八幡よ」
「は? お前何言ってんの?」
「とぼけるな、お主が先週に何をしていたか、我が知らんとでも思っているのか?」
「いや、だから――」
「え? なになに? ちょっと中二さん、その話詳しく」
556: 2013/08/18(日) 00:43:33.08 ID:nxIYfuOa0
俺の発言を遮って、小町が凄い勢いで食いついた。
テーブルから身を乗り出しつつ、材木座に期待の眼差しを向けている。
む、何か腹立たしいが、対する材木座の方は明らかに気圧されて狼狽えてるので、これは不問にしておいてやろう。
「ぬ、ぬぅ、それはあれだ、その――」
「小町食いつき過ぎ、落ちついて席に戻んなさいって」
「お兄ちゃんちょっと黙ってて、小町的にこれは聞き逃せない話の予感がするから」
557: 2013/08/18(日) 00:48:48.40 ID:nxIYfuOa0
言いつつも、無理のある体勢だったからそれなりに辛かったのか、乗り出した身を戻す小町。
興奮未だ冷めやらぬって感じではあるけど。
何でこういう話には入れ食いなんだよ。少しは警戒しろっての。
実際、聞いてるこっちは気が気でないのだ。
材木座の場合、当て付けにあることないこと言う可能性が否定できないし。
あんまり変なこと言ったら鼻にストロー刺してやろう。
俺が密かに決意をしていると、小町との距離が開いた事で落ち着いたのか、材木座は一つ呼吸をして遠くを見やる。
558: 2013/08/18(日) 00:53:03.67 ID:nxIYfuOa0
「ふ、あれは先週の安息日のことだった――」
「何? お前キリスト教にでも改宗したの? 普通に日曜って言えよ」
「我はいつもの定められた運命の道筋に沿って街を探索していたのだが」
「あ、その辺いいんで。結論だけ言っちゃってください。兄がどこで誰と何をしてたんですか?」
「ふ、ふむ、我が見たのは、八幡があの冷徹なる御仁と並んで歩いている姿だった。最初は見間違いかとも疑ったがしかし――」
「だ・か・ら! どこで! 誰と! ですか!? もー、それじゃ分かんないでしょう。ここが一番大事なんですよ? 分かってます?」
「あ、えっと、ららぽーとで、奉仕部の部長さんと、歩いてるのを、見たんです、けど……」
559: 2013/08/18(日) 00:57:51.74 ID:nxIYfuOa0
しどろもどろな言い回し。あぁ材木座のヤツ、完全に素に戻ってやがる。
相変わらず女子に詰め寄られるのに弱いよな、こいつ。
俺? 俺はそもそも女子に詰め寄られること自体ないから、弱いとか強いとかもない。ぼっちマジ最強。
そんな風に現実逃避していると、小町がぐりんと顔を向けてきた。
にんまりとちょっと悪そうな笑みを浮かべながら。
あ、駄目だこれ、こいつまた何か変な風に曲解して受け取ってる予感がするぞ。
560: 2013/08/18(日) 01:01:24.59 ID:nxIYfuOa0
「もぅ、何さお兄ちゃんてば、先週陽乃さんに呼ばれた後にちゃっかり雪乃さんとデートしてたんだぁ。なーんだ、陽乃さんに散々おちょくられただけとか言ってたけど、やることちゃんとやってんじゃん、照れ隠しだったのかこのこのぉ」
「待て小町、その言い方は語弊があるぞ。デートじゃないから。全然デートでも何でもないから。単にあれだ、あの時陽乃さんが雪ノ下のヤツをその場に呼んでて、それから色々あって陽乃さんが帰っちゃったから、代わりに買い物に道案内役としてついてっただけでだな」
「誤魔化さなくていいって。それよりお兄ちゃん名前名前、ちゃんと雪乃って呼ばなきゃ、でしょ?」
「誰がこんなとこで――」
「な、なぬー!」
小町の追及を否定しようとしたところで、突然がたっと立ち上がる材木座。
わなわなと手を震わせて、驚愕の表情をこちらに向けている。
というか、こっちの方がびっくりしたわ。
561: 2013/08/18(日) 01:06:27.66 ID:nxIYfuOa0
「な、何だよ材木座、驚かせんなよな」
「は、八幡! 貴様どうせいつも通り一方通行だろうと思っていたら、いつの間に我を差し置いてそんな女子と名前で呼び合うなどというけしからん関係に!? 穢れておるぞ!」
「だから違うって言ってんだろ、俺と雪ノ下は別に何も――」
「あ、何か最近雪乃さんの方から名前で呼んでって言われたみたいですよー。手作りクッキーもらったりとかしてたし。もどかしいけど、こうちょっとずつ育んでいってるって感じがいいですよねー」
「に、にゃにぃ! ぷじゃけるな貴様ぁっ!」
さり気に投下された小町の爆弾発言が駄目押しになったのか、材木座は真っ赤になりながら俺を指差して罵ってきた。
何なら頭から湯気が噴き出してんじゃないのかって錯覚するほどの怒り方だ。
さながら沸騰したヤカンを眺めているような気分である。つまりは触るな危険。
563: 2013/08/18(日) 01:11:45.44 ID:nxIYfuOa0
しかし何でそんなに意味深に煽るかなぁ、小町も。
いつだってしわ寄せは俺に来るんで止めてほしいんだけど。
俺の心中を他所に、材木座は憤懣遣る方無いとばかりに地団駄を踏みつつ涙目になっていた。
いや、泣くなよこんな下らんことで。
ちょっとは冷静に俺の話を――と思いつつもどうせ聞いてくれないだろうから諦めることにする。
そしてその判断は悲しいくらいに正解だった。
564: 2013/08/18(日) 01:17:21.77 ID:nxIYfuOa0
「このうなぎり者めっ! 惨めにフラれて路頭に迷え! ちくしょう、八幡なんかもう知らん! 二度とゲーセンに誘ってやらんからな!」
「裏切り者な。あと別に誘ってほしいって頼んだ覚えないから」
捨て台詞を残して、だっと駆け出す材木座。
それでも途中でトレイとごみはきちんと片づけていく辺り、割と躾は行き届いてるのかもしれない。
しかし何か変な誤解されちまったじゃねぇか、全く。
まぁ言いふらすようなヤツじゃない(というかその相手がいない)から事実上問題は無いとはいえ――
565: 2013/08/18(日) 01:23:19.79 ID:nxIYfuOa0
「……」
「ん? どしたの? お兄ちゃん」
ちらと小町にジト目を向けると、何らやましい所はありませんと言わんばかりの無垢な笑顔を返された。
どうやら俺の非難の意思は微塵も伝わらなかったらしい。
あるいは伝わったけど敢えて無視しているかだ。
566: 2013/08/18(日) 01:28:08.10 ID:nxIYfuOa0
「どしたのじゃねぇよ、あいつ絶対変な勘違いしてんぞ」
「小町的には勘違いじゃないと思ってるんだけどなー、ていうか嘘は一つも言ってないし」
「だから……はぁ、まぁいいか、材木座なら大丈夫だろうし。でも他の奴にはそういうこと言うなよ?」
「えー? なんでー?」
眉を寄せながら頬を膨らませて、目一杯不満ですってアピールしてくる小町。
というか、そもそも俺と雪ノ下の間にこいつが邪推するような何かがあるわけでもないのに、何でそんなに文句言いたげなんだよ。
むしろ俺の方が文句を言ってもいいんじゃないだろうか。
567: 2013/08/18(日) 01:32:29.13 ID:nxIYfuOa0
「なんでも何もないだろ、そもそも雪ノ下とデートとかしてないんだって。あれは買い物に仕方なしに付き合わされたってだけでさ」
「いやそれこそ無いでしょ。あの雪乃さんが仕方なしで誰かを連れ回したりとかすると思う?」
「そりゃ、まぁそうかもしれんけど――でも状況によるだろ、そういうのって。道に迷ったりとか困ってる時なら嫌々でも」
「だからぁ、雪乃さんが嫌々誰かと一緒に行動なんてするわけないじゃん。本当に嫌なら一人で苦労する方を選ぶでしょ、雪乃さんなら。大体お兄ちゃんが付き合わされたって言うってことは、誘ったのは雪乃さんの方なんでしょ? つまりはそういうことなんだよ」
「? どういうことだよ?」
「はぁ……」
小首を傾げていると、やれやれと言わんばかりに大仰に肩を竦められた。
だから何で今日の小町はちょくちょく欧米ナイズされてんだよ。
もしかして俺が知らないだけで、何か英語圏の人をリスペクトするようなイベントでもあったの?
568: 2013/08/18(日) 01:34:59.26 ID:nxIYfuOa0
「ホントお兄ちゃんってどうしようもないよね、何でそんな朴念仁なの?」
「さり気なく兄をディスるのは止めろっての。つーかお前、最近雪ノ下の影響受け過ぎだろ」
「とにかく! お兄ちゃんはもうちょっと人の言葉を素直に受け取るべきなのです」
「はぁ」
びしっと俺を指差してくる小町。
行儀が悪いから止めなさい、とはどうにも言い難い空気だった。
でも正直そんなこと言われても反応に困る。
569: 2013/08/18(日) 01:38:36.82 ID:nxIYfuOa0
「むぅ、何か気の無い返事だし」
「信じる者がバカを見るこの世界で、そんな素直になれとか言われてもなぁ」
「だから捻くれ過ぎだって、もう。そんな誰彼構わず信じろなんて言ってないでしょ。ただ雪乃さんの言うことは信じなきゃダメだよって言ってるの」
「いや、そりゃまぁ雪ノ下のことを疑う気なんてないけどさ」
そんな改まって言うことでもないだろう。
雪ノ下のことまで信じられなくなったら、それはもう本当に誰も信じられなくなったと言うに等しい。
その時は完全に社会から脱落してるぞ、俺。
570: 2013/08/18(日) 01:42:22.58 ID:nxIYfuOa0
「ふーん……それならまぁ、今はそれで良しとしておくね」
「だから何でそんな上から目線なんだよ」
俺の目をじっと覗き込んでいた小町だったが、少しして満足げに頷いた。
その生暖かい視線は止めてほしい。聞いちゃくれないけど。
しかしとりあえず落ち着いたらしいので、それで良しとしておこう。
571: 2013/08/18(日) 01:46:37.87 ID:nxIYfuOa0
「とにかく他の奴には喋らないでくれよ、本当に」
「大丈夫だって、お兄ちゃんを困らせるようなことはしないから」
「何か引っかかるけど……まぁいいや。じゃあ小町、そろそろ帰ろうぜ」
「はい? 何言ってるのお兄ちゃん、これで帰っちゃうなんて勿体ないじゃん、却下だよ却下」
「いやでも用事も済んだし、何か疲れたし、帰って家で休みたいんだけど」
「はぁ……お兄ちゃんってホント女心が分かってないよね」
「んなこと言われてもなぁ」
大仰なため息の後、ちょっと蔑んだような目で見られてしまった。
ちょっとこれ、本当に雪ノ下の影響受け過ぎじゃないの? その内、息するように俺を罵倒し始めないだろうな?
