1: 2011/03/18(金) 23:07:29.54 ID:VECRqXQ9o
------------------------------------------------------------
   夜 洋菓子喫茶ミンドロウ店内

男「え、いや、ちょっと待ってくれよ」

メイド「さあ、どうぞ御遠慮なさらず。
 出口はこちらでございまーす♪」 にこっ

男「いや、出口は分かってるよ!」
メイド「お客様、申し訳ございませんが、
 少々お静かにお願いしますわ」

男「あ、すみません。
 でも、ちょっと話だけでも聞いてください」

メイド「はい、十分聞かせていただきましたわ。
 その上で、お帰りくださいませー♪ と、
 取って置きのスマイルでお見送りさせていただきました」

男「うん、たしかに、ちょっとドキッとするような、
 とっても素敵なスマイルだったけどさ」

メイド「それはもう、メイドですから」 にこっ
三ツ星カラーズ8 (電撃コミックスNEXT)

2: 2011/03/18(金) 23:08:15.52 ID:VECRqXQ9o

男「ああうん、確かにとっても素敵なメイドスマイルで――
 って、そうじゃなくて。
 俺を、この店で働かせてください」

メイド「どうぞ御遠慮なさいませー♪」 いらっ

男「スマイル、ちょっと歪んで……いえ、何でもありません。
 とにかく、話は通っているはずなので、
 店長さんを呼んでくれませんか?」

メイド「店長はただいま大変忙しく……」
男「え、そんなはずは、ちゃんとアポは取ってきたんですよ」

メイド「大変忙しく、そこの道端で……
 通りすがりの奥様を口説いております」
男「……あー、確かに取り込み中だ」

メイド「……お恥ずかしい」
男「……奥さん、困ってるね」

メイド「大変、お恥ずかしいですわ」
男「あ! 顔、叩かれた……」


3: 2011/03/18(金) 23:08:47.32 ID:VECRqXQ9o

 からん♪

店長「いやー、まいったまいった。
 メイド、氷水たのむー」
メイド「自分で用意しやがれですわ♪」

店長「……ほんと、メイドは格好だけなのな」

メイド「いえいえ、正しくメイドでございます。
 製菓を行うスティルルームメイドは、同じ下級使用人ですからね。
 私
 そこには――」
店長「もういい、もういい……
 くそ、俺は雇用主だぞ」 ぶつぶつ

男「あ、あのー」
店長「ん? なんだ、若いの。
 このメイドに惚れた腫れたならやめておけ。
 じゃじゃ馬どころかロデオもどきだ」

男「いえ、そうじゃなくて。
 俺、じゃなかった、私こういうものでして」 すっ
店長「文筆業 男……
 これだけシンプルな名刺、逆に何もわからんな」

男「えっと、一応、事前に談合社さんからこちらに、
 俺を雇ってくれないか、という話が来ているかと思いますが」
店長「……あー、うん、有ったな。
 そうか、そういえばどっかで聞いた名前だと思ったら」


4: 2011/03/18(金) 23:09:37.72 ID:VECRqXQ9o

男「はい、紹介に預かりました、男と申します」
店長「おうおう、楽にしてくれ。
 とりあえず、アレだ。詳しい話は店が終わってからにしよう。
 メイド、あっちの隅に紅茶とケーキを。
 一応まだ客扱いで案内しろ」

メイド「むぅ、本当にお客様なら、仕方ありませんね。
 いらっしゃいませ、お客様。
 どうぞ此方へ♪」にこっ

男「……すごい、変わり身だね」
メイド「ありがとうございますー。
 ちなみにスマイル五百円でございます♪」

男「……メニューの隅に、書いてあるね」
メイド「はい、店長が書き足してくれました♪
 それではお客様、御注文をどうぞ」

男「じゃあ、ロイヤルミルクティーと、
 タルト・オランジュを頼むよ」

メイド「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」 へこっ

男(なんか、アクの強い人たちと働くことになりそうだなー……)


5: 2011/03/18(金) 23:11:10.11 ID:VECRqXQ9o
------------------------------------------------------------
   三日前・夜 談合社

男(あー、何度来ても、あんまりなじめないんだよな、ココ。
 地下鉄から入れるから、迷わないのは良いんだけど……)

警備員「あー、申し訳ありません。
 こちらから先は談合社の敷地となっております。
 なにか御用でしょうか?」

男「あ、はい。文芸第二の編集さんから呼ばれまして」

警備員「失礼いたしました。
 ただいま警備強化期間でして、
 おカバンの中を拝見してもよろしいですか?」

男「どうぞ」

警備員「……はい、大丈夫です。
 御協力感謝いたします」 ぴしっ

男「お仕事ご苦労様です」へこっ

男(警備に引っかかるの、何度目だよ……
 俺、そんなに怪しくないよな?
 せいぜい庶民臭いくらいのはず) くんくん

男(それがダメなのか?
 だからココに来るのは嫌なんだよなー) とことこ

6: 2011/03/18(金) 23:12:01.04 ID:VECRqXQ9o

 とことこ

受付「いらっしゃいませ、男様」 にこっ

男「あ、覚えてもらえたんだ」

受付「もちろんです。
 編集はラウンジでお待ちしております。
 御案内いたしましょうか?」

男「いや、大丈夫です。
 ありがとう」

受付 へこっ


男(でも、美人の受付さんに覚えてもらえたなら、
 差し引きしてもおつりが来るか)

男 ~♪ とことこ


7: 2011/03/18(金) 23:13:34.70 ID:VECRqXQ9o

 チーン

男(えっと、編集さんは――)

編集「や、すまないね、呼び出して」 ぽんっ
男「いえいえ。
 お仕事もらえると聞いたら、どこへだって行きますよ」

編集「あははー、いつまでそう言ってもらえるか……
 まず、席に行こう。
 先生がお待ちだ」

男「先生、ですか?」

編集「あー、男くん、やっぱりあの電話は寝起きか。
 そんな気はしたんだよなー……」

男「すみません、不規則で。
 さらに寝起きが悪くて……」

編集「いや、ライターなんてそんなモンさ。
 とりあえず話あわせてくれよ」

男「了解です」

 とことこ


8: 2011/03/18(金) 23:14:43.50 ID:VECRqXQ9o

編集「お待たせしました、女先生。
 こちら、お話した男くんです。
 男くん、こちらが洋菓子評論家の女先生」

男「どうも、お世話になります」

男(うわ、かなりキレイな人だな。
 いや、カッコいいって言ってもいいかも)

女「……どうも」

編集「男くんは、いわゆるゴーストライターのプロでして。
 先日受賞した大作家さんの最新作『キミの背中』や、
 有名俳優が書いた『陽だまりの外』の大半は、
 この男くんが書いたものです」

女「……すごいんですね」

男「全て、既に名前がある方が出したから売れた物です。
 僕の名前じゃ、売れませんでしたよ」


9: 2011/03/18(金) 23:15:40.59 ID:VECRqXQ9o

編集「そうでもないよ。
 特に俳優の名前で書いたアレは、内容でしっかり評価されてた」

男「ありがとうございます」

編集「それで、その男くんに、
 女さんの名前で小説を書いて欲しくて」

男「失礼ですが、女さんは評論家、ですよね。
ソレなのに、なぜ小説を……」

女「……私の担当が、売れるからと」

編集「あはは、彼はまあ、野心家ですからね。

 女さんの洋菓子の紹介本は、紹介がとても丁寧だし、
 時に『語り』になるような解説の部分を、見事なバランス感覚で書きこなすと、
 とても評判が良くてね。
 その手の本としては異例の数を売られる方なんだ。

 さらにそのビジュアルだ。
 甘いものには興味が薄い男性読者も、
 女先生の見た目に釣られて……なんてね。

 ココでさらに、他の才能もあると示して、
 今以上にキャリアを積んでもらうつもりでしょう」


10: 2011/03/18(金) 23:16:15.78 ID:VECRqXQ9o

男「なるほど。それで小説を。
 処O作となれば、書き方のクセは大丈夫でしょうが……
 どのような作品がお好みですか?」

女「好み?」

男「ええ。やはり作品を発表された後は、
 折に触れてその作品について、インタビューされたりするわけです。
 その時に、まったく興味の無いものであった場合、
 あまり面白くない話が出回ったりしますので」

女「……なら、無難なもので」

編集「とりあえず、女先生の作品と云うことで、
 洋菓子っていうものをふんだんに取り入れて、
 ドキュメンタリータッチに仕立てた作品で行こう。
 それから、担当さんから……
 恋愛物でどうか、という話があるのですが」ちらっ

女「……では、それで」

編集「ありがとうございます」


11: 2011/03/18(金) 23:17:11.55 ID:VECRqXQ9o

男「では、洋菓子や、洋菓子店をキーワードにした恋愛もの、
 いくつか企画書を書いて送ります。
 編集部宛でいいですよね?」

編集「うん。それで頼むよ」

女「……でも」

男「どうかしましたか?」

女「あんたは、洋菓子をどれだけ知ってるの?」

男「それなりに知ってますよ。
 学生時代はいろんな場所でバイトしましてね。
 ケーキ屋でも、半年くらい働いてました」


12: 2011/03/18(金) 23:17:40.28 ID:VECRqXQ9o

女「……バタークリーム」
男「はい?」

女「バタークリームを作る時、どうする?」
男「テスト、ですか」

女「……」

編集「えっと、そういう考証こそ、
 先生にやっていただいた上で、彼の小説が生きまして……
 なので、彼にそれを要求するのは――」

女「テストです」

編集「……」


13: 2011/03/18(金) 23:21:29.28 ID:VECRqXQ9o

男「いいですよ。何度か作ってるんで。
 バタークリームは、まずパータボンブを作ります。

 まず、卵黄を泡だて器で、もったりするまであわ立てる。

 それから、砂糖を溶かした熱湯を煮詰めて、
 飴に近い液体を作ります。
 水が沸騰するより少し高いから……110度くらい。
 焦がさないように回しながら煮立てて、
 少しトロッとしたところ、飴になる手前でとめる。

 さっきの卵黄をかき混ぜながら、その泡だて器の中に落とすように、
 ゆるい飴を少しずつ垂らして混ぜる。
 
 でもって、室温に戻して練ったバターに、
 少量ずつ加えて……」

女「もう、いい」
男「もしかして」

女「ダメね」
男「えっと、その」

女「こんな、基本のクリーム一つマトモに出来ない人には、
 私の名前を任せられない」がたっ

男(うわ、背、高。モデル体型ってやつか)

編集「あ、あのっ」

女 すたすた


14: 2011/03/18(金) 23:22:07.60 ID:VECRqXQ9o

編集「あー、くそっ。
 こっちが下手に出てるからって……
 コレだから、売れはじめた奴は」

男「うーん……」

編集「すまん、こっちから呼び出して、
 振った話だっていうのに。
 不快な思いをさせたな」

男「いや、良いんですけどね。
 ……あの、ちょっと、彼女の担当さんに聞いて欲しいことが」

編集「ん? いいけど」
男「彼女のお気に入りの店って、わかります?
 できれば、そこに貧乏物書きの取材って言って、
 アルバイトできるよう計らってください」


15: 2011/03/18(金) 23:23:32.94 ID:VECRqXQ9o

編集「おいおい、あんな態度とられて、やるのか?
 いいんだぞ、態度が悪いのはあっちだ。

 最近落ち目の文芸って言われてるけど、
 まあ、そりゃ、マンガとかにはずいぶん落ちるが……

 それでも、料理なんかと比べれば、断れるくらいの立場にある」

男「いや、そりゃ、いいんですがね。
 なんか、クルんですよ」
編集「またソレか」

男「コレは、書くべきだなーというか、
 書かないといけないというか」

編集「気のせいだろ、とは言い切れないのがな。
 そうやって掴んだネタで、あの大先生が悔しがってたからな。
 おれがコレを書く予定だったんだ! って」


16: 2011/03/18(金) 23:24:40.68 ID:VECRqXQ9o

男「そうなんすか?」

編集「そうなんだよ。
 もういっそ、キミもきちんと名前だして書かないか?」

男「……まだ、いいっすよ。
 こうして、食わせてもらってますし」

編集「書いてくれる作家を、飢え氏にさせる編集はいないよ。
 じゃ、こっちで少し勝手に話を進めよう。受ける方向で」

男「お願いします」
編集「しかし、しばらくバイトするのか。
 二、三、小さいけど頼みたいのがあったんだが。

 以前キミの名前で出した、無料情報誌の小さなコラムとか。
 アレの評判が良かったらしい」

17: 2011/03/18(金) 23:25:34.75 ID:VECRqXQ9o

男「それもやりますよ。
 ちゃんと見ないと確約できないので、後で詳細をメールしてください」

編集「分かった。それはすぐに送ろう。
 お気に入りの店についても、言ったとおりに手配して連絡する」

男「すみません、わがまま言って」

編集「売れるものを書いてくれりゃ、いいよ。
 ああ、あとムリをしなきゃ、だな。

 まだまだ、キミには書いてもらいたいんだ。

 なんたって俺は、編集である前に、
 男くんの唯一のファンだからね」 ひらひらー


18: 2011/03/18(金) 23:26:15.48 ID:VECRqXQ9o
------------------------------------------------------------
   夜 洋菓子喫茶ミンドロウ店内・閉店後

店長「それではお客様、本日の御来店、誠にありがとうございました」

客1「また来させてもらうわね」
客2「遅くまでいてごめんなさいねー」

メイド「お客様にくつろいでいただけたのでしたら、
 それは当店にとっての喜びです」にこっ

客1「あらーありがと。メイドちゃんもお疲れ様」
客2「それじゃ、失礼するわね」

 からんからーん


19: 2011/03/18(金) 23:26:50.12 ID:VECRqXQ9o

店長「いやー、終わった終わった。お疲れさん」
メイド「ふー……メイドスマイルも残量ギリですー」

店長「だが、今日はまだ仕込みと片付け以外にやることあるぞー」
メイド「……あー」

男「嫌そうな顔だね」
メイド「そんな事はございますわぁ♪」

男「無表情でソレは、傷つく……」
メイド「あら、失礼いたしました。
 傷つけるつもりなんてございましたのよ?」


20: 2011/03/18(金) 23:27:40.05 ID:VECRqXQ9o

店長 ぽん

メイド「む、頭を叩かないでください。
 ハゲが伝染ってしまいますわ」
店長「ハゲてねーっ!

 って、お約束でツッコミしてやるから、ちょっと休め。
 今日はまたずいぶん荒れてるだろ。
 疲れてるみたいだし、休憩室のソファーつかえ」

メイド「……それでは、少しだけ休憩をいただきます」
店長「おう」

店長「んで、男くんだったか」
男「はい。よろしくお願いします」


21: 2011/03/18(金) 23:28:49.81 ID:VECRqXQ9o

店長「待て待て、まだお願いされてやるとは決めてねーよ」
男「はい?」

店長「最近ちょっと客が増えてな。

 バイトを入れようかって検討してたから、
 安くて使えるいいヤツを寄越すっていうなら考えるって、
 そういったわけだ。

 うちは零細もド零細でな。
 戦力にならんのは、雇えんわけだ」

男「えっと、お給料は、その少なくても」

店長「あたり前だ。
 フランスで修行した、とかじゃなけりゃ見習いからだ。
 安い、忙しい、辛いは前提だな。
 だがそれだけじゃねーぞ。

 うちは見ての通り狭くてな、いくら安くてももう一人とは言えねえ。
 だから、そういう意味では、多少高くついてもいいから、
 それなりの戦力が欲しいんだ」

男「……つまり」
店長「おう。ちょっとコッチこいや」


22: 2011/03/18(金) 23:29:29.02 ID:VECRqXQ9o

 とことこ がちゃ

店長「ここがウチのキッチンだ。
 奥で片付けしてるのが、ポニテ」

ポニテ「お、例の新入りくんかー、助かるねー♪」
店長「まだわからん。使えないなら切捨て御免だ」

ポニテ「店長は厳しいね。ま、必要な厳しさか」
店長「うんうん。まあ、そんなわけで、
 男くんには一つ、できる事をやって貰おうかと」

男「えっと」
店長「経験有りなら、エクレール・オ・ショコラ作れるだろ?
 いっちょ、ささーっとやってくれ」

男「あの、えくれー?」
ポニテ「チョコレートエクレアの事ね」

男「い、いきなりですね」
店長「おう。っつっても、こんなモンは後回しにしたって変わらんからな。
 やれるときにやるのが吉だ。
 良かったら明日から使ってやるよ」

男「……それじゃ、頑張ります」


23: 2011/03/18(金) 23:30:07.51 ID:VECRqXQ9o

 かたこと かちゃかちゃ

男「出来ました」

メイド「んー、甘いにおいがしますー」
店長「お、やってきたな食いしんぼ」
ポニテ「……」

メイド「ん、これは彼が作ったんですね?」
店長「そうそう。形はまあ悪くねえ、な。まあ」

ポニテ「とりあえず、食べますか」

メイド ぱく、ぱく
店長 ばっくん
ポニテ ぼそぼそ


24: 2011/03/18(金) 23:30:44.45 ID:VECRqXQ9o

メイド「うん」
店長「ああ」
ポニテ「はい」

男「え、えっと」

店長「結果から言えば、アウト」

メイド「それじゃ、私は失礼しますわー♪」 へこっ
ポニテ「お疲れ様っ。それじゃ、私は片付けに入りますね」 かたかた

男「でも、俺、店で働いたときもコレで」
店長「あーうん、わかるわかる。
 食えないワケじゃねーし?
 そんな味だもんよ」

 がちゃっ、すうっ

店長「ほれ、コレがウチのエクレアだ」

男「……見た目から、違いますね」


25: 2011/03/18(金) 23:32:18.92 ID:VECRqXQ9o

店長「お前さんのはな、コンビニで置いてるのよりは、
 まあ多少上等な気はしなくもないと、気遣いで言っておこう」
男「思ってはいないんですね」

店長「まあな」

店長「さあコレを見ろ。 
 よどみない生地絞りが作る、芯の通った姿。
 上に掛けられたパータグレセ(コーティングチョコレート)の輝き。

 そしてコーティングの隙間から、
 ほんのりと見える、匂い立つような色っぽいシュー」

男(大げさじゃ、ない。
 焼き立てじゃないから匂いはしないけど、
 見てるだけで、よだれがあふれてくる)

男 ごくり

店長「ほれ、味も見てみろ」


26: 2011/03/18(金) 23:33:40.79 ID:VECRqXQ9o

男「……いただきます」 さくっ

店長「生地の歯ざわりは、さくっと軽く。

 かみ締めると、くしゅっとざわめくような笑い声が聞こえるように。

 中のカスタードはどこまでも滑らかな舌ざわりで絡み、
 それでいて、しつこくない甘さが口いっぱいに広がる幸福……

 キリマンジェロの山を彷彿とさせるような、
 香り高いチョコレートが作りだす凛々しくも繊細なフロマージュ。

 そしてそれに負けず、
 しかし主張しすぎないバニラビーンズと、
 実はこっそり混ぜこまれているブランデーまで加わった、香りの共演!」

男「う、わ、うまい……
 なんで、ただのエクレアなのに、こんなに!」 がつがつっ


27: 2011/03/18(金) 23:35:03.55 ID:VECRqXQ9o

店長「こ・れ・が・エクレール・オ・ショコラだ!
 お前が作ったのは、練った小麦粉を焼いた何かに、
 卵と牛乳と砂糖の煮詰めた何かを突っ込んで、
 黒ずんだ液体を掛けた、『甘い物体』だ。

 洋菓子じゃー、ねぇな。

 第一、作業が遅い、計量が大雑把、温度管理もなってない、
 やってる事は素人同然、毛がはえた程度だ」

男「今まで食べたことないくらい、ほんと、コレうまいっす」もぐもぐもぐもぐ

店長「おい……」

男「うっはぁ、幸せだ……
 さっきのタルトも思いがけなかったけど、コレはもう……」 じいぃん

店長「おーい……」

男「店長さん!!」

店長「お、おう」 びくっ


28: 2011/03/18(金) 23:35:49.64 ID:VECRqXQ9o

男「どうか、雑巾がけからでも良いので、
 俺に働かせてください!」 がばっ

店長「……えーっと」

ポニテ(あー、このパターン、オチちゃったなー)

店長「あ、明日は六時で集合だ、こんちくしょー!」

男「よろしくお願いしますっ」 ぺこっ



店長「あーあー、やっちまったぃ」ぼそぼそ

ポニテ「……まぁた、店長ったら、やっちゃった」ぼそ

店長「はぁ……」

ポニテ「しばらくお給料が減りそうだよ」ぼそぼそ
店長「わかってらー」


30: 2011/03/18(金) 23:40:04.11 ID:VECRqXQ9o
勢いでやってしまった。

甘いものが食べたいなーという欲望に駆られても、
外に出るのが怖い花粉症の昨今、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

スギ花粉ダンスにおびえる1です。

とりあえず、萎えジャンル「敬語悪辣メイド」とか、そのあたりを狙いたいなと思う所存。


おいら、かたいぶんしょう かくと だめだ。
とりあえず、びえんやく のんで ちょっときゅうけい……

32: 2011/03/19(土) 00:07:23.92 ID:SR4wGakso
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   一日目・早朝 男の自宅

 pipipi pipipi

男 ばしんっ

男「……」

男「……そうか。菓子屋か」

男「ふあ、ぁあ。うわー、書きかけのコラムに妖精さんだ……

 やっぱり、妖精さんは靴しか作れないって噂、真実だな。
 少なくとも日本語は喋ってくれない。

 しかたね。とりあえず保存して、帰ってから直そう。
 で、飯つくるか……」 ぽりぽり

 とことこ


33: 2011/03/19(土) 00:09:32.84 ID:SR4wGakso

男(全粒粉と強力粉を45gずつ、片栗粉10gを混ぜて、
 50ccの水で練ったものを、ビニール袋に入れて口を閉じて、
 昨日のうちに冷蔵庫に入れたから) ガチャ

男(とりだして、おおよそ半分に分ける。
 打ち粉をしながら、ぐぐーっと薄く延ばせば……) ぎゅっぎゅ

男(ピザ生地の完成。うん、お手軽。
 余熱して無い250度のオーブンに、オーブンシートの上で十分焼いて)

男(その間にぱぱっと、顔を洗って着替え!) だだっ

男(生地をいったん取り出したら、
 あとは自家製の野菜たっぷりトマトソースをたっぷりかけて、
 朝だから、チーズは少なめに。

 ベランダ栽培のバジルを載せたら、
 チーズが溶けて、生地が色づくまで焼く)

 ちーん♪


34: 2011/03/19(土) 00:10:23.88 ID:SR4wGakso

男「よっしゃー、美味い!」

男(同じようにもう一つ作って)

男『妹へ、オーブンにピザが――』
妹「ん、了解」

男「……おはよう」
妹「ん」

男「ずいぶん、早いな」
妹「陸上の朝練。いつもこんなもんだけど、男は起きないからね」

男「ダメ兄貴ですまん……」
妹「別に、誰にも迷惑かけてないし」


35: 2011/03/19(土) 00:10:58.68 ID:SR4wGakso

男「でも、朝飯とかな」
妹「……それ、作るの大変だった?」

男「いや、自分ののついでだし」
妹「なら、そんなモノ。
 それに、たまに準備されていると、気分がいいし。
 儲けた気分」

男「そっか」

妹 ごそごそ、ちーん

妹「ん。悪くない」 もぐもぐ
男「そうだろ?」

妹「50点」
男「何だと!」


36: 2011/03/19(土) 00:11:52.87 ID:SR4wGakso

妹「朝からピザとか、減点20。
 走るから、ご飯と豆腐の味噌汁とか、メニュー効率もあるのに。
 それから、私、ピザのチーズは朝でも多めが好き。減点20」

男「……あと10は?」

妹「私の好みといつもの気遣いに、気付いてなかった。
 減点110」

男「残ってた50点は……」
妹「それ間違ってた。マイナス50点」

男「……しょーじき、すまんかったー」

妹「でも、ご飯に罪はない。
 ごちそうさまでした」


37: 2011/03/19(土) 00:12:24.93 ID:SR4wGakso

男「あー、駅まで一緒に行くか?」
妹「ん。わかった。急いで着替えてくる」

 たたっ

男(なーんで、あんな風に育ったんだろ)

男(非社交的だけど、内向的でもないし……)

 たたっ

妹「おまたせ」
男「行くか」

妹「……しゃがんで」
男「ん?」 しゃがみ

妹「……ていっ」 ぴっ
男「って! 何した!」


38: 2011/03/19(土) 00:13:14.56 ID:SR4wGakso

妹「白髪」

男「あー、うわー。へこむ。
 二十八で白髪はなー。
 しかも、白髪は染めればいいから、抜いちゃダメだ」

妹「最初から諦めたらよくない」
男「白髪でも残すことが戦いだ」

妹「……まあ、童顔だし、ちょっと白髪があっても、いいか」
男「童顔はなー。気にしてる」

妹「……やーい」
男「ほれ、置いてくぞ」

妹「ノリが悪い男なんて嫌い」 たたっ

男「おい、走ると転ぶって、速っ!
 ちょ、まておい、ヒッキー同然の三十路手前が、
 現役の陸上に、かなうと、ひぃー」


39: 2011/03/19(土) 00:16:06.55 ID:SR4wGakso
------------------------------------------------------------
   一日目・早朝 洋菓子喫茶ミンドロウ・前

男(っつーか、あいつ今頃学校に到着だよな。
 つい俺から誘ったけど、六時から朝練って、ないだろ……)

店長「よーっす」 ざっざっ
男「おはようございます。掃除、早いですね」

店長「明日からはお前の仕事だ。
 今日はまだいい、とりあえず俺の予備の服が有るから、それ着て来い。
 裏口から入れよー」

男「はいっす」たたっ

40: 2011/03/19(土) 00:16:32.91 ID:SR4wGakso

 がちゃ

男(あー、通路で、冷蔵庫が並んでて……
 資料と思って、メモするか) ささっ


男(車で搬入するためか、入り口に資材が置かれてるな。
 んで、片側にキッチン、片側にスタッフルーム) さらさら
 
男(スタッフルームには、ロッカーと、デスク、
 それから、休憩用かな? ソファーに、ベッド……

 って、生活感あるし、店長は住み込みか。
 そんで、壁のきれいな制服に、これ着ろって、メモが)


41: 2011/03/19(土) 00:17:05.02 ID:SR4wGakso

男(店内はオシャレだけど、こういうとこは他のバイトと変わらんなー。
 ま、その方が楽だ)

 ばさっ、さっさっ

男(よし、着替えたら)

 がちゃ

男(ん、人の気配?)

