277:黒猫 ◆7XSzFA40w 2014/09/23(火) 17:29:11.93
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【WA2】ホワイトアルバム2『心の永住者』【その1】
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ホワイトアルバム2(cc~coda)~coda編
『心の永住者』
作:黒猫
第16話
1-1 春希 3月14日 月曜日
暦の上ではもうすぐ3月だというのに、冬物のコートは手放せない。
それでも冷たく身にしみる北風が吹くことも少なくなってきている分、
春が近づいてきているはずだ。それに、
大学受験シーズンも終わり、街でもほっとした若者たちが陽気な声を奏でている。
なかにはどんよりと来年への決意を胸に予備校選びに駆け巡ってるかもしれないが、
新生活に向けての準備をするせわしなさは平等に訪れるのだろう。
俺も4月からは大学4年生。学生でいられるのもあと一年。
いつまでも学生気分ではいられない。
ただ、今日は3月14日。ヴァレンタインデーの熱気とはいかないまでも
街はそわそわして微笑ましい。
さすがにヴァレンタインデーのような期待と不安に満ち溢れたイベントでは
ないのだけれど、それでも世間を巻き込んでのイベントともあって賑わっていた。
俺も、今年は3個だけチョコレートを貰うことができた。
そのうち2個だけはバイトの前に預けてきている。
本来ならば直接渡すのが筋というものだが、あいにく俺にチョコレートをくれた全ての
相手が海外居住ともあって、直接渡すことができない。
一つ目の相手は、かずさの母親でもある冬馬曜子さん。
もちろんこれは義理チョコでもあるわけだが、意味が深い「義理」だけに
貰った時には、どう反応すればいいか迷ったものだ。
278: 2014/09/23(火) 17:30:06.53
ヴァレンタインコンサートのDVDを届けに冬馬邸に行った時のこと。
コンサートの運営側としては、まだ編集できていないのでもう少し待ってほしいと
お断りを受けたが、自分達の部分だけでいいと無理をいって手に入れたDVDを
どうしても曜子さんがウィーンに帰る前に直接渡したかった。
その曜子さんももうすぐウィーンに帰るらしい。
だから、ギターの練習に付き合ってもらったお礼を兼ねて訪ねてきていた。
曜子「はい、一日遅れだけど、ヴァレンタインチョコね。
義理は義理だけど、「義理の母親」からの義理チョコよ」
ヴァレンタインのチョコレートらしきものが包まれたプレゼントを差し出してきたが
どう受け取ればいいか判断がつかない。
春希「えっと・・・・・・、なんといえばいいかわからないのですが、
ありがたく頂いておきます」
曜子「遠慮なんかしないで、素直に貰っておけばいいのよ。
それとも、将来の義理の母親からのチョコレートは受け取れない?
かずさとの将来の事、真剣に考えてくれているのよね?」
春希「本気です。本気じゃなかったら、ここまでギターを頑張ってこなかったですよ」
毎日寝る時間を削って冬馬邸の地下スタジオに通い詰めた日々。
練習から解放され、ほっとする気持ちもあることはあったが、
今日からは来なくてもいいと思うと寂しい気持ちで一杯であった。
曜子「それもそうね。毎日きっちり時間一杯練習していたものね。
信用してあげるわ」
春希「ありがとうございます」
曜子「だからというわけでもないけど、これもあげるわ」
曜子さんの手には、もうひとつチョコレートらしい包み紙が握られていた。
これが誰からだなんて俺でも想像がつく。
ここで、事務員の女性からの義理チョコだなんておちがつくんなら、笑い話で
終わるんだろうけど、曜子さんの凛とした眼差しが冗談ではないと物語っていた。
春希「かずさ・・・・からですよね」
曜子「ええ、そうよ」
春希「いつになるかわからないけど、かずさが笑って直接渡してくれる日を待ってますって
伝えてくれませんか」
279: 2014/09/23(火) 17:31:17.50
曜子「必ず伝えるわ」
こうして間接的ではあるが、二個目のヴァレンタインチョコレートを手にした。
ウィーンまで直接お返しに行ければいいのだが、バイトで忙しい。
なによりも先立つものがない。冬馬家の財務状況ならば、たった数時間の滞在の為に
飛行機に乗ってウィーンまで行って帰ってこれたかもしれないが、
北原春希の財布事情に春はきそうもなかった。
というのは建前であり、本当の理由はもっとシンプルだ。
曜子さんと約束したから。かずさが成長して、
コンクールで納得がいく成績を残すまで会わないって、約束したから。
俺もかずさに負けないように成長しようと日々編集部で仕事にいそしんではいるが
仕事だけがすべてではない。かずさを全て受け止められる男にならなくては。
だから、日本にある冬馬曜子事務所にお返しの品を預けてきた。
そこで待ち受けていたのがニューイヤーコンサートの時に
お世話になった女性職員であった。
彼女の名は、工藤美代子さん。日本の事務所で働く唯一の職員。
曜子さんの演奏活動のメインが欧州だから、日本ではCDや年に一度あるかくらいの
コンサートだけなので、平時は割と暇らしい。
それでも、あの曜子さんのもとで働いているとなると、その根性はすさまじい。
なにせ、たった一カ月ばかりではあったが、曜子さんのすさまじさは経験済み。
それを長年曜子さんの下で働いているとは恐れ入る。並大抵の精神力ではないはず。
それと、あの曜子さんが日本の事を任せていることを考慮すると、
美代子さんはきっと優秀な人材なのだろう。
一人で欧州での名声を勝ち取り、積み上げてきたのだから、その人を見る目も
たしかなはず。なにせコンサートは一人では成功できない。
ピアノを弾くのは一人ではあるが、コンサートを企画して、コンサートホールを手配し、
スタッフを準備し、そして、観客を迎え入れる。
他にも俺が知らないコンサートの仕事がたくさんあるだろうが、
ステージの上ではピアニスト一人ではあるが、その後ろにはたくさんの人が
ピアニストである曜子さんを支えているのだ。
そして、曜子さんの母国でもある日本の担当を美代子さん一人に任せているのだから
それだけの信頼があるのだと推測できた。
さて、最後の三つ目のヴァレンタインチョコは、麻理さんからである。
ヴァレンタインコンサート直後に貰った思い出の品。
これは、麻理さんとの約束もあって、お返しは直接手渡しが大前提だ。
だけれども、3月14日の現在。北原春希がいる国は日本。
280: 2014/09/23(火) 17:32:01.02
あいにくNYへは行けていない。今俺がいるのはバイト先の開桜社編集部。
俺が来年から就職する予定の出版社であるが、ある意味就業時間が存在しない。
夜中に来ても誰かしら残っているし、早朝であっても同様。
唯一明りが消える日があったとしたら、大晦日と元日くらいだろう。
しかし、それも去年は俺が出社していた為に、明りは消えはしなかったけど。
内定はまだ貰えてはいないが、麻理さん経由の情報によれば、
ほぼ確実に内定が出るとのこと。
NYにいても俺のことを気にしてくれているあたりありがたいことだ。
麻理「同期なんて、使い倒す為に存在するのよ。それに、普段は私が面倒みまくって
いるんだから、たまには貸しを返してもらっても罰はあたらないでしょ。
それと、人事と編集部でちょっとした問題になってるのよね。
北原の新人研修をどうするかでもめちゃってね」
春希「どうしてです?」
麻理「編集部としては、形だけの新人研修なんてやらないで、とっとと編集部で
仕事してほしいのよ。だって、今さら新人研修なんてする必要ないでしょ」
春希「それは、社の方針に従うしかないのでは?」
麻理「でもね。編集部も万年人手不足だし、使える人材がいるんならひと時でも
手放したくないのよ。それも、新入社員とは名ばかりの頭数に数えられる
優秀な人材ならなおさらね」
春希「そこまで評価していただけているのは嬉しいのですが、それでも新人研修は
やっておいた方がいいのではないでしょうか」
麻理「それって、私が教えてきたことを疑ってるって思ってもいいのか?
私の教えよりも、誰だかわからない新人研修教官を信じるってことでいいのね?」
麻理さんは、語気を強めて、脅迫じみた勢いを見せ始める。
でも、NYにいる麻理さんの表情は、きっといたずらじみた事を言ってやったと思って
ニヤニヤしているに違いない。
春希「そうは言ってませんよ。麻理さんの教えはきっちり体に叩き込まれていますし、
誰よりも麻理さんを信頼していますから」
麻理「そう? だったらよろしい。でもまあ、おそらく新人研修はないと思うわ。
たぶんテキスト配られて終わりかしらね。あと健康診断くらい?」
春希「入社式を忘れていますよ」
麻理「それこそ必要ないわ」
とのこと。
281: 2014/09/23(火) 17:32:45.85
麻理さんの同期人事部職員からの情報だから、信憑性もあるが、
今まで積み上げてきた実績と、なによりも麻理さんからの信頼の為にも、
ホワイトデー返上で仕事にいそしんでいた。
日はすっかり暮れ、街灯の光が街を浮かび上がらせていた。
窓の外は、日の光とは違った人工のまばゆい光が規則正しく明りをとぼす。
夜になろうと人の活動は衰えず、むしろせわしなく動き回っていた。
俺はというと、外界のささいな変化など気に留める余裕もなく、
目の前の仕事に没頭していた。
外が暗くなったのを知ったのは、与えられた仕事が終わった9時すぎではあったが
そんなのはいつものことだ。
この分であれば待ち合わせの時間には間に合うだろう。
新たな仕事が回ってこなければだが。
待ち合わせのバーにつくと、佐和子さんは既に何杯目かのグラスをあけていた。
春希「すみません、遅くなってしまって」
佐和子「ううん、いいのいいの。遅くなるって連絡貰ってたから、
ちょっと寄り道してからここにきたし」
あのあと、帰ろうとした俺に浜田さんがよこした仕事を終えたのが11時30分頃。
約束の時刻が11時なのだから、間に合うわけもない。
俺は急ぎ佐和子さんにメールを送り、返送メールを確認する間もなく仕事に入る。
俺も佐和子さんも仕事で約束の時間に間に合わないことがしょっちゅうある。
だから、返事を見なくとも「了解」と簡素なメールが来ると予想ができた。
仕事が終わり携帯を確認すると、予想通り「了解」と返事が来ていた。
「了解」の後に、ハートの絵文字が入っていたことは
見なかったことにしておいたが・・・・・・。
春希「ペリエお願いします」
俺は店員に炭酸水を注文すると、佐和子さんの隣に腰掛ける。
麻理さんがNYへ行って以来、定期的に佐和子さんと会うようになっていた。
麻理さんを交えて3人で会うことはあったが、二人でというのは異色だ。
一緒にいるのが嫌だというわけでもなく、むしろ会話を楽しめてもいる。
282: 2014/09/23(火) 17:33:18.26
だけど、なんで佐和子さんが俺を誘うのかは疑問であった。
何度目かの食事の時、おもいきって聞いてみると、理由は単純であった。
佐和子「麻理から頼まれているのよ。北原君が仕事頑張りすぎていないか
様子を見てくれって。会社の方でも聞いてるんじゃないかな。
でも、私に春希君の近況を探ってくれっていうのが一番かな」
と、笑いながら話してくれたものだ。どう反応していいか困り果てて、
それをさらに笑いのネタにされたのは、いい思い出にそろそろなってほしい。
佐和子「バイトだっていうのに頑張るわね。
今日だって、NYに行こうと思えば、行けてたんじゃないの?」
春希「勝手にバイトのシフト入れられてたんですよ。
しかも、逃げられないように厳重に」
佐和子「それはご愁傷様」
春希「そんな佐和子さんだって、今日はホワイトデーですし、デート・・・・・・・」
俺の言葉は最後までいわせてはもらえなかった。
なにせ、それ以上言ったら頃すと、隣の方が殺気をみなぎらせている。
俺が言葉を飲み込むのを確認すると、殺気をしまい込んだ佐和子さんは、
話の軌道を戻すがごとく新たな話題を振ってきた。
佐和子「普通、バイトだったら比較的自由に休めるものじゃないの?
正社員にもなると難しいけど、ほぼ内定が決まってるとはいえ
北原君はまだバイトの身でしょ」
春希「そうなんですけどね。でも、仕事の頭数に入れられてもらえてるようで。
そのことは感謝しているんですけど、バイトのシフトを作るからって
大学の時間割を決めたら提出するようにと言われてもいるんですよ」
佐和子「それは、おめでとうと言ってもいいのかしらね。
仕事で認められるのって時間がかかることだし、みんなの期待にこたえたいって
いう気持ちもわかるわ。
でもね、北原君。あなたはまだ学生なのだから、そのことも忘れないでね」
春希「はい。だから、ゴールデンウィークには、必ずNYへ行けるように
調整してもらってます」
佐和子「はぁ・・・・。それはすでに正社員の行動だから。
でも、麻理の奴も北原君が行ったら喜ぶわね」
春希「そうだといいのですが。佐和子さんがNYへ行くのは、再来週ですよね」
283: 2014/09/23(火) 17:34:29.74
佐和子「ええ、そうよ。麻理が会えない分、私が北原君に会ってるから
相当やっかみを受けると思うわね」
春希「ははは・・・・・・・」
どう反応すればいいかわからず、わざとらしい笑いでごまかすしかない。
ありがたいことに佐和子さんは、隣にいる俺ではなく、ターゲットを麻理さんに
定めた用で、意地汚い笑みを浮かべていた。
佐和子「絶対返り討ちにしてやるんだから。北原君ネタで散々いじりまわしてやるわ。
待ってなさい、麻理!」
腕を高らかに突き付けると、グラスを掲げ、今日2度目の乾杯をかわした。
1-2 春希 開桜社 4月4日 月曜日 昼
来週から大学の授業が始まるが、今年はバイトの方を重点的に活動しようと思っている。
お金が欲しいからというわけではなく、早く一人前の編集部員になるべく現場での
仕事を優先した。
もちらん大学での講義も大切だが、めぼしい講義は既に受講済みであるし、
あとは卒論を仕上げればいいだけだ。
それも一年あるわけだから、比較的のんびり大学生活はすごせそうではある。
浜田「北原。こっちのほうも頼む。さっき渡したのよりも、こっち優先で頼む」
春希「わかりました。すぐに取りかかります」
いつもの編集部。いつもの騒々しい仕事場。活気に満ち溢れた雰囲気が俺の背中を押す。
俺をいつも見守ってくれていた麻理さんはもうNYにいっていない。
それでも俺は元気にやっている。
今頃麻理さんは寝てるのかな? いや、あの人のことだから、まだ仕事か。
と、思いをはせていると、携帯のバイブが震え、着信を伝えてくる。
携帯の液晶を見ると、佐和子さんからであった。
284: 2014/09/23(火) 17:34:59.71
これは珍しい。佐和子さんからは、電話がかかってくることがあっても、
朝か夜がほとんどだ。たまに昼食時をねらってかかってくることがあっても
就業中にかかってくることはまずない。
たしか今日NYから帰ってくる予定だったか。
それでも、就業時間にかけてくるなんて、よっぽどのことなんだろうか。
俺は、ざわつく胸を押せえきることができず、席を立ち、廊下に向かい、電話に出た。
春希「もしもし?」
佐和子「北原君、ごめんなさい。バイト中だったよね」
春希「少しなら大丈夫ですよ。それと、おかえりなさい」
佐和子「ただいま・・・・・・・」
佐和子さんは、要件があって電話をしたはずなのに、何も言ってはこない。
沈黙が俺にのしかかる。何も語らない時間が引き延ばされるほど、
嫌な予感が増大してしまう。
春希「佐和子さん?」
俺は、努めて冷静を装って問いかける。どこまでできているかは疑問だが、
声を荒げなかっただけ、ましかもしれない。
佐和子「うん。・・・・・・うん、あのね北原君。
電話で話すような内容でもないから、今夜会って話せないかな。
何時だっていいの。でも、できるだけ早く話さないといけない事だから
本当に何時でもいいから、会えないかな?」
春希「おそらく10時には行けると思います」
佐和子「ごめんなさいね」
春希「いえ、かまいませんよ。それで、いつものバーでいいんですか?」
佐和子「できれば、北原君の家か、私の家がいいかな。
でも、私の家は帰って来たばかりで散らかってるの。
だから、悪いけど、北原君の家でもいい?」
春希「それはかまいませんよ。それならば、駅前のカフェで待ち合わせでいいですか?」
佐和子「ええ、それでいいわ。・・・・・ふぅ、麻理ったら」
春希「麻理さん? 麻理さんになにかあったんですか?」
予想はしていたけれど、実際麻理さんの名が出ると動揺を隠せない。
285: 2014/09/23(火) 17:35:29.19
佐和子「ふぅ~・・・・・・。それは会ってから話すわ。
こんな電話なんかしたら心配させてしまうってわかってはいるんだけど、
そうも言ってられないのよ」
春希「わかりました。できるだけ早く仕事を終わらせますから、待っててください」
佐和子「ありがとね、北原君」
電話をきると、暴れ狂う動揺をかみ頃し、デスクに戻る。
さあ、仕事だ。今俺に出来ることは、素早く、かつ、丁寧に仕事を仕上げるのみ。
そのかいもあって10時前には待ち合わせのカフェにつくことができた。
自宅に着くと、佐和子さんの上着もハンガーにかけ、部屋の奥へと促す。
普段から掃除しているから、いつ来客が来ても問題ない。
最近では、武也と千晶くらいしか寄りつかないが、
もともと人を呼ぶこともなかったから、相変わらずの静けさだ。
春希「コーヒーでいいですか?」
佐和子「ええ、ありがと」
キッチンに向かい、お湯をかける。しばしの沈黙がこの場を支配しようとするが、
俺は荷物を片づけたり、カップを用意したりとせわしなく動き回る。
別に、部屋に着いたらそのまま話を聞くことだってできた。
コーヒーくらいは用意しただろうが、聞くことだけならできたはずだ。
しかし、今の俺はそれをできるだけの準備が不足している。
昼に電話がきたのだから、心の準備くらいできたはずだけれど、
ついさっきまでいち早く仕事を終わらせる為に仕事だけに集中していた。
だから、佐和子さんの話のことは、一切考える余裕がなかった。
いや、考えないようにしていたという方が正しいかもしれない。
だって、どう考えてもNYから帰国した佐和子さんが暗い声で伝えようとしていたら、
麻理さんに関わることだってわかってしまう。
コーヒーの香りが部屋に漂い出す。安物のインスタントコーヒーでもそれなりの味だ。
しかし、俺の心の準備をできるまでの時間稼ぎにはならなかった。
俺は、無理やり勇気を奮い立たせ、佐和子さんの正面のテーブルの位置に腰を下ろす。
春希「コーヒーどうぞ」
佐和子「ありがと」
286: 2014/09/23(火) 17:36:00.17
味はともかく、温かい液体が心をほぐす。佐和子さんも同じようで、
少しは落ち着きを取り戻したようだ。
佐和子「うん。回りくどいことは抜きにするわね。
単刀直入に言うわ」
春希「はい」
佐和子「このままだと、麻理、駄目かもしれない。仕事もやめなくてはならなくなるわ」
春希「え?」
俺の顔から表情が滑り落ちる。どう反応すればいいのか、どんな顔をすべきかわからない。
佐和子「仕事でミスったとか、職場でうまくいってないとかじゃないのよ」
春希「そうですか・・・・・・・・」
仕事はうまくいってるのかな。でも、仕事が原因じゃないとすれば、なにが?
そこまでいうと、佐和子さんはちょっと困った感じの表情をみせる。
佐和子「単刀直入に言うって宣言したけど、どこから話せばいいかな」
春希「最初から話してくだされば助かります。答えだけを言われても
変な先入観を抱くかもしれませんし」
佐和子「わかったわ。じゃあ、私がNYに着いて、麻理と再会した時から話すわ」
佐和子さんは、マグカップを両手で包み込むように握り、
黒く濁った水面を覗き込むように語りだす。
底が見えない水面が、これからのことを暗示しているようで、
あがけばあがくほど、どこまで続くかわからない水底へと沈みゆく感じがした。
第16話 終劇
第17話に続く
287: 2014/09/23(火) 17:36:26.72
第16話 あとがき
~coda編スタートです。
cc編は書く予定ではありませんでした。
本来ならcodaからスタートだったのです。
しかし、あまりにも自分が描きたい結末に導くには障害が多すぎて断念orz
それならばと書き始めたのがcc編ですが、前回のあとがきで書いたように
ヒロインは雪菜から麻理へと交代しています。
ただ、いくらヒロインが交代しようと、テーマは同じですので
ようやくcodaを書き始めることができま・・・・・・せんねw
これからしばらくは「~coda」の「~」部分をお楽しみください。
「~」と「coda」の境界は曖昧ですので、
なんとなくcodaもスタートしているはずです。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップすると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
291: 2014/09/30(火) 17:34:21.26
第17話
1-3 麻理 空港 3月29日 火曜日
麻理「はぁ・・・・・・・・」
今日何度目のため息だろうか。
いくらため息をつくこうが佐和子がやってきてしまう。
渡米を先延ばしにしてもらおうとも考えはしたが、結局は来てしまう。
それだったら、少しでも体調がいいときに来てもらったほうが
佐和子は気がつかないかもしれない。
しかし、それも気休めにもならないって自分でもわかっていた。
ため息と同じように何度も確認している服装を再びチェックに入る。
やっぱり首元までしっかりと隠れているのにした方がよかったかも。
でも、普段あまり着ないような服装の方が、
かえって佐和子に気がつかれるかもしれない・・・・・・。
今着ている麻理の服装は、いたってシンプル。
ロングダウンを羽織り、パンツスタイルにブーツ。
多少は着膨れしているかもしれないが、この時期のNYであれば、
いたって無難で地味な格好ではある。
しかも、やってくるのは佐和子である。
これが北原だったら、かなり気合が入った服装になるが、今日は佐和子しか来ない。
だから、麻理が服装を気にする必要などないとも言えた。
佐和子「麻理~。元気してた?」
飛行機は予定通りに到着し、佐和子も予定通りに待ち合わせ場所にやって来る。
ここまではいたって順調。時間通りで予定通り。
このあと、私がいつも通りに軽く挨拶して、佐和子から北原ネタでいじられて、
その後私がちょっと拗ねながらも、マンションに連れて行くだけ。
なにも問題ないし、疑われるような行動もない・・・はず。
でも、その後の事は考えてはいない。
だって、ダウンを脱いでしまったら気がつかれてしまう。
ちょっとくらい先延ばしにする作戦だけど、ちょっとくらいはいつもの佐和子との
気軽な関係を満喫しても罰は当たらないはず。
292: 2014/09/30(火) 17:34:53.20
もしかすれば、その場の軽いノリで佐和子もわかってくれるかもしれない・・・・・、
と思いを巡らしながら、ぎこちない笑顔で挨拶をしてしまった。
麻理「まあまあかな。そっちは長旅で疲れたんじゃない?」
私が出迎えの挨拶をするところまでは、ちょっとぎこちなさがあっても、順調だったはず。
だって、佐和子も笑顔だった。
・・・・・・でも、佐和子は今は、心配そうに私を見つめている。
佐和子「ちょっと、麻理。しっかり食事してる?
いくらなんでも痩せすぎ・・・・・・・」
佐和子は、持っていた荷物を両足で挟み込むと、
今度は空いた両手で私の顔を挟みこんだ。
佐和子のしっかりと冬用にハンドケアされて潤いに満ちた指先が
かさかさに乾いた私の頬をなぞり、さする。
そして、指先が首元まで下がってくるころには、佐和子の顔は豹変し、
焦りがにじみ出していた。
私は佐和子にされるがままだった。だって、もうばれたんだもの。
隠したってしょうがない。佐和子の気が済むまで調べてもらうしかないだろう。
最後に佐和子は、私のダウンの袖をまくりあげると、細すぎる腕を見て驚愕した。
佐和子「麻理?」
佐和子が何を知りたいかだなんて、明確すぎる。
私が逆の立場だったら、同じことを気になるはず。
麻理「とりあえず、私のマンションに行こうか。ここで話すような事でもないから」
私の薄暗い笑みに、佐和子はぎこちなく頷くだけであった。
佐和子は、私の先導にしたがって後からついてくる。
タクシーに乗り込んでも、マンションについても、一言も言葉を紡がない。
ただ、私の体に触れた手を確かめるように手のひらを見つめているだけであった。
293: 2014/09/30(火) 17:35:31.40
佐和子をリビングに通すと、予想通りいぶかしげな眼で私を見つめてくる。
玄関は綺麗に掃除されており、脱ぎっぱなしの靴など溢れてはいない。
しかも、リビングまでの廊下も拭き掃除がされ、綿ぼこり一つない。
そして、リビングにいたっては、雑誌や書類などは綺麗に整理整頓され、
脱ぎっぱなしの服などは存在していなかった。
佐和子「一応確認しておくけど、ハウスキーパー雇った?」
麻理「雇ってないわ。・・・・・・・コート貸して。掛けておくわ」
佐和子「ありがと」
佐和子からコートを受け取ると、
佐和子の為に用意しておいた部屋のクローゼットにしまいこむ。
佐和子も自分の荷物を部屋に持ってくるが、いくら部屋を見渡したって、
ベッド以外の調度品は存在していない。
佐和子「ねえ、この部屋・・・・・・ううん。これも後で説明してくれる?」
麻理「あとでね」
荷物を部屋の隅に並べると、リビングに戻り、ソファに腰をかける。
本来ならば、コーヒーでもいれるべきなんだけど、
そんなものを用意してしまったら、話などできやしない。
佐和子が何も言ってこないから、このまま話を進めるようかしら。
麻理「全部話すわ」
佐和子「ええ、私が理解できるように話してくれると助かる」
麻理「まず、病気ではないわ。不治の病ってわけでもないから心配しないで、
って、このありさまじゃ無理か」
佐和子「そうね。病気って言われた方が納得できたかもね」
麻理「一応病気ってことでもあってるんだけどね」
佐和子「一応?」
麻理「心因性の味覚障害」
佐和子「味覚障害って、味が変になっちゃうやつでしょ。
詳しくは知らないけど、病気じゃないの。
ん?・・・・・・・心因性って?」
麻理「その名の通り、心の問題・・・・・・・かな」
佐和子「NYでの仕事が原因ってわけではないわよね?」
麻理「仕事の方は、いたって順調よ。順調過ぎて怖いくらい」
佐和子「それって、体調が悪いのを忘れる為に仕事に没頭しているだけでしょ」
294: 2014/09/30(火) 17:35:59.39
さすが佐和子。私の事をよくわかってらっしゃる。
そんなに心配そうに見つめないでよ。こうなるってわかってたけど
心配されるのには慣れないな。
麻理「まあ、そんな感じかな」
佐和子「笑い事じゃないわ。原因は?」
原因か・・・・・・・。そうよね。心因性ってことなら、理由がはっきりしてくるはず。
このまま目をそらしても、数秒の時間稼ぎにしかならないかな。
私のぎこちない笑顔をみると、佐和子は膝をついて、私に詰め寄ってくる。
けっして責めているわけではない。むしろ心配してるんだろうけど、
私にとっては、大した差はなかった。
だって、どちらにせよ理由をいわなきゃならない。
理由を言ってしまえば、きっと北原がNYに来てしまう・・・・・・・。
佐和子「北原君ね? そうでしょ」
麻理「そうよ。北原が原因。でも、こんなことになってしまったのは私のせいだから」
佐和子「違うでしょ。あなたも言ってたじゃない。
北原君があなたに依存してきて、それがとても心地よくて、
いつのまにかに麻理が北原君に依存するようになってしまったって」
麻理「その通りよ。でも、味覚障害までなってしまったのは、私の責任。
北原は悪くない」
佐和子「でも! ・・・・・・・・今さら責任がどうのとかいってられないか。
で、具体的には、どんな症状なの?
ううん、いつから自覚したか、そこから話してくれないかしら」
麻理「一番最初に自覚したのは、北原が泊まりに来た翌日の夜かしら。
仕事から帰って来てみると、北原が食事を用意しておいてくれたから
それを食べたの。すっごくうれしくて、でも、とても悲しかったのを覚えてる」
佐和子「そう・・・・・・」
麻理「でね、食べてみたら味が薄いの。
北原も料理は得意ではないって言ったし、これからしっかり料理覚えていくって
宣言もしていたから、今回は失敗したのかなって思ったわ。
でもね、前の日に作ってくれた半熟のオムライスは美味しかったなぁ。
また作ってくれないかしら」
佐和子「ゴールデンウィークにNYに予定だし、その時作ってもらえばいいじゃない」
麻理「駄目っ! 今のこの状態の私が会えるわけないじゃない。
きっと北原の事だから、責任感じちゃうでしょ」
295: 2014/09/30(火) 17:36:26.97
佐和子「麻理が会わなくても、私が帰国したら全部話すわよ」
麻理「そう・・・・・・」
佐和子「その表情見ると、今のあなたの不安定さがにじみ出てて、心配になるわ」
麻理「え?」
佐和子「鏡見なさい。あなた喜んでいるわよ」
佐和子の言葉をやや納得できない私は、壁にかかったインテリアミラーで
自分の顔を確認する。
そこには、佐和子が言うほどではないにしろ、やや口角が上がっている自分がいた。
健康的な笑顔はそこにはない。病的なまでもうつろで、すがるような笑顔。
けっして北原が喜んでくれるような私は既に存在していなかった。
佐和子「ごめん。言いすぎたわ。こっちに戻って、話を続けてくれると助かる」
麻理「ううん。佐和子がいてくれて、助かってるから」
佐和子「私には、いくらだって依存したっていいから、全部話しなさいね」
麻理「ありがと。・・・・・・・どこまで話したのかしら。
北原がオムライス作ったけど、一つは失敗しちゃって、私がそれを食べようとしたら
困った顔をして、そのお皿と自分の方に置かれた成功したオムライスと
とり変えようとした話だったかしら。
そういう気遣いはできるんだけど、女心がいまいちわかってないところが
傷なのよね。でも、そういう北原も可愛くて、あたたかいわ」
佐和子「はぁ・・・・・・。今のあなたには、仕事と北原君のことしかないみたいね」
麻理「それは駄目よ。私は北原から独立しないといけないんだから。
北原には冬馬さんがいるの」
佐和子「そうよね。でも、北原君が冬馬さんと再会するまでに、麻理も元気にならないと。
そうしないと北原君のことだから、心配して麻理のことを離してくれないわよ」
麻理「そうよね・・・・・・」
佐和子「そこ。うれしそうな顔しない」
麻理「仕方ないのよ。情緒不安定だって、自分でもわかってるんだから」
佐和子「今は仕方ないか。それじゃ、家に帰ってから北原君の料理食べて
味が薄かったってところから話してくれないかしら」
麻理「その時は、そんなものかなって感じで、特に気にはしなかったわ。
そして翌朝、といっても、帰ってきたのが朝方だったんだけど、
仮眠をしようとして、でも眠ることなんてできなくて、
その日は昼から北原が来るから、とりあえず起きて朝食をとったの」
佐和子「麻理。食事だけじゃなくて、睡眠障害まであるんじゃないでしょうね」
麻理「それは大丈夫。疲れて動けないくらい仕事してるから、家に帰ってきたら
すぐにぐっすり眠れているわ」
296: 2014/09/30(火) 17:37:08.01
たとえ仕事に集中している理由が、北原を思い出さなくするためであっても。
これだと、仕事に逃げるなって言ったのは私なのに、上司失格ね。
でも、昔とは違うはず。だって、仕事をするのは楽しいもの。
はぁ・・・、変な言い訳ばかりしちゃって、泥沼かな。
佐和子「そっか」
麻理「うん。その日の朝食も北原が作っておいてくれたサンドウィッチだったんだけど、
今度は全く味がしなかったの。
見た目はすっごく美味しそうで、北原が作ってくれた料理なら、たとえまずくても
残さず食べられるのに、全く味がしないとなると変な気分になってしまったのを
よく覚えているわ。
まずかったら、それなりのリアクションも取れたはずなのよ。
でに、なにも味がしないとなると、困ったもので、なにも感じないの。
だけど、北原が作ってくれたんだから、すべて食べたけどね」
佐和子「その時からずっと味がわからなくなったってことでいいのね?」
麻理「ううん。昼になって北原が来て、その時北原が作ってくれた料理はすっごく
美味しかったのを覚えているわ」
佐和子「一時的には復調したってことか」
麻理「そうかもね。北原が帰って、一人で食事しても味はあったと思うわ。
多少は薄味になっていたかもしれないけど、気になるほどではなかったはず」
佐和子「でも、悪化していったのよね?」
麻理「そうね。NY行きが迫ってきて、北原に会えなくなるって考えるようになって
不安になればなるほど、悪化していったわ。
その頃北原、お弁当作ってくれるようになってね、お昼は一緒に食べてたのよ」
佐和子「見た目通りまめな男ね」
麻理「お弁当はありがたかったわ。これが唯一の繋がりにさえ思えたから。
そう思うと、その時は楽しくても、仕事から帰って一人で食事をすると
味気なかった。おそらくその頃から本格的に悪くなったと思うわ」
佐和子「日本にいた時からか。じゃあ、日本で病院に?」
麻理「ううん。あの頃は引き継ぎとか、NYでの仕事の準備で忙しくて時間がなかったわ。
病院に行ったのは、佐和子がこっちにくるって言ってきたときね」
佐和子「急に病院に行ったからって、治るような状態でもないでしょ」
麻理「ドクターにも言われたわ。これからはカウンセリングと精神安定剤を使って、
焦らずに治していこうって」
佐和子「薬は、どう? 効いてる?」
297: 2014/09/30(火) 17:37:35.68
麻理「飲んでないわ。ドクターも調子が悪い時に飲めばいいっていってたし、
なによりも、精神安定剤を飲んだからって、治るわけでもないのよ。
ただ気持ちを落ち着かせるだけ」
佐和子「それで大丈夫っていうんなら・・・」
麻理「ううん。たぶん精神安定剤に依存してしまうのが怖いのかもね。
今は北原に依存しているけど、今度は精神安定剤に依存してしまう自分が
みじめになるのが怖いの」
佐和子「麻理・・・・・・・」
麻理「もう、十分みじめったらしい女なんだけどね」
佐和子「ついでに重い女よ」
麻理「まっ、悲劇ぶるのは私の性分じゃないから、戦っていくわ。
ありがとね、佐和子。いつも通りに接しようとしてくれて」
佐和子「違うわよ。他の接し方を知らないだけ」
佐和子は、恥ずかしそうに視線を外そうとしたが、ばっちり照れているのが見てとれる。
佐和子は、こっちを見ないようにして、居心地悪そうに足を組みかえたりもしている。
そして、気分を変えようとありもしないコーヒーカップを取ろうとした。
佐和子「コーヒーもらえないかしら? ちょっと喉乾いちゃって」
麻理「ごめんなさい。できれば、水か炭酸水で我慢できない?」
佐和子「それでいいわ。水お願いするわね」
佐和子の返事を聞いてから、ソファーから腰を上げ、冷蔵庫からミネラルウォーターの
瓶を二つ取り出すと、トレーにコップ二つと布巾ものせ、リビングへと戻る。
瓶のキャップを外し、コップに水を注ぐ。冷たい瓶の感触が、心地いい。
佐和子と話していても、どこか夢のような感触さえあったが、
冷気が私を現実に縛りつける。
覚悟していたことだが、佐和子がいつも通りなのを心から感謝した。
佐和子「ねえ、麻理。もしかして、コーヒーの香りも駄目なの?」
麻理「するどいわね」
佐和子「さすがにね。摂食障害の話なら多少は聞いたことあるわ」
麻理「仕事の時は集中しているから大丈夫なの。でも、外で食べり飲んだりするのは無理。
だから、食事は自宅でしかしてないわ」
佐和子「それじゃあ、一日二食ってこと?」
麻理「ううん。夜帰ってきても、疲れているから、そのまま寝てしまうことが多いわね」
佐和子「そんなことしていたら、いつか倒れるわよ」
麻理「サプリメントとか栄養ドリンクは飲んでいるから、多少は大丈夫なはずよ」
298: 2014/09/30(火) 17:38:06.51
佐和子「そんなの一時しのぎよ。食事をしなくちゃ、痩せていって・・・・・・。
今、食事もできないの?」
麻理「できなくはないけど、食べても気持ち悪くなるのよね。
お腹が痛くなったり、吐きそうになったり。
味がわからないのは同じなんだけど、食べても気持ち悪くなるとなると
食事も億劫になってしまうわ」
佐和子「ふぅ・・・・・・。それも症状の一つってことでいいのよね」
麻理「ええ。でも、自宅でなら食事はできるのよ。
食べた後、気持ち悪くなるのも対処法がわかってきたし、
だから夜は疲れていて無理でも、朝食はしっかり摂るようにしてるわ」
佐和子「昼食は無理にしても、朝食だけって。夜もしっかり食べないと、
今度は仕事どころじゃなくなるわよ」
麻理「そんなことは絶対ならないように気をつけてるわよ。
私には仕事しかないんだから。
だからね、仕事も土日はしっかり休むようにしてるの」
佐和子「へえ。ワーカーホリックの麻理にしては、すごい決断したわね」
麻理「そういわれると心外なんだけど、土曜は自宅で仕事をするようにして、
日曜は完全休養にあててるわ。
だから、土日は、しっかり三食摂ってるわよ」
佐和子の反応も、日本での私を知ってる人なら当然の感想かもしれないか。
だって、休みなんてないも等しかった。
仕事の合間の休憩が休暇で、仕事が入れば休暇は即終了。
どこにいても仕事が最優先だったわね。
佐和子「それで、部屋の中も綺麗なわけか」
佐和子は興味深く部屋を点検していく。
さすがに日本にいたころの部屋を熟知しているだけあって、
この落差にストレートに驚きを見せた。
麻理「それはちょっと違うわ」
佐和子「なぁにかわいこぶってるのよ。あなたのちらかった部屋に何度行ったことか」
麻理「違うのよ。そういう意味でいったんじゃないの」
佐和子「じゃあ、どういう意味なのよ」
麻理「綺麗な部屋じゃないと落ち着かないのよ」
佐和子「はぁ? 体調壊しても、その辺の心境変化はよかったじゃない」
麻理「それも違うわ」
299: 2014/09/30(火) 17:38:36.29
佐和子「だったら何よ?」
麻理「北原が・・・・・・」
佐和子「北原君が綺麗な部屋がいいって?」
麻理「ううん。北原が部屋を綺麗に掃除してくれたの。
大掃除でもしたんじゃないかってくらい綺麗に掃除していったわ」
佐和子「へぇ・・・。北原君らしいったららしいけど、あんた、掃除までやらせてたの」
麻理「違うわよ。勝手にやってくれたの。家に帰ってきたら、綺麗に掃除してあって
部屋を間違えたんじゃないかって、驚いたくらいなんだから」
佐和子「そりゃあ、あの部屋が突然綺麗になってたら驚くわね」
麻理「でしょう。よく小説とかでもあるけど、一旦玄関から出て、部屋番号確認
したんだから」
佐和子「ふふっ。それは傑作ね。でも、あの北原君なんだから、掃除したのも
一度きりってわけじゃないわよね。実際どうたっだの?」
さすが佐和子。腕を組み、なんでもお見通しですって顔をしている。
その顔、さすがにぐっとこたえるものがあるけれど、我慢我慢。
麻理「私がNYに行ってるときに、部屋の風通しをしてもらってただけよ。
それに、私がいないんだから、部屋もそんなには汚れていないはずだし」
佐和子「でも、麻理が日本に戻ってきても、麻理は掃除しないんなら、
結局汚い部屋を掃除するのは北原君じゃない」
麻理「そ・・・それはそうかもしれないけど」
痛いところをついてくるわね。
頼りにはなるけど、隠し事ができないことが難点ね。
佐和子「それで、実際はどうなの?」
佐和子は、早く吐けと詰め寄ってくる。こういう気さくなところはありがたい。
それでも、私にだってプライベートってものがあるのよ。
佐和子からの追及を逃れようと顔をそらそうとしたが、
佐和子の両手が私の頬を挟み込む。
ぐいっと強制的に引き戻された私の顔は、正面から佐和子と向き合うしかなかった。
麻理「ふぁなひぃてくぁあいほぉ、ふぁなせあぃ・・・・・・」
どうにか両手の圧迫で言葉が話せないとわかってくれたのか、頬を解放してくれる。
300: 2014/09/30(火) 17:39:06.49
しかし、一人掛けの狭いソファに強引に割り込んでくてくるものだから、
佐和子は私の腰に体を寄せてくると、ゆっくりとソファーに侵食していき、
私が逃げられないようにと腕を腰に絡めてくた。
佐和子「さあ、白状しなさい」
麻理「別に大したことを頼んだんじゃないわよ。合鍵を渡したことがあって、
それを返さないでもいいって言っただけ。
それで、たまには部屋の風通しをしてって頼んだら、
掃除もしておきますよって言ってくれたのよ。
ね、大したことないでしょ?」
佐和子「大したことあるわよね」
佐和子は、にたっと盛大な笑みを浮かべると、頬がくっつくくらい迫りくる。
麻理「な・な・な・・・・・なんでよっ!」
佐和子「だって、麻理もその理由がわかってるから、顔を真っ赤にしてるんでしょ」
麻理「え?」
佐和子「え?って、気がついてないの?」
麻理「だから、なにに?」
佐和子「はぁ・・・・・・。ワーカーホリックをこじらせると、こうまで天然というか
悪女というか、面倒な女になっちゃうのね」
麻理「なに一人で納得してるのよ。私がわかるように説明しなさいよ」
佐和子「だからね、麻理。北原君に麻理の部屋の合鍵を返してもらいたくないから
部屋の換気を言い訳に、合鍵返さなくてもいいようにしたんでしょ」
麻理「あっ」
佐和子「あって、今頃気が付いたの。もう、うぶなんだか、天然なんだか、
このこのぉ」
佐和子は、私の頬を人差し指でぐりぐりと押し込んでくるが、
佐和子にかまっている余裕なんて私にはなかった。
きっと佐和子が指摘したように、私の頬は真っ赤なんだと思う。
耳や首まで赤く染まってるってかけてもいい。
それだけ北原のことを、北原との会話を思い出すと、体が熱くなるほど恥ずかしかった。
逃げ出したいとか、失敗したとかじゃなくて、もっと純粋に北原に私の内面を
知られてしまったことが恥ずかしかった。
もう北原は、私が北原の事を好きだってことは知ってるんだ。
ヴァレンタインの日に、告白したしね。でも、その前から北原には、
わずかな繋がりさえも手放せないほど好きってことを知られちゃってたんだ。
そっか・・・・・・。知られちゃってたのか。
301: 2014/09/30(火) 17:39:49.01
佐和子「なぁ~に、乙女ぶって、ニコニコしてるのよ。
見てるこっちが恥ずかしいわ」
佐和子にも、そして、北原にも全て知られちゃったのか。
心因性味覚障害については、これから北原に知らせないといけないけど、
隠す必要なんてなかったのかな。
だったら、あの時無理なんてしなければよかったなぁ。
せっかくのチャンスだったのに・・・・・・。
第17話 終劇
第18話に続く
第17話 あとがき
『coda編』を書いてみて気が付いたのですが、話の展開が遅いです。
しかも、今回は麻理さんと佐和子さんしかでていなく、
主人公であるはずの春希はまったく出ていませんし。
今度、かずさか麻理さんの独白で、一話まるまる使って書いてみたいなという
無謀な意気込みを持ってしまいそうですw
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
304: 2014/10/07(火) 17:33:34.76
第18話
1-4 春希 春希マンション 4月4日 月曜日 夜
佐和子「って、感じだったのよ。それでね、麻理ったら、
自分で部屋を綺麗にするようになったきっかけっていうのが、
綺麗な部屋の方が北原君を感じられるからなんだって。
もうのろけられまくちゃって、こっちが恥ずかしかったわ」
佐和子さんは、一息にNYでの麻理さんの様子を話しきると、
最後は笑い話で締めようとする。
しかし、その笑い話も笑い話にさえならないって、
佐和子さん自身も気が付いているはずだった。
俺を気遣って、少しでも俺の責任を軽くしようとしてくれているのかもしれないけれど、
俺は気がついてしまう。
だって、話を裏返してしまったら、麻理さんは、自宅であっても
俺を感じ取れない部屋であるのなら、食事ができないってことにほかならない。
もしかしたら考えすぎかもしれないけど、仕事で忙しいのは確かなのだから
掃除をこまめにする時間なんてないはずだった。
仮に食事は関係ないとしても、日常生活で、自宅でも俺を感じられなければ
安らげる場所がないんじゃないかって、大きくうぬぼれてもしまう。
春希「佐和子さん。勘違いならいいんですけど、部屋が綺麗じゃないと
俺を感じ取れなくなって、食事や日常生活に支障がでてるんじゃないんですか」
俺の指摘に、佐和子さんの顔から作り笑いが崩れ落ちる。
無表情になり、そして、うろたえた表情になりかけたところで
これ以上表情が壊れていかないようにとぐっと我慢していた。
佐和子「まさにその通りよ。別に綺麗な部屋が絶対必要ってわけでもないみたいだけど
麻理の中での思い出では、上位に位置するものらしいわ」
大学生になって、開桜社にバイトにいき、麻理さんの下で働きだした。
305: 2014/10/07(火) 17:34:10.73
でも、そのただのバイトとしての思い出は多いかもしれないが、
クリスマスイブからNYへ行くまでのたった2ヶ月しかない思い出の方が
価値が非常に高かった。
比較にならないくらい濃密な時間ではあったけど、
時間が少ない分思い出の数も少ない。
だから、麻理さんの拠り所になる思い出も限られてしまうのかもしれない。
佐和子「それとね、3月の初めに日本での最後の引き継ぎに帰ってきたでしょ」
春希「あ、はい。でも、スケジュールが合わなくて、会えませんでした」
佐和子「私も会えなかったわ。でもそれって、
会わなくてもいいように麻理がスケジュールを調整していたのよ」
春希「それって?」
佐和子「もうそのときには痩せちゃって、私たちが見たら気がつくと思ったんでしょうね。
食べられないのに、仕事はハードなんだから。
それは一月もしないうちにガリガリになっちゃうわよ」
春希「そんなにひどいんですか?」
佐和子「今はまだ病的なまで痩せてるわけではないんだけど、
それでも痩せすぎているって感じかしらね。
このまま食べないでいるのなら、ガリガリになる前にハードな仕事のせいで
倒れてしまうでしょうね」
春希「でも、食べないでいるんなら、体がいうことをきかなくなって、
仕事に支障が出てきますよね?