お兄ちゃんは小町の将来が心配です。
572: 2013/08/18(日) 01:52:15.08 ID:nxIYfuOa0
「とにかく、女の子と一緒の時に疲れたとか禁句だよ」
「えー? つーか何でそんなことで怒られてんの? 俺」
「とーぜんじゃん。これから雪乃さんとかとデートする時だってたくさんあるかもだし、もう今から小町がばっしばし鍛えちゃうからね!」
「氏ぬほどいらんお世話だっての――んで、結局どうすんだ? これから」
小町が何やら鼻息荒くやる気満々だったので、矛先を逸らすべくさり気に話題を軌道修正。
これ以上しんどい面倒事を背負わされちゃ堪ったものじゃない。
いらん思考よ吹っ飛べ。
願いが通じたのか、小町の動きがぴたりと止まり、思案するように口元に指をあてる。
573: 2013/08/18(日) 02:02:33.88 ID:nxIYfuOa0
「んー、どうしよっか」
「何か買いたいもんとかないのか?」
「今は別にないかなぁ」
「それじゃあどうすんだよ」
「目的とかいいじゃん、適当に見て回ろうよ、いいの見つかるかもだし」
「んな行き当たりばったりな」
「いいのいいの、お兄ちゃんと一緒に見て回るってのが大事なんだから。これ小町的にポイント高いよね」
「そのポイントの基準が分からないんだって」
突っ込みを入れつつも、別に反対するつもりはない。
正直だるいはだるいけど、適当に見て回るだけで満足してくれるなら安いもんだし。小町の為だし。
ということで方針も決まり、トレイとかを片付けて店を出ると、小町が俺の手を掴んで引っ張りつつ歩き出した。
並んで歩きながらその横顔を窺う。
574: 2013/08/18(日) 02:07:15.43 ID:nxIYfuOa0
「で、まずどこから行くんだ?」
「だから適当だって。あっちの方から行ってみよー」
「了解了解、行き先は任せるわ」
「任されましたー」
いつも通り元気な笑顔で意気揚々と歩く小町。
機嫌が良さそうで何よりだ。
あとは何も考えず大人しくついていくだけ。実に楽なもんだ。
願わくば人生もこうありたい。口に出したら怒られそうだから言わないけど。
575: 2013/08/18(日) 02:15:03.80 ID:nxIYfuOa0
小町は人の流れに逆らわず、エスカレーターへと向かって歩いている。
そうして気楽な気分で歩くこと暫し。
周囲に人ばかりと言っても、只の背景だと割り切ってしまえば気にもならなくなってくる。そんな頃合だった。
色を失くしたような無味乾燥な景色の中に、ふと一際鮮烈な輝きを見つけた。
さながら舞台の上に立つ主演女優にスポットライトが当たった瞬間のように、目を、意識を惹きつけられてしまう。
時を同じくして、小町も気付いたらしい。ぽそりと隣から呟く声。
「あれって、ひょっとして雪乃さん?」
592: 2013/08/25(日) 22:56:24.57 ID:5Bc/XANn0
「あれって、ひょっとして雪乃さん?」
ショッピングモールの案内のパンフレットを手に、右へ左へと視線を彷徨わせているのは、紛れも疑いようもなく雪ノ下雪乃その人だった。
ワインレッドのロング丈スカートにベージュのカーディガンという秋色の落ち着いた装いの上に、艶やかな黒髪が踊っている。
例によって例の如く、通りかかる人が振り返ったり、近くで屯っている連中がちらちら視線を送っていたりと結構な注目度だが、当人はそれどころではない様子だ。
もっとも何をしているかは想像するに容易い。きっとまた道に迷っているのだろう。
593: 2013/08/25(日) 23:00:43.79 ID:5Bc/XANn0
けれど、そうと分かっていてもなお、長い黒髪をなびかせながら透き通るような表情で左右を窺っているその姿は、誰しも惹かれずにいられない。
困ったように少し眉を寄せているその憂いの表情は、見ている側の方がため息をつきたくなる程の魅力を湛えている。
気付けば、さっきまで無色にも思っていたはずの風景は、その瞬間に一陣の風が全て吹き飛ばしたかのように、鮮やかな色合いを取り戻していた。
雪ノ下は柔らかく景色に溶け込み、そしてただそれだけで周囲の風景を神秘のヴェールに包んでしまっている。
ショッピングモールの何の変哲もない窓ガラスさえ、雪ノ下の背景にあるというだけで、さながら荘厳な大聖堂のステンドグラスであるかのような錯覚を抱かせてしまう。
燦々と降り注ぐ陽光すら彼女を祝福しているようで、絵心のある人ならばきっと、この景色をモチーフにさぞ素晴らしい絵画を創り出せることだろう。
594: 2013/08/25(日) 23:04:08.04 ID:5Bc/XANn0
新雪のように真白な肌と黒曜石のように輝く黒髪の鮮やかなコントラストが、彼女の存在感から現実味を削り取ってしまっている。
夢か現か幻か――人の世界にありながら、どうしてこうまで幻想的なのだろうか。
強く主張するような華麗さはないけれど、そっと寄り添うような可憐さを携えた立ち姿。
そのあまりにも清らかな景色を壊してしまいそうな気がして、とても声を掛けることなんてできなかった。
みっともなくも、言葉もなく、ただ立ち尽くすのみ。
さながら人の無力をまざまざと見せつけられているかのように。
595: 2013/08/25(日) 23:10:18.46 ID:5Bc/XANn0
「雪乃さーん、こんにちはー」
そんな静寂の空間に思いっきり風穴が開く。
俺の懊悩や葛藤など何処吹く風、と小町は果敢に雪ノ下へと声をかけつつ歩み寄っていく。
この空気をまるで気にしないとか、小町さんマジぱねぇ。
しかし、良くも悪しくもマイペースなその振舞いにつられて、俺の方も再起動できた。
なので、先を歩く小町にのこのことついて行く。
とそこで、呼ばれた雪ノ下が振り返って小町を認め、その表情を少し緩ませる。
596: 2013/08/25(日) 23:17:05.02 ID:5Bc/XANn0
「あら小町さん、こんにちは、元気そうで何よりね」
「いーえー、雪乃さんこそです。でもでもこんな所で会えるなんて、凄く嬉しい偶然もあるんですねぇ」
「ふふ、そうね――ところで少し気を付けた方がいいわ、目つきの怪しい男があなたの跡をつけてきてるから」
「おい、会って早々それかよ、ご挨拶にも程があるだろ、雪ノ下」
小町を見ていた時の穏やかな表情から一転、俺を見る時にはすーっと冷たい目に変わっていた。
お前はあれか、いちいち俺のことを罵倒してからじゃないと会話に入れない病気にでもかかってんのか。
医者行け、医者。もう手遅れかも知らんけど。
597: 2013/08/25(日) 23:20:26.77 ID:5Bc/XANn0
「やー確かに目はちょっとアレですけど、一応これでも小町にとってはそれなりに頼れるお兄ちゃんなんで、どーぞご安心を」
「お前もお前で実はフォローする気ないだろ」
「えー? ちゃんとしてるじゃん」
「……いやまぁいいけどさ」
そんな今更なことを言い合ってても埒が明かんし。
しかし、何で休みの日にこうまで知り合いに会うかなぁ。
千葉って結構広いはずなんだけど。
598: 2013/08/25(日) 23:24:30.72 ID:5Bc/XANn0
ぼっちの行動パターンが似通うというのも、あながち妄言とまで言い切れないのかもしれない。
そんな風にやるせない感じに浸っていると、わざわざ聞こえよがしにため息をついて、雪ノ下が改めて俺へと向き直る。
「それにしても随分奇遇ね。あなたが休みの日に出歩くなんて、明日は嵐でもくるのかしら」
「珍事みたいに言うなよな、いくら俺でも年がら年中家に閉じこもってるわけじゃねぇよ」
「そう、ではとうとう追い出されたということね」
「違うっつの。勝手に俺んちの家庭事情を想像して完結させるの止めてくれる? 今日はあれだよ、小町に上手いこと誘導されて買い物に来ただけだから」
「結局主体性はないんじゃない。あなたの生き方はどうでもいいけど、せめて小町さんには迷惑をかけないようになさい」
599: 2013/08/25(日) 23:29:35.55 ID:5Bc/XANn0
相も変わらぬ上から目線でのお言葉だった。あまりのありがたみに言葉もないわ。
しかし俺への文句はさておき、何でお前が小町の姉みたいに振舞ってんの?
小町の為に生きてると言っても過言じゃない俺に対してその忠告とか、おこがましいにも程があるぞ。
口に出したら小町にさえ引かれそうだから言わないけど。
「雪乃さんもお買い物ですか?」
「えぇ、せっかくの休みだし、色々と見て回ろうと思って」
600: 2013/08/25(日) 23:34:09.84 ID:5Bc/XANn0
翻って、小町の質問に対しては淡く微笑みながら返す雪ノ下。
びっくりするくらいの温度差だった。砂漠の昼夜でもこうは行かない。
大自然よりも過酷とか、雪ノ下さんマジぱねぇ。
それにしても、この辺の使い分けを見ていると、姉との血の繋がりを感じるね。
もしかしたら、この微笑みが徹底的に強化されたら、陽乃さんのあの外面みたいになってしまうのかもしれない。
んー、そう考えるとちょっと微妙な気分になるな。もちろん雪ノ下ならそうはならないと確信はしてるけど。
まぁとりあえず買物だってんなら――
601: 2013/08/25(日) 23:39:29.79 ID:5Bc/XANn0
「んじゃ、そっちの邪魔するのもなんだし、俺たちはこれで。また学校でな」
「そうね、じゃあ――」
「ちょーい待ちっ! はいストップ、二人とも良い子だから待って下さいよー」
「何だよ?」「何かしら?」
「あーもう! 何でそういう時だけ綺麗にシンクロできるの!? 首を傾げる角度まで一緒だし! じゃなくて、せっかく会えたのにこれでさよならとか寂し過ぎるでしょ?」
「いや、んなこと言われても」
そこで小町が慌てる理由が分からない。俺たちの行動のどこに問題が?
ちらと雪ノ下の様子を確認してみるが、相も変わらぬ透明な表情で、何を考えているかは容易には窺えない。
が、微かに視線を小町から逸らしているところから見て、どうも何かを隠そうとしている気がする。
というか、わざわざ道に迷うことを覚悟でこんな所まで出張ってきているというのだから、何か目的はあるはずだ。
602: 2013/08/25(日) 23:44:59.16 ID:5Bc/XANn0
総合的に判断するに、多分あれだ、期間限定か店舗限定のパンさんグッズあたりが狙いなんだろう。
確かここにもディスティニーストアがあったはずだし。
だとしたら、むしろここでさよならしない方が怒りを買いかねない。
だってこいつ、パンさん好きを隠そうとしてるみたいだし。
少なくとも、小町に知られることを喜んだりはしないだろう。
ならば黙って去るのも男の優しさ。ということで。
603: 2013/08/25(日) 23:54:06.84 ID:5Bc/XANn0
「まぁ聞け小町。雪ノ下も自分の買い物で来てるってんだから、邪魔しちゃ悪いだろ。目当てのもんとか色々あるだろうし。な?」
「ん?」
俺の説得の言葉に、しかし小町は不思議そうにただ小首を傾げるのみだった。
何言ってんだこいつ、みたいな顔をしている。
そんなおかしなこと言ってないだろうに、何で通じないんだろう。
援護射撃を求めて雪ノ下の方へ目を向けてみるも、こちらの反応も薄い。
まるで表情を変えず、ただ静かに視線を返されるのみ。
って、このままだと小町の思う壺だぞ。
604: 2013/08/25(日) 23:57:37.40 ID:5Bc/XANn0
想いよ届け、と改めて目をしっかり合わせてみたものの、それでも援護どころか反応すら返ってこない。
別に見つめ合いたくてこんなことしてるわけじゃないんだけど。
おかしいな、ぼっち的に思う所は同じはずと考えてたのに。
え? 反論とかないの? それともまさか俺だけ空気読めてないとかそういうこと?――と疑問を覚えていた時だった。
「は! そういうこと!? あぁ小町としたことが!」
「な、なんだ急に?」
605: 2013/08/26(月) 00:01:21.07 ID:Rsq1aSwH0
突然、小町が大げさに驚きの声を上げる。
思わず身体がびくっとなってしまった。
なんだなんだ?
振り返ると、小町は微かに頬を紅潮させつつ、食い入るように俺と雪ノ下をガン見してきている。
どうも何か変なものを受信してしまったらしい。
正直いい予感はしない。
と、小町が慌てた仕草でポケットから携帯を取り出す。
606: 2013/08/26(月) 00:07:22.17 ID:Rsq1aSwH0
「おぉっと着信だよ! 何かな何かなっと。はいはーい……え? 何? すぐ来てほしいって、しょうがないなー、じゃあちょっと待っててね、今から行くから」
ぴっと口に出しながら携帯のボタンを押して、俺たちに向かって敬礼してくる小町。
突然始まった寸劇に、俺も雪ノ下も言葉を挟めないでいた。
何事よこれ。っていうか着信って――
「ということで雪乃さん、残念ながら小町はよんどころ無い事情でお呼ばれしちゃったのでここで離脱します。すいませんけどお兄ちゃんの事よろしくお願いしますね! お兄ちゃんも、雪乃さんに迷惑かけちゃだめだよ。それじゃー小町はこの辺で!」
「いや待て小町、さっきお前の携帯ビタイチ反応無かっただろ! 着信とか絶対してないだろ! その寸劇に何の意味が!?」
607: 2013/08/26(月) 00:11:57.86 ID:Rsq1aSwH0
慌てて突っ込みを入れてみたけれど、時既に遅し。
それこそくるくると回り出しそうな程のご機嫌な勢いで、小町はあっという間に人混みの中へと消えて行った。
動き速ぇ。雑踏に気配なく溶け込むのがぼっちの特技とはいえ、さすがに次世代ハイブリッドとなると洗練されてるぜ、と変な所で感心してしまう。
後に残されたのは、茫然と突っ立っている俺と雪ノ下だけ。
何と言うか、変に気を回されてしまったらしい。
どうすりゃいいんだよ、この微妙な空気。
608: 2013/08/26(月) 00:17:03.00 ID:Rsq1aSwH0
「あーっと、何か悪いな、小町が変なこと言って」
「……いえ、普段のあなた程でもないし、気にしないで結構よ」
いや、それ後半だけで良かっただろ。
どうしてお前は事あるごとに俺をディスらずにいられないんだよ。
何? お前の頭の中でそういう会話文のテンプレでも出来上がってるの?
まぁ別にいいけどさ、今更だし。
609: 2013/08/26(月) 00:21:00.05 ID:Rsq1aSwH0
「じゃああれだ、邪魔しちゃ悪いし俺もこの辺で」
「待ちなさい」
手を上げて立ち去ろうと思ったところを、間髪入れずに呼び止められてしまう。
見ると、雪ノ下はいつものように腕を組んで、凛とした表情でこちらを見据えている。
610: 2013/08/26(月) 00:27:27.26 ID:Rsq1aSwH0
「何だよ」
「不本意ではあるけれど、小町さんに任されてしまった訳だし、このままあなたを野に解き放つわけにはいかないわ」
「俺を野生動物扱いするの止めてくれる?」
「似たようなものでしょう?」
「どこまで大雑把に括られてるんだよ俺は――ってかお前はいいのかよ、俺なんかと一緒に買い物とかさ。別に小町に気を使わんでもいいんだぞ」
雪ノ下は変な所で頑固だし、責任感が強過ぎるくらいに強い。
だが、それも時と場合だ。
小町に頼まれたからと言って、自分の予定を崩す必要なんてないだろう。
と、むしろ善意で言ってやったつもりだったんだけど、雪ノ下はというと、ふっと鼻で笑って返してきた。
さっと髪をかき上げながら、何を言っているのかしらこの愚物、と言わんばかりの挑発的な視線を向けてくる。
611: 2013/08/26(月) 00:32:07.50 ID:Rsq1aSwH0
「何を言っているのかしら、この愚物は」
「当たってたよ……」
「心配しなくても、嫌ならちゃんと断っているわ。大体買い物なら先週も一緒だったでしょう。気を使うならもっと正しい所で使いなさい」
「お前は俺の母ちゃんか」
何でそこでお小言が入るんだよ。
別にお前に監督責任とかないから。
というか、こんな厳しい母親だったら大変だろうなぁ。
相当メンタル強くないと心折れるんじゃないかとすら思う。
612: 2013/08/26(月) 00:37:00.12 ID:Rsq1aSwH0
「しかしあれだな、お前親になったら子供にも厳しく接しそうだな。躾ばっちりの超教育ママみたいな」
「そういうあなたは甘やかし過ぎそうね。躾がきちんとできるとは到底思えないわ。今だって小町さんに甘過ぎるくらいだし」
「いいんだよ、小町は。実際良い子に育ってるわけだし。まぁ教育とかで厳しくするのは嫁さんに任せるって感じで良いかなーとか」
「良くないわよ、人に嫌な役を押し付けるのは止めなさい」
むっとした表情の雪ノ下に睨まれて言葉に詰まる。
うーん駄目か、良い案だと思ったんだけど。
って、あれ? 何かおかしくね?
