1: 2016/10/18(火) 23:22:03.20 ID:snFV7Fpq0

・(地の文ありは)初投稿です。

・段落ごとに一行開け、段落内でも文が長そうなら改行しています。
かえって読みにかったら申し訳ありません。

・全58レスの予定。

・ゆかりちゃん誕生日おめでとうございます。


THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS STARLIGHT MASTER GOLD RUSH! 13 Secret Mirage

2: 2016/10/18(火) 23:22:43.99 ID:snFV7Fpq0

 レッスンのお休みを待って、私はひとりでスタジオにこもることにしました。
私にとって最も馴染み深い方法を試してみることにしたのです。

 両手の指で挟んだ、心地良い銀の重み。

 斜めに構え、唇を寄せた歌口。

 その縁へ溜めた息をぶつけると、渦を成した気流がすぐさま440 Hzとなって部屋を震わせました。

3: 2016/10/18(火) 23:23:24.10 ID:snFV7Fpq0

 胸まで満たす、ふくよかな木管の響き。

 自らの吐息が空間を音楽に染め上げていく感覚。

 プールに入る前に水を浴びるように、私はゆったりとAに身体を慣らしました。
目を閉じると、音の向こうに新しい地平線が開けていくのです。
まだ何もない、白色の、フラットな世界の広がり。そこで音が止むと、

 ふっ、

 と緊張が引かれ、ざわついていた期待と不安は、始まりを察した観客のように静まりました。

4: 2016/10/18(火) 23:23:58.35 ID:snFV7Fpq0

 心地のよい空白――

 準備は整いました。試したいのは、ここから。
ひとつ呼吸を置いて、私は始めました。

 選んだのはバッハ。

「フルートソナタ 変ホ長調 BWV1031 第二楽章」

 シチリアーノとも呼ばれるそれを、私は努めてゆっくりと演奏しました。
哀愁を帯びた重厚な旋律が、より心に絡みつくように。

5: 2016/10/18(火) 23:24:32.12 ID:snFV7Fpq0

 息、舌、指。

 私の体が紡ぎ出す、二百年以上も昔に記されたメロディ。

 それは、いつもと変わらず、美しく流れていきました。
いつもと変わらず――ただし、私の前を。

 さながらスクリーンの上の出来事でした。私がそれを奏でているのに、そこに私はいないのです。
抑揚も、ビブラートも、些細なニュアンスも、全て私が狙って出したのに、現れた音は、描かれた世界は、私の身体を震わせてはくれませんでした。
壁を隔てたように遠く、音楽と私は一体感を欠いていたのです。

6: 2016/10/18(火) 23:25:05.65 ID:snFV7Fpq0

 短い楽章を吹き終え、私は肩を震わせました。
しんと静まった部屋の気圧が奇妙に胸を掻き乱し、寒気を覚えるほどでした。

 不安に息が詰まりそうでした。
込み上げる思いに、内から溺れかけているのでした。
そしてふいに、こんなことを思い出したのです――
そう言えば、この曲を作ったのは、かのヨハン・ゼバスティアン・バッハ本人ではないらしい――

「おーい、ゆかりちゃん?」

 はっとして振り向くと、いつの間に開かれた防音扉から、プロデューサーさんが顔をのぞかせていました。

7: 2016/10/18(火) 23:25:39.08 ID:snFV7Fpq0

「邪魔してごめん、いま、大丈夫?」

 私は瞬きして、静かに彼を見つめました。

 こちらを窺う微笑み。いつも彼が見せる、何でもない態度。
しかしそれが、なぜだかたまらなく、たまらなく私を切なくさせるのでした。

8: 2016/10/18(火) 23:26:13.61 ID:snFV7Fpq0

「……どっ」

「え?」

「どうしましょう……」

 力の入らない喉。

 枯れて落ちていく木の葉のようにかすれた声。

 私の顔はいま、どんなに青ざめているでしょう?