メイド かしゃしゃしゃしゃ

男(おー、メイドさんが仕込み中か。
 俺より少し小さいのに、よっぽど力強いな)

男「おはようございます」

42: 2011/03/19(土) 00:17:53.69 ID:SR4wGakso

メイド かしゃしゃしゃしゃ

男(あれ、聞こえてない?)

男「おはよう――」

メイド「聞こえてます」かしゃしゃしゃしゃ

男(えっと、つまり無視されたって事だよな。
 ……そんなに嫌われることをした覚えは無いがなー)

男「あ、じゃあ、俺、店長に指示もらって動くんで」

メイド かしゃしゃしゃしゃ

男(うん、馴れ合う気はない、か。

 やっぱり俺も男だし、可愛い女の子に冷たくされると、
 性格よくなさそうって分かってても、ちょっと辛くなるな)


43: 2011/03/19(土) 00:18:32.61 ID:SR4wGakso
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   一日目・早朝 洋菓子喫茶ミンドロウ・店内

店長「腰いれて磨けー」 ぎゅっぎゅ
男「はひーっ」 ぎゅっぎゅ

店長「気合入れてんのか、悲鳴なのか、わかんねぇな……」
男「両方ですっ」 ぎゅっぎゅ

店長「よし、テーブルと椅子は輝いてるな。
 次は窓だ。昨日の夜に小雨が降ったから、新聞紙を使って磨けー。
 やり方はわかるな?」

男「はいっ」

店長「ソレが済んだら声かけろー。
 メニュー見て知ってるだろうが、ウチは惣菜や、イートインでの食事も扱う。
 品は少ないがな。
 その仕込みを手伝え」

男「はいっ」


44: 2011/03/19(土) 00:19:21.13 ID:SR4wGakso
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   一日目・朝 洋菓子喫茶ミンドロウ・店内

店長「いやー、案外がんばるな」
男「い、いえ、それほどでもー……」

店長「いつもより早く仕込みが終わったし、明日は一時間遅らせていいぜ。
 その代わり遅刻は厳禁な。
 早朝の作業が必要な、パート・ブリゼ(練りこみ生地)とか、
 パート・ア・クロワッサン(クロワッサン生地)とかは、俺がやるから」

男「そんな、大丈夫ですよ」

店長「だけど、さっきの話じゃココまで一時間だろ?

 店の片付けを手伝わせて、それから返すと……十一時過ぎだ。
 それで四時起きは、ウチに昼寝タイムがあるって言っても体が保たん。

 しっかり働く為に眠れ、コレも仕事だ。
 それに、そこらの仕込みはまだ任せられん」

男「う、了解です。
 しかし、昼寝タイムなんてあるんですか?」

45: 2011/03/19(土) 00:21:59.29 ID:SR4wGakso

店長「ウチのスケジュールな。
 午前六時からパン生地の下準備と掃除だ。

 んで、昼の十時半に開店して、
 十五時半にオーダーを一度ストップ。
 ここまでは、パン・ケーキ・ランチメニューだけ。

 十七時半からは惣菜やピザ類とかも多少加えて、
 二十時半にラストオーダーで、二十一時にクローズだ。

 翌日に提供する煮込み料理と漬け込み系を作ったら、片づけをして終了。
 大体、終わるのは二十二時くらいかな」



男「菓子屋でランチメニューとかって、珍しいですね」

店長「まあ、日本のケーキ屋とかには無いが、ウチは半分喫茶店だからな。

 軽く食べられるものをってリクエストに答えて、
 パンと煮込み料理のランチメニューを出すことにした。

 惣菜はフランスじゃ一般的だったし、ウチはイートインの客も多い。
 これで案外評判良くてな。

 シチューだったり、ビーフストロガノフだったり、
 ロールキャベツだったりをサラダと提供する。

 ピザやキッシュのような総菜は、製菓の材料を使えるしな。

 こっちの収益もバカにならん」

46: 2011/03/19(土) 00:23:13.99 ID:SR4wGakso

ポニテ「手間も案外かかりらないしね」

店長「おう、いつの間に」
ポニテ「おはよ。いま来たとこ。
 男くん、だっけ? 改めてよろしくっ!」にこっ

男「はい、よろしくおねがいします」へこ
ポニテ「かたいなー。
 もっと楽に行こう、ね」 にぃっ

男「じゃ、よろしく……えっと」
ポニテ「呼び捨てでいいけど、
 こまるなら、ちゃんでも、さんでも好きに呼んで」

男「じゃ、ポニテちゃんで。よろしく」

ポニテ「うん。それじゃ、着替えて料理にかかるよ。
 男くんにも手伝って貰うから、
 いまのうちに塩と水取っておきなー」

 とたとた


47: 2011/03/19(土) 00:25:31.06 ID:SR4wGakso

店長「……ちゃんって歳かよ」ぼそ
男「え、見た目、ウチの妹かちょい下くらいですけど」

店長「うん。まあ、十年前から変わってねーしな」
男「ふーん、て、十年?!」

店長「で、十年前に、五年くらい成長してないって、な」
男「……い、いま、ポニテさんは」

店長「聞くな。それに、ポニテちゃん、だろ」
男「いやぁ、年上かもしれない人相手に、それは……」

店長「あいつ、未成年扱いすると怒るし、
 お前ぐらいのヤツから年上扱いされても怒るからな」

男「……ですよね。わかりました」


店長「ま、ちょっと昔話してやろう。
 俺とアイツは十年くらい前に、パリの店で知り合ったんだ」

男「パリですか?」
店長「おう。これでも俺様、パリの一流店で修行して来た身でな。
 実はすっげぇパティシエなんだぜ?」

男「はい」


48: 2011/03/19(土) 00:26:26.55 ID:SR4wGakso

店長「……こう、信じられないー(くねくね)、とか、ねえの?」
男「いや、ソレくらい美味しかったんで、昨日のエクレア」

店長「そりゃ良かった。
 んで、アイツも同じ店に、俺より長くいたんだ」

男「……えっと」
店長「混乱するな。
 見た目じゃなくて、単純に数字で考えろ。

 んでも、アイツはパリじゃやっていけなかった。
 見て分かるとおり、身長が圧倒的に足りないからな。

 今のキッチンは男社会で、さらに日本より背の高い男たちの戦場だ。
 俺も173あるが、この身長で中の下だったからな、
 手の届かないキッチンで、
 アイツは相当に厳しい思いをしたはずだ。

 そんで、実力を発揮できないのはもったいないって事で、俺がひきぬいたんだ」


49: 2011/03/19(土) 00:26:56.53 ID:SR4wGakso

男「なるほど」
店長「この店は、アイツが来るって聞いたから、
 出来る限りアイツでも使いやすい設計になってる。

 よく使うものは、他の店より低い配置だ。棚の高さもな。

 だが、やっぱり届かないものはある。
 って事で、気付いたら手伝ってやってくれ」

男「了解です。っても、俺も男としちゃ、低いんですがね」

 たったった

ポニテ「よっし、準備完了!
 男くん、さっそく作るよ」
男「はい!」


50: 2011/03/19(土) 00:27:48.88 ID:SR4wGakso
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   一日目・昼前 洋菓子喫茶ミンドロウ店内

店長「とりあえず、準備完了だな。
 営業中は俺達はほとんどキッチンに専念する。
 ウェイターとしての仕事は他と変わらんから、任せて平気だな」

男「はい、大丈夫です。
 こう見えても、高校時代は一年ウェイターで生きてましたからね」

店主「……なんか、違うものが心配になってくるが、いいか。
 んじゃ、ミンドロウ開店だ」


51: 2011/03/19(土) 00:28:53.58 ID:SR4wGakso

 がちゃ

四人「ミンドロウへようこそ、お客様」 にこっ

店長「いつもお世話になっております、
 本日はいかがいたしましょうか?」 きりっ

ポニテ「はい、パヴェ・オ・キャラメルと、
 クレーム・オ・コニャックですね。
 かしこまりました。
 こちら、コーヒーか紅茶のセットになさいますとお得ですが、いかがですか?
 紅茶であれば、本場英国で学んだ私が淹れさせていただきます」にこっ

メイド「今日もおばあちゃんのお顔が見れてうれしいですー♪
 今日は蕪の良いのが入ったので、
 初春の野菜と蕪、それからロールキャベツのスープと、
 生ハムとアスポアラガスとクリームチーズのサラダのセットがございますわ。

 パンは、クロワッサンとフランスパン、バターロールからお選びいただけます。

 きっとおばあちゃんにも気に入っていただける一品です☆」 にこっ

男「はい、本日から働かせていただきます。
 よろしくお願いします。
 それで、御注文は――はい、タルト・タタンですね。承りました」にこっ


52: 2011/03/19(土) 00:29:51.59 ID:SR4wGakso

 ざわざわざわざわ


男(う、わ)

男(それほど大きくない店だから、大丈夫だろうと思ったけど)

男(けっこう厳しい。
 イートインのお客様はしばらくゆっくりされるけど、
 お持ち帰りされる方が予想よりずっと多いな)

店長「おい、デリス・オ・フランボワーズと、
 わがままタルトを4番テーブルに運べるようにしておけ。
 そろそろ食べ終わる」

男「はいっ」


53: 2011/03/19(土) 00:30:24.03 ID:SR4wGakso

 ざわざわざわざわ

客「ねえ、店員さん。
 このショコラ・オランジュってどんなのですか?」

男「えっと、その――」

男(やば、昨日の今日じゃ商品のリファレンスはまだできない)

メイド「いかがなさいましたか?」さっ


54: 2011/03/19(土) 00:31:21.00 ID:SR4wGakso

客「この、ショコラ・オランジュっていうのだけど」

メイド「こちらですか。さすがお客様はお目が早いです。
 今日から新作で並ばせていただいているタルトなんですよ♪

 ショコラ・オランジュは、
 さくさくした食感のチョコレート風味のタルトの上に、
 ふかふかのオレンジのムースを載せて、
 その上にママレード風味のジュレを寄せております。

 さくっと、噛んだ瞬間に広がる、チョコレートとバターの香ばしさ。
 そしてその後、津波のように押し寄せてくるのは、
 当店と直接契約する農家さんに作っていただいた、
 当店だけで食べられる無農薬で作られたオレンジの、
 さわやかながら力強い香りの波です。

 ムースはしっかりと甘みをつけておりますが、
 タルトはむしろカカオの強いビターチョコレートなので、
 甘すぎる事無く、むしろ奥の深い大人の味わいとなっておりますー☆」


55: 2011/03/19(土) 00:31:52.57 ID:SR4wGakso

客「……じゃ、それを二つお願いしますね」 ごくり
メイド「はい、ありがとうございます」 にこっ

男(立て板に水って感じ)

男(後ろに並んでる客にも、うるさくない程度に聞こえて……)

男(いや、むしろ聞こえるかどうかギリギリだから、
 逆に気になって聞き入ってる感じが)

客「あの、さっきの人が買ってた……」

男「ショコラ・オランジュでございますね」

客「はい、それを私にも二つくださるかしら」

男「かしこまりました」 にこっ


56: 2011/03/19(土) 00:32:25.58 ID:SR4wGakso

 ざわざわ

 ざわざわ

男(やっと、ちょっと人が引いたか)

メイド「お疲れ様ですわ」 にっこり

男「あ、うん。お疲れ様。
 すごいね、さっきのトーク。
 ちょっと話を聞いただけで、お客さんの目が変わってたよ」

メイド「私なんてまだまだです。
 ……店長は、あの倍ほど喋りますよ。
 特に、若い奥様がお相手だと言葉が増えるようで、
 あまり必要ないお言葉も、よく加わりますが……」


57: 2011/03/19(土) 00:34:47.48 ID:SR4wGakso

店長(オープン席)「こちら、プリン・カラメリゼでございます。
 普通のお店でカラメルプリンを召し上がられたら、
 カラメルをプリンにかけて終わり、というだけ知れません。
 ですが、罪作りな方です、私には奥様のような方に、そのようなものはお出しできません。

 まずプリンに使う卵、牛乳、砂糖は全て厳選した店から仕入れております。
 もちろん、横に添えられたデコレーションの生クリーム、フルーツも全てです。

 カラメルにも二種類の砂糖を使うという工夫をしており、
 穏やかな甘さの和三盆と、特徴的な香りの赤砂糖が、
 当店のカラメル独特の香りを引き出します。

 できれば、奥様にはこのカラメルのヒミツの配合、
 是非とも御家庭でいつでも食べられるように覚えていただきたいのですが、
 そうしてしまっては私が、奥様にお会いすることができなくなります。
 私のわがままですが、お気に入りましたらまた、当店にいらしてください。

 ちなみに、乗せられた飴細工はバーナーであぶって焦げ目の模様をつけ、
 甘く柔らかに包み込むこのプリンの味を、更に引き立たせております。
 奥様の日々の疲れに、私のように優しく包み込む紳士こそ、このプリンです。

 そして、舞台の隅で見上げているのが、四種のショコラです。
 添えられたチョコレートは、大きさこそ小さいですが、
 この四つは全て風味の違う品で、
 本来であれば主役にもなれる四種の共演となっております。
 ミント風味、ストロベリーとラズベリー、ビタースウィート、
 そして、当店特製の、オレンジの皮の砂糖漬けを、チョコレートで包んだものです。

 他の店では味わえない一皿、楽しんでいただけたら幸いです。
 また、四種のチョコレートに関しましては、
 それぞれ単品、組み合わせでも販売を行っておりますので、
 もしよろしければ御家族にお持ち帰りください」にこっ

58: 2011/03/19(土) 00:35:36.36 ID:SR4wGakso

男「あはは……」

メイド「アレはアレで、一応お客を呼びこんでいるようですので、黙認です。

 もっとも、口説かれて喜んでいるというより、
 よくココまで口がまわるという、
 一種のショーパフォーマンスを見るような目にみえるのがまた。

 哀れというか、ちょうど良い感じですね」

男「俺も、あそこまでとは言わないけど、なるべく覚えないとね……」


59: 2011/03/19(土) 00:37:30.31 ID:SR4wGakso

メイド「いえいえ、これから徐々に覚えていただければよろしいですよ。
 よく知りもしないのに働かせて欲しいとおっしゃる、
 その厚顔さは認めます。

 しかし、わずか数時間見ただけで、
 食べてもいないケーキを詳しく解説できるとは、
 私も思っていませんので、大丈夫ですよ」にこっ

男「……フォローなのかな?」

メイド「まさかそんな、とどめです、なんて真実はいりませんよね」 にこっ

男「はい……すみません」

メイド「……そうですね、男さんは甘いものは食べられますか?」

男「えっと、はい、かなり好きかな。

 妹がいるせいもあるけど、ケーキ屋でバイトしてた頃は、
 店のレシピをこっそり書き写して、家で毎日のように作ってたし」

メイド「……当店のレシピはダメですよ?」

男「……やぶへびだった」


60: 2011/03/19(土) 00:38:54.38 ID:SR4wGakso

メイド「いえいえ。ウソ一つつけない、正直と云う名前の鈍い方なので、
 疑わしい目で見るだけ損だと分かってきました」

男「……」ずーん

メイド「……さて、とりあえず、
 いまから少し休憩してきてください。

 久しぶりの接客に、少し疲れが見えますよ」

男「え、あ、はい」

男(なんか、ちょっとやさしい?)

メイド「ついでに、甘いものが大丈夫でしたら、
 なにか一つ持って行って、バックで食べてください。

 味も知らない店員なんて、何の役にも立たなくてございますよ?
 少しでも学んでください。

 もしくは帰ってこない展開も歓迎いたします」 にこっ

男(気のせいだったか)

男(……はぁ………………)


69: 2011/03/19(土) 18:36:24.60 ID:SR4wGakso
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   一日目・夜 洋菓子喫茶ミンドロウ・閉店後

店長「ほい、ラスト上がったぞー。今日もお疲れ様だ」

ポニテ「うー、今日はちょっと忙しかったね」 べとー

メイド「はいですー。
 メイドスマイル、残弾ゼロな感じですのー」 くたぁ

店長「男はどうだ?」 ウィンク

男(ああ……) こくん
 「えっと、メイドさんが気を使って、
 ちょいちょい休ませてくれたんで、
 それなりに余力はあります」

店長「よし分かった。
 おい、ポニテ、メイド。
 お前らテーブルにつぶれてるくらいなら帰れ。
 片付けは俺らでやっておく」

70: 2011/03/19(土) 18:37:16.91 ID:SR4wGakso

ポニテ「む、そんなわけにはいかないよ。
 店長も男くんも、目は疲れてるし」
男「そんなこと無いですよ」

店長「ってか、ポニテ」ちょいちょい
ポニテ「なにさ」ひょい

店長「片付け手伝う余力が残ってるなら、
 メイドを送ってやってくれ。
 あいつ、男の分まで接客引き受けたから目が半分氏んでる」ぼそぼそ

ポニテ「あー、うん。ソレは気付いてた。
 でも、それこそ男くんと店長じゃ」ぼそぼそ

店長「いや、片付けとかは出来るやつだ。
 お前は気付いてなかったかもしれないが、
 メイドに言われてバックヤードに下がる前に、
 さりげなく器具とか食器洗ってたりしたぞ?

 かなり手馴れて、早かったし、正確だ。
 ありゃ、ホテルで皿洗いとかした経験があると見た。

 クリスタルもシルバーも、ちゃんと扱えてる」ぼそぼそ


71: 2011/03/19(土) 18:38:38.85 ID:SR4wGakso

ポニテ「……そか、それなら出来るね。
 てっきりメイドちゃんがやってると思ったわ」ぼそぼそ

店長「さすがにそりゃムリだ。
 今日は平日なのに人が多かったしな。
 とにかく後は任せろ」

ポニテ「そゆことなら、了解。
 それじゃ、メイドちゃん、一緒に帰ろー」

メイド「う?
 いえいえ、さすがに一人で帰れますよー」 にこぉ

ポニテ「その半氏人の笑顔じゃムリ。
 ほら、立って! 着替えて、いくよー!」

メイド「うー」 のっそりのっそり

ポニテ「……それとも、脱ぎ脱ぎしましょーって言われながら、
 桃色お着替えタイムが希望?」

メイド「っ。さ、夜も遅いし、早く帰らないと」びしっ、すたたた


72: 2011/03/19(土) 18:39:18.10 ID:SR4wGakso

ポニテ「ももいろー」たたたー
メイド「きゃー!」だだだー

店長「……ももいろ、ももいろ」

男「店長、妄想もれてます」

店長「はっ、いや、大丈夫だ。
 なぜならココには、我々夢見る狩人しかいない。
 つまり、絶好の覗きタイム!」 びしっ

男「……さ、片付けするか」 がたがた

店長「あ、あれ?
 お前って、こういう時ノレないタイプか?」 きゅっきゅっ

男「いやぁ、見た目可愛いけど、
 あの毒舌で悪辣なメイドと、年上なのにちょっと口リ入ったお姉さんですからね。
 片方は論外だし、もう片方は倫理的に、ちょっと」 かしゃかしゃ


73: 2011/03/19(土) 18:39:58.29 ID:SR4wGakso

店長「何を言っている。
 ポニテはたしかに倫理的に危険だが、
 メイドは黙っていれば十中八九が可愛いと断言するぞ」 がさがさ

男「いや、俺も可愛いと思いますが、中身が。
 正直、萎えます」 かしゃかしゃ

店長「萎えるか」 じゃぶじゃぶ

男「萎えざるをえません」 さっさっ

店長「そうかー。
 まあ確かに、あの笑顔と可愛さで、
 中身は悪意が満タンだからな。
 媚びてたら小悪魔でいいかもしれんが、
 たしかに真正面から切り捨てられるのはきびしい。
 っと、よし、完了」

男「こっちも終わりです。
 こんなもんでいいですか?」


74: 2011/03/19(土) 18:40:33.46 ID:SR4wGakso

店長「おう、予想以上だ。
 なんだ、こっち側なら通常戦力以上だな。
 今のメイドと張り合えるぞ」

男「まあ、男なんて裏方仕事ですからね。
 バイトはけっこう、洗い物とかやりましたし」

店長「特に女にはやらせにくいよな。
 指先がさがさの女が同じ職場って、
 見てると申し訳なくなってくる」

男「わかります。
 まあ、そんなわけで、やられる前にヤレですよ」

店長「その心意気はよしだ。
 明日から、むしろお前はソッチがメインで回せ。
 手が空いたらウェイターとして給仕。
 リファは俺とメイドが分担する」


75: 2011/03/19(土) 18:41:35.68 ID:SR4wGakso

男「あー、その……」
店長「ん?」

男「とりあえず、残ったケーキ買って帰っていいですか?
 裏方回してもらうのはいいですが、
 イートイン自体そこまで多くないし、
 やっぱり本当に欲しかった戦力は表と調理ですよね?
 ちゃんと食べて、リファもできるようになっておきます」

店長「……おう。
 そういうことなら経費扱いだ。
 好きなだけ持ってけドロボー!
 っつっても、ウチはちゃんと、残ったのは廃棄だからな、きにするな」

男「感謝します。
 あー、後、俺もやっぱフランス語使えなきゃまずいですか?」

店長「ん?」

男「昔バイトしてたトコは、完全に日本語でしたけど、
 今日の調理場で飛び交ってたの、大半フランス語ですよね?
 ブランシール(卵黄と砂糖をしろっぽくなるまですり混ぜる)しておいてとか、
 クロワッサンが切れそうだから、
 パート・ア・クロワッサン(クロワッサンの生地)に
 ドレ(表面に卵を塗ってツヤをだす。焼く直前の作業)を頼むとか」


76: 2011/03/19(土) 18:42:12.48 ID:SR4wGakso

店長「あー……
 まあ、ノリでなんとかしてくれ。
 別に必須じゃないし、日本語で言ってもいいんだがな。
 つい混ざるんだ。
 特にポニテとの会話は、時々フランス語になる」

男「すごいっすね。
 ま、じゃあノリで。分からなかったら聞きます」

店長「分かったフリも禁物だぜ。
 そんじゃ、メイドには俺から配置調整伝えるから、
 明日もよろしくな」

男「はい、お疲れ様でした」へこっ

 とたとた

店長「男もさすがに疲れ気味か。
 ま、なれない作業だし、仕方ないだろ。
 早く慣れてくれるといいんだが……」ぐいーっ

店長「どうなる事やら」
 

77: 2011/03/19(土) 18:43:02.94 ID:SR4wGakso
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   一日目・深夜 男の自室

 かたかたかたかた

男『つまるところ、重要なのは発想と視点の転換だ。
 たとえば、中世の海賊を例にしよう。
 海賊には二種類おり、国家や宗教の許諾を得た私掠船と、
 そうした庇護のない代わりに、襲う対象を選ばないでよい海賊がいた』

男(妖精さんがずいぶん侵略してて、後半はほぼ書き直しだな……)

男 もぐもぐ

男(うわ、美味っ! これマジで美味い) ばたばた

男(作業の傍らで食べるとか、冒涜だよ。
 昔はなんか、べったりして美味しくないと思ったバタークリームサンド。
 自分で作っても、あんまり美味しいと感じた事無かったのに。
 これ、まじで同じように作られたバタークリームなのかよ)

78: 2011/03/19(土) 18:43:57.03 ID:SR4wGakso

男 めもめも

男(感想メモして、作品資料と、リファの資料だ)

 かたかたかたかた

男『前者は十分な資金援助を受けて、
 より良い船で海賊行為を行う事が出来るため、
 後者よりも成功率は高かった。
 また、許諾された国の海軍から攻撃されることも無いため、
 より安全に行動することができた。

 だが、その掠奪品からは国や各出資者に渡す量も多く、
 許諾のない海賊と、ビジネスという側面から比べれば、
 手堅い商売という側面が大きかった。
 もちろんそれでも危険で、他の商売よりは収入も多かったが。

 他にもいくつか、許諾を受けることでのメリットはあったが、
 この私掠船というシステムの利益を一番受けたのは、
 彼ら海賊自身ではなかった』


79: 2011/03/19(土) 18:44:45.89 ID:SR4wGakso

男(そろそろこういうたとえ話のネタも尽きてきたし、
 仕入れないといけないよな)

男 もぐもぐ

男(うおー! 回る、光る、音がする! 
 って、特撮モノのオモチャを手に入れた子供くらいハイになる!
 なんだよ、このよくばりタルトって。
 タルトにほんのりチーズ風味がついてて、たまんねえ。
 カスタードだけでも、滑らかで風味豊かな絶品!

