133: 黒猫 ◆7XSzFA40w 2014/07/22(火) 17:36:02.02
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【WA2】ホワイトアルバム2『心の永住者』【その1】
第7話
5-5 春希 カジュアル衣料店 1/7 金曜日 15時前
麻理さんに連れられ、麻理さんのマンションからほど近いカジュアル衣料店に来ていた。
お金を節約したい学生としては、無駄な出費は抑えたい。
だからといって、安くても2度と着ないような服は買いたくない。
それを考慮して連れてきてくれた結果がここというわけだ。
麻理「これなんか似合うんじゃないか?」
春希「そうですか? あ、ちょっと待ってくださいよ。」
北原に似合う服を見繕ってやると宣言され、今や俺は、麻理さん専用のマネキンに
任命されてしまった。
俺に服をあてては真剣に悩む麻理さんは、仕事場とは違った無邪気さをはっきしていて、
かわいく思えてしまう。
麻理「私のセンス疑ってるんだろ?
私がスーツしか着てないなんて思ってないだろうな。」
春希「思ってませんよ。今着ている服だって、とても似合ってて綺麗ですよ。」
麻理「そうか? だったら、よし。」
麻理さんは、鏡で自分の服を確認し、両手で小さくガッツポーズなんてするものだから、
あまりにもおかしくて、あまりにも愛らしい。
かずさへの想いを最優先にするなんて言っておきながら、
目の前の麻理さんといることに喜びを感じてしまうなんて、
俺って薄情だなと思いながらも、麻理さんに再び夢中になりかけていた。
散々とっかえひっかえ着せかえられ、1時間かけてようやく麻理さんが
納得するコーディネートが完成される。
寝まくって睡眠不足は解消されたが食事がまだの俺には、少々きつかった。
しかし、楽しそうなはしゃぐ麻理さんを見ていたいという気持ちが勝り、
俺も時間が過ぎ去るのが気にならなかった。
134: 2014/07/22(火) 17:37:04.88
麻理「こんなものかな。どうだ、北原? 私もやるもんだろ?」
俺と服とを繰り返し見て、自慢げに訴える。
春希「ありがとうございます。あともう一つ買いたいものがあるので、
ちょっと待っててもらえませんか?」
麻理「なんだ北原。ここまでやったんだ。最後まで私が見てやろう。」
早く案内しろと訴えてくるが、俺はその場を離れることができなかった。
なにせ、欲しいのは下着だし・・・・。
そんな俺の気持ちを察してくれるわけもなく、なかなか動こうとしない俺に
業を煮やして、ついには俺の腕を引っ張っていこうとする始末。
これ以上ここで押し問答をしても解決するわけもないので
麻理さんがどんな反応をするか予想がつくけど、
ストレートに俺が欲しいものを伝えよう。
春希「麻理さん!」
意を決した俺の声は、勇気を振り絞って声を出してしまったため、
大きくなってしまう。
そんな俺を見て、麻理さんは、きょとんとして俺を見つめかえす。
この人は、本当に気がついてない。
平日の昼間ということもあって店内には客は少ないが、注目されてしまったのは事実。
どうしたものか・・・・・。
春希「麻理さん、ちょっと。」
麻理さんの手を引っ張り、人がいない場所に移動する。
訳も分からず連れて行かれた麻理さんは、頬を染めながらも困惑気味であった。
麻理「北原、どうしたっていうんだ。」
春希「大声出してしまって、申し訳ありませんでした。
それで、俺が買おうとしている品なんですが・・・・。」
麻理さんの耳元に寄り、小声でささやく。
春希「下着が欲しいんです。」
お互い密談しているというシチュエーションもあって、照れてしまうが、
俺の発言を理解した麻理さんは、俺の比ではない。
麻理さんは、その場でフリーズするも、風呂場での一件でわずかな耐性ができたらしく、
すぐさま再起動を開始できたようだ。
135: 2014/07/22(火) 17:37:47.77
麻理「察してやれなくて、悪かった。・・・・・外で待ってるから。」
春希「はい。支払いを済ませた後、すぐ行きます。」
俺の返事も聞き終わらないうちに、麻理さんは、なぜかロボットのような歩行で
駆け去って行く。
いまどきの中学生でも、もっと落ち着いた対応できるはずなのに、
恋愛に大きなブランクがあるとここまで退化するのかなと、ほほえましく思えた。
人のこと言えないのが痛いけど。
5-6 かずさ 冬馬邸 1/7 金曜日 14時頃
曜子は、自分の食事をとることもなく、かずさの気持ちが落ち着くのを待っている。
話しかけることも、かずさを見つめることもせず、
ただかずさに背を向けて窓の外を眺めていた。
心地よい日差しが曜子をくるみ、静かな午後が眠気を催そうとしていたが、
ようやく重たい口が開く。
かずさ「作ってくれたんだ。
学園祭直前、あたしが倒れた時、春希が雑炊作ってくれたんだ。」
かずさの声で瞬間的に覚醒した曜子は、かずさの方に振り向く。
かずさは、春希の幻でも見ているかのように語ってくる。
かずさ「料理へたくそなくせに作ってくれたんだ。
あいつの料理を食べたのなんて、あれが最初で最後だったけど
今でも覚えてる。
すごく美味しいってわけでもないし、全然普通の味だったけど、
脳が記憶しちゃって、忘れることなんかできやしないんだ。」
136: 2014/07/22(火) 17:38:33.68
ときたまかずさの視線が曜子と重なることがあっても、
かずさの視線の先には曜子はいなかった。
曜子は、自分の方が幻なんじゃないかと錯覚してしまう。
かずさ「優等生のくせに、朝あたしが来ないからって、学校抜け出して
あたしを探しに来てくれたんだ。
電話に出なくても、それくらい気にしないでほっとけばいいのに、
わざわざ来ちゃうんだ。
風邪で弱ってるあたしに付け込んでくれればよかったのにって
腹立たしく思ったりもしたけど、そんなことしたら蹴り飛ばしてたかもな。」
曜子「もう少し素直だったらよかったのにね。」
かずさ「母さん? ああ、そうだな。
もう少し素直で、もっとずる賢かったらって思うこともあるよ。」
かずさが曜子の存在に気がつく。
本当に曜子の存在を忘れていたと分かった曜子は、苦笑いするしかなかった。
曜子「あなたには、ずる賢い女なんて似合わないわよ。
でも、素直になるのは必要ね。」
かずさは、曜子の提案に深くうなずく。
かずさ「そうだな。あの時、あたしの方から迫って、もし駄目だったとしても
弱ってたから近くにいたお前にすがってしまったなんて
計算づくで演じることなんて、あたしには無理だろうからな。
後になって、あの時ああすればよかったって考えることはできても
あたしには、それを実行することなんて、この先もできそうにないな。」
曜子「そんな計算づくのあなたなんて、魅力的じゃないわよ。
きっと春希くんも、そう思ってるんじゃない?」
かずさ「どうだか?」
一通り話すことは話したのか、かずさは口を閉ざし、幻と会話を始める。
その姿が、曜子が見たこともない女の顔をしていて、
同じ女であったとしてもドキリとした。
艶っぽくて、そして、彼に素直に接している姿は、さっきまで素直になれないと
嘆いていた少女だとは思えなかった。
曜子「それで、この先どうするつもりなの?
なにもしないでウィーンに戻るのは、お勧めできないわ。」
かずさ「母さんに頼みがあるんだ。」
かずさは、幻と別れ、曜子をはっきり見つめて告げた。
137: 2014/07/22(火) 17:39:26.93
5-7 春希 スーパー 1/7 金曜日 16時頃
支払いを済ませ外に向かうと、何もなかったかのように麻理さんは笑顔で俺を
迎えてくれた。
といっても、俺の顔を見ようとはしてくれないけど。
俺も、もし視線が交わってしまったら、どうしたらいいかわからなくなって
しまうと思う。しかも、お互い街の真ん中でフリーズ状態で見つめあってるなんて
考えただけでも恥ずかしかった。
麻理「さあ行くぞ。私がよく行くスーパーで、ワインの取り扱いも豊富なんで
重宝してるんだ。24時間やってるのも助かる。」
出かける前にキッチンを見てきたが、麻理さんがワインやビールがメインなのは
明白である。麻理さんの需要からすれば、そのスーパーは麻理さんのリクエストに
見事応える店なんだろうと思っていたが、思いのほか、野菜や魚、調味料まで
豊富に取りそろえている。
麻理さん、偏見を持ってごめんなさい。
でも、麻理さんがいうように、酒類の取り扱いも素晴らしく充実してたけど。
春希「麻理さんは、ここのお弁当をよく買うんですか?」
麻理「なんでお弁当限定なんだ? 野菜とか肉とかも、たくさん売ってるだろ?」
麻理さんは心外だという顔を見せ、むくれてしまう。
今日は、いろんな麻理さんの表情を見られる日だなって、嬉しく思っていると、
その表情が馬鹿にしていると感じた麻理さんは、眉間にしわが寄ってきた。
春希「すみません。そんなつもりはなかったんです。」
麻理「そんなつもりってどんなつもりだ?」
春希「それはその・・・・。」
墓穴を掘った俺は、素早く敗戦処理をしなくてはならなく、
138: 2014/07/22(火) 17:40:14.67
春希「ここのスーパーのお弁当美味しそうじゃないですか?
それに外食ばっかだと飽きるし、それに・・・・・・。」
麻理さんの視線を見ないように顔を背け、本当に言いたかったことを
付け足しのようにつぶやく。
春希「麻理さん、料理全くしていないみたいでしたし・・・・・・。」
麻理「聞こえてるぞ、北原。」
麻理さんは、俺を睨めつけながら、俺が逃げないように腕をからませてきた。
麻理さんの柔らかい感触が俺の腕に押し返されて形を変え、じかに温もりを伝えてくる。
なんで俺はここにいるんだっけ?
そもそも、麻理さんが編集部から戻ってきた時点で、俺が家に帰れば済む話じゃ
なかったのだろうか?
着替えなんか買いに来なくても、電車で帰るくらい我慢できたはず。
現に、今だって服は買っても着替えないでいるし。
俺が難しい顔をしていると、逆に麻理さんの方が気を使って自虐ネタを披露してきた。
麻理「悪かったな。料理できなくて。だから、男にも振られるんだ。
お前の言う通り、ここのお弁当だって全て制覇してる悲しい女だよ。
栄養だって偏ってるし、年を重ねるごとに肌の張りだって・・・・・・。」
自虐ネタを演じようとしたら、本当に落ち込みだした麻理さん。
これはやばいと感じた俺は、笑顔を引き出して、フォローに回る。
春希「料理できなくたって、それ以上の魅力が麻理さんにはありますよ。」
麻理「例えば、何があるんだ。」
ぐずった声で、上目遣いで迫ってくるのは反則ですよ、麻理さん。
春希「えっと、仕事ができること。アネゴ肌で面倒見がいいところ。
先頭きって突っ走る強いところ。・・・とか?」
麻理「それは全部仕事のことじゃないか。」
涙目になって今にも泣きそうになってるのは、
ここが酒コーナーに近いからだからですか。
酒なんか飲んでいないのに、感情の起伏が激しくなってる気がした。
139: 2014/07/22(火) 17:40:50.60
いつもは感情をコントロールして、仕事に徹しているあの麻理さんが、
素顔の風岡麻理を俺に見せてくれてるのか?
それは、大変光栄なことだけど、それって、つまり、そうなんだろうか・・・・・・。
春希「あとはですね・・・・。」
俺の頭に、今日見てきた麻理さんがよぎる。
春希「例え勘違いであっても、大変な時には仕事を放り投げても助けに来てくれる
ところですかね。それに、普段は熱血漢でクールに仕事してるのに、
ちょっと抜けてるところがあって、それがなんか見ていてかわいいなって、
思えてしまうんです。顔を真っ赤にするところなんて、
中学生かよって言いたくもなるくらい愛らしくて。
・・・・えっと、まあ、そんな感じです。」
妙に恥ずかしいことを語ってしまった俺は、最後だけはぶっきらぼうに締めた。
麻理「そうか。」
俯く麻理さんは、まさしく俺が言った中学生そのものだった。
しかし、腕から伝わる感触は、まさしく大人の魅力そのものであって、
大人と少女の魅力を両方兼ね備えた麻理さんは、暴力的な魅力をふるっていた。
俺は、これ以上はまずいと思い、話を切り替える。
春希「そういえば、編集部の方は大丈夫なんですか?
麻理さんが突然抜けたら、泣き出しそうなメンツがそろってる気も。」
麻理「その辺は大丈夫だ。しっかりと割り振ってきたし。
それに、普段からこういう時があっても大丈夫なように、鍛えてきたつもりだ。」
春希「それはそうですけど、麻理さんが仕事を抜け出してくるなんて、
想像できませんでした。」
麻理「それは私自身も驚いてる。この私が嘘をついてまでして
仕事を放り投げたんだからな。」
春希「すみませんでした。」
麻理「いや、いい。私の勘違いもあったんだし。
それに、嘘をついたのも私がしでかしたことなんだから。」
春希「麻理さん。」
麻理さんは、本当に後悔なんてしていないって伝えようと、笑いかけてくる。
俺、はそれにどう応えればいいか、わからなかった。
140: 2014/07/22(火) 17:41:31.82
麻理「それで、北原は何を御馳走してくれるんだ?」
もうこれで仕事の話は終わりってことなんだろう。
麻理さんの優しさに素直に乗っかることにしよう。
春希「難しいものじゃなかったら、リクエストにこたえますよ。」
麻理「本当か? う~ん・・・・。なにがいいかなぁ。」
考えに集中してるせいか、俺に体重を預けてくるせいで、
ますます麻理さんの温もりが伝わってきてしまう。
そんな俺の苦労なんてつゆ知らず、麻理さんは真剣に悩んでいた。
麻理「オムライスがいいな。卵が半熟なやつ。
これだったら、できるだろ?」
春希「うまく半熟にできるかわかりませんが、オムライスくらいなら作れますよ。」
麻理「よし、決まりだ。そうと決まれば、さっさと買いものを済ますぞ。」
春希「ちょっと待ってください。そんなに引っ張らなくても・・・・。」
元気よくぴょこぴょこ揺れる黒髪を見つめながら後を追う。
普段からは想像もできないはしゃぎようにうれしい戸惑いを覚えていた。
春希「そういえば、麻理さん。」
麻理「なに?」
勢いよく振り向くものだから、組まれていた腕が引っ張られてバランスを
崩しそうになる。
麻理「あっ・・・、すまない。」
春希「大丈夫ですよ。」
麻理「それで、なに?」
謝っておきながら、全然反省しているとは思えない。
笑顔で謝るなんて反則すぎます。
思わず見惚れてしまいました。
春希「あっ、はい。台所を見たところ、フライパンなどの道具は揃ってたんですが、
調味料とかは全くないですよね?」
141: 2014/07/22(火) 17:42:16.00
麻理「砂糖と塩くらいならあるんじゃないか?」
春希「それだけで、どうやって料理するんですか。」
この人の壊滅的な生活能力にため息が漏れる。
洋服も脱いだまま散らかってたし、俺の周りには、
生活能力がゼロか100かのどちらかに偏っている人物しかしないのではないかって
本気で信じてしまいそうだ。
麻理「あとは、えぇ~と・・・・・、マスタードとか?」
春希「マスタードをどうやってオムライスに使うんですか?」
麻理「世の中にはいるかもしれないぞ。」
春希「だったら、麻理さんのオムライスにはマスタードを入れますね。」
麻理「北原が、い・じ・め・るぅ」
甘えた声で訴える麻理さんをみていると、
なんか、俺が勝手に作っていた風岡麻理のイメージが壊れていく。
大人の女で、面倒見がいい姐御肌。
仕事に情熱を注ぎ、誰よりも自分の仕事に厳しい。
生活能力はないけど、そのマイナス面でさえ魅力だと感じてしまうほどの安心感。
だけど、今、目の前にいる麻理さんは、そのどれにも該当しなかった。
あまりにも無邪気で、どこまでも愛らしい姿をしている。
そんな風岡麻理の全てを見逃すまいと目が追っていた。
春希「それにしても、フライパンだけじゃなくて、包丁まですごいのそろってますね。
それほど料理に詳しくなくても、名前を聞けばわかるような高級器具でしたし。」
オレンジ色のホーロー鍋や、有名フライパンセット。
包丁にいたっては、用途別にそろえられた包丁セットだけでなく、
見るからに切れ味が抜群そうな輝きをもつ鋼の日本包丁。
しっかりと製作者の名前まで掘られていて、調べればすぐに名前が出てくるのだろう。
そんな一流器具が新品のまま埃をかぶっていた。
麻理「ああ、あれね。あの部屋に引っ越した時に、佐和子とそろえたのよ。
使うわけないのに、この部屋だったら似合うだろうって。」
春希「なんとなく想像できます。」
麻理「誉めてないだろ。馬鹿にしているのがまるわかりだぞ」
怒ってないのに怒ったふりをする麻理さんを、ほほえましく思える。
142: 2014/07/22(火) 17:42:59.68
この数日抱えていた溶けない悩みを、優しく包みこんでもらっている気がした。
けっして解決できない悩みを無理やり解決するのではなく、
寄り添って痛みを忘れさせてくれる。
それは依存であって、誉められた対処法ではないのかもしれないけど、
今の俺には必要だって思えた。
結局麻理さんは、レジで会計をするまで腕を離してくれなかった。
俺も、それを指摘することはない。
それにしても、あんなにお腹すいていたのに、
麻理さんがいてくれるだけで空腹感を忘れてしまうなんて、現金なものだな。
5-8 曜子 冬馬邸地下スタジオ 1/7 金曜日 17時頃
曜子「病み上がりに録音しなくてもいいんじゃない?
練習不足もあるだろうし。」
かずさ「大丈夫。・・・・・今の気持ちを残しておきたいんだ。
それに、無理言って機材用意してもらった美代子さんにも悪いだろ?」
そう宣言するかずさの顔色は、けっして良いとは思えなかった。
透き通るような白い肌は、今は寒々しいほど白い。
しかし、鍵盤を走り抜けるかずさの指先は、病気だったことを感じさせなかった。
むしろ邪念が抜けた分だけ余計な力が入っていない。
以前、曜子がお色気全開のピアニストと揶揄したことがあったが、
その評価は今も変わっていない。
ただ、一つ変わったことがあるとしたならば、
・・・・・・・・・・・・いや、以前から全く変わってなどいなかった。
かずさは昔も今もまっすぐ北原春希のみを見つめていたのだ。
それを意識して全面的にピアノで表現しているかいないかの違いがあっても、
かずさの本質は変わることなどない。
143: 2014/07/22(火) 17:44:00.96
聴く者によっては不幸の谷底に叩き落とされる音色。
あまりにも純粋すぎる吐息は、人の建前や社会的地位などを崩壊させてしまう。
それほど一途なピアニストを見て、曜子は寒々しいほどの興奮を覚えた。
一方で、母親としては、力になりたいと思う気持ちがわいたが、
それと同時に、女としては、北原春希に強い関心が芽生えた。
曜子「別に今すぐ録音する為に、美代ちゃんを呼んだわけじゃないのよ。
たまたまスケジュールが空いてただけなんだから。
それでもあなたやるつもり?」
我ながら建前すぎるセリフを吐くもんだと辟易していたが、
手だけは録音の準備を進めている。
この瞬間のかずさを切り取りたいという願望の方が強かった。
今この場にいられることに感謝さえしている。
コンサートで、身が震えるほどの感動を覚えた演奏に出会ったことはあった。
なんども繰り返されるコンサートであっても、その時その時によって
演奏は微妙に変わってくる。
気候によっても音色は変わるし、奏者の精神状態によっても変わる。
ただ、そんな違いがあっても、何度も繰り返されるコンサートのなかの一回にすぎず、
いずれ感動も薄れていってしまう。
この瞬間でしか聴くことができないという演奏には出会ったことがない。
たった一度。冬馬かずさのこれから演奏される音色は生涯で一度きりだろう。
それも、特別すぎるほどに特別な演奏。
だから、これから始まるここにはいないたった一人ためだけに開催されるリサイタルに
第3者としであっても居合わせることができて、これほどまでの幸運はないと思えた。
かずさ「準備できた?
早く始めたいんだけど。」
曜子「もうできるわよ。一応美代ちゃんがいたときに全て準備は整えたから。
だけど、もうちょっとだけ待ってちょうだい。」
そう言うと、曜子は録音開始ボタンを押し、
最高の演奏が聴ける席に移動させたソファに身を沈める。
曜子「じゃあ、始めてもいいわよ。」
144: 2014/07/22(火) 17:44:32.95
かずさは、返事の代りに一つ深呼吸をする。
吐き出した空気さえも演奏の一部だと感じてしまうのは、
かずさの存在そのものが芸術へと転化してしまっているからだろう。
曜子は、二つの呼吸と二つの鼓動を、一つの呼吸と一つの鼓動にしてしまいたいジレンマ
をかかえつつ、歓喜の瞬間を待った。
そして、かずさが最初の音色を紡ぎ出す。
第7話 終劇
第8話に続く
145: 2014/07/22(火) 17:45:10.14
第7話 あとがき
自分が書くときの特徴といいますか癖なのですが、
登場人物が少ないです。
あまり多いとさばききれなくなりますし、なによりも人物像が浅くなってしまいので
ばんばん登場人物を増やすことはできません。
さて、小木曽雪菜は、まだ登場していません。
そのことについては、申し訳ありませんが、なにもコメントできません。
来週も、火曜日、同じ時間帯にアップできると思います。
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
148: 2014/07/29(火) 17:43:37.88
第8話
5-9 春希 麻理宅 1/7 金曜日 17時30分頃
チキンライスの食欲をそそる香りがキッチンに充満する。
腹ぺこの俺だけではなく、麻理さんも臭いにつられて俺がふるうフライパンを
俺の邪魔をしないようと後ろから覗き込んでくる。
しかし、俺の両肩に手をのせるのはいいのだが、
背中に柔らかいふくらみを押しつけるのはやめてもらいたい。
ただでさえ俺の首元から覗き込む横顔にどぎまぎしてしうのに。
胡椒やケチャップを取ってほしいとお願いすれば、
喜んでサポートしてくれる。
でも、それが終わると麻理さんの定位置となった俺の背中に戻ってくるのは
もうどうしようもないのだろう・・・・。
揚げ物などをやるとなると危険なので注意する必要があるけど、
今回はそれほど邪魔にもならないので、強くは言えない。
どんな言い訳をしても、こんな状態を喜んでいる自分がいることは
否定などできやしないのだけれど。
春希「チキンライスをよそうお皿用意してくれませんか?」
麻理「これでいいのか?」
あらかじめ用意していたお皿をガス台の側に2つ並べる。
それに手際よく盛り付けると、今回の最難関、半熟玉子の制作に入らなければならない。
春希「さすがに半熟玉子は自信ないので、ちょっと離れていてくれませんか?」
麻理「あぁつ、そうか。そうだな」
麻理さんは、意識しないで俺の背中にへばりついていたことに初めて気が付き、
頬を染める。
俺としては、背中から追い出したいわけではなかったのに、
結果的に追い出してしまったことを名残惜しく思えた。
麻理さんのことだから、意識してしまえば、
俺の背中に自分の意思でやってくることなんて皆無に等しいだろう。
149: 2014/07/29(火) 17:44:33.91
なんて邪念を持っていると、本当に卵を失敗しそうなので意識をフライパンに
堅く結びつけた。
半熟オムライスの成績は、俺としては満足がいく1勝1分けであった。
最初のオムライスは我ながらうまくいったと思う。
だけど、気を良くした俺は2回目の盛り付けで、最後の最後で失敗してしまった。
半熟具合は申し分ないが、形が崩れて卵がやや右寄りになっている。
食べる分には問題ないので、半失敗作は俺の目の前に鎮座している。
麻理さんは、オムライスを並べるときに麻理さんの方に半失敗作を
持っていこうとしたが、
それは丁重に遠慮してもらった。
味は問題ないけど、麻理さんには見た目でもオムライスを堪能してほしい気持ちが
あったから、押し問答の末、どうにか俺が半失敗作を手にすることができた。
麻理「北原は、料理もできるんだな。一家に一人欲しいくらいだよ」
春希「ちょっとは自炊するんじゃなかったんですか?」
麻理「そうだなあ、結局独りだと自炊しないくなる気も」
春希「それじゃあ、最初から駄目じゃないですか」
麻理「私に女の魅力が欠如しているっていいたいんだな。
どうせ私には仕事しかないし・・・・・・」
春希「そんなこと言ってないじゃないですか。
もし料理を始めるんでしたら、俺も手伝いますから。
といっても、俺も人に教えるほどうまくないですけど」
麻理「本当か?」
忙しく表情を変える麻理さんであったが、そろそろ今の笑顔で定着させて
食事に移りたい。
考えてみれば、俺だけじゃなくて、麻理さんも昼食抜きだったはず。
春希「本当ですよ。俺ももっと料理覚えたいと思っていたので。
それよりも、早く食べましょう」
麻理「そうだな。いただきます」
春希「いただきます」
昼食兼夕食となったオムライスは、空腹以上のスパイスが目の前にいてくれるおかげで
最高の味となった。
150: 2014/07/29(火) 17:45:17.37
麻理「なかなか美味しいな」
春希「よかったぁ」
麻理「何度も味見してたじゃないか。そういう用心深いところは評価できるけど、
もう少し大胆さも普段から持ち合わせたほうがいいわよ」
たしかに麻理さんの言うことは的を射ている。
普段は用心深すぎるくせに、なにか問題が起きれば、周りの迷惑など度外視して
行動にでてしまう。今までは致命的な失敗をしてきていないから
周りも強く責めはしてこなかったが、社会人となって、社の看板を背負っての
行動となると、そうもいかないだろう。
自分一人の責任ならいくらでも受け入れるが、会社の問題にまでなると
俺一人の問題ではすまなくなる。
春希「そうですね。麻理さんを見習って覚えていきます」
麻理「そうだな。もう少しお前の側にいたかったよ」
麻理さんが春からNYに転勤になることをすっかり忘れていた。
あまりにも今が楽しすぎて、あまりにも麻理さんがいることが当たり前すぎて
目の前にあったはずの現実を見ないようにしていた。
春希「これで会えなくなるわけじゃないですよ。
いつか日本に戻ってくるんですよね?」
麻理「その予定だが。それでも、3年から5年くらいは向こうだと思う」
春希「だったら、休みをとって会いに行きます」
麻理「北原・・・・・・」
おだやかな頬笑みを浮かべる麻理さん。
年上の女の人だって思えないくらいの無邪気な姿は、
小さいころから隣にいる幼馴染とさえ思えてしまう。
その柔らかい瞳に吸い寄せられていくが、
突如として変化したきつい目つきに驚きを覚える。
麻理「そんな口説き文句は、一番大切な相手に言ってやれ」
春希「麻理・・・・さん」
目の前が鮮やかな色彩から灰色に変わっていく。
俺が選んだ選択肢だったはずなのに、俺が現実に追いついていけない。
151: 2014/07/29(火) 17:46:02.46
麻理「お前は、冬馬かずさを選んだんだろ。
だったら、これ以上私に優しくするな」
突き付けられる現実に、俺は何も言えないでいた。
かずさを傷つけたくないからって、一度は麻理さんの前から逃げ出しておきながら
今になって麻理さんにすり寄っているなんて、どうしようもない馬鹿男だ。
俺だけじゃなくて、麻理さんも傷つけてしまうってわかっていたのに。
春希「そんなつもりじゃ・・・・・・」
麻理「どんなつもりだったんだ?