「私、アイドル失格です……っ!」

9: 2016/10/18(火) 23:26:47.36 ID:snFV7Fpq0

          1

 チューバが歌うような品のある長い低音が私のおへその下の辺りをくすぐっていました。

 余裕のある、なめらかな推進。

 あの人がペダルを踏んだり離したりするのに合わせて、私を乗せたこの箱が、深く息を吐きながら東京の街を転がっていくのでした。

10: 2016/10/18(火) 23:27:26.48 ID:snFV7Fpq0

 人の多いこの街。あふれるような、この街――
窓の向こうを流れていくその姿を眺め、私は目を細めました。
夜を裂くきらめきは、スモーク張りを通しても眩しいのです。

 片側三車線の広いアスファルトの大地。
行き交う車は、二つの目のようなライトを光らせ、またそのつややかな肌に輝きを跳ね返しています。
向こうの歩道には、黙々とひとり、あるいは友人、同僚、恋人、家族と並んで歩く老若男女が、街灯の下で賑わいを織り成しています。

 上京して、もうしばらく経ちますが、慣れるということはいつまでもないと思います。
たったこれだけの土地に、こんなにも人間が集まり、そのひとりひとりが、それぞれの生活を営んでいるという、単純にして重大な事実――
私はいつもその尊さに驚き、翻って自分の頼りなさに肩を落とすのでした。
というのも、流れていく人々の隙間で、私だけがひとり、置き去りにされているような心地がしてしまうので。

11: 2016/10/18(火) 23:28:00.02 ID:snFV7Fpq0

 ため息を吐くと、出て行った空気の分だけ体が沈みました。
クッションの効いたシート。何となく撫でていたくなる、手触りのいい生地。

 この上で体を丸めて、猫のように眠りに就けたら気持ちがいいでしょうね。

「早く帰ろうね~」

「はい?」

 顔を上げると、ルームミラーに跳ね返る視線と目が合いました。

12: 2016/10/18(火) 23:28:33.46 ID:snFV7Fpq0

「疲れたよね、お疲れさま」

 私は少し頬を熱くしました。
見透かされたように思ったのです。

「あっ、はい……お疲れさまです。ありがとうございます、でも、あのっ、大丈夫です。まだ……」

「あ、もうひと仕事できる?」

「あるんですか?」

「ないよ?」

 そう言って、運転席の男性は小さく笑いました。

13: 2016/10/18(火) 23:29:08.41 ID:snFV7Fpq0

 上品なダークグレイのスーツに包まれた細い体。
締まったというよりこけた頬と、濃い隈の隠せない目元。
街灯の明かりが差し込まないと、車内の陰に溶けてしまいそうな人でした。
しかし彼こそ、私をかぼちゃの馬車に導いた、立派なプロデューサーなのです。

 年齢の割に生気を欠いた印象を覚えますが、口を開けば実に明るく、親しみやすい人でした――
こんな調子で。

「あるわけないって~。あんだけ働いたら言うことないよ」

「働けてましたか? 今日……」

「いや、そりゃもう、よかったよ。しっかりできてた」

「本当ですか?」

「ほんとほんと。初々しい感じでさ。お客さんにも笑ってもらえて」

14: 2016/10/18(火) 23:29:41.85 ID:snFV7Fpq0

 初々しい感じ。

 私は胸の内で繰り返しました。ほめられているのでしょうか?
しかし浮かんだ疑問は置いて、よかった、と私は口にしました。

「お客さん、楽しんでくれたでしょうか?」

「うん、きっとね」

 素っ気ない返事。

「きっと、ですか……」

 わかっていたことですが、私は目を伏せました。

15: 2016/10/18(火) 23:30:15.37 ID:snFV7Fpq0

 今日のお仕事はCDの販促でした。
レコード屋さんのスペースをお借りして、来てくださったお客さんと握手したり、ご購入いただいたCDにサインをしたり――
これまでの人生、立ち寄ったお店で偶然出くわすと、遠巻きに見ていたような出来事。
机を挟んだ反対側から、私はそこに参加したのです。

