1: 2011/08/21(日) 23:24:52.32 ID:h5OqAkz60
1/10
1月2日 曇り時々雪 神社境内


大晦日の晩から降り続ける雪は、境内の中にもうっすら積もっていた。
サク、サク、サク、サク。
足袋に包まれた2組の足が、しずしずと調子をあわせて歩みを進めていた。

「昨日は昼間も降っとったんよね。ええなぁ、ロマンティックな初詣」

片方は、藤色に金糸、たなびく雲、赤白黄色と色さまざまな花をちりばめた、
だがけばけばしさの無い振袖姿。

「そんないいものでもないわよ、もっと厳かな雰囲気がよかったんだけど」

もう片方は、黒地に薄桃色の川の流れ、赤にピンクの椿が舞い散る
落ち着き払った振袖姿。

いささか残念そうな息を漏らす綾乃の隣で、千歳はあいかわらずの穏やかな笑みを咲かせていた。
第11話 「わたしたちのごらく部」

2: 2011/08/21(日) 23:26:36.91 ID:h5OqAkz60
「贅沢言うたらバチ当たるよ~、昨日も2人とも晴れ着だったん?」
「いいえ、洋服だったわ。初詣のあとにもあっちこっち行きたいからって」

ほんのりと、綾乃の頬が紅に染まっていた。
伏せた睫毛の先はしっとりと艶やかで、瞳にもうっすらとした潤いが乗っていた。

「そうやろうねぇ。歳納さんと一緒におって、初詣だけで済むワケがあらへんもん」

いつの間にやら、賽銭箱の前へ到着していた。
人影もまばらで、このかきいれ時に果たして大丈夫なのやら……という心配はともかく、
千歳が巾着袋から5円玉を取り出し、それをひょいっと放り投げる。
御縁に願をかけて5円、という事だ。

5: 2011/08/21(日) 23:30:34.65 ID:h5OqAkz60
「何をお願いしたの?」

昨日すでに初詣を済ませている綾乃は、神妙な顔で手を合わせる千歳の横顔を
ぼんやり眺めるのみに留まっていた。

「うん、綾乃ちゃんと歳納さんがいつまでも仲良くいられますようにってね」
「そうなんだ、ありがとう」

新年早々変わらぬ親友のひつこいまでの優しさに、綾乃の顔にもおもわず呆れ半分の笑みが浮かんでいた。

「あと、ついでにうちもね!」

もうじき中学も卒業だというのに全然変わらない――
そんな姿に、笑みの呆れもすぅっと薄らいでしまった。

どこまでも変わらない千歳の姿は、いつ、どんな時でも
綾乃の気持ちを自然とゆるりとした物に変えてしまう

6: 2011/08/21(日) 23:31:40.49 ID:h5OqAkz60
鳥居をくぐり、石段を降りていく。
さすがに雪も薄っすら解けはじめていた。

恐る恐るな足運びの綾乃とは裏腹に、千歳は案外とするする濡れた石段を降りていく。

「船見さんも一緒にいられたらよかったのにね」
「しゃあないよ、船見さんの決めた事なんやから」

振り返った千歳が、そのまま足を止めた。

「うちらには、どうする事もできへんよ」

歩調の違う2人ではあったが、白いため息を吐いたのは同時の事であった。

7: 2011/08/21(日) 23:36:29.68 ID:h5OqAkz60
2/10
1月16日 曇り 娯楽部部室

大きな座卓を囲むように3つの姿があった。
入り口の側には赤いお団子頭が1つ。
向かい側には、ピンクの頭と薄紫がかった頭。

「やっぱり千歳先輩の和服姿ってさまになってますよね。
あ、でも杉浦先輩の振袖も大人っぽくて素敵です!」

携帯の画面を見せながら、千歳もまんざらではない表情である。

わきゃわきゃとはしゃぐちなつと千歳を眺めながら、
あかりもまた同様の楽しげな表情を浮かべていた。

8: 2011/08/21(日) 23:40:13.02 ID:h5OqAkz60
「でも生徒会のお仕事はいいんですか? 最近娯楽部に入りびたりですけど」

千歳持参の紅白なますをちまちまつまみながら、あかりが素朴な疑問を口にする。

「うちらもそろそろ引退やからねぇ。近頃じゃもっぱら若い子のサポートばっかりなんよ~」
「そういうもんなんですかー」

渋茶をすする千歳を、ほおづえつきながら眺めるちなつ。
――その若さで、そんだけ老成しちゃってどうすんだか。
などと思いもしたが、それはあえて口には出さずにおいた。

「大室さんと古谷さんもすっかり1人前以上やし、安心して任せておけるからなぁ」

10: 2011/08/21(日) 23:45:25.76 ID:h5OqAkz60
「まさか櫻子ちゃんが副会長になっちゃうとは思いませんでしたよー」

ピンクの襟足を揺らしながら、ちなつが呆れた調子でこぼした。

「やっぱり向日葵ちゃんに入れとけばよかったかな。
 票が少なかったら可愛そうなんで入れたんですけど」
「あかりも櫻子ちゃんにいれたよ」
「いや、あかりちゃんは素でしょそれ」

後輩達のほほえましいやり取りを眺めつつ、千歳は今日のお茶菓子『芋羊羹』を口に放り込む。

「まぁまぁ。瓢箪から駒言うたら何やけど、ええ感じよ? 今の2人の関係は。
 大室さんが動き回って、大谷さんがしっかり支えて。
 ほんま2人で1.5人分の副会長って感じやわ」

――それ、減ってる。
このツッコミもまた、ちなつの腹の中へと押し込められた。

11: 2011/08/21(日) 23:49:40.83 ID:h5OqAkz60
「切ってもきれない間柄ですからねぇ、2人とも」

なにしろ2人の事をよく承知の同級生である。あかりは素直に千歳の言葉を信じていた。
ちなつも同級生だが、それまた別の話である。

してそのちなつが、一気に茶を飲み干し、ダンッ! としたたかに座卓を打ち鳴らした。

「切ってもきれないと言えば、一体どうなってるんですか最近の結衣先輩と京子先輩は!」

そして、次のイライラの標的は紅白なますへと向けられた。

「結衣先輩はいきなり県外の高校行くだなんて言い出すし、
 京子先輩はラブレター貰ったって相談してきたきり寄り付きやしない!」

12: 2011/08/21(日) 23:54:13.56 ID:h5OqAkz60
「ねー、何か知りませんかぁ? 千歳せんぱーいぃ」

無駄になますをプスプス突っつきつつも、甘え系笑顔を忘れないあたりは、
さすがのちなつであった。

「ごめんな~、船見さんの事はクラスもちゃうからうちもあまり分からへんのよ~。
 歳納さんやったら、綾乃ちゃんとうまくいってるみたいよ?」

そして千歳が申し訳なさげ系笑顔で、これに答える。

「ハーッ……まったく、あれだけちなつちゃんちなつちゃん言って人の事追い回していたのに、
 何なんでしょうねあの人は」

口から呆れ息を吐き出しながら、ボブに切りそろえた毛先をちろちろといじくりちなつ。

14: 2011/08/21(日) 23:57:56.54 ID:h5OqAkz60
「あ、そういえば今日やったね。船見さんの入試試験」
「知ってますよそれぐらい」

ズドン。
紅白なます目掛けて、箸がつきたてられた。
むろん、犯人はちなつ。

(あ、また出てる)

毎度恒例の黒いオーラは、今日もあかりの眼にはっきりと見えていた。

「あかんよ~吉川さん、そないな顔しとったら~。可愛いのに台無しやで?
 ほら、これ食べて機嫌なおし?」

そして物怖じする事なく、小さく切った芋羊羹を差し出す千歳。
最近のパターンである。

15: 2011/08/22(月) 00:01:45.51 ID:jkJjQkXI0
「なんか近頃、千歳先輩の相手してると京子先輩とカブって感じる事があるんですよね~」

癒しのスウィーツを頂きながらも、変わらずしかめっ面のちなつである。
が、どうやらあぶないオーラはおさまった模様である。

「そうやろか?」
「文化祭の時、練習でずっと一緒だったからじゃないですか?ほら、漫才の」
「そうなんかな?」

どうも千歳にそういう自覚はないらしく、あかりの指摘にもいぜん首をかしげていた。

「今でも時々思い出して笑っちゃう事ありますよ。
 京子ちゃんがボケて、千歳先輩がさらにボケて、杉浦先輩がつっこむあの独特の空気」

16: 2011/08/22(月) 00:05:37.53 ID:jkJjQkXI0
「赤座さん、分かってきたやないの!
 キョッピー、アヤッピー、チトセッピーの笑いは永遠の輝きやで!?」

そういいつつ千歳の目もまた輝いていた。
座卓にぐいっと乗り出しあかりの手を握り、ブンブンと上下させてありったけの喜びを表現する。

――ぶっちゃけ勢いだけだったと思うけど、アレは……観客席まで血しぶき飛んで
そして恒例の腹内ツッコミをするちなつであるが、ふと大きな違和感が腹から口をついて飛び出した。

「そういえばあの文化祭以来、鼻血出してないですよね。千歳先輩」

その言葉に、はしゃいでいた千歳のオーラが切り替わった。

17: 2011/08/22(月) 00:08:59.72 ID:jkJjQkXI0
「ああ、鼻血な~。そうやね~……」

珍しく神妙な面持ちになり、千歳が眼鏡を外す。

「あまり汚したりするんは嫌やなーって思ってたら、出んようになってました!」

が、まさかの定番パターン崩れ。これにはティッシュを構えていたあかりもビックリである。

「だったらもっと早くコントロールしてくださいよ」
「そうもいかへんのが乙女心の難しい所でな~」
「いや分かりませんから、その理屈」

いまひとつ要点のつかめない問答を繰り返すチトセッピー&チナツッピー。
傍観者のアカリッピーは、もはやアッカリーンになるより他に無かった。

18: 2011/08/22(月) 00:12:45.58 ID:jkJjQkXI0
不意に、遠くからチャイムの音色が流れ込んできた。

「あ、もうこんな時間!」

そしてここぞとばかりに、主人公が立ち上がった。

「あら、ほんまやわ。ここにおると時間が経つの早いなぁ~」

千歳もゆるりと立ち上がった。

「ほな、うちは生徒会室にも寄らんとあかんからぼちぼち」
「はい。今日もお漬物ありがとうございました」

座卓の脇からあかりの隣へと抜けていく千歳に、ちゃんとお辞儀をするいい子である。
向かいの席のピンク髪は、静かにお茶を飲んでいた。

19: 2011/08/22(月) 00:16:37.39 ID:jkJjQkXI0
「あ、そうや」

ふと何かを思い出した調子で、部屋から出ようとした千歳が振り向く。

「最近強い寒波が停滞しとるから、2人とも風邪ひかんように気ぃつけよ~」

毎度恒例のありがたい忠告を残し、手を振り出てゆく千歳へと、
残った下級生2人も同じように小さく手を振り送り出す。

スト……と襖が閉まり、急に娯楽部の部室が静まり返った。

「はぁ」

ちなつが小さくため息を漏らした。
とりたてて普通のため息である。

20: 2011/08/22(月) 00:21:18.53 ID:jkJjQkXI0
「さみしくなっちゃった?」

そして千歳が座っていた座布団へとあかりが腰を下ろす。
首をかしげ、ちなつの顔を覗き込むあかり。
たしかに少しばかり寂しげな表情ではあった。

「あかりも、結衣ちゃんや京子ちゃんが先に中学上がっちゃった時はさびしかったなぁ」

昔を懐かしみながら、ほどほど渋茶をくぃっと一口。

「なんか、町とかでばったり会ってもどこかが違う感じなんだよねー」

それを聞き流しつつ、ちなつも茶をぐいっと一杯。
一発おおきくため息を吐いて、一気に胸の内を吐き出した。

「あー! 私も絶対結衣先輩と同じ高校行ってやるー!」

21: 2011/08/22(月) 00:25:36.75 ID:jkJjQkXI0
「あかりも応援してるよ!」

親友の魂の叫びに、あかりも思わず身を乗り出し両手を握り締める。
純真無垢な瞳の輝きが、ちなつの瞳目掛けてズバズバと突き刺さる。

「何があっても……たとえ離ればなれになってもあかり、ちなつちゃんの味方だから!」
「あかりちゃん……」

色々と困難な道である事を承知の恋路である。
ちなつの目にも、思わず感激の涙が滲んでいた。

「もしちなつちゃんが結衣ちゃんと同じ高校行っても、きっと毎日電話するから!」
「いやそれはやめて」

残念。感激の涙は引っ込んでしまった。

23: 2011/08/22(月) 00:30:30.56 ID:jkJjQkXI0
一方そのころ、歳納家の京子の部屋。

ガラスで出来た座卓を挟んで、2つのポニーテールが揺れていた。
一方は金髪、一方は紫。

紫の方は淡々と受験勉強を進めているようであるが、金の方はどうにもいまいち乗り気で無いらしく、
ノートへと『新シリーズ、世界のダブチ』イラストを次々に描き込んでいた。その数、現時点で78種。
……が、それもいいかげん飽きてきたらしく、ふと時計へと目をそらした。

「おー、もうこんな時間かー」

そう言うが早いが、ぴょいっと立ち上がる京子。

「え、もうそんな時間なの?」

そして半ば解きかけの問題集から顔を上げる綾乃。

24: 2011/08/22(月) 00:35:05.27 ID:jkJjQkXI0
「あんまり根つめてもよくないし、そろそろ休憩しましょうぜ」

立ち上がり、ぐいーっと伸びをする京子。
綾乃としては、出来ることなら今のページを片付けてからにしたかったのだが、
大人しく問題集をパタンと閉じて、うっすら笑みを浮かべながらうなづいてみせた。

「ランボーランボーコマンドー、海でもないのにサメ地獄ー」

謎の歌を歌いながら部屋を後にする京子の背中を見送り、綾乃が小さくため息を吐いた。
手早く問題集を開く。
が、そんな都合よくさっきのページが見つかる訳もなく、
あっちか、そっちか、それともこっちかとあわただしくページをめくる。
めくりまくる。

25: 2011/08/22(月) 00:40:49.40 ID:jkJjQkXI0
ようやく目当てのページが見つかったかと思った瞬間、部屋のドアがカチャンと開いた。
綾乃も思わずパタンと問題集を閉じてしまう。

