1: 2015/12/20(日) 22:32:41.85 ID:MQDzMCNk0.net
どうせ親の決めた縁談だ。くだらない旧時代のしがらみ、適当な理由をつけて断ってしまえばいい。

顔が気に食わない。性格が合いそうもない。まだまだ妻を娶るような歳ではない。

山のように考えた理由は妻を、海未を見た時に吹き飛んだ。

「不束者ですがよろしくお願い致します。」

そう、深々と下げた頭が美しい黒髪とともに、さらり、と上げられた時、思わず息を呑んだ。



――美しい。



初めて女性を見てそう感じた。

「…では、あとは若い二人だけで――」

その後のことはよくは覚えてない。ただ、必氏に話を続けようとしたことは覚えている。




ともかくもこの半年後、私と海未は夫婦(めおと)となった―

2: 2015/12/20(日) 22:33:35.15 ID:MQDzMCNk0.net
最初はひどいものだった。

よくもあそこまで静かな家に暮らせたものだ。

何しろ、とにかく話題がない。

卓袱台に所狭しと並べられた料理をつつきながら、壁時計の秒針の音だけを聞く。

「そういえば近所に季節の花が咲いていた。」「今日は仕事でこんなことがあった。」

そんな他愛もない話ができればよかったのだろうが、生憎、こちらは女子と喋ったことなど禄にない。


「…うまいな。」


静かな六畳敷の部屋で、くぐもった声でボソボソと呟くだけだった。


「…あ、ありがとうございます。」


海未が早口で答え、再び静寂が戻る。



私達の新婚生活は、常にそんなふうに常に気まずい静寂に包まれていた。

5: 2015/12/20(日) 22:38:04.62 ID:MQDzMCNk0.net
しかし、それでもなにしろよく出来た妻だった。

どんなに朝早く出ようとも膳の上には炊きたての御飯と味噌汁が用意されていた。

反対に、どんなに遅くなろうとも、海未は三指をついて「お疲れ様です」と出迎えてくれた。

そんな時は必ず俺の大好物の湯豆腐と熱すぎるくらいの熱燗が頃合いに用意されていた。


「先に休んでくれて構わない。」

一度、深夜にそう伝えたこともある。しかし、


「主人より先に休むなど出来るはずもありません―」


伏し目がちにそう言って、それきり会話は途絶えてしまった。

6: 2015/12/20(日) 22:39:36.59 ID:MQDzMCNk0.net
妻の機嫌を取ろうと思い、見合いの時に好物だと言っていた饅頭を買っていったこともある。

海未の旧知の仲だという売り子さんには散々にからかわれたが、なんとか目的のものを買い、帰路についた。


だが、このことをどう切り出したものか―

結局、夕餉のあと、包を卓袱台に投げ出して、

「好きだと聞いたので買ってみた。茶を入れてくれ。」

そんな風にぶっきらぼうに言うのが精一杯だった。

海未は突然のことに面食らった様子だったが、

「…ありがとうございます。」

そう、蚊の鳴くような声で謝辞を述べてくれた。


しかし、彼女の大好物だという饅頭は結局手を付けられることなく、水屋にしまわれていた。

ああ、やはり俺のような者の買った饅頭など手を付けたくないのだ。


せめて、流行りの○○とかいう映画俳優のような顔立ちならば――

そんなことを考えたりもして、その日は釈然としないまま床についた。





(後で聞いてみたら、あまりのことに感激して胸がいっぱいになり、食べられなかったらしい。)

