69: 2011/01/04(火) 19:30:03.37 ID:chArRJ.0
「お兄さん、これはデートでは有りませんから……くれぐれも勘違いしないで下さいね」

「おう、その点についは何度も念を押さなくても大丈夫だ」

「あと、わたしにいかがわしい事をしたら、その場でぶち頃しますから、……軽度のセクハラ発言は2回まで
 です。3回目はアウトです。やはりその場でぶち頃します」

ちょうど一週間前の日曜日の午前10時、俺とあやせはいつもの中学校近くの児童公園にいた。

あやせはティーン向けファッション誌に載っている様な清楚でおしゃれな秋の装い、俺も妹の桐乃に頼み込み
コーディネートしてもらったから――今更ながら桐乃のファッションセンスには恐れ入る。

「確認するが、いかがわしい事の範囲をもう一度言ってくれ」

「わたしの手を握ったり……、か、肩を抱いたりする事です。……き、キスなんてもっての外ですからね!!」

「きのう電話で聞いた、『腰に手を廻す』ってのが入ってないんだが」

「――ぶち殺されたいんですか!?」

「了解。軽度のセクハラ発言は2回まではセーフなんだな?」

「お兄さんの場合、2回までセーフにしたのは、そうしないとこの公園を出るまでにアウトになる可能性が、
 高いからです」

俺達二人の傍で、もしこの会話を聞いているやつがいたら間違いなくどん引きすることだろう。
しかし、俺が今回のあやせイベントを無事クリアするためには、事前の確認作業が重要ポイントなんだな。

「了解……たとえば……『おう、あやせ腕組まねーか』っていうのは軽度のうちに入るのか?」

「状況にもよりますが……、そうですね、いまの『腕組まねーか』は2回とカウントします」

「結構採点基準がきびしーんだなぁ」

「ハア~、お兄さん、そもそもセクハラ発言しなければ良いと、そうは言う発想はないんですか?」

「あやせ、お前は俺と知り合っていったいどんだけたってんだよ、まだ俺という人間を理解してねーようだな」

「わたしとしては、お兄さんは実妹をこよなく愛すシスコンの変態と認識していますが」

「おれはシスコンでも変態でもねーよ。大体セクハラ発言だってなー、したくてしてんじゃねーんだよ。
 どうしても言わなきゃなんねー理由があったり、無意識に言っちまったりさー、だったら『腕組まねーか』は  
 カウント1回ってとこが妥当じゃねーの?」

あやせは左手首に身に着けた腕時計をチラリと確認すると。

70: 2011/01/04(火) 19:30:54.62 ID:chArRJ.0
「……いつまでも議論してても仕方ありませんから、……分かりました『腕組まねーか』は、
 1回と言う事で妥協します」

「すまん、そうしてくれっと俺も助かる」

「お兄さん、時間の無駄ですからそろそろ出発しましょーっ!!」

何故か今日のあやせはテンションが異常に高い。――いっちょ、からかってやっか。

「あやせ、腕組んでいいか?」

と言って、俺は自分の胸の前で腕組みした。

「まったく!お兄さんという人は、言った傍から…………何十年前のギャグですか?ベタすぎて笑えません。
 ――そのまま駅まで歩けるもんなら歩いてみて下さいね」

「すみませんでした。お兄さんちょっと調子に乗っちゃいました」

そんなほのぼのとした会話から、本日のあやせイベントがスタートした。

「ハア~、今日一日、先が思い遣られますね……」

そもそも、俺があやせとデート……じゃなくて、一緒に出かける羽目になったのには深い理由があった。
今月はあやせの誕生日だそうで(俺も初めて知ったんだが)、桐乃からプレゼントの申し出があったそうだ。

――あやせが一番喜ぶものを送りたい――親友同士の発想は良く似ているもんだ。

桐乃はあやせがプレゼントして呉れた、『EXメルル・スペシャルフィギア』を今も大切に保管している。
しかし、あやせは桐乃のようなオタク趣味は皆無。考えあぐねた桐乃はあやせに素直に尋ねたそうだ。

