5: 2023/07/13(木) 19:50:14.02 ID:qMJ+1WDB.net
東京に住む津島善子が伊豆半島にある、その不気味な村の名前を初めて聞いたのは、職場を訪ねてきた園田海未と名乗る私立探偵からだった。

昭和二十七年の梅雨明けした初夏のことである。

海未「はい。その黒澤家から、あなたを探すよう依頼されてお伺いした次第で」

職場の応接間で善子と相対するよう腰かけた海未は、帽子をとるなりそういった。

善子「なによそれ。知らないわ、そんな気持ち悪い村の名前も、その――」

海未「黒澤家です」

善子「その黒澤家とかいうのも」

怪訝そうな表情を浮かべる善子をよそに、海未は話を続ける。

海未「その家の、あなたのご親族が身柄を引き取りたいとの要望なのです」

善子「なぜ今更……?いままで放っておいたのに」

海未「それは、私からは詳細をお伝え出来ませんので」

海未「私の知り合いの法律事務所に黒澤家の代理人弁護士を待たせておりますので、このあとご一緒にいきましょう」

海未「ここから近いので、ぜひ!」

善子「はぁ……」

この私立探偵の勢いに押され、渋々応じた。

7: 2023/07/13(木) 20:05:00.45 ID:qMJ+1WDB.net
海未「津島さん、こっちです!」

善子「ほら、とってきたわよ」

区役所を出た自分を迎えた海未に対し、ぶっきらぼうに言って封筒をつきつけた。
あのあと、半ば連れ出されるように職場を早退し、言われるがままに役所で戸籍抄本を取り寄せたのだった。

海未「では、いきましょう」

封筒片手に海未の横に並んで歩を進める。

海未「いやはや、お手数をおかけしまして恐縮です」

善子「本当よ。あとで発行手数料、払ってよね」

海未「それは弁護士のほうへ請求してください。穂むら饅頭の買いすぎで持ち合わせがないもので……ははは」

善子「はぁ……」

頭に手をやって、ばつが悪そうな表情の海未。善子はため息をついた。

初対面のときも感じたが、この私立探偵、変わった雰囲気を持っている。

特に服装だ。

艶ややかな黒髪の上から丸みがかった灰色のお釜帽子を被り、紺の紋なしの着物にゆったりとした袴姿。足元には不釣り合いな黒い米国製ブーツ。

清潔感こそあるものの、大正時代の女学生が写真から出てきたかのような姿は、進駐軍がもたらしたアメリカンファッションが流行の東京で一層、浮いている。

さすが大都会、変わった人間もいる。

横目で観察した善子がそう見定めていると、海未が声をかけてきた。

9: 2023/07/13(木) 20:22:11.03 ID:qMJ+1WDB.net
海未「失礼ですが、津島という名字はお母さまのですか?」

善子「違うわ。再婚した義理の父の名字よ」

海未「そうなんですか。では……義理のお父さまから、お母さまの過去をお尋ねになったりは?」

善子「聞いてみたけど、何も。仲は悪くなかったけど、母のことは一切、教えてくれなかった」

善子「結局、私が挺身隊で茨城の工場にいる間に大空襲で……最後まで」

海未「それは……お気の毒に……」

善子「いいの。肝心の母も私が六つのときに病気で氏んじゃったし、いまは自由なひとり身よ」

あっけらかんとした物言いの善子。母親との思い出がおぼろげなまま、男手ひとつで育てられ、戦争で天涯孤独になってしまったことにすっかり慣れたのだろう。

嘆くより、つとめて明るく振る舞っていかないと前に進めない。

七年前にすべてを失ったこの国の残された人々はこうして今を生きている。

それにしても、と話題を変えるように善子が話しかけてきた。

善子「――母があの村の出身で、私もそこで生まれたなんてね」

戸籍抄本が入った封筒に目をやる。生粋の東京育ちだと思い込んでいた自分が、まさか不気味な村で生を受け、しかも三歳まで住んでいたとは。

善子「……ねえ」

そこでハッと気づき、顔をあげる。

――今まで何の連絡を寄こしてこなかった親戚と名乗る者が、わざわざ探偵を雇って探し出した理由。

善子「もしかして、本当の父親が――」

海未「あーっ!着きましたよ、ここが小泉法律事務所です」

善子「ちょっと!ねえ!」

いきなり駆け出した海未のあとを急いで追いかける。

10: 2023/07/13(木) 20:41:40.62 ID:qMJ+1WDB.net
音ノ木坂の雑居ビル二階にある小泉法律事務所のドアを開け、ふたりは中に入った。

海未「花陽、津島善子さんをお連れしました」

そう声をかけると、事務机にうず高く積まれた法律書の山から眼鏡をかけたスーツ姿の女性がひょっこり現れた。

花陽「ありがとう、海未ちゃん」

花陽「初めまして、弁護士の小泉です」

小柄で胸の大きい弁護士が礼儀正しくぺこりと頭を垂れた。善子もつられて黙礼する。

花陽「それでは奥のほうへ。黒澤家の代理人がお待ちです」

海未「私はここで茶でも飲みながら待っています」

着物の懐から饅頭の包み紙を取り出す海未を置いて、花陽の案内で応接間へ。

ドアを開けてもらい、中に入ると、えんじ色の長い髪が特徴的な女性が革のソファに座っていた。

花陽「桜内弁護士、こちらが津島善子さんです」

こちらに気づき、顔を向けた彼女に花陽が紹介する。

彼女はすかさずソファから立ち上がり、一礼した。

梨子「初めまして津島さん。私が黒澤家代理人の桜内梨子です」

善子「あっ、よろしく……」

思わず見とれていた。唇が薄く、スマートな体躯、色白肌の美人。

片田舎の弁護士なんて、色黒骨太で土臭そうだと勝手に決めつけていた。が、いざ対面すると妖艶さ漂う都会的なその姿に驚いた。

花陽「それでは失礼します。ご用件が済みましたら、声かけをお願いします」

対面で席に着いたのを確認して、ドアを閉じた。

11: 2023/07/13(木) 20:59:50.53 ID:qMJ+1WDB.net
梨子「津島善子、昭和二年七月十三日生まれ。父は津島――」

梨子「――戸籍抄本、確かに確認しました。こちらはお返しします」

渡した証明書を淡々と読み上げたのち、こう唐突に切り出した。

梨子「いきなりでなんだけど、服を脱いでもらえる?」

善子「えっ!ここで?」

妙な要求に目を丸くした。そして徐々に不快感をむき出しにした表情に変わる。

善子「……悪いけど、そんなことさせるなら、帰る!」

乱暴に立ち上がり、低く怒気を含んだ声で拒絶の意を示す。

なぜなら善子にとって、人前で裸をさらすことは耐え難い屈辱だからだ。

物心ついたころからあるソレを他人に見られると、おぞましい怪物でも見たかのように目の色が変わるのを何度も経験してきた。

そのため幼少期から成人になった今でも、身体を人目にさらす行為は極力避け、着替えなどやむを得ないときは日陰者のように怯えながら行っていた。

母にそれが出来た訳を問いただすと、必ず泣き崩れてしまうので結局最後まで聞けずじまいだった。

その気苦労も知らず、赤の他人から尊厳を踏みにじる要求をされたことに到底、我慢ならなかったのだ。

憤激する善子をあわてて梨子が引きとめる。

梨子「待って!善子ちゃんの気持ちもわかっているつもりよ!」

善子「だったら――」

梨子「どうしても必要なの!それがあることで津島善子という、身分証明書よりも確実な証拠になるのよ!」

梨子「これは黒澤家からも確認するよう強く指示されていることなの、お願い!」

興奮のあまり肩で息をする善子に事情を説明した。

12: 2023/07/13(木) 21:13:55.89 ID:qMJ+1WDB.net
善子「あーもう、わかったわよ!」

善子「あんたが見たいのはこれでしょ!」

観念した様子でワンピースを脱いで下着姿になる。そして梨子に背を向け、ブラジャーのホックを外した。

梨子「――なんてむごい火傷の痕」

口に手をあて、ハッと息をのむ。

善子の背中には右の肩甲骨から、くびれた腰のあたりまで斜めに色白の皮膚をこそげ取ったかのように赤黒く伸びた傷痕があった。

かなり昔にできた傷のようで、周囲はケロイド状に盛り上がって割れ目のようになっていた。まるで何かが背中を突き破って出てきそうな禍々しさすらある。

梨子「でも、なかなか良い腰つきね。惚れ惚れしちゃうわ……」

優しく撫でまわしたい、と小さくつぶやいた。

善子「ねぇ……もういい?」

梨子「えっ?ええ、結構よ。ごめんなさいね」

羞恥のあまり顔を赤らめる善子の言葉で我に返り、服を着るよう促す。

善子「……で、私が津島善子だと分かったら何なのよ」

梨子「善子ちゃん、あなたは――」

次の言葉が平凡な運命を大きく変え、不気味な村でのおぞましい出来事の始まりになるとは思いもよらなかった。

14: 2023/07/13(木) 21:37:31.21 ID:qMJ+1WDB.net
梨子「あなたは、黒澤家先代当主の婚外子なの」

善子「は?こんがいし……?」

服を着る手が止まった。困惑しきった様子を気にせず、梨子は続ける。

梨子「端的に言えば、落としダネ。法律上、婚姻関係になかった男女間に生まれた子という意味よ」

梨子「善子ちゃんの血縁上の父親は黒澤輝石氏で、あなたの本当の名字は津島じゃなくて、黒澤」

善子「黒澤、善子……」

唐突に増えていく事実に理解が追いつかない。が、さらに追加されていく。

梨子「輝石さんの子はふたりいて、長女で現当主のダイヤ氏はご病気。次女で妹のルビィさんは虚弱で、どちらも子供がいない」

梨子「このままだと由緒ある家が絶えてしまうことを憂いたダイヤ氏と直系親族が、私にあなたの調査を依頼したの」

梨子「善子ちゃんの同意さえあれば、正統な黒澤家の次期当主としてお迎えにあがるそうよ」

梨子「――総資産三億円の相続権と共に、ね」

善子「さ、三億……!」

善子は絶句した。
毎月の給与が一万円ほどしかない善子が三億円を相続する。おそらく今思い描ける贅沢な生活をしたとしても、到底使い果たせない金額だ。

身体に刻み付けられた忌まわしい傷痕のせいで人目を忍んで過ごした子供時代。母と義父を失って、天涯孤独になってしまった不幸続きの人生。

そんな自分に亡き母が残した名家の血筋。

だが、手放しでは喜べない。梨子に気になることを尋ねてみた。

17: 2023/07/13(木) 22:01:58.72 ID:qMJ+1WDB.net
善子「ちょっと質問なんだけど……いい?」

梨子「ええ。どうぞ」

善子「私の父親というひとは今、生きてるの?それとも、亡くなっているの?」

梨子「亡くなっているといえば……そういうことになるのかな」

善子「そういうこと……?なんか引っかかるわね」

梨子「えっと……そのことについて、黒澤家のほうからお話があると思うけど」

梨子「あなたが三歳のころに亡くなった、ということで。今はこれくらいが言える範囲かな」

実に曖昧な答えに心をかき乱される善子。この様子では、彼女から満足のいく答えを得られないことを察した。

父のことは黒澤家の者に聞くとして、次の質問を投げる。

善子「わかった。それじゃ、母はなんで私を連れて村を出て行ったの?」

梨子「あなたのお父さんの氏と深い関係があった大きな出来事が原因なの」

善子「ええと、二十四年前ね。一体、何があったの……?」

すると突然、梨子の息遣いが荒くなった。徐々に額に脂汗が浮かび上がり、目を見開く。

その異常は善子の目にもはっきりと映った。

善子「ねぇ、どうし――」

梨子「ハァ、ハァ……そ、それは私の口からは、とても恐ろしくて言えな――」

苦しそうに声を絞り出すと、急にガックリと前のめりに。そして勢いよく上半身を机に倒し、大きな音を立てた。

20: 2023/07/13(木) 22:26:15.27 ID:qMJ+1WDB.net
善子「んなっ!ねえ、どうしたの!」

梨子「よし、こ、ちゃん……み、水を……」

立ち上がって介抱しようとする善子に梨子は水を求めた。

もとが色白肌とは思えないほど顔を紅潮させ、激しく肩を震わせて苦悶の表情を浮かべている。

ただならぬ様子に善子はうろたえた。

善子「わ、わかったわ!」

えんじ色の髪を振り乱して机の上で身をよじらせる梨子に言い、急いでコップに水を注ぎ、彼女の前に持ってきた時には。

すでに意識はなく、ピクピクと短い痙攣が起きたのち、そのまま動かなくなった。

善子「……ヒィッ!」

うつ伏せになっている梨子の顔を見て、叫び声をあげる。

彼女は両目が飛び出るのではないかというほど見開き、新鮮な空気を求めて裂けんばかりに口を開けた最期の表情をしていた。

ガシャン。

その表情に戦慄して力の抜けた手からコップが滑り落ち、床に叩きつけられて砕けた音が鳴る。

花陽「ピャアアア!」

物音を聞きつけ、部屋に入った花陽の悲鳴が響く。同時に海未もなだれ込んできた。

海未「動かないでくださいッ!花陽、救急車を!」

花陽が震える指で電話機のダイヤルを回しているなか、海未は冷静な様子で机に寄り、桜内梨子だった氏体を見分する。

外見から氏因をある程度見立てたのち、口と鼻にハンカチをあてて慎重に梨子の口元へ顔を近づけた。

そこから漂う臭いで、何が彼女を氏に追いやったのか断定した。

海未「ほのかに漂う青梅のような臭い……間違いなくシアン中毒です」

21: 2023/07/13(木) 22:27:42.80 ID:qMJ+1WDB.net
小泉法律事務所で起きた事件から三日後、善子は警察の取り調べからようやく解放された。

善子「はぁ……」

深いため息をつきながら、自宅のアパートの階段を上る。

善子「なにが、犯人はお前だにゃ、よ」

取り調べを担当した妙な口調の女刑事にまとわりつかれたことを思い出し、悪態をつく。

この事件で善子は真っ先に警察から嫌疑をかけられた。

最後まで被害者と二人っきりだったこと、善子と会う前に花陽と会話をしたときは何の異常も見られなかったこと。

そして、使用された毒物は即効性のあるシアン化物――青酸カリであるということ。

以上の点から、善子が故意に毒を盛ったと断定した。

花陽が、「出会ったばかりの人間を殺害する動機が善子ちゃんのどこにあるの!」、と精一杯の擁護をしたが、取り調べは三日三晩にわたって続いた。

その後、善子はあっさりと釈放されてしまう。

司法解剖の結果と、梨子の日常生活にまつわる証言が出たのが決め手だった。

25: 2023/07/13(木) 22:42:21.29 ID:qMJ+1WDB.net
解剖にて被害者の胃の内容物から、溶解しかけたカプセル剤が発見され、そこからゾウを一瞬で氏に追いやれるほどの青酸反応があった。

このカプセル剤は、雇い主の黒澤家と親しい村の医師が処方した精力剤だと警察は特定した。

そして、彼女と親しい九つ墓村の人間からの証言。

梨子は仕事柄、村と東京を行き来していた。そんな彼女は精力剤を携帯し、東京へ行く前に常に服用していたそうだ。

その理由は赤線で遊ぶためである。

その精力剤を入れた容器に、何者かが青酸入りカプセルを混ぜ、梨子自ら誤飲したことが氏因に直結したと結論づけた。

さらにカプセル剤は錠剤とは違い、溶解する時間が遅い。しかも青酸カリは苦く通常の方法では飲ませることの出来ない毒物。

いくら即効性の毒とはいえ、出会ったばかりの善子が梨子の生活習慣を熟知し、毒カプセルを飲ませた――という説明に無理が生じた。

こうして捜査の焦点が東京の善子から、九つ墓村へ移ったことで無事、釈放された。

善子「……とりあえず風呂に入って寝よ、うん」

疲れ切った身体でようやく階段を上り切り、二階にある自室のドアのカギを開けて中に入った。

26: 2023/07/13(木) 23:00:40.44 ID:qMJ+1WDB.net
ドアの中は四畳半の自分の城。

わずかな給与をやりくりして、昔から好きな西洋のまじない道具や雑貨を買い集め、部屋を彩っている。

善子「ん……?」

靴を脱ごうと玄関でかがんだとき、妙な封筒が落ちていることに気づいた。

善子「……手紙?」

善子「差出人がない……ドアの隙間から入れたの?」

拾い上げて観察した。差出人は無く、クロサワヨシコサマと宛名だけあった。

善子は首をひねる。
いつも郵便物は階下に住む大家の矢澤がすべて受け取って、あとで住人たちに配って回っているからこんな置き方はしない。

そもそも天涯孤独の善子にくる便りといえば、役所からの税金の督促状くらいなものだ。

とりあえず中身をみよう、と思い立って封を切る。中から折りたたまれた一枚の便せんを取り出し、広げて読む。

善子「……ヒィッ!」

小さな悲鳴をあげ、反射的に手紙を床に投げつける。内容があまりにも奇怪すぎて、体が拒絶反応を示した。

ポトリと落ちた便せんには、新聞紙の印字を一文字ずつ切り抜いて貼り付けた、大小さまざまな文字で構成された不気味な文章があった。

その内容はこうである。

27: 2023/07/13(木) 23:05:56.87 ID:qMJ+1WDB.net
九っ墓村にイツテはならヌ

ミゅウず様はぉイカりだ

ぉお、血!血!血だ!

おマぇが帰ッてくるト村にチの雨がフル

二十四年前のヨうに

28: 2023/07/13(木) 23:45:15.66 ID:qMJ+1WDB.net
海未「ううむ、なんとも奇妙な脅迫状ですね……」

翌日。朝一番で小泉法律事務所に駆け込んだ善子が手渡した怪文書をみて、海未は率直な感想を述べた。

飛び込むように現れた善子にひどく驚いた花陽は、朝食の山盛りの銀シャリを地面に落としてしまった。嘆き悲しむ暇もなく、急いで海未を電話で呼び出し、今に至る。

海未「――村に行くな、ミュウズ様が怒る、二十四年前の流血の惨事」

海未「おそらくこの手紙を書いた人間は村の出身者。しかも、善子のお母さまが出て行った年に何か大きな災いが起きたこと知っている」

海未「どうやら、あなたが村に帰るのを快く思わない者がいるようですね」

花陽「善子ちゃん、それでも村にいくの……?」

善子「これを見てから一晩中、考えてみたわ」

善子「どうして二十四年も私を放っておいたのか、母はどうして村を捨てたのか、そして本当の父親のこと――」

善子「――あの村にはすべての答えがある」

善子「知りたいの、私自身の隠された過去のことを」

善子「だから行くわ、あの村に」

そう言った彼女の目には、恐ろしい脅迫への不安と出生にまつわる過去を知りたい決意が入り交じっていた。

そんな彼女の旅立ちに少しの安息と力添えを与えたい、そう思った花陽は海未に目を向ける。

30: 2023/07/13(木) 23:57:26.32 ID:qMJ+1WDB.net
花陽「なんだか胸騒ぎがするの……海未ちゃん、調査をお願いできるかな?」

海未「わかりました。この事件、このままでは終わらない気がしますから」

善子「海未、いいの?」

海未「ええ。あまり頼りないかもですが、お力添えをば」

海未「ところで、費用は……」

花陽「私が持つよ」

それを聞いた海未の顔がパァッと明るくなり、安堵の表情を浮かべる。

海未「これはありがたい。まだ和菓子屋のツケが残っているものでして、ははは……」

善子「……本当に頼りになるの?」

花陽「一応、かな」

こっそり耳打ちした善子に苦笑した。

海未「……ゴホン」

海未「ところで、この文書……気になる単語があるのです」

海未「ミュウズ様、というのは何者でしょうか――」

「――それは村の神様だよ」

事務所に入ってきた何者かの明朗快活な声。突然の訪問者に驚いた一同は声のするほうへ振り向いた。

33: 2023/07/14(金) 08:13:18.62 ID:2rPboTPe.net
花陽「あ、曜さん!明日こちらに伺う予定だったのでは……?」

「驚いた?ごめんねー」

「はやく善子ちゃんを見たくて、急いで東京にきちゃったんだ!」

突然の訪問者は善子と海未のほうへ向き直り、これまた元気な声で自己紹介。

曜「初めまして!私は渡辺曜」

曜「上屋――黒澤本家とは親しくお付き合いしてる下屋、つまり分家の渡辺の者だよ。よろしくね」

花陽「曜さんは梨子さんの代わりに善子ちゃんをお迎えにいらしたの」

善子「あ、ど、どうも……津島善子で、す」

元気な彼女に慣れない敬語で挨拶した。

曜は黒澤の血を引いていて、善子にとって年上の従姉妹にあたる。
その外見は梨子とは対照的だった。

肩までかかるかどうかほどの短い髪に合わせた、短い袖のブラウス。やや膝上の長い脚を見せるようなスカート。そして空のような明るい色のスカーフを首に巻いていた。

男に負けない活発さを持つ美人、という印象を善子与えた。

曜「あははっ!そんなに堅苦しくしないでいいよ。親戚同士、曜って呼んでほしいな、善子ちゃん!」

善子「わ、わかったわ……曜さ、曜」

曜「上出来であります!」

不気味な村名の、閉鎖的な田舎から来た人間とは思えない爽やかな見た目と、明るく社交的な曜に終始たじたじの善子であった。

38: 2023/07/14(金) 20:51:47.80 ID:2rPboTPe.net
曜「で、そちらの古臭いかっこうのひとは誰?」

海未「ふっ、ふるくさ……!」

海未「……まあいいでしょう。園田海未、私立探偵です」

へえー探偵さんなんだ、と曜は言う。そして興味津々な目つきで海未を観察した。

海未「そ、そんなに珍しいですか……」

曜「うん!もっとシャーロックホームズみたいなカッコイイものだと思ってた」

海未「ははは……」

歯に衣着せぬ物言いの曜に、こちらもタジタジであった。

花陽「あ、そうだ。善子ちゃん」

花陽「曜さんは逮捕の知らせを聞いて、すぐに東京へ出向いて梨子さんのことを証言してくれたんだよ」

善子「曜、ありがとう」

いま自由の身でいられるのは、今まで一度も顔を合わせたことのない親戚のおかげ。

変な気分だが、曜に対して親近感がわいてきた。

曜「どういたしまして!力になってたら嬉しいな。警察もひどいねー、いまだに特高気取りって感じだもん」

善子「確かにそうね」

高圧的な態度をとる警察の連中を思い出し、曜に同調した。

そこに海未が質問をする。

40: 2023/07/14(金) 21:14:01.91 ID:2rPboTPe.net
海未「ところで、ちょっとお尋ねしたいのですが」

曜「うん、なんでもいいよ」

海未「ミュウズ、というのは村の神様だと、さっきおっしゃいましたね?」

曜「そうだよ。村の名前の由来になった神様で、小さいころから悪いことをするとミュウズ様が怒るぞ!」

曜「……って親からよく言われていたんだ」

こわーい神様なんだよ、と少しおどけた声でいった。

曜「で、そのミュウズ様がどうしたの?」

海未「それは……ちょっと調べ物をしていて、気になったので、ね?」

善子「そうなの!これから行く村のことを知っておこうと思って!」

海未の目配せに気づき、とっさに口裏を合わせた。

あの脅迫状を送ったのは村の関係者であることが濃厚な以上、この件は伏せておくべき。

そう直感した海未はごまかすことを選んだ。

幸運にも対面する直前、海未がとっさの機転で脅迫状を着物の懐にしまい込んだことが、彼女に疑念を持たせずに済んだ。

曜「……ふうん、そっか!」

詮索する目つきを瞬時に変え、笑顔で納得した。

ただ明るく奔放なように見えるが、相手の機微を瞬時に読み取ろうとする感覚が鋭い。

曜の表情変化を海未はそう評した。

41: 2023/07/14(金) 21:31:58.84 ID:2rPboTPe.net
曜「そうだ!せっかくだし、善子ちゃんの無罪放免の祝いに何か食べに行こうよ!」

曜「本家からお金はたくさんもらってるんだー」

ほらいこう、いこう。大都会に来てはしゃいでいる曜が食事に誘う。

善子は事務所にかかっている壁掛け時計を見た。

時刻はちょうど昼時、今日は朝起きてすぐ花陽のとこへ向かったから、何も食べていない。

善子「よかったら海未もどう?」

海未「では、ご相伴に預かります」

この渡辺曜という人物から村のことを聞き出すには良い機会かもしれない。

午後すぐに別の案件と、朝食時にひっくり返ってしまった白飯の供養で忙しい花陽をおいて、海未たちは外に出た。

42: 2023/07/14(金) 22:02:54.60 ID:2rPboTPe.net
曜につれられて入ったのは銀座のレストラン。

格式の高さにふたりが躊躇するなか、曜は近所の店を訪ねるかのような感覚で敷居をまたいだのには驚嘆した。

店内は黒を基調とした内装で、アンティークの照明、静かな店内に座り心地のいい椅子があった。戦前から営業していたこの店は、敗戦後も味にうるさい進駐軍将校たちが通い詰めた有名店だった。

東京育ちの海未と善子は評判こそ知っていたものの、代金が千円以上もするこの店に入ったことは一度もなかった。

都会人でさえめったに行けない店を知っている田舎娘。海未はその見立てに違和感が生じた。

曜「ここのハンバーグステーキが絶品なんだよ!食べてほしいなー」

ウェイターから渡されたメニュー表の横文字に目を回しているふたりに笑顔でいう。

善子「じゃあそれで……」

海未「私も。ところで渡辺さん、この店をよくご存じでしたね。東京にはよく行かれるのですか?」

曜「曜、でいいよ。さっすが探偵さん、よく見てるね」

曜「パパの会社が東京にあって、手伝うために村と往復してるんだ。ちなみにここはその時によく行くんだ」

詳しく聞くと、海運会社を経営している父親と出資者の黒澤家との連絡役をしていて、桜内弁護士とも親交があったとのこと。

曜「やっぱり東京はいいね、開放的で!あの村はジメっとしてて、何もないところだし……」

曜「それに名前が名前だからねー、人が寄り付かないんだ」

眉尻を下げる曜。そこで善子は村のことで最も気になることを尋ねた。

43: 2023/07/14(金) 22:14:51.14 ID:2rPboTPe.net
善子「ねえ、なんで村の名前が九つ墓村って不気味な名前なの?ミュウズとかいう神が由来らしいけど」

その瞬間、曜の顔つきが変わった。

いつもの明るい表情は一切なく、真剣な視線をふたりに注ぐ。

曜「たしかに、不気味だよね……」

曜「でもそれには大きな理由があるの。聞きたい?」

善子「ええ」

海未「ぜひとも」

わかった、と曜はうなずいた。

曜「――九つ墓村。この名前は戦国時代から始まった黒い因縁、ううん、呪いみたいなものが発端なの」

曜「それは民主主義、人権平等が叫ばれる今でも村の奥深くに根付いているんだ――」

まるで子供に昔話でもするかのような落ち着いた口調で、静かに語り始めた。

44: 2023/07/15(土) 05:44:15.25 ID:steSt3hT.net
今から数百年前――関白の豊臣秀吉が関東の大名、北条氏を討伐するために大軍で小田原城を包囲したときのこと。

豊臣軍の圧力に屈し、小田原城が開城した騒ぎに乗じて、北条に仕えていた音ノ木の姫とお供の八人が城を脱出。

追手を逃れるため、険しい山を越えて苦難の果てに海沿いに面した小さな集落だったこの村にたどり着いた。

彼女たちは山側の洞窟に住み着き、山林を切り開いて自給自足の暮らしを始めた。

彼女たちは畑を耕し、夜は焚き火を囲んで歌や舞で日中の労をねぎらうのんびりとした日々。

最初は粗暴な落ち武者ではないか、と恐れていた村人たちだった。

だが、何もしてこないとわかると次第に心を開き、海産物や野菜を差し出しては歌や舞を楽しむ交流が始まった。

しかし、それはつかの間のこと。

ついに村のほうへ豊臣軍の詮議の手が伸び、首を差し出して報奨金を受け取る事と匿って村全滅するかの選択を村人たちは迫られた。

そんなとき村中に流れた、九人が持ち出した北条氏の黄金をここに隠しているという噂を信じた当時の村の長、黒澤石蔵は決断した。

45: 2023/07/15(土) 06:00:20.87 ID:steSt3hT.net
石蔵ら村人は九人を誘い、浜で歓迎の宴席を設けた。

そこで彼女たちにふるまう料理に毒を盛り、痺れて動けなくなったときを見計らい、一斉に竹槍や農具で襲い掛かった。

襲撃は残虐を極めた。

いちはやく毒に気づいた女医は真っ先に槍で串刺し。無数の鎌や銛で突かれ続け、人の原形をとどめていない者。複数人に手足を押さえられ、生きたまま首を切断された者もいた。

こうして、痺れつつも姫を守ろうとした従者たちはひとり、またひとりと村人によって倒された。

卑劣な手段で大切な仲間を無残に殺された姫の恨みはすさまじいもので。

「――みんな許さない。祟ってやるッ!絶対に祟ってやるんだから」

斬られた足を引きずりながら最期にそう叫んだのち、村人たちがうち振るう無数の刃によってこと切れた。

石蔵が首を確保したとき、浜は九人の血で赤黒く染め上がって数日は漁が出来なかったらしい。

九つの首は、すべてカッと目を見開き歯を食いしばった憎悪に満ちた表情で、見た者たちを戦慄せしめたそうだ。

こうして九人の首を豊臣軍に差し出して、黒澤家は報奨金で潤ったとさ。

めでたし。めでたし。

――とは終わらなかった。

46: 2023/07/15(土) 06:17:01.72 ID:steSt3hT.net
すぐに村人総出で北条家の黄金探しが始まった。

我先に黄金を見つけようと村人たちは山の土を掘り起こし、森を切り開き、暗い洞窟を真昼のように照らした。

そんな欲深い探索者たちに、奇怪な出来事が次々と起こった。

手当たり次第に山の斜面を掘っていた者は、土砂崩れで生き埋めに。

森を切り倒した者は、倒れてきた大木に押し潰され。

複雑に入り組んだ洞窟の中を探し回った者は、足を滑らせて崖下の鋭利な鍾乳石の先端に落ちて串刺しに。

このような事故が連続し、犠牲者が相次いだ。

一向に見つからない黄金、増える犠牲者。

そして村を震撼させる大事件が起きた。

襲撃の首謀者、黒澤石蔵が未明に突如として錯乱。刀を振り回し、家族と奉公人を殺害したのち、その刀で自ら首を切断するという常軌を逸した最期を迎えた。

この事件の犠牲者は石蔵を含め、六人。そこに黄金探索の犠牲者三人を足すと、一連の氏者は九人。

「――これは九人の祟りじゃ」

誰かが発したその一言は、瞬く間に村中に伝染した。無論、根拠のないことだが、自分たちの犯した罪の深さに今さら恐れをなしたのだった。

呪いや怨念というものは、それ自体を意識し始めたとき、はじめて大きな効力を与える。

暗雲のごとく村人たちの胸中に漂っていた恐怖はこの一件で厄災として具現化し、九人の祟りとしてこの地に黒い根を下ろした。

47: 2023/07/15(土) 06:24:58.71 ID:steSt3hT.net
祟りを恐れた村人たちはすぐに行動を起こす。

それまで浜に打ち捨てられ、海砂にまみれ虫と蟹にたかられていた九人の遺体を丁寧に葬り、墓石と祠を建て、荒魂の神として供養した。

その九つの墓標と九つ明神と命名された鎮魂の祠は、村を見下ろせる山肌に今でもある。

こうして村は、九つ墓村と呼ばれるようになった。

では、なぜ今では神の名が明神ではなくミュウズ様と呼ばれているのか。

それは村を訪れた宣教師が九つ明神の伝承を聞き、九人の歌う女神たちを示すラテン語のムーサと名付けたことが村に広まり、転じてミュウズ様と呼ばれるようになって定着し、今に至る。

