1: 2012/04/02(月) 03:38:57 ID:T82ZaqEo0




梓「――ねぇ憂、これからどうしようか」

私の問いに、うーん、と少し考え込んで、空を仰ぎ見ながら憂は答える。
その横顔を綺麗だと思い、好きだ、と思った。

憂「……私達に、何ができるのかな。何をしていいのかな、私達は」

梓「……難しい問題だね、それは」

でも私は、それを憂と一緒に、二人でずっと一緒に探していきたいと思った。

梓「……じゃあ、これからどこに行こうか」

憂「……私は、梓ちゃんと一緒ならどこへでも」

梓「……うん。私も憂と一緒ならどこでもいいよ」

……他の何も、要らない気がした。
隣に居る憂が、そう思わせてくれた。

……二人、瞳を閉じ、綺麗に重なり合う互いの想いにしばらく身体も心も預けることにした。


ずっと、ずっと一緒に。


――――
―――
――
けいおん!Shuffle 3巻 (まんがタイムKRコミックス)

2: 2012/04/02(月) 03:44:08 ID:T82ZaqEo0


【#0】



――憂が氏んだ。


私の大好きな憂が。

澪先輩や唯先輩の背中を追おうとしてもがく私を、いつも隣で支えていてくれた憂が。

先輩達が先に行ってしまった後も、変わらず私の隣にいてくれた憂が。

悩む私にも、焦り、戸惑う私にも嫌な顔一つせず、ずっと一緒に居てくれた憂が。


――氏んでしまった。いなくなってしまった。





平沢一家の事故の報を聞いた時には、全てが壊れてしまったような気にさえなった。実際、片想いとはいえ私の全てだった憂がいなくなったとなれば、それは私の世界の崩壊を意味してると言える。
……もちろん憂だけじゃなく、唯先輩もそのご両親も大切だ。いなくなって悲しくないはずがない。命に順位なんてつける気は無いし、唯先輩に受けた恩を忘れたわけじゃない。
軽音部でいつも近くにいてくれた唯先輩がいなくなった、それが悲しくないはずがない。

でも、当時の私が求めたのは憂だった。先を行く先輩の背中ではなく、共に歩んでくれる隣の姿だった。
いろいろと事情はあるんだけど、とにかく弱い私は近しい存在を求めてしまった。支えを求めてしまった。それが憂だった。

憂がいてくれたから、私は頑張れた。
憂がいなくなってしまったら、私は何も出来ない。何も頑張れない。

……それほどに、私は憂を愛していた。


――もちろん、それは一方的なものであって、故に私自身も決して伝えるつもりなんて無かったんだけど。

3: 2012/04/02(月) 03:50:12 ID:T82ZaqEo0


【#18】


……
………

  「――梓ちゃーん? もうすぐご飯できるから机の上片付けてー?」

キッチンから恋人の声がする。
憂を失い、全てを投げ捨てた私の前に現れて支えてくれた大事な大事な恋人の声が。
どこにいても何をしてても聞き逃すことはないと断言できる、甘く綺麗な声が。

梓「片付いてるよー。大丈夫」

  「そう? んじゃ持って行くね」

……今、私は恋人と同居人とで三人暮らしをしている。
憂を失って大学受験どころじゃなかった私は、今じゃ立派なフリーター。訳アリの恋人に家事全般を押し付け、ただただ日々を食い繋ぐためだけに働く日々。
それでいいのか、と問われれば私は首を動かせない。でも恋人は首を縦に振るから私自身は変わるつもりはない。
近々、彼女と同居人と三人で音楽関係のオーディションでも狙ってみようかと思っている。もう少し夢を追いたい。一緒に輝いていたい。それが私の恋人の望みだから。

少しすると、「お待たせ」との言葉と共に大小様々なお皿がテーブルの上に並べられていく。
いくら三人いるとはいえ…この量はちょっと多いんじゃないのかな?
でも、今日も相変わらず見事な出来。本当に、いつも変わらず――


梓「――おいしそうだね、憂」




          
……そう、私の恋人は偽物《ドッペルゲンガー》。




………
……

4: 2012/04/02(月) 03:51:53 ID:T82ZaqEo0


【#1】


――平沢一家の事故は、確か冬休みだったように思う。
あの日のことなんて覚えていないし、それからの日々も私にとっては空虚なものだった。
そんな私の周りに誰が居てくれて、誰が離れていったのか。それさえも認識できなかった。

憂がいなくなった。それだけが私の現実。

空虚な私の心を唯一揺らした出来事、それが起こったのは桜高の卒業式の日だった。
とはいえ、言うほど大きな事があったわけではない。ある種当然の出来事があっただけ。式の後、進学も就職もしなかった件で両親に勘当されただけ。
もっとも、厳密には両親に勘当するつもりはなかったのかもしれない。一向にやる気を見せない私への叱咤のつもりだったのかもしれない。
我が子を千尋の谷へ突き落とす、親とはそういう生き物らしいから。それも親の愛情らしいから。

でも仮にそうだとしても、谷から這い上がってあの家に戻るつもりにはなれなかった。家だけじゃない、どこにも居るつもりになれなかった。
時間が傷を癒すこともあると聞いていたけど、時間で癒えないこの傷はどうやっても、何処に居ても癒える気がしなかったから。

今にして思えばただの自暴自棄と言って差し支えないと思うけど、それは私が今、満たされているからだ。
当時の私からすれば自暴自棄であろうともなかろうとも、それさえもどうでもよかったんだから。



……そんな私を真っ先に見つけてくれたのが純であったことには、心から感謝しないといけない。


純「やっと見つけた」

梓「………」

純「…ほら、梓。ウチに来なよ」


夜の闇に溶け込み、沈み込む私を純がどうやって見つけてくれたのか。それはわからない。
私にわかるのは、何気なく振舞っているように見えるけど汗だくの純の姿と、自分が携帯電話も財布も何も持ってなかったことと、そしてその後、純が話をつけてくれたおかげで私は家に連れ戻されずに済んだ、ということ。

……私は純がどこの大学に受かったかさえ知らないのに、純はそんな私を助けてくれた。
何の見返りもないと知っていながらも。その時の私の頭の中に、大事なはずの親友のことなんかこれっぽっちもなかったと知っていながらも。

絶対に、今が初めてじゃない。純が私を助けてくれたのは。
こんな私が卒業できたのは、卒業できる程度になんとか日々を歩いてこれたのは、隣で手を引いてくれていた人がいたからだ。
それでも気づけなかった。そんなことにも気づけなかった。
好きな人を失い、帰る家までも失い、この身一つになるまで私は気づけなかった。

梓「……純」

純「んー?」

梓「…ごめん。ありがとう」

純「……ははっ」


そのことに対する申し訳なさに気づけた時、私はほんの少しだけ前を見ることが出来た。

5: 2012/04/02(月) 03:53:41 ID:T82ZaqEo0



純「――私、春から一人暮らしする予定なんだけどさ。梓も来ない?」

梓「……え?」

私の携帯電話と財布を投げて寄越しながら、純は言った。
話を聞くと、純は軽音部の先輩達とはまた別の大学に進学したため、春にはこの街を出る、とのこと。
そしてもちろん、純がこの家にいなくなるのなら私も出て行かざるを得ない。

純「家に戻るってんなら引き止めはしないけどさ。そのつもりがないなら一緒に暮らさない?」

梓「え、っと……待って、話が見えないんだけど」

純「とりあえず先に聞くけど、行くアテあるの?」

その問いには首を振る。少なくとも家に戻るつもりはない。ならばどこに行くか、という話になるもののたいしたお金も持ってないから宿泊施設は厳しい。
ならば図々しくも、今の純のように泊めてくれる人を探す、となるけど……同情から泊めてくれるような友人なら確かに何人かはいるかもしれない。でも親友として泊めてくれるのは間違いなく純だけだ。
そして軽音部関係は…今更合わせる顔も無い。先輩にも、後輩にも。
というわけで、行くアテなんて全く無かった。野宿でも構わないという気持ちも無いことはないけど、私を探し出してくれた純の前でそれだけは口には出来ない。
何も無いし、これから先もどうでもいい私だけど、だからといってこれ以上純に心配をかけられるはずはない。

そのくらい中途半端には私は前を向いていて、同時に人生の道標を失っていた。

純「何も無いならさ、ルームシェアしようよ。バイトでもして、いくらか入れてくれればいいからさ」

だから、その申し出は素直に嬉しかった。
憂のいない世界でも、ただ流されて生きるだけなら私にも出来る。氏なないだけの生を送ることなら。
勿論、純にとってはそれは私に猶予を与えただけなんだと思う。私を信じて、無期限の猶予を。
その信頼に応えられるかはわからない。けど、ここで足を止めて朽ちたら少なくとも純は悲しむから。だから理由は何であれ、私を動かしてくれる存在が何よりも嬉しかったんだ。

梓「……純は、いいの?」

純「猫一匹泊めるだけで家賃がいくらか浮くなら安いもんよ」

梓「まずありえないと思うけど、もし、一人暮らしと二人暮らしで家賃が違ったりしたら?」

純「……さあ?」

梓「………」

純「………」

梓「………」

純「……で、返事は? 家賃が上がったりして私の気が変わる前に言っておいたほうがいいと思うよ?」

梓「……よろしくお願いします」

純「うん、よろしい」

6: 2012/04/02(月) 03:55:11 ID:T82ZaqEo0


【#2】


――そして、その時はすぐにやってきた。

純「……行こうか、梓」

この街を出て二人で暮らす、その日。
純はだいたいの荷物を郵送するらしく、手提げバッグ一つの軽装で立ち。私は一度だけこっそり家に戻って持ち出したお気に入りの服や日用品を詰め込んだボストンバッグと、ギターを背負う。
……こっそりとはいえ両親のいない時間を見計らったというだけで、私が戻って私物を持ち出したこと自体は純が伝えてくれた。泥棒と騒がれるのも当然ながら本意じゃないし、純のその気配りには素直にお礼を言っておいた。
もうひとつ余談だけど、それ以外の私物は手当たり次第売った。全てを持ち出し、売り払うことは叶わなかったけど、両親への罪悪感もないわけじゃないからそれで良かったとも思う。
売って得たお金は新しい生活の足しにするつもりだ。一部は迷惑料として純のお母さんに渡そうとしたけどやんわりと断られた。
きっともうこの街に戻ってくる気にはなれないからちゃんと清算しておきたかったんだけど、「それも青春だよ」という一言と親友の面影を持つ笑顔には返せる言葉が無かった。

純のご両親にお礼を告げて、道路に立つ。
空から私を照らすいつもの太陽。代わり映えしない人と車の往来。無機物でありながら無機質ではない民家の列。そんな中に彩りと癒しを与えてくれる植物。それら全てが、憂が生きて氏んだこの街、桜が丘を形作っているんだと今更ながらに思い至る。
この桜が丘の街並みを見るのが今日で最後だとしても、何の感慨も沸かない私だけど……

梓「………」

純「……梓?」

……何の感慨も沸かない私だけど、今日が最後だというのなら行っておかなくてはいけない場所がある。
行ったところで何も変わらない。私が吹っ切れることはきっと永遠にない。そうわかっていても。

梓「……ごめん、まだ時間ある?」

純「大丈夫、充分あるよ」

梓「じゃあ、寄っておきたいところがあるんだけど…」

純「うん、行こうか」

全てを見透かしたようなその顔は学生時代だったら文句の一つもぶつけたくなっていたのだろうけど、今はただ頼もしく、ありがたかった。



――行き先なんて互いに確かめもせず、ただ歩いて自然と辿り着いた先、一軒の家。『平沢』と書かれた表札の前に立つ。
住む人のいない氏んだ家は、それでもさほど外見に変化は見られなくて、余計に物悲しい気持ちになる。

梓「……どうなるんだろうね、この家」

一旦荷物を地面に置き、家を見上げて呟く。純も同じように荷物を置き、隣に並んで見上げる。

純「……誰かが買い取る、とか?」

ただの高校生にすぎない私達は、ミュージシャンの知識こそそこそこ持ってても、住人のいなくなった家のその先なんて知り得ない。
賃貸マンションならいざ知らず、それなりに豪華な一軒家だ。いろいろ面倒そうなのくらいは予想がつくけど。
更にこの平沢家、立地条件も悪くはない。そして何より、住人はちゃんと引っ越したわけじゃないから、ある種の曰く付き物件…になりそうな気がする。
これだけ揃ってると純の言う通りだとしても買い手さえつくかどうか……
……ま、考えててもしょうがないことなんだけど。

しばらくすると純が「もうちょっと近くで見て行こうか」とかいって敷地内をぐるりと一周して、しまいにはドアノブに手をかけ始めた。
もうすぐ大学生なんだから落ち着きと常識を持とうよ、純……

梓「そういうのやめなよ……もう」

純「大丈夫だって、どうせ開いてるワケないし」

梓「そりゃそうだけど……」

それでも、実は鍵は開いていて、近づいた瞬間にタイミングよく中から憂が顔を覗かせるのではないか。
それに純が驚いて尻餅をついて、憂が手を伸ばし、私が苦笑しながら近寄って。そんな日常がまた体験できるのではないか。
そんな希望を捨てられずにいる。きっとずっと。

あぁ、そっか。
私は前を向いていても、今の景色を見ていても、やっぱりそこに憂の存在をいつも求めている。
下ばかり向いていた時期と本質は何も変わらない。前を向いても、歩いていても、生きていても心は此処にはない。
会いたい、悲しい、寂しい、と目を閉じていた時期と何も変わらない。ただ目を開け、顔を上げただけにすぎず、心は何も変わっていない。

ただ、その目に現実が写るようになっただけ。純粋で残酷で綺麗な現実が。

7: 2012/04/02(月) 03:58:40 ID:T82ZaqEo0


純「……ホラね」ガチャガチャ


そう、これが現実。
覚悟を決めるんだ、私。前を向いて、現実を見て、それでもそこに憂をいつも求めながら惨めに生きていく覚悟を決めるんだ。
憂はいない。けど私は憂を求めている。憂のいる日常に焦がれている。そこまで全部ひっくるめて私の現実なんだと認めるんだ。
そんな現実の中で生きていく覚悟を決めるんだ。どうあっても生きなくてはいけないと教えてくれたのは純じゃないか。

梓「っ………」

苦悩しながら、ドアノブをガチャガチャやってる命の恩人の背中を数歩引いたところからしばらく眺めていると。



不意に。


後ろから。


梓「っ――!?」


肩越しに、腕が回され。


  「……――――……」


その腕と、背中に押し付けられた身体から温もりが伝わってきて。

それらはそっと優しく、ぎゅっと大切そうに、私を包み込む。


そして

囁かれる。


  「――会いたかった……」


反射的に振り払おうとしたけど、その声によって私の動きは止められた。その声の持ち主を、私が振り払えるはずがなかった。
純が青ざめた顔でこちらを見ている。ということは、やっぱり私の判断は正しかったんだね。


梓「――私も……会いたかったよ」


肩越しに振り向いた、その先。



そこには、微笑みと共に涙を流す、憂の優しい笑顔があった。

8: 2012/04/02(月) 04:00:39 ID:T82ZaqEo0




純「――とりあえず話は後! 早く荷物まとめて!」

憂「う、うん!」

三人で憂の部屋まで上がりこみ、ボストンバッグに憂の私物を詰め込んでいく。

何故憂がここにいるのか。いつからいたのか。いや、そもそも憂は……氏んだはずじゃなかったのか。
じゃあ目の前に居るのは幽霊? 偽者? 幻? そういった疑問を抱かなかったわけじゃなかった。私もだけど、特に純は。
でも、見れば見るほど、触れれば触れるほど、話せば話すほどいつもの憂だった。ずっと一緒にいた私と純だからこそ、彼女が憂であることを否定できなかった。

少なくとも彼女は、憂を演じて私達に近づいてきた悪意ある存在なんかじゃない。彼女は誰よりも憂だ。

とはいえ、最初に抱いた疑問が解けたわけではない。
解けたわけではないんだけど、「電車の時間が迫っているからとりあえず後で考える」と言い切った純に従い、そのまま憂も連れて行くことになった。
ご両親とかも一緒に居ればこんな急で強引なことはしないんだけど、そんな様子もないし、ね……

ちなみに家の鍵は憂が持っていた。正確にはその身に持っていたのか家の外のどこかに隠してあったのかはわからないけど、とにかく憂が鍵を開けた。

憂「…よしっ。とりあえず出来た、かな?」

梓「大丈夫? 服も日用品も全部ある? 携帯電話の充電器とか忘れてない? マンガとかももっと持って行っていいよ?」

憂「大丈夫だよ。ありがと、梓ちゃん」

梓「ん……」

本当に、どこからどう見てもいつもの憂だ。
まるで……あの事故なんて無かったかのように、いつもの憂。
いや、本当に事故なんて無かったのかも……なんて、さすがにそれは甘えかな。

純「ほら! 出来たなら急ぐ!」

梓「そんなに時間ないの?」

純「いや、間に合うとは思うけどさ。早く腰を落ち着けたいワケ」

それはつまり、後顧の憂いを断ってからじっくりと『今の現象』について話し合いたい、ということだろう。
それについては同意見だけど……

梓「憂、走れる? っていうか元気? 身体はなんともない?」

憂が今までどこにいたのか、それさえも私達は知らない。
そもそも氏んだはずの人間が目の前にいる、なんていうワケのわからない状態なんだから今の憂について私達が知っていることなんて皆無だ。
どこからどう見ても私のよく知る憂、私の大好きな憂そのままだけど。それでもそのあたりのよくわからない事情には気を遣ってあげたかった。
でもいつも通りの憂は、いつも通りに答えたんだ。

憂「うん、大丈夫」

梓「…そっか。じゃあ行こっか」

憂「あ、待って梓ちゃん」

そう言いながら立ち上がった憂は、バッグとギターを私と同じように肩にかけ、空いたほうの手で私の手を握ってきた。
久しぶりの憂の手の感触に内心ドキドキしながらも、なるべく平静を装って尋ねる。

梓「……どうしたの?」

憂「えへへ……ダメ?」

梓「ダメじゃないけど……」

憂「じゃあ、一緒に行こうよ」

梓「……うん」

あの唯先輩の妹である憂のスキンシップ自体は珍しいことじゃない。女の子同士だし、そのあたりは私もわかってる。
たまに唯先輩に変装して抱きついてくるのは……憂のことを恋愛的な意味で好きで、唯先輩を人として好きな私としては非常にフクザツだったけど。
それでも憂のスキンシップ自体は疑問に思ったことも拒んだ事もない。それも憂らしさだって私はわかってる。
ただ、純に急かされているこんな状況で、意味もなく憂のほうから手を繋いでくるのは意外だった。
意外だったけど、嬉しかったから別に追求はしない。久しぶりに私に会えて嬉しいのかな、なんて思い上がっておけばそれでいいかな、なんてね。

純「ほら、早くっ!」

純に急かされ、道路に飛び出して手を繋いだまま走る。
走っている間、私も純も憂の存在については口にしようとしなかった。

正直、憂の存在に心がついていってない。私も純も、嬉しさと戸惑いが心の中で混ざり合ってる。
氏んだはずの人間がそこにいる。それを気味が悪い、と避けたりなんてできるわけがないくらいには嬉しくて、でも再会に涙を流せないくらいには戸惑ってる。
だからかもしれない。だから私達は考えるのを後回しにして、電車のせいにして走っているのかもしれない。

憂の口から真実が聞ければ、いろいろとわかる事もあるんだろう。
そして、その時はすぐに来るのかもしれない。でも少なくともそれは一緒に走っている今じゃない。

……今の私にわかることは、憂の手の温かさだけ。

9: 2012/04/02(月) 04:04:26 ID:T82ZaqEo0


【#3】



純「――何か食べる? それとも飲む? まだ時間あるし買ってくるよ?」

憂「………」

梓「……飲み物、麦茶でよければあるよ、水筒に」

純「んじゃいっか。お菓子くらいなら私が持ってるし」

梓「うん」

隣街までの切符を三枚買い、自由席の列車に乗り込む。
なるべく端のほうに、そして三人向き合って座れるように席を確保した。
私と純が向き合って座ると、おずおずと憂が私の隣に腰を下ろす。顔色があまり良くない。

梓「憂、大丈夫? やっぱり疲れた?」

憂「ううん…そうじゃないけど……」

そうじゃないという憂の言葉をそのまま信じるなら、顔色が悪いのはやっぱり緊張から来ているんだろう。
これから何を聞かれるのか憂はわかっていて、そしてきっとそれに対する答えもちゃんと持っているんだ。下手すれば私達に嫌われかねないほどの大きな答えを。言いづらい答えを。
……もし仮に何も知らないなら、答えようがないんだから緊張なんてしないはずだし。

梓「…大丈夫だよ、憂。私達は、何があっても憂の味方だよ」

憂「……梓ちゃん……」

緊張をほぐしてあげたい、という以上にそれを伝えておきたかった。憂が何を言おうと、憂が憂であるなら私が嫌うなんてありえないということを。
でも、それはやっぱり自分本位の浅はかな考えだったらしい。

純「……梓。悪いけど、まずそれ以前の話なんだよ」

梓「………」

純「そんな目で見ないでよ。私ももちろん憂の味方だし、梓の味方だよ。だからこそ確かめなくちゃいけない」

わかってる。周知の事実、大前提から目を逸らすわけにはいかない。
私は隣の女の子の姿も声も動きも、全部が憂だと自信を持って言い切れる。でもそれだけじゃ否定できない現実もこの世界に既に存在してしまっている。
私はイヤというほどわかっていたはずの、残酷な現実が。

純が深呼吸し、真剣な瞳で私の隣の女の子を見つめて、静かに問う。


純「……『平沢 憂』は事故で氏んだ。あなたは……誰なの?」


タイミングを同じくして、私達を乗せた列車も走り出した。

10: 2012/04/02(月) 04:06:30 ID:T82ZaqEo0




――隣で俯いて電車に揺られる憂を見て、今更ながらにその服装がお気に入りの外出着であることに気づく。
結構いろんな私服を持ってる憂だけど、私達と遊ぶ時にはこの服を着ているのを一番多く見たからきっとお気に入りなんだろう、という私の決め付けに過ぎないけど、間違ってないと思う。
そしてこれも決め付けに過ぎないけど、きっとその服をあの日も着ていたんだと思う。そう、あの日も。

憂「……私は…ううん、『平沢 憂』は………あの日に、氏んだ、よ」

純「………」

梓「………」

憂「ちゃんと…覚えてる。あの日の、あの瞬間まで、さいごまでちゃんと記憶にある……」

そう言って小さく身体を震わせる隣の子に、触れてあげることは出来なかった。
隣の子はどう見ても憂なのに、本人までもがそれを否定している。そんな中で私だけが彼女を憂だと扱い、慰めるのは許されない。そんな気がした。

憂「だから……私は、純ちゃんと梓ちゃんの知ってる『憂』じゃないの……」

純「……でも、憂にしか見えないよ、外も中も。それこそまるで憂のクローンみたいな…」

純がマンガ的発想で問いかける。
失礼な言い方かもしれないことは本人も自覚していたんだろう、後で「ゴメン」と告げるけど、憂はそれに首を振る。

憂「……ううん、たぶん本当にそんな感じなの」

純「……どういうこと?」

憂「ずっと、ずっと声だけが聞こえてた。真っ暗な中で、私を呼んでくれる声が聞こえてた。それが『誰』の声かわかった時……私は目を開けることが出来たの」

そして目を開けたらそこは桜が丘だった、と。身体も記憶も全てが『平沢 憂』として続いていた、と。
そのまま自然と足はすぐ近くの自分の家に向かい、そこで私達に出逢った、と。
憂はそう言った。私は口を挟めなかった。

純「……誰の、声だったの?」

純のその問いに、憂は答えず、行動で示した。
私の腕に抱きつく憂の身体は、やっぱりちゃんとあたたかい。

純「……未練タラタラな誰かさんのせいで成仏できなかった、みたいな話なのかねぇ?」

憂「…ちょっと違うよ。梓ちゃんが私を呼んでくれたから、求めてくれたから、私はここにいられるんだよ、きっと」

純「ふぅん……?」

憂「……梓ちゃんの声は、とても心地良かった。誰の声かわかってない時でも、心に優しく響いてきた。でもある時突然「会いたい」って聞こえた気がして……」

純「それが誰の声か考えたら梓に行き当たり、戻ってきた、と」

憂「……うん。覚えてる道だったから家に急いだけど……梓ちゃんに引き寄せられたのかもしれないね」

……皮肉にも、自分の殻に閉じこもることを止め、憂のいない現実に向き合い、その上でもやっぱりどうしようもなく憂を求めている自分を自覚したのが今日。
それが憂を呼び戻す最後の引き金になったってことだろうか。

純「……ま、なんであれ、この世の理《ルール》を捻じ曲げたオカルトなのは間違いないけどね」

梓「……でも」

ようやく口を開いた私に、二人の視線が集中する。

梓「……オカルトだろうと何だろうと、憂とこうしてまた会えた。私はそれだけで充分だよ」

憂「梓ちゃんっ……」

……そう、この笑顔にもう一度会えた。何も変わらないこの笑顔に。
私にとって、それ以外の真実なんて要らないよ、憂。

純「はぁ……いや、まぁ、私も二人の考えにまで口を出すつもりはないんだけどさ」

梓「……まだ何か問題でもあるの? 憂はちゃんと憂なんだよ? 気にしてたのはそこでしょ?」

純「……ま、そうだね。口を出すつもりも水を差すつもりもないよ。二人で仲良くやりなさいな」

憂「うんっ♪」

梓「ちょ、純、変な言い方……っていうか憂も「うん」って何!?」

純「やれやれ、お熱いことで」

梓「だーかーらー!!」

……と言いつつも、笑顔で私の腕に抱きついて頬ずりしている憂を引き剥がすことは出来なかった。

11: 2012/04/02(月) 04:09:17 ID:T82ZaqEo0

【#4】





――実の所、今現在この三人の内で最も冷静なのは鈴木純だ。
存在の謎を置き去りにして最愛の人に再会できた喜びだけに浸る中野梓は論外。
自身が偽りのモノであると言っておきながら深く考えようとしない平沢憂も同じく冷静とは言い難い。最も、彼女の場合は恐怖故に目を逸らしているとも言えるのだろうが。
そして鈴木純の場合だが、彼女は元々、失意の底にあった中野梓を見守ろうという意思を持って行動していた。今の状況においても、すなわち平沢憂の言い分を認めた上でも元来の意思は揺らいでいない。
更に言うなら、彼女の思考は平沢憂と中野梓の行く末を見守ろうという考えに移行しつつある。一歩引いた所から二人共に等しい距離で接しようとしている彼女が、この中では一番状況をよく見ている、というわけだ。

純「………」

そんな彼女は向かいに座る二人を眺めながら思考を巡らせていた。
考えることはただ一つ。今の平沢憂という存在が、世間一般で何と呼称される存在なのか、についてだ。

一度命を落とし、そして生き返った存在。それが俗に何と呼ばれているのか。
少なくともそれは『人間』ではない、と彼女は決定付けた。

勿論平沢憂を疑う意味ではないし、差別の目で見る意味でもない。だがそれでも、この世の理を捻じ曲げた彼女は人間とは言い難い。
平沢憂は人間ではない何かである。その前提の下に彼女をちゃんと理解しようという彼女なりの思いやりだ。
理解しないことには何かが起きた時にも助けることが出来ない。親友としてそんなことを許す彼女ではなかった。

純(……んー、蘇った存在……ゾンビ? アンデッド? 未練があって逝けないというなら地縛霊もだけど…)

娯楽としての創作物をある程度嗜んでいれば、知識として『似たようなもの』の名前くらいはいくらか出てくるものだ。
だが、今のところ平沢憂はその中のどれにも該当しない。

まず平沢憂はちゃんとした肉体を持っている。ゆえに霊ではない。
しかし、生前の肉体は火葬されている。鈴木純も中野梓もその目で見届けた。よって屍が蘇る類のゾンビ等にも含まれない。
そして勿論、自身が認めるように一度人間としての氏を迎えているのだから不氏でもない。

純(とすると……憂自身が言ったように、クローンみたいなものなのかな…?)

蘇りではなく、別の肉体を得た存在。中身は同一で器が別物の存在。
それはそれで彼女の理解の及ばない領域ではあるが、当然ながら先程の創作物のネタのような類よりは現実的だ。
もっとも、それでも人間のクローンは未だ禁忌とされているし、技術的にも可能かはわからない。
その上、そうなると今度は『何故平沢憂のクローンが存在するのか』という疑問までもが姿を現すこととなる。
確かに平沢憂はクローンとして欲しがる人も居るであろうほど優秀な人間ではあるのだが。

……一応、しっくり来る言い方は一つだけ彼女の中にある。しかし……

純(んー……ダメだ、情報が少なすぎる。やっぱりもっと話を聞かないと断定できない)

結局、彼女はそう結論を出した。
現状ではその判断は妥当であるし、間違ってもいない。

12: 2012/04/02(月) 04:10:39 ID:T82ZaqEo0


【#5】





純「――っし、もうすぐ降りるよ、二人とも」

梓「ぅえ? もう?」

思わず変な声を出してしまった私に、正面の純は呆れ顔で溜息。
私に寄り添ったまま携帯電話を取り出し開いた憂の手元を覗いてみると、確かに結構時間は経っていた。
やっぱりこの三人で居ると楽しくて、時間が経つのが凄く早い。特に憂といると。
……決して純をないがしろにしてるわけじゃないけど、やっぱり憂がいないと私は私で居られないんだ。

純「ま、二人でこのままアテのない旅に出るってんなら止めないけど?」

梓「そんなことしないから……」

そんなことをすれば、純はまた心配するでしょ?
ん? でも案外憂と一緒なら心配しないのかな?

憂「……私は、梓ちゃんと一緒ならどこでも……」

梓「ぅえっ!?」

純「こらこら、真に受けるなって」

憂「あははっ」

……なんだ、冗談か。ビックリした……
ビックリどころかドキドキしてる気もするけど……

梓「憂は真顔でボケるから反応に困るよ……」

純「せっかく私が住居を提供してあげるってんだから素直に甘えなさい、二人とも」

憂「あ、純ちゃん、その話だけど……ホントにいいの?」

純「いいも何も、一人ぼっちにはしておけないよ。憂も、梓もね」

憂「……梓ちゃんも? 梓ちゃん、何かあったの?」

梓「あ……」

そっか、憂は知らないんだ……
というか、それはそうだ。私が自棄になっていた時期のことなんて憂は知るはずがないんだ。
そして知られたくもない。原因となった憂に聞かれるのは恥ずかしいし、それ以上に憂はそんなこと聞かされたらきっと背負い込む。自分のせいだと責めるはずだから。
となると罪悪感を抱かせない程度に告げるか、隠し通すか、あるいは誤魔化すかしないといけない。何かいい方法は――

純「あー、梓はね、大学全部落ちてさ。それで親と喧嘩して家出した」

梓「ちょっ」

憂「あ、そうなんだ……」

どう説明しようかと悩んでいると、嘘半分、事実半分、そして多くの真相を伏せて純が誤魔化した。
私の代わりに誤魔化してくれた…と言ったほうがいいのかな?

純「まー勘当されたようなもんだよね。梓みたいな性格じゃ高卒無職なんて経歴がついたらヒキコモリ一直線だろうし」

あっはっは、と高らかに笑う純。
……こいつ、単に私をここぞとばかりにバカにしたいだけなんじゃなかろうか。

憂「もう、純ちゃん! 梓ちゃんはちゃんと頑張る子だよ!? そんな事言わないの!」

……憂のそのフォローも地味に胸が痛くなる。憂のいない世界で流されるまま生きるつもりだった私には。

純「んー、まぁ頑張ってくれないと私も困るしね、家に置く以上は。この先梓がどうするかには口出さないけど、約束は守ってもらわないとねぇ?」

憂「約束って?」

純「ん、家に置いてやるから家賃ちょっと出せ、ってね。普通にルームシェアしようってコト」

憂「あ……じゃ、じゃあ私もお金出さないと…」

純「そういえばそうだねぇ。ま、新居に着いてから考えようか。早く降りるよ」

話に夢中で気づかなかったけど、いつの間にか隣街の駅に着いていた。
慌てて荷物を抱える私と憂を、荷物の少ない純はニヤニヤと見下ろしていた。なんか腹立つ。

……でも、さっきまで何か考え込んでいたようだった純がいつも通りになってるのには安心した。

13: 2012/04/02(月) 04:13:44 ID:T82ZaqEo0




憂「――そういえば純ちゃんはさ」

たいして広くもない駅の構内を三人で横に並んで歩きながら、憂が問う。

純「んー?」

憂「なんでN女子大に行かなかったの? 澪さんを追っかけて行くと思ってたんだけど」

あっ、って聞こえてきそうな顔で純が固まる。
完全に予想外の質問だったのだろう。さっき私を助けて(?)くれた機転はどこへ行ったのやら。
今度は私が助け舟を出してあげたいところだけど、私もその理由は知らないからどうにも出来ない。そしてそれに加えて私もその理由には興味があった。

純「……単に学力の問題だよ。結果的には梓みたいに無職にならなかっただけ賢い選択だと自分では思ってるけど」

憂「もー、またそうやって……」

あ、私はN女を受けて落ちたって設定なのか。
いや、そんなことより……私には純が本当にそれだけの理由で諦めたのかという方に疑問が残る。
というか…私に遠慮して行かなかったんじゃないか、なんて勘ぐってしまう。

今の純が嘘をついているかはわからない。それはきっと憂も同じ。
でも、あの当時の私はあんなだったから……もしかしたら、って思ってしまう。
私を置き去りにするようなことが出来なくて、純は自分を犠牲にしたんじゃないかって思ってしまう。

いや、ぶっちゃけその通りだと私は思ってる。

でもこんなことを面と向かって尋ねても、純はヘラヘラ笑って否定するだろう。
私が申し訳ないと思えば思うほど、純は明るく否定するのだろう。
……そういうの、本当にズルいと思う。

憂「……でもごめんね? なんかさっきから聞いちゃいけないことばかり聞いてるね、私……」

純「あー、いや、そんなことはなくて、ね?」

梓「そ、そうだよ。憂にはいつか説明しなきゃと思ってたし……っていうかどうせすぐバレることだし」

憂「梓ちゃんのほうも……喧嘩して家出なんて……」

梓「それは…私が悪いんだから仕方ないよ」

憂「……いつか、仲直りしてね?」

梓「……うん、わかってる。今だってこうやって純と暮らす条件の一つとして、毎日のメール連絡は欠かさないこと、っていう条件があるんだから」

憂「そっか……私に出来ることがあったら何でも言ってね? 何でもするから」

梓「あはは、大袈裟だよ憂。ありがと」

とは言ったものの、私自身は両親の考えなんてよくわからない。だってこの条件を取り決めたのは私じゃなくて純だから。
たった一人の娘を大切に思わないような両親ではない。娘としてそう思っているけど、私には親の気持ちはわからない。
私だってその時は『生きててもしょうがない』と本気で思っていたんだから、親も私に対してそう思っていても不思議じゃない。

……まぁ、今は親のことよりも自分のことだ。これからのこと。
憂とこうしてまた会えた。それだけで無職になったことを悔やみつつあるのは我ながら変わり身が早いというか、『憂に情けないところを見せたくなかった』思考が見え見えで面白いけど。
でも逆に考えれば憂と同じ立場になれたとも言えるのだから、やっぱり問題は『これから』なんだ。そこは憂とちゃんと話し合おうと思う。

14: 2012/04/02(月) 04:15:06 ID:T82ZaqEo0


純「……あっ」

梓「ん? どうしたの?」

歩きながら真剣にこれからのことを考えていたら、純が素っ頓狂な声を上げた。
やたら周囲を見渡しているから何事かと思っていたら……

純「トイレ行きたい」

梓「行ってきなさいよ……」

純「行ってくるよもちろん。新居までどれだけかかるかわかんないしね」

……なにそれ。まさか……

梓「……あのさ、その家までの道はわかってるよね?」

純「さすがにそんなボケはしないって。でも私達だよ? どんだけかかるかはわかんないんだし、備えあれば憂い無しだって!」

そう言って手提げを憂に押し付けて純はトイレのあるらしい方向に走っていった。
どれだけかかるかわからなくなるような原因を作るのはいつも純だと思うけど……なんか、そう言われると私もトイレ行っておいた方がいい気になるじゃん。

憂「……トイレの前で待っとこうか。私も行きたいし」

梓「そだね……」

二人もボストンバッグとギターを抱えている以上、一人ずつ行って二人で荷物を見張る、それのほうがいいと視線で伝え合った。



純「――おまたせー」

トイレの前に着いてから少し待っただけで純は出てきた。
もうちょっと空気読んでよ純。憂と二人っきりだったのに。…なんちゃって。

憂「私も行ってくるから、荷物お願いね」

純「はいよー」

自分の手提げを受け取り、床に置いた二人分の荷物を私と挟む形で純が立つ。
今度は純と二人きり。何かいろいろと改めて言っておくべき言葉があるような気がする。
とりあえず口を開こうかと悩んでいると、純のほうから口を開いてきた。

純「そういや梓、アレでよかったんだよね?」

梓「へ?」

純「隠したじゃん。憂が氏んだことで、あんたが落ち込んで何もしなくなった、ってコトを」

梓「あ、うん……」

純が咄嗟に誤魔化した形になるけど、私もそれで良かったと思ってる。
あれはあくまで『私の想いの結果』だし、憂に背負わせるのは間違っていると思うから。

梓「……ありがとね」

純「ん、それはいいんだけど……憂のことだから、どっかで嘘だって気づくかもよ?」

梓「…だよね。そもそも憂に隠し事なんて、本当はしたくないんだけど……」

それでも、私のこの恋心は隠し通さないといけない。
『誰かが氏んだことで無気力になる』なんて、知ってる人から見れば恋心だと一目瞭然だから、憂本人には特に隠さないといけない。


……って、あれ?

ちょっと待って、それなら私の事情を知って助けてくれた純とかはこの気持ちに気づいてるってことになるんじゃ?

無気力になった私をずっと間近で見ていた両親と、勘当されたあの日に何も聞かず両親と話を付けてくれた純なんて、もはや知ってて当然ってレベルなんじゃ…?


梓「あ、あのさ、純……」

純「ん? どしたの? トイレ我慢できない?」

梓「そ、そうじゃないけど…!」

あ、いや、でも純が直接私にそう聞いてきたことはないし、案外気づいてないのかも? 
そうだよね、純なら面白がって首を突っ込んできそうなものだし。だとしたら墓穴を掘るような質問なんて出来ないよね……
いや、あるいは気づいてて見ないフリをしてくれてる可能性も…? さっきの機転といい、意外にも私を見守ってくれてるのかな…?
……ま、まぁ、純のほうから尋ねられない限りは隠し通せてるってコトにしといたほうがいいよね?

梓「な、何でもない……」

純「…? 変なの」

もしかしたら気づかれてるのかも、という疑惑が私の頬をどこまでも熱くする。
トイレから戻ってきた憂に顔を見られないように、私もトイレへと駆け込んだ。

15: 2012/04/02(月) 04:16:54 ID:T82ZaqEo0


【#6】





――鈴木純は気づいている。
中野梓が平沢憂に好意を抱いていることに気づいている。一途な愛を胸の内に留めていることを知っている。
一途であるが故に、拒絶されることに怯えているのを知っている。親友でさえいられなくなることを恐れているのを知っている。
言葉にしてみればごく普通な、ありふれた純粋な愛情を抱いていることを知っている。

だが、それはあくまで推測でしかない。確証はあるが事実ではない。限りなく事実に近いが、本人に確かめていない以上は事実に成り得ないのだ。
そして鈴木純本人もそれでいいと思っていた。中野梓に伝えるつもりがないのだということも知っていたから、首を突っ込む必要も世話を焼いてやる理由もないと思っていた。推測は推測にすぎないまま行く末を眺めていればいいと思っていた。
勿論、仮に告白をするという状況になったなら迷わず応援した。相談されれば手を貸した。それを当然だと彼女は思っていた。ただし前提に中野梓本人の行動が伴っていないといけない、そう考えていたのだ。

……しかし、今になって状況が変わってきた。


鈴木純は気づいている。

『再会してからの』平沢憂は、中野梓に好意を持っていることに気づいている。


それを単に、今まで見せなかった感情なのだと考える事も出来る。
しかし鈴木純にはそういう考えが出来なかった。付き合いの長い彼女には、平沢憂のそれが隠していた感情にも偽りの感情にも見えなかったのだ。
むしろその相違点が、以前の平沢憂と今の平沢憂が本人の言葉通りに『別人』であるということの裏付けのように思えて仕方なかった。

平沢憂がやはり別人であるという推測。
そして『今の』二人は相思相愛であるという推測。

この二つの推測を前に、どう動けばいいのか。
人間ではない平沢憂の存在を定義付ける呼称に悩み、平沢憂と中野梓の関係に気を揉む彼女は、どう動くべきなのか。

純(いっそ、どっちかが間違った憶測だったらいいのにな…)

そう思いながらも、苦悩しながらも、やはり友人思いな彼女の口は真実を求めて事実を問う。

16: 2012/04/02(月) 04:24:54 ID:T82ZaqEo0


純「ねぇ、憂」

憂「ん? なに? 純ちゃん」

純「……梓のこと、好きなの?」

憂「ふえっ!?」

問われた憂の頬が一瞬にして赤く染まる。
問いに対する答え自体はそれを見れば一目瞭然だが、鈴木純の求めた答えはその先にある。

純「あのさ、憂…………いつから?」

憂「え? いつからって……そんなの、ずっと前からだよ…」

純「学生時代から?」

憂「うん」

「ちょっと恥ずかしいけど」と顔を俯かせるが、鈴木純はその答えに納得できなかった。
学生時代の平沢憂が、中野梓の寄せる好意に気づいていたか。そこまでは彼女にも断定は出来ない。
だが少なくとも平沢憂の側から恋愛的な好意を表に出すことはしなかった。あくまで親友として振舞っていた。
故に中野梓は一方的な想いを伝えることを良しとしなかったのだから。俗に言う『脈なし』だと判断したのだから。

結局、今の平沢憂の行動の変化は、やはり真相を求める彼女の推測の裏づけと成り得てしまうのだ。

純「……なんで高校の頃からアピールしなかったの?」

憂「……えっ?」

純「せっかく同じクラスだったのに。せっかく梓と同じギターを始めたのに。誰よりも近くにいたのに何もしなかったのはなんで?」

憂「……純、ちゃん…?」

純「……ゴメン、責めてるわけじゃないんだけど。でも思い出せない? 二人っきりの時とかあったでしょ?」

憂「………そう、だね。あったよ。あったはずなんだけど……」

純「……何もしてなかった?」

憂「………」

その沈黙は、鈴木純の推測を肯定してしまっていた。
またしても推測の裏づけを得てしまった彼女は、悲しげに眉尻を下げながら告げる。

純「……学生時代の憂は、梓のことを好きじゃなかったんだよ」

憂「っ!?」

純「少なくとも、恋愛対象として見てはいなかったんだと思う」

申し訳程度に『思う』と付けたものの、これ以外に可能性などないことは二人ともわかっていた。
『二人きりの時に何もしない』なんて、人目も憚らずに梓に触れ、微笑みかけ、自分の存在を積極的に見せ付ける今の平沢憂からは到底想像できないことだから。
だがそれでも納得できない憂は、純の二の腕を掴み、揺さぶる。

憂「なんでっ!? なんでそんなこと言うの!? そんなわけないよ!!」

純「っ……憂……」

憂「そんなわけない! そんなことがあっちゃいけない! だって……!」

人通りが少なくなってきたせいもあり、憂の悲痛な叫びが静かな駅構内に響き渡る。

憂「だって、梓ちゃんは! ずっと私を呼んでくれた! 好きだって、いないと寂しいって言ってくれた!」

純「憂っ…!」

憂「ずっと私を求めてくれた! そんな梓ちゃんのことを私が嫌いなわけないよ!! 好きじゃないわけがないよ!!!」

純「憂っ、声が大きいって…!」

梓に聞かれることを危惧した純が注意するも、聞き入れる様子はない。


憂「……梓ちゃんを好きじゃない私がいるっていうなら……頃してやるっ! そんなの、私が許さない!!」


純「ちょっ、落ち着きなさいってば――」

――そして、彼女が危惧していたことが現実となる。


梓「――憂っ!!」

17: 2012/04/02(月) 04:28:28 ID:T82ZaqEo0


【#7】





――思わず駆け寄った。
あんな憂の声を聞いたのは初めてだった。駆け寄って、純を掴んでいた手を離させて引き剥がす。

……そんな光景だったからつい純に疑いの目を向けてしまうけど、純も純で辛そうな顔をしていたから何も言えなくなってしまい、憂に向き直る。

梓「……そんな物騒な言葉、憂の口からは聞きたくないよ」

瞳に涙を湛えた憂の手を握りながら、出来る限り優しく、諭すように言い聞かす。
どことなくいつもと逆な光景に思えるけど、放ってなんかおけない。

憂「………ごめん」

……何があったのかはわからないけど、こんな辛そうな憂は見たくない。憂だけじゃない、純も。なんとかしないと。
……ゴメンね純、ちょっとだけ大目に見て。

梓「…何があったの? 純が学歴のことでイジメた?」

純「こら」

憂「…あはは。そんなことはしないよ、純ちゃんは」

梓「そうだね。純はこんなんだけど、酷いやつじゃないもんね」

純「おい」

憂「……うん。ちゃんと、ちゃんと知ってるはずだよね、私達が、誰よりも」

梓「うん。純は人を悪く言ったりなんてしないよ、絶対に」

純「……なんか怒るに怒れない流れになってきた」

落ち着いたらしき憂が私の手を解き、純に一歩踏み出して向き合う。
……ちょっと温もりが心惜しいけど、流石にそんなこと言ってる状況じゃない。

憂「ごめんね、純ちゃん。ちゃんと最後まで聞くべきだった」

純「…ん、いや、私こそごめん。もっと気を遣った言い方するべきだった」

梓「……で、何の話だったの? あ、私が聞いちゃいけない話?」

憂の叫び声は聞こえていたけど、当然それまでの話なんて何も聞いてない。
いないほうがいい話だというなら席を外そう。内緒話って好きじゃないけど、この二人なら大丈夫だと思うし。

純「……梓がどこから聞いてたかによる、かな。もうこの場で全部ハッキリさせたほうがいい気もするし」

梓「……そういう話だったの? 憂」

憂「……うん。私は純ちゃんを信じてるよ」

さっきまでの話の流れはわからないけど、結果として動揺し、声を荒げた憂が今ではそう言う。
それなら私も信じるしかない。二人の視線に言葉で答える。

梓「……えっと、私が聞いたのは……そんなわけない!とか、憂が私を好きだとか、あと、こ、頃す…とか」

純「憂がボリューム上げてからほぼ全部聞かれてるね」

憂「うぅ……」

憂が赤くなる。可愛い。……じゃなくて。
やっぱり憂としても恥ずかしいのかな、「頃す」だなんて口走ってしまったこと。あんな物騒な言葉、さっきも言ったけど私も聞きたくなかったし。
「そんなわけない」については話が見えないからわからないし、「好き」については私の好きと憂の好きは違うはずだから。

18: 2012/04/02(月) 04:29:06 ID:T82ZaqEo0

梓「ま、まぁ憂が嫌だったなら忘れるから。ね?」

憂「え…っ?」

純と憂、両方の視線が集中する。え? 何?

