2: 2010/10/11(月) 22:42:14.94 ID:fb9PTFwhO

  前章

 吹き抜けた風に身を縮め、梓は冬が近いことを知った。

 今年は冬の訪れが早い。

 例年はまだまだマフラーなど要らない時期だが、今日の冷え込みには首元がわびしくなる。

梓「寒い寒い……」

 梓は首筋を毛糸の手袋に包まれた指先でさすった。

 ひとりごちながら、少しだけ笑う。

 梓だって、マフラーの一本や二本はもちろん持っている。

 けれど、それを巻かない理由があった。

梓「……はぁっ」

 この寒さも明日まで。

 明日からは、うんと暖かくなる。

 そう思えば、マフラーがないことくらいは小さなことだった。
けいおん!!コンパクト・コレクションBlu-ray

5: 2010/10/11(月) 22:46:09.50 ID:fb9PTFwhO

 家の前の道路まで来ると、梓は一気に駆けて自宅に飛び込む。

 そこもやはり、震えるほどに冷えていた。

梓「……ふぅっ」

 梓は胸にたまった息を吐き出し、靴を脱ぐ。

 CDやレコードが整然と並べられた部屋に戻ると、きんと冷えた空気が頬を刺した。

梓「……」

 一人の家は、こんなにも寂しかっただろうかと思う。

 あとで憂が来てくれると分かっているせいか、なおさら孤独が骨身に染みた。

 肩を震わせながら、梓はエアコンを操作する。

 部屋を暖める機械でありながら、その働きは緩慢だった。

梓「……」

 唯先輩なら――。

 梓は思い、そして首を振る。

 天井近くに固定された哀れな機械と比べるには、あまりにも大きすぎる存在だった。

10: 2010/10/11(月) 22:49:30.07 ID:fb9PTFwhO

 部屋が暖まるのと憂が来るのを待っている間に、コーヒーを用意した。

 今はもう亡くなったジャズ演奏家のCDをセットし、ノスタルジックなサウンドに体をたゆたえる。

 時計の針が進む速度はかなり遅めだ。

 それでも音楽さえ聴いていれば、退屈も寂寥も近寄ってこない。

 梓は目を閉じて、ギターの譜面を弾いているつもりで指を動かした。

 涙が出るのは、仕方ない。

 曲が終わると、梓はコーヒーを一口飲んだ。

 ほどよい温かさ。舌の付け根を絞るような苦味。

梓「ほっ」

 吐いた息は熱かったが、暖まった部屋に白い霧は広がらなかった。

 梓は少し笑い、垂れた涙をぬぐう。

梓「……ん」

 涙が止まったのを見計らったかのように、呼び鈴が鳴る。

12: 2010/10/11(月) 22:52:15.55 ID:fb9PTFwhO

梓「はーい」

 すっと立ち上がり、梓はとんとん足音を鳴らしながら玄関に走った。

 無警戒にドアを開け、笑顔をつくる。

梓「いらっしゃい、憂。今日は来てもらって悪いね」

憂「ううん、私が来たいって言ったんだもん」

憂「遅くなってごめんね?」

 憂は沓脱ぎに上がると、かしゃりと鍵をかけ、チェーンで扉をロックした。

 その表情に、僅かな愁いが見て取れた。

 肩にかけたスポーツバッグが重たいせいだろうか。

梓「いいって。それじゃ何する?」

 つとめて明るく、梓は言った。

憂「古いやつだけど、うちからテレビゲーム持ってきたんだ。これやろう?」

梓「……うん。いいね」

15: 2010/10/11(月) 22:56:08.99 ID:fb9PTFwhO

 梓の家は、ゲームを置いていたことがない。

 興味がないわけではなかったが、梓としてもねだってまで欲しい物ではなかった。

梓「それ、どんなゲーム?」

憂「落ち物パズルゲームだよ」

梓「なぁに、それ」

 だから梓は、人よりずっとゲームに疎い。

 憂だって梓のそういう一面をよく知っている。

憂「やってみれば分かる、かな……」

梓「出たよ。やれば分かる」

憂「いいゲームってそういうものだもん」

梓「そうなんだ……」

 居間の扉を開け、部屋の真ん中にスポーツバッグを置いてもらう。

 憂は眉を張ってがさごそバッグを漁り、テレビゲームの一式を引き出した。

20: 2010/10/11(月) 22:59:51.35 ID:fb9PTFwhO

 いくつかのコードを、憂は迷いなく繋ぎあわせていく。

 勝手の分からない梓は、ただボーっと眺めていた。

憂「よしっ、やろう!」

 どうやら用意が済んだらしい。

 梓は手渡されたコントローラーについたボタンをいじりながら、画面を凝視し始めた。

――――

梓「これで、こうで……うん、3連鎖だ」

憂「けっこう飲み込み早いね」

 憂のフィールドに、どさりと二列の障害物が落ちていく。

 なんだか小気味いい。

梓「理論は分かりやすいから。実践するのが簡単でいいよ」

憂「それじゃ、そろそろ私もちゃんとやろうかな」

梓「えっ?」

 半ばにやけていた梓の横で、憂がコントローラーを握りなおした。

21: 2010/10/11(月) 23:03:05.87 ID:fb9PTFwhO

梓「……」

 テレビが何かぶくぶくと音を立てている。

憂「っし。ツモれる」

 憂がつぶやくと、まるで乱雑に積み上げられたブロックがてきぱきと整理され始める。

梓「7連鎖って何語?」

梓「ねぇ、わっよえーんって何?」

梓「この王冠って?」

 憂が答えないので、梓も無言で電源を切った。

憂「それは私も勝てないや」

 ソファーにかけ直し、ひと息つく。

梓「……ご飯にしようか」

憂「そだね。あ、私が作ってあげるよ」

 止める間もなく、憂はすっと立ち上がる。梓も慌てて立ちあがった。

22: 2010/10/11(月) 23:06:08.81 ID:fb9PTFwhO

梓「憂っ、私も手伝うよ」

憂「そう?」

 台所に向かいかけた足を止め、振り向いて憂は訊いた。

 本当にそうしたいの、という問いだった。

梓「……うん。待ってるのもヒマだし」

憂「じゃあ一緒にやろっか」

 梓は頷く。声は出なかった。

 台所は片付いているが、その分生活感がなく見える。

憂「……」

 憂はシンクを眺めて、人差し指を唇にあてて息を吸った。

憂「冷蔵庫あけちゃうね?」

梓「う、うん」

23: 2010/10/11(月) 23:10:14.25 ID:fb9PTFwhO

 初めて見た冷蔵庫にも関わらず、憂はぱぱっと食材を選び取る。

 献立はもう頭の中にあるらしい。

憂「梓ちゃん、お野菜切ってくれる?」

梓「わかった。まかせて」

 台所に入らせたら、憂にかなう人はいないんだと思う。

 梓は苦笑して、包丁を握った。

梓「やっぱり憂っていいお嫁さんになるよね」

憂「そうかな……?」

 照れくさそうに憂は頬を掻く。

梓「なんていうか、一家に一台欲しい感じ」

憂「それってお嫁さんなの?」

梓「……違うねぇ」

 自分で言っておきながら、梓は鼻で笑った。

24: 2010/10/11(月) 23:13:31.06 ID:fb9PTFwhO

梓「まぁでも、何かね。その……尽くす感じがお嫁さんぽいというか」

憂「つくす?」

 憂はきょとんと呆けた顔をした。

 それを見返す梓の顔も呆けている。

 梓は次の言葉を出すために、唇を濡らさなければならなかった。

梓「ほら……だから、唯先輩とかにさ」

梓「話聞いてて思うけど、憂ってほんとに唯先輩のお嫁さんみたいだよ」

憂「私がお姉ちゃんのお嫁さん……?」

 首をかしげて、憂は言った通りの自分を想像したらしい。

 口の中で小さく笑って、だしの素を振った。

憂「私はお姉ちゃんの妹だよ。いくらお嫁さんみたいでもね」

26: 2010/10/11(月) 23:16:16.08 ID:fb9PTFwhO

梓「……そうだね」

 胸の奥で、するする何かがほどけていく気がした。

 それと同時に、梓は後ろ暗さを感じて、少しばかり目を伏せた。

憂「あ、ごめん……」 

梓「……」

 憂はその反応の意味を取り違えたらしく、口をまごつかせて謝った。

 黙っていたほうが良い。瞬時に梓は判断し、無言でじゃがいもをサイの目に切っていく。

