1: 2016/09/04(日) 19:04:05.18 ID:U4ADFMPX.net
 この文章の主旨は
 以前あなたの身に起きた出来事の再現とその背景説明である.

 日時や場所までは定かではない.
 数時間前か数日前,一年以上前のことかもしれない.

 確実に言えるのは,
 あなたがそれを全く覚えていないということだけだ.

 それゆえ初めて耳にする話か,
 短編小説などで語られる作り話か,
 さもなくば怪しげな暗示か催眠術のように感じられることだろう.

2: 2016/09/04(日) 19:04:57.48 ID:U4ADFMPX.net
 その日,あなたは次の電車を待っていた.
 行く道か帰り道かは分からない.
 普段より少し混んでいたのは前日に雨が降ったせいだろうか.
 構内放送が車両の到着を知らせる頃,すぐ前に並ぶ人が動き出す.

 間もなく電車が到着する.
 扉が開くと乗客たちが降りてくる.
 すると何か光るものが目の端をかすめ,あなたは眩しさに思わず顔を上げる.

 まばゆい金色の髪が揺れていた.

3: 2016/09/04(日) 19:05:41.93 ID:U4ADFMPX.net
 つられて髪の主に顔を向けてしまうと,
 白い頬,青く澄んだ瞳,外国の女性だろうか,
 整った目鼻立ちや身体の曲線美が目に入る.

 他人のことをみだりに眺めるものではない,
 そうは思いつつも
 自然と目を惹いてしまう体つきの引力から少しでも目を背ける.

 服の上からでも分かる胸の膨らみや白い指先,
 すらりと伸びた両脚と輝いてすら見える足首の細さ――

 どうにか目をそらしたはずなのに,
 網膜にはその人の姿が写真のように焼き付けられてしまう.

4: 2016/09/04(日) 19:06:23.47 ID:U4ADFMPX.net
 青い両眼や唇から目を背け,
 落とした視線の先に映る豊かな胸元の白さからも目をそらし,
 するとその後ろからもう一人の少女が現れた.

 高校生か大学生くらいだろうか,
 さらりと流れる黒髪は見るも涼やかで,
 落ち着いた所作や柔らかな物腰が
 浮き世離れした上品さを感じさせる.

 その唇や
 きらびやかなネックレスの巻かれた首筋などに
 つい目を向けてしまうと,
 なにやら二人から甘ったるい香りすらも漂ってくるように思えた.


 黒髪の少女の,
 ほんの少し口を開いて惚けたような顔さえもしとやかに映り,
 同じような顔でぼんやり見つめてしまうと,

 金髪の少女が振り向いて声をあげた.


「うみ?」

 心臓が跳ねる.

 一瞬,
 自分が声をかけられたようにも感じたが,
 呼ばれたのは黒髪の少女であった.

5: 2016/09/04(日) 19:07:08.00 ID:U4ADFMPX.net
「っ……すみません、えり、」


 遠い目をしてたその瞳がにわかに泳ぎだし,
 我に返ると黒髪の子はあわてて後を追う.

 その手を引いて先導する手首には男物の小さな腕時計.
 少しおどけたような声と,
 落ち着きの中にも幼さを感じさせる声が脳裏に残る.

 呼び合ったのは互いの名前だろうか.
 聞き違いかもしれない,
 けれどもそれはよく知った名前だった気がする.

 二人の声が何度も何度も頭の中で共鳴しあい,
 その音の重なりまでかみしめてしまう.
 まさか,そんなはずはないのに……

 スナック菓子のように甘ったるい匂い.

6: 2016/09/04(日) 19:07:49.66 ID:U4ADFMPX.net
 ぐっ,と背中が少し押される.

 気づけば電車を降りる客の姿はなく,
 道をふさぐ格好になっていたらしい.


 急いで電車に乗り込む.
 空席はもう埋まっている.
 仕方なく手前の吊り革を選び,
 窓越しになんとなく駅のホームを眺めやる.

 きらりと輝く金色の髪は
 汚れてくすんだ窓越しにも目立っていた.