梓「…恥ずかしかったんでしょ? 私に聞かれて」

憂「う、うん」

梓「じゃあ忘れるから、憂ももうあんなこと言わないように気をつけてね?」

憂「………っ」

あ、あれ? 憂が…泣きそうな顔をしてる? 
なんで? 私何か酷い事言った??

純「……ちょっと待った。ストップ。梓、あんた何の話してる?」

梓「へ? そりゃ、憂が頃すとかなんとか物騒なこと言ったから……」

憂「……へ?」

純「あー、うん、やっぱりか。話ズレてる、二人とも」

梓「へ?」

えっと、どういうこと?
憂の勘違い? それとも、私が何か間違ってた?

純「……ということは梓は気づいていないわけか。いや、そりゃ気づいてたら喜ぶだろうし。それに気づけないのも仕方ないか、諦めた側なんだし……」

なにやら意味のわからない言葉をブツブツ呟いている純。私も憂も置いてけぼりなんだけど……

梓「えーと、おーい、純? 何の話?」

純「ん、よし、決まった。順を追って解決していこうか」

梓「純だけに?」

純「うるさいよ」

ロクなツッコミもせず、純は私と憂の腕を掴んで強引に向き合わせた。
憂もイマイチ状況が掴めていないようだけど、逆らうつもりはないようだ。

純「とりあえず憂、さっきの梓の言葉は憂の物騒な発言に対してだから誤解しないように。よく考えたら最初に言ってたしね」

憂「う、うん。ごめんね梓ちゃん、もう言わないから」

梓「あ、うん…」

っていうか元々「そんな自分を頃す」だなんて言葉をどこで使うというのか。
いや、頃すって言葉自体使ってほしくないんだけどね。可愛い憂には似合わないよ。

純「んで、憂。どうやら梓は気づいてないみたいだから憂のほうから言わないといけないみたい」

梓「?」

憂「言うって……もしかして」

純「そのもしかよ」

梓「なにその日本語」

とりあえずツッコミは入れるけど状況は見えない。
とりあえず憂がまた顔を赤くしてて可愛いことくらいしか見えない。

純「まぁ、言葉としては聞いてるのに気づかないんだから行動で示すのもアリかもよ?」

憂「……で、でも…」

純「大丈夫。そりゃ緊張はするだろうけど、恐れることは何もないよ」

憂「う、うん」

梓「……なんかイイ事言ったっぽいのはわかるんだけど、何の話?」

純「梓は黙ってればいいの。この朴念仁」

梓「むっ……」

確かに何が何やらサッパリだけど、蚊帳の外なのは気に入らない。
いや、もちろん目の前で悪巧みなんてする二人じゃないから、信じて待てばいいとはわかるんだけど…ね。
っていうか朴念仁って……何が?

憂「あ、梓ちゃん!!」

梓「は、はい!?」

ちょっとだけ思考を巡らせようとしたところで、憂の大声で中断させられてしまう。
すごく真っ赤な顔をした憂は、その瞳になんかすごそうな決意を宿らせて口を開く。

憂「め、目を閉じて欲しいんだけど!」

梓「な、なんで?」

憂「なんででも! お願い!」

梓「わ、わかった……」

言われるまま目を閉じる。
何をされるんだろう、こっそり薄目開けてようかな、とか悩む間もなく。

唇に何かあたたかいものが押し付けられ、思わず目を開いてしまった。


憂「んっ……」


目の前にあったのは、同じように目を閉じて私に……キ、キスしてる??っぽい憂の顔。
え? 何?? どうして???

純「…おおう、一気に行ったねぇ」

憂「ん……」

押し付けられ、重ねられていた唇が離れていく。
状況を理解できない私の耳に、もう一つ、理解できない言葉が届く。

憂「あ、あの……梓ちゃんのこと、好き…だから。しちゃった……」

梓「………」


……何か、もう、あぁ、いいや。何が何だかわからないことだらけだけど、単純に可愛いなぁ、憂は。ははは……

19: 2012/04/02(月) 04:32:17 ID:T82ZaqEo0




純「――こらー、戻ってこーい、あずさー」

梓「んはっ」

純「……なんつー声出してんのよ」

梓「…いや、なんか幸せな夢を見ていたような気がする」

純「夢かどうかは、目の前の顔を見てから言ってやんなさい」

目の前? 目の前には……心配そうな顔をしつつも頬を染めた憂。
……頬を染めた? え?

梓「……まじ?」

憂「ま、まじだよ」

梓「…こほん。ほ、本当に? 憂が、私の事を??」

憂「ほ、本当だってば!」

梓「え、う、嬉しい……けど」

嬉しいけど……そうだ。そんなわけないんだ。
憂はいつだって、誰とでも公平に接してきた。私のことだって友人として支えてくれてた。
そう、あくまで友人として。そのはずだったのに……

純「……大丈夫だよ、梓」

梓「……純…?」

純「夢でも嘘でもない。本当の気持ちだよ、『憂』の」

訳知り顔な純の言葉が、なぜか私を安堵させる。
……いや、それも当然か。私だって嘘だなんて思いたくないんだ。両想いでいられるなら両想いのほうがいいに決まってる。
それに、こんな状況で嘘をつく親友なんて持った覚えはない。

憂「……梓ちゃん……」

梓「……憂。ごめん、ちょっと疑っちゃった」

憂「……ううん、仕方ないよ。純ちゃんとしてた話もそういうものだったから」

梓「そういうって、どういう……?」

純「ちゃんと後で説明するから。っていうか早く説明させてほしいから早くしてよ」

梓「早くって――」

何を――と言おうとしたら、ちょっと睨みをきかせたような純のアイコンタクトを受けた。
私から憂に視線を動かすアイコンタクト。それを受けて、私は肝心な言葉を何も言っていないことを思い出す。
心なしか、目の前の憂も不安そうに身を縮こまらせているように見えてくる。いや、本当にそうでもおかしくないんだ。私のバカ。

梓「……憂。あのね…」

憂「……うん」

梓「…憂のこと、ずっと好きだった。気づいた時には好きになってた。なのに言えなかった…」

憂「っ……」

梓「そんな私で良ければ……その、こ、恋人に…なってくれませんか?」

憂「…っ、は、はい……」

梓「……?」

肯定の返事は貰えたけど、なんかちょっと歯切れが悪い憂。また何か私が変なことを言ったのかな…?

純「……ほれっ」ドンッ

憂「ひゃっ!?」

梓「っと! あ、危ないじゃない、純!!」

純に突き飛ばされた憂を抱き止める。私のほうが身長は低いけど、憂が倒れ掛かってくるような形になったのでどうにか胸に収まった。
純に抗議の視線を向けるも、それはより深刻な視線でかき消された。

純「……それが恋人の距離でしょ。んで、次は私の話だから。そのまま聞いて」

梓「…そのまま、って?」

純「そのまま。私が何を言っても恋人の距離のままでいて。お願い」

梓「う、うん……」

珍しく真剣な純の声と、憂が不安げに背中に回してきた手。
それらがもたらす不吉な予感に負けないように、胸の中の恋人をもう一度ちゃんと抱き締めた。

20: 2012/04/02(月) 04:35:37 ID:T82ZaqEo0


【#8】


純「――まず、さっきの憂にも最初に言っておくべきだったのは、私も梓も『憂』の味方だよ、ってこと」

憂「……うん。わかってる。信じてるもん」

純「ありがと。でもね、やっぱりちゃんと言葉にしておくべきだったんだ」

憂「……純ちゃん…」

純「『平沢 憂』は、今ここに一人しかいないんだからね」

梓「……どういうこと?」

純「『今』はここにしかいなくても、他にも『平沢 憂』は存在した、って可能性が高いってこと」

梓「……憂が、複数いた、ってこと?」

純「まぁ、クローンみたいなもの、って憂本人も言ってたから、そこは梓も納得してるでしょ?」

梓「………」

考えないようにしてきたけど、憂の言ったことを疑う理由はない。
でもクローンといえば、マンガとかではあれだ、培養層の中で育ったとか試験管ベイビーとか、そんな感じのもののはず。

梓「…憂、そんな記憶があったりするの? クローンとして作られた、みたいな…」

胸の中で首を振る。表情は見せてくれないけど、見たくもない。

梓「……純」

純「うん。憂の記憶については憂の言う通りなんだと思う。っていうか疑ってちゃキリがないし、疑う理由もないでしょ」

梓「まぁ、そうだけど」

純「だから憂の記憶通り、『平沢 憂』はああなってその後ああなってここにいる、ってワケ」

言葉にはしなかったけど、一度事故で氏んで、そして……私の未練か何かで戻ってきた。
いや、私が求めた、って憂は言ったっけ。とりあえず、憂が電車の中で言った記憶についてはそういうことだったはず。

純「作られた記憶であることを疑うことも出来るけど、それだと梓の声が聞こえてたのが説明できない。っていうかぶっちゃけいろいろ説明できない。だから結局、科学じゃなくてオカルトなんだと思う」

オカルト。超常現象。私達常人の理解の及ばない範囲の非科学的な出来事。

梓「オカルトな……もう一人の憂?」

純「そう。ほぼ同じ存在の、ね」

ほぼ、というのが気になったけど、なんかそういうの、表現する言葉があったような気がする。
しっくりくるというか、現状に当て嵌まるというか。そんな言葉が。単語が。現象が。


純「……もう一人の自分。見た目も全く同じ、ちゃんと自分の意識を持って人間のように歩き回るオカルト」


どこからどう見ても同じ、もう一人の自分。他の誰にも見分けがつかない、影ですらない自分の影。
世間一般的にオカルトに属する、そういう存在。


それは……


純「……ドッペルゲンガー。そう言うのが一番近いと思う」

21: 2012/04/02(月) 04:39:50 ID:T82ZaqEo0




……ドッペルゲンガー。意味は…なんだったっけ。まぁどうでもいいや。
とりあえずオカルトで、人間じゃなくて、そんな存在。自分の恋人がそんなものだと言われて黙っていられる人なんていないだろう。

……相手が純でなければ。
ちゃんと最初に『憂』の味方だと言ってくれた純でなければ。

梓「……それで? 結局何が言いたいの?」

震える憂を抱きしめ、頭を撫でながらなるべく穏やかに聞こえるように問う。
憂の恋人として、そして純の親友として、私はそうしなくてはいけないしそうしてあげたい。

純「……それだけだよ。前の憂とはやっぱり別人なワケ」

別人。その純の言葉と表情、そして憂の震え。それら全ては結局、私にとって辛い現実を突きつけているということだけを意味している。両想いだと浮かれる前に向き合うべき現実があるということを意味している。

つまり、憂の私に対する好意の変化について。
私が察していた通り、『以前の』憂は私の事を特別視なんてしていなくて、『今の』憂は特別視してくれている。だから別人だ、ということ。

……つまり、今の私達が両想いなのは、私が憂を振り向かせたとかそういう青春な話ではなくて。
そこには単純に『別人だから』という面白くも何ともない理由しかない。

見た目も、話した感じも、雰囲気も記憶も、何もかもがどう見ても憂だけど、やっぱり別人だと純は言うんだ。

でも。
以前と今で『違い』があるから別人だ、と言われても、純の理論は『以前の憂』と『今の憂』として、『平沢 憂』は複数存在した、というものだった。
つまり。

梓「……それでも、憂なんでしょ?」

純「うん。憂じゃないけど憂なんだと私も思う」

そうだ。どう見ても憂なんだ。何もかもが憂なんだ。心も身体も記憶も、形作るもの全てが。
全てが、私の求めた憂。私がもう一度会いたいと願った憂そのままなんだ。
私の事が好きだというたった一つの小さな違いがあるだけで、大切で大好きな『憂』を否定なんて出来るわけがないししたくない。
だから私は、彼女のことをこれからも憂と呼ぶ。純も同じ想いだから味方だと言うし憂と呼ぶんだろう。

梓「なら何も問題なんてないよ」

純「それをわかった上でそう言うなら、私から言う事も何もないよ」

姿も、心も、思考も感情も、全てが『憂』と呼べるものなら、私には何も問題はない。
私が好きになった憂は、私を好きな憂じゃない。私が好きになったトコロが何も変わってないのなら、それだけで私は充分。
たとえ憂が人間でも動物でも宇宙人でもオカルトでも、愛せる自信はある。

梓「ありがとね、純。心配してくれたんだよね」

純「……ん、まぁ、最近の梓は危なっかしいからね」

梓「…もう、大丈夫だよ」

純「そうじゃないと困るよ。恋人が出来たんだから、そろそろちゃんとしてくれないと」

梓「手厳しいなぁ」

純「頑張りなよ、無職さん」

梓「…はいはい」


……心配も応援もしてくれる、本当にいい親友を持ったと思うよ、私は。

22: 2012/04/02(月) 04:40:59 ID:T82ZaqEo0


純「……ところであんたら、いつまで抱き合ってるの?」

梓「うひゃぁっ!? ご、ごめん憂!!」

憂「あっ……」

もたれかかるような姿勢だった憂を押し返して立たせるようにしながら離れる。
……ちょっとやり方が冷たかったかな? 憂が寂しそうな顔をしてるけど…で、でも、冷静に考えたら凄く恥ずかしいし!

純「そんな過剰に気にするほどのものでもないでしょ、女同士だし」

梓「そ、それでも人の目とかあるし! 長時間すぎだし! そ、それに……抱きしめる側は、あまり慣れてないし……」

って何恥ずかしいこと言ってるんだ私はーー!!!

憂「あ、梓ちゃん……なんか…ごめん、ね?」

梓「い、いや、憂は悪くないし! 嬉しかったし!」

憂「え? う、うん……」

梓「あっ、いや、その、今のは、えっと……」

憂「わ、わかってるよ! 私も嬉しかったし!」

梓「そ、そう?」

憂「う、うん……」

梓「じゃ、じゃあいいのかな……」

憂「…いいんじゃないかな……」

梓「そっか……」

憂「………///」

梓「………///」

純「いやぁ、青春だねぇ。恋愛だねぇ。うんうん」

きっと真っ赤な顔をしている私と、実際目の前で真っ赤な顔をした憂を見て純がしたり顔で何か言っている。
って、あれ?

梓「……よく考えたら悪いのは憂を突き飛ばした純じゃん!!」

憂「そ、そうだよっ!!」

純「いーじゃんいーじゃん。お互いイイ思いしたんでしょ?」

梓「うっ」

憂「それは……」

それは……否定できない。
それに憂のことをずっと遠くから眺めているだけだった私じゃ、積極的に抱きしめるとか抱きつくとか、そういうのはやりづらそうだし……
まぁ、なんというか、刺激的というか、今になって思えばイイ時間だったのは否定できない。純の話に耳を傾けていないで憂のほうに全神経を集中していればよかったと思うほど。
……そして、たぶん憂も同じように思ってくれてる。それも嬉しい。

純「ね? コイビトっていいもんでしょ?」


……純に丸め込まれた私達二人は、ちょっとだけ視線を交わしてから真っ赤な顔で頷くしかできなかった。

23: 2012/04/02(月) 04:44:08 ID:T82ZaqEo0


【#9】


――それからは慌しい日々が続いた。

新居に着き、管理人さんに挨拶をしたら3人で住むことは了承してもらえた。
特に家賃が上がるようなこともない上、一人暮らしとしては充分すぎる2Kの部屋だったけどさすがに3人もいると手狭になってしまうからいろいろ考えた。

夜は一番広い部屋で布団を敷いて雑魚寝にしよう、とまず純が提案する。
そこをリビング兼寝室にして、残り一つの部屋に私物をいろいろ詰め込もうということだ。場合によってはキッチンのスペースにまで。
プライベートな空間はほとんど無くなるけど、物置のようなその部屋は一応純の個室ということになった。本当に一応程度に。
やっぱり私と憂は純の生活を侵食しているという事実に気後れしたけど、そこは終始純に押し切られる形になった。


純の実家から郵送されてきた荷物を配置したり、足りないものは買い出しに行ったり、そしてなにより私は当面の生活費と純に渡すお金を稼ぐ為にアルバイトを探したり。本当にすることは山積みだった。




――そして訪れた新年度。


純「――んじゃ私は行ってくるけど……」

大学が始まり、数日後。
新しい環境ゆえの朝の慌しさも無くなりつつある純が私に視線を向ける。

梓「……あー、緊張するなぁ…」

純「…梓、大丈夫?」

梓「…大丈夫だよ。緊張するけど、それだけだよ。純は早く行きなって」

純「はいはい。頑張りなよ?」

梓「わかってるって」

手提げ一つで軽やかに出て行く純は、なんというか悔しいけど大学生っぽい。
適当に手を振って見送り、次は私の番か、なんて、よくわからないけどかっこよさそうなセリフを呟いてみたりする。

そう、今日は私のこっちでの初バイトの日。バイト先はなんてことのない近くのコンビニだけど、一人ぼっちだしそもそも知らない地なので充分プレッシャーというか、緊張の材料だ。澪先輩のようにうずくまったりはしないけど。

梓「………」

……今頃、先輩達はどうしているのだろうか、とふと思う。
あの頃の落ち込んでいる私に、何度か電話をかけてきてくれたような記憶はある。鳴り響くコール音だけは記憶にある。
もっとも、あの時の私が携帯電話を手に取るはずもなく。そして電池が切れたからといって充電するわけもなく。そのままずっと携帯電話は眠っていたし、私はそれで何も困らなかった。
……今思えばよく卒業できたなぁ、あの時の私。どれだけ周りの人に迷惑をかけたんだろう。二人の後輩には情けない先輩と思われたかな。先生には迷惑な生徒と思われっぱなしだったかな……


……まぁ、そうやって振り返れるのも、あの日に私を助けてくれた純と、そして……

憂「……頑張ってね、梓ちゃん」

梓「うん」

そして『ドッペルゲンガー』とはいえ、憂がいてくれるから。
憂が家で私の帰りを待っている。それだけで頑張れる。

……いつか純に、あの頃の事を聞こう。
でもそのためにも、今は私のやるべきことをやらないといけない。すなわち……アルバイトだ。

よし、と改めて気合を入れた私の服の裾が摘まれる。
純が出ていった今、憂しかいないのは振り向かずともわかるんだけど、そんなことをされたら振り向かないわけにはいかない。
そして、その行動の弱々しさから予想できた伏し目がちの憂と対面する。

憂「ごめんね、私も働けたら良かったんだけど……」

この数日でわかったこと。それは、憂は働く事が出来ない、ということ。
でも、憂は何も悪くなんてない。事情が事情だったんだ。強いて言うなら……

梓「……仕方ないよ、それは」

そう、それは仕方ないことなんだ――

24: 2012/04/02(月) 04:49:54 ID:T82ZaqEo0


……元々、憂も私と同じように純の家に厄介になる立場。その分お金を入れようとして、そのために一緒にアルバイトを探したことはある。
ただ、コンビニのアルバイト募集を見て履歴書を書こうと筆をとった時……

……
………


憂「……私、普通に書いていいのかな?」

梓「え?」

憂「だって、私は……」

梓「……ああっ!?」

すっかり失念していた……というか、考えたこともなかったけど、そうだ、戸籍上は『平沢 憂』は氏んでいるんだ。
部屋を借りる時は運よく純の名義だけで良かったけど、アルバイトとなるとそうはいかない。住所、保護者の存在を確かめられるかもしれないし、そもそも名前で気づかれるかもしれない。
後者は稀だけど、前者のような最低限の確認くらいは求められてもおかしくない。
というか、もしかしたら部屋を借りる時に何も言われなかったのも、純か純のご両親の口利きがあったのかもしれない。
要するに、今まで何事も無かったのはただの幸運。そしてこの先、そんな幸運だけに縋って乗り切れるような事は滅多にないだろう。

……つまり、基本的に『故人』となっている憂の居場所は……この社会には、あまりにも少ないと考えたほうがいい。
就職も進学も、アルバイトすらもおそらく今の憂には叶わないんだ。もっと言うなら『平沢 憂』という名であることさえ……

梓「………」

それがどれだけ肩身が狭いことなのか、私には想像すらつかない。そんな不自由、私の想像の範疇を超えている。

憂「………」

けど、その現実によって憂が打ちひしがれ、青ざめているという事実を前にして何もしないわけにはいかなかった。
誰だってそう思うだろうけど、真っ先に動かなければいけないのは恋人である私の義務。

梓「……憂」

憂「…梓ちゃん?」

そっと憂の手を包み、目を見つめて囁く。これは恋人の権利。
本来なら抱き締めたりするべきなのかもしれないけど、この前みたいな状態でもない限り私のほうが背が低くてイマイチ格好つかないし……それに、なかなか勇気がいるし。
もちろん、勇気がどうとか言っていられる状況じゃないときは迷わないつもりだけど。でも今はきっと行動よりも言葉が必要なはず。

梓「……ごめんね、憂」

憂「……え?」

梓「…また、憂に家事ばかりを押し付けることになっちゃうかも」

事情が事情だし、無理して働かなくていいよと本当なら言いたいけど、そう伝えたところで憂の表情が晴れるわけがないのは明白だから。
だから、大学とアルバイトで家にいない私達の分の家事を私達からお願いする。その分、憂の家賃は免除、あるいは私が出す。
そういう体裁を装うことにしよう、と。そう暗に伝えたかったんだけど、わかってくれるかな…?

憂「……それで、いいの?」

梓「うん。純も説得してみせるから」

憂「…純ちゃんなら、事情は汲んでくれそうだけど」

梓「もちろんそれならそれでいいよ。でももし万が一の事があったとしても私が何とかする」

だって、私は憂と一緒にいたいから。お互い気後れしない、心休まる時間を過ごしたいから。
だって、私は憂の恋人だから。だから、


梓「憂のことは、私が守るから」


………
……

25: 2012/04/02(月) 04:55:05 ID:T82ZaqEo0


……とまぁ、そんな恥ずかしい事を真顔で言っちゃった日もあったわけだけど。純も憂の言った通り、二つ返事で了承してくれたわけだけど。
それでもその時から気持ちは何一つ変わってない。だから憂にも負い目を感じて欲しくない。

梓「……言ったでしょ? 役割分担だってば。憂こそ…つらくない?」

憂「家事自体は慣れてるから。梓ちゃんこそ……」

梓「私だって、バイトくらいで抵抗は感じないよ。それが憂のためになるなら尚更」

憂「私も、梓ちゃんのために部屋はいつも綺麗にしておくから!」

梓「……うん、きっとそれでいいんだよね」

憂「えっ?」

梓「お互いにお互いを想ってやってることなんだから、私も憂も胸を張らないといけないんだよ、きっと」

相手の為に、相手が気負うことがないようにと頑張る。
それはとても尊い感情のはずなんだ。尊い意思のはずなんだ。

憂「……そっか。「押し付けてごめんね」なんて言い方は、相手の気持ちを踏み躙るようなものなんだね」

梓「うん。私達は二人とも嫌々やってるわけじゃない。ちゃんと相手を好きだから代わりにやってるんだ、って」

互いに負い目を感じるんじゃなくて、互いを思い遣りたい。
きっと世間の夫婦というものも、そういう風に成り立っているんだと思うから。

……って、夫婦に例えるなんて私……なんか、もう、だいぶ舞い上がってるというか、思い上がってない!?

憂「……? 梓ちゃん、顔赤いよ?」

梓「な、なんでもないですよ!?」

憂「なんで敬語?」

梓「バイトのための特訓だよ」

憂「そ、そう?」

梓「うん。じゃあ行ってくるね!」

憂「いってらっしゃい。がんばってね」

憂の声を背にドアを開け、一度だけ振り返る。そこにはもちろん、笑顔で手を振る憂の姿がある。
……やっぱ新婚夫婦みたいじゃないかな、これ。

26: 2012/04/02(月) 04:58:10 ID:T82ZaqEo0


【#10】





純「――えー、そうなの?」

  「そうだって。超マジ。今度一緒に行かない?」

純「んー、ヒマな時ならね。基本的に忙しいの、私」

 「えー? 彼氏?」

純「それは禁句」

 「あっはっは」

……鈴木純は不思議な個性を持っている。
基本的には『世渡りが上手い』部類に入るだろうか。滅多に敵を作らず、一部の親密な関係の友人と、浅く広く接する友人の二種類をちゃんと持っている。
彼女の対人対話能力の高さは折り紙つきだ。事実、ここの大学でも既に広く浅く多くの友人を作っている。

平沢憂のように技術、能力に秀でていて、それでいてそれらを鼻にかけない人間性から好かれるわけでもなく。
中野梓のように真摯に物事に打ち込む健気な姿勢を応援されながら好かれ、見守られるわけでもなく。

二人に比べ一見してわかるほどの長所は無いにも拘らず、二人と変わらぬ輝きを放っていた。それが鈴木純という少女だ。
話せばわかる不思議な魅力を持ち、それでいて話すことを苦と思わせない態度と取っ付き易さも併せ持つ。それらは決して相手に壁を作らせずに言葉を引き出す。
それを誰に対しても行え、そして実際に誰に対してでも行う。その行動力までもを含めた個性が、彼女の彼女たる所以なのだ。

そうして中学時代と高校時代を過ごし、その中で特に息の合う友人を見つけていく。それが彼女のやり方『だった』。
彼女は大学ではそんな位置の友人を作るつもりはない。既に目の離せない大事な友を二人も抱えているから。
勿論それは人付き合いに優劣をつけ、優先順位を考えて行動するということになるのだが、相手にそれを匂わせず可能な範囲で適宜補っていく器用さも彼女の長所だ。

ともあれ、そんな世渡り上手な彼女は大学生活も上手く乗り切っていくのだろう。
本人にその自覚はないが、彼女をよく知る親友二人はその点は心配していない。

純「……ん、と……」

……だが、彼女はそんな二人のことが心配でたまらない。
彼女は暇を見つけては動き回っている。大学の設備と人の多さ、そして自分の交友範囲の広さ。それら全てを活用して情報を集め続けている。
親友二人の幸せのために。彼女自身の願いのために。彼女は今日も駆け回り、捜し求める。


――『ドッペルゲンガー』についての情報を。

27: 2012/04/02(月) 05:00:40 ID:T82ZaqEo0
>>26
あれ、「がズレてる

28: 2012/04/02(月) 05:01:50 ID:T82ZaqEo0


【#11】





梓「――疲れた……」

アルバイト初日を終え、制服から着替えて「お疲れ様でした」と挨拶して店を出て。そのまま真っ直ぐ帰路へつきながら今日の仕事内容に思いを馳せてみる。
仕事自体は楽といえるほどではないけど、苦痛ってほどでもない。一人でも続けられる範囲かな、と思った。同僚も変な人はいなさそうだし。
シフトは大体朝から夕方少し手前まで。お金は欲しいから勤務時間は長めに取ってもらっているけど、それでもこの調子だと純より早く帰れる日がほとんどじゃないのかな。

……つまり、家に帰れば憂と二人っきり。

梓「……べ、別に変なこと考えてるわけじゃないんだけどね!」

想像するだけで誰にでもなく言い訳をしてしまう程度には頬のニヤけが止まらない。特に何もなくても、両想いの恋人と二人っきりの時間を想像するだけで幸せだ。
もちろん純も純で大事な存在で、一緒にいられて幸せだけど、やっぱり少し質が違う。というか違わないと憂にも失礼だ。

だったら、やっぱり私達は二人っきりの時間と三人仲良く過ごす時間を使い分けないといけない。
三人の時はいつも通りやればいいとして。じゃあ二人っきりの時は……何をすればいいのだろう?

梓「……あれ?」

もちろん私だって年頃の女の子だ。恋人関係の二人がすることに対する知識くらいはある。きっと最低限だと思うけど、それでも知識はある。
だから問題は、いろいろ思い描くことはできるけど恋人として実行している『自分の姿』が想像できないこと。
恋人らしい流れで恋人らしいことをする。その段取りが全く想像できない。
現実はマンガとか小説とかみたいに上手くいくとは思えない。それくらいはわかってる。
だからリアルな体験談とかで予習しておきたかったけど、つくづくそういう系統のガールズトークとは無縁だった。軽音部でも、クラスメイトとの会話でも。

……実際のところ、当時はこの恋が叶うことはないと思っていたからそっち方面の話題なんてむしろ出なくてホッとしていた位だったけど。
偶然なのか必然なのかはわからないけど、そうして逃げ半分で恋愛より音楽に傾倒していた学生時代のツケが回ってきた、ということなんだろうなぁ……

梓「………」

住んでいるマンションが近づくにつれ、不安になる。

私は憂の恋人だ。憂も私をちゃんと好きでいてくれるし、私も憂を好きな気持ちは揺らがない。
でも、私はちゃんとその気持ちに応えた行動ができるのだろうか。憂のしてほしいことをしてあげられるのだろうか。
……そもそも、憂の気持ちを汲んであげられるのだろうか。察してあげられるんだろうか。

梓「…出来るように、なりたいな」

心から、そう思う。
それくらいには憂の事が大好きで、それくらいには今の私は何も出来ない。

29: 2012/04/02(月) 05:05:33 ID:T82ZaqEo0


梓「――ただいまっ」

憂「お帰り、梓ちゃん」

不安を隠し、極力自然に見えるようにドアを開き挨拶する。
小走りで奥の部屋から出てくる憂は、朝と何も変わらず可愛い。

憂「どうだった? 疲れたでしょ?」

梓「ん、まぁ…ね。でも一日はまだまだこれからなんだし、疲れたなんて言ってないで何かしたいよ」

これはアルバイトをすると決めた時から常々思っていたこと。
あくまで生活のためのアルバイトなんだから、それだけを人生にしちゃいけない。働く意味は食い繋ぐ為でも、生きる意味はそれじゃいけない。
学生時代に学校から帰ったあとに何かしていたように、これからも変わらず自分の為の何かは続けていきたい。
私としてもそう思うし、憂も純も間違いなくそれを望んでる。

憂「じゃあお風呂もご飯も後でいい?」

梓「うん。そのあたりは話し合った通り、純を待とうよ」

憂「そうだね。特にご飯」

梓「先に食べたら追い出されかねないからね」

憂「もー、梓ちゃんったら」アハハ

……ヤバい、憂可愛い。その控えめな笑い方は本当に大好き。
いつもとそこまで変わらない会話だけど、それでも私が憂を見る目は明らかに今までとは違う。特に純が大学とかで家におらず、二人っきりになった時は。
……変な意味じゃなくって、恋人の可愛いところなんていくつあっても困らないでしょ?

憂「……梓ちゃん? どうしたの?」

梓「ん、いやぁ、憂可愛いなぁって」

憂「ふぇっ!?」

梓「あっ!? い、いや、ごめ、別に深い意味は……」

……なんか最近、本音がポロポロ零れ落ちやすくなってない? 私……
まぁ、ずっと胸の内に抑えこんできた想いを隠す必要がなくなったんだから当然かもしれないけど……

憂「あ、梓ちゃんだって可愛いよっ!」

梓「うぁ、ぁ、ありがと……」

憂「………///」

梓「………///」

予期せぬ口撃と予期せぬ反撃で互いに真っ赤になってしまい、なんとも居心地の悪い沈黙が続く。
こういう時に何と切り出せばいいのかわからないあたり、やっぱり私には経験が圧倒的に足りてない。

梓「さ、さて! 何しよっか、憂」

憂「えっ!? な、何って……何?」

梓「え? えっと……ギターでも弾く、とか?」

憂「あっ……あぁ、そっか、そうだね…」

強引に話を最初に戻したらすごくガッカリそうな顔をされた。
これは……もしかして? 勘違いだったら恥ずかしいけど、まさか……

梓「あっ、あのさ、憂!」

憂「な、なにかな?」

梓「も、もしかして、恋人らしいこと、とか、してほしかったり……した?」

憂「うっ……///」

再び顔を真っ赤にして、少し悩んだあとに俯くように頷く。
そんな憂がすごく可愛くて触れたくなるけど、危惧していたとおり、憂の望むものを読み取れなかった私にはきっとその資格はない。

30: 2012/04/02(月) 05:06:27 ID:T82ZaqEo0

梓「……ごめんね、憂。察してあげられなくて」

憂「い、いいよそんな、気にしなくて!」

梓「……でも私は憂の、こ、恋人なんだし。そのへんはちゃんとしたいって、いつも思ってるのに…」

憂「それは…梓ちゃんだけが背負うことじゃないよ。私だって……梓ちゃんの恋人なんだよ?」

梓「う、うん……」

憂「……それなのに、こうして梓ちゃんを困らせちゃってる。私も…どうすればいいか、よくわからないの」

そういえば、付き合うことになってから憂からのスキンシップが極端に減った気がする。
それは憂も私との距離の取り方に戸惑っている、ということかもしれない。
そして、憂も私と同じような悩みを抱えているということ。私と同じように、相手の事が恋人として本当に好きだから、大切だから臆病になってしまってるんだ。

梓「……あはは。上手くいかないね…」

お互い本当に好きなのに、好き同士なのにすれ違う。それはとても悲しいこと。

憂「……それでも、私は世界で一番梓ちゃんが好きだよ」

梓「……私だって、憂を好きな気持ちは誰にも負けないよ」

憂「この気持ちは何があっても、一生、氏ぬまで揺らがないよ」

梓「私だって憂以外の人を好きになることなんて絶対にない。約束するし、誓うよ」

ずっと憂を好きでいたいし、ずっと憂に好かれていたい。
そして、ずっと憂にも同じ想いを抱いていて欲しい。

憂「私達の想いは、ぜんぶまるっきり同じだよね?」

梓「うん。そうだよ。恋人なんだから」

恋人というのは、そうでないといけない。そうであってほしい。そうじゃないと安心できない。
思うことは、いろいろあるけど。


憂「……だったら、急がないでも大丈夫なんじゃないかな?」


結局のところ、それだけの話なのかもしれない。
もちろん恋人としてしたいこととかはたくさんあるけど、だからといって急ぐ必要は全く無い。

……だって、私も憂も、一生共に添い遂げるつもりなんだから。

梓「…そう、だね」

わからない私でいい。わからない憂でいい。わからないくらいで互いを嫌いになったりなんてしないから。
等身大の私でいればいい。ただ一つ、ずっと憂のことを好きでいるだけでいい。それだけで……私は憂の恋人でいていいんだ。

憂「…ね?」

そう気づかせてくれた憂は、私の恋人は、目の前で素敵な笑みを浮かべている。
憂自身も不安だっただろうに、私を安堵させるための答えを一緒に探してくれた。
そんな、笑顔が素敵で優しくてあたたかい、何物にも代え難い私の大事な恋人、平沢憂。



……憂。

……憂に。


触れたい。


触りたい。


……そんなことを、ふと思った。



梓「……ねぇ、憂……」

憂「……あ、梓ちゃん…?」

左右から両の二の腕を掴み、引き寄せようとする。
憂は少し不安げな視線を向けるけど、それさえも可愛い。

梓「……キス、したい、かも」

憂「えっ!?」

梓「今度は、私から」

最初のキスは告白代わりの憂からのものだった。もちろん臆病な私達はあれから一度もしていないけど、今は無性にしたくてたまらない。
今、憂のことが愛しくて愛しくてたまらない。

……慌てる必要なんてないって思い知った瞬間にこんなこと考えるなんて、自分でもどうかと思うけど。
でも、私は慌ててはいない。急いでなんていない。焦った行動じゃない。自然と溢れ出た想いなんだ、これは。

梓「……いい?」

憂「っ、う、うん……///」

頬を朱に染めた憂が目を閉じ、軽く俯く。
背の低い私に対する気遣いなんだろうけど、実際のところこうして向かい合ってみるとそこまで致命的な身長差でもない。
……私から抱き締めても、そこまで不自然に見えたりしないのかな。だってほら、今もこうして軽く背伸びするだけで……憂の唇が目の前に。

梓「ん……」

憂の肩に手を置き、少し体重をかけて顔を近づける。
ゆっくりと、唇を近づけ。重なる、その瞬間。



純「うぉーーっす! 帰ったぞーーー!」ガチャ


梓「」
憂「」

31: 2012/04/02(月) 05:08:56 ID:T82ZaqEo0



純「――いや、せめてもっと奥の部屋でやりなさいよ、見られたくなければ」

梓「うっ……正論だ」

玄関からさほど離れていないところで会話し、イチャつき、キスしようとしていた私達は純に説教されていた。
いや、でも仕方ないって。だって憂がトテトテと迎えに来てくれたんだもん……嬉しいじゃん、お出迎え。

純「ま、イチャイチャ禁止なんて言うつもりはないんだけどね。私が悪いみたいな目で見られたらそりゃイヤだけど」

憂「…ごめん」

梓「ごめんなさい」

純「よろしい。まーでも確かに難しい問題だ。なるべくカップルの時間はあげたいけど……」

梓「あっ、それは……えっと、私なりにちょっと考えたんだけど」

純「んー?」

梓「何て言うか、三人でいる時は昔みたいに普通に三人でやれたらいいなって思うんだけど……」

憂に目配せすると、柔らかに微笑まれる。
この件は別に憂に相談したわけじゃなくて私が一人で考えたことなんだけど、きっと憂も同じ意見なんだろう。
私と同じくらい、助けてくれて巡り合わせてくれた純に感謝してるんだろう。純を除け者にしてイチャつくなんて考え付かないくらいに。

梓「純と一緒にいられる時間も、大切にしたいんだ」

純「……なんか、気を遣わせちゃってるみたいだね」

梓「そうじゃないよ!」ダンッ

純「うぉぅ、びっくりした」

梓「ごめん。でも本当にそんなのじゃないよ。純には……えっと、なんか、今更言い辛いんだけど……私、感謝してるから」

言い辛くても、ちゃんと言わないといけない。
ずっと言いそびれてた、感謝の言葉を。

梓「……純。ずっと支えてくれて。見捨てないでいてくれて。あの時見つけてくれて。そして、憂との仲を取り持ってくれて、ありがとう」

純「…………」

梓「……純?」

純「梓、あんた熱でもあんの?」

……そうだね、そういう奴だねあんたは。

純「冗談だってば。まー、そう言われるとちょっとは報われた気分にはなるけどさ。でも見返りが欲しくてやった事じゃないよ?」

憂「そんな純ちゃんだから一緒に居たいんだよ? 私も、梓ちゃんも」

梓「そうそう」

純「あー、うん、わかったわかった。憂もそっち側なら私に勝ち目はないよ」

両手を挙げて降参のポーズをとる純。勝ち目って何よ、と思わないこともないけど、確かに憂の存在はいつも大きい。
どちらかといえば一歩引いた感じで常に誰かを気にかけていて、困っていたら迷わず手を差し伸べる。その手を拒むことは何故か誰にも出来ない。
そんな憂の優しさに助けられた人は多いから、憂の諭すような『説得』というものはとても大きな力を持つ。どんなにシンプルな言葉でも心に響く。
……自慢の恋人だよ、ホントに。

純「要するに、変に意識しないで普通にやれ、ってことね」

梓「うん。私達の時間は私達でちゃんと考えて作るから、純は何も気にしないで」

純「ははっ、言うようになったね、梓」

梓「……無理だと思う?」

純「まさか。やる時はやる奴だし。梓は」

そう言って屈託なく笑うその顔は、私の決意を後押ししてくれる。
そして、そう言いながらもフォローも忘れないのが純だ。

純「…ま、どんな形でもなんだかんだで上手くやれると思ってるけどね、私達ならさ」

梓「……そうだね、それはそうかもしれない」

憂「……こんな私の事も受け入れてくれた二人だもん。何があっても、ずっと一緒にいられるよ」

純「ちょーっと重い言葉な気もするけど、結局はそういうことなのかもしれないね」

梓「そうだね……」

ドッペルゲンガーだろうと、ちゃんと憂が憂のままなら構わない。私はそう言った。
憂が好きで、純が大切で。そんな私の感情に『ドッペルゲンガーだから』という理屈なんて入り込む余地はない。