だったら、その時点で仕事に厳しい麻理さんの事ですから、
質が悪い仕事をしない為にも
仕事をセーブするようになるのではないでしょうか?」
佐和子「それはないでしょうね」
春希「どうしてです?」
佐和子「だって、北原君の事を思い出す時間を削る為に働いているのよ。
もちろん麻理だって、仕事をするからには手を抜かないし、
仕事に逃げているだなんて思われないように、仕事とは真摯に向き合ってるわ。
それでもね、どう言葉で言い繕っても、結果的には仕事に逃げているって
思われても・・・・・・、ううん、麻理本人も認めているんでしょうね」
春希「俺がそこまで麻理さんを追い詰めていただなんて・・・・・・」
佐和子「そのあたりについては、麻理も口が堅くて詳しい事は知らないわ。
まあね、あの子との付き合いも長いし、断片的な話からでもおおよその内容は
わかっちゃうんだけどね。しかも、本人が無自覚なうちにのろけ話に
なってるし・・・・・・・、うらやましい」
306: 2014/10/07(火) 17:34:38.06
あぁ、・・・最後の一言だけは、きかなかった事にしよう。
でも、麻理さんが・・・・・・。
佐和子「それで、北原君はどうするつもり?
あなたの事だけら、麻理の事、ほっとかないんしょ?」
佐和子さんは、姿勢を整えると、まっすぐ俺に向かって問いかける。
それは、お願いでも、プレッシャーでもない。
俺のことをわかった上での事実確認にすぎなかった。
佐和子さんは、俺の決断を尊重し、全力でサポートしてくれるに違いなかった。
春希「具体的に今すぐどうすればいいかだなんてわからないのですが、
それでもNYへ行こうと思います」
佐和子「開桜社の内定貰ったばかりだし、それに大学はどうするの?」
春希「大学は、卒論の提出時期を7月末までに速めれば、
後期日程は行かなくても卒業することはできますよ」
佐和子「それって、簡単にいっちゃってるけど、
本来なら一年かけて卒論を仕上げるものじゃない」
春希「普通はそうなんですけどね。俺の場合は、前期日程で卒業に必要な講義って
2つしかないんですよ。あとはゼミに行って、そして卒論頑張るくらいなので
卒論を早く仕上げること自体は問題ないと思います。
一応教授の了承が必要ですが、大丈夫だと思いますよ」
佐和子「それだと8月から行けるってことね。
でも、麻理が受け入れるかしら」
春希「そこは、これからNYにいって説得してみせます」
佐和子「行く日時決まったら言ってね。チケットとるからさ。
ホテルはいらないわよ。麻理んとこ泊まればいいんだし」
春希「それは・・・ちょっと、麻理さんがどう思うか」
佐和子「なぁ~に言っちゃってんの。麻理んとこの合鍵もらっちゃってるくせに。
もう何度も泊まってるんでしょ?」
春希「それは、そうかもしれませんけど」
佐和子「それに、きっと麻理は北原君の側にいたいはずよ。
もしホテルを用意してくれていても、断ってくれないかな。
それは、麻理の精一杯の強がりだから。
もう倒れそうなくらいボロボロなくせに、こういうところは意地っ張りに
なっちゃうのよね」
佐和子さんは、じっと自分の爪を見つめ話し続ける。
307: 2014/10/07(火) 17:35:05.77
その見つめる先にある握られた手の中には、俺が知らない麻理さんとの思い出が
詰まっているのかもしれない。
親友だから話せる事。親にだけなら話せる事。恋人にしか言えない事。
だったら、俺は、麻理さんのどのような存在でいられるのだろうか?
佐和子「だからね、北原君。麻理の事、よろしくお願いします」
春希「はい、自分にできる限りの事はやるつもりです。
今まで受けてきた恩がどうとかじゃなくて、自分が麻理さんには幸せに
なってもらいたいから、NYへ行きます」
佐和子「ありがとう、北原君」
春希「でも、麻理さんのことだから、ただ身の回りの世話をする為だけにNYへ
行くと言っても、聞き入れてくれないでしょうね」
佐和子「そうねぇ・・・。それだと自分の為に大学やバイトまで休んで来てもらってるって
感じてしまうでしょうね。実際、北原君が調整して大学を卒業できるように
してあっても同じでしょうね」
春希「それでも、今のままでは駄目なんでしょうね」
佐和子「あの子ったら、変な所で頑固なのよねぇ」
春希「だったら、麻理さんがわざとらしい理由だと思ってしまっても、
それなりに筋が通った道筋を強引に作って、
もうそれが動き始めてるって教えてあげればどうにかなりませんか?」
佐和子「まあ、このさい強引でもいいから、やっちゃった勝ちかもしれないわね。
それでも、なかなかいい案なんて都合よく思い浮かばないわよねぇ・・・」
俺に適当な案などあるわけもなかった。
仮に時間をもらったとしても、思い付くか微妙な所だ。
俺は、佐和子さんからの視線を逃れるために、本棚を適当に見つめる。
そこに俺が求める答えなどあるわけもないのに、できもしない問題の為に
時間稼ぎをしてしまう。時間だけが過ぎ去っていく。
佐和子さんであっても、都合がよすぎるあらすじなど、簡単には作れない。
俺もいくつか考えてみたが、あまりにも現実から乖離しすぎている内容であった。
もちろんNYへ行くとしても、バイトしなければ食べてもいけない。
麻理さんに養って欲しいと願い出れば、大学を卒業するまでは面倒見てくれるかもしれない。
でも・・・、俺が大学を卒業するまでに、麻理さんの症状が改善する保証など
どこにもないんだ。
俺が就職して後、麻理さんを見捨てて日本に帰国するのか?
そんなことできない。俺は、麻理さんを見捨てることなんて、できやしない。
・・・・・・・・・・・・・・・だったら、NYで就職するか?
それこそ都合がよすぎる展開じゃないか。
308: 2014/10/07(火) 17:35:36.37
どこで都合よくNYでの仕事を見つけるっていうんだ。
俺は、いらだちを抑えようと、意味もなく本棚に並べられた本のタイトルを読んでいく。
そして、一冊の本の前で目がとまった。
その本は、麻理さんから渡されて、一度だけ読んだ冊子。
内容は、開桜社の規則が書かれているものであって、麻理さんに読めと言われなけば
ろく読みもせず本棚に納めていた自信がある。
バイトの休憩時間に編集部で読んでいると、松岡さんが後ろから覗き込んで
言ったものだ。
松岡「こんなの読んでるやつ、この編集部にはお前くらいしかいないんじゃないか?」
春希「麻理さんに一度は読んでおけって言われたんですよ」
松岡「なら訂正。この編集部には、こんなの読んでいる奴らは、
お前と麻理さんしかいないよ」
春希「もしかしたら他にもいるかもしれないじゃないですか」
松岡「いいや、わかるって。だって、それもらうのって、新人研修のときだぜ。
研修で疲れているのに、念仏みたいにぐだぐだと使いもしない規則言われても
寝てるだけだって。ほら、そこにいる鈴木にも聞いてみ。
絶対寝てたはずだから」
鈴木「え? なになに。私がどうしたって?」
自分の名前を呼ばれた鈴木さんは、生来の好奇心の強さもあって、話に加わってくる。
松岡「北原がさ、社の規則本読んでるんだよ。
俺達も新人研修の時聞かされたけど、寝てたよなぁって話」
鈴木「あぁ、寝てた、寝てた。熟睡してた自信あるよ」
春希「新入社員の為に時間を割いてくれているんですから、
寝ないでまじめに研修受けてくださいよ」
松岡「ならさ、お前は今さら新人研修なんて意味あるとでも思ってるのか?」
春希「え?」
松岡「だって、編集部での実際の仕事と、マニュアル通りの新人研修の教則なんて
まるで違うだろ」
春希「それは、・・・・・俺は新人研修受けてないですから、わかりませんよ」
松岡「だったら、普通の仕事に慣れてきた入社二年目のペーペーが
麻理さんのもとで麻理さん並みに仕事していけると思うか?」
春希「それは、無理ですよ。だれだって、不可能です」
松岡「だろ。仕事をただ覚えただけの新人なんて、使い物にならないんだよ」
鈴木「なんとなぁくまっちゃんの言いたい事は理解できるけど、
少し例え話がずれてる気もするなぁ」
309: 2014/10/07(火) 17:36:08.46
松岡「え? 駄目?」
なんてことも今ではいい思い出か。
ほんとあの時麻理さんに言われて読んでおいて良かった。
必要な時に読むだけでいいはずで、必要なときなんてきやしないのが実情だが、
今、その滅多にない必要な時が訪れようとしていた。
俺は、音もなく立ち上がると、その本を取り出し、目的のページを探りだす。
佐和子さんは、興味深く俺を観察するだけで、俺が導き出す答えをじっと待っていた。
春希「これ見てください」
俺が広げたページには、インターン・入社前研修についての項目が書かれていた。
佐和子「これがどうしたの?」
春希「この項目の制度を使おうと思います」
佐和子さんは、俺が指差す項目を読み終わると、顔を上げて不敵にほくそ笑んだ。
佐和子「これだったら麻理も文句は言わないわね」
春希「ええ、きっと問題ないでしょうね」
佐和子「でも、よく思い付いたわね。ふつうこんな制度なんて知らないし、
使おうとする人なんていないんじゃないかしら?」
春希「うちだと珍しいと思いますけど、企業によっては、
最初から予定しているところもあるみたいですよ」
佐和子「へぇ~、時代も国際化に対応していってるのねぇ」
佐和子さんはもう一度本の項目を眺めると、感心したのかしみじみ呟くのであった。
春希「明日バイトに行ったときに、上司の浜田さんに相談してみます。
前例がないと難しいかもしれないですけど、これだったら来年入社しても
NYで勤務できるようになるかもしれませんからね。
来年の勤務地ばっかりは麻理さんに頑張って引き抜いてもらわないといけませんが
うまく流れは作っておけるはずです」
希望が見えてはしゃぐ俺をよそに、佐和子さんは冷静に俺を観察していた。
けっして冷たい目で見つめていたわけではない。
むしろ俺にすがっている感じさえ受け取れてしまった。
だから、佐和子さんが探るように俺に問いかけてのも頷けてしまう。
310: 2014/10/07(火) 17:36:37.94
佐和子「ねえ、北原君。来年も、麻理の側にいてくれるの?」
春希「ええ、麻理さんが大丈夫になるまで側にいるつもりです」
佐和子「それって、いつ終わるかわからないのよ。
もしかしたら、治らないかもしれない。
ううん、麻理がもっと北原君に依存しちゃって、
あなたを離さなくなる可能性だってあるのよ。
それでも、・・・・・それを覚悟しているのかしら」
佐和子さんの疑問も当然だ。一時の感情で動きで、
それで将来を決めてしまう危うさが俺の発言には秘められていた。
だからこそ、佐和子さんはそれを危惧してしまう。
仮に、一時の感情でNYへ行って、そして、
俺が途中で麻理さんを投げ出しなどしてしまったのならば、
今以上に酷い症状になることくらい誰の目でも明らかである。
春希「俺は、逃げ出したりしませんよ。最後まで麻理さんの側にいるつもりです」
佐和子「でも、冬馬さんは、どうするつもり・・・なの?」
春希「それは・・・・・・」
かずさを待つ。かずさがいつきてもいいように準備しておく気持ちは今も変わりない。
しかし・・・・・・、
春希「かずさのことは、大事です。だけど、それ同じように麻理さんの事も大事なんです。
どちらか片方だけしか幸せにできないとしても、最後まで諦めるつもりはありません」
佐和子「それって、浮気者の言い訳じゃない」
佐和子さんは、心底呆れたように明るく呟く。
春希「いいんですよ。だれがどう思おうとかまいません。
俺が決めた未来の為に、突き進むまでです」
佐和子「まっ、かっこいいセリフなんだろうけど、しっかりと麻理を自立させて
くれるんなら文句を言わないわ。
でもね、北原君・・・」
春希「はい」
佐和子さんは、キッと、俺を睨みつけると、言葉を選びながら慎重に告げてきた。
311: 2014/10/07(火) 17:37:09.54
佐和子「麻理の将来を、壊すことだけは、やめてね。
もし、麻理を投げ出すのならば、それは・・・、その時期は、早い方が
立ち直るのが、早いはずよ。その時は、私が麻理の面倒を最後までみるから。
だから、麻理を捨てるときは絶対に振りかえらないで。
あなたが振り返ったりしたら、
絶対麻理の中にあなたへの、未練が、こびり付いてしまうでしょうから」
春希「わかりました。約束します」
佐和子「ありがとね」
春希「でも、この約束は意味をなしませんよ」
佐和子「え?」
驚いたような顔を俺に見せるが、俺はその顔に笑顔で答えを返す。
春希「だって、俺ってしつこいんですよ。しかも、計画的で、押しつけがましくて、
いくら相手が嫌がっても、粘りに粘って相手に踏み込んで行くんです」
俺の宣言に、佐和子さんの緊張は解けていく。
春希「だから、計画を練ってNYに乗り込んだ時には、
後に引くことなんてありはしないんですよ」
佐和子さんの顔から緊張は消え去っていた。そして、新たに芽生えた表情は、
ちょっと困ったような、馬鹿な奴を微笑ましく見つめるような、
今の俺の感情に近いものを映し出していた。
佐和子「そうね。そのくらい強引なくらいがちょうどいいのかもね」
春希「8月からの方針は決まったとして、それまでの間はどうしましょうか?
さすがに何度も日本とNYを往復することなんて、金銭的に不可能ですから。
しかも、8月からの事を考えますと、出費も抑えたいですね」
佐和子「悪いわね。北原君にばかり負担かけさせてしまって」
春希「いいえ。自分がやりたいからやってるんですから、佐和子さんが気にすること
ではないですよ。でも、チケットとか、裏工作など助けてもらいますよ」
俺は、ちょっと意地汚い笑いを作り出すと、佐和子さんもそれにのっかって、
悪役さながらの笑みを浮かべる。
それは、今後の方向性が見つかり、少し気持ちが軽くなったせいでもあるのだろう。
一度動きだしてしまえば、止まることはできない。
312: 2014/10/07(火) 17:37:50.70
計画的で、根回しを得意とし、安全重視の防弾列車。
動きだしは悪いが、目的地に着くまでの早さと確実性だけは、他を圧倒している自信がある。
佐和子「そのくらい任しといてね」
春希「ええ、頼りにしています。そうですねぇ・・・・・・・・、
まずは、ここのマンション引き払います」
佐和子「え? だって、いいの? 実家に?
お母さんとは・・・どうするつもり?
え? それとも、もっと安いアパートに?」
佐和子さんが慌てふためくのも無理はない。
なにせ大学に入って、しばらくして実家を出てからは、
母親とは顔を会わせる事すらしていないもんな。
けっして互いの事を嫌っているのわけではない。
互いに興味がないだけの関係。
その事を知っている佐和子さんならば、俺がこのマンションで暮らす意味を
理解できている。
俺は、落ち着いた口調で、佐和子さんに事情を語り始めた。
春希「実家に帰ります。別に母も問題なく了承してくれるはずです。
それに8月までの短い期間ですしね。
だから、5月からと言わないで、今すぐにでも実家に戻る予定です。
もちろん光熱費などの生活費は渡しますけど、それでも契約期間ギリギリまで
ここにとどまっているよりは節約できるでしょうから」
佐和子「北原君は、それでいいの?
そのくらいのお金だったら私が出してもいいのよ」
春希「大丈夫ですよ。佐和子さんだって、これからNYに行くことも増えるでしょうし、
なるべく出費を抑えたほうがいいですよ」
佐和子「そうかもしれないけど、私ができることなんて、たかがしれているのよ」
春希「それでもです。それに、高校時代の生活に、ちょっとだけ戻るだけです。
たった4か月の共同生活・・・・・、というよりも、間借りですかね。
そんな感じなので、全く問題ないんです」
佐和子「北原君が大丈夫って言うんなら、それでいいけど」
それでも佐和子さんは、まだ言い足りない雰囲気を漂わす。
しかし、俺はこの話題に終止符を打つべく、新たな話題を投下した。
春希「俺の方は、明日から動くとして、麻理さんの方はどうなんです?
8月に俺がNYへ行くまでの間、どうにかもたせないと意味がないですよ」
313: 2014/10/07(火) 17:38:26.25
佐和子「そうだったわね。その辺のところは、北原君が8月からNYへ来るってことが
励みになるし、・・・・・あとそれに、どうにかなるかもしれないような
できないかもしれなくもない・・・・・・・・
えぇっと・・・、できるかもしれない・・・かな?」
どうも妙な言い回しに俺は首を傾げるしかなかった。
佐和子さんも、視線を泳がし、はっきりと言えないようでもある。
春希「この際隠し事はなしにしましょう。緊急事態なんですよ」
佐和子「そうなんだけど・・・さ。こればっかりは・・・・・・ねぇ」
春希「なにか麻理さんに口止めでもされているんですか?」
俺の問いかけに、肩を震わせ、動きを止める。
ゆっくりと俺に視線を向け、俺の鋭い視線を確認するや否や、
佐和子さんの挙動不審な行動はピークに達する。
春希「佐和子さん」
佐和子「もう・・・麻理も一応女の子って年でもないけど、女なのよ。
秘密の一つや二つくらいあってもいいじゃない」
春希「そうはいっても、時と場合によります。今は一刻を争う事態なんですよ」
佐和子「そう・・・なんだけど・・・ねぇ」
どうものらりくらりとうやむやにしたい佐和子さんは、要領を得ない。
だから俺は、佐和子さんに一歩詰め寄り、無言のプレッシャーを与え続けるしかなかった。
佐和子「もう、わかったわよ。そんな怖い顔でみないでよ」
春希「俺は何もしていませんよ。怖いと思ったのは、佐和子さんに後ろめたいことが
あるからじゃないですかね?」
佐和子さんは、小さくため息をつき、NYの方へ一度謝罪すると、俺と向き合った。
佐和子「あとで麻理には北原君が強引に聞き出したっていうからね」
春希「かまいませんよ。いくらでも俺のせいにしてください」
佐和子「なんか開き直り過ぎじゃない? もう怖いもの知らずって感じ」
佐和子さんは、ちょっと俺の行動に引き気味にもなり、俺から一歩体を引く。
春希「怖いものなんてありませんよ。麻理さんの今後が一番怖いですからね。
それ以上のことなんて、ありえません」
314: 2014/10/07(火) 17:39:41.01
佐和子「そうね、ごめんなさい」
春希「いいんですよ。・・・・・・・・で、話してくれますね?」
佐和子「もう、降参。でも、これをきいて麻理の事引かないでよ」
春希「たいていの事なら受け入れますよ」
佐和子さんは語りだす。
NYでの出来事を、もう一度追体験するように、じっくりと。
それは、俺が思いもしないような光景であった。
嬉しくもあり、そして、なによりも、
俺の想像よりもひどくつらい現実に叩き落とされた瞬間でもあった。
第18話 終劇
第19話に続く
第18話 あとがき
ちょこちょこと『cc編』にしかけた伏線が出てきていますが、
気がついてくれたでしょうか?
春希がサンドウィッチに仕掛けたマスタードに、麻理が気がつかないあたりは
『~coda』の為に作られた設定ですね。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
317: 2014/10/14(火) 17:30:56.76
第19話
1-5 麻理 麻理宅 3月29日 火曜日
いつしか日は暮れ、西日が差しこみ始めていた。
いくら深刻な話をしていようと、体は正直で、欲求をストレートに渇望する。
佐和子「ねえ、麻理。夕食ってどうする?
一応聞くけど、料理もするようになったの?」
麻理「あいにく料理だけは駄目だったわ。
人には向き不向きがあるのよ」
佐和子「そんなの自信満々に言われても、かっこよくないわよ」
1か月前より若干小さくなった胸を張る麻理に、佐和子はカウンターを見事にくらわす。
しかし、麻理はそれにもめげずにくらいついてくる。
麻理「掃除も料理も全くしない佐和子には言われたくないわね」
佐和子「はい、はい。自分がちょっと掃除するようになったくらいでえばらないの」
麻理「そんなことないわよ」
佐和子「は~い、わかりました。さて、食事はどうするのかな、
掃除はしっかりするようになった麻理ちゃん」
麻理「な~んか、馬鹿にしてない?」
佐和子「あっ、わかるぅ?」
佐和子は努めていつものように演じてくれている。
演じるというよりは、これが佐和子と麻理の距離なのかもしれなかった。
なにがあっても揺るがない距離。
佐和子に面と向かって感謝なんてできやしないけど、
これが親友なんだなってしみじみ思ってしまった。
麻理「もう・・・。お弁当買いに行くわよ」
佐和子「お勧めはあるの?」
麻理「ついてくればわかるわよ」
佐和子「はい、はい」
318: 2014/10/14(火) 17:31:29.11
佐和子「えっと、ほんき?」
麻理「なにか偏見もってない?」
佐和子「もってないし、悪くもないとは思ってるけどさぁ・・・」
麻理「だったら、いいじゃない。一度食べてみて、駄目だったら明日は違う店に
連れていくわよ」
佐和子「まあ、いいかなぁ」
目の前の店には、でかでかとショップ名とともに、ベジタリアン食と表記されている。
日本よりも各自の食文化と宗教を尊重するアメリカならではともいえる。
ただ、麻理がどうしてこの店を使ってるのか、佐和子には疑問が残った。
佐和子「一応聞くけど、ベジタリアンになった?」
麻理「なるわけないでしょ。味もわからないんだから、お肉を食べようと
野菜を食べようと、変わりはないわ」
佐和子「だったら、どうしてベジタリアン食?」
麻理「どうしてって、健康の為よ。さ、行きましょ」
佐和子「まあいいけどさぁ」
ちょっと不満そうな佐和子をよそに、麻理は店内に入るや否や、
すぐに注文に入る。
佐和子自身、NYでそれなりの食事も期待していたと思う。
だけど、本当に悪いけど、今の麻理にはその希望をかなえる事は無理だった。
佐和子「ちょっと麻理。さっさと注文しないでよ。
私は初めてなんだし、お勧めとか教えてくれないとわからないわ」
麻理「ごめん、佐和子。お勧めも何も、味がわからないんだから、
教えてあげることなんて無理よ。
・・・・・・私が注文したのは、あれ、だから。
たぶんそれなりに栄養バランスを考えられたお弁当だと思うわ。
・・・・・・ごめん、佐和子。はい、これお財布。
悪いけど、お金払って、お弁当も貰ってきてくれない?