お前は、私に嘘をつかせて会社を抜けさせたんだぞ。
こんなこと前代未聞の出来事だ」
春希「すみませんでした。でも、俺は・・・・」
灰色となった世界は、今は何色になってるかさえ判断できない。
麻理さんらしき人が目の前にいるはずなのに、
今は別人がいるみたいだ。
麻理「すまない。嘘をついたのは私自身の判断だ。
北原の責任は全くない。忘れてくれ」
春希「忘れらるわけないじゃないですか!
こんなにも優しくされて、なかったことになんかできるわけないですよ」
麻理「だったら、どうすればいいんだ。
お前は、冬馬かずさを愛しているんだろ?
それなのに、私は、・・・・私がお前の側にいちゃ、駄目だろ・・・・・」
触れただけでも消え去りそうな麻理さんに、近づくことさえできなかった。
今まで作り上げてきた心地よい距離が、今やどう距離を取ればいいかさえ
わからなくなってしまっている。
一歩踏み込めば、離せなくなる。
一歩遠のけば、一生会えない気がした。
しかも、今のままでいることは許されないだろう。
春希「でも、・・・・・麻理さん!」
麻理「北原は、もう大丈夫。進むべき道が決まったから。
ここにいちゃ駄目なのよ。
これを食べたら、家に帰りなさい」
152: 2014/07/29(火) 17:46:39.95
春希「帰りません」
麻理「帰れ」
春希「嫌です」
麻理「頼むから」
春希「麻理さんの側から離れません」
麻理さんが目を見開き悲しい喜びを受け取る。
最悪な選択だってわかってる。麻理さんを傷つけるだけだって、わかってるのに。
俺の一方的な我儘で、その手を離せないでいた
麻理「お願いだから、私を喜ばせないでくれ。
それとも、私を愛人にでもするつもりか?
別に、私は構わないぞ。どうせ仕事ばかりで、家庭に割く時間なんて
ほとんどとれないんだ。
気が向いたときに会うなんて、素晴らしいじゃないか」
最低な自虐を披露する麻理さんだったが、一言つぶやくごとに自分を鋭くえぐる。
いつもの自虐ネタなどではない。
自分を傷つけるために言ってるとさえ思えた。
春希「そんなことできるわけないじゃないですか。
麻理さんを傷つけることなんて、できやしない」
麻理「ふざけるな!
北原が今していること自体が私を傷つけているのよ。
散々私を喜ばせて起きながら、最後の最後で絶望に突き落としてるのが
理解できないでいるつもり?」
全てを、俺のことさえも理解している麻理さんに何も言えない。
沈黙しか許されていなかった。
麻理「もういい」
そう小さく愚痴ると、俺の横まで歩み寄り、俺の肩に手を置く。
春希「麻理さん?」
麻理「もういいや。今夜だけでいい。今夜だけ、私のものになって。
そうすれば、私が全てを抱えてNYまで行ってやる」
153: 2014/07/29(火) 17:47:19.31
そういうと、麻理さんは、かがみこみながらキスをしようとせまってくる。
何も言えず、何も考えられなかった時間が動き出す。
3年前の光景が鮮明に脳裏に映し出す。
長い一日だったはずなのに、1秒で全てが再生され頭に叩き込まれる。
かずさの本当の想いを知らずに抱いたあの夜。
喜びをかみしめていた俺の横で、一夜限りの契りを胸にやってきたかずさのことなど
気が付きさえできなかった。
今度は、麻理さんがかずさと同じ道を行こうといいる。
春希「できません。麻理さんが一人で全て抱えてNYに行くっていうなら、
キスなんてできません」
麻理「私は、それで満足だっていってるんだぞ」
春希「それだと、かずさと同じじゃないですか!」
先日の俺の身を切りさく告白を思い出し、麻理さんもショックを隠せない。
麻理「冬馬かずさが・・・・・そうだったな」
春希「ええ、そうですよ。俺は、かずさの気持ちに気が付きもせずに、
他の女性と付き合っていたんです。
かずさが俺のことなんて、好きになるわけないって自分で決めつけて
結果的には、彼女もかずさも二人とも悲しませてしまったんですよ。
そして、今、麻理さんがしようとしていることは
3年前のかずさと全く同じことだったんです」
麻理「そうか。・・・・そうだよな。そうするしかないんだ」
焦点が定まらず、痛々しい笑いを洩らす麻理さん。
そんな麻理さんを、ほっとけるわけもなく・・・・。
麻理「北原・・・・・」
俺の腕の中にいる麻理さんが、顔を上に向け、俺を見つめてくる。
俺はついに麻理さんの手を掴んでしまった。
一度手にしたら、離すことなどできないって理解しているのに。
俺と視線が交わると、麻理さんは視線を外し、俺の胸に頬を擦りつけてきた。
麻理「もういいよ。わかったから。
お前は、とってもひどい男だって理解してしまったよ。
だから、お前は私を離してくれないんだな」
154: 2014/07/29(火) 17:47:52.44
春希「そんなつもりじゃ・・・・・」
麻理「だから、もういいって。
半分だけNYに持っていってやる。
だから、お前は責任もって日本で半分管理しろよ」
春希「え?」
麻理「別にキスしろっていうんじゃないぞ。
私に少しでも好意をもっていたことを忘れないでいてほしいんだ。
私も、お前が好きな気持ちを忘れずにNYに行くからさ。
一人で持つには、重すぎるだろ?」
一人で背負うには重すぎる荷物。
そんな荷物を作り出してしまった。
一人で担ぐには重すぎるけど、二人だったら・・・・・・。
春希「俺が責任をもって大切に持ってます」
麻理「確認だけどさ、私は冬馬かずさの代わりじゃないわよね?」
妙な強気でいた麻理さんであったが、今の発言だけは少女そのものだった。
震える瞳が、俺の返事を待っている。
春希「麻理さんは、麻理さんでしかないです。
俺の腕の中にいる風岡麻理が全てですよ」
麻理「そうか。ならよし」
春希「はい」
麻理「もうこれ以上望まないから、今夜だけは側にいて。
お願い」
春希「俺も、今日は、一人は嫌です」
他人からしたら、まやかしの幸せだっていうのかもしれない。
自分だって、そんなのわかりきっている。
だからといって、それを認めないなんていうのは、他人の都合でしかない。
げんに、俺達はまやかしであろうと、強く求めてしまったのだから。
体から力が抜けていく。
二人して、寄り添うように絡み合う。
もうハンカチ越しに手を触れる必要なんてない。
触れたいと思ったら、こう、自分の手で直接握りしめればいいんだ。
155: 2014/07/29(火) 17:48:28.59
ほら、麻理さんも俺の手を握り返してくれる。
強く抱きしめなくても、麻理さんはいなくならない。
NYへ行くとしても、会えなくなるわけではなく、
会いたいと思えば、いつだって会いに行けるんだ。
緊張の糸がほどけると、脳は2番目の欲望を優先させる。
麻理さんにいたっては、朝から。
俺にいたっては、2日以上も食事をとっていない。
だから、俺達の腹の虫が大騒ぎしても、いたって自然なことで・・・・。
麻理「色気もロマンスもあったものじゃないな」
春希「はは・・・・、俺達らしいっていったら、らしいかもしれませんね」
麻理「せっかく北原が作ってくれたんだ。冷めないうちに、って、もう冷めてるかも。
でも、食べよう」
春希「そうですね」
ぎくしゃくしながらも抱き合う手をほどきながら、自分たちの席に戻っていく。
食事を再開するものの、視線は絡み合うが、会話のとっかかりが見つからない。
俺は、沈黙したままでも、うれし恥ずかしい食事を楽しめていた。
しかし、麻理さんは、沈黙そのものに耐えきれず、
麻理「北原、なにか話す話題くらいないのか?」
春希「そんな器用な真似できましたら、苦労しませんよ。
あいにくプライベートに関しては、つまらない人間なので」
麻理「それって、暗に私のことも仕事馬鹿だって揶揄ってるのか」
春希「前から思っていたんですが、仕事人間であることも、プライベート壊滅なことも、
そして、年齢のことも、俺にとってはマイナスな面は一つもないですよ。
むしろ、プラス評価でしかないです」
麻理「そ・・それは嬉しい評価だけど」
麻理さんの食事の手は止まり、スプーンを握る手が震えている。
次の言葉を紡ぎだそうとしてるようだが、口をパクパクするだけで
声を発することができないようだった。
春希「麻理さん?」
麻理「お前が心臓に悪いことを言うからだ。
それに、年齢については、どう言い繕ってもかわりようがないだろ」
156: 2014/07/29(火) 17:49:23.57
春希「年齢そのものは変えようがないですけど、麻理さんに関しては
年齢なんか関係ないくらい綺麗じゃないですか」
麻理「お世辞を言っても信じないぞ」
疑う気満々の目を俺にぶつけてくる。
こんな子供っぽい表情さえも、魅力の一つだって、この人は気が付いていないんだ。
だったら、今から一つ一つ伝えていけばいい。
春希「今の表情なんか、とてもかわいらしいですよ。
大人の魅力に無邪気さが相まって、破壊力抜群です」
麻理「な・ななな・・何を言ってるんだ」
顔から首まで朱に染まっている。
俺が麻理さんの魅力を全て伝え終わるころには、指先まで赤く染まるかもしれないと
思うと、少しおかしく思えた。
麻理「やっぱり冗談だったんだな。笑うなんてひどい奴だ」
春希「違いますよ。麻理さんが、かわいすぎて。
仕事を誉められるのは慣れすぎているのに、
プライベートの方では、全く耐性がないと思うと、愛らしくて、
ほほえましく思えてきたんですよ」
麻理「そ・・・・そうか。だったら、いい」
俺達は、食事が終わっても、夜遅くまで語り合った。
仕事しか共通の話題がないって杞憂してたのは、たちまち霧散していく。
麻理さんの高校時代、大学時代、そしてこれから先のことだって、
話す話題は尽きることがなかった。
157: 2014/07/29(火) 17:49:54.48
6-1 春希 麻理宅 1/8 土曜日 6時00分頃
昨夜、というか今朝何時に寝たかわからないが、体内時計が強制的に体を叩き起こす。
午前6時。
寝たのが、おそらく午前3時過ぎだと思うから、3時間も寝ていないはずだった。
寝不足状態で朝日を浴びるのはつらいが、冬の優しい朝日なら
ちょうどいい覚醒ツールとして使える。
ソファーで寝こけてしまったが、風邪を引いていないのは麻理さんが
毛布をかけてくれたからだろう。
窮屈な体制で寝てしまい、悲鳴を上げている節々をほぐす為に体を伸ばす。
それと同時に、近くにいるはずの麻理さんの様子を探ろうと見渡すが
いる気配がなかった。
といっても、麻理さんの消息はすぐに判明する。
置手紙によれば、すでに出社したとのこと。
昨日の仕事の遅れを取り戻す為に早く行くと書いてあるが、
それも真実だろうけど、俺と顔を合わせた時、どんな顔をしたらいいんだろうって
迷いに迷って逃げ出したんじゃないかって思えてしまう。
麻理さんは、気が付いていないのだろうか?
今顔を合わせるんなら、自宅だから、どんなに気まずくても二人しかいない。
でも、編集部でだったら、好奇の目にさらされてしまうのに。
って、あまりにも自信過剰な妄想をしてしまったけど、
あながち間違いではないんだろうな。
さてと、顔を洗ってから掃除でもしますか。
ながらくお世話になったこの部屋を本来の主に返さないとな。
顔を洗い、少しばかり冷蔵庫から拝借して腹ごしらえでもと思いキッチンに
行ってみると、テーブルにはサンドウィッチが用意されていた。
ざっと見たところ、昨日の余り物のトマトとハムとチーズが挟まれているようだ。
インスタントコーヒーをいれ、昨夜と同じテーブルの席に着く。
目の前には麻理さんはいないけど、料理を全くしない麻理さんが作ったサンドウィッチ
が目の前にあると思うと、顔が緩んでしまう。
春希「いただきます」
158: 2014/07/29(火) 17:50:24.64
編集部にいる麻理さんに届くようにと、しっかりと手を合わす。
麻理さんが、料理をしないという危うさを忘れて、
ためらいもなく大きくサンドウィッチを頬張る。
春希「うっ!」
辛い!
食べられないわけじゃないけど、マスタードが効きすぎている。
パンをめくるとたっぷりとマスタードが塗られていた。
他のはどうかと確認したところ、マスタードが異常に塗られていたのは
最初の一つだけで、他のは適度の量しかぬられていない。
春希「あぁっ・・・・・、ははは・・・・」
もう笑うしかない。
朝だというのに、腹がよじれるほど笑えてしまう。
春希「子供かよっ」
麻理さんは、昨日のスーパーでのことを覚えていたんだ。
オムライスにマスタードを使えばなんて暴言への仕返しなんだろう。
しかも分かりやすいように、俺が座った席から一番取りやすい位置に
トラップサンドウィッチが置かれていた。
だから、これを食べて思い出せよ的な思考なのだろうな。
でも、俺がこの席に着くっていう麻理さんの根拠なき自信は、本当にありがたい。
その根拠なき自信は正解ですよって、今すぐ言ってあげたかった。
俺が昨夜の席に座って、麻理さんのことを思い出しながら
食べるんだろうって麻理さんは妄想して用意してくれたのだろうか。
あぁっ! 麻理さんのことばかり考えてしまってる。
俺は、マスタードがたっぷりのサンドウィッチを口に放り込み
麻理さんのことも押しこもうとした。
ぐふっ!
といいうものの、爆弾マスタードは俺の予想範疇を飛び越えていて、
俺の意図は見事に破られてしまう。
159: 2014/07/29(火) 17:50:55.90
だから、俺が麻理さんのことを考えてしまってもいいんだって、
誰に言い訳するわけでもないのに取り繕おうとしてしまった。
そして、俺は、コーヒーを一口すすり、2個目のサンドウィッチに手を伸ばした。
第8話 終劇
第9話に続く
160: 2014/07/29(火) 17:51:27.95
第8話 あとがき
夏なのに真冬のお話。
さて、日の出って何時だったっけと思い返すも思い出せません。
ググれば出てくるけど、まあいいかって感じでスルーです。
とりあえず、本編に大きく関係があるわけでもないので
直し作業はごめんなさい。
さて、cc編ってあとどのくらいなのかなって計算してみたのですが、
わかりませんでしたw
たぶん、第14話か第15話くらいまでなのかなって気もするんですが、
こればっかりは書いてみなければ、わかりません、
あらすじといいますか、時系列的なスケジュールは決まってるので、
それにのっとって書くだけですが、さすがに分量までは読めません。
とりあえずcc編のラストは書き終わっていますので、
あとはそれに向けて書き進めるのみっす。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
166: 2014/08/05(火) 17:36:53.15
第9話
6-2 春希 麻理宅 1/8 土曜日 13時00分頃
部屋の掃除を終えてマンションをあとにするころには、日は既に高く上り終え
傾き始めている。
心地よい午後の日差しと、掃除をして適度に体を動かしたせいで眠気が襲う。
人通りも多いことから、あくびをかみ頃しつつも、数日間放置していた携帯の
確認を始める。
とりあえず、道のど真ん中で立ち止まるのも迷惑なので、ビルの陰に身を寄せた。
発信履歴は、もちろん昨日の麻理さんへの電話が最後であったが、
着信履歴は、麻理さん以外にも入っていた。
一番新しい履歴には、珍しい名前が表示されていた。
和泉千晶。
同じ学部のさぼり魔。
ゼミの教授にはさじを投げられ、俺が教育係に任命までされてしまっている。
やればできるやつだと思うけど、やらせるまでが一苦労だし、
やったはやったで、持続させるのも骨が折れる。
もう一件気になる履歴といえば、武也からであった。
クリスマス直後に電話して以来、メールさえも着ていない。
それもそのはず、冬休みが終わるまでは一人にさせてくれと頼んであるのだから。
それを律儀に守ってくれて、ありがたかった。
それなのに、連絡をよこすとなるならば、よっぽどのことなのだろうか?
とりあえず、武也の連絡は昨夜であったので、
今朝電話をくれた千晶に電話することにした。
数コール待っても千晶は電話に出ない。
とりあえず留守番電話にメッセージでもと思っていると、
数日ぶりに聞く悪友の声が耳元に響いた。
千晶「もしもし春希。せっかく連絡したのに電話に出ないなんて薄情すぎない?」
春希「携帯なんてそんなものだろ。電話に出られれば出るし、出られない状態なら
放置するに決まってる。だから、出られないってことは、
出ることができない状態だって気がつくものだ」
千晶「あぁ、なんでいきなり説教になるのかなぁ・・・・。
まっ、いっか。それでね春希」
春希「いっかじゃない。って、おい聞けよ」
167: 2014/08/05(火) 17:37:29.45
俺のお小言など慣れているせいか、見事にスルーされる。
そして、千晶の要件とやらを俺に押し付けてきた。
千晶「今日暇でしょ?」
春希「特にようはないけど」
千晶「今どこ?」
春希「須黒」
千晶「それなら、・・・え~と、3時に春希のマンションの側にあるカフェね」
春希「駅側の方の?」
千晶「そそ。じゃあ、3時にね。よろしくぅ」
千晶は用件だけ述べて、しかも、勝手に約束までさせて、さっさと電話を切ってしまった。
仕方ない奴だなぁと、頭の中で文句を二桁ほど並べたが、
足取り軽く駅に向かった。
南末次駅の改札口を抜けると、もう一件の武也からの電話を思い出す。
冬休み明けまでほっといてもらう約束はしていたが、だからといって、
無視することもできない。
千晶との約束の前に、いったん家に戻って荷物を置いてこようと考えていたが、
一本電話入れるくらいの時間の余裕はあった。
千晶に電話した時とは異なり、やや気が重く感じられる。
動きが鈍い手を強制的に動かし、武也に連絡をいれた。
武也「悪いな、春希」
春希「どうしたんだよ?」
武也「大学始まるまで待とうと思ったんだけど、その前にゆっくり話そうと思って」
春希「大学も来週からだし、俺はかまわないけど」
武也「そうか。ほんとうは迷ったんだけど、大学始まっちまったら、
ゆっくり時間取れないだろ? だから、大学始まる前の週末なんて
どうかなって考えていたわけよ」
俺が拒絶しなかったことで、武也は気が楽になったのか、饒舌になる。
俺も、武也に気を使わせてばっかりで、悪いなとは思う。
だから、こうやって俺との関係を取り持ってくれることに感謝していた。
武也「今お前どこにいるんだ?」
春希「南末次駅だけど」
168: 2014/08/05(火) 17:38:18.40
武也「そっか。さっきお前んち行ってみたけど、留守だったからさ。
それなら、これから会えるか?」
春希「これからか? この後行かないといけないところがあるから、
1時間くらいなら大丈夫だけど」
武也「そうか、じゃあ、今からな」
携帯のスピーカーからの声と、リアルに空気を震わせ耳に届く声が重なる。
横を向くと、武也と依緒がそこにはいた。
武也「よう、春希」
春希「ああ、久しぶりだな武也。それに依緒も」
依緒「久しぶり」
武也とは対照的に、緊張した面持ちの依緒が俺を見定めている。
武也は、俺と依緒の歯切れの悪い状態を振り払おうと、わざとらしい明るい態度で
俺達の間を取り持ってくれた。
武也「ここで立ち話もなんだ。それに、春希も時間がないみたいだし、
そこの喫茶店で話そうぜ。春希んちまで行くのも時間がかかるしさ」
武也なりの気遣いだろう。俺のマンションで、たった3人で話すとなると
葬式以上に重い雰囲気になってしまうだろう。
ならば、BGMとして他人の会話が流れてくる方が、よっぽど気がまぎれるかもしれない。
だけど、今から向かおうとしている喫茶店に問題がある。
まだ千晶と会う時間には早すぎるけど、もし武也たちとの話が長引けば
最悪、千晶と鉢合わせになってしまう。
別に千晶が武也たちに会ってまずいことはない。
しかし、根拠はないけど、千晶を会わせてはいけないって気がしてしまった。
そんな俺の気苦労もしらず、武也は俺と依緒の肩を抱いて、喫茶店に歩み始めた。
169: 2014/08/05(火) 17:38:59.57
6-3 春希 喫茶店 1/8 土曜日 14時00分頃
学校が始まっていないので、峰城大生も付属の高校生もほとんどいないようだ。
高校生にいたっては、部活で高校に来ていない限り私服なので判断できないが。
自分たち以外の客を観察しつつ、千晶がいないことを確認する。
無事いないことを確認すると、胸の中で小さく一息ついた。
さて、目の前の武也はともかく、依緒に関しては既に臨戦態勢だった。
依緒「メール読んだけど、もう一度春希からちゃんと聞きたいんだけど」
武也「最初からとばすなよ。物事には順序っていうのがあってだな・・・」
武やが依緒を必氏になだめようとするが一向に収まりそうもない。
ここに来るまでだって、いかにも話したそうな視線を送ってきていたもんな。
その視線をうまく武也が遮ってくれていたけど、
ここまできたんだ、依緒が納得する答えは提供できないと思うけど
全てを吐き出す覚悟はできている。
春希「ありがとう武也。でも、もう大丈夫だから。
二人が気持ちの整理をつける時間くれたからさ。
だから、俺はもう大丈夫なんだ」
武也「そうか」
武也はなにかを悟ったような悲しい笑顔をみせた。
一方、依緒は依然として厳しい表情のままでいる。
春希「俺は、クリスマスイブの夜、雪菜に振られた。
原因は、俺がかずさを忘れることができないで、今もかずさを愛しているからだ。
だから、雪菜には、なにも非はない」
武也は切なそうに俺を見つめるだけで、何も言うことはないようだった。
今日は依緒を納得させるための仲裁役をかってくれたのだろうか?
