1: 2023/09/01(金) 21:17:16.89 ID:TDHnTpDO.net
花帆「あ~あ……。FESライブも終わっちゃったなぁ……」
夏休み最終日。部室にて何度呟かれたか分からない台詞が吐かれる。わたしは文庫本を開いたまま、若干呆れつつも口を開いた。
さやか「その台詞、今日何度目ですか?」
花帆「何度目だろう……」
さやか「まあ、最近はようやく慣れてきましたけどね。何かの節目が終わった後、壊れた人形のように同じ言葉を繰り返す花帆さんは」
花帆「えぇ、その表現はちょっと酷いよぉ」
さやか「……とはいえ、その気持ちも分からなくはないですが」
ぱたん。文庫本をやや雑に閉じる。そのまま瞼を閉じると、明瞭にFESライブを思い出せる。
さやか「今のスクールアイドルクラブが出せる最高のライブでした。わたし達は夏の間の努力の成果を出せて、瑠璃乃さんや慈先輩は圧巻のパフォーマンスだったと思います」
未だ興奮冷めやらぬとはこのことだろう。きっと花帆さんも、頬を紅潮させて全力で肯定してくるに違いない、そう想定していたのだが。
花帆「……うん。そうだね」
さやか「……花帆さん?」
実際は真逆。どこか遠くに視線をやった、アンニュイな表情をしていた。
夏休み最終日。部室にて何度呟かれたか分からない台詞が吐かれる。わたしは文庫本を開いたまま、若干呆れつつも口を開いた。
さやか「その台詞、今日何度目ですか?」
花帆「何度目だろう……」
さやか「まあ、最近はようやく慣れてきましたけどね。何かの節目が終わった後、壊れた人形のように同じ言葉を繰り返す花帆さんは」
花帆「えぇ、その表現はちょっと酷いよぉ」
さやか「……とはいえ、その気持ちも分からなくはないですが」
ぱたん。文庫本をやや雑に閉じる。そのまま瞼を閉じると、明瞭にFESライブを思い出せる。
さやか「今のスクールアイドルクラブが出せる最高のライブでした。わたし達は夏の間の努力の成果を出せて、瑠璃乃さんや慈先輩は圧巻のパフォーマンスだったと思います」
未だ興奮冷めやらぬとはこのことだろう。きっと花帆さんも、頬を紅潮させて全力で肯定してくるに違いない、そう想定していたのだが。
花帆「……うん。そうだね」
さやか「……花帆さん?」
実際は真逆。どこか遠くに視線をやった、アンニュイな表情をしていた。
2: 2023/09/01(金) 21:18:27.73 ID:TDHnTpDO.net
そう言えば、と思い出す。
花帆さんは最近、こうした表情をよく見せるようになった。それも、難しい振り付けがこなせるようになった時や、リハーサルが完璧だった時など。いつもなら喜んで然るべき場面で度々、こんな顔をしていた。
何か、あったんですか。その疑問を差し込む前に、
花帆「ねね、さやかちゃん。最近話題になってる寮の噂のことって知ってる?」
そんな世間話に封殺された。頭を切り替え、寮の噂とやらを考えてみる。だが、脳内にヒットする文字は無かった。
さやか「寮の噂、ですか。いえ、寡聞にして聞かないですね」
花帆「そっか。まあ、あたしも聞いたのはついさっきだし、さやかちゃんが知らないのも無理ないよね」
さやか「……それで、噂って何なんですか」
そう問いかけると、先ほどまでのアンニュイな表情はどこへやら。花帆さんは得意げに鼻を膨らませた。
花帆「むふーっ。そっかそっか。そんなに聞きたいならっ、言ってあげましょうっ」
さやか「……よろしくお願いします」
ぐっと固く握った拳をどうにか抑える。
花帆さんは最近、こうした表情をよく見せるようになった。それも、難しい振り付けがこなせるようになった時や、リハーサルが完璧だった時など。いつもなら喜んで然るべき場面で度々、こんな顔をしていた。
何か、あったんですか。その疑問を差し込む前に、
花帆「ねね、さやかちゃん。最近話題になってる寮の噂のことって知ってる?」
そんな世間話に封殺された。頭を切り替え、寮の噂とやらを考えてみる。だが、脳内にヒットする文字は無かった。
さやか「寮の噂、ですか。いえ、寡聞にして聞かないですね」
花帆「そっか。まあ、あたしも聞いたのはついさっきだし、さやかちゃんが知らないのも無理ないよね」
さやか「……それで、噂って何なんですか」
そう問いかけると、先ほどまでのアンニュイな表情はどこへやら。花帆さんは得意げに鼻を膨らませた。
花帆「むふーっ。そっかそっか。そんなに聞きたいならっ、言ってあげましょうっ」
さやか「……よろしくお願いします」
ぐっと固く握った拳をどうにか抑える。
3: 2023/09/01(金) 21:19:39.16 ID:TDHnTpDO.net
花帆「えぇと……深夜の寮ってさ、消灯時間は過ぎてて普通誰もいないでしょ?」
さやか「そうですね。見つかったら寮母さんから大目玉ですから」
花帆「うん。だから誰も深夜はうろつかないんだけど……最近夜な夜なね、寮の廊下をガサゴソと移動する影が目撃されてるんだってさ……」
さやか「へぇ……」
寮の廊下をガサゴソと。すぐに思い当たるのは野の獣の類。蛇や猫であれば、狭い隙間からでも侵入が可能だろう。
花帆「でね、正体は動物だって誰もが思うでしょ? でもね、猫を頃すような好奇心を持った寮の娘が、つい玄関扉を開けて見ちゃったんだってさ……」
さやか「……見たって、何を」
生唾をごくりと飲み込んだ後、花帆さんは芝居がかった動きで答えを返した。
花帆「そこにいたのはね……深夜にいるはずのない、制服をかっちり着込んだ女子生徒の幽霊だったんだってさ……」
さやか「……」
花帆「キャーッ!!」
さやか「うわっ、何ですか! 驚かせないでくださいよっ!」
花帆「ご、ごめん……お約束だと思ってつい……」
さやか「……はぁ」
さやか「そうですね。見つかったら寮母さんから大目玉ですから」
花帆「うん。だから誰も深夜はうろつかないんだけど……最近夜な夜なね、寮の廊下をガサゴソと移動する影が目撃されてるんだってさ……」
さやか「へぇ……」
寮の廊下をガサゴソと。すぐに思い当たるのは野の獣の類。蛇や猫であれば、狭い隙間からでも侵入が可能だろう。
花帆「でね、正体は動物だって誰もが思うでしょ? でもね、猫を頃すような好奇心を持った寮の娘が、つい玄関扉を開けて見ちゃったんだってさ……」
さやか「……見たって、何を」
生唾をごくりと飲み込んだ後、花帆さんは芝居がかった動きで答えを返した。
花帆「そこにいたのはね……深夜にいるはずのない、制服をかっちり着込んだ女子生徒の幽霊だったんだってさ……」
さやか「……」
花帆「キャーッ!!」
さやか「うわっ、何ですか! 驚かせないでくださいよっ!」
花帆「ご、ごめん……お約束だと思ってつい……」
さやか「……はぁ」