憂「……梓ちゃん、今日もマフラー巻いてなかったね」

 しかし、どうしても話はそちらに向いてしまうらしい。

梓「まあ、唯先輩が見たらショック受けそうだし」

憂「そんなことないと思うけど……」

梓「いや、仕舞われていくマフラーに同情とかしそうで」

28: 2010/10/11(月) 23:20:08.24 ID:fb9PTFwhO

梓「私があずにゃんにマフラーをあげたせいでキミは~!」

梓「みたいな」

憂「その心配、分からなくもないや……」

 たとえ冬の間だけ付き合う防寒具だろうと、唯先輩は愛着をもって接している。

 その愛情の深さたるや、一人の人間を相手取っているようにさえ見えるほどだ。

梓「でしょ? だからだよ」

梓「今日まで寒かったけど……でも、ようやく明日は誕生日だしね」

憂「ね。お姉ちゃんがくれたマフラー巻いて帰れるね」

梓「毎日寒かったよ、ほんと」

 愚痴っぽく言いながら、梓は頬が緩んでいた。

 ――素直じゃないな。

 頭の中に唯先輩の声がした。

30: 2010/10/11(月) 23:23:13.17 ID:fb9PTFwhO

――――

 二人で食事をして、かわりばんこにお風呂に入る。

 日本人形みたいな長い髪を乾かすのは、憂に手伝ってもらった。

梓「あっ」

 鏡に映る自分を見ていて、ふと思い出す。

梓「そういえば、あの本どうだった?」

憂「本? あぁ、梓ちゃんに借りた……あっ」

梓「へっ?」

 憂が何かを思い出したらしく、ドライヤーと櫛を取り落としそうになる。

憂「今日返そうと思ってたのに、机に置いて来ちゃった……」

梓「そんなこと……大袈裟だよ、もう」

梓「いいよ。また今度持ってきてくれれば」

憂「ごめんね、梓ちゃん……」 

32: 2010/10/11(月) 23:26:18.10 ID:fb9PTFwhO

――――

梓「じゃ、電気消すよ」

 明かりのスイッチを切る。

 部屋がすうっと暗くなった。

 カーテンの隙間から洩れこむ月明かりをたよりに、どうにか布団に戻る。

憂「梓ちゃん、おやすみ」

梓「うん。おやすみ……」

 梓は深く息を吸って、吸って、肺胞にゆっくり吸収させてから吐きだした。

憂「すぅ、すー」

梓「……ふふ」

 憂の立て始めた穏やかな寝息を聞きつつ、梓も目を閉じて眠りについた。

 短い夜だな、と梓はとろける意識で思った。

33: 2010/10/11(月) 23:30:07.77 ID:fb9PTFwhO

 翌朝の寒さは、部屋の中をしんと冷やしてしまっていた。

 うなじを撫でる冷たい空気が、梓を起こす。

 いつも通りの目覚めだった。

梓「……」

 むくりと起き上がって、なぜかベッドの上で寝ていたことに気付く。

 昨日は憂にベッドを譲ったはずだった。

梓「……」

 梓は、喉の奥がふるふる震えるのを感じた。

 ベッドはもちろん、床に敷かれた布団にも憂はいない。

梓「っ……」

 部屋を飛び出し、居間へ走る。

 ドアを開け放って駆けこむと、テーブルの上には

 憂の持ってきたゲーム機と、作ってから時間が経っているらしい朝食が残されていた。

34: 2010/10/11(月) 23:33:13.48 ID:fb9PTFwhO

梓「憂……」

 ソファに座って箸をとる。

 皿の脇に書き置きがあることには気付いていたが、それに目をやる気にはなれなかった。

 震える手を伸ばし、冷めたスクランブルエッグをはむ。

梓「……おいし」

 こぼれた涙は、ひとしずくだけで済んだ。

――――

 梓はギターを背負い、学校へと歩く。

 気温は朝の方が低いはずだが、今日はマフラーがなくても平気そうだった。

 足取りは軽く、すいすいと進んでいく。

 そこまではまだ、気分のいい朝だった。

 気分のいいふりをしていられた。

 教室に着くと、梓はすぐ純のもとに向かう。

36: 2010/10/11(月) 23:39:03.57 ID:fb9PTFwhO

梓「じゅーんっ、おはよう」

純「おはよ梓。おっ、ギターしょってるね」

 梓の顔を見るなり、純はにっこり笑顔になった。

 あまり素直なものとはいえない笑顔。

 なんとなく、梓は顔をそむけたくなった。

梓「……まぁ、そろそろね」

純「……」

 一度、二度、純は頷く。

純「……そっか」

梓「うん」

 特別な台詞なんて欲していなかった。

 梓はただ、純と言葉を交わせるだけで十分だった。

梓「で、昨日ね。憂が泊りにきてさ……」

40: 2010/10/11(月) 23:42:11.16 ID:fb9PTFwhO

――――

 純と少しだけ話したところで、予鈴が鳴る。

 梓は席に戻り、教室を大まかに眺めてから、窓際に空席を発見した。

梓「……」

 憂の席だ。

 うんと早い時間に梓の家を発ち、おそらく自宅にいる姉の世話に戻った平沢憂。

 遅刻をする可能性は、かなり低いように思われた。

 唯先輩は確かに寝起きが悪い。

 けれど、憂がきちんとしている限り――いや、そうでなくとも。

 大事な日には自分で目を覚まし、役割を果たす。

 少なくとも梓は、そういう人間だと評価している。

 だったらどうして、憂はいないんだろう。

 今さらながら、梓は書き置きに目を通さなかったことを後悔した。

梓「憂、大丈夫かな」

42: 2010/10/11(月) 23:45:08.74 ID:fb9PTFwhO

 机の下で、こっそりメールを打つ。

梓『今日、来れないの?』

 送信して、携帯を閉じる。

 しばらく右手で握りしめ、バイブレータが震えることを期待する。

梓「……」

 1分。5分。

 「平沢さんは欠席ですか?」

 担任が出欠簿をペンで叩く。

 梓は純をちらりと見るが、彼女もやはり何も聞かされていないようだった。

 時間は刻々と過ぎ、ホームルームが終わる。

 メールの返信も、憂も来ない。

 梓はそれきり、憂の心配をするのはやめた。

 寂しさが、冷たい手で首筋を撫で始めていたからだった。

43: 2010/10/11(月) 23:48:04.52 ID:fb9PTFwhO

――――

 放課後。

 結局憂は学校に来ず、メールの返信もなかった。

 3年生の教室に行ったり、唯先輩に連絡をとったりしようかとも考えた。

 けれど、どんな言葉を考えても、まるで誕生日プレゼントを催促しているように思えてしまって、

 梓はずっと俯いていることしかできなかった。

純「……梓。部活いくの?」

 暗くなりだした教室で、純はおずおずと訊ねた。

梓「……はぁ」

 息を吐いて、梓は顔を上げる。

梓「行くよ。自信ないけど」

 立ち上がり、どっしり重いギターを背負う。

純「……無理することなんか、ないと思うよ」

44: 2010/10/11(月) 23:51:05.14 ID:fb9PTFwhO

 梓が歩みかけたとき、純が言った。ぴたり、足が止まる。

 梓は振り返った。

純「ギター弾くの……怖いんでしょ? 辛いんでしょ?」

梓「……そうだよ。けど」

純「だったら、まだ……無理する必要なんてないよ」

純「ううん。無理しちゃだめなんだって」

 目を合わせず、純はぽつぽつと言葉を紡ぐ。

 自分が決して強い瞳をしている訳ではないことを自覚しているのかもしれない。

梓「……でも、約束だから」

梓「今日は行くって、唯先輩と約束したもん」

 両手をぎゅっと握りしめて、梓は歩きだそうとする。

 その肩を、純が掴んだ。

純「……じゃあ私とも約束してよ」

純「軽音部に行って、なにがあっても、なにがなくても、苦しまないし泣かないって」

45: 2010/10/11(月) 23:54:12.05 ID:fb9PTFwhO

 梓はそっと、肩を掴む純の手をよけた。

 そしてそのまま動かず、ただ立ちつくしている。

純「唯先輩だって、梓を泣かしてまで軽音部に来させようなんて思っちゃいないよ」

純「唯先輩だけじゃない。軽音部の誰だってそう」