「さーてプリンにする? それともプリンにする? あるいはワ・タ・シ?」

右手にプリン、左手にラムレーズンを持ちつつも、
どうあがいてもラムレーズンは取れないポーズであった。
――まったく、今日もバカなんだから。
呆れつつ、赤面しつつ、嬉しくおもいつつ、綾乃は黙ってプリンを取った。

「オゥ! 一発で正解取られた!」

そして追撃の変顔オンザラムレーズン。
さすがの綾乃もこれには呆れ笑い。

「さ、食べよ食べよ」

手早く片付けられたテーブルの上に、オンザラムレーズン。
そして対面には、オンザプリン。

27: 2011/08/22(月) 00:44:47.31 ID:jkJjQkXI0
今日のプリンは、一口目でもう違いが分かるものであった。
卵が違う。砂糖が違う。牛乳が違う。バニラビーンズが違う。生クリームが違う。

「おいしい……」

綾乃の顔に、文句なしの5つ星が輝いていた。

「えー、本日のプリンは、町のデパート直産のスペシャルな一品とナッテオリマース」

得意げな表情で指を動かす京子の口元には、
あるはずのない口ひげが見事にパントマイムされていた。

「わざわざそんな遠くまで買いに行ってくれたの?」
「んふふ、うれしい?」

唐突に、京子の笑顔が綾乃へと近づく。

28: 2011/08/22(月) 00:51:46.90 ID:jkJjQkXI0
なにせ惚れに惚れた相手の満面の笑顔である。
綾乃はおもわず目を伏せ、すぃーっと視線を横へと逃がしてしまった。

「うん」

色々胸にあふれる気持ちはあったが、ただ一言、それだけで精一杯であった。
瞳は潤み、頬は紅さし、その表情とただの一言だけで、京子の胸の内は十分に満たされた。

「そっかそっか」

京子もまた、多くは語らず腰を下ろした。
その様子に、綾乃の口から熱っぽい吐息がこぼれる。
ぱくり。
その熱を冷ますように、プリンを口へと運ぶ。

「綾乃の笑顔ってトキメキ100万ボルト」

ボソっと、真顔で言い放たれた言葉。
その威力は、またしても綾乃の熱をグインッと押し上げた。

30: 2011/08/22(月) 00:57:05.16 ID:jkJjQkXI0
熱量を下げるために、プリンを食べる。食べる。食べる。
綾乃の口の中に、とろんとした甘みが広がっていた。
その甘みは全身を駆け巡る。
特に何というわけでもないが、ただこうしてプリンを食べてるだけでも幸せな感じがしていた。

「綾乃! 綾乃!」

無邪気な呼び声が、陶酔を打ち破った。
ふと顔をあげると、京子がスプーンにアイスを乗せてこちらへと差し出しているではないか。

「ほら、こっちのアイスも美味しいよー?」

またしても熱量ボン、である。
無論冷却のために、ぜひともアイスは頂きたい。
が、そうホイホイいけるものでもない。

先ほどまで京子がパクパクしていたスプーン。
それは当然、いわゆるひとつの間接キス。

31: 2011/08/22(月) 01:03:34.08 ID:jkJjQkXI0
おそるおそると、口からスプーンを迎え入れる。
唇に、冷たい感触が触れた。
口から鼻へと抜けるラムレーズンの香り。
舌を転がし、甘い塊をぬらっとからめ取る。

硬い感触の後に、濃厚な甘みが転がり込んできた。

「ど、美味しい?」

ふと視線を上げると、吐息も触れそうな距離に笑顔があった。
何となく、熱っぽい何かが2人の間に流れているような感じがし、
綾乃は思わず身を引いてしまった。

「そんなに近くで見られてたら……」

感受してしまった熱に、口の動きがもたついてしまう。
もはや味など分かりもしない。
ただただ熱だけが、首から上を染めあげていた。

32: 2011/08/22(月) 01:10:23.99 ID:jkJjQkXI0
「ねーねー綾乃っちー、私も食べたいなー。あなたのプ・リ・ン!」

そんな綾乃のありさまを知ってか知らずか、
京子の無邪気っぷりは相変わらずであった。
身を乗り出し、あふれんばかりのワクワクを撒き散らす。

綾乃も抵抗する気すら失せ、素直に、プリンをすくい京子へと差し出した。

「はい」

もっとも、真っ赤な顔を横にそむける程度の事はどうにか出来たが。

パクリ。
綾乃と違い、京子には一切の躊躇が無かった。
素直にスプーンに食いつき、プリンを堪能したのである。

「うーん、このとろける甘さ。まるで恥らう君の姿そのものだ」

そしてまた、どこぞの演劇のジゴロか何かのごとき謎ポーズ。
どうにも締まらぬ雰囲気に、綾乃は、うるんだ瞳のままため息をまたひとつこぼした。

34: 2011/08/22(月) 01:16:29.11 ID:jkJjQkXI0
3/10
2月10日 晴れ 綾乃家台所と電柱

主婦なら、だいたい共感してもらえる事だろう。
しっかり収納がそろっており、備え付けの全自動食器洗い器もついている。
材質はきれいに研磨されたオーク材。シンクのステンレスには無論曇りなぞ1つも無い。
そんな、やる気が出てくるようなしっかりとしたキッチン。

2人してエプロンを締め、綾乃も千歳も穏やかな面持ちでチョコレート作りに励んでいた。

「綾乃ちゃん、そろそろチョコレート溶けた~?」
「まだちょっと硬いみたい」

千歳も勝手知った調子で台所を行ったりきたりしている。
綾乃の方はといえば、コンロの前で湯銭のチョコとにらめっこである。

35: 2011/08/22(月) 01:22:10.43 ID:jkJjQkXI0
シリコンのへらを片手に、ボールから絞り袋へとチョコレートを流し込む。
こういう作業も2人だとなかなかに楽しいものである。

チョコの最後の一滴まで。
神妙な面持ちでぐにゃりぐにゃりとへらを躍らせる綾乃であったが、
唐突に相方が小さくふふっと笑いをこぼした。

「どうしたのよ、急に」

そりゃ確かに千歳のこういう反応は別段珍しい話でもない。
だが気になるといえば気になる。
ので、まぁ聞いてみる。

「なんや文化祭の準備しとった時の事思い出してもうてな~」

綺麗に全部移し変えられた絞り袋は綾乃へと任せ、
千歳はボールやらヘラやらを抱えていそいそとシンクに移動していた。

「まさか、うちが綾乃ちゃんに池田千歳ーって呼ばれるなんて思わんかったもん~」

36: 2011/08/22(月) 01:28:37.40 ID:jkJjQkXI0
作業の手を進めつつ、いまいち記憶がはっきりしない綾乃であったが、
ひと絞り、ふた絞り、み絞りと進めていくうちに唐突に当時の情景が甦った。

おもわず作業の手が止まり、視線が顔ごと千歳の方へと向く。
まぁなんとも形容しがたい表情ではあったが、とにかく恥ずかしい記憶である事に間違いは無いらしく、
綾乃の顔は耳まで真っ赤に染まりあがっていた。

「あ、あ、あの時はつい勢いでそう言っちゃっただけなんだから!」

そんな綾乃を見て、千歳の顔にもいつもの笑顔が浮かぶ。
綾乃と2人っきりの時恒例の、スペシャルな笑顔。

「はいはい。あの時はごめんな~、うちが歳納さん取ってもうて~」

あやすような口調で思い出を懐かしみつつも、手はしっかりとボールを擦っていた。
溜めた水の中でバシャバシャと、汚れを残さないようにと丁寧に。

38: 2011/08/22(月) 01:34:27.29 ID:jkJjQkXI0
なんとも無しに2人の頭の中に、当時の光景が思い起こされていた。

そもそも千歳が言い出して、綾乃と京子で中学時代の思い出に何かやったらどうかと
文化祭に出る運びになったのだが、その題材がまずかった。
はて2人で舞台で何が出来るか。
楽器でもやるかと言えば、京子が嫌がる。
2人芝居でもやるかと言えば、綾乃が嫌がる。

それじゃ、いつものようにやればいいかと漫才をやる事になったのだが、
そこに誤算があった。

京子がネタ出し、綾乃が首をひねる。
京子がまたネタ出し、綾乃がまた首をひねる。
それじゃ綾乃がネタ出してと言えば、毎度おなじみ地名ダジャレ。

ちょこちょこ2人の様子を見ていた千歳も、この状況には結構困ったものである。

39: 2011/08/22(月) 01:40:08.49 ID:jkJjQkXI0
ある日、いつものように顔をのぞかせていた千歳に、京子がネタをふってきた。
すると、そこからさらにネタが転がった。
調子に乗った京子が、もひとつネタを千歳にふる。
すると、またまたネタがころがる。

気がついた時には、当初の目的などそっちのけで、
京子と千歳の無限ボケが始まっていたのだ。

初めは綾乃も、よくもまぁこうも頑張れるものだと関心して見ていたのだが、
どうにも止まらない。
どこまでも止まらない。
京子と千歳、すっかり意気投合。

「なぁ、うちらもしかしたら新しい世界目指せるんちゃうかな!」
「やっぱり千歳もそう思う!? こんな感覚、私も始めてだよ!」

などという調子で目を輝かせ、見つめあい、手と手を握り合う段になって、
いよいよ綾乃の堪忍袋に限界が来た。

41: 2011/08/22(月) 01:45:49.35 ID:jkJjQkXI0
「いいかげんにしなさい! 歳納京子に池田千歳!
 黙ってみてたら段取りも何も無しにどこまでもボケてボケて!
 遊んでるような時間の余裕なんて余裕ありま温泉なのよ!?」

さすがに、この時ばかりは2人とも驚いた。
何かにつけて、綾乃が怒ったり怒鳴ったりをよく見はしたが、
この剣幕は、これまでで最大級のものであった。

……が、ここでまた千歳が余計な事をひらめいた。

「綾乃ちゃん、それや! その勢いが必要なんや!」

かくして、キョッピーアヤッピーチトセッピーによる勢い任せのなんだかよく分からない
漫才らしきものが誕生したのだ。

……一部には受けたらしいが。

42: 2011/08/22(月) 01:51:53.89 ID:jkJjQkXI0
「ごめんな~、うちもあの時はちょっと調子乗ってもうて~」

で、そのボケ担当の片割れは今、ナベ拭きに専念していた。
チョコレート作りに使った調理器具の類はもう全部きれいになったのだが、
どうやら勢いが止まらないらしく、シンクを中心として、
どんどん台所にあるあれやこれやが輝きを増していく。

「けど綾乃ちゃんも、たまにはうちにやきもち1つぐらい妬かせてもええんよ?」

微笑む千歳の視線の先では、すごい勢いでチョコレートが量産されていた。
頭から湯気を出しながら、実によいリズムで搾り出されていく。

「べ、別に人にわざわざ話すような事でも無いし!」

量産されていくのはいいが、どうにも当初の予定より小さいサイズである。

「えー、うちも聞きたいな~歳納さんとのおのろけ。な、幸せのおすそ分け」

43: 2011/08/22(月) 01:57:41.94 ID:jkJjQkXI0
不意に、アヤノッピーのチョコレート工場が稼動停止した。
うるっとした瞳が、行き場を求めてあちらこちらへと視線を泳がせる。

「そんな、ホイホイ言えるわけないじゃない、恥ずかしい……」

無意識のうちに、綾乃の口からため息が漏れていた。
いざ言われて色々思い出してしまうと、どれもこれもが、
甘ったるくて口に出すのもはばかられる雰囲気のものであった。

「そんな余裕、ありま温泉よ……」
「ふふふ、綾乃ちゃんはほんま可愛いな~」

気がついたら、千歳がフライパンを両手で持ち、
身をくねらせながら体ごと綾乃の方へと満面の笑みを飛ばしていた。

45: 2011/08/22(月) 02:04:38.71 ID:jkJjQkXI0
「もうその表情だけで幸せ一杯って感じやわ~」
「そうかしら……」

改めてそう言われると、なんとなく違和感があった。
まぁなかなか自覚できるものじゃないのかも――
そんな調子で、綾乃はとりあえず自分で自分を納得させることとした。

「今の綾乃ちゃんすごいキラキラしとるよ。うちも嬉しいな~、そんな綾乃ちゃん見られて」

そう言いつつも、千歳が放つキラキラ加減も綾乃のそれに決して見劣りするものではなかった。

「そうかしら……」

そうやってキラキラ比較をしてみると、はたして本当に自分にそれだけのキラキラ力があるのか。
なんとなく、綾乃の表情から自信が逃げ出し、臆病さが尻尾をもたげ始めた。
が、なんとなくよろこぶ千歳に申し訳ない感じがして、その弱気はささっと振り払われた。

「ありがとう、千歳」

そしてキラキラ対決に負けないよう、綾乃も最高の笑顔を作って千歳へと向き直る。

46: 2011/08/22(月) 02:10:15.28 ID:jkJjQkXI0
ほんの一瞬の事だった。
たぶんじっと見つめてないと気づかないであろうぐらいの間の事。
千歳の笑顔が変わっていた。

綾乃が京子と付き合い始める前によくしていた、あの笑顔。
もっとも、本当に一瞬の事で、今ではもうささっと満面の笑顔に切り替わっているのだが。

「もー、そんな顔したらあかんって!」
「えっ? 私なんか変な顔してた?」

もう一度、千歳の笑顔が変わった。
今度は一瞬などでなく、はっきりとあの見守るような笑顔に。

「ほら、恋する乙女はファイトファイトファイファイビーチやないと!」

知らない間に千歳の両手に力がこもっていた。
2つの握りこぶしを作り、気合が息となってフンス!と漏れ出す。

47: 2011/08/22(月) 02:15:32.59 ID:jkJjQkXI0
またしても、綾乃の顔が赤くそまり視線がふいっと逃げ出した。

「もう、真似しないでよ! 自分で言うならともかく、
 千歳に言われるとなんだか恥ずかしいのよ!」
「そういうものなん?」

興味深そうな顔で、千歳が逃げる視線の先へと顔を滑り込ませようと張り切る。

「そういうものなの! それに……」
「それに?」

いつの間にやら、きれいに綾乃と千歳が見つめあうような構図が出来上がってた。
星散る瞳が、無邪気に綾乃の表情をとらえていた。
なんとなく納得がいかないかのような、腹が立っているかのような。

