1: 2010/09/16(木) 21:26:45.46 ID:S1zbt.AO
KOFと思った人はごめんね
けいおんキャラをガチバトルさせてみたかっただけでKOFは関係無い
天上天下とか一騎当千みたいなノリをごちゃまぜにした感じだよ
そんで厨二臭いの駄目って人は多分背中が痒くなると思う
んじゃ書きます

2: 2010/09/16(木) 21:29:58.94 ID:S1zbt.AO
 私立桜ヶ丘高校。
 その一角にある今は使われていない教室に、数人の女子生徒が居た。

「う~ん……。困ったなぁ、部活に遅れたらまたあずにゃんに怒られちゃうよぅ……」

 一人の少女は気怠そうな面持ちで呟いた。
 眠たくなる授業を放課後のティータイムを楽しみたいが為に我慢してきた。
そしてようやくその授業が終わり、待ちに待った放課後と思った矢先にこの呼び出しだ。
彼女が嘆息するのも無理は無い。

「そっちの都合なんて知らないね。それよりも自分の身体の心配した方が良いんじゃないの?」

 頭髪を染めて制服を着崩した、リーダー格であろう女子生徒がそう言うと、堰を切ったかのように他の生徒が罵声を浴びせる。
けいおん! 1巻 (まんがタイムKRコミックス)

3: 2010/09/16(木) 21:30:31.44 ID:S1zbt.AO
「やだよぅ……。早くムギちゃんのお茶が飲みたいのに……」

 少女は眉を顰め、少し癖のある自身の茶髪を撫でる。

「そりゃ残念だな。アンタはこれから向こう一ヵ月は入院確定だから、暫くお茶は飲めないよ!」

 リーダー格の女子生徒が拳を振り上げた。
そしてそのまま無駄の無い動作で茶髪の少女の懐へと駆け込み、標的の顎を目掛けて振り抜いた。

 だが──。

「え?」

 ぱしんっ、と小気味が良い音が教室に鳴り響いた。
だがその音はリーダー格の女子生徒が茶髪の少女を殴った音ではない。
 それどころか、茶髪の少女はリーダー格の女子生徒の眼前から姿を消していた。
 だが標的が何処に行ったかなどと考える余裕など彼女には無かった。なぜなら……。

4: 2010/09/16(木) 21:32:22.08 ID:S1zbt.AO
「よっし! 一分ジャストだね!」

 平沢 唯は教室の時計を確認すると満足げに言った。
屈託の無い彼女の笑顔は周囲の人間を朗らかな気持ちにさせてしまうものがある。
 だが、今この時点ではその笑顔は場違いなものだ。
 微笑む唯の足元には七人の女子生徒が横たわっており、それぞれ自力では立てないほどの重傷を負っている。
 両手両足をへし折られた者。
 顔面の原形が留められていない者。
 腹部を執拗に殴られ、自身の嘔吐物の上に顔を埋める者。

「よぅし! 部室に行くぞ~」

 唯は喜び勇んで教室の戸を開いた。
その先に居た人物を見て、一層大きな笑みを浮かべる。

5: 2010/09/16(木) 21:34:01.86 ID:S1zbt.AO
「あ、澪ちゃ──」

 唯が何かを言いかけたが、それは一筋の閃きによってかき消された。
 直後に唯の頭上から鮮血が降り注ぎ、女子生徒が崩れ落ちた。

「おろ?」

 唯は数秒の間何が起きたか分からないといった表情をしていたが、胸を一文字に切り付けられた女子生徒と、自分の友人が抜刀した一振りの刀を見て状況を察した。

「全く……。常に油断はするなって言ってるだろ?」

「えへへ、ごめんなさい澪ちゃん」

 澪は唯のはにかんだ笑顔を見て嘆息した。
そして刀に血が着いていない事を確認すると、それを鞘に収める。

「この高校に来てから血には慣れたけど、好き好んで血を見たいわけじゃないんだからな? 次は助けないぞ」

6: 2010/09/16(木) 21:36:31.57 ID:S1zbt.AO
「そっか、澪ちゃん刀に血が着くの嫌がるもんね~」

「まぁそういう精神的なものもあるけど、刀ってのはデリケートだからな。人の血や油は極力着けないようにしてるんだ」

 二人は肩を並べて廊下を歩く。
その姿だけを見ればごく普通の高校生活の中のごく普通の日常のワンシーンなのだが、二人の会話は女子高生が語るような内容ではなかった。

「でもでも、やっぱ澪ちゃんはスゴいよ! 今では切った相手の血すら刀に着かない、学校一の剣術使いじゃん!」

「ははっ、刀を振る事だけは馬鹿みたいにやってたからな。ベースも同じくらい上手くなれれば良いんだけど」

7: 2010/09/16(木) 21:37:24.75 ID:S1zbt.AO
澪「それに私なんてまだまだだよ。同じ剣術使いでも和には遠く及ばない。居合いの速度なんて私が十年修行しても追いつけそうもないよ」

 澪は大きな溜め息をつくと、憂鬱そうな表情を浮かべた。

唯「私だって和ちゃんには敵わないよ。そんな後ろ向きにならないでムギちゃんのお茶飲んで元気出して!」

 唯は慌ててフォローし、既に目の前にある部室の扉を開いた。

8: 2010/09/16(木) 21:39:22.57 ID:S1zbt.AO
「おーっす! 待ちくたびれたぞー」

 部室のソファーの上に寝転がった少女が片手を上げて言った。
 普段着けているカチューシャは外しており、外側に跳ねた茶髪にはソファーの後がくっきりと映っている。

唯「ごめんね~りっちゃん、なんか他のクラスの子に絡まれちゃった」

澪「律の方も何かあったんだろ?」

律「ん……、まーな」

 律は髪の毛をがしがしと掻いて面倒そうに肩を竦めた。

澪「どうした? 後引きそうな喧嘩じゃないだろうな」

律「ちげーって! もう餓鬼じゃないんだからいちいち世話焼くなよ。澪にバレるといつもこうだ」

澪「だったらもう少し上手く隠せよ。私だってわざわざ世話なんて焼きたくないよ」

9: 2010/09/16(木) 21:40:41.76 ID:S1zbt.AO
 澪が何故律が喧嘩をしたと分かったのか、その理由は実に単純明快だ。
 律は喧嘩の際には必ずカチューシャを外す癖がある。
幼少時にはその隙を突かれて満身創痍の状況に陥る事もあったが、それでもその癖は直らなかった。
律のその癖を知っているのは今のところ澪だけなので、高校に入学してから今に至るまではその癖を突かれるという事は無くなったのだが。

澪「その癖直さないと、いつか酷い目に遭うぞ」

律「へいへーい、忠告ありがとうござんますぅ」

 律は再びソファーに横たわると、鞄を枕にして本格的に眠りに入った。

10: 2010/09/16(木) 21:41:55.33 ID:S1zbt.AO
 律が寝静まってから数分ほどして、部室の扉が開いた。

「遅れてごめんね。吹奏楽部の人達に絡まれちゃった」

唯「あ、ムギちゃん! 今日のお菓子はなぁに~?」

紬「今日は卵の白身よ~」

唯「わぁい! いっぱい食べて力つけるぞ~」

 最早テンプレと化したそんなやり取りを終えると、唯はそそくさと自分の席に着いた。

澪「お菓子の事ばかりじゃないでムギの心配もしろよな。ムギ、怪我は無い?」

紬「大丈夫よ。全員一撃で仕留めたから」

 さらっと紬が言うと、口笛と共にさっすがムギちゃん! という声が部室に響く。

11: 2010/09/16(木) 21:43:24.72 ID:S1zbt.AO
「遅れてごめん……なさ……い……」

 軽音部の部室の扉が再び開いた。
それとほぼ同時に小柄な体躯の少女が入口を跨いで倒れ伏した。

唯「あずにゃん!?」

澪「梓!」

 二人が慌てて梓に駆け寄る。
梓の小さな身体には無数の傷が出来ており、制服はところどころ破れていた。

唯「誰にやられたの!?」

梓「憂と別れた直後に……吹奏楽部の奴等に……」

 苦しそうに呻きつつ、それだけ言うと梓は意識を手放した。

唯「…………」

 唯は無言で梓の鞄を漁り、その中から二丁の拳銃を取り出した。
そしてマガジンを取り出して弾が入っていない事を確認すると、大きくうなだれた。

紬「許せない……」

 紬は血が滲むほどに拳を握り、壁を殴りつける。
コンクリートの壁が大きく陥没し、部屋が大きく揺れた。

12: 2010/09/16(木) 21:44:50.57 ID:S1zbt.AO
澪「律、起きろ」

 澪は腰に差した刀を抜刀し、律の頭すれすれの部分に突き刺した。

律「うぉっ!? あぶねーなぁ!」

澪「梓が吹奏楽部の連中にやられた。さっさと仕返しに行くぞ」

 滑らかな動作で澪は刀を鞘に戻す。
だがそれよりも速く、律は軽音部の人間の誰にも察する事が出来ないスピードで部屋から出ていた。

澪「せっかちな奴だな……」

 床に落ちたカチューシャをブレザーのポケットにしまいつつ、澪は呆れたような笑みを浮かべた。

紬「私達も行こう!」
唯「うん!」

 紬が力強く鼓舞すると、それに呼応して唯が駆け出した。紬、澪とそれに続く。
 後に桜高の伝説となった物語は、ここから始まった。

13: 2010/09/16(木) 21:45:52.94 ID:S1zbt.AO
 桜高の第一音楽室に轟音が鳴り響いた。
鍵が掛けられた扉は蹴破られ、見るも無残な姿になっている。

律「アテンションプリーズ、ちょっくらお邪魔するぜ」

 やったのは軽音部部長田井中 律。
その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいるが、いつもの明瞭快活な笑みではない。
不敵にほくそ笑み、獲物を物色する獣のような目をしていた。

「あら、軽音部の部長さんが何の用かしら?」

律「惚けたって無駄だぜ? ここに居る全員半頃し確定なんだかんな」

 一呼吸置いて律は叫んだ。

律「先ずは梓をやった奴から潰してやる! やった奴はさっさと名乗り出ろ!!」

14: 2010/09/16(木) 21:47:08.20 ID:S1zbt.AO
 律の怒号に物怖じする事無く、三人の生徒がゆっくりと前に出た。
三人共に傲慢な笑みを浮かべており、咀嚼するように律を見つめていた。

「私達が──」

 その中の一人が何か言いかけたが、直後に床に倒れ伏した。

「え──」

 それに続けて両脇に立っていた女子生徒も何か言いかけるが倒れる。

律「三人だけか?」

 いつの間にか倒れた三人の上に立っていた律は凄みを効かせて部屋中を一瞥した。
 一人を除いて全員が焦燥しきっており、最早闘う意識など無い事は一目瞭然だ。

「流石は田井中さんね。伊達に軽音部最速を名乗っているわけじゃないみたいね」

15: 2010/09/16(木) 21:48:24.56 ID:S1zbt.AO
 軽音部最速。
 神風。
 それが律の異名だ。
彼女の戦闘におけるスピードは常人のそれを遥かに凌駕しており、生半可な動体視力では彼女の動作を視覚する事すら叶わない。
 一つ踏み出せば山を飛び越し、二つ踏み出せば空を衝く。
 桜高の序列ランカーとして名を連ねる彼女の強さの全てはそのスピードにある。

律「アンタが部長だな? 悪いけど吹奏楽部は今日で廃部だから」

「それはこっちの台詞よ。たとえあなたが神風と呼ばれていても、この総員三十二名の壁をあなた一人で破れるかしら?」

唯「りっちゃんだけじゃないよ!」

16: 2010/09/16(木) 21:49:13.10 ID:S1zbt.AO
律「唯、皆……。遅いんだよ、もう始めてるぞ?」

澪「皆がお前のスピードに合わせられるわけじゃないんだよ。大体お前とスピード勝負が出来る人間なんてこの学校に五人もいないぞ?」

 澪は呆れながら腰に差した刀の柄に手をかけた。
そして部屋の中を一瞥する。

澪「なんだ、全員退け腰じゃないか。早く終わらせて練習するぞ」

唯「ティータイムが先だよ!」

紬「あらあら」

 三人が戦いを始めたのはほぼ同時だった。

17: 2010/09/16(木) 21:50:27.96 ID:S1zbt.AO
澪「はっ!」

 澪は踏み込みと共に長刀を抜刀した。
律の最速と負けず劣らずと言える居合い斬りはその範囲に居た生徒を巻込み、蹂躙する。

澪「梓の敵は討たせてもらうからな!」

 刀を振り抜いた腕をそのまま振り翳し、袈裟斬りを仕掛ける。
最初の居合いの際に切った生徒の奥に居た生徒も斬り捨てられた。

「させないわよ!」

 背後から振り降ろされた拳を紙一重で躱すと、澪は心の中で舌打ちした。

澪(くっ……人が多過ぎるな……)

 澪がそう思うのも無理は無い。
本来澪の戦闘スタイルは不特定多数を相手にするよりも一対一の決闘を想定したスタイルだからだ。

18: 2010/09/16(木) 21:51:30.97 ID:S1zbt.AO
 自身が動き回り、場を撹乱するタイプの律とは違って、彼女は腰を据えて相手を迎え討つスタイルを好んだ。
否、そうせざるを得なかったのだ。
 身体能力自体は他の軽音部員と較べて劣る澪に律のような闘い方は出来ない。
それは彼女自身が一番理解していた。
 だが相手の動作を見切る天性の動体視力と日頃の鍛練によって培ってきた剣術。
それらを駆使して澪は防御型の戦闘スタイルを手に入れた。
 彼女の居合いの範囲内は言わば越えられない壁。
 それが秋山 澪が鉄壁と呼ばれる所以だ。

19: 2010/09/16(木) 21:52:42.44 ID:S1zbt.AO
澪「くっ……間に合わない!」

 執拗に背後から攻撃を仕掛けてくる吹奏楽部員達相手に根負けしたのか、澪はがくりと体勢を崩した。

紬「澪ちゃん危ない!」

 紬が澪の背後で跳躍して襲いかからんとしていた生徒を殴り飛ばした。
殴られた生徒は壁に叩き付けられ、力無く床に崩れ落ちる。

澪「ありがとう、助かったよ」

紬「いえいえ、澪ちゃんの背中は私が守るわ」

 朗らかな笑顔で言いつつも、紬は眼前で襲い来る生徒の頭を掴み、力任せに床に叩き付けた。
叩き付けられた生徒はびくりと跳ね、血の泡を吹く。

20: 2010/09/16(木) 21:53:35.98 ID:S1zbt.AO
 紬の戦闘スタイルはその上品さ漂う容姿とは裏腹に、パワーに物を言わせる豪快なスタイルだ。
 彼女は生まれつき力が強かった。
クラスで腕相撲大会なんかがあれば男子生徒を抑えてのトップだったし、酷い時は相手の腕をへし折る事すらあった。
 それに加えて彼女の両親は彼女が幼少の頃から戦闘における英才教育をしていた。
 全国から選りすぐりの格闘のプロを集め、様々な格闘技を紬に叩き込んだ。
 彼女と力で勝負出来るとすればそれこそ人外たる鬼しかいないだろう。そう囁かれていた。
 それが琴吹 紬が鬼頃しと呼ばれる所以だ。

21: 2010/09/16(木) 21:54:38.81 ID:S1zbt.AO
唯「よぅし、私も暴れるよ~!」

 唯は自身を鼓舞すると手始めに一番近くに居た生徒の頭を掴んだ。

唯「そぉい!」

 そしてそのまま跳躍し、鼻に膝蹴りを当てる。
立て続けに空いている片手で鼻を殴り、空中で器用に掴んだ頭を軸にして回転すると、踵を鼻に捩じ込んだ。

「ぶふぇっ」

 何とも間抜けな声を漏らしながら生徒は膝を折った。
鼻はプレス機にかけたかのようにぺしゃんこに潰れており、人体の再生力を以てしても復元は不可能なのではと思わせる。

唯「手始めにオーバードライブだよ~。氏にそうな人はしっかり避けてね!」

22: 2010/09/16(木) 21:55:48.42 ID:S1zbt.AO
 とんとん、と軽く足踏みをして、唯は紬と同じように襲い来る生徒を掴んで床に叩き付けた。
だが彼女はそれだけでは留まらない。
既に満身創痍であろうその生徒を再び掴み上げるとまた叩き付ける。
 二、三度それを繰り返して、女子生徒が舌を出して失神している事を確認すると、唯はぱっくりと割れて鮮血が滲んでいる頭部を踏み付けた。

唯「うん! 今日も調子良いよ~。次はリバーブで行こうかな?」

 再びとんとん、と足踏みをすると、唯はその場でゆらゆらと揺れ始めた。
周りの生徒達は何がなんだか分からないとでも言いたげな顔をしている。

23: 2010/09/16(木) 21:57:07.74 ID:S1zbt.AO
 直後に唯は近くに居た生徒の懐に潜り込み、胸に掌底を捩じ込んだ。

「っ!?」

 自身に襲い来る理不尽な痛みの波に、力無い女子生徒は呻き声を上げる事すら出来なかった。

唯「まだまだ~!」

 執拗に同じ所に掌底を捩じ込む。
その度に標的の身体がびくりと跳ねている事など、今の唯には見えていなかった。

「目茶苦茶だわ……」

「勝てないよ、こんなの……」

 そんな絶望に満ちた声が行き交う中で、唯だけが満面の笑みを浮かべていた。

唯「よ~し! 次はどれにしよっかな~。ブースター? ワウペダル? それともトレモロ?」

24: 2010/09/16(木) 21:58:16.88 ID:S1zbt.AO
 平沢 唯の戦闘スタイルはかなり珍しい。
というよりこれを彼女以外に真似出来る者など世界中探しても居ないだろう。
 神に与えられた天性の運動能力と渇いたスポンジが水を吸い込むかの如く、新しい知識を次々に取り入れる柔軟な思考。
彼女の戦闘スタイルは、そんな天性の才能の集大成だ。

唯「なんでも良いや、皆まとめてかかってきなよ!」

 エフェクターの名を冠した無数の戦闘スタイルを自己暗示によって使い分け、人体で一番繊細な部分を的確に、執拗に破壊し尽くす。
 それが平沢 唯が羅刹と呼ばれる所以だ。

26: 2010/09/16(木) 21:59:46.47 ID:S1zbt.AO
 『神風』田井中 律。
 『鉄壁』秋山 澪。
 『鬼頃し』琴吹 紬。
 『羅刹』平沢 唯。
 『射手』中野 梓。
 総員五名の小さな部がこの学校の縄張り争いにおいて未だに生き残っているのは、彼女ら全員が洗練された武力を秘めているからである。
 そんな一騎当千の軽音部員の内四人が徒党を組んで蹂躙せんとしている吹奏楽部が壊滅寸前に陥るのに時間はかからなかった。

唯「あとは部長さんだけだね」

律「覚悟は出来てんだろうなぁ?」

 部長以外の吹奏楽部員は皆重傷を負って倒れ伏している。

「こんな……こと……」

 吹奏楽部長の額を嫌な汗が伝った。

27: 2010/09/16(木) 22:00:54.82 ID:S1zbt.AO
「くっ……私には荷が重過ぎたみたいね。今日のところは撤退させてもらうわ」

律「逃がすと思ってんのかぁ?」

 律はにやりと笑って腰を落とした。
その気になれば一秒と経たない内に部長の首を刈る事が出来るだろう。

「出来るわよ。負けた時の逃げ道くらいは確保してるわ」

 部長は額を伝う汗を手の甲で拭い、ブレザーのポケットからリモコンを取り出した。

澪「……っ!」

 澪は軽音部員の中の誰よりも速く、そのリモコンが何のリモコンなのかを悟った。
だが既に遅過ぎた。
部長の指は既にボタンに触れており、そしてあるモノを起動させた。

28: 2010/09/16(木) 22:02:18.27 ID:S1zbt.AO
 少し遅れて第一音楽室のクーラーから埃っぽい風が放出された。

唯「え? これって……」

 唯は自分の身体を蝕む倦怠感に耐え兼ね、崩れるように膝を折った。

律「唯!?」

 軽音部最速の律がその一瞬だけ、部長から目を離した。
ほんの一瞬だ。だがその一瞬の間に吹奏楽部長は窓を叩き割り、外へと身を投げ出していた。

律「くそっ! 罠か……」

紬「まさかクーラーを入れるなんて……。でも何で最初から点けてなかったのかしら?」

 天性の戦闘能力を持つ平沢 唯だが、彼女には致命的な弱点がある。
 幼少の頃からクーラーが苦手だった唯はクーラーが効いた部屋の中では戦う事はおろか、まともに立っている事すら出来ないのだ。

29: 2010/09/16(木) 22:03:28.28 ID:S1zbt.AO
澪「なるほどな……」

 澪は吹奏楽部長が何を思ってクーラーを点けていなかったかを理解した。

澪「最初からクーラーを点けていれば私達は最初から唯を戦力として数えていなかった筈だ。つまりさっきの律の隙は最初からこの環境を作っていたら生まれてなかった」

律「私が悪いってのか?」

澪「怒るなよ、そんな事言ってないだろ? よくよく考えればあいつがクーラーのリモコンを取り出した時点で直ぐに気付くべきだった。私達全員のミスだよ」

 逃亡の手段はあくまで逃亡の為だけに使う。
今回の戦いはある意味、吹奏楽部長に軍配が上がったとも言えるだろう。

30: 2010/09/16(木) 22:04:30.85 ID:S1zbt.AO
梓「もう終わったんですか……。相変わらず手が早いですね」

唯「あずにゃん!」

 苦虫を噛み潰したような顔をしていた軽音部員達だったが、背後からした梓の声を聞いて表情が変わる。

紬「怪我はもう大丈夫なの?」

梓「ええ、やられたのもマガジンから弾を抜かれていて焦ったせいですし、大した連中じゃなかったですから」

 梓は少しふらつきながらも、割れた窓ガラスのところまで歩いた。

律「無理すんなよ」

梓「もう大丈夫ですよ。それに皆さんが闘ってるのに私だけ寝てるなんて出来ません」

 梓は抱えたボストンバッグの中から黒光りする何かの部品を取り出すと、目にも止まらぬ速さでそれを組み立ててゆく。

32: 2010/09/16(木) 22:05:29.01 ID:S1zbt.AO
 幾つもの部品はものの三十秒ほどで一つの形を成した。

梓「さっき吹奏楽部の部長が逃げていくのを見ました。どうやら私の出番みたいですね」

 割れたガラスから外にスナイパーライフルの銃口を突き出し、梓はそのまま躊躇無く引き金を引いた。
 放たれた弾は音もなく、だが確かに逃げる部長を狩らんと直進し──。

「がはっ!?」

 部長の足を撃ち抜いた。

梓「終わりですね。腱の部分を撃ちました、暫くは満足に歩けないでしょう」

 梓は事もなさげにそう呟くと、ライフルを組み立ての半分の時間で分解してバッグに収納した。

33: 2010/09/16(木) 22:06:19.78 ID:S1zbt.AO
澪「やっぱり梓は頼りになるな。その調子でしっかり鍛練してくれよ?」

梓「あはは、大丈夫ですよ。律先輩じゃないんだから」

律「なにおう!?」

紬「まぁまぁまぁまぁ」

 戦いの時の修羅場のような空気は既にこの空間からは消え失せており、軽音部の皆が和気藹々と談笑を始めた。そんな中で……。

唯「みんな~、早く戻ろうよ~。このままじゃ私体調崩しちゃうよ~」

 唯だけがあからさまに不機嫌そうな顔をして皆に訴える。
それもその筈だ。
常人よりもクーラーが苦手なのにそのクーラーがばっちり効いている部屋の中で放置されていたのだ。
機嫌が悪くなるのも頷ける。

34: 2010/09/16(木) 22:08:59.40 ID:S1zbt.AO
澪「やっぱり梓は頼りになるな。その調子でしっかり鍛練してくれよ?」

梓「あはは、大丈夫ですよ。律先輩じゃないんだから」

律「なにおう!?」

紬「まぁまぁまぁまぁ」

 戦いの時の修羅場のような空気は既にこの空間からは消え失せており、軽音部の皆が和気藹々と談笑を始めた。そんな中で……。

唯「みんな~、早く戻ろうよ~。このままじゃ私体調崩しちゃうよ~」

 唯だけがあからさまに不機嫌そうな顔をして皆に訴える。
それもその筈だ。
常人よりもクーラーが苦手なのにそのクーラーがばっちり効いている部屋の中で放置されていたのだ。
機嫌が悪くなるのも頷ける。

35: 2010/09/16(木) 22:10:47.02 ID:S1zbt.AO
律「そうだなー、そろそろ戻るか。さっさとティータイムといこうぜ」

澪「練習が先だ!」

梓「今日は練習は後が良いですね……」

紬「じゃあ決まりね!」

唯「早く~」

 五人は肩を並べて意気揚々と第一音楽室を後にした。
今までの戦いを終始観察されていたとも知らずに。

36: 2010/09/16(木) 22:12:16.80 ID:S1zbt.AO
「どう思う? エリ」

「やっぱり要注意人物だね。特に平沢さんは」

 エリと呼ばれた少女は持っていたコーラを飲み干すと、それを外を見ずに窓から外へと放り投げた。
コーラの缶は外に設置されていたゴミ箱の中へと吸い込まれてゆく。

「それは平沢さんの妹も含めて、かな?」

「アカネ、もしかして氏にたいの? 平沢 憂の名前をあの娘の身内以外が語るなんて自殺行為だよ」

「まさか。でもあの娘は帰宅部よ? 放課後のこの時間に校舎の最上階の空き教室に来るわけないじゃない」

 アカネと呼ばれた少女は両手を組んで伸びをすると、座っていた机から飛び降りた。
直後に彼女が座っていた机は真っ二つに割れた。

37: 2010/09/16(木) 22:13:51.61 ID:S1zbt.AO
エリ「最注意人物、とは言ったけどどうやって軽音部を潰そうかな、何か良い考えはある?」