 そこにフルーツが贅沢に盛られて、
 さらに生クリームのミニシューと、
 薄く延ばしたチョコを巻いた棒が添えられて……
 このチョコも、ビターとミントを交互に延ばしたやつだ。

 さく、しっとりってタルトとカスタードの間に、
 このパリパリのチョコを食べると、
 音と食感がどんどん満足させられるな!

 うはー、幸せだねっ) ぎゅんぎゅん

男 めもめも


80: 2011/03/19(土) 18:45:22.91 ID:SR4wGakso

男「うわー、コレは続けたら太るよ……」
妹「確かに太りそう」

男「うおわぁっ」 びくっ
妹「お帰り」しゅぴっ

男「おう。起こしちまったか?」
妹「花粉で、目が覚めた……呼吸困難」

男「あー、お前大変だもんな、この季節」
妹「で、部屋のティッシュも、
 買い置きのティッシュも切れてて」 ずびっ

男「だからココにか」
妹「そう。頂戴」

男「ほい。ついでにこれ、ちょっと食べてくか?
 いまの取材先のなんだが」
妹「……またゴーストライター?」 ちーん

男「まあ、な。でも、楽しいし、やりがいが有る仕事だよ」
妹「……いいように使われてるだけ、へくちっ」


81: 2011/03/19(土) 18:46:03.38 ID:SR4wGakso

男「わが妹ながら、不憫な。
 目もかゆいのか? ずい分赤くなってる」ずいっ
妹「っ……びっくりするから、急に寄らないで」(////

男「すまん」
妹「とりあえず、ケーキはいらない。
 カスタードとか、ケーキの脂分は、大敵。
 体重的にも、花粉症的にも」

男「そうなのか?」
妹「チョコレートなんて、食べたら動けなくなる。
 あんまり知られて無いけど、
 アレルギーに直接関わらなくても、
 それを促進させる要素はある。
 チョコレート、ポテチとか、炭酸飲料、要するにジャンク……
 タバコとかも。その人の体質とか、花粉症の程度によるけど」

男「あー、だからお前、
 喫煙者が多そうな店を嫌がるのか」
妹「分煙してないところは、つぶれてもいい。
 そうじゃないお店を選んで、お金を落として応援」ずびっ


82: 2011/03/19(土) 18:46:44.63 ID:SR4wGakso

男「大変だな」
妹「大変でも、明日はまた朝練。
 ティッシュ箱背負ってマスクで10km走る。他の人の倍鍛えられると評判。
 常時低酸素運動」ちーん

男「それでよくやるよな、長距離とか」
妹「努力家。えらい?」

男「えらい。尊敬する」なでなで
妹「……うん。じゃ、寝る」

男(ちょっとだけ、嬉しそうか?
 自分の妹なのにあんまり表情の区別がつかないとか、
 ちょっと兄としていけない気分だ。

 しばらく忙しかったし、小さい頃から構ってやれなかったし、
 しかたないっちゃ、しかたないけど。

 微量に入る印税で生活にも少し余裕が出来てきたし、
 この仕事終わったら、一緒に過ごす時間を作ろうかな)


83: 2011/03/19(土) 18:47:26.30 ID:SR4wGakso

男「おう。おやすみ。
 何かできる事があったら言ってくれよ?」
妹「朝からピザとかやめて。チーズもアレルギーにくる」

男「……ほんとーに、すまんかった」 ふかぶか
妹「おやすみ」 ぱたん

 ぺたぺたぺたぺた

男「明日はちょっと追加で小遣い渡すか。
 毎日ティッシュ箱抱えて登校して、
 それ使い切ってるんだよな。
 それじゃ欲しいものも買えないだろ……」

 もぐもぐ

男「だが、これを食べられないのはかわいそうだな。
 ホントに踊るほど美味い」ばたばた

男 めもめも


84: 2011/03/19(土) 18:48:15.14 ID:SR4wGakso

 かたかたかたかた

男『自国の船は襲わず、他国の船を攻撃する私掠船は、
 元は国や国の船を荒らしまわる海賊という外敵要素を、
 間接的な他国への攻撃手段と変えたのだ。

 つまり、そうしたルールや状況を作ることで、
 より利益を上げる方法が存在する。

 見方を変え、視界を広げる方法を身につける事ができれば、
 仕事の障害も、もしかしたら有用なツールにできるかもしれない。

 ぜひ、このようなあなたの私掠船を見つけたら活用しよう』

男「よし、一本完了。
 だが、マジでたとえ話のネタはずいぶん苦しくなってきている……
 この連載、たとえ話が類を見ないって事で評判らしいが、
 つまりそれだけ勉強が必要になるわけで。厳しいよな」

 もぐもぐ

男「お、このフィナンシエ、表面にアブリコテされてて、
 中にも杏が練りこんであるのか……」 たしんたしん


85: 2011/03/19(土) 18:48:57.35 ID:SR4wGakso

男「裏面の金をシンボライズした焼印が香ばしさを増してて、
 デザインだけじゃなくて、風味も良くしてるとか、憎いなー。

 しかし、たしかに金ののべ棒がフィナンシエのイメージだから、
 別段おかしくないんだが……

 なんとなくシニカルでキッチュ(悪趣味さが芸術的)なあたりに、
 あのメイドの顔が浮かぶのは俺だけか……?」


86: 2011/03/19(土) 18:49:56.14 ID:SR4wGakso

男 ごくごく

男「アプリコットで統一された香りの中に漂う、
 焦がしバターの風味もまた絶妙!
 紅茶で流し込んだ瞬間に、こっそりと膨らんで、
 一瞬だけ良い余韻になるんだな。

 生地も、ヘリがサクッ、全体が少し泣いててシュクッとして、
 かみ締めるとふわーっと包んでくれる……

 時間が経っても美味しいのは何か秘密が有るのか?」

 かたかたかたかた

男『フリーマガジンのビジネスコラムが一本あがりました。
 まだ締め切りより早いですが、先に校閲お願いします。

 追伸、例のお菓子屋、マジうまいです。
 機会があれば、女性と一緒のときに使うといいですよ』

男「送信、と。
 そんじゃ、追加で勉強だな……」がさがさ

男「悔しいからな、
 入門本を帰りの24時間営業のスーパーで買ってしまった。

 最近のスーパーは本まで置いてるとか、
 本当に便利になった……」


87: 2011/03/19(土) 18:50:53.39 ID:SR4wGakso

 ぺらぺら

男「バタークリームを作るときに、注意すべきは……」

男「ああ、そっか、バターが溶けない人肌の温度に冷ましてから混ぜる……」

男「自然とやってたからわからなかったけど、
 意識しないとダメにするな。
 きっとそれで、上手くいかないとバターの風味が飛んだり、
 舌ざわりが少し、しつこくなってたのか」

男 めもめも

男「そんで、次の手順は……」

 ぶつぶつ

 めもめも


94: 2011/03/20(日) 00:12:39.10 ID:12D8GlyIo
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   二日目・朝 洋菓子喫茶ミンドロウ店内

男(今日も作ってるな……)

メイド かしゃしゃしゃしゃ

男「おはようございまーす」

メイド かしゃしゃしゃしゃ

男(うん、やっぱり無視か……
 昨日ちょっとだけ優しいと思ったんだがなー)

男(まあ、朝からあの素敵な笑顔で、
 『お帰り下さいませー♪』なんて言われないだけマシか)

メイド「……」 かしゃしゃしゃしゃ

男(とりあえず、店長は掃除始めてるし、
 急いで着替えてやろう)たたっ

95: 2011/03/20(日) 00:13:42.99 ID:12D8GlyIo

メイド「……おはよ、う……」

メイド「いない…………せっかく、挨拶を……」

メイド「……知りません」ぷいっ

メイド かしゃしゃしゃしゃ


96: 2011/03/20(日) 00:15:06.21 ID:12D8GlyIo
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   二日目・朝 洋菓子喫茶ミンドロウ店内

店長「よーっす、着替えてきたな」 さっさっ

男「はい。今日もよろしくお願いします」 へこっ

店長「おう。そんで、ウチの菓子はどうだったよ」

男「危険ですね。
 他の仕事もあるんで、失礼ですがながら食べだったんですが、
 食べると手が進まなくなります。美味しすぎて」 がたがた

店長「はは、そりゃマズいな。
 だが、世辞だとしても悪くない気分だ」 さっさっさー

男「いえいえ。妹もじーっと見てましたよ。
 体型とかが気になるようで、手は付けませんでしたが」 がたがた
店長「ほぅ、妹がいたのか」


97: 2011/03/20(日) 00:15:43.74 ID:12D8GlyIo

男「たしか、出版社通して、俺の履歴書渡ってるハズですけど。
 そこに家族構成、ありましたよね?」

店長「大して見とらん。
 むしろ、店でちゃんと働ける奴かが重要だったからな。
 正直なところ、落とす気マンマンだったし」

男「……ぶっちゃけますね」 きゅっきゅ

店長「隠しても仕方ないからな。
 俺が言わなきゃポニテが言ってたろうし。

 物書きなんざ、社会とソリが合わない奴がやる仕事だって、
 勝手にそう思い込んでたんだ。
 ま、お前は違った感じだったから、雇ったがな」 ジャー

男「物書きだって、社会不適合者じゃ勤まりませんよ。
 むしろ、営業から開発まで一人でやらないといけない分、
 よっぽど、人格的にも、仕事的にも信頼が必要だと思いますよ」 きゅ

店長「あー、確かにな。
 そういう意味で言うなら、菓子屋のがまだ気楽か。
 従業員が居れば、自分で接客しなくて済むってトコもあるし」 ジャー


98: 2011/03/20(日) 00:16:45.08 ID:12D8GlyIo

男「ま、その従業員とうまくいかなけりゃ、辞められますからね。
 どこも変わりませんよ、働くなら」
店長「言うなぁ。
 ま、そういう意味で言うと、メイドはアレだな」

男「……アレっていうのは」
店長「まだハタチだからか、資質か。
 どうも潔癖だったり、頑固だったりしてな。
 おい、手を止めるな」 ばさっ、ばさっ

男「あ、すみません。
 まあ、次第に丸くなると思いますよ」 こん、こん

店長「どうかな。ありゃ、厳しい」 かしゃかしゃ

男「そうですかね」 はー、きゅっきゅ
店長「次第にわかるさ」 ぱたん

店長「よし、準備完了。
 いやー、手際いいな、お前」

男「ありがとうございます。
 あー、仕込み始めるまで、ちょっと時間あります?」



99: 2011/03/20(日) 00:17:26.99 ID:12D8GlyIo

店長「ん? あー、俺のスリーサイズか? ヒミツだぞ」

男「メイドのスリーサイズなら……。
 って、そうじゃなくて、お菓子についてですよ。
 リファレンスするのに、さすがにいくつか食べただけじゃ不足なんで、
 作り方とか、その時に気をつける事とか、
 そういうのをちょっと聞きたくて」

店長「思ったより熱心だな。
 どうせ、作家業のついでだろ?」

男「ついでって、言えば、まあ、
 取材をそういう風に言い換えれば、そうですが。

 それでも、一生懸命やるから見えるものとか、
 気付けることとか、有るじゃないですか。

 それを知らないと薄っぺらくなりますからね、作品が」

店長「まあ、うん。
 中にはあるからな、美味い菓子を作る~とか云ってる小説とかマンガとかな。

 特に工夫がなかったり、
 基本の手順が忘れられてるとか、
 大事な手順が省略されてるとか……
 それじゃバターの風味が台無しだとか、モヤっとすることはよくある」


100: 2011/03/20(日) 00:18:05.42 ID:12D8GlyIo

男「そういうのは、今回はマズいんですよ。
 こういう製菓の世界にすごく詳しくて、
 しっかり知ってるって、事になってるので」

店長「難しいこと言うな……
 大した経験も無いのに、それをするのは無謀じゃないか?」

男「それなら、時代小説を書く人はタイムスリップしなきゃいけないし、
 サスペンスを書く人は、人頃しが必須になりますよ」

店長「そうか、それはまずいな。
 だが、菓子業界の人間は多いぞ。
 その分だけ、そういったものと比べて、知識を持った読者が多いわけだ」

男「まあ、その分はフォローが入ることになるハズなんで。
 今は、書くための基礎と、
 効果的に書き進めるための、ツールが欲しいところなんです」

店長「なるほど。ま、俺で答えられることなら、時間が有れば答えてやろう。
 それから、作り方とかの説明なら、俺よりポニテに聞いたほうがいい。
 俺も当然説明できるが、説明が上手いのはアイツだ」

男「了解です」


101: 2011/03/20(日) 00:19:45.39 ID:12D8GlyIo
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   二日目・昼過ぎ 洋菓子喫茶ミンドロウ・休憩室

店長「ふぃー食った食った。
 そんじゃ、一時間後に起こしてくれ」ばたん

男「あ、やっぱりソコ、店長のベッドなんだ。
 っつーか食べるの早い、まだみんな半ばなのに」ぼそぼそ

ポニテ「店長は朝早いから、住み込みしてるんだよ。
 普通は徒弟がやるけど、
 店長は料理に妥協しない人だからさ。
 ちなみに、食事が早いのは昔からだよ。
 早飯早糞芸のうちって実行するから、本当に職人気質」ぼそぼそ
 
メイド「でも、だからこそ尊敬できますね。
 お客さんにくどき文句を言ってる姿はダメオヤジですが、
 製菓についての努力と技術なら日本有数って、
 女さんが書いていましたから」ぼそぼそ

男「ん? メイドさんは女を知ってるのか?」ぼそぼそ

メイド「関東で知らなきゃ、もぐりですよ。
 第一、ウチのお得意さんです。
 第八十九回、パリ製菓コンクール優勝。
 第二十六回、国際料理コンクールでは、製菓と製パンで二部門優勝。
 第七回、横浜国際パティシエール・コンテストで、創作部門と規定部門の二部門優勝。
 まさに日本製菓界の星でした」


102: 2011/03/20(日) 00:20:16.18 ID:12D8GlyIo

男「……でしたって」

ポニテ「そんな華々しい経歴から引く手あまただったのに、
 三年前の地震で何か有ったみたいでね。
 以来、一度も公の場では調理をしないのよ。
 評論家というか、ガイドマップの作者になってさ、
 小さな書店でも、ソレ系の棚があれば一冊はおいてる売れっ子に」

男「うわー、なんか、すごいですね」

ポニテ「あの人のお菓子に対する理解力、観察力、審美眼、解釈、
 そういった評価基準は、すごくお菓子と向き合った人の丁寧さだよ。

 あれほどしっかりした、揺らがない向き合い方をするためには、
 製菓の正しい知識や、独創を理解する繊細な感覚、
 それから、食べ続ける努力が必要だと思う」

男「食べ続ける努力ですか」

ポニテ「美味しいお菓子は楽しく食べられるけど、
 やっぱり好みもあるし、どうしたってたくさん食べると飽きるからね。

 それなのに、どこかのインタビュー記事で見たけど、
 評論書くようになってから、年に千五百個以上は食べるって。

 しかも、作ってくれた人に悪いから、全部食べ残しはしないって」

男「は?」


103: 2011/03/20(日) 00:20:45.81 ID:12D8GlyIo

メイド「単純に考えても一日五個くらいですかー……
 さすがにソレは、甘いものが好きでも吐きそうになりますよ。
 それであの体型に美貌って、化け物です。
 クリーチャーです。UMAかもしれません」

ポニテ「うんうん。
 それはかなり努力してるらしいけどさ。
 腹筋がかなりしっかりついてるって、
 同じインタビューで嘆いてた」

男「しかし、そうかー」

メイド「どうかなさいましたか? ごくつぶし様」

男「ごくつぶしって、まあ否定できないけどさ。
 いや、女さんとはちょっとした知り合いなんだけど、
 お菓子のことになると、ソレこそすごい気迫でね。」

メイド「もしかして、あなた何か言いました?」

男(小説云々の話は、今はまだしないほうがいいな)

男「いろいろ有って、ちょっとなら作れるとか、
 そういったこと程度だよ」


104: 2011/03/20(日) 00:21:15.15 ID:12D8GlyIo

ポニテ「それで怒るって、
 やっぱりプライド高い人なんだね。
 今のところウチの記事は書いた事がないみたいだけど、
 ちょっと怖くなるかな」

メイド「大丈夫ですよ。
 月一以上来るからには、お気に入りの穴場扱いですね。
 本当に好きな場所は、よく来ても書かないと聞いたことがありますよ」

ポニテ「そ、そうかな? それならいいね」

メイド「それじゃ、私も失礼して、そろそろソファーで横になります」

ポニテ「おやすみー。さて、私は……」

男「あ、あの」

ポニテ「ほいほい?」

男「何か作業するなら、ついでで良いんで、
 ちょっと話をお願いできますか?」

ポニテ「うん。夜に出すピザの下準備とかね。
 手伝ってくれるならお話くらい付き合うけど、どんな?」


105: 2011/03/20(日) 00:22:05.84 ID:12D8GlyIo

男「大した事じゃないんです、
 たとえば、この商品はココが魅力で、とか、
 ココはお店の特別なヒミツで、とか。
 リファレンスの参考にしたいんですよ」

ポニテ「ん。いいよいいよー。
 やる気があるのは歓迎する。
 ……ところで」

男「はい?」

ポニテ「なんで、年上扱い?」 じーっ

男「……」 ついー、じーっ



店長 ぐごー。ぐがー。



ポニテ「何を聞いたの?」 にこっ
男「ポニテはお前と同じくらいだと」

ポニテ「……まあ、許容範囲内かな。
 ピザにデスソースで許そう」

男(ひぃいい……すみません店長!)

ポニテ「で、それを知った男くんはー」 きらーん
男「ポ、ポニテちゃんには、イロイロ教えてもらえたら嬉しいな」

ポニテ にひーっ

男(この職場、怖い……) ガクガクブルブル


106: 2011/03/20(日) 00:22:41.45 ID:12D8GlyIo
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   二日目・夜 洋菓子喫茶ミンドロウ店内


 からん♪

メイド「いらっしゃいませ、お客様♪」

女「端っこのテーブルがいいんだけど、空いてる?」

メイド「はい、かしこまりました。
 御案内いたしますー☆」

女「ずいぶん、なれてきたみたいね?」
メイド「はい、皆さんとってもお優しくしていただけて、
 最近は私が居ないと寂しいって、
 いってもらえたりもします」 にぱっ

女「……うん。良かったわね。
 今日は、無いの? あなたの新作。
 こないだの改良フィナンシェはとっても良かったけど」

メイド「準備作ならありますが……
 まだちょっとお店に出せるレベルでは無いので、
 遠慮させてください」へこ

107: 2011/03/20(日) 00:23:10.52 ID:12D8GlyIo

女「そっか、うん。それなら、今日は何かお勧めは?」
メイド「ポニテさんの新作がございます。
 良ければそちらはいかがですか?」

女 こくん

メイド「先に、この時間ですし、お食事しますか?」
女「……食事は、後で」

メイド「かしこまりました、いつもありがとうございます」にこっ

 とことこ

女 ぱさっ

女(ノートもそろそろ新しいのを買わないと。
 ……その前に、本棚も整理かな。

 さすがに、この厚いノートが二十冊超えると、
 もう一段空けて、コレ用にしないと……
 この本が終わったら取り掛かろう)


108: 2011/03/20(日) 00:23:37.72 ID:12D8GlyIo

男「失礼いたします、お客様。
 ショコラ・オランジュでございます」 にこっ

女「……」ついっ

男(うわ、ノートの片側が文字でびっしり……
 左はケーキのイラストに、お店の外観とか、食器とか……
 雰囲気が出てるな) ことん、かちゃ

女 ぱたん

女「……なんでここにいるの?」
男「アルバイトでございます」

女「まさか」ふっ
男(鼻で笑われた?!)

女「ロクな知識も無いのに……

 でも、さすがに店員の格好して仕事してるのに、
 中身があんただからって否定は出来ないか」

男「先日は至らず、申し訳ありませんでした」
女「ココにはオフで来てるから、
 仕事を忘れたいんだけど」

男「当店の人間として、
 お仕事を忘れて楽しんでいただけるのでしたら、
 非常に嬉しく思います」にこっ


109: 2011/03/20(日) 00:24:05.81 ID:12D8GlyIo

女「……いらっときた」
男「そんなっ」

女「いいわ。ちょっとだけ付き合ってあげる。
 その新作の説明、してよ」

男「かしこまりました。
 本日御提供させていただきますショコラ・オランジュは、
 薫り高いヴァローナのカカオを、
 タルト生地にふんだんに練りこんで、
 オレンジのムース、そしてママレードのジュレを乗せたものです。

 契約農家から送られてきた無農薬のオレンジは、
 香りも甘みも力強いものです。
 それを、チョコレート風味の苦みばしったタルトが受け止め、
 さくさくした食感と、ふわふわのムースが食感を満足させ、
 しっかりとしたムースの甘みを、
 ビターなタルトが引き締めることで、
 大人も満足の味になっております」

女「……40点かな」

男「マイナスですかっ?!」
女「別にそんな事は言ってないわよ」


110: 2011/03/20(日) 00:24:39.72 ID:12D8GlyIo

男「あ、すみません。
 妹とそんなやり取りをしたばかりだったので、
 混同してしまいました」

女「マイナスつけるとか、
 ずいぶん妹さんに嫌われてない?」

男「その可能性もありますが、
 仲は悪くないハズですよ」

女「……そう。それじゃ、いただきます」 かちゃ

女 ざくっ、ぱくっ

男 じー

女「見られてると食べにくいし、
 ほかのお客さんにサービスが届かなくなるわよ」

男「いえ、何かその、40点から上げるヒントとか、
 もらえたり見えたりしないかなーと」

女「今は仕事は無し。
 評価してあげただけでも、最大の譲歩」

男「そうですね。ありがとうございます。
 それでは、当店自慢の味、ごゆっくりお楽しみくださいませ」ふかぶか


111: 2011/03/20(日) 00:25:06.88 ID:12D8GlyIo

女「あんたは雑用だけどね」

男「……ざくっときました」

女 ひらひら

男(うーむ、犬でも追い払うように……)

男(ただ、もしかして譲歩とか言われたって事は、
 ここで働いてるのを見て、ちょっとは例の話を受ける気ができたのかな?
 それなら嬉しいけど)

客「店員さーん、すみませんが、ちょっといいですか?」

男「あ、はい。
 失礼しました、どのような御用件でしょうか――」


女「……考えこんで、呼ばれるまで気付かないようなら、まだまだね」ぼそっ
 

112: 2011/03/20(日) 00:25:39.92 ID:12D8GlyIo
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   二日目・深夜 男の自室

妹 くー

男(……部屋に入ったら、妹が自分のベッドで寝ていたとき)

男(微妙に、反応に困るな。
 いや、はだけたパジャマからちらちら覗く素肌が……とかじゃなく。
 それだけ寂しい思いをさせたのかなと)

男 ごそごそ

男(今年でまだ十八だからな。ポニテさんと違って、本当に。
 親に甘えにいく年齢でも無いだろうが、
 それでも頼りたい時がある年頃だろう。
 ウチの親はそういう方向に関したら逆効果だからな)

男 pi ウィーン

男(……いったいどれだけ会ってないんだ?
 そんなに愛人の家が良いのかって、良いんだろうな。
 俺はともかく、娘は大切にしてやれよ)

113: 2011/03/20(日) 00:26:14.26 ID:12D8GlyIo

  かたかたかたかた

妹「ん……」

男(すまん妹よ。
 親が何もせんから、俺が稼がねばならんのだ。
 そして俺はコレしかパソコンを持っていない!)