「今冬だから、ファイファイビーチはどうかって思うの」
「あ、そこ大事なポイントなんや!」

さすがにこれには、千歳さんも手を打たざるにはいられなかった。

48: 2011/08/22(月) 02:22:30.68 ID:jkJjQkXI0
一方その頃。

晴れているとは言え、さすがにまだ2月の10日。
外は空気自体がひんやりと張り詰めていたし、時折ふく風が容赦なく熱を奪ってまわっていた。

――図書館の本も、あらかた読んじゃったな。

1人だと存外にやる事が無いものである。
趣味のゲームもあらかたやりつくしてしまったし、来月の末には引っ越すので余計な買い物も避けたい。
今までどおりであれば、部活にでも顔を出せばいいのだろうが、それもどうも気まずい感じがする。

結局、結衣としてはやり場の無い体をふらふらと底冷えする町内へと漂わせる他無かったのだ。

――今日は、ひとつ隣町でも歩いてみるかな。

私立の受験もすでに終わって、やる事なしの暇人身分である。
とにかく時間だけは、嫌というほどもてあましていた。

49: 2011/08/22(月) 02:28:28.22 ID:jkJjQkXI0
ふらり、ふらりと水面に浮かぶクラゲよろしく当ても無くあっちの道こっちの道を漂っていた。
まぁそれなりに健脚だし。日焼けするような季節でもなし。
楽しいのかどうかはともかく、そういう時間の過ごし方自体はさほど苦でも無かった。

……のだが、道の向こう、とりあえず輪郭ぐらいしか分からないけども、
それが何なのかが直感レベルで分かる『奴』の存在が、
結衣の心の中にひやりとした風を運び込んだ。

どうやら、気づいたのは向こうも同じようだ。

キョロキョロと、挙動不審に様子をうかがっている。
ペースを変えず、歩みを進める。
キョロキョロと、挙動不審に様子をうかがっている。
変わらず、さらに歩を進める。

『奴』は、電柱の影へと姿を隠した。

50: 2011/08/22(月) 02:34:41.09 ID:jkJjQkXI0
どうにもこうにも、そのわざとらしい振る舞いが毎度の事ながらイラっと来る。
ずかずかと、大またの歩調が結衣の体を突き動かしていた。

「こんなところで何してんだ、この色女」

電柱の影、まぁ当人なりにせいいっぱいの努力はしたのだろうが、
どう見ても隠れ切れていない京子の姿がそこにはあった。

「いや、見つかっちゃい、まし、た~……」

なんとも締まらぬ表情に、仁王立ちの結衣の鼻からも思わず息が漏れた。

「まったく、なぜ隠れる。なにか後ろめたい事でもしてるのか、お前は」

後ろめたい……と言えば、確かにそうなのかもしれない。
電柱の影にしゃがみこんで、身を縮めて、
どうやら見られたくない何かを、京子は自分の背中で懸命に隠し通そうと頑張っていた。

51: 2011/08/22(月) 02:40:41.00 ID:jkJjQkXI0
「そ、そんな事はございませんわよ!?」

そう言い放ち、ビシッと立とうとした京子であったが、やはりどうにも腰が引ける。
明らかに、逃げの姿勢のへっぴり腰であった。
じりじりと後ずさる京子の情けなさに、思わず結衣もため息に全身の力を持っていかれてしまった。

「この道って、あっちに行ったらお前ん家で、こっちに行ったらあかりん家だな」
「ういっ!?」
「で、その背中に隠してる奴……チョコか」
「うえっ!」

もう色々とみえみえすぎて、いよいよ嫌味を言う気力さえも無くなっていた

「……綾乃のなんだろ」

完全に戦意喪失状態の結衣を見上げながらも、
京子の表情は、冬の冷たさにすっかり冷え切ってしまっていた。

52: 2011/08/22(月) 02:48:22.28 ID:jkJjQkXI0
「うっ、う~ん。さすが結衣様、すべてお見通しで」

ふぅっと息を1つつくと、どうにか普段の京子に戻る事が出来たようである。

「まったく、何やってんだか」
「ほら、ワテお菓子なんて作りまへんやろ?そんなワテが手作りのチョコ送れば綾乃はん喜んでくれるんやないかと」
「ニセ関西弁うぜぇ……」

いつもの調子といえばいつもの調子なのだろうが、どうにもこうにも京子の振る舞いひとつひとつが
結衣の神経をざらりざらりとやすりがけしていた。

「で、あかりに手伝ってもらったのか」
「いやーその、消去法で考えたら、他に思い浮かばなくって……」

わざとらしく結衣からそらされた視線も、また気に食わないものであった。
どうにもこうにも逃げの一手。
だが、それが少し懐かしくもあったんじゃないかと言えば、幼馴染としては否定の出来ない所ではあった。

53: 2011/08/22(月) 02:56:54.82 ID:jkJjQkXI0
「まったく、しょうがない奴だな。この六方美人は」

たしかにしょうがない奴だし腹も立ったが、それでも幼馴染は幼馴染である。
長い付き合いで性分も分かってるし、まぁやってる事も大体は想像の範疇であった。
そりゃ確かに、最初は激しく同様させられたものの。

「えー、それを言うなら八方美人だよ結衣にゃ~ん」
「お前の場合、色々足りてないから六方で十分なんだよ」

こうして直接話をするのも数ヶ月ぶりであったが、相変わらずにバカであった。
むしろ、その変わらぬ部分に結衣は安心していた。
しかし、それと同じぐらいにざわつく気持ちも胸の深い部分に折り重なっていた。

「一生懸命なのもいいけど、あまり無理するなよ」

とりあえず、ポンと肩を叩いてこの場から立ち去る事とした。
他に何か出来るのであればともかく、今回は、これ以外にしようが無かった
結衣としても、精一杯気持ちを振り絞った上で、この程度の事しかやりようが無かったのである。

55: 2011/08/22(月) 03:04:48.34 ID:jkJjQkXI0
冬の空というのは、存外に綺麗なものである。
おそらく空気が張り詰めているからなのか、どこまでも透き通っている。

そんな冬の空気のせいか、遠ざかっていく結衣の背中が、
京子の目にはずいぶんとはっきり見えた。
他の季節だったらそんな事も無いのだろうか――いや。今、この時だからだろうか。
いつもだったらとっくにぼやけるほど遠くまで歩いても、まだ見える。

「無理なんてしてないってー!」

どうせ聞こえるはずも無いが、それでもあの背中に叫ばずにはいられなかった。
なんとなくだろうか。
小さい、おぼろげな影が小さく手を振ったような気がした。

どこまでも、どこまでも小さくなっていく影。
もう見えないだろうと観念して、ふと空を見上げた時、
丸い、でも少しかすれた真昼の青い月が京子の瞳へと飛び込んできた

56: 2011/08/22(月) 03:10:25.88 ID:jkJjQkXI0
4/10
2月12日 雨のち雪 ゆるやかな坂の通学路

朝の天気予報では雪が降ると言っていたが、どうやらまだそこまでの冷え込みではないようだ。
ぱらりぱらりと、並んで歩く赤の傘と青の傘が軽やかな雨音のリズムを奏でていた。

「受験が終わっての事とは言え、たいした事無いとええねぇ歳納さん」

千歳の言葉に、またため息がこぼれた。
学校を出てかれこれ15分の間に、はて何回ため息をついたことやら。

「まさかここまでバカだとは思わなかったわ」

そしてまたため息。

「水風呂入って風邪ひくだなんて何かんがえてるのかしら……」

いい加減、綾乃自身もため息を吐いているという自覚を無くしていた。

「人にはさんざん風邪ひくなって言っておいて……何だったかしら、手なんとかって」

57: 2011/08/22(月) 03:14:57.95 ID:jkJjQkXI0
「さすがにうちも、水垢離はちょっと考えてまうなぁ……」

今回ばかりは、千歳も理解が追いつけない様子である。

「千歳もそう思うでしょ! だいたい歳納京子はいつも行き当たりばったりで――」
「綾乃ちゃんやって、歳納さんの事となったら結構行き当たりばったりやないの~」

語気を荒げる綾乃に、千歳が肘でつついて茶々を入れる。
……というのも、割合に懐かしい光景であった。

「うん、まぁそう言われると否定はできないわね」

今度は千歳へとため息が伝播していた。

「きっと歳納さんも一生懸命なんやって!」
「一生懸命だと……入るの? 水風呂」

58: 2011/08/22(月) 03:20:42.59 ID:jkJjQkXI0
「変わったボケやね、綾乃ちゃん」

そう言いながら、千歳がかばんから携帯を取り出し、
画面やらキーやらを見つめながらメール文を映し出した。

「ほら、水風呂やのうて水垢離やん。何かこう、振り払いたい雑念でもあったんちゃうかなぁ」
「雑念ねぇ」

どうにも今ひとつ話の見えない状況に、自然と2人の口数も減っていた。

「だとしても、この時期にその道の人でも無いのに水垢離はやっぱり無い思うわぁ」

いきなり、千歳が語りだした。

「その道?」
「ほら、修験者とかそういう求道系言うんかなぁ」
「時々分かりにくいわねぇ、あなたの言う事って」

59: 2011/08/22(月) 03:27:32.22 ID:jkJjQkXI0
中身があるんだか無いんだかよく分からない会話を繰り返しているうちに、
千歳の家と京子の家への分かれ道に到着していた。

「それじゃ、うち帰り道こっちやから」
「ええ、また明日ね」
「ほな、またなー」

高台への階段を1段、2段と登りながら、千歳は振り向く綾乃へと手を振っていた。
ゆるい坂を、赤い傘がゆっくりゆっくり下っていく。
分かれ道を登る緑の傘は、中ほどで止まったままであった。
赤い傘が、だんだんと視界から消えていく。

「歳納京子、か……」

静かな雨音の鳴る緑の傘の中で、千歳がぽつりと小声をもらした。
いよいよ赤い傘が見えなくなり、それからしばらくして緑の傘もようやく石段を登り始めた。

「そろそろ京子とか、そういう呼び方してもええ頃合やと思うんやけどなぁ……」

60: 2011/08/22(月) 03:34:08.74 ID:jkJjQkXI0
病人のいる部屋というのは不思議なもので、ちゃんと明かりをつけているのに、
しっかり掃除が行き届いているのに、それでも何故か普段の部屋とはどこか空気が違っている。

額に冷えピッタを貼り付け、手入れどころではない髪はボサボサ。
瞳は潤み、顔が赤く染まり……と言っても色気などあるわけもなく、
ただただ心配にしかなれないありさまである。

呼吸も辛いだろうにマスクをしているというのは、まぁ風邪をうつさぬ様にという気遣いだろうか。

「ゲホッ、ゲホッ!」

1人は気楽、といえどさすがに病気の時ばかりは話が別。
両親も留守ゆえに、自力であれやこれやをどうにかしようというのが京子の腹であった。

カチャリと静かにドアが開いた。
先ほど訪れてきた客人が、粥を作って持ってきてくれたのだ。

62: 2011/08/22(月) 03:39:57.15 ID:jkJjQkXI0
ガラスの座卓に鍋敷きをひき、綾乃はその上へと土鍋を置いた。

「ほんとごめんよー、綾乃ーゴホッゲホッ!」

甲斐甲斐しく世話を焼こうとする綾乃を前にして、京子としてもただ横になってるだけというのは気がとがめた。
が、綾乃がそれを押しとどめようとする。

「いいからそのままそのまま横になってて」

とりあえず京子を寝かしつけ、土鍋から粥をすくう綾乃であったが、
京子の方は依然身を浮かして綾乃の様子を伺っていた。

「ほら、おかゆ食べられる?」

木製れんげに粥を取り、京子へと差し出す。
そして京子は、それを手に取り自ら口元へと運ぶ。

63: 2011/08/22(月) 03:47:27.73 ID:jkJjQkXI0
マスクを外し、唇をれんげに近づける。
しかし思いのほか強い熱が、京子の唇を焼いた。

「つっ!」
「大丈夫?」

れんげを手に取ろうとする綾乃であったが、
京子は身をよじりそれをかわす。
どうやら息を吹きかけ冷やそうとしているらしい。
が、喉やら鼻やらに引っかかるもののせいでうまくいかないようである。

「ふー、ふっゴホ!」
「無理しないで! ほら、すごい汗かいてる!」

土鍋にふたをし、今度は枕元のタオルで京子の汗を拭おうとする。

「いいって、自分で出来るから」

タオルをめぐって、宙で2つの手がもみくちゃになる。
が、失念していた訳ではあるまいれんげの粥が、その拍子で布団の上へと落ちた。

64: 2011/08/22(月) 03:54:12.85 ID:jkJjQkXI0
「大丈夫だって、そんな気を使わなくていいから」

タオルは綾乃の手に渡っていた。
が、肝心の病人はベッドから身を起こし、寝床から抜け出そうとしていた。

「どうしたの? トイレ行きたいの?」

ふらふらと、京子が立ち上がろうとするが、やはりうまくいかない。
熱で体の平衡感覚やら筋肉の動きやらが上手に操れないのだろう。
ぐらっと体が大きく傾いた。
とっさに綾乃が動く。

「あっ」

しかし互いの呼吸がまずかったのか、確かに京子が倒れるのは未然に防げたが、
綾乃は肩を座卓へしたたかに打ちつける羽目になった。

65: 2011/08/22(月) 04:00:01.73 ID:jkJjQkXI0
とりあえずそれほど急な角度ではなかったので、
さほど痛むというわけでもなく、綾乃も難なく立ち上がる事が出来た。

そして綾乃の無事を見届けた京子は、壁際のハンガーに向かい、
ちゃんちゃんこに袖を通していた。

「もう帰ったほうがいいよ。風邪うつすといけないし。
 私は大丈夫だから」
「でも」

すでに京子は、廊下の方へと歩みを進めていた。
綾乃も後につながる言葉を持てず、ただ黙ってその背中についていくしかなかった。

玄関へ向かう間にも、何度か京子の体は大きくふらついていた。
だが綾乃は手助けが出来ずに居た。
何か理由があっての事ではない。
なんとなく。
なんとなく、手を伸ばすと振り払われそうな、そういう予感を感じていた。