たとえ純が明日ドッペルゲンガーになっていたとしても、私がそうなったとしても、私達の関係は何も変わらないだろう。
有り体に言えば大切なのは中身で、心なんだ。人とのふれあい、友情、愛情、絆というものはそういうもの。

憂「……ありがとう、二人とも」

純「いえいえ、こちらこそ」

梓「うん、こちらこそありがとう、だよ、憂。そして純」

32: 2012/04/02(月) 05:10:44 ID:T82ZaqEo0



――互いを大切に思い遣る私達の関係は、絶対に終わらない。私達の誰もが、そう信じて疑わなかった。

でも、それでも周りは変わっていく。小さなところは変わっていく。私達の在り方の『核』を包むモノが、少しずつ変わっていく。
時が流れ、周囲の環境が変化する以上、それは仕方がなくて、どうしようもないこと。
そんな中で互いを思い遣る私達に出来ることは、その変化を良い方向に持っていくことだ。

良い方向に変わろうと努力する。それは私と憂の関係にも言えるし、純を含めた三人にも言えることだった。

33: 2012/04/02(月) 05:14:36 ID:T82ZaqEo0


【#12】


――アルバイトを始めてから二週間くらい経った頃。

私と憂の仲は実にゆっくりと進展していて、ようやくデートで『自然に』手を繋げたくらい。
……デートとハッキリと口にしたわけではないし、手も自然に繋げたような『気がする』って程度に私の主観に満ち溢れたものだけど。

帰宅後の純のいない時間はいろいろなことを試してみた。自分の本当にやりたいこと、それを探して。
憂も一緒にいろいろ真剣に考えてくれて、そのせいかこの前みたいに異様なほどキスしたい衝動に駆られることは無かった。
……少しくらいならいつも思ってるんだけどね。でもタイミングが掴めません。

純が帰宅したらお風呂に順に入ったりみんなでご飯を食べたりしながらしょうもない雑談に花を咲かせる。
純が大学で仕入れたくだらないネタとか、憂がテレビで見かけた豆知識とか、私が見聞きしたコンビニ周辺の事情とか。三者三様の過ごし方をしているから同調することが難しい反面ネタは尽きることがない。
そうして適当に喋って、適当に切り上げてみんなで一緒に寝る。そんな夜が過ごせることを誰よりも純に感謝する。滅多に言葉にはしないけど。

アルバイトの休みは極力土日に貰おうとしてるけど、どうしてもズレてしまうときもある。そういう時は憂と二人っきりの純にヤキモチを焼きかけたり、でもそのぶん純が大学に行ってる日に一日中憂と一緒に居られたりして。
で、純が帰ってきたらからかわれる。からかいの中に、私達二人を見守る優しさを覗かせながら。


そんな『日常』にようやく馴染み始めた頃、私達は少しずつ、それぞれが向き合わなければいけないものを意識していく。



梓「――ただいまー。……ういー?」

『いつものように』アルバイトを終えて帰宅したはいいけど、今日は憂のお出迎えがない。
疑問に思いながらも靴を脱ぎ、奥の部屋へと歩を進めると。

憂「……すぅ……ん…」

テーブルに突っ伏して眠る憂の姿があった。
暖かくなってくる季節だし、風邪をひくことはないと思うけど……それよりも憂の居眠りは単純に珍しかった。

梓「……疲れてるのかな…?」

「たまには代わりにやろうか?」なんて言うわけにはいかない。憂に変な気を遣わせてしまう。
でも、疲れてるなら労わってあげたい。例えば憂が私を毎日見送って、出迎えてくれるように。憂を好きな私になら出来る事が何かあるはず。
……一緒に料理するとか、たまには外食するとか、いろいろ方法はあるはず。考えておこう。

それにしても……

梓「……可愛い」

寝食を共にしている以上、寝顔自体は見ているしきっと見られていると思うんだけど、そういう時に見る顔よりもどこか可愛く見えるのは居眠りを眺めてるというシチュエーションのせいかな。
……寝てる間に唇を奪うなんてしないよ。ホントだよ。

梓「………」

というわけで(?)、そっと頭を撫でてみる。
髪に触れるというのではなく、頭を優しく撫でるだけ。髪に触れるのは……こう、ちょっとやらしい意味を含む時もあるって聞いたし。
というわけで束ねた髪に触れない範囲で頭頂部周辺をなでなでと、三度くらい往復した時だった。

憂「……っ…ん…?」

梓「あ、ごめん、起こしちゃった?」

憂「…あずさ…ちゃん?」

頭を起こし、私の顔を見てから周囲を見渡して、壁にかけられた時計に目をやる。
ちなみにこの時計は純の部屋にあったものらしい。どうでもいいけど。

憂「……ごめん、寝ちゃってた…」

梓「いいよ、そういう日もあるって。私としては珍しいものが見れて嬉しかったし」

憂「……何かヘンなことした?」

梓「してないよ!?」

あはは、といつものように笑う憂。よかった、特別何かがあったわけではなさそうだ。

34: 2012/04/02(月) 05:19:04 ID:T82ZaqEo0

梓「……もうちょっと寝ててもいいよ? 静かにしとくから」

憂「ううん、梓ちゃんが帰ってきたなら起きないと」

梓「ん……えっと、何て言うか――」

憂「あ、そういう意味じゃないんだよ? 寝てたのも…ちょっと、退屈すぎてだったし」

「疲れてるんでしょ?」とは言い出せなかった私の先を読んで憂が告げる。
無理をさせてるわけじゃなかったことには安心するけど……

梓「退屈……?」

憂「うん……テレビ見るくらいしかすることなくて」

梓「そっか……」

唯先輩を起こして家事をしたり、お母さんを起こして家事をしたりしてから学校へ行く。帰ってからも手早く夕食の準備をしたりするのと平行して勉強もこなす。
そんな生活サイクルを繰り返していた憂は、きっと手早く家事を済ませるコツを心得ているんだと思う。
でも今となってはそれ故に時間が余ってしまって、退屈で寂しい時間を過ごしてしまっている。そしてそんな時間を感じるくらいなら働きたい、と思っている可能性も否めない。

……そしてそれは、もう一度憂が私に『働かせている』という負い目を抱いてしまう可能性を示している。
それでなくとも、退屈と思ってしまうような毎日では憂が可哀相だ。憂にも充実した毎日を送ってもらいたい。
でも、なんとかしようにも私はアルバイトで家にいない。私達の当面の問題はそこかもしれない。


……しかし私は、それの答えをもう持ってるような気がする。


梓「……憂はさ、したいこととかないの?」

憂「……梓ちゃんと一緒にいたい」

か、可愛いなぁもう!

梓「ってそうじゃなくって、ね? 将来の夢とかそういうの」

憂「……梓ちゃんのお嫁さん」

あーーーもーーー可愛いなあああぁ!!

梓「って、ワザとやってない?」

憂「えへへ♪」

梓「もう、マジメな話なんだから……」

憂「ごめんごめん。でもマジメにそう思ってるよ?」

梓「私だってそう思ってるけど…でもそういう話じゃなくて」

憂「うん……梓ちゃんは、やっぱり音楽?」

梓「…そうだね。やっぱりギターの練習をしてるときが一番頑張ってるって感じがするし」

料理、勉強、運動、読書やオシャレ。憂と一緒にいろいろしてみたけど、やっぱりギターが一番性に合ってるらしい。
小学生のころからやってきた事が身体に染み付いてるだけかもしれないけど、それでも私はその瞬間が一番満ち足りている感覚がある。

梓「憂は、そういうのなかった? 私と一緒にやってるときに」

憂「……わかんない。梓ちゃんが喜んでるのが一番嬉しいよ、私も」

梓「……憂は生粋のお世話体質だよね。嬉しい言葉ではあるんだけど」

きっと唯先輩やご両親にもそんなノリで世話を焼いていたのだろう。
面倒見がいいという憂の長所がそこから来ているのはいいことだと思うけど、自分のことはどうなのか、という心配もたまにしてしまう。
唯先輩やご両親がいた時は、逆に私や純との時間を自分らしくいられる息抜きの時間として使ってくれてたと思ってたんだけど。

……あぁ、そっか、結局は私がしっかりしてないからこうなっちゃうわけだ。
でも大丈夫。少なくともこの件に関しては、もう憂の手間は取らせない。

35: 2012/04/02(月) 05:22:09 ID:T82ZaqEo0

梓「私は、しばらくは音楽の道を追ってみようと思うよ」

憂「……やっぱり、それが夢ってこと?」

梓「そうなるかな。それに、やっぱりそれが私らしいと思うし」

そう断言すると、ある程度予想していた答えが憂の口から漏れる。

憂「……いいなぁ」

その一言には、きっと私の想像より多くの意味が込められている。
でもおそらく一番重い意味は、憂がどこかで『自分は夢を追う事は許されない』と思ってしまっていることじゃないか、と思う。
……ドッペルゲンガーだから、働けもしない存在だから、人並みの夢を見ることは許されないのだと諦めてしまっている。

もしかしたらその諦念の先で、自分の夢も見失ってしまったのかもしれない。
頑張る私を見続けることで、自分のことから目を逸らし続けていたのかもしれない。

……そんな憂に、今一度本来の夢を思い出して、なんて言ったところで無駄だろう。


でも、そんなこと言う必要さえないんだけどね。


梓「じゃあ、憂も憂の夢を追おうよ」

憂「…え…っ? で、でも……」

梓「私は知ってるよ、憂の夢」

憂「え――ひゃっ!?」

疑問符を浮かべてばかりの憂を、意を決して抱き寄せる。
胸で受け止めるっていう格好にならないのはやっぱりちょっとカッコ悪いけど、それでも想いは伝わるはず。
そこからさらに右手を伸ばして、憂の後頭部にそっと添えてから囁く。

梓「……憂は、私と一緒に居たいんでしょ?」

憂「っ……」

梓「ちょっとズルいけど、二人の夢にしちゃおうよ、音楽」

憂「……そうすれば…ずっと一緒にいられるから?」

梓「うん。憂の夢と私の夢、そして二人の夢。三つ全部を同時に追える、素敵な方法だと思わない?」

憂「ん………あれ? でもその場合、梓ちゃんの夢って…?」

あー、言わせますか、それ。ちょっとは匂わせたのに察してくれないんですか、憂さん。
それとも……聞きたくてしょうがないのかな。私の口から、ちゃんと言葉にして。

梓「……憂と一緒にいたい。憂のお嫁さんになりたい。……そんなところ、かな」

憂「っ…!」

梓「……だめ?」

憂「……だめなわけ、ない…っ!」

言葉と同時に、今度は憂のほうから抱き締められる。というか密着した状態から逆に力を入れられた。ぎゅっと、憂らしくないほどに力強く。
いつもの憂の気遣いはそこにはなくて、ただただ私を離さないように、離したくないという想いだけを込めるかのように腕が私を締めつける。
正直少し驚いたし、痛くないわけじゃないけど。それよりも嬉しかった。嬉しくないわけがなかった。その力の強さが、そのまま憂の私に対する想いの強さなのだから。

憂「……好き。だいすき、梓ちゃんっ…!」

梓「憂……んっ!?」

憂「っ…ちゅ、っ……」

……憂を安堵させることが出来た喜びに浸っていると、唐突に憂のほうからキスされた。
憂との2度目のキス。あたたかい時間。1度目よりもちょっとだけ長く唇を重ね合って、してきた時と同じように憂のほうから離れる。

憂「……えへへ。ごめんね、つい……したくなっちゃって」

梓「っ……///」

……まぁ、その気持ちはわかるよ。私もこの前、キスしたくてしょうがなかったし。
うん、気持ちはよくわかるんだけど、私のほうばかりされっぱなしというのは…ちょっと悔しい、かな。
悔しいといっても幸せだし憂が可愛いから別にいいんだけど。でも心の中で純に文句だけは言っておいた。

36: 2012/04/02(月) 05:23:07 ID:T82ZaqEo0





純(――なんかどこかで八つ当たりされたような気がする!)キュピーン

 「? どうしました? 鈴木さん」

純「あ、いえ、なんでもないです、教授」

 「そうですか」


――鈴木純。中途半端に勘のいい少女。

37: 2012/04/02(月) 05:24:18 ID:T82ZaqEo0


【#13】





――翌日。カレンダーの上では土曜日にあたる今日、運良く私はアルバイトは休みだった。
純も授業自体は休みのようだけど、調べ物があるとかで一応大学まで足を運ぶとのこと。大学生は大変らしい。
……まぁ、特に待ち合わせとかしているわけでもないようで、当人はいまだにイビキかいて寝ているんだけど。

憂「……梓ちゃん、朝ごはんどうする?」

梓「…純が起きてからでいいんじゃない?」

憂「そだね」

梓「………」

……さて、どうしよう。今日これからの予定もだけど、純が寝ているこの時間に私は憂とイチャイチャしていていいのだろうか、というほうが当面の問題だ。
イチャイチャなんていうけど特別恋人らしいことをするのは純が起きて来た時気まずいし、そもそもそこまでの勇気がある私じゃなかったりするわけだけど。

憂「………」

梓「………」

でも、この中途半端な時間はどうしても互いに意識してしまって、こう、モジモジしてしまう。
っていうかこれはこれで気まずい。どうにかしよう。キスする? いや、いきなりそれは無理かな……
と、悶々としていると。

憂「……梓ちゃん、電話鳴ってない?」

梓「……鳴ってるね。なんか……ごめんね?」

憂「ううん、大丈夫。それより出ないと」

梓「うん―――っ!?」

着信を知らせる携帯電話。そのディスプレイに表示された名前を見て、一瞬息を飲み、動きが止まる。
相手は予想だにしていなかった人物。いや、私が予想しようとしなかっただけ? 可能性は充分にあったはずだ、この人なら。
だとしたら、やっぱり私が避けていた、という事になるのだろうか。実際、電話に出るのに勇気が要る。

かつて尊敬し、その背を追い。なのに失意の底に沈んだ私は、ずっとその人の言葉に耳を貸そうとしなかった。
……その人の、その人達の電話を、無視し続けた。優しさを拒み続けた。
一度拒んでしまえば、後はなし崩し。もし仮に後から向き合おうとしたところで、『一度は拒んだ』という罪悪感があるために一歩を踏み出せない。人間とはそういうもの。

私だって例外じゃない。自分を取り戻した時に、あの人達の事が頭に浮かばなかったわけじゃない。
でも、いかんせん時間が経ちすぎていた。とっくの昔に電話は鳴らなくなっていたし、今更電話をかけてくれるとも思っていなかった。
私自身、とっくの昔に見捨てられていると思っていた。そうであってほしかった。お互いのためにもそれがいいと思っていた。

……わかってた。それはただ、私が頭を下げるのを恐れているだけだって。
わかってた。優しいこの人達が、私を見捨てたりなんてするはずがないって。

ごめんなさい、先輩達。ごめんなさい――


梓「みお、せんぱい……!」

38: 2012/04/02(月) 05:26:57 ID:T82ZaqEo0


――意を決し、通話ボタンを押す。これは私の責だ、逃げることは許されない。
状況は掴めていないはずだけど憂も空気を読んで席を立ってくれた。向かい合うしかない。

梓「……もしもし…」

澪『……梓。良かった、出てくれて』

電話口から聞こえる、変わらない澪先輩の声。あの時は聞こうともしなかった、考えすらしなかった声。
身近にいてくれた純のことさえ視界に入らなかった私だから、遠く離れた先輩達のほうに気が回るわけがないとも言えるけど、それでも全ての原因は私の弱さ。罪悪感が無いわけがない。

梓「……ごめんなさい。迷惑かけました、よね」

澪『……いいよ、気持ちはわかる。私達だって…動けなかったんだから』

「動けなかった」、その言葉が意味するものは精神的なものなのか、行動的なものなのか。
それを問い詰める理由も意味も権利も、私にはない。

梓「……すみません。本当に」

澪『………』

沈黙のあと、電話の向こうから溜息がひとつ聞こえた。
私に呆れたような溜息ではなく、話を仕切りなおすかのような、私に聞かせる溜息。

澪『……そういえば、梓は今どこで何してるんだ?』

梓「……N女とはちょうど逆方向の隣町で、フリーターです」

澪『……そうか』

梓「…失望しました? それとも…やっぱり、怒っていますか?」

澪『いいや。ちゃんと生活しているならそれだけで嬉しいよ』

「二度と声が聴けないような事になっていたら怒ったし失望したけど」と付け加える澪先輩。
臆病な一面もある人だけど、いつも真面目で優しく面倒見がいい立派な先輩だ、本当に。

澪『……もう、大丈夫?』

梓「……はい。少なくとも、あの時のようにはなりません」

なるわけがない。憂がいるんだから。
でもそれを伝えるわけにはいかない。勿論この人達なら私を疑いはしないし憂も受け入れてくれるのだろうけど、それでも伝えるべきじゃない。余計な波風を立てるようなことは避けるべきだ。

……というのはきっと建前。
恐らく私は、憂が羨望の目で見られることを恐れて、危惧しているんだ。

……だって、先輩方も唯先輩を失っているのだから。
そんなところに憂が生き返った、なんて告げたら「どうして憂ちゃんだけが」となるのは目に見えている。
優しい先輩達はそれを口にはしないだろうけど、それでも憂のことを教えたところで物事が良い方向に転がるとは思えない。
憂のことを妬み、嫉むとまではいかなくても、憂と私のことを羨むだろうから。そして、唯先輩を求めてしまうだろうから。
もちろん私だって唯先輩には戻ってきて欲しいけど……でも、こんな奇跡が再び起こるとも思えないし。

変に期待を抱かせないという意味でも、きっと黙っておくべきだと思う。

澪『……ねぇ梓、話があるんだけど』

梓「…何ですか?」

澪『………』

思わず息を飲む、澪先輩の深刻な声色。そしてそこから続く少しばかりの沈黙。
でもその沈黙はさほど長くは続かず、澪先輩はハッキリと私に告げた。


澪『梓。来年、こっちに進学してこないか?』


……ハッキリと、私を誘った。

39: 2012/04/02(月) 05:28:01 ID:T82ZaqEo0

勿論嬉しくないわけがない。それは先輩達からの私への『赦し』であるのだから。
迷惑を、心配をかけておいて連絡も返さなかった私を赦すということなのだから。

私の居場所がまだそこにあるということなのだから、嬉しくないわけがない。

梓「……澪先輩…それは……」

しかし、前述の理由から即答するというわけにはいかなかった。
私はもう憂から離れられないし、離れたくないし離れて欲しくない。でも憂のことを隠し続けたまま澪先輩達とバンド活動を続けるというのはかなり難しいだろう。
それに純にも悪い気がする。いろいろ世話を焼いてくれた純に、私は何一つ返せていない。そのまま澪先輩達の元へ行く気にはなれない。
もっとも、純なら話せば笑顔で送り出してくれるんだろうけど――


  「――誰?」


梓「わっ!?」

電話を耳に当てたまま悩む私に、いきなり反対側の耳元で問いかけたのは純だった。
悩んでいて気づかなかったのと、その悩みの一環の人物だったことがあって二重で驚く。
そして、驚いた後に今度はその真剣な顔色に気圧される。

純「……電話、相手は誰?」

梓「え? み、澪先輩だけど……」

純「代わって」

梓「え、えっ? なんで?」

純「話があるから」

梓「で、でも……」

真剣な顔色と声色に気圧されてるけど、何故だろう、代わってはいけない気がした。
……いや、気圧されているから、か。こんな『らしくない』空気を放つ純に代わってはいけない。嫌な予感しかしない。

澪『……梓? 誰かいるのか?』

梓「あ、はい、純が一緒に。代わってくれって言ってますけど……」

純「………」

澪『鈴木さん、か…。それは…無理だろうな、許してもらえないだろうから』

梓「え?」

澪『…ごめん、今言った事は忘れてくれ。次は梓のほうから電話してほしいな。いつでもいいから』

梓「え? ちょ、澪先輩? 何が――」

澪『待ってるから。じゃあ、また』


急いだように、それでいて願いを込めるように言葉を紡ぎ、澪先輩は電話を切ってしまう。
どうして、そんな申し訳なさそうに言うんだろう。忘れてくれなんて言うんだろう。そして――

純「……今更っ…!」

梓「……純?」


一体、何があったのだろう、二人に。

40: 2012/04/02(月) 05:31:43 ID:T82ZaqEo0


【#14】


純「――別に、そんな深いことがあったわけじゃないよ。あっちにもあっちの事情があったって理解はしてる」

朝食後、片づけを全て憂に任せて席を外してもらい、純の話を聞くことにした。
ちなみに憂に再度席を外してと頼んだのは純だ。どんな意図があるのかはわからないけど、きっと正しいのだろう。

梓「……私には、まるで予想がつかないよ。澪先輩のこと、尊敬してたじゃん」

純「そうだね、尊敬してた。いや……こうして梓に接触してくるあたり、私が尊敬してた澪先輩のままなんだろうと思うよ」

梓「しっかりしてて面倒見がいいからね、澪先輩は」

純「……そうだね。そのはずなんだけど」

梓「……だけど?」

純「……それでも、優先順位はあったんだよ、あの人にも。私はそれが許せなかった」

梓「………」

純「憧れてたからこそ、そんな人であって欲しくなかった。要は私の自分勝手な八つ当たりだよ」

怒った顔ではなく、辛そうな顔で純は告げる。
口だけではなく、頭でもちゃんとわかってるんだ、八つ当たりだと。
勝手に理想を押し付けて、それが違ったからといって失望する。私で言えば唯先輩の時のそれのようなもの。

純「わかってるんだ、唯先輩を失った澪先輩達も梓のように苦しんだことも。そんな中、梓に過剰に構う余裕なんてなかったのも理解してる」

梓「………」

純「でもあの時、電話『だけ』でしかコンタクトを取ろうとしないで、しかもそれが通じなかったのに次のアクションを起こそうとしない。そんな澪先輩が……ちょっとだけ自分勝手に見えたんだ」

そう、電話に出る気にもなれず、電池が切れても充電する気にもなれなかったあの頃の私は確かに音信不通だった。
純に拾われるあの時まで、私は氏んでいないだけの抜け殻のようなものだった。

要は、後輩がそんな状態なのに電話以外の行動をしない先輩達に純は憤っているわけだ。
客観的に見れる今の私なら、それは無理強いだと言い切れる。いや、純本人も今は充分わかってるんだ。
前述の通り、唯先輩を失った先輩達にそんな精神的余裕はなかったって。私が音信不通になっていたことに、何らかの深い意味を見出して気後れしててもおかしくないって。

純「……梓のことを私に任せてくれたんだと思えば、そこまで悪い気もしないけど。でも、私なんかより澪先輩達のほうが、きっともっと上手く梓を助けてあげられたのに…!」

梓「……っ」

……いや、違うかな。
純の感情は、きっと『憤り』なんて一言で表せるものじゃない。表していいものじゃないよね。
こんなにも純に大切に想われている私が、そんな一言だけで表していいはずがない。

梓「……わからないよ、それは」

純「………」

梓「……わからないよ。実際にやってみないとわからないことだよ、それは」

純「…そうかな。澪先輩達のほうが、絶対上手くやれると思うけど」

梓「そうかもしれない。けど、あくまで『かもしれない』の話だよ」

純「でも、絶対にそっちの可能性のほうが高いって」

梓「可能性なんてどうでもいいよ」

そう、どうでもいい。
私にとって大事なことは、もっと他にある。

梓「私は、今の状態に不満なんてないよ。自分の行動に後悔はしてるかもしれないけど、純にしてもらったことに不満なんてないよ」

いろんな人に迷惑をかけた。こうして純に悲しそうな顔をさせた。そのことに対する後悔は無いと言ったら嘘になる。
でもそのおかげで、迷惑を迷惑とも思わない親友の優しさに気づけた。感謝してもしきれない、底なしの優しさに触れることが出来たんだ。

梓「……私の事を思ってしてくれたことに、不満なんてあるわけない。誰が相手でもそれはきっと変わらないから、一番近くにいてくれた純でよかったって、私は思うよ」

純「……そーゆーもんですかね」

梓「そーゆーもんだよ、親友」

そう言って笑いかけると、素早くそっぽを向いてしまう。
頬が赤かったのは見なかったことにしてあげよう。

41: 2012/04/02(月) 05:33:45 ID:T82ZaqEo0

純「……実はさ、澪先輩にもね、私から一回電話したんだ。梓を助けてやってください、って言おうとして」

梓「……それで?」

純「いや、出なかったんだけどね。でも澪先輩のことだから用件は予想ついてたと思うし」

梓「……そりゃ、気まずくもなるね」

精神的に参っていたのか、忙しかったのか。事情はわからないけれど、澪先輩は結果的に純の電話を無視した。
むしろ責任感の強い澪先輩だからこそ無視したのかもしれない。自分達も唯先輩の氏を引きずったまま、私のほうの問題を解決できるなんて思い上がる人じゃない、あの人は。
それでも結果的には私と純を無視したことになる。そして澪先輩もその一回の無視を引きずり、電話を返すことが出来なかったんだろう。
その時の澪先輩は、先輩ではなくただの人間だった。そういう意味で『許してもらえない』と思ったのだろう、澪先輩は。

純「でも、軽音部の要の唯先輩を失ってたんだから私のは無理強いだったよね、本当に」

そう言って純が自嘲気味に笑うから、もう大丈夫だと判断する。きっと次は冷静に澪先輩と接してくれるはず。
そう確信を持っていたから、ここいらで話を変えることにする。

梓「へぇ、唯先輩のことちゃんと評価してるんだね、やっぱり」

純「嬉しそうだね、梓」

梓「……っ、まぁ、いい先輩だったと思うし。本当に……」

見事に反撃を受けたけど、否定なんてしない。
憂のことが一番大事だった私だけど、だからといって唯先輩のことがどうでもよかった、なんてことは絶対にない。唯先輩ともう会えないという事実を思うだけで痛いほどに胸の奥は締め付けられる。
唯先輩と、先輩達みんなと過ごした軽音部の時間は宝物だ。

純「……ギターとボーカルってだけじゃなく、人間関係の意味でも中心にいたよね」

梓「……そうだね」

まるで物語の主人公のように、唯先輩はいつもみんなの中心に位置していて、誰とも仲が良かった。皆と公平に接していた。
でも同時に、唯先輩もみんなに特別大切に想われていたように今では思う。きっと私の入部前から。
不幸にも、私が憂を特別大切に想っていた様な類の意味で。つまり、恋愛的な好意を持って。

……それに気づかない唯先輩は私を可愛がってくれて、そのおかげで私はあの軽音部に馴染めた。そのことについて感謝はしてるし私もそんな唯先輩に惹かれなかったと言えば嘘になるけど、それはちょっとだけ別の話。

いつか純が言っていた、「軽音部は結束して見えるから入りづらい」という言葉。それはきっと、私の時の新入生歓迎ライブにも同じことが言えたんだと思う。
その証拠に、あれから軽音部の扉を叩いたのは学園祭の録音テープを聴いて憧れを持っていた私だけだった。あの時の演奏は素晴らしく、私もそのテープ以上に聴き惚れて周囲の反応も上々だったにも拘らず、だ。
……まぁ、一応見学だけなら憂とか純とかも来ているんだけど。ライブ後に扉を叩き、入部届けを出したのは私だけだったから。

つまり、私は最初から入部するという固い決意を持っていたから気づけなかったけど、他の皆には軽音部は『入れる余地のない部』と見えたということ。ライブの時点で既に。
唯先輩を中心とした、異様なほどの結束を持つ部。あるいは奇妙なバランスで成り立っている部。そういう風に。

そこに私が混ざれたのは奇跡としか言いようがないし、そんな自分を誇ってもいた。
そして、誇らしい自分になれた場所である軽音部を潰さないようにと頑張った。憂がいなくなるまでは、だけど。

純「身も蓋もない言い方すれば、朴念仁の唯先輩のハーレムだったよね」

梓「ホントに身も蓋もない……」

純「……でもだからこそ、唯先輩を失った時は、みんな落ち込んだと思うんだ」

梓「そう、だね……」

そこからどう立ち直ったのかはわからないけど、さっきの澪先輩はいつも通りだった。
もしかしたら最近立ち直ったのかもしれない。ようやく元通りになりつつあるから誘ってくれたのかもしれない。
そうだとしたら私よりも時間はかかっているけど、それでも先輩達は唯先輩のことをちゃんと吹っ切れたんだ。それはそれで強いし偉いと思う。

私はそうはあれない。強くも偉くもない。
憂のことを吹っ切れないくらいに弱く、でもだからこそ憂の事を好きだという気持ちだけは誇れる。
なら、私は……

42: 2012/04/02(月) 05:35:28 ID:T82ZaqEo0

梓「……澪先輩には、いつかちゃんと断るよ」

憂を放っておけない。憂から離れたくない。憂を守りたい。
そんな私自身のことだけを考えるなら、こうするのが当然だ。
澪先輩達に対する申し訳なさは消えないけど、そちらを優先すると今度は憂と純に申し訳なさを抱いてしまうだろうから。
澪先輩達への償いは別の方法を考えよう。もう二度と、目だけは背けない。

純「……コメントしづらいね」

梓「嬉しいの?」

純「嬉しくないといえば嘘になるけど」

梓「残念、憂のためでしたー」

純「残念、予想通りですよーだ」

梓「…あははっ」

純「ははっ」

梓「……でも、純も一緒にいてくれるよね?」

純「ま、イイ人の一人でも見つかるまではね」

梓「…見つかるといいね」

純「なんだその上から目線はー!?」

梓「きゃー」


……ありがとう。ごめんね。これからもよろしく。
親友に向けるべき言葉は、いつもいつでも沢山ある。

43: 2012/04/02(月) 05:38:08 ID:T82ZaqEo0


【#15】


純「――んじゃお邪魔虫は出かけてくるよ。ヨロシクやっときなさいな」

梓「そーゆーのいいから」

憂「いってらっしゃい」

純「夕食までには帰るよ、どんなに遅くても。んじゃねー」

……という感じで、二人での話が一段落したところで純はさっさと着替えて出て行ってしまった。
きっと憂を除け者にしてしまったことへの償いか何かだろう、言葉から察するに。

でもまぁ、その気持ちはわかる。
憂は何も悪くなんてない。なのに私達は憂を除け者にしないといけない。
それが憂のためだとわかっていても、その間一人ぼっちの憂の寂しさを思うと……ね。

……憂が氏んで、唯先輩が氏んで、私達の周囲は大きく変わってしまった。
誰も悪くなんてないけど、それでも原因の人は責任を感じてしまう。そういう事例だ、これは。
だから隠し通さなければいけない。スケールこそ違うものの、私と純が憂に吐いた最初の嘘と本質は変わらない。
嘘に嘘を重ねる心苦しさは消えないけれど、憂を悲しませないためなら隠し通さないといけないんだ。


……たとえ、憂が今、悲しそうな顔をしていたとしても。


梓「……どうしたの? 憂」

憂「……ううん、なんでもないよ……」

「なんでもない」だなんてそんな訳はない。そんな思い詰めた顔と声で言われて納得できるわけがない。
でも踏み込んだ質問をしていいのかもわからない。思い詰めている原因がハッキリしないから。
……もしかしたら私達の会話を聞いていたのかもしれない。そうだとしたら踏み込むのは自分で自分の首を絞めることになる。
普段の憂なら盗み聞きなんてしないだろうけど、私達の隠し事が『憂に背負わせないため』のものだと気づいていたなら話は別。
優しい憂はそういうのを一番嫌うから、むしろ積極的に盗み聞きするだろう。そして今のように悲しい顔をして一人で背負うのだろう。

……だとしたらやっぱり、ここで一歩踏み込むのは「なんでもない」と言ってくれた憂の優しさを否定することになる。
優しさを否定し、純と一緒に隠し事をして罪悪感を背負ったことまで無意味なものとして、私達が最初に恐れた通りに憂を悲しませることになるんだ。

そういうことなら、私は、


梓「……なんでもないわけないよ。もしかして、話、聞こえてた?」


そういうことなら、もう考えていたこと全部投げ捨てよう。隠し通すのも諦めよう。
悲しませないためにやっていたはずなのに、憂が今悲しい顔をしているのなら、隠し通す意味なんてもう無い。

憂「……聞こえてないよ。聞こうともしなかった。梓ちゃん達に嫌われたくないから、約束はちゃんと守るよ」

……あらら、墓穴だったみたい。

梓「……じゃあ、どうしたの?」

憂「……聞こえなくてもわかるよ、梓ちゃんと純ちゃんが私に気を遣ってるのは。気を遣って私を遠ざけてるんだから、それは当然、私が知れば悲しむようなことを隠してるんでしょ?」

梓「っ……!」

言われてみればそうだ。
お互いを大切に想い合っている私達が、誰かを遠ざけるということは。それは相手の事を思っての行動なんだから、その人にとって知ることが一切プラスにならなくて、そしてその分を残りの人が背負っているに決まっている。
『行動の全てが相手に対する善意から来ている』と信じ合っている私達だからこそ、その場から遠ざけられるということは、それだけで相手に何かを背負わせていることを示しているんだ。

……どうしてこれで隠し通せると思っていたんだろう、私達は。
これで隠し通せる可能性なんて『憂が私達に無関心だった場合』しか存在しないじゃないか。

憂「私は…そんな重荷を、二人に背負わせてるんでしょ?」

梓「……重荷なんかじゃないよ。それにこれは私達が背負うべき――ううん、憂が背負う理由だけは絶対に無いモノだから私達が背負ってる。それだけだよ」

憂「……わからないよ…梓ちゃん……」

梓「……憂は何も悪くない。憂は絶対に何も関係ない。そういうことなの」

憂「関係ないなら……聞かせてよ…」

梓「…絶対、抱え込まないって約束できる?」

憂「……わかんない」

梓「……だよね。憂は優しいから」

隠し通すことは諦めた。ここで言わないと憂はきっとずっと悲しい顔のままだろうから。
でも、ただ言うだけじゃダメだ。それだと最初に危惧した通り、優しい憂はそれを抱え込んでしまうから。

どうすればいいんだろう。

どうしていつもいつも、お互いを想い合う気持ちがすれ違うんだろう。

悲しみを、苦しみを抱え込んで欲しくない。好きだから。互いにそう想ってるだけなのに。たったそれだけなのに、どうして。

44: 2012/04/02(月) 05:42:52 ID:T82ZaqEo0


憂「……ごめんね……」

梓「憂は悪くないって…言ってるでしょ…」

憂「それでも、私に聞かせたくない理由があったんだよね? 梓ちゃんとは恋人で、純ちゃんとは親友なのに、一緒に向き合えない理由があったんだよね?」

梓「………」

憂「……ごめんね、もう聞かないから」

梓「っ……」

だめだ。きっとそれじゃダメだ。
私の行動の全ては憂のため。それなのに、その行動が憂を悲しませ、悩ませている今のままじゃダメなんだ。
ここで私が口をつぐみ、何もしなかったら何も変わらない。恋人の私は、憂に笑顔をあげないとダメなんだ。

恋人の私に出来ることは、何なんだろう。
隠し事をせず、悲しませず、安心させてあげるにはどうすればいいんだろう。

梓「……憂」

憂「…何?」

梓「言うよ。ちゃんと言う。憂に隠し事なんて、本当はしたくないから」

憂「……いいよ、無理しなくて……」

梓「……憂にも、無理させたくないから。だから言うけど、でもその前に――」

その前に、恋人として出来ることをしておきたい。
何もわからない私だから、それに賭けたい。


梓「……デート、しよっか」




――初めてデートと口にした。ハッキリと形にした。
デートは恋人の特権だと思ったから。私にしか出来ないことだと思ったから。

全てを告げる前に、恋人として笑顔をあげることが出来たなら。
その後に続くいろんな苦しみも悲しみも、恋人として乗り越えていけるんじゃないかと思ったから。

そんな私らしくない精神論に、縋るように全てを賭してみた。

……私らしくない? いや、そんなの今更だよね。憂のことを考えるだけで、私はすぐに私らしくなくなる。
私らしさって何だったか思い出せないくらい憂のことしか見えなくなる。だって私の全ては憂だから。

今だって、目の前にいる憂しか見えない。『あの時』と同じ服装をした憂しか。


梓「……その服、お気に入りなの?」

憂「…うん。変…かな?」

梓「そんなことない。一番似合ってると思うよ」

憂「…よかった」

梓「……じゃ、行こっか」

ちょっとした謎も解けたところで、憂の手を握って出発する。
なるべく自然に見えるように握ったつもりだけど、そもそも憂の表情が沈み気味だからそのへんは気にするだけ無駄なんだと思う。
デートが嬉しくないわけじゃない、けどその後に待ち構えていることを思うと…といったところだろう。
そんなどっちつかずの憂の心を、私だけに向けることが出来るのか。楽しいこと、嬉しいことだけに向けることが出来るのか。

……ううん、やらないといけないんだ。それが恋人にしか出来ないことなんだから。

静かな決意を心に秘めて、街へと繰り出す。

45: 2012/04/02(月) 05:48:17 ID:T82ZaqEo0



――憂の手を引き、カフェ、アクセサリーショップ、甘味屋にショッピングモールにちょっと有名なブランドの洋服屋などなど。思いつく限りのいろんなデートスポットっぽい処を回ってみたけど、

憂「……梓ちゃん、疲れてない?」

梓「あはは……大丈夫大丈夫」

成果は芳しくないどころか、逆に気を遣われてしまう始末。
うーん、上手くいかないなぁ。私なりにテンション上げて楽しませようとしてるんだけど。

……というか、それがいけないのかもしれない。
無理をしているように見えてしまうのかもしれない、憂からすれば。

梓「……やっぱり休憩していい?」

憂「うん、もちろん」

どこかで少し頭を冷やそう。空回りなんてみっともない。
でもこれは時間的にちょっと遅めの昼食、になるのかな。軽食屋さんを何軒か経由しているからたくさんは食べれないだろうけど。

梓「どこか入りたいお店ある?」

憂「んー……じゃあ、あそこ」

そう言って憂が指差したのは、何の変哲もないハンバーガー屋さん。高校時代、憂とよく一緒に食べに行ったチェーン店のものだ。
デートらしくはないけど、私達らしい店だと思った。そしてそんな店を希望するという事は、今まではやっぱり私が一人で空回りしていただけのようで。
そう思い知った私は、憂と手を繋ぎながらも横に並んで入店することしか出来なかった。



――窓際の席に座り、心の中で昔を懐かしみながらハンバーガーを食べ、ジュースを飲んで。
あの頃と変わらないような何気ない会話を続けていると、徐々に憂の雰囲気が緩んでくるのがわかる。
そして、たぶん私の雰囲気も。

結局、お互いに余裕がなかったんだと思う。
恋人として気負いすぎてた私と、私の好意と先の不安に板挟みの憂。お互いにいっぱいいっぱい。

だって、憂を笑顔にするとか言っておきながら、きっと私自身は無理して笑っていた。
憂を楽しませようとして、まず先に私が笑顔である必要があると思い込んで。

……二人が同時に笑えるのが、一番幸せなはずなのにね。

それでも、私の最初の決意自体は間違ってないはず。
憂を笑わせることができれば、この先の何もかもを乗り越えていける。それは事実のはず。
だから、考える。

梓「……次は、どこ行こうかな」

憂「……ここでいいよ、私は」

梓「あ、あれ、声に出てた?」

憂「…うん」

……どうも詰めが甘いというか、変なところで迂闊だなぁ、私。
まぁ、それはそれとして。憂がここでいいと言うということは、憂はやっぱりこういう雰囲気を望んでいるということ。
背伸びしない、普段の私達っぽい雰囲気を。

梓「でも、まだ私は今日の目的を達成してないから」

憂「目的?」

梓「うん。まだナイショだけど、もう少し付き合って。ちゃんと考えるから」

憂「う、うん…そういうことなら……」

……と憂の承認も得たところで、真剣に考えよう。憂を自然に笑顔にする方法。二人で笑い合える方法。それでいて恋人ならではの方法。
背伸びせず、ありのままの私として。それでも恋人としてしてあげられることを。

46: 2012/04/02(月) 05:50:41 ID:T82ZaqEo0

梓「…うーん」

難しい。けど、そうだ、方向としてはちゃんと思いついた。
私らしく、それでも恋人として出来ること。

無理にデートらしくしようとしないで、ちゃんと憂のことを考えてあげる。
その上で、私が恋人として勇気を出す。そんな思い出を憂に残す。これでどうだろう。

オシャレな店とかも女の子としては心躍るとは思うけど、女の子である前に憂は憂なんだ。
どことなく、唯先輩の言葉を思い出す。友達それぞれの『個』をちゃんと見ていた唯先輩。そして、後輩の私の事もただの私として見てくれていた唯先輩の言葉を。
……そして今私の目の前に居るのは、そんな唯先輩の妹。

梓「…そうだ……憂、ゲーセン行こう、ゲームセンター」

憂「え? いいけど……急にどうしたの?」

梓「嫌いじゃないでしょ?」

憂「まぁ……そうだけど」

憂が嫌いなわけがない。憂の雰囲気にはちょっと合わないかもしれないけど、嫌いであるはずがない。
だって唯先輩もゲームセンターを嗜む人だったから。いつだったか、UFOキャッチャーで取れたぬいぐるみを自慢していたあの唯先輩の妹が嫌いなわけがない。
というか唯先輩に誘われるまま一緒に行ったんだろう。目に浮かぶような光景だ。
ムギ先輩も律先輩に誘われて行って好きになったらしいし、憂はそもそもあの純と中学時代からの腐れ縁なんだ。何度か経験もあるはず。

そして、ゲームセンターといえば『アレ』があるはず。だいたいのところには。そこで――

梓「~~~っ///」

憂「……?」

自分がしようとしていることを思うと緊張するけど、勇気を出そう。
『アレ』ほどいろんな意味でピッタリなものは他にないはずだから。



憂「――これ…プリクラ?」

梓「うん」

一通り店内で散財してから目的地へやってきた。プリクラ機がいろいろ密集してる区域へ。
厳密にはプリクラっていうのは初期のころにあった『プリント倶楽部』っていう筐体のことを指すような言葉だった気がするけど、まぁそういうのは今はいいや。
とりあえず、私が目的としたのはコレだ。こうして写真として形にも残せる思い出っていうのはいいものだと思うし、思い返してみればこうして二人で写真を撮ったりしたことは無い…はず。
恋人としてどうなの、と思いつつ、同時にそれを今日脱却するという決意を秘め、憂を誘う。

梓「ほら、入ろう?」

憂「う、うん……」

ちょっと気後れしている感じなのは、やっぱりこんな気分では写真に写れるような顔ができない、という不安からだろう。
そうわかってはいても、その不安を晴らす言葉を私は知らないし、知っていても口には出来ない。

梓「……大丈夫。自然にしてれば大丈夫だから」

笑って、とは言わない。あくまで自然に、だ。それだけ。
そう言われた憂の戸惑いもわかるけど、これ以上説明しちゃ意味がない。不安げな顔を尻目に操作パネルに手を伸ばす。