初めの内こそ、『桐乃の気持ちだけで十分だから』と遠慮していたあやせも、ついに桐乃に根負けし――

『――それなら、桐乃のお兄さんを一日だけ貸してほしい……一日だけでいいから』

そう桐乃に告げたそうだ。桐乃は桐乃で自分から言い出した手前、後には引けず渋々了解したと言う。
あやせに俺を貸し出すにあたっては、桐乃とあやせの間でいくつかの約束事を交わしたそうだ。

「お兄さん、何度も確認しますが今日はデートでは有りませんから、これは桐乃との約束でもあるんです」

「お前がそこまで言うのなら俺は別に構わないよ、だがな、世間一般から見るとこれはデート以外の……」

「ふふ、お兄さん、……わたしの心の中では少しだけ違うんですよ、特に今日は……」

俺の一歩前をゆっくりと歩くあやせは、俺が言い掛けた言葉を遮るように、笑顔で振り向きながらそう言った。
あやせの歩調に合わせながら、頭の中で今日一日のスケジュールを再確認する。

71: 2011/01/04(火) 19:31:45.12 ID:chArRJ.0
「なぁ、あやせ、……最初は植物園に行くってことだけど、植物園行って何すんの?」

「お兄さん?、植物園なんですから植物を観るのに決まっていると思いませんか?」

「まぁ、言われてみりゃ、……植物園にチンパンジーは居ねぇよな」

「はい、ゾウもキリンもいません」

あやせと俺は、そんなしょーもねぇ会話を交わしながら、最初の目的地の植物園へ歩いていった――

「さあ、お兄さん植物園に着きましたよー!。植物を観ましょーっ!!」

「なぁ、あやせ、植物観るだけでやけにテンション高くなってねぇーか?」

「……そ、そうですか?すみません……」

俺は一つひとつ、あやせとのイベントをクリアしていった。俺への高感度は確実に上がっていると信じて。

――――ひと通り植物園を観て廻ると、時計は午後1時を過ぎ、俺達は近くのファミレスで遅めの昼食を摂る事
になった。

「なぁ、ファミレスなんかで良いのか?お前だったらもっと洒落た店のほうが良かったんじゃねぇのか?」

「お兄さんはその方が良かったですか?わたしはここで十分ですけど」

「いや、俺もファミレスの方が変に気を遣う必要がねーから助かるが、あやせさえそれで良きゃ問題ないよ」

俺達が入ったのは、何処にでもあるチェーン店の一つで、和・洋・中と、ひと通り揃ったありふれた店だった。

それに引き換え、どっかの妹様はやれファミレスは禁止だの、植物園は有り得ねーだのとほざいてたが、さすが
あやせは違うね。俺の好みを良く熟知してるよ――まさか桐乃の入知恵か?

「あやせは食うもん決まったのか?」

「うーん、そうですねー。もうちょっと待ってて下さい。」

「あいよ」

そう言ってあやせは写真付きのメニューをパラパラ捲りながら思案していた。俺もメニューを捲りながら、
ひとつの品に眼が留まった。――『マグロのヅケ丼』

「お兄さんは決まりましたか?」

「おう、決まったよ」

「じゃあ、わたしもお兄さんと同じ物でいいです」

72: 2011/01/04(火) 19:32:41.30 ID:chArRJ.0
「ち、ちょっと待ってくれ、お兄さんまだ決まってなかった……」

おいおいおい、俺と同じ物なんて、――清楚な服装のあやせが『マグロのヅケ丼』をかっ込んでるなんて、
絵になんねーだろーよ。俺は、急いでページを捲り直し――――

「俺は……、と、トマトとなすのシーフードパスタ?とっ、イタリアンサラダにしよっかな」

「ふふ、お兄さんって本当に優しいですね」

「お、俺は初めからこれにしようと決めてたんだよ」

「じゃ、そういう事にしておきますね」

あやせが笑顔で微笑む。俺は照れ隠しで頬を掻いた。――メニューを注文し、他愛も無い会話を交わす俺達。

「――――って、加奈子が言ったら、桐乃ったら――だったんですよー」

本当に楽しそうに笑うあやせ、未だ嘗てこんなに楽しそうなあやせを俺は見たことがあっただろうか?……
注文した品が運ばれて来て、食事が始まってもずっとあやせはしゃべり通しだった。