66: 2011/08/22(月) 04:06:55.69 ID:jkJjQkXI0
「おかゆ、後で冷めたら食べるよ。今日はごめんよー」

京子が玄関を開けるのと同時に、骨身にまでしみる冷たさが屋内へと流れ込んできた。
扉を支えたままの京子の脇を通り、綾乃はその冷えた空気の中に飛び出していく。

「それじゃ、ゆっくり休むのよ」

傘を開き、顔だけ振り向き京子へと声をかけた。
ぼた、ぼた、ぼたと重い音が傘に打ち付けられる。

「うん。今日はごめんなー、千歳にもよろしくー」

穏やかな口調であった。
だが、何かがいつもと違った。
なぜか分からない冷えが、綾乃の中へと滑り込んできた。

67: 2011/08/22(月) 04:13:25.62 ID:jkJjQkXI0
雨足が強まったのか、雨粒の一つ一つが大きくなったのか。
ぼた、ぼ、ぼ、ぼた、ぼ、た、と拍子の取れないリズムが傘の中に響く。
玄関から数歩の所で、何となくまた後ろを振り向くと、
まだ京子が玄関の所に立っていた。

自然と、足が前へ進んでいた。
前へ。前へ。前へ。

早足で、京子の家から赤い傘が遠ざかっていった。
1つ角を曲がり、2つ角を曲がり。
そのたびに、ギアが1つ落ちるかのように、スピードが落ちていく。

水溜りもかまわず進む靴の中には、水が染み込み始めていた。

赤い傘のスピードが、京子の家から離れるにつれだんだんと落ちていった。

68: 2011/08/22(月) 04:19:44.64 ID:jkJjQkXI0
登りの坂道にさしかかった頃だろうか。
傘はもう、進んでいるのか止まっているのかも定かでない鈍足になっていた。

「やっぱり駄目ね、私って」

かすれた声が、傘の中に漏れた。

思い人が患っている時に何を不謹慎な、と言われるであろう。
だが、この坂を下ってきた時にいくらか心が弾んでいた事は否定できない事実であった。

粥を作って、息を吹きかけ冷やしてやって、あーんとやって食べさせたり、
汗ばんだ肌を拭ったり、着替えがいるなら手伝ったり、眠りにつくまで側で見守ったり。

しかし、実際にどれほどの事が出来たのか。
あの部屋で過ごした短い時間を思い返せば思い返すほどに、
靴に染み込んだ水は冷たさを増していった。

70: 2011/08/22(月) 04:25:59.88 ID:jkJjQkXI0
ふと、玄関先で見送る京子の姿が頭に浮かんだ。
申し訳なさそうな笑顔で、ずっと綾乃を見送っていたあの姿。

そして、その直前に京子にかけた言葉もはっきりと覚えていた。
「ゆっくり休むのよ」と。

だんだんと、綾乃の中で歯車が狂い始めた。
あの笑顔は優しさだったのか。
私の言葉はちゃんと届いていたのか。
考えれば考えるほどに、分からなくなる。

やがて、回転を早めた歯車は、
周囲でゆるやかに回っていた記憶も巻き込み
どんどんどんどんうねりを大きくしていった。

72: 2011/08/22(月) 04:32:33.49 ID:jkJjQkXI0
記憶が、ゆっくりと逆巻き始めていく。
昨日の京子。先週の京子。年初めの京子。
そして告白の返事をくれた日の京子。

また、傘を打つ音色のリズムが変わった。
雨がみぞれになり、ぼつ、ぼつ、ぼつ、と沈むような音色を奏でる。

すでに、綾乃の足は止まっていた。
初めて手をつないだ日。みんなで一緒に海に行った日。
記憶は、止まる事無くどんどんさかのぼっていった。

廊下ですれ違い、ただ目で追うのが精一杯だった頃の事。
いつの間にか、活発で元気な子になっていた頃の事。
なんとなく親近感を抱いていた、まだ泣き虫だった頃の京子。

思い出をさかのぼればさかのぼるほどに、その輝きは増していき、
それとは逆に、心のきしみがゆっくりと大きくなっていった。

73: 2011/08/22(月) 04:38:27.45 ID:jkJjQkXI0
記憶の渦の中心には、ラブレターの返事をしてくれた日の京子の笑顔があった。
文化祭の後、勇気を出して渡したラブレターだった。
そして、返事がくるまで一週間。
今までの人生の中で、もっとも長かった一週間。

「付き合おう」と言ってくれたあの日の笑顔。
だがそれも、もうさっきの笑顔に塗り替えられてしまっていた。
どんな笑顔だったのか、もう思い出せなくなっていた。

幸せに満ちた笑顔だったのか、はにかむような笑顔だったのか。
それとも、さっきのような申し訳なさげな笑顔だったのか。

記憶の海から、ふと視線を上げた。
もう音も無かった。
色も無かった。
風の音も、雨音も聞こえない、どこまでも広がるモノトーンの世界が目の前に広がっていた。

74: 2011/08/22(月) 04:45:03.88 ID:jkJjQkXI0
芯まで冷えた体の中心で、どうする事も出来ない乱れた鼓動だけが鳴り響いていた。

――ファイトファイトファイファイビーチやで!

ふと、聞きなれた声がどこからか聞こえてきたような気がした。
そして、それが呼び水になって再び記憶の海に波が立ち始める。
その記憶は、中学に入ってすぐの頃にまでしかさかのぼれない。そこが終点である。
でもその記憶は、春の日差しにきらめく水面のようにどこまでも輝いていた。

だが、そのまぶしさが綾乃の眉間へとしわを走らせていた。
2つの記憶が交互に再生される。
きらきらした記憶と、色彩を失った記憶。
幾重にも押し寄せる波が、綾乃の体温をどこまでも奪っていった。

「なんで……」

もはや悲鳴にもならないか細い叫びが、無意識のうちに漏れ出ていた。

75: 2011/08/22(月) 04:52:15.57 ID:jkJjQkXI0
心地よかったはずの思い出の日差しが、だんだんと熱を増していく。
底冷えするような冷たさと、身を焦がすような直視しがたい輝き。
その2つが、綾乃の全身をゆっくりと蝕む。

今までずっと背中から支えてくれていた、穏やかな日差しのような千歳の優しさが、
まるで自分の弱さを責める炎と化していた。
ずっと追い続けていた人の笑顔が、明るさが、彼方から吹き付ける寒風と化していた。

いつしか、みぞれ混じりの雨は雪に変わっていた。
白く染まり行く世界の中で、赤い傘が身を縮め、小刻みに震える。
冷たく静かな風が、唯一残されていた、2つの瞳からこぼれ落ちる熱さえも容赦なく奪い、
途切れ途切れの嗚咽だけが道の片隅に染み付いていた。

79: 2011/08/22(月) 05:08:40.32 ID:jkJjQkXI0
5/10
3月16日 晴れ 赤座家 あかりの部屋

わりとマジな顔であった。
鏡を手にとり、色々と表情を作ってみる。
瞳の見開き具合を色々変えてみたり、口角を上下に動かしてみたり。
……が、いいかげんそれにも飽きてきて、今度は指で唇を潰したり、目を左右に引っ張ってみたり。

「なにしてるの?」

あ、コレ結構自信持てる顔かもって出来の変顔を試している最中に、聞きなれた声が帰ってきた。
トレーの上に乗せているのはぜんざいと塩昆布。飲み物はほうじ茶のようだ。

「フェイシャルマッサージー」

友達の部屋に我が物顔で寝っころがっていたちなつが、手鏡をベッドの上に放り投げ立ち上がる。

「それよりあかりちゃん、もうちょっとこう部屋に入ってくる時は気配っていうかさー」
「ちなつちゃん、それ以前にここあかりの部屋だから! なんでちなつちゃんが我が物顔なのかなぁ!」

80: 2011/08/22(月) 05:13:29.87 ID:jkJjQkXI0
しみじみとお茶を酌み交わす、中学3年目前の春であった。

「それにしても、あかりちゃんの髪けっこう伸びたよねー」
「えへへー、そうかなぁ」

照れてるような、喜んでいるような。
そんな表情を浮かべながら、あかりは肩にかかる髪をくるくるといじっていた。

「お姉ちゃんみたいな髪型にしたいんだよね」

そう言いうあかりの頬が、ほんのりと赤く染まっていた。

「今のままのあかりちゃんでいいと思うけどなー」
「えー、あかりだって大人っぽくなりたいよー」

――まぁ見た目だけなら問題ないか。
あの日のトラウマは、ちなつの腹の中へと未だに押し込められたままだった。

81: 2011/08/22(月) 05:20:10.82 ID:jkJjQkXI0
「気持ちは分かるけど、あかりちゃんにはずっとあかりちゃんのままでいて欲しいよ。
 なんていうか、あかりちゃんは変わっちゃいけないって気がするんだよね」

そんなちなつの言葉に、あかりは穏やかな微笑みを返した。
そしてほうじ茶に口をつけ、おずおずの飲み込み、一息ついて。

「ちなつちゃんは結衣ちゃんと同じ高校行っちゃうんだよね」
「何度も言わないで。あかりちゃんにそう言われるといたたまれなくなってくるから」

ぜんざいをすすりつつも、ちなつの目は上目遣いにあかりの事を捕らえていた。

「櫻子ちゃんは生徒会の副会長になっちゃうし、京子ちゃんは杉浦先輩と恋人同士だし。
 なんかあかり1人だけ置いてけぼりな気分なんだよね~」
「コロコロ変わるより一途な方が絶対いいって!」

ぜんざいの椀を置いたちなつが、熱っぽく言い放つ。

「なんか話題がかみ合ってない気がするけど……でもそう言われると、あかりもそうかなって気がしてきたよ」

82: 2011/08/22(月) 05:26:07.75 ID:jkJjQkXI0
あかりの口の中へと塩昆布が放り込まれ、少し遅れてほうじ茶が流れ込んだ。

「けど来年度から娯楽部どうしよう。私達だけになっちゃうよね」
「部員を集めて茶道部作ったらどうかな。ちなつちゃん元々茶道部に入りたかったんだよね」
「ああ、あったねそんな事」

いつの間にか、ちなつはベッドに寝っころがって雑誌へと視線を落としていた。

「けど私も受験勉強で忙しくなるだろうからなぁ」
「ちなつちゃん、結衣ちゃんと同じ高校に――」
「だからそれやめてって」

お茶を飲みしみじみと語るあかりであったが、その話題はちなつにスッパリとカットされてしまった。

「ところでちなつちゃん、ちょっと思った事があるんだけど」
「ん、何?」

83: 2011/08/22(月) 05:31:53.84 ID:jkJjQkXI0
急須から、とぽとぽとお茶が湯のみへと流れ込む。
暖かな香気を楽しみ、茶をすすり、一息ついて静かに座卓へと湯のみを置いて、
あかりが視線を少し伏せ、つぶやいた。

「あかりたち、なんか今回お茶飲んでしゃべってるだけだね」
「これはこれで楽しいし、いいんじゃないかな?」

すっと、あかりが立ち上がった。
ゆるゆると窓に近づき、開け放つ。

吹き込む風はまだ肌寒いが、綺麗な青空がどこまでも続いていた。

「結衣ちゃんや京子ちゃん達、今頃どうしてるんだろね」
「大丈夫だよ、私達の事忘れてるって訳じゃないって。ただ色々忙しいだけで」

84: 2011/08/22(月) 05:37:49.48 ID:jkJjQkXI0
首筋を冷やす風が、少し伸びたあかりの髪をそっと揺らした。

「うまくいってるといいね、みんな」
「ほら、お茶飲も? そんなところに立ってたら冷えちゃうよ」

ふと、あかりの両肩に暖かい感触が乗せられた。
後ろに立つちなつが、両手を乗せあかりの顔を覗き込んでいたのである。

「うん、そうだね」

再び窓が閉められた。

「何も連絡とか無いって事は、きっと何も起こってないって事だよね」

暖かな空気に覆われた部屋の中、しみじみと茶をすすりつつ、あかりが穏やかな息を吐きつつ呟いた。

「まぁそう思うしかないよ」

そしてベッドの上のちなつは、寝っころがったままあいかわらず塩昆布をかじっていた。

85: 2011/08/22(月) 05:42:45.27 ID:jkJjQkXI0
6/10
3月16日 晴れ 夕日差す生徒会室、そして2つの寝室

横殴りの夕日が差し込む生徒会室の中に、2つの人影があった。
1つは会長の席に身を沈め、もう1つは甲斐甲斐しく動き回っている。

「いよいようちらも生徒会引退やねぇ」

整理の終わった書庫へと鍵をかけつつ、しんみりと千歳が話しかける。

「ええ、そうね」

が、綾乃は机の上の書類にペンを走らせる事に集中していて、
返されたのは生返事であった。

「なぁ、ぼちぼち終わりそう? 久しぶりに綾乃ちゃんと一緒に帰りたいなぁ~」

それでも千歳はいつもどおり、綾乃へやんわりと言葉を投げかけ続けていた。

88: 2011/08/22(月) 05:50:35.45 ID:jkJjQkXI0
それでも書き物の手を止めなかった綾乃だが、
少しの時差の後に手が止まり、口から深々とした息が吐き出された。

「ごめんなさい、こっちはもうちょっとかかりそうだから、先に帰っててもいいわよ」
「大変なんやったら手伝おか? 他の子らもみんな帰ってもうてるし」
「大丈夫よ、心配しないで」

生徒会室に流れる不思議な空気が、いつの間にか千歳の動きを止めていた。
カリカリと、ペンが紙に擦れる音だけが、夕日に染まる室内に響く。
そして、時折紙のめくれる音。

千歳はずっと綾乃を見ていた。
視線は紙の上へと落とされたままで、全く帰ってこない。
何となく、千歳も身動きできないまま口を閉ざしていた

89: 2011/08/22(月) 05:56:41.81 ID:jkJjQkXI0
「なあ、綾乃ちゃん。もしかして歳納さんと――」

重苦しい空気を振り払い、どうにか声を絞り出した千歳だったが、
その言葉を断ち切るかのように、綾乃が立ち上がった。

書庫へと向かい、ファイルの背表紙に指を滑らせる綾乃の背中を見つめる事しか、
千歳はできずにいた。

ファイルの背表紙に指をひっかけ、取り出すのかと思えば取り出さない。
また別の背表紙をひっぱり、そして元に戻す。
ゆっくり沈んでゆく夕日が、2人の影をさらに濃くしていった。