ここのお弁当は、私が奢るから。
私は、外で待ってるわね」
319: 2014/10/14(火) 17:32:04.67
そう佐和子に告げると、麻理は、店内から逃げるように出て行く。
口元を抑え、俯き加減で出て行く様は、事情をある程度知っている佐和子に
新たなる不安を与えるには十分すぎるる状況であった。
佐和子「はい、お財布」
二人分のお弁当が入った袋を片手に、佐和子は財布を差し出す。
麻理「急に店から飛び出しちゃって、ごめんなさい」
佐和子「気にしてないわ。でも、家に戻ったら、しっかり話してもらうわよ」
麻理「わかってるわ」
麻理は、財布を受け取ると、少し青白い顔で力なく答えるのであった。
家に着くころには、麻理の顔色も回復し、その足取りも軽くなっている。
麻理の体調が回復する一方で、佐和子の懸念は増すばかりであったが、
今の麻理に強引に全てを聞き出すことなんて、佐和子にはできはしなかった。
佐和子「本当に大丈夫? 少し休んだ方がいいんじゃない?」
麻理「大丈夫よ。いつもの事だから」
佐和子「そう? ならいいんだけど」
麻理「さてと、聞きたいんでしょ」
佐和子「まあ、ね」
麻理「だよね。・・・・・・外で食事できないのは、いったわよね」
佐和子「ええ」
麻理「食事を見るのも臭いを嗅ぐのも無理なのよ。
仕事の時は集中しているから大丈夫なんだけどね。
でも、オフのときは無理・・・かな」
佐和子「それって、そうとう・・・・」
麻理「重症よね。・・・野菜中心にしているのは、特に意味はないわ。
ただ健康に良さそうな物を選んでいるだけ。
できるだけ体が拒否反応を起こしにくい消化がいいものを選んでいるだけよ。
だから、お肉が無理ってわけでもないわ」
佐和子「そっか。色々考えてはいるのね」
麻理「まあね。でも、あまり意味はないみたいだけど。
さあて、そろそろ食事にしましょうか」
320: 2014/10/14(火) 17:32:47.13
麻理の掛け声にあわせ、佐和子もお勧めのお弁当を若干の期待とかなりの不安と共に開く。
麻理は今まで味がわからなく、見た目でしか判断できていなかったが、
佐和子曰く、そこそこ美味しいらしい。
ダイエットに向いているし、毎日は無理でも、たまに食べる分には十分すぎる美味しさを
兼ね備えているらしかった。
佐和子「NYにまできて、精進料理みたいなの食べるとは思わなかったわ。
もっとジャンクで、おにくぅって感じのをガツガツ食べると思ってから、
これはこれで貴重な体験かもね」
佐和子は、一人お弁当の感想を述べ続ける。
麻理があまりにも無言でもくもくと食べるものだから、場を持たせようと佐和子も
必氏であったのだが、それが今回のちょっとした失敗をおびき寄せた。
佐和子「私も日本に戻ったら、こういうお弁当探してみようかしら。
日本も健康ブームが飽きずに続いているし、案外美味しいのもあるかも・・・・・。
ねえ、麻理。顔色悪くない?」
麻理「ごめんなさい。・・・・・・ちょっと休ませて」
麻理は、弱々しい声で呟くと、ふらふらとソファーに倒れ込む。
小さく足を抱え込むように横になると、テーブルに置かれたリモコンをとろうと
必氏に手をのばす。
佐和子「はい、このリモコンでいい?」
麻理「うん」
麻理は、リモコンを受け取ると、再生ボタンを押し、演奏が始まるのを確認すると
深くソファーに沈み込んでいった。
佐和子「大丈夫?」
返事はない。佐和子の声さえ聞いているのも疑わしかった。
けっして演奏の音量が大きいわけでもない。
そのギターの演奏は、静かで、ゆっくりと語りかけてくように音を紡いでいた。
佐和子「麻理?」
やはり麻理からの返事はなかった。
321: 2014/10/14(火) 17:33:21.35
麻理は、世界を拒絶する。たった一つの光を除いて、大切な生きがいの仕事さえも
この時ばかりは外の世界に置き去りにしていく。
ここにあるのは、ギターの音のみ。
彼が奏でるギター演奏が、麻理の心を癒していく。
4分ほどのギターソロが終わり、リピート再生が始まった。
そして、同じ音色を規則正しく奏でていく。
何度となく聴き、すべての息遣いさえも覚えてしまった麻理にとっては、
全てが完璧に構成された世界であった。
三度目のリピート再生が始まるころ、麻理は、ゆっくりと体を戻し、
二人だけの世界から、通常の世界へと帰還する。
佐和子「麻理? 聞こえてる?」
麻理「ええ、もう大丈夫」
まだうつろな目をした麻理に、佐和子は心配そうにのぞきこむ。
いつの間にかに麻理の傍らに佐和子は寄り添ってはいたが、
麻理には佐和子が側にいた事さえ気が付きはしなかった。
佐和子「私は聴いた事はないけど、このギターって、北原君のよね?」
麻理「ええ、そうよ。北原に無理を言って送ってもらったCDのコピー。
本当はヴァレンタインコンサートのDVDだけだったんだけど、
私が無理を言って、ギターだけの音源も送ってもらったのよ」
佐和子「北原君なら、喜んでギター弾いてくれたんじゃないかな」
麻理「だったらいいわね」
佐和子「大丈夫よ。あの北原くんなんだから」
麻理「そうね・・・・・・。でね、精神安定剤飲まないって言ったでしょ。
その答えがこれなの」
佐和子「えっと・・・、どういうこと?」
佐和子は不思議そうな眼で麻理を見つめていたが、答えに気がつくと
急激に顔をこわばらせていく。
322: 2014/10/14(火) 17:34:04.17
麻理「北原のギターを聴いているとね、心が落ち着くの。
ご飯を食べても、食べているときは大丈夫なのよ。
でもね、御覧の通り、食べ終わると、急に気持ち悪くなっったり
お腹が痛くなるのよね。
でも・・・・・・・、大丈夫よ」
佐和子「大丈夫って、それってつまり」
麻理「北原のギターを聴いていれば、気持ち悪いのも忘れてしまうのよ。
だから、精神安定剤はいらないの」
佐和子は、気がついてしまった。
だから、もはやこれ以上の言葉は絞り出せなかった。
だって、それは、精神安定剤以上に常習性が強くって、
一度取り入れたらやめることができない悲しいくすり。
もはや北原春希に依存しなければ生きていけなくなってしまう。
もう後戻りなど、できやしなかったのだ。
麻理「電車もね、食事をしているわけじゃないのに、もし気持ち悪くなったら
どうしようって思っちゃって、それが自分で自分の首を絞めることになるというのに、
結果として気持ち悪くなることもあるのよ。
だから、何度も途中の駅で降りた事もあるわ。
だって、電車って密室で、急に降りたりできないじゃない」
もはや佐和子は、麻理の一人語りを聞くしかなかった。
麻理「でもね、北原のギターを聞いていると、今いる自分を忘れられるのよ。
電車に乗っているのも忘れられるし、気持ち悪いのもなかった事になる。
だから、電車に乗るときはいつも北原のギターを聴きながら乗ってるわ。
もう駄目ね、私。北原がいないと生きていけないかもしれない」
麻理も、佐和子に聞かせるのではなく、自分に語っていたのかもしれなかった。
北原春希という精神安定剤は、世界中を探しても、たった二人にしか効果はない。
でも、きっともう一人の彼女には必要はないはず。
だって、彼女には彼がいるもの。
今は離れていても、必ず彼は彼女の側に寄り添い、支えていく。
もし彼女に何かあったとしても、彼が直接癒せばいい。
まやかしによる精神安定剤など、必要すらないだろう。
強い依存は、さらなる依存を引く寄せる。
それは最初に依存してしまった者の意図とは異なっていたと思える。
323: 2014/10/14(火) 17:34:36.07
こんな悲劇を引き寄せるだなんて、彼も思いもしなかったはずだろう。
日本にいる誰もが、NYにいる彼女が世界を拒絶していたなんて気がつかないでいた。
1-6 佐和子 麻理宅 3月29日 火曜日
麻理「殺風景だけど、この部屋使ってね」
佐和子がこの家に訪れ、荷物を置きに来た時も感じたことだが、
誰かを迎え入れる為に用意したとしか思えない部屋だった。
ベッドしかなく、物悲しい雰囲気を漂わせているものの、床を見れば綺麗に磨かれている。
ベッドの白いシーツは、新品を用意してくれていた。
他の部屋も見せてもらったが、物が置かれていない部屋はこの一室のみであった。
そもそも友人を泊めるにせよ、日本ではこんな部屋は用意していない。
あるのは予備の布団くらい。
普段使っていない部屋があっても、そこには荷物が山積みだったし
いくら部屋を掃除する習慣ができたとしても、荷物を置かない部屋などありはしない。
つまり・・・・・・。
佐和子「ねえ、この部屋について、まだ説明してもらってないんだけど。
・・・でも、言いたくないんなら、また別の機会でもいいわよ」
もはや麻理は隠し事をする気もなかった。
同様に、佐和子においても、強く説明を強要しようとなど考えてもいない。
順を追って、必要な時に必要な情報を開示する。
佐和子にとって、今一番恐れている事は、強引に麻理の心をこじ開け、
その結果麻理が二度と心を開かなくなる事であった。
だから、麻理のペースでやっていくしか道はなかった。
麻理「この部屋は、北原がゴールデンウィークに来るって言ってたから」
佐和子「そう・・・・・・」
324: 2014/10/14(火) 17:35:09.05
麻理「うん」
佐和子だって、わかっている。
たった数日泊まるだけの為に部屋を一部屋多く用意するなどありえないと。
年に数回遊びにくるとしても、それはいきすぎた準備である。
たとえこの部屋で生活する事を前提にしてたとしても・・・・・・。
佐和子「そっか・・・。ねえ、麻理」
麻理の体が硬直する。これから佐和子が追及するかもしれないという恐怖心が
麻理の体と心を堅く身構えさせてしまう。
その目に宿った脅えの色に、佐和子はどうしようもないやるせなさを感じてしまう。
ここまで親友を変えてしまった彼を、恋愛面では評価できる面もあるが、
総合評価としては、どうしても偏った評価をせざるを得なかった。
たとえ麻理の休眠中の恋愛体質を引き出したにせよ、たとえ実らない恋であったにせよ、
もっとプラスの方向に引き寄せてあげられなかったのかと。
佐和子「今日一緒に寝てもいいかな。
ほら、NYって思ってたよりも寒いじゃない。
それに、まだもうちょっと麻理と話していたいかなぁって思ってね」
麻理「ええ、枕だけ持ってきて」
麻理はぎこちない口調で答えると、頼りない足取りで寝室へと佐和子をおいて
進んで行く。
その後ろ姿に、佐和子は一抹の寂しさを感じざるを得なかった。
佐和子「起きてる?」
隣に寝ている麻理からは、寝息は聞こえてこない。
暗い室内に薄っすら浮かぶ親友の横顔を見つめ、何度目かの決心をようやく言葉にできた。
佐和子の呼びかけに、麻理は瞬きを数度繰り返してから、天井をまっすぐ見つめた。
麻理「起きてるわ」
佐和子は、麻理の方にと体を沈ませ、体の向きを変える。
わずかに揺れるベッドのマットに、麻理は身じろぎひとつ起こさない。
325: 2014/10/14(火) 17:35:46.86
でも、佐和子の言葉に、麻理の心は大きく揺れ動くのだろう。
けっして心穏やかにいられるはずもないが、麻理の親友として、
佐和子は言わなければならなかった。
佐和子「ねえ、麻理」
麻理「起きてるって」
佐和子「そのままでいいから、聞いてくれるかしら」
麻理「・・・・・・・・・・」
麻理の体が堅くなるのを、羽根布団から伝わってくる動きから敏感に察知する。
しかし、麻理は、佐和子に背を向けてしまう。
佐和子は、麻理の心の準備ができるまで静かに待った。
数分後、麻理が佐和子に向き合うと、佐和子はゆっくりと、努めて優しい口調で
厳しい現実を麻理に突き付ける。
佐和子「北原君はさ、きっとNYまで麻理を助けに来てしまうわね。
あの子の事だから、麻理が一人で歩いていけるまで側にいてくれるわ」
麻理「北原にだって、大学があるし、来年は就職よ。
そんなのは、・・・・・・無理・・・に決まってる」
麻理は、布団から半分だけしか顔を出していなかった。しかも、声も小さい。
だから、布団の中から発せられる麻理の声は、くぐもってよく聞こえるはずもない。
しかし、これだけの悪条件が重なっても、佐和子には、はっきりと麻理の声が聞こえていた。
佐和子「本当に、そう思ってる?」
麻理「・・・・・・」
佐和子「ねえ、麻理? 麻理は、絶対北原君なら来てくれるって確信してるんじゃない?」
麻理「来てくれるかもしれないけど、ずっとそばにいてくれるはずなんてない。
大学も仕事もあるんだから」
佐和子「ほんとうに?」
麻理「しつこいわね」
佐和子「だったら、私の方が北原君の事、よく知ってるって事になるわね。
最近仕事終わりに食事する事も増えてきてるからかしら」
麻理「ちょっと! たしかに北原の近況を知りたいから、佐和子に様子見てくれって
たのんだわよ。でも、佐和子。あんた、北原にちょっかい出してないでしょうね」
隠れていたと思ったに、突然勢いよく布団から出てくるんだから。
北原君の事となると、ブレーキが壊れちゃうのよね。
326: 2014/10/14(火) 17:36:29.38
佐和子「ちょっかいなんて出していないわ。
彼ったら、目の前に麗しい美女がいるっていうに、話すことといえば
あなたのことばかりよ」
麻理「そう? なんて言ってたのかな?」
布団からせり出した体を布団の中に戻した麻理は、恐る恐る彼の情報を集めようとしていた。
佐和子「あんたねぇ・・・・・・。自分で言っちゃってなんだけど、
少しは突っ込み入れなさいよ。言ってるこっちの方が寒いでしょ」
麻理「え? 佐和子、何か言ったの?」
佐和子「はぁ・・・・・・・」
佐和子は、深く、深くため息をつくと、麻理と同じ目線になるべく布団にもぐる。
ただ、麻理と違って、口元を布団で覆ってはいなかった。
佐和子「何も言ってないわよ。あんたがNYへ行っても、ろくに連絡もしてこないから
心配してたわよ」
麻理「そうなんだ。心配してくれてたんだ」
佐和子「たまに私が電話しても、仕事で忙しいってことしか言ってこないでしょ、あんた」
麻理「それは事実だから、しょうがないじゃない」
佐和子「それはそうだけど、新しい住居がどうとか、食事がどうと・・・・・ごめん」
麻理「かまわないわ」
佐和子「うん。・・・・・・ねえ、麻理」
麻理「うん」
佐和子「本音では、来てくれるって思ってるんでしょ」
麻理「うん」
佐和子「きっとかなり無理目な難題だって乗り越えて、NYまできてしまうわよ、彼」
麻理「うん」
佐和子「責任感が強いってこともあるけど、それだけじゃないんでしょうね」
麻理「うん」
佐和子「愛情に近い感情かしら?」
麻理「・・・・・・うん」
佐和子「もうっ、のろけちゃって」
佐和子は、麻理に襲い掛かり、脇をつついたりくすぐったりして、
麻理の心を解きほぐす。
麻理も佐和子の攻撃に若干の抵抗はするものの、されるがまま身を任せていた。
佐和子「でもね、麻理」
327: 2014/10/14(火) 17:36:56.23
麻理の頭を、胸で包み込んで優しく抱きしめている佐和子には、
麻理の体が堅くなっていくのが感じ取れた。
佐和子「北原君は、あなたの状態がよくなって、一人で歩いて行けるのを確認したら
冬馬さんの所へ行ってしまうわ」
麻理「うん」
佐和子「あなたの事だから、笑顔で送り出してあげるんでしょ」
麻理「うん」
佐和子「うん」
佐和子の腰に麻理の手が回され、佐和子の体は強く引き寄せられる。
佐和子もその力に合わせて、麻理の痩せすぎた体を壊れないように抱きしめる。
佐和子「私は、ずっと麻理の側にいるからね。
あんたがおばさんになって、おばあちゃんになっても、いつも側にいるから」
麻理「うん」
佐和子「うん」
麻理「でも、私がおばちゃんになったら、あなたもおばあちゃんよ」
佐和子「今、それ確認する必要ある?」
佐和子があきれ顔で呟くと、そっと麻理は微笑んだ。
儚くも美しい幼女のような頬笑みに、佐和子の心がざわついた。
今まで見たこともない表情に、驚きを隠せない。
それは、窓から差し込んだ月明かりの幻想だったのかもしれない。
もう一度佐和子が確認しようと、その顔をみつめようとするも、
麻理は佐和子の胸に顔をうずめていた。
佐和子「ほんと、北原君って不思議よね。
麻理との付き合いは長いって自負していたのに、
まだまだ知らない麻理がいたんだから」
麻理「え? 何て言ったの?」
佐和子「な~んにも」
麻理「なにか言ったわ」
佐和子「ん? 知りたい?」
麻理「別にいいわよ」
このちょっと拗ねた顔なら、何度も見たことがある。
328: 2014/10/14(火) 17:37:32.56
普段はしっかりしているくせに、ちょっといじめるとふてくされるんだから。
それがかわいいってこともあって、いじめちゃうのよね。
だから、この顔を失わせない為にも、北原君、頼んだわよ。
佐和子「麻理って、かわいいなぁってことを言ったのよ」
麻理「ふぅ~ん。北原の事言ってたじゃない」
佐和子「こら、麻理。聞こえてたんなら、聞きなおすな」
麻理「全てが聞こえてたわけじゃ、ありませ~ん」
夜がにぎやかに過ぎてゆく。
この日初めて、この部屋から明るい声が漏れ響いた。
それは、小さすぎて、耳をすまさなければ聞こえないのかもしれない。
それは、小さく、儚く、そして大事そうに呟いた声色で、
そっと耳に記憶していかなければ聴きとることなんてできやしないのかもしれない。
聞く者によっては、彼女らの声は、儚すぎるほどの悲痛なしゃぎ声だったのかもしれない。
けれど、虚勢を張った小さな泣き声が聞こえない夜は初めてであった。
第19話 終劇
第20話に続く
第19話 あとがき
かずさファンの方々、申し訳ありません。
なかなか話が進まず、かずさが登場していません。
もうしばらくお待ちくださいとしか言えません・・・・・・。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
333: 2014/10/21(火) 17:30:44.75
第20話
2-1 かずさ ウィーン 冬馬宅 3月14日 月曜日
ゆっくりとゆっくりとだがウィーンでも冬の終わり迎えようとしていた。
さすがに朝晩は冷え込み、冬の終わりなどまだ先だとコートの襟元をきつく締めるが、
昼間になれば、心地よい日差しが眠気を誘うようになってきている。
但し、一日中エアコンが効いた室内でピアノに向かっているかずさにとっては
もはや季節の移り変わりなど、とるにたらない情報にすぎないが・・・・・・。
それでも時間があれば毎日のようにやってくる母曜子の服装を見れば季節の移り変わりや、
その日のイベントなどがわかりもしたが、
それさえもかずさにとっては意味をなさない情報であった。
といっても、母が来ているときのピアノの音色は、
一人でいるときよりも陽気で小生意気な音色が混ざり合ってるのだが、
その事を知っているのは曜子ただ一人であり、
曜子もそれをかずさに伝えようとはしなかった。
なにせ曜子と同じようにちょっと捻くれている娘でもあるわけで、
仮に伝えたとしても決して認めないだろうし、かえって意固地にもなってしまうだろう。
だったら、曜子の心の中にとどめて、曜子一人がその小さな秘密を楽しんだ方が
建設的であり、そしてなによりも愉快でもあるともいえた。
そして、この日も曜子はかずさに季節のイベントを届けようとしていた。
かずさ「いつまでもそこに立っていられると迷惑なんだけど」
曜子「そう? いつも私がいても、いないのと同じような扱いじゃない?」
かずさ「ピアノに集中しているだけだ。
それでも、ずっとそんなところにつったっていられると目障りだ」
実際、曜子が立っていようが座っていようが、かずさが気にする事はない。
ただ、曜子の様子がいつもと違うから気になってしまう。
曜子が部屋に入ってきてからすでに一時間は過ぎたというのに、
いつまでもかずさから曜子の姿が全て見える入り口でずっと立っている。。
普段なら、黙ってそのままソファーに腰をかけている。
ときたま二言三言その日見つけたスウィーツの話題を振ってくるくらいで、
黙って入口の側で立っているなんて異常だ。
334: 2014/10/21(火) 17:31:33.56
だから、かずさのピアノの音色には、陽気さも小生意気さも混ざらず、むしろ
疑惑や困惑がにじみ出てしまっていた。
そんな微妙な変化も、曜子にとっては格好の獲物であり、にやにやと娘を見つめるだけで、
その状況を楽しんでいるわけでもあるのだが・・・・・・。
曜子「そうかしら? 別に私がどこで演奏を聴こうが勝手じゃない。
それともコンサートやコンクールに、自分が気に食わない客がいたら
演奏がおろそかになってしまうのかしら?」
かずさ「そんなわけあるか。
あたしはいつだって同じ気持ちでピアノに向き合っている。
だから、どんな状況であろうと、たとえあんたがコンクール前日に
くたばったとしても、いつもと同じように演奏できるさ」
曜子「そっか」
曜子は、舐めまわすようにかずさを上から下まで視線を這わすと、すっと目を細める。
そして、おもむろにずっとかずさに見えるように持っていた白い紙袋を肩に這わせ
ソファーに向かっていく。
一歩、一歩、ゆっくりと進む様は、さらにかずさの心を逆なでする。
曜子の指先にかかった紙袋は、曜子が一歩足を進めるごとに揺れ動いて、
それされもなぜだか無性に腹が立ってしまった。
かずさ「座るんなら、とっとと座れってくれ。
そんなわざとらしく歩かれると、気になってしょうがない」
曜子「そう? 別に私のことなんて気にしないんじゃなかったかしら?
たとえ私が氏んでも、いつも通り演奏するらしいんだから
たとえ私がわざとらしく歩いたとしても、いつも通り演奏すればいいじゃない」
しかも、今度は挑発的な笑みを従えて、挑発する言葉を投げかけてくるんだから
もはやピアノに集中などできやしない。
それでもかずさは意地でも演奏を止めないあたりは、似たもの親子であった。
たとえ本人達は認める事はないかもしれないが、彼女らを知っている者に聞けば
全員一致の解答を得られるはずだ。
かずさ「もう勝手にしてくれ。あたしは練習があるから、邪魔だけはするなよ」
そう宣言すると、曜子の返事も聞かずに演奏に没頭しようとした。
曜子「ふぅ~ん・・・・・・」
曜子は、わざとらしくつまらなそうにつぶやくと、ごそごそと白い紙袋から
金色のラッピングがされている箱らしきものを取り出す。
335: 2014/10/21(火) 17:32:15.24
そして、するすると金色のリボンをほどいていく。
すると、ほどなくして中から金色の箱が登場する。
いくら曜子の行動を視界の外に追い出そうとしても、わざとらしく行動するものだから
かずさはその様子が気になってしょうがなかった。
曜子も、かずさが時折視線を向けるのを確認しながらラッピングを剥いでいったが、
かずさがまんまと曜子の作戦に乗ってきてくれるものだから、
曜子は笑みをかみ頃す方に必氏であった。
そして、曜子は、箱におさまっている小さな物体を一つつまみあげると、
かずさに見せびらかすように聞く。
曜子「ねえ、かずさぁ。あなたも食べるぅ?
たぶん、すっごく美味しいわよ」
かずさ「いらない。あたしは練習に忙しいんだ」
曜子「そう? じゃあ、食べてもいいのね?」
かずさ「勝手にどうぞ」
曜子「ふぅ~ん・・・。あとで泣いても知らないわよ?」
かずさ「しつこいぞ。食べたいんなら、勝手に食べればいいだろ」
かずさは、そう切り捨てると、曜子に向けていた視線も全て打ち切ろうとした。
曜子「はぁ~い。勝手に食べますよぉ~だっ」
曜子は綺麗に小さな物体の包み紙を剥いでいくと、中の茶色い物体に軽くキスをする。
曜子「いただきま~す」
かずさ「はい、はい。どうぞ」
もはやかずさは曜子を見ていなかった。
見ていないどころか、目を閉じていたのだから何も見えないのだが。
曜子「うぅ~んっ。美味しいわね。さすがベルギー王室御用達のチョコレートね」
かずさ「ふぅ~ん」
曜子「2個目も食べちゃうわよ?」
かずさ「だから、勝手にどうぞ」
曜子「はぁ~い。・・・・・・・でも、春希君も律儀にもホワイトデーに間に合うように
お返しを送ってくるんだから、まめよねぇ」
ピアノの音が途切れる。
それもそのはず。なにせグランドピアノの椅子には演奏者がいないのだから。
336: 2014/10/21(火) 17:32:47.09
つい数秒前まではいたはずなのに、曜子の言葉が終わるや否や、
椅子を押し倒して曜子が座るソファーへと駆け出していた。
かずさ「ちょっと待てっ! ねえ、ストップ!」
曜子はかずさが駆け寄ってくるのを確認すると、
今度もわざとらしくチョコレートを口に放り込む。
かずさは、それと止めようと必氏に手を伸ばしたが、曜子のほうも、
かずさの動きを読んで行動しているわけだから、かずさの手が惜しくも届かないあたりで
わざとらしくチョコレートを口の中へと入れていた。
かずさ「あぁあ~~! なんで食べるんだよ。ねぇ、ねぇったら」
曜子「うん、美味しいっ」
かずさは、半泣きでその場に崩れ落ちそうになるが、曜子の手にはまだチョコレートが
詰まった箱が握られているのを確認すると、もう一度曜子に襲いかかろうとする。
曜子「はい、ストップ。そんな手荒い方法で掴み取ろうとしたら、
せっかくのプレゼントがぐちゃぐちゃになってしまうわよ」
この一言は、十分すぎるほどかずさには効果があった。
再び曜子にあと数センチというところまで迫ったというのに、
かずさは再び手を伸ばすのをやめるしかない。
かずさ「うぅ~・・・・・・・」
曜子「にらんだって無駄よ。だから、食べたいかって聞いたじゃない」
かずさ「春希からだなんて聞いてないっ!」
曜子「私は、食べたいかって聞いたじゃない?」
かずさ「春希からだなんて聞いてない」
曜子「だって、今日はホワイトデーよ。そのぐらい察しなさいよ」
かずさ「えっ? 今日、ホワイトデーだったの?」
かずさは、間の抜けた顔をして、曜子に今日の日付を尋ねてしまう。
なにせかずさは、本当に今日が何日かわかっていなかった。
もしかすると、何月かさえわかっていなかったかもしれない。
曜子「少しは外の事も知っておきなさい。
ほんっと、あなたはレッスンに行く時くらいしか外に出てこないんだから」
かずさ「それだけピアノに集中してるってことだろ」
337: 2014/10/21(火) 17:33:19.66
曜子「練習も大事だけど、外から受ける刺激もピアノを上達させるには大切な事よ」
かずさ「それなら問題ない」
曜子「なによそれ。あなたの生活を見て、どうやったらそう判断できるのよ」
かずさ「たった二ヶ月ほどだったけど、日本での生活は何年分にも匹敵するはずだよ。
ううん、それ以上に大切な日々だったんだ。
だから、これから2年部屋に閉じこもって生活したとしても全く問題ない」
曜子「へぇ、言うようになったじゃない。
でも、何年分にも匹敵するって言っておきながら、
二年しか引きこもっていられないのね」
かずさ「そ、それは・・・・・・」
かずさは、曜子の視線から逃げるように顔をそらし、恥ずかしそうに呟く。
曜子も、最近ではかずさの扱いに慣れてきたのか、かずさから言葉を引き出す為に
余計な横槍を入れるような事はしなかった。
但し、かずさは恥ずかしさのあまり気が付いていなかったが、
かずさを見つめる曜子の視線は、いやらしいほどにニヤついていた。
かずさ「2年以上も春希にあえないでいるのは、あたしが耐えられないだろ。
だから、さっさとコンクールで満足がいく結果を残して、
胸を張って春希に会いに行くんだ」
曜子「へぇ・・・ふぅ~ん」
意外にもあっさり曜子が欲しい言葉を手に入れることができたので、
曜子はもはや手加減などしない。
横槍も入れるし、挑発もする。なにせ面白におもちゃが目の前に転がっているのに
遊ばないだなんてもったいなすぎる。
かずさ「な・・・なんだよ」
曜子「べっつにぃ。私は、相槌を打っただけよ」
かずさ「なんか含みがある言い方だったぞ。言いたい事があるんなら言えばいいじゃないか」
曜子「言ってもいいの?」
かずさ「いや、言わなくていい」
曜子「そう?」
かずさ「そうだ・・・って、チョコレートッ!
春希のチョコレート、勝手に食べやがって!」
338: 2014/10/21(火) 17:33:55.52
話が逸れていたが、再び春希のチョコレートを思いだしたかずさは、
再び曜子に襲いかかろうと低く身構えたが、
春希のチョコレートを傷つけてはいけまいと動けないでいた。
かずさ「春希のチョコレートを盾にするだなんて卑怯だぞ。春希のチョコレート返せ」
曜子「返せって、心外ね。このチョコレートは、私のよ」
かずさ「何を言ってるんだ。春希からのヴァレンタインのお返しだって言ったじゃないか」
曜子「そうよ」
曜子がすまし顔でこたえるものだから、かずさの怒りはますます増すばかり。
あと数十秒このままの状態であったら、多少春希のチョコレートに傷がつこうが
襲い掛かって奪い取っていたかもしれなかった。
かずさ「だったら、あたしのチョコレートじゃないか」
曜子「な~に言っちゃってるの。
こ・れ・は・・・、
私が春希君にあげた義理の母親からの義理チョコに対するお返しよ」
かずさ「は?」
かずさは、意外な解答に怒りが霧散してしまう。
曜子が何をいっているのか理解できなかった。
自分宛へのチョコレートではないことは、どうにか理解できたのだが、
それ以外は頭で理解しようとしても、ぽろぽろと頭から抜け落ちてしまっている。
曜子「そういう顔していると、ただでさえお頭が弱いのに、余計馬鹿っぽくみえちゃうわよ」
かずさ「え?」
もう曜子の言葉を理解することもできなかった。
かずさは、首をかしげて、ぼけっと曜子が持つチョコレートの箱を見つめていた。
あたしへのチョコじゃないんだ。
えっと・・・、母さんへの、お返し?
義理の義理チョコ?
は?
ああ、義理の母親があげた義理チョコか。
なんだ、そうか。
じゃあ、その義理の母親の娘へのチョコレートは、どうなったんだ?
あたしも春希にヴァレンタインのチョコあげたのに・・・・・・。
339: 2014/10/21(火) 17:34:47.96
なんで、母さんにだけはお返しがきて、あたしにはきてないんだ?
義理?
義理チョコだから、お返しがきたのか?
あたしのは、本命チョコだから、お返しくれないってこと?
それって、あたしのことが邪魔ってことなのかな?
だって、本命なんだぞ。
あたしは、春希が大好きなんだぞ。
それなのに、そんなあたしが渡した本命チョコはいらなかったってことなのか。
そうか、義理なら義理でお返しできるよな。
でも、本命だったら、好きでもない相手から貰っても、迷惑なだけ・・・・・・・
曜子「かずさ?」
曜子の呼びかかけにかずさは返事をすることはない。
もはや曜子の言葉など、かずさには届かないでいた。
曜子「かずさったら。ねえ、なんで泣いてるのよ」
かずさの急変に曜子は取り乱してしまう。
手に持っていたチョコレートの箱はソファーに置き、慌ててソファーの下に腰をおろして
かずさの様子を伺った。
かずさの顔を覗き込むと、頬にうっすらと細い透明な線が刻まれていた。
細い線だったのも数秒だけで、今はあふれ出た涙によって太く刻まれていく。
曜子「かずさったら」
かずさ「え?」
曜子に肩を揺さぶられることによってようやく今いる自分を取り戻す。
しかし、あふれ出る感情を押しとどめる事はかずさには無理で、
際限なく湧き出る悲しみに、嗚咽を漏らすしかできなかった。
曜子「どうしちゃったのよ。いきなり泣き出して」
かずさ「だって、・・・だって、春希はあたしへのお返しはくれないんだろ。
それってつまり、あたしとは付き合えないってことじゃないか。
・・・・・・やっぱり大晦日の日の見栄なんか張らないで春希に
会っておけばよかったんだ。
そうだよ、ウィーンになんかに戻らないで、日本にいればよかったんだ」
曜子「ちょっと、ちょっと待ってよ、かずさ。ねえったら」
340: 2014/10/21(火) 17:35:25.22
勝手に自己完結していくかずさに追いつけない曜子は、ただただ慌てることしかできない。
そうこうしているうちに、このままほっといたら、今にもかずさは家を飛び出して
本当に日本に行ってしまう勢いでもあった。
曜子「あるわよ。ちゃんとかずさの分のチョコレートもあるわよ」
かずさの目の前に突き出された紙袋の中身を恐る恐る覗きこむと
曜子のいう通りチョコレートの箱らしき包み紙と、もうひとつ細長い包み紙が入っていた。
かずさ「これ、春希からあたしに?」
曜子「そうよ、春希君からあなたによ。もうっ、ちょっとからかっただけなのに
見事に大暴走しちゃって。ちょっとは日付感覚くらいは持ちなさいよ」
かずさ「しょうがないだろ、コンクールに向けて頑張ってるんだから」
曜子「それはわかってるけど・・・・・・」
かずさ「母さんがいけないんだぞ。
毎日練習に励んでいるあたしをからかおうだなんてするから。
それも春希を絡めてくるだなんて最低だな」
曜子「ちょっと待ってよ。こうやってあなたの為に春希君にヴァレンタインのチョコを
渡してあげたから、今日ここにお返しが来たのよ」
かずさ「それはありがたいとは思ってるけど、やっていい冗談と悪い冗談がある。
あたしに対して春希関連は全て冗談にはならない」
曜子「そうはっきり宣言されちゃうと困っちゃんだけど、
たしかにそうだから困ったものね」
かずさ「だろう? だったら最初から素直にチョコレートを渡せばよかったんだ」
偉そうに説教をするかずさに、曜子は何か釈然としない。
さっきまでこの世の絶望に叩き落とされた顔をしていたと思ったのに
いまは鼻息荒くチョコレートを抱きかかえている姿を見れば、
だれだって釈然としないだろう。
曜子「もういいわ。私が悪かったわ。反省してる」
かずさ「わかればよろしい」
かずさの偉そうな態度に曜子は白旗をあげたが、
久しぶりに見たかずさの生き生きとした顔をみると、
ちょっとやりすぎたかなと本当に反省していた。
341: 2014/10/21(火) 17:35:58.10
曜子「ねえ、チョコレートは同じみたいなんだけど、その細長い方のだけは
私のには入ってなかったのよね。
だ・か・ら、それちょうだい」
かずさ「あげるわけないだろ!」
曜子がにじり寄ってくる姿を見て、かずさは急いで逃げようとする。
その姿を見て、またしても曜子は子憎たらしい笑顔を見せる。
数秒前に「反省」したというのに、
どうやら曜子には「反省を生かす」という文字は存在していないらしい。
曜子「嘘よ、嘘。でも、中身は気になるから、教えてくれないかしら?」
かずさ「本当にあげないからな。見せるだけだぞ」
かずさは疑い深い目で曜子を観察するが、いたっていつも通りのひょうひょうと
している曜子の姿に、深くため息をつくしかなかった。
かずさ「・・・・・・わかったよ。見せるだけだからな」
そうかずさが宣言すると、曜子はいそいそとかずさの隣に陣取って、
かずさが包み紙をあけるのと好奇心一杯の目でその時を待った。
かずさ「犬?」
包み紙を丁寧にあけると、中には棒付きのキャンディーが一つ入っていた。
何か犬のキャラクターみたいで、行儀よくお座りをしている。
かずさは、角度を変えてキャンディーを眺めるが、
これといってなにか特別なことがあるようには見えなかった。
それでも、春希がくれたものだから、とても大切なものには違いはないが。
曜子「なるほどねぇ」
かずさ「なにがなるほどねぇだ。わかったんなら、さっさと教えてよ」
曜子「へぇ。それが教えを請う者の態度なの?」
かずさ「おしえてくださいおかあさま」
一刻も早くキャンディーの謎を知りたいかずさは、なにも感情がこもっていない棒読みの
セリフではあるが、曜子に教えを請う。
342: 2014/10/21(火) 17:36:25.65
そんなかずさの態度も計算通りなのか、曜子は一つなにか満足すると
素直にかずさに教えてるのであった。
曜子「教えるのはいいんだけど、その前にホワイトデーの品物の意味って知ってる?」
かずさ「意味って、マシュマロとかキャンディーをヴァレンタインのお返しとして
おくるだけだろ?
ヴァレンタインと違って、お返しだから、本命とか義理なんかはないと思うけど」
曜子「それだけ?」
かずさ「それだけ?って、ホワイトデーなんて、ヴァレンタインのお返しの日なんだから
他に何があるっていうんだ」
曜子「だから、お返しの品物自体に意味があるのよ」
かずさ「は?」
本当にかずさはわかっていないらしい。
間の抜けた顔をして、曜子を見つめていた。
曜子「まあ、俗説みたいなもので、あまり意識しない人も多いみたいだけど、
ホワイトデーのお返しって、何を思い浮かべる?」
かずさ「あれだろ? キャンディーやマシュマロくらいだろ?」
曜子「そうね。あとクッキーも定番ね。それを考えるとチョコレートを贈った春希君は
ちょっと異例だけど、チョコレートを贈るのも間違いってわけでもないのよね」
かずさ「何が言いたいんだよ」
なかなか話が進まない曜子に、かずさはいらだちを見せ始める。
そもそも曜子が素直にチョコレートを渡していればという根本にまで遡って
怒り出しそうな勢いも垣間見え始めていた。
曜子「だから、キャンディー、マシュマロ、クッキーには意味があるのよ」
かずさ「へえ・・・」
曜子「へえって、本当に知らなかったの?」
かずさ「だって、今回のヴァレンタインで初めてチョコレートを送ったんだから、
知るわけないだろ」
曜子「そうだったの?」
かずさ「そうだったんだよ。送った事もないんだから、お返しも貰ったことがない。
だから、貰いもしないお返しの意味なんて、興味を持つわけないだろ」
曜子「へえ・・・」
かずさ「へぇって、当たり前だろ。あたしは春希しか興味がなんだ」
曜子「なるほどぉ、そういう意味もあるわけだ」
343: 2014/10/21(火) 17:36:57.82
曜子は、また勝手に自分一人理解するものだから、かずさのフラストレーションは
再び急上昇してしまう。
おそらく、そのすべての言動が曜子によって意図的になされ、
かずさをおちょくっているだけなのだろうが。
かずさ「もう、話さないなら母さんには聞かないからいい」
曜子「ちゃんと教えてあげるわよ」
かずさがいじけた顔をして顔をそらそうとするものだから、
曜子もそろそろ虐めるのはよしたようであった。
曜子「キャンディーはね、あなたのことが大好きですっていう意味よ」
曜子は、そのあともマシュマロやクッキーの意味も語っていたが
もはやかずさの耳には届いてはいなかった。
なにせ、遠い日本から愛のメッセージが届いたのだ。
今のかずさにこれ以上の重要事項があるだろうか。
曜子は、夢心地の愛娘を見て、今度は本気で虐めすぎたかなと
今日何度目かの反省をするのであった。
第20話 終劇
第21話に続く
第20話 あとがき
ようやくかずさ登場なのですが、思っていた以上に話が伸びてしまいました。
本編に直接関係がある話が出る前に終わってしまうとは・・・・・・。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
347: 2014/10/28(火) 17:29:18.32
第21話
2-2 曜子 ウィーン 冬馬邸 3月14日 月曜日
曜子「ちょっと、かずさ。お~い、・・・戻ってきなさいよ」
かずさ「あ、なに?」
春希からのキャンディーをもらえた事で顔が蕩けきっているかずさの肩を
おもいっきり揺さぶることでようやく意識を取り戻したが、
相変わらずにやけきっているかずさに、少しあきれてしまう。
だって、キャンディー一つでここまで喜んでしまう経験なんて今まで一度も
経験したこともないし、そこまで純情な気持ちなど、とうに消えてしまっているもの。
曜子「あくまで可能性を言っただけよ。
ただなんとなく私へのお返しとの違いを出す為に、
なんとなく目の前にあったキャンディーを買っただけかもしれないのよ」
かずさ「別にそれでもいいよ」
曜子「えっ? そうなの?」
意外すぎるかずさの解答に、素で驚いてしまう。
どこまで色ぼけているのよって、さらにからかってもいいけど、
それさえも色ぼけた答えを返されそうで、こっちのほうが参りそうね。
日本から戻ってきてから、なんだかこの子変わったかしら。
なんかこう、言葉では表現しにくいんだけど、純情で、まっすぐで、
でも奥手で・・・・・・。
ううん、それは前からそうだったわね。
むしろ、それに磨きがかかったわね。
なんで私からこんなにも可愛らしい子が生まれたのかしら?
もしかして、放任主義が功を奏したのかな? なんて・・・。
まっ、ピアノにプラスに働いているうちは大丈夫そうね。
かずさ「だって、ここにキャンディーがあるってことが重要なんだ。
偶然でも、春希があたしにキャンディーをくれたっていう事実に
意味があるんだよ」
曜子「あぁ、はい、はい。のろけ話ね」
348: 2014/10/28(火) 17:29:45.24
私は、運命なんて信じやしない。
チャンスがあるんなら、自分の力で勝ち取らないと成功などしやしないって
経験上何度も味わってきたから。
黙って行動しないで、幸運が向こうからやってくるのをひたすら待つだなんてナンセンスよ。
それでもこの子の事を見ていると、運命をちょっとは信じてもいいかなって思えてくる。
それに、この子も自分の力で幸せを掴み取ろうとしてるしね。
かずさ「いいだろ、別に。
こっちは会いたいのを2年も我慢しないといけないんだからな」
曜子「順調にいけば2年だけどね」
かずさ「だから本番のジェバンニ国際ピアノコンクールの前に
NY国際コンクールにでるんだろ」
曜子「たしかに曲目も似通ってるし、
ジェバンニの前哨戦として出場する人も多いわよね」
かずさ「だろ?」
曜子「だけど、NYはジェバンニの1年前の10月よ。
ジェバンニに絞って調整していくのもありだとは思うわ」
かずさ「そうかもしれないけど、いまのあたしにはコンクールの経験が不足してるだろ」
曜子「そうねぇ。NY以外のコンクールだと曲目が全く違うから時間の余裕が
なくなっちゃうけど、NYなら大丈夫か」
かずさ「だろ?」
曜子「それにNYって、スポンサーだけはいいのよねぇ」
かずさ「たしか1位になれば欧米のコンサートツアーやってもらえるんだっけ」
曜子「そうよ。むこうもジェバンニ前に優秀な演奏者を確保しておきたいっていう
下心がみえみえなんだけど、コンサートツアーは魅力的なのよね」
かずさ「ま、そのツアーも貰っておくよ。そうすれば事務所の社長としても
助かるだろ?」
曜子「それはそうだけど、まだまだあなたの稼ぎなんか期待していないわ」
かずさ「言ってろ。あと5年で逆転してやるから」
ほんと、今の調子でやられちゃうと、5年で私を追い抜きそうなのよね。
簡単には抜かされる気はないけど、伸びしろが違うっていうのは、年のせいなのよね。
成熟しきったといえば聞こえはいいけど、成長しにくくなってるっていうのは事実で、
ちょっとかずさが羨ましく思ってしまうわ。
って、年、年っていって、年齢のせいにするのはよくないわね。
チャンスと同じように、感性だって、ピアノの上達だって、
自分から動かないようでは、求めるものは得られないか。
そう考えると、かずさのこの頑張りようも、私にとってもプラス方面に動きそうね。
349: 2014/10/28(火) 17:30:13.10
私は、密かにほくそ笑むと、ちょっと真面目な顔でかずさの話を進めた。
曜子「期待だけはしておくわ。でもツアーって、1位だけよ。
2位以下はお情け程度で数回演奏させてもらえるけど、
ゲスト出演程度で、まったく意味がないわ」
かずさ「わかってるって。そもそも1位しか狙ってない」
曜子「言うようになったわね。それだけの自信があるのは頼もしいけど、
たしかにNYで1位になれない程度じゃ、ジェバンニで上位に食い込めないのも
事実なのよね」
かずさ「ま、見てろって」
曜子「楽しみにしているわ」
いくぶん頼もしくなったかずさを微笑ましく見つめていたが、
それも数秒で霧散していく。
なにせ今目の前にいるかずさは、頬を赤く染めながら夢心地な表情をして、
北原春希について語っているときの表情そのものなのだから。
かずさ「それでさ、さっきの話なんだけど・・・・・・」
その言葉を聞いておもわず身構えてしまう。
たしかに春希君の話をかずさとするのは好きよ。
でも、それは春希君ネタでかずさをおちょくるとき限定。
これがかずさによる春希君ネタののろけ話になると、事態は一変しちゃうのよね。
まず、かずさは自分が満足するだけの会話量をこなさなければ私を離さない。
そして、その会話を途中で中断させようことなら、
あとあとが面倒すぎる事態になってしまう。
拗ねるし、話を聞いてくれなくなるし、機嫌を直すために、倍以上ののろけ話を
聞かなきゃいけないのよね。
本人はのろけ話などしているつもりはないみたいだけど、普段ピアノを通してのみしか
春希君と会話ができないのだから、その抑圧された欲求を一度解放してしまえば
その量が想像を絶する量となるのは当然なのかしら。
曜子「な・・・なにかしら?」
かずさ「だから・・・さ、お返しの意味だよ」
曜子「あぁ、あなたの心がどこかふわふわしちゃってたから聞いてなかったのね。
キャンディーが大好きでしょ。そして、クッキーが友達として仲良くしましょう。
で、マシュマロがごめんなさいよ」
かずさ「ちがうって、そっちじゃない」
350: 2014/10/28(火) 17:30:41.79
曜子「どういうことかしら? だって、お返しの意味でしょ?」
かずさ「そうだけど、違うって。
だから、犬のキャンディーの意味が二つあるみたいな事言ってただろ。
一つ目の意味は大好きですだけど、二つ目の意味は何かなってさ」
曜子「それね。べつにたいしたことではないわよ」
よく覚えているわね。私も思い付きで言っただけなのに、春希君に関わる事だけは
記憶力が極限まであがるんだから、まいったものね。
かずさ「それはあたしが決めるから関係ない」
曜子「そうね。でも、これって私の思いつきにすぎないわよ」
かずさ「構わないって言ってるだろ」
曜子「わかったわよ。そんなに睨まなくてもいいじゃない」
かずさ「にらんでなんかいない。だから、さっさと言ってよ」
曜子「はいはい。犬ってご主人様に忠実なイメージがあるでしょ。
だから、春希君ってあなたのことを犬みたいに思ってるのかなって思っただけよ」
かずさ「そうなのか?」
曜子「そうなのかって聞かれても、あなたほど春希君に忠実な彼女はいないんじゃない?