いや、そんな甘い考えはよそう。武也にも悲しい思いをさせたことは事実だ。
依緒「雪菜が本気で別れたいって思ってるわけないでしょ。
そりゃ、冬馬さんのことは引きずってしまうけど、それはしょうがないっていうか。
春希も引きずってるんだから、これから二人で乗り越えればいいことじゃない」
必氏に訴える依緒をみて、薄情ながら傲慢で冷酷な分析を下す自分がいた。
そうじゃないんだよ、依緒。全く違うんだ。依緒はわかっていない。
雪菜のことは好きだけど、それは、好きでしかない。
170: 2014/08/05(火) 17:39:53.25
恋焦がれ、自分が壊れてしまうんじゃないかって思うくらい愛しているわけじゃない。
そう、自分が壊れてしまってもいいくらい愛しているのは、かずさだけなんだ。
いつも俺の心の中にいるのは、冬馬かずさただ一人だけ。
それを依緒は、理解していない。理解しようとしていなかった。
いや、理解するのを拒否してたんだろう。
春希「俺は、かずさのことを引きずってるんじゃないんだ。
今も愛してるんだよ」
依緒「っ! どうして? 雪菜のなにが悪いっていうのさ」
春希「雪菜は悪くないんだ。俺がかずさを愛してるだけなんだ」
依緒「3年だよ。3年もつかず離れずいた雪菜も問題あるけど、
あんたたちの歴史はそんなものだったの? 違うでしょ」
春希「3年も曖昧な態度をとってきたことに弁解する気はない」
依緒「ならさ、なんでもっと早く雪菜を振ってあげなかったのさ。
雪菜を振ってあげてたら、今頃雪菜も新しい恋に向かっていたかもしれないのに」
依緒に言われなくても分かっていた。
雪菜の貴重な3年間を浪費させてしまった。大学の3年間という貴重な時間。
社会人になっても途切れることがない友人を作るチャンスを邪魔してしまった。
雪菜を内向的にさせてしまったのは、俺に責任がある。
春希「悪かったって思ってる。償うこともできないってわかってる。
だけど・・・・」
依緒「なに・・・?」
春希「俺に雪菜への気持ちがないのに付き合ったって、雪菜を苦しめるだけじゃないか?」
依緒の表情が変わりゆく。
理解するのを拒否している状態から、理解させられている状態に。
依緒が聞きたくない事実だとしても、俺は妥協を許さない。
このままじゃ、依緒の大切な時間までも浪費させてしまうから。
依緒「それは・・・・・」
春希「たとえかずさがウィーンにいようとも、俺はかずさを愛している。
報われない愛だって笑われようが、変わることはないんだよ」
依緒は、テーブルの上に所在なさげ放り出していた手を握りしめ、
最後まで諦めようとはしなかった。
依緒「ウィーンに行ってしまった冬馬かずさじゃなくて、今あんたのそばにいるのは
小木曽雪菜なんだよ」
春希「俺の側にいるかなんて、関係ないんだ。愛しているっていう事実は変わらない」
171: 2014/08/05(火) 17:40:26.42
千晶「そうだよね。いくら常に隣にいて、好き好きオーラを彼氏が送っていても
彼女の方が気がつかないふりをして、友達を続けている人もいるからね」
俺の斜め後ろから、聞きおぼえがある声が聞こえる。
振り向くとそこには、千晶がいた。
依緒「何が言いたいのさ」
俺への戦闘モードから、千晶へ攻撃目標を変えた依緒は、千晶を睨みつける。
その攻撃対象の千晶というと、いつも通りのおちゃらけた様子は変わらないのだが、
今まで見たことがない棘のある表情を見せていた。
俺達のテーブルが修羅場っぽい雰囲気に激変したこともあって、
店内のざわつきもまし、俺達は注目を集めてしまったようだ。
千晶「自覚がないっていうなら救いようがないけど、自覚があるっていうなら
残酷すぎる仕打ちだよね。それも計算に入れてやってるんなら
・・・・・、あぁ、もうよそうか。そっちのほうには全く興味が持てないからさ」
依緒「あんたになにがわかるっていうんだよ。
そもそも部外者のあなたが、って、あなた、春希の友達?」
春希「すまん、依緒。こいつ口が悪くって」
千晶「ふぅ~ん。・・・・・たださ、あんたよりは理解しているつもりだけどね。
見ないふりをして現実を受け入れないなんて、しょうがないでしょ?」
依緒「私は、私は、雪菜と春希のことを思って」
悔しそうに手を握りしめる依緒は、すでに現実を全て受け入れさせられてしまっていた。
変わりようがないかなしい現実に身をさらされてしまった。
千晶「それって、ほんとうに春希達のため?
あんたたちの身代わりじゃないの?
自分の理想を他人に押し付けてるみたいで気持ち悪い。
そんなこと言うんなら、あんたら二人で理想の恋人を成立させればいいじゃない。
身勝手なのはあんたのほうでしょ?」
依緒「なにを!」
テーブルを激しく叩き、勢いよく立ちあがった依緒は、
今にも千晶を掴みかかろうとする。
冷たい目をした千晶は、激情に揺れる依緒を遥か上の彼方から見下ろしているようだった。
武也「もういいだろ。依緒もそこまでにしておけ。
そっちもそれでいいな?」
調停者は決め込んでいた武也であっても、意図しない訪問者が来てしまっては
黙っているわけにはいかなかった。
172: 2014/08/05(火) 17:40:55.63
千晶「私はそれでかまわないけど」
依緒は悔しげに俯くだけで、崩れるように席に座り、肩を落としている。
武也「なあ、春希。今日はここまでにしとこう」
春希「そうしてくれると助かる」
武也「最後に一つだけいいか?」
春希「いいけど」
武也「もう雪菜ちゃんとは会うつもりはないのか?
その・・・・・・さ。友達として会うこともできないのかなって」
武也は、今日はこの問いだけを俺にぶつけるつもりだったのだろう。
俺と雪菜が恋人としてはやっていけないと分かっていた武也は、
苦肉の策というべきか、最後の最低な妥協案を提示するか苦しんでいたんだろうな。
春希「ああ、雪菜が許してくれるなら、雪菜と友達になりたい。
そうじゃないな。俺は、雪菜と友達になりたいんだ」
俺は武也に正直な気持ちをぶつける。
俺の覚悟を受け取った武也は、悲しそうな笑顔を脱ぎ棄て、
覚悟を決めた男の笑顔をみせた。
武也「わかった。あとは任せとけ・・・・・、って言いたいとことだけど、
できる限りのフォローはするつもりだ」
春希「ありがとう武也」
武也「いいってことよ。それと、依緒もこんな感じだし、
悪いけど、先に帰ってくれないか」
春希「悪いな武也。支払いはしとくから。
それじゃあ、また大学で」
武也「大学でな」
笑顔で見送る武也を背に、俺は既に依緒のことなど眼中にない千晶を連れてカフェを
あとにした。
依緒は最後まで顔を上げることはなかった。
173: 2014/08/05(火) 17:41:27.28
6-4 春希 大学 1/8 土曜日 15時00分頃
春希「おい和泉。どこまで連れいていく気だよ」
千晶「もうすぐだって。そこのホールが目的地だから」
和泉に引っ張られてこられたのは、大学の奥に位置する多目的ホール。
サークルがやってるものなら、このあたりも頻繁に来るかもしれないが、
あいにく俺はサークルに所属したこともない。
だから、連れてこられたホール自体も存在だけは知っていても、
利用することなどない。
普段はサークルの連中が行き来して、大学の奥地だとしても人気があるはずだが、
あいにく冬休みということもあって、人の気配がない。
古びた建物がよりいっそう寒々と感じさせ、身震いをしてしまった。
千晶「悪い春希。ここってエアコンないから、冬はとことん寒いのよ」
俺が寒さにまいっていると勘違いした和泉は、一応の気使いをしてくれる。
普段は、人に無関心って感じをする掴みどころのない奴だけど、
今日ほどこいつの意図と掴めなかったときはなかったと思う。
春希「お前、さっきは言いすぎだぞ」
千晶「え、なに?」
ホールの鍵を開け、中に進む和泉は俺の声に反応して振り返るが、
まったく俺の言葉は耳に入っていない。
春希「なんでもない」
仮に耳に入ったところで、まともな答えが返ってくる望みは低そうなので、
さらなる追及は無意味だろうな。
それよりは、こいつが何の目的でこんなところまで連れて来たのかの方が興味深い。
千晶「そう。さあ、こっちこっち」
俺の手を掴み、舞台の中央まで引っ張り出す、
客席には何もなく、がらんとしているが、人が入ればそこそこの熱気に包まれそうだ。
だけど、真冬に長時間拘束されるのは、遠慮したいかも。
春希「なんなんだよ。ここになにかあるのか?」
俺の手を離し、舞台の中央、観客席に一番近いところまで歩み寄ると、
芝居がかかったまじめくさった表情をみせる。
174: 2014/08/05(火) 17:41:59.64
千晶「2月14日。ここでヴァレンタインコンサートがあるんだけど、
春希に出演オファーがきてるんだ」
春希「なにいってるんだよ。俺が歌なんて歌えるわけないだろ」
ヴァレンタインコンサート。たしか、放送部も関わってるイベントだったはず。
去年武也がなんか騒いでいた気がする。
放送部ということは、『届かない恋』を演奏してくれってことなんだろうけど、
とぼけるしかないか。
千晶「春希は、ギターでしょ」
背筋が伸び、嫌な汗がわき出てくる。
こいつは、どこまで知ってるんだ?
目の前にいる和泉千晶は、俺が知っている和泉千晶とは別人に思えた。
手に力が入り、身構えてしまう。
和泉が舞台の端から俺の方へと近寄ってくる。
千晶「なぁに怖い顔してんの。普段からくそまじめで辛気臭い顔してるのに
眉間にシワまで寄せちゃったら、幸せも逃げてくよ」
と、生意気なことをほざいて、俺の額を軽く小突く。
春希「これは生まれつきだから。で、なんで俺がギターなんだよ」
主導権を握られっぱなしはやばい。早く主導権を握らないと、まずい気がする。
千晶「だって、この前春希んちいったとき、写真立ての写真みたよ。
あれって高校の学園祭でしょ。ギターもって、かっこつけちゃって、このこの」
肘で俺を小突くのを半歩横にずれてかわす。
いつもの和泉のようで、なにか違和感を覚えるのは、場所のせいだろうか?
千晶「隠すことなかったのに」
春希「隠してなんかいない。聞かれなかったから、言ってないだけだ」
和泉がこんなにも俺に踏み込んでくるなんて、気さくで女を感じさせない女だと
思っていたのに、今日に限って何故?
千晶「一緒にうつってたのって、冬馬かずさでしょ。
今話題のピアニスト。だからさ、春希」
春希「なんだよ」
かずさのことまで知ってるとは。たしかに、かずさは雑誌に載ったけど、
和泉が知ってるとは誤算だった。
175: 2014/08/05(火) 17:42:37.00
千晶「そんなに邪険にしなくても」
春希「してないって」
千晶「ま、いっか」
最初っから気にしてないだろ。
千晶「冬馬かずさと交渉して、春希と二人、コンサートに出演してくれない?」
途中から予想できてたけど、自分が受ける衝撃を受け止める準備はできていなかった。
いくら時間をくれたって、準備なんかできやしないだろうけど、
和泉の目の前でうろたえるのだけは回避できてたかもしれない。
春希「無理だよ」
千晶「なんで?」
春希「そもそも、冬馬が出演してくれるはずもない。ウィーンいるんだぞ」
千晶「母親の冬馬曜子は来ているんでしょ?」
春希「そうだけど、冬馬本人は来ていないよ」
俺の心をチクリと針が刺される。じわじわと痛みを忘れさせないように。
春希「それに、仮に冬馬が出演したとしても、ギターとキーボードだけじゃ
ライブにならないだろ」
千晶「写真に写ってたもう一人の女の子?」
春希「そうだよ。ヴォーカルがいないんじゃ、話にならない。
まずはヴォーカルを連れてきてから依頼に来い」
千晶「ヴォーカルがいるんだったら、問題ないってことね」
春希「そうだよ」
雪菜が出演するとは思えない。
それに、冷戦状態の今、交渉すらできそうにないっていうのに。
千晶「OK、OK。ヴォーカルのあてはあるから、これで春希は出演OKってことね」
春希「は?」
千晶「だから、ヴォーカルのあてはあるんだってば。
ギターは春希に頑張ってもらうとして、あとはキーボードか。
これはちょっと時間くれないかな」
春希「おい和泉ったら」
俺の声など聞こえないふりをして、舞台を飛び降り、出口に向かう。
出口の前で振り返った和泉は、ホールの端から端まで届く声で言う。
けっして怒鳴ってるわけでもないのに、よく通る声ではっきりと。
176: 2014/08/05(火) 17:43:05.34
千晶「ここの鍵、開けといたままでいいから。
じゃあ、放送部には出演OKって伝えておくね!」
手を大きく振って別れの挨拶を強引にした和泉は、俺の返事などきかずに
扉の外へと消えていった。
第9話 終劇
第10話に続く
177: 2014/08/05(火) 17:43:39.89
第9話 あとがき
千晶登場です。
千晶には嫌な役を任せてしまいましたが、
きっとひょうひょうとこなしてくれるでしょう。
千晶って、物語にアクセントをつけるにはもってこいの存在だなって
改めて感謝しています。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
180: 2014/08/12(火) 17:39:41.40
第10話
6-5 春希 大学 1/8 土曜日 15時30分頃
和泉がホールから出ていった後、俺は、しばらく何をすることもなく客席を
眺めていた。
舞台から脚を投げ出し、底冷えする舞台の上で座り込む。
これから何をすべきかなんてわからない。
だから、まずは、わかっていることから整理していくか。
ヴァレンタインコンサートは、去年武也から聞いたことがある。
うちの大学の生徒が参加する、わりと人が集まるイベントらしい。
お金をかけなくても女の子を口説けるイベントだって、武也が言ってたはず。
女の子がそんな裏事情を知ってしまったら、幻滅しそうだけど。
そのイベントで、俺がギターを演奏?
馬鹿げている。最近全く弾いていないのに、人前で弾けるはずもない。
・・・・・今から練習すれば、一曲くらいなら、間に合うか。
って、俺一人がどうしようが、意味がない。
ヴォーカルは、和泉が手配するみたいだけど、雪菜以外のヴォーカルでいいのか?
それに、キーボードのかずさもいないわけだし、一番へたっぴだった俺のギターが
あっても、コンサートなどできるはずもないだろ。
雪菜か・・・・・・。
武也「もう雪菜ちゃんとは会うつもりはないのか?
その・・・・・・さ。友達として会うこともできないのかなって」
春希「ああ、雪菜が許してくれるなら、雪菜と友達になりたい。
そうじゃないな。俺は、雪菜と友達になりたいんだ」
さっき武也にえらそうに言っておきながら、何も行動を起こしてないな。
たしかに、冬休みを使って、雪菜への気持ちの整理はできた。
だけど、「雪菜への気持ちの整理」イコール「雪菜との関係」ではない。
いくら俺の中で気持ちの整理ができても、雪菜との関係が改善できたわけではない。
俺と雪菜との関係は、クリスマス・イブの夜から停滞している。
181: 2014/08/12(火) 17:40:33.74
このまま自然消滅でいいのか。
雪菜が俺のことをこのまま忘れ去って、過去のことだと割り切ってくれるのだろうか。
・・・・・・分からない。なにもなかった3年は、長すぎた。
だったら、俺は、
・・・・・・・・・・・友達として、最初からやり直すか。
そうと決まれば、やることは一つだ。
俺は、舞台から飛び降り、ホールの出口に向かう。
出口を開けると、眩しい光が俺を迎え入れる。
暗闇に慣れきった目が、明るい世界になじんでいく。
北風が俺を撫でるが、舞台の冷たさに比べれば、温かいものだ。
俺は、携帯電話を取り出し、冬馬曜子オフィスに連絡をいれた。
美代子「冬馬曜子オフィスです」
春希「私、開桜社アンサンブル編集部員の北原春希と申します。
先日のニューイヤーコンサート後に楽屋の方に伺った者なのですが、
その時のことで、一点確認したいことがありまして、
冬馬曜子さんとお話しすることは可能でしょうか?」
美代子「あのときの方ですね。覚えています」
男性で楽屋に通されたのは、俺一人ってことなのかな。
覚えていてくれたほうが、話を通しやすい。幸先いいな。
春希「無理を言って冬馬さんに話を通してくださり、ありがとうございました」
美代子「いえいえ、あらかじめ冬馬の方から、北原さんがいらっしゃいましたら、
お通しするよう言われていましたので」
思いがけない発言に体に衝撃が走る。
曜子さんは、俺が楽屋に来るってわかってたのか。
いや、来てもいいように準備をしていたってことか。
つまり、かずさがらみの話を最初からするともりだったととるべきか。
春希「そうだったのですか」
美代子「ええ。北原さんの写真まで渡されていましたから、間違えようもないです」
182: 2014/08/12(火) 17:41:05.61
俺の写真って、どこから手に入れたんだよ。
開桜社からか? それとも高校のときの・・・・。
卒業アルバムって線もあるか。
どうも曜子さんは、俺の数歩先を行ってる。
出し抜こうとかかは考えていないけど、何を考えているかわからないのは
危険かもしれない。
もし、曜子さんが俺とかずさの仲を快く思っていないのなら、
俺がかずさに会うチャンスは限りなく小さくなってしまう。
弾むように軽かった心は鉛のごとく地面に這いつくばり、
携帯を握る手には汗がにじんでくる。
美代子「すみません・・・少々お待ちください」
春希「はい」
電話は素早く保留音に切り替わる。
陽気なメロディーの保留音が鳴り響く。
まだか、まだかと、数秒も経っていないのに、焦る気持ちがかき乱れる。
携帯を持っている方の人差し指で、携帯を何度も小突き続ける。
いらだちの濁音が耳に響き、いらだちを盛り上げる。
曜子「もしもし? 北原君」
俺の名を呼ぶ電話主の声が、先ほどとは違う。
この声は、忘れようもない。
春希「はい、北原です」
曜子「私、冬馬曜子。お久しぶりね」
春希「お久しぶりです。コンサートの後、楽屋にお招きいただきありがとうございました」
曜子「ううん。私もあなたと話してみたかったの。
だけど、心配しちゃったのよ。だって、あなた、すっごく体調が悪そうだったから」
春希「心配をかけさせてしまい、申し訳ありませんでした。
でも、もう大丈夫です」
曜子「そう? でも、かずさのことを聞いてから体調が急変したから、
もしかしてって勘ぐっちゃったわ」
この人は・・・・。
どこまでわかって、なにをたくらんでいるんだ?
183: 2014/08/12(火) 17:41:36.06
下手に小細工をしても、意味なんてないんだろうから、
だったら、まっすぐ突っ込むしかない。
春希「その通りです。かずさに会えなくて、落ち込んでいました」
曜子「え?」
一瞬だが、曜子さんがうろたえる。
俺の正攻法すぎる突撃は、予想していなかったとみえる。
曜子「そっか。今も会いたい?」
春希「会いたいです」
曜子「ふぅ~ん。・・・・・で、今日はどういったご用件で?」
最後の最後で調子を崩されてしまう。
うまくいってるようで、まったくうまくいかない。
曜子さんの意図なんて、一生理解なんてできないのかもしれない。
春希「はい。今度うちの大学でヴァレンタインコンサートがあるんです。
そこで自分もギターとして参加する予定です」
曜子「へぇ~。ギター君復活かぁ」
春希「えぇ、まあそんなところです」
曜子「今でもギター弾いてるんだ」
春希「いえ、最近はまったく。ですから、家にあるアコギで練習再開しようと
考えていまして」
曜子「エレキギターではなくて、アコースティックギターの方が得意だったの?」
春希「いえ、家にアコギがあるので、アコギにしようかと」
曜子「でも、学園祭の時はエレキだったじゃない?」
春希「あれは、学校の備品でして、自分のではないんです」
曜子「ふぅん」
ピアノはともかく、ギターなど、楽器に癖がついてしまう楽器のレンタルなど
音楽家としては、許せないのだろうか?
まずい受け答えしてしまったかも・・・・・。
曜子さんは、なにやら考え込んでいるらしく、何も言ってこない。
春希「曜子さん?」
曜子「あ、うん。わかった、わかった。じゃあ、こうしましょ」
184: 2014/08/12(火) 17:42:17.17
勝手に一人納得されても、どう対処すればいいかわからない。
そもそも聞いたとしても、真の意図まではわかる気もしないが、
今は黙って聞くしかない。
春希「なんでしょう」
曜子「アコギはやめて、うちにあるエレキにしなさい」
春希「はい?」
しょっぱなから、意味不明の言葉がアクセル全開に駆け巡る。
曜子「だから、私、コンサート終わって、少し暇なの。
だから、私がギター教えてあげるって言ってるのよ」
これが本当だとしたら、とんでもないことだ。
ピアノではなく、ギターというところは考えものだが、
あの冬馬曜子のレッスンとなれば、世界中から受けたいという申し出がきてしまうはず。
そんなプラチナチケットがただで貰えるのか?
変に勘ぐってしまう。
春希「それは、ありがたいお誘いです。で・・・・・・」
曜子「そう! だったら、話は早いわね。
来週の月曜時間ある?」
俺の決まりきったビジネス会話はかき消され、曜子さんの決定事項を伝える声が
携帯から流れ出る。
春希「はい、ありますけど」
曜子「そうねぇ、午前10時で大丈夫?」
春希「はい、大丈夫です」
曜子「じゃあ、10時に、うちに来て」
春希「うちって、日本に住んでいた時の家ですか?」
曜子「そうそう。あの家、売りに出したんだけど、買い手がいなくて、
今使ってるの。だから、ちょうどよかったわ。
運がいいわね、ギター君」
なにが運がいいのかわからないが、曜子さんが描いた大きな渦に巻き込まれて
しまったのだけは、理解できた。
185: 2014/08/12(火) 17:42:58.13
春希「わかりました。月曜の10時に伺います」
曜子「うん、待ってるから。それじゃあね」
春希「はい、それでは」
って、それじゃあねじゃないって!
一方的に電話を切られてしまった。
月曜日になれば、詳しい事情が聞けるはずだ。
だけど・・・・・・・・・・・・・・・、
俺の方の要件は、まったく話してないじゃないか。
人の要件を全然聞かず、自分の方の要件のみって。
しかも、俺の方から電話したっていうのに、あの人は。
散々文句が頭の中で駆け巡って入るが、
顔は緩み、笑みが浮かんでいると思う。
和泉にしろ、曜子さんにしろ、俺を引っ張り回す人物ばかりだ。
だけど、それが悪いだなんて思いはない。
むしろ、俺の中の価値観を全てひっくり返すほどのパワーを持つ二人に
感謝してもよいほどであった。
武也に知られれば、お前ってマゾ?っておもいっきり引かれそうだけど
今はその名誉、潔く引き受けよう。
澄み渡る空のもと、俺を次の連絡先を携帯から引き出す。
と、その前に、和泉にコンサート了承のメールを一応送る。
勝手に俺のコンサート参加を決められてしまったけど、
今度こそ俺の方から正式に参加了承を告げることにした。
麻理さんのアドレスを表示し、発信ボタンに手をかける。
和泉に、曜子さんときて、麻理さんか。
やっぱ麻理さんも一筋罠にはいかないのかも。
今日は絶対に女難の相が出ているだろ。
でも、それさえも快く引き受けよう。
俺は、えいやって、勢いよく発信ボタンを押す。
数コール後に出た麻理さんは、事務的な口調ですぐに折り返すと述べ、
すぐさま電話をきる。
やっぱり仕事中はまずかったかなと後悔をしだしたが、
麻理さんが仕事をしていない時間を見つける方が難しいかと思い悩んでいると・・・。
186: 2014/08/12(火) 17:43:31.13
その言葉通り、数分も経たないうちに、麻理さんからのコールバックがくる。
その声は、編集部で聞くような頼りになる声色ではなく、
先日一緒に買い物や食事をしたときの、愛らしい声色であった。
麻理「移動したから大丈夫よ。ここなら誰もいないし」
春希「朝食ありがとうございました。
パンチが効いた朝食だったので、眠気も一発で吹き飛びましたよ」
麻理「あぁ、あれか」
ふざけすぎたのではないかと、後悔でもしてるのだろう。
あの麻理さんが、今日もうろたえている。
春希「マスタード、美味しく頂きました」
麻理「北原が悪いんだぞ。私をいじめるから」
春希「俺は、リクエスト通りにオムライスを作っただけなんですけどね」
麻理「それでもだ。・・・・・北原と一緒にいると、調子を崩されっぱなしだ」
春希「すみません」
麻理「いいのよ。そんな私も、嫌いではないから」
俺だけが知っている麻理さん。
知れば知るほど、俺の想像を裏切り続ける愛しい人。
麻理「ところで、今頃起きたの? さすがに寝すぎではないか?」
春希「いいえ。少し用があって、大学の方へ。今は、大学にいるんです」
麻理「そうか」
春希「それですね、麻理さん」
麻理「なに?」
春希「来週から、編集部のバイト出ようと思ってるのですが、
その前に一度会えませんか?」
麻理「ひゃい?!」
人がいない場所で話しているって言ってけど、さすがに今の奇声は注目を
集めてしまうんじゃないかって心配になる。
普段の麻理さんしか知らない編集部の人たちならば、麻理さんが知らぬふりを通せば
誰も麻理さんが声の主だって、信じないかもしれないけど。
麻理「私に会いたいの?」
春希「これからも会いたいですけど、今回会うのは、会っておいた方がいいと思いまして」
187: 2014/08/12(火) 17:44:14.16
麻理「それはどういう意味?」
麻理さんは、全然自分の状態を分かっていない。
自分の状態が分かっていないから、何も気にせず編集部に顔を出せるともいえる。
春希「さっきの麻理さんの驚きの声もそうなんですが、編集部でいきなり俺と
顔を会わせるのって、危険じゃないですか?」
麻理「それは・・・・」
麻理さんも少しは自覚していたのかもしれない。
春希「ひょっとして、今朝早く出社したのも、俺の顔を見るのが照れくさかったって
ことないですか?」
押し黙っているところを見ると、正解だったみたいだ。
といことは、少しではなく、おもいっきり自覚してたってことになる。
だから、頭がショートして、編集部で俺といきなり会う危険性を考慮できなく
なってしまったってことか。
春希「明日、会えますか? 少しの時間でもかまいませんから」
麻理「あ、・・・・・・うん。今日どうにか仕事を片付けておけば、時間作れると思うわ」
春希「場所は、麻理さんの家でいいですか?