梓「……よし。これでいい?」

憂「うん」

久しぶりだけど特に戸惑うこともなく設定を終え、二人でカメラに向かう。
画面に映る憂の顔は、かろうじて微笑んでいるものの私からすれば違和感ばかりの顔。
そして私の顔は、内心の緊張を隠すかのように憂と同じように僅かだけ微笑んだ顔。もしかしたら引きつってるかもしれないけどまぁいいや。だって今の表情に意味なんてないんだから。

  『じゃあいくよー?』

機械音声が撮影を告げる。姿勢を正し、ジッとカメラを見つめる憂。
それに反し、私は動いた。意を決して動いた。

  『はい、チーズ――』


憂の頬に、顔を一気に近づけた。唇を押し付けた。


憂「ふえっ!?」


パシャッ


……そして私の計画通り、思い出の写真が出来上がった。

47: 2012/04/02(月) 05:53:14 ID:T82ZaqEo0



憂「や、やり直しっ! もう一回!!」

梓「あ、あはは……気持ちはわかるけど」

私の手元には、頬にキスされてらしくないほど驚いている憂の写真……がたくさんシールになっている。
もちろん写真の中の私もとんでもないことをしているわけで、恥ずかしがる気持ちはよーくわかる。こんな写真、誰かに見られたら飛び降りてやる。
けど、まぁ、見られなければいいわけだし。二人きりの秘密としては及第点じゃないかな。

梓「恋人としてはいい思い出だよ。ね?」

憂「全然よくないよっ!!」

梓「そ、そんなに?」

憂「そうだよっ! せっかく梓ちゃんからキスしてくれたのに!」

梓「……そっち?」

憂「そうだよぉ……もっと、ロマンティックというか、ムードが欲しかった……」

……確かに、ちゃんと初めて私からしたキスがサプライズキスというのはちょっと配慮が足りなかったかもしれない。
でも初めてだったからこその驚きだとも言えるわけで……

梓「……く、唇にするときはちゃんと言うから……ね?」

憂「………ホントに?」

梓「うん、ホントに。頑張る」

憂「……絶対だよ?」

梓「はい……絶対忘れません」

憂「…待ってるからね?」

梓「……なるべく急ぎます」

憂「じゃあ…いいよ。許してあげる」

言い分とは裏腹にとても嬉しそうに笑うから、私も返せる言葉がない。
でも……そうだ、私はその笑顔が見たかったんだ。そういう意味では全て上手くいった。

梓「ねぇ、憂」

憂「ん? なぁに?」

上手くいった今なら、告げることができるよね。

梓「……言うよ。私達が隠してる事」

憂「っ!? な、なんで今……」

梓「……今なら、憂に信じてもらえると思うから。隠し事をしても、それでもこうして憂と上手くやれるって証明できた今なら、憂は私の言うことを信じてくれると思うから」

もちろん言葉通りの意味じゃない。憂は私の言う言葉自体を疑いはしない。
憂が疑うのは、その裏で私が無理してるんじゃないか、ということ。自分が背負わせているものが重荷なんじゃないか、と。
憂は自分を責めすぎる。それは家での会話からも明らかだ。きっと自分が他の人と違うってことがずっと胸の奥にあるからだと思うけど。

だから私は憂を笑わせようとしたんだ。
憂に関する事全てが、私にとって重荷じゃないと証明するために。
仮に重荷だとしても、それを抱えてなお憂を笑顔にしたいと思ってる私のことを信じてもらうために。

そして、そこまで全部言葉にしなくてもわかってくれるくらいには憂は聡くて、私の事をわかってくれている。

憂「……そっか、そうだね。梓ちゃんは強くなったんだね」

梓「…憂のためだからだよ。そして、憂がいてくれるから」

そう、全てはそんな憂のため。そんな憂がいてくれるから。


梓「……だから、憂がいなくなった時は、何も出来なかった――」

48: 2012/04/02(月) 05:54:17 ID:T82ZaqEo0


全て、語った。
憂がいなくなり失意の底にいたこと。就職も進学もしなかったこと。純が助けてくれたこと。同じように唯先輩を失った澪先輩達も落ち込んでいたであろう事。そして、この前の電話で誘われたこと。
全て、包み隠さずに。


憂「……本当に、断るつもりなの?」

梓「……少なくとも今はそのつもり。先輩達にも心配と迷惑かけたのは確かだから、そこを突かれたら断りきれるかわからないけど……」

例えば、目の前で泣かれたりしたら。土下座されたり縋られたりしたら、さすがにそんな先輩達を無碍にできる自信はない。
でもだからといって簡単に流されてしまうつもりもない。憂を好きという気持ちだけは何があっても譲れないから。
だからもしそうなったら悩んで、考えて、ちょうどいい落とし所を探そうとすると思う。どんな形になるかは想像もつかないけど……

憂「……気遣うようなこと、言って欲しくないんだよね?」

梓「…そうだね。憂が隣に居てくれれば、それでいいよ」

憂「……正直に言うと、気持ちがね、半分半分くらいなんだ」

梓「半々?」

憂「うん。梓ちゃんが私を悪くないって言ってくれたのも理解してる。でもその上でもやっぱり原因は私だから、っていう気持ちが半分。それと……」

語りながら、私にもたれかかるように腕に抱きついてきて。

憂「……本当に、本当に心の底から好かれてるんだなぁって、嬉しい気持ち。いろいろあっても揺らがないその気持ちは、すっごく安心できて、すっごく嬉しい」

「いろいろあった本人からみれば微妙な気持ちかもしれないけど」と付け加えてくれるけど、そんなことはない。
悩んで、苦しんで、悲しんで、それは確かに辛い記憶だけど、そんなものでも憂が喜んでくれるならそれでいいかと思えてしまう。それくらいには憂が好きだから。
それに憂は罪悪感を捨て切れていない。私の力不足とも言えるけど、それは憂の優しさでもある。私に完全に甘えきらないで私を気遣ってくれる優しさ。それに何度も助けられてきたんだ、私は。

案外、今のバランスが最善なのかもしれない。そう思わせてくれる程度には、私は……満たされている。

梓「……幸せだよ、憂。今が、すっごく」

憂「……私もだよ、梓ちゃん」

梓「……ふふっ」

憂「えへへ……」


……二人寄り添い、笑い合う。
この瞬間が幸せでなくて何だと言うのか。

49: 2012/04/02(月) 05:57:36 ID:T82ZaqEo0


【#16】






――数刻前に家を出た鈴木純はそのまま大学構内の図書館に足を運んでいた。
机の上に本とノートを広げ、右手でシャープペンシルを華麗に回転させながら左手でページをめくる。

純「……んー……」

読み終えたと思しき本は数冊積み上げられているが、ノートの方には文字が一切記されていない。白紙のままだ。
ちなみに本のタイトルは『オカルト科学分析』『都市伝説100選』のような胡散臭いものばかり。そもそも調べているモノがモノだから仕方ないのだが。

そう、言うまでもなく調べているモノは『ドッペルゲンガー』だ。
彼女の苦労も虚しく、聞き込みでは成果は上がらなかった。もっとも、体験したことのないものには想像すらつかない現象なのだから仕方ないとは言える。
だが勿論、だからといって諦める彼女でもない。故に次は書物を漁ることにした、というわけだ。

純「……あー、ダメだ。これもロクなこと書いてない」

周囲の迷惑にならぬ程度の声量でボヤき、本をもう一冊積み上げる。怪しい本は大体読み終えたことになるのだが、彼女にとって真新しい情報というのは皆無だった。
ドッペルゲンガー。聞いたことがない人はいないであろうその名称。だがそれ故にイメージはほぼ万人共通で凝り固まってしまっている。
そのイメージを書籍にしたのか、あるいは書籍から得たイメージが人々に浸透したのか。どちらが先にせよ、今や皆の知るドッペルゲンガーという定義から大きく外れた情報というのは転がっていないのだ。
ただでさえ人一倍サブカルチャーを好む鈴木純という少女にとっては尚の事。

それに加え、彼女が欲している情報はそういう一般認識程度の物ではない。
言葉の意味や由来、初出の推測、医学的分析などならいくらでも出てくるが、事実として直面している人間が欲しがるのはそういうものではない。

事実として直面している人間が欲しがるものは、事実として直面した場合の対処法なのだ。

しかし当然、オカルトや都市伝説に分類されているものにそのような項目が記されているはずがない。
こと現代社会において、『科学的に解明されていない事象』というものはそれだけで信憑性を欠くものとして定義される。故に書物などに記されることは稀である。場合によっては記すだけで罰せられるのだから。

もっとも、仮にそのような『信憑性を欠く』情報が手に入ったところでそれは眉唾物であり、何の保証もないことには変わりないのだが。
それでもそのような情報にすら縋らざるを得ないほどに未知のことなのだ。それが事実であり、そしてその事実を見つめているのは鈴木純、ただ一人。


純「……憂本人に聞いてみるしかないかな…期待できそうにないけど」

白紙のままの大学ノートを抱え、本を棚に戻しながら次にすべき行動について考える。
結局のところ、彼女が知りたい情報は言ってしまえば『人間との相違点』に尽きる。人間にとっては無害でもドッペルゲンガーであるが故に危険な存在などが仮に存在するとしたら決して近づけてはいけない。
彼女だって当然、再会した友人をみすみす失いたくはないのだ。だから知識を集めている。平沢憂の身を守り、中野梓と自らの心を守るために。
しかし、そのために必要な知識を平沢憂本人に聞いたところで有益な情報が得られるとも思っていない。彼女は自らの存在以上に大切なものを持っており、それしか目に入っていないように映るから。
それしか目に入れないようにして、自らが『違う』ということから目を逸らそうとしているようにさえ見えるから。

……もっとも、真っ当な人間でさえ様々なものから目を逸らして生きている。最も情報共有のしやすい『人間』という種族にありながら、この世の全ての危険を知識として頭に入れている人など存在しない。特異な境遇である彼女達だけを責めるというのは酷なもの。
それに加え鈴木純はそれでいいと思っている。いろいろなものから目を背けても、最終的に最も大切なものを見失わないでいてくれればそれでいいと心から思っている。
二人に見失わないでいてほしいから、彼女は奔走している。

純「……ネットにでも縋ってみますかね。あ、図書館内ではケータイ禁止だっけ」

天井からぶら下げられた、携帯電話に斜線の入ったマークを一瞥して図書館を後にする。
調べ物に集中したいが為にマナーモードにしていた携帯電話を取り出し、画面を見る。そして一つの通知アイコンに気づく。

純「メール…? 梓からだ。ついさっきじゃん……」

50: 2012/04/02(月) 06:04:55 ID:T82ZaqEo0


【#17】





純「――ぷはー! 食った食った!」

梓「さすがにひくわ」

眼前でオッサンくさい言葉を大声で口にする親友に釘を刺す。でもきっと刺したところで効かない。ぬかに釘。
ちょっとは周囲の目を気にして欲しいものだけど。

憂「あはは。もう少しゆっくりしていこうか」

隣に座る憂はそう言い、コップの水を一口飲む。
夕方のちょっとだけ背伸びしたオシャレなカフェにその姿はよく映える。眼前のオッサンも黙ってればそこそこなのに。勿体ない。

純「にしても、なんで急に外食?」

梓「まぁ……いろいろ話したいことがあったから。三人で」

純「……家でもいいじゃん?」

梓「今日は私のオゴリだよ?」

純「デザートおかわり行っていい?」

梓「それはダメ」

純「ちぇー」

憂「ふふっ」

なんて適当に誤魔化したけど、一応いろいろ理由はあったりする。
たまには憂を休ませてあげたい、今日いろいろあってそう思ったりとか。今まで隠し事に付き合ってくれた純に対するお詫びとお礼とか。単純に給料日が近いとか。ここはいつか三人で来てみたかった店だったとか。
でもどれもこれも要は、今もこうして変わらずに三人で居られること、それに対する感謝ということになりそうな気もする。
たった一年でいろいろありすぎたけど、今までとは真逆の方向でいろいろありすぎたけど、こうして今も一緒に居られるなら逆に未来を信じられる、そんな気さえする。
決して将来を楽観してるじゃない。けど、どんなことがあっても三人で一緒に居られる、それだけは信じられる。

梓「……これから、どうしようかな」

純「ん、そういう話?」

梓「まぁ、そうとも言えるかな。あ、憂には全部話したから」

純「…えぇー、それそんな軽く言うこと?」

梓「うん。あくまで結果論だけど、何も変わらなかったから」

憂「変わらないように梓ちゃんが頑張ってくれたんだよ。純ちゃんも、今までありがとうね」

純「……変わってるよ。なんか余計仲良くなってる」

梓「そうかな?」

純「そうだよ」

憂「でも、そういう変化なら純ちゃんは喜んでくれるでしょ?」

純「……さっきから言い方が卑怯だよ、憂は」

拗ねたようなその言葉に憂が微笑みを返すと、純も純で「私も恋人作ろうかなぁ」とボヤく。
私よりも社交的な純は、きっとその気になればすぐに恋人の一人や二人作れるはずだと私は本気で思っている。同性異性問わずに。
それでもそうしないのは、純もまだ私達と一緒にいる時間のほうを選んでくれているのか、それとも……

梓「……ねぇ、純」

純「んー?」

梓「……私と憂は、そんなに危なっかしく見える?」

純「見える見える。とーっても危なっかしい」

ヘラヘラと告げられると、どこまでが本気か量りかねるけど。
それでも純は、きっと私達の事を心配している。いつまでもずっと心配している。

梓「……純が安心して恋人を作れるくらいにはちゃんとしないとね、私達」

憂「……そうだね」

純「……ふーむ…」

梓「……?」

ちょっとだけマジメな顔になった純の次の言葉を待ったけど、その先が紡がれることは無かった。



――しばらくして「そろそろ出ようか」と切り出したのは純だった。
あの後は恋人がどうとかを絡めてちょっとだけ先の話をしたけど、とりあえず純は大学を卒業するまでは私のやることに干渉するつもりはないようだ。
憂と一緒に音楽の道を追ってみたい、と告げたらちゃっかり「私も一口噛ませて」とは言っていたけど。まぁ元より拒む理由はないし。

結局のところ、私達は私達のまま何も変わらない未来を望んでいるのかもしれない。今の延長線上にあるだけの未来を望む、それだけなのかもしれない。
私達それぞれの関係が変わらない、互いを想う気持ちが変わらない、そんな未来を。


そして、そんな未来は望めば手に入る。
大切にすることを忘れなければ手に入る。


そう、この数日間で実感した。

51: 2012/04/02(月) 06:05:53 ID:T82ZaqEo0




―――はずだったのに。




【#19】


梓「――お疲れ様でしたー」

  「うん、おつかれさまー」

今日も今日とて純は大学、私はアルバイト。新しい週を迎えても私達はマイペースにゆっくりと前へ進む。

もう見慣れた風景となったコンビニからの帰り道を歩きながら、今日は何をしようか、何を弾こうか、何を話そうか。考えることが沢山あって、それ自体が幸せで仕方ない。
そういえば何故か純から恋人としての進捗状況を聞かれたっけ。きっとこの前のキスの件で憂がソワソワしてるからかな。
でもこういうことに悩めるのもまた幸せな気がしてしょうがない。私達の周囲には幸せしかない気がするくらいに。


だからかな。


近づかれるまで、気づけなかった。



  「――ねぇ――」



梓「………?」


その姿に。

その顔に。その声の正体に。


もしも、私が先に気づいていれば。



  「―――あずにゃん―――」



気づいていれば。

気づいて逃げていれば、何かが変わったのだろうか。

52: 2012/04/02(月) 06:10:02 ID:T82ZaqEo0


【#20】





憂「――そろそろ帰ってくるかな、梓ちゃん」

この退屈な時間が終わる時をまだかなまだかなと待ちわびる、この感覚は嫌いじゃない。
というより、梓ちゃんのことが好きだからこの時間さえも愛しい、と言ったほうが近いかな。

好きな人を待つ自分に酔ってる可能性もあるけど、私はそれを否定したい。
純粋に楽しみなんだ。帰ってきた梓ちゃんが真っ先に何を話してくれるのか。次に何を聞いてくれるのか。そして何をしようって誘ってくれるのか。全部が私は楽しみ。
楽しみなことが、幸せなことが目の前に迫ってくる感覚が嫌いじゃないのは普通だよね?


憂「……普通、かぁ…」

……私はドッペルゲンガー。言ってしまえば偽物。

でも梓ちゃんと純ちゃんは、そんな私でも『普通』に生きていいんだって、私は私なんだって、私は『憂』なんだって認めてくれた。
氏んで、どこかに行って、梓ちゃんの声で帰ってきた。そんな記憶を持つ私を、それでも受け入れてくれた。
実は私が私自身についてわかっていることはそれだけだったりするんだけど、それだけでも充分普通じゃないのに普通に接してくれた。
そんな梓ちゃんが愛しいし、そんな純ちゃんを大切に思う。とっても、いっつも、心から。


だから、早く会いたいよ、梓ちゃん。

梓ちゃんが私を好きってずっと言ってくれたから、私はここにいられるんだよ。


梓ちゃんから見れば私はどう映るのかな。純ちゃんの言ったことが真実だとして、ううん、真実なんだろうけど、それでも『私』はずっと梓ちゃんのことを好きなんだよ。
梓ちゃんはそれを信じてくれてるし認めてくれてるけど、私はたまに不安になる。噛み合わないココロと記憶の歯車が、時々ガリガリって音を立てるのが怖くなる。
私のそんな弱さを、梓ちゃんはどう見てるのかな……


憂「……ちょっと、遅くなるのかな?」

いつもならもう帰ってきてる時間。帰ってきて、私に笑いかけてくれてる時間。
その時間が大好きだから、その時間に隣に居てくれる人が隣に居ないととても寂しくなっちゃう。

もちろん、梓ちゃんにだっていろいろ用事はあるはず。
でもそういう時はちゃんと連絡するって言ってたし、実際にしてくれたし、それを支えに待てた。

だから、支えがないと足元がフラフラする。いろんな不安が心の中を渦巻いて、飲み込まれて落っこちていきそうになる。
胸がぎゅうっと締め付けられて、そのまま破裂しちゃいそうになる。

憂「っ……ぁ……」

そんな風になりたくなんてないのに。もっと梓ちゃんと一緒にいたいのに。
もっと、ずっと、いつまでも一緒に……

53: 2012/04/02(月) 06:11:16 ID:T82ZaqEo0


憂「……あずさ、ちゃん……」

消え入りそうな声。それが私のものだと理解するのにちょっと時間がかかって。そしてちょうど理解したその時、ドアの開く音が聞こえた。

憂「っ!!」

現金な私は胸の痛みも忘れていつものように小走りで駆け寄るんだけど、一瞬だけ視界の端に映った黒いツインテールは私に見向きもしないで洗面所のほうへ走って行ってしまう。
言葉も交さず、視線すらも私に向けないで、姿を消してしまう。いつもここに私がいること、知ってるはずなのに。

憂「ぇ……」

いつもと違う行動に違和感を覚えて

また不安が大きくなって


後を追い、こっそりと洗面所を覗き込む。


憂「……梓ちゃん?」


梓「……っ、ぷはッ、はっ……」


梓ちゃんは、水を大量に出して顔を洗っていた。
顔……というか、口元? とにかく必氏に、何度も、何度も洗って、擦って、洗い流していた。


その背中は、とても怖い。

どこか遠くへ行っちゃったんじゃないかって思うくらい、その背中は怖い。


梓「はぁっ、んぶっ、っ……はぁ、っ」

憂「梓ちゃんっ!!」

私の声も届かないその背中が、梓ちゃんのものじゃないような気がして。
やっぱり怖くなって、それでも梓ちゃんのことだから心配で。つまり知らない背中なんて見ていたくないから、思いきって梓ちゃんの身体を無理矢理振り向かせた。

振り向かせた。振り向かせたら、見えた。


梓「っは、ぁ、っ……」

憂「っ……!?」

梓ちゃんは、泣いていた。

涙に濡れた瞳と、頬と。
水に濡れた口元と、服の襟と袖と。
そして、きっと心も。何もかもがびしょ濡れだった。

きっと、全てが梓ちゃんの流す涙。
全てがびしょ濡れの梓ちゃんに、私は何を言ってあげればいいの?
純ちゃんなら、お姉ちゃんなら、どうするの?

恋人の私は、何をしてあげればいいの?


梓「……うい……」


……名前を呼んでもらっても、何て言えばいいのかわからない。
私が固まっていると、梓ちゃんはそのびしょ濡れの手を肩に置いて体重をかけてくる。
背伸びして近づいてくる、梓ちゃんの顔。覚えてる、この流れは――


  「――っ、ちゅ――」


……梓ちゃんからの初めての唇へのキスは水道水でびしょびしょで、あたたかくさえなかった。

54: 2012/04/02(月) 06:12:02 ID:T82ZaqEo0



――「キスして欲しい」って、梓ちゃんは何度も言った。

「ずっと」「いつまでも」「永遠に」「氏ぬまで」「氏んでからもずっと」
「憂からだけキスされたい」「憂以外とはキスしたくない」「されたくない」
「憂がいい」「憂だけがいい」「憂じゃないとダメ」

梓ちゃんは、うわごとのようにそう言い続けて、私を求めた。

それの意味するところが見えた時、悲しくならなかったと言えば嘘になるけど。
でも梓ちゃんは涙を流したから。涙で洗い流そうとして、私を求めてくれたから。
約束も、ロマンティックさも、ムードも。全部無くっても、私は梓ちゃんの恋人だから。

だから、その綺麗な心に応えてあげようと思った。
ずっと、何度もキスして、応えてあげようと思った。
恋人として、応えて、伝えてあげようと思った。


……大丈夫、梓ちゃんは汚れてなんかいないよ。

55: 2012/04/02(月) 06:12:47 ID:T82ZaqEo0


【#21】






あたたかい。

憂。

うい。

大好き。

大好きだよ。

ごめんね。

ごめんね。

ごめんね。


重なる唇から、つながる口唇から、注ぎ込むように、流し込むように。
感情だけを、つたえる。

ごめんね、うい

何度も。なんども。伝える。つたえる。
自分勝手に伝えて、自分勝手に求めてほしがる。

わかってほしい。わかって受け入れてほしい。
汚い形で無理矢理押し付けたそんな想いを、それでも憂は理解しようと努力してくれた。

汚れた私の、穢れた欲を、受け止めてくれた。

そして冷たかった唇が、次第にあたたかくなってきて。憂の熱を奪っている気がして。
……ううん、違う。憂が与えてくれているんだ。
唇と、腕と、身体と。その身の全てで私を包んでくれている。凍えている私を、あたためてくれている。

だいじょうぶだよ、あずさちゃん

何度も。なんども。伝わる。つたわってくる。
私を赦し、労り、受け入れる。そんな憂の優しさが。

その腕の、身体の温もりはあの人を思い出させるけど。
あの頃の、何度も私を包んでくれたあの人を思い出させるけど。


それでも、私は……――

56: 2012/04/02(月) 06:16:17 ID:T82ZaqEo0



憂「――落ち着いた?」

梓「……うん」

憂「……大丈夫だから」

梓「……ごめん」

憂「大丈夫だよ」

梓「……ありがと…」

憂「うん」

純「ほら、お茶でも飲みなさい」

梓「ありがと、純も」

純「うん」

純から愛用のコップを受け取り、ゆっくり飲み干す。
喉を通り抜けて身体に染み込む冷たさは、イヤでも心を落ち着かせてくれる。
いつもなら憂が持ってきてくれるんだけど、まぁ、今は私が憂にべったり抱きついてるから仕方ない。純で我慢しよう。

梓「………いや、待って、いつからいたの純」

憂「………そういえば」

純「…あんたら、今何時だと思ってるの」

言われて時計を探して見やれば、びっくりおどろき、いつもなら夕食の時間くらい。純も帰ってきてて当然の時間だ。

純「玄関先で息を潜めて約一時間。いやはや、居心地の悪い時間でしたよ」

梓「…ごめん」

憂「ごめんね、純ちゃん」

純「まぁ私は心が広いから、梓がちゃんと誠意を見せれば許してあげるよ」

憂「クレーマーみたいだね」

梓「…どうすればいいの?」

純「決まってるでしょ」

そう言うと、私の前で膝をつき、手を頭に乗せてくる。
その瞬間、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ人の顔が近づいてくることそのものに怯えてしまった。
それに純が気づいたのか、気づく気づかないは関係なかったのか、それはわからないけど。

純「……何があったのか、教えなさい」

ハッキリと、有無を言わせない口調で、親友はそう言った。




憂「――っ、そんな……」

純「ふーん…唯先輩が、ね……」

あの後。帰り道の途中で呼び止められた後。
私が向けた先の意外な顔は、いつも通りに自然に私の名を呼んで、抱きついてきて、「久しぶりだね~」とか言いながら、

……実に自然に、私の唇を奪った。

そこからは覚えていない。たぶん、いつかのように平手打ちをしてしまったと思う。
それさえハッキリとは覚えていないほどに、その時の私の心の中はぐちゃぐちゃだった。

驚きと、衝撃と、後ろめたさと、申し訳なさと、情けなさ。そのへんのいろんな感情で。

きっと泣きながら家に帰ってきた。そこから先は憂に縋ったことしか覚えていないけど、代わりに憂が事細かに語ってくれたから良しとしよう。

純「……一応、念のために確認するよ。本人で間違いないんだね?」

梓「……私が間違うわけがないよ、あの人を」

純「ま、そりゃそうか。別人だったらもうちょっと話がラクなんだけどなぁ」

梓「……あんなことされた時点でラクも何もないよ……」

憂「梓ちゃん……」

そっと、憂が手を握ってくれる。
あたたかい手は、しかし少し震えていた。

……不安、なのかな。憂も。だって――

57: 2012/04/02(月) 06:20:05 ID:T82ZaqEo0

純「とりあえず、アレだね」

言う前に憂を一瞥するあたり、純も憂の不安を察知してはいるのか。
私にだって少しはわかる。だって、言うまでもなくあの唯先輩は――

純「…唯先輩も、ドッペルゲンガー。とりあえずそう考えるのが自然だね。前例の憂がいることだし」

梓「そうだね……」

だって、唯先輩も憂と一緒にあの日に氏んでいる。そんな事実がある以上、そう受け止めるしかないよね。
でも、私とそして恐らく純も察知しているであろう憂の不安はそっちじゃない。

純「そして、梓はキスされるほどに好かれている」

憂「っ………」

憂が息を飲む。私はやっぱりまだ少し申し訳なくて目を逸らす。
そう、そういうこと。あまり自分で言いたくはないけど、あの唯先輩のキスが本気で好意を表していると仮定すれば、これは三角関係だ。

もっとも、あの先輩は以前にも何度か私にキスをしようとしてきたことはある。
でも、それらのいずれにも『勢い』があった。その場の会話の流れに乗って、というか、そんな感じのものが。
なのに今回はそれがなかった。本当に自然に、会話の合間に滑り込んできた。躊躇いは勿論、前兆すらなかった。
それこそ、何度も愛を確かめ合い、周囲の目など気にならないほどにお互いを好き合っているカップルがするキスのように。

だから……だから私はショックを受けたし、驚くことしか出来なかったんだ。本当の恋愛的な好意にしか見えなかったから。

私の気持ちは憂一筋だけど、それを伝えられた憂からすれば不安にもなるだろう。私が唯先輩を素晴らしい人だと思うように、憂も唯先輩のことを尊敬していた。それはきっと私以上に。
そんな尊敬する人が恋敵。そんな大好きな姉が恋敵。今の憂の胸の中はきっとごちゃごちゃなはず。
だから、私の気持ちを疑いはしないまでも、不安に――

純「でも、ここで謎が一つ出てくる」

そう言い、純は私に珍しい視線を向ける。
私には表現できないほど、様々な感情が入り混じった視線を。

梓「……な、何?」

純「……誰が、唯先輩を求めたんだと思う?」

梓「求めた…って?」

純「憂は梓に求められたって言ったよね。ずっと声が聞こえてた、って」

梓「う、うん」

憂が戻ってこれた理由、それは私が『求めた』から。『呼んだ』から。あの日にそう憂は言ったし、今、純もそう言う。
そして、

純「同じように、唯先輩を呼び続けた人がいるとすれば?」

梓「…それは……誰?」

わかるわけがない、そんなの。私にわかるわけがない。
憂の時みたいに、声を聞いていた本人に聞かないとわかるわけが――

純「……憂の時は、梓の声が聞こえて、憂はそれに応えた」

梓「? う、うん――」

私の声に応えた。つまり戻ってきて、私の事を好きになってくれた。


そう、憂は私を好きになってくれた……


梓「――ッ!?」


ということは、今、唯先輩が私に好意を抱いているとすれば――!?


梓「ッ、違う! 違うよ憂、私じゃない!!」

憂「わ、わかってるよ! 信じてるもん! 梓ちゃんのこと、信じてるもん!!!」

そう言うけど、憂の手はずっと震えている。そうか、憂の不安は最初から……!?
でも、違う、違うよ憂、本当に私は、憂以外の人のことなんて――!

純「まぁ落ち着きなって、二人とも。ああは言ったけど、梓はそんなことする奴じゃないってのは私達が誰よりも知ってる」

憂「っ…そうだよ、梓ちゃんは二股なんてかけないよ!」

純「そう。そんな器用な性格じゃないよ。憂がいなくなっただけで無職にまで堕ちたんだから」

梓「褒めてんの? 貶してんの?」

純「ははっ。でもね、話は戻るけど結局、それが謎なんだよ」

梓「ん……なるほど」

そう、好かれているはずの私に覚えがないなら、誰が求めた?
そして逆に、なぜ求めた人ではなく私を好いている?
純の言う謎とはこういうことだろう。確かに憂の前例からすれば謎としか言えない。

58: 2012/04/02(月) 06:22:13 ID:T82ZaqEo0

純「まぁ、もしかしたら憂の事例のほうが謎で、唯先輩のほうが普通なのかもしれないけど」

梓「どういうこと?」

純「憂のほうが奇跡だったのかもしれない、ってこと。もしかしたらカップルになれるほど上手くいくほうが不自然なのかもしれない」

憂「……そう、なのかな」

純「わからないよ。私には断言できない。当事者の憂や梓にもわからないんでしょ?」

梓「……まぁ、ね」

純「だからとりあえず、なにもかもを憂の前例に頼るのがたぶん一番危険だと思う」

……なるほど。ドッペルゲンガーという状況がまず異例だから、思わず安全のために先の例に当て嵌めて考えてしまいそうになるけど。
確率論とかなんとか、そういう可能性がどうとかって考え方をすれば、異例なものこそそうして当て嵌めて見てしまうのは何よりも危険な『思い込み』にすぎない。前例が少ないからこそ視野を広く持たないといけないんだ。

純「一応仮定として、ドッペルゲンガーを生み出すには求める人の存在が必要だとは思ってるけど。もしかしたらそれさえもひっくり返されるかもしれない」

憂「……あくまでそれは、私の時だけの真実だった、ってこと?」

純「そうなる可能性もある、ってこと。でも憂にとっての真実は変わらないんだから、憂が怯えることじゃないよ」

憂「! そう、だね……うん、ありがとう、純ちゃん」

憂の時は、私が憂を好きで、私が憂を求め、憂はそれに応えてくれた。そして今、私達は幸せだ。
唯先輩の件にどんな真実が絡んでいようと、憂にとってのその真実には関係がない。現実は変わらない。そう純は言ってくれた。

ずっと握り合っていた憂の手の震えが少しずつ引いていく。よかった、落ち着いてくれたようだ。
いつもの聡い憂なら気づくような問題だけど、憂は自分のこととなると案外いろいろ見えてなかったりするからね。そういう時に誰かが支えてあげないといけないと思う。
今回は純に感謝だけど、次からは私がちゃんとしてあげたい。しないといけない。


純「……んで、まぁ、それらを踏まえて。どうする? 梓」

梓「…へ? どうするって?」

純「……このままにしておくわけにもいかないでしょーが。また会うことになるかもよ」

梓「あっ…」

そうだ、唯先輩がなぜこっちの街にいたのかも含めて謎だらけだけど、ビンタしただけで解決するわけがない。
純の言う通り、また会う可能性はある。私の事を好いているとするなら尚更だ。

純「理由も原因も何もわからないけど、三角関係を続けるわけにはいかないでしょ?」

梓「それは…当たり前だよ。私の恋人は、憂だけだから」

憂「……梓ちゃん……」

梓「……うん」

唯先輩に好かれて、嫌じゃないといえば嘘になる。無理矢理キスをされたのは確かにショックだけど、それでもあの人を嫌いになれない程度には私はあの人の事が好きだ。
それに、仮にドッペルゲンガーになった故の恋心に振り回されているのだとしたらあの人ばかりを責める事も出来ない。そうでなくとも唯先輩は私が憂と付き合っていることは知らないんだから、情状酌量の余地はある。

だとしても、それらは憂の存在には絶対に劣る。比べるまでもない。憂と比べられるものなんてこの世には存在しない。
他にも大切なものは多いけど、一番は憂だ。心からそう思っているし、そう言い切るのが恋人の責務だと思う。

今も隣にある憂の笑顔が、温もりが、私にはずっと必要なんだ。

純「とりあえず唯先輩の目的がわからないのは不安材料だけど、こちらからすることは断ることだけ。わかりやすいね」

憂「それで…丸く収まるかな? 収まったとして、お姉ちゃんはどうなるのかな?」

純「……わからない。それはわからないよ。でも…」

梓「それでも、憂のためにも私のためにも、ちゃんと断らないといけない」

純「……痴情のもつれは怖いからねぇ。ハッキリスッパリ断らないと」

憂「うん……」

59: 2012/04/02(月) 06:23:12 ID:T82ZaqEo0

憂の顔からは不安の色が滲み出ている。
もちろん私だって不安がないわけじゃない。断ったことで唯先輩と気まずい関係になってしまう可能性はある。
それこそドッペルゲンガーゆえの恋心の変移で唯先輩が私を好いているのだとしたら、唯先輩は何も悪くないのに私にフられるわけだ。理不尽極まりない。私としても申し訳ないという気持ちは尽きない。
憂も、そうして私が苦悩していること、そして唯先輩が傷つくことに心を痛めている。きっと私以上に。

……誰も傷つかない選択肢があるなら、見せて欲しいと思うけど。それでもきっと、それは叶わない。
大切なものに順位をつけるっていうことは、きっとそういうことなんだ。
一番大事なものを掴み取ろうとするその手で、周囲の誰かを傷つけてしまうんだ。

誰かに恋をする時点でそういうことまで受け入れる覚悟が出来ればいいんだろうけど、それはきっと無理。
……無理だから、その時にちゃんと覚悟を決めて向き合わないといけないんだ。

純「……できる? 梓」

梓「……できるよ。大丈夫」

それが、世界でたった一人の憂の恋人としての義務だから。



純「――さて、じゃあ次の問題はタイミングだ」

梓「…断る話を切り出すタイミング?」

純「そう。唯先輩が今どこで何をしてるのかはわからないけど、どうせならこっちの都合のいい時間に待ち合わせとかできればいいよね」

梓「まぁ、そっちのほうが心の準備はしやすいよね」

純「梓のバイト先とかに乗り込んでこられても困るだろうしね。あと私も一緒に行きたいし」

憂「純ちゃんもお姉ちゃんに会うの?」

純「憂は来ちゃダメだよ」

憂「な、なんで!?」

純「ちょっと考えればわかるでしょうに…」

質問に答えずに先手を打つ純。さすが付き合いの長い親友だ、憂のことをわかってる。まぁ私だって負けてないつもりだけど。
ともかく憂を行かせないというのには賛成だ。憂のことはいろんな人に隠してきたわけだし、それに相手が唯先輩だし、どう考えてもプラスには転ばないだろう。
最悪の場合は姉妹喧嘩になる。私のせいでそんな風になるのは絶対に嫌だ。仮に私が関係ない場合でもこの姉妹の喧嘩だけは絶対に見たくない。

梓「憂は来たらややこしくなるからダメだってのはわかるけど、純が来たがるのはなんで?」

純「憂の分まで近くで心配しておいてあげようと思って」

梓「……大丈夫だよ」

純「私はそうは思わないけどね。梓だからってわけじゃなくて、別れ話の場なんて大抵一悶着あるもんだからさ」

どんな状況を想定しているのかはわからないけど、冷静でいられなくなった時に間に割って入ってくれる人がいるのは確かに心強い。
冷静さを欠くのが私だったとしても唯先輩だったとしても、純なら適任だろう。事情を把握してるなら軽音部の他の先輩方でも悪くはないんだけど。
それくらいにはみんな信頼できる。でも、それでも私は拒んだ。

梓「……でも、唯先輩に失礼じゃないかな」

やっぱり、別れ話の場に誰かを同席させていいのかという事に対する戸惑いは尽きない。相手に失礼じゃないのか、と。
とはいえ、これば厳密には別れ話じゃない。事情を知らなかったとはいえ私達から見れば悪いのは向こうだ。
だから正当化は出来る。出来るんだけど、それは向こうの事情を汲んではいない……

……そうして悩む私に、純はまた優しく猶予をくれる。

純「そう思うならこっそりついて行くよ。やっぱり不安だって言うなら隣にいてあげるし。好きなほうを選べばいいよ、その時までにね」

梓「ん……じゃあ、そうさせて」

純「はいはい」

梓「ありがとね」

純「……はいはい」

憂「…むー…」

60: 2012/04/02(月) 06:28:27 ID:T82ZaqEo0


純「…オホン。まぁ、こうやっていろいろ考えてるけど、唯先輩に連絡がつかないとどうしようもないんだよね」

……言われてみればそうだ、すっかり忘れてた。今日なんて完全に偶然の遭遇だし。
いや、唯先輩のほうは私がこっちに居るって何故か知ってたようではあるけど、そうじゃなくて。
話し合いの場を設けるために前もってこちらから連絡を取る方法。それが無い事には今の相談も全部意味がない、ということ。
それは非常に困る……んだけど、そこは憂の一言であっさり解決した。

憂「……普通にメールか電話かすればいいと思うよ?」

そう言い、自分の携帯電話を見せる憂。そういえば再会した日も電車の中で携帯電話をいじっていたっけ。
いや、それどころか私も純も何度か憂にメールとかしてるじゃん……何故気づかなかった……

純「……そういえば憂、普通にケータイ持ってるよね。使えるの?」

憂「うん。家族みんな口座からの引き落としだったからお姉ちゃんも使えてると思うよ」

純「いや、そうじゃなくて、なんで持ってるのかとか、普通氏んだら口座のほうも凍結されたりケータイも解約されたりするんじゃないかとか」

憂「……さあ?」

これもまた今まで気づかなかったけど、結構大きな謎じゃないかな……
口座のお金だけ見ても、遺産として遺族に分配されるとか何かいろいろあるはずだよね、普通は。

純「……今度確かめに行こうか。もしかしたら憂が生き返った時点で、その辺の矛盾自体が『なかったことに』されてるのかもしれないけど」

憂「……どういうこと?」

純「いや、確かめないほうがいいのかな。事実として認識してしまった瞬間にその矛盾が明るみに出てしまって認識が崩壊する可能性もある…か。憂が今バイトできないように。いや、それだって厳密には確かめたわけじゃないけど、でもそう考えると確かめなかった判断はやっぱり正しいということで、これからも確かめずに生きていくべきなんだろうね、私達は。『認識できないものは存在しないのと同じ』なんてよく言ったものだよ、本当に。ん、そういえば――」ブツブツ

憂「……あ、えっと、純ちゃん? おーい?」

……延々と続く純の独り言からどうにかわかったところだけ抜粋すると、世界自体が矛盾を拒絶し、目の届かない範囲で都合のいいように作り変えることがある。らしい。
本人が気づき、確かめさえしなければ何の問題もなく世界が回る、都合のいい仕組みに。
純のこういう妙な方面の知識には感服するけど、生憎理論までアツく解説されても私には理解できなかったので割愛。
適当なところで声をかけ、こっちに引き戻す。

梓「おーい、純ー」ユサユサ

純「――お、あぁゴメン、えっと、何の話だったっけ」

梓「……とりあえず、携帯が普通に使えてるなら純の作戦で問題はないんだよね」

純「うん、一応ね。電話してみる?」

梓「………」

……流れでそう言われ、躊躇ってしまった自分に驚く。指が震えた自分に驚く。

憂「……梓ちゃん」

梓「っ…あはは…いや、なんというか…」

純「……メールに決定だね。別にどっちでもいいんだし」

梓「…いや、その……」

憂「仕方ないよ……」

梓「……っ」

情けない。心からそう思う。
電話するだけで怯えているのか、私は。いずれ会わないといけないというのに、声だけでも怯えてしまうのか。ついさっきまで会うときの相談をしていたのに、いざとなれば電話するだけで怯えてしまうのか。
それに何より、嫌いでないはずのあの人をこんなに恐れてしまうのか、私は。
……本当に、情けない。

でも、怯える理由については誰も口にしなかった。怯えることも二人は許してくれた。
どう言い繕ったって結局はあのキスにショックを受けている、そして罪悪感を覚えている。そんな私を二人は許してくれた。
私は「たかがキスされたくらいで」なんて思いたくない。私にとっては大切なものだったんだ。同時に憂にとっても大切なものであってほしいんだ。
憂も純も、それをわかってくれているんだと思う。そして肯定してくれているんだと思う。

それについてだけは、こんな時でもまた二人に救われたことになる。
そう気づいたら、不思議と指の震えも治まっていた。

61: 2012/04/02(月) 06:30:24 ID:T82ZaqEo0


――メールの文面を考え、憂に検閲、推敲してもらい、送信する。
メールに記した内容は、生きていて驚いたこと、キスされて驚いたこと、ビンタしてごめんなさい、でもああいうのは困ります、と臭わせた上で「純と一緒に詳しい話を聞かせてください」で締めて日時を添えた。
憂絡みでややこしくなるのを避けるため、こちら側はドッペルゲンガーの存在を知らないフリをして話を通す。だから唯先輩が生きていたことに驚く体を装わないといけない。これは少し難しいかもしれない。
でも最終的に「好きな人がいるから気持ちには応えられない」というところにどうにか穏便に持っていけばいい。結局のところ目的はそれだけとも言える。難しいけど。

……そして、すぐに返事は来た。
いつもの唯先輩の軽いノリで、でも互いの現状に深く踏み入ることはしない文章。その最後に「じゃあまた明日ね」と記してあった。

純「……梓、本当に明日でよかったの?」

梓「…早いほうがいいよ。学校終わった後なら純も来てくれるんでしょ?」

純「そりゃ行くけど……」

梓「あまり待たせるのもあれだし、それに…早く諦めてもらわないと」

そう、早く諦めてもらわないと困る。
唯先輩が今何をしているのかはわからないけど、もしこの家が突き止められでもしたら。憂が一緒にいることがバレたら。結局また作戦が全部ムダになるような最悪の事態になってしまう。
憂を守るためにも、やっぱり勇気を出して先手を打つしかないんだ、こっちから。

純「…そっか」

梓「そうだよ」

純「………」

梓「………」

憂「………」


純「」グゥゥゥゥ


梓「ちょっ、お腹すごい音した!」

憂「……あはは、お腹空いたねぇ」

純「今何時だと思ってんのさー……二人だってお腹減ってるでしょ?」

梓「…確かに」

確かに夕食の時間は大幅に過ぎているし、私は走ったし、憂には心配かけたし、純には待ちぼうけを喰らわせたわけで。
一度意識し始めるとダメだね、みんな左手がお腹にいってる。

梓「…食べに行く? 今から作って、なんて言えない時間だし」

憂「私のことは気にしないでも……」

梓「いや、それもあるけどそれ以上に――」

純「待ーてーなーいー」ジタバタ

梓「――というのが居る訳で」

憂「……なるほど」

こんな時間から憂に作れなんて言えるわけもない。
憂なら本人の言う通り苦にしないんだろうけど、今日は迷惑をかけすぎたし私が申し訳ないから内心純に感謝しておく。

梓「でもこれなら外出するのさえめんどくさがりそうだよね」

純「はいはーい、出前がいいと思いまーす!」

梓「また思いつきで適当なことを……」

憂「あ、でも私も出前の味って興味ある…かも。頼んだことないし…」

梓「……ん、憂がそう言うなら…出前取る?」

憂「ほんと? やったぁ!」

純「なんか納得いかないけど……まぁいいや、何にする? お寿司? ピザ?」

憂「お寿司は高いんじゃないかなぁ」

純「じゃあピザね! 帽子! やっほぅ!!」

梓「なんでそんなにテンション高いの……」

……と、そんなノリで電話をして出前を取ってみたはいいけど、結局届くまでの時間もずっと純はブツブツ文句を言っていましたとさ。

62: 2012/04/02(月) 06:31:45 ID:T82ZaqEo0


――その夜。

梓「……あの、憂?」

憂「ん?」

梓「……眠れないんだけど」

一足先に純が寝静まっている横で、憂は何故か私の布団に入ってきてずっと私の頭を抱き締めていた。

憂「…寝ていいんだよ?」

梓「いや、だから……」

憂の胸元に顔を埋める形になって、どうにも興奮する…なんて理由じゃなく。
憂が隣にいる。それだけでヘンに意識してしまうし、それに……

憂「……ごめんね。何も出来なくて」

……そんな顔で隣にいられて、眠れるわけもない。

梓「……憂は家に居てくれればいいんだよ。ちゃんと言ってくるから」

憂「……うん。頑張ってね」

そう言って、抱き寄せた頭を撫でてくれる。
でも、一見憂が私を励ましているようでも、そして実際私がそれに励まされているとしても、憂の顔はずっと寂しそうなんだ。

憂「…ちゃんと帰ってきてね?」

梓「当たり前だよ。憂こそ…ちゃんと待っててね?」

憂「当たり前だよ…私の居る場所は、ここしかないんだから……」

もしかしたら私も、同じような顔をしているのかもしれない。
憂を安心させようとして、そして実際憂が私の言葉に安堵していても、私の顔は不安を隠せていないのかもしれない。

それほどまでに、私達の中で唯先輩という存在は大きい。

あの人と再び会えた事は嬉しいこと、喜ばしいことのはずなのに。
その事態を引き起こした誰か、あるいは何かに感謝すべき奇跡、幸運のはずなのに。

それでも、私達はあの人を否定しないといけない。拒まないといけない。
私達が、互いの為に、あの人を遠ざけないといけない。それは悲しくて、心苦しくて、とても怖いこと。

もちろん、私達の考えが間違っている可能性だってあるんだ。
好かれているなんて私の思い上がりで、それを重く受け止めてしまった純が話を膨らませすぎた可能性だってあるんだ。

だけど、その可能性には縋れない。
キスされた私には、キスしてきた唯先輩の顔を間近で見た私には、どうしてもあれが勘違いだったと言い切れないんだ。
それを充分すぎるほどわかっているから純は真剣にいろいろ考えてくれたし、憂はこうしていつも以上に不安がっているんだ。
客観的に見れば可能性があっても、私達から主観的に見れば可能性は無い。だからこそこうして二人で不安に震えるしか出来ないんだ。

梓「……寝よっか」

憂「……うん」

それでも私達は、それ以上の泣き言を言わない。
互いを信じているから。信じていたいから、それ以上の不安をさらけ出そうとしない。
相手のために強くなりたいから、ぐっと堪える。心配をかけたくないから我慢する。
どちらかに余裕がある時なら甘えて欲しいし、支えてあげたい。でもそうでない時なら、せめて二人で同じ思いを抱こうと努力する。
二人で気持ちだけでも共有しようとして、そしてそのままそれぞれ強くなろうとする。自分が強くなった時、相手も同じだけ強くなってくれていると信じながら。

盲目的に信じているばかりで、確証なんてないけど。
二人で乗り越えるというのはこういうことも言うんだと、そう信じていたい。

63: 2012/04/02(月) 06:34:32 ID:T82ZaqEo0



――しかし生憎、考え得る限り最悪のパターンで私は話し合いに臨むことになる。



【#22】


梓「――昨日はびっくりしましたよ。唯先輩は……その、氏んだ、はず、でしたし」

唯「えへへー。あずにゃんを残して氏ねるわけないよ!」フンス!

