115: 2012/04/21(土) 22:52:55 ID:uMpjJKrk0

澪「秋山探偵事務所」【前編】

とある夏の日 秋山探偵事務所

唯「あ~つ~い~……」

澪「そうだな……」

この探偵事務所はクーラーが稼働していないため、耐え難い暑さとなっていた。そんな中で唯は気だるそうに机に顔を預けている。
そんなだらけきった姿の唯を見て、澪は立ち上がった。

澪「唯、話したいことがあるんだ」

唯「どうしたの?」

唯はうつ伏せになったまま澪へと顔を向けた。

澪「実は、もう一人助手を雇おうと考えてるんだ」

唯「もう一人?」

澪「あぁ、やっぱり今後も二人だけでやっていくのは難しいと思ってさ」

澪「この前の梓ちゃんの時も、唯ももう一人ほしいって言ってただろ?」

澪「だから、どうかな~なんて思って……」

最後の方は遠慮がちで、消え入るような声だった。それを聞いた唯は小刻みに体を震わせた。

澪「唯……?」

唯「いいねっ! やろうよ!」

唯は机を叩いて立ち上がった。先程までの、気だるそうな表情はどこかへ行ってしまったようだ。
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116: 2012/04/21(土) 23:03:35 ID:uMpjJKrk0
唯「どうやって募集するの?」

澪「求人に載せてもらおうと思ってるけど……」

唯「それ以外にも何かやろうよ!」

澪「え? 他にすることあるかな……」

唯「えーっと……」

唯は目を瞑って考え込んだ。

唯「そうだ! ビラ配りやろうよ!」

澪「ビラ配り?」

唯「うん! この事務所の宣伝にもなるでしょ?」

澪「そう言われてみればそうかも……」

確かに良い手段だと思った。ビラ配りによってこの探偵事務所を認知してもらい、尚且つ求人もできる。希望の光が差し込んだように思えた。

澪「じゃあ、ビラを作らないとな!」

唯「よーし、頑張るぞーっ!」

117: 2012/04/21(土) 23:09:47 ID:uMpjJKrk0
翌日

澪「よし、ビラも入ってる!」

澪「行こうか!」

唯「うん!」

澪と唯は事務所を出た。この日は真夏日で日差しがジリジリと照りつけていた。

二人は人通りの多い広場に着いた。人々は暑いせいなのか、どこか険しい表情をしていた。澪はビラを手に取って唯にも手渡した。

唯「じゃあ、始めよっか」

澪「そうだな」

~~~~~

澪「ありがとうございます」

澪「ふぅー……何とか配り終わった……」

澪は疲れを吐き出すように大きく息を吐いた。ビラは中々受け取ってもらえず、予想以上に時間がかかった。

119: 2012/04/22(日) 15:49:15 ID:Wu0jZNJo0
唯「澪ちゃーん!」

澪「あ、唯!」

唯「全部配り終わった?」

澪「うん」

唯「こっちも終わったよ!」

澪「じゃあ、帰ろうか」

二人は荷物を持って、広場を後にした。

唯「誰か来るかな?」

澪「どうだろうな……」

唯「一人でもいいから来てほしいなー」

澪はこういった宣伝の効果がどれぐらいのものなのかまったく検討がつかなかった。しかし、心のどこかでは淡い期待を寄せていた。

唯「あっ! そうだ!」

澪「今度はどうしたんだ?」

唯「誰か来た時のためにケーキ買おうよ!」

澪「……唯が食べたいだけなんじゃないのか?」

唯「ち、違うよ! 」

唯「けど、ついでだから自分の分も買おうかなぁー……」ボソボソ

澪「まったく……」

結局、二人はケーキショップに立ち寄り、ケーキを数個購入した。

120: 2012/04/22(日) 15:53:55 ID:Wu0jZNJo0
三日後 秋山探偵事務所

唯「誰も来ない……」

澪「…………」

探偵事務所には何一つ音沙汰が無かった。唯は口を開けて、呆然と天井を眺めている。澪は奥にある冷蔵庫を見つめた。今日も二人だけでケーキを食べることになるのだろうか。

澪「(一人くらいは来ると思ってたけど……)」

澪「(……まったく来ない)」

澪が暑さと失望感のせいで項垂れた瞬間

コンコン

澪唯「!!」

静かな事務所にノックの音が鳴った。澪は急いで扉を見つめ、唯はソファーから転げ落ちた。

澪「唯……!!」

唯「……!!」

唯は黙って立ち上がり、転げ落ちたせいでボサボサになった髪のまま扉へ向かった。そして、ドアノブを握り締めて扉を開けた。

121: 2012/04/22(日) 15:57:16 ID:Wu0jZNJo0
ガチャ

唯「はい……」

唯が恐る恐る扉を開けた。
その直後、唯は目を丸くして固まった。唯の目の前にはブロンドヘアーの女性が立っていた。唯はその神秘的な雰囲気に圧倒され、黙ることしかできなかった。

唯「…………」

唯は口をあんぐりと開けて硬直を続けた。

「あのー……」

異変に気づいた澪も扉へと駆けつけた。そして、女性と目が合った瞬間に、唯同様に固まった。

澪「ご、ご用件は……」

澪は何とか口を開いて話しかけてみた。

「助手を募集していると聞いて来たんですけど……」

澪「あっ! そうなんですか!」

澪「どうぞ、中へ!」

澪「唯! いつまでそうしてるんだ!」

唯「はっ……!」

唯「すすっすいません!」

122: 2012/04/22(日) 16:07:41 ID:Wu0jZNJo0
唯は我に返り、急いで紅茶の準備を始めた。澪はブロンドヘアーの女性を中へ招き入れ、ソファーに座らせた。

澪「えーっと……(金髪で目が青くて綺麗な人だなぁー……)」

澪は女性の青い瞳を見ると、何を話せばいいのかわからなくなってしまった。

澪「すいません……こういう事は初めてなので少し緊張して……」

「緊張しなくていいですよ?」

女性が穏やかに微笑むと、不思議と気持ちが楽になった。澪は目を閉じて深呼吸した。

澪「すいません、助手希望でしたね」

澪「ではまず、お名前を聞かせてください」

紬「琴吹紬と言います」

澪「琴吹……紬さんですね」

澪はメモ帳を手に取って、急いで書き留めた。その間に唯がやって来た。

唯「どうぞ、紅茶とケーキです!」

紬「どうも、すいません」

唯「いえいえ!」

紬が頭を下げて礼を言い、唯が得意気な顔で返事をした。

澪「えーと……次の質問ですが……」

澪「志望動機は何ですか?」

紬「…………」

澪は一瞬、紬が神妙な顔つきになった気がした。

125: 2012/04/23(月) 18:45:18 ID:SuWQMDTM0
紬「探偵の仕事に興味があったからです!」

澪「と言うと?」

紬「初めに、困っている人をどんな方法で助けるのか気になったんです」

紬「そうしてると、自分も人助けになるやりがいのある仕事がしたくなってここに来ました!」

澪「なるほど……」

澪はメモを書き留めながら感心していた。

紬「それに……」

澪唯「?」

紬「自分にもやりたい事があったから!」

紬は拳を握り締めて意気込みを表した。澪は紬の意志の強さを肌で感じ取った。

紬「あっ! すいません……つい……」

紬は顔を赤らめて申し訳なさそうに頭を下げた。唯が少し前のめりになって尋ねた。

唯「何かあったの?」

紬「……実は、ここに来る前に父からある仕事を勧められていたんです」

紬「父は昔からそうでした。何でも勝手に決めてしまって、私はそれに従うしかありませんでした」

澪「…………」

126: 2012/04/23(月) 18:48:10 ID:SuWQMDTM0
紬「でも、私はそれが嫌で父に頼みました」

紬「すると、一ヶ月の猶予をくれたので、私は色んな所を探し回って、偶然この事務所が募集しているのに気づいたんです」

紬「そして、今日に至ります」

澪は改めて紬を見つめた。なるほど、確かによく見ると、お嬢様だ。服装も髪の色も雰囲気も何もかも、一般人とは異なっている。
しかし、彼女は今、自らその世界から抜け出そうとしている。澪はそんな紬の意志を尊重したいと思った。澪は決心した。

澪「わかりました……」

澪「琴吹さんがよければ、この事務所で一緒に働きませんか?」

唯「!!」

紬「!!」

唯は隣にいる澪の横顔を見つめ、紬の表情はみるみる明るくなった。

紬「はい! よろこんで!」

唯「やったーっ!」

唯は紬の両手を掴み取り、歓喜の声を上げた。

唯「これから、一緒に頑張ろうね!」

紬「はいっ! よろしくお願いします!」

澪「やれやれ……」

澪は満更でもない笑みを浮かべて、その光景を眺めていた。

127: 2012/04/23(月) 18:59:14 ID:SuWQMDTM0
翌日 秋山探偵事務所

紬「本日よりお世話になります、琴吹紬です!」

紬「よろしくお願いします!」バッ

紬は勢いよく、澪と唯にお辞儀をした。澪は少しまごついてから紬を見た。

澪「じゃあ、一応私も……」

澪は大きく咳払いした。

澪「秋山探偵事務所の秋山澪です」

唯「その助手の平沢唯です! よろしくね!」

紬「はい!」

紬は元気よく返事した。唯はまだ紬の顔を見つめていた。手をモジモジさせ、まだ何か言いたい事があるようだった。

唯「ねぇねぇ! 琴吹さんのこと、ムギちゃんって呼んでもいい!?」

紬「ムギちゃん?」

澪「こ、こら!」

唯は目を輝かせて紬を見つめた。紬はにっこりと笑みを浮かべた。

紬「いいですよ!」

唯「やったー!」

唯は両腕を上げて、万歳をした。紬も嬉しそうな表情だった。

128: 2012/04/24(火) 23:51:41 ID:M8lD15hc0
唯「あ、仕事中でも、そうでない時も私たちには敬語じゃなくてもいいよ!」

紬「え? それは……」

紬は困惑した表情で澪を見つめた。

唯「同じ歳なんだから大丈夫だよっ!」

紬「そうかな……」

紬は唯と澪の顔を交互に見合わせた。

紬「……じゃあ、これからもよろしくね! 唯ちゃん、澪ちゃん!」

唯「うん!」

澪「う、うん……」

唯「そうだっ! せっかくだから、パーティーやろうよ!」

澪「え?」

唯は手の平に拳を落とした。澪は唯の会話の流れの速さについていけなかった。紬もきょとんとしている。

唯「ムギちゃんが来たんだから、お祝いしなくちゃ!」

唯「さっ! 二人とも! 買い物に行こうーっ!」

紬「え? え?」

澪「ちょ……押すなって!」

唯「早く行こう!」

唯は意気揚々と澪と紬の背中を押して事務所を後にした。

129: 2012/04/24(火) 23:59:03 ID:M8lD15hc0
翌日 秋山探偵事務所

唯「はぁ~! 昨日は楽しかったね!」

紬「昨日はありがとう! 本当に楽しかった!」

澪「喜んでくれてよかったよ」

昨日は依頼が来ないのをいい事にパーティーを開いていた。紬が喜んでいる様子だったので澪は安心した。

紬「ところで、仕事って何をするの?」

澪「えーっと……」

唯「依頼が来るまで待つんだよ!」

紬「それからは?」

唯「それだけだよ」

紬「依頼が来るまでの間は何をするの?」

澪「あー……」

唯「いつもは、お菓子とか食べたりして時間を潰すんだっ!」

紬「…………」

唯「今日は持って来るの忘れたんだけどね……」

澪は紬が呆然としているのを見てギクリとした。紬を迎え入れて、事務所を引き締め直そうと考えていた。しかし、今後もこんな醜態が続けば、紬が仕事を辞めてしまうかもしれない。

澪「あ、いや……」

紬「楽しそう……!」

澪「え?」

澪は間の抜けた声を出して、満面の笑みを浮かべる紬を見た。澪は既に嫌な予感がしていた。

130: 2012/04/25(水) 00:05:38 ID:VPRlw7bs0
紬「唯ちゃん、心配しないで!」

紬「明日からは私が毎日お菓子を持って来るから!」グッ

紬は私に任せてとばかりに両手を握り締めた。

唯「本当に? ありがとう~!」

紬「いえいえ」

澪「ちょっと待ったーっ!」

このまま話が落着しそうになっていたので、澪は強引に割り込んだ。唯と紬は不思議なものでも見るかのように澪を見つめた。

唯「どうしたの?」

澪「ここは探偵事務所だぞ! のんびりとお菓子を食べて優雅に時間を過ごす部屋じゃないんだ!」

澪「それに毎日持って来てもらうなんてムギに迷惑だろ?」

紬「ううん、父の仕事の関係で家に余るほどあるから大丈夫!」

澪「(余るほど貰うムギの家って一体……)」

紬「だから、楽しみにしててね!」

唯「うん!」

唯の頭の中は明日のお菓子のことで一杯になった。そんな唯を見て、澪は頬杖を突きながらため息をついた。

134: 2012/04/26(木) 00:16:06 ID:QCvvXvzA0
翌日 秋山探偵事務所

澪唯「おー……」

机の上にずらりと並べられたお菓子を眺めて、二人は感嘆の声を上げた。どう見てもそこらで売っているようなお菓子ではない。

紬「紅茶も持って来たの!」

唯「わぁ~!」

紬はティーセットをお菓子の皿の横に置いた。これもただの代物ではないのだろう。唯は机の上を見て、目を輝かせた。

唯「食べてもいい!?」

唯は体をうずうずさせて、今か今かと待ちわびていた。

紬「どうぞ、召し上がれ!」

唯「いただきまーす!」

唯は近くにあったクッキーを手に取り、それを口にした。

唯「おいし~!」

澪「本当だ……おいしい……!」

紬「よかった」

紬は穏やかに微笑みながら、カップに紅茶を注いだ。唯と比べて手際がよかった。そして、二人の前にカップが並べられた。

135: 2012/04/26(木) 00:18:32 ID:QCvvXvzA0
紬「お茶入れたよ」

澪「ありがとう、ムギ」

澪は慎重にカップを持った。近くで見ると、やはりどこか高級感に包まれている気がした。澪は思いきって一口飲んでみた。

澪「おいしい……」

澪はうっとりとした表情で至福のひと時に浸った。日頃の疲れを忘れられる瞬間だった。

紬「うん、おいしい……」

紬も紅茶を飲み、微笑みながら左手を頬に添えていた。事務所には緩やかなティータイムが流れていた。

コンコン

澪唯紬「!!!」

突如、事務所にノックが鳴った。澪は思わず立ち上がり、改めて机の上を見渡した。もし、来たのが依頼人ならば、こんな有様を見せるのはみっともない。
しかし、紬は既に事務所の扉へと向かっていた。

紬「はーい」

ガチャ

紬「はい?」

純「こんにちはーっ!」

純「……あれ?」

現れたのは純だった。しかし、純は見慣れない人物を見て少し戸惑った。

136: 2012/04/26(木) 00:30:51 ID:QCvvXvzA0
紬「?」

梓「あのー……ここって、秋山探偵事務所ですよね……?」

純の後ろに立っていた梓も姿を現した。

紬「そうですけど……」

唯「純ちゃん! 梓ちゃん!」

純「あっ! 唯さん!」

唯が三人の元に駆けつけた。紬は梓と純を見つめてから尋ねた。

紬「この子たちは唯ちゃんのお友達なの?」

澪「以前、この二人の依頼を解決したんだ」

澪も駆けつけて、紬に説明した。

紬「へぇ~!」

紬は感心したように感嘆の声を漏らした。

純「この人は……?」

唯「新しい助手のムギちゃんだよ!」

紬「どうも、初めまして、琴吹紬といいます」

梓「は、初めまして……!」

純「初めまして……!」

梓と純は紬の畏まった態度に少し緊張した。

137: 2012/04/28(土) 01:00:21 ID:hpl/xT3c0
澪「ところで、今日はどういったご用件で?」

そう言った直後に、梓と純が黒いケースを背負っているのに気づいた。

梓「さっき、ライブハウスに行ってたんです」

純「で、その帰りにここに寄ったわけです」

澪「まったく……」

屈託なくの無い笑顔を浮かべながら話す純を見て、澪はため息をついた。

梓「すいません……迷惑ですよね……」

澪「いやいや! そういう事じゃないんだ!」

唯「まぁ、お茶でも飲んでいきなよ!」

純「やった!」

唯は一歩後退し、手招きして梓と純を呼んだ。

梓「いいんですか?」

唯「うん!」

紬「じゃあ、私お茶入れるね!」

紬はにっこりと微笑んでから、準備にかかった。心なしか、その後ろ姿は嬉しそうに見えた。

澪「…………」

唯と梓と純の三人はソファーに向かい、澪はその場に立ち尽くした。

138: 2012/04/28(土) 01:03:52 ID:hpl/xT3c0
唯「ねぇねぇ、二人が持ってるのってギターなの?」

梓「純のはベースで私のがギターですよ」

唯「へぇー……!」

唯は顔を輝かせてケースに入ったギターとベースを見つめた。純は唯がケースを見つめているのに気づいた。

純「……見てみますか?」

唯「えっ! いいの!?」

純「はい、どうぞ」

唯「わっ! 意外と重いんだね」

梓「私のギターは純のベースよりは軽いですよ」

唯「本当だ! ちょっと小さいね」

唯「ありがとう、かっこいいね!」

梓「そうですか?」

紬「お茶入れたわよ~」

梓純「ありがとうございます」

紬「どうぞ、ゆっくりしていってね」

梓純「い、いただきます……」

二人はカップを手に取り、紅茶を飲んだ。

梓純「(おいしい……!! おいしすぎる……!!)」

梓は思わずカップの中身を覗き込んだ。よく見てみると、どこか高級感に満ちている気がした。隣の純を見ると、雷に撃たれたような表情を浮かべて固まっていた。

139: 2012/04/28(土) 01:10:55 ID:hpl/xT3c0
梓は顔を上げて紬の顔を見た。綺麗で長いブロンドヘアー、どこか気品のある雰囲気。梓はいつの間にか見入ってしまっていた。

紬「何か顔に付いてる?」

梓「あっ! いえ! 何でもありません……」

梓はその場を誤魔化すようにカップに口をつけた。顔が紅潮しているのがわかった。

梓「(綺麗な人だなぁー……)」

唯「ところで、さっき言ってたライブハウスって何?」

澪「ライブハウスというのはだな……」

澪「ロックやジャズの演奏が生で聞ける施設なんだ!」

気を取り直した澪がみんなの元にやってきて力強く説明した。

梓「澪さん、音楽やったことあるんですか!?」

梓は新しい玩具を買ってもらった子どものような目で澪を見つめた。梓の眩しい視線に澪はたじろいだ。

澪「い、いや……やったことはないかな……」

純「じゃあ、音楽に興味ありますか?」

澪「うん、音楽は好きかな」

唯「私はよくわかんないや」

唯は頭を掻きながら笑ってみた。

140: 2012/04/28(土) 01:33:12 ID:hpl/xT3c0
紬「私も音楽は好きかな」

純「ムギさんは何か音楽やったことあるんですか?」

紬「私は4歳の頃からピアノをやっているわ」

唯純「おぉー……」

梓「(やっぱりお嬢様なのかな……)」

純「音楽に興味あるなら、CD貸しますよ!」

澪「え? じゃあ、借りようかな……」

澪がCDケースに手を伸ばしたその時

梓「!!」ピクッ

突然、梓の中で何かが閃いた。梓の好奇心がどんどんと湧き上がってきた。
これならいける! 梓は直感的にそう思った。

梓「澪さん!」

梓は勢いよく立ち上がって澪の顔を見た。

澪「どうしたの?」

いきなり梓が立ち上がったので、澪は少し体を仰け反らした。

澪「音楽やりませんか!?」

澪「音楽……?」

梓「そうです! 音楽です! バンドです!」

梓のテンションは最高潮に達した。あまりの出来事に隣に座っている純も呆然と梓を見上げている。

141: 2012/04/28(土) 01:47:31 ID:hpl/xT3c0
澪「いや……楽器なんて殆ど触ったことないし……」

梓「初めは誰でも同じです!」

澪「で、でも……他のメンバーとかが……」

梓「大丈夫です! 初めは純と二人でどこかに入ろうと思ってたんですけど、純が忙しくなってきて、今は私一人です!」

澪「いや、でも……ほらっ! 仕事があるから!」

梓「趣味程度でも構わないですから!」

澪は退路を失ってしまった。なぜ、こんなにも避けようとするのか、自分でもよくわからなかった。

唯「面白そう!」

紬「楽しそう~!」

澪「え?」

唯と紬は興味ありげに梓を見つめた。澪はまた自分だけが取り残されている気がした。

唯「私も何かやってみたいな~」

梓「やりましょう、唯さん!」

紬「私もバンドやってみたい!」

梓「お願いします!」

梓は二人に頭を下げた。

144: 2012/04/28(土) 14:53:12 ID:hpl/xT3c0
梓「まぁ、三人でもバンドは組めますが……」

梓「あと、一人欲しいですね……」

そう言って梓は澪を見つめた。唯と紬もそれに続き、先程まで梓を見上げていた純までもが澪を見つめていた。澪は自分に視線が集まっているのに気づいた。澪はため息をつきながら、決心した。

澪「わかったよ、やるよ……」

唯「やったー! バンド結成だね!」

唯は両腕を上げて喜んだ。紬と梓も微笑んでいる。澪はそんな様子を眺めている純に声をかけた。

澪「純ちゃんは入らないの?」

純「私は少し仕事の方が忙しくなってきたので」

澪「そっか……」

しかし、純もどこか嬉しそうな表情だった。

梓「それじゃあ、楽器を決めましょうか!」

紬「はい! 私、キーボードやりたいです!」バッ

紬が素早く右手を上げた。

梓「そうですね、それでいいと思います!」

紬「やった!」

紬は小さくガッツポーズした。

梓「澪さんはギターなんてどうですか?」

梓は笑顔で澪に提案した。しかし、澪の表情は冴えなかった。

145: 2012/04/28(土) 15:07:49 ID:hpl/xT3c0
澪「ギターは目立って恥ずかしいから嫌だ……」

純「じゃあ、ベースなんてどうですか?」

澪「ベースか……」

澪はベースを弾いている自分の姿を想像してみた。想像の中の自分は決して目立ちすぎず、だからといって他の楽器の音に埋れていなかった。それは澪にとって、理想的な光景だった。

澪「ベースならできるかも……」

梓「じゃあ、澪さんはベースですね」

唯「私はどうしようかなぁー……」

梓「あとは……ギターとドラムぐらいですかね……」

唯「うーん……ドラムかぁ……」

唯はドラムを叩いている自分の姿を想像してみた。スティックを持って不安気な表情でオロオロしていた。

唯「たくさんのこと同時にできないや」

梓「じゃあ、唯さんはギターですね」

梓「今度、みんなで楽器を見に行きませんか?」

唯「うん! 行こう、行こう!」

紬「楽しみ~♪」

盛り上がっている四人を見て、大変な事になってしまった、と澪は思った。その反面、新しい趣味を始めるのも悪くないとも思った。

147: 2012/04/29(日) 03:12:10 ID:Z6.IBxwA0
日曜日 楽器店

澪唯「おぉー……!!」

至る所に大量の楽器が並べられていた。音楽好きには堪らない場所なのだろう。唯は目を丸くして辺りを見渡していた。

梓「まずはベースから見てみましょうか」

一同はベースのコーナーに着いた。様々な種類のベースが置かれていた。

純「これなんてどうですか?」

純は黒色のベースを指差した。そのベースを見た澪は戸惑いながら頬を掻いた。

澪「実は、私左利きなんだ……」

純「えぇっ!?」

梓「そうだったんですか?」

唯「左利きだと何かあるの?」

左利きに大きな反応をする二人に唯が不思議そうに尋ねた。

梓「左利き用の楽器はあまり売ってないんです」

澪「ハハ……どうせ私は左利きだから……」

澪は魂の抜けたように自虐的に呟いた。

148: 2012/04/29(日) 03:15:47 ID:Z6.IBxwA0
紬「あ! あそこにレフティーフェアっていうのがあるよ!」

澪「え?」

紬が指差した方を見ると、大きなポップが見えた。それを見た梓の顔が見る見る明るくなった。

梓「いってみましょう!」

レフティーフェア専用のブースに着くと、澪の落ち込んでいた表情も輝きだした。

澪「おぉ……! 左利きでも演奏できる楽器が……!」

澪はキョロキョロと辺りを見渡した。すると、あるベースが目に留まった。

澪「(何だろう……あのベースが気になる……)」

澪はそろそろとそのベースに近づいた。何かを直感的に感じた。

澪「綺麗だ……」

澪は思わず口に出してしまった。それほどにこのベースに見惚れていた。

純「そのベースがいいんですか?」

澪「う、うん……」

梓「じゃあ、決まりですね」

紬「よかったね、澪ちゃん!」

澪「ありがとう……」

149: 2012/04/29(日) 03:18:05 ID:Z6.IBxwA0
梓「次は、唯さんのギターですね」

唯「すごーい! ベースよりも並んでるよ!」

膨大な数のギターに思わず唯は立ち止まった。梓を見ると、やはりどこか嬉しそうだった。

唯「う~ん……何か選ぶ基準とかあるのかなぁ……」

梓「もちろん、ありますよ!」

梓「音色や重さやネックの形、太さも色々ありますから」

唯「ふーん……」

梓の話す、どの言葉も唯のフィルターにはかからずに通り過ぎた。

唯「あっ! これ可愛い~!」

唯は素早く目に留まったギターの前で屈んだ。純が価格を見てギョッとした。

純「これ、25万円もしますよ!」

唯「えぇっ!?」

唯「そんなお金持ってないよ……」

紬「どうかしたの?」

澪と一緒にレジに行っていた紬が戻ってきた。落ち込んでいる唯の表情を見て心配そうな様子だった。

150: 2012/04/29(日) 03:20:59 ID:Z6.IBxwA0
梓「このギターがいいみたいなんですけど、お金が足りなくて……」

紬「まぁ……」

短くそう言うと、紬は考え込んだ。梓と純はそんな紬を不思議そうに見つめた。

紬「ちょっと待っててね」

そう言って、紬はその場を後にした。

純「どうしたのかな……」

梓「さぁ……」

二人はその背中を見つめることしかできなかった。梓が下を見ると、唯はまだギターをじっと見つめていた。