それとも、俺の家でもいいですけど」
麻理「ふぁい?!」
本日2度目の奇声となると、さすがに編集部の人たちも勘づくんじゃないか。
そこまで、麻理さんを驚かす発言はしてないつもりなんだけどな。
春希「外で会ってもいいんですが、今の俺達の状態を考慮しますと、
外だと大変気まずい気がしませんか?
それこそ、他人には見せられないような事態になりかねないかと」
麻理「そ、そうね。それは、まずい。うちにしよう。
そうだな、お昼も兼ねて12時はどう?」
春希「はい、いいですよ。なにか食べたいもののリクエストありますか?」
麻理「そうだなぁ・・・。どうせ難しいものは作れないんだろ?」
春希「簡単なものだと助かります」
麻理「北原に任せるよ。今は、ぱっと思いつかない」
春希「わかりました。なにか考えておきますね」
料理の勉強始めるか。家に帰る前に、本屋で料理の本でも買っていくかな。
188: 2014/08/12(火) 17:44:46.77
自分が食べるだけの料理だと、エネルギーをとることのみを考えてしまうけど、
人の為に作るとなると、それだけで気持ちが高ぶり楽しくなる。
麻理「期待してるわ」
春希「期待なんかしないでくださいよ」
麻理「いや、期待させてくれ」
春希「わかりました。でも、味の保証はできませんからね」
麻理「別にいいよ。文句だけはいうけど」
春希「それって、意味ないですから」
二人の笑い声が響き渡る。
電話する前は、気まずい雰囲気になるんではないかって不安にもなったが
まったくそんな心配はいらなかった。
麻理「あまり席を離れていると鈴木の奴に勘ぐられるから戻るわ」
春希「はい。では、明日」
麻理「ああ、明日」
電話を切ろうと切断ボタンに手をかけたところで、急ぎ麻理さんに声をかかる。
春希「麻理さん」
麻理「ん?」
間一髪電話は切れていなかった。
電話を切られてもおかしくもない時間は経っていたはずなのに。
ひょっとして、麻理さんは、俺が切るまで待っててくれたのではと、
うぬぼれてしまいそうになる。
春希「朝食は、マスタードたっぷりのサンドウィッチでかまいませんから」
麻理「ほぇ!?」
本日3度目の奇声を耳に、今度こそ切断ボタンを押そうとする。
しかし、一応もう一度確認ということで、携帯を耳にあてる。
麻理「き~た~は~ら~~!」
奇声を飛び越えた絶叫がかき鳴らされているが、今度こそ切断ボタンを押す。
麻理さん、もう他の編集部の人たちに気がつかれてますって。
189: 2014/08/12(火) 17:45:20.09
この後、麻理さんが鈴木さんたちの好奇の視線を集めてしまうと思うと、
いたずらしすぎたかなって、ほんのわずかだけど後悔の念が押し寄せる。
ごめんなさい、麻理さん。
マスタードの仕返し、してしまいました。
・・・・・・あれ?
俺がバイトに行った時、俺にも火の粉が降りかかってこないか・・・・・・。
俺は、甘い係争を思い浮かべ、ほくそ笑んだ。
7-1 麻理 麻理マンション 1/9 日曜日 午前3時
午前4時。あと数時間経つと朝になってしまう微妙な時刻。
北原が来る前に準備する時間が欲しいから、あまり睡眠時間はとれないか。
でも、気持ちが高ぶっていて寝むれそうにはないか。
玄関の扉を開けると、自分の部屋ではない。
脱ぎ散らかした靴は一足もないし、
読みもしないで放り投げているダイレクトメールの山も消え去っている。
部屋の鍵はあっているわけだから、部屋を間違える訳もない。
玄関を出て、部屋番号を確認もしたが、たしかに自分の部屋であった。
なるほど。これが汚部屋ビフォーアフターってやつか・・・・・。
たしかに掃除はしてなかったけど、人を呼べないほどじゃないよな?
北原も、何も言ってなかったし。
だけど、自分の部屋じゃないって思うほど綺麗に掃除されてると
感謝よりも女としてのプライドが傷つけられるって事をあの馬鹿は知らないんじゃないか。
この掃除の仕方、北原らしいな。
麻理は、部屋の掃除具合を確かめるために、玄関から確認していく。
別に、難癖つけようと言うわけではない。
むしろ、北原が頑張って掃除している姿を思い浮かべたいほどである。
190: 2014/08/12(火) 17:45:58.00
革靴は、新品のまま隅に追いやられていた靴墨を使って磨きあげられ、
向きをそろえて並べられている。
玄関の床など、ワックスで磨いたのではないかと見受けられた。
うちにそんな掃除用具はないから、買いそろえたのかもしれない。
そして、バス・トイレ・キッチン・リビング・・・・・と、北原の足跡を辿るように
北原の影を追っていった。
私だったら、大掃除をやっても、こんなには綺麗にできないわよ。
いや、私だったら、ハウスクリーニングを頼んで終わりか。
本当に北原の主夫力は、すさまじいな。
あいつがいてくれたら、プライベートも充実するのかな?
いやいや、掃除をしてほしいってわけじゃなくて、一緒にプライベートも楽しめて、
・・・・・・・・・そうではない・・・・・な。
北原には、冬馬かずさがいるんだし。
はぁ・・・・・・・・・・・・・・・。
麻理は、独りで喜び、勝手に落ちこみながらも、部屋の確認を進める。
最後に寝室に入ると、ベッドのシーツは変えられ、
昨夜までいた北原の痕跡を一つも残してはいなかった。
麻理は、ベッドに倒れ込み、あるはずもない彼の温もりを探し始める。
冷え切ったベッドは、麻理から体温を奪うばかりで、温もりなど与えてはくれない。
臭いくらいはと、大きく吸い込みはしたが、柔軟剤の香りしかしなかった。
どこまで私をいじめれば気が済むんだ、あいつは。
はぁ・・・・・・、ん。すぅ~・・・・・。
もう一度再確認のためと大きく息を吸いはしたが、やはり柔軟剤の臭いしかしなかった。
どこかに一つくらいは、痕跡はないかと室内を見渡すと、服の山を発見する。
ベッドから降り、服の山を確認すると、脱いだままにしておいた服と下着が・・・。
クリーニングに出さなければいけないものは、畳まれて別に置かれていたが、
下着は、服の山の下の方に隠すように置かれている。これは女としては痛い。
北原。主夫力は高いかもしれないけど、もう少し女心をわかってくれないか。
まあ、洗濯までしてあったら、今日どんな顔をして会えばいいかわからなかったはず。
いや、会えないだろ。
はぁ・・・・・・。
今日何度目になるかわからないため息をつくと、洗濯ものを抱え、
洗濯機に放り込む。とりあえず乾燥までやっとけば、あとで畳むだけだし。
191: 2014/08/12(火) 17:46:42.44
そこまですると、大した労力をつかったわけでもないのに、疲労感が押し寄せる。
とりあえず、水を飲もうと冷蔵庫を開けると、ラップにかけられた食事が鎮座していた。
ハンバーグにポトフ。それにサラダ。
しかも、こっちは朝食用なのかサンドウィッチまで用意されていた。
テーブルに、レンジで温めるだけのご飯が置いてあった、最初はなんだろって
疑問に思いもしたが、これでようやく疑問が解ける。
私に依存してるだって?
私を北原に依存させようとさせてるのは、あいつの方じゃないか。
やばいって。もう、抑えきれなくなる。
駄目だって、わかってるのに。辛いだけだってわかってるのに、引きかえせなくなる。
冷蔵庫から、冷え切ったおかずを取り出し、レンジで温め直す。
その間にお茶の用意を済ませ、全てが温もりを取り戻したころには、
食欲をそそる香りが部屋に充満されていた。
麻理「いただきます」
さっそく箸をとり、ハンバーグを口に運ぶ。今度はスプーンに持ち替えて
ポトフを食べてみるが、美味しいはずなのに、味がわからない。
サラダを食べても、なにを口にしているのかわからず、
市販のご飯を食べてもただ熱いということしかわからない。
あいつが作ってくれただけで、とてもうれしいはずなのに、
いくら食べても味がわからなかった。
第10話 終劇
第11話に続く
192: 2014/08/12(火) 17:47:10.64
第10話 あとがき
そろそろ『心はいつもあなたのそばに』の容量を超えるんでしょうかね。
ここから『~coda』もあるので、全部合わせれば確実に越えるのでしょうが、
『~coda』よりも『cc』のほうが容量多い気がしてなりません。
まだ『~coda』の方を書き始めていないというのが原因ですが、
前編で力尽きないよう頑張ります。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
195: 2014/08/19(火) 17:40:22.55
第11話
7-2 麻理 麻理マンション 1/9 日曜日 午前9時
目覚ましを止めると時計は9時を示している。
あまりにも遅い夕食を食べ終わった後、シャワーを浴び、ベッドに潜り込んだものの
朝日が昇っても寝付けなかった。
遮光カーテンから漏れ出る朝日を眺めつつ、
この部屋にいた北原の姿ばかり思い出している。
だから、目覚ましも、9時のアラームが鳴るのをカウントダウンをして待ち、
鳴り始めた直後にスイッチを切っていた。
カーテンを開けても、さそど眩しくはない。カーテンの隙間からの陽光だとしても
日の出から太陽の光に目を慣らしていたおかげだった。
キッチンに行き、うがいをしてから、冷蔵庫からサンドウィッチを取り出す。
おもむろに一つつまみあげ、ゆっくりと味わって食べる。
中身をみると、卵、トマトとレタス。それにアクセントとして
炒めたみじん切りの玉ねぎが挟まっていた。
料理は得意ではないと言いながらも、できる限りの料理をしてくれるのが心にくい。
一つ目を食べ終わると、次のサンドウィッチに手を伸ばし、
一つ目とは違い、勢いよく食す。途中喉に詰まりそうになるが、
水を流し込み、サンドウィッチを喉に流し込む。
そして、お皿にあったサンドウィッチは、またたく間に麻理の胃袋に収まった。
食事が終わると麻理は、すぐさま春希を迎える準備にとりかかる。
まずは、夜セットしておいた洗濯物を片づけ、春希の目にとまるとやばいものを
クローゼットの押し込んでいく。
春希が掃除してくれたおかげで、綺麗だった部屋は、とくにいじるところはない。
むしろ麻理が触ると余計なゴミが発生しそうなほどである。
なので、部屋の片づけは早々に切り上げ、自分の準備に取り掛かった。
まずは歯を磨き、次にバスルームにこもって、念入りに体を洗い、シャワーで流す。
本当は湯船にもつかりたいところだけど、北原のことだ。時間より早く来るに決まってる。
だから、ゆっくり湯船につかる時間はないと断念する。
196: 2014/08/19(火) 17:41:22.62
服選びに時間を取られ、メイクもばっちりしたところで、時刻は11時40分。
あと10分もすれば、あいつのことだからやってくるはず。
麻理は、インターフォンの受話機がよく見えるところに陣取って、
いまかいまかと春希の訪れを待ち望んだ。
時刻は11時50分ちょうど。待ち望んでいたチャイムが鳴り響く。
時間ちょうどに鳴ったところをみると、マンションの前で時間調整したのが読みとれる。
そう思うと、自然と笑みがこぼれおちる。
インターフォンに向かう足取りも軽く感じられた。
インターフォンに映しだされる北原を確認すると、
すぐさまエントランスの解除キーを操作する。
麻理「北原。今開けたから入ってきていいぞ」
春希「はい。ありがとうございます」
北原の声が聞けただけなのに、麻理の心は躍る。
急いで玄関に向かおうが、すぐに北原が来るわけでもないのに、早足になってしまう。
玄関の扉を開けて待とうか、それともエレベーターまで迎えに行こうか迷う。
結局どちらも北原に重い女と思われるのが嫌なので却下されるが、
迷う時間があったおかげで待ち時間でじれる必要がなくなり好都合であった。
7-3 春希 麻理マンション 1/9 日曜日 午前11時53分
春希「こんにちは、麻理さん。今日の料理考えてきました。
お気に召すかわからないので不安ですが」
昨日、本屋で今日の料理候補を決め、本を購入し、そのままスーパーで
食材のチェックを済ませてある。
197: 2014/08/19(火) 17:42:11.03
しかも、第3候補まで考えてあるんだから、どれかしらOKがでるはず。
麻理「いらっしゃい。ちゃんと考えてきたんだな。えらいぞ、北原」
春希「難しい料理ではないので、期待されると困るんですが、失敗する可能性だけは
下げてきました」
麻理「それを聞くと、いかにも北原らしい発想の料理理論だな」
麻理さんから笑みが漏れるとこで、俺も気が少し楽になる。
どうしても実際会って話すまでは、身構えてしまっていた。
どう接していいか戸惑うところがあったが、今の雰囲気ならば杞憂に終わりそうだ。
春希「あまり誉められてない気がするのは、気のせいですかね」
麻理「誉めてるぞ。ふふっ・・・・ははは・・・・・」
麻理さんがお腹を抱えて笑うようなことは言っていないのに。
いつもの二人の距離感のはずなのに、なにか違和感を感じずにはいられなかった。
春希「そんなに笑わなくても」
麻理「いや、すまない。・・・・ふふ。で、何を御馳走してくれるんだ?」
春希「はい。エビと鶏肉の黒酢あんかけにしようかと思っています。
それに、みそ汁とサラダをつければいいかなと。どうです?
一応他の案も考えてきたので変更もできますよ」
麻理「それでいい。楽しみにしているぞ。では、行こうか」
麻理さんは、靴を履き、そのまま俺の腕を取って、玄関の外に引っ張っていく。
俺は連れて行かれるまま、エレベーターに再度乗り込むことになる。
春希「どこに行くんです?」
麻理「決まってるだろ。スーパーに買いだしに行かないと、材料なんてないんだから」
麻理さんが、質問すること自体馬鹿げたことだと言わんばかりの表情を見せる。
いかにして料理を作るかを考えてばかりいて、食材を買ってくることを忘れていた。
あれだけスーパーで材料の吟味までしていたのに、買うこと自体を計画に
いれるのを忘れてしまうとは。
やはり俺の方は本調子とはいかないみたいだ。
エレベーターが1階に着き、エレベーターの扉が開くのを待つ。
扉が開ききり、だれも正面にはいないことを確認してから動きだそうとするが、
その前に左腕が引っ張られる。
198: 2014/08/19(火) 17:42:50.75
あまりにも自然すぎて、あまりにも俺がその位置にいてほしいと思ってしまう彼女が
俺の腕に絡まっている。
柔らかい温もりを左腕から伝わり、心が揺れる。
俺は麻理さんに腕を組まれたままスーパーに向かった。
平日とは違い、休日の昼間ということもあって、スーパーは賑わいに満ちていた。
いくら買うものが決まっていようと、人が多ければ動きも鈍くなる。
しかも、右手に買い物かご、左腕には麻理さんという動きが制限される状態ならば
なおさらである。
買い物かごに商品をいれようとしても、麻理さんは腕を離してくれることはなく、
俺がとってほしい商品を告げるしかなかった。
別に麻理さんが俺に寄り添ってくることが迷惑と思うことはない。
むしろ嬉しかった。だからこそ、嬉しいと思ってしまう自分が許せずにいた。
マンションに戻ると、麻理さんは腕を解放してくれた。
スーパーでも、レジや荷を詰めるときは離してくれている。
麻理さんが俺の左腕が所定の位置であり、なおかつ、
俺がそれを受け入れていること自体が問題なのだ。
だけど、簡単に解決策など見つかるわけもなく、今目の前にある料理という難題に
取り組むことしか道はなかった。
料理を始めると、とくに問題などなく、スムーズに料理が完成されていく。
料理の本を参考にいして、自分なりにノートにまとめたのが功を奏したらしい。
麻理「料理まで自分なりにまとめてくるなんて、面白いやつだな」
春希「失敗できませんからね。必氏なんですよ」
麻理「そうなのか? 私は失敗してもいいと思ってたけど」
春希「失敗作なんて食べてもらえませんよ」
麻理「お前は、彼女が失敗作を作ったら食べないのか?」
春希「そんなことしませんよ。美味しいって言って、全部食べると思います」
麻理「だったら、今も同じよ」
199: 2014/08/19(火) 17:43:36.11
つまり料理の良しあしも重要だけど、
作ってくれるという過程と心遣いが大切ってことか。
逆の立場のことなんか考えもしたことがなかったから、気が付きもしなかったな。
春希「そうなんですかね。できれば、美味しいって思ってほしいですよ」
麻理「そうだな。では、私もはりきって手伝うよ」
春希「あ、それ。入れる順番違います」
麻理「す・・・・すまん」
立派な大演説をしてたかと思えば、可愛いミスをしでかす。
ほんと、見てて飽きない人だ。ほんとうに愛らしい女性だと思える。
いつまでも見守っていられるんなら、どれだけ・・・・・・。
春希「そういえば、昨日作っていった料理どうでしたか?
自信はないですけど、食べられないでほどではなかったと・・・思うのですが」
麻理「ああ、美味しかったよ。また作ってくれると助かる」
春希「それはよかったです。サンドウィッチも大丈夫でしたか?」
麻理「あれも美味しかった。仕事の差し入れで今度作ってきてほしいほどだ」
春希「それは構わないですけど、鈴木さんになにか言われますよ?」
麻理「大丈夫だって。隠れて食べるから」
笑いながら言ってるけど、本気なんだろうな。
作ってあげたい。それに、NYに行くまで日数も限られているし。
それにしても、マスタードがほんの少し増量したサンドウィッチが一つ用意しておいたけど
麻理さんは辛くなかったのかな?
辛いものが好きなら問題はないだろうし、自分がやった罠に自分が返り討ちに
あったのを隠しているのか?
ふと疑問にも思いもしたが、目の前の料理に集中すべく、疑問を頭の片隅に追いやった。
綺麗に空になった皿を目の前にして、ようやく肩の荷が下りる。
いくら美味しいって言ってもらえても、食べてもらえなければ自信をもてるはずもなく。
麻理「北原は、なんでもできるんだな。料理はあまり得意ではないと言いながらも
こんなにも美味しい料理を作ってしまうのだから、まいるよ」
200: 2014/08/19(火) 17:44:06.15
春希「誉めてもらえるのは嬉しいのですが、そこまで誉めてもらえるものは
作ってないですよ」
麻理「謙遜するな。私が満足してるんだから、それでいいじゃないか」
春希「そうですか。今度作るときは、もっと腕を磨いてきますから
その時は、もっと自信をもって作れるようにしてきます」
麻理「そうか。また作ってくれるんだな。楽しみにしてるからな」
春希「ええ。あっ、そうだ。麻理さんに部屋の鍵返そうと思って、持って来たんです」
俺は鍵を取り出し、麻理さんに差し出す。二人の視線は、自然と鍵に集まる。
麻理さんの部屋の鍵。
麻理さんのプライベートに立ち入ることが許される免罪符ともいえる心の鍵。
もう、麻理さんに返さなければならない。俺にはもつ資格などないから。
しかし、麻理さんは鍵を受け取ろうとはせず、ただ鍵を見つめるだけであった。
春希「麻理さん?」
麻理「その鍵は、北原がもっててくれないか」
突然の申し出に俺は戸惑うばかり。
一方、麻理さんは真剣な眼差しなのだから、俺をからかってるわけではないみたいだ。
春希「でも、な・・・・いえ、俺が持ってて大丈夫なんですか?」
何故なんて、分かり切ってる。それを聞くなんて、麻理さんを傷つけるだけだろうな。
麻理「あまりかしこまると、こっちが困る。いや、困らせてるのは私の方か」
自嘲気味に笑う麻理さんが痛々しい。
春希「俺は、困りなんかしませんけど、でも・・・・」
麻理「これから、NYにいったり来たりで部屋を留守にするからな。
だから、たまに空気を入れ替えてくれると助かる。
それに、家に誰もよりつかないとなると物騒だろ」
麻理さんが言うことがこじつけだっていうことは、俺にだってわかる。
それを指摘するのも簡単だけど、俺は・・・・、
春希「わかりました。時間ができたら、空気の入れ替えだけではなく
掃除もしておきますね」
201: 2014/08/19(火) 17:44:54.52
麻理「そこまでする必要はないって言っても、お前のことだ。掃除するんだろうな」
春希「分かってるんなら遠慮しないで下さいよ」
麻理「なら、掃除も頼むわ」
春希「はい、喜んで」
その後、二人並んで食器を片づけたり、ソファに二人寄り添って
今後のNY息の予定や、大学の試験の日程やバイトのシフトを話し合う。
すでに二人でいることに俺は違和感を感じることはなくなっていた。
そこにいるはずの存在が、当然のごとく存在している。
それに何故違和感を感じるのだろうか。
だけど、そんな甘えは、いつまでも俺には許されてはいない。
今日麻理さんに会いに来たもう一つの理由が、俺を引きとめる。
春希「2/14なんですけど、NYに行く日を一日遅らせませんか?
その日大学でヴァレンタインコンサートがあるんですが、俺も出演するんです。
だから、できれば麻理さんにも見に来てほしいです」
麻理さんの表情が移り変わるのが見てとれる。
穏やかな頬笑みから、驚愕と戸惑い。そして、諦めと決意へと。
俺は、その一つ一つの心の変化が手にとるように理解できてしまう。
理解できてしまうからこそ、心が痛む。
今は、その心の痛みこそが、心の支えとなった。
麻理「どうしても見てほしいのか?」
春希「はい、是非麻理さんに見に来て欲しいです」
麻理「そうか。わかった。スケジュールは調整しておくわ。
ヴァレンタインを過ぎたら、今度日本に戻ってくるときは、
最後の引き継ぎだろうし。
ま、最後の引き継ぎといっても、顔見せと書類の提出程度だろうけどな」
春希「最後なんですね」
麻理「そう暗い顔するな。NYまで会いに来るって約束しただろ」
春希「はい。きっと・・・・、そうですね、ゴールデンウィークには行きます」
麻理「気が早いな」
懸命に笑いを作り出す麻理さんの心が俺に突き刺さる。
そして、俺は、喜んで痛みを受け入れる。
春希「計画的って言ってほしいですね」
202: 2014/08/19(火) 17:45:27.99
麻理「計画的な北原は、その次はいつの予定なんだ?」
春希「夏休みにでも」
麻理「そっか。・・・・・・就職は、うちにするのか?」
春希「できれば」
麻理「お前なら大丈夫か。もし落とすようなら、うちの方が危ないな。
その時は、私も転職を考えないと」
春希「そこまでは・・・・・」
麻理「冗談だって。いや、冗談ではすまない事態かもな」
麻理さんは、笑いを込めて真剣に悩む。俺は、どう反応すればいいか迷ってしまう。
麻理「ま、大丈夫だろ。人事にも同期がいるし、北原のこと高くかっていたしな」
春希「そうなんですか?」
麻理「お前は、私が育てたんだ。だから、自信を持ちなさい」
春希「はい」
夜は更けていく。深夜になろうが、始発電車が走り出そうが、
二人寄り添いソファーで朝を迎える。
もうじき朝日が昇ろうとするころ、俺達は少し早い朝食をとって、
俺は自宅へ、麻理さんは開桜社へと戻っていく。
麻理さんが、駅で名残惜しそうに俺の腕から手を離していく姿が脳裏に焼きつき、
いつまでも忘れることができなかった。
集中が途切れるたび、月光の中、身をよじる麻理さんの温もりと柔らかさを思い出す。
肺いっぱいに吸い込んでいた麻理さんの香りは、肺から抜け出すことはなく、
細胞の奥までしみ渡っていた。
8-1 春希 冬馬邸 1/10 月曜日 午前9時49分
約束の10時まで、もうすぐちょうど10分前。
チャイムを鳴らそうとすると、玄関の扉が開く。
中からは曜子さんが顔を出し、俺の顔を確認すると目を丸くする。
203: 2014/08/19(火) 17:46:23.26
曜子「ほんとに10分前に来るのね。言ってた通りだわ」
春希「誰が言ってたか追及しませんが、おはようございます」
曜子「おはよう、北原君。さ、あがって」
曜子さんに俺のことを話すやつなんて一人しか思い浮かばない。
しかも、悪口込みで言ってそうだから、曜子さんの俺の評価を聞くのが恐ろしい。
曜子「なにをしているの? 寒いから中に入ってちょうだい」
春希「すみません。久しぶりに来ましたけど、すごいお屋敷だなって」
曜子「そう? ウィーンの方がでかいわよ」
春希「そうですか・・・・。おじゃまします」
とっさについた出まかせだったのに、その嘘のせいでびっくりするとは。
冬馬家の財務状況ってどうなってるんだよ。
曜子「さっそくで悪いんだけど、説明していくわね」
曜子さんは、玄関に上がるとすぐに今後の方針について話し始める。
色々俺のことやかずさの事を聞かれるよりは、ましだけど、
どうも話のリズムがつかめずにいた。
歩きながら説明を続け、リビングまで行く。
部屋の中は、意外と生活感が残っている。ウィーンに越してしまっているから
家具などはないと思っていたけど、以前来た時よりは断然殺風景だが、
最低限暮らしていくには必要なものは揃っていた。
だけど、ここにかずさはいない。
一番必要なピースが欠けているこの部屋は、俺が知るかずさの家ではもはやなかった。
曜子「この家にあるものは、なんでも使っていいわ。
お腹がすいたら冷蔵庫の物を食べてもいいし、疲れたならソファーで寝ても
いいし、お風呂に入ってもいいわ。掃除なら気にしなくても
昼間ハウスキーパーが来て掃除するから、なにもしなくてもいいわ。
あ、でも、2階には上がらないでね。
仕事で使ってるから、色々まずいものもあるの」
春希「はい、わかりました」
曜子「よろしい」
204: 2014/08/19(火) 17:47:47.66
そう言うと、地下スタジオに独り向かう。俺は置いていかれないようにと
慌ててついていく。
地下スタジオに入ると、こちらも記憶に残るスタジオとは異なっている。
部屋の中心に陣取るピアノは同じなのだが、部屋に複数設置されている集音マイク、
ビデオカメラ、PCなど、最新の機材が設置されていた。
曜子さんが言うように、この家を使って仕事をしているのだろう。
もともと本格的なスタジオだったから、少し手を加えれば録音くらいできるだろうし、
マスコミの目も気にしなくていい分、レンタルスタジオよりは断然使い勝手がいい気がした。
曜子「はい、このギター使ってね」
曜子さんが差し出すギターは、俺でさえ知っている有名ギター。
しかも、見てからして高級そう・・・・・・。
春希「もっと安いギターでよかったんですけど」
曜子「そう? 御希望なら、安いギターを改めて用意するけど」
春希「いいです。それでいいです」
俺は、慌ててギターを掴み取り、安いギターを辞退する。
この人、絶対俺の金銭感覚わかってて言ってるはず。
安いギターだとしても、1万はするし、それを改めて買うなんてもったいない。
俺が、このギターを使うのももったいないことだけど、
このギターの腕に見合った人が使ったほうが有意義だと思うけど、
無駄遣いだけは遠慮したい。
曜子「ふぅ~ん」
俺を細部まで観察する曜子さんの目がこそばゆい。
俺の今の反応さえ予想の範ちゅうなのだろうか?