梓「…なんですかそれ……」

待ち合わせ場所の喫茶店の前で、純を待ちながら少しずつ唯先輩の状況に触れていく。
そう、意外にも大学を終えた純が合流するより先に唯先輩が来てしまった。この時点で少し計算違いと言える。
純の都合に合わせて時間を決めたし、私も遅刻しないように充分すぎるほど早く家を出たのにこの状況。
何かがおかしい。でも深く考える暇は私には無かった。

唯「ゾンビでーす! がおー!」

梓「……ほ、本当ですか?」ヒキ

唯「やだなー、そんなわけないよ。ま、私にもよくわかってないんだけど。生き返った、ってことしか」

梓「……そう、ですか」

唯「まぁ、あずにゃんのことは食べちゃいたいくらい可愛いと思ってるけど!」

梓「……嘘か本当かわかりづらい冗談はやめてください」

わかってますよ。ゾンビではなくドッペルゲンガー。少なくとも私達はそう定義している存在なんでしょう? あなたは。
そう思いながらも、それを察されてはいけない。知らないフリを続けないといけない。憂の前例のおかげで慣れているようになんて見えてはいけない。
事情なんて何もわからないように見えないといけない。唯先輩を、恐れなくてはいけない。
それに非常に神経を使うせいで、今の私は他の事に思考を回す余地が全く無い。

隣に純がいれば、もう少し余裕があったんだろうけど――と思っていると。

梓「? あ、電話だ…。ちょっといいですか?」

唯「うん」

ディスプレイに表示されていたのは、その待ちわびている親友の名前。
わざわざ電話をしてくるということは用事でも出来たのかな。でも純自身が来たがってたんだし、よほどのことじゃない限り来ると思うんだけど……

梓「もしもし?」

純『梓、ゴメン! まだ行けない!!』

梓「えー…。まぁ私の問題だから無理強いなんて出来ないけど、どうして?」

純『……澪先輩に捕まった』

梓「澪先輩!?」

純『なるべく早く切り上げて行くから、どうにかしてて! じゃ!』

電話をしている時間さえ惜しいのか、それだけ伝えて電話は切れた。
どういう状況からそうなったのかはわからないけど、わざわざ「捕まった」という表現をしてくるということは、おそらく澪先輩は長話しそうな雰囲気だということだろう。
でも、なんで澪先輩がこっちにいるの? この間は電話だったし、しかもその時は「次は梓から連絡してくれ」と受け身だったのに、どうして…?

唯「……純ちゃんから?」

梓「あ、はい。澪先輩に会ったとかで遅くなるって」

唯「うん、やっぱり」

梓「……やっぱり?」

唯「あのね、私が澪ちゃんに頼んだんだ。あずにゃんと二人っきりで話したいから、って」

梓「………」

やられた。そういうことだったとは。
確かに偶然としては出来すぎているとは思ったけど、そう、私が純と憂に相談したように、唯先輩も誰かに相談した可能性は充分にあるんだ。携帯も使えていることだしね。そこまで考慮していなかった私達の落ち度と言える。
しかし、それを偽らず隠さなかったのは、この人なりの誠意なのだろうか。

唯「ワガママだとは思うけど、誰にも邪魔されたくなかったから」

……それを誠意と呼べるのかは私にはわからないけど、一度は純の同席に気後れした私だから気持ちはわかる。
メールでちゃんと匂わせた分、唯先輩にだってわかっているんだ。恋心に関係する大事な話だということが。
やっぱりこういうことは二人っきりで面と向かって話さないといけないんだ。私がどう思っているか、唯先輩がどう思っているかじゃなくて、最終的にこうして二人っきりになってしまったということは、そうあるべき、ってことなのだろう。

64: 2012/04/02(月) 06:36:13 ID:T82ZaqEo0

……澪先輩はどこまでわかっているんだろうか。
受け身だったはずの澪先輩がこちらまで足を運ぶ理由は、他ならぬ唯先輩の頼みだから、で説明はつく。あるいはいつかちゃんと純と話をしたいと思っていたのかもしれないけど。
どちらにしろ、澪先輩はきっと大学よりも唯先輩か純かのどちらか、あるいは両方を優先したということ。唯先輩の存在をちゃんと受け入れて、お願いを聞き入れて。

澪先輩がドッペルゲンガーについてどこまでわかって協力しているのか、それはわからないけど、それでも真面目で友達想いのあの人はちゃんと自分の役割をこなす。
ということは、この場に純がすぐに来ることはまず期待できない。助け舟を出してくれる人は誰もいない。

そういう状況で最も恐れることは、私が流されること。
なんだかんだで押しが弱いのか染まりやすいのか、憂や純によくからかわれるほどに私は流されやすい。
もちろん指摘されるまで自覚はないんだけど、思い返してみれば事実だと思う。
だからこの場でもそれが一番怖い。唯先輩は明るく優しい素敵な人だ。だからその素敵さに呑まれる前に、私のほうから話を切り出すべきだと思った。

梓「……本題に、入りましょうか」

唯「…お店に入る?」

梓「……いえ、もうこの場でいいと思います」

話を長くするつもりはない。こういうのはハッキリ、スパッと告げるべきだと思う。

梓「……唯先輩がゾンビでも幽霊でも何でも、ああいうのは困ります。メールでも言いましたけど」

唯「……キス?」

梓「…はい」

唯「ごめんね。あずにゃんのこと好きだから、つい」

いつもの唯先輩のように、いつもの笑顔で、そう答える。
その笑顔に、少しだけ期待をした。可能性なんて無いと思っていたはずなのに、期待してしまった。
いつもの唯先輩であることを期待して、残酷な質問が口をついて出た。

梓「……それは、後輩として、ですか?」

後輩として。あるいは軽音部の仲間として。恋愛的な好意ではない『好き』であれば。
色恋沙汰に無縁の、朴念仁だった昔の唯先輩のままであれば、誰も苦しまないで済む。


唯「…ううん。一人の子として、あずにゃんが好き」


……わかっていたはずなんだけど。


唯「ごめんね、それでも順序はあったよね。いきなりキスなんて――」

梓「っ、唯先輩っ!!」


胸が、痛くて。


梓「……ごめんなさいっ!!」


唯「……あず、にゃん?」

梓「ごめんなさい! 私、好きな人がいるんです…! だから……!」

だから、あなたの気持ちには応えられません。
そこまで言い切ることは出来なかった。予想以上の胸の痛みに、心が悲鳴を上げていた。

私は今、唯先輩を傷つけている。

憂とその他全てを天秤にかけて、憂を選んだのに。
憂がいれば他に何もいらないと、そう思ったのに。

いざ、唯先輩を拒否するとなると……言葉の全てを紡ぎきる事さえ、痛すぎて出来ない。
頭を下げ、唯先輩の顔から目を逸らして更なる痛みから逃れようとするほどに。
……唯先輩の気持ちを想像し、声を聞くだけでこんなに痛いんだ。顔なんて見れるはずがなかった。

想いが通じない。その痛みはイヤというほどにわかってる。
他ならぬ私だから、それは充分にわかってる。それだけでも痛いのに、そこにさらに拒まれる痛みが重なるんだ。
想像なんて出来ないけど、想像しようとするだけで胸が張り裂けそうになる。

唯「あずにゃん……」

梓「ごめんなさい…!」


そんな痛みを抱えているであろう唯先輩に、ごめんなさい以上の、そしてそれ以下の言葉を紡げる気はしない。
ごめんなさい唯先輩、私は、私は……!

65: 2012/04/02(月) 06:39:55 ID:T82ZaqEo0


唯「……いいよ、顔上げて?」

梓「…え、っ……?」

不意に告げられた「いいよ」というその言葉に、おそるおそる顔を上げる。
そこにあった顔は、意外にもいつものあたたかい笑顔だった。

唯「……ごめんね。私、あずにゃんを困らせちゃったんだね」

梓「っ……」

唯「……その人の事、ホントにホントに大好きなんだよね、あずにゃんは」

梓「……はい」

唯「そっかぁ…。じゃあ、私が諦めないとあずにゃんに迷惑がかかるよね……」

それはその通りなんだけど、「そうです」だなんて言えるわけがない。傷つけられるはずがない。
でも、眼前の素敵な先輩はそのあたりまで察してくれた。

唯「……好きな人が嫌がることなんて、出来るわけないよ」

梓「ごめん…なさい…」

唯「いいってば。ほら、泣かないで?」

唯先輩がハンカチを持った手を伸ばしてくる。ああ、やっぱり泣いてたんだ、私。
唯先輩に涙を拭いてもらうのは、これで何度目かな……

唯「……幸せになってね? そして、幸せにしてあげてね?」

梓「っ、はい……」

唯「…あはは、良かったね、お店入らなくて」

確かに、お店の中で涙を流すのは恥ずかしい。
私は唯先輩のほうこそ泣くと思ってたんだけど、そんなことはなかった。きっと私のために涙を堪えてるんだと思うけど、そういうところはやっぱり先輩で、立派で、素敵だと思う。
……そんな唯先輩だから、私も惹かれた。子供のような純粋さと、時折見せる大人な一面。それを併せ持つあの人に惹かれない人がいるはずがない。
でも、私はすぐに身を引いた。純じゃないけど、軽音部が唯先輩を中心として成り立っている部だと気づいたから。危ういバランスで成り立っていると気づいたから、後輩の私はでしゃばる事を止めた。
恋心と言えるかさえ曖昧だったそんな感情を捨て、それでも仲間として一緒にいられるように頑張った。私のその経緯を知ってか知らずか、憂がいつも私を隣で支えてくれて……いつしか憂のことを特別な目で見るようになっていた。
唯先輩を重ねていた可能性も否めない。唯先輩から憂に受け継がれたであろう優しさに、私は最も惹かれたんだから。
でも唯先輩と憂の違うところだってちゃんと知ってる。憂だけのいい所をたくさん知ってる。今ではそれくらいに憂のことが大好きだ。

でも、そんな気持ちで割り切れないから私は泣いているんだ。
憂のことが好きでも、唯先輩のことを嫌いにはなれない。あんないい人を嫌いになれる人なんているもんか。
近くにいた私なら尚更だ。二年間一緒にやってきて、たくさんの宝物を貰った私なら尚更。

……だから、こういう場での『先輩らしさ』にどこまでも甘えてしまうんだ。

唯「……じゃあね、あずにゃん」

梓「っ、ゆい、せんぱい……!」

唯「……また、会えたら会おうね」

傷つけた後ろめたさを抱える私に、不透明な言葉で返す唯先輩。
でもきっと、それが理想の返し方だ。後ろめたさを抱えているからこそ、私はその言葉を否定も肯定も出来ず、未来を不透明なままにしておくしか出来ない。
否定も肯定も出来ないし、しなくていい。そんな状況を相手から与えてもらう。これ以上ない優しさだと思う。


一度だけ強く頷き、私は唯先輩に背を向けた。

66: 2012/04/02(月) 06:42:59 ID:T82ZaqEo0


【#23】


純『――梓っ!!』

どうにか落ち着き、多少は穏やかな気持ちで取った携帯電話からはそれを吹き飛ばしそうなほどに焦った純の声がする。
結局唯先輩との話が終わるまで純は来なかったが、私が家に帰りつく前に電話が着たという事は同じくらいのタイミングで解放されたのだろう。

梓「……どうしたの? もう終わったよ?」

純『あー、やっぱり間に合わなかったかぁ。ゴメン。全くもう、なんでこんなタイミングで…』

梓「…唯先輩が頼んだんだってさ」

純『えぇ!? あぁ、そっか、どうりで……』

梓「何かあったの? っていうか澪先輩と何を話してたの?」

純『ん、さっき澪先輩が携帯を開いてから話を切り上げたからさ。時間確認してたのか、唯先輩から連絡でもあったのかと思って。話してたことは……帰ってから話すよ』

梓「憂のことは……」

純『大丈夫、言ってないよ。でも上手く隠し通せたかは自信ないけど……』

そのあたりはきっと考えてもわからないと思う。
純は隠し事は上手い…とは言い切れないけど、結局のところ、そういうのを見抜けるかどうかはお互いをどれだけ理解しているかによると思う。
疑わないか疑うか、そして疑ってなお踏み込むか。それを本人がどこまで良しとするかに全てかかってる気がするし。
澪先輩のような人付き合いに慎重な人だと、勘付きはするけど踏み込まないパターンが多いと思うから尚更。

梓「なるほど。じゃあ私はまっすぐ帰るから、家で続きは聞くよ」

純『おっけー。……っていうか梓、今更だけど……大丈夫だった?』

大丈夫だったか、と、そう心配するのは当然だと思う。私だからとか唯先輩だからとかそういうのは関係なく。
そしてそれは、誰に聞かれようと自分の思った通りの事を告げるしかない質問でもあると思う。質問でありながら心配でもあるんだから。

梓「……大丈夫だったよ。少なくとも私はそう思った」

純『……そっか』




――マンションが目前に迫った頃、意外にも純と遭遇した。
というか丁字路の別の道から走ってくる純が見えたので、とりあえず少し待ってあげて合流した。

梓「……そっち側にいたの?」

純「ふぅー…。うん。奢るって言われて、つい。あー疲れた……」

梓「まったく、現金なんだから……」

純「いや、それでも待ち合わせ場所には近かったんだって! だからこそ引っかかったというか…」

梓「はいはい」

奢るって言われたから引っかかったんでしょ、という言葉は飲み込んだ。というか引っかかったって言い方は澪先輩が完全に悪役だよね。
まぁ、先輩二人の目論見通りに純は引き止められたわけだし悔しい気持ちもわかるけど。

梓「……仲直りした?」

純「……うん。まぁ、仲直りというか私が一方的に、ね、敵視してただけだし」

梓「えらいえらい」

純「…はいはい。それより梓は早く帰って奥さんを安心させてあげなきゃね」

……全く、どうして純はこう、照れ隠しからの反撃が上手いのか。
でも言う事はもっともだ。奥さんってところじゃなくて、早く帰って憂を安心させてあげたい。
何事もなく解決したと私は思ってるから、だからこそ早く帰ってあげないといけない。

梓「……どうせもうすぐそこだけど――」

67: 2012/04/02(月) 06:45:19 ID:T82ZaqEo0

純「あっ――!」

マンションの敷地内、入り口のあたり。そこに立つ人影を見て、二人で息を飲む。

憂「………」

梓「憂っ!」

寂しそうに、俯きながら。置き去りにされた子供のように佇む憂。
思わず名前を呼びながら駆け出していたけど、走りながら同時に私の心にいろいろな考えが浮かぶ。

置き去りにされた子供のように、と形容したけど、実際その通りの憂。
そして学生時代とは異なり周りに誰もいない、一人ぼっちの憂。

置き去りにしたのは、一人ぼっちにしたのは、私だ。

仕方なかった。ちゃんと理由があった。憂もわかってくれた。そう言ってしまえばそれまでだけど。
それでも、寂しそうな憂の姿を見た今の私にはその選択が正しかったのかわからない。
本当に、今の憂の周囲には私と、そして純しかいないんだ……

憂「……梓ちゃんっ!」ダキッ

梓「ひゃっ…!」

駆け寄ると、飛びつくように抱きついてくる。
理由なんて考えるまでもない。寂しかったんだ。不安だったんだ。そんなこと昨日の夜の時点でわかってた。

なのに、これしか方法がなかった。

梓「うい……」

……本当に? 
そうやって決め付けてしまっていいの?
そうやって決め付けて、同じような解決方法しか思い浮かばない時、その度に憂を寂しがらせるの?

それが、恋人のやり方なの?

……そうは思いたくない。
これから先、寂しがらせないために何か出来るはずだと思いたい。何もわからないけど、そう信じたい。
私達の関係は変わらなくても、私は変わらないといけない。少しでも憂を悲しませないように。

それに今だって、寂しがってる憂を慰める方法はあるはず。恋人の私になら。

憂「……おかえり、梓ちゃん」

梓「……ただいま。ちゃんと帰ってきたよ」

憂「…うん、ちゃんと待ってたよ、私も」

梓「うん。よかった、本当に」ナデナデ

憂「えへへ……」

憂を撫でながら、密着した憂の吐息を肩と首筋で感じながら。少しだけ憂から視線を逸らすと、視界の端で純が手を振りながらマンションへと向かっていった。
それを見届け、憂の肩に手を添えて一旦引き剥がす。抱き合うのはいいんだけど、私から離れると少し罪悪感があるんだよね、いつも。
とはいえ、今回は仕方ないけど。

憂「…帰る?」

梓「ううん、その前に、憂にお土産があるんだ。目を閉じて?」

憂「う、うん…?」

戸惑いながらも目を閉じる憂。私は手ぶらだもんね、そりゃ怪しむよね。
というかその手は今さっき憂を引き剥がした時のまま肩に乗せられている。まぁ計算通りなんだけど。

……こんな状況ですることっていったら、一つしかないよね。

梓「……んっ、ちゅ…」

憂「っ!?」

梓「……っ。ちゃんと、帰ってきたよ?」

憂「……もうっ。さっき聞いたよ、それ」

梓「そうだっけ」

憂「……えへへ///」

……憂のこの幸せそうな笑顔を見ると、嬉しさと恥ずかしさがこみ上げてくる。
口づけた瞬間の驚いた顔は、私の目論見が成功したという証だからご馳走だったけど。
でもやっぱ、こう、冷静になってみると、ベタなことやらかしたなぁ、と。バカップルみたいじゃん……

梓「ほ、ほら、あんまりニヤニヤしてないで、早く戻ろう? 純が話があるって言ってたし」

憂「うんっ! えへへっ……///」

梓「………」


……そうして、どうにも顔がしまらない憂に今日の私と純の状況を軽く説明しながら部屋まで戻った。
純と合流すれば澪先輩と向こうで何があったか、それの話になるだろうから。

68: 2012/04/02(月) 06:51:22 ID:T82ZaqEo0


【#24】





――悩み、立ち尽くす少女がいた。

鈴木純、平沢憂、そして中野梓。三人の共同生活の場であるマンション前の通り。そこから少し離れた物陰で膝を抱え、涙を流す少女。
……その場に一足遅れて辿り着き、背後でかける言葉を持たない彼女。秋山澪。

頭の回る彼女でなくとも、事情を知っていれば状況はすぐに理解できるだろう。
だが、慰めの言葉が浮かぶかと言われれば話は別だ。それこそ頭の回る彼女でも容易くはない。

思案の果てに、彼女は少女の隣に腰を下ろし、名前を呼ぶ。

澪「……唯」

唯「…みお、ちゃん……」

澪「……フラれた?」

唯「あはは、直球だね……」

澪「…ごめん」

唯「………好きな人がいるって、言われて」

澪「……うん」

唯「……さっき、そこで、憂とキスしてた」

澪「っ……そっか……」

動揺を極力隠し、相槌を打つ。
ここに来る前、すなわち鈴木純と話している時。重要な真実を語っても、相手があまり動じないのは彼女としても気になっていた。
だが、これで彼女の中でも説明はついた。鈴木純、彼女も奇跡の目撃者であり、そして奇跡の果ての恋心が成就したことを知っていたのだ、と。
そして秋山澪自身、そう即座に推理してしまえるほどには『奇跡』の事情に詳しい。奇跡と恋心の関連にも詳しい。

中野梓は平沢憂に好意を抱いていたのでは? という推測は、斉藤菫から琴吹紬を経由して田井中律、秋山澪へと伝わっている。
もっとも、その斉藤菫が気づいたのが憂の氏後だったことから、同時期にこの世に存在しなかった平沢唯には伝わっていなかった。
そして同時に、伝える必要も無いと秋山澪は判断していた。この世に存在しない人に惹かれている、そんな事実を伝えたところで平沢唯の行動が変わるとは思っていなかった。
勿論、蘇った後の平沢唯の抱く好意が『過去の自分は持っていなかったもの』であることも告げていない。余計なことを告げて悩ませる必要など何処にも無いと思っていた。

そして今、それら全てが裏目に出た。

唯「……っ、む、無理かなぁ、やっぱ……」

澪「っ……」

唯「っ、あ、あずにゃんの幸せを願う気持ちに、嘘なんてないよ。後をつけたのも、見守ってあげたいって、思ったからだし…」

澪「……うん」

唯「で、でも、もし、もし将来あずにゃんがフラれたり、別れたりしたら、その時は私が支えてあげようって、そういう考えも、ちょっとだけあった…!」

澪「…うん」

唯「あずにゃんが好きな人でダメだったなら、あずにゃんを好きな私でいいよねって、その資格はあるよねって、思おうとした…!!」

恋愛感情は人を変える。平沢唯らしくない打算に裏打ちされた行動も、間違っているとは言い難い。
日頃、自分を通じて近しい距離にいたであろう妹の憂が他界した今、自分が最も近い所にいる。彼女にはそういう自負があった。
女子高にいながら触れ合いで赤面することも多々あった中野梓が男性と上手くいくなどとは毛頭思っていなかったし、親友である鈴木純とも同じ部活をやったのは一年限りだ。
可能性があるなら純だとは思っていたが、それでも同じ部活で二年間一緒にやってきた自分に利がある。彼女は心からそう思っていた。
軽音楽部という絆を何よりも重視していた平沢唯のその推測は、そこまで的外れなものでもない。実際、中野梓が恋人のいない身であったなら、あるいは恋人のいない身になったなら、悩みこそすれど間違いなく拒みはしないだろう。

恋の駆け引きという面において、平沢唯の行動は前述した通り間違っているとは言い難い。

69: 2012/04/02(月) 06:53:09 ID:T82ZaqEo0
しかし、恋人がいた。皮肉にも軽音楽部から、平沢唯から目を背けた結果に出来た恋人が。そして彼女にとって誰よりも相手の悪い恋人が。

唯「…でも、憂相手なら無理だよぉ…! 憂とあずにゃんお似合いだし、別れるとは思えないし、憂にも幸せになってほしいって、思っちゃうし…!」

澪「………」

唯「それに、もし別れて私と結ばれても、憂からあずにゃんを取ったような風になっちゃう…! そんなこと出来るわけないよ…!」

澪「…優しいね、唯は」

姉としての優しさ。先輩としての優しさ。そして口にこそしなかったが、彼女は妹を誰よりも評価している。身近でずっと助けてもらっていた存在だから、素晴らしさを誰よりも知っている。故に自分では勝てないと尻込みしている面もある。
秋山澪もそれは察している。故に、償いの言葉を口にする。

澪「……ゴメン。唯に重すぎる物を背負わせてしまった私達の責任だよ」

唯「え…?」

澪「教えてもらったんだ。唯を呼び戻す方法を」

唯「…だれに?」

澪「……ネッシー」

唯「………」

咳払いを一つして、秋山澪は話を再開する。

澪「……強く、強く願えばいい。誰よりも大切に想っているって自負している人間が、乞い願えばいい。帰ってきて欲しい人の姿を思い描けばいい。そう教わった」

唯「私、を…?」

澪「うん」

喪失感に打ちひしがれ、心を壊しかねないほどに想う人間が、命さえも投げ出すほどに恋する人が、願えばいい。
二人の少女が、生きる意思を無くした三人にそう告げたのはごく最近のこと。そして成就したのはその後すぐ。
実際のところは中野梓が平沢憂を呼び戻した時のように現実に向き合うことも条件の一つとしてあるのだが、大学生であり尚且つ軽音楽部の仲間に支えられている彼女達は既にその条件は満たしていた。

現実を見て、その者が戻ってくるべき『場所』を認識すること。それが第二の条件。
戻ってくる人が『この場所』にいないとダメだと、願う人が気づくこと。中野梓があの時になってようやく『隣』に平沢憂のいる日常を求めたように、彼女達は常に『自分達の中心』に平沢唯がいる日常を望んでいた。

それでも平沢唯が蘇らなかった理由はただ一つ、三人がそれぞれ自分勝手な恋心に振り回されるまま願っていたから。
本来ならば平沢憂の時のように一人の恋心を糧としてでも充分呼び戻せるのだが、平沢唯の場合は方向性の違う恋心が互いに打ち消し合っており、それに加えて大学生の彼女達は少しだけ大人だった。心の底から願えずにいたのだ。
しかし、それも二人の少女から聞く前までのこと。一度聞いてしまえば彼女達はそれに素直に愚直に縋った。

皆の祈りは届き、平沢唯は戻ってきた。縋るものを取り戻した彼女達は立ち直り、秋山澪は中野梓に電話をかけられるほどに回復した。

しかし彼女達は、皆で平沢唯の帰還を願いながらも、蘇った唯の事情にはそ知らぬ顔で接していた。
目の当たりにした奇跡に驚いたフリをした。理由は全て知らぬ存ぜぬで通してきた。
もちろんそうしてまで隠したかった事実は、聞かされていた『恋心に関する副作用』だ。
誰か一人に対する恋心を糧として現世に舞い戻り、それに忠実に行動する。伝えられたことはそれだけであり、そこに間違いはない。

平沢憂の場合は、自分を呼び続ける中野梓の声を聞いた。
しかし実は平沢唯は誰の声も聞いていない。それでいて中野梓を好きでいる。それは様々なことを意味している。
特に平沢唯の存在の歪さを如実に示しているのだが、腫れ物を触るように知らぬフリを通してきた秋山澪達がそれに気づくことは無い。そしてそこに触れられることのない平沢唯本人も。

結果、平沢唯は『なんかよくわからないけど自分は奇跡で蘇った』とだけ思い込んでおり、秋山澪達周囲の人間もそう振る舞い、彼女の存在理由に触れることはなかった。

たった今、この時までは。

70: 2012/04/02(月) 06:54:02 ID:T82ZaqEo0

澪「でもその時、みんなで話し合ってみんなで願ったんだ。勝手に決めてしまったんだ。『梓を大切に想い、連れ戻してくれるような唯』がいい、って……」

唯「それ、じゃあ……」

澪「……そう。唯が梓をそこまで好きなのは、私達のせいなんだ」

唯「………」

澪「私達の自分勝手な願いのせいで、唯はフラれて、傷ついたんだ……ごめん」

唯「…………」

信頼していた人間からそう告げられ、辿り着く思考など幾つかしかない。
自分の恋心が偽りの物だと、作られた物だと告げられて。自分の行動や存在そのものを否定された、その時に。

平沢憂のように意地になって否定するか、あるいは、

唯「そっか……そうだったんだ…」

澪「ごめん……悪いのは私達――」

唯「大好きなあずにゃんにフラれて、生き返らせてくれた澪ちゃん達の期待にも応えられなくて……」

澪「………ゆい……?」


唯「……私、何の為に生きてるんだろうね」


あるいは、全てを受け入れ、自分を見失うか、だ。



澪「――ッ!!」

その言葉を聞いた瞬間、秋山澪は動いた。眼前の、今にも消えてしまいそうな少女を抱き締めた。
勿論、消えてしまいそうなどというのは比喩に過ぎない。しかし彼女は抱き締めて離さない。そこに恋愛感情など無く、純粋に友として、その腕を解くことはしない。
その腕を解けば彼女が消えてしまうと、本気で信じていた。不安に駆られていた。
何を願ったとしても、秋山澪は平沢唯にもう一度会いたいと思った。それは事実なのだから、消えることなど望むはずも無い。原因が自分達にあるなら尚更のこと。

澪「ごめん、唯……ごめん!」

唯「…澪ちゃんが謝ることじゃないよ」

澪「違う! 悪いのは私達だ! 唯が自分を責めることじゃない!」

唯「……憂が生き返ってたなんて、誰にも予想できないよ」

澪「っ……!」

そう、その通りだ。
生き返った日にそのまま街を出て、その上友人との取り決めで主婦業に専念しており家から出ることも滅多にない平沢憂の存在を誰が予測できようか。
中野梓と鈴木純の二人との交流が断絶していたのも一因だ。それが彼女達の結束を強めてしまい、先刻の会話でも鈴木純は決して口を滑らせることはなかった。

結果、何も知らない平沢唯は告白し、「好きな人がいる」と告げられることになった。

秋山澪は、中野梓が平沢憂に恋焦がれているからこそ今も独り身だと勘違いし、唯の告白を止めることはなかった。
平沢唯も、平沢憂の名前を出されなかったからその場は素直に身を引いた。身を引くフリをしながらも遠くから見守ろうと思った。
しかし、それは読み違いだった。誰にも読めない読み違い。役立たずの台本。最初から最後まで全て、平沢憂の存在に狂わされ続けるだけの悲喜劇だった。

平沢憂さえいなければ全て上手くいった。平沢憂の存在を誰も予測できなかった。どちらも事実なのだ。

唯「……誰も悪くなんてないんだよ、みおちゃん。強いて言うなら、私が生き返ったからこんなことになっちゃったんだ…」

澪「っ…! そんなの認めない! 唯が生きてることは何も悪くない! 私達は皆、唯が戻ってきてくれて嬉しかったんだ…!」

たとえその気持ちが、恋愛感情が自分達に向いていなくとも、彼女達は満たされていた。立ち直った。それもまた事実。
それを否定するようなことを言われて認められるわけがなかった。たとえそう口にしたのが本人でも。

しかし、だからといってどうすればいいのか。
中野梓の感情がこちらに向くことはない。絶対に無い。絶対を覆したとしても、平沢唯本人が認めない。
逆に言えば、中野梓の感情をこちらに向け、その状況を平沢唯が認めた上で結ばれる。そうなる方法以外では何も解決しないのだ。

澪「………」

中野梓が平沢憂を諦める。平沢憂も中野梓を諦める。中野梓が平沢唯に惹かれる。平沢唯が平沢憂に気後れしない理由を作る。
これら全てを満たさないといけない、難解な問い。

澪「………!」

それに対するたった一つの答えを、彼女の頭は弾き出した。


……否、弾き出してしまった。


しかし、それを口には出来なかった。出来るはずがなかった。


中野梓の、命を奪う。


恐ろしすぎる、この答えを……

71: 2012/04/02(月) 07:23:53 ID:T82ZaqEo0


【#25】





梓「――そっか、澪先輩達が……」

純「うん。唯先輩を求め、唯先輩の恋心のベクトルを変えた。というか恋心を芽生えさせた、と言ったほうが近いかな」

純から告げられた内容は衝撃的なものだった。
先輩達皆が唯先輩を求めた。ここまでは有り得る話。だけどそこから先は本当に衝撃的という他ない。

憂「……みんな、お姉ちゃんのことが好きだったんでしょ?」

純「うん。みんな等しく大好きだった。それに加えて梓についても思うところがいろいろあった、ってことだろうね」

先輩達みんな、澪先輩のように私を助けられなかったことを少なからず悔いて。そしてどんな事情があれど、私と道を別ったことが悲しかった、ということだろうか。
申し訳なさと後ろめたさから何も言わずこっちに来た私だけど、やっぱりそれは先輩達との絆を軽視していたってことになる。

梓「……そんなに私と一緒にバンドやりたいって思ってくれてたんだ…」

それ自体は悪い気はしない。けど、

梓「でも、そのために唯先輩を……」

純「それが一番、皆が幸せになる方法だと思ったんだろうね。唯先輩は戻ってくるし、まだ落ち込んでるであろう梓を唯先輩が慰めてあげればいいし、また一緒にバンドやれるし三人は等しく唯先輩を諦められる。そう踏んだんだ」

憂「……愛されてるね。梓ちゃんも、お姉ちゃんも」

純「……疲れていたのかもしれないけどね。愛しながらも、それでも一歩を踏み出せない。皆のバランスを崩せない。そんな関係にピリオドを打つ、丁度いい機会だったのかもしれない」

先輩達はみんな優しい。だからきっと、フラれて泣くならみんな一緒にと願った。選ばれた一人も素直に喜べないと分かっているから。
そして自分達が影で等しく泣くことで、私が救われるようにと願った。私達の関係が元通りになることを祈った。

梓「……でも、そうはならなかった」

憂「……私がいたせいで、だよね」

純「馬鹿言いなさんな。ちょっとすれ違っただけだよ、誰も悪くなんてない。それに唯先輩も諦めてくれたんでしょ?」

梓「……うん」

そのはずだけど、事情を知った今となっては少し自信が揺らぐ。
もしかしたら唯先輩は、自分だけの想いじゃなくて先輩達みんなの想いも背負って告白してきたのかもしれない。そう思うと簡単に諦めるかどうかは分からなくなってくる。
もっと早くこの可能性に気づくべきだった。よくよく考えたらあの臆病な澪先輩が『ドッペルゲンガー』なんていうオカルトの唯先輩の存在に怯えずに協力していた時点でおかしかったんだ。深い接点があったことくらいは予想できたはず。
予想できたからといって何が変わるかはわからないけど、唯先輩に食い下がるくらいはできたと思う。ちゃんと本心を確かめると思う。
だって他の先輩達に負けず劣らず、唯先輩だって軽音部の絆を大切に思っているんだから。それは確実だから。
だからこそ、その絆に背くようなことをするだろうかと言われると……

……わからない。純の言い分と唯先輩の言葉を信じるなら、大丈夫ということにはなるんだけど……

そしてもう一つ。絆もだけど、『ドッペルゲンガー』として戻ってきた人の恋心に対する執着もかなりのものだ、と思う。
あの時の憂を見て、聞いているからそう思う。求めた私に対する憂自身の恋心を、作られた物だと純に指摘されたらしい時の憂を。

72: 2012/04/02(月) 07:25:22 ID:T82ZaqEo0

梓「……あれ、そういえば」

純「ん?」

梓「ちょっと話は逸れるけど、私は憂のことを忘れられなかっただけで、憂に好きになってほしいとは願ったことは無かったはずだけど…」

憂「えっ……」

梓「あ! ち、違う違う! 好きになってもらえればそりゃ嬉しいに決まってるけど、その、憂がいなくなったことが悲しすぎて、そこまで気が回らなかったんだよ、当時は」

好きだから、好きすぎるから、好かれたいなんて贅沢は思いつきもしなかった。
もう一度会えるだけでよかった。落ち込んでいたあの頃、頭の中にあったのはそれだけだったはずなのに。

純「あー、そのあたりは曖昧だけど、唯先輩の場合、澪先輩達の望みが叶ったワケでしょ? ぶっちゃけて言えば、澪先輩達の理想の唯先輩がドッペルゲンガーとして生まれた、ってワケ」

梓「うん」

純「梓だって、どうあったって理想の憂は自分を好きな憂でしょ? 別に責めるわけじゃなくて、人に恋するっていうのはそういうことだと思うし」

梓「ん……まぁ、そうかも…」

誰かに恋心を抱いた時点で、どうせなら好かれたいと、誰もがそう思っているはずだと純は言う。自覚の有無に関わらず。
それがエゴイズムだとは純は言わない。当然の事だと言ってくれる。幸せを求める人として、恋する人として当然だ、と。
憂と恋人同士になれたことで人生で一番満たされている今の私に、それを否定なんて出来ない。

純「むしろ梓と憂の場合が自然であって、澪先輩達みたいに全員が自分の恋心を押し頃して他の人を好きな唯先輩を願う、そっちのほうがよっぽど奇跡なんだと私は思うよ」

憂「……優しい人達ばかりだからね」

梓「………」

そんな優しい人達の願いを、唯先輩は切り捨てることができるのか。私の中で問題が一周してそこに返ってきてしまった。
でも、その問題の答えはやっぱり「わからない」んだ、私には。
唯先輩がどこまで知っているのかはわからない。澪先輩達が全部を伝えているかはわからない。
唯先輩のこの後の行動がわからない。もし私の事を諦めてくれていなかった場合、どんな行動に出るかわからない。
唯先輩の周囲の状況がわからない。唯先輩の考えがわからない。唯先輩のことが…わからない。

純「……そんな顔しなさんな、梓」

梓「純……」

純「あんたは何も悪いことはしてないんだから気にすることはないって。何か問題が起こったらその都度考えればいいよ。いつだって手は貸すからさ」

梓「……うん、ありがとう」

純「……なんか最近梓が素直で調子狂うなぁ」

憂「でも素直な梓ちゃん、かわいいよ?」

純「はいはい、そーですかー」

そんな会話を聞き流し、愛想笑いを貼り付けながら考える。
……本当に、このままでいいのか、と。このまま何も起こらないようにと祈りながら毎日を過ごすだけでいいのか、と。
常に受け身でいいのか、と。そして何より――

73: 2012/04/02(月) 07:27:00 ID:T82ZaqEo0



――夜。相変わらず寝つきのいい純はとっくに熟睡のご様子だけど、私はボーっと天井を眺めながら考え事を続けていた。
そして、もう一人は……

憂「……なに考えてるの?」

梓「ん……」

もう一人は、私の恋人は、こういう時には積極的に踏み込んでくる。こういう時、すなわち私が愛想笑いを貼り付ける程度には不安を感じている時、だ。
きっと純も気づいてはいる。でも踏み込みはしない。そういうのは憂の仕事だと一歩身を引く、それが純だ。私の親友だ。

梓「あのさ……」

憂「うん」

声を潜め、隣の憂にしか聞こえないように囁く。
唯先輩のこと……ではなく、ここにきて表面化してきた、もう一つの私の問題。

梓「……私、純に迷惑かけすぎじゃないかなって思って」

憂「………」

梓「ずっと親友でいてくれた。憂がいなくなってからは誰よりも私を助けてくれた。憂が戻ってきてからも力になってくれた。そしてこれからも手を貸してくれるって言ってる」

憂「…うん」

梓「そして、純はそれを迷惑だなんて思ってない」

憂「うん」

梓「……私はきっと、そんな純に何も返せない」

それは、ついさっき実感したこと。
不安に怯え、わからないものを恐れ、悩んで。
そんな私に、純は「気にするな」と言う。気にせず憂を好きでいろ、と言う。

だからきっと、私が一人で出来ることは二つに一つ。
自分の心のまま恐れ、怯えながら憂と共に生きるか。純に言われるまま何も気にせず憂のことだけを見て生きるか。

どちらにも憂の存在はあるけど、どちらにも純の存在は無い。

一緒にいられないなんて意味じゃない。一緒にいたいと思う。
一緒にいられるならそれがいいに決まってる。でも。

梓「…純は、今のままの関係が続けばいいって思ってる」

憂「うん」

梓「今の私は……憂のことと自分のことばかり考えてて、純のことに気を配る余裕がないのに」

憂「…うん」

梓「純は、それでいいって思ってる」

憂「……うん」

そして私は、そんな純に甘えている。
『それでいいって言ってくれる』純だから、一緒にいたいと思っている。…のかもしれない。つまり……

梓「……そんな純を、都合のいい純を利用しているだけなのかも、って思っちゃうんだ」

いろいろ助けてもらって、それでも何も返さなくていいなんて。それを向こうから言ってくれるなんて。
それは誰よりも自分に都合がいい『理想の』存在じゃないか。

純の存在が悪いわけじゃない。甘えっぱなしの私が悪いんだ。それはわかってる。
純の見返りを求めない無償の優しさは、何よりも尊いもの。そんな人間になれたらいいなって常に思う。
なら、そうなるにはどうすればいいか。甘えっぱなしの自分を捨て、自ら進んで優しさを振り撒ける人間になるには、どうすればいいのか。

……純の庇護の下から、抜け出すしかない。

そんなありきたりで、それでも純が絶対に望んでいない方法しか思いつかない。
一緒にいることを望んでくれた純の恩を、仇で返すような方法しか思いつかない。

そしてきっと、そうなったら私は生きていけない。宿無しの根無し草の私達は、純がいないと生きられない。
だから、それは絶対にありえない。

……ありえないのに、私の頭の中ではずっとそんなことばかりが渦巻いている。
これ以上純に迷惑はかけられない。言ってしまえばそれだけの理由となる、最低最悪の解決法ばかりが。


梓「……私は、変わりたいのかもしれない」

憂「………」

梓「情けない自分から、憂を守れる強い自分に、変わりたいのかもしれない」

純に助けられてばかりで、一人じゃ憂を守れない弱い私から変わりたいのかもしれない。恋人だと胸を張れる自分に変わりたいのかもしれない。
純のように強く、優しくなって、純のように純を助けてあげたいのかもしれない。
そのために思いつくたった一つの方法が純を悲しませるものだなんて、結局は情けないとは思うけど……


憂「……梓ちゃん」

ずっと私の言うことに頷くばかりだった憂が、初めて私に向けて口を開く。
たった一言だけを紡ぐために、口を開く。


憂「……私は、一緒に行っていいよね?」


梓「――――」


その問いに、私は何と返せばよかったのか。

74: 2012/04/02(月) 07:29:59 ID:T82ZaqEo0


【#26】


――同じような毎日が、再度動き出した。

違うのは私の心の中だけ。
不安を抱え、情けなさまで抱え、それでもその二つから逃れられず、動くことが出来ず、同じ毎日を繰り返す。

そんな中でたった一つ、憂のことだけは大事にした。憂だけは守り続けた。
本当に、それだけが私の存在意義だった。

「大丈夫?」と、憂が問う。
「大丈夫」と、純が励ます。

私はただ、憂に「好き」と囁き続ける。


何かが狂い始めていた。
なのに、何も変わっていなかった。


歪。

私達の日常を、歪に歪ませたのは誰か。何か。


その答えは、すぐそこまで迫っていた――




憂「――もうすぐ純ちゃん帰ってくるかな」

梓「…もうこんな時間……」

最近、時間が経つのが早いと思う。原因は……何だろう。
同じ毎日の繰り返しだと自覚したから? 心配事や不安が増えて、考えることが増えたから?
歳を取ると時間の流れが速く感じると誰かが言っていたけど……まだ年齢のせいにはしたくないかな……

梓「……ギター片付けとこっか」

憂「そうだね」

二人での練習を止め、憂が先にギターを置きに行く。
これはいつものこと。憂はどうやら誰かを出迎えることが好きなようだから自然と私が順番を譲る形になっていった。
そして憂がギターをスタンドに立てかけると同時、入り口の扉が開く音。そして純の声。

純「たっだいまー」

憂「おかえりー」

パタパタと駆けていく憂。
その時、私がおかえりを言うよりも自分のギターをスタンドに置くことを優先したのには深い意味はない。言うなれば偶然。気分。たまたま。
でもそのおかげで玄関口の会話がよく聞こえた。


純「一人で寂しかったでしょ、憂」

75: 2012/04/02(月) 07:32:24 ID:T82ZaqEo0


……え?

