1: 2011/09/15(木) 19:59:00.32 ID:+wTNpPwyo
※注意
・鬱っぽい面アリ
・NLっぽい面アリ
・非処Oっぽい面ry
・メンヘラっぽいry
・未来設定ry
なんかいろいろあるので閲覧注意。何も得るものが無くても責任は取れないですわ
・鬱っぽい面アリ
・NLっぽい面アリ
・非処Oっぽい面ry
・メンヘラっぽいry
・未来設定ry
なんかいろいろあるので閲覧注意。何も得るものが無くても責任は取れないですわ
2: 2011/09/15(木) 19:59:29.61 ID:+wTNpPwyo
――私は、今日も手首を切る。
3: 2011/09/15(木) 20:00:03.26 ID:+wTNpPwyo
木製の引き戸を開く。一歩踏み入れた先は、夜の暗さ、静けさが嘘の用に眩しく、騒々しく。
眩しく、騒々しく、そして煙く。挙句の果てに響くのは下卑た笑い声ばかり。
……安い飲み屋というのはつくづく嫌になる。汚れてもいい格好で行け、と言われたことを身に染みて思い知る。実際、なるべく安い服を着て来たつもりだけれど。
ともあれ、いつまでもウンザリしてはいられない。目当ての人達の姿を探す。実に半年振りくらいにはなる、その姿を。
……数歩踏み入れ、店員に声をかけられるのと彼女達皆が私に気づいてくれるのは、どちらが早かったか。
律「おっ、来た来た」
澪「おーい、ムギ!」
梓「こっちですよー!」
唯「ムギちゃん!」
紬「――みんな、久しぶり」
4: 2011/09/15(木) 20:01:08.11 ID:+wTNpPwyo
――元桜高軽音部5人での飲み会。たったそれだけの事が行われるというだけで、下品で醜悪なこの安い飲み屋という空間は私にとって唯一無二の代えがたき理想郷へと変わる。
彼女達と会っている時だけが私の人生の楽しみ。そう言い切っても過言ではない。
律「でさー、あの時唯がさー」
唯「えー、りっちゃんもだったじゃん!」
澪「そうそう。どっちも悪い」
梓「あはは……」
実際、それはみんなも同じようで。誰もが『今』の話なんてせず、昔話にばかり花を咲かせる。もう何度目かわからないエピソードでも、私達は当時と同じように笑い合う。
誰も今の話をしないから、今どんなことをしているのかは予想がつかない。でも同時に私もあまり探られたいものではないし、私としても皆が生きているだけで御の字だと思っているから構わない。
……ただ、今回は流石に状況が違った。
いつもなら一月に一回は最低でも会っているのに、半年近くも間が空いてしまったから、それに触れないわけにはいかない。
律「――にしても、ま、予想通りムギが一番乗りだったな」
澪「律…その話は……」
紬「いいの、澪ちゃん。みんなごめんね? 集まれなくて」
律「今日集まってくれたんだからそれでいいよ。ま、私らもそろそろ焦らないといけない年齢なんだけど…」
梓「私も23、皆さんは来年には四捨五入すれば30ですからね……」
澪「……あまり、そういう気にはなれないけど」
唯「そう、だね……」
紬「……ごめんね、私のせいだよね…」
澪「いや、そんなことは……」
唯「………」
律「……あー! もう、悪かったよ! そんな暗い雰囲気になるとは思わなかったよ!」
ううん、本当にりっちゃんは悪くないの。私が悪いの。
……変だよね。『結婚』の話題を振られてここまで暗くなる五人の女の集まりっていうのも。
5: 2011/09/15(木) 20:02:06.44 ID:+wTNpPwyo
――半年ほど前、私は婚約『させられた』。
彼は許婚……と言えるのかどうかわからないけれど、とりあえず政略結婚的な面もあったように、今では思う。全く面識のない相手と結婚しろと言われたのだから。
そして婚約からそのままなし崩し的にスピード結婚。こちら側も相手方も結婚に意欲的というか貪欲で、私が意見を挟む間なんて皆無だった。
……私の感情は無視されていたとはいえど、救いはあった。よくありがちな『相手が下衆野郎』というオチにはならなかったことだ。相手は私以上に箱入り息子で、女性に対して免疫すらないほどだった。
だからこそ私の両親も安心していたとも言えるし、そんな彼の相手方に私が選ばれたことも誇らしかったのだろう。
でも、だからといって私の意志を黙頃していいとはならない。両親に歯向かうことはしたくないけど私にも我慢の限界はある。今回はそれが『こういう形』で現れてしまっただけの話。
……こういう『冷め切った夫婦』を演じる形で。彼を表面上でしか『愛さない』ことで、結婚を決めた人達に心の中だけで反発する幼稚な喜劇を演ずるのだ。
皆の前では仲睦まじい夫婦。しかし二人っきりになればそっけない。まさに仮面夫婦だった。
そして私は、あろうことかその冷め切りっぷりを皆に相談している。いや、相談ではない。愚痴だ。
皆は心配、あるいは激励の意味でメールや電話で私に連絡を取ってくれた。それに私は最低の形で応えたということになる。それに気づいたのはだいぶ後だったけれど。そういう『冷め切った夫婦』というのは愚痴を吐くものだと思っていたから。
結果、私を気遣ってくれた皆は距離を取ることこそしなかったものの、皆で集まるのはしばらく止めよう、という結論を出した。私が落ち着くまで。私の為に。私のせいで。
本当に何もかも私が悪い。皆が集まれなかったことも、皆が結婚に対して悪いイメージしか持たなくなってしまったことも。さっきの「ごめん」は、もちろんそういう本心から来ている。本当に、ずっと謝りたかった。何もかも私のせいなんだ。
……そう、思っていたのだけど。
6: 2011/09/15(木) 20:02:59.44 ID:+wTNpPwyo
律「――だいたい、唯はそこでムギをフォローしてやらないといけないだろ!」
唯「ほえ?」
紬「……なんで?」
律「唯おまえムギの事好きだったろ! ずっと泣いてたくせに!!」
唯ちゃんがカクテルを噴き出す。正面の席の梓ちゃんがびしょ濡れになってしまった。
唯「り、りっちゃんそれは言わない約束っ!!」
律「たはは。でももういいだろ? もう吹っ切れただろうし、吹っ切れないといけない年齢だって」
唯「うっ、そ、そりゃそうだけど……」
……驚いた。否定しない唯ちゃんに驚いた。私を好きだということを否定しないことに。
唯ちゃんは、いつからかわからないけれど私の事をそういう目で見てくれていた、ということか。そして、私の婚約で吹っ切れた。恋を諦めた。伝えることすらしないままに。
……私と同じように。矢印の向かう方向こそ逆だけれど、それ以外は何もかも私と同じように。
紬「……私もね、唯ちゃんのこと、好きだったよ」
律「ぶほっ!?」
今度はりっちゃんが噴き出す。正面の席の澪ちゃんは梓ちゃんを拭いてあげていたハンカチでそれを受け止めた。上手い。
唯「……なーんだ、両想いだったんだね」
紬「そうだね。勿体ないことしたかな?」
唯「……どうかなぁ? 今となっては、これで良かったんじゃないかなとも思うよ……」
紬「……そう、かもね…」
ちょっとだけ、ちょっとだけ期待してしまった。もしも唯ちゃんがまだ私に未練を持ってくれていたら、と。
何かが変わると思ったのかもしれない。変えたかったのかもしれない。この何もない毎日を。昔を懐かしむことだけが生き甲斐の毎日を。
でも、それは酷く自分勝手な感情。りっちゃんの話を聞く限り、唯ちゃんが私の事を諦めたのは、私が婚約したからなのだから。
……私も、彼との婚約に全てを賭して逆らおうとまではしなかったのは、同じような理由かもしれない。
実るはずのない恋を、許されざる恋を、諦める理由が欲しかったのかもしれない。想いをずっと胸の中で燻らせているのに疲れたのかもしれない。
その恋にもし希望があったなら、婚約に逆らい、彼女の手を取り、どこまででも逃げていたはずだから。この世の果てまでも、この世の先にある世界にまででも逃げて一緒になっていたはずだから。
――だから今はせめて、彼女が壮健であることを喜ぼう。小さな喜びを、明日から先の毎日に繋げよう。
7: 2011/09/15(木) 20:03:35.32 ID:+wTNpPwyo
紬「……唯ちゃん、今度、二人で会えない? いろいろお話したいな」
律「お? デートか? 不倫か?」
澪「バカ」
すっかり水分を大量に吸い込んだハンカチを澪ちゃんがりっちゃんの顔面に投げつけた。
しっかり顔面で受け止めているあたり、この二人は変わらずいいコンビなんだなぁ、と思う。