 ぐっと喉をつまらせた後、純はすこし大きな声を出した。

純「私だって! 誰ひとり、梓の苦しい姿なんて望んでない」

純「ねぇ、ゆっくりでいいんだよ。自分のペースでさ」

 純の手が、梓の後ろ頭をぽんと撫でた。

梓「……」

 すっと足が、前に出る。

梓「それなら……自分のペースでいいなら。私は行きたい」

梓「……今日はね」

 梓は純に笑いかけてから、教室の外へ歩いていった。

47: 2010/10/11(月) 23:57:07.27 ID:fb9PTFwhO

――――

梓「失礼しますっ」

 余計なことを考えないよう、梓はすばやくドアを開け、音楽準備室に入る。

 うじうじ考え込んでは、また扉を開けられない。

 そう思っての行動だったが、すぐさま梓はそれを後悔した。

 たとえ悩むことになっても、さまざまな場合を想定しておくべきだった。

梓「……」

 心の準備が、できていない。

律「……よぅ、あずさ」

 律先輩が、険しい表情で俯いたまま言った。

律「唯は……来てないよ」

律「学校にもな。連絡さえ取れなくて……」

48: 2010/10/12(火) 00:01:21.91 ID:e5Jb0u2KO

澪「……その、梓。きっとひどく体調を崩したとかで」

 何も言わない梓のもとに、澪先輩が駆け寄る。

紬「梓ちゃん……」

梓「……」

 梓は後ろ手でドアを開けると、あとずさった。

梓「いいですよ。気を遣っていただかなくて」

梓「待っていてもらおうなんて、私が浅墓でしたから」

 溜め息が出てしまう。

梓「……私が行きますよ」

 ぱたりとドアが閉じられる。

梓「……」

 一歩下がり、梓は小さく鼻をすすると、逃げ出すように階段を駆け下りていった。

50: 2010/10/12(火) 00:04:42.56 ID:e5Jb0u2KO

――――

 一心不乱に梓は走った。

 唯先輩のところへ。

 頭の中には、その一点のみ。他に考えることはひとつもなかった。

 もしかしたら唯先輩は大変な病気なのかもしれない。

 家にはいなくて、憂は病院で付き添っているのかもしれない。

梓「はぁっ、はぁっ……!」

 そんなことは分かっている。

 とにかく唯先輩に会いたかった。

 あたたかい彼女の腕の中は、今の梓が幸せになれる数少ない場所だった。

梓「……はぁっ」

 唯先輩の家が目の前に現れた。

 梓は玄関のドアの前で少しだけ立ち止まり、息を整える。

51: 2010/10/12(火) 00:09:07.46 ID:e5Jb0u2KO

 何の気なしに、梓は把手に手をかけた。

 瞬間、梓の神経がぴんと張り詰めた。

 ――玄関の鍵が開いている。

梓「……お邪魔します」

 自分の行動が常識に外れていることは自覚していた。

 梓はドアを引き、体を家の中に滑り込ませる。

梓「……」

 やはり誰もいないのだろうか。

 家の中には冷気がはびこっている。

梓「ゆい、せんぱい……?」

 家の奥に向かって呼びかけるが、小さくかすれた声に返事はなかった。

 梓は唾をのみ、階段を上がっていく。

52: 2010/10/12(火) 00:13:05.16 ID:e5Jb0u2KO

 三階に上がってすぐが、唯先輩の部屋。

 梓は足音を頃しながら上り、そして奇妙な音を耳にした。

梓「……?」

 ごそごそと、なにかがうごめいている。

 目の前にある唯先輩の部屋から聞こえるものではない。

 梓は足音を立てないよう、すり足で移動する。

 憂の部屋の前まで来て、その音ははっきりと聞こえるようになった。

 まず判別したのは、苦しげな呼吸。

 そして押し頃した悲鳴のような、逼迫した声。

 また、考えるより先に梓は体を動かした。

 ただ今度は、そこに思う所などなかった。一切より先に体が動いていたのだ。

 梓はノブを捻りつつ、扉に体当たりを食らわせた。

54: 2010/10/12(火) 00:16:11.78 ID:e5Jb0u2KO

 耳を裂くような巨大な音をあげ、壁とドアが激しくぶつかり合う。

 衝撃でドアがカタカタ震えている。

 まずはその音が鬱陶しくて、梓はドアを左手で押さえた。

梓「あ……」

 どちらがどちらだか、分からなかった。

 髪を乱し、一糸まとわぬ姿で、みたこともない表情をして。

 中途半端に開いた口の奥から、相手方の舌へ唾液の糸を伝わせて。

 手指を相手の性器のあたりでもぞもぞ動かして。

 錯乱する梓の頭でかろうじて分かったのは、

 唯先輩と憂が性行為をしているということだけだった。

57: 2010/10/12(火) 00:20:29.61 ID:e5Jb0u2KO

  本章

 それは、あずにゃんの誕生日を翌日に控えた日の夕方。

 憂があずにゃんの家に泊まりに行くと言い出した。

唯「そっか」

 どうして急にそんな話になったのかは、訊かずとも分かる。

 私はずり落ちそうになったギー太のストラップを掛け直し、ほほえんだ。

憂「晩ご飯はもう用意してあるから、おなか減ったらレンジで温めて食べてね」

唯「あ、ずいぶん早く支度してるなって思ったら、そういうことだったんだ」

 またストラップが落ちてしまう。今度はそのままにしておいた。

憂「ごめんね、一緒にご飯食べれなくて……」

唯「いいよぉ、あずにゃんの為だもん」

 けど。それなら私も一緒に呼んでくれたらいいのに。

 私は見つからないように壁を向いて、頬を膨らませた。

59: 2010/10/12(火) 00:23:20.05 ID:e5Jb0u2KO

 憂がご飯を用意してくれた以上、今更あずにゃんの家に泊まりたいとは言いだせない。

 約束もしていないことだし、駄々をこねては憂を困らせるだけだ。

 それでは意味がない。

唯「それで、いつ出発?」

憂「あ、もうすぐにでも。……それと、明日そのまま学校行っちゃうから」

憂「ちゃんと一人で起きるんだよ?」

唯「うん。大丈夫だよ、明日は大事な日だもん」

 行くなら早く行ってほしい。

 そろそろ笑顔も限界だった。

憂「それじゃあまた明日ね」

唯「バイバーイ」

 憂が扉の陰に隠れた時には、もう私の顔から笑顔は消えていた。

唯「……」

60: 2010/10/12(火) 00:26:10.63 ID:e5Jb0u2KO

 ギー太をスタンドに置き、ベッドで転がる。

 ひとりぼっちの夜。

 憂のいない夜。

唯「……」

 家はしんと静かで、三階なのに冷蔵庫の唸りが耳に届いているような気がした。

 体を起こし、ベッドを降りる。

 部屋を出て、冷たい廊下を歩き、憂の部屋の前に立つ。

 いないことは分かっているけれど、ふたつノックをする。

 夜に鳴る二回のノックは、私と憂の間では「一緒に寝よう」の合図だ。

 けれど憂が家にいない時のみ、別の意味で私は二回のノックをする。

 がちゃりとドアを開き、憂の部屋に入る。

 すみずみまで、憂の空間。

 鼻の中を、憂の匂いがやわらかく包んだ。

62: 2010/10/12(火) 00:31:01.40 ID:e5Jb0u2KO

 ドアを閉めて、たんすの一番右上の引き出しを迷わず開ける。

 そこにいくつも並べられている憂のリボンから、黄色を選び取った。

 後ろ髪を縛りあげて、憂と似た髪形にする。

唯「ふふ……」

 動き回ると、くいくいポニーテールがついてくる。

 憂が感じているのと同じ感覚。

 高揚を抑えきれずに、ベッドに飛び込んだ。

唯「あぁ、うい……」

 ぼふっ、と濃密な憂の匂いが部屋中に広がる。

 枕に鼻をうずめ、胸がふくらむほど息を吸う。

 体が奥からじぃんと熱くなったのを感じて、部屋着を脱ぎ捨てた。

65: 2010/10/12(火) 00:34:09.35 ID:e5Jb0u2KO

 私には今夜、憂がいない。

 あずにゃんの両親がいないこととは理由は異なるけれど、寂しいのは同じ。

 寂しさを何かで遠のけたいのも同じ。

 あずにゃんにとって、その手段が

 両親の演奏を録音したCDだったり、人と触れ合うことであるように。