身体が動かなかった。玄関口の方を見つめた姿勢のまま何も出来なかった。
憂も、純のその言葉に何も反応出来ていない。そして玄関口のほうからは、もう一人、誰かの声がする。誰かの声が。

  「ただいま、憂」

誰?
誰の声?

憂「っ……」

視界の先に、後ずさる憂の姿が映る。
それでも私は動けない。憂が怯えているのに、動けない。
……怯えているんだ、私も。その先にいるであろう“誰か”を見たくないんだ。

純「……憂?」

純の声が聞こえ。
怯えきった憂が私の方へと走ってきて。

純「いったいどうしたの――」

純が姿を現し、私を見て絶句して。


……その後ろから顔を覗かせる“私”と目が合った。



梓「ひっ………」

たぶんその瞬間の私は、腰を抜かして尻餅をついて、それでも必氏に後ずさったんだと思う。
何かに触れた手とか、ギターが倒れる音とか、そんなのもうっすらとしか記憶にない。

憂「っ……!」

……気がついた時には、守られるように、憂の腕に抱き締められていた。

純「……どう、いうこと…?」

私と、自分の後ろの“私”を見比べながら、純が呟く。
“私”はしばらく私と、その隣にいる憂を見比べていたけど……

憂「純ちゃんっ!!」

純「うわっ!?」


不意に純を突き飛ばし、私の方へ走ってきて、床に倒れたムスタングのネックを両手で掴み、


梓「ひっ……」


持ち上げ、

振り上げて、

私に向けて――


憂「ダメぇっ!!」


……振り下ろそうとしたところを憂に突き飛ばされ、一緒に床に倒れこみ。
それでもまだギターを握って憂を振り払おうとしたその腕は、起き上がってきた純によって押さえ込まれた。

76: 2012/04/02(月) 07:35:30 ID:T82ZaqEo0



純「――ったく、危ないことするねぇ。この……えーと、梓二号は。8時にはまだ早いよ?」

梓「……笑えないよ………どういうことなの!? ねぇ、あなたは何なの!?」

梓?「………」

身動きの取れない眼前の“私”に向かって問いかけるけど、返事はない。

あの後、呆然としている私をよそに憂と純の二人はこの“私”を拘束した。
拘束なんてしたことないだろうし、暴れるしで大変そうだったけど、二人は私に手伝えとは言わなかった。
私も頭の中がごちゃごちゃだったからそれは助かるけど、そうして時間を置いて“私”に向き合っても気持ちは変わらない。
聞きたいことだらけ。それは変わらない。

何がどうなっているのか、今、目の前で座り込むこの“私”は何なのか。予想はつくけど……わからない面も多いし、認めたくない面もある。

梓「答えてよ!!!!」

憂「梓ちゃん……」

純「……少し落ち着きなって、梓。私が聞き出しておくからさ、外の空気でも吸ってくるといいよ」

梓「………」

痛々しそうな顔で私を見、気遣う憂と純を見るとさすがに少し頭も冷える。
というか、無理にでも冷やさないと二人に悪い。私が今どんな顔をしてるのかはわからないけど、少なくとも二人は本当に辛そうな顔をしてるから。

梓「……大丈夫。ごめん、急ぐことはないよね。ちゃんと縛ってるし、何も出来ないでしょ?」

梓?「……ふんっ…」

純「おーおー、見た目だけじゃなくて生意気さもそっくりだこと」

憂「純ちゃん……そんなこと言ってる場合じゃないってば」

……でも、純のそういうところを見れると何となく安心する。私はこんなに生意気な振る舞いをした覚えはないけど。

純「ふむ。ま、何も言わなければ言わないで別にいいんだけど。想像はつくしね」

梓「………」

梓?「………」

純「……この梓二号は…ウチの梓の、ドッペルゲンガー。誰が呼び出したのかはわからないけど」

うん、まぁ、そうだよね。そうとしか考えられない。
憂に唯先輩、前例が二人もいるとさすがに私も純も自然に受け入れてしまうようで。

……余談だけど『ウチの梓』と言ってくれたのが少し嬉しかったから、純がそれと気づかずに連れ込んだことについては言及しない。
いや、そもそも気付けと言うのが無理な問題だとも思うからね、私も。憂も唯先輩も、たった一つの違いを除いて全く同じだし。

梓?「……純は」

純「お?」

梓?「純は、私が偽者だって、そう言うの? さっきまで普通に話してたのに」

……せっかく私が言及しなかったのに、あっちに言及されてるし。
でもきっと、純なら誰に問われようと純らしい予想通りの答えを返すんだろうなぁ。

純「うーん、あんたも『梓』なんだと思うよ。もう一人の梓。だから私は普通に話してた」

梓?「じゃあ、こんな扱いしないでよ」

純「いや、梓を傷つけようとする人を放置はできないでしょ。たとえ『梓』でも。それがあんたを二号呼ばわりする原因だし」

梓?「……私が『中野梓』だよ。純と普通に仲良く話せてた、それが証明してる!」

純「ん? そのために私と偶然出会った風を装った、ってこと?」

梓?「っ………」

確かに今の言い分を聞く限り、そういう作戦か何かだった、と考えるのが自然だけど……

77: 2012/04/02(月) 07:38:24 ID:T82ZaqEo0

梓?「……その時は……考えてなかった」

純「……何を?」

梓?「…そんな風に、打算で純と仲良くしたつもりなんてなかった」

とても、苦しそうに。

梓?「……『中野梓』は、私は、純のことを親友だと思ってる。仲良くするのに理由なんていらないよ…」

とても悲しそうに、“私”は言う。
言いたいことはわかる。理由とか、意味とか、そういうのを求めてしまうような関係なんて、親友とは呼べない。
同時に、そう思われてしまうのも。

純「……はぁ。そうだね、私がそう言ったんだもんね。もう一人の梓、って。ごめんね」

梓?「……いいよ。私だってわかってるから。私のほうが、望まれて生まれたほうなんだ、って」

純「……どうして?」

梓?「最初からわかってた。矛盾してるんだもん、記憶と心が。目の前の光景が」

そう言い、こっちを睨みつけて。

梓?「……私の好きな人と、そこの“私”の隣にいる人が、違うんだもん」

憂「ッ……」

やっぱりというか何と言うか、向こうの“私”がドッペルゲンガーであるという事は、好きな人も違うんだ。
憂を好きな私の記憶を引き継いでおきながら、今は好きな人が違う。もしかしたらドッペルゲンガーとして生まれた時に憂のように声を聞いたのかもしれない。
……そういえば唯先輩は、誰かの声を聞いたんだろうか? 私を好きな唯先輩は、何も言ってないはずの私の声を聞いたのだろうか? あるいは連れ戻してくれたはずの先輩全員の声を聞いたのだろうか? それとも……

梓「……っ、ちょっと待って……」

待って。考えるより先に、明らかにしておくべきことがある……

梓「……あなたが好きなのは、誰…?」

梓?「…唯先輩だよ。何かおかしい?」

梓「っ……」

ということは……唯先輩が求めたの?
唯先輩が、自分のことを好きな“私”を求めたの?

純「……ま、可能性としてはそりゃ真っ先に出てくるけどさ」

そう、確かに純の言う通り可能性としては当然唯先輩は浮かぶ。
私の不安通りに、いろいろなものを背負いすぎた唯先輩は諦めきれなかった。そうだとしても不思議じゃない。

憂「で、でもっ……」

純「うん、皮肉にもその唯先輩自身が例外なんだよねぇ」

ドッペルゲンガーが好きな相手が、必ずしもドッペルゲンガーを生み出すほど好いているとは限らない。
つまりここにいる“私”は……唯先輩が生み出した可能性もあるし、『唯先輩を好きな私』を欲する誰かが生み出した可能性もある。
……後者なら、先輩達だろうか。5人でバンドをやりたがっていて、唯先輩が失恋で傷つく事を良しとしない、優しい先輩達なら有り得る。憶測に過ぎないけど、可能性は高い。

78: 2012/04/02(月) 07:42:13 ID:T82ZaqEo0

純「憂もだけど、唯先輩もあんたと同じドッペルゲンガー。それも知ってるよね?『梓』なんだから」

梓?「…もちろん」

純「じゃあ、いくつか質問したいんだけどいいかな? あんたと唯先輩達は同じ存在のはずだけど、いろいろなところが違いすぎる」

やっぱり純は私の知らないところでいろいろ考えているらしい。
そしてもちろん、私が知らないそのあたりのことは“私”も知らないはず。そこに興味を持って乗ってくるかな……?

梓?「……ま、唯先輩のことを理解するためにも、乗ってあげてもいいけど」

純「ありがと。じゃあまず一つ目。あんたは唯先輩を好きなのに、記憶の中の想いは憂に向いていた。そんな記憶と心の矛盾に、どうして向き合えたの?」

梓?「……? 言ってる意味がわかんないんだけど。普通に生きてれば気づくでしょ?」

憂「………」

憂は純に指摘されるまで目を逸らし続けていた。唯先輩も、話した感じだときっと気づいていない。
……普通に生きてれば、か。一度氏んだ二人と生きている“私”では、やっぱり見ているところが違うのだろうか。
いや、あるいは私のドッペルゲンガーだからという可能性もある。あんなに憂を好きで憂のために生きてきた私が、突然唯先輩を好きになればそりゃ自分でもおかしいと思う。
憂や唯先輩は、以前は誰かに特別恋愛感情を抱いてなかったから急に誰かを好きになってもあまり違和感を感じなかったとか…?
まぁ、どれも仮説に過ぎないけど。

純「……じゃあ、その矛盾に気づいたからここに来たの?」

梓?「……そうだね。矛盾してるから、それらを無かったことにしようとした」

梓「……それら、って?」

梓?「……私は、唯先輩が求めてくれた私だから」

純「……だから何?」

梓?「…だから、そっちの“私”は、要らないでしょ?」

憂「ッ!!」

睨みつける憂の前に、純が立って視線を遮りながら問いかけを続ける。

純「唯先輩を好きで、唯先輩に好かれて、それで完璧だからこっちの梓は要らない、と」

梓?「唯先輩の理想の私がここにいるんだから、それに反する存在なんて要らないでしょ? 少なくとも私は必要だとは思わない」

……その言葉は何かを思い出させる。
そうだ、あの時の憂だ。再会した日、駅で声を荒げていた憂の言った言葉。


―― 「……梓ちゃんを好きじゃない私がいるっていうなら……頃してやるっ! そんなの、私が許さない!!」 ――


私の理想に反する憂を、憂が殺そうとする。
ドッペルゲンガーである憂が、本物の憂を殺そうとした。今になって思えば、あれはそういうこと……?

梓「ねぇ純、もしかして……」

純「……ドッペルゲンガーを見た者は氏ぬ。そんな都市伝説もあったねぇ」

梓「…あ…!」

私の確かめようとしていたことも、言ってしまえば最終的にはそこに繋がる。
本当に純は私の数歩先を見据えているんだなぁ……

79: 2012/04/02(月) 07:44:50 ID:T82ZaqEo0

しかし、最初の質問に対する答えも要はそういうことなのかもしれない。
どうして矛盾に気づけたのか、じゃなくて、矛盾に気づかないといけないんだ。
矛盾に気づき、私を消そうとしないと、成り代わらないと“私”は私として生きられないんだ。
憂も唯先輩も、気づく必要がないだけなんだ。消さないといけない存在がいないから。既に自分として生きることを許されているから。
皮肉にも、『氏んだ』記憶までもが残っているからこそ、気付かず生きることが許されているんだ、二人は。
そしてそんな二人でも、きっと気づいてしまうとあの時の憂のように自分を見失いかねない。
『好きじゃなかった』という事実でさえあれだけ憂は取り乱した。憂ほどの人が取り乱したんだ、『他の人を好き』なんていう事実を突きつけられた“私”がどれほどそれを『否定』したがるかは想像に容易い。

目の前にいる“私”には、矛盾をなかったことにしない限り、『中野梓』という名前が与えられることはない。
名前を、そして居場所を欲する存在、それがドッペルゲンガーなのかもしれない。そう思うと、とても必氏に生きようとしている存在だとも思うけど……

梓「……でも、だからって、私だって……氏にたくないよ」

さっきの光景を思い出すと、今でも身が竦む。
そんな私を憂が抱き締めてくれて、「大丈夫だよ」と力強く囁く。

憂「梓ちゃんは、私が守るから」

梓「っ……」

その言葉は安心をくれるけど、でも同時に思ってしまうこともある。

また私は守られている。
私はいつだって守られてばかりだ。純に、憂に、そして学生時代はきっともっと多くの人に守られて。
いつも、いつも……

梓「……大丈夫」

憂「…そう?」

梓「大丈夫だよ。大丈夫じゃないといけない」

そう、大丈夫じゃないといけない。大丈夫にならないといけない。そのはずなんだ。
強くなりたい。そう願ったはずじゃないか、私は……

憂「……梓ちゃん?」

梓「………」

憂「梓ちゃ――」

梓?「私は、諦めないよ。私が『中野梓』になって、唯先輩に愛されるんだ…!」

純「健気だねぇ……」

憂「……っ。純ちゃん、聞きたいことはまだあるの?」

純「ん? んー、あったような気もするけど別にいいか。それよりも先に言っておきたいことが出来たよ」

憂「うん、私も」

梓「……?」

状況が掴めないでいる私をよそに、二人は“私”の前に立って、見下ろし、信じられない言葉を告げた。

梓?「……何?」

憂「……どうしても、諦めてくれないのなら」

純「私達だって、手段は選ばないつもりだよ」

80: 2012/04/02(月) 07:46:31 ID:T82ZaqEo0

梓「…っ!?」

“私”の顔が少しだけ歪む。それはきっと恐怖ゆえに。
そしてきっと私もそれに近い顔をしていると思う。直接その意思を向けられたわけじゃないから完全に同じ顔とまではいかないだろうけど、それでも同じくらい驚いたはず。

梓「ま、待ってよ二人とも。手段を選ばないって……どういうこと? 何するつもり?」

……なんて、我ながら白々しいことを聞いたなぁとは思う。わかってるくせに。直接口にしなかったのも二人なりの気遣いだとわかっていたくせに、私は自分からそれをふいにした。

憂「……どうしても、って時は」

純「……頃す、ってことだよ」

梓「っ…!」

……わかってたくせに。
“私”がそういう意気込みで来る以上、こちらもそれ相応の手段で返すことになるってわかってたくせに。
でも、それでも、そんなの……!

梓「お、おかしいよそんなの! そんな簡単に、こ、頃すだなんて!」

純「簡単? よく言うよ、ついさっき殺されそうになった人が」

梓「そ、それは……」

純「そこの“梓”は、簡単に頃しにきたんだよ、あんたを」

憂「梓ちゃんが殺されるのを、ただ黙って見ておくなんてできないよ、私には」

梓「だ、だからって! 相手は…相手は『人』なんだよ!? 人間として生きてるんだよ!?」

梓?「………」

純「厳密には人間じゃなくてドッペルゲンガーだけど。でもまぁそうだね、こっちの“梓”もちゃんと『梓』なんだって言ったもんね、私は」

そう、そうなんだ。
憂も唯先輩も、そして目の前の“私”もちゃんと認めている純が、そう簡単に命を奪おうとするなんて、それじゃ矛盾してる…!
だってそれじゃ、結果的に向こうの“私”が劣る存在だと、命さえもどうでもいい存在だと言っているようなもので!

純「だから、諦めて欲しいんだよね。私達があんたに危害を加える時は、もうあんたを『梓』とは見なくなった時だから」

梓?「ッ……」

梓「純! やめてよ! 違うでしょ!? そういうこと言ってるんじゃないし、聞きたいんじゃないよ、私は!」

優しい二人の、そんな言葉は聞きたくない。目の前の“私”を傷つける言葉は。
いや、相手が誰であろうと聞きたくなかった。いつも通りに相手を思い遣って理解する二人らしい言葉が聞きたかった。
でも、それは叶わない。

純「……自分で言った事と矛盾してるのは認めるよ。でもそれでも、守りたいんだから仕方ないじゃん」

憂「私達が守りたいのは、こっちの梓ちゃんだから。何がどうあっても、自分に嘘をついてでも、ね」

梓「っ……やめてよ、二人とも……そんな、そんなの……かわいそうだよ……!」

梓?「………」

自分でも信じられない言葉が口をついた。命を奪いに来た相手に「かわいそう」だなんて。
でも逆に考えれば、殺されそうになった私だからこそなのかもしれない。あの時は本当に怖かった。その恐怖がわかるからこそなのかもしれない。

梓「それに……憂も純も、怖くないの…?」

純「……そうだね。人の命を奪う、それはとても怖いことだよ。だからこそ最後の手段。だからこそこの場で“梓”には諦めてほしい」

憂「……それでも、いざとなったら迷わないよ。梓ちゃんを失う方が、何万倍も怖いから」

梓「………」

ダメだ。無理だ。きっと二人の言う事は何一つ嘘偽りのない本心であって、信念だ。私にはそれを覆すことは出来ない。
私の事を大切に思ってくれているからこその信念。嬉しくて悲しい覚悟。どうにかしたいけど、私のためだからこそ私の言葉ではどうにもできない。

81: 2012/04/02(月) 07:47:22 ID:T82ZaqEo0
そして信念を覆せないという意味では、きっとこっちも二人の言葉では揺らがない。

梓?「……私は、唯先輩と結ばれないくらいなら――」

梓「っ! と、とりあえず、さ!」

純「ん?」

梓「さ、先に澪先輩に電話してみていいかな?」

とりあえず話を逸らそう。三人の誰一人として止められなくても、せめて時間を稼ごう。
何か解決の糸口が見つかるかもしれないし。“私”が縛られている以上、安全は確保されてるんだ。二人としてもそこまで結論を急ぐ理由はないはず。

憂「……どうして?」

梓「…唯先輩の件についても、あれから何も言ってないし」

気にかけてくれた先輩に対して、何も連絡しないままというのは気になってはいた。私はその気遣いをふいにした側だから、どことなく気まずくて電話し辛かったけど……
一応、唯先輩を通じて事情は伝わっているはず。そう自分に言い聞かせて誤魔化し続けてきたけれど、それでもやっぱり不義理な気はずっとしていた。

梓「それに、もしかしたらこの“私”について何か知ってるかもしれない」

……実はこっちがメインだったりもする。
少なくとも澪先輩達はドッペルゲンガーの生み出し方を知っている。意図的に唯先輩を生み出したんだから。
だからそれと同じようなやり方で“私”を生み出した可能性もやっぱり充分にある。ただ、それを私から尋ねるのは非常に危険だ。

なぜならば。
そう思いたくはないけど、信じていたいけど、もしかしたら先輩達は私に氏んでほしかったのかもしれないから。
ドッペルゲンガーを見た人は氏ぬ。本物は氏ぬ。これほど有名な都市伝説を、先輩達が知らないはずはない。
知った上で私を皆の理想の『私』に入れ替えることを望んでいたとしたら、私はその望みに気づかないフリをしていた方が明らかに安全なんだ。気づいていることを察された場合、強硬手段に出るかもしれないから。

だから、電話して遠回しにこのあたりを確かめてみたい、というのが大きい。
そんなはずはないと信じていたいけど、目の前にこうしてドッペルゲンガーが存在する以上、可能性の一つとして常に視野に入れておかなくてはいけない。
……少なくとも純は、憂に対してもそうやって接してきて、結果的に私達を守ってくれた。そのはずだ。
だから私も先輩達にそうやって接して、疑いが晴れたらその時に全部話して、協力してもらおう。そういう見積もりがあった。

さすがと言うかなんと言うか、純は私と寸分違わない考え方をしていたようで真っ先に同意してくれた。

純「んじゃ、カマかけてみますか」

でも、そう言いながら携帯電話を取り出す純の手を私は止めていた。
カマをかけるの発言からわかるとおり、考えてることは間違いなく純と全く一緒だけど、いや、一緒だからこそ止めていた。

純「……梓?」

梓「私が電話する。遠回しに確かめればいいんでしょ?」

純「そうだけど……」

梓「それに、唯先輩の件に関しては私から言わないといけないよ。その流れで話を振るんだから、私がやらないと」

純「……わかった」

ほんの少しだけ腑に落ちないといった声色で、純は手を引っ込めた。
心配してくれてるんだろう、というのはわかる。けどやっぱり、いつまでも心配されてばかりじゃいけないんだ。
そんな私の気持ちも汲んでくれたのかもしれない。そうだったらいいな、と思う。

82: 2012/04/02(月) 07:53:52 ID:T82ZaqEo0


【#27】


澪『――もしもし。梓?』

数コールの後、澪先輩の声が耳に届く。
いつもと変わらない、凛とした、それでいて優しい声。

梓「……はい。お久しぶりです、澪先輩。時間、大丈夫ですか?」

澪『ああ、まだ大丈夫だと思う』

梓「…まだ?」

「まだ」「思う」とか、澪先輩らしくない曖昧な予測で語られる言葉の真意は、すぐにわかった。

澪『うん、まだ唯が戻ってくるまで時間はあるはずだから』

梓「……唯先輩と一緒にいるんですか?」

唯先輩の名前を出した途端、二人が反応する気配がしたけど、そちらに目をやる余裕はない。

澪『鈴木さんから、何か聞いた?』

梓「あ、はい。一応、あの時に話したらしきことは全部」

澪『そうか。じゃあ説明するけど、生き返った唯と私は一緒に住んでるんだ。話すと長くなるけど――』


――澪先輩の状況説明を纏めるとこうだ。

生き返った唯先輩の居場所に悩んだ先輩達は、みんなでお金を出し合って大学から少し離れた所に一人分の部屋を借りた。
少し離れた場所にした理由はもちろん学生の人達に唯先輩を目撃されないように、それでいて自分達が様子を見に行きやすいように。
そこに唯先輩を匿うことにしたけど、やはり一人にするのはいろいろと不安なので誰かが一緒に住むことになった。
誰でもそれなり以上に唯先輩のことは助けてあげられるけど、問題は学業や部活との両立がやはり少し難しくなること。
事情を知っていてフォローしてくれる大学の軽音部の同級生の人達がいるらしいとのことだけど、その人達の中の誰とも学科が違うムギ先輩はフォローしてもらいにくく、真っ先に気を遣われたらしい。
そして澪先輩か律先輩か、となったわけだけど、律先輩は澪先輩を推した。澪先輩をフォローすることになるであろう協力者の同じ学科の人も、同じように律先輩と同じ学科の人から推されていたらしい。
どうやら二人とも似た者同士で、『誰かにために頑張る人を手伝う』ほうが向いてる気がする、と言っていたとのこと。

そうして多くの人に助けてもらいながらの唯先輩と澪先輩の共同生活が始まった。
多くの人が助けてくれる生活が安定しないわけはなく、すぐに二人は慣れ、澪先輩は私に電話をしてきて、しばらく後に唯先輩はこの街まで足を運んだ、ということらしい。
最初のうちは人に見られる可能性を危惧し、唯先輩を家から出そうとはしなかったけど、やっぱり家の中にいてばかりじゃいけないし唯先輩も出歩きたがるということで最近は特に制約をつけたりはしていないとのこと。
……どことなく、私達と似ている点も多くある気がした。


澪『…梓相手なら言うまでもないと思うけど、ただ一緒に住んでるだけだから。やましいことは何もないから!』

梓「あ、は、はい」

それはそうだろう。だって今の唯先輩は…私の事が好きなんだから。
それこそドッペルゲンガーを生み出してもおかしくないほどに。いや、そんなことはしないって信じてるけど!

83: 2012/04/02(月) 07:55:53 ID:T82ZaqEo0

澪『……いや、逆かな。梓にはこういう言い方しちゃいけなかったかな』

梓「……はい?」


……信じてる、はずだったけど。


澪『憂ちゃんっていう恋人と住んでる梓には、さ』

梓「え…っ? な、なんで知って……」


澪『……あの日、唯が見てたらしいんだ。梓と憂ちゃんが、キスしてるところ』


梓「っ――!?」


……その言葉を聞いた瞬間、信じてるはずだったものが、揺らぎ始めた。

だって、だってそんなの、考えられる限りの中でもっとも唯先輩を傷つけてしまう形でのバレ方じゃないか。
あの日ということは、フラれて傷を負ったその直後に、非情な追い討ちになる形で。
キス、それに同棲という、恋人らしさを何よりも見せ付けられる形で。
出遅れた自分を悔やみ、自分より一歩早かった憂を妬みかねない形で。
そして知らない人とのことならいざ知らず、誰よりも唯先輩に近い存在だった憂のことを隠していた私に不信感を抱きかねない形で。

……唯先輩の胸中には、私と憂に『裏切られた』という気持ちが渦巻いていてもおかしくはない。
好きな人に裏切られ、誰よりも近しい存在に負け、自暴自棄になっていてもおかしくはない。
仮に攻撃的な感情を抱かずとも、全てがどうでもよくなるくらいに落ち込んでいてもおかしくはない。


……そんな気持ちを抱いているなら、私を頃す存在であるドッペルゲンガーを望んでも、おかしくはない。


梓「……だとしたら、やっぱり、かなり落ち込んでました…よね?」

澪『ん、まぁ…そこは否定しないよ。でも、誰にもどうしようもなかった事だって、そう思ってる』

梓「……すいません」

澪『…私達が望んだ形じゃなかったのは事実だけど、梓は悪くないよ』

梓「それでも……結果的に、唯先輩は傷ついた」

澪『……うん』

梓「あの日、私のせいで傷ついた唯先輩を、慰めてあげられたのは澪先輩だけのはずです。私はまた、澪先輩に迷惑をかけたんです」

澪『………』

梓「だから……すみませんでした。あれからずっと、澪先輩には迷惑をかけてばかりです……」

澪『…それでも、梓は悪くないよ』

梓「……ありがとう、ございます…」

そう言ってくれる先輩達を、信じたい気持ちはとても大きい。
私の謝罪も心からのものだし、澪先輩の言葉も嘘偽りがあるようには聞こえない。
それでも……

澪『……でもやっぱり、梓とは、別の道を歩むことになりそうだな』

そう、その事実がある以上、先輩達から見て私はもう何の価値もない存在なんだ。一緒に行けないのだから。
だから……ドッペルゲンガーを生み出してもおかしくはない。一緒に来てくれる“私”を望んでもおかしくはない。

それが大袈裟だとしても、先輩達が私を頃すことを意図したわけじゃないとしても、それでも可能性は消えない。
他ならぬ私のように、無意識にドッペルゲンガーを求めてしまう可能性だってあるんだから。
意図せずとも、頃しかねない存在を生み出してしまう事だってあるのだから。
愛しく想い、求め焦がれてしまう、ただそれだけの感情のせいで。

84: 2012/04/02(月) 07:57:23 ID:T82ZaqEo0

……それでも私は、最後の望みを賭けて問う。
可能性なんてほとんどないと思っていながらも、希望を捨てきれず、問う。

梓「……もし」

澪『うん?』

梓「もし、私が……その、実は唯先輩や憂のような存在だったとしたら、それは誰が望んだんだと思います? そもそも誰かが望むと思いますか?」

澪『……梓?』

梓「…もしも、の話です」

もしも私がドッペルゲンガーだったら、それを生み出す可能性があるのは誰か。
私の最後の望みは、ここで全てを否定してくれること。先輩達の誰かがドッペルゲンガーを望む可能性も、生み出す可能性も、全てを。
私を傷つけ、頃す存在をこの世に産み落とす可能性を、全て否定してくれること。そんなことはさせないと言い切り、私にとっての絶対的な味方であってくれること。

深刻な話だというのは充分すぎるほどに伝わっているのだろう、たっぷり悩んだ後、澪先輩は口を開いた。

澪『……そんな怖いこと、考えたくもないけど。本当に、もしもの話なんだな?』

梓「はい」


澪『……だとしたら……やっぱり、唯、かな』


梓「……そう、ですか」

不思議と落胆はなかった。そうあっても不思議じゃないと思っていた。
そもそもドッペルゲンガーを生み出した私が、他の誰が生み出そうともそれを責める事も非難する事も出来るはずがないんだし。
それに、やっぱり澪先輩も思いやりに溢れていて、優しい人だから。

澪『……私達は、唯に大きすぎる物を背負わせてしまった。いくら悔いても足りない程に重い物を。だからやっぱり、望むなら唯だと思う。家にいる時はボーっとしてるし…』

梓「……憂を望んだのは私です。だからその気持ち、よくわかります」

よくわかる。そのボーっとしている時間で願っていてもおかしくないと思える程度にはよくわかる。
実際、私はそうして無気力なまま願い続けていたんだし、こうして今、“私”も現れたんだし。

澪『……本当に、本当の本当にもしもの話なんだよな?』

梓「っ……」

……少し、気持ちが揺らいだ。
何度も念を押すほど怖がりで、そして優しい澪先輩なら話せばわかってくれるかもしれない。協力してくれるかもしれない。
でも……

梓「大丈夫です。私は『私』です」

でも、言うわけにはいかなかった。
言えばきっと唯先輩が責められる。澪先輩じゃないとすれば、やっぱり澪先輩の言う通り、生み出したのは唯先輩だ。それもきっと澪先輩の知らない所で。
事情を話せば、唯先輩は非難されるだろう。澪先輩達のように意図的なものだったか、私のように偶然のものだったかに関わらず、唯先輩の生み出した“私”は私の命を奪いに来たのだから。
優しい唯先輩が意図して生み出すとは思いたくないけど、偶然だったなら尚更、皆に責められた時に唯先輩自身も自分を責めるだろう。
私の発言がキッカケで、唯先輩は皆に責められ、自分を責める。そうなるのが目に見えているなら、言えるはずがない。
……これ以上、あの人を苦しめることなんて私に出来るはずがない。今でさえ、もう許してもらえないほど傷つけているのに。

あと最も考えたくないパターンだけど、澪先輩の言葉すら演技で、嘘で、先輩達全員が私のドッペルゲンガーを望んでいた場合。
この場合もやっぱり言ってはいけない。電話前に考えた通り、言えば完全な決別に繋がり、強硬手段に出られる可能性があるから。
……このパターンの可能性は、まずないって信じてるけど。


……何にしろ、話せない以上これ以上話を長引かせるのは得策じゃない。
まだ少し不審がるような澪先輩に、「どうか唯先輩をお願いします」とだけ告げ、電話を切った。
私はきっと、もう二度と唯先輩の前に立てない。顔を見せることすら許されないだけのことをした。だからどうか、澪先輩達が支えてあげてください、と、そう願いながら。


……電話を切れば、私はそこにある6つの瞳に射抜かれることになる。そうわかっていても、もう逃げられない。

85: 2012/04/02(月) 07:59:39 ID:T82ZaqEo0



梓「――明日の朝、私の考えを言わせてほしい」

純「……まぁ、確かにもう夜だし、一晩置いて頭を冷やすのはアリかもしれないけど」

梓「うん」

本当は、もっと先延ばしにしたい。でもそれは逃げだ。それじゃきっと何も変わらない。
純はこう言ってくれてるけど、純と憂の気持ちも、“私”の気持ちもきっと変わらない。そして、私の気持ちも。
結局誰一人として、頭を冷やしたくらいで変わるような答えなんて持ってない。
だからこれは私のワガママ。自分勝手な私の、私の為だけの我が儘。

先輩達に相談すら出来ず、“私”は私を頃すことを諦めない。
そんな状況で私が、憂と純を守るために出来ること。

そんなの考えるまでもない。私の答えはすぐに出た。
だから、私が先延ばしにしたいのは答えを出すことではなく、告げること。見せること。教えること。
頭の中で考えるだけなら責任は伴わないけど、口にする、文字にする、行動する、どんなカタチであろうと現す行為をした時点でそれは私の責任になる。
それが怖くて、先延ばしにしたいと願う。

……でも、やっぱり先延ばしにしてはいけないんだ。それが皆のことを考えて出した、私の選択なんだから。


――その日はそのまま普通に夕食、入浴を済ませ、“私”については一晩押入れに監禁する形にした。
憂も純もそれで納得してくれた。私の行動にも提案にも何の疑問も持たなかった。
それほどに私は自然に見えていたんだろうか。憂と純を守りたいと願いながらも、自然な私で居られたんだろうか。

……私は、自然に二人を守れるくらい、強くなれたんだろうか。

変われるほどの何かをしたわけじゃない。ただ一つ、気持ちが変わっただけ。
誰にも頼れず、自分一人で結論を出さざるを得ない状況に追い込まれて、覚悟が決まっただけ。
大切な人達を、守りたいから。


――……皆が寝静まった頃、私は包丁を一本手に取り、押入れに向かった。

86: 2012/04/02(月) 08:02:59 ID:T82ZaqEo0


【#28】





純「――梓は?」

憂「まだ寝てるよ。やっぱり精神的に堪えてるんじゃないかなぁ……」

朝、大学に行く準備をした純ちゃんが私に声をかける。あんなことがあった次の日なんだし、仕方ないと思った私は梓ちゃんを強く起こそうとはしなかった。
自分のドッペルゲンガーが目の前に現れて、ショックを受けない人なんていないはず。真面目で繊細な梓ちゃんなら尚更だと思うから。

純「……やれやれ。考えを朝に言うって言った本人が寝坊とはね。気持ちはわかるけどさ」

憂「…純ちゃんは、こういう時強いよね」

梓ちゃんに変に気を使わず、軽口を言う純ちゃんは本当に強いと思う。
いつものペースを崩さないそんな姿は、やっぱり頼りになる。だから梓ちゃんも純ちゃんに甘えちゃうんだと思う。
私はそれに嫉妬するんじゃなくて、感謝しないといけない。きっと梓ちゃんの中の、私が助けてあげられないところを助けてくれるのはそういう人だから。

純「…憂のほうが強いよ。ちゃんと梓を守ってる」

憂「そう…かな」

純「そうだよ。私に出来るのはそんな二人のお手伝いだけだし」

そう言って純ちゃんは私を持ち上げてくれる。きっと同じように梓ちゃんにもそうやって接してるんじゃないかな。
でも、最近の梓ちゃんはそんな純ちゃんに負い目を感じてる。
手伝ってくれる純ちゃんに、ただ甘えるだけの自分を嫌悪してる。
……そういうところを支えてあげないといけないのは、恋人の私だと思うし、ずっと思っていたい。ずっと支えてあげたい。
だから、私は梓ちゃんの隣にいてあげたい。隣にいたい。隣にいることを許してほしい。

純「まぁ、私が学校行ってる間は憂に任せるしか出来ないんだけどさ」

憂「…うん、任されるよ。大丈夫」

純「あはは。まぁ今に始まったことじゃなかったしね。んじゃ行ってくるよ。梓の考えとやらは夜にでも」

憂「いってらっしゃい。早く帰ってきてね」

特に深い意味はなく言った言葉だったけど、純ちゃんは笑顔で「もちろん」と返してくれて、そのままドアを開けて出て行った。
こうしてこの部屋には梓ちゃんと私、二人きり。……あ、今はもう一人いるんだっけ。あとで様子は見ておかないとね。
うん、様子を見て……それで……

憂「………私、は………」

……私だって、あの“梓ちゃん”をどうこうするのには抵抗がある。最悪、命を奪わないといけないなんて、考えるだけで怖すぎることだと思う。
人の命を奪うなんて梓ちゃんの言う通り恐ろしすぎることで、私達には無縁だったはずで、しかもその相手は私の恋人と同じ顔をしているんだから怖くないはずがないに決まってるよ。
でもやっぱり、梓ちゃんがいなくなるほうがずっとずっと怖いから、やっぱりそれしか手がなくなっちゃったら迷わない。

ねぇ、梓ちゃん。
私達が梓ちゃんに伝えた気持ちには、何一つとして嘘なんてないんだよ……?

87: 2012/04/02(月) 08:04:37 ID:T82ZaqEo0


梓「――ん……」

枕元に座って可愛い寝顔を眺めていると、梓ちゃんが目を覚ました。
っていうか起こしちゃったのかな。でもそろそろ起きた方がいい時間だと思うし。

憂「……おはよう、梓ちゃん」

梓「……うい…? 今何時…?」

答える代わりに枕元の時計を見せてあげる。短い針はもうだいぶ上の方。

憂「アルバイト、休みでよかったね」

梓「うん……。朝ご飯は…?」

憂「出来てるけど……今食べる?」

梓「……もうお昼と一緒でいいかな……」

寝惚けてるのか、ボーっとしながら喋る梓ちゃん。
そこだけ見ればよくあることだけど、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ違和感を感じた。何だろう?