 夢のような話でした。
しかしそれはまったくの、逃れようのない現実で、そして私は、やはり机の向こうの世界から置き去りにされていたのでした。

 土曜の夜の人々は、かつての私のように、ちらちらと目線を送りながら通り過ぎていくばかりで――

「頑張りますね、私」

 ゆるく首を振ってから、自分に言い聞かせるように私は口にしました。

16: 2016/10/18(火) 23:30:48.81 ID:snFV7Fpq0

「焦るなよ~?」

「ええ?」

「いや、きっと、って言ったのは、俺ウソ言えないから」

 糸を引かれたように私は顔を上げました。
ミラーに映った彼は前を向いたまま、

「アンケートもしてないし、SNSも見てない。だから適当なことは言えないってだけ。ま~、努力はしてほしいけどさ、息切れしちゃうと、つらいから」

「……はい」

17: 2016/10/18(火) 23:31:22.32 ID:snFV7Fpq0

「ほら、まだ始まったばっかだから。最初はこんなもんだよ。アンテナ張ってて、アイドルめっちゃ好きです好き過ぎますーみたいな、ありがたいお客さんしか来ないから。これからだよ、ゆかりちゃんのロードは」

「ロード?」

「旅路、的な? 人生の……」

「人生……」

 声に出さず、私はもう一度繰り返しました。

 人生。

 未来、この先。

 想像もつかない話でした。

18: 2016/10/18(火) 23:31:55.66 ID:snFV7Fpq0

「そう、です、ね」

 しかしそんな思いと裏腹に、私の口は、自然と言葉を紡いでいました。

「まだまだ、先は長いのですよね。今日来てくださったお客さんに、まず感謝、ですよね」

「そうそう! 偉いぞゆかりちゃん!」

 胸の奥をくすぐられたように、私は笑みを漏らしました。
彼の朗らかな声は、簡単に私を安心させるのです。
ところがすぐに、私はまた顔を曇らせていました。

19: 2016/10/18(火) 23:32:45.74 ID:snFV7Fpq0

 あの一瞬。

 先のことを考えた、あの一瞬の内に、私は何かを取りこぼしてしまった。
そんな気がしてならなかったのです。

 ゆるやかに減速して、バンは右折しました。
途端に、もう引き返せない――そもそも、引き返したところでそれを拾えるわけでもないのですが――そんな風に思えて、私はことさらプロデューサーさんを呼び止める気になれませんでした。

 胸には林檎を切るような、しくしくと刺さる音が響いていました。
その痛みを逃がすように、そっとため息をついて、私は眠るように目を閉じました。

 何がそんなに痛むのか、私にはわかりませんでした。
気にも留めませんでした。

 しかし数日が経ってその正体が明らかになったとき、私は知ったのです。

 これこそが、きっかけだったのだと。


20: 2016/10/18(火) 23:33:19.64 ID:snFV7Fpq0

         2

 朝は早く起きる。

 しっかりとご飯を食べる。

 支度が済んだら出発して、始業の十分前には教室に着いておく。
駆け出しの私には、学校を抜けてまで参加するようなお仕事はない。
なので、とにかくきちんと授業を受ける。

21: 2016/10/18(火) 23:33:53.88 ID:snFV7Fpq0

 放課後は事務所に足を運ぶ。
プロデューサーさんに挨拶して、スケジュールの確認や簡単な打ち合わせを済ませたら、社内の練習室でレッスンを受ける。

 ダンス、歌、表現力。

 与えられたものを消化して、体に馴染ませる。血肉に溶かし込むために、何度も繰り返す。

 夜になったら寮へ帰る。
疲れた体を引きずってご飯を食べ、お風呂に入り、早めにベッドに潜る。
夢を見ることもなく、暗い水底に深く沈んだように眠り、そしてアラームに引きずり出されて目を覚ます。

 それが私の日々でした。

22: 2016/10/18(火) 23:34:27.65 ID:snFV7Fpq0

 慣れない街に単身飛び込み、不安と驚きの荒波に揉まれながら繰り返した、歯車のように回る毎日。

 晴れの日も雨の日も、同じ景色を見ているようでした。
アイドルと名付けられたこの大きな装置の中で、私という部品が置かれた場所はひどく見通しが悪かったのです。

 しかし一日一日を回す内、少しずつ装置が動いていることに私は気付きました。
プロデューサーさんや、私から見えないところにいる大勢の方が、互いに噛み合いながら回って、次第にアイドル「水本ゆかり」が形作られていたのです。
そして気付けば、実が結ばれていました。