 私は、憂のいない寂しさをいつもこうして紛らわす。

69: 2010/10/12(火) 00:43:29.02 ID:e5Jb0u2KO


 部屋着を着直して、部屋を出ようとする。

唯「ん」

 その前に部屋を振り返り、私は気付いた。

 机の上に一冊の本が置いてある。黒いペーパーバックの、どこか不気味さを醸す本。

唯「なんだろ」

 すたすた近づき、手に取ってみる。

72: 2010/10/12(火) 00:46:14.94 ID:e5Jb0u2KO

唯「本当にある都市伝説……?」

 表紙には白い明朝体でそう書かれていた。

 あまり憂の読みそうな本ではない。何故ここに置いてあるのだろうか。

 抗いがたい興味が湧いた。

 ぺらりと頁をめくると、目次が目に入る。

唯「くぐつ、に」

唯「ひとりかくれんぼ、と」

唯「ことだま、か」

 そう厚い本でもない。

 今夜の暇つぶしにでも読もうと、元の場所に本を置いた。

唯「さぁてと、お腹減ったな……」

 腰回りを揉んで、部屋を出る。

 ゆっくりと階段を一段一段踏みながら、憂のご飯を目指して台所へ向かった。

73: 2010/10/12(火) 00:50:12.67 ID:e5Jb0u2KO

――――

 夕食とお風呂を済ませると、当然のごとく憂の部屋に戻る。

 机の上にあった本を手に、私は勢いよくベッドに倒れ込む。

 シーツはまだじっとりと濡れていた。

 今一度、目次を見る。

 869、6961、7229。明らかにおかしいページ番号は編集者の演出なんだろうか。

 ページをめくる。2ページ目から、きちんと物語は始まっていた。

――――

 時折休憩を挟みつつ、私はいっぺんに本を読み切った。

 夜はすでに遅く、時計は10時を指していた。

唯「……」

 閉じた本を胸の上に置き、天井をじっと見つめる。

 傀儡は人形に命を吹きこんだもの。

 一人かくれんぼも、やることは似ている。

74: 2010/10/12(火) 00:53:46.70 ID:e5Jb0u2KO

 そして言霊は、言葉にし続けることで嘘を本当にする。

 不在を存在にする。それらの逆もまたしかり。

 人間の心さえも、操ってしまう。

唯「へー、すごいね」

 わざと白々しい感想を口に出した。

 それでも、表紙に書かれた「本当にある都市伝説」の字が心を揺さぶる。

唯「……」

 私は憂の心を知っている。

 憂が私に向けているのは、ごく純粋な家族愛。姉に対する尊敬。

 恋心ではない。

 本の表紙をとんとん叩き、息を吸った。

唯「……憂」

 妹の名前をつぶやく。

76: 2010/10/12(火) 00:56:10.65 ID:e5Jb0u2KO

 奥歯をぎゅっと噛みしめた。

 そんなことはいけない。憂は私だけのものではない。

 頭の中ではしっかり理解している。

 けれど私は「憂を独占してはいけない」ことに、いっそうのフラストレーションを覚えた。

唯「好きぃ、憂……」

 こんなに好きなのに、憂は姉としか見てくれない。

唯「……」

 じわっと悪意が染み出した。

 ――そうだ、憂がいけないんだ。

 わたしだって憂が居なければ寂しいのに。

 一人であずにゃんの所に泊まりに行ったりして。

唯「憂。私だけのものにしちゃうからね」

 私の頭の中では、言霊はすでに存在することになっていた。

77: 2010/10/12(火) 01:00:06.08 ID:e5Jb0u2KO

 はじめは囁くように。

唯「憂は私がすき」

 どこか照れくさそうに。

 罪悪感に近いものを感じつつ、言う。

唯「憂は私が好き」

 言葉にすればするほど、高ぶっていく。

唯「憂は私が好きっ」

 興奮が罪の意識を塗りつぶす。

 カンバスに幸福が彩られる。

 これで、憂と愛し合えるのだ。

唯「憂は私が好き!」

唯「憂は私が好き!!」

唯「憂は私が、好きっ!!」

79: 2010/10/12(火) 01:03:13.34 ID:e5Jb0u2KO

 何十分にもわたり、幾度となく望みを爆発させる。

 喉がひりひり痛み、唇がはりつく。

唯「憂は私がっ、がほっ」

 限界を迎え、私は激しく咳き込んだ。

唯「う、げほ、はぁ、はぁ……」

 痛む喉に唾を塗り込み、すっと目を閉じた。

唯「……ばかだな、私」

 自嘲して、くすりと笑う。そして、そのまま意識を沈ませる。

 どうせ憂は明日まで帰らない。

 このままベッドで寝かせてもらおう。

 憂の匂いと、背中に当たる水分にいくらか悩ましさを感じながら、

 私は冷たい眠りに沈みこんでいった。

81: 2010/10/12(火) 01:06:14.96 ID:e5Jb0u2KO

――――

 目覚めた理由はいくつかある。

 ひとつは息苦しさ。ふたつ目は唇に触れるなにかやわらかい感覚。

 みっつ目は口中をかき回す舌の甘み。よっつ目に、ふーふー漏れる吐息。

 いつつ目に、全身をぎゅっと抱きしめられる喜び。

 そして何より、待ちわびた憂の声。

憂「おねえ、ひゃむ……」

唯「ん、ふっ、む……」

 寝ぼけた頭で、憂とキスをしていることだけ理解した。

 寝起きにもかかわらずねっとりと潤っている舌を動かす。

憂「ふむ、ふぅっ……んんっ!?」

 ほんの一瞬、憂の舌と絡み合った。

 私がその愉悦にふるえた瞬間、憂の体は遠く離れてしまった。

82: 2010/10/12(火) 01:10:29.96 ID:e5Jb0u2KO

 二人分の荒い呼吸が、室内にひびく。

 憂は勉強机の横で、尻餅をついたような格好で青ざめている。

唯「……憂?」

憂「ちがうの、ちがうのっ」

 呼びかけただけなのに、首を激しく振って否定する憂。

 私はは微笑みかけてやって、ベッドを降りた。

 唇の端から垂れている私たちのカクテルを舐め、憂の前でしゃがむ。

唯「本当に、ちがう?」

憂「……」

 目をそらして、憂は答えない。

唯「……いいんだよ。キスしたって」

 甘く囁き、憂の顔をくいっと持ち上げた。

83: 2010/10/12(火) 01:13:23.43 ID:e5Jb0u2KO

憂「あ……」

 無意識だろうか、憂の顔が私に近づいてくる。

唯「憂だったら、何したっていいよ。……私は憂のこと」

 好きだから。

 その言葉が出る前に、口は塞がれた。

――――

 私のしたことは単純。

 言霊によって、憂の心を変えた。

 私の言う「好き」は恋愛感情だから、

 「憂は私が好き」と私が言ったなら、憂の心は私への恋愛感情で満ちみちる。

 この口づけは、私がさせた。

 どんなに憂が恍惚とした表情をしていても、

 それは私を鏡映しにしているだけなんだと思う。

93: 2010/10/12(火) 01:40:20.87 ID:e5Jb0u2KO

 二人はコップに汲んだ水をかわりばんこに飲んだ。

唯「……お腹すいちゃったね」

 できるだけ普段通りの顔をして、私は言った。

94: 2010/10/12(火) 01:43:17.85 ID:e5Jb0u2KO

憂「……学校、さぼっちゃったね」

 時刻はとうに正午を過ぎて、今から学校に行っても6限しか受けられそうにない。

 せっかくだし、私たちの記念日だから休んじゃおう。

 そう笑ったのは、やっぱり私だった。

唯「みんなが学校行ってる中、私は妹と……」

憂「……お姉ちゃん。お昼にするから、ね」

唯「うん……」

 頷くと、ゆっくり階段を上がる。

 憂の部屋に戻り、形容しがたい匂いが立ちこめる中で思う。

 大好きな大好きな恋人とのを終えた後にしては、

 憂の態度はどこかそっけない。

唯「あ……」

 昨日の本の内容を思い出して、私ははじかれたように立ち上がった。

唯「……言霊の効果は、時間で切れてしまう」

95: 2010/10/12(火) 01:46:40.38 ID:e5Jb0u2KO

 すっかり忘れていたが、今は憂の心を言霊で操作しているに過ぎない。