――以上がふたりに曜が語った、九つ墓村の由来とミュウズ様の祟りの全貌だった。

48: 2023/07/15(土) 06:38:44.48 ID:steSt3hT.net
曜「……と、まあこんな話。あれ、どうしたの?」

遠い昔話を終えた曜は、きょとんとした様子でふたりの顔を覗き込む。

善子「……」 

海未「……」

曜「もうっ、迷信だよ迷信!よくある田舎のこわーい民話だよ」

善子「そ、そうよね」

まるで自分に言い聞かせるようにうなずく。

遠い西洋の怪談や悪魔の物語は娯楽として楽しめるが、地に足のついたジットリと嫌な汗が出る日本のそういうものは苦手だった。

曜「さあ、食べちゃおうっか!」

少し重たい空気がテーブルに漂っていたが、ちょうどウェイターが運んできたのを幸いと曜が促す。

その後、一転して楽しい雰囲気で食事を楽しんだ。

店を出たあと、父親の会社を訪ねるという曜と別れ、海未と善子ふたりきりになって家路につく。

49: 2023/07/15(土) 06:49:06.14 ID:steSt3hT.net
善子「三日後、曜の案内で村に行くわ」

海未「私も同行いたします」

帰って荷造りしなきゃ、という善子に海未は念を押すようにこう言った。

海未「今後、あの村で多くのことを得られることでしょう。もし、重大な情報があったら私にお伝えください」

海未「――隠していては、守れるものも守れなくなりますので」

善子「!」

真剣な海未の言葉にどきりとする。曜との出会いと生まれた村に行くことの気持ちの高ぶりから、すっかり忘却の彼方へ押しやっていた。

善子「脅迫してきたのは村の者、ということよね」

海未「はい。くれぐれもご用心を。犯人の計画はすでに動き出していますから」

海未「ああ、これはお返しします」

懐から例の脅迫状を取り出して渡す。正直、気持ち悪くて受け取りたくはなかったが、渋々と受け取った。

海未「……では」

帽子のふちをつまんで挨拶する海未と別れた。

54: 2023/07/15(土) 18:38:23.97 ID:steSt3hT.net
それから三日間はあっという間であった。

久しぶりの東京に心躍らせる曜に連れられ、劇場や映画、食事と買い物に付き合わされた。

曜「せっかくの東京だもん、楽しまなきゃ!」

曜「あ、これ千歌ちゃんに似合うかな?」

善子「まぁ……いいんじゃない?」

曜「もうっ、適当なんだから……」

頬をふくらませる。そりゃ、荷物持ちに聞かれても。

曜に振り回された東京見物のなかで、特に善子が困惑したのは、様々な職業の制服好きな彼女と共に東京中の百貨店にいるエレベーターガールの見物だった。

曜「トサカみたいな髪型の、声が素敵なお姉さんがいるこのデパートが最高なんだよ!制服がとっても良くってさぁ!」

善子「そう……」

目を輝かせて何度もエレベーターに乗る曜にげんなりした。

一方、海未から警告されて用心していたものの、奇怪な脅迫状が届いたきり何も起きなかった。

こうして善子は出発の日を迎えた。

55: 2023/07/15(土) 19:41:24.25 ID:steSt3hT.net
朝の東京駅に花陽が見送りに来てくれた。

二十四年ぶりの村入りということで、曜が見立てた一張羅を着た。
イタリア製のジャケットにタイトスカート、素敵な帽子で都会人の風格を全面に押し出す、らしい。

ちなみに曜は、青空のような青色に白のドット柄のトップスにフレアスカート、白い手袋という夏らしさを前面に出した格好だった。

一方、合流した海未はいつもの恰好だった。もしかして、それしか着るものがないのだろうか。

海未「なんで私だけ二等客車……」

花陽「海未ちゃん、なにかな?」

海未「いえ……なんでも……」

にっこり微笑む雇い主に頭が上がらない。

善子「お気の毒ね……」

曜「じゃあ、いこっか!」

別の客車に乗る海未と別れ、トランク片手に乗り込む。

タラップに足をかけた善子はふと、背後を振り返った。 

三つのときに村をでて、ずっと過ごしてきたこの街を離れる。

なんだかとても名残惜しく、こみ上げるものがあった。

善子「――さよなら」

津島の名字を授けてくれた義父と東京にしばしの別れを告げ、出発の警笛が鳴ったのに合わせて乗り込んだ。

60: 2023/07/16(日) 06:52:33.62 ID:DYkhCKBT.net
黒鉄の汽車は白い蒸気を噴き、もうもうと黒い煙を吐き出しながら東京を発った。

行先は静岡県は伊豆半島。その付け根にある大きな港町の、九つ墓村から最も近い駅である。

快適な一等客車で善子と曜は対面で腰掛けていた。

車窓から見る景色はコンクリートのビル群から、煙突だらけの街、そして雄大な相模湾へと移っていく。

曜「駅に着いたあと、さらに村まで三時間くらいかかるんだ」

善子「遠いわね」

曜「うん、歩きだからね。頑張るであります!」

はあっ、と思わず声が出た善子。そんな長時間も歩いたことなんてない。

とんでもない田舎に来てしまった、若干の後悔が湧き上がる。

その狼狽ぶりをみた曜が小さく笑った。

曜「冗談だよ、冗談!バスもあるし、今回は車を用意してるから心配しないで」

善子「もう!からかわないでよ!」

曜「あははっ!ごめんごめん」

曜「あ、探偵さんは本当に歩くのかもよ?」

善子「確か花陽が手配した村の旅館の女中が駅に迎えにきて、その案内でバスに乗るそうよ」

曜「そっか、十千万の」

善子「十千万?」

曜「村唯一の旅館だよ、温泉がわいてて、いい宿なんだ」

曜「あと、そこの女中がとっても可愛くて大好きなんだぁ!」

善子「そ、そうなの……」

曜「そうなの!」

気迫に善子はたじろぐ。どうやら意中の人がいるようだ。

それからお互いの身の上話に花が咲いた。

62: 2023/07/16(日) 09:36:27.78 ID:DYkhCKBT.net
曜は水泳が大の得意。

海軍兵学校で成績上位だったうえ、昭和十五年九月に開催されるはずだった東京オリンピックの水泳競技に出る予定だったという。

どおりで、善子は曜の引き締まった腰と太ももを見つめ、納得した。

戦後、軍が解体されたのち村に帰ってきた。村で日々を過ごしながら社長令嬢として父の代理で交渉事を行っているそうだ。

曜「パパの仕事を手伝いながら、村で絶賛くすぶっているのであります!」

敬礼のポーズをとっておどける。明るく振舞っているものの、曜の性分には合わない生活だろうと善子は思った。

さらに聞けば、曜のように本家の支援のもとで生活している分家の者がいるそうだ。

善子「ねえ、曜……」

曜「ん?」

善子「そのなかで、私が家を継ぐことをよく思わない人間っている?」

曜「そ、それは……いないんじゃないかな」

質問に驚いて青い目を泳がせ、視線を下に向けた。

善子「答えて」

曜「うう……」

善子の射すような視線を受けて、目を伏せていた曜は意を決して顔をあげる。

曜「……鹿角の聖良さんかも。いや、でもそんな」

善子「曜、教えて」

その鹿角聖良という人物について、さらに聞き出す。

63: 2023/07/16(日) 09:48:29.72 ID:DYkhCKBT.net
――鹿角聖良。分家にあたる鹿角家の人間で、善子にとって従姉妹にあたる人物。

戦前は樺太で事業をやっていたが、ソ連軍侵攻により引き揚げて無一文となって、いまでは本家に居候の身で村のはずれに家を構えている。

ひとり妹がおり、函館の身内に預けているそうだ。

日中は農家の真似事をしながら過ごし、夜は何をしているのかわからないが出歩いているらしい。

曜の話によれば、ある理由で当主のダイヤや本家の者から好かれておらず、今回の善子の相続に対して良い思いをしていないと噂があるそうだ。

本家から嫌われている理由は、父親同士の確執である。

ダイヤの父で先代当主の黒澤輝石には、北海道の鹿角家に養子に出した弟がいた。

この弟は大変聡明かつ健康で、周囲から兄より優れていると周囲の評判だった。

その娘、鹿角聖良も文武両道の才色兼備。

本家の者たちはさぞ、嫉妬しただろう。

現当主のダイヤがそのまま病没した場合、実妹のルビィはとある事情により相続ができないため、彼女が本家相続の筆頭候補に躍り出る。

――兄より優れた弟などいない。

古い慣習、血縁と長子相続を守る田舎において聖良の存在は大変不都合。

伝統ある黒澤の財産を是が非でも鹿角家に渡したくないダイヤとその親族が、父の婚外子である善子を探偵を雇ってまで探し出した理由がそこにあった。

64: 2023/07/16(日) 11:02:12.49 ID:vFaTC8k7.net
善子「なるほどね……」

慎重に言葉を選んで話し終えた曜にいう。その声には納得と呆れの感情が入り混じっていた。

二十四年も放っておいて今さら呼び寄せたのは、憎き弟の血を引くものに莫大な財産を渡したくないためか。

わざわざ無一文の身に堕ちた聖良を引き取ったうえで、目の前で自分を後継指名する。これほど気持ちの良い意趣返しはそうそうないはずだ。

名にたがわず黒い家である。

ああ、そうか。自分は知らぬ間に三億円をめぐる田舎の資産家一族の暗闘に巻き込まれていたのだ。

黒い渦の中心で、あわれにもクルクルと回るだけの落ち葉のように。

ふと、善子はあの脅迫状を思い出す。

彼女には少なくとも自分を恨む理由があるわけだ。目の前で梨子を悶絶氏させ、怪文書で脅してきた犯人かもしれない。

――鹿角聖良、用心しなくては。

まだ見ぬ相手との対峙に備え、気を引き締めた。

65: 2023/07/16(日) 11:59:52.95 ID:vFaTC8k7.net
汽車はようやく駅に着き、曜との快適な列車旅は終わった。時刻は午後四時ごろのことだった。

海未「いたた……座り心地はいまいちでしたよ」

腰をさすりながらホームに降り立った海未と共に改札を出た。

大きな平たい駅舎を出ると目の前に広がるタクシー乗り場。曜の話によれば、来年に新しい駅舎の建設が始まるそうだ。

伊豆半島の付け根にあるこの街は、戦後の復興を終えて新しい都市へと変貌しようとしていた。

曜「東京の百貨店が沼津にできるといいなー」

善子「曜のことだから、エレベーターガールの制服見たさに毎日通いそうね」

駅前で建設中の大きなビルを見上げる曜に善子はいう。

「あ、よーちゃんだ!おーい」

誰かが声をかけ、こちらに駆け寄ってきた。

曜「千歌ちゃん!やっぱりここに来てたんだ。お仕事?」

千歌「うん!東京からのお客さんを待っているのだ」

曜に千歌と呼ばれた若い娘は元気よく答える。親しげな会話から同い年のようだが、童顔と白い襟が引き立てるミカン色のワンピース姿が快活な年下娘という印象を与えた。

そして胸は海未と善子に比べ、豊満であった。

66: 2023/07/16(日) 13:04:51.41 ID:vFaTC8k7.net
曜「千歌ちゃん!そのお客さんだよー」

千歌「ようこそお越しくださいました!十千万で女中をしてます、高海千歌です」

曜に紹介された海未の前に、トテトテと歩み寄って一礼した。海未は帽子をとって黙礼で返す。

田舎の旅館の女中にしては、ずいぶん良い恰好である。安月給で買える服ではない。

海未「ずいぶんとおしゃれな女中ですね」

曜「十千万、家族で経営しているんだ。千歌ちゃんは一番下の娘なの」

海未「なるほど。お嬢さんでしたか」

曜の説明で納得した。

曜「あ、千歌ちゃん!これ、東京のお土産」

千歌「わーい!よーちゃんありがとー!」

百貨店で買った服が詰まっている紙袋をもらった千歌は、嬉しそうにくるくる舞う。それを見た曜は微笑んでいた。

なるほど、そういうことか。海未は察する。

千歌「東京どうだったー?」

曜「とっても良かった!素敵な制服がいっぱいで――」

千歌「へえ!もっと聞かせて聞かせて!」

曜「うん!」

善子と海未そっちのけで東京の土産話で盛り上がる田舎娘ふたりに面食らった。

68: 2023/07/17(月) 05:54:08.10 ID:Q5Hp5gY3.net
海未「何か手掛かりになるようなものはありましたか?」

善子「あったわ。黒澤家には――」

曜から車中で聞いたすべてを話す。

懐から取り出した手帳を開き、手掛かりとなる文言を口で反芻させつつ万年筆を走らせて書き留めていく。

その真剣な様子に、やはり探偵なのだと善子は思った。

海未「ふむ……鹿角と本家の対立ですか。実に興味深い」

善子「海未、その聖良が犯人だと思う?」

海未「いいえ、決めつけるには早すぎます。よしんば彼女だとしても、それに足る情報と動機が少ないです」

海未「まずは現地で調査をせねば」

善子「そうね。まだ始まったばかりだもの」

閉じた手帳を懐にしまう海未。

ようやくあのふたりの会話が終わったので、密談を終わらせた。

69: 2023/07/17(月) 06:25:20.57 ID:Q5Hp5gY3.net
海未たちと別れ、善子は曜が手配した黒澤家の車に乗る。

駅前に停まった運転手つきのアメリカ製の黒い自家用車を見て、自分の収入で何年分だろうと思わず胸算用してしまった。

曜は千歌と海未も同乗するよう誘ったが、女将の姉から駄賃をもらっているからと千歌が固辞。

結局、海未たちはバスで向かう事になった。


善子「――きれいね、海」

海岸線に沿って走る車。その後部座席の窓を開けた善子は、感嘆の声を漏らす。

喧噪の市街地を過ぎ、山道を通ってトンネルを抜けると、一気に紺碧の駿河湾が広がった。

美しい水平線の先には、うっすら青みがかった富士山も見えた。

開いた窓から吹き込む海風が前髪をなでる。なんとも心地よい。

この景勝地の先に、あの不気味な村があるということさえ忘れてしまう。

曜「でしょー!海のきれいさでは東京に絶対負けないもんね」

曜「あ、あの大きな岩をぐるりと回って、少し行くと村が見えてくるよ」

指をさしていう。もうすぐね、といって善子は車窓の景色から正面に視線を戻す。

曜「――ねえ、善子ちゃん」

曜「村に着く前にひとつ言っておきたいことがあるの」

善子「えっ?」

真剣な口調に気づき、曜の顔に目をやる。彼女はまっすぐこちらを見つめ、訓示をあたえる教官のような顔つきだった。

70: 2023/07/17(月) 06:34:56.11 ID:Q5Hp5gY3.net
曜「善子ちゃんのお父さんのことで村の人が何か言ってくるかもしれないけど、ただの迷信にかこつけてるだけだから、気にしないでね」

いいね、とさらに念を押す。

善子「……二十四年前のことね。一体、何があったの?」

すると曜は申し訳なさそうな声で。

曜「そのことについて下屋、つまり渡辺の家が口にすることは許されてないんだ……」

曜「ダイヤ様かルビィ様に直接、尋ねてほしい」

また秘密――本当、この村は秘密が好きなのね。

うつむきがちにいう曜を見て、善子は眉尻を下げた。

ふたりを乗せた車は、ちょうど海岸にせり出している岩を迂回。その大きな岩を背にしたとき、村の全景が視界に入ってきた。

曜「ほら、あれが九つ墓村だよ」

指をさす曜につづいて、目を向けた。

71: 2023/07/17(月) 06:38:13.10 ID:Q5Hp5gY3.net
善子「不気味な名前にしては普通の村ね……」

声を漏らした。

九つ墓村は三方を山、残り一方をふたつの岬の狭間に広がる三日月型の湾岸に囲まれた人口数百の小さな村である。

人家は田畑をはさみつつ、ゆるやかにくだる山裾から小さな漁港がある海まで所々に点在していた。

曜「山のふもとにひときわ大きな屋敷があるでしょ?あれが黒澤家。村では上屋と呼ばれてるよ」

説明に従い、善子は車窓から巨大な邸宅を目で追う。

上屋の黒澤家は、白壁に囲まれた大きな瓦葺きの母屋と離れに土蔵が三つもあり、華族の屋敷といっても遜色ない立派な佇まいであった。

――あれが私の生まれた家。

善子は目を見張った。ひとりで慎ましく暮らしていた四畳半とは別世界だ。

曜「そしてあれが、私のおうち。下屋であります!」

善子「山側が黒澤の上屋で、海側が渡辺の下屋なのね」

小さな漁港の周囲に点在した藁葺き民家のなかに、黒漆に塗られた大きな門が特徴の屋敷があった。黒澤家ほど大きくはないが周囲とは段違いの佇まいである。

曜「うん!小さいけど上屋よりこっちが古くて、元々はそこが黒澤家だったんだ」

善子「えっ、そうなの?」

村と黒澤家について善子に説明する。

72: 2023/07/17(月) 07:03:39.88 ID:Q5Hp5gY3.net
曜「昔から黒澤家は網元として下屋に住んでいて、漁業が村の産業ったの。網元っていうのは、船や漁具を漁師に貸し出して、漁獲高から一定の割合の代金をとって財を成した漁民のことだよ」

曜「農業でいうなら、大地主だね」

曜「私たち渡辺の家は代々、漁師の家系で、大昔に黒澤家と婚を通じて分家になったんだ」

曜「黒澤家は積極的に自分たちの子を他家に送って、血縁関係を結んで一族として囲い込んだの」

曜「一時期は沼津の主な豪商たちも一族だったらしいよ」

善子「まるでハプスブルク家ね」

曜「はぷ……?」

善子「なんでもない、続けて」

曜「江戸時代からはミカン栽培に手を出して、山を切り開いてミカンを小作人に作らせて莫大な利益を得たんだ。今ではすっかり漁業より村の産業になってるよ」

村に目を向けると、黒澤家の屋敷の上にある山の斜面に、手入れの行き届いた果樹園が見える。そこでミカンを育てているようだ。

実はもちろん、その皮も漢方薬として需要があるミカン。黒澤家にとってまさに緑のダイヤモンドだったであろう。

曜「黒澤家はミカンの利益であの屋敷、上屋を建てて下屋から移り住んだの。ちなみに村人からはミカン御殿とも呼ばれてるんだ」

曜「あのGHQの農地改革で多くの地主が没落していったけど、山の果樹園は対象外だった。おかげで今も黒澤家は伊豆で絶大な影響力を保ってるよ」

古代魚が陸へあがり巨大トカゲとなったように、黒澤家も小さな網元から多角経営の資本家へと進化した。そして大きな力をいまだに残しているのだ。

曜「さ、もう村に入るよ!」

黒澤の歴史の授業を終え、善子たちを乗せた車は集落へ入っていった。

73: 2023/07/17(月) 07:59:52.98 ID:Q5Hp5gY3.net
集落に入ってすぐに気づいた。

走る車に気付いて日常を止めた村人たちから自分へ注がれる視線、視線、視線。

どれもすべて歓迎とは程遠い、冷たい抗議の意思を車窓越しでもうっすら感じとれた。

善子「村の人がこっちをジッとみてるわ……」

曜「車が珍しいんだよ。乗ったことないひとが多いからねー」

善子「なんだかにらみつけてるような感じなんだけど」

曜「……もう少しで上屋だよ、ほら!」

フロントガラスに映る、近づいてきた屋敷を指さす。側面の窓から善子の視線をそらすかのように。

促されて前をみたそのとき、車の前に女が勢いよく飛び出してきた。

吃驚した運転手がブレーキを強く踏む。ブレーキパッドの悲鳴と共に、車は大きく前のめりになったあと急停車。

運よく女には接触しなかったが、車内の善子にとっては突然の不運到来であった。

善子「いたた……おでこぶつけた……」

曜「ちょっと!どうしたのッ!」

額をおさえて痛みをこらえる善子のそばで、曜が怒気を含んだ声で運転手にいう。

いつき「曜お嬢様、大食いの尼です……」

運転手は大変恐縮しきった様子で声を絞り出す。

善子は片手で額を押さえつつ、車の前に立ちはだかった女を見た。

74: 2023/07/17(月) 08:14:47.54 ID:Q5Hp5gY3.net
その茶色の長髪の女――大食いの尼とやらは、おおよそ尼と呼べるような外見ではなかった。

背丈は小さく、ぼさぼさの髪、ぎょろりと見開いた黄色の瞳は怪しく輝きを放っている。

尼は元の色が何かわからないほど黄ばんだボロボロの着物を身にまとい、そこから伸びる貧相な足は擦り切れた草鞋を履いていた。

まるで妖怪か駅前の浮浪者だ、善子は外見からそう思った。

大食いの尼「来るな!帰れ!帰れッ!ミュウズ様はお怒りずら!」

ぶんぶん拳を振ってそう叫び、車の前で地団駄を踏む。そのたびに大きなふたつが激しく揺れる。

大食いの尼「お前が来ると村に血の雨が降る!氏人が出るぞ!」

大食いの尼「ミュウズ様は九つの生贄を求めている。あの桜内は一番目ずら!」

大食いの尼「それから二つ、三つ……九つの氏人が出るまで終わらない!」

大食いの尼「祟りずら、祟りずらーッ!」

車の前でひたすら金切り声をあげている様子は、まさに気違いという他ない。

曜「……出して」

いつき「は、はい!」

眉間にしわを寄せ、怪訝な表情を浮かべた曜が語気を強めて運転手にいう。すぐに応じ、アクセルペダルを強く踏みしめた。

エンジンの咆哮と共に、車は勢いよく発進。驚いて飛びのいた尼は、地べたに大きな尻もちをついた。

大食いの尼「ぎゃーッ!まずはオラを血祭りにあげる気か!」

大食いの尼「おのれ、おのれ、父親のように災いを起こすのかーッ!」

どんどん遠くなっていく車に向かって、尼はひたすら叫び続けていた。


これが、善子が九つ墓村で初めて受けた歓迎であった。

79: 2023/07/17(月) 19:48:48.80 ID:Q5Hp5gY3.net
曜「ごめんね、善子ちゃん。気にしないでね」

善子「大丈夫よ……で、あのひとは?」

曜「あれは大食いの尼。ちょっと頭が変なの」

曜「本名は花丸といって、二十四年前に祖母を亡くしてから尼になったんだけど……」

曜「つい先月、ミュウズ様の祠に雷が落ちたのを見てから、あんなことを口走るようになったんだ」

詳しく聞くと、梅雨のある日に激しい雷雨があり、近くに住んでいる花丸がその瞬間を目撃したらしい。

それで元々の空想癖と祟り伝説が結びついた結果。村中をうろついては、祟りずら、祟りずら、と叫んでいるそうだ。

曜「みんなもあきれ果てて、気違い尼だの大食いババアとか陰で嘲笑してるの」

善子「そうなの……」

頭の中で尼の口走った言葉が引っかかっていた。

――あの文言、脅迫状の内容とほとんど同じだ。

しかし、花丸では毒カプセルを用いて梨子を殺害するという、高度で手間のかかる犯行はまずできないだろう。

第一、顧問弁護士と尼では接点がなさすぎる。

あの身なりからして、東京へ行く財力もないだろう。

おそらく、犯人はあの尼の口走る妄言をヒントに脅迫状を作ったに違いない。

――確実に、この村の中に犯人がいる。

そう考えると、善子の胸中に重く暗いものがのしかかった。

81: 2023/07/17(月) 20:02:12.27 ID:Q5Hp5gY3.net
車は黒澤邸の前に着き、すぐ降りた運転手が後部ドアを開けた。

二十四年ぶりの村の土を踏む善子。

善子「近づくと、さらに大きいわね……」

壮大な門構えに圧倒されていると、視界の端に人の姿を見とめた。

それは燃えるような赤い髪、明るい緑の瞳をもつ小柄な女性であった。その人物と目が合う。

「……ッ、ピギッ!」

目を合わせた瞬間、小動物めいた小さな悲鳴をあげ、パタパタとあわただしく門柱の隅に隠れてしまった。

善子「あの子は――」

曜「当主ダイヤ様の実妹、ルビィ様だよ。お迎えに来てくれたんだね」

善子「当主の妹……」

曜「ルビィ様、善子さんをお連れしましたよー!」

元気よく門柱のほうへ声をかけた。

すると、子犬のごとくおっかなびっくりの様子で、門柱からゆっくり姿を現した。

82: 2023/07/17(月) 20:17:54.46 ID:Q5Hp5gY3.net
――黒澤ルビィは旧家の娘らしく、上品で華やかな友禅織の着物を着ていた。

髪をふたつにまとめた、小柄だが清潔感のある色白肌の美人であった。

年齢は善子より少し上で姉にあたるはずだが、顔つきと挙動に幼さがあった。ゆえに一見、少女と見間違えてしまう。

運転手に荷物を預け、曜と共に石段を上がって門前のルビィのもとへ。

これが善子にとって異母姉との初対面であった。

ルビィ「ぅゅ……善子ちゃん……?」

善子「津島――黒澤善子です」

自己紹介ののち、深々と姉に頭をさげる。

この家の敷居をまたぐ以上、黒澤の人間として生きていかなければならない。

前の名字は伏せることにした。

83: 2023/07/17(月) 21:24:20.52 ID:Q5Hp5gY3.net
ルビィ「さあ、どうぞ中へ。よく来てくれました」

ルビィ「あっ、下屋の曜ちゃんも一緒に……」

曜「ありがとう!ご一緒させてもらうね」

先ほどまでの怯えきった様子から一転、親しみを込めた優しい口調で善子を迎え、玄関へ案内する。

ルビイの穏やかな態度に村で歓迎を受けていた善子は、いくらか張りつめていた神経がほぐれた。

ルビイ「曜ちゃん、よかったら夕食も一緒にどうかな」

曜「いいの?やった」

ルビィ「今日は良い金目鯛が手に入ったんだぁ」

善子「へぇ」

雑談しながら玄関に入ったとき、古い日本家屋特有の冷たい空気が吹き込むのを感じた。

ちょうどそこに女中がやってくる。

よしみ「ルビィ様、果南様が離れにてお待ちです」

ルビィ「うん、わかったぁ」

靴を脱いであがり、よしみという女中とルビィのあとをついて、曜と並んで十間はあろうかという長い廊下を歩いていく。

時刻はすでに夕刻となっており、廊下の脇にある庭園に斜陽が差し込んでいた。

曜「どうかな?善子ちゃんの印象は」

ルビィ「ぅゅ……立派に成長したなぁって……」

少し口ごもったあと頬を赤く染めて答えた。どうやら恥ずかしがり屋のようで、あまり話すのが上手ではないらしい。

84: 2023/07/17(月) 21:31:11.85 ID:Q5Hp5gY3.net
外から見る黒澤家は大きなものだが、中に入るとひときわ大きく感じた。離れにつながるこの長い廊下を歩いていると、京都の由緒ある寺にいるような錯覚に陥るほどだ。

善子「本当、広いわね……」

ルビィ「む、昔ね……沼津藩の殿様がお泊まりになるってことで屋敷と離れを大きくしたんだぁ」

善子「へぇ……」

曜「ところで、大伯母様が離れになんて珍しいねー」

ルビィ「うん。善子ちゃんをお迎えするなら、そっちのほうがいいって言うもんだから……」

廊下が終わると少しあがって、ふすまの前に立つ。案内の女中が膝をついて、中にいる人物へ声をかけた。

よしみ「――果南様、善子様をお連れしました」

85: 2023/07/17(月) 21:34:34.29 ID:Q5Hp5gY3.net
「――んっ、入っていいよ」

女中がゆっくりとふすまを開け、善子たちは座敷に入る。そこには、十二畳ふた間つづきの広い座敷があった。

その床の間を背に、黒澤家の当主に次ぐ権力者、果南様がいた。

もう八十以上は年齢を重ねているのではないだろうか。すっかり白くなった髪を後ろに束ね、小さく背を丸めてえんじ色の座布団に座り、着物の上に紋付を羽織っていた。

年齢の割に顔のシワが少なく、色つやが良い肌。まだ瑞々しい唇と化粧をしていない肌の様子から、昔は相当な美人だったのだろう。

この家の者は大伯母と呼んでいるので、父方の祖父の姉妹にあたる人物らしい。

果南「よく来たね。そこに座って、座って」

まだ歯があるのか、老女特有のすぼめた口ではなく、発音もはっきりしている。

黒澤家の長老に促された善子は、果南と対面するように正座した。

87: 2023/07/17(月) 21:54:06.92 ID:Q5Hp5gY3.net
果南の横にルビィと曜が横並びで座った。

曜「大伯母様、東京から善子さんをお連れしました。善子ちゃん、こちらが果南様」

いままで気さくな態度をとっていた曜でさえ、彼女の前では正座をして丁寧な口調で話すほどの人物。

善子は思わず背筋が伸びる。

果南「ああ、これが――」

果南「それにしても、よく似てるね。目元、口元、そのはっきりとした鼻筋……」

果南「頭の団子まで……まさにあの娘の子供だねぇ」

なめるように善子を観察したあと、関心した様子でそう言った。そのとき、書院から夕陽が差し込んで顔の半分が影になっていた。

素直に喜ぶべきか、そもそも誉め言葉なのか。よくわからない善子は黙ったままうなずく。

果南「あなたはこの離れで生まれたんだよ、この座敷で。あれから二十四年たったけど、あの時のままにしてあるんだ」

果南「善子、今日からここが家になるから。好きに使っていいよ」

再びうなずく善子。ちょうどそこに曜が口をはさんだ。

91: 2023/07/18(火) 07:24:31.75 ID:gFTUUFjd.net
曜「大伯母様、ダイヤさんはどちらに……?」

果南「今日は調子がかなり悪いんだ。引き合わせるのは明日にしようと思う、もう来年は厳しいかなん」

曜「病状、そんなに悪いんですか」

果南「まあね。鞠莉はまだ大丈夫とか言ってるけど、引き伸ばすだけ無駄だよ、そろそろ……」

善子「あ、あの、ご病気はなんですか?」

ようやく口を開くことができた。

果南「腫瘍だよ、肺の。沼津の大病院も、隣村の疎開医の西木野もさじを投げてる」

果南「だから善子、当主としてしっかりしないといけないよ。そうじゃなきゃ、この家は潰れてしまうんだから」

果南「ま、もう大丈夫だね。こんな壮健な娘が継いでくれるんだから、心残りはもうないよ。今頃どこかの誰かさんがホゾを嚙んでるだろうね……アハハ!」

薄暗い夕暮れの広い座敷で老女が高笑いしたとき、善子は背筋がぞくりとした。その声の中には今までの穏やかさとは打って変わって、仄暗い何かが垣間見えたからだ。

ルビィ「……」

こうして善子は伊豆半島の不気味な村の、古い伝説と因縁にとらわれた旧家に身を置くことになったのである。

94: 2023/07/18(火) 22:07:46.50 ID:gFTUUFjd.net
翌朝、目が覚めて布団から出てた善子。

その時ちょうどルビィが雨戸を開けにやってきた。

ルビィ「おはよう、善子ちゃん」

善子「おはようございます……えっと、ルビィ姉さん」

ルビィ「ルビィ、でいいよ。善子ちゃんは当主になるんだから、そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」