だって、彼に会いたいがために一日中ピアノに向き合ってるんだもの」
かずさ「そう言われてみれば、そうかもしれないな。
でも、春希がそうあたしの事を思ってくれているんなら、
すごくうれしいかな」
曜子「でも、ほんとうに思い付きだからね。春希君がなんとなく買っただけって
こともあるんだから。むしろその可能性の方が高いくらいじゃないかしら」
かずさ「それでもいいって。これはあたしの気持ちの問題だ。
あっ・・・・・・・」
曜子「なに?」
かずさ「母さんも、あたしの誕生日プレゼントで犬のぬいぐるみをくれたこと
あったじゃないか。その時はどういう意味だったんだ?」
かずさの厳しい追及の視線にたじろいでしまう。
そんなプレゼントしたっけと、とぼけようとも一瞬思いもした。
しかし、かずさの部屋に飾ってあるのを何度も目にしているし、しかも、
かずさ自身が慣れない裁縫作業によって修繕しているのを聞いているのだから、
とぼけることなどできようもないか。
曜子「あれね、あれ・・・・・・」
かずさ「何だよ。もったいぶらずに言えよ」
351: 2014/10/28(火) 17:31:13.47
曜子「だからね、・・・・・・あれは、ただ目にとまったから買っただけよ」
かずさ「ふぅ~ん」
曜子「ふぅ~んって、なんか意味深すぎる反応で、なんだか気になるわね」
かずさ「べつに。・・・・・・ただ、なんで目に留まったのかなって。
目に留まるって事は、なんだかの意識が働いているはずだろ」
曜子「なんだか最近鋭くなってきたわね」
かずさ「あんたと話していれば、自然とそうなっていくんだよ。
悔しかったら自分を恨む事だな」
曜子「ま、いっか。ほんとうに大した理由じゃないのよ。
私の後ろを健気についてくるあなたが子犬みたいだなって思っちゃって、
なんとなく目に留まったのよ」
私の解答を聞き終わると、かずさは手を顎にもっていき、無言で考えはじめてしまう。
そのあまりにも真剣な表情に、私はかえって心配になってしまった。
曜子「怒っちゃった? でも、悪い意味じゃないのよ。
健気に後ろを駆け回っている姿が、なんだか可愛らしいなって思ったのよ。
ね? 悪い意味じゃないでしょ」
かずさ「別に気にしちゃいないって」
曜子「そう? だったらいいのだけれど」
一応胸を撫でおろしはいたものの、まだなにか言い足りなそうなかずさを見て
完全には安心などできやしなかった。
曜子「まだなにか気になる点があるのかしら?」
かずさは顎にあてていた手をおろすと、まっすぐ私に視線を向けて語り始めた。
かずさ「あのさ、母さんも春希も、あたしのことを犬みたいに思ってるんだなって、
ちょっと思っただけだよ。
別に悪いイメージでもないから、悪い気分じゃないよ。
でも・・・・・でもさ」
そこまで一気に語ると、かずさはいったん視線を外す。
そして、再び視線を渡しに向けた時は、か弱い女の子がそこにはいた。
352: 2014/10/28(火) 17:31:47.60
かずさ「いつもピアノを使ってあたしの気持ちを春希にぶつけてはいるけど、
生身の春希の気持ちは全然知らないだろ?
だから、今回のヴァレンタインのお返しで春希の気持ちがほんの少しでも
感じ取れたからさ、なんかちょっと恥ずかしいなって。
すっごくうれしんだけど、いつも一方通行だったから、
なんだから心が通じ合うのっていいなって」
曜子「もうっ」
私は思わずかずさを抱きしめてしまった。
だって、可愛すぎる娘がいるのだから、それを愛でたく思うのは当然よね。
こんなにも可愛い娘が私から生まれてきただなんて奇跡ね。
かずさ「苦しいだろ」
曜子「たまにはいいじゃない。親子のスキンシップも大切よ」
私の胸の中で暴れるかずさを無理やり抑え込んでいたけど、
しばらくすると観念したのか、かずさの体から力がぬけていく。
今は身を私に預け、少しぎこちなさが残るが、軽く抱きかえしてもくれていた。
そして、親子の距離を縮めるきっかけを作ってくれた春希君に対して、
私はそっと感謝した。
2-3 春希 春希マンション 4月5日 火曜日
昨夜の佐和子さんの話を思い返してみても、いまいち素直に受け入れられない部分がある。
俺のギターに麻理さんの心を癒すほどの効果があるとは思えないが、
それでも心の問題になると演奏の良しあしではないのかもしれないか。
・・・・・・依存か。
俺が麻理さんに依存してしまったから、麻理さんの日常を壊してしまった。
佐和子さんは話さなかったけど、
きっと気分が悪くなってしまうのは電車だけではないはずだ。
353: 2014/10/28(火) 17:32:20.26
電車という閉鎖空間で、逃げ出すことができないから気持ち悪くなるって事は
言いかえれば、電車でなくても行動に制限がついてしまう状況なら
どんな場所でも同じってことじゃないか。
たとえば、車の渋滞なんてありえそうだな。
渋滞中に気持ち悪くなったら、車を路上に置いてどこかに休みに行くことなどできない。
そう考えると、極端な話、ビルの高層階でエレベーターが混んでいて
なかなか階下に降りられない状況だとしても、不安を煽る状態に自分で追い詰めてしまったら
たとえ閉じ込められた状態ではなくても危険って事じゃないか。
と、佐和子さんから聞いた麻理さんのとこを思い出しながら料理をしていると
危うく手を切りそうになる。
っと、危ない危ない。いくら最近料理をするようになったといっても、
考え事をしながらはまだ無理だよな。
しかも、考えれば考えるほど思考に没頭する内容だし、
今は料理に集中してさっさとこの後の面倒事も片付けるか・・・・・・。
麻理さんに料理を作ってあげた事をきっかけに料理をするようになったといっても
時間に余裕がある時しかしていなかった。
朝食は料理をするようになる前からも、適当に作って食べてはいたが、
最近では、コールスローやキャベツや玉葱の酢漬けなどを作るようにもなり、
テーブルの上も若干華やかさを持つようになってきている。
もちろん忙しい朝でもあるわけで、酢漬けを作っておくあたりが時間を
有効活用する春希らしい料理ともいえた。
昼のお弁当は、どうにかなるとしても、夕食が問題だよな。
バイトがない時は家で作るとしても、夕食はたいてい編集部で弁当だし、
こればっかりは夕食分の弁当を持っていくわけにはいかないしなぁ。
編集部の冷蔵庫に入れておいて貰うっていう手もあるけど、
個人が勝手に使うわけにもいかないし、さすがに夕食は弁当買うしかないか。
春希「うわっ」
今度こそ危うく手を切りそうになるも、今回もどうにか難を逃れることができた。
いくら料理だけに集中しようとしても、どうしても頭の中に考えるものを
詰め込んでおかなければ、考えてしまうことがある。
それは避けては通れない事柄でもあり、このあと電話をしなければならないことでもある。
佐和子さんの手前では簡単だし、事務的な連絡だから大丈夫とは言ったものの、
いざ実家の母に電話するとなると、いささか不安をぬぐいきる事は出来ないでいた。
354: 2014/10/28(火) 17:32:57.18
お弁当を用意し、朝食も食べ終わると、
そろそろ母に電話するにはちょうどよすぎる時間が訪れてしまう。
高校時代までの経験ではあるが、今の時間帯ならば母に電話してもつかまるだろう。
今のタイミングを逃せば夜になってしまうし、そうなればかえって電話しにくく
なってしまうのも事実である。
だからこそ、気持ちに迷いがあったとしても、今電話しないわけにはいかなかった。
携帯をいじり、いつもは素通りする母のアドレスを呼び出すと、発信ボタンを押す。
発信ボタンを押して、呼び出し音が鳴っている今であっても、
母が電話に出なければいいと思ってしまう自分がいる。
そう、高校時代の自分ならば、大学に入って間もない自分であったのならば、
こうまでも母を意識することなどありえなかったはずだ。
なのになぜ今になって母を意識してしまうのか、自分ではわからずにいた。
春母「もしもし」
久しぶりに聞いた母の声は、自分の中にある無関心を装う母の声とは違っていた。
こうして母に電話をかけたのはいつ以来だったのか、
思いだそうとしても思いだせない。
そもそも高校時代であっても、いくら帰りが遅くなろうと母は関心をみせはしなかった。
だから、電話で遅くなると伝えることもなかったし、メールで連絡する事さえ
必要としていなかった。
今こうして考えてみると、母と電話で会話するのは、最後にいつしたのかさえ
完全に忘れてしまうほど珍しいシチュエーションといえる。
電話口から聞こえてくる母の声は、無関心を装う声でも、自分が小さいころの
温かい家庭であった時の母の声とも違う、まるで初めて聞くような母の声であった。
しかし、知らない母の声であるはずなのに、どこか懐かしさを感じてしまうのは
どうしてだろうか。
春希「朝早くからごめん。ちょっといいかな?」
春母「かまわないわ」
春希「ありがとう。それで、今夜会ってくれないかな?」
春母「大丈夫よ。でも、仕事があるから、少し遅くなるけど、それでもいいかしら?」
春希「こっちがお願いする立場なのだし、会ってくれるだけで十分だよ」
春母「そう?」
春希「じゃあ、今夜そっちにいくから」
春母「ええ、家で待っていてくれると助かるわ」
春希「うん、じゃあ、また」
355: 2014/10/28(火) 17:33:25.81
春母「ええ・・・・・・・・・・・」
電話が切れない事にやや不安を覚える。こちらから電話を切っていいものなのだろうか?
こちらから電話をかけたわけだし、要件は既に伝え終えた。
電話のマナーとしても電話をかけた方から切るべきだ。
だったら、自分からとっとと電話を終了してもいいのだが、
どうも自分から電話を終了する気にはなれなかった。
もちろん、正しいマナーがあったとしても、上司や目上の人に対する礼儀によって
逆になる事もあるが、今はそれとも違う。
だったら何故?
そうこうやきもきしていると、電話口のむこうから再び声が聞こえてきた。
春母「ねえ、春希」
春希「はい?」
春母「もしかして、会ってほしい人がいるのかしら?」
春希「は?」
間の抜けた声が朝の物静かな部屋にぽつりと落ちる。
正直、母が何を意図して言ったのか、理解するまで数秒かかった。
だが、それも数秒後には、いっぺんに全てが理解できた。
はっきりいって、嫌な汗が体を這い廻り、母が言いたい事の意味が怒涛のごとく
頭の中を駆け巡ったほどだ。
たしかに普段まったく会話をしてこなかったわけで、
こちらから電話をかけた記憶もほぼない状態だ。
そんな親子関係でありながらも、朝から会ってほしいと電話したわけなのだ。
しかも、大学4年になって、就職だけでなく、もしかしたら結婚の話だって
あってもおかしくはない年齢でもあるわけで・・・・・・。
春希「違うから。結婚じゃないから」
俺は大慌てで否定するしかない。
もしかしたら、母が少しは好意的に電話をしていたのかもしれないのも
結婚話を念頭に入れてたからか?
そうならば、悪いことしたな。
春母「そうなの?」
春希「そうだよ!」
春母「そう・・・。まあいいわ。そろそろ時間だから切るわね」
356: 2014/10/28(火) 17:33:56.99
春希「ごめん、時間とらせてしまって」
春母「いいわ、べつに。それじゃあね」
春希「それじゃあ」
今度はどちらからともなく電話を切ることができた。
ただ、電話が終わったと思うと、急に疲れた噴き出してくる。
これからバイトだというのに、一日分のエネルギーを消費してしまった気もする。
おもわずそのまま座りこみそうになったが、このまま座ってしまっては
もうバイトに行かず、再び携帯を手にして休みの連絡を入れてしまう誘惑と
戦わなければなりそうだ。
もちろんそんな誘惑には打ち勝つ自信はあるが、それでも誘惑に打ち勝つ為の
エネルギーを考えると、もはやバイトどころではなくなってしまう。
春希「さてと、行きますか」
俺は自分を奮い立たせる為に、わざとらしい掛け声をあげると、
勢いよく玄関に向かったのであった。
第21話 終劇
第22話に続く
第21話 あとがき
ホワイトアルバム2でもそうなのですが、春希の母の名前がわからな~い。
名前がわからない人物が出るときほど困るときはありません。
地の文では適当にごまかせますが、セリフともなると困り果ててしまいます。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
360: 2014/11/04(火) 17:30:21.94
第22話
2-3 春希 開桜社 4月5日 火曜日
開桜社編集部。いつものように活気に満ち溢れ、せわしなく人が行き来している。
麻理さんがNYへ異動して一月が過ぎ去ったが、麻理さんがいたという形跡は
人の記憶にしか残っていないんじゃないかって思えてくる。
たしかに麻理さんが残していった武勇伝はみんなの記憶に刻み込まれはしているが、
企業としての開桜社からしてみれば、
麻理さんの功績などほんの数滴の雫にすぎないのだろう。
だから、もし俺が明日から編集部に突然来なくなったとしても、
編集部は動き続けると確信できる。
おそらく松岡さんや鈴木さんあたりはねちねちと不平を訴えるだろうし、
浜田さんもスケジュール調整に大あらわになってしまうことだろう。
しかし、それも数日も経てば、北原春希がいた形跡など開桜社からは消え去り、
ほんの数人の編集部員の記憶の片隅にへばりつくのがやっとだ。
もちろん、仕事帰りの飲み会で、俺の悪事を肴に盛り上がるかもしれないが、
それも一月も経てば麻理さんの存在と同じように、
北原春希がいないことが日常になってしまう。
少し感傷的に編集部内を見渡していると、松岡さんと目がかちあう。
俺の事を訝しげに見つめてくると、すぐさま俺の仕事を手伝えを訴えてくる。
だから、俺は曖昧な笑顔を向け、この後松岡さんの仕事を引き受けますと顔で返事をする。
仕事が一つ減った、いや三つ以上盛られる気もするが、
松岡さんは機嫌よく今ある仕事に戻っていく。
俺は、そんな「いつもの編集部の風景」を少し感傷的に体感すると、
決意を胸に上司である浜田さんのデスクへと向かった。
春希「浜田さん。少しお時間いいでしょうか?」
浜田「さっき渡した仕事に不備でもあったか?」
浜田さんから渡された仕事は、まだ半分も終わってはいない。
通常運転の俺ならば、もしかしたら終わっていたかもしれないが、
いつもの俺ではない俺にとっては、半分も終わったといえる。
361: 2014/11/04(火) 17:30:55.69
でも、そんなことを伝えに上司の元にきたわけではない。
そして、浜田さんも俺のただならぬ雰囲気を察していた。
春希「いいえ、特に問題はありません」
訝しげに見つめるその目に、俺は言葉で態度を示さなければならない。
春希「会議室でお話しできないでしょうか?」
浜田「わかった」
そう短く返事をすると、浜田さんは無言で会議室へと進んで行く。
意外すぎるとほどあっさりと二人きりになれたものだ。
おそらく俺のただならぬ雰囲気から、なにかしら嗅ぎとってくれたのかもしれない。
途中、松岡さんや鈴木さんがなにがあったのか教えてくれと目で訴えてはきたが、
今は何も言えず、俺も無言で浜田さんを後を追うことしかできなかった。
あいにく小会議室は、他の本物の会議で使われており、
俺達は大会議室の片隅で向かい合うことになる。
時折廊下から聞こえてくる元気な声をよそに、大会議室は冷えきっていた。
これから話さなくてはいけない事を思うと、
寒さだけが俺の口を重くしているわけではないことは明らかであった。
俺は、これから浜田さんを裏切らなければならない。
それは決して開桜社の規則を逸脱する行為ではないにしろ、
浜田さんからの信頼を傷つける行為に他ならなかった。
俺は、手にしていた開桜社の規則本を広げ、広すぎる会議室に冷えきった声を響かせた。
春希「入社前海外研修制度を使いたいと考えています。
規定によれば、内定者が申告することによって利用できると書かれています。
もちろん厳しい審査があるみたいですが」
浜田さんは俺の顔を見やると、すぐさま規定が描かれている冊子に目を落とす。
ただ、冊子にかかれている内容を読んでいるみたいではなかった。
たんに入社前海外研修制度のページである事を確認したくらいだと思えた。
しかし、浜田さんがこの制度を知っているとは思えないが。
浜田「はぁ・・・」
浜田さんのため息が、ひっそりと漏れ出る。
362: 2014/11/04(火) 17:31:57.80
覚悟をしてきたとはいえ、浜田さんの心情は手に取るようにわかってしまいそうで
それがかえって、俺を辛くする。
春希「自分の直属の上司になってくださったばかりだというのに、申し訳ありません」
浜田「はぁ・・・」
二回目のため息が俺の心にさらに重くのしかかる。
春希「すみません。でも、どうしてもNYに行きたいんです」
包み隠さず全ての事情を打ち明ける事は出来ないが、
情報開示を拒んで駆け引きをしている時間などはない。
俺は、駆け引きこそ浜田さんを裏切る行為に思えて、
開示できる情報は初めから全て開示するつもりでここにやってきていた。
頭を深々と下げて、浜田さんの返事を待っていたが、
俺を出迎えたのは三回目のため息であった。
浜田「はぁ・・・・・・」
俺は、さすがに不安に思えて、頭を上げると、さらに四度目のため息を目撃してしまい、
今日ここで行われるべき裏切り行為のシミュレーションとは違う方向へと
動きだしていることに、ようやく気がつく事が出来た。
春希「浜田さん?」
俺の呼びかけに、五度目のため息で返事をすると、浜田さんはようやく重い口をあけた。
浜田「風岡の言っていた通りだな」
春希「えっ?」
浜田さんを驚かす発言をするつもりで来たというのに、
結果としては俺の方が驚かされてしまう。
たしかにNYへ行きたいと言えば、麻理さんのことも話題にはなるが、
麻理さんが入社前海外研修制度について浜田さんに言っていたとは予想だにしていなかった。
浜田「だからな、北原はスケジュールがあわなくて、風岡が最後の引き継ぎに来た時には
会えなかったけど、その時風岡が冗談っぽく言ってたんだよ。
北原の事だから、この制度を使って、もしかしたらNYに行きたいって
言うかもしれないってな」
363: 2014/11/04(火) 17:32:26.84
春希「麻理さんが・・・」
浜田「俺もさすがに冗談だと思ってたけど、風岡の読みはさすがだな」
俺は、驚きを隠せない。
浜田さんが知っていたというよりは、むしろ麻理さんが俺より先回りして
行動を起こしていた事に驚き、そして、嬉しくも思えてしまう。
どこまで俺を知り尽くしているんだよ。
俺をNYへ来させるために誘導していたのなら、別の反応をしたかもしれないが、
入社前海外研修制度を使うことに、ピンポイントで思い付くあたりがすごすぎる。
やはり仕事の上では、まだまだ追いつく事は出来ないかな。
まあ、仕事そのものじゃなくて、裏工作みたいなものだけど。
浜田「一応聞くけど、俺の下が嫌って事での申請か?」
春希「違います。今は詳しい事を言うことができませんが、けっして浜田さんの下が
嫌というわけではありません」
浜田「お前らしいな。こういうときは、嘘でも適当な理由をでっちあげればいいのに」
春希「そんな見え透いた嘘をついても、意味がないじゃないですか。
誠意というわけでもないですが、浜田さんには、とても感謝しているので
嘘はつきたくはなかったんです」
浜田「でも、本当の理由は言えないわけか・・・」
春希「はい。それだけは、すみません」
浜田「まあ、いいよ。風岡もその辺の事情についてははぐらかしていたしな。
一応このまま編集長に話しておくよ」
春希「ありがとうございます」
浜田「でも、俺もこんな制度聞いたことないし、使ってるやつなんて今までいるのか?」
春希「さあ? 俺もついこの間まで忘れていたほどですし」
浜田「いくら制度上あったとしても、形式的とまでは言わないけどさ、
前例がないと厳しいんじゃないか?」
春希「そうですよね。俺もそれだけが気がかりで・・・・・・」
俺も浜田さんも苦笑いを洩らすだけで、どうもこの制度の実効性に不安を覚えてしまう。
浜田「風岡の事だから、編集長にも根回ししていたりしてな・・・・・・」
浜田さんはそうぽつりと呟くと、豪快に笑おうとするが、俺の顔を見ると
笑うことができなくなってしまう。
俺が真剣な表情をして批難したわけではない。
むしろ、浜田さんの発言に同意している。
364: 2014/11/04(火) 17:33:25.18
だから、浜田さんが冗談っぽくいった「風岡のことだから」が
あり得る事態だと実感してしまったわけで。
浜田「まさかな・・・」
春希「いや、あの麻理さんですよ」
浜田「でも、ありえるのか?」
春希「ありえるんじゃないですかね」
浜田「前例がないかもしれないんだぞ」
春希「前例がないんなら、制度の正当性と将来への投資を訴えそうですね」
浜田「はは・・・・・・」
乾いた笑い声が低く響くが、俺も浜田さんも笑うことなどできやしないでいた。
なにせ、前例がなくてもやり遂げるのが風岡麻理だ。
浜田「どう思う?」
春希「何がです?」
浜田「風岡がしっかりと根回しできているかだ」
そうですよね。それしかないとわかっているけど、聞かずにはいられないです。
春希「編集長が話を聞いていれば、根回しは完了しているでしょうね」
浜田「そうだな。だったら、編集長はすでに知っていると思うか?」
春希「もし賭けをするなら、編集長が知っているに全財産かけますね」
浜田「それだと賭けにならないだろ」
春希「ですよねぇ・・・・・・」
浜田さんが知っている時点で、全てが動き出していると判断すべきか。
もしかしたら、他にも手をうってるかもしれないけど、
その全てがNY行きと関わっているとは思えない。
むしろ逆方向の対策こそ入念に根回ししていると俺は確信できる。
NY行きを可能にする方法は、おそらくこれ一つ。
だったら、俺は、麻理さんとの賭けに勝ったってことか・・・・・・。
これは、喜ばしい事だけれど、それと同時に、選んではいけない選択だったのかもしれない。
浜田「なあ、いつからNYに行こうと思ったんだ?
NYに行きたいだなんてそぶりみせていなかっただろ」
浜田さんは、もうNYにいる麻理さんと勝負をしても勝ち目がないと諦めたのか、
目の前にいる比較的組みやすい俺へと目標を変えたらしい。
365: 2014/11/04(火) 17:34:40.47
春希「昨夜思い付いつきました」
浜田「は? 嘘だろ。もし思い付きののりでNYに行きたいだなんていうんなら
風岡が何を言っても、俺は認めないからな」
春希「のりでとかそういうんじゃないです」
浜田「だよな。お前はそういうやつじゃないし」
春希「ありがとうございます。NYに行きたいと思ったのは昨夜なんですけど、
将来を考えたら、今しかないと思いまして」
麻理さんとの将来。そして、かずさとの将来を考えたら、今行動しなければ遅すぎる。
それがけっして皆が認めてくれるような結末ではないとしても。
浜田「若いうちしか無理はできないからな。
まあ、考えようによっては、今NYに行くのはキャリアを考えれば最善かもな。
運がいい事にNYには風岡もいるし、
向こうでの仕事もスムーズに入っていけるだろう。
それに、だな。俺もお前の事を評価しているんだぞ」
春希「はい、恐縮です」
浜田「もしこれが松岡みたいなやつが申請してきたら、説教して、
この場で申請を却下していたところだ」
春希「松岡さんだって、やるときはやる人ですよ」
浜田「それは、最近になってようやく危機感を覚えたからやるようになっただけだ。
しかも、その危機感も、危機に陥ってるのに慣れてしまって、
緊張感がなくなってきてるんだよなぁ」
浜田さんは編集部の方をちらりと見やると、
小さく今日何度目かわからないため息を漏らした。
春希「そ・・・それは、また新しい危機感を感じればきっと」
浜田「そうだといいんだけどな。風岡がいなくなって少しはやる気を見せてくれたのに
一カ月もたたないうちにだらけやがって。
今度北原がNYに行ったら、
また一カ月くらいは危機感を持ってくれればいいんだけどな」
それはご愁傷様です。
松岡さんも悪い人じゃないんだけど、浜田さんの気苦労を知ってるはずなのになぁ。
浜田「それで、いつから行く予定なんだ? 大学の方は大丈夫なのか?」
366: 2014/11/04(火) 17:35:22.72
春希「一応8月からNYに行こうと考えています。
卒論もそれまでに終わらせますし、
卒業に必要な単位も前期日程で取り終わる予定です」
浜田「そうか。それなら、編集長にその旨も伝えておくよ。
話っていうのは、これだけか?」
春希「はい」
浜田「そうか。今度からは、もうちょっと早い段階から相談してくれよ」
春希「すみません」
浜田「風岡みたいにはいかないけど、一応お前の上司なんだからさ」
春希「はい」
少しさびしそうに編集部に戻っていく後姿を見ると、松岡さんだけでなく
俺も浜田さんの気苦労の一つであるんだと実感でき、少し嬉しく思えてしまった。
2-4 春希 春希自宅 4月5日 火曜日 19時前
今日は、夕方から用事があると言って、早々にバイトを切り上げていた。
実家に行き、母に引っ越しの了解を取らなくてはならない。
そして、麻理さんにも今週末にNYへ行く事を伝えねばならないでいた。
いきなりNYに行ったとしても、忙しい麻理さんの事だから会う時間が取れないとなると
何のためにNYに行ったのかわからなくなる。
そう考えると、火曜日という時点は、麻理さんが時間を調整できるギリギリのライン
ともいえるかもしれない。
NYとの時差は13時間だから、今は朝の6時前ってところか。
今の時間帯なら起きているはずだから、ちょうどいいかな。
・・・っと、電話をする前に、実家の鍵を探さないとな。
麻理さんと落ち着いて話をする為に自宅に戻ってきたともいえるが、
一番の理由は実家の鍵を取りに来ることであった。
実家の鍵なんて、実家を出てから一度も使っていない。
なによりも普段持ち歩く事もなくなっていた。
だから、実家に行くのならば、机の引き出しに無造作にしまいこまれている実家の鍵を
探し出さなければならないでいた。
367: 2014/11/04(火) 17:35:56.26
厳重にしまいこんでいたのなら、念入りにしまいこんでいる分、わかりやすい場所に
鍵があるのだが、いかんせ机の引き出しに鍵がおさまるスペースがあったから
そこに無造作に入れていたとなると、その場所の印象は薄すぎる。
むろん鍵の存在を忘れる為に、意図的に行った行為なのだが、
今となってはその時の自分を呪いたいほどだ。
いつか使うかもしれないのに、それを母のと繋がりを消す為に、
子供じみたことをするなと、今の自分なら、何時間も過去の自分に説教できる自信がある。
もちろん過去の自分もその説教にまっこうから反論しそうだからやっかいだな。
俺は、過去の自分と今の自分が言い争っている光景を思いう浮かべ、
思わず苦笑してしまった。
と、誰もが遭遇したくない光景を妄想しつつ
机の中につまっている荷物を丁寧に机の上に並べていくと、ほどなく鍵は見つかる。
やっぱここか。予想通りの場所にあったことに、自分の諦めの悪さに再び苦笑する。
実家の鍵を忘れようとしても、実家の母を忘れようとしても、
どうしてもそれを忘れることができないと実感した瞬間でもあった。
さて、次は麻理さんか。
はたして麻理さんは電話に出てくれるだろうか?
佐和子さんから麻理さんの現状を聞かされていると、知っているはずだ。
だから、お互いなにか気まずい気がする。
電話の呼び出し音が鳴り始め、10コールくらいで出なければ諦めようかなと
デッドラインを心に決めかけたとき、それは無駄だと実感した。
麻理「もしもし」
春希「あ、あの・・・」
こんなにも早く麻理さんが出るとは思わなかった。
だって、まだワンコール目も鳴り終わってないぞ。
いささか気まずい雰囲気を自ら作り出してしまった事を後悔していると、
麻理さんは俺のそんな気持ちを気にする事もなく、話を進めていってくれた。
麻理「私がいなくなって、おはようの挨拶もできなくなったの?」
春希「いや、そんなことは。おはようございます。
でも、こっちはこんばんはですね」
麻理「そうだったわね。電話だから、ここがNYだなんて忘れそうよ」
春希「はい。いつも俺の側で仕事の指示を出してくれている状況だと、
錯覚しそうになってしまいます」
麻理「そうね。でも、この距離はゼロにはできないのよね」
368: 2014/11/04(火) 17:36:32.75
春希「はい・・・・・・」
麻理「で、なんのよう? って、佐和子から聞いているんでしょ?」
春希「はい。今日は、NYに行く日を速めた事を伝えようと思いまして」
麻理「え?」
春希「ゴールデンウィークに行く予定だったのを前倒しにして、
今週末に行く事にしました。もし麻理さんの予定が会わないのでしたら
また変更します、ただ、元のゴールデンウィークの日程に戻すのは無理でしょうけど」
さすがに今さらゴールデンウィークを再び休暇にしてくれとは言えない。
俺と交換してくれた人の喜びようを見ると、どれだけゴールデンウィークに休暇を
とるのが難しいかが知ることができた。
それなのに、俺の都合で、それをなしになどできやしない。
麻理「それは大丈夫だけど、今週末っていうと土曜日あたりにくるのかしら?」
春希「金曜日の夕方に着く便があればいいかなって思っています。
このあと佐和子さんに連絡してみないとわからないですけど、
きまったら麻理さんにも伝えますね」
麻理「わかったわ。佐和子には、多少は無理をしてもチケットを取るように
お願いしておくわ」
なんだか、すっごく怖い笑顔をしている麻理さんが見えるのですが、幻想ですよね?
あまり佐和子さんに無理な要求はしないでくださいよ。
麻理「それで、北原。・・・・・・佐和子から私の事聞いているんでしょ?」
いつもの強気の発言も早々にトーンダウンし、今は一転して俺の出方を探るべく
弱気な口調に陥っていた。
春希「はい。佐和子さんから全部聞きました。
それと、佐和子さんは最後まで秘密にしようとしてたんですけど、
食後のギターのことも聞きました。
これは、本当に俺が無理やり聞き出したので、佐和子さんは悪くないです」
麻理「そう・・・・・・。別に秘密にしてって頼んだわけじゃないのよ。
たぶん佐和子が気を使ってくれたんでしょうね」
春希「そうですか。だったら、佐和子さんにもそう伝えておきます」
麻理「そうね。私の方からも言っておくけど、この後佐和子に連絡して
チケットとるんだったら、ついでに言っておいてくれると助かるわ。
でもなぁ・・・・・・」
369: 2014/11/04(火) 17:37:03.12
春希「どうしたんです?」
麻理「うぅ~ん・・・。あのね、北原」
春希「はい」
麻理「北原は、あの話聞いてどう思った?」
春希「どう思ったと聞かれましても、俺のギターが役になってくれているんなら
嬉しい限りです」
麻理「それはそうかもしれないんだけどさ・・・・・・、あのね」
春希「はい?」
麻理「だからね・・・、重いとか思わなかった? 未練がましいとか」
そうか。だから、佐和子さんは、俺に話すのを躊躇したんだ。
麻理さんのかなわない思いを俺に背負わせない為に。
そして、麻理さんの思いを守る為に。
春希「そんなこと全然思ってないです。
むしろ、麻理さんに思って貰えるなんて歓迎です」
麻理「そういうことは、思ってても言うなぁ。
全く勝ち目がないってわかっていても、期待しちゃうだろ」
春希「すみません」
そうだよな。期待させるだけ期待させておいて、なにも叶えてあげられないんだ。
佐和子さんも言ってたな。しかも、強い口調で。
中途半端な態度は、麻理さんに失礼だ。
だけど俺は、何ができるんだろうか。
・・・・・・駄目だ。俺が迷っちゃ。
麻理「謝るな。私がみじめになるだろ」
春希「すみません」
麻理「だから、謝らないでよ。もう、自分でもみじめだってわかってるんだから
これ以上、これ以上私を・・・・・・・」
春希「麻理さん・・・・・・」
麻理さんの声が途切れる。
受話口を手で押さえているんだろうが、それでも麻理さんの嗚咽が聞こえてしまう。
泣かせてしまった。
大事にしようって決めていたのに。
守ろうって覚悟していたのに。
それなのに俺は、今なお麻理さんを傷つけてしまう。
370: 2014/11/04(火) 17:37:53.65
迷っちゃ駄目だ。覚悟を決めたんだから、今一歩踏み込むしかない。
傷つくんなら、俺も一緒に傷ついて、少しでも麻理さんの痛みを和らげなければ。
麻理「・・・ごめんなさい。ごめんね、北原」
春希「俺NYに行きますから。8月になったら、入社前海外研修制度を使って、
NY支部に行きますから。それまで待っててくれませんか」
麻理「き・・たはら?」
春希「浜田さんから聞きました。麻理さんが根回ししてくれているって。
俺、麻理さんとの賭けに勝ちましたよ。
麻理さんは、俺が海外研修制度に気がつかないって踏んだみたいですけど
俺見つけましたから。
だから、俺の勝ちです。麻理さんがなんと言おうと
8月からNYに行きます。その為に今週末NYに行くんですから」
電話口からは、すすり泣く声は聞こえてくるが、一時のひっ迫した雰囲気は消え去っている。
声が少しかすれてはいるが、たどたどしく麻理さんが声を紡ごうとしていた。
麻理「なに、言ってるのよ。賭けに勝ったのは、むしろ私の方よ」
春希「麻理さん・・・・・・」
麻理「北原がNYに来る唯一の方法に期待していたのは、私の方なんだから。
もし、北原が大学や将来のキャリアをなげうってNYに来ようとしていたら、
私許さなかったんだからね。
絶対許さなかった」
春希「俺、間違った選択、しなかったんですね」
麻理「間違った選択にきまってるじゃない。
北原が選ぶべき選択肢は、ウィーンにいる冬馬さんに会いに行く選択肢よ。
だから、間違ってるに決まってるわよ」
春希「たとえ間違っていても、その選択肢を正しい結末にもっていく事は可能ですよ。
だって、俺は麻理さんに鍛えられてきましたから」
麻理「言うようになったわね」
春希「上司のおかげですね」
麻理「そうかもね。今度その上司に会わせてくれないかしら?」
春希「今週末なんてどうですか?」
麻理「そうねぇ・・・。ちょうど予定が空いているわ」
春希「それはよかったです。俺の上司も楽しみにしているはずですよ」
麻理「食事は、オムライスがいいわね」
春希「半熟なやつですね?」
麻理「それだとうれしいわね。それと、食後には、ギターを弾いてくれるとうれしいわ」
371: 2014/11/04(火) 17:38:55.23
春希「ギターも持参していきますね」
麻理「・・・・・・」
再び嗚咽が受話口から漏れ出る。
だけど・・・・・・悲壮感はない。だって、喜びに満ち溢れた声が聞けたから。
たとえ、一時の痛み止めであっても。
麻理「待ってる。・・・待ってるから、春希」
春希「はい。待っててください、麻理さん」
俺がいる限り、麻理さんを癒すことができないってわかっている。
それでも俺達は離れられない。
麻理さんも俺を離さないでいてくれる。
それが心地よくて、お互いが求めあってしまって、かずさを傷つけてしまう。
俺は、かずさに誠実でいられるのだろうか・・・・・・。
第22話 終劇
第23話に続く
第22話 あとがき
『心の永住者』というタイトルは、春希の労働ビザを調べていたときに思い付いたものです。
NYへ行くわけですし、無条件では働けません。
とりあえずインターンや研修制度を使えば大丈夫「らしい」ようです。
ざっと調べただけですので、間違っていたらごめんなさい。
当時タイトルが決まらず、悩んでいたのですが、目に留まったのが「永住資格」です。
ちょうどネットにcc編をアップ開始する直前ですね。
そこで、春希の心にいつもいるかずさは、
春希の世界にいるたった一人の永住資格者だと感じました。
そんなわけで、タイトルは『心の永住者』となったわけです。
とくになにか他の作品のタイトルやセリフからつけたものではありません。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
374: 2014/11/11(火) 17:30:11.88
第23話
2-5 麻理 NY 4月5日 火曜日 朝
北原からの電話が終わると、
その声が途絶えることに名残惜しさと一抹の不安を感じずにはいられなかったが、
それ以上の満足感が私を支配していた。
鏡は見てはいないが、きっと蕩けきった女の顔をしていた自分がいたにちがいない。
佐和子が見ていたら、いや絶対に佐和子にだけではこんな私は見せないけど、
その後一週間くらいはぐちぐちネタにされていたって自信を持って言える。
もうすでに電話は途切れはしているのに、電話を離すことができないでいた。
さっきまでこの電話から北原の声が聞こえてきて、
そして私の声を北原に届けてくれていたと思うと、
電話を見つめるたびに顔が緩みきってしまうわ。
・・・・・・・なんて、のろけている場合じゃない・・・か。
だって、北原から電話がきて、
思わずワンコールも鳴り終わってもいないのに電話に出ちゃったのよね。
つい反射的に出ちゃったけど、北原が気味悪がったりしていないかしら?
もし、北原がそんな風に私を見ていたら、私生きていけないわよ。
次電話が来た時は、2コールくらいは待った方がいいわね。
ううん、3コールかしら?
ふつうは、何コールくらいで電話に出るのがいいの?
え? 私って、今まで北原以外の電話の場合、どうしていたっけ?
あれ? 考えれば考えるほど、わからなくなってしまうわ。
通常モードの仕事をしている私からしてみれば、
想像もできないほど使えない私になってるわね。
どうしても北原が絡んでくると、一般的な事柄でさえ、うまく考えられなくなるのよね。
でもこれも全て、佐和子がいけないのよ。
もしかしたら北原から電話が来るかもしれないから、
心の準備だけはしときなさいねって言ったのが悪いのよ。
そわそわして、落ち着かなくて、なんとなく電話をいじってたら
本当に北原から電話がかかってくるんですもの。
もし北原から電話が来るとしたら、タイミングとしてはさっきの時間が一番可能性が
高いって思ってたけど、あまりにも計算通りで、私の方が驚いちゃったのよね。
375: 2014/11/11(火) 17:30:46.04
相手の都合を気にしてしまうのが北原らしいっていったら、北原らしいのだけれど、
ある意味かたぶつって言うのかしら。いえ違うわね。マニュアル通りっていうわね。
だから、北原の行動は読めてしまう。
北原の行動が読めなかったのは、・・・読みきれなくなって制御不能になってしまったのは、
私が北原の事を愛してしまったことくらいかしら。
あぁ、もうっ。佐和子がいけないのよ。
佐和子が意識させるからいけないの。
って、なに一人で悶えているのかしら。
そろそろ編集部に行く準備をしないとしけないのに。
私は、一人上機嫌で朝の支度を進めていく。
朝からのスケジュールを頭の片隅で確認しながら、身なりを整えていく。
ただ、本当に頭の片隅でしか仕事のことは考えてはいなかった。
だって、ほとんどの領域で北原の事を考えていたんですもの。
最後に言った言葉が忘れられない。自分でも驚いているわ。
たぶん、これで二度目ね。
私が北原の事を、「春希」って呼んだのは・・・。
北原は、どう思ったのかしら?
こういう時、何も言ってこないのよね。
諦めて、適当に流しているって事はないわよね?