~~~~~

紬「待たせてごめんね」

純「あっ! ムギさん!」

紬「そのギター5万円で売ってくれるって!」

梓「えっ!?」

唯「何!? 何をやったの!?」バッ

唯は興奮して立ち上がった。

151: 2012/04/29(日) 03:24:33 ID:Z6.IBxwA0
紬「実はこの店、ウチの系列らしくて」

梓純「へ?」

梓と純は紬が何を言ってるのかが理解できなかった。もし、言葉をそのままの意味で解釈すれば、目の前のこの女性は想像もつかないようなお金持ちだ。

唯「ムギちゃんありがとう~! 残りのお金は必ず返すから!」

紬「ううん、気にしないで」

唯「ふふっ!」

唯は改めてギターを見つめた。この目の前のギターが自分の物になると思うと胸が踊った。

~~~~~

唯「ギターだーっ!」

店を出た直後、唯は両腕でギターを空に差し出した。他の四人が微笑ましげに唯の背中を見つめた。
外は日も沈み、夜に差し掛かろうとしていた。

澪「でも、何だか緊張するな……」

梓「趣味程度なので緊張しなくても大丈夫ですよ」

純「そうですよ、澪さん!」

純「わからないことがあるなら、私が教えますから!」

澪「うん、お願いするよ」

唯「梓ちゃん、わからないことだらけだけど、よろしくお願いします!」

梓「はいっ!」

梓は目を輝かせながら答えた。

152: 2012/04/29(日) 03:29:15 ID:Z6.IBxwA0
ヴーン ヴーン

突然、携帯電話のバイブレーションの音が響いた。各々が顔を見合わせて、ポケットを弄った。

唯「あ、私だ」

視線が集まる中、唯は携帯電話を開いた。ディスプレイには憂の名前が表示されていた。唯は通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた。

唯「もしもし」

憂『あっ、お姉ちゃん……今どこにいるの……?』

唯「今から帰るところだけど……」

憂『そっか……』

唯は奇妙な違和感を覚えた。何かがおかしい、そう思った。黒い靄のようなものが胸の中に広がっていった。

唯「どうかしたの……?」

唯は声色を変えて静かに尋ねた。すると、少しの間を置いて、震える声が返ってきた。

憂『今……誰かに後ろをつけられているみたいで……』

唯「え……」

それを聞いた唯は携帯電話を片手に呆然とした。

154: 2012/04/30(月) 14:56:24 ID:El9C8kec0
澪は唯の異変にいち早く気づいた。

澪「唯っ! どうしたんだっ!?」

唯「う……憂が今、誰かに跡をつけられてるって……」

梓「!!」ピクッ

唯が話した瞬間、梓が大きく反応した。

澪「私に代わって!」

澪は唯から携帯電話を受け取り、耳に当てた。

澪「もしもし、憂ちゃん!?」

憂『澪さんですか……?』

憂の声は怯えきっていて受話器を通しても、震えている姿が容易に想像できた。その緊張感は澪にも伝わり、周囲に緊迫感をもたらした。

澪「落ち着いて、憂ちゃん……」

澪「今どこにいるの……?」

憂『スーパーで買い物して、その帰宅途中です……』

澪は一旦、携帯電話から意識を遠ざけ、以前に平沢家を訪れた時のことを思い返した。スーパーの場所はしっかりと覚えていた。

155: 2012/04/30(月) 15:00:58 ID:El9C8kec0
澪「わかった! 今からそっちに向かうよ!」

澪「電話を切った後はいつも通り、不自然な動きをしないで家に向かってて!」

憂『わかりました……!』

澪は通話ボタンを押して、携帯電話を呆然としている唯に渡した。

澪「みんなっ! 今から憂ちゃんの所に向かおう!」

澪「憂ちゃんは今もつけられている! 急ごう!」

純と梓を筆頭に一同は駆け出した。澪が後ろを見ると、唯はまだ呆然と立ち尽くしていた。澪は後戻りして唯の手を取った。

澪「唯! 何やってるんだ!」

唯「えっ! あっ……! 急がないと!」

そう言ってから、唯も慌てて三人の背中を追った。慣れないギターを背負っていたので走法は無茶苦茶だった。そして、澪もその後に続いた。