 そしてまた、昨夜本で見た話のように言霊が実在しているとなれば、

 その本は言霊に関する重要な資料となる。

唯「確かあのお話の展開でも、同じように言霊の効果が切れて……」

 震えた。

 言霊の効果が無くなり、憂の心が元に戻った時。

 憂は、私としたことをどう思うのか。

 もはや憂の姉でなくなった私を、どんな瞳で睨むのか。

唯「……」

 その時、きっと誰よりも傷つくのは憂だ。

 優しい選択肢は、再び言霊の力を重ねがけすることなんだろう。

 けれど。

96: 2010/10/12(火) 01:50:53.37 ID:e5Jb0u2KO

 けれど、一体いつまでそれを続けていけばいいんだろう。

 効果は切れても、言霊に操られていた間の記憶は残る。

 長く続ければ続けただけ、効果が切れた時に憂の受けるショックは大きくなる。

 それなら今この段階で憂に頭を下げるべきなんじゃないだろうか。

唯「……」

 普段使わない頭脳が、悲鳴を上げながら回っている。

 ぷすん、ぷすんと煙が出てくる。

 だめだ。まだ考えるのをやめてはいけない。

唯「ふ……」

 抱く想いは、恋心。

 それは、その人を大事に思う心ではなかった。

 どうするべきかじゃなく、どうしたいか――。

 天秤をぐらつかせながら、私はそんな考えに至ってしまった。

97: 2010/10/12(火) 01:53:26.44 ID:e5Jb0u2KO

唯「……憂は私が好き」

 部屋の隅に向かって、呟く。

唯「憂は私が好き」

唯「憂は私が好き……」

 水瓶はいっぱいになって、なお蛇口からの供給はやまない。

 徐々に徐々に、溢れ出ていく。

唯「憂は私が好き、憂は私が好き……」

――――

 しばらくして、憂が料理をお盆にのせて運んでくる。

 すでに頬は朱に染まっていて、幸福そうに笑っている。

 お皿に乗っているのは、二人前と思しき大きな大きなオムライス。

憂「お姉ちゃん、かけていいよ」

 ケチャップを手渡して、憂はオムライスの皿を押す。

99: 2010/10/12(火) 01:57:33.49 ID:e5Jb0u2KO

唯「ふむ……」

 無難にハートマークを描き、キャップを閉じた。

 それを見届けた憂は、皿を引き寄せる。

 にこにこ笑いながらスプーンを手にし、かちゃりと鳴らしてオムライスの端っこを切り分け、

憂「はい、あーん」

 ケチャップを少しつけてから私の口元にスプーンを運ぶ。

唯「あーん」

 ぽっかり口を開けた私を見て、憂は楽しげに笑うと、スプーンに乗せたオムライスを自らの口に入れた。

憂「うん、おいふぃ」

唯「あの……」

憂「うん?」

唯「わたくしめには、くださらないのでしょうか」

 おいしそうにオムライスを咀嚼している憂に、控えめな抗議をする。

100: 2010/10/12(火) 02:00:08.53 ID:e5Jb0u2KO

憂「あっ、ごめんねお姉ちゃん?」

 憂はまるで、ようやく自分だけがオムライスを食べていることに気付いたような様子だった。

 オムライスを口に入れたまま小さく詫びると、憂は私の頬を両手で押さえる。

唯「憂?」

憂「おねえちゃんにも今あげるね……」

 その行動の意味を考えているうちに、唇が重ねられた。

唯「んむ……ぅ?」

 憂の舌が、唇をこじ開ける。

 首がかくんと倒され、一瞬天井が見えた。

唯「あ……」

 反射的に目を閉じる。

 憂の舌とともに、噛み砕かれて唾液と混ざったオムライスが口中に流れ落ちてくる。

 トロトロとじれったい食事を、私はゆっくりと受け取り、飲みこんでいく。

101: 2010/10/12(火) 02:03:10.15 ID:e5Jb0u2KO

憂「ん……」

 みんな飲みこんだ後、舌を吸いながら唇を離す。

 甘いような酸いような唾液の味が舌に残る。

唯「……憂ぃ」

憂「えへへ……」

 おでこをくっつけ合ったまま、憂の脇腹をつついた。

 憂はくすぐったそうに身をよじると、言い様ないほど幸せそうに笑った。

憂「お姉ちゃん、普段あんまり噛まないからご飯甘く感じたでしょ?」

唯「うん。憂のつば、甘くておいしかったよ」

憂「もう……それじゃ」

 頬を赤らめて、少しむくれながら憂はスプーンを差し出す。

憂「今度は私が食べる番だよ」

憂「よーく噛んで、食べさせてね……」

102: 2010/10/12(火) 02:06:26.99 ID:e5Jb0u2KO

唯「……」

 憂の言葉に、ごくりと唾をのむ。

憂「あっ、もったいないっ」

唯「憂……」

 そっとオムライスをすくい取り、奥歯で噛み崩す。

 唾液と混ぜて、ぐちゃぐちゃにしていく。

 それだけで、性欲と食欲が同時に満たされるようだった。

 膝立ちになり、憂を上向かす。

 濡れ光っている唇にキス。憂がやったように、舌で口と歯を押し開ける。

憂「んっ……」

 姉妹のように同じ動きで、憂にオムライスを食べさせる。

唯「うい、うい……」

憂「おれぇひゃあん……」

104: 2010/10/12(火) 02:10:05.57 ID:e5Jb0u2KO

――――

 二人は交互に、口移しでオムライスをたいらげていく。

 性行為なのか食事なのか分からない、粘っこいことを長々一時間。

憂「ごちそう、さま……」

 興奮で息も絶え絶えになりながら、憂は舌舐めずりをする。

唯「まだだよ。まだ、憂を食べてない……」

 私はぎゅっと憂に抱き着き、ベッドへと引きずりあげる。

 リボンをするりと解き、半脱ぎになっている衣服を引き剥がして放り投げる。

 自らも裸になる間だけ憂の体を解放し、脱いだらすぐにまた抱きつく。

唯「憂っ、ういういっ、大好きだよぉっ」

 その気持ちがほんとうは届かなくても、頬ずりをして叫んだ。

 ずっとずっと押し込めてきた気持ちを、遠慮なく叩きつけられる唯一の瞬間だと思った。

105: 2010/10/12(火) 02:13:33.48 ID:e5Jb0u2KO

憂「……」

 憂は犬のようにすりついて甘える私を、優しく抱きしめた。

憂「私も大好きだよ、お姉ちゃん」

唯「憂……」

 どちらからともなく口付けて、舌を絡め合う。

 そうすることを二人で取り決めてあったかのように、

 右手を互いの敏感な部分へと伸ばしていく。

唯「っあっ、はぁっ!?」

 憂の指が入ってきて、私は思わず体を跳ねさせた。

 さっきまでは痛いだけだった膣内への指の挿入が、激甚な快楽に変わっている。

唯「っひ、ふううぁぁっ!」

 快感にのまれてしまうのをこらえて、憂の膣に入れている指に集中する。

憂「あふっうう……おねえちゃんんっ」

 切ない声があがる。もっと気持ちよくしてあげないと。

106: 2010/10/12(火) 02:16:20.19 ID:e5Jb0u2KO


唯「憂……」

 大好きだよ、と囁こうとした。

 しかし愛の言葉は、二人だけの部屋に突如現れた闖入者によって遮られた。

 かたかたと震える扉。

唯「……」

 私は瞳に怒気をこめ、そこに立っている闖入者を睥睨した。

梓「えと、その……」

憂「あずさ、ちゃん……」

 少女の体は、小さく震えていた。

 どくどくと腫れあがって液を吐いていた欲望が、どうしてか縮こまっていく。

107: 2010/10/12(火) 02:20:17.58 ID:e5Jb0u2KO

梓「……ごっ、ごめんなさい!」

 あずにゃんは深く頭を下げ、呼びとめる間もなく逃げ出してしまった。

 複雑に絡み合った私たちの体勢では即座に追いかけることもできず、

 やがて玄関のドアが開閉する音が遠くに聞こえた。

唯「……」

 もはや二人の体は、一点たりとも触れ合っていなかった。

唯「……私、シャワー浴びてくる」

 髪に指を突っ込み、頭皮を掻いた。

 情事をあずにゃんに見られたことで、どうしてこんなに冷めてしまうのだろう。

 それはきっと、どこかに罪悪感があったから。

 だからあの悲しげな瞳に、犯罪をとがめられたような気がしてしまうのだ。

