713:黒猫 ◆7XSzFA40w 2015/06/22(月) 06:37:11.68

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第51話



8月中旬


 俺が住む家を編集部に隠す通すわけにもいかず、俺が麻理さんと一緒に暮らしている事は

開桜社ニューヨーク支部の編集部では公然の秘密でもなく、普通に受け入れられいた。

 アメリカでは日本よりもシェアハウスが一般的である事も起因しているし、

それが男女の同居であってもとくに問題なく受け入れられていた。

 しかも、なぜか俺と麻理さんとの師弟関係はニューヨークの職場でも知れ渡っており、

そのような師弟関係があるのならば一緒に住む事に変なさぐりをいれてくる者などはいないようだ。

これが日本だったら開桜グラフの先輩方が一晩くらいの飲み会では離してはくれないだろう。

 でも、悪い気はしない。苦笑いよりも懐かしさが込み上げてきてしまった。

 普通の社会人なら休日である日曜の午前。俺は掃除機を手にもくもくと掃除を進めていた。

日本にいた時には考えられないくらいの規則正しい生活が始まり、最初のうちは物足りなく

なるのではないかと懸念に思っていた。しかし、そもそも扱う言語が日本語から英語になった

わけで、物足りないどころかこれ以上の仕事を抱える事は不可能だという事態に陥っている。

 一応土曜日も仕事はあるが、自宅での仕事日となっている。まあ、日曜日も麻理さんからの

ビジネス英語講座があるわけで、ある意味日本と同じような忙しい日々を過ごしていた。


麻理「北原ぁ。バスルームの掃除終わったけど、リビングの方はどうかしら?」

春希「あともう少しですね」

麻理「掃除機だけ?」

春希「ええ。掃除機はもうすぐ終わりますので、あとは拭き掃除だけです」

麻理「そう。だったらあとは私が拭き掃除しておくわね」

春希「お願いします」


 バスルームの掃除を終わらせてきた麻理さんの言葉に甘えて俺は掃除機を片付けに行く。

そのときちょうど洗濯気が動いていないのを確認した俺は、自分の洗濯をすべく洗濯ものが

つまっている籠を自室から持ってくると、俺は洗濯機の準備に取り掛かった。

 俺は洗濯ルールにのっとり、洗濯機の覗き穴からタオル類が入っている事を確認すると、

洗濯機のふたを開け、洗濯し終わったタオルなどを取りだそうとした。

 今日はちょっと多いかな? さすがに毎日洗濯できないしな。えっと、

この前洗濯したのって……、昨日じゃなかったか?

 俺は昨日の記憶をたどるのに集中し、手元はオートでタオルを取り出していった。


春希「あっ……」

麻理「どうしたの?」


 思いのほか大きな声をあげてしまい、麻理さんが覗いてくる。

 これが初めてだというわけでもないのに、声をあげずに蓋をしていればお互い気まずい

想いをしなかったはずだった。だけどどうしても耐性がつくはずもなく、

俺は呆然と麻理さんの表情がうっすらと赤く染まっていくのを見ているしかなかった。


麻理「あっ……」

春希「すみませんでしたっ!」
WHITE ALBUM2 Original Soundtrack ~encore~
714: 2015/06/22(月) 06:37:49.08
 二人で暮らしているわけで、お互いどうしても一人暮らしの時の癖が出てしまう。

それは俺もそうだが、俺よりも長く一人暮らしをしている麻理さんはなおのこと男性と一緒に

くらしているという危機意識が薄くなってしまう。

 つまり、お互い危機意識を忘れてしまう為に今回のようなハプニングが起こってしまう。

 洗濯機の中には麻理さんの洗濯ものが入っていた。もちろん普段から気をつけはしている。

それでも油断してしまい、先日も同じような事態を起こしていた。まあ、前回は麻理さんが

俺の洗濯ものを目撃しただけで、麻理さんのショックを別にすれば、俺の洗濯ものを見られて

もそれほど恥ずかしくはないので、今回の比較対象にはならない。

 一応俺がこの家に越してきたときにいくつかのルールを決めはした。

洗濯も数少ないルールのうちの一つである。

 ルールの数が少ないのは、お互いが気を使えばいいと思っている事と、

あとは実際暮らしてみないとわからないということに起因する。

 洗濯のルールはいたってシンプルで、各自の衣類は自分で洗い、

タオルなどの共有物は気がついたほうが洗うであった。

 ニューヨークでの洗濯事情では、自宅に洗濯機があるのは珍しい。

コインランドリーに行くか、アパートに備え付けのランドリールームを使うのが一般的

といえる。麻理さんのように時間がない人は業者に頼むという方法もある。

 だから最初は麻理さんも業者に頼んでいると思っていた。しかし、初めてこの家に来た時に

麻理さんが言っていたが、「やっぱり洗濯は自分でしたいのよね」だった。

 こうして真っ白になっている新天地で麻理さんの現状を一つ一つ塗りつぶされていくたびに

俺が大いに影響を与えている事を知ると、嬉しさと後ろめたさが毎回せめぎ合ったいた。


春希「いっ! ……ぁっ」

麻理「どうしたの北原? なにかあった?」

春希「え? いやそのですね」

麻理「ん? あっ、洗濯機もう終わったのね」

春希「ええ、まあ、そうですね」

麻理「じゃあ北原のも洗ってしまいなさいよ」

春希「そうさせてもらいます」

麻理「あっ……」


 麻理さんの困惑と羞恥心が混じった声とその視線に俺は自分の現状を思い出してしまう。

一度は緊急回避的手段で手に握っている品を洗濯機の中に戻そうとはした。

 けれど、麻理さんが思いのほか早くやって来てしまったわけで、

俺の思考はその場でストップしてしまっていた。


春希「……」

麻理「北原?」

春希「……」

麻理「北原っ」

春希「はっ、はいっ」


 フリーズしていた俺の脳は、麻理さんの呼び声で強制的に再起動される。

どうやら再び思考をストップさせていたようだ。

 数々の修羅場をくぐってきた武也に、俺は今こそアドバイスを貰いたい。

715: 2015/06/22(月) 06:38:20.80

 武也からすれば修羅場未満の事態かもしれないが、

俺にとっては修羅場以上に遭遇したくはない事態であった。

 なにせ、…………前科持ちだもんなぁ。


麻理「できることなら手に持っている下着を離してもらえないかしら?」

春希「すみませんっ」

 硬直していた手を開くと、俺の手から黒い布地が洗濯機の中へと舞い戻っていく。

 できる事なら、麻理さんに見つかる前にしておきたかったものだ。

麻理「別にいいのよ。私だって洗濯機の中に北原の洗濯ものが入っているのを

  知らないであけたことだってあるわ」

春希「俺のは別にいいですよ。いや、むしろ変な物を見せてしまってすみません」


 男の下着と女性のとでは次元が違うだろっ。

それを今力説なんかしたら墓穴を掘りそうだからしないけど。


麻理「別に変なものだなんて思っていないわよ。女も男も下着をつけるものだし、

  それを洗濯するのは当然でしょ?」

春希「たしかにそうなんですけど、今は論点がずれていません?」

麻理「そうかしら?」

春希「そうですよ。だから一緒に暮らし初めてすぐに洗濯のルールを作ったじゃないですか」

麻理「そのルールは北原が一方的に決めた事じゃない。私は別に一緒に洗濯してもよかったのよ」

春希「駄目ですよ。俺が麻理さんの下着を触ることなんてできませんよ。

  一応モラルの面でという意味でですよ」


なにを補足説明してるんだよ。そんなモラル云々なんて麻理さんだって聞かなくともわかるだろっ。

 しかし、なにを勘違いするかわからないというか、俺に関してだけはどうしても小さな意思

疎通の齟齬も発生させたくはなかった。それが腫れ物に触るような扱いであろうと、過保護だ

と言われようと、どうしても麻理さんの精神状態を俺は信じきることができないでいた。


麻理「だから言ったじゃない。洗濯は私の分担にすれば問題ないって。

  だって北原は私が北原の洗濯ものを触る分には問題ないのよね?」

春希「ええ、まあ。麻理さんが俺の下着を触っても問題ないというのでしたら」

麻理「その辺は全く問題ないわよ」

春希「だけどですねぇ……」


 ほんと、なにを馬鹿な事を言ってるのっていう顔をしないでくださいよ。

俺の方が我儘を言っているようにみえるじゃないですかっ。

 そりゃあ実家には千晶という珍獣がいて、女性の下着が干されていても慣れましたよ。

だけど、どうしても同じ布っきれだとは思えない。千晶の物と麻理さんの下着とでは、

どうしても意識が違ってきてしまう。

 その辺を理解してくださいよ。

……千晶の洗濯物の扱いで、麻理さんと千晶が言い争っていた事は思い出したくもないが。


麻理「一緒に暮らしているんだし、助け合いよ。それに北原も仕事が今の生活に慣れるのに

  四苦八苦しているじゃない。わざわざ別々に洗濯するとなると時間も倍以上かかって

  しまうわ。しかも白いものと色ものを分けて洗うとなるとさらに時間がかかるわけだし。

716: 2015/06/22(月) 06:38:55.14

  別に水道料金とか電気代を気にしているわけではないのよ」

春希「その辺の料金の無駄遣いは再考すべき点ですが、資源の無駄遣いでもありますよね。

  それに、麻理さんが指摘したように、時間的デメリットはたしかにいたいです」

麻理「でしょう」


 俺に姉はいないが、もし姉がいたらこんなふうに言いくるめられてしまうのではないかと

思ってしまう。両手を腰に当て、自分の主張が正しいと胸を張っていうその麻理さんの姿が、

なんだか微笑ましくて、俺は諭されている最中だというのに喜びが沸きあがってきてしまった。


春希「そうですね」

麻理「北原?」

春希「いえ、なんでもないです。……俺も少し神経質になってたかなって思いまして」


 やばかった。姉に怒られて喜んでるって気がつかれなくてよかった。

そんな性癖ないはずだけれど。


麻理「そう? じゃあ、洗濯は私が当番でいいわね」

春希「はい、お願いします。ではお風呂場は今まで交代で掃除していましたが、

  これからは俺が掃除当番という事でいいですね?」

麻理「それはかまわないけど、北原は料理もしてくれているし、

  お風呂掃除は今まで通りに交代制で構わないわよ」

春希「いえ、麻理さんも料理手伝ってくれるじゃないですか」

麻理「手伝っているというよりは邪魔をしている気がするのよね」

春希「そんなことはないですよ。最初の頃よりは動きがスムーズになってきましたし、

  俺も似たようなものですよ」

麻理「でも、しっかりと料理が板についてきたじゃない」

春希「それは麻理さんよりも長く経験を積んできたからにすぎませんよ」

麻理「でも、今は邪魔している部分も多いわけだから、やっぱりお風呂掃除は私がやるわ。

  でも、私の料理の腕が上がったとしたら、そうしたらその時お風呂掃除の当番を考えましょう」

春希「わかりました」


 きっとその頃に事態が変わってお風呂掃除の当番再考なんて忘れてはいるんだろうけど、

俺はこの先も麻理さんの勢いに負け続けているのだろうという事だけは確信できた。

 別に嫌だってわけではない。むしろ負ける事にすがすがしささえ感じている。

 それが将来麻理さんを傷つける時限爆弾になろうと、俺達は見ないふりを演じ続けていた。







9月上旬 かずさ



 春希の側にいられないのは寂いしいけど、やっぱ一日中ピアノに向かっていられるこの環境

だけは母さんに感謝している。もちろん母さんには言わないけど。

 まあ、あれだな。今なら母さんが一人海外で頑張ってきた心情も、そして高校生になる

あたしを一人残して海外に出て行ったことさえも、ほんのちょっとだけだけど理解できる

かもしれない。

717: 2015/06/22(月) 06:39:27.83

 ほんのちょっと、ほんのわずかだけだけど、理解できてしまう。

 それがいい傾向なのか、それとも人生踏み外しているかはわからない。

きっとピアニストとしては正しいのだろうし、一般の人からすれば、そう、日本にいるで

あろう彼女みたいな普通に高校生やって、大学でのびのび頑張って、そして就職して家庭を

作っていく、いわゆるまっとうな人生を望むのならば、あたしが選んだ道は間違っているのだろう。

 もちろんピアニストであってもまっとうな性格の持ち主もいる。

 けどやっぱ、母さんと似たような臭いがする彼ら彼女らを見ていると、

どうしても普通とは思えなくなってしまっていた。


曜子「ねえ、かずさ」

かずさ「娘の部屋に入ってくるならノックくらいしたらどうだ」


 いつものようにノックもせずに母さんがあたしの寝室に入ってくる。

 別にやましい事をしているわけでも、なにか隠さなければならないものなんてないから

いいんだけど、それでもやっぱ年頃の娘でもあるわけで、

そこんとこわかっててやってるんだからかなわない。


曜子「あら? ノックしたわよ」

かずさ「聞こえなかったけどな」

曜子「ノックしたわよ。あなたと暮らし始めたばかりのころはね」

かずさ「だったらその習慣を今も続けて欲しかったものだな」

曜子「あらぁ? でもね、あなたが返事しなかったのよ。私がノックしても一度として返事を

  した事がなかったじゃない」

かずさ「当然だろ?」


 あたしの切り返しに母さんは目を丸くする。本当にわかってないのかもしれないって、

娘として本当にこの母親の常識を疑ってしまった。

……社長に常識を求めるのはよしなさいって美代子さんが真顔を言ってたけど、うん、まあ、

やっぱあたしの母親なんだなって納得してしまうのはやばい傾向かもしれなかった。


曜子「どうして?」

かずさ「だってノックじゃなくて「入るわよ」って呼びかけながらドアを開けていたじゃないか。

  たしかに呼びかけるのもノックのうちかもしれないよ。でも、そのノックであっても、

  あたしの返事を待ってからドアを開けるものじゃないのか」

曜子「細かい事はいいじゃない。ただでさえ親子のスキンシップが少ないのに、部屋まで

  こうして会いに来ただけでも喜んでもらいたいものね」


 あたしが何を言っても言いかえしてくるんだよな。あたしもあたしでむきになってしまう

ところがあるのも悪いけど、それでも母親だったら娘に折れてくれてもいいじゃないか。

それこそ良好なスキンシップの一部じゃないのかよ。


かずさ「わかった。わかったよ。……で、何の用?」


 ここは大人のあたしが折れるべきだな。だって、面倒だし。


曜子「ん? えっと、……そうそう。ニューヨーク行きの事よ」


718: 2015/06/22(月) 06:40:16.71
かずさ「ああ、あれね。そろそろホテルの予約取ろうと思ってたんだ。あと練習の為の

  スタジオも借りようと思ってるんだけど、どこかいいとこ知らない? ホテルはどうにか

  なりそうなんでけど、さすがに練習スタジオの方はなかなか探せなくてさ」

曜子「あなた、今頃になってホテルと練習用のスタジオを探しているの?」

かずさ「そうだけど?」


 今まで大人の対応をとってきたあたしであってもさすがに母さんの馬鹿にしたような、

呆れたような、……いや、百パーセントあたしのことを馬鹿にしているし、呆れてもいる顔を

みて、あたしの理性はあと少しで吹き飛びそうのなってしまう。

 きっとあたしの目はつり上がり、高校の教室だったらたった一人を除いてけっしてあたしに

近づく事もない雰囲気を醸し出しているっていうのに、この母親は……。

 どうして人の怒りに無頓着なんだよ。


曜子「もう9月よ9月。そしてコンクールは10月よ。わかってるの、かずさ?」

かずさ「わかっているから一カ月も前に予約しようとしているんじゃないか」


 あたしの優等生的発言に、あろうことか母さんはため息で返事を返してくる。

 ぴくりとあたしのこめかみが震えたのはこの際無視だ。怒ったら負け。

この人に常識はないんだから、あたしがしっかりしないと。


曜子「あなた大丈夫? ほんっとピアノ以外は全く駄目ね」

かずさ「どういうことだよ?」

曜子「いくら来年のジェバンニの前哨戦の位置づけになっている腕試しの

  コンクールといっても、みんなジェバンニにあわせて練習してきているのよ」

かずさ「わかってるよ、そんなこと」

曜子「わかってないわ。わかってないから練習場の確保もできていないんじゃない」

かずさ「どういう意味?」

曜子「みんな本気だってことよ。いくら本番が来年のジェバンニだろうと、ここで好成績を

  残せないようなら来年も駄目って事よ。だからみんな必至だし、練習場の確保だって

  しっかりと準備をしているの。あなたみたいに直前になって探し出すなんてありえないわ」

かずさ「えっと、そのさ」

曜子「なに?」

かずさ「ううん、なんでもない」


 さすがのあたしも母さんのいっていることがわかってくる。別に母さんはあたしを馬鹿に

していたわけではなかった。

 馬鹿だったのは、もしかしてたあたし、なのかもしれない。

 だって、母さんのいう通りピアノ以外はてんで駄目で。


曜子「しかもニューヨークよ。あなたニューヨークに詳しいわけでも、ましてや現地で

  サポートしてくれる親しい人がいるわけでもないのでしょ。まあ、ウィーンでも

  引きこもりのあなたに手を貸してくれる人なんてフリューゲル先生くらいかしらね」

母さんが言ってる事は、ほんとうに悔しいけど、正しい。ピアノに関しては妥協しない人だ。

 あたしもピアノに関しては最大限この人を尊敬しているし、目標にもしている。

 でもあたしは、この人を追いかけるためのスタート地点にさえたてていないって

実感させられてしまう。

719: 2015/06/22(月) 06:41:08.06

 いくらピアノがうまくても、それだけで母さんが今の地位を築き上げたわけではない。

 ウィーンに来て、むりやり母さんのコンサートの事前準備に連れて行かれた時は途中で

逃げ出そうとさえ思っていた。

 だって会議を見ていても理解できないし、まあピアノに関してならわかるけど、

でも、スポンサーやら演出なんてものはさっぱりだ。でも、何度も連れられて行くうちに、

ピアノのコンサートは一人では成功させられないってわかってしまった。

 そういやこんな事も言ってたっけ。


曜子「演奏家はパトロンとまではいかないまでも、自分をサポートしてくれる人や企業が

  いなければ演奏さえさせてもらえないのよ。突き抜けた才能があればいいって思うかも

  しれないけど、その才能も、その才能を買ってくれる人がいなければ成功しないわ。

  だって、その才能で買い手の心を動かさなければいけないのよ。それはもちろんお金が

  からんでくるけど、無愛想な態度をとっていたらせっかくの演奏も駄目になってしまう

  わよ。まあ、ね。演奏家は一応どこでも演奏できる分いいかもしれわね。この前私の

  スポンサーになってくれてる企業の人と話していたんだけど、F1? あの車の」

かずさ「モナコに行った時の?」

曜子「そうそう。クルーザーでF1観戦できるっていうから行ってみたけど、

  つまらなかったわよね。ちょこっとしか見えないし」

かずさ「母さんは途中で飽きちゃって話に夢中だったじゃないか。たしかF1よりもカジノに

  夢中だった気がするけど」

曜子「そうそう。カジノね。……まあカジノは楽しかったけど、あの見ていてもつまらない

  F1? あのドライバーになる為に億単位の、しかも二桁の億の持参金がいるんだって。

  笑えちゃうわよね」

かずさ「でも、トップドライバーはそうでもないんだろ?」

曜子「そうらしいわね。でも、ほとんどが持参金しょってくるそうよ。

  ……ねえ、かずさ。わかる?」

かずさ「なにがだよ」

曜子「私は自動車レースのことなんてからっきしわからない。きっと私が馬鹿にしているF1

  も、仮にも世界最高峰のレースらしいから、そのレースに出場しているドライバーも

  突き抜けた才能をもっているのでしょうね。でも、この持参金をもってくるドライバーが

  多いって事はね、お金がないけど突き抜けた才能を持ったドライバーもF1には

  出場できないけどたくさんいるってことだとは思わない?」

かずさ「かもしれないけど、あたしは……」

曜子「これだけは覚えておいてちょうだいね、かずさ。あなたは、今は、ピアノだけに

  打ち込んでいていいわ。むしろピアノだけをみていなさい。でも、ピアノで成功する為

  にはあなたをサポートしてくれる人がいなければ成功しないという事を忘れないで頂戴ね」


 あまかった。今頃になって思い出す事じゃない。

 あたしの理解できることなんて子供じみた小さな理解だ。

でも、あたしがピアノだけを弾いていればコンサートが成功するなんて事は絶対にないって

ことだけは理解できた。

 だから今回のコンクールも、実際ピアノの良しあしで判断されるとしても、コンクール前の

準備も今後行われるコンサートと同じように事前準備が重要だったんだ。

720: 2015/06/22(月) 06:41:36.56

だからこそ母さんはあたしにそれを強く指摘してきたんだ。

 母さんの口調がいつも通りすぎて、あたしはついはむかってしまったけど。




第51話 終劇

第52に続く




第51話 あとがき


申し訳ありませんが、今週は一身上の都合で朝の更新となります。

ようやくかずさが動き出し始めたわけですが、

ピアノのコンクールについては詳しくないのが痛いところです。

とりあえず架空の都市ニューヨークだと思って下されば助かります。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派


722: 2015/06/29(月) 17:28:06.79

第52話



かずさ「ねえ、母さん」

曜子「なにかしら?」

かずさ「お願いします。今度のコンクール、絶対に勝ちたいんだ。

   だからあたしのサポートをしてください」


 あたしはベッドの上から立ち上がり、頭を深々と下げる。

 この人にお願いしたことなんてない。いつも勝手に与えられるだけで、

くれないものはないものだと考えていた。

 それが当然だと思っていた。

 だけど、それじゃあ駄目なんだ。このままでは春希に会わせる顔がない。


曜子「そう……。勝ちたいのね?」

かずさ「ああ、絶対に勝つ」


 頭をあげたその先には、心の奥まで射抜く母さんの瞳があたしを覗き込んでくる。

 勝気で、負けず嫌いで、自由奔放で、他人に迷惑を笑って投げつけてくるような

どうしようもない人だけれど、ピアノだけには真摯な人。

 だからあたしもピアノに関しては正直でいたい。


曜子「わかったわ」

かずさ「うん、ありがと」

曜子「10月のコンクール勝ちに行くわよ。ここで1位をとれないくらいでは来年の本番で

  上位に食い込む事さえ難しいわ」

かずさ「当然だ」

曜子「いい顔ね。私が全面的にあなたのサポートをしてあげる。でも、私が手を貸すんだ

  から来年の本番でも勝ちに行くわよ」

かずさ「わかってるよ。約束だもんな」

曜子「ええそうね。彼と私たちとの約束だものね」

かずさ「うん」

曜子「ということで、さっき美代ちゃんから飛行機のチケットとかホテル? 