~~~~~

憂「うぅ……」

憂は眉をひそめ、小刻みに震えていた。背中の真ん中辺りに不気味な視線を感じている。振り返って見ても視線の正体はわからなかった。

156: 2012/04/30(月) 15:04:23 ID:El9C8kec0
「おーい!」

憂「あっ……!」

憂は俯けていた顔を上げた。向こうから梓たちがやってきた。

憂「梓ちゃん!」

梓「憂……大丈夫……?」

憂「うん……大丈夫だよ……」

梓は声をひそめながら静かに尋ねた。その意味を察した憂もヒソヒソと答えた。すると、背中に感じていた視線はいつの間にか無くなっていた。

憂「もういなくなったみたい」

梓「ふぅー……よかった……」ペタッ

全身の力が抜けたのか、梓は大きく息を吐きながら、その場に座り込んだ。そんな梓を純が支えて立ち上がらせた。

純「梓、大丈夫?」

梓「うん……」

157: 2012/04/30(月) 15:13:20 ID:El9C8kec0
憂がふと前を見ると、見たことのない女性が立っていた。金髪のその女性は憂と目が合うと前に進み出た。

紬「初めまして、唯ちゃんと一緒に助手をしている琴吹紬です」

憂「あっ! ひょっとして、ムギさんですか?」

憂「お姉ちゃんから話は聞いてます」

紬「そうなんだ」ニコッ

紬は微笑んでから唯の方を見た。唯は澪の横で気まずそうにもじもじしていた。

紬「唯ちゃん?」

澪「ほら、唯」

澪は唯の背中を押して前に差し出した。唯は転びそうになりながら憂の目の前で立ち止まった。憂が唯を見つめると、唯は上目遣いになった。

唯「憂……大丈夫……?」

憂「大丈夫だよ、お姉ちゃん」

憂が唯を安心させるために微笑んでみせた。唯は上目遣いのままそれを見ると目を伏せた。

唯「よかった……」

唯の肩が震えだした。

唯「よかったよぉ~!」

唯は大声で泣き始めた。それを見た憂と澪はたじろいだ。

159: 2012/05/01(火) 21:48:54 ID:w53vSCFM0
憂「お、お姉ちゃん……! どうしたの!?」

唯「憂に何かあったらと思うと……グスッ……心配で……」

憂「…………」

憂「ごめんね……お姉ちゃん……」

憂は笑顔で手を差し出した。唯はきょとんとしてその手を見た。

憂「家に帰ろっか!」

唯「……うん!」

唯は服の袖で涙を拭ってから笑った。


平沢家

唯「はぁー……もうお腹一杯だよー……」

唯は満腹になり、膨れた腹をポンポン叩いた。

紬「おいしかった~……」

澪「ごめんね、また急に押しかけて」

憂「私もご迷惑をおかけしましたから」

そう言って憂は食器を台所へと運んで行った。
あの後、澪と唯と紬は平沢家を訪れ、夕飯をご馳走になった。梓は力が抜けたせいなのか、純に肩を支えられながら帰宅した。

160: 2012/05/01(火) 22:00:13 ID:w53vSCFM0
憂「ふぅー……」

しばらくして一段落着いたのか、憂はリビングにやってきた。

澪「憂ちゃん、さっきの事……いいかな……?」

憂「はい」

澪はテーブルに近づいて両腕を置いた。紬は崩していた姿勢を正し、寝そべっていた唯も起き上がり、憂の顔を見つめた。

澪「ストーカー被害は今日が初めてなの?」

憂「…………」

澪が尋ねた瞬間、憂は唯の顔をちらりと見てから俯いた。そして、数秒の間を空けた後に決意を固めたように顔を上げた。

憂「実は、一週間ぐらい前から毎日……」

澪「その間はどうしてたの? 今日みたいなのは無かった?」

憂「気にしないようにしてたんですけど、今日は今までで一番強い視線を感じて……」

澪「他の人には相談しなかったの……?」

憂「視線を感じるようになって三日目の日に一度警察署に行きました」

憂「けど、梓ちゃんの時みたいにあまり取り合ってくれなくて……」

憂「一人だけ協力してくれるって言ってくれた人がいたんですけど、それだけです……」

憂はテーブルの上に視線を落とした。すると、唯が憂に近づいた。

161: 2012/05/01(火) 22:08:09 ID:w53vSCFM0
唯「憂」

唯が呼びかけると憂は唯の方を見た。唯は強い眼差しで憂を見つめた。その様子を見て紬はまるで二人が双子のように見えた。

唯「どうして私たちに相談してくれなかったの?」

憂「…………」

憂は唯の眼差しに押されて目を逸らした。しかし、唯の眼差しは変わらなかった。

憂「お姉ちゃんに心配かけたくなかったから……」

憂は絞り出すように声を発した。唯は一瞬目を丸くしてから、優しい表情になった。そして、憂に近づいて顔を覗き込んだ。

唯「そんなこと気にしなくていいよ」

唯「悩みごとがあるなら遠慮せずに何でも話してくれればいいんだよ……」

唯「私はいつだって憂の味方だから」

唯「ね……?」

唯は満面の笑みを憂に向けた。憂は驚いたように唯の顔を見たかと思うと、ポロポロと涙をこぼし始めた。

憂「ウッ……グスッ……ごめんね……お姉ちゃん……」

唯「ううん……私も毎日一緒にいるのに気づいてあげられなくてごめんね……」

唯「よしよし……」

唯は目を瞑って憂の頭を撫でた。憂は安心したのか唯に抱きつきながら、しばらく泣き続けた。

162: 2012/05/01(火) 22:15:28 ID:w53vSCFM0
~~~~~

憂「すいません……突然泣きだしたりして……」

澪「ううん、気にしなくていいよ」

憂は目元を赤らめて頭を下げた。

澪「さて、これからどうしようか……」

澪は腕を組んで考え込んだ。澪はこの間の梓の事件を思い出していた。こちらを目掛けて駆けるストーカー。思い出しただけで背筋がぞっとした。

紬「あの……ちょっといいかな……」

唯「どうしたの、ムギちゃん?」

紬「ストーカーを捕まえる方法が思いついたかも……」

澪「えぇっ!?」

唯「聞かせて! ムギちゃん!」

唯はテーブルの向かい側にいる紬に身を乗り出した。紬は三人の顔を見てから頷いた。

紬「あのね……」

163: 2012/05/01(火) 22:20:45 ID:w53vSCFM0
~~~~~

紬「どうかな……」

紬が話し終えると憂は下を向いて俯いた。紬は静かに三人の様子を窺った。

澪「…………」

唯「私はそれでいいよ」

憂「でも、お姉ちゃんが……」

唯「大丈夫だよ!」

唯は乗り気でない憂を制するように強い口調で話した。そのまま唯は澪の顔を見つめた。澪は決断を迫られた。

澪「……わかった、それでいこう」

澪は目を閉じて小さく息を吐いた。唯は大きく頷いてから拳を握りしめた。

澪「明日決行しよう」

164: 2012/05/01(火) 22:38:31 ID:w53vSCFM0
翌日 平沢家

決行当日は雲の無い明るい夕方だった。オレンジ色の夕焼けがその日の終わりを告げ、夜に近づこうとしていた。
一同はテーブルを囲うようにして座っていた。

澪「一応持ってきたよ」

澪は机の上に鞄を置いて、中から防犯グッズを取り出した。

唯「私も準備できたよ!」

唯は憂の隣に座った。唯は髪をリボンで結び、ポニーテールにしていた。その姿は憂と瓜二つだった。梓と純は口を開けて二つの顔を見比べた。

純「憂と唯さんって本当に双子じゃないんですか?」

梓「全然見分けがつかない……!」

紬「これで準備万端ね!」

澪「あぁ……!」

今日は唯と紬だけでなく澪も気合が入っていた。ふと憂の顔を見ると、笑っていた。やはり、泣いている憂の姿は見たくない。

澪「よし、いこう!」

唯紬「うんっ!」

澪が立ち上がると他の全員も立ち上がった。表情は真剣そのものだった。

166: 2012/05/03(木) 00:59:15 ID:Gy64Rq7I0
憂「はい、お姉ちゃん」

憂が唯に買い物袋を手渡した。唯は買い物袋を受け取り、憂の顔を見つめた。

唯「じゃあ、行ってくるね!」

憂「気をつけてね! お姉ちゃん!」

唯「うん!」

憂に扮した唯は手を振って自宅を出た。澪はその背中が見えなくなってから振り向いた。

澪「よし、定位置に行こう」

紬が先に頷き、他のメンバーもそれに続いた。

憂がストーカーの視線を感じるのは決まって帰宅途中だった。
今回は憂に変装した唯が憂の代わりに買い物に出かけ、帰りにストーカーを引きつける作戦だった。そして、澪と紬が唯の跡をつけるストーカーに声を掛ける。梓と純には緊急事態に備えて憂と一緒に近辺に待機してもらった。

澪は紬と一緒に待機場所で待ち構えた。紬は真剣な表情で身を潜めながら道路の先を見ていた。澪も同様に静観していた。辺りが静かになると、自分の動悸が聞こえた。そんな中で澪にある考えが浮かんだ。