613: 2013/08/26(月) 00:39:52.66 ID:Rsq1aSwH0
「いや、何でそこでお前が怒んの? それじゃまるで――」
「……」
俺が言いかけたところで、雪ノ下がはっとした表情を見せて固まる。
かく言う俺も自分の口にした言葉を自覚してしまい、動きを止めてしまう。
二人揃っての沈黙。
614: 2013/08/26(月) 00:45:17.16 ID:Rsq1aSwH0
……まずい、変なことを想像してしまった。
俺と雪ノ下が将来――って、そんな未来予想図とかドリ○ムじゃないんだから。
こんなこと考えてるって知られたら、またどんな罵倒を受けるかわかったもんじゃないぞ。
大体そんなことあり得るかって、でも可能性だけの話なら、じゃなくて……
駄目だ、いい感じにパニくった頭では思考の整理も覚束ない。
顔赤くなってないだろうな、とか下らない心配をしてしまう。
いや何か言わないと余計まずいよな、これ。
というか、どんだけ動揺してんだよ、俺。
615: 2013/08/26(月) 00:51:19.11 ID:Rsq1aSwH0
「えっと、その……」
「何を想像しているの? 勝手に妄想して暴走するのは止めてくれるかしら。言っておくけれど、さっきの私の言葉はあくまでも一般論としてあなたの勝手な主張に異を唱えただけの事で、それ以外の意図は一切ありはしないわ。誤解しないように。いい?」
俺が何か言う前に、瞬間立ち直って早口で捲し立ててくる雪ノ下。
おまけに、言葉の締めには異論反論を許さないとばかりにぎろりと睨んでくるおまけ付き。
でも、こいつがこういう風に口数が多くなる時って大抵――いや、これ言ったらまた罵倒の嵐が始まりそうだし、飲み込んどかないと。
そもそもこれ以上続けたら、俺の方まで変な感じになりそうだ。
こういう時はさっさと話を戻すに限る。
616: 2013/08/26(月) 00:58:07.17 ID:Rsq1aSwH0
「わかったよ。何か、その、悪かった、変なこと口走って」
「ま、まぁ、わかればいいのよ」
「それよりほら、お前買い物とか言ってたけど、どこに行くんだ? 何か道に迷ってたみたいだし、言ってくれりゃ俺が調べてやるけど」
「別に道に迷っていたわけではないわ、少しお店を探すのに手間取っていただけよ」
「それを一般に迷ってたって言うと思うんだけどな」
「見解の相違というものね」
いや、言葉の意味はよく分からんが多分違うだろ、それ。
というか、何に対して強がっているのかがさっぱりわからない。
負けず嫌いも行き過ぎると自分を窮地に追い込むんだよなぁ。
617: 2013/08/26(月) 01:04:57.09 ID:Rsq1aSwH0
「とりあえず行き先どこなんだ? ディスティニーストアかどっかか?」
「! どうしてそれを? あなたまさか――」
「言っとくけどストーカーとかじゃないからな。道に迷うの覚悟でお前がわざわざここまで出張るのなんて、そのくらいしか想像できなかっただけだ。お前パンさん好きだし」
「そう、そういえばあなたには知られてしまっていたわね」
「んな不覚みたいに言わんでも」
そこで微妙に悔しそうな表情をされると、こっちの方が戸惑うだろ。
別にいいじゃん、パンさん好きだって知られても。
むしろ普段とのギャップで微笑ましくすらあると思うぞ。
まぁそういう風に思われるのが気に入らんのかもしれんけど。
618: 2013/08/26(月) 01:10:35.43 ID:Rsq1aSwH0
「まぁとにかく、ディスティニーストアが目的地ってことでいいんだよな? なら、そこまで案内してやるよ」
「道を覚えているの? あなたなんかがディスティニーストアに行く用事があるとは思えないのだけれど、どうして知っているのかしら」
「なんかとか言うなよな、まぁ言ってることは当たってるけど。ってか俺じゃねぇよ、小町にねだられて何度も行ったことがあるから覚えてるってだけだ」
「そういうこと。いつも通り情けない理由で安心したわ」
放っとけ。
小町の為という理由がなかったら、あんなリア充の巣窟なんぞ俺がそうそう行く訳ないだろうが。
619: 2013/08/26(月) 01:15:35.30 ID:Rsq1aSwH0
と、俺の携帯に着信が入る。
ポケットから取り出して確認すると、当然というか差出人は小町。
どうにもいい予感はしないな。さて内容は――
『お兄ちゃんへ。雪乃さんのエスコートしっかりね。ちゃんとデートできるまで我が家の敷居は跨がせないよ! あとちゃんと名前で呼んだげるよーに。お兄ちゃんはできる子だって信じてるから。頑張って! 小町より』
620: 2013/08/26(月) 01:23:58.15 ID:Rsq1aSwH0
激しくいらんお世話だった。
というかこのタイミングでこの文面とか、まさかどっかから監視してんじゃないだろうな?
慌てて周囲を見回してみるも、人が多過ぎて全然分からない。
あいつもステルス機能を完備してるわけだし、肉眼での発見は難しいか。
「何をきょろきょろしているの? 挙動まで不審になってはフォローもできなくなるわよ」
「それは俺の見た目については元から不審だって言いたいのか?」
621: 2013/08/26(月) 01:31:04.21 ID:Rsq1aSwH0
冷ややかな目と冷ややかな声で、まさに文字通り冷や水を浴びせられたので、周囲の探査は諦める。
というか、これはもう色々と諦めるしかないのだろう。
何だかなぁ、俺って小町に振り回され過ぎじゃね? あるいは小町が俺をコントロールするのが上手過ぎるのか。
まぁそんなところも可愛いんだけど。いよいよ末期だと我ながらちょっと思う。
さておき、改めて気を取り直して。
「それじゃ、とりあえず行こうぜ――雪乃」
「……えぇ、では案内して頂戴」
640: 2013/09/07(土) 19:48:07.63 ID:jKlodeLz0
「それじゃ、とりあえず行こうぜ――雪乃」
「……えぇ、では案内して頂戴」
一瞬の間の後、小さく微笑む雪ノ下。
いや、その良くできたわねって感じの笑顔は止めてくれると助かるんだけど。
まだ慣れてないんだよ、意識すると動揺しちゃうんだよ。
いやいや、ここは無心だ。余計なこと考えなきゃいいだけなんだ。よし。
642: 2013/09/07(土) 19:53:16.86 ID:jKlodeLz0
「こっちだ、一旦一階まで下りるぞ」
「そう――それにしても、あなたまだ慣れないのね。本当に処置無しだわ」
「流してくれよ、わかってるんなら」
「駄目よ、変に意識されるとこちらも困るもの。いい加減慣れなさい」
「……努力する」
「あなたが口にするとここまで信憑性が乏しくなるのね、努力という言葉は。嫌な発見だわ」
ちくちくと容赦ないなぁ、こいつ。
いや実際否定できないんだけどさ。
ここは話題を変えるのが吉か。
643: 2013/09/07(土) 19:58:14.20 ID:jKlodeLz0
「にしても、わざわざ店まで来るなんて、お前本当にパンさん好きなんだな」
「もちろんよ、悪い?」
「なわけあるか。むしろいいことだろ、何であれ好きなものがあるってのは」
「あなたにもそういうのはあるのかしら?」
「俺の場合は、まず千葉への愛が大きいからな。ふなっしーさえ愛しいレベル」
「病的ね」
端的に抉ってくんなよ、俺の郷土愛を。
そういえば郷土愛って縮めれば兄妹に通じるよね。いやだからどうだってわけじゃないんだけど。
でもまぁあれだ。
644: 2013/09/07(土) 20:02:51.62 ID:jKlodeLz0
「あとは小町がいてくれればそれで十分って感じだな」
「はぁ――あなたもそろそろ妹離れしてあげたらどうかしら」
「今は駄目だな。小町を任せられるくらいの男がいれば考える。まぁそんなの地球上にいるかどうか知らんけど」
「最後の台詞がなければまだ良かったのに」
横合いから深いため息が聞こえる。
何で俺が呆れられなければならないのか、甚だ遺憾だ。
お前言っとくけど小町をモノにできるとか、そんなもんフィクション世界の主人公レベルのいい男じゃないと釣り合わんぞ。
もちろん汚物を見るような目で睨まれたくないので実際には言わない。
645: 2013/09/07(土) 20:06:49.84 ID:jKlodeLz0
「ほれ、着いたぞ」
適当に話している内に、目的地に到着した。
隣の雪ノ下に目をやると、表面上は普段と変わらないような様子だが、視線はちらちらと店先のPOPに向かっているのが見える。
そこには様々なパンさん関連グッズの絵が色鮮やかに踊っていた。何と分かり易い。
しかし見た目は結構怖いのに人気あるんだな、パンさんって。
646: 2013/09/07(土) 20:15:30.71 ID:jKlodeLz0
「じゃあ――って速っ」
俺がに目をやっている内に、雪ノ下は既に行動を開始していた。
脇目もふらずにパンさんコーナーへ向かい、俺が声をかける前に品定めを始めてしまっている。
これ以上ないってくらいに真剣な表情で。
思わず息を呑んでしまう。
何この雰囲気、ここ何処なの? 一体何が起きてるんだよ?
647: 2013/09/07(土) 20:22:34.16 ID:jKlodeLz0
しかし何かもう緊迫感とか緊張感とか、そういう気配しか感じられない。たくさんのディスティニーグッズを前にしている状況なのに、ちっとも微笑ましい光景に見えない。一言で言うなら、鬼気迫る、みたいな。
雪ノ下の様子だけ見れば、自分が今ディスティニーストアにいるということすら疑わしくなってくる。
間違っても口には出せんけど、正直なところ危険物質を扱っている最中の化学者だと言われた方が納得できるレベルだ。目が超マジだし。
キャラクターグッズ見てるだけのはずなのに、どうしてここまで張り詰めた空気を作り出せるんだよ、こいつは。
まぁ邪魔しちゃ悪いし関わって怒られるのも嫌だし、こいつは暫く放っておくとして、さて俺はどうするかな。
案内したからってこれで帰ったりしたら小町に何言われるかわからんし、そもそも雪ノ下を放っておくわけにもいかんし。
仕方ないので、適当に店内を見て回って待つことにする。
648: 2013/09/07(土) 20:31:19.02 ID:jKlodeLz0
とは言え、然程に広くはないので、一巡りするのに何分もかかるものではなく、とりあえず人の少なめな箇所に止まって商品を眺めてみる。
うん、何が良いのかさっぱりわからん。
それを言ったらふなっしーだって何が可愛いのか答えろと言われたら困るんだけど。
世の中何が人気になるかわかったもんじゃないよなぁ。
世の不条理を嘆きつつ、大して時間潰しもできないまますごすごと雪ノ下のところまで戻ると、まだ悩んでいるらしく、商品の前から動く気配は微塵もなかった。
俺の接近にも気付かないのか、えらく難しい顔をして睨むようにして眼前の張り紙を見つめ続けている。
どうも様子がおかしい。
649: 2013/09/07(土) 20:35:54.31 ID:jKlodeLz0
「どうしたんだ? 何か難しい顔してるけど」
「これよ……」
俺の声に気付いた雪ノ下は、ちらと俺を見て、すいっと張り紙の方を指差す。
その指に沿って視線をそちらへと向ける。
指し示された箇所には、二重線により強調された文字が並んでいた。
なになに?