「本当に、大丈夫なん?」

千歳の声が、綾乃の動きを止めた。
深い吐息が、また1つ生徒会室にこぼれ落ちる。
2人とも、黙ったまま、どうする事も出来ずにいた。

90: 2011/08/22(月) 06:02:40.32 ID:jkJjQkXI0
やがて、ゆっくりと綾乃が振り向いた。

「本当に心配性ね、千歳は」

夕日が綾乃の微笑みの陰影をより深いものにする。
その表情は千歳を戸惑わせた。
確かに、微笑みに違いない。
だが、何かが違う。

数秒、2人は見つめ合っていただろうか。
綾乃が視線を外し、書庫の戸を閉め再び会長席へと戻った。

また、ペンの音が室内を支配する。
だが、千歳はそれとはまた別の音を聞いていた。

まるで、早鐘のような鼓動の音色を。

91: 2011/08/22(月) 06:09:56.64 ID:jkJjQkXI0
気がついたら、千歳は綾乃の隣に立っていた。
黙々と書類にペンを走らせる姿を見下ろしながら、
どう言葉をかけるか。どう接すればいいか。

繰り返し、繰り返し、その候補を頭の中で探し続けた。
でも、どれだけ探しても、その答えは見つからなかった。

さっきの微笑みから視線を外す一瞬に見た表情。
あの表情に対してかけられる言葉を、千歳は持ち合わせていなかった。

夕日はさらに角度を落としていた。
空に闇色が支配を広めていく。

どうすればいいかも分からなかったが、
それでも、何かをしたかった。

千歳は、いつも教室でそうしていたように、
とりあえず、しゃがんで綾乃と視線をあわせる事から始める事にした。

92: 2011/08/22(月) 06:16:33.08 ID:jkJjQkXI0
椅子の脇にしゃがみこんで、千歳は綾乃の顔を眺めていた。
だが、そこからは何も伝わってこない。
書類にのみ視線と落とし、ただただペンを走らせる。

自然と手が、椅子のひじ掛けに乗っかっていた。
少しでも近づこうと、椅子に体を寄りかからせて。

「綾乃ちゃん、最近なんか雰囲気変わってもうたね」

なんとか、ありのままの気持ちを搾り出してみたが、
それでも何の反応も無い。

「うちに出来る事あったら、遠慮せんと言うてな」

言葉を搾り出せば搾り出すほどに、胸が締め付けられる。
まるで、少しずつ自分の存在が消えてゆくような感覚が、
千歳の中に芽生え始めていた。

93: 2011/08/22(月) 06:25:19.65 ID:jkJjQkXI0
それでも、千歳は綾乃の側を離れようとしなかった。

もう夕日はほとんど隠れてしまっていた。
空気も冷え、千歳の体はかすかに身震いしていた。

「なんでやろね」

ぽつりと、千歳が声を漏らした。

「今の綾乃ちゃん見てると、うちも辛く――」
「だったら」

ようやく、綾乃が千歳の言葉に反応した。

「辛いならどこか行けばいいじゃない!」

ぽたり、ぽたりと書類の上に雨が降り始めていた。

95: 2011/08/22(月) 06:32:34.79 ID:jkJjQkXI0
降りしきる雨の中、表情を失ったまま
綾乃の事を見上げていた千歳であったが、
すぅっと目を閉じ、息を1つ吐いたら、
その顔にはいつもの笑顔が戻っていた。

「ごめんな、綾乃ちゃん」

そう呟くと、立ち上がり一歩また一歩と綾乃の側を離れていった。

「なんかうち、おらんほうがええみたいやね」

透き通った声が、背中を向けたままの千歳から綾乃へと投げかけられる。

「先帰るな。綾乃ちゃんも、無理したら――」

それ以上、言葉は続けられなかった。
まるでわが身を抱きかかえるかのように身をすくめていた千歳だったが、
肩が小さく揺れ始めると、まるで逃げ出すかのようにして生徒会室から飛び出していった。

96: 2011/08/22(月) 06:37:06.18 ID:jkJjQkXI0
ほとんどが闇に染まった中で、まだ生徒会室だけが明かりをともしていた。
人影は1つだけ。
机につっぷして動かなくなったその影は、廊下へと泣き声を響かせていた。

ただ声だけが響く。

どれほどの時間が流れただろう。
ついにその声も途切れた。

それでも、人影は動かなかった。

夜空には、赤く大きな月が昇り始めていた。

97: 2011/08/22(月) 06:44:24.19 ID:jkJjQkXI0
夜、池田家。

「ちづちゃんももう寝るんかい、早いなぁ」

声をかけてきた祖母へと、千鶴が小さくうなずき「おやすみ」を伝えた。
息を頃すようにして、廊下を進んだ。

いつも通った廊下が今日はやけに肌寒かった。
キシ、キシと床がきしむ。

そしていつもと変わらぬ、姉の部屋の前へとたどり着いた。
だが、その襖に手をかけるのがどうしようもなく怖かった。

――姉さん。

でも、胸の中で微笑む姉の姿がその背中を押してくれた。
おそるおそる襖を開き、千鶴はその中へと顔をのぞかせた。

98: 2011/08/22(月) 06:48:54.97 ID:jkJjQkXI0
「姉さん、起きてる?」

いつものようにそっとささやきかけるが返事が無い。
千鶴はしばし、その場にたたずんでいた。

薄っすらと、闇に目が慣れてきた。

千歳は壁の方を向いて布団に潜り込んでいた。
普段と逆のその向きが、千鶴の胸をざわつかせた。

「うん、起きてるよ」

だが、ようやく帰ってきた姉の声が、
心の波を鎮めてくれた。

とても透き通った、きれいで、
消えてしまいそうな声が。

100: 2011/08/22(月) 06:53:45.08 ID:jkJjQkXI0
「一緒に寝てもいい?」

また沈黙が続いたが、今度はさっきほど
不安ではなかった。

息を整え、待つ。

「ええよ」

今回は少し早い返事だった。

「おいで、ほんま千鶴は甘えん坊さんやね」

薄闇の中で、姉が体を起こし布団をめくってくれていた。
表情はさすがに読み取れなかったが、
いつも通りの優しい声が、千鶴に笑顔を思い起こさせていた。

後ろ手に襖を閉め、布団へと近づく。
足を潜り込ませ、全身を横たえると、
普段と変わらない温もりが千鶴を受け入れてくれた。

101: 2011/08/22(月) 07:00:34.29 ID:jkJjQkXI0
千歳と千鶴は、2人並んで天井を眺めていた。
何も見えない闇ではあったが
なんとなく空へと広がる闇のようだと、
2人とも幼い頃から天井を眺めるのが好きだった。

すぅっと遠くへ続く闇の中へ、2つの呼吸音が吸い込まれてゆく。
規則正しい呼吸が、時折乱れる。
その音色が、千鶴の不安を掻き立てていた。

「何かあったの?」

千鶴が疑問を口にした瞬間、大きく呼吸が揺らいだ。
ふと、右隣で気配がした。
どうやら千歳が壁の方へと向きを変えたらしい。

乱れた呼吸音が続く。
姉の後姿を見ながら、千鶴は何も言わず、その音色に耳を傾けていた。

103: 2011/08/22(月) 07:08:24.71 ID:jkJjQkXI0
あれから何小節分の音色が流れただろうか。
ようやく、リズムが一定に戻り始めていた。

「今日な……」

千歳の吐き出した息が、再びリズムを崩し始めた。
闇になれた千鶴の目には、もうはっきりと見えていた。
小刻みに震える姉の細い肩が。

「初めてや」

搾り出すかのような、透き通った消え入りそうな声が、
断続的に続いた。

「あんな悲しそうな笑顔」

気づいたら、震えの止まらない方へと千鶴の手が伸びていた。

「うち、もう何もできへんの?」

千鶴の目にも、自然と涙が溢れ出す。

「なんで綾乃ちゃんがあんな苦しまなあかんの?」

千歳の声は、もうほとんど呼吸音と変わりなくなっていた。
千鶴は、どうする事も出来ず、
せめて肩に手を当て、一緒に涙するので精一杯だった。

104: 2011/08/22(月) 07:13:37.21 ID:jkJjQkXI0
夜、杉浦家

もう何時間そうしていた事か。
布団も制服もしわだらけになっていた。
涙で濡れた布団は冷え切り、容赦なく顔から体温を奪っていた。

綾乃の中で、何度も記憶が甦っていた。
そして、思い出すごとに嗚咽が漏れ、目から涙があふれる。

海に行った時の事。修学旅行に行った時の事。
生徒会で一緒にすごした日々の事。初めて声をかけてくれた日の事

千歳の笑顔を思い出すたびに、痛みが、苦しさが、
目から口からあふれ出していた。

電気の消えた部屋の中、まだ嗚咽は鳴り響いている。

105: 2011/08/22(月) 07:18:06.38 ID:jkJjQkXI0
時計の針が日付変更線を大きく超えた頃だろうか。
ようやく、部屋に静寂が戻っていた。
未だ闇の中のベッドに腰掛けて、綾乃はぼんやりと考えていた。

今までの事、これからの事。

時折、重苦しい息の音が部屋に響く。
いくら考えても、答えは出なかった。

何が正しかったのか。何が間違ってたのか。

考えれば考えるほどに、自分の体が砕けていくようなを覚えていた。

106: 2011/08/22(月) 07:25:18.09 ID:jkJjQkXI0
気づいたら、空がもう白み始めていた。
重苦しい体をどうにか動かし、登校に備えるため洗面所へと向かう。

洗面所の明かりをつけ、鏡をのぞき、そして綾乃は驚いた。
あまりにひどい顔だった。

「ダメだ……」

腫れ上がった目、深々と染み付いたクマ。
ほうれい線もくっきりと浮かび上がり、まるで一気に数十年の歳を重ねたかのような顔だったが、
それがむしろ綾乃の背中を強く押し出した。

とりあえず顔を洗った。
普段のようにお湯ではなく、今日は冷たい水で。

そして、少し冴えた頭で部屋へと戻ると、今度は椅子に腰掛けて考え事を始めた。

108: 2011/08/22(月) 07:31:51.91 ID:jkJjQkXI0
明かりのついた部屋で、視線を泳がせながら考えを巡らせる。
2人の顔が、声が頭をよぎる度に目から涙がこぼれそうになったが、
上を向き目を閉じこらえ続けていた。

――綾乃の笑顔って、トキメキ100万ボルト
――綾乃ちゃんの笑顔を見てると、なんかうちまで幸せになるわぁ

何度も、何度も考える。が、それでも答えは出ない。
――やっぱり私1人じゃどうしようもないのかしら
思わず弱音が出そうになるが、もう誰も助けてくれないという事実がそれを押しとどめさせた。

どうすればいいのか。
どうすれば、また笑顔に戻れるのか。

まだ、千歳の笑顔を思い出すと涙がこぼれそうになる。
それでも、千歳の笑顔が何度も頭に浮かんできた。

110: 2011/08/22(月) 07:40:55.57 ID:jkJjQkXI0
――綾乃ちゃんの行き当たりばったりなところ、好きやわぁ~

ふと、心の中で1つの言葉がひっかかった。
「行き当たりばったり……」
その言葉を繰り返しているうちに、なぜか穏やかな笑いが腹からこみ上げ始める。
「私、やっぱりバカだわ」

小さく微笑むと、綾乃は椅子から立ち上がり窓を開けて外の空気を大きく吸い込んだ。
胸の中へ、ひんやりとした風が流れ込んでくる。

「考えたって分かるわけないじゃない、相手はあの歳納京子よ」

さっきまで自分を苦しめていた京子の笑顔が、
今ではなんとも小ざかしいものに思えていた。

「ぶつかってやるしかないわ! 逃げるなんて……罰金バッキンガムよ」
――その調子や、綾乃ちゃん!

ふと、千歳の言葉が頭をよぎり、また涙がこぼれた。
だが今度は我慢などしなかった。

「千歳……ありがとう」

頬を滑り落ちる暖かい温もりが、自然と綾乃を笑顔へと変えていたのだ。

111: 2011/08/22(月) 07:47:06.46 ID:jkJjQkXI0
7/10
3月18日 晴れ 学校裏の公園

まだ肌寒い日差しの中で、綾乃は1人ベンチに腰掛け髪先をちょこちょこといじくり苦笑していた。

「我ながら陳腐って言うかなんて言うか」

ひやっとした風が、綾乃の肩を覆っていたセミロングの毛先をゆらす。
かれこれ20分は待っている。
もし今までであれば、今頃心は激しく波打ち瞳に涙を浮かべもしていたかもしれないが、
今日はじつに穏やかな心もちのままであった。

「ま、30分ぐらいは簡便してやるか」

……などと思っていた矢先、並木道の向こうから早足気味にそれはやってきた。
金髪のリボンにポニーテール。

ほんの少しだけ、綾乃の体に緊張が走った。

112: 2011/08/22(月) 07:52:15.97 ID:jkJjQkXI0
「いやーごめんごめん遅くなっちって」
「ほんと、遅かったわね」

軽く息を吐き、胸の中のものをそのままぶつけた。

「もしかして、こないんじゃないかって心配してた所よ」
「えー、どんだけ遅くなっても京子たんは約束やぶったりしませんよ?」
「バカね、それ普通に約束破ってるじゃない」

ふと京子の顔を見上げると、ずいぶんと不思議な表情をしていた。
なんというか、まるで捨てられた子犬というか。

「とりあえず座りなさいよ」
「え、あ、うん」

綾乃にすすられるまま腰掛けた京子であったが、
2人の間には微妙な空間が空けられていた。

113: 2011/08/22(月) 07:58:17.10 ID:jkJjQkXI0
「けど千歳どうしたんだろ、今日も学校休んでるけどさー。何か知らない? 綾乃っち~」

一気に、2人の間の空気が気温を落とした。

「……知ってるけど言いたくないわ」

首を動かさず、にらむような視線だけを京子の方へ向ける。

「そっか何かワケアリか~。じゃ無理に聞き出すのもヤボってもんかな」

普段と変わらない京子であったが、その普段どおりの振る舞いが、
綾乃の胸に静かな怒りを燃え上がらせはじめていた。

「けどそのイメチェン、バッチグーだね! 私も髪切っちゃお――」
「じゃ、私が坊主頭にしたらあなたも坊主頭にするの?」

言い過ぎたか、という気持ちが無かったといえば嘘になる。
が、それ以上にこの一言が、綾乃の中の何かを吹っ切れさせた。

114: 2011/08/22(月) 08:04:01.92 ID:jkJjQkXI0
「私がポニーテールにしてたらポニーテールにして、髪を切ったら髪切るとか言い出して」