昨日の口ごもっていた様子とは違い、妹を気遣うかのような穏やかな態度。人見知りこそあれ、心を開いたら案外気さくな性格なのかもしれない。

今日のルビィは先日のような華やかな着物ではなく、普段着らしい洋服を着ている。

ルビィ「昨晩はよく眠れた?」

善子「あまり……」

目をこすりながら答える。昨晩はなかなか寝付けなかった。

今まで過ごした四畳半のアパートと違い、十二畳のしん、とした座敷。あまりに広く、よしみが敷いた布団に入ったとき心細さを感じた。

古い日本家屋特有の畳と木の匂いと、山からはフクロウなのかミミズクなのか、それとも獣なのかわからない鳴き声が聞こえてくる。

そんな暗く慣れない場所で、今まで起きたことを走馬灯のように思い出して善子は目がさえてしまった。

青酸カリで悶絶氏した梨子、奇怪な脅迫状、村人の視線、花丸という尼が口走った言葉、果南の思惑、そして村に根を下ろすミュウズの祟り。

それらが大きな黒いモヤとなって、座敷の隅から形となって自分に忍び寄ってくるような錯覚があり、不安と怖さのあまり布団の中に顔をうずめてようやく寝落ちできた。


こうして善子は朝を迎えたのである。

95: 2023/07/18(火) 22:22:30.47 ID:gFTUUFjd.net
洗顔と朝食をとって、いつものシニヨンヘアを入浴後に結った。そしてルビィの手を借りて着る服を選んでもらう。

東京にいたとき曜が、田舎者に舐められない貫禄を、と気合の入ったものを複数買ってくれていた。

ルビィ「今日は親戚とお姉ちゃんに会ってもらうから、とびきりのにしなくっちゃね!」

善子「親戚って、いっぱいいる?」

ルビィ「うん、たくさんいるよ。でも、今回は最も親しい親戚だけだよぉ」

これなんてどう、といって善子に試着を促す。服を受け取って、ふすまの奥で着替えながらルビィに尋ねる。

善子「――鹿角の聖良さんも、来る?」

ルビィ「うん……あれ?善子ちゃん、聖良さんにあったことあるの?」

善子「あ、いや、曜から聞いたのよ……」

着替えながらごまかす。ふすまの向こうから、そうなんだ、と声がした。

96: 2023/07/18(火) 22:32:48.72 ID:gFTUUFjd.net
善子「――どう?」

着替えを終え、ふすまを勢いよく開け放ち、ルビィの前で着こなしを披露する。


有名なイギリスの映画女優をイメージした黒いブラウスに、自慢のくびれを美しく引き立たせるために腰元には白い革ベルト。

スカートはゆったりしたAラインで夏場も快適に過ごせるものを選んだ。

そして義父から買ってもらったブレスレットをはめた腕を伸ばし、人差し指と中指でピースサインをつくり、目元にもってきて格好よくポーズを決めた。


ルビィ「わあ、とっても美人さんだね!素敵だよぉ!」

善子「あ、ありがとう……」

目を輝かせるルビィの前で、褒められることに慣れていない善子は赤面してしまった。

97: 2023/07/18(火) 22:40:14.29 ID:gFTUUFjd.net
善子「……ねぇルビィ」

ルビィ「なぁに?」

善子「――聖良さんって、最近どこか遠くに出かけたりしてない?」

善子「たとえば、東京とか」

ダイヤと親戚が待つ母屋へと長い廊下を移動する最中、聖良の素行について詮索してみる。

ルビィはうーん、と考え込むような声を出したのち。

ルビィ「確か、東京へ遊びに行った妹の理亞ちゃんに会いに行くって、一日くらい留守にしてたらしいよ」

ルビィ「その翌日、遅くに帰ってきたんだったかなぁ」

善子「え?」

心がざわつき、思わず歩みが止まりそうになる。が、何とか踏み出してルビィに悟られないように取り繕った。

詳しく日程を聞けば、なんと自分が梨子の件で警察の取り調べを受けていた日ではないか。

妹に会う理由は方便で、脅迫状を自宅に投函できた可能性も否定できなくなってきた。

善子のなかで、ますます聖良への疑惑が深まっていく。

98: 2023/07/18(火) 22:46:51.18 ID:gFTUUFjd.net
ルビィ「お姉ちゃんはね、いつも聖良さんが上屋に来ると機嫌が悪くなるんだけど……」

ルビィ「今日は善子ちゃんのことで使いを出して、わざわざ来てもらったんだぁ」

善子「そ、そうなのね……」

生返事で返す。きっと果南あたりが、自分が帰ってきたことをいち早く披露したくて手配したのだろう。

それが善子自身への好意であればありがたかったのだが――おそらく、いや、確実にある人物への当てつけが含まれているのは想像に難くなかった。

ずしりと心の中に重たいものを抱えつつ、ルビィのあとをついていく。


ルビィ「――お姉ちゃん、善子さんをお連れしました」

ふたりは母屋の奥、廊下と座敷を仕切る障子の前に立つ。

ついに、黒澤家の一族と対面のときがきた。

102: 2023/07/19(水) 06:54:38.75 ID:1aYB/trY.net
ルビィの姉、黒澤ダイヤが寝ているのは、母屋の裏にある座敷だった。庭にはアジサイが青い花を立派に咲かせている。

生命力あふれる庭とは対象的に、ルビィが開けた障子の奥では氏期が迫っている黒澤家当主が床にふせっていた。

この敷居はこの世とあの世の境目、此岸と彼岸のようだと善子は思った。

その当主の横には、血縁上もっとも近い親戚と思しき数名が連なって座っている。

ルビィ「善子ちゃん、どうぞ」

敷居をまたいで座敷に入ると、気付いた姉はゆっくりと布団から上体を起こす。寝ぼけまなこを善子へ向ける。

目が合った瞬間、一気に覚醒するかのようにパッチリと開き、にやりと謎めいた微笑みを浮かべた。

ダイヤは病人特有の白装束で、艶やかな黒髪とは対照的に顔色は青白く目元が落ちくぼんでいた。氏につきまとわれて、すっかりやつれている。

果南「善子、そこに座って。皆が待ってるよ」

その枕元には果南が座っていた。指で指示されるまま、親戚一同の視線を浴びながら対面の席につく。

果南「ダイヤ、これが妹の善子だよ。善子、これがあなたの姉、ダイヤ」

善子「……」

無言のまま小さく頭を下げた。その様子をダイヤはじっくり見つめたのち、痰がからんでいるようなかすれた声でいった。


ダイヤ「二十四年ぶりですね……あの母親に似て、美人ですことッ――」

ダイヤ「ゴホッ、ゴホッ……!」


それきり激しく咳き込んだ。その間にヒイヒイと喘ぐ姉の痛ましい姿に、善子は顔を上げることができず、正座したまま畳を見つめることしかできなかった。

103: 2023/07/19(水) 08:00:36.79 ID:1aYB/trY.net
ダイヤ「ハァ、ハァ……お父様は頭がダメでしたが、わたくしは胸がダメになったのですよ」

ようやく咳が収まったダイヤは、恨みがましいように善子にいう。

あまり膨らんでない胸に手をやって、自身を落ち着かせたのち、親戚たちのほうへ目をやる。

ダイヤ「聖良さん、どうです。こんな美人な妹が後継ぎとして帰ってきてくれて、すっかり安心なさったでしょう?」

ダイヤ「これでようやく晴れてあの世へ行けるってものですわ。鞠莉さん、あなたも喜んでくださいな……あはははっ、ゲホッ……!」

笑った拍子に、再び激しく咳き込んだ。

ダイヤ「ハァ、ハァ……せっかくだから善子さん、ここにいる親戚を引き合わせておきますわ」

肩で息を切らしたのち、横の親戚たちを紹介する。

ダイヤ「すぐそばにいるのは、わたくしの従姉妹、小原の鞠莉さん。善子さんのおばになる、この村の唯一の医者ですわ。病気になったら、そこは親戚なので利用してやってくださいな」

善子「……善子、です」

鞠莉「チャオ、よろしくね!」

たどたどしい敬語で挨拶して頭をさげると、欧米人風の整った顔立ちをした金髪の女性が気さくに返す。

どうやら、ダイヤの主治医らしいが、一見すると資産家令嬢のような派手なドレスを着こんでいる。

善子には、彼女が白衣を着て治療をしている姿がどうにも想像できなかった。

ダイヤ「善子さん、めずらしいでしょう。鞠莉さんは一族で唯一、メリケンとのアイノコなんですよ」

ダイヤ「しかも村の医者でありながら、県議会議員に立候補したくてしょうがない目立ちたがりな従姉妹ですわ」

鞠莉「……」

言葉の端にトゲを感じたのは善子だけではなかったようだ。

107: 2023/07/19(水) 19:38:49.29 ID:1aYB/trY.net
ダイヤ「そしてその隣が、鹿角の聖良さんですわ」

聖良「鹿角です、よろしくお願いいたします」

丁寧に三つ指をついて、聖良は頭をさげた。

ダイヤ「善子さんの従姉妹ですわ。樺太から引き揚げて文無しになって、村に流れ着いたのですが――」

ダイヤ「そこは親戚同士、仲良くしてやってくださいな」

善子「……はい」

その次は東京から来た渡辺家の当主で、曜の父親だった。娘さんに大変お世話になりました、と礼を述べると嬉しそうな顔を浮かべていた。

ダイヤ「そして最後に妹のルビィです。男を怖がってろくに夜伽もできず、嫁ぎ先を叩き出されて出戻りの身なのですわ」

ルビィ「ぅゅ……」

ダイヤ「妹がそんな身の上でこの家を継げば、伊豆で最も大きな黒澤家の威信は地に落ちます」

ダイヤ「ですから善子さん。今日から屋敷の瓦一枚から、山のミカンひとつまで……すべてあなたのものになります。この黒澤の財産、狙ってくる連中にとられないよう、当主の務めをしっかり果たしてくださいな――」

ダイヤ「特に鞠莉さんと聖良さんには……ゴホッ、ゴホッ!」

ふたりを露骨に名指ししたとき、再び激しく咳き込むダイヤ。

彼女の親戚に対する言動には、咳と共に吐き出す瘴気のような毒々しさが垣間見えた。

どうして親戚なのに財産ひとつでこうも憎みあうのだろうか。天涯孤独だった善子は、血縁に縛られた田舎の旧家というものの難しさを感じた。

それにしても、ダイヤの咳は全然収まらなかった。息を吸っては、激しく吐き出す音がむなしく座敷に響くのみである。

しかし、そんな当主を介抱しようとするものは誰もいなかった。

108: 2023/07/19(水) 19:47:33.83 ID:1aYB/trY.net
最もそばにいる果南は、正面の善子へ目を向けているだけでそばのダイヤには目もくれていなかった。それはすでに現当主の将来を諦めきっている姿なのだろうか。

小原鞠莉は目を細めたまま、動かない。台詞をつけるなら、そらみたことか、と言っているようだった。

従姉妹の鹿角聖良――彼女には人一倍注目していた。だが、親戚のなかでもっとも顔色が読めない人物であった。

ダイヤにも劣らない見事な黒髪を横に束ねた、たれ目で鼻筋の通った美人なのだが、顔つきとは裏腹に上下ともくたびれたカーキ色の復員服を着ていた。服装からして、この一族での立場を表している。

彼女の挙動を善子はじっくり観察していた。ときどき横目でちらりとダイヤを見るも、聖良はほとんど両手を膝上に置いたまま、いっさい表情を変えず正座していた。

ルビィは、うつむいたまま姉の苦しむ姿を直視できずにいる。

なんとも重苦しい空気が座敷にいる一同の間を漂っていたとき、突然ダイヤが叫んだ。

ダイヤ「ぶっ……ブッブーですわッ!当主のわたくしがこんなに苦しんでいるのに、何もしないんですか!ぶっ――」

そこで激しく咳き込む。

善子自身もこの一族の冷たさに身震いして動けなかった。

ダイヤ「薬、薬を……!」

激しく肩で息をしながら片手を振って、果南に助けを求めた。

109: 2023/07/19(水) 20:08:47.06 ID:1aYB/trY.net
微動だにしなかった果南がようやく動き出す。

手元にあった小さな漆塗りの箱を開け、中から三角に折りたたまれた薬包紙をひとつ手に取った。

まるで事務仕事のように無表情で行う。

果南「ほらダイヤ、薬だよ」

薬包紙を手渡す。それを受け取ったダイヤは何を思ったのか、善子の前にかざして声を絞り出した。

ダイヤ「……これ、鞠莉さんが調合したのですよ。とてもよく効きますわ」

意味ありげな微笑を浮かべる。氏期が迫っている本人にとって、主治医への単なる皮肉と当てつけのはずだったのだろう。

――しかし、このダイヤの言葉は善子の脳裏に深く残ることとなった。

ダイヤ「んんっ……」

果南「はい、水」

薬包紙を開いて中の粉薬を口に入れ、手渡されたコップの水を飲み干す。

ダイヤ「ハァ、ハァ……ふう……」

果南「ほんと、鞠莉の薬はよく効くね」

背中を丸め、ひざにかかる布団に顔をうずめ、激しかった肩の動きがだんだんと落ち着いてきたダイヤ。それを見届けた果南が口を開く。

ようやく一息ついた。座敷の一同の誰もが思っていたとき――

ダイヤが突然顔をあげ、電気刺激を受けたかのようにビクンと上体を勢いよく反らした。

110: 2023/07/19(水) 20:22:22.23 ID:1aYB/trY.net
ダイヤ「ああっ、くっ、苦しい……!」

目を見開き苦悶の表情を浮かべ、両手を喉元にやって激しく身をよじる。そのただならぬ異変に驚いた果南がコップの水を差し出す。

果南「ダイヤ!ほら、水、水を……!」

青白かった顔を真っ赤にしてもがき苦しむダイヤに、コップの水を手に取る余裕はない。

ひとしきり喉元をかきむしって黒髪を振り乱した末、ダイヤは崩れるように布団へ突っ伏した。

そして、動かなくなった。

ルビィ「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」

鞠莉「ダイヤ、しっかり!今カンフル剤を打つから――」

妹の悲痛な叫びと、医者のあわただしい声が交錯する。その渦中で、善子は目を見開いたまま身体を硬直させ、激しく動揺するだけだった。

ダイヤの姿勢を仰向けに直して、鞠莉は注射を何本か打ったのち、脈をとって首を横に振る。

鞠莉「――ご臨終よ」

その宣言と同時に、座敷はルビィと果南の慟哭に包まれた。

鞠莉「二十四年ぶりの再会で、つい興奮して無理がたたったのね……」

ルビィ「グスッ、うぅ……」

果南「……」

――重い肺の病気のせい……?いや、違う。こんな氏に方を最近、この目でしっかりと見たことがある。

鞠莉の診断に納得する座敷の連中に対し、善子は思わず大声を張り上げた。

善子「――ちがう、違う!ダイヤは殺されたのよ……!」

112: 2023/07/19(水) 21:46:46.73 ID:1aYB/trY.net
視線が一斉に善子へ向けられた。

鞠莉「なっ、何を言ってるの。素人が口を出して何のつもり!」

善子「同じ氏に方を前に見たことがある!証拠に……」

鞠莉「ちょっと!ダイヤに触らな――」

怒る鞠莉を無視して善子はダイヤの枕元に向かい、彼女の口元を確認したのちに指をさしてこう叫んだ。

善子「医者なら、これは何よ!」

鞠莉「なんのこと……」

眉をひそめて不快な表情のまま、鞠莉が口元に顔をゆっくり近づけた。

鞠莉「これは……!」

そして、目を見開いて驚きの顔を善子に向ける。

鞠莉「アーモンド臭!まさか……」

善子「――青酸カリよ。ダイヤは毒で殺されたの!」

座敷の全員に大きな衝撃が走ったのを直に感じた。

116: 2023/07/20(木) 06:22:47.47 ID:49m0Spey.net
上屋の黒澤家で事件発生。

その知らせを旅館の電話で受けた海未は急いで向かった。

海未「参りました……東京ならタクシーがあるのに」

徒歩しかない交通手段にぼやきが口をついて出る。旅館のある海辺から山裾の上屋まで舗装されていない砂利道を走っていった。

ようやく黒澤家の門についたころには、すっかり汗ばんでいた。

海未「私は善子さんの依頼で来た、私立探偵の園田海未です!そこを通してください!」

門前に立ちふさがる駐在の警官と押し問答を繰り広げていると、すらりとしたしなやかな良い体躯の女刑事が玄関から出てきた。


「その人は関係者よ、通してあげなさい」

「相変わらずの時代錯誤な身なりと声ですぐにわかったわ、海未」


海未「……絵里じゃないですか。これは奇遇ですね」

彼女のひと声ですんなりと門をくぐった海未は、思わぬ顔見知りの登場に笑顔を見せた。

彼女の名は絢瀬絵里。警視庁の刑事で、階級は警部。東京で事件を担当したときに、何度か海未の協力で解決に導くなど個人的な交流があった。

海未「いまは警視庁じゃないのですね」

絵里「転勤よ、転勤。静岡県警にね、さあ入って」

117: 2023/07/20(木) 19:37:56.02 ID:49m0Spey.net
絵里の案内で母屋の廊下を進んでいく。多くの警察関係者とすれ違いながら軽く事件の状況説明を受けた。

黒澤ダイヤの遺体は、詳細な氏因を特定するため、海未が着いたころにはすでに運びだされていた。

絵里「――ちょうど最後に津島善子の聴取をするところだったの、運がいいわね」

そういって障子を開けると、大きな座敷に善子ひとりが正座していた。突然の見知らぬ人物の登場に驚いた表情だったが、横にいる海未を見て少し警戒を解いたようだった。

善子「海未……」

海未「こんなことになってお気の毒です……こちらは私の知り合い、絢瀬警部です」

絵里「県警の絢瀬よ、話を聞かせてもらうわね」

面と向かって座る絵里。その右脇に海未も座って、善子のわずかな挙動に目を配れるようにした。

善子は姉の氏と、その前後の様子を詳細に語った。ときに動揺し、ときに困惑した表情を織り交ぜつつ。


絵里「……それで、薬包紙は誰がダイヤに手渡したの?」

善子「果南様よ」

絵里「つまり、あなたは薬が入った小箱に手を触れていなかった?」

善子「そうよ。触っていたのは果南様だけ、ルビィも触っていないはずよ」

絵里「その通りのようね。病人特有の過度な疑り深さと気難しさで、唯一あの箱に触れられたのは果南だけだと周囲から証言が出ているわ」

そのあとに続いた絵里の言葉が、善子の心を激しくかき乱した。

118: 2023/07/20(木) 19:49:18.34 ID:49m0Spey.net
絵里「東京で弁護士、この村では黒澤家当主。あなたと出会った人間が次々と氏んでいく……これは偶然なのかしら」

善子「んなっ……まさか私を疑っているの!」

絵里「正直に言うなら、そうよ」

善子「なんでそうなるの!どこに私が梨子とダイヤを頃す理由があるっていうのよ!」

興奮気味にいう。尋問対象をあおって冷静さを欠いた状態に陥らせ、取り調べる――絵里の術中に善子はかかってしまった。

絵里「理由は分からないわ。でも、二十年以上も放置していた親戚に募る恨みもあるってものじゃないかしら?」

善子「馬鹿馬鹿しい!ロクに口も利いたことがない相手に、そんな気違いみたいな理由で殺人なんて。私は無実よ!」

絵里にぶつけるように強く言い返し、横にいた海未をキッとにらみつけた。

善子「――まさか海未もそう思ってるの?」

海未「いえ、ただ、こういう事件ではあらゆる可能性を探る必要があるんです。お気を悪くなさらないでください」

海未「ですが、ただひとつ確かなのは、善子の周りで人が次々と毒殺されてるということです。それは偶然なのか、あるいは裏にあなたを犯人に仕立て上げようという何者かの邪悪な意図があるのか――」

善子「なっ、なんで私を犯人にさせたいの!」

海未「わかりません。それがわかれば、犯人の姿が見えてくるはずです」

丁寧かつ冷静に説く海未に対し、いくらか落ち着きを取り戻した善子は、すがるように前のめりになってこういった。 

119: 2023/07/20(木) 19:57:43.64 ID:49m0Spey.net
善子「海未、お願いよ。そいつを見つけて!私の疑いを晴らしてよ!」

海未「――犯人は、必ず見つけます」

探偵の力強い言葉と真剣な表情に少し安堵した。

ちょうどそこにルビィがやってくる。

ルビィ「善子ちゃん、ちょっといい?葬儀の段取りについて奥で話したいことがあるの」

善子「いま行くわ。いいよね、警部さん?」

絵里「どうぞ。ここはあなたの家、署の取調室ではないもの。任意よ」

善子「……」

露骨に不快感をあらわにした表情で一瞥したのち、すくっと立ち上がって座敷を出て行った。

こうして善子は、頭の固い絵里の事情聴取から解放されたのだった。

絵里「ねえ、海未」

海未「なんでしょう」

絵里「どうして善子が犯人ではないとわかるの?」

その問いに対し、遠い目をしていた海未は口を開く。


海未「犯人を見つけるとは言いましたが、彼女が犯人ではないとは一言も言ってません」

120: 2023/07/20(木) 20:15:05.78 ID:49m0Spey.net
ルビィと共に奥の座敷へ向かう。そこには果南が着座していた。

果南「善子、どこにいってたの?」

ちょうど座ったときに尋ねてきた。

善子「警察の事情聴取を受けてて――」

果南「ああ、あの県警の絢瀬とかいうポンコツね。私もルビィもしつこく犯人扱いされて参ったよ」

果南「警察に何ができる……二十四年前も役に立たなかったくせに」

最後は誰の耳にも聞こえないよう、小さく悪態をついた。

そして善子に、ここへ呼びつけた理由を話す。

果南「ダイヤは明後日にかえってくる。そこで、喪主になる善子のために、この村の葬儀について教えておこうと思ってね」

善子「はぁ」

果南「ここらは土葬が普通なんだ。葬儀のあと山の墓地に行くときは、野辺送りをする」

善子「のべおくり……?」

果南「一族で棺桶を担いで墓地へ運ぶ儀式だよ。そこで喪主、つまり善子はお坊様の後ろで氏装束をして、位牌を持って歩いてもらう」

善子「氏装束って……お化けの幽霊がする三角頭巾をつけた格好の?」

果南「ま、そんなものだと思って構わないよ」

善子は目を丸くした。喪主とは生者の代表みたいな立場なのに、なぜそんな姿にならなければいけないのか。

その理由は果南の話の続きにあった。

121: 2023/07/20(木) 20:23:55.00 ID:49m0Spey.net
果南「そして、足には足半草鞋を履いてもらう」

善子「あしなかわらじ、ってなんです……?」

果南「おいおい、これだから都会のもんは困るなー。ねえ、ルビィ」

ルビィ「えっ……ぅゅ……」

唐突に話を振られ、ルビィは困惑して口ごもった。

果南「足半草鞋ってのは、つま先しかない草鞋のことだよ」

善子「それを履くの……?なんか痛そう……」

思わず顔をゆがめる。かかとはそのまま地面につけるため、舗装されてない村の砂利道で小石を踏んだときのことを想像してしまった。

果南「これで弱音を吐いちゃったら、帰りが困るよ?」

果南「帰りは、裸足だから」

善子「ええっ……!」

なんとも奇妙な田舎の風習に驚き、声を張り上げた。

122: 2023/07/20(木) 20:35:08.66 ID:49m0Spey.net
果南「棺桶を埋めたら、草鞋はそこに脱ぎ捨ててくるんだ」

果南「そうしないと氏人が起き上がって、草鞋のあとをつけて家に戻ってくるからね。だから喪主だけ、氏人に生者と分からない恰好をしないといけないのさ」

善子「起き上がりなんて、まさかそんな迷信……」

苦笑する。ゾンビ伝説じゃあるまいし、と西洋の書物に出てくる動く氏体を連想した。

果南「迷信……?」

その瞬間、果南の顔が曇る。

果南「――郷に入っては郷に従え」

果南「守ってもらわないと、黒澤家当主の顔がたたない、いいね?」

善子「は、はい……」

たしなめるように強い口調でいう果南に気圧され、背筋がぞくりとした。

果南「それで野辺送りだけど、善子の次は写真を持ったルビィ。そして九つの旗をそれぞれ持った小原、鹿角、渡辺の者で、あとは――」

――もう何が何だか。凄いことになってきたわ。

東京育ちの善子は、果南の説明が理解できず耳に入ってこなかった。

田舎の葬儀としきたりの複雑さに、すっかり参ってしまった。

126: 2023/07/21(金) 07:27:45.80 ID:kgjmyOOg.net
司法解剖からダイヤが戻ってきた。

氏因は善子が見抜いたとおり、青酸カリによるシアン中毒。

鞠莉が処方した薬に毒物が混入した状態で誤飲した、と結論づけた。

絵里によって鞠莉や果南、善子が厳しい取り調べを受けたが、どちらも嫌疑不十分で解放された。

結局、この村のどこかにいるであろう犯人が分からぬまま、遺体が帰ってきた翌日に黒澤家先代当主の葬儀が行われた。

曜「この度は……善子ちゃん、だいぶお疲れみたいだね」

善子「ええ、まあね……」

だいぶ簡略化された都会とは違い、ここの葬儀はとにかく大きく長いもので喪主の善子は気苦労が絶えなかった。

上屋の玄関はおろか、門前の道に続くほど長い行列をつくった弔問客一人ひとりと対面。そのたびに短い同じ言葉を交わすのも疲れてしまう。

さらに彼らのほとんどが善子と顔を合わせるや、訝しげな目つきでジロジロ見つめてくる。かなり気分が萎えた。

――村人は余所者の自分を疑っている。

さらし者かのような嫌悪感を抱きつつ、喪服を脱いで野辺送りの氏装束に着替えた。

127: 2023/07/21(金) 07:30:46.43 ID:kgjmyOOg.net
黒澤家の野辺送りは裏門を出てから、山の墓地へ向かう。

――なんでわざわざ遠回りして集落を通るのよ。

頭に三角頭巾をした氏装束の善子は心の中でぼやく。

果南いわく、氏者の起き上がりが戻ってこないように村を大回りして墓地に向かうしきたりだそう。

善子「イタッ……もう……」

一歩踏み出すたびに小石が足裏に食い込んで痛い。小さく顔を歪めつつ、寺の坊主が鳴らすおりんと太鼓、鈴の音にのせて村を練り歩く。

葬列が集落にさしかかると、村人たちが立ち止まって列に目をやる。それは主に、黒い生者の行進でひときわ目立つ白い善子へ向いていた。

善子「……」

目を合わせないよう、うつむきながら行く。早く通り過ぎたい、そう思いながら進んでいると、列の前に何者かが飛び出してきた。


花丸「祟りずら!もう二人目が殺された!」

大食いの尼こと、花丸が甲高い叫び声をあげて葬列をさえぎった。歩みを止めた参列者や野次馬がざわめきだす。

花丸「あと七人!あと七人の血が流れるまでミュウズ様のお怒りは収まらない!」

花丸「こいつのせいだ!こいつのせいだ!」

指をさして村人たちに叫ぶ。あまりにも理不尽な物言いに、ついに善子もたまらず言い返した。

128: 2023/07/21(金) 07:43:13.39 ID:kgjmyOOg.net
善子「私は何もやってない!」

そう叫ぶと、ずかずかと善子の前にやってきた大食いの尼。そして声を張り上げた。

花丸「いいや!お前が村に帰ってきたことでミュウズ様の祟りを招いたずら!」

花丸「村の皆、覚えているでしょ!二十四年前、あの女が出て行ったせいで村に何が起こったか!」

野次馬たちがざわめく。そこには若干の同意ともとれる声が混じっていた。

花丸「早く帰れ!村からすぐ出ていけ!」

空想と迷信に囚われ、的外れな糾弾をまき散らす花丸。黒澤家の者たちも、困惑しきっていた。

「やめて!」

そのとき、善子と花丸の間に割って入ってきた人物がいた。ルビィである。

ルビィ「尼の花丸ちゃんが、どうして野辺送りの邪魔するの!」

ルビィ「仏様になったお姉ちゃんを邪魔したら、ミュウズ様の前におしゃかしゃまがお怒りになるよぉ!」

花丸「くぅ……」

ルビィに言い返せず、顔を歪める。その場を立ち去る代わりに、こう吐き捨てた。

花丸「――あと七人、あと七人ずら!」

ルビィ「……」

小さくなっていく花丸の背中に悲しい目を向けたあと、葬送の再開を促す。

ルビィ「……皆さん、大変お騒がせしました。どうぞ、お姉ちゃんを送ってあげてください」

このあと、滞りなく埋葬が終わって善子は無事に上屋へ戻ることができたのだった。

131: 2023/07/21(金) 21:18:06.65 ID:kgjmyOOg.net
離れの縁側に腰掛け、痛む足をさすっている善子のもとにルビィがやってきた。

ルビィ「ここにいたんだ、善子ちゃん」

ルビィ「もうすぐお坊さんの読経が始まるよ。喪主なんだから早く母屋の広間に――」

善子「ルビィ、聞きたいことがあるわ」

善子「二十四年前、私の母は何をしたの……?」

ルビィ「善子ちゃん、大食いの尼のいう事なんて気にしないで――」

善子「答えて」

ルビィ「ぅゅ……」

真剣な目つきで顔をみる善子に対し、口ごもるルビィ。

善子「これ、東京にいるときに投げ込まれたの」

足元に例の脅迫状を放る。拾い上げて黙読したルビィは目を見開き、大変驚いた様子だった。

さらに善子はあたりを見回しながら、この座敷について尋ねる。

善子「この離れ、なんかおかしいわよ。窓が小さすぎるし、雨戸は外からしか開けられない」

善子「しかも、障子と座敷の畳の境目。そこに何か棒のようなものを入れてた穴が横一列にある――まるで牢獄だったみたいよ」

善子「ここは母が過ごしていた場所でしょ?どうしてこんな造りになってるの」

ルビィ「お父様が作り直させたの……」

善子「どうして母にそんなことをしたの?」

うつむいているルビィに問い詰めた。

132: 2023/07/21(金) 21:30:50.97 ID:kgjmyOOg.net
ルビィ「――本当は、お姉ちゃんの初七日を過ぎて落ち着いたころに話そうと思ってたんだけど」

意を決したのか、ルビィはゆっくり膝を曲げ、善子の隣に座った。

ルビィ「善子ちゃんのお母さんがこの家と村を出て行ったのは、ルビィのお父様が原因なんだ……」

善子「――黒澤輝石ね」

父といわれているその人物の名を出したとき、ルビィは一瞬、ビクンと肩を震わせた。

そして、ひと呼吸の間をおいて口を開く。

ルビィ「ねえ、善子ちゃんは知ってる?黒澤家の初代当主、石蔵が起こした事」

善子「ええ、まぁ」

ルビィ「そのせいか、ときどき黒澤家の嫡流には粗暴な人間が生まれてくるようになったの」

ルビィ「お父様も、そのひとりだった」

ルビィ「ううん。粗暴という言葉では片付けられないくらい、ひどい人だった……」

ルビィ「お母様やお姉ちゃん、ルビィを殴る蹴るは当たり前。果樹園で働く小作人の頭の上にミカンをのせて、それを猟銃の的にして大けがを負わせたりもした」

ルビィ「それでも黒澤家の当主といえば、絶対的な権力者。だれも逆らえなかったの」

ルビィ「まさに鬼のよう――ううん、鬼そのものだった」

辛い記憶を掘り起こすたびに息が詰まるのか、手で胸元をギュッとおさえつつ話を続ける。

ルビィ「あれは、ルビィがまだ幼かったときのこと――」

133: 2023/07/21(金) 21:37:30.44 ID:kgjmyOOg.net
その日、お父様はひとりの若い女性を無理やり屋敷に連れ込んだ。驚いて静止する果南様やお母様を一切相手にせず、開いていた土蔵にふたりで閉じこもってしまったの。