  あと、練習スタジオとかの詳しい予定が送られてきたからここにおいておくわね。

  一応ホテルの近くのスタジオをコンクールが終わるまで全て抑えておいたから

  いつでも弾けるわよ」

かずさ「え? え、えぇ~……。か、母さんっ」

曜子「じゃあ明日からの練習も頑張りなさい。

  来年のコンクールには春希君も招待できるといいわね」

かずさ「ちょっと母さん? 待って、待ってよ」


 母さんはあたしの呼びかけなど聞こえないふりをして寝室から出ていってしまう。

 あたしは追いかける気力さえ尽き、そのまま床に座り込んでしまった。

 くそっ。絶対最初からすべてわかっててはっぱをかけてきたな。

別に気を抜いているわけでもないけど、……くそっ。

 ここまでやってくれたのなら、絶対に1位をとらないといけないじゃないか。

723: 2015/06/29(月) 17:28:45.79

もちろん1位をとる予定だってけど、……くそっ、腹が立つっ。

 でも……今だけだ。今だけはあんたの手のひらで踊ってやる。

でもさ、母さん。あたしは母さんみたいに社交的でもないし、人づきあいもうまくはないよ。

 でもね、ピアノの腕だけは母さんの横に並べるようになってみせるよ。






9月上旬 春希



春希「大丈夫なんですね?」

麻理「ええ、吐き気もおさまっているし大丈夫よ」


 俺は携帯電話から聞こえてくる麻理さんの声に神経をとがらせていた。

 麻理さんは普段は俺を頼ってくれるのに、どうしていつも以上に悪くなった病状に関しては

隠そうとするんだよ。俺はその為にニューヨークまできたというのに。

 たしかに俺が原因だってわかってはいる。でも、一緒に暮らしだしてお互いのみっともない

ところも知っていったのだから、一番肝心の病状だって共有したいじゃないですか。

 だから俺は麻理さんの些細な変化さえも逃すまいとその声に意識を集中させていった。


春希「本当でしょうね?」

麻理「本当よ。病気に関しては嘘はつかないわ」


 でも、本当の事を言ってくれない時もありますよね。


春希「でも、いくら体調が戻ってきたとしても、最近調子悪いじゃないですか」

麻理「体調を一度崩して、それを挽回しようとしてバランスを崩したのが悪かったのかも

  しれないわね。無理をしたつもりはないけど、それでもいつものバランスではないと体が

  無理をしてしまうのでしょうね」

春希「そうかもしれませんね。だから今日はもう家に戻って休んでください」

麻理「わかってるわ。今日は元々取材後はそのまま帰宅してもいいようにはしてあったし」

春希「そうだったんですか?」

麻理「本当は一度編集部に戻って北原とスーパーに寄ってから帰ろうと思ってはいたのよね。

  でも仕方ないわね」

春希「じゃあ一緒に帰りますか?」

麻理「え? こっちに来てるのかしら?」


 まあ映画とか小説だったら、ここでヒロインの前に現れるんだろうけど、

あいにくここには北原春希しかしないんですよね。


春希「いえ、まだ編集部ですけど、俺に割り振られていた分が終わってますから」


 ほんとうは麻理さんが無理をしないように編集部に戻ってきた麻理さんを家に連れ帰る為だ

とは言えませんけどね。ただ、そんな小細工さえも俺をよく見ている麻理さんが気がついて

しまうんだろうな。

 でもね、麻理さん。麻理さんが俺を見ているように、俺も麻理さんを見ているんですよ。

 だから、俺の事を思うのならば、無理はしないでくださいよ。

724: 2015/06/29(月) 17:29:33.64
麻理「そうなの? だったらみんなには悪いけど、今日の残業はなしにしましょうか」

春希「残業することが当たり前というのはどうかとは思いますけど」

麻理「いつも頑張っているわけだし、今日くらいいいじゃない。

  疲れをしっかりとるのも仕事のうちよ」

春希「日本にいた時の麻理さんに言ってやりたい台詞ですね」

麻理「どういうことかしら?」


 やや声色が低くなったのは故障だよな。ほら、バッテリー残量もだいぶ減ってきているし。


春希「いえ、まあ、そのですね。はい、すみませんでした」

麻理「いいのよ別に。実際私は仕事の疲れを仕事で癒していたんだし。でもね北原。

  私は仕事に追われていたわけではないのよ。好きでやっていたのだし」

春希「わかってますよ。私生活を全て捧げてまで仕事に取り組んでいた麻理さんのことを

  近くで見ていましたからね」

麻理「あら? なんだかそれだと私生活が破滅的だと聞こえるんだけど」

春希「事実そうじゃないですか」

麻理「……そ、そうだけど、でも……北原にだけは言われたくないわね」


 コロコロと変わるその声色に、俺は安堵感を抱いていく。

 最初電話がかかったときは心底つらそうであった。それが今はやや拗ねているけれど、

明るくなっている事に俺は救いを感じられた。


春希「たしかに俺も似たような生活していますからお互い様ですね」

麻理「そうね」

春希「では、なるべく急いで行きますので、いつものスーパーの前で待ち合わせでいいですか?」

麻理「ええ、それで構わないわ」

春希「それではまたあとで」

麻理「私のことなんて気にしないでしっかり仕事をしてくるのよ」

春希「わかってますよ」

麻理「なら、よし」


 俺は麻理さんが電話を切るのを確認すると、帰宅する準備に取り掛かる。

でも、一応終わってはいるけど最後の見直しくらいはしておくか。

 これでミスなんてあったら明日麻理さんに何を言われるかわかったものじゃあない。

 ……そうじゃないか。麻理さんに気を使われてしまうのが怖いだな。今でも俺に負い目を

感じている麻理さんに、さらなるプレッシャーなんてかけさえるわけにはいかない。

だから俺は麻理さんの要求以上の結果を出さないといけないんだ。



 ほどなくして仕事を終えた俺は早足で編集部を出ていこうとする。

 しかし、ビルを出ようとした時同僚が俺を呼ぶ声に俺は脚を止めた。


編集部員「ねえ北原。風岡さん知らない? ここのところを聞きたいんだけど」

春希「風岡ですか? 今外に出ていて、そのまま帰るそうですよ」

編集部「明日の取材の事なんだけど、ちょっとわからないところがあるんだよね」

春希「……ああ、それですね。自分が風岡から任されているやつですから自分でもわかると

  思いますよ」

725: 2015/06/29(月) 17:30:12.15

編集部員「そう? だったら北原に聞こうかしら」

春希「でもその資料は編集部にはありませんから、直接行ったほうが早いですよ。

  幸いすぐそばですし、今から行って資料を貰って来ましょうか?」

編集部「悪い。じゃあさっそく行こうか」

春希「ええ」


 少し時間がかかりそうだけど、このくらいなら問題ないかな。

 ……と、甘い見積もりが失敗だった。今手にしている資料は昨年の物で、

どうやら今年の資料ではないと問題が発生するらしい。

 これがデータを読みだせば済むだけの話なら簡単だったのに、

その資料がまとめられていないのが最大の誤算だ。

 だから俺が追加の仕事を終えて駆け足で出たのは、麻理さんの電話を切ってから

3時間ほどたってからであった。

 俺は全速力で駅に走り込む。途中通行人にぶつかりそうになった事数回。駅の改札口で

駅員に止められそうになった事一回。……まあ、犯罪に巻き込まれているわけではないので、

実際には止められなかったけど。

 とりあえず遅れている事を麻理さんにメールしておかないとな。これだったら出る前に

連絡しておくんだった。いや、本来なら追加の仕事が来た時に連絡すべきだったのに、

麻理さんとの会話に浮かれて連絡を忘れてしまったのは俺のミスだ。

 いつもの俺だったらしなくてもいいほど過保護に連絡を取り合うのに、

今日に限っては麻理さんの復調に安堵しきっていた。

悪い時は悪い事が重なるわけで、俺の携帯のバッテリーは底をつき、画面さえつかないでいた。

 ほんと社会人失格だな。いつでも連絡をとれるようにしておくのが社会人の基本なのに、

どうして俺は肝心な所で大きなミスをするんだよ。

 そうだっ。公衆電話があったな。

 虚しいひらめきに俺は公衆電話を探し始める。まだ電車はこないようだし、

ちょっと電話をするくらいの時間ならあるはずだ。

 それに、ここは公共の駅だ。今は携帯電話が公衆電話の役割を根こそぎ奪い取った社会で

あっても、公衆電話の必要性は消滅してはいない。 

 しかし、期待の公衆電話を見つけた瞬間俺は現実を突き付けられる。

 どうやって電話すればいいんだよ。麻理さんのアドレスは携帯のメモリーにしかない

じゃないか。くそっ。せめて肝心のアドレスさえ覚えていれば。俺が覚えているアドレス

なんて二つしかない。自分のアドレスと、それと、ウィーンにいるであろう電話をかける事も

ないあいつのアドレス。

 何度も電話しようとして踏みとどまるうちに、画面に表示されるナンバーを俺は

覚えてしまった。その印象は自分のアドレス以上に鮮明なほどだ。

 だから俺は期待の公衆電話の前で電車を待つしかやることが見つからなかった。

 そして、電車がホームに滑り込んできて電車に乗っても、俺の不安は解消される事は

なかった。いくら自分の足で走るより早く目的地につくはずの電車であろうと、

俺は自分の力ではこれ以上早く進む事が出来ないことに馬鹿な憤りを感じてしまう。

 今自分ができることなんてなにもないって突き付けられるようで、俺は自分の無力さを

感じずにはいられなかった。


726: 2015/06/29(月) 17:30:42.79




 駅の改札口を今回も駅員に止められることなく通過し、

息を乱しながら俺は約束の場所へと駆け進む。

 普段運動しない事がこんなところで露呈するなんて。

これだったら気分転換と体力向上のために麻理さんとスポーツジムにでも通うか。

 なんて、酸欠状態の俺は今考える必要がない事ばかり考えてしまう。

 つまり、俺の本能が考える事を拒絶しているようだ。

 俺の今一番考えるべき事。

 そして今一番知りたくない事実。

 それは、連絡も一切せずに3時間以上も待たせている麻理さんが、

今どんな気持ちで待っているかってことだ。


春希「麻理さんっ」


 俺に背をむけたたずむその姿は、後ろ姿であっても間違えることなんてありはしない。

毎日のように眺めてきたその後ろ姿を俺が見間違えることなんてないのだから。

 しかし俺の声は届いていないようで、振り返るどころか反応さえ見せてはくれなかった。


春希「麻理さんっ。遅れてすみません」


 もう一度走りつかれてわずかしか残っていない肺の空気を力の限り吐き出す。

 すると、今度こそ俺の声が届いてくれたようで、麻理さんの肩が揺れ、

そしてゆっくりと俺の方へと振りかえってくれた。


春希「はぁはぁ、あぁっ、はあ……」


 ようやくたどり着いた。

 俺の方へと振りかえってくれるその横顔で麻理さんである事を確認した俺は、

重くなった両足に最後の激を叩きこんで走りきる。

 たどり着いたのはよかったのだが、いかんせ運動不足であったことがたたり、

俺の限り少ない体力はここで底をついた。


春希「す、すみません。……はぁっ、はぁ。連絡入れなくて、……すみません。はぁ……。

  何があるかわかりませんから、……はぁ……運動しておかないといけませんね」


 大学にはいってますます運動しなくなった俺の体力は、軽音楽同好会たる運動とは無縁の

活動をしていたときよりも低下しており、なかなか息が整わない。

 それでも麻理さんに伝えたい言葉が溢れ出て、

息が続くわけもないのにしゃべろうとして失敗を繰り返した。


春希「はぁ、はぁぁ~……。もう少しだけ待ってください。もうちょっとで息が整いますから」


 ようやく息が整ってきた俺は、脳の方にもどうにか酸素を供給できるようになったわけで、

今さらながら事の異常さに気が付いてくる。

 麻理、さん?

 そう、異常だった。何が異常か。そんなの簡単だ。

 目の前にいるはずの麻理さんが、一言も言葉を発していない。

727: 2015/06/29(月) 17:31:18.27

たしかに麻理さんは目の前にいる。頭を下げて息を整えていた為に顔は見えてはいないが、

麻理さんの靴なら確認できる。この革靴は麻理さんのものだ。

 今はいている革靴は今朝も玄関にあったのだから見間違えるはずもないし、この細く引き締

まった脚を包み込んでいる黒いストッキングもあわされば、俺が見間違えるはずはなかった。


春希「麻理さん?」


 俺は答え合わせをするべく、ゆっくりと顔をあげていく。

 その顔をあげるスピードがぎこちなく動いていくのは、おそらく俺が答えを知りたくは

なかったからかもしれない。だって、俺が知っている麻理さんなら、怒りはしないだろうが、

注意と走ってきた事をねぎらう言葉をくれたいるはずだ。

それなのに今俺の前にいる麻理さんであろう人物は、俺に一言も声をかけてはくれなかった。


春希「麻理……さ、ん。麻理さんっ、麻理さん」


 俺の声と顔を確認したはずの麻理さんは、俺がいる事を非常に遅い速度で認識していく。

 青ざめていた顔色はほんの少しだけ熱を取り戻す。けれど、宙をさまよっていたその瞳は、

生気を取り戻した瞬間にその役割を思いだしたようで、

機能停止していた分も合わせて涙を大量に流しだした。


春希「連絡を忘れていてすみませんでした。……麻理さん? 麻理さんっ」

麻理「ぁ……あ、ぁっ」

春希「遅れてすみません」

麻理「…………北原っ!」


 俺の心を突き抜けたその声は、脳が認識するよりも早く俺の体が麻理さんの体を認識する。

 体当たりにも近い勢いで俺を抱きしめてくるその力に、

俺はようやく麻理さんの元にたどり着いたと実感した。


春希「帰る直前に新たな仕事が入ってきたのはいいのですが、思っていたより時間がかかって

  しまい、麻理さんに連絡するのさえ忘れていました。ほんと、ごめんなさい」

麻理「北原」

春希「しかも、連絡をしていないことに気がついて電話しようにも携帯のバッテリーが切れて

  いました。社会人失格ですね」

麻理「北原」

春希「さらに酷い事に、公衆電話で電話しようにも、麻理さんのアドレスがわからなかった

  んです。あと、今になって気がついたのですが、麻理さんの名刺、俺、もらったことない

  ですよね。今度貰ってもいいですか? そうすれば携帯のバッテリーが切れていても

  連絡できるじゃないですか」

麻理「は……ぅき」

春希「でも、やっぱなにが起こるかわからないですから、あとで携帯充電したら麻理さんの

  アドレス暗記しますね。そうすればいつでも公衆電話で電話できるじゃないですか」

麻理「はるきぃ」


 さっきから麻理さんは俺の言葉を聞いても俺の名前しか返してはくれない。でも、俺の胸に

こすりつけてくるその頬から、俺の言葉を理解しているってことだけは汲み取れた。

728: 2015/06/29(月) 17:31:51.94

 麻理さんが示してくれる反応は、俺の名前を呼ぶ声、胸にすがりついてくる事、そして、

すすり泣く声、だった。この三つの情報から麻理さんの状態を汲み取るなんて高等技術も

恋愛経験もない俺は、効果が見込めなくても喋り続ける事しかできなかった。


春希「ほんと社会人失格ですね。いつでも連絡をとれるようにしておかないといけないのに。

  いや、その前に連絡を忘れたほうがもっと酷いですね。……、麻理さん?」


 喋るに夢中になっていた俺は、いつの間にかに胸に頬をこすりつけているのをやめ、

顔をあげて俺の顔を見つめている事に気がつくのが遅れてしまう。

 俺を縛りつける弱々しい瞳は、俺の瞳を捉えて離さない。俺の方も吸い寄せられるように

目をそらす事が出来なかった。


春希「ま、り……あっ」


 それは一瞬だった。

避けることなどできなかったし、もしわかっていたとしても、避けていたかも疑わしかった。

 つまりは、俺は受け入れてしまったのだろう。

ついに、受け入れてしまった。受け入れたかった。

 否定などしたくなかった。肯定したかった。

 誰もが否定するであろう俺達を、肯定したかった。

 ……俺と、そして麻理さんが、必ず否定しなくてはならなくなる関係を

、一瞬だけでも肯定したかった。

 刹那的衝動と冷酷な理性が俺達を現世に押しとどめる。これは間違っている。

けれど、今は正しいと思いたい関係に、俺は麻理さんの小さな頭と細い腰を引き寄せて、

その唇にこたえた。


麻理「あっ、はる、き。……んぅ、だ、め」


 俺の目にうつる瞳に理性が戻り始める。見開いたその瞳は、自分が何をして、

俺に何を求めたかを瞬時に理解していく。

 きっと、今になって麻理さんのほうからキスをしてきたことに気がついたのだろう。

 でも、そのキスにこたえて抱きしめて、さらなるキスを求めたのは俺の方で、現に逃げよう

としている麻理さんを強く抱きしめて逃げられないようにしているのは俺の方だった。

 荒々しく麻理さんを求めてしまった為に麻理さんの髪止めがこぼれ落ち、艶やかな黒髪が

流れ落ちる。俺はその黒髪をすくうように指に絡ませ、さらに体を密着させていった。


麻理「ん、んん。……だ、……ま、だって。あっ」


 言葉はいらないというか、なにも浮かばなかった。熱にやられた俺には思考などありは

しない。ただ、本能だけが唇をむさばり、その優美な体を記憶していく。

 麻理さんも本能に観念してたのか、もう逃げようとはしなかった。

そして、俺の事を受け入れてくれた証として、俺の背中にまわされている腕に力が込められた。





第52話 終劇

第53に続く

729: 2015/06/29(月) 17:32:18.68

第52話 あとがき


ええ、まあ、その……かずさ編スタートしてます。

ニューヨーク編ともいいますけど……。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派


732: 2015/07/06(月) 17:28:05.00

第53話



 気がつけばあたりはすっかり暗くなっており、麻理さん一人を外に待たせていた事に

今さらながら不安を覚える。そもそも俺が来た時には夜だったわけで、

改めて自分が時間を忘れていた事に気がつく。

 せめてもの救いだったのは、比較的治安がいい地域でする事と、人通りが絶えない場所で

あることくらいか。これが日本だったら治安なんて気にもしないが、

良くも悪くも自分がすっかりニューヨークになじんでいると感じられた。


 麻理「北原……」


 俺の腕の中でもぞもぞ動く頭がひょこりと顔をあげ俺を見つめてくる。

 麻理さんとどのくらいの間キスしたかわからない。胸の中に押し込んでいたお互いの感情を

全て吐き出してもなお収まらない衝動は、再度俺から時間の概念を消し去ってしまっていた。

 とはいうものの、麻理さんの腰にまわしている左腕をほんのちょこっとあげて腕時計を

確認すればだいたいの時間がわかるんだけど。……なんて、わざとらしく理屈ばかり考えて、

俺は感情を押しとどめようとやっきであった。

 そうしないと、麻理さんの気持ちを無視して再度キスしてしまいそうであった。


麻理「きたは…………春希?」

春希「あっ、ええと、はい。聞いていますよ。……その、なんでしょうか? じゃないですよね」

麻理「もう……、さっきまでのぐいぐい私を引っ張っていく力強い春希はどこにいったの

  かしら? そんなにうろたえられちゃうと、

  年下の男に無理やり迫っている結婚に焦った年増女の気分になっちゃうじゃない」

春希「…………」

麻理「ごめんなさい。調子に乗りすぎたわ」


 麻理さんは俺の沈黙をネガティブに解釈してしまう。麻理さんの性格から考えても、

自分を責めるに決まっているはずのなのに、俺は言葉を選んでしまった。

 麻理さんを傷つけない為に言葉を選んでいたのに、その沈黙が逆効果を生んでしまう。

 わずかな間だけれど、その数秒間が麻理さんは拒絶と考えてしまう。

 勢いでキスしたなんて言いたくはない。もちろんその場の雰囲気にのまれて、勢いでしていた

部分もあることは事実だ。でも、そんなありふれた言葉を俺達を評価したくはなかった。

 麻理さんの気持ちを、これからの二人の関係を大切にしたかった。


春希「違いますっ。違いますから。麻理さんの事をそんなふうに思ったことなんて一度も

  ありませんから。いつも年の事を気にしていますけど、

  むしろ俺の方がプレッシャーに思っているほどなんですよ」

麻理「どうしてよ? 気休めならやめて欲しいわ。だって……」


 若くて、健気で、夢に向かって頑張っていて、

ちょっと棘があるけど一途なあいつと比べてしまうからですか?


春希「麻理さんは自分の魅力を知るべきです」

麻理「え?」


733: 2015/07/06(月) 17:29:00.90


春希「仕事をしているときの麻理さんを尊敬している人は多いと思います。俺もその一人

  ですし。でも、麻理さんの容姿も、そして内面さえも魅力に思っている人はいるんですよ。

  そもそも仕事の時の頼もしさはプライベートにも通ずるところもありますよ。仕事では

  かっこいい麻理さんんが、凛々しい顔をしている麻理さんが、家ではちょっとずれている

  ところがあったり、仕事中に見せる頑張りで家事をチャレンジしたり、……あとは、

  綺麗すぎるんですよ。わかっていますか。外で仕事のとき、麻理さんを食事に誘おうと

  している男連中がたくさんいるの知っていますか?」

麻理「春希? ……でも、私、誘われたことないけど?」

春希「そりゃそうですよ。麻理さんは仕事しか見ていませんからね。食事に誘う隙さえありませんよ」

麻理「だったら可愛げのない女だと思われるんじゃ?」

春希「そう思ってしまう人もいるでしょうけど、実際は違うじゃないですか」


 なんで腹が立っているんだよ俺? なに力説しているんだ?

 あっ……。

 麻理さんは恥ずかしそうに視線を視線をちょっとだけそらすと、

照れくさそうに恥じる顔を隠すべく再び俺の胸に埋めてくる。


麻理「うん、わかったわ」

春希「……はい」

麻理「これからも食事に誘われないように仕事頑張るわ」

春希「えっと……はい、よろしくお願いします。それとさっき、すぐに言葉がでなかったことでうけど」

麻理「うん……」

春希「麻理さんを拒絶なんてしませんし、むしろ俺の方が調子に乗っていた気もしますし。

  えっと、すみません。言葉を慎重に選んでいたら何も言えなくなりました。

  けど、これだけははっきりしています。後悔していません。いや、違うな。

  麻理さんとキスしたかったんです」

麻理「それって……。浮気したかったってこと?」

春希「あっ……」


 麻理さんの指摘は間違ってはいない。

俺がかずさを必ず選ぶ以上、麻理さんとの関係は必然的に浮気となってしまう。


麻理「いいのよ。ほんの少しの間だけでも愛してくれればいいの。私が春希の側にいなくても

  生きていけるまでの、ほんのちょっとの間だけ。それだけでいいから。……ね?」


顎をあげ、肩にかかる黒髪が揺れ動く。ゆらゆらと揺れ動いていたその瞳は、俺の瞳を覗きこむ

頃には迷いが消えていた。物悲しそうにほほ笑む唇は、けっして本心を語ろうとはしなかった。

だって、俺の腰にまわされている両手は、震えながらも必氏に俺にしがみついているのだから。
 

春希「麻理さん聞いてください」


 俺は腰にまわされていた麻理さんの両手を胸の前に持ってくると、両手で包み込むように

暖める。俺の強引な行為に最初こそ戸惑いを見せていたが、俺の体温を感じ取ると、手の震えが

消えていく。それと同時に、俺の方も言葉にできなかった言葉を告げる決意を抱いた。



734: 2015/07/06(月) 17:29:45.83

春希「これから調子がいい事を言うと思います。きっと呆れられると思いますし、

  かずさにも、麻理さんにも不誠実だと思います」

麻理「冬馬さんにも?」

春希「俺はかずさが好きです。できることなら結婚して、かずさのサポートもしていきたい」

麻理「そうね……」


 下を向かないでください。俺の身勝手な希望だけど……、それでも。


春希「でも、麻理さんにも幸せになってもらいたい。都合がいい事をいいますけど、できる事

  なら俺が幸せにしてあげたい。なんて、バイトでちょっと仕事を覚えた新人が何を

  言ってるんだって言われそうですけど、それでも麻理さんの幸せを考えたいんです」

麻理「身勝手な人ね」


 否定の言葉のはずなのに、俺は喜びを感じてしまう。

 だって、麻理さんが上を向いてくれている。

 だって、俺を見つめてくれている。


春希「はい、身勝手です」

麻理「でも、少し考えさせて……」


 幻でも見ていたのだろうか。

俺を見つめていてくれた瞳はふせられ、今はその顔さえも髪留めを失った黒髪によって覆われていた。

だけど、手から伝わってくる麻理さんの体温だけが幻ではなかったと、語りかけてくれていた。







麻理「春希…………、ごめんなさい。私の看病なんてしなくていいから編集部に行きなさい」

春希「何を言ってるんですか。編集部のみんなも麻理さんが頑張りすぎだってわかっているん

  ですよ。俺も最初麻理さんから仕事の量を減らしてしっかり休んでいるって聞いたときは

  驚きましたよ。体調の事もありますから、周りに迷惑をかけないように仕事をセーブして

  いるんだって思いました。でも、実際には違いましたよね。俺がニューヨークで

  働くようになったらばれるって気がつかなかったんですか」

麻理「でも、ちゃんと土日は休んでいるじゃない。……土曜日は自宅で仕事をしているけど」

春希「しかも、編集部での仕事は日本以上に濃密になっていますよね?」

麻理「それは、仕事のスキルが上がったと思ってくれれば、いいかなぁ……」

春希「だったら目をそらさないで言って下さい」

麻理「ごめんなさい」

春希「ったく……」

麻理「うぅ……」


 俺と麻理さんのある意味微笑ましいやり取りが行われいているのは、本来なら編集部で

がつがつと仕事にとりかかっているべき昼下がり。一部の編集部員は昼食後の眠気がピークに

なるこの時間。俺達は編集部という戦場を離れ、自宅マンションの、

しかも麻理さんの寝室で微笑ましすぎるやり取りを、何度となく繰り返していた。


春希「俺は編集部員全員の委託を受けて麻理さんの看病をしているんです」

735: 2015/07/06(月) 17:30:31.57

麻理「それはわかっているのよ。ありがたいことだわ。

  でも、私だけでなく春希までも急に抜けたら、仕事に支障が出るじゃない」

春希「それも大丈夫ですよ。短い期間だけですけど、麻理さんが鍛えてきた編集部員ですよ。

  信頼してあげて下さい」

麻理「そうよね。そっか……」

春希「今はしっかりと体調を回復させる事が一番大事です」

麻理「うぅ……わかったわ。春希がいじめるぅ。見た目どおりねちっこくて意地悪だよね、春希って」

春希「麻理さんの為ですから。そして俺を安心させると思って我慢してください」

麻理「やっぱり卑怯よ。もう……」


 もう降参とばかりに熱っぽい顔を布団で隠す。

 まあ、俺のせいで熱が上がったんだろうけど。

 今日麻理さんの体調が悪いのは、昨日の事が原因だということは明白だった。

 キスそのものが問題ではない。その過程が大問題だった。

 小さな一歩を積み重ねてきた俺と麻理さんではあったが、その積み重ねが俺のミスで全て

消え去ってしまった。麻理さんがひた隠しにしてきた渇望を俺が暴いてしまった。

 わかってはいた。俺も武也がいうほど鈍感でもないし、麻理さんと一緒に暮らしてきたんだ。

だからこそ麻理さんの想いを痛いほど理解できてしまう。

 今朝いつもよりも早く起きて活動していた麻理さんは、きっと寝てはいなかったのだろう。

昨日のお詫びだといって作ってくれた朝食も、麻理さんは一口も手をつけることができないでいた。

最初の一口こそ頑張ろうとはしていたが、心が食事を拒絶してしまう。二回目のチャレンジ

では、スプーンを持ちあげる事さえできないでいた。そんな状態の麻理さんを前に、

俺は今さらながら無力感のみならず、自分の存在そのものを呪ってしまった。

 俺がいなければ。俺がいなければ麻理さんはこうはならなかった。でも俺は、

麻理さんから離れることができない。麻理さんも俺を求めてくれている。

 でも、俺も麻理さんも、矛盾する願いを永遠に求め彷徨うことしかできないでいた。

 ……これは麻理さんには言えない事だが、朝食の出来は最悪であった。

味がわからなくってしまった麻理さんは、何度ともなく味付けを調整し、

その結果塩分過多と表現するにはおぞましいほどの味の濃さになってしまった。

 もちろん味覚が薄い事の対策として、調味料の量はきっちりと決められていた。

しかし、そのレシピさえも忘れてしまうほど、麻理さんは正常ではなかった。

 俺のポーカーフェイスがどこまで通じるかなんてわからない。一口食べる前から予想して

いたからこそ隠しとおせたのか、それとも麻理さんが黙っていただけなのか。

 結局今現在まで真実を聞く事が出来ないでいた。

でも、今となっては、昨日からの失敗を含め、俺の目の前に一瞬で積み上がってしまった後悔

が俺に重くのしかかっている。もうどれがどの行為からの失敗かだなんてわからない。

 本来なら今後の為にも検証して修正すべきなのに、今俺にできることといえば、

麻理さんの側にいる。ただそれしかできないでいた。










736: 2015/07/06(月) 17:31:23.86

 麻理さんが編集部を休んだ翌日。

 いくら麻理さんの体調が戻らないからといって俺が看病する事は許されなかった。

俺がインターン扱いであっても編集部の貴重な戦力として認められたのは嬉しい。

 しかし今は麻理さんの事が心配で、俺としては今日も看病のために編集部を休みたかった。


麻理「駄目よ。甘えないの。これが社会人なのよ。親しい人が病気であっても簡単には休めない

  のよ。あなたは大学生であっても、今は開桜社の編集部員なの。だから編集部に

  行きなさい。……大丈夫よ。そんな目で見ないでよ。引き止めちゃうじゃない」

春希「すみません」

麻理「もお……、というか、私も甘いわよね。北原の顔を見ていたら、

  私の決意なんて吹き飛びそうになってしまうのだもの」

春希「だったら甘えてください。我儘を言って下さい。我儘を通した分、明日から挽回しますから」

麻理「駄目よ。仕事は待ってはくれないわ。一度失った信頼は取り戻せない事もあるのよ?」

春希「すみません。……編集部に行きます」

麻理「よろしい」


 そんな笑顔を見せないでくださいよ。俺が必要じゃないって思えてしまいます……。


春希「……でも、出来る限り早く帰ってきますから。もちろん仕事はしっかりしてきます。

  自分の仕事は手を抜きませんから、それならいいですよね」

麻理「はぁ……。仕方がないわね。自分の仕事だけでなく、編集部の一員としての仕事を

  しっかりとしてくるのであれば早く帰って来てもいいわ」


 嬉しそうに言わないでくださいよ。

 時間ぎりぎりまで麻理さんと一緒に痛いという気持ちとの板挟みになってしまいますけど、

今すぐにでも編集部に行って仕事をしたくなるじゃないですか。


春希「はい、出来る限り早く帰ってきます」

麻理「もう……、本当にわかっているの?」

春希「たぶん?」

麻理「いいわ、頑張って来てなさい」

春希「はい」






 夜。いつもの俺としては早すぎる帰宅時間。一方で、俺の予定としては遅すぎる帰宅時間。

 呼び鈴を鳴らし、玄関の扉を開けると、そこには麻理さんが出迎えてくれていた。

たしかにマンションの入り口で呼び鈴を鳴らしてから部屋までかかる時間はそれなりには

あるけれど、何時間もそこで待っているような態度はいきすぎていません?