かずさは、どこまで俺のことを曜子さんに話しているんだろうか?
ふと疑問に思いもしたが、それよりも、かずさが曜子さんと俺の事を話題にするにせよ
会話ができる親子をやっていることに、胸をなでおろした。
曜子「じゃあ、ギターの練習について説明するわ」
春希「はい」
曜子「曲は、『届かない恋』1曲だし、そもそも弾けてたわけだから
反復練習しかないわ。そこのカメラ見える」
205: 2014/08/19(火) 17:48:30.97
曜子さんが指差す先には、2台のカメラが設置されていた。
曜子「そこの椅子に座ってくれれば、あなたとギターの手元が映るように設定
されているわ。あとで微調整しなくちゃいけないけど」
春希「そうなんですか・・・・」
曜子「別に、ずっとその椅子で座って練習しなくちゃいけないわけじゃないけど、
細かい指示を貰いたいなら、そこに座ってくれると助かるわ」
カメラにマイク。俺を撮影するためみたいだけど、いまいち事態が読みきれない。
曜子「その顔をみるところ、どうやらわかってないみたいね。ごめんなさい、
とばしすぎて」
春希「いえ、説明を続けてくだされば、理解していきますし、
それでもわからないことがあれば、後で聞きます」
曜子「そう? じゃあ説明を続けるわね。
私は24時間付きっきりで練習見てあげてもいいんだけど、
それだと春希くんも気まずいでしょ?」
春希「そんなことは・・・・」
あるわけだけど、言える訳はない。
かずさの母親と2人きりで、かずさのことを考えるなという方が無理だ。
曜子「安心して。私も少しは仕事があるし、練習しているところを録画しておいてくれれば
後で見直して、そこのノートパソコンに気がついたことを
メールしておくから」
春希「なるほど、わかりました」
曜子「だけど、リアルタイムでも見ているときもあるから、気を抜いたらだめよ」
春希「そんな時間ありませんって。それに、ずっと録画されてるのに
気を抜くも抜かないもないじゃないですか」
曜子「それもそうね。春希君のほうも、聞きたいことがあったら、パソコンで
メールしておいてくれれば、なるべく早く解答するわ」
もともと反復練習がメインだけど、プロの目からのアドバイスはありがたい。
206: 2014/08/19(火) 17:49:36.23
曜子「それと、ここを使っていい時間だけど、夜の8時から朝の8時まで。
だから、悪いけど8時前には出ていってくれると助かるわ。
ハウスキーパーがそのあと掃除に来て、昼間は事務所として使うし、
スタジオもね。夜中しか使ってもらえないのは心苦しいけど、ごめんなさいね」
春希「そんなことないです。スタジオを使わせてくれるだけでも感謝しているのに、
しかもアドバイスまで頂けるのですから。
でも、こんなにも甘えてしまっていいんでしょうか?」
曜子「かまわないわ。私が好きでやってるんだから」
ここで合宿が始まる。
ピアノの主はいないけど、大切な思い出の地に戻ってきた。
俺を見つめる曜子さんの視線は気がかりだけれど、今はここに戻れただけで幸せだ。
さっそくギターの音を出してみようと奏でてみたが、
調子っぱずれの音に、俺も曜子さんも失笑を漏らすしかなかった。
第11話 終劇
第12話に続く
第11話 あとがき
このあとがきを書いているころ、cc編の最後の話を書いています。
といっても、以前にも話題にしましたが、結末だけは書いてあるので、
ラストちょっと前のお話になりますが。
ただ問題がありまして、第14話と第15話の容量ですね。
第15話の文章量が多い分にはいいのですが、足りないとなると困ります!
皆さまとは違った意味のドキドキ感でcc編最終話に突入ですw
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
209: 2014/08/26(火) 17:28:50.85
第12話
8-2 春希 冬馬邸 1/10 月曜日
曜子「ところで、北原君」
春希「なんでしょうか?」
冬馬邸、地下スタジオ。かずさの母親だと思うとプレッシャーを感じずには
いられなかったが、いまはそんなことを考える暇もない。
早くギターが弾けるようにならないといけないという新たなプレッシャーの前に
一人思考にふける時間もなくなるだろう。
曜子「北原君の他には、誰が出演するのかしら?」
この人は、根本的な事を全く気にしていないとは。
それに、俺が電話した時の要件さえいまだに話せてはいない。
もはやあきれることさえ、意味をなさない。
こういう人だと割り切って付き合わなければ、今後疲労していくのは俺だけだ。
春希「ボーカルはいるらしいです。ベースとドラムは、どうなんでしょうかね」
今は、ほぼ何も決まっていない。ボーカルは、和泉が用意するとは言ったものの、
なにも決まっていないといってもいい。
俺のギターさえ、まだまだ人前で演奏できる代物ではないのだ。
ましてや、高校の学園祭とは違い、二人の頼りになる存在さえいない。
だけど、今も昔も、俺がやるべきことは決まっている。
俺は、ギターを弾けるようになればいい。
他人任せだってあきれるかもしれない。言いたいやつには、いわせておけばいい。
俺は、本来自分勝手なんだよ。
曜子「ボーカルは別として、北原君のギターだけで、演奏成り立つの?」
春希「それは、俺も心配してるところなんですけどね・・・・」
210: 2014/08/26(火) 17:29:21.08
乾いた笑いがこぼれ落ちるしかない。だって、事実だし。
仮に、和泉が連れてくるボーカルが雪菜級であっても、俺のギターだけで、
演奏を成り立たせられるなんて思えない。
それこそ、大学やバイトを全て休んで、一日中練習しなければ間に合わない。
曜子「そっかぁ・・・・」
曜子さんは、考えるそぶりを見せつつも、笑みを絶やさない。
きっと面倒なことを考えているに違いないって、思えてしまう。
曜子さんと話す機会なんて、わずかしかなかったけど、そのわずかな時間だけでも
和泉千晶レベルの問題児だって、認識できてしまう。
曜子「ここにいい案があります」
にやっと不敵な笑みを俺に突き出す。おもわずたじろぐ俺をみて、
さらなる笑みをにじみ出す。
春希「なんでしょうか?」
曜子「これよ、これ」
曜子さんの手には、DVDかCDのケースが一枚。
俺がぽかんと見つめる中、俺にはかまわずTVに映し出す用意を始める。
曜子さんは、用意ができるとソファーに座り、俺を呼び寄せる。
突っ立っていても邪魔になるし、他に座る場所といっても限られる。
それに、わざわざ呼んでいるのに、それを無視して違うところに座るのも
機嫌を損ねてしまう。機嫌を損ねるだけならいいけど、その後の仕返しが怖いし。
俺は、観念して、曜子さんからなるべく離れたソファーの隅に身を沈める。
曜子さんは、一瞬むっとした顔を見せたが、それも一瞬。
とりあえず、納得はしてくれたか。
そうこうするうちにTVに映像が映し出される。
画面に映されたのは、
春希「かずさ」
ピアノに向かいあうかずさ。場所は・・・・・、おそらくこのスタジオ。
映像は、かずさをアップにして撮ってるため、場所を特定するのは難しい。
だけど、この背景。見間違えるはずもない。だって、今俺もその場所にいるんだから。
映像とスタジオを交互に確認する。やはり間違いはない。
211: 2014/08/26(火) 17:31:06.45
と、確信を得ると、演奏が始まる。
これは・・・・・、『届かない恋』。
かずさが奏でる音色は、まったく色あせていない。
むしろ洗練されていて、艶っぽく成長している。
郷愁と夢想が俺の心を駆け巡り、俺を虜にする。
くいるように画面を見つめる俺は、いつしか前のめりにソファーに腰掛けていた。
一瞬一瞬のかずさの演奏を、一つも見逃すまいとくらいつく。
たった5分の演奏は、あっという間に終わりを迎える。
たった5分だというのに、永遠にも等しい時間。
3年もかずさと離れていたというのに、まったく色あせぬかずさへの想い。
俺は、再生が終わった画面の向こうのかずさを想い続けた。
曜子「そろそろいいかしら」
曜子さんにとっては十分すぎる時間。俺にとっては、一瞬だったが、
かずさの演奏を聴いてから、すでに30分は経過していた。
春希「すみません」
曜子「いいのよ。私も初めて聴いたときは、あなたと同じだったし」
いつ撮った演奏なんだろうか。曜子さんに聞けば、教えてくれるのだろうか?
春希「これって、いつ撮った演奏なんですか?」
曜子「それ聞いて、なにか意味でもある?」
春希「聞いて何かできるわけではないかもしれないですけど、俺は知りたいです」
曜子「そう・・・・・。三日前よ」
春希「え?」
三日前。ということは、かずさが日本に来ていた?
このスタジオにかずさが・・・・・?
曜子「ごめんなさい、北原君。ニューイヤーコンサートだけど、あの時も
かずさ来ていたのよ」
俺は、もはや言葉さえ発せられずに、曜子さんを見つめていた。
喉が渇き、唇も乾燥していく。握りしめた手には、汗がにじみ出て、
焦点もぼやけていく。俺の混乱をよそに、曜子さんは、事実を俺に叩きつける。
212: 2014/08/26(火) 17:31:36.06
曜子「あの子、今は会えないって。コンサートの時も、この演奏を撮ったときも、
今は、会えないって・・・・・・」
春希「そう・・・・ですか」
声にできていいるかわからない。切なそうに見つめる曜子さんが、俺を包み込む。
そっと抱きしめられるが、いやらしい気持ちなど一切抱くことはなかった。
けっして魅力がないってわけではない。むしろありすぎる。
年齢を感じさせない若々しさ。強烈に女性らしさを演出する体の曲線。
だけど、今の俺には、曜子さんの全てがかずさと結び付ける。
曜子「もう少しだけ待っててあげて。あの子、今大きく成長しようとしてるの。
無理やり日本に連れてきて正解だったわ。
きっとあと数年で開花するはずよ。あと3年。ううん、あと2年。
その時、かずさに会ってくれないかしら」
春希「かずさは、俺に会ってくれるんですか?」
曜子「あの子が会いたくないわけないじゃない。今も会いたい気持ちを我慢してるのよ」
春希「そうですか」
曜子「私とかずさの我儘に付き合わせてしまって、ごめんなさいね」
春希「いいですよ。3年もかずさを待たせたんです。あと2年や3年くらい待ちますよ」
曜子「ありがとう」
春希「そうだ。一つ言い忘れていたことがあったんですけど、いいですか」
曜子「なにかしら」
春希「この前電話した時言おうと思ってたことなんですけど、
今度のヴァレンタインコンサートのDVDをかずさに渡してくれませんか。
それを伝えるために電話したんですよ。それなのに、まったく聞いてくれずに
今日ここにひっぱりだされてしまいました」
曜子「そうだったの。DVD、必ず渡すわ。でも、今日ここに来てよかったでしょ」
この人は。人の話を聞かなかったことに、まったく悪びれもしないで。
春希「来てよかったです。ほんとうによかった」
その後、さらに30分かけて平常心を取り戻す。ようやく曜子さんのレッスンが始まるが
まさに地獄。かずさの指導が優しすぎるって思えるくらいであった。
ブランクがあるとはいえ、厳しすぎるレッスンに、かずさへの想いの余韻に
浸ることさえできずに、時間が過ぎ去る。
今夜はゆっくり寝られそうだ。かずさの温もりが側にあるから。
213: 2014/08/26(火) 17:32:08.11
かずさ「おつかれさん」
曜子「なかなか骨が折れそうね。でも、根性だけはあるから、間に合うかな」
かずさ「大丈夫さ。春希なら」
曜子「それもそうね」
かずさ「それよりもさ・・・・・・」
曜子「なにかしら・・・・・・」
かずさの鬼気迫る迫力におびえる曜子。なにに怒っているかなんて明白すぎる。
うまくスルーしてくれそうだと思っていたのに、それは無理だったか・・・・・。
かずさ「春希に抱きつくなんて、やりすぎだ。何を考えているんだか。
この色情魔め。年を考えろ、年を」
曜子「あら、年なんか関係ないわ。春希くん、ちょっといいかもしれないわね。
3年前にあったときは、なにも感じなかったけど、今は・・・・・」
かずさ「ふぅ~ん」
曜子「うそよ。うそ。娘の彼氏を横取りなんかしないから。
ねっ、ねっ」
うろたえる曜子を睨みつけ、かずさの怒りはおさまりそうもない。
朝までみっちり北原君の練習をみていたっていうのに、まだ寝られそうにないか。
曜子は、朝日を眩しそうに見つめ、嬉しいため息を漏らした。
9-1 春希 春希自宅 1/11 火曜日
今日から大学も始まる。ギターの練習で夜はバイトができないし、
今後のこともある。今できることは、今のうちに手をまわしておきたい。
そうしないと、ギターに集中できないし、俺に振り回されている人たちにも
申し訳なかった。
214: 2014/08/26(火) 17:32:36.97
まずは、こいつからかな・・・・・・。俺は携帯を取り出し、アドレスを呼び出した。
武也「おう春希。この前は、痛いところをつかれたよ。
依緒の方は、まあ、なんとかな・・・・・・・・」
春希「悪かったな。依緒のフォローまったくできなくて、すまない」
武也「いいってことよ。俺の方も考えるとところもあったし、春希が出てきても
かえって感情的になってかもな」
春希「そうか。・・・・・それで、今日から大学始まるけどさ、
出席日数ギリギリで出ると思うから、あまり大学では会えないと思う。
だけど、それは決して雪菜に会いたくないってことではないんだ」
武也「OK、OK。今度は雪菜ちゃんのフォローしておけよってことだろ」
春希「話が早くて助かるよ」
武也「いいってことよ。春希が俺に頼ってくれてるうちは、大丈夫ってことだからな」
春希「いやな判断基準だけど、ありがとな。」
武也「おう」
和泉の乱入でひと騒動あったというのに、軽口をたたけている。
こいつが親友でよかったと、しみじみ思えた。だからこそ、雪菜を任せられる。
武やが親友でよかったなんて、口が裂けてもいうことなんでできやしないけど。
春希「うちの大学で毎年やってるヴァレンタインコンサートって知ってるよな?
お前が毎年女の子とデートしてるやつ」
武也「知ってるけど、後半の情報は余計だ。チケット欲しいのか?
2枚くらいなら顔がきくと思うけど、
今年はなぜか既にチケットが全てさばけたらしい。
隠れた人気があるコンサートで、値段の割には質もいいしな。
今年はチケットとれるか微妙だったけど、春希の頼みなら全力で奪い取ってきてやる」
春希「いや、チケットはいい」
俺は思わず苦笑いをするしかなかった。
既に裏では『届かない恋』の噂が広まってるのだろう。
自信過剰な評価かもしれないけど、あながち過大評価とはいえないとも思える。
武也はまだ知らないみたいだけど、明日から大学が始まるし、きっと噂を嗅ぎつける。
だから、雪菜も・・・・・・・、知ってしまう。
武也「そうか? じゃあ、なんだよ?」
春希「俺が出場するんだ」
武也「は? 聞いてないぞ。雪菜ちゃんは? って、出るわけないか」
215: 2014/08/26(火) 17:33:14.58
春希「ああ、雪菜はでない。それに、まだ俺が出るって言ってもない。
だから、武也が雪菜を誘ってほしいんだ。
今、雪菜に顔をあわせる準備もできていないし、申し訳ないけど」
そう、主にかずさと麻理さんのことで、雪菜に顔をあわせるなんて、できやしない。
かずさと麻理さんの間で、微妙なバランスをとっている今、雪菜まで加えて
バランスを取る自信なんてありはしない。
自分勝手だってわかってはいるけど、誰に対しても不誠実でいなければ
全てが崩れ去ってしまう気がしていた。
武也「それはいいけどよ、それでも春希が直接誘ったほうがいいんじゃないか?
まあ、依緒も誘って、3人でいくことになるだろうけど」
春希「すまない。俺の我儘なんだ」
武也「わかった。俺に任せておけって。でも、チケットよろしく頼むな。
出演者枠で何枚か貰えるだろ? ほんとは、今年どうしようかって
考えてたところなんだよ」
春希「わかった、わかった。3枚でいいんだな。聞いておくよ」
武也「おう。・・・・・・・あのな春希」
春希「なんだよ?」
武也「お前の方は大丈夫なんだよな?」
春希「大丈夫・・・・・・だと思う。大丈夫になるようにコンサートでるんだし」
武也「そっか。わかった。雪菜ちゃんのことは俺と依緒にまかせろ。
コンサート楽しみにしているからな」
春希「ああ、まかせろ・・・・って言いたいところだけど、ぎりぎりだな」
武也「そっか。お前がギターのことで任せろだなんていう方が心配だ。
ギリギリって言われた方が、なんとかしそうだから、頼もしいよ。
・・・・・・、そういや、なにを演奏するんだ?」
話の流れとしては、聞いてくる話題だって、わかっていた。
わかっていたけど、携帯を握る手に力が入る。
口の中が乾き、口を緩やかに動かすだけで、声が出ない。
武也「春希?」
春希「あ、ああ。ごめん、ちょっとぼうっとしてた。徹夜明けなんだ」
武也「そうか。で、なにやるんだよ?」
武也は気がついてしまったはず。苦しい言い訳だからこそ、
いつも通りに語りかける武也に感謝せずにはいられない。
216: 2014/08/26(火) 17:33:44.82
春希「『届かない恋』なんだ」
武也「そっか・・・・・。で、誰が歌うんだ?」
春希「文学の友達が用意するって話なんだけど、とりあえず、
ギターの俺に声がかかったってところかな」
武也「雪菜ちゃんにはどう説明する気なんだ?」
武也の声も堅くなるのが、いやでもわかる。俺のほうなど、震えてないか心配するほどで。
春希「そのまま言ってくれてかまわない。たぶん、明日になれば大学で
噂くらいは聞くと思うし」
武也「なるほどな。今年のチケットの売れ行きが良すぎると思ってたら、
こんな裏事情があったんだな」
春希「チケットのことは俺も初耳だったけど、人が集まりそうだな。
・・・・・なあ、武也。嫌な役回り押しつけて、悪いな」
武也「そう思ってるんなら、雪菜ちゃんとのこと、しっかりけじめつけろよ。
やっと中途半端な状態から動こうとしたんだ。
お前が雪菜ちゃんと友達になるって宣言したんだし、俺はそれを応援するよ」
春希「ああ、頑張ってみるよ」
武也「ああ、頑張れ」
春希「じゃあ、また大学で」
武也「大学でな」
電話を切ると、心地よい疲労感で満たされる。
どうにか一人目は、クリア。次は・・・・・。
和泉に電話をしてみたが、留守電に繋がるのみ。
この勢いのままって、意気込んだけど、出鼻をくじかれるとは。
さすがは和泉だって、つまらない関心をする。
とりあえず、コンサートのことで話があるから、いつでもいいから電話がほしいと
留守電にメッセージを残す。
さてと、少し仮眠をとるか。
起きたらバイトだ。長時間の練習で疲労困憊ではあったが、
充実した時間に、体は動きたくてうずうずしていた。
217: 2014/08/26(火) 17:34:22.44
9-2 春希 開桜社 1/11 火曜日
意気込んでバイトにきたが、思いのほか平和そのものだった。
見た目の上でだが。
気持ちの切り替えができた麻理さんは、いつも以上に仕事に精を出す。
NY行きのことは、編集部内では皆知るとこるところとなり、
エースが抜けた穴を埋めようと、引き継ぎ作業に没頭する。
だから俺も通常業務の負担を減らそうと、麻理さんのお咎めがない程度にみんなの
仕事を引き受けていた。
もう無理なんかはしないって、心に決めている。これ以上の不安要素を麻理さんに
持たせたままNYへなんて行かせるわけにはいかない。
麻理さんがいない開桜社でも仕事をしていけるって証明したい。
麻理「北原、それ終わったら、こっちのほうもよろしく」
仕事を机に置き、一言声をかけるだけ。
たったそれだけの行為なのに、特別な行為だと意識する。
だって、俺の肩にそっと手をかけて、振りかえった俺に頬笑みを向けてくれるんだから、
意識するなっていう方が無理だ。
今までだって、肩をぽんっと叩くことぐらい何度もあったはず。
しかし、今日の麻理さんの行為は、今までとは全く性質が異なる気がする。
たったひとつ、頬笑みが加えられただけなのに、それが大きな意味を持つ。
でも、麻理さん。俺はとてもうれしいんですけど、ここには情報通で
噂好きの鈴木さんがいるってこと、忘れていませんか?