23: 2016/10/18(火) 23:35:01.14 ID:snFV7Fpq0

 CDデビュー。

 それ自体が大変な喜びでしたが、同時に、歯車のひとつだった私にもようやく外が見えるのかと、わくわくして仕方がありませんでした。

 これから少しずつ、たくさんの素敵な出来事に顔を合わせていく。
そんな期待に、私の胸は膨らんでいました。
事実、レコーディングをしたり、ラジオ番組に出させてもらったり、新鮮な経験に私は喜びを感じていたのです。

24: 2016/10/18(火) 23:35:50.77 ID:snFV7Fpq0

 ところが私は、そこから次の一歩を踏み出すことができなくなっていました。

 あの夜、お仕事の帰りに失くしてしまったもの。あの痛みの正体。
目に見えず、手の届かないところから、それが私に、ささやくようにこう尋ねるのです。

 ――本当?

 ――それはあなたの本当?

 と。

25: 2016/10/18(火) 23:36:26.63 ID:snFV7Fpq0

          /

「できないのです」

「何が?」

「……全部が」

 冷えた空気が私の首筋にまとわりついていました。
誰にも見られないように、ひっそりスタジオに入ったのに、こんな風にプロデューサーさんに打ち明けることになるなんて。
思ってもいませんでしたから、とにかくまるで落ち着きませんでした。

26: 2016/10/18(火) 23:36:59.78 ID:snFV7Fpq0

 制服のままでスタジオにいることも、

 片付けもせず膝に置いたフルートも、

 組んだ指も、

 正面のプロデューサーさんと、目を合わせられないことも、

 胸を埋め尽くす不安のガスも、

 腰掛けたスツールの、慣れないクッションに沈むお尻も――
お尻なんて言ってしまいました。恥ずかしい――

27: 2016/10/18(火) 23:37:33.74 ID:snFV7Fpq0

「全部って、何の」

「歌も、ダンスも……この前のレッスン、心配されてしまいました。体調が悪いのかと……でも、違うんです。ダメなんです。何かがはまらないのです」

 あえて言葉にするならば、それは、延長されるはずの私の身体が欠けているという感覚でした。

28: 2016/10/18(火) 23:38:07.12 ID:snFV7Fpq0

 吹いた音の膨らみ。

 発した声の届く先。

 伸ばした指の差す空気。

 パフォーマンスをするとき、そこにまで自分の神経が行き渡ることがあります。
そのとき私は、本来の肉体のサイズを超えた表現を手にしているのです。
たとえどんなに遠くからでも、私の姿を見る人には、その一挙一動が伝わると実感できるのです。

 しかし今の私には、その心地が掴めないのでした。
単純な、体の動かし方の問題ではありません。
あんなに練習したものを、急に忘れるということはないのです。

29: 2016/10/18(火) 23:38:40.86 ID:snFV7Fpq0

 原因は、私の心でした。

 私の迷い。

 私の疑い。

「不純なのではないか……と、思ってしまうのです」

 大きく息を吐いて、私はそう告げました。

30: 2016/10/18(火) 23:39:14.24 ID:snFV7Fpq0

「ずっと、気付かない振りをしていましたが……本当は、怖かったんです。不安だったんです。毎日頑張って、必氏にやって、でも自分がどこにいるのか、わからなくて……」

 震えを抑えるように、私は組んだ手指に力を込めました。

「最近は、少し進み出したので、喜んでいたのです。けど、全部がうまくいくわけでもなくて……わかってはいました、もちろん。でもそういうの、表に出せなくて……」

 しかしそれは治まるどころか、ますます強くなるようでした。

31: 2016/10/18(火) 23:39:47.98 ID:snFV7Fpq0

「輝かなくちゃいけないって、まぶしくならなきゃいけないって、いつでもそう思っていたんです。アイドルなんだから、って。でもそうしたら、怖いのに、笑ったり、つらいのに、もっと努力するなんて言ったり……そんな風に、なっていたんです。気付いたら、わからなくなっていて……」