4: 2023/09/01(金) 21:20:50.54 ID:TDHnTpDO.net
心臓が激しく鼓動している。花帆さんの怪談話に若干怯えてしまったのは癪だが、少し身震いしたのも事実。
なぜなら、自分のプライベート空間である寮の話なのだ。当事者意識を持たないわけがない。
さやか「……それなら」
花帆「ん?」
わたしは一つの決意を固める。拳を握り、静かに闘志を全身へと巡らせた。
さやか「わたしがその女子生徒の幽霊を成敗致しましょう」
花帆「え、えぇ~……」
わたしの解答は想定外だったのか、花帆さんはちょっと引いていた。だが、自らのパーソナルスペースも守れなくて、一体何が守れると言うんだ。
その後、『嘘だよね! 嘘だよねさやかちゃん!』と縋りつく花帆さんを引っぺがし、来る深夜の戦場に備えるため、英気を養った。
なぜなら、自分のプライベート空間である寮の話なのだ。当事者意識を持たないわけがない。
さやか「……それなら」
花帆「ん?」
わたしは一つの決意を固める。拳を握り、静かに闘志を全身へと巡らせた。
さやか「わたしがその女子生徒の幽霊を成敗致しましょう」
花帆「え、えぇ~……」
わたしの解答は想定外だったのか、花帆さんはちょっと引いていた。だが、自らのパーソナルスペースも守れなくて、一体何が守れると言うんだ。
その後、『嘘だよね! 嘘だよねさやかちゃん!』と縋りつく花帆さんを引っぺがし、来る深夜の戦場に備えるため、英気を養った。
5: 2023/09/01(金) 21:22:02.81 ID:TDHnTpDO.net
──
常在戦場、という言葉がある。いつ如何なる時であれ、常に戦場を意識して物事に励め、という教えだ。
わたしは兵士ではない、が、今だけはその気持ちを携えて行こうと思う。
時刻は深夜。草木さえも寝静まり、魍魎が跋扈跋扈する時間帯となった。
わたしの服装は夏服の制服。セーラー服とは、水兵の服装が源流と言われる。ならば、今から赴くのが戦地なら相応しいはずだ。
携える武器はたった一つ、常香炉の煙を吸わせた清めの塩だ。入手経路は梢先輩。スピリチュアルな趣味を持っていたため、除霊グッズを聞くとこれを持たせてくれた。尤も、わたしは盛り塩用と嘘を吐いたが。
さやか「ふぅ……。それにしても、本当にいるのでしょうか」
玄関扉の前でそう独り言ちる。結局のところ、噂は噂でしかない可能性がある。街談巷説、道聴塗説。女子寮では特に、こうした噂が独り歩きしやすいという。
だがまあ、それならそれでいい。今日何もなければ、明け方の始業式は気持ちよく迎えられる。とはいえ、こうして夜更かしをしている以上、寝不足は確定しているが。
と、ここで、噂は噂と高を括っていた時、その音が耳朶を打つ。玄関扉の向こうから僅かに聞こえるこの音は……。足音だ。
常在戦場、という言葉がある。いつ如何なる時であれ、常に戦場を意識して物事に励め、という教えだ。
わたしは兵士ではない、が、今だけはその気持ちを携えて行こうと思う。
時刻は深夜。草木さえも寝静まり、魍魎が跋扈跋扈する時間帯となった。
わたしの服装は夏服の制服。セーラー服とは、水兵の服装が源流と言われる。ならば、今から赴くのが戦地なら相応しいはずだ。
携える武器はたった一つ、常香炉の煙を吸わせた清めの塩だ。入手経路は梢先輩。スピリチュアルな趣味を持っていたため、除霊グッズを聞くとこれを持たせてくれた。尤も、わたしは盛り塩用と嘘を吐いたが。
さやか「ふぅ……。それにしても、本当にいるのでしょうか」
玄関扉の前でそう独り言ちる。結局のところ、噂は噂でしかない可能性がある。街談巷説、道聴塗説。女子寮では特に、こうした噂が独り歩きしやすいという。
だがまあ、それならそれでいい。今日何もなければ、明け方の始業式は気持ちよく迎えられる。とはいえ、こうして夜更かしをしている以上、寝不足は確定しているが。
と、ここで、噂は噂と高を括っていた時、その音が耳朶を打つ。玄関扉の向こうから僅かに聞こえるこの音は……。足音だ。
6: 2023/09/01(金) 21:23:13.59 ID:TDHnTpDO.net
深夜という静けさが支配する今だからこそ僅かに聞こえる異音。
噂は、本当だったんだ。
さやか「……よし。覚悟を決めますよ」
ふぅ、と一息。真空パックに入った清めの塩を摘み、数秒後に訪れる戦闘に備える。
ふと思えば、奇妙な巡り合わせだと感じた。
わたしは蓮ノ空に入学する前、友人など作らなくてもいいと思っていた。自分に必要なのはスケートの技術を向上させるための何か。ただそれだけを獲得しようと勇み込んでいた。
だがどうだろう。わたしが噂の心霊に立ち向かう理由は、入学前の自分とは真逆の心情。
わたしの大切な居場所を、大切な人がいる居場所を、誰にも侵させない。そうした動機だった。
さやか「……来たっ!」
微かな跫音が扉の前を通り過ぎた。機会はここしかない。千載一遇、乾坤一擲。後はもう、扉を開いて塩をぶつけるだけ──
噂は、本当だったんだ。
さやか「……よし。覚悟を決めますよ」
ふぅ、と一息。真空パックに入った清めの塩を摘み、数秒後に訪れる戦闘に備える。
ふと思えば、奇妙な巡り合わせだと感じた。
わたしは蓮ノ空に入学する前、友人など作らなくてもいいと思っていた。自分に必要なのはスケートの技術を向上させるための何か。ただそれだけを獲得しようと勇み込んでいた。
だがどうだろう。わたしが噂の心霊に立ち向かう理由は、入学前の自分とは真逆の心情。
わたしの大切な居場所を、大切な人がいる居場所を、誰にも侵させない。そうした動機だった。
さやか「……来たっ!」
微かな跫音が扉の前を通り過ぎた。機会はここしかない。千載一遇、乾坤一擲。後はもう、扉を開いて塩をぶつけるだけ──
8: 2023/09/01(金) 21:24:24.99 ID:TDHnTpDO.net
さやか「……えいやっ!!」
勢いよく扉を開き、手に持った清めの塩を対象にぶつける──
「わっ、わぁ~っ!? な、なにぃ!?」
なんとっ! この心霊は喋るらしい。だが、清めの塩をぶつけられて動揺している。
効いている。そう確信したわたしは、さらに追撃を加えるために塩を撒く。
「びえっ、な、なにこれっ! や、やめてっ。てかっ、しょっぱっ!!」
なかなか手強い。清めの塩だけでは不足していたんだろうか。というか、夜目に慣れてくると確かに対象は制服を着込んでいるようだった。わたしと同じ夏服の……。
……しかもよく見れば、なんだか顔も見知っているような。兎の髪飾り、大きなくりくりとした瞳、明るい髪色……。
さやか「……え。花帆さん?」
花帆「ぷぇっ、ぷぇっ! ……え、さやかちゃん……?」