アカネ「無きにしも非ずってとこかな。どっちにしても私達みたいな力の弱い人間は慎重に動かなきゃ」

エリ「それこそ姫子や信代みたいに強ければこんなに悩まなくても済むのにね」

 エリはそう言うとやや自嘲気味な溜め息を零した。

アカネ「トップランカーの娘達と私達を較べる事自体ナンセンスでしょ。それに彼女達でさえ真鍋さんや平沢 憂には敵わないんだし」

 アカネは教室の中心でくるりと一回転し、エリへと向き直って笑みを浮かべた。

アカネ「でも、弱い人間にはそれなりの戦い方があるしね」

 アカネの顔を窓から差す夕日が妖しく照らした。

38: 2010/09/16(木) 22:15:14.00 ID:S1zbt.AO
ちょっとタンマ指がつりそう
早いけどきりが良いからちょい休憩する

40: 2010/09/16(木) 22:24:30.04 ID:S1zbt.AO
 吹奏楽部と軽音部の戦いから一週間が経った。
 深夜二時の生徒会室にて、赤縁の眼鏡をかけた少女がパソコンのディスプレイを眺めている。
 ぱっと見た限りでは大人しそうな普通の女子高生にしか見えないが、彼女こそが桜ヶ丘高校の生徒会長にして桜高における生徒序列のナンバーツー。
『女帝』真鍋 和である。

和「ふぅん……。幾つかの部が不穏な動きを見せてるみたいね」

 生徒会の権限を使って警告するべきか否か、数分の間彼女はパソコンのディスプレイを睨んでいたが、そこで考える事を止めた。

和「数は十人とちょっと……か」

 和は脇に立て掛けておいた刀を手に取ると、大きく溜め息をついた。

41: 2010/09/16(木) 22:26:10.88 ID:S1zbt.AO
和「出てらっしゃい。そこにいるのは分かってるのよ」

 和が言うが返ってくるのは静寂のみ。
暫くの間和は椅子の腰掛けに深く身を委ね、天井を仰いでいた。
 和が席を立とうとしたその時、事態は急変する。

和「っ!」

 部屋の扉、窓、天井。
あらゆる侵入経路から得物を携えた生徒が飛び出してきた。
その数は十三人。普通の人間ならば慌てふためく状況だが、和は一瞬だけ眉を顰めるだけだった。

和「馬鹿な子達ね」

 ぽつりと和が呟くと同時に彼女の首を刈らんとしていた生徒達は皆、鮮血を噴き出しながら崩れ落ちた。

42: 2010/09/16(木) 22:27:17.24 ID:S1zbt.AO
和「私が刀を抜刀して十三回振るうまでの間に、貴女達が私の所まで辿り着けるとでも思ったの?」

 和の質問に答える者は居ない。
答えるべき人間は皆赤い花を咲かせて倒れ伏している。

和「ふふ、私ったら誰に聞いてるのかしら」

 和は少しだけ口元を緩め、机に置いてあった缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。

和「これは用心しておいた方が良いかもね」

 和は誰に言うでもなく呟き、生徒会室を後にした。
 どす黒い赤色に染まった生徒会室に扉が閉まる音が響き、割れた窓からは強い風が吹き付けた。

43: 2010/09/16(木) 22:28:28.83 ID:S1zbt.AO
唯「うい~。早く行こうよ」

「待ってお姉ちゃん。ケータイ忘れてるよ!」

 平沢家の玄関から唯と瓜二つな顔をした少女が出てきた。
 彼女の名は平沢 憂。
桜ヶ丘高校に入学して僅か一ヵ月で生徒序列のトップに君臨した狂戦士である。
 彼女の戦闘力は桜高の漫画研究会の議題の種にされる。
 ベルセルクの蝕で平沢 憂は生き残る事が出来るか。範馬 勇次郎と平沢 憂が戦えばどちらが勝つか。
 彼女の力はそんな普通ならば考えるのも馬鹿らしくなるような議題すら成立させる。

憂「はいお姉ちゃん、ケータイ」

唯「ありがと~、うい」

 今日も桜高に名を轟かせる姉妹の一日が始まる。

44: 2010/09/16(木) 22:29:36.53 ID:S1zbt.AO
憂「こないだはいっぱい活躍したんだってね、お姉ちゃん」

唯「えへへ~、最後の最後にクーラーでダウンしちゃったんだけどね」

 同じ顔の少女が二人並んで談笑している姿は傍から見れば微笑ましいものなのだが、そんな和やかな空気を壊す輩がいた。

「キミ達桜高の子~?」

 髪の毛を金髪に脱色し、悪趣味なシルバーアクセサリーで身を飾るゴロツキが三名、平沢姉妹に声をかけてきた。

唯「そうだよ~、お兄さん達何か用?」

 普通の人間ならば相手にもしないだろう。
だが平沢 唯は違った。
彼女には自分がこの三人に連れ去られ、酷い目に会わされるヴィジョンが見えていないのだ。
無論、唯がこの程度のゴロツキに負ける事など万に一つも有り得ないので、唯の対応は間違ってはいない。

45: 2010/09/16(木) 22:30:31.63 ID:S1zbt.AO
「元カノが桜高だったんだよ。おっ? ギターじゃん、ちょっと見せてよ」

唯「良いよ~」

 唯はためらう事なくギターのソフトケースをゴロツキに手渡した。
憂はその様子を無言で後ろから見ている。

「うぉっ? ギブソンじゃん、すげー! 俺さ、こう見えて昔ギターやってたんだよね~」

唯「ほんと? じゃあお兄さん何か弾いてみてよ~」

「ここじゃあちょっとな~」

 ゴロツキは苦笑いを浮かべながら頬を掻いた。
実際のところこの男はギターを買って一週間で辞めたので、曲など弾ける筈も無い。

「そうだ! ここじゃあなんだし俺ん家に来なよ。そこでいくらでも弾いてあげるからさ」

 ゴロツキはそう言うと嫌らしい笑みを浮かべた。
後ろに控えていた二人も同じような笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

46: 2010/09/16(木) 22:31:25.66 ID:S1zbt.AO
唯「でも今から学校だから……」

「良いじゃん、学校なんかサボっちゃえよ」

 ゴロツキは唯に歩み寄り、腕を掴もうとする。
だがその間に割って入るように憂がその場を横切った。

憂「お姉ちゃん! 早くしないと遅刻しちゃうよ!」

 ゴロツキが持っていたギターケースはいつの間にか憂の肩にかけられていた。

唯「あ、待ってようい~。またね、お兄さん達!」

 唯はゴロツキ三人に微笑みかけると、ふらふらと憂を追いかけて行った。
 普段から通学路にしては人が少ないこの道に、三人の男だけが取り残された。

47: 2010/09/16(木) 22:32:17.63 ID:S1zbt.AO
「あ……」

 唯に話しかけていたゴロツキが絞り出すように声を出した。
顔面は蒼白しきっており、全身が震えている。

「うわああああああ″あ″っ!!」

 男は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
両手で身体の震えを抑えようとするが意味はなく。
次第に男は自分で立つ事すらままならなくなり、膝を折った。

「嫌だ! 氏にたくない! 氏にたくねぇよおおおおおっ!!」

 泣き叫び、涎を垂れ流しながら男はアスファルトに自分の頭を打ち付け始めた。

「ごめんなさい! 許して下さい!!」

 額から血が滲み出てくるが男はそれを辞めない。
男が動きを止めたのはそれから一時間が過ぎて自ら命を絶った時だった。

48: 2010/09/16(木) 22:36:09.97 ID:S1zbt.AO
「おい……どうすんだよこいつ……」

「知らねぇよ、取り敢えず救急車呼ばねぇと……」

 終始事を見ていたゴロツキ二人は慌てふためき、その場を後にした。
 仮に救急車を呼んで彼が助かったとしても、平沢 憂の闘気にあてられた彼はもう言葉を発する事すら出来ないだろう。
 究極生命体。
 それが平沢 憂の通り名だ。
 彼女の身体から発せられる闘気は常人には毒でしかない。
日頃の鍛練の賜で、憂自身その力を制御する術を獲得しているのだが、今のように姉である唯に危害を加えようとした者に対して、彼女は容赦などしない。

49: 2010/09/16(木) 22:36:59.45 ID:S1zbt.AO
 ただ闘気をぶつけただけで人を狂わせる。
そんな力を持つ彼女も桜高に入学したての頃は暇が無いほどに戦いを挑まれた。
あの平沢 唯には敵わないが、妹の憂を倒せばそれなりに名は売れるだろう。そんな邪な考えを抱く者が後を絶たず、必然的に憂は戦うしかなかった。
 そんな戦いが一ヵ月続いた頃、彼女は桜高のトップに立っていた。
今では彼女に喧嘩を売る者などそうそういない。
 余談ではあるが、平沢 憂が戦いを挑まれていた一ヵ月は『修羅の月』と呼ばれ、今でも語り継がれている。

50: 2010/09/16(木) 22:38:47.54 ID:S1zbt.AO
唯「おはよ~!」

紬「おはよう、唯ちゃん」

澪「今日も遅刻ギリギリだな。もう受験生なんだからしっかりしろよ?」

律「また朝から堅苦しい事言って」

 唯が教室に入ると、既に中では軽音部の三人が談笑していた。
唯はそそくさと自分の席に移動して鞄をかけると、隣に座っているクラスメイトに挨拶した。

唯「おはよ、姫子ちゃん」

姫子「おはよ、どうでも良いけど寝癖ついてるよ?」

唯「あわわ……。ありがと姫子ちゃん」

 指摘されて慌てて髪を梳くと、唯はそのまま軽音部の皆が集まっている席に駆け寄ろうとした。だが……。

唯「ふぇっ?」

 周りを見ずに駆け出そうとしたせいで机に足を引っ掛け、大きく体勢を崩す。

51: 2010/09/16(木) 22:39:39.79 ID:S1zbt.AO
唯「え?」

 床に熱烈なキスをしてしまう寸前で、唯は強烈な力によって身体を引き上げられた。
 きょとんとして隣を見ると、先と変わらぬ姿勢のまま呆れた笑みを唯に向ける姫子の顔があった。

唯「ありがとね~、姫子ちゃん」

姫子「あはは、朝から感謝されっぱなしだね私」

 姫子はやんわりと手を振って、去りゆく唯の後ろ姿を眺めた。
 生徒序列ナンバースリー。『風哭』立花 姫子。
 彼女が唯を転ぶ寸前で引き上げた張本人である。

52: 2010/09/16(木) 22:40:49.93 ID:S1zbt.AO
 しかし姫子は自分の席に座っていたではないか。そう思う人もいるだろう。
ではどうやって唯を引き上げたか、そのトリックは実に単純明快だ。
 彼女はごく普通に席を立ち、ごく普通に唯の襟首を掴んで引き上げただけなのだ。
ただそれらの動作を視覚出来ない速さで行なっただけ。
 彼女こそが澪が数日前に言っていた『律にスピードで追いつける五人』の内の一人なのだ。
 それどころか姫子のスピードは律のそれを遥かに凌駕している。
戦闘において彼女の姿を認知する事が出来る人間は、それだけで達人の域に達している。そう囁かれる事すらちらほらある。

53: 2010/09/16(木) 22:41:36.20 ID:S1zbt.AO
姫子「ん?」

 開いた窓から吹き付け、自身の頬を撫でる風を感じると、姫子は憂鬱そうな顔をした。

姫子「今日は風が強いね……。何もなければ良いけど」

 姫子はぼそりと呟くと、机に突っ伏して目を閉じた。
 結果から言うと彼女の悪い予感は見事に的中していた。
 そんな事も露知らず、軽音部の四人は和気藹々と談笑している。
最も、今日三年二組の生徒達がバトルロイヤルを繰り広げるきっかけが起こるなどと、予想しろというのも無理な話なのだが。

54: 2010/09/16(木) 22:42:47.58 ID:S1zbt.AO
律「ゆいー、姫子と何話してたんだ?」

唯「えーっとね、確か……なんだっけ?」

紬「あらあら」

 軽音部四人が談笑している中で、澪だけが一つの席に向かい合って何かを話しているエリとアカネに気をかけていた。

澪「二人とも何の話をしてるの?」

 何の気無しに澪が尋ねると、二人は机に広げていた紙を澪に差し出した。

アカネ「部の防衛陣の振り分けについて話し合ってたんだ。なにせこの学校物騒でしょう? 」

エリ「あーあー、いやになっちゃうよねぇ。部の中にトップランカーが居ればこんなの考えなくても済むのに」

 澪は適当に合わせつつ、差し出された紙に目を通した。
そこには部室の監視、練習中の防衛など、様々な役割と部員の名前が記されていた。

55: 2010/09/16(木) 22:43:54.27 ID:S1zbt.AO
澪「へぇ……。やっぱり皆しっかり考えてるんだ。私達も少しは危機感持った方が良いのかな」

律「何の話してんだー?」

 そこで律が三人の話に興味を抱き、澪の肩から顔を覗かせた。

澪「部の防衛の話だよ。私達もそろそろ真剣に考えないとな。いつ足元すくわれてもおかしくないんだから」

 書類をアカネに手渡すと、澪は軽音部の面子に呼び掛けた。

澪「今日の放課後は皆で部の管理について話し合おうよ」

律「えー? 良いよ面倒臭い、邪魔するやつは全員でぶっ倒せば良いじゃんか」

唯「私は強い人と戦えればそれで良いや。それよりもティータイムを延長しようよ~」

56: 2010/09/16(木) 22:44:47.19 ID:S1zbt.AO
紬「でも澪ちゃんの意見には賛成よ。軽音部が他の部に乗っ取られたりしたら、私悲しいから……」

 紬が伏し目がちに言っているのを見て、唯と律はいたたまれない気持ちになった。

澪「他の部を乗っ取ればその分部費も増えるし名も売れるしな。それを狙う人だってこの学校には沢山いるし」

唯「えっ? 部費も増えるの? じゃあそのお金でトンちゃんの新しい水槽買えるかな」

律「買えるかもなー。いっそ私らも他の部の乗っ取り合戦に乗ってみるかぁ?」

エリ「っ!」

 律が何気なく放った一言を聞いて、エリとアカネは身体を震わせた。
エリは即座に携帯電話を開き、目の前に座っているアカネに向けてメールを打った。

57: 2010/09/16(木) 22:45:42.04 ID:S1zbt.AO
 アカネも携帯電話を取り出し、ディスプレイに表示された文字列を凝視した。
ディスプレイには『ちゃんと録音した?』と記されている。
 アカネは首を縦に振り、ブレザーの胸ポケットの中に忍ばせておいたボイスレコーダーのスイッチをオフにした。

アカネ(これから暫く部の防衛の話題を振るつもりだったけど……。まさかいきなりビンゴとはね)

 アカネは心の中でほくそ笑み、エリの方を見た。
コーラを飲みつつ誤魔化しているが、エリ表情からは笑みが零れている。

エリ(これで軽音部はおしまい。ふふ……、やっぱり私には仏がついているのよ!)

58: 2010/09/16(木) 22:47:22.69 ID:S1zbt.AO
「あら、何ニヤニヤしてるのかしら」

 後ろからかけられた冷ややかな声に、エリは思わず噎せ返りそうになった。

エリ「ま……、真鍋さん……」

 エリが振り返ると、そこには冷笑を浮かべた和の姿があった。

和「二人して黙ってニヤニヤしてると悪巧みしてるみたいにしか見えないわよ?」

 核心を突いた和の一言に、エリとアカネは動揺を隠せなかった。

エリ「な、何でもないよ!」

 心臓が胸の内で暴れ狂い、喉は焼け付いたかのようにヒリヒリと渇く。
エリとアカネは額に流れる汗を拭う事すら忘れていた。

59: 2010/09/16(木) 22:48:47.43 ID:S1zbt.AO
和「ふぅん、まぁ良いけど。律、アンタまた部長会議出てなかったでしょ!」

 和は興味なさげに吐き捨てると、軽音部の談笑の輪の中に入っていった。
 助かった、エリは思った。
 殺されそうだった、アカネは思った。
 口を真一文字に閉じ、目を見開いているお互いの顔を見て、アカネとエリは脱力すると共に少しだけ笑った。

アカネ(危なかった……! 今この人に計画がバレたら全てが終わり。今後も気をつけないと!)

エリ(怖い……。怖かったよぅ……)

 水面下で息を潜めていた悪意はここで折れかかってはいたが、しぶとく生き続けて着実にその規模を広げていた。

60: 2010/09/16(木) 22:50:54.35 ID:S1zbt.AO
 それからは喧嘩もなく、いつもよりも平穏な時間が流れていった。
そして六限目終了後のホームルームを終え、軽音部一堂は唯の席に集まっていた。

唯「今日はなんだかつまんなかったよ~」

律「そうだなー。いつもなら学校の中で誰か一人は血ぃ噴いてんのに」

和「あら、平和で良いじゃない」

 和は音もなく軽音部の輪の中に入ってきた。

律「でもよー、やっぱつまんねぇよ。こういう日は身体がムズムズするんだよなー」

紬「痒いところはございませんかぁ?」

 律が愚痴を零しているところを紬が後ろから戯れついてゆく。
その様子を見て和は一瞬だけ不機嫌な顔をした。

61: 2010/09/16(木) 22:52:39.87 ID:S1zbt.AO
唯「もっと強い人と戦いたいよ~」

澪「まぁそれは一理あるな。自分の技術向上にもつながるし」

和「そうなんだ。じゃあ私、生徒会に行くね」

 和は眉を顰めつつ唯達に背を向けたが、それから数歩歩いたところで足を止めた。

和「アンタ達」

 和の冷たい一言で軽音部一堂は水を打ったように静まり返った。
和は腰に差した刀の柄にゆっくりと手をかけ、半身だけ唯達に向ける。

和「そんなに強い人と戦いたいんなら、私が相手になるわよ?」

 静まり返った唯達の周りの空気が、一瞬にして凍り付いた。

62: 2010/09/16(木) 22:53:40.58 ID:S1zbt.AO
律「和……ち、違うんだ。そういう事じゃ──」

 傍から見ても一触即発の空気である事は一目で分かる。
律はこの時、動物の生存本能に従って和に弁解の余地を乞うていた。

和「…………」

澪「ごめん和、少し調子に乗り過ぎたかも……」

 深々と頭を下げる澪。
和はその様子を暫く眺めて、刀の柄から手を離した。

和「ふふ、冗談よ。でも調子に乗らないようにね。どうも最近学校中がきな臭いから」

 最後にふっと微笑み、和は踵を返して教室から出て行った。

唯「きなこくさい?」

 和を見届けた後に唯が漏らした一言を聞いて、唯以外の部員は大きく肩を竦めた。

63: 2010/09/16(木) 22:54:53.19 ID:S1zbt.AO
和「あの子達には悪いけど、少し釘刺しとかないとね」

 廊下で一人呟く和は体育館を眺めていた。
両目には確かな敵意が込められており、その中で渦巻く強靱な意志が見え隠れしている。

和「……お願いだから滅多な事しないでよね。私はこう見えて忙しいんだから」

 和が放った言葉は誰にも聞かれることなく宙を舞って消えた。
その言葉が誰に向けて放たれたものなのかは、和自身にしか分からない。
 様々な意志が交錯してゆく中で、軽音部はいつもより平和なティータイムに勤しんでいる。
今日、既に凄惨な戦いのきっかけが起きている事もしらずに。

64: 2010/09/16(木) 22:56:11.91 ID:S1zbt.AO
 その日から更に二週間が経った。
 時刻は二十三時五十八分。既に日にちが変わろうとしている時間である。

姫子「ふぅ、やっと帰れる……。今日も疲れたな」

 姫子はアルバイト先のコンビニの事務所で着替えていた。
 高校生は二十二時以降は働けないのだが、姫子は店長に頼まれてやむなく残業していたのだ。
見た目に反して人情に厚く、人に何かを頼まれると断われない。
そんな性格故に姫子はこうして深夜までアルバイトする事がしばしばあった。

姫子「あれ、メール? こんな時間に誰だろ……」

 時計の三つの針が頂点で交わったその時、姫子の携帯電話から着信を知らせるメロディが鳴り響いた。

65: 2010/09/16(木) 22:57:48.86 ID:S1zbt.AO
姫子「知らないアドレス……。誰だろ?」

 少し怪訝な顔をしつつも姫子はメールの本文を確認する。

姫子「っ!? これって……」

 姫子はメールの本文に綴られていた内容と添付された音声データを確認して戦慄した。
 この時姫子は気付いていないが、二週間前に姫子が感じた嫌な予感は奇しくも的中していたのだ。

姫子「闘うしか……ないよね?」

 携帯電話をブレザーの胸ポケットにしまうと、姫子はそっと胸を撫でた。
俯いて身体を震わせる彼女からは、様々な憂いが漂っていた。

66: 2010/09/16(木) 23:00:19.72 ID:S1zbt.AO
きりが良いからまたまた休憩
見てる人いたら嬉しい、まぁいなくても続けるんだけど

70: 2010/09/16(木) 23:22:31.72 ID:S1zbt.AO
梓「…………」

 梓はいつも通り登校し、下駄箱で靴を履き替えているところである違和感に気付いていた。

梓(もうすぐホームルームが始まるのに、生徒が一人も見当たらない……)

 嫌な予感に駆られた梓は用心して鞄の中から二丁の拳銃と銃弾が入ったやや大きめのポーチを取り出すと、スカートで隠れたホルスターにそれらを収めた。

梓(取り敢えず教室に……)

 やや駆け足気味に梓は教室に向かった。
昇降口を抜けて廊下を直進、そしてやがて見えてきた教室の扉に手をかけ、勢いよく開いた。

71: 2010/09/16(木) 23:23:46.97 ID:S1zbt.AO
梓「っ!?」

 扉を開けた瞬間、梓の眉間を狙ってナイフが飛んできた。
梓は大きく背をのけ反らしてそれを躱す。
梓の後ろでナイフが窓ガラスを打ち割る音が鳴った。

梓「うそっ!?」

 その音に遅れて、梓を挟み撃ちにするように廊下の両脇から無数の刃物が飛んできた。
今度は不格好に教室の中へと転がり込む梓。
辛うじて一命を取り留めたと安堵する間もなく、梓の後ろで何かが落ちる音がした。

梓「……閉じ込められた?」

 梓が後ろを確認すると、戸があったところには全く節目が無い鉄板が鎮座していた。
もう一方の戸にも同じように鉄板が降ろされている。

72: 2010/09/16(木) 23:24:35.67 ID:S1zbt.AO
「はじめまして、中野 梓ちゃん」

梓「っ!」

 息をつく間もなく籠絡されてしまい、周りの状況を確認出来なかった梓だが、教室の窓際からかけられた声で我に返る。

梓「誰ですかあなたは」

エリ「ふふ、私は三年二組の瀧 エリだよ」

 エリは半端な位置で束ねているせいで髷のようになっている自身の髪の毛を指で弾いた。

梓「その瀧さんが何の用でしょうか? あまり良い予感はしませんけど」

 梓は身を屈めてホルスターに収まっている拳銃に手をかけた。
口はきつく真一文字に結び、両目を細めている。

73: 2010/09/16(木) 23:25:37.91 ID:S1zbt.AO
エリ「用っていうか、危ないんだよね君達。だから……」

 エリは窓の縁に置いてあったコーラの缶を放り投げた。
それは綺麗な放物線を描き、床へと吸い寄せられてゆく。

エリ「ここで潰れてもらうよ!」

 缶がかつん、と音を立てると同時にエリは梓の懐目掛けて駆け出した。

梓「くっ……! 何なんですかいきなり!」

 梓は銃をホルスターから引き抜き、ためらい無く引き金を引いた。
 乾いた銃声が四発、桜ヶ丘高校の敷地内に響いた。

74: 2010/09/16(木) 23:26:52.23 ID:S1zbt.AO
 梓とエリの邂逅から丁度十分前。
紬は三年生の校舎棟の廊下を一人で歩いていた。

紬(おかしい……。この時間に誰一人登校していないなんて……)

 梓は同じ状況に置かれてもその状況をそこまで深刻に受け止めてはいなかった。
だが紬は幼少時からの英才教育によって培ってきた鋭敏な感覚によって、ある事実に気付いていた。

紬(落ち着いた息遣いが一人分。でもこの穏やかな呼吸は……)

 普通誰かから身を隠す時、たとえ隠れる側が優位に立っていたとしても若干呼吸は荒くなるものだ。
なのでその呼吸の主は別に紬から身を潜めているわけではない。普通ならそう判断する。

75: 2010/09/16(木) 23:27:45.21 ID:S1zbt.AO
 だが紬はそう判断しなかった。
この呼吸は自然の呼吸などではなく、日頃の訓練によって培われた技の一種。
そして人間の本能すらも押さえ込むこの技の持ち主は、恐らく達人の域に達している人間である。
これが紬の見解だ。

紬「出てきなさい」

 紬はそう言うと、近くにあった柱を蹴った。
校舎全体がその力で少しだけ揺れる。

「へぇ、やっぱりあの子の言う通りみたいね。そこいらの子じゃあ受けられないレベルのパワーね」

 廊下の曲がり角から現れた生徒を見て、紬は少しだけ顔をしかめた。

紬「……佐藤さん?」

 紬は信じられなかった。
学年一仲が良いと言っても過言ではない自分のクラスの生徒が、今こうして自分と対峙している事が。

76: 2010/09/16(木) 23:28:34.84 ID:S1zbt.AO
紬「……邪魔してこないでね。私、唯ちゃん達を探すから」

アカネ「そうはさせないわ。やるなら力ずくで、ね?」

 アカネは腰を深く落とし、既に臨戦態勢に入っている。

紬「佐藤さんって、生徒序列五十位以内にも入ってなかったわよね? 勝てると思ってるの?」

アカネ「勝てるよ。相手があなただからこそ」

 即答するアカネの余裕が満ちた表情に、普段は温厚な紬は苛立ちを覚えた。
 この時紬は慢心していた。
格下である佐藤 アカネに自分が負けるはずないと。
そしてその慢心が紬を窮地に追い詰める事になる。

紬「なら……やってみなさい!」

 直後に衝突した二人を中心にして、三年校舎に衝撃の波が走った。

77: 2010/09/16(木) 23:29:38.56 ID:S1zbt.AO
律「この感じ……。ムギか!?」

 律は部室に忘れていた携帯電話を取りに行く為、部室に向かおうとしていた。
人通りが少ない事など大して気にしていなかった律だが、紬とアカネの衝突の際に伝わってきた衝撃で事の深刻さに気付く。