――あまりにも美しいからさらった、今日から俺のモノ、女どもは口をはさむな。

お父様は扉越しにこう叫んだあと、甲高い笑い声をあげた。そのあとすぐに女の人の悲鳴と嬌声が交互に土蔵から聞こえてきたの。

その女の人こそ、当時小学校で教員になったばかりの善子ちゃんのお母さんだった。

あのときルビィは小さくて、家の大人たちがなぜ騒いでいるか分からなかった……でも大きくなってから意味がわかって、そのおぞましさに身震いした。

強引に拉致したあと村長や村の者たちを使い、ご両親を説得して教師を辞めさせ、妾になることを承諾させてしまったの。

正式な同意を得てから彼女を蔵から出し、離れに住まわせた。逃げ出さないように細工を施したこの座敷にね。

それがお父様のやり方だったの……。

お父様は夜ごと離れに入り浸って、肉体を激しく求めた。

善子ちゃん。こんな事を言うのは、とてもひどいことかもしれないけど……。

ルビィたち家族や村のみんなは、その不幸な境遇に同情して哀れむと同時にホッとしたの。

少なくとも、お父様が離れにいる間は、みんなに乱暴しなかったから。

みんな平穏に暮らしたくて、お母さんただ一人を生贄に、見て見ぬふりをしたの。

ごめんなさい、本当にごめんなさい。善子ちゃん……。

134: 2023/07/21(金) 21:46:36.54 ID:kgjmyOOg.net
そんな日々に耐えられなかったのは当然、善子ちゃんのお母さんだった。

何度か屋敷を抜け出して、実家や寺に逃げ込んだの。逃亡がばれた途端、お父様は尋常じゃないくらい暴れた。

そのたびに、恐れた村人たちと事なかれ主義の村長に説得され、お母さんは嫌々ながら屋敷に連れ戻されたの。

そんな日々を経て、一年後。ひとりの女の子を産んだ。

それが善子ちゃん、あなたなの。

女児の誕生にお父様は大喜びだった。でも、それは子供のことではなかったの。

子供ができたことで、ついに自分のモノになって逃げださなくなる。

ただそれだけだった。

善子、という名前もお母さんがつけたの。それほどまでに無関心だった。

子育てと、異常な愛を注ぐお父様を相手にしつつ、三年ほどたったとき。

――村にある噂が流れたの。

135: 2023/07/21(金) 21:52:41.60 ID:kgjmyOOg.net
――善子お嬢様は輝石様の実の子ではない。ときどき屋敷を抜け出したのも、別の男との逢引のためだった、と。

そこは口さがない村人たち。尾ひれがついた噂は瞬く間に村中に広まり、ついにお父様の耳に入ってしまったの。

その日、激怒したお父様は獣のような叫び声をあげ、火鉢から取り出した真っ赤に焼けた鉄の箸をもって離れに乗り込んだ。

そしてお母さんの目の前で、三歳になった善子ちゃんの背中にそれを押し当てた。

あなたの背中の傷は、そのときにできたの。

真夜中の屋敷は男の怒号、女の悲鳴、幼児の泣き叫ぶ声に包まれた。

当時のルビィはお姉ちゃんにしがみついて震えることしかできなかったの……。

この事件がきっかけで決心したんだと思う。

翌朝、まだ誰も起きていないうちにお母さんは善子ちゃんを連れて屋敷を出て行って、ついに消息不明になった。

お父様は苛立ちを抑えながら帰りを待ち続けた。またいつものように村人が連れ戻すだろうと。

でも、戻ってくることはなかった。

十日経ち、半月経ち、そして二か月後。



ついにお父様は、怒りと狂気を爆発させた。

136: 2023/07/21(金) 22:21:31.61 ID:kgjmyOOg.net
二十四年前の丑三つ時、そのときのことは鮮明に覚えてる。

お父様は頭に鉢巻をして、そこにL型の懐中電灯を二本――まるで頭から生える角のように差して。

首から提げた電気ランタン。肩から胴には何十発も弾丸が入る弾帯をたすき掛けに。

右手には石蔵の代から家に伝わる日本刀、左手には連発式の猟銃。それを持って血走った目をぎらつかせたその姿は、鬼そのものだった。

――最初の犠牲者は、お母様だった。

お姉ちゃんとルビィの目の前で、思い切り振るった一太刀で血しぶきをあげて倒れたの。

そのときのお父様……ううん、鬼は笑っていた。あの噂を流した元凶を成敗したと思い込んでいたから。

お母様が氏んだのを確認したあと、雄たけびを上げながら屋敷を飛び出した。


満月の明るい夜空のもと、集落へ駆け出していくお父様の後ろ姿をルビィは一生、忘れられない。


そのあと集落で起こったのは、恐ろしい殺戮。

手当たり次第に家に押し入って、驚いて飛び起きた村人を頃して回った。恐怖で動けない者には刀を振るい、走って逃げ出した者の背には銃弾を浴びせて。

生後一か月の赤子から、足の不自由な老婆まで。朝までに三十六人を殺害したあと、お父様は山へ逃げ込んだ。

――こうして地獄の一夜が終わった。

139: 2023/07/22(土) 20:39:00.08 ID:9cmxbiu9.net
駐在からの連絡で、朝には沼津から大勢の武装した警官隊が到着。彼らが集落で見たのは、鮮血の嵐が吹き荒れたあとだった。

道には至る所に撃たれた氏体と血だまり、家の中には逃げ遅れた子供や老人の切り裂かれた氏体があって、警官たちを震え上がらせたらしい。

すぐに近くの山々を包囲し、何度も大規模な山狩りを行ったの。だけど、お父様は見つからなかった。

二十四年たった今でも、行方不明のままなの。

きっと氏んでいるとは思うけど……村にはお父様はまだ生きていると今も信じている村人も多いんだ。

その根拠が、事件から一か月後に見つかった銃で撃たれた獣の氏骸と、焼いて食べたと思われる痕跡が見つかったこと。

だから今でも、お父様の影に怯えている村人も多いの。

都会の人は二十四年もたったのに、というだろうね。

でも、田舎は時間の流れが遅いからつい昨日のことのように、みんな鮮明に覚えているの。

二十四年も、じゃなくて、二十四年しかたってないから。


――九人の祟りと三十六人頃しの鬼。


その話は、この村では禁忌なの。だから村人に言ってはいけないよ。

――これがルビィの知っていることだよ。ちゃんと答えになっているかな?

140: 2023/07/22(土) 20:52:28.07 ID:9cmxbiu9.net
すべてを話し終えたルビィはうつむいて口を閉ざした。

善子「そ、そんな。わ、私は……」

声を絞り出そうとするが、出ない。のどの奥になにか物をねじ込まれたかのように、言葉に詰まる。

体の底から悪寒が走り、唇がわなわなと震えてきた。

――私の体にはあの男の血が流れている。

それを言葉にしようとしたのを、無意識に体がせき止めていた。

事実というのは、ときに残酷である。身をもって実感した。

なんてかわいそうな母――男の暴力と異常な愛情に弄ばれ、ボロボロの身で毎日を過ごしていたのだ。

その身体で見た、この狭い狭い座敷の世界はどんなものだっただろう。いや、想像なんてしたくない。

そして背中の傷――これは父の暴虐の刻印、私を守れなかった母の後悔そのもの。

それを知らず、自分は問い詰めて母を泣かしたのだ。

心が軋む音がした。

自分は狂暴な血を受け継いでいることがわかった。もし、この血が発現したらどうなるのか。

――お前が帰ってくると村に血の雨が降る!

花丸の口走った言葉が脳裏に響き渡り、さらに心が重く沈んだ。

善子「……」

出生と父親の恐ろしい正体を知り、どう表現すべきか口ごもった。

その様子に気づいたルビィが顔をあげてこういった。

141: 2023/07/22(土) 20:53:51.50 ID:9cmxbiu9.net
ルビィ「黒澤の血は呪われてるの……でもね」


ルビィ「――善子ちゃんには及ばないから」


えっ、と驚いて顔をあげた善子は、スクッと立ち上がったルビィを見上げた。

さっきまでの憂いをおびた顔ではなく、なぜか晴れやかな表情のルビィ。思いつめていたことを全て吐き出し、逆に身軽になったのだろうか。

ルビィ「……さ、もう行かないと。善子ちゃんは喪主なんだからね!」

善子「さっきのはどういう……ねぇ、ルビィったら!」

慌てて立ち上がり、ルビィの背を追いかけた。

結局、葬儀の最中でも終わったあとでもルビィは忙しそうに動き回り、また善子も周囲の目を気にしてこれ以上のことを尋ねることができなかった。

142: 2023/07/22(土) 21:20:47.86 ID:9cmxbiu9.net
―――
――


その夜、黒澤の屋敷から外れた海沿いの、十千万旅館。

そこに泊まっている海未に尋ね人があった。

千歌「二階の、こちらがお部屋です」

絵里「ありがとう。お嬢さん、これ後で持ってきて」

千歌「かしこまりましたー」

絵里「ビール三本、コップふたつもよろしく」

千歌「はーい」

絵里は女中にそういって、海未の部屋に入った。

部屋は八畳の江戸間の座敷。その座敷の外に板張りの縁側があり、そこのガラス窓からは雄大な駿河湾を眺めることができる。

その縁側にある安楽椅子に腰かけた探偵、園田海未は温泉を楽しんだのち夜風にあたって涼んでいた。

海未「おや、来ましたね」

来客に気づき、顔を向けた。

絵里「久しぶりの再開よ、一杯つきあってちょうだい」

海未「わかりました」

絵里が座卓のそばに腰かけた。あわせるように海未も安楽椅子を立って、座卓越しに対面するよう座る。

しばらくして千歌が瓶ビールと焼いた金目鯛の干物を持ってきた。女中が出て行ったあと、ふたりはグラスにビールを注いで乾杯した。

144: 2023/07/22(土) 21:26:51.41 ID:9cmxbiu9.net
海未「着いてすぐこのあたりを散策してみたのですが、のどかでいい村ですね」

絵里「名前こそ不気味だけど、他はいたって普通の村よ。二十四年前にあんな事件があったけど」

海未「二十四年前……?」

なんですか、と興味を示す海未に詳細を語る絵里。話の端々に驚嘆の声をはさみつつ、海未はビールを飲んだ。

絵里「犠牲者は三十六人。当時は落ち武者の祟り、なんてセンセーショナルに新聞が報じたわ。馬鹿馬鹿しい迷信よ」

海未「そうでしょうか?三十六……これは九の四倍数になりますね。何らかの超自然的な力が関わっているかもしれませんよ」

絵里「こっ、怖いこと言わないでよ……!」

露骨にうろたえる絵里をなだめた。

絵里「ゴホン……事件はニューヨークの大暴落が始まる直前だったせいか、すぐに田舎の怪事件として世間の注目から外れていったわ」

海未「そのとき善子は数えで三つ、だったときですね……」

絵里「それからは一切、なんの事件も起きなかったのに。それが立て続けに殺人が二件よ、二件」

海未「しかも犯人はおろか、動機さえわからない――」

絵里「いいえ、犯人はわかってるわよ」

軽く酔ったのか、頬をやや赤く染めた絵里が断言する。海未は驚いて、干物をつつく箸を止めた。

145: 2023/07/22(土) 21:38:22.52 ID:9cmxbiu9.net
絵里「津島善子よ、決まってるわ」

海未「して、動機は……?」

絵里「黒澤家の財産狙いね。今まで放置してきた積年の恨みを晴らそうってとこね」

海未「自分が相続することになるのにですか……?」

突っ込みに対し、むっ、と頬をふくらます絵里。

絵里「わかってるわよ、そんなこと……。でも、それらしい動機が他にないじゃない」

海未「さらに桜内梨子のときも、黒澤ダイヤのときも、善子は氏因に直結する物に一切、手を触れてないことを証明する証人は大勢います」

絵里「……」

だんまりする絵里を気にもとめず、箸でほぐした干物を口に運ぶ。

海未「これ、美味しいですね。さすが海の幸が自慢なだけあります――」

絵里「ようし、わかったわ!小原鞠莉よ!」

絵里「梨子もダイヤも、鞠莉が処方した薬に入った毒物が氏因になってる」

絵里「しかも彼女は県議会議員に立候補を目指している。選挙には多大な資金がいる……本家の財産を狙ってもおかしくないわ!」

海未の鋭い指摘に、早々に善子犯人説を捨てた絵里。次は鞠莉へ疑いの目を向けた。

そんなポンコツ推理に海未が再び切り込んでいく。

146: 2023/07/22(土) 21:50:38.93 ID:9cmxbiu9.net
海未「仮に鞠莉としたら、気になる事がふたつあるのです」

海未「なぜ相続権のない梨子を殺害したのか?」

海未「そして殺害方法があまりにも露骨すぎることです。自らが処方した薬に毒を仕込む、二度も同じ手で――」

海未「これでは、疑いの目を自分から呼び寄せているようなものです」

海未「あまりにも稚拙な犯行を、議員になろうと身固めしている鞠莉がやるでしょうか?」

絵里「むぅ、それは……」

言葉に詰まり、干物を箸でいじくりまわす。

絵里「じゃあ鞠莉以外で、薬に毒を仕込むことができたのは誰なのよ?」

眉根を寄せる絵里に対し、海未は座卓の脇に置いていた手帳をとり、ページに書き写した見取り図と絵里の顔を交互に見ながら。

海未「それですが――」

昼間に駐在の警官から聞いた小原診療所の構造について、思ったことを述べていく。

147: 2023/07/22(土) 21:56:28.54 ID:9cmxbiu9.net
海未「診療所は家屋と廊下で直結していて、家の者や訪ねてきた客は診療室を通って家に入ったそうです」

海未「その廊下、診療所と家屋をつなぐ間に薬を調合し保管する薬剤室があった。そこで梨子とダイヤの薬はそこで作られていました」

海未「ふたりの薬は、薬剤の性質的に短時間で劣化するものではないそうで、一か月ごとに作り置きをよくしていたそうです。できた薬は名前のついた棚に保管して、そこから取り出していた」

海未「その部屋はふだん施錠されていなかったそうです。また、家屋の裏口も……まあ田舎です、そのような用心はいらなかったのでしょう」

さらに、と海未は次のことを強調した。

海未「客が訪ねてきた時間帯によって、村人の診察中で目が離せないときは、客に廊下を渡ってそのまま家屋へ行くように伝え、診察が終わるまで待たせていたこともあった」

海未「と、いうことは――」

海未「――この村の誰でも、誰にも見られず、管理の甘い薬剤室に入り込み、作り置きしていた梨子とダイヤの薬に毒を入れることができる」

海未「鞠莉じゃなくても可能なんですよ」

絵里「チカァ……」

ぐうの音を出した絵里は、飲まずにはいられないと言い、一本の瓶ビールを直接口をつけて飲み干した。

148: 2023/07/22(土) 22:07:15.77 ID:9cmxbiu9.net
海未「……しかしこの事件、かなり厄介なことになりそうですね」

これはあくまで予想なのですが、と付け加える。

海未「近いうちに第三の殺人が起きるかもしれません」

絵里「ええっ……!」

海未「私たちは犯人の目的が何なのかさえ、わかっていません」

海未「衝動と狂気に満ちた動機無き殺人なのか、それとも――」

海未「――明確な動機をもって綿密に練られた計画殺人なのかさえ、です」

海未「後者なら、まだほんの始まりにすぎないでしょう」

海未「早く動機を見つけ、犯人を見立てなければ犠牲者は増え続けます」

海未「犯人の動機は一体なんなのでしょうか……?」

そういったきり、海未は無言になって考え込んでいた。

絵里「うう……」

絵里「もう一本、飲むわ!」

追加のビールをもらうため、部屋を出て行ったのであった。

151: 2023/07/23(日) 06:21:27.20 ID:0AJqVi6m.net
その夜、善子は全く寝付けなかった。

明かりをつけたまま、よしみが敷いた布団に入ったものの、不安と恐れで心の中がいっぱいになり、目がさえてしまった。

このまま悶々と過ごすのもあれなので、起き上がって布団を出た。座卓につき、今まで起きたことを考えてみることにした。

――どうして犯人は梨子を毒頃したのだろう?

彼女は東京に行くとき、赤線で女遊びに興じる趣味があるだけのただの顧問弁護士だ。黒澤の財産をどうこうできる権限などない。

自分への警告のために見せしめにされたのだろうか。しかし、今こうして自分は曜の手引きで村に帰ってきた。危険を冒して犯行に及んだのに、まったく効果はなかったのだ。

――姉のダイヤは?

正直言って、わけがわからない。肺の病気はかなり重く、今年いっぱいもつかどうかの瀬戸際の命だった。

犯人はやらなくてもいいことを、わざわざやったのだ。

しかも、事件のあと絵里と警官たちが例の小箱を調べたが、ほかの薬包紙に毒薬入りのものはひとつもなかったらしい。

あのとき、たったひとつの毒薬入りの薬包紙――それを偶然、果南が取ってしまったことで、あの時あの場で氏んでしまったのだ。

もしもダイヤの件が脅迫状に合わせたのなら、こんな運任せにするだろうか。

――では一体、なんのためにふたりを……?

善子「もうっ、なにもわからないじゃない……」

座卓で頭を抱える。こういうのは海未が得意なのだろう、善子は初めて彼女を尊敬した。

よしみ「……善子様、果南様がお呼びです」

そのとき、障子の向こうから声がした。

152: 2023/07/23(日) 06:43:37.63 ID:0AJqVi6m.net
善子はこの家に来てから、もう一週間近くたった。だが、果南とふたりきりで対面することは一切なかった。

そして今夜、ついに初めてふたりきで会う。

果南が寝泊まりする座敷は、母屋の一番奥にあった。

障子の前につき、よしみが声をかけた。

よしみ「善子様をお連れしました」

果南「んっ、入っていいよ」

返事を聞いて障子を開けて入った。そこに善子もよしみの案内でつづく。

黒澤家の長老は寝間着の上から上着を羽織り、四角い小さな箱膳にのせた酒瓶から白磁の盃に酒をついで飲んでいた。

果南「おっ、善子。こっち、こっち」

顔をあげ、盃を膳に置く。そして座るよう促した。

善子「え、ええ……」

果南「お湯とアレをもってきて」

善子が座ったとき、よしみにそう言いつける。よしみが一礼して座敷を出て行った。

善子「大伯母様、何かご用でしょうか……?」

果南「はっはっは、そんなに堅くなることはないよ。ここはもう善子の家なんだから、もっとくつろいでいいんじゃないかなん?」

善子「はぁ……」

生返事で返す。つい数日前にダイヤを亡くし、臨終や葬儀の場で慟哭していたのに、ずいぶんケ口リとしている表情だった。酒で流して、すでに気持ちを切り替えたというのだろうか。

この果南の態度を善子は不気味に感じた。なくなったはずの足裏の痛みがジンジンとぶり返してきた気がする。

153: 2023/07/23(日) 06:45:43.29 ID:0AJqVi6m.net
早めに引き上げたい、そう思って改めて尋ねる。

善子「それで、ご用は……」

果南「特に用という用はないんだけど、まあ、善子も疲れているだろうから一杯、寝酒をごちそうしようと思ってね」

ちょうどよしみが湯と湯呑、そして何かが入ったザルをもってきた。なんだろう、とザルの中身を見たが、暗くてよくわからなかった。

果南「疲れていてもなかなか寝付けないとき、よく効くんだよ」

善子「えっ」

思わず声が出た。まさかさっきの離れでの様子を知っているのか。

その疑問を果南に問う勇気は善子になかった。

果南「さ、用意しようか」

湯吞に酒を注ぎ、浅く張った湯の中に入れて温めた。

果南「美味しいんだな、これが」

果南「――わかめ酒」

156: 2023/07/23(日) 13:35:46.10 ID:0AJqVi6m.net
果南「――はい、どうぞ」

なんとも奇怪な名前の酒が善子の前に出てきた。

恐る恐る顔を近づけ、それを観察してみる。

燗酒のように温めた湯呑のなかに、緑がかった黒のワカメが味噌汁の具のごとくユラユラ泳いでいた。

よしみに持ってこさせたあのザルの中身はこれか、納得した。

果南「昔は自分で潜って新鮮なものを採ってこれたんだけど、もう年だからねー」

果南「上質なわかめがやっと手に入ったんだ」

――これもこの家の妙な風習なのだろうか。

果南「さ、これをぐっと飲んで」

果南が飲むよう催促する。

この妙な酒、本当に飲まなければならないのか。湯呑と果南を交互に見ていた。

果南「どうしたのかなん?」

果南「ほら、冷めちゃうじゃないか」

まっすぐ自分を見つめる果南に気圧され、ゆっくり両手で湯呑を持つ。どうやら拒否する権利はないようだ。

ほんの少し、すすってみた。

驚いた善子は顔をあげ、果南をジッと見つめる。

すごい怪しい変な味。わかめ酒について、最初にでた感想はそれだった。

人肌くらいぬるい酒のなかに、海藻の臭いとぬらぬらした舌ざわり、口の中に張り付くわかめ。

酒の甘みと海藻の塩分が混ざって妙な味わい。

やっとのどに流して腹に落とすと、じんわりと熱がしみわたっていった。

157: 2023/07/23(日) 13:42:32.62 ID:0AJqVi6m.net
――なにか良くないものでも入っているんじゃないか。

ふと邪推した善子はゾッと背筋が凍りついた。まさか、毒……?

つめたい汗が額から吹き出し、頬をつたう。

果南「おいおい、どうしたのかなん?そんな顔をして……」

果南「あははっ、ビクビクしないでいいよ。毒なんか入ってないから」

果南「さあ、それをぐっと飲んで休めば、今日の疲れも一気にとれるよ」

これはいよいよ進退窮まった感じである。

ええい、毒を食らわば皿まで。やけくそな覚悟を決めた善子は一息にわかめ酒を飲み干した。

果南「お、飲んだ、飲んだ」

大伯母は少女のようにニタッと笑うと軽く手を叩いた。

一気に腹の底から熱がこみ上げてくる。いまに異変が起きるのではないか、と戦々恐々として自分の体を見つめた。

果南「今夜は遅いから、善子、もうお休み」

善子「はい……」

すっかり疲れ切った声でそういって、フラフラと立ち上がる。一気に飲んだせいで、酔いが回ってくる。

善子「うぅ……」

あたりの景色がぐるぐると回るのを実感しながら、やっとの思いで離れの自分の寝床にたどりついた。

158: 2023/07/23(日) 17:52:15.89 ID:0AJqVi6m.net
善子「……!」

真夜中、布団の中でハッと目が覚めた。床についてどれだけ時間がたったのかわからない。

電気を消した真っ暗な座敷で寝返りをうとうと、体をよじろうとしたが、動かない。それどころか手指からつま先まで何の反応もなく、口さえも。

目は動き、呼吸はできるのでなんとか生きていることだけわかった。

善子の体は見えないヒモで縛り付けられたかのように、布団に固定されてしまっていた。

――いま、金縛りにあってる。自分がおかれている状況を理解した。

恐ろしさがこみ上げて、全身から汗がふき出す。助けを呼ぼうにも、口が動かせない。

障子の向こうで物音がした。人が一歩踏み出すとき、床がきしむ音と布が擦れる音だった。

音のほうへ眼球を動かしたそのとき、明かりをもった人影が一番端の障子に映った。

誰か来る、怖さのあまり善子は目を強く閉じる。ルビィが話していたあの鬼を思い浮かべ、恐ろしくなった。

「善子はちゃんと寝てるかなん?」

「はい。ぐっすりお休みになられてます」

ぼそぼそと声が聞こえてきた。どうやら大伯母とよしみのようだ。

少し安心して、うっすらまぶたを開く。

果南「――それじゃ、目が覚めないうちにお参りしよっか」

そういうと、目の前を横切るようにゆっくり縁側を歩いていく。障子に映り込んだ影から察するに、懐中電灯を持つよしみのあとを果南がつけている。

ふたつの影が障子から消えると、縁側の奥にある納戸の扉を開ける音がした。

159: 2023/07/23(日) 17:54:29.63 ID:0AJqVi6m.net
それからしばらくして、ガタンと大きな音が納戸のほうからすると、それきり物音がなくなり人の気配も消えた。

するとフッと善子の金縛りも解け、身動きができるようになった。

ガバッと上体を起こす。

善子「夢……?」

あたりを見回して思わずつぶやいた。こんな真夜中に、果南とよしみは納戸に一体なんの用があるのだろう。

また黒澤家の変なしきたりだろうか。

考えを巡らそうとしたが、急に睡魔が襲ってきた。

明日の朝、納戸を見てみよう……。

そう決めた善子は、バタリと倒れるように布団にもぐる。

睡魔の誘惑に負け、朝までぐっすりと眠り込んだのだった。

160: 2023/07/23(日) 20:00:55.94 ID:0AJqVi6m
善子「んー、よく寝たわ……」

翌朝の目覚めはとても心地よかった。この村に来て初めてである。

きっと果南が自分に飲ませたわかめ酒は毒ではなく、きっと睡眠効果のある薬膳酒みたいなものだったのだ。

わざわざ呼びつけて飲ませた理由――離れの納戸に何か自分にも知られたくない秘密の用事があるから、眠らせたということだろう。

昨晩から気になって仕方ない善子は寝間着のまま座敷を出て、まっすぐ廊下を進んで突き当りにある納戸の扉の前に立った。

もしかして、まだ中にいるかも。軽く扉を叩いてみる。

善子「果南様、果南様」

返事がないので、扉を開けてみた。

善子「カビくさ……」

薄暗く埃っぽいよくある物置部屋。壁のスイッチを触って、明かりをつける。

窓のない縦に長い密室に、古い箪笥や家具が壁沿いに置かれていた。

善子「こんな狭いとこで何をしてたんだろ」

善子「ん?これ……」

特に目を引いたのは、中央にひときわ大きな長方形の収納箱。わざとらしく置かれたそれに善子のカンが働く。

善子「……怪しいわね」

まず箱の周囲をぐるりとまわってみた。

161: 2023/07/23(日) 20:04:54.61 ID:0AJqVi6m
そこでいくつか気づいたことがあった。

この収納箱、他の箪笥と違って一部分に埃が積もっていない。取っ手のある面の上である。

次にその反対側の床板に、引きずった跡があった。その跡は頻繁に動かしていないとできないほど深く刻まれてる。

善子「この箱を奥に押したり、手前に引いたりしたってことね」

独り言をつぶやく。

箱をもっと調べてみた。

何度か叩くと、軽い反響音。つまり、中身はほとんど入っていない。

さらに顔を近づけると、ゴォッと地面から風が吹きつけてくるような小さな音がした。

善子「この下に地下室か何かあるみたいね」

この箱はそれを隠す仕掛けだということを理解した。そして、心が躍ってきた。

――秘密の出入口。その先に何があるのだろう。

善子の心は子供のような探求心で満たされてきた。

よし、押してみよう。

箱に手をかけ、力を入れようとしたそのとき。

「善子ちゃん、何やってるの?」

背後から声がした。

168: 2023/07/24(月) 21:40:20.79 ID:lQ8O6sq/.net
善子「ヒィッ!」

口から心臓が飛び出そうなほど驚き、悲鳴をあげ、背後を振り返る。

ルビィ「ピギッ!」

善子「なっ……ルビィじゃないの……」

そこには扉の前で怯えた様子のルビィがいた。驚いたのは自分のほうなのに。

ルビィ「びっくりしたぁ」

ルビィ「さっき座敷に行ったら、善子ちゃんがいないから探してたんだ」

善子「そ、そう」

ルビィ「ねぇ、そこで何してたの?」

翡翠のような瞳で善子をまっすぐ見つめて尋ねてきた。少女のような純粋無垢な目つきで。

善子「あ、あれよ……」

善子「物音がしたから、気になって見に行ったの。そしたらネズミがいたのよ」

とっさにごまかす。ルビィは、そうなんだ、とあっさり納得した。

ルビィ「顔を洗ったあと、朝ご飯を用意しているから母屋に来てね」

ルビィ「果南様を待たせてるから、ちょっと早めにね……」

善子「わかったわ」

どうやら果南とよしみは、夜中のうちに地下で何か用事を済ませたらしい。

夜中に行われる黒澤家の秘密の儀式――隠れキリシタンか、悪魔崇拝か?