さっきから、俺と麻理さんが近づくたびに妙に視線が感じられるんですよね。
ほら。鈴木さんが麻理さんの後姿を追っていたと思ったら、
俺の方を見て、にたぁって笑みを浮かべてるし。
だから、「こほん」と、わざとらしく咳をする。
これ以上深入りしてこないで下さいと警告を込めて。
だけど、俺に注目している人物は一人ではないと覚えておくべきだった。
麻理さんは、俺のわざとらしい咳払いに反応し、ちらりと俺に視線を送ると、
手をキーボードの端に移動させ、指だけ上げて、手を振ってくる。
ほんの一瞬の出来事であったが、すかさずチェックをいれる鈴木さんがいるんですよ、
って、今すぐ席を立って教えてあげたい。
218: 2014/08/26(火) 17:35:00.51
麻理さんは、数秒の休憩は終わりとばかりに仕事に集中してるし・・・・・。
これはもう、諦めるしかないんだろうな。
ま、いいか。俺のバイトのシフトも、麻理さんが日本にいるときに合わせて
入れられているだけだし。鈴木さん以外だったら、俺の上司は麻理さんですから、
大学の試験もあるのでそれに合わせただけですっていう言い訳も通用するのにな。
ここは、鈴木さんが噂をバラまかないことを祈るしかないか。
俺は、もう一度麻理さんの姿を少しの間見つめると、
再度気合を入れ直し、仕事に立ち向かった。
昼の休憩を済ませ、昼食から帰ってくる部員をよそに、俺はまだ仕事にいそしんでいた。
麻理さんの休憩に合わせて一緒に食事でもと企んではいたけど、
とうの麻理さんは、打ち合わせに出て、編集部にはいない。
食事のタイミングを逃した俺は、砂糖を大量に投入したコーヒーをちびちび飲んで
飢えをしのぐ。5時にはあがる予定だし、あと数時間だ。
このまま食事をしないでも大丈夫かなと考え始めたころ、突然声をかけられる。
麻理「北原。食事まだだって聞いたのだけれど、これからのバイトスケジュールや
今後のことを話しながら食事でもどうかしら?」
春希「はい。食事に行きそびれていたので、お腹すいてたんですよ」
麻理「そうか。じゃあ、行くか」
いつもの上司と部下を演じているつもりらしいけど、麻理さんの声は堅く、
手足の動きもぎこちない。
今までさんざん自然を装って俺の肩や腕に触れてきたっていうのに、
ここにきてなんなんですか。
こればっかりはフォローのしようもありませんよ。
これ以上編集部内に麻理さんを晒さない為にも、俺は、急ぎ出かける準備をする。
春希「さ、行きましょう」
麻理さんは、返事の代りに俺の腕に自分の手をからめようとするが、
すんでのところで、ここが編集部であることに気がつく。
自分のミスに気がついた麻理さんは、誰かにばれていないかと急ぎきょろきょろと見渡す。
そして、だれも見ていないとわかると、急ぎ足で編集部をあとにした。
麻理さん。もう遅いです。鈴木さんが見てましたよ。
219: 2014/08/26(火) 17:35:29.93
ほら、麻理さんが行った後、俺に向けて親指を立てて、にへらぁ~って笑ってます。
俺は、鈴木さんの応援を振り払い、麻理さんの後を追った。
俺のバイトの時間は終わり、帰り支度を始める。
編集部内を見渡すと、いまだ仕事に精を出している部員の人たちが見受けられる。
麻理さんも、食事から戻ってからは、2度ほど仕事の受け渡しに乗じてスキンシップを
とったきり、あとは仕事に没頭している。
今は午後5時すぎ。本来の俺だったら、深夜まで仕事をしているけど、
8時からギターの練習があるので、ここまでにしてもらう。
仮眠もとなければならないし、そもそも昨夜もほとんど寝ていない。
そろそろ活動限界に近いけど、とりあえず携帯の着信だけは確認しようと
携帯をいじる。
すると、今朝留守電を入れておいた和泉千晶からの連絡が来ていた。
俺の眠気など、一瞬で吹き飛んだ。
第12話 終劇
第13話に続く
220: 2014/08/26(火) 17:35:55.61
第12話 あとがき
cc編書き終わりました!
懸念していた第15話の容量は大幅に増量され1万字を超えました。
どうにか容量不足だけは回避できてよかったです。
さて、今度は~coda編を書いていくわけですが、やはり不安です。
まあ、裏事情をいいますと、あとがきを書くタイミングは適当なので、
第12話をアップした時には、すでに何話か書いているかもしれません。(希望的観測)
ちなみに、あとがきを書いている今日は8月19日です。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
225: 2014/09/02(火) 17:31:46.66
第13話
9-2 春希 開桜社前 1/11 火曜日
麻理さんに仕事の終わりと帰りの挨拶を済ませると、俺は急ぎビルをでる。
留守電を確認すると、千晶からいつでもいいから電話をくれとのこと。
要件は既にメールでも伝えてあるので、メールでもいいかなと考えはしたが、
電話が欲しいとのリクエストがあるのならば、電話がいいのだろう。
千晶「もしも~し、春希。もしかして、私からの電話無視してない?
ちっとも電話に出てくれないじゃない」
開口一番文句とは。しかも、この前俺が言ったことさえも忘れてるし。
春希「前にも言ったよな。電話に出られない状況だから、電話に出ないんだ。
電話に出られるんなら、すぐに出てるさ」
千晶「そう? 私からの電話に反応して、すぐに出るって、
春希にもかわいいところがあるじゃない」
あぁ、もうっ。ちっとも話しが進まない。いきなり話の脱線とは、恐るべし。
春希「もう本題に入っていいか?」
ここは心を鬼にして、話を切り出すべきだな。
俺は、感情を込めずに、事務的に切り返した。
千晶「あ、いいよ」
ほんとめげない奴。厭味も通じないのかよ。って、わかってて受け流している節もあるか。
春希「コンサートの件だけど、ピアニスト見つかったぞ」
千晶「まじで? 冬馬かずさの出演交渉成功したんだ?」
春希「冬馬かずさ本人は出ないよ。でも、音源だけは確保した」
226: 2014/09/02(火) 17:32:19.26
千晶「えらいっ、春希。音源だけでも大したものだよ。
これでコンサートも無事出演できるね」
春希「ギターとピアノだけだけどな。ヴォーカルの方は、どうなったんだよ?」
千晶「ああ、ヴォーカルねぇ・・・・・・」
こいつ、俺が聞かなきゃ、すっとぼけようとしたな。
春希「どうなってるんだ? ヴォーカルがいないだなんて、ライブ成立しないぞ」
千晶「大丈夫だって。あと、もうちょいだから。もう少しで、いい感触掴めそうでさ」
春希「そうか? だったら、お前を信用して待つとするよ」
千晶「ありがと、春希。愛してるぅ」
春希「やめろ。気軽に愛してるなんて言うべきじゃない」
千晶「えぇ~。・・・・・・私は、本気と思ってもらっても、いいんだけど」
春希「だったら、なおさらやめろ」
一瞬垣間見た千晶の女の顔。声だけなのに、妙に現実味を帯びた声に、背筋が凍る。
女を感じさせない女友達だったはずなのに、一瞬だがそれを忘れるほど
俺に近づいてきてる感じがして、思わず飛びのきそうになってしまう。
千晶「ま、いっか。でね、その音源って今から聞きたいんだけど」
春希「悪い。これからギターの練習なんだ。明日は大学行くし、講義のあとでいいか?」
千晶「それでいいよ。そういえば、春希、今日大学来てなかったでしょ」
春希「お前も大学行ってないだろ」
千晶「え? 私は春希と違ってまじめ君だから、大学に行ってるって」
春希「俺が知っている和泉千晶は、まじめからは遠く離れた存在なんだけどな。
それに、お前が大学に来てないから、明日は大学に来るように伝えてくれって
メール来てたんだけどな」
千晶「え? それは・・・・・その」
春希「お前は、課題も出していないし、このままだと進級も危ういぞ。
明日俺も一緒に行ってやるから、明日はちゃんと大学こいよ」
千晶「うぅ~ん・・・・・・。こっちもちょっと忙しくてさ」
春希「できる限り俺もサポートするから、一緒に進級しようぜ」
千晶「そう?」
俺がサポートを申し出た途端に明るい声を出しやがって。
してやったり顔をしている千晶が目に浮かぶよ、まったく。
千晶「だったら、一緒に進級してあげようかな」
227: 2014/09/02(火) 17:33:36.29
春希「あげようかなじゃない。進級するのは、自分のためだろ」
千晶「今日はお説教はいいからさ。・・・・・・ま、いっか。進級するから、
講義の後、冬馬かずさの音源聴かせてね」
春希「講義の後、俺の家で聴かせてやるよ」
千晶「じゃあ、カレーでいいから」
春希「は?」
千晶「だから、食事はカレーでもいいって、言ってるの」
春希「だから、なんで音源聴くのが、カレーになるんだよ」
千晶「それは、春希だから?」
俺を何だと思ってるんだ。俺は、千晶の飼い主ではない。
そもそも俺が飼い主だったら、しっかり勉強させて、進級が危ういとか
そういう状況にはさせやしない。毎日しっかり大学で勉強させて、
課題も提出期限ぎりぎりではなくて、余裕を持って提出させるはず。
千晶「お腹がすいてたら、冬馬かずさの演奏に集中できないし、
これからのことだって、ちゃんと考えられなくなるでしょ。
やっぱ、腹ごしらえして、脳にしっかり栄養与えないと」
春希「あぁ、もう。わかったから、カレー用意しておくよ」
千晶に甘いってわかってるけど、いつの間にか千晶のペースにさせられてしまう。
千晶「やった。そうこなくっちゃ。春希、愛してるよぉ」
春希「はい、はい」
今度の愛してるは、いつもの女を感じさせない千晶でほっとしている自分がいる。
もしかしたら、さっきの千晶は聞き違いかもしれないと思えてもくる。
だけど、聞き違いなんて、あろうはずもないくらい、
しっかりと俺の脳には千晶の声がこびり付いていた。
9-3 春希 春希マンション 1/11 火曜日
教授の元に千晶を連行し、長々とためになる話をしてくれたというのに、
千晶はすでに教授の努力を忘れ去っている。
228: 2014/09/02(火) 17:34:09.73
今千晶が夢中になっているのは、大盛りによそわれたカレーライス。
俺が大学に行く前に作っておいたものだが、このままの勢いでいくと
二杯目に突入しそうだ。
春希「演奏聴かなくていいのか?」
千晶「ん?」
俺に呼ばれた千晶は、スプーンを置き、一口水を飲んでから、俺に向き合う。
話しながら答えないところをみると、存外育ちがいいのかもしれない。
でも、・・・・・・・今までもそうだったか?
千晶「もうちょっとで食べ終わるから、あと少しだけ待ってよ。
しっかり栄養取ってからじゃないと、演奏に集中できないでしょ」
春希「まあ、時間もあるし、ゆっくり食べろよ」
現在午後3時。どう多く時間をみつくろっても、ギターの練習までには聴き終わる。
聴かせる部分は『届かない恋』だけでいいんだし。
ほかにも何曲か収録されてはいたけど、それは誰にも聴かせたくはない。
曜子さんと一緒に聴いたというのに、人目を気にせず号泣してしまった。
心を鷲掴みにされる感覚というのだろうか。
丸裸のかずさが俺の心に入り込み、それと引き換えに俺の心を全てもっていかれる。
気がついたときには魅了されていて、心地よい脱力感が俺を支配していた。
千晶は、返事の代りにスプーンを持ち上げ、食事に取り掛かる。
俺は、そんな千晶の食事の風景を眺めつつ、ほんのひと時の仮眠へと落ちていった。
千晶「春希。春希ったら。起きてよ」
春希「ごめん。寝てた?」
千晶「うん。気持ちよさそうに熟睡してた」
春希「まじで? 今何時?」
掛け時計をみると、午後3時30分。あれから30分しか経ってはいない。
春希「少ししか寝てないじゃないか」
千晶「そう? でも、いくら呼んでも起きないから、DVDの準備しておいたよ。
これでいいんだよね?」
スプーンではなく、TVのリモコンをもつ千晶は、再生ボタンを押す。
229: 2014/09/02(火) 17:34:41.89
TV画面には、色あせないかずさが演奏に入ろうとしていた。
演奏が始まると、千晶の顔色が変わる。今まで見たことがない表情に鳥肌がたつ。
かずさの演奏に触発された部分もあるが、俺の視線はかずさではなく、
千晶に注がれている。別に、女としての千晶に興味があったのではない。
千晶の圧倒的な存在感が俺の目を引きつけてしまったのだ。
けれど、得体のしれない存在であるはずなのに、妙に引き付けられ、
そして、どこか懐かしい感じを醸し出していた。
千晶「もう一回見ていい?」
演奏が終わると、千晶は俺の返事を聞く前に、最初から聴きなおす。
俺もアンコールを断るつもりはなかったので、黙って千晶を見続ける。
いや、まだ千晶を見ていることができることに感謝さえしていた。
もう少しで何か分かりそうなのに、掴むことができない。
千晶の目線。瞬き。呼吸したときの胸の動き。ピアノに合わせて揺れ動く肩や
なめらかに踊る指先。
あと少し。あともう少しで、なにかが・・・・・・・・・。
千晶「ありがと、春希。これでいけるって・・・・・って、春希?」
突然目の前に俺を覗き込む千晶を認識して、思わず後ろに倒れそうになる。
どうにか片手で支えて難を逃れることができたけれど、
面白そうに俺を見つめる千晶に、もう少しで掴めそうだった感覚が霧散してしまった。
春希「もういいのか?」
千晶「うん。でも、これのコピー貰えるんだよね? もう一度聴きたいし、
ヴォーカルの子にも必要だしさ」
春希「それは構わないけど、CDの方だけな。映像が入ってるDVDは遠慮してくれ。
もう一度見たいんなら、俺のところにきたらいつでもみせてやるからさ」
千晶「ふぅ~ん。自分の大切な彼女は、誰にも見せたくないってことかな」
春希「誰にもって、お前に見せているだろ。・・・・・・・・、まあ、
外に出したくないっていうのもあるかもな。
CDの方も、ヴォーカルの子以外、誰にも渡すなよ。コピーは厳禁だからな。
お前を信用して渡してるんだから、頼むな」
千晶「そこまで言われちゃ、春希の信用に応えないとね。
でも、ライブの時、DVDの映像もあったほうが盛り上がるんだけどなぁ」
春希「そりゃ今話題の冬馬かずさが出てきたら、盛り上がるさ。
でもさ、冬馬かずさという名前で聴いて欲しくないんだ。
冬馬かずさの演奏そのものを聴いて欲しいのかもな」
230: 2014/09/02(火) 17:35:26.95
千晶「そっか。じゃあ、もし観客が冬馬かずさの演奏そのものが聴きたいっていったら
DVDの映像も流してもいいってこと?」
春希「そうなるかな。そんなこと無理だろうけどさ。もしできたのなら、
流してもいいよ。ま、仮定の話は置いておいて、ベースやドラムの方
なんとかしないか?」
千晶「え? いらないでしょ」
春希「ピアノとギターだけでやるつもりなのか?」
とんでもない提案に俺の声も大きくなってしまう。
だって、かずさのピアノはともかく、その相棒が俺のギターだけって、
釣り合いがとれないだろ。
千晶「そのつもり。というか、前から考えてたけど、今日冬馬かずさの演奏聴いて
確信した。だって、冬馬かずさは、北原春希しかみてないでしょ。
だったら、ベースやドラムなんて雑音にしかならないって。
ううん。もしかしたら、ヴォーカルさえもいらないのかもしれないけど・・・・・・」
千晶の鋭すぎる指摘に、言葉を失う。
たしかに、かずさの演奏は他の音色を寄せ付けない。
かずさのピアノそのもので、完成された曲を形作っている。
でも、うぬぼれかもしれないけど、
仮にピアノの音色に申し訳程度に寄り添うことができる音色があるとしたら、
俺のギターだけかもしれないって、思ってしまった。
だって、かずさが俺を呼んでいる気がしたから。
俺の中に入り込んだかずさが、俺にギターを弾いてくれって呼びかかけていたから。
春希「千晶がそうしたいんなら、それでいいんじゃないか。
俺は雇われの身だし、それに、俺やヴォーカルがいなくても
ピアノだけでも観客を沸かせられる気もするしな」
千晶「そだね。圧倒的すぎるかも。下手なヴォーカル連れてきたら、
あっという間にのまれるね」
春希「なあ、ヴォーカルの子は、本当に大丈夫なのか?」
千晶「大丈夫だって。これ聴いたら、きっとうまくいくから」
春希「千晶が大丈夫っていうなら、信じるよ」
千晶「じゃあさ、カレーもう一杯おかわりしていい?」
元気いっぱいに空の皿を突きだす千晶に、俺は苦笑いを浮かべ、受け取るのであった。
本当に大丈夫なのか?
231: 2014/09/02(火) 17:36:13.09
大丈夫だと思うんだけど、なんか心配になってしまうのが千晶の特性かもな。
俺は、もう一皿棚からとりだし、自分の分のカレーをよそって、
夜からの練習に備えることにした。
春希「そうだ。忘れるところだった。千晶に頼みがあったんだ」
千晶「ん?」
千晶は、カレーをパクつきながら俺を見つめてくる。
千晶「なぁに?」
春希「話す時くらい、食べるのはよせって」
千晶「だって、美味しいんだもの」
春希「すぐに終わるから、ちょっとくらいいいだろ」
千晶「春希がそこまで言うんなら」
千晶は、いやいやスプーンを置き、豪快にコップの水を飲み干す。
そして、水のお代わりとばかりに俺にコップを差し出す。
俺は、コップを受け取り、水を入れに行くついでに、自分の要件を千晶に伝える。
春希「ライブのチケットなんだけどさ、4枚手に入らないか?
どうしても欲しいんだけど、もう手に入らないらしくて」
千晶「お、サンキュ」
水のお代わりを受け取った千晶は、コップをテーブルに置くと、その代わりというべきか
スプーンを手に取る。
千晶「うん、4枚だったら大丈夫。それだけ?」
春希「それだけだけど」
千晶「じゃあ、もう食べてもいい?」
春希「いいよ・・・・・・・」
俺の要件、ちゃんと千晶の頭に入ってるのか?
カレーにしか興味がないんじゃないかって、心配にはなるけど、
俺が作ったカレーをこんなにも美味しそうに食べてくれるのは、なんかうれしかった。
とりあえず俺も、エネルギー補給といきますか。
もう半分以上食べ終わっている千晶を横目に、
俺も大きく口を開いて食べ始めるのであった。
232: 2014/09/02(火) 17:36:49.52
9-4 春希 冬馬邸地下スタジオ 1/11 火曜日
今日から一人での練習なわけなのだが、カメラで見られていると思うと
指に力が入ってしまう。
たとえ曜子さんに見られていなくても、コンサートまでの時間もないわけで、
気合の入らない練習などする気は毛頭なかった。
しかし、妙に視線を感じてしまう。
カメラ慣れしていないということを差し引いても落ち着かない。
二時間ほど練習をしたころ、休憩がてらに水を飲む。
スタジオを見渡すと、かずさのことばかり思いだしてしまう。
この前は曜子さんと一緒だったし、感傷に浸る時間などはなかった。
スタジオに一人でいる今、誰も俺の追憶を邪魔する者などはいない。
ただ、かずさがいたころと同じものは、このスタジオ自体とピアノのみ。
もしかしたら、ピアノも別物かもしれないけど、かずさがいたという事実のみで
俺がかずさを思い出すには十分すぎるほどであった。
さて、そろそろ練習に戻ろうかと、ペットボトルをテーブルに置くと、
これもまた新しく設置されたパソコンが目に留まる。
そういえば、何か質問したいことがあれば、このパソコンを使ってメールしてほしいって
言ってたよな。今日が初日だし、挨拶もかねてメールしてみようかな。
まあ、あの曜子さんがどんなメールを送ってくるかの方が気になるんだけど。
もし、あの性格に似合わず、几帳面なメールが来たら、それはそれで貴重かもしれない。
案外、対外的な性格とは違い、内面は几帳面で計画性にすぐれているのかもと、
あれこれ夢想していると、すぐさま返事のメールが届く。
春希「え? 早すぎないか。ということは、今、リアルタイムで見ているってことか?」
俺は、おそるおそるカメラに目を向ける。じっとレンズを見つめると、
その向こうの曜子さんの瞳が俺を見つめている気がして恥ずかしい。
何をとち狂ったのか、俺は、カメラに向けて手を振ってみる。
やばい。練習を始めるときも緊張してたけど、しっかりと見られていると分かった今の方が
断然緊張している。なにやってるんだよ、俺。手なんか振っちゃって。
と、脳内でぼやいていると、再びメールの受信音が鳴り響く。
233: 2014/09/02(火) 17:37:44.09
俺の肩がピクリとふるえる。カメラからの視線を気にしつつ、
パソコンのカーソルを最新のメールにあわせ、内容を表示させる。
曜子(カメラに手を振って、ふざけている暇があるんなら、とっとと練習しろ。
お前はいつまで休憩しているつもりだ)
春希「あっ」
勢いよく振りかえり、思わずカメラを見てしまう。じっとカメラを見ていると
また何かメールがきそうなので、すぐにパソコン画面に視線を戻す。
やっぱり見てるんだ。もう一度メールを読み返すが、怒ってるのか?
なにが几帳面なメールかもだよ。リアルの曜子さん以上に口が悪いじゃないか。
もしかしたら、面と向かって話す時は、目の前に相手がいる分セーブしているのかもな。
メールだと相手の顔が見えないし、曜子さんの本心がストレートに出てしまって・・・・・。
ゆっくりと休憩している暇なんてないか。とりあえず、最初に来たメールを確認して、
練習に戻ろう。
曜子(練習だというのに、なにを緊張してるんだ。今はあたしだけが見てるだけだけど、
本番ではたくさんの観客が見てるんだぞ。今のままでは先が思いやられるな。
でも、あたしはお前の敵じゃない。お前を見守っている味方なのだから、
緊張などせずに、胸を借りるつもりで練習に励むといい)
曜子さんは、最初から練習を見ていたのかもしれないな。
味方か・・・・・。そうだよな。せっかく練習を見てくれるって言ってくれたんだし、
駄目なところをばんばん指摘してもらう方がいいに決まってる。
変にかっこつけて、緊張なんかしてたら時間がもったいないし、曜子さんにも申し訳ない。
俺は、感謝のメールの代りに、ギターを手に取り、練習へと戻っていった。
10-1 春希 冬馬邸からの帰り道 1/12 水曜日 午前8時頃
練習が許された約束の午前8時よりも10分早い時刻に俺は冬馬邸の門を出る。
234: 2014/09/02(火) 17:38:22.84
そろそろハウスキーパーさんがやってきて、掃除が開始されるかもしれない。
親切でスタジオを貸してもらっているんだ。掃除の邪魔などしたくはない。
本音を言えば、時間ぎりぎりまで練習していたかったけど、
曜子さんの信頼を裏切りたくはない。
俺は、自分が持ち込んだゴミだけはまとめて、冬馬邸をあとにした。
通勤通学の時間ともあって、人も多い。身が入りすぎた練習で体力を減らしまくった俺には
満員電車は少々こたえる。人と波に揺られること数分。自宅への最寄り駅に着いた俺は、
これから大学に向かうであろう生徒と共に電車を降りた。
ちょっと前までの俺だったら、大学をさぼってギターの練習したり、
バイトに行ったりなんかしてしなかったよなぁ。
俺の本質が変わったわけでもないし、要は優先順位が変わっただけ。
今は、ギターとバイト。これに全力を注ぎたい。
じゃあ、ギターとバイト。どっちの優先順位が高いのか?