沈黙の風が、2人の間をさぁっと吹き抜ける。

「綾乃、もしかして今日、すごく機嫌悪い?」

京子の問いには、ため息だけが返された。

「もしかして……私の事、嫌いになったとか?」

静まった午後の公園に、風の通り抜ける音だけが響く。
体が冷えてしまいそうな空気の中、綾乃が静かに言葉を手繰り始めた。

「正直言うと、好きとか嫌い以前に……嫌なの。
 あなたっていっつもそう。人の顔色うかがって、調子のいい事ばっかり言って」

穏やかで淡々とした口調だったが、それが逆に京子の胸へ深々と突き刺さっていた。

115: 2011/08/22(月) 08:10:15.72 ID:jkJjQkXI0
「プリンお食べだとか、手をつないでこうすると恋人って感じーだとか」

淡々と記憶を掘り下げ、静かにそれを吐き出す綾乃であったが、
それとは裏腹に、目じりにはうっすらと熱いものがこみ上げ始めていた。

「だいたいお見舞いの時、どうしてほしかったのよ。何やってもいいからいいからって! 放っておけばよかったの!?」

目じりの熱が語気にも伝播し、いつしか綾乃の肩が小刻みに震えていた。
胸の中がざわつく。
深呼吸をして自分を落ち着かせる。

じっと前を見たまま、心の中のものをそのまま吐き出した綾乃であったが、
京子からは何の返事も無かった。

「ねえ、聞いて――」

キッと京子の方へと向き直ると、そこには顔を覆い、肩を震わせ泣きじゃくっている京子の姿があった。

116: 2011/08/22(月) 08:16:13.85 ID:jkJjQkXI0
その姿を見た瞬間、綾乃の中にあった怒りも苛立ちも、全部吹き飛んでしまった。
ふいに、綾乃の表情が緩んだ。
その笑顔は今までに無いものだった。
無理に作ったわけでもなく、ときめきを押し頃したようなものでもなく。
丁度、千歳が綾乃に向けていたような笑顔が自然と綾乃の顔にも表れていた。

「私達、恋人同士になるの無理だったみたいね」

ぽつりとこぼれた言葉が、泣きじゃくる京子の動きを止めた。

「ごめん、私もっと頑張るから、だから――」
「もう、バカね」

綾乃の手がぽふっと京子の頭に置かれた。

「そうやって頑張って頑張って、私達変な感じになっちゃってたんじゃない」

117: 2011/08/22(月) 08:22:27.93 ID:jkJjQkXI0
頭を撫でられ、京子は子犬のような表情のまま綾乃を見つめていた。

「今にして思えば、歳納京子ーって言ってたころの方がずっと自然――」

穏やかに語りながら京子の涙を拭っていた綾乃が、クスリと笑った。

「違う、全然自然じゃなかった。私、すっごい意地っ張りだった」
「いわゆる……ツンデレ?」

京子の顔にも、おだやかな笑顔が戻ってきていた。

「そういえばさ、どうして歳納京子って呼び方だったの?」
「仕方ないじゃない、無意識のうちにそう呼んじゃってたんだから!」
「もー、普通に京子って呼べばよかったのにー。結構気にしてたんだよ? その呼び方」
「それだけ意識しちゃってたって事よ」
「意識して無意識に?」
「そこつなげないでよ、バカ!」

いつの間にか、2人の体から力みも緊張も抜けきっていた。

118: 2011/08/22(月) 08:28:26.73 ID:jkJjQkXI0
少し肌寒い風が、木々に芽吹く新芽の間をすり抜けていった。

「なんかいいわね、この感じ」
「うん。綾乃……ごめんね、色々辛い思いさせちゃって」
「いいのよ、もう」

綾乃の言葉をかみ締めるかのように閉じられた京子の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちていた。

「あーあ、私ってまだまだ全然ダメダメだなー」

そういいながらベンチから立ち上がった京子が、大きく伸びをして空を見あげる。
その後姿に、綾乃はほんの少しの寂しさを感じ取っていた。

「最初から完璧になんて無理に決まってるんだから、自分のペースで頑張ればいいのよ」

震える声が、京子を振り向かせた。

「綾乃……どうしたの?」

120: 2011/08/22(月) 08:35:39.78 ID:jkJjQkXI0
「私ね、千歳に、ひどい事言っちゃったの」

綾乃の肩が、何度も大きく揺れ、一息一息、どうにかして搾り出すかのように言葉をつなげていた。

「私1人じゃ、怖いの。行くのが」
「分かった。じゃ一緒に行こう!」

今度は泣きじゃくる綾乃の肩を京子がしっかりとつかんでいた。

「ありがとう」
「礼なんていいから! 綾乃立てる?」

京子の手が、綾乃の手をしっかりと握り締めていた。

「うん。大丈夫」
「きっと千歳も辛かったはずだから。いつも、私達の事見守ってくれてて」

綾乃の手を引き、前を向いていた京子だったが、その震える声が綾乃にはたまらなく嬉しかった。

「ありがとう、京子」
「いこう、千歳の所へ」

121: 2011/08/22(月) 08:43:18.17 ID:jkJjQkXI0
8/10
3月25日 曇り 結衣の部屋 引越し前日

ずっと生まれ育ってきた町の景色だったが、今日はすべてがどこか違って見えた。

――あと3日か。

一度実家に戻って、旅立ちの日が28日。
部屋に引越し業者がくるのは明日の事だったが、まだ少しだけこの町に留まれる猶予があった。

一時は七森町を避けるように隣町などを歩き回っていた結衣だったが、
最近では自然と七森町の思い出の場所へと足が向いていた。

――こんなセンチメンタリストだっけか、私って。

自嘲の笑みを浮かべながら、今日もまた子供の頃遊んでいた場所をめぐっていた。

やがて日も暮れ、まだほんのり冷える風の中、家路を急ぐ。
引越しの用意があらかた終わったとはいえ、まだまだ名残惜しいわが家である。

122: 2011/08/22(月) 08:50:00.51 ID:jkJjQkXI0
エレベーターの扉が開いて、廊下が視界に飛び込んできた瞬間に、
結衣の心臓が小さく跳ね上がった。

こちらに気づいた見慣れた顔が、小さく手を振り結衣の帰りを待ってくれていたのである。

「おかえり」
「ただいま」

挨拶だけ交わして、無言のまま2人は部屋の中へと入っていく。

大物家具はそのままだが中身は無く、こまごまとしたものはほとんどがダンボールの中へとしまいこまれていた。

「明日、引越し業者が来るんだ」
「ちなつちゃんから聞いた」

数あるダンボールの中から1つを選び、結衣がざっくばらんに梱包を解く。
歯ブラシや食器などが入っている中から、パジャマを取り出し風呂場へと持っていく。

「お湯溜めて、お風呂入っててよ。ちょっと食材買出しいってくるから」
「うん。いってらっしゃい」

123: 2011/08/22(月) 08:57:11.49 ID:jkJjQkXI0
――大概にひどいやつだな、私も。

今の状況でも調理できそうな食材を買い込み、袋を片手に結衣は早足気味に家を目指していた。

――いまさらどうしようも無いけど。

何度も悔やんだ事だし、もう吹っ切れたつもりでいたが、また同じ後悔が頭の中で渦巻いていた。
ふと涙がこぼれそうになるが、目を強く閉じて耐える。

――もう、子供じゃないんだし。それにいつかこうなるんだから

自分に言い聞かせれば言い聞かせるほどに、目頭に熱が灯った。
深呼吸をし、心を落ち着かせてから、家のインターホンを押す。

ドアを開け、中から出てきた顔も、結衣と同様に目を赤く腫らしていた。

125: 2011/08/22(月) 09:05:38.53 ID:jkJjQkXI0
「なんか今日はたまごづくしだね」
「仕方ないよ、使い切っちゃわないといけないから」

オムライスと卵を落とし込んだ半分ずつのラーメンが、その日の献立になった。

「ごめんな、大してもてなしも出来なくて」
「ううん、十分だよ」

簡素で、決して多くを語り合う夕食の場ではなかったが、
また一緒にこうした時間をすごせるという事だけで、2人の胸は満たされていた。

「ごちそうさま」
「おそまつさま。悪いけど洗い物頼めるかな」
「うーっす」

洗い物は人任せにして、結衣は玄関へと向かった。

「さすがに溶けるか、この時期じゃもう」

冷蔵庫がわりにと思って玄関を使ったものの、さすがに3月も末では無理があったようだ。
部屋へと戻ってきた結衣がちらりと流し場を見ると、まだ終わっていないようだ。

口元に小さな笑みを浮かべ、部屋のテーブルの上に少し溶けかけのラムレーズンを置いて、
流し場から京子が戻ってくるのを待つ。

126: 2011/08/22(月) 09:12:34.10 ID:jkJjQkXI0
少し緩んだラムレーズンには、あっさりとスプーンがささる。
京子も、さすがに今日ばかりは、うめぇとも何も言わず黙々と食べている。

「あかりから聞いたよ」

頬杖をついてその姿を見守っていた結衣がやさしく呟いた。
はたと、スプーンを運ぶ手が止まった。

「後食べていいよ」

そう言うと、京子はラムレーズンを置いて部屋を出て行った。
結衣がカップの中を見ると、とてもじゃないが半分とは言えない量であった。
目算で、だいたい3分の2はまだ中身が残っている。

「しょうがない奴だな」

だいぶやわくなったラムレーズンに、結衣もスプーンを差し入れた。
そしてゆっくり、ゆっくりと舐めるように食べていく。

「あれ、まだ食べてたの?」
「私はもういいから。全部食べちゃってよ」

部屋に戻ってきた京子へ、まだ半分近く残っているラムレーズンを手渡した。

「ありがとう」

127: 2011/08/22(月) 09:17:41.28 ID:jkJjQkXI0
ラムレーズンも食べ終わり、しんとした部屋で2人は視線をあわせないような位置関係で腰を下ろしていた。

「あのさ」
「何?」
「明日、早めに起きないといけないんだ、片付けとかあるから」
「そっかー。じゃ、もう寝る?」

そこで会話が途切れてしまった。
なんとなくもやもやっとした沈黙が2人の間に広がる。

「実は1つ問題があってな」
「ん?」
「客用の布団、実家にもって帰っちゃってるんだ」
「そうなんだ」

小さいため息が1つこぼれた。

「じゃ、仕方ないっすね。おいら帰りま――」

着替えに立とうとした京子を、結衣が手をつかみ止めた。

129: 2011/08/22(月) 09:22:53.79 ID:jkJjQkXI0
驚き、結衣を見つめる京子だったが、引き止めている本人の方は、
顔を伏せ気味にし、頬をすこし赤く染めていた。

「もし、もしだよ」

しばし2人とも硬直していたが、結衣が弱々しげな声で話し始めた。

「もし京子が嫌じゃなかったら、その……1つの布団で、一緒に……」
「結衣は、いいの?」

京子の問いに、結衣は返事を返さなかった。
ただ、少しの間をおいて小さくうなずいたのみである。

「じゃ、一緒に寝よ」

かくして、部屋の真ん中に一組のシングル布団だけが敷かれて、
部屋の電気が落とされた。

130: 2011/08/22(月) 09:27:33.32 ID:jkJjQkXI0
案外、シングル布団もそんなにせまっくるしいものではなかった。
結衣も、京子も、それぞれ外側を向き、出来るだけ空間を使わないようにと
体を縮め、横たわってた。

それでも普段より近くに聞こえる吐息をお互いがお互いに意識しあっていた。

「最後、なんだね」

目が慣れてきて、部屋を見渡していた京子がぽつりと呟く。

「なんていうか、ごめん」
「ううん、私のほうこそごめん」

慣れ親しんだ四角い闇の中に、いつもより穏やかな2人のささやきが、
名残を残すかのように染み込んでいった。

「謝ることじゃないよ」

結衣が、はっきり聞こえる穏やかな声で言った。

132: 2011/08/22(月) 09:32:42.58 ID:jkJjQkXI0
しばし、闇の中に沈黙が広がった。
吐息だけが、片割れの存在を主張する。
不思議な距離感が、それぞれの胸に安心感と緊張感を与えていた。

「なんかさ」

京子が口を開いた。

「なんか、昔みたいにはいかないね」
「ん?」
「なんでも、話せなくなっちゃった」

京子の声は微かに震えていた。

「仕方ないよ、そうやって大人になっていくんだから」

穏やかな声でそういうと、結衣は体をひねり、
寂しげにしている背中へそっと手のひらを当てた

「話したくないなら話さなくたっていいよ。私はいつだって――」

言葉が途中で途切れ、結衣の手のひらが離れてしまう。

133: 2011/08/22(月) 09:38:05.51 ID:jkJjQkXI0
「そんな事いえる資格、無いか」

京子の後ろで、小さく寂しげな吐息が聞こえた。

「結衣はいつだって私の味方だよ。
 今日だって、ここに来るの怖かった。もしかしたら、追い返されるんじゃないかって」
「しないよ、そんな事」

消え入りそうな京子の声に、結衣がはっきりと答える。

「でも私、結衣じゃなくて綾――」
「言わないで」

京子の腕に、しっかりとした感触が走った。

「私だって何も言わないで県外の高校行くって決めちゃったし」

そして肩の辺りにも、ぴったりと押し当てられた、
すすり泣きをあげる存在を感じられた。

134: 2011/08/22(月) 09:43:43.30 ID:jkJjQkXI0
「結衣は悪くないよ。私がもっときちんとしてたら……
 今日だって、気づいたらここに来てたし。
 綾乃と別れてまだ一週間しか経ってないのに」
「やめようよ、もう」