 黒髪の子は見あたらない.


 と思った矢先,
 しゃがみ込んでいた姿が急に立ち上がった.

7: 2016/09/04(日) 19:08:16.43 ID:U4ADFMPX.net
 黒髪の子は
 自動販売機から取り出したばかりの
 黄色いペットボトルを金髪の子に手渡す.

 紅茶か何かだろうか.
 受け取った方は蓋を開け,それを一口飲んでみせる.

 彼女に掛かればボトルを傾ける仕草さえも絵になった.

 彼女はそれを手渡した方へと返す.
 黒髪の少女は自然な動作で受け取ったボトルに口を付け,
 頬をゆるめてみせた.


 足下が動きだし,景色が横に流れてゆく.
 あの子たちの姿も少しずつ離れて,小さくなっていく.
 ホームの混雑に紛れてあの目立つ髪の色さえ見えなくなってしまう.

 こうなっては腕時計の革バンドの古びた色合いにも,
 黒髪の子の首飾りへの違和感にも気が付かない.

 まして留め金付近に付いた赤い痣やら
 二人して極端なほど切りそろえた爪などには気づく由もない.

8: 2016/09/04(日) 19:08:53.07 ID:U4ADFMPX.net
 水辺で泳ぐ白鳥をかたどったネックレスが
 その首に初めて巻かれたのは,
 ホームで遭遇する数時間前か十数時間前のことである.


 さらにそこから遡ること数時間前,
 その日の二人が落ち合った時,
 首飾りはまだ金髪の子の胸元で輝き,
 腕時計は黒髪の子の手首に巻かれていた.

9: 2016/09/04(日) 19:09:36.64 ID:U4ADFMPX.net
 年代物の腕時計は黒髪の子がかつて父親から譲り受けたものである.

 もう何年も前から愛用していたからか,
 時計はもはや彼女の身体の一部となっていた.

 少女をよく知る幼なじみの一人などは,
 誕生日プレゼントを選ぶのに
 腕時計との組み合わせを前もって意識していた程である.


 その日,
 いつもの場所で金髪の少女と落ち合った折にも,
 時計は彼女自身の選んだ慎ましく品のある装いと調和して,
 落ち着いた雰囲気を作り出していた.


 そんな彼女が時計を文字通り手放すことに決めたのは,
 例のネックレスを譲り受けたためである.

10: 2016/09/04(日) 19:10:16.31 ID:U4ADFMPX.net
 はじめてそれが黒髪の子に巻かれた時,
 彼女の肌は
 まだわずかに赤らんでいて,
 籠もった汗の匂いが二人を包んでいた.


 腰元には脚で押しやったベッドシーツ,
 背中の下には
 数十分前に剥がしたばかりで湯気の染みた二着のバスローブ,
 暗がりの先のテーブルには
 コンビニ袋や飲みかけで横倒しのペットボトルなどがうっすらと見える.

 その先はダイヤル式の照明スイッチを回して明るくしなければ
 二人にも見えない.

 金髪の子が自分の手では脱がしそこねた相手の下着なども
 畳んだ衣服の下に隠されている.

11: 2016/09/04(日) 19:10:57.94 ID:U4ADFMPX.net
 ことを終えた二人が
 どのようにして会話を始めたかは定かではない.

 男女でのそれが得てして
 ターニングポイントやクライマックスといった劇的概念を必要とするのに対して,
 彼女たちの交わりははじまりもおわりもなく,
 ゆるやかにつぼみを膨らませ,そっと花開き,沈んでいく.

 身体の奥深くに灯された炎は少しずつ肉を食み,
 溢れる滴がふたりを繋ぎ合わせ,
 声や肌の重みを何度も重ね合わせ,
 生の果てへと幾度となく高まっては堕ちながら,
 「満たされた」という実感とともに,まどろみに溶けていく.

 やがて柔らかな雨を降らすように,
 ぽつりぽつりと,
 ふたりは言葉を交わしはじめるのだ.

12: 2016/09/04(日) 19:11:41.51 ID:U4ADFMPX.net
 名前を呼び合い,
 傍らに置かれた水を二人で飲み,
 舌の味を確かめあう.