唯「憂……ごめん」

 私はぽつりと謝罪を述べた。

108: 2010/10/12(火) 02:23:07.22 ID:e5Jb0u2KO

憂「……」

 その言葉に耳をぴくりと動かし、憂は目を閉じた。

憂「いまさら、なんなの……」

唯「っ……」

 か弱くふるえた声。

 私は立ち上がり、ドアのほうに歩いていく。

憂「ねぇっ、ひどいよお姉ちゃんっ!!」

憂「謝るくらいだったら……最初からこんなことしないでっ!!」

唯「ごめんっ、憂!!」

 泣きながら憂が喚いた言葉を頭からかき消すように、私は大声で謝った。

 そして廊下へ出て、強く扉を閉める。

唯「……」

 憂のすすり泣きが、ドアの隙間から漏れてくる。

 私は深く息を吐き、壁に手をつきながらお風呂場へ降りていった。

110: 2010/10/12(火) 02:26:23.82 ID:e5Jb0u2KO


唯「……」

 ――ああ、憂に嫌われたなぁ。

 シャワーを顔に浴び、涙が出るのをごまかした。

 泣いている所なんて憂に見られたら、もっと嫌われてしまう。

 いちばん辛いのは、憂なのだから。

111: 2010/10/12(火) 02:30:39.08 ID:e5Jb0u2KO

――――

 一通り体を洗い、浴室を出て水滴を拭く。

 自室に戻って、ふだんの部屋着を着る。

唯「ん……」

 ベッドに腰掛けようとして、私は通学カバンと寄り添うようにして置かれた長方形の箱を見つけた。

 その箱が何なのか分かった瞬間、私は戦慄した。

唯「あ……あぁ」

 あずにゃんの、誕生日プレゼント。

 今日学校で渡すって、ずっと前から約束していたのに。

 すごく楽しみにしてくれてるよって、うれしそうに憂が言っていた。

唯「そっか……だからあずにゃん」

 逡巡は一瞬。

 私は部屋を飛び出し、ずいぶん前に行ってしまったあずにゃんを追いかけ始めた。

124: 2010/10/12(火) 03:00:09.52 ID:e5Jb0u2KO

唯「はっ、はっ」

 憂の近くにいるべきではないか。

 そんな風にも思った。

 だけど、今あずにゃんを放っておいてはいけない。

 一人にしちゃいけない。

 その焦燥が、あずにゃんのもとに急がせた。

 ひとりぼっちのあずにゃんの家へ。

唯「はぁっ、はぁっ……」

 息を落ちつける間も置かず、インターフォンを鳴らした。

 軽快な電子音が、やけに遠くに響く。

 がちゃり、とぶつかり合う音がして、あずにゃんの声がする。

梓『はい』

唯「……あずにゃん、私」

125: 2010/10/12(火) 03:04:20.36 ID:e5Jb0u2KO

 そう言っただけで、しかと伝わったらしい。

梓『……入っていいですよ』

唯「ありがと、あずにゃん」

 許可を受け、私はドアノブを引いた。

 歓迎しているつもりなのだろうか。ぬるい空気が私を包み込んだ。

唯「……あずにゃん?」

 居間の方から物音がしている。

 現れる様子のないあずにゃんを探し、私はそっと靴を脱いだ。

 足音をしのばせつつ、居間に近づく。

 昔懐かしいBGMが耳に届いた。

 居間へつづくドアノブを握り、静かに下ろした。

 かちゃ、と軽い接触音を立ててドアが開く。

127: 2010/10/12(火) 03:09:11.61 ID:e5Jb0u2KO

 あずにゃんはソファに座って、大きなテレビでゲームをしていた。

 憂があずにゃんにあげると言っていた、スーパーファミコンのゲームだ。

唯「……あのね、あずにゃん」

梓「唯先輩。やりましょうよ」

 私が言おうとした言葉を制止して、あずにゃんは2Pのコントローラーを振った。

梓「練習に付き合っていただきたいんです」

唯「うん……わかった」

 久しくあずにゃんから聞いていなかった練習という言葉に、私はつい笑顔になった。

 これがきっと、あずにゃんがいま望んでいることなんだろう。

 そう思って私はコントローラーを受け取り、隣に腰かけた。

梓「唯先輩は、このゲーム得意ですか?」

唯「いやぁ、あんまし。たまーに上手く行くと、めちゃ強いんだけどね」

128: 2010/10/12(火) 03:12:04.60 ID:e5Jb0u2KO

 あずにゃんがメニューを操作して、対戦が始まる。

梓「なら、良い勝負になりそうですね」

唯「ほうほう、自信があると」

 風船がはじけて、火ぶたが切って落とされる。

 私が早いスピードで無秩序に積んでいくのとは逆に、

 あずにゃんは丁寧にゆっくり積んでいく。

唯「そろそろ良いかな……」

 一番右を開けた状態で10段ほどぷよを積み上げて、私は唇を撫でた。

 右端では赤を三つ並べてある。

 これでだいたい連鎖は起こる、はず。

梓「フィーリング戦法ですか?」

唯「ふぃ……?」

梓「……あまり考えすぎずに積み上げて、偶然の連鎖を狙う戦法ですよ」

129: 2010/10/12(火) 03:16:09.00 ID:e5Jb0u2KO

 あずにゃんは小さく笑う。

梓「唯先輩らしいですね」

唯「あまり考えすぎずに……それが私?」

 右端の赤を消す。

 連鎖はひとつ、ふたつ、みっつ。

唯「……そうかも」

梓「それで……」

 あずにゃんが反応して、三連鎖で相頃する。

梓「今回のことは、いったいどんなフィーリング連鎖だったんですか?」

 そして、少し考えつつも再び三連鎖を素早く組み上げ、引き起こす。

 この子、強い。

130: 2010/10/12(火) 03:20:23.87 ID:e5Jb0u2KO

梓「……」

唯「……」

 ボタンをかちゃかちゃ叩く音が、おもに聞こえる。

 テレビの画面や、スピーカーから出てくる音などはあまりうまく意識できなかった。

梓「じゃあ、私が勝ったら教えてください」
 
唯「今にも勝ちそうじゃん……」

 どさり、と私のフィールドにおじゃまぷよが落ちてくる。

 私がおじゃまぷよを片づけるより早く、次のあずにゃんの攻撃が始まる。

唯「あー、あーああー」

 ふたたびの三連鎖。

 すでにギリギリまで追い込まれた私に、遠慮ないとどめの一撃がくだった。

梓「唯先輩……弱すぎじゃないですか?」

唯「考えるのは苦手なんだもん」

131: 2010/10/12(火) 03:24:46.28 ID:e5Jb0u2KO

梓「……まぁ、いいですけど」

 あずにゃんは呆れた目で私を見る。

梓「ともかく、それはそれとして……」

唯「なんで私が学校を休んだか、かな?」

梓「……はい」

 ぱりっと空気が張り詰めたのが分かった。

 私はゆっくりと息を吸う。

唯「……聞く?」

 あずにゃんがかちっとスーファミの電源を切る。

梓「聞かなきゃ納得できません」

梓「教えてください、唯先輩」

 私はソファーに座りなおし、あずにゃんの目をじっと見た。

唯「あずにゃん。言霊って知ってる?」

132: 2010/10/12(火) 03:28:19.39 ID:e5Jb0u2KO

 憂の置いていったあの本で知った、言霊という存在。

 きっとあれが、すべての始まりだった。

梓「……都市伝説ですか?」

唯「都市伝説、かなぁ……」

 その問いにはうまく答えられなかった。

 実在している物を都市伝説扱いしてよいものか、いささか悩む。

唯「でも、そういう認識で間違ってないと思うよ」

梓「言い続けたことが本当になる、ってことですよね」

唯「そうそう」

 私は暗くならないよう、せめて口調は明るくした。

唯「昨日私は、はじめてその存在を知ってね。ちょっと試してみたんだ」

唯「ほんとうにあるなんて、思ってなかったけど」

 それでも、あずにゃんの顔にはだんだん陰がさしていく。

134: 2010/10/12(火) 03:32:26.87 ID:e5Jb0u2KO

梓「……どんなことを試したんですか?」

 あずにゃんはもしかしたら、既にその答えを分かっていたのかもしれない。

 とても静かな声で訊いてきた。

唯「……」