妄想が膨らみ、ますます興味が湧いてきた。

169: 2023/07/24(月) 21:42:35.51 ID:lQ8O6sq/.net
今日、黒澤家は朝から人の出入りが激しかった。

先代当主黒澤ダイヤの初七日法要を明日に控えているからだ。

善子もなにか手伝おうと思い、ルビィに持ちかけたが固辞された。

ルビィ「善子ちゃんは当主だから、何もしなくていいんだよ」

確かに当主にはなったが、皆が忙しくしている中で座して待てといわれると何だか複雑な気持ちになる。

曜「おはようであります!」

いつもの明るい様子で訪ねてきた曜も、本家の法要の手伝いに駆り出されたということでまともにおしゃべりもできなかった。

果南「善子、今日は離れで過ごしておいで」

ついに善子は母屋からつまみ出された。


善子「……当主ってのも、あまりいいものでもないわね」

いつもの座敷の座卓について、東京から持ってきた天使大辞典を読み返して時間を潰す。

善子「ヨハネって使徒で天使じゃないのね……誰よ堕天使だって吹聴してるのは」

ページをめくり、何気なくつぶやいた。

納戸の仕掛けのことも気になるが、明るい時間帯に探検をしてしまうと、再びルビィに見つかるかもしれない。そのときはもう言い訳ができなくなる。

果南が当主の自分に秘密にしているということは、当然ルビィも知らないだろう。

結局、納戸の探検は家の者が寝静まった深夜に決行することにして、日中は大人しく座敷で過ごした。

170: 2023/07/24(月) 21:44:48.42 ID:lQ8O6sq/.net
いよいよ待ちに待った深夜――善子はこっそり準備を整えた。

母屋から懐中電灯を拝借し、玄関から靴を持ち出した。幸い、法要の準備で女中や出入りの者が行きかっている状況なので、善子の行動を注視する者は誰ひとりいなかった。

善子「さすがに寝間着では危ないわね……」

トランクケースから衣装を引っ張り出し、動きやすい服装に着替える。

善子「これでよし」

姿見に映る自分を見て、うなずく。

けがをしないように長袖シャツと、ぴったり肌に密着する九分丈のサブリナパンツ。靴はヒールではなくローファーを履いた。

座敷の明かりを消し、音を立てずしばらく過ごしてから、ゆっくり障子を開けて廊下へ出る。

物音が一切ない離れ。きっと法要の準備の疲れで、ルビィや果南、よしみも寝静まっているはず。

懐中電灯の明かりを頼りに納戸に入り、両手で箱を強く押した。

ガタン、という物音と共に奥へ滑り出す箱。そして現れたのは――

善子「やっぱりあった」

床下から吹き上げる風が前髪をなでる。そこには、人ひとりが入れる四角い穴と奥深くへいざなう石段があった。

171: 2023/07/24(月) 21:47:50.87 ID:lQ8O6sq/.net
黒澤家の秘密の地下通路。善子の関心はそこに集中し、もはや事件のことは忘却の彼方へ押しやっていた。

善子「鬼が出るか悪魔がでるか、ね……」

覚悟を決めて石段に足を踏み入れた。地下から吹く冷たい風を受け、夏の暑さで火照った身体が一気に冷える。

床下より深くまで降りる。振り返って、真上を見上げた。

あの箱の裏に取っ手がついている。これで内側から閉じて穴をふさぐことができるようだ。

ルビィやよしみに見つからないよう、元通りに箱を戻しておいた。

善子「これで大丈夫ね」

さて、探検探検。懐中電灯片手に石段のさらに奥へ入っていく。

石段はだいぶ長く続いていたが、険しくはなかった。果南でも昇り降りができるだはずだ。

いちおうの用心として、女中のなかで最も信用できるよしみをお供にしているのだろう。

石段を下りきると、今度は奥へと続く横穴があった。

入る前に懐中電灯で照らしてみる。

善子「まるでドラゴンの口ね……」

穴の天井にはこの土地の地質のせいか、とがった円錐形の鍾乳石がぶら下がっていた。湿度が極端に高いのか、壁や地面が濡れていて光を当てるとテカテカと反射している。

善子「靴を履いててよかった」

判断が正しかったことを喜び、穴の奥へ進む。

172: 2023/07/24(月) 21:54:17.56 ID:lQ8O6sq/.net
善子「どこかとつながってるみたいね……」

しばらく歩き進めて気付いた。穴、もとい洞窟の奥から湿っぽいひんやりとした風を肌で感じたからだ。

この先に何があるのか、己の探求心に身を任せてみる。

針天井のような鍾乳石がある頭上と、足もとの水たまりに注意しながら懐中電灯が放つ光の環を頼りに進む。

善子「お、分かれ道」

だいぶ洞窟を歩いた先に、自然のいたずらで出来たのか洞窟が左右に分かれていた。

善子「ここは頭の団子に従って、右ね!」

いつもやってる習慣を信じて右の洞窟を選択し、歩いていく。少し上っては下り、再び分かれ道に遭遇すると右を選ぶ。

しばらく歩いていると、吹き込む風の音が強くなってきた。

どうやら外の世界と近いようだ、善子は直感する。

そのまま歩いていくと、草のツタが垂れ下がる洞窟の出口と思しき場所にたどり着く。

せっかくだから外に出てみよう、善子はのれんをくぐるようにツタをよけて洞窟を出た。

173: 2023/07/24(月) 22:01:58.08 ID:lQ8O6sq/.net
どうやら善子は村の外れのゆるやかな山肌に出たらしい。うっそうと茂る雑木林と突き出した岩の多い土地だった。

振り返ると、洞窟に垂れ下がるツタの上にしめ縄と紙垂がある。どうやらこれもミュウズ様の信仰となにか関係があるようだ。

どうやら道を間違えたみたい、善子はそう思った。

ここら一体には巨岩と木と草だけ。果南がお参りするような祠や偶像は見当たらない。

夜風で林の葉がこすれてざわめく音と、フクロウのようなものの鳴き声しかしない土地。

ここで果南の奇行の謎を解くことはできなさそうだ。

――帰ろっか。

すっかり手持ち無沙汰になった善子が、洞窟のツタに手をかけようとしたとき。

ガキン。

岩に何かを力いっぱい打ち付ける音が近くでした。

175: 2023/07/24(月) 22:51:49.07 ID:lQ8O6sq/.net
驚いて、手を止めて振り返る。

それは、何度か同じ音が一定の間隔を開けて規則的に聞こえてきた。明らかに自然の音ではない。

――誰かが、そこら辺の岩に何かをしている。

善子は背筋がぞくりとした。夜中にこんなことをしているのは、少なくとも動物ではない。

いま、善子の脳内では音の正体を突き止めるか、そのまま洞窟に入るかのせめぎ合いが繰り広げられていた。

その結果――懐中電灯を消し、音のする方向へ静かに近づくことにした。

徐々に音が大きくなってくると同時に、ぼんやりと明かりが見えてきた。そこには、ひとりの人間が巨岩に何かを振るっていた。

ランタンの光で浮かび上がってくる人間は、カーキ色の復員服を着た人物。両手にはツルハシを持って、岩にひたすら打ち付けている。

善子は腰を落とし、大きな草に紛れて何者か顔を確認できる位置まで近寄った。

そのとき人物はツルハシを置き、顔をあげて一息つく。

ランタンの明かりでその顔が浮かび上がってきた。

善子はハッと息を飲む。

黒髪を左にまとめ、たれ目で、胸と尻の大きな女。

――鹿角聖良だった。

181: 2023/07/25(火) 23:14:42.22 ID:e77KGNJ/.net
草木も眠る夜中、ツルハシを、岩に打ち付けている、ひたすらに。

いったい人目を避けて何をやってるのか。善子は戦慄した。

聖良「……ここはダメですね」

そうつぶやいて水筒の水を飲んでいる。

自分の脇にある大きな背嚢――英語でいうバックパックに近づき、水筒をしまうと何か手帳のようなものを取り出した。

聖良「――鬼の口の周辺、何も発見できず、と。理亞、もう少しですから……」

ランタンの明かりを頼りに口に出しながらペンを走らせ、この場を引き払うのか道具の片付けを始める聖良。

鬼の口?いま鬼の口って言ったよね……。

茂みに隠れている善子はこの単語を聞き、驚いて目を見開く。

それは母が生前、絶対に忘れないよう自分に強く言い聞かせていた単語の羅列のひとつ。そして渡されたお守り袋の中身の一部だった。

幼少期は何が何だかわからず、大人になっても日々の忙しさにかまけてすっかり記憶の奥底へ沈めていた。

それがよりにもよって、聖良のおかげで思い出すとは。

――どうやら、離れに戻って調べなければいけない用ができたみたい。

気が気でなくなった善子は急いでその場を去ろうと動き出す。それがまずかった。

パキッ、と小枝を踏みつけて折れる音が鳴った。

182: 2023/07/25(火) 23:16:58.35 ID:e77KGNJ/.net
まずいまずい、善子はとっさに茂みに伏せた。土の臭いがするくらい、体と顔を地面に近づける。

音に気づいた聖良がツルハシを拾い上げ、腰につけていた懐中電灯を持ち、周囲を照らす。

草木の隙間から見える聖良の姿に、善子は背筋が凍る。

右手に懐中電灯、左手にツルハシ。

もし見つかったら――自分の脳天にツルハシの先端が振り下ろされる様を想像した。

全身がガタガタと震え、心臓が高鳴り、悲鳴をあげたい口を押さえ、息を必氏に頃す。

音の出どころを探す光の環がしばらく左右に動いたのち、主人の足もとへ戻る。

聖良「……狸か何かがいたみたいですね」

そうつぶやくと、背嚢を背負ってその場を立ち去っていった。独り言さえも丁寧語な彼女に何やら不気味なものを感じた。

183: 2023/07/25(火) 23:22:32.35 ID:e77KGNJ/.net
気配が完全に消え去ってから、善子は立ち上がる。懐中電灯をつけ、聖良の痕跡を調べてみた。

善子「洞窟の周辺で何かを探してたみたいね……」

ツルハシによって砕かれた岩石たちを見てつぶやく。前に曜が言っていた、聖良が毎晩外を出歩いている理由がわかった。

田舎は噂が立つのが早い。だから深夜に人目を忍んで行動しているのだろう。

善子「……早く戻らないと」

なんだかまた聖良が現れそうな気がしたので、そそくさと離れる。こんなところでツルハシにぶっ刺さされる最期を遂げるのはごめんだ。

再び洞窟の入り口まで戻ったとき、改めてあたりを懐中電灯で照らしてみる。

洞窟の上には、角のようにそびえ立つ尖った大きな石灰石があった。

なるほど、鬼の口だ。善子はそれがここの地名だということを理解した。

そしてますますこの洞窟への探求心が湧いてきた。母の遺した言葉の正体がようやく姿を現そうとしている。

心躍らせながら洞窟に入り、来た道を戻って離れの納戸に着く。

調べ物は明日のお楽しみに取っておいて、寝間着に着替えると早々に布団に入って眠る。

こうして、善子の最初の地下探検は終わった。

184: 2023/07/25(火) 23:23:36.86 ID:e77KGNJ/.net
善子「ルビィ、おはよう」

ルビィ「おはよう、善子ちゃん」

翌朝、洗面所を出たときにすれ違ったルビィに挨拶をする。何食わぬ顔で声をかけてみたが、いつもの調子だった。

ルビィ「昼過ぎからお姉ちゃんの法要だから、よろしくね」

善子「わかった。昼食のあと、着付けを手伝ってくれない?」

ルビィ「うん、わかったぁ」

そのあと果南やルビィたちと母屋で朝食。午前は法要の準備で、当主の自分はまた大人しく離れで過ごすことになりそうだ。

――昼食まで誰にも邪魔されない時間ができた。

善子は足取り軽く、離れに戻っていった。

185: 2023/07/25(火) 23:27:10.23 ID:e77KGNJ/.net
離れに戻ると、背後に人の気配がないのを確認して入る。

座敷の障子をぴったりと閉じて、東京から持ってきた例のトランクケースを開けた。

衣類や西洋のまじない道具が詰まった中身に手を突っ込み、まさぐったのち底から小箱を引っ張り出す。

それはフルール・ド・リスの模様があるアンティークの箱。箱のふたを開け、中に保管してあるお守り袋を取り出した。

生前の母から、絶対に無くさないようにという言いつけを守り続けたお守り袋は、ずいぶんくたびれていた。

厳重にとじてある口をゆっくり開け、中から木製のお札と紙片を取り出す。

そのうちの紙片を手に取り、ゆっくりと広げた。

善子「やっとこの謎がわかったわ、この洞窟の地形図だったのね!」

広げた紙に書き込まれていたものを見て、感嘆の声をあげた。

その折れ目がくっきりついた紙には、砂場で蛇が踊ったようにくねくねと道のようなものが複雑に書き込まれ、所々に地名のような名称がある。

その名称たちは、母がお守り袋と共に忘れるなと何度も言いつけていた、謎めいた歌と合致していた。

幼少期、眠りにつく自分に子守唄のように歌ってたことを思い出して、口ずさむ。

186: 2023/07/25(火) 23:31:39.38 ID:e77KGNJ/.net
善子「蓮華座に針千本と鬼の口――」

善子「――白玉の池、白衣観音」

口ずさみながら指で名称を追う。歌い終え、目をらんらんと輝かせた。

母が亡くなったあと、この紙片と歌を頼りに謎を解こうと挑戦したが、まったくダメだった。

その答えが、九つ墓村の洞窟にあったなんて。

ちなみに、聖良を目撃した鬼の口は洞窟の出入り口に相当する場所のようだ。紙片によると、この洞窟はかなり複雑で出入口となる穴も他に多数あるみたいだ。

善子「そういう……ことだったのね!」

感慨深げに紙片を見ていたが、歌と並べてある部分が欠けているのに気づく。

それは、最後に母が一番忘れるなといったフレーズ。

善子「――ウトウヤスタカ、がないじゃない」

紙片を逆さにしても、明かりに透かしても、その名称だけがない。

そもそも、これは地名なのだろうか。もしかして人名ではないのか――人名なら、母のことを知っている重要人物なのかもしれない。

法要のあと、ルビィにそれとなく尋ねてみよう。

そう決めた善子が壁掛け時計に目をやると、もう昼時になっていた。

もうすぐルビィかよしみが来る頃だ。

急いで紙片をたたみ、御守り袋に突っ込むと箱にしまって、トランクケースの奥深くに隠した。

191: 2023/07/26(水) 21:42:31.13 ID:ny3kW/yi.net
黒澤ダイヤの初七日法要は、葬儀同様に盛大でとにかく長かった。

訪問客は数十名にのぼった。沼津はおろか、静岡の近隣県からきたという客もいた。

法要は午後三時ごろから始まり、読経に焼香をして終わったのは五時ごろ。そこからお茶と会食の時間。

それがひときわ盛大に行われた。

果樹園の小作人や網元に世話になってる漁師、この家の奉公人たちは、台所そばの土間のへりに集まって無礼講の宴。

親戚や黒澤家と親しい者たちは、母屋の十二畳ふた間の大広間でお斎――いわゆる会席料理の膳がふるまわれる。

これらはみな黒澤家の女たち、果南とルビィが中心となって料理から盛り付けの一切を指図する。

台所では二十人の客に出す会席膳をつくるため、女中たちがせわしなく台所と広間を行きかっていた。

ルビィ「出来上がったら、すぐにお座敷に持って行って」

よしみ「はい」

見た目こそ幼く気弱なルビィだが、人の出入りが激しいなか落ち着いて正確に指示を出す。

よしみをはじめ多くの女中がてきぱきとこなすなか、ある金髪の女が台所に姿を見せた。

――黒いアフタヌーンドレスを着た小原鞠莉だった。

192: 2023/07/26(水) 21:43:59.02 ID:ny3kW/yi.net
鞠莉「ちょっと、いいかしら」

ルビィ「……あ、鞠莉しゃん。どうしました?」

手を休め、鞠莉のほうへ近寄る。すると頼み込むような口調でこう言った。

鞠莉「この家で最もシャイニーなミカンのシロップ漬け、味見してもいい?」

ルビィ「ぅゅ……」

鞠莉「ね、お願い!」

手伝いに来たのではなくつまみ食いに現れた鞠莉に面食らうルビィ。

しかし、料理が絶望的に下手くそなので手伝いは無理だとわかっていたため、頼みを聞き入れた。

ルビィ「そこに作り置きがあるので……よかったら」

鞠莉「ありがとうルビィ!この家のは日本のどこよりもおいしいの」

目を輝かせて感謝すると、さっそく作り置きからよそってつまみ食いをしていた。

その様子に苦笑するルビィ。ちょうどそこに広間から曜やってきた。

曜「ルビィ様、なにかお手伝いしましょうか?」

ルビィ「あ、じゃあみんなと配膳と盛り付けの手伝いをお願い」

曜「了解であります」

こうしてほとんどの会席膳を用意していった。

193: 2023/07/26(水) 21:50:55.08 ID:ny3kW/yi.net
ようやくひと息ついたとき、ルビィが声をかけた。

ルビィ「あ、曜ちゃん。善子ちゃんをここに呼んでくれるかな?」

ルビィ「お客様にお膳を運んでほしいんだぁ」

残ったふたつの膳を指でさしたとき、女中に呼ばれたのですぐに背を向けた。

よしみ「ルビィ様、これはどちらに……」

ルビィ「ああ、それはあっちだよぉ」

曜「了解であります!」

忙しそうなルビィに笑顔で承諾し、善子を探しに台所を出ていった。

194: 2023/07/26(水) 21:53:44.62 ID:ny3kW/yi.net
善子「イタタ……しびれちゃったじゃない……」

一方、善子は広間を出た縁側に腰かけて自分の足を労わっていた。昨晩の洞窟探検と今日の法要で長い正座をしたことで一段と厳しく痺れている。

さらに着慣れない黒い紋付の着物を着ているせいか、なんだか息苦しさもあった。

――だって、呉服を着れる生活したことないんだもの。月給一万円よ、私。

そう自分に言い訳をし、足袋を履いた足をもんでいた。

曜「善子ちゃん……あ、しびれちゃったの?」

善子「まあね……」

そこへ呼びにきた曜が声をかけてきた。見上げると、黒のスーツを着ている。

ああ、私も洋装が良かったな、と思った。果南がきっと許さないだろうが。

曜「……都会のひとは大変だよね。ま、私も正座は苦手だけど」

曜「善子ちゃん、ルビィ様が呼んでいたよ。お膳を運んで欲しいって」

善子「わかったわ」

すくっと立ち上がり、廊下を進もうとする。

曜「こっちがいいよ、玄関からのほうが台所に近いから」

善子「ありがとう」

曜に先導してもらい廊下から玄関を横切ろうとすると。

善子「あれ、玄関に誰か……」

足を止めて目を向けると、スーツ姿の女性が今まさに帰ろうとしていた。

198: 2023/07/27(木) 22:46:13.81 ID:sYYC4hh0.net
>>194
誤字がありました。

昨晩の洞窟探検と今日の法要で長い正座をしたことで一段と激しく痺れている。

です。

199: 2023/07/27(木) 22:48:00.37 ID:sYYC4hh0.net
曜「あれは小学校の校長先生だよ。先生ー!」

その人物に元気よく声をかける。彼女はゆっくり振り向き。

むつ「はいはい……これは下屋のお嬢様、それに善子様……」

校長は人あたりの良い笑みを浮かべ、杖を支えに曲がった腰を少し伸ばして一礼した。白くなった髪の毛を後ろにまとめた額の大きい彼女から、長い教員歴を感じる。

この家の当主として、慣れない敬語を使って見送りに立つ。

善子「もうお帰りですか?いま、お食事をご用意しておりますのに――」

むつ「いえ、そうしていると遅くなります。私はもう年寄りですので……今日はこれで失礼させていただきます」

曜「善子ちゃん、あとでお食事を届けさせたらどうかな?」

後ろで助言をもらった。

善子「あっ、そうしましょう。うちの使いの者にすぐ届けさせますので……」

むつ「ありがとうございます」

校長のむつは小さく頭をさげたのち、あたりを見回すと、善子の前に一歩踏み出してこう小さくささやいた。

むつ「善子様、一度私のとこへお出かけください。あなたにお話があります――」

むつ「――あなたの身の上について、たいへん重要なことを知ってます」

驚いた善子が何も言えずにいると、さらに話を続けた。

200: 2023/07/27(木) 22:50:35.29 ID:sYYC4hh0.net
むつ「よろしいですか、きっとですよ。いらっしゃるときは、おひとりで」

むつ「……このことは、私のほかに寺の住職様しか存じないことです。では、明日にでも……お待ちしております」

校長はスッと善子から離れると、まじまじと見つめたのち、わざとらしく大きく頭を下げると玄関を出て行った。

善子「……」

家路につく校長の背中を、善子はしばらくボーッと見ているだけだった。

どうやら自分に内密な話をしてくれるらしいが、いったい何だろう。結局わからないまま、ハッと気が付いたときには彼女の姿は見えなくなっていた。

曜「善子ちゃん、校長先生は何て?」

いつの間にかうしろに曜がいた。青い瞳をこちらへ向け、そう尋ねた。

善子「あ、うん……なんか、お話があるから明日、家に来てほしいんだって」

曜「そうなんだ、先生の家は海沿いだよ。でも、善子ちゃんに何の話があるんだろうね?」

善子「さぁ……」

しばらく首をかしげていたが、ルビィを待たせていることを思い出し、すぐに台所へ向かった。

201: 2023/07/27(木) 22:54:04.42 ID:sYYC4hh0.net
先に曜を広間に帰して台所に入ると、ふたつのお膳の前にルビィがひとりで待っていた。

校長が先に帰ったことと、あとで食事を届けるよう頼んでおく。

ルビィ「先生、帰ったんだぁ……そっか、じゃあ誰かにお願いしておくね」

女中に台所で用意するよう指示を出した。

ルビィ「じゃあ善子ちゃん、このお膳をお客様にお出ししてくれる?」

善子「わかった」

ふたつ並んだ会席膳に目をやる。

善子「えっと、どっち?」

ルビィ「どっちでもいいよ、同じだから」

迷っている善子にいう。

とりあえず、いま目についたお膳を持った。ルビィを連れて、皆が待つ広間へ入った。

広間には右に客人、左に家人が対面するよう一列に座っていた。

左には黒澤家当主の自分を筆頭に、果南、ルビィ、聖良、渡辺家当主と曜、その他という席順。

一方で右には村長以下、村の主だった人物たち。その中に、高海千歌がいた。

なんでも高海家の女将の代理で、だそうで。

善子が会席膳を持って広間に入ったとき、目が合って笑顔をみせた彼女。

ちょうど用意されていなかったので、何気なく千歌の前において、頭を下げた。

そしてルビィと共に席について、お斎のご挨拶をする。


善子「それでは。何もありませんが、どうぞご遠慮なく――」

202: 2023/07/27(木) 22:56:39.37 ID:sYYC4hh0.net
>>201
鞠莉が抜けていたので修正します。


曜を先に広間へ帰して台所に入ると、ふたつのお膳の前にルビィがひとりで待っていた。

校長が先に帰ったことと、あとで食事を届けるよう頼んでおく。

ルビィ「先生、帰ったんだぁ……そっか、じゃあ誰かにお願いしておくね」

女中に台所で用意するよう指示を出した。

ルビィ「じゃあ善子ちゃん、このお膳をお客様にお出ししてくれる?」

善子「わかった」

ふたつ並んだ会席膳に目をやる。

善子「えっと、どっち?」

ルビィ「どっちでもいいよ、同じだから」

迷っている善子にいう。

とりあえず、いま目についたお膳を持った。ルビィを連れて、皆が待つ広間へ入った。

広間には右に客人、左に家人が対面するよう一列に座っていた。

左には黒澤家当主の自分を筆頭に、果南、ルビィ、聖良、鞠莉、渡辺家当主に曜という席順。

一方で右には村長以下、村の主だった人物たち。その中に、高海千歌がいた。

なんでも高海家の女将の代理で、だそうで。

善子が会席膳を持って広間に入ったとき、目が合って笑顔をみせた彼女。

ちょうど用意されていなかったので、何気なく千歌の前において、頭を下げた。

そしてルビィと共に席について、お斎のご挨拶をする。


善子「それでは。何もありませんが、どうぞご遠慮なく――」

205: 2023/07/28(金) 21:41:44.95 ID:taZ43ijU.net
それぞれ歓談や食事を思い思いに始めた。このときの話題はたいてい故人の追憶話から始まるが、氏に方があれなだけに皆それを避けてよもやま話をしていた。

酒と飯のお代わりに女中たちがせわしなく動き回る。

善子「おひとついかがです?」

千歌「あ、善子ちゃん。じゃあ、お願いしよっかな」

お酌とご挨拶にまわってきた善子に、元気よく応じて杯を持った千歌。曜に似て気さくな性格が口調に表れていた。

傍らにあった徳利を手に取り、杯に八分目まで注ぐ。

注ぎ終えるや、千歌はすぐに飲み干した。食べっぷりもそうだが、飲み方も豪快である。

老舗旅館の淑女というより、女傑のような風格があった。

千歌「あっ、そうだ。善子ちゃんはミカンのシロップ漬け食べたー?黒澤家の名物なんだよ」

会席膳に箸休めとして出されている小鉢のことをいった。

善子「いえ、まだ……」

千歌「山のミカンはそのままでも美味しいけど、シロップ漬けにするともっと美味しくなるんだ。酸味がやわらかくなって……とにかく食べてみてね!」

そういって、小鉢からミカンをつまんでひとかけらを口に入れた。

206: 2023/07/28(金) 21:43:42.30 ID:taZ43ijU.net
口に入れて飲み込んだのち、千歌の顔が少し曇る。どうやら味が話していたことと乖離しているようだ。

千歌「なんか苦いのだ……」

千歌「……あっ!何でもないよ!ご返杯するね」

善子を前にしていることに気づき、微笑を浮かべて徳利を手に取る。それに応じ、杯を前に出す。

が、なかなか酒を注いでくれなかった。

それどころか、徳利を持つ千歌の腕が小刻みに震えて、差し出した杯にあたってカチカチと音が連続して鳴っていた。

気になった善子は手元に向けていた視線を千歌の顔へと移した。

善子「……あの、どうしました?」

善子「なんか顔色が……」

そう呼びかけるも千歌は無言だった。だが、徐々に目を見開き、青白い顔が一気に赤くなった。


千歌「うっ、グッ……ガァ……」

うめき声を絞り出し、徳利を取り落とす。片手で畳に手をつき、右手で胸をはげしくかきむしる。

曜「千歌ちゃん!どうしたのッ!」

その叫びに、会食中の広間の空気が一気に凍り付いた。

207: 2023/07/28(金) 21:48:24.37 ID:taZ43ijU.net
千歌「く、苦しい……水……!」

聖良「私が水を!」

とっさに立ち上がり、数名と共に広間を飛び出して台所へ。ほかの者たちは恐れおののいて、硬直するか席を立ち上がってうろたえていた。

曜「千歌ちゃん、千歌ちゃん!しっかりして!」

駆け寄った曜が千歌の背中をさすって呼びかける。ちょうど聖良が水を持ってきたころには。

千歌「グゥ……ガァアア!」

畳を引き裂くかのように激しくひっかき、身の毛がよだつ恐ろしい断末魔をあげて、突っ伏した。

そして何度か大きく痙攣したのち、ピクリとも動かなくなった。

きゃあ、と誰かが大きな悲鳴をあげ、恐ろしさのあまり広間を飛び出す者も出た。

善子も腰が抜けて、その場にへたり込んでしまっている。

208: 2023/07/28(金) 21:51:17.51 ID:taZ43ijU.net
曜「ああああ!千歌ちゃん!」

鞠莉「曜、カバンを持ってきて!」

その声を聞き、曜は必氏の形相で広間を出て行った。

鞄を受け取った鞠莉が、注射を何本か千歌に打ったが。

鞠莉「……だめ、だめよ。もう……」

千歌の氏を宣告する。とたんに、声にならない声をあげた曜が亡骸にすがりつこうとするが、父親が制止した。

善子「あ……あぁ……」

――自分とかかわった人間が目の前で殺された、しかも三度目。

深い深い闇の底へ落ちていくような感覚がし、目の前が真っ暗になった。

209: 2023/07/28(金) 21:57:42.10 ID:taZ43ijU.net
絵里「またよ!また殺人が起きたわ!」

けたたましくサイレンを鳴らし、砂ぼこりを巻き上げて走る米軍払い下げのジープに乗る絵里は、助手席で叫ぶ。

それに同乗する海未は後部座席で揺られながら、沈黙していた。

すでに日が落ち、九つ墓村には夜のとばりが下り始めている。

絵里と海未、駐在所に詰めていた警官と刑事たちが乗る二台のジープは黒澤家の門に到着。

降りたころには、すでに暗くなっていた。

絵里と警官たちが続々と入っていく中、門の前で海未は立ち止まって巨大な屋敷を見上げる。

この家は何かどす黒い影に包まれているような、なんともいえない不気味さを感じた。

海未「……」

正面に向き直り、玄関へ歩を進めた。祟りなどという迷信、あってたまるものか。

絵里の厳命で広間は事件当時のまま保存され、一時間後に沼津から警官と鑑識官が到着して検証と捜査が始まった。

212: 2023/07/29(土) 08:45:18.20 ID:mr0bXjGv.net
広間では絵里が指揮を執っていた。千歌の遺体は解剖にまわすため、担架で運び出した。

絵里「やはり毒物は青酸カリね――」

絵里「――小鉢のミカンのシロップ漬けに致氏量相当の量」

絵里「あの膳に、ね」

鑑識官から報告を受けた絵里はちらりと、千歌が座っていたほうへ目をやる。

一列の会席膳なかで最も散らかっているものがひとつあった。一部の食器は下にこぼれ落ち、畳に中身をぶちまけてシミをつくっていた。

乱闘でもあったかのような荒れように、相当苦しんだろうなと絵里は同情する。

絵里「今度は十千万の女中……今までの被害者たちといったい何の関係があるのよ。気違いの仕業としか思えないわ」

絵里「ねえ、海未――」

絵里「ちょっと、何やってるのよ」

見識を訪ねようと、海未を見た。すると、彼女は身をかがめて膳のひとつひとつに注目しては、何かを手帳に書き留めていた。

海未「気になるところがありまして――」

海未「――いいでしょう。絵里、みなさんを呼んでください」

絵里「なにをするつもりなの?」

海未「ある疑問を解消するための、検証です」

そういって、絵里にふたつの質問をするよう頼む。

最後の質問に対して、絵里は不審な顔をしたが、なんとか説得した。

213: 2023/07/29(土) 08:50:40.95 ID:mr0bXjGv.net
広間に善子ら黒澤家の者たちと、客が集められた。

絵里「これで全員ね?」

確認をとったあと、皆にこう尋ねた。

絵里「――千歌のところに膳を届けたのは、誰ですか?」

一瞬の静寂。そののち、憔悴しきった顔の善子が手をあげた。

善子「……私よ」

絵里「またあなたなのね……」

怪訝な顔でいう。が、すぐに質問を続けた。

絵里「私たちが調べた結果、小鉢のシロップ漬けに毒物が見つかりました」

絵里「この中で、小鉢に手を付けていない膳がひとつ、あったのです」

絵里「なんでもシロップ漬けは黒澤家の名物だとか。この料理は周辺でも評判のものらしいですが一切、食べていない――」

絵里「――その膳に座っていたのは、誰ですか?」

鋭い目つきを向けた群衆のなかで、名乗り出る者がいた。

善子「私よ。昔からミカンが嫌いだから……」

絵里「またあなた……」

いよいよ顔が険しくなった。そして、ふたりの刑事にこういった。

絵里「津島善子を任意同行してちょうだい」

すぐに刑事が両腕をがっちり掴む。驚いた善子は身をよじらせ、叫ぶ。

善子「んなっ……私じゃない!」

絵里「詳しいことは駐在所で聞くわ」

善子「放してよ!私は何もしてない――」


海未「――絵里、待ってください」


そこでようやく探偵が口をはさんだ。

218: 2023/07/30(日) 17:57:43.83 ID:FQhAS0eg.net
海未「仮にです、仮に私が犯人だとすると……シロップ漬けに手を付けないというのは、おかしいことなのです」

海未「この家の誰もが手を付ける料理でかつ、毒物の風味を隠せるものを選び、確実に毒殺できるよう仕向けた計算高い犯人が、自ら疑いの目を向けられるようなことを放置するでしょうか?」

絵里「……単にミカン嫌いだからじゃないの?」

海未「でしたら、箸で盛り付けを崩すなどの細工をするはずです。疑われたくないので――しかし、善子の小鉢はそのような形跡が全くないのです」

絵里「確かに……」

海未「いま決めつけるのは早計です。調査を続けましょう」

絵里「そうね。いったん放してやって」

海未から助け舟をもらい、善子は拘束を解かれた。

しかし、疑いは晴れた訳ではない。毒を仕込んだ膳が偶然、自分に回ってきたために手を付けなかったという面も考えられるからだ。

絵里「――全員の取り調べをするわよ。善子、あなたにはじっくり聞きたいことがたくさんあるから、私がやるわ」

ふりかかった不幸はまだ続くようだ。

219: 2023/07/30(日) 21:04:46.75 ID:FQhAS0eg.net
このあと、座敷にいた全員は絵里や刑事たちの取り調べを受けた。

以前のふたつの事件では、犯人の所在が不明だったが、今回の件は違う。

――この冷酷で尋常じゃない毒殺犯は、この屋敷の中にいる。

梨子、ダイヤ、そしてたったいま千歌を殺害した犯人は善子のすぐそばにいたのだ。それを考えると、恐ろしくて身震いする。

捜査で分かったことだが、出された料理は法要の読経の時間に作り始めたそう。

その最中、台所にはいろいろな人間が水を飲みに来たり、コップや急須を取りに来たりと人の出入りが激しかったらしい。

ゆえに、調理しているルビィや女中たちはそのとき誰が何をしていたかということは詳しく分からなかった。

つまり、この屋敷にいる人間は誰でも毒を仕込むことが出来たことになる。

そのせいか、取り調べは激しく、深夜にまで及んだ。

特に絵里は善子にずっと目をつけているからか、次々と人を毒頃していく犯人であるという固定観念を持ち、何度も自白するよう詰め寄った。

強い気迫で迫ったあとは、猫なで声で諭す――それを繰り返す絵里の前に、善子は疲労と眠気で徐々に判断力が失われていった。

自分はあの男の血が流れている。自分自身の知らぬ間に、無意識に狂気の部分が発現し、千歌の膳に毒を入れたのではないか。

こんな妄想を抱き始め、思わずありもしない罪を自白しそうになった。

そのとき助けてもらったのは他でもない海未だった。

220: 2023/07/30(日) 22:14:17.14 ID:FQhAS0eg.net
憔悴のあまり善子がずっとうつむいていたとき、沈黙していた海未が口を開いた。

海未「絵里、私が思うに……この事件は誰が犯人であるかに問わず、今日この場で解決できるとは思えないのです。なぜなら、動機が全く見えてこない……」

海未「梨子の件、ダイヤの件でも、動機が有るように見えても、つなげてみたら無いようなものです」

海未「そして今度の千歌の件、これはかなり難しい……。前のふたりとは関わりを全く持っていないんです」

海未「誰にいきわたるかわからない会席膳に毒を盛り、偶然それを手に取った善子がたまたま千歌に置いた結果、こうなった。はっきり言って無意味な殺人を犯人はやったんです」