律「……ケータイどころじゃないな!」

 律はカチューシャを外し、階段を大きく飛び越した。
十五段ほどの高さから綺麗に爪先から着地した時、事態は急変した。

律「うわぁっ!?」

 天井を突き抜いて無数の刃物が律に向かって降り注いできた。
寸前でそれを前転して躱す律だが、彼女の前に威風堂々と立ち尽くす者がいた。

78: 2010/09/16(木) 23:30:28.99 ID:S1zbt.AO
「へぇ、あの子が言った通りになったね。衝撃を感知してから五秒以内に飛ぶ確率が九十二パーセント。そして降り注ぐ武器を前転して躱す確率が八十パーセント。一体どうやったらこんな事まで分かるんだろうね?」

 声量が大きいオペラ歌手のような野太い声が律に絶望を与えた。

律「な、なんで? 私とやり合うつもりかよ!?」

信代「本当はこんな事したくはないんだけどね。この中島 信代、自分の部を守る為なら鬼になるよ」

 生徒序列ナンバーシックス。
『岩窟王』中島 信代。
 一筋縄ではいかない多くの桜高生徒達を差し置いて、パワーのみでトップランカーになった戦士が律に立ち塞がった。

79: 2010/09/16(木) 23:31:47.18 ID:S1zbt.AO
澪「今戦ってるのは六人、か……」

 朝のホームルーム直前の時間に、澪は体育館にいた。

澪(迂闊に動くのは危険だな……)

 澪は学校に着く前から人が居ないという違和感に気付いていた。
そして彼女が真っ先にとった行動は、教室ではなく真直ぐ体育館に向かう事だった。

澪「……来るなら来い。返り討ちにしてやる」

 澪は体育館の壁に背を預け、刀の柄に手をかけた。
そして自分を狙っているであろう人物に対して毒づく。

澪「さっきから気配はするのに……。何で何処にもいないんだよ!」

「あら、私ならずっとここに居るけど」

澪「っ!?」

80: 2010/09/16(木) 23:32:35.73 ID:S1zbt.AO
澪「木下さん……? いつからそこに……」

しずか「秋山さんがここに来る前からずっと居たよ?」

 しずかは片目にかかる長い前髪を鬱陶しげに払うと、気の合う友人に微笑みかけるかのようにはにかんだ。

澪「う、嘘……」

 絶対な自信を持っていた自分の眼がまるで通用しなかった事に、澪は戦慄していた。
澪がしずかの存在を察知出来なかったのは観察力云々の次元の話ではないのだが、それでも澪の心をへし折るには充分だった。

澪「う、うわあああああああっ!!」

 澪は即座に刀を抜刀し、出鱈目に振るった。

しずか「わわっ、危ないよ!」

 だがしずかはそれをのらりくらりと躱す。

81: 2010/09/16(木) 23:33:25.13 ID:S1zbt.AO
澪「この! 当たれ! 当たれったら!」

 冷静さを欠いた今の澪の斬撃は錘が乗せられたかのように鈍く、彼女の胸の中で蠢く恐怖は確実に刃に錆をかけていた。

澪「くそっ!」

 刀を薙ぐ力の動きに逆らわず、澪は一回転して渾身の力で刀を振り抜いた。だが……。

澪「え?」

 刃は空を切り、しずかは澪の視界から消えていた。
 慌てて刀を構え直して迎撃の体勢に入る澪だが、それは何の意味も成さなかった。

澪「がはっ……!?」

 何の前触れも無く、澪の腹部に衝撃が走った。

しずか「あっははは、油断しちゃ駄目だよ秋山さん」

 瞬間移動したかのようにいきなり澪の眼前に現れたしずかは、前髪で隠れた片目を細めて笑っていた。

82: 2010/09/16(木) 23:34:19.03 ID:S1zbt.AO
唯「話ってなに? 姫子ちゃん」

 やや強めの風が吹き付けるグラウンドの一角で、唯と姫子は対峙していた。
姫子はマウンドに、唯はバッターボックスに立っている。

姫子「そんなに急かさなくても良いじゃない。こうして二人で話すのって初めてでしょ? もっと肩の力抜きなよ」

 姫子は舌を出して笑うと、左手に嵌めたグローブのポケットにボールを打ちつけた。
ばしっ、と小気味の良い音が鳴り響く。

唯「私緊張なんかしてないよ~。でもさっきから校舎の中で皆の気配がビリビリしてるんだよ、心配なんだよ」

 唯は両腕を回し、その場で飛び跳ねて姫子に話を進ませるように促す。だが姫子はそれに対して苦笑いするだけだった。

83: 2010/09/16(木) 23:35:22.70 ID:S1zbt.AO
姫子「つれないなぁ、唯……は!」

 姫子はマウンドのプレートに足をかけ、滑らかなウインドミル投法でボールを放った。
ボールは直線を描いて唯の隣を通り過ぎ、バックネットに突き刺さる。

姫子「へへ、ストラーイク」

 足元に転がるボールを拾い、姫子は唯にほほ笑みかけた。

唯「私、もう行っちゃうよ?」

 姫子ののらりくらりとした態度に痺れを切らし、唯は姫子を睨んだ。

姫子「あぁごめんね。じゃあ単刀直入に聞くけど……」

 姫子は一旦口を閉じ、一呼吸置いてから言った。

姫子「唯は、この学校が好き?」

84: 2010/09/16(木) 23:36:14.76 ID:S1zbt.AO
 姫子の質問に唯は呆気に取られ、眼を丸く見開いた。
数秒の間沈黙が流れるが唯はゆっくりと口を開いた。

唯「うん、大好きだよ。軽音部の皆がいて、和ちゃんに憂に、姫子ちゃんも居るこの学校が大好き!」

 唯はそう言うと屈託のない笑みを浮かべた。姫子もそれにつられて笑う。

姫子「そうね、私も大好きだよ。唯達やエリにしずか、いちごがいるこの学校が大好き」

唯「えへへ、お揃いだね!」

姫子「だね」

 刹那、一陣の風が吹き付ける。
風はグラウンドの砂を持ち上げ、一瞬だけ唯の視界を遮った。

唯「っ!?」

 その直後に唯は後頭部に衝撃を受け、よろめいた。

姫子「だからこそ……。この学校に立った波は私が静める!」

85: 2010/09/16(木) 23:37:01.97 ID:S1zbt.AO
和「くっ……。何でこんな時に!」

 和は桜高の職員室の一角で、パソコンのキーボードを目にも止まらぬ速さでタイプしていた。

憂「和ちゃん、焦っちゃ駄目だよ?」

 憂もその隣の机で同じようにキーボードと格闘している。

「ごめんなさいね二人とも。でも今は猫の手も借りたいくらいの状況なのよ」

 和達の対面の席で二人よりも滑らかな手つきでキーボードを叩いていた女教師は、大きく溜め息をつくと二人に労いの言葉をかけた。

和「いえ……。気にしないで下さい山中先生。これも生徒会長の仕事ですから……」

そう言いつつも和の額には汗が滲んでおり、焦燥に駆られていることは一目瞭然だ。

86: 2010/09/16(木) 23:37:47.91 ID:S1zbt.AO
和(まさかサイバーテロを起こして学校の情報を漏洩させるなんて……!)

 和は今この学校で軽音部の五人が闘っている事に気付いている。
当然その騒ぎを鎮静する為に動こうとする和なのだが、そうはいかなかった。
 何者かが学校のサーバーに不正アクセスし、生徒情報を漏洩させ、学校の口座から金を引き出してあらゆるところにばら蒔いた。
 その火消しの手伝いを任された和は今こうして動けずにいるのだ。

憂「和ちゃん……」

 憂は目に見えて悪くなってゆく和の顔色に気付き、心配そうに眺めている。
キーボードを叩く手の速さは衰えてはいない。

87: 2010/09/16(木) 23:38:34.73 ID:S1zbt.AO
和(憂をこうして引き止めてられるのも限界がある……!)

 生徒会役員でもない憂が何故学校の情報漏洩の火消しを手伝っているかというと、それは和が直々に頼んだからに他ならない。

和(きっとこの子は唯達が闘ってるのを知ったら止まらないわよね……)

 和は恐れていたのだ。究極生命体である平沢 憂が戦いの場に赴く事を。

和(それだけは駄目! この子が動いたら……、きっと氏人が出る!)

 額に流れる汗を拭い、和は隣に座る憂の姿を一瞥した。
和が恐れているのは自分自身であるのだとも知らずに、憂は憂いを帯びた心配げな笑みを和に返した。

88: 2010/09/16(木) 23:39:47.71 ID:S1zbt.AO
 時を同じくして、桜高のバトン部部室にて一人の少女が佇んでいた。

「全員交戦開始……」

 少女は暫く二つ結びにした自分の髪の毛を弄っていたが、それにも飽きたのか床に転がっていたバトンを拾って手の中で弄り始めた。

「真鍋さんと平沢 憂が作業から離れられるのは短く見積もっても三時間……」

 少女が退屈そうに天井を仰いでいると、部室にノックの音が響いた。

「いちごちゃ──」

 がちゃりとドアが開けられると同時に、入ってこようとした生徒目掛けて数多もの刃物が飛び交った。
女子生徒は息を飲む間もなく刃の餌食となり、膝を折って倒れた。

89: 2010/09/16(木) 23:40:23.98 ID:S1zbt.AO
「入る時はノックを四回して左回りにノブを捻ってって言ったのに……」

 少女は倒れ伏した生徒に近付くと、無表情のまま生徒を蹴飛ばして部室の外へと追いやった。

「まっていちごちゃん! 痛いよぅ……!」

 生徒の嘆きも最後まで聞かぬまま、少女はドアを閉めた。

「大丈夫。氏なない程度にはしてる」

 眉一つ動かさぬまま元居た場所に腰掛けると、少女は再び髪の毛を弄り始めた。
 この少女の名は若王子 いちご。
生徒序列ナンバーフォーにして桜高最弱の生徒だ。

90: 2010/09/16(木) 23:41:10.85 ID:S1zbt.AO
 桜高に入学した生徒は皆例外無く、その熾烈な環境で過ごすので一人で野生の熊一頭を素手で倒せる程度のレベルまでにはなる。
それは桜高が創立されて八十五年来、覆らなかった事実だ。
 だがいちごは特例中の特例。
一人では中学生の男子にすら劣る身体能力で、彼女は桜高のトップランカーに名を馳せた。
 彼女に敵意を持って近付こうものなら問答無用で智略の沼に引き摺り込まれる。
彼女のその弱さ故の強さを知る者は、畏怖の念を込めて若王子 いちごを『沼』と証した。

いちご「そろそろ中野さんとエリの決着が着く時間……」

 そう呟くとこれまでの間通しで表情を変えなかったいちごが、ほんの少しだけ口元を緩めた。

91: 2010/09/16(木) 23:41:55.79 ID:S1zbt.AO
梓「はぁっ……はぁっ……」

 二年生の教室でエリと梓は熾烈な戦いを繰り広げていた。
 梓の銃器が火を吹くとエリの体躯が縦横無尽に駆け回り、エリの拳が壁を砕くと梓の両目がそれを見切る。

梓「何で……当たらないんですか!」

 積み重なる疲労に耐えかね、梓はついに膝を折った。
小さな体躯は冷や汗で濡れ、目には見えないがエリに与えられた殴打のダメージが内臓に支障をきたしている。

エリ「さぁ、何でだろうね? 自分で考えてみなよ中野さん」

 エリは屈伸すると余裕げに微笑み、汗で濡れた前髪を払った。

梓「くっ……」

 梓はぎりぎりと奥歯を噛み締める。
そして一秒にも満たない速さで銃のマガジンを入れ替えると、再びエリに狙いを定めた。

92: 2010/09/16(木) 23:42:30.08 ID:S1zbt.AO
エリ「無駄だよ!」

 梓が引き金に手をかけるよりも速く、エリは並んだ机の間を掻い潜って梓の懐に潜り込んだ。
腹部に捩じ込まれる掌底を無抵抗に受けてしまい、梓は盛大に吐血した。

エリ「まだまだっ!」

 宙を舞う梓の頭を鷲掴みにして、エリはそのまま梓の顔面を机の角に叩き付けた。

梓「──っ!」

 言葉に出来ない激痛に耐え兼ね、梓はそのまま机にもたれ掛かる体勢のまま銃を手放した。
二丁の拳銃が床に衝突する音は、異なる二つの息遣いと共に教室に響いた。

93: 2010/09/16(木) 23:43:16.11 ID:S1zbt.AO
エリ「ふぅ……。まだやる? これ以上やるなら命の保障は出来ないよ?」

梓「…………」

 梓はエリの言葉に対して返事することなく、床に落ちた拳銃を拾うと立ち上がろうとした。

梓「え?」

 腰を浮かせて立とうとした瞬間、梓は世界が歪むのを感じて仰向けに倒れてしまう。

エリ「あははっ、もう止めときなって。君は充分頑張ったよ、もうゆっくり休んでて良いんだよ?」

 先程梓がもたれていた机を律義に列に揃えつつエリは梓を労った。

エリ「君はまだ二年生なんだし、来年にはもっと強くなれるよ。何も今氏に急ぐ必要なんて無いじゃない」

94: 2010/09/16(木) 23:44:34.58 ID:S1zbt.AO
梓「…………」

 梓はエリの歪む世界の中でエリの言葉を深く受け止めていた。
自分はまだ二年生だ。今は三年生相手にここまでやれた自分を素直に褒めれば良い。氏んでしまっては元も子もない。
浮かんでくる言葉は全て自分を理屈で慰める言葉で、梓はそんな自分が情けなく思えてきていた。

梓「──っ!」

 自然と頬を伝う何かの存在に気付き、梓の思いは堰を切ったかのように溢れ出る。

梓「……っ! ……うっ……くっ……」

 自責の念に駆られた梓の口から紡がれるのは、いつもは頼りないくせに何かあると自分を思ってくれていた先輩の名だった。

梓「ゆっ……いせんぱ……い……っ!」

95: 2010/09/16(木) 23:45:23.35 ID:S1zbt.AO
 嗚咽を漏らしながら啜り泣く梓を見て、エリはトップランカーの中に入れない自分の弱さを重ねていた。
本来の生徒序列ならばエリは梓よりも格下。
それでもエリがこうして梓を圧倒出来たのは、このキリングフィールドがエリにとって最高の条件下であったからに過ぎないのだ。

エリ「中野さん……。よく頑張ったよ」

 若王子 いちごの策によって最高のフィールドを与えられて梓を完封した自分を、エリは情けなく思った。
 梓をここに招き込んだトラップは、いちごが一夜にして作りあげたものなのだ。

エリ「今回は地の利が少しだけ私にあっただけ。またやり合う時があるとすれば、君に負けるのなら本望かな?」

96: 2010/09/16(木) 23:46:07.93 ID:S1zbt.AO
 最後に自分に微笑みかけて去ろうとするエリの後ろ姿を眺めながら、梓は思考を張り巡らせていた。

梓「…………」

 『今回は地の利が少しだけ私にあっただけ』
 先程のエリの言葉が何度も頭に響く。
 涙は自然と止まり、さっきまで歪み狂っていた視界は段々と鮮明になってゆく。

梓「え……?」

 そして横たわったまま、先程まで闘っていたこの教室を一瞥すると梓はある違和感を覚えた。
違和感、猜疑感は梓の胸の中で渦巻き、確かな異変を察知した。

梓(机……きれい……)

 銃器を駆使する梓と俊敏に動き回るエリの二人が闘っていたにも関わらず、壁や窓には弾痕が着いているのに机だけが綺麗に並べられていた。

97: 2010/09/16(木) 23:46:53.50 ID:S1zbt.AO
 正確には多くの机が銃弾を受けて傷付いてはいるが、並びや配置だけが動いていないのだ。

梓(これって……。嘘……!?)

 梓は自分が机に打ち付けられた後のエリの行動を思い返す。
エリは確かに梓に戦いを続行する意志を問いながら、ずれた机の配置を元に戻していた。

エリ「ばいばい中野さん。またいつかね」

 エリは窓を開けて教室を去ろうとした。
だがその刹那、エリの背後で一発の銃声が鳴り響く。

エリ「え?」

 耳に熱を感じて、エリは自分の耳を銃弾が掠めたのを悟った。
そして振り返ると、そこには膝を震わせながら立ち尽くす梓が居た。

98: 2010/09/16(木) 23:47:27.33 ID:S1zbt.AO
梓「あはっ……。なんだ、こんな簡単なことだったんだ……」

 梓は満身創痍でありながらも微笑を浮かべ、手近にあった机を蹴飛ばした。
吹き飛ぶ机はその奥の机も巻込み、綺麗に整えられた列を乱す。

エリ(嘘……まさか……)

 梓は動きは止まらない。
まるで駄々っ子のように暴れ、時には銃を発砲しながら机を蹴り飛ばしてゆく。

エリ(気付かれた!?)

 エリは自分の胃の中を何か冷たいものが通り抜けたような錯覚に陥った。
自然と唇は乾き、額を冷や汗が伝う。

99: 2010/09/16(木) 23:48:17.19 ID:S1zbt.AO
梓「変な趣味をお持ちなんですね」

 梓の言葉にエリは肩を震わせた。

梓「少し前に唯先輩から聞いた事があります。仏像や寺が好きな変わったクラスメイトがいるって」

 それがエリの事を差している事など、エリにとっては自明の理である。

梓「『金剛界曼荼羅』ですか……。少し無理矢理なんじゃないですかね?」

 梓は少しだけ肩を竦めて、銃口をエリに向けた。
エリはそれに反応して即座に列を保っている机の間を掻い潜りながら、梓へと詰め寄ってゆく。

エリ「分かったからってどうするのよ!」

 乱れた机の列を戻しつつ、遠回りに梓を射程範囲に納めようとするエリを見て、梓は今度は大きく溜め息をついた。

100: 2010/09/16(木) 23:48:53.24 ID:S1zbt.AO
 エリは幼少時から仏像や寺を見て回る事が好きだった。
少しだけ埃っぽい彼女の思い出の中で息衝いていた曼荼羅は、彼女の戦闘スタイルに反映されていたのだ。
 規則正しく並べられた障害物を曼荼羅に見立てその中を縦横無尽に駆け巡り、仇成す者に仏の裁きを下す。
それが彼女が編み出した戦闘スタイルだ。
 無論障害物が無ければこの戦法は使えない。それがエリが序列上格上である梓を圧倒した理由だ。
 本来は弱いが特定の状況下においてめっぽう強い。
それだけでは桜高生徒序列では上には立てない。

101: 2010/09/16(木) 23:49:46.01 ID:S1zbt.AO
梓「わざわざ机を戻すのも面倒でしょう? だから……」

 何故上には立てないのかその理由は単純明快だ。

梓「こうしてあげます!」

 梓はブレザーのポケットから手榴弾を取り出し、口でピンを引き抜くとエリ目掛けて投げた。

エリ「っ!?」

 エリは咄嗟に転がり、その場を離れる。
その直後に強烈な光と共に轟音が鳴り響いた。
爆発はそこにあったもの全てを根こそぎ食らい尽くし、炎を巻き上げる。

エリ「そ、そんな……」

 作り上げた有利な環境など格上がその気になればあっさり打ち崩すことが出来る。
 いちごがエリに与えた曼荼羅は焼け落ち、火薬と硝煙の匂いが漂う梓のキリングフィールドと化した。

105: 2010/09/17(金) 00:02:53.82 ID:M3OjmQAO
ぐぇあ、ありがとー。明日も書けたら書く。
流石に今日と同じ量は無理だけど

108: 2010/09/17(金) 15:48:22.76 ID:M3OjmQAO
今書き溜めしてるんだけどさ、もしかしてここって禁止ワードとかあったりする?
一応こういう内容だしもしかしたらバリバリ引っ掛かるかも分からんので教えて工口い人

111: 2010/09/17(金) 16:25:58.35 ID:M3OjmQAO
性か、分かった。どうもありがとう

116: 2010/09/17(金) 19:49:34.78 ID:M3OjmQAO
梓「私、自分が情けないです」

 燃え盛る教室の中で、梓は天井を仰いで呟いた。

梓「戦場のど真ん中で敵と対峙してるのに妥協して諦めるなんて……。馬鹿ですか私は」

 時々口から血を零しながらも梓は淡々と言葉を紡ぐ。

梓「例え相手が軍隊だろうと憂だろうと、私はこれから先絶対に諦めたりなんかしない。やってやります!」

 自分に戒め、矜持とするように言うと、梓はエリに向けて目が線になるほどの満面の笑みを浮かべた。

梓「『やってやります!』 何かしっくりこないですね……」

 そして細めた両目をうっすらと開き、エリをしっかり見据えると、梓は猫撫で声で言った。

梓「やってやるです、なーんてね」

117: 2010/09/17(金) 19:50:22.79 ID:M3OjmQAO
エリ(来る……!)

 エリは本能で自分の身の危険を察知し、梓との距離を詰めた。
銃を持つ相手と闘う場合は距離を取って逃げようとすると逆に不利になる。ましてや梓ほどの命中精度を誇る使い手となるとそれは顕著に現れる。
 それを理解していたエリが取ったこの行動は全く間違ってなどいなかった。
 梓が両手に握る二丁の拳銃を一発ずつ発砲する。
鳴り響いた二つの銃声はほぼ同じタイミングで重なった。
 二つの銃弾の軌道を完璧に見切り、しゃがんだ体勢から一気にタックルを決めようとしたエリの肩を──。

 一発の弾丸が貫いた。

118: 2010/09/17(金) 19:51:15.46 ID:M3OjmQAO
エリ「うぐっ──」

 熱を持った痛みの波が肩口から広がり、上半身を疼かせる。
悲鳴を上げずに精神力でその痛みに持ち堪えたエリは、追撃の手に備えんと梓の手の動きを凝視した。

梓「次は左肩をいただきます!」

 宣言し、梓は二つの銃口をエリに向けて発砲する。

エリ(避ける……っ!)

 狙われている部位が分かっているのなら避ける事は容易い。
そう考え、エリは左半身を後ろに逸して肩を銃弾の軌道から外した。

エリ「っ~~!?」

 完璧に、何の欺瞞も挟む猶予が無いほどに万全に躱した筈なのに、一発の弾丸が梓の宣言通りにエリの左肩を打ち抜いた。

119: 2010/09/17(金) 19:52:01.74 ID:M3OjmQAO
エリ「きゃああああああっ!!」

 痛みに備える猶予が無かったエリは、ついに堪えきれずに悲鳴を上げた。

梓「これで両腕は使えませんね」

 倒れ伏したエリに近寄り、梓は銃口をエリに突き付ける。

エリ「どう……して……?」

 襲い来る氏の恐怖を躱す事を諦め、虚ろな瞳を浮かべたままエリは梓に問う。

梓「どうして弾が当たったのか、って顔してますね。良いですよ、教えてあげます」

 梓は勝ち誇った笑みを浮かべ、二つの銃口をエリから逸して発砲した。

エリ「うぐっ……!?」

 二つの発砲音と同時に一つの弾丸がエリの右太股を打ち抜いた。

120: 2010/09/17(金) 19:53:09.52 ID:M3OjmQAO
梓「ごめんなさい。ちょこまか動かれると面倒なんで撃たせてもらいました」

 銃をホルスターにしまい、屈み込むと梓はトリックの種明かしを始めた。

梓「この銃、それぞれ弾の速度が違うんですよね。そして弾丸は物にぶつかっても潰れないようにハンドメイドしてあるんです」

エリ「…………?」

 目に涙を溜めながらも、エリは無言で首を傾げた。

梓「つまり、弾の速度が違って更に物の衝突にも耐えられる強度を持っているなら、二つの弾の発射を僅かにずらして跳弾で弾の軌道を変えられるんです」

エリ「そんな……」

 そんな馬鹿な。エリは素直にそう思った。
眼で追うだけで精一杯であろう速度を持つ弾丸をそこまで緻密にコントロール出来るなど、人間業ではない。

121: 2010/09/17(金) 19:53:59.10 ID:M3OjmQAO
梓「まぁ流石に障害物が多い場所ではこれは使えないんですけどね。私の腕もまだそこまでには至ってないんで」

 梓はそう言って頬を掻き、けたけたと笑った。

エリ(なんだ……。曼荼羅を焼かれた時点で、私の負けは決まってたんだ……)

 エリは心の中で自嘲した。自分の頬が諦めの笑みで緩んでいるのに気付く。

エリ(ここで終わり……かぁ。焼氏って苦しいんだろうな……)

 燃え盛る火の規模がみるみるうちに増してゆくのを感じて、エリは眼を閉じた。

梓「何寝ようとしてるんですか。唯先輩でもこんなとこで寝たりしませんよ」

122: 2010/09/17(金) 19:54:50.08 ID:M3OjmQAO
エリ「え?」

 有無を言わせずに自分の身体を抱え上げ、よたよたと歩く梓にエリは疑問を覚えた。

エリ「どうして……」

梓「目の前で人に氏なれるのは気分が悪いんですよ。言わせないで下さい恥ずかしい」

 そっぽ向いて照れ臭そうに喋りつつも、ふらふらと自分おぶって歩く梓が、エリにはとても頼もしく見えた。

エリ「ありがとう……。『梓ちゃん』」

梓「? 何か言いました?」

エリ「ふふ……。何でもないよ」

 安定しない足取りのまま窓の縁に立ち、梓は跳躍した。
猫のようにしなやかに地面に着地すると、エリを荷物のように乱雑に放る。

123: 2010/09/17(金) 19:55:34.23 ID:M3OjmQAO
エリ「きゃっ……。酷いよ、これでも重傷なんだからもっと丁寧に──。うわっ!?」