……私と唯ちゃんも、せめてそれくらいになれたらいいのにな。今からでも。
唯「ん、出たら電話して聞いてみるよ。ムギちゃんの都合のいい日はいつ?」
紬「いつでも。寿退社したようなものだから、一言告げれば都合はつくわ」
律「琴吹だけに!」
澪「うるさい」
梓「しかも『元』琴吹ですよ」
……梓ちゃんのその言葉は、少しだけ胸に響く。痛みを伴って。
そう、私は変わってしまった。私だけが変わってしまった。
世間一般からすれば、私が皆を置いていった形。私のほうが正しくて、皆が遅れているだけ。
でも事実が何であろうとも、私は孤独だった。
正しさなんていらなかった。一人きりで先に進む意味なんてなかった。
私はただ、寂しくない場所が欲しかった。満たされる場所が欲しかった。小さな幸せが、喜びがあればそれでよかった。
……唯ちゃんなら、それをくれるんじゃないかな。同じ想いを抱いていて、同じ想いを捨てた唯ちゃんなら。それがわかった今なら、私の事ももっとわかってくれるんじゃないかな。
心から愛している人と一緒になる、そんな大きな幸せは、もう諦めた私だけど。
その分こういう小さな幸せには貪欲だった。小さくても必氏に縋りたくなるほど、今の私は、毎日に楽しみを見出せないでいる。
……そうでなければ、手首なんて切りはしない。
8: 2011/09/15(木) 20:04:13.28 ID:+wTNpPwyo
唯「――あ、はい、そうです。明日? 大丈夫ですか? ありがとうございます!」
――割り勘で飲み屋の支払いを終え、蒸し暑い外へと踏み出してすぐ、唯ちゃんは電話をかけていた。
私とのことをそれくらい優先してくれたんだというのは素直に嬉しい。
こっそりと微笑む私の後ろで、りっちゃんが情けない声を出した。
律「うへぇ。しかし暑っちぃなー」
澪「だな……」
梓「蒸し暑い感じですよね、まだまだ」
晩夏と呼ばれるこの季節の夜は暗く静かで、でもまだまだ夏の熱気は抜け切らず、大体の人はまだ半袖で過ごす。
律「ムギは長袖で暑くないのかー?」
紬「鍛えてますから」
……私のように、肌を晒したくない理由のある人もいるだろうけど。
紬「それにお酒で余計暑く感じるのもあるかもよ?」
梓「あぁ、それはあるかもしれませんね……私はむしろトイレが近くなるんですが」
澪「ははっ。あまり立ち話すると梓に可哀相だな」
梓「み、澪先輩!」
唯「おまたー」
梓「唯先輩まで!!」
唯「え!? なに!?」
律「梓、それは被害妄想だ」
澪「だいぶ回ってるなぁ」
紬「……うーん…」
電話を終えて戻ってきた唯ちゃんに尋ねてみようかと思いながらも、だいたいの会話は漏れ聞こえていたので悩む。
でも私からお願いした以上、形だけでも尋ねるのが普通だよね。
紬「あの、唯ちゃん」
唯「あ、ムギちゃん、明日でいい? 明日なら普通に休んでいいって」
紬「あ、うん……ありがと…」
あっさり返され、ちょっと拍子抜け。
唯ちゃんのマイペースぶりが変わらないのか、それとも私が変に距離を取ってしまっていたのか。答えは……きっと両方。
……そうだよね、こんな些細なことで悩むなんて私らしくない。このメンバー相手に悩むことなんてあるはずないのに。
唯「というわけでみんなー、明日はデートだから邪魔しないでね!」
律「しねーから。ま、唯じゃないけど明日のこともあるしそろそろ解散かー」
梓「そうですね。近々また演奏の方で集まれるんですよね?」
紬「うん。もう時間もだいぶ取れるようになってきたから」
澪「じゃあ日程についてはいつものように調整しとくよ」
唯「よろしくー」
律「おし、んじゃ解散!!」
9: 2011/09/15(木) 20:05:47.57 ID:+wTNpPwyo
――りっちゃんの号令で解散し、家へと戻る。
ちなみに私の今の家はどちらの実家でもない一戸建てだ。新婚夫婦として、まぁ、いろいろする事もあるわけで、実家では色々と都合が悪い。幸いというか何と言うか、互いの家柄ゆえにいい土地の一戸建てを購入すること自体は容易だった。
……夫婦仲の冷め切った今では、つくづく実家暮らしでなくて良かったと思う。厳密には最初から私だけが冷めていて、彼はまだ私を諦めきれていないようなのだが、まあ些細なことだ。
紬「ただいまー……」
静かに鍵を回し、玄関扉を開いて小声で呼んでみるが返事はない。
その『私を諦めきれていない』彼も、さすがに明日の仕事に備えて寝たらしい。次期社長の椅子が約束されている彼は多忙だ。
一方の私は彼の補佐役として仕事場に足を運ぶことは多々あるが、それでも基本的には寿退社した扱いだ。休みを取ろうと思えばすぐに取れるし、主婦業に専念しろと言われることも多い。
実に都合のいい、自由な立場。今はまだそんな都合のいい立ち位置に甘えていよう。
……明日のデートに思いを馳せ、身体を清めてから私は床についた。
――翌日。彼に今日は仕事を休む旨を伝え、朝食を作り、昼食の愛妻弁当まで作り、掃除洗濯まで完璧に済ませ、私は家を出た。
完璧に、とは言うが正午は回っている。でも唯ちゃんもお昼は過ぎると言っていたので何も問題はない。
唯「お待たせー! ごめん、遅れた?」
紬「ううん、今来たところだから」
嘘でもそう言うのが待ち合わせの様式美。できれば一度くらい、友人ではなく恋人に言ってみたい台詞ではあるが。
紬「……汗かいてるね」
唯「うん、まだまだ暑いねぇ……」
と、そこで今日の唯ちゃんは長袖であることに気づく。そりゃ汗もかくだろうに、何故だろう。
とはいえ私も長袖であり、しかもそれに人には言い辛い理由もあるから尋ねづらかったが、意を決して口を開いてみる。
紬「……半袖のほうが涼しいのに」
唯「ん? あー……ムギちゃんだって長袖じゃん。昨日もだったし」
紬「う、うん……まぁ」
手首を隠そうと勝手に動く手を、理性で止める。
誰にも見られたくない躊躇い傷。けれど、不自然に隠そうとしてはいけない。相手が唯ちゃんでも、いや唯ちゃんだからこそ勘付かれる可能性はある。
あくまで自然に、堂々としていないと。
唯「でね、それで……えーっとね…」
歯切れの悪い唯ちゃん。勘付かれたわけではないと思うけど……
唯「その……ほら、お揃いだよ、ね。これで」
紬「……へ?」
唯「お揃い。長袖カップル。なんちゃって~……ダメ?」
……なんて可愛い事を言ってくれるんだろう、唯ちゃんは。
本当に昔と変わらないね。私の好きだった頃の唯ちゃんのまま。
紬「……ふふっ……嬉しい。ありがと」
唯「うん。よかったぁ…」
紬「ふふ……」
そして更に、その「お揃い」という言葉は、私に一つのアイデアをもたらす。
今日のデートのお礼として、何かお揃いのアクセサリーでも買おう、と。特に行き場所も決めていなかったはずだし、今日はそれを目的にしてみよう、と。
でもまぁ、今はその前に……
紬「じゃあ唯ちゃん、行きましょうか。例の場所」
唯「おおっ、楽しみー! ムギちゃん行きつけの安くて美味しいお店!」
紬「ふふっ、私だっていろいろ勉強したんだから。どーんとお任せ!」
唯「おー!」
10: 2011/09/15(木) 20:06:52.62 ID:+wTNpPwyo
――そうしてお昼ご飯を食べて、後はだらだらとウインドウショッピング。
主婦の勉強の一環として、近場のデパートやショッピングモール、スーパーなどは一通り網羅した。その経験を活かし唯ちゃんを一日中リードしていると、彼女は素直に尊敬の視線を向けてくる。
唯「すごいねー……いつの間にこんなに詳しくなったの?」
紬「ここ半年くらいかな? まだまだ新参者よ」
唯「私はしばらくこういうところ来る暇もなかったからねぇ……今はわりと暇だけど、暇なら暇で家でゴロゴロしてるし」
ゴロゴロしてる唯ちゃんが目に浮かぶよう。とはいえ、彼女は『あること』に対してはそれなり程度には頑張り屋さん。
きっと今でも毎日ギターは弾いてるはず。会う度に昔みたいな音を聴かせてくれるから。社会人なのに腕が落ちていないという事は継続できているということだから。
……社会人、かぁ。聞いてみてもいいのかな?
紬「……唯ちゃんは……今はお仕事、何をしてるの?」
唯「ん~、今は…塾の講師したり、家庭教師したり……ふらふらと」
紬「…あれ? 唯ちゃん、教員免許取ってた…よね?」
唯「うん。そうそう、赴任した先の学校にね、軽音部あったんだよ! 顧問にはなれなかったけど、部活を見学させてもらってたんだぁー」
紬「へ、へぇ……」
やっぱり私の記憶通り、唯ちゃんはちゃんと免許を取って就職していた。なのに今は日雇いのアルバイトのような生活。何故だろう?