海未「犯人は何をたくらんでいるのか、標的を選ぶ基準は何なのか――それがわかるまで急がずに構えておく必要があると思いますよ」

そのときの海未は東京で抱いた印象とは全く違ってみえた。

絵里はため息をつき、腕時計を見て。

絵里「そうね……」

絵里「二十四年前の事件は大きいが単純な事件だったわ。でも、今回の事件は小さいながらも複雑に絡み合って、前の事件以上に難解ね――」

絵里「――親子二代にわたって、本当に厄介なことだわ」

善子に向けて悪態をつくと、警官たちに撤収するよう指示を出した。

227: 2023/07/31(月) 22:24:49.36 ID:O7lU3CSX.net
こうして善子は絵里の聴取から解放された。

去り際に海未が労わりの言葉をかけてくれたが、疲労のあまり生返事で返すだけだった。

こうして黒澤家から警官たちは去っていき、同時に足止めを食らっていた客たちも帰っていった。

その中でも、大変憔悴していた者がふたりいた。

ひとりは渡辺曜。目の前で意中の幼なじみを失い、生気のない目で当主の父親に抱えられながら玄関を出て行った。

もうひとりは小原鞠莉。この事件の直前、台所で問題のシロップ漬けをつまみ食いしていた証言が出たため、薬学知識のある彼女も絵里から嫌疑をかけられ、苦しい立場に追いやられたそうだ。

それ以外の客は、逃げるようにコソコソと帰っていき、この広い屋敷は誰ひとりいないかのようになった。

そんなわびしい母屋の広間で、善子はただひとり、何もすることもなく畳に座り込んでいる。

228: 2023/07/31(月) 22:26:34.18 ID:O7lU3CSX.net
善子「……」

ただぼんやりと座ったまま、あたりを見回す。すでに膳は片づけられ、奥の台所で洗う音がするも、人の話し声などは一切なかった。

きっと自分を気にして、よしみら女中たちは事件のことを小声でヒソヒソと話しているのだろう。中には口に出さずとも、自分を毒殺犯として疑っている者もいるはずだ。

善子「やっぱり、私は孤独なのね……」

慣れているつもりだったが、こうも誰ひとりとして自分を心から気遣ってくれる人間がいないというのは、こうも辛すぎるのか。

切なく悲しい思いが善子の心に満ち満ちてきて、じんわりと目尻に熱いものがこみあげてきたそのとき。

そっと肩に手をやった者がいた――ルビィだった。

ルビィ「……善子ちゃんはもうひとりじゃないよ」

ルビィ「誰がなんといってもルビィは善子ちゃんの味方だよ。だって、お姉ちゃんなんだもん」

ルビィ「だってルビィは信じてるよ……ううん、知ってるの。善子ちゃんはそんな恐ろしい人間じゃないって」

やさしく抱きすくめられ、慈愛に満ちた言葉をかけられ、ついに緊張の糸がきれた善子はルビィの小さな身体にすがりついた。

229: 2023/07/31(月) 22:34:53.06 ID:O7lU3CSX.net
善子「ねぇルビィ、教えてよ……私は一体どうすればいいの!」

善子「私がこの村に来たのがいけなかったの?もし、そうならすぐにでも東京に帰るわ……!」

ずっとせき止めていた思いがあふれてきて、言葉にして出す。

ルビィ「ダメだよそんなこと言っちゃぁ……東京に帰るなんて。だって善子ちゃんの家はここなんだもん、いつまでもいていいんだよ」

善子「でもルビィ。私がここに来たから、あんな恐ろしいことが連続して起きるんだったら、もうここには居られない!私とあの出来事、いったい何の関係があるっていうのよ」

ルビィ「善子ちゃん」

声を震わせてこういった。

ルビィ「そんなこと考えないで。善子ちゃんとあの事件とは一切、関係ないんだよ?」

ルビィ「お姉ちゃんのことで分かってるでしょ――善子ちゃんがいつお姉ちゃんの薬箱の中に毒を入れられたの?ここに着いたばかりなのに……」

善子「でも……でもッ……!警察はそんなこと考えてくれないの……」

ルビィ「みんな気が立ってるんだよ、二十四年前のことを思い出して。落ち着いてきたら、誤解だってわかってもらえるはずだよ」

ルビィ「だから、悲観したりヤケを起こしたりしないで……ね?」

善子「ルビィ……!」

優しい姉に何か言おうとしたが、言葉につまった。それを察したのか、包み込むように善子の手を握ってくれた。

ようやく心の平穏を取り戻した善子はルビィに感謝の言葉を述べ、離れに行って床についた。

こうして、恐ろしい思いをした夜は更けていった。

232: 2023/08/01(火) 17:14:39.78 ID:/njW5snk.net
翌朝。善子は目が覚めたが、気だるさが抜けず布団にくるまったままだった。

昨晩の恐ろしい体験、疲れ切ってもなお続いた警察の取り調べ、これらを思い浮かべると起き上がることさえ億劫になっていた。

ああ、今日もまた絵里と警官たちがやってくる。そう思うと、ますます起き上がることができない。

しかし、起きなくては。今日は秘密の話があるという校長先生のもとへ行かなければいけないから。

もしかしたらその大事な話――事件解決の糸口になるかもしれない。現状を打破する希望のように感じた。

とにかく起きて、行かなければ……。

自身に気合を入れ、上体を起こす。

警官たちが来ると、今日一日は家を出られないだろう。善子は朝食をとったらすぐに出かけることを決めた。

ルビィ「おはよう善子ちゃん。気分はもう大丈夫?」

善子「おはよう、もう大丈夫だから」

笑顔で返すと、よかったぁ、とルビィは嬉しそうにいった。

ルビィ「今日は朝早くから果南様がよしみと海へお出かけしてるから、ふたりで食べよぉ」

善子「わかったわ」

233: 2023/08/01(火) 17:17:41.09 ID:/njW5snk.net
朝食のとき、校長のむつについて尋ねてみた。そこでわかったことは以下である。

元から村の人間で、ルビィが生まれる前から小学校の教員で母の先輩だった。素性も明らかで性格は温厚、村人たちからも慕われてるということであった。

さらに、ここら一帯の洞窟を以前調査していたことも判明した。

これは善子にとって安心できる情報だった。この家の者以外、村人のことは花丸しか知らず、排他的で攻撃性が強いと思い込んでいたからだ。

――洞窟のウトウヤスタカとは何か、その答えをむつは持っているかもしれない。

自分がむつに招待されたことをルビィに話す。

ルビィ「ふうん、校長先生が何の用なんだろうね……」

善子「わからないわ。でも、自分のことだから行くつもりよ。それに、絢瀬と警官が来たら出られなくなっちゃうし」

ルビィ「……気を付けてね」

不安げにいった。その声色から、自分を外に出したくないようだ。しかし、引っ込み思案なルビィは無理に引きとめるようなことはしなかった。

善子は期待に胸を膨らませ、九時ごろ家を出た。

ルビィや曜から聞いたむつの家は、山あいの上屋からずっと下った海沿いにある。その距離は遠からず近からずという感じだった。

善子はなるべく村人に会いたくないので、山のふもとづたいにわざと遠回りをすることにした。

234: 2023/08/01(火) 17:20:36.65 ID:/njW5snk.net
今日の天気は快晴だったが、海から吹き込む風があるせいかそれほど暑くはない。

動きやすい半袖シャツと身軽なパンツを履いて、善子は砂利道を歩いていく。

そばの雑木林からは鳥とセミの鳴き声がにぎやかに聞こえ、木々が風にそよぐ音が心地よい。村の畑には鈴なりのナスや獅子唐が実っていた。

善子「こうしてみると、本当にのどかな村ね……」

あんな事件さえなければ、静養に訪れてもいい場所だと思った。

歩くことおよそ三十分。海沿いの集落のなかで、よく目立つ大きな屋敷が見えてきた。これが下屋、曜の家である。

どうやら今歩いている道は、集落へ入って下屋の裏口の前を通っていくようだ。

善子「もしかしたら、曜に会えるかもね」

なんて思ったが、昨日の一件で相当悲しんでいるはずだ。どう慰めの言葉をかけていいかわからないので、会いに行くのはやめておこう。

そんなことを考えながら下屋の壁沿いに歩いているとき――

「おいッ!どこへ行くずら!」

不意に何者かが金切り声をあげた。

235: 2023/08/01(火) 17:51:52.02 ID:/njW5snk.net
驚いて善子が歩みを止めると、角からみすぼらしい女が飛び出してきた。

大食いの尼だ。

なにやら大きな風呂敷包みを背負っていたが、善子の姿を見るや勝ち誇ったかのように背筋を伸ばし、こう叫んだ。

花丸「帰れ、帰れ、帰るずら!お前は上屋から一歩も外に出るんじゃない!」

花丸「お前の行く先には必ず血の雨が降る!今度は誰を頃しにいくんだ!」

いつものように口角をあげて叫び続け、行く手をふさぐかのように善子の前に立ちはだかった。

怒りがふつふつと湧いてくる。

善子「……どいて」

自分でも驚くくらい低い声で言い、花丸をにらみつけながら脇をすりぬけようとした。

しかし花丸は両手をバッと広げて立ちふさがる。善子が右へ行けば右に、左に行けば左と、背中の風呂敷包みを揺らしながらクソガキめいた通せんぼをする。

花丸「通さん、通さんぞ!一歩も通さないずら!さっさと荷物をまとめて村から出ていけ!」

もう我慢の限界だった。善子は力づくで押し通ることにした。

対する花丸は、がっちりと善子の左腕にしがみつく。タコのように絡みつく感覚を不快に思った善子は渾身の力をもって、振りほどいた。

236: 2023/08/01(火) 17:58:23.10 ID:/njW5snk.net
善子「……あっ」

花丸「ギャッ!」

力いっぱい振りほどいた勢いで、大きく体勢を崩した花丸はそのまま下屋の白壁に叩きつけられ、尻もちをついた。

そのはずみで風呂敷包みも地べたに落ち、中から野菜や米、のっぽパンがバラバラと落ちた。

花丸は一瞬、驚いていたが唇をわなわな震わせ、大声で泣き出した。

花丸「あああ!人頃し!誰か、誰か来てぇ!」

その声を聞きつけ、下屋の奉公人や周囲の家から漁民の男たちが飛び出してきた。

男たちは善子を見ると驚いた顔をしたが、すぐに眉をひそめる。それを見て、善子にとってかなりまずい状況だということがわかった。

花丸「そいつは人頃しずら!はやく駐在に突き出してくれ……ああ痛い、痛い!」

花丸がわめき散らすなか、男たちは無言で善子を取り囲む。こっちが何かしら動けば、いっきに飛びかかろうとする勢いだ。

善子「……」

切羽詰まった状況を前に、脇の下から嫌な汗がたらたらと流れた。ろくに理性もない連中に事情を説明しても、無意味であるということは彼らの顔つきからとうに察した。

じりじりと、男たちは善子との距離を詰めてくる。

万事休すであった。



「なにやってるのッ!」


そんなとき、下屋の裏口から力強い声と共に出てきた人物がいた。

曜だった。

246: 2023/08/02(水) 20:23:49.60 ID:PVccjypC.net
裏口で起きた騒動を聞きつけてきたのだろう、あたりを見回したのち事情をすぐに理解したようだ。

取り囲んでいた男たちを簡単に押しのけ、曜は善子の前に立つ。

曜「善子ちゃんを一体どうするつもりッ!」

今まで見たことのない凄まじい気迫で男たちに問いただす。

気圧された男のひとりがモゴモゴと何かを言ったが、曜にはまったく聞こえなかったようで。善子のほうへ振り返ると。

曜「善子ちゃん、何があったの……?」

手短に事情を話すと、曜は呆れと怒りが入り混じった声で。

曜「ハァ……そんなことだろうと思ったよ。普段はあんなにバカにしている尼のいうことを信じて、寄ってたかって卑怯じゃない」

曜「ほら、事情がわかったなら、さっさと帰って!」

そういったが、何人かの漁師が食い下がってきた。すると曜は眉間にしわを寄せて。

曜「……だったら、私を相手にする?」

男らの前に一歩踏み出し。右足を後方へ下げ、脇を締めて、拳をつくって戦闘体勢をとった。元軍人で常に身体を鍛えていた曜は女とはいえ、相手にするとただでは済まないはずだ。

とたんに怖気づいた男たちは、首を縮めてスゴスゴと退散していった。

味方を失った花丸も、泣きながら飛び散った食べ物をかき集めて、その場を逃げ出した。

249: 2023/08/03(木) 20:50:56.88 ID:KyFmo/Hn.net
曜「ああ、びっくりしたぁ。ランニングしようと縁側にいたら、なにか騒ぐ声がしたから……」

ふっ、と肩の力を緩めると善子にいう。曜の恰好はテニス選手が着るような身軽な姿だった。

完全にいなくなったのを確認したのち、体勢を元に戻す。彼女の背中がこんなに頼もしかったとは。

善子「……ありがとう。助かったわ」

曜「礼には及ばないよ」

曜「それで、こんなところまでどうしたの?」

心配そうな顔で尋ねてきたので、校長の件を話した。

曜は思い出したようで、少し考え込んだあと。

曜「ねえ、よかったら校長先生のところまで送っていくよ。また村人に絡まれたりしたら大変だからねー」

善子「本当?大丈夫なの、その……千歌が……」

遠慮がちにいう。昨日の様子から、ずっと屋敷でふさぎ込んでいるのではないかと思っていたからだ。

ちょっと驚いた顔をした曜だが、小さく笑みを浮かべたあと静かにこういった。

曜「……犯人は許せない。でも、ずっと引きこもってたら千歌ちゃんが悲しむから。」

曜「自分は元気が取り柄だから、こう海沿いを走って、いろんなこと吹き飛ばして……千歌ちゃんに元気だって見せたかったんだぁー」

曜「そしたら善子ちゃんがいたの」

曜「だから気にしないで。ほら、一緒にいこう!」

善子「そう……じゃあ、お願いするわ」

曜「お安い御用であります!」

あんな経験をしたので、曜が一緒に来てくれるのはとても頼もしかった。

250: 2023/08/03(木) 20:53:55.37 ID:KyFmo/Hn.net
曜の案内で、下屋から集落を抜けて海沿いの道を歩く。

寄せては来る波の音と、少しツンとくる潮の匂いが海に来たという実感を善子に与える。

善子「落ち着くわね……」

曜「でしょー」

さっきの乱闘寸前の緊張状態からようやく平穏を取り戻した善子。ふと、花丸につかまれた左腕に目をやる。

善子「あ……」

小さな声をあげ、ひどく落胆した。上屋を出るとき腕につけていたブレスレットがないことに今、気づいたのだ。

――きっと花丸に奪い取られたか、あの場所に落としてきたんだろう。

あれは義父が買ってきた自分へのプレゼント。大事にすると誓い、戦中の金属供出にもこれだけは出さなかった。

取り返せるものなら取り返したいが――傷心の曜に余計な問題を抱えさせるわけにはいかず、あの村人たちや花丸と対峙することを思い浮かべると、足がすくむ。

結局、あきらめることにした。心の中で義父に謝罪する。

善子「……」

つけていた左手首を片手でさすり、ため息をついた。その様子に曜が気づく。

曜「どうしたの?」

善子「えっ、な、何でもない……」

曜「……本当に?」

善子「ええ。何でもないわ」

曜「そっか」

何とかごまかせたようで安心した。

それからしばらく一緒に歩いていると、むつの家が見えてきた。

251: 2023/08/03(木) 21:51:29.88 ID:KyFmo/Hn.net
曜「ついたよ。じゃあ私は外で待ってるね」

善子「わかったわ」

むつの家は海岸から少し歩いたところにある、藁葺きの小さな家。障子の玄関で、左には開いた雨戸の縁にせり出した縁側があった。

玄関の障子や周囲のきれいな様子から、毎日掃除を欠かせないのだろう。そういう性格なのかもしれない。

善子「校長先生、いますか?黒澤の善子ですー」

善子「お話を聞きに来ました!」

生垣の門をこえて呼びかけるが、返事がない。

善子「……あれ?」

しかも、その家には妙な点があった――すでに外が明るくなっているのに部屋の電気が点いていたのだ。

善子は不思議に思う。すでに太陽はのぼっている時刻で、山奥とは違い海沿いの開けた土地にある家だから暗い感じはしない。

――まだ寝ているのか、朝食の最中かな。

善子「先生、お邪魔します……」

そう思った善子は控えめに声をかけながら、玄関の障子を開ける。

善子「先生、善子です。いませんか――」

土間に立って、家の奥を覗き見た。そこに広がる光景を見たとき、背筋がゾッとして唇がわなわな震えた。

善子「――ヒィッ!」

腰が抜け、その場にへたり込む。その拍子に背を玄関の引き戸に激しくぶつけた。

257: 2023/08/04(金) 22:38:50.09 ID:68wLVxXf.net
土間と八畳ほどの奥の座敷を仕切る障子が開け放たれており、その先に校長のむつがいた。

うつぶせで畳に倒れ込み、顔の半分をこちらに向けている。彼女は生気のない目を見開き、口を大きく開けて苦悶の表情をつくっていた。

そのすぐ脇には、ひっくり返った椀や皿が散らばっていた。この膳は昨日、法要で出した黒澤家の膳だというのはすぐわかった。

恐らく昨晩、届けられた会席膳を口にしてすぐ毒にやられたのだろう。だから電気が点いたままだったのだ。

そして、彼女の周囲には黒いシミが点々と畳についていた。まるで何かがうろついたような痕跡があちこちにある。

この毒殺犯は見境なく人を頃していくのか。善子は膝がガクガクと震え戦慄した。

――お前の行く先に必ず血の雨が降る!

今更ながら花丸の口走った言葉が轟くように脳裏に響いていた。

曜「善子ちゃん、どうしたの!さっき大きな音が……」

善子「あ、あ……先生が……」

曜がさっき音を聞いて玄関に駆け付けてきた。手を借りて引き起こしてもらった善子は言葉を詰まらせたまま、指で奥を指し示す。

曜「先生……!」

善子の指を目で追った曜は、驚愕から戦慄へと表情を変える。もう生きていないとすぐに察したようだ。

曜「……ここから東に四軒先を行ったところに駐在所があるから、早く呼んできて」

善子「わ、わかったわ!」

急いで玄関を飛び出し、駐在所へ向かう。

このとき、むつの近くにあった奇妙な紙片の存在を、善子はまったく気付いていなかった。

260: 2023/08/05(土) 19:45:58.51 ID:5HqnTlqc.net
絵里「……また、あなたね」

善子「……」

現場に立ち、遺体を目にした絵里はいかにも怪訝そうな顔で善子にいった。

駐在に駆け込んだ善子の報を受け、絵里が警官たちを引き連れて海沿いのむつの家に急行した。

海未「ま、また事件だそうですね」

十千万から自転車を借りて海未も駆けつけた。

そして――

鞠莉「遅くなってしまったわ……隣の街にまで診察に出ていたもんだから」

検視として絵里に要請された小原鞠莉がきた。彼女の恰好は初対面や法要の時とは違い、ちゃんと白衣を着ている。

鞠莉「ほらやっぱりぃ……またあの事件の続きですか?」

絵里「わからないわ。さあ、初めてちょうだい」

鞠莉「はい……」

心なしか声に元気がない。キョロキョロとしていて、何だかおびえているように感じた。

ダイヤの毒殺を見抜けなかったという点と、千歌が悶絶氏する前にシロップ漬けをつまみ食いしたことで絵里から容疑者として取り調べを受けた点――それを入れても、鞠莉の様子には何だか違和感を覚えた善子だった。

早速、むつの検視を始める。

261: 2023/08/05(土) 19:50:49.13 ID:5HqnTlqc.net
ひと通り見分したのあと、まず海未が尋ねた。

海未「やはり、毒ですか?」

鞠莉「そうみたい。解剖しないとわからないけど、おそらく同じものだと思う……」

絵里「氏亡時刻は?」

鞠莉「詳しくは……だいたい十四から十五時間という感じよ」

絵里「そうすると、昨日の夕方、日の入りのあとに膳のものを食べて氏んだ、ということになるわね……」

腕時計を見た絵里は天井の照明に目をやる。昼頃まで座敷の電気がつけっぱなしだった理由がわかった。

絵里「つまり夜に届けられた膳に、すでに毒が入っていた。そして広間の騒ぎを知らない校長はそのまま食べて、氏んだのね」

鞠莉「……」

絵里「千歌の次は校長……矢継ぎ早に人を毒頃していく。異常よ、本当に」

頭を抱えて愚痴をこぼしたあと、善子を見た。その目つきは相変わらずで、いやな気分になった。

海未「なるほど、なるほど」

一方、海未はあたりを慎重に見回して手がかりを探す。足元にある黒いシミに注目して、顔を近づけて目線を追う。

海未「……おや、これは?」

その追跡の最中に、声をあげた海未。

散らかった膳の近くに置かれた、折りたたまれた紙片が目に入った。

262: 2023/08/05(土) 19:52:48.37 ID:5HqnTlqc.net
海未「ややっ、こ、これは……!」

紙片を拾い上げ、広げたとたんに興奮して叫ぶ。その場にいた全員が一斉に海未のほうを見た。

絵里「大声をあげて、いったいどうしたの?」

海未「あっ、これは失礼しました……」

海未「ですが、見てください!この紙に書かれた内容を……!」

興奮冷めやらぬという様子で絵里に紙を見せる。

絵里「……なによこの妙な名前の羅列?」

目を通した絵里は眉根にしわを寄せる。

海未「これはきっと、犯人が残した――」

海未「――犯行声明、ですよ」

その一枚の紙片は、ポケットに入る大きさの手帳を破いたような紙だった。そして、女が万年筆で描いたような横書きの文字が書き込まれている。

内容はこうであった。

263: 2023/08/05(土) 19:55:21.76 ID:5HqnTlqc.net
ミュウズ様の怒り

黒澤本家 ダイヤ
     ルビィ
     果南

分家   鹿角聖良
     渡辺家当主

弁護士  梨子

十千万  女将


――以上であった。なお、この紙片はすぐ下が破り取られており、以下に何が書かれてあったかは不明であった。
そして、この名前の羅列のなかでダイヤ、梨子、女将の名前の上に赤インクで棒が一直線にひかれていた。

265: 2023/08/06(日) 00:55:52.46 ID:7LaLO+j8.net
絵里「なんてこと……」

絶句する絵里。この紙片から、これまでバラバラだった事件の動機をひとつに結び付ける答えが見えてきた。

絵里「一か月前に起きたミュウズの祠への落雷。これは祟りの前ぶれだと花丸が村中に吹聴していた――それを聞いた犯人はその祟りを鎮めるために連続殺人を起こした」

絵里「二十四年前の惨劇を鮮明に覚えていて、その再来を恐れた者による犯行。この紙は、犯人の殺人計画書ということかしら……?」

海未「ありえますね」

絵里「そんな、そんな気違いめいた動機なんて……認められないわ」

何度も首を振る。村の迷信に突き動かされた犯行なんて、この技術革新の20世紀において到底、理解しがたい。

海未「そう考えると合点がいきます。ですが――」

海未「――昨日の件、この紙によって計画的に引き起こされたとすると妙なんです」

絵里「最後の部分ね。法要に現れたのは女将の高海志満ではなくて、女中の千歌だった」

海未「そうです、そうです。だから妙なんです……」

絵里「でも、千歌は十千万旅館を営む高海家の一族よ?いちおうの体裁を取り繕うことができるわ」

最も人の出入りが激しい法要が絶好の好機。危険を冒す側としては、急な変更も柔軟に対応してくるだろう。

海未「仮にそうだとすると。善子が毒入り膳を選び、千歌の前に出すことが確実でなければなりません……」

絵里「確かに……」

それに、と海未が付け足す。

海未「なぜ下が破り取られているのでしょう……?」

268: 2023/08/06(日) 13:19:13.26 ID:dlJ1+URD.net
絵里「……意図的か偶然なのかわからないわね」

海未の持っていた紙片をつまみあげ、目の前に近づけていう。

絵里「祟り伝説と結びつけた動機なら、標的の人数はあと二人必要よ。花丸は九つの生贄を捧げよ、と村中で言いふらしているわけだから」

海未「十中八九、わざとでしょう。それにこのメモの項目、あるべきなのに抜けている名前がひとつ。それはおそらく下にあったはず――」

海未「――学校長、むつ。そして、医者、小原鞠莉と」

海未は運び出される校長の遺体と、その場で立ちすくんでいる鞠莉を交互に見た。

鞠莉は黒澤家の分家で、本来なら鹿角や渡辺と並ぶ位置のはず。それなのに除外されているとなると、あえて別に書いたと推測される。

何か犯人の意図があるのではないか。

我々に狂気じみた動機を示して、欲求を満たしたいのか。あるいは――

絵里「やっぱり犯人は、祟りを妄信する者の犯行ということかしら」

海未「そうかもしれませんが、そうじゃないかもしれません」

絵里「?」

海未「それにしては巧妙な手口なんですよ。実に賢い犯人です――祟り伝説に取りつかれた者の犯行だと、私は思えませんね」

海未「木を隠すなら、森の中。犯行動機を隠すなら、動機の中ですから」

千歌の事件が大きな違和感として海未の脳裏にとどまっていた。が、その隠された動機というものの正体が見えてこない。

海未は頭に手をやって考え込んだまま、黙りこくってしまった。

絵里「とにかく、このメモは誰が書いたか調べる必要があるわね」

そういうと、ようやくふたりは善子と曜のほうへ目を向けた。

269: 2023/08/06(日) 13:22:20.02 ID:dlJ1+URD.net
まず曜を呼びつけた。絵里の前にこわばった顔でやってくる。

曜「なんでしょうか……」

絵里「この文字、誰の筆跡か心当たりがあるかしら?」

紙片を見せる。それには手帳らしく日付が印刷されていた。犯人はこれをそのまま破り取ったのだ。

曜「さあ……でもなんか走り書きしたみたいで、女性の字だね」

絵里「村にこんな字を書く者は?万年筆を持っている人間はそういないはずよ」

曜「わかりません……」

絵里「そう。じゃあ、あなたは?」

善子「わからないわよ。この村に来たばかりだし」

海未「そうですか。では、ほかのひとに見せてみましょう」

ちょうどいいところに、と鞠莉を見る。立っていた彼女に絵里と共に向かう。

海未「先生、この筆跡に見覚えありませんか?」

鞠莉に紙片を見せた瞬間、電流が流れたようにビクンと反応した。黄色い瞳の目を大きく見開き、唇が小刻みに震えている。

海未「おや、誰かご存知のようですね。この筆跡……」

その言葉で弾かれたように顔をあげた鞠莉は、明らかに動揺していた。

270: 2023/08/06(日) 13:24:41.69 ID:dlJ1+URD.net
鞠莉「知らない、知らないわッ!」

張り上げた声に一同が驚いていることに気付いた鞠莉は、ハッと我に返る。

鞠莉「あっ……あんまり奇怪なものが書いてあったから。オーバーリアクションしちゃったの!」

鞠莉「……誰がそんなもの書いたのかしら。とにかくこんな異常な……私は知らない、知らないわ」

曜の不思議そうな目に見つめられたまま、動揺のあまり声が震えていた。

鞠莉「知らないの、とにかく知らないんだから!」

何度もそう言い、あっけにとられた海未と絵里を残して玄関を飛び出す。そしてそのまま、足早に去っていった。

絵里「ずいぶん神経質ね。誰もあなたがやったとはいってないのに。昨日の取り調べがよほどこたえたのかしら……」

海未「……」

出て行った鞠莉の方向を見つめ、なにか思案にふけっていた海未だが、顔をあげると次の手掛かりの調査を始めた。

271: 2023/08/06(日) 21:19:30.33 ID:dlJ1+URD.net
海未「ところでこのシミ、台所から縁側までありますね」

じっくり畳に目をやった海未が絵里にいう。その黒い泥のシミは台所からむつが倒れていた座敷、そして外に出る縁側までベタベタと続いている。

絵里「これ、草鞋の跡よ。誰かが台所から外へうろついたようね」

善子も畳の間にあがってようやくその正体に気づいた。大きさは子供のような小さな足跡だった。

曜「変だよ、校長先生はきれい好きだから……こんなのあったらすぐ雑巾がけをするはずだけどなー」

海未「と、いうことは校長が亡くなったあとにやってきたんですね」

絵里「何者なのかしら、犯人……?」

首をひねる絵里。その様子に気づいた村の駐在警官が、絵里にその正体を教えてくれた。

絵里「――えっ、大食いの尼?ふうん、わかったわ」

海未「くわしく説明してください」

駐在から聞いたことを絵里が代弁した。

272: 2023/08/06(日) 21:29:00.52 ID:dlJ1+URD.net
絵里「あの足跡は大食いの尼よ。善子たちより先に校長の家に入り込んだということになるわ」

海未「なぜ騒がなかったのでしょう?」

絵里「盗みのために侵入したからよ。村人の家に入り込んで、野菜、米や芋、味噌といった食料を中心に盗んでいくクセがあるみたい。特にのっぽパンが好物らしいわ」

善子「まるで珍獣ね……」

絵里「村人もその程度だから見て見ぬふりをしてるけど、ときどき洗濯物や雑貨を盗んで問題を起こして、そのたびに校長が哀れんで穏便に済ませてくれたみたい」

海未「それで、この家からは何が盗み出されています?」

再び駐在に尋ねる。

絵里「――あの尼、校長が氏んでいるのをいいことに、食料や雑貨を相当持ち出したみたいよ」

善子「どおりで……」

思わずつぶやく、下屋の裏口で花丸に遭遇したとき大きな風呂敷包みを背負っていた。あれは盗みの帰りで、だから自分に対してあんなことを口走ったのか。

海未「ん、なにかありましたか?」

善子「ええ。校長に呼び出されて、ここに行く途中に尼に会ったの」

下屋の裏口で起きたことを話す。すると、海未は驚いた様子で。

海未「では、善子がここに来る直前だったということですね!」

善子「え、ええ……」

どうしてそこまで探偵が食い気味だったのか、このときの善子はわからなかった。

絵里「……さて、どうして善子がここにいるのか。ちょっと話を聞かせてもらおうかしら」

善子は再び取り調べを受けるはめになった。

275: 2023/08/07(月) 22:43:13.12 ID:JwD3Slo1.net
絵里「校長先生に、この膳を届けるよう手配したのは誰?」

善子「わたしよ……会食の前に帰ろうとしていたから、ルビィに広間の会席膳とは別で用意するように頼んだの」

へえ、と絵里は片眉をひょいと上げていう。海未も興味深そうな目つきで見た。

絵里「よく気づいたわね……都会人のあなたが、そういう気遣いに長けているなんて」

ああ、また嫌疑をかけられた。善子はすぐ察した。

善子「私じゃないわ、曜が気づいてくれたの。私は、その……そういうのが苦手だから、助かったわ」

海未「そうなんですか?」

絵里の横で海未が身を乗り出してきた。

曜「そうだよ!善子ちゃんは慣れてないから、教えてあげたんだ」

善子「そのあと、台所に行ってルビィに頼んだら、よしみと女中が用意してたわ」

海未「台所で指示したあと、どうしました?」

善子「ルビィが、もうすぐお斎の時間だから膳を運んでほしいといって、すぐにあの会席膳を持って広間にいったわ……」

海未「つまり、出来上がった校長先生の膳は台所にあった。そのあとすぐにお斎が始まったなら、広間にいた人間はこの膳に近づくことはできませんね……」

善子「……ううん、そうとも限らないわ」

海未「と、いうと?」

少し考えたあと、善子は口を開く。

昨日は千歌の壮絶な最期を間近で見たあまり、気が動転していて忘れていたが、冷静になっている今はしっかり口に出せる。

――あの人物が怪しい、と。

277: 2023/08/07(月) 22:48:20.33 ID:JwD3Slo1.net
善子「台所の会席膳がいつ屋敷を出たのかわからないけど。もし、あの騒ぎのあとだったら、広間にいた人間でも可能だと思う」