 その髪はまだ濡れていて,
 浴室の安物シャンプーの甘ったるい匂いが広がっている.

 黒髪の子はパートナーの髪を指に遊ばせたり頬をなぞったりと,
 子どもが母親にするような甘えた仕草を見せている.

 いとしい人のそんな姿に気をよくして,
 金髪の少女もまた長い髪を撫でたり,
 肩や腕をなぞってみたり,背中の熱を手のひらで感じたりする.

 時々混ざる二人の湿った息がまた腰に火を灯そうと誘うが,
 今はまだ子どものようにまどろんでいたかったらしい.

13: 2016/09/04(日) 19:12:08.25 ID:U4ADFMPX.net
 ふふ、子どもみたいね。

 あなたも同じでしょう。

 おんなじって、すてきじゃない?

 そうですね、うれしいです。

 ねぇ、「子ども」で思ったんだけど、変な話してもいいかしら。

 はい、聞かせてください。

 

 金髪の子が唇をせがむと,黒髪の子も自然と顔を近づける.

 会話のさなか,
 ふたりは息継ぎのように唇を重ね合わせ,
 秘密を隠し合うように笑みをにじませあった.

 シーツの中でも指と指を絡ませては離し,また絡ませ,
 互いの感触を遊びあう.

14: 2016/09/04(日) 19:12:34.83 ID:U4ADFMPX.net
 実はね、私たち、子どもの頃に会ってたのよ。

 ううん、もっと昔から。
 いっそ前世なんてどうかしら。
 生きてた時には結ばれなかった二人が、
 次の世界、つまりこの場所で運命的に出会って結ばれたの。

 だから、
 私もあなたもこういうことには臆病だったのに、
 こんなにもかたく結ばれることができたのよ。

 

「ねぇうみ、私の話、信じてくれる?」

 そう言いながら両腕を恋人の方へ伸ばし,
 しがみつくようにしてその身を寄せ,上乗りになって肌を重ならせる.

15: 2016/09/04(日) 19:13:06.50 ID:U4ADFMPX.net
 さながら母親にじゃれつく子どもの格好で,
 宵闇の中でも青々と光る両眼の輝きも幼さが見えた.

 その無邪気なたわむれに
 黒髪の少女は娘を想うのに似たいとおしさを覚えるが,
 そこで返した言葉は
 かえって金髪の子の気をそぐものだったようだ.


「そうですね、そうだったらいいですね」

「だったらなんて、足りないわ」

 とたんに頬を膨らませてみせる.

16: 2016/09/04(日) 19:13:49.25 ID:U4ADFMPX.net
 その不機嫌そうな顔すら
 繋がりあった今となってはいとおしく感じられるが,
 恋人の機嫌を損ねたままでもいられない.

 とはいえ,
 黒髪の子は見た目どおり生真面目な性分であり,
 その場をしのぐだけの軽口を並べるだけの器用さも持ち合わせてはいなかった.


 せめて,子をあやすように手のひらで背中を優しくさする.

「えりはそのころ、この国にいなかったでしょう」

「そんなのいいじゃない……たまたま日本に来てたのよ、
 そこで私たちは運命的に出会ったの。

 そうね、夏祭りの最中なんてどう?
 言ってるうちに、うそでもそんな気がしてこない?」


 言いながらすでにこみ上げていた忍び笑いが,
 ついに抑えきれなくなる.

17: 2016/09/04(日) 19:14:30.95 ID:U4ADFMPX.net
 嘘だって言っちゃったじゃないですか。

 でも本当なんだからしょうがないでしょ。


 金髪の娘はそのまま顔を黒髪の少女の胸元に押しつける.
 おかしさとくすぐったさに身をよじりながら、
 黒髪の娘も自分の肩まで広がった恋人の髪を手櫛で整えてみたりした.


「そういえば、虚偽きお……いえ、過誤記憶ってご存じですか?」

 なにそれ、当てつけかしら、などと
 棘のある言葉を投げるも
 笑いを噛みころしながらでは様にならない.