「――――そしたら、ランちんたら怒っちゃって、今度は加奈子が――」

食後のデザートと飲物が運ばれて来たので、俺はさっきから疑問に思っていた事をあやせに尋ねてみた。

「なぁ、あやせ、今みたいな話……、家では誰としてんの?」

俺がそう聞いた瞬間、あやせの表情から笑顔が消え………………。俺は地雷を踏んだ――



「すまなかった……」

「いえ、わたしの方こそ……。急に黙っちゃって……ごめんなさい……」

あやせは俯いてテーブルの上のティーカップに視線を落としたまま、ポツポツと語り始めた。

「お父さんは議員活動で家に帰るのが遅いですし、お母さんもPTAや地域の行事で結構忙しいんです……」

桐乃が自分の趣味を誰にも話せなくて悶々としていた時、桐乃には兄貴の俺がいた。話したくて話したくて……
あやせだって学校のこと、友達のことを家族に話したい、聞いて欲しい気持ちは同じだったろう。

「あやせ……お前……」

あやせは、顔を上げるとまたいつもの笑顔に戻り――

「お兄さん、わたし一人っ子なんですから、そんなの慣れっこですよ――さぁ、次へ行きましょーっ!」

73: 2011/01/04(火) 19:33:31.35 ID:chArRJ.0
俺達はファミレスを後にすると、次の目的地の中央公園へ向かった。ここはいつもの児童公園と違い噴水広場や
芝生広場、売店などがあって、市民の憩いの場にもなっている。

この季節、流石に噴水で戯れる子供達の姿は無いものの、結構な人出であった。

「お兄さん、何か温かい飲物買って来ます。さっきはご馳走になっちゃいましたから」

「そんじゃ、ホットの缶コーヒー頼むわ」

俺は散策路に設けられたベンチの一つに腰を掛け、売店に向かって歩いて行くあやせの後姿を見守っていた。

売店から戻ると、あやせは自然な振る舞いで俺のすぐ隣に腰掛け、缶コーヒーを差出してくれた。芝生広場で
遊ぶ子供達を眺めながら、ふたたび他愛も無い会話を続ける俺達――――

「じゃあ、そろそろ行きますか、お兄さん?」

「行くって?、今日はこの中央公園までしか聞いてないんだけど?」

公園の噴水広場に設置された時計を見ると、まだ午後4時を少し過ぎた頃だった。

「いつもの公園へ戻ります……」

「帰るにしちゃ、まだ早いんじゃねーの?、予定だと午後6時までの約束だったと思ったけど?」

「お兄さん?、今日はわたしのお兄さんという設定なんですから……妹のわたしの言うことに従って下さい」

ファミレスで迂闊な事を言っちまって、あやせの気分を害したのかと思ったが、この笑顔を見ると杞憂だった
ようだ。俺は今日一日だけの妹、あやせの言う言葉に従った。

「あいよ、あやせ」

――――いつもの児童公園へ戻る途中、近くの自販機で再びあやせが飲物を買ってくれた。

「お兄さん、今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました」

「いや、俺の方こそ……デー……じゃなくて、あっちこっち行けて楽しかったよ。でもよ、さっきも言ったけど
 帰るにしちゃ、ちっと時間が早いんじゃねーか?まだ5時頃だぜ?」

「……いいんです。わたし、帰る前に、ここでお兄さんと少しお話がしたかったんです」

あやせは、公園内のベンチに腰を下ろし、『どうぞ座ってください』と俺に座るよう促した。

「じゃあ遠慮無く座らしてもらうわ」

と言いながらも、一応あやせに遠慮して、人ひとりぶんの間を空けて俺は隣に腰掛けた。あやせがふと立ち上が
って、俺との間隔を詰めて座り直す。

74: 2011/01/04(火) 19:34:21.51 ID:chArRJ.0
「……何から話そっかな~」

「あやせ、何でも聞いてやるぞ。今日の俺は、あやせの兄貴だからな」

「やっぱり、やめます!」

「ぶっ!!」

「うそうそ、冗談ですよ、お兄さん!……」

「………………」

「じゃぁじゃぁ、こうしましょう!。わたしこれから独り言を言います。ですからお兄さんは、わたしが良いと
 言うまで絶対に口を開いては駄目ですよ。あと、恥ずかしいので前を向いてて下さい、いいですか?」