 物のように扱われた事に対して頬を膨らましてはぶてるエリだが、自分にもたれるように倒れ込んだ梓を受け止めると、吐き出しかけた言葉を胸にしまった。

エリ「大丈夫?」

梓「大丈夫じゃないですよ。もう一ミリも動けません。誰のせいでしょうね?」

 梓は皮肉めいた辛辣な言葉を吐き捨てるものの、表情はとても晴れやかだ。

エリ「ごめんね? 実はこの騒ぎを起こしたのって、私と私の友達なんだ」

 戦いの中で自分の愚かな暴動を悔いたエリは、事の発端を梓にカミングアウトした。

124: 2010/09/17(金) 19:56:28.17 ID:M3OjmQAO
エリ「少し前に軽音部と吹奏楽部がやり合ったでしょ?」

梓「……そういえばありましたね、そんなこと」

エリ「実はあれ、私達最初から最後まで見てたんだ」

 その時は見られているという自覚など無かったので、梓は素直に驚いた。

エリ「見てて思ったの。軽音部は危ない。今は自分から敵に回る人にしか危害は無いけど、もしこの子達が戦いに積極的になったら学校が危ないって」

梓「……なんですかそれ。そんな理由で私達を?」

 既に持ちうる力全てを吐き出して満身創痍となっている梓だが、話を聞いていて湧き上がる苛立ちを隠そうともせずに舌打ちをした。

125: 2010/09/17(金) 19:57:17.41 ID:M3OjmQAO
エリ「ごめんね。話を戻すけど、それで私達は軽音部を潰してしまおうと考えたの。でも皆君達の事が大好きだから、素直に協力してくれる人は少なかったわ」

エリ「でも田井中さんがぼやいてた言葉を録音してでっち上げたら皆協力してくれたんだ。聞いてみる?」

 エリはそう言うと煤けたブレザーの胸ポケットから壊れかけのボイスレコーダーを取り出し、梓に手渡した。
梓はそれを無言で受け取り、再生スイッチを押して耳にあてる。

『いっそ私らも他の部の乗っ取り合戦に乗ってみるかぁ?』

梓「これって……。律先輩こんな事言ってたんですか?」

 この会話が行なわれていた時、梓はその場に居なかったので律の発言を聞いて戦慄した。

126: 2010/09/17(金) 19:58:13.43 ID:M3OjmQAO
 部員数が少ない部が下剋上を仄めかすような発言をすればたちまちにその芽を潰されてしまう。
 桜高の長い歴史の中でそうやって消えた部は数知れない。
それは最早桜高の生徒全員が共通して理解している常識なのに、律が何故こんな事を言ったのか、梓は解せなかった。

エリ「ううん、違うの。実際はそんなのでっちあげ、最初から最後まで再生したら分かるよ」

 梓は言われるがままに再びレコーダーを再生した。
軽音部の四人の下らない談笑を聞き終えると、梓はボイスレコーダーを握り潰した。

梓「こんなに拍子抜けな気分にされたのは……、生まれて初めてです」

127: 2010/09/17(金) 19:59:07.20 ID:M3OjmQAO
エリ「あはは、いざ種明かししてみると妙案なんてのは皆そんなものだよ。上手いことその音声データを編集して、捨てアドからクラスの全員に送信したの。そしたら皆面白いくらい騒いじゃって──」

梓「…………」

 俯いて肩を震わせる梓を余所に、エリは壊れたように笑い出した。

エリ「あはっ、私ずるいよね。こんな質の悪い策を閃いたのもそうだし、こんな策に乗ってくれた皆を捨てて、さっさと降参しちゃうなんてね。あはははっ!」

 笑いつつも、エリの涙腺は崩壊していた。
大粒の涙がぽろぽろと零れ、普段は愛らしい顔は涙と鼻水でくしゃくしゃになっている。

128: 2010/09/17(金) 20:00:03.72 ID:M3OjmQAO
エリ「あははっ、何で私間違えちゃったのかな? ずるいよね、卑怯だよね。自分が弱いからって軽音部を勝手に恐れて……。バッカみたい!」

 それを良しとしていた自分が今では恥ずかしく思える。
戦いに敗れて全てを失ったエリはもう自分を笑うしかなかった。
そんなエリの手を──。

梓「うるさいです」

 梓は力強く握った。

梓「確かに瀧先輩がやった事は誉められたものではありません。でも──」

 握り締めたエリの掌をそっと自分の胸に当てると、梓はその手を愛しげに見つめた。

梓「あなたのその醜くて卑しい思いを、私は何よりも尊敬します」

129: 2010/09/17(金) 20:00:57.57 ID:M3OjmQAO
梓「あなたが私達を恐れていたということはあなたは他の部に所属してるんですよね? 帰宅部なら私達がどうしようと関係無いわけですし」

 エリは梓の問いに対してしゃくり上げながら頷く。

梓「あなたほど自分の部を大切に思える人はそうそういませんよ。大切なものの為にここまで卑劣になれるなんて、最高に格好良いです」

 身体を何か温かいものが包み込んでいるような気がして、エリは赤子のように泣きじゃくる。

エリ「あずさ……っちゃん……ひっく、私達……こんな出会いじゃなかったら……友達になれた……かな?」

 それは一縷の願いだった。
こんな自分は許されても良いのだろうか、エリは不安でたまらなかったのだ。

130: 2010/09/17(金) 20:01:55.13 ID:M3OjmQAO
梓「何言ってるんですか」

 梓は振り向いて泣きじゃくるエリの頭をそっと撫でると、呆れたように微笑んだ。

梓「それじゃあまるで友達になれないみたいじゃないですか。今は少し許せないところもあるけど、きっとなれますよ」

 一呼吸置いて、エリの頬を伝う涙を拭ってから梓は言った。

梓「『エリ先輩』」

エリ「──っ! ありがとう……。梓ちゃ………」

 最後に何か言いかけて、エリは意識を手放した。
その顔はとても安らかなものだった。

梓「血の流し過ぎですよ。まぁ私のせいですけど……」

 梓は唯達の元に向かおうと立ち上がるが、よろめいてエリの胸の上に倒れてしまう。

梓「えへへ、動けないや……。もう少し、こうしてても良いよね?」

 エリの後を追うように梓もその意識を泡沫へと手放した。
 二人の眠り姫を、揺らめく炎が照らしていた。

134: 2010/09/17(金) 21:03:59.93 ID:M3OjmQAO
「あっれ~? おかしいなぁ、今日学校休みだっけ?」

 癖のある髪の毛を二つ結びにした少女が、気怠そうな表情を浮かべつつ二年昇降口で靴を履き替えていた。

「まぁそれならそれでラッキーなんだけど……。昨日徹夜で戯言シリーズ読んだせいで眠たいや……」

 目を擦りつつ、少女は自分の教室に向かう。
そして教室が見えてきたその時、少女はようやく異変に気付いた。

「燃えとるがな……」

 自分の教室が踊り狂う炎に焼かれているのを見て、少女は唖然とした。

「鈴木さん?」

 不意に後ろから自分を呼ぶ声が聞こえて、少女は振り返った。

135: 2010/09/17(金) 21:04:47.03 ID:M3OjmQAO
「んぁ? 誰ですかあなた。それよりも何なんですかこれ」

 鈴木と呼ばれた少女は怪訝な顔をして、生徒に詰め寄った。

「何って……。あなた昨日のメール見てないの?」

「メール?」

 少女は不信感を覚えつつも、ポケットから携帯電話を取り出してメールを確認する。

「軽音部殲滅作戦を決行する為、関係者以外は登校を禁ずる? 何これ?」

 頭の上にクエスチョンマークが浮かんできそうなきょとんとした顔を見て、生徒は大きく溜め息をついた。

「あの、一応立ち入った部外者は殲滅するように言われてるんだけど、分かったら早く帰りなさい?」

136: 2010/09/17(金) 21:05:35.77 ID:M3OjmQAO
 少女を諭すように語りかける生徒。だが……。

「あ~、それ無理です。ごめんなさい」

 少女は掌を生徒に向けて突き出し、要求を却下した。
 直後に二人の間に険悪な空気が流れる。

「そう。じゃあ残念だけど、始末させてもらうわね」

「あー全然おっけーです。多分あなたじゃあ無理ですから」

 少女は何の悪びれもなくそう言うと、舌を出して微笑んだ。
 その瞬間生徒は微笑む少女の顔面目掛けて渾身の右ストレートを決めようとした。
だがそれは少女のスウェーバッグでいとも容易く躱される。

純「手が早いなぁ……。じゃあ純ちゃん流デンプシーロールを見せてあげますよ!」

137: 2010/09/17(金) 21:06:29.08 ID:M3OjmQAO
 言ったが直後、純は腰を沈めてステップを踏みつつ、生徒の懐に潜り込む。

「っ!?」

 そこまでの一連の動作にコンマ一秒とかかっていない。
生徒が驚愕の表情を浮かべる頃には純の右フックが頬を捉えていた。

純「うっし!」

 立て続けに左フック。そして右フック。
純の上体は綺麗な八の字を描く。

純「これで最後ぉ!」

 渾身の右フックが生徒の頬を捉えると、生徒の身体が宙に浮いた。

純「じゃあ今日のフィニッシュブローは早速昨日読んだ戯言シリーズから引用しちゃおっかな。ちょっと痛いかもだからしっかり受け止めてね」

 笑みを浮かべつつ、純は腰を落として右手を振り翳した。

138: 2010/09/17(金) 21:07:34.48 ID:M3OjmQAO
純「一喰い『イーティング・ワン』!」

 振り抜く平手は空を裂き、凶暴な凶器となって生徒の腹部を捉えた。
少女は断末魔の悲鳴を上げる間も無いまま、意識を強制的に遮断された。

純「こんなもんかな」

 純は満足げな笑みを浮かべつつ、掌をはたいた。

純「軽音部殲滅、ねぇ。こりゃ梓の友達としてほっとけないよね」

 よし、と自分を鼓舞すると、純はその場を後にした。
取り残された生徒の腹部は爆ぜており、赤黒い水溜まりが出来ていた。

139: 2010/09/17(金) 21:08:24.45 ID:M3OjmQAO
 鈴木 純は桜高生徒序列から外された生徒だ。
自堕落なその性格故に桜高で名を馳せる事が無いのがその主な理由なのだが、そのポテンシャルはトップランカーと比べても引けを取らない。
 スピード、パワー、スタミナ。その全てが安定して鍛えられており、それに加えて彼女には戦闘の才能があった。
 平沢 唯のそれとよく似ているその才能は、人の動作を真似る事。
幼少時から純はテレビや漫画で見た技を即座にコピーして見せては、大人達を驚かせていた。
 彼女のその才能を知る者は密かに、彼女の事を桜高生徒序列ナンバーゼロ『夢幻』と称する。

純「さぁて、梓は無事ですかね~っと」

 眠る梓が居る場所を通り過ぎた彼女の行動は実に空回りしていた。
 だがこの瞬間、桜高のダークホースがこの戦いに加入したのだ。

149: 2010/09/19(日) 00:26:05.73 ID:sdLhIcAO
今日は多分書けないけど代わりに参考がてらに登場人物の序列を

唯…序列五位
律…序列七位
澪…序列十二位
紬…序列九位
梓…序列十九位
和…序列二位
憂…序列一位
純…序列追放
いちご…序列四位
姫子…序列三位
信代…序列六位
エリ…序列四十九位
アカネ…序列五十三位
しずか…序列二十八位
吹奏楽部部長…序列九十位
冒頭の不良生徒…序列百六十八位

十位までが作中で言うトップランカーで、特に三位と四位の差は禁書で言う第二位と第三位くらいの差がある。

それも踏まえて読むと色々予測とか出来て楽しいかなー、なんて

156: 2010/09/19(日) 21:57:08.29 ID:sdLhIcAO
紬「はぁ……はぁ……ごほっ……。何で……?」

アカネ「言ったでしょ? あなただからこそ勝てるって」

 三年校舎棟の一角での戦いは佳境に差し掛かっていた。
 紬は膝を折り、腹部を抑えて顔を歪めている。
それを見てアカネは冷笑を浮かべると、勢いよく紬の顔面を掌底で打った。

紬「むぐ──!」

 紬の身体はその力に逆らうことなく宙に浮かぶ。
アカネは紬が床に衝突するよりも早く、腹部に掌底を捩じ込む。

アカネ「発勁!」

 直後に衝撃の波が紬を襲い、床に身体を叩き付ける。

紬「くっ……うぐ……」

 身体の中のものを全てぶちまけてしまいたくなるが、紬はそれを寸でのところで堪えた。

157: 2010/09/19(日) 21:58:03.38 ID:sdLhIcAO
 当時の紬がうさん臭いと感じるのも無理は無い。
一般的にメディアなどで取り上げられている勁は気と同一視される事が多い。
 全ての事象に科学的根拠が求められる現代社会において『気』などという曖昧な概念は信用されないのだ。
 だが実のところ勁の力はれっきとした筋肉による運動エネルギー。
科学的にも観測される立派な物理エネルギーなのだ。

アカネ「ふふっ、そろそろギブしちゃいなよ。もう内臓ズタボロでしょう?」

 アカネは倒れ伏す紬の手の甲を踏み付け、ぎりぎりと体重をかけた。

紬「あぐ……ぅ……」

 歯を食いしばって痛みに耐える紬だが、その表情には苦悶が満ち溢れている。

158: 2010/09/19(日) 21:59:45.55 ID:sdLhIcAO
順番間違えた。>>157は無しで

160: 2010/09/19(日) 22:00:49.71 ID:sdLhIcAO
紬(まさか勁の使い手がこの学校にいたなんて……最悪ね)

 紬は心の中でそう毒づいた。
 紬の剛の力の使い手なのに対してアカネは柔の力の使い手である。
中国より古来から伝わる勁を用いて、紬をここまで圧倒した。
 勁とは筋肉の伸縮、重心移動の際に発生する緻密な運動エネルギーだ。
勁を発生させ、対象に接触させ、勁を作用させる。
これら一連の動作を攻防の際に行使し、敵を内面から突き崩す。
それが『発勁』のメカニズムだ。

紬(うさん臭い武術だと思ってないがしろにしてたけど、お父様の指導をきちんと受けておくべきだったわね……)

161: 2010/09/19(日) 22:01:48.53 ID:sdLhIcAO
 当時の紬がうさん臭いと感じるのも無理は無い。
一般的にメディアなどで取り上げられている勁は気と同一視される事が多い。
 全ての事象に科学的根拠が求められる現代社会において『気』などという曖昧な概念は信用されないのだ。
 だが実のところ勁の力はれっきとした筋肉による運動エネルギー。
科学的にも観測される立派な物理エネルギーなのだ。

アカネ「ふふっ、そろそろギブしちゃいなよ。もう内臓ズタボロでしょう?」

 アカネは倒れ伏す紬の手の甲を踏み付け、ぎりぎりと体重をかけた。

紬「あぐ……ぅ……」

 歯を食いしばって痛みに耐える紬だが、その表情には苦悶が満ち溢れている。

162: 2010/09/19(日) 22:02:42.62 ID:sdLhIcAO
紬「どいて!」

 手の甲に乗せられたアカネの足を強引に振りほどくと、紬はふらふらと立ち上がった。

アカネ「へぇ……。まだ立てる力が残ってたんだ」

紬「これぐらい……。全然平気よ!」

 強がってはいるものの紬は疲労の色を隠せてはいない。
それもその筈だ。アカネは勁の力を使って紬の肝臓を重点的に攻撃していたのだ。
急所から外れた場所にある臓器の為、一撃一撃のダメージはあまり大きくはない。
だがその執拗な一点攻撃は紬のスタミナを着実に削っていたのだ。
スタミナという一点に関しては他の軽音部員に劣る紬がそれに耐えられるのか。
その答えは火を見るよりも明らかだ。

163: 2010/09/19(日) 22:03:38.72 ID:sdLhIcAO
紬「えい!」

 紬は左脚を軸にして上段回し蹴りを仕掛けた。
だが正攻法の中の正攻法である回し蹴りが何のフェイントも無しに当たる筈がない。
アカネが紬の足をスウェーバッグで躱すと、蹴りは宙を裂いて校舎の壁に食い込んだ。
コンクリートが爆ぜ、辺りに粉塵を撒き散らす。

紬「くっ……」

 凡人を相手にしている時はそれだけで充分相手の足を竦ませる事が出来る破壊力だが、アカネは理解していた。
当たらない攻撃など恐るるに足りないという事を。

アカネ「甘いよ!」

 だからこそアカネの動きは止まらない、止められない。
呼吸するかの如く自然かつスムーズに、紬の体躯を壊してゆく。

164: 2010/09/19(日) 22:04:31.04 ID:sdLhIcAO
 あくまで急所は狙わず、人体の正中線からずらした攻撃は紬の身体を毒のように蝕んでゆく。

紬「……良い性格してるわね」

アカネ「お互い様でしょう? 少なくとも真性のレOビアンよりはマシだと思うけど」

 自分の性癖を嘲るアカネを睨み付け、紬は唇を噛み締めた。
唇の端から真っ赤な血が一筋流れる。

紬「……百合は、文化よ」

 苦し紛れに反論する紬だが、アカネがそんな見苦しい妄言に素直に耳を貸す筈も無かった。

アカネ「あはっ、正真正銘真人間な私には理解出来ないわね。お願いだからその性癖は自分の中だけで溜めておいてね?」

165: 2010/09/19(日) 22:06:20.44 ID:sdLhIcAO
 ぶちり──。
 紬の頭の中で何かが切れた音がした。
 理性、情緒、遠慮。普段紬の朗らかな性格を形成していたものが音を立てて崩れさってゆく。

紬「──っ!」

 怒りのあまり言葉を上手く紡ぐことが出来ない。
その代わり紬は渾身の力で床を殴りつけた。

アカネ「あははっ! 気でも違ったの? そんな事したって意味無い──」

 紬のとち狂った行動を盛大に嘲ろうとしたアカネだが、ある重大な異変に気付く。

アカネ「え?」

 まるで震源地にいるような大規模な揺れが三年校舎に発生した。

 その直後──。

アカネ「えっ? 嘘でしょ!? きゃああああああっ!!」

コンクリートで出来ている壊れるはずのない廊下が、瞬時に瓦礫の山となって崩れ落ちてゆく。

166: 2010/09/19(日) 22:07:46.89 ID:sdLhIcAO
 足場を失ったアカネは錯乱状態に陥り、墜ちてゆく自分の身体をジタバタと動かした。
墜ちてゆく刹那でアカネは紬の姿を確認して絶句する。
 自分と同じように墜ちてゆく紬の背で、鬼が笑っているのが見えた。

アカネ「~~っ!?」

 逃げろ、逃げろ、逃げろ。逃げろ!
 実にシンプルな危険信号がアカネの脳内で警鐘を鳴らしている。
だがアカネは空中でもがくだけで、逃げることなど出来ない。

アカネ「つっ……」

 恐怖のあまり受け身を取る事を忘れていたアカネはそのまま一階の床に叩き付けられる。
痛みを訴える身体を強引に引き摺り、アカネはよろめきながらその場を後にしようとした。

167: 2010/09/19(日) 22:08:40.44 ID:sdLhIcAO
 だがそれがいけなかった。
紬に背を向けて逃げ出したアカネは、自分の右肩から先が粉になってゆくような錯覚を覚えた。

紬「何処へ行くの?」

 振り返ってからアカネは自分の肩の骨が粉々に砕けている事を理解した。
規格外の衝撃はアカネの身体が吹き飛ぶことすら許さない。
痛みなどとうに消え失せており、静かに崩れてゆく自分の骨がアカネには他人のもののように思えた。

アカネ「今……私を殴った?」

紬「ええそうよ」

 傍から見ればシュール以外の何物でもない光景なのだが、二人のこの会話は酷く理に敵っていたのだ。

168: 2010/09/19(日) 22:09:55.85 ID:sdLhIcAO
 紬は無言のまま、垂れ下がったアカネの右腕を掴んだ。

紬「えい!」

 顔面にいつもの朗らかな笑顔を貼り付けたまま、紬はアカネの腕を掴む手に力を込めた。

アカネ「やだ、やめ──」

 アカネの拒絶など何の意味も成さない。
握られた部分の肉は水風船の如く勢い良く弾け飛び、その奥の骨は豆腐のように崩れる。
 だがアカネが苦悶の叫びよりも早く、紬は大量の血を噴き出した。

アカネ「え?」

 血は飛沫となってアカネの顔に付着した。
痛みを越えた衝撃が幸いして、アカネは今の状況を冷静に判断する事が出来た。

170: 2010/09/19(日) 22:11:19.55 ID:sdLhIcAO
アカネ(もしかして……)

 アカネはまだ無事な左手を振りかぶる。
勁を利用した一撃を、今度は容赦なしに紬の心臓に叩き込んだ。
酷く緩慢で単調なその攻撃は、たとえトップランカーでなくとも桜高に所属している者なら誰でも避けられる一撃だった。
だが紬はそれを避けようとしなかった。否、避けられなかったのだ。

アカネ「なんて子なの……」

 衝突する運動エネルギーに全く歯向かわずにあっさりと吹き飛んだ紬の瞳は黒く澱んでおり、口は半開きになっている。
 そう、紬はアカネの腕を握り潰した直後に意識を手放したのだ。
既に気絶している人間が攻撃を避けるなど、言うまでもなく無理な話である。

172: 2010/09/19(日) 22:12:18.17 ID:sdLhIcAO
 アカネはそこでようやく潰された自分の右腕に意識を向けた。

アカネ「っ!」

 痛みは始めから無い。無いが、自分の腕がグロテスクな肉片になっているのを見て、アカネの顔面は少し青褪めた。

アカネ「取り敢えず、あの子が組んだ采配が功を成した……かな?」

 その代わりアカネが失ったモノも少なくはない。

アカネ(もしかしたら……。こうなることもあの子には想定済みだったのかな?)

 もしそうなら酷く滑稽な話だ。
結局軽音部殲滅を企てた張本人が重傷を負い、それに便乗した策士は安全地帯で指を咥えて眺めていただけなのだから。
 自嘲染みた苦笑いを浮かべると、アカネは昨日の自分といちごの会話を思い返す。

180: 2010/09/20(月) 11:16:22.51 ID:iaaqrYAO
────
アカネ「私が琴吹さんと?」

 深夜の空き教室で、軽音部殲滅作戦に選ばれた五人の戦士と、それらを率いる策士が一同に会していた。
 アカネはつい先程いちごが自分に下した役割を聞いて、驚愕した。

アカネ「確かあの子の序列って九位よね? とてもじゃないけど上手くやれる自信なんて無いよ」

 アカネの隣に座っていたエリも同様の不安を抱いていたのだろう。
アカネの言葉に賛同するように相槌を打っている。

しずか「やれるやれないの問題じゃないよ。私達にはいちごちゃんに従う以外に選択肢は無いの。それともアカネ、あなたはいちごちゃんよりも合理的な策を持ってるの?」

アカネ「うっ……」

181: 2010/09/20(月) 11:17:22.04 ID:iaaqrYAO
 しずかに反論する気などアカネには毛頭無かった。
自分とエリの意志に便乗しただけにも関わらず、作戦の総指揮をいちごに委ねているのはアカネ自信いちごの策に絶対の信頼を寄せているからなのだ。
 アカネは教室内を一瞥した。
集まった他の面子もいちごを信頼しているという点では共通しているのだろう。
各々がまるで心配などしていないと言わんばかりに無関心を決め込んでいる。
 姫子は気怠そうに机に頬杖をつき、携帯電話を弄っている。
 信代はどっしりと深く椅子に腰掛け、腕を組んでぼんやりと窓の外を眺めている。
 そしていちご自身も事の成り行きが全て分かっているかのような悟った目をしており、アカネの反論を無視して髪の毛を弄っている。

182: 2010/09/20(月) 11:18:06.07 ID:iaaqrYAO
いちご「大丈夫」

 冷徹さすら漂わせる鉄仮面の様な表情とは裏腹に、いちごが紡いだ言葉は諭すような穏やかさを持っていた。

いちご「あなたの勁はきっと琴吹さんに通用する。自分の力を過信した人にこそあなたの力は生きるから」

 それは勁の力を使う者皆が根本の志として定めている考えだ。
力に驕る剛の者を緻密で繊細な、ある種の芸術品とも言える力で討つ。
それこそが勁の強さなのだ。

いちご「それに琴吹さんは弱い。寸前で非情になる事が出来ないから彼女は『鬼』にはなれない『鬼頃し』でいるの」

 そしていちごはこう締めくくった。

いちご「勝てる、じゃない。あなたは勝つの」

 絶対的な自信を以て自分を鼓舞するいちごの気迫に気圧されて、アカネは無言で頷いた。

183: 2010/09/20(月) 11:18:48.27 ID:iaaqrYAO
 ──
 しばしの回想に浸っていたアカネは右腕の痛みで我に返った。

アカネ「っつ!」

 普通の人間ならば既に致氏の域に達しているであろう夥しい出血を見て、アカネは苦し紛れに笑ってみせた。

アカネ「痛い……。けど、生きてるんだよね」

 気を抜けば意識を持っていかれそうになるような痛みはアカネを蝕む。
心臓の鼓動が傷口に直に響き、干物のように垂れ下がった腕を疼かせる。
だがそれらの苦痛の一つ一つが、アカネに生きているという実感を与えていた。

アカネ「少しだけ、寝てても良いよね?」

「駄目よ」

184: 2010/09/20(月) 11:19:47.62 ID:iaaqrYAO
 呟いた独り言に返事が返ってきたのを聞いて、アカネの心臓は跳ね上がった。
今この場で言葉を発する事が出来るのは自分だけの筈なのに。
 倒れ伏している紬を凝視しつつも、アカネは全身を震わせていた。

紬「頭がぼーっとするわね……。ちょっと不味いかも」

 意識を失っていた筈の紬がゆっくりと身体を起こした。
その一連の動きはとても緩慢なもので、それを遮る事は容易かった。
だがアカネにはそれが出来なかった。
震える身体は思うように動いてくれない。

アカネ「どうして……?」

 歯をがたがた震わせて大粒の涙を零しながら、アカネは声を振り絞った。

185: 2010/09/20(月) 11:20:39.10 ID:iaaqrYAO
紬「ふふ……。私はこう見えてプライドが高いの。百合をあれだけ馬鹿にされて、そう易々とやられてたりなんかしないわ」

 表情は満面の笑みではあるが、目は笑っていない。
立場はお互い満身創痍であるため、ほぼ同等ではある。
だが紬の身体から発せられる闘気は捕食者の色だ。

紬「何も考えたくないわ。頭の中が空っぽみたい」

アカネ「あ……あ……」

 立ち上がって今直ぐ逃げるのが最良だが、アカネは腰が砕けてしまってそれが出来なかった。

紬「唯ちゃんほど上手には出来ないけど、今ならやれそうな気がするわ」

 そして紬は大きく深呼吸してぽつりと呟いた。

紬「オーバードライブ」

186: 2010/09/20(月) 11:21:23.63 ID:iaaqrYAO
 直後に辺りに散らばっていた瓦礫の山が吹き飛んだ。
空間そのものがねじ曲がるような感覚がアカネを襲う。
 紬が自分に向かって駆けてくるのがやけにゆっくりに見えた。
そんな走馬灯のような光景の中でアカネは思う。

アカネ(こんなの……話が違うよ)

 今の紬は鬼でも、それどころか鬼頃しですらない。
ただ純然たる殺意を携えて獲物を狩らんとするその姿は。

アカネ(悪魔……!)