春希「……ただいま帰りました」

麻理「遅い」


 俺に文句を言いつつも鞄を受け取る姿にときめくのは、やはり男の本能なのだろう。

 また、鞄を胸に抱いてぱたぱたとリビングに戻っていく後ろ姿を見ては、

もう一つの本能を抑えるのにやっとだった。

737: 2015/07/06(月) 17:32:11.86

 まあ、後ろから抱きしめても怒りはしないだろうけど。


春希「すみません。でも、エレベーターに時間がかかったわけでもありませんし、

  下からこの部屋までにかかる時間はこのくらいではないですかね」

麻理「早く帰ってくるって言ってたじゃない」

春希「え?」

麻理「だから北原は、仕事をしっかりやって、そしてなおかつ早く帰宅するって宣言してたじゃない」

春希「あっ……。でも、いつもよりだいぶ早いですよね?」


 いつもみたいに深夜ってわけでもなく、今は午後7時くらいのはずだし。

 俺が早く帰宅するのを見て、編集部の先輩方は驚きを見せたほどだ。でも、麻理さんの体調が

すぐれない事を思い出すと、残っていた仕事を引き受けて……はくれなかった。

一応俺に押し付けようとしていた仕事だけはひっこめてくれたけど。

 ……ほんと、ありがたい先輩方だよ。日本でもニューヨークでも編集部の雰囲気って

変わらないものなんだよな。
 

麻理「そうかしら? 朝の北原の言いようでは定時に帰ってくる勢いだったじゃない。

  私が何も言わなければ早退する勢いだったわよ」

春希「たしかに……。でも、麻理さんは仕事は手を抜くなって」

麻理「……ごめんなさい。私の我儘だったわ。本当にごめんさない」


 もうっ。そんなに悲しそうな顔をしないでくださいよ。そんな表情をするものだから、

さっき我慢した本能が再び顔をあげちゃったじゃないですか。

本能に負けた俺は麻理さんの懺悔を覆い尽くそうと、小さく震える体を抱きしめようとする。

 しかし……。


麻理「鞄はここにおいておくわね。ジャケット、脱いだ方がいいんじゃない? かけておくわ」


 いかにも自然に、いかにもわざとらしく、俺を避ける。


春希「はい。ありがとうございます」

麻理「いいのよ」

春希「……あの、麻理さん」

麻理「ん?」


 振り返らずにジャケットをかける姿にかまわず俺は言葉を続ける。


春希「これを……」

麻理「ちょっと待ってね。これかけちゃうから」


 おかしすぎる。だって、俺を見てくれない。


麻理「それで、なに?」

春希「これを……。一昨日落としてなくしてしまったから」

麻理「髪留め?」

春希「はい。似合うといいのですが」

麻理「春希が選んでくれたの?」


738: 2015/07/06(月) 17:32:48.21

春希「はい。何がいいのかわからなくて、時間がかかってしまいましたけど」

麻理「ばか。…………じゃない」

春希「え?」

麻理「春希が選んで選んでくれたのだったら、なんだって嬉しいって言ったのよ。それに、

  私の趣味のを選んでくれているわよね。よく観察しているわ」

春希「一緒に暮らしていますからね」

麻理「なるほど。一緒に暮していればいやでも趣味もわかるってところかしらね」

春希「嫌じゃないですよ。好きでやっている事ですから」

麻理「……そっかぁ」

春希「でも、気にいってくれてなによりです」


 食事を準備するときも、食事をしているときでさえ窓に映る髪留めを確認する麻理さんに、

俺も麻理さんも笑みを絶やさなかった。

 この笑顔がいつまでも続けばいいと願ったのは、俺だけではなかったはずだ。







10月上旬



 10月に入り秋風が頬を撫でる頃になると、9月の失敗もどうにか落ち着きを見せるように

なっていた。

 長年日本での残暑を経験してきた俺にとって初めてのニューヨークでの秋。季節の変わり目を

実感できたのは、ようやく安定した日常を取り戻し、気持ちの余裕を持ち始めた頃であった。

 先日の休暇は二人して秋服を買いに出かけ、遅ればせながら街の装いがすっかり秋であること

を実感する。

 雑誌の編集部ともなれば季節に敏感と思われがちだが、これは間違いである。

おおよそ日常生活には季節感が乏しいエアコンの中での生活を余儀なくされ、

……いや、これはどの職種でも同じか。

 季節感というよりは今が昼か夜かの境がないってことのほうが問題化。

ある意味ブラックすぎる職場環境に慣れてしまったことで、定時で終わる仕事に物足りなく

なってしまうとさえ不安になってしまう。

 これはもやは麻理さんを笑えない。自分も立派なワーカーホリックの一員だ。……まあ、

日本にいる元同僚たちは日本にいる頃からすでに残酷なワーカーホリックだと笑うだろうが。

 なんて、日本の事を思い出す余裕が出きた事はいい傾向ともいえる。

 そう自分でも分析できるほど、穏やかな日々を過ごしていた。


麻理「北原」

春希「はい、もう少し待ってください。あと、10分。いえ5分で仕上げますから」


 俺の日常が穏やかに進もうとも、編集部は相変わらず忙しく、それが心地よかった。今日も

麻理さんにわりふられた仕事に充実感を覚え、自分がまだ大学生である事さえ忘れてしまう。


麻理「それは後回しいでいい。いや、あとは私がチェックしておくから、そのまま渡して」

春希「ええ、麻理さんがそういうなら……」

739: 2015/07/06(月) 17:33:39.66

 この原稿って急ぎだっけ? いや、そもそも急ぎだったら優先度をあげてあったはずだし、

それともなにかあるのだろうか?

 俺は麻理さんの指示に疑問を抱かずにはいられなかった。

でも、次の指示があれば理由がわかるってものかな。


麻理「これだったらすぐに終わるわ。よくできている」

春希「ありがとうございます。では、このまま次のやつにとりかかればいいのですか?」

麻理「いや、このあと取材の打ち合わせがあるから、北原も同席してほしい」

春希「俺がですか?」


別に珍しい指示ではない。俺も取材に同行する事もあるし、今回みたいに打ち合わせに同席する

事もある。むしろ、取材に同行するよりも、編集部での打ち合わせでの同席の方が多い方だ。

 しかし、今回みたいに打ち合わせ直前に、

しかも今やっている仕事を打ち切ってまで同席する事は初めてだった。


麻理「ええ、考えたのだけれど、やはり北原も同席したほうがいいと思って」

春希「それはかまいませんが」

麻理「よろしく頼むわね」

春希「はい」


 予兆はあった。

 一カ月も前から予兆はあった。

しかも俺の目の前で、俺がこの上なく無力感を感じた日に、麻理さんは俺に伝えようとしていた。

この取材の打ち合わせがどういう意味なのか。一カ月前、なぜ麻理さんが不安に思っていたのか。

 この時の俺は、そして一カ月前の俺も、わかっていなかった。





第53話 終劇

第54に続く







第53話 あとがき



プロット自体は遠い昔に書いてあったわけで、

いま読み返すと変更する部分もけっこう多くなるんですよね。

プロットそのものをよく観察すると、

あっ、こいつ。終盤で力尽きているなと、笑えない現実があるわけで。

とにかく再度気合を入れ直してゴールに向かって行く所存です。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



742: 2015/07/13(月) 17:23:55.81

第54話




 打ち合わせのために会議室に行くと、中から懐かしい言語が聞こえてくる。

 どうやら先に取材相手が待っているらしい。しかも、日本人が。


麻理「お待たせしてすみませんでした」

曜子「いいんですよ。こちらが早く来すぎたせいですから」

麻理「そうですか?」

曜子「この子ったらあいかわらずの取材嫌いで、

   時間に余裕を持って行動しないといつも遅刻するんですよ」

麻理「いえ、時間に余裕を持つ事は悪い事ではないですよ。冬馬さん」


 麻理さんが冬馬さんと言った人物は、冬馬曜子。つまりかずさの母親だった。

 曜子さんも俺が会議室に入った瞬間こそ目を細めはしたが、そこは冬馬曜子であり、

自分の仕事を優先させる。そして麻理さんも、開桜社の人間としての仕事を遂行していた。

会議室にいる四人のうち、今起こっている事態に対応できないでいるのは残りの二人であった。

俺と、そして冬馬曜子の娘にして取材対象の冬馬かずさであり、

なおかつ俺にとってなによりも大切な人。


かずさ「母さんっ! これはどういうことだっ。説明してくれ。あたしを驚かせたかったのか?

    それともコンクールで無様な結果を晒せたかったのか?」


 かずさは叫ぶ。

 それこそ曜子さんに掴みかかる勢いで。……実際には曜子さんに掴みかかったわけだが、

俺の視線を感じ取ってか、すぐに手を離していた。

 かずさは俺と同じように何も聞かされていなかったのだろう。

また、曜子さんも知らなかったようだ。

 知っていたのは、おそらく麻理さんただ一人のみ。

曜子さんが知っていたのならば、俺を見た瞬間にほんのわずかすら驚きをみせるはずがなかった。


曜子「少し落ち着きなさい、かずさ。私も春希君がいるなんて、今まで知らなかったわ。

   あなたと同じように、この部屋に春希君が来て知ったばかりだもの」

かずさ「ほんとうに?」

曜子「ほんとうよ。今あなたが言ったじゃない。何も準備もなしにコンクール前のあなたに

   春希君を会わせてなんのメリットがあるのよ。むしろあなたが言うように、

   コンクールに悪い影響を与えるわ。だってねぇ、今のあなたの状態だと、

   春希くんへの想いに演奏がひっぱられてしまうでしょうし」

かずさ「当然だ。あたしがどんだけ春希に会いたい気持ちを我慢してきたと思ってるんだ」

曜子「そうよねぇ。これがコンサートだったら、今の感情をだだ漏れにした演奏であっても

   あなたの感情にひっぱられて号泣する観客も出てくるでしょうけどね。でも、

   困ったことに今目の前にせまっているのはコンクールなのよね。そんな演奏したら、

   確実に審査員受けは悪いでしょうし。……というわけで、風岡さん。

   どういうことか説明していただけないでしょうか?」

麻理「冬馬さん。娘さんのコンクールがあるからこそ今回私に取材がまわってきました」

743: 2015/07/13(月) 17:24:36.24

曜子「ええ、そうね。日本の方からニューヨークにいる優秀な編集部員を紹介するって

   いわれたわ。でも、春希君がいるとは知らされてなかったわ。……あっ、そうそう。

   私は曜子でいいわ。こっちのうるさいのはかずさで。ほら、苗字一緒だと紛らわしいし。

   それと……、春希君はただの部下って感じではないのでしょう?」


曜子さんはフレンドリーに接しているようでそうでもない。笑顔の下に隠された素顔には、

目いっぱいの警戒心が潜んでいた。

しかも今やその警戒心さえ隠そうとしていないような気もしてしまう。 

これが本当にただの上司と部下だったならば、ちょっとしたサプライズで終わったのかもしれない。

かずさが懸念する隠しきれない俺への想いが演奏に与える影響さえも、コンクールまでに

調整させてしまうだろう。それこそ俺はできるかぎりの協力を願い出ていたと思う。

 しかし、俺が部屋に入ってすぐの、俺がかずさを見た時の態度が最悪だった。

 俺がかずさに示した感情は、後ろめたさ、だった。いくらサプライズであろうとも、

感動の再会ならば、喜びであるべきだ。

 それなのに俺ときたら、なにかかずさに隠していますってばればれの顔をしてしまった。

 だからこその曜子さんの警戒であり、かずさが素直に喜べないで戸惑っている理由のはずだ。


麻理「はい、全てをお話しします。かずささん。そして曜子さん。今日ここにお二人が

   来ることは、北原は知りませんでした。一カ月前に日本から取材の要請がありましたが、

   一カ月使っても私は北原に告げる事ができませんでした」

曜子「そう……。ちょっといいかしら?」

麻理「はい」

曜子「ううん、風岡さんにではなく、春希君に」

麻理「……北原」

春希「はい、なんでしょうか? すみません、俺も事態が飲み込めていなくて、

   うまく説明できるかわからないです」

曜子「大丈夫よ。私もわかっていないから。でも、今から私が春希君に聞く事は、

   今の事態を理解していなくても大丈夫な事よ」

春希「それでしたら」


 曜子さんが隠しもしないプレッシャーに体がこわばる。それは隣にいる麻理さんも、

そして曜子さんが体を張って守るはずのかずさ本人にさえ、曜子さんの熱にやられていた。


曜子「ねえ、春希君」

春希「はい」

曜子「浮気した?」

春希「はい」

曜子「……そう。目をそらさないのね」

春希「事実ですから」

曜子「でも、隣の彼女は浮気だとは思っていないようね。

   ……そうねぇ、事故ってところかしら?」


 俺とかずさは、曜子さんの指摘を聞くと、すぐさま麻理さんに視線をむける。

かずさは俺の浮気肯定発言に対して何も反応しなかった。


744: 2015/07/13(月) 17:25:14.35

反応できなかったともいれるかもしれないことが、それがかえって俺を不安にさせるが、

それよりもまずは、曜子さんの発言の意図に俺もかずさも意識を奪い取られた。


春希「麻理さん?」

麻理「曜子さんのおっしゃる通りです。浮気……、キスしたのは私からであり、

   キスしたのもその一回だけです。そのキスさえも私が抑えてきた北原への想いが

   かずさんがニューヨークに来るとわかり、私の心が不安定になってしまたっからに

   すぎません。かずささん、曜子さん、本当に申し訳ありませんでした。そして、

   どうしてこのような事態になったかをこれから説明させてください。もちろんコンクール

   前だという事は重々承知しております。しかし何も知らせずにコンクールを終え、その後

   事実を告げられるよりも、今の方がいいと、勝手ながら判断させてもらいました。

   今回のコンクールよりも、来年のジェバンニが本番でしょうから」

曜子「そうね。事前準備としては最悪だけど、タイミングとしては悪くはないわ。

   では、話してもらおうかしら。風岡さんも何度も頭を下げなくていいわ」

麻理「はい。……北原?」

春希「…………すみません」


 俺は麻理さんの呼びかけのおかげでようやく金縛りがとけたが、みっともないうろたえ

まくった姿は相変わらずだった。

本当は、麻理さんに事故だなんて言ってほしくはなかった。かずさのことだけを思えば、

事故だと押し通すべきだ。けれど、俺が救いたいのは麻理さんであって、かずさではない。

 欺瞞だと嘲笑われるだろうけど、俺はかずさとは、かずさの隣に立って、

共に歩いていきたいと願っている。

 わかってはいる。両立などできないし、自己満足にしかならないと。

 俺の身勝手な決断に、今目の前で、俺が大切にしたい二人が傷ついている。

しかも麻理さんに至っては、自分で傷つこうとさえしていた。


曜子「じゃあ、話してもらいましょうか」

麻理「はい、少し長くなるかもしれせんが」

曜子「かまわないわ」


 麻理さんは俺達の物語を語りだす。

 それは思いのほか日本で初めて麻理さんと出会った時まで遡った。

 麻理さんの俺への第一印象としてはとくになく、どうせすぐにやめてしまうだろうと

思っていたこと。しかし、予想を超える逸材で、いつしか自分を超える編集者に育てたいと夢を

抱いていたこと。そして、曜子さんのコンサートでかずさに会えなかった夜の事。

傷ついていた俺を、初めて男として愛おしく思った事。

 俺の好きな相手はかずさだけであっても、俺の事を忘れることができなくなり、

ヴァレンタインコンサートで告白した事さえ全て打ち明けていった。

それは曜子さんとかずさに説明するというよりは、俺に聞いてもらいたかったのではないかと

さえ思えてしまう。だって、俺に愛を語りかけてきているって思えてしまう。

 その声が、その悲しみが、その流せない涙が、俺に突き刺さる。

 そしていつしか話題は麻理さんの心因性味覚障害についてにうつり、

今現在リハビリの為俺と同居している事に至る。

745: 2015/07/13(月) 17:25:54.35
麻理さんは、同居はリハビリ期間限定であり、一人で生きていける準備が整い次第同居は

解消すると、何度も念を押す。しかも、同居といっても共同生活という具合であり、

事実そうなのだが、まったく同棲とは違うものであると力説する。

 最後は、キスの話題だった。あの日あった出来事を、俺以上に詳しく説明していく。

誰がどのような仕事をしていて、どのようなトラブルがあったのか。

俺でさえ知らない編集部でのスケジュールをわかりやすくプリントにまとめてさえあった。


 おそらくこれは麻理さんが、今回の説明の為に準備しておいたのだろう。

しかも俺に気がつかれないように慎重に。


曜子「風岡さんの事情はよくわかったわ。もちろん春希君の人柄も理解しているから、

   彼はきっとあなたとのキスは事故ではないと押し通すでしょうね。

   それは風岡さんもそう思っているのではなくて?」

麻理「はい。北原ならそうするはずです」

曜子「だったらそれは事故だとはいえないのではないかしら?」

麻理「…………それは」

かずさ「ねえ、春希?」

春希「……あっ」


 俺と目を合わせようとして何度も失敗していたかずさが、今ようやく俺の視線を捉える。

 まっすぐと俺だけを見つめるその瞳に、俺は逃げ出したかった。けれど一度その意思が

こもった黒い瞳に見つめれれると、俺は懐かしさと愛おしさに悩まされる。

 何度も逃げようと揺れ動く俺の瞳に、かずさは黙って俺が落ち着くのを待ってくれた。

かずさの方こそこの場から立ち去りたいほどだろうに、俺の事を「まだ」見つめてくれていた。


かずさ「ねえ、春希。あたしのこと嫌いになった? ううん、興味がなくなったというのか、

   な? らしくないな……。あたしより、風岡、さん、の方を愛してる?」

春希「俺は、俺は……、かずさを愛してる。誰よりも、何よりも」

かずさ「そう……。じゃあ、風岡さんは?」

春希「かずさに対する愛情とは違う、と、思う。でも、幸せになってもらいたいと思っている」

かずさ「どう、ちがう、か……説明してよ」

春希「麻理さんは俺を救ってくれた。もちろん仕事に関しても尊敬している。けど、俺のせいで

   味覚障害になって、麻理さんの大切な仕事の邪魔をしてしまった。俺のせいで、

   俺のせいで麻理さんから仕事を奪ったままなんて、できやしない」

かずさ「うん、それはさっき風岡さんが説明してくれたからわかるよ。春希なら責任感じ

   ちゃって、治るまで面倒みるはずだと思う。……でもね、あたしがどんな気持ちで

   ウィーンにいたと思うんだよ。そりゃあさあ、あたしの我儘で春希をほったらかしの

   ままウィーン行っちゃったよ。しかも母さんのコンサートの時、あたし逃げたしさ。

   春希が楽屋まで来たの、知ってたんだ。

   楽屋の隅で隠れて春希が母さんと話しているところを覗いてたんだ」

春希「いた、のか?」

かずさ「ああ、いた。でも怖くて、春希の気持ちがあたしから離れているんじゃないかと

   思って会えなかった」

春希「なにも思ってない奴の為にわざわざコンサートになんて行くかよ。

   楽屋までいかないだろ」

746: 2015/07/13(月) 17:26:35.40
かずさ「でも、春希が仕事で貰ったチケットだったんだろ? いくら母さんが準備したチケット

   であっても、仕事の為に来たと思って何が悪い。3年だぞ3年。まったく音沙汰も

   なくいたのに、どうして春希があたしの事を好きなままだと思うんだよ。

   いくらあたしの事を愛したままであっても不安になっちゃうよ。

   ……怖いよ。怖いよ、はるきぃ……」

春希「かず、さ」

かずさ「ねえ、どうやって会えに行けばよかった? あたしを隠していた花束とか棚を倒して

    出ていけばよかったのかなぁ。そうすれば春希も傷つかなくて、風岡さんになぐさめて

   もらわないで済んだのかなぁ。ねえ、春希。教えてよ。あたし、どうすれば

   よかったのかなぁ? わからないよ。わからないよ。……春希の気持ち。

   まったくわからないよ」


 かずさの気持ちが押し寄せる。積み重なった3年分の気持ちが一気に解放され、

俺を覆い尽くしていく。

 俺の気持ちなどどうでもよかった。後悔などあとですればいいとさえ思ってしまった。

 だって、かずさが目の前にいるから。

 だって、かずさの声が耳に響くから。

 その声が、その表情が、悲しみに打ちひしがれていたとしても、

俺はかずさに出会えたことに倒錯した喜びを感じてしまう。

 目の前で曜子さんが呆れていようと、隣で麻理さんが不安で押しつぶされていようと、

俺はかずさだけを選んでしまう。

 この瞬間の俺は、きっと全てを投げ捨ててもかずさを選んでしまうだろう。

 かずさを目の前にしてしまったら、目の前で麻理さんが倒れていても、

かずさに手をさしのばしてしまうだろう。

 その真っ直ぐすぎる愛情に溺れてしまっていた。

 かずさだけをみて、かずさだけを幸せにして、かずさだけを愛してしまうことに、

気がついてしまった。


春希「俺は……」

曜子「はい、ストォ~ップ。はい、はい、かずさも自分の失敗の責任を春希君に押し付けない」


 俺の言葉にしてはいけない愛情を曜子さんが遮る。きっと曜子さんの事だから、

俺の言おうとしていた言葉を感じ取ってしまったのだろう。

 それは母親としてではないのかもしれない。

たぶんピアニストとしての冬馬曜子が止めに入ったのだろう。

 だって、俺だけを見つめている冬馬かずさに、

ピアニストとしての価値が本当にあるのだろうか?、と悩んでしまう。

曜子さんも恋人を作るなとは言ってはいない。そもそも曜子さんは俺とかずさの仲を認めている。

 でも、偏った愛情はピアニストとしては致命傷なのだろう。 

 なにせ演奏する曲調は一つではないのだから。

いつも偏った愛情がこもった演奏をしていては、かずさの成長はそこで止まってしまう。

 それを曜子さんはよしとはしない。そして俺もそれを望んではいない。

 だからこそ曜子さんは、俺の暴走を止めてくれたのだろう。

 そしてこの瞬間俺は我儘な俺に戻る。

747: 2015/07/13(月) 17:27:19.54

 かずさを愛して、そして、麻理さんを幸せにしたいと願う、傲慢な俺に戻ってしまった。

 きっと俺はかずさ一人を選んだとしても、永遠に麻理さんの事を考え続けてしまうだろう。

俺が傷つけた、俺を愛してくれた、大切な麻理さんを、

俺は忘れることなんてできやしないのだから。

 だからこそ俺は、一瞬でも麻理さんを見捨ててしまった事に恐怖を覚える。

 自分の身勝手さが自分の限界を見せつけてくる事で、

俺は本当に麻理さんを幸せにできるのか、と恐怖を覚えてしまった。


かずさ「そんなことしてないだろっ。あたしは、あたしは……」

曜子「もぉ……、泣かないの」

かずさ「泣いてないっ。……ほんとに泣いてないからなっ、春希っ」

春希「あっ、うん……」


 かずさは肩をさする曜子さんの手を振り払うと、

涙を流してしないはずなのに目をこすって涙をふく。

 真っ赤に充血しているかずさの目は、俺をまだ捉えて離さないでいてくれた。


かずさ「ごめん、春希」

春希「いや、俺の方が悪いから。ごめん、かずさ」

かずさ「うん……」

曜子「さぁって、この色ぼけ馬鹿娘はいいとして……」

かずさ「だれが色ぼけ馬鹿娘だっ」

曜子「あなたのことよ?」

かずさ「誰がだよ」

曜子「だから、冬馬かずささんよ」

かずさ「……ふんっ、言ってろ」

曜子「はい、はい。いい子ねぇ」

かずさ「馬鹿にしやがって……もういいよ。話を進めてくれ。…………それと、

   頭の撫でるのはやめてくれ」

曜子「もうっ、恥ずかしがっちゃって。かわいいんだから」


 ほんと、曜子さんにはかわなない。この場の雰囲気だけじゃなくて、

情けなすぎる男さえも救おうとしてくれている。

 ほんとうならひっぱ叩いて取材拒否になってもおかしくないところを、

この人はもっと先の事を見つめて行動している気がする。

 一カ月後のコンクールだけではなく、1年後のコンクウールでさえない。

 もっとさきの、何年も先のかずさを思って行動しようとしている気がした。


曜子「さてと春希君。そして風岡さん」

春希「はい」

 麻理さんは返事の代りに顎を引くと、まっすぐと曜子さんの方に意識をむけた。


曜子「私があなた達の関係をどうこうすることはないわ。ましてや怒る事もない。

   ただ、かずさのことを思うと、……娘の母親としてはやるせないわ」

春希「はい」

748: 2015/07/13(月) 17:28:01.90

曜子「でも、この子は自分が日本で春希君から逃げてしまったからだと自分を責めている

   ように、私もこの子をかくまったことを後悔しているわ。せっかく春希君が会いに

   来てくれたのに会いもしないで、しかも、その後ストーカーみたいにして春希君に

   会いに行ったのにね。そんな回りくどい事をするんなら、

   会いに来てくれたときに会っておけばいいのにって思っちゃったわよ」

春希「え?」

かずさ「母さんっ」

曜子「だって本当の事じゃない。春希君に電話できないって言って、会う約束もしていない

   のに会いに行ったじゃない。電話じゃ自分の気持ちを伝えられないって泣いてた

   じゃない。ただねぇ、ちょっと我が娘ながら抜けていると事があるのよねぇ。

   春希君がどこに住んでいるかさえ知らないで会いに行ったのよ。……あっ、大学の側に

   住んでいるのは聞いてたから、駅で春希君に会おうと張り込みしていたのよね? 

   ね、かずさ?」

かずさ「……忘れた。覚えてない」

曜子「そう? しかも、春希君が風岡さんとタクシーから降りるところを見て、

   泣いて帰ってきたじゃない? それも忘れちゃった?」

かずさ「あぁ~、忘れた。忘れたんだよっ」

曜子「はいはい。素直じゃないんだから」

かずさ「いいだろ、べつに」

曜子「そうやって意固地になるから次のチャンスの時も、せっかく私がおぜん立てしたのに、

   結局は会わなかったわよね。私の予想では我慢できなくなって会うと思ってたのに」

かずさ「あの時は母さんも協力してくれたじゃないか」


 次のチャンス? かずさは少なくとも3回は会うチャンスがあったのか?

 俺は最初の一回目では、かずさに会えないからって麻理さんにすがってしまった。

自立した大人になりたいって言って独り暮らしして、開桜社でも認められるようになって、

しかもニューヨークまで来たというのに、肝心の部分がまったく成長していないじゃないか。

いくら表面上の仕事ができるようになっても、心が成長していなければ、かずさと一緒に

歩いていくことなんてできないし、仕事に関しても、いつかはぼろが出てしまう。

 今の俺はどうしようもない子供に見えた。

 まさに母親を無視していたあの頃の自分そのものだった。


曜子「あれはぁ……、私も悪のりしすぎたなって反省はしているのよ」

かずさ「だろうな」

曜子「ごねんね」

春希「あの……、どういう事でしょうか?」

かずさ「春希……、ごめん。会いたくないわけじゃないんだ。本当だよ。

   だって春希のお弁当食べられて、あたしすっごく幸せだったんだ。

   会いたい気持ちを抑えるのに必氏だったんだ」


 弁当?  というと、ギターの練習を見てくれるお礼として曜子さんに差し入れて

いた弁当を、曜子さんがかずさに渡していたってことか?

 たしかに曜子さんのコンサートの時も隠れていてっていうんなら、

かずさは自宅にはいないよな。ホテルにでも…………。

749: 2015/07/13(月) 17:28:43.19

 いや待てよ。俺が麻理さんとタクシーって……。

あのときもかずさがいたのか。俺が麻理さんに抱きしめてもらっているところを見られたのか。




第54話 終劇

第55に続く




第54話 あとがき


過去回想。一番厄介なシーンです。ええ……、ほとんど忘れていますから。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



751: 2015/07/20(月) 04:03:51.87

第55話


曜子「それだけじゃあ春希君がわからないでしょ」

かずさ「だって……」

曜子「まあいいわ。春希君も少しくらいは気がついたみたいだし」

 かずさも曜子さんも深くは追求してはこないけど、きっと知りたいはずなのに

どうして聞いてこないんだよ。しかもかずさは泣いていたって…………。

 俺がかずさを泣かせたのか。いくら不可抗力といっても……、そうでもないな。

俺が麻理さんを罠にかけて抱き締めてもらったわけだ。だったら俺のせいでかずさを泣かせたんだ。

 ……最低だな、俺って。

春希「ええ、まあそうですね。……ヴァレンタインコンサートですよね。曜子さんがギターの

  練習をみてくれた時がそうだと思うのですが、あのときもかずさは日本に?」

曜子「ええそうよ。でもね、春希君を見にコンサートにも行ったけど、

  春希君を見ていたのはその時だけじゃないのよ?」

春希「編集部の方にも来ていたのでしょうか?」

 それとも大学の方にも来ていたのか? いや、大学だとどの講義に出ているか

わからないから、やはり曜子さんのつてで編集部に来ていた可能性の方が高いか?

曜子「ううん、もっと身近な場所よ」

春希「もっと身近? …………俺がギターの練習見てもらっていた時、

  ひょっとしてかずさも見に来ていた、とかですか?」

曜子「だいぶ近くなったけど、正解というには不十分かな」

 重く停滞していた会議室の雰囲気は、

いつの間にかに曜子さんが作り出す新たなイメージに塗り替えられていっていた。

 狭い会議室は曜子さんのステージへと変貌し、

ありがたいことに曜子さんの指揮に俺は頼らざるを得なかった。

かずさ「今話す事じゃないだろっ」

曜子「そうかしら? かずさがどのくらい春希君のことを愛しているかを

  知ってもらうチャンスじゃないかしら」

かずさ「あたしの愛は変わらないからいいんだよ」

曜子「ふぅ~ん……」

かずさ「な、なんだよ……?」

 かずさに肩を寄せる曜子さんは、意地が悪い顔全開で詰め寄る。

そして、しっかりとかずさが脅えるのを確認すると、姿勢を正してから俺を見つめてきた。

 あっ、今度は俺の反応をみようとしているような……。

 となると、それだけでかい爆弾ってことだろうか?