海未「十千万の千歌が毒殺されたときですね」

善子「ええ。苦しんだ直後に水を求めてた……そのときに何名か広間を出ていったの」

善子「そして、あの断末魔と痙攣で動かなくなったときも、叫び声をあげて出て行った人間がいたわ」

無理もない。あのとき腰が抜けていなかったら、善子自身も飛び出していただろう。それほどショックな光景だった。

海未「そのとき広間を出た人間に心当たりはありますか?」

善子「さあ、全員までは。でも、ひとりだけ覚えているわ――」

善子「――鹿角聖良よ」

一斉に全員の注目を浴びた。

そこで海未が深く尋ねてきたので、聖良が水を持っていくために広間を出たことを思い出せる限り詳細に語った。

海未「ところで、善子は逃げ出さなかったんですか?」

善子「そうしたかったけど、無理よ。だって、苦しんでいる千歌の前で腰を抜かして動けなかったもの」

曜「そうだよ、証人なら私がいるよ!」

278: 2023/08/07(月) 22:51:45.86 ID:JwD3Slo1.net
海未「なるほど……これは校長の膳がいつでたか、それを運んだ人物、そして聖良への聴取が必要ですね」

海未「あと青酸カリの出どころの詳しい調査も……あっ!」

絵里「……」

呆れた表情で腕組みをしていることに、今さら気づく。ついつい、探偵としての悪い癖が出てしまった。

海未「これは失礼、つい出しゃばってしまいした」

ばつが悪そうな笑みを浮かべて絵里に譲る。そのとき、まったく相変わらずなんだから、とぼやきが飛んできた。

絵里「氏因となった会席膳のことはあとで捜査するとして。どうしてあなたは校長のところに来たのか、聞かせてもらうわよ」

なぜ善子が氏体の第一発見者、いや二番目になったのか。その訳を絵里と海未に話した。

――自分の身の上を知っているということ、そして聞きたかった洞窟と関係があるウトウヤスタカというものについて。

後者はいちおう、本当のことは伏せて噂で聞いたということにしておいた。

279: 2023/08/07(月) 22:55:32.07 ID:JwD3Slo1.net
絵里「事情はわかったわ。で、善子は校長のいう大事な話に心当たりはあるの?」

善子「ないわ、だから聞きにここまで来たの。そしたら、これよ……」

ぶっきらぼうに言う。大事なブレスレットまで失ったのに、結果は手ぶらはおろか再び殺人の容疑者としてやり玉にあげられたからだ。

絵里「どうも妙ね、みんなあなたと関わりを持つと大事な場面で氏んでいく。善子はどうやら殺人と縁があるみたいね」

善子「んなっ……」

なりたくてなったものじゃない、と声を大にして否定したかったが、やめた。

花丸の妄言が、ますます現実味を帯びてきたからだ。

オカルトなんて娯楽としかとらえていない善子に、得体の知れない何かが忍び寄っているような気がしていた。

思わず背筋がぞくりとして黙っていると、海未が話題を変えるように口を開く。

海未「ウトウヤスタカ……これは人名でしょうか?曜、あなたはご存知ですか」

曜「そんな名字のひと、下屋の周辺には住んでないなー」

海未と共に首をひねる。地元の人間でもわからないらしい。

海未「……その名称か人名、気になりますね。私のほうでも調査しましょう」

そういうと、帽子を被って外に飛び出していった。

絵里「ちょっと海未……!」

すでに姿を見失ってしまい、ため息をつく絵里。

そのあと善子は様々な事情聴取を受けたあと、やっと夕方になって解放された。

281: 2023/08/08(火) 22:17:28.67 ID:CmNb+h6U.net
ルビィ「お帰りなさい。その……大丈夫だった?」

家に帰ると、門の前にルビィが立っていた。いてもたってもいられなくて外に出て待っていたのか、心配そうに善子の顔を見つめていた。

善子「大丈夫よ、ありがとう」

自分でも驚くほどあっさりと答えた。目の前で四人も氏んだというのに、もう慣れてしまったような口ぶりに対し、自己嫌悪がわいてくる。

夕食の前にルビィと少し話をした。

ちょうど善子が絵里のところにいるとき、別の刑事たちが屋敷にやってきてルビィとよしみたち女中も取り調べを受けたそうだ。

善子「どんなことを聞いてきたの?」

ルビィに尋ねると、詳細を話してくれた。絵里の指示を受け、刑事たちは校長のむつに届けた会席膳のことについて聞いてきたとのこと。

まずあの膳は、善子とルビィがふたつの膳を届けにいったあとに作られた。そして台所を出たのは広間で騒ぎが起きてすぐのことだったらしい。

例の膳を運んだ奉公人のいつきの話によると、よしみから頼まれて台所にいくと、用意された膳がひとつだけあった。

そのとき台所には誰もおらず、近くでドタドタと誰かの足音と広間のほうから騒ぎ声が聞こえたらしい。いつきは酒を振る舞ってどんちゃん騒ぎでもしているのだろうと気にも留めず、そのまま屋敷を出たそうだ。

千歌が苦しみだして鞠莉が氏亡確認するまでの間、聖良を含め何名かが広間を飛び出したことを考えると、犯人は絶妙なタイミングでいつきに見られることなく、毒を入れられたのだ。

あの騒ぎが毒だといつきが気づいていれば、校長に伝えて彼女も怪しんで食べなかっただろう……。

そう思うと、むつは実に不運だったと善子は哀れに思った。

282: 2023/08/08(火) 22:25:43.82 ID:CmNb+h6U.net
あんなことがあったというのに、夕食では箸が進んだ。昼も食べずに取り調べを受けていたせいである。

母屋で果南を入れて三人で食事をしていたとき、ルビィがそのことを話題にしたが、果南は何の反応も示さずただ聞き耳を立てるだけだった。

果南がこの日、朝から出かけていたのは身体の調子が良いので海を見に行った、とのこと。

海沿いで殺人事件があったのに、ずいぶんノンキなものだ。善子は呆れてしまった。

善子「……ごちそうさま」

取り調べで疲れていたが、同時に離れのほうへ早く引き上げようと考えていた。

昨日は法要と千歌の騒動でまったく出来なかった、納戸の地下にある洞窟の探検を再開しようと心に決めていたからだ。

校長からの手掛かりが消えた以上、自分でやるしかない。

この家にいてもやることがない善子にとって今一番、使命感を持って取り組めるものだった。

入浴を済ませて離れに戻ると、雨戸は閉じてあり布団が敷かれていた。

その寝床に目もくれず、善子は探検の準備をする。

今回は母からもらった御守り袋の中身――この洞窟の地図を持っていくことにした。

善子「よし、いこっか」

明かりを消して、納戸へ向かう。

283: 2023/08/08(火) 22:36:38.40 ID:CmNb+h6U.net
納戸へ着いて、慣れた手つきで収納箱を押す。

すぐにゴォッを風が吹きこむ音がし、真っ黒で四角い地底世界への入り口が現れた。

懐中電灯片手に穴の中へ。ちょうど頭が床下に入ったので、取っ手をつかんでしめようとした途端――

善子「あたっ……!」

自慢のお団子が箱にぶつかった。反射的に頭を引っ込め、すぐに手で無事を確認してそのまま地下へ。

善子「まったく、今日はついてないわ……」

そうぼやきながら、石段を下りて洞窟を進む。

分かれ道で地図を広げ、おととい聖良と遭遇した鬼の口とは別方向を目指すことにした。

善子「何となくわかるような、わからないような……」

地図とはいっても、名称と入り組んだ洞窟を書き込んだだけの代物。あくまでも大まかな見取り図という感じである。

善子「今度は左ね」

進路を決め、新たな方向へ進んでいった。

287: 2023/08/09(水) 22:57:06.04 ID:uBKCq3VI.net
岩とも塗料ともつかぬ真っ白いものに覆われた洞窟を無言で進んでいく。中はとても静かで、天井からしたたるしずくの音と善子が踏んだ水たまりの音が何度も何度も反響している。

このあたりは石灰成分を含んだ地下水が、数百年の月日を経て洞窟にしみだして石灰岩のうすい層を形成していた。

ゆえに洞内は風呂場のように空間が密封されており、音が反響するのである。

一度、善子は手を叩いてみた。

善子「まるでこだまみたいね」

あちこちで響いていく様子に納得する。

――今回目指すのは、蓮華座と針千本。名前からして大体どういうものか想像がつくが、この目で見てみたい。

絶対に忘れないように、と母が歌で遺した場所。なにかあるはず。

暗く狭い空間のなか、期待と不安を抱えながら歩き続けた。

288: 2023/08/09(水) 23:00:45.79 ID:uBKCq3VI.net
この細長い乳白色のトンネルを抜けると、やや開けた空間に出た。三つの分かれ道がある。

地図を開いてみた。

善子「左はそのままいくと、ここの中央の穴に出る……つまり元の位置に帰ってくるのね」

善子「じゃあ、こっち」

右を選ぶ。地図が無ければ、ここでグルグルと迷っていただろう。

――果南はどうして迷わないのだろう。この洞窟を知り尽くしているのか。

その先に一体何があるのか。ますます探求心が刺激される。

どんどん地底の奥深くへ進む感覚を味わいながら長い地下道を進んでいくと、再び開けた空間に出た。

善子「細い道の次は空間、そしてまた細い道……本当、洞窟って変な場所」

まるで巨大生物の腸内をうろついているようだ。善子は同じ景色の連続にぼやく。

ここはどんなものがあるのだろう、懐中電灯でゆっくり照らして空間を調べていくと。

善子「……だっ、誰よッ!」

驚いて叫ぶ。

懐中電灯が一瞬、照らしたその先――平たい大きな岩石の上に、人の影が見えたからだ。

289: 2023/08/09(水) 23:03:19.51 ID:uBKCq3VI.net
この暗い洞窟に現れた自分以外の人間。驚いた善子はその妙な影に向かって光源を照射し続け、目をこらした。

だが、距離が離れているせいか薄っすらとしか見えず、その輪郭もあいまいで男か女か不明であった。

善子「そこにいるのは誰よ!」

強い口調で呼びかけてみるが、それは動く気配がない。

待ち構えているのか、それとも……。

普段の善子なら怖くて動けなかったろう。なぜかその時は、正体をつきとめてやろうという勇敢さが勝っていた。

善子「あっそう、それならこっちから行くわよ……!」

そいつを見失わないよう懐中電灯で照らしながら、歩みを早めて一気に詰め寄る。

ついにそいつの足もと――台座のような岩まで迫った。

そこまで近づいても、その人影は無言のまま動かない。そして、ようやくその姿がはっきりと見えた。

善子「……何よ、ただの甲冑じゃない。脅かさないでよ」

安堵して悪態をつく。

岩の上にあるその甲冑は、戦国時代の武将がつけるもので、四角い箱の上に腰かけていた。

まるで本陣で鎮座する戦国大名みたいに堂々としている。

善子「こんなところに置いているから、ボロボロね……」

長い年月が経っているのか、鎧のあちこちが風化し、金属部分にいたってはすっかり錆びに覆われている。

善子「きっと果南のいたずらね。鎧の置物で人を驚かせようって魂胆でしょ」

肩をすくめた。

290: 2023/08/09(水) 23:05:48.19 ID:uBKCq3VI.net
正体がわかって落ち着いた善子は辺りを照らす。

そこらの岩壁から石灰を含んだ水がしみだしているのだろう、それが上から下へ同じ場所を長い年月も流れ続けたため、岩に白い模様を形成していた。

まるで花びら――蓮の花ような模様が刻まれた大きな岩である。

善子「蓮華座とはこの場所ね。あるのは仏様じゃなくて悪趣味な鎧武者だけど……」

苦笑いを鎧武者に向けた。そのとき、ふと気になった。

しかし、この置物――長い年月も経っているのにしっかりと固定されている。中が空洞ならそうはいかないはずだ。

善子「中に人形でも入っているのかな……」

興味本位でその鎧武者の胸当てに光の環を向け、徐々に上に向けていく。

首元から、最後に兜との間――顔の部分を照らす。

顔を見たとき、大変驚いた善子は平たい口から勢いよく息を吸う。ヒイッという音が鳴った。


善子「アッ……あぁ……!」


冷水を浴びたように背筋が凍え、足がガクガクと震えて収まりがつかなかった。

中に入っているのは人形ではなかった。

292: 2023/08/09(水) 23:09:14.71 ID:uBKCq3VI.net
鎧の中身は目をカッと見開いて善子を身動きせず見下ろしていた。灰色とも白ともつかないその顔の輪郭は人形の固さではない。

むしろ人肌のような瑞々しさもあり、光に照らされてスベスベして光沢がある。まるで石鹸のようだった。

黒い瞳は白く濁り、乾いた唇はキッと真一文字に結んでいた。

顔つきからは四十か五十代の男性であると推測できる。

――そう、中身は氏体である。それは鎧を着た氏体だったのだ。

思わず氏体と目が合った善子の顔から一気に血の気が引く。震えが止まらずカチカチと歯が音を立てる。

ようやく緊張が解け、反射的に行動を起こす。


善子「ぎにゃああああああ!」


力いっぱい叫び、弾かれるようにこの場から逃げ出す。

善子の悲鳴は洞窟中に響き渡る。きっと、洞窟の外からでも聞こえたに違いない。

全力で走る。氏に物狂いで来た道を引き返し、この恐ろしい洞窟から一刻も早く逃避を試みた。

一直線の地下道をまともに照らさず、走り続けたそのとき。

ドンッと何かやわらかい物体にぶつかった。

「イッ……!」

それは善子の身体に弾かれ、声をあげて地面に大きく尻もちをつく。

ぶつかったのは物ではない、生き物だ。


善子「ぎゃああああ!」

「ピギャアアアア!」


互いの叫び声が洞窟に大きく反響した。

295: 2023/08/10(木) 22:46:32.68 ID:CSBWZTiY.net
「だ、だれでしゅか……そこにいるのは……」

その生物いや、人物は弱弱しい声で暗闇へ呼びかける。気づいた善子は懐中電灯で相手を照らした。

善子「ルビィ……?」

光のその先には見慣れた人物。

桃色のキャミソールワンピースを着たルビィだった。尻もちをついた彼女は、猛獣に追い込まれた小動物みたいにガタガタと震え、怯えきった様子でそこいた。

善子「そこにいるのはルビィね。私よ、善子よ」

ルビィ「よ、善子ちゃぁなの?よかったぁ……」

震えが止まり、安心しきった様子のルビィ。それに対し、善子は思わず顔を背ける。

善子「……ねえ、早く立ってよ」

ルビィへ手を差し伸べ、顔を赤らめて恥ずかしそうにいった。尻もちをついたルビィの姿勢は、目のやり場に困るものだったからだ。

やむを得ない状況とはいえ、目の前で若い女性が股ぐらを大きく開けている光景は、善子には刺激が強すぎた。

ルビィ「あ、ありがとう……」

それを知らず、手を借りた礼を言う。その無邪気な笑みが善子の罪悪感をかき立てる。

296: 2023/08/10(木) 22:48:44.43 ID:CSBWZTiY.net
善子「ルビィ、こんなところで何をしている――」

ルビィ「――それはルビィが聞きたいよぉ」

翡翠の瞳を細め、怪しむような眼差しを向けた。

善子「それについては後で話すわ。で、ルビィはここで何をしていたの」

ルビィ「ぅゅ……?」

善子「離れの下にこんな洞窟があったなんて、ルビィはそれを知っていたの?」

ルビィ「ううん、知らない。こんなところ、初めて来たよ……」

両手を胸元に持ってきて、怯えた様子であたりを見回していた。

ルビィ「でも、昔聞いたことあるんだ……。この屋敷、とくに離れに沼津藩のお殿様がお泊まりになるってときに、もしもの時の脱出用として山の洞窟と繋げたって」

ルビィ「もうとっくに埋まったと果南様が言っていたのに……」

本当にあったなんて、と最後につぶやいた。

善子「で、ルビィはここにどこからどうやって入ってきたの?」

問い詰めるかのような善子の様子に、ルビィは少しためらったあとジッと見つめ。

ルビィ「――善子ちゃんを探してここに来たの」

297: 2023/08/10(木) 22:51:05.76 ID:CSBWZTiY.net
ルビィ「今夜は蚊がやたら多いから、離れに蚊取り線香を持っていったの。そしたら、座敷のどこにもいなかった」

ルビィ「きっと便所だろうと、しばらく座敷で待っていたんだけど、まったく来ない。戸締りはしてあるし、雨戸もあるのに善子ちゃんだけがいない――」

ルビィ「――そこで思い出したの、子供のころに聞いたこの抜け穴のこと」

ルビィ「あちこち探し回って、最後に納戸を調べたら……真ん中の収納箱が少しずれていて、小さな隙間を見つけたの」

善子「あっ……!」

入るときに起きたことを思い出す。ぶつかった団子の無事を確認するあまり、箱をしっかり閉じていなかった。

ルビィ「それからロウソクを持って入ってみたんだけど、ここで火が消えちゃって、しかも叫び声が聞こえてきて怖くなって震えてたら、そこで――」

善子「私とぶつかったわけね」

そういうと、ルビィは小さくうなずいた。

300: 2023/08/11(金) 07:48:21.76 ID:kr4dowz2.net
ルビィ「ねぇ、善子ちゃんはどうしてこの場所を知ってるの……?」

善子「……あとでちゃんと話すわ。その前に」

善子「来て、ちょっと見てほしいものがあるの」

ルビィ「うん……」

不思議そうな顔でうなずく。無邪気で、危なっかしい姉――庇護欲がわいた善子は手を差し伸べる。

善子「ほら、ここは暗くて危ないから……手、貸すわ」

ルビィ「うん……ありがとう……」

差し伸べられた手に一瞬、きょとんとしていたが、小さく笑って善子の手を握る。そして、ほんの少し頬を赤らめた。

なんだか複雑な思いを心を抱えたまま、ルビィと共に再び洞窟を潜っていく。

善子「――見て。ほら、あれよ」

蓮華座の上、例の鎧武者を指さした。

ルビィ「ピギッ!」

小さな叫び声をあげて、善子の背中にしがみつく。落ち着かせたあと、ゆっくりと前に出て観察する。

ルビィ「あれは――」

ルビィ「変だよぉ……誰がこんなところに持ってきたんだろう」

首をかしげていた。

善子「どういうこと?ルビィはあの甲冑を知っているのね?」

ルビィ「うん……ずっと前にみたことあるもん。あれは、ずっと昔――ルビィの先祖が落ち武者から手に入れたものなの」

ああ、と善子は察した。曜から聞いた、ミュウズ様の原形となった九人の姫と落ち武者たちのことを。

301: 2023/08/11(金) 22:34:44.26 ID:kr4dowz2.net
ルビィ「善子ちゃんは知ってるよね?ミュウズ様の由来」

善子「ええ、知ってるわ」

ルビィ「そのミュウズ様――もとは小田原城から落ちのびてきた九人のなかに、弓術や武芸が達者な女傑がいたの。この甲冑は、あの宴会での襲撃で傷だらけになりながら、最後まで抵抗して村人に恐怖を植え付けた彼女のものなんだ」

善子「へえ……」

そんな怨念と憎悪が込められた、呪物に等しい物を黒澤家が後生大事に持っていたとは。それほど祟りに畏怖していたのだろう。

ルビィ「きっと果南様が昔、ここに運び込んだのかも……」

なんのために、と首をかしげるルビィに、善子は指をさして鎧武者をよく見るよう促す。

善子「ルビィ、あの甲冑のことはよくわかったから、よく見て……中身の顔よ。あれは、だれなの?」

ルビィ「やだなぁ善子ちゃん……中には何も入って――」

善子「よく見て。あの、兜の中よ」

真剣な表情の善子を前にして、ただならぬ気配を感じ取ったルビィは目をこらした。

そのすぐあと、ルビィは目を大きく見開き、呼吸が荒くなった。

ルビィ「……嘘、嘘、嘘だよ。なにかの間違いだよね、ね?」

ルビィ「うん、ルビィはきっと夢を見ているんだ。夢、夢なの夢」

善子「ルビィ……?しっかりして」

瞬きひとつしない目で虚空を見つめ、ブツブツと独り言を唱えるルビィに呼びかける。正気に戻るよう、両手でがっしりと肩をつかんでゆすった。

善子「ねえ、ルビィ!あれは誰なの、いったい誰なの……!」

ルビィ「あっ、善子ちゃん……あれは、二十四年前に山に逃げて行方不明になった――」

ルビィ「――ルビィのお父様、だよ」

善子「ええっ……!」

驚きのあまり懐中電灯を取り落としそうになる。

302: 2023/08/11(金) 22:36:39.63 ID:kr4dowz2.net
善子「じゃあ、あの氏体は……黒澤輝石なの……?」

やっと声を絞り出す。

わなわな震えながら、ルビィはうなずいた。

善子「ちょっと待ってよ。あの氏体……どうみても二十四年前のものに見えないわよ」

善子は戸惑った。あの甲冑の風化具合からみても、二十年相当の年月が経っていることは明らかだった。だが、中身の人間は腐敗し白骨化せず生気のない顔のまま残っている。

ルビィ「見間違えないよ、あの顔……あのときのお父様だもん……」

それだけいうと、わっと泣き出して善子の胸に飛び込んだ。善子は黙ってすがりつくルビィを抱きすくめる。

無理もない。

行方不明の父親が変わり果てた姿で――しかも、甲冑を着せられ二十四年も腐らず地底の奥深くに閉じ込められていたのだから。

しかしなぜ、氷点下でもないこの洞窟に置いても腐れないのか……。

善子「そっか……わかったわ」

昔読んだ書物に、その答えがあったのを思い出した。

303: 2023/08/11(金) 22:41:29.30 ID:kr4dowz2.net
――屍蝋化。

湿度が高く、気温が一定の場所に氏体を安置するとまれに起こる現象だと書物にあった。

氏体の脂肪分が、外の湿気と結びついたことで変質し、氏体の表面を蝋のような物質が油膜となって覆い、腐敗が止まってしまうらしい。

だから長い年月が経っても、氏亡した当時のままの姿を残す。

その自然のいたずらを、西洋では神の奇跡だとして教会で崇拝しているらしい。

善子「本で読んだことあるけど、日本でも屍蝋になるのね……」

百聞は一見にしかず、半ば関心して鎧武者と化した黒澤輝石を見上げる。

欲望のままに母をいたぶり、三十六人も頃して山に逃げた父親の哀れな末路と考えれば、もの悲しさだけが善子の心に残った。

善子が蓮華座のすぐ下を懐中電灯で照らすと、線香をあげたと思しき灰とススの跡があった。

善子「果南はきっとここに来てた……お参りの正体はこれね」

自分にわかめ酒を飲ませて昏睡させるという、回りくどい一連の行動を理解する。この洞窟に眠る黒澤輝石を誰にも見せたくないから、だと。


そして、善子の関心はルビィに移る。

ルビィはずっと懐にしがみつき、声を頃して泣いていた。体の震えも止まらない様子だった。

今日はこれ以上、洞窟を調べることは出来なさそうだ。

善子「ルビィ、もう帰ろう。布団で休んだほうがいいわ」

優しくそう呼びかけ、その小さな体を支えつつ、離れに戻った。

307: 2023/08/12(土) 22:04:14.22 ID:R6UiyZN0.net
納戸の箱で扉をきっちり閉め、離れの座敷に敷いてある布団でルビィを休ませる。

明るい場所に戻って初めてわかったが、ルビィの顔色はだいぶ悪かった。

ルビィ「ごめんね……善子ちゃん……」

善子「気にすることないわよ」

ルビィ「うん、ありがとう……」

水で濡らした手ぬぐいで額の汗をふいてやる。そして、団扇であおぎながらルビィの心が落ち着くまでそばにいてやることにした。

ルビィ「ねぇ、善子ちゃんはどうしてあの抜け穴のことを知ってるの?いつ納戸の入り口に気づいたの……?」

枕元にいる善子に顔を向けて尋ねる。あとで答えると言ったことを今、思い出したようだ。

善子「実はおととい――」

初七日法要の前日の晩のことを全て話す。果南にわかめ酒を飲まされ、眠らされている間にコソコソとよしみと納戸へ入っていったことを。

ルビィ「じゃあ、果南様が……」

善子「そうみたい。どういう日にちでお参りするのかわからないけど」

ルビィ「それじゃ……あそこにお父様がいたことも……」

善子「そうかもね」

同調した瞬間、みるみる顔色が悪くなったルビィは、急に布団のなかに顔をうずめた。あまりに素早かったので善子はぎょっとした。

308: 2023/08/12(土) 22:05:31.69 ID:R6UiyZN0.net
善子「んなっ、どうしたの!」

団扇を放り、丸くなった布団に手をやる。布団越しにもルビィが震えているのが、自分の手からしっかり伝わっていた。

善子「どうしたの、ねぇどうしたの?」

ルビィ「善子ちゃん、怖い、怖いよぉ……やっぱりあのとき、お父様を……」

ルビィ「きっとそう。果南様が……」

布団の中からルビィのくぐもった声がする。

善子「落ち着いて!私はずっとここにいるから」

しばらく呼びかけ続けていると、ようやく震えが収まったのか、丸まった布団から顔を出した。

ルビィ「――これは善子ちゃんだから話すよ」

絶対に誰にも言わないで、と断りを入れたルビィ。うなずいた善子の顔をジッと見つめつつ、話を始めた。

内容はこうである。

309: 2023/08/12(土) 22:15:16.37 ID:R6UiyZN0.net
二十四年前、あの事件のあと。ルビィは母親が刀で殺される恐怖の瞬間が脳裏に焼き付いて毎晩、眠れない日が続いていた。

母の血が顔にこびり付く錯覚と、発狂した父親のおぞましい顔を突如鮮明に思い出す心的外傷の症状を起こしていたのだ。

そんなルビィを哀れみ、ダイヤと果南が付きっきりで添い寝をしてくれた。

しかし、数日ごとに果南がいないことがあった。

直接尋ねると、ちょっとした用事としか答えず、それを不審に思いつつも、子供のルビィはたいして気にせずそのまま寝ていた。

そんなある時、恐ろしい話を耳にしてしまう。

それは当時存命だった親戚と果南が、床についてまどろむルビィのそばで話していた事だった。

まだ幼かったのと、睡魔の影響で切れ切れの単語でしか覚えられず、こうヒソヒソと話していた。

――いつまでも続けられない、洞窟、逮捕されたら確実に氏刑になる、外に出せば大きな騒動、家のためにやるしかない。

そして最後に、弁当に毒を……と話していたそうだ。

310: 2023/08/12(土) 22:18:24.05 ID:R6UiyZN0.net
ルビィ「あんな恐ろしい会話は後にも先にも、その夜だけだった」

ルビィ「今夜あの甲冑に入ったお父様を見て、ようやくあの話の意味がわかったんだ……」

そういうと、目を伏せた。

善子「じゃあ……果南様はあの事件のあと、父をかくまっていたの?」

ルビィ「うん……」

善子は納得した。どうりで大勢の警官隊に包囲されて山狩りを行っても、見つからなかったわけだ。

きっと黒澤輝石はあの洞窟――蓮華座のあたりに隠れていて、食料や水はすべて果南や黒澤家の者が提供していたのだろう。

しかし、忍び寄る捜査の手と黒澤家の存亡に関わる事態に、世間体を恐れた果南らが弁当に毒物を入れて殺害した。

そのまま遺体を腐乱させ骨にして隠そうとしたが、遺体はなぜか腐らなかった。

果南たちは屍蝋化を知らなかったのだろう。とても驚き恐怖したに違いない。

ミュウズ様の原形となった九人が最初に住み着いた洞窟で起きたこの怪現象に対し、なにか神秘的なもの――スピリチュアルを感じたのだろう。

土蔵にあった甲冑を氏体に着せ、蓮華座の上に安置した。それを偶像として果南が定期的に参拝しているのだ。

なんてどす黒いことなのだろう。都合の悪い存在は毒で制する――これを黒澤家が脈々と受け継いできたものなのか。

善子はこの家と、あの果南という存在に恐怖さえ覚えた。

311: 2023/08/12(土) 22:22:39.67 ID:R6UiyZN0.net
善子「……よくわかったわ、ルビィ。このことはちゃんと内緒にしておくから」

ルビィ「お願い……もしお父様がいま見つかったら、ミュウズ様の祟りが現実になっちゃう。そうなったら村が大変なことに……」

起こりうる事態に恐れおののいたルビィは、布団のふちをギュッとつかんだ。

ルビィ「それにね、善子ちゃん。いま騒がれているあの毒殺事件、もしかしたらそのことと何か関係があるんじゃないかって……」

善子「えっ、まさか果南様が――」

ルビィ「――ううん、違う、違うよ」

強く否定しつつも、視線を泳がせたあと。

ルビィ「でも、おねぇちゃぁのことを思うと……」

善子「ダイヤのことね」

黒澤姉妹の父親を毒頃した果南が、ダイヤに対しても同じようにやったのではないか。そんな常識外れのことを、黒澤家の長老はやりかねないとルビィは内心恐れているのだろう。