 自分の頬の肉が波打ち、衝撃が走る感覚を味わいながら、アカネは壁に叩き付けられた。
 とうに意識を手放していてもおかしくないダメージなのにそれすら出来ない。

187: 2010/09/20(月) 11:21:58.32 ID:iaaqrYAO
 紬は虚ろな眼をしたアカネに一歩ずつ詰め寄る。
ブレザーを脱ぎ捨て、ブラウスの一番上のボタンを外した。

アカネ「え……?」

 紬が今から自分に何をしようとしているのか、アカネがその答えに辿り着くのは容易かった。

アカネ「ちょ……待ってよ!」

 脳内で抵抗の意が空回りして、身体はぴくりとも動かない。
そうこうしているうちに、紬はアカネの身体に覆い被さった。

紬「ふふ……。こんなにボロボロになって、これじゃあお嫁に行けないわね」

 言いながら紬はアカネの首筋に舌を這わせた。
アカネの脳に電流が走る。

188: 2010/09/20(月) 11:22:49.42 ID:iaaqrYAO
紬「でも大丈夫よ。私、そういうのも大丈夫だから」

 アカネのブラウスのボタンに手をかけて、ボタンを一つずつ外す紬の頬は赤く染まっていた。

アカネ「やだ……やめてよぅ……」

 アカネの苦悶の嘆願を無視し、紬は露になった双丘を執拗に舐め始めた。
虫が這っているようなその感覚にアカネは嫌悪感を覚える。

アカネ「んっ……やだよぅ……。こんなの……」

 紬の舌はO房からゆっくりと下の方に移動し、へそ辺りをなぞっている。
そしてついにスカートに手がかけられた。

アカネ「っ!?」

 貞操の危機を感じながらもアカネの身体は動かない。
スムーズにスカートと下着をはぎ取られたアカネは目に涙を浮かべる。

アカネ「いやああああああああっ!!」

 三年校舎の一角に悲痛の叫びが響いた。

189: 2010/09/20(月) 11:23:32.95 ID:iaaqrYAO
 中庭の校長像の前で、二人の生徒が闘っていた。
一人は生徒序列ナンバーテン『氏神』高橋 風子。
そしてもう一人は生徒序列から追放されたナンバーゼロ『夢幻』鈴木 純。

風子「はぁ……はぁ……」

 風子は得物としている身の丈ほどの黒鎌を杖にして、かろうじて立っていた。

純「しぶといですね~。普通なら初撃の筋肉バスターでおねんねですよ?」

 対する純はうっすらと汗はかいているものの、傷一つなく疲労もしていない。

風子「あなたはイレギュラー中のイレギュラーなのよ。ここであなたを確実に排除するまでは、私は[ピーーー]ない!」

190: 2010/09/20(月) 11:24:24.97 ID:iaaqrYAO
 風子の気迫に若干気圧される純だが、今度は困ったような顔をして頬を掻いた。

純「なにこれ……何だか私が悪者みたいじゃん」

 ただ流れる雲のように自堕落に過ごしてきた純。
故に誰かに英雄扱いされる事も悪人扱いされる事も今まで一度も無かった純は困惑していた。

純「うーん。ここいらで潮時かなぁ?」

 風子に聞こえるように呟くと、純は風子に背を向けて歩き出した。

風子「……?」

 あまりにも隙だらけなその姿に風子は唖然とした。
今ならば鈴木 純の首を刈るのに一秒とかからない。
 だが風子はそれをしなかった。

191: 2010/09/20(月) 11:24:57.87 ID:iaaqrYAO
風子(良かった……。このまま続けていたら私、多分氏んでただろうな)

 純の行動を撤退と判断した風子はそこでようやく警戒を解いた。
だがそれがいけなかった。その考えはあまりにも虫が良過ぎたのだ。

純「じゃあ行きますよ」

 くるりと踵を返して純は風子に向き直った。
辺りの空気が一瞬にして凍り付く。
 風子が気付いた時には遅かった。
風子と純の間にあった五十メートルほどの距離はまるで無かったかのように詰められ、純は風子の懐に入っていた。

192: 2010/09/20(月) 11:25:42.85 ID:iaaqrYAO
純「私式ファイナルヘヴン!」

 大仰な名前ではあるがそれはただの右フック。
だがそのシンプルさ故にその技は絶対的な強さを持っていた。
事前のダッシュによる加速は拳に何乗もの破壊力を加える。

風子「かはっ……!?」

 純の拳が風子の腹部を捉えると、風子の身体は弾丸の如く遥か彼方に飛び去って行った。

純「あらら、やっちった。適当にブン殴って首謀者の居場所聞き出そうと思ったのにな~」

 ちぇっ、と悪態をつき、純は大きく伸びをした。

純「まぁあの先輩と遊ぶのも潮時だったでしょ、ぶっちゃけつまんなかったし」

 純は欠伸をしながらその場を後にした。
誰も居なくなった中庭に一陣の風が吹くと、悪趣味な校長像が粉々に砕け散った。

198: 2010/09/20(月) 15:45:44.89 ID:iaaqrYAO
これで出来てる? ところで全く関係無いんだけど何で新一が引っ掛かるんだ? このままじゃ気になって夜も眠れんぜ。

203: 2010/09/20(月) 18:16:33.30 ID:iaaqrYAO
信代「ちっ、ちょこまかうざったいねぇ!」

 第二音楽室階段下では相反する二つの力が責めぎあっていた。
 信代は駄々っ子のように拳を振るう。
その度に衝撃波が飛び交い、壁や床を砕いていた。

律「へっ! そんなとろい攻撃欠伸が出るぜ!」

 律は薄ら笑いを浮かべながら、暴れる信代の周りを駆け回っている。
普段着けているカチューシャは取り払われており、所々跳ねている髪の毛が風を受けて舞った。

律「だらぁっ!」

 律は残像を残すほどの超スピードで信代の背後に回り込むと、後頭部に上段回し蹴りを捩じ込んだ。

204: 2010/09/20(月) 18:17:10.46 ID:iaaqrYAO
 立て続けに身体を捩って後ろ回し蹴りを放つ。
クリーンヒットした攻撃の余韻に浸ることなく、即座に持ち前の超スピードで信代から距離を取る。

信代「そんな蚊が止まったような蹴りで攻撃したつもりかい? こっちが欠伸したくなるよ」

 乱雑に自分の頭を掻くと、信代は苛ついたように舌打ちする。

律「ちっ、うぜーな……」

 パワーに自信があるわけでは無い。
だが常人相手なら骨を打ち砕いてその先の髄すら残さないであろう自分の蹴りが全く通用していない事に、律は焦燥感を覚えていた。

205: 2010/09/20(月) 18:17:57.06 ID:iaaqrYAO
 信代が自分の動きを見切るだけの目を持っていたら、そう思うと律の背筋はぞっとした。

律(それが無いのが救いなんだけどな……)

 とん、と軽く足踏みして律は再び加速した。
今度は残像すら残らない不可視にして不可止のスピードだ。
 縄跳びの縄を思い切り振り回したような小気味の良い風切り音が響く。

律(頭も駄目、首も駄目、腹も駄目、となると……)

 律は更にスピードを高めながら思案する。
鋼のような肉体強度を誇る信代に致命的なダメージを与えるにはどうすれば良いかを。

律「そこだぁ!」

 閃きは一瞬、そしてそれを行動に移すのにコンマ一秒もかからなかった。

206: 2010/09/20(月) 18:18:43.11 ID:iaaqrYAO
信代「ぎゃあああああっ!!」

 信代の悲鳴に少し遅れて、律は階段の手摺の上に姿を現した。
現したというよりは動きを止めただけなのだが、凡人からしてみればそれに大した違いは無いだろう。

律「へっへー、天下のりっちゃん様をなめんじゃねぇぞ? 流石にここだけは鍛えられねぇだろ」

 ぐいっ、と見せつけるように握り拳を突き出すと、律はその手を開いた。
律の手から丸い物体が零れ、べちゃりと床に衝突した。

信代「~~っ!?」

 自分を襲う痛みからおおよその事は把握していた信代だが、現実を見せつけられてショックのあまり絶句する。

207: 2010/09/20(月) 18:19:29.12 ID:iaaqrYAO
律「あちゃー、痛そうだな。でもお前が悪いんだぜ? これ以上やるってんならもう片方の『眼球』も毟り取ってやるよ」

信代「うぐ……ぅ……」

 信代は歯を食いしばって右目があったところを抑えるが、指の隙間からは血が漏れている。

律「言っとくけど私は敵に対して容赦なんてしねーからな」

 律は据わった瞳で信代を睨み付けると、血に塗れた自分の右手を舐めた。

律「知ってるか? 澪ってさぁ、あいつああ見えてすっごい恐がりなんだ」

 ぽつりぽつりと呟く律。
紡がれる言葉は信代に対して語りかけるというよりも、自分を戒めているようだ。

208: 2010/09/20(月) 18:20:02.57 ID:iaaqrYAO
律「小学生の時に私が高校生十人相手にボコボコにされた時も、隣でわんわん泣いてた。中学生の時にヤクザの事務所にカチコミに行ってやられた時も、あいつは泣いてた」

 律は両手を広げ、何かを確かめるように目を閉じる。

律「私が喧嘩で怪我したら、あいつは決まって自分の事みたいに泣く。そんでその度に言うんだ。『律が居なくなったら悲しいよ』ってな」

 目を開けて一瞬だけ表情を緩めると、再び険しい顔つきに戻る。

律「あいつの涙を見なくても済むなら、私は誰に憎まれても構わない。どこまでも非情になってやる!」

209: 2010/09/20(月) 18:20:54.35 ID:iaaqrYAO
信代「私は……アンタの敵だよ……」

 隻眼となった信代はまだ闘志を絶やしておらず、健全なもう片方の瞳で律を捉えていた。

律「そうかい。私は仮にも桜高の序列ナンバーセブンだからな、人一人頃すくらいの覚悟は出来てるつもりだよ。お前も殺される覚悟は出来てるんだろうな?」

信代「全く同じ台詞をアンタに送るよ。私よりも格下の序列のくせして、一丁前にトップランカーを語る気かい?」

 交渉の余地など微塵も無い。
そう二人が判断してから行動に移るのは早かった。
 律の姿は足音と共に消え去り、信代は両目を瞑り、地に膝をついて構えた。

210: 2010/09/20(月) 18:21:49.72 ID:iaaqrYAO
律「あ?」

 再び策も無く暴れ回るのだろうと予測していた律は、信代の予想外の行動に眉を顰めた。

律(まさかあれでガードしてるつもりかよ)

 確かに身を屈めて、唯一攻撃が通りそうな目も閉じてしまっているので律の攻撃を防ぐ事は出来るだろう。

律(でも……あれじゃあ向こうの反撃の目が無いんじゃあ……)

 嫌な予感がした。
 だがその言葉にしがたい蟠りは、律の行動を止めるには至らなかった。

律「はっ!」

 空中で一回転して、着地ざまに信代の頭に踵落としを放つ。
だが不動なる山のように、信代の身体はそのままの状態で鎮座していた。

211: 2010/09/20(月) 18:22:23.60 ID:iaaqrYAO
 案の定攻撃が通用しない事を悟った律は動きを止め、階段の一段目に腰掛けた。

律「あのなー」

信代「…………」

 律は呆れたように溜め息をついて肩を竦めた。

律「お前がそうしてるんなら私は行かせてもらうからな? こんないたちごっこに付き合ってる暇は無いんだよ」

信代「…………」

 返事が無い事を確認すると、律は立ち上がって信代を横切ろうとした。

信代「逃げる気かい?」

律「言ってろ」

 律は床に落ちたカチューシャを拾い上げるとそのまますっぽりと装着した。

212: 2010/09/20(月) 18:22:57.19 ID:iaaqrYAO
信代「アンタが逃げるってんなら良いよ。代わりに澪をぐしゃぐしゃにして──」

 信代が言い終えるよりも速く、律の拳が歯を砕き、信代の口内に捩じ込まれた。

律「誰の許可得て澪を呼び捨てにしてんだ?」

 律は突っ込んだ腕を引く事なく、そのまま信代を壁に叩き付けた。
瞳は血走っており、噛み締めた唇から血が滲んでいる。

信代「…………」

 信代は口の中に拳を突っ込まれている為喋る事が出来ない。
だがその代わりに……。

律「……?」

 圧倒的窮地に立たされているにも関わらず、にやりと笑って見せた。

213: 2010/09/20(月) 18:23:43.96 ID:iaaqrYAO
 実は律が自分の口内に拳を捩じ込む事を、信代は予測出来ていた。
出来ていて敢えてそうさせたのだ。
 その為に澪を掛け合いに出して律を挑発した。
案の定律は誘いにのり、信代が仕掛けた罠に飛び込んできた。

律「あ……?」

 律は捩じ込んだ自分の拳に力が加えられているのを感じた。
それはやがて痛みに変わり、徐々に肉を裂く。

律「なるほどな……」

 手を引き抜こうとしても抜けない。
信代の口内に残った僅かな歯は律の手の肉に深々と食い込んでいたのだ。

信代「っ!」

 つまり律の超スピードはこの時点を以て完全に封じられた。
信代は自分の勝利を確信した。

214: 2010/09/20(月) 18:24:26.91 ID:iaaqrYAO
律「こんなもんで勝ったつもりかよ」

 律は普段の明るい声とは違う重々しい声色で呟いた。
 だがそんなものは所詮氏にゆく者の妄言に過ぎない。
そう判断した信代は自身の力の全てを込めた拳を律のこめかみに放った。
 トマトが爆ぜたような音と共に、律の頭は振り子のように揺らいだ。
こめかみからは大量の血が吹き出る。

信代「ぶ……んぐ……」

 胴体ならまだしも、頭部の出血がこの域まで達すると命は保っていられないだろう。
信代は自分が殺めた命を咀嚼しながら息を漏らした。

信代「…………?」

 そこで異変に気付く。
自分はもう喋れる筈なのに、自分を縛るこの拘束は何故解けないのだろうか。

215: 2010/09/20(月) 18:25:12.27 ID:iaaqrYAO
律「いっ……てぇ……」

信代「っ!?」

 自分の渾身の突きを食らって生きている筈が無いのに。
そんな信代の自信は突き付けられた現実に打ち砕かれた。

律「流石の天下のりっちゃん様でもよぉ……。痛いもんは痛いんだぞ?」

 大量の血に濡れた律の顔に、いつもの優しさや明るさは無い。
悲しいまでに非情で、哀しいまで異常。

律「まぁ……良いや。一万倍返しで許してやるから……」

 律はこの時、今の自分は何でも出来るのではないかとすら思っていた。
あながちそれは間違っていない。
行き過ぎた激昂は彼女の脳のリミッターをこじあけ、力を解き放とうとしていた。

216: 2010/09/20(月) 18:25:58.46 ID:iaaqrYAO
律「ブラストビート」

 そう囁くと共に律は左手の拳を振り上げた。
その光景と共に信代の意識は散った。
 傍から見れば律の一発の突きが信代の顔面を捉えただけだった。
だがその間に律が信代を殴った回数はジャスト一万回。
寸分の狂いもなく同じ箇所を殴られれば、いくら信代と言えど耐えられる筈も無い。
二千発を越えた辺りで頬の骨は粉々になり、五千発を越えてからその衝撃は脳にも異常をきたし、最後の一発が突き刺さる頃にはとうに決着はついていた。

律「澪……。わりぃ、また泣かせちゃうかもしんねぇ……」

 自分の器の限界を越えたスピードを行使したせいで、彼女の筋肉は悲鳴を上げていた。

律「ごめん……ね?」

 律の意識はそこでフェードアウトしていった。

226: 2010/09/21(火) 08:31:19.98 ID:RtPF.gAO
純「そこを退いてもらえます?」

「駄目よ」

 調理実習室にて二人の生徒が対立していた。
 純は寝坊してきた為、朝食を摂っていなかった。
だが学校はほぼ無人で、普段活用している購買は機能していない。
それならば、と純は調理実習室の冷蔵庫に眠る食材を求めてふらふらとやってきたのだ。
 そしてその場にたまたま居合わせていたのは生徒序列ナンバーエイト『辻斬り』木村 文恵。
勿論彼女もいちごの命令によって部外者の排除の為に駆り出された戦士である。
この二人が対立するのは、キャビンアテンダントがファーストクラスの客にワインをサービスするくらいに自然のことだった。

227: 2010/09/21(火) 08:32:14.72 ID:RtPF.gAO
純「……もう一度言いますね。格下の相手なんてしてる暇は無いんですよ、だから退いて下さい」

文恵「聞こえないね」

 空腹も相俟って純の苛立ちは頂点に達していた。
こうなってしまってはどうにもならない。
木村 文恵は運が悪かったのだ。
本来ならばトップランカーである文恵は並大抵の敵には負けたりしない。
 彼女の相手がトップランカー並の実力を持ちながらも序列から追放された純でなければ、その純が空腹でなければ、万に一つは文恵が勝つ可能性はあったのだ。

純「そんな役立たずな耳なら、私がどうこうしても文句は無いですよね?」

 文恵が瞬きをしたほんの一瞬で、純は彼女の隣に飛び込んでいた。

228: 2010/09/21(火) 08:33:14.79 ID:RtPF.gAO
純「鼓爆掌!」

 超高速の掌打が文恵の耳を捉えた。
文恵は襲い来る衝撃に負け、平衡感覚を狂わせた。

文恵「っ!」

 そんな状況下で文恵は腰に差した刀を抜刀し、真一文字に薙いだ。
だが純の反応速度はそれすら易々と上回る。
床を蹴って空中で二回転すると、器用に刀の刀身の上に立った。

純「トップランカーってのはどいつもこいつもしぶとさだけは一丁前なんですね。大人しく寝てれば痛い目見なくても良いのに」

文恵「そんな……! 無名のあなたなんかに私が負ける筈は……」

 焦燥する文恵を尻目に、純は間抜けな声を漏らしつつ刀から飛び降りた。

純「猫も杓子も序列序列って、いい加減うんざりなんですよねそーゆーの」

229: 2010/09/21(火) 08:34:02.52 ID:RtPF.gAO
文恵「は?」

純「あれ? 聞こえてるんですか。あぁそっかもう片方の鼓膜も破っとかないと」

 片目を瞑り、舌を出すと純は初撃と同じように文恵のもう片方の耳にも掌打を放った。

文恵「~~っ!?」

 完璧に備えていたにも関わらず、自分の認識出来るスピードを遥かに凌駕した攻撃に文恵は驚愕した。
両耳からは血が零れており、彼女の耳はその機能を失った。

純「あははっ、私ってこう見えて愚痴っぽいんですよ。恥ずかしいから聞かないで下さいね?」

 言われなくても聞かない、もし文恵の耳が機能していたなら恐らくこう言っただろう。

230: 2010/09/21(火) 08:34:49.24 ID:RtPF.gAO
純「私思うんですよね。人の強さっていうのは量りきれるものじゃない、もっとこう、自然的なものだって」

 淡々と呟く間に自身の首を刈らんとする刀を白刃取りで受け止める。

純「そんな綺麗なものをこの学校の人達は序列だの何だのって数字で区切ろうとしてる。馬鹿らしいと思いませんか? 人が決めた概念如きが人じゃあ決して理解出来ない『力』を推し量るなんて」

 そこまで良い終えて純はそっと溜め息をついた。
受け止めた刀がへし折れるのはそれとほぼ同時だった。

純「自分より弱い人に量られるくらいなら私は高い序列なんていらない。手を伸ばしたって届かない、雲みたいに生きてやる。そう決めたんです」

231: 2010/09/21(火) 08:35:37.61 ID:RtPF.gAO
 それは今まで純という人間を保ってきた矜持なのだろう。
そしてそれはこれからも、純が氏ぬその時まで変わらない。

純「さぁてと、辛気臭い話はこのくらいにして、フィニッシュブローいきますよ。っと聞こえないんでしたね、あははは」

 照れ笑いを浮かべつつも、純は腰が竦んで床にへたりこんでいる文恵の胸倉を掴み、乱暴に立たせる。

文恵「…………」

 文恵は既に闘う意志を放棄していた。
堅く目を閉じて歯を食いしばり、これから自分を襲う苦痛に耐えようとしている。

純「あー、下手に堪えようとしちゃって。それじゃあもっと痛いんだけどなぁ」

 とん、と軽く足踏みをして純は呟いた。

純「瞬獄殺」

232: 2010/09/21(火) 08:36:23.22 ID:RtPF.gAO
 純は片膝と肩をやや浮かせた不安定な姿勢のまま、残像を残す超スピードで文恵の懐に潜り込んだ。
そこからの攻撃は誰にも、食らっている文恵自身にも認識出来ない。
限り無く零に近い刹那の間に、無数の拳が文恵の身体を貫いた。
スピードだけで言えば律のブラストビートもそれに引けを取っていないのだが、この技はその一撃一撃の威力が規格外だ。
繰り出す一撃全てにアカネが使っていた勁の力が用いられており、対象を外と中の両方から打ち崩す奥義なのだ。

純「一丁上がり!」

 倒れ伏した文恵を見下ろすように仁王立ちで立ち尽くす純。
彼女の背中にはその姿勢と彼女自身の闘気が折り重なり、『天』の文字が映し出されていた。

233: 2010/09/21(火) 08:38:10.44 ID:RtPF.gAO
純が暴走気味だけど自重はしない
今日の内に書けたらもう一回投下する、つもり

235: 2010/09/21(火) 09:32:42.30 ID:RtPF.gAO
あ、オマケがてらに純の技の元ネタ一覧。

デンプシーロール…はじめの一歩
一喰い『イーティング・ワン』…戯言シリーズ
筋肉バスター…キン肉マン
私(俺)式ファイナルヘヴン…FFⅧ
鼓爆掌…高校鉄拳伝タフ
瞬獄殺…ストリートファイター

わりとメジャーなのが多いけど一応分からない人のために

237: 2010/09/21(火) 17:53:19.89 ID:RtPF.gAO
澪「うぅう……」

 澪は体育館の一角にある体育倉庫の中に身を潜めていた。
吊り上がり気味ながらも大きく意志の強そうな眼には大粒の涙を溜めており、歯は寒くもないのにがたがた震えている。

澪「こわい……怖いよぅ……律ぅ……」

 紡がれる言葉は友の名前。
だがその友人はここに来る筈も無い。
 体操座りで刀を胸に抱えるその姿は狩られる前の小動物を連想させる。
 澪は落ち着いて自分が置かれた状況を振り返ろうとしていたが、その度に心臓が激しく脈打ち、錯乱状態に陥っている。

澪「助けて……」

 顔を膝に埋め、澪は力無く呟いた。

238: 2010/09/21(火) 17:54:09.72 ID:RtPF.gAO
 ────
澪「がはっ!?」

 時は澪が恐怖の淵に追い詰められる数分前。
 澪はしずかが繰り出す攻撃を躱せずにいた。
理由はいたってシンプル。しずかの姿が見えないからだ。
凡人には視覚出来ない超スピードなんてものではない。
もしそうなら天性の観察眼を持つ澪ならあっさりと看破する事が出来る。

澪(何で……? 私の眼でも追えないなんて……)

 先程から執拗に殴打されている腹部を抑えて、澪は冷静に状況を鑑みる。

しずか(ふふ……。かなり動揺してるみたいね)

 この時、実はしずかは澪の背中に手が届くところにいたのだ。

239: 2010/09/21(火) 17:54:52.35 ID:RtPF.gAO
 しずかがどうして澪の眼を掻い潜る事が出来たのか、そう問われればしずかは確実にノーと答えるだろう。
 彼女はこの時、超スピードを発揮する身体能力を行使したわけでもなければ、澪の眼を欺く特別な技を使ったわけでもないのだ。
 ただ漠然とそこに居合わせ、当然のようにそこに在るだけ。
しずかが澪の眼を出し抜いたわけではなく、単純に澪がしずかを視覚するには盲目過ぎるというだけだ。

しずか(でもでも、やっぱり少し寂しいかな……)

 このような状況が作られているのは、偏にしずかの特異体質のせいだと言える。

240: 2010/09/21(火) 17:55:38.34 ID:RtPF.gAO
 木下 しずかは幼少時に苛めを受けていた。
 決して暗い性格ではなかったのだが、彼女の気の弱そうな声と野暮ったい前髪は、彼女の周りの人間に根暗な印象を与えた。
小学生、中学生の苛めのきっかけなんてものは劇的である必要は無い。
一度作られた苛めの輪はみるみるうちに悪循環して増大してゆき、やがてしずかを苛めるのが慢性化してきて、誰も理由など気にしなくなったのだ。

しずか(私が悪いんだよね……。だったら皆の気が済むまで我慢しなきゃ……)

 明るかった本来の性格はやがて薄れてゆき、しずかはいつも隅で蹲るようになった。

241: 2010/09/21(火) 17:56:29.31 ID:RtPF.gAO
 そんな荒んだ日々が何年も続いてゆき、しずかが中学生になった頃、それは起きた。
 しずかが住んでいた地区は狭いのでエスカレーター式に小学校から中学校に入学する。
即ち、しずかを苛めていた者も皆しずかと同じ中学校に入学する事になるのだ。
 また凄惨な嫌がらせを受ける日々が続く。
そんな憂いを抱えていたしずかなのだが、その日は違った。

しずか(何か……変だよ……)

 いつもの挨拶代わりの罵声が無い。机の中に虫が入っていない。金をせびる者もいない。
 苛めの影響で人の顔色を伺う癖がついていたしずかは、その異変に直ぐに気付いた。

242: 2010/09/21(火) 17:57:16.85 ID:RtPF.gAO
 中学生になって皆精神的にも成長したのだろう。
最初の頃はそう思っていたしずかだが、僅かに胸の中で蠢いていた蟠りは確信へと変わる。

「木下は休みか?」

 クラス担任がホームルームで出欠をとっている時、ふとそんな事を言われた。

しずか「…………」

 長年苛められ続けたせいでしずかは人前で声を出すのがすっかり苦手になってしまっていた。

「んー、休みみたいだな。誰か理由を聞いてる人は居ないか?」

 担任が言うがクラス全員が素知らぬ顔をしていた。

しずか「あ、あの!」

 自分は最初から席についてるのに。
このまま欠席にされては堪らないと思い、しずかは意を決して勢い良く立ち上がった。

243: 2010/09/21(火) 17:58:02.25 ID:RtPF.gAO
しずか「わ、私……ずっとここに居ました……」

 しどろもどろになりながらしずかが言うと、教室内の空気が一瞬にして静まり返った。
その時間がしずかには永遠にも感じられた。

「お、おう。気付かなかったよ、座って良いぞ」

 担任が訝しげな顔をしながら言うと、しずかは促されるままに座った。

「ねぇ、木下って影薄くない?」

「ああそれ俺も思った。俺も存在にすら気付かなかったよ」

 ひそひそと、そんな陰口が聞こえてきた。
苛められる事には慣れた筈なのに、だがその時の彼女にとってその陰口は、何よりも辛辣で残酷なものだった。

244: 2010/09/21(火) 17:58:47.40 ID:RtPF.gAO
しずか「ひっぐ……ぐす……うぅ……」

 下校時刻を過ぎ、夕焼けの光が差し込む無人の教室。
その隅っこの方でしずかは一人啜り泣いていた。
本来は可愛らしい顔も鬱蒼とした雰囲気と大粒の涙でくしゃくしゃになっている。

しずか「やだ……よ……。ひっく……私だって、皆と仲良くしたいよぅ……」

 その小さな身体で抱え込んでいた思いはしずかにはあまりにも重過ぎた。
それでも、どれだけ彼女が苦しんでも、どれだけ彼女が憎んでも。彼女の頬を伝う涙を拭ってくれる者は居なかった。

しずか「うわあああああああん!!」

 自分の存在を、自分の意義を主張するかのように彼女は泣き叫んだ。

245: 2010/09/21(火) 17:59:33.48 ID:RtPF.gAO
 存在の希薄化。
 それが幼い彼女に突き付けられた非情な現実だ。
 希薄化は日を追う毎に深刻化してゆき、ついには自分の両親にすら認識されなくなっていた。

しずか「…………」

 その頃にはしずか自身、何があっても誰に忘れられようと、口を開かないようになっていた。
 存在の希薄化の原因が何なのか突き止めようともせず、そこに在ってそこに無い、塵芥のような日々を送っていた。

しずか「……もう……氏にたいよ……」

 そんな事を考えて枕を濡らす日もあった。
だがそんな時しずかは思うのだ。
もし自分が氏んだとしても、誰の思い出にもならないまま氏んでゆくのだろうと。

246: 2010/09/21(火) 18:00:09.40 ID:RtPF.gAO
 そう考えるとしずかは堪らなく怖くなった。
自分の存在、生きた証が完全に抹消される。
それはどんなに悲しい事だろうか。
 生きる事に疲れ果て、絶望する。
 氏ぬ事に思いを馳せ、恐怖する。

しずか(氏にたいよ……でも……氏にたくないよ……!)