あぁ、もうっ。
なんだって朝から北原の事ばかり考えているのかしら。
そうよ。北原が朝から電話してきたのが原因よ。
・・・まあ、私の事を気遣って電話してきてくれたんだし、
しかも、大きな決断を北原に強制させてしまったのも私なのよね。
きっと、あいつのことだから、悩んで悩んで悩みきったに違いないわ。
でも、北原の事だから、私が育てた北原の事だから、今は真っ直ぐ進んでいるわ。
だって、大事に育てたんですもの。
・・・・・・・その北原のキャリアを台無しにしそうにしているのも私か。
何が正解で、何が間違いかだなんて、今の私には判断できない。
判断できないけど、彼女と同じように、私にも、
北原がいないと駄目だってことだけは理解できてしまう。
朝から大事な打ち合わせもあるのに、全然仕事モードに切り替わらないわ。
だから、私が春希の事を考えてしまうのは、北原が悪いんだ。
仕事モードに切り替わらないと、いつも北原の事を考えてしまうわね。
もう、ある意味病気ね。
今まで仕事ばかりしていたせいで、正常な恋愛ができなくなってしまったのかもね。
それとも、これが私の本質なのかしら。
本来の私は、恋愛に熱中するあまりに、男に溺れるタイプだったりして。
376: 2014/11/11(火) 17:31:17.76
あまりにも笑えない冗談だから、いやよね。
本当に恋愛だけが私のすべてだとしたら、きっと北原は私を見てはくれないか。
そもそも開桜社で仕事をして、誰よりも仕事に打ち込んでいたから北原に出会えたのだから、
仕事人間ではない私とは、北原は出会うことができなかったわけか。
そう考えると、仕事人間になって、恋愛が下手でよかったとも言えるのよね。
まあ、そんな仮定の話を考えている時点で痛い女、か。
仕事があっての私で、仕事があるからこそ恋愛依存症の私が隠れていた。
だとしたら、仕事に打ちこめているからこそ正常な私を維持できているってことね。
そのバランスが崩れてきたって事は、誰のせいでもない。私のせい。
だって、北原のせいにしたって、佐和子のせいにしたって、それは言い訳でしかないわ。
一番悪いのは、心が弱い私のせいなのだから。
朝の忙しい日常は、思いにふけっていても、日ごろの習慣から無意識にこなされていく。
顔を洗い、食事をして、歯を磨く。いつもより時間がない分、無駄なく動いていた。
スーツを着て、メイクをばっちり終えるころには、いつもの出かける時間に
合わせるあたりが、麻理の仕事人間たる仕様だろう。
だから、麻理は気がつかなかった。
北原春希の事を考え過ぎていた為であるだろうが、
朝食を取っても、まったく気持ちが悪くならなかった事に。
麻理がその事を気が付いたのは、夕食のときであった。
2-6 春希 春希実家 4月5日 火曜日 夜
後ろ髪を引かれる中、麻理さんとの電話を切ると、そのまま佐和子さんに連絡をいれた。
色々聞かれると覚悟はしていたが、まだ仕事中だという事で、
チケットの手配だけをお願いして早々に電話を切ることになった。
おそらく佐和子さんは後で麻理さんに電話をして、
根掘り葉掘り俺との電話の事を聞き出すのだろう。
その辺の佐和子さんからの追及は麻理さんを生贄にするとして、俺は実家へと向かう。
若干責任放棄で責任のなすりつけを後ろめたくは感じてしまうが、
こういった話は男の俺とよりも女性同士の方がいいと思いこむ事で責任感を放棄した。
377: 2014/11/11(火) 17:32:00.03
さて、実家まで来たが、母の言う通りまだ母は帰って来てはいないようだ。
一応マンションの下から電気がついているか確認しており、留守は確認済みだ。
もし、母が既に帰ってきているとしたら、それはそれで家の中に入りにくかったかもしれない。
これから会う約束をしている人物なのに、留守である事にほっとするなんで
ちょっと倒錯した感情を抱いてしまうのは、
やはり母子の間の距離感が生み出す溝みたいなものができながっていた。
だから、実家の鍵を鍵穴に入れるときは他人の家に勝手に入る印象を持ってしまった。
むしろ麻理さんの部屋に、部屋の風通しをする為に
麻理さんが留守中に入る方がよっぽど気楽で落ち着きをもてていたと思う。
それでも女性の部屋で、しかも麻理さんの部屋だという事で
違った意味でのドキドキ感が満ち溢れてはいたが・・・・・・。
しばらくぶり過ぎる実家は、多少の変化をもたらしているのではと多少身構えていた。
しかし、家の中に入ってみれば、高校時代と何も変わっていなく、
ある意味拍子抜けではあった。
高校時代のように、誰のいない部屋に踏み入れると、
そこには誰もいないいつもの空間が俺を待ち受けていた。
それは、何度も経験してきた儀式であり、誰もいない事が当たり前になるように
仕向けられた空間でもある。
それでも一か所だけは大きな変化をもたらしている。
俺がこの家から出ていくという大きな変化は、
俺が引っ越した時作り上げた変化のまま時が止まっていた。
静かな部屋を明かりをつけながら進んで行くと、
自然とかつての自分の部屋の前まできていた。
部屋の扉を開けると、そこはがらんとしていて、何も置かれていない。
一応明りをつけてもう一度しっかり確認したが、
家具どころか、小さな小物さえなかった。
それでも何も置かれていないかつての俺の部屋を見渡すと、
実家を出ていった日に見たカーテンだけが俺がいた痕跡を示している。
改めて俺の部屋だったこの空間を見つめれば、
なにかしら感傷的になるかともここに来る前に考えはしていた。
だけど、俺の想像外の展開に、感傷的になる事さえできないでいる。
どうして母はこの部屋を使わないのだろうか?
余っている部屋があるのなら、新たな目的の為に有効活用できるし、
新たな目的がなくても家の家具を分散することで、
今まで以上にゆったりとした住居空間が作り出せるはずなのに。
だから、手つかずのまま放置されるよりも、
なにか他の部屋に生まれ変わっている可能性の方が断然高いはずだと考えていた。
それなのに、俺の部屋は、俺が出ていた日のまま時が止まっている。
378: 2014/11/11(火) 17:32:36.08
複雑な心境を整理できないままかつての俺の部屋に一歩踏み入れると、
定期的に掃除されているのが伺えた。
もしかしたら何かしらの為に使われているのかもしれないが、
使われていない部屋特有のじめっとした空気は感じられない。
掃除するくらいだったら、なにかしら有効的に使えばいいのに。
そう思いこまずにはいられなかった。
そう思いこもうとせずにはいられなかった。
しばらくすると母から9時過ぎには帰宅すると連絡がきたが、まだ9時までには時間がある。
普段の俺ならば、待ち時間に大学のレポートやら課題をやっているはずだ。
しかし、あいにくそういった時間つぶしのツールはない。
自分の部屋ならば、なにかしら見繕えるが、ここはかつての俺の部屋であるわけで
今は何もあるはずがない。
自宅から何かもってきてもよかったが、そこまで気がまわらなかったというのが真相だ。
だったら、掃除でも食事の準備でもしようとは考えはした。
麻理さんの部屋ならば、とくに考えることもなく体が動いたことだろう。
けれど、何度も確認してしまうが、ここはかつての俺の家だ。
好き勝手やれるわけではない。
この実家に戻ってこようってことさえ、自分勝手なことなんだ。
だから俺は、母が帰ってくるまで、
永遠と繰り返される自問自答を繰り返すしかなかった。
玄関のカギ穴に鍵が差し込まれる音が俺の耳が捉える。
時計を見ると、9時を少し過ぎたところだった。
部屋の中に入ってきた母は、特段変化があるわけでもなく、
高校時代に見た姿のまま現在の俺の前に立っている。
春母「話があるそうね」
ただいまも、久しぶりねもなしか。期待していたわけではない。
期待はしないが、挨拶くらいは人間関係を築く上には必要じゃないか?
だから、これがいつもの母子関係だと、かつての感覚を思い出させてくれた。
いや、この母子関係って、どちらから作り上げたんだろうか?
機械的に共同生活を送ってきてはいたが、円滑に事が進められるように、
それなりの人間関係を作るのが俺じゃないか?
それなのに、母を透明人間のように扱ってきたのは、俺だったのか?
春母「どうしたの? ぼおっとして」
379: 2014/11/11(火) 17:33:07.22
春希「ごめん。久しぶりに戻って来たんで、ちょっと」
春母「そう。それで、話って?」
今は、実家に戻ってこれるよう、交渉の方に集中しないと。
やっぱり、久しぶりの実家は、俺でも感傷的になるんだな。
そう俺は無理やり結論付けて、目の前の母に意識を集中させることにした。
春希「いきなりで悪いんだけど、この家に戻ってきたいと思うんだ」
春母「いつから?」
春希「できれば来週から」
春母「わかったわ」
春希「ありがと・・・・・、えっ? いいの?」
あまりの交渉進行の速さに思考がついていかない。
実家という悪条件を加味しても、あまりにも俺の脳は減速していた。
それに、母がこんなにもあっさりと実家への出戻りを許すとは思いもしなかった。
いや、俺に関心を持ってない母ならば、同居人が戻ってこようと
関係ないって事なのだろうか。
春母「いいも悪いも、ここは春希の家でもあるのだから、私が反対するわけないわ」
春希「そう・・・。それなら、ありがたく戻ってこさせてもらうよ。
それはそうと、俺の部屋は何も使ってないんだね。
しかも、綺麗に掃除されているから、驚いたよ」
そう言ってしまった後に、しまったと気がつく。
饒舌すぎる。緊張しているといっても、あまりにも母に対して饒舌すぎる俺に、
俺は驚きを隠せなかった。
緊張が失敗をうみ、失敗が俺をさらに狼狽させる。
実家に戻ってくると決めてから、空回りしている自分がそこにはいた。
春母「あの部屋は、あなたの部屋なのよ。私が勝手に使うわけにはいかないわ」
春希「いや、でも。空いている部屋なんだし、何かしら使えばよかったのに。
しかも、使ってないのに、掃除までして」
春母「息子の部屋くらい掃除するものよ」
どうしてだろうか? なにかが昔とは違う。
こうして母を目の前にしてみると、違和感を感じずにはいられなかった。
それは、俺が大学に入学して、一人暮らしをし、バイトをして、
さまざまな大人を見てきたからだろうか。
380: 2014/11/11(火) 17:33:41.21
麻理さんに出会い、仕事面においても、人間関係においても、
容赦なく鍛えあげられたって自負している。
その結果、まがりなりにも責任ある仕事まで任せられるようになったことで
高校生の俺と、今の俺とでは視野が違い過ぎていた。
だからこそ、母が高校生の幼稚に反抗している俺に合わせてくれていたんだって、
今の俺なら理解できてしまう。
でも、なんで今さら気がついてしまうんだよ。
顔がかっとあつくなってしまいそうであった。
高校時代までは、お互いの事に無関心だと思っていた。
正確に言えば、今の今までそう思っていた。
今までは、無関心なまでに、無関心を装うことを意識していたともいえる。
今朝、母に電話した時、
あの時は母の顔を見えないから油断していて、無関心を装う事を忘れていたのかもしれない。
しかも、今なお久しぶりの会話ともあって、昔の感覚を完全には取り戻せないでいる。
だからといって、今さら母と慣れ合うつもりはない。
母には、母なりの人生があって、今までも、そして、これからも俺が干渉する気はない。
俺が干渉してはいけないんだ。
ただ、今こうして母を目の前にしてしまうと、高校時代の俺は、必氏に肩肘を張って
かたくなな態度を母に取っていたのではないかと感じてしまう。
大人であり、俺の母親でもある母は、大人の対応として無関心を装い、
浅はかな幼すぎる高校生をやっている俺に合わせてくれていたんだ。
そう考えてしまうと、もしかするとお互い無関心である母子を母に演じさせることを
強制させてしまったのは、俺の方なのか?
俺が母子関係を崩壊させた原因があると思えてしまう。
もちろん母も父との関係がうまくいかなかったことで、子供に対して母親としての
申し訳なさがあったのだろう。それが後ろめたくて、俺に合わせてくれたのかもしれない。
全ては推測だ。だけど、目の前の母を見ていると、この推測が正しいってわかってしまう。
だったら、俺が無関心を装うのをやめれば、
もしかしたら、良好な母子関係を築く一歩になるのか?
しかし、こんなにもひねくれ過ぎて育ってしまった俺には、今さら良好な母子関係なんて
築いてはいけないし、どうやって築いていくかもわかりやしない。
・・・・・・・なんだ。高校時代にかずさに偉そうに言っておきながら、
自分の方こそ親子関係に困り果てているじゃないか。
冬馬親子の関係のもつれやすれ違いを、馬鹿げた大したことはない事だって
言い捨てておきながらも、今になって自分がかずさと同じ立場になるなんてな。
但し、俺とかずさとの差は、かずさは母である曜子さんと仲を改善して、
今は仲良くやってる事か。
本人達にそれを指摘したら、きっと全力で否定されるんだろうな。
381: 2014/11/11(火) 17:34:14.34
ほんと、素直じゃない親子だよ。
素直じゃないけど、俺達親子ほど捻くれているわけでもない。
だから、素直になれたかずさを、俺は尊敬するし、少し羨ましくもあった。
春希「ありがと」
春母「・・・・・・・」
少し驚いたような表情を見せる母に、俺は自分が言った言葉にようやく気がつく。
感謝の気持ちなんて、最後に言ったのはいつだったか覚えてもいない。
形式的な感謝の言葉なら、何度も言ったとは思う。
そんな形ばかりの感謝の言葉ではなく、
自然とこみあげてきた感謝の気持ちを母に向かって言葉にするだなんて。
でも、俺は今さら母との関係を修繕することなんてできない。
あまりにも遅すぎたし、母も望んではいまい。
それに、俺だって、どうやって修繕すればいいかなんてわからない。
・・・・・・えっ?
なんで俺は、母との関係を修繕したいって思ってるんだ?
無関心なまでに無関係な母親なんだぞ。
それは、今までも、そして、これからだって変わらないはずなのに。
だから俺は、逃げるようにして母の前から立ち去った。
3-1 春希 4月6日 水曜日
昨夜の事は思いだしたくはなかった。
母には、きっちりと伝える事は伝えたし、
帰る時も適当な理由をでっち上げて早々に実家をあとにした。
一応形の上ならば、うまく立ち回れた事になるはずだ。
だが、俺が気がつかない間もずっと大人の対応をしてきたあの俺の母親が
自分の子供の変化に気がつかないとは、どうしても思えなかった。
382: 2014/11/11(火) 17:34:57.02
どうしても母の前だと、自分がみじめに思えてしまい、昨夜は逃げるように帰ってきたと
言ったほうがどうしても合っている気がする。
そんな子供すぎる俺は、家に帰ってきても、実家でのことを忘れる為に
引っ越しの準備や、木曜から始まる大学の準備など、考える暇を与えないように
寝ずに一夜を過ごすことになってしまった。
たしかに、急な引っ越しであるわけで、しかも週末にはNYに行くわけでもあるので
時間に余裕がないのは確かではあったが。
朝を迎えるころには、今日からNYへ行く日までのタイトすぎるスケジュールが
作り上げられて、予定がびっしりと埋められていた。
これで実家の母の事は考えないでいられると思うと、ホッとする自分がいた。
そのほっとする自分さえも消し去る為に、俺は行動を起こす。
さて、どつぼにはまって自問自答している時間はない。
この後、マンションの契約解除手続き、引っ越し業者への依頼、
そして卒論を前倒しして提出することの報告をしに出かけなければならない。
それらが終わったとしても、バイトもあるし、
引っ越しの準備も途中までしか終わってはいない。
だから俺は、母の事を無理やり思いださないように、
忙しい自分を作り上げることに努力した。
第23話 終劇
第24話に続く
第23話 あとがき
やばぁつ!
長々と一人で語っちゃっている春希一人、麻理一人のシーンが続いてしまって
書きにくいったらあらりゃしませんorz
どうしても、読み直して、書き直す作業が増えてしまいます。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
385: 2014/11/18(火) 17:30:12.05
第24話
3-2 春希 4月7日 木曜日
今日から俺も大学4年生になり、学生生活も残り少なくなってきた。
しかも、夏からはNYへ行くわけで、周りのみんなよりも半年早く社会人になってしまう。
学生生活が名残惜しいわけではない。今となっては、一刻も早く社会人になりたいほどだ。
だからといって、残り少なくなった学生生活を惰性で過ごそうとは微塵にも思っていない。
なにせ、俺の真横に陣取っている「奇跡の4年生」を、
今度は無事に「奇跡的に大学卒業」へと導かなければならないのだから・・・・・・。
しかも、教授直々の、なおかつ、複数の教授達の泣きごと付きの、ご指名なのだから。
春希「ほら、しゃきっとしろ。これで今日の講義は半分終わったぞ。
和泉が大好きな昼食が終わったら、午後の講義だ。
ほら、いつまでもグダァッてしていないで、
さっさと起きて、学食にでも行って来い」
千晶「えぇっ?・・・もうちょっと休憩してからぁ。
だって、授業中にちょっとだけ休憩がてら仮眠とろうとしても、
春希が寝かしてくれないんだもん」
春希「当たり前だろ。俺には、お前をしっかりと講義に出席させて、
無事に卒業させる義務があるんだから」
千晶「えぇっ?・・・そんな義務、捨てちゃいなよぉ」
春希「捨てるかっ・・・って、いうか、全部お前のせいだろ」
千晶「えぇっ?・・・そうだっけ?」
春希「そうだったんだよ」
俺の目の前にいる奇妙な生物。
その実態を知ろうとはしてはいけない。
もし、この未確認生物に興味を持ってしまう人間が現れたのなら、
即刻逃げる事をお勧めする。
とにかく全力で逃げたほうがいい。
ほんの少しでもこの駄目人間に興味をもたれたら最期。
きっと、君は後悔することになるだろう。
もはや普通の生活など送れない事請け合いだ。
386: 2014/11/18(火) 17:30:43.30
それは、大学三年を終える3月。
まだまだ肌寒い日が続いていたが、それでも明るい話題も増えてくる時期。
3年の後期期末試験を終え、みんなそれぞれ春休みの予定を立てていく。
就職活動の為に先輩から情報収集する者や、最後の春休みだからと旅行に行く者。
人それぞれの過ごし方ではあったが、どれも正しい新4年生になる前の春休みの
過ごし方だと思える。
まあ、俺は、バイトに明け暮れてはいたが、これはこれで正しい大学生の暮らし方だ。
でも、和泉の春休みだけは間違っていると断言できる。
なにせ、俺の春休みのバイト生活の予定を大きく狂わせたのだから。
はっきりいって、和泉を切り捨てて、見捨てようって何度も甘い誘惑にかられた。
それでも和泉に甘すぎる俺は、しょうもない和泉を助けてしまうんだよな。
貧乏くじだってわかってる。
あの時の教授の目。俺をいたわる目に、思わず涙しそうになった記憶は新しい。
あれは、3月上旬。
大学生の期末試験も、大学受験生の入学試験も一通り終息を迎えたあの季節。
教授たちも試験から解放されて、ほっと一息つく季節。
あの日。一本の電話から、地獄が始まった。
もし、タイムトラベルができるのなら、その電話に出ないで、
ゆっくりと寝る事を俺に助言したい。
きっと過去の俺は、未来からきた俺に、氏ぬほど感謝するはずだ。
4-1 千晶 3月1日 火曜日
てっ、てっ、てぇっと。
は・は・は・・・・春希ぃっと。
私は、くるくると指先で器用に円を描きながら携帯を操作していく。
数秒後には、おなじみの愛しの春希のアドレスが表示された。
困ったときには、春希様一択よねぇっと。
テンポよく、タンって発信ボタンを弾くと、気持ちよく画面が私の指を跳ね返した。
千晶「あっ、おっはよう春希っ。女神さまからのモーニングコールだよ」
呼び出し音が数度なると、聞きなれた春希の声が聞こえてくる。
387: 2014/11/18(火) 17:31:25.61
多少不機嫌そうな声色ではあるけど、まあ、いつも仏頂面だし許容範囲ね。
だって、ニコニコしている春希なんて、きしょいだけで、きもいだけだし。
春希「なにが女神だ。貧乏神の間違いじゃないか?
こっちは始発でようやくバイトから帰って来たばかりで眠いんだ。
午前中いっぱいは、睡眠時間だって決めてたんだよ」
そっか。不機嫌そうなのは、寝てたからか。
でもねっ、春希。たぶん、その計画は練り直しだよ。
だって、睡眠時間を確保できなくなっちゃうはずだからさ。
千晶「そっか。今自宅マンションで、睡眠中かぁ」
春希「そうだよ。今までも寝ていたし、これからも寝る予定。
だから、電話切るぞ・・・・。ごめん、来客だ。本当に切るな。
大事な用があるんなら、また後で電話してくれ。
できれば、昼前くらいに頼む」
千晶「ほ~い」
ほんと面倒見がよろしい事で。
最後の最後で私へのフォローを忘れないあたりが春希らしい。
春希が電話を切ると、私は電話を耳にしたまま、時を待つ。
目の前にある扉が開くと、生の春希の声が、直接私の鼓膜を震わせた。
千晶「よっ、春希。女神様のモーニングコールはいらない?」
春希「なんでお前がここにいるんだよ」
携帯片手に飛び出してきた春希は、じと目で私を睨む。
千晶「ここが春希の家だから?」
春希「何故疑問形で聞きかえすんだよ。こっちが聞いてんの」
千晶「じゃあ、私が春希に会いに来たからじゃダメ?」
春希「駄目じゃないけど、こんな朝早くからどうしたんだよ」
千晶「まあ、ね。とりあえず、部屋の中に入らない?
ほら、もう三月だけど、朝は冷えるし」
春希「それは、俺が言うべきセリフだろ。家の主人が言うべきセリフなの」
千晶「そう? だったら、家のご主人様は、訪問者がいても、さむ~い玄関先で
ながながと凍えながらお話をなさるおつもりで?」
玄関からは、温かい空気は漏れ出てこない。きっと本当に寝てたんだろう。
388: 2014/11/18(火) 17:32:01.51
暖房をガンガンに効かせて、こたつでぬくぬく居眠りなんて春希がするわけないか。
でも、猫とか犬とか側にはわせて、こたつで温まりながらも仕事とかしていたら
なんか似合いそう。
きっと猫も犬も、春希の仕事の邪魔をしたくてうずうずしているんだろうな。
でも、ご主人様の仕事を邪魔しちゃいけないって、限界まで我慢して我慢して、
仕事が終わったら一斉に飛びかかりそうね。
春希はきっと疲れているんだけど、
疲れているのも忘れるくらい猫と犬を可愛がるんだろうなぁ。
春希「わかったよ。だから、朝っぱらから玄関先でわめくな」
千晶「はぁ~い」
私は春希のお許しを聞くと、春希の脇をするりとくぐり抜けて、部屋の中へと侵入していく。
うわぁっ。やっぱり、寒い。外も寒かったけど、部屋の中のこのひんやり感。
カーテン締めて朝日が入ってきていない分、部屋の中の方が寒いかも。
えっと、だ・か・ら、暖房、暖房。エアコンのリモコンはぁっと・・・・・。
春希「なにやってるんだよ」
千晶「寒いから、エアコンつけようかなって」
春希「リモコンならここにあるだろ」
そう言うと、春希は棚の上に整然と並べられていたリモコンの中の一つを取り上げて、
エアコンのスイッチを入れる。
そして、床に這いつくばっている私の両脇に手を差し入れると、私を引きあげ、
立ち上がらせてくれた。
なんか、まるで猫に対する態度っぽいのが気になるんだけど、まあ、しゃあないか。
春希「床を這いつくばって探したって、リモコンが見つかるわけないだろ?」
千晶「だって、リモコンっていったら、床に転がってて、
テレビやらエアコンやらのリモコンが入り乱れて、
テーブルの下とかに転がってるものじゃないの?」
春希「どこの家の住人だよ。つ~か、俺の周りには部屋を片付けられない女が
集まってくるのかよ。やっぱり和泉の部屋も散らかってるのか?」
なにやら春希は一人事言ってるけど、どうして私の部屋が散らかってるって
わかってるのかな?
もしかして、春希ってストーカー?
まあ、私の魅力的すぎるボディーを毎日拝んでいたら、しょうがないか。
389: 2014/11/18(火) 17:32:29.05
春希も年頃の男の子だし。
千晶「春希が部屋を掃除してくれるんなら、いつでもウェルカムだよ。
もう、毎日きてくれてもOK。
なんだったら、添寝も付けちゃうよ」
春希「添寝なんてしてくれなくてもいいし、掃除もやらない」
千晶「べ~つに、遠慮なんかしなくてもいいのに」
春希「遠慮も希望もしてないから」
千晶「そう? でも、気が向いたら、いつでも言ってね」
春希「それはないから、覚えておかなくてもいいぞ」
千晶「もう、春希ったら、照れちゃって」
春希「照れてもないからな」
千晶「そう?」
春希「そうだ」
な~んか、朝から春希もハイテンションになるなぁ。
まっ、寝起きに聞かせるような話じゃないから、このくらいのテンションまで
引きあげないとねぇ・・・。
千晶「でさ、用があってここまできたんだけど、要件言ってもいいかな?」
あれ? なんか春希のテンションが一気に下がってない?
なんか体中から力が抜けきって、心の底から脱力しきってる?
あれ? なんか変なこと言っちゃったかな、私?
春希「どうぞ、どうぞ。さっさと言ってくれ」
春希は、そう投げやりに言うと、その場に座り込んでしまった。
だから、私も春希と同じ目線になるべく、その場に座り込み、四つん這いになって
春希の顔を下から覗き込んだ。
千晶「じゃあ、言うね」
春希「はい、はい」
千晶「あのね、春希。
とりあえず、お腹すいたから、朝ご飯にしない?」
春希「はぁ? 朝ご飯? いきなり訪問してきたかと思ったら
今度はその迷惑すぎる訪問者に朝食をふるまえっていうのかよ?」
390: 2014/11/18(火) 17:34:34.02
千晶「何言ってるのよ、春希。
朝食は大切なんだよ。朝しっかりご飯食べておかないと
一日が始まったぁって思えないじゃない」
春希「俺は、ついさっき一日が終わったぁって思ったばかりなんだよ。
これからしっかりと睡眠をとって、それからなら朝食をとる予定なの」
千晶「でも、昼まで寝る予定なんだから、それは朝食じゃなくて昼食じゃない」
春希「いいんだよ。そんな細かい事は。昼に朝食食べようが、一日の始まりの食事には
変わりがないじゃないか。
千晶が言っている朝食っていうのは、一日の始まりの食事の事であって、
時間的意味は指定されていないはずだ。
一日の始まりが昼ごろならば、その時しっかり食事をすれば何も問題ないはずだ」
千晶「朝からそんな屁理屈聞きに来たんじゃないんだけどなぁ」
春希「お前が言わせてるんだろ」
あれ? なんか春希お疲れモード? ちょっと息切れかけているよ。
春希はもうちょっと楽をすることを覚えるべきだよねぇ。
千晶「言わせてるも何も、ほらっ。春希の顔を見ると、つい言いたくなっちゃうのよ。
だから、私のせいっていうよりは、春希のせい?・・・かな?」
春希「それ違うから、絶対違うから」
そうかなぁ・・・? これ以上つっこんじゃうと、本当に朝食抜きになりそうだから
この辺が潮時かな。それに、早く朝食をゲットして、本題も言わなきゃいけないしね。
千晶「じゃあ、春希がそう言うんなら、それでいいよ。
もうっ、春希ったらむきになっちゃって。
そういうところは、子供っぽいのよねぇ」
春希「断じて違うから。誰がなんて言おうが、あり得ないから」
あれ? 火に油注いじゃったかな?
もう、ほんとうにお腹すいちゃったんだけどなぁ。
私がしょんぼりとしていると、春希は立ち上がって背を向けてしまう。
そして、そのまま部屋から出ていこうとしちゃってるじゃない。
やばっ。本当に春希を怒らせちゃったかな。
まあ、しょんぼりしていたのは、お腹が空いてただけなんだけど、
しょんぼりしているか弱い女の子をほっといて逃げちゃうなんて、
春希、見損なったぞ。
だから、私は抗議の視線を送ろうと顔を上げる。
すると、そこにはいつもの春希がいた。
391: 2014/11/18(火) 17:35:07.24
春希「朝だから、あまり手が込んだものは作れないぞ」
ちょっとぶっきらぼうな言いようだけど、さすが春希。
すがる千晶をほっとかない所がかっこいいよ、春希。
もう、愛しちゃってもいいくらい。
千晶「じゃあ、親子丼とナポリタンで」
春希「なんで、そんな朝っぱらからヘビーなメニューを二つも作らないといけないんだ」
千晶「心外だなぁ。本当は親子丼じゃなくてカツ丼にしたかったのよ。
でも、朝だから揚げ物はやめようかなって」
春希「それでも、朝から親子丼とナポリタンの組み合わせはないだろ。
仮に、どちらか一つならあり得るかもしれない。
でも、二つもいっぺんに朝から食べるな」
千晶「もう、注文が多い春希よねぇ。じゃあ、いいよ。春希のお任せで」
春希「最初からそう言えばいいんだ」
春希はテキパキと料理の準備に入っていく。
あれ? なんか料理の手際がよくなってない?
前は、もっと手際が悪いっていうか、料理慣れしてないかんじだったのに。
最近料理でも始めたのかな?
だとすると、女かな?・・・・・・なんてね。
私は、春希の料理をする後姿を眺めながら、失礼すぎる妄想を繰り広げていた。
後になって知ることになるんだけど、料理を覚えたのが本当に女がらみだったとは。
やっぱ春希も男の子だったのねぇ。
私はもっと近くで春希を観察しようと忍び足で春希の後ろまで近付く。
そおっと後ろから春希の手元を覗こうとしたんだけど・・・。
春希「おわっ! 急にひばりつくな。驚くだろ。刃物を扱っているんだから
くっつくのは禁止」
千晶「えっとぉ、まだくっついてないと思うけど?」
たしかにまだくっついていないはず。春希の料理をこっそりと、じっくりと
観察してやろうと、わざわざ気配を消して忍び寄ったんだから。
もしや、春希。対千晶用レーダーで気配を察知した?
春希「その・・・な。なんだ」
千晶「なによ?」
春希「言いにくいんだけど」
392: 2014/11/18(火) 17:35:37.10
千晶「いつも言いにくい事でも、
いらないおっ説教を上乗せして言ってくるのが春希じゃない」
春希「それは心外なんだけど、そのな。・・・・・・・胸が背中に当たってるんだ」
あ・・・、これは失礼しました。春希も多感なお年頃だもんね。
こんな肉の塊だろうが男受けだけはいいのよね。
春希もその一般大衆の一人なのかしら・・・ね?
春希には、色々お世話になってるし、多少はサービスしてもいいけど、
今回のは私の失策か。
やっぱ、せっかく料理してもらってるんだし、へたに邪魔をして怪我でもされたら
たまったもんじゃない。
美味しい料理を食べ損ねるなんて、私が許せるはずないもんね。
だから、偶然だけど、春希の背中に胸を押しつけちゃってごめん、ごめん。
でもね・・・・・・。
千晶「いやぁ、朝早くから春希に手料理ご馳走になるんだし、
私の方からもお礼くらいはしないといけないと、考えたわけよ。
だから、春希も素直に私の善意は受け取ってね」
春希「善意の押し売りは、はた迷惑なだけだ」
千晶「じゃあ、悪意の押し売りだから、素直に受け取ってね。・・・えいっ」
私は、心の中とは真逆の謝罪を春希に押しつけるべく、その背中に飛びつく。
そして、その背中に胸の形が崩れるくらい力強く押しつけた。
ま、いっよね。春希もけが予防のために、包丁をまな板の上に置いているし。
こういった危機管理は超一流よね。
春希「やめろって。危ないだろ」
千晶「包丁持ってないからだいじょぶだって。
だってさ、こうなることがわかっていたから包丁置いたんでしょ?」
春希「それは違うぞ、千晶。こういった事態になっても対処できるようにする為に
包丁を置いたわけで、こういった事態を望んでいたわけではない」
千晶「そう? 同じ事じゃない?」
春希「全然違う。予想して対処することと、予想してそれを望む事とは
大きな隔たりがあるだろ」
千晶「予想はしていたんだ」
春希「いちおう、これでもお前との付き合いは長いからな」
千晶「だったら、予想できたんなら、私が飛びつく前に拒否する事もできたんじゃない?」
ちょっと強引だけど、私の主張が正しいって訴えるべく胸をこすりつける。
393: 2014/11/18(火) 17:36:27.21
頭が堅過ぎる春希には、逆効果で、なおかつうっとおしがられること必至だけど、
春希にはもうちょっと砕けてほしいのよね。
これはこれで春希らしくて、私は好きなんだけどさ。
春希「一つの行動パターンとして予想はできても、まだ行動もしてないときに
拒否することなんてできないだろ」
千晶「言う事だけならできるんじゃない?」
春希「言ったら言ったで、胸の事ばかり考えてるって言いかえしてくるだろ。
それと、さりげなく胸を擦りつけてくるのもやめろ」
千晶「え? いやだった? これでも罪滅ぼしのつもりだったんだけど」
顔では名残惜しい雰囲気を作りつつ、春希の背中から離れる。
これ以上は、本当に怒らせかねないか。
それでも、だいぶリラックスできたかな?
なんだか年を開けたあたりから、ずぅっと表情が堅かったんだよね。
最近はだいぶ調子が元に戻ってきたみたいだけど、
それでもたまに思い詰めてる顔を見せてるのよね。
本人は隠しているつもりでしょうけど。
春希「お前なぁ。俺だからいいけど、他の男連中にはやるなよ。
勘違いして、押し倒されているぞ。
お前は十分魅力的なんだから、その辺のところは認識しておいた方がいい」
千晶「それって、・・・つまり」
春希「なんだよ」
ちょっと、ううん、おもいっきり厭味ったらしい顔を作ると、
これまた春希が一歩身を引くぐらいタメを作ってから、私は言い放つ。
千晶「それって、つまり、春希は私の体に欲情してるってことだよね?」
春希「一般論を言ってるだけだ。一般論であって、俺の個人的な意見じゃない」
そんなに顔を真っ赤にして、両手を激しく振って否定しても、
春希の個人的な意見も一般論に賛成しているって言ってるものじゃない。
普段は自分の感情を押し頃して、そして、理屈っぽいと所がありまくりのくせに、
リラックスしているときは駄目ダメなのよね。
感情だだ漏れで、論理も破綻。
鋼鉄の理性も、こうなったら無意味ね。
394: 2014/11/18(火) 17:36:57.70
千晶「ま、いいか。おなかすいたぁ。まだできないのぉ?」
おどけた声で催促をする。
これ以上つっついても、いいことないしね。
それに、・・・・ほんとうにお腹すいたぁ。
第24話 終劇
第25話に続く
第24話 あとがき
千晶エピソード。
急に書こうかなって思ってしまいました。
もともとプロットだけはあったので、書く内容には困らないんですけどね。
えぇ、また本編の進行が遅くなります。
・・・・・・石を投げるのは禁止です(きりっ)
ごめんなさい。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
お詫び
今週より、深夜のコメントアップはしません。
あとがき、コメントのネタがつきました。ごめんなさい。
あとがきだけは、もう少し頑張ります。
黒猫 with かずさ派
397: 2014/11/25(火) 17:29:24.78
第25話
4-1 千晶 3月1日 火曜日
春希「お前が邪魔をするからだろ。お腹すいたんなら、黙って見ていろ」
千晶「はぁ~い」
私は素直に春希の料理姿を観察する。
けれど、それも数分で飽きちゃって、冷蔵庫の中やら戸棚の調味料なんかを確認する。
うん、やっぱり調味料やストック食材が増えてる。
さすがに腐りやすいものは少ないけど、長期保存できる調味料や乾物なんかは
以前来た時にはなかったものが多いかな。
女、できた? でも、寝室兼勉強部屋をかる~くチェックしたけど、
女の影はないのよね。
この家には連れ込んでないから?
たしかにこのマンションって大学から近すぎて、大学の友達に見つかりやすいのよね。
だからかな?
でもなぁ、春希が彼女できたからって、大学の友達に隠すかな?
彼女を見せびらかすようなタイプでもないし、だからといって秘密にもしないし。
そもそも、人の目なんて気にしないタイプよね。
やっぱ、ここは直球勝負するしかないかな。
千晶「ねえ、春希」
春希「なんだ? 部屋を勝手に漁るのはいいけど、散らかすなよ」
千晶「散らかしてないから、大丈夫だって」
春希「だったらいいけど。で、なんだよ」
千晶「うん。・・・・・ねえ、春希って、彼女できた?」
うん? 無反応?
手元はさっきまでと同じように野菜をフライパンで炒めてはいる。
これといって、大きな動揺は、一応、表面上は、見せてはいない、か。
うん、見た目だけは、いつも以上に、普段以上に、冷静さを作り出している。
春希「今はバイトで忙しいんだぞ。しかも、就活も始まるし、卒論だってある。
どこに彼女と楽しむ時間があるっていうんだ」
398: 2014/11/25(火) 17:29:58.43
千晶「そっか。忙しいか。今日もバイト?」
春希「ああ、そうだよ。午後からな」
千晶「へぇ。変なこと聞いてごめんね」
春希「ったく」
そう小さく悪態を吐くふりをして、春希は今まで以上に料理に没頭していく。
ごめんね、春希。
これってやっぱり、彼女できたんだね。
ウィーンにいる冬馬かずさかな。
小木曽雪菜とは完全に駄目になったみたいだけど、だから彼女の事を隠してる?
同じ大学だし、一応は筋は通っているのよね。
でもなぁ、な~んかちょっと違う気がするのよねぇ。
そんなこんなで春希の近況を詮索していると、フライパンから食欲をそそる香りが
私を誘惑してくる。
春希「くっつくなっていっただろ」
千晶「だってぇ。美味しそうな匂いがぷんぷんしてきたから、ついぃ」
これは私も予想外。あまりにも美味しそうな匂いがしちゃうものだから、
春希の背中から、春希の肩に顎をのせて覗き込んでしまった。
春希は背中から襲ってくる強烈な邪念を無視して、お皿に盛りつけを始める。
ケチャップ以外にも、オイスターソースやマヨネーズ、それにハーブの調味料なんかも
おいてあるし、けっこう期待出来ちゃったりする?