唯「憂がいなくて、寂しかったから……ううん」

 私は、服の胸のあたりをぎゅっと握りしめた。

唯「私……憂のことが好きなんだ。妹としてだけじゃなくて……」

唯「ひとりの女の子として」

 あずにゃんはじっと私を見ている。

 その目に怒りも蔑みも悲しみも置かず、ただまっすぐに見つめている。

唯「だから……憂が私を好きになるように」

唯「憂は私が好き、って何度も言ったんだ」

135: 2010/10/12(火) 03:36:11.44 ID:e5Jb0u2KO

唯「そしたら……言霊の力で、それが真実になった」

唯「憂は私を好きになって……朝起きたら、憂が私にキスしてた」

梓「……」

 あずにゃんにとって、私と憂が女の子同士なこととか、

 血の繋がった姉妹であることはそう重要じゃなかったんだと思う。

 よどみのない目を見て、そう感じた。

梓「それで、そのまま……」

唯「うん。あずにゃんの見たとおりだよ」

 私は深く頷いた。

梓「……すいません、勝手に入ってしまって」

 私のその言葉をどう受け取ったのやら、申し訳なさそうにあずにゃんは肩をすくめる。

 この子、強い。

138: 2010/10/12(火) 04:00:12.16 ID:e5Jb0u2KO

唯「私……あずにゃんに、謝らないといけないね」

唯「ううん、謝るんじゃ済まないかな……」

 私がしたことは、ただ約束を破っただけじゃない。

 両親を亡くして寂しがってるあずにゃんから、心のよりどころにしていた憂を奪った。

 色欲なんかのせいで約束を忘れられる、情けないくらいの辛さを味わわせた。

唯「あずにゃん……ごめん、ね……」

 声が震えてしまう。

 ぎゅっと体に力を入れて、涙だけはどうにか見せまいとする。

梓「……いえ。そこまで気にしてないですから」

梓「それより、唯先輩のおかげで大事なことに気付きましたよ」

 けなげに明るく作った声で、あずにゃんは話題を変えた。

唯「大事なこと?」

 私はオウム返しで促した。

139: 2010/10/12(火) 04:04:26.97 ID:e5Jb0u2KO

梓「はい。……私は」

梓「私はもう、寂しくなんかないってことです」

 あずにゃんは歯を見せてニンマリと笑う。

梓「ほんとは一人だって平気だったんです」

梓「ですけど、先輩たちが優しくしてくださるから……」

梓「みんなが気を遣ってくれるのが嬉しくて、なんだか傷心ぶっちゃってたみたいです」

唯「……あずにゃん」

梓「私のせいで迷惑かけちゃいましたね」

唯「あずにゃんってばっ!」

梓「そろそろ憂のところに戻らないとダメですよ、唯先輩」

 あずにゃんは、私の話に耳を傾ける気はないらしい。

 あからさまな作り笑顔を向けて、私を押し退けてソファーから落とそうとする。

140: 2010/10/12(火) 04:08:40.17 ID:e5Jb0u2KO

唯「……そっか」

 私は痛い思いをする前に、自分で立ちあがった。

唯「……」

 約束を忘れる先輩の顔なんて、見たくなくて当然だ。

 どうしてそれに気付かずに、わざわざやって来てしまったんだろう。居座ってしまったんだろう。

唯「……ごめん、帰るね」

梓「ハイ。また明日」

 それでもあずにゃんは強いから、笑顔を向けてくれる。

 私の罪をとがめもしないで、見送ってくれる。

唯「あずにゃん……何て言ったらいいか分かんないけど……」

唯「……とにかく、ありがとう」

 あずにゃんが頷いた気配があった。

 私はドアノブを捻り、居間をあとにする。

141: 2010/10/12(火) 04:12:16.85 ID:e5Jb0u2KO

 廊下の天井を見上げ、私はため息をつく。

唯「……さいってーだな、私」

 結局私は、

 みんな傷つけて、なにもかもぶち壊しにして、

 その罪をとがめられないことを幸福に思うくらいの人間なんだ。

唯「……」

 背中の扉の向こうでは、きっとあずにゃんはもう泣いている。

 私にだって分かる。あずにゃんは、ほんものの寂しい人の顔をしていた。

 構って欲しかったなんて、あずにゃんが抱いていた気持ちのうちの一つでしかない。

 ほんとうに寂しくて。

 ほんとうに辛くて悲しくて。

 だけど、自分をないがしろにするような先輩に、その苦しみを悟られたくなかったんだ。

142: 2010/10/12(火) 04:16:13.18 ID:e5Jb0u2KO

 あずにゃんのすすり泣きが聞こえてきた。

 私はしばし、その涙を止めに戻るべきか考える。

唯「……」

 泣かせてしまったなら、慰めないといけない。

 だけどあずにゃんは、私になんて慰められたくないと思う。

 ――いや、嘘。

 私はただ、拒絶されるのが怖いだけ。

 だから憂のところから逃げてきた。

 あずにゃんを追いかけようだなんて、そのための理由でしかなかった。

唯「……帰ろう」

 私はゆっくり廊下を歩き、あずにゃんの家を出た。

 部屋着のまま出てきてしまった私に、外の空気は冷たすぎた。

 身を切るような風が吹きつける。

143: 2010/10/12(火) 04:20:20.75 ID:e5Jb0u2KO

 私は裸の足首に当たる風に痛みを感じながら、とぼとぼ家へと歩いていく。

唯「……おうち、帰りたくないな」

 家には憂がいるはずだ。

 同じ家にいれば、何かしらの機会に顔を合わせることになる。

 それから、晩ご飯のことも。

唯「作って……くれないよね」

 そうすると、自分のぶんは自分で作らないといけない。

 その手間がかかるのは、別にかまわない。

 辛いのは、憂がご飯を作ってくれないという事実。

 自業自得なのは分かっている。

 けれど、ずっと何年も当たり前のように続いてきた、憂が料理をしてふるまう図式。

 それは私たち姉妹の、ちょっと他所とはズレた所を象徴的に表している。

 その図式の崩壊は、すなわち私たちの崩壊を意味していた。

145: 2010/10/12(火) 04:24:48.52 ID:e5Jb0u2KO

唯「……はは、あはは」

 私はふらふらと塀に倒れ掛かり、かわいた笑いをあげた。

唯「なんにも……なにもないじゃん……」

唯「ほんとにぜんぶ壊れて……もう、なんにもないや」

 風がびゅんびゅん吹き抜ける。

 ああ、なんて寒いんだろう。

唯「どーでもいいや……」

 私は家に向かってゆっくり歩き出した。

 逆風が吹きつけてきて、まるで私に引き返せと言うようだ。

 北風なんかに何が分かる。道路を強く踏みしめ、私はあらがって歩く。

 とにかく寒くて、家に帰りたくてしかたない。

 そこに何があろうと、私にはもはや関係ない。

 長い長い時間をかけて憂と積み上げてきたものは、すっかり崩れ去ってしまったのだから。

146: 2010/10/12(火) 04:28:17.66 ID:e5Jb0u2KO

――――

 家に着くと、なるべく音を立てないように階段を上がり、部屋に滑り込んだ。

 机の上にマフラーのプレゼントボックスが置かれているのを一瞥し、ベッドに倒れる。

唯「これからどうしよっかな」

 ごろりと天井をあおぎ、私は途方もない考えに暮れた。

唯「……言霊の力も、もう使う訳にはいかないよね」

 再び、憂が私を好きになるよう言霊を使おうとも思った。

 けれど、それはどう転んでも憂を傷つけた力に他ならない。

 二度と行使する訳にはいかない。

 寝息のように深い呼吸をしながら、私は目を閉じる。

唯「言霊はない、言霊はない……」

 小さな声でつぶやき始めて、数分後。

 三回分のノックが、私の鼓膜を叩いた。

148: 2010/10/12(火) 04:32:41.03 ID:e5Jb0u2KO

憂『……お姉ちゃん』

唯「うい……?」

 まぎれもない憂の声。

 またお姉ちゃんと呼んでくれた。

 私は即座に起き上がる。

憂『ご飯あるから……食べておいてね』

 どたどた床を鳴らして、ドアへと走る。