 理想だから、そうするのか。

 仕事だから、そうするのか。

 本心だから、そうするのか。

「あの……思いませんか?」

 再び胸からせり上がるものがありました。
溺れるような心地に襲われ、それを逃れるように、私は顔を上げてプロデューサーさんの目をしかと見つめました。
そして喉から這い出した、ひきつった声で、

「それって……それって」

32: 2016/10/18(火) 23:40:21.47 ID:snFV7Fpq0



「ウソ、ついているみたいじゃないですか?」



33: 2016/10/18(火) 23:40:55.45 ID:snFV7Fpq0

 しかし尋ねるなり、私は顔を伏せてしまいました。
私は確かに、彼の答えを、考えを聞きたかったのです。
けれど、まっすぐに私を見返す視線に、耐えることもまたできなかったのです。

「こんなこと、ゆるされるのでしょうか」

 言いながら、私は小さく首を振りました。

「こんなことで、本当にお客さんに喜んでいただけるのでしょうか? 人前に立って、いいんでしょうか? 私のウソは、人にはわかってしまって、だからこの前も、足を運んでもらえなかったんじゃないかって……なんだか、そんなことを考えてしまって……」

34: 2016/10/18(火) 23:41:29.14 ID:snFV7Fpq0

 そしてそれが、真実かどうかは関係ないのです。

 水瓶に泥をひと匙加えると、中身を飲むことはもうできません。
わずかでも疑いを抱いた瞬間に、私の心も、一様に染まってしまったのです。

 私が失ったもの。それは、清らかさというものでした。

 掬うことのできない泥。

 そそぐことのできない汚れ。

 それを抱えては、もう舞台には上がれないのだと、私は――

35: 2016/10/18(火) 23:42:02.47 ID:snFV7Fpq0



「そんなことないよ」



36: 2016/10/18(火) 23:42:36.11 ID:snFV7Fpq0

 そのときでした。

 相槌も打たず耳を傾けていた魔法使いが、そっと口を開いたのは。

「それが証拠だよ。そんな風に考えられるってこと。それこそ、何よりの証拠」

「……証拠?」

「ゆかりちゃんは澄んでる。何より澄み渡ってる」

 ちらりと目を向けた私に、彼は眉を持ち上げて見せました。

37: 2016/10/18(火) 23:43:10.05 ID:snFV7Fpq0

「だからだよ。心を奥まで見通せるから、そんな風に不安になるし、光る理想が届くから、そんな風に自分を責める。ねえ、ゆかりちゃん」

「……はい」

「ゆかりちゃんは何になりたい?」

「……はい?」

「神様になりたい? それともアイドル?」

「神、様?」

 彼は頷いて、
「清く正しく、自分にひとつの疑いも持たず、嘘もつかず、人を元気にする……なんて、それはね、神様の仕事だよ」

38: 2016/10/18(火) 23:43:43.30 ID:snFV7Fpq0

 私は口をつぐみました。
そんな大層な話をしたつもりもなかったのです。
けれども確かに、私の理想は、そういうことなのかもしれませんでした。

「でも」
と、私は声を絞りました。
「アイドルというのは、純粋なものでなければならないのでは? そうあって欲しいと、お客さんは望んでいるのではないですか?」

「それはちょっと違う」

 ぱっ、と広げた両手を振って、彼は笑顔を見せました。
それから軽く身を乗り出すと、瞬きする私に向かって続けました。

39: 2016/10/18(火) 23:44:16.81 ID:snFV7Fpq0

「お客さんはね、それを求めてるんじゃない。ゆかりちゃんを、求めてるんだよ。こんな風に、お仕事のことを考えて、お客さんのこと考えて、悩んで悩んで、思い詰めてしまうような、そんなまぶしい人に、現れて欲しいの」

 まぶしい、と私は胸の内で繰り返しました。

 まぶしい。

 私が?