聞いてみていいのかな…? と悩んでいると、唯ちゃんが続きを語り始めた。
唯「それでね、軽音部の生徒と一緒に舞台に立って大暴れしたらクビになりまして…」
紬「え、ええっ!? 何したの!?」
唯「……デスメタル」
紬「う、うーん…? それだけならちょっと厳しすぎる処置じゃないかな…?」
唯「まぁ、いろいろとタイミングが悪くて、ね……。でも向こうも厳しすぎるとは思ってたみたいで、塾の講師も家庭教師も紹介してもらえてるんだよ、今でも」
紬「次の就職先も探しておく、みたいな?」
唯「まぁ、そんな感じ」
その言葉がどこまで信用できるものか、と私は思うけど、唯ちゃんは至って能天気。危機感がないとも言えるけど、焦りや苛立ちとは無縁な性格はきっと長所。
いざとなれば私も再就職先探しを手伝おう。唯ちゃんのためならいくらでも。
唯「とりあえず最近はそんな感じだから、わりと暇だよ。いつでも声かけてね」
紬「う、うん……」
そう言ってくれる唯ちゃんの笑顔は、昔と変わらず眩しくて。あの頃の私の恋心を想起させて。
でもそれはもう叶わないと思い知っているから、私の心に影を落とす。
唯ちゃんという光が、過去を映し、影を落とす。道理に適ってはいるけど、どうしても寂しさは拭えず。
11: 2011/09/15(木) 20:07:34.81 ID:+wTNpPwyo
でも同時に、きっとあの時の唯ちゃんはもっと傷ついたんじゃないか、とも思う。
ある意味では自らの意思で恋心に決別できた私とは違い、何も出来ぬまま一方的に現実を突きつけられた唯ちゃんの傷心と後悔は、きっと計り知れない。
知らなかったこととはいえ、自分に好意を寄せてくれていた女の子の気持ちを踏み躙ったのだ、私は。そんな私が、その踏み躙った相手の好意に、過剰に甘えるわけにはいかない。
唯「ムギちゃん」
紬「…なぁに?」
唯「いつでも、だよ? そりゃ私にだって予定がある時もあるかもしれないけど、遠慮はされたくないよ?」
紬「……それは、だめ。私は……きっと甘えちゃうから」
どちらかといえば私は甘える側ではない。何よりも眩しく輝く思い出の高校時代等は特に。
だから、きっと甘え慣れていない。いつでも、いつまでも甘えてしまう。こんなくだらない毎日ばかり過ごしている荒んだ心だと特に。
そして唯ちゃんに迷惑をかけて、それをわかっていても自分では止められなくて、そして、また――
唯「……大丈夫だよ、ムギちゃん。『それ』がある限り、大丈夫」
私の心の中を見透かしたような唯ちゃんが指差すものは、私の左手薬指、すなわち結婚指輪。
……そうだ。私は既婚者なんだ。他の誰かを好きになることなんてないし、あってはいけない。そういう立場なんだ、既に。
きっと唯ちゃんも、自分に言い聞かせるように言ったのだろう。私の心の中を見透かせるという事は、思い当たる節が唯ちゃん自身にもある可能性が高いから。
それくらいには、私達は同じだった。同じものを背負い、同じものを過去に捨て置いてきた。
そんな唯ちゃんなら……私を変えてくれるかもしれない。私の毎日に彩りを与えてくれるかもしれない。
そうだ、そもそもそんな思いから、私は今日、唯ちゃんに会いたがったんじゃなかったか。
紬「……うん、わかった。ダメかなぁって思ったときは、遠慮なく連絡しちゃうね」
唯「うん。いつでも待ってるよ。欲を言うなら、少し余裕を持って連絡して欲しいけど」
紬「ふふ、努力するね」
――そのままダラダラと歩き回り、時に喫茶店で休憩を挟んだりしながら、今度は私の今の状況を話した。
聞かれた所は事細かに、言わなくてもいいような所はなるべく濁して。
唯ちゃんは同情も批判もせず、ただ何と言えばいいか決めかねているようだった。別に何か言って欲しかったわけではないし、悩んでいるという事はそれだけ真剣だということだから何一つ嫌な気分にはならない。
そしてじっくりたっぷり悩んだ後、唯ちゃんは「頑張ろうね」とだけ口にした。頑張れ、ではないあたりが唯ちゃんらしくて、思わず顔が綻んだ。
12: 2011/09/15(木) 20:08:13.25 ID:+wTNpPwyo
――空が茜色に染まってきた頃、私は一つのアクセサリーショップに唯ちゃんを先導した。
勿論、唯ちゃんとお揃いの何かを買うためだ。でも特別高い店でもないから唯ちゃんにも喜んでもらえるかな、と思ったのもある。
実際のところ、唯ちゃんは子供のように目を輝かせていろいろ見て回っていた。予想以上の成果と言えるけど、今日の目的はあくまでプレゼント。何かないかな、と見て回っていると、あるものが目に留まった。
紬「唯ちゃん、ちょっと来てー?」
唯「ん? どーしたの?」
紬「これどうかな? 似合うと思う?」
手に取って見せてみたそれは、幅広のレザーバンド。だがそれに唯ちゃんは怪訝な顔をする。
唯「……もうちょっと女の子らしいもの選んだら?」
今のは結構グサっときた。でも確かに女の子らしいかと言われれば微妙なところ。
長めの革を何度か腕にぐるぐる巻きつけて留める、オシャレというよりはカッコつける系のアクセサリー。女の子に似合わないとは言い切れないけど、人を選ぶかもしれない。
紬「じゃ、じゃあこっちにする?」
今度はトリコロールカラーのリストバンドを見せる。こっちならシンプルで人を選ばないと思う。
でも、それにも唯ちゃんは怪訝な顔をした。また女の子らしくなかったかな、と思ったけど、次に発された言葉は予想と違っていて。
唯「……なんで手首に巻くものばかりなの?」
紬「え……」
言われてみればそうだ。気づけば手首に巻くものばかり、しかも幅広のものばかりを見ている。
それは何故か。ちょっと考えればすぐに思い至る。
唯ちゃんとお揃いという事は、私も身につける物だから。どうせなら、と手首を覆い隠せるようなものを無意識に探してしまうんだ。
……この傷のことだけは、唯ちゃんにでも言えない。見せられない。隠し通さなければいけない。
紬「……似合わない、かな?」
唯「そういう意味じゃないけど……」
紬「よかった! じゃあこれ一組買ってくるね!」
唯「あ、ちょっとムギちゃん――」
無理を通せば道理が引っ込む。少し違うような気もするが、下手にごまかすよりは得策だったりもする。
大人の汚い交渉術も、こういう時には役に立つ。
紬「はい、唯ちゃん」
唯「ほえ?」
紬「プレゼント。二人で片方ずつ付けて、お揃い♪」
唯「え? でも……」
紬「今日のデートのお礼。ね?」
唯「…そういうことなら、ありがと。……で、でも次からはこういうのいいからね!?」
紬「じゃあ、次からはそれ付けてきてね?」
唯「う、うん……」
この場で付けて、とは言わなかった。
次に持ち越すことで、自然と次に会う機会があることをほのめかせるし……それに何よりも、唯ちゃんに強制したら私も付けないといけなくなる。手首を晒すわけにはいかない。
唯ちゃんはちょっと納得いかなそうな感じだったけど、ポケットに仕舞った後にはいつもの輝かしい笑顔でお礼を言ってくれた。
――夕陽が沈む前に唯ちゃんと別れ、家に帰って夕食の準備。
料理は出来ないわけではないが、相手の事を考えた料理となるとこれはこれで中々難しい。いつもたっぷり悩み、たっぷり時間をかけて作る羽目になる。
夫婦仲は冷え切っている、とは言ったが、料理を放棄すれば命に関わる。食は命の源。健康の事も考え、ちゃんとした料理を作ってあげている。
そのあたりが彼が私を諦めきれない所以なのかもしれないが、氏なれでもしたら目覚めが悪いのだから仕方ない。私のせいで誰かが傷つくのなんて見たくない。
絶対に見たくない。私のせいで傷ついていいのは私だけだ。
そう、言わばこの毎日は自業自得。今更唯ちゃんに救いを、癒しを求めるのさえ的外れなのかもしれない。
……でも、それでも確かに、唯ちゃんと、皆と仲良く話せた昨日は、手首を切らずに済んだのだ。
13: 2011/09/15(木) 20:08:55.76 ID:+wTNpPwyo
――彼が帰宅し、食事の時間を経て、互いにお風呂を済ませて寝室へ向かうと、そこからは夫婦の時間。
冷め切った夫婦を演じているとはいえ、夫婦としてのこの行為だけは私は拒めない。実に様々な要因が重なって拒めないのだ。
まず私は同性『も』愛せるというだけで異性を嫌悪しているわけではない。悲しいかな、雌としての本能に訴えかけてくるものがある。
早い話が、相手に愛情を抱いていないとはいえ、嫌いではない以上は性的興奮を喚起されてしまうのだ。
そして同じように人間は快楽には貪欲である。何の不利益も被らずに快楽だけを味わえるというのなら、人間は絶対に拒めない。
私も例に違わず、性的な快楽の前では理性は薄れてしまう人間だ、ということ。せめて相手を嫌いであったなら拒めたのだろうが。
次に、私はどこか彼の性欲の捌け口にされているようなその扱いさえもを利用しようとしている節がある。
彼は毎日私を求めてくる。前述したように女性に免疫がないほどの彼が女性の味を知ってしまったのだ、その若さも手伝って脳がそちらに切り替わると止まらないのだろう。
行為の最中は私も興奮しないと言えば嘘になる。だが終わってしまえば、結局は男の自分勝手な欲望に振り回されただけ、と思えるのだ。彼の獣のような目を、動きを知っているから。
彼の欲を実感することで、より私の心は冷え切っていく。彼との夫婦仲をより凍らせることが出来る。そして誰かにそんな私の扱いを愚痴としてぶつけることさえも出来る。それは流石にまだやっていないが。
最後に、これは一種の償いでもある、とも考えられる。
私の身勝手な理由で仮面夫婦を演じていることに対する償いとして、せめてだけはさせてやろう、というもの。
私に残った、彼に対する最後の良心。思いやり。そうとも取れる。