澪「ムギ」

紬「どうしたの、澪ちゃん?」

紬は後ろを振り返って尋ねた。

澪「今回はムギがストーカーに声を掛けてみないか?」

167: 2012/05/03(木) 01:05:50 ID:Gy64Rq7I0
紬「えっ……でも、澪ちゃんが声を掛けた方がいいんじゃ……」

澪「今回の作戦はムギが考えただろ? だから、ムギに初仕事を頼もうかなって思って……」

紬「…………」パアァッ

紬は頬を赤らめて澪の顔を見た。そして、見る見ると顔が輝きだした。

紬「本当にいいの……!?」

澪「うん、せっかくだからムギにやってほしいんだ」

紬「……わかった」

紬「私に任せて! 澪ちゃん!」

紬は鼻息を出して遺憾無く意気込みを表した。澪はやる気に燃える紬を見て安心した。

~~~~~

唯は買い物を終えて帰宅していた。スーパーを出て、しばらくしてから視線を感じていた。しかし、唯は振り向かなかった。唯はそのまま歩き続けた。唯は住宅街に入った。

数分が経過し、まもなく澪たちが待機している交差点に差し掛かろうとしていた。唯は不自然に思われないように携帯電話を取り出して、メールを送信した。そして、携帯電話を元のポケットにしまった。
交差点に差し掛かり、横目でちらりと左の道路を見た。すると、電柱の影で澪と紬が立っていた。唯は何事も無かったかのように交差点を渡り切った。

澪「ムギ……!」

澪が小声で呼びかけると、紬は道路を見つめながら黙って頷いた。その直後に、不審な動きを見せる小柄な男が現れた。

168: 2012/05/03(木) 01:09:02 ID:Gy64Rq7I0
澪「(あれか……!)」

男は前方の唯をまじまじと見ていた。毎日憂をつけているストーカーに間違いなかった。
紬が早歩きでストーカーに接近し、肩を叩いた。

紬「すいませんっ!」

紬は物怖じしない堂々とした態度でストーカーに声を掛けた。ストーカーはギョッとしてその場を飛び退いた。澪はそれを見て梓の時のストーカーを思い出した。

紬「あの女の子の跡をつけてますね?」

ス「なっ……なんのことだよ!」

紬「とぼけても無駄です!」

ス「俺は散歩していただけだ!」

ストーカーが反論している間に唯がやってきた。

唯「どうして私をストーカーするんですか!」

先程まで跡をつけていた女性が目の前に現れ、ストーカーは狼狽え、あらぬ方向を見た。

ス「しっ……知らない! 俺はアンタのことなんか知らないぞっ!」

ストーカーは大声を出して言い切り、その場を立ち去ろうとしたその時

「待ってください!」

ス「!!!!」

前方に女性が立ちふさがっていた。ストーカーはあんぐりと口を開けて固まった。

169: 2012/05/03(木) 01:40:59 ID:Gy64Rq7I0
ス「う……憂さん……!」

ス「どどっ……どうして二人も……!」

ストーカーは首を左右に振って瓜二つの顔を指差した。そして、力無くその場に崩れ落ちた。

唯憂「どうしてストーカーするんですか!!」

ス「い、いや……! 俺は……!」

ストーカーは両手を振って弁明を試みたが、鬼気迫る二人の顔を見て項垂れた。憂の両隣に立っていた梓と純は腕を組みながら、ふんと息を吐いた。

ストーカーは自供を始めた。ストーカーの正体はこの近隣に住んでいる大学生だった。買い物をしていた憂を見て、一目惚れした。しかし、声を掛ける勇気は無かった。結果、憂を見つめる事しかできず、ストーカーになってしまった、との事だった。

よく見ると、気弱そうな男性でこの後の自分の処遇を案じているようだった。憂は項垂れるストーカーに話しかけた。

憂「もうこんなことはしませんか?」

ス「はい、もうこんな事は二度としません……」

ストーカーはビクビクと怯えながら更に頭を深く下げた。

憂「わかりました……」

憂「あなたを許します」

ストーカーは目を丸くして憂の顔を見上げた。

ス「本当にすいませんでした……」

それ以上何も言わない一同を尻目にストーカーはそそくさと去って行った。ストーカーの背中を見つめていた澪が振り返って憂に尋ねた。

170: 2012/05/03(木) 01:49:40 ID:Gy64Rq7I0
純「憂はこれでよかったの?」

憂「うん、見ていたら何だかかわいそうになって……」

純「そっか……」

純は防犯グッズである筒を下に降ろした。それを聞いて澪は憂の気持ちがわかったような気がした。

紬「ふぅー……緊張したー……」

紬は肩を降ろして大きくため息をついた。

唯「ムギちゃん、お疲れ様」

澪「お疲れ、ムギ」

二人は紬の肩を掴んで微笑みかけた。それを見て紬も二人に微笑んだ。

紬「うん! できてよかった!」

梓「どうかしたんですか?」

唯「今日はムギちゃんの初仕事の日なんだよ!」

憂「だったらお祝いしないとね!」

唯「じゃあ、みんなでお祝いしよう!」

澪「……そうだな!」

澪も紬の快挙を祝福したかった。純が遠慮がちに唯に歩み寄った。

純「私たちもお祝いしていいですか?」

唯「もちろん!」

唯が快諾すると、純は梓と顔を見合わせた。

純「じゃあ、行こっか! 梓!」

梓「うん!」

一同は全員笑顔を浮かべながら平沢家へ向かった。

172: 2012/05/03(木) 14:07:14 ID:Gy64Rq7I0
ある日の秋山探偵事務所

澪はベースを弾いていた。唯もギターを弾いていた。紬は紅茶を飲みながら、その二人を楽しそうに眺めていた。
この事務所は暇を持て余していた。退屈になると梓に貰った趣味で時間を潰していた。紬はアンプを持ってきていた。澪と唯は実際にアンプに繋いで演奏してみる事にした。

澪「これでいいのかな……」

紬「うん、バッチリ!」

澪はコードと繋がっているベースを心配そうに見つめた。澪とは対照的に唯は興味津々だった。

唯「これで音が大きくなるんだよね!」

紬「うん! じゃあ、二人とも弾いてみて!」バッ

紬は元気良く澪と唯に両腕を広げた。唯はピックを頭上に翳した。一瞬、ピックがキラリと輝いた。

ギュイイイイィン

唯「かっこいい……!」

唯は感嘆の声を上げた。まるでギターに命が吹き込まれたようだと思った。

澪「私もやってみようかな……」

澪はベースを構えた。そして、指を動かした。

ボン ボボン

澪「すごい……!」

澪は感動して紬の顔を見た。紬も嬉しそうに微笑んでいた。

173: 2012/05/03(木) 14:10:52 ID:Gy64Rq7I0
紬「いよいよスタートね!」

澪「うん!」

唯「まだ全然弾けないけどこれからだね!」

そう言って唯はアンプに近づいてコードに手をかけた。そして、コードを引き抜いた瞬間

ギイイーィン!!

想像を絶するようなけたたましい音が事務所に鳴った。唯は驚いて後ろにひっくり返り、澪は思考が停止した。

唯「な、何……今の……?」

澪「」

紬「多分、ボリュームを下げる前にコードを抜いたから……」

唯「そんな事が……」

唯はへなへなとソファーに倒れこんだ。

ガチャッ

澪唯紬「!!!」

突然、事務所の扉が開いた。三人が一斉に扉の方を向いた。扉を開けたのは髪の長い眼鏡をかけた女性だった。

「うるせぇーんだよお前らァッ!!!」

今度は女性の大声が事務所に響いた。三人は恐怖に慄いた。事務所に静寂が流れた。

176: 2012/05/04(金) 01:30:29 ID:QaVMqzIk0
「何ジャカジャカジャカジャカ鳴らしてんだよーっ!!」

澪「さ、さわ子さん……!」

澪は顔を青ざめ、まるで般若のような形相のさわ子の名を呼んだ。

さわ子「あら? ここって探偵事務所じゃなかったっけ?」

先程とは打って変わった様子で澪のベースを指差した。澪も思わず自分のベースを見つめた。

澪「こ、これですか……?」

さわ子「あら、唯ちゃんギターをやってるの?」

唯「う、うん……」

唯は激しい動悸を抑えるように両手を胸に当てた。

さわ子「あなたは? 新しい助手?」

紬「は、はいっ! 琴吹紬です!」

さわ子「そう。私はこの建物の三階に住んでいるオーナーの山中さわ子よ。よろしくね!」

さわ子「それにしても、ギターかぁ……懐かしいわ……」

唯「さわちゃんギターやってたの?」

さわ子「えぇ、高校生の時にね」

唯「じゃあ、ちょっと弾いてみてよ!」

唯は興味が湧いたのでギターをさわ子に手渡した。受け取った瞬間、さわ子の目つきが変わった。

177: 2012/05/04(金) 01:32:38 ID:QaVMqzIk0
さわ子「しゃーねーなー……」

澪「え……?」

突然のさわ子の変貌に澪が何かを感じた瞬間、さわ子の両手が高速で動いた。

ピ口リロピ口リロピ口リロ

紬「は、速い……!」

澪「え、ええっ!?」

三人はさわ子の演奏に驚愕した。ヒートアップしたさわ子はギターを目の前まで持ち上げた。

ギュイイイイイイイイィン

澪「は、歯ギター!?」

唯「ギー太!」バッ

さわ子「はっ……!?」

唯は声を上げながらさわ子に飛びついた。腕を掴まれたさわ子はそこで我に返った。

紬「唯ちゃん、ギー太って何?」

唯「このギターの名前だよ……」

澪「(ギターに名前つけるんだ……)」

唯は目に涙を浮かべながらギターを抱きしめた。澪はため息をついてからさわ子を見た。

178: 2012/05/04(金) 01:37:42 ID:QaVMqzIk0
澪「すごかったですね、さわ子さん……」

さわ子「えぇ、理由は教えられないけど熱中していたからね」

さわ子「で、あなたたちはバンドなんて組んでどうしたの?」

澪「あ、時間があるので最近始めた趣味をしようかなーなんて……」

澪は指を弄りながら独り言のように呟いた。

さわ子「えぇっ!? ダラダラとやるだけで終わらせるのっ!?」

澪「いや……でも……」

さわ子「せっかく、楽器も買ったんだし本気でやりなさい! 私も教えるから!」

紬「本当ですかっ!?」

紬が目を輝かせて尋ねた。その後ろで唯も目を輝かせていた。

さわ子「もちろんっ!」

唯紬「やったーっ!!」

澪「そんなこと勝手に……」

二人は喜びのあまりその場で飛び跳ねた。話が勝手に進んでいくので澪は腕を彷徨わせた。

179: 2012/05/04(金) 01:41:22 ID:QaVMqzIk0
さわ子「あなたたちいつも依頼が無くて暇なんでしょ? だったら教えてあげるわよ!」

澪「うっ……」

悔しいことだが反論できなかった。澪は胸に槍を突き刺された気分になった。

さわ子「まずは衣装からね!」バッ

さわ子はどこからともなく衣装を取り出した。そして、不気味な笑みを浮かべながら、ジリジリと澪に詰め寄った。

さわ子「ウェヒヒヒヒ……!」

澪「ひっ!?」

さわ子は澪に襲いかかった。澪は恐怖のあまり身動きがとれずすぐに捕まってしまった。

ガチャ

純「打ち合わせに!」

純「来ました……」

事務所に入ってきたのは純と梓だった。しかし、上半身が下着姿の澪とそれを襲うさわ子を見て、二人は顔を真っ青にした。

純「えーと……間違えましたっ!」

バタンッ

澪「間違ってないよっ!」

事務所には澪の叫び声が虚しく木霊した。

180: 2012/05/04(金) 01:44:37 ID:QaVMqzIk0
~~~~~

純「ほんと、驚きましたよ」

紬「ごめんね、驚かせちゃって」

紬が非礼を詫びながら二人にティーカップを並べた。

梓「どうもすいません」

さわ子はあの後、即刻事務所を追い出された。

澪「……今日も遊びに来たの?」

澪は相変わらず、頬杖をつきながら純に尋ねた。それに純は笑顔で答えた。

純「違いますよ! ミーティングですよ!」

純「そうだよね、梓?」

梓「う、うん……」

梓はその場をごまかすために紅茶を一口啜った。

澪「ミーティング……」

紬「そうだっ! 二人共、早速純ちゃんと梓ちゃんに教えてもらったら?」

唯「そうだね! そうしようよ、澪ちゃん!」

澪「う、うん……」

純「何でも教えますよ!」

澪は自分の机の上に置いておいたベースを取りに向かった。

181: 2012/05/04(金) 01:52:09 ID:QaVMqzIk0
その時、背後からこの建物の階段を登る音が聞こえた。他のメンバーも扉の向こうを見つめた。すると、大きな叫び声が聞こえた。

「あきやまーっ! ここにいるのかーっ!?」

澪「えっ……」

梓「澪さんのことですよね……?」

梓が不安そうに澪の顔を見た。澪は黙って何度も頷いた。

紬「今度は何かしら……」

声はだんだんと大きくなり、明らかに近づいている。
紬は扉へと向かった。四人は息を呑んで紬の背中を見つめた。

ガチャッ

「秋山ー!秋山ってやつはいるかー!?」

紬がドアノブに触れる前に扉が開いた。カチューシャを着けた女性警官が中に入ってきた。紬は口元に手を当てながら、傍に退いた。女性警官は真っ直ぐに澪の元にやってきた。

澪「ど、どうしたんですか……?」

「秋山とかいう探偵はどこだっ!?」

澪「私ですけど……」

「へ?」

「お、女……?」

澪がおずおずと答えると、女性警官は目をまん丸にして動かなくなった。

184: 2012/05/06(日) 12:11:43 ID:IysXQQ0Y0
突然、事務所に入って高圧的な態度を取り、勝手に目を丸くして動かなくなる図々しさに澪はムッとした。

澪「どこのどなたですか?」

律「私は警察官の田井中律!」

律は警察手帳を澪に突きつけた。澪は律の勢いに押されて、一歩後退した。

唯紬「警官……?」

澪「警官が何の用で……」

律「今日来た理由はお前に会いに来たんだっ!」

律「……ところで名前は?」

澪「秋山澪……」

律「そっ、秋山澪さんに会いに来たって訳ですよ」

澪「どうして私に……」

澪は上から下まで律を見た。こんな声の大きい警察帽子も被っていないような大雑把な警察がどんな理由で来たのかはさっぱり見当がつかなかった。

律「えー会いに来た理由は……」

律「平沢憂ちゃんって知ってるだろ?」

澪「う、うん……」

律「この間、私の務めている署でその子からストーカー被害の相談があったんだ」

澪「!!」

澪はドキリとした。律の肩越しに唯を見ると唯は目を丸くしていた。

律「で、大体想像がつくように警察は取り合わなかった」

律「けど、私は個人的に憂ちゃんの相談に乗った」

律「相談を受けた後にストーカー対策についてあれこれやったんだ」

律「そして先日、憂ちゃんに連絡してみると、解決したって言うから驚いたんだ」

187: 2012/05/06(日) 15:51:27 ID:IysXQQ0Y0
~~~~~

律『もしもし、憂ちゃん?』

憂『律さん? どうしたんですか?』

律『ストーカー対策の作戦思いついたんだけどさっ!』

憂『あっ!』

律『どうしたの、憂ちゃん?』

憂『すいません……連絡するの忘れていました……』

憂『もう解決したんです……』

律『へ?』

憂『私の姉が務めている探偵事務所が解決してくれました』

律『あ、あぁ……そうなんだ……』

律『いやぁー! よかった、よかった!』

憂『ご迷惑お掛けして申し訳ございません……』

律『いや、いいんだよ! 解決したならそれで!』

憂『ありがとうございました、律さん!』

律『うん、これからも気をつけてね!』

憂『はい、それじゃあ……』

律『あ、そうだっ!』

律『その探偵事務所の名前教えてくれない?』

憂『名前ですか? “秋山探偵事務所”ですよ』

律『秋山探偵事務所……』

188: 2012/05/06(日) 16:07:15 ID:IysXQQ0Y0
~~~~~

律「それから憂ちゃんにこの事務所のことを教えてもらってここに来たんだ」

律「どんな奴が事件を解決したのか気になってさ」

律「まぁ、女だとは思ってなかったんだけどな!」

澪「…………」

律は言い終えてから腕を組んだ。澪は黙ってそれを見ていた。梓と純はハラハラしたように澪と律を見つめていた。

律がふと横を見るとベースが目に留まった。

律「あれ? ここって探偵事務所だよな?」

律「何でベースがあるんだ?」

律がベースを指差すと澪は再びドキリとした。理由は定かではないが、律に欠点を指摘されるのはどこか不愉快だった。

唯「私たちバンド組んでるんだ!」

律「バンド?」

唯「うん!」

唯は両腕を広げて嬉しそうに言った。

律「へぇー……私も昔ドラムやってたんだ」

澪紬梓純「!!!!」

唯以外の四人が“ドラム”の言葉に大きく反応した。反応は律にも伝わったようだった。

189: 2012/05/06(日) 16:14:25 ID:IysXQQ0Y0
律「ど、どうしたんだよ……」

梓「実はウチのバンド、ドラムがいなくて……」

律「え?」

梓「だからその……ドラムをやってくれる人がいないかなぁ……なんて……」

律「あー……」

律は少し困った表情で頭を掻いた。澪は複雑な心境だった。

律「ごめん、できるかわからない……」

律「また考えとくよ!」

梓「そうですか……」

梓は少し落胆したようだった。澪は残念だったのか自分でも判断できなかった。

律「いてっ!」

紬「どうしたの?」

律「いやー今朝ドジ踏んで紙で指切っちゃってさ……」

紬「まぁ!」

律が人差し指を見せると薄っすらと傷口が見えた。

澪「うわああああぁっ!」

190: 2012/05/06(日) 16:20:33 ID:IysXQQ0Y0
律「え?」

澪は突然大きな声を上げてその場にしゃがみこんだ。一同は呆然として机の影に姿を潜めている澪の方を見た。唯が心配そうに駆け寄った。

唯「どうしたの、澪ちゃん?」

澪「痛い話はダメなんだよぅ~……」

澪は涙目で答えた。ブルブルと震えている澪を見て、律はあるアイデアが閃いた。律は澪と唯の元へ歩いた。

律は震えている澪の正面にしゃがみこんで指を差し出した。

律「あーっ!? 指から血が出てきたーっ!」

澪「ひっ……!」

律「うわーっ! 大変だぁーっ!」

澪「ひいいいぃっ!!」

律「血がドバァーっと! 失血氏しちゃうよーっ!」

澪「っ……!!」

プツンッ

澪の恐怖が限界点を大きく超えた。澪の中で何かが音を立てて切れた。

澪は顔を俯けたまま静かに立ち上がった。律はいきなり立ち上がった澪を呆然と見上げた。澪の顔の様子は前髪で隠れて窺えなかった。澪は無意識の間に拳を握り締めていた。そして、握り締めた拳を頭上へと翳した。律の笑顔が引きつった物に変わった。そして、澪は全力で拳を振り下ろした。

191: 2012/05/06(日) 16:27:48 ID:IysXQQ0Y0
ゴンッ!

律「あたっ!」

鈍い音が事務所に響いた。

澪「はっ……!」

澪は我に返って自らの拳を見つめた。下を見ると律が頭を押さえて蹲っていた。

澪「あ、あの……」

律「…………」

澪「だ、大丈夫ですか?」

澪は思わず辺りを見渡した。唯は緊張した面持ちで澪を見つめ返した。紬は口元を手で覆っている。

澪が律の肩に手を添えようと腕を伸ばした瞬間、律が素早く立ち上がった。立ち上がると同時に澪を指差して睨みつけた。

律「秋山澪! 公務執行妨害罪で逮捕するっ!」

澪「えーーーーーーっ!!!!!」

194: 2012/05/08(火) 00:07:15 ID:omfgoii60
律「署まで来てもらおうか」

澪「そんな……」

唯「澪ちゃん……」

唯が憐れみの込もった瞳で澪の顔を見た。梓と純は身を寄せ合って事の成り行きを見ていた。
澪はこれからの自分を想像すると、ガタガタと体が震え始めた。

律「ぷっ……」

律は放心状態となっている一同を見て吹き出した。

澪「え……?」

律「はははははっ! 逮捕なんて嘘だよ、嘘!」

梓「え?」

純「一体どういうことですか?」

律「ジョークだよ、ジョーク!」

いたずらな笑みを浮かべる律を見て澪は口を開けて固まっていた。

律「いやー、あまりにもみんなが信じきってるもんだからどうしようかと思ったよ」

紬「ふぅー……よかったぁー……」

紬は大きく息を吐いて安堵の胸を撫で下ろした。唯もがっくりと肩を落とした。律は嬉しそうに頭を掻いた。

195: 2012/05/08(火) 00:10:04 ID:omfgoii60
律「ドッキリ大成功! なんちゃって!」

突然、律は背後に大きな存在感を感じ取った。その気配は怒りでゆらゆらと揺れているようだった。律が恐る恐る振り返ると、拳を握り締めた澪が立っていた。

律「あ……」

律が恐怖に慄いて小さな声を発した時にはもう拳は振り下ろされていた。

ゴンッ!