塩をぺっぺと吐き出す噂の心霊は、何を隠そう同じスクールアイドル部の同級生、日野下花帆だった。
勢いよく扉を開き、手に持った清めの塩を対象にぶつける──
「わっ、わぁ~っ!? な、なにぃ!?」
なんとっ! この心霊は喋るらしい。だが、清めの塩をぶつけられて動揺している。
効いている。そう確信したわたしは、さらに追撃を加えるために塩を撒く。
「びえっ、な、なにこれっ! や、やめてっ。てかっ、しょっぱっ!!」
なかなか手強い。清めの塩だけでは不足していたんだろうか。というか、夜目に慣れてくると確かに対象は制服を着込んでいるようだった。わたしと同じ夏服の……。
……しかもよく見れば、なんだか顔も見知っているような。兎の髪飾り、大きなくりくりとした瞳、明るい髪色……。
さやか「……え。花帆さん?」
花帆「ぷぇっ、ぷぇっ! ……え、さやかちゃん……?」
塩をぺっぺと吐き出す噂の心霊は、何を隠そう同じスクールアイドル部の同級生、日野下花帆だった。
9: 2023/09/01(金) 21:25:36.30 ID:TDHnTpDO.net
──
噂の心霊はどうやらあなたのようです。真実を花帆さんに告げるとびっくり仰天していた。どうやら彼女はここ数日、夜な夜な寮を抜け出していたらしく、それが噂となっていたらしい。
まあ、ここまではいい。少し気の抜けている花帆さんのことだ。自覚のない心霊というのも頷ける話だ。だが、今の状況はどうだろう。
率直に素直に実直に、今の正直な気持ちを吐露した。
さやか「どうしてわたしも、寮の外にいるんですか」
花帆「どうしてって……あたしが手を引いたからだけど」
さやか「そうではありませんっ。なんでわたしまで巻き込むんですかぁっ!」
悲痛な叫びが虚しく空に響く。
そう、今わたしがいるのは寮の中ではない。寮の外……つまり、無断外出をしていたのだ。
噂の心霊はどうやらあなたのようです。真実を花帆さんに告げるとびっくり仰天していた。どうやら彼女はここ数日、夜な夜な寮を抜け出していたらしく、それが噂となっていたらしい。
まあ、ここまではいい。少し気の抜けている花帆さんのことだ。自覚のない心霊というのも頷ける話だ。だが、今の状況はどうだろう。
率直に素直に実直に、今の正直な気持ちを吐露した。
さやか「どうしてわたしも、寮の外にいるんですか」
花帆「どうしてって……あたしが手を引いたからだけど」
さやか「そうではありませんっ。なんでわたしまで巻き込むんですかぁっ!」
悲痛な叫びが虚しく空に響く。
そう、今わたしがいるのは寮の中ではない。寮の外……つまり、無断外出をしていたのだ。
10: 2023/09/01(金) 21:26:48.25 ID:TDHnTpDO.net
塩をありったけ撒いた後、花帆さんに腕を掴まれそのまま外に連れ出された。どうやら彼女は予め脱出用の窓の鍵を開けていたらしく、そこから二人仲良く寮を脱出した、というわけだった。
花帆「だって……あのままあそこにいたら、さやかちゃんも寮母さんに怒られてたよ?」
さやか「いえっ、わたしは自室に戻ればいいだけの話じゃないですかっ」
花帆「まあまあ。旅は道連れ世は情けって言うでしょ?」
さやか「そんなぁ……」
がくりと肩を落とす。状況に流されてしまったわたしが悪い。そう、いつだってそうだ。わたしの弱点は振り回しに弱いことだ。
綴理先輩の衝動的な行動に毎日付き合っていたせいか、突発的な行動に対する付き合いの良さが上がってしまった。内申書や履歴書になど書けない、寧ろ損することが多い能力だろう。
花帆「まあまあ。折角だしさ、夜の蓮ノ空を楽しもうよさやかちゃん」
さやか「うぅ……。仕方がありません。ここまで来てしまったんです。どうせ折檻を受けるなら、思い切り非行を堪能してから罰を受けましょう……」
花帆「まだ脱柵がバレたわけじゃないし、平気だって!」
さやか「脱柵て……。ここは防衛大ですか」
花帆「だって……あのままあそこにいたら、さやかちゃんも寮母さんに怒られてたよ?」
さやか「いえっ、わたしは自室に戻ればいいだけの話じゃないですかっ」
花帆「まあまあ。旅は道連れ世は情けって言うでしょ?」
さやか「そんなぁ……」
がくりと肩を落とす。状況に流されてしまったわたしが悪い。そう、いつだってそうだ。わたしの弱点は振り回しに弱いことだ。
綴理先輩の衝動的な行動に毎日付き合っていたせいか、突発的な行動に対する付き合いの良さが上がってしまった。内申書や履歴書になど書けない、寧ろ損することが多い能力だろう。
花帆「まあまあ。折角だしさ、夜の蓮ノ空を楽しもうよさやかちゃん」
さやか「うぅ……。仕方がありません。ここまで来てしまったんです。どうせ折檻を受けるなら、思い切り非行を堪能してから罰を受けましょう……」
花帆「まだ脱柵がバレたわけじゃないし、平気だって!」
さやか「脱柵て……。ここは防衛大ですか」
11: 2023/09/01(金) 21:27:59.55 ID:TDHnTpDO.net
益体のない話をしながら、深夜の蓮ノ空の敷地を歩く。そう言えば、ここまで夜が更けた時の学園は歩いたことが無かった。
いつもは詳らかにされている部分が、今は深夜の闇に隠されている。だが、思った以上に視界が利く。そこに疑問を抱いていると、
花帆「あ、見てさやかちゃん」
不意に、花帆さんの足が止まり空を指差す。つられるように空を仰ぐと、
さやか「あぁ……なるほど。だから深夜なのにこんなに明るい……」
そこには、夜天に輝く満月があった。月光は優しく地上に降り注ぎ、外の景色を朧に照らしている。
さやか「いい月が出ていますね花帆さん……。花帆さん?」
つい、満月に見惚れていると、傍らの彼女は空に手を伸ばしていた。月光を反射する彼女の人肌はやや青白く見え、僅かに伏せられた睫毛は儚げな印象を抱かせる。
さやか「どうしたんですか……? 月に手を伸ばして……」
戸惑いながらそう聞くと、花帆さんは伸ばした手を引っ込め、薄く口元を緩めた。
花帆「うぅん、何でもない」
さやか「何でもないって、そんなこと……」
花帆「……ね、さやかちゃん。今年の夏休みは凄く楽しかったよね」
さやか「え、藪から棒になんですか」
花帆「まあ、いいでしょ。ちょっと付き合ってよ」
花帆さんは再び歩み始める。背中に月影を背負いながら。
いつもは詳らかにされている部分が、今は深夜の闇に隠されている。だが、思った以上に視界が利く。そこに疑問を抱いていると、
花帆「あ、見てさやかちゃん」
不意に、花帆さんの足が止まり空を指差す。つられるように空を仰ぐと、
さやか「あぁ……なるほど。だから深夜なのにこんなに明るい……」
そこには、夜天に輝く満月があった。月光は優しく地上に降り注ぎ、外の景色を朧に照らしている。