18: 2016/09/04(日) 19:15:08.49 ID:U4ADFMPX.net
「八十年代の心理学の実験です。

 信頼できる人から何度も嘘を教えられると、
 本当にあった出来事だと勘違いして、
 架空の記憶を作ってしまうのだとか」

 

 米国の認知心理学者エリザベス・ロフタスによる
 「ショッピングモールの迷子記憶実験」が行われたのは,
 正しくは一九九二年のことである.

 被験者は家族から幼少期のエピソードを四つ聞くが,
 そのうち一つに
 「ショッピングモールで迷子になったという出来事」
 という嘘を混ぜる.

 むろん,被験者はこれを否定する.

 だが,実験協力者である家族から細部に渡って話を聞くうちに,
 それが本当にあった出来事だと思いはじめる.

 一部の被験者は
 家族の話に訂正を加えるなど,
 架空の思い出話の再編集まで行ってしまう.

19: 2016/09/04(日) 19:15:36.14 ID:U4ADFMPX.net
 この実験の目的は
 当時流行した催眠療法や前世療法などへの批判であった.

 当時アメリカでは
 肉親からの過去の性的虐待にまつわる訴訟が立て続けに起こったが,
 後にこれらは一部のカウンセラーによる誤った心理療法が原因だと考えられた.

 催眠術や薬物の力で
 遠い過去や前世を疑似体験させる心理療法には
 クライアントに偽の記憶を想起させる危険性がある,
 とロフタスたちは主張したのだ.


 現に
 「あなたは~している」
 「あなたは~である」
 といった催眠誘導を通して
 無意識下の記憶を語らせようとする回復記憶セラピーは,
 二〇〇〇年代以降ほとんど行われていない.


 だが一方で過誤記憶の実証性への疑いなど,
 ロフタスの論に対する批判もまた数多く存在する.

20: 2016/09/04(日) 19:16:14.83 ID:U4ADFMPX.net
「結局、私の話の説得力もなくなっちゃうってことよね。
 ああ、
 私がうみと幼なじみだったなんて、嘘だったのかしら」

 こうした芝居がかったやり取りをやたらと好むことに,
 黒髪の少女はかつて面食らったものだが,
 今では軽く受け流して話を合わせるだけの余裕を持ち合わせているらしい.

 その余裕が,金髪の子には少しばかり寂しくもあるようだった.


「でも、考えてみれば、その……
 細かいところまで何回も繰り返し聞かせていただければ、
 私の中では、
 えりの話が本当になるかもしれませんよ」


 黒髪の娘は,目の前のブロンドヘアをぐいと胸元に押しつけた.

 頬の熱を悟られぬよう顔を隠したようだが,
 金髪の少女にはかえって,
 心音の並ならぬ速さを聴かせてしまうこととなった.

21: 2016/09/04(日) 19:16:59.36 ID:U4ADFMPX.net
 それってつまり、またここに来たいってこと?

 ちがいます、こことは言っていません!

 でも、こういうことも嫌いじゃないんでしょ?

 それはその、えりが喜んでくれますから……。

 うーみっ、あなたの話をしているの。

 いじわる言わないでください……。

 じゃあ、本当のことを言ったらいいものあげるわね。

 あなたはさんざん嘘をつくのに、ですか?

 私は、あなたがよろこぶ嘘しかつくらないからセーフよ。

 

「えり、――――です」

22: 2016/09/04(日) 19:17:32.96 ID:U4ADFMPX.net
 肩胛骨の形を確かめるように手を滑らせながら,
 黒髪の少女がそう言った.

 肌を重ねる相手にしか伝わらないほど小さな,秘密の声.
 語られた言葉はあなたが知っている通りである.

 金髪の娘は,
 言葉では返しきれないものを両腕に込めて強く抱き寄せた.

23: 2016/09/04(日) 19:18:02.51 ID:U4ADFMPX.net
 十数分程度の時間が経過する.

 シーツは汗や体液を吸ってますます重く,生ぬるくなっていった.