650: 2013/09/07(土) 20:45:16.44 ID:jKlodeLz0
「ん? お一人様一つ限りのサービス?」
じっくり読んでみると、どうやらセール中でパンさんグッズを一定額買うとオマケとして非売品のパンさんシリーズ登場キャラの人形がもらえるらしい。
ただし人形の種類はキャラやポーズの違いなんかで幾つかあるのに、もらえるのはお一人様一点限りで、無くなり次第終了とのこと。
まぁこういうお店ではよく実施されるサービスと言える。
しかしなるほど、パンさんフリークをもって任じている雪ノ下としては、これは容易には納得できない事態だろう。
651: 2013/09/07(土) 20:49:00.62 ID:jKlodeLz0
「よくある商法だけれど、される側になると本当に困るわ」
「いやまぁ厳しいかもしれんけど、仕方ないんじゃね? サービスなんだし。金に余裕のある人しか手に入れられないとか誰かに買い占められるとか、そういうことにならないような配慮なんだろ」
こういう風に非売品のオマケで販売を促すケースはよくあるけど、世の中にはもっとあこぎな値段設定にして荒稼ぎする手合いだっているのだ。何とも世知辛い話だけど。
そう考えれば、限られた数をできるだけたくさんの人にという思慮が窺える分、これはずっと良心的な設定だと思う。
パンさんファンって結構多いみたいだし。
652: 2013/09/07(土) 20:54:37.07 ID:jKlodeLz0
もっともそれは雪ノ下も承知しているらしく、表情に浮かんでいるのは怒りというより困惑の色が濃い。
文句こそ口にしているが、何も本気で覆したいと思っているわけでもなく、それが無理だってのも理解しているだろう。
とはいえ理屈は所詮理屈だ。いくらこねくり回したって、自分の感情をそう易々と抑え込めるもんじゃない。
そりゃ愚痴の一つも言いたくなるだろう。
それが何の解決にもならないと分かっていても、だ。
ほしいけど、でも。意図はわかるけど、でも。
そんなどうにもならない堂々巡り。
俺の目の前で、雪ノ下は悲しげにすら見える程の困った顔で佇んでいる。
653: 2013/09/07(土) 20:59:57.14 ID:jKlodeLz0
そうして悩んでいる姿を、眉根を寄せた横顔を、憂いを帯びた表情を。
それらを見ていると、何故か俺の方が落ち着かない気持ちになってしまう。
ひどくもどかしい気分に加えて、焦燥が募ってゆくのを自覚する。
いや、おかしいだろ――とは自分でも思う。
だって、こんなの直接的には俺に何の関係も無い話なのだ。
黙って見ていて、雪ノ下が決めるのを待てばそれで全て済む。
もちろん誰に責められる謂われもない。
それだけのことのはずだ。
654: 2013/09/07(土) 21:05:06.04 ID:jKlodeLz0
それなのに、そう理解しているのに、どうして俺の心はこんなにもざわついているんだろう。
心の内からちくちくと突かれているかのような錯覚が、なぜ消えないんだろうか。
俺は、一体何がそんなに気になっているというのか。
自分で自分がわからずに、動揺と焦燥に翻弄されてしまう。
そもそも今、俺に出来ることなんてほとんどない。
ここで俺がミラクルを発揮して、この非売品を全て手に入れてやることなんてできるわけもないのだ。
雪ノ下だって、俺にどうこうしてほしいなんて露ほども思っちゃいないだろう。
プライドの高いこいつが、元よりそんなことを他人に期待するはずもないけど。
655: 2013/09/07(土) 21:14:43.21 ID:jKlodeLz0
俺にできることなんて高が知れているのだ。
余計なお世話かもしれない。それは分かる。
まず望まれてもいないだろう。それも分かる。
あるいは不審と不興を買うかもしれない。それすら分かっている。
だって俺も雪ノ下も、そういう人間なんだから。
でも、だ。
だけど、それでも。
理屈では、感情を抑えきることはできない。
何よりそうしないともう気分が落ち着かないのだ。
だから――
656: 2013/09/07(土) 21:19:39.28 ID:jKlodeLz0
「とりあえず買う物は決まってんだろ? オマケだってすぐには無くならないかもしれんけど、早めに買っといた方がいいんじゃねぇの? 少なくなったら選択肢も減るだろうし」
「……そうね、悩んでいても仕方ないものね」
ふぅ、と小さくため息を吐いて、迷いを振り切るように踵を返す雪ノ下。
少し遅れて、俺もそれに続く。
レジに並んで少しして順番が回ってくる。
商品の精算を始めると同時に、店員さんにオマケの人形一覧を提示され、雪ノ下は再び厳しい表情に変わる。
オマケを選ぶだけでここまで苦渋の表情を作る奴もそうはいないだろう。
その姿勢には逆に感心の念すら覚える。もうさすがと言う他ない。
657: 2013/09/07(土) 21:25:51.80 ID:jKlodeLz0
そして、最後の審判と思わず評したくなるような決断の時。
売り場でもしこたま悩んでいたはずなんだけど、ここでも幾つかの写真の間で視線と指先が何度も行ったり来たりしていた。
本音では順位付けなどしたくないんだろうが、それでも唯一を選ばなければならない苦悩が容易に見て取れてしまう。
その決して短くない苦悶と懊悩の果てに、ようやく雪ノ下がゆっくりと顔を上げ、絞り出すような声で一つの商品の番号を告げる。
キャラクターグッズを選んでいるだけなのに、某クイズのファイナルアンサーばりの溜めと引きだった。
そこまでのエネルギーが必要になるとか、それじゃ俺の千葉好きを笑えないだろ、こいつ。
店員さんもきっと驚いているだろうに、それをおくびにも出さず、穏やかな笑顔で人形を差し出していた。まさにプロだ。
658: 2013/09/07(土) 21:32:44.46 ID:jKlodeLz0
「はい、どうぞー。大切にしてあげてくださいね」
「……えぇ、ありがとう」
パンさんの人形を受け取ったところで、雪ノ下の表情もようやく柔らかく緩む。
手元のそれに視線を落とし、微笑みを浮かべている。
さっきまでの苦悩が嘘のような、慈愛すら感じさせる温かな表情。
満足げに雪ノ下が出口へと向かう姿を見送ってから、俺もレジに並んだ。
買い物を手早く済ませて店の出口に急ぐと、雪ノ下が待ち構えるように立っていた。
ほぼ仁王立ち。なぜか知らんが俺を見下す勢いだ。というか数分も待てないのかよ。
だが、出てくる俺の手に買い物袋があるのを見て、その表情に疑問の色が浮かぶ。
659: 2013/09/07(土) 21:40:02.79 ID:jKlodeLz0
「あら? 随分遅いと思ったら、あなたも買い物をしていたの?」
「まぁな。せっかくだし小町におみやげでもと思って」
「そう、お気に入りのディスティニーキャラがいるのかしら」
「いや、特定の何かにハマってるわけじゃないみたいだな。ディスティニーキャラなら何でもって感じだぞ、あいつ」
言いながら雪ノ下の近くまで早足で歩く。
それから二人で並んで店を出て、他の人たちの通行の邪魔にならない所まで進んで。
そこで立ち止まり、くるりと振り返る。
少し驚いた顔で足を止める雪ノ下。
660: 2013/09/07(土) 21:51:17.41 ID:jKlodeLz0
「ちょっと、急に立ち止まらないで頂戴。なに? 忘れ物でもしたの?」
少し不服そうな声。
けれどこちらとしては、それを気にする余裕なんて無かった。
一体どう話を切り出したものかと、頭の中でそればかりが回っている。
しかし黙ったままでいても仕方がない。
柄にもなく緊張していることを自覚しつつ、口を開く。
661: 2013/09/07(土) 21:56:04.37 ID:jKlodeLz0
「あー……えっとさ、その」
「日本語まで不自由になったのかしら。言いたいことがあるのならはっきり口にしなさい」
上手く言えずに口ごもってしまった俺に、雪ノ下は不審そうな眼を向けてくる。
腕を組んでのいつもの詰問スタイルだ。
これ以上躊躇ってたら、不審が苛立ちに変わりかねない。
それは困る。
662: 2013/09/07(土) 22:03:28.57 ID:jKlodeLz0
意を決して、買い物袋の中からある物を取り出して、すっと差し出す。
視線が俺の手元に向かい、それが何かを理解した瞬間、雪ノ下が目を丸くする。
それは、さっき雪ノ下が迷った挙句選ぶことのできなかった人形の内の一つ。最後まで悩んでいた片割れだ。
しっかりと確認したから間違いないはず。
パンさん関連の商品を小町へのおみやげとして買ったのは事実だけど、今回の買い物の一番の目的はこれだった。
「これ、さっきもらったから、やるよ」
「……どういう風の吹き回し? あなた何を企んでいるの? それとも何か下心でもあるのかしら」
663: 2013/09/07(土) 22:08:31.56 ID:jKlodeLz0
すっと目が細くなり、訝しむような声で問うてくる雪ノ下。
予想はしていたけど、散々な言われようだった。
まぁそうだよな、普段の俺からは考えられないもんな、こんな行動。
俺だって自分でも不自然だって思うし。
しかし困ったことに、何故と聞かれても、そりゃもちろん雪ノ下が言うような理由ではないのだが、だからといって自分でもその真意は上手く説明できないのだ。
咄嗟に二の句を告げない俺に対して、怪訝そうな表情のまま、雪ノ下は探るように俺の目を覗き込んでくる。
目と目が合って、一瞬互いの動きが止まった。
はっきり言わない俺に苛立ちを感じている、という様子こそなかったが、それでもはっきりと不審そうだ。
664: 2013/09/07(土) 22:14:32.70 ID:jKlodeLz0
「どちらにしても、それは受け取れないわね。あなたに施しを受ける謂われはないのだし」
「いや、でも欲しかったんだろ、これ。お前最後まですげぇ悩んでたしさ」
「……そうね、否定はしないわ。だけどそれでは質問に答えてないわよ。どうしてそれを私に渡そうとするの? 何が目的なの? 自分がいらないのなら小町さんに渡せばいいのではなくて?」
差し出したままの俺の腕と、組まれたままの雪ノ下の腕。
共に動きは無く、その距離は変わらず。
予想はしてたけど、やはり一筋縄ではいかないみたいだ。
665: 2013/09/07(土) 22:23:00.55 ID:jKlodeLz0
まぁ当然と言えば当然の話か。
雪ノ下は、たとえ自分が欲しかったものだとしても、人からただ与えられることを良しとするような女ではない。
理由もなく人から物を貰うなんて、むしろ忌避していそうですらある。
そんなこと俺だってよく知っていた。
知っていたのに――喜ばれるどころか不審がられて、場合によっては怒りすら買うかもしれないと想像していたのに、それでも俺はこれを手に入れて、こうして雪ノ下へと差し出している。
改めて自分で自分がわからない。
こんなの、目立たず出しゃばらず波風立てずのぼっちがやることじゃないだろう。
666: 2013/09/07(土) 22:26:46.82 ID:jKlodeLz0
理屈ではわかっているのに。
なのに、どうして俺はこんなことをしているのか――自分の中の何かに突き動かされるような、そんな衝動的な行為だったけど、その何かがわからなかった。
いつだって自分の気持ちというのは、自分自身ではどうしたってままならない。
もどかしく悩む俺を、しかし雪ノ下は何も言わずにじっと見ていた。
怒るのではなく、厭うのでもなく、ただ静かに。
黙ったまま俺の答えを待っている。
667: 2013/09/07(土) 22:31:43.29 ID:jKlodeLz0
もっと以前であれば、俺から物を貰うなんてあり得ないとか言って、話も聞かずに一蹴されていたかもしれない。
あるいは怒りすら滲ませまがら、無言で立ち去っていたかもしれない。
でも、今は違う。
真っ直ぐに俺を見据えるその目は、ただ純粋に俺の真意を問うている。
俺の言葉を、待ってくれている。
その目を見て、少しだけ心が落ち着く。
動かなかった頭が、ゆっくりと回り始める。
止まっていた何かが動き出すような、そんな感覚があった。
668: 2013/09/07(土) 22:38:39.46 ID:jKlodeLz0
さっき小町に煽られたから、というわけでもないけど。
以前に陽乃さんに唆されたから、というわけでもないけど。
いつか由比ヶ浜に諭されたから、というわけでもないけど。
少しだけ、素直になってみてもいいのかもしれない、と思った。
いつも捻くれている俺だけど、斜に構えて全てを疑ってかかってばかりいる俺だけど。
たまには素直に言動を受け取って、素直に心情を吐露しても、いいのかもしれない、と。
何よりも、雪ノ下に変な嘘や誤魔化しはしたくなかった。
はっきりと言葉にできないまでも、せめて正直に。
そう思うと、自然に言葉が口をついていた。
669: 2013/09/07(土) 22:45:54.66 ID:jKlodeLz0
「――これは、小町に渡そうと思って買ったもんじゃねぇよ。これはお前に――雪乃にあげたくて、手に入れたんだ」
「だから、どうして? それを私が受け取る理由はないじゃない」
「理由とか理屈じゃないんだよ。下心とか疑われるかもしれないけど、そういうのでもなくて……何て言ったらいいんだろうな、あぁもう」
「……」
がしがしと頭を掻き毟る。
いざとなると、やはりどうにも上手く表現できない。
動機の言語化ってこんなに難しいのかよ。
670: 2013/09/07(土) 22:50:03.85 ID:jKlodeLz0
焦りそうになる俺に、けれど雪ノ下はそれ以上の言葉を重ねない。
ただ静かに、目で続きを促してくる。
いつもの透明な表情。
正でも負でもなく、喜でも怒でもない。
けれど続く言葉次第では、どちらにも転んでしまいそうな。
それに気付くと、ある気持ちが心にすとんと落ちてくる。
あぁそうだ、俺は雪ノ下に――
671: 2013/09/07(土) 22:55:01.87 ID:jKlodeLz0
「――何ていうか、さっきしかめ面で悩んでるお前を見てたら、すごい心がもやもやしたんだよ。それが嫌だったんだ」
「それで?」
「いや、それでっていうか……だから、全部は無理にしたってせめてもう一つくらいはって思ったんだよ。そうせずにはいられなかったっつーか、そうしないと落ち着かなかったっつーか。だから別にこれを渡してどうこうとかは全く考えてねぇよ。要はただの自己満足だ、俺がそうしたかっただけ。本当にそれだけなんだよ」
「……」
結局のところ、突き詰めてしまえばそういうことになるだろう。
一番の動機というか、そうしたかった最大の理由はこれだ。
要するに、俺は雪ノ下の辛そうな表情を見ていたくなかったのだ。
その為に何かをしたかったという、ただそれだけのこと。
しかし気付いてしまえば、何とも自分勝手な話のように思える。
雪ノ下からすれば、本当にただの大きなお世話だろう、こんなの。
672: 2013/09/07(土) 23:01:07.03 ID:jKlodeLz0
「って、まぁでも確かにこれじゃ、お前が受け取る理由にはならねぇよな……」
口にした事で、ちょっとトーンダウンしてしまった。
実際、無理に受け取らせるのも何か違うだろう。
そんなの押しつけがましいことこの上ない。
そう考えて腕を引こうとしたところで。
雪ノ下がそっと腕組みを解くのが見えた。
そしてそのまま俺の方へと差し出される手。
驚いて視線を上げれば、さっきと違って穏やかな表情の雪ノ下。
673: 2013/09/07(土) 23:08:42.25 ID:jKlodeLz0
「相変わらず、不自由で不器用な言葉遣いね」
「うっせ、そっちも相変わらず容赦ねぇじゃねぇか」
「それが私だもの。だけど、言いたい事は何となくわかったわ。要は打算なんてなくて、それでも強いて理由を挙げるなら自分の為にそうしたかったんだと、そう言いたいのでしょう?」
「ん……まぁそうだな、そうなるな。いやそんな風に言われたら何かすげぇ自分勝手に聞こえてあれなんだけどさ」
「そうね――でも、そういう理由なら構わないわ。ありがたく受け取ってあげる」
「え?」
一瞬、自分の耳を疑った。
まじまじと凝視してしまうが、そこに冗談やからかいの色は窺えない。
まるで、俺も理解していない俺自身の行動の理由を、全て理解しているかのように。
穏やかで晴れやかな微笑みを浮かべながら、どこか嬉しそうに、何故か楽しそうに、雪ノ下は手の平をこちらに向けて差し出している。
674: 2013/09/07(土) 23:12:01.50 ID:jKlodeLz0
「なに? その表情」
「いや、だってお前、受け取る理由がないって言ってたのに」
「そうね、あなたが安易に私の為とか口にしていたなら突っ撥ねていたわ。憐れみも施しも真っ平御免だもの。だけど違うのでしょう?」
「あぁ、そうじゃない」
強く否定する。
憐憫とかそういう感情は、普通は自分よりも立場が下にある相手に持つ感情だ。
だから決して、そういう感情で取った行動なんかじゃない。
俺の返事に、雪ノ下が少しだけ笑みを深くする。
675: 2013/09/07(土) 23:16:37.64 ID:jKlodeLz0
「それならば話は別よ、あなたの行動が自分の為と言うのならね。あなたは私にそれを渡したいと思っていて、私はそれを欲しいと思っている。つまり結果として、あなたは自己満足を得られて、私は欲しい物が得られる、ということになるでしょう。であれば双方の利害が一致しているとも言えるもの。だから、ありがたく受け取ってあげる」
「相変わらず屁理屈がすげぇな。しかも、ありがたく受け取ってあげるって言い回しとか」
「間違ってはいないでしょう」
しれっとのたまう雪ノ下。
その表情はやはりどこか楽しそうだ。
何を楽しんでいるのかまでは、今の俺には分からないけど。
しかし確かに間違ってはいない。
俺が渡したいだけなのだから、受け取ってあげるとなるわけで。
でも自分も欲しいと思っていたものだから、ありがたくと付くわけだ。
なるほどなるほど。
676: 2013/09/07(土) 23:21:41.73 ID:jKlodeLz0
と、そこまで考えて、不意におかしくなってきた。
本当にもう、一体俺たちは何をやってんだか。
人形を手に入れてそれを渡すという、ただそれだけの事を成す為に、一体どれだけ理由を付けて、理屈を作って、言葉を重ねなきゃならないんだ?