だが、どの理由を取ってみても、そこに愛はない。
お互い初めてだったあの時は、確かに彼は私を愛してくれた。私はただ黙って受け入れた。私に愛はなかった。
今では彼にも愛があるのかはわからない。何かに突き動かされるように私を求めてくるその姿からは、愛を見出す方が難しい。でも嫌いではない、互いに。だから気持ちいい。
結局、人間の脳の快楽を感じる部分は、案外いい加減なものなのだろう。
実に気持ち悪い。自己嫌悪に陥ってしまうほど。
心から愛している人とでないと感じられない仕組みなら、どれほど良かったことか。
そんな吐き気のするような人間の本能への最後の抵抗として、私は彼に避妊具の着用を強要している。
もちろん私自身もそれなりに対策を練っている。妊娠したなら堕胎させる覚悟もある。
子供を作らない、それが私のささやかな反抗。子供を作るのは……全てを諦めた時でいい。全てを諦め、囚われの鳥としてゆっくりと朽ちてゆく覚悟を決めた、その時で。
――今日も私は、一日の最後に手首を切る。
流れ出る血と共に、人間としての汚さも流れ出てしまえばいいのに。
14: 2011/09/15(木) 20:09:38.16 ID:+wTNpPwyo
――少し久しぶりに会社に顔を出す。そんな私を出迎えてくれたのは陰口だった。
給料こそ僅かなものの、次期社長と結婚し、決められた仕事も定時も存在しない私はやはり恵まれた立場に映るようで。まぁ仕方のないことだと割り切ってはいるけれど。
紬「何かお手伝いしましょうか?」
社員「え!? うーん……いえ、今は特には…」
紬「そうですか。何かあったら言ってくださいね」
明らかに忙しそうな人に声をかけたのだけれど、何を手伝わせてくれない。
実のところ、陰口よりもこういう明らかな気遣い、というか腫れ物扱いのほうが堪える。敵意なら無視すれば済むけれど、善意が僅かでも含まれているならそれは受け止めないといけないから。
遠慮、あるいは気遣いという名の善意が。そして、その善意は、私に一つの疑惑を常にもたらす。
そう、自分は居るだけで邪魔な存在なのじゃないか、という疑惑を。ほぼ現実と言える疑惑を。
結局のところ、会社では彼の隣しか居る場所がない。彼の隣で愛想笑いを貼り付けているしか出来ないのだ。
お茶を淹れれば喜んでもらえるのだけは、少し昔を思い出して嬉しくもなるけれど。でもその後に寂しさも襲ってくるから結局差し引きゼロか。
……こんな会社の何が楽しいと言えるのか。何か一つでも精神的に利となる点があるというのなら、誰か教えて欲しい。
――そして彼より一歩先に会社を出て、家に帰って夕食の準備。彼が帰宅したら夕食、入浴、そして性交渉の後に彼が就寝したのを見計らって手首を切る。
……こんな毎日の何が楽しいと言えるのか。何か一つでも精神的に利となる点があるというのなら、誰か教えて欲しい。
切実に請う。誰か教えて。お願いだから。
――結局、前回会ってから丸一日空いただけで、私は再度唯ちゃんに縋っていた。
紬「――唯ちゃんと一緒に居る時が楽しすぎるから、何もない日常に戻った時の落差で、余計に落ち込んじゃうのかな」
多分、それで間違いないだろう。心の針が振れる事がなければ何も感じないはずだ。振れ幅が大きすぎるから余計に心に響くのだ。
けれど、そんな結論を出したところで、
唯「……だったら、会わないようにする?」
紬「それは嫌っ!!」
唯「ひゃっ!?」
……その選択肢だけは、絶対にありえない。
紬「唯ちゃんは、さっき頼んだパフェが勝手にキャンセルされたら怒るでしょ? 落ち込むでしょ?」
唯「う、うん。それは勿論……」
ちなみに現在地はファミレス。一人では入りづらく、彼ともあまり休日が合わない為しばらく来てなかったけど、せっかくだからと今日唯ちゃんを誘ってみた次第。
紬「私にとって唯ちゃんと会う時間は、パフェ以上のものなの。あったかくて心地よくて、唯一無二の癒しの時間なの!」
唯「う、うん、なんか……照れる…」
ごめんね、そういう表情も含めて癒されるの。…なんちゃって。あながち嘘でもないけど。
唯ちゃんを困らせる趣味はないけれど、その表情と、左手首につけられたリストバンドを見て顔が綻ぶ程度には、私はまだ唯ちゃんの事が好きなの。
……なんちゃって。こっちのほうは嘘じゃないといけない。
私が唯ちゃんに求めているのは醜い現実の中のささやかな幸せであって、現実からの逃避とか否定とか、そういう大きな幸せじゃないんだから。
唯「まぁ…その、前にも言ったけど、私で助けになれるなら、いつでも呼んでね」
紬「出来れば余裕を持って?」
唯「うん。絶対に応えられる、なんて無責任なことは言えないけど…ムギちゃんのためなら、絶対に努力はするから」
紬「……うん、ありがとう、本当に…」
その言葉は、確かに嬉しくて、何よりも私を安堵させてくれる素敵なものだったんだけれど。
どこか心の奥で、もっと昔に聞いておきたかったな、と思う自分もいた。
15: 2011/09/15(木) 20:10:51.89 ID:+wTNpPwyo
――そこから24時間以上は、また変わらぬ日常。
彼と過ごし、眠り、会社に行き、彼と過ごし。
二度の夜を迎え、二度のあれと一度の自傷行為を越え、その後迷惑にも真夜中に、私は唯ちゃんに電話をかけた。
唯『――ムギちゃん!? どうしたの!?』
紬「……ううん、別に何もないんだけど…ごめんね、ちょっとだけ声が聞きたくなって…」
唯『……なぁんだ、びっくりした……何もないならそれでいいけど…』
紬「……ごめんね、迷惑だよね。でも…お願い、ちょっとだけでいいからお話させて…?」
唯『そういう電話なら…ふわぁ、もうちょっと早くにしてくれればいいのに……』
眠そうな唯ちゃんの声を聞いていると、本当に罪悪感が湧き出して止まらないけれど。
紬「ごめんね……本当に。迷惑だってわかってる。非常識だってわかってる。でも今日だけ、今だけ……ダメ?」
自分でもわかる、酷い我が侭だということは。唯ちゃんにとって迷惑極まりない行動だということは。嫌われても仕方ないほどの行動だということは。
でも、寂しさが抑えられない。きっとまだ手首を切っていないからだと思う。手首を切れば、痛みのおかげで色々なことを忘れられる。この世の醜さ、自分の汚さ、何一つ思い通りにはならない現状から来る寂しさも。
ならば、何故切る前に唯ちゃんに電話したのか。迷惑をかける方を選んだのか。私自身、それはわからないけれど。でも…
紬「……ごめん。どうしても……寂しくて……!」
私の口からは、それ以外の言葉は出て来そうにない。
唯『……うん、いいよ。今日頑張って働いてきたから明日は休みだし。いくらでも付き合うよ』
紬「……私も…明日休む。いいかな…?」
唯『じゃあ、今夜はいっぱいお話できるね。徹夜しちゃう?』
紬「…ふふっ、それも面白いかも」
唯『決まりだね。んしょ、っと……ほらほら、何でも話してごらん?』
紬「うん。それじゃあね、まずは――……」
――そうして、どれだけ話しただろうか。ちゃんと充電していた携帯電話が、電池切れの近い音を鳴らし始めた頃。不意に唯ちゃんが言った。
唯『ところで紬お嬢様。喉が渇きませんか?』
紬「ぷっ、ふふっ、誰の真似? まぁ、確かに喋りっぱなしだったけれど……」
唯『ムギちゃんの新しい家って二階建てだっけ?』
紬「え? うん、そうだけど……急にどうしたの?」
唯『玄関の方見てみてよ。ジュースが届いてるはずだから』
紬「へ?」
静かに寝室を出て、玄関を視認できる窓を開けて言われるまま顔を出して覗き込んでみると。
唯「……お届け物でーす」
紬「え、ええっ!?」
16: 2011/09/15(木) 20:11:47.39 ID:+wTNpPwyo
紬「――もう! こんな夜中に出歩くなんて…危ないじゃない!」
唯「だってー、ムギちゃんが喉が渇いたって言うから……」
紬「時間から考えて、それ家を出た後だと思うけど……全く、本当に……」
とりあえず一階の居間に通すと、唯ちゃんは買ってきたらしい「おいちぃアップル」とかいう見た事もない缶ジュースを差し出してくれた。
ありがたく貰うけれど、それとこれとは話が別。女の子がこんな時間に出歩くなんて……ここはガツンと言わないといけない。
紬「……ありが、とう……」
唯「いいよー。自販機で100円だったし」
紬「そうじゃなくて……私の為にわざわざ来てくれて」
唯「ん……まぁ、休みだったし、別にいいかなー、って」
紬「……ありがと…そしてごめんね、迷惑ばかりかけて……」
私の為に夜中に来てくれた。それ自体はすごく嬉しくて感謝の言葉が先に出るけど、やっぱり後から罪悪感も溢れてきて。
でも、大きな迷惑をかければかけるほど、それを苦にしないでいてくれる唯ちゃんの優しさが身に染みて。
迷惑かけたくないのに、唯ちゃんの優しさに甘えていたくて。感情がごちゃまぜで、わからなくなって。
どうすればいいのかわからないでいると、いつもと変わらない唯ちゃんの能天気な声で現実に引き戻された。
唯「そんなに悩まなくても、お互い様だよ。私も来る途中に知らない人に迷惑かけたし」
紬「……え? どういうこと?」
唯「コンビニで道を聞いたの。一戸建て買ったのは知ってたけど、来たことなかったからね、よく考えたら」
そういえばそうだ。思えば大学寮の時以外、友達を自分の領域に招き入れたことはない。今回も家の場所を教えたわけではないのに、と今更ながらに思い至り、どうやって来たのか聞いてみた。
すると、私が新居から出したハガキから住所だけは割り出し、アテをつけてからコンビニで尋ねた、とのこと。意外としたたかというか、行動的というか……
でも、そこまでして来てくれた唯ちゃんに、私は――