「誰かに元気や勇気を渡せて、誰かから、元気や勇気を渡したいと思われる。それがアイドルの資格だよ。ゆかりちゃん。君はそれを、失ってなんかいない。だってほら!」

40: 2016/10/18(火) 23:44:51.35 ID:snFV7Fpq0

 ぱんっ! と彼は手を鳴らして、

「ゆかりちゃんは! 清らかで、誠実で、強くて、やさしくて、かわいい、女の子だから!」

「っ、違います……私は」

「違わないよ」

 満面の笑みをたたえて彼は言いました。

「保証する」

41: 2016/10/18(火) 23:45:24.64 ID:snFV7Fpq0

 強い視線でした。

 私を見つめる彼の瞳の、私なんかよりよっぽど透明で鮮やかな、南国の海のような輝き。

 やつれた顔をして、この人は、しかし内側にそれだけの世界を抱えているのです。
そしてそれが、私を囲い込んでいた岩塊のような重圧を、軽々と遠くへ押しやってしまったのでした。

42: 2016/10/18(火) 23:46:08.89 ID:snFV7Fpq0

 風が吹き込むようでした。

 私の迷いを払い去って、隠れていた宝物を、私の本当の清らかさを、私に見付けさせる風が。

「……本当、ですか?」

 恐る恐る口にした私に、彼は頷いて見せました。

「本当!」

43: 2016/10/18(火) 23:46:42.44 ID:snFV7Fpq0

「私……清らか、ですか?」

「もちろん!」

「誠実ですか?」

「そりゃもう!」

「強い、ですか?」

「ストロンゲスト!」

「やさしいですか?」

「ソォゥスウィイト!」

44: 2016/10/18(火) 23:47:15.74 ID:snFV7Fpq0

「かわいい……ですか?」

「世界一!」

「いまの幸子ちゃんとキャラ被ってませんか?」

「事務所に話、通しとくから」

「……あはっ」

 と、私は思わず笑みをこぼしていました。

「ビジネスなんですね、そこ……っ、ふふっ、ふふふ!」

45: 2016/10/18(火) 23:47:49.47 ID:snFV7Fpq0

 部屋の内は、みるみる私の笑い声で満たされていきました。
何と言うことのないやり取りだったのに、涙が出るほどおかしかったのです。

 感情を閉じ込めていた栓が外れたようでした。
ふつふつと心が沸き立ってしまって、私は背中を丸めて、いつまでも笑っているしかありませんでした。

「っ、ふっ……ありがとう、ございます……っ」

 随分経って、震えるお腹を押さえながら、やっとのことで私はお礼を口にしました。

「笑ったら、少し、楽になりました」

「それはよかった」

「はい……」

46: 2016/10/18(火) 23:48:23.32 ID:snFV7Fpq0

 目元をぬぐいながら、私は改めてプロデューサーさんに向き合いました。
私が笑い転げている間、呆れる素振りも見せずに彼は待っていてくれたのです。

「抱え込まないでね」

 満足げな笑みを浮かべて彼は言いました。

「愚痴でも文句でも悩みでも、何でも聞くから、何でも言っていいんだよ。最悪、やめるって話でも。時間が掛かっちゃったのは、こっちの責任だしね。いい? 僕らはチームだ」

「……はい」

「よし」

47: 2016/10/18(火) 23:48:56.59 ID:snFV7Fpq0

 ひとつ頷いて、彼はすっくと立ち上がりました。
しかしすぐにまた腰を下ろして、

「違う違う、思い出した、ゆかりちゃんに用があったの」

「何でしょう……?」

「今度の握手会の話なんだけど……」
と切り出してから、彼は少しきまりの悪い顔をして、
「してもいい?」

「はい?」

「まだ行ける?」

48: 2016/10/18(火) 23:49:30.14 ID:snFV7Fpq0

 一瞬、私は口ごもりました。
言葉以上に、眼差しが私に問い掛けていたのです。

 ――本当?

 ――今から口にする、その答えは、本当?