紬と梓は思わず目を瞑った。

律「くぅ~っ……!」

澪「ふざけるのもいい加減にしろっ!」

澪は荒い息遣いで律を叱咤した。律はたんこぶでもできたかのように頭を押さえて呻き声を上げた。

コンコン

唯「!!」

事務所の扉からノックの音が鳴った。頭を押さえていた律までもが扉の方を見た。紬が駆け寄って扉を開いた。

ガチャ

「失礼します、こちらの事務所で警官が世話になってませんか?」

赤い眼鏡を掛けた女性警官が入って来た。その警官の顔を見た唯の目の色が素早く変わった。そして、立ち上がって指差した。

唯「あーっ! 」

唯「和ちゃん!!」

196: 2012/05/08(火) 00:12:43 ID:omfgoii60
和「え?」

急に名前を呼ばれた和は少し驚いた。そして、声の出所を見て思わず目を疑った。

和「唯!」

唯「わぁ~、和ちゃん!」

唯は目を輝かせながら近づいて、驚いている和の手を取った。

和「唯はここで働いているの?」

唯「うん! そうだよ!」

和「そう、それならよかった……」

和は唯の笑顔を見て安心した。和は言葉にせずとも、唯の笑顔を見ただけで唯の充実ぶりを悟ることができた。

唯「ところで今日はどうしたの?」

和「私の同僚がこの探偵事務所に行きたいって言ったからパトロール中に立ち寄ってみたんだけど、中々戻って来ないから私も来てみたの」

律「そーっと……」

律は忍足で机の影に隠れようとしていた。その後ろ姿を和は見逃さなかった。

和「あっ! 律!」

律「うっ……!」

律は観念したようにがっくりと項垂れた。和は澪の方へと歩み寄った。

197: 2012/05/08(火) 00:22:29 ID:omfgoii60
和「ごめんなさい……同僚がご迷惑をおかけたしたみたいで……」

澪「いえ、そんな……」

和「あと、唯がお世話になってます」

澪「唯も頑張ってますよ(ママみたいだなぁ……)」

和「そうですか……」

和が振り返って唯を見ると、唯は大層な笑みを浮かべて胸を張った。和はクスッと笑った。

和「ほら、律。そろそろ戻らないと」

律「へーい……」

和が促すと律は力無い足取りで扉へ向かった。

唯「和ちゃん、もう行っちゃうの?」

和「うん、私も仕事だから」

それを聞いた瞬間、唯は自分がもう子どもではないことを痛感した。急に唯は昔に戻りたくなった。いつも和と一緒に笑っていたあの時へ。

和「唯も仕事で忙しいでしょ?」

唯「え、あー……」

唯は返答に困り、紬の方を見た。しかし、紬も苦笑いするしかなかった。梓と純を見ると複雑な表情をして俯くだけだった。

198: 2012/05/08(火) 00:25:09 ID:omfgoii60
律「この探偵事務所バンド組んでるらしいぞー」

澪はギョッとして律の顔を見た。律はやはりいたずらな笑みを浮かべていた。

和「バンド……?」

和「唯、ここ本当に探偵事務所なの……?」

唯「ま、まぁね……ははっ……」

和「まぁ、いいわ……」

和は丁寧に警察帽子を被り直した。唯は急に和が大人に見えた。

和「また、何かありましたら遠慮無くご連絡ください」

和「行くわよ、律」

律「失礼しましたー」

唯「またね……和ちゃん……」

和「うん、また今度どこかに行きましょう」

唯「うん……」

ガチャ

嵐が通り過ぎたように事務所は静まり返った。唯は和に会うことができて嬉しかった。しかし、昔とは違い、気軽にいつでも会える訳では無いとしみじみ思った。

200: 2012/05/08(火) 20:13:12 ID:omfgoii60
澪「ふぅー……」

澪はまるで疲れを吐き出すように声を出してため息をついた。紬がカップに紅茶を注いで澪の顔を窺った。

紬「澪ちゃん、大丈夫?」

澪「何だか疲れたよ……」

純「あっ!」

純が指差した方を見ると、警察帽子が落ちていた。唯は帽子を拾い上げてじっくりと観察した。

唯「和ちゃんは帽子被ってたからあの人の帽子かなぁ……」

紬「多分、すぐに取りに来るんじゃないかな」

唯「そうだね」

唯は警官帽子を机の上に置いた。帽子はほとんど汚れておらず、あまり使われていないようだった。

201: 2012/05/08(火) 20:17:29 ID:omfgoii60
翌日 秋山探偵事務所

唯「暇だねー……」

紬「お茶にする?」

唯「ありがとー……」

澪「暇なのは良いことじゃないか。困っている人がいないってことだ」

唯「でもそれじゃあ、私たちが困るよ?」

澪「…………」

澪はぐうの音も出なかった。気を落ち着かせるために紅茶を一口飲んだ。

コンコン

唯紬「!!」

澪「…………」

澪は頬杖をついて扉を見つめた。澪は既に悪い予感がしていた。いつものように紬が扉へ向かって歩いた。

ガチャ

紬「はい?」

律「あ、あのー……すいません……」

紬「まぁ、どうしたんですか?」

やって来たのは律だった。中にいる澪にもその声は届いていた。

202: 2012/05/08(火) 20:22:01 ID:omfgoii60
律「昨日この事務所に忘れ物をしたかもしれなくて……」

律「警官帽子ありませんでしたか……?」

随分と探したのだろうか、律は涙目になりながら紬に尋ねた。

紬「ありますよ」

律「えっ? 本当に!?」

紬「はい、どうぞ中に入ってください」

律「失礼しまーす」

律は右腕を上げて挨拶しながら事務所に入った。

唯「帽子ってこれ?」

律「そう! それそれっ!」

唯が帽子を手渡すと律は安堵の表情を浮かべた。

律「いやぁー、助かったよ。ありがとう!」

唯「いえいえ」

律「昨日、帽子が無いのに気づいて探してたら和に怒られちゃってさ」

唯「なんで帽子被らないの?」

律「あぁ、私帽子嫌いなんだ」

律「それにこれもつけてるし」

律はそう言いながら親指で頭に着けている黄色のカチューシャを指差した。そして、子どものように微笑んだ。

紬「立ち話も何ですし、お茶でも飲んで行きますか?」

律「え? いいの?」

思わぬ提案に律は上半身を捻って紬の方を見た。澪は小さく呻き声を上げた。理由はわからなかったが、どこか律が苦手だった。昨日の訪問が尾を引いているのかもしれないと思う事にした。

203: 2012/05/08(火) 20:35:31 ID:omfgoii60
~~~~~

とある道

梓「……見つかった?」

純「うーん……今探してる……」

梓と純は住宅街を彷徨っていた。純は眉間に皺を寄せて携帯電話の画面を睨んでいる。そんな純を見て梓はため息をついた。

梓「昨日調べとくって言ってなかった?」

純「…………」

梓の声は純には届いていなかった。梓は再びため息をついて空を見上げた。灰色の雲が空一面を覆っている。今にも雨が降りだすかもしれない。

二人は連休だったので遊びに出かけていた。有名な喫茶店に行こうとの純の誘いに乗ったが、なかなかそれらしい店が見つからなかった。梓は空腹を抑え込むようにお腹をさすった。
ふと、前を見ると、50m程前方に二人の女性が歩いていた。一人は金髪で一際存在感を放っていた。梓がそのまま見ていると、その二人の背後にスピードを落としたワゴン車がジリジリと迫っていた。

梓はピリピリとした嫌な予感がした。

次の瞬間、二人の男が飛び出て二人を車内に連れ去った。

梓「あっ!」

純「え?」

梓は目を丸くして車を指差した。梓は頭をめまぐるしく回転させた。そして、すぐさま純の肩を掴んで叫んだ。

204: 2012/05/08(火) 20:50:56 ID:omfgoii60
梓「純! カメラであの車を撮って!」

純「え? どうしたの?」

梓「いいから早く!」

車は発進していた。純は急いでカメラを起動させた。梓は車と純を交互にせわしなく見た。

純「準備できたよっ!」

純は携帯電話を車に向けた。車はスピードを上げて迫る。梓は身を寄せて息を潜めた。

カシャッ

ワゴン車が横切るのとほぼ同時に撮影ボタンを押した。車は低い音を鳴らして走り去って行った。二人は恐る恐る画面を覗き込むと、車体の後方部分とナンバープレートが鮮明に写っていた。

純「写ってるよ!」

梓「よし!」

純「いきなりどうしたの?」

梓「さっき、私たちの前を歩いていた女の人たちがあの車で誘拐されたの!」

純「えぇっ!?」

梓「どうすればいいんだろう……」

梓は狼狽えながらも懸命に考えた。

純「ここ秋山探偵事務所に近いよ!」

梓「本当に!?」

純「澪さんたちに相談しよう!」

梓「うん!」

二人は事務所へ向けて駆け出した。二人にとって探偵事務所は希望の光だった。

206: 2012/05/10(木) 22:43:29 ID:pkMIrK5k0
秋山探偵事務所

律「その時、弟が声上げて驚いてさ!」

紬「ふふふっ!」

唯「おもしろーい!」

澪「…………」ズズズ

唯と紬と律の三人は会話に花が咲いていた。澪は黙って三人の話を聞いていた。何と無く窓の方を見ると、空は灰色の雲で覆われているようだった。

澪「(雨が降らなければいいけど……)」

澪は憂鬱を晴らすように紅茶を一気に飲み干した。
すると、誰かが階段を上る音が聞こえてきた。音から察するに一人ではなく、かなり急いでいるようだ。三人も扉を見た。

ガチャッ

勢いよく扉が開き、息を切らした梓と純がなだれ込んできた。唯が心配そうに駆け寄った。

唯「純ちゃん! 梓ちゃん!」

紬「一体どうしたの?」

純「たたた……大変です! さっき、女の人二人が誘拐されましたっ!」

律「!!」 ピクッ

律は緊急事態を察知し、ソファーから立ち上がって二人を見つめた。

207: 2012/05/10(木) 22:49:23 ID:pkMIrK5k0
澪「誘拐されたって……知ってる人?」

純「いえ、知らない人ですっ! 偶然、車に連れ込まれている所を見たんです!」

純「これがその車ですっ!」バッ

純は息絶え絶えになりながらも、澪に携帯電話を突き出した。画面にはワゴン車の後方部分とナンバープレートが映っていた。

律「その二人の特徴は?」

律が澪の横に並んで立つと、鋭い気配が澪を突き抜けた。澪は律の横顔を見て少し驚いた。表情は張り詰め、目は真剣そのものだった。先程まで一緒にのんびりと紅茶を飲んでいた人物とは思えなかった。

梓「えーと……一人が金髪で……もう一人は眼鏡をかけていたような……」

紬「!!」ピクッ

紬「その時、梓ちゃんたちはどこにいたの……?」

梓「え……えーと……確かチェリーブロッサムっていう喫茶店の辺りだと思います……!」

紬「もしかして……!」

紬は梓の話を聞くと、ポケットから携帯電話を取り出した。そして、素早くボタンを押して通話の体勢に入った。

紬「繋がらない……!」

唯「ムギちゃん、大丈夫?」

只事ではない様子の紬を見て唯は少し戸惑った。

紬「誘拐された内の一人は私の妹かもしれないわ……」

澪「えぇっ!?」

210: 2012/05/12(土) 18:37:12 ID:Q6bqj2jQ0
紬は再び携帯電話のボタンを押して、通話の体勢に入った。澪たちはただ見つめるだけだった。

紬「もしもし、斎藤!?」

斎藤『何でしょうか、お嬢様』

紬「菫と連絡が取れないの!」

斎藤『菫に何か御用があるのですか?』

紬「菫とその友達が誘拐されたかもしれないの!」

斎藤『!!』

琴吹家の執事、斎藤は思わぬ不意打ちに言葉が詰まった。

紬「菫と連絡が取れるか斎藤も試してみて!」

斎藤『し、少々お待ちください……!』

ピッ

斎藤は焦りの色を滲ませながら通話を切った。紬はディスプレイを見つめながらため息をついた。

紬「…………」

唯「ムギちゃん、妹いたんだ……」

唯が紬の背中に向かって呟くと、紬は振り返った。

紬「うちの家には斎藤っていう執事がいて、菫は斎藤の一人娘……」

紬「菫は私が小さい頃から一緒に暮らしていて妹みたいなものなの……」

そう言って紬は手にしている携帯電話をじっと見つめた。

211: 2012/05/12(土) 18:40:27 ID:Q6bqj2jQ0
ピ口リロ ピ口リロ

紬「!!」

紬は急いで携帯電話を開いた。

紬「もしもし、斎藤!?」

斎藤『私の電話からも通じませんでした……』

紬「菫の携帯にGPS機能はあったかしら!?」

斎藤『もしもの時のために付けていたと思いますが……』

紬「調べてみて!」

斎藤『かしこまりました!』

紬は携帯電話を耳に当てながら斎藤の報告を今か今かと待ちわびた。

斎藤『……!!』

紬「どうしたの!?」

斎藤『菫の現在位置が見つかりました!』

紬「どこにいるのっ!?」

斎藤『街の外れにあるコンテナヤード近辺の倉庫です!』

紬「コンテナヤードの倉庫……!」

紬がそう呟くと、律が警察帽子を握り締めて一歩進み出た。

212: 2012/05/12(土) 19:20:40 ID:Q6bqj2jQ0
律「ここからは私に任せてくれ!」

澪唯紬梓純「!!!!!」

五人が一斉に律の方を見た。律は自信ありげに胸を叩いた。

律「私がそこまで行って状況を確認してくる!」

梓「一人で行くんですか……!?」

律「あぁ」

澪「そんな……! 一人で行くなんて危険だ!」

律「大丈夫っ!」

澪「でも……」

律「大丈夫だって! 無茶しないって約束するからさ!」

澪「…………」

明るく笑う律を見て、澪は口を噤んだ。そして、スーツの胸元を強く握り締めた。

律「じゃあ、行ってくるよ」

律「帽子ありがとう!」

ガチャン

律は警察帽子を振りながら事務所を後にした。一同は呆然と立ち尽くしながら律を見送った。

純「澪さん、止めなくていいんですか?」

澪「…………」

純がおろおろと扉と澪を交互に見なが尋ねた。しかし、澪はどうするべきなのか判断できなかった。

213: 2012/05/12(土) 22:23:53 ID:Q6bqj2jQ0
コンテナヤード

律「はぁっ……着いた……!」

律は両手を膝に置いて肩で息をした。空が曇っているせいなのか、辺りは薄暗く不気味な気配が漂っていた。

律「確か倉庫だったよな……」

律は膨大なコンテナの量に圧倒された。様々な色のコンテナが所狭しに並んでいて、まるで巨大な壁のようだった。律は生唾をごくりと飲み込んだ。

数分間進むと、薄汚れた巨大な倉庫が見えてきた。倉庫の側には先程、純に見せてもらったものと同様のワゴン車が止まっていた。律は高ぶる気持ちを抑えるために深呼吸をした。そして、入り口に小走りで駆け寄った。引き戸のドアノブに触れると、氷のように冷たかった。

ギイイイイィッ

甲高い金属音が倉庫に響き渡り、律は思わず口元に手を当てて静止した。気がつくと、冷や汗を大量にかいていた。律は拳銃を取り出して構えた。

中に入ると、更に薄暗くて辺りは埃臭かった。中にも大量のコンテナが積まれており、隠れ場所には打って付けだと思った。銃を構えたまま進むと、奥の方から人の気配を感じた。律はコンテナの影から様子を窺った。

律「(あれは……!)」

律の視線の先には縄で縛られた女性が二人いた。一人は金髪で、もう一人は眼鏡を掛けていた。その二人の手前に誘拐犯と思われる男性が二人、律に背を向けて座っていた。

律「(間違いない……! 和に連絡を取って応援を……)」スッ

律はその場を離れ、出口へ向かった。そして、ポケットから携帯電話を取り出した。

214: 2012/05/12(土) 22:27:24 ID:Q6bqj2jQ0
プルルルルルル

和『もしもし』

律「和! 今、私は誘拐犯の隠れ家にいるんだ……!」

律は可能な限り小声で話した。

和『誘拐犯?』

律「あぁ。昨日行った探偵事務所の助手の家族とその友達が誘拐されてるんだ……!」

和『えぇっ!』

律「場所を教えるから応援を頼む!」

和『わかったわ!』

律「えーと、場所は……」

和に場所を告げようとした瞬間、背後から足音が聞こえた。律がゆっくり振り向くと、黒い人影が腕を伸ばして迫っていた。

律「!!」

バチバチッ

火花が見えたかと思うと、律は気を失った。背の高い人影は倒れている律をじっと見つめていた。

和『どうしたの、律!? 何かあったの!?』

律の落とした携帯電話から和の声が人影にも聞こえた。しかし、和の問いかけに答える者はいなかった。

215: 2012/05/13(日) 14:54:07 ID:.3U2Rs420
秋山探偵事務所

澪「…………」

澪は机をじっと見つめていた。ずっと律の事が気になっていた。紬も顔を曇らせて、時折、不安そうに窓の外を眺めていた。梓と純も俯いていた。唯はそんな他のメンバーを見て、そわそわしていた。

唯「ねぇ、みんな」

澪「どうしたんだ、唯」

唯「みんなはりっちゃんの事が心配じゃないの!?」

澪「それは……心配だけど……」

唯「じゃあ、私たちも行こうよ!」

唯は両手を机の上に叩きつけ、澪に詰め寄った。じりじりと迫る唯を見て澪は少したじろいだ。顔を俯けていた梓と純も二人を見ている。

澪「でも、私に任せろって言ってたし……」

唯「りっちゃんにもしもの事があったらどうするの!?」

澪「…………」

澪は悩んだ。自分一人で決めることはできないと思い、紬の方を見た。紬は澪と目が合うと、両方の拳を握り締めて頷いた。

紬「私もりっちゃんを手伝いたい!」

澪「ムギ……」

紬「それに、菫が誘拐されているのに、黙って見てるだけなんてできないわ!」

紬の主張を聞いて梓と純は顔を見合わせ微笑んだ。

216: 2012/05/13(日) 15:08:10 ID:.3U2Rs420
梓「みなさんが行くなら私たちも手伝わせてください!」

純「力になりますよ!」

澪「梓ちゃん……純ちゃん……」

気がつくと、四人が澪を見つめていた。澪も四人を見つめていた。

唯「澪ちゃん!」

唯が澪の名を呼んだ。澪は唯の目を見てから大きなため息をつき、そして、立ち上がった。

澪「わかった……」

澪「私たちも行こう!」

澪が力強く宣言すると、唯の顔が明るく輝いた。

澪「このまま行くのは危険だから防犯グッズを持って行こう!」

澪「みんなも準備を手伝って!」

唯「わかった!」

一同は一斉に準備を始めた。澪の心は不安や恐怖を吹き飛ばすほど熱く燃えていた。

218: 2012/05/13(日) 17:07:26 ID:.3U2Rs420
倉庫

律「ん……」

律は薄暗い倉庫の中で目を覚ました。少し手前にランプが灯っており、律の周囲はぼんやりと明るかった。辺りはコンテナの壁で囲まれている。誘拐犯たちはいないようだった。上半身が縄で縛られて、そこから伸びた縄は鉄柱に結ばれていた。

「あっ、起きたんですね」

律「え?」

律は金髪の女性に寄り添う形で眠っていた。眼鏡の女性は律を凝視している。

「大丈夫ですか?」

律「うん……大丈夫だけど……」

律は金髪の女性を見つめた。二つの蒼い目が律を不思議そう見ている。

律「もしかして……菫っていう名前……?」

菫「えっ!? どうして私の名前を知ってるんですか!?」

菫は大きな声で律に尋ねた。眼鏡の女性も少し驚いている様子だった。

律「いや、あなた達が誘拐される所を見た人がいて、その事をあなたのお姉さんに話したら、もしかしたら菫ちゃんかもしれない……ってなって」

律「そこから、菫ちゃんに連絡をとったけど繋がらなかったから、GPS機能で居場所を調べたらこの倉庫が表示されたんだ」

律「で、私がここに来たら捕まっちゃったってわけ……」

律が話し終えると、菫は暗い表情で俯いていた。よく見ると、少し肩を震わせていた。

219: 2012/05/13(日) 17:11:21 ID:.3U2Rs420
菫「お姉ちゃん……」ガクガク

「落ち着いて、菫」

女性が穏やかな口調で呼び掛けた。菫は涙目になりながら女性を見た。女性は表情を変えずに続けた。

「きっと大丈夫だから」

菫「うん……そうだね……ごめんね……」

菫は泣き止んで少し微笑んだ。女性も菫が笑ったのを見て微笑んだ。

律「あ、あのー……あなたの名前は……」

「あ、申し遅れました」

直「私は奥田直といいます」

直「菫とは同じ職場で働いています」

律「へぇー……」

直「ところで、あなたは……」

律「え? あぁ! 私?」

律は咳払いして仕切り直した。

律「私は警察官の田井中律!」

221: 2012/05/14(月) 01:11:13 ID:wud9TfcU0

菫「お姉ちゃん……」ガクガク

「落ち着いて、菫」

女性が穏やかな口調で呼び掛けた。菫は涙目になりながら女性を見た。女性は表情を変えずに続けた。

「きっと大丈夫だから」

菫「うん……そうだね……ごめんね……」

菫は泣き止んで少し微笑んだ。女性も菫が笑ったのを見て微笑んだ。

律「あ、あのー……あなたの名前は……」

「あ、申し遅れました」

直「私は奥田直といいます」

直「菫と同じ大学に通っています」

律「へぇー……」

直「ところで、あなたは……」

律「え? あぁ! 私?」

律は咳払いして仕切り直した。

律「私は警察官の田井中律!」

220: 2012/05/13(日) 17:24:50 ID:.3U2Rs420
菫「警察官……」

菫は尊敬の眼差しで律を見つめた。直の方を見ると、何を考えているのかまったくわからなかった。

直「警察官なのに捕まったんですか?」

直の何気ない質問が律の胸に突き刺さった。それと、同時に澪との約束を思い出した。

律「ま、まぁ……私も人間だし……」

直「そうですか……」

律「誘拐犯たちはどこかに行ったの?」

直「どこかに行ったみたいですよ」

菫「もう三十分くらい経ったかな……?」

律「そっか……」

律は目を凝らして辺りを見渡した。しかし、あるのは埃を被ったコンテナぐらいだった。

直「ここには何もないようです」

直の淡々とした口調に思わず律は直の顔を見た。直は冷静に状況を判断していた。律は諦めて力無く項垂れた。菫も不安そうに辺りを見渡している。

直「今は誰かが来るのを待ちましょう」

律「…………」

律は希望を抱くことにした。律はふとランプを見た。ランプの明かりはあまりにも弱々しかった。

224: 2012/05/15(火) 23:51:20 ID:fxxX2ejI0
~~~~~