紬「っ……」
唯「……ムギちゃん?」
……ダメだ、この感情は…ダメだ。抱いてはいけない感情だ。
紬「……なんでもない。お話の続き、する?」
唯「……うん。そうだね。りんごジュースだけど、乾杯してからさっきの続きにしよっか」
紬「うん」
……ダメだとわかっていても、認めないことのほうが難しそうだ。
……少なくとも、私の為にここまでしてくれる唯ちゃんが、私の中で『再び』大きな存在になっていっているのは間違いないのだから。
17: 2011/09/15(木) 20:12:55.71 ID:+wTNpPwyo
――高校時代、大学時代、そしてちょっとだけ最近の話にも触れ、少し気まずくなり、逆に中学時代の話に触れようとしたりもして。
そんなこんなで本当に止まることのない夜を過ごしていたら、夜明けなどあっという間で。
唯「うわっ、もう7時!?」
紬「あら、本当……」
唯「……どうしよ?」
紬「朝ごはん食べていかない? そろそろ作るから」
唯「うーん……お言葉に甘えたいけど、さすがに旦那さんと会うのは気まずいよ…」
まぁ、それはそうかもしれない。私が招き入れたとはいえ、彼から見れば夜中に家に上がりこむ非常識な客人には違いないのだ。
でも原因は私。唯ちゃんを悪いようにはしたくないし、何らかの形でお礼もしたい。このままサヨナラじゃ薄情すぎる。
紬「じゃあそこのソファで寝たフリでもしておいて? ちゃんと説明はしておくから」
唯「結構投げやりだね。もっといい方法があると思うんだけど…」
紬「目の届く範囲に居て欲しいの。タオルケット持ってくるから待っててね」
唯「私に拒否権はないんだね……」
――寝室にタオルケットを取りに行った時、彼が目を覚ましたので軽く説明して一階に戻る。
横になった唯ちゃんがタオルケットを頭から被ったのを見届け、隣の台所で素早く朝食の準備。彼が起きてしまったという事はもうあまり時間はないけれど、でも唯ちゃんもいるわけだから、と悩んで汁物を作る。
晩夏のこの季節、お味噌汁はまだちょっと早いかもしれないけれど、でも等しい味付けで大量に作れて尚且つ胸を張って唯ちゃんに出せる物、となるとこれしか浮かばなかった。まだまだ主婦としては半人前です、私。
紬「……ん、これくらいかな?」
味見を終え、これで完成。ご飯もちゃんと炊けてる。味付け海苔でも添えて出せば簡素ではあるけど朝食の体は整う。
冷蔵庫にお漬物もあったはず。飲み物は…まぁ、彼にも唯ちゃんにもその時その場で尋ねれば済む話。
彼には申し訳ないけれど今日は愛妻弁当はお休み。ごめんね? 夜からずっと、私の気持ちは唯ちゃんといる時間にばかり向いてるの。これが終わればまた唯ちゃんと話せる。そればかりが楽しみなの。
……なんてね。貴方に気持ちが向いたことなんて、元々一度もないよね。悪いとは思ってるけど、改めるつもりもないから。
紬「……あ、おはようございます――……」
18: 2011/09/15(木) 20:13:32.60 ID:+wTNpPwyo
――何度か唯ちゃんの視線を感じながら、いつもよりちょっとだけ彼に好意的に接し、背中を見送る。
ちゃんと会社を休む旨も伝えた。もう後ろ髪引かれるものなんて何もない。ここから先は、唯ちゃんとの時間。そう思うだけで胸がときめく。
……昔もそうだった。唯ちゃんを見ているだけで、唯ちゃんと一緒の時間を過ごせるだけで、全てが輝いていた。
もちろん、唯ちゃんが他の誰かを好きになったりしないだろうか、と不安に駆られた事も多い。でもそういうのも含めての恋愛沙汰だと思っているし、そういう不安に後押しされて気を引こうと行動しちゃう私もまた本当の私なのだ。
……思えば色恋沙汰であたふたしたり、悶々としたりしたのは、唯ちゃん相手が最初で最後。
今の彼とは、本来愛すべき異性の彼とは、そういうのは一切無い。
紬「……普通の恋愛に…恋愛そのものに、憧れてたのになぁ……」
澪ちゃんのメルヘンな歌詞を笑えない程度には、私は恋に恋する乙女だった。
なのに私の胸の中に残るのは、想いを伝えることさえ出来なかった唯ちゃんとの日々ばかり。
振り返ってみれば結局、私の中にはあの日から結婚するまでずっと唯ちゃんがいた。友情から親愛へ、そして恋愛感情へと順当に根を張っていき、互いのカラダとココロが成熟していくにつれて時には性的な意味で唯ちゃんを欲したくもなった。
大学を卒業し、皆と道を別ってからは、唯ちゃんのことを想いながら自分を慰める日々が続いた。
半年前に結婚してからは性欲は彼との行為で解消した。唯ちゃんに対する想いは捨て置いたのだからそれは仕方ない。仕方ないことなんだ。
そう思っていたのに、私は手首を切る道に逃げた。そう、私が手首を切り始めたのは結婚して、性交渉というものを経験してからだ。何故だろう?
男性との汚さに幻滅した?
唯ちゃんを諦めたことが私の中で尾を引いていた?
それとも両方だろうか。唯ちゃんを諦め、傷心の私は最悪のタイミングで男を知ってしまった。故に男性が醜く映る、とか。
真実はわからないけれど、説得力自体は最後の説に最もあるように思える。
唯ちゃんを想って性欲を満たしていた頃の方が美しく映って、唯ちゃんを忘れてただ義務的に満たす今は汚く映るのだろう。
要するに私は、愛が欲しいのかもしれない。愛を思い出したいのかもしれない。
他の人はどうかわからないが、知ってしまった今でも、私は性欲には愛が追従するものだと思っている。そうでないといけない。そうであってほしい。そんな主観に満ちた希望的観測でもあるけれど。
だからこそ、そんな主観に反する今の毎日は腐って映るのだ。むしろそれを契機として毎日が腐り落ちていったのだ。毎日に何も楽しみを見出せなくなってしまったのだ。
……ならば唯ちゃんはどうなのか? とふと思う。唯ちゃんだって年頃……を少し過ぎたくらいの年齢の女の子だ。性欲と無縁ではいられないはず。
今でも昔と変わらず天真爛漫な唯ちゃんがしているところなんて想像できないけれど、でも先程少しだけ現在の話題に触れたときは「彼氏はいない」と言っていた。いたこともない、と。
唯ちゃんもずっと私を想ってくれていたのだと嬉しくもなるけれど、同時にそんな唯ちゃんは性欲と愛情と毎日の輝きにどう折り合いを付けているのか、気になって仕方ない。
紬「………」
そういえば猥談ってしたことないなぁ、とか思いながら、タオルケットを被っている唯ちゃんに近寄り、声をかける。
紬「…唯ちゃん? もう起きていいよ?」
唯「………」
紬「……唯ちゃん?」
返事が無いのでタオルケットをめくってみると、その下の顔はそれはもう気持ちよさそうに熟睡していた。
思い返してみれば寝ている途中の唯ちゃんを叩き起こしたのは私だ。それからずっと眠かったろうに嫌な顔一つせず私に付き合ってくれたんだ。ここで寝てしまっても責めることはできない。
猥談の類が出来なかった残念さはあるけれど、起こすのも忍びないなぁ……と思っていると、唯ちゃんが寝返りを打ち、タオルケットが床に落ちる。本人はギリギリでソファから落ちなかったのが救いか。
拾い上げ、もう一度かけなおしてあげようかとしたところで……私の手は止まってしまった。
唯「……んぅ……ん…」
紬「…っ……」
艶かしい唯ちゃんをどれだけ見つめていただろうか。自らの生唾を飲む音に我に返る。
左手薬指の、結婚指輪。
……そうだ。愛してはいけない。もう否定できないほど唯ちゃんのことを再び好きになってしまっているけど、それでも愛してはいけないんだ。
愛してしまうのは、唯ちゃんにも失礼だ。唯ちゃんを困らせるだけだ。これ以上は…絶対にダメ。
両手を離し、一歩引く。愛欲を理性で必氏に押さえ込み、一歩一歩後ずさる。
だが充分すぎる距離を取っても、私のナカの疼きだけは治まらない。その場に座り込み、自分の下着の中に手を入れる。
紬「んっ……ぁ……」
自分で感じる、自分自身の湿り気。唯ちゃんを見ながら、自分自身に触れながら、指で擦りながら、どこかで私は思う。
これが唯ちゃんの手なら、指なら、どんなにいいか、と。唯ちゃんが私を見てくれてたら、どんなにいいか、と。
――結局その行為は、ほんの僅かな時間で、表面だけの優しい刺激で、私に終わりをもたらした。
19: 2011/09/15(木) 20:15:32.32 ID:+wTNpPwyo
――すっかり冷えてしまったお味噌汁に火をかけ、少しずつ温める。
完全に温まるよりも先に、匂いが充満し始める。それに反応したようで唯ちゃんが目を覚ました。
唯「……ごめん、寝ちゃってた……」
紬「いいの。時間もそんなに経ってないし……それに、私のせいだし」
取り繕いながら居間の方へ。あの後こっそり唯ちゃんにかけておいたタオルケットを手渡されるけど、まだお味噌汁が温まるまで少し時間はある。二人してソファに腰を下ろし、話を続ける。
唯「……それでも、ごめん。それにムギちゃんだって徹夜じゃん。私だけ寝ちゃったのは……」
紬「私は…ほら、しなくちゃいけないことがあったから。仕方ないっていうか……」
朝食を作り、彼に休む旨を伝える。どれを欠かしても唯ちゃんと過ごす一日に支障をきたすから、苦にはならない。
……そういえば、唯ちゃんの視線をちょくちょく感じていたはずなんだけれど……
紬「……そういえば、いつごろから寝てたの?」
唯「ん……いつだっけ。よくわかんないけど……とりあえず旦那さんの顔は覗き見ちゃいました」
紬「やっぱり。何回か視線感じたもん」
唯「あはは……でもお似合いだと思うよ。イケメンさんじゃん」
……何気ないその言葉に、胸の奥が痛む。
美的感覚のほうには興味はないが、愛してもいない相手とお似合いと言われて、嬉しい人がいるだろうか?