 かたかたかた

男(……いい加減、編集さんに怒られるくらい古いからな、コイツも。
 新しいノートパソコンとか買えば、
 リビングで会話したりする時間もとれるのかな)

 かたかた

男(でも、会話したらどうせ作業にならんしな。
 そこは割り切るしかないか。
 でも、移動中も作業できるとかは、ちょっと憧れる)


114: 2011/03/20(日) 00:26:41.12 ID:12D8GlyIo

妹「……お兄ちゃん」 ぼーっ
男(……お兄ちゃんとか、ずいぶん久しぶりに聞いたな。
 寝ぼけてるのか)

男「起こしたか。すまん」
妹「っ。私、ここで」

男「……すまんな、あんまり一緒にいられなくて。
 待っててくれたんだろ?」
妹「……否定はしない」

男「この仕事終わったら、どこか行こう。
 たまには兄妹で……
 初めて兄妹で、旅行とかどうだ?」

妹「男にしては、いい考え」
男「お、それなら、どこかいい温泉でも探すかなー」

妹「男だから、やっぱりがっかり」
男「うぇっ?! なんか理不尽じゃねえ?」


115: 2011/03/20(日) 00:27:31.09 ID:12D8GlyIo

妹「……それより、ケーキ」
男「ああ、今日ももらってきたけど。食べて平気なのか?」

妹「危険だけど、昨日一口くらいもらえば良かったって、
 部屋で後悔した」

男「花粉症の時期が終わったらいくらでも――は厳しいが、
 店の雰囲気いいし、連れてってやるからそこで食べないか?
 楽しみのために取っておいてさ」

妹「……悪くないかな。甘い匂いに負けそうだから、部屋に戻る」
男「うん、おやすみ」

妹「……おやすみ」 ぱたん

 ぺたぺた

男(うん。やっぱり手が止まった)

 かたかたかた

男(しかし、そうか、やっぱりケーキ食べたいよな。
 女の子なんて、甘いの好きだろうし。
 でも、生クリーム、チョコ、バターがダメか。
 となると小麦粉で成形するタイプは基本アウトだろ?)

 かたかたかた


116: 2011/03/20(日) 00:28:23.41 ID:12D8GlyIo

男(近いうちに店長に聞いてみよう。なんか出来ないかって。
 よし、やる気が沸いてきた!)

 かたかたかたかた
 
男(記事はまだ日程にちょっと余裕があるし、
 今日中に草稿、明日一日寝かせて、
 明後日に見直し、肉付けと本番だな)

 かたかたかたかた

男(で、今日は草稿が終わったら、本を読もう。
 リファのために、それから小説を書く場合のためにと、
 店長に相談したら、製菓の本を山ほど借りてしまった……

 新しいアイデアのために買ってるって言ってたけど、
 どれも大量の書き込みがあって、ボロボロだったな。

 発売日からそれほど経ってないのもそうなってるから、
 店長、マジで製菓について『だけ』は尊敬できるかも。

 そんな人の期待、裏切らないためにも必氏で読まないと)

 かたかたかたかた


117: 2011/03/20(日) 00:28:57.51 ID:12D8GlyIo
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   五日目・朝 洋菓子喫茶ミンドロウ店内

男「うー、おはようございます……」

メイド かしゃしゃしゃしゃ

男 よろよろ

 がちゃ、ごそごそ

メイド かしゃしゃしゃ

メイド「何か、元気なかったですね……って、生地っ」
メイド かしゃしゃしゃしゃしゃ 


118: 2011/03/20(日) 00:29:23.33 ID:12D8GlyIo

 がちゃ

男「てんちょーのトコ、行きますね」 ゆらりー

メイド「……ぅー、あの!」

男「……え、呼びました?」

メイド「男さん」

男「?」

メイド「……を見て、妖怪くねくねを、思い出しました」

男「――う、うわっ!
 思い出しちゃったよ!
 やめてくれよ、当時あの取材で俺、ホントに……」

メイド「え、う、あ……」ひくっ


119: 2011/03/20(日) 00:29:50.44 ID:12D8GlyIo

男「うう、とりあえず、俺はまだやめませんよ……」

メイド「……そうですか、残念です」

男「うう……なんでこんな攻撃を…………」 とぼとぼ

メイド(な、なんでですか!
 ちょっと心配を伝えようと思っただけなのに、
 なんで私って、妖怪くねくねとか?!)

メイド かしゃしゃしゃしゃしゃ 

メイド(怖い話とか嫌いなのに……
 しかも、男さんも、取材で、とか、何があったんですか!

 聞きたいけど聞きたくない。
 もしかして何か憑いてるとか……

 うわわわ、それはもう、近づきたくも無い!) かしゃしゃしゃ

メイド(でも、ちょっと心配ですね)かしゃしゃ

メイド「あ……混ぜすぎて生地が…………やっぱり、男さんは嫌いましょう」



120: 2011/03/20(日) 00:31:09.47 ID:12D8GlyIo
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   五日目・朝 洋菓子喫茶ミンドロウ店内

店長「よっしゃー、掃除だ!」
男「今日はテンション高いですね」

店長「……今日はな、日曜なんだよ」
男「はい」

店長「日曜は!」
男「……」ごくり

店長「ちょっと遠くから、可愛い女子高生や女子大生が来る!!」
男「……」 きゅっきゅ

店長「ん、どうした。
 最近はJKとかJDっていうんだろ?
 奥様方のお相手もいいが、やっぱり若い子もいいだろ?」

男「いや、奥様方に色目を使ってるのは、店長だけです」 きゅっきゅ

121: 2011/03/20(日) 00:31:44.71 ID:12D8GlyIo

店長「ふむ、やはり若い子がいいか。
 だが、ソレにしてはテンションが低いな」

男「女子高生って言ったら、妹の年頃ですからね。
 そんな年頃は、やっぱそういう目じゃ見られませんよ」がたがた

店長「そういうもんか?
 だが、女子大生なら別だろ。
 ちょっと行ったトコのお嬢様短大の女の子とか、かわいいぞー」でへ

ポニテ「チェストー!」 ずがん

店長「いって! 何しやがる、ポニテ!!」

ポニテ「人がたまに早起きしてきてみたら、
 女子高生、女子大生と騒いで!
 お客さんにそんな、邪に染まった汚物みたいな緩んだ顔見せたら、
 二度ときてくれなくなるってば」


122: 2011/03/20(日) 00:32:18.18 ID:12D8GlyIo

男「まったくです」 はぁー、きゅっきゅ
男「ああ、店長への残念さで漏れたため息、汚れがよく落ちます」

ポニテ「いっそ店長のでへへ笑いの顔を拭いてくれない?」
男「いや、雑巾がかわいそうです」

店長「おいコラ男! 給料減らすぞ!」
男「ん、え? 給料あるんですか?」

店長「貧乏物書きって聞いてるぞ?
 それで給金は無しは氏んじまうだろ」

男「いやまあ、有ればありがたいですが、
 戦力になれるまでは、無しかなと勝手に思ってたんで」

店長「安心しろ、上限でも戦力分しか出さん」
ポニテ「店長もあまいね」にひひ

男「それでも、もらえるならありがたいです。
 ならよりいっそう頑張らないと!」だだだだーっ

店長「お、モップがけ、その丁寧さでその速さか。
 だいぶ慣れたな……
 あ、ポニテ、早く来たなら今日は追加で一つ作ってくれ」ばさっばさっ

ポニテ「ん、いいけど、なにを?」


123: 2011/03/20(日) 00:32:48.63 ID:12D8GlyIo

店長「今日は一日中晴れで、小春日和らしいからな。
 こんな日はなんか、ちょっと『ふっかり、もっかり、つるん』って感じのを」

ポニテ「……要するに、即席で何かしろってこと?
 相変わらず、無茶を言うね」

店長「できないか?」

ポニテ「任せといて。
 ポニテ・スペシャルとか作っちゃうから」にやっ

店長「お、いいノリだ。任せたぜ」
ポニテ「アイアイサー」だだっと

男「……すごい無茶振りですね」 がさがさ
店長「ま、ソレくらいこなせるさ」にやっ

男(十年以上か、一緒で。
 すごい信頼してる感じだな) かちゃかちゃ

店長「よし。
 俺がサボり気味だったのに、ずいぶん早く掃除が終わったな」

男「自分で言っていて、どうかと思いません?」


124: 2011/03/20(日) 00:33:21.67 ID:12D8GlyIo

店長「……んー、きっとコレは男へのテストだったんだ。
 ってワケで、即席テストに合格したお前さんは、
 明日から朝の掃除と準備は一人で担当だ」

男「またいい加減な……
 まあ、仕事を任されるのは嬉しいから、了解です」

店長「うんうん、素直な若人はいいな……
 はっ、開店待ちの客に美人発見!」きらーん☆

男「……これから焼成あるのに、行ったらダメですよ」
店長「くぅ、これは開店後に声をかけるしか!」

男「……勝手にしてください。
 俺、ポニテさんのサポートに入りますね。
 ちょっとずつですが、作業手伝わせて貰えるようになったんで」

店長「ほぉ、ポニテがな。
 どれ、俺も見ててやろう」

男「そう言われると緊張するなー」

店長「かぁたいこと、言うなって」がばっ
男「うおっ」
店長「さ、すーすーめやー、キッチーン♪」ズルズル


125: 2011/03/20(日) 00:35:13.91 ID:12D8GlyIo
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   五日目・昼 洋菓子喫茶ミンドロウ店内

男(うー、ちょっと疲れたな……
 店長のテンションがムダに高いからか?)

店長「このほんのりとついた紅色。
 まさに奥様のほほのように、美しいとは思いませんか?
 その隣から覗く、今度は金色と、純白。
 瑞々しく輝くこのリンゴのコンポートは、どれも同じように、
 高級百貨店向けに生産している、無農薬の農家から仕入れております。

 ココだけの話、それでこのお得なお値段は、
 他のお店では絶対にできません。

 そして当店では、そんな最高級の林檎を、
 三種類のコンポートにして使い分けております。
 それぞれ、主となる洋菓子の持ち味を生かせるように、という配慮です。
 しかし、このシブーストにはその全てが使われております。
 つまり、この一切れで三種類の至福が味わえるわけですね。

 一口ごとに変わる世界。
 その美しさを、どうか奥様に捧げさせてください」にこっ

126: 2011/03/20(日) 00:36:03.25 ID:12D8GlyIo

男(よくあんなに、スラスラでてくるよ……)

客「おい、いいか?」

男「お伺いいたします」にこっ

客「コレと、コレと……それから、お勧めを何か一つくれないか?」

男「お勧めですか。

 今日だけ限定、春爛漫という一品がございまして、此方がお勧めです。
 こちら、上面だけを見ると真っ白です。
 ですが、この透明な器の側面から見ていただくと分かる通り、
 これは白桃を使ったムースがでして、
 雪のようにふんわりとやわらかく広がっており、
 その下の、洋酒をたっぷり染み込ませた、
 大地のように黒い、チョコレート風味のスポンジを覆っています。

 そして、その下にはいま芽吹こうとする春の世界。
 初春に芽吹く新芽の緑を髣髴とさせる、シロップ漬けの青い梅と、
 ワインで香り付けされた、あわいピンクの桜を彷彿とさせる色のリンゴ。
 二つの果実が入り混じるレモン風味のジュレの世界です。

 見た目にも美しく、またストーリー性を感じさせる、
 まさに世界を小さくまとめた一品。

 口に含んだ瞬間に広がる、甘さとわずかな酸味は、
 まさに春の訪れを感じさせてくれるかと思います」にこっ


127: 2011/03/20(日) 00:36:45.20 ID:12D8GlyIo

客「うぐっ、それを――ふ、二つくれ」

男「かしこまりました」にこっ

客「すまんが店員さん、そっちが終わったら、
 わしにもその、春爛漫とやらをくれんかね」

男「ありがとうございます。
 それではこちらのお客様の後ろにならんで、少々お待ち下さい」にこっ

 ざわざわ

 ざわざわ

メイド とことこ

男「お、どうしました?」

メイド「フィナンシェとマドレーヌ二種類が出来たから、
 置きにでてきましたわ」

男「お疲れ様です。
 と云う事は、ちょと手が空いた感じですか」

メイド「まあ、はい」


128: 2011/03/20(日) 00:37:27.91 ID:12D8GlyIo

男「さっきの説明どうでした?
 今回は創作段階から一緒にいて、
 ちょっと俺のアイデアも入ってますからね」

メイド「そうですね、良いと思いましたよ」にこっ

男「よっしゃ! これで、ちょっとは戦力になれた感じが……」
メイド「ブタもおだてりゃ木に上りまーす♪」

男「だまされた!
  しかも、メイドじゃなくてエレベーターガールだっ」

メイド「黙りやがってくださいませ☆」にこっ
男「はい。……っと、黙る前に次のお客さんだ」

客「ちょっといいですかね。
 ショソン・オ・ボムはありますかな?」

男「しょそ……えっと」

メイド「申し訳ございませんお客様、こちら新入りでして。

 ショソン・オ・ボムでしたら、此方にございます。

 当店のものは、本場フランスの製菓コンクールでも優秀な評価を得ており、
 三ツ星のジョルジュ・オ・ランも絶賛する一品です。

 誰でも虜にして離さない、基本にして究極のメニュー。
 きっと御満足していただけますわ♪」にこっ


129: 2011/03/20(日) 00:37:57.25 ID:12D8GlyIo

男(ああ、アップルパイか……)

客「おお、よかった。
 病気の妻が食べたがっているものの、
 最近ボケてしまいまして、日本語に直してくれんのですよ」

メイド「奥様はフランスの方でいらっしゃいますね。
 それでしたら、懐かしい味と喜んでいただけるはずです」

客「ありがとう。では、それを二ついただこうかな」

メイド「ありがとうございます」

客「いい笑顔の店員さんにお会いできて嬉しいよ。
 またこさせて貰おうかね」にこっ

 からん♪

男「……すみません」


130: 2011/03/20(日) 00:38:40.55 ID:12D8GlyIo

メイド「ま、フランス語で名前をつけてあるものも、
 そうでないものもあります。
 棚に書かれていない名前ですから、仕方ありません」

男「……こき下ろさないんですね」

メイド「この期間では出来なくて当然ですからね。
 意外によく頑張っているとは、思っていますわ。
 思っても、ごまかす事はありますが。ふふ」くるっ

 とことこ


男「ん、って事は、さっきの説明」


メイド『そうですね、良いと思いましたよ』にこっ


男「……うん。ありがたく受け取って、
 油断しないようにがんばろう」ぐっ

男(ん、お客様がちょっと呼びたそうにコッチ見たかな)すたすた

男「お客様、いかがいたしましたか?」にこっ

131: 2011/03/20(日) 00:39:27.62 ID:12D8GlyIo
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   七日目・朝 男宅リビング

男「……あ、れ」 くらぁ

妹「あ、起きました。
 ですが、はい、はい……」

男(なんか体、だる……
 アタマが回らないし。
 つか、妹なにを)

妹「はい、ありがとうございます。
 それでは失礼いたします」

 pi

妹「ふぅ」

男「妹……」
妹「なに?」

男「それ、俺のケータイ……?」
妹「借りた」

男「電話はどこにしたんだ」
妹「男が倒れた事を、バイト先に」

132: 2011/03/20(日) 00:40:22.41 ID:12D8GlyIo

男「……」
妹「大変心配され、今日は休養をと」

男「いや、大丈夫だ。ケータイ返せ、行くから」よろっ
妹「……」すっ

男「……なぜ、自分のポケットに」
妹「……男はなんで私が陸上部に入ったか、知ってる?」

男「疑問に疑問で返すなよ」いらっ
妹「こんな時の為」脱兎

 たったかたー

男「え、おい! ちょ……」くらぁっ

男「用意周到に、着替えて、カバンまで玄関に……」

男「……今から頑張っても、
 間違っても駅までに追いつけないか」

男「こんな事なら家電を買うべきだったか……
 携帯電話しか使わないからって、節約するんじゃなかった。
 いや、違うか。
 倒れないようにすれば良かったのな」


133: 2011/03/20(日) 00:41:10.68 ID:12D8GlyIo

男(寝かされてたのはソファーか。
 テーブルの上に、まだご飯が。
 それも、健啖家のアイツが少し残してるな。
 あわてて、急いで……心配させたよな)

男「あーくそ。すまんとしか云えん……」

男「とりあえず、話は通っちまったし。
 仕方ないから寝よう」

男 ぐうきゅるるぅ

男「……さ、先に飯だな」(////

男「残ってるの温めて」

 チーン

男「便利になったよなぁ……」

男「いただきまーす♪」 もぐもぐ


143: 2011/03/20(日) 07:32:32.96 ID:12D8GlyIo
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   七日目・昼前 男宅キッチン

 ちゃららったらったった~♪

男「はい、それでは料理のお時間です」

男「先生、本日は何を作るんですか?」

男「今日はですねぇ、
 なんと花粉症がひどくならない、
 ロールケーキを作ろうかと思います」

男「おおー、それはすばらしい。
 生クリーム禁止期間の現在、
 花粉症のみんなは辛い思いをしているはず!
 そんな人に朗報ですね。
 それでは早速材料の……」

 ちゃらら……

男「つまらなくなってきた。
 ってか、寂しくなってきたよ、パトラッシュ……
 普通に作ろう」

144: 2011/03/20(日) 07:32:58.35 ID:12D8GlyIo

男(本当は店長に相談したかったが、忘れちったからな。
 ぶっつけ本番で上手くいくか……
 用意したのは、まず生地に米粉30g、砂糖30gと常温の卵二つ、
 それから、豆乳のホイップクリーム300ccと、
 コンデンスミルクを大匙1)

男(まず、型には事前にクッキングシートをしいて、
 くっつかないように全体に) がさがさ

男(ボウル、泡だて器は、ケバの立たない布巾で拭って、
 汚れが付かないように)ふきふき

男(温いくらいのお湯で湯銭しながら、
 卵黄を卵白に残さないように取って、
 目分量で砂糖の半分を加えてほぐし、
 マヨネーズっぽくなってボウルの底が見えるまで、
 ぬるいなー位の温度で湯銭しながらしっかり泡立てる) がががががが

男(立てるっ) ずががががっ


145: 2011/03/20(日) 07:33:26.08 ID:12D8GlyIo

男(できたらいったん、泡だて器を洗って、
 さっきの布巾でしっかり水気をふき取る。
 それから卵白をあわ立てて、残りの砂糖を入れてメレンゲだ)

男(おっと、先にオーブンに余熱っ! 180度かな……)

男(そしてメレンゲを、作るっ) がががががが

男(作る……ぜはっ) ががが……

男(うう、ハンドミキサーくらい買うべきか?
 でもあんまり使わないしな……)

男(メレンゲは角が立つまでしっかり立てて、
 そしたら、メレンゲと卵黄を合わせて、
 出来る限り泡をつぶさないように、
 米粉を少しずつ振りながら、
 しっかりと全体に混ぜる) さささささー


146: 2011/03/20(日) 07:34:06.29 ID:12D8GlyIo

男(余熱が出来るまでしっかり混ぜれば、
 おおよそムラなく混ざるはず。
 米粉はムラになると怖いからな……)ささささー

男(でもって、余熱できたら型に流して、
 数cmくらい上から落とすことで、
 中に入っちゃった大きな気泡をつぶす) トントン

男(平らにしてからオーブンで8分。
 んで、様子を見ながら、2分ずつ追加かな?)

男(色づいて、甘い匂いもいい感じだ。
 オーブンが完了したら、一度軽く落として……
 直ぐに、外気に触れないように生地をラップで包む。

 うーん、予想よりちょっと膨らみが悪いか?
 粉を増やすと舌触りが固くなるけど、
 しっかり泡立ててあればふくらみを維持しやすくなるから、
 冷めた生地の結果次第で、次の参考にしよう)


147: 2011/03/20(日) 07:34:32.77 ID:12D8GlyIo

男(んで、今回はちょっとびっくりさせたいから、
 この影にそっとかくして……次はクリームだな)

男(かなり渋った店員さんに、
 粘って取り寄せてもらった豆乳ホイップ……
 ちょっと舐めた感じ、悪くないけどやっぱり少し違うな)

男(ま、予想通りなので……
 良くないかもしれないと思いつつ、コンデンスミルクを投入。
 吉と出るか、凶と出るか……
 バニラエッセンス一滴も加え、
 今度は氷水にボールを付けて、冷やしながら延々……)

 かしゃしゃしゃしゃ

 かしゃしゃしゃしゃ


148: 2011/03/20(日) 07:35:15.65 ID:12D8GlyIo

男(やりすぎると舌触りが悪くなるから、
 そうなる手前、ソレでいて形が崩れない程度に、
 見極めて止める) ぴっ

男 ぺろっ

男(よし、甘さはまあ、こんなものかな。
 ちょっと風味が違うのが気になるけど、
 コンデンスミルクで少しマシになったかな。
 生クリームというか、乳製品完全回避は、
 できるけどやっぱり少しなぁ……)

男(後は、生地が冷めるまでクリームは冷蔵庫で少し待機だな。
 で、フルーツミックスの缶詰を開けて、
 ザルでその漬け汁を除いておく。
 んで、今の内に、砂糖を等量の熱湯で溶いたシロップを作る)


149: 2011/03/20(日) 07:35:42.89 ID:12D8GlyIo

男(生地が冷めたら、フルーツを混ぜたクリームを乗せた後に、
 一度全体に軽くシロップを打って、
 それからゆっくり巻いてロールケーキの形に作るが、
 その時にもう一度、シロップを打ちながら丸くすると、
 スポンジにダメージがなく作れる)

男(ちなみに、今回のシロップにはそれぞれ少量だけ、
 キルシュ(桜桃のスピリッツ)と、缶詰の漬け汁を垂らしてみよう)

男「よしっ、これで完了……」くらぁっ

男「うぐ、さすがに、まだ体調不良が収まりきってないのに、
 ケーキは無謀だったか。
 心配させたお詫びのつもりなのに、
 それ作って悪くなったら、ミイラ取りがミイラのエサ状態だ」

男 よろよろ~

男「うう、体が重い。
 なんで料理してる最中って、
 体調悪くても案外動けるんだろ」

男 ふらふら~


150: 2011/03/20(日) 07:36:41.80 ID:12D8GlyIo
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   七日目・昼過ぎ 男宅

  ぴんぽーん♪

男「ん……」

男「宅急便とかか?
 聞いてないけど……」

 とたとた

 がちゃ

男「はいはー、い」
メイド「……嫌そうな顔をなさいますね」

男「いえいえ、そんな」 つぃーっ

メイド「……目が」 がしっ
メイド「逸れて」 ぐいいー

メイド「おりますわ☆」 にぃー
男「ひいぃっ」


151: 2011/03/20(日) 07:37:20.81 ID:12D8GlyIo

メイド「嫌ですねそんな、
 まるで悪鬼羅刹でも見たかのような表情をなさって」じっ
男「み、見てません見てません!」

メイド「そう、でしたら良かった」にこっ
男「う、うう……」

メイド「それにしても、本当に顔が悪いですね……」
男「知ってるけどな、ソレくらい……」

メイド「あ、すみません、噛みました。
 それにしても、本当に顔が酷いですね」
男「メイドさんの悪意のが酷いですよ……」

メイド「そんな、せっかく来てあげたのに……」 よよよ
男「うー、まあ、確かにそれは。
 とりあえず、今は俺だけなんだけど、
 それでも良かったら上がらない?
 立ち話もなんだし」

メイド「御迷惑でなければ、お邪魔いたします」
男「ん、どうぞどうぞ」

メイド「立派なお宅ですけど、御実家でしたっけ?」とことこ
男「実家って言えば実家だけどさ、
 俺と妹の二人だよ、暮らしてるの。
 ほい、ここがリビング、くつろいでくれ」


152: 2011/03/20(日) 07:37:47.72 ID:12D8GlyIo

メイド「嫌ですわ、メイドにくつろげ、なんて。
 お昼ごはんは召し上がりましたか?」

男「いや、食べてないけど」
メイド「でしたら、少々お待ちくださいな。
 お店のスープとパンを頂きましたから、温めます。
 キッチンお借りしますね。
 ベッドの中でガクガクブルブルしながら、待っていてください☆」にこっ

男「あの、なんで震えてないといけないんですか……」
メイド「…………知りたい、ですか?」

男「……いいです」
メイド「賢明ですね。
 ちなみにお部屋はどちらです?」

男「ここだけど、
 やっぱ来てもらってソレは悪いからさ、
 自分でやるよ」

メイド「……それは、メイドとして私が至らないと」じいっ
男「言ってないね」

メイド「頼りないと」ずいっ
男「頼っちゃいけないと思う」すっ

メイド「信じるに足りないと」ずずいっ
男「それは、ちょっと」すすっ


153: 2011/03/20(日) 07:39:05.17 ID:12D8GlyIo

メイド「こうなれば、私のメイド力を実践で見てもらうしか有りません。
 ですので、休んでいてください」ずずずずいっ
男「近い近い!! イロイロと危険だ!」

メイド「こほん、失礼しました」
男「まあ、その実践をさせたくないんだけど、
 なんか疲れたし、いいよ。すまないけど、任せる。
 キッチンのものは、道具も材料も好きに使ってくれ。
 それじゃすまないけど、頼むよ」

メイド「かしこまりましたわ♪」にこっ

男 よたよた、ぱたん。

メイド(いけませんね……)

メイド(男さんは嫌いなんですが、
どうにもノリは良くて、楽しくなります)

メイド(……んん、でも、楽しいなら嫌う必要はないかも知れないですね)

メイド(まあ、初対面の印象が最悪だったわけですが)

メイド(……あまり愉快な感じにはならないので、
 料理に集中しましょう。
 とはいっても、スープを温めてパンを焼くだけですが)

メイド(しかーし、ふふん、持って来たのは成形したパン生地です!)