さやか「いい月が出ていますね花帆さん……。花帆さん?」
つい、満月に見惚れていると、傍らの彼女は空に手を伸ばしていた。月光を反射する彼女の人肌はやや青白く見え、僅かに伏せられた睫毛は儚げな印象を抱かせる。
さやか「どうしたんですか……? 月に手を伸ばして……」
戸惑いながらそう聞くと、花帆さんは伸ばした手を引っ込め、薄く口元を緩めた。
花帆「うぅん、何でもない」
さやか「何でもないって、そんなこと……」
花帆「……ね、さやかちゃん。今年の夏休みは凄く楽しかったよね」
さやか「え、藪から棒になんですか」
花帆「まあ、いいでしょ。ちょっと付き合ってよ」
花帆さんは再び歩み始める。背中に月影を背負いながら。
12: 2023/09/01(金) 21:29:10.75 ID:TDHnTpDO.net
さやか「……えぇ。楽しかったです。FESライブだけじゃなくて、縁日に行ったり、海辺の別荘で合宿をしたり……」
さやか「とても、充実した夏だったと思います」
花帆「……そっか。充実した夏、だった、かぁ」
花帆さんの返答は、どこか含みのある感じだった。それを問い質そうとする前に、彼女が先に口火を切った。
花帆「あたしも同じ気持ちだよ。ライブは勿論楽しかったし、梢センパイと花火大会に行ったり、慈センパイとと~っても仲良くなれたり、本当に……色々あったね」
花帆さんはそう言って兎の髪飾りに触れた。その髪飾りは、縁日に由来する物らしい。
そう言えば、梢先輩は今夏、河童を探しに川へ出かけに行ったらしい。蓮ノ空の支柱的存在であるのと同時に、やや突飛な性格の人だと思う。
花帆「だから、さ……。この夏がもうすぐ終わっちゃうって考えたら、ちょっと寂しくて……」
花帆「ベッドの上で眠って、そして目覚めたら、これが全て夢なんじゃないかって。そう思ったら……寝られなくなっちゃったんだ」
さやか「花帆さん……。だからここ数日、寮を抜け出していたんですね」
花帆「うん。ごめんねさやかちゃん。あたし一人で過ごすには、ちょっとこの夜は長くて……。あはは」
さやか「とても、充実した夏だったと思います」
花帆「……そっか。充実した夏、だった、かぁ」
花帆さんの返答は、どこか含みのある感じだった。それを問い質そうとする前に、彼女が先に口火を切った。
花帆「あたしも同じ気持ちだよ。ライブは勿論楽しかったし、梢センパイと花火大会に行ったり、慈センパイとと~っても仲良くなれたり、本当に……色々あったね」
花帆さんはそう言って兎の髪飾りに触れた。その髪飾りは、縁日に由来する物らしい。
そう言えば、梢先輩は今夏、河童を探しに川へ出かけに行ったらしい。蓮ノ空の支柱的存在であるのと同時に、やや突飛な性格の人だと思う。
花帆「だから、さ……。この夏がもうすぐ終わっちゃうって考えたら、ちょっと寂しくて……」
花帆「ベッドの上で眠って、そして目覚めたら、これが全て夢なんじゃないかって。そう思ったら……寝られなくなっちゃったんだ」
さやか「花帆さん……。だからここ数日、寮を抜け出していたんですね」
花帆「うん。ごめんねさやかちゃん。あたし一人で過ごすには、ちょっとこの夜は長くて……。あはは」
13: 2023/09/01(金) 21:30:21.78 ID:TDHnTpDO.net
得心がいった。花帆さんに深夜徘徊の趣味があるとは思えなかったが、そういう動機なら理解できる。煌めく毎日を大切にし、思い入れのある過去に耽る彼女のことだ。過ぎ去る夏に切なさを覚えても不思議じゃない。
きっと、ここ数日寂し気な表情をしていた理由はそういうことなのだろう。
理解はできた。だが、納得はできない。花帆さんに暗い顔は似合わない。それならせめて。
さやか「……なら、仕方がないですね。今夜だけは、夏休みの最後だけは、付き合ってあげますよ」
一晩くらいは、無聊を慰める一助になってもいいだろう。
わたしの返答は予想外だったのか、花帆さんは目を見張った。だがすぐに口元に笑みを浮かべ始める。
花帆「ありがとっ、さやかちゃんっ」
さやか「ふふっ。いいんですよ。わたしも深夜の散歩は、ちょっとだけ楽しいと思い始めていますから」
花帆「そうなんだ。でも分かるよその気持ち。いつもの歩き慣れた道なのに、昼間とは全然印象が違うもんね」
さやか「はい。それに……」
花帆「それに?」
さやか「こうして人気のない道を二人だけで歩いていると、世界を二人占めしたような気分になれるじゃないですか」
きっと、ここ数日寂し気な表情をしていた理由はそういうことなのだろう。
理解はできた。だが、納得はできない。花帆さんに暗い顔は似合わない。それならせめて。
さやか「……なら、仕方がないですね。今夜だけは、夏休みの最後だけは、付き合ってあげますよ」
一晩くらいは、無聊を慰める一助になってもいいだろう。
わたしの返答は予想外だったのか、花帆さんは目を見張った。だがすぐに口元に笑みを浮かべ始める。
花帆「ありがとっ、さやかちゃんっ」
さやか「ふふっ。いいんですよ。わたしも深夜の散歩は、ちょっとだけ楽しいと思い始めていますから」
花帆「そうなんだ。でも分かるよその気持ち。いつもの歩き慣れた道なのに、昼間とは全然印象が違うもんね」
さやか「はい。それに……」
花帆「それに?」
さやか「こうして人気のない道を二人だけで歩いていると、世界を二人占めしたような気分になれるじゃないですか」
14: 2023/09/01(金) 21:31:33.02 ID:TDHnTpDO.net
花帆「……あはっ。さやかちゃん、意外と強欲だね」
さやか「そうですか? まあ、そうかもしれませんね」
花帆「うんうんっ。でもね、あたしには敵わないと思うよ」
さやか「へぇ……。花帆さんはもっと特別な欲望があるって言うんですか」
花帆「まあね」
ふんっと、鼻息を一つ。花帆さんは聞いて欲しそうに何度も目配せを始める。
さやか「……ちなみに、それは何なんですか」
わたしがそう聞くと、花帆さんは満足げに頬を緩ませ、先ほどの焼き直しのように夜天へと手を伸ばした。
花帆「──月にね、手を届かせたいの」
さやか「そうですか? まあ、そうかもしれませんね」
花帆「うんうんっ。でもね、あたしには敵わないと思うよ」
さやか「へぇ……。花帆さんはもっと特別な欲望があるって言うんですか」
花帆「まあね」
ふんっと、鼻息を一つ。花帆さんは聞いて欲しそうに何度も目配せを始める。
さやか「……ちなみに、それは何なんですか」
わたしがそう聞くと、花帆さんは満足げに頬を緩ませ、先ほどの焼き直しのように夜天へと手を伸ばした。
花帆「──月にね、手を届かせたいの」
15: 2023/09/01(金) 21:32:44.11 ID:TDHnTpDO.net