もちろん、唯ちゃんに悪意がないことはわかっているし、こういう言葉は社交辞令の範疇だと理解しているけど。
否、理解しているつもりだったけれど。それでも、その言葉は、
紬「……本当に、そう思う?」
唯「え? うん、もちろん……」
紬「唯ちゃんは、あの人と私が愛し合っているべきだって、それが正しいって……それで唯ちゃん自身も幸せだって、そう言うの?」
唯ちゃんのその言葉は、私の再び抱いたこの想いを、真っ向から否定するものなんだ。
唯「っ………」
紬「………ごめん、何でもな――」
唯「――ムギちゃんは…もう既婚者なんだよ? それが…正しいよ。私の事なんて関係なくて、それが正しい夫婦の形だよ…」
私の謝罪を遮り発せられたその言葉は、いつかと同じく、私に向けられたものでありながら唯ちゃん自身に言い聞かせる言葉でもあって。
それでも、その言葉は私の問いを否定しきれてなくて。唯ちゃんの本心を、隠しきれてなくて。
でも私には、その本心を問い詰める権利はない。結果論ではあるけれど、唯ちゃんを突き放した形になる私には。
だから、問い詰めるのではなく告げなければいけない。私のほうから、ちゃんと言葉にして。
紬「――好き。愛してる。唯ちゃんのこと」
唯「っ……!」
きっと唯ちゃんのことだから、雰囲気を出したり、順を追って言葉にしていたらまた私を止めるだろう。指輪を盾に、私の言葉を防ぐのだろう。
ならばそんな暇なんて与えない。そしてそんな隙も与えない。指輪を抜き取り適当に投げ捨てて、更に言葉を重ねる。
紬「唯ちゃんがいないと、毎日が楽しくない。唯ちゃんがいないと幸せになんてなれない…!」
唯「ムギ、ちゃん……」
紬「私は、正しさより幸せが欲しい…! 唯ちゃんに一緒にいて欲しい!!」
告白しながら、気づけば私は涙を流していた。もちろん唯ちゃんの返事が貰えていない今、それは幸せの涙などではない。
それは恐怖。怯え、震える心の流す涙。
人として間違っている道に唯ちゃんを引き込もうとする卑怯な私が、それでもその誘いを拒まれることを何よりも恐れている。
拒まれれば私に後はない。唯ちゃんを、全てを失うだけ。それが怖くてたまらなくて。それでも、もう後戻りなんて出来なくて。
目を閉じ、俯いて涙を流しながら、震えて返事を待つしか出来なくて。祈ることしか出来なくて。
だから。
20: 2011/09/15(木) 20:16:28.89 ID:+wTNpPwyo
唯「……ムギちゃん、顔を上げて?」
紬「や、やだ……!」
唯「大丈夫……聞いちゃったからには、ムギちゃんを拒んだりなんて、絶対にしないから」
その言葉に、私は心から救われて。
紬「ほ、本当に……?」
唯「……うん。ムギちゃんの幸せのためなら、何でもするよ。助けになれるならいつでも呼んでって言ったじゃん」
紬「それは……そうだけど…」
唯「…でもね、一つだけ、困ったことがあるんだ」
紬「えっ…?」
なんだろう、と考えるも、思い当たる節なんてあるはずなくて。
でも、それでも私も唯ちゃんのためなら、私を受け入れてくれた唯ちゃんのためなら何でもしようって思えていて。
紬「……何でも言って。私で助けになれるなら、何だってするから」
唯「うん、あのね……? 驚かないで聞いてね?」
紬「う、うん……」
唯「その、ね……私も、ムギちゃんのことが好きなんだ。愛してる」
紬「っ――!!」
その顔と、その言葉は反則だよ、唯ちゃん。
そんなことされたら、私、また――疼いちゃう。
唯「ムギちゃ――ひゃっ!?」
紬「唯ちゃん……愛してる。愛してあげる。んちゅ……」
唯ちゃんをソファに押し倒し、キスをする。
今はまだ部屋に漂うお味噌汁の匂いも、きっともうすぐ唯ちゃんの匂いに埋もれてしまうのだろう。
私の愛する匂いに、私のずっと求めてきた幸せの香りに――
21: 2011/09/15(木) 20:17:47.47 ID:+wTNpPwyo
紬「……どうしたの?」
唯「……これって、不倫、なのかな?」
紬「うーん……どうなんだろ。愛し合ってるけど、同性だから……法律的には、よくわからないかな」
唯「ムギちゃんは…どう思ってる?」
その質問に、どう答えるのが正解なのか。
不倫だとは思いたくない。そんな世間から批判されるような関係ではない。お互い、ちゃんと心から愛し合っているんだから。
でもこの関係を他の誰かに公表できるかと言われれば否だ。私にも唯ちゃんにも、それぞれの生活がある。自身の保身ではなくて、公表することで相手にかかる迷惑のほうを考えると、誰にも言うわけにはいかない。となれば……
紬「……不倫、なのかな…」
……身体の熱が引いていくと同時に、頭も冷えていく。私は……本当に、こんなことをして良かったのか?