どれほどの時間が過ぎたのだろうか。律はぼんやりとランプを眺めていた。菫の顔は依然として緊張のせいで強張っており、直の表情も何を考えているのか判断できない。

ギイイイイイィッ

律菫直「!!!」

奥の方から引き戸の開く音がした。三人が一斉に引き戸の方を見た。すると、複数人の足音が聞こえてきた。律は奥の方のコンテナを凝視した。すると、三人組の男が現れた。

A「おっ、起きてる」

B「へっ、お目覚めか」

C「へへへ……」

誘拐犯たちは薄気味悪い笑みを浮かべた。すると、菫が大きくガタガタと震え始めた。直が心配そうに菫の側に近づいた。
律は誘拐犯たちの顔を注視した。しかし、見覚えのある背の高い男はいなかった。律の視線に気づいたAは律に歩み寄った。

A「お前を失神させた奴はここにはいない」

A「あいつは見張り番だ」

律「くっ……!」

律「(どこかで見られてたのか……!)」

律は力強く歯を食いしばった。それを見たBはせせら笑った。

B「ははははははっ!」

律「…………」

律は己の不甲斐無さを呪った。
怒り、焦り、不安、恐怖……。様々な感情が込み上げ、それらは律の喉元を強く締めつけた。

225: 2012/05/16(水) 00:16:07 ID:o398ejQU0
C「これからどうする?」

A「こいつの親父の主人、琴吹に身代金を要求する!」

菫「!!」

誘拐犯Aに指差された菫はビクッと体を動かした。

A「あそこなら唸るほどの身代金を要求できるだろうからなぁっ!」

菫「そ、そんな……!」

菫の頭は様々な物で渦巻いた。自分のせいで周りに多大なる迷惑を掛ける事になると思うと気が遠くなった。そして、不安は更に積もって、菫の中で黒い渦となり、菫を苛んだ。

気がつくと菫は再び涙を流していた。直がどんなに励ましてもその涙は止まることはなかった。

律「私たちを解放しろっ!」

B「するわけねーだろ!」

律「くっ……! 今ならまだ間に合う! こんなことはもうやめろ!」

A「……うるせえんだよ」

律「っ……!」

Aに睨みつけられた律はAを睨み返した。

226: 2012/05/16(水) 00:23:12 ID:o398ejQU0
C「もし、警察とか呼ばれたらどうすんの?」

A「その時は他の人質が役に立つんだよ」

Aが直を指差すと、Bは卑しい笑みを浮かべながら馴れ馴れしく直と肩を組んだ。その瞬間、直の顔は蒼白になった。直は身を捩って腕を振り切った。

直「止めてくださいっ……!」

B「そんな事言うなって~!」

図々しく直に迫るBを見て、律は体が熱くなるのを感じた。AもCも馬鹿みたいにヘラヘラと笑っている。怒りがどんどん湧き上がり、律の体は小刻みに震え始めた。
Bが再び直に向けて腕を伸ばした瞬間、律の中で何かが切れた。

律「いい加減にしろおおおおおおおっ!!!」

B「!!」

直菫「!!」

AC「!!」

律の咆哮が巨大な倉庫内に大きく反響した。Bは伸ばしかけていた腕をピタリと止めた。

律「お前たちはこんな卑怯な事をして何とも思わないのか!?」

律「女の子を誘拐して身代金を貰う? 恥ずかしくないのかっ!」

律「お前たちは最低の人間だっ!」

律は大声で言い切った。Aは律の顔を見て舌打ちをした。

A「さっきから何なんだよお前はよォッ!!」

ガーンッ

Aは怒りに身を任せてコンテナを殴った。衝撃音が倉庫に響き、菫は恐怖のあまり短い叫び声を上げた。Aは憤怒の形相で律の胸倉を掴んだ。

230: 2012/05/16(水) 21:51:53 ID:o398ejQU0

律「その二人に……手を出すな……!」

A「いいからお前は黙ってろ……!」

律「黙るもんかっ! お前たちが私たちを解放するまで絶対に黙らない!」

A「……!」

Aの怒りは頂点に達した。Aは律を突き飛ばし、力任せに律の腹に蹴りを入れた。

律「ぐぅっ……! げほっ! げほっ!」

まともに蹴りを受けた律は体を曲げて大きく咳き込んだ。Aは顔を真っ赤にして律を見下ろした。菫と直は時が止まったかのように蹲る律を見つめている。

A「へっ……! お前は人質なんだから黙ってろってんだよ……!」

Aは息を切らしながら笑みを浮かべると、拳を握り締めた。上目遣いでそれを見た律は再び蹲った。

律への殴打が続く。BとCは菫と直を押さえつけながら、不敵な笑みを浮かべている。律は痛みを堪え、歯を食いしばった。直は額に汗を滲ませて目を瞑っている。
Aは痺れを切らしたのか、特殊警棒を取り出した。それを見た菫は、はっと声を上げた。

Aは警棒を高く掲げた。律も覚悟を決めて強く目を瞑った。その瞬間、菫は前のめりになって叫んだ。

菫「暴力はやめてくださいっ!」

A「!!」

律「!?」

菫が叫ぶと、Aは石像のように動かなくなり、律は目を丸くして菫を見つめた。

228: 2012/05/16(水) 00:36:54 ID:o398ejQU0
菫「お願いします……!」

菫は泣きながらAに強く懇願した。Aは律の元から離れ、菫の方へ歩いた。菫は顔を上げてAを見つめた。その顔は醜悪な笑みを浮かべていた。

A「俺はあいつを殴りたい……」

A「だが、お前はこれ以上の暴力は止めてほしい……」

A「それなら、取引だ……」

Aは大きな目で菫の顔を見た。

A「俺たちとヤらせろよ……!」

菫「!!」

Aは菫の眼前まで顔を近づけて言い放った。菫はAの獣のような荒い息遣いを肌で感じ取った。

直「菫! それだけは駄目っ!」

C「おっと!」

直「っ……!」

激昂する直にCがナイフを突き付けた。ナイフの刃先を見た直は汗を一筋流して押し黙った。

A「さぁ、どうする?」

菫「……!」

菫は直を見た。首元にナイフを当てられながらも、まっすぐ菫を見ていた。蹲っている律を見ると、律がゆっくりと顔を上げた。

律「菫ちゃん……駄目だ……!」

律は呻くようにして声を振り絞った。苦しんでいる律を見て、菫の心は大きく揺れ動いた。二人の視線を受けて、決断の時が来た。

菫「…………」

菫「わかりました……」

菫「あなたの好きなようにしてください……!」

菫は目を瞑って言い放った。その瞬間、Aの口元が大きく緩んだ。

231: 2012/05/16(水) 23:57:10 ID:o398ejQU0
Aはまるで一歩一歩を味わうかのようゆっくりと菫に近づいた。菫は身を縮めてAを拒んだ。直は瞬きもせずにその様子を見つめていた。

Aは卑しい手つきで菫の顎に手を添えた。菫の全身の血の気が引いた。勇気を振り絞って体の震えを止めようとしたが、悪化する一方だった。菫はAの顔を見た。爛々と目を輝かせていて、悪意の象徴だと思った。

律「やめろ……!」

律はAに呼び掛けたが、Aどころか誰の耳にも届いていなかった。全員が菫とAを見つめていた。Aは菫の縄を解き、胸元に手を伸ばした。

ギイイイイイイィッ

A「!?」

律「!!」

重々しい金属製の引き戸の開く音が響いた。Aは顔を引き攣らせて素早くコンテナの向こうを見つめた。Bが肩を竦めてため息をついた。

B「大丈夫だろ、見張りがいるんだ」

A「……そうだな」

Aもため息をついて菫の方に向き直った。引き戸の方向を見つめているのは律だけになった。

カッ!