梓「……起きよ」

憂「う、うん」

梓「? どうかしたの…?」

気のせい…だよね。
寝惚けながらも私を気にかけてくれる梓ちゃんの、どこに違和感なんて感じたんだろ、私。

憂「ううん、なんでも。あ、私ちょっと押入れ見てくるから、顔洗ってきたら?」

梓「……ん、いいよ、押入れは見なくても」

憂「え? なんで?」

梓「んー……だって、気配はするでしょ?」

……気配? 私にはわからないけど……

憂「……よく、わかんない」

梓「…とりあえず、『そこ』は私が何とかするから、大丈夫」

憂「………」

梓「…見なくても、大丈夫」

憂「ッ……!」

見なくちゃいけない。理由なんてわからないけどそう思った。
ううん、違う、理由はわかってる。違和感なんだ、きっと、これも。気のせいじゃなかったんだ。

胸騒ぎがする。とっても大事なことを見落としちゃってるような、嫌な感じがする。

憂「……ちゃんと無事か、確認するだけだから」

梓「大丈夫だよ」

憂「……何が?」

梓「………」

憂「……梓ちゃん…?」

梓「…私が、頃したから。だから憂は見ちゃダメ」

憂「………」

その梓ちゃんの言葉が嘘か本当か、私にはわからなかった。
梓ちゃんは人を頃したりなんてしない。そんな事の出来る子じゃない。とっても優しい子だから。
でも、そんな優しい子だからこそ自分の手を汚した可能性もある、って思う。私を守るために。私の手を汚させないために。
それはとても悲しいことだけど、私の事を想っての行動には違いないんだから何も言えない。あくまで今はまだ可能性にすぎないけど……

どっちが正解か、私にはわからない。
でもただ一つ、ここで悩むくらいなら自分の目で真実を見てみるべきだ、って思う。

梓ちゃんの言葉が嘘か本当かはわからないけど、一つだけわかることがあるから。


……今日の梓ちゃんは、私のことをあんまり見てくれてない。


ううん、私のことだけじゃない、かな。なんか、いろんなことに対してボーっとしすぎてる気がする。
そうだよ、いつもの梓ちゃんなら、そもそも昨日あんなことがあったのに寝坊なんてしないはず……


憂「……開けるよ」

梓「ダメだってば」

憂「…開けるからね」

梓「ダメ」

憂「っ――!」

ダメって口で言うばかりで、私に触れてくれない梓ちゃん。
その言葉『だけ』から逃げるように、勢い良く押入れを開く。


憂「っ……!」


背後からは、どこか何かにガッカリしたような梓ちゃんの声。溜息。

そして、私の目の前、押入れの中には……


憂「っ――いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」



――何も無かった。


        何も

88: 2012/04/02(月) 08:11:52 ID:T82ZaqEo0




【#29】






――何もない。

――何も。


ふわふわと、私自身がどこにいるのかすらわからないような感覚。

真っ暗な闇の中で、上下もわからず漂う、そんな感じ。


そんな感覚を


……身体が認識できたなら、どれほどよかっただろうか。


わかってる。

わかってるんだ。


……私の身体は、普通にここにある。

ただ、心だけがどこにもない。


梓「………」


……殺せなかった。

否定できなかった。

強くあれなかった。


梓「……っ、ひっく……」


膝を抱え、電車に揺られる私は独り。
私は『私』であるだけ。それ以上の何者にも、もう成れない。

私の『名前』を示すものは、結果的に全て奪われた。
今の私にあるものは財布の中に入っていた約一万円の現金と、身につけている服だけ。
現金は『梓』のほうに通帳があるから、と情けで持たせてくれた。服も結局は情けだけど。
そしてその他携帯電話、財布、持ってきた私物、名前に経歴、大事なギター。全て奪われた。

……奪われた、は語弊があるかな。
散々そう言ってきたけど、私が『譲り渡した』というのが真実だ。


私は“私”を殺せなかった。
人を頃すなんて、怖すぎて出来なかった。自分の手を汚して、命を奪うなんて怖すぎて出来なかった。

私は“私”を否定できなかった。
すでに一人の『人』として生きている“私”を否定できなかった。
憂や唯先輩を『人』として認めているのに、同じように『好かれたい』という想いのためだけに生きている“私”を否定できるはずもなかった。

そしてどう言い訳しようとも、私は強く在れなかった。
『怖い』という臆病な理由を付けようとも、『否定できない』なんて偽善的な理由を付けようとも、私が弱さ故に全てを手放した事実は変わらない。
私の居場所も、名前も、そして……恋人も。


――氏にたくない。殺せないけど、氏にたくもない。
居場所が欲しい“私”と、氏にたくない私。そんな二人の落とし所は『中野梓』を私が譲り渡すことだった。
“私”は正式に『中野梓』となることが出来れば目的は達成される。私が氏ぬことは絶対条件ではなくて、わかりやすい解決方法だというだけ。

『中野梓』であることを私が捨て、二度とそう振舞わない。その条件を呑むことで、どうにか私は生き永らえた。
そうすることで結果的に誰も氏なず、誰も手を汚すことはなかった。つまり私は綺麗事のために自分を犠牲にした。そう言ってしまえば少しは心も晴れそうなものだけど。


……それでも私は、憂をも捨てた。

89: 2012/04/02(月) 08:12:42 ID:T82ZaqEo0


……
………


梓「――憂は、憂だけは…一緒に連れて行っていいかな」

梓?「……ダメ」

梓「ど、どうして!? あなたと憂が一緒に居たって、何もいいことなんてないでしょ!?」

梓?「……憂が、『中野梓』の存在の何よりの証明だから、だめ」

梓「っ!?」

梓?「『中野梓』は、憂を好きだった。憂に愛された。憂の存在自体が中野梓の証だよ。わかるでしょ?」

梓「で、でもっ!」

梓?「確かに、私は憂より唯先輩が好き。だから問題となるのは『あなたの隣に憂がいる』こと。それだけであなたは『中野梓』の要素を得てしまう」

梓「っ……」

それは…そうかもしれない。
私が憂を好きなように、憂は『中野梓』が好き。つまり憂の隣にいるのは『中野梓』であり、憂が隣にいたがるその人は必然的に『中野梓』になってしまうんだ。
元々は両想いではなかったとはいえ、今は両想い。そしてそれを皆が知っている。
全員を騙すことが出来ないと、“私”は私になれない。つまり、憂は『中野梓』の隣にいないといけないんだ。
『中野梓』を譲り渡すと言い、そして誰よりも憂に好かれていた私に、その理屈を否定することは出来なかった。

梓?「……人を好きな気持ちはよくわかるよ。だから憂を悪いようにはしない。それだけは約束する。けど、一緒に行くことは許してあげられない」

梓「そしたら……憂は…どうなるの? 憂は、きっと気づくよ……?」

恋心に敏感な憂なら、きっと隣にいる『私』の恋心の向く先が変わってることにすぐに気づくだろう。

梓?「…氏なせはしないよ。あなたが悩み、苦しんで、決断したことはちゃんと伝える。ちゃんとわかるように言うよ、あなたが憂に手を汚させたくないが為に、こうして来た事も含めて」

梓「………」

梓?「あなたの弱さも、そしてそれ以上の優しさと愛情も、ちゃんと伝える」

つまり、憂にはちゃんと理解してもらうように努力する、と言っているんだろう。
私の選択の意味を理解して、受け入れて、平穏無事に生きてもらう、と。

梓?「恋人がいない事に絶望して自殺…なんて絶対にさせない。あなたは憂に生きて欲しいんでしょ?」

梓「……うん」

憂の隣に居られないのなら、あとは望むことはそれだけ。
“私”もやっぱり憂のことは恋愛感情こそ抱かずとも大切に想っているんだろう、私の答えに僅かだけ微笑んだ。

90: 2012/04/02(月) 08:13:28 ID:T82ZaqEo0

梓?「……来年まで私が生きてたら、唯先輩のところに進学したいと思ってる。その時まで純にバレてなければちゃんと話して、憂と純とは別の道を歩もうと思う」

梓「……うん」

梓?「……それまであなたも生きてれば、また会えるかもしれない」

梓「………」

やっぱり“私”が求めるのは唯先輩の隣。あの家を出るのは必然と言える。今がその時期ではないというだけで。
そしてその時が来れば、純に話して憂と一見自然に見えるように別れ、唯先輩と付き合う、ということだろう。
だからその別れの時が来れば、私はまた憂に会える…かもしれない、と言う。もちろん、『中野梓』としてではないけど。
でも、本当にそうなれば全てが丸く収まる、と思う。私が『中野梓』じゃない以外全てが元通りで、そして唯先輩達の望みも叶う。理想のカタチに思える。

そんなものを“私”は提示してくれた。

それは、優しさなのだろうか。
それとも、慰めなのだろうか。

梓?「私は、憂を好きだと言いながら私を殺せないあなたを軽蔑するよ」

梓「っ……」

そこまで言われても、私の手は動かない。
この手は、命を奪うことを良しとしない。

梓?「……けど、その優しさにも感謝してるから、生きて欲しい。あなたにとっては屈辱だろうけど、私はあなたから居場所を『譲って貰った』形になるんだから。この手を汚さずに『中野梓』になれるんだから」

だから、感謝はする、と言う。
弱さを感謝されて嬉しい人なんていないと思うけど、それでもこの感謝は本物なんだろう。

……そして、私の悔しさもわかってる。
弱さに、情けなさに感謝される側の屈辱をわかってて尚、お礼を告げる。
言われた側が惨めな気持ちになることをわかってて、それでも偽らない思いを告げる。

梓?「二度と、私と唯先輩の前に現れないで欲しい。けど、優しい決断をしてくれたあなたに、もう私は「消えろ」なんて言えない」

梓「………」

梓?「頃したいのに殺せないと言ってくれた優しい人を、私は殺せない」

梓「……それは、弱さだよ」

梓?「…私は助けられた。だから、それは優しさだよ」

優しさと言い切り、私に情けをかける“私”。
優しさを貰ったなら、優しさを返してあげたい。私は常々そう思ってる。
きっとこの“私”が言うのも似たようなことなのだろう。

梓?「……あなたのことは大嫌いだけど、絶対に生きて欲しい」

やっぱり、この“私”も、私達と何ら変わらない『人』なんだ。


  「――さよなら、私……――」


…………
………

91: 2012/04/02(月) 08:19:17 ID:T82ZaqEo0


【#30】


梓「――変わってないね、何も…」

電車を降り、駅から一歩歩み出て、そんな言葉が口をついた。
当然といえば当然だ。ほんの数ヶ月で目に見えて変わるものなんて、そうそうない。
この街、桜が丘も当然、数ヶ月程度では何も変わらないに決まってる。

ただ一つ大きく変わったのは、この街にはもう私の戻れる家すらないということ。

この数ヶ月間、両親との関係は好転しなかった。悪化こそしなかったものの、特に何かしらの動きがあったわけでもなかった。
家の事なんて気にかける暇すらないほど毎日に必氏だった。他に考える事が多かった。

でも、失ってみれば、それは確かに私の手の中から零れ落ちたモノの一つとなって、私の心に影を落とす。

人は失って初めてその大切さに気づく、とよく言うけど、本当だと思う。
考えもしなかったのに、見向きもしなかったのに、目を逸らし続けてきたのに、今、私は確かに寂しいと感じている。

純との生活、憂との関係、全てが失敗しても私にはまだ帰る家があった。
プライドを捨て、反省し、泣きながら土下座すればきっと迎え入れてくれるはずだった家が。
確かにあったはずなんだ、暖かく、温かかった家が。今はもう戻れない家が。

梓「っ……」

強く目を瞑り、袖で涙を拭う。
ううん、涙じゃない。私は泣いてなんていない。認めるわけにはいかない。

……泣いている自分を認めてしまったら、きっと涙が止まらなくなる。

自分から『私』を捨てた私に、涙を流す資格なんてない。
それでなくても、私は強くなろうって思ったんだ。憂達を守ろうって思ったんだ。結果は伴わなかったけど、それでもこれは私のそんな選択の結果なんだ、泣いちゃいけない。
当初の予定とは違うけど、誰も命を落とさず、誰も手を汚さなかった。理想的な『終わり』なんだから泣いちゃいけないんだ。

……それでも、涙が溢れ出て来そうになる。寂しさが胸の奥から湧き出てくる。

でも、そんな気持ちと決別するために私はこの街に戻ってきたんだ。
家を、お父さんお母さんを一目だけ見て、それでも涙を流さずにいられれば私は大丈夫のはず。
それが出来れば、私は一人ぼっちでも生きていける。憂とまた会えるその時まで生きることが出来るはず。


――そう思っていたんだけど、やっぱり無理かなぁ、とも思い始めている。

92: 2012/04/02(月) 08:20:46 ID:T82ZaqEo0

ちゃんと涙を流さず駅から歩いてきた。でも、この曲がり角を曲がれば我が家が見える、そんなところで一時間近く立ち止まっている私には、いざ家や両親を目にしたら泣かないことなんて無理かもしれない、と。
今のこれは涙じゃないと言い張れる程度の量だとしても、その時は我慢できないんじゃないか、と。
とはいえ、これ以上立ち止まってはいられない。不審に見えるのももちろんだし、そもそも帰ってきた意味がない。
意を決し、首を伸ばして曲がり角の向こうを覗いてみる。すると……

梓「……? 今、誰か……」

家の前に人影が見えた気がして、尻込みしていたのも忘れて静かに家に近づいていく。
時刻はたぶんお昼時。憂に見つからないよう早朝に純の部屋は出たけど、移動と、そしてさっきまでの躊躇いできっとそれくらいの時間になっているはず。
両親は平日休日の区別なく不定期に家を空ける人だから両親の姿を見た可能性もあるけど、どうにも違うような気がした。そんな気がしたからこそ恐る恐る近づいているんだ。

そして、家に数メートルというところまで近づいたあたりで話し声が聞こえてきて、その相手に驚いた。

中野母「――ごめんね、まだ……」

菫「……そうですか」

直「……ありがとうございます、おばさん」

梓「――!?」

間違いない。一年間一緒にバンドを組んだ、愛すべき後輩の声だ。斉藤菫と、奥田直。忘れるはずがない名前。
透き通るような綺麗な外見に違わない透明な声と、最初の印象よりずっと歳相応に感情豊かな、細かい起伏の多い声。聞き間違えるはずがない。
どうやら家に居るお母さんと向かい合って玄関で話しているようだから、顔を出して覗くことこそ出来ないけど。それでも会話の内容はちゃんと聞こえてきた。


中野母「こちらこそありがとう。毎日毎日」

菫「いえ、ただ一目会いたいだけですし……言わば私達のワガママです」

直「今は向こうで元気でやっていると聞いてます。本当はそれだけで充分なんですから」

中野母「……ごめんなさいね。あの子、いろんな人に迷惑かけてるわね」

菫「迷惑なんかじゃないです。だって…私達は、先輩を支えきれませんでしたから、迷惑をかけてもらえる資格さえないんです」

直「………」

中野母「……山中先生から話は聞いてるわ。あなた達も先生も、梓の同級生の子達と、そして先輩に遠慮してたんだって」

菫「遠慮なんて……そんなものじゃありません」

直「力不足だったんです、私達では。私達の声は、先輩に届かなかった……」

中野母「そんなこと……」

菫「いえ、やっぱり出会って一年も経たない私達じゃ、ダメだったんです」

直「……悔しいですけど、やっぱり一緒に居た時間の差には勝てなかったんです」


梓「っ……!」

痛い。
胸の奥が、とても痛い。

そんなわけがないと、出て行って否定したい。
時間の差なんて関係ない。大事な大事な後輩なんだって伝えたい。心配かけてごめんねって謝りたい。

でも、それは出来ないんだ。
今の私は『中野梓』じゃないから……とか、そんな些細なことは問題じゃなくて。

あの時の私は、実際に皆の声を無視していたんだから。実際、私を助けてくれたのは純だったんだから。

その二つの事実が、私の招いた事実が、二人の言うことを肯定してしまっている。
そんな中で薄っぺらい言葉だけで否定したところで、何が伝わるというのだろう。

きっと逆に、「他の先輩方にはちゃんとお礼を言ったんですか?」と返されるのがオチだ。
自ら身を引いた二人だからこそ、他の人を立てようとするだろう。そして実際、私はまだムギ先輩と律先輩には何も告げていない。そんな私が二人の前にどんな顔をして立てばいいというのだろう。
それにそもそも話を聞く限り、二人が会いたいのは元気にやっている私だ。立ち直った私だ。今の私では、到底その純粋な想いに報いることはできない。

93: 2012/04/02(月) 08:21:48 ID:T82ZaqEo0

梓「っ……ごめんね……」

この胸の痛みは、きっと報いなんだ。
憂と恋人として歩んで行きたいとか、純に隣に居てほしいとか、私はこれから何をするべきかとか、一見前向きな綺麗事ばかりを並べていたけど、それは全部自分のためのこと。
前を向いた気になって、その実自分のことばかり見てて、後ろの過去に置き去りにしてきた人達の想いを見なかった私に対する報い。


梓「そ、っか……」

ようやくわかった。

私がするべきことは、過去や『私』や寂しさとの決別なんかじゃない。

自らが為した事、招いた事、全てを受け入れ、抱え込み、痛みに耐えながら生きることだ。
あの時からずっと弱いままの私は、多くの人を傷つけてきた事実を直視しないといけない。傷つけたことに気づき、傷つかないといけない。


私が『私』であったなら、まだ償いようもあったのかもしれない。
でもそうでない今、償う手段すら残されていない。『中野梓』が犯した罪を氏ぬまで抱えながら生きるしかない。

今の私は『中野梓』ではないとはいえ、見て見ぬフリなんて出来ない。目を逸らせない。
だって、それは私が招いたものなんだから。ドッペルゲンガーではない、『人間』の私がやったことなんだから。
今となっては責任も取れないし償いも出来ないけど、投げ捨てて目を背けるなんてこと、出来るはずがない。

人間は、自分の心に嘘は吐けない。人間の心に、逃げ道なんてない。

……ドッペルゲンガーなら、多少は言い訳が効くのだろうけど。

94: 2012/04/02(月) 08:22:26 ID:T82ZaqEo0


【#31】


――これからどう生きるのか。それを痛いほど思い知らされた私は自分の家に背を向け、ただフラフラと歩いていた。
ただフラフラと歩き、足は自然とここに向かっていた。

梓「……変わってないね、ここも」

内心ホッとしていた。目の前にある家の表札が『平沢』から変わっていないことに。
純と危惧していた通り、そう簡単には買い手が付かなかったのだろうか。答えは私にはわからないけど、とにかくここが変わっていないことが嬉しかった。
憂の暮らしていたこの家を、変わらぬまま在るこの家を、最後に一目見れることが嬉しかった。

そう、最後に、だ。
やっぱり私は、この街に居てはいけない人間だ。元よりここで暮らすつもりなんてなかったけど、もう少しはゆっくりしていくつもりだった。家を見た後に思い出の場所を巡ろうかと考えつつあったくらいには。
でも、今となってはそんな気も起きない。フラフラと歩きながらも求めたこの場所を目に焼き付けたら、すぐにでもこの街を出ようと思う。
私はこの街の全てを捨てたようなものなんだ。この街にいた頃に受けた想いを全て置き去りにしたのだから。
そんな私がここにいていいはずがない。もっと厳しい処で、足を震わせながら独りで生きて行かなくちゃいけないんだ。

だから、憂のいたこの家だけでもせめて目に焼き付けて、この街を出よう。
もう涙も我慢する必要はない。涙を流しながら悔いながら情けなく生きるのが私にはお似合いなんだから。

いっそいつぞやの純みたいにドアノブまでガチャガチャ回してみようか。
あの日憂が鍵はかけたはずだけど、もし、もしも開いてたら、私は……

梓「……なんて、そんなバカな事考えたってしょうがない――」

と、どうしようもない自分を嘲っていると。



不意に。


後ろから。


梓「っ――!?」


肩越しに、腕が回され。


 「……――――……」


その腕と、背中に押し付けられた身体から温もりが伝わってきて。

それらはそっと優しく、ぎゅっと大切そうに、私を包み込む。


そして

囁かれる。


  「――会いたかった……」


反射的に振り払おうとしたけど、その声によって私の動きは止められた。その声の持ち主を、私が振り払えるはずがなかった。
ここにいるはずがない、いや、考えなかったわけではないけど、それでもここに『居てほしくない』人。
そしてそれでもずっと心のどこかで願っていた、隣に『居てほしかった』人。
しかし私は、それを願うことは許されない。だから私は、私も貴女もそれを願わずに済むように仕向けたはずなのに……

梓「――どうして……」

肩越しに振り向いた、その先。


そこには、微笑みと共に涙を流す、憂の優しい笑顔があった。

95: 2012/04/02(月) 08:25:16 ID:T82ZaqEo0



梓「……どうして、ここに来たの…?」

憂「……私の知ってる『梓ちゃん』なら、ここに来ると思ったから」

後ろから抱き締めてくる憂を、振り払うほどの力は出ない。
でも、それを理由に黙って受け入れるわけにはいかない。

憂「私に好きって言ってくれた『梓ちゃん』なら、ここに居ると思ったから」

梓「っ…! そうじゃなくてっ! 私はっ、私が、ちゃんと『終わらせた』のに…!」

望んだ方法ではなくとも、これで結果的に全て丸く収まる。そういう形にしたはず。なのにどうして…!?

梓「…もしかして“私”が約束を破ったの…!?」

憂「ううん、違うよ。私が問い詰めたら、ちゃんと教えてくれたよ」

梓「なら、どうして…!?」

どうして、なんて言うけど実際はわかってる。憂は納得いかなかった。我慢できなかった。私と離れることに。きっとそれだけ。
正直、ここまで早くバレるのは予想外だったけど。でもそれ以上に、憂の行動自体がバレるタイミング関係なく予想外だった、と言える。
極端な言い方をすれば、憂のことを……買い被りすぎていたんだ、私は。憂なら皆の幸せのために、誰も傷つかないために、少しくらいは我慢してくれると思っていた。
優しく思いやりに溢れている憂なら、私の気持ちも汲んでくれると思っていた。“私”の気持ちも、唯先輩の痛みも考えて動かないでいてくれると思っていた。
でも、そんなことはなかった。

憂「遺書をね、書いてきたんだ。「梓ちゃんがお姉ちゃんのことを好きになりそうなので消えます」って。これなら筋は通るでしょ?」

梓「っ…!」

あくまで自然に別れたように見せかけて、“私”は唯先輩の元へ行かなくてはいけない。
そういう意味では一応筋は通る。そうか、だから“私”も止めなかったのか。
でも、それじゃ強引過ぎる。唯先輩しか見えていない“私”はともかく、憂は気づいてないの!?

梓「ダメだよ、憂。唯先輩は優しいから、きっと憂のことを探すよ?」

憂「………」

梓「憂を失って“私”を手に入れても、唯先輩は素直に喜ばないよ? そういう人だったでしょ?」

唯先輩だけじゃない。澪先輩達も、そして憂も、一番大切なものだけを見ていられるほど冷たい人じゃない。
愛する人さえいればそれでいい、なんて狭量なことは言わない。周りの人みんながいないとダメだって言い切る、欲張りで優しい人達だったはずだ。
だから、だから私はあんなに悩んだのに。悩んでこの結論を出したのに。それなのになんで憂は――

憂「……お姉ちゃんの事、よく見てるんだね、梓ちゃんは」

梓「え…っ?」

憂「……私でもね、たまには怒るんだよ? 怒ってるんだよ?」

梓「う、憂…?」

96: 2012/04/02(月) 08:26:00 ID:T82ZaqEo0

後ろから一層強く抱き締められ、振り向くことも逃げることも出来ない。
そんな中で耳に届く、いつもよりトーンの低い憂の声。

憂「みんなのことを考えて、私の事も考えてくれたのはわかってるよ。でも梓ちゃんは、私の事を理解してくれてなかった」

梓「そんなこと……」

憂「恋人同士、なのにね。梓ちゃんがいないと生きていけない私のこと、わかってくれてなかった」

梓「っ……!」

憂「我慢なんてできないよ。毎日『梓ちゃん』に会えないなら氏んだほうがマシだよ」

梓「氏ぬ、なんて……」

そんなこと、軽く言わないで欲しい。
私の選択の結果だとしても、そんなこと軽々しく憂に口にして欲しくない。
そんなことを言う憂を見たくないというのもあるし、それに、それだと……


憂「……そうだね、梓ちゃんは私がいなくても生きていけるんだもんね?」


梓「っ!?」


そう、自ら憂から離れる選択をした私の恋心なんて、所詮はその程度ってことに……


梓「ち、違う! 来年になれば憂に会えるかもって言うから!」

憂「それを支えに頑張って生きる、って言うの? 来年までずっと私に会えないのに?」

梓「だ、だって、また会えるっていうなら、みんなのために我慢するしか……」

憂「みんなと私で、みんなを選んだんだよね? 私のためにみんなに我慢してもらおうとは考えなかったんだよね?」

梓「それは…っ……でも……」

ちょっと、憂のことを、怖い、と思った。
でもそう思われそうな発言だっていうのは憂も気づいていたのか、それとも私の言葉から察したのか。憂はすぐに補足の言葉を口にした。

憂「……私だって、お姉ちゃんや純ちゃんや澪さん達、みんなが傷つくのは嫌だよ。だから梓ちゃんがそこに悩んだ気持ちはすごくわかる」

そう、私の知る憂なら気づくはずなんだ。私の好きな優しい憂なら。
少しでも怖いと思った自分を恥じたい。でも結局は、憂は私の考えに気づいていてなお私に怒っているんだ。

憂「……それでも梓ちゃんは、みんなと私を天秤にかけて、私を捨てた」

梓「っ――!」

憂「こうやって家を見に来るくらいには私の事を好きなはずなのに、私を捨てた。…違う?」

そこを突かれると、返す言葉がなくなる。
私だって、それは痛いほどわかってる。わかってるからこそここに来た。
みんなを守って、憂も守る。そのために自分を犠牲にした――ように見せかけて、憂を捨てた。
私が“私”の命を奪えれば、こうはならなかった。結局は私の弱さが招いたこと。そんなこと、痛いほどわかってる。
捨てられた憂が怒るのも、当然といえば当然かもしれない。

97: 2012/04/02(月) 08:29:48 ID:T82ZaqEo0

梓「……違わない、よ」

憂「……でしょ?」

でも。

梓「でも! あのまま私が何もしなかったら、憂は“私”を頃してたでしょ!?」

憂「……かも、しれないね。諦めそうにはなかったし」

梓「私は、それが嫌だった…!」

憂が手を汚すくらいなら、私が汚す。
結局それは叶わなかったけど、だからといって退く事だけはできなかった。退けば全ては元の木阿弥。結局、憂が“私”を殺そうとする。
それなら。私がいることで憂が誰かを傷つけるなら……私が消えよう。『私』が二人いるのがいけないなら、『私』を一人に減らそう。
そうすれば憂は綺麗なままでいられるんだ。憂は酷い事をしなくて済むんだ。そう、私の思いは最初から一つ。


梓「憂を、守りたかった……!!」


大事な人に非道な選択をさせたくない、というのは自然な感情だと思う。たとえどんな手段をとってでも。
もちろん、それが憂にも適用される理屈だというのはわかってる。わかってるから、憂の寝ている間に全てを終わらせようとしたんだ。
憂がそこを突いてきたなら反論は少し考えてある。でも結局、それらの出番は無かった。

憂「……わかるよ。梓ちゃんが本気でそう思ってくれてたっていうのはわかったよ。でも」

代わりに、もっと痛いところを突いてきた。


憂「結局、梓ちゃんは私がいなくても生きていけるから、この条件を呑んだんでしょ?」


梓「っ――」

憂「……私にとって一番大事なのは、そこ。私の存在は、梓ちゃんの足を止めるに至らなかった、ってところ」

最初からずっと、そこだけが問題なの、と言う。
……ちゃんと、憂は理解している。「条件を呑んだ」という言い方をしているということは、私と“私”の間にあった会話もちゃんと知っている。
私が最初は憂を連れて行きたがったけど、最終的には“私”の理屈に屈したことを知っている。
氏にたくない、けど殺せない。そんな弱い私が、言われるままに憂のいない道を選んだことを知っている。
それならやっぱり私には、憂の言葉を否定できない。

でも、否定できなくとも認めちゃいけない。
だって認めたら、憂のやり方が正しいということになってしまう。唯先輩に迷惑をかけ、重荷を背負わせるそのやり方が。
それは私の選択の果てにある、唯一信じたい私の中の正論に反する。自分の中にある矛盾はもう認めるしかないけど、唯先輩達も傷つけない方法を探そうとした気持ちだけは否定したくない。
極端な言い方をするなら、自分の恋心のために、他の人に迷惑をかけることを肯定なんてしたくないんだ。

そしてきっと私は、それ以上に意地になっていた。意地でも認めたくなかった。
だって、だって憂の選択を認めるという事は、私の恋心が劣っているということを意味してしまうから。それは私の全てが壊れてしまうことを意味するから。
憂を失って途方に暮れた私も、ドッペルゲンガーを生み出すほど求めた私も、憂との生活に幸せを感じた私も、そして苦渋の選択をした私も、全てが嘘になって壊れてしまうから。
憂が私の事だけを考えて生きているのはわかりきったことだけど、私の考えの中心にだっていつも憂があったんだ。それは決して嘘なんかじゃない本気の想い。劣っているだなんて認めるわけにはいかないんだ。

梓「……じゃあ、憂は今のやり方で満足なの…?」

憂「……そうだよ。お姉ちゃんも純ちゃんも、みんな捨ててでも梓ちゃんがいい」

ずっと後ろから抱き締めてくれている憂の表情は見えないけど、その言葉を私は信用しなかった。
言葉だけで嘘だとわかった。だって、相手は憂なんだから。

梓「……嘘でしょ? 憂は優しいもん」

憂「っ……」

98: 2012/04/02(月) 08:32:46 ID:T82ZaqEo0

憂が息を飲んだ。
すっと、抱き締めてくれていた温もりが離れていく。少し不安になったけど、憂はそのまま私の正面に回ってきて、言葉を紡ぐ。

憂「……そうだよ、捨てたくなんてない。けど……でも、だってそうしないと、梓ちゃんが……っ!」

梓「……っ、ぁ、憂………」

その言葉と顔に、今度は私が息を飲んだ。


――……正面に立つ憂は、泣いていた。


その涙の理由は、自然とわかった。
苦悩とか、後悔とか、そんな類のものだ。自分の選択の果ての答えに対する涙だ。


――……私の好きな憂が泣いていた。私を好きな憂が泣いていた。


あぁ、そっか。私は何て残酷なことを聞いてしまったんだろう。
わかっていたはずだ。私の好きな憂は捨てられる人じゃない。優しい憂はそんなことできない。
でも捨てなければ私がいなくなってしまう。捨てて私を追わないと、足を動かさないといけない。
憂は、その狭間でもがいていたんだ。

憂は『私の好きな憂』のままであろうとしながらも、同時に『私を好きな憂』であろうとしたんだ。
どちらも結局は私のためなのに。私に一緒にいてほしくて、私と一緒にいたいからのことだというのに。

憂「でも、っ、梓ちゃんは私を捨てた! だったら、って、私だって…!」

梓「っ……うい……!」

私が捨てたから、憂も捨てた。当て付けのように。それだけのことだ、と泣きながら憂は言う。
私が憂を捨てたことをずっと悔いて泣いたように、憂も皆を捨てたことを悔いて泣いている。

私達は二人とも大事なものを捨てて、二人ともそれを悔いている。
そんな中で、お互いに弱みを突き合ったところで何になるんだろう。

恋人を捨てた私の選択は、愛を語る恋人としてこれ以上なく最低な行為で。
恩人や家族を捨てた憂の選択も、人の輪の中で生きていく者としては最低だ。

自分の中の正論とか、選択とか、そんなことはもう関係ない。
大事な『ひと』を捨てた私達は、人として等しく間違っている。そして……先に間違ったのは、私だ。

梓「ごめん、ごめんね、憂っ…! 私の…私のせいで…っ!」

謝らなくちゃいけない。私は間違った選択をして、憂にも間違った選択をさせたんだから。
いつの間にか私も泣いてるような気もするけど、そんなのは問題じゃない。

憂「っ…ぁ、あずさちゃん…! ごめん、ごめんね……!」

梓「うい…っ! 謝らないで……! わたしが、私が間違ったんだからっ…!」

憂「で、でもっ、私は、あずさちゃんがやろうとしたこと、全部、壊しちゃった……!」

梓「っ……違う、違うよ、そうさせたのは私だよ…!」

憂「わ、わたし、悔しかった…! 梓ちゃんに置いていかれて、悔しくて、だだをこねて、全部、壊した……!」

梓「だから、っ、それをさせたのは、私っ…!」

99: 2012/04/02(月) 08:34:22 ID:T82ZaqEo0

憂「違うの……私、きっと、梓ちゃんを信じられなかった…! 私の事なんてもうどうでもいいのかなって、思っちゃった…!」

梓「ッ……!」

その言葉は、すごくショックだった。
自分から恋人を捨てるような人間だと思われたことがショックだった。誰よりも好きな恋人にそう思われたことがショックだった。
でも、本当はショックだなんて思うことさえおこがましいんだと思う。だって、結局は私の行動のせいで憂はそう思ってしまったんだから。
捨てていって、その上私を信じて待てなんて、今にして思えばどれだけ自分勝手なことを私は憂に押し付けようとしたんだろう。
憂からの信用を無くしても当然だと思う。憂のためと信じて疑わなかったけど、憂のための他の方法は思いつかなかったけど、それでも私が憂ならきっと同じ行動を取るだろう。
憂の立場に立って考えてあげられなかった。そんな私に、憂の言葉にショックを受ける資格はない。

憂「私、ね、梓ちゃんの帰りが遅いだけで、すぐ不安になる…。ちょっと連絡がないだけですぐ怖くなるの……」

梓「……うい……」

憂「き、きっとわたし、おかしいんだよね。梓ちゃんに依存しすぎなんだよね」

梓「そんなこと……」


憂「だって、だって私は……! 人間じゃないから…!」


梓「っ…! 憂っ!!」

抱き締めた。聞きたくないことを口走った憂を抱き締めた。相変わらずの身長差なんて気にせず抱き締めた。
その言葉は、私だけでなく憂自身をも深く傷つける。むしろ私よりも憂自身を傷つける。
だから私は憂を抱き締めた。傷の痛みより私を感じて欲しかった。焼け石に水程度の誤魔化しだとしても、何もしないわけにはいかなかった。

憂「あずさちゃん……ごめんね……人間じゃなくてごめんね…!」

梓「っ、違う、そんなの関係ないって、私、言ったのに…!」

憂「でもっ、きっと、人間なら、梓ちゃんのこと、信じて待ってた…! 梓ちゃんは私の事を嫌いになんかならないって、信じていられた…!」

恋心に何よりも敏感で、それのために行動し、失うことを何よりも恐れる。そんなドッペルゲンガー。
確かにそれ故にこんな行動に出たとも言えるけど、そこは私にも否定できるかわからないけど、でも……

梓「だったら私が、憂のこと、ちゃんと考えてればよかったんだよ…! 憂は誰よりも、人間よりも私のそばに居たがってくれる嬉しい存在だって、ちゃんとわかってればよかった……!」

憂「うれ、しい…?」

梓「……好きな人にそう思われて、嬉しくないわけないよ…! 今更信じてもらえないかもしれないけど、憂のこと、大好きだから…!」

憂「っ、信じるよ、信じないわけないよ! 私だって梓ちゃんのこと、大好きなんだから…!」

梓「……うい、ごめん……好きなのに、置いて行ってごめん…!」

憂「……私も……信じきれなくてごめんね……好きなのにっ…!」

憂はそう言ってくれるけど、やっぱり憂の立場で考えれば私の方が悪いと思う。
でもきっと憂も、誰よりも私の事をわかってくれているから、私の苦悩も弱さも理解してくれているから、自分を責める。

梓「ごめん…うい、ごめん……!」

憂「あずさちゃん…! ごめんね…!」

私が悪い。そう思うから謝る。お互いに。
自分が悪いと思っているから、謝られると余計に申し訳なくなってしまう。お互いに。
自分が悪い事をして、なのに相手に謝られて、悲しさばかりが募っていく。

そうして何度も何度も、謝って謝られて。


 「っ…ぐすっ……」

 「っ、うえぇ……」

 「ぅ、ぁ……」

 「ひぐっ、うぁ、うわあああんっ…!!!」


……いつしか、どちらからともなく謝るのをやめ、私達はただ、二人きりで抱き合って大声で泣いた。

100: 2012/04/02(月) 08:39:22 ID:T82ZaqEo0


【#32】


――どれくらい泣いていたのだろう。
抱き合って泣いて、しゃがみこんで泣き続けて。
泣き止んでも落ち着くまでしばらくそのままだった私達は、そのままどちらからともなく自然と横並びになり肩を寄せ合って座り込んでいた。

憂「……どうすれば、よかったのかな」

梓「……わからない……」

それに対する答えは、私は持たない。
私の選択は間違っていたけど、正解は見出せていない。私も憂も唯先輩も“私”も含めた、皆の望みが等しく叶う『正解』は。

梓「…でも、もう今更考えたってどうしようもないのかも」

憂「……そうだね。私が壊しちゃったし」

梓「そうじゃなくて…。過ぎたことを考えてもしょうがない、ってこと」

その憂の選択だって私のせいなんだけど、それを言うとまたごめんねの繰り返しになるから話を逸らす。

梓「……ねぇ憂、これからどうしようか」

私の問いに、うーん、と少し考え込んで、空を仰ぎ見ながら憂は答える。
その横顔を綺麗だと思い、好きだ、と思った。

憂「……私達に、何ができるのかな。何をしていいのかな、私達は」

梓「……難しい問題だね、それは」

……全てを捨てた私と、既に氏んだことになっている憂。こんな私達に何ができるのか。
それは確かに、少しだけ難しい問題かもしれない。私達は等しく、この世界に居場所がない。
でも、居場所は無くても私達はここに在る。あるんだから、何か出来るはず。

少なくとも、それを探すくらいは出来る。
憂と一緒に、二人でずっと一緒に探していきたいと思った。

梓「……じゃあ、これからどこに行こうか」

憂「……私は、梓ちゃんと一緒ならどこへでも」

梓「……うん。私も憂と一緒ならどこでもいいよ」

不思議と不安は無かった。
この世界は見えないものだらけだけど、憂が隣に居てくれればそれだけでよかった。
憂の笑顔が隣にあれば、それだけで充分な気がした。

……他の何も、要らない気がした。
無くても構わないと思った。私に無くても構わないし、憂に無くても構わない。そう思った。

隣に居る憂が、そう思わせてくれた。

私もそう思わせてあげられたらいいな。そうすれば私達は、ずっと二人で生きていける。

もう他の人に合わせる顔を持たない私達二人は、そうやって寄り添い生きていく以外の幸せを一切手にしてはいけない気がした。
それは人として最上級の幸せだとも思うけど、それ以外のモノを『見なくてもいい』という意味ではないんだ。
お互いの存在だけを支えに、世界の全てから責められながら生きていく覚悟をしろ、という意味なんだ。

それでも、憂となら大丈夫。そう思ったのも本当だから。


……二人、瞳を閉じ、綺麗に重なり合う互いの想いにしばらく身体も心も預けることにした。


私達は、この世界で、二人きりで生きていく。
ずっと、ずっと一緒に。

101: 2012/04/02(月) 08:43:15 ID:T82ZaqEo0










102: 2012/04/02(月) 08:45:49 ID:T82ZaqEo0




【エピローグ】



――決意を胸に、茜色の空を背に、私は一足先に立ち上がって憂に手を差し出す。
先に憂を置き去りにした私だから、今度はもう手を離さないということを見せないといけない気がしたんだ。

私を見上げる憂の顔は、夕陽に照らされてとてもキレイで。
物悲しいはずのオレンジ色の作り出す陰影は、憂の笑顔に照らされて霧消してしまったかのよう。

もう二度と、この手を離さない。
それが『私』でない私に出来る、憂にしてあげられる唯一のコト。

他の皆には、私のことなど忘れて生きて欲しいと切に願う。私を忘れ、“私”と仲良くやってほしいと思う。
そうなれば、私は寂しいと思う。傷つくと思う。傷つくことが、私が皆にしてあげられる唯一のコトだから。


……でも、ちょうど憂が立ち上がった時、そんな私の決意を揺るがしそうなサウンドが聞こえてきた。

梓「……これ……?」

聞こえてきたのは、唯先輩の歌声。
歌声とだけ言うと少し語弊があるかな。何かを通じてどこかから聞こえてくる、録音されたようなそんな歌声なんだ。生の声じゃなくて。
出所はどこだろう、と私が考え始めるよりも先に憂が反応した。

憂「あっ…!」

すぐに憂がポケットに手をやる。唯先輩の歌声は取り出された携帯電話から流れていた。
……別に、それくらいは想定していた。唯先輩を大好きな憂が唯先輩の歌声を着信音にしていても何もおかしくなんてない。去年から大学と高校で離れてしまったのだから尚更。
それに、それも憂らしさ。そして私達が背負っていかなくてはいけないこと。責めるつもりなんてない。

……でも、問題はそこじゃなかった。

憂「……梓ちゃん」

梓「…どうしたの?」

憂「……電話、純ちゃんからなんだけど……」

……純。
純。私も憂も、多大な恩を受けておきながらそれを仇で返した、私達に最も近い親友。
憂のことでいっぱいいっぱいで考えてなかったけど、確かに真っ先に電話などをしてくるであろう存在は純だ。
どっちだろう、とまず考えた。電話してきた理由は、憂が家に居ないからなのか、全てを知ってしまったからなのか、どっちだろう。
可能性としてはもちろん後者が高い。憂にあっさり話した“私”のこともあるし、純はああ見えて鋭い面もあるから。
でも、悲しいことだけど憂の残した遺書は“私”の描いた筋書きから外れてはいない。だから隠し通す可能性も充分にある。氏のうとする憂を引き止めるためだけに電話してきた可能性もあるんだ。

そしてどっちにしろ、電話に出てしまえば胸の痛む展開しか思い浮かばない。
しかし、今が純に、お世話になった親友に別れを告げる最後のチャンスでもある。そしてそういう意味ではここが最後の一線なんだろう、とも思う。

103: 2012/04/02(月) 08:47:03 ID:T82ZaqEo0

梓「どうしよう……」

憂「……梓ちゃん、あのね」

悩む私に、憂が自分の考えを告げる。

憂「……出ちゃ、ダメかな」

梓「…うん、じゃあ出ようか」

悩んでいたけど、憂がそうしたいのなら止める理由はない。
たとえ胸の痛む展開になろうとも、誰よりも私達を助けてくれた純にちゃんと別れを告げることができれば、私達はそこで私達の生き方を身をもって知ることができるんだ。
痛みと共にずっと生きる、そんな私達のこれからの生き方を。
憂も同じ考えなのは疑うまでもない。憂だって頭の回転は私以上に速いから、予想しうる展開なんてとっくの昔に思いついてるはず。
それでも出たいと言うんだから、私にはそれを後押しするしかできない。私の言葉に曖昧な笑顔で頷いた憂は、通話ボタンを押し、電話を耳に当てる。

憂「……もしもし?」

純『あ、憂かぁ。もしもし?』

……純の声が聞こえてる。スピーカーにしてるんだろう。
いいのかな、とも思ったけど気づかない憂でもないし、そもそも意図的にやらないとこうはならないはず。だとすればこれは私のため。今は静かに聞いておこう。

と、思ったんだけど。

純『憂、梓と一緒にいる?』

憂「えっ? う、うん……」

なぜ真っ先に私の事を聞くのだろう? と少し疑問に思ったけど、きっとさっき考えた電話の理由が前者だったんだ。
全てを知っている。憂の遺書が偽物であることも知っている。なら私も、憂と一緒に純に別れを告げないといけない。
そう思い、憂から携帯電話を受け取り、深呼吸して言葉を紡ぐ。

梓「……純」

純『おお、梓。今どこにいるのさー。早く帰ってきてよ。お腹空いたよ』

その言葉自体は、すぐに演技だとわかった。向こうには“私”がいるんだから。
電話してきたタイミング的にも、家に帰ってすぐに電話をしてきた可能性は低い。
きっと事情を聞いて、その後に電話してきたんだろうと思う。

梓「っ……」

でも、わかっていても、胸が痛い。
わざとだとわかっていても、私の言葉を引き出すための純の演技だとわかっていても、胸が痛い。
だって、きっとそれは純が望んだ日常の姿なんだから。私と憂は諦めているモノなんだから。
そして、私が今から、頭から否定しなければいけないものなんだから。

梓「……ムリ、だよ。戻れないよ」

純『……なんで?』

梓「……やめてよ。知ってるんでしょ? “私”から聞いたんでしょ? 『中野梓』から」

ちょっとキツい言い方になったけど、そうならざるを得ないくらい胸が痛かったんだ。
それも私が背負わないといけないものだと、わかってはいるんだけど。だから純がまだ演技を続けるようならそれに乗るつもりではあったけど。
でも純は、あっさりと認めた。

純『ん、まぁね。本題もそれだし。ごめんね、意地悪した』

梓「……別に、謝らなくていいよ。悪いのは私なんだから」

そう、悪いのは私。全てはそこに集約される。
今の言葉も、私の弱さが招いたこと。
今の状況も、私の弱さが招いたこと。
何にせよ、悪いのは全て私。憂にではなく純になら、そう言い切って差し支えない。
そしてありがたいことに、純はそこには触れずに話を続けてくれた。

104: 2012/04/02(月) 08:49:24 ID:T82ZaqEo0

純『……私達のために、こっちの“梓”を殺そうとした。けど無理だった。だから自分が消えることにした。そうだよね?』

梓「……うん」

私か“私”か、どちらかが消えないことには状況は変わらないと思った。結局はそれに尽きる。
いろいろ悩んだけど、純みたいな第三者から言わせればそれだけの短い言葉にまとまる出来事だったとも言える。

そして純は、そこまでちゃんと知っている純は、たった一言、言葉を告げた。


純『……バカだね、梓は』


梓「…………は?」

さすがに予想外だった。バカって。バカって。なにそれ。
なんかこう、こういう時って普通は言葉を選んで引き留めようとするか、理解して言葉少なに送ってくれるとか、そういうものじゃないの?