おや? これは目玉焼きじゃない。
ナポリタンの上に、半熟の目玉焼きをのせてくれるだなんて、
春希ったら、こんなところでお胸のお礼をしてくれなくてもいいのに。
春希「ほら、運ぶの手伝えって」
千晶「イエッサー」
元気よく返事をすると、春希の指示に従ってお手伝いをする。
うん、食欲の前では逆らえません。
しかも、美味しそうな料理の前だったらなおさらね。
さすが私の鼻。美味しい臭いをかぎわける能力の高さはすさまじいね。
予想通り春希が作ってくれたナポリタンは最高だった。
今もお代わりで貰った目玉焼きが二つのったナポリタンをもうすぐで完食するところだ。
399: 2014/11/25(火) 17:30:28.48
お腹も十分満たされてきたし、そろそろ本題に移らないといけないか。
春希の方も、いつ私が本題を話すのかって気をもんでいるみたいだしさ。
千晶「あのね、春希」
春希「そろそろ話す気になったか?」
千晶「うん、話そうとは思うんだけど、その前にお茶のお代わりいいかな?」
春希は無言で頷くと、私のカップにお茶を注ぐ。
のんぶりと漂う湯気が、ほのかに温かさを匂わす。
私は、そおっとカップを手に取ると、ちょっと大げさに「ふぅ、ふぅ~」って
飲みやすい温度まで下げる仕草をしてから一口お茶を喉に流す。
春希「もう十分か?」
千晶「OK、OK。じゃあ話すね」
春希「そうしてくれると助かるよ」
千晶「うん。とりあえず、時間ないから手短に話すね」
春希は、私の「時間ない」発言を聞いた直後に、すっごく嫌そうな顔をする。
もうわかったのかな? 春希君。
そう、君の期待通りの言葉が続くと思うよん。
千晶「大石教授がね、今日、朝一で春希と一緒に教授の部屋までこいってさ」
春希「は?・・・・・え?」
春希は、きっかり五秒間だけフリーズするが、すぐさま再起動する。
瞬間的に脳をフル起動させると、勢いよく時計の方に振り返った。
そこで、なんと再度のフリーズを起こしてしまう。
えらい、春希。今度は三秒のフリーズですんだみたいだよ。
春希の視線が壁時計から私にへと戻ったころには、
春希が淹れてくれたお茶も飲みやすい温度まで下がり、うぅ~ん飲みやすいぃ。
きっとスーパーで買ってきた特売の緑茶だろうけど、
美味しいナポリタンの後に飲むお茶は格別よね。
春希「のんきにお茶なんて飲んでいる時間なんてないだろ」
千晶「そう? でも、朝一っていっても九時に行けばいいんだよ」
ちょっと、春希さん。痛い子を見るような悲しい目で見ないでよ。
なんか、恥ずかしいじゃない。そんなにぎゅっと見つめられちゃうと。
400: 2014/11/25(火) 17:30:57.37
春希「なにを言ってるんだ。どこの世界での尺度で考えれば大丈夫なんだよ。
今、もう八時四十分を過ぎているじゃないか」
千晶「大丈夫だって。ここからなら、走っていけば五分もかからないじゃない」
春希「大学の正門まで五分以内についても、
お前の計算では教授の部屋までの時間は考慮されていないだろ」
千晶「一応全力疾走すれば五分でつくんじゃない?」
春希「だったら、俺が大学に行く支度をする時間は?」
千晶「うん、ごめん。春希なら、もう起きている時間だと思っていたよ」
春希「だったら、朝食なんかねだらないで、部屋に来た時、一番最初に伝えるべき情報だろ。
それをお前って奴は、ゆっくりと食べて、お代わりまでも」
千晶「それは、春希が悪いんだよ」
春希「なんでだよ」
千晶「だって、美味しかったから、お代わりしなきゃだめでしょ?」
春希「そ・・・れは、どうも」
千晶「どういたしまして」
春希「って、違うだろ」
千晶「うん、そうだね。もう四十五分になりかけているよ」
春希は私の指摘で再び壁時計を確認すると、今度は私の方には視線は戻ってはこなかった。
その代わり、素早く立ち上がると、テキパキと身支度を始める。
春希「食器は流しに水をつけておくだけでいいから。
帰って来てから洗う。お前も今すぐ大学に行く準備しろよ」
千晶「アイアイサー」
春希の言いつけ通りに流しに食器を持っていき水につけると、そのまま玄関へと向かう。
まあ、私の場合、コート来て靴履けば準備完了なのよね。
春希「・・・・ええ、すみません。今すぐ向かいますので。
・・・・・・・・・・はい、わかりました」
千晶「どうしたの、春希? 時間がないって言ってた割には、ゆっくりと電話なんかして」
春希は携帯電話を鞄にしまうと、私に続き、靴を履き始める。
止まって話をする時間も惜しいみたいで、私の顔を見ずに、靴の準備と共に
私への説明も始めた。
春希「大石教授に連絡したんだよ。今から行くから少し遅れるって」
千晶「まめだねぇ、春希も」
401: 2014/11/25(火) 17:31:31.70
春希「お前がもっと早く言ってくれれば、こんなに慌てることもなかったんだよ」
春希のお説教タイム第二ラウンドが本格的に始まるころには、部屋の鍵をかけて、
早足でエレベーターへと向かい始めていた。
千晶「一応昨日の昼に電話して、夕方にもメールしたんだけど?
でも、春希からは返事来なかったから、こうして今日直接きたんじゃない」
春希はすぐさま携帯を確認すると、ほんの少しすまなそうな顔をにじませる。
でも、急いでる事もあるし、今朝ゆっくり朝食なんて食べてたもんだから、
やっぱり春希は釈然としないみたいね。
春希「すまない。昨日は特に忙しくて、電話もメールもきていた事は気がついていたんだけど
後回しにしていた。ほんとうにすまない」
千晶「いいって。こうして今一緒に行ってくれているんだし」
春希「そうはいっても、俺がしっかり確認していれば、遅刻しないで済んだのに」
千晶「もういいじゃない。春希が教授に電話してくれたおかげで
十分間の全力疾走は免れそうだしね」
春希「そうだな。なぁ、ところで、なんで教授に呼ばれたんだ。
さっき教授と話していても、こっちが遅刻するって言ってるのに
なんだか教授の方が申し訳なさそうな感じだったんだよな」
千晶「気のせいじゃない?」
春希「そうか?」
千晶「ほら、急がないとねぇ」
ここで春希が余計なこと考えてユーターンなんてしだしたら、たまったもんじゃない。
こっちは春希のせいでこうなったんだから、ね。
私としてはどうでもよかったのに、春希がどうしてもっていうからさぁ。
千晶「急ぎますよ~」
私は、春希の背中を両手で押して、その足を加速させる。
ただ、デスクワーク中心のバイトらしいので、その加速も、私が手を離すと即座に失速した。
けれど、どうにか話題の修正だけはできたので、よしとしましょうか。
教授は待たせておけばいいのよ。
なんたって、こんな朝早くに指定するのが悪い。
なんて、春希からすれば、大変不届きモノの発言らしいけど、
とりあえず素直に春希の背中を追い越し、その隣へと並ぶ事にした。
402: 2014/11/25(火) 17:31:59.36
春希の部屋とは違い、暖房がしっかりと効きすぎている教授の部屋は、
その暖気以上に、目の前の二人の熱気がみなぎっていた。
朝からヒートアップするだなんて、春希はともかく、大石教授はお年なんだし、
リラックスしないとねぇ。
春希「どういうことでしょうか?」
大石教授「つまりですね、和泉さんはこのままだと四年生に進級できないのですよ」
春希「でも、出席日数は余裕があったはずですよね?
それとも試験の出来が悪かったのですか?」
大石「そのどちらもです」
春希が思わず私の方に振り返るが、どういう表情で出迎えた方がいいかな?
やっぱ苦笑いをしつつ、申し訳なさそうにするのが春希好みだよね。
じゃあ、それでいこっかな。
というわけで、春希好みの「頑張ったけど、ちょっと失敗しちゃった女の子」を
演じることにした。
千晶「ごめんね、春希。前半春希がしっかりサポートしてくれていたから
大丈夫かなって思ってたんだけ、年明けてから油断しちゃった」
というのは、嘘なんだけどね。
ヴァレンタインライブの為に、練習に気合を入れ過ぎたのがいけなかったか。
結果としては、ライブは大成功して、春希との関係も破綻せずにはすんだ。
それとは引き換えに、劇団公演の方は私の脚本が没になって、急遽代わりの脚本で
私抜きで公演やってるみたいなのよね。
一応最初の公演の方で主役だったし、代わりの公演の方も主役でって団長が言ってたけど、
それはやっぱ、春希優先でライブをとっちゃったしなぁ。
春希「それって・・・」
千晶「違うよ」
私は、春希が言おうとした事を察知して、それを遮る。
なんだって春希は、馬鹿正直なんだろう。
それが春希のいいところなんだけど、今は教授の前でしょ。
絶大なる信頼を得ている春希だからこそ、これからチャンスをもらえそうなのに、
その春希自身が自らの評価を落として、そのチャンスを台無しにしたらどうなっちゃうのよ。
403: 2014/11/25(火) 17:32:59.04
まあ、私は最初から進級なんてどうでもよかったんだけど、そうなんだけど、
最近は春希と一緒に卒業するのもいいかなって思ってあげているのよ。
だから、その辺の私の事情も察しなさいよね。
この鈍感春希めが。
春希「和泉・・・」
千晶「浜口教授には、今日会えるんですか?」
春希には悪いけど、ここはさっさと話を進めさせてもらうわね。
大石教授「この後会う予定ですよ。ですけどねぇ。浜口教授は・・・」
この浜口のおっさんのせいで春希が引っ張り出されたわけなのよね。
そもそも私とは、そりが合わないことが必然すぎて、顔を合わすべきでもない。
春希も苦手ってわけでもないみたいだけど、好んで相手をしたい人間だとは思っては
いないみたいなのよね。
もっとも、向こうの方は春希のことをえらく信頼しているみたいだけど。
一方通行の恋も、相手によっては、はた迷惑極まりない例の極致かな。
春希「なにか問題でもあるんですか?」
大石「先ほども話しましたけど、和泉さんは四年生に進級するには二科目足りません。
そのうち一科目は昨日レポートを提出することで決着がつきました。
もちろん北原君が責任をもってサポートすることが条件なのですけど」
大石教授は、自分の事のように申し訳なさそうだ。
このおじいちゃん、面倒見がいいのよね。
ただ、私に対してだけは春希に丸投げだったけど。
それだけ春希を信用していたってことかな。
それとも、自分がやるより春希が面倒見たほうが効果的って考えたのかな?
だとしたら、けっこう人を見る目があるおじいちゃんよね。
今はのほほんと気が弱そうなおじいちゃんしているけど、
昨日の私のレポート提出を勝ち取る手腕は見事な手さばきであることながら、
その根回しの周到さも春希以上だと感じ取れた。
もし春希がこのまま育ちに育ったら、こんなおじいちゃんになるのかも。
それに、あの口うるさい浜口のおっさん対策として、春希を連れてくるあたりが
抜け目がないと評価できた。
まあ、昨日はほんとうにあのおっさんの予定がきつきつで、
面会時間がとれなかったんだけどさ。
春希「千晶のサポートは、もともと任せられていたのですし、問題ないです。
むしろ、こんな事態になってしまって、申し訳ありません」
最近は春希と一緒に卒業するのもいいかなって思ってあげているのよ。
だから、その辺の私の事情も察しなさいよね。
この鈍感春希めが。
春希「和泉・・・」
千晶「浜口教授には、今日会えるんですか?」
春希には悪いけど、ここはさっさと話を進めさせてもらうわね。
大石教授「この後会う予定ですよ。ですけどねぇ。浜口教授は・・・」
この浜口のおっさんのせいで春希が引っ張り出されたわけなのよね。
そもそも私とは、そりが合わないことが必然すぎて、顔を合わすべきでもない。
春希も苦手ってわけでもないみたいだけど、好んで相手をしたい人間だとは思っては
いないみたいなのよね。
もっとも、向こうの方は春希のことをえらく信頼しているみたいだけど。
一方通行の恋も、相手によっては、はた迷惑極まりない例の極致かな。
春希「なにか問題でもあるんですか?」
大石「先ほども話しましたけど、和泉さんは四年生に進級するには二科目足りません。
そのうち一科目は昨日レポートを提出することで決着がつきました。
もちろん北原君が責任をもってサポートすることが条件なのですけど」
大石教授は、自分の事のように申し訳なさそうだ。
このおじいちゃん、面倒見がいいのよね。
ただ、私に対してだけは春希に丸投げだったけど。
それだけ春希を信用していたってことかな。
それとも、自分がやるより春希が面倒見たほうが効果的って考えたのかな?
だとしたら、けっこう人を見る目があるおじいちゃんよね。
今はのほほんと気が弱そうなおじいちゃんしているけど、
昨日の私のレポート提出を勝ち取る手腕は見事な手さばきであることながら、
その根回しの周到さも春希以上だと感じ取れた。
もし春希がこのまま育ちに育ったら、こんなおじいちゃんになるのかも。
それに、あの口うるさい浜口のおっさん対策として、春希を連れてくるあたりが
抜け目がないと評価できた。
まあ、昨日はほんとうにあのおっさんの予定がきつきつで、
面会時間がとれなかったんだけどさ。
春希「千晶のサポートは、もともと任せられていたのですし、問題ないです。
むしろ、こんな事態になってしまって、申し訳ありません」
404: 2014/11/25(火) 17:33:29.43
大石教授「いやいや、頭を上げてください。私も北原君に全てまかせっきりにしたのが
いけなかったのです。君はいつも頑張っているから
つい頼ってしまったのがいけなかったのですよ。
それにね、ヴァレンタインコンサートの方の評判も聞き及んでいるんですよ。
大変すばらしかったとか。言ってくだされば、私も見に行ったのに」
そう、意外すぎる人物からのコンサートの賛辞に、春希は面を喰らう。
たしかに、このおじいちゃんがヴァレンタインコンサートなんて似合わなすぎる。
春希の事だから、こんな失礼な意味で驚愕してるんじゃないと思うけどさ。
春希「俺はたいしたことやってないですよ。
すごかったのは、和泉の歌とピアノで参加してくれた冬馬かずさなんですから。
だから、俺なんておまけみたいなものなんですよ」
大石教授「そうですか? でも、北原君も頑張ったから、
メンバーの二人も頑張ってくれたのではないでしょうか」
どこまで知ってるの?って勘ぐっちゃいそうだけど、きっと一般論よね。
たしかに、春希が頑張っていなかったら私は参加してないわね。
ただたんに、冬馬かずさとの記念ライブってことなら、私が参加する意味がない。
でも、冬馬かずさの映像出演なんて、私が勝手にやっちゃったわけで、
もともとは音源だけだったわけだし。
と、考えると、春希がライブで冬馬かずさといちゃいちゃするためだけっていう考えは、
そもそも成り立たないわね。
いやぁ、策士千晶さまも色ぼけちゃったかな。
春希「逆ですよ。二人が頑張っているからこそ俺も頑張ろうと思ったんです。
だから、俺が頑張らなくても二人はきっとみごとに成功させていたはずですよ」
大石教授「そうでしょうかね。あなたが本当にそう思っているのならば、
それでもいいでしょう。さてと、そろそろ浜口教授のところへ行きましょうか。
いつまでも待たせておいても失礼ですしね」
大石教授は、そう言うと、テキパキといくつかの資料を手にして席を立つ。
おそらく私の成績とかレポートとかなんだろうなぁ。
昨日も同じようなの持っていたし、きっとそうなのだろう。
こういった根回しっていうか、事前準備の部分も春希そっくりね。
ほんとうだったら、私なんて留年させて、とっとと大学から追い出しちゃえばいいのに。
いらぬお節介で、いらぬ荷物をしょっちゃうあたりも、ほんとそっくり。
気苦労が絶えないから出世しないような感じもするんだけど、
これでも学部長なのよね。
405: 2014/11/25(火) 17:34:23.89
見た目はどこにでもいるおじいちゃんなのに、抜け目がない。
おじいちゃん、おじいちゃんって、心の中では言っちゃってるけど、
こう見えても意外と若いしなぁ。
となると、春希も気苦労を重ねて、将来老けるの速かったり?
ただまあ、食えない性格ってところが春希とは違うかな。
おそらく春希は、このおじいちゃんみたいな隠れた野心家ではないと思うしさ。
春希「教授。行く前にちょっといいですか?」
大石教授「どうぞ」
春希「事情はどうにかわかってきたのですが、あの浜口教授がレポートくらいで
単位をくれるでしょうか?」
大石教授「おそらく難しいでしょうね」
春希「自分も同じ意見です、浜口教授は、良くも悪くも厳格な方です。
授業点に関する配点さえも公表するくらいですから。
その授業点とテストの点の合計点で、合格点に満たなければ
きっとどのような理由があっても単位はくれないと思います」
大石教授「でしょうね。しかし、このままでは和泉さんは留年してしまいます。
留年してしまえば、一年棒に振ってしまいますし、なによりも北原君がいなければ
このまま授業に出なくなり、そして退学してしまうのではないでしょうか?」
大石教授の細い眼が私を捉える。
よく見てるなぁ、このおじいちゃん。
春希じゃないけど、私も同意見ですよ。
春希がいるからちょっと頑張って一緒に四年生になろうとも思ったんだけど、
最後の最後でへましちゃったのよね。
年が明ける前までは、春希に色々文句を言われながらも、どうにかギリギリの線で
頑張っていた。
でも、年明けて、ヴァレンタインライブが決まったところで、事態は急転する。
・・・・・・冬馬かずさ。あの子、何者なのよ。
あの子をトレースしようとしたら、この私が全くトレースできないんだもの。
それでもライブまでには形にはできたんだけど、私としては不完全燃焼で
不完全すぎるお芝居だった。
まったく冬馬かずさを演じられなかった。
けれど、ライブで春希と冬馬かずさのセッションを見て、なんか納得しちゃったかな。
偽物だろうが、冬馬かずさにはなることはできない。
偽物に近い偽物を演じる事ならできるだろうけど、
それだと私のプライドが許さなかった。
偽物は偽物らしく、本物にならなくちゃいけない。
406: 2014/11/25(火) 17:35:06.05
どこまでもふてぶてしく、本物以上の偽物をやらなくて、なにが女優よ。
こればっかりは、私の意地ね。
なぁ~んて、私が考えていたことなんて知らずに春希はライブで
あの冬馬かずさといちゃこらしてたんだろうけどさ。
第25話 終劇
第26話に続く
第25話 あとがき
千晶「著者があとがきから逃亡して、代わりに黒い猫を置いていったって?」
黒猫「にゃ~」
千晶「千晶エピソードって、別に書いていた『千晶、踊る仔猫』なんだよねぇ。
たしか本一冊分の容量なかったっけ?」
黒猫「にゃぁ・・・」
千晶「このままだと『心の永住者』の本編再開するまで時間かかるから
著者があとがきから逃げたのか・・・。
私が活躍するんだったら、困らないけど」
黒猫「・・・・・・」
千晶「でも、『~coda』のプロットは最後まで書きあげてあるんだし、
最後まで書いちゃえばいいのにねぇ。
そんなに私の事が書きたいか。
だったら、書くしかないね(にやり)」
黒猫「・・・・・・」
千晶「まっ、著者のことだから、さわりの部分しか書かないんだろうけど・・・・。
とりあえず、あとがきってどうするの? 放置?
もう帰ってもいい?」
黒猫「ニャー」
千晶「え? 駄目? これだけは言ってから帰れって?
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
じゃ、また来週~(すた、すた、すた・・・・・)」
黒猫 with かずさ派
408: 2014/12/02(火) 17:29:18.71
第26話
4-1 千晶 3月1日 火曜日
春希「教授は、和泉を卒業させたいと考えているのですね」
大石教授「そうですよ。だからこそ、北原君に預けたのですが、
最後の方で失速してしまったようですね」
春希「すみませんでした。自分の監督不行き届きです」
大石教授「いいのですよ。先ほども言いましたけど、コンサートの為に頑張るのも
大学生の本分だと、私は思っていますからね」
春希「ありがとうございます。それで、教授は、このままただ和泉を留年させるだけでは
来年からの和泉の勉強に取り組む態度が悪化するとお考えで、
その為に俺のサポートがフルに受けられる四年生への進級を
無理にでも推し進めようと考えているのですね」
大石教授「おおむねその通りですよ。レポートで単位をくれると納得してくれた教授も
北原君が言ったような事を私が昨日言ったら、どうにか納得してくれましたよ」
春希「そうですか。でも、それが浜口教授に通用しましかね?」
大石教授「どうでしょうか。一応和泉君のテストの点は、
どれも合格点を超えていたんですよ。
けれど、昨日レポートを勝ち取った科目も、浜口教授の科目も
どれも出席日数が一日足りないのですよ。
しかも、レポートの提出や課題の提出があまりにも遅れて提出されて
いるのです」
春希「それは、単位をくれるにしてもグレーゾーンすぎますね」
大石教授「そうですね。だからこそレポートで手を打ってもらえたのですがね。
けれど、浜口教授は、あまりにも厳格で、このグレーゾーンも
黒に近いグレーですね」
春希「でしょうね」
大石教授「だからこそ、今日は君に来てもらったのですよ」
春希「え?」
大石教授「聞きましたよ。あの浜口教授のお気に入りの生徒らしいですね」
春希「え?」
春希は、大石教授の情報源であろう私を睨みつけてくる。
正解、春希。ご明答。春希のご想像通り、私がおじいちゃんに教えたんだけどさ、
でもね、そうでもしないと、このおじいちゃん、昨日帰してくれそうになかったのよ。
409: 2014/12/02(火) 17:30:08.28
なにかしら手を打たないと、確実に私は必修科目である浜口教授の単位を落としちゃう。
その結果、進級要件の必修科目を取得していない私は、来年も必然的に三年生さ。
だからね、春希。お願いっ。一緒にライブをやった仲でしょ。
春希「わかりましたよ。俺が責任を持ってサポートすれば、
どうにかレポートになるかもしれないですし」
大石教授「いえ、それは無理でしょうね」
千晶「え?」
思わず大声で出してしまった。だって、レポートでかたをつけるんじゃないの?
それともなに? それ以外の方法でもあるっていうの?
私の声に驚いた二人は、私の方に振り返るが、それもすぐに興味を失い、
すぐさま二人の会話に戻ってしまった。
たしかに私が会話に参加しても、なにもいい意見をだせるとは思わないよ。
でもね、こうもあからさまに残念そうな表情を見せないでよ。
春希「だとすると、仮単位ですか?」
大石教授「はい」
千晶「仮単位?」
大石教授「仮単位ならば、どうにか浜口教授も納得してくださるでしょう」
千晶「そなんだ。それで四年生になれるの?」
大石教授「はい、なれますよ。レポートもしっかり提出してくださればね」
千晶「それは、ばっちりOK。なにせ春希が責任を持って監督してくれるからねっ」
春希「そこは、お前が責任を持ってレポートに取り組むっていうべきだろ」
千晶「私が言ったところで、だれも信用してくれないでしょ。
だったら最初から春希が責任を持つって言った方がいいってものよ」
春希「そうかもしれないけど、これは気持ちの問題だろ」
千晶「そう? でも、そんな気持ちの問題を大切にするよりは
とっとと見切りをつけて現実的に対処すべきでしょ」
春希「だけど、・・・・・・もういいか」
春希もようやく納得してくれたみたいね。
これで、どうにか私も来年からは四年生か。
って、その前にレポートかぁ。こりゃ徹夜だな。
ん?・・・・・・仮単位って、なに?
千晶「ねえ、春希」
410: 2014/12/02(火) 17:30:39.47
私は、思わず力がない手で春希の服の裾を引っ張ってしまった。
だって、ここまで来たっていうのに、怪しすぎる「仮」単位なんて、
聞き慣れない言葉が出るんだもん。
いくら図太い神経の持ち主の千晶様であっても、弱気になっちゃうわよ。
春希「どうした?」
やっぱ、私が急にしおらしくしたから、春希であっても心配するか。
そうか、心配するか。今度からは、この手も使ってみよっと。
でも、乱発すると効果がなくなるから、今回みたいなここでって時のだけの必殺技だな。
千晶「仮単位って何? 仮って、どういうこと?」
春希「ああ、その名の通りだよ。仮に単位を認めてくれるだけ。
単位は認めてるから、いちおう来年からは四年生になれるぞ」
千晶「ねえ、その「いちおう来年からは」って、どういう意味かな?」
私の額からは汗がゆるりと流れ出ているかもしれない。
だって、ここにきて、みょうにこの二人が怖い。
なにか、すっごく面倒な事を私に押し付けようとしてるって、びんびんと肌から
感じ取れるもの。ぜったい何かとんでもない事を最後にとっておいてるでしょ。
春希「それも、その名の通りだよ。いちおう来年からは和泉も四年生になれる」
千晶「でも、その後に「だけど」がつくんでしょ?」
春希「よくわかったな」
よくわかったなじゃな~い。
なによ、その偉そうな顔。これがどや顔ってやつか?
ねえ、そうなんでしょ?
くぅ~っ、むかつく~・・・・・・。
春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。
春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。
春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。
・・・・・・・。
春希「落ち着いたか?」
千晶「春希のくせに」
私は肩を落として、ぜえぜえと肩を揺らしながらも、顔だけ上を向いて春希をにらみつける。
411: 2014/12/02(火) 17:31:18.58
でも、春希ったら、涼しい顔で私を見下ろしてきていた。
もうっ、春希のくせに。
千晶「で、「だけど」の先はなんなの?」
春希「ああ・・・、一応四年生にはなれるけど、
浜口教授の講義だけはもう一度受けなければならない。
たぶんこれなら浜口教授も許してくれると思うよ」
大石教授「たぶん大丈夫でしょうね。
なによりも、和泉君の世話をしたいと思う先生はおりませんでしたし」
なによそれ。今頃になっての新事実?
つまりは、今年留年して、来年私の面倒をみたくないから、ていよく四年生に
させるってこと? そして、春希にぜ~んぶ面倒みさせるってことか。
春希「なんだか不満そうだな」
千晶「そう見えるんなら、そうなんじゃない?」
春希「いちおうこれも言っておくけど、大学は義務教育じゃないんだぞ。
だから、留年するのも退学するのも、基本的には自由なの。
ここまで親身になって世話をしてくれている大石教授が特別なんだよ」
大石教授「私はそこまでお人よしではありませんよ。
なによりも、北原君に和泉さんの事を丸投げしてしまいましたからね」
ううん、違う。本当は大石教授が面倒をみるつもりだった。
私を大学に引き止める為に、大石教授が拾ってくれたって、あとになって聞いていた。
私としては、春希と一緒のゼミになれてラッキーぐらいだったし、
どうやって春希と同じゼミになろうかって悩んでもいた。
そもそも、あの春希が入っちゃうゼミなんだから、入室倍率は高い。
普通に入るんなら、かなり優秀な成績を収めていないと不可能だ。
それなのに私が入室できたのは、特別枠の、特別待遇。
だれも引き取ろうとしなかった問題児を、緊急処置で引き取っただけにすぎない。
だけど、ここで誤算があったのが、大石教授が急遽忙しくなってしまった事だ。
これもあとになって知った事だけど、入試改革をして、大学の価値を上げるために
学部長たる大石教授が責任者になってしまった。
今の世の中、力のない私立大学は廃業していってしまう。
募集定員割れも、うちの大学でも起こっているらしい。
都心にあって、そこそこのレベルのうちの大学が、今すぐ経営危機に直面するわけでは
ないだろうけど、それでも、大学経営が厳しくなっている事は事実なんだろう。
412: 2014/12/02(火) 17:31:56.77
そこで大石教授が責任者として改革チームを率いていくわけなんだけど、
そうなると今までも忙しかった大石教授が、改革チームと問題児を両方面倒見る事
なんてできようもなかった。
だから春希が私の後継人になったわけだし。
教授達からも、生徒からも信頼が厚い春希ならばっていう当然の選任なのだろう。
春希「それでも色々と影から支えてくれていたじゃないですか。
レポートの提出期限なんかでは、よく大石教授が直接お願いに来たって
言っていましたよ」
大石教授「あれだけ内緒にして欲しいと言っておいたのに、しょうがないですね」
春希「一応和泉にプレッシャーをかける為でしょうかね。
まあ、主に交渉していたのが自分ですので、和泉には教授達の思いは
全く届いていなかったみたいなのですが」
大石教授「そのあたりも痛いほどわかっていると思いますよ。
だから北原君に言って、和泉さんの手綱を引き締めておいて欲しかったのだと
思いますよ」
春希「そうだとすると、ますます申し訳ないです。自分が油断したあまりに
こんな結果になってしまって」
大石教授「もうよしましょう。そろそろ時間ですしね」
春希「はい」
そう二人はこの話を締めくくると、部屋をあとにする。
なんだか臭い芝居を見たあとみたいな気がして釈然としない。
もう、ほんとうにうっすらと涙さえ浮かべているか確かめてやりたいほどだ。
・・・・・・そんな面倒な事はしないけどさ。
だけどっ、なんなのよ。いちばん釈然としないのは、仮単位ってなんなの。
レポートはやらないといけないけど、結局は来年もう一度あの浜口のおっさんの
講義を聞かないといけないってことじゃない。
ほんと、春希じゃないけど、朝一で疲れる報告聞いちゃったな。
私は、とぼとぼと、尻尾をだらりと力なく引きずりながら、二人のあとを追った。
再び大石教授の部屋に戻ってきた私たちは、思い思いの恰好で椅子にもたれかかっていた。
中でも一番疲れきっているのは私だって断言してもいい。
この部屋を出る前に見た春希と大石教授の猿芝居が子供のお遊戯だって思うくらい生易しい
精神的ダメージであった。
413: 2014/12/02(火) 17:32:29.17
今思い返しても腹が立つ。
なんなのよ、あの浜口のおっさん。
あんなんだから、いつまでも独身で、出世もできないでいるのよ。
春希「どうにか予想通り仮単位認定にできましたね」
大石教授「だいぶ渋い顔をしていましたけどね。
そこはさすが北原君というところでしょうかね」
春希「どうでしょうね」
二人して喜びを分かち合ってるみたいだけで、忘れてないでしょうね。
千晶「なんで単位もらえないのにレポートやらないといけないのよ」
そう。やっぱり仮単位を貰う条件がレポートだった。
さすがに無条件には仮単位といえどもくれないらしい。
来年もあのおっさんの顔を見ないといけないのかぁ・・・。
これだって、私からしたら、非常に不本意なのよ。
それなのに、単位がもらえないばかりか、レポートをやらないといけないなんて。
春希「その顔は不満ですって感じだな」
千晶「当たり前でしょ。
なんで貰えもしない単位の為にレポートやらないといけないのよ」
春希「それは、浜口教授の講義が必修科目だからだろ。
これを落としたら、四年生に進級できない」
千晶「でも、なんでレポートやらないといけないのよ。
来年も受けるんなら、意味ないじゃない」
春希「だから、仮単位といえども、一応は単位認定されているんだから、
ただで認定するわけにはいかないだろ」
千晶「わかってるわよ。わかってるけど、あのくそ親父の顔を思い出すたびに
むしゃくしゃするのよ」
私のヒステリーに、春希も同情の色を見せてくれる。
これは珍しい事もあった事だ。
普段だったら、ここぞとばかりにたたみかけてお説教モードに突入するはずなのに
今回だけは鬼の春希にも優しさが灯したらしい。
春希「あれだけねちねち言われたら、わからないでもない」
大石教授「正論なので反論しにくいのもありますね。
こちらが無理を言っているので、強くも言えませんし」
414: 2014/12/02(火) 17:33:04.43
春希「そうなんですよね。浜口教授の言い分が正しいから反論できないんですよね。
これが少しでも感情的な言い分でしたら対処のしようがありましたのに、
一貫して感情論ではなくて正論で押し通しましたからね」
大石教授「それが浜口教授のいいところでもあるんでしょうけどね。
あくまで公平で明確な基準をモットーにやられてきましたし」
春希「でも、最後はこちらの粘り勝ちでしたね」
大石教授「いえいえ。最初から大石教授も仮単位を認めるつもりでしたよ」
春希「え? ある程度は認めてくれるとは思っていましたけど、最初からですか」
大石教授「そうですよ。あの理論派の浜口教授なのですよ。
和泉さんが今年留年してしまったら、退学してしまうってことも
わかっていたはずです。
だからこそ北原君のサポートが必要だとわかっていましたし、
北原君がいたら卒業も可能だと思っていたんでしょうね」
春希「だとしたら、何故ああまでしても、なかなか認めてくれなかったのでしょうか」
大石教授「それは、和泉さんの心構えでしょうね。
なにせ、最初から北原君に頼る気満々だったのでしょう?」
痛いところを突くおじいちゃんだよね。
私の事を春希以上にわかっているのかもしれない。
ぶっちゃけ、大学なんて退学してもいいって思っていたし、四年生に進級することだって
最近までは全く興味を持てなかった。
だけど、この前のヴァレンタインコンサート。
あれで、北原春希と冬馬かずさのことを知っちゃったからには、
この先も見てみたいって思ってしまったのよ。
だとしたら、今、春希の側から離れるのはよくない。
このまま春希と一緒に大学四年生になって、大学を卒業するべきだ。
卒業後は、あれだ。まあ、なんだ。予定も未定で、なにも計画はないけど、
最悪、春希のマンションの側に部屋でも借りて、ご飯目当てに転がりこめばいい。
春希にも会えるし、ご飯にもありつける。
これで一石二鳥ってかんじよね。
千晶「頼る気はあったけど、なんとかしようとは思っていたのよ。
私も進級したいって思ってたから」
大石教授「そうですか。今度からは、もっとわかりやすくやる気を見せてくださいね。
そうすれば、浜口教授ももっと早く解放してくれたでしょうから」
千晶「は~い。わかりましたぁ」
もういいや。お腹すいたし。
早く家に帰って、春希のご飯が食べたい。
絶対に食べたいっ。
415: 2014/12/02(火) 17:33:36.08
ほんとっ、春希の料理の腕あがってたよね。
こりゃ、昼食も期待しちゃうでしょ。
春希「では、期日までにレポートを二つ提出させるように頑張ります」
大石教授「いいえ、違いますよ」
春希「え?」
大石教授「私の講義も少し危なくてですね、その分も入れてレポートは三つなんですよ」
春希「わかりました。善処します」
あの春希でさえ苦笑いを浮かべて大石教授から最後のレポートの課題を受け取る。
もうここには用はない。
とっととおさらばしたい気持ちでいっぱいだった。
さっきまで親身になって手助けしてくれたから、ちょっとだけ尊敬しちゃったじゃない。
それなのに、私の気持ちをもてあそんで。
最後の最後になって、大石教授のレポートだなんて。
この際他の二科目のレポートはよしとしましょう。
でも、大石教授のレポートだけは勘弁してほしいな。
なにせ、普段のレポートも学科、いや大学トップクラスの面倒くささを有しているのに。
しかも私が受講した大石教授の講義。
二コマ連続の講義で、なんと一年間の通年講義なのよね。
つまり、この講義。
たった一つの講義であっても、たった一つで四講義分の分量があるっつ~のっ。
もうっ。私を頃すつもりじゃないかしら。
こうなったら、春希の料理でやけ食いだからね。
これは確定事項っ。絶対引かないんだから。
私達は、自然と春希のマンションの方へと足が向かう。
そもそも大学のカフェは春休みで休業中だし、わざわざ学外のカフェで打ち合わせを
するのも金銭的にもったいない。
それに、なによりも外食では春希のご飯にありつけないのだから、自然なふうを装って
既成事実的に春希のマンションへと向かっていた。
部屋に着くと、春希が年寄りくさく床に座るものだから、
一言ちゃちゃを言ってやろうという誘惑にかられる。
きっと普段の私ならば言った事だろう。
だけど、今日の春希の頑張りようや、これからお世話になることを考えると
今日のところはおとなしくしとこっかな。
416: 2014/12/02(火) 17:34:21.08
さて、ここは女の子らしくコーヒーでも自発的に淹れるべきだろうか?
でもなぁ、そんなの私のキャラっぽくないし、困ったものだ。
それに、もう和泉千晶を演じる必要がないっていうのが問題なんだよなぁ。
ヴァレンタインコンサートの時に、春希と冬馬かずさを観察していたって
ぶっちゃやはしたけど、和泉千晶という人格は、春希に近づく為に作り上げたって
事までは教えてはいない。
だったら、このまま和泉千晶を押し通す?
それもいいかもしれないし、なんとなく私と春希の関係においては居心地がいい。
ん~ん・・・・・・。そもそも私って、どんな人格なんだろ?
冷酷非道の女?
演劇の為なら何でもする非常識人間?
劇団の花形?
脚本家?
それとも、それとも、和泉千晶?
やっぱ、和泉千晶かな。
性格なんて、時間と共に変化するものだし、これから和泉千晶の性格が
変わっていっても、春希はそんなものかな程度で違和感を感じる事すらないだろう。
げんに、北原春希という人間も、ここ数カ月で劇的に変化を見せている。
私としては、なんとなくいい風にも、悪い風にも変化をしてるって気がする。
プラスの方向に行こう行こうってもがいてるんだけど、
ふとしたきっかけで折れそうで、危うい。
それでもなぁ、なんかしっかりしようって、頑張ってるのよね。
ま、頑張ってとしかいえないか。
だから、和泉千晶という人間も、劇的にとはいわないまでも、変化をみせたって
不思議ではないはずだ。
春希「どうしたんだ、和泉。らしくないじゃないか?
やっぱり図太い神経を持っているお前でもこたえたか。
ほら、コーヒー淹れたから、これでも飲んで切り替えろって」
いつの間にかにテーブルを用意してコーヒーまで用意していた春希が
私の顔を覗き込んでくる。
そんなに近くまで顔を寄せて、なんか顔が熱くなっちゃうじゃない。
きっと、気のせいだね。春希がそばにいるくらいで体温が上がるなんてありえない。
きっと、ふいをつかれたせいに違いないって。
さてと、私は、和泉千晶。
憎たらしくて、それでいて憎みきれない春希の女友達。
417: 2014/12/02(火) 17:34:52.18
第26話 終劇
次週は
インターミッション・短編『その瞳に映る光景~かずさ編』
をこのスレでアップ致します。長編は、3週間お休みします。
第26話 あとがき
千晶「今週の話を読んでわかったけど、著者ってサディストだよね。
これは間違いない。
だって、こんなにも可愛い可愛い私をいじめてるんだから」
春希「それは、お前に原因があるんだろ。
とばっちりを受けている俺をいたわれ」
千晶「それは、物語を作る上での必要事項だから仕方がないよ。
春希が面倒事に巻き込まれないと、話が盛り上がらないじゃない」
春希「・・・・・・」
千晶「次週は、冬馬かずさ濃度200%のお話だってさ。
インターミッション・短編『その瞳に映る光景~かずさ編』
をお楽しみにぃ。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです」
黒猫 with かずさ派
419: 2014/12/09(火) 17:29:33.14
インターミッション・短編
『その瞳に映る光景~かずさの場合』
著:黒猫
何をやっているんだ。
あたしが春希から待ってくれってお願いされた期限は、遥か昔に過ぎ去っている。
もうかれこれ1時間も持っているんだぞ。
そもそもなんで春希は、自分のミスでもないのに、他人の仕事を一週間も
徹夜続きでやっているんだ。
そんなことだから、あたしが春希に甘えられないじゃないか。
それは一週間前のこと。
今でもあの電話をかけてきたスタッフに蹴りを入れたい気持ちは収まっていない。
たぶん、今度のコンサートで顔を合わすんだろうけど、きっと春希があたしとそのスタッフを
接触しないように配置しているんだろうな。
そういう細かいところはしっかりしているのに、なんであたしに関してはずぼらなんだ。
こんなにも待ち望んでいるのに。
一週間も「待て」を命令されて、お預けを喰らっているのに。
春希ときたら、のんきなものだ。
きっと今も、自分がやる予定ではなかった他人の仕事を、
テキパキと頑張っているんだろう。
でも、今朝の約束では、11時には終わるって言ってたじゃないか。
それなのに、今は12時だぞ。
春希のことだから、もしかしたら早く終わるかもしれないと思って、
10時までには、シャワーを浴びて、ばっちりとメイクをして、
春希がこのまえ選んで買ってくれた服も着て、いつでもデートに出かけられる準備を
完了させたというのに、春希はまだ部屋から出てこない。
それは、寝室兼仕事部屋なのだから、あたしがベッドで寝転がって待っていても
いいんだけどさ。
それだと早くしろって、催促しているみたいじゃないか。
実際、今朝の段階でも、散々文句を言って、催促しまくったけど、
春希が仕事をしているときには邪魔したくない。
その辺の我慢は、覚えたからな。
なにせ、あたしが構ってほしいオーラを出すと、春希はあたしに夢中になってしまうからな。
420: 2014/12/09(火) 17:30:01.38
・・・・・・まあ、構ってくれないと、噛みついたり、ぐずついたりして、
春希が困り果ててしまうってこともあるんだろうけど、
あたしに夢中ってことに間違いはない・・・、はず。
と、仕事部屋へと続くドアの前で2時間も、もんもんと待っているわけだけど、
そろそろ我慢の限界に近付いている事はたしかだ。
あたしは、静まり返った廊下を見渡し、異常がない事を確認してから
ドアノブを回すかチャリという音さえもたてないように、そっとドアを少し開ける。
ドアから覗き込んでも、この角度からは春希は見えやしない。
だから、すっと耳を近づけてみるが、物音ひとつしていなかった。
普段ならば、心地よいキータッチの音が鳴り響いているはずなのに、
物音一つしないだなんて、おかしくないか?