曜子「かずさったら、ほんとうに美味しそうにお弁当を食べていたのよ。しかも春希君が

  帰るまで待つのが我慢できなくて、こっそりお弁当を冷蔵庫まで取りに行ってたのよ」

かずさ「最初の一回だけだ。一回だけ。

   次からは春希が帰るのを待ってからお弁当を食べてたって」

曜子「そぉお? でも、春希君に見つかりたい気持ちもあったんじゃないかしらね?」

かずさ「見てたのか? ……あっ、監視カメラ。レッスンスタジオ以外にもつけて

  いたんだな。そうだな、そうだったんだな。白状しろよ。娘が頑張って春希の練習を

  みているっていうのに、それなのに母さんは面白がってあたしを監視していたんだな」

752: 2015/07/20(月) 04:04:23.03

 監視カメラ? たしかにスタジオにも俺の練習風景が見られるようにとカメラが

ついてたけど、それをかずさが? 

 それと、俺の練習をみてくれたのは曜子さんだったんじゃなかったのか?

 でもかずさは、かずさが俺の練習をみてくれたっていっているし、どうなっているんだ?

曜子「監視カメラなんてつけてはいないし、覗きに行った事さえないわよ。これでも私、

  仕事があるのよ。…………美代ちゃんがこれ見よがしに仕事を詰めちゃって。

  ほんと身動きができなかったのよ」

かずさ「ほんとうかよ?」

曜子「本当よ。信じられないというのなら美代ちゃんに確認してみなさい」

かずさ「うっ」

曜子「それに、あなたの行動パターンなんて見なくてもわかるもの。ちがう?」

かずさ「うぅ……。そうかもしれないけど、だけど母さんのことだから、

  あたしを監視する為にカメラ付けそうじゃないかっ」

曜子「あら? それは心外だわ」

かずさ「日頃の行いが悪いからだろっ」

曜子「そっくりそのままお返ししてもいいのよ? 春希君にかずさがウィーンで

  どういうふうに生活していたかを、すっごく詳細に話してもいいのよ?」

 曜子さんのまさしく核弾頭級の爆弾発言に、かずさの態度は急変する。

今までも曜子さんに押され気味ではあったが、今回はまさしく地雷を踏んでしまったのだろう。

 でも、そんなにも俺に聞かせられない内容なのか? 話の流れからすると、

俺の方にも被害が出そうな予感がするんだけど……。

 曜子さんの事だから、俺への被害なんてまったく考えてくれないんだろうなぁ……。

かずさ「ごめん。悪かったよ母さん。あたしが言いすぎた。だから、お願いだからやめてくれ」

曜子「やめてくれ? ずいぶん上からのお願いなのね」

 あのかずさが脅えるって、どういうカードをもっているんだよ? 

ちょっとばかし聞きたい気もするけど、聞いたらかずさが怒るだろうし。

かずさ「お願いします。やめてください」

曜子「まあいいわ。でも、ほんとうに監視カメラなんてつけてなかったのよ?」

かずさ「わかったよ。わかったからそれ以上いわないでよ」

曜子「でも、ギターの練習見てあげたことは教えてあげないと」

かずさ「わかったよ」

 相手が悪いかったな…………。

 かずさは観念したのか、曜子さんから顔を背けると、肘をついて不貞腐れる。

 それでも俺の反応が気になるのか、ちらちらと俺の伺う姿は、相変わらず微笑ましくて、

かずさらしくて、ようやくかずさが目の前にいるって実感していった。

曜子「もう気が付いていると思うけど、春希君にギターを教えたのは私ではないの。

  実はこの子が教えていたのよ。しかも、家の二階でモニターを見ながらね」

春希「えっ……。俺のすぐ側にいたんですか?」

曜子「そうよ。だから数メートルも離れてはいなかったのではないかしらね」

春希「そんなに近くに、ですか」

曜子「ごめんなさいね。でも、一度機会を逸してしまうと、なかなか出ていけないもの

  なのよ。この子のせめてもの償いだと思ってくれないかしら」

753: 2015/07/20(月) 04:05:54.03

春希「いえ。ギターの練習をみてもらったのですから、感謝しかしていませんよ。

  それに俺がスタジオにいたって事は、かずさもずっと練習につきあっていたってこと

  ですよね? 俺がスタジオにいたら家から出て行きにくいでしょうし」

曜子「まあ、そうね。でも、春希君のお弁当が冷蔵庫にあるとわかって、

  どうしようか気が気じゃないっていう姿。ほんとうに目に浮かぶわねね」

 あっ、……かずさには悪いけど、俺も微笑ましい光景が浮かんでしまうっていうか。

かずさ「母さん」

曜子「はい、はい」

春希「かずさ。今さらだけど、ありがとな」

かずさ「いいんだ。あたしがやりたくてやったんだからな」

春希「でも、とても感謝しているんだ。あの曲だけはしっかりと弾きたかったからさ」

かずさ「春希……」

 楽しい事も辛い事も詰まった曲だけど、俺とかずさと、そして彼女が作った最後の曲。

 この曲にだけは胸を張って演奏したい。

曜子「でも、それだけじゃあないわよ」

春希「どういうことでしょうか?」

 かずさもコンサートに来てくれたってことかな? ピアノパートの映像もくれたわけだし、

かずさがコンサートの事を知っていてもおかしくはないか。

 そもそも曜子さんが俺のギターの面倒見てくれているのも知っているはずだから、

コンサートの事も知っていて当然か。となると、やっぱりコンサートかな。

春希「……ヴァレンタインコンサートに来てくれたのか?」

かずさ「うん、見に行った。すごかった。ヴォーカルは期待してなかったんだけど、

  おもいのほかよくて驚いたよ」

春希「あいつが聞いたら喜ぶと思うぞ。千晶ったらかずさの大ファンだからな」

かずさ「そっか……。まあどうでもいいよ」

春希「ファンは大事にしろよ」

かずさ「春希がそういんなら」

春希「でも、千晶はなんていうか、悪い奴じゃないけど最初はどう接していいか困るかな。

  まあ、かずさも最初は戸惑うと思うけど我慢してくれると助かる」

かずさ「春希の友達なら我慢するって。……でも、女の友達か」

春希「あいつはかずさが心配するような奴じゃないから。

  どうみても性別を突き抜けた存在っていうか、な」

かずさ「でも女なんだろ?」

春希「かずさ……」

かずさ「いいよ。信じるから。…………でも、

   正直に話せばすべて許されるわけじゃあないんだからな」

春希「わかってる」

 そう、俺と麻理さんの関係のように。

麻理さんがかずさと曜子さんに正直に全てを打ち明けようと、それで許されるわけではない。

キスした事実は消えないし、麻理さんと一緒に住むことはやめることはできない。

曜子「春希君の現在の状況は今すぐ判断できないわけだし、これからしっかりと見て判断

  すればいいのよ。風岡さんが語ってくれた事を信じていないわけではないのよ? 

754: 2015/07/20(月) 04:06:36.97

  でも、人の話って主観が混ざるじゃない? 

  げんにキスしたことについては、春希君と風岡さんの見解は違うわけだし」

春希「はい、そうですね」

曜子「かずさもそれでいい?」

かずさ「あたしは……、どうすればいいのかわからない」

春希「……かずさ」

かずさ「あたしは、あたしは今すぐ春希を連れ帰ってあたしだけを見ていてほしいっていう

   気持ちもある。裏切られてたってさえ思ってしまう所もあるんだ。でもさ、春希が

   風岡さんの為に頑張っているっていう事だけは理解できたんだ。春希はさ、ほっとか

   ないよ。ましてや春希の為に頑張ってくれた人を見捨てることなんてないんだ。

   だから、どういうのかな……。春希が、春希のままでいてくれて、ほっとしてる、

   のかな。たぶんだけど。……そりゃああたし以外の女を優しくするなって

   言いたいけど、今は、我慢する、ように頑張るよ」

春希「かずさ、ありがとう」

かずさ「いいんだ」

曜子「さてと、かずさのほうはこれでいいとして、……風岡さん」

 俺達が思い出話をしているときも硬い表情のまま口を結んでいた麻理さんは、

曜子さんの呼びかけで自分がこの場にいる事を思い出す。

 きっと俺達が作り上げてしまった雰囲気に入ってこれなかったのだろう。

 俺と麻理さんだけの歴史があるように、俺とかずさだけの歴史がある。

 それは不可侵であり、どうしても外にいる人間には疎外感を感じてしまう。

つまり、かずさも曜子さんも同じような不安を俺が与えてしまっているというわけで、

俺は自分がしている残酷さに、自分を呪い頃したくなってしまっていた。

麻理「はい」

曜子「今回の取材ですけど、おそらくだけど春希君がメインで書く予定なのかしら?

  前回のも春希君が書いたみたいだし」

麻理「はい、その予定です」

曜子「その事だけど、今回は風岡さん、あなたがメインで書いてくれないかしら? 

  もちろん春希君にも頑張ってもらいたいけど、今回は風岡さん。

  あなたに書いてもらいたいの」

麻理「私がですか?」

曜子「そう、お願いできないかしら? もちろん密着取材でかまわないわ。

  最初からその予定だったのだし。できれば、そうね、

  この子をあなた方の家で預かってもらえないかしら?」

かずさ「母さんっ」

曜子「あなたは黙っていなさい」

かずさ「…………わかったよ」

俺もかずさ同様に異議を申し入れたかったが、曜子さんからのプレッシャーが俺を押し戻す。

曜子さんが見つめているのは麻理さんだというのに、俺もかずさも手が出せないでいた。

曜子「どうかしら? もちろん風岡さんの編集部の立場は尊重するわ。

  風岡さんが無理なときは春希君がかずさの面倒をみてくれればいいのだし」

 それって、ていのいい丸投げっていうやつでは……。

755: 2015/07/20(月) 04:07:21.08

 かずさはウィーンにいたからドイツ語はできるだろうけど、

日本にいた時は英語まったく駄目だったんだよな。

 となると、ニューヨークでどうやって生活する予定だったんだ? 

それこそ曜子さんの側にいないと、かずさは生活できないんじゃないか?

…………曜子さんの事だから、最初から今回の取材相手に、密着取材とは名ばかりの世話係を

押し付ける気だったんじゃないかって邪推しそうだ……、いや、本当にそう考えていそうだよな。

麻理「それでかまいません。さすがに私も編集部で上に立つ立場ですのでかずささんに

  つきっきりにはなれませんが、それでもよろしいのでしたら自宅も提供いたします」

曜子「ありがとね。ほんと助かったわ。だってこの子。ウィーンで何人もハウスキーパーを

  やめさせているのよ。今回の密着取材でこの子の世話も任せようって虎視眈々と

  作戦を練っていたんだけど、春希君がいて本当によかったわ」

 俺としたら喜んでいいのか? まあ、かずさを他のやつに任せるなんて許せないけど。

かずさ「波長が合わなかったけだ。あたしの生活に踏み込んでくる方が悪い」

曜子「ほとんどレッスンスタジオにこもっているくせに、

  どうやったら追い出すことになるのかしらね? ほんのわずかの時間でよくやるわ」

かずさ「たまたまだ」

曜子「そのたまたまが何回も続くと、わざとやっているとしか思えなくなるのよ」

かずさ「そんな暇あったらピアノを弾いてるって」

曜子「……たしかにそうね」

 認めちゃうんですかっ。それ認めてしまうと、かずさのほうに決定的な欠陥があるって

認めるようなものじゃないですかとはいえないけど。

 ……だとすると、日本で家事を任されていた柴田さんって奇跡の人だったんだな。

 俺とかずさがこうやっていられるのも奇跡なのかもしれない。

 人との出会いは限られている。だからこそ、この人っていう人は手放してはいけない。

 だけど、二人同時に掴めるかは別問題であり……。

曜子「まあいいわ。さて、風岡さん、もう一つだけお願いがあるのだけど。お願いと

  いっても、このお願いはかずさを押し付けるという意味合いよりも

  取材の意味合いが強いと思うけど」

 あっ、曜子さん。認めたんですね。かずさを押し付けるって…………。

 麻理さんもその事実に気がついたみたいで唖然としている。

俺は日本での曜子さんを知っているからある程度の抗体はあるけど、麻理さんは初対面だしな。

 しかも、かずさと曜子さんに会わなくてはならないというプレッシャーがあったわけだし。

麻理「出来る限りのご要望は聞くつもりです」

曜子「そんなに身構えなくても大丈夫よ。ただかずさの練習を毎日ちょこっとだけ

  聴いて欲しいってだけだから」

麻理「それならばこちらとしても歓迎しますが」

曜子「そう? ならお願いね。だいたいコンクールの演奏時間と同じくらいでいいわ。

  この子はあなたの事など気にせずに弾き続けているでしょうから、勝手に来て、

  勝手に帰って構わないわ。たぶん挨拶しても無視すると思うから、気にしないでいいわよ」

麻理「練習の邪魔をしないように致します」

曜子「よろしくね」

麻理「はい」

756: 2015/07/20(月) 04:08:03.78
かずさ「………………ちょっと待ってよ」

曜子「なにかしら?」

かずさ「勝手に決めるなって事だ。取材なら諦めはつく。

   でも、練習を邪魔されるのだけは許せない」

曜子「これも練習のうちよ」

かずさ「どういう意味だよ? どう考えても邪魔しているようにしか見えないぞ」

曜子「だってねぇ」

 曜子さんは人差し指で細い顎をなぞるように首を傾げると、

有無を言わせる視線をかずさに浴びせた。

かずさ「なんだよ……」

曜子「だってあなた、このままだとコンクール失敗するわよ」

かずさ「やってみないとわからないだろ。そもそも準備はウィーンでしてきたんだ。

   ここでの練習は調整にすぎない」

曜子「そうかしら? 考えてみなさい。風岡さんは取材で本番にも来るのよ。となると、

  練習でさえ風岡さんを意識するあなたが、本番で意識しないで本来の演奏ができる

  かしら? といっても、風岡さんにコンクールには来ないでほしいと頼む事は出来る

  けど、それでも風岡さんを気にすることをやめる事は出来ないでしょ?」

かずさ「それは……」

曜子「でしょう? だったら私の指示通り毎日本番だと思って演奏しなさい。

  ウィーンで宣言したわよね。勝ちに行くって。だったら勝つ為の練習をしなさい」

かずさ「……………………わかったよ」

曜子「じゃあ風岡さん。本人の了解もとれたしよろしくね」

麻理「はい。……あの、かずささん」

かずさ「なに?」

麻理「ごめんなさい」

かずさ「別にいいって。ピアノに集中できないのはあたしの問題だ」

麻理「それもありますが…………、北原に頼ってごめんなさい」

かずさ「それは……」

 曜子さんでさえかずさの言葉を待ったが、結局はかずさの答えは聞く事は出来なかった。

 色々ありすぎた。俺の事。ピアノの事。そして麻理さんの事。

 それらを一気に処理することなどかずさにできるはずもない。

俺でもできないし、曜子さんであっても無理なはずだ。

 曜子さんも表面上は次に向かっての行動をみせはするが、内心では俺の事をどう思っている

かなんて考えたくもない。どう考えても裏切られた、と思っているはずだから。

 その裏切り者を前にしても、曜子さんはかずさを守るべく行動を続ける。いくら数年間

かずさと離れて暮らしていたからといっても、曜子さんはかずさを愛している。

 愛しているからこそ曜子さんはかずさの前では迷わない。

曜子「さてと、打ち合わせの前にかずさの引き渡しをしておこうかしらね」

かずさ「あたしをペットみたいに言うな」

曜子「あら? 犬みたいなものじゃない」

かずさ「ちがうって」

曜子「そう? まあいいわ。それで風岡さん。かずさが泊まる部屋はあるかしら? 

  もしなければ近くに部屋を借りるのだけど」

757: 2015/07/20(月) 04:08:37.72

麻理「部屋ならありますが……」

春希「俺の部屋を使って下さい」

麻理「北原?」

春希「俺は物置として使われている部屋を使います」

麻理「あの部屋は狭すぎるでしょ。だから私がその部屋を使って……」

春希「麻理さんは自分の身を大事にしてください。今環境を変えるのは体に良くないですよ。

  それに、そもそも俺は自分の部屋があっても寝ることくらいでしか使っていませんから、

  部屋が小さくても問題ありません」

 一カ月前の再来だけは避けなくてはならない。

ようやく麻理さんの調子が戻ってきたというのに、さらに大きな変化を与えるのは逆効果だ。

今目の前にしているかずさだけでなく、プライベートスペースまで提供することになるんだ。

その最後の砦とも寝室まで渡すのは、麻理さんにとって負担が大きすぎる。

 ただ、最大の影響を与える原因たるかずさがこれから一緒に暮らすことと比べれば、

寝室の変更など取るに足りない変化かもしれないが。

麻理「……わかったわ」

かずさ「あたしは、……あたしは春希と同じ部屋でもかまわないけど」

春希「かずさ? ごめん。それは無理なんだ」

かずさ「どうしてだよ?」

 理由を言うべきか。それとも隠すべきか。

 …………今まで隠し事をしてきたのに、ここで隠して何になるっていうんだよっ。

 ふっきれたとか、やけになったとかじゃない。

 今さらだけど、かずさには誠実でありたい。それしかないだろ。

春希「かずさと同じ部屋だと、麻理さんが潰れてしまう。俺は麻理さんを救いたいんだ。

  恩返しでもあるけど、それだけじゃない。幸せになってほしいんだ。だから、ごめん」

かずさ「あっ……、そうだな。ごめん春希。それと風岡さん。配慮がなくてすみませんでした」

麻理「いいのよ。ほら、私が悪いのだし……」

 再度重苦しい雰囲気が俺達にのしかかる。

 ほんとうに大丈夫なのかって不安になってしまう。だって三人で暮らすってことは、

必然的に曜子さんがいないというわけになる。

 今回何度も場の雰囲気を修正してくれた曜子さんがいないとなると、

俺がその役割を演じなければならないわけで。

 その大役をかずさはもちろん麻理さんに任せることなどできやしない。

 ……でも、俺に出来るのか?

 俺は眉間にしわを寄せるだけで、かずさと麻理さんを見つめるだけしかできないでいると、

前方から俺に向けてため息を見せつけられる。

曜子「はぁ……」

 俺への不安とも、助けるのは今回だけとも捉える事は出来るが、どちらにせよ、

今日からの共同生活に曜子さんがいない事は確かであった。

曜子「春希君は今までの部屋をそのままつかいなさい。どうせこの子は一日中スタジオに

  こもっているんだし、この子も寝室を貰っても寝るだけしか使わないわ。

  だから、わざわざ部屋を移動するなんて手間をかける必要はなし。これでいいかしら?」

春希「かずさがいいのでしたら……。かずさ?」

758: 2015/07/20(月) 04:09:31.25

かずさ「あたしはそれでいいよ」

春希「でも、ベッドはどうします?」

 冬馬家の財力なら簡単に買えそうだけど。

曜子「レンタルでいいんじゃないかしら?」

春希「なるほど……」

 いくら金持ちといっても、無駄遣いをするわけではないですよね。





第55話 終劇

第56話につづく









第55話 あとがき





今週は一身上の都合により、いつもよりも早い時間の更新となります。




物語には影響ありませんが、麻理さんの収入と家。どうなっているんでしょうか?

それと、かずさのドイツ語。ピアノばっかり弾いているでしょうし、いつ覚えたのでしょうか?



来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。




黒猫 with かずさ派




760: 2015/07/27(月) 06:38:53.33

第56話


同日夜 麻理


 編集部で冬馬さん達との打ち合わせを終えると、かずささんはさっそく練習へと向かった。
本来なら気持ちを乱す行為は避けなくてはならない時期であるのに、
本当に申し訳なく思ってしまう。
 だから、早く練習に向かいたいというかずささんの要望を聞き入れ、打ち合わせも
短めに終わらせることにした。細かい内容は曜子さんと直接話し合えばいいし、
かずささんの取材も基本的にはその人柄を見る事が重要である。
 そもそも色々と質問したとしてもまともな回答を得られないだろうし……。
これは春希からの情報だけど、きっとその通りなのだろうと、先ほどの対面で実感した。
 私は曜子さんから受け取った地図を片手に、かずささんが練習をしているスタジオに向かった。
 このスタジオなら、わざわざうちで寝泊まりするよりは当初のホテルから通う方が
よっぽど時間を有効利用できるはずよね。それなのにうちでの生活を選んだという事は、
やっぱり私と春希のことに起因しているはずね。
 建物の中に入り、スタッフに用件を伝えると、スムーズにかずささんがいるスタジオを
教えてもらえた。
 このスタジオには他のコンクール参加者もいるようで、
スタジオ内での取材はしないようにと念を押される。
 この事から、曜子さんが私の素性をスタジオスタッフに伝えてあることが分かった。
自分から出版関係者であると名乗り出るほどでもないが、
あとあと面倒事に巻き込まれるとも限らない。
 そう考えると曜子さんの抜け目のなさを改めて実感してしまった。
 私は曜子さんの指示通り挨拶もなしにレッスンスタジオに入っていく。
 かずささんは曜子さんのいう通り私の事など目には入っていなかった。
その代わりというわけでもないが、室内に二つ用意されていた椅子のうちの一つに
座っている曜子さんが私を出迎えてくれた。
 もう一つのほうの椅子に私に座れということなのだろうか。
 いつまでも立っているのもそれこそ練習の邪魔だと思うので、
空いている椅子の方に座り、大人しく練習が終わるのを待った。

曜子「今日はここまでにしましょうか」

かずさ「もう少しできるけど?」

曜子「ううん。今日は荷物を風岡さんのお宅に運んでもらっているし、
   しばらくお世話になるんだからあまり遅くまで練習しなくていいわ」

麻理「こちらのことはお構いなく、納得するまで練習してくだって構いませんよ」

かずさ「……わかったよ。今日はここまでにする」

曜子「そ、じゃあ風岡さん後よろしくね」

麻理「はい」

 曜子さんの練習ストップの要請にかずささんは最初こそ拒否の意思を示したが、
それもすぐに撤回される。
 その辺の事情は特に問題はないのよね。問題があるとすれば、
というか気になる点があると言えば、
練習が終わったら曜子さんはすぐに部屋から出ていったけど、どういう事かしら?
 資料によると、曜子さんの師匠でもあるフリューゲル氏にかずささんも教わっていると
記されている。それでも曜子さんによるなにかしらのレッスンもしているだろうし。
 だから、練習後にアドバイスや気がついた点を伝えると思っていのだけど……。
 それとも、私に聞かれると困る事があるとか?
 そもそもアドバイスは私が来る前に済ませてあったとか?
 曜子さんに策士としての印象を抱かずにはいられないけど、
どうしてもその実態がつかめないのよね。

かずさ「あのさ……」

麻理「はい?」

 顔をあげると、かずささんは既に帰る支度をしませたようで、
部屋の入り口で私を待っていた。

かずさ「案内してくれないとわからないんだけど」

麻理「すみません。今お連れしますね」

かずさ「あぁ、頼むよ」

 とても嫌われてしまうようなことをしてきたのに、
これといって露骨に嫌そうな態度はみせないのよね。
 ……同時に、好かれているようにも見えないけど。
 私の方もできる限り好意的に接すように努めようとする。
かずささんを自宅まで案内する途中、私の横に並んではくれないけど、
斜めに一歩下がった位置を保ったまま付いてきてくれた。
 ただ、スタジオを出るときに交わした言葉を最後に、
私も、そしてかずささんも言葉を発してはいない。

761: 2015/07/27(月) 06:39:47.57

 外から見れば一見穏やかに見える二人の空間は、一歩二人の中に踏み込めば、
おそらく混沌としていたのだろう。
私たち自身がどうふるまっていいかさえわからないのだから当然とも言える。
 それでも私たちは共通の男性をこれ以上困らせたくない気持ちだけは一致しており、
現状をより悪化させない事に尽くしていた。

麻理「かずささんの荷物やベッドは届いているみたいです。そしてこの部屋がかずささん
   の部屋になります。狭くて申し訳ないのですが……。
   でも、部屋を交換したくなりましたらいつでも仰ってください」

 かずささんように用意した部屋には既にベッドと荷物が運び込まれ、
掃除もされているようであった。
 春希がかずささんが気持ちよく部屋を使えるようにと掃除したようね。
 春希は打ち合わせの後、レンタルベッドの手配と荷物の受け取りの為に先に帰宅していた。
 その春希といえばは、現在スーパーに必要物資を調達に出かけている。
メールでは、それほど時間はかからないとのことなのでもうじき帰ってくるのだろう。
 私との共同生活でも見せたまめな性格がここでも伺え、微笑ましく思えるのだけれど、
最愛の彼女にしてあげているという事実を目の当たりにすると、私の胸はちくりと痛んだ。

かずさ「あのさぁ」

麻理「はい、なんでしょうか?」

かずさ「ううん、なんでもない」

麻理「そうですか? ……北原、でしたらもうすぐ戻ってくると思いますよ。かずささん
   に頼まれた品を買いに行っていますが、もうすぐ戻ってくるとメールがありましたから」

 近所の店で間に合いそうであるので、それほどは時間はかからないだろう。
 それに、編集部できっちりとかずささんから買うものを聞きだし、
リストまで作ったのだから短時間で買い物は終わってしまうはずだ。
 編集部で、春希がリストを作る行為を見て自然と笑みが浮かんだ。
ただ、かずささんも私と同様の表情を浮かべているのを見た時は心が痛む。
 きっと高校生の時の春希も同じようなことをしていたのね。
そして、かずささんもその姿を何度も…………。

かずさ「あのさ……」

麻理「はい?」

かずさ「あたしに対して敬語はいいから。しばらく一緒に暮らさないといけないのに、
    堅苦しい態度を取られると息が詰まるよ」

麻理「かずささんがそうおっしゃるのでしたら、そのようにしますが」

かずさ「そうしてくれると助かる」

麻理「はい」

かずさ「あとさ……」

麻理「なにかしら?」

 ちょっとわざとらしい口調になったけど、しょうがないかな。
 でも、かずささんはいまだに何だか思い悩んでいるような表情を浮かべているし、
私の口調、まだかたかったのかしら?
 それともやっぱり、春希が一緒じゃないと緊張してるとか?
 まあ、恋敵とまではいかないけど、私は邪魔ものだものね。

かずさ「うん、あのさ……」

麻理「……ええ」

かずさ「……あのさ、無理に北原って呼ばなくていいよ。だって風岡さんも春希の事を
    春希って呼んでいるんでだろ?」

麻理「……あっ」

 そうよね。気になるわよね。だって私が春希の事を北原って呼んだ時の口調は、
かずささんに敬語を使わないとき以上に不自然だったって、自分でもわかったもの。

かずさ「別にあたしのことを気にして変えなくてもいいよ。そんなことをしたら春希も
    気を使うだろうし、あたしも気をつかっちゃうからさ」

麻理「わかったわ。……ありがとう」

かずさ「風岡さんだけの為じゃないし、礼を言われるような事でもないよ」

麻理「そうかもしれないけど、私は、……私はたくさん春希とかずささんに迷惑を
   かけてきたから。だから……、ごめんなさい」

かずさ「……謝罪もいらない。ここで謝罪されると春希を否定することになる。
    だから謝罪するのだけはやめてほしい」

762: 2015/07/27(月) 06:40:20.97

麻理「でもっ」

 春希から聞いていたかずささんとは別人のような気がしてしまう。 
 それはきっと春希の前だからこそ見せていた姿なのかもしれないけど、高校時代の
冬馬かずさがクラスメイトや教師に見せていたような姿とも違うような気がしてしまった。
 そう、極論なのかもしれないけど、
冷静さを保とうとする北原春希を真似しようとしているとも……。

かずさ「いいんだ」

麻理「でもっ、私は……。かずささんから春希を引き離した。春希はすぐにでもかずさ
   さんの元に行きたいのに、私のせいでできなくなってしまったのよ。だから、私がっ」