154: 2011/03/20(日) 07:39:43.64 ID:12D8GlyIo

メイド(オーブンがあるという話は、
 昼の雑談でされていましたからね。
 こちらで焼成しようと、生地の状態で持ってきました)

メイド(……オーブンは、少し前に使った雰囲気が。
 しかもボウルが汚れてますね。何か作ったのでしょうか?
 甘い匂いもわずかにしますが。
 とりあえず、オーブン内を軽く拭いて、230度に余熱して……)

メイド(スープは弱火で温めながら、
 ボウルや泡だて器を洗ってしまいましょう)

 かちゃかちゃ

メイド(って、泡だて器にボウル、ボウルの汚れは……
 スポンジ生地の種、に似てますね。
 白と混ざった色が別ということは、
 別立てのビスキュイ生地?
 もしかして、ケーキでも作ったのでしょうか)

 かちゃ……かちゃかちゃ

メイド(ふっ、いえいえまさか……
 本当に顔色が悪かったですからね。
 クマも酷かったですし、体調不良はウソではなさそうです。

 ……しかし、ちょっと体調が戻ったからと、
 ケーキ作りを始める可能性も、男さんなら……
 いえ、まさかそんなに愚かでは無いでしょう)


155: 2011/03/20(日) 07:40:09.24 ID:12D8GlyIo

 かちゃかちゃ

メイド(オーブンの余熱が終わるまで、
 家庭用ですから、まだ少し余裕がありますね)

メイド(ちょっと失礼) がちゃ

メイド(……冷蔵庫は、どうなんでしょうか、コレは人として。
 豆乳がけっこうありますね。
 隣にあるにがりは、まさか豆腐を自作ですか。
 とても趣味がよろしいと思いますが、男はやらなそうですね。
 例の妹さんは趣味が豆腐作りなのでしょうか……)

メイド(そして、充実している豆乳に反して、
 家庭用サイズの冷蔵庫に、殆ど何もありません。
 冷暗所保存の調味料ばかりなんて……)ガクガク

メイド(幸い、卵と牛乳がありますね。
 あと、ハーブ類がそこそこ……
 生クリームが無いのは残念ですが、いいでしょう。
 ……ケーキを作っているとしたら、
 微妙に隠されているあのボウルが生クリームっぽいですがね。
 もし生クリームだったら、
 病人相手でも罵らずにいられないと思うので、確かめませんよ)

 pipipi pipipi

 がちゃ、ざっ、パタン。


156: 2011/03/20(日) 07:40:44.15 ID:12D8GlyIo

メイド(パン生地を入れて、10分ですかね。
 スープを弱火で温めましょう。

 そうしたら、大き目のフライパンでお湯を沸かします。
 牛乳と卵、オレガノやバジル、パセリなどをよく混ぜて、
 煮立ったフライパンのお湯につけて、
 卵液をくるくると回す。

 そうするとボウルのへりから卵液が固まるので、
 それをはがし続けて……
 ある程度まで固形分になったらお湯から上げましょう。
 そして、お皿に盛り付けたら、ブラックペッパーをまぶし、
 別のフライパンで作った焦がしバターを上から垂らせば、
 ふわっふわ♪ スクランブルエッグの完成ですー☆)

 pipipi pipipi

 ガチャ、さっさっ

メイド「パンも良い焼き色に出来ましたね。
 後は、スープをよそって、完成!」 えっへん

 とことこ

 とんとんとん

メイド「男さん、いいですか?」

男「ん、どうぞ」 がちゃっ


157: 2011/03/20(日) 07:41:13.32 ID:12D8GlyIo

男「って、うわ、すげぇ!」

メイド「冷蔵庫の卵と牛乳、バターなど、使わせていただきました」

男「おう、そんなのぜんぜん良いよ。
 うっわー!」きらきらきらきら

メイド「……待て」

男 ぴくっ

メイド「いいですよー」にこっ

男「おい、俺は犬じゃ……」

メイド「焼きたてパン、熱々がおいしいですよ」

男「ぐぅ。いただきます……」
メイド「悪ノリしすぎてしまい、すみません。
 召し上がってくださいませ」にこっ


158: 2011/03/20(日) 07:41:47.69 ID:12D8GlyIo

男「うわ、うわ、焼き立てパンたまんねぇ!
 これはもう、幸せの味だな」 ばくばく

メイド「……」

男「スクランブルエッグは信じられないふわとろだ……
 ホテルのスクランブルエッグみたいな見た目だけど、
 それよりよっぽど美味しいな!」 まぐまぐまぐ

メイド にぱっ

男「ん。スープはポトフだなっ。
 野菜たっぷりで、一度焦げ目を付けた角切りベーコンまで!
 野菜のうまみが染み出したスープは、あっさりなのに味が深くて、
 角切りベーコンはぎゅっと、噛み応えがあっていいなぁ」 ごくっもぎゅもぎゅ

メイド「こほん」

男「あ、すまん……
 自分の家ってことで気が抜けて。
 ついマナーとかがなってない食い方したな」

メイド「……それは、かまいません。
 男さんの家ですから」

メイド(それに、美味しそうに食べてくれましたし)


159: 2011/03/20(日) 07:42:14.49 ID:12D8GlyIo

男「でも、ほんと、マナーとか忘れるくらいうまいな。
 メイドと結婚するダンナは幸せだな」 にこっ

メイド「……そうですね。お相手がいれば」

男「いるだろ。っつーか、見つかるって。
 こんなに美味しい食事を出されて、気にならない男はいないね」 まぐまぐ

メイド「あら、ふふふふふふー」
男「……」もきゅ……

男(なんでだ、なんで寒くないのに体が震える?!)カタカタ

メイド「つまり、男さんもその料理を出されて、
 私を気にしてくださるわけですね」 にやり

男「い、いやいやいや。
 俺なんかはほら、不定収入の売れない作家だからさ。
 そもそも恐れ多くて、そんな気になんてとてもとても……」

メイド「そういえばそうでしたね。
 これで印税いっぱいの大作家なら、捕まえたのですが……」

男 ほっ。もぐもぐ……


160: 2011/03/20(日) 07:42:45.53 ID:12D8GlyIo

男「ごちそうさま」
メイド「お粗末さまでした。
 それでは下げてきますね」

男「あ、すまん」
メイド「いえいえ、これでも『メイド』ですから」にこっ

 ぱたん

男(メイド、か)

男(店長がボヤいてたからな……
 調理の時にちょっと気になるから、
 その時だけでも調理服にしてほしいんだが、って。
 アレ私服なんだよ。
 しかも今も私服=メイド服だ。堂々と)

男(ポニテさんは普通に調理師服だし。
 俺と店長はギャルソンスタイルだ。
 メイドだけ、メイド服……)

男(まあ、さいきんのミニスカメイドじゃなくて、
 クラシックな欧風家政婦の服だから、
 店の雰囲気に合っていないわけじゃないんだけど。
 やっぱり勘違いしたり、首をかしげる客はいるわけで)

男(でも、メイドにとっては譲れない条件で、
 これが認められないなら別の店にって言うほどの、
 こだわりがあるとか)

男(なんなんだろうな)


161: 2011/03/20(日) 07:43:12.86 ID:12D8GlyIo

 こんこんこん

男「あ、はい、どうぞ」がちゃ

メイド「失礼します。
 食後の紅茶はいかがかと思いまして」にこっ

男「おお、嬉しい」
メイド「良かったですわ♪」

男「メイドさんは……紅茶淹れるの、上手いですね」

男(く、踏み込めない俺のチキン!)

メイド「そうですか?
 練習しているので、それは素直に嬉しいです」にぱっ

男(んん……なんとなく、初めて笑顔をみたような。
 いつでもメイド・スマイルなんだけど)

メイド「では、次に参りましょー」ずいっ
男「え?」

メイド ぐいっ、そっ、そっ
男「ちょ、ちょぉ、どうしていきなり俺のボタンをはずすんだ!
 しかも後ろはベッドで逃げられない俺相手に!!」

メイド「ふふふふー」そっ、そっ、ぺろっ
男(唇を舐める真っ赤な舌が、見上げる視線が、
 くそ、何で淫蕩なんて言葉が浮かぶんだよ)

162: 2011/03/20(日) 07:43:44.98 ID:12D8GlyIo

メイド すっ
男「うわっ、ちょっと待て、くすぐったい。お腹を触るな!」

メイド「男性なのに、お肌すべすべですね……」にやっ。すぅー
男「おい、そろそろ!」

メイド「そろそろ、なんです?」
男「俺が笑って、済ませられなくなる」

メイド「……ちょっと、沸点低いですね」すっ
男「わるいな。どうせウブだよ」むすっ。ぎしっ

メイド「悪くはありませんよ」くすくす

男 むっすー

メイド「……背中を向けないでくださいよ」

男 むっすー

メイド「噛みたくなります」

男 がばっ
男「俺、食料かよっ?!」がくがく

メイド「いえいえ。しかし、可愛らしい様子に応えんとすると、
 噛みつくという選択肢がポップアップしまして」

男「しないでいい!
 っていうか、俺より七つ、八つ下だろ。可愛いとか云うな」

163: 2011/03/20(日) 07:44:19.64 ID:12D8GlyIo

メイド「……そうですね、失礼しました」
男「……」

メイド「どうしました?」
男「いや、そこで、わかればいいんだとか云ったら、
 絶対に何かしら、反撃を食らうようなパターンだと思ってな」

メイド「そんな事はございますわ♪」
男「反省の色ないなっ、ホント!」

メイド「……そうですね、本当にすみません。
 ちょっと、楽しくて、盛り上がりすぎました」
男「……」

メイド「帰ったほうが良いですかね?」
男「……帰れとは言わないが、
 店かは良いのか?」

メイド「今日は元々、私は非番でしたから。
 午前中に男さんのヘルプで、ちょっとお店にいきましたけど」

男「あ……」

男「その、迷惑かけて、ごめん。
 それにこうやって、見舞いに来てくれたのに、礼とか――」
メイド「でしたら、代わりに」

 ぎしっ


164: 2011/03/20(日) 07:45:17.23 ID:12D8GlyIo

メイド「膝枕でも、されてくれませんか?」にこっ
男「え、いや、それは」

メイド「さ、お休みください」そっ
男「ちょ、おい」

メイド「……力、入らないんですね」
男「……まあ、な」

メイド「ムリしすぎです」

男「止めを刺したのは、メイドさんだ」

メイド「……メイドで、いいですよ。目上ですから」

男「扱いは目の上のたんこぶだな、たしかに」


165: 2011/03/20(日) 07:45:43.28 ID:12D8GlyIo

メイド「そんな事ないですよ。
 こんな風に会話できることが少なかったので、
 ついはしゃいで……
 迷惑だったら、ごめんなさい」

男「……いや、いいよ。言い過ぎた」


メイド「では、おやすみなさい」 なでなで
男「しかし、コレは本当に恥ずかしいんだが」

メイド「でも、気持ち良いと聞きますよ?」
男「うーん、気持ち良いというか、むにゃむにゃ」

メイド「なんです?」
男「……寝る。というか寝た。寝たと言ったら寝た」

メイド「ふふ、わかりました」くすくす

男「……ありがとな」 うと、うと
メイド「無粋な人ですね」くすくす


166: 2011/03/20(日) 07:46:10.70 ID:12D8GlyIo

男 すー、すー

メイド(すぐに、寝息を立てて。
 疲れさせてしまったのは、申し訳ないですね)

メイド(自分が、抑え切れなくて)

メイド(楽しくて、楽しくて。
 いつの間にか、会話だけで少しずつ心が弾むように……)

メイド(なにせ、からかうと面白いですからね。
 表情豊かで、特に冗談交じりに少し笑顔の混じるすねた表情は、
 年上の男性なのにどこかとても、可愛らしくて)

メイド(それに少しムチャをするみたいなので、
 放って置けない雰囲気が、メイドセンサーに引っかかるんですよね)

メイド(後は、なんだか、話していて安心感まであるような)

メイド(……私、男さんの事、嫌い、ですよね) うと

メイド(ホントは、ちょっとだけ、小指の先くらいは……) うとうと

メイド こっくり。こっくり。



167: 2011/03/20(日) 07:47:02.50 ID:12D8GlyIo
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   七日目・夕暮れ 男の部屋

妹「そんな……」どさっ

妹(私の帰りは、いつも遅い)

妹(陸上の練習で暗くなっても走ってから帰ってくるから)

妹(だけど、バーゲンの日は別だ。
 前日までに整理した冷蔵庫を埋めるべく、
 必要量の最小限に、しかし最大限のお得を逃さぬよう、
 徹底的にスーパーで戦争してから、帰る)

妹「まさか……」

妹(猪の如き突進力を備えた主婦の群れをかいくぐり、
 私は狼のようにセール品を買いあさる。
 この世で最も過酷で容赦ない戦場の、孤独な狩人)

妹(今日もまた、戦利品を抱えて帰ってきた我が家)

妹(しっかりものだと自負する、一寸どこかヌケた兄の待っている家。
 抱えてきた食料を冷蔵庫に納めたあと、
 部屋に荷物を置こうとして、ソレは見えてしまった)

168: 2011/03/20(日) 07:47:40.64 ID:12D8GlyIo

妹(夕暮れ時の赤い光景の中で、
 兄のベッドにいたのは、
 優しい笑顔で寝ている可愛らしい女性。
 そして、そのその膝枕で眠る兄だった)

妹「私が、いない隙に――」

妹(胸がザラつく。
 のどが乾く。
 この感覚の名前はそう……)

妹「お兄ちゃんのばかーっ!」

男「うえっ、え、……妹、どうしたんだ?」

妹「……不潔」 じろっ

男「え、あ」 ぱっ
男「いや、そんなんじゃなくてな、コレはその」

妹 たたっ


メイド「私を、コレ扱いですか?」 にこっ
男「うわ、起きてたのか!」

メイド「はい。大きな声でしたから。
 ま、私の機嫌は後で直していただくとして、妹さんを」
男「おう」

男 たたっ


169: 2011/03/20(日) 07:48:10.17 ID:12D8GlyIo
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   七日目・夕暮れ リビング


妹 むすっ

男「あのな、妹、あの人は――」
妹「い、言わないでいい。わかってる、わかってるから」

男「いや、分かってないだろお前……」
妹「分かってるよ。
 でも、言わせないでよ」

男「え、そんな、言いたくない要素はないだろ?!」

妹「イメクラとかデリヘルとか、言いたくないに決まってるよ!
 いくらお兄ちゃんがモテなくて寂しくても、
 妹が帰ってくるまでに、呼んだお姉さんは帰ってもらっておいてよ。
 不潔!」 どーん

男「……」

男(恋人とかより、一段酷かった……」

男 ずーん
妹 ずーん


170: 2011/03/20(日) 07:48:44.66 ID:12D8GlyIo

 とことこ

メイド「えっと、でしゃばるつもりはなかったんですが……
 失礼なお言葉が聞こえたので、訂正させていただきますね。
 私は、男さんの職場の友人ですよ。
 恋人でもありません」にこっ

妹「……恋人でもないひとに、
 メイド服を着させて、膝枕をさせてたの?」じとっ

男「ばかっ、んなワケあるか!
 メイドがこの格好なのは……なんでだ?」

メイド「趣味であり、生き方ですよ」にこっ

妹「……なら、男に不都合な真実を突きつけられたり」
メイド「ありません」

妹「……金銭的な必要性から、男に強要されたり」
メイド「お金は有っても困りませんが、必要な分はあります」

妹「……男の倒錯的な趣向を、好意から断れなかったり」
メイド「むしろ嫌いです」ずばっ


男「……俺は、もういやだ」


171: 2011/03/20(日) 07:49:28.05 ID:12D8GlyIo

妹「……そっか」
メイド「はい」にこっ

妹「ごめんなさい」 へこっ
メイド「いいですよ」にこっ

妹「こんな可愛い人が男に好意とか、なかった」

メイド「まあ、可愛いなんてー。
 妹ちゃんみたいにきれいな人に言われると、照れますね☆」

妹「きれいじゃない」 しゅん

メイド「性格やしぐさはらぶりーですわーっ♪」ぎゅーっ
妹「?!」 あたふた

メイド「スリムなのに付くところにはお肉があって、
 抱き心地もすてきですー☆」ぎゅーっ、ぶんぶん

妹「……」 あたふ……くたん


男「メイド、妹が氏にそうだ」

メイド「あら、すみません……」
妹「きゅー」へとっ

メイド うずうず


172: 2011/03/20(日) 07:50:13.57 ID:12D8GlyIo

男「あー、メイド。
 気付いたらすっかり夜だが。どうする?」

メイド「……それは、上が良いか、下が……いえ、なんでもないです」
男 むすっ

メイド「そうですね、そろそろ帰らせていただこうかと思います」
男「そうか。世話になった」

メイド「はい、お世話させていただきました」 にこっ

妹「……ご飯、食べていかない?」 じっ
メイド「え、でもそれは……」

男「俺はどっちでも良いぞ。二人分も三人分もかわらんし」
メイド「男さんが作るんですか?」

男「まあな。朝は妹の任せてるから、その分夜は俺がやるんだ。
 もっとも、今日はバテてたから、準備なんてなくて大したものは出来ないが」

妹「私は、料理が苦手」

男「出来なくはないがな。
 つい少し長く焼いてこがしたり、その経験を生かしたら生焼けになったり」

173: 2011/03/20(日) 07:50:52.54 ID:12D8GlyIo

妹「でも、お味噌汁と炊飯はさすがに大丈夫」
男「だから、朝ごはんはふりかけとソレだもんな」

妹「不満?」
男「いや、作って貰えるだけでありがたいよ」にこっ

妹「よかった」

メイド(なんでしょう、この、独特の空気……妙に面白いような、そうでも無いような)

メイド「でしたら、今日は私がお夕飯を作らせてください」にこっ

男「え、いや。それはダメだろ。
 もう俺もすっかり元気になったし、料理ぐらいするよ」

妹「男の料理が不満なら、私もがんばる」ぐっ

メイド「いえ、不満ではないんですよ。
 ただ、メイドというのは誰かのために家事をすることを、幸せに感じるのです。
 ですから、食卓を一緒にさせていただくお礼に、作らせてください」にこっ

男「俺のときと、態度が違うな」ぼそっ

メイド「何かおっしゃいましたか?」

男「いえ。なにも」

174: 2011/03/20(日) 07:51:18.77 ID:12D8GlyIo

妹「いいの?」

メイド「はい。男さんをあやしていてください」にこっ

妹「……難しいオーダーだけど、頑張る」
男「おい、なんだよ。まるで俺がちょっと離れると泣き出す乳児みたいな」

妹「そう扱ってほしい?」
男「意味わかんねぇよ」

メイド「さぁさ、ご飯を作りますので、キッチンから出てください。
 材料は勝手に使ってよろしいですか?」

男「おう。すまんが、任せる」
妹「……おねがいします」へこっ


175: 2011/03/20(日) 07:51:59.51 ID:12D8GlyIo
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   七日目・夜中 リビング

男「おいおい……」

妹 くー

メイド すよすよ

男(まいったな、妹がジュースと間違えて買ってきたチューハイ一本で、これか)

妹 ころん
メイド ぎゅー

妹 ころ……
メイド ぎゅー

妹 ぱたぱた

メイド ぎゅぎゅー

妹 ぱた、ぱた

妹 ぱた

妹 ぴくぴく


176: 2011/03/20(日) 07:52:29.24 ID:12D8GlyIo

男(……メイド、貴様は寝ても悪意の塊か)

男「よいしょ……」 ぐいっ

妹「ん、むぅ」

男(お姫様だっことか、初めてだな。
 案外軽くてびっくりした……)

 とことこ

 かちゃ

 もぞもぞ

 ぱたん

 とことこ

男(妹は、制服のままだが、仕方ない
 とりあえずベッドの中なら風邪は引かないしな。
 少し朝練に遅れる覚悟を決めれば、
 制服はアイロンかけられるし)


177: 2011/03/20(日) 07:53:09.36 ID:12D8GlyIo

男(問題はメイドか……
 つか、親御さんとか、連絡しなくていいのか?)

男「おい、メイド、メイド」

メイド「んぅ」

男「お前、帰れるのか、それで」

メイド「ひゃい?」

男「……無理そうだな。
 御両親、一緒に住んでるならに泊まるって連絡入れておけ」

メイド「ん、わかりまひた」

 とことこ

メイド(離れて)「もひもひ。はい。はい」

とことこ

男「どうだって?」
メイド「んふふ。わかったって」


178: 2011/03/20(日) 07:53:44.22 ID:12D8GlyIo

男「そんなら、立てるか?
 俺のベッドしかないが、床よりマシだ。そこで寝ろ」

メイド「……おおかみさんれすか?」
男「狼になれるなら、もっと上手くやってるさ」 ぽりぽり

メイド「んへへぇー」 ぎゅー
男「あー、そういうのはやめてくれ。とにかく、歩けないならベッド連れてくからな」

男「よっと」 ぐいっ
メイド「おおー」

 とことこ

メイド「んー」 ぎゅぅ

 がちゃ

男「てい」 ぽいっ
メイド「きゃっ☆」

男「……いつもの二割り増しでわざとらしいな」

179: 2011/03/20(日) 07:54:37.41 ID:12D8GlyIo

メイド「ふふー」そっ。ぎゅっ
男「なんで引っ付く」

メイド「えへへ。……かぷ」
男「おい、ちょっ」

メイド「かぷ。かぷ。」
男「やめ。首筋噛むなよ」

男(ちょ、おいおい、痛くないが、イロイロとピンチだ)

メイド「じゅるるる」
男「飲まれてる?!」

メイド「ごくん」
男「あー、俺、飲み込まれたな……」

メイド「たべたー」ぎゅむっ
男「ほいほい。わかったから、もう寝ろ」 なでなで

メイド「ん……」
男 なでなで

メイド「男さん、なでるの、うまい……?」
男「さあな。妹くらいしかなでないから、しらん」 なでなで


180: 2011/03/20(日) 07:55:44.18 ID:12D8GlyIo

メイド「ふひひ」
男(ふひひ?!)  なでなで

メイド「なんか、幸せな感じがしますよ」
男「そうか。俺はいろいろ大ピンチだ」 なでなで

メイド「なら、メイドとしてピンチを助けるでござる……」
男「キャラ違ってる。
 いいから、もう寝ろ。そうすればピンチもなくなる」 なでなで

メイド「ん、んぅ……」 うと、うと

男「……」 なでなで

メイド すぅ、すぅ

男「……」 なでなで

メイド すよすよ

 ぎしっ

 ぱたん


181: 2011/03/20(日) 07:57:01.86 ID:12D8GlyIo

男(なん、なん、なん)ばくばくばく

男(くそ、幸せそうな表情にキュンときたとか、なんだ俺!)