 そんな地獄のような中学校生活を過ごし、彼女は桜高に入学した。
 今までとは違う新しい環境。
だがそれは彼女の心を躍らせる事は無かった。
 入学式の日の出欠確認でも、彼女の存在は一度では認識されなかった。
 そして再びしずかの地獄の日々が一ヵ月続いた頃。

247: 2010/09/21(火) 18:00:58.25 ID:RtPF.gAO
しずか(何か……恐そうな人だなぁ……)

 席替えをして新しく隣の席になった生徒を眺めて、しずかは溜め息をついた
 机に頬杖をつき、手鏡で自分の髪を熱心に整えている今時の女子高生といった容貌の生徒。
彼女こそが後の桜高生徒序列ナンバースリー『風哭き』立花 姫子だ。
 姫子は先程から自分を見つめる視線に気付き、手鏡をしまうとしずかの方へと向き直った。

姫子「ねぇ、人の顔見て溜め息つくなんてちょっと失礼過ぎじゃない?」

しずか「っ!?」

 しずかは驚愕した。
誰とも関われない地獄の様な日々が、まるで無かったもののようにあっさりと崩された。

248: 2010/09/21(火) 18:01:42.39 ID:RtPF.gAO
しずか「わ、私……」

 人と真向から話をする事が数年間無かったしずかは、言葉をスムーズに紡ぐ事が出来なかった。
冷や汗が流れ、頬が紅潮している。
そんなしずかの様子を見て、姫子はくすりと笑った。

姫子「ふふ、ごめんってば。別に因縁吹っ掛けようってわけじゃないから」

 人に笑顔を向けられた。
その奇跡にしずかは口と鼻を覆い、ついには涙した。

姫子「うわ!? だから何もしないってば、こんなとこで泣かないでよ!」

しずか「ちがっ……違うの……! 私……!」

 人が怒り、笑い、驚く。
そんな当たり前の日常の中に介入出来た喜びは、彼女の思いの堰を切った。

249: 2010/09/21(火) 18:02:42.92 ID:RtPF.gAO
 姫子はその時しずかの境遇など全く知らなかった。
だがそんなしずかの姿を見て、その中にある大きな思いに気付いたのか、そっとしずかの頭を撫でた。

姫子「大丈夫だよ。ほら、大きく深呼吸してごらん?」

しずか「ひっ……ひっ……ふぅ……」

姫子「こらこら、それじゃあお産だって」

 姫子は突っ込みながら笑った。
しずかもそれにつられて笑った。
 その僅かなやり取りの後に、二人が親しくなるのは早かった。
席が隣という事もあって、二人学校内ではいつも行動を共にするようになる。
 そしてしずかは姫子に打ち明けた。
自分の存在が希薄化している事を。

250: 2010/09/21(火) 18:03:39.33 ID:RtPF.gAO
 その告白の時もしずかは泣いていた。
だがいつも泣いていた中学生の頃とは違って、今自分の隣には姫子が居る。涙を拭ってくれる。

姫子「辛かったね、これからは私がいるからね。一緒に克服していこ?」

 そう思うとしずかの胸には自然と勇気が湧いてきた。
物心がついたばかりの頃のように、皆に囲まれて笑っても良いんだ。そう思えてきた。
 そして高校の一年目も半分ほど過ぎた。
その頃には姫子の試行錯誤の結果、しずかの存在の希薄化こそ直らなかったものの、しずかにも少ないながらも友人が出来た。
 存在が薄いのならその分何度も存在を認識させ直せば良い。
そう考えた姫子は自分の友人に掛け合って何度もしずかを認識させていたのだ。

251: 2010/09/21(火) 18:04:24.85 ID:RtPF.gAO
 血で血を洗う凄惨な戦いが繰り広げられる桜高の中で、そんな悠長な真似をしていた姫子は上級生から目をつけられるようになっていた。

「立花ってのはどいつだい?」

姫子「……私ですけど」

 授業中でも部活中でも、酷い時は一日に十回以上こんなやり取りが繰り返されていた。
 繰り返される戦いの末に彼女は望まないトップランカーナンバーテンの地位を手に入れた。
『風哭き』と呼ばれて畏怖され、狂信されるその当時の姫子を見て、しずかは劣等感を感じつつあった。

しずか「姫子ちゃん、話があるの」

 ある日、しずかは遂に意を決した。
自分の心の中思いを、姫子に吐露する時が来たのだ。

252: 2010/09/21(火) 18:05:19.05 ID:RtPF.gAO
しずか「姫子ちゃん、トップランカーになっちゃったんだね」

姫子「あはは、バタバタしてたらいつの間にやらって感じだけどね」

 いつかしずかが姫子に自分の苦しみを打ち明けた教室。
夕日が差し込むその場所で、二人は向かい合っていた。

姫子「で、話ってのは何? あんな深刻な顔して世間話ってわけじゃ無いんでしょ?」

しずか「……うん」

 しずかの心は揺るがない。
だがこれから自分がする事は、二人の仲を永遠に引き裂く事になるかもしれない。
そう思うとしずかの胸は痛くなった。

姫子「大丈夫だよ。深呼吸してごらん?」

253: 2010/09/21(火) 18:06:05.52 ID:RtPF.gAO
 姫子の言葉はしずかに安堵を与えた。
そしてしずかは言葉を紡ぐ。

しずか「……姫子ちゃんはもうトップランカーなんだよね。それに部活間の争いが絶えないこの学校じゃあ、ソフトボール部も守らなきゃだよね?」

姫子「…………」

 姫子は何も答えない。

しずか「私考えたの。姫子ちゃんは立派に生きてるのに、こんな私が姫子ちゃんに付き纏ってちゃあ姫子ちゃんに迷惑だって……」

 姫子は、何も答えない。

しずか「でも私は姫子ちゃんと絶交なんて出来ない……。だから、私がいつか姫子ちゃんみたいになれたら、また二人で仲良くしたいんだ」

姫子「……それ、で?」

254: 2010/09/21(火) 18:06:55.25 ID:RtPF.gAO
 姫子は掠れる声を絞り出した。
瞳は充血しており、肩は小刻みに震えている。

しずか「こんな私に話しかけてくれてありがとう姫子ちゃん。私はこれからトップランカーを目指す。だから私がトップランカーになるその時まで、姫子ちゃんは私の為なんかじゃなく、姫子ちゃん自身の為に生きてね?」

姫子「…………」

 姫子は何も答えなかった。その代わり、無言で一度だけ頷いた。

しずか「あはは、明日からは……ライバルだね!」

 それだけ言うとしずかは満面の笑みを浮かべると、姫子を置いて教室から飛び出して行った。

姫子「無理しちゃって……」

 腕を組んで立ち尽くす姫子の頬を夕日が照らす。
そこには一筋の涙が伝っていた。

255: 2010/09/21(火) 18:10:25.36 ID:RtPF.gAO
しずか「ふえぇぇぇぇんっ!!」

 しずかは人目も憚らずに大声で泣きながら廊下を駆けていた。

しずか(これで……これで良かったんだよ! これ以上私が甘えたら、姫子ちゃんは駄目になっちゃうじゃんか!)

 何度も自分に言い聞かせるが涙は止まらない。
鼻水と涙で顔面はくしゃくしゃだ。
 渡り廊下の窓から差し込む夕日が、今はまだ小さな少女の背中を見送るように照らしていた。

 ────
 それから今に至るまで、しずかは自分の特異体質をあるがままに受け入れ、逆にそれをコントロールする術を手に入れた。

しずか(秋山さんを倒せば序列は十二位になる。もう少しで姫子と肩を並べられるんだ……!)

 小さな少女はその小さな胸に揺るぎない意志を携え、秋山 澪と対峙する。

269: 2010/09/22(水) 16:39:55.56 ID:htGOokAO
 しずかは自分の存在に気付かずに慌てふためく澪の背中を軽く小突いた。

澪「っ!?」

 澪はそれに反応して振り向く。
その際に手に持つ刀を振るう事も忘れていない。
だが……。

しずか「甘いよ!」

 強烈な平手打ちが澪の頬を捉える。
澪の首の動きとしずかの平手の動きは衝突し合い、相対的に平手打ちの威力は高くなる。

澪「いたっ……」

 痛む頬を押さえながらも澪は刀を振り降ろす。
だが最高のコンディション時のような、血痕すら着かせない神速の振りは見る影を失っていた。
 しずかはそれを造作もなくあっさり躱すと、再び澪の視界から姿を消した。

270: 2010/09/22(水) 16:40:55.60 ID:htGOokAO
澪「う……!」

 澪は得体の知れない敵の出現に焦燥しきっていた。
焦りは澪の瞳を濁らせ、判断力を著しく低下させる。
 傍から見ればその弊害は一目瞭然なのだが、当の本人はそれに気付けない。
焦りが恐怖を呼び寄せ、確実に刃を錆びさせているのに、澪は今の自分の力が最良のものであると錯覚していた。

しずか(そろそろ頃合だね。少し痛いけど、我慢しなきゃ……)

 しずかは意を決すると、ブレザーのポケットから一振りのバタフライナイフを取り出した。
 澪はしずかの姿を認識する事が出来ない。
しずかはただ悠然と澪の前に立ち、その刃を喉笛に突き立てるだけで勝利する事が出来るのだ。

271: 2010/09/22(水) 16:41:45.49 ID:htGOokAO
 だがしずかはそれをしなかった。
幼少時の境遇から、姿が見えない自分が武器で相手を傷付ける事をためらっていたのだ。
 ここでこんな決着をつけてしまったら自分はあの苛めっ子達よりも下劣な人間になってしまう。
そんな彼女なりのプライドが、澪を恐怖の底に叩き付ける策を閃かせる。

しずか「……っ!」

 しずかは自分の手の平にナイフを突き刺した。
激痛のあまり声を漏らしそうになるがなんとか堪える。
間を置かずにそれを引き抜くと、鮮血がしずかの腕を伝った。

澪「え?」

 その一連の光景すら澪は認識出来ていなかった。
しずかの存在の希薄化からなるステルス能力は、今や彼女が持つ物や周囲にある自分の所有物すら巻き込むまでに昇華していたのだ。
 無論床に滴り落ちる血液すら例外ではない。

272: 2010/09/22(水) 16:42:47.38 ID:htGOokAO
澪「何だ? 何が起きてるんだよ!?」

 かつて自分が激しく嫌悪していたモノの臭いが立ち込め、澪は半狂乱になる。
生臭い、吐き気を催す血の香り。

しずか(いちごちゃんが言った通りだね。怖いものや血が苦手って、最初は役に立たない情報だと思ってたのに……)

 熱を以て痛みを訴える左手を抑え、しずかはうっすらと笑みを浮かべた。

しずか(この策を閃かせる為の情報だったんだね。ありがとう……いちごちゃん、私のこんな安っぽいプライドに付き合ってくれて)

 若王子 いちごは当初、しずかにそのステルス能力を使って一瞬でケリをつけるよう命令してナイフを託した。
 それに反発したしずかにいちごが与えた情報。それは秋山 澪が怖いものと血を苦手としている事だった。

273: 2010/09/22(水) 16:43:38.01 ID:htGOokAO
 そしてそれは功を成す。
 しずかは錯乱状態の澪の背後に回り、ひっそりと、血に塗れた両手を澪の両頬に押し当てた。

しずか「……んばぁ」

 間抜けな声と共にしずかは澪の認識の領域に入ってきた。つまり……。

澪「あ……ぁ……」

 澪からしてみれば何の前触れも無く自分の頬に他人の手が添えられているのだ。
それだけで澪の心臓は跳ね上がる。

澪「こ……こここ……これ……」

しずか「うふふっ……」

 しずかはほくそ笑みながら、血に塗れた両手でべたべたと澪の顔を擦り回した。
頬から顎へ、そして首を伝ってUターンし、鼻頭に眉間と這い回る。

274: 2010/09/22(水) 16:44:27.83 ID:htGOokAO
 この時点で澪の身体は金縛りにかかったかのように動かなくなっていた。
顔はみるみるうちに青褪めてゆき、彩られた赤色が栄える。
口は半開きになっており、端から涎が垂れていた。

しずか「えいっ」

 しずかは傷がある左手を強引に澪を口内へと捩じ込んだ。
生え揃った歯の一本一本を愛撫のように撫でる。

澪「…………」

 澪は今すぐその手を吐き出して逃げ出したい衝動に駆られていた。
だが身体は動かない。
呼吸する事すら忘れているのではと思えるほどに、澪の身体は完全に静止していた。

しずか「よいしょ……」

 暫くそんな状況が続き、しずかはようやく澪の口の中の手を引き抜いた。
涎が傷口の血と混ざり合い、粘着質な液体となって滴り落ちる。

275: 2010/09/22(水) 16:45:12.11 ID:htGOokAO
しずか「秋山さん」

 澪の精神はとうに崩壊していた。
 口内を刺激する酸味。鼻腔を突き抜ける鉄の香り。肌を伝う汚れた感触。

澪「ぁ……」

 澪は自分の頬を執拗に擦った。
両手には空気に触れて黒ずみつつある赤色が彩られている。
 精神を崩壊させた澪の耳元で、しずかは一言だけ囁いた。

しずか「いたいよ……」

澪「うわあああああああっ!!」

 しずかが言い終える前に澪は叫んだ。
喉が張り裂けんばかりの金切声は体育館の壁にぶつかって反響する。
 手に持った刀を折れるのではと思えるほどの力で握り締め、澪は脱兎の如く駆け出した。

276: 2010/09/22(水) 16:46:05.27 ID:htGOokAO
 しずかはその後を追おうとはしなかった。
まだあどけなさが残る顔に似合わない艶めいた笑みを浮かべながら、しずかは床に滴った液体の跡を眺めた。

しずか「効果バッチリだね。あはっ、お漏らしまでしちゃってるよ」

 しずかの自分勝手なプライドがきっかけで生み出された策は澪の肉体こそ頃しはしなかったが、澪の心を頃した。

しずか「私……嫌な女だよね……」

 しずかは一瞬だけ目を伏せると首を振った。

しずか(もうすぐだよ姫子)

 改めて自分を戒めるしずか。
その瞳に迷いの色は一片も見受けられない。
 小さなその足で一歩ずつ床を踏み締めながら、木下 しずかは『鉄壁』を突き崩しに向かった。

282: 2010/09/23(木) 19:33:21.55 ID:Qx.7/IAO
 ────
澪「うぅ…………」

 この高校に入って血は克服した筈なのに。
 確かに好き好んで見ようとまでは思わないが、自分が今の序列に至るまでに斬り捨ててきた者達を思い返しても特に嫌悪感は湧かない。それなのに……。

澪「汚いよ……」

 顔を擦ると乾燥してこびりついた血がぽろぽろと剥がれ落ちた。
口の中に残る酸味を追い出そうと唾を吐く。
濁った透明の中に赤が入り交じって不気味な色合いを醸し出すそれを、澪は光が宿っていない虚ろで濁った両目で見つめた。
 その時、光が一切差し込んでいなかった体育倉庫に、一筋の光が差し込んだ。

283: 2010/09/23(木) 19:34:40.11 ID:Qx.7/IAO
 その光は飛び箱に背を預ける澪を照らし、そして消えた。

澪(来た……!?)

 扉が開いて閉まったにも関わらず人の姿は見られなかった。
それはつまり、ステルス状態のしずかがこの中に入って来たという事。

澪「……ご……」

 何かが詰まっているかのように喉が上手く動かない。
やっとの思いで声を絞り出した澪は、命のやり取りをする場に立つ者として最もやってはいけない行為に及んでしまった。

澪「ごめんなさい! 私に至らないところがあったのなら謝ります! だから……。だからもう許して下さい!!」

 羞恥心の欠片も無いその叫びは、狭い体育倉庫の中で反響するだけだった。

284: 2010/09/23(木) 19:35:31.55 ID:Qx.7/IAO
しずか(愚行もここまで行くと逆に清々しいね……)

 口に出しこそしないものの、しずかは心の中で澪を罵倒した。
戦況に圧倒的優劣がある場での命乞いは何の意味も成さない事を知っていたからだ。

しずか(これが序列十二位、か……。何だか空しいね)

 何のリスクも負わずに倒せる相手が命乞いをしてきた時、それを認める者など殆どいない。
そこに何かの見返りがあるのなら話は別なのだが、人間はこういう時に無償の愛を翳せるようには出来ていないのだ。

しずか(取り敢えず適当に痛め付けとこうかな)

 手を擦り合わせて涙を流しながら訴える澪の前に立ち、しずかは足を振り子のように動かし、澪の顔面に爪先を捩じ込んだ。

285: 2010/09/23(木) 19:36:24.26 ID:Qx.7/IAO
澪「ぶふ……っ!」

 澪の顔は綺麗に蹴り上げられ、天井を仰ぐ形になった。

しずか「ふふ。血、出てるよ?」

 涙で霞んだ景色の中にしずかの姿が現れた。
腰を屈めて拳を振りかぶり、澪の顔面を狙うその姿を確認しながらも、澪は動けなかった。
 不思議な事にしずかはステルス能力を発動させていない。
あくまで自然の状態で、何の変哲もない突きを放った。

澪「……っ!」

 体躯に恵まれたわけでもなければ武術に秀でているわけでもない。
そんな彼女の突きでも、放心状態の澪を吹き飛ばすのは容易かった。

286: 2010/09/23(木) 19:37:50.86 ID:Qx.7/IAO
 澪には自分の身体が宙に浮き、壁に叩き付けられるまでの時間がとても長く感じられた。
しかしどれだけ長いと感じようとも、自分の身体が動かない事に憤りを感じていた。
 自分の目に映る光景が全てスローで動く。
巻き添えを食らって散らばるボール。飛び交う埃。
そして、鈍色に輝く刃を携えて、駆け寄ってくるしずか。

澪(おい……。待て、待て待て!! あれを私に刺すつもりか!?)

 血を克服したと謳いながらも心の何処かでは血に対して嫌悪感を抱いていた澪。
 それは戦いの中にも現れており、彼女は桜高に入学してから今に至るまで、一度も血を流した事が無かった。

287: 2010/09/23(木) 19:38:39.71 ID:Qx.7/IAO
 それだけ聞けば、誰も澪には傷を負わせる事が出来ないという解釈も出来るがそうではない。
 澪が今まで傷を負わなかったのはそうならないように立ち回っていただけなのだ。
現に澪よりも遥かに上の次元に居る憂、和、姫子でさえ傷を負った事が無いわけではない。
 虚栄の強さで固めた鉄壁は今まさに突き崩されんとしている。
澪は自分の脇腹の辺りを冷たい刃が侵入していく触感を感じた。

しずか「内臓は避けておいたよ」

 しずかは澪の耳元で囁くと、深々と肉を貫いているナイフをぐりぐり動かした。
溢れる澪の血はブラウスを赤く染め、紺色のブレザーにも染み込んでゆく。

288: 2010/09/23(木) 19:39:44.89 ID:Qx.7/IAO
澪「あっ……あっ……あっ……」

 血がわき出る度に澪は喘ぎ声に似た声を漏らしながら、その身を震わせた。
涙などとうに枯れてしまった。悲鳴を上げる気力も無い。

しずか「これでお終い。もう眠ってて良いよ」

 しずかは舌を出してウインクすると、澪の腹を犯すナイフを勢いよく引き抜いた。

澪「ぁぐ……っ!」

 一際大きく身体を震わせると、澪はするすると床に倒れ伏した。
脇腹から滲み出た血は床一面に広がり、水溜まりを作っている。

しずか「これで私は序列十二位だね。どんな通り名がつくのかなぁ、ふふっ」

 しずかは踵を返した。
それと同時に彼女は澪の視界から完全に姿を消す。
 澪の頬を伝った一筋の涙は血の池に交じり、音も無く消えた。

305: 2010/09/24(金) 12:43:20.96 ID:YX7gqAAO
 グラウンドの中心で唯は一人立っていた。
両目を閉じ、上体を揺らしながら立っているその姿は儚げで、押せば壊れてしまいそうな印象を与える。
 そしてそんな唯を取り巻くように辺りには粉塵が巻き起こっている。
傍から見ればそれは強い風が吹き付けているようにしか見えないが、これは人為的なものだ。

姫子(この子……。天才なんてレベルじゃないね……)

 この風を巻き起こしている張本人否、この風である姫子は口には出さないものの動揺していた。
 戦いが始まってから今に至るまで、姫子は既に百万回以上の攻撃を放っていたのだ。

306: 2010/09/24(金) 12:44:06.79 ID:YX7gqAAO
 にも関わらず姫子の攻撃が唯に届いたのは初撃の一発のみ。
目で追えないほどのスピードで刹那の間に百発以上繰り出される姫子の技は、柳を相手にしているかのように受け流される。

唯「…………」

 この時唯は自らの戦闘スタイルを回避主体のものに切り替えていたのだ。
その名はオートワウ。
上体を一定のリズムで動かし、自身の周囲に配る感覚を鋭敏に研ぎ澄ますスタイルだ。

姫子「はっ!」

 姫子は足を止め、唯の顔面目掛けて突きを放った。
だがそれは予め予測していたかの如くあっさりと躱される。
それを確認してから反撃されないように距離を置く。
 先程からこれと同じ行動を延々と繰り返しているのだ。

307: 2010/09/24(金) 12:44:50.17 ID:YX7gqAAO
唯「やっぱり凄いよ姫子ちゃんは」

 ぽつりと呟いた唯の言葉を聞いて、姫子は足を止めた。
超高速で動いていたものが予備動作無しで停止したため、一層大きな風が巻き起こり、竜巻と化す。

姫子「ふふっ……。唯といるといつもそう、何だか毒気抜かれちゃうんだよね」

唯「ほぇ? 毒?」

 目を丸く見開き、きょとんとした顔をする唯を見た姫子は唇に指を添えて微笑んだ。

姫子「あはは、何でもないよ。続けて」

 何の事を言っているのか分からないが自分が笑われている事に気付いた唯はほんの少しだけ頬を膨らませた。

唯「姫子ちゃんの攻撃って、一発の間に何回同じ事繰り返してるのかな?」

姫子「え?」

308: 2010/09/24(金) 12:45:33.47 ID:YX7gqAAO
 唯が言った事は若干言葉足らずな問い掛けだったが、姫子を驚かせるのには充分だった。
 本来なら一発分にしか見えない姫子の突きや蹴りはその一瞬の間に百発から千発の動作を繰り返している。
その全てを躱している唯には舌を巻くところもあったが、流石に自分の攻撃の全てが見切られているわけではない。姫子はそう思っていた。

唯「さっきのパンチは五百とちょっとかな? 途中で数えるのも面倒になっちゃったけど」

 だがそれは間違いだった。
先程放った突きの回数は五百九回。
つまり唯には見えているのだ。
生徒序列ナンバースリーとその下の序列の間にある見えざる壁、『絶対の彼方』を越えて唯は進化し続けている。

309: 2010/09/24(金) 12:46:05.49 ID:YX7gqAAO
 『絶対の彼方』
 それは桜高の序列トップスリーの強さを揶揄した呼び名だ。
 越えたくても越えられない。
最早自分が人間である限り、越える事すら馬鹿らしくなるような力の壁。
越えてしまっている三人。つまり憂、和、姫子は既に人間など辞めてしまっている。
そんな畏怖の念から生まれたのが『絶対の彼方』という名だ。

姫子「唯も、化物候補って事なのかな?」

 唯に聞こえないように姫子は呟いた。

唯「どうしたの? 何か怖い顔してるよ」

 姫子の気など露知らず、唯はあっけらかんとした態度で鼻歌を歌っている。

310: 2010/09/24(金) 12:46:55.61 ID:YX7gqAAO
姫子(いちごは頃す気でやれって言ってたけど、これも分かってたのかな……?)