24: 2016/09/04(日) 19:18:42.07 ID:U4ADFMPX.net
 金髪の少女は隣で荒い息を聞いている.

 横目で上下する胸の膨らみと,
 薄明かりに照らされた肌を眺めている.

 手を握ると握り返してくる.
 じっと眺めていると,
 彼女も視線をこちらに向け,目があって微笑みをにじませあう.

 

 ねえ、ちょっと待ってて。


 言うなり金髪の少女は手をぱっと離し,ベッドの外へと歩き出していった.

 一糸まとわぬ裸体も薄暗い部屋ではシルエットだけが残り,
 彼女もこの二人だけの空間で優美なプロポーションを隠そうともしない.

 けれども黒髪の娘は
 離された手のひらをそのままに,
 指の表面が冷えていくのを感じていた.

 肌が離れただけで,こんなにも心細くなるとは.

25: 2016/09/04(日) 19:19:13.79 ID:U4ADFMPX.net
 向き直った金髪の少女は,
 その手に自分のネックレスを光らせていた.

 白鳥型のペンダントは銀製で,
 スワロフスキーの瞳がちらりと光ってみせる.


 彼女はベッドで待つ少女の元に身を寄せ,
 胸や腰をすりあわせるようにして上乗りになり,
 黒髪の娘の頭をそっと持ち上げた.

 自然と目を閉じたのは接吻に至る動作と似ていたからだろうか.
 彼女は首に金色のチェーンを通し,娘の胸元で白鳥を羽ばたかせた.

26: 2016/09/04(日) 19:19:51.49 ID:U4ADFMPX.net
 ダイヤルを回して照明をやや明るくする.
 青白い光がベッドサイドを満たし,
 水の中にいるように感じさせる.

 生まれたままの姿を光にさらされた娘は
 思わず胸元を隠そうと腕を動かすが,
 金髪の少女がその腕をおさえてしまう.

 じっと見つめる.
 黒髪の娘が,おずおずと尋ねる.

 うん、とってもきれいよ。

 彼女の声は許しとなって,身体の奥まで染みていく.

27: 2016/09/04(日) 19:20:21.00 ID:U4ADFMPX.net
「次の時も、つけてきてね」

「そんな、いただけません」

 目を見開いた彼女の額に,金髪の少女がそっと口付けする.

 それね、私がおばあさまからいただいた、とっても大事なものなの。
 だから、
 私の大切な人に持っていてほしいなって思ったのよ。


 言葉に詰まってしまう.
 けれどもここで相手に突き返してしまえば,許しは達せられない.

 とはいえ一方的に許されてしまう関係も,
 黒髪の少女には居心地悪いものであった.

 迷った末に,少女はある決断をする.

28: 2016/09/04(日) 19:21:04.65 ID:U4ADFMPX.net
 腕を引かれ,
 有無をいわさず枕元の腕時計を手首に巻かれた時は,
 さすがの金髪の娘も平静ではいられなかった.

 本来は受け取ってはいけない類のものだろう.

 けれども,
 そうした逡巡をよそに,
 目的を達せられた少女は自分の腕時計を見てにっこりと満足した.

29: 2016/09/04(日) 19:21:43.39 ID:U4ADFMPX.net
「チョーカーには束縛の意図もあるそうですね?」

「腕時計にだって、
 相手の時間をいただく、という意味があるらしいわよ?」

 水色の光に照らされて,二人の肌はますます輝いて見えた.

 きっと今日着てきた互いの服には似合わないだろう,
 などと二人は想像したりする.

 こうして二人は,
 互いの腕時計や首飾りにあわせた服を選ぶようになる.

30: 2016/09/04(日) 19:22:25.02 ID:U4ADFMPX.net
「時計を外す時は、私のことを思いだしてくださいね」

「あなたもよ。
 心変わりなんて、させないから」

 なお,長編小説『心変わり』は
 仏作家ミシェル・ビュトールが一九五七年に発表した作品である.


「まさか。
 あなたが縛ってくれていたら、えりの方しか見えませんよ」

 黒髪の少女は自分の指で首をなぞる.
 金具の感触さえも少女には喜びを与えるらしい.