男(間違えるな、立てば毒舌 座れば詐称 歩く姿は悪意の塊、のメイドだぞ)

男(くぅ、不覚だ……)

男(だがまあ、寝顔はほんと、かわいいのな)

男(しかも、長いスカートがはだけて見えた絶対領域……)

男(く、色即是空 空是即色…………)

男(……とりあえず、俺はリビングのソファで寝るか。はぁ)


182: 2011/03/20(日) 07:57:40.66 ID:12D8GlyIo
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   八日目・朝 洋菓子喫茶ミンドロウへ向かう道

 とことこ

男「なあ……」

メイド つーん

男「なんで、同じ方向に向かうのに、
 俺だけ歩道から追い出されるんだ?」

メイド「車にひかれやがってください」

男「いや、広めの車道だから、
 居眠りでもなけりゃ大丈夫だけどさ」

メイド「むしろ居眠りして目が覚めなければいいのに」

男「……ホント、俺のことが嫌いな」

メイド「……」つーん

 とことこ

183: 2011/03/20(日) 07:58:21.36 ID:12D8GlyIo

メイド「……ここで、失礼します」

男「ん? ああ、一度家に帰るのか」

メイド「昨日と同じ服というワケにはいきません。
 万が一、男さんとの仲を邪推でもされたら、
 その屈辱のあまり首を吊ってしまいます」

男「いや、まだ若いんだし。
 邪推されたくらいで氏なないでくれよ」

メイド「男さんの首を吊ってしまいます」

男「主語は俺かよっ!
 さすがにソレは止めてくれ」

メイド「はっ、そんな事では、
 それこそ若い人生を棒に振ってしまいますね。
 止めていただいてありがとうございます」

男「止めなきゃいけない事態になるのが、
 そもそもどうかと思うんだけど」

184: 2011/03/20(日) 07:58:47.76 ID:12D8GlyIo

メイド「そうですね、私とした者が。
 きちんとアリバイを作り、
 男さん が 首を吊ってしまいます、
 という発言にすべきでした」

男「うん、そうそうそれなら――
 って、自殺に見せかけて、やること同じか!」

メイド「これなら私の人生に無害です」 じっ

男「……うん。目が真剣だから、本当に怖い」

メイド「……憂さ晴らしして、少し気分が晴れました。
 それでは後ほど。ごきげんよう」 ひらっ。とことこ

男「うう、俺って、どんどん粗末に扱われる……」

 とことこ


185: 2011/03/20(日) 07:59:17.36 ID:12D8GlyIo

店長「ん、おお、男! まだ疲れた顔してないか?
 本当に体調は大丈夫なんだろうな? ムリはするなよ」ばんばん

男「けほっ、はい、大丈夫ですが。
 メイドと行き会いましてね。いじめられました」

店長「あー、先生に告げ口ってヤツか」

男「いえ、特にそういう意図は。
 ただ、メイドって、誰にでもこうなんですか?」

店長「わからんが、余り人を邪険にするヤツじゃないだろう。
 プライベートだからぼやかすが、
 面接のときに聞いた話じゃ、むしろ逆の印象だ」

男「はぁ……じゃ、俺がホントに嫌われてるだけなんですね」

店長「それも違うと思うがなぁ。
 ま、おっさんには若人の機微は分からん。
 分かったとしても、若人が自分で解決するのを見て楽しむ主義だ」

男「確かに、店長はそういうタイプですね」

186: 2011/03/20(日) 07:59:46.90 ID:12D8GlyIo

店長「ま、本当に辛くなったり、
 どうしたら良いか分からない時は声をかけろ。
 最後の手段くらいにはなってやる」

男「それだけでも、なんか温かくなります」

店長「……よっぽどメイドにやられてるな」

男「妹にもやられまして」

店長「そうか。まあ、とりあえず仕事だ。
 仕事してれば、元気になるさ。
 ついでに、ポニテに言って、何か甘いもんでももらえ。
 脳の等分が足りなくなると、元気が出なくなるらしい」

男「はい、了解です」


187: 2011/03/20(日) 08:00:15.63 ID:12D8GlyIo
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   八日目・朝 洋菓子喫茶ミンドロウ店内

男「おはようございまーす」

ポニテ「お、男くんだね。
 体調はどう? 倒れたって聞いてびっくりしちゃった」

男「しっかり休ませてもらって、元気でしたよ」
ポニテ「なんだい。過去形ってことは、何かあった?」

男「メイドと妹それぞれに、コテンパンにされまして」
ポニテ「あはは、まあ、男くんはいじると面白いタイプだからね」

男「ポニテさんまでそういうことを……」
ポニテ「まあまあ。これ、食べない?
 店長の作ったエクレア」

男「おお、あの超うまいやつ!
 良いんですか?」

ポニテ「昨日の売れ残りだしねー。
 アタシのおやつにとっておいたけど、元気のない部下のために進呈しよう」えっへん

男「ははー、ありがたく」

188: 2011/03/20(日) 08:00:53.09 ID:12D8GlyIo

ポニテ「お礼は焼きたて一個分のお値段でいいよー」
男「え、て、古くなったの押し付けられただけかよっ!」

ポニテ「あはは、冗談だから大丈夫……
 男くん、ホントに傷ついた目、やめよ。ね、ごめん、ホントに」

男「うう……」

ポニテ「ま、とりあえず食べなよ。
 ちょっと時間経ってるけど、パリで五本の指に入るエクレアだよ」

男「そうなんですか? いただきます」さくっ

男「ううう、うまい……!
 ほんと、基本のエクレアなのになー」 もっしゃもっしゃ

ポニテ「店長の一番得意なお菓子だからね。
 ウチの看板商品の一つだし、それだけは私も店長にかなわないんだ。
 ……そういえば、話は変わるけど、男くんはエンデを読んだ事はあるかな?」

男「エンデって、ミヒャエル・エンデですよね?
 もちろん、ファンを名乗るにはおこがましいですが、
 日本で読めるものは全部読みましたよ」 まぐまぐまぐまぐ

189: 2011/03/20(日) 08:01:20.49 ID:12D8GlyIo

ポニテ「……ほら、クリームついてるぞ」 きゅ

男「っ、こ、子供じゃないんですから。
 ……ありがとうございます」(////

ポニテ「素直でよろしい。
 男くんは食べる姿がいいね。
 それこそ子供みたいに、屈託無く、美味しそうに食べてくれる」

男「褒められてます?」ぱく

ポニテ「うん。アルティザン(職人)はさ、喜んで貰うために作るんだ。
 この店の名前も、店長のそんな思いがこもっててね。
 恥ずかしがって、思い付きだって言うけど」

男「ミンドロウ、ミンドロウ……って、ああ!
 『終わりなき物語』か! あのアウリンが表紙の!!」

ポニテ「おおー。アウリンが表紙なの、たしかハードカバーの保存版だよね。
 確かにファンっぽい」

男「俺、あの話が大好きで、若いころはファンタジーばっかり書いてましたからね。
 いろいろ有って今はもうちょっと、大人しいものを書いてますけど。
 それでも、忘れられない一冊ですよ。
 で、ミンドロウって、思い出の鉱山ですよね」ぱくっ、ぺろぺろ


190: 2011/03/20(日) 08:01:52.06 ID:12D8GlyIo

ポニテ「そうそう。願いをかなえるたびに思い出をなくしていった主人公。
 彼がたどり着いたのは、人の記憶から零れ落ちた思い出が、
 積み重なって化石になる鉱山。それがミンドロウ」

男「ぶっきらぼうな工夫のおじいさんがいて、
 そこで主人公は、現実世界につながる大切な思い出を見つけるんでしたっけ」

ポニテ「そんな感じだったね。
 ここも、そんなミンドロウになればって、言ってたんだ」

男「思い出の鉱山に、って事です?」

ポニテ「おっほん、
 『ケーキってのは、幸せな時の食べ物だ。

 それは、小さいころの、家族が笑顔でそろった誕生日の、締めくくりかもしれない。
 それは、入学や卒業の時、その後に向かって胸を膨らませる思いと共に、食べるかもしれない。
 それは、恋人と手をつないで入った店の、ディナーの終わりの合図かもしれない。

 ケーキは、菓子は――幸せな時に食べて、その思い出を美味しさと共に残してくれるものだ。
 だから、美味しいケーキを作って、提供する。

 今の幸せな光景を、ずっと忘れないように。
 忘れてしまっていた光景を、鮮やかに蘇らせられるように』
 ってね」

男「……詩人ですね。あの店長なのに」



191: 2011/03/20(日) 08:02:18.17 ID:12D8GlyIo

ポニテ「あはは、確かに、奥様のおしりばっかり見てるのにね」

男「でも、なんか、そういう店で働けるって、いいですね。
 俺、今まで以上にヤルキがでましたよ!」

ポニテ「でも、倒れるのはもうダメだよ。
 昨日は大変だったんだから」

男「すみません。反省してます」へこっ

ポニテ「とりあえず、今日もお仕事頑張ろう!
 次は無理しないで、厳しかったら言ってね?」

男「うう。優しさがしみます。
 んでは、着替えてきます」

ポニテ「うん、私も作業に戻るよ」

 とことこ


192: 2011/03/20(日) 08:03:10.79 ID:12D8GlyIo
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   八日目・昼 洋菓子喫茶ミンドロウの前

男 がたがた

男(昔勤めてたような店と違って、
 こっちのお客さんは態度も優しいし、
 食べ方もきれいでいいなー) ふきふき

男(仕方ないことだけど、
 学生が多かったりお酒を出す店って、
 それだけテーブルとかも汚くなるから、気がめいるんだよな) きゅっきゅ

男(よしっと、オープンカフェ部分は掃除完了。
 中に戻って、と…………ん?)


193: 2011/03/20(日) 08:04:43.78 ID:12D8GlyIo

 とことこ

男「いかがいたしましたか?」にこっ

子供「あ、」ささっ
男(人見知りする子か……)

母「お店の前で騒いでしまい、申し訳ありません」へこっ

男「いえいえ、お気になさらず。
 騒いでいたというほどでもございません。
 ただ、少々困っていらっしゃるように、見えましたので……」

子供「……おじちゃん、おみせのひと?」そーっ

男(お、じ、ちゃ……くぅうう、言われると、ダメージがホントに来るんだ)

男「はい、そうですよ。
 洋菓子喫茶ミンドロウの店員です」

子供「あのね、あたし、こんどおたんじょうびなの」にこっ

男「おめでとうございます。
 おいくつになられますか?」にこっ

子供「いつつー」ぴっ

男(指は四本だよ……)

子供「それでね、ままに、けえきがたべたいっていったの。
 でも、ままはだめっていうの」

194: 2011/03/20(日) 08:05:11.05 ID:12D8GlyIo

母「こーらっ。お兄さん忙しいから、だめよ。
 ……その、お仕事中に、申し訳ありませんでした」

男「いえ、かまいません」にこっ

母「いくわよ」くいっ

子供「あ、……うん。おじちゃん、じゃーね」

 とことこ

男(うーん、ミンドロウは大規模チェーンに比べると金額が高いけど、法外でもないし。
 あんまり、金銭面で困ってるようには見えないけどな)

男(お、そうだ) ごそごそ

 じゃじゃーん

男(残ってて良かった。
 順番待ちをしているお客様の、特にお子様に配る試供品。
 当店のクッキー三枚セットだぜ!)


195: 2011/03/20(日) 08:05:39.33 ID:12D8GlyIo

 たったったっ

男「あ、あの……」

母「はい? あら、さきほどの」
子供「おじちゃーん」

 すっ

男「よかったらこれ、うちのお店のクッキーで――」

 ぱぁんっ!

男「え……」
母「こ、この子に! この子に渡さないで下さい!」

男「あ、その。申し訳ありませんでした」ふかぶか

子供「おじちゃん、わるいひとやの?」

母「そ、そうじゃないのよ。その、すみません、私も取り乱して」


196: 2011/03/20(日) 08:06:08.70 ID:12D8GlyIo

男「いえ、こちらが差し出がましいことをいたしました。
 本当に申し訳ありませんでした」へこっ

母「いえ、悪いのは、こちら、です。
 申し訳ありません」へこっ

母「それでは、改めて失礼させていただきます」くいっ

子供「おかあさん、あたし、くっきー」

母「はいはい。とりあえず、家に帰ったら聞いてあげるからね」 とことこ

男「……」

男 すっ

男「クマさんのクッキー。割れちったな」

男(すごい、反応だった。
 親の仇でも見るような目で、コッチをにらみつけて。
 手も、こっちがしびれるくらい強くたたかれて)

男「……お誕生日、なぁ」


197: 2011/03/20(日) 08:13:40.79 ID:12D8GlyIo
よーし、これから寝る!
ちょっとおいらの電源も切れてきたなり。

とりあえず、現在進行済みの3/4をはりはり完了。
書く量は、あと半分弱くらい。
加速装置ほしいなー。

とりあえずみんな、鼻炎薬をもってけー☆

>>139
おおー、ありがとう。
おいらがんばるよ!

>>140
才能かぁ……
あったらたぶん、作家になってると思うww
だから見た、きぶん、だけなりww

>>141
なんと! ありがとう、すんげー嬉しい。
141にがっかりされないようにも、コレ、がんばって書くな!


202: 2011/03/20(日) 19:21:06.92 ID:12D8GlyIo
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   八日目・夜 洋菓子喫茶ミンドロウ・閉店後

店長「よぉっし、これで片付けと仕込み完了だ。
 おつかれさん」

男「あ、店長、ちょっといいですか?」
店長「んん? なんだ、もう最終手段か?」ちらっ

メイド ちらっ。つーん

 とことこ

男「今日は結局、本当に最低限しか口を聞いてくれませんでしたからね」

店長「なあ、もしかして……」
男「なんですか?」

店長「押し倒したか?」

男「ぶふぅっ、けほっ、けほ。
 い、いきなり何を言い出すんですか!」

203: 2011/03/20(日) 19:21:47.72 ID:12D8GlyIo

店長「いやぁ、なあ。
 だってよ、一昨日までは、険悪っつてもココまでじゃなかったろ。
 それがこんなに、一日で態度を硬化させるなんざ、並じゃねぇよ」

男「それは、まあ」

店長「んで、昨日のメイドは『午後は予定が入りまして』って、早退だからな。
 まあ、もともと休みに来てもらってたからよ。
 客も火曜でちょっと少なかったし、帰ってもらったんだ。

 ただ、帰り際にランチを少し分けて欲しいって、持ってたからな。
 なにか有るなーとは思ってたが、こんな変化がありゃ、嫌でも勘付く」

男「あー、まあ、その。
 昨日の午後は、見舞いに来てくれましてね」

店長「ほうほう」

男「で、ウチで酔っ払って、泊まって帰りましたが」
店長「そこでがばっと!」

男「出来るような甲斐性が有るように見えますか?」
店長「……すまん。見えない」

男「くっ。それはそれで屈辱的な気が。
 まあ、ですから、何もなかったはずなんです」

204: 2011/03/20(日) 19:22:24.61 ID:12D8GlyIo

店長「そうか。まさかアイツから何かを、ってのも、無いだろうしな」

男「まあ、からかってきましたが、ソレくらいですよ」

二人「うーん……」

ポニテ「や、どうしたの?」

店長「こいつがな、メイドの機嫌を垂直まで傾けたのを、どうにかしたいって言うからさ」

男「あ、ソレ違います!
 忘れるところだった。
 たしかにメイドの機嫌も直したいですが、
 もう一つ、気になることがあって」

ポニテ「なにかな? 私で良かったら相談にのるよっ」

男「昼に、親子が見せの前を通ったんですけどね。
 子供がなんだか、誕生日にはケーキが食べたいとゴネていて、
 お母さんらしい女性が、なだめてたんです」

ポニテ「まあ、誕生日には、ってところを除けば、良くあるかな。
 ウチのお菓子の匂いは災害級って、奥様方に言われるからね。
 前を通ると子供達が騒ぎ出すから、ちょっと大変でも遠回りしないとって」

205: 2011/03/20(日) 19:22:50.69 ID:12D8GlyIo

男「まあ、確かにそれくらいなら、そんなもんかで終わるんですが。
 その後、試供品のクッキーがポケットに残っていたんで、
 せめてと思って渡しにいったんですが」

ポニテ「お、いいね。優しさは高得点だ」

男「茶化さないで下さい。
 んで、それを渡そうとしたら、お母さんが急に怒って。
 怪我はなかったんですが、かなり強く手を叩かれて、びっくりしました」

ポニテ「子供にクッキーを渡したくなかったって、ことかな?」

男「あー、そうなのかな。
 ダイエットとか、小さいうちからしないだろうし」

ポニテ「うーん」

店長「…………悩んだって仕方ねえ。
 とりあえず、あんまり客の事情に首を突っ込むなよ」くるっ

 とことこ

ポニテ「……」
男「……なんか、知ってますね」

ポニテ「あー、まあ、そんな感じかな」
男「どうしたんですか?」


206: 2011/03/20(日) 19:23:21.70 ID:12D8GlyIo

ポニテ「とりあえず、聞かないで。私には何もいえないから」

男「……よくわかりませんが、まあ。
 毎日会うような相手でも無いですしね」

ポニテ「そうそう。
 とりあえず、今日はもう早く帰って休むといいよ。
 そんな事考えてる暇があったら、
 心配だし、早く体調を万全にして欲しいかも」

男「はい。すみませんでした。
 じゃ、帰りますねー」

ポニテ「お疲れ様」

男「お疲れ様です」

 からん♪

ポニテ「……」

ポニテ「あー、うー」

ポニテ「義理立てって考えとしては、違う気はするんだけど。
 でもなー。目で釘さされたし。
 大人しくする感じかな?
 なのかな?
 うー」 ぐねぐね


207: 2011/03/20(日) 19:23:57.12 ID:12D8GlyIo
------------------------------------------------------------
   十四日目・昼 洋菓子喫茶ミンドロウ

客「なんだかすっかり、君もこの店の一員ねぇ」

男「ありがとうございます、このお店に溶け込めるっていうのは、嬉しいですね。
 はい、おつりです」

客「ありがとう。
 まじめそうだし、元気もいいし。
 もし良かったら、ウチの孫娘とお見合いとかどう?」にこっ

男「まだ見習いなので、もっと相応しくなったら、お願いします」たらーっ

客「残念ねぇ。それじゃ、また来るから」

男「はい、御来店ありがとうございました」ふかぶか

 からん♪

208: 2011/03/20(日) 19:24:24.16 ID:12D8GlyIo

男(店の一員か……
 ココで働き始めて、もう二週間くらい。
 確かに、常連さんの顔は覚えたし、そう言ってもらえると嬉しいな)


男(本業のほうは、小さなコラムをちまちま……
 実入りは良くないけど、ここのバイト代と合わせれば、不足ではないし)

男(店長が言うには、辞める人はここらで辞めちゃうとか。
 たしかに、毎日早起きしてパンを作るのは、肉体労働だし厳しいし、
 美味しいスイーツ(笑)をつくるんだーなんて、
 甘い考えでいたら、それこそ限界だろ)

男(幸いというか、俺はもっと厳しくされるって考えてたから、
 逆に、店長とかポニテちゃんが優しくて、拍子抜けしたけど)

男(店で働く唯一の問題は、今のところアレか)ちらっ

メイド ぎゅっぎゅっ


209: 2011/03/20(日) 19:24:54.94 ID:12D8GlyIo

男(アレから一週間も経つのに、まだほとんど口をきいてくれないとか)

メイド ちらっ

男 にこっ

メイド べーっ。ぎゅっぎゅっ

男(まあ、最初は半ば無視されてたから、
 ソレに比べれば、反応されるだけマシというか、なんというか)

店長「おい、男。オープン二番に常連主婦。
 俺は作業しなくちゃならんから、しばらく表はお前で回せ」ぼそっ

男「了解です」


210: 2011/03/20(日) 19:25:40.21 ID:12D8GlyIo

 とことこ

男「いらっしゃいませ、お客様。
 洋菓子喫茶ミンドロウへようこそ」 にこっ

茶髪「おー、噂の新入りさん?」

パーマ「ね、ね、ちょっと芸能人のキュンに似てるでしょ!」
糸目「んー、どうかなー」

パーマ「アンタ殆ど見えてないでしょ」
糸目「えー、ひどーいー」

母「……」

男(あ、先週の……)

茶髪「ほら、店員さん困っちゃうし、注文しちゃお。
 私はコンベルサシオンとコーヒーを」

パーマ「あたし、よくばりタルトと紅茶のセットで!」

糸目「私はー、んー、パヴェ・オ・カラメルと、紅茶かなー」

母「……その」


211: 2011/03/20(日) 19:27:08.22 ID:12D8GlyIo

パーマ「あ、ごめん。母さんはどうする?」

母「申し訳ないけど、紅茶だけいただくわ。
 一緒に食べられなくてごめんなさい」

糸目「んーんー。気にしないでー。
 むしろ、私達が気にするべきー?」

母「いえ、気にしないでください」にこっ

糸目「そっかー。それなら、気にしないー」にこぉ

パーマ「アンタはまた……とりあえず店員さん、いいかしら?」

男「確認いたします。
 コンベルサシオンとコーヒーのセットをお一つ。
 よくばりタルトと紅茶のセットをお一つ。
 パヴェ・オ・カラメルと紅茶のセットをお一つ。
 それから単品で紅茶をお一つですね?」

茶髪「そうでーす」

男「承りました。
 それでは、少々お待ちくださいませ」へこっ

 とことこ


212: 2011/03/20(日) 19:27:38.24 ID:12D8GlyIo

男(うーん……)
 
男(あの人だけ、紅茶だけか。
 クッキーを拒んだのと、何か関係がある気はするんだけどなー)

男「ポニテちゃん。今、いいです?」
ポニテ「ん? なんじゃらほい?」

男「ぷっ、鼻の頭に小麦粉ついてますよ」
ポニテ「まあ、仕方ないよ。菓子屋の証拠だね」ごしごし

男「オープンテーブル二番で、三名様が紅茶の注文です。
 手が空いてたら入れてください」

ポニテ「ん。了解したよ」


213: 2011/03/20(日) 19:28:49.12 ID:12D8GlyIo
ちょっと料理してくる!
缶詰のカレー送られてきたから、ナンつくるんだー♪
コメント返しとかは、後でちゃんとするなり。

おいらのナン、食べたいひとはもってけー。
鼻炎薬は食後なりww

215: 2011/03/20(日) 20:54:06.98 ID:12D8GlyIo
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   十四日目・昼 洋菓子喫茶ミンドロウ

 がたがた

男(うーん……)

男(やっぱり、さっきの奥様方がひっかかるんだよなー)

男(ってか、気になるのは、あの母か)

母「……あの」
男「うぉっ」びくっ

母「きゃっ」びくっ
男「あ、すみません、お客様。考え事をしておりまして……」

母「あ、いえ、こちらこそ。
 急に後ろから話かけて、すみません」

男「いえいえ。それで、どのような御用件でしょうか?」

母「あの、先週は、その……すみませんでした」
男「こちらこそ、余計な事をしてしまったようで」

母「そんな事はありません。
 ただ、こちらが過剰に反応してしまいまして……」

216: 2011/03/20(日) 20:54:35.58 ID:12D8GlyIo

男「あの、あまりお客様のプライベートに関わる事は、
 マナー違反と思いますが……」

母「はい。あの子のことですね。
 じつは、その事で少しだけ御相談したくて、戻ってきたんです」

男「相談、ですか。
 あ、少々お待ち下さい。直ぐに戻ります」

 たたっ

男「すみません、ちょっとだけ表お願いできますか?」

メイド「……じゃ、私が」
男「ありがとう。助かる」

メイド「……店のためだから」
男「でも、俺も助かるよ」にこっ

 たたっ


217: 2011/03/20(日) 20:55:28.81 ID:12D8GlyIo

男「お待たせしました」にこっ
母「あの、本当に大丈夫ですか?」

男「はい。それで、御相談との事ですが……」

母「実はうちの子供に、ケーキを、食べさせてあげたいのですが。
 それが、できなくて」

男「なぜですか?」

母「あの子は、酷いアレルギー体質なんです。
 卵、乳、小麦、落花生、オレンジ、キウイ、くるみ、バナナ、
 まつたけ、いくら、いか、もも、ゼラチン……」

男「まさか、それ」

母「はい。全て、あの子はとれません」
男「そんな……」

母「アレルギーの原理は、御存知ですか?」

男「いえ、寡聞ながら」



218: 2011/03/20(日) 20:57:54.78 ID:12D8GlyIo

母「食品アレルギーは、総じて食品中のたんぱく質が原因です。
 正確には、たんぱく質の中に含まれる、
 アレルゲン(アレルギー物質)なのですが。

 たとえば、店員さんは何らかのアレルギーはお持ちですか?」

男「いえ、俺……私はありません。
 ただ、妹は、かなりひどい花粉症ですね」

母「妹さんが……
 では、分かると思いますが、
 花粉そのものに害があるわけでは、ありませんよね」

男「まあ、そうですね。
 俺も同じ家で生活していて、なにもないので」

母「花粉も、食品アレルギーも、
 特定のアレルゲンが体内に入ったことにより、
 免疫機能が過剰反応を起こし、
 その影響として、我々がアレルギーと呼ぶ症状をおこします。

 本来食品に関しては、消化器官で消化されれば、
 そのアレルゲンもあらかた分解されるのですが……

 うちの子供は、その消化器官が弱く、
 さらにアレルゲンに対して、強い抵抗を示してしまうため、
 普通の人よりも多くの食品が、たべられないわけです」


219: 2011/03/20(日) 20:58:26.97 ID:12D8GlyIo

男「……なるほど。
 しかし、そうなると」

母「はい。当然ながら、
 パンをはじめ、ケーキ、タルトといった小麦生地のお菓子、
 クッキーも、先ほど言った各種フルーツも、
 食べれば、場合によっては救急車が必要となります。
 特に落花生は、食べれば間違いなく」

男「それで、あの時。
 大変、御迷惑をおかけしました」ふかぶか

母「いえ、いいんです。そのお気持ちが、嬉しかったので。
 でも、食べられないあの子には、
 そうしたものを見せるのも、かわいそうで……
 幼稚園のおやつの時間でも、
 ひとりだけ、他の子と違うものを食べないとならないのです」