・・・・・・・・・それは、答えを出すのが怖いので、考えないようにした。
俺は、大学へと向かう生徒たちの流れに身を任せて、自宅へと進んで行った。
そういえば、麻理さんの誕生日パーティーするって約束していたけれど、
正月に電話したまま、あれっきり何も計画立ててないな。
たしか、イチゴがのってるケーキだっけ。
麻理さんがNYに行く前に、しっかりとお祝いしたいな。
俺は立ち止まり、人の波に逆らう。
急に立ち止まったために、訝しげに俺を見つめて過ぎ去っていく人々を見送る。
どこか人の邪魔にならないところは・・・・・・。
それに、人に聞かれてしまうのも。
さすがに朝の通学時間ともあり、一人になれる場所などはない。
どこを見渡しても、大学生やら高校生がひしめいていた。
しょうがない。急いで家に戻るか。
そうすれば、始業前に麻理さんと電話できるかもしれないしな。
いくら始業前といっても、
麻理さんに始業前なんか存在しないきもするけど。
俺は、練習の疲れなど忘れ、軽い足取りで家へと急いだ。
第13話 終劇
第14話へ続く
235: 2014/09/02(火) 17:38:49.47
第13話 あとがき
~coda編を書き始めたのですが、とくに変わりもなく書き続けております。
まあ、cc編からの続きですから、名前が変わろうが書く姿勢に変化が出る訳でもなく。
最初の段階では、cc編10話、~coda編10話。合計20話いけばいいなと
思っていましたが、cc編を書き終えてみると15話までいけて、
書いた本人が一番驚いています。
この分だと、~coda編は全5話でも大丈夫なはず(弱腰)。
なにせ合計20話まで、あと5話ですから。
~coda編、どのくらい書けるかわかりませんが、
もうしばらくお付き合いして下されると大変嬉しいです。
cc編は、第15話まで続きます。
前回、紛らわしいコメントをのせてしまい申し訳ありませんでした。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
237: 2014/09/09(火) 17:31:27.66
第14話
10-2 麻理 春希マンション 1/15 土曜日 昼
綺麗に片づけられている部屋。こまめに掃除がされているのがよくわかる。
よくいえば清潔感が感じられるといえよう。しかし、悪く言えば物が少ない。
麻理が初めて春希の部屋を見た感想は、こんなものだ。
もちろん春希の部屋に初めてあげてもらったことへの感動や、
自分の部屋の汚さへの落胆、わずかながらも抱いてしまう下心も入り乱れてはいたが、
春希らしい部屋。自宅が住人の性格をよくあらわしているとよくいったものだと
感じずにはいられなかった。
麻理「綺麗にしているのね」
春希「物が少ないから掃除も楽ですよ。この部屋には、
寝に帰ってきているようなものですからね」
麻理「そう・・・・・・・」
私も自宅には寝に帰ってるようなものだけどね。
同じような生活環境で、こうまで部屋が違うとは、同じ人間とは思えない
と、自嘲気味に笑いをこぼしてしまう。
春希「これにコートかけてください」
麻理「ありがと」
麻理からコートを受け取った春希は、裾のしわを丁寧にのばしてから、
コートをかける。
細かい気配りが、この部屋の清潔感の維持に繋がってるのかもしれないか。
あまり部屋をじろじろと観察するのは失礼だとはわかっているが、好奇心には勝てない。
北原春希という人物を知りたい。ただその一点だけは、止めることができなかった。
本棚は、その人物の趣味をよくあらわしているというが、あいにく大学のテキストや
参考資料しかない。これはこれで北原らしいといえばらしすぎるのだが、
いささか拍子抜けで落胆を隠せない。すすっと横に目を走らせていってもテキストのみ。
ふとテキストがない空間が出現する。
238: 2014/09/09(火) 17:32:21.96
そこには、写真立てと、その中におさまった写真が一枚鎮座していた。
好奇心に負けて、本棚なんか見なければよかった。
写真の中の北原は、麻理が見たこともない自信に溢れて、ちょっときざっぽくギターを
構えている。いや、一度だけ見たことがあったか。
峰城大付属高校から送られてきた学園祭のDVD。
その映像の中の北原も、この写真と同じように光り輝いていた。
今の自暴自棄に陥りやすい北原とはまったくの別人。
春希「麻理さん? ちょっと待っててくださいね。
今すぐ準備してしまいますから」
麻理「ああ、わかった」
急に現実に引き戻された麻理は、見てはいけないものを見てしまった気がして
後ろめたかった。
細かいところまで気にかける北原のことだから、見られて困るものではないか。
私にしっかりと、冬馬かずさが好きだって、宣言している。
だから、私が入り込む隙間などない。
今私が北原の隣にいるのは、リハビリ期間。
北原から自立する為に許されたほんのわずかな時間にすぎない。
テーブルの席に座ろうと部屋の奥に進むと、
バラの花束と綺麗にラッピングされた小さな箱が置かれている。
限られた小さな部屋といっても、バスルームに隠すとかぐらいはしてほしかったかも
しれない。
女心に疎いところさえ愛らしく感じられてしまうけれど、
バラの花束とプレゼントの小箱を渡してくれた時には、おもいっきり喜んでやるかな。
そう自分に誓いはしたが、すでに笑みがこぼれ出ていることに
麻理が気がつくことなどありはしなかった。
10-3 春希 春希マンション 1/15 土曜日 昼
春希「誕生日おめでとうございます」
麻理「ありがとう」
239: 2014/09/09(火) 17:33:02.25
満面の笑みを浮かべる麻理さんをみて、ほっとする。
なにせ誕生日だ。
年齢を気にする麻理さんにとって、一才年が増えるのは
耐えがたいイベントだろう。
それでも、俺のエゴに付き合って誕生日を共に祝らせてくれているんだ。
精一杯のもてなしをしたい。
テーブルには、鳥の空揚げ、ポテトフライにサラダ。
春希としては頑張ったといえるパエリアが並んでいる。
ある意味ファミレスの食卓。子供が大好きなメニューが並べられていた。
麻理さんをレストランに連れて行くとなると、これと同じメニューが
ならべられている店へは連れて行けやしない。
もし行くとしたら、もっと落ち着いていて、大人っぽい雰囲気の店を選びたい。
だけど、俺の料理スキルと相談すれば、テーブルの上に鎮座するメニューが限度。
これ以上手の込んだ食事となると、
店で買って来たものを温め直すことしかできやしない。
自分が料理して、麻理さんに食べて貰いたいという、俺のエゴを貫いたせいで
麻理さんにはがっかりさせてしまうかもと杞憂していたけど、
どうにか喜んでもらえて心底うれしかった。
麻理「このローソクを消せばいいの?」
春希「はい」
テーブルの真ん中におさまっているのは、イチゴがのった誕生日ケーキ。
麻理さんからのリクエストにこたえたケーキではあるが、
ろうそくの数には頭を悩ませた。
やはりろうそくの火を消すイベントは避けられないし、ろうそくの数を減らすのも
わざとらしくて使えない。
ならばと、苦肉の策を打ち出した結果が目の前にある。
ケーキの上には、ろうそくが一本。小さな火を灯して揺らめいていた。
麻理「一応聞くけど、何故一本なんだ?」
春希「俺と麻理さんが二人で祝った最初の第一回目の誕生日って意味です。
だから、来年は二本になる予定ですよ。
ほら、麻理さんの誕生日って元日ですし、どんなに忙しくても休みとれるじゃ
ないですか。もちろん毎年恒例の佐和子さんとの旅行へ行かれるのでしたら
別の日になりますけど」
麻理「佐和子との旅行なんていつだっていいのだけれど、
来年も祝ってくれるの?」
240: 2014/09/09(火) 17:33:49.95
春希「ええ。麻理さんが嫌でなければ」
麻理「そうか。なら、お願いしようかな」
遠慮がちにほほ笑む麻理さんに、心が痛む。
麻理さんもわかっているのだろう。いつまでも一緒になどいられないって。
俺は、かずさを選んだのだから。
麻理「ろうそくの火を消すわね」
ろうそくに顔を寄せ、ふっと息を吹きかける。
ちょっと照れくさそうに笑みを洩らす麻理さんは、
いつもの俺にだけに見せる麻理さんに戻っていた。
そうだな。いつまでも続くかわからないとしても、今を精いっぱい楽しまないとな。
春希「誕生日おめでとうございます。これプレゼントです」
すでに目にとまって知っていただろうけど、
バラの花束と小さな箱におさまったプレゼントに麻理さんは喜びをみせる。
バラの花束なんて、ちょっときざすぎるけれど、こういう特別の日くらいはいいだろう。
花屋で買う時、すっごく恥ずかしかった。普段の俺の行動範囲を明らかに超えている。
それも麻理さんの誕生日という日が俺の心をマヒさせてくれていた。
麻理「開けてもいいか?」
バラの香りを一通り堪能した麻理さんは、もうひとつのプレゼントに興味を移す。
バラの花束とは違い、いくらプレゼントの存在がわかってはいても
ラッピングの中身までは、見ることはできない。
ただ、過剰な期待だけはしてもらっては困るけれど、その辺は学生の
懐事情を察してくれると助かります。
麻理さんは、丁寧にラッピングを剥がしていくと、むき出しになった箱のふたを開ける。
中からは一本の赤いボールペン。
Waterman カレン。ずっしりと重さを感じる書き心地がなめらかなボールペン。
色々となにをプレゼントしようかと迷ったのだけれど、貴金属類は意味深すぎて
手が出せない。ならば、日常使えるものはと考えてみたが、一向に決まらず、
最後の最後にようやく以前麻理さんがボールペンをなくしたエピソードを思い出し、
プレゼントはボールペンと決まった。
なくしたボールペンは、見つかりはしなかった。
241: 2014/09/09(火) 17:34:34.01
そもそもコンビニで買った安物のボールペンだから、愛着もないし、
くまなく探して時間を消費するくらいならば、新しいボールペンを買ったほうが
麻理さんらしい。
麻理「ありがとう」
そっと箱から取り出したボールペンを指で撫でる。
愛おしそうに見つめる姿を見たら、選んだかいもあったといえる。
貴金属に及ばないけれど、普段見につけるボールペンとなると、それはそれで
意味を持ちそうだ。その辺は深く考えないようにしていた。
春希「気にいってくれるといいのですが」
麻理「ちょっと試し書きしてもいい?」
春希「なら、この紙使ってください」
差し出したコピー用紙になにやら書き込んでいく。なんて書いているのかなって
気になって覗き込むと、さっとコピー用紙を隠されてしまった。
麻理「見るな。・・・・・・・照れくさいだろ」
春希「試し書きなんですし、アルファベットでも、今日の日付でもいいじゃないですか」
麻理「そ・・・そうなんだけど、ぱっと思いついたのを書いてしまって」
頬を朱に染める麻理さんは、紙を背に隠すと、ボールペンをケースに戻す。
麻理「手になじんで書きやすいわね。大事にするわ」
春希「ちょっと重いから、好みが分かれそうなのが気がかりだったのですが、
気にいってくれてよかったです」
麻理「ほんとうに女心には疎いわね。仮に手になじまないボールペンだとしても、
手になじむまで書き続けるに決まってるじゃないか。
北原からプレゼントされたんだぞ」
下を向き、小さくつぶやく麻理さんの声は聞きとりにくい。
ぱっと上を向いたその顔は、はにかんでいたのだから、
全ては聞きとれなかったけど、きっと悪い内容ではないはず。
だから、俺はもう一度聞きなおすことなどしはしなかった。
俺の意識は、俺の手に握られているチケットに向けられてもいたから。
春希「これは誕生日プレゼントというわけではないのですが、
コンサートのチケットです」
242: 2014/09/09(火) 17:35:17.55
俺が差し出すチケットを笑顔のまま受け取る。
その笑顔からは何を思っているかは読みとれない。
麻理「この前言っていたヴァレンタインのコンサートね。
ちゃんとスケジュール調整したから大丈夫よ」
きっと思うところもあるだろうけど、全てを押しこむように鞄にしまい込む。
チケットと一緒にボールペンと試し書きをした紙も鞄にしまったのだが、
運よく?なにが書かれていたか読みとれた。
別に隠すような内容は一切書かれてはいない。
ちらっととしか見えなかったので、もしかしたら他にも書かれていたかもしれないが
俺が見えたのは、人の名前だけ。
「北原」と「麻理」。
ただ俺達二人の名前が書かれていたのに、どうして恥ずかしがる必要があったのか
首を傾げるしかなかった。
10-4 春希 冬馬邸 1/25 火曜日
春希「よっと」
休憩がてらに夜食をと冷蔵庫を漁る。
曜子さんからは勝手に食べてもいいと言われてはいるが、勝手に人の家の冷蔵庫を
漁ることに抵抗がないといえば嘘になる。
しかし、そういった性格を先読みしてくれているのか、夜食用の食事が
あらかじめ用意されていたのは嬉しいかった。
かずさは、どこまで曜子さんに俺のことを話しているのだろうか。
この合宿も、俺が気持ちよく練習を打ちこめるようにと、
細かい心づかいがなされていた。
俺のことをよく観察して、長い間俺のことを見続けている人間にしかできやしない。
243: 2014/09/09(火) 17:35:53.32
春希「今日もありがとうございます」
おそらくハウスキーパーさんが作ってくれた料理であるから、仕事のうちなのだろう。
しかし、そうであってもわざわざ曜子さんが指示をして夜食を用意してくれたことには
感謝せねばなるまい。
そこで、心ばかりのお礼として、サンドウィッチを持参してきていた。
最近バイトに行く時は必ずといっていいほど、麻理さんへの差し入れ弁当を作っている。
そのかいもあって、自分で言うのもなんだが、少しは料理の腕も上がってきた気もする。
今回作ってきたサンドウィッチは、渋谷の某デパート前のパン屋のパクリ。
ちょっと小ぶりのフランスパンに、具材を挟み込むだけのいたって平凡なものなのだが、
具材とパンの堅さが病みつきになる。
小ぶりのフランスパンなのだが、製法や大きさによって名前が違うみたいだが
ここでは割愛しよう。なにせ料理初心者。見よう見まねで作っているわけで、
具材の秘密の方に意識を集中したほうが建設的だといえる。
そして、今回どうにか味は全く違うけれど、自分としては美味しい物を
作り上げられたので、お礼としてもってきたわけだ。
あとで冷蔵庫に感謝の品を入れておきましたとメールすればOKかな。
さてと、急いで夜食を食べるか。
なぜか休憩に入り、スタジオに戻ってくるとお怒りのメールがくる。
トイレ休憩くらいの短い時間ならば大丈夫だけれど、夜食タイムとなると
必ずといっていいほどお叱りのメールが来る。
ここまで見てくれているのなら、一緒にスタジオに入ればいいのにって思うこともある。
俺の下手なギターをずっと聴きながら自分の仕事をするのは
苦痛なのかもしれないのかもな。
なにせ、いつもだれもが聴きほれるほどの演奏を耳にしているわけだ。
そこに、半日近くも調子っぱずれの雑音を耳にしては、仕事もはかどらないだろう。
スタジオに戻ると、今回も例にもれずにお小言メールが到着していた。
曜子「いつまで休憩している。お腹が減ったとしても、
お腹が減ったことを忘れるくらい演奏に集中しろ。
お前がお腹が減ったと感じたってことは、
それだけギターに集中できていないってことの証だ」
とまあ、もっともな事を仰るから反論もできない。
俺はパソコンに向かい合い、
さっそく感謝の品を冷蔵庫に入れておいたことをメールする。
すると、いつもだったら即座に返事が来るはずであるのに、返事のメールがこない。
244: 2014/09/09(火) 17:36:29.68
しばらく待ってみたものの、返事が来ないので、スタジオにいたとしても
あまり休憩を長くしていると再びおきついメールがきそうなので、練習に戻ろうとする。
しかし、電子音が鳴り、メールが来た事が表示される。
立ちかけた腰を再び椅子に戻し、急ぎメールを表示させた。
曜子「冷蔵庫に入ってるの?」
たったそれだけであった。ちょっと意外な質問ではあるが、質問が来たのならば
返送せねば失礼にあたる。
春希「冷蔵庫に入れてあります。
弁当箱の方は使い捨てですし、捨ててくれて構いません」
とメールする。すると、さらに短いメールが即座に届く。
曜子「ありがとう」
俺は、カメラの角度を確認すると、カメラに隠れるようにそっと笑みを浮かべる。
どうにか喜んでくれるみたいだ。でも、まだ食べていないし、油断はできないか。
俺は、奥歯を噛み締め、笑みもかみ頃す。
さて、そろそも本当に練習しないとな。
俺は、カメラ中央の席に戻り、邪念を叩きだすように練習を再開させた。
10-5 かずさ 冬馬邸 1/25 火曜日
春希からのお弁当。どうしたものか。
今すぐ食べたいけど、春希にばれないか?
今は練習に集中しているし、一度練習に入ってしまえば、しばらくスタジオから
出てくることもない。
しかも、さっき夜食を食べに行ったし、トイレに行くこともないか。
だったら、多少物音がしても防音処理をしているスタジオならば気がつかないだろうな。
245: 2014/09/09(火) 17:37:00.65
よしっ。行くか。
自分の欲求を抑えきれない。なにせ同じ家に何日もいるというのに、
直接会うことができない。毎日カメラ越しで様子を伺っているけど、
本心では、今すぐ春希の胸に飛び込みたかった。
でも、自分で決めたことだし、コンクールが終わるまでは我慢だ。
きっと春希が変われたように、あたしも変わってみせる。
だから、今だけは冷蔵庫に向かってもいいよな。
もし春希に見つかったときは、そのとき考えればいい。
むしろ、偶然のハプニングを望んでしまいそうだけど、まあ、あれだ。
偶然なら仕方ないよな。
あと、冷蔵庫からサンドウィッチがなくなっていることを春希が気がついたとしても、
その時は、春希が練習に集中していて、
母さんがいったん家に来たことに気がつかなかっただけ
とでもメールしておけばいいか。
細かいところにまで意識してしまって、
あたしのことに気がついてしまうかもしれないけど、
それもまた、偶然のハプニングだ。仕方ないよな。
あたしは獲物を確保すべく、閉ざされていた扉を開ける。
そっと聞き耳を立てるが何も物音はしない。もう一度モニターで春希の様子を確認するが
練習に集中している。さ、行くか・・・・・・。
行ってしまうと、拍子抜けなほどあっけなかった。
部屋に戻ってくると、心臓の鼓動が落ち着かない。まだ早鐘のごとく鳴り響いていた。
目の前には春希が作ってくれたお弁当が鎮座している。
おそるおそる手を伸ばすが、あと数センチのところで手が止まる。
本当に今食べて大丈夫か? やっぱり冷蔵庫に戻してきて、
春希が帰ってから食べたほうがいいんじゃないか。
でも、もう目の前にあるわけだし、いまさら戻したところで・・・・・・。
しばし目の前の欲望と葛藤する。じりじりと重い手をお弁当箱に伸ばし、
欲求が自制に勝ち始める。ぴたりとお弁当箱に人差し指と中指が触れると
欲望は抑え込むことができなくなる。
蓋を開けると、メールの通り、サンドウィッチが入っている。
食パンではなく、フランスパンか。
この大きさだとフィセルかな。生意気な。春希にしては、こじゃれたものを。
目の前のご馳走に笑みを隠せない。春希がこの家にいなければ、気が抜けて
よだれさえこぼしていたかもしれない。
もちろん口内には、食欲がそそられて、唾液が充満していたが。
とりあえず、このまま食べたとしても喉が渇きそうだし、飲み物を用意しないとな。
マックスコーヒーを一度手に取るが、元に戻す。
246: 2014/09/09(火) 17:37:41.26
せっかく春希が作ってきてくれたお弁当を、別の味で上書きなんかしたくはない。
そこで隣にある炭酸水を手に取り、席に戻る。
さて、準備は整った。食べるか。
かずさ「はぁぁ・・・・・・」
艶めかしい吐息が漏れる。この3年間で最高の時間だったと断言できる。
十分すぎる喜びが体を走り廻るのと同時に、新たな欲求が沸き出てしまう。
空になってしまったお弁当箱を睨みつけるが
食べてしまったものが元に戻ることはない。
かずさ「はぁぁぁ・・・・・・・」
もう一度春希以外には聞かせられない妖艶すぎる吐息を深く吐く。
至福な時間は、あっという間に終わる。時計の針を見ると、さほど進んではいない。
もったいなすぎて、あれほどゆっくりと食べようと心掛けたのに、
自分が食べるペースにブレーキをかける威力はなかった。
物足りない。一度叶えてしまった願望は肥大して、さらなる欲求を求めだす。
駄目だ。決めたんだ。自分が春希の隣に立てるだけの自信と実績をつくるまでは
会わないって決めたんだ。
このお弁当の味を糧に、あたしは成功してみせる。
だから、春希。待っていてくれ。
でも、お礼のメールくらいは出すのが人の礼儀だよな。
おもむろにパソコンに向かい合い、メールを出そうとするが、送信ボタンを押す寸前に
指を止める。さすがに今メールを出すのはまずい。
今は家にいないことになっているのだから。
明日の9時頃ならいいかな。それまでは、送信しないでおこう。
メールには、こう書かれていた。
曜子「心がこもったお弁当ありがとう。とても美味しかったし、
とても料理がうまくなっていて、びっくりした。
他にもどんな料理ができるか、気になるところかな」
247: 2014/09/09(火) 17:38:29.64
最後の一文は、付けるか付けないかで一時間以上考え続けてたが、結局は入れることにした。
結果としてはそれは成功だった。なにせ、その戦利品として、
翌日からは差し入れのお弁当が冷蔵庫に入れられるようになる。
ただし、今回みたいに春希がいる間に取りに行くことは諦めた。
これ以上自分の欲を求めても、きっといいことはない。
だったら、今の現状に我慢して、十二分にそれを満喫すできである。
それに、冷蔵庫にご馳走があるのに何時間も「待て」を指示されるわけだ。
忍耐を鍛えるには十分すぎるお預けであった。
第14話 終劇
第15話に続く
第14話 あとがき
誕生日エピソード。実は忘れていましたw
cc編の最終話は第15話ですけど
第14話がcc編では最後に書いたお話となっております。
元々書く予定でしたが、ストーリー構成メモに書くのを忘れていたのが原因です。
色々頭の中で場面を想像して、ある程度形にしてからざっと構成メモに
文字化する場合もあるのですが、たまに忘れてしまうこともあるのが難点ですorz
走ってるときなんて暇だしちょうどいいんですけどね。
汗だくで疲れてもいるので、忘れないように紙に書くのは面倒ですが・・・・・・・。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
253: 2014/09/15(月) 17:02:12.42
第15話
11-1 春希 大学 2/6 日曜日 昼
ヴァレンタインコンサートまで、あと一週間と迫った日曜日。
大学の定期試験もあと数日で終わる。
それなのに、俺ときたら、これから初のヴォーカルとの顔合わせを予定していた。
千晶がようやく会わせてくれると連絡が来たのが今日の朝。
俺の方のギターの腕も心配ではあったが、ヴォーカルの方も気がかりではあった。
今心配がないものといえば、かずさのピアノしかない。
しかも録音だから、風邪をひく心配もないだろう。
静まり返ったサークル棟を歩み進める。さすがにのんきなサークル活動に情熱を
注ぎ込んでいる連中であっても、試験期間ともあって、誰もいない。
今いるのは、試験そっちのけでギターに情熱を燃やす俺と
試験にはどうにか顔を見せている千晶。それにヴォーカルの子くらいだろう。
目の前には、プレートに劇団ウァトス書かれた扉がある。
千晶が指定した部屋はここであってるはずだった。
千晶とこの劇団との関係は知らされてはいないけど、今日この部屋を使う許可は
おりていることだけは確認済み。
詳しいことは、これから会うヴォーカルの子についてと一緒に聞けばいいか。
それとも、ヴォーカルの子がこの劇団に所属しているのだろうか?
ともかく部屋に入ればわかるか。
俺はやや強めにドアをノックし、千晶の返事を待った。
千晶「さすが春希。約束の時間のちょうど10分前。
約束の時間を10分遅く教えておいてもよかったね」
扉の中から顔を出した千晶は、とんでもない挨拶とともに現れる。
春希「お前は俺を信頼しすぎ。もし俺が時間に遅れてきたらどうするんだよ」
千晶「そのときは、そのときでしょ。私が10分待てばいいだけじゃない」
春希「そういうことをいいたんじゃなくてだな」
千晶「今日はお説教はなしね。早く歌とギターをあわせたいし」
254: 2014/09/15(月) 17:02:48.21
春希「時間も限られてるしな。って、ヴォーカルは、まだ来ていないのか?」
狭い部屋を見渡しても、千晶一人しかいない。
千晶は、にひひっと意地悪そうな笑みを浮かべながら俺を見つめてくる。
なにがそんなにおかしいのかわからないけど、早くあわせたいっていったのは
お前の方じゃないのか。
千晶「目の前にいるでしょ」
春希「目の前って・・・・・」
千晶が指差し、俺が指差した先には、千晶一人しかいない。
つまり、そういうことなんだろう。
俺に会わせたいヴォーカルとは、和泉千晶その人だったわけだ。
千晶「そっ。私が歌うの」
春希「あぁ・・・・・そうか。なんか、すべて納得できたというか」
千晶が話を持って来た時から胡散臭いとは思ってはいたけど、
千晶が全て仕組んでいたのかもしれない。
春希「全部話してくれないか? ここの劇団についても全部」
俺が千晶の瞳を覗き込むと、ついっと視線をそらし、パイプ椅子を勧めてくる。
俺に座れってことか。俺が荷物を置いて、椅子に腰をかけると、目の前の席には
千晶が座る。そして、テーブルに筋を突いて、じっと俺を見つめてくる。
千晶「全て話しても大丈夫?」
春希「大丈夫って? 話を聞いてみたいとわからないだろ」
千晶「そうなんだけどぉ・・・・、まっ、いっか」
春希「なんだよ」
ネコのようにコロコロ表情が変わるやつ。とらえどころがないってわかっていたけど、
今目の前にいる千晶ほどわからない存在は出会ったことがなかった。
踏み込めば、ただではいられない。なぜかそう確信できる。
漠然とした感覚を、明確なビジョンにするためにも、今踏み込むべきなのだろう。
千晶「なにから話せばいいのかなぁ・・・・・・・」
255: 2014/09/15(月) 17:03:26.34
春希「全部聞いてやるから、話しやすいところから話せよ。
わからないとことがあったら、そのつど俺が質問していくから」
千晶「OK、OK、じゃあ始めるね。
まずは出身高校だけど、春希に教えたのは嘘」
春希「は? いきなりとんでもない告白だな」
千晶「一応春希と同じく、峰城大付属高校出身なんだけど、
春希は私の事知らないみたいだよね」
春希「一学年でもそれなりに人数いるし、全部が全部知ってるわけでもないからな」
千晶「そこんところは別にいいよ。ただ、学園祭のとき、
私もそれなりに注目されてたんだけどね」
春希「それはすまん! ライブ当日の朝まで練習だったし、
学園祭当日もバタバタしてた」
俺が悪いことをしているわけではないが、なぜが手を合わせて誤ってしまう。
千晶の方も全く気にしていなく、むしろ、事実をたんたんと述べていってる感じさえする。
千晶「私は演劇部で主演やってて、自分でいうのもなんだけど、高評価だったと思う。
それでも春希達のライブに観客の興奮を全部もっていかれたけどさ」
春希「へぇ、千晶が出てた劇か。見てみたかったな」
千晶「演劇はこれからも続けるし、そのうち見る機会もあると思うよ。
春希がみたいと思うなら」
春希「今度やるときは教えてくれよ。見に行くからさ」
千晶「それはありがたいんだけど、今度の公演延期になっちゃって、当分は白紙かな」
春希「え? どうして?」
千晶「まあ、さ・・・・・・・。それをこれから話すんだけどね」
思いつめるように俺を見つめる千晶の瞳には、さまざまな感情が入り乱れていた。
千晶「はぁ・・・・・・、たぶん怒られるんだろうなぁ」
深くて軽いため息を吐くと、いつもの千晶がそこにはいた。
体を机に投げ出し、ぐたーっと這いつくばる。くるっと顔だけ上をあげ、
俺を見つめる瞳には、悪戯がばれた子供そのものだった。
ほんと、お前じゃなくて、俺の方がため息を突きたくなるよ。
256: 2014/09/15(月) 17:04:05.94
千晶「春希達がやったライブからヒントを得てさ、そこから脚本書いたんだ。
でもさぁ、肝心なところでわからなくなっちゃって、
もう、どうしたらいいんだってところよ。
座長なんか泣きながら公演延期の手続き始めちゃったけど、
まあ、それは仕方ないよね。座長の仕事だし」
軽く言ってのけるけど、脚本を書く労力と時間は、相当なもののはず。
俺も作詞経験がある。書きたいイメージがあっても、それを形にするのは難しい。
たとえ自分がイメージした内容を形にできたとしても、それを100%相手が
理解することなどありえない。俺は、そこまでのレベルを目指したわけでもないし、
目指すほどの実力も経験もなかった。それでも、大変だった記憶が残っている。
もちろん俺の作詞と千晶の脚本を比べるだなんて
おこがましい。なにせ大学の劇団で採用されるわけだし。
千晶の知られざる才能に関心してしまった。
もしかして、大学の授業がさぼりがちなのって、劇団のほうが忙しいからか?