 傍らでは意味もなく文字盤を眺めている姿が見える.
 銀色の秒針がかちかちと,確かに時を刻んでゆく.

31: 2016/09/04(日) 19:22:56.65 ID:U4ADFMPX.net
 やがて二人はもう一度それを外して枕元に置くと,
 連れ添って浴室へと向かった.

 あの安物シャンプーで髪を洗い流しながら,
 次は旅行グッズでも持って行こうと話し合ったりする間にも,

 秒針だけでなく時針は少しずつ,着実に進んでゆく.


 夜を明かし,
 もう何度目になるか分からぬほど時を確かめた頃,
 二人はあの車両に乗っていた.

 ホテルで汗を流しすぎたせいなのか,
 何か酸味のあるものが飲みたいなどとも言い合った.

 次に自動販売機を見つけたら,
 紅茶か何かでも買って分け合おうと決める.

 話しながらも文字盤をうれしげに眺める姿にも気をよくして,
 かつて自分の身体の一部だったものを
 相手が受け入れてくれることに喜びを感じる間にも,


 電車は降りる駅へと近づいてゆく.
 そう,あなたが待つ駅にだ.

32: 2016/09/04(日) 19:23:32.23 ID:U4ADFMPX.net
 こうしてあなたは二人と出会う.
 もちろん,あなたの視線に彼女たちは気づきもしない.

 駅を離れ二人の姿が見えなくなっても,
 まだあの子たちの影はあなたの網膜に焼き付いて離れない.

 車両が加速していくにつれて,
 このことを誰かに話してみたい,などと考えるようにもなる.

 それは鮮やかな虹が空に架かるのを見つけて,
 写真に撮って誰かに見せようとするのと似ている.

 けれども小さな画面に切り取られたそれは,
 なぜかいつも記憶に見たほど鮮やかには写らないのだった.

33: 2016/09/04(日) 19:24:09.10 ID:U4ADFMPX.net
 中断したゲームアプリか,
 読みかけの本か,途中で停止していた音楽か,
 あなたはいつも通りの時間つぶしに無意識のうちに手を伸ばす.

 吊り革を握ったままでは少し難しいこの動作もまた,
 あなたの記憶からすぐに滑り落ちてしまう断片である.

 だが,この時点ではまだ
 あなたの脳裏にあの二人の姿がかろうじて残っている.


 その二人が駅の外で指を絡ませながら,
 ロータリーのタクシーを避けて本通りの歩道を進み始めた頃,
 あなたの耳元で車内放送が流れ出した.

34: 2016/09/04(日) 19:24:37.84 ID:U4ADFMPX.net
 放送は次の降車駅が近いことをアナウンスする.

 どうやら,思っていたよりも時が経っていたらしい.
 やりかけた暇つぶしをそこで取りやめ,
 仕舞おうとすると足下が少し揺れる.

 この区間はカーブが多く,車両が揺れるらしい.
 よろけそうになって慌てて吊り革を強く握りしめる.

 どこかでスマートフォンか何かを床に落とした音が聞こえて,
 あなたも何か落とさなかったか注意を向ける.

 自分の荷物が無事であることを確かめた頃,
 車両が徐々に減速していく.


 もうすでに,
 あなたの記憶から二人の姿は抜け落ちてしまっているが,
 あなた自身は気づかない.

35: 2016/09/04(日) 19:25:18.53 ID:U4ADFMPX.net
 以上があなたの体験した出来事とその背景説明である.

 読む中であなたは何かを思い出したかもしれないが,
 その多くは他人事か作り話のように聞こえたことだろう.

 だが,ここで語られたのは紛れもなく実際に起こった出来事であり,

 出演者たちもすべて実在の人物である.

 

   了

44: 2016/09/05(月) 01:04:32.62 ID:dZrBWsXT.net
乙!

45: 2016/09/05(月) 01:05:50.66 ID:gsjignY6.net
気づかんかった
第三者視点から見る百合はめっちゃハラハラする

引用: a fake fantasy.