男「……そう、ですよね」

母「それで、その幼稚園で聞いてきたんでしょう。
 誕生日は、ケーキを食べてお祝いすると。
 それがうらやましいらしくて、その」

男「先ほどの食品を使わないケーキであれば、
 食べられるかも知れないと……」


220: 2011/03/20(日) 20:58:54.70 ID:12D8GlyIo

母「はい」

男「……難しいですが、また、改めて来て頂けませんか?
 店長に相談したり、俺も調べてみます。
 そういうのに詳しそうな、知り合いもいるので」

母「大変御迷惑をおかけします」

男「いえ。そのような事はありません。
 当店は、お菓子を作る店ですが……
 本当に作りたいのは、お客様の幸せなひと時です」にこっ

母「……よろしく、お願いします。
 こちら、子供の食べられないものを、まとめた紙です」ふかぶか

男「まとめていただき、ありがとうございます。
 お誕生日はいつでしょうか?」

母「あまり日が無くて。今週の日曜です」

男「今日は火曜だから、確かに……
 では、土曜にいらしてください。
 なにかしら、お力になれるように、がんばってみます」

母「わかりました」

男「それでは、私も仕事にもどります。
 楽しい誕生日になるよう、力は惜しみません」ぐっ

母 ふかぶか

男 たたっ


221: 2011/03/20(日) 21:00:12.12 ID:12D8GlyIo
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   十四日目・夜 洋菓子喫茶ミンドロウ

男(問題はなー、卵だよ……)

男(こないだ妹に作ったロールケーキ、
 店のものに比べればぜんぜん味は落ちてたけど、
 チューハイ飲みながら、
 メイドも悪くないって言ってくれたし)

男(あと乳成分も、本当は欲しいところだな。
 誕生日ケーキって言えば、俺はなんとなくショートケーキなんだが。
 ショートケーキにするには、
 豆乳クリームだけだと、風味が少し厳しい……)

店長「おい」


222: 2011/03/20(日) 21:00:49.05 ID:12D8GlyIo

男(ロールケーキとかショートケーキみたいな、
 クリームがメインになるようなケーキは難しい。

 プレミアムロールケーキのアレみたいに、
 バニラとかであんまり強い風味を入れないで、
 元々クリームが持っているミルキーさをひきだした方がおいしいからな。
 完全に、そこは俺の好みの話だけど)

店長「おい、男!」

男「はいっ」びくっ

店長「まだ客がいるってのに、ボーッとするなよ。
 それともまた調子がわるいか?」

女「……考え事でしょ」

男「あ、女先生」

女「先生って言わないで。
 ここに来るときは」

男「仕事はわすれたい、でしたね。
 申し訳ありません」ふかぶか


223: 2011/03/20(日) 21:01:17.81 ID:12D8GlyIo

女「私が入ってきたのにも気付いてなかったし……」

男「すみません、いまオーダーを」

店長「俺がもらった。
 ったく、客に気を使われてどうする」

男「う、うう。ごめんなさい……」

店長「んで、何を悩んでたんだ?
 人生の先輩として、どーんと、頼れるところを見せてやろう」

男「なんか、店長がはじめてマトモに見える……」

店長「なんだとぉ。俺はいつでもマトモだろ」

女「奥様を追い回してるって、噂があるわよ」

店長「そりゃ、花を見つけたら愛でるのが礼儀だろ」

男「なんだかなぁ。
 あ、それで悩みなんですが、女さんもいるならちょうどいいや」


224: 2011/03/20(日) 21:02:01.23 ID:12D8GlyIo

女「私にも、何か?」

男「実は、先日一組の親子に会いましてね。
 クッキーを渡そうとして、強く拒否されたんで、気になってたんですよ」

女「アンタみたいな怪しい人に、お菓子を渡されたらね」

男「ひどっ、さりげなく、談合社の入り口の警備員さんとかに警戒されてるの、気にしてるのに」

女「なんとなく、童顔なのに目つきがわるいからね」

男「うーあー。そういうことなのかな?
 とりあえずそれで、そのお母さんがお店に来ていたんですが、
 その時に、先日は――って謝られて」

店長「……そこそこ来る奥様方だったな。オープンの二番だろ」

男「はい、そうです。
 それで、実は子供が酷いアレルギー体質だから、クッキーとかが食べられない事。
 それから、それでも何か誕生日に作りたいから、
 アレルギーでも大丈夫なケーキを作れないかって、相談されて」

店長「……」


225: 2011/03/20(日) 21:02:53.62 ID:12D8GlyIo

女「なるほど、そこで私と店長ね」

男「はい。やっぱり、お誕生日ケーキって特別じゃないですか。
 それが食べられないのは、なんとかしてあげたくて」

女「それで、何が食べられないの?」

男「見ますか? ダメな食材をまとめた紙です」ぴら

女「…………これは」

男「多いですよね」

女「それに、この食材じゃ、マトモなケーキなんて、殆ど出来ないわ。
 どれか一つ、せめて主要食材意外にもう一つ、
 っていう程度だったら、他の店で扱ってるのを紹介できるけど」

男「特に、お誕生日ケーキって言うと、
 ゼラチンの代わりに寒天を使って、
 あの春爛漫の亜種みたいなのでお茶を濁すことも、できませんしね」

女「春爛漫って?」

男「先日出した、一日だけの限定スイーツですよ。
 透明なカップに入れて、味と、横からの見た目も楽しめるようにしたもので」

女「……店長、知らせてくれなかったね」


226: 2011/03/20(日) 21:03:30.20 ID:12D8GlyIo

店長「すまんすまん。うっかりな」

男「なんすか、新作が入ると教えるサービスでも?」

店長「まあ、女さんには特別にな。
 忙しい中、けっこう頑張って通ってくれてるから」

女「ま、それは置いておいて。
 正直、手の打ちようが殆どないわ。私には」

男「その、作って貰うことも、できませんか?」
女「私に、ケーキを?」

男「はい。その、すごいアルティザン(職人)だったって、
 以前聞いたことがあって」

女「なら、同時に聞いたでしょ。
 もう私は作らないの」

男「それでも、その――」
女「くどいわ」 がたっ

女「……私には、作れないの」 すたすた

 からん♪


227: 2011/03/20(日) 21:03:57.84 ID:12D8GlyIo

男「……」

店長「自分が悪いって、分かってるみたいだな」

男「はい。でも――」

店長「俺は言ったぞ。客の事情に深入りするなと」

男「でも、店長も。
 この店の名前がミンドロウなら、
 俺は、その一員として、作るべきじゃないんでしょうか」

店長「……」

男「楽しい思い出を、思い出せるように」

店長「ポニテか」がりがり

男「俺、間違ってますかね?」


228: 2011/03/20(日) 21:04:31.64 ID:12D8GlyIo

店長「……間違ってるかどうかは、知らん。
 だがな、ココは店だ。ビジネスの場だ。

 新作のケーキってのは、
 その一個を作るためにどれだけ努力が要るか、わかるか?

 十個のアイデアのうち、運が良くて使えるのは一つだ。
 その一つを、味のバランス、見た目の工夫、調理方法の確立……
 そんな過程を経て、ようやっと商品に出来るもんだ。

 春爛漫みたいに、一日限定、
 それも手間がかからない流用品がメインなら、話はまた変わるがな。

 そして、はっきりと言って、
 アレルギーに配慮したケーキは、売れない」

男「それは、店として置けないって事ですか」


229: 2011/03/20(日) 21:05:31.67 ID:12D8GlyIo

店長「まず、アレルギーに配慮するなら、
 作る前に徹底的に店内の洗浄が必要だ。
 少しでも小麦粉なんかが混ざればアウトだからな。
 やるならソコまでやらないとダメだ。

 そして、作ったとしても、
 どんなに努力しても、五百年以上の歴史と研鑽がある、
 現在主流の小麦粉、卵、生クリームのケーキには、味が及ばない。

 清掃は時間と手間のコストに直結する。
 味は店の信頼のリスクに直結する。
 加えて言えば、材料を共有出来ないから、仕入れ価格も上がるし、
 その材料を置くための場所も必要だ。
 店内の棚幅も必要になる。

 そんな大量のリスクとコストを背負った上で、
 そのケーキはどれだけ売れるか。

 普通のケーキが食べられるなら、
 ものめずらしさでもなけりゃ、味が劣るものは買わん。
 つまり、売れないんだ」

男「それは……」


230: 2011/03/20(日) 21:05:58.01 ID:12D8GlyIo

店長「俺もポニテも、
 この店の維持で手一杯だ。
 小さな店で、それなりの客は来てくれるが、
 単価が高いこの店は、少し人が離れればとたんに経営危機だ。

 だから、積極的に新商品を置いて、飽きさせないようにしている。

 使っている食器類もこだわって、シルバーやクリスタルの、
 きちんとした物を用意したからな。
 そのための運転資金に、それなりのローンが組まれて、
 毎月かなり厳しい財政だ。

 売れないと分かってるものを、作る時間はとれん。

 洋菓子屋は、夢を売る仕事だ。
 だが、俺達は、現実で飯を食わなくちゃならん」

男「……」


231: 2011/03/20(日) 21:06:24.24 ID:12D8GlyIo

店長「自己満足をしたいなら、何も言わん。

 だが、ポニテにはできれば言うな。
 アイツは、こういう話には弱い。

 睡眠時間を削っても、作ろうとするだろうよ」

男「……わかりました」

店長「よし。
 そんじゃ、真面目な話は終わりだ。
 そろそろ四番テーブルの食事が終わりだな。行ってこい」

男「はい」

 とことこ

店長「……優しさだけじゃ、何もできねぇんだよ」


232: 2011/03/20(日) 21:08:23.59 ID:12D8GlyIo
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   十四日目・深夜 洋菓子喫茶ミンドロウ・スタッフルーム

店長「あー、くそ……」

店長 ぐぴっぐぴっ……

店長 どん。

店長「……」

 とんとんとん

店長「……開いてる」

 かちゃっ

ポニテ ひょこ

店長「どうした、こんな時間に」

233: 2011/03/20(日) 21:08:53.79 ID:12D8GlyIo

ポニテ「どうしたもこうしたも。
 閉店の時の不機嫌そうな顔を見てればね」とことこ

店長「そんな事無かったろ」

ポニテ「男くんとメイドちゃんには、そう見えても、
 アタシとは十年以上のつきあいだよ?」ぎしっ

店長「……」
ポニテ「……」

店長「そうだな」
ポニテ「そうだとも」

店長「……もしかして、お見通しってやつか」
ポニテ「八割くらい。理論的には」

店長「ふっ、理論的には、ってなんだよ」 くいっ
ポニテ「あ、ターキー。私ももらうよ」

店長「アテは塩しかねえぞ」
ポニテ「いいじゃん。あ、でも、ライム持ってくる」

 たたっ


234: 2011/03/20(日) 21:09:21.38 ID:12D8GlyIo

 たたっ

ポニテ「おまたへー。ふふん、これで勝つる!」にやー

店長「塩にライムか。何百年前だか」

ポニテ「でも美味しい」
店長「ああ、美味い」

ポニテ「グラス使うよ」
店長「なんだ、持ってこなかったのか」

ポニテ「こういう時は、一つのグラスで飲むモノでしょ」

店長「……そうかね」
ポニテ「そうだとも」

店長「……」くいっ
ポニテ「……」くいっ

店長 がぶっ
ポニテ むしゃ

店長「悪くない」

ポニテ「へへーん」


235: 2011/03/20(日) 21:09:52.99 ID:12D8GlyIo

店長「……」

ポニテ「アレを教えたら、一発じゃないの?」

店長「何のことだよ」

ポニテ「妹さんのために、店長が作った、
 アレルギーケーキ」

店長「……」

ポニテ「キッチンまで、ちょっと聞こえた。
 店に置けないから、作れないとか。
 でも、あるよね。
 レシピだって、残ってるでしょ」

店長「……ねぇよ」

ポニテ「そんなわけ無いよ。
 キミがケーキを作り始めたのは……
 夢を諦めてこの道に入ったのは、そのためだったでしょ」

店長「……忘れたな」 くいっ

ポニテ「忘れて、いいことなの?」

店長「……忘れた俺には何も言えん。
 だが、忘れたほうがいいことも、あるだろよ」


236: 2011/03/20(日) 21:10:33.48 ID:12D8GlyIo

ポニテ「出会ったときのキミは、
 それこそ、修羅か鬼かってくらい、
 ギラギラした目で、ケーキを作ってたじゃない。

 何としても、たんぱく質そのものにアレルギーがある妹のために、
 他の誰も食べたこと無いくらい、
 美味しいケーキを作って食べさせるって」

店長「……」

ポニテ「それじゃ、救われないよ」

店長「妹は、救われた。
 何を口にしても、苦しむことしか出来ない人生だった。
 たんぱく質そのものが、アイツにとっては猛毒だった。

 ハタチまで生きただけでも、医者が信じられないといっていたんだ。
 この世界は、妹にとって、地獄だったんだ。

 だから、あの世できっと、好きなもんを好きなだけ食って、笑ってるだろうよ」

ポニテ「ちがう。ちがうよ」

店長「……」くいっ

ポニテ「キミが、救われてないよ」

店長「……」


237: 2011/03/20(日) 21:11:00.28 ID:12D8GlyIo

ポニテ ぎゅうっ

 ぎしぃっ

店長「押し倒すなよ……そろそろ帰れ」

ポニテ「……やだ。一緒にいる」
店長「帰れ」

ポニテ「やだ!
 だって、今隣にいないなら、
 私はなんで、日本に――」ぽろぽろ

店長「……勝手にしろ」
ポニテ「ばか。ばか、ばか――」ぽろぽろ

店長 ……ぎゅっ


238: 2011/03/20(日) 21:11:48.11 ID:12D8GlyIo
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   十五日目・早朝 洋菓子喫茶ミンドロウ

男(さすがに、朝五時ってのは、ちょっと早すぎるか?)

メイド がたがたっ

男(お、メイドが来て、鍵開けてるのか)

男「おはよう」

メイド「……なんでいるんですか?」

男「いきなりキツいな。
 なんで、か。ケーキ作りの練習、させてもらいたくてさ。
 材料は有るから、家で作ってもいいんだけど、
 やっぱり設備がないと、かかる時間は違うし」

メイド「……そうですか」

 かちゃ

 とことこ

男「メイドは、朝の仕込み?」

239: 2011/03/20(日) 21:12:15.27 ID:12D8GlyIo

メイド「……仕込みは店長がやります。
 パート・ア・クロワッサンも、
 パート・ブリゼも、まだ任せてくれないですから」

男「ってことは」

メイド「……練習です」
男「そっか」にこっ

メイド「なんで嬉しそうなんですか」
男「いや、なんとなく後ろめたくて」

メイド「……許可もらってないんですか」
男「ちょっと、怒られそうかなーと」

メイド「しりません。私は聞きませんでした」
男「ありがと」

メイド「……」すたすたすたすた

男(完全に嫌ってるわけじゃ、無いよな。
 嫌ってたら、止めるだろうし)

男「ま、とりあえずコッチを解決してからか……」


240: 2011/03/20(日) 21:14:18.69 ID:12D8GlyIo
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   十六日目・早朝 洋菓子喫茶ミンドロウ

メイド かしゃしゃしゃしゃ

男 かしゃしゃしゃ

男(やっぱり、難しいな……)

男(いや、分かってた事だ。
 だけど、本当に店長が言ったとおり、
 手法や特製が完全に把握されていないって、
 難易度がケタ違いにあがるんだな)

メイド さっさっさ

男 かしゃしゃ


241: 2011/03/20(日) 21:14:44.72 ID:12D8GlyIo

男(米粉と小麦粉の違いは、
 端的に言えばグルテンの有無と、水分量だ。

 グルテンは小麦に含まれるたんぱく質で、
 特製としてもっちりとした、やわらかい、
 優しい食感がある。
 京都なんかでお吸い物に使われる鞠麩も、
 たしかそのグルテンで作っていたはずだ。
 それが、スポンジ全体を、やわらかいのに歯切れの良い、
 あの独特の食感に仕立て上げる。
 ただ、そのグルテン自体が小麦のアレルゲンなんだ。
 だから、米粉にグルテンを添加して作ることもできない。

 米粉でもふんわりとした食感はできるけれど、
 むしろ、さっくり、という感じが近くなる。
 元々の想定と違う食感だから、周りの食感も調整しないと、
 その部分だけどうしても浮いて、チグハグな感じを受けさせる)

男 さっさっさっさ

メイド かしゃん。 pipi pipi



242: 2011/03/20(日) 21:15:21.25 ID:12D8GlyIo

男(そして、水分量。
 小麦と比べて、米はアルファー化(やわらかい状態になること)
 するために、多くの水分を必要とする。
 これが不足すると、歯ざわりが悪くなって、
 スポンジ全体に、どこかざらりとした舌触りを残すことになる。
 だからと言って、生地に)

男 とろーっ

男(スポンジの粉だけで、確たる違いが有るのに、
 クリームにしたところで、豆乳クリームに練乳を加えるごまかしが出来ない。
 フルーツとジュレで、見た目を鮮やかに見せることもできない)

男 かしゃん。 pi pi pipi

男(卵が使えれば……
 米粉でシューを作って、カスタードも出来るし、
 クロカンブッシュ(シュークリームを山形に積み上げたお菓子)が作れるのに。
 アレなら、蝋燭を刺してってお約束は出来ないけど、
 見た目がいいから、思い出に残るものには出来るんだろうけど)

男「んー……」
メイド「……」

男「んがぁー!」
メイド びくっ

男「ううう……」
メイド「……」


243: 2011/03/20(日) 21:16:00.46 ID:12D8GlyIo
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   十七日目・早朝 洋菓子喫茶ミンドロウ

男「うー……」

男(店長が貸してくれたハウツーは全部読んだ。
 何回も作って、だんだん質も上がってきたとは思うけど……)

男 かしゃしゃしゃ

メイド かしゃしゃしゃしゃ

男(歯ざわり、舌触り、味、香り、見た目……
 確かに、どれをとっても追いつけない)

男 さっさっ
メイド さっさっさ

男(500年の歴史。
 そこには、信じられないほどの厚みがある。
 何人もの天才による改変と編纂、そして発見。
 多くの人が作った事による、多様性。
 地方によって工夫を施された、汎用性。
 時代を経るごとに加えられていった、系統樹のその先端に生き残った、
 いわば、進化系の勝利者が、今の洋菓子なんだ)

男 とろー。かしゃん。pi pi pipi
メイド とろー。かしゃん。pipi pipi


244: 2011/03/20(日) 21:16:27.12 ID:12D8GlyIo

男(そして、その歴史は小麦と共にあった。
 特にケーキとパンを語るとき、小麦の存在は欠かせない。
 国の食生活基盤が小麦だったからこその、発展なんだ)

メイド「……」

男(これが日本なら、米粉を使った和菓子は多い。
 ただ、やはりケーキに米を使おうという人間は多くなかったんだな。
 なにせ、小麦がなければ、小麦アレルギーもなくて、問題視が無かったんだ)

男「ううううう」

メイド「……少しだけ」

男「う?」

メイド「少しだけ、手際が、良くなりましたね」

男「そう、かな?」


245: 2011/03/20(日) 21:16:54.14 ID:12D8GlyIo

メイド「案外飲み込みが早くて、驚きます」

男「そうだといいな。
 なにせ、日曜までしか時間が無い……」

メイド「え?」

男「あ、いや、コッチの話」

メイド「……そうですか」

男(米粉に合わせて、日本の文化を持ち込むか?
 きなことか、そこら辺を使った洋菓子もあるって聞くし)

男「うぐぐぐ……」

メイド「……頼ればいいのに」ぼそっ


261: 2011/03/21(月) 02:23:01.66 ID:u3q0ETooo
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   十八日目・早朝 洋菓子喫茶ミンドロウ

男 かしゃしゃしゃ
メイド かしゃしゃしゃしゃ

男(キッチンを使わせて貰ってるから、朝でも四回は焼けるし、
 家に帰ってからも一回は焼いてるけど……)

男 さっさっさ
メイド さっさっさ

男(材料の考えられる調整。
 違う材料の盛り込みも限界か。
 ただ甘いものならいいけど、誕生日ケーキの前提は、案外厳しい)

メイド とろー。かしゃん。pipi pipi
男 とろー。かしゃん。pipi pipi

男(よし、焼成……
 とりあえず、今のところ、
 米粉に豆乳、オリーブオイル、メイプルシロップ、
 塩、それを使ったケーキで決まりそうだ)

男(だけど、やっぱり、
 小麦粉でケーキを焼いたときと違って、
 焼き上がりのふわっと漂ってくる香りや、
 全体的な見た目、そして味や食感は、どうしても及ばない。
 とくに問題は香りなんだ。
 風味って言葉があるとおり、香りはおいしさの重要な基準になる)


262: 2011/03/21(月) 02:23:27.54 ID:u3q0ETooo

男「……」

店長「……よぉ、男。ずいぶん早いな」

男「え、あ、店長」

店長「店の材料が少しとは減りが早いと思ったら、
 やっぱりねずみがいたなぁ」にやっ

男「う、すみません」

店長「材料、後で使った分を計算しとけ。
 給料から天引きだ」

男「はい……」

店長「……んで。どうだ」

男「500年の重みって、すごいです」

店長「届かないだろ。
 手を伸ばしても、伸ばしても、
 見えている姿に届かないんだ。
 掴み取ろうともがくのに、冷たい壁に阻まれる」


263: 2011/03/21(月) 02:24:01.82 ID:u3q0ETooo

男「……」

店長「諦めろよ。世の中にはアレルギーのヤツもたくさんいるが、
 そのほとんどは、普段大して意識しなくても暮らしてる。
 いまの世の中は選択肢だらけだ。
 容易い道じゃなくても、存在しない道じゃない。
 ケーキが食えなくたって、しなねぇよ」

メイド「……」
男「……でもそれは、諦めていい理由にはなりません」

店長「諦めていいだろ。
 むしろ、やるべき理由がない」

男「やるべき理由なら、ありますよ」

店長「なんだよ」

男「きっと、笑ってくれるから」

店長「……」

男「理由なんて、それで十分じゃないですか。
 一人が幸せになるために、
 俺が頑張ればいいなら、
 その笑顔のために手を伸ばさない理由なんてありませんよ」


264: 2011/03/21(月) 02:24:35.33 ID:u3q0ETooo

店長「その努力と材料を別のものに向ければ、
 もっと多くの笑顔が見られるかもしれないぜ?
 なあ、売れない作家さんよ。
 いや、売れっ子ゴーストライターか」

男「っ!」

店長「お前が休憩してる時間帯に編集って人が来てな。
 ちょっと話してくれたよ。
 売れないコラムなんか書いてるけど、
 じつはちゃんと売れるものも書いてるんですよ、すごいんです、ってな」

男「……それは」

店長「いってたぜ。
 『他の誰もきっと知らないけれど、
 自分は彼が書いたモノを、たった一人で、でも全部知っています。
 売れない時期から付き合ってますから、つまらないものも知ってます。
 でも、彼はいつも、最良のものを作ろうと努力してきた。
 そしてとうとう、売れるものをかける実力を手に入れたんです。
 だから、彼にはもっとたくさん書いて欲しい』
 ってな」


265: 2011/03/21(月) 02:25:02.21 ID:u3q0ETooo

男 ぐっ

メイド「……なんで」

男「……」

メイド「なんでゴーストライターなんて、やってるんですか?
 なんで、作家なのに、ケーキなんて作ってるんですか?」

男「それは……」

メイド「なんであなたは!
 あなたが幸せにできる手段をもってるのに、ソレを手放すんですか!
 こんなにも、願って願って手に入らない人間もいるのに」

店長「……」



266: 2011/03/21(月) 02:25:29.96 ID:u3q0ETooo

メイド「……はぁ……はぁ……
 私には、何も出来なくて。
 誰かを幸せにするとか、そんな考えを持つより前に、
 私は、自分の幸せすら満足につかめないほど、ダメで。

 不器用なのか、人として大切な何かが欠けてるのかも分からない中で、
 やっと、自分でもできそうな『笑顔の作り方』を見つけたのに、
 あなたは中途半端に、踏み込んでくるんですか?」

男「そんな、わけじゃ」

メイド「初めて会った時、聞きましたよ。
 取材のために、しばらくアルバイトとして働かせてください、って。
 ふざけんな! あたしは! あたしたちは!
 そんなもので、知った気になったなんて――」

店長 ぎゅっ

メイド「……!!」

店長「いい。俺はわかってる。
 それに、男だって分かってる。きっとな」


267: 2011/03/21(月) 02:26:05.35 ID:u3q0ETooo

メイド ばっ

メイド「分かってるなら、なんであんな!」

店長「真実は、いつだってその側面しか姿を見せない。
 お前が見たのは、そのうちの一つだ。
 いや、他にもみてるだろ?
 こいつは、本当に、真剣にこの仕事を知ろうとしていた」