善子「……そんなことあるはずないわよ」

そう答えるのが今できる精一杯の優しさであった。

その後、ようやく平静を取り戻したルビィを母屋へ帰し、善子は眠りについた。

314: 2023/08/13(日) 09:22:25.16 ID:DOC0yzBw.net
翌朝。朝食をとりに母屋へ向かうと、ルビィがいた。

善子「おはよう」

ルビィ「おはよう、善子ちゃん」

善子「大丈夫?目、赤いわね……」

ルビィ「えへへ、ちょっと眠れなかったの」

少し腫れた目を細めて苦笑していた。無理もない、変わり果てた父親と対面し、果南の後ろ暗い部分を思い出してしまったのだから。

このあと果南が現れ、一緒に朝食をとった。昨晩のあんなこともあってか、ルビィも善子も終始無言で食べていた。

そのあと離れに引き上げて、座敷でゴロゴロしたり読書で暇をつぶしていると、よしみがやってきて母屋に呼び出された。

――まさか、果南に洞窟のことを感付かれたのでは。

ドキドキと心臓が高鳴りつつ、母屋に向かうと。

海未「おはようございます。忙しいところ、申し訳ありません」

海未がひとりで座敷にあがっていた。

果南ではなくて安心すると共に、何か探りに来たのではないかと別のドキドキを抱く。

善子「海未、どうしたの……?」

海未「……そんなに警戒しなくてもいいですよ。ちょっと顔を見たくなったのと、お知らせしなくてはいけないことがありまして」

警戒している善子とは裏腹に、海未は穏やかな顔つきで。

善子「そう……で、なによ?」

後者のことを詳しく尋ねると、急に真面目な表情になって、こういった。



海未「――小原鞠莉が失踪しました」

317: 2023/08/14(月) 08:12:48.02 ID:n9Q2NGk8.net
善子「ええっ!失踪?」

思わず前のめりになる。個人的に聖良の次に怪しいと思っていた人物だったからだ。

海未「はい。昨晩、絵里と共に診療所に向かったら、いなかったのです」

海未「机に書き置きがあり――私は潔白であるが、あらぬ疑いをかけられたくないから、しばらく身を隠す――と、本人の字で書かれてありました」

海未「いま絵里が県全域に緊急配備を行うよう、手配中です」

善子「そう……あの紙はやっぱり鞠莉が書いたものだったの?」

海未に尋ねる。思えば、むつのときから様子がおかしかったし、例の紙片――犯人の殺人計画書を見せたとき激しく動揺していたからだ。

海未「はい、あれを書いたのは鞠莉です。破られる前の手帳から特定しました」

海未「その手帳は沼津の銀行が顧客に配っていたもので、この村では三つしか配布されていないことがわかったのです」

海未「黒澤家、渡辺家そして、小原家――」

海未「前のふたつは紙片の日付があるページが破り取られていませんでした。また、筆跡鑑定も行って特定に至ったというわけです。」

海未「さっそく事情聴取に診療所へ向かったのですが……遅かったですね……」

頭に手をやって残念がる海未。

善子「なるほどね」

善子は納得した。きっと海未が絵里に助言をして調べさせたのだろう、あのポンコツ警部がそこまで至るとは思えないからだ。

319: 2023/08/14(月) 22:54:50.34 ID:n9Q2NGk8.net
善子「じゃあ、鞠莉がこの事件の犯人なの?」

何だかあっけない結果に、善子は拍子抜けしていた。

標的を手帳に書いて、毒殺。あえて医者の区分を破り取ったのは、メモの全容解明を阻止する証拠隠滅のため。

極めつけは疑われ始めてから、失踪したことだ。これでは自分が犯人だと自供しているのに等しい。

しかし、探偵はそう思ってはいないようだった。頭に手をやってしばらく考えこんで、口を開く。

海未「どうでしょうね……何だか納得できないんですよ」

善子「と、いうと何よ?」

海未「あの紙を、なぜむつの氏体の近くに置いたのか、それとも偶然落としたのか。しかし、我々が紙を見せたときのあの分かりやすい動揺ぶりを考えると」

海未「もしかして、下の医者の区分が破られているのを見て、誰かが自分の書いた通りに実行していると察し、恐怖したのではないか――」

海未「――だから自ら姿を消した」

海未「だとすると……あの紙は鞠莉に疑いの目を集中させるために犯人が置いた、とも考えられますね。第三の殺人の不可解な状況にも一応の筋がつきます」

海未「とにかく、鞠莉を早く見つけないことには……」

そこまで推理できるとは、さすが探偵だ。善子は舌を巻く。

320: 2023/08/14(月) 22:58:03.33 ID:n9Q2NGk8.net
海未「あ、そうです。むつの家に盗みに入った花丸ですが――」

海未「――絵里が一晩中、取り調べても黙秘し続けたんですよ。何を見たかも、あの紙があったかどうかさえも答えない」

海未「どうしようもないのと鞠莉の失踪騒ぎで、ついさっき釈放したんです」

そういうと、困った、困ったと連呼した。

善子「早く犯人を見つけてよね、また私が絢瀬に疑われるじゃない」

海未「ははは……面目ありません」

善子がチクリというと、頭に手をやってばつが悪そうに答えた。

海未「それでは、私は調査があるので失礼します」

そういうと帽子を被り、そそくさと出て行った。

海未が出て行ったあと、ルビィに鞠莉の失踪を伝えると目を丸くして驚いていた。

ルビィ「本当に鞠莉さんなの?」

善子「さあ、海未はそこまで言ってなかったわ」

ルビィ「そっかぁ……ねぇ善子ちゃん」

そうつぶやいたあと、ルビィは真剣な面持ちで善子にいう。

ルビィ「――あの抜け穴、もう行くのはやめてほしいの」

善子「どうしてよ?」

ルビィ「……あんな怖いところで、善子ちゃんに何かあったらルビィはどうにかなっちゃいそうだもん」

善子「それは――」

ルビィ「……お願い」

翡翠の瞳を潤ませたルビィに、善子はうろたえた。

母の遺した手掛かりを探るため、無理な頼みだ。そう拒絶しようとしたのだが、ウルウルしたあの目を前に言い切れず、無言でうなずくしかなかった。

322: 2023/08/15(火) 08:08:59.07 ID:qtJV2Etx.net
夜になっても、鞠莉は見つからなかった。

静岡県警が緊急配備したものの、あの特徴的な見た目であるのに目撃情報もあがってこない状況に、捜査陣は困惑していた。

絵里「一体、どこに隠れたのかしら」

懐中電灯片手にあたりを見回しながらいう。

いま絵里は山の調査にいくという海未と一緒に山道を歩いていた。

この山道は、頂上付近にあるミュウズの祠と九つの墓石へと続く砂利道。この捜索を絵里は少し嫌がっていたが、駐在警官と村人数名に猟犬の帯同でようやく同意してくれたのだった。

海未「しかし、いい山ですね。熊もいないし、散策のしがいがある」

明るいときにちょっとした登山でも、というと絵里ににらまれた。

絵里「いずれにしても、明日の夜は山狩りをしなくてはいけないわね」

絵里「――で、鞠莉の匂いがするということでこの犬についてきているんだけど……」

訝しげに犬を見る。実際、最後に目撃されていたのは海沿いの道で、こことは正反対の位置だからだ。

ここは獣の直感を、と海未がいうので無理に自分に納得させている。

導かれるがままに山道を歩くと、祠の近くにある小さく開けた草原のあたりで犬の動きが止まる。

絵里「どうしたの。え、そこに洞窟がある……?」

猟犬を連れた村人が指さす。そこに目を向けると、まるで狐の巣穴のようにぽっかりと空いたほら穴を見つけた。

324: 2023/08/15(火) 22:14:45.89 ID:qtJV2Etx.net
その穴は縦横ともに数メートルほどの、人ひとりが十分に通れる大きさであった。穴は奥深くの地底世界へ続いており、入ろうとするものに何かしらの恐怖と不安を抱かせる。

海未「ほう……洞窟がこんなところにも」

絵里「この村の山は洞窟が多いの。落ち武者の隠れ家として最適よね」

ミュウズの九人がここに住み着いたのもうなずける。豊臣軍に急襲されても洞窟をつかって逃亡が容易に可能だからだ。

まさか、心を開いた村人にやられるとは思ってもいなかっただろう。

なんと不憫な者たちだ、海未はその無念さに同情する。

海未「――入ってみましょう。何か手掛かりがあるかもしれません」

絵里「そうね。あなたたち、入りなさい」

村人たちに指示を出す。

すると彼らは目を泳がせたり、顔を見合わせて、うろたえる。

絵里「なによ?どうしたの」

腰に手をやって眉根をひそめる絵里に、駐在が事情を説明した。

このミュウズの祠がある山の洞窟には伝承があり、九人のうち武芸者の女の霊が出るから村人は恐れて誰も入らないとのこと。

昔、その伝承を無視した者が洞窟に入り、その霊によって洞窟の奥深くへ連れ去られたそうだ。

絵里「ハァ……もう二十世紀よ。見えない原子で爆弾が作られる時代に何言ってるの」

そう悪態をつくも、村人は首を横に振るばかりである。このままではラチが明かないので海未が口を開く。

325: 2023/08/15(火) 22:19:24.82 ID:qtJV2Etx.net
海未「では、私と絵里が入りましょう。みなさんは周囲の捜索をお願いします――」

絵里「――ちょっと、待ちなさいよ!」

ギョッと目を丸く見開いて絵里がさえぎる。その顔は少し青ざめ、動揺の色が垣間見えた。

絵里「そ、そこは私たちより……彼らが最適よ。そう思わない、ねえ?」

海未「ですが。霊が出るといって断ってる以上、無理強いするわけには。むしろ私と絵里が最適ではありませんか」

海未「我々のような文明人の前に、幽霊も恐れをなしますよ。きっと」

にっこりとほほ笑む。

絵里「チカァ……」

しまいには言葉を詰まらせた。洞窟を前にうろたえた様子に、海未は絵里の弱点を察する。

海未「おや、暗いところは苦手ですか。鬼の絢瀬警部もお手上げとは――」

絵里「――そ、そんなわけないわ!ほら、行くわよ」

意気地のない男たちの前で強がる。手持ちの懐中電灯をブンブンと振って、勇み足で洞窟の前に立つ。

男勝りな乙女の強がりに、海未はフッと微笑する。

海未「では、行きましょうか。みなさん、二時間後、ここで落ち合いましょう」

駐在と村人たちにいい、ふたりで洞窟の奥へ入っていった。

329: 2023/08/16(水) 23:25:11.31 ID:v1CU5Jyn.net
真っ暗な洞窟の中を、ふたつの光は奥へと進んでいく。

海未「外と比べてだいぶ涼しいですね」

絵里「でも、ベタベタしてるわ……ヒャッ!」

海未「ど、どうしたんですか?」

小さな悲鳴をあげて飛び上がる様子に、驚いた海未。

絵里「う、上から冷たいものが首筋に!」

海未「鍾乳石ですね。天井から……ほら」

洞窟の上を照らすと、細い管のような石から水が滴り落ちてきている。

絵里「なんだ、脅かさないでよ……」

ホッと胸をなでおろす。女の幽霊にうなじをなでられたかと思ってしまった。

こうしておっかなびっくりの絵里と、落ち着いている海未はさらに深くへ進む。

やや下り勾配のある狭い地下道を通って、大きな空間に出た。

そこの地面には、だ円形の岩が筍のごとくあちこち無数に生えていた。光を照らすと、水にぬれていて白くツルツルした光沢がある。

この奇妙な岩は石筍といい、一直線に伸びた棒状のものから、丸みを帯びたこけし人形のようなものまである。すべて水を垂らす上の鍾乳石に向かって伸びていた。

絵里「奇妙な岩……大きいのから小さいのまで。人が隠れそうなくらいのもあるわね」

立ち止まって、地面の石筍たちに懐中電灯の明かりを照らし、絵里はつぶやいた。

絵里「こんなところに鞠莉は隠れているのかしら、海未――」

意見を求めて隣にいる同行者に光を向けた。

絵里「えっ……海未?」

だが、そこに誰もいなかった。

330: 2023/08/16(水) 23:27:40.00 ID:v1CU5Jyn.net
必氏に光の環を空間のあちこちに向けてみるが、海未は見当たらない。

絵里「えっ、噓でしょ……?」

冷たい水を浴びせられたように、絵里の背筋がぞくりとした。この真っ暗で奇妙な地底世界に取り残されたという、大きな不安と絶望が一気にわいてくる。

ここは肌寒く、じっとり湿っていて、淀んだ空気。しかも何だか音が聞こえてきた。闇からこちらへ忍び寄る音に対し、声を絞り出す。

絵里「う、う、海未……そこなの?」

海未「ここです」

絵里「ヒィッ……!」

突然、背後から聞こえた声に思わず飛び上がりそうになり、あわてて姿勢を立て直す。すぐに明かりを声の方へ向けると、海未がいた。

絵里「もうっ、脅かさないでよ……!」

その顔は、同行者が見つかった安心感と怒りでくしゃくしゃになっていた。

331: 2023/08/16(水) 23:31:03.45 ID:v1CU5Jyn.net
海未「すみません。ちょっと途中で小さな分かれ道があったので……」

海未「まっすぐ進んだら、ぐるりと回って絵里の背後にたどり着いたんです」

絵里「勝手に動いて……!」

そう口をとがらせると、すみませんと頭に手をやってばつがわるそうに謝った。

なんとか絵里をなだめたあと、辺りを照らしながら。

海未「しかし……ここは本当に迷路のように入り組んでますね」

海未「気を付けて前に進みましょう」

そういって、ふたりはさらに洞窟を進む。その途中、分かれ道に目印として手帳を破いて紙片を足もとに置いていった。

しばらく歩いていくと、先ほどより大きな空間にたどり着く。

海未「これは――」

絵里「なにこれ、池?」

そこには鍾乳石と奇妙な石たちに囲まれた、波ひとつない穏やかな地底湖があった。

ふたりは湖岸まで近づき、懐中電灯で湖を照らす。そして透き通った水面を覗き込む。

332: 2023/08/16(水) 23:35:52.97 ID:v1CU5Jyn.net
絵里「きれいね……」

海未「見てください。底の石、真珠みたいですね」

そこには白玉団子のようなつややかな同じ大きさの石が無数にあった。きっと、湖水に含まれる石灰成分が洞窟の小石にくっついて、長い年月をかけて形成されたのだろう。

立ち上がった海未は、懐中電灯で湖の周辺をゆっくり照らす。奥には裂けたような岩壁の割れ目があった。

ただし、そこに行くには深そうな湖をまっすぐ渡るか、湖岸伝いに歩いて行くしかなかった。その湖岸もツルツルした石灰の岩肌と尖った奇石で、歩くのは困難だろう。

海未「となると……」

今立っている位置の左右に、二つずつ洞窟があった。そのうち、左手にある数メートル上にある洞窟のひとつを照らしたその時。

――何か、黒い影が動いた。

海未は目を見張る。自らの直感が人影であることを告げていた。

海未「誰ですッ!そこにいるのは……!」

その人影に力強く叫ぶと、すぐに影は洞窟の奥へ引っ込んでいく。

絵里「なっ、そこに何か……!」

海未「絵里、追いましょう!」

絵里「わかってるわよ!」

すぐにその人影を追って、ふたりはその洞窟へ入っていった。

海未と絵里が去り、静寂と漆黒の暗闇が戻ってきた地底湖。


「いったみたいね……」


それを待っていたかのように大きな石筍から、ふたつの人影が出てきた。

335: 2023/08/17(木) 21:32:34.37 ID:8j88nPWt.net
影のうち、ひとりが手持ちの懐中電灯をつけた。その明かりに浮かび上がってきた顔は。

善子「見つからなくてよかったわ……」

善子であった。また今夜も洞窟を探検していたのだ。

ただし、今回の探検には同行者がいる。

ルビィ「も、もう大丈夫かなぁ……?」

すぐそばにいたルビィが不安そうにいう。その肩は小さく震えていた。

善子「もうっ、だから無理についてこないでもいいって言ったのに」

ルビィ「ぅゅ……だって善子ちゃんが心配なんだもの」

善子「怖いのに?」

ルビィ「怖いけど……ううん、怖くないよぉ……お姉ちゃんだから」

ブンブンと首を振ったルビィ。無理やりついてきた同行者に、善子は小さくため息をつく。

善子「はぁ……変なところで強情なんだから……」

この洞窟に入る前に起きたひと悶着を思い出していた。

336: 2023/08/17(木) 21:34:43.85 ID:8j88nPWt.net
実はルビィとの約束を破って、今夜再び洞窟探検を決行した。

氏蝋化した黒澤輝石は恐ろしかったが、母の遺した洞窟の手掛かりを探求したいという好奇心がそれより勝っていた。

秘密裏に準備を済ませ、いざ探検に。

そう意気込んで、障子を開け納戸につながる廊下に出た瞬間。

そこでルビィが待ち伏せていた。

通せんぼするルビィとにらみ合いの末、同行するという条件を突き付けられた善子は仕方なく同意。

もちろん、最初は拒否していたのだが……大声をあげるというので受け入れざるを得なかった。あのピギャー、という金切り声を出されたら屋敷中の人間が飛び起きてしまうからだ。

こうして善子はルビィと一緒に洞窟に入った。

337: 2023/08/17(木) 21:40:22.97 ID:8j88nPWt.net
ふたりは今夜の探検で、蓮華座の奥にある地下道から先へ進み、途中で地下道より真下にあったすり鉢状の場所を発見した。

そこは針の山のような石筍がたくさんあって、まさに針千本と呼ぶにふさわしい場所だった。

善子「この道で足を滑らせたら、あの石に串刺しね……」

ルビィ「ピギッ……」

こうしてふたりは恐る恐るその場を後にする。さらに進んで、この地底湖にたどり着いた。

ルビィ「……わあ、白いお団子がいっぱいだね」

善子「ええ。どうやらここが白玉の池、という場所みたいよ」

湖岸に立ち、水面を覗いて感嘆の声を漏らすルビィにいった。

善子「あたりを調べて――」

善子「――シッ、誰かくるわ!」

ルビィ「ピギッ……!」

そのとき、奥の洞窟からユラユラ揺れる明かりと共に何者かがやってくるのが見えた。

338: 2023/08/17(木) 22:09:58.04 ID:8j88nPWt.net
ときおり聞こえてくる話し声に耳をすませていると、海未と絵里のふたりだとわかった。

こんなところで出会ったら、とても厄介なことになる……。

そう直感した善子は急いで懐中電灯を消し、ルビィと一緒に大きな石筍の背後に隠れる。

そのうちに絵里と海未は大声を張り上げ、奥の洞窟へ駆け込んでいってしまった。

こうして、先ほどの状況が出来上がったのだ。

善子「ふぅ……」

なんとかやり過ごせたことに安堵すると共に、善子の胸中に小さな疑問が残った。

――ふたりは自分たちと正反対の方向へ行ったのだが、誰がいたのだろうか。それとも、洞窟の石を人影と見間違えたのか。

そんなことを考えていると、なんだか肌寒くなってきたので、善子は洞窟探検に集中することにした。

ルビィ「本当にきれいな湖!この村にこんな幻想的な場所があったなんて……」

善子「……ええ、そうね」

無邪気な姉の笑顔に心が癒された善子だった。

342: 2023/08/18(金) 07:30:53.10 ID:WWcLayBi.net
もう少し先を探検したい善子は考え込んだ。

ルビィに内緒で開いた地図には、この地底湖の奥にある割れ目の先に母が歌で遺した場所――白衣観音がある。

もしかしたら、そこにウトウヤスタカという最後の謎がわかるかもしれない。

すぐ行ってみたい、と思ったが今の手持ちの装備は懐中電灯だけである。

湖岸伝いに行くにしても、ルビィを連れている今は危険を伴うかもしれない。しばらく葛藤したのち、装備を調達して行くべきという結論に至った。

善子「ルビィ、次はあっちに行ってみよう」

洞窟を指さす。そこは絵里と海未が入った穴の隣だった。

ルビィ「うん」

善子「……ほら、手」

その洞窟は膝より上の段差があった。まず善子が先に上り、下のルビィに手を差し伸べる。

善子「……よっと!」

そしてルビィが伸ばした細い手をしっかり握って、一気に引き上げた。

ルビィ「ありがとう、善子ちゃん」

善子「さ、行くわよ」

地底湖を出て、穴に入っていく。しばらく同じ景色の地下道を進んでいくと、奥からここへ吹き込む風を感じた。

――外だ。

ふたりは歩みを進め、洞窟を出た。

345: 2023/08/18(金) 22:11:13.81 ID:WWcLayBi.net
善子「ここは……?」

ルビィ「村のはずれに来たみたい」

洞窟を出たふたりが立っているのは、山肌を切り開いたかのような平たい草原だった。その先は緩やかに下っている。

背後は急な崖と竹藪が茂っており、出てきた洞窟が見えた。

ここは九つ墓村を囲う三方の山のひとつで、今いる場所からは村の側面が見下ろせるようになっていた。

すっかり暗くなった村のはずれには畑や果樹園があり、そのすぐ下にはポツポツと人家の明かりが見える。

空は夏空らしい満天の星々と、富士山が見える方向からこちらへ白い尾を引いたような天の川が見えた。

ルビィ「みて、星の光が海に映っててきれい……!」

善子「そうね」

はしゃぐルビィに同意する。輝く星空と、反射して淡く明るい海――その景色はとても美しく、いつまでも記憶に焼き付けておきたいと思った。

善子「あんな事件が落ち着いたら、こうして星を見てゆっくり夜を過ごしたいわね」

ルビィ「……うん」

ゆっくりうなずいた。

346: 2023/08/18(金) 22:21:29.48 ID:WWcLayBi.net
そこでどれくらい星を見ていたのだろう。腕時計を持っていないので、わからなかったが長い時間、星を見ながらルビィと語り合った。

たわいもない事から、お互いの事、思い出話が次々と出てきた。特にルビィは、善子が義父と共に過ごした東京での生活に目を輝かせた。

いままで天涯孤独の人生を歩んできた善子にとって、異母姉との語らいは大変楽しく心休まるひと時だった。

善子「あっ……そろそろ帰ろっか」

ルビィ「うん」

すっかり真上にあった月をみて、帰り支度を始める。そのとき、ルビィが動きを止めた。

ルビィ「あれ?あの家――」

善子「どうしたの……?」

ルビィを見ると、足元から見える村の家々のうち、それらと離れた位置にある藁葺き屋根の家屋をジッと見つめていた。

つられて善子も注目する。

その家の窓、しめきった障子に人影が映り込んで、サッと奥へ消えた。それはほんの一瞬だったが、印象的な恰好をしていた。

復員軍人が被るような前つばの戦闘帽子を被った、背格好からみて男のような人影だった。

そしてすぐに部屋の明かりが消え、その家は真っ暗になった。

347: 2023/08/18(金) 22:30:15.48 ID:WWcLayBi.net
ルビィ「あっ……!」

その瞬間、ルビィは善子のもとへ寄った。その弾かれたような彼女の行動に驚いた。

善子「……?いったいどうしたのよ」

ルビィ「あの家、帽子を被った男の人がいたよね……?」

善子「それが?」

その問いに対し、首をかしげながらこういった。

ルビィ「あの家――花丸ちゃんの尼寺なの」

善子「えっ、大食いの尼の……!」

ギョッとした善子は再びあの家に目をやった。

そのあばら家――花丸の尼寺はずっと真っ暗なままで、人の気配など一切なく沈黙した様子だった。

ルビィ「そうだよ、尼寺なの。変だよぉ……こんな時間に男の人を入れるなんて、尼寺は男の人は入っちゃいけないところなのに。しかも電気を消して真っ暗にして……」

善子「……電気が消えてたらおかしいの?」

善子は眉をひそめる。ルビィはコクコクと何度もうなずいて。

ルビィ「だって、花丸ちゃんは明かりをつけっぱなしにして寝るんだもん。電気がないと眠れないんだって言ってたから……」

日常習慣に反する行動をしている花丸になんだか胸騒ぎがしたが、すぐにある連想をした善子はフッと鼻で笑った。

348: 2023/08/18(金) 22:35:30.43 ID:WWcLayBi.net
善子「……物好きな男もいるのね、あんなのを抱くなんて」

みだらな連想をした。ああいう者でも、人並みに肉体を欲するのか。

男を引き入れるなんて、ずいぶん俗っぽい尼である。

それに男も男だ――たて食う虫も好き好きとは、よく言ったものだ。確かに胸の大きさは善子自身も認めてはいるが。

この連想をルビィにそのまま伝えることはせず、早く帰るよう促す。

善子「とにかく……客が来たのよ、ほら、帰るわよ」

ルビィ「だっておかしいよ、お客様が来たのに電気を消すなんて――」

善子「――とにかく、ほら、帰るわよ!」

ルビィ「でも……」

まだ気になるのか、オロオロするルビィの手を引いて洞窟へ戻る。

来た道をそのまま戻って、離れに着いたころには花丸のことなどすっかり忘れていた。

座敷の時計を見たとき、針はもう深夜の一時をさしていた。

別れ際、母屋の寝床に戻るルビィに言い聞かせる。

善子「ルビィ、今日のことはくれぐれも果南様や家の者には――」

ルビィ「大丈夫、大丈夫。ルビィと善子ちゃぁの秘密だよ!」

笑顔でいうと、スタスタと離れを去っていく。それを見送ってすぐに善子も床についたのだった。

352: 2023/08/19(土) 21:52:55.93 ID:JnKg7Mdb.net
翌朝、いつものように母屋で朝食をとって離れに引き上げようとしたとき、よしみに呼び止められた。

よしみ「あの、玄関で善子様に会いたいという方が……」

誰かと尋ねれば、海未と絵里だった。

善子「わかった。広間に通してちょうだい」

もしかして昨日のことを見られたのか。気が気でない心持ちのまま広間へ向かう。

障子を開けて、座敷に入ると海未と絵里が正座して待っていた。

ふたりの顔を見たとき、何か異様な雰囲気を感じた。

海未はこちらの様子を観察するような目つきで、一方の絵里は険しい顔をますます険しくして善子をにらみつけている。

その目はまるで犯人と対峙するかのようであった。

やはり、昨日のことを……。そう思った善子は追い詰められた心境になる。

ふたりと対面するように座敷に座った。上座から一対二という構図で。

善子「あの、何か……?」

絵里「朝早くからどうもすみません。ちょっと聞きたいことがあって、ね」

善子「はぁ」

心臓のドキドキをおさえ、なんとか平静を装う。そして、次に来る質問に備えて身構える。

絵里「……昨日の夜、何をしてましたか?」

善子の背筋に緊張が走った。

353: 2023/08/19(土) 21:56:07.33 ID:JnKg7Mdb.net
善子「昨日の夜?ここの離れにいて寝てたけど、なに……?」

昨日のことは無かった。ルビィと口裏を合わせている以上、貫くことにする。

すると、絵里は眉根を寄せてしわをつくる。その次に、こう冷たく言い放った。

絵里「そう。実は昨日の夜――」

絵里「――大食いの尼が殺されたのよ」

善子「えっ……!」

その言葉にギョッと目を見開き、口も大きく開けてしまう。

障子に映った戦闘帽子を被った男のような人物と、明かりの消えた尼寺の景色が脳裏にしっかりと浮かびあがった。

――昨夜見た尼寺では、まさに殺人が行われていた最中だったのだ。

どうしてルビィが抱いた違和感を正直に受け止めて尼寺へ向かい、その帽子を被った犯人を見にいかなかったのか。

こいつこそ、この村で起きた一連の連続殺人犯なのだ。

善子はとても後悔した。そして、声を絞り出して絵里に尋ねる。

善子「また、毒……?」

絵里「いいえ、絞殺よ。手ぬぐいで思いっきり力を込めて、首を締めたみたいだわ」

善子「そう……」

どうしたらいいか言葉に詰まっていると、絵里がこう言ってきた。

354: 2023/08/19(土) 21:59:09.70 ID:JnKg7Mdb.net
絵里「いきなり背後から首を絞められた大食いの尼は、氏ぬまでに相当もがいたみたいなの」

絵里「それこそ、指先の爪がはがれて血が出るくらい。相手を掴んで強く抵抗した形跡があったわ」

淡々とした様子で切り出す絵里は、懐からハンカチに包まれた何かを取り出した。

絵里「これは、その氏体が握りしめていたものよ――」

絵里「――見覚え、あるかしら?」

ゆっくりと善子の前に置き、包んでいたハンカチを指でつまんでめくりあげる。

善子「あッ……!」

中身を見て思わず叫ぶ。眼前に広げられたハンカチの真ん中に、ブレスレットがあった。

これは下屋で花丸ともめたときに落とした物で間違いない。落とした本人が言うのだから。

善子「これ……私のブレスレット……」

そうつぶやいて、しまったと思った。

絵里と海未の疑惑に満ちた視線を浴びていることに、今さら気づいた。

358: 2023/08/19(土) 23:13:09.39 ID:JnKg7Mdb.net
絵里「あなたのブレスレット、どうして大食いの尼が持っていたのかしら?」

善子「し、知らないわよ!おととい、それを落としたから……」

絵里「……ずいぶん都合がいいわね。こうも考えられないかしら?」

絵里「犯人は腕にそれをつけていて、首を絞めた。大食いの尼は、必氏でもがいた末に腕のブレスレットを掴んでとった、と」

獲物を捕らえた狼のごとく、青い瞳をきらりと光らせた。

絵里「何度も絡まれ、ついカッとなって首を絞めた。動機は十分にあるわ」

善子「んなっ、違う……!」

絵里「さっさと自供しなさい!犯人はあなたね!」

強い口調でいう。この状態になってしまったら、いくら否定しても聞く耳を持っていない。

善子「私は何もやってない……!」

このままでは逮捕されてしまう……。完全に追い詰められた善子はうろたえた。

ならば昨日の、あの尼寺で見た人物のことを正直に話すべきか――そうなると、自分は離れから洞窟をつかって村のあちこちに出没できる存在として、疑惑の目がさらに深まってしまう。

しかも、一緒にいたルビィも疑いをかけられ、蓮華座の遺体も見つかってしまう。

事件はより複雑になって解決はおろか、村は大混乱に陥るだろう。

隠すか、話すか――どっちに転んでも最悪の展開だ。

何も反論できずただうつむいていたとき、善子の窮状を打開する一言が発せられた。



海未「……待ってください、絵里。善子に確認したいことがあるのです」

360: 2023/08/20(日) 22:48:39.22 ID:1Xyj93f9.net
海未「首を絞められた花丸は指の爪がはがれ、血が出るほど相手の腕に爪を立てて強くつかみかかったはずです」

海未「それなら、犯人の腕にひっかいた傷跡があるはず……」

腕を見せてください、と促された善子は左腕のシャツの袖をまくって、ふたりの目の前にかざす。

海未「……傷やあざがひとつもない、白いままですね」

絵里「確かに……」

絵里「でも、犯人がそれを想定して長袖だとしたら……あっ!」

ハッと気づいて海未の顔をみる。ゆっくりうなずく海未。

海未「シャツの袖の上からブレスレットを着ける人間は、そういないはずですよ」

絵里「……そうね」

絵里「だけど、犯人を指し示すために花丸が握ったということも考えられるじゃない」

海未「……首を絞められている状況で、ですか?意識がもうろうとしてる中で、難しいのでは」

絵里「たしかに……じゃあ、犯人が善子になすりつけるためにブレスレットを握らせたのね?」

海未「でしょう。これでようやく疑問が解決しましたよ」

あなたはではなさそうです、と海未がいったので善子はやっと平静を保つことができた。

361: 2023/08/20(日) 22:52:51.93 ID:1Xyj93f9.net
海未「そういえば。さっき、これを落としたといいましたね?」

善子「ええ」

海未「どこで落としたのですか?」

善子は一部始終を語った。

絵里「じゃあ、花丸と村人に絡まれて、下屋の近くで落としたことに間違いないのね」

善子「……間違いないわよ」

海未「ちなみに、このブレスレットはいつも着けているんですか?」

善子「着けるのは出かけるときと、人に会うときくらいだけよ。とても大事なものだから」

善子「――この村では、ダイヤと親戚に対面したときと、校長の家に行くときに着けたわ」 

そうですか、そうですか、と海未が納得したようにうなずく。何か手がかりになったのか。

絵里「ハァ……また捜査は振り出しね。これでは犯人の思うつぼじゃない」

海未「いえ、そうでもないですよ」

えっ、と驚いて海未の顔を見る絵里。つられて善子も注目した。

海未「この花丸の事件……これは犯人にとって想定外の殺人なんです。なぜなら、鞠莉が書いたあの紙片に花丸の名前はありませんからね」

海未「きっと、むつの事件の直後に花丸を殺害しなければいけなかった理由があったはずです。それがわかれば――」

絵里「――ようし!わかったわ!」

唐突に叫んだ絵里にふたりは驚いた。

362: 2023/08/20(日) 22:57:46.98 ID:1Xyj93f9.net
絵里「犯人は鞠莉ね!村のどこかで潜伏している姿を花丸に見られたのよ」

絵里「そこで口封じのためにやった、動機も十分ね。それが紙片とは別の、想定外の殺人になった!」

海未「そうでしょうか……?」

絵里「そうに決まってるわ!失踪したというのがその答えじゃない。しかも、あの紙片を書いたのも鞠莉本人なのよ」

海未「……」

その主張に対して、海未は沈黙したままだった。

未だに鞠莉があの紙片を書いた謎が解けず、本人の行方もつかめてないからだ。

絵里「花丸の件で中止した山狩り、明日、決行するわ!県警本部からの応援をさらに呼んで徹底的にやるわよ」

そうと決まれば、と座敷を立ち上がる。

海未「では、私は少し別の調査をします」

絵里と共に立ち上がると、挨拶もそこそこにふたりは足早に屋敷を去っていった。

善子「いったいなんだったのよ……」

朝から警部と探偵によって気持ちをかき乱され、すっかり疲れ切った善子は誰もいなくなった座敷でペタリと座り込むのだった。

善子「――九つ墓村?」【後編】