たしかに、春希がこの部屋に入っていくのは確認したし、他の部屋にもいないはず。
あたしは、これ以上の考察は諦めて、行動に移す。
いくらあたしが考えたって、答えが出るはずもない。
それに、このドアの向こうに春希がいるかどうか確かめたほうが早いじゃないか。
というわけで、あたしは警察犬のごとく四つん這いになって中に侵入していく。
ベッド越しから覗き込むと、春希はいるが、ノートパソコンは閉じられている。
さらには、今朝はあったはずの床に詰まれていた書類も、テーブルの横にまとめられていた。
仕事は終わったのか?
でも、だったら何故春希は部屋から出てこないんだ?
ここからだと春希の背中しか見えないし、もっと近づくか・・・。
両手両足を巧みに使い、そろり、そろりと、音をたてないようにして忍び寄る。
春希が気がついた様子はない。
別に気がつかれたっていいんだけど、なんで忍び足なんてしているんだ?
ま・・・、いいか。そんなこと。
それよりも、春希の様子を確かめないとな。
・・・・・・寝てるのか?
春希は、ローテーブルに手をのせて、自分の腕を枕代わりにして寝ているようだった。
かずさ「春希?」
あたしは、ちょっとだけ声を抑えて春希に呼びかける。
しかし、春希は全く反応しなかった。
かずさ「春希?」
もう一度だけ、少しだけ声量を上げて呼びかけてみたけど、春希の声を聞く事は出来なかった。
やっぱり寝ているのか?
徹夜続きだったもんな。今朝も寝むそうだったし。
421: 2014/12/09(火) 17:30:33.96
どおりで春希が部屋から出てこないわけだ。寝てるんだもんな。
でもさ、扉の向こうで、あたしがいまかいまかと待ちわびていたっていう事も
忘れないでほしいよな、ったくぅ。
いつまでも「待て」を命令を守っていると思うなよ、春希。
そんなにあたしをほうっておくと、いつか春希の前からいなくなってやるからな。
そうだなぁ・・・・・、10年。ううん。20年くらいの「待て」なら
待ってやってもいい。
泣きながら待っているんだろうけど、絶対迎えに来いよな。
ガタっ。
突然発せられた物音に、あたしは身を固くする。
春希を睨みつけながらニコニコしていたら、いつのまにやら、
春希の寝顔を魅入っていたらしい。
春希「う、うぅん・・・」
静けさが満たされていた室内に、
心地よい日差しに刺激されて寝返りを打ったようだ。
春希のくせに、脅かしやがって。
そんな姿勢で寝ているから、体を痛くするんだ。
どうせ寝るんだったら、ベッドで寝ればいいのに。
そうすれば、あたしもベッドに潜り込めたのに・・・、くそっ。
あたしの気持ちなんか知らないで、気持ちよさそうに寝てるな。
お疲れさん、春希。あたし達のコンサートの為に頑張ってくれてたんだよな。
こんなにも無防備な姿をさらけ出していたら、危ないぞ。
外での休憩中でも、こんなにもきゅんってくる寝顔を披露しているのか?
その辺の事情は、あとで春希に要確認だな。
・・・・・・そうだな。この寝顔をいつでも堪能できるように、写真に撮っておくか。
あたしが黙っていると、すぐにあたしをほったらかしにするんだよな。
ふんっ、あたし達の為の仕事だからっていう理由がいつまでも通用すると思うなよ。
でも、春希が起きる前に写真撮っとかないと。
1分後
あたしは、寝室のドアのところに置きっぱなしにしてあった携帯を手に取ると、
再び春希の元へと音も立てずに戻ってくる。
春希からの呼び出しがいつ来てもいいように握りしめていたのに、
結局はこの一週間、一度もかかってこなかったな。
422: 2014/12/09(火) 17:32:07.80
でも、今こうして春希の写真を撮ることができるんだから、役には立ってるか。
あたしは、さっそく携帯のカメラを起動させて、フレームに春希を収めていく。
レンズのピントがあい、ここだっというタイミングでシャッターを押そうとしたが、
ギリギリのところでシャッターを押すのを思いとどめることができた。
・・・危なかった。こんなにも春希の耳元で携帯のカメラなんて使ったら、
シャッター音で春希が起きてしまうかもしれないじゃないか。
うかつだった。目の前に美味しすぎる獲物があったせいで、冷静さを失ってたな。
あたしは、気合を入れ直すと、今度は自宅スタジオへと向かっていった。
1時間後
かずさ「ぷはぁ~・・・。んふふふふ」
満面の笑みを浮かべながら大きく息を吐くと、溢れ出る喜びを隠すことができないでいた。
一週間我慢した甲斐があったな。至福の時間とは、こういうことをいうんだな。
もう13時過ぎってことは、1時間近く撮影していたのか。
今日もいい絵が撮れた。春希コレクションもだいぶ溜まってきたし、
これだと写真の個展も開けるんじゃないか?
ピアノだけじゃなくて、写真の才能もあったなんて驚きだけど、
でも、春希しか興味がないっていうのが問題だな。
それに、これ以上春希を表舞台に出すっていうのも気に食わない。
あたしだけの春希なんだから、あたしだけが見て楽しめばいいんだよ。
冬馬かずさコレクション。冬馬かずさの氏後、遺族が発見したかずさコレクションは、
遺族が世間に発表した事で、絶大な人気を獲得することになる。
ピアニストとしては世界的に有名だった冬馬かずさではあったが、
氏後、写真家として成功するなど誰も予想していなかった。
それもそのはず。なにせ、冬馬かずさが被写体に選んでいたのは、9割以上が夫の
冬馬春希だったのだから、その偏った選択では、成功を予想するなど不可能である。
そもそも家族でさえ、そのコレクションの存在は秘匿されていた。
そして、残り一割の被写体は、子供たちや母曜子の姿であったが、
かずさコレクションの中には、かずさ本人が映っている写真は一枚しかなかった。
それは、母曜子が、初めてかずさが出産したあとに撮った、子供、春希、そして、
かずさの三人を写したものである。
ただ、膨大なかずさコレクションの中でも、絶大な人気を誇り、一番人気となった写真が
母曜子が撮った、たった一枚の写真であると冬馬かずさが知ったのならば、
あの世で親子喧嘩をしているのかもしれない。
423: 2014/12/09(火) 17:32:52.20
あの世でも冬馬親子は元気にやっているはずだ。
なにせ、娘冬馬かずさがピアニストを引退した後も、
母冬馬曜子は100歳まで演奏を続けたのだから。
あたしは、手に持っているミラーレス一眼カメラに収めた画像を確認し終えると、
撤収作業に入る。
春希の周りに設置されている機材を、音をたてないように撤去していく。
撮影用の4K対応カメラレコーダーや高性能集音マイク。
見る者が見れば、その価値を一目でわかるほどの一流品らしい。
その辺素人のあたしであっても、その無骨な存在感と使用目的に特化された機能に
一般使用の物との違いを感じとれた。
これらの機材は、春希が自宅でも収録や撮影ができるようにと集めたものであるから、
プロ仕様の品であり、値段もはるのだろう。
あたしは、最初のうちは自宅での撮影であっても拒み続けていた。
だって、あたしがピアニストであって、グラビアアイドルじゃないんだぞ。
いやらしい視線の前にさらされるだなんて、我慢できない。
なんて、不満たらたらだったけど、結局は春希に丸めこまれてOKしちゃったんだよな。
でも、あたしは以前の何もできないあたしではなかった。
ただじゃ起き上がらない。この高性能機材。春希を撮影するにはもってこいじゃないか。
そうとわかったわたしは、率先して機材の使い方を春希から習ったものだ。
最初は訝しげに見ていた春希も、熱心にあたしがきいているものだから、
あたしが満足するまで説明してくれたっけ。
使い慣れた機材は、手慣れた手つきで音も立てずに片付けるのだって習得していた。
その技術を発揮してあたしが最初この部屋に入ってきた時と同じ状態に戻すと、
あたしが巻き散らかした熱気さえも全て拭いとられていた。
体の内にこもった熱気も、春希の隣でクールダウンしてはいるが、
さらなる熱気が沸いてきそうで、困ったものだな。
散々撮影したけど、やっぱり生で見る春希が最高だ。
今度はレンズ越しじゃなくて、この目でしっかりと見ておかないとな。
と、そう決めて、10分ほど蕩けきっていたが、人間の欲は底がしれない。
そう、見ているだけでは満足できない。
一週間もかまってもれえなかったのだから、見てるだけで満足なんかできなやしない。
あたしは、頬にキスしようと、そっと近寄っていく。
手でしっかりとテーブルを握って、春希に寄りかからないように気をつけて、
慎重に事を進めていく。
あたしと春希の距離がゼロになったとき、この上ない幸福感があたしを襲う。
写真やビデオや録音なんて、やっている場合じゃなかった。
とっととキスしたり、抱きついたりすべきだったんだ。
そう後悔しだしたけれど、それでもコレクションは大切なんだよなと、
あとでこっそり後悔は取り消した。
なにせ、娘冬馬かずさがピアニストを引退した後も、
母冬馬曜子は100歳まで演奏を続けたのだから。
あたしは、手に持っているミラーレス一眼カメラに収めた画像を確認し終えると、
撤収作業に入る。
春希の周りに設置されている機材を、音をたてないように撤去していく。
撮影用の4K対応カメラレコーダーや高性能集音マイク。
見る者が見れば、その価値を一目でわかるほどの一流品らしい。
その辺素人のあたしであっても、その無骨な存在感と使用目的に特化された機能に
一般使用の物との違いを感じとれた。
これらの機材は、春希が自宅でも収録や撮影ができるようにと集めたものであるから、
プロ仕様の品であり、値段もはるのだろう。
あたしは、最初のうちは自宅での撮影であっても拒み続けていた。
だって、あたしがピアニストであって、グラビアアイドルじゃないんだぞ。
いやらしい視線の前にさらされるだなんて、我慢できない。
なんて、不満たらたらだったけど、結局は春希に丸めこまれてOKしちゃったんだよな。
でも、あたしは以前の何もできないあたしではなかった。
ただじゃ起き上がらない。この高性能機材。春希を撮影するにはもってこいじゃないか。
そうとわかったわたしは、率先して機材の使い方を春希から習ったものだ。
最初は訝しげに見ていた春希も、熱心にあたしがきいているものだから、
あたしが満足するまで説明してくれたっけ。
使い慣れた機材は、手慣れた手つきで音も立てずに片付けるのだって習得していた。
その技術を発揮してあたしが最初この部屋に入ってきた時と同じ状態に戻すと、
あたしが巻き散らかした熱気さえも全て拭いとられていた。
体の内にこもった熱気も、春希の隣でクールダウンしてはいるが、
さらなる熱気が沸いてきそうで、困ったものだな。
散々撮影したけど、やっぱり生で見る春希が最高だ。
今度はレンズ越しじゃなくて、この目でしっかりと見ておかないとな。
と、そう決めて、10分ほど蕩けきっていたが、人間の欲は底がしれない。
そう、見ているだけでは満足できない。
一週間もかまってもれえなかったのだから、見てるだけで満足なんかできなやしない。
あたしは、頬にキスしようと、そっと近寄っていく。
手でしっかりとテーブルを握って、春希に寄りかからないように気をつけて、
慎重に事を進めていく。
あたしと春希の距離がゼロになったとき、この上ない幸福感があたしを襲う。
写真やビデオや録音なんて、やっている場合じゃなかった。
とっととキスしたり、抱きついたりすべきだったんだ。
そう後悔しだしたけれど、それでもコレクションは大切なんだよなと、
あとでこっそり後悔は取り消した。
424: 2014/12/09(火) 17:33:32.83
今度は口だな。キスといったら、口と口でするものだし。
あたしはそう決断すると、さっそく行動に移ろうとした。しかし・・・。
春希「ん・・・むぅ・・・」
春希が寝返りを打つ。この時ばかりは、自分の欲求よりも罪悪感があたしに絡みついてきた。
だから、音を立てずに身をしならせると、ふわりとその場から遠のく。
二メートルくらい春希と間合いを取っても、警戒を緩める事ができなかった。
両手を前に伸ばして、しっかりと両手両足で床を掴んで身を低くする。
どうやら今度も寝返りを打っただけか。
そうとわかれば、警戒モードを解除していき、前方でしっかりと床を掴んでいる両手の
方へと体重を移していく。
そして、両手両足を器用に使ってペタペタと再び春希の元へと戻っていった。
脅かすなよ、春希。でも、いけない事をしているみたいで、ワクワクするのも事実なんだよな。
カメラだって、春希に頼めば撮らせてくれるだろうけど、
このスリル、やめられない、かも。
そう艶っぽく惚けると、再度キスをしたいという欲求をかなえるべく行動する。
しかし、今度は完全に断念するしかなかった。
なにせ、この角度からではキスができないのだから。
春希が寝返りを打ったせいで、キスができないじゃないか。
どうしてくれようか。
あたしは、ローテーブルに両腕をのせて顔をうずめると、じぃっと春希を見つめながら
考えを巡らせていく。
こうしてあたしが困っているっていうのに、暢気なもんだな。
あたしが困っていたら、いつでも助けに来るって言ったじゃないか。
まあ、今助けに来られても、困るだけなんだけどさ。
あたしは、無意識のうちに春希に手を伸ばしていた。
春希の髪は柔らかくて、すぅっとあたしの指と溶けあう。
何度味わっても飽きることがないんだよな。
これが幸せっていうんだろうけど、気持ちよすぎて、やめられないのが玉に瑕だな。
でも、あたしがこんなにもそばにいるっているのに、なんで寝てるんだよ。
そんな気持ちよさそうにして寝ている春希を見ていると、あたしまで眠くなっちゃうだろ。
・・・まあ、いいか。春希のそばにいられるだけで幸せなんだから。
でも、もうちょっと近寄って、春希を感じたいな。
あたしは、春希の体に身を密着させると、そのまま春希がいる夢の世界へと潜り込んだ。
425: 2014/12/09(火) 17:34:00.52
あたしが目を覚ますと、すっかりと日は暮れかけ、西日が忍び寄り始めていた。
日が暮れ出したというのに温かいというのは、
春希に身から温もりを分けてもらっているだけではなかった。
どうやら春希がタオルケットをかけてくれていたようだ。
まめな男だな。こういうまめなところができるというのに、
どうしてあたしをほうっておくことができるんだ?
不思議だよな・・・。ん? タオルケット?
ということは、春希が起きたのか?
あたしは、うっすらと開けていた目をしっかりと開くと、
目の前には春希の顔が迫って来ていた。
細く開かれていた春希の目が、あたしの瞳とかちあう。
春希の肩がぴくっと震えると、春希は気まずそうにあたしから離れていった。
春希「おはよう、かずさ。寒くはないか?」
かずさ「あぁ、おはよう、春希。うん、寒くはないよ」
つい数秒前までは、気まずそうな顔をしていたっていうのに、今はなんでもないですって
いう顔をするんだもんな。切り替えがはやすぎるって。
これが春希の時間短縮術で、仕事をする時間を確保する術なんだろうけど、
あたしとのプライベート時間にまで持ち出すなって言いたい。
余韻ってものがどれほど大切かって、春希はわかっていないんだ。
そんな唐変木な春希だってわかってるあたしだから我慢できるんだぞ。
そこんとこ、忘れるなよ。
・・・と、文句をたらたらに心の中でぶちまける。
一方で、寒くはないって春希に言いながらも、身をこすりつけているあたりは、
母さんからすれば、ずるがしこい女になった証拠だそうだ。
あたしほど最愛の人に忠実な彼女はいないと思うんだけどな・・・。
この辺の感覚ばかりは、世間様の感覚はよくわからないって思ってしまう。
春希「ごめんな、かずさ。仕事が終わったと気を緩めたすきに、寝ちゃってさ」
かずさ「それはしょうがないよ。春希が一人で頑張りすぎたんだからさ」
春希「どうする? 時間も時間だし、食事でも食べに行くか?」
春希は、遅刻してしまったデートを、今までの余韻も忘れて再開させようとする。
だから春希は春希なんだよ。
春希「どうしたんだ? 機嫌直してくれよ。せっかく仕事もひと段落したんだから
かずさと仲良くしたいんだけどな」
426: 2014/12/09(火) 17:34:28.67
春希は、ぶすくれるあたしの原因がデートの遅刻だと思ってるんだから。
違うって。そうじゃないんだよ。
春希「なぁ・・・。この通り、反省してます。かずさとの約束を破って、
かずさを一人にしてしまって、寂しい思いをさせてしまって
申し訳ないって思ってる」
たしかに、春希が言うこともあるけどさぁ。ちょっとは察してよ。
かずさ「それは、まあ、なんというか、理解してるよ。
春希があたし達の為に頑張ってくれてるんだから、一応我慢できる範ちゅうかな」
春希「そうか。・・・だったら、なにをむくれてるんだよ」
かずさ「・・・キス」
春希「キス?」
かずさ「おはようのキスを途中でやめただろ」
春希「あぁ、そのことか」
かずさ「そこのとか、じゃない。こっちは、心待ちにしていたのに、
途中でやめるだなんて、あんまりじゃないか」
春希「それは、なんといいますか。・・・突然かずさが目を覚ますもんだから、
タイミングがな」
かずさ「だったら、ほらっ」
あたしは、顎を上げて、キスをせがむ。
ちょっとぶっきらぼうで、可愛げがない催促だってわかってるけど、
これが照れ隠しだってことは、春希だけがわかってくれているんなら、それでいい。
春希「じゃあ、ほら」
春希は、聞きわけがない子供をなだめるような口調であたしの頬にキスをする。
ふわりと漂う春希の臭いがあたしを酔わそうとする。
でも、軽い頬へのキスは、さらなる刺激を求めさせる効果しかなかった。
かずさ「それだけか?」
春希「おはようのキスだろ? だったら、これでいいんじゃないか?」
かずさ「そうかもしれないけど、さっきは違うところにしてくれようとしてたじゃないか」
春希「さっきは、さっきだ。
それに、未遂だから、どこにキスしたかなんて、確定していないだろ」
かずさ「いいや。口にしようとしていた」
春希「それは推測だろ? もしかしたら、鼻かもしれないし、おでこだったかもしれない」
かずさ「むぅ~・・・」
427: 2014/12/09(火) 17:34:59.75
屁理屈で武装しだした春希には、あたしの全面的な我儘攻撃でしか突破できない。
ただ、今それをやるべきか?
あたしとしては、心地よい目覚めからの余韻たっぷりのキスを求めただけなのになぁ。
かずさ「もういいよ。・・・このタオルケットは、春希がかけてくれたんだろ?
ありがとう」
春希「コンサートも迫ってるしな。ここで風邪をひかれちゃ、頑張って仕上げた仕事が
吹き飛んでしまうからな」
かずさ「それだけか?」
春希「もちろん、かずさに風邪なんて、ひかせないよ」
かずさ「だったら、ベッドの上で裸のままにするなっていうんだ」
春希「それは、かずさが服を着ないからだろ。
俺が着させようとすると、いつも文句を言ってくるのはかずさの方じゃないか」
かずさ「それは、春希が悪い」
春希「なんでだよ」
かずさ「余韻っていうものを、春希はわかっていない」
春希「かずさほどじゃないけど、俺も大切にしてるよ。
でも、ほっとくといつまでも俺に絡みついたままじゃないか」
かずさ「それも春希が悪い」
春希「なんでだよ。それこそ言いがかりじゃないか」
かずさ「違うって。春希の温もりから離れられないんだって。
春希の心臓の音を聞いていると、心が落ち着くんだって。
だったら、春希から離れられなくなるのが当然だろ」
春希「なんだか赤ん坊みたいな感覚なんだな」
ん? 赤ん坊が母親の鼓動を聞くと、ぐっすりと寝てしまうっていうやつか?
たしかに近い感覚かもな。
春希を感じられると、心が蕩けてしまうものな。
かずさ「でっかい赤ん坊で悪かったな」
春希「悪いなんて、一言も言ってないだろ」
かずさ「そうか? なら、いいけど。
・・・・・・・なあ、春希」
春希「ん?」
かずさ「春希もさ、寝るんだったら、ベッドで寝ればよかったんだよ。
テーブルで寝てたんじゃ、疲れが取れないだろ」
春希「寝る予定じゃなかったからな」
428: 2014/12/09(火) 17:35:27.05
かずさ「だったら、あたしにだけは甘えていいんだからな。
疲れているんなら、デートの約束をしていても、寝てもいいんだからな」
春希「今度からは、そうさせてもらうよ」
かずさ「うん。・・・でも、春希はわかってない」
春希「かずさ?」
かずさ「デートなんかよりも、春希が健康で、元気にあたしにかまってくれるのが
一番大切なんだからな」
そうだよ。デートなんて、べつにどうだっていい。
外に食事なんて行かなくたって、春希が作ってくれる料理が最高なんだぞ。
そういうところが、春希は全くわかっていない。
春希「ありがとう、かずさ」
かずさ「うん、・・・・・・でも、でも、春希は全くわかってない」
春希「まだあるのか? この際全部まとめていってくれよ」
かずさ「キスだ」
春希「キス? キスだったら、さっきしたじゃないか」
かずさ「違う。あたしが頬にだけで満足できるわけないじゃないか」
春希「それは、だな・・・」
かずさ「なんだよ?」
春希「かずさは、フライングで俺の頬にキスをしたろ?
俺の頬へのキスは、その返事っていうか、そんな感じなんだよ。
だから、口づけをかわすのは、デートに行ってからにしようかなと思ったんだよ」
春希の衝撃的な告白が、あたしの体をぶるっと震わせる。
春希の動きがスローモーションどころか、
あたしの体が100倍速で動きだしそうな勢いであった。
だって、春希は、あたしが12時にこの部屋に来た時、起きてたって事だろ。
いつから起きてたんだよ。このポーカーフェイスめ。
だったら、あたしが、春希の寝顔に見惚れていた事も、
春希の頬にキスした事も、
口にキスしようとしてできなかったことも、
そして、寝顔の写真を撮りまくってコレクションを増やしていた事も
全部知っていたってことか?
・・・・・・逃げ出したい。いや、逃げるとしても、春希の胸の中って決めているんだから、
このままひっついていればいいか・・・。いや、よくないだろ。
かずさ「どこから起きてた?」
春希「どこからって、かずさがこの部屋に来た時から・・・かな」
429: 2014/12/09(火) 17:35:56.61
かずさ「それって、最初からって事じゃないかっ」
春希「まあ、そういうことに、なるかな」
かずさ「だったら、寝たふりなんてしないで、起きてくれればよかったじゃないか」
春希「そうなんだけどさ、ちょっとした好奇心?」
かずさ「ちょっとした好奇心でも、そんなことするなよ」
春希「悪かったって」
かずさ「全く反省してないだろ?」
春希「してるさ。それに、半分寝ぼけていたっていのもあるんだから、仕方ないだろ。
・・・・・あと、スタジオの機材を積極的に覚えようとした理由もわかったし、
目的がどうあれ、仕事にいかされるんなら文句はないよ」
かずさ「っつぅ・・・・・・・」
体が焼けるようにに熱い! 体中の血液が沸騰して、皮膚が真っ赤に染め上がっているはず。
それなのに、体は凍りついたまま、動けないでいた。
春希「かずさ?」
あたしが体を硬直させていると、春希はあたしが困り果てていると察してくれたのだろう。
そっとあたしの体を引き離すと、デートに行こうと準備を始める。
春希「ほら、デートに行くぞ。俺も楽しみにしてたんだから」
行動目標を決めた春希の行動は早い。テキパキとテーブルの上を片付けると、
出かける準備をすべく部屋から出ていこうとする。
かずさ「春希っ」
とっさの行動で、自分でも何をしたかったのかわからないけど、
春希がこの部屋から出したくないって事だけは理解できた。
春希「かずさぁ。ちょっと、重いって」
かずさ「重いっていうな。これは、幸せの重みだ」
あたしは、春希の行動を止めるべく、春希の背中に飛びついていた。
春希もいきなりでおどろいたものの、あたしが振り落ちないように
絡みついた足を丁寧にすくい上げると、しっかりとおんぶをしてくれる。
だから、あたしもそのお手伝いとして、春希のお腹に足をまわしてがっちりと挟み込む。
春希「これじゃあ、動けないって。危ないだろ」
430: 2014/12/09(火) 17:36:26.35
かずさ「だったら、春希がしっかりあたしを支えていればいいんだ」
春希「もうやってるって」
かずさ「春希が悪い」
春希「またか? 今度は何が悪いんだ?」
かずさ「あたしは、デートがしたいんじゃない。春希と一緒にいたいだけなんだよ」
春希「か・ずさ・・・」
かずさ「それに、外に行くよりも家の中の方がいいんだ。
だってさ、外だと、あたしがひっつこうとすると、春希は照れて嫌がるだろ。
でも、家の中だと、春希はあたしの我儘を聞いてくれる」
春希「いやいや。外でもひっついて離れないだろ」
かずさ「それでも十分に自重してるんだよ。
・・・・・・それに、春希はわかっていない」
春希「今度は、何がわかってないんだ?」
春希は、別段怒っている風でも、呆れているわけでもない。
優しく微笑みかけてくれるから、あたしは心から甘えられる。
だから、春希は、あたしのことを誰よりもわかっている。
かずさ「デートまで、キスの「待て」は、我慢できない。
あたしがいつから「待て」を喰らっていると思っているんだ。
一週間だぞ。一週間も待っているのに、それなのに、さらなるお預けを
するだなんて、あんまりじゃないか」
春希「それは・・・」
かずさ「そりゃあ、さ。春希のためだったら、何時間でも、何日でも、何年でも
待っていられる自信がある。
でも、今回の「待て」は、春希の為のものじゃない。
春希の思い付きで、しかも、あたしを虐める為の「まて」にすぎないじゃないか。
そんな「待て」を命令するだなんて、あんまりじゃないか」
春希「そんなつもりで言ったんじゃ・・・」
かずさ「わかってる。わかってるけどさぁ。
・・・それでも、それでもあたしは、一刻も早く、春希に構ってもらいたいんだ」
そこまでしか、あたしの理性は保てなかった。
春希の自由を奪っていた足を離すと、その背中から降り立つ。
でも、すばやく春希の前に回り込むと、再び春希を拘束した。
かずさ「春希が悪いんだからな。春希がわかってないから悪いんだ」
一週間貯め込んだ春希欲を解放させたあたしは、ここまでの記憶しかない。
431: 2014/12/09(火) 17:37:24.54
あとは、キスを繰り返したっていうところまでは、なんとなく覚えているけど、
昼食? いや、夕食とデートは、延期だな。
あとで、夜食を作ってもらえばいいや。
春希は、わかっていない。あたしの春希欲は、まだ始まったばかりだということに。
春希が悪いんだ。一週間もあたしをほうっておいたから、こんなにも甘えてしまう。
つまりあたしは誰よりも春希を愛している。
インターミッション・短編『その瞳に映る光景~かずさの場合』 終劇
次週は
クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる』をアップします。
インターミッション・短編『その瞳に映る光景~かずさの場合』あとがき
短編です。
本編では、かずさの登場回数が少ないと著者自身が嘆いております。
いや、まじですよ。
というわけで、短編でリフレッシュです。
一応『その瞳に映る光景~雪乃の場合』もありますが、原作が違います。
最初は、どちらか一方で書こうとしましたが、いっぺんに2作同時で
同じネタで書くのは初めての試みとなります。
同じネタだけど、両方読んでくださる読者の方々が飽きないように工夫しました。
まだまだ未熟な腕ですが、楽しんでくださればなによりです。
最後にネタばれですが、タイトルの『その瞳』の持ち主は、春希です。
次週は、クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる』を
このスレでアップする予定です。
こちらももちろん冬馬かずさ濃度200%でやらせていただきます。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
432: 2014/12/16(火) 17:30:30.63
クリスマス特別短編
『それでもサンタはやってくる(前編)』
著:黒猫
あたしにとっての高校最初で最後の学園祭が終わった夜。
興奮と熱気がおさまらない中、リビングのソファーであのキスの瞬間を思いだしていた。
ひんやりと伝わるなめらかな革の感触がいくらあたしの重みを受け止めようとも、
幾度となく繰り返される寝返りを黙って受け止めてくれている。
あたしは気にも留めていないが、さすが母さんが集めてきた家具といったものらしい。
値段を聞いてもピンとはこないが、それなりの高級品みたいだ。
さすがに成金趣味の家具を買い集められていたら、母さんに黙ってすべて処分して
新たに買い集めていたかもしれないが、母さんのお金を使う姿には力が入っていない。
これは元々母さんの実家の財力の高さと教養によるものだろうが、
落ち着いた雰囲気のリビングに仕上げてくれた事には感謝してやってもいい気がした。
時計を見ると、もう10時をすぎようとしていた。
家に帰って来てしたことといえば、ゆっくりとお風呂に入ったことくらいで、
あとはリビングにいたのだから、ほぼすべての時間で北原のことを考えていたに違いない。
・・・・・・仕方ないか。初めてのキスだったんだ。
あたしから北原に、北原には内緒でキスしてしまった。
いけないことだってわかっている。
だけど、しょうがないじゃないか。
だって、この好きな気持ちは抑え込むことなんてできない。
不安と期待を胸に寝転がっていると、時間が過ぎ去っていくのは早い。
再び時計を確認すると10時30分になろうとしていた。
こんな時間に誰だ? インターホンが鳴らされて、不審に思って時計を確認したが
こんな夜中にやってくる訪問者などいない。
いつだって、この家にやってくる奴なんていなかった。
だけど、・・・・北原?
学園祭直前までこの家で合宿していた北原なら、もしかしたら・・・・・・。
あたしは、インターホンの画面で誰が来たかを確認もせずに玄関へとかけていった。
433: 2014/12/16(火) 17:32:33.91
12月に入り、冬休み前の関所をくぐり抜けたつわものたちの顔色は明るい。
今日でようやく期末試験も終わり、誰しもがほっと一息をついていた。
これが一般的な高校であれば、高校三年生の教室であるのだから
これから始まる大学受験にピリピリとした雰囲気で支配されていたはずだ。
しかし、ここ峰城大学附属高校の生徒のほとんどが、その上の峰城大学に
そのまま進むわけで、他大学に進むマイノリティー以外は、
これからやってくる冬休みに心を奪われていた。
一応あたしもマイノリティーの一人ではあったが、いたって平常運転である。
あたしは、来年からウイーンにいる母の元へ行く。
そこで母の師でもあるマーティン・フリューゲルに弟子入りすべく試験を受けるのだが、
大学入試と違ってピアノの実力の身というところはあたしにあっていた。
ピアノを弾くのは嫌いじゃないし、あたしがピアノを弾くのを喜んでくれる彼氏が
いるのだから、他の受験生と一緒にはされたくもなかった。。
親志「春希なら、なんだか担任に呼ばれて職員室行ったぞ」
かずさ「そっか、ありがとう。えっとぉ・・・・・・」
急に呼びとめられてしまい戸惑ってしまう。
同じクラスで、席も近く、今は名前が思い浮かばないが、春希とよく話している男子生徒。
春希を介して何度も話した事があるし、今日みたいに声をかけてくる事もある。
親志「親志だよ。早坂親志。春希ばっか見ているのは止めないけど、
俺も席が近くのご近所さんなんだから、名前くらい覚えてくださいよぉ」
かずさ「すまない。早坂だろ? 覚えているよ。春希から、早坂に声をかけられたら
からかってやってくれって頼まれてたんだ」
本当は、突然話しかけられてびっくりして、ど忘れしただけ。
いくら顔見知りであっても、どうしても身構えてしまう。
それだけ人との接点に疎くなってしまったのかもな。
親志「ほんとかよ? 今度春希に文句言ってやる」
かずさ「それは、やめてくれ」
親志「おうおう、夫婦愛が深いねぇ」
かずさ「そういうわけじゃないんだ。さっきのは、・・・・・・・冗談だ」
あたしの冗談発言に、失礼にも笑い転げる早坂親志。
くったくのない笑顔で、くしゅっと笑うその表情は人との壁など作らないって示している。
事実、人付き合いが苦手なあたし相手に、何度ともなくチャレンジしてくるあたりが
早坂の人の良さをよくあらわしていた。
434: 2014/12/16(火) 17:33:14.06
ただ、首に巻いているどぎつい紫色のマフラーはどうにかならないか?
マフラー自体は、悪くはない。巻く人が巻けばおしゃれだと思う。
だけど、この男が巻くと、どう甘く採点してもチンピラにしか見えなかった。
親志「冬馬も冗談を言うようになったか。いい傾向だな。
学園祭前だったら想像もできなかったしな。これも旦那さんのおかげかもな」
かずさ「春希は、旦那じゃない」
親志「学園祭以降、誰もが認める夫婦漫才カップルじゃないか」
かずさ「誰が夫婦漫才だ」
親志「ボケが冬馬で、つっこみが春希だろ。つっこみっていうよりは、世話係?」
かずさ「あたしは、ぼけてなどいない。でも、春希が世話係っていうのは
あながち否定できないから痛いな」
親志「だろ?」
面白そうにけらけら笑っているけど、ここだけは事実過ぎて反論できない。
嘘がまじっているんなら、蹴りの一発くらいかましてやったのだが、
しかし、いつも春希の世話になっているしな。
今回の期末試験だって、春希が泊まり込みで家庭教師をしてくれたおかげで
どうにか突破できそうだし、
食事だって、春希による監修が続いている。
作ってくれているのは、ハウスキーパーの柴田さんなんだけど、
食事を作るのを再開してほしいとお願いした時は喜んでくれたっけ。
こちらがお願いする立場なのに、喜んでもらえるなんて思いもしなかった。
親志「そういや、一緒にウィーンに行くんだって?」
かずさ「一緒に行く予定だ。あたしの方としては、向こうでの試験が終わってないのに
話がどんどん進んじゃって、困っているんだけどな」
親志「フリューゲル先生だっけ? 冬馬のかぁちゃんのお師匠様」
かずさ「そうだよ」
親志「ピアノのことはよくわからないけど、これってすごいことなんだろ?」
かずさ「どうなんだろうな? あたしもその辺の事情はくわしくないからさ」
親志「春希によれば、入門するだけでも難しいらしいっていってたな。
何人も有名ピアニストを育てているとか」
かずさ「らしいな」
親志「らしいって、自分の先生になる人なんだろ」
かずさ「春希が詳しすぎるんだ。あいつったら、あたし以上に向こうでの事を勉強
してるんだからな。しかも、ドイツ語だって、すでに日常会話くらいは
できるようになってるんだぞ」
435: 2014/12/16(火) 17:33:43.43
さすがに春希がドイツ語を少し話せることには、早坂も驚きをみせていた。
なにせ春希ったら、母さんとの初対面以降、あたし以上に母さんと会話をしているもんなぁ。
あたしの知らないところで、どんどんとウィーン行きが決まっていく。
親志「春希ものぼせているな。まっ、しょうがないか。
結婚はまだだとしても、婚約くらいはしたんだろ?」
かずさ「いや、婚約してない」
親志「そうなのか?」
かん高い声で出すものだから、あたしまで驚いてしまう。
けっして結婚や婚約というキーワードで顔が赤くなったのではない。
あたしは、この男の声に驚いて、顔を赤くしてしまったんだ。
親志「それは意外だな。てっきり婚約だけはしていたと思ったからさ」
かずさ「・・・・・・・あたしはしてもかまわないけどな」
親志「ん? なんだ?」
かずさ「なんでもない。独り言だ」
親志「ならいいんだけど」
あたしの小さな願いを聞き逃した早坂ではあったが、この男の関心は春希そのものへと
向かっていた。
親志「あいつもこのまま上の大学に行くと思ってたら、いきなりウィーンの大学だもんな。
ドイツ語も覚えなきゃいけないし、高校の成績がいくらいいからといっても
むこうでの試験とか大変そうだな」
かずさ「らしいな。向こうでの試験日程も、ぎりぎりのタイミングって言ってたな」
親志「俺みたいな凡人がいうのはあれだけど、安全策っていうの?
いったんこのまま上の大学行っておいて、あまり詳しくは知らないけど、
大学の留学制度とか使ったほうが安全だろ。
ウィーンの大学が制度範囲外だとしても、
色々とサポートくらいはしてくれるだろうし。
それを突然上への進学を取り消したんだから、そりゃあ担任も驚くよな。
さっき担任に呼ばれたのだって、その話だろうし」
かずさ「かもな」
親志「ごめん。冬馬を責めているわけじゃないんだ。
ただ、春希のことだから、結婚とか、そのくらいの覚悟をしての
決断だったのかなと思ったからさ」
早坂に言われるまで、考えもしなかった。
436: 2014/12/16(火) 17:34:19.74
あたしは春希と一緒にいられる事に喜びを感じていて、
春希が置かれている状況を確かめもしないでいた。
そうだよな。いくら優秀な春希だといっても、簡単にウィーンの大学に行けるわけじゃない。
もちろん母さんのサポートがあるのだから、来年の進学は無理だとしても、
その次の入学ならば、ほぼ確実に入学出来てしまうと思う。
でも、留学だけじゃないんだよな。
これからさきの春希の人生。あたしとともに進む春希の人生。
きっと春希のことだから、寝ずに考えて、たくさん悩んで決断したんだろうな。
春希「おい親志。かずさをいじめるなよ」
親志「虐めてないって」
春希「だったらなんでかずさが暗い顔してるんだよ」
親志「いやいやいや・・・。世間話していただけだって。
しかも春希を探していた冬馬に、春希の行き先まで教えてたんだぞ」
春希「そうなのか?」
かずさ「まあ、そんなところだよ」
心配そうな顔で覗き込むなって。
嬉しすぎて顔に出てしまうだろ。こんなにも愛されていて、
こんなにも先の事まで考えてもらっていて、幸せじゃない女がどこにいる。
北風が体温を奪っていく中、あたし達はあたしの家へと歩いていく。
黒い通学用のコートだけでは心もとなく、春希に身を寄せてお互いの熱を補っている。
春希もあたしと同じような黒いコートをきているはずなのに、
どうして差が出てしまうんだ?
通学用のコートなのだから、華美なデザインではない。
それでも、高校生が着れば、寒さの中元気よく闊歩する高校生にみえるはず。
けれど、春希がきてしまうと、どうしても公務員にみえてしまうのは、どうしてだろうか?
春希「どうしたんだ。浮かない顔をして。やっぱり親志となにかあったのか?」
かずさ「ううん、関係ない。関係ないよ」
春希「だったら、どうして暗い顔をしてるんだ。・・・・・・もしかして、
そうとうテストの出来が悪かったのか?」
かずさ「それもちがうって。テストの方は、春希の頑張りもあって、大丈夫なはず」
437: 2014/12/16(火) 17:34:52.66
春希「だったら、どうしたっていうんだよ」
春希の問いに、春希の腕を掴む手に力が入ってしまう。
春希には、隠し事なんてできないな。だって、あたしのことをあたし以上に見ているから。
かずさ「あたしは、春希の負担になってないか?