突如、白い光が暗い天井を照らした。その直後、大きな呻き声と何かが地面に落下する音が聞こえた。音から察するに人間が倒れた音であると思われた。

ABC「???」

誘拐犯たちは光には気がつかなかったものの、何か異変が起きているのは察知したようだった。

だんだんと足音が聞こえてきた。誘拐犯たちがそれぞれの武器を構え、コンテナを注視した。すると、コンテナの影から人影が姿を現れた。

澪「止まりなさいっ!」

澪の姿を見た律は口を開けて呆然とした。誘拐犯たちも同様だった。

232: 2012/05/17(木) 00:00:04 ID:M1NYoH6E0
菫「……!!」バッ

B「しまった!」

虚を突かれて、固まっていた誘拐犯たちの隙を見て、菫はBの持っていたナイフを払い落とし、素早く拾い上げて律の背後に回り、縄を切り解いた。

律「ありがとう!」

菫「いえ!」

自由に動けるようになった律はゆっくりと立ち上がった。少し動いただけで体が悲鳴を上げた。

A「誰だお前はっ!」

澪「私は探偵だ!」

澪「困っている人を助けに来たっ!」

A「くっ……!」スッ

Aは特殊警棒をポケットにしまい込み、代わりに拳銃を取り出した。それを見た律はギョッとした。Aが手にしている拳銃は律の物だった。

A「動くなっ!」

澪「…………」

Aが律と菫に銃口を向けたのを見て、澪は静止した。

233: 2012/05/17(木) 00:05:27 ID:M1NYoH6E0
A「それ以上近づくと撃つ!」

澪は銃を見ていなかった。澪は律の方を見つめていた。律もまた、澪を見つめていた。

澪「律!」

律「!!」バッ

澪は大声を出して右腕を上げた。誘拐犯たちは澪の腕を見つめた。律は澪の手に握り締められている物体を見て、菫を抱きかかえながら走り出した。そして、二人で直に飛びついて地面に伏せた瞬間

カッ!

強力な閃光が駆け抜けた。それはストロボ弾だった。誘拐犯たちはまともに閃光を浴びて目が眩んだ。

A「ぐあっ!」

澪「今だ!」

澪の掛け声と共に唯、紬、梓、純がなだれ込んだ。各々が例の防犯グッズを持ち、誘拐犯たちに狙いを定めた。

パパパーン

黒い筒から勢いよく網が飛び出して、誘拐犯たちの体に巻きついた。

C「なっ……!」

B「見えねぇ! 見えねぇよっ!」

A「くそっ!」

純「大人しくしてください!」

純は警棒を誘拐犯に向けて言い放った。誘拐犯たちがもがけばもがくほど、網は複雑に絡まっていった。

235: 2012/05/17(木) 09:33:57 ID:DnTlHHlo0
ほむら「まどかっ!」

まどか「わっ?ほむらちゃん!?」

ほむら「私…今までずっと言えなかったこと…伝えたいの!」

まどか「え…」

ほむら「言えなかったわ…言ったらあなたに嫌われるんじゃないかって思って…」

ほむら「毎朝あなたの家の前であなたが出てくるのを待ってこっそりあなたの後ろを歩いてきたこと。ブリッジしながら歩いてまどかのパンツを覗けないか何度も試したっけ…
その必氏にパンツを覗こうとするあまりに情けない姿をあなたに見られそうになったらと思うと…その際どさにとても興奮していたわ」

ほむら「あなたのトイレの後はいつも私の天国だったこと。まどかのおしOこの音を聞くたびに私の鼓膜は喜びに震え、まどかのおしOこの匂いを嗅ぐたびに私の肺は幸せに満ち溢れた…
くすりのような幸福感…私は一瞬で虜になってしまったわ」

ほむら「あなたの私物はすべてペロペロしたこと。縦笛も、体操服も、上履きも、外靴だって全部。まどかの匂い、まどかの体温、まどかの味、すべて私は知っているわ。
いずれはあなた自身をペロペロしたい…24時間年中無休でそう思ってた。へそ、うなじ、指の間、耳の裏、足の付け根、鎖骨、鼻面、脇の下…まどかのすべてを」

ほむら「そう…私はまどかのすべてが大好き!この気持ちだけは私の本当の気持ちなの!!」

まどか「色々言いたいことはあるけど…とりあえず服着ようよ…」

239: 2012/05/19(土) 00:05:43 ID:w3Wepvqc0
紬「菫!」

菫「お姉ちゃん!」

紬は菫を見つけると、駆け寄って強く抱き締めた。紬に抱きつかれて安心したのか、菫は再び泣き出した。

菫「怖かったよ…………! お姉ちゃん……!」

紬「すぐに来られなくてごめんね……」

紬は優しく菫の頭を撫でた。菫は紬の胸の中で泣きじゃくった。

直「…………」

直は呆然と倉庫の天井を見上げていた。そんな直の背中に梓と純が恐る恐る声をかけた。

梓「あの……大丈夫……?」

梓が呼びかけると、直はゆっくりと振り返った。

直「私たち……助かったんですね……」

梓「そうだよ」

直「はぁ……」

直「疲れた……」

ドサッ!

梓純「わっ!」

直は力が抜けてヘナヘナと崩れ落ちた。梓と純が慌てて直を支えた。

直「すいません……怖かったので……」

純「ううん、気にしなくていいよ」

そう言って純が微笑みかけると、直も少し微笑んだ。

240: 2012/05/19(土) 00:13:39 ID:w3Wepvqc0
唯「間に合ってよかったね」

律「本当に危ない所だったぁー……」

澪「大丈夫だったのか?」

律「あー……ちょっと殴られたりしたけど、大丈夫かな」

唯「それは大変だよ、りっちゃん!」

唯はスーツから絆創膏を取り出して、律の額に貼り付けた。

唯「はいっ!」

律「……まぁ、殴られたのは顔じゃないんだけどな」

唯「えっ! そうなの!?」

唯が慌てふためいていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。

律「警察より探偵の方が早かったな……」

澪「そういえば……」

倉庫の入り口の方を眺めている澪の横顔を見て、律はある事を思い出した。

律「あっ、そういえば!」

澪「ど、どうしたんだ……?」

律「さっき、初めて私の名前呼んだよな?」

律がそう言うと、澪の顔が急激に赤くなった。

澪「あ、あれは……誘拐犯たちに気づかれないようにすぐに呼べる名前で……」

律「へへっ! 別にいいよ!」

律「澪!」

澪「!!」

律は子どもっぽい表情で満面の笑みを浮かべた。その顔を見ていると、澪もどこか可笑しくなってきた。

241: 2012/05/19(土) 00:24:31 ID:w3Wepvqc0
数台の車が急停車する音が聞こえ、倉庫内に複数人の足音が鳴り響いた。そして、コンテナの側から和が現れた。

和「律っ!?」

和「…………」

息を切らして駆けつけた和は一同を見て目を丸くした。背後にいる二人の警官も呆然と立ち尽くしていた。

唯「あっ! 和ちゃん!」

和「唯!」

唯は和を見るなり、すぐに抱きついた。和は状況を把握できないようだった。

和「唯……これは一体……」

唯「もう大丈夫! 全部解決したから!」

和「??」

和の表情はまるで頭上にはてなマークが浮かんでいるようだった。律がよろよろと前に進み出た。

律「心配かけてごめん……」

和は、はっとしたように口を開けながら、埃まみれになった律を見つめ、それから、大きくため息をついた。

和「まったく……ボロボロじゃないの……」

律「悪い……」

律はそう言って苦笑いした。和もやれやれとばかりに微笑んだ。

澪は辺りを見渡してほっとした。

泣いている菫を優しく抱きしめている紬。ほっとした様子の直を温かく微笑みながら支えている梓と純。どこか子どもっぽくて勇ましい律。まるで、母親のような和。にこにこしながら和の側にいる唯。

澪「解決か……」

澪がそう呟くと、胸の内の黒い靄が綺麗に無くなった。そして、明るい光がゆっくりと差し込み、澪の心を温めた。

242: 2012/05/19(土) 00:42:00 ID:w3Wepvqc0
翌日 秋山探偵事務所

律「いやー! 昨日は本当に助かったよ!」

律「ありがとう!」

紬「どういたしまして!」

唯「みんなが無事ならそれでいいよ!」

探偵事務所には律が訪れていた。四人でソファーに座り、お茶を飲みながらのんびりと寛いでいた。

律「あ、和から伝言があるんだった」

唯「なになにっ!?」バッ

澪「唯、落ち着け」

唯は目を輝かせながら律に詰め寄った。興奮する唯を澪が宥めた。

律「“秋山さんへ、あまり無茶な事はしないでください”……だってさ」

唯「……それだけ?」

律「ん、それだけ」

唯「なぁんだ~……」

紬「まぁまぁ」

唯は落胆して机に顔を預けた。意気消沈している唯の背中を紬が撫でた。

243: 2012/05/19(土) 00:49:19 ID:w3Wepvqc0
律「そういえば、菫ちゃんと直ちゃんは大丈夫?」

紬「うん! 元気になったわ!」

律「そっか、よかった!」

紬「二人ともりっちゃんのこと、体を張って守ってくれて、かっこよかったって言ってたよ!」

律「へへ……そうかな……」

律は少しはにかみながら鼻の下を指で擦った。それを聞いて、澪はある事を思い出した。

澪「そういえば……無茶はしないって約束だったような……」

律「あ!」

芝居がかった澪の声を聞いて律も思い出した。そして、頭の中であの時の言葉がフラッシュバックした。

律『大丈夫だって! 無茶しないって約束するからさ!』

律「あー……そういえば、そんな約束もあったような……」

澪「忘れたとは言わせないぞ?」

律「あはは……」

澪のプレッシャーに気圧され、律の語気は弱くなった。澪は微笑みながら律の顔を見た。

律「確かに約束は破ったかもしれないけど……罰ゲームか何かあるのか……?」

律は微笑んでいる澪に恐る恐る尋ねた。

澪「あぁ」

そう言って、澪は唯と紬の顔を見た。すると、二人は微笑みながら無言で頷いた。律は怪訝そうに三人の顔を見た。

244: 2012/05/19(土) 00:52:45 ID:w3Wepvqc0
澪「そうだな……じゃあ、律には……」

律「……!!」

律はゴクリと生唾を飲み込んで次の言葉を待った。どんな罰ゲームか想像しただけで、頭の中が真っ白になった。

澪「私たちのバンドに入ってもらおうかな」

律「……え?」

律はぽかんとした表情で澪を見た。澪は咳払いして顔を背けた。唯と紬はうずうずしながら律の方を見つめている。律は目を瞑って決心した。

律「……わかった」

律「私がお前らのバンドのドラマーになるよ!」

唯紬「やったーっ!!」ガタッ

唯と紬は歓喜して立ち上がった。澪と律は歓喜する二人を見て笑顔を浮かべた。

澪「そっか……」

澪は律にゆっくりと手を差し出した。律は澪の手を力強く握り締めた。

澪「よろしくな!」

律「こちらこそ!」

二人は握手を交わした。握手しながら律の顔を見ると、目が合った。そして、子どものような笑顔が明るく輝いた。

245: 2012/05/19(土) 02:04:12 ID:w3Wepvqc0
とある冬の日 秋山探偵事務所

律がメンバーに加わってから数ヶ月が経過し、秋山探偵事務所は騒々しくなっていた。この日もいつものように“ミーティング”が行われていた。

純「もう私より上手いじゃないですか、澪さん!」

澪「純の教え方が上手なんだよ」

純「えへへ……ありがとうございます……」

純は照れ隠しに頭を掻いた。ここ数ヶ月で、澪の演奏技術は格段に向上していた。依頼が殆ど来ない影響もあるのかもしれない。それでも、澪はこの生活を充実していた。

唯「えーっと、ここは……」

梓「いい加減に楽譜を読めるようになってくださいよっ!」

唯「ごめん、ごめん!」

梓「まったく……」

梓は腰に手を当てて、ため息をついた。しかし、唯の無邪気な顔を見ると、どうしても本気で怒ることができなかった。

紬「さわこさん、お茶入れましたよ~」

さわ子「あら、ありがとう」

紬「いえいえ」

律「ムギ、私のも淹れてくれないか?」

紬「ちょっと待ってね、りっちゃん!」

さわ子はうっとりとした表情で至福の一時を満喫した。律はクッキーを頬張りながら、唯の練習を眺めている。紬は嬉しそうに紅茶を準備していた。

246: 2012/05/19(土) 02:08:23 ID:w3Wepvqc0
澪はふと思った。

澪「(そういえば、始めは唯と二人だけだったんだなぁ……)」

澪は夏のあの日の事を思い出した。思えば、あの時、唯が引き止めてくれなければ、今のこの状況は無かったのかもしれない。

みんなとお茶を飲んで、楽器の練習をすることも。こんなに温かい時間を過ごすことも。

澪「(ありがとう……唯……)」

澪は唯を見つめた。澪の視線に気づいた唯は澪の方を見た。

唯「どうしたの、澪ちゃん?」

澪「……いや、何でもないよ」

澪はベースに視線を移した。今は上達しなければならない。澪は拳を握り締めて意気込んだ。

コンコン

澪「え?」

不意に扉が鳴り、澪は目を点にして扉を見つめた。律がカップを片手に前に屈んで澪の方を見た。

247: 2012/05/19(土) 02:18:54 ID:w3Wepvqc0
律「誰か他に来るのか?」

澪「い、いや……」

唯「もしかして、依頼人かもしれないよ!」

これ以上の来訪者はいないはずだった。澪の手にじんわりと汗が浮かんだ。紬はポットを机に置いて、扉へと向かった。

ガチャッ

紬「はい?」

外に立っていたのは縦ロールの髪型の女性だった。顔は無表情でどこか不思議な存在感を放っていた。女性は事務所の中を眺め、怪訝そうな表情で尋ねた。

「ここって秋山探偵事務所ですよね……?」

澪はベースを肩に下げたまま勢いよく立ち上がった。ふと、周囲を見ると、全員が澪を見つめていた。唯と紬を見ると、二人は黙って頷いた。

そうだ、私には仲間がいるんだ。これからもずっと一緒にいたい大切な仲間が……。

澪は目を輝かせながら、大きく深呼吸して言った。

澪「はい!」

澪「秋山探偵事務所です!」


~完~

248: 2012/05/19(土) 02:21:49 ID:w3Wepvqc0
本編はここで終わり。番外編的なものが浮かんだのでそれを書いたら終わり。蛇足かもしれないけど

249: 2012/05/19(土) 08:04:21 ID:P0Q37jSE0

番外編も期待してる

250: 2012/05/19(土) 08:49:32 ID:5aX.Ugpg0
乙乙

253: 2012/05/20(日) 01:42:19 ID:SuwsoFbo0
私の名前は若王子いちご。
最近、私はある悩み事を抱えている。その影響なのか、仕事に集中できずにいる。同僚によれば、ぼーっとしているらしい。どうしてこんな思いをしなければならないのだろうか。私の胸の内にはいつも深い霧が立ち込めていた。

ある日、チラシを読み漁っていると、あるチラシが目に留まった。

『秋山探偵事務所』
浮気調査、尾行、ペット捜索、ストーカー被害など、どんな相談も受け付けます!