こんなの葉山とかその辺のリア充連中なら、悩む間もなく終わってるだろう。
『人形ほしいなー』→『じゃあ俺が手に入れたのやるよ』→『やったーありがとう』
これだけで済む話なのだ、簡単に言ってしまえば。
677: 2013/09/07(土) 23:25:33.51 ID:jKlodeLz0
それをまぁ、どこまで遠回りして頭使って言葉を尽くして悩んで迷っているんだか。
俺たち二人、揃いも揃ってどんだけややこしいんだよ。
欲しいなら欲しいと言えばいいし、渡したいなら渡したいと言えばいい。
そしてそれをお互い素直に受ければいいだけのことなのに。
理由が無かったら物一つ渡せない。
根拠が無かったら物一つ受け取れない。
そんな不器用な捻くれっぷりを思うと、もうおかしくてしょうがなかった。
こんなの誰かに馬鹿と言われても、とても文句なんて言えないだろう。
678: 2013/09/07(土) 23:34:03.95 ID:jKlodeLz0
とは言え、である。
確かに傍から見たら無駄で間抜けなやり取りに映るかもしれないけど、それでも。
これは決してただそれだけの、そんな無意味なことではないはずだ。
そうでなかったら、俺が今こんな気分になることは、きっとなかっただろうから。
「どうしたの? 不気味な笑みを浮かべて」
「いらん形容詞付けんな。ちょっとおかしくなってきただけだっての」
「そう、ようやく自覚してきたということね」
「だからそういう意味じゃねぇ。ったく、じゃあほら、これ受け取ってくれよ」
「えぇ――ありがとう」
679: 2013/09/07(土) 23:40:47.47 ID:jKlodeLz0
パンさんの人形が、ようやくのことで俺の手から雪ノ下の手へと移った。
瞬間、何とも言えない達成感のようなものを覚える。
いや、この程度のことで何をそんな大げさなとは思う。
何しろあれだけ頭を使って精神的に疲労までして、その結果できたことと言えば、人形を一つ手渡したことだけなのだから。
けれど、たったそれだけのことだとしても。
言葉にすればほんの一行で済み、動作にしても数秒とかからないことだけど。
それはきっと俺たちにとって、ささやかでも大切な一歩だ。
680: 2013/09/07(土) 23:56:00.25 ID:jKlodeLz0
改めて雪ノ下の方へと目を向ける。
雪ノ下はパンさんの人形を見ながら静かに微笑んでいた。
柔らかく、慈しむような優しい微笑み。
穏やかな春の日射しを思わせるような、あるいはそっと野に咲く可憐な花を思わせるような。
そんな年相応な、一人の女の子の笑顔がそこにある。
気付けば目は釘付けとなり、言葉を失い、意識も絡み取られ、心まで奪われてしまっていた。
きっと今までの何時よりも近い距離で、雪ノ下が微笑んでいる。
むず痒いような、こそばゆいような、不思議な気分だった
681: 2013/09/08(日) 00:03:00.61 ID:w+pXWpAe0
こんな笑顔を見ることができるのなら、さっきのあの苦労なんてかわいいもんだとか。
そんな馬鹿な考えさえ脳裏を過ぎる始末だ。
誰かの為に何かをすることを喜ぶような、そんな奉仕の精神なんて俺は持ち合わせていなかったはずなのに。
俺は変わりつつあるんだろうか?
変わることができるんだろうか?
変わっても、良いんだろうか?
すぐには答えを出すことはできないけど。
それでも、踏み出した一歩を悔む気持ちは微塵も無かった。
だったら、もう少しこのまま進んでみることにしよう。
皆の後押しがあったにしろ、何より他ならぬ自分自身が、そうしたいと思ったんだから。
689: 2013/09/08(日) 21:43:39.67 ID:w+pXWpAe0
それから、何時までも道を占拠してる訳にもいかないし立ちっ放しで少し疲れてもいたので、喫茶店へ立ち寄ることに。
幸い店もすいていたのでスムーズに注文を終えて席へ。
そこで俺もようやく一息つくことができた。が、ついたため息がひどく重い。
どうやら想像以上に疲労していたようだ。
雪ノ下が言うように、俺ももう少し慣れないと色々持たないかもしれない。
さておき、砂糖やミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲んでくつろぐ俺の目の前で、雪ノ下は手に入れた品物の数々を整理していた。
いつも通りを装っているつもりのようだが、喜色を隠し切れていない。
笑みを浮かべそうになるのを抑えているのか、時々頬がぴくりと動くのが分かる。何とも微笑ましいもんだと思う。
口に出したら怒りを買うのは分かっているので言わないけど。
690: 2013/09/08(日) 21:55:21.49 ID:w+pXWpAe0
「しかしパンさんって本当に人気あるんだな、あれだけコーナー占拠してるとは知らんかった」
「当然でしょう。無知って怖いわね。全世界で愛されているキャラクターなのよ? パンさんは」
「ま、まぁ限定グッズが出るくらいだもんな。それにしてもあれだ、ファンとしちゃ嬉しいだろうけど、それ以上に大変だろ」
今更言うまでもないことだけど、パンさん絡みとなると雪ノ下は目の色が変わってしまう。
俺の言葉でユキペディアさんが覚醒しそうになったので、咄嗟に話題を切り替える。
語り始めたら長そうだし。
そういうのはまた次の機会に、ということで。
691: 2013/09/08(日) 22:05:32.50 ID:w+pXWpAe0
その判断が功を奏してか、雪ノ下がパンさんの魅力を語り始めることはなかった。
が、言葉だけじゃなく動きまで止まってしまっていて。
よく見れば、やけに難しい表情を浮かべている。
あれ? 俺今ひょっとして地雷踏んだ?
どうにも言葉を挟めずにいると、雪ノ下が一つ息をついて再起動する。
何故かは分からんけど、ふっと遠い目をしながら。
692: 2013/09/08(日) 22:12:37.15 ID:w+pXWpAe0
「えぇ、その通りよ。限定グッズは時々発売されるのだけれど、全て手に入る訳ではないの。もちろん私もできる限り手を回して策を尽くして事に当たるわ。けれど一人ではどうしても限度があるから……今までだって一体何度苦杯をなめてきたことか」
「表現が一々怖いんだけど。何? お前一体何と争ってんの? キャラクターグッズの話をしてるはずなのに、どうしてそんなに殺伐とした世界観が展開されてんの?」
微妙に悔しそうな表情で語る雪ノ下に、思わず突っ込まずにいられなかった。
夢と魔法の世界の住人を巡って、権謀術数を駆使しようとしてんじゃねぇよ。
しかし雪ノ下からすればそれは当然のことらしく、さらっとスルーされてしまう。
693: 2013/09/08(日) 22:22:51.13 ID:w+pXWpAe0
「お金だけの問題ならともかく、今回みたいに数量限定となると、どうしてもね。かといってネットオークションの類はどうにも信用が置けないし」
「お前も案外苦労してんだな」
深いため息と共にしみじみと語られてしまった。
正直なところ俺には今いち理解できない大変さだ。
とはいえ、これは雪ノ下にとっては大事な問題なのだろう。
それが分かるだけに、つい言葉が口をついてしまう。
694: 2013/09/08(日) 22:30:59.66 ID:w+pXWpAe0
「まぁ、その、もしまたこういうのがあったら、言ってくれれば別に手くらい貸すぞ」
「あら、どういう風の吹き回しかしら?」
さっきと同じような返し。
けれど先程と違って、怪訝そうな空気はそこにはない。
くすりと小さく笑いながら、余裕の表情での言葉だった。
雪ノ下はきっと全て分かっているのに、それでも敢えて俺に言わせようとしているのだろう。
こいつ、陽乃さんみたいなことしやがって。
まぁ彼女に比べれば随分可愛いもんだとは思うけど。
695: 2013/09/08(日) 22:40:28.37 ID:w+pXWpAe0
「……さっきも言っただろ、それと同じ理由だよ。あとは察してくれ」
「人任せは感心しないわね。あなたの言葉で聞きたいのだけれど」
「お前、意地が悪いぞ。つーか何度も聞いたって仕方ないだろ、こんなの」
「そんなことはないわ――だって、悪い気はしなかったもの。あなたが純粋にそう考えてくれたことは、ね」
人差し指をぴんと立てて口元に当てながら、片目を閉じて悪戯っぽい笑みを浮かべる雪ノ下。
その言葉に、そんな仕草に、咄嗟に何も言えなくなってしまう。
花咲くような笑顔とはこのことか。
こんなの目の当たりにしたら、抗うことなんてできようはずがないじゃないか。
696: 2013/09/08(日) 22:50:55.28 ID:w+pXWpAe0
もはや否も応もない。
心の中で静かにお手上げだ。
ここまできてしまえば、もう何を喋っても一緒だ、とか。
そんなほとんどやけっぱちみたいな心境で、本音のところを口にする。
「あーもう! 要するに、俺が雪乃の力になりたいってだけなんだよ。ただの俺の自己満足、それだけ。何つーかお前の辛そうな顔とか見たくねぇし……」
「ふふ……随分と素直じゃない、珍しいこともあるものね」
「お前が言わせたんだろうが」
697: 2013/09/08(日) 22:57:33.25 ID:w+pXWpAe0
優雅に微笑む雪ノ下と、憮然とした表情の俺。
けれど、俺だって別に不快な気分ではなかった。
何よりも――
「でもそうね、じゃあ、ありがたく手伝いをお願いしようかしら」
――目の前でそんなに嬉しそうな笑顔を見せられたら、文句なんて言えるわけがない。
元より、今口を開いたところで、まともな言葉になるのかは正直疑わしいけど。
何しろ心臓はさっきからうるさいくらいに騒いでいるし、頬もきっと赤く染まってしまっているだろうから。
698: 2013/09/08(日) 23:04:34.16 ID:w+pXWpAe0
改めて思う――こんなのほとんど反則だと。
であれば当然、ただのぼっちに太刀打ちできる道理も無い。
傾国の美女という言葉のその端緒を、図らずも垣間見てしまった気分ですらある。
持て余すような不思議な感情を抑えるように、手元のコーヒーを口に運ぶ。
さっきまで仄かにあったはずの苦みを感じられず、普段よく飲むMAXコーヒーよりも、なぜかずっと甘く感じた。
あぁ、本当に今日の俺はどうかしてるみたいだ。
仕方がない、これもまた諦めが肝心なのだと無理矢理納得しておくことにしよう。
699: 2013/09/08(日) 23:14:24.00 ID:w+pXWpAe0
それから、連絡の為にと携帯の番号とメアドを交換した。
何とも今更感が半端無かったけど、それは俺だけだったようで、雪ノ下はいつも通りの冷静な表情で携帯を弄っている。
あるいは慣れない登録に手間取って他のことを気にする余裕がないだけかもしれないけど。使い慣れてなさそうだもんなぁ。
「……と。さて比企谷くん、一つ言っておくけれど、用が無い時に頻繁にメールを送ってこないように」
「言われんでも。大体俺がメールを送りまくって楽しむようなキャラだと思ってんのか?」
「まさか。むしろメールを楽しんでる人を見て、僻んだり妬んだりするキャラよね?」
「そこまで歪んでねぇよ、ただメールに縛られて可哀想だなぁって憐れむだけだ」
「より重症じゃない」
「放っとけっての」
いいんだよ別に。そもそも大切なのは量じゃない、質だ。
小町からのメールがあるってだけで、俺は他の連中の数倍幸せな自信があるぞ。
700: 2013/09/08(日) 23:24:25.28 ID:w+pXWpAe0
「とにかく節度は守るようになさい。まぁ一日一通未満までは許可してあげるわ」
「おい、それはあれか、俺に一切メールを送んなって言ってんだな?」
「あら、数学が苦手という話だったけれど、よく気付いたわね」
「日本語まで苦手だって言った覚えはないぞ」
「そうね、あなたが苦手なのは生きることよね」
「ばっか、お前言っとくけど俺ほど生きる素養を持ってる奴もそうそういないぞ。生き残る為なら土下座でも靴舐めでも余裕で出来るレベルだからな」
「そんな状況に追い込まれている時点で論外でしょう……」
こめかみに手をやって呆れたような表情を見せる雪ノ下。
全く失礼な奴だ。まぁ称賛されても引くけどさ。
生きることは大切だけど、そんなこと考えて生きている人間はいないのである。
昔の偉い人は良い事を言った。いや人じゃなかったっけ、初出は。
701: 2013/09/08(日) 23:35:38.60 ID:w+pXWpAe0
「とにかくあれだ、用もないのにメールはすんなってことだろ? 心配せんでも分かってるから」
「理解しているならいいわ。あぁそれと、私からのメールには出来るだけ早く返信すること。いい?」
「え? そんな厳しいこと言われんの?」
「当然じゃない、あなたが私を無視するなんて許されることではないわ。逆ならともかく。自然の理に反しているでしょう、そんなこと」
「そこまで言うか」
相変わらず傍若無人を地で行く女である。
傲岸不遜もここまでくれば、いっそ清々しさすら覚えるな。
わざわざ言われんでも無視するつもりなんかねぇよ、そんなことしたら後が怖いし。
それに、だ。
702: 2013/09/08(日) 23:43:57.39 ID:w+pXWpAe0
「――まぁ手を貸すって言ったのは俺だしな。なるべく早く返すようにはするよ」
「そう……それは殊勝な心がけね」
可愛げのない言葉。
けれど、それを口にする雪ノ下は淡く微笑んでいて。
憎まれ口を叩く気にもなれなくなってしまう
ここでそんな顔見せるとか、ずるいだろ。
でもまぁ仕方ない、今日のところは甘んじて敗北を受け入れておこう。
せっかく喜んでるところに水を差すほど、俺は悪趣味じゃないのだ。
変なこと言ってその表情を曇らせたくもないし。
何より、総じて今日は悪くない一日だったと、素直にそう思えるんだから。
703: 2013/09/08(日) 23:49:22.44 ID:w+pXWpAe0
その後、家路についてからのこと。
自宅近くまで来ていた所で携帯にメールが届いた。
普段なら本命小町、対抗由比ヶ浜ってところなんだけど、今日に限れば少し違うだろう。
そう考えつつ差出人を確認すると、想像した通り、今日登録したばかりの雪ノ下の名前がそこにある。
とりあえず開いて本文を読む。
「……えらく素直だな」
704: 2013/09/08(日) 23:58:13.57 ID:w+pXWpAe0
つい呟きがもれてしまう。
届いたメールに、普段の雪ノ下からは考えられないくらいに素直な言葉が並んでいたせいである。
ストレートに感謝の意思表示、皮肉も罵倒も無し、何と珍しい。
そりゃ驚いてつい笑ってしまいそうになるというものだ。
しかし周りに誰もいなくて良かった。
誰かに見られてたら、通報とかはないにしろ、不審な目で見られるのは間違いないだろうし。
近所に悪評が立つなんて絶対に避けなきゃいけない。とりあえず落ち着こう。
705: 2013/09/09(月) 00:08:52.69 ID:V8OsbNPQ0
それにしても、である。
改めて携帯に視線を落として、もう一度その文面を読み直す。
不思議と言うのか不自然と言うのか、差出人が間違ってるのでは? と、つい思ってしまうのは俺が毒され過ぎなのだろうか。
ほんの数行の文章なのに、どうにもむず痒い心地になってしまう。
電話越しだと本音で喋れるとか、メールだと普段言えない事も言えるとか、そういう話はよく聞くけど、雪ノ下もその例に漏れないということなのか?