唯ちゃんの私を好きな気持ちを疑うわけではない。唯ちゃんは、本心から私と一つになりたいと思ってくれた。
問題なのは、唯ちゃんを『不倫相手』という立ち位置まで貶めてしまったこと。私の我が侭で。私が寂しいから、幸せになりたいからという理由だけで。
……もう、後戻りは出来ないとわかってはいるけれど。
22: 2011/09/15(木) 20:18:25.57 ID:+wTNpPwyo
紬「……絶対、幸せにするからね?」
唯「…どうしたの? 急に」
紬「不倫、だから、表立って幸せには出来ないけど……唯ちゃんの望みは、何でも叶えてあげる。私が、絶対に」
そう私は覚悟を決めた。たとえ私がどうなろうとも、唯ちゃんだけは幸せにする。
この不倫が明るみに出るようなことがあれば、私だけが罪を被ろう。これ以上唯ちゃんを苦しませるようなことは絶対にしない。私の全てを賭して、唯ちゃんだけは守ろう。
そして、どんな願いでも叶えてあげよう。そう決意すると、
唯「じゃあ……いきなりだけど、ひとつ、いいかな?」
そう言って、握った私の手を、自分の……大事なところへと導いて。
唯「今度は……中のほうで、愛して欲しいな……」
紬「え……で、でもそれは…」
顔を赤らめながら、それでも唯ちゃんは確かに、私を求める。
唯「その…旦那さんのって、どれくらい?」
紬「え? えっと……太さ…?」
唯「う、うん……」
紬「……指二本分、かな? たぶん」
厳密には横幅は二本より薄い気もするし、でも縦の厚さが指よりはあるし、うまく説明できなかったけれど。
それよりも、そういうことを聞いてくるという事は、求めるのは、やはり。
唯「じゃあ……二本、入れて?」
紬「だ、ダメよ! 絶対ダメ!」
唯「大丈夫だから! 絶対、泣いたりしないから…! だから、ムギちゃんと同じにして…?」
紬「で、でも……」
唯「……私はムギちゃんの不倫相手なんだよね? 愛人なんだよね? だったらちゃんと、ちゃんと奥のほうでも…愛して欲しいよ」
唯ちゃんを苦しませるようなことは、絶対にしないと決めたのに。
それでも唯ちゃんは、唯ちゃん自身の幸せの為に、私に自身を傷つけることを強要するんだ。
そして、それが唯ちゃんの望みなら……私は、叶えてあげないといけない。
紬「……本当に、すごく痛いよ? 最初は一本からにするけど…それでも、きっと痛いよ?」
唯「……うん。我慢するから…」
紬「……ごめんね。私も、出来れば唯ちゃんに…貰って欲しかった」
唯「……不倫なんだよ? 不倫してるのに二人ともはじめてだったら……さすがにおかしいよ」
そう言ってくれるけど、それでも後悔は消えなくて。
そもそも初めて同士だったから、私の婚約は上手くいったようなフシもあるけれど。それでも想いは別のところにあって。
大好きな人に捧げられなかった後悔を背負いながら。大好きな人が捧げてくれる喜びを噛み締めながら。
紬「……いくよ…?」
唯「うん……っ!!」
私はそのまま、求められるままに唯ちゃんを破り、穢した。
23: 2011/09/15(木) 20:19:57.51 ID:+wTNpPwyo
紬「――あぁ…お味噌汁ぐちゃぐちゃ…」
火にかけたまますっかり忘れられていたお味噌汁。中身なんてもうほとんどない。とりあえず火を止める。
吹き零れて火が消えてガスが充満……なんてことにならなかっただけ良しとしよう。居間で疲れ果てて寝ている唯ちゃんに万が一の事があったら悔やんでも悔やみきれない。
……もっとしっかりしないと。何があっても守らないといけない人が、私にはいるんだから。
――居間に行き、裸で眠る『守らないといけない人』の傍らに腰を下ろす。
まだ暖かい日が続くとはいえ、裸のままなのはどうかと思わないこともないのでタオルケットだけはかけておく。
紬「……おやすみ。何も心配しないでいいからね。唯ちゃんを傷つけるもの全てから、私が守ってあげるから」
ずっと助けてもらってた。ずっと心を守ってもらってた。そして幸せを貰った。
ならば、次は私が返す番だ。たったそれだけのこと。
紬「……幸せ、かぁ……」
自分には無縁だと、いつしかそう思ってしまっていたその言葉。それでもそれは求めれば手に入る物だったんだ、と今更になって気づく。
胸の内で燻らせている想いを、相手にぶつける。それが幸せになるための第一歩。それさえしなかった昔の私を悔やむ気持ちは勿論あるけれど。
いや、むしろ遅すぎたのかもしれない。不倫というカタチになってしまったのは、遅すぎた私に対する罰には違いない。唯ちゃんを巻き込んだのは、私の罪に違いない。
それでも、私の中には確かに幸せがある。私の隣には唯ちゃんがいる。その幸せだけは、絶対に誰にも否定させない。
唯ちゃんも同じ気持ちだと信じているから、わかっているから、あとは私が唯ちゃんを守り抜く。たったそれだけのこと。
紬「……ふふっ……」
胸の奥の支えが取れたように、身体が軽い。世界が輝いて見える。人を愛するという事は、それだけで視界を大きく変えてしまう。
唯「んぅ……」
紬「っと……よしよし」
そんな輝きをくれた唯ちゃんの頭を優しく撫で、タオルケットから投げ出された両手をどうしようか悩んでいると。
ふと、リストバンドが目に入る。二人とも、行為の最中も決して外さなかったリストバンド。二人だけの絆の証。でもそれは、唯ちゃん自身の汗を吸って少しだけ汚れているように見えた。
きっと私のも汚れているんだろうかなりのカ口リーを消費する。つまり大量の汗をかく。女の子は特に、ね。
唯ちゃんの前で外すわけにはいかないけれど……今は寝ているし、せっかくだから二人分いっしょに洗っておくのも悪くはないかも。
左手首からリストバンドを外すと、多数の傷が目に入る。本当に幅広のタイプにしておいてよかったとつくづく思う。
でもこの傷も、もしかしたら唯ちゃんなら受け入れてくれるのではないか。今ならそんな気もする。
それに……唯ちゃんがいてくれれば、私はもう手首を切る事はない。満たされていない自分と、汚い世界からの逃避として、私は手首を切っていた。そんな気がするから。
だから、今残っている傷が癒えた頃に唯ちゃんに打ち明ければ、案外なんとかなるのではないか。あくまでそれは、私が立ち直った証としか映らないのではないか。
……なんて甘い考えを抱いていたけれど。
紬「え……っ……?」
それは、あくまで私自身にしか適用されないことで。
紬「……どうし、て……?」
唯ちゃんの手首に走る、私と同じ傷には、甘い考えは到底適用されなくて。
24: 2011/09/15(木) 20:21:05.22 ID:+wTNpPwyo
――洗ってあげよう、と。ただそれだけの思いで、リストバンドを外してあげて。
そこに私と同じ傷が、五本の赤い線が走っていたら、私はどうすればいい?
……呆然とする私と、どこか冷静な脳内の私がせめぎ合う。
これは、唯ちゃんが自分で付けた傷だ。私と同じように何か嫌な事があって、自らを傷つけたんだ。
何が? 何があったの?
それはわからない。けれど、ずっと手首を切ってきた私にはわかる。この傷は新しい。
新しい……傷……
リストカットは一日に一回。誰が決めたわけでもないが、氏ぬ気なんてさらさらない、ただの逃避として切る人の場合はこのパターンが多い。
学校から帰ったときに。お風呂に入ったときに。寝る前に。タイミングこそまちまちだけれど、複数回切る人は稀だ。
つまり、唯ちゃんは5日前から、手首を切り始めた。
そういうことになる。
……5日前。何があった日か。その日、唯ちゃんに何があったのか。
考えてみようとして、考えるまでもないことに思い至る。
5日前は、みんなで飲み会をした日だ。
あの日、飲み屋に集まる前に、唯ちゃんに何かあったのか?
……いや、それはおかしい。だってあの日、私は手首を切らなかった。飲み会が楽しかったから。
となると考えられるのは、飲み会そのものが楽しくなかった…という可能性。あれだけ屈託なく笑っていた唯ちゃんが、内心でそんなことを思っていたなんて考えたくないけれど……
……違う。それも違う。目を逸らすな。
一つだけある。唯ちゃんが、あの飲み会で心に傷を負った可能性がある出来事が。
25: 2011/09/15(木) 20:21:53.21 ID:+wTNpPwyo
紬「……私と、両想いだった、って知ってしまったこと……?」
それなら辻褄は合う。両想いだと知ってしまったあの日から、唯ちゃんは毎日手首を切っている。
何故それで手首を切るのか、なんて考えたくもないけど、でも容易に予想はついてしまった。
好きだった相手と両想いだったなら、告白しなかった過去の自分を責めるのが道理だから。
告白していれば結婚することもなかったかもしれない。
告白していれば楽しい毎日を過ごせたかもしれない。
告白していれば後悔することなんてなかった。泣くことなんてなかった。
私は唯ちゃんと両想いだったという事実に、一筋の光明を見出したけれど。
唯ちゃんは逆に、その事実に後悔しかしなかった。自らを責めることしかしなかった。
私は唯ちゃんと再度仲良くなることで、何もない日々に対する癒しを、安らぎを手に入れたけれど。
唯ちゃんは私と再度仲良くなっても、所詮は不倫相手止まり。告白していればもっと先に行けたかもしれない、という後悔ばかりが余計に大きくなっていく。
愛し合う関係になったことで、私は満たされたけれど。
唯ちゃんの心は、いつもあと少しのところで満たされない。満たされることは永久にない。
人として求める至上の幸福を、それを手に出来る千載一隅の機会を逃したことを、唯ちゃんは氏ぬまで悔いて生きなければならないのだ。
紬「そん、な……」
……なまじ、今になって私と心が通じ合ってしまったが故に、余計に。
紬「いや……そんな……ごめん…私は……そんな、そんなつもりじゃ……!」
……きっと唯ちゃんは、今夜も手首を切るのだろう。
あの時に願っておけばよかったと、一歩踏み出しておけばよかったと、自らを責め、悔いながら、自らを傷つける。
私の前では笑顔だけを振舞って、残りの感情を、涙も苦しみも悲しみも絶望も全て、自分の手首にぶつけるのだろう。
唯ちゃんは、きっともう壊れている。
唯ちゃんにだけは深いところの弱みを見せていた私とは違い、唯ちゃんは誰にも弱みを見せない。誰の前でも常に笑顔でいる。
唯ちゃんが精神的に強くなったわけじゃない。誰かといる時は、常に片方にしか針が振れなくなってしまっているんだ。
……当然だよね。唯ちゃんを一番傷つけた人が、唯ちゃんが心から信頼している私なんだから。
……私のやったこと全てが、私の存在そのものが、唯ちゃんを苦しめる。
私がいるから、守らなければいけない人が、自らを傷つける。
紬「……なぁんだ……」
私が、唯ちゃんの世界を壊したんだ。
紬「……っ……ふふっ……」
バカみたい。
紬「ははっ……あはははっ!!」
くだらない毎日。汚らしい人間。ロクでもない世界。そんな風に、全てに失望してきたけれど。
――何よりも救いようがない奴が、気づかないほど身近に居たんだ――
26: 2011/09/15(木) 20:24:23.90 ID:+wTNpPwyo
唯「――っ!? ムギちゃん!? どうしたの!?」
『何か』に驚き、跳ね起きた唯ちゃんが鬼気迫る表情でこちらに迫ってくる。
鬼気迫る表情で。
鬼気迫る。
そんな怖い顔しないで。
と言っても無理か。私は、唯ちゃんを壊しちゃったんだもんね。
そうだよね。唯ちゃんは、私を憎んでいてもおかしくないよね。頃したいほど憎んでいても仕方ないよね。
でも、ごめんね、唯ちゃん。
……その顔は、見たくないの。
唯「ムギちゃ――」
紬「ひいっ! ひゃ、ああああああああ!!!」
唯「ま、待ってムギちゃん! どこ行くの!?」
逃げなきゃ。
唯ちゃんの顔が、怖くて仕方ないの。
唯ちゃんの顔を、見たくないの。
なんでかな?