「お、おう!」

「ほーら口を開いた!アハハハハ!」

「あやせ…………そりゃ、何年前のギャグだよ?」

あやせは、こつんと側頭部を拳で叩き、ペ口リと舌を出した。

「まあ、冗談は横に置いといて……約束守ってくださいね。――――ではでは、これから始めます」

あやせは膝の上で、両手で包み込むように持っていたレモンティーの缶を見つめながら……ポツリポツリと、
独白を始めた。俺はあやせとの約束どおり、黙って前を見る――――

「わたしが桐乃の趣味を知って、……桐乃と仲違いしてしまった時、お兄さんは必氏で仲直りさせようとして
 くれました。わたし、始めはお兄さんの影響で桐乃があんな趣味に走ってしまったのだと思ってました」

あやせは夏コミ会場の近くで桐乃にばったり会い、桐乃のオタク趣味を知ってしまった当時の話から始めた。

「わたし桐乃と仲直りした後、冷静になって考えて見たんです。……そして気付いたんです。……桐乃の趣味が
 お兄さんの影響じゃないって……わたしが電話で話したシスカリ?というゲームの名前を知らなかった事、
 わざわざ図書館で神話の本まで借りてきた事、『俺は妹が大好きだ』と言った時……お兄さん、涙目になって
 ましたよ……ふふふ」

あの時の記憶が俺の脳裏に鮮明に蘇る。あやせと桐乃のオタク趣味で対峙した同じ公園、同じベンチ……

「お兄さんは、桐乃とわたしを仲直りさせるために、……わたしが桐乃の趣味を受け容れられないという気持ち
 を、お兄さんに対する嫌悪感に刷りかえるよう、怒りの矛先を自分に向ける様にお芝居をしたんですよね?」

『――大ウソ吐きのお兄さんへ。』

公園での出来事から数日後、あやせから送られたメールを見たときの妙な違和感が――――

75: 2011/01/04(火) 19:35:14.68 ID:chArRJ.0
「桐乃は勉強は出来るし、スポーツだって抜群だし……わたしの自慢の親友なんです!」

小学生時代の桐乃は、勉強が出来たと言うわけでもなく、特に走るのは苦手だった事をあやせは知らない。

「――――でも……お兄さんの話をする時だけは……」

そこまで言って、何かを思い詰めた様に言い淀むあやせ。

「桐乃が羨ましかった、お兄さんの話を楽しそうに話す桐乃が……とても羨ましかったんです……わたしって、
 本当は親友を妬んだりする醜くて浅ましい女なんですよ――っう」

あやせは両手で顔を覆い、身体を小刻みに震わせながら必氏に何かに耐えている様子だった。


「お兄さん?、わたしのこと嫌いになったんじゃないですか?」


陽は大きく西に傾き、夕暮れの時を告げる――――

あやせは、ようやく顔を上げると何かを懐かしむ様な遠い眼をして、砂場の方へ視線を向けた。

「お兄さんは、この公園が来月には封鎖されてしまうの……知っていますか、いづれここにも……、新しい家が
 建てられるそうです」

子供達の姿が消えた、名ばかりの児童公園。俺がまだ小学生のガキの頃には、幼い桐乃を連れてよく遊びに来て
いた公園。当時はブランコや滑り台などの遊具もあったが、今はもう撤去され砂場だけしか残っていない。


「――――わたし、今週の土曜日……引越す事になりました」


あやせは俯きながら、膝の上で絡めた指先を見つめ、すこし寂しそうに呟いた。全く予想もしなかった衝撃的な
告白に、迂闊にもあやせとの約束を忘れ、思わずその顔を見詰めてしまった。

俺は危うく口を突いてしまいそうになる言葉を無理やり押しとどめ、心の中であやせに問う。

『何処へ……行くんだ?』

「………………」

あやせは、下唇をギュッと噛んだ。

「お兄さんとこの公園でお会いするのも……、多分これで最後です」

『あやせ……何処へ引っ越すんだよ!』

76: 2011/01/04(火) 19:36:21.16 ID:chArRJ.0
「この公園で……、わたしと桐乃を仲直りさせてくれて……、この公園で何度もわたしの身勝手な『相談』に
 乗ってくれて……っうう」