 姫子は格下である唯に対して自分が恐れを抱いている事に気付いた。
気にも留めていなかった自分の心臓の鼓動がやけに頭に響く。

姫子(……やっぱり、この子は存在するべきじゃない!)

 不安を噛み頃し、姫子は再び加速した。
腰を屈めた状態で唯の懐に潜り込み、顎を狙った蹴りを放つ。

唯「うわっ、と」

 一際大きく上体を逸し、唯はそれを躱した。
だがその蹴りは言わば布石。本命を確実に当てる為のフェイクでしかないのだ。

姫子「っ!」

 蹴りを放っと伸びきった足をそのままに、姫子は地面を手で押し、大きく跳んだ。
自分の身体が跳躍の頂点に達したところで、姫子は伸びきった足を畳んで空中で回転する。

311: 2010/09/24(金) 12:47:39.49 ID:YX7gqAAO
 唯の視線はその一連の動きを捉えていた。
だが刹那にも満たない時の中で、初撃で体勢を僅かに崩してしまったのは致命的だ。
避けようにも上手く身体が動かない。
 姫子の足が再び伸びきり、踵を突き出した形になる。
迫り来る刃の様な蹴りを黙視する中で、唯の心臓が大きく跳ねた。

唯「ディストーション!!」

 姫子の踵落としを避けようとせず、逆に両足で地面を踏み締める。
そして渾身のアッパーカットを姫子の踵に当てた。

姫子「っ!?」

唯「っ!」

 二つの力の衝突は見えざる波を生み出し、それは瞬く間に広がって学校の敷地内の木々を薙ぎ倒した。

312: 2010/09/24(金) 12:48:26.47 ID:YX7gqAAO
 姫子は足に掛かる衝撃に逆らわず、敢えて大きく吹き飛んで受け身を取った。

姫子「つっ……!」

 立ち上がる際に右足に痺れが走る。
申し訳程度に右足を庇いながら、立ち尽くす唯を見ると姫子は驚愕した。

唯「…………」

 唯は姫子を迎撃した際の体勢のまま立ち尽くしている。
俯いている為表情を鑑みる事は出来ない。
だがそれよりも、唯の身体を包む闘気に姫子は目を奪われたのだ。
 本来視覚する事など出来ない筈の闘気は紫色の雷となって具現化しており、唯の周囲で音を立てている。
空間そのものが捻子曲がり、歪む。
 姫子は戦慄すら覚えるその光景を見て、口角を上げた。

313: 2010/09/24(金) 12:49:18.86 ID:YX7gqAAO
姫子「来るとこまで来ちゃった感じだね、唯」

唯「…………」

 唯は何も答えない。その代わり纏う紫電が一層強く輝いた。

姫子「あんまり歓迎はしたくないんだけどね。まぁでも一応言っとこうかな……」

 姫子はさっ、と髪の毛を払った。
そして大きく深呼吸して言った。

姫子「ようこそ『絶対の彼方』へ」

 紡がれる言葉が唯に届くと同時に暴風が吹き付ける。
 まるで今までの戦いは茶番だと言わんばかりに、二つの力はその存在を主張した。

姫子「久し振りだなぁ、本気で闘うのなんて。唯、お願いだからがっかりさせないでよね?」

 雷と風が混ざり合い、嵐となる。
 二人の姿が比喩などではなく、消えた。

317: 2010/09/24(金) 13:37:16.08 ID:YX7gqAAO
まぁそう言うなよ
ばっちりきっかし格好良い出番を考えてるよ
楽しみにしててくれ

321: 2010/09/24(金) 16:24:11.90 ID:YX7gqAAO
梓「くぅ……痛い……」

 姫子と唯の衝突の余波が梓の意識を覚醒させた。
身体中がずきずき痛むが立てない程ではない。
ゆっくりと身体をほぐしながら立ち上がり、梓は空を見上げた。

梓「え?」

 意識を失う前は雲一つ無い快晴だったのに、今では不気味な暗雲が立ち込めている。
梓が少し気味が悪いと感じつつ空を眺めていると、轟音と共に一筋の雷がグラウンドに落ちた。

梓「きゃっ!?」

 その直後に雷が落ちた場所を中心に爆風が吹き荒れる。

梓(誰かが戦ってる……?)

 梓は不穏な空気を感じつつも、まだ安らかに眠るエリに向けて一礼してグラウンドに向かった。

322: 2010/09/24(金) 16:24:56.47 ID:YX7gqAAO
紬「あら……?」

 紬が熱心にアカネの秘部を責めている最中、唯と姫子の衝突の余波はここまで届いた。
 秘部に埋めた顔を上げて愛液に塗れた口元を拭うと、紬は溜め息を漏らす。

紬「唯ちゃん……かしら?」

 紬ははだけた衣服を整えると、妖艶な面持ちのままアカネの胸にキスをする。
 だがアカネはそれに答える意識を手放していた。
気の遠くなるような回数の絶頂を迎えたアカネは、心身共に枯渇していたのだ。

紬「うふふ、愉しかったわ。また遊びましょうね?」

 紬は立ち上がり、踵を返してその場を去ってゆく。

紬(少しおイタが過ぎたみたいね……)

 心の中で自分を戒める紬の表情に、さっきまでの色欲は無かった。

323: 2010/09/24(金) 16:25:40.41 ID:YX7gqAAO
律「あだだ……。もう氏ぬかもしんね……」

 ここにも衝撃の余波によって目覚める者がいた。
 律はまだ朦朧とする意識を頭を振って叩き直した。
頭を振る度に頭部の傷から血が漏れる。

律「こんのやろぉ……。私の頭をトマトか何かと勘違いしてんじゃねぇのか?」

 一人毒づきながら律は意識を手放している信代の鼻にストレートを決める。
確実に鼻の骨が砕けるレベルの突きなのだが、それでも信代は目を覚まさなかった。

律「にしても……。さっきからビリビリ来やがるな」

 全身を包む悪寒にも似た闘気の渦を感じて律は眉を顰める。

律「まさか、憂ちゃんじゃねーよな……」

 律は一抹の不安を抱えながらも、ゆっくりと立ち上がってその場を後にした。

324: 2010/09/24(金) 16:26:28.09 ID:YX7gqAAO
和「っ!?」

 和のキーボードを叩く手が止まった。
額を流れる汗は滝のように流れ落ちる。
 今までは憂を作業に集中させる事でこの異変から気をそらさせ続けていた。
だがこれ程の闘気の奔流は誤魔化しきれる筈が無い。

和「…………」

 和は恐る恐る視線を横に向けた。

憂「……お姉ちゃん?」

 憂の瞳は一切の光も映さない澱んだ黒色をしていた。
終わった、和はこの時そう思った。
 一瞬の瞬きの間に憂は席を離れようとしていた。
和は慌てて憂の腕を掴む。

憂「どうして?」


和「……姉の喧嘩にいちいち首を突っ込むもんじゃないわ」

 和が言い終わる前に憂の拳が和の頬を目掛けて飛んでゆく。

325: 2010/09/24(金) 16:27:12.24 ID:YX7gqAAO
和「お願い、話を聞いて!」

 和は憂の拳を空いている手で受け止め、半狂乱気味に叫んだ。

憂「私はお姉ちゃんの喧嘩はある程度黙認してきたつもりだよ?」

和「落ち着きなさい」

憂「落ち着いてるよ。でもこれは駄目でしょう? この闘気の流れは危な過ぎるよ」

和「それが唯の喧嘩相手を頃して良い理由にはならないでしょう!」

憂「どうして? お姉ちゃんを傷付ける人は皆氏んじゃえば良いんだよ」

 憂はそう言い終えると、和の視界から姿を消した。

和「くっ……」

 和はそれに遅れて視線を天井に移す。
コンクリートの天井は欠片も落ちて来ない程に粉々に砕かれており、その巨大な空洞は校舎の屋上まで続いていた。

326: 2010/09/24(金) 16:27:57.98 ID:YX7gqAAO
憂(お姉ちゃん……!)

 吹き飛ばした天井の空洞を憂は通り抜けていた。
もう少しで屋上にまで差し掛かる。
その時憂にとって聞き慣れた声が聞こえた。

「獅子戦吼!」

 眼前まで迫った屋上から獅子を象った闘気が現れる。
それは無警戒だった憂の身体を吹き飛ばし、再び職員室へと叩き付けた。

和「え……?」

 思いもよらない状況に和は唖然とするも、倒れ伏す憂を踏み台にして屋上まで飛び上がった。

和「あなたは……」

純「あ、おはようございます真鍋先輩」

 緊張の欠片も感じられない緩んだ顔をしていた純が和を迎えた。

327: 2010/09/24(金) 16:28:43.85 ID:YX7gqAAO
和「何でこんなところに居るの?」

純「あーそりゃ聞かないで下さい。私も色々大変だったんですって。そんな事より今のって憂でしょう? これから一悶着ありそうですよ」

 純はからからと笑いながらも何処か哀しそうな顔をしてグラウンドを指差した。
和は純が指差す先の光景を見て驚愕した。

和「う、嘘……でしょ!?」

 和の心臓が跳ね上がる。
今見た光景の全てを否定して逃げ出したくなった。
 だが和の背後でこの場に来てはいけない者の声がした。

憂「酷いよ純ちゃん……。私だって痛いものは痛いんだよ?」

純「あはは、こりゃもうゲームオーバーだ」

 憂の声に対する純の言葉が、今の和には酷く辛辣に聞こえた。

328: 2010/09/24(金) 16:29:29.94 ID:YX7gqAAO
律「だーもう! 頭がいってぇ!!」

 律は駆け足気味に歩きながら叫んだ。

梓「叫ばないで下さい、傷に響きます」

律「梓!?」

紬「私もいるわよ~」

 昇降口を越えた辺りで紬と梓が合流する。
それを見て律は安堵の溜め息をついた。

律「良かった、皆無事みたいだな」

梓「ゾンビみたいな頭で言う台詞じゃないですよ。律先輩こそ大丈夫ですか?」

律「なにおう!?」

紬「まぁまぁまぁまぁ」

 しばしの間、三人の間で朗らかな空気が流れる。だが……。

梓「唯先輩と澪先輩は……」

紬「…………」

 紬は何か言いかけて口を噤んだ。
 紬は澪が戦いに敗れた事とこの先に唯が居る事を、直感で理解しつつあったのだ。

329: 2010/09/24(金) 16:30:16.07 ID:YX7gqAAO
 三人はグラウンドに差し掛かった。
そこで鋭い風が律達に吹き付けた。

律「うわっ!」

 一瞬だけ目を閉じて風が吹いた方を見た。
そこで律が見た光景は、俄かには信じられない絶望の光景だった。

律「…………な……」

 全身の力が抜けてゆく。
戦いの中に身を投じる事がどんな事なのか、三人はその悲しい現実を叩き付けられた。

梓「唯先輩っ!!」

 グラウンドには立ち尽くす姫子が居た。
姫子は右手を伸ばしている。
そしてその右手は『唯の心臓』を貫いていた。
 遠目に見ても即氏である事は確定的に明らかだ。
平沢 唯は姫子に心臓を貫かれ、安らかな顔をして眠っていた。

「いやああああああああっ!!」

 桜高に悲痛の叫びが鳴り響く。

334: 2010/09/24(金) 21:28:06.62 ID:YX7gqAAO
いちご「うん。予定より決着が早まった、直ぐに一台こっちに寄越して」

 バトン部部室にひっそりと佇んでいた少女は携帯電話での通話を終えると、その重い腰を上げた。
二つ結びにした髪の毛を弄りながら、普段の彼女からは想像も出来ない醜い笑みを浮かべる。

いちご「これで私は神を越えられる……。ふふっ、『龍』を手に入れるのはこの私」

 いちごはいまだかつて経験した事の無い興奮に身悶えし、両腕で自分の肩を押さえ付けた。
それでも止まらない身体の震えは彼女の心を静かに凌辱していった。

335: 2010/09/24(金) 21:28:50.36 ID:YX7gqAAO
憂「ねぇ純ちゃん……。あれは何?」

 憂は薄ら笑いを浮かべながらグラウンドを指差した。

純「あーもう、全てがめんどくさい……」

 純は憂の質問を無視してブレザーを脱いだ。
愚痴を零しながらも彼女の瞳には闘志が宿っている。

和「ジャズ研の鈴木さんだったわよね? おこがましいとは思うけど手伝ってもらえるかしら」

 憂に背を向けたまま和は抜刀する。
刀身に描かれた桜の花びらが煌めいた。

純「氏ぬほどめんどくさいけど助太刀します。憂まであの中に交じったら軽くスプラッタな光景が出来上がりますからね」

 純は手に持ったブレザーを投げ縄のようにくるくると回した。

336: 2010/09/24(金) 21:29:37.99 ID:YX7gqAAO
憂「ねぇ、私の質問に答えてよ二人とも。何で私の事無視するの?」

 憂が言葉を発する度に重力を何十倍にも強めたような重圧が二人を襲う。

和「アンタはやり過ぎるのよ。どんな理由があれ人頃しは罪悪よ」

純「安心しなって憂。アンタのお姉ちゃんは、唯先輩はまだ大丈夫だから」

 初撃は和、身の丈ほどの長刀を流れるようなモーションで振るう。
憂は刃の射程圏内には居ない。
だが振るわれた刃の軌道から視覚可能なまでに洗練された真空波が飛び出す。

憂「邪魔しないで!」

 鋼鉄をも断ち切る真空波を憂は片手で弾いた。
だが振り上げた手は一瞬だけ憂の視界を遮る。

和「食らっときなさい」

337: 2010/09/24(金) 21:30:27.68 ID:YX7gqAAO
 その隙に憂の懐に潜り込んだ和は憂の頸動脈目掛けて神速の居合いを放つ。
その完全に意表を欠いた筈の攻撃を憂は上体を逸すだけで難なく躱した。

憂「え?」

 だが和の攻撃は止まらない。
居合いの動作に身を預けて床に手をつき、憂の顎を蹴り上げる。
 憂の身体は成す術無くそのまま五十メートルほど上空に跳んだ。

純「ナイスパスでっす!」

 上空で待ち構えているのは純だった。
純は目にも止まらぬ速さで憂の首をブレザーで縛り付け、胴を抱き締める。

純「表連華!!」

 落ちゆく身体に回転を加え、二人の身体は高速で下へと落ちてゆく。
向かう先は先程憂が作った空洞だ。

338: 2010/09/24(金) 21:31:00.93 ID:YX7gqAAO
純「そぉい!」

 屋上の床を通り抜け、職員室へと憂の身体を叩き付ける。
盛大な破壊行為に職員室内はパニックに陥った。

純「ほら、こんなので氏ぬ子じゃないでしょ」

 純は倒れ伏す憂の身体を持ち上げて放った。
空中でうなだれる憂の身体に狙いを定め、拳を握り締める。

純「昇龍拳!!」

 渾身のアッパーカットが憂の胴を捉え、そのまま屋上へと突き飛ばす。
その光景を職員一同が固唾を飲んで見つめていた。

純「あ、あはは……。失礼しました~」

 視線に気付いた純は苦笑いを浮かべながら憂の後を追った。

339: 2010/09/24(金) 21:31:46.88 ID:YX7gqAAO
和「来たわね……」

 和は両目を閉じ、腰を降ろして刀を真横に構えていた。
刀の柄を握る手に力がこもる。
それと同時に刀身が闘気を帯び、全長五十メートル程の光の刃が形成される。

和「はっ!」

 光の刃が高速で浮上する憂の身体を捉えた。
そしてその後ろに設置された貯水タンク諸共薙ぎ払う。

和「少しは効いたかしら?」

 あくまで無表情を崩さずに憂に問い掛ける。
そして憂の肩に深々と刺さった光の刃を解除した。

純「ぶっふぁっ! 滝がっ……! 滝が降ってきた!」

 空洞から水浸しになった純が這い上がってきた。
貯水タンクの水を一身に浴びた純は肩で息をしていた。

340: 2010/09/24(金) 21:32:32.97 ID:YX7gqAAO
憂「ぅ……。ごほっ……」

 憂は肩から夥しい量の血を流しながら噎せ返っている。

和「あの子達に関しては私が何とかする。だから引っ込んでなさい」

 言いつつも和は警戒を解かない。

憂「……どうして?」

純「え?」

 憂の悲痛の呟きを、二人は聞き逃さなかった。

憂「どうして? どうしてそんなに弱いのに……」

 憂は沼地から這い上がるように立ち上がる。
その表情は俯いている為、確認出来ない。

憂「どうして……。私の邪魔をするの?」

 操り人形のような歪な動作で憂は顔を上げた。

和「……!?」

 和と純を見つめる両目は絶望に塗り潰された闇を映し出していた。

348: 2010/09/25(土) 22:30:04.25 ID:3P2bwEAO
律「うわあああああああっ!!」

 真っ先に動いたのは律だった。
人間の可視限度を遥かに超越したスピードで、律は姫子の眼前まで迫っていた。
 律の胸の中で蠢く感情は殺意、憎悪、悲哀。
あらゆるネガティブな感情が責めぎ合う。

律「ブラストビート!!」

 振りかぶる拳は神速の槍となる。
姫子はそれを空いた左手の、その人指し指だけで受け止めた。

律「はあ!?」

姫子「止まって見えるよ!」

 一筋の閃きが律の胴を捉える。
刹那の間に放ったその蹴りの回数は億にも届く。

律「~~っ!?」

 衝撃は律の骨を砕き、臓器を痛めつける。
勢い良く吹き飛ばされる律を見て、後ろの二人が黙って見ている筈も無かった。

349: 2010/09/25(土) 22:30:52.97 ID:3P2bwEAO
紬「えい!!」

 紬は腰を落とし、地面を殴りつけた。
雪崩のような砂煙が巻き上がり、姫子の視界を遮る。

梓「ナイスフォローです!」

 目にも止まらぬ速さで梓は手に持つ銃にスコープのようなものを取り付けた。

梓「特別製ですよ!!」

 銃口が比喩ではなく、文字通り火を吹いた。
梓のハンドメイドによって作られた爆弾並の威力を誇る弾丸が姫子に牙を向く。

姫子「はっ!」

 姫子は律の拳を受け止めた左手を開き、全身に力を込めた。
それと同時に姫子を中心にして爆風が吹き荒れた。
砂煙は一瞬で晴れ、梓が撃った弾丸はその軌道を捻子曲げられて空を走る。

350: 2010/09/25(土) 22:31:40.98 ID:3P2bwEAO
姫子「あはは……。下手に向かって来ないでよ、これでも動揺してるんだからね? 手加減する余裕なんてないよ」

 唯を貫いている右手はぴくりとも動いていない。
それはまるで氏にかけた小動物を庇うような仕草だった。
姫子の顔は三人を圧倒しながらも焦燥から青褪めており、氏人のような色をしている。

紬「…………」

 何かがおかしい。
曖昧模糊とした感情ではあるものの、紬はこの状況にそぐわない異変に気付きつつあった。

姫子「あはっ……。もう駄目だ……。頭がおかしくなっちゃいそう」

 姫子は暗雲立ち込める空を見上げて、一粒の涙を零した。

351: 2010/09/25(土) 22:32:26.25 ID:3P2bwEAO
紬「話してくれる?」

 紬は両手をひらひらと振り、敵意が無い事を示すと姫子の元へと歩み寄ってゆく。

梓「ムギ先輩……」

 梓も二丁の銃をホルスターにしまい、その後を追う。

姫子「来ないで」

 姫子は鋭い眼光を二人に向け、右手を唯の胸から引き抜いた。
唯の胸にぽっかりと空洞ができ、血が噴水のように溢れ出る。
跳ねる事もなければ抗う事もない。
そんな人形のような唯の身体を、姫子は抱き締めた。

梓「く……狂ってる……」

 梓は狂気を孕んだ空気に気圧されて、地に膝をついた。

姫子「唯……」

紬「…………」

352: 2010/09/25(土) 22:33:11.09 ID:3P2bwEAO
 哀しみが充満したその空間の中で、一つのイレギュラーが介入した。
だがそれに瞬時に気付ける者は一人も居なかった。
日常の中の有り触れた一コマの中で、心霊写真を見つけ出した時のような感覚。
絶対にあってはいけない事なのに、それに気付く事は難しい。

姫子「っ!?」

 その感覚にいち早く気付いたのは姫子だった。
だが時既に遅し。叫びを漏らす間もなく姫子の身体は地面に叩き付けられた。
 衝撃はグラウンドにクレーターを作り、大地を爆散させる。

憂「汚い手でお姉ちゃんに触らないで」

 片手で唯を抱え上げた憂がそこにいた。

353: 2010/09/25(土) 22:33:57.16 ID:3P2bwEAO
純「あー……。全身痺れて動けない」

和「私もよ。両足の腱が挽き千切られてるわ」

 桜高校舎の屋上で純と和は隣り合わせで寝転んでいた。

純「私なんて全身雷でビリビリー! ですよ。十万ボルト使う女子高生なんて居て良いんですか……」

和「十万ボルト如きでへこたれる身体じゃないでしょう? それよりも幼馴染みの内臓を根こそぎ持っていく女子高生の存在の方が信じられないわ」

 純と和は二人して自嘲染みた笑みを零した。

純「……おやすみなさい」

和「……ええ、おやすみ」

 それ以降二人は言葉を交わさなかった。
隣り合わせの二人の身体を、真っ赤な花が包んでいた。

363: 2010/09/26(日) 22:06:46.41 ID:t9REKUAO
 立ち込めていた暗雲は晴れ上がった。
だが紬達が見た空は青色ではなかった。

紬「これって……」

 憂の身体から放出される闘気が桜高上空を覆い、黒い雷が降り注いでいる。
絵に描いたような不自然な形のそれは自然の空と交ざり合い、世界の終わりを彷彿させる景色を作り上げていた。

憂「ねぇ、お姉ちゃんをこんなにしたのはあなたですか?」

 世界の終わりの中心で立ち尽くす憂は、クレーターの中心で倒れ伏す姫子に問うた。

姫子「…………」

 だが姫子は答えない。答えられる筈もない。
いかなる決戦兵器をも凌駕する一撃を一身に浴びせられたのだ。
たとえ『絶対の彼方』を越えた者であろうと無事でいられるわけがない。

364: 2010/09/26(日) 22:07:32.14 ID:t9REKUAO
憂「答えてくださいよ。それじゃあ私が復讐出来ないじゃないですか。言っときますけどお姉ちゃんを傷付けた人を私は許しませんよ。眼球を毟り取って髪の毛を全部抜いて、全身の骨は文字通り粉にしてあげます。身体の皮膚は表面から一枚ずつ、苦しみながら逝けるようにゆっくり剥ぐんです。そしたら次は内臓ですね。心臓は最後に取っておきましょう、最初は腎臓をペースト状になるまで握り潰します。それをその人の口の中に捩じ込むんです。自分の内臓を自分で食べられるなんて素敵と思いません? あ、そうか。最初に眼球を毟り取っちゃってるからそんな素晴らしい光景を見れないんですよね。あはは、私ったらうっかりしてました」

365: 2010/09/26(日) 22:08:16.74 ID:t9REKUAO
姫子「──っ! ~~っ!?」

 倒れ伏す姫子はその朦朧とした意識の中に介入して暴れ狂う呪詛の言葉に恐怖した。
言葉を紡ごうにも先の衝撃で肺をやられており、喋るどころか呼吸もままならない。
恐怖などという陳腐なものではない別のナニカに気圧され、姫子は涙を流した。

憂「ねえ、誰がやったんですか? 答えてくれないなら今からあなたを殴りますよ。それもグーで、思いっきり」

 それを聞いて戦慄した姫子は身体を捩らせて虫のように這い、憂から逃れようとする。
 だが憂はそれを許さない。
這う姫子の頭を踏み付け、ぎりぎりと力を込める。

366: 2010/09/26(日) 22:09:02.02 ID:t9REKUAO
姫子「~~っ!?」

 姫子の頭は力を加えられる度に地面にめり込んでゆく。
そうして姫子の頭部が完全に地面に埋もれようとした時、それは起きた。

憂「っ!?」

 地面から突如光が溢れ出した。
それに遅れて轟音が鳴り響き、グラウンド全体の土を根元から巻き上げる。
爆発の規模は甚大で、その爆風は校舎にも及んだ。
衝撃と共に爆炎が生まれ、そこにある全てのモノを遠慮無く、躊躇無く、情緒無く食らい尽くした。

「全く、困った子達ね」

 自分達に襲いかかった爆風は例外無く全ての命を食らうだろう。
そう確信して目を閉じていた律、紬、梓、姫子の四人だが、それぞれ自分達が何者かに抱えられている事に気付く。

367: 2010/09/26(日) 22:09:48.26 ID:t9REKUAO
梓「ここは……?」

 梓は自分が今どこにいるのかを認識した。
抱え上げられた自分の身体の下には純と和の身体がある。
そして真っ二つに裂けた貯水タンク、飛び降り防止の高いフェンス。
それらの物からここが屋上であると判断した。

律「さわ……ちゃん?」

 律は顔を上げ、自分達を救った者の名を呼んだ。

さわ子「子供の喧嘩に大人が割って入るのは良くないけれど……。これ以上学校を壊されたらたまったものじゃないからね」

 桜高三年二組担任。山中さわ子は眼鏡の奥の両目を下げ、穏やかな笑みを浮かべた。

紬「憂ちゃん……」

 目を開いた紬はさわ子が上げた足の先に居る者を見て悲しそうな顔をした。

368: 2010/09/26(日) 22:10:33.08 ID:t9REKUAO
憂「……先生まで邪魔するんですか?」

 憂の身体は壊れた貯水タンクにめり込んでいた。
正確には、さわ子の足に脇腹を貫かれ、強引に貯水タンクに穿たれているのだ。

憂「ごほっ……」

 口から血を吐きながらも憂は自分の腹に刺さる足を引き抜こうとする。
だがさわ子の足はそれに動じずびくともしない。

さわ子「いい加減止めなさい。あなたの夢が世界征服なら止めはしないけど、復讐なんて馬鹿げた真似はさせないわ」

憂「嫌です」

 諭すように警告するさわ子を一瞥し、憂は即答した。
光を映さない漆黒の瞳はさわ子の身体を居抜くような圧力を放っている。

369: 2010/09/26(日) 22:11:23.88 ID:t9REKUAO
さわ子「分かってないわね。これは命令よ」

 さわ子は丁寧にセットしてある自身の髪の毛をくしゃくしゃと掻き、眼鏡を外した。

さわ子「旧桜高生徒序列トップ。『盲目白痴の魔王』山中 さわ子が命じるわ。今直ぐその下らない感情を破棄しなさい」

憂「…………」

 憂は押し黙った。
その気になれば自分の身体を穿つさわ子の足を引き抜く事も出来たのだ。
だがそれをするという事は自分とさわ子の戦いの火蓋を切る事と同義。
 目の前で鋭い眼光を放つ女の内に眠る、自分と同等の力を持つ凶暴な虎を垣間見た憂は、合理的かつ苦渋の選択肢を選んだ。

370: 2010/09/26(日) 22:12:13.68 ID:t9REKUAO
憂「でも……! そしたらお姉ちゃんは……」

さわ子「あなたのお姉ちゃんはまだ大丈夫。唯ちゃんの妹として生まれたあなたなら分かる筈よ」

 憂の目には光が宿り、さわ子の修羅の表情は柔和なものになった。

さわ子「辛いと思う、悔しいと思う。その気持ちは重々察しているつもりよ。でも怒りに身を任せて立花さんを責めちゃ駄目。あなた達全員、今は何があろうと身体を休める事が優先」

 憂の身体から足を抜き、さわ子は締めくくる。

さわ子「それが人間らしい利口な判断よ」

 今のさわ子が今ここにいる全員には菩薩に見えた。
だがその感動に浸る間も無く、上空で爆音が鳴り響く。

371: 2010/09/26(日) 22:12:57.23 ID:t9REKUAO
律「あれは……?」

紬「……琴吹財閥の自家用ヘリ?」

 黒塗りのヘリコプターにぶら下がっている梯子を見て驚愕した。

梓「唯先輩っ!」

 黒のスーツに身を包んだ初老の男が唯を抱えて梯子にぶら下がっている。
男の顔には幾つもの皺が刻まれており、表情は仮面のように固い。 律達がその男に目を奪われていると、ヘリの中から一人の少女が顔を出した。

いちご「『龍』は『沼』が頂いた」

 特に感慨も無さげに、いちごは言い放った。
 この狂った劇の総指揮を取りながらも表舞台に顔を出さなかった少女。
桜高生徒序列ナンバーフォー。若王子 いちごがついに舞台に舞い降りた。

380: 2010/09/26(日) 22:43:26.33 ID:t9REKUAO
>>378
それはいちごが……げふん! ムギの……ごほっ、げふんげふん!