2人ともまるで、崩れそうな心を吐き出しあうかのようにささやきあっていた。
再び、夜の闇が静まった。
幽かな2つのすすり泣きがしばし続く。

いつしか、結衣は仰向けになり天井をぼんやり眺めていた。

「私達、これからどうなっちゃうんだろう」

独り言かどうかも分からないような言葉であったが、
京子からの返事は無かった。

それから2回か3回、それぞれが吐息を感じた頃。
京子の肩が、結衣の肩の近くへと転がってきた。

「私、高校に入ったらバイトするよ」

京子も、結衣同様に天井を見上げていた。

136: 2011/08/22(月) 09:49:02.41 ID:jkJjQkXI0
「どうして?」
「携帯代、自分で稼げるようになろうかなって」

そこまで言うと、結衣の隣で1つ大きな吐息が漏れた。

「毎日電話するよ」

京子の声の距離感が変わった。
まるで、横から直接耳に入ってくるような感覚だった。

「毎日はさすがにどうかな」

そして闇に慣れきった京子の目の前に、
結衣の呆れ顔が転がってくる。

「じゃ、3勤2休で」
「なんの業務形態だよ、それ」

京子はわりと真顔でボケていたが、
それに対し結衣は穏やかな微笑みを返していた。

「1日おきでいいよ。私も、1日置きに電話する」

結衣の言葉を聞き、すぅっと京子の瞳が閉じた。

138: 2011/08/22(月) 09:53:59.96 ID:jkJjQkXI0
闇の中でも、はっきりと見えた。
うっすらと涙を浮かべ、幸せそうに微笑む京子の顔が。

「帰ってくるときはちゃんと言うようにな! みんなで出迎えるから」

そして、それをわざと崩すかのような調子でこのような事を言うのである。

「京子も来る時は事前に連絡しなよ。今までみたいには行かないんだから」

また、京子の顔に柔らかいものが浮かんだ。

「本当にいいの? 行っても」

そう言いつつ、京子の体が結衣の方へと動いた。

「たまにはね」

いつしか、2人の間から漏らしてしまうのを惜しんでいるかのような、
ささやきあう声へとそれぞれの声が変わっていた。

140: 2011/08/22(月) 10:01:25.81 ID:jkJjQkXI0
「ラムレーズン、置いといてくれる?」
「ああ、置いとく」
「また結衣の手料理食べられるかな」
「いくらでも作るよ、料理ぐらい」

甘いとろみを帯びたささやきあいが、一定のリズムで続いた。
そしてまた静寂。
互いの鼓動が感じられそうなぐらいの距離で、結衣も、京子も、
穏やかな微笑みを見つめていた。

「結衣」

聞こえたのか聞こえなかったのか分からないような声だった。
もしかしたら、唇がそう動いただけなのかもしれない。

「なに?」

そして結衣も同じような調子で京子に答える。

142: 2011/08/22(月) 10:06:36.03 ID:jkJjQkXI0
「いままでずっと、ありがとう」
「私も、京子がいてくれて楽しかったよ」

2人に、同時に同じ感触が走った。

「ここでの事、絶対忘れない」

わずかに触れた指先。
京子がそっと指を動かした。

「私も。ここであった色んな事、一生忘れないよ」

そして結衣も指を動かす。
さらりとして暖かい結衣の指先が、
京子の指をしっかりと受け止めて、からめとっていた。

144: 2011/08/22(月) 10:12:09.49 ID:jkJjQkXI0
9/10
3月28日 くもり時々雪 七森駅と見送り客

8人の頭上には、薄灰色の雲が一面に浮かんでいた。
もう四月も間近だというのに、まだ少し肌寒い。

「これ、よかったら電車の中で食べてな~」

そう言って渡されたのは、両手で持つと少しずっしりとする
四角い風呂敷包みだった。

「今日のはりはり漬けは結構自信作やで?」
「あ、うん。ありがとう」

久々に千歳の顔を見た結衣だったが、
どこまでも変わらないその調子が嬉しいやら反応に困るやらで、
どうにも微妙な笑顔を返す事となってしまった。

「このペンセット、私と向日葵からです」

そして、これまた相変わらずで変化の無い後輩2人組みが結衣の前に現れた。

145: 2011/08/22(月) 10:19:13.32 ID:jkJjQkXI0
「ご趣味にあうとよいのですが」

2つに結んだ髪を揺らし、恐縮下な笑みを浮かべた向日葵が小首をかしげる。

「私が選べばバッチグーだったんですけどねー」
「その雰囲気ぶち壊しの口、ねじ切りますわよ?」

この2人も本当に変わらないな――
とてもじゃないが生徒会の副会長に見えない櫻子とその補佐役の向日葵。
いつも通りのやり取りを見ながら、結衣は受け取った若草色の小さな包みを肩あたりでひらひらさせて、
幼馴染の方へと見せた。

「その気持ちだけで十分嬉しいよ。ありがとう。
 あかり、これとあかりのくれたレターセットできっと手紙を書くよ」
「うん。あかりもきっと手紙書くね」

そう言って微笑むあかりを見て、結衣は思った。
あかりも、いつか大人になるんだな――

ふと、昔のまだ髪が短かったあかりの姿が脳裏に浮かぶ。

146: 2011/08/22(月) 10:26:35.88 ID:jkJjQkXI0
プシューッ!

電車の発した音が、結衣をノスタルジーから現実へと引き戻した。

次は、小さな板状の包みが結衣に手渡された。

「これは?」
「写真立てよ。何かの役に立つんじゃないかなと思って」

そう言って、綾乃が少しさびしげな笑みを浮かべた。
自然と、視線が京子の方へと流れてしまい、目の前の綾乃が肩を小さく揺らし、
いたずらげに笑う。

「ありがとう、大事に使うよ」

そういえば、綾乃はいつも怒鳴ってるか顔を赤らめてるかだったな――
結衣の目には、綾乃が一番変わったように写っていた。
たしかに長かった髪をセミロングに切りそろえた事もあるが、
今のような表情をするとは、昔では微塵も考えられなかった事である。

「綾乃」
「ん?」
「ありがとう」

他の誰にも聞こえないような小声のやり取りだった。
そして綾乃はそれに答えず、ただ優しく微笑むだけだった。

148: 2011/08/22(月) 10:34:11.60 ID:jkJjQkXI0
そういえば――

ふと、気にかけてた後輩の姿を目が探していた。
大きなうるんだ瞳に真っ赤な顔。
髪型が大きく変わっても、その顔はすぐに分かった。

「ほら、ちなつちゃんも!」

結衣と目が合いすっかり硬直してしまっていたが、
あかりがその背中を一生懸命に押していた。

「ちなつちゃん、圧力鍋ありがとうね」

娯楽部メンバーでの送別会の時に貰った時は少しばかり面食らったが、
実際使ってみると、煮物やら何やらで重宝し、今ではすっかり手放せないものとなっていた。

そして、結衣の微笑みで、ちなつの頭からも一気に蒸気が噴出する。
そんなちなつを見る結衣の胸が、ちくりと痛んだ。

私が七森から出なければ、きっと髪切らなかったんだろうなぁ――

「頑張って、もう電車出ちゃうよ!」

あかりの弾む声が、ちなつを一気に結衣の前へと押し出した。

149: 2011/08/22(月) 10:42:27.50 ID:jkJjQkXI0
「あ、ゆ、ゆ、ゆ、ゆ」

結衣も思わず切なげな笑みが浮かんでしまった。
ずっと自分の事を追いかけ続け、いつも一生懸命だったかわいい後輩。
頭の中で、色々な思い出が甦る。

「ちなつちゃん、また帰ってくるから」

結衣の言葉に、ちなつの目つきが変わった。
ぎゅっと目を閉じたかと思ったら、時折見せたあの強い目。
気づいた時には、ちなつの両腕が結衣の首にしっかりと回され、
頬に柔らかい感触を感じていた。

「結衣先輩! 私も絶対手紙出しますから! 毎日出しますから! 便箋の模様とかも全部手描きで!」

こ、こまったなーアハハ――

無論、あの紙芝居が頭をよぎった。
何となく目をそらすと、その先には京子が立っていた。
そして、親指を立てていた。

グーじゃねーよ――

心の中で一応つっこんでおいたが、それはともかくとして以前ちなつちゃんはべったりくっついたままである。

150: 2011/08/22(月) 10:49:56.31 ID:jkJjQkXI0
「高校も絶対同じ所行きますから待っててくださいね!」

耳元ではしゃぐように言う後輩が愛おしかった。

けど、さすがに浮気はなぁ……――

また自然と京子の方へと視線が流れる。
今度は、親指が下を向いていた。

「ほらちなつちゃん、そろそろ電車出るから」

そう言いつつ、ちなつの頬へそっと手を当て、
スキを見せた所でどうにか拘束から逃れる。

穏やかな空気を、ベルのけたたましい音が引き裂いた。
そして場内放送が、間もなくの発車を伝える。

「それじゃ行くね。みんなも元気で!」

電車に乗り込む結衣の背中へと、皆の声が口々に届いた。

「結衣ちゃん、いつでも帰ってきてね」
「健康にはよう気ぃつけや~」
「結衣センパーイ!」

ふと、結衣の口から小さなため息がこぼれる。

151: 2011/08/22(月) 10:56:12.89 ID:jkJjQkXI0
結衣が席に腰を下ろし、窓の外を見ていると、みんなも自然とその近くへと集まってきていた。
めいめいに手を振ったりしてる中、京子だけは静かに微笑んでいた。
電車が、ガタッと大きく揺れた。
ゆっくりと、景色が流れ出す。

皆の姿は、以外にあっさりと窓の外へと流れてしまった。
結衣は背もたれに深く持たれ、長い息を1つついた。

以外に、心の中はざわつかなかった。
向こうについたらどうするか――
色々と頭のなかで算段を立てていると、どこからか聞きなれた声が聞こえてきた。

結衣の体が反射的に動いた。
窓を全開にし、体を乗り出して後ろの方を見ると、
そこにはホームを懸命に走り追いかけてくる京子と綾乃の姿があった、

152: 2011/08/22(月) 11:03:42.72 ID:jkJjQkXI0
「いいの、このまま何も言わないで」

席に座りこちらを見る結衣を見ながら、綾乃が京子に小声でささやいていた。

「うん。言いたいことはもう全部言ってあるから」

そう言う京子の顔を見て、綾乃が呆れたようなため息を1つ、小さくついた。

「そんな顔してちゃ、説得力無いわよ」

綾乃と京子が見つめあってる間に、列車は動き出した。
今はまだゆっくりだが、あかりや千歳はもう結衣のいる窓の外へとはじき出されていた。

「ほら、最後なんだからちゃんと言いたいこと言って!」

グイっと京子の背中が押された。
小さく振り返った穏やかな笑みの京子の瞳には、涙が浮かんでいた。

「いいから急いで!」

京子が一呼吸して綾乃に小さくうなずく。
そして、全力で走り出していた。

もう手の届かない窓を追いかけて。
そして、全力で声を張り上げてる。

153: 2011/08/22(月) 11:10:57.15 ID:jkJjQkXI0
京子の声に気づいたのか、結衣が窓から乗り出してこちらへと手を振ってきた。

「結衣ー!」

京子が走りながら、ありったけの声で叫んだら結衣も同様に返してきた。

「大学、絶対いっしょのとこいこー!」
「うん、今度は絶対いっしょのところにー!」

追いつけないのは承知の上で、京子はまだ走り、叫び続けた。

「また娯楽部作ろうよー!」

返事の時差が、さっきより開いていた。

「娯楽部のこと絶対忘れない! ずっと待ってるから!」

もう結衣の声も、ところどころがはっきり聞こえなくなっていた。
すでに列車の最後尾はホームの端から走り去ろうとしている。

置き去りにされた京子が、大きく息を吸い、ありったけの、最後の叫びを発した。

「ゆーいー!」

154: 2011/08/22(月) 11:19:11.00 ID:jkJjQkXI0
京子の最後の声は、かろうじて名前の所だけが結衣の元に届いていた。
だんだんと、七森の駅が小さくなっていく。
もう、ホームの切れ端に立っている京子の姿もはっきりとは見えない。

「京子……」

結衣が口の中で小さく呟いた。
もう、七森の駅は見えなくなっていたが、それでも結衣はまだ席に座ることが出来ずにいた。
やがて、雪の舞う見慣れぬ景色が目の前に広がり始め、その時になってやっと窓が閉じられた

座席に深く腰掛けて目を閉じると、七森町での思い出が次々に甦っていく。
あの部屋で過ごした日々、みんなで行った海、はじめて娯楽部を作った日の事。
そして、京子やあかりと遊びまわった幼い日の事。

「もういいよぉ、帰ろうよぉ」

泣きじゃくる京子の声が、耳の中で響いた。
静かに、頭を落として、結衣は椅子に腰掛けうなだれていた。

床にいくつもの水滴が模様を描く。
大きい粒。小さい粒。

「ごめん」

無数の模様が出来上がった頃、ようやく結衣はかすれた声で呟くことが出来た。

156: 2011/08/22(月) 11:25:22.83 ID:jkJjQkXI0
列車が走り去って、七森の駅にしんとした時間がゆっくりと流れていく。
ホームの端では泣きじゃくる京子を綾乃が慰めていたし、そんな2人を見てあかりもまた同じように涙ぐんでいた。

向日葵と櫻子は2人で寄り添いあい、ちなつは1人、どこか遠くへと意識を飛ばしていた。

「みんな、変わって行くんやね」

千歳が皆を眺めながらぽつりと呟いた。
京子が最後に叫んだ言葉が、何度も千歳の中で繰り返されていた。

ふと、頬につめたい感触が走った。
七森駅にも、雪が降り始めたのである。
眼鏡を外し、千歳は空を見上げた。
無数の雪が、視界を埋め尽くすように降り注ぐ。

振り向いたあかりが千歳のほうへと走ってきたのは、その数秒後だった。

157: 2011/08/22(月) 11:33:24.73 ID:jkJjQkXI0
「どうしたんですか、千歳先輩!」

ふと、風の中にまじった小さな声にあかりが振り向いた時、
眼鏡を取り落とし、両手で顔を覆った千歳はその場にへたり込みそうになっていた。

あかりの腕の中で、千歳は今も泣き続けていた。
ただ、首を振りながら、なんでもあらへん、なんでもあらへんと繰り返すだけで、
ホームには雪の跡より多くの水滴跡が染み付いていた。

「なんでもないだなんて言わないでください! そんな先輩見てると、あかりも辛いです」

あかりも、千歳と同様に涙を流し始めていた。
どうしようもなく胸が苦しかった。
自然と、千歳の事をぎゅっと抱きしめて、悲しみを分かち合うかのように一緒になって涙を流し続けていた。

「こんな時にまで何でもないだなんて言わないでください!」

へたり込んでなき続ける2人の頭上から、強い声が響いた。
あかりが顔を上げると、そこには思ったとおりちなつの顔があった。

158: 2011/08/22(月) 11:40:13.07 ID:jkJjQkXI0
「どうして辛いって言えないんですか!
 なんでそうまでして自分を押し頃すんですか!」