──
さやか「本当に、大丈夫なんですか、これ……」
金網に手を掛けながらそう呟く。
花帆「へーきへーき。ちょっと錆びてるけど、見た目よりも耐久すごいからっ」
さやか「その自信は一体どこから……」
花帆さんは慣れた手付きで金網を身軽に登っていく。わたしもアスリートの端くれ。彼女に遅れは取らない、と競争心が煽られつい熱が入る。
苦労して向こう側へと何とか辿り着く。花帆さん一押しの場所だというここは、
花帆「じゃ~んっ! 満月を映すプールですっ!!」
彼女はそう言って大きく腕を広げ、歓迎のポーズを取った。
そこは、蓮ノ空女学院の敷地内にある屋外プール。よく言えば伝統があって趣深い。悪く言えば年季を感じさせる見た目をしていた。
だが確かに、花帆さんが得意げに披露するように、深夜のプールは魅力的だった。夏風に揺蕩う水面には、綺麗な満月が映っていて、それはまるで、鏡湖池に映る逆さ金閣のようだった。
さやか「本当に、大丈夫なんですか、これ……」
金網に手を掛けながらそう呟く。
花帆「へーきへーき。ちょっと錆びてるけど、見た目よりも耐久すごいからっ」
さやか「その自信は一体どこから……」
花帆さんは慣れた手付きで金網を身軽に登っていく。わたしもアスリートの端くれ。彼女に遅れは取らない、と競争心が煽られつい熱が入る。
苦労して向こう側へと何とか辿り着く。花帆さん一押しの場所だというここは、
花帆「じゃ~んっ! 満月を映すプールですっ!!」
彼女はそう言って大きく腕を広げ、歓迎のポーズを取った。
そこは、蓮ノ空女学院の敷地内にある屋外プール。よく言えば伝統があって趣深い。悪く言えば年季を感じさせる見た目をしていた。
だが確かに、花帆さんが得意げに披露するように、深夜のプールは魅力的だった。夏風に揺蕩う水面には、綺麗な満月が映っていて、それはまるで、鏡湖池に映る逆さ金閣のようだった。
16: 2023/09/01(金) 21:33:55.41 ID:TDHnTpDO.net
花帆「さぁて、ちゃぷちゃぷ楽しも~っ!」
さやか「あ、花帆さんっ!」
快活に笑う彼女は、足早にプールに向かって走り出す。そのままプールの縁に腰掛け、一切の躊躇なく素足を水にさらした。
花帆「ほら。さやかちゃんも来なよ。気持ちいいよ」
さやか「……では、折角なので」
断る理由もないので、唯々諾々と従う。寮から無断外出した時点で規則を破っているので、今さらプールの無断使用など些末な問題だった。
深夜のプールは底の見えない暗晦であり、一度身を投じれば戻ってこられない危うさを感じた。だが、恐る恐る足を水面に沈めてしまえば、
さやか「はぁ……。登った後の体に沁みますね……」
金網登攀で火照った体によく沁みた。足湯の逆を今、体験しているのだろう。
心地よさに意識を遠くにやっていると、不意に横から手が伸びた。そちらに視線をやると、またしても花帆さんは月へと手を伸ばしていた。睫毛を軽く伏せ、儚げに微笑みながらも手を伸ばす様は、なぜか諦観を覚えた。
そんな表情を崩さないまま、花帆さんは口を開く。
さやか「あ、花帆さんっ!」
快活に笑う彼女は、足早にプールに向かって走り出す。そのままプールの縁に腰掛け、一切の躊躇なく素足を水にさらした。
花帆「ほら。さやかちゃんも来なよ。気持ちいいよ」
さやか「……では、折角なので」
断る理由もないので、唯々諾々と従う。寮から無断外出した時点で規則を破っているので、今さらプールの無断使用など些末な問題だった。
深夜のプールは底の見えない暗晦であり、一度身を投じれば戻ってこられない危うさを感じた。だが、恐る恐る足を水面に沈めてしまえば、
さやか「はぁ……。登った後の体に沁みますね……」
金網登攀で火照った体によく沁みた。足湯の逆を今、体験しているのだろう。
心地よさに意識を遠くにやっていると、不意に横から手が伸びた。そちらに視線をやると、またしても花帆さんは月へと手を伸ばしていた。睫毛を軽く伏せ、儚げに微笑みながらも手を伸ばす様は、なぜか諦観を覚えた。
そんな表情を崩さないまま、花帆さんは口を開く。
17: 2023/09/01(金) 21:35:06.94 ID:TDHnTpDO.net
花帆「……ねえ、さやかちゃんって小さい頃の夢はなんだった?」
さやか「夢、ですか……?」
夢。随分急な話だった。だが月に手を伸ばすその所作は、何か繋がっている気がした。
さやか「わたしは……そうですね。世界的なスケートの選手になること……いえ、姉のようなスケート選手になること、だったと思います」
花帆「そうなんだ。さやかちゃん、お姉さんのこと大好きだもんね」
さやか「……否定はしませんが」
花帆「あはは。ほっぺ、赤くなってるよ~」
手を伸ばした指をそのままに、頬を小突かれる。流石に黙っていられず口を尖らせた。
さやか「では、花帆さんは何なんです? さっきからしてるその動きと何か関係あるんですか?」
そう、迷いなく直截に聞くと、数拍の間があってから返答が来た。
花帆「あたし、かぐや姫に憧れてたの」
さやか「それは……また乙女チックな夢ですね」
かぐや姫。竹取物語における登場人物。そして、地球由来ではなく月出身という秘密を持つ人物だ。
さやか「夢、ですか……?」
夢。随分急な話だった。だが月に手を伸ばすその所作は、何か繋がっている気がした。
さやか「わたしは……そうですね。世界的なスケートの選手になること……いえ、姉のようなスケート選手になること、だったと思います」
花帆「そうなんだ。さやかちゃん、お姉さんのこと大好きだもんね」
さやか「……否定はしませんが」
花帆「あはは。ほっぺ、赤くなってるよ~」
手を伸ばした指をそのままに、頬を小突かれる。流石に黙っていられず口を尖らせた。
さやか「では、花帆さんは何なんです? さっきからしてるその動きと何か関係あるんですか?」
そう、迷いなく直截に聞くと、数拍の間があってから返答が来た。
花帆「あたし、かぐや姫に憧れてたの」
さやか「それは……また乙女チックな夢ですね」
かぐや姫。竹取物語における登場人物。そして、地球由来ではなく月出身という秘密を持つ人物だ。
18: 2023/09/01(金) 21:36:18.61 ID:TDHnTpDO.net
花帆「小さい頃は体が弱くてね、いっつも熱を出して咳をして、鼻水ばっかり出してたの。特に調子が悪い日なんかは、なかなか眠れなくてね、こんな長い夜を幾つも過ごしてたんだ」
花帆「孤独で不安で寂しくて。でもね、窓から見えるお月様だけは、あたしを優しく見守ってくれてたんだ。だからね、つい手を伸ばしちゃうの」