面と向かって直で話さなければ、こんな風に素直な感じになるのかもしれない。
それか単純に罵倒の文句を打つのが面倒だったという可能性もあるけど。
正直、そこは前者であってほしいと思いつつ、返信しようと携帯を操作する。
706: 2013/09/09(月) 00:14:17.56 ID:V8OsbNPQ0
返信内容を入力しているうちに、ふと頬が緩んできてしまう。
やはり今日の俺はどこかおかしいみたいだ。
悪戯心か、あるいは他の何かか、返信を打つ指が、普段の俺からは考えられないような言葉を連ねて行く。
後で見返したら後悔するかもしれないような、そんな言葉を。今日の本音の感想を。素直な今の心境を。
あいつがこんな不意打ちで来たんだから、俺も同じように返してやるだけのこと。
そんな言い訳を頭の片隅で思いながら。
707: 2013/09/09(月) 00:21:25.19 ID:V8OsbNPQ0
「……お?」
返信が終わって歩き始めてすぐに、携帯がまたメールの着信を知らせる。
一瞬自分の耳を疑ってしまった。
でも気のせいでも勘違いでもなく、聞こえているのは俺の携帯の着信音だ。
というか、リターン早過ぎるだろ。
何? あいつってああ見えて実は由比ヶ浜レベルの打鍵速度持ってたりすんの?
いや、まさかだよな。
708: 2013/09/09(月) 00:32:00.54 ID:V8OsbNPQ0
「ぷ……」
慌てて内容を確認したところで、つい噴き出してしまった。
返信早いはずだ、何せほんの一言しか書いてないんだから。
おまけに変換もなしで、主語も述語もありゃしない。
几帳面な雪ノ下にしては珍しいというか。
この文面を打つ時に、果たしてあいつはどんな気分だったのか。
憤慨してたのか動揺してたのか、とか。この一言にどんな感情がこもっているのか、とか。
そんなことを想像すると、負けっ放しだったところで一矢報いたような気がして、少しほっとする。
もっともスコア的には大惨敗を喫してるんだけど。
709: 2013/09/09(月) 00:38:29.18 ID:V8OsbNPQ0
しかし、他人とメールを送り合って楽しいと思うだなんて。
そんな自分にびっくりだ。
でも、たまにはそんな日があったっていいだろう、きっと。
そうこうしているうちに、我が家の門扉が見えてくる。
また小町に根掘り葉掘り色々と聞かれるんだろうなぁと思うと少し苦い心地もあるけど。
それでも今日一日を思い返すに、そのきっかけをくれた小町には感謝すべきなんだろうし、精々ご機嫌を取ることにしようか。
710: 2013/09/09(月) 00:39:57.70 ID:V8OsbNPQ0
~Their mobile talk~
711: 2013/09/09(月) 00:44:45.98 ID:V8OsbNPQ0
Yukino's mobile
From 雪乃
TITLE non title
今日は助かったわ、ありがとう。
あなたに貰ったパンさんの人形、大切にさせてもらうから。
また明日、学校で会いましょう。
おやすみなさい。
712: 2013/09/09(月) 00:50:56.71 ID:V8OsbNPQ0
Hachiman's mobile
From 八幡
TITLE Re:
喜んでもらえて何より。
今日一日わりと楽しかったし、こっちも感謝してる。
また明日、奉仕部の部室でな。
しかしお前も結構可愛いとこあるんだな。
パンさん人形見てる時のお前、すげぇ優しい目してたぞ。
良いもの見れて良かったわ。
713: 2013/09/09(月) 00:58:23.60 ID:V8OsbNPQ0
Yukino's mobile
From 雪乃
TITLE Re:2
ばか
749: 2013/09/21(土) 21:14:08.67 ID:wHdAxdkr0
⑥ 釈然としないながらも、奉仕部はその理念に則って行動する
秋も深まり隣が何をしているのか気になるとされる頃、今日も今日とて不毛な何かが始まろうとしていた。
すぅっと大きく息を吸う音が小さく耳に届く。
俺はと言うと、そいつに気付かれないようにため息をついていた。
そして次の瞬間、季節にそぐわぬ明るい声が部室内に響き渡る。
「千葉県横断お悩み相談メールー!」
「わーわー」
「……」
「二人とも全然やる気ないし!」
750: 2013/09/21(土) 21:21:43.01 ID:wHdAxdkr0
元気一杯にタイトルコールをした由比ヶ浜だったが、その後の俺たちの反応に何やらショックを受けているようだった。
どうやら俺の気の抜けた合いの手はお気に召さなかったらしい。
雪ノ下に至っては読書を続けたままで、言葉もなく視線すら一ミリも動かしてなかったしなぁ。
そりゃ怒るのも無理からぬところだとは思う。
だがしかし、だ。
俺たちにも言い分はある。言い分というか文句だけど。
腰に手を当てて不満そうな顔をしている由比ヶ浜に、俺も正直なところを吐露する。
751: 2013/09/21(土) 21:27:29.57 ID:wHdAxdkr0
「やる気ないっつーか、こんなんやる気になりようがないだろ、普通。むしろ何でお前はそんなやる気なの?」
「これも奉仕部の活動の一つじゃん、やる気出さなきゃダメでしょ」
「つってもお前、これただの平塚先生の思いつきだろ。大体今までのメールも思い返してみろよ、碌でもない相談事ばっかだったじゃねぇか。むしろただの愚痴レベル。居酒屋で飲んだくれてるおっさんでももうちょっとマシなこと話してる気がするぞ」
「ちょっと、それは言い過ぎだよヒッキー。ほら、体育祭のとか大事なのもあったし」
「あー、そりゃまぁゼロではなかったかもしれんけど」
「ね、そうでしょ?」
得意げに、ふふんと鼻を鳴らす由比ヶ浜。
とは言え、そんなの例外中の例外だと思うんだけどな。
実際、他のメールの内容なんて本当に大したことのない話ばっかりだったし。
まぁそれが仕事だと言われてしまえば、返す言葉もないけどさ。
社畜まっしぐら、悲しい立場である。
752: 2013/09/21(土) 21:34:14.32 ID:wHdAxdkr0
「わかったわかった。とりあえず始めりゃいいんだろ。つーか今日メール来てんの?」
「えーっと、うん、何通か来てるよ」
「マジでか。しかし言っちゃなんだけど、こんな所にメール送るくらいならもっと他に頼るべき人っているんじゃね? 普通は。どんだけ暇なんだよ、そいつら」
「だから何でそんな否定的なの? メールが来てるってことは頼りにされてるってことなんだから、いいことじゃん」
「それが疑わしいんだって。そもそもこの部って本当にちゃんと認知されてんのか? 知らない奴の方が多いんじゃねぇの?」
「奉仕部のことを、あなたの教室での存在みたいに表現するのは止めなさい」
ぱたんと本を閉じながら、雪ノ下がようやく口を開いたと思ったら、出てきたのはいつも通り切れ味鋭い暴言だった。
毎度の事ながら容赦なさ過ぎだろ、お前は。
おまけにそんな生き生きした表情をしてるとか、どれだけ追い打ち掛けてくるつもりだよ。
しかし、俺がどんな皮肉で返してやろうかと考えたところで、それより早く由比ヶ浜が突っ込みを入れる。
753: 2013/09/21(土) 21:43:38.88 ID:wHdAxdkr0
「そんなことないよゆきのん! ヒッキーちゃんと存在してるよ! いつも教室にいるよ!」
「そうね、よく目を凝らせば見えるかもしれないわね」
「どんだけ存在感無いの!? 違うから! ちゃんと見えてるから! 無いのは居場所だけだからぁ!」
「フォローすると見せかけてとどめを刺しに来ただと?」
思わず戦慄する。まさかの二人掛かりだった。
何なの? その息の合ったコンビネーション。
君たち仲良過ぎでしょ、もはや事前に打ち合わせでもしてんじゃないのかって疑うレベルだぞ。どんだけ俺をおちょくるのに全力なんだよ。
いやもう何か一周回って落ちついたわ。
754: 2013/09/21(土) 21:50:02.44 ID:wHdAxdkr0
「はぁ。もういいだろ、話戻すぞ」
「そうね、どうでもいいことだったわね」
「後半いらねぇ……じゃあ由比ヶ浜、ちゃっちゃと終わらせようぜ、一通ずつ読んでってくれよ」
「うん、りょーかい」
由比ヶ浜が一つ頷いてパソコンの画面に視線を移す。
さて、楽な話ばっかりだといいんだけど。
何なら俺の出る幕が無ければなお良し、である。
755: 2013/09/21(土) 22:00:21.18 ID:wHdAxdkr0
「えーっと、本日最初のお便りは……千葉市にお住まいの、PN:剣豪将軍さんからです」
「はい、それでは次のお便り」
「ヒッキーそれはさすがに酷過ぎ! 気持ちはわかるけど!」
わかるんなら流してくれよ。
うんざりした気分で由比ヶ浜に目を向ける。
あっちはあっちで気だるげな表情をしていた。
雪ノ下に至っては、目を瞑って頭を抱えてしまっている。
うん、これもうほとんどテロ行為と言っていいんじゃないかな。
756: 2013/09/21(土) 22:07:54.80 ID:wHdAxdkr0
「何なの? これ様式美か何かのつもりなの? それともこいつで始めなきゃなんないルールでもあったりすんの?」
「あたしに言われても知らないよ、そんなの」
「つーかもう着信拒否でもいいんじゃねぇか、これ」
「それは駄目よ、直接来られたら困るもの」
きっ、とこちらを睨んでくる雪ノ下。
言ってることは割とひどいと思うけど、正直なところ概ね同意せざるを得なかった。
由比ヶ浜も一切の躊躇い無くうんうんと頷いている。
奉仕部メンバーの心が無駄に一つになった瞬間だった。
757: 2013/09/21(土) 22:15:15.88 ID:wHdAxdkr0
「だから、これはあなたが処理しなさい。そもそもあなたの担当でしょう、彼は」
「え? また俺?」
そしてあっという間にばらばらになってしまったらしい。
もういい加減その役割分担止めてほしいんだけど。
構ってやるから調子に乗っちゃうんじゃないですかね?
あんまりしつこいと、俺がここにお悩み相談メールを送っちゃうかも知れないぞ。
758: 2013/09/21(土) 22:21:11.89 ID:wHdAxdkr0
といったところで聞いてくれるとは思えないので、黙って飲み込んでおくことにする。
沈黙は金であり、また人間は諦めが肝心なのだ。
もっとも、諦めてばかりで何が変わる訳でもないとも思うけど。
むしろ諦めて何も言わなかったら消極的同意と見なされて、仕事をばしばし振られるまである。
あれ、これやっぱり諦めちゃ駄目じゃね?
今更の結論に愕然とするが、時既に遅し。
759: 2013/09/21(土) 22:30:35.47 ID:wHdAxdkr0
「あー、もうわかったよ、どうせやらんと終わらんのならとっとと回答して終わらせるぞ。由比ヶ浜、内容は?」
「はいこれ」
由比ヶ浜がパソコンの画面をこちらに向けてきた。
読むのも嫌なのかよ、嫌われ過ぎだろ、あいつ。そりゃまぁ自業自得ではあるけど。
俺だって読みたくねぇよ、誰が喜ぶんだよ、このやり取り。
深く重いため息をついてから、ずりずりと椅子を引きずりつつ正面に移動して画面を覗き込む。なになに……?
760: 2013/09/21(土) 22:34:24.79 ID:wHdAxdkr0
〈PN:剣豪将軍さんのお悩み〉
『次のラノベ新人賞の締め切りが近いのだが、まだプロットしかできておらん。そこで我が相棒よ、お主の腕を見込んで執筆役の栄誉を与えたいと思う。今後はペアで活動していこうではないか。ペンネームは二人の名前を合わせて材木谷義満でどうだ?』
〈奉仕部からの回答〉
『まさかとは思いますが、この「相棒」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか? 一度受診することを強く勧めておきます。大丈夫、きっとまだ手遅れではないはずです』
761: 2013/09/21(土) 22:42:07.40 ID:wHdAxdkr0
「ひどっ!?」
「ひどくないだろ、むしろ優しさの上に優しさを重ねてるレベルだと思うぞ」
本音を言えば、寝言は氏んでから言え、くらい返してやりたいところだ。
ふざけて書いてるなら一発引っ叩かんとならんし、本気で書いてるならなお悪い。
まずもって相変わらずプロットしか書いてないとかあり得ないだろ。
というか自分が書けないなら諦めろよ。ワナビにすら失礼だぞ、それ。
大体、お前の為に書くくらいなら自分の名前で投稿するわ。いやどうせ落選確定だから絶対やんないけど。
762: 2013/09/21(土) 22:50:55.56 ID:wHdAxdkr0
「これで一件落着ね、次に行きましょう」
何もしてない雪ノ下が、なぜか一仕事終えたみたいな爽やかな顔でのたまう。
もっとも俺自身もものすごく開放感があったので何も言わない。
本気で誰も得しないやり取りだったな、これ。
時間の無駄ってこういうのを言うんだろうね。
763: 2013/09/21(土) 22:57:05.48 ID:wHdAxdkr0
「それじゃ、次あたし読むね」
材木座の依頼が片付いたからか、由比ヶ浜は爽やかな顔でそう言うと、またパソコンの画面を自分の方に戻した。
うん、その態度は非常に分かり易くてよろしい。
いや決してよくはないか。
まぁ最大の嵐は去ったわけだし、とやかくは言うまい。
764: 2013/09/21(土) 23:03:07.35 ID:wHdAxdkr0
「んーと、次のお便りは……千葉市にお住まいの、PN:姉ちゃんの弟さんからだね」
「あぁ、それもう読まんでいいぞ」
「だからさっきからヒッキーひど過ぎだって! ていうか意味分かんないし!」
「いやもう誰か分かったしさ。そいつは俺にとっちゃ不倶戴天の敵なんだよ、わかるだろ?」
「や、全然わかんないから。もういいよ、ヒッキーは黙ってて」
いや、わからんはずないでしょ、一人しかいないだろうが、奉仕部のこと知ってる弟キャラなんて。
川崎大志め、どこでこのメアドを……?