かずさ「やめろっ!」

 両手のこぶしを握りしめ、何もない宙を叩きつける。
 さすがピアニストね。
 どんなに怒りを我慢できなくなっても手だけは痛めつけないのねって冷静に分析する
自分がいるのと同時に、自分の認識が間違っていた事に気がついていく。
 かずささんは別に冷静さを保とうとしていたわけじゃない。
 私を許そうとかしていたわけでもない。
 すべては春希の為。
 春希を困らせないようにと必氏だっただけなのね。
 だから慣れない環境であっても、この家にいるだけで胸が張り裂けそうであっても、
自分が暴走するのを我慢していたのね。
 だって感情的に責めたら、春希が春希自信を許すことなんてなくなるって
わかっていたから。春希をこれ以上追い詰めない為だけに、彼女は必氏だった。
 そして最悪のケースとして、最愛の人、冬馬かずさを傷つけるのであれば春希は
春希本人さえ消し去ってしまうだろう。それができる人だって、私たちは知っている。

かずさ「悪いけど一人にしてほしい」

麻理「わかったわ。春希が帰ってきたら教えるわね」

 かずささんは返事の代りに右手をあげると、毅然とした態度で自室へと入っていた。
 ぽすんとベッドがきしむ音が聞こえてはきたが、あとは何も聞こえてはこなかった。







数日後 かずさ


 風岡さんと暮らしてみて実感した事だけど、この人はすごい。それがすべてだった。
 あたしをこの家に連れてきた当日、あたしは感情的になってしまったのに、
風岡さんはずっと冷静にあたしに対応してくれた。
 あたしの心が静まるのを待ち、その日の食事はあたしと春希の二人っきりで
できるようにはからってもくれた。
 でも、あとから春希に聞いた話によると、風岡さんの病状は悪化していて
、今はわずかに取り戻した味覚さえ失ったとか。
 あたしが家に転がってきた当日なんかは、昼も夜も食事ができない状態だったらしい。
 それでも翌日の朝は三人で朝食をとったのだから、
その精神力の強さはかなわないと実感してしまった。
 今日は風岡さんも春希も編集部での仕事は休みだとか。
 それでも春希は自宅で仕事に追われていた。
 まっ、その仕事っていうのが、
なかなかまともなコメントを残さない取材相手のせいでもあるんだけど……。
 一方風岡さんはというと、あたしの練習に見学に来ており、
今は二人で昼食を取ろうとしていた。

かずさ「あのさ……すまない」

麻理「ううん。これが仕事だし、コメントだって意識的に考えて出たものよりは、
   自然とこぼれ出たコメントの方が貴重なのよ。
   だから、かずささんはピアノに集中していればいいわ」

かずさ「いや、違くてさ……」

 スタジオの備え付け休憩室は小さいながらもあたし達以外の利用者がいないおかげで
十分すぎるほどのスペースを確保できている。
 テーブルにはサンドイッチとミネラルウォーターが並んでいた。
 あたしが気にしてたことは、風岡さんが練習に付き合っている事でも、
食事に文句があるわけでもない。
 問題があるのは、あたしの目の前で風岡さんがサンドイッチを
食べようとしていた事だった。

かずさ「あのさ、大丈夫なの?」

 あたしの視線を追ってくれたのか、今度は意図が通じる。
それと同時に、大丈夫だという意思表示なのか、風岡さんはサンドイッチにかぶりついた。

763: 2015/07/27(月) 06:40:54.15

麻理「あぁ、春希なしで食事ができるかってこと? 一応リハビリの一環として春希なし
   での食事もするようにしているのよ。まだ週一回くらいのペースだけどね」

 それは聞いているけど、そうじゃないだろ。だって、この前まで吐いて、
食べられない状態だって聞いているんだぞ。
 そりゃああたしの前では弱気な姿を見せたくはないだろうけど、
……でも、でもこれって強すぎるだろ。そんな人が相手だなんて、勝てないって。
 無理だろうがなんであろうと平常心を作り出そうとするその姿に、
あたしは勝てないと実感してしまう。
 この数日、風岡さんは無理に笑顔を作ろうとはしてこなかった。
でも、笑顔は無理でも普通に生活できるようにと努力していた。
 あたしはといえば、気持ちが抑えきれなくなったら部屋にこもり、
出来る限り汚いあたしを春希には見せないようにしていたにすぎない。

かずさ「そっか。あたしになにができるってわけでもないけど、
    無理だけはしないでほしい」

麻理「大丈夫よ。無理をしたって意味はないもの」

かずさ「そうだな。…………あのさ、味覚がないってどんな感じなんだ? ごめんっ。
    無神経だった。今のは忘れて欲しい」

麻理「別にいいのよ」

かずさ「でも……」

麻理「そうねぇ……、最初は驚いたけど、味覚がない事自体は慣れたわ」

かずさ「そうなのか?」

麻理「今はわずかだけど味覚が戻ってきたというのもあると思うけどね」

 たぶん風岡さんはあたしが春希から風岡さんが再び味覚を失った事を
聞いているってしらなんだ。
 でも、あたしが来る前までは味覚が少し戻ってきたのはほんとらしいし、嘘ではないか。
 それに、言葉にはしてないけど、春希がそばにいるっていうのもあるんだろうな。
あたしの前では言えないだろうけど。
 そんなあたしが考えている事に気がついたのか、
風岡さんは微妙な照れ笑いを浮かべると、その笑みを打ち消すように話を続けた。

麻理「でもね、味覚そのものは我慢できるけど、なんていうのかな、トラウマって
   いうの? 味覚がないだけで食べても気持ち悪くはならないはずなのに、
   一度気持ち悪くなってしまった恐怖なのかな。
   そういうのが残ってしまって食べるのが怖くなってしまったのはきついかな」

かずさ「それは…………」

麻理「春希が私の前からいなくなるという事が原因だけど、それも大丈夫だから」

 風岡さんはあたしが口にできなかった言葉を代りに紡ぐ。
 結局はあたしが無理やり言わせてしまったことに自責の念を抱かずにはいられなかった。
 やはりこの人は強い。このあたしにすら弱いところを隠さないなんて、
あたしなら絶対に無理だ。

麻理「そんなに身構えなくてもいいわ。春希はかずささんのことを一番に考えているわ。
   私のリハビリも春希のニューヨークでの研修までって決めてるから。
   だから、それまでは我慢してくださいとしかいえないけど」

かずさ「ううん、いいんだ。あたしが春希から逃げたのも原因の一つだから。
   でも、春希は知ってるのか? リハビリが研修終了までって」

麻理「まだ言ってないわ。だって私の体調が完全になおるのっていつになるか
   わからないもの。それなのに期限を決めるなんてことをしたら、
   春希にプレッシャーを与えてしまうわ」

かずさ「でも、…………研修が終わったらって」

麻理「まあ私の中で決めていることだけどね」

 それって…………あたしと同じように突然春希の目の前から消えるってことかよ。
 そんなことしたら春希が傷つくに決まってるじゃないか。

かずさ「駄目だっ!」

 静かな休憩室に声が響く。廊下にも声が漏れただろうが、幸い防音処置がされている
他の利用者がいるスタジオ内には聞こえてはいないようだ。廊下にいれば聞こえて
しまっただろうけど、今は目の前の風岡さんに…………いや、
あたしは春希の事を心配してしまった。
 風岡さんは、春希だけでなくあたしの事まで気にかけてくれているのに、あたしときたら
体調を壊している人を目の前にしながら、ここにはいない春希のことばかり考えていた。
 どこであっても春希が世界の中心で、どこまでも行っても春希しかいない世界。
 最近では母さんやフリューゲル先生もいることはいるけど、
それでも春希がいなければあたしの世界は成立しない。

764: 2015/07/27(月) 06:41:31.24

 そんな独善的で独りよがりの世界は、あたし以上に春希を大切にしている存在を
前にすると、あたしはあたしの世界の幼稚さに打ちひしがれてしまう。
 だめだっ、逃げ出したい。
 今はピアノさえも弾きたくない。コンクールなんて無理に決まってる。
 ましてや今のあたしの演奏を春希に聴かせるなんて絶対にいやだ。
 母さんはあたしの演奏を聴いて何か思うところがあるみたいだったけど、
きっとあたしが今気がついた事に気が付いていたんだろうな。
 でも、なにも言ってこないって、放任主義にしてもやりすぎだよ。
こういうときくらいは助けてくれても…………。
 駄目だ。
 あたしったら今も誰かに頼ってしまってる。風岡さんは一人で頑張ろうとしているのに。
 あたしが春希を奪い去っていこうとしているのに…………。

麻理「大丈夫よ。いきなり春希の前から消えたりなんてしないわ」

 何も言ってないのにあたしの考えている事がわかるんだな。
 …………違うか。この人は、この女性は、あたしにそっくりなんだ。
 あたしができないことを実践してしまうところは大きく違うけど、
やっぱりこの人も春希が世界の中心で、春希の為を思って行動してるんだ。
 だから春希の為にそばから離れようとして、春希が冬馬かずさの元に行けるように
準備を進めているんだ。
 だとすれば、あたしの予想なんてあたってほしくはないけど、風岡さんの病状って、
あたしが思っているよりもよっぽど悪いんじゃ…………。

麻理「ちゃんと春希とは話しあうつもりよ。それも研修が終わる直前ではなくて、
   それなりに春希が気持ちの整理ができる時間もとるつもり。だから、春希が
   傷ついたままであることもないし、私の事が気がかりでかずささんのところに
   行けないなんてことはないわ。それに、私の職場は開桜社ニューヨーク支部だし、
   やめるつもりもないわ。だからね、どこかに消えようにも消えられないって
   言うのかしら? まあ、根っからのワーカーホリックだって言われそうだけど、
   こればっかりは自覚してるからしょうがないかな」

かずさ「あのさ……」

麻理「ん?」

かずさ「あの……………………、風岡さんっ!」

 今さっきまで笑顔だった風岡さんから表情が抜け落ち、同性のあたしからみても
華奢で女らしい肢体が目の前で崩れ落ちていく。
 腕か何かがに引っかかって椅子も倒れ、風岡さんの重さよりも椅子の方がよっぽど重い
んじゃないかって思えるほどその体は静かに床で弾む。
 椅子が倒れ、ガンっと響く音が風岡さんの代りに泣き叫んでいるようで、ここでも
風岡さんは自分の事を後回しにしているなんてどうしようもない事を考えてしまった。
 ようは、あたしは目の前で起こっている現実に理解が追い付いていっていなかった。
 今目の前で風岡さんが倒れ、助けが必要なはずなのに、あたしは何もできないでいる。
 そうか。そうだったんだ。だからか…………。
 あたしは、マンハッタンにある開桜社の会議室で春希に出会った時から現実を
受け入れてなかったんだ。
 テーブルを見渡すと、
ついさっきまで元気だった風岡さんが食べていたサンドイッチがおかれていた。
 それをよく見ると、パンには綺麗な歯型が残っていた。
 そう、歯型が綺麗に残っていて、パンを噛みきった跡など残ってはいない。
 つまり、風岡さんはサンドイッチを食べることができなかったんだ。





第56話 終劇
第57話につづく







第56話 あとがき

実はこの辺からプロットの手直しをした部分となります。
さすがに一年前は終盤で力尽きていたようで、今回どうにか挽回できたでしょうかね。
…………できたらいいな。

更新時間ですが、もうしばらく朝になったり夕方になったりと
不安定になるかもしれません。
大変申し訳ありませんが、ご了承してくださると助かります。

来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。

黒猫 with かずさ派


766: 2015/08/03(月) 04:05:59.67

第57話



かずさ



 手の震えが止まらない。
大事なコンクールの本番前であろうとあたしの手が震えたなんて事はなかった。
 このままあたしも意識を失ってしまえばどれほど楽だっただろう。
 でも、そんなことはできない。
 春希が悲しむから。
 どこまでも独善的な理由で自分を奮い立たせようとするあたしに、
あたしは自分が嫌いになってきていた。
 それでも震えながら椅子から立ち上がり、テーブルの下を見つめると、
風岡さんが青白い顔をして倒れたまま動かないでいる。
 今さっきまであたしと話していたのに、どうして?
 元気ってわけでもないだろうけど、倒れるような雰囲気はなかったはずなのに。
 でに、サンドイッチ食べられなかったかの。そうだよな。だって、
風岡さんはあたしが来てからは、まともに食事ができないでいたって春希が言ってたし。
 やっぱり、あたしの前では弱ってる姿なんて見せられないよな。春希にしかみせられないよな。
 あたしは風岡さんみたいに春希に弱ってる姿なんて見せられなかった。
いつもかっこいい冬馬かずさを見せたいって思っていて、いっつも空回りして、
空回りしかできないで、最後の最後で春希を困らせて傷つけた。
 もっとあたしが春希に甘えられていたら。
 もっとあたしが春希を信頼していたら。
 あのとき、あたしが素直になっていたら、
彼女を深く傷つけることなんてなかったのかもしれないのに。

麻理「…………んっ」

 かすかに漏れる出る苦痛の吐息にあたしは現実に引き戻される。
 この人を助けないと。春希が大切にしているこの人を助けないと。
 あたしになにができる? なにをしないとしけないんだ?
 そうだ。人を呼ぶんだよな。でも、誰を?
 あたしはいまだに震えが止まらない手を無理やり動かし携帯を手に取る。
 ウィーンでは何度も電話しようとしても最後までやり遂げることが
できなかった春希の番号を迷いもなく押す事ができた。

春希「もしもし? …………もしもし?」

 春希の声が聞こえるっていうのに、あたしはなにを話せばいいかわからないでいた。
 こっちが無言でいると、春希のほうもこっちに異常があったのではと声に焦りが混ざってくる。
 春希の焦りを感じてもなお、あたしは声を出せないでいた。

春希「かずさ? 今練習の休憩中か? ……かずさ?」

かずさ「……あ」

春希「かずさ? いるんだろ? なにかあったのか? なあ、かずさ?」

かずさ「かざ…………」

春希「かざ? かずさ?」

かずさ「だ、から…………」

春希「かずさ? かずさが言いにくい事なら麻理さんに代わってもらってもいいぞ。
   麻理さんいるんだろ?」

かずさ「だから、風岡さんが…………」

春希「麻理さんが?」

 ようやくあたしが言葉を紡げるようになったおかげで春希の言葉から焦りの色は消えていく。
 しかし、あたしの様子が変である事には変わりはなく、
春希はあたしの異常を気にかけているようであった。

かずさ「いきなり倒れて、だから、どうしたらいいかわからなくて。
    助けて……助けて春希っ!」

春希「かずさ落ち着け。今麻理さんと二人なのか?」

かずさ「うん」

春希「スタジオにいるんだよな?」

かずさ「うん」

春希「スタジオのスタッフは?」

かずさ「いると、思う」

767: 2015/08/03(月) 04:06:27.03


春希「わかった。誰でもいいからスタッフに携帯を渡してほしい。あとは俺が伝えるからさ」

かずさ「うん。……ごめん」

春希「いいって。俺もすぐ行くから」

かずさ「うん」

 春希が救急車よりも早く来て、
病院へ風岡さんが運ばれていくのをあたしはそばで見ていただけだと思う。
 春希の声を聞く事ができて安心できたという事もあるけど、
目の前で風岡さんが倒れたというショックもでかかったはずだ。
 いつの間にかに母さんも病院にやってきてあたしをホテルに連れ帰ろうと
したらしいんだけど、それはあたしが拒否したらしい。
 どうもそのへんの事情はあたし自身でさえあやふやだけど、あとで母さんに聞いた話に
よると、あたしが春希の側にいたほうがいいと思って無理には連れ帰らなかったとか。
 つまり、あたしの精神状態も相当やばかったんだと思う。
 錯乱状態で暴れまくったわけではなかったみたいだけど、今のあたしが考えつく答えとしては、
もしかしたらあたしが風岡さんみたいになっていたかもしれない未来と重ねてしまったのだろう。

春希「かずさ、大丈夫か?」

 病室から出てきた春希は、あたしの顔を見て不安そうな顔で尋ねてくる。
 静まり返った廊下は人の気配はなく、ときおり遠くの方で響く足音がする程度であった。
 最初は風岡さんは処置後に大部屋に移される予定だったらしいが、母さんがあたしとの
繋がりを隠す為に個室に移したとか言ってたけど、それだけじゃない気がする。
 きっと母さんなりに風岡さんに負い目があったんだと思う。
 あたしも母さんも風岡さんを追い詰めたって自覚があるから。
 もちろんあたしも春希も、そして風岡さんも加害者であり被害者ではあるはずだけど、
誰よりも自分以外の二人を大切にしていたのは風岡さんだっていえる。

かずさ「あたしは大丈夫だよ。風岡さんは?」

春希「今日はこのまま病院に泊まって、明日には退院できるだろうって。幸い明日は日曜日
   だし、月曜日からは麻理さんの事だから出社しそうだけど、どうしたものかなって
   考えてはいる。普通なら家で休んでもらったほうがいいんだろうけど、麻理さんの
   場合は仕事をしている方が落ち着くのかなって」

かずさ「……そう。春希は?」

春希「俺? 俺は仕事に行くと思うけど」

かずさ「違くて……、ショック受けたりしてないのかなって」

春希「俺の場合は覚悟ってほどではないけど、麻理さんと一緒に暮らしていたからさ。
   だから、麻理さんの事を支える為の心構えくらいはできていたから大丈夫。でも、
   かずさはショックだったんじゃないか? 俺の事を気にするよりも、
   コンクールの事だけを考えていいんだぞ」

かずさ「コンクールは別に大した問題じゃないよ。本番は来年のジェバンニだし」

春希「でも、スポンサーとかあるって言ってたじゃないか」

かずさ「そうだけどさ、そのへんは母さんに任せてあるから」

春希「だったらなおさら今回のコンクールも頑張るべきじゃないか? 曜子さんも色々動いて
   くれているみたいだし、その期待には応えたほうがいいと思うぞ。
   その為の練習をしてきたんだし、今はコンクールに集中すべきだ」

かずさ「だけどさ、あたしのせいで風岡さんが…………」

春希「かずさだけのせいじゃない。俺のせいでもあるから」

かずさ「だけど、あたしの目の前で倒れたっていうのに、あたしは何もできなかった」

春希「それは仕方がないことじゃないか。
   誰だっていきなり人が倒れられたらパニックになるだろうし」

かずさ「でもっ、あたしが風岡さんを傷つけて」

春希「俺もかずさを傷つけた。日本で、かずさがいるって知らないでさ。…………駅前で
   見たんだろ? 俺が麻理さんに抱きしめてもらっているところ」

かずさ「あっ……うん」

 あの時の光景は今でも夢に出てきて、うなされて起きる事がある。
 春希の前から逃げたっていうのに、しかも会いに来てくれたのに会わなかったというのに
何を言ってるんだよって自分で自分を責めたいほどなのに、目の前で春希が離れていって
いるのを見せつけられてしまうと、あたしの覚悟の浅さを思い知らされてしまう。
 それと同時に春希への想いの深さを知ることにはなるけど、
そんなの春希に伝えなきゃ意味がない事だ。


768: 2015/08/03(月) 04:06:53.18

春希「あれさ、なぐさめてもらっていたんだ。俺の心がボロボロになって仕事に逃げて、
   体までボロボロになっていたところを麻理さんに救ってもらおうとしていたんだ。
   麻理さんから逃げようとすれば、必ず麻理さんが追ってきてくれるって
   わかっていてさ、わざと逃げて、そして、抱きしめてもらった」

かずさ「……そっか」

春希「俺は、ずるいんだよ。麻理さんを罠にはめたんだ。その結果俺の体調は良くなった
   けど、俺以上に麻理さんの体と心はボロボロになった。なにやってるんだかって
   話だけど、俺のせいで麻理さんを傷つけてしまったんだ。……最低だろ? だから、
   麻理さんが完全復帰とまではいかないまでも、ふつうに食事ができて、
   仕事に打ち込めるようになるまでは待っていてほしんだ。
   それまでは麻理さんを一人にはできない」

かずさ「そうだよね。あたしもその方がいいと思う」

春希「だから、もう少し待っていてほしい。必ずかずさの元に行くから、
   だから、もう少しだけ時間がほしい」

かずさ「春希…………」

春希「身勝手な話だってことは重々承知してる。曜子さんにも呆れられるだろうし、
   かずさを傷つけてしまうってこともわかってる。でも、頼む。麻理さんを助けたいんだ」

かずさ「春希……。わかったよ」

春希「ありがとう」

 あたしは春希の顔を見ることができなかった。
 春希はあたしが怒っていいるか照れ隠しをしているんだろうと思っているみたいだけど、
実際のあたしはそんな綺麗なあたしではなかった。
 むしろ怒っていられればどれほどよかったことか。
 感情のままに春希に怒りをぶつけ、泣きさけんで春希を困らせる。
そして、駄々っ子になりさがったあたしをあやしてもらって、一件落着?
 そんな単純で、純粋で、綺麗事だけで済ませられる自分でいたかった。
 だってあたしは、春希に伝えられなかった。
 風岡さんは春希の研修が終わったら、
今のリハビリ共同生活を終わらせるつもりだって言ってたんだから。
 そのことを春希はまだ知らない。
 それなのにあたしは春希がしばらく待ってほしいという希望を聞き入れてしまった。
春希の事をしばらく待つ必要もなく、半年もすれば共同生活が終わるのを知っていた。
 だから春希の要望を聞き入れる事が出来たって思えてしまう。
 そんな醜いあたしが、そんな汚らしいあたしを、どんな顔をしているか
わかったものではないあたしを、春希に見せたくなかっただけだった。







翌日 かずさ


 翌日春希と一緒に病院に向かうと、風岡さんの体調は回復し、
今すぐにでも退院しようと準備を進めていた。
 その姿を見てほっとしたのと同時に、この強さの源はなにかなって考えてしまう。
 考えるまでもないか。だって春希に弱っている姿をいつまでも見せたくはないもんな。
 あたしだったらそうするだろうから、風岡さんならなおさらか。

春希「退院の許可は下りましたけど、今日いっぱいはしっかりと休んでくださいよ。
   医者もそうするように言っていましたし、もし休んでくれなければ、
   明日無理やりであっても休んでもらいますからね」

麻理「わかっているわよ。それに今日はもともと日曜日だし、休みの日よ。仕事はしないわ」

春希「それならいいですけど」

麻理「かずささんもありがとね。目の前で倒れられたらびっくりするわよね」

かずさ「あたしは何もできなくて、ごめん」

麻理「いいのよ」

かずさ「……でも」

麻理「それに、練習の邪魔しちゃって、こっちのほうが悪い事をしてしまったって
   思っているのよ。今日も練習あるのでしょ?」

かずさ「このあと行く予定」

麻理「そう。……曜子さんに毎日練習を聴きに来るようにって言われているけど、今日は……」


769: 2015/08/03(月) 04:07:20.40

かずさ「いいんだ。そのくらい母さんもわかっているから」

麻理「ごめんなさいね。でも、春希医師の許可が下りでば行けるかもしれないから、その時はよろしくね」

かずさ「あぁ、でも無理はしないでほしい」

 春希は苦笑いを浮かべながら風岡さんの提案にさっそく不許可を示す。
 その姿がなんだか微笑ましく思えてしまう。ちょっと前までのあたしなら激しい嫉妬を
だだ漏れにしてしまっているはずなのに、今は心静かにその姿を見つめることしかできないでいた。

春希「じゃあ支払いの方を済ませてきますね。その間に持ってきた服に着替えておいて
   ください。あっでも、支払いに時間かかるだろうからゆっくりでいいですからね」

麻理「わかってるわよ。でも、休日だし支払いはすぐ終わると思うけど?」

春希「だったらもう一度担当医師とお世話になった看護師の皆さんに挨拶してきますから、
   ゆっくり帰宅の準備をしていてください」

麻理「はぁい」

春希「じゃあかずさ。後頼むな」

かずさ「あぁ、任せておけとは言えないけど、留守番くらいならできるかな」

春希「それで十分だよ」

 春希を送り出すと、さっそく風岡さんは着替えを始める。あたしが病室から出ていく
べきか迷っていると、風岡さんはあたしがいるのに着替え始めた。
 まっ、女同士だしいいか。それに、着替えの最中に倒れられても大変だしな。
 と、あたしはとりあえずエチケットというわけでもないが、
着替えを見ないようにと窓際まで進み、どことなく目を外へ泳がす。
 布が擦れあう音がしばらく続いたが、それもすぐに終わりを迎える。
 
麻理「お待たせ。服は着替えられたけど、汗で体がベトベトなのは嫌よね。
   はぁ……、早くお風呂に入りたいわ」

かずさ「病院に来る前に春希がお風呂の準備していたみたいだから、
    家に帰ったらすぐにお風呂入れると思うよ」

麻理「さすが春希ってところね」

かずさ「そうだな」

麻理「春希って昔からこんな感じなのかしら?」

かずさ「こんな感じって?」

麻理「女心には鈍感なくせに、他の事なら先回りっていうか事前準備が
   万全っていうのか。……そういう感じ、かな」

かずさ「それだったら昔からそんな感じだと思う。しかもお節介で、
    こっちの迷惑を考えないで行動するところがうざかったかな」

麻理「うざかったっていうことは、今ではうざいほどにかまってほしいって事じゃない?」

かずさ「そんなことは…………」

 この人に嘘をついても意味はないか。虚勢を張っても絶対に見破られるだろうし、
それにこの人には嘘をつきたくないっていうか。
 そうだな。日本にいるだろう彼女とは違うタイプ。そう、彼女とは正反対だけど、
それでも素直でまっすぐで、春希の事を想うだけじゃなくて、しっかりと前をみて行動できる人。
 今はやややつれた顔色を見せてはいるが、それさえも大人の魅力だと思えるほど人を引きつける。
 気丈に振舞う姿もやせ我慢とは違う意思がこもった言動は、
春希じゃなくてもそばで支えたいって思えたしまうんだろうな。
 そんな風岡さんが羨ましくて、逃げ出したくて、自分がみすぼらしく思えてしまう。
 でも、そんな人だから、春希だけじゃなくてあたしも認めたくなる人だから、
あたしも病気を克服してほしいって思えてしまった。

かずさ「そうだな。春希は昔からうざくて、こっちが迷惑だって追い払ってもしつこく
    付きまとってきたけど、今ではそれも懐かしいかな」

麻理「そっか。でも、私が知っている北原春希は、そんなねちっこさなんて見せは
   しなかったけど、物事の先を見て行動している奴だったかな。ほんとに大学生なのっ
   て思えるほどしっかりしていたけど、しっかりしすぎて自分の体っていうか、
   体調面なんて気にもせず働いてしまう部分は心配だったけどね。まあ、あとになって
   何故春希がそこまで体をいじめ抜いていたかを知ったら理解できたわ」

かずさ「春希は……、危うかったのか?」

麻理「そうね。こちらが止めに入らなければ働き続けていたでしょうね」

かずさ「あたしのせいだ」


770: 2015/08/03(月) 04:07:53.97

麻理「自分だけを責める必要なんてないと思うわよ。失礼で、しかもお節介すぎるとは
   思うけど、春希から高校でのあなたたちのことは聞いたわ。身勝手な他人からの
   意見としては、みんな悪かったってことじゃないかしら? 当事者じゃないから
   適当なことしかいえないけど」

かずさ「お節介な奴には慣れているから大丈夫だ。それに、春希が教えたんなら、
    その必要があったってことだよ。だから、雑誌の記事にされるのは困るけど、
    風岡さんが知っている分には構わないよ」

麻理「ありがとう」

かずさ「いいんだ。……春希は、どうだったんだ?」

麻理「かずささんがいなかった間のことかしら?」

かずさ「あぁ……」

麻理「私も大学での春希を知っているわけでもないし、編集部では仕事を一生懸命
   やっていたっていうことしか知らないのよね。かずささんのことを聞いたのも
   つい最近だっていってもおかしくないほどだし。でも、そうね。春希も認めている
   事だけど、仕事をすることで見たくない現実から逃げていたわ。くたくたになるまで
   仕事して、大学でもきっちりと勉強して、そして家に帰ったら何も考えずに
   寝られるようにしていたって教えてくれたわ。やっぱり私も春希も、そしてかずささん
   も周りの評価ほど強くはないのかもしれないわね。いっつも見栄張って強いふり
   していても体と心はガタガタになってるし」