花帆「きっとあたしは月の住人だから、地球の大気が合わなくて風邪を引いちゃうんだって。そしていつか、お月様の使いがやってきて、かぐや姫みたいにここから連れ去ってくれるんだって。そう思ってた」
そう言い切った後、花帆さんは再び月へと手を伸ばす。わたしもつられて、空に悠然と佇む梔子色を仰いだ。
月には、人を惹きつける魔力がある。特に満月の日など、狼に変化してしまうほどホルモンバランスが崩れてしまうらしい。
さやか「……では、」
わたしは、空に浮かぶ月を睨む。
さやか「ではなぜ今も尚、月に手を伸ばし続けているんですか」
恨めしい。今の花帆さんを縛り続けるあなたが、狂おしいほど恨めしい。
さやか「自由に外を駆け回れないから、友人とまともに遊べないから、届かない月に憧れた。それは分かります」
体の弱かった頃の話なら、まだ許容できる。
さやか「でも、今のあなたは十全に体を動かせるじゃないですか。心臓を突き破りそうなくらい走っても、次の日には元気になってる。願いは叶い、月はもう必要無くなったんじゃないですか!?」
スクールアイドルクラブで邁進するあなたは、とても充実しているように見えた。毎日全力で力を振り絞り、努力で夢を悉く結実させているじゃないか。
そう、見えるのに。でも、未だ月に手を伸ばすということはつまり、そういうことじゃないか。
花帆「孤独で不安で寂しくて。でもね、窓から見えるお月様だけは、あたしを優しく見守ってくれてたんだ。だからね、つい手を伸ばしちゃうの」
花帆「きっとあたしは月の住人だから、地球の大気が合わなくて風邪を引いちゃうんだって。そしていつか、お月様の使いがやってきて、かぐや姫みたいにここから連れ去ってくれるんだって。そう思ってた」
そう言い切った後、花帆さんは再び月へと手を伸ばす。わたしもつられて、空に悠然と佇む梔子色を仰いだ。
月には、人を惹きつける魔力がある。特に満月の日など、狼に変化してしまうほどホルモンバランスが崩れてしまうらしい。
さやか「……では、」
わたしは、空に浮かぶ月を睨む。
さやか「ではなぜ今も尚、月に手を伸ばし続けているんですか」
恨めしい。今の花帆さんを縛り続けるあなたが、狂おしいほど恨めしい。
さやか「自由に外を駆け回れないから、友人とまともに遊べないから、届かない月に憧れた。それは分かります」
体の弱かった頃の話なら、まだ許容できる。
さやか「でも、今のあなたは十全に体を動かせるじゃないですか。心臓を突き破りそうなくらい走っても、次の日には元気になってる。願いは叶い、月はもう必要無くなったんじゃないですか!?」
スクールアイドルクラブで邁進するあなたは、とても充実しているように見えた。毎日全力で力を振り絞り、努力で夢を悉く結実させているじゃないか。
そう、見えるのに。でも、未だ月に手を伸ばすということはつまり、そういうことじゃないか。
19: 2023/09/01(金) 21:37:29.87 ID:TDHnTpDO.net
さやか「ここではっ、蓮ノ空ではっ、未だ不足だと言うんですかっ。わたし達では、役者不足なんですか!?」
その言葉を吐いて、呼吸を忘れていることに気付く。荒い息遣いになり、少しだけふらついた。
わたしの乱暴な物言いに対し、花帆さんはただ、微笑んでいた。
月光が容貌を青白く浮かび上がらせ、はにかむようにして笑う様は、率直に言って浮世離れしていた。月の魔力のような魅惑さ持つその表情に、地球の物ではない何かを感じた。
花帆「だからだよ、さやかちゃん」
さやか「だから……?」
分からない。花帆さんの言っている意味が分からなかった。
花帆「毎日、とっても楽しいんだ。そりゃあね、練習は辛くて時には弱音を吐いちゃうけど、その先には絶対楽しいことが待ってるから頑張れるの」
花帆「それに、あたしの周りにはあたしだけじゃない、さやかちゃん達がいる。こんな日々、幼い頃のあたしに言っても、信じないんだろうなぁ……」
花帆「だって、夢としか思えないもん。だから時々、不安になるの。夢なんじゃないかって、嘘なんじゃないかって」
そう言って、花帆さんはより高く月へと手を掲げ、それを思い切り握った。
その言葉を吐いて、呼吸を忘れていることに気付く。荒い息遣いになり、少しだけふらついた。
わたしの乱暴な物言いに対し、花帆さんはただ、微笑んでいた。
月光が容貌を青白く浮かび上がらせ、はにかむようにして笑う様は、率直に言って浮世離れしていた。月の魔力のような魅惑さ持つその表情に、地球の物ではない何かを感じた。
花帆「だからだよ、さやかちゃん」
さやか「だから……?」
分からない。花帆さんの言っている意味が分からなかった。
花帆「毎日、とっても楽しいんだ。そりゃあね、練習は辛くて時には弱音を吐いちゃうけど、その先には絶対楽しいことが待ってるから頑張れるの」
花帆「それに、あたしの周りにはあたしだけじゃない、さやかちゃん達がいる。こんな日々、幼い頃のあたしに言っても、信じないんだろうなぁ……」
花帆「だって、夢としか思えないもん。だから時々、不安になるの。夢なんじゃないかって、嘘なんじゃないかって」
そう言って、花帆さんはより高く月へと手を掲げ、それを思い切り握った。
20: 2023/09/01(金) 21:38:41.84 ID:TDHnTpDO.net
花帆「だから、あたしは月に手を伸ばすの」
花帆「だって、届かない物に届いてしまえば、それはもう現実じゃないでしょ?」
花帆「これはね、ここが現実だって思える確認なんだ」
そして、ぱっと開いた手の平の上には、何も握られていなかった。レゴリスも、デブリも、月の石も何も。そこには、何もない現実のみがあった。
花帆「……今はまだ、この日々が本当だって信じられない。幸せすぎて、それを肯定した瞬間、足元から崩れ落ちる気がして」
花帆「だからいつか、月に手が届いても夢じゃないって思えるくらい、花を咲かせるのが今のあたしの夢」
そう、花帆さんは言い切る。
対してわたしは、上手く言葉を紡げなかった。月の魔力がそうさせるのだろうか。彼女が眩しすぎて、真正面から直視することができない。だからわたしは、彼女の放つ閃光に目を焼かれないよう、軽く顔を伏せた。
もしかして、もしかして本当に花帆さんは……月の住人なのだろうか。
花帆「あはは……。ごめんね、あたしばっかり話しすぎちゃった。明日、って言うか今日は始業式だし、そろそろ戻ろっか」
苦悩するわたしを尻目に、花帆さんが矢庭に立ち上がる。だが、伏せた視界から彼女がぐらりと体勢を崩すのが分かった。
花帆「わわっ、立ち眩み、なんて……うわあっ!」
体が立て直し不可能なくらい傾き、プールへと誘われるように落下していく。
花帆「だって、届かない物に届いてしまえば、それはもう現実じゃないでしょ?」