7: 2015/12/20(日) 22:41:08.30 ID:MQDzMCNk0.net
一時が万事、この調子。

無理もない。見合いで初めて会った男女だ。ぎこちないのが当たり前―

と、言い聞かせて過ごす毎日。



それは、いわゆる夫婦生活においても変わらなかった。

「――おやすみなさいませ。」

寝所に移り、律儀に三指を突いて頭を下げる妻に頷きながら灯りを消す。


…俺も男だ。

そこらの女優が束になっても叶わないほどの美貌、おまけに若くて初心ときてる。

そんな妻に妙な気が起こらない筈もなかった。

しかし―


「―海未。」

「―っ!」

暗闇の中でもわかるくらいにふるふると体を震わせる彼女を見ると、あまりにも気の毒で―



結局、何もできずにいるのであった。

9: 2015/12/20(日) 22:44:52.71 ID:MQDzMCNk0.net
「おい、アレだけ綺麗なご新造をもらったんだ。さぞ毎日楽しかろうなァ」

仕事が早く引けた日、ビヤホールでTにそう絡まれた。

「なんだ、情けない奴だなア。」

馬鹿正直に答えた俺にTの嘲笑が突き刺さる。

「ははぁん。お前は糞真面目だからやり方を知らないんだろう。どれ、俺が馴染みの芸者を紹介してやる。」

そう言って馴れ馴れしく肩を抱くT。


岡場所に行こうとしつこいTを突き放すようにして帰宅すると、海未はやはり起きていた。



「―おかえりなさいませ。……随分と飲んでいらっしゃるのですね。」

珍しく、眉をひそめた気がする。

13: 2015/12/20(日) 22:50:03.50 ID:MQDzMCNk0.net
『女なんて奴はなぁ、腕ずくでどうとでもなるもんよ―』

ぐるぐるとまわる視界の中でTの暴言がこだまする。



…なるほど、たしかにそうかも知れない―


「…お風呂が湧いていますからすぐに入って―」


「そうなってしまえば」後はどうとでもなるだろう―

背広をかける妻の背中を見ながらそんなことを考える。

美しい御髪がら覗く真っ白いうなじ。

ほのかに香る石鹸の香りが、どうにも邪な考えをかきたてる。



そうだ。Tの言うとおりかも知れない。


よし、俺も男だ、やってやるぞ。

風呂場の窓から覗く薄い月を眺めながらきつ、決意した。

18: 2015/12/20(日) 22:54:27.13 ID:MQDzMCNk0.net
「ありがとう。温まったよ。」

先に寝所で待っていた海未に声をかける。

「…いえ。申し訳ございません。先にお湯を使ってしまいました。」

「いや、いいんだ。すまないな。いつも…」

「…」


また、静寂。



―Tは腕ずくだ、と言っていたが―

何度も同じ箇所を梳る(くしけずる)海未を見てると、なんだかそれを邪魔してはいけない気がして、阿呆のように布団の上に座ってそれを眺めていた。

21: 2015/12/20(日) 22:57:20.96 ID:MQDzMCNk0.net
「―すみません。待っていてくれたのですか。」

申し訳無さそうに言う海未に生返事をしながら灯りを消す。

いつもの夜。いつもの寝床だ。

だが、今日こそは―



「…海未。」



暗闇の中、手探りで妻の躰に手を伸ばす。





「…っ!!」



びくん と大きく海未の躰がはねた。

24: 2015/12/20(日) 22:59:55.42 ID:MQDzMCNk0.net
「あ…」

思わず、声が漏れる。


「あ…」

続いて、海未の声。



気まずい沈黙。


虫の声が大して手入れもしてない庭から りいりい りいりい と聞こえてくる





「…」


「…」








「…明日は早く出るからな、よろしく頼む。」

震える海未の返事も聞かずに布団を被った。

27: 2015/12/20(日) 23:07:01.77 ID:MQDzMCNk0.net
――次の日。日も昇らぬ内に起きた俺のために、卓袱台の上には熱い飯と汁が用意されていた。

…起きてなどいない。

海未のすすり泣く声を背に一睡もできなかったのだ。





「おいおい大将、とうとうやったのかい。随分眠そうじゃあないか。」

その日はにやにや、と下品な笑いを浮かべるTには目もくれずに仕事に打ち込んだ。

用もないのに早く来たのと、懸命に仕事をしたことで、午後にはもう何もすることがなくなってしまった。(その時分にはそういうこともあったのだ。)




「―昨日のことを謝ろう。」

酔った勢いでしようとしたことを恥じた俺は、会社を早引けした。

31: 2015/12/20(日) 23:11:06.07 ID:MQDzMCNk0.net
「ヤアヤア、全く!新婚さんはこれだから困ったものだね!おい、お前、今日吉原に行こうじゃないか―」