かずさ「そうだな。笑えないほど見栄張っちゃって、自業自得だ」

麻理「見栄を張る事自体は悪くはないわ。そこそこでやめられるようにしないといけど」

かずさ「高校で一度やめたピアノも、春希に引っ張られて再開したんだ。結局は春希から
    逃げる為にピアノを利用してウィーンまで行っちゃったけどさ」

麻理「春希は仕事で、かずささんはピアノかぁ。似た者同士ね」

かずさ「それは風岡さんもだろ?」

麻理「かもしれないわね」

かずさ「でもさ、ピアノは春希の為だけに弾いてきたわけじゃないけど、
    やっぱりこのままコンクールに出ないでウィーンに帰りたいと思う」

 あたしからしたら衝撃発言だと思うのに、風岡さんは驚かない。
 この人はやっぱりわかっていたんだな。
 あたしが逃げ出したいってわかっていたんだ。
 すべてを見透かすような瞳は嫌いじゃない。
だって、あたしを写す鏡みたいで、どこか応援したくなってしまうから。

麻理「そう……。春希には?」

かずさ「まだ伝えてない」

麻理「曜子さんには?」

かずさ「母さんは、わかっていると思う。あたしの練習を聴きに来ても何も言っては
    こないけど、たぶん母さんは全てわかっていると思う。
    あたしが弱い人間だと誰よりもわかっているからさ」

麻理「そうかしら?」

かずさ「なにが?」

麻理「曜子さんはかずささんが弱いって知っていると思うわ。母親であり、先生であり、
   なによりもかずささんの一番の理解者だもの」

かずさ「そうだろうな。ぜったい母さんには言えないけど」

麻理「そうね。いいお母さんね」

かずさ「外から見ている分にはそう思えるだろうな」

麻理「そうかしら? ……でも、いつも驚かされないといけないとしたら
   苦労するかもしれないわね」

かずさ「だろ?」

麻理「だけど、かずささんの将来を一番心配しているのも曜子さんだし、
   信頼しているのも曜子さんよ」

かずさ「あたしを過大評価しているだけだ。あたしは母さんみたいには強くはない」

麻理「だからウィーンに帰る?」

かずさ「そうだ」

771: 2015/08/03(月) 04:08:22.76


麻理「あと半年もないわ。そうすれば春希はかずささんの元に戻るわ。だから……」

 風岡さんの魅力的すぎる提案にあたしの心は揺れ動く。
 弱いあたしは今すぐにでもあたしだけの幸せを求めようとしてしまう。
きっとこの幸せを手繰り寄せても幸せになると思う。
 春希も風岡さんのことを気にしながらも、あたしの事を誰よりも大切にし、
あたしだけを見ようとしてくれるはずだ。
 あたしも、たまに春希がニューヨークの方角によそ見をするのを気がつかないふりを
続ければ、穏やかで愛され続ける日々を送れるはずだ。
 だけど、それが本当にあたしが求める幸せなのかな?
 あたしだけが幸せになるって本当にあたしが求めるものかな?
 だってあたしは、春希に幸せになってほしい。
 誰よりも愛していて、世界でただ一人愛する春希には、幸せになってほしい。
 それに、あたしが幸せにしてあげたいとさえ思ってるし、
春希を幸せにするのはあたしの役目だって、誰にも譲れないって思ってる。
 だから、だからこそ、風岡さんが差し出す甘すぎる幸せは、受け取れなかった。






第57話 終劇
第58話につづく









第57話 あとがき


ようやくかずさの出番が増えてきて、ほっとしております。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派





773: 2015/08/10(月) 05:51:09.37

第58話

麻理


かずさ「あたしは、……あたしは春希に弱っているところなんて見せられない。かっこ悪い
    ところを見せる事ができなくて、いつも空回りするんだ。その点風岡さんは自然体の
    自分を春希にさらせていて、うらやましい、と思ってしまうんだ。わかってる。
    わかってるよ。あたしの考えがずるいってわかってるんだ。でもさ、
    しょうがないじゃないか。どうしたらいいかわからないんだ」

 かずささんは私の事を素直で正直な女だとも思っているのかしら?
 私だって恥ずかしいものは恥ずかしいし、病気の姿なんて見せたくはないのに。
しかも、その原因が春希なんだから、その原因を知っている春希がどう感じているか
なんてかずささんならわかるはずよね。
 春希が私の側にいていくれる理由が純粋に愛情だけだったら、
それこそ喜んで病気だろうと、恥ずかしいほどの情けない姿だって見せてあげるわ。
 でも、春希が私の側にいてくれるのは責任感が大きく占めるのよね。
 それがどれほど辛いか。どれほど逃げ出したいか。
 どれほど春希から離れられなくなってしまうかなんて、かずささんはわかってない。
 ただかずささんは、このまま私がいなくなっても春希の気持ちがおさまらない、
風岡麻理を元気にできないままではいられないって思っているのかしら?
 そんなことはないのに。私が春希のもとをさったら、
今度こそ春希は私を一人にしておいてくれてしまう。
 私が春希の側にいるのが辛いという気持ちを理解してしまう。
 それに、春希はいつだってかずさんのことを一番に考えてしまっているのよ。

麻理「私だって春希にいいところを見せたいと思っているわ。ただ私の現状を考えると、
   いくらかっこつけても意味がないってだけだから、わざわざ意味もないあがきを
   していないだけ。だって、そんなことをしても春希が私に気を使わせるだけなのよ。
   だったら春希の為にも私は無様といわれようが情けない姿を春希にさらすわ。だから、
   かずささんが考えているみたいに自然体の私を春希に見せているわけではないわ」

かずさ「そんなことはないっ。だってあたしが風岡さんと同じような状況だったら、春希には
    見せられないよ。ぼろぼろのあたしなんて見せることなんてできない。
    それこそすぐに春希の元から逃げ出しているはず」

麻理「じゃあ、今も逃げてしまうのかしら? たぶん春希は追いかけてはこないわよ。
   だって、春希がかずささんの側にいることでかずささんを傷つけてしまうのならば、
   春希は自分から身を引いて、かずささんの幸せだけを考えてしまう、はずね。
   春希は自分の事よりもかずささんのことを考える人だもの」

かずさ「だろうな。実際あたしがウィーンに逃げても、追いかけてくるどころかメールの
    一つもくれなかったからな。ただ、あのことは他の理由もあったことはあったけど…………」

 あぁ……、そうだったわね。
 春希も高校での出来事がなければ、自分の気持ちに正直になってウィーンに言ってるわよね。
 まあ、そんな「もし」を考え始めてしまったら、そもそもかずささんはウィーンに行っては
いないのかもしれないし。ううん、春希のことだから、春希がウィーンの大学にでも入学
して、かずささんがピアノの勉強ができる環境を優先していたかもしれないわね。
 もしもの話はおいておいて、自分で言った事ではあるけど、今の春希はかずささんの為に
自分の感情を押し頃す事を平気で実践することができるって理解してしまうと、
春希は薄情な男って評価してしまいそうね。
 冷静に考えれば、春希の思いやりはただしいんだろうけど、女の立場からすれば、
私の気持ちなんて考えないで追いかけてきてほしいって思ってしまうのよね。
 そんな乙女心っていうのかしら? そういう所は気がつかない人だったわ。

麻理「だったら、今回は春希と向かい合うべきよ。プライドとか見栄とか考えないで、
   裸の冬馬かずさを晒せばいいのよ」

かずさ「それは……。あたしは春希の為なら、見栄とかプライドなんて捨てる事はできるさ。
    だけどさ、裸のあたしを春希に見せたら、きっと春希は困ってしまう。あたしも
    春希と一緒にいたいよ。一緒にいたいけど、一緒にいられない時間が辛いんだ。
    一緒にいられない時間がたくさんあって、それを突き付けられると辛い」

麻理「でも、高校を卒業してから3年会えていなかったわけだし、
   それに比べればあと半年くらいは我慢できるはずよ」

かずさ「そうじゃない。そうじゃないよ」

麻理「え?」

かずさ「あたしが知らない春希が増えていくことが辛い。わかってるよ。24時間ずっと
    春希の側にいられることなんてできないってわかってはいるけど、でもさ、春希と
    再会して、数年ぶりに春希への気持ちを再確認したら、
    前よりも春希の事を好きになっていたんだ。
    そうしたら春希とずっといたいって思ってしまった。それの何が悪いっ」

麻理「悪くはないわよ。それが素直な気持ちなら」

かずさ「今までずっと我慢してきたのが、嘘みたいにできなくなっちゃって。これからは
    我慢なんてできそうにない。だから、だからさ。
    これ以上あたしの気持ちが制御できなくなる前に…………」

774: 2015/08/10(月) 05:51:37.87

麻理「逃げ出したい?」

 まるで私を見ているようね。
 私も春希から逃げるようにニューヨークに来たのよね。
 だって春希にはかずささんがいたわけだし、私が春希のそばにいたって報われる事はない。
 だったら一刻も早く春希の前から逃げ出すのが一番なのだけれど、でも…………。
 でも、おそらくかずささんもわかっているはず。
 春希の前から逃げたって自分の心を傷つけて、心のバランスが崩れるだけ。
 私みたいに味覚障害になるかはわからないけど、
最悪かずささんの場合はピアノが弾けなくなる恐れがありそうね。
 それこそ春希が自分の事を許せなくなりそうではあるけれど。

かずさ「そうだな。このままウィーンに帰ったほうがいいと思う」

麻理「私ね、思うのよ。春希はかずささんのずるい姿も見たいって思ってるって確信してる。
   だって春希ったら、私が人には見せたくもない弱っている姿を見ても
   態度を変えなかったわ。むしろ親身になって助けてくれた」

かずさ「何が言いたいんだよ?」

麻理「だからね、春希はかずささんの弱っている姿も、ずる賢い姿も、我儘を言っている姿も
   すべて見たいと思っているはずだわ。だって、春希だもの。春希の高校時代のことを
   話してくれたわよね。お節介でねちっこくて、こっちの都合なんてお構いなしで
   かまってくる委員長タイプだったかしら。だったら今もその委員長さんに甘えても
   いいのではないかしら? むしろ春希は積極的に甘えて欲しいと思っているはずよ」

かずさ「そう簡単にできるわけないだろ」

麻理「どうして?」

かずさ「それは……」

 かずささんが私にむけてくる視線は、眉は下がり、いつも力強い意思がこもった瞳は今は
影を落とし弱々しい。しかし、私がその視線に気がつくと、すぐさま視線を横にそらし、
気まずそうに目を伏せ、落ち着きがなかった。
 …………そっか。そうよね。春希のお節介は、
「今は」かずささんだけに向けられているわけではないのよね。
 それが期間限定であろうと、お情けであろうと、
私が拒否しなければ春希は風岡麻理を最後まで見捨てることなんてしやしない。

麻理「わかったわ」

かずさ「え?」

麻理「私も半年で春希の前からいなくなるのをやめるわ」

かずさ「え? えぇ~?」

麻理「そんなに驚かなくても」

かずさ「だって、だってさ」

麻理「そんなに恋敵が消えないのが残念なのかしら? あぁそうね。
   そもそも恋敵の地位さえもらえていなかったわね」

かずさ「ちがうって。そんなこと思ってないって」

麻理「じゃあ、私の事を恋敵だと?」

 やはり私の視線から逃げるように目をそらすかずささんであったが、
目にいつもの力強い意思が戻ってくると、真正面から私を見据える。

かずさ「あぁ、最大の恋敵だ」

麻理「それは光栄ねとでもいうべきかしら?」

かずさ「あんたもわかってるんだろ? 春希が同情や償いだけでここまで親身になったりは
    しないって。春希があんたを大切にしているのは、あんたを手放さないのは、
    愛情がこもってるからだってわかってるはずだ」

麻理「ここでイエスと言ってしまうと自信過剰だって自己嫌悪に陥りそうだけど、
   たしかに春希から愛情を感じているわ」

かずさ「やっとあんたも素直になってきたな」

麻理「あなたも遠慮がなくなってきたわよ?」

かずさ「こっちはいっぱいいっぱいで、遠慮なんてする余力なんてない」

麻理「それもそうね。私も余力なんてありはしないわけだし」

かずさ「でもさ、ちょっと冷静に考えてみると、春希って、ただの浮気やろうだよな」


775: 2015/08/10(月) 05:52:03.56

麻理「極論すればそうかもしれないけれど、ある意味純粋に行動しているわけだし、
   なによりもかずささんを一番大切にすることはぶれていないのだから、
   ただの浮気と断罪するのはかわいそうかもしれないわ」

かずさ「なにいってるんだよ。こんなにも可憐な女二人を不幸にしているのに、
   なにが二人を幸せにしたいだ」

 あっ……、なんかかずささんのリミッターが外れちゃった?
 緊張が極限を超えてしまったから、こうなってしまったようね。ある意味ぎりぎりまで
張りつめた緊張感を乗り越えて演奏をしてきたピアニストらしい言動とも考えられるけど、
まっ、これは、ただの地ね。
 春希もかずささんはある一線を越えると遠慮がまったくなくなるって言ってたわけだし。

麻理「そうだけど、二人とも幸せにしようと奔走している姿だけは
   誉めてあげてもいいのではないかしら?」

かずさ「いいんだよ。ちょっとくらい愚痴を言っても」

麻理「でも、嫌いにはなれないのよね?」

かずさ「あたりまえだっ。それに、そっちもだろ?」

麻理「ええ、そうよ。本当は春希の研修後には春希から離れようと思っていたけれど、
   かずささんを見ていたら無理だってわかってしまったわ。だから、もう遅いわよ? 
   かずささんが駄々ををこねなければ邪魔ものが勝手に消えてくれていたのに、
   惜しい事をしたわね」

かずさ「ふんっ。そんな虚勢を張っていても、春希の前から消えて半年もしないうちに
    戻ってきそうじゃないか。あたしと違って我慢が出来ないようだからな」

 なにが我慢よ。どこかの忠犬みたいに、ずっとご主人様が来るのを待つなんて私には無理ね。
 どこかで諦めて忘れてしまうか、忘れる為に仕事に打ち込むか、
それとも、自分に正直になって会いに行くか、かしら。
 そうね、前の二つは今の私には無理か。
となると、必然的に最後の選択肢しかないのがまいってしまうところだけど。

麻理「そうよ。悪い?」

かずさ「悪いなんて言ってないよ。むしろ羨ましくもある」

麻理「なんだかいじらしいとも見る事もできるけど、じれったくもあるわね」

かずさ「言ってろ」

麻理「そんなかずささんの為に、一つ提案があるわ」

かずさ「どんな提案だよ?」

麻理「かずささんがニューヨーク国際コンクールに出るのは、調整の意味もあるけど、
   スポンサー獲得の意味合いもあるのよね?」

かずさ「たぶんね。スポンサーの方はコンクールで1位を取れば得られるのもあるけど、
    母さんはそれよりも数年単位でサポートしてくれるところを探しているみたいだな。
    あたしはタッチしてないから詳しいとこはわからないけどね。
    まあどちらにせよ、コンクールで1位をとる事は必然だな」

麻理「でも、コンクールで1位をとる自信はあるのよね?」

かずさ「当たり前だろ。なにせ本番は来年だからな。ここでつまずくわけにはいかないさ。
    それに、ニューヨーク国際のスポンサーは1位じゃないと意味ないからな。
    2位や3位にもサポートしてくれるみたいだけど、1位と比べると待遇が
    全く違うらしい。まさに別次元の待遇っていってもいいらしいよ」

麻理「だったらここでウィーンに帰るなんてできないわよね? 
   曜子さんが頑張ってスポンサーを探してくれているわけだし」

かずさ「それは……」

麻理「それに、1位になれば、ニューヨークを拠点にして演奏活動ができるのでは
   ないかしら? もちろんヨーロッパが本場だし、コンサートやコンクールのたびに
   ヨーロッパ遠征に行かなければならないけれど、それでも春希がいるニューヨークに
   拠点を構える事ができると思わない?」

かずさ「それは…………。ん? ちょっと待って」

麻理「なにかしら?」

かずさ「春希はニューヨークでの研修が終わったら、日本に帰るんじゃなかったのか?」

麻理「そんなことはいってないわ」

かずさ「でもあんた。半年たったら春希から離れるっていってたじゃないかっ」


776: 2015/08/10(月) 05:52:40.43

麻理「それは、私が春希から離れる準備をするっていっただけよ。そもそも春希は
   ニューヨーク支部勤務志望だし、このままニューヨークに残ると思うわよ。
   実際その為に春希は実績を見積み上げているわ」

かずさ「だったらなんで春希から離れるって言ったんだよ。あんたもニューヨークにいるんだろっ」

麻理「まあそうね。あたしが上司なわけだし、春希とは職場ではいつも一緒ね」

かずさ「だったら春希から離れるとはいわないだろっ」

麻理「顔も見ないとは言っていないわ。共同生活をやめようと考えていただけよ」

かずさ「ちっさい決意だな。ぜんっぜん春希から離れようとしてないじゃないかっ」

麻理「あなたには言われたくないわね。何年春希の事を思い続けているのよ」

かずさ「言ったな! あたしが春希のことだけを想っていて何が悪い!」

 ようやく過激な本音が出て来たわね。
 …………それは、私も同じか。
 だってね。私も春希から離れることなんてできやしないもの。

麻理「悪くはないわ。だって、私もかずささんと同じ気持ちだもの」

かずさ「……そ、そうか。そうだよな」

麻理「だからかずささん。ニューヨーク国際コンクールで1位をとって、ニューヨークの
   スポンサーを勝ち取ってください。そして来年のジェバンニ国際コンクールでも最低でも
   4位に入ってください。曜子さんと同じ4位ならば、スポンサーも認めてくれる
   はずよ。そうすればかずささんのニューヨーク進出が本格的に始動するはず」

かずさ「簡単に言ってくれるな」

麻理「簡単だとは思っていないわ」

かずさ「でも、必ず結果を残せって思ってはいるんだろ?」

麻理「ええ、当然よ。だって、春希と一緒にいたいのでしょ?」

かずさ「あたしがニューヨークに来たら、あんたは都合が悪いんじゃないのか? 
    あたしが母さんとウィーンにいてくれた方が春希を独占できるんだぞ?」

麻理「いいのよ。私が春希をかずささんの元に戻ってほしいという気持ちに嘘はないもの」

かずさ「でも、それだけではないんだろ?」

 あら? わかってしまうのね。……似たもの同士だからかな。

麻理「かずささんがニューヨークで活動してくれれば、春希もなんの障害もなくニューヨーク
   に居続けてくれるわ。そうすれば、私もずっとは春希の側にいられないとしても、
   春希がかずささんのことばかり気にかけていても、
   病弱な私の為に少しくらいはお情けをくれるはずかな?」

かずさ「だぁぁ……、したたかなやつだったんだな、あんた。
    もうちょっと大人の人だと思っていたら、実際はあたしよりもガキじゃないか」

麻理「そうよ。春希が好きなんですもの。だから、側にいたい。…………かずささん。
   お願いします。春希の側にいさせてください」

 私は背筋をぴんと伸ばしてかずささんと向き合う。
 凛とした瞳で見つめ返すその瞳には、もはや迷いはなかった。
 おそらく私を映し出す効果もあるその瞳には、私にももはや迷いがないってわかってしまう。

かずさ「わかったよ。これも春希のためだからな」

麻理「ありがとう、かずささん」

かずさ「だから、春希のためだって。春希がニューヨークにいられれば、
    あんたのリハビリも継続できるからな」

麻理「そうね。早くよくならないとね」

かずさ「あんたの病気に関しては、あたしも協力するよ。この前あんたが倒れた時は何も
    できなかったけど、これからは違うからな。もう覚悟できたから、逃げたりしない
    からな。だからといって、しょっちゅう倒れられたら困るけどさ…………」

麻理「ええ、宜しくお願いします」

 こそばゆい雰囲気が私たちの肌を撫でていく。
 これが友情だっていうのならば、これこそ歪な友情よね。
 だって、愛する男を介しての友情なんていつ崩壊するかわかったものではないもの。
 だけど、今はこれも悪くはないと思えてしまっている。
冬馬かずさを知れば知るほど親近感がわき出てしまうから。

777: 2015/08/10(月) 05:53:07.69


 いつかは本当に春希との別離を経験しなくてはならなくなるだろう。
 でもその時は一人ではないと思う。
 佐和子もいるけど、一番の敵であり理解者でもあるこの子がいてくれれば、
きっと私は立ち直れるって思えてしまう。

麻理「あとこれは言いにく事なんだけど、目上の人に対して「あんた」とか「そっち」は
   よしてくれないかしら? たしかにこちらの立場が下だとは思ってはいるけれど、
   もう少し人生の先輩を敬うとまではいかないまで丁重に扱ってほしいわね」

かずさ「だったら、……そうだな」

 かずささんは意地悪そうな笑みを浮かべている。
 これが冬馬かずさ本来の魅力だと、私は瞬時に理解した。
 いたずら好きで、自由奔放で、掴みどころがないくせに寂しがり屋。
 一人でいるのを求めながらも、愛する人や自分が認めた相手だけは手放さない。
 そういう可愛いらしい身勝手さを内に潜めた笑顔が、力み過ぎた私の肩から力を奪い取っていった。

かずさ「春希を好きになった後輩として、風岡さんのことを麻理さんって呼ばせてもらうよ。
    それと、麻理さんはあたしのことは元からかずささんだし、それでいいよ。
    もしかずさがいいんならかずさでもいいけど」

麻理「ありがとう。でも、私も先輩に対して呼び捨てにするわけにはいかないから、
   かずささんって呼ばせてもらうわね」

かずさ「そうしてくれ」

麻理「ええ、これからよろしく頼むわ」

かずさ「頼りにしてるよ」

 こうして私たちは協力する約束を結んだ。
 周りから見たら情けない女の同盟だっていわれそうだけど、
同じ男を惚れてしまったのだからしょうがないじゃない。
 それに、こんな歪な関係も、今は心地よいとさえ思えてしまっていた。




第58話 終劇
第59話につづく







第58話 あとがき


主人公は北原春希です。今まで出番が少なかったかずさの逆襲ではないはず?
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




779: 2015/08/17(月) 04:12:12.29

第59話



かずさ


 まっ、こんなものだろうな。
 ニューヨーク国際コンクルールの結果発表が行われ、
歓声がこだまする中、あたしは静かにその光景を見つめていた。
母さんは既にスポンサー候補だった企業担当者と今後のことについて話し始めているようだ。
 それなのにあたしとはいえばぽけっとしているだけで、
このコンクールの勝者であるはずなのに静かに時に身をゆだねすぎていた。
 別に嬉しくないわけではない。1位を取る予定だってし、1位を取りたいとも
思っていた。これで麻理さんとの約束も一部分だけだけど果たす事が出来た。
 といっても、ここからが本番であり、来年のジェバンニで勝つことこそ
大仕事なのだが、今はその本番のことさえも頭から薄れていた。

春希「かずさ、おめでとう」

麻理「おめでとうございます」

 この場の雰囲気に不釣り合いなオーラを撒き散らしていたせいか、
1位をとったのはあたしだというのに誰も寄りつこうとはしなかった。
 もともと目つきがきついとか、人を寄せ付けないオーラがあるとか言われては
いたけど、こうも露骨にされてしまうとすがすがしくもある。げんに、1位のあたしを
差し置いて2位や3位の奴らの周りには取材攻勢が盛り上がり、
あたしの周りには春希と麻理さんの二人がいるだけだった。
 あとで春希から聞いた話によると、あの二人は地元アメリカの注目ピアニストで、
つまりは地元の期待の星ってやつだったのだろう。
 こういっちゃなんだが、あたしが1位をかっさらっちゃって悪かったなってさえ、
聞いた直後には言いたくもなったってしまった。まあ、あたし達はすでに帰宅した
あとだったから、言うとしても春希と麻理さんにしか言えないんだけどさ。

かずさ「あぁ、そっちもお疲れさん。ほかの取材は終わったのか?」

春希「もともとかずさの特集記事を書く為に俺達があてがわれただけだから、ほかの
   ピアニストのものは代表質問のだけで十分だ、それよかかずさ。お前、せっかく
   1位貰ったんだから、もうちょっと愛そう良く質問に答えろよ。お前のあとで
   インタビューされていた2位の人の方がよっぽど愛そうが良かったし、途中から
   参加した奴がいたとしたら、かずさではなくて2位の人が1位だったと
   勘違いするほどだったぞ」

かずさ「べつにいいだろ。あたしが1位だったことは変えようがない」

春希「そうだけどさ。もうちょっと嬉しそうにできなかったのか?」

 どうも春希はあたしが1位らしからぬ言動に、ご機嫌斜めらしい。
 春希からしたら、もっとこの場で輝いた冬馬かずさをみたかったのかもな。
 でもさ春希。あたしは春希だけに見てもらえればいいとさえ思ってるんだよ。
ほかの連中になんて見てもらいたいと思わないし、見せたいとも思わない。
なんて言ってしまうとさ、春希の事だからピアニスト失格だなんて、お説教しそうだよな。
でも安心しろ。ピアノは別だ。ピアノの前ではあたしは正直でありたいし、誠実でもありたい。

かずさ「あたしも嬉しくないわけではないよ。でもさ、来年が本番なんだぞ。今回とは
    比べ物にならないほどのプレッシャーがあるし、参加者のレベルも高くなる。
    だから、ここで喜んでいる場合でもないのかなって」

春希「そ、そこまで考えてたのかっ」

春希が馬鹿でかい声をあげるものだから、周りにいた連中がこっちを見てるじゃないか。
それでも元々騒がしい会場とあって、すぐさまあたしたちへの興味は霧散していく。

かずさ「春希も大概だな。あたしをなんだと思ってるんだよ?」

春希「ごめんっ。かずさのことを馬鹿にしていたわけじゃないんだ。ただなんていうか、
   俺が知らなかった冬馬かずさっていうのかな。ピアニストの冬馬かずさと初めて
   向き合ったっていう感じだと思う。だけど、かずさのピアノの腕は昔っから
   尊敬しているし、ファンでもあるんだからな」

かずさ「わかってるよ。そんな急いで言い訳しなくてもわかってるさ。それに、あたし自身
    もあたしが冷静でいる事に驚いてるっていうのかな。ちょっと変な気分でもある」

春希「そうなのか? それはかずさがピアニストとして生きていく心構えが
   できてきたって事じゃないのか?」

かずさ「かもしれない。あたしも母さんにひっついてコンサートに行っていたからな。
    やっぱプロってすごいよ。楽器の腕だけじゃなくて演奏に入るまでの準備も
    すごかった。あとはそうだなぁ……。スポンサーとかもそうだし、美代ちゃん
    みたいに支えてくれている人たちがいる事も少しはわかってきたかな」

春希「それ、記事にしてもいいのか?」


780: 2015/08/17(月) 04:12:43.19

かずさ「うん? 別にいいよ。どうせ今まで一緒にいたけど、何が記事になって何が記事
    にならないかさえ分からなかったからな。それに、もし問題があったら母さんが
    ストップを…………かけないだろうな、絶対。笑いながらゴーサインだすぞ。
    あぁ~、春希。わかってるよな。あたしに恥かかせるような記事は書くなよ」

春希「メインのライターは麻理さんだから、俺がどうこうできる立場じゃないよ。でも、
   麻理さんがかずさのことを悪く書くとは思えないから安心しておけ。もしかずさが
   悪印象をもった部分があっても、それはかずさが突かれたくはない部分であり、
   直さないといけない所だと思うぞ」

かずさ「自分のことじゃないからって好きかって言ってくれるな」

春希「自分ことだよ。かずさのことは他人事じゃない」

かずさ「春希ぃ……」

 授賞式の興奮よりも、今春希がくれた心の方が数倍嬉しかった。
 ウィーンに逃げ、春希との繋がりが消えていき、あたしの存在さえも春希から消えて
しまう恐怖におびえてきたこの数年。今やっとその苦しみから解放された気がした。
 晴れ渡る空なんて陳腐な言葉で表現したくはないけど、元々語彙力が乏しいあたしには
今の気持ちを表現なんてできやしない。
春希や麻理さんなら、的確な言葉を選び、言葉だけであたしの感動を表現できるかもしれない。
 でも、あにいにくあたしにはその能力を持ち合わせてはいない。
 だったら、あたしにできる事といったらこれしかないよな。