怖い。怖くて仕方ないの。
唯「待って……ってば!!」
紬「あうっ!!」
ああ、どうしよう、掴まっちゃった。
腰のあたりに重みが。後ろからのしかかられてるような重みが。
唯ちゃんだ。きっと唯ちゃんだ。怖い怖い唯ちゃんだ。
唯「ムギちゃん! 落ち着いて! どうしちゃったの!?」
重みは、腰のあたりから少しずつ上がってきて。
きっと上まで来たら、顔が見える。怖い顔が見える。怖い顔をまた見ないといけない。
やだ。
やだ。
やだああああああああああああ。ああ。あ。
紬「あああああああああああああ!!!」
ブチブチ、と。
何かが千切れるような音を、聴いた気が する。
そして、目の前が、まっくら に。
唯「ひいぃっ!? あ、ひっ、ムギちゃ、なに、して、め、め、目ぇっ…!!!」
ああ、良かった。真っ暗だ。
これで 怖い顔は 見なくて 済む。
27: 2011/09/15(木) 20:25:56.19 ID:+wTNpPwyo
―――…
――…
…
――コンコン、と、真っ白い扉をノックする。返事はいつも返ってこないけれど、承知の上。扉を引いて開け放ち、問いかける。
唯「……ムギちゃん、起きてる?」
紬「…唯ちゃん?」
唯「うん。入るね?」
ムギちゃんは、意外にも私を拒まない。
意外にも、とは言うが、あの出来事から一年が経過している。もう慣れたものだ。
――あの日。ムギちゃんが自らの視界を奪った日。救急車を呼んで、ムギちゃんの両親が駆けつけ、旦那さんの両親も駆けつけ、病院は大騒ぎになった。
私は事情の説明を求められたが、私にだって理由はさっぱりわからない。でもムギちゃんと寝たことだけは伝えた。ムギちゃん自身が裸だったから、それは言わないとしょうがないと思った。
でも言ったところで原因はわからず、ムギちゃん自身が何故か私に謝り続けているのもあって私はひどく疑われた。でも最終的にはムギちゃんの爪の間から眼球周りの組織成分が検出されたとかで、私がムギちゃんに危害を加えた線はなくなった。
それでも錯乱状態に陥らせた疑いは長い間晴れなかったけれど、後日のカウンセリングで落ち着いたムギちゃんが私を呼び、更に私がそばにいることで精神が安定するという結果が出たため、逆に礼を言われる事となった。
問題なのは両家の大人の対応。
旦那さんの家のほうは、視力を失ったムギちゃんを容易に切り捨てた。ここぞとばかりに旦那さんが仮面夫婦っぷりを暴露したのも大きい。
ムギちゃんの家の両親も、そんなことをした挙句に同性愛に走った娘を世間に出すことを拒み、この病院に閉じ込めることにした。琴吹家の地位も暴落したらしいから、それに対する対外的な仕打ち、見せつけとも取れるけど。
……そして他の、会う人皆がムギちゃんの手首の傷を見て顔をしかめる。
ムギちゃんは優れた人だった。そんな優れた人が、手首を切っていた。
周囲の人たちも優れた人だった。そんな優れた人は、ムギちゃんを失望した目で見た。
リストカットだけじゃない。視力を失ったこと、不倫していたこと、同性愛者だったこと、容易に他人を騙す人間だったこと。
私以外には相談しないほど、他人を信用していなかったこと。両親にも旦那さんにも愛想をつかされたこと。カウンセリングを受けるほど精神を病んでいたこと。
病院に軟禁される、未来のない人間とみなされたこと。
いくつかは明らかに尾ひれがついたような、過剰な言い分だったけれど。
結局のところ、私以外の皆が、ムギちゃんに失望した。
私に対する風当たりは、そこまで強くない。琴吹の家がムギちゃんのこと自体に厳重な緘口令を敷いているらしい。
寝取った形になるのだから旦那さんくらいからは恨まれてもおかしくはないと思っていたけど、その旦那さんはムギちゃんをあっさり切り捨てた後にスピード再婚している。お金持ちの世界にはいろいろあるのだろう。
ムギちゃんの両親は、私を責めつつもそれ以上に自らを責めてもいた。同性愛者に目覚めさせるような環境を与えたこと。したくもなかった結婚をさせたこと。少なくともそれらは親の責だから。
それでも全てを壊した私を許せはしないようだったけれど、私がムギちゃんを見捨てるつもりはない旨を告げると泣き崩れた。あの人たちもこれから先はいろいろ大変なのだろう。私から言う事は特に何もない。
私は、そんな人達に対して何も思うところはない。
ずっと気になっているのはたった一つ、ムギちゃんがああなってしまった理由だけ。でもそれを尋ねることはお医者さんから固く禁じられているからどうにも出来ない。
……私の中でもいくつかの仮説はあるけど、口にするつもりはない。
大事なのは私はムギちゃんを愛していて、ムギちゃんも今はちゃんとそれをわかってくれているということ。それだけで充分だと思う。
……まぁ、それらはともかくとして、これで名実共にムギちゃんの『一番』は私になった。
私もムギちゃんも明らかに不幸になっているけど、我慢して、頑張って、それらが実を結んだ結果が堂々と愛を叫べる場所ならそれもいいと思う。
28: 2011/09/15(木) 20:26:34.34 ID:+wTNpPwyo
唯「そういえばムギちゃん、私就職決まったんだよ」
紬「そうなの? やっぱり学校の先生?」
唯「うん。なんかずいぶん遠回りしちゃった気がするけどね。どうにか夢の音楽教師にもう一回なれたよ」
紬「へぇ~。唯ちゃん頑張ったんだね」
唯「まぁね。まだまだやりたい事もあるから、がんばらないと」
紬「やりたいこと?」
唯「うん。知りたい?」
そっと左手首のリストバンドに触れて、問いかける。
その下の傷は、もう癒えている。結局、私が引いた赤いラインはたったの五本。ムギちゃんとは、ムギちゃんの苦しみとは比べ物にならないほどの子供の遊びだったと言えるけど、あれも今の私を形作るためにはきっと必要だったんだ。
紬「うん。教えてくれる?」
唯「……鳥籠から、出してあげたい鳥さんがいるんだ。その子の羽根は折れちゃってるけど、どうしても私は真っ白な鳥籠から出してあげたいんだ」
紬「………」
唯「鳥籠から出してあげて、その細い足で一緒に歩いて、好きだよ、って何度も囁いて。愛し合うだけの毎日を過ごして。それが叶わなくなる頃に、一生に一度の、空への散歩をしたいんだ、一緒に」
紬「……それ、は……」
唯「馬鹿な夢かな? 自分勝手な、先の事なんて考えてない馬鹿かな? 私」
その問いに、ムギちゃんは当然の如く首を振って。
ふわふわの髪の毛が、やさしく宙に舞って。大好きな暖かい声で、いつものように、私を後押ししてくれる。
紬「……とっても、とっても素敵な夢だと思う」
唯「……ムギちゃんが望むなら、そんな夢を、私が『見せて』あげるよ」
夢は、目を閉じて見るものだ。
目の見えないムギちゃんにも見れるし、見る権利はあるんだ。絶対に。
紬「うん……ちゃんと『見せて』ね? いつか、きっと」
唯「もちろん!」
ムギちゃんのためなら、何でもするよ。
見たいと言うなら見せてあげる。見えないものでも、見せてあげる努力をするよ。
そもそもが『愛』という目に見えない絆で繋がってる私達だから、絶対に無理なんかじゃない。
愛。希望。幸福。未来。
本当に欲しいものほど目に見えないこの世界で、目の見えないムギちゃんと一緒に、私は謡う。
――二人だけの幸せの詩を、永遠に。
29: 2011/09/15(木) 20:28:39.19 ID:+wTNpPwyo
おわり
>>25とか>>26で終わっておくのもアリだったかな、と今になって思いました。以上。
>>25とか>>26で終わっておくのもアリだったかな、と今になって思いました。以上。
30: 2011/09/15(木) 20:42:37.98 ID:0OwjIgr+o
乙
なんとなくハッピーエンドっぽくて良かったよ
なんとなくハッピーエンドっぽくて良かったよ
引用元: 紬「メンヘラ」
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