385: 2010/09/28(火) 01:41:06.25 ID:sLpqh6AO
 明らかにこの場にそぐわない存在感を醸し出している一台のヘリ。
その中からいちごが現れたのだから全員が驚愕するのも無理は無い。
 今、戦いの意志を捨て、混乱に陥っている一同を責める事など誰にも出来はしないのだ。

紬「何でここにあなたがいるの……」

 その中で、紬だけが他の者とは違う理由で驚愕していた。

紬「答えなさい斎藤っ!!」

 紬は吠えた。
いつもの朗らかな笑みは消え失せており、明らかに動揺している。
長年自分に付き添ってくれていた従者が自分の手の届かないところへ行ってしまっている事に紬は絶望した。

386: 2010/09/28(火) 01:41:52.63 ID:sLpqh6AO
斎藤「…………」

 斎藤と呼ばれた黒スーツの男は何も答えなかった。
さも興味無さげに屋上にいる者達を一瞥すると、片手と片足だけで器用に梯子を登ってゆく。

紬「答えなさいっ! これは命令よ!!」

 瞳をぎらつかせて吠える紬を見て、律達は驚いていた。
そしてここまで紬を動揺させている斎藤が紬にとってどれほど大切な者だったのか、それを察する。

いちご「これ」

 その様子を見ていたいちごはヘリの中から一台のポータブルテレビを取り出し、紬に向かって投げた。
紬はそれをひったくるように受け取り、テレビに映る映像を見る。

387: 2010/09/28(火) 01:42:23.43 ID:sLpqh6AO
紬「っ!?」

 映っていた映像は紬を更に驚愕させた。
画面の中ではスーツを来た男達がビルの中から段ボールを持って出てきている。
その様子を若い女性アナウンサーが中継していた。

『──琴吹財閥が解体されようとしています──』

 紬の頭に鈍器で殴り付けられたような衝撃が走った。

『──今回の件は──異例──』

 琴吹 紬が生まれた家。
そして彼女の父が築き上げた社会的地位が、脆くも崩れ去った瞬間だった。
 幼少時より自分を支え、育て上げてきたパトロンが消滅した事に耐え切れずに紬は膝を折る。

388: 2010/09/28(火) 01:43:09.67 ID:sLpqh6AO
いちご「社会の金の流れを操るなんて容易い事。琴吹財閥は今日から若王子機関になったわ」

 いちごは地に膝をついた紬を見下ろし、冷笑を浮かべながら語り始める。

いちご「あなたの父の会社はありがたく使わせてもらう。あの環境は『龍』の解析に有効活用出来るから」

 『龍』という単語を紡ぐと同時にいちごは斎藤の腕に抱かれる唯を見た。

紬「どうして……」

 紬は自分の家を奪ったいちごに復習心を燃やすわけでもなく、その怒りを一人の人物に向けていた。

紬「斎藤!! よりにもよって何でその子に仕えているの!? 琴吹の家に誓った忠誠は嘘だったの!?」

389: 2010/09/28(火) 01:43:43.98 ID:sLpqh6AO
斎藤「…………」

 紬の悲痛の叫びを聞いても、斎藤の口は開かない。

紬「どうして……どうしてよぅ……」

 紬は遂に地面を見つめ、涙を流した。
その様子をひとしきり眺めると斎藤は口を開いた。

斎藤「紬お嬢様」

紬「…………」

 紬にはヘリのホバリングの音さえも静まり返ったような気がした。

斎藤「私が忠誠を誓ったのはあなたの父でも琴吹財閥でも、ましてやあなたでもない」

 そこまで聞いて紬は自分が斎藤に尋ねた事を後悔した。
だが不思議にも斎藤の声を聞くまいと耳を塞ぐ事も、今の紬には出来なかった。

390: 2010/09/28(火) 01:44:30.04 ID:sLpqh6AO
斎藤「私が忠誠を誓ったのは金ですよ。私の口座を満たしてくれる人こそが私の主です」

紬「金……金……金……。どうしてよ! どうしてお金の為にそこまで出来るのよ!!」

斎藤「それが世界の全てだからです」

 斎藤の言葉は悲しみにうちひしがれる紬の心を容赦無く食い荒らしてゆく。

斎藤「生まれた時から金に困った事が無いあなたには分からないでしょう。しかしあなたがもう少し大人になれば分かる筈です。『無償の元に成り立つ感情など、マイナスでしかない事に』」

 斎藤はそこまで言うと紬から視線を外し、梯子を登りきった。
そしていちごに連れ添うように隣に立つ。

391: 2010/09/28(火) 01:45:12.91 ID:sLpqh6AO
斎藤「忠告しておきましょう。あなた達全員、この件に関わってはなりません。氏にたくないのならね」

 最後に屋上を見下ろすと斎藤はヘリの機内に消えていった。

いちご「そういう事だから」

 それを追うようにいちごも踵を返して機内の奥に消えようとするが、それを遮る声があった。

律「待ちやがれ。唯をどうするつもりだ? このまま引き下がる軽音部だとでも思ってんのかよ!!」

 律は力強く床を蹴り、拳を振り上げる。

梓「まったく……。手間のかかる先輩ですね」
 それに鼓舞され、梓は太股に吊ってあるホルスターに手をかけた。

392: 2010/09/28(火) 01:45:45.67 ID:sLpqh6AO
いちご「滑稽ね」

 その光景をまるで嘲笑うかのようにいちごは侮辱する。

律「んだとぉ!?」

さわ子「待ちなさいりっちゃん!」

 さわ子が飛び上がろうとした律を無理矢理押さえ込む。
だが律がそれで大人しくなる筈もなく、さわ子の腕の中で暴れる。

律「何でだよ! 唯がどうなっても良いのかよ!?」

 まるで駄々っ子のようだ。
いちごは率直にそう思った。
そしてその感情を隠そうともせず、卑しい笑みを浮かべる。
 いちごが唇に手を添えて笑みを抑えようとしたその時、いちごの真横のヘリの装甲が爆ぜた。

393: 2010/09/28(火) 01:46:28.00 ID:sLpqh6AO
梓「何へらへらしてるんですか。理由次第ではそのお人形さんみたいなお顔が吹き飛ぶ事になりますよ」

 突き出した両手に握られた銃の銃口からは煙が漏れている。
漂う火薬と硝煙の臭いが梓の怒りをくすぐり、闘争本能を増幅させた。

さわ子「梓ちゃん!」

憂「ごめんなさい先生。やっぱり私も……我慢出来ないや」

 二人に感化された武神が腰を上げた。
憂の澄んだ瞳は再び、絵の具を滲ませたように黒に染まってゆく。 一触即発──。
 今の状況を形容するならばその言葉がぴったりだろう。
だが、本来ならば力量的に狩られる側である筈のいちごはせせら笑っていた。

394: 2010/09/28(火) 01:47:12.87 ID:sLpqh6AO
いちご「この学校がどうなっても良いのなら、私が相手になるよ」

 その圧倒的自信を含んだ物言いは虚勢などではなかった。

さわ子「爆弾か何かかしら。今のあなたなら核を仕込んでいてもおかしくないわね……」

律「か、核ぅ!?」

 さわ子の推測はその場にいた一同を再び混乱させた。

いちご「核、とまではいかない。でもこの学校やそこで寝てる二人を吹き飛ばせるレベルの爆弾を仕込んでるわ」

 ブレザーのポケットをまさぐり、リモコンを取り出す。

いちご「取引しましょう? ここで大人しく引き下がるのなら、『生かしておいてあげても良いよ』」

395: 2010/09/28(火) 01:47:57.07 ID:sLpqh6AO
梓「くっ……。卑怯過ぎます!!」

いちご「馬鹿正直に突っ込んで犬氏にするのが正々堂々って言うんなら、私はどこまでも卑怯で良い」

 今のいちごには梓の叫びなど負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。

さわ子「全てあなたの思惑通りってわけね。良いわ、この子達は私が責任を持って止めます。どこにでも逃げなさい」

 行きなさいではなく逃げなさいと言う事が、今のさわ子に出来る唯一の抵抗だった。
握り締めた拳からは血が滴り落ちている。

いちご「…………」

 いちごは皮肉に応じる事無く機内の中に消えていった。
ドアが閉じられ、ホバリングしていた機体が発進する。

396: 2010/09/28(火) 01:48:41.45 ID:sLpqh6AO
 去りゆく黒い機体を目で追いながら、律は唇を噛み締めた。

律「何でだよ! 何でこんなに胸糞悪いんだ! 喧嘩ってのはもっとこう……! 気持ち良いもんじゃねーのかよ!?」

 梓は握り締めた銃を手放し、崩れるように座り込んだ。

梓「私……分かりません。強さとは何なんでしょうか……? 人の痛みの上に成り立つ強さに、何の意味があるんですか!?」

 紬は頬を伝う涙を拭い、色素の薄い髪の毛を掻き毟りながらうなだれる。

紬「無償の愛なんて信じる年じゃないのは分かってる……。でも……! でも全ての戦いが無情であるなんて、私は信じたくない!」

 三人はひたすらに涙した。
三人の悲痛の叫びは共鳴し、どこまでも鳴り響いていた。

397: 2010/09/28(火) 01:49:29.67 ID:sLpqh6AO
斎藤「全て……。あなたの思惑通りとなりましたね」

いちご「…………」

 ヘリの機内で向かい合って座る二人。
沈黙に痺れを切らせた斎藤は敬意と畏怖の念を込めていちごを讃えた。
だがいちごは興味なさげに、窓から見える景色を見下ろしている。

斎藤「……申し訳御座いません。出過ぎた事を言いました」

 機嫌を損なわせたと思った斎藤は即座に謝罪する。

いちご「……中野 梓が瀧 エリと交戦し、生き残ってグラウンドに辿り着く確率は九十八パーセント。琴吹 紬が佐藤 アカネと交戦し、生き残ってグラウンドに辿り着く確率は九十パーセント」

398: 2010/09/28(火) 01:50:25.93 ID:sLpqh6AO
斎藤「はい?」

 斎藤は突如として語り始めたいちごに怪訝そうな返事を返した。
それも関係無しにいちごは続ける。

いちご「田井中 律が中島 信代と交戦し、生き残ってグラウンドに辿り着く確率は九十二パーセント。秋山 澪が木下 しずかと交戦し、生き残ってグラウンドに辿り着く確率は二パーセント」

 そこまで言うといちごは一旦口を噤み、機内のベッドの上に横たわる唯の顔を見つめる。

いちご「この子が立花 姫子と交戦し、敗北する確率は百パーセント。『龍』が覚醒した場合をパターンに含めると九十九パーセント。『絶対の彼方』を越えた二人の介入は予想外だったけど、それも上手く転んでくれた」

399: 2010/09/28(火) 01:51:13.38 ID:sLpqh6AO
斎藤「予想外……。高名な策士であると聞いておりましたが、そんなあなたでもそのような言葉を使うのですね」

 いちごはそれを聞いて柄にもなく自嘲気味に微笑んだ。
そして両手をひらひらと振り、答える。

いちご「あの二人を思惑通りに動かせる人間はいないよ。一人は犬も食わないような曲者、もう一人は自分でも何しでかすか分かってないみたいだし」

 そこまで言うといちごは安らかに眠る唯の髪の毛をそっと撫でた。
綿毛を触るような柔らかい感触がいちごの指を弾く。

いちご「でも他は滞りない。琴吹財閥を解体してあなた達従者衆を引き入れる事も出来たし、秋山さんを負かして人質にする事も出来た」

400: 2010/09/28(火) 01:51:45.19 ID:sLpqh6AO
斎藤「人質……ですか?」

 何に対する人質なのか、斎藤には理解出来なかった。

いちご「あの学校を壊す程度の爆発、山中先生と平沢 憂ならあそこに居た全員を背負って脱出する事も出来た筈」

 いちごがそこまで言って斎藤はようやく人質の意味を理解した。

斎藤「なるほど……。そこで敢えてあちら側の一人を負かして見えないところに放置しておく。そうする事で二重に人質を取ったわけですな?」

いちご「…………」

 斎藤の答えは百点満点のものだった。
だが姫子はそれを讃える事も驚く事もなく、無言で頷いた。

401: 2010/09/28(火) 01:52:35.19 ID:sLpqh6AO
いちご「終わった策に意味は無い。無駄なお喋りはこれで終わりよ」

 いちごはずいっ、と斎藤に詰め寄り、抱き付きながら腰に手を回した。

斎藤「な、何を……?」

 完全に意表をついたいちごの行動に、斎藤は声を震わせた。

いちご「『この件には関わるな』だなんて、随分あの子達が心配みたいじゃない?」

 いちごは斎藤の膝に足を乗せ、耳元で囁いた。
斎藤はその官能的な吐息に思わず身体を震わせた。

斎藤「それは……。あなたの計画に邪魔が入らないようにと──」

いちご「惚けないで」

 斎藤の言葉を途中で遮る。
その声に抑揚は無いが、怒りの色が滲んでいた。

402: 2010/09/28(火) 01:53:33.17 ID:sLpqh6AO
いちご「あなたが忠誠を誓って良いのは私だけ。何の欺瞞も挟む事は許さない。だから……」

 いちごはブレザーの袖口からナイフを取り出した。
そしてそれを後ろから、斎藤の肩に突き刺す。

斎藤「──っ!?」

いちご「お仕置き」

 その声にも抑揚は無かった。

いちご「私に確かな忠誠を誓って。悪いようにはしないから」

 斎藤は力無く頷く。

いちご「私の名前は若王子 いちご。私の前では悪魔だって全席指定。たとえ相手が誰であろうと真っ向から堂々と不意打ってあげるから」

 引き抜いたナイフから鮮血が滴り落ちる。
元琴吹財閥の所有ヘリの中に、鉄の香りが充満した。

409: 2010/09/28(火) 21:56:24.01 ID:sLpqh6AO
 桜高トップランカー達の血で血を洗う凄惨な戦いから一週間が経った。
その間学校は復旧工事の為、休校となっていた。

律「……何だかなぁ」

 授業が再開されて初日の朝。
柄にもなく早い時間から登校した律は恥じらいも無く机の上に足を置き、椅子に深く身を預けて窓の外を眺めていた。
 あれから律達はさわ子に半ば強制的に病院に搬送され、臨時休暇の大半をそこで過ごした。
学校が恋しくなってはいたものの、唯が居ない今の環境では胸の蟠りも取れそうにない。
そんなネガティブな感情から、律は大きく溜め息をついた。

紬「おはよう、りっちゃん」

 いつの間にやら教室に居た紬は机に置かれた律の足を窘めるようにはたく。

410: 2010/09/28(火) 21:57:13.31 ID:sLpqh6AO
律「ムギか、おはよ……」

 律はやや伏し目がちに挨拶を返す。
それとは対照的に紬の表情は、見ている方が和むほどに朗らかだ。

紬「……落ち込む気持ちも分かるけど、元気出していきましょ?」

 紬はそっと律の頭を撫で、両手で握り拳を作るとガッツポーズを取った。

律「ははっ……。ムギは強いなぁ、私も見習うとするよ」

 そんなムギの様子を見て、律は苦笑いを浮かべる。

紬「ふふっ、今日は元気が出るようにおから炒めを持ってきたの。放課後皆で食べましょ」

律「皆、か……」

 律は教室を一瞥し、普段ならこの時間には自分の隣に居るであろう二人を思い浮かべた。

411: 2010/09/28(火) 21:57:55.07 ID:sLpqh6AO
 唯はいちごに拉致され、生氏不明の状態。
澪は幸いにも吹き飛んだ体育館の瓦礫の中から発見され、相応の治療を受けて一命を取り留めた。
 律は後にさわ子から聞いた話で、澪がしずかに敗北した事を知っていた。
それもあって澪の精神面を気遣い、今日は澪と一緒に登校しなかったのだ。

律「唯は勿論心配だけど、澪、それに和と鈴木さんの具合も心配だな……」

紬「うん……。私や梓ちゃんの傷は浅かったけど、あの二人は重傷だったもんね」

 和と純の二人は誰よりも優先して病院に搬送され、緊急手術を受けた。
だが容態は芳しくなく、未だに面会謝絶状態で入院している。

412: 2010/09/28(火) 21:58:40.25 ID:sLpqh6AO
 その『絶対の彼方』を越えた二人さえも叩き潰した憂はあの日以来、家から一歩も外に出ていない。

律「憂ちゃんが一番ショックなんだろうな……。唯を奪われて、いくら頭に血が昇ってたって言っても、幼馴染みと友達を自分で潰したんだから」

紬「…………」

 紬は押し黙り、俯く。

律「勿論ムギも、だけどな。家の方は大丈夫なのか?」

紬「……ええ。会社が解体されたと言っても破産したわけじゃないから。それなりの蓄えはあるみたい」

 それなりの蓄えとは言ったものの、少なくとも律の両親が一生かかっても稼げない程の金は持っている。

413: 2010/09/28(火) 21:59:14.10 ID:sLpqh6AO
律「……さわちゃんが許してくれさえすればなぁ。今直ぐにでも唯を取り返しに行くのに……」

紬「そうね……」

 この混乱した状況の中でさわ子が下した判断は停滞だった。
今の律達の力量では仮にいちごに挑んだところで『沼』に飲まれる。
そう判断しての苦渋の決断だった。

律「どっちにしても。今回の件で自分の不甲斐無さを思い知らされたよ、当面の課題は一つ、だな」

紬「先生に認めてもらえるように強くなる、ね?」

 気丈に振る舞って笑う二人だが、その表情の中には深く刻まれた哀しみが見え隠れしていた。

414: 2010/09/28(火) 21:59:55.44 ID:sLpqh6AO
梓「くっ……!」

 街の外れにある廃工場にて、梓は銃を乱射していた。
建物の中は硝煙の香りが漂っており、あちらこちらに空薬莢が散らばっている。
壁のあちらこちらに描かれた丸形の的には無数の弾痕が刻まれていた。

梓「こんなんじゃ駄目です……。もっと、もっと強くならないと……!」

 くたびれた普段着のパーカーのポケットから予備の弾薬を取り出し、滑らかな動作でセットする。

梓「はっ!」

 両腕を突き出し、二つの銃を発砲する。
二つの弾は軌道を重ね、そのベクトルを変え、梓の両脇にある二つの的の中心にめり込んだ。

415: 2010/09/28(火) 22:00:28.14 ID:sLpqh6AO
 律達が運ばれた病院の一室の扉が開いた。
ドアの表札には立花 姫子と書かれており、面会謝絶の札が掛けられている。
にも関わらず堂々と部屋の中に入り込んだのは、一人の少女だった。
艶のある漆黒の髪を揺らし、細身のデニムに紫のパーカーという身形。
目深に被った帽子が少女の顔を隠していた。

「…………」

 部屋の主である立花 姫子はベッドの上で安らかに眠っていた。
身体中に取り付けられた夥しい量の管とその美しい寝顔は、氏にゆく眠り姫を連想させる。
 部屋に入り込んだ少女は姫子の顔を見下ろし、歯を食いしばった。

416: 2010/09/28(火) 22:01:11.06 ID:sLpqh6AO
 少女の胸の中で殺意が蠢いた。
震える手で腰に差した刀を抜刀し、鈍色に輝く刀身をそっと姫子の首に押し当てた。

「止めなさい、澪」

 背後から聞こえた自分を呼ぶ声に驚き、澪は慌てて振り返る。

澪「和…………」

 そこには車椅子に座り、点滴を腕に刺した和がいた。
普段かけている眼鏡は外しており、短めの髪の毛は無造作に跳ねている。

和「それだけは絶対にやっちゃ駄目よ。自分の弱さから逃げて人に当たるのは、愚図がする事」

 普段の和からは想像もつかないようなずぼらな身形だが、そう言った和の眼光は澪の胸を針の筵のように貫いていた。

417: 2010/09/28(火) 22:02:04.87 ID:sLpqh6AO
澪「……そんな身体で私を止めるつもりか?」

和「あら、見くびらないでくれる? アンタが相手なら目隠しして両腕を縛っても一秒以内をケリをつけられるけど」

 和のそれは誇張表現などではない。
澪自身それを重々理解していた。
だがそれでも澪は抵抗せずにはいられなかった。
軽音部の中で一人だけ、敵前逃亡した挙げ句打ちのめされた自分の不甲斐無さを払拭するには、何か行動を起こさずにはいられなかったのだ。

澪「言ってろ」

 澪が刀の柄を握る手に力を込めようとしたその時、甲高い音を立てて刀は澪の手から離れた。

418: 2010/09/28(火) 22:03:07.05 ID:sLpqh6AO
和「お願いだから手間をかけさせないでくれるかしら? こっちはまだ病み上がりで面会謝絶も解けてないのに」

 和の手には桜の花びらがあしらわれた刀が握られていた。
やはり自分は和の足元にすら及ばない。
それを痛い程に痛感した澪は床に手を当て、俯いた。

澪「……唯がさらわれた時に私は何をしてたと思う? 無様に床に這いつくばってたんだ!!」

 声は次第に震えてゆく。澪はリノリウムの床を殴り付けた。

澪「なぁ……私はどうしたら良い? 教えてよ! このままじゃ気が狂っちゃいそうだよ!!」

和「…………」

419: 2010/09/28(火) 22:04:02.41 ID:sLpqh6AO
 澪の悲痛の叫びを和は黙って聞いていた。
時折相槌をうちながら聞くその姿勢は、実年齢よりも遥かに大人びたまるで母親のような暖かみを持っている。

澪「うっ……。ひぐっ……」

 和は澪が負けたという情報は既に知っていた。
自分の身体が完治すれば発破をかけてやろうと思っていた和だが、そのプランを早める事にする。

和「強くなる事は良い事ばかりじゃないわ。時には恐れられ、軽蔑される」

澪「…………」

 和は周りが今まで自分に向けてきていた視線の色を思い返した。

和「アンタには才能がある。もしその覚悟があるのなら連れて行ってあげるわよ? 『絶対の彼方』に」

 澪は両目を閉じ、無言で頷いた。

420: 2010/09/28(火) 22:04:49.63 ID:sLpqh6AO
純「よっ……とと……。随分鈍ってるなぁ」

 純は病院の屋上の手摺の上を逆立ちで往復していた。
一歩間違えれば即氏であるその状況で、純は物怖じもせずに飄々としている。

純「あーきた!」

 両手に力を込め、腕の力だけで跳躍する。
空中でくるりと一回転すると、両足でしっかりと着地した。

「鈴木さん! あなたまだ重体なんですよ!! 早く部屋に戻って下さい!」

 シーツを干しに来た看護婦に注意され、純はぺろりと舌を出して会釈した。

純(さて、と。退院したら、私もそろそろ立場を固めないとね……)

 一瞬だけ柄にもなく険しい顔をして、純はその場を後にした。

421: 2010/09/28(火) 22:08:06.30 ID:sLpqh6AO
これでやっと話の一区切りがついた。第一章 完みたいな。
長いと思うだろうけど自重しない
「ちょっとぐらい長いプロローグで絶望してんじゃねぇよ!」そんなノリ
ここいらで質問とか意見とかあったら答えたい感じかな。

唯「ボディがお留守だよ!」【後編】