私は特に“浮気調査”に目を惹かれた。この事務所なら私の胸の霧を晴らしてくれるかもしれない。私は何と無しに服を着替えて寒空の下に飛び出した。

そして、いつの間にか私は事務所の扉の前に立っていた。どうして、ここまでするのか自分でもわからない。中からは何やら声が聞こえてくる。インターフォンは無いようなのでノックするしかない。

コンコン

事務所から聞こえてくる声がピタリと止んだ。そして、磨りガラスの向こうからシルエットが近づいて来る。私は一歩後退した。

ガチャッ

「はい?」

突然、ブロンドヘアーの女性が現れたので私は驚いた。彼女を通して事務所の中を窺うと、紅茶の香りがしてきた。肩にギターをぶら下げている女性までいた。本当にここは秋山探偵事務所なのだろうか?

いちご「ここって秋山探偵事務所ですよね……?」

私は眉を顰めながら尋ねた。すると、黒髪の長髪の女性が立ち上がった。この女性も肩にベースをぶら下げている。

「はい! 秋山探偵事務所です!」

よかった、私は間違っていない。

しかし、楽器をぶら下げながら言われてもどこか滑稽に見える。まるで、バンド教室のようだ。

254: 2012/05/20(日) 01:47:08 ID:SuwsoFbo0
「中へどうぞ~」

金髪の女性がにこにこしながら私を招き入れた。何がそんなに嬉しいのだろうか。まだ、入って三十秒も経っていないのに早くも帰りたくなってきた。

「それじゃあ、帰りましょうか」

ツインテールの小柄な少女が立ち上がると、一同が立ち上がった。

「え~? 私まだ殆ど飲んで無いんだけど?」

眼鏡をかけた長髪の女性がぶつぶつと文句を言っている。ふくれっ面じゃなければ綺麗な人なのだろう。

「また今度飲めるよ、さわちゃん!」

「そうだぞ、さわちゃん」

「ぶー!」

「それじゃあ、失礼します」

小柄な少女が申し訳無さそうに小さくなって私の側を通り抜けた。その際、一瞬私と目が合った。少女はぺこりと頭を下げて事務所を後にした。続いて、他のメンバーがぞろぞろと退出した。最後尾にいたカチューシャを着けた女性は私をまじまじと見ていた。

「こちらへどうぞ」

黒髪の女性が私をソファーへと誘導した。この人が秋山探偵なのだろうか。同じ女性なら話しやすいのかもしれない。

「お茶どうぞ~」

いちご「どうも……」

目の前に紅茶が差し出された。ありがたい、この事務所は暖房機が稼働していないのか、異常に冷え込んでいた。
もっとも、私は紅茶よりもコーヒーが好きなのだが。

255: 2012/05/20(日) 01:49:38 ID:SuwsoFbo0
澪「初めまして、探偵の秋山澪です」

唯「その助手の平沢唯と!」

紬「琴吹紬です!」

いちご「はぁ……」

いつもこんな方法で自己紹介しているのだろうか。何だかこちらまで恥ずかしくなってくる。

澪「お名前をお聞かせいただけますか?」

いちご「若王子いちごです」

唯「いちご!?」

いちご「…………」

名前を聞き返されるのは慣れていた。確かに苗字も名前も珍しい。しかし、いちいち構っていては限がない。

澪「今日はどういったご用件で?」

やっと本題に入れる。ここまで随分と時間が掛かった気がした。私は予め考えていた言葉を述べることにした。

いちご「最近、付き合っている彼氏の様子がおかしいんです」

澪「えーっと……それはいつ頃からでしょうか?」

いちご「一ヶ月ぐらい前からです」

澪「一ヶ月前ですか……」

澪は考え込むように顎に手を当てた。その様子が少し探偵のように見えた。

256: 2012/05/20(日) 01:55:54 ID:SuwsoFbo0
いちご「そこで、尾行を依頼したいんですけど……」

澪「なるほど……」

私の悩み事は彼氏の不審な行動だった。ここ一ヶ月は一緒に出かけていない。私から話を持ち掛けても、何らかの理由でそれを断る。そうして、断られる毎に私は不信感を募らせていた。

澪「わかりました」

いちご「調査期間はどれくらいになりますか?」

澪「そうですね……確実な証拠を得るなら一週間ぐらいは必要だと思います」

いちご「そうですか……」

澪「これが調査費用の目安です」

私は紙を受け取って読んでみた。調査費用はそこらの探偵事務所より少々安い程度だった。少し不安ではあるが、依頼する事にしよう。

いちご「わかりました……」

いちご「浮気調査を依頼します」

澪「ありがとうございます」

澪は丁寧にお辞儀した。
なるほど、この探偵は常識があるようだ。私の中の不安が少し取り除かれた。私は紅茶を一口飲んだ。

257: 2012/05/20(日) 02:02:20 ID:SuwsoFbo0
澪「それでは、こちらの紙に若王子さんの氏名、生年月日、住所を」

澪「それから、こちらの紙に彼氏の氏名、生年月日、住所、特徴などをお書きください」

いちご「はい」

これで悩み事が解決するかもしれない。そう思うと少し気が楽になった。私はボールペンを手に取って、二枚の紙を手元に引き寄せた。

~~~~~

いちご「書きました」

澪「ありがとうございます」

澪「では、一週間後にまた連絡させてもらいます」

いちご「お願いします」

ガチャン

私は事務所を後にした。日は沈み、空は真っ暗になっていた。冬の厳しさを象徴するような冷たい風が吹いている。私は寒さに身を震わせた。

いちご「一週間……」

一週間後、私は何を聞かされるのだろうか。考えれば考えるほど、悪い方へと流されてしまう。

私は間違っているのだろうか、いや間違っていない。

私は自身に強く言い聞かせた。

258: 2012/05/20(日) 02:08:33 ID:SuwsoFbo0
四日後 いちご自宅

私は休日を一人で過ごしていた。彼氏は今日も用事があるのだろうか。探偵事務所に依頼してからは一度も連絡をとっていない。
私は小説を読んでいた。しかし、どうも文章が頭に入っていない。フィルターが作動していないようだった。

いちご「はぁ……」

思わずため息をついてしまった。今頃、彼はどこで何をしているのだろうか。あの気の弱そうな彼が浮気をするのだろうか。想像もつかない。

ヴーン ヴーン

携帯電話が着信して、バイブレーションが作動した。サブディスプレイには“探偵事務所”と表示されている。確か、依頼期間は一週間だったはずだ。報告にはまだ早い。不審に思いながらも、私は着信ボタンを押した。

いちご「もしもし」

澪『あ、秋山探偵事務所の秋山ですけど』

いちご「どうかしましたか?」

澪『今、仕事中ですか?』

いちご「……いえ、今日は休みですけど」

澪『そうですか。それならお尋ねしたい事があるのですが……』

いちご「…………」

尋ねたい事……? 私には思い当たる節が見当たらない。

いちご「……わかりました」

いちご「今から、そちらに向かいます」

澪『ありがとうございます!』

いちご「はい」

パタン

私は閉じた携帯を見つめながら考え込んだ。あの探偵は私に何を尋ねたいのだろうか。直接会いたいという事は何か重大な事でも発覚したのだろうか。疑問が膨れ上がり、胸の内をどんどん圧迫して行く。

行くと答えたからにはすぐに向かわなければならない。私は立ち上がってすぐに支度を始めた。

外に出ると、相変わらず身に沁みるような寒さだった。その上、空は雲で覆われていて日光が差していなかった。私はマフラーを巻き直して、事務所へと歩き始めた。

259: 2012/05/20(日) 02:21:23 ID:SuwsoFbo0
秋山探偵事務所

澪「寒い中、わざわざすいません」

紬「温かいお茶入れました~」

いちご「どうも」

なぜここの助手はいつもにこにこと笑っているのだろう。そんなに仕事が楽しいのだろうか。私は仕事が楽しくない。仕事中も悩んでいるからだ。

いちご「尋ねたい事って……」

澪「はい、その事についてなんですが……」

澪「若王子さん……今日、誕生日ですよね?」

いちご「あ……」

いちご「そういえば……」

自分の誕生日のことなど完全に忘れていた。いや、そんなこと考える暇は無かった。

唯「そこで! 今日は事務所を挙げていちごちゃんをお祝いしたいと思います!」

パチッ

突然、事務所の照明が消えて、蝋燭の明かりが灯った。どうやらバースデーケーキのようだ。

唯紬「ハッピーバースデーいちごちゃん!」

いちご「これは……」

澪「お祝いにケーキを用意しました!」

そう言って、三人は満面の笑顔を浮かべて私を見つめた。私は嬉しいのか嬉しくないのかよくわからなかった。取り敢えず、蝋燭の火を消さなければ。

いちご「ふぅーっ」

一瞬で蝋燭の火は消え去った。そして、事務所は暗闇に包まれた。

260: 2012/05/20(日) 02:22:59 ID:SuwsoFbo0
パチッ

照明が点いて、私は思わず目を細めた。

唯「おめでとう、いちごちゃん」

紬「今日はいちごちゃんが休みでよかったわ!」

いちご「私が休みじゃなかったらどうするつもりだったんですか?」

唯「あ、本当だね」

いちご「…………」

やはり、この人たちはどこか抜けているようだった。本当に調査は進んでいるのだろうか?

唯「ケーキ食べよっか!」

紬「そうね!」

いちご「私は……」

澪「若王子さんも食べますよね?」

いちご「じゃあ……」

三人の笑顔を見てからでは、とても断れる状況ではなかった。仕方無い、今は素直に祝ってもらうことにした。

261: 2012/05/20(日) 02:24:44 ID:SuwsoFbo0
~~~~~

唯「ふぅーっ! おいしかったー!」

紬「よかった」

いちご「ふぅ……」

バースデーケーキは今まで食べたどのケーキよりも美味しかった。一体、この事務所はどうなっているのだろうか。

いちご「じゃあ、そろそろ失礼します」

いちご「ケーキありがとうございました」

澪「わざわざ来てくれてありがとうございました」

いちご「はい、失礼します」

ガチャン

外に出ると、何とも言えない虚無感が私を襲った。
あぁ、寒い。とにかく家に帰ろう。私は家路を急いだ。

262: 2012/05/20(日) 02:30:10 ID:SuwsoFbo0
数十分かけて、やっと自宅前に辿り着いた。早く体を休めたい。そう思いながら、鞄から鍵を取り出したその時

「いちご!」

いちご「!!」

私は目を見開いた。なんと、後方に彼が立っていた。彼は両手に紙袋を持っていた。

いちご「どうしたの?」

「今日、誕生日だよね……?」

いちご「そうだけど……」

「よかったぁー……」

彼は安堵したのか大きな息を吐いた。なぜ、こうも喜んでいるのだろう。彼は手に持っていた紙袋を私に向けた。

「はい、誕生日プレゼント!」

いちご「え?」

「いちごの誕生日プレゼントのために一ヶ月前から何を買おうか探し回ってたんだ!」

いちご「あ……」

私は差し出された紙袋を見て、全て理解した。彼はこの一ヶ月間、この瞬間のために駆け回っていたのだ。その事を悟られないために私を避けていたのだろう。

彼の顔を見ると、私の表情を窺っている。まったく、こっちの気も知らないで……。

「どど、どうしたのっ!?」

いちご「!!」

気がつくと私は涙を流していた。急に泣き出した私を見て彼は大きく狼狽えた。私にもこの涙の理由はわからなかった。

いちご「ううん……プレゼントが嬉しくて……」

「そ、そっか! それならよかった!」

彼は達成感を顔に滲ませながら照れ笑いした。顔が紅潮している。
そうだ、こんなに気の弱くて優しい彼が浮気なんてするはずがない。まったくもってあり得ない事だ。

私は間違っていた。

「風邪を引くといけないから家に入ろう」

彼は優しく私の頭を撫でた。私はキョトンとして彼の顔を見つめた。久しぶりに近くで見る彼は以前よりも逞しく見えた。

いちご「うん……」

私たちは肩を寄せ合って家に入った。

263: 2012/05/20(日) 02:35:32 ID:SuwsoFbo0
翌日 秋山探偵事務所

私は有給を取って、探偵事務所を訪れた。

いちご「浮気じゃないってわかってたんですか?」

澪「はい、依頼を受けた後、彼を尾行していたら、どうもよく買い物に出かけていたんですよ」

澪「不思議に思って色々と調べてみると、あなたの誕生日プレゼントを探している事がわかったんです」

澪「そして、昨日、若王子さんをここに呼んだのは自分の誕生日だって事に気づいてもらうためだったんです」

澪「……とにかく、若王子さんの彼氏は浮気はしていません!」

私はため息をついた。全身から力が抜けて行くのを感じた。

澪「昨日は何かありましたか?」

いちご「彼氏から誕生日プレゼントを貰いました」

澪「それはよかった!」

唯「これにて一件落着、だね!」

澪「そうだな!」

紬「ふふふ!」

目の前の三人が笑い始めた。心の底から、解決したことを喜んでいるようだった。それはとても微笑ましい光景だった。

264: 2012/05/20(日) 02:53:30 ID:SuwsoFbo0
~~~~~

いちご「では、そろそろ失礼します」

唯「またねーっ!」

紬「また、お茶を飲みたくなったら、いつでも来てくださいね」

なるほど、この三人が揃っているから、この事務所は成り立っているのか。最後に気づくことができてよかった。

澪「あっ! 最後に渡したい物が!」

いちご「?」

澪「今度、この地域のイベントで演奏する事になったんです!」

澪「よかったら、来てください!」

いちご「……ありがとうございます」

私はチラシを受け取って鞄に収めた。

いちご「どうもありがとうございました」

澪「はい、これからもお幸せに!」

ガチャン

私は事務所を後にした。外に出てみると、どこかで子どもたちがはしゃいでいる声が聞こえた。私は空を見上げた。

いちご「雪……」

外は雪が降っていた。ふと先程受け取ったチラシを取り出した。よく見ると、プログラムナンバーに蛍光ペンで線を引いていた。

7.秋山探偵事務所 「ティータイムズ」

いちご「ティータイムズ……」

いちご「変な名前……」

私はチラシを見てクスリと笑った。チラシの空白部分には湯気の出ているティーカップが描かれていた。
そうだ、彼氏と一緒に行こうか。家に着いたら電話してみよう。

私は胸に暖かい優しさを感じながら歩き始めた。


~完~

265: 2012/05/20(日) 03:15:52 ID:SuwsoFbo0
これにて完結
最後のは番外編というか、いちご編というか。何となく思いついたので一気に書いてみた。


今まで読んでくれてありがとう。おかげで、最後まで書き通すことができた。
感謝感激雨霰

266: 2012/05/20(日) 07:10:47 ID:rI7JJSfg0

面白かった

引用: 澪「秋山探偵事務所」