かずさ「ちょっと待ってて。いや、こっちに来てくれ」

 あたしは春希の手を掴み、人混みをよけ進んでいく。
 行き先は決まっている。このコンクールで一番活躍したというのに、
今は部屋の片隅でオブジェになり下がっている黒い相棒。
 黒髪に、黒のドレス。それに黒いピアノ。
 黒づくしで派手さなんてものは全くない。それでもいい。
あたしの黒髪が好きだって言ってくれる春希がいればいい。
 この地味なドレスがよく似合ってるって誉めてくれた春希さえいればいい。
そして、あたしの一番のファンでいてくれる春希の為なら喜んでピアノを弾いてやるよ。
 だから聴いて欲しい。言葉にはできないけど、きっと春希になら届くはずだから。
あたしはピアノの鍵盤に指をのせ、春希に頬笑みかけると、春希の為だけに演奏を始めた。







 あたしたちは会場から早々に引き揚げ、家に戻り最後のインタビューをしていた。
 会場ではあたしの演奏で火がついたのか、ほかの受賞者までも演奏を初めてしまい、
会場はある種のパニック状態であった。
 まあ、会場にいた人たちは喜んでいたみたいだし、問題はないか。
演奏後のあたしにインタビューしてこようとするやつやら、ただ話しかけてくるだけのやつ
やらとか、面倒事に巻き込まれそうにはなったが、人のうねりがあたしを助けてくれた。
 そして今、麻理さんと春希によるインタビューは終わり、
これで全ての取材が終わった事になる。
 そうなるとあたしはここから出ていくことになるし、
そもそもコンクールが終わったのだからウィーンに帰る事になる。
 別にここに残りたいって駄々をこねるつもりはない。あたしが成長していくには
ニューヨークじゃ無理だから。
 今はウィーンで自分と向き合い、フリューゲル先生と母さんの教えに従って
練習しなければジェバンニでは勝てやしない。
 それに……、今のあたしじゃここにはいられないよ。いたらきっと嫉妬するし、
心が乱れまくってピアノどころじゃないだろうしな。

麻理「これで取材はお終いとなります。かずささん、ありがとうございました」

かずさ「いや、こちらこそ世話になったよ。だから、こちらこそありがとうだ」

麻理「記事については曜子さんのほうで処理するそうですから、かずささんもなにか
   あったら早めに言ってくれると助かるわ。差し替えしたい個所があるのなら、
   早めでお願いするわ」

かずさ「その辺は母さんに任せるとするよ」

麻理「春希」

春希「はい?」

麻理「明日かずささんはウィーンに戻ってしまうのだし、あとは二人でゆっくり
   話し合いなさい。私は今まで取材したのをまとめているわ」

春希「お言葉に甘えさせていただきます」

麻理「じゃあ、かずささん。素直になりさない」

かずさ「……善処する」

781: 2015/08/17(月) 04:13:15.05


 ほんと、素直になれたらっていつも思うよ。
 麻理さんは、あたしと春希をリビングにおいて自室へと戻っていく。
 あらたまって話し合いをしろっていわれてしまうと、変に緊張してしまう。
 それは春希も同じようで、なんだか落ち着きがない。ソファーを何度も座りなおして
いるのを見ていると、なんだか可愛らしく思えてしまい、あたしの肩が軽くなってしまった。

春希「どうした?」

 きっとあたしは笑ってしまっていたのだろう。
 だって、春希の顔が微妙に引きつってるから。

かずさ「いや、さ。うん。春希も緊張するんだなって」

春希「そりゃあするさ」

かずさ「そうだよな」

春希「でも、かずさのほうがすごいじゃないか。
   俺だったらあんな大舞台で演奏なんてできやしないぞ」

かずさ「そうかな? 春希だって学園祭で演奏したじゃないか」

春希「あれは高校の学園祭だろ。かずさが今回演奏したのは世界的に有名なニューヨーク
   国際コンクールであって、規模が違いすぎるだろ」

 春希にとってはそうかもしれないよな。
 でも、あたしにとっては同じなんだよ。聞いて欲しい人がいて、
その人の為に弾くんなら、どこで弾いても同じプレッシャーをうけるだけなんだ。

かずさ「会場に来ている客が違うだけだろ?」

春希「そんな単純なものじゃないと思うんだけどな」

かずさ「単純だよ。あたしは峰城大学附属高校3年E組、軽音楽同好会所属の冬馬かずさ
    であって、……いや、元峰城大であり、元軽音楽同好会所属かな。まあいいか。
    ……えっと、その春希がよく知る第二音楽室でピアノを弾いている冬馬かずさに
    すぎないんだ。ウィーンに行こうがニューヨークで弾こうが、
    どこであってもあたしは春希がよく知る冬馬かずさなんだ」

春希「かずさ?」

かずさ「だからさ、その………………あたしは北原春希が大好きな冬馬かずさにすぎない
    んだ。いつも春希を盗み見て、春希の事ばかり気になって、春希にあたしのこと
    だけを見てもらいたい冬馬かずさなんだ。今日の演奏も1位を取れたけど、
    やっぱ駄目なんだなって思う。母さんの演奏をそばで聴いていると、次元が
    違うと言ってしまえばそれまでだけど、冬馬曜子とは見ている世界が違うんだ」

春希「目指すべき目標みたいなものが違うってことか? 
   それともピアニストとしての格が違うとか?」

かずさ「どうだろうな。母さんもあれはあれですごい人格者でもなく、最低な母親である
    部分もあるから、高尚な目標があるわけでもないんだとは思う。だけど、
    ピアニストとしては尊敬してる。あの人を追い抜きたいって思ってはいる」

春希「ピアノの技術とかの問題ではないんだろうな」

かずさ「もちろん技術的な問題もあるけど、
    やっぱり……見ている世界が違うのが大きな問題だと思う」

春希「そっか。いつかかずさも曜子さんが見ている世界を見られるといいな」

かずさ「あぁ、……そうだな」

 簡単に、言うなよ。

春希「俺に出来る事ならなんでもするからな。なんたって、
   俺は冬馬かずさの一番の大ファンなんだから」

 だから、そんな事を言うなって。
 春希にできることはあるよ。でも、それをしてしまうと、さぁ……。

かずさ「本当にあたしの為なら何でもしてくれるのか?」

春希「もちろん。かずさが曜子さんの領域に行けるのなら、俺は喜んでなんでも協力するぞ」

 嬉しそうな顔をして言うなよぉ。泣きたくなるじゃないか。
 って、泣いてるのかな、あたし?

春希「かずさ?」

かずさ「よしっ。今の言葉忘れるなよ。あたしの為になんでもしてもらおうじゃないか」


782: 2015/08/17(月) 04:13:45.11
春希「ちょっと待て、かずさ。なんで泣いてるんだ? おい、かずさ」

かずさ「それ以上あたしに近寄るな。近寄っちゃ駄目だ」

 あたしの必氏の抵抗も春希には効果はない。
 何度も泣きやもうと試みて失敗するあたしを見ては、
春希はあたしに触れなぐさめようと前に進み続けてしまう。

かずさ「近寄るなっっっ!」

 自室に戻っている麻理さんにも聞こえているんだろうなぁ。
きっとあの人の事だから、あの人だからこそあたしの気持ちをわかってしまうはずだな。
 そっか。麻理さん。こういう気持ちだったんだ。
春希の為であり、あたしのためであり、麻理さんの為でもある決断。

春希「かず、さ?」

 怒りにも近い感情を呼び起こし、あたしの弱すぎる心を奮い立たせる。
 意味がわからず戸惑いを見せる春希に、悪い事をしたなって思いもある。
 でもさ、今は無理だよ。自分勝手な方法しか考えられないんだ。
 あたしのことなんて忘れくれ。
そうしないと北原春希が尊敬するピアニスト冬馬かずさは誕生しないんだ。
 そして、そうしないと春希の隣に居続ける資格もない。
 甘えてばかりの冬馬かずさは今日でお終いだ。
 でも大丈夫だよ、春希。春希の隣には麻理さんがいるからさ。
 麻理さんなら傷ついた春希を支えてくれるはずだよ。
 そうだな。世界で二番目に春希のことを愛しているこの人なら、
春希を前に進めさせてくれるはずだ。
 だから、…………さよなら春希。

かずさ「あたしたちってさ、恋人になったわけでじゃないよな」

春希「そうだけど、俺はかずさのことが……」

かずさ「言うなっ!」

春希「かずさ?」

かずさ「ごめん。今はごめんしか言えないんだ」

春希「……わかった」

 ごめんね、春希。今は春希の優しすぎる言葉は致氏毒なんだ。
 ほんのちょっとでも触れてしまえば溺れてしまう。

かずさ「恋人ではない。でも恋人に近い関係だと勝手に思っていたから、いいよね。
    こうやって別れ話をしても、いいよね? ちょっと変だけどさ」

 もはや春希は口を挟まない。
 あたしの言葉を一言も、息継ぎの呼吸さえも聞き逃すまいと耳を傾けてくれる。

かずさ「峰城大学附属高校3年E組、軽音楽同好会所属、冬馬かずさは、
    同所属の北原春希と、別れます。あたしと別れてください」

 あたしの言葉、届いたかな?
 届いたか。だって春希が絶望したって顔してるもんな。
 わかってるよ。なんでこんな残酷な仕打ちをしたのかって考えてるんだろ?
 あたしだって、あたしだって、さ。
 …………………こんなのやだよぉ、春希ぃ。

春希「本心か?」

かずさ「あぁ、そうだ」

春希「決めていたのか?」

かずさ「どうかな? 決心できたのはさっきかな?」

春希「さっき?」

かずさ「あぁ……、授賞式のあとでピアノ弾いた時」

春希「あれか」

かずさ「うん、そう」

春希「その決断は覆らなんだよな?」

かずさ「当然だろ」

春希「…………わかった」

 いやだっ! もっとあがいてよ。もっと身勝手になってよ。あたしをさらってよ。
 ピアノをやめろって言ってくれ!

783: 2015/08/17(月) 04:14:11.59

春希「明日ウィーン帰るんだよな?」

かずさ「その予定」

あたしは、あたしは春希が大好きなんだ。ここに残ってピアノだってやめたっていいんだ。
 でも、それじゃダメだんだ。
 今のままのあたしじゃ、ピアノをやめたとしても駄目なんだ。
 高校時代のあたしのままでは、素直に春希と向き合えない。
 だから、ここでさよならだ。

春希「一ついいか?」

かずさ「……どうぞ」

春希「ありがとう、好きでいてくれて。………………でも俺が、北原春希が冬馬かずさの
   ことを、好きでいるのはいいよな? 俺が勝手に憧れて、
   勝手に好きでいる分にはいいよな。頼む、それだけは認めてくれ」

 ずるい。
 ずるいよ、春希。
 あたしに直接毒を送り込むなよぉ。不意打ち過ぎるだろ。

春希「かずさ?」

 春希がさらに困惑したって顔をしているかはわからない。
わかってたまるか。春希が悪いんだ。あたしの決心をずたぼろにした、春希が悪いんだ。

春希「俺は近寄ってないぞ?」

かずさ「当たり前だ。あたしが春希に抱きついたんだからな」

 あたしは春希の胸に飛び込んでいた。
 しっかりと背中にまで腕を回し、けっしてほどけないようにと力を込める。
 あたしの弱さに気がついてしまった春希は、あたしをあやすように抱きしめてくれた。

春希「そうだよな。でも、なんで?」

かずさ「にぶいぞ春希」

春希「すまない」

かずさ「それが北原春希だから、しょうがないか」

春希「面目ない」

かずさ「いいって。そんな春希の事を愛してるんだからな」

春希「かずさ?」

かずさ「本当はもっと恰好よく別れて、そして、もっと恰好よく再会する予定だった
    んだぞ。それをぶち壊しにしやがって。どう責任とってくれるんだ」

春希「すまない。理解不能っていうか、よくわからない。できれば俺が理解できるように
   順を追って説明してくれると助かる」

かずさ「わかったよ」

春希「ありがとな」

 本当ならソファーに座ってゆっくりと話すべき内容なんだと思う。
 だけど今は一秒だって惜しいんだ。いくら本当の別れをしないとしても、
明日ウィーンに戻る事実だけは変えようがないからさ。
 だから今は春希を近くで感じさせてもらうからな。

かずさ「春希と別れたいっていっても、今のあたしも高校時代のあたしも
    同じあたしだし、春希が大好きな気持ちは変わらないよ」

春希「ありがとうって、いうところか?」

かずさ「おそらく。まあ、今はいいよ」

春希「わかった」

かずさ「でもさ、高校時代のあたしっていうか、今のあたしは高校時代のあたしのまま
    なんだ。春希だけを愛して、春希だけを見て、春希だけのために演奏している。
    それじゃあピアニストとしては氏んでしまう」

春希「それが曜子さんと見ている世界が違うってやつなのか?」

かずさ「厳密に言えば、母さんだって男の為だけに演奏する事もあるよ。コンサート
    だっていうのに自分の酔いしれて、観客を無視して自分の為だけに
    演奏した事さえあったんだ」


784: 2015/08/17(月) 04:14:41.27

春希「それはすごいな」

かずさ「でもさ、母さんはいつだって世界を見てる。いっつもただ一点だけを
    見ているって事はないんだ。だからピアニストとしての限界は果てしなく高い」

春希「つまり……」

 ここまで言えば、春希もわかってしまうよな。
 あたしのそばに春希がいることこそがピアニスト冬馬かずさにとっては害悪だって。

かずさ「あたしが春希だけを見続けている限り、あたしの演奏の幅はそこで氏んで
    しまう。ピアニストとしては完成されちゃって、面白みがないピアニストに
    なってしまう。そんな聴いていても興奮しない奏者なんて面白くないだろ?
    だれが馬鹿高いチケットを買ってまで聴きに来るっていうんだ」

春希「かずさの為、なんだよな?」

かずさ「そうだ」

春希「ピアニスト冬馬かずさは世界を目指すんだよな」

かずさ「そうだ」

春希「ジェバンニ。1位とれよな」

かずさ「それはぁ……、善処する。いや、春希の為に取るよ。…………ちょっとまて。
    春希の為って言っちゃ駄目なんだよな。あたしの為に取る。これでいいか?」

 笑うなよ。こっちも必氏なんだぞ。

春希「その時はインタビューさせてくれるか?」

かずさ「独占インタビューだ」

春希「それはありがたいな」

かずさ「あたしの事を誰よりもわかっている記者だからな」

春希「そのためにも研修が終わっても、このまま編集部に残れるようにしないとな」

かずさ「ニューヨークにいてくれよ」

春希「ここに?」

かずさ「その予定なんだろ?」

春希「そうだけど」

かずさ「あたしはジェバンニで1位をとって、そしたら、ニューヨーク国際の副賞の
    コンサートで、ニューヨークに凱旋してやる。スポンサーも喜んで
    くれるだろうから、きっと盛大なコンサートになるぞ」

春希「楽しみだな」

かずさ「楽しみにしていてくれよ」

春希「あぁ。チケットも、一番前の席を買ってみせるよ」

かずさ「一番前は、演奏を聴く場所としてはあまりよくないんだぞ」

春希「かまわない」

かずさ「そっか」

春希「かずさに一番近い場所で聴きたいんだ」

かずさ「…………っ」

春希「かずさ?」

 ひどいよ。ひどいよぉ、春希ぃ。
 やっぱり、別れたくないよぉ……。
 でも……、でもさ、クラスのお節介焼きだった北原春希の好きな、
かっこいい冬馬かずさを、見せてあげたいんだ。

かずさ「もし、……もしあたしたちが恋人になる未来があるのなら、
    きっとあたしたちは再会する」

春希「そうだよな」

 涙で春希の顔が見えないよ。
 ……でも、もういいよな。
 今からは素直な冬馬かずさでもあるんだから。

785: 2015/08/17(月) 04:15:10.14

かずさ「なんて言ったけど、ジェバンニには聴きに来てくれるんだよな?」

春希「おそらく。今回の記事がよければだけど」

かずさ「その辺は麻理さんがメインライターだから大丈夫じゃないの?」

春希「そうだな」

かずさ「だったら、ジェバンニで待ってる」

春希「必ず行くよ」

かずさ「それに、時期は未定だけどニューヨークでのコンサートは決まってるから、
    春希がジェバンニにこれなくてもあたしの方から会いにくるけどな」

春希「そうなってしまうと、さすがにかっこ悪いから、絶対にジェバンニに行くからな」

かずさ「期待してるよ」

春希「あぁ、期待していてくれよ」

かずさ「最後にもう一ついいかな?」

春希「どうぞ」

かずさ「春希と再会して、あたしが春希の元に戻ってきた時。その時春希があたしの事を
    愛してくれていたら、そのときは、あたしがもうどこにも行けないように、
    ずっと抱きしめていてほしい。その時には、春希だけしか見えなくなっても
    大丈夫になっておくらかさ」

春希「約束する」

かずさ「あぁ、約束だ」

 こうしてあたしは春希と決別して、翌日にはウィーンに帰って行った。
 




第59話 終劇
第60話につづく







第59話 あとがき



春希視点を最近書いていない現実……。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




787: 2015/08/24(月) 03:02:04.36

第60話




麻理


 春希とかずささんがニューヨークでの最後の夜を過ごしている中、
私は自室でインタビューしたものをまとめていた。
 冬馬かずさの人物像を組み立てていくほど、
春希がこの子を好きになった理由がよくわかってしまう。
 かずささんに嫉妬していないといえば嘘にはなる。私も大人になったといっても聖人君子に
なったわけではないのだから、一人の大人の女性として、
好きな男性が他の女性に夢中になっていればヤキモチを妬いてしまうのは当然のこと。
 綺麗事を言ってしまえば、この黒くなりきっていない嫉妬を表に出さないのは好きな男の
為でしかないともいえる。でも、春希の為に行っている事とも言えるけど、
本当はたぶん私が無理なんだと思う。
 かずささんから春希を奪ってまで幸せになりたいとは思えない。
 それをしてしまったら、きっと私は不幸になってしまうもの。
 もし春希を奪ってしまったら仕事ができなくなって退職して、
春希以外のものには興味さえなくなってしまう気がしてしまう。
 そんな私を想像すると、嫉妬する事さえ怖くなってしまう。
 それと同時に、そんな甘美な世界なら溺れ氏んでしまいたいという女の私もいる事は
消しようもない事実なのよね。
 だけど、私が求める未来ではない。
 私は幸せになりたいけど、春希には、私以上に幸せになってほしいもの。
 だから春希を奪う事はしない。
だから、…………奪わないから、今は、今だけは、ちょっとだけでいいから甘えさせてください。
 インタビューのチェックが進み、一区切りがつくころには日付が変わっていた。
 日本にいるときだったらあたりまえの工程日程であって、
24時が過ぎてもまだまだ就業時間ではあった。
ところがニューヨークに来てからは、体の不調もあって健康的すぎる睡眠をとるようにしている。
 だから、今の24時は本来ならばベッドの中にいる時間だった。
 そこに、控え目にドアを叩く音が告げられる。
 一番最初に頭に浮かんだのは春希だった。
 まっ、当然よね。一緒に住んでいるんですもの。だけど、春希が夜中に会いにくるかしら?
 よっぽどの緊急事態なら来るでしょうけど、基本春希は私の睡眠を邪魔しないのよね。
だから春希という選択肢はすぐに取り下げられた。変わって浮上したのは、かずささんだった。
 候補は二人しかいないのだから、当たり前だけど。

麻理「どうぞ」

かずさ「ちょっといいかな?」

 私の予想は当たり、ドアの隙間から顔を覗かしたのはかずささんだった。

麻理「大丈夫よ。仕事の方ももう終わりにする予定だったから」

かずさ「お邪魔します」

 やっぱり仕事に逃げるなって、春希に言えなくなっちゃったわね。
 今日も春希とかずささんが一緒にいるってわかっているだけで落ち着かなかったもの。
だから仕事をして、仕事にのめり込もうとしてしまった。
 皮肉にも、仕事の内容は冬馬かずさなのだから、嫌なめぐり合わせね。

麻理「そこの椅子に座ってね」

かずさ「ありがとう」

麻理「春希とは、しっかり話せた?」

かずさ「おかげさまで」

麻理「……そう」

 かずささんは私の顔を見て、そして床を数秒ギュッと凝視してから勢いをつけて顔を
あげると、内に貯め込んだ思いを一気にぶつけてきた。

かずさ「あたしには、力を貸してくれる母さんがいる。そして、ピアノもある。
    でも麻理さんは、春希がいなくなったら大切な仕事を失うかもしれない」

麻理「大げさねっていえないところが辛いわね」

かずさ「あたしも似たようなものだからな」

 自嘲気味に笑うその姿に、親近感を覚えてしまう。
 きっとかずささんの言う通り、私たちは似すぎているのだろう。
好きな人まで似てしまった事は残酷ではあるけれど。

麻理「でも私にも佐和子っていう親友がいるわ。今は日本にいるけど、ちょくちょくこっちに
   来てくれるのよ。やっぱり旅行代理店勤務っていうのは、こういうときは便利よね」


788: 2015/08/24(月) 03:02:29.35

佐和子、ごめんっ。便利だっていうところには嘘はつけないけど、本当に感謝しているのよ。

かずさ「だけど今、仕事に支障をきたしているだろ?」

麻理「そう、ね」

かずさ「今春希がいなくなったら麻理さんは駄目になってしまうよね?」

麻理「ごめんなさい」

かずさ「いいんだ。あたしもこのままだとピアノが駄目になるかもしれないからさ。
    だから明日ウィーンに帰るよ」

麻理「……そう」

かずさ「驚かないんだな」

麻理「どうして驚くのかしら?」

かずさ「だってさ、あたしのことだから、このままニューヨークに残るって言いだすと
    思ってたんじゃないのか?」

麻理「そうね。そういう可能性もあったのかもしれないわ。
   でも、かずさんは春希を幸せにする事を選んだのでしょ?」

 私の発言に、逆にかずささんを驚かせてしまう。
 はっと息を飲み、照れ隠しなのかすごくきつい目つきで睨んできたかと思えば全身の力が
脱力してふにゃけてしまっている。
 こんな妹がいたのなら、きっと可愛がって恋の応援なんかしてしまうのだろうな。
 …………恋愛レベル平均以下の私がなにを偉そうにって佐和子に言われるかな。
 でも、自分の事じゃないからのめり込むっていうか、……まあ、今は関係ないか。

かずさ「聞こえていたのか?」

麻理「かずささんが叫んだ声が一度だけ聞こえてきただけよ」

かずさ「やっぱりあれを聞いちゃったら全部わかっちゃうんだな」

麻理「なんとなくだけどね」

 これも密着取材をして、なおかつ春希とかずささんが一緒にいてくれたからこそ見られた
冬馬かずさであって、私一人では無理だったろうけど。
 恋敵とも言える私に見られてしまって嫌だったかもしれないわね。
 でも、謝らないわよ。私だってひっどい状況の自分を見せたと思うから。

かずさ「そっか」

麻理「…………ええ」

 なんとなくどうなったかは想像できるけど、聞いてもいいのかしら?
 興味ないなんていい子ぶるつもりもないから、正直聞きたい。
 春希がどうなるか、すっごく聞きたい。
 だって、私にとっても氏活問題なのよね。そもそも心の準備をする時間くらいは欲しいし。
 …………えっ?

かずさ「ごめんごめん。馬鹿にして笑ったんじゃないよ」

麻理「まあ、そうよね?」

 もうっ……。私ったら顔に出てたみたいね。
 たしかに心の底から聞きたいのも事実だから、顔に出てしまうわよね。
 そう自分を慰めはしたものの、羞恥心が私に押し寄せ身を小さくさせてしまう。
 年下の女の子に、しかもかずささんに年甲斐もない姿を見られてしまった……。
恥ずかしいすぎるわよ。春希にだったらいくらでも情けない姿を見せるのに慣れてしまったけど、
……いやいや、そもそも春希に対してだって情けない姿は見せちゃいけないのよね。
 えっと、なんでかずささんの前でも無防備になってしまったのかしら?

かずさ「麻理さんってかわいいな。春希が好きになるのも頷けるよ。
    あたしにはできなかったからさ」

麻理「かわいい? 年上をからかわないでよ。私からしたら、
   かずささんの方がずっと健気で可愛らしいと思うわ」

かずさ「そう思えるのは日本でのあたしを知らないからだよ」

麻理「日本での……? 高校のときってことかしら?」

かずさ「春希から聞いているんだよな。そう言ってたし」

麻理「ごめんなさい」

かずさ「いいんだ。前もあたしに謝ったけど、その時も気にしていないって言っただろ?」


789: 2015/08/24(月) 03:02:57.96

麻理「そうだったわね」

 春希が深く傷ついていたのだから、きっとかずささんも傷ついていたはずよね。
 自分を責めて、何度も逃げ出そうとしては捕まって、なおも自分を許せないという悪循環を
何年も続けていたのに、どうして今はそんなにも気丈でいられるの?
 春希がいるから?
 私が春希と共に病気と闘っているみたいに、かずささんも春希と再会したことによって
強くなったとでもいうのかしら?

かずさ「違うよ」

麻理「ごめんなさい。やはり以前許してくれた事は……」

かずさ「それも違うよ」

 かずささんがなにが違うと言ってるのかわからない。
 だから私は訝しげな視線をかずささんに送ってしまう。
でもかずささんは、私を見ても嬉しそうに肩をすくめるだけだった。

かずさ「ごめん。あたしの中だけで理解してたことだった。
    ちゃんと言葉にしないと伝わらないよな」

麻理「そうね。できれば言葉で伝えて欲しいわね」

 ちょっと拗ねすぎた口調だったかしら?
 ……ちょっと待ってよっ。今の私たちって、私の方が年下みたいじゃないの。

かずさ「わかったよ。そのね、麻理さんが、あたしが春希と再会したから強くなれたって
    思ってるんじゃないかと思ったんだ。だからそれは違うと言ったんだ。いやさ、
    麻理さんがそういうふうに考えて、自分を責め出しそうな勢いだったから、
    それは違うよって先に言ってしまったんだ」
 
麻理「シンパシー?」

 私も口から自然と言葉がこぼれてしまった。
 脳が理解する前に心が反応してしまったようね。それはかずささんも似たようなものかな。

かずさ「だと思うよ。春希っていう共通の大切な人があたしたちを結びつけているのかもな」

麻理「嬉しいような、困ったような、判断がつけにくいところね」

かずさ「たしかにそうだな。こればっかりはしょうがないで済ませられない状況になって
    しまったけど、……そうだな。今ならしょうがないで済ませてもいいと思ってる」

麻理「かずささん?」

かずさ「味覚がなくなって大変な目にあっている麻理さんを前にして言う言葉ではないけど、
    あたしは、ニューヨークにきて充実した毎日を送ったと思えているんだ。
    そりゃあ楽しい事よりも苦しくて切なくて、逃げ出したい事ばっかだったけど、
    麻理さんに出会えてよかったと思ってる。だからさ、…………春希のことを
    よろしくお願いします。あたしはウィーンに戻らないといけないから」

 目の前で深々と頭を下げられてしまう。このお願いが意味することろは、
おそらくかずささんが私に会いに来たことの一番の理由なのだろう。
 これこそがシンパシーだとすれば、
かずささんからこの後の理由を聞かなくても理解してしまえる。
 それでも私は聞かねばならない。
かずささんの口から聞かないと、私はまた決心を覆してしまうから。

麻理「どういう意味かしら?」

かずさ「あたし、春希と別れたんだ。あたしは、このまま春希の側に居続けたら駄目に
    なるって理解してしまったんだ。だから別れた。別れなきゃならなくなった」

麻理「……そう」

かずさ「ちゃんとあたしの気持ちは伝えたよ。春希もどうにか理解してくれたと思う。
    でも、あたしの我儘で別れたんだけど、春希は自分の事を責めてしまうと思うんだ」

麻理「そうね。春希ならそうしてしまうでしょうね。それがわかっていても別れたのよね?」

かずさ「あぁそうだ。春希が傷つくとわかっていて別れたんだ」

麻理「春希の事が好きなのでしょう?」

かずさ「好きだよ。大好きだ。こればっかりは麻理さんにも負けないって自信がある。
    もうさ、誰だろうと負けないって自惚れてさえいる」

麻理「それなのに、どうして別れたの?」

 私っていやな女ね。かずささんが別れた理由をわかっていながら聞いてしまうんですもの。
 そして、そう聞かせるように仕向けているかずささんも酷いわね。
 これが、いわゆるけじめってやつかしらね。
 またの名を、女の執念?って感じかしら?