花帆「これはね、ここが現実だって思える確認なんだ」
そして、ぱっと開いた手の平の上には、何も握られていなかった。レゴリスも、デブリも、月の石も何も。そこには、何もない現実のみがあった。
花帆「……今はまだ、この日々が本当だって信じられない。幸せすぎて、それを肯定した瞬間、足元から崩れ落ちる気がして」
花帆「だからいつか、月に手が届いても夢じゃないって思えるくらい、花を咲かせるのが今のあたしの夢」
そう、花帆さんは言い切る。
対してわたしは、上手く言葉を紡げなかった。月の魔力がそうさせるのだろうか。彼女が眩しすぎて、真正面から直視することができない。だからわたしは、彼女の放つ閃光に目を焼かれないよう、軽く顔を伏せた。
もしかして、もしかして本当に花帆さんは……月の住人なのだろうか。
花帆「あはは……。ごめんね、あたしばっかり話しすぎちゃった。明日、って言うか今日は始業式だし、そろそろ戻ろっか」
苦悩するわたしを尻目に、花帆さんが矢庭に立ち上がる。だが、伏せた視界から彼女がぐらりと体勢を崩すのが分かった。
花帆「わわっ、立ち眩み、なんて……うわあっ!」
体が立て直し不可能なくらい傾き、プールへと誘われるように落下していく。
21: 2023/09/01(金) 21:39:53.48 ID:TDHnTpDO.net
さやか「……っ!」
落下先は、月。水面に映る満月が、虚像であろうと飲み込まんばかりに輝いていた。
月が、花帆さんを手招きしている。わたしはその事実に、寒気がするほど鳥肌が立った。
月があなたを誘っていて、あなたも月に手を伸ばすのなら、繋がれる日はきっと遠くない。
それはなんだか、とっても怖いように思えた。だからわたしも、全力で手を伸ばす。
わたしにとっての月へと、千切れんばかりに手を伸ばす。
さやか「……掴んだっ」
そう叫んだ矢先、わたしもプールの中へと落下した。目の前が急に真っ暗闇に染まり、視力が利かない、ここが上下どちらなのかも分からない。でも、そんな中でも確かだったのは、繋いだ手から伝わる温もりだった。
ふと、地に足が着いた。それで上下の感覚を取り戻し、一気呵成に水面を目指した。
さやか「ぷはぁっ」
花帆「げほっ、げほっげほっ……」
水中から顔を出すと、まず目に入ったのは月だった。仰ぎ見るのがそれならば、未だわたし達は地球にいる。それを確認できた。
落下先は、月。水面に映る満月が、虚像であろうと飲み込まんばかりに輝いていた。
月が、花帆さんを手招きしている。わたしはその事実に、寒気がするほど鳥肌が立った。
月があなたを誘っていて、あなたも月に手を伸ばすのなら、繋がれる日はきっと遠くない。
それはなんだか、とっても怖いように思えた。だからわたしも、全力で手を伸ばす。
わたしにとっての月へと、千切れんばかりに手を伸ばす。
さやか「……掴んだっ」
そう叫んだ矢先、わたしもプールの中へと落下した。目の前が急に真っ暗闇に染まり、視力が利かない、ここが上下どちらなのかも分からない。でも、そんな中でも確かだったのは、繋いだ手から伝わる温もりだった。
ふと、地に足が着いた。それで上下の感覚を取り戻し、一気呵成に水面を目指した。
さやか「ぷはぁっ」
花帆「げほっ、げほっげほっ……」
水中から顔を出すと、まず目に入ったのは月だった。仰ぎ見るのがそれならば、未だわたし達は地球にいる。それを確認できた。
22: 2023/09/01(金) 21:41:04.79 ID:TDHnTpDO.net
次に、花帆さんを見た。彼女は多少肺に水が入ったらしく、少しだけ咳き込んでいた。
さやか「大丈夫ですか、花帆さん」
花帆「げほっ……。う、うん。ちょっと飲み込んじゃっただけだから。あはは……ドジだなぁ、あたし」
恥ずかしそうに後ろ頭を掻く花帆さんは、もう大丈夫そうに見えた。だから、彼女の両の手を握った。
花帆「さやかちゃん……? どうしたの?」
彼女は満月のように丸い瞳を、さらに丸くしていた。わたしは今の気持ちを、素直に言葉にすることにした。
瞼を閉じ、ひと際大きく息を吸って呼吸を整える。大丈夫だ、胸に浮かんだ言葉を、そのままに口にすればいいだけ。
わたしは真正面から花帆さんを見据え、徐に口を開いた。
さやか「いいですか、花帆さん。あなたを月になんて行かせません。たとえあなたがかぐや姫だろうと、餅を突く兎だろうと関係ありません」
さやか「花帆さん。あなたの居場所はここなんです。蓮ノ空なんです。上で偉そうにふんぞり返ってるだけの月になんて、あなたを絶対に渡しませんっ」
真剣な声音でそういうと、花帆さんは状況についていけていないようで、きょとんと口を半開きにしていた。
理解できないのなら、それでもいい。わたしはわたしの気持ちを、あなたにぶつけるだけだ。
さやか「大丈夫ですか、花帆さん」
花帆「げほっ……。う、うん。ちょっと飲み込んじゃっただけだから。あはは……ドジだなぁ、あたし」
恥ずかしそうに後ろ頭を掻く花帆さんは、もう大丈夫そうに見えた。だから、彼女の両の手を握った。
花帆「さやかちゃん……? どうしたの?」
彼女は満月のように丸い瞳を、さらに丸くしていた。わたしは今の気持ちを、素直に言葉にすることにした。
瞼を閉じ、ひと際大きく息を吸って呼吸を整える。大丈夫だ、胸に浮かんだ言葉を、そのままに口にすればいいだけ。
わたしは真正面から花帆さんを見据え、徐に口を開いた。
さやか「いいですか、花帆さん。あなたを月になんて行かせません。たとえあなたがかぐや姫だろうと、餅を突く兎だろうと関係ありません」
さやか「花帆さん。あなたの居場所はここなんです。蓮ノ空なんです。上で偉そうにふんぞり返ってるだけの月になんて、あなたを絶対に渡しませんっ」
真剣な声音でそういうと、花帆さんは状況についていけていないようで、きょとんと口を半開きにしていた。
理解できないのなら、それでもいい。わたしはわたしの気持ちを、あなたにぶつけるだけだ。
23: 2023/09/01(金) 21:42:15.86 ID:TDHnTpDO.net
さやか「でも、それでも、月への憧れをやめられないと言うのなら。わたしがあなたの月になります」
さやか「あなたの心を鷲掴みにして、一生離さない月になってやります」
握った両の手を、さらに力強く握る。水中で体温が失われる中、わたし達の手の中にだけは、確かな温もりがあった。
花帆さんは呆然と状況を見守った後、視線を握られた両の手に移した。それを数秒間凝視した後、再びわたしへと視線を戻した。
花帆「……あはっ。あははははっ」
すると、なぜか花帆さんは耐え切れないように笑いだした。まさかの反応に、困惑よりも苛立ちが勝った。