765: 2013/09/21(土) 23:09:20.93 ID:wHdAxdkr0
というか、そもそもどうして俺たちが小町の周囲を飛び回るちんけな虫の相談なんぞを受けてやらんとならんのか。
納得いかねぇ――が、俺の恨みがましい視線は当然のように黙殺されてしまうわけで。
何事も無かったかのように、由比ヶ浜はよく通る声でメールの内容を読み上げる。
〈PN:姉ちゃんの弟さんのお悩み〉
『お久しぶりっす、お兄さんたちにご相談なんすけど、そろそろ受験も近くなってきて受かるかどうか結構不安なんす。勉強はもちろんちゃんとやってるんすけど、緊張とか不安とか、そんな感じで。何かそういうのを解消する方法があれば教えてもらえないっすか?』
766: 2013/09/21(土) 23:52:39.99 ID:wHdAxdkr0
「よし由比ヶ浜、俺に代われ、最適解を突きつけてやるから」
「何でそんなに殺気立ってんの!? ていうか今のヒッキーに任せられないから。一体なんて答えるつもりなの?」
「一つ、小町に近づくな。二つ、小町の名前を口にするな。三つ、俺をお兄さんと呼ぶな。これを守らんと受験に落ちるぞ。つーか俺が落とす」
「完全に私怨だっ!? じゃなくて、そんなのダメに決まってんじゃん。大体落とすってなに? 無理でしょそんなの」
「いや、あいつの持ち物にこっそりカンニングペーパー仕込んでおいて、あとはテスト中に密告電話をかけるだけでいける」
「陰湿過ぎるし!」
「んなことねぇよ。あいつは世間の厳しさを知ることができるし、俺の心も平穏になるし、誰も損しないだろ。まさにWin-Winの関係ってやつだ」
「絶対違うから、ていうか一方的にボコってるだけじゃん、それ。ホントにもう……ほら、真面目に答えたげてよ」
767: 2013/09/21(土) 23:57:55.86 ID:wHdAxdkr0
かなり真面目に答えたつもりだったんだけど、そう言ったらまた由比ヶ浜の怒りを買うだけなので黙っておこう。
今も何かぷくっと頬を膨らませて不満げにしてるし。
しかし、そんなちょっと小動物っぽい仕草を見て少し毒気を抜かれた。
一呼吸置いて、俺も肩の力を抜く。
「まぁ小町絡みの相談じゃなく受験絡みの相談だし、仕方ないから普通に答えてやるか」
「最初からそうしてよね」
「それができないからこその比企谷くんじゃない」
「お前ホントいい笑顔で俺をディスってくるよな」
768: 2013/09/22(日) 00:02:29.61 ID:ntgre20X0
今日一番の雪ノ下の笑顔だった。
というか、何で俺の“らしさ”をお前が語ってんだよ。
いや、語ってるっつーか騙ってる、か。
本当にこいつは要所要所で的確に俺のハートを抉ってきやがって。
何なの? 聞き耳でも立ててんの? そうやっていつもタイミング窺ってんの? 俺を弄るのにどこまで全力なんだよ。
文庫本開いてんだから読書に集中してりゃいいだろうに。
769: 2013/09/22(日) 00:09:26.46 ID:ntgre20X0
「しかし何つーか、受験の不安とか緊張とか改まって言われてもなぁ。そんなもん誰だってあるもんだしよ」
「んー、そうだけどほら、それを解消できる方法があればって話でしょ。何かないの?」
「いや無いだろ、そんな方法なんて」
「即答!? ちょっとくらい考えてあげようよ」
「いやそうじゃなくてだな、完全にそういうの無くすのは無理って話だよ。皆そうなんだから。できるのは精々それを和らげることだけだ」
「あー、何となくわかる気がするかも。どうしたってゼロにはできないもんね、そういうのって」
「だな。それに受験が不安ってことは結局自信がまだ無いってことだろ。ならもっと勉強頑張るしかねぇよ。やれることは全部やったって胸張れるくらい勉強すりゃ、人に訊くまでもなく自信なんて勝手についてくるって」
学問に王道無しとはよく言ったもんだ。
勉強に限らずスポーツだって同じで、とことんまでやって初めて自信に繋がるのである。
結局やれる限りやるしかないのだ。
770: 2013/09/22(日) 00:18:27.03 ID:ntgre20X0
そして勉強に集中しまくって小町のことを忘れればいい。ここが大事。
もちろんそれは言わないけどな。いい話っぽく終われるし。
由比ヶ浜もほら、何かおぉーとか言いつつ素直に感心してくれているみたいだし。
これはもう黙っておくのが優しさだと言ってもいいと思う。
俺ってばマジ優しい。
ただこちらを無言で見据えている雪ノ下の目が若干冷たいので、こいつにはバレてるみたいだけど。
何でこんなに鋭いんだろうね、とても隠し事できる気がしねぇよ。
771: 2013/09/22(日) 00:24:15.87 ID:ntgre20X0
「それじゃあ回答はあたしが書くね」
「おう、任せた」
にこにこと笑顔のまま、由比ヶ浜がパソコンに向かう。
さっきの投稿者の時とは雲泥の差である。
材木座がここにいたら泣いてたんじゃないか?
あるいはそれもちょっと見物だったかもしれないけど、でもあいつの涙なんて別に見たくもないし。
総合的に考えると、やはりあいつはここにいなくて良かったということになるな、うん。
772: 2013/09/22(日) 00:30:37.26 ID:ntgre20X0
「……うん、これで良しっと」
俺が馬鹿なことを考えていたのも束の間。
タンタンとリズム良くキーボードを打ちこんでいた由比ヶ浜が、満足そうに一つ頷く。
どれどれ、何て書いたんだ?
〈奉仕部からの回答〉
『受験に不安になる気持ちはすっごく良くわかるけど、でもそれは皆も同じだよ。だからそんなに心配しなくても大丈夫! これから受験までまだ時間あるし、勉強をちゃんと続けたらきっと自信もついてくるから。合格を信じてラストスパート頑張って。来年あなたが後輩として入学してくるのを楽しみに待ってるよ』
773: 2013/09/22(日) 00:34:17.07 ID:ntgre20X0
おぉ、何と模範的な解答。
スクールカースト上位に属していると、先輩らしさみたいなのも自然に身に着いてくるもんなのかね。
いや本当に、最後の一文とかあいつにはもったいないくらいだ。
「しかしホントあれだな、お前が書くとまともな回答になるよな。何かもうまとも過ぎて逆に違和感出てくるレベル」
「褒めるなら素直に褒めてよ!」
「気にすんな。とにかく回答はこれでいいだろ。送信よろしく」
「もう……」
774: 2013/09/22(日) 00:41:30.86 ID:ntgre20X0
何かぶつぶつと文句言いながらも回答を送信する由比ヶ浜。
俺としてはわりと素直に褒めたつもりなんだけどなぁ。
一言余計だったかもしれんけど。あぁそれが駄目だったのか。なるほど。
「それじゃ由比ヶ浜、次行こうぜ次。何ならこの調子でずっと由比ヶ浜のターンでも全然オーケーだぞ」
「さり気なく押し付けないでよね、ちゃんと皆で読んで皆で回答するの。いい?」
「いや、一通目はそうじゃなかったじゃん」
「……え、えーと次のお便りはーっと」
775: 2013/09/22(日) 00:49:06.96 ID:ntgre20X0
不自然に目を逸らす由比ヶ浜。
まぁ俺もとやかく言うつもりはないけどね。
終わったことを蒸し返したくないし。
正直早く忘れたくすらある。叶うならばあいつの存在ごと。
「つーかまだ残ってんの?」
「んー、これでラストだね」
「そりゃ僥倖、じゃあさっさと読んでくれよ」
「うん。えっと、最後のお便りは、PN:美し過ぎるOGさんから」
「由比ヶ浜さん、それはもう読まなくていいわ」
「ゆきのんまでそんなこと言うの!? っていうか何で!」
776: 2013/09/22(日) 00:54:14.45 ID:ntgre20X0
由比ヶ浜が驚きの声を上げる。
しかしご意見ごもっともだが、ここは俺も雪ノ下に同意せざるを得ない。
正直言って、許されるならこのまま見なかったことにしたいくらいだ。
でも、そうはいかないんだろうなぁ、この人相手だと。
「由比ヶ浜、落ち着けって。もう一度ペンネームをよく読め、誰が差出人かすぐわかるから」
777: 2013/09/22(日) 00:59:30.86 ID:ntgre20X0
パニクる由比ヶ浜をどうどうと宥めつつ説明する。
奉仕部のことを知ってるOGって時点で候補がほとんど絞られるのに、かてて加えてこの手前味噌極まる形容詞が駄目押しだ。
これで差出人が陽乃さんじゃなかったら、土下座して詫びてやるよ。
にしても、何で奉仕部宛に送ってくるかな、この人は。
いや本当にさ、姉妹のやり取りなんて直接携帯同士でやんなさいよ、君たち。
間に誰か置かんと会話すらできん訳でもなかろうに。一昔前のコントかよ。
通訳じゃないんだぞ、俺らは。
778: 2013/09/22(日) 01:04:45.24 ID:ntgre20X0
「んー……あ、もしかしてゆきのんのお姉さん?」
「残念ながら、他に思い当たる人はいないわね」
ぱっと笑顔になった由比ヶ浜とは対照的に、物凄く嫌そうな顔で頷く雪ノ下。
苦虫を噛み潰したような表情って、こういうのを言うんだなぁとか思う。
しかし相変わらず仲の宜しくないこって。
そんな雪ノ下の反応に、由比ヶ浜は腰に手を当ててちょっと困ったような顔をする。
779: 2013/09/22(日) 01:10:19.93 ID:ntgre20X0
「もう。ゆきのん、ダメだよ、いくらお姉さんと仲良くなくても無視なんてしたら」
「別に仲が良くないわけではないわ、ただできる限り無干渉、非接触を貫きたいだけよ」
「それはもう仲が悪いってレベルだよ!?」
「まぁそれはともかく、あの姉さんが他人に悩みを相談するなんてあり得ないわ。何かあっても自分で何とかする人だもの。だからそのメールは私たちをからかう為のものとしか考えられないのよ。故に読む必要は無いものと判断できるわ」
「ふーん、何だかんだ言って、ゆきのんもお姉さんのこと信頼してるんだね」
「……あの人の能力については客観的に評価しているだけのことよ。それ以上の考えは無いわ」
ほっとしたように笑う由比ヶ浜と、ぷいっとそっぽを向く雪ノ下。
色々複雑な事情もあるらしき雪ノ下家の人間関係も、由比ヶ浜にかかればひどく単純な話に聞こえてしまうから不思議だ。
オッカムの剃刀じゃないけど、物事の本質を考えるのには難しい言葉も多くの説明も不要なのかもなぁ。
とすれば、そういう風に素直に単純に受け止められるのも一種の才能なのかもしれない。
少なくとも俺には絶対無理だな。何かって言うと余計なことばっかり考えてしまうし。
780: 2013/09/22(日) 01:15:03.17 ID:ntgre20X0
本当の賢さとは何なのか、とか随分と哲学的なことで悩んでしまった。
そんな俺を余所に、由比ヶ浜は小さく拳を握りつつ、改めて雪ノ下に笑いかける。
「うん、でも読まずに消しちゃうわけにもいかないし、あたしが読むから聞いててね」
「そうね、確かに奉仕部として受け取ったメールである以上は一応チェックの必要があるわけだし。それじゃあお願いできるかしら」
「任せて」
朗らかな笑顔のままパソコンへ向かう由比ヶ浜。
開いたメールを、いつもの快活な声で素直に読み上げる。
781: 2013/09/22(日) 01:19:17.09 ID:ntgre20X0
〈PN:美し過ぎるOGさんのお悩み〉
『こんにちは、わたしメリーさん、今あなたの後ろにいるの「え! 嘘!?」』
読んでいる途中で驚愕の表情のまま後ろを振り返る由比ヶ浜。
もちろん、その視線の先には何もないし誰もいない。
気まずい沈黙が落ちる。
782: 2013/09/22(日) 01:23:39.37 ID:ntgre20X0
「……いや嘘に決まってんだろ。騙されんなよ、お前」
ちょっと素直過ぎるでしょ。
あるいは優し過ぎると言うべきかもしれんけど。
呆れるべきなのか心配するべきなのか、判断に困るぞ。
雪ノ下に至っては、頭痛がするかのように手を頭にやりつつ渋い表情をしている。
果たしてどちらに対して呆れているのかについては分からないけど。でも多分両方だろうなとは思う。
敢えて口にしないのがこいつなりの優しさなのかもしれない。
783: 2013/09/22(日) 01:28:26.57 ID:ntgre20X0
「だってびっくりしたもん、こんなこと書いてるなんて思わないよ。もう、陽乃さんひどい」
由比ヶ浜さんはぷりぷり怒ってらっしゃるが、正直気にするポイントはそこじゃないと思う。
あの人のことだから、読むのが由比ヶ浜になると推察してこういうおちょくりを入れてきたんだろうし。
思い通りに動かされた事実にこそ腹を立てるべきだと思うんだけどな。
それでも、一頻り文句を言って気が済んだのか、それからすぐに由比ヶ浜は画面に向き直った。
おぉ、意外と大人な対応だ。
俺ならおちょくられたと分かった時点でメール消してるぞ、多分。
実際、読み上げる声音にも怒りの色は感じられない。この辺りは流石と言うべきだな。
784: 2013/09/22(日) 01:31:11.45 ID:ntgre20X0
〈PN:美し過ぎるOGさんのお悩み・続き〉
『――なんちゃって、冗談だよ、OGって事で身構えちゃうといけないと思ってジョーク挟んでみたんだけど緊張はほぐれたかな。じゃあ改めて、やっはろー、みんな元気? 今日は雪乃ちゃんたちにお姉ちゃんからお願いがあってメールしたの。実は今度わたしが参加するイベントがあるんだけど、男手が足りないんだよね。ということで、比企谷くん貸して』
「お断りします」
「また即答だし!」
非難の声を上げる由比ヶ浜だが、今回は文句言われる筋はないと思うぞ。
あの陽乃さんの手伝いとか、何させられるか分かったもんじゃない。
余所当たってくれよ、いやマジで。
785: 2013/09/22(日) 01:35:07.06 ID:ntgre20X0
「つか何で俺を名指ししてんだよ、頼むところ間違い過ぎだって。大体あの人なら一声かけりゃそこらの有象無象どもがわらわらと集まってくるだろ。大学生なんて軽い奴らばっかりって話だし。そいつらこき使ってやればいいじゃん。よし由比ヶ浜、そう回答しようぜ」
「全体的に悪意が滲み出てるよ! そんな回答できるわけないでしょ。拒否するにしても、もうちょっとまともな答え方しないとダメだって」
「でも由比ヶ浜さん、比企谷くんに頼むのが間違いであることも含めて、彼の言っていることも一理あるわ」
「いらん修飾語つけんな」
一応文句を言っておく。もちろん無視されたけど。うん、でもこれこそが様式美だよな。
なお、そんな雪ノ下の言葉をふんふんと素直に頷きながら聞いている由比ヶ浜も地味にひどいと思う。
雪ノ下はこちらに一瞥すらくれることなく、淡々と説明している。
786: 2013/09/22(日) 01:39:10.87 ID:ntgre20X0
「姉さんの周りにはあの人の助けになりたいと思っている人間が何人もいるし、その人たちに依頼しなさい、と返してあげればいいわ。あと、大学生にもなって高校生の手を借りなければならない程に落ちぶれてしまったの? 無様ね、と最後に付け加えてもらえるかしら」
「色々台無しだよ!? で、でもまぁそうだね、同じ大学にだって頼める人いるはずだし、ヒッキーもかわいそうだもんね」
「由比ヶ浜……」
惜しいな、その優しさをもうちょっと早く発揮してくれてたら俺も素直に感動できたんだけど。
何にしても、二人とも今回の依頼を否定する方向でいてくれてるのはありがたい。
ほっと胸を撫で下ろす。
787: 2013/09/22(日) 01:43:02.43 ID:ntgre20X0
「じゃあ――って、あれ? 何かずっと下の方に続きがあるよ」
「は? 何それ?」
返信しようとパソコンに向かった由比ヶ浜の言葉に、不吉な予感を覚える。
刹那、頭の片隅をふと疑問が過ぎる――もし陽乃さんが本気で俺を引っ張り出そうとしているなら、メールで依頼するだけで済ますだろうか?