あたしのせいで、春希の人生が駄目になってないか?」
春希「なってないよ」
そう短く答える春希に、あたしは甘えてしまう。
やわらかい笑顔で囁くその声に、あたしはこの男のことをどこまでも信じてしまう。
春希「俺は、かずさと一緒にいる人生を選択したんだ。それに留学自体はプラスだよ。
元々留学には興味があったし、その選択が早まっただけ。
だから、かずさがそのことで悩むことなんてないんだよ」
かずさ「だけど、急だっただろ?」
春希「たしかに、曜子さんから話を聞いたときは驚いたし、迷ったよ。
だけど、曜子さんは進路のアドバイスだけじゃなくて、金銭的なサポートまで
してくれてるんだから、感謝しているよ」
かずさ「それは、母さんが強引に話をもってきたんだから、
そのくらいのサポートは当然だ」
春希「それでも、ウィーンで事務所職員見習いとして雇ってくれるのはありがたい」
かずさ「そんなのは、母さんの思い付きだ。
まあ、春希がドイツ語を覚えるのには、実際使う方がいいだろうっていうのも
あるみたいだけどさ」
春希「それも含めて感謝してるんだ。
俺一人で決めたんなら、こうもスムーズにことが進まなかったはずだよ。
それを曜子さんが俺がやりやすいように軌道修正してくれて、
感謝って言葉じゃ足りないくらい感謝してるんだ」
かずさ「それって、母さんへの感謝だけか?」
春希「違うよ。俺の側にいてくれるって言ってくれたかずさには、
一生感謝し続けるよ」
あたしは、返事の代りに、春希の腕を掴む力を強くして、身を擦りつける。
ここは、あたしの場所なんだ。あたしだけの特等席。
これからもずっと。なにがあろうとも、その事実だけは変わらない。
438: 2014/12/16(火) 17:36:44.84
あたしを家まで送り届けた春希は、
今日もうちのリビングでドイツ語の勉強をしている、らしい。
らしいというのは、あたしはその時間、地下スタジオでピアノの練習をしているから
実際春希が勉強している所を見ていないのである。
春希のドイツ語の上達速度をみれば、そうとう集中してやっているのはわかるけど、
同じ家にいるんだから、春希も地下スタジオで勉強すればいいのに。
あたしの練習の邪魔をしないようにとも配慮だろうけど、
あたしだったら全く問題ないのにな。
それでも、同じ家にいるって思うだけで、胸がぽかぽかする。
この気持ち、防音処理された地下からは聞こえないだろうけど、
きっと春希には聞こえているんだと思えてしまう。
さてと、もうちょっとで夕食の時間か。
柴田さんが夕食を作り上げるまでのひとときから、
夕食を食べるまでが一緒にいられる時間だって決めている。
期末試験前の泊まり込みは緊急処置だったんだけど、それ以外はずっと
春希がこの家に泊まることはなかった。
それは、春希との約束。
あたし達が二人でウィーンにいられる為の試練。
あたしはピアノ。春希はドイツ語と大学入試。
けっして強制ではないし、他の選択肢だってある。
でも、二人で決めたんだから、やり遂げる覚悟はあるんだ。
だから、あたしは、春希との食事タイムを楽しみにして、
時間ぎりぎりまで練習に打ち込むことにした。
終業式なんて形だけだし、出なくたっていいんじゃないかって春希に抗議してみたものの、
当然のごとく叱られ、朝早く家まで迎えにまできた。
あたしとしては、毎朝玄関まで出迎えてもらいものなんだけど、
時間節約もあって、通常は駅での待ち合わせだった。
とくに用がないのに学校まで行くんだから、出迎えのご褒美があっても罰は
当らないんじゃないかって、春希にいってやりたい。
まあ、いいさ。数時間ピアノの練習を休んで得られる春希との時間。
通学途中は春希の腕に絡まって温もりを感じ、
電車の中では、その温もりを抱いて仮眠して、
学校での退屈な終業式には、春希を眺めてその姿を目に焼き付ける。
まったく充実した半日だ。
439: 2014/12/16(火) 17:37:32.68
今日で2学期も終わって、冬休みに入る。
休み中は、春希もうちにきて勉強するって約束してくれたし、
楽しい休暇を送れそうだ。
かずさ「色々気にかけてくれて、ありがとう」
親志「なんだよ、いきなり」
あたしの感謝の気持ちに驚くとは失礼すぎるな、こいつ。
せっかく今年世話になったお礼をしようと思ったのに。
終業式も終わり、あとは帰るだけとなった放課後の教室。
二日後に控えたクリスマスイブや年末・年始の予定を立てるべく賑わいを見せている。
この早坂親志もその例に漏れず、なにやら友人たちとの予定を立てようとしていた。
さすがのあたしも、友人達と話しているところに話しかけるなんてできないから、
話すタイミングを探っていたのだが、この男が自分の机にバッグを取りに来たところで
どうにか話すチャンスが巡ってきた。
かずさ「早坂には世話になったからさ。一応な」
親志「別に大したことはやってないぞ、俺」
かずさ「あたしにとっては、大した事なんだよ。
自分が人見知りだってわかってるんだ。でも、どうしようもなくて、
つい強く言ってしまう」
親志「そうか? 最近は丸くなってきたと思うぞ。
それに、学園祭のライブを終えてからファンになったって奴が多いじゃないか。
とくに音楽科の後輩女子からの人気は絶大で、よくここまで見に来てるし。
それだけかっこよかったってことだよ」
かずさ「それはそれで大変なんだぞ。したってくれて来てくれてのはわかってるけど、
どう対応していいかわからなくてだな」
親志「いいじゃないか。けっこううまく相手していたと思うぞ。
一緒に写真撮ってやってたりもしてたじゃないか」
かずさ「あれは、・・・断れなくて」
今思い返しても恥ずかしすぎる。あたしは見世物じゃないんだぞ。
誰もいないところでなら、まあ、一緒に写ってもいい、かもしれない。
でも、教室の前の廊下で、蹴っても蹴っても蹴り足りないくらいのギャラリーの
目の前で写真だなんて・・・・・・。
親志「色々困ることで、人間成長していくんだよ」
かずさ「できれば、困ることなんて遭遇したくない」
親志「そういうなって。イブは、春希とデートなんだろ?」
440: 2014/12/16(火) 17:38:35.40
かずさ「デートなのかな?」
早坂の問いに、無意識に首をかしげてしまう。
最近のあたしたちは、二人でいることが当たり前すぎるから、
デートの定義がわからない。
そもそもあたしに恋愛について語らせようっていうのが間違いなんだ。
あたしにとっては、同じ家で、しかも違う部屋であっても
お互いがやるべき事に取り組んでいるとしたら、それはデートといってもいい気がする。
春希を感じていられるのなら、春希があたしをみてくれているのなら、
春希と同じ時を過ごしているのなら、それは、奇跡で、すばらしいことなんだ。
親志「いくら春希の奴が唐変木の朴念仁だとしても、彼女とのイブデートは計画してるだろ」
かずさ「一応うちで食事する予定ではあるけど・・・」
親志「かぁ・・・、春希らしいな。羨ましいったらありゃしない」
少々オーバーすぎるリアクションだが、どうもこの男がすると馬鹿っぽくて許せてしまう。
・・・・・・そうだな。こういうやつだからこそ、
あたしから話しかけられるのかもしれない。
親志「最近春希の奴がそわそわしていたのは、この事だったのかもな。
こりゃあ、何かあるかもな」
かずさ「なにかって?」
あたしの問いかけによって、この男の動きがフリーズする。
どこか明後日の方を向くと、ぎこちない動きでこちらに振り向く。
もしかして、適当に言ってたのか?
たまにその場のノリで発言するからな、こいつ。
それが悪いって事じゃあないんだけど、今回ばかりは期待してしまったから、責任とれ。
と、内心怒りに燃えてしまい、その炎があたしの瞳に宿ってしまったらしい。
親志「にらむなって、出まかせで言ったんじゃない。
ほら、プロポーズとかするには最適だろ。イブにプロポーズって定番だし、
春希なら、やりそうだしな」
かずさ「ほんとうか?」
この男の適当すぎる発言に、心が反応して身を乗り出してしまう。
そんなあたしの反応を見て、早坂は二歩ほど身を引いてしまったが。
441: 2014/12/16(火) 17:39:05.78
親志「なんとなく、だけど、さ」
そんなに慌てるほどあたしが怖いか? そんなに鬼気迫ってる顔をしているかな?
たしかに最近のあたしは、春希絡みになるとリミッターが外れているっていわれてるから
もしかしたら今もそうなのかもしれない。
かずさ「なんだよ、なんとなくとは、ずいぶん適当だな」
親志「まあ、あまり深く考えないで発言したのは悪かった。
でも、まったくのあてずっぽうってわけでもないと思うぜ」
かずさ「そうかな?」
思わず一段高い声で聞き返してしまう。
喜びに満ちた声を出してしまって、なんだか恥ずかしい。
この男の発言によって、一喜一憂してしまっているとは、なんたる不覚。
親志「春希なりの考えがあってウィーン行きを決断したんだし、
春希みたいな性格だと、なんらかの区切りとかイベントの時に
大事な話を切り出すかもなって思っただけさ。
だから、イブなんてもってこいのイベントだろ?」
かずさ「たしかに・・・」
春希「おい、こら。なんだかお前ら、クラス中から注目されているぞ。
なにを騒いでいるんだ」
突然声をかけられて顔を上げると、春希がいつの間にやら戻って来ていた。
春希の指摘通り教室内を見渡すと、既に帰宅した生徒が半数近くいるが
残りのほとんどがあたし達を見つめている。
そして、あたしがそれらの視線に気がついたとわからる、みんな一斉に顔を伏せたり、
教室から出ていこうとしていた。
ゴシップ好きの高校生だもんな。
あの堅物の春希がデートするだけじゃなくて、プロポーズだったり、
ウィーン行きだったりとか、普段の春希からは想像できない恋愛劇を展開させていたら
誰だって気になってしまうな。
親志「担任の用事はもういいのか?」
春希「ああ、こういう仕事はクラス委員の仕事なのに、
どうして引退した俺がやらなくちゃいけないんだろうな? いいんだけどさ」
親志「それだけ信頼されているってことだよ」
442: 2014/12/16(火) 17:39:43.17
春希「それだけだったらいいんだけどな。なんだかいいように使われているだけだって
最近思うようになることもあるんだけど」
親志「気のせいだって」
春希「だったらいいけど。で、なんで注目されていたんだ」
親志「ああ、それね」
まったく使えない男だな。ここで春希がプロポーズの事を知って、
意識してしまったらどうするんだ。
話をそらすんなら、最後までしっかりやってくれ。
あたしは自分勝手な要求を早坂に突き付けてしまいそうになった。
春希「どうせ俺達のクリスマスデートについて聞いていたんだろ?」
親志「ん? あぁ、そんな感じかな」
かずさ「そうだな、そんなかんじだ」
春希「かずさも親志には、馬鹿正直に教えなくていいんだからな。
ただでさえかずさは目立ってしまっているんだから、彼氏としては気が気じゃない
っていうか」
ん? なんだか春希が暴走してくれてる?
見当はずれな方向に話がいってないか。ま、いいか。
かずさ「いや・・・、その」
親志「あの名物委員長様がどんなクリスマスデートプランをたてているか
気になるのは人のサガだってものよ」
春希「そうなのか? たいしたプランじゃないぞ」
親志「それでも、冬馬は楽しみみたいだぞ」
かずさ「あっ・・・」
ほんとうのことだけど、春希とのクリスマスを心底楽しみにしていたけど、
ここで言わなくてもいいじゃないか。
体が火照って、うまく口が回らなくなる。
春希「あまりうちのかずさをいじめるなよ」
親志「わりぃな。邪魔者はそろそろ退散するよ。
メリークリスマス、春希。楽しんでこいよ、冬馬」
春希「ああ、メリークリスマス。また来年な」
親志「おう、じゃあな」
かずさ「メリークリスマス」
443: 2014/12/16(火) 17:40:16.88
あたしは、肺の中に残ったわずかの空気を絞り出すように小さく呟くのがやっとだった。
クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(前編)』 終劇
次週は
クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(後編)』 をアップします。
クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(前編)』あとがき
2週にわたってお送りするクリスマス特別短編ですが、これまた増量しまくって
2週になってしまいました。
『やはり雪ノ下雪乃にはかなわない』のクリスマス短編も1週が2週に
なってしまいましたし、プロットからの見積もりが甘いようです。
ちょうどクリスマス直前まで引っ張ることができて、結果オーライでしょうか。
来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので
また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
445: 2014/12/23(火) 03:53:54.71
クリスマス特別短編
『それでもサンタはやってくる(後編)』
著:黒猫
クリスマスイブ。
クリスマスだからといって都合よく東京の空に雪が降ることなんてまずない。
そもそも東京の雪というと、年が明けてからというイメージさえあるんだから、
だれがクリスマスと雪を結びつけたんだろう。
日本のイベントではなかったんだから、北欧とかその辺かな?
雪を見ている分には綺麗だし、あたしは部屋の中からしか見ないから
雪なんて、あってもなくても別にいいかって思いもある。
寒い雪の日に、外に出るやつの気がしれない。寒いのによくやるよ。
高校だって、自主休講まっしぐらだ。
ただ、来年雪が降っても自主休講は不可能そうだけどさ・・・。
あたしは、来年の1月か2月あたりに雪が降ったときの状況を思い浮かべてしまう。
ぜったいあいつは朝早くうちまで迎えに来るな。
かけてもいい。あいつもあたしが自主休講をするはずだって賭けているはずだ。
まあ、あたしは、せっかく迎えに来てくれた春希の為に、寒い寒い雪の中、
文句を言いながら高校へとついていってしまうのだろう。
春希は春希でお説教していそうだな。
今は受験シーズンで、受験生はただでさえ精神的に不安定なのに、そんな中、
はらはらした思いで電車を待っている受験生の事も考えてみろっていわれそうだ。
春希「どうしたんだ? 俺、なにか面白いこと言ったか?」
かずさ「ううん、別に」
春希「そうか?」
かずさ「ああ、なんかクリスマスに恋人と一緒にいたいっていう気持ちが
ようやくわかった気がしただけだ。
今までは、クリスマスなんか関係ないって思っていたし、
クリスマスなのに、なんで人ごみの中デートしなければいけないんだって
思ってもいた。でも、今年は違う」
446: 2014/12/23(火) 03:54:30.90
春希「俺は、まったく憧れみたいなのがなかったとは言わないけど、
こうして初めて経験してみると、TVとかで騒いでいる理由がわかった気がする」
かずさ「だな」
二人の意見と視線が交わったところで、自然と頬笑みが灯される。
一応世間並みに今日のクリスマスデートを期待していた春希は、
いつもよりも幾分服装に気を使っているようだ。
普段はモノトーンで、地味な顔つきをさらに地味な服装で上塗りしているのに、
今日は珍しく、ほんの少し赤を取り入れていた。
グレーのパンツに、白のポロシャツ。
襟と袖のところに赤いラインが入っているのが特徴だと思う。
春希なりの冒険なのだろうが、赤を入れればクリスマスってわけでもないのに、
ちょっとだけ頑張った春希の服装に、あたしはさらなる笑みを春希に送ることになった。
たしかに、あたしもかなり服装には気を使っているけど、
それは、まあ、女としてのたしなみだ。
ピアノの休憩がてら外に出た時に買った春希へのクリスマスプレゼントのついででしかない。
たまたま通りかかった店で、偶然にもあたし好みの服がディスプレイされていただけで、
本当は買うつもりはなかった。
でも、春希が喜んでくれるかなと思うと、やはりちょっとは着飾ってみたくはなるのは
しょうがないよな。
黒のワンピースというところが地味すぎるかもしれない。
あの店員が似合うからって、しつこかったな。
あたしも気にいっているから、いいんだけどさ。
それにしても、肩や背中が露出し過ぎていないか?
今日は外に出る予定がないからいいものの、こんな服着て外に出たら
きっと五秒で家の中に戻ってくる自信があるぞ。
春希「でも、どこにも行かなくてよかったのか?
今日は練習時間を短縮させたんだから、
少しくらいは外出してもよかったんじゃないか?」
かずさ「いいんだよ、別に。あたしは春希と一緒ならどこだっていい。
むしろうちの中にいる方がくつろげるしな」
春希「たしかにな。レストランだって、今さら予約できないし、
どこにいっても混んでいそうだ。
しかも、クリスマス価格っていう名の値上げもしているから、
どこにいっても値段が高いって気がしてしまうよ」
かずさ「そういう細かいところを気にするあたりが、せっかくのムードをぶち壊すんだぞ。
今日くらいは、日常を忘れろよ」
447: 2014/12/23(火) 03:55:16.00
春希「そうはいってもな。一般庶民の俺からすれば、クリスマスといえども
財布のひもはしっかり引き締めておかないといけないんだよ」
かずさ「悪かったな。世間の常識が全く通用しないお金持ちのお嬢様で」
春希「それに、料理と掃除も出来ないのも付け加えないとな。
あと・・・、そうだな。まとめてピアノ以外の生活能力がゼロでもいいか」
かずさ「それは、・・・いいすぎじゃないところが痛いところだけど、
好きでこうなったわけじゃない」
春希「いいよ、それで。かずさは、今のかずさのままで」
これって、もしかして早坂が言っていたプロポーズへの布石?
そういえば、春希が家に来てから、ずっとそわそわしていたよな。
食事の準備もあるからそれまではピアノの練習しておけってスタジオに押し込まれた時も
なんだか落ち着きがなかったし。
だとしたら・・・・・・。
あたしの鼓動が加速する。あたし達二人しかいない静かな部屋だというのに、
心臓の音が盛大に雑音を撒き散らす。
凍てつく夜の外気がそっと身を寄せ、
街中でかき鳴らされている陽気なクリスマスソングと混ざり合い、
テーブルを挟んで対峙する最愛の彼から、
あたしと同じようにプロポーズを待っている彼女がいるのだろう。
彼女はどうやって、彼の言葉を待っているのだろう。
息が苦しい。瞳も熱っぽくて、ぼやけてきてしまう。
この彼の言葉が告げられるまでの数秒間を、どうやってあたしは待てばいいんだ。
期待してしまう。嬉しいに決まっている。
でも、とても不安なんだ。
春希「かずさ・・・」
かずさ「はいぃ?」
春希の呼びかけに、声が裏返ってしまう。
春希「そのさ、今日の料理はどうかな?」
かずさ「え?」
春希「さっきからずっと上の空だったから、食事が美味しくなかったのかなって」
かずさ「そんなことないよ。美味しいよ」
なんだ。プロポーズじゃなかったのか。
あいつのせいだ。早坂が変な事を吹きこむから意識してしまったんだ。
本音をいえば、かなりがっかりした。
春希と結婚したい。それは、春希からの告白を聞いた学園祭の夜から思っていた事だ。
448: 2014/12/23(火) 03:55:45.05
漠然としていた恋心が、現実まで降りて来たあの日、
あたしはふがいもなく春希の胸で泣きじゃくってしまった。
急ぐ事はない。あたし達はずっと一緒なのだから。
あたしは、とりあえず気分を切り替えようとパエリアを一口分だけスプーンですくう。
かずさ「そんなに見つめられると食べにくいだろ。それに恥ずかしい」
春希「ごめん」
春希は謝ってはいるが、視線はそのままなんだよな。
一応見ていませんって感じで顔はそらしているけど。
春希「どう?」
かずさ「どうって?」
春希「そのパエリア美味しいかって?」
かずさ「美味しいよ。美味しいけど、ちょっと意外なメニューだな。
柴田さんは、クリスマス特別メニューだって言ってたのに」
春希「気にいらなかったか?」
かずさ「ううん。美味しいし、嫌いじゃないよ。
このローストチキンは本格的だけど、あとのメニューは、なんだか家庭的だな」
ローストチキン以外にテーブルに展開されているディナーは、パエリア、ポテトフライ、
アサリとホタテの蒸し野菜、コーンスープ。
けっして出来が悪いわけではない。
けれど、柴田さんだったらもっとクリスマスを盛り上げる見栄えがある料理が
できるんじゃないか?
春希「ケーキは買ってきたやつだけど、他のは全部手作りだぞ」
かずさ「うん、美味しいよ。それに、なんだか温かい雰囲気の食事で、
なんかいいな」
春希「そっか、よかった。もっと食べてくれよ」
かずさ「あぁ・・・、あたしばかりじゃなくて、春希も食べろよ」
春希「大丈夫だって。俺も食べているよ」
春希は食べているっていってるけれど、あたしのことを見てばっかりじゃないか。
今だって一口食べたら、そのまま手が止まって、またあたしの事を見ている。
春希「他のはどうだ?」
かずさ「美味しいよ」
春希「実はさ、今日の料理は俺が作ったんだ」
449: 2014/12/23(火) 03:56:20.52
かずさ「春希が?」
春希「柴田さんに頼んで、ずっと特訓していた」
かずさ「今日の為に?」
ドイツ語の勉強だって忙しいのに、料理の練習までしていただなんて驚きだ。
柴田さんもあたしに内緒にしていたのか。
今日、柴田さんが食事の支度を終えて帰る時、なんだか陽気だったのは、
このことが原因だったのかもしれない。
春希「それもあるけど、ウィーンで日本食食べたくなるかもしれないだろ?
いくらハウスキーパーを雇うからといって、日本食は無理だろうしさ。
かずさも曜子さんも料理はできないだろ?」
春希の言うと通りだけど、今までは気にもしなかったな。
母さんはおそらく、まったく気にしていない。
今までも普段の食事に気をつけていないと思う。
もし日本食が食べたくなったら、日本食を提供するレストランに行くし、
それで満足できなければ、日本まで飛行機にのってやってきているはずだ。
日本に来てもあたしに会う事もせずに、そのままウィーンに帰国していただろうけどさ。
かずさ「ありがとう」
春希「俺がしたくてやったんだ。感謝してくれると嬉しいけど、なんだか照れるな」
かずさ「ありがとう」
春希「やめろって。ほら、このプリンも手造りなんだぞ。
かずさはプリン大好きだろ? でも、いつも食べているプリンはウィーンでは
売っていないだろうから、柴田さんと協力して再現してみたんだ」
春希が差し出すプリンを一つ頷いてから受け取ると、脇にあったスプーンを手にとった。
耐熱グラスに入ったプリンは、すも入っていなくて、手造りって言われなければ
買ってきたものだと思ったままだっただろう。
春希「どうかな?」
あたしのことをくいるように見つめる春希の視線が気にならないってわけではない。
むしろ食べる姿をじっくり見られるなんて、スプーンを持つ手を震わせる。
けれど、春希が一生懸命作ってくれた。あたしの為だけに作ってくれたんだ。
こんなにも嬉しい事はないよ、春希。
450: 2014/12/23(火) 03:56:51.91
かずさ「美味しい・・・。言われなければ、あのプリンだと思ってしまうよ。
ううん、あのプリンよりも美味しいって。最高だ」
春希「なに泣いてるだよ。大げさだな」
かずさ「泣いてないって」
あたしは、涙を隠すように下を向いてプリンを食べ続ける。
春希が今日そわそわしていたのは、プロポーズの為じゃなくて、
料理を披露するからだったのか。
だから、あたしが食べるところを気になっていたんだな。
そうだな。春希は、形だけのプロポーズじゃなくて、その先にある未来を
しっかりと考えている。
料理ができれば体調管理もしやすいし、日本食だって食べられて、
食生活のリズムを崩す事もないだろう。
ドイツ語だって頑張ってくれている。
春希は、あたし以上にあたしとの将来を考えてくれていたんだ。
大粒の涙がプリンの中に雫となって落ちてゆく。
もったいないな。でも、ちょっとだけ塩味がついたプリンも悪くはないか、な。
あたしが大泣きしだしたんで、春希のやつ、慌ててるな。
いい気味だ。あたしを感動させた春希が悪いんだ。
こんなにも素敵なクリスマスプレゼントは、初めてだよ。
かずさ「ありがとう、春希。最高のクリスマスプレゼントだ。
今年だけじゃなくて、来年も、再来年も、・・・もうずぅっと先まで、
毎年クリスマスを一緒に祝ってほしい。
あたしには、春希にしてあげられることなんて、ピアノを弾くくらいだけれど、
それでも、あたしは氏ぬまで、・・・ううん、氏んでも一緒にいたい」
春希「ずっと側にいるよ。かずさの側にいたいから頑張れるんだ」
かずさ「ありがとう。あたし今、世界一幸せだ」
春希「まるでプロポーズだな」
春希はとくに意識して発言したわけではないのだろう。だけど、あたしはずっと
プロポーズという言葉を意識してしまってたわけで、その言葉に非常に大きく反応してしまう。
あたしは、体を小さく震わせると、体まで小さく縮こまらせてしまう。
だって、春希からのプロポーズを待っていたのに、いつの間にかに、
あたしの方からプロポーズしていたじゃないか。
もちろん無意識にだ。意識していたなら、絶対に、ぜぇったいに言えるわけがない。
春希がクリスマスに淡い幻想ともいえる期待を抱いていたように、
あたしもプロポーズに壮大なる夢を持っていたわけで。
451: 2014/12/23(火) 03:57:24.11
顔に似合わない乙女っぽい理想があるんだなって、笑いたいやつらには笑わせておくし、
他人はもちろん、春希にだって秘密にしておきたい夢でもある。
おずおずと顔をあげると、春希はあたしの顔を見つめてくる。
その真っ赤な顔を見て、あたしは鏡を見ているんじゃないかって疑ってしまった。
かずさ「なあ、春希」
春希「な・・・んだよ?」
かずさ「あたしのプロポーズ。イエスって言ってくれたんだよな?
ずっと側にいるって、あたしの側にいたいから頑張れるって。
・・・・・・その、どうなんだ、よ?」
春希「結婚か・・・」
春希の呟きに、あたしはこくりと頷く。
春希は、あたしが頷くのを確認すると、椅子を座りなおして、姿勢を正した。
ピンと伸ばしたその背中に、まっすぐ迷いがない瞳があたしを射抜く。
春希「俺と結婚してください」
かずさ「はい」
あたしが想像していたプロポーズとはだいぶ違うけど、
これはこれであたし達らしいのかもな。
あと、さっき最高に幸せだって思ったけれど、あれは訂正だ。
だって、今、プロポーズされて、もっと幸せだしな。
そう考えると、春希と一緒ならば、今よりも、明日よりも、
もっともっと幸せな未来を見つけられる気がする。
もちろん楽しい事ばかりじゃないってわかっている。
レッスンや春希の勉強。ピアノに仕事。いつも一緒ってわけにはいかない。
きっとあたしは春希がいなくて、寂しい思いもするはず。
それでも、春希は、いつもあたしの隣にいてくれてると思うと、
それだけで幸せなんだ。
誰だ? まだ眠いって。
?「春希君。春希君、起きて。これに名前書いてくれないかしら?」
ん? 誰かが春希の名前を呼んでいるみたいだけど・・・。
452: 2014/12/23(火) 03:57:54.46
たしか昨夜は、春希と遅くまで騒いでいたような。
・・・そうだ、昨日の分のレッスンは今日朝早くからやるってことにしてあったんだよな。
それにしても、ちょっと寒いぞ。春希動くなって。あたしの暖房役なんだから、
あたしの隣でじぃっとしていろって。
?「それでいいわ。あと、ここは拇印でいいから」
春希「は、・・はぁ。ん・・・んん~」
春希? 誰と話してるんだ?
あたしは、夢とも現実ともわからないまどろみから抜け出すべく、重い瞼をこじ開ける。
さすがに明け方まで起きていたせいもあって、頑丈すぎるあたしの瞼は、
強制的に開けようとすると激しく抵抗してきた。
曜子「これで完成っと。あとは、かずさの所を記入すればOKね。
ほらほら、かずさ。起きなさい」
ようやく瞼の抵抗をはねのけると、目の前には、あたしの母さん、
つまり、冬馬曜子がなにやら一枚の紙を持って、あたしを起こそうとしていた。
あたしの隣にいた春希は、先に起こされた事もあり、
あたしより早く脳を再活性化できたようだった。
春希「なんですか、それ? というか、寝ぼけていた俺に何を書かせたんです?」
曜子「婚姻届だけど。証人は、私と美代ちゃんが書いておいたからOKよ。
それと、春希君のお母さんにあってきて、婚姻の同意書も貰ってきているから
気にしなくてもいいわよ。未成年だし、同意書も必要だったけど、
親としては結婚する前にご挨拶しておきたかったしね」
さあ、区役所に行くわよ」
いきなりの訪問。責任能力なしの状況からの強引な署名。
そして、区役所?
目の前の出来事が、あたしの想像を飛び越えすぎていて理解できない。
婚姻届って、どういうことだよ。
かずさ「いつ来たんだ?」
曜子「メリークリスマス、かずさ。プレゼントは、この婚姻届ね」
かずさ「いつ来たんだって聞いてるんだ」
まったく悪びれもしないで、自分の言いたい事だけ言いやがって。
真っ赤なドレスに、手首や襟元の白いファー。
453: 2014/12/23(火) 03:58:24.39
これって、サンタのつもりか?
こんなサンタがいたら、子供が驚くぞ。いやらしい中年男は喜びそうだけれど、
春希は違うよな?
曜子「昨日の昼頃からよ。春希君が愛を込めて料理をしているあたりかしらね。
プロポーズのところは、ばっちし録画してあるから、あとで一緒に見ましょうね。
あ、かずさは録画のコピーが欲しいわよね。ちゃんと用意してあるわよ」
かずさ「ありがとう」
春希「って、違うでしょう。なんなんですか。いつから・・・、って、
最初からずっといたってことじゃないですか」
曜子「ほら、一応親だし、これから二人は、ウィーンで勉強しなきゃいけないでしょ。
大人の対応として、春希君には、
これをクリスマスのプレゼントにしようと思っていてね。
それと、春希くんのお母さんも、結婚喜んでいたわよ」
母さんは、むき出しの箱を春希に手渡す。
あまりにも直接的なパッケージに、あたしも春希も、顔を赤くするしか選択肢がなかった。
それにしても、いつの間に春希の母親とあったんだよ。
根回しが早すぎるだろ。
春希「コンドームじゃないですかっ」
曜子「今子供ができたら大変でしょ。二人が昨夜、ことをしだしていても、邪魔するつもり
はなかったから安心してね。その辺の空気は読めるから。
ちゃんと枕ものとに、そおっとコンドームを置いて、消えるつもりだったのよ。
でもねぇ、なにもないとは意外だったわ。
二人とも純粋っていうのか、頭が堅いっていうのかわからないけど、
二人でいるだけで幸せだなんて、見ている私の方が胸やけしそうだったわ」
そう大げさなジェスチャー付きでほざきやがると、母さんはおもむろに脚を組み直す。
すると、母さんが持っていたペンと何か別の何かが一緒に床に落ちた。
春希は律儀にも、その二つを素早く拾うと、母さんに返そうとしたが。
春希「盗聴器じゃないですか。そういえばさっき、録画したとかいってましたよね?
今も録画してるんじゃないですか?」
かずさ「娘の情事を盗み聞くつもりだったのかよ」
曜子「そんな悪趣味はないわよ。これはリビングでの会話を聞くのに使っただけ。
録画の方は、もう撤去してあるわよ。でも、昨夜リビングで始めちゃったら
どうなってたかわからないけどね」
454: 2014/12/23(火) 03:59:00.56
いやらしい顔で、厭味ったらしい顔をするんじゃない。
ここまでする親だったとは。今まで放任主義だったから油断していた。
春希「やめてくださいよ」
曜子「でもでも、親としては、娘にクリスマスプレゼントを渡したいじゃない?」
かずさ「とんでもないプレゼントを用意していたけどな。
どこの世界にコンドームをクリスマスプレゼントとして娘に渡す親がいる」
曜子「それだけじゃ悪いと思って、こうやって婚姻届も準備してきたじゃない」
春希「寝ぼけているときに書かせないでください」
曜子「じゃあ春希君は、かずさと結婚する気はないの?」
春希「ありますけど・・・」
曜子「じゃあ、いいじゃない」
春希「結果としては同じかもしれないですけど、過程が間違いまくっていますよ」
曜子「なんか頭が堅過ぎじゃない、春希君?
しょうがない。そんな春希君には、これをあげましょう」
またもや大げさなジェスチャーで語ると、今度は手のひらに収まる小箱を春希に渡す。
今度の箱は高級そうな装飾もされていて、
さっきのコンドームみたいなことはないと思える。いや、思いたい。
春希は、疑り深く受け取ると、ゆっくりとその蓋を開けた。
その中には、白銀に光る白い輪と、ひと際美しく輝くダイヤが収められていた。
春希「これって・・・、婚約指輪ですか?」
曜子「そうよ。あたしのお古。かずさの父親に貰ったもので、
たった一日しか、はめてなかったものだけどね。
でもね、かずさには、私が叶えられなかった幸せを実現してほしくて。
身勝手な女の押し付けで悪いわね」
春希「そんなことないです。光栄です。でも、いいんですか?
こんな大切な物を」
曜子「いいのよ。二人が使ってくれるっていうんなら、あの人も賛成するはずよ」
春希「自分は、曜子さんが納得しての決断でしたら、なにもいう事はありません。
かずさは?」
かずさ「あたしも、なにもないよ。でも、ほんとうにいいの?」
曜子「いいって言ってるでしょ。それとも、あなたの父親の事を聞いておきたい?」
かずさ「それは、どうでもいいよ。母さんが話したくなったら、しょうがないから
聞いてやる」
曜子「そう? だったら、そのうち聞いてもらおっかな」
春希「本当ならば、俺が用意すべきものなのに、申し訳ありません」
455: 2014/12/23(火) 03:59:28.36
曜子「いいのよ。それに、プロポーズも、この子の暴走がきっかけだったんだし。
春希君のプランだと、まだ先だったんでしょ?」
春希「そうですけど、早まっても全く問題ありませんよ。
むしろ光栄です。・・・ただ、なにからなにまで全て曜子さんに用意して頂いて、
申し訳ない気持ちでいっぱいです。ウィーン行きも、曜子さんの協力なしでは
実現は難しかったですし」
曜子「あんなのは大したことではないのよ。大変なのはこれからよ」
春希「大した事ですって。俺は今回の曜子さんの協力を一生忘れることはありませんし、
一生かけても恩返しができないほどです」
曜子「恩返し出来ないほどだったら、素直に受け取っておきなさい。
それが親孝行っていうものよ。
親がね、娘と息子の為にしてあげられることなんて、たかがしれているのよ。
途中で娘をほったらかしにした無責任な親が言うべきではないんだろうけどね」
かずさ「ふんっ。あたしを置いていった時は、頭が真っ白になって、
どうしたらいいか途方に暮れたさ。でも、今は春希と出会って、
手をつなぎ、どこへ進めばいいかはっきりしている。
あのとき母さんがあたしを突き放してくれなかったら、
いつまでも母さんの背中ばかりおって、成長できないでいたと思うしさ」
曜子「そうね。あなたのピアノ、変わったわ。いい意味でね」
かずさ「でも、感謝はしないからな。怒っていたのも確かなんだし」
曜子「わかっているわよ。いつまでもしつこいのね」
かずさ「悪かったな」
曜子「そう? だったらいいわ」
あたしと母さんとのやり取りがひと段落すると、春希は先ほどの話を蒸し返す。
あたしからすれば、二人の生活を最大限援助してくれるんなら、大歓迎するだけだ。
だけど、春希からすれば、莫大な資金と時間を注ぎ込んでくれる義母に、
感謝だけでなく、多大な困惑を感じてしまうのかもしれない。
春希「いくら親だとしても、俺にまでここまで親切にしてくれるだなんて」
曜子「そうね、もし春希君がかずさを不幸にするんだったら、なにもしていなかったかも
しれないわね。でもね、かずさも、そして、私も、春希君のことを認めているの。
あとこれは親のエゴかもしれないけれど、旅に出る娘達には、
旅に出る前に、出来る限りの援助をしてあげたいのよ。
いったん旅に出てしまえば、親なんて無力よ。
コンクールでピアノを弾いている時、私が代わりに弾いてあげることなんて
できやしないのよ」
春希「それはそうでしょうけど」
456: 2014/12/23(火) 04:00:15.73
曜子「極端な例え話かもしれないけど、私が伝えたい事はわかってもらえたかしら?」
春希「はい」
曜子「かずさは?」
かずさ「わかってるよ」
曜子「だったらいいわ。だから、もう少しだけ、
あなた達が私の手から離れていってしまうまでの、そのわずかな時間だけでもいいから、
私の我儘に付き合ってくれないかしら?」
春希「はい、宜しくお願いします」
かずさ「母さんの我儘に付き合うよ」
曜子「ありがとう、春希君。・・・かずさも、ありがとう」
なんだか、照れくさいじゃないか。母さんが、母親らしい事をするだなんて、
これは雪でも降るんじゃないか?
曜子「それじゃあ、区役所に行くわよ。
外は雪が降っていて寒いから、しっかりと着込んでらっしゃい。
あ、でも、ハイヤー用意してあるから、車までの距離しか寒くないけどね」
あたしは、そっと窓の外に視線を向ける。
今まで母さんのごたごたに付き合わされていて、外がいつもより白く光っているのに
気がつかないでいた。
いつの間に雪が降ったのだろうか?
降り積もった雪が乱反射していて、目を細めておかないと眩しすぎる。
目の高さにかざした指の隙間からのぞく世界は、今までとは違う。
どこか幻想的で、それでいて現実を突き付けられる世界。
昨日と今日。あたしと春希の関係が一歩進んだだけなのに、それだけなのに
別世界にいるみたいだった。
この日、北原春希は冬馬春希になった。
あたしにとって、これ以上のクリスマスプレゼントはありえないだろう。
・・・・・・これ以上はありえない?
そうじゃない。だって、昨日も最高に幸せだって思っていたら、
数分後には、それを上回る幸せが待っていた。
そして、今日も。
だったら、今日も春希と、そして、母さんと最高の幸せを探しに行こう。
そう心に刻み、母さんに見つからないように、春希にキスをした。
457: 2014/12/23(火) 04:00:47.69
クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(後編)』 終劇
次週は
『心の永住者』第27話をアップします。
クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(後編)』あとがき
タイトルにも入っている『サンタ』ですが、もちろん曜子さんの事です。
はた迷惑なサンタですが、最高のプレゼントを届けてくれたはずです。
ただこのサンタ。自分へのプレゼントもしっかりとゲットしているあたりが
曜子さんらしいですかね。
さて、次週からは『心の永住者』を再開させます。
予定としては、千晶編は長くするつもりはありません。
長くするつもりはありませんが、長くなってしまったら、ごめんなさいとしか言えません。
今週は祝日という事もあって、アップ時間が異なってしまい、大変申し訳ありませんでした。
来週も、火曜日にアップすると思いますが、年末という事もあって、
いつもの時間帯にアップできるかは不透明です。
しかし、時間帯が変更されたとしても、いつもの時間帯より早めにアップ致します。
今週も読みに来てくださり、たいへんありがとうございました。
黒猫 with かずさ派



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