梓「じゅ、純?」

純『聞こえなかった? もう一回言ってあげようか?』

梓「いや、その、そうじゃ――」

私の言葉は、最後まで言い切ることは出来ず――


純『この、ばぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああーーーか!!!!!!!!』


梓「」

憂「ひぃっ……あ、梓ちゃん? 梓ちゃーん!?」



――携帯電話を憂の掌の上に置き、二人並んでそれに向かう形で話を再開する。

憂「……梓ちゃん、大丈夫?」

梓「まだ右耳がキンキン言ってる」

スピーカーにしてたとはいえ、憂は離れていたからそこまで被害はなかったようだ。

純『…謝らないよ。そう言われても仕方ないだけのことを、梓はしたんだから』

梓「……まぁ、そう言われると、比喩でも耳が痛いけど」

否定できないし、罵られても仕方ない。それだけのことをした自覚はある。
でも……

梓「でも、だからこそ……戻れないよ」

もう嫌と言うほど自覚している、その答え。
私は、私達は、傷つけた人達に合わせる顔がない。詫びる言葉もない。
それに、戻ればまた振り出しに戻るだけ。私と“私”の問題が顔を出すだけ。私達がいないほうが皆の周囲は平和になるんだ。

梓「純には、みんなには、酷いことをしたって思ってる。だからこそ、戻るなんて出来ないよ…!」

純『…まぁ、確かに戻ってきたところで『梓』が二人いる状況は何も変わらないしね。賽を投げちゃったら引き返せない、ってのはわかるつもりだけど』

憂「……ごめんね、純ちゃん」

純『……憂も、そう思ってるの?』

憂「…うん。思ってるから……純ちゃんを置いて、梓ちゃんを追った」

純『それもそっか。良かったよ、ちゃんと追いつけて』

憂「……ごめんね」

105: 2012/04/02(月) 08:50:28 ID:T82ZaqEo0

純『……でもね、それでもバカだよ、二人とも。特に先走った梓はどうしようもないバカ』

梓「また……」

まぁ、そう何度も言われても仕方ないだけの事をした……
と言おうとしたから、純の次の言葉には絶句した。


純『違うんだよ、梓。“梓”を頃す以外の解決法は、ちゃんとあったんだ』


その言葉の意味は、何なのか。
思考が追いつかないのと、考えたくないという思いが、口を動かすことを良しとしなかった。当然、頭の方も回っていないんだけど。
そんな私に代わってか、逆に私を気にしてもいられなかったのか、憂が叫んだ。

憂「っ…どういうことなの!? 純ちゃん!」

純『どういうことも何も、今、現にそうして梓は生きてるでしょ』

憂「それはそうだけど……それは梓ちゃんが自分を犠牲にしてくれたから…!」

純『……憂。私達が“梓”を殺そうとしたのは、そうしないと梓が殺されると思ったからだよね』

憂「う、うん」

純『でも、過程はどうあれ今は梓は生きてる。命だけはある。“梓”にとって、梓を頃すこと自体は絶対条件じゃない』

そうだ、それは私も“私”本人から聞いている。
“私”は『私』になれればそれでよかった。命を奪って成り代わるのが簡単で確実で、何の食い違いも起きない最善の方法だったというだけで。
今の状況だって、言い換えれば“私”は私の外側の『中野梓』を頃して剥ぎ取り、成り代わった、とも言える。
でも、内側にある命だけは奪われてないんだ、私は。

純『だから逆に、私達が“梓”を頃すことも絶対条件じゃないワケ。今みたいに、誰も氏なずに解決する方法はどこかにある』

憂「……そう、なのかな」

純『まぁ、私もこうして梓が生きてるって聞かないとそこまで思い至らなかったわけだから偉そうな事は言えないけど』

憂「………」

……憂も私も、純の並べる言葉を信じるか悩んでいた。
憂も私も、痛いほど悩んで苦しんでこの結論を出したんだから、そう簡単に信じてはいけないと思ってる。だってそんな都合のいい『正解』があったなら、多くの人を傷つけた自分の決断の全てが無駄どころか大きなマイナスにしかならないんだから。
それにそもそも何度も言ったとおり、正解があって全てが元通りになるとしても、私達は皆に合わせる顔がない。
自分勝手に皆を傷つけたんだから。私達には、苦しみながら生きていくのが相応しいんだから。

でも、それら全てが『赦される』答えがあるというのなら、信じてみたくもなる。
私達がそれら全てに『償える』答えがあるというのなら。

だって、そうすれば私達は楽になれる。
償えれば、赦されれば楽になれる。

憂が救われれば、私は楽になれる。

私自身のことはどうでもいいけど、私が色々背負わせてしまった憂が救われるというのなら、信じてみたくなる。
私なんか赦されなくてもいいけど、憂が赦されて普通に暮らせるようになるというのなら、信じてみたくもなる。

憂のことを優先しているようで、結局は『憂に幸せになってほしい』という私の願いなんだけど。

つまり、結局は反吐が出るほど醜い自分本位の願いで、甘えなんだろう。
好きな人が幸せなら自分も幸せ、なんていう恋愛の理想論は、好きな人も自分も同時に幸せになりたいというこの上なく欲深い願望と等しいんだろう。
一石二鳥、一挙両得。そう言うのが相応しい、利己的な人間らしい欲なんだろう。

それでも願わずにはいられない。恋人の幸せを。
そしてきっと憂もそう願ってくれている。だから私はもう憂から離れられない。もう憂を泣かせたくないから。
私のことなんかどうでもいいけど、憂の幸せを願うなら私も一緒にいないといけない。一緒に幸せにならないといけない。
今日の憂の涙でそれに気づかされたから、私はもう憂から離れられない。
憂を好きなら、憂から離れちゃいけないんだ。

106: 2012/04/02(月) 08:51:28 ID:T82ZaqEo0


……問題はやはり、純のその理論を信じるかどうか、というところ。
純の事は信じたい。親友だから。でも純の言葉だけを信じて、傷つけた人の前にノコノコと顔を出せるほど恥知らずでもない。
信じるからには、顔を出すからには、責任を持って解決しないといけない。胸を張ってごめんなさいが言える状況を作り上げないといけない。
純を信じるかどうかというより、勝算があるかどうかを疑っている、と言ったほうがいいのかもしれない。100%の勝算が。
でもだからって、純の想いを完全に度外視して見られる状況でもなくて。

純『……私は、さ。皆で仲良くしていたいよ、ずっと』

梓「……純……」

純『梓と憂と、そして私が『梓』だって認めた“梓”とも、仲良くしていたい。どんな事情があったとしても、親友との喧嘩別れは寂しすぎるよ……』

憂「純ちゃん……」

「寂しい」と、純は言った。
能天気でマイペースで自由な、言ってしまえば悪友に位置しそうな親友が、初めて覗かせた哀の感情。
憂といろいろあってから、ずっと頼りにしてきたカッコいい親友の、頼りない言葉。
そんな言葉は、やっぱり私の胸を締め付ける。

純のことも、憂と同じように捨ててきたと言えるけど。
それでもやっぱりこうして弱さを目の当たりにすると、助けてあげたいとか思ってしまう。
捨てた身でありながら、図々しくもどうにかしてあげたいと思ってしまう。
純を助けれる人になりたいと、そう願ったこともあったから。

……私は、折れるべきなんだろうか。

憂と二人だけで細々と生きていく決意を折り、図々しくもう一度皆の前で頭を下げるべきなんだろうか。
自ら意図的に傷つけた身でありながら、率先して赦しを請うべきなんだろうか。
憂と純のために、面の皮の厚いふてぶてしい奴になるべきなんだろうか。

憂「……梓ちゃん……」

隣の憂の顔を見て、少し考える。
少し考えて、少し考え方を変える。
そして、開き直って結論を出す。


梓「……純、どうすればいいと思う?」


少し考え方を変えた私は、純の言葉に乗ることにした。

実に図々しいと思う。
皆に合わせる顔がない。それは重々承知している。

でも、私自身のことなんてどうでもいいじゃないか。

私が図々しくて自分勝手で生意気で面の皮が厚い女でも、憂が幸せならそれでいいじゃないか。

私がどうしようもない奴でも、今よりも憂が幸せになれるというなら、それに乗らない理由はないはずなんだ。
私が隣にいてくれればいいって憂は言ったんだから、それを前提とした上で今より幸せにしてあげることが出来るなら、乗らない理由はないはずなんだ。

考え方がコロコロ変わり、あっちにこっちに行ったり来たり。
フラフラしてる私だけど、憂の幸せを願う気持ちだけは変わらない。


純『……え、っとね。その、私も明確な解決法ってのは思いついてないんだけどさ』

私がすんなり受け入れたことに動揺しているのか、たどたどしく純が話す。

純『でも結局は、今みたいに二人それぞれに居場所があればいいと思うんだよね』

梓「私は憂の隣に、“私”はいずれ唯先輩の隣に、ってこと?」

純『そんな感じ。居場所があって、ちゃんとそれを皆に認めてもらえれば、それだけでオッケーだと思うんだよね』

それでも『中野梓』の名義はどちらか一人だけに絞らなくちゃいけないけど、とも言うけど、それは仕方ないと思う。
名前なんてさしたる問題じゃない。幸せに生きていられて、胸を張っていられる。そんな居場所がある。それが大事なんだ。

107: 2012/04/02(月) 08:52:40 ID:T82ZaqEo0

ただ、それが何よりも難しいことだ、というのもわかってる。

梓「……私と“私”の存在を、それぞれの居場所を認めてもらうってことは、それはつまり今まで私達二人の間にあったこと全てを話すということになるよね…?」

純『まぁ、それが一番の近道かなぁ』

近道というか、ぶっちゃけそうやって話した上で認めてもらえればそれだけで解決なんだけど。


梓「……でも、それは絶対に出来ないよ」


私と“私”が互いに殺そうとしあったことなんて、皆に説明できるわけがない。
『本物』と『ドッペルゲンガー』として争ったことなんて、説明できるはずもない。

あの時に決意した通り、これは隠し通さないといけない。
でないと、“私”を生み出した人が自分を責める。頃し合う原因を生み出したことを責める。好きな人を苦しめた自分を責める。
仮に本人が気づかずとも、周囲の人にはそう映る。あの人のせいでこうなったんだ、と。

つまり、“私”を生み出した唯先輩を、苦しめてしまう結果になる。
それだけは絶対に駄目だ。唯先輩は何も悪くなんてない。話してみた私にはわかる。あの人は今だって素敵な先輩のままなんだ。まぁ、キスされたのはショックだったけど。
それでも結局はちょっとタイミングが悪かっただけ。ちょっと事情がすれ違っただけ。
それなのに、そんな素敵な唯先輩を悪者に追いやるような説明が出来るわけがない。
そう思ったからこそ、私は澪先輩にも相談せずに解決しようとしたんだ。なのに今更説明できるわけが――

純『いや、案外なんとかなるかもしれないんだよね。上手くやれば』

梓「…どういうこと?」

純『ずっと気になってたんだけどね……


   先輩達は、一度も『ドッペルゲンガー』って口にしてない気がするんだ』


梓「っ!?」

言われて、思い返してみる。
……確かに、確かに口に出してはいないような気はするけど……

梓「ま、まさか……」

純『……澪先輩のネタバラシを聞いた私だから、わりと自信持って言えるよ。終始、「生き返った」って言い方だった』

梓「いや、でも……」

しかし、確かに可能性としては五分五分だ。
私達の場合は、純が『ドッペルゲンガー』という言い方を決めた。勝手に決めた。限りなく正解に近いとは思うけど、そもそも合ってるかすらわからないんだ、本当は。
だから、先輩達に教えた人と見解が一致している可能性がそもそも低い。純のような物事の見方をする人なら同じ答えに辿り着く可能性はあるけど、それだけだ。

五分五分の可能性の中で、それでも私も純も先輩達の口から『ドッペルゲンガー』という言葉を耳にした記憶は無い。
そうなると、先輩達は『ドッペルゲンガー』と定義さえしていない可能性が高くなってくる。

梓「だとしたら……ドッペルゲンガー絡みの事は言わなくても済むかもしれない…!?」

純『うん。頃し合いになった、なんて言わないでもケンカになった程度で誤魔化せるかもしれない』

ドッペルゲンガーは人を傷つける存在。ドッペルゲンガーという呼び名自体にそういう前提と先入観があるけれど。
でもそれを伏せて説明することができれば、それこそ純の言う通り、ただの喧嘩程度で通せるかもしれない。
命を奪い合おうとした存在だと説明してしまうと、聞く人にも『相容れない存在なんだ』という印象を持たせてしまうから、これは大きなメリットになる気がする。

そして『ドッペルゲンガー』と知らないとするならばそれ以上に、先輩達は、唯先輩は、ドッペルゲンガーと知っていて“私”を生み出したのではない、ということになる。
つまり、あの時の私が万が一の可能性として懸念していた「先輩達は私を不要なものと判断した」という憶測の否定に繋がる。信じていたつもりだったけど、それは素直に嬉しい。
嬉しいからこそ、これは何があっても成功させたい、という気持ちになる。

少し、光明が見えた気がした。

108: 2012/04/02(月) 08:58:19 ID:T82ZaqEo0

梓「……ねぇ純、そこに“私”も居るんでしょ?」

先輩達を誤魔化すためには“私”との口裏合わせも必要不可欠だ。
「二度と会いたくない」とは言われたけど……事情が事情だし、わかってくれると信じたい。

そんなわけで、“私”と相談しようと思って純に聞いた。……んだけど。

純『あっ!!』

梓「……何?」

純『そうだった、私に伝えてすぐ、“梓”は唯先輩に会いに行ったんだよ。憂の書き置きを持って』

梓「ええっ!?」

どうしてそんな大事なことを言われるまで忘れてるかな、純は……

梓「っていうか、そんなことしたら唯先輩は憂を探すに決まってるじゃん!」

純『まぁ、だからこうして私が電話してるんだよ。さすがに唯先輩からの電話には出にくいでしょ?』

憂「……うん、そうかも」

梓「いや、でもそうじゃなくて、そっちじゃなくて、そんな結果が見えてるのになんで……」

憂のこととなると、唯先輩が動かないわけがない。そんなの目に見えてる。
でも私も憂も唯先輩に合わせる顔がないし、“私”としても一通りの解決の目を見たんだし、唯先輩に私達を見つけてほしくないはず。
つまり得をするのは純くらいのはず。なのに話を聞く限りでは“私”が率先して動いたとのこと。どうして?

純『隠せって言うの? あの唯先輩に、憂のことを』

梓「あ………」

そうだ、冷静に考えてみればすぐにわかる。
あまり思い上がった言い方はしたくないけど、唯先輩と憂は私を取り合う恋敵。それでありながら相手を絶対に嫌いにはなれない、そんな関係。そんな唯先輩に憂の身に起こったことを隠し通すのはきっと不可能だ。
それに、憂がそんな決断をしたことを唯先輩に隠せば、発覚した時に唯先輩は余計に傷つく。
いや、傷つくどころか唯先輩に嫌われかねない。好意を抱いている“私”なら伝えるより他に選択肢はないんだ、最初から。
もちろん、『唯先輩のためにすぐに伝えに来た』体を装いながら、それでも間に合わなかった……とするのが“私”にとってベストなシナリオなんだろうけど。

純『とりあえずそんなわけだから、“梓”と口裏を合わせるのはムリかも』

仮に純か憂が“私”の携帯に電話したところで、その隣には唯先輩が居る可能性が高い。
というか唯先輩と一緒にいたいという想いだけを胸に行動している“私”にとってはそもそも今のままでも別に構わない、と考えている可能性だってある。
仮に口裏を合わせるとしても、絶対に成功するという確証がないと乗ってこなかったんじゃないかな、とも思う。

梓「……でも、それじゃ難しくない?」

純『まぁ、ね。とりあえず私も今からそっちに行くから、合流して相談して、何かアイデアが浮かぶまでは唯先輩と接触しないように――』

と、純が言い切る前に、憂が顔を上げ、周囲を見渡した。

憂「――………」

梓「…憂?」

純の言葉の続きを聞くよりも、純に私達の居場所を伝えるよりも、憂のその行動が気になった。
けど、その行動の理由は、わかってみれば簡単なもの。とてもわかりやすいもの。


憂「……お姉ちゃん……」


唯「……憂……」



さっきよりも少し低くなった夕陽を背に、唯先輩が立っていた。

109: 2012/04/02(月) 09:07:51 ID:T82ZaqEo0



【ED≒OP】


唯先輩が私のほうを一瞥して、ほんの少しの時間だけ驚いた顔を浮かべてから、憂に向き直った。
その顔には、純粋な心配と安堵が浮かんでいる。

唯「……心配したんだよ、憂」

憂「……ごめんね」

唯「……ううん、無事ならそれでいいよ」

憂「……どうして、ここがわかったの?」

唯「憂のことだもん。わからないわけがないよ」

憂「……お姉ちゃん……」

全然理屈になっていないけど、それこそが理屈なんだろう、とも思う。
この二人の絆はそれほどのものだ、という理屈。以心伝心というか、何処に居ても通じ合ってるというか。
外見や感覚のそっくりさと言い、姉妹よりも双子と言った方がしっくりくると思ったことも一度や二度じゃない。

唯「……そして、あずにゃん」

梓「っ、は、はい」

唯「いろいろ説明して欲しいんだけど――っと?」

梓´「っ――!」

私に向き直り、そう告げた瞬間、唯先輩の後ろから走ってきた“私”が唯先輩の背中に抱きついた。
やっぱり行動を共にしていたらしい。でも“私”としても、唯先輩がこうも容易く憂と私を見つけるのは予想外だったんだろう。
私の場所からは、私と目が合った一瞬の、驚愕の、そして泣きそうな顔がよく見えた。

梓´「……唯先輩っ……!」

唯「……ごめんね。でも、知らないままじゃいられないよ」

“私”の悲痛な声は、その心情を嫌と言うほどに唯先輩に伝えたはず。
すなわち、「何も聞かないで、知らないでいて」と。でも唯先輩はそれを受け入れなかった。
理由はわからない。唯先輩はどこか自分の責であるかのような言い方をするけど、唯先輩にバレるようなことは何一つ言っていないはずなのに。
でも、その答えはすぐに唯先輩の口から告げられる。

唯「……あずにゃん、二人とも、辛そうだから」

梓「……そんなこと……」

そんなことない、と言いたかったけど、言い切れない。
私は自分で思っているよりずっと感情が顔に出やすいらしいし、“私”に至っては誰がどう見ても辛そうと言う他ない。
少なくとも、私達皆が何かを隠しているという事くらいは痛いほど伝わっているだろう。そして唯先輩はそれを知りたがっている。
おそらくは、いつも私に接するように『先輩』として。

でも、私はどう切り出せばいいかさっぱりわからないでいた。
そもそも純と相談の最中だったんだ、なのに突然何か言えと言われても――

梓「……憂、純は?」

純『聞こえてるけど……ゴメン、何も出来そうにないね』

梓「そんな……」

純『何も考えがないのは私も一緒だよ。だったらその場に居ない私に出来ることは、何もない』

一見冷たい言い方だけど、条件が一緒なら、話す相手の顔色とかを窺える私の立場のほうがその場に合わせた『答え』を導き出せる、という意味だろう。
コミュニケーション能力に長けた純が言うのだから疑う余地はないし、言われてみればその通りだと思う。

唯「……純ちゃんなの? 電話が繋がらないと思ったら……」

憂「…純ちゃんも、引き留めようとしてくれたんだよ」

唯「そっか……ありがとね、純ちゃん」

純『いえ、そんな…。……じゃあ切るよ、梓』

梓「っ……」

憂「………」

私の返事を待たずして電話は切れた。
隣で携帯電話をしまった憂が不安そうな顔で私を見つめてくる。

110: 2012/04/02(月) 09:10:42 ID:T82ZaqEo0


……やらなくちゃいけない。私が。

そもそも目の前に当事者がいるのに第三者が電話から状況を説明するというのも変な話だ。それでは唯先輩が納得するかさえ怪しいから、やっぱり私がやるべきなんだ。それはわかる。
……それでも、私にちゃんと出来るのかという不安は残る。でも、もう他に道はない。ずっとずっと純に頼っていたけど、ここにきて純から私は託されたとも言える。心細いけど、やるしかない。
何も思いついていないし、どう言えばいいかもわからないけど……今度こそ私が、終わらせないと。

唯「……あずにゃん」

梓「……私、ですか?」

唯「そだね。そっちのあずにゃん。憂の隣に居てくれたあずにゃん。憂を引き留めてくれたのは、きっとあずにゃんだよね」

梓「それは……その……」

唯「手紙を見る限りは、原因もあずにゃんっぽいけど……ここにいるってことは、引き留めてくれたんだよね」

その問いに、私は何と答えればいいのか。
手紙自体が嘘だった、というのが真実だけど、それを言うと次はじゃあどうしてそんな嘘をついたのか、という方向に話が行く。
そうなってしまうと、話がどんどん遡っていって最終的には私と“私”が居場所を奪い合うような存在であることを説明しなくちゃいけなくなるような気がした。
嘘は吐きたくない。けど、唯先輩を傷つける真実に繋がるような答えを返すのはそれ以上に嫌だし、当初の私の想いに反する。
純は正直に話すのが近道だと言ったけど、それをそのまま受け止めてはいけない。純は「そうしろ」とは言わなかったんだから。

……考えるんだ。どう言えば、唯先輩を傷つけないで済む? どう言えば、全てが丸く収まる…?

梓「えっと――」

憂「……梓ちゃんが、お姉ちゃんを好きになった。私にはそう見えたの、お姉ちゃん」

梓「……憂?」

唯「……うん、手紙にはそう書いてあるね」

私達を置き去りに、憂が唯先輩に説明する。
憂の狙いは読めなかったけど、意図はわかる。わかるというか、信じてる。
憂と私の想いは一緒なんだから、私はただ信じていればいい。信じながら、自分がするべきことを考えるんだ。

憂「…そして実際、梓ちゃんはお姉ちゃんを好きになってた。……そっちの“梓ちゃん”だったけどね」

唯「……憂も、見間違えた、ってこと?」

憂「その手紙を書いた日、私のところにいたのはそっちの“梓ちゃん”だったよ」

梓´「………」

憂「だから……あの手紙にあるようなことは、しないよ。ごめんね、お姉ちゃん。心配かけちゃって」

唯「……ううん、いいよ、憂が無事なら。これからもずっと無事なら」

憂「うん。梓ちゃんと一緒にね」

梓「………」

上手い、と思った。
全体の事情を知ってればそれは確かに嘘なんだけど、憂は一度も嘘を口にしてはいない。
“私”を見て、その手紙を書いた。そして今となってはあの手紙はなかったことにしてほしい。そうとしか言っていないんだ。
屁理屈のようだけど、それは確かに嘘ではない。隠し事はしているけれど嘘ではないし、何よりも伝えるべきことはちゃんと伝えている。
言わない方がいい真実を伏せて、伝えるべき真実を伝える。真実の『核』だけを伝える。隠し事をしている負い目はあるだろうけど、ただ漫然と全てを伝える人より二倍相手の事を考えている、とも取れる。
私も、こんな風に上手くやれれば……

憂「梓ちゃんは、ずっといつまでも私の隣にいてくれるって言ったよ」

唯「……そっか。ありがと、あずにゃん」

111: 2012/04/02(月) 09:12:02 ID:T82ZaqEo0

梓「いえ……その、唯先輩にはちゃんと言ってなかった気がしますけど……私、憂のことが好きですから」

ちゃんと言ってれば、こんなことにはならなかったのだろうか。それはわからない。
あの時の私がちゃんと言えなかった理由は、あれ以上唯先輩を傷つけられなかったからに他ならない。
相手が憂だという事どころか、既に両想いで付き合っていることすら言えなかった。唯先輩の気持ちが叶わぬものであることを口にすることが出来なかった。
匂わせるので精一杯だったんだから、それ以上先のことが言えるはずもない。
でも、それもまた私の弱さだったのかもしれない。それが招いたのが今の状況であるのもまた事実だと思うから。

梓「……ごめんなさい。唯先輩には、憂のお姉さんには、ちゃんと言っておくべきでした」

唯「それは……うん、憂のことを隠されたのはショックだけど……でもあずにゃんも別に私にイジワルするために隠したわけじゃないでしょ?」

梓「そんなことするわけないじゃないですか!」

唯「そうだよね。あずにゃんはそんな子じゃないもんね。だから好き」

憂「お姉ちゃん……」

唯「………っ」

何とも言えない沈黙が流れる。
やっぱり唯先輩は、心のどこかで私を諦められないんだろう。ドッペルゲンガーを生み出したわけだし、それは充分わかっていたこと。この場で責めるつもりなんて全くない。
けど、それでも諦めてくれないと困る。私が好きなのは憂なんだから。諦めて、そっちにいる“私”と結ばれてくれるのが理想であって――

梓「………」

いや、待って。ちょっと待って。
唯先輩が好きなのは私じゃない。私じゃなくて、かといって“私”でもなくて、『中野梓』が好きなんだ、唯先輩は。
唯先輩が今、“私”ではなく私に話しかけている理由は、きっとあれだけの理由。

梓「……唯先輩、話を戻しましょう」

唯「……うん?」

梓「今の、この状況について、です。『私』が二人いる、この状況」

唯「…そうだったね、その話をしてたんだった」

梓「はい。で、ぶっちゃけ唯先輩は、どっちの『私』が本物だと思います?」

梓´「っ!!」

“私”が息を飲み、目を瞑る。この後に示される答えに怯えて。
もっとも、私もその答えはわかっている。確証もある。

唯「……そっちのあずにゃん。今、私と話している方」

梓´「っ………」

梓「それは何故ですか?」

唯「……憂が、隣にいるから。あずにゃんは憂とキスするほど好き合ってたはずだから」

そう、皮肉にもあの時の“私”の言う通りのことになってしまっているんだ、今は。
隣に憂がいるから、それだけの理由で私が『中野梓』になってしまうんだ。

梓「それだけですか?」

唯「……そう、だけど……」

そう、それ『だけ』で。

唯「……あずにゃん、何が言いたいの?」

梓「……私と、そっちの“私”の違いは、それだけなんですよ。憂と好き合っているか、それだけ」

唯「………」

梓「信じられないと言うのなら、何でも質問してみてください、私『達』に。どっちも寸分の狂い無く同じ答えを返しますよ」

唯「……ううん、あずにゃんの言うことなら信じるよ」

梓「……大事なことなんです。そんなに軽く考えないでください。ちゃんと納得してもらわないと困るんです」

唯「でも、私はこっちのあずにゃんに何の違和感も持たなかったから。憂の隣にいるあずにゃんを見るまで、ね」

だから私の言うことを否定できない、と言う。
今更疑うのもムシのいい話だ、という見方も出来るけど。まぁどっちでもいいか。

唯「つまりあずにゃんは、どっちも『あずにゃん』だ、って言いたいんだよね?」

梓「そういうことです」

112: 2012/04/02(月) 09:20:55 ID:T82ZaqEo0

唯「……じゃあ、どうしてあずにゃんが二人いるの?」

唯先輩の真剣な視線が、私と“私”に交互に突き刺さる。
やっぱり、結局はそこが一番大事なんだ。唯先輩は信じると言ってくれたけど、それでもここをハッキリさせないと心の底からは信じてくれないはず。
心の底から信じてもらえないことには、居場所も出来ない。“私”の居場所が。
ここの説明だけは、どうあっても避けて通れない道なんだ。

そして、私達をずっと悩ませている問題もここなんだ。
純はありのままを説明しろと言う。ドッペルゲンガー関連だけは適当にぼかせばいい、と。
でも、ありのままを説明するのはデメリットのほうが大きいと思う。“私”がどう動くかわからないから。というか、ぶっちゃけ邪魔してくると思うから。
だってありのままを説明するという事は、私と“私”、どちらが『先に居たか』を明らかにしてしまうことになる。
それは“私”からすれば存在の否定だ。偽者だと言われているようなものだから。私達にそんなつもりはないとしても、だ。
ただでさえ、『二度と目の前に現れない』という約束をした私が目の前にいるんだ。“私”は些細な刺激ででも爆発しかねないと考えておいた方がいいと思う。

正直、嘘を織り交ぜて話した方がいいとさえ思ってる。
“私”がどう動くかわからないデメリットは相変わらず存在するけど、それでも嘘を混ぜれば最初は様子を見てくるはず。その間にこちらの意図を察してもらえれば後は上手くいく。
でもそう予定通りに事が運ぶ保障は全く無い。それに加えてその場しのぎの嘘なんていつかはバレるものと相場が決まってる。
実際、私達の嘘はことごとくバレて裏目に出てきた。いろんな人を悲しませてきた。
人生の中で吐いていい嘘は、絶対にバレない嘘だけなんだ。そしてそんな嘘を作り上げる時間は、今の私達には無い。
そして何より……嘘を吐くのは、やっぱり心苦しいから。


私は、どうするべきなのか。
どっちを選べば、皆の幸せになれる結末が訪れるのか。


考え、悩んだ結果……


梓「……唯先輩と、同じですよ」

唯「…私と、同じ?」

梓「はい」

私は、第三の選択肢を選んだ。

唯「つまり……氏んで、みんなに祈ってもらって生き返った?」

梓「いえ、そうじゃありません。ええと…逆に聞きますけど、唯先輩、もっと具体的にどうやって生き返ったのかわかります?」

唯「……具体的に…?」

梓「…身体は、もうこの世に無かったはずじゃないですか。意識だって、どこかに行ってしまっていたはずでしょう? それなのに生き返った、そのあたりの詳しい理屈です」

唯「………わかんない……」

梓「ですよね」

唯先輩を悩ませてしまったけど、そう、その答えこそが必要なんだ。
悩んで、考えて、体験までしてもわからない。私も“私”も、憂も唯先輩も、細かいところは違えどそこは共通しているんだ。

梓「私達も、具体的にどんな仕組みで私の身体も記憶も二人分存在するのかはわかりません。でもそんなのどうだっていいじゃないですか」

唯「………」

梓「憂も、唯先輩も、自然と受け入れてもらえてるじゃないですか。氏んだ人が生き返るのと、同じ人が二人存在するの、どっちも優劣なんてつけられないオカルトだと思いませんか?」

唯「あ……」

そう、それだけの問題のはずなんだ。
結果は違っても、根本は一緒。どうあっても説明できない現象が起こった。それだけなんだ。
なのに唯先輩と憂は受け入れられて、“私”は受け入れてもらえない……なんて、この人達ならそんな事にはならないはずだ
。唯先輩と憂というオカルトを受け入れた、優しい皆なら……

梓「……いえ、それで喜ぶ人がいるのなら、オカルトなんかじゃなくて『奇跡』なのかもしれませんね」

唯「喜ぶ…?」

唯先輩はわかっていないんだろうか。私は『一緒』だと言ったのに。
私達の身に起こったことも、唯先輩と同じ現象だと言ったのに。誰かが求めたゆえの『奇跡』だと。

梓´「……唯先輩、私じゃダメですか? 私、唯先輩のこと、好きですよ?」

唯「えっ……」

梓´「唯先輩を好きなこと以外、私は全部あっちの“私”と同じですよ? それじゃダメですか?」

唯「あず、にゃん……」

梓´「……私じゃ、唯先輩は幸せになれませんか?」

唯「っ……そんなこと…!」

内心、ハラハラしながらも私は自然と“私”を応援していた。
私と憂の告白を見届けた純も、こんな気持ちだったのかな……

113: 2012/04/02(月) 09:23:56 ID:T82ZaqEo0

梓´「…唯先輩が好きなのは、『誰』ですか?」

唯「……私が好きなのは……」

唯先輩がチラリとこっちを見たから、私は首を振った。
それだけで伝わったかどうかはわからない。けど、それを見た唯先輩は吹っ切れたように“私”に向き直ったし、隣の憂がそっと手を繋いでくれたからそれで良かったんだと思う。

唯「……私は、いつも一生懸命で、ぎゅってしたくなるほど可愛くて、ギターが上手で、いろんなことを教えてくれて、私の事を心配してくれて、それでいて寂しがり屋で放っておけない、そんな『あずにゃん』が……好きだよ」

梓´「………」

唯「……憂を好きかどうかは、関係ないよね。誰を好きでも、私の気持ちは変わらない。憂の大事な友達の『あずにゃん』が、私は好き」

梓´「唯、先輩……」

唯「『あずにゃん』なら、それだけで私は好き。そうだね、そうなんだよね。『憂を好きなあずにゃん』なんてのは私の中のあずにゃん像にすぎないし、私が好きになったのはそんなあずにゃんじゃないんだよね」

憂「……お姉ちゃん……」

唯「……ごめんね、“あずにゃん”。やっぱりどこかで、私は――」

梓´「いいんです、今はそれでも。ただ、私を――あなたを好きな私を、そばに置いてください。目の届く範囲に置いて、見ていてください。私も『梓』なんだって、私が教えてあげますから」

唯「“あずにゃん”……」

梓´「……私があなたの『あずにゃん』だって、ちゃんとわからせてみせますから」

梓「………」

うわぁ、言ってて恥ずかしくないのかな、あの“私”は。
しかも言い方が微妙に生意気だし……。客観的に見て私っていつもあんなんだったの? 
いや、まさかね。テンパって何言ってるか自分でもわかってないだけだよね。そんなところあるしね、私……

唯「……“あずにゃん”」

梓´「……はい」

言いたいことを言い合った後の二人は、すがすがしい面持ち……というわけでもなく。
互いに返ってくるであろう返事に緊張しているようで、神妙な面持ちだ。

唯「……あの、ね」

梓´「…はい」

唯「えっと、その、上手く言えないんだけど」

梓´「………」

唯「……とりあえず、そろそろ澪ちゃんと居た向こうの街に戻ろうと思うんだ、そろそろ」

梓´「……はい」

唯「………」

梓´「………」

唯「………一緒に、来ない?」

梓´「………いいん、ですか?」

唯「う、うん。みんな会いたがってるだろうし、みんな一緒にバンドしたがってたし」

梓´「………」

唯「それに………私も、“あずにゃん”と一緒にいたいし」

梓´「…! は、はいっ!!」

今度はちゃんと笑顔で正面から抱き合う二人。
そんな中で唯先輩だけがチラッとこっちを見て、私と憂が重ねあった手を見て困ったように笑った。
正直もう大丈夫だとは思うけど、一応言っておきたいことがあと一つ残ってる。

114: 2012/04/02(月) 09:25:40 ID:T82ZaqEo0

梓「……唯先輩」

唯「……?」

梓「実は『中野梓』は、そっちの“私”なんですよ」

梓´「っ!?」

だって、そりゃそうでしょ。もうあの時に全部譲り渡したんだから。
それに、こうしてそれぞれに居場所が出来るなら……細かいことはともかくとして、名前にはあまりこだわる必要はないと思うし。
私が『本物』で、それでも『中野梓』ではないとしても、隣には憂がいてくれる。そして、きっと純も。それだけで大丈夫だと思う。

唯「じゃあ……あなた、は?」

唯先輩から「あなた」と他人のように呼ばれるのは、少し胸が痛むけど。

梓「私は……その……」

それでも、こう言っておいたほうがいいだろう。この場で、ちゃんと。


梓「私は……『平沢梓』になろうかと……」


唯「………」

憂「………」

梓´「……」

……は、はずした……!?

梓「……いや、その、憂と一生一緒に居るっていったわけですし、ね?」

唯「……ぷっ、あ、あはは、あはははっ!」

梓「……あれ?」

唯「ははっ、あははっ! いや、ごめん、そっか、お二人はそこまで進んでましたかー!」

憂「梓ちゃん……お姉ちゃんも、あんまりからかわないでよっ!///」

唯「からかってないよー! 嬉しいんだよ、お姉ちゃんとして、先輩として、二人の幸せは嬉しいに決まってるよ! あははっ」

……からかってないっていうならマジメなことを言う時くらいは笑いを堪えてくれませんかね。
でも、そうだね。祝福してもらえるのは素直に嬉しい、かな。

梓´「っていうか、私だって唯先輩と結婚したら平沢梓だし……」ボソッ

梓「気が早いよ!?」

梓´「耳聡いなぁ」

唯「いいよいいよ、私達はこれからだもん。ね、“あずにゃん”?」

梓´「は、はい! もちろんです!」

憂「っていうか、私もお姉ちゃんも戸籍上は故人のはずなんじゃ……」

梓´「細かいことは気にしないの、憂!」

唯「あはは。よろしくね、“あずにゃん”!」

梓´「はいっ!!」

……やっぱりまだ気が急いてる気がするけど、突っ込むのは野暮かな。
それよりも、

梓「ねぇ、“私”。何て言えばいいのかわからないけど……」

梓´「ん?」

梓「……応援、してる、から」

決して上から目線なんかじゃないんだけど、どうやってもそれっぽい言い方になってしまう気もする。
でも、それでも純粋に応援したい、と思った。私と同じように、人を好きな気持ちを抱えるこの子を。
『人』として何よりも尊い気持ちを抱える、私と同じ『人』を応援してあげたかった。

梓´「……余計なお世話だよ」

梓「あはは、素直じゃないなぁ」

……うん、さすがは『私』だ。

115: 2012/04/02(月) 09:28:52 ID:T82ZaqEo0


唯「――ありがとね、あずにゃん」

梓「……こちらこそ、です。ところでこれからどうするんですか?」

唯「……とりあえず澪ちゃんのところに戻るよ。それからすぐにでも向こうに戻って、みんなにちゃんと説明する。“あずにゃん”を連れて、ね」

梓「…そうですか」

唯先輩がどこまでをどのように説明するのかはわからないけど、そこは私が口を挟むところではないと思う。
私よりは『中野梓』が口を挟むべき領域だし、それに仮に全部伝えてもあの先輩達なら素直に受け入れるとも思うし。

唯「……憂」

憂「……お姉ちゃん」

唯「……またね。元気にしててね?」

憂「……うん。お姉ちゃんも、しっかりね」

もうしばらく顔を合わせることはないであろう姉妹の会話が交わされる。
離れ離れではあるけど、この二人の絆なら何も問題はないとは思う。でもある意味原因は私達だから、これもまた口は挟めない。
そして私達は私達で、二度と顔を合わせることもないであろう『私』同士の会話をする。

梓´「――なんて思ってるでしょ」

梓「…へ?」

梓´「もういいよ。ちゃんと唯先輩の隣に私の居場所はあるんだし、あなたのことは嫌いじゃないから、何かのキッカケでまた会ったとしても別に」

梓「…いや、それでも同じ顔の人間が二人並ぶのはあまり勧められたものじゃないと思うんだけど」

梓´「顔は…確かにどうしようもないけど。でも印象を変えることくらいはできるよ」

そう言って“私”は一度髪を解き、後頭部に束ねてヘアゴムで縛った。
所謂ポニーテール。憂みたいな髪型だ。長さは全然違うけど。

梓´「…ちょっとスッキリして大人っぽく見えない?」

梓「……大人かどうかはともかく、まぁ、印象はちょっと変わるね」

梓´「これなら並んで立ってても双子の姉妹くらいにしか見えないよ」

梓「でも先輩達には何て言うのよ」

梓´「イメチェン? 大学デビュー?」

梓「はぁ」

でも“私”も『私』なんだから、地味にこの行動に心当たりはある。
やっぱり今の髪型では子供っぽく見られることも稀にある。私自身の小ささと相まって。
だからちょっと背伸びしてみたいとか、大人に見られたいとか、そういうことを考える事があると真っ先に髪型に考えが行っていた。手軽で尚且つ大きく印象が変わるものだから。
最近はそんなに焦ることもなくなったけど、“私”のこの行動はそういう焦りの表れなのかもしれない。唯先輩との時間を取り戻す事に繋がるとも思うから注意はしないけど。
それか、もしかしたら私に名前を譲ってもらったお返しか。外見だけは譲らなくていいよ、みたいな。
まぁ、どっちでも私に言えることは、言うべきことは何もないけど。

116: 2012/04/02(月) 09:30:52 ID:T82ZaqEo0

唯「……あずにゃん達さぁ、お別れなのにもっとマジメな話しないの?」

……あれ、唯先輩にマジメさを説かれてしまったよ?

梓「……いや、なんか変な気分なんですよね。お別れなんですけど、唯先輩の隣には私がいるに等しいんですし」

梓´「憂の隣にもちゃんと私がいるから、全然心配はないといいますか」

唯先輩と離れるのは寂しいけど、それでも隣に私と等しい“私”がいるなら寂しがるのもおかしいような気がして。
それに何より、このシチュエーションはお別れというより好き合っている二人の門出のように思えてならない。

梓「むしろ早くそれぞれの道を歩んで相手を幸せにしてくださいというか」

唯「……まぁ、そうだねぇ。あずにゃんと別れても私の隣にはあずにゃんがいる、って考えると確かに私も寂しくはないかも」

憂「ふふっ。お姉ちゃん、何か困ったことがあったら相談してね?」

唯「うん、また電話するよー」

この二人は二人で軽いし……
まぁ唯先輩と憂は大学と高校で離れてもちゃんとお互いが寂しくないくらいには連絡を取ってたんだし、何も変わらないのかな。
お互いを大好きなこの姉妹のこういう信頼関係、すごく羨ましいと思う。


憂「それにしても、これってすごい奇跡だよね」

唯「ん?」

憂「だって、放課後ティータイムとわかばガールズでセッション出来るかもしれないんだよ?」

梓「あっ」

梓´「…そう考えると、確かにすごいね」

梓「いや、まだ菫と直に顔を合わせる勇気はないけど……」

梓´「私だって律先輩とムギ先輩に顔を合わせるのは怖いんだから、お互い様だよ」

梓「そうかなぁ……」

とはいえ、逃げてばかりもいられない。ちゃんと丸く収まったんだから尚更。
……あと、先生にも謝らないといけないし。

憂「私達だってこれからだよ、梓ちゃん」

梓「……うん、そうだね」



――陽の沈んだ街で手を振る唯先輩達を見送る。心は実に穏やかなまま。
これは別れだけど別れじゃなくて、私達にはそれぞれ戻る場所がある、それだけの話なんだ。寂しいはずがない。
それに、少なくとも私達の間の問題はちゃんと解決したんだから会いたいと思えばいつでも会える。それだけで充分。

そして、私の手には変わらぬ温もり。私の隣には変わらぬ温かさ。
細かい問題は残ってるけど、憂がいて皆がいてくれるならどうにでもなる気がする。

憂「……帰ろっか」

梓「……そうだね」

帰る。私達は帰る。私達には帰れる場所がある。
そのことの幸せさを、充分に存分に噛み締めながら帰路に着く。

隣に誰かがいて、周りに誰かがいてくれて、帰れる場所がある。
結局、私はたったそれだけのことで満たされてる。それだけのことで幸せを感じてる。
大きなものを手に入れる幸せじゃなくて、小さなものが周りに変わらず在る幸せが私には必要だったんだ。

……いや、違うかな。
私は大きなものも手に入れてる。憂というかけがえのない存在を。
憂の心を、気持ちを、愛を貰ってる。それだけで充分だと思ったのも確かなんだ。

結局、何だったのかな。
一度は憂を失い、皆を失い、今はそれらが隣にあることに安堵してる。
結局、失ってみないと大切さに気づかない馬鹿な私のお話だったのかな。
それとも、失ったものをもう一度欲しがる欲張りな私のお話?

わからないけど、別にいいか、と思う。
だって、私の人生はここで終わるわけじゃない。私と憂の時間はこれから。ここで答えを出す意味なんて全然ない。
全部が終わった時にわかればいい。人生というお話の答えなんてそんなもの。

私は、私達は、まだまだ終わらない。
終わらせないし、終わりたくない。ずっと一緒に続けていくんだ。


みんなで紡ぐ、人生という名の物語を――

117: 2012/04/02(月) 09:32:09 ID:T82ZaqEo0








憂「――あ、純ちゃんに報告の電話したらね、スミーレちゃんと直ちゃんも呼んで待っとくって!」

梓「えっ」

118: 2012/04/02(月) 09:33:01 ID:T82ZaqEo0



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       ヽ| l l│<オワリ
       ┷┷┷

126: 2012/04/03(火) 00:28:55 ID:RVHuJExU0


ちゃんと""付いててたけど私だらけでちょっと混乱したのは内緒

引用: 梓「ポニーテールのドッペルゲンガー」