春希「座長さんも災難だな」
千晶「別に同情しなくたっていいって。こういう後始末をする為に存在してるんだから。
でね、座長の話はもうよくて、脚本煮詰まっちゃって困ったなぁって思ってたら
ヴァレンタインライブの話が出てさ。これだって思ったわけ。
春希と小木曽雪菜・・さん、は、峰城大にいるでしょ。
でも小木曽・・さんは、ちょっと駄目かなって思ったから、
春希にオファーを出したんだ」
これで全部か? 全て話して晴れ晴れしたって顔してるけど、
これくらいだったら別に怒るようなこともない。
春希「そんな事情があったのなら、最初から全部話してくれればよかったのに」
千晶「ほんと?」
がばっと起き上がり、元気一杯の笑顔を見せる。
目がらんらんと輝き、なにかよからぬことを考えていそう・・・・・だが。
なんか俺、まずいこと言ったかも。
今度は俺の方が机に突っ伏しそうだ。
春希「俺の方に時間があったらだけどな」
千晶「でも、今もギターの練習してくれてるんだし、きっとやってくれていたはずだよ。
それが春希だし」
257: 2014/09/15(月) 17:04:57.80
春希「どうだかな」
あまりに信用されすぎて、なんだかこそばゆい。
思わず視線を外しそうになったが、千晶がにたぁっていたずらネコっぽい笑みを
浮かべるものだから、意地になって目を背けるのをやめてしまった。
千晶「それでも春希なら、きっとしてくれたよ」
今度はしおらしく言葉を発する千晶に、俺の方が追い付いていけない。
どれも千晶なんだろうけど、こんなに感情が豊かだったのか?
千晶「ヴァレンタインコンサートはさ、初心に帰ってみようって思ったんだ。
やっぱ一番最初の学園祭ライブの感動をもう一度生で味わえば
なにか掴めるはずだし」
春希「ふぅ~ん、・・・・・そっか。だったら、俺に何ができるかわからないけど
協力させてもらうよ。こっちもこっちで事情があるし、お互い様ってことで」
千晶「そう? そういってくれると助かる」
春希「じゃあ、時間も残り少ないし、練習しようか。
俺はまだ千晶の歌、聞いたことないしな」
千晶「大丈夫だって。だいぶいい感じに仕上げられてきたから。
ほんと冬馬かずさ様様だよ」
春希「かずさが?」
千晶「この前見せてくれた演奏で、びびっときちゃった感じ。
もう電流が流れる感じで頭ん中に感情が流れ込んできて、
あの時本当はパニックになりそうだったんだから。
ほんと、まじやばすぎるでしょ、あの子・・・・・・・・。
どれだけ春希を独占したがってるんだって。
あんなの聞いちゃった他の女なんか、泣き崩れちゃうんじゃないの。
ううん。私がもう少し春希に本気出してたら、廃人になってたかも」
千晶は自分に言い聞かせるように話すものだから、半分以上は聞きとれなかった。
しかも、千晶の真剣な顔つきが、俺に聞きかえすことをためらわす。
これが芸術家ってやつなのかもな。いったんスイッチ入ってしまうと
周りが見えなくなるっていうか。
千晶「さてと、私の美声を聴いて驚くなよ」
春希「はい、はい。俺のギターはもう少しだから、お手柔らかに頼むな」
すっと立ち上がり、千晶が息を整える。
258: 2014/09/15(月) 17:05:39.24
狭い室内の空気を震わせ、俺に感動を直接叩きこむ。
手が届く距離にいる千晶からは、全ての息遣いが読みとれる。
激しくもあり、切なくもある歌声に、雪菜とは違った衝撃が駆け巡った。
それは、聴いたことはないはずなのに、懐かしくもあり、温かいぬくもり。
俺が長年求めていた何かが、そこにはある気がした。
11-2 春希 ヴァレンタインコンサート 2/14 月曜日
暗闇から現れた彼女に、俺は心を奪われる。
ステージ中央のマイクスタンドの前にいる長い黒髪の女性は、
艶やかな髪をなびかせ振りかえる。
肩にかかった黒髪を軽く払いのけて、少し心配そうに俺を見つめた。
懐かしい峰城大付属高校の制服。首元には、リボンではなく男子生徒のネクタイ。
きりっと俺を睨みつける瞳に、おもわず吸いこまれそうになる。
ふらっと足が彼女の元へと歩み出しそうになるが、天井から降り注ぐスポットライトが
ステージの上だと認識させ、俺を思いとどめた。
なんで、かずさが?
まばゆい光の中にいる彼女を見つめ続けると、ようやく目の焦点があってくる。
かずさ?・・・・・ではなく、千晶か?
暗闇から突然スポットライトの強烈な光のせいで視界がぼやけていたが、
はっきりと見ることができるようになった今なら、千晶であると断言できる。
あれはカツラか。衣装はステージの上まで内緒だっていってたけど、
とんだサプライズを用意してくれたものだ。
それと、かずさの真似をしているのなら、そのにやけっつらはやめろ。
俺の中のかずさのイメージに傷がつくだろ。
俺に想像通りのサプライズがおみまいできて喜んでいるようだけど、
歌がメインだからな。
俺が睨みつけると、千晶は顔をひきしめて、軽くうなずく。
客席と向き合った千晶は、後ろからでもわかるくらい安心感が感じられた。
259: 2014/09/15(月) 17:06:35.12
観客席からの話声が聞こえなくなる。
会場内が静まり返ったタイミングですかさずピアノの演奏がスタートされた。
俺は、かずさの演奏に遅れまいとリズムに合わせる。
きっとうまくいく。だって、俺以上にギターがうまい奴は山ほどいる。
しかし、この曲に限っては、誰よりもかずさの演奏に合わせられるって胸を張って言える。
だって、かずさが俺を導いてくれるから。
ピアノの音色にギターの音色が混ざり合う。
そして、千晶の歌声が合わさり、俺達の演奏が完成する。
それは、俺が思い描いた『届かない恋』ではない。
だって、俺の想いを届けたい相手が歌ってるのだから。
かずさに俺の恋心を届けたいのに、なんでかずさ本人が歌ってるんだ?
千晶らしいいたずらに、俺も最初聴いたときはしっくりこなかった。
もちろんかずさが『届かない恋』を歌っているところなんて、一度も聴いたことはない。
だけれど、千晶の歌声を聴いた瞬間に、かずさだってわかってしまった。
俺は、その時やっと千晶が怒られるのを覚悟して、全てを話そうとした意味を察した。
でも、千晶のやつ、全部話すとか言っておきながら、一番肝心なところを話してないよな。
たぶん、お前が作ってる脚本って、俺達のこと題材に書いてるんじゃないか?
直接聞きだしてはないけれど、きっとそうだって思ってしまう。
だって、こんなにもかずさに近い千晶がそこに出来上がっているのだから。
しかし、残念だけど、千晶は千晶だと思うぞ。
いくらまねようとしても、かずさにはなれない。
かずさはかずさだからって、言ってしまえばそれまでだけど、
それだけじゃないんだ。
かずさは、きっと届かない恋に気が付きやしない。
自分に好意が向けられているだなんて思いもしないんだよ。
だけど・・・・・・・・、
届かないんだったら、直接届けにいくしかないよな。
な、そうだろ千晶。
いつまでも立ち止まってなんかいられない。
時間は有限なんだから。
だから、俺は行くよ。
前に進むって決めたんだ。
千晶、ありがとう。
260: 2014/09/15(月) 17:07:03.76
ピアノの最後の音色が響き渡る。
音色の余韻が消え去っても、観客の熱気は冷めやまない。
それは、舞台にいる俺達二人も同じで、息を乱していても興奮は静まらない。
千晶が観客に向かって大きく手を振ると、静かだった観客席が一気に騒ぎだす。
ひとつひとつの言葉は聞きとれはしないが、おおむね良好な反応のようだ。
それはそうだよな。俺のギターはともかく、かずさのピアノと
千晶の歌声は十分すぎるほどの合格点だろうし。
むしろ、かずさと千晶だけでもよかった気もする。
千晶が一通り観客への挨拶を終えると、舞台袖に向かって何か合図を送る。
すると照明が落ち、ホールは闇に包まれる。
俺はこんな演出聞いてないぞ。アンコールはあるかもって思いはしてたけれど
これから何が起きるんだ?
突然観客席が沸きたつ。光が俺の後ろに浮かび上がる。
俺は光の方へ振りかえると、そこには、スクリーンに映し出されたかずさがいた。
これは、千晶にも見せたかずさの映像。
あの時は、純粋にかずさの演奏だけを観客に聴いてもらいたくて
映像はNGにした。
だけど、条件付きでOKもだしている。
それは、観客がかずさの演奏そのものが聴きたいって思えたら映像を出していいって。
ま、千晶にしてやられたな。
最初の演奏はかずさの映像なしで、純粋にかずさのピアノだけで観客を盛り上げて
感動を植え付けたんだから。
でも、勝手にDVDを持ち出したことは、あとで説教だ。
千晶がカレーを食べているときに、ちょっと寝てしまった。
きっとその時にこっそりコピーされてたな。
それと、DVDとCDは確実に回収して、コピーがあるんならそれも回収だ。
悪いけど千晶。俺も独占欲が強いんでね。
261: 2014/09/15(月) 17:07:35.39
正面を振りかえり、ピアノに合わせて演奏を始める。
俺の方にもお情け程度に照明があたる。
最初の演奏の時よりは弱い光だけれど、しょうがないか。
だって、主役はかずさなんだから。
それにしても千晶のやつ・・・・・・・と、千晶がいるはずの
舞台中央を見ると、マイクスタンドごと消え去っている。
俺は、初めて千晶にDVDを見せた時のことを思い出してしまった。
千晶「前から考えてたけど、今日冬馬かずさの演奏聴いて確信した。
だって、冬馬かずさは、北原春希しかみてないでしょ。
だったら、ベースやドラムなんて雑音にしかならない。
ううん。もしかしたら、ヴォーカルさえいらないかもしれない・・・・・・」
まさしく有言実行だな。自分の想い描いたことを真っ直ぐと実行するところが
お前らしくて、羨ましくもある。
観客も喜んでいるみたいだし、いっか。
俺は脇役らしく、かずさのエスコートをやらせてもらいますよ。
俺は、かずさの音色に身を任せ、誰よりもかずさの音色に酔いしれていった。
たくさんの観客がいるはずなのに、みんなが俺達の曲を聴いているはずなのに
俺には観客なんて見えやしない。
俺の目に映っているのはかずさだけ。
もちろんスクリーンに背を向けているから、スクリーン上のかずさを見てるわけでもない。
だけど、俺にはかずさが見えている。
かずさならきっと小生意気な態度で呆れた目をして俺を見つめてくる。
だけれど、誰よりも信頼できるパートナー。一生隣を歩いていくって誓った生涯の伴侶。
今は会うことができないけれど、きっと俺達は再会できる。
だって、こんなにも息があった演奏ができるんだぜ。
きっとかずさは、まだまだ練習が足りないって文句を言ってくるんだろうけど、
いいよ、何時間でも、何日でも、何年だろうと、かずさが納得するまで
一緒に練習してやるよ。
だって、俺達の未来には、一緒に過ごしていく時間が待ってるんだからさ。
262: 2014/09/15(月) 17:08:05.22
コンサートの熱気が冷めやまぬ中、俺は観客席の間を突き進む。
皆かずさの音色に心を奪われ、俺のことなど眼中にない。
それも当然だ。なにせ初めて曜子さんにDVDを見せられた時から感じていたことだ。
ときたま友人たちが手を振ったり、声をかけてくる程度で、かずさのオマケの俺など
誰も見向きなどしない。
そんな中、俺に熱い視線を向けている瞳を見つける。それは、必然であり、
舞台の上からもひしひしと感じていた視線である。
彼女の隣には、武也と依緒がわきを固めていた。
再会した時に何を言おうか何度も考えていたのに、その全てのセリフが手のひらから
こぼれ落ちる。何も言わず、何もしない俺に、雪菜は笑顔を曇らす。
唇を軽く噛み締め、悲しそうに手を振る。
俺は、雪菜と友達になる為に武也に雪菜を連れてきてもらった。
それなのに、泣かせてどうする。
なにやってんだよ、俺。
せっかくさっきまでは少しはかっこよくきめていたのに、ステージから降りた瞬間に
駄目男に逆戻りか?
違うだろ!
春希「雪菜!」
俺は、両手で大きく手を振る。力いっぱい、俺の気持ちが届くように。
俺の必氏すぎる行動に、雪菜は驚き、笑みを取り戻す。
やっぱり、雪菜には笑顔が似合う。下を向いている雪菜なんて、似合わない。
春希「また明日、大学でな」
会場は、人で溢れ、俺の声が雪菜に届いているかなんて、わからない。
隣にいる奴の声ですら、うすぼやけて、聞き取れないほどだった。
だけれど、俺には雪菜の返事が聞こえる。
きっと雪菜なら、こういったはずだってわかるから。
俺は、雪菜が小さく手を振るのを確認すると、俺を待っている彼女の元へと急いだ。
何度も雪菜の返事をかみしめながら。
263: 2014/09/15(月) 17:08:39.61
会場の外は既に暗く、会場内の熱気も及ばない。
舞台で沸騰した体も北風を浴びるたびに体温を奪い去っていく。
会場から少し離れた街灯の下に、柔らかな光を浴びる麻理さんを発見する。
わずかしか離れていない距離であっても、すぐさまゼロにすべく駆け始める。
俺が駆け寄ってくるのに気がつく麻理さんは、頬笑みと共に俺を迎え入れた。
春希「お待たせしました」
麻理「走らなくても、よかったのに」
春希「会場の出入り口からですから、ほんのちょっとですよ」
麻理「そんなわずかな距離でさえも走ったっていうことは、
そんなに早く私に会いたかったってことか?」
冗談でも、照れ隠しでもない。素の風岡麻理がそこにはいた。
だから、俺は、正直に答えなければならない。
それが、俺を大切にしてくれている麻理さんへの精一杯のお返しだから。
春希「はい。早く会いたかったです」
麻理「そうか」
俺を見つめる瞳には、陰りはなかった。
春希「俺は、諦めませんから。麻理さんと、上司と部下の関係だけではなく、
それ以上の関係、築いてみせますから」
麻理「うん・・・・」
春希「俺は、かずさを愛しています。でも、俺の身勝手かもしれないけど、
麻理さんとは・・・・・、麻理さんとは、
生涯付き合っていけるパートナーになりたいです。
麻理さんの隣で肩を並べられる、誰よりも信頼してもらえるパートナーに」
麻理「身勝手なやつだな」
春希「すみません」
麻理「いいわ」
春希「えっ?」
麻理「だから、パートナーになってやるっていってるんだ」
春希「本当ですか」
麻理「嘘なんか、言うわけないだろ」
春希「ありがとうございます」
麻理「だけど、今すぐってわけには、いかないかな。
・・・・・・だって私は、北原春希を愛しているから」
春希「・・・・・麻理・・・・さん」
264: 2014/09/15(月) 17:09:37.49
麻理「そう身構えないでよ。クリスマスからのほんのわずかな時間だったけど、
幸せだったよ。苦しい時もあったし、それも後悔はしていない。
だって、最高に幸せだったんだから。だから、この幸せな時間は、
誰にも否定させない。北原にだって、否定なんてさせないんだから」
麻理さんの強気が剥がれ落ちていく。強い意志で塗り固められた瞳は、
涙で洗い落とされ、今、目の前にいるのは、
純粋な瞳でまっすぐ俺を見つめる麻理さんのみ。
麻理「心配しなくてもいい。
きっと、北原と正面を向いて付き合っていけるようになる。
でも、それまでの間だけでいいから、
ちょっとの間だけでもいいから、
冬馬さんの邪魔なんかしないから、
私が一人で立っていられるようになるまで、
そのときまで、
隣にいて・・・・・、春希」
無邪気でいられる時間なんて限られていた。人は成長し、そして、現状を把握する。
そっと未来を見つめ、自分を顧みる。
自分の立ち位置を確認しないで、人を好きになんてなれない。
身勝手に好きになってしまえば、
自分たちだけでなく、俺達を大切に思ってくれる人たちさえも苦しめてしまう。
無邪気な目で俺を見つめていた麻理さんは、ずっと先の未来を見つめていた。
そこになにがあるかなんて、俺にはわからない。
だけど、その未来に、俺が隣にいる為の努力くらいしたっていいだろ。
春希「隣にいます。麻理さんが必要ないっていっても、ずっと隣にいさせてください」
麻理「ありがとう。・・・・あと、今日で最後だから」
265: 2014/09/15(月) 17:10:21.28
俺にそっと近づくと、俺の両肩に手をかけ、俺の頬に軽くキスをする。
ほんの一瞬。麻理さんから伝わってくる温かさは、唇が離れた瞬間に
夜の冷気が奪い去る。
まるで幻でも見ていたかのような感覚であったが、
頬を染める麻理さんが、現実だって証明する。
麻理「それと、これヴァレンタインのチョコ。
手造りではなくて買ったもので悪いんだけど」
オレンジ色の小さな紙袋を差し出してくる。
いくら夜であっても、オレンジ色の紙袋は目立つ。
しかも、ヴァレンタイン。意識しないでいる方が難しい。
光沢があるオレンジの紙袋は、目立つ色の割には落ち着いた雰囲気を形作っている。
それが妙に麻理さんに似合っていて、麻理さんの為にある紙袋とさえ思えてくる。
さすがにそれは言いすぎだってわかってるけど、絵になるほど目に焼き付いてしまう。
春希「かまいませんよ。誰がくれたのかが、一番重要ですから」
麻理「そういってくれると助かる。でも、味は保証する。
このチョコレートは、私が一番好きなものなのよ」
ガレー。そう紙袋には印刷されていた。たしか麻理さんの部屋にもあった気がする。
中身はなかったけれども、紙袋が散乱していたような・・・・・・・。
今ここで麻理さんの名誉の為にも、不名誉な室内を思う返すのはやめておこう。
なによりも、麻理さんとは、過去よりも未来を見つめていきたいし。
春希「大切に食べますね」
麻理「ふふっ・・・・・。大切に食べたまえ」
春希「ホワイトデーは、たぶん編集部も忙しい時期ですし、
会いに行くのは難しそうですね」
麻理「いつでもいいわよ。でも・・・・・・・・」
言葉を詰まらせ、俺を見つめる。瞳は揺らめき、ためらいを感じられた。
なにをためらってるなんて明らかだ。だって、俺も同じ気持ちだから。
春希「ホワイトデーは無理でも、きっとNYまで直接渡しに行きますから、
待っててください」
俺の言葉で麻理さんの瞳に力がよみがえる。
266: 2014/09/15(月) 17:11:05.94
肩から力が抜け落ち、そっと俺に寄り添ってきた。
麻理「うん、待ってる。来年のヴァレンタイン前日までに来てくれればいいから。
それまで気長に待つとする」
春希「俺はそこまで気長に待てないので、もっと早く行ってしまいますよ」
麻理「なら、なるべく早く来てくれることを願っているわ。
さて、もう行くかな。
また今度ね、北原」
春希「はい。NYに行きますから、待っててください」
麻理「じゃあ」
春希「はい」
麻理さんは、一度も振り返りもせず去っていく。まっすぐ前だけをみて、突き進む。
それでいいんだ。未来をしっかり見据えていれば、きっと再び再会できる。
それに、今振りかえられたら、泣き顔を麻理さんに見られてしまう。
こんな情けなく、涙もろい俺なんか見られたら、幻滅しないまでも、
俺のことが気がかりでNYにいけないんじゃないかって、身勝手な妄想もしてしまう。
口づけを確かめようと、手を頬にあてても、なにも足跡は残ってない。
ほんのわずかだけれど、たった今、そこに麻理さんがいたっていう証拠の残り香を
肺に満たし、麻理さんの残像を思い出す。
俺は、今日この日を忘れない。
数年後、今日という日を思い出す為にも、前に進もうと決意する。
曜子「どうだった?」
ソファーに腰掛け、今さっき帰宅したかずさを出迎える。
曜子は、かずさの様子をみて、かずさの返答を聞く前だというのに
満足そうな笑みを浮かべていた。
かずさ「よかったよ」
曜子「そう」
かずさ「あたしが鍛えたんだ。当たり前だろ」
267: 2014/09/15(月) 17:12:00.95
今日はちょっと饒舌になってるのかな?
それなら、一緒にワインでも・・・・・・・。
って、この子にはワインよりもピアノかもね。
曜子は読みかけの本を閉じ、一度はキッチンにワインとグラスを取りに
向かおうとしたが、再びソファーに身を沈める。
そして、挑発的な顔つきで、かずさに問う。
曜子「決心できたの?」
かずさ「あたし、コンクールに出るよ」
そう宣言するかずさの目には、陰りは一つもなかった。
第15話 & 『心の永住者 cc編』 終劇
『心の永住者 ~coda編』 & 第16話に続く
268: 2014/09/15(月) 17:12:37.76
『~coda編』
NY マンハッタン島の、とある一室
麻理「北原、まだ準備に時間がかかる?」
毎朝、今の時間帯のこの部屋の住人達は忙しい。
慌ただしく動き回り、身支度を整える。
だからといって、雑に行うことはない。ひとつひとつ確実に丁寧に進めていく。
それがここの住民達の性格をよくあらわしていた。
春希「お弁当もできましたし、あとは閉じまりだけです」
麻理「そうか。なら、私が見ておくわ」
朝の微笑ましくもあり、慌ただしいいつもの一コマ。
これから始まる開桜社NY支部での仕事は、日本以上に忙しい。
そうであっても、健康に気遣ってお弁当を作るあたり、北原春希も成長していた。
春希「もう行けます。閉じまりは大丈夫でしたか?」
麻理「大丈夫よ。さて、行きましょうか」
春希「はい」
俺は二人分のお弁当と仕事道具が入った鞄を手に、俺達が暮らす部屋をあとにした。
静かになった二人の部屋は、深夜になるまで静かなままだろう。
慌ただしく突き進む足音が、扉の向こうでこだましていた。
次週、『~coda編』スタート
269: 2014/09/15(月) 17:13:42.27
心の永住者 cc編 あとがき
今週は、cc編最終話ですし、休日でもありますので
いつものアップ時間よりフライングですが、アップ致します。
かずさへの永遠の愛を誓っておきながら、麻理さんと暮らしているとは!
と、お叱りを受けそうですが、その辺は次週以降をお楽しみ下さいとしか言えません。
さて、ここまで物語が進んでしまったので白状しますと、この物語、
小木曽雪菜は登場しません。
今回ラストにちらっと姿だけ出てきましたが、セリフは一切ありませんでした。
雪菜が嫌いというわけでもないのですが、
この物語は、冬馬かずさと風岡麻理のストーリーです。
ですから、小木曽雪菜は出ません。
さて、心の永住者の初期企画段階では、かずさと雪菜の物語を書こうとしたのですが
どうも筆の勢いが悪い。
書いていても、全く面白くありませんでした。
麻理さんも、ニューイヤーコンサート後辺りで出番が終わる予定でしたが、
思いのほか筆が進み始め、ノリノリになって書いた結果が現在というわけです。
その時点で、雪菜は降板し、麻理さんがヒロインへと昇格したわけですが
、
その時やっと何で筆の進みが悪いかに気が付きました。
理由はシンプル。原作をなぞるような展開に陥りそうだったからです。
原作をちょっと改変して書いていっても、何も面白くありませんし、
読んでくださる皆さまも劣化版のwhite album2を目にすることになるわけです。
今書いている物語がすごいだろ、誉めてくれよって言いたいわけでもないのですが、
自分でも先が見えない物語を紡いでいくのを楽しませてもらっています。
そして、その原稿が少しでも楽しんでもらえる出来になればと、
願わずにはいられません。
来週は、火曜日、いつもの時間帯にアップすると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
270: 2014/09/15(月) 17:14:39.89
来週も、このスレで「~coda編」をアップしていく予定です。
コメントは節度を持った内容でお願いします、 荒らし行為や過度な暴言、NG避けを行った場合はBAN 悪質な場合はIPホストの開示、さらにプロバイダに通報する事もあります