メイド「それは……」

店長「その点は、認めてるんだ、俺は。
 でもな、だからこそ、俺はどうかと思ってる」

男「……」

店長「お前は、人を頃してサスペンスを書くか?」

男「……いいえ」

店長「SFを書きたいからって、宇宙飛行士になるか?」

男「……できません」


268: 2011/03/21(月) 02:26:31.71 ID:u3q0ETooo

店長「菓子屋を書くために、菓子屋にならなくってもいいだろ。
 お前なら、こんな風に時間を使わなくても、
 誰かを笑顔にするために書くことができるものを、もっと持ってるだろ?」

男「……」

店長「なあ、お前は、何で菓子屋をやってるんだよ」

男「……俺は、いろいろ、書いてきました。
 他人のフリをして、その名前を借りて。
 自分で本を出すより、その方が売れやすいからです。
 でもいつも、同じものを書いてきたんです」

店長「それはケーキか? 殺人か? 宇宙飛行士か」

男「人を、書きました」

メイド「……」

男「いろんな人がいます。
 つまらない人、面白い人。大人しい人、激しい人。
 冗談みたいなことをする人、どうでもいいほど常識的な人。

 でも、すべて、俺が知り合った人や、関わった人が、
 俺の小説の中で重要なファクターなんです。

 人が、俺の財産なんです。
 そしてその、俺が知っている人を増やすことが、
 どんなジャンルや要素を持ったものでも、重要でした」


269: 2011/03/21(月) 02:26:59.29 ID:u3q0ETooo

店長「それで、なんでケーキだよ」

男「女さんが、今度小説を出版するんです」

店長「……そうか。それをお前が」

男「はい。ただ、会っていきなりテストって言って、
 バタークリームの作り方を聞かれました。
 あんたに菓子の何がわかるんだって」

メイド「……」

男「俺はそれで、女さんに興味を持ったんですよ。
 この人を知れば、もっと俺は人を書けるかもしれないって。
 最初は、ソレだけでした」


270: 2011/03/21(月) 02:27:26.39 ID:u3q0ETooo

店長「今はどうだ」

男「メイドと会って、店長と話して、ポニテちゃんと仕事して。
 俺は、みんなをもっと知りたいと思ったし、
 この仕事にも、ここに来る前よりずっと、強く興味を持ってます。

 だから、俺はいま、この店で働いてるし、
 うん、自分がすべき、物書きとしての生き方もしてるんです。

 だから、アレルギーのその子に笑顔になって貰えるなら、
 笑顔になったその子の事も、俺の小説に生きるんですよ」

店長「……そうか」

メイド「……」

男「俺は、矛盾してませんよ」にこっ


271: 2011/03/21(月) 02:27:59.40 ID:u3q0ETooo

店長「……控え室の机の、右の引き出し」

男「え?」

店長「普段は鍵がかかっている、俺の昔のノートがある。
 酷いアレルギーだった、ウチの妹のために、
 俺が作った菓子の記録だ。

 俺は協力しないが、勝手にみて、アイデアが盗まれても、
 どうせ封印されてたもんだ。だれも困らん」くるっ

男「店長……」

店長「俺はいま無性にタバコが吸いたい。
 つっても、俺が吸うのは無煙の無害タバコだがな。

 その間部屋に入るやつがいても、
 きっと気付かないだろうな」とことこ

 ぱたん


272: 2011/03/21(月) 02:28:34.00 ID:u3q0ETooo

メイド「あの……」

男「なに?」

メイド「……いいすぎました」

男「んー、……ごめんなさいは?」

メイド「くっ……ご、ご、」

男「ん? ご?」

メイド「……ごめんなさい」(/////

男 ぽんっ

メイド「……」

男「許す。それに、」すっ

メイド「……」


273: 2011/03/21(月) 02:29:01.59 ID:u3q0ETooo

男「俺も、すまなかった。
 俺は、けっこうなるように任せて生きてきたからさ。

 まだメイドのことをちゃんと分かったわけじゃないから、
 なんて言ったらいいか分からないけど、
 傷つけたことだけは分かったから、謝る。

 ごめんなさい」ふかぶか


メイド「……いいですよ」

男「ありがと。それじゃ、俺は店長のノートを……」

メイド「あの!」

男「?」

メイド「ノート取ってきたら、私も、手伝う。
 違う。手伝いたいから、一緒にやらせてください。
 私もその子に、笑顔になってもらえたら、嬉しいから」

男「……おう!」


274: 2011/03/21(月) 02:30:51.40 ID:u3q0ETooo
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   十九日目・夕方 洋菓子喫茶ミンドロウ

男「お、いらっしゃいませ」にこっ

母「どうも、その、ありがとうございます」へこっ

男「いえいえ、その、
 ちょっとウラに回っていただいても、
 よろしいでしょうか。
 その、商品ではございませんので」ぼそぼそ

母「は、はい……」

男「ちょっと抜けますんで、後はお願いします」

メイド「はい、良いですよ」にこっ

 とことこ

男(よし、ラッピングも問題なし。
 中には昨日聞いた注文どおり、
 チョコの板に飾り文字でハッピーバースデーも書いてある。
 かんぺきだな)

275: 2011/03/21(月) 02:31:45.68 ID:u3q0ETooo

 とことこ、がちゃ

男「それでは、お待たせしました。
 こちらが御注文の――じゃなかった、
 子供さんのために、作らせてもらったケーキです」にこっ

母「あ……ありがとうございます。
 あの子が生まれて、育つにつれて食べられるものが殆どないと知り、
 ずっと、ずっと……ぐすっ」ふかぶか

男「顔を上げてください。
 好きでやらせて貰った事です」にこっ

母「はい……」

男「店のみんなも、協力してくれて。
 商品としては置けないので、本当はダメだったんですが、
 結局最後には、店長以外は加わって、
 あーでもない、こーでもないと、楽しく作らせてもらいました。
 おかげで、ちょっとでっかくなっちゃいましたが」

母「はい、すごく……大きいです」

男「飴細工を使うと、見た目はよくなるんですが、
 どうしても損傷防止に、箱が大きくなるんですよ……」


276: 2011/03/21(月) 02:32:13.76 ID:u3q0ETooo

母「では、その、お支払いなんですが」

男「あ、それはいいですよ。
 大してかかってませんし。
 当店からのプレゼントです」

母「え、でも」

男「では、一つだけもらっていいですか」

母「はい?」

男「お子さんの笑顔を、見せて貰えませんか?
 店長に車のキーを借りたので、
 ケーキが壊れても怖いので、お宅までお送りします。
 そこで、子供さんの笑顔を、見せてください」

母「……はい。喜んで」

男「では、車を取ってきます」たたっ

277: 2011/03/21(月) 02:32:41.46 ID:u3q0ETooo
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   十九日目・夜 洋菓子喫茶ミンドロウ・閉店後

メイド「それで、どうでした?」
ポニテ「アタシの飴細工、感動してくれたかな?」

男「はい。目をキラキラさせて、
 すごく嬉しそうにしてくれて……
 ケータイで写真とったんですけど、いりませんか?」

二人「いる!」

男「はい、コレです」 pi pi pi

メイド「あはは、良い笑顔ですね」
ポニテ「うん、すっごく、素敵な笑顔だよ」

男「店長には、お礼、言うのはヤボですかね」

ポニテ「んー。まあ、アタシがそれとなく言っとくよ」

男「はい。ありがとうございます」

ポニテ「いえいえ。こちらこそだよ。
 男くんがその、アレルギーの子に気付いて、
 その子のために頑張ったから、あの頑固店長が動いたわけだし」


278: 2011/03/21(月) 02:33:08.38 ID:u3q0ETooo

男「……そういうことに、しておきます」にやっ

ポニテ「……う、なんだい、その人の悪い笑みは」

男「いや、なんとなく援護射撃があった気がして」

ポニテ「……知らないよ」

男「ありがとうございます」へこっ

ポニテ「知らないったら。それより、これから飲みに行かない?
 なんとなくちょっと飲みたい気分なんだ」

メイド「う、それは……」

男「メイドは弱いからな」

メイド「そう、そうなんですよー。
 一口飲んだだけで、記憶とんじゃうくらい弱くて!」

ポニテ「そっかー。そりゃ、飲めないよね。
 男くんは?」


279: 2011/03/21(月) 02:33:35.53 ID:u3q0ETooo

男「俺でよければお付き合いしますよ。
 とはいっても、この辺りの店は知らないんですけど」

ポニテ「よし、それならあたしの行きつけに行こう!
 この二人で飲みに、なんて、珍しい感じがいいね。
 それじゃ、メイドちゃん、また明日☆」

男「うわ、ちょ、ひっぱらんでください。
 メイド、ほんとにありがと!」

メイド「ついでのように言わないで下さい。がっかりです」

男「う、うう」

メイド「がっかりさせた責任は重いですよ。
 こんど何か、お昼ご飯おごってください」

男「……おう」

ポニテ「さー、いくよっ。今日は朝までかえさないよー」

男「いや、それは! 妹に心配されるんで」
ポニテ「電話すればいいでしょー」


280: 2011/03/21(月) 02:34:01.56 ID:u3q0ETooo

メイド「……ふふ」

メイド(お酒を飲んで記憶がなくなれば良いのに。
 甘えて、抱きついて、ぎゅっと。
 首筋に噛み付いて、
 向けられた、優しさと、困惑と、欲望の目が、
 今も私に焼きついたように残って――)きゅっ

メイド とくん、とくん

メイド(責任、とって欲しいものです)

メイド とくん、とくん


281: 2011/03/21(月) 02:34:33.24 ID:u3q0ETooo
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   二十日目・朝 洋菓子喫茶ミンドロウ

 とことこ

男「いやー、やっと、早朝練習から開放されて、
 たすかったー」

男「妹とも、久しぶりに顔を合わせた気分だったし。
 うん、今日は頑張れそうだ」

 とことこ

店長「よう。おはようさん」

男「あ、店長、おはようございます」

店長「……その、なんだ」

男「はい?」

店長「すまなかったな。お前の真意を疑うようなマネして」

男「いえ。こっちも、ちょっと隠してましたし」

店長「ゴーストライターだ。そりゃ隠すだろう」

男「あはは、そうですね。
 それじゃ、俺は掃除があるんで」

店長「おう、頑張れ若人」ひらひら

 とことこ、がちゃ

282: 2011/03/21(月) 02:34:59.32 ID:u3q0ETooo

男(お、今日もやってる)

男「おは……」

メイド「あ、おはようございます」

男「……おはよう」

メイド「まったく男さんはダメですね。
 一つ終わったら、すぐに練習サボりですか?」

男「あ、いやー。
 さすがに今日くらいは」

メイド「まったく。
 そんな事を言ってると、本当の菓子屋の視点なんて、手に入りませんよ」

男「面目ない。明日からは頑張るよ」

メイド「はい。
 男さんのような甘ったれでも、きっと毎日がんばれば、
 ちょっとはマシになるでしょう」

男「ははは。それじゃ、着替えて掃除頑張るよ」

メイド「はい。がんばってください」


284: 2011/03/21(月) 02:35:39.66 ID:u3q0ETooo

 がちゃ

 ぬぎぬぎ

男「態度が柔らかくなった気はするけど。
 相変わらず悪意というかが見え隠れする辺り、メイドだよなー」ぼそぼそ

ポニテ「そうかな、照れ隠しじゃない?」

男「照れるって、何に照れるんですか」ぬぎぬぎ

ポニテ「まあ、女の勘ってやつだよ、キミ」

男「はぁ、そういうもんで…………って、なんで普通にいるんですか!
 しかも、前! 隠してくださいよ!」

ポニテ「ん、ああ。きゃーいやーん」

男「棒読みかよっ。
 ああ、もう、なんか、いいや」ぽいぽいっ

ポニテ「わ、わ、男くんだいたーん」


285: 2011/03/21(月) 02:36:07.22 ID:u3q0ETooo

男 さっさ

男「よし。完了。じゃ、掃除してきます」

ポニテ「えー、つまんないなー」

男「つまんなくてイイです。早く着替えないと、風邪引きますよ」

 ぱたん

男「……あんがい、着やせしてたんだなー」

男 ぶんぶん

男「心頭滅却。よし、掃除だ!」



286: 2011/03/21(月) 02:38:10.02 ID:u3q0ETooo
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   二十日目・夕方 洋菓子喫茶ミンドロウ

 からん♪

メイド「いらっしゃしませー♪」にこっ

女「今日も、隅っこで」

メイド「はい、かしこまりました。
 御案内いたいます☆」

女「ふぅ。とりあえず、お水をまずちょうだい」
メイド「はい……どうぞ」

女「ありがと……」ごくっ、ごくっ

女「ふぅ……」

メイド「お疲れ様です。お仕事ですか?」

女「そう。隣の駅で、出版社の担当と話してたんだけど。
 あの工口ジジイ、机の下で人の太ももを……」


287: 2011/03/21(月) 02:38:35.85 ID:u3q0ETooo

メイド「……そんな男なんて、も・げ・ろ☆ って感じですね」にこっ

女「……顔に似合わず、すごいこと言うわね」

メイド「そうですかね?」
女「可愛い系というか、チワワっぽいというか、そっか、目が大きいんだ。
 それなのに、中身はもげろって……ふふふ」

メイド「もう。ちょっと傷ついてしまいます」

女「ごめんね。それじゃ、今日も注文しようと思うけど。
 なにかお勧めはある?」

メイド「実は、明日から発売の新作がありまして……」

女「それいいわね、じゃそれを頂戴!」

メイド「かしこまりました」にこっ

 とことこ


288: 2011/03/21(月) 02:39:01.46 ID:u3q0ETooo

女 ぱらっ

女(あの男のせいで、今日はまだ三つしかケーキ食べてないのよね……)

女(あそこの駅前に新しく出来たお店は、
 味こそ普通だったけど、店内が面白かったかなー。
 店中に模型飛行機が吊り下げてあって!
 若いカップルとかになら、紹介できそう)

女 さらさら

女(担当なのに、ムダに時間を使わせて、
 店に行く時間をなくさせるとか……
 ほんと、ろくな時間じゃなかったわ)いらいら

女(でも、新作があるならよかった。
 ちょっと気分が晴れるし!)

女 さらさら


289: 2011/03/21(月) 02:39:28.30 ID:u3q0ETooo

 とことこ

男「おまたせいたしました、お客様」にこっ

女「……まだいたんだ」

男「もちろん。
 今度は女さんにも、きちんと納得して、
 筆を預けていただきたいですからね」

女「……そんな半端な気持ちで、よく店長はクビにしないわね。
 それとも隠してるの?」

男「隠してましたけど、ちゃんと言ったら、
 認めてくれました」

女「……つまんないヤツ。
 で、新作でしょ。説明は?」


290: 2011/03/21(月) 02:40:14.97 ID:u3q0ETooo

男「はい。
 こちらは明日から発売になる、当店の新作。
 クラム・シトロン・フロマージュです。

 しっとりとしたビスキュイ・オ・フロマージュ(チーズ風味のタルト)の上に、
 レモンとクランベリーのムースを二段に重ね、
 さらにその上に、雲上にした飴細工を載せております。
 この飴細工をくだいて、ムース、そしてタルトと一緒に、お召し上がり下さい。

 最初はそっと、春風のようにさわやかなレモンの風味が、
 口の中に吹き抜けるように広がり、
 つぎの瞬間にはクランベリーの甘酸っぱさが、
 まるで満開の桜並木の下を歩くような景色を広げます。
 そして、その二つをつなぐ、ささやかながら忘れられない、
 タルトのチーズ風味。
 それはまるで太陽のように口の中を満たし、
 そして全ての余韻を包み込んで、
 きっと知らずにお客様を笑顔に、させてしまうことでしょう。

 また、その横に添えられているのは、
 当店の自家製グラス・ア・ラ・ヴァニーユ(ヴァニラアイス)と、
 可愛らしい大きさの、特製メープルバウムです。
 こちら、メープルバウムには表面に細かい砂糖がまぶしており、
 私がもっておりますバーナーで、これから表面をカラメリゼいたします。
 暖かいカラメリゼされたメープルバウムと、
 甘さ控えめのバニラ、こちらもまた、
 お口直しに喜んでいただけるはずです

 一皿で二つ楽しめるこちらのデセール。
 お客様が笑顔になってくださるように、願いながら作りました」にこっ


291: 2011/03/21(月) 02:41:15.08 ID:u3q0ETooo

男「それでは、キャラメリゼさせていただきます」キュ、ゴー

 ぱり、ぱりぱり

男「それでは、ごゆっくりお楽しみくださいませ」へこっ


女「……60点」

男「……どうやら、まだ修行が足りなかったようですね」

女「……」

男「それでは、失礼――」

女「及第点」

男「はい?」

女「長いし、まだまだ改善の余地が有るわ。
 解説としては、まだ二流。
 でも、筋は悪くないし、それに、きちんと向き合った言葉って気がしたわ」


292: 2011/03/21(月) 02:41:48.12 ID:u3q0ETooo

男「……」

女「仕事、受けてもいいわ。
 私の名前、預けてもいい」

男「ほ、ホントですか?」

女「その代わり、くだらないものを書いたら、
 目の前で原稿をシュレッダーにかけるから」

男「いや、いいです。頑張ります!
 いーやっほー!!!」

店長「おい、うるせぇぞ!」

男「あ、すみません、すみません」へこへこへこ

客たち「「「あははは」」」

293: 2011/03/21(月) 02:42:15.61 ID:u3q0ETooo

女「ちょっと不安かも」ぼそっ

男「そ、それじゃ、詳しい話はまた、後日お願いします」

女「はいはい」ひらひらー

男 たたっ



女「ま、でも。
 一人で背負うわけじゃないなら、
 ちょっとは軽くなるかな? この名前。

 ね、お姉ちゃん……」

 からん……

294: 2011/03/21(月) 02:42:41.73 ID:u3q0ETooo
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   二十日目・夜 洋菓子喫茶ミンドロウ・外

メイド「あの……」

男「ん? ああ、メイドか。どうした?」

メイド「もしよろしければ、一緒に、帰りませんか?」

男「いいけど、駅までだと別れるまで近いよね。
 どうせなら、メイドの家まで送るよ」

メイド「そうですか? それでは、お願いします」

 とことこ


295: 2011/03/21(月) 02:43:07.51 ID:u3q0ETooo

メイド「月が、きれいですね」

男「お、ホントだ。
 月なんて久しぶりに見た気がするなー」

メイド「そうなんですか?」

男「物書きなんてやってると、引きこもりがちだからね。
 人と会うときも昼だしさ。
 夜は部屋でモノを書くか寝るか……
 月とは縁が遠くなるよ」

メイド「……私はいつも、月を探して歩くんですよ。
 しばらく見ないと、急に不安になって、
 ときどき、パジャマのままでふらふらーっと散歩したり」

男「危ないなぁ」

メイド「男さんみたいなのばっかりじゃないから、大丈夫ですよ」

男「いや、俺は安全だろ」

メイド「どうでしょうかねー。ふふ」

男「チキンで安全だと思うがな……」


296: 2011/03/21(月) 02:43:39.25 ID:u3q0ETooo

 とことこ

メイド「その……」

男「ん?」

メイド「先日は、すみませんでした」

男「あのことなら、許したよ」

メイド「でも、やっぱりもう一度謝りたくて。
 思い返すと、すっかり、私のひがみだったなって」

男「ひがみ、か」

メイド「私、いじめられっこだったんです。
 雰囲気暗くて、嫌な事を嫌って言えなくて、
 いつもびくびくしてました。

 生きてることなんて、辛いことばっかりだ。
 生きててもしかたない。
 毎日毎日、ずっとそんな事ばっかりかんがえて。
 それでも怖くて、[ピーーー]ないんです。
 そんな勇気があったら、いじめっ子達に怒れるよねって」


297: 2011/03/21(月) 02:44:16.75 ID:u3q0ETooo

男「……」

メイド「でもある日、もう題名も覚えてない本ですが、
 そこで一つの言葉を目にしたんです。

 『どうせいつかは後悔するんだ、どうせだったら、自分のしたい後悔を選べ。
 生きたいように生きて、氏にたいように[ピーーー]。
 自分の選んだ後悔を抱いて、
 せめてその後悔を選んだ事だけ、後悔しないように朽ちていけ』って」

男「ちょっと意外だ。
 ライトノベルとか、読むんだ。
 たしか、『名も亡き狗のレクイエム』の一節だったかな。
 俺もアレは好きだった」

メイド「読みますよー。
 むしろ、私のこの格好は、その影響バリバリです。

 その一節で、私の世界がばーっと開けて。
 通ってた高校辞めて、調理の専門学校に行くことにしたんです。

 どうせダメなら、ホントにダメなら、
 選んだ後悔を抱いて氏ぬんだ、ぐらいのつもりで、
 今やりたいことを、精一杯やろうって。
 そして、メイドの格好をして生きることにしたんです」


298: 2011/03/21(月) 02:44:57.44 ID:u3q0ETooo

男「そこで何でメイドに?」

メイド「たぶん、母性の象徴だから、ですかね。
 優しさと、暖かさと、誠実さと、包容力と、強さと、弱さと……
 私はそういうのを、ぜーんぶ! 持ってるのが、一流メイドだと思うんですよ。
 だから、そんなメイドになろうと。
 親には悪いですけど、覚悟を決めちゃいまして」

男「……そっか」

メイド「それでも、イロイロありました。
 メイドの格好なんて、仕事なめんな! 料理なめんな!
 なんて言われてるのは、むしろ私のほうでした。

 男の人たちからは、ココは風俗店じゃない、なんていわれながら、ソンナ目で見られて。 
 女の人たちからは、カワイコぶってコビてるって、いじめられて。

 でも、全然気になりませんでしたね。
 氏ぬ気になれば強いって、こういうことなんだーって、わかりました」


299: 2011/03/21(月) 02:45:48.72 ID:u3q0ETooo

男「それで、たどりついたのが、ミンドロウだったのか」

メイド「はい。ダメ元で面接を受けに行ったら、
 店長さんもポニテさんも、ウチならまあ、ありか、とかって。
 いい加減ですよねー。ふふふふ」

男「わるいな、ソコに土足で踏み込んで」

メイド「……いえ。いずれは、誰かが踏み込んできた場所です。
 今の私なら、それが男さんで良かったって、言えます」

男「……かいかぶりすぎだ。
 それでも、一つだけ言わせてくれ」

メイド「はい?」


301: 2011/03/21(月) 02:46:16.33 ID:u3q0ETooo

男「俺は、メイドが氏んだら、悲しい」

メイド「……『それでも俺は、覚悟したんだ』」

男「『例え誰かを悲しませ、たとえ誰かに憎まれようと』」

メイド「『命を懸けて、道を選んだその時に、振り返らないと決めたんだ。
 俺を止めたいならば、頃してみせろ。
 誰かとお前の笑顔のために、その手を真っ赤に汚してみせろ』」

男「……知ってる。言ったろ、俺も読んだって」

メイド「では、なぜ改めて?
 私もすでに、振り返れません。
 この生き方を選べなくなったら、世界を呪って命を絶ちます」

男(まっすぐすぎる眼。店長も、危機感持つよな)

302: 2011/03/21(月) 02:46:50.77 ID:u3q0ETooo

男「止めようとは思わない。
 ただ、悲しいという事を、ふと伝えたくなったんだ。
 氏んだら、俺が悲しんでるって事も、きっと伝わらないからな」

メイド「……そうですね。ええ、きっと伝わりません。
 私もきっと、男さんがしんだら、悲しいですよ」

男「俺はまだ氏なないね。妹が一人前になるまで頑張らないと」

メイド「……お店からいなくなっても、寂しいです」

男「……メイド」

メイド「だって――いじれる相手がいなくなったら、私っ」うるうる

男「俺はいじくられるために店にいるわけじゃない!」ぱしーん

メイド「……ぷ」
男「……く、くく」

メイド「ふふふふふ」

男「あはははは」

メイド「それじゃ、自宅はソコなので、ココまでです」


303: 2011/03/21(月) 02:47:21.10 ID:u3q0ETooo

男「分かった……そうだ」

メイド「はい?」

男「携帯電話、アドレス交換しないか?」

メイド「……ナンパですか?」

男「わかってんだろ。ほら」 pipipi

メイド「はい」 pipipi

男「そんじゃ、俺も帰る」

メイド「……おやすみなさい」

男「おう、おやすみ」

 とことこ

メイド「……私も、悲しいな」

メイド「たぶん、会えなくなったら、泣いちゃいます」

メイド「……いつまで、近くにいてくれますか?」

メイド「…………なんてね」 くるっ

 とことこ


305: 2011/03/21(月) 03:03:22.29 ID:u3q0ETooo
よっしゃー。前半終了であります。
おいらがんばったー。


メイド「お帰りくださいませー♪」【後編】

引用: メイド「お帰りくださいませー♪」