あやせはその端正な顔を上げ、真っ直ぐに前を見詰める。

「お兄さん……今まで……本当に……本当にありがとうございました」

――――あやせの大きな瞳から頬へかけて一粒の涙がこぼれた。

あやせは沈みゆく夕日を惜しむかのように、しばらく夕焼けの茜雲を見つめていたが――――

「――お兄さん、わたしの独り言は以上です」

「あやせ、お前……引越すって……いきなり……」

あやせは肩から提げていたポシェットからハンカチを取り出し、涙の軌跡を拭いながら言った。
 
「お兄さん、約束ですよ……。わたしの独り言と言いましたよね」

あやせは潤んだ瞳のまま、ちょっと小首を傾げ、微笑を俺に投げ掛ける。俺は言葉を失った――――

あやせは、ポンと拍手を打ち立ち上がった。

「そうだ!、わたしお兄さんにプレゼントがあります!」

「いや、あやせ……お前の誕生日なんだから……、俺にプレゼントってのも可笑しいだろ」

「いえいえ、今日一日わたしのお兄さんになってもらったお礼ですから」

あやせが俺に呉れる、最初で最後のプレゼントになるかも知れない。この場は素直に貰ってやるべきだろう。

「まあ、あやせがそう言ってくれるんなら、有り難く頂戴すっかな」

あやせは、ポシェットを両手で持ち、その口を開こうとして途中で手を止めた。

「お兄さん、目を瞑って、両手をこーやって前に出して下さい」

俺は一瞬嫌な予感に襲われた。――既視感――まさか、いつもの手錠?

実妹とのラブラブツーショットプリクラの一件で、あやせに手錠を掛けられて尋問された時の記憶が蘇る。

「お兄さん、なんか手つきがいやらしいです」

「おまえなー、俺は普通に手を前に出してるだけじゃねーか」

「お兄さん、じゃあ今度は目を瞑って、両手をこーやって後ろに廻して下さい」

77: 2011/01/04(火) 19:37:10.27 ID:chArRJ.0
後ろ手錠――!? 

いや、待て待て、もしかしたらあやせとこうして会えるのも最後かもしれない。

こうなったらとことん騙されてやるのもいいかもな。プレゼントは『手錠です』ってか、そのまま放置プレイっ
て事は――まぁ話の流れから言っても心配は無いだろうしな。

「お兄さん、なにか失礼なことを考えていませんか?」

「わかったよ、あやせ、こーすりゃいいのか?」

夕陽を背にして立つあやせの表情は陰になり、はっきり読み取れなかった。心なし緊張している様に見えたのは
、俺の気の所為かもしれない。

俺はあやせに言われた通りに両手を後ろに廻して、瞼を閉じた。

「お兄さん、それならオーケーです」

「あいよ」

「じゃぁお兄さん、――――そのままじっとしてて下さいね。……絶対ですからね」

あやせが身体を動かしたのか、俺の顔に陰が出来る。

フローラルの香りが俺の鼻腔をくすぐったかと思った瞬間、俺の唇は柔らかな感触に触れた。わずか数秒間の
出来事なのに……、すべてが停止した……

俺の思考も、俺を取巻く時間さえも――遥かなる無限空間へ放出された様な浮遊感と陶酔感――

情けないことに、俺の身体は金縛りにあったように硬直し、瞼さえ開けることが出来ない。やっとの思いで呪縛
を解き、ゆっくりと瞼を開けると、あやせの紅潮した顔が俺から離れて行くところだった。

「わたしのファーストキスです……。お兄さん……ちゃんと受取って下さいね」

あやせは俺の瞳を真っ直ぐに見つめながら、精一杯の笑顔で微笑むと、その小さな唇をゆっくりと動かした。
唇の動きだけで……一言ひとこと言葉を紡ぐ。

『だ・い・す・き・で・し・た』

身体の正面で組んだ指先が小刻みに震えている。ふっと俯いてしまったあやせの眼に前髪が掛かる、頬にふたた
び、一筋の涙の雫が伝わった。

呆然とする俺の瞳に映ったものは、踵を返し薄暮の公園から小走りで出て行く、あやせの後姿――――


(あやせタン、マジ天使の方は……ここで (完)、それ以外の方はそのまま次へ)