答えは否。あの人の性格でそれはあり得ない。
彼女はきっと、勝利を確定させてからしか勝負の土俵には上がろうとしないだろう。
表情が引きつるのを自覚しつつ、由比ヶ浜に続きを促す。
諦観って、こういう気分を言うんだね。
視界の片隅に、憮然とした表情の雪ノ下が映る。
こっちももう展開が読めているんだろう。
788: 2013/09/22(日) 01:46:30.19 ID:ntgre20X0
〈PN:美し過ぎるOGさんのお悩み・追伸〉
『あ、ちなみにもう静ちゃんの許可は取ってるよ。拒否はできないからそのつもりでね。じゃあ比企谷くん、詳しいことはまた連絡するからよろしくー』
「……もう相談でも何でもないじゃない」
ぽつりと呟く雪ノ下。
その声には、何故かちょっと苛立ちが滲んでいる。
でもそうだよな、これ相談じゃなくて、もう単なる事後報告になってるし。
前段は何だったんだよ。
789: 2013/09/22(日) 01:49:07.30 ID:ntgre20X0
「おぉ、やってるな、どうだ調子は?」
とそこで、ガラッと勢いよくドアを開けながら入ってくる人影が一つ。
全員の視線が集中したその先にいたのは、今回俺を陽乃さんに売り飛ばしてくれた張本人である奉仕部顧問の平塚先生だった。
正直、やってるっつーかむしろよくもやってくれたって感じなんだけどな。
じとっと恨みがましい視線を送ると、なぜかにやりと笑って返された。
俺の視線をどう受け取ったんだよ、この人は。
790: 2013/09/22(日) 01:55:05.67 ID:ntgre20X0
「平塚先生、何度も言っていますが入る際にはノックを」
「また気が向いたらな。それより今は依頼メールの方が大事だろう」
部屋に入る際のノックに気が向くも向かんもないと思うんだけど。
あっさり流された雪ノ下はというと、またも頭痛を抑えるかのように手を額にやりつつ難しい表情をしている。大変ですね。
毎回同じこと繰り返してるのに、なお根気よく教育しようとは、何とも見上げた根性だ。正直ここだけ見てるとどっちが教育者かわからない。
そんな雪ノ下の苦悩や俺の呆れなど意にも介さず、平塚先生は豪快に笑いながら話を進めようとしている。
うん、多分今年も無理だろうね、結婚は。ぼんやりとそんなことを思いました。まる。
791: 2013/09/22(日) 02:00:32.78 ID:ntgre20X0
「さて、その様子だともう陽乃のヤツのメールは確認したみたいだな」
「ついさっき見ましたよ。ていうか何で勝手に許可出してんですか? 俺の意見くらい聞いてくださいよ」
「いや、君に聞いても答えは決まり切ってるからな、時間の無駄だろう。まぁ学外のイベントに触れる機会というのは多い方がいい。それでなくても君の場合は社会との接点が極端に少ないわけだしな。諦めて精々ボランティアに勤しんでくることだ」
「横暴過ぎる……」
「まぁ、あいつにも何か事情がありそうだったからな」
「事情、ですか?」
怪訝そうな顔で雪ノ下が訊き返す。
言葉にこそしていないものの、由比ヶ浜も小首を傾げて不思議そうにしていた。
もちろん訳がわからないのは俺も同じだ。
792: 2013/09/22(日) 02:03:23.11 ID:ntgre20X0
「いやでも、敢えて俺を指名する事情って何ですか? そもそも自慢じゃないですけど、俺は技能もやる気もないですよ。何の役にも立たない自信すらあります。つーかむしろ邪魔してマイナスになる可能性の方が高いくらい」
「本当に自慢になってないし! ていうかそんなことないよ、ヒッキーはやる気とか根性とかそういうのは無いかもだけど、技能とかって言うんなら、何かこう色々と、その、できることとか……あるよね?」
勢いよく俺の言葉を否定してくれた由比ヶ浜だけど、後半になるにつれてどんどん声が小さくなり、最後は疑問形になっていた。
気持ちはありがたいにしても、正直フォローできる要素が思いつかないのなら黙っていてくれた方が良かったんじゃないかな。何で俺に聞くのよ?
何ていうか、優しさって時々残酷だよね。
793: 2013/09/22(日) 02:07:30.67 ID:ntgre20X0
「比企谷くんの技能がどうこうよりも、そもそも校外のコミュニティに彼が入って上手くやれるとは到底思えないのですが」
「いかにもその通りだが、その辺は陽乃のヤツが何とかするだろう。あいつがわざわざ私に頼んできたんだからな」
肩を竦めながらの平塚先生の言葉に、雪ノ下が深く考える姿勢を見せる。
口元に手を当てて思索に耽るその姿に、誰も言葉を挟まない。
少しして顔を上げると、雪ノ下は小さく呟いた。
794: 2013/09/22(日) 02:11:05.68 ID:ntgre20X0
「いえ、やはりどう考えても不自然です。むしろ異常と言うべきかもしれません。一体何を企んでいるのかしら……」
「一応お前の姉だろう、少しは信じてやってもいいんじゃないか? まぁ何を考えているのかは私もわからんが、積極的に他人に害を為そうとするようなヤツでもないし、別に構わんだろ。苦労するのは比企谷一人だし」
「そこは大いに構うんですけど」
俺のぼやきはしかし、当然のように黙殺された。
平塚先生は雪ノ下の方しか見てないし。
何で俺のことなのに俺が意見を言えないんですかね?
795: 2013/09/22(日) 02:13:36.11 ID:ntgre20X0
「でも、ゆきのんのお姉さんがそんな悪巧みとかしないと思うんだけど。本当に困ってるんじゃないかな?」
「それが疑わしいのだけれど。悪巧みかどうかはともかく、あの人のことだから、私や比企谷くんをからかって楽しみたいだけという可能性も否定できないわ」
「あり得るっつーかむしろそう言われた方が納得できるな、俺を頼りにするとかどんなジョークだよ」
「だからヒッキー自虐的過ぎだって、もう」
呆れた顔をしている由比ヶ浜だけど、陽乃さんの性格を考えたら自然な発想だと思うぞ、これは。
大体俺を頼りにする人間なんて小町一人で十分なのだ。
それ以外の方はノーサンキュー。
796: 2013/09/22(日) 02:16:10.68 ID:ntgre20X0
「何でもいいが、既に陽乃にはオーケーで回答済みだからな。比企谷もたまには外の空気に触れて来い。何事も経験だ」
「はぁ……わかりましたよ、観念しますよ」
平塚先生の有無を言わさぬ言葉に、うなだれるように首肯して返す。
がっくりと肩が落ちるのが自分でもよくわかった。
自分の時間を他人の都合で潰されるって凄いストレスだよな。
しかも陽乃さんにこき使われるとか、想像するだけで憂鬱になるわ。
797: 2013/09/22(日) 02:20:02.34 ID:ntgre20X0
「げ、元気だしてヒッキー」
「ならお前変わってくれよ、俺ホントあの人苦手なんだって」
「って言われても、頼まれたのヒッキーだし、男手がいるって書いてるし。諦めるしかないよ。ね?」
どうやら普段よりも更にひどく目が澱んでいるらしく、由比ヶ浜が引き気味になりながら慰めてくれる。
ありがたいんだか悲しいんだか。
何度目かわからない重いため息を吐き出してから顔を上げると、明後日の方向を向く雪ノ下の横顔が視界に映る。
妙に苛立たしげな表情をしているのが少し引っ掛かった。
何事かと見ていると、ふと小さな声でぽつりと零すのが耳に届く。
798: 2013/09/22(日) 02:22:32.78 ID:ntgre20X0
「……気に入らないわね」
鈴の音のように、微かでも良く響く声。
それはどこか、自身で抑えきれない感情が溢れ出たかのような言葉だった
果たしてその感情の源泉が何なのかまではわからないけど。
いいようにあしらわれている感のある姉に対してか。
それを捩じ伏せる手立てを思いつかない自分自身に対してか。
あるいは、もっと違う何かなのか。
面倒なことにならないといいんだけどな。
どこか他人事のように、そんなことを思いながら窓の外へと目を向けた。
秋晴れの空に、少し雲が出てきているのが見える。
もしかしたら、一雨来るかもしれない。
799: 2013/09/22(日) 02:24:01.15 ID:ntgre20X0
今日はここまでです。
そして一点、申し訳ないのですが、この続きは別の場所での投稿にしたいと考えています。
というのも、ここから話の展開をちょっとシリアスな方向にしたいと思ってまして、そうすると一つの話を一括で上げられる場所の方がいいと判断した次第です。
そうすれば話をぶつ切りにせずに済むし、余計なものも削れるし。
勝手を言いましてすみませんが、ご容赦いただけましたら幸いです。
また確定しましたらご連絡します。
今までお読み頂き、本当にありがとうございました。
そして一点、申し訳ないのですが、この続きは別の場所での投稿にしたいと考えています。
というのも、ここから話の展開をちょっとシリアスな方向にしたいと思ってまして、そうすると一つの話を一括で上げられる場所の方がいいと判断した次第です。
そうすれば話をぶつ切りにせずに済むし、余計なものも削れるし。
勝手を言いましてすみませんが、ご容赦いただけましたら幸いです。
また確定しましたらご連絡します。
今までお読み頂き、本当にありがとうございました。
800: 2013/09/22(日) 03:04:19.26 ID:rI0KmbSu0
正直言って、言ってる意味がよく分からない
某所で馬鹿にされたからとりあえず逃げとけとか、そんな感じなのかな?
某所で馬鹿にされたからとりあえず逃げとけとか、そんな感じなのかな?
802: 2013/09/22(日) 03:32:19.87 ID:L2Dzcrpe0
乙
楽しみにしてます
楽しみにしてます
808: 2013/09/22(日) 19:21:04.55 ID:ntgre20X0
こんばんはです。
混乱させてしまい申し訳ありません。
別の所に移ろうと考えた理由は、皆さんの仰る通り、書き溜めて各話を一気に上げてしまいたい為です。
1レスずつ分けると時間も手間もかかりますし、抜けやミスが出ても修正できませんし。
それよりも20~30KBくらいを一気に投稿する形の方が、自分の書き方にも合ってると思うので。
勝手を言いますが、ご容赦願います。
混乱させてしまい申し訳ありません。
別の所に移ろうと考えた理由は、皆さんの仰る通り、書き溜めて各話を一気に上げてしまいたい為です。
1レスずつ分けると時間も手間もかかりますし、抜けやミスが出ても修正できませんし。
それよりも20~30KBくらいを一気に投稿する形の方が、自分の書き方にも合ってると思うので。
勝手を言いますが、ご容赦願います。
839: 2013/09/24(火) 00:28:12.09 ID:k+SOsH/z0
皆様にはご迷惑をおかけしてます。
最後まで書き切るつもりではいますが、どれだけ長くなるかまだ想像つきませんし、それをここで全部上げて行くのは正直厳しくなってきたというのが本音です。
勝手を言いまして申し訳ありませんが……
移る際には、新しい所への案内はさせて頂きます。
それでも読んで頂けるのでしたらとても嬉しいです。
近いうちに作業して①から順に上げ直していきたいと思います。
宜しくお願いします。
最後まで書き切るつもりではいますが、どれだけ長くなるかまだ想像つきませんし、それをここで全部上げて行くのは正直厳しくなってきたというのが本音です。
勝手を言いまして申し訳ありませんが……
移る際には、新しい所への案内はさせて頂きます。
それでも読んで頂けるのでしたらとても嬉しいです。
近いうちに作業して①から順に上げ直していきたいと思います。
宜しくお願いします。
840: 2013/09/24(火) 01:15:19.02 ID:5+vgWGsko
了解です
引用元: 八幡「徒然なるままに、その日暮らし」
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