790: 2015/08/24(月) 03:03:25.98

かずさ「春希の側にいる為だ。今のあたしでは駄目だけど、
    きっとすぐに春希の元に戻ってくる。今度はずっと離れないんだからな」

麻理「身勝手な人ね」

かずさ「あぁそうさ。身勝手なんだよ」

麻理「酷い人ね」

かずさ「酷い奴なんだよ」

麻理「でも、頑張ってしまうのよね」

かずさ「そうなんだ。高校のときから要求するレベルが高すぎるんだよ」

麻理「それは編集部でも同じだったわ」

かずさ「だろうな。あいつったら自分の理想を押し付けてくるんだよ。こっちは必氏にやって
    るっているのに、あいつの理想は今あるあたしの現実を大きく上回ってるんだよ」

麻理「そうねぇ……。彼ったら女性に夢でも見ているのかしら? 
   同じ人間だという事を忘れているわね、きっと」

かずさ「そもそもあいつの方が人間離れしてるよな。機械みたいに行動してるっていうかさ」

麻理「それもあるわね。自分の心さえもロジカルに割り切ってしまうのよね」

かずさ「……あぁ」

麻理「見ているこっちの方が辛くなってしまうわ」

かずさ「そのくせこっちの気持ちに気がつかないんだ。こっちはばれているとさえ思ってたのに」

麻理「鈍すぎるのよねぇ。他の事なら知らなくてもいい事まで論理的に気がついて
   しまうのに、はたや自分の事に関しては、というよりも、
   恋愛関係に関してだけはわかってくれないのよ」

かずさ「一度蹴り倒す必要があるな」

麻理「暴力はいけないわよ」

かずさ「じゃあどうするんだよ?」

麻理「…………甘え倒す、とか?」

 うぁ……。自分で言っておきながら恥ずかしすぎるわね。
 鏡を見なくても顔が真っ赤なのがわかるもの。

かずさ「それは麻理さんがしたいだけなんじゃ……」

麻理「違うわよっ」

 ……違わないけど。

かずさ「じゃあなんでだよ?」

麻理「春希って、ほら? ……えっと、頼まれたら断れないところがあるじゃない」

かずさ「たしかにあるよな。高校の時も自分にはまったく関係がない事でさえ首を
    突っ込んでさ。しなくてもいい仕事を自分で見つけてさえくるんだ」

麻理「それは簡単に想像できてしまうわね」

かずさ「それで?」

麻理「だから、春希は甘えられても断れないと思うのよ。だから、こっちが満足するまで
   とことん甘え尽くす。春希が倒れてもうだめだって顔をしても、
   ギブアップって謝るまで甘え倒すのよ」

 強引だったかしら? でも、案外効果がありそうね。
 ………………いつか実行してみようかしら?
 …………………………あら? かずささんが睨んでる、わね。
 あっ、顔に出ていたのかしら?

麻理「なにかしら?」

かずさ「なんでもない」

 綺麗な顔をしているんだから、そんな怖い目をしない方がいいわよ?
 ほら、綺麗な顔をしている人が怒っている顔こそ怖いって言うじゃない?
 私が逃げ出そうと体を捻っても、
そこは椅子の背もたれに阻まれてしまうわけで逃げられないのよね。


791: 2015/08/24(月) 03:03:54.47


麻理「冗談よ、冗談。いくらなんでも恥も醜聞も捨て去って甘え倒すなんてできやしないもの」

かずさ「そうかな? 案外麻理さんならできてしまいそうだとは思うけど?」

麻理「それをいうのならかずささんの方ができてしまうじゃない」

 この後お互いの弱点を抉りだすように言いあったのは割愛しておくわ。
 絶対春希には聞かせられない内容だし、
お互い言われた事が事実過ぎて、さらにヒートアップしちゃったのよね。
ようやくお互い落ち着きを取り戻せたときには肩で呼吸を整え、顔を真っ赤にして見悶えていた。

麻理「そろそろやめにしましょう。不毛すぎるわ」

かずさ「……だな。でも、麻理さんも案外子供っぽいところがあるんだな」

麻理「だからぁ……、もうやめましょうよ」

かずさ「これは違うよ。これはあたしが安心したっていうか、仲間意識みたいなものかな」

麻理「と、いうと?」

かずさ「あたしはまだまだ大人になれてない。でも、社会人の先輩でもある麻理さんでさえ
    完全には大人になれてはいないんだなってわかって、安心したというか」

麻理「それはどんな大人でもあることよ。なまじ社会的地位がある人が子供っぽい理屈で
   権力を振りかざすものだから、周りにいる人間にはいい迷惑よって話がよくあるわ」

かずさ「そういう輩は、とっとと大人になるべきだ」

 あら? 眉をひそめちゃって、誰か思い浮かぶ人でもいるのかしらね。

麻理「でも、仕方ないわ。だって、大人と子供の明確な境界なんてないんだもの。
   人が勝手に境界線をひいているだけよ」

かずさ「それはそうだな」

麻理「でしょう?」

 いつもきつい目つきをしているのに、こうやって柔らかい笑顔も見せるのね。
 コンクールの為にニューヨークに来たというのに、
春希だけじゃなくて私っていう邪魔者までいたら気を抜く事が出来ないわよね。
 でも、最後にこの笑顔を見れたってことは、少しは許されたのかしら?
 …………ううん、許されることなんてない。

かずさ「じゃあさ、この境界も曖昧だよな」

麻理「どんな境界かしら?」

かずさ「友達と恋人」

 やはり私は許されてない、か。そりゃそうよね。
 心のどこかで期待している気持ちがあったようで、落胆していくのがわかってしまう。
 さっきまでかずささんにつられて笑顔を見せていたはずなのに、
私の体から熱が急激に奪われていっているのが実感できてしまった。
 これも罰なのだろう。許されることなんてない罪なのだから。
 だったら素直に罰を受けるわ。それを望んでもいたんだし。

かずさ「ちょっと待って。ちょっと待ってよ」

 目の前でかずささんが困惑した顔で必氏に手を振っているわね。
 どういう意味かしら?
 体温が下がってしまうと思考も落ちるって言うし、幻かしら? 
だって困惑した顔ではなくて怒っている顔をしているはずだもの。
 
かずさ「麻理さんっ。ねえったら。ちょっと」

 今度は強硬手段にでたらしく、私を両肩を激しく揺すってくる。
ただ、私のことであるはずなのに、私の心と体は切り離されてしまっている。
 いくら揺さぶられようと心が暗闇の中に沈んでいくようで、それがむしろ気持ちよかった。
 もう何も考えなくてすむ。嫉妬も後悔も懺悔も何もない。
 でも、…………もう一度だけ春希には会いたかったかな。

麻理「痛たっ!」

 頬が熱い。目もくらっとくるくらい熱くて若干ぼやけているような気もする。
 頬に手をあて冷やそうとしても効果がないってわかっていても手で頬を冷やし、
現実を確認していく。
 目の前には息を切らせ肩で息を整えているかずささんがすごい形相で私を睨んでいる。
 なにかあったのかしら?
 あぁ……、私の事を恨んでいるのよね。だからか。
 でも私、なんて言ったのかしら?


792: 2015/08/24(月) 03:04:22.68


かずさ「怒ってないから。恨んでもない。そりゃああたしも嫉妬くらいはするさ。ううん、
    すっごく嫉妬してる。でも、麻理さんがいなくなればなんて思ってないから。
    春希の前から消えてくれなんて思ってないから。だから、しっかりしてよっ。
    ちゃんと前を見てよ。あたしを見てっ」

 私がふわふわとした感じのままかずささんを見つめていたら、
かずささんは私の両肩を掴む手に再度力を込めて揺さぶってくる。
 その必氏さがこれは現実であると脳に刺激を与え続ける。
 そして私の焦点も定まり、何があったかをいっぺんに理解していった。

麻理「大丈夫だから。大丈夫、だから……」

かずさ「ほんとうか?」

麻理「本当よ」

かずさ「……そっか」

麻理「ごめんなさい。私よりかずささんの方が傷ついているのに、私って弱いわね」

かずさ「あたしも負けないくらい弱いからいい勝負だって」

麻理「あまり競いたくはない勝負ね」

かずさ「だな」

麻理「ええ……」

かずさ「さっきは誤解するような質問して悪かった。友達と恋人の境界について
    聞いてみたのは、麻理さんのことじゃないんだ。あたしのことなんだ」




第60話 終劇
第61話につづく





第60話 あとがき


猛暑もいくぶんやわらいできましたが、残暑がライフを削っていきます……。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




794: 2015/08/31(月) 03:21:36.07

第61話




麻理「かずささんの?」

かずさ「そうだよ。だってあたし、春希と別れたんだからさ」

麻理「それって、別れても好きだってことかしら? もしくは好きだから別れたとか?」

かずさ「話が早くて助かるよ。一応区切りっていうかけじめって感じで別れはしたけど、
    気持ちの上では春希との絆はきれてはないと信じている。春希にもそう思っていて
    ほしい。だけど、別れてはいるから恋人ではないだろ?」

麻理「そうとも言えるわね」

かずさ「だろ?」

 嬉しそうに頷いてくるけれど、話している内容は深刻なのよね。わかっているのかしら?
 それとも私と意識を共有できたことが嬉しいのかしらね?

麻理「ええ、まあ」

かずさ「そしてそれは麻理さんも同じだろ? 春希が好きって気持ちは変わっていない。
    そしてその気持ちはこれからも変わらないと思う」

麻理「それは…………。私は春希と恋人の関係にはならないわ。たしかに離れられなくは
   なっているけれど、いつかは離れるわ。必ずね」

かずさ「それでもいいよ。恋人じゃなくてもいい」

麻理「どういう意味かしら?」

かずさ「あたしの我儘だって自覚してるけど、このままあたしが春希の側にいると春希が
    壊れてしまうと思うんだ。もちろん麻理さんも一人のままでいたら駄目に
    なってしまうと思う」

麻理「春希が?」

かずさ「麻理さんも気がついてはいると思うけど、春希も弱いよ。いくら傷ついても
    普段通りに行動してしまうから気がつかない人が多いけど、春希はすっごく弱い。
    弱いからそれを隠すのがうまいんだ」

 言われてみればそうね。かずささんと会えなかったコンサートなんてぼろぼろだったし。
それに、なまじ仕事が優秀すぎるから仕事に逃げている事に気がつかない人も多いのも事実ね。

麻理「たしかにそうね」

かずさ「だから麻理さん。あたしがいない間、春希の側にいてください。春希を支えてください。
    あたしの我儘だってわかってる。残酷な事を頼んでいるのも承知している。だけど、
    麻理さんは春希と一緒にいるべきだ。そして同じように春希も麻理さんが必要なんだ」

麻理「……でも」

かずさ「そのボールペン。春希とおそろいなんだよな?」

 かずささんに指摘され、とっさに隠そうと手が反応してしまう。
 しかし、隠したところで隠し通すことなんて無理だし、
そもそもかずささんにこれ以上隠し事はしたくはなかった。
 だから、私の手がピクリと反応してところで手の動きを押しとどめた。

麻理「お互いの誕生日に贈りあったものよ。といっても、私が先に誕生日に春希から貰って、
   その色違いを春希の誕生日に私が送ったのよ。……痛いでしょ? 情けないわよね」

かずさ「そんなことはない。麻理さんと同じように、春希も大切に使っていた。
    だから、そんなことはないよ」

麻理「そうね。春希が大切に使ってくれている事実まで否定できないわね」

かずさ「だろ? お互い大切にしてるんだから、一緒にいるべきなんだ」

麻理「でもそれでいいの?」

かずさ「あたしの事は気にするなとは言わない。でも、今は自分の事だけを考えて
    欲しいんだ。あたしも自分の事だけを考えてるんだしな」

麻理「自分の?」

かずさ「そうだよ。今のあたしが春希の側にいるのはよくない。だけど麻理さんは春希の側に
    いなきゃいけないんだ。だったらいいじゃないか。あたしたちの利害が
    一致してるんなら、それに甘えたっていいだろ?」


795: 2015/08/31(月) 03:22:17.56
麻理「かずささんは、私が春希と一緒にいても気にしないの?」

かずさ「気にするに決まってるだろ。嫉妬しまくりだ」

麻理「だったら……」

かずさ「それでもあたしは麻理さんも大切だから。これだったらあたし、麻理さんの事を
    知らなければよかったと思う事もある。一緒に暮さなければ情なんてわかないし、
    好きになんてならなかった。麻理さんの事をなにも知らなかったら、なにも考え
    ないで春希のことだけを見ていた。だけど麻理さんのことを知ってしまって
    好きになってしまったんだから、しょうがないだろ?」

かずさ「かずさ、さん」

麻理「そう言ってもらえるのは光栄だけど、本当に、本当にいいの、それで?」

かずさ「いいよ。それにあたしの醜い打算もあるからな。春希の心はあたしにあるから、
    ジェバンニが終わるまで一緒にいなくても大丈夫だって自惚れてもいるからな」

麻理「すっごい自信ね。でも、事実だからしょうがないか」

かずさ「だから、麻理さんも春希に全力で甘えていいよ。甘えて甘えて、甘え倒せばいい」

麻理「本気で言ってるの?」

かずさ「あぁ本気だ」

 本気だって目をしている。
 どこからそんな自信が沸いてくるのかしら?
 私には到底無理ね。

麻理「どうしてよ?」

かずさ「もしそれで春希が麻理さんと恋人になっても、それまでだなって。
    春希がそこまでの男だったって事だよ」

麻理「本当にそう思えるの?」

 私がにじり寄って下から覗きこむと、やはりかずささんは見栄を張っていたようで
弱腰になってしまう。
 これが春希が言っていたかっこいい冬馬かずさの化けの皮が剥がれた姿ってところかしら?
 可愛いとは思うけど、鈍感な春希には逆効果よね。
その点に関しては、かずささんに同情しちゃうかな。

かずさ「そんな目で見るなって」

麻理「だって」

かずさ「わかった。わかったから」

麻理「なにがわかったのかしら?」

かずさ「ほんと意地が悪いな」

麻理「どうしてかしらね?」

かずさ「春希のせいだろうな」

麻理「でしょうね」

かずさ「まあ、あたしも春希を見習って、うざいくらいに頑張ってみることにしたんだ」

麻理「ピアノを?」

かずさ「それもあるけど、春希と麻理さんの事も頑張ってみることにしたんだ」

麻理「私の事も?」

かずさ「そうだ。春希の事は当然として、あたしも春希と麻理さんの二人を幸せにする事に
    決めたんだ。もちろん傲慢だってわかってるよ。今の春希はあたしを愛している。
    もちろん麻理さんのことも大切にしているし、愛情もあると思う」

麻理「傲慢な見解だけど、事実ね」

かずさ「うん。あたしもそう思うけど、上の立場にいるから提案しているんじゃないんだ。
    むしろ危険なかけだとさえ思えってるんだぞ。だってさ、麻理さんは女のあたし
    から見ても魅力的だし、仕事面でも春希の憧れの人だろ? そこにきて弱っている
    姿を春希にだけみせて甘えてるんだから、いつかころっと春希の心が移ってしまう
    んじゃないかって不安になってしまうよ。いくら傲慢な事実があったとしても、
    春希の隣にいるのは麻理さんであってあたしではないのは変えようがないからな」

麻理「それでも私が春希の側にいてもいいの?」

かずさ「だから言ったろ? 春希の為だって。まずは世界を目指せるピアニストにあたしが
    なる。そして麻理さんの病気も治す。そしたら今まで我慢していた分春希に甘え倒すんだ」

796: 2015/08/31(月) 03:23:01.67

麻理「すっごく壮大な夢を語っているようで、最終目標が女の子なのね」

かずさ「悪いか?」

麻理「ううん。いいと思うわ」

かずさ「だろっ?」

 ほんと、惚れそうなくらい綺麗な笑顔ね。
 こんなにも反則的な笑顔を見せられてしまうと、意地悪したくなってしまうわね。

麻理「でも、私が春希の気持ちを奪ってしまうかもしれなのよ?」

かずさ「上等だ。さっきも言ったろ? あたしは春希並みにうざくなるって」

麻理「春希みたいに?」

かずさ「そうさ。あたしから心が離れていったら、今度はあたしが春希の心に駆け寄って
    行くんだ。うざいくらいにしつこくな。きっと麻理さんがヤキモチを妬いて
    夜眠れなくなるくらい迫りまくるからな。覚悟しておけよ」

麻理「それは……、あまりみたくはないわね」

かずさ「だからさ、麻理さんは素直に春希に甘えていいよ」

 かずささんの瞳が私を射抜く。今まで冗談交じりに言っていた心が削ぎ落ち、
真剣な眼差しが向けられていた。
 これは覚悟とみることができるのだろう。
 春希とかずさささ二人の幸せではなく、春希とかずささんと、
そして風岡麻理の三人の幸せを手に入れる覚悟。
 誰が見たって二人の幸せを求める方が現実的だって判断するだろう。
 だって三人の幸せなんて不可能だもの。春希とかずささんが結婚して、
なおかつ春希を愛している私が幸せになる道なんてあるとは思えない。
 それはかずささんも理解しているはず。
 かずささんも高校時代に、今の私と同じ立場を体験してきたんだもの。
 春希が別の彼女と付き合っていた時、かずささんはいつも二人の隣にいた。
 それはきっと辛いという言葉で片付けられない体験だったと思う。
私だったら、……といか、現在進行形で味覚障害になってるわね。
 それほどつらい体験をしてもなお三人の幸せを求めるなんて、
ある意味傲慢な幸せ追求だと断罪されてもおかしくはない。
 でも私は、傲慢すぎるかずささんの計画に乗りたいと思ってしまった。
 もしかしらた病状が悪化するかもしれない。
 もしかしらた仕事を失うかもしれない。
 最悪、まともに生きていけないかもしれない。
 だけど、同じ体験をしてきた戦友だからこそ、その手を取りたいと思ってしまった。

麻理「わかったわ。甘えさせてもらいます」

 こうして私は、春希とかずささんの手を掴むことになった。







翌年1月1日


 正月。日本であってもニューヨークであっても、俺が俺である限り大晦日の過ごし方に
大きな変化があるわけではない。そして年が明けた元日も大晦日と同じような日常を送っていた。
 昨日の大晦日は、今年に限ってはいつもの就寝時間にはベッドに横になっていたし、
元日の今朝もいつも起きる時間にベッドから出て朝食の準備を始めていた。
 ある意味規則正しい生活リズムともいえるが、
これは麻理さんの生活リズムを狂わせないためのものであることが一番の要因であった。
 味覚障害のせいでまともに食事ができなくなり、なにがきっかけで症状が悪化するか
わからない。だったら、うまくいっている生活パターンを繰り返すべきだ。
過保護すぎるとも言われそうだが、用心に越した事はない。
 生活リズムは健康には大切であるし、今までうまくいっていたのならばその生活リズムを
守るべきだ。それに、一度生活リズムが狂ってしまえば、
その狂った生活リズムを正しい方向にもっていくのが時間はかかってしまう。
 だったら、できるかぎりいつもの生活を送り続けるのがまっとうな治療法だと言える。
 ピアノではないが、一日さぼったら、
さぼった分を取り戻すのには数日とかずさが言っていたのと同じようなものだろう。
 とはいって、以前の俺であれば、武也に誘われれば初詣くらいは行っただろうし、
そうでなければバイトか、それともまったく家からも出ずに勉強でもしていたと考える事が
できる。つまり、以前の俺であっても自分からは自分の生活リズムを崩す行為などするとは
思えない。まあ、以前の俺の生活リズムなんてものは、疲れ果てて何も考える事もなく
寝られるまで働きまくるという、ブラック企業顔負けの生活パターンだったのだけれど。
 一方麻理さんはといえば、例年の年末年始は俺とは違っていて、
旅の実情を知らない人間からすれば成功者のバカンスといえた。
 なんというべきか……、つまり、その。ビジネスクラスの飛行機で海外旅行に行き、
それなりに有名なホテルで年末年始を過ごす。旅行プランだけ見れば優雅な休日とも言える。

797: 2015/08/31(月) 03:23:31.14


 だが実情は違っていて…………。
 朝食後にのんびりとくつろいでいた時、
ミネラルウォーター片手に麻理さんがしみじみ語ってくれた。
 自嘲気味に笑い話をしてくれたとも取れるし、ただたんに事実を述べただけとも
言えるのだが、俺が口を挟める雰囲気ではなかった事だけは確かだった。
 …………でも、アルコールはまったくとってないんでないんだけどな。
水で酔えるようになったのだろうか?

麻理「去年までは年末年始は佐和子と旅行に行くのが当たり前だったけど、
   こうしてのんびり過ごすのもいいものね」

春希「そうですね。どこに行っても人が多いですし、家にいる方がつかれないとも考えられますよ」

麻理「なんか春希の発言って、年寄りくさいわよね? 初めて編集部に来た時も大学生の
   バイトって感じがしなかったものね。本当は年齢誤魔化していたりしない?」

春希「俺の年齢に関しては履歴書と学生証を提示してありますから間違いはないはずですよ。
   それと、俺が年寄りくさいかはおいといて、別にイベント事に積極的に参加することが
   若者と定義できるわけでもないと思いますよ。
   インドア派であっても充実した生活を送る事が出来ますから」

麻理「そうだけど、家の中に閉じこもっていると、
   なんだか世間からは年寄りっぽく見られる気がしないかしら?」

春希「そうだとすれば、俺たちなんてずっと室内にいるんですから、年寄り扱いになって
   しまうじゃないですか? 仕事中は編集部にいることが当たり前ですからしょうが
   ないですけど、家に帰ってきたらもちろん室内ですよね?
   どこかにでかけるとしても、スーパーに買いだし程度ですし……」

 あっ……。
 地雷って、気がつかなくことなく踏むから地雷なんだろうな。
 踏んで爆発した後のことなんてどうでもいい。
なにせ爆発してしまったら自分にはどうしようもないし。
 地雷での一番の恐怖は、踏んだとわかった瞬間から爆発するまでの数秒だろう。
…………実際地雷を踏んだ経験も、地雷の知識もないから想像だが。
 でも、踏んでから爆発するまでの数秒で襲ってくる圧縮された恐怖は間違いないと思える。
 現に、今目の前で顔色を変えていく麻理さんを見て、俺の中でなにかがはじけたから……。

麻理「それは、あんに私が年寄りだといいたいのかしら? それとも年増の女は頑張って外に
   出て若づくりなんてするなよってことかしらね? そうねぇ……、
   春希はそんなかわいそうな私を見て、憐れに思っているのかしらね?」

ごめんなさい。いや、心の中で謝ってすむはなしじゃないけど、とりあえず謝らせてください。
 それと、地雷なんて甘い恐怖どころじゃなかった。
 数秒に圧縮された恐怖ならば、どれほど助かった事だろうか。
なにせ数秒後には天国に行けるのだから。
 今俺に訪れているものは、じわじわとやってくる恐怖。
確実に俺をしとめるとわかっていても逃げる事ができない絶望とでも言っておこうか。

春希「俺は麻理さんのことだなんて言ってませんよ。一般論……」

麻理「一般論? そうね。一般的に見たら私はすでに若くはないわね」

春希「一般論ではないです。そうですね。仮定の話です。仮定です。論理的に考えると
   した場合、室内でいることが多い事が年寄りだと定義すれば、そもそも人間は室内で
   過ごす時間が圧倒的に多いですから、どのような年代の人間であっても室内にいる
   時間が多ければ年寄りになってしまうという矛盾です。そう、そう言いたかったんですよ」

 あれ? そもそもそういう話をしたんだよな?

麻理「でも、仮定の話であっても、私が室内にこもっていて、
   若々しく行動していないという事実は否定できないじゃない」

春希「それこそ……、ちょっと待ってくださいよ。そもそも俺の話をしていたんじゃないですか。
   麻理さんのことを話していたわけでは……。それに、今年は違いますけど年末年始は
   佐和子さんと海外旅行に行っていたじゃないですか。普段は仕事で忙しいから仕方が
   ないですけど、休みの時におもいっきり充実した休日を取るのはいいと思いますよ」

麻理「そうかしら」

 起氏回生のフォローを入れたつもりなのに、麻理さんの態度は一向に改善する様子はない。
 むしろ悪化したとも見えるのはどうしてだろうか。
 これはまさかのいくらフォローしても悪化するしかないという悪循環に陥ったのか?

春希「仕事とプライベートを分けて楽しんでいるじゃないですか。もちろん鈴木さんなんか
   からすれば麻理さんは働きすぎだって言ってくるでしょうけど、仕事を楽しんで
   やっているんですから問題ないですよ。むしろ嫌々惰性で仕事をするよりはよっぽど
   有意義な時間の過ごし方です。いや、そんな仕事をする人たちと比べる必要なんて
   ないほどです。麻理さんの隣でいつも仕事をしている俺が保証します」

麻理「……そう?」


798: 2015/08/31(月) 03:24:09.85


春希「ええ、そうです。輝いています。そして俺の目標でもありますから」

麻理「仕事に関しては春希の目標であり続ける為に頑張っているところも最近あるのよね。
   それはそれで新たな目標になって励みにもなっているし」

春希「でも、あまり頑張りすぎないでくださいよ」

麻理「わかっているわよ。仕事もしっかりやるけど、体の方もちゃんといたわるわ。
   休日をしっかり使う分プライベートの方も充実させないといけないわね」

春希「ええ、そうですね」

麻理「でも、その肝心のプライベートががたがたなのよね。
   今までなんて佐和子と海外旅行に毎年行っていると言っても、
   ほとんどホテルの部屋で一日中お酒を飲んでいるだけだったもの」

 それは……、フォローできないほどに駄目な旅行パターンのような。
 いや、ここは何が何でもフォローだな。
 …………今日はまったくフォローできていないのが問題だが。

春希「それでもお酒を飲みながら佐和子さんと楽しく語り合っているんですよね? 
   別に旅行に行ったからといって代表的な観光施設に行く必要なんてありませんよ。
   本人たちが楽しんでいれば、それで旅行の目的は達成できているはずです」

麻理「でもねぇ……、佐和子と語り合っていると言っても、
   だいたいが仕事の不満や愚痴なのよねぇ……」

 ごめんなさい。どうフォローしたらいいんですか?
 まったくフォローにもなりそうもない言葉が浮かんできては声に出す前に霧散することが
7回。話題を変えようと切り出そうとして、麻理さんの愚痴によって遮られる事2回。
あとは自分で何を伝えようとしたのかさえわからない事5回
 つまり、この場の状況を打開する手段は全くといって持ち合わせてはいなかった。
 あれ?
 麻理さんを見つめると、顔を伏せ肩を揺らしている。
時折漏れ出る嗚咽は、悲しみでも怒りでもなく、むしろ…………。

春希「麻理、さん?」

 俺の呼ぶかけに応じてちらりと視線を向けてくるが、
俺の慌てようを見て益々肩の揺れが激しくなっていった。

春希「麻理さん?」

 俺の再度の呼びかけに、今度は盛大の笑みで返事をしてきた。
 つまり、してやられたってことなのだろう。

麻理「ごめんなさい」

春希「あんまりじゃないですか」

麻理「だって、春希があまりにもまじめすぎる反応をしてくるんだもの」

春希「それは年齢のこともありましたから」

 あっ……。それは実弾だったんですね。
しかし、まだ幾分笑みの余剰分があったおかげか、麻理さんは一睨みだけ残して話を続けてくれた。





第61話 終劇
第62話につづく







第61話 あとがき


時期的に正月のあたりからがcodaとなるのでしょうか?
そうなると今までが「~coda」の「~」であったのですかね?
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派