後輩に絡むTを尻目に社を後にする。



―自分にはあのような美しい妻は勿体無い。


そう思うと同時になんとしても彼女に見合うだけの男になろうとの責の念がこみ上げてくる。

…つまりは俺は彼女にぞっこんに惚れてしまっていたのだ。






「…海未!海未!今帰ったぞ!」

引き戸を開けて叫ぶ。


すぐに返ってくるはずの返事は、待てど暮らせど返ってこなかった。

33: 2015/12/20(日) 23:13:38.90 ID:MQDzMCNk0.net
「…海未?」

しん、と静まり返った家の中を探しまわる。



「海未!」

いつも彼女が繕い物をしてくれる茶の間。



「海未!」

俺の好物ばかり揃えてくれる台所。



「海未!」

ほんのりとよい香りが残る寝所。



そのどこにも海未はいなかった。

36: 2015/12/20(日) 23:17:06.23 ID:MQDzMCNk0.net
「…は、はは…」

乾いた笑いが口から漏れる。


なんだ、そうか。


当然だ。

所詮は家を残すための婚姻。


不能だとの烙印を押されたのだ。



一人納得した俺は 白痴のように畳に突っ伏していた。






「――海未 海未  海未 ―」

44: 2015/12/20(日) 23:20:29.12 ID:MQDzMCNk0.net
「海未!海未!」

いつしか俺は駆け出していた。


実家、小さな路地、彼女が愛した学校、人目も顧みずにただただ駆けた。





ただ、そばにいてほしい。



そんな身勝手な思いで―




やがて―





「…あなた?」

55: 2015/12/20(日) 23:25:02.23 ID:MQDzMCNk0.net
「どうしたんですか?そんな血相を変えて…」

訝しげな顔で近づいてくる。

「どうしたってお前―家に帰ったらお前がいないから―」

「え?ああ、すみません…ことりに呼ばれていったら思いのほか話がはずんでしまい―」


「…すぐに戻るはずだったのですが…っ…ふふっ。」


「?」

近づいてきた海未が吹き出した。

「ご、ごめんなさい…ふふっ…あなた……草履と下駄を半々に履いてますよ?」


海未に指摘されて足元を見ると―なるほど、よほど慌てていたらしい。

67: 2015/12/20(日) 23:29:37.43 ID:MQDzMCNk0.net
「あ、いや…これは…」

「すみません書き置きもしないで…ぷ…ふふっ…ふふふっ…」


笑った。


初めて妻の笑顔を見た気がする。


「いや、はは…」

そんなことが嬉しくなってついおどけたように足を踏み鳴らす。

「も、もう…やめてください…そんな・・・ふふっ…」



海未が、海未が笑ってくれた。そんな当たり前のことがとにかく嬉しかった。

78: 2015/12/20(日) 23:33:53.62 ID:MQDzMCNk0.net
「うふふ、こんなに心配してもらえるなんて、海未ちゃんいいなぁ~?」

「海未ちゃん幸せものだね~?このこの~!」

「や、やめてください…穂乃果…ことり…」


―それから冷やかす海未の友人たちに促されるように 『妻』を我が家に連れて帰った。



その日は、自然に話ができた。

食事時に初めて秒針以外が会話をした気がする。


熱い風呂に入り、海未が燗してくれた酒を飲み、肩を抱いて寝所に入った。






――その日、俺達は初めて本当の夫婦になった。





…翌日赤飯と鯛の尾頭付きが出てきたのには閉口したが。

87: 2015/12/20(日) 23:37:44.29 ID:MQDzMCNk0.net
――

――――

――――――


「もう、何を見ているんですか?」

海未が俺の手から煤けたノートを引ったくる。


「……なんですかこれは!破廉恥です!こんなことを逐一…」

真っ赤になって怒る海未。こういうところはいつまでも変わらないな。


「そういえばお前、この時に一体なんのお祝いなんだ?と聞いた時も同じように怒ったな。」


そうだ、あの時から妻は俺にも面と向かって叱るようになった。

98: 2015/12/20(日) 23:43:04.48 ID:MQDzMCNk0.net
「…そうでしたっけ?…覚えていませんよ。そんな昔のこと。」

「おいおい、嘘をつけ。毎年その日には俺の好物の――あ痛!」

「ふん。天罰です。」

「そういや、この時からやけに甘えてくるようになって、帰ってくるなりパタパタと寄ってきて―」

「…そ、それは…」

「朝昼晩と精のつくばかり並んだかと思えば、しまいには穂むらに行くのにもヤキモチを焼くようになって…」

「あれは!あなたが穂乃果に変な気を起こさないかと心配で…!」

「…変な気?」



「…ふん!」


「痛っ!…おい、老人を労ってくれないか。」

111: 2015/12/20(日) 23:47:56.46 ID:MQDzMCNk0.net
「まだ隠居するのには早いんじゃないですか?道場の方にもあなたに教えを――」

「いや、もうあいつらに任せたんだ。老兵ただ消え去るのみ、さ。」

「…」

「なんだ?」

「…私より先に消えないでくださいね。」

「…お前…」



「…さ!さっさと片付けてください!明日には孫夫婦もくるんですからね!」


老いてなお、妻は美しい。


照れたように足早に立ち去る彼女の背中を見ながら 古い日記をしまいこんだ。




~終~

114: 2015/12/20(日) 23:48:49.01 ID:MQDzMCNk0.net
昨日素晴らしいスレが立ってたので感化された。俺嫁って書かなかったから気に入らない人は適当に変換してくれ。

126: 2015/12/20(日) 23:51:23.89 ID:8pVSxlwu0.net

こういうの好きよ

引用: 海未「不束者ですが…」