 ドアノブを捻りながら引く。廊下が見え、潤んだ視界の中に、憂がいないことを知った。

唯「……憂っ」

 すぐさま廊下に出て、辺りを見渡す。

 憂の部屋のドアが、ぱたんと閉じられたところだった。

唯「……」

 私は胸を押さえ、荒い呼吸を飲みこむ。そんな夢のような話、あるわけがなかった。

149: 2010/10/12(火) 04:36:04.70 ID:e5Jb0u2KO

 食べておいてね、と憂は言っていた。

 憂はすでに食事を済ませたんだろう。

 やっぱり、もう憂と一緒に食卓を囲むことはできないのだ。

 お姉ちゃん、とは便宜的に呼んでいるだけであって、私を姉と慕っているわけではない。

唯「……へへ」

 想像した形とは違えど、私たちの17年培ってきた関係は間違いなく崩壊していた。

唯「憂は優しいね」

 つぶやいて、私はとんとん階段を降りた。

 居間に並べられていた料理は、まだ少しだけ温かい。

 憂が箸をつけた痕跡が残っていて、私はそれを頼りに「ひとりではない」と言い聞かせた。

 トマトソースで煮込んだ大きな鶏肉を噛み切る。

 ものを噛む音は意外に大きいということを、初めて認識した食事だった。

152: 2010/10/12(火) 05:00:21.00 ID:e5Jb0u2KO

――――

 その夜は、憂の夢を見た。

 私は憂と手をつないで、だだっぴろい草原を歩いていた。

 ずっとずっと歩いていると、前からあずにゃんがやってくる。

唯「いっしょに手をつなごうよ」

 私はそう言った。

梓「私はあちらへ行きますから」

 あずにゃんは私たちの来た方向を指差す。

唯「でも、ねぇ、憂」

憂「それじゃあ、ここで手をつないで居ようよ」

 憂があずにゃんに微笑みかける。

 私は左手を差し出した。

梓「……」

153: 2010/10/12(火) 05:03:14.22 ID:e5Jb0u2KO

 少し迷ってから、あずにゃんはゆっくり手を伸ばしてきた。

梓「……ぁ」

 そして、その手は途中でしな垂れてしまう。

唯「あずにゃん?」

梓「すいません、唯先輩。私は……だめです」

 きゅっと唇を結び、あずにゃんは滲んだ瞳で私を見つめた。

唯「……どうして」

 呆然として、私は訊ねた。

 あずにゃんは一度目を閉じて、ふっと笑う。

梓「唯先輩の隣には、憂がいるじゃないですか」

梓「だいじなだいじな、憂が」

154: 2010/10/12(火) 05:06:39.66 ID:e5Jb0u2KO

唯「たしかに、そうなんだけど……」

憂「……」

 涼やかな風が走り抜けて、背の低い草と、私たちの髪を揺らした。

唯「左手、あまってるよ」

 再度、腕を揺らしてあずにゃんに促す。

梓「……片手でいいと思うんですか」

 ちらりと私の手を見て、小さな声であずにゃんは言う。

梓「唯先輩は、そんな大した人間じゃありませんよ」

唯「え……」

梓「手の一本で、一人の人間の傷ついた心を癒せるほど……素敵な人間ではないです」

 あずにゃんは、私の手を見ずに歩きだした。

 私の後ろにある空に向かって、すたすたと草を踏んでいく。

唯「……」

156: 2010/10/12(火) 05:10:26.59 ID:e5Jb0u2KO

 あずにゃんの背中を見ている私の右手を、憂がぎゅっと握りしめた。

 さく、さく、足音が離れていく。

憂「お姉ちゃん」

 呼びかけられて、私は憂のほうに視線を戻す。

唯「あずにゃんは……」

憂「いっちゃうのかもね」

 つないだ手に、憂の右手が重なる。

憂「でも連鎖って、始まった以上はもう止まらないから」

憂「電源を落とす以外には、ね」

唯「……」

憂「ねぇ、お姉ちゃん」

 憂が私の手をさする。

 憂も、私の両手を求めているんだ。

157: 2010/10/12(火) 05:13:09.46 ID:e5Jb0u2KO

唯「……」

 あずにゃんはどうなってしまうんだろう。

 もう背中は見えなくなっていた。

憂「どうするのか、決まった?」

 憂が答えをせかす。

唯「……うん。決まってるよ」

 私は憂の右手の甲に、そっと手をのせた。

唯「ひとりだけだったら、憂を選ぶ」

唯「……あずにゃんよりも大事だから」

 両手をつなぎあわせ、社交ダンスを踊っているような格好で私たちは歩く。

憂「なんかヘンだね」

唯「だね。なんていうか……」

唯「……恋人みたいだね」

158: 2010/10/12(火) 05:16:29.80 ID:e5Jb0u2KO

憂「恋人かぁ。えへへっ」

 私が笑うと憂も笑った。

 広い広い草原に私たちの笑いがこだまして、

 ――私は夢から覚めた。

唯「……?」

 窓の外では鳥がちりちり鳴いていた。

 思わず時計を見て、いつも憂が起こしに来る時間よりうんと早いことを知る。

 目覚まし時計は沈黙して、ただ時を刻むだけ。

 憂も起こしに来ていない。

 と、すれば。私は何故起きたんだろう。

 そんなの決まっている。

 私はベッドから飛び降りると、部屋を出て階段を駆け降りる。

 向かう先は台所。目的はひとつ。

159: 2010/10/12(火) 05:21:43.69 ID:e5Jb0u2KO

――――

 降りてきた足音は一度半ばで止まり、それから一気に駆けてきた。

 ダイニングテーブルに並べられた朝食を見て、憂は心底驚いたようだ。

憂「……お姉ちゃん?」

唯「おはよう、憂」

 私は奥から顔を出して、憂に挨拶する。

憂「これ、お姉ちゃんが?」

唯「うん」

 頷いて、私はあらためて私の作った朝食を見渡す。

 炒りすぎて固くなったスクランブルエッグ。

 ボウルの底に水がたまったサラダ。

 焼きすぎた上にあぶらぎったハム。

 どれをとっても、あまりおいしそうではない。

160: 2010/10/12(火) 05:24:03.99 ID:e5Jb0u2KO

 けれども、いかなる拒絶をも覚悟した上で私は言った。

唯「憂に食べてほしくて、つくったんだ」

 その言葉に、憂はぴくりと耳を動かす。

 やっぱり、私の料理なんて食べたくないだろうか。

 憂はしばらく黙していたが、やがて口を開く。

憂「お姉ちゃんさ、罪滅ぼしか何かのつもり?」

唯「……そうだね」

 はぁ、と憂は溜め息をもらした。

憂「必要ないよ。……ううん、意味がないのかな」

憂「お姉ちゃん、許してもらおうとか思ってる?」

 私は首を振る。

唯「ちがう。ただ、憂と元の関係に戻りたい」

唯「今までみたいに、仲良くしたいだけ……」

161: 2010/10/12(火) 05:27:46.42 ID:e5Jb0u2KO

憂「……今までみたいに、かぁ」

 椅子を引き、憂は腰かけた。

 箸を取りつつ私を見上げて、笑うような顔をする。

憂「私は嫌だよ」

唯「憂……」

憂「それって、『なかったことにする』ってことだよね」

憂「そんなので……納得なんかできないよ」

 卵のかたまりを摘まみ、口に運ぶ。

憂「しょっ辛い」

唯「ごめん……」

 私も椅子につき、スクランブルエッグを食べてみる。

 憂の言うに違わず、塩辛かった。

163: 2010/10/12(火) 05:30:31.57 ID:e5Jb0u2KO

――――

 憂はさっさと髪を結わきあげて、学校に行ってしまった。

 朝食の皿を片づけてから、私は制服に着替える。

 カバンの中にマフラーの箱をしまいこみ、家を出た。

 おととしに憂からプレゼントされた手袋と、二人で巻いたマフラーをつけて、

 冬の近づく街をひとり歩いていく。

唯「……」

 すっかり葉の落ちた街路樹を見て、今年の冬は寒くなりそうだと思う。

 私は息を白く吐き、すっかり低くなってきた空を見上げた。

 うすぐもりの向こうに、ちらちらと光る太陽が浮かんでいた。


  おしまい

165: 2010/10/12(火) 05:42:04.03 ID:+JaDkTs/0
微妙な終わりかただな

おつ!!

引用元: 唯「愛のことだま!」