さやか「な、何ですか花帆さん。笑うなんて、それは少し酷くないですかっ」
花帆「ごめんっ、ごめんねさやかちゃんっ。でも、嬉しくて、嬉しくてついっ」
込み上げる笑いを抑えられない花帆さんは、瞼に涙さえ浮かべていた。確かに、少し芝居がかった言動かもしれないが、あれは紛れもない本音の言葉だった。
さやか「もうっ、花帆さんのことなんて知りませんっ」
花帆「ご、ご~め~ん~。許してよさやかちゃ~ん」
さやか「許しません。何度言われても、これだけは譲れませんっ」
手を離し、そのままそっぽを向いた。花帆さんにお灸を据えるいい機会だ。
花帆「あぁっ、さやかちゃんっ、さやかちゃ~んっ」
肩を激しく揺さぶられ、じゃぶじゃぶとプールに波が立つ。だが、わたしはその一切に反応を示さない。すると、やがて諦めたのか、抵抗が止んだ。その代わり、後頭部に優しく何かが当たった。
花帆「じゃあ、さ……このままでいいよ。だから、ちゃんと聞いてね、さやかちゃん」
右耳に囁くようにして言葉が送られる。何となく、むず痒い気持ちになった。
さやか「あなたの心を鷲掴みにして、一生離さない月になってやります」
握った両の手を、さらに力強く握る。水中で体温が失われる中、わたし達の手の中にだけは、確かな温もりがあった。
花帆さんは呆然と状況を見守った後、視線を握られた両の手に移した。それを数秒間凝視した後、再びわたしへと視線を戻した。
花帆「……あはっ。あははははっ」
すると、なぜか花帆さんは耐え切れないように笑いだした。まさかの反応に、困惑よりも苛立ちが勝った。
さやか「な、何ですか花帆さん。笑うなんて、それは少し酷くないですかっ」
花帆「ごめんっ、ごめんねさやかちゃんっ。でも、嬉しくて、嬉しくてついっ」
込み上げる笑いを抑えられない花帆さんは、瞼に涙さえ浮かべていた。確かに、少し芝居がかった言動かもしれないが、あれは紛れもない本音の言葉だった。
さやか「もうっ、花帆さんのことなんて知りませんっ」
花帆「ご、ご~め~ん~。許してよさやかちゃ~ん」
さやか「許しません。何度言われても、これだけは譲れませんっ」
手を離し、そのままそっぽを向いた。花帆さんにお灸を据えるいい機会だ。
花帆「あぁっ、さやかちゃんっ、さやかちゃ~んっ」
肩を激しく揺さぶられ、じゃぶじゃぶとプールに波が立つ。だが、わたしはその一切に反応を示さない。すると、やがて諦めたのか、抵抗が止んだ。その代わり、後頭部に優しく何かが当たった。
花帆「じゃあ、さ……このままでいいよ。だから、ちゃんと聞いてね、さやかちゃん」
右耳に囁くようにして言葉が送られる。何となく、むず痒い気持ちになった。
24: 2023/09/01(金) 21:43:27.59 ID:TDHnTpDO.net
花帆「さやかちゃんが自分の言葉をぶつけてくれたから、あたしも……それに応えなきゃフェアじゃないって思うし……」
花帆「で、でもね、あたしはちょっと……まださやかちゃんほど大胆になれないって言うか、ちょっと臆病だから……」
いつの間にか両の肩に手が置かれ、訥々と語られる言葉には熱い吐息が混じっていた。
花帆「だから、一回しか言わないから。ちゃんと、その……聞いてね」
一世一代の決心。そんな覚悟を感じたわたしは、
さやか「……はい」
短く一言、返答した。すると、両の肩がより引かれ、わたしと花帆さんはさらに密着した。そして、短く吸気の音がした後、
花帆「月が、綺麗だね」
その一言が耳朶を打った。
花帆「で、でもね、あたしはちょっと……まださやかちゃんほど大胆になれないって言うか、ちょっと臆病だから……」
いつの間にか両の肩に手が置かれ、訥々と語られる言葉には熱い吐息が混じっていた。
花帆「だから、一回しか言わないから。ちゃんと、その……聞いてね」
一世一代の決心。そんな覚悟を感じたわたしは、
さやか「……はい」
短く一言、返答した。すると、両の肩がより引かれ、わたしと花帆さんはさらに密着した。そして、短く吸気の音がした後、
花帆「月が、綺麗だね」
その一言が耳朶を打った。
25: 2023/09/01(金) 21:44:40.92 ID:TDHnTpDO.net
わたしは思わず花帆さんの方に向き直った。彼女の両の頬は月光に照らされて尚紅潮しており、恥ずかしそうにわたしに目線を合わせようとはしなかった。
そんな彼女の反応が愛おしくてつい、輪郭を撫でるように右頬へと手を当ててしまう。
花帆さんは肩をややビクつかせ、絶対に合わなかった視線が交差し始める。彼女のつぶらな瞳は、髪と同様に潤んでいるように見えた。
花帆「さやか、ちゃん……」
花帆さんはそれだけ呟くと、瞼を閉じて少しだけ顔を上げた。プールの中が寒いのだろうか、少しだけ彼女は震えていた。
そこに、先ほど感じたような浮世離れした印象はない。血色の通った、実に人間らしい表情、そして反応だ。
それなのになぜ、わたしは吸い寄せられるようにあなたに惹かれてしまうのだろう。
……そうか。あなたが月の住人なら、これはきっと万有引力というものだ。
月の住人が故郷に思いを馳せるように、わたしもあなたに惹かれてしまうのだろう。
そうして辿る結末は、導かれるように一つだけ。
先ほどまで聞こえていた、虫の鳴く声や木々のざわめきが一切聞こえなくなる。
聞こえたのはたった一音。深夜のプールに控えめに鳴った、小さな水音だけだった。
おわり
そんな彼女の反応が愛おしくてつい、輪郭を撫でるように右頬へと手を当ててしまう。
花帆さんは肩をややビクつかせ、絶対に合わなかった視線が交差し始める。彼女のつぶらな瞳は、髪と同様に潤んでいるように見えた。
花帆「さやか、ちゃん……」
花帆さんはそれだけ呟くと、瞼を閉じて少しだけ顔を上げた。プールの中が寒いのだろうか、少しだけ彼女は震えていた。
そこに、先ほど感じたような浮世離れした印象はない。血色の通った、実に人間らしい表情、そして反応だ。
それなのになぜ、わたしは吸い寄せられるようにあなたに惹かれてしまうのだろう。
……そうか。あなたが月の住人なら、これはきっと万有引力というものだ。
月の住人が故郷に思いを馳せるように、わたしもあなたに惹かれてしまうのだろう。
そうして辿る結末は、導かれるように一つだけ。
先ほどまで聞こえていた、虫の鳴く声や木々のざわめきが一切聞こえなくなる。
聞こえたのはたった一音。深夜のプールに控えめに鳴った、小さな水音だけだった。
おわり
30: 2023/09/01(金) 22:07:23.35 ID:9d0VPzWi.net
素敵なさやかほをありがとう
引用元: 花帆「かぐや姫に憧れて」
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