78: 2011/01/04(火) 19:38:10.60 ID:chArRJ.0
あやせとの衝撃的な別れから瞬く間に一週間が経過した。あやせの言っていた通り、想い出の児童公園は、
建設業者によってフェンスが築かれ、関係者以外が立ち入ることはもう二度と出来ない。

桐乃のオタク趣味が親友あやせに発覚し、一時は絶好状態にまで陥ってしまったのを何とか修復するため、
あやせと対峙したあの児童公園。

『お兄さん、ご相談があります』

そんな短いメールだけで何度もあやせに呼び出された場所も、いつもあの児童公園だった。

あやせが何処へ引越したのか桐乃に尋ねても、『あんた、あやせに執着しすぎ』などと罵倒され、聞き出すこと
が出来なかった。

俺とあやせにとって、あの公園は二人の共通の想い出の場所になった。もう二度とあの場所で俺があやせに会う
ことは適わない、心の中だけに残る――俺とあやせ二人だけの想い出の場所

――――麻奈実と図書館での勉強を終え、一人家路へ向かう途中、俺はそんな柄にも無い感傷に浸っていた。

俺が自宅近くの曲がり角を曲がったとき、少し先を歩く見覚えのある後姿の少女が眼に留まった。

ティーン向けファッション誌に載っている様な清楚でおしゃれな装い、長い黒髪の少女――――あやせ?

人違いでも構わない、違っていたら素直に謝ればいい。俺は無意識に小走りになる――

「おーい、あやせ~!あやせじゃねーのか~?」

長い黒髪の少女が振り返る。

「あ、お兄さん!、こんにちわ……、お久しぶりです!」

「やっぱりあやせだったか!、…………あれ?お前……確か引越したんだよなぁ?」

「ええ、昨日の土曜日に引越したばかりですが」

俺の記憶にある明るい笑顔はそのままだった。やっぱりいつ見ても美人だな、あやせは――

「ところで今日は……あぁ!そうか、桐乃に会いに来てくれたのか……」

「……?、お兄さん、何の話をしているんですか?、今日は桐乃、部活の関係で夕方まで帰りませんよ」

中学3年生である桐乃は、陸上部を夏の大会終了後引退していたが、今もOGとして時々顔を出していた。

「……?、とすると、まさか俺に会いにわざわざ来てくれたのか?」

79: 2011/01/04(火) 19:39:21.55 ID:chArRJ.0
「……ごめんなさい、お兄さん、全く話が見えないんですけど?」

「えっ!だって……、あれ?、……じゃぁなんであやせがこんな所にいるんだよ!?」

「なんでって言われても、わたし、家に帰る途中なんですけど」

「お前、引越したって……えっ!なに、この近くなの!?、桐乃に聞いても何でか教えてくんなくてよー」

「そうだったんですか?うふふ、引越し先って桐乃の家の左隣なんですけど」

「はぁ?、桐乃の家の左隣ってことは、俺ん家の左隣かよ!」

「まあ見方を変えれば、そうとも言えなくもないですね。あ、そうだお兄さん、ちなみにわたしの部屋は、
 二階の右側ですから」  

「ってことは、どうなるんだ?…………俺の部屋が家の左側だから……」

「そうですよ、わたしの部屋とお兄さんのお部屋はお隣同士です。まあ、そうはいっても3メートルは離れて
 ますけど……これからもよろしくお願いします」

そう言いながら、あやせは深々と笑顔でお辞儀をする。なんだかキャラが違くないか?――誰だこいつ?

あやせが何のお願いをしてるんだか意味が分からないが、それよりも……3メートルって何だよ?