強い語気に千歳も思わず顔を上げる。
ちなつも、瞳をうるませていた。
だがそれをこぼさないよう、顔に力を入れ、体をこわばらせ耐えていたのである。

「どうしてそこまで、自分の事じゃないのに!
 全部杉浦先輩の問題じゃないですか!
 私だって、私、だって……」

声が震えていた。
ちなつの瞳からも、こらえきれない涙が薄い線になって流れ落ちる。

「千歳、大丈夫?」

すっと、千歳の肩へと手が伸びた。
いつのまにか、綾乃がそばへと来ていた。

千歳は京子の影を目で探した。
櫻子と向日葵らしき影のそばに、らしき影はあった。

「2人ともありがとう。あとは私に任せて」

綾乃が、あかりとちなつに微笑む。

「千歳が落ち着いたら、私達も帰るから」

159: 2011/08/22(月) 11:46:22.00 ID:jkJjQkXI0
駅のベンチへと2人を残して、1人また1人とホームから人影が消えていった。

「大丈夫?」

目を真っ赤に腫らした京子が、心配そうに2人を見下ろす。

「ええ、大丈夫よ」

そんな京子をまっすぐ見つめて、綾乃が答えた。
それでも京子は後ろ髪引かれるようであったが、
綾乃へと小さく手を振って、改札口を通り抜けていった。

すっかり人影が無くなり、七森駅にはしんしんと雪が降っていた。

千歳の涙はもう止まっていたが、それでもまだ前を向く事ができず、
ふさぎこんだまま、ぎゅっと綾乃の手を握るだけだった。

ふわっ。

不意に、千歳の髪に優しい感触が触れる。

「先輩、大丈夫ですよ」

聞きなれた声に顔を上げると、腰を落としたあかりの顔が千歳の目の前にあった。

160: 2011/08/22(月) 11:53:14.59 ID:jkJjQkXI0
「あかり、先輩が太陽みたいに暖かくて優しい人だって分かってますから」

さわさわと髪を撫でながら、あかりが微笑みかける。

「だから、自分で自分を苦しめないでください」

幼いとき、姉のあかねがよくしてくれた慰め方を、あかりも無意識のうちに真似していたのである。

「そういう時は、いつも側にいてくれる人を頼っていいんですよ」

そう言いながら、再びあかりの瞳から涙がこぼれていた。
頭を撫でる暖かな感触が、千歳には嬉しかった。

「ありがとな、赤座さん」

しばらくすると、千歳にも微笑み返せるだけの暖かさが戻ってきていた。
すっと、あかりの手が離れる。

「先輩、もっと素直になっていいんですよ」

そういって微笑むと、あかりもホームを後にした。

いよいよ、綾乃と千歳だけが雪降る七森の駅に残ったのである。

162: 2011/08/22(月) 11:58:00.42 ID:jkJjQkXI0
10/10
3月28日 晴れ時々雪 人影の消えた七森駅

「本当に、終わってもうたんやね」

2人がホームに取り残されてかれこれ20分かそこいらが過ぎただろうか。
綾乃の隣で、ようやく千歳がため息まじりの声をぽつりと漏らした。

「うん、終わっちゃった」
「小学校の時からやったんやろ? 片思い」

はらりはらりと舞っていた雪も、すでに数えるほどにしか降ってはいなかった。
ちぎれ雲の隙間には、透き通った青空も見える。

「あの子、昔は泣き虫だったのよ。それでなんとなく親近感覚えて、
 気がついたら目で追ってて。
 それで小学校の高学年に差し掛かった頃だったかしら。
 だんだん今の京子みたいな感じになって」
「好きになってもたん?」

穏やかな調子の問いに、綾乃が前を向いたまま小さくうなずいた。

163: 2011/08/22(月) 12:03:07.27 ID:jkJjQkXI0
「私もあんな風に変われたらなって」
「変わったよ、綾乃ちゃんも。
 今までやったらきっと綾乃ちゃんが泣いとってうちが慰めてたもん」

ふと綾乃が隣へと視線を移すと、いつもと変わらない千歳の笑顔があった。

「実を言うとね、京子と友達に戻ろうってなった時、私、そんなに泣かなかったの」
「確か歳納さんと一緒に家に来てくれた時やったよね、けど、あの時2人とも――」

千歳の言葉をさえぎるように、綾乃が首を小さく横に振った。

「あの時は、千歳を傷つけたのが辛くて泣いてたの。すくなくとも私はね」

千歳の表情から笑みが消えた。
思いもよらない言葉であった。

恋破れて目を腫らしたずねて来た2人――少なくとも綾乃は――が、
まさか自分のために涙してくれていたとは。

その事実が、再び千歳の目頭に熱いものをこみ上げさせた。

165: 2011/08/22(月) 12:07:42.04 ID:jkJjQkXI0
「なんで? だって一番辛かったんは綾乃ちゃん達やないの、うちはただ見守ってただけで」

千歳の髪に暖かな指先の感触が走った。
顔をあげ、隣を見る。
と、穏やかな表情にうっすらと涙を浮かべる綾乃の顔がそこにあった。

「千歳だって、そうやって私のために泣いてくれてる」

少し冷たい指先が、千歳の目元をスッと撫でた。

「ずっと京子の事見ていて、変わりたいって思い続けていたんだけど……
 私が変われたのって、きっと千歳のおかげだと思う」

もう雪は止んでいた。
切れ切れの日差しがベンチに寄り添う2人を断続的に照らし、ホームに連続写真のような影を映し出していた。

「そうやって千歳が私の分まで泣いて、喜んでってしてくれたから」

ぽたり、ぽたりと大粒のしずくが落ちた。
それは先ほどまでの肌寒い水滴ではなく、穏やかな温もりのものであった。

「私、千歳と出会えてほんとうによかった」

166: 2011/08/22(月) 12:11:09.50 ID:jkJjQkXI0
柔らかな笑顔の綾乃であったが、千歳にはもうその表情は見えてなかった。
視界の全てが滲み、全身が身震いし、そしてそれを自分ではもう、どうすることも出来ない。

「今でもはっきり覚えてる。千歳が話しかけてきてくれたあの日の事」

優しい体温が、震える千歳の体を包み込んだ。
吐息が、鼓動が、重なり合いうほどの距離で混ざり合う。

「千歳と一緒だった3年間、すごく幸せだった」

気がついたら、千歳も綾乃にしっかりとしがみついていた。

「綾乃ちゃん! うち、うち……!」

胸の底からいろいろなものがこみ上げて止まらない。
息も、涙も、喜びも、なにもかも。

いつのまにか、世界の景色が変わっていた。

167: 2011/08/22(月) 12:12:51.09 ID:jkJjQkXI0
「ありがとう、千歳」

空は晴れ渡り、海から吹く風が近くに咲いているのであろうあせびの甘い香りを運ぶ

音も何も無い七森駅の片隅。

2つの影は、いつしか1つに重なり合っていた。





つぼみ濡らして春の雪
ほころぶ馬酔木、香とこしえに

168: 2011/08/22(月) 12:16:10.56 ID:jkJjQkXI0
おまけ
3月28日 晴れ時々雪 駅からの帰り道

ふと向日葵が気配に気づき振り向くと、
2、3歩ほど遅れた立ち居地で、櫻子が両足をぴたりと止めたまま、
じっとつま先あたりへと視線を落としていた。

「櫻子、どうしましたの?」

言葉を言い切るよりも先に、自然と足が櫻子の方へと進んでいた。
決して他の誰にも分からないような、微かすぎる肩の震え。
――いやむしろ気配と言うべきか。
それが、向日葵の背中を一気に押したのである。

「なんでもない!」

だが力強く、悲鳴にも似た唐突な叫びが、幼馴染の足を一瞬押しとどまらせた。

169: 2011/08/22(月) 12:19:26.35 ID:jkJjQkXI0
「なんでもないって……何言っていますの、バカ娘!
 なんでもないのに泣く道理なんてありませんわよ!」
「なんでもないもん! 泣いてなんか、いない!」

そう言い放つと、櫻子の視線が顔ごと真横へと逃れた。
だが、その一瞬で向日葵は十分に表情を読み取る事が出来ていた。
不安や恐怖に押しつぶされまいと踏みとどまるかのような、強い表情。

それでもとどまる事無くあふれ出す涙が、声の、呼吸の乱れが、
自然と向日葵の胸をキリキリと締め付けていた。

「バカ、自分が今泣いている事も分かりませんの?」
「だって、だって!」
「泣くなら船見先輩がいらっしゃる前で泣けばよかったのに……
 こんなところで泣きじゃくっても仕方ありませんわよ」

170: 2011/08/22(月) 12:24:17.49 ID:jkJjQkXI0
「バカはそっちだろ!」

櫻子の唐突な一言が、おだやかに、だが普段どおりの悪態を交えつつ
涙を拭おうとした向日葵の手を引っ込ませた。

「だって、こんな風にいなくなっちゃうなんて思わないじゃん!
 ずっとみんなで一緒にいられるって、また海行ったり花火したり……
 こんなのイヤに決まってるじゃん!」
「どうしようもないバカですわね、櫻子は。前から決まってた事じゃありませんの。
 それに、夏休みとかになればまた会えますわよ」
「バカ! そんな事言ってるんじゃない!」

立ったままでは視線をあわせられず、かといってしゃがみこむのもわざとらしい。
そんなもどかしい身長差で向かい合ったまま、2人は穏やかな悪態と
ぐちゃぐちゃな直情を打ちつけあっていた。

「いなくなるなって思ってなかったのに、いなくなっちゃったじゃん……
 イヤなんだよ。電車に乗って、どんどん遠ざかって、追いかけても追いつけなくて……
 いなくなったらイヤなんだよ! ずっと、ずっと、一緒に――」

櫻子の肩の震えがひときわ大きくなった。

173: 2011/08/22(月) 12:27:34.57 ID:jkJjQkXI0
「本当に、バカですわ。櫻子は」

最後まで吐き出しきれなかった言葉であったが、向日葵の心にはしっかりと届いていた。
自然と、向日葵の腕が櫻子をやんわりと抱きしめていた。

「いなくなったりしまえんわよ、誰も」

そして櫻子もまた、両の手で向日葵の服をしっかりとつかみ、離すまいとしていた。

「向日葵」

やんわりとした空気が、突然の強い呼びかけで打ち破られた。

「何?」
「嫁に行ったら許さない」

あまりにもあまりな単語であった。
まだまだずっと先の事と意識の中にすらなかったその単語が、
向日葵の顔を一瞬で赤一色に染め上げ、
一気に2人を包んでいた空気さえ塗りかえてしまった。

175: 2011/08/22(月) 12:31:45.69 ID:jkJjQkXI0
「はぁ!? 私にずっと独身でいろと言いますの?」
「……私より後だったら許す」
「それでは私、一生独身決定ですわよ!」

いつの間にやら、いつものリズムが戻ってきていた。
とは言っても、櫻子の目は腫れぼったいままだったし、
向日葵の胸もざわざわとかき乱されたままなのだが。

「あ、そうだ! 私と向日葵が……」

一瞬何の事か理解が追いつかなかった向日葵であったが、
その思考が櫻子のひらめきに追いついた瞬間、一気に心臓がわし掴みにされ、
全身へと熱気が駆け巡り、頭のてっぺんからピーッと蒸気を噴出した。

「……いや、法的に無理だからそれ」

頭の中でチャペルの鐘の音鳴り響く向日葵とは裏腹に、
櫻子のセルフツッコミは案外に落ち着いたものであった。
が、吐き出されたため息には、『なんなんだよこの世の中は』的な憤りが、
隠されることなく混ぜ込まれていた。

176: 2011/08/22(月) 12:36:27.08 ID:jkJjQkXI0
「バッ! バッ……!」
「ん、どうした向日葵」
「……底抜けのバカですわよ櫻子は! なんでそうやって、いつもいつも!
 考えなしに、思ったことをそのまま……」

またしても噴出した向日葵式蒸気機関の熱が、今度は櫻子へと伝播した。

「だれも向日葵と結婚したいとか言ってないし!」

どう見ても自爆である。
が、巻き込まれた向日葵の方がどうやら深刻な事態のようである。
顔は赤一色、表情はもはや形容しがたく、全身硬直したまま、
頭の中ではライスシャワーが舞い踊っていた。

「あたりまえですわよ! どっちがウェディングドレスに袖を通しますのよ!」

数秒かかったものの、どうにか歩き出せる程度にまで向日葵の硬直は回復した。
まぁ、まだぎこちなさ満点だが。

「そりゃ当然私でしょー」
「では私にタキシードを着ろと言いますの!?」

178: 2011/08/22(月) 12:53:08.81 ID:JtblS+4IO
いつの間にやら、2人とも自然と前に向いて歩いていた。
足取りに先ほどまでの重苦しさはなく、むしろ弾むリズムのアンサンブルを奏でている。

「まったく、少しは急がないと吉川さん達に追いつけませんわよ?」

ふと、向日葵の手が隣でぶらぶらしている手をやをわりと握った。

「えー、いいじゃん別にこのままで」
「櫻子さん。握り返してくりのは構いませんけど、もう少し優しく握っていただけませんこと?
 これじゃ、私の手が握りつぶされてしまいますわよ」
「だったら向日葵も指そえるだけでなくってもっと強く握りなよ
 腕力あるんだから」
「それを言うなれば握力ですわ。本当に、櫻子はバカでしようがありませんわ……」

いつもどおりのでこぼこした影が、春めいた日差しの中で揺れていた。



貝寄吹き抜け桜時雨
春遠からじ七森の春


―完―

181: 2011/08/22(月) 12:58:41.45 ID:JtblS+4IO

*馬酔木(あせび)
ツツジ化の低木。早春になると枝先へ小さく白い花をいくつも咲かせる。
花言葉は「あなたと2人で旅をしよう」

*貝寄(かいよせ)
貝寄風とも。陰暦2月22日に吹き、貝殻を浜辺へ吹き寄せる風。
貝の中でも2枚貝、特にハマグリは夫婦和合の象徴とされている。

182: 2011/08/22(月) 12:59:09.70 ID:PhR8jZEg0
おつ

187: 2011/08/22(月) 13:24:07.66 ID:x153pDih0
おつ

引用元: 池田千歳「あせびの香る雪の春~卒業を迎えて~」