 と。

49: 2016/10/18(火) 23:50:03.62 ID:snFV7Fpq0

 しかし私は、揺るぐことなく頷くことができました。
もう一度、この掌に収め直した気持ちと、私の答えは、ぴったりと重なっていたのですから。

「……はいっ」

 芯の通った、力強い返事。

 それを聞いて、プロデューサーさんは静かに眉を持ち上げて見せました。

50: 2016/10/18(火) 23:50:37.19 ID:snFV7Fpq0

         3

 チューバが歌うような品のある長い低音が私のおへその下の辺りをくすぐっていました。

 余裕のある、なめらかな推進。

 あの人がペダルを踏んだり離したりするのに合わせて、私を乗せたこの箱が、深く息を吐きながら東京の街を転がっていくのでした。

 人の多いこの街。あふれるような、この街――
窓の向こうを流れていくその姿を眺め、私は目を細めました。
夜を裂くきらめきは、いまを生きる人々が燃やす命の光なのだと思うと、愛おしくてならなかったのです。

51: 2016/10/18(火) 23:51:11.14 ID:snFV7Fpq0

「いい目してるね~」

「はい?」

 振り向くと、ルームミラーに映った視線と目が合いました。
ハンドルを握るプロデューサーさんは、どこか嬉しそうに、にやにやと笑みを浮かべて続けました。

52: 2016/10/18(火) 23:52:07.67 ID:snFV7Fpq0

「お疲れさま。今日もいい仕事、できてたよ」

「本当ですか?」

「ほんとほんと」

「ありがとうございます、嬉しいです」
と、ゆるめた頬を苦笑いに変え、
「でもやっぱり、お客さん、まだ少ないですよね」

「いやいやいやいや。こっからだから。ゆかりちゃんはまだデビューしたてだからね。オッケイ?」

「はい、わかっています」

53: 2016/10/18(火) 23:53:21.54 ID:snFV7Fpq0

 現場のことを思い出すと少し動揺もしますが、そよ風のようなものでした。
私が静かに頷くと、彼も頷き返して、

「いきなり一発当ててもダメだかんね。掘り返しても何も出て来ないから。それと、いきなり脱ぐのもダメ。あと全部脱ぐことになる。つまり、積み重ねてから一」

「え?」
とても話の最後まで待てませんでした。
「脱ぐんですか?」

「はっだっかー、になっちゃおっ、かっ、なー!」

「無理です」

「無理か~」

「無理ですよ!」

54: 2016/10/18(火) 23:53:57.24 ID:snFV7Fpq0

「じゃあ練り直さないと」

「へ? はっ、裸にするつもりだったんですか?!」

「いやいや馬鹿言わないでよ! 冗談だよ!」

「びっくりしました……」

「ごめんごめん……」

 すぅっ、と体が前に寄る心地がして、車が停まりました。
ミラーに映った自分の顔が、フロントガラスの向こうのように赤く色付いている気がして、私は目を逸らすようにまた隣の窓に目を向けました。

 しかし何を見るでもありませんでした。
私はただ、取り戻した感情の触り心地を確かめていたのです。

55: 2016/10/18(火) 23:54:38.28 ID:snFV7Fpq0

「でもさ、今の、いいよ」

「何がですか?」

「反応が。清純派だよ。正統派の清純派」

 思わず私は笑みをこぼしました。
そして痛むことのない胸に掌を重ね、小さく頷きました。

56: 2016/10/18(火) 23:55:11.85 ID:snFV7Fpq0

「はい」

「おっ」

「どこまでも清らかな心でいられたら、と思います」

「素敵だね」

「アイドルですから」

57: 2016/10/18(火) 23:55:45.42 ID:snFV7Fpq0

 ぐっ、と加速が掛かって、車がまた走り出しました。
するとふいに、それが私を、事務所ではなく、見たこともない新しい世界に運んでいるような心地がしました。

 愉快な気持ちでした。私は未来に向かっているのです。

 もっともっと頑張ろう。

 胸の内でそう唱え、私は眠るように目を閉じました。

58: 2016/10/18(火) 23:56:40.60 ID:snFV7Fpq0

以上になります。お読みくださり、ありがとうございます。

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引用元: 水本ゆかり「清澄」