「まあいい、今日のところは頭が混乱してるからいいよ、……ところであやせ?お前が肩に担いでる、
 その超長い棒は何?……何に使うの?」

あやせは3センチ角くらいの長い角材を肩に担ぐように持っていた。あまりにも長いため、あやせの肩を支点に
少したわんでいる程だった。

「ああ、これですか?、これ、駅へ行く途中にあるホームセンターで買って来たんですよ!」

「いや、何処で買ったかなんて聞いてんじゃなくさ、何に使うのかって聞いてんだよ!」

「お兄さん?、さっきわたし、お兄さんのお部屋と3メートル離れてるって言いませんでしたか?、
 これ4メートルあるんですよ。これだけ長さがあれば十分ですよね?」

「なにが十分ですよね?、だよ。いま分かったよ、お前の言おうとしてるっつーか、やろうとしてる事もな!」

「だったら話は早いですね。助かります。わたしがこの棒でお兄さんのお部屋の窓をコンコンと叩いたら、
 何をしていても直ぐに顔を見せて下さいね。さもないと……」

「何だよ、また『ぶち頃します』っつーのか?」

「いいえ、お兄さんがわたしのファーストキスを無理やり奪ったって、桐乃に言い付けます」

「お、お前、人聞きの悪い事言うなよ。……あれはお前の方が……だったろうが!」

80: 2011/01/04(火) 19:40:19.52 ID:chArRJ.0
「わたしとお兄さんの言い分のどちらを信用すると思います?」

「まあいい、分かった……よーく分かった。俺が桐乃に全頃しになる映像がリアルで眼に浮かぶよ」

俺の混乱していた頭も、ようやく現在の状況を把握しつつあった。あやせが俺ん家の隣に越してきた。
それは喜ぶべき事だろう。だがそうなると、一週間前のあの想い出の公園(あやせのファーストキスの場所、
――俺にとっても)での出来事は何?

「なあ、あやせ……話の腰を折って悪りーんだけどさ、ちょっと聞きたいことがあんだよ」

「なんですか?またセクハラのような質問をするつもりですね?……通報しますよ!」

あやせは、ちょっと上目遣いで俺を睨む。『通報しますよ!』――あやせの常套句だ。

以前、あやせが同じ言葉を口にしたときは本当に通報する勢いで言っていたのに、今回は口元をキュッと、
すぼめて微笑んでいる。少しばかり頬を紅潮させながら。

「いやさぁ、こないだの公園での件だけど……」

俺が例の件を持ち出すと、左手に持っていた4メートルの棒を俺に持つよう命じ、右手で持っていたコンビニの
買物袋を両手に持ち直し、あやせは顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。

――あやせさん?買物袋をわざわざ両手で持つことに何か意味があるんですか?

「何ですか、お兄さん?失礼なことを考えていませんか?」

「いや、そうじゃなくってさぁ、公園でその……お前が引越すって話しながら……お前少し……泣いてたろ?
 ……俺、てっきり遠くに引越すもんとばかり思っちまって……でもさぁ、引越し先って俺ん家の隣じゃん……
 いまいち理由が分かんねーんだが」

「お兄さん、わたしがいつ、遠くへ引越すなんて言いました?あのときわたし、お兄さんに引越すことを一応、
 ……ご報告しとかなきゃなって思って話していたら、……ああこの公園もう無くなっちゃうんだなぁって、
 ふっと想い出して、そしたら涙が出てきただけですけど?……あれ?何か変でしたか?」

「そんなの分かるわきゃねーだろ!俺はてっきり、あやせがもう俺に会えなくなるんで、泣いてくれたんだと
 ばかり思っちまったよ!!」

「それはお兄さんの勝手な妄想です!。会えなくなるどころか、これからはお隣同士なんですから、
 ――すみません、棒返して下さい――もう、話の腰折らないで下さいね」

俺からまた”突っつき棒”を取り戻すと、あやせはそれを左肩に担いで――

81: 2011/01/04(火) 19:41:09.87 ID:chArRJ.0
「では、窓コンコンの件に関しては、お兄さんに快く了解して貰ったところで、これで失礼します。
 ――あっ!そうだ!……お兄さん、お願いがあります」

「今度はなんだよ」

「近いうちに、ホームセンターで梯子を買ってきて下さい。――4メートルのやつ」



(完)

82: 2011/01/04(火) 19:43:04.14 ID:weySagwo
素晴らしい

84: 2011/01/04(火) 19:50:19.71 ID:XxBUEq2o
乙